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7月23日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。みなさんは「バイブル」とはどういう意味がご存知でしょうか。バイブルとは「本」という意味です。しかしそれが聖書をさす場合、バイブルは本の中の本、本の王様という意味になるのです。なぜでしょう。それはその著者が神さまだからです。

聖書をひらきましょう。第二テモテ3章16,17節です。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

私がはじめてクリスチャンのキャンプに参加したとき、クリスチャンの友達から「聖書のことばは神さまのことばなんだよ。」と聞かされたとき、私は自分の耳を疑いました。「ええっ!この人たちはこの科学の時代にそんなことを信じているの?」しかしキャンプから帰ってきて、聖書を少しずつ読むようになり、私の考えは少しずつ変わってきました。太宰治という有名な小説家は、3年ほどでマタイによる福音書を読んだそうです。私はもう少し早く読みました。最初はイエス・キリストがどういうお方かということがよく分かりました。その心の優しさ、暖かさ、清さ、正しさ、強さ、偽善に対する怒り、など。私はいつのまにか、もし神さまが本当にいらっしゃるのなら、このようなお方に違いないと確信するようになっていきました。私が、毎晩聖書をひもとくごとに、イエス・キリストは私の部屋を訪問し、私の心に語り掛けてくださっているような経験をしました。それが私のクリスチャンになる前後の経験です。あなたも気がむいたときは、ときどき聖書を開いてみてください。きっと同じような経験をされると思います。それは、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」だからです。私たちは聖書という神さまからの手紙を通して、人格的な交わりをもつことができるのです。

7月16日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。受験生を家庭にかかえますと、その年はなにかぴりぴりした雰囲気になります。

聖書を開きましょう。マタイ7章13,14節です。
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭き門」、これはあの有名なアンドレ・ジイドの本のテーマでもあります。日本では進学や受験のときに、難しい試験に合格してよりハイレベルな学校に入ることに使われます。しかし、もともとの意味は地上の試験のことがいわれているのではなく、私たちが天国に入るのか地獄にいくのかという「人生最大の選択」についていわれていることばなのです。天国に入ることの難しさ、それは難行苦行−つまりどれだけ修行をつんだかどうかとか、品行方正−どれだけまじめにりっぱに生きたかとか、ということではありません。聖書でいわれている「狭き門」−天国に入ることの難しさとは、私たちが自分の罪がわからないということなのです。自分の罪が分からないから、イエス・キリストの十字架の意味がわかりません。もしあなたが、「あなたの罪がイエス・キリストを十字架に釘付けにしたのだ」ということが分かりましたら、あなたは狭き門を見出したということがいえるのです。あなたもぜひこの狭き門を見出す者となってください。聖書のことば「7:13 狭い門からはいりなさい。・・・7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」


7月9日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。車を運転していますと、道の両側に田畑が目に入ってきます。お百姓さんが一生懸命田畑の手入れをしています。ごくろうさんです。

聖書を開きましょう。マタイによる福音書13章24、25,26節
13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

聖書では人間の心というものは、畑の土のようなものであると言われています。私たちが生きていくということは、その心の土にどのような種をまいていくかということが問われているのです。お百姓さんは稲や大豆の苗を大切に植えていきます。そして、ひえやあわや雑草を丁寧に取り除いていきます。雨の日も風の日も、日照りの日も、ほったらかしにしてその手入れをおこたることはありません。私たちの心の手入れも同様です。いろんな情報であふれている今日、うかうかしているとあなたの心の田畑は、いかがわしい種やホラーの恐ろしい種が入り込んで雑草のように増え広がって、手におえなくなるかもしれません。私たちはお百姓さんから心の手入れを学ぶべきなのです。

6月18日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。先日のNHKのポップス・ジャムという番組に安室なみえという歌手が出演していました。その歌のリズムと踊りは大変多面的で非常に刺激を受けました。デジタル社会の到来が言われていますが、音楽の世界にはすでにきていると感じました。

聖書を開きましょう。ローマ人への手紙1章20節です。「 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」

大きな変化が20世紀の最後の期間に起こりつつあります。それはインターネットの普及により、社会や文化が根底から揺さぶられているのです。音楽の世界だけではなく、教育の世界も医療の世界も今後大きく変わっていくものと思われます。しかし、変わらないものもあります。それは中心となる対象がいつも人間であるということです。安室なみえの歌の中に「誰のために、何のために生きているのか、ときどき分からなくなる」という歌詞があります。どんなに文明が進んでも変わらないものがあります。それは人間の本性です。人間は何のために生きているのでしょうか。誰のために生きているのでしょうか。みなさんにひとつの質問をしましょう。「時計はだれのために存在していますか。」「椅子は何のために存在していますか。」答えは簡単です。時計は人間が時間をみるためであり、椅子は人間がすわるために存在しているのです。そうです。作られたものは、作った人との関係において、その存在の意味、存在の目的が分かるのです。聖書は言います。「 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」と。聖書のことばは、Changing World「激変する世界」における Eternal Word「永遠のことば」なのです。