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J日本福音教会あれこれ(安黒試論)

あるべき福音理解は、「契約主義的」福音理解なのか、「ディスペンーション主義的」福音理解なのか?

17/06/03


 Q:「JECは、契約主義的福音理解なのか、ディスペンーション主義的福音理解なのか?」

 この問いは、JEC牧師会で発せられた問いではない。しかし、現在問われている問いではある。JEC牧師会での問いは、わたしが「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムが内包する問題点について言及し、JECがそれらの影響を受け、それらの教えに傾き、それらの色に染められていくとしたら、二千年間キリスト教の歴史のど真ん中を歩んできたスウェーデンバプテスト系諸教会を基盤とするオレブロ・ミッション(現在、インターアクト)の先輩方に申し訳ない。またそのような福音理解の中に養ってきてくださったスンベリ師・我喜屋師・高橋師等に申し訳ない」と言及したことに対して、M師より「安黒先生の福音理解が、スンベリ師・我喜屋師・高橋師と一緒であったかどうか、ということは分かりませんよ」という意味深な問いであった。

 この問いは、わたしがディスペンセーション主義聖書解釈が内包する課題とその教会観・終末論を取り扱いはじめたときから、わたしの「福音理解」に投げかけられ続けた問いであったように振り返る。確かに、この問いにはひとつの妥当性がある。わたしの福音理解、それは福音派の中心に位置する、聖書神学部門ではG.E.ラッド、歴史神学部門では宇田進、組織神学部門ではM.J.エリクソン等にならうものである。それらは、スンベリ師も、我喜屋師も、高橋師も教えられていない著者であり、著書である。その意味で、M師の指摘は正しい。

■スンベリ師の福音理解のあり方

 スンベリ師は、E.ザウアー著『世界の救いの黎明』を教えられた。特に、創世記の1-3章の教えは見事であった。スンベリ師は神学者ではなかったが、聖書神学の根本を深く教えてくださった。ザウアーはドイツのディスペンセーション主義神学の流れに属する神学者である。しかし、わたしはザウアーのこの著作の教えとベテル聖書研究との対比をしつつ、KBIの卒業論文レポートを書いたのであるが、その時はザウアーがその立場であることは気がつかなかった。

 その理由が最近分かった。ディスペンセーション主義の立場の神学校である「池田市にある、福音聖書神学校」の前校長の真鍋師によれば、ザウアーの立場は“漸進主義”ディスペンセーション主義であるとのことである。J.N.ダービーのディスペンセーション主義➡古典的ディスペンセーション主義➡修正ディスペンセーション主義➡「漸進主義ディスペンセーション主義」と変遷してきた“漸進主義ディスペンセーション主義”は、G.E.ラッドの理解と同様、「神のひとつの民、神のひとつの計画」にきわめて隣接した理解である。

 それで、理解できた。わたしは、ザウアーの名著『世界の救いの黎明』を通して、ラッドの“漸進主義”的な理解を学んだのである。スンベリ師が、どれくらいそのあたりの事柄を理解して教えておられたのかは、今となってはすべて理解することは困難である。しかし、KBI卒業後、三年間「スンベリ師直属の助手」として残されたわたしは、スンベリの間近で、多くの事を教えていただいた。その中に、今テーマに関するヒントを多く思い起こす。それらのすべてを書き記すことは不可能であるが、幾つかを落穂拾いのように集めてみたい。

 スンベリ師は、創世記1-3章をザウアーのテキストを使って教えられた。そこには、「神・罪・救い」という聖書に啓示されている福音主義神学の基盤が記されている。

 わたしは、最初『旧新約聖書研究ベテル』を教えるように導かれ、次にM.テニイ著『新約聖書概観』も良い本だから教えるように導かれた。その時に、ザウアー著『十字架の勝利』(新約版)はどうでしょうかと尋ねた時、「あれは、もうひとつ良くない」と言われた。その時は、深い理由は良く分からなかった。

 「組織神学書」については、ルイス・ベルコフ著“Systematic Theology”が大変すぐれていると、わたしに推奨されたことを覚えている。ベルコフは、改革派の優れた神学者であり、「旧約➡新約」の連続性・漸進性。有機的一体性を教えている。旧約の“影”から新約を再解釈するディスペンセーション主義聖書解釈とは異なり、新約の“十字架と聖霊”の光から旧約を再解釈している。

 私たちが神学生の時に、「趙ヨンギ師が鳥羽の聖会に来られるから…」ということで、我喜屋師の広い交際範囲からKBI神学生も参加することとなった。その時に、ケビン・カナー師のメッセージもあった。スンベリ師は、帰校後、神学生を集めて「ケビン・カナー師の教えの誤りに気がつきましたか?」と質問され、「わたしは、著ヨンギ師にケビン・カナー師を韓国の教会に招かないように…と、手紙を書きました」と言われた。鳥羽の聖会の歴史を見ると、レストレーション系の諸教会が中心となって、米国等を中心にレストレーション系の教会の指導者が多く招かれていることに気づかされる。

 この後、JEC諸教会の教職者は、人間関係の交流の輪が広がり、これまであまり親交のなかったレストレーション系の諸教会の先生方との交流、また鳥羽の聖会等への継続的参加を通して、陰に陽にレストレーションの教えと実践の影響はJECまたKBIの中に広がっていくことになる。

 ここ数年、KBIの先方の交際範囲の関係者の中から、ディスペンセーション主義聖書解釈の唱道者の先生方のKBIでの講義や講演、また大阪でのセミナー開催へのKBIまたJEC関係者の参加が盛んとなっていった。わたしは、これらの動向に対しこれまで、それほど心配はしていなかったが、近年の状況の中で、これらの全体の流れと影響の良し悪しについて検討が必要な時期にきたのではないかと考えている。

 「わたしたちJECは、本来、一体、どのようなルーツとアイデンティティを有する群れなのか」ということを根源的に問い直す“分岐点”に差し掛かったということではないかと思うのである。

 これを問い直すときに、私たちの「福音理解」のルーツであるスウェーデン・バプテスト系諸教会の福音理解とは一体どのような゜ものであったのか。私たちの母校KBIを命がけで導いてくださったモーセのような指導者フレッド・スンベリ師は、どのような「福音理解」を保持しておられたのか。これをいろんな角度から思い返し、掘り起し、それらを継承・深化・発展させることが求められている時期ではないだろうか。

 これらの事こそ、JEC牧師会、拡大教職者会、一泊牧師会、聖会、婦人研修会、中高校生キャンプ、ユース・キャンプ等で探究されるべきテーマまた内容ではないのだろうか。次の世代の若きリーダーたちがそのような課題に取り組んでくれることを期待している。そのような夢を見る毎日である。

■我喜屋光雄師の福音理解のあり方

Q:「我喜屋光雄師の福音理解は、契約主義的福音理解であったのか、ディスペンーション主義的福音理解であったのか?」

 そのあたりについては、我喜屋光雄師も明確には語っておられない。それでは、どちらの福音理解でも大丈夫ということなのだろうか。そのように考えるのは正しいことなのだろうか。

 我喜屋光雄師の福音理解の中心部分は、「十字架と聖霊」の神学であり、それはパウロ神学に根差すものである。この福音理解は上記の二つの福音理解とどのような関係にあるのだろうか。これを理解するために、『福音主義神学 45号』誌の拙論「福音主義イスラエル論」から、このテーマを誠実に取り扱っている信頼できる神学者たちの言葉を引用することにする。 

 パーマー・ロバートソンは、神の諸目的のこの啓示の漸進性について「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ、…かつて神の贖罪的働きの特別な局所的なものであった土地は、今、新しい契約の成就の時代において、土地は宇宙を含むものに拡大されてきた。…それゆえ、成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」[1]と述べている。

 我喜屋光雄師の福音理解は、契約主義的福音理解であったのか、ディスペンーション主義的福音理解であったのか」という問いに答えるためには、それぞれの福音理解の内容の輪郭と本質が明らかにされなければならない。わたしたちの団体の牧師会での議論を聞いていると、そのあたりの内容の検討がなされずに、宣教協力、神学校運営協力等の実際的な協力の必要性から、聖会、集会等への協力参加がなされ、次第に両者の福音理解の輪郭も本質もあいまいなものとされてきたように思われる。

 わたしの捉え方では、「我喜屋光雄師の福音理解」は我喜屋光雄師本人はあまり自覚されていなかったかもしれないが、神学的には、スウェーデン・バプテスト諸教会に流れている「使徒的福音理解」「古代教会の正統信仰」「宗教改革の三大原理」「英国のピューリタンから派生した会衆派ピューリタン➡バプテスト」の流れの中にあり、その福音理解は、パウロ神学であり、十字架と聖霊の福音である。そしてこのパウロの福音理解は、パーマー・ロバートソンが指摘している通り、「神の啓示の漸進性」を認めるものであり、「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ」てきたものである。それゆえ、「成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」のであり、我喜屋光雄師のパウロ書簡講義、十字架と聖霊の福音は、神学的にいえば「古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退」また「実体が影に道を譲る」ディスペンーション主義的福音理解とは、異なる福音理解であると言えるように思われる。

Q: 「スウェーデン・バプテスト諸教会の福音理解は、契約主義的福音理解であったのか、ディスペンーション主義的福音理解であったのか?」

 歴史的・大局的に、スウェーデン・バプテスト諸教会の福音理解が、契約主義的福音理解であり、ディスペンーション主義的福音理解ではなかったことは明らかである。

 スウェーデン・バプテスト諸教会の米国での働きの実として、バプテスト・ジェネラル・カンファランスという教派が存在する。その群れの神学校に、ベテル神学校がある。わたしの翻訳した『キリスト教神学』の著者M.J.エリクソンもその神学校の教師であった。その神学校の教師のひとりに、C.B.バスがいる。J.N.ダービーに発する「ディスペンセーション主義の起源」についての研究の第一人者である。バスが、スウェーデン・バプスト系神学者として、ディスペンセーション主義をどのように見ているのか、下記に紹介する。

 「結びの言葉」by C.B. Bass “Background to Dispensationalism”
この本の命題は「ディスペンセーション主義は教会の歴史的信仰の一部分ではない。ディスペンセーション主義が定式化される以前に18世紀間に渡って歴史的千年王国前再臨説の聖書解釈が存在してきたのだから、ディスペンセーション主義は唯一の千年王国前再臨説の見解ではない。そして、ディスペンセーション主義は聖書解釈において誤った解釈学の原理を基盤としている」というものである。わたしはこれらの命題を立証しえたかどうか、読者の判断に委ねたい。
 しかしながら、整理が必要とされるもう別の局面が存在する。ディスペンセーション主義聖書解釈法に内在する幾つもの極端な要素にもかかわらず、ディスペンセーション主義の聖書解釈は、「イエスが再臨の日には人格的に、文字通り、目に見えるかたちで地上に戻って来られる」という真理をきわめて明確に系統立てて説いている。歴史的千年王国前再臨説も同じく、無千年王国説もまた同様である。それらの諸説は教会の祝福された望みを取り巻いている出来事の時間的な順序で意見を異にしている。しかし、これら三つの諸説はみな、新約聖書著者たちもまた共有している「キリストが再臨される」という最も重要な強調点を共有している。
 この真理の中枢を共有しつつ、これら三つの諸説の信奉者のすべては、愛と忍耐の交わりを保つことができる。終末論の解釈に関して意見を異にするかもしれない、そして真の聖書解釈の原理を見出すために賢明に議論すべきである。しかし交わりの試金石としてはならない。
 わたしは、それらの解釈においてわたしのディスペンセーション主義の兄弟たちとかなり意見を異にしている。しかし彼らがディスペンセーション主義の捉え方を信奉する権利を擁護したい。わたしはディスペンセーション主義が誤った聖書解釈であると受けとめている。しかしわたしと意見が一致しないからといってだれとも関係を断つつもりはない。わたしは同じ忍耐をこれらの問題に関して意見が一致しない人々にも与えられることを願っている。
 愛において交わりを保ちつつ、わたしはディスペンセーション主義が歴史的信仰からの逸脱であり、聖書解釈における誤った方法に基づいていると強く確信している。それゆえ、わたしはきわめて大胆にも、もしわたしがわたしの命題を立証しえたなら、わたしもまたそうしなければならなかったのと同様、多くのディスペンセーション主義者が徹底して考え抜き彼らの終末論の思想体系に対して新しい評価を下すに至るであろうことを期待しているのである。

 わたしが、JECの福音理解について言及すると、JECの理事会や牧師会で一部の人たちは「安黒先生に、JECの立場を代表して語る資格があるのか」というような懸念が示されることがある。この懸念に対して、わたしは「そのような懸念を抱く方」に対して懸念を示したい。わたしの見立てによれば、JECは、「その名」の通り、福音主義のど真ん中の「福音理解」に立つ群れである。その群れが、ここ五十年間の経緯や宣教協力関係、神学校協力運営協力等で、ディスペンセーション主義聖書解釈・教会論・終末論の誤った影響を受けてきた。そして、近年、その傾向にさらに拍車がかかってきている。この時期に、理事等の立場は与えられていないとはいえ、「和を持って貴しとなす」という具合にして“沈黙”を守り、JECとその関係者がその方向に傾斜していくことになれば、カリスマ的経験にオープンなスタンスを取っているとはいえ、福音派の本流の福音理解を、スウェーデン・バプテスト系オレブロ・ミッション宣教師から伝えられ、塩屋で学ばれたJEC第一世代の教職者が受け継いで来られた「福音理解」を、わたしたちは「継承・深化・発展」させていかなければならないと思うのである。わたしは、そのような文脈理解をもっているので、エステルではないが、このような文脈において「沈黙」を守ることは、宣教師に対しても、第一世代の教職者の先生方に対しても、JECの群れの全会衆に対しても、「背信行為」になると考えているのである。

 「ディスペンセーション主義聖書解釈・教会論・終末論」の問題を幾つかの視点から扱ったICI資料は、多くあるので参考にしていただけたら幸いである。

■高橋昭市師の福音理解のあり方

 高橋師から教えられた科目のひとつは、「組織神学」であった。テキストにはヘンリー・シーセン著『組織神学』が使用されていた。高橋師は、KBI第一期生として学ばれた後、スンベリ師を助けつつ、神戸改革派神学校で学ばれ、後に聖書神学舎にて一年間内地留学して学ばれた。オレブロ神学校、またスンベリ師の米国での学び、JEC第一世代の教職者の塩屋での学び、そして高橋師の内地留学等の経験が生かされ、KBIのカリキュラムは整えられてきたものと思う。

 ペンテコステ・カリスマ系の短期コース的なカリキュラム、またきわめてトピカルな科目、また実践中心の科目構成等と異なり、KBIのカリキュラムは、結構バランスのとれた科目構成で推移してきたように思われる。そのひとつが、その時期に、多くの福音派神学校で使用されていたテキストであるヘンリー・シーセン著『組織神学』が使用されたことが、JECまたKBIが福音派の主流派が共通して保持する福音理解に留まり得た大切な要素になったように思われる。

 というのは、パプテストの神学者シーセンは、ディスペンセーション系の神学者に分類されるのであるが、「穏健ディスペンセーション主義」と分類され、ディスペンセーション系の影響は幾つか見られるのあるが、根っからのディスペンセーション主義者ではないといえる。宇田進師もそのように分類されている。根っからのディスペンセーション主義者というのは、やはりJ.N.ダービーのブレザレンの教えに発するダラス神学校系列の古典的ディスペンセーション主義者のウォルブードや改訂ディスペンセーション主義者ディスペンセーション主義者のライリー等があげられるところである。

 その意味で、高橋師がKBIにおいて『組織神学』を担当され、そのテキストに当時の福音派共通テキストであるヘンリー・シーセンを使用されたことの功績は大きいと思う。これが、もし強烈なディスペンセーション主義者の先生が古典的ディスペンセーション主義者のウォルブードや改訂ディスペンセーション主義者ディスペンセーション主義者のライリーのテキストを使用して、KBIで講義されていたら、KBIは福音派の中の、ある意味“異分子”のようにみられ、扱われたことであろうと思う。

 シーセンのテキストは、シーセンの死後に息子さんが講義資料等を収集し編集されたものであり、網羅的な構成で、シーセン自身から発せられる明確なメッセージや福音理解はあまり聞き取れないものになっている。その意味で、現在わたしが翻訳し使用しているM.J.エリクソン著『キリスト教神学』は、聖書適格性的・正統的公同性・今日的適用性・学問的革新性という四つの要素を宿した画期的な組織神学書である。同時に、JECと同じルーツとアイデンティティの中にあるスウェーデン・バプテスト系の神学者であり、その福音理解は、JECの福音理解そのものである。

 さらに追記すれば、高橋師は、「組織神学」の科目をわたしに任してくださった後、聖書神学に学びの視野を広げられ、G.Vosの『聖書神学』を教えられた。G.Vosの聖書神学は、福音派の聖書神学の基本構成理解をよくまとめたものであり、その継承はG.E.ラッドの著作集によくあらわされている。このG.E.ラッドは、キリスト教会の中に蔓延する「ディスペンセーション主義聖書解釈・教会論・終末論」の払拭のために人生をささげたフラー神学校の新約聖書神学の教授である。ここからみても、高橋昭市師の福音理解の位置がみえてくるのできないかと思うのである。

 このように、スンベリ師、我喜屋光雄師、高橋昭市師の福音理解におけるポイントを眺めるときに、これらの先生方が指し示してくださった方向に私たちは進むべき道があると思うのである。そして、それは「ディスペンセーション主義者の道」ではなく、福音派が共通して進んでいる「契約的神学の道」であると思うのである。それらの道を継承し、深化させ、発展させることこそ、私たちJEC第二世代、第三世代に課せられた責任であると思うのである。私たちがこの道筋に沿って進む限り、JECは保守的福音派とカリスマ的福音派の両サイトから尊敬と評価を受けることができると思うのである。



[1] O.Palmer Robertson, ‘A New-Covenant Perspective on the Land’, in Johnston and Walker (eds.), Land of Promise (Leicester: Apollos, 2000), p.140.