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チャペル・タイム
1997年度 5,6,7月版
7月23日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。みなさんは「バイブル」とはどういう意味がご存知でしょうか。バイブルとは「本」という意味です。しかしそれが聖書をさす場合、バイブルは本の中の本、本の王様という意味になるのです。なぜでしょう。それはその著者が神さまだからです。
聖書をひらきましょう。第二テモテ3章16,17節です。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
私がはじめてクリスチャンのキャンプに参加したとき、クリスチャンの友達から「聖書のことばは神さまのことばなんだよ。」と聞かされたとき、私は自分の耳を疑いました。「ええっ!この人たちはこの科学の時代にそんなことを信じているの?」しかしキャンプから帰ってきて、聖書を少しずつ読むようになり、私の考えは少しずつ変わってきました。太宰治という有名な小説家は、3年ほどでマタイによる福音書を読んだそうです。私はもう少し早く読みました。最初はイエス・キリストがどういうお方かということがよく分かりました。その心の優しさ、暖かさ、清さ、正しさ、強さ、偽善に対する怒り、など。私はいつのまにか、もし神さまが本当にいらっしゃるのなら、このようなお方に違いないと確信するようになっていきました。私が、毎晩聖書をひもとくごとに、イエス・キリストは私の部屋を訪問し、私の心に語り掛けてくださっているような経験をしました。それが私のクリスチャンになる前後の経験です。あなたも気がむいたときは、ときどき聖書を開いてみてください。きっと同じような経験をされると思います。それは、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」だからです。私たちは聖書という神さまからの手紙を通して、人格的な交わりをもつことができるのです。
7月16日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。受験生を家庭にかかえますと、その年はなにかぴりぴりした雰囲気になります。
聖書を開きましょう。マタイ7章13,14節です。
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。7:14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
「狭き門」、これはあの有名なアンドレ・ジイドの本のテーマでもあります。日本では進学や受験のときに、難しい試験に合格してよりハイレベルな学校に入ることに使われます。しかし、もともとの意味は地上の試験のことがいわれているのではなく、私たちが天国に入るのか地獄にいくのかという「人生最大の選択」についていわれていることばなのです。天国に入ることの難しさ、それは難行苦行−つまりどれだけ修行をつんだかどうかとか、品行方正−どれだけまじめにりっぱに生きたかとか、ということではありません。聖書でいわれている「狭き門」−天国に入ることの難しさとは、私たちが自分の罪がわからないということなのです。自分の罪が分からないから、イエス・キリストの十字架の意味がわかりません。もしあなたが、「あなたの罪がイエス・キリストを十字架に釘付けにしたのだ」ということが分かりましたら、あなたは狭き門を見出したということがいえるのです。あなたもぜひこの狭き門を見出す者となってください。聖書のことば「7:13
狭い門からはいりなさい。・・・7:14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
7月9日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。車を運転していますと、道の両側に田畑が目に入ってきます。お百姓さんが一生懸命田畑の手入れをしています。ごくろうさんです。
聖書を開きましょう。マタイによる福音書13章24、25,26節
13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
聖書では人間の心というものは、畑の土のようなものであると言われています。私たちが生きていくということは、その心の土にどのような種をまいていくかということが問われているのです。お百姓さんは稲や大豆の苗を大切に植えていきます。そして、ひえやあわや雑草を丁寧に取り除いていきます。雨の日も風の日も、日照りの日も、ほったらかしにしてその手入れをおこたることはありません。私たちの心の手入れも同様です。いろんな情報であふれている今日、うかうかしているとあなたの心の田畑は、いかがわしい種やホラーの恐ろしい種が入り込んで雑草のように増え広がって、手におえなくなるかもしれません。私たちはお百姓さんから心の手入れを学ぶべきなのです。
6月18日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。先日のNHKのポップス・ジャムという番組に安室なみえという歌手が出演していました。その歌のリズムと踊りは大変多面的で非常に刺激を受けました。デジタル社会の到来が言われていますが、音楽の世界にはすでにきていると感じました。
聖書を開きましょう。ローマ人への手紙1章20節です。「
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」
大きな変化が20世紀の最後の期間に起こりつつあります。それはインターネットの普及により、社会や文化が根底から揺さぶられているのです。音楽の世界だけではなく、教育の世界も医療の世界も今後大きく変わっていくものと思われます。しかし、変わらないものもあります。それは中心となる対象がいつも人間であるということです。安室なみえの歌の中に「誰のために、何のために生きているのか、ときどき分からなくなる」という歌詞があります。どんなに文明が進んでも変わらないものがあります。それは人間の本性です。人間は何のために生きているのでしょうか。誰のために生きているのでしょうか。みなさんにひとつの質問をしましょう。「時計はだれのために存在していますか。」「椅子は何のために存在していますか。」答えは簡単です。時計は人間が時間をみるためであり、椅子は人間がすわるために存在しているのです。そうです。作られたものは、作った人との関係において、その存在の意味、存在の目的が分かるのです。聖書は言います。「
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」と。聖書のことばは、Changing World「激変する世界」における Eternal Word「永遠のことば」なのです。
6月18日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。昨日一宮基督教研究所で教師会がもたれました。その席に日本からイギリスに宣教師として派遣されている河村先生が出席されていました。
聖書を開きましょう。使徒行伝16章9節「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。」
河村先生は、宣教師となられる前は東京交響楽団の主席バイオリニストであった方です。その方が教会に導かれ、クリスチャンとなられ、やがて牧師にそして宣教師となられました。神学校を卒業されようとするときに、「神さま、どこに導かれて奉仕いたしましょうか」と祈っておられました。そのようなときに、イギリスのミルトン・キーンズという日本の企業50社が集まっている地域からの必要を知らされました。多くの企業戦士とともに、奥さんや子供さんがおられます。しかし、日本語しかできず、家にこもりがちの人が多いとのことでした。そして、そのような人々の中にひとりのクリスチャン女性の方がおられました。その方は8年間毎日のように、「神さま、どうぞミルトン・キーンズの日本人の必要のために、日本人の牧師を遣わしてください。」と。その祈りを人づてに聞かれた河村先生ご夫妻は以前のイギリス留学の経験も生かして、日本からイギリスへの宣教師として旅だたれたのでした。10数人の小さな教会ですが、世界各地にあるすばらしい日本人教会のひとつです。みなさんが海外へ行かれることがありましたら、海外にある日本人教会にお立ちよりください。長年つれそった家族の一員のように受け入れてくださるでしょう。これも海外でもつすばらしい経験のひとつです。
6月11日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。今週の月曜と火曜に大阪のホテル・ザ・ルーテルで、ニュー・メディア・宣教セミナーがもたれました。私も二つのセミナーとパネル・ディスカッションで奉仕させていただきました。
聖書を開きましょう。マタイによる福音書24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
この箇所は、イエス・キリストが再び来られる前にどようなことが起こるのかについての預言が書いてあります。これに関連して、21世紀に向かっていま起こりつつあることは「デシタル化、インタラクティブ、シームレス」というキーワードで表されます。デジタル化というのは、情報が一瞬にして集められたりバラバラにされたりするようになることです。インタラクティブとは、今のテレビは見るたげですが、これからは一方通行ではなく、話しかけ対話をしながら、インターネット・テレビを見る時代がくるということです。シームレスとはあらゆる物事に境目がなくなるということです。テレビも電話もファミコンもインターネットもみんな一緒になってしまうでしょう。ものすごく便利になるでしょう。しかしあまりにも便利になりすぎて、自分を見失いやすい時代になると思われます。あまりにも簡単に必要なものが手に入るので、本当に必要なものにしか興味がなくなるでしょう。そして多くの人が「自分に本当に必要なものは何なのだろう。」「自分とは一体何者なのだろう。」「自分は一体何のために生きているのだろう。」という真に大切な問いかけをするようになると思います。聖書はその問いに親切に答えてくれます。約3500年前に書かれ始めた聖書は、地上で最も古い書物のひとつであるとともに、21世紀に向かって最も新しい、新鮮な内容に満ちた書物でもあるのです。
6月4日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。私がはじめて教会に行きましたのは、大学生の2年のときでした。教会で「ここに愛がある」という映画集会があり、ロマンチックな映画かなと思いふとのぞいてみたのです。もちろんその愛が「神の愛」であると知ったのは映画の途中からでした。
聖書を開きましょう。今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書4章26−27節です。
「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、4:27
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」
「ぜひ続けて教会に来てください。」と言われ、頼まれると義理がたい方なので、日曜の朝だけ早起きして10時半の礼拝に行くようになりました。朝から讃美歌を歌うのは、なかなかすがすがしく心洗われるような気がしました。教会に行き始めまして、毎週聖書のみことばを聞かされるようになりました。自分でも聖書を読むようになりました。太宰治という小説家は3年間かかってマタイによる福音書を読んだそうですが、私もサントリー・カスタムというウイスキーをコーラでわって、一杯ひっかけながら、毎日1節とか2節ずつ読んでいきました。信仰ということは自分の問題として考えていませんでしたが、私の心は田畑のようでありまして、聖書のみ言葉の種がまかれていきました。ただマージャンをやり、酒を飲み、聖書を読んで寝るという毎日でした。もちろん学校の授業にはてでていました。そうこうするうちに、聖書のみことばは私の心の中で芽を出して育ち、信仰らしきものが芽生え、いつのまにかイエス・キリストを信じて、その年のクリスマスには洗礼を受けるところまで導かれました。私のしたことといえば、ただ心を開いて聖書のみことばを心にとめていったことだけでした。聖書のことば、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので・・・」す。
5月28日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。私がはじめて聖書を手にしたのは、山崎高校の三年生のとき、今みなさんがお持ちの聖書が学校で無料配布されたときでした。そのとき、私たちのクラスでは和訳だけの三冊の聖書が余りました。西川昌孝先生は「余った聖書がほしい人はありませんか」と言われました。そのときに三人の生徒がはやいもの勝ちという感じで取りにいきました。先生は「このような生徒にこそ聖書は必要なものです。」といわれ、皆で爆笑しました。その三人のひとりが私でした。
聖書を開きましょう。今日の聖書の箇所は第二テモテ3章16節です。
「3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
はじめて読んだ聖書の中には、「狭き門より入れ」とか「求めよ、さらは与えられん」とか有名なことばがここかしこにあるのが印象に残っています。しかし、信仰の対象として聖書を開くようになったのは、大学2年生のキャンプのときでした。3泊4日のクリスチャンのキャンプの最後の夜、あるひひとりのクリスチャンが「私はクリスチャンなのに、心の中でさまざまな罪を抱き、罪を犯しています。神さまの前に悔い改めます。」と涙をもって心から罪を悔い改める様子を目にしたとき、私の心に強い衝撃が走りました。私は、まじめな人間と思って生きてきましたが、心の奥底まで神さまに見透かされても大丈夫なようには生きていませんでした。「クリスチャンとは、聖い神さまの前にそのように真実に生きる人たちなのだ。」と教えられました。私もそのような生き方をしたいという願いが心に起こりました。そして、その夜から毎晩少しずつ聖書を読むようになったのでした。
5月21日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。最近わたしは、インターネットにこっています。「インターネットとは何ですか。」と聞かれることがあります。「インターネットとは、世界の裏側の人ともまるで目の前にいるかのような感じで話ができる不思議な仕組みのことです。」
聖書を開きましょう。今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書6章6節です。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
私は、インターネットをしていて不思議に思うことは、それはクリスチャンの祈りに似ているところがあるということです。私がはじめてお祈りをしましたのは、関西学院大学のそばにある西宮福音教会の応接室でした。その教会は今は大きな教会になっていますが、私が学生のころは土曜日の祈り会には数人のクリスチャンが集まっているだけでした。聖書からのお話を聞き、そしてひとりひとり祈っていきます。そして最後に「安黒さん、祈ってみませんか。」と声をかけられたのです。わたしは、「どう祈ってよいのか、わかりませんから祈ることができません。」と答えました。すると「自分の心にあることを、神さまに話かけるように、そのまま口に出せばよいのです。神さまはどんな祈りでも喜んで耳を傾けて聞いてくださいます。」と言われました。それで勇気を出して、私の人生で最初の祈りをささげることにしました。「神さま、私はまだあなたのことがよく分かりません。神さまが本当にいらっしゃるのかどうかさえも分かっていません。もし、あなたが、本当にいらっしゃるのなら、どうかそのことを私がわかるように教え導いてください。アーメン」このように祈りました。そのようにたどたどしい導かれ方ではありましたが、神さまは本当に私の小さな祈りをも心にとめてくださり、その後数ヶ月、神さまのことがだんだん分かってきました。そして、心から信じて、その年のクリスマスに洗礼を受けることができました。神さまは私たちの目には見えませんが、祈りを通して対話をすることができるのです。それはちょうど、インターネットを通して、地球の裏側の人と対話ができるのと似ています。
5月14日 こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。イギリスに行かれていた英会話クラスの生徒さんが帰国されたことを聞きました。そのとき、私も25年前にヨーロッパ各地を旅行したことを思い出しました。今日はそのときの思い出を聖書を開きつつお話したいと思います。
聖書は、ルカによる福音書15章20節です。
「 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
私は学生のときに、三週間ヨーロッパ各地を旅行する機会を得ました。イタリアのローマからはじまり、フィレンツェ、ミラノ、スイスのチューリッヒ、ドイツのハンブルク、ベルギー、フランスのパリ、そしてイギリスのロンドンと旅しました。最後のイギリスで気持ちよくハイド・パークという大きな公園を散歩していましたが、夕方になったのでホテルへ帰ろうとしました。しかし、何ももって出ていなかったのであやうく迷子になりかけました。夕闇のせまる中、同じようなホテルを探し回りました。見つからないのであせってきました。もうこのまま日本に帰れないのではないかと本当に心配しました。そして真っ暗になる直前にやっと見つけました。このときの経験は、帰国後も尾をひきました。私は、日本に帰ってきたが、実は人間とは「どこから来て、どこへ行くのか」分からない「宇宙の迷子」ではないのか、と思うようになっていたのです。しかし、そのような時に教会に導かれて、神さまのふところに抱かれることになったのです。ある有名な神学者は申しました。「私は、父なる神のふところに抱かれるまでは、真の安らぎを得ることはない」と。聖書のこの箇所は父から離れていた放蕩息子の帰ってきた場面です。私たちも悔い改めて、神さまのふところに帰ろうとするとき、実は神さまの方から走りよってきて抱きかかえてくださることを経験するのです。
5月7日
こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。昨日は一宮基督教研究所で、三つの講義をさせていただきました。聖書の関連箇所を開きつつ、その中からひとつのことをお分かちしたいと思います。
聖書の箇所はヨハネによる福音書1章18節です。
「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
私は、学生のときに、哲学に非常に興味を抱いていました。それは、受験勉強で大学に合格したときに、目標を失ってしまったからでした。自分は何のために生きているのか分からなくなってしまったのです。退屈きわまりないたくさんの講義のうちで、哲学の講義は興味深いものでした。それで学生時代と内地留学期とで、五人の先生から哲学を学びました。哲学とか宗教とは、何でしょうか。それは、算数や国語、社会や理科などの勉強のひとつひとつは、森の木々の一本一本にたとえることができます。それらは手に触れ、からだで触って確かめることができます。しかし、森の外の世界については、そういうわけにはまいりません。私たちの人生経験の森の中で起こるさまざまな事柄はいろんなかたちで確かめることができます。しかし、私たちの生まれる前はどうであったのか。何のために生きているのか。そして死後私たちの存在はどのようになってしまうのか。等の人生という森の外の世界については、あらゆる人間経験や知識を整理したりして、推測するしかないのです。この推測によって、いろんな哲学や宗教ができあがってくるのです。しかし、何が真実であるのか、判断しかねます。キリスト教ではどうでしょうか。キリスト教においては、森の外の世界のことは、この宇宙を創造された神さまの側から教えていただく以外には分からないと教えています。たとえば、神さまについても、人間があれこれと想像力を働かせて、神さまはこういうお方ではないか、ああいうお方ではないかと、言っても何ひとつ確実なことは分からないのです。神さま御自身が自分を明らかにされない限り本当のことは分からないのです。聖書を通して、神さまは言われます。「
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」