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12月17日 こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。アドベント第三週です。引き続き、クリスマスの意味を考えてみましょう。今日の聖書の箇所は新約聖書マタイによる福音書 1:21 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

イエス・キリストの誕生は、いまから1997年前です。歴史はイエス・キリストの誕生を区切りとし、紀元前、つまりBCの意味は”Before Christ”、キリストのお生まれになる前何年。紀元後、つまりADの意味は”Anno Domini”主イエス・キリストの治世何年、という意味です。歴史は英語で”History”とつづりますが、ある人は歴史とは”His Story”、人となられた神、イエス・キリスト、彼の支配される歴史であるといっています。
さて、イエス・キリストはどのようにして私たちを支配されるのでしょうか。北朝鮮やアフリカの独裁国家のように強制と抑圧によってでしょうか。いいえ、そうではありません。キリストは、十字架の犠牲的愛によって私たちを心の底からの同意に基づいて私たちを導かれるのです。イエス・キリストの人格を宿される神は、どこまでも私たちの人格と自由意志を尊重してくださる神なのです。アメリカ合衆国は多くの課題もかかえていますが、「基本的人権尊重」の考え方においては世界のリーダーです。人権抑圧をしている国々を人権尊重の国へと変革させる圧力をかけています。聖書の影響のひとつの結果です。南アフリカは白人中心の差別国家でしたが、いまは黒人のマンデラさんが大統領です。
1997年前、イスラエルの人々はローマ帝国の植民地のもとで抑圧されていました。人々は旧約聖書の預言と約束により、抑圧からの解放者「救い主、イエス・キリスト」を待ち望んでいました。そしてキリストはまず、自己や民族の利益のみを追求しやすい私たちを「私たち自身の心の罪の支配・抑圧から」解放してくださり、罪から解放された私たちを通して家庭を、地域を、国を、世界を変革していってくださる方なのです。「基本的人権」を尊重されるイエス・キリストなる神の御心から教えられつつ。

12月10日 こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。アドベント第二週です。いまやお寺でもクリスマスをする時代となりました。しかしクリスマスとは一体なになのでしょうか。今日の聖書の箇所を開きましょう。今日の聖書の箇所は新約聖書ヨハネによる福音書1:18「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

クリスマスとは、その字の通りイエス・キリストの誕生をお祝いする日のことです。ではイエス・キリストの誕生には一体どのような意味があるのでしょうか。それは、私たちが「神さまについての本当の知識をもつことができるようになった」ということです。聖書のことばにありますように、いまだかつて神さまをみた人はありません。人々はどのようにして神さまについて知ることができるでしょうか。このようなたとえ話があります。目の見えない人が象をさわりました。ある人は象の足をさわり「象は太い木のような動物だ」といいました。別の人は象のしっぽをさわり「象はひものような物だ」といいました。さらに別の人は象の鼻にさわり「象はホースのような生き物だ」といいました。それぞれは象のひとつの面しか言い当てていません。ただ直接自分の目で象を見た人だけが、本当の象の姿を知っています。聖書をみますと、神さまの造られたこの宇宙を通して神さまの全知全能のお方であることが分かります。しかしそれだけでは神さまがどのようなお方であるのかという「神さまの人柄」は分かりません。これがクリスマスの意味です。神さまの人柄について、神さまがいかなる方であるのかを知りたい人は「人となられた神」イエス・キリストを見なさい。これがクリスマスの意味です。聖書のことば「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

12月3日こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。いよいよ12月に入りました。キリスト教会ではアドベントといいましてクリスマスに向けての心の備えの時期です。この時期には聖書からイエス・キリストの誕生に関する箇所を開くことになっています。今日の聖書の箇所は新約聖書ピリピ人への手紙「2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

今や、ビッグバンの時代、あらゆるものが国際化されていく時期となっています。北海道拓殖銀行も山一證券のような大会社もつぶれる時代です。多くの人がバブルの時には1000万を超える収入を得ていたとのことですが、職を失い家族は絶望のふちにたちつくしています。2000年前に、イエス・キリストが地上にこられたときもそうでした。父なる神とともにある天にある栄光の高みから地の底であるこの世界にこられました。王宮や皇室にではなく、貧しい大工の家にこられました。生まれられたのは病院や家ではありませんでした。ユダヤのベツレヘムの馬小屋のまぶねの中に寝かせられました。そうです。私たちの神さまは、私たちの世界の貧困に関心をいだいてくださっている方です。絶望のふちに、不安の只中に生きる私たちの心の中にいてくださる方なのです。それは私たちがキリストの貧しさを知ることにより、霊的に富むものとなるためです。
聖書のことば、「すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

11月26日こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。今日は宣教学こぼれ話Aということでお話させていただきます。今日の聖書の箇所は新約聖書ヨハネによる福音書12章24節です。「12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

みなさんは、宣教師にどのようなイメージをもつておられるでしょうか。キリスト教宣教の歴史は、宣教師の歴史でもあります。19世紀のイギリスからは多くの学生が宣教師となって中国やインドに向かいました。有名な話に「ケンブリッジ・セブン」という人たちがいます。イギリスのエリートの大学であるケンブリッジの7人の成績優秀な学生が宣教師となりました。イギリスにとどまれば、彼らにはすばらしく豊かな富と地位が保証されていましたのに、彼らは自分の未来の安楽な豊かさを一切犠牲にして、神さまの愛を、十字架のキリストの犠牲的愛を身を持ってあかししながら、宣教地で奉仕しました。エリック・リデルというイギリスの金メダルのオリンピック選手も中国宣教のさなか、日本軍に捕らえられ1945、監禁中に死亡しました。彼らの尊い犠牲を通して、今日の中国には家の教会中心に地下教会があり、数千万のクリスチャンがいると伝えられています。

11月19日こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。昨日は一宮基督教研究所で宣教学を教えさせていただきましたので、宣教学こぼれ話という感じでお話させていただきます。今日の聖書の箇所は、新約聖書ヨハネによる福音書3章16節です。「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神さまの愛のメッセージをたずさえて、19世紀には多くの宣教師が海外へでていきました。今日はアフリカ宣教のお話をしましょう。当時のアフリカには、首狩りの習慣、魔術、人を儀式の犠牲にしたり、人の肉を食べる習慣などがありました。宣教師たちは、人種差別や奴隷売買と戦いながら、聖書の福音をのべつたえていきました。多くの宣教師のいのちも失われました。それゆえ、アフリカは宣教の歴史において、「白人の墓場」とも呼ばれています。しかし、彼らの犠牲的奉仕の結果として、今日のアフリカは約半数近くがクリスチャンであるといわれています。政治や経済的な問題は山積みのアフリカではありますがかつて暗黒大陸と呼ばれたアフリカは、神さまの愛ときよさに満たされたクリスチャン大陸アフリカとされているのです。


11月12日こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。先週は人間の心の中の貧しさ、みじめさは人類共通のものだとお話しました。今日はもうひとつの面をみてまいりましょう。今日の聖書の箇所は、新約聖書エペソ人への手紙1章3節です。「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

人間は、心のうちの貧しさ、みじめさに気づかされるとともに、霊的な豊かさ、祝福を求めて生きています。フランスのバスカルという哲学者であり神学者は「パンセ」という本を書きました。その中心的なテーマは「神なき人生のみじめさ、悲惨さ。そして神とともにある人生のこの上もない祝福」です。中世の修道院の修道士や修道女もこの世の快楽から離れて、ただキリストとひとつとなることの中に、神さまからの豊かな霊的祝福の世界を見出していました。プロテスタントの宗教改革の意味のひとつは、世俗の社会から離れることなく、世俗の社会、普通の社会生活の中で、天にあるすべての霊的祝福を体験していこうとする改革でもあったのです。この祝福、イエス・キリストにおいてあなたのすぐ近くに、そして心のうちに提供されています。


 

10月8日 こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。先週から、聖書についてお話させていただいています。聖書を開きましょう。箇所はヨハネによる福音書1章18節です。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

聖書とは一体どのような書物なのでしょう。聖書は神の霊感によることばであると書かれています。ではその神のことばある聖書にはどのようなことが書いてあるのでしょうか。聖書にはまず神さまがどのようなお方であるのか、そして人間がどのような存在であるのか、そしてイエス・キリストのこと、教会のこと、そして最後に終末についての事柄が記されています。問題とされるのは、その内容の真実性です。一般に犯罪とかがあって真実と偽りが入り乱れますとき、その真偽は裁判の席で明らかにされます。よくいわれますように「すべての人は、法廷において自己証言の権利をもつ。」そして「特定の人に関する真相とか真実というものは、ある特定の人自らが口を開いて初めて明らかになる場合が多い。」そうです。聖書についてはいろいろなことが言われますが、聖書は人間の筆記者の手を通して、神御自身が自分はどのようなものであるかを自己証言されている書物なのです。あなたも聖書を通して神さまがどのような方であるかを知ってください。

 

10月1日 こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。秋となり朝夕だんだんと冷え込むようになってきました。今日は聖書とはどのような書物かについてお話しましょう。

聖書を開きましょう。箇所は新約聖書ルカによる福音書1章1節から4節です。
1:1 私たちの間ですでに確信されている出来事については、(V.2挿入)多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、1:2 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。1:4 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

聖書は旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻であわせて66巻の書物からできています。「さんくにじゅうしち」と覚えるとおぼえやすいのです。旧約聖書は紀元前1500年くらい前から書き始められ、新約聖書が書き終えられたのが紀元100年くらいです。1600年にわたって、約40人くらいで書き上げられました。多くの宗教の場合、教祖のあとの弟子たちがその宗教の存続のために、いろんな神話や奇跡物語を創作して団体の維持をはかるとのことですが、キリスト教は違います。まず、イエス・キリストについての十字架の事実があり、弟子たちがそれをかきとめたのです。ルカはクリスチャンであり、医者でした。ですから、その事実関係を正確に綿密に書き留めておこうとしたのです。その作業の上に神の霊が働いたと聖書は証言しているのです。聖書のことば「聖書はすべて神の霊感による」

9月17日こんにちは、山崎チャペルの安黒務です。最近の大きなニュースのひとつがインドにおけるマザーテレサの死です。

聖書を開きましょう。マタイ25章35,36節です。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

マザーテレサは、ユーゴスラビアのマケドニアの出身でした。幼稚園の園長でありました彼女は、神さまに示されて、この地上で最も貧しい人たちとともに生きるために、インドの貧民窟カルカッタに導かれました。彼女の生き方は私たちの人生観、価値観を再検討させずにはおきません。一般的に私たちの人生観とはどのようなものでしょう。それは常に豊かさを求める生き方ではないでしょうか。親は自分よりすばらしい学歴を子供に求めます。なぜなら、それが現在の自分の生活水準にまさった生活を保証するものと思われるからです。常に”より豊かに”と叫びつつ生きているのです。

これに反して、マザーテレサの生き方は、まったくこれに逆行するものです。貧しさのただ中に、苦しさのただ中に身をおいて”真の幸せ”を生きるものです。彼女は世界でもっとも貧しい人たちと同じ衣服を身に着け、同じ食べ物を食し、同じ地域に居住しました。このような生き方は、私たちの世界における考え方では、最も愚かな生き方、最も不幸な生き方です。

マザーテレサは、この世界の価値観に毒されることなく、通りに捨てられ息をひきとる間際の人を教会に運び、手を握り、ひとこと「あなたが生まれてきたことには、意味があり価値がありましたよ」と一言声をかけ、その最後を看取る奉仕に生涯をささげました。それは私たちの価値観の盲点を照らし出す聖書の価値観であり、キリストの精神です。

9月10日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。プライバシー保護法の制定、これがダイアナさんの悲劇の死の残したひとつの課題であるそうです。

聖書を開きましょう。ローマ人への手紙7章7節です。
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

新約聖書の27の書物のうちの13の手紙を書きしたたためたパウロというクリスチャンは、自分の心の内側の戦いについて語っています。神さまがモーセに与えられた十の戒めの最後の戒めが「むさぼってはならない」という命令です。パパラッチという特だね写真家が非難されています。またその写真を掲載する新聞や雑誌のモラルが問われています。しかしそれらの情報に群がり買い求める大衆にも責任の一端があるのではないでしょうか。

わたしは、これらの全体の構図の根源に「むさぼり」の罪の問題があると思います。「むさぼり」とは、一定の限界線を踏み越えて、なにかを手に入れようとすることです。最近ブームとなっている映画「失楽園」も性的なむさぼりがテーマのようです。しかし、聖書を通して神さまは警告されています。箴言20:17「 だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。」

 

9月3日こんにちわ、山崎チャペルの安黒務です。英会話クラスも夏休みを終えて9月より再開できること、またみなさんと再会できましたことを神さまに感謝したいと思います。

聖書を開きましょう。ルカによる福音書23章42,43節です。
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

先日、イギリスの元プリンセス、ダイアナさんが交通事故でなくなられました。シンデレラ物語のような世紀の結婚式、夫チャールズの不倫、自殺未遂、マスコミによるスキャンダル合戦、離婚、そして新しい恋人アルファイド氏との交際、そしてパパラッチ(やぶ蚊)という意味のカメラマンによる執拗な追跡の中での交通事故で亡くなられました。私の心にとまったふたつの記事は、「ふたりの王子は悲報を聞いて泣き崩れた」という記事とイギリス人のインタビューで「あのふたりは天国では一緒になれるでしょう」ということばでした。

私たちの世界でのもっとも悲惨な出来事は何でしょう。それは勉強のできないことや貧しさや病気などではありません。それは死です。それによって愛する者が永遠に引き離されてしまうことです。しかし、聖書を通してイエス・キリストは明確に約束されています。いまや十字架上で死のうとしている犯罪者に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。聖書は死はパラダイス、天国への入り口だと言っているのです。死において引き裂かれた者は天国において再会できるのです。クリスチャンのお葬式には悲しみの只中に再会の希望が満ち溢れています。

  

 
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