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L日本福音教会あれこれ(安黒試論)
「ダビデの幕屋」の教えとの関係について
17/06/03
近年、KBIを会場として、「ディスペンセーション主義聖書解釈・教会論・終末論」関係、「レストレーション運動」関係、「ダビデの幕屋」関係、「キリスト教シオニズム」関係の集会が開催されるようになってきた。講義に行った時に、神学生から「ダビデの幕屋とか、祈りの塔とか、あれは一体どのような教えと実践の運動なのでしょうか?私たちはどのようにそれを受けとめれば良いのでしょうか?」といった質問を受けるようになった。それで、本格的な解答を書き記す前段階として、いろいろと下調べしていったメモを紹介したい(このメモは、2010年四月のICI日誌に畏掲載したものである)。上記の課題に関する本格的で、包括的な取り扱いは、『福音主義神学 45号』誌を読んでいただきたい。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート L
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昨日、注文していたトム・ヘス、他著『ダビデの幕屋の回復(Restration of the Tabanacle of David)』が届いた。十人の講師による「ダビデの幕屋の回復」に関する論稿やメッセージを収録した編集書籍である。この五月に、KBIで『祈りの祭典』と題して、二泊三日の聖会が開催される。神学生からこの集会に関して質問を受けたので、おおまかな返答をしておいた。そして、また調べた上で正確なコメントをしたいと返事をしておいた。それで、関連書籍を集めている次第である。この書籍を一読して、『ダビデの幕屋の回復』というテーマは、アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈の問題であることが分かった。十人の論稿、またメッセージに目を通した。十人十色とまではいかないが、結構、幅のある理解が提示されているように感じた。特に、一章のトム・ヘス師と二章のアブネル・ボスキー師の立場にはかなりの相違があるように思われる。トム・ヘス師は、「ダビデは契約の箱を取り戻し、エルサレムの自分の宮殿の裏庭に安置した。そこでは礼拝ととりなしが、一日24時間、一週に7日間、神の御座のもとに昇りはじめていた」と記し、そこを起点として「24時間の礼拝ととりなし」の運動を展開しておられる。トム・ヘス師のこの運動を評価するためには、「アモス9:11-15と使徒15:12-20」の聖書解釈を包括的な視点から分析・評価することが大切と思う。
いのちのことば社の新聖書注解・新約2の「使徒の働き」には、この箇所の解釈を「この救いの計画の事実を、ヤコブはアモス9:11-12から引用して説明する。この引用も70人訳によっているので、ヘブル語本文と若干異なっている。あるいは、この教会会議はギリシャ語でなされたのかもしれない。ヘブル語本文は、ダビデ王家が、滅亡した繁栄を回復し、ダビデ王国に属していた領土をことごとく統治するということを語っている。しかしヤコブは、ダビデの幕屋の再建を、ダビデの子キリストの復活、およびキリストの弟子による新しいイスラエルによって成就されたとしている。さらに、残りの民が主を求めることは、信仰を持つユダヤ人だけではなく、信仰を持つ異邦人が存在することによって成就されたという意味において引用している。このように、異邦人も神の民の一員になることは、旧約時代から明らかにされていた神のご計画であった」とある。信頼できる注解書から、この聖書箇所の背景、文脈を理解し、その中で意味されていることは何かを特定することが、健全な聖書解釈の第一歩である。
「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」を取り扱った神学書を求めて、書斎にある神学書を時間をかけて探してみたが、以前扱った「セカンド・チャンス」、「霊の戦い」、「ディスペンセーション主義」等の諸問題でみられたように、この聖書箇所とテーマで取り扱った資料や文献はなかなか見つからなかった。大きな神学的問題、また大きな勢力を構成する運動になっていないのか、とも思った。そうであったとしても、これらの箇所の聖書解釈のあり方をきちんと押さえて置くことは重要であるゆえ、書斎を再度探してみた。そのような中で、使徒行伝を専門的に扱った聖書神学書のひとつ、J.D.G.Dunn“Beginning from Jerusalem”、1345ページの大著があった。この著作の中で「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」が扱われていて教えられた。その記述の中に、R.Bauckham“The Book of Acts in Its First-Cetury Setting, Vol.4, : The Book of Acts in Its Palestine Setting. Ed, R.bauckham”への言及があり、「ボウカムは、アモスの預言は異邦の諸民族の終末論的回心をメシヤ時代における神殿の回復と関係づけている諸預言の脈絡において読まれており、“ダビデの幕屋の再建”は終末論的神殿としてのエルサレムの共同体への言及としてみられていたであろう、と正しく主張している」と書き記している。ボウカムといえば、昨年「ディスペンセーション問題」でラッドと岡山師とボウカムをよく学んだ。今日、ボウカムの上記の本も注文した。また、届いたら、関連箇所を翻訳して紹介したい。
レストレーション・ムーブメントの上記のポイントの聖書解釈における課題は、かなり明白に理解できるようになってきた。これからの課題として、レストレーション・ムーブメント自身の歴史的ルーツとその発展についての情報収集である。そして今日における展開についても調査する必要がある。今、ひとつの聖書箇所を心に示されている。
<Eph>
4:11
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
KBI関連諸教会の中に、KBIが立てられている意義を再度考えさせられた。今日、世界各地から押し寄せるさまざまなムーブメントの中で、翻弄されることなく、それらの肯定的側面と否定的側面を識別し、地方教会の建徳的成長に生かしていくことが求められている。KBIは、第一義的に、神学生に対し、そして副次的に関連諸教会に対して、これらの識別・評価に対して責任があると感じている。私たちは万能ではないけれども、長年神学研究と神学教育に携わってきたひとりとして、責任から逃げることなく、その責任を果たしていくべきだと思うのである。