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今年度
英会話クラス
チャペル・タイム
1997年度 2,3,4月版
4月30日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。最近、国会をにぎわかしている話題といえば、「脳死」の問題です。先日、コンピューターのスイッチを入れると電子メールのボックスに一通の電子メールが届いていました。その内容は、「脳死の問題をキリスト教ではどのように考えているのでしょうか。」という質問でした。今日はこの質問に関係する聖書の箇所を開きましょう。
聖書の箇所は、第一テサロニケ人への手紙5章23節です。
5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
聖書においては、人間は「霊と魂とからだ」の三つの構成部分からつくられているということです。霊の部分においては、私たちがイエス・キリストを信じるときに、イエス・キリストが聖霊を通して内に住まわれると聖書に書いてあります。魂の部分は、私たちの人格の存在する部分であり、泣いたり笑ったりする「感情」の機能、勉強したり、本を読んだりする「知性」の機能、そして今日は遊ぶぞ、とか今日は頑張るぞと決定したりする「意志」の機能があります。その中心は私たちの自我であり,人格そのものです。そして、その魂の入れ物がからだの部分なのです。それは、ちょうど車のようです。運転手、つまり魂が乗り込んで車であるからだを運転しているのです。キリスト教以外のいくつかの宗教における人間についての見方においては、肉体と霊魂は一体であり、「臓器移植はとんでもない」という考え方もあります。しかし、聖書から見ると「脳死状態における臓器は、もう走れなくなった車のようなものです。しかし、その車のいろんな部品は他の車に十分に使用できるのです。」運転手はどこにいったのでしょう。運転手は天国において、新しい車をいただいているのです。私はクリスチャンに、以上のような考え方から、積極的に臓器の提供者となることをお勧めしたいと思います。そして、神さまから私たちが預かっていた車の部品を最大限に生かしていただくことこそ、神さまの願いだと確信します。聖書のことば、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」
4月23日
本日のチャペル・タイムはお休みでした。
4月16日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。先週はイースターの季節、イエス・キリストの復活の時期でありましたので、その聖書の箇所を開きました。
今日の聖書の箇所は、第一コリント人への手紙15章44節です。
15:44
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
イエス・キリストは死者の中からよみがえられました。これは、私たちの人生が死をもって消滅するのではないことの証明です。私たちは死んだ後、どのようになるのでしょう。聖書は言います。私たちの肉体は死んだ後、火葬場に運ばれて焼却され、骨だけになり、骨壷に入れられ、墓に葬られます。私たちは一体どうなつたのでしょう。私たちは消滅したのでしょうか。いやそうではありません。聖書は言います。私たちの肉体は、ちょうど古い家に住んでいて、新しい家ができたので、引越ししたようなものです。レッカー車がきて古い家は取り壊され、その廃材は運ばれて処理されます。しかし、その家の住人はどうなつたでしょうか。廃材と一緒に運ばれて、処分されたでしょうか。いいえ違います。その家の住人は新しいに移され、まえより快適な生活を楽しんでいるのです。死をもつて私たちの古い肉体は滅びても、魂は生きています。そしてその魂は裸でいることはありません。神さまが愛をもつて新しい御霊によるからだを備えていてくださるからです。聖書のことば、「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
4月9日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。春休みを終え、桜も芽をふき花を咲かせる美しい季節となりました。学校も英会話クラスも再び始まります。今学期もよろしくお願いします。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書20章16節です。
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
約2000年前の金曜日に十字架につけられ、その夕方に岩をくりぬいた墓に葬られました。入り口は大きな岩で封印され、ローマ帝国の兵士たちが番をしていました。金曜の日没から土曜の日没までが当時の安息日でありましたので、十分に遺体に処置をするまもなく葬られてしまいました。安息日は土曜の日没であけるのですが、暗闇の中では十分なことはできません。それで日曜の日の出を待ちわびて、弟子たちやイエスさまを慕う人々は墓地に急ぎました。ローマ兵の許可を得て、墓地を開き遺体をきれいに処置するためでありました。しかし、墓は開いており、その中に遺体はありませんでした。マリヤは慕っていたイエスさまが亡くなられたショック以上に、さらに遺体までが行方知らずになったと思い、泣きうちひしがれていました。しかし、そのときによみがえられたイエス・キリストは後ろからマリヤに声をかけられました。「なぜ泣いているのですか」と。しかしマリヤはその人を墓地の管理人と思い、遺体はどこに運ばれたのかと尋ねました。そのとき、イエス・キリストはいつものように優しい声で「マリヤ」とふたたび声をかけられました。マリヤはびっくりするとともに、あの聞きなれたイエスさまの声と分かって、反射的に「ラボニ」と答えました。絶望していたマリヤの心の暗闇に、イースターの朝のさわやかな光が注ぎ込みました。ハレルヤ!20:16
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
3月12日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。3月23日から受難週そして約2000年前のその週の金曜日にイエス・キリストが十字架につけられた日です。しばらくはその前後の箇所をみてまいりましょう。
今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書16章15、16節です。
16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
「人生は出会いで決まる」これはある有名な文書の一節です。そうです。人生は出会いで決まるのです。私たちが山崎高校を卒業しようとしていたとき、担任の先生がこのように励ましのことばをかけてくださいました。「みんな大学に入ったら、三つの出会いを大切にしなさい。第一に、人生の座右の書ともいえるような良い本を見出しなさい。第二に、あなたの生涯の友ともいえる親友を見出しなさい。第三に、あなたの人生に大きな影響を及ぼすような先生を見出しなさい。」と。
振り返ってみて、本当に真実なことばをくださったと思います。私にとっては、第一に、学生時代に聖書を知ったことは私の人生を左右しました。お酒をちびりちびりと飲みながら、数節ずつ聖書を読んでいったことを思い出します。第二に、多くのクリスチャンの友人を得たことは、わたしにとってかけがいのない財産です。わたしにとって富や名誉よりも大切なものです。第三に、最も大きな出来事は二年生のクリスマスに涙を流し、罪を悔い改めて、イエス・キリストを「生ける神の子キリスト」として告白したことでした。私のしたことは、きわめて単純なことでした。心を開いて、渇いた心で聖書を読んでいったこと。そして、親切で優しさにあふれたクリスチャンたちと親しくつきあったこと。そうしているうちに、イエスさまを「あなたは生ける神の子キリストです」と心の底から確信するようになったのです。
聖書のことば、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
3月5日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。
今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書6章1節です。
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
ある有名な学者によれば、「日本という国は人間関係社会である」のだそうです。物事の善し悪しは、人間の間で決められる社会なのです。「赤信号みんなで渡れば恐くない」ということばがあります。少々悪いことであっても、みんなでやってしまえば、どういうことはない。というような意味でしょうか。「恥の文化」とも言います。しかし、聖書は私たちに、物事の善し悪しは、「神の前にどうであるかで決まる」と語りかけるのです。「罪の文化」とも言います。
聖書のこの箇所は、「どんなに良い行いでも、動機が悪ければ神の前に価値がない」と語り掛けます。「人に見せるため」の善行ではなく、私たちの行いの動機の一番深い部分を探られる神さまに評価される生き方をしたいものです。」聖書のことば、6:1
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられ
ません。
2月26日こんにちわ山崎チャペルの安黒務です。
今日の聖書の箇所はマタイによる福音書2章23節です。
2:23
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。
今人気のあるテレビ・ドラマといえば、NHKの「二人っ子」をあげられる方は多いかもしれません。このドラマにはふたりの性格の対照的な姉妹が出てきます。今日は、麗子の方をみていきますと、彼女は「現代人のひとつの価値観」を体現しているように思います。それは何かと言いますと、麗子は京大に入りました。これは第一に「学歴が幸せな人生を保証するという価値観」の表現です。また海東という財閥の御曹司との出会いは第二に「社会的ステータスが、そしてそれを有する人との結婚が幸福の条件という価値観」です。第三に彼女はビジネスに情熱を燃やします。「ビジネスにおける成功が何よりも大切という価値観」です。もちろん、それらのことは、私たちの人生においてきわめて大切な要素にはちがいありません。しかし、なにかが欠けているような気がするのです。実際、麗子の人生は描いていた通りには展開しませんでした。今日の聖書の箇所に「この方はナザレ人と呼ばれる」と記されています。このことばは私たちに新しい価値観をチャレンジしています。神の最愛の息子が、エルサレムのような宗教の都育ちでなく、さげすまれた田舎町育ちとして軽蔑の対象であられたのです。聖書のみことばは、ときどき私たちの価値観の盲点を照らし出してくれるのです。「この方はナザレ人と呼ばれる」
2月19日
こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。今日は、マタイによる福音書4章4節を開きましょう。マタイ4:4 イエスは答えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
みなさんのうちで、断食をされた方はあるでしょうか。まあ、風邪をこじらせたり、お腹の調子が悪くて、何日かおかゆを食べていたとか、点滴をしてもらつたという人はいるでしょう。しかし、この豊かな時代に、健康なのに食事をしないというのは何か異常な気がします。でもたまには1、2食、食事を抜いてみると、食事のありがたさがわかります。わたしもあるとき、3日間断食をしたことがありました。1日目はまだそうでもないのですが、2日目はかなりきついです。ものすごい食欲がわいてきて、つらくてたまりません。道を歩くときなどは、体力の消耗をおさえるために、そろりそろりと歩くようになりました。しかし、3日目は空腹になれてきます。そして、断食があけると、柔らかいもので徐々にお腹をならしていくのです。この飽食の時代、たまには断食をおすすめします。ふだん、あたりまえのことが、なにか大切なことだとわかってきます。
この箇所で、イエス・キリストは、彼が荒野で40日40夜何も食べず何も飲まずの極限状況におかれました。それは、人間のたてまえがはぎとられて、本音があらわれてくる状況です。そのような状況においては、「パンさえ食べることができれば、・・・。すべてのものを捨てることができる」という状況です。ブーバーという哲学者が「我と汝」という本を書きました。私たち人間は、「我とそれ」という関係におちいりやすいというのです。これは人生の盲点と思います。「我とそれ」という関係の中に深い意味の幸せはありません。「我と汝」という霊的・人格的関係の中にこそ、真実の幸せが存在するのです。聖書のことば「「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』」