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H日本福音教会あれこれ(安黒試論)

義認と聖霊のバプテスマ

―概念整理の枠組み―

17/06/03


このファィルは、KBIニュースの原稿として最初に書き上げたものであったが、扱いの領域が少し狭いと感じたので前のページの「組織神学の視点からみたKBIの流れ」と差し替えたのである。D.ワトソンの箇所は、十数年前に岬福音教会25周年記念誌に掲載させていただいた論文の一部である。最近のKBIの組織神学の講義において、「救いの諸概念」の章でH.キュンクについての言及を分かち合ったときに、D.ワトソンのことを思い起こした。神学論争の構図を描き出すための類比として興味深かったので、この機会に原稿にまとめてみたのである。論争自体は少し古いと思うのであるが、概念整理の枠組みの視点は新鮮だと思う。埋もれさせるには惜しい原稿なので、ここに掲載させていただくことにした。

1.今日のカトリック神学の動向

  エリクソンの組識神学のテキストに「今日のカトリック神学」の動向についての記述がある。「救いの性質に関して教会内における議論が存在する。古典的プロテスタントの義認に対するより開かれたものが存在する。この点に関して、カトリックの神学者ハンス・キュンクのカール・バルトの神学についての研究は特に重要である。過去において、カトリック主義はプロテスタントが義認と聖化と呼んできたものを「義化する恵み」というひとつの概念の中に融合させてきた。しかしながらキュンクは義認の客観的側面と主観的側面について語る。前者はプロテスタントが通常、義認として言及するものと一致する。後者はおおよそプロテスタントが通常、聖化と呼んでいるものと一致する。キュンクは、トレントの公会議が後者を強調したのに対して、バルトは前者を強調していると考察している。それゆえ、バルトとトレントの間には軋轢は存在しないのである。」 キュンクの指摘は、プロテスタントの宗教改革とカトリックの反宗教改革闘争における「義認論争」の誤解されている概念の整理の必要性である。わたしはこれと同じことがカリスマとアンチ・カリスマの「聖霊のバプテスマ」の論争に関していえると思う。

2.「端緒」と「満たされる」−両方の意味

英国聖公会の著名なカリスマの指導者デビッド・ワトソンは「@すべてのクリスチャンは『全クリスチャンが聖霊を所有している』ということに賛同する。Aすべてのクリスチャンは、『必ずしも、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされているわけではない。』ということに賛同する。B全てのクリスチャンが『聖霊のバプテスマ』という表現に賛同しているわけではない。しかし、正しい観点をもっいるものであるなら、互いにもう一方の立場を認め合うことができる。C『バプテスマ』という用語は、疑いなく、クリスチャン生活の端緒に結びつけられている。少なくともその意味において、全てのクリスチャンはすでに聖霊のバプテスマを受けている。それは持てる者と持たない者の問題ではない。私たちがキリストにあるや否や、私たちはすべてものを所有している。少なくとも潜在力において。D『バプテスマ』とか、『バプテスマを受ける』という用語は、豊かな表現である。『バプテスマを受ける』という言葉は『端緒となる』という意味と、『満たされる』という意味の両方で話されている。前者は客観的立場についての説明であり、後者は主観的経験についての説明である。混乱は、一方が他方の損失において強調されるときに生じる。たとえば、クリスチャン生活の端緒から全く別個の経験として聖霊の満たしが考えられる場合に混乱が起こる。ただ経験的には必ずしも一つではないけれども、理論上また潜在的には一つである。他方で聖霊の満たしは全く経験されていないのに、クリスチャンはキリストへのバプテスマを受けることによって『そのすべてを得た』と強調される場合に起こる。E最後の分析において、最も大切なものは聖霊の愛の力と臨在であって用語ではないということである。

3.聖霊の満たしと力の目的

もちろん、聖書的な言葉や用語の使用において不注意であってよいといっているのではない。今はこのことを棚上げにしておこう。というのは、私たちが用語上の論争(これは第一の重要度のものではなく、第二のものである)をして、(第一のものを見失って)凌ぎを削っているという非常に大きな過ちをおかしているからである。そして聖霊が私たちの態度の全体を悲しんでおられるという状況があるからである。私たちは間違った態度でいとも簡単に正しい用語をもつかもしれない。しかし、そのとき聖霊は彼が欲するようには私たちを通して働いてくださらないのである。聖霊の満たしと力の目的の全体は、イエスのための大胆で効果的な証人となることである。」 霊的生活の貧困はなぜなのかいうクリスチャン生活の問題、また開拓伝道、教会形成、神学教育の三要素を整合したバランスの上になされる世界宣教の強力な推進という力の源はどこにあるのかという宣教上の課題と取り組むことなしになされる用語上の論争ほど無意味なものはない。また逆にその部分に真剣に取り組まれてなされる用語上の議論は教派間で盲点となっている部分に光をあててくれるという点で有益である。

4.概念整理の枠組み

ハンス・キュンクの客観的立場と主観的経験の概念の整理がプロテスタントとカトリックの「義認論争」において開放的な地平を切り開いているように、デビッド・ワトソンの客観的立場と主観的経験の概念の整理もまたカリスマとアンチ・カリスマの「聖霊のバプテスマ論争」における概念整理のためのフレーム・ワーク(枠組み)を提供している。