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英会話クラス
チャペル・タイム

1998年度1,2,3月版
 


私がイエス・キリストを信じましたのは、19歳のクリスマスのときでした。最初は、中学か高校の社会の先生になって、その学校で聖書研究同好会のようなクラブをつくって、ひとりのクリスチャンとして、キリスト教信仰を多くの人に知ってもらえたらと思っていました。そのようなこともあり、短期間小学校の臨時教師として働きました。全教科を教える生活は毎日が受験勉強のような生活でした。正式採用の通知がきましたときに、自分の生涯の仕事は何なのかについて悩みました。勉強することと教えることが好きでした。ただ、何を勉強し何を教えるのか、が問題でした。私の教えるべきは、算数や国語や社会ではなく、聖書であり、神学であることを悟りました。やがて聖書学校へ行き、牧師となり、7年間大阪の岬福音教会で奉仕させていただきました。さらに勉強がしたくて、東京キリスト教学園の共立基督教研究所で3年間神学を学びました。今、両親のガソソリン・スタンドを手伝いながら、一宮基督教研究所で組識神学と比較宗教学を教えています。神さまの霊が私たちを満たしますときに、私たちの個性を支配します。この個性こそが私たちが私たちの人生において果たすべき貢献の部分なのです。私は、日夜神学教育のための準備をしています。それこそが私の生きていることの証しなのですから。神さまが私たちひとりひとりに望んでおられることを探りつつ前進していきたいと思います。

 

 

 「窮鼠、猫をかむ。」ということばがありますが、最近のナイフの事件をみますと、いじめられていた生徒がいじめていた生徒に切りかかるという姿をみせられます。おそろしいことです。弁護するわけではありませんが、いじめる生徒もいじられる生徒もともに被害者のような気もするのです。良好な人間関係をつくることができない人は、それ以前に自分自身との関係において傷つき受け入れることができないでいる場合が多いようです。聖書では「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」とあります。しかし本当の意味で自分自身を愛するようになるためには、神さまが私たち自身を愛してくださっていることを知らされる必要があります。私たちは自分たちの心の内側には「ジキル博士とハイド氏」のような醜い部分ときれいな部分があります。私たちは自分自身の醜い部分を自分自身で受け入れることができずに、苦しんでいるのです。しかし、神さまは私たち以上に私たちの心の奥底までも知った上で、イエス・キリストの十字架を通して私たちへの愛を表してくださっているのです。イエス・キリストの十字架において示されている愛を知るときに私たちは心の底から自分自身を愛し受け入れることができるようになるのです。私たちが自分自身を受け入れることができますときに、私たちはまわりの人たちをも受け入れることができるようになるのです。

 

 

 

長野オリンピックのラージヒルでのジャンプで日本チームが金メダルをとりました。感動的なシーンでした。特に原田選手は一回目は失敗ジャンプでした。しかし二回目は大きなジャンプを成功させ、金メダルと決まったときは泣きじゃくっていました。喜びのあまりことばにならない感じでした。私たちみんなに大きなドラマをみせてくれました。聖書をみますと、神さまから与えられた私たちひとりひとりの人生もドラマであることを教えられます。人間の世界では注目される人はごく一部の人たちです。さらにメダルを手にする人はさらに少数の人たちにすぎません。しかし、神さまの前では私たちひとりひとりが主人公であるドラマを展開しているのです。そして、神さまは私たちが与えられた人生をどのように生きたかにおいて栄冠をメダルを与えてくださるのです。だれもその対象からもれることはありません。聖書のことばに励まされて私たちも「目標を目指して一心に走ろう」ではありませんか。

 

昨日、テレビで神戸の中学生殺人事件の供述調書がもれて、雑誌に掲載されたとのことです。もれてはいけない書類ではありますが、ひとつ教えられるところがありました。その犯罪をおかした中学生にとって大きな分岐点となったのは、小学生を殺害したときだったとのことです。「越えてはならない人の道を越えた」とありました。そのときに彼は人間が変わってしまいました。彼が内に住む罪を支配するのではなく、罪が彼を支配することとなりました。ただ単に神さまの戒めを踏み越えて違反しただけでなく、むしろ神さまとの間の限界を踏み越えたのです。サーカスで、鞭ひとつでライオンを支配する人をみたことがあります。すごいことです。しかし、ときには油断があだとなってライオンに襲われ大怪我をしたりかみ殺されたりもします。最近は「切れる」中学生が多くなってたいるようです。しかしそれは危険なことと知らなければなりません。聖書のことば「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

最近、ナイフによる事件が学校などで頻発しています。ごく普通の少年とみられていた生徒がとつぜん凶悪な犯罪者となるのです。一体なにが社会や学校に起こっているのでしょうか。今後多くの研究や分析がなされていくと思います。私たちが聖書を開きますと、「人を殺してはならない。」と記されています。しかし聖書は殺人が凶悪な犯罪であるというだけでなく、心の中に殺意や怒り、憎しみをもつことも罪であることを教えています。殺人を犯し、警察のやっかいになる人は多くはないでしょう。しかし、心の中に殺意をいだいたり、怒り憎しみをもつことはすべての人に心当たりのあることではないでしょうか。聖書によれば、人間は罪を犯すことによって罪人になるのではなく、人間は罪人であるからこそ罪を犯すものであると教えているのです。聖書における救い、イエス・キリストへの信仰による救いは、犯した大小の罪の行為を赦すのみならず、私たちの心の中に潜む罪深い性質を直視し、その性質からの解放をも提供するものです。内面に潜む罪の性質に悩む多くの青少年がそのような意味でイエス・キリストとの出会いを体験することを願います。聖書のことば、「8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 

今日の世界のいろいろな学問とはいったいどのようなものでしょうか。それは大きな森の木々の一本一本のようです。木々の太さ、高さは正確に測ることができます。それらは算数であり、国語であり、社会であり、理科であります。しかし、森の外の世界ことは人間の手のみでは理解することはできません。「人間は何のために生まれてきたのか。」「人間はどのように生きるべきなのか。」そして「人間は死後どこへ行くのか。」という問いには学問には答えることができません。そのような根本的な問いには、この世界を作られた神さまが、聖書を通して語っておられるのです。聖書において、人間は神のかたちに似せてつくられました。人間は地のちりからつくられ、神からいのちの息を吹き込まれていのちと人格をもつものとされました。人間はのちに神さまから離れ罪の中に陥りました。しかし神さまは御子イエス・キリストを十字架につけることにおいて、私たちの罪を赦し、私たちのうちに失われていた神のかたちを回復してくださるのです。聖書を開き、イエス・キリストに目をとめることによって、私たちは「人間について」の根本的な問いかけに答えを得ることができます。聖書のことば、「「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 

人間とは一体何者なのでしょうか。ある人は「人間はその食べるところのものである。」と語りました。またある人は「人間は多くいる動物の頂点にいる動物にすぎない」といい、また別の人は「人間は衝動や感情に導かれる存在である」といいました。では人間とは一体何者なのでしょうか。人間は一体なんのために生きているのでしょうか。聖書によれば、人間は神さまによって造られた存在です。神さまが愛の対象として造られた存在なのです。みなさん、造られたものは造った人との関係の中で意味をもつことがお分かりでしょうか。椅子もそうです。人間が座ってこそ意味をもちます。時計もそうです。人間が時間を気にかけるからこそ意味をもちます。造られたあらゆるものが、造った方との関係ではじめて意味を見出すのです。私たち人間の存在の意味は、人間が人間として輝いて生きる生き方は、私たちと私たちの世界を創造された神さまとの交わりの中ではじめて分かるのです。聖書のことば、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 

1998年度は、経済的に好調なアメリカに反して、東南アジアや韓国、日本の経済は大変苦しい年になりそうです。そのような年に私たちはいったいどのように歩んでいけばよいのでしょうか。あるとき、宣教師の先生から聞いた話があります。「ある人が神さまから与えられた十字架に不満を訴えたそうです。『神さまわたしにはこの十字架はあわないと思います。もっとあの人のように立派な十字架を与えてください。』と。そこで神さまはいろんな十字架がいっぱい置いてある大きな倉庫にその人をつれていって、『どれでも好きな十字架を背負って行きなさい。』と言われました。その人は大喜びでいろんな十字架を背負ってみました。非常に立派な大きな十字架を背負うとあまりに重くてつぶれてしまいそうになりました。そこで小さなかわいい十字架を選びました。しかしそれはあまりに軽くてはりあいがありませんでした。いろいろとたくさんの十字架をためしてみて、ついに見つけました。『神さま、これはわたしにぴったりの十字架です。』と喜んで背負って家に帰りました。その十字架はその人が背負ってきた最初の十字架であったとのことです。」つまり、神さまはひとりひとりにそれぞれにふさわしい十字架を与えておられます。私たちはその十字架をしっかりと背負って黙々と歩み続けるべきなのです。聖書のことば、だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」  

 

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