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ICI − FAQ

「空間を超えたクラスルーム」の質疑応答のひとときの記録です。電子メール講義ないし、このホームページ掲載の記事、その他なんでも質問をお寄せください。できる範囲でお答えします。あるいは関連資料等を送らせていただきます。

2021.12.22



Q:携挙後も、異邦人は救われるか。7:9「・・・あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから・・・」14:6「・・・もうひとりのみ使いが・・・。地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に伝えるために、永遠の福音を携えていた。」

 A:黙示録と終末論は、今年の後期にはじめてKBIで講義する領域で、エリクソンが言う「緻密な聖書研究に根ざした、緻密な神学研究」に少しずつ取り組んでいる途上です。 「携挙」と「地上再臨」の間に七年間の大患難の期間を認める「前千年王国・大患難前再臨説」がありますが、エリクソン自身は、「前千年王国説」の「大患難後再臨説」の立場にたっています。エリクソンと同じ立場としましては、フラー神学校のG.E.ラッド (ラッドにも黙示録や終末論関係の書籍がありますので、電子メール講義の中で、順次「翻訳・解説」に取り組んでいる最中です。)等があげられます。私自身が現在、参考にしています資料としましては、宇田進師の新聖書辞典にある「終末論」、エリクソンの終末論、そしてヘンドリクソンの「死後と終末」「ヨハネの黙示録講解」等です。その他にも多くの書籍や資料をもっていますが、分かりにくいものが多いように思います。

     下記の記述しますのは、ICIの「終末論」電子メール講義で愛好していますウイリヤム・ヘンドリクセンの著作のひとつである「ヨハネ黙示録講解」聖恵・神学シリーズ17からの引用です。この書籍の1−6章までは、黙示録の解釈の方法論を「1.黙示録の目的・主題・および著者、2.全般的分析、3.黙示録の統一性、4.最後の審判に関する発展的啓示、5.黙示録の象徴的表現、6.解釈の背景および基礎」という順序で丁寧に解説しており、 改革派系で「無千年王国説」の立場の資料ですが、参考にしていただければと思います。エリクソンとラッドの立場のものは、現在のところ洋書でしかありませんが、「電子メール講義」の終末論の講義の中で紹介しています。

     ウイリヤム・ヘンドリクセンは、「黙示録の解釈の方法」を以下のように命題のかたちで提示しています。

     1.黙示録は七つの部分よりなる。各部分は並行関係にあり、それぞれキリストの第一の来臨から第二の来臨に至るまでの新約時代全体にまたがっている。

     2.七つの部分は二つに大別される。前半(1−11章)はそのうちの三つの部分よりなり、後半(12−22章)はあとの四つの部分よりなる。このような二つの大きな区分は、霊的戦いが深化し激化してゆくさまを明らかにする。前半(1−11章)ではキリストが内住したもう、そして世から迫害される教会が示される。しかしその復讐がなされ、教会は守られ、勝利する。後半(12−22章)ではこの争いのもっと深い霊的背景が示される。これはキリストと竜との戦いであり、その戦いにおいてキリストが、したがって教会が、勝利する。

     3.黙示録は一つの全体である。人の行為と神の道徳的支配との原理が発展的に啓示される。七つの燭台が七つの封印を導入し、七つの封印が七つのラッパを導入し、以下のように続く。

     4.黙示録の七つの各部分は、上昇しながらクライマックスへと向かう順序に配列されている。そこには、終末を強調する段階的発展が見られる。すなわち、最後の審判はまず告知され、次いで導入され、最後に描写される。同じように、新しい天と地の描写も最後の部分に至ってなおいっそう綿密なものとなる。

     5.黙示録の構成はさまざまの動く情景よりなる。各情景に属する細部はその中心的思想と一致するように解釈されなければならない。われわれは二つの問いを問うべきである。それは、まず情景が何であるかということであり、次いでその主要な思想が何であるかということである。

     6.封印、ラッパ、怒りの鉢その他の象徴は、特別な事件、特定の出来事、または歴史上の個々の具体的な事柄を表すのではなく、世界の歴史の中で、とりわけ新約時代の中で働いている二原理−人間の行為と神の道徳 的支配との−を表すものである。

     7.黙示録の根底にあるのは当時の出来事や状況である。その象徴は、本書が書かれた当時のさまざまな条件に照らして解釈されなければならない。

     8.黙示録の根底には聖書がある。したがって黙示録は聖書全体の教えと一致するよう解釈されなければならない。

     9.黙示録の起源は神の御心と啓示とである。キリストにある神こそまことの著者でありたもう。またこの書物には教会の歴史に関する神の目的がしるされている。

     いのちのことば社の実用聖書注解を記述されました鈴木英昭先生が、参考にしておられる書籍でもあります。また鈴木先生はウイリヤム・ヘンドリクセンの「死後と終末」というすぐれた書籍を翻訳されている方です。

     『死後と終末』の著者ウィリアム・ヘンドリクセン博士について紹介しておくことが必要と思いますので以下にそれを記述します。

     「本書はウィリアム・ヘンドリクセン博士による“The Bible on the Life Hereafter”(Baker、1959)の第七版の翻訳である。著者は1927年以来、北米キリスト改革派教会(CRC)の教職であり、1943年から1952年にかけて、ミシガン州クランド・ラピッズのカルヴィン神学校で、新約釈義の教授として教えられた。その後1965年まで牧師としての働きの後に引退し、それ以後は、もっぱら著作に専念しておられる。…この死後と終末の問題は、だれもが避けて通れないものであるが、人間の罪の性質から、聖書の事実を直視せずに、楽観的な見方に引きずられるか、聖書の内容を超えた思弁的な方向への関心から、奇妙な見解が主張される傾向がある。読者はこの聖書研究によって、聖書とともに歩みながら、聖書がとどまるところを教えられるであろう。…」ウィリアム・ヘンドリクセン著、鈴木英昭訳『死後と終末』つのぶえ社


 

   Q:「14万4千人のユダヤ人たち」について 

     A:ウィリアム・ヘンドリクセン博士によれば、「14万4千人」を象徴的な数と理解しています。

     まず、三位一体をあらわす三という数に、被造物全体をあらわす四が乗ぜられる。印を押された者たちは、東西南北からからである。四に三を乗ぜれば12になる。すなわち、この数は、三位一体なる神(三)が、宇宙(四)で働いていたもうことを表す。父なる神が、御子を通し、御霊によって救いのわざをなしたもう−神(三)が宇宙(四)て゜働きたもう−時、われわれは旧約時代には12人(3×4)の族長たちを、そして新約時代には12人の使徒たちを見るのである。旧約時代と新約時代とを貫く教会がどのようなものであるかというその概念に達するためには、この12と12を掛け合わさなければならない。こうして、144という数が得られる。

     かかる象徴的な表し方と完全に一致して、黙示録21章では、聖なる都エルサレムに12の門と12の土台があるとしるされている。12の門には、イスラエル12部族の名が書かれていた。また12の土台には、子羊の12人の使徒の名がしるされている(21:9-14)。城壁の高さは144キュビトであるともしるされている(21:17)。

     このように考えると、黙示録7章の印を押された人々の群れは、旧約時代と新約時代とを貫く戦闘の教会全体を象徴することが明らかである。教会のごく一部の人々ではなく、戦う教会全体のことが言われていることを強調するために、この144に1000が乗ぜられる。1000は10の三乗(10×10×10)であり、これは完全なる四面体、倍加された完全性をあらわす(21:16)。現実のイスラエル12部族から選びだされた144000の印を押された人々は、霊のイスラエル、すなわち、地上における神の教会を象徴するのである。 

     黙示録11:12で、信仰者が雲に乗って天に上ってゆくことが述べられているにもかかわらず、すぐに次の節で、読者は再び審判の日直前の地上の状態に連れ戻される。それと同じように14章においても、贖われた人たちの祝福された状態が描かれたあとで、読者はもう一度ご再臨直前の出来事に連れ戻される。6,8,9節の三人の御使いは、同一の使命を帯びている。彼らは、人々がまことの信仰をもって神にたち返るように、やがて来ようとしている裁きについて人類に警告を与えるという同じ目的をもつ。

     第一の御使いは、「地に住む(すわる)」人々のところに遣わされる。このことばは、裁きの前夜にある人々一般の特徴を表すものである。すなわた、彼らは地にすわっている。のんびり、無頓着、無気力、無関心である。

     ここに、あるひとりの芸術家を想像してみよ。彼は、村とそのまわりの美しい風景を描くために、海岸の岩の頂にかっこうの場所を見つけたところである。彼は、いま満ちてくる潮が岩の根に押し寄せていることには全く気がつかない。絵を描くことに熱中しているので、岩に砕ける波に注意が向かないのである。つまり、彼は警告の声に気がつかない。絵を描くことに夢中になってすわつているだけである。そののち、彼は波に呑み込まれてしまうであろう。

     これと同じように、最後の審判の直前に、一般の人たちは地上のさまざまな魅力に完全に心を奪われて、審判が迫っていること、それがますます近づいていることが分からないでいる。彼らは身に迫る危険に気づいていない。そして、気がついた時にはもう遅いのである(ルカ7:26)。このように無関心な人たちのところへ、一人の御使いが現れる。彼は、すべての人々に聞こえるようにと中空を飛んで来て、大きな声で言う。

     「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神の裁きの時が来たからである。」

     不信仰を続ける者は、ただの一人も逃れることはできないであろう。神は「天と地と海と水の源」とを作りたもうた全能の御方だからである。しかし、迫り来る裁きの日についてのこの告知は、神の民にとっては「永遠の福音」なのである。それは、彼らが救い出されることにほかならないからである(ハバクク3:13以下、マラキ4:1以下)。そればかりか、神のすべての約束はその時完全に実現して、それは永遠に変わることはないのである。 

     以上、ヘンドリクセンから教えられることを引用・記述させていただきました。「私の考え」についてですが、現段階ではヘンドリクセンのものが私には最も説得力のある論述と受けとめています。今後、エリクソンの終末論の講義において、このヘンドリクセンの解釈と主張も、種々の解釈と主張と比較検討する中で精査していくつもりです。引用しつつ、先生の最後の質問には、まだ明確に答えていないと感じています。

     み使いたちの福音宣教が(この福音宣教がなされるのか?)」についてですが、これは組織神学全体からみても問題となる問いです。組織神学的にいいますと、「福音宣教は救われた人間、クリスチャンを通してなされる」からです。「8.黙示録の根底には聖書がある。したがって黙示録は聖書全体の教えと一致するよう解釈されなければならない。」

     教会が携挙された後、異邦人が救われるのか」についてですが、ヘンドリクセンもここで、不信仰を続ける者には「裁きの告知」であり、神の民とっては「永遠の福音」であると区別しています。

     あと、まだ丁寧にみる必要がある事柄して、この描写の時間的な位置についてです。ヘンドリクセンが指摘していますように、黙示録は並行関係の中で記述・描写されています。それで、「信仰者が雲に乗って天に上ってゆくことが述べられているにもかかわらず、すぐに次の節で、読者は再び審判の日直前の地上の状態に連れ戻される。それと同じように14章においても、贖われた人たちの祝福された状態が描かれたあとで、読者はもう一度ご再臨直前の出来事に連れ戻される。」という中で、御使いの警告の位置づけを丁寧にみていく必要があるように思います。←「1.黙示録は七つの部分よりなる。各部分は並行関係にあり、それぞれキリストの第一の来臨 から第二の来臨に至るまでの新約時代全体にまたがっている。」

    三人の御使いの使命は「三人の御使いは、同一の使命を帯びている。彼らは、人々がまことの信仰をもって神にたち返るように、やがて来ようとしている裁きについて人類に警告を与えるという同じ目的をもつ。」とありますように、「救霊」が目的ではなく、「警告」が目的と思われます。←「5.黙示録の構成はさまざまの動く情景よりなる。各情景に属する細部はその中心的思想と一致するように解釈されなければならない。われわれは二つの問いを問うべきである。それは、まず情景が何であるかということであり、次いでその主要な思想が何であるかということである。」

     宇田師も、「神学入門」の学びの中で「まず,「教義学」は,聖書神学から基本的材料を受け取る一方,歴史神学の収穫と洞察を受け止めつつ,キリスト教信仰の真理内容を系統的,組織的に提示する任務を負う学科である.特に次の点を重視する.第1に,福音の真理を,断片的,部分的にではなく,全体像を明らかにしようと努める.第2に,個々の教理をばらばらにではなく,他の諸教理との有機的な相互関連性の中で陳述しようと努める.第3に,キリスト教真理の有意義性と妥当性を現代という状況を踏まえながら立証しようと努める.この教義的訓練は,教会と伝道者に数々の利益をもたらす.第1に,神の御旨の全体を告知することを可能にし,またそれを助けてくれる.パウロは「神のご計画の全体を,余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使20:27)と言っているが,これは宣教者の基本的任務でありながら,実際には口にするほどやさしいことではない.″偏向″はすべての宣教者が必ずぶつかる難問である.この偏向の落し穴から私たちを救い,必要なバランスを与え,聖書の真理の全体像を提示するようにしてくれるのが教義学的研究である.第2に,今日,モルモン教やエホバの証人などの異端の活動が非常に活発であるが,これらに対処しようとする場合に,いわゆる″一節主義″(聖句をただばらばらに覚えていてそれを用いる方法)では不可能である.誤説を的確に見破って福音を立証するためには,どうしても系統立った教理的訓練が必須である.第3に,今日,キリスト教界内で叫ばれている一致や協同を推し進めていこうとする場合に,状況主義は後に混乱を残すことが多い.一致,協同の問題を考える場合に一番大切なのは,「信仰の一致」,また「教理上の一致」(参照エペ4:13)である.この点において,私たちを正しく導いてくれるのが日頃の教義学的鍛練なのである.」と教えられました。 

     できるだけ、簡単にと思いましたが、簡単すぎると誤解も起きやすいので、私が「終末論また、黙示録」の学びと押さえておくべきポイントと思うところも記述させていただきました。

     また、KBIの後期の学びで「教会論」「終末論」を教えますので、その準備の過程でいろいろと資料等を作成する予定です。今回のテーマに関連するものがありましたら、また送らせていただきます。