一宮基督教研究所

17/03/20

Booklist @ A B EML C 


Ichinomiya Christian Institute

Global in Service Program

  1. 研究図書目録 リンク

  2. 関西学院大学・一宮基督教研究所

  3. 一宮基督教研究所助手

  4. 共立基督教研究所

  5. 一宮基督教研究所講義録

  6. 日本福音教会あれこれ


Ichinomiya Christian Institute (略称:ICI)

一宮基督教研究所(ICI)の構想は、共立基督教研究所(KCI)の内地留学を終えようとしていたときに与えられた。日本の福音派全体を見渡す景色の中で宇田先生がKCIにおいて目指しておられたのは「新約時代から現在に至るまでの福音主義の歴史的展開を分析するとともに、現代の教会と神学の動きを視界にいれ、公同性・説得力・持続性をもった真の福音主義」であった。

わたしは自らが所属するJECやKBIの流れに忠実でありつつ、宇田師と同じ召命を自らのものとうけとめ、すでにあるJECとKBI流れの継承・発展・深化にいくばくかの貢献するものでありたいと願った。ただ伝道・牧会の現場に復帰して5年,10年,20年と過ごしてしまうことをおそれた(もちろん、現場の働きに専念すれば自分の器に応じたそれなりの結果はだせるであろうとは考えたが…)。わたしが個人的に召しと感じていた働きを将来における可能性として先送りする(それは人の目を恐れて一タラントを土の中に埋めることのように感じた)ことなく、まず5年間、継続神学研究と神学教育に専念したかった。そしてさらに次の5年間と…。主は郷里での働きつつ開拓することで生計をたてさせ、一時間半の距離にあるKBIで教える恵みを与えてくださった。ガソリン・スタンドでの働きのために一日の大半はその事務所の机の前にいる。机の上にはコンピューターがあり、その中で継続神学研究をしている。ここがわたしの書斎であり、図書室であり、教室ともなっている。

わたしにとって慰めとなることばは、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」の最後の章「福音の目的」の最後のページにある次のことばである。「ああ、自らが無駄になることの祝福よ!主のために無駄になることは、祝福されたことです。キリスト教界のなんと多くの名を知られた人たちが、このことを知っていないことでしょう。私たちのうちの多くの者は、十二分に用いられてきました。−むしろ用いられすぎているというべきでしょう−が、わたしたちは、神に対して無駄になるということがどんなことか知らないのです。私たちは絶えず動いていることを欲しますが、主はむしろ、時に私たちが牢獄に入ることを望まれるのです。私たちは使徒の伝道旅行について考えます。しかし神は、御自身の最大の使者たちをあえて獄につながれるのです。」わたしは小さな器であるが、この小さな店をパウロの牢獄と類比して2000年のかなたへ思いをはせることが好きである。パウロは残されている手紙だけでも13通をしたためた。獄中からの書簡もいくつかある。

インターネットの活用とホームページの開設の構想は当初にはなかった。これも神さまからの大きな恵みである。これはわたしの書斎(獄中?)での思索・研究活動のすべてを世界に公開するものであり、これを通してすべての人をわたしの教室に招きいれているのである。わたしはディスカッションが好きなので、日本と世界の各地から送信されてくるみなさんのメールを楽しみにしている。わたしのホームページを愛好してくださるお一人お一人に感謝したい。

Global in Service Program

グローバル・イン・サービス プログラム」とは、フラー神学校の宣教学の「コア・カリキュラム」の地球規模の通信教育のシステムにならい、導かれた環境とその必要の中でわたしの作成した資料やテープをほぼ実費(コピー代、テープ代、封筒代・郵送料など)に近いかたちで日本と世界の各地にお送りするサービスです。下記の資料に興味・関心のある方は気軽にメールください。現在、もっとも力を注いでいるのは組織神学のプリントの作成(ホームページに掲載)と講義テープづくり(毎朝、各章ごとに録音中)です。できあがった章は「ファイル更新日誌」において連絡させていただきます。


  1. 研究図書目録 リンク

    今後研究してみたいと考えている著者とその著作へのリンク

  2. 関西学院大学・一宮基督教研究所西宮福音教会の時期

    大学生のときの論文−宗教社会学的な見方を学んだ、また一宮基督教研究所神学生のときの小論文−旧新約聖書の包括的な見方を追求した。後にG.ヴォスの聖書神学を知った。わたしの考えていたことと同じようであったことに驚いた。一宮基督教研究所神学生のときは、ウォッチマン・ニーの著作集を収集し、よく読んだ。しかし、ウィットネス・リーのローカル・チャーチ運動の問題が起り、ウォッチマン・ニーとその後継者ウィットネス・リーの関係を含め、包括的な神学の視野から吟味する神学的素養の必要性を痛感した。

  3. 一宮基督教研究所助手岬福音教会の時期資料リスト(コピー可能)

    この時期には、R.H.カルペッパーの「カリスマ運動を考える」とその重要参考文献をよみあさった。「聖霊のバプテスマ」の定義において、カルペッパーは客観的立場の意味にとるが、ペンテコステ・カリスマのわたしたちは主観的経験の意味でとらえる。そこに相違はあるのだが、御霊の賜物におけるバランスのとれた理解については、カルペッパーの意見に賛成である。彼とその参考文献(J.D.G.ダンやD.ワトソンなど)からは御霊の賜物に関する包括的な見方を教えられた。やがて保守福音派の中から第三の波が起ってきた。J.ウィンバーのヴィンヤード運動やフラー神学校におけるP.ワグナーやC.クラフトの研究、さらに最近ではトロント・ブレッシング、ペンサコーラのリバイバルなどまだ資料収集も分析も追いついてない運動が次々と生起してきている。第三の波とそれ以後の運動の分析にとりかかるのはもう少し後のことになりそうである。

  4. 共立基督教研究所東京チャペルの時期資料リスト(コピー可能)

    この時期には、福音主義神学の歴史的遺産の継承と今日における宣教学研究について多くのことを学ぶことができた。聖書神学部門、歴史神学部門、組織神学部門、実践神学部門の諸領域の中のほとんどの科目を学び、そのパースペクティブとエッセンスを習得することに力を注いだ。自らを育んでくれたJEC(日本福音教会)とKBI(一宮基督教研究所)に恩返しをするために、JECとKBIのルーツとアイデンティティを包括的な視野から理解し位置づけ、そのスピリットと神学を継承し、さらに未来に向けて深化発展の輪郭を描くためである。共立基督教研究所(KCI)と東京基督神学校(TCTS)において多くの神学的・宣教学的手ほどきと数限りのない資料・参考文献などを得た。そのときに、わたしは新たなる召しを得たように考えた。JECとKBIのための研究の端緒についたばかりの今、わたしはこの働きへの導きを無にすべきだろうかと。リバイバリズムの体質をもち、知的神学的なことよりも、伝道・教会形成における力量において評価が定まる雰囲気の中で、危険な選択ではあったが、わたしはこの道を進むべきであると考え、その環境のあると思われた郷里へと帰った。

  5. 一宮基督教研究所講義録山崎チャペルの時期a
    (ホームページ掲載&講義テープ製作 から、講義MD製作そして現在は、講義DVD・簡易製本ブックレットやストリーミング・レクチャーへと変遷中)

    この時期においてまず、宣教学を任された。1,2年の宣教学は豊村師が担当されていたので、3年生を担当内容の重複をさけつつ、フラー神学校のコア・カリキュラムを念頭において「1.宣教の聖書的基盤、2.宣教の歴史的展開、3.宣教と文化の関係、4.宣教の戦略的構築」の四領域を教えるようになった。というのは、宣教実践に役立つことがこの科目に要請されるひとつのことであるが、宣教学の専門領域は無限にあり、フラーでは120科目、共立でも50科目がリストされていた。それゆえに、宣教学諸領域におけるエッセンスを学ぶ、扇の要の位置をしめる上記のコア・カリキュラムのようなものが必要とされる。しかし、これを教えるのにも相当の時間が必要であり、さらにそのエッセンスを限りなく要約したものとしての「ローザンヌ誓約」研究として、宣教学を講じるようになったのである。

    比較宗教学(宗教の神学)については、長らく院長の高橋先生が教えておられたのであるが、わたしが共立で「世界の宗教」とか「宗教の神学」などを学んでいたので、「どうでしょうか」と話しがあった。これも時間数が限られていたので、かなりコンパクトなテキストが必要とされた。それでいて、日本の宗教の歴史的輪郭とそのエッセンスを教えられるものでなければならないと考えた。多くの資料にあたってみたところ、稲垣久和師の「大嘗祭とキリスト者」は、高度な内容でありながら、きわめて分かりやすい希有な書物であった。稲垣師からは共立でキリスト教哲学関係の種々の科目を学んでいたので、著者に対する信頼性も十分であった。

    教理学(福音主義神学研究)については、教理史・現代神学を教えておられる大川正巳師が健康のため冬場の講義が困難なときがあり、「埋め合わせる講義は可能でしょうか」という相談があった。そこで宇田進師の「福音主義キリスト教と福音派」が、そのために最適の書物であったので、これをテキストとして「教理学」と名づけて講義することとなった。このテキストは単なる教理史・現代神学の学びにとどまらず、それらの学びを学生自らが所属する出身教派のルーツとアイデンティテイを立体的に探る作業をする講義であった。この講義を通して多くの学生は自らの教派の宿す神学や教理における福音主義的公同性に目が開かれていった。そしてその広範に共有する公同性の基盤の上にペンテコステ・カリスマの個性的要素を考える貴重な神学的訓練ができた。このような神学的訓練は、ペンテコステ・カリスマの流れが真に豊かな流れとなって未来に向けて発展していくために欠かすことはできない。

    組織神学については、M.J.エリクソンの"Introducing Christian Theology"をテキストとして使用している。KBIの流れにそった新しい、伝統的神学を継承し、今日的視野をもつ組織神学書をさがしていた。エリクソンは、スウェーデン・バプテスト系アメリカ人であり、超教派的な福音主義者であるとともにバプテストの流れに忠実な神学者である。わたしの所属教派JECのルーツもまた、スウェーデン・バプテスト系であるので共感を覚える。彼の神学的立場は穏健カルヴァン主義であり、KBIで高橋院長が長年教えてこられたヘンリー・シーセンの組織神学の立場と同じである。JECの第一世代の先生方は、関西聖書神学校(塩屋)で学ばれた結果として「聖め派」のホーリネス的強調が顕著である。特に我喜屋師の「十字架のメッセージ」はKBIを特色づけてきた。また、KBIをささえておられる教派はおもにペンテコステ・カリスマ派であり、ペンテコステ・カリスマ的強調、すなわち聖霊の経験とその賜物の強調が明白である。これらKBIを特色づけるふたつの要素の底流において、歴代の卒業生によって形成されるKBIの流れは、組織神学の視点からみてどのように表現できるだろうか。わたしが思うには、意識するせざるにかかわらず大局的にみて、おもだって教鞭をとってこられた高橋院長の「ヘンリー・シーセンの組織神学」により穏健カルヴァン主義に強く影響されており、KBIの流れが神学的に排他的ではなく包括的であり、穏健で中庸なバランスのとれた流れとして形成されてきた恵みがそこにあるように思う。そのような神学的素養をベースとして、ホーリネス的強調とペンテコステ的強調がバランスよく教えられている。ホーリネス的強調は、アウグスチヌス的漸進主義理解メソジスト的危機主義の幅があり、その折衷的理解としてのケズィック的理解(ウォッチマン・ニー「キリスト者の標準」)が主流であるように思われる。ペンテコステ的強調は、派遣されてくる教派と学生の背景の多様性から、ペンテコステ派の理解とカリスマ派の理解そして最近では第三の波の理解のそれぞれの理解が尊重されるかたちで柔軟に対処されているようである。KBIはひとつの型(パターン)にはめ込むところではなく、それぞれの神学生が出身教派の教えに忠実で有益な働き人となるように柔軟で豊かな神学教育をする場所であるから。このような多様な立場や考え方を受け入れる包容力と柔軟性はどこからくるのであろうか。それは信条よりも聖書そのものを第一義的に考え、組織としての画一的な信仰のあり方よりも個々の教会や個々の信仰者の信仰の多様性とそこにある主体性を重んじるバプテスト的な体質をもつJECに、さらにさかのぼればスウェーデン・バプテスト系オレブロ・ミッションに由来しているのだと思う。エリクソンの組織神学は、人間論においては「条件つき統一性」の概念を提起し、予定論に関してはカルヴァン主義とアルミニウス主義を併記し、終末論に関してはプレミレの立場をとっている。議論の仕方は常に、排他的ではなく包括的であり、わたしたちの体質としっくりいくものを感じる。エリクソンとわたしたちの立場との唯一の相違点は聖霊論の章の「奇跡的賜物」の箇所である。エリクソンは学者として中立の立場からカリスマとアンチ・カリスマの立場を両論併記しているので、わたしたちはペンテコステ・カリスマの立場から対論形式で学ぶことが肝要であると考える。

  6. 日本福音教会あれこれ山崎チャペルの時期b(ホームページ掲載&講演テープ製作 から、講演MD製作そして現在は、講演DVD・簡易製本ブックレットやストリーミング・レクチャーへと変遷中)

  7. 日本福音主義神学会西部部会神学研究会議講演録・山崎チャペルの時期c/西部部会の理事のひとりとして奉仕にあずかっている。さまざまな奉仕があるが、インターネットやDVD関係を活用して広報と講演録の提供はそのひとつである。