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ICI − FAQ
2021.12.22
Q:また教えて欲しいことがあってメールを送ります。マクグラスの本を読んでいて、自分の中で整理しておきたいと思っての質問です。忙しい中申し訳ありませんが、時間のあるときに返信をお願いします。
★以下の問いにつきましては、以前KBIの『福音主義神学(歴史神学)』の学びで一年間のコースで講義していた領域に属するものです。もし必要でしたら、ICIの受講生やKBIの通信教育の神学生に一本1000円で十数本の講義テープがあります。
http://aguro.jp.net/file/k/ICI_eth00.htm
★問いに関して、簡単に記述しますと、誤解が生じるおそれのある事柄ですので、問いの回答になる箇所を記述しておきます。下記の箇所を熟読されるとよいと思います。
Q:1.キリスト教自由主義神学(リベラル)の定義、
★この問題を正しく認識するためには、「啓蒙思潮」について知ることが大切です。このことに関しましては、『福音主義キリスト教と福音派』宇田進著、いのちのことば社のp.125〜132をごらんください。
Q:2.カトリックとリベラル、福音派それぞれの特徴
★この問題を理解するためには、「宗教改革」を理解することが大切です。『福音主義キリスト教と福音派』のp.68〜87をごらんください。
Q:3.プロテスタントにおける福音派、福音主義とリベラルはどこが違うのか。彼らは何を信じているのか、何を信じていないのか
★この問題を理解するためには、「福音主義同盟」が結成された経緯を理解することが大切です。『福音主義キリスト教と福音派』のp.132〜152をごらんください。
Q:4.ニューエイジムーブメントとリベラル、福音派のそれぞれの主張
★ニューエイジムーブメントにつきましては、神学の世界での課題ではなく、異教宗教、異教哲学の領域の問題だと思います。下記に関連サイトを引用しておきますので、参考にしてください。
http://www.agape-tls.com/icbs/syouboku/naka/m-sample/seizyuku/teki/teki-m.html
Q:5.カール・バルト、ブルトマンについて。彼らの信仰。主張。もし問題点などがあればそれらについて。
★リベラルな神学者とその神学についてのコンパクトな理解に有益なのは、『キリスト教組織神学事典』日本基督教団出版局です。バルトは、p.286〜290、ブルトマンはp.298〜301に説明されています。
★その問題点につきましては、『現代世界神学』ハーヴィ・コーン著、聖恵授産所、がするどい洞察を提示しています。バルトは、p.35〜45、ブルトマンはp.56〜63にその問題点が記されています。
★その他、『総説 現代福音主義神学』宇田進著の「第二章 近代精神の九つの相」の1.カント、2.デカルトなどの記述も参考になると思います。
Q:ps.イリヤンジャヤから・・・の宣教の本は翻訳されていますか?あれば読んでみたいのですが、先生はおもちですか?借りることなどできるのでしょうか?・・・
★これは、洋書です。部分的に翻訳されたものを以前にコピーしてKBI生にお分かちしたことがありますが、今手元に残っているかどうかは分かりません。また、探してみて余分がありましたら、お分けします。
主の名を賛美します。最近マクグラスの「キリスト教の将来と福音主義」を買って読みはじめたのですが、ファンダメンタリズムに関係して「ディスペンセーショナリズム」という言葉が出てきました。ICI時代に教えてもらった記憶があり、ノートを探したのですが、定かでないので教えてもらいたいと思ってメールを送ります。
・ディスペンセーショナリズムの定義、
・ 〃 の主な主張
・ 〃 の問題点、弱点
★質問の参考になる記述が下記のサイトにありますので、読んでみてください。
http://aguro.jp.net/pdf/icd12/icd1239/icd.1239104001.pdf
パスワード:8531
・それから、この本の内容と宇田師の「福音主義キリスト教と福音派」(ICI学生時代のテキスト)の内容は同種類のものと理解していいのでしょうか?
★同種類のものです。米国のエリクソン、英国のマグラス、日本の宇田進師、これらの三人は同じ種類の書籍を出版されています。
http://aguro.jp.net/pdf/intro/intro_future_in_evangelicals.pdf
★米国のエリクソン、英国のマグラス、日本の宇田進師の書籍群は、世界のキリスト教会、福音派、そしてJECのあるべき将来像を提示してくれていると思います。私の小さなICIを通しての働きも、その線上にあります。
第七章神のことばの力:権威、第三節権威の客観的そして規範的要素、第一段落(テキストの14頁)に 『照明は神の啓示(聖書)の意味を理解し、それを悟らせ、確信へと導くために信仰者の心と理性を啓明する聖霊の働きを指している』、『と同時に、聖書解釈においても「聖霊によるのでなければ、だれも聖書を神のことばとして理解することはできない」ということも事実でしょう。「聖霊によるのでなければ」を「聖霊の照明の働きがなければ」と言い換えることもできると思います。−−−−』 とあります。
又、第七章神のことばの力:権威、第四節聖書と理性、第二段落(テキストの18頁)に 『私たちの立場は「聖書が聖書を解釈する」というものです。これは一般に「聖書の類比」と呼ばれている事柄で、「聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の箇所によって探求し、知らなければならない。」という聖書の解釈法のことです。』 とあります。
更に、第七章神のことばの力:権威、第四節聖書と理性、第三段落(テキストの19頁)に 『理性は私たちの−−−利用しなければならない。』、『私たちは解釈とか−−−弁証学である。』、『聖書のうちにある−−−−矛盾がない。』 とあります。
以上の三箇所にあります、聖書理解における 「聖霊の照明の働き」、聖書解釈における「聖書の類比と聖書自身の働き」、聖書解釈における「理性の働き」がお互いにどのように違うものなのか、又、関係するものなのか、今一つ明確に掴みきれません。御教示いただけますならば誠に幸いです。
★「聖霊と聖書と理性」の関係について、簡単に説明させていただきます。
基本的な構図としまして、「神によって霊感された誤りのない神の言葉である聖書」とそれを読み、「神からのメッセージを聞き取ろうとする人間」の関わりに、どのように聖霊が働いてくださるのか、と考えると理解しやすいのではないかと思います。そのときに、聖霊は「聖書の神的起源」「神的著作性」を確信させてくださいます。罪深さからくる盲目性を克服させ、喜んで受け入れ、理解する力を与えてくださいます。
神の啓示は、文書化されることによって、私たちにとって客観的なものとなりました。そして客観的な文書を用いて、聖霊により主観的な経験を与えてくださいます。ただ、単純に「一日一章で悪魔逃げさる」とか「感覚的な次元で御声を聞く」という問題もあります。しかし、「御霊の照明の光のもとに聖書を解釈する」ということはそれほど単純な作業ではありません。
人間の理性を用い、聖書解釈の方法を活用して、歴史的に語られた神の言葉から、規範的なメッセージの本質を抽出し、今日の状況にあてはめていく必要があるのです。私は、直感的に聖書から恵みを受けることも大切と思いますが、それとともに、聖書から神の御心を正確に読み取るプロセス全体の中に「聖霊の照明の働き」が存在すると思います。
客観的な文書としての聖書は「立法的権威」にあたり、理性による聖書解釈の作業は、憲法・民法・刑法等を解釈して判決を出す「司法的権威」に似ています。司法はあらたな法律(規範)を生み出すのではなく、すでに据えられている規範に従って、それが許容する範囲内で、新たな状況に法律を適用していくだけだからです。そこには、「神律的共同性」を確認しておくことが大切です。
★以上が、「第七章 神の言葉の力:権威」の要点です。
繰り返しになりますが、第七章においてエリクソンは、聖霊は、救われた魂に宿る「再生した理性」に働いて聖書の権威を確信させ、「歴史的要素」をもつ聖書から、聖書解釈法等を駆使させることも用いて、「客観的・普遍的メッセージ」を抽出させ、今日の新たな状況に適用させられる。この一連のプロセスの中に「聖霊の照明の働き」がなされると語っているように思います。
前回は、「聖書の文書化」における神の御霊と聖書著者との間の「有機的同流」また「神律的共同性」について学びました。今回は「聖書の解釈のプロセス」における「神の御霊の照明の働き」と「再生したクリスチャンの聖書解釈法も駆使する理性の活動」との「有機的同流」また「神律的共同性」と考えることができるのではないでしょうか。
問い: 第四章神の特別啓示、第三節特別啓示の方法、第二項神の語りかけ(テキストの23頁)と第五章啓示の保存:霊感、第二節霊感の事実、第三段落(テキストの5頁〜6頁)の関係等についての質問です。
第四章の23頁の第三段落でエリクソンは 『 −−−啓示と霊感がひとつに融合した、「符合する」霊感というものが存在する。聖書の著者が著述する時、神は神がコミュニケートしたい思想を彼らの思いのうちに置かれた。−−−神は著述している著者たちの思いの中に思想を創造された。−−−』 と述べています。
そして第五章の5頁の第三段落の安黒先生の解説の中に 『 −−−根本的には、聖書が人間的著作者の中への神的な吹き込みの所産であるということではなく、聖書は神によって吹き出された、つまり神の創造的息の所産であるということを意味している。 −−−ここでのポイントのひとつは、啓示が人間を通過するときに、誤りが生じる程度差の問題です。前者の理解では人間による歪曲の可能性がありますが、後者の理解では、神による純正さが保証されるということです。人間を通過という主題はまた−−−』 の記述があります。以上の部分より以下の質問をさせていただきます。
(1)” 神は思想を彼らの思いのうちに置かれた ”、”神は思いの中に思想を創造された ”、ということと、”人間的著作者の中への神的な吹き込み ”ということの間の明確な違いは何なのでしょうか。(人間による歪曲の程度の差だけなのでしょうか)
(2)” 人間的著作者の中への神的な吹き込みの所産 ”と ”聖書は神によって吹き出された、つまり神の創造的息の所産である ”ということの違いが、聖書ではどのように判断されたのでしょうか。人間による歪曲の存在の有無がどのように判断されたのでしょうか。聖書の自己証言的性格によって判断されたのでしょうか。
(3)” 人間を通過 ”、又前回の私の質問への安黒先生の解答の中に” イエスは神に対して全く透明になった ”というリベラルの御紹介がありましたが、これらの記述からは啓示にお ける人間の立場は、殆ど人間性の関与しないロボットのような存在にも写ります。しかし、一方で神と人間との人格を 通しての啓示という記述も第四章にあったように思います。
又、人間による歪曲ということをつきつめて行きますと、受肉をされたイエス・キリストの行為と言葉だけが啓示として成り立つようにも思えます。
応答:断片的な引用と解説による講義録なので、一貫性と体系性のある論述に困難があると思っています。
この議論における基本的な構図としまして、キリストの「神性と人性」の関係にも類比されます、聖書の「神性と人性」の関係の問題が根本にあると思います。結論から申しますと改革派の牧田校長が「神律的相互性」という概念を紹介されていますように、「聖霊論的カテゴリーでは聖霊の決定的イニシアティブにおいて我々に対して神律的でありつつ、同時に我々の中で、我々と共にという全き相互性が全面的に機能するのである。」「神律的相互性の概念は、聖霊のみわざの人間の具体的存在との関わりの構造を、一方では徹底的に神中心的即ち神律的でありつつ、同時に他方では神と人間の共働性を相互性として把握しているのである。」
★以上のことを前提に上記の質問を考えますと、
問い:「” 神は思想を彼らの思いのうちに置かれた ”、”神は思いの中に思想を創造された ”、ということと、”人間的著作者の中への神的な吹き込み ”ということの間の明確な違いは何なのでしょうか。(人間による歪曲の程度の差だけな のでしょうか)」
応答:私が解説におきまして引用しましたこの文章は、宇田進師の「啓示と聖書」からのものです。この文章が記述されました脈絡を調べますと、
「さて,ここで「神の霊感による」と訳されている〈ギ〉セオプニューストス(「神」を意味する〈ギ〉セオスと,「息を吐く」を意味する〈ギ〉プネオーから合成された動詞的な形容詞)は,根本的には,聖書が人間的著作者の中への神的な「吹き込み」(inbreathing)の所産であるということではなく,聖書は「神によって吹き出された」,つまり神の創造的息の所産であるということを意味している.神の息は,「主のことばによって,天は造られた.天の万象もすべて,御口のいぶきによって」(詩33:6)という証言や,「神である主は,土地のちりで人を形造り,その鼻にいのちの息を吹き込まれた.そこで,人は,生きものとなった」(創2:7),及び「神の霊が私を造り,全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)などの記述からもわかるように,神の全能にして創造的な御力の象徴的表現である.パウロがここで〈ギ〉セオプニューストスによって強調したかったことは,聖書が特殊的に神の働きの所産だということである(詳しくはB・B・ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』邦訳1973参照).」
「根本的には,聖書が人間的著作者の中への神的な「吹き込み」(inbreathing)の所産であるということではなく」ということで宇田師が言及されているのは、文脈から推測しますと、神による「啓示」と人間による「聖書形成」とを分けて考えるバルト的な聖書観が背景にあるように思います。といいますのは、宇田師は聖書における「神性と人性」の「有機的同流」の関係を肯定し高く評価しておられるからです。
「 (5) 有機的同流
ここまでは,主として神の霊感の事実と,霊感が聖書全体の言語にかかわるものである点を概観してきた.だがしかし,以上の見解は,聖書が「天から降って来た神の託宣」であるとか,聖霊はいわゆる真の人間性を有しない「仮現的な(docetic)聖書」を教会に与えたということを意味しない.
まず,聖書の証言に目を留めると,「主の霊は,私を通して語り,そのことばは,私の舌の上にある」(Uサム23:2)というダビデの言葉は,「主の霊」と「私」ダビデとのかかわり合い,すなわち,神的側面と人的側面の相互の関与,両者の協働の現実を伝えている.エレ36章では,エレミヤがバルクに向かって「あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことば」(6,参照36:8,11)と語っており,また「バルクは……その書物からエレミヤのことばを読んだ」(10)と記されていることは,主の言葉の伝達と文書化における預言者の主体的関与の事実を物語っている.同様に,「イスラエルについては,イザヤがこう叫んでいます」(ロマ9:27)や,「イザヤは大胆にこう言っています」(同10:20)という記述は,イザヤによる主体的な活動を力強く伝えている.一方,ルカ1:1‐4を見ると,ルカが復活後に形成された諸種の教会伝承を丹念に調べ上げていることがわかる.そこには諸資料の収集と選別,諸伝承の価値判断,そして自ら最終的な決定を下すなどの主体的活動が読み取れる.と同時に,彼はその過程において「聖霊に動かされた」(Uペテ1:21)のである.パウロもコリントの人々に「私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい」(Tコリ14:37,参照2:13)と書いている.パウロによる主体的な執筆活動も明らかである.ローマ人への手紙1つをとっても,「いなずま」のように天空から現れたものではなく,「パウロに与えられた長い神との生きた交わりの経験」(J・ベイリ)の中から,また「生まれたときから私を選び分け,恵みをもって召してくださった方」(ガラ1:15)と記されているように,長い「神の摂理的準備」(M・J・エリクスン)を背景にして執筆されたのである.こうした理解の根底には,神と人間の両者は1つの歴史的出来事において(使2:23),また1つの文筆活動において,同時的に共に意味ある行為者であり得るというキリスト教世界観が前提されている点も記憶されるべきであろう.
霊感の理解,聖書の形成の理解に当っては,以上のような状況を視界の中に入れなければならないのであって,福音主義神学においてこの状況を神の霊と人間のペンとの「有機的同流」(confluence)とか,聖書の「二重著作性」(dual authorship)と呼んで理解してきた.
この点は,今日,聖書の「人間性」(humanity)というテーマのもとで取り扱われることが多い.福音主義神学は,聖書の人間性の理解において次の点を認めてきた.第1に,神の啓示が人間の思想と言語を通して人間に伝達されたという事実は,「制約」(limitation)を含むということである.なぜなら,この地上の人間の思想や言語は,計り知れない神の啓示の豊かさや,創造と贖罪において示された神の栄光,神の恩恵,神の正義,神の全能,神の愛の隅々までそのすべてを表すことはとうてい無理だからである.第2に,イエス・キリストの啓示は目撃証人を含む多様な証人たちを通して我々に届けられたということから理解される,聖書の「証言的性格」にも注目すべきである.例えば,救い主と同時代に生きた目撃証人であっても,彼らにあかし出来ることは,基本的には彼ら自身のそれぞれの立場・視点で見,聞き,かつ経験することが出来たすべてであり,また彼らの理解と記憶の制約内であったという点を認識する必要がある.以上のような制約を含む聖書の人間性の理解は,カルヴァンが言う「神はご自身をわれわれ人間に適合(順応)」(accommodatio Dei)させたということと実質的に同じことと言える(『ヨブ記1:6‐8の説教』等を参照).
ところで,福音主義神学は,「人となられた言葉」すなわち受肉のキリストと,「聖書となった神の言葉」との間に類比(analogy)の関係,並行を見ることによって,聖書の神性と人間性を正しい視座のもとで,はっきり告白してきた.聖書は全く神的であり,神の言葉である.同時に,全く人間的であり,人間によって書かれた言葉である.ただここで,1つ注目すべき点がある.それは次のヘルマン・バーフィンクの言葉が示すように,救い主が知識の上での成長と制限という制約の中にありながらも,罪のない方であったように(ヘブ7:26),聖書も全き人間性を帯びるものでありながら,無謬の書であると理解してきたことである.「また,我々は聖書における弱くかつ卑しいしもべの形態を認めなければならない.しかし,キリストにおける人性が弱くかつ卑しいものでありながら,一切の罪から離れていたように,聖書もまた汚れなしで生れたのである」(Gereformeerde Dogmatiek,T,p.406,1928).」
もう一度、もとに戻りますが、聖書の真理の中で、最も困難な教理の中に、三位一体論、キリストの神人二性一人格論、神の主権と人間の自由意志、等々があります。その中で、聖書観の問題は、聖書の「神人二性」を宿しつつ「神によって霊感された誤りのない神のことば」という側面と別の視点から同じ問題を捉えたかたちで「聖書形成における霊感」の中の「神の主権性」と「聖書記者の自由裁量の範囲」の関係の問題が含まれていると思います。
福音派は、神は全知全能のお方なのだから、霊感の働きを通して、聖書記者が誤ることないかたちで、文書化するのを助けられたという「神律的」視点から神学的思索をしていると思います。
リベラル派(幅がありますが…)は、人間は存在論的に制限あるものであり、倫理的にも堕落したものであるから、「神の誤りのない啓示」は「誤りうる人間の手によって文書化された」というかたちで、いわば「人律的」に形成された文書として聖書をみていると思います。
人律性 神律性
←−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→
「ふたつの相反する概念」をどのように扱うのか、福音派の神学者においてもいろんなグラデーションが存在しているようです。それらの中で宇田師や牧田師
の聖書観はバランスがとれていて説得力があると思います。
以上、参考にしてください。
参考文献
・実用聖書注解の中の宇田進師の論文「啓示と聖書」
・「改革派神学」19号、牧田吉和師の論文「改革派教義学と聖霊論」
すみませんが、質問してよろしいでしょうか?教会内の執事と長老についてなんですが、この2つの役職の人を決める時、聖書にはその方法とかが書かれているでしょうか?(たとえば投票とか)よろしくお願いします。
★ ヘンリー・シーセン著「組織神学」のp.689に会衆制の立場からの言及があります。
監督制、長老制の政治を暗示している箇所もたしかにあるが(使徒行伝20:17、28、14:23、
テトス1:5)、会衆制が他の二者よりも広く行われていたことを示す証拠が多くある。
次にある事実は、この見方を支持するように思われる。
@ 各教会は、それぞれ、自分の教会の役員や代表者を選んだ(使徒行伝1:23,26、6:1-6、15:2-3)。
A 各教会は、おのおの教会戒規を執行する権威をもっていた(マタイ18:17,18、Tコリント5:13、Uテサロニケ3:6,14,15)。
B 教会全体が役員たちとともに決議をし(使徒行伝15:22)、他教会の代表者たちを迎え(使徒行伝15:4)、寄付金を集める
人や(Uコリント8:19)、宣教師たちを(使徒行伝13:2,3)送り出した。
★ エリクソンは、聖書は教会政治のあり方について、聖書の啓示を踏まえつつ「今日における教会政治の制度」を提示しています。
教会政治の制度を発展させる試みは、二つの点において困難に直面しています。
@聖書の啓示の中における「教えの箇所」の欠落です。教会政治がどうあるべきかについての規範的な説明がありません。
私たちが描写的な箇所の研究に向かうとき、第二の問題を見つけます。
A新約聖書の諸教会の記述に多くのバリエーションが存在するので、私たちは権威あるパターンを発見することができません。
それゆえ、私たちが新約聖書において見出す諸原則と、それらの上に政治制度を構築する試みに向かわねばなりません。
@新約聖書において明かにされているひとつの原則、特にTコリントにおける原則は、秩序の価値です。
特別な奉仕に責任あるある人々をもつことは望ましいことです。
Aもうひとつの原則は、万人祭司性です。
それぞれの人は神に直接関係することができます。
B最後に、それぞれの人はからだ全体にとって大切な存在であるという考えは、新約聖書を通じて暗示さており、
ローマ12章やTコリント12章のような箇所において明らかです。
会衆制が置かれている諸原則をほとんど達成するというのが私の判断です。それは、信徒の万人祭司性と霊的機能を
真剣に取り上げています。(M.J.EricksonIntroducing
Christian DoctrineBaker,pp.344-345)
★
シーセンもエリクソンも「会衆制」を支持するバプテストの流れの一員です。ただ、二人のスタンスは、
シーセンが「会衆制」の規範的記述をにおわせているのに対し、エリクソンはそのような記述の存在には否定的な
スンタスを取りつつ、「原則」と「機能」の達成という視点から「会衆制」をよりすぐれた選択肢として評価している
という点にあります。
Q:組織神学Tの通信教育テキストに関し下記質問がありますので、宜しくお願いいたします。
第四章神の特別啓示、第三節特別啓示の方法、第三項受肉に関する質問で(テキストの25頁から26頁にかけて)、受肉の位置付けに関することです。 25頁の第一段落の中でエリクソンは 『 −−−しかし神は人間のかたちをもっておられないのだから、キリストの人間性は神の啓示の”仲介”を意味していたに違いない。これは、彼の人間性がその啓示を隠したり、不明瞭にするということではない。むしろ、それは神の啓示が”伝達される手段”であった。−−−』 と述べています。また、この部分に対する安黒先生の解説の中に 『 −−− 私たちは、ごくあたりまえにイエスを通して神が”直接”に、ご自身を啓示されたと考え、あまりそのことについて深く、また丁寧に、このことを考えないのですが、”「仲介」 「手段」「方法」” としての 「神の語りかけ」 と 「受肉」 の”位置付け”−−−』 の記述があります。
これに対し26頁の第二段落の中でエリクソンは 『−−−”預言者”たちが語ったとき、彼らは神からのそして神についてのメッセージの”伝達者”であった。”イエス”が話されたとき、それは”神ご自身”が話されたということであった。』 と述べており、また第三段落の中でもエリクソンは 『 −−−イエスの行動、態度、そして情緒は単に”御父を写しだしたものではなかった”。それらは、”神が事実上地上に生きておられた”ことを示していた。−−−』 と述べています。
以上の記述中の ” ” を付けた部分は、受肉の位置付けに関する所で、とても重要な箇所だと思いますが、受肉は神を現す手段であったのか、神そのものが現れたのか、今一私の中で明確になっていません。御教示いただけますならば幸いです。
A:質問感謝します。
★前述のポイントは、「神は人間のかたちをもっておられないのだから、キリストの人間性は神の啓示の”仲介”を意味していたに違いない。」とありますように、「受肉」という存在の様式をとられたことにおいて「間接性」が生じていると思います。しかし、その存在様式は「彼の人間性がその啓示を隠したり、不明瞭にするということではない。」ということで、「受肉」という神ご自身の啓示のために新しい存在様式をとられたことは啓示の障害にも妨げにもならなかったということです。
★後述のポイントは、エリクソンの正確な意味は分かりませんが、私なりに推論して申しますと、「写しだしたものではなかった」という点に注目しています。
★以下のように、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.143-145にティリッヒのキリスト論が記述されています。
「そこで、キリストは『まことの神』そのものであったとする見方と、単なる一個の人間とする見方との中間に自らの立場を設けるのである。ここで、ティリッヒのキリスト論が援用される。
ティリッヒによれば、イエスは神であるとは決して主張しなかったが、神を表した。イエスにおいては神の無条件的な愛のみがあって、自己を立てたり主張したりしようとする動きはみじんだに見られない。ティリッヒは、このことをイエスは神に対してまったく『透明』になったというふうに言い表している。つまり、イエスは根本的には一人の人間にすぎなかったが、自己を神にささげ切った。それによって神(存在の根底)との一致を経験し、神を写し出すことによって単なる人間以上のキリストになったと言うのである。」
以上のようなリベラルな「キリスト論」が以下の言及の背景にあるのではないかと思います。
『 −−−イエスの行動、態度、そして情緒は単に”御父を写しだしたものではなかった”。それらは、”神が事実上地上に生きておられた”ことを示していた。−−−』
二つの記述をあわせますと、「受肉」という神にはない存在様式をとられたのであるから「間接性」「媒介性」があることに留意する必要があります。しかし神ご自身が「受肉」という存在様式をとられて「直接に」「神ご自身」が語り、属性を明示されたということです。それゆえ「受肉」における啓示には、間接性の要素と直接性の要素の両面が併存していると言えます。
メイン・テキストでは、pp.242-243に詳述されています。参考にしてください。
Q:携挙後も、異邦人は救われるか。7:9「・・・あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから・・・」14:6「・・・もうひとりのみ使いが・・・。地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に伝えるために、永遠の福音を携えていた。」
A:黙示録と終末論は、今年の後期にはじめてKBIで講義する領域で、エリクソンが言う「緻密な聖書研究に根ざした、緻密な神学研究」に少しずつ取り組んでいる途上です。 「携挙」と「地上再臨」の間に七年間の大患難の期間を認める「前千年王国・大患難前再臨説」がありますが、エリクソン自身は、「前千年王国説」の「大患難後再臨説」の立場にたっています。エリクソンと同じ立場としましては、フラー神学校のG.E.ラッド (ラッドにも黙示録や終末論関係の書籍がありますので、電子メール講義の中で、順次「翻訳・解説」に取り組んでいる最中です。)等があげられます。私自身が現在、参考にしています資料としましては、宇田進師の新聖書辞典にある「終末論」、エリクソンの終末論、そしてヘンドリクソンの「死後と終末」「ヨハネの黙示録講解」等です。その他にも多くの書籍や資料をもっていますが、分かりにくいものが多いように思います。
下記の記述しますのは、ICIの「終末論」電子メール講義で愛好していますウイリヤム・ヘンドリクセンの著作のひとつである「ヨハネ黙示録講解」聖恵・神学シリーズ17からの引用です。この書籍の1−6章までは、黙示録の解釈の方法論を「1.黙示録の目的・主題・および著者、2.全般的分析、3.黙示録の統一性、4.最後の審判に関する発展的啓示、5.黙示録の象徴的表現、6.解釈の背景および基礎」という順序で丁寧に解説しており、 改革派系で「無千年王国説」の立場の資料ですが、参考にしていただければと思います。エリクソンとラッドの立場のものは、現在のところ洋書でしかありませんが、「電子メール講義」の終末論の講義の中で紹介しています。
ウイリヤム・ヘンドリクセンは、「黙示録の解釈の方法」を以下のように命題のかたちで提示しています。
1.黙示録は七つの部分よりなる。各部分は並行関係にあり、それぞれキリストの第一の来臨から第二の来臨に至るまでの新約時代全体にまたがっている。
2.七つの部分は二つに大別される。前半(1−11章)はそのうちの三つの部分よりなり、後半(12−22章)はあとの四つの部分よりなる。このような二つの大きな区分は、霊的戦いが深化し激化してゆくさまを明らかにする。前半(1−11章)ではキリストが内住したもう、そして世から迫害される教会が示される。しかしその復讐がなされ、教会は守られ、勝利する。後半(12−22章)ではこの争いのもっと深い霊的背景が示される。これはキリストと竜との戦いであり、その戦いにおいてキリストが、したがって教会が、勝利する。
3.黙示録は一つの全体である。人の行為と神の道徳的支配との原理が発展的に啓示される。七つの燭台が七つの封印を導入し、七つの封印が七つのラッパを導入し、以下のように続く。
4.黙示録の七つの各部分は、上昇しながらクライマックスへと向かう順序に配列されている。そこには、終末を強調する段階的発展が見られる。すなわち、最後の審判はまず告知され、次いで導入され、最後に描写される。同じように、新しい天と地の描写も最後の部分に至ってなおいっそう綿密なものとなる。
5.黙示録の構成はさまざまの動く情景よりなる。各情景に属する細部はその中心的思想と一致するように解釈されなければならない。われわれは二つの問いを問うべきである。それは、まず情景が何であるかということであり、次いでその主要な思想が何であるかということである。
6.封印、ラッパ、怒りの鉢その他の象徴は、特別な事件、特定の出来事、または歴史上の個々の具体的な事柄を表すのではなく、世界の歴史の中で、とりわけ新約時代の中で働いている二原理−人間の行為と神の道徳 的支配との−を表すものである。
7.黙示録の根底にあるのは当時の出来事や状況である。その象徴は、本書が書かれた当時のさまざまな条件に照らして解釈されなければならない。
8.黙示録の根底には聖書がある。したがって黙示録は聖書全体の教えと一致するよう解釈されなければならない。
9.黙示録の起源は神の御心と啓示とである。キリストにある神こそまことの著者でありたもう。またこの書物には教会の歴史に関する神の目的がしるされている。
いのちのことば社の実用聖書注解を記述されました鈴木英昭先生が、参考にしておられる書籍でもあります。また鈴木先生はウイリヤム・ヘンドリクセンの「死後と終末」というすぐれた書籍を翻訳されている方です。
『死後と終末』の著者ウィリアム・ヘンドリクセン博士について紹介しておくことが必要と思いますので以下にそれを記述します。
「本書はウィリアム・ヘンドリクセン博士による“The Bible on the Life Hereafter”(Baker、1959)の第七版の翻訳である。著者は1927年以来、北米キリスト改革派教会(CRC)の教職であり、1943年から1952年にかけて、ミシガン州クランド・ラピッズのカルヴィン神学校で、新約釈義の教授として教えられた。その後1965年まで牧師としての働きの後に引退し、それ以後は、もっぱら著作に専念しておられる。…この死後と終末の問題は、だれもが避けて通れないものであるが、人間の罪の性質から、聖書の事実を直視せずに、楽観的な見方に引きずられるか、聖書の内容を超えた思弁的な方向への関心から、奇妙な見解が主張される傾向がある。読者はこの聖書研究によって、聖書とともに歩みながら、聖書がとどまるところを教えられるであろう。…」ウィリアム・ヘンドリクセン著、鈴木英昭訳『死後と終末』つのぶえ社
Q:「14万4千人のユダヤ人たち」について
A:ウィリアム・ヘンドリクセン博士によれば、「14万4千人」を象徴的な数と理解しています。
まず、三位一体をあらわす三という数に、被造物全体をあらわす四が乗ぜられる。印を押された者たちは、東西南北からからである。四に三を乗ぜれば12になる。すなわち、この数は、三位一体なる神(三)が、宇宙(四)で働いていたもうことを表す。父なる神が、御子を通し、御霊によって救いのわざをなしたもう−神(三)が宇宙(四)て゜働きたもう−時、われわれは旧約時代には12人(3×4)の族長たちを、そして新約時代には12人の使徒たちを見るのである。旧約時代と新約時代とを貫く教会がどのようなものであるかというその概念に達するためには、この12と12を掛け合わさなければならない。こうして、144という数が得られる。
かかる象徴的な表し方と完全に一致して、黙示録21章では、聖なる都エルサレムに12の門と12の土台があるとしるされている。12の門には、イスラエル12部族の名が書かれていた。また12の土台には、子羊の12人の使徒の名がしるされている(21:9-14)。城壁の高さは144キュビトであるともしるされている(21:17)。
このように考えると、黙示録7章の印を押された人々の群れは、旧約時代と新約時代とを貫く戦闘の教会全体を象徴することが明らかである。教会のごく一部の人々ではなく、戦う教会全体のことが言われていることを強調するために、この144に1000が乗ぜられる。1000は10の三乗(10×10×10)であり、これは完全なる四面体、倍加された完全性をあらわす(21:16)。現実のイスラエル12部族から選びだされた144000の印を押された人々は、霊のイスラエル、すなわち、地上における神の教会を象徴するのである。
黙示録11:12で、信仰者が雲に乗って天に上ってゆくことが述べられているにもかかわらず、すぐに次の節で、読者は再び審判の日直前の地上の状態に連れ戻される。それと同じように14章においても、贖われた人たちの祝福された状態が描かれたあとで、読者はもう一度ご再臨直前の出来事に連れ戻される。6,8,9節の三人の御使いは、同一の使命を帯びている。彼らは、人々がまことの信仰をもって神にたち返るように、やがて来ようとしている裁きについて人類に警告を与えるという同じ目的をもつ。
第一の御使いは、「地に住む(すわる)」人々のところに遣わされる。このことばは、裁きの前夜にある人々一般の特徴を表すものである。すなわた、彼らは地にすわっている。のんびり、無頓着、無気力、無関心である。
ここに、あるひとりの芸術家を想像してみよ。彼は、村とそのまわりの美しい風景を描くために、海岸の岩の頂にかっこうの場所を見つけたところである。彼は、いま満ちてくる潮が岩の根に押し寄せていることには全く気がつかない。絵を描くことに熱中しているので、岩に砕ける波に注意が向かないのである。つまり、彼は警告の声に気がつかない。絵を描くことに夢中になってすわつているだけである。そののち、彼は波に呑み込まれてしまうであろう。
これと同じように、最後の審判の直前に、一般の人たちは地上のさまざまな魅力に完全に心を奪われて、審判が迫っていること、それがますます近づいていることが分からないでいる。彼らは身に迫る危険に気づいていない。そして、気がついた時にはもう遅いのである(ルカ7:26)。このように無関心な人たちのところへ、一人の御使いが現れる。彼は、すべての人々に聞こえるようにと中空を飛んで来て、大きな声で言う。
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神の裁きの時が来たからである。」
不信仰を続ける者は、ただの一人も逃れることはできないであろう。神は「天と地と海と水の源」とを作りたもうた全能の御方だからである。しかし、迫り来る裁きの日についてのこの告知は、神の民にとっては「永遠の福音」なのである。それは、彼らが救い出されることにほかならないからである(ハバクク3:13以下、マラキ4:1以下)。そればかりか、神のすべての約束はその時完全に実現して、それは永遠に変わることはないのである。
以上、ヘンドリクセンから教えられることを引用・記述させていただきました。「私の考え」についてですが、現段階ではヘンドリクセンのものが私には最も説得力のある論述と受けとめています。今後、エリクソンの終末論の講義において、このヘンドリクセンの解釈と主張も、種々の解釈と主張と比較検討する中で精査していくつもりです。引用しつつ、先生の最後の質問には、まだ明確に答えていないと感じています。
「み使いたちの福音宣教が(この福音宣教がなされるのか?)」についてですが、これは組織神学全体からみても問題となる問いです。組織神学的にいいますと、「福音宣教は救われた人間、クリスチャンを通してなされる」からです。←「8.黙示録の根底には聖書がある。したがって黙示録は聖書全体の教えと一致するよう解釈されなければならない。」
「教会が携挙された後、異邦人が救われるのか」についてですが、ヘンドリクセンもここで、不信仰を続ける者には「裁きの告知」であり、神の民とっては「永遠の福音」であると区別しています。
あと、まだ丁寧にみる必要がある事柄して、この描写の時間的な位置についてです。ヘンドリクセンが指摘していますように、黙示録は並行関係の中で記述・描写されています。それで、「信仰者が雲に乗って天に上ってゆくことが述べられているにもかかわらず、すぐに次の節で、読者は再び審判の日直前の地上の状態に連れ戻される。それと同じように14章においても、贖われた人たちの祝福された状態が描かれたあとで、読者はもう一度ご再臨直前の出来事に連れ戻される。」という中で、御使いの警告の位置づけを丁寧にみていく必要があるように思います。←「1.黙示録は七つの部分よりなる。各部分は並行関係にあり、それぞれキリストの第一の来臨 から第二の来臨に至るまでの新約時代全体にまたがっている。」
三人の御使いの使命は「三人の御使いは、同一の使命を帯びている。彼らは、人々がまことの信仰をもって神にたち返るように、やがて来ようとしている裁きについて人類に警告を与えるという同じ目的をもつ。」とありますように、「救霊」が目的ではなく、「警告」が目的と思われます。←「5.黙示録の構成はさまざまの動く情景よりなる。各情景に属する細部はその中心的思想と一致するように解釈されなければならない。われわれは二つの問いを問うべきである。それは、まず情景が何であるかということであり、次いでその主要な思想が何であるかということである。」
宇田師も、「神学入門」の学びの中で「まず,「教義学」は,聖書神学から基本的材料を受け取る一方,歴史神学の収穫と洞察を受け止めつつ,キリスト教信仰の真理内容を系統的,組織的に提示する任務を負う学科である.特に次の点を重視する.第1に,福音の真理を,断片的,部分的にではなく,全体像を明らかにしようと努める.第2に,個々の教理をばらばらにではなく,他の諸教理との有機的な相互関連性の中で陳述しようと努める.第3に,キリスト教真理の有意義性と妥当性を現代という状況を踏まえながら立証しようと努める.この教義的訓練は,教会と伝道者に数々の利益をもたらす.第1に,神の御旨の全体を告知することを可能にし,またそれを助けてくれる.パウロは「神のご計画の全体を,余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使20:27)と言っているが,これは宣教者の基本的任務でありながら,実際には口にするほどやさしいことではない.″偏向″はすべての宣教者が必ずぶつかる難問である.この偏向の落し穴から私たちを救い,必要なバランスを与え,聖書の真理の全体像を提示するようにしてくれるのが教義学的研究である.第2に,今日,モルモン教やエホバの証人などの異端の活動が非常に活発であるが,これらに対処しようとする場合に,いわゆる″一節主義″(聖句をただばらばらに覚えていてそれを用いる方法)では不可能である.誤説を的確に見破って福音を立証するためには,どうしても系統立った教理的訓練が必須である.第3に,今日,キリスト教界内で叫ばれている一致や協同を推し進めていこうとする場合に,状況主義は後に混乱を残すことが多い.一致,協同の問題を考える場合に一番大切なのは,「信仰の一致」,また「教理上の一致」(参照エペ4:13)である.この点において,私たちを正しく導いてくれるのが日頃の教義学的鍛練なのである.」と教えられました。
できるだけ、簡単にと思いましたが、簡単すぎると誤解も起きやすいので、私が「終末論また、黙示録」の学びと押さえておくべきポイントと思うところも記述させていただきました。
また、KBIの後期の学びで「教会論」「終末論」を教えますので、その準備の過程でいろいろと資料等を作成する予定です。今回のテーマに関連するものがありましたら、また送らせていただきます。
A:私も森山諭師の「原始福音ついて」という本くらいしか持っていません。今日久しぶりに目を通しました。「日本宗教事典」という書籍の中にキリスト教系の新宗教として「イエスの御霊教会」と「原始福音・神の幕屋」があると記述されています。あと、直接の記述はありませんが、「クリスチャンのための諸宗教ハンドバック」の中に
第一部 キリスト教の異端
1.異端について
1.異端とは
2.異端発生の原因と教会の反省
3.歴史に現れた異端の種々相
4.聖書の教えと異端
5.異端の特徴
3.異端との関わり方
1.異端に接するときの注意点
2.異端への伝道法
3.リハバリテーションについて
森山先生の書籍は、比較的分かりやすい異端研究書と思います。
2.メシヤ観…人間イエスにヨルダン川洗礼において、聖霊がとりついたという説
3.贖罪観…贖罪論の中心である代償的贖罪説の否定
4.来世観…諸宗教のチャンポンともいえる滅茶苦茶な来世観とキリストの再臨の否定
5.聖霊観…異言理解・偽証・乱行
などで分かりにくいと思われるのは、若干「教理史」の知識が前提になっており、その部分の解説が断片的なためと思います。エリクソンのテキストやICIの資料・テープ等を通して歴史上の異端について分かりやすい学びを身につけられますと森山先生の語られていることがよく分かると思います。
異端ですよね。
明確に、異端です。異端とは、主要教理、基本的な教理、幹となる教理において異なった聖書解釈をする集団のことです。森山先生の書物を読むかぎり、無教会主義+異言運動+ホーリネスの四重の福音の中の神癒+聖霊経験+俗人+酒好き+不品行+呪術+偽の奇跡+嘘つき+死霊・怨霊信仰+火渡り…等、まさにチャンコ鍋状態の信仰ですね。
Q:もし、エリクソン師の本で、「今日における使徒と預言者」に関する考え方の項目がありましたら教えて下さい。他の神学者でもけっこうですが・・。
A:エリクソン先生の書籍の中では、「キリスト教神学」においては「聖霊論」の中で、中立的な意見が述べられているだけです。
ヴィンヤード運動については、下記の書物の中に記述があります。
Perspectives on Theological and Practical Issues
The Evangelical Mind & Heart
Are Signs and Wonders for Today
1.. Exposition of the Signs and Wonders Movement
1.. Basic Tenets
2.. Analysis
2.. Evaluation of the Movement
1.. Positive
2.. Negative
「今日における使徒と預言者」についての書籍のひとつにピーター・ワグナーの書籍が邦訳されています。ただ、神学的な書物ではありません。
組織神学書で、このテーマの参考となるのは、J.ロッドマン・ウィリアムズの「Renewal Theoloy」でしょう。メロディーランドのスクール・オブ・セオロジーの元責任者で、米国改革派神学の流れを汲む、カリスマ的な組織神学者であり、この組織神学書は、聖霊の賜物論の詳述に特徴があります。
エペソ4章の職務的賜物の原理と機能を今日的に適用しているのは、マイケル・ハーパーの「Let us grow」?という書物の中に、使徒的機能、預言者的機能の今日的適用への言及があったように思います。私はこの箇所を読んだとき、我喜屋師のメッセージの種本ではないかと思いました。
「今日における使徒と預言者」については、保守的な視点から言いますと、この職務と「聖書の形成」がきわめて深く関連づけられた思考がなされるということです。それゆえ、ずさんなかたちで、このテーマを扱いますと、正統派の限界線を越えているのではないかと疑われる部分があります。それゆえ、1.保守的な解釈を基盤とし、2.J.ロッドマン・ウィリアムズのさらに深い丁寧な釈義の線で思索をし、3.マイル・ハーパーのようなかたちで、神学的意味合いを「機能的」に適用していくのが適切なのではないかと思います。
Q:「一つ専門的な事を教えてください。 Antinomianismという単語を調べたら「道徳廃棄論者」とでてきました。同じ欄に 「信仰至上主義者」ともでていました。意味が不明ですので、お教えください。」
A:下記の記述を参考にしてください。an・ti・no・mi・an /#nt#n##mi#n/#a 【神学】 無律法主義の, 律法不用論の《福音に示されている恵みのもとでは救済のためには信仰のみが必要なのであるから, 信仰者は道徳律に拘束されないとする》; 《一般に》道徳律廃棄論の.#n 無律法主義者, 律法不用論者.〜・#sm n[L (anti‐, Gk nomos law)]