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O日本福音教会あれこれ(安黒試論)

キリスト教の「亜流」の正統信仰へのチャレンジ

17/06/03


 TCTSのT.M師の『教理史T』で、「キリスト教の亜流の正統信仰へのチャレンジ」を学んだのは、二十数年前のことである。この学びが、今日わたしたちが直面している問題ー「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の問題と重なる部分があるので、それをここに書き記しておきたい。

 キリスト教教理史の「講義ノート」の最初のページの、第一段落に記されている言葉は以下のことばである。初期の時代に生起した「誤った聖書解釈」に共通しているのは、「旧約と新約の連続性」の問題である。つまり、この二つは、連続しているのか、断絶しているのか、どちらが優位なのか、ということである。「正統信仰」は、旧約と新約の連続性、漸進性、有機的一体性を主張し、「全体」をそのような意味で「聖書」とする。以下、初期の時代に生起した四つの異端ののひとつエビオン主義の「輪郭とエッセンス」をみていく。

 エビオン派主義…これは、「ユダヤ教的キリスト教」である。「ユダヤ教の枠内」でキリスト教を捉えようとする。@神の単一性を守るため(ユダヤ的)、「養子論」をとる。イエスはヨルダン川受洗のときに、「神の子」とみなされるようになった。Aモーセの律法に拘束力を持たせる。つまり、異邦人クリスチャンにも律法を強制した。B旧約を重視し、新約を「旧約の枠の中」で理解しようとした。パウロ書簡を軽視した。 

 わたしは「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」が「グレイゾーン」に位置づけられる教えであることは、今日のキリスト教神学会の優れた神学者の間で「共通の認識」であると受けとめている(ちなみに、J.R.W.ストットは、“アナテマ”の教えであると断罪している)。

 パーマー・ロバートソンは、神の諸目的のこの啓示の漸進性について「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ、…かつて神の贖罪的働きの特別な局所的なものであった土地は、今、新しい契約の成就の時代において、土地は宇宙を含むものに拡大されてきた。…それゆえ、成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」
[1]と述べている。

 
サイザーは言う、「一方は古い契約の影を、他方は新しい契約の実体を基盤としている。前者は、世界の救い主であるイエス・キリストを中心とする包括的な神学であるよりは、むしろその土地の中に存するユダヤ人に焦点を当てる排他的な神学となる。 

 わたしたちの前に置かれている聖書解釈の第一の方法は、イスラエルは約束された土地を相続するよう運命づけられた神政政治の民族、今も将来も、旧約の預言が文字通り成就するとき、イエスは文字通りダビデのような王となられると捉える「ディスペンセーション主義聖書解釈法」である。ディスペンセーション主義には数多くの特色ある教えがあるが、最も主要な教義は「神の二つの計画と神の二つの民が存在する」というものである。これが、旧約と新約の二つ物語を「二つの神の民、二つの神の計画」と別個に捉えるディスペンセーション主義の極端な字義主義解釈法の真骨頂である。もし旧約聖書の言葉が「徹底して字義通り」に捉えなければならない、という意味で「神のことば」であるとしたら、彼らは正しいことになる。

 しかし、そうではない。聖書解釈には第二の方法がある。それは、旧新約の「啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を認め、「旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する」方法である。旧約聖書には象徴、予型、預言等がある。そこに時満ちて神の御子が受肉され、贖罪のみわざを完成し、復活・昇天・神の右に着座され、聖霊を注がれた。この「事態」を受けて旧約聖書を「イエス・キリストを証しするもの」として解釈した文書が新約聖書である。

 わたしは、「使徒的福音→古代の正統信仰→宗教改革の三大原理→英国の会衆派ピューリタン→バプテスト→スウェーデン・バプテスト→オレブロ・ミッション→JEC」と、福音主義キリスト教のセンターラインを流れてきたJECのルーツとアイデンティティを保持していくため、キリスト教亜流として位置づけられる「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」に対して傾く傾向に対して「警鐘」を鳴らし続けることは、JEC教職者の義務であると思うのである。1900年間、キリスト教会の本流に「ルーツとアイデンティティ」を保持してきたJECが、なぜ「こんなにも短期間に、“亜流(グレイゾーン)”の教えと実践に翻弄されるようになってしまったのか」ーわたしには不思議でならない。ガラテヤ書を書いたパウロのように、叫びたい気持ちである。



 


[1] O.Palmer Robertson, ‘A New-Covenant Perspective on the Land’, in Johnston and Walker (eds.), Land of Promise (Leicester: Apollos, 2000), p.140.