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K日本福音教会あれこれ(安黒試論)

「レストレーション運動」についての考察 @

16/07/08


Q:「レストレーションの教え」を@〜Dくらいの箇条書きの感じで具体的に教えてもらえませんか?

A:家内のもとに、「友人より問い合わせのメールが届いた」とのことである。わたしが、KBI教師を引退させていただいたのは、この十年間くらい、「ディスペンセーション問題」、「キリスト教シオニズム問題」、「レストレーション問題」等々の対応に振り回されてきた。わたしは、それらの問題を「克服していく道筋」を歩むべきだと確信しているので、事あるごとにそのような意見を述べ、警鐘活動を続けてきた。しかし、そのような意見が聞き入れられることはなく、退けられてきた。それで、このままではいけないと思い、きちんと文書のかたちで残していかないと、この群れや学校を守ることができないと考え、ラッド著『終末論』を翻訳し、『福音主義イスラエル論』を執筆した。
 わたしは、これほど、きちんとした文書ができたのだから、これを“土俵”にして、建設的なディスカッションを重ねることができるのではないかと期待をしていた。しかし、理事会からもたらされた結果は「組織神学」講義時間数の半減であり、この課目の複数教師制の決定であった。そしてさらに教師会にて「警鐘活動」の自粛について相談がなされることも知り、わたしは「わたしが抱いている懸念を十数ページの手紙にしたため、KBI教師を引退させていただく」ことをお伝えした。わたしが「内部改革」を徹底していこうとすると、「古い皮袋に、新しいぶどう酒を注ぎこむこととなり、その皮袋が裂けてしまう」懸念が生じてきたためである。ある先生方は、妥協を勧められたが、それはわたしの本意ではないので、KBIまたJECの「籠」から自由にしていただき、「外部の自由な立場」に身をおいて、さらに「警鐘活動」、「翻訳活動」、「執筆活動」等々を徹底していくことにさせていただいたのである。
 わたしは、福音主義神学会においては、「間違った教え」また「間違った運動」として知れ渡っている「ディスペンセーション問題」、「キリスト教シオニズム問題」、「レストレーション問題」等々で、「川の両岸に立って、水を掛け合う」ような議論を繰り返し、これ以上大切な時間を浪費したくなかった。それで、KBIも引退させていただき、JECの牧師会も休ませていただくことにしたのである。ただ、気がかりなのは、KBIもJECも、その“問題性”に気がつくことなく、年ごとに交流のレベルを深めていっているように見えることである。
 わたしは、KBI教師を引退し、JEC牧師会も休ませていただいている立場であるので、もうこのことには深く関わりたくないというのが本音である。わたしは、もっと意味があり、価値のある「福音理解のセンターライン」を照らす神学的取り組みに時間を割きたい、残された十年、二十年をそのためにささげたいのである。
 ただ、上記の問いがもたらされると見過ごせないたちである。それで、数年前にKBIシンポジウムのときに、「レストレーション問題」を半年間、集中的に研究した。そのときに「レストレーション運動」に関する大変優れた研究書を数十冊収集し、それらに目を通す機会を得た。
  それらの本を詳しく紹介していく時間はないので、「落穂拾い」のように、大切なポイントを拾い集めつつ、紹介また解説していきたい。
 「レストレーション諸運動の教え」について、主としてアラン・アンダーソン著『ペンテコステ主義紹介』を資料源にして簡潔に整理してみたい。アラン・アンダーソンは、南アフリカのペンテコステ派の神学者であり、英国のバーミンガム大学においてペンテコステ主義について研究している神学者である。彼は、名著ウォルター・ホレンウェガー著『ペンテコステ派の人々』に続く、ペンテコステ派の運動の歴史と神学に関する包括的な著書を書き上げた。彼には、世界各地のペンテコステ主義に関する著書、編著書等が数多くあり、現在のペンテコステ主義研究に関する神学者として最も優れた人物のひとりである。アンダーソンの著作集の研究もわたしの重荷のひとつであるが、なにせ時間が足りない。それでも、JECの先生方に必要な情報が満載されている著作集なので、「落穂拾い」をさせていただくということである。

■ アラン・アンダーソン著『ペンテコステ主義紹介』より

@レストレーション諸運動とは何か。ここで言うレストレーション諸運動というのは、ペンテコステ・カリスマ運動におけるレストレーション諸運動のことである。というのは、ペンテコステ・カリスマ運動と関係のない「レストレーション諸運動」もあるからである。それはここでは言及しない。

Aペンテコステ・カリスマ運動におけるレストレーション諸運動とは、「レストレーション」の名前が示す通り、「回復」の運動である。何への回復かというと、「20世紀初頭のアズサ通りのリバイバルの熱狂」の回復の運動である。

B20世紀初頭からのペンテコステ運動は、初期の熱狂はやがて醒めて、やがてアッセンブリー教団等、いくつかの教派として形成されていった。そのプロセスにおいて、極端な教えや実践は是正され、穏健で福音主義的なアイデンティティが形成されていった。

Cそのような動きに対して、単立の道を選択し、「福音主義的なアイデンティティ」よりも、「20世紀初頭のアズサ通りのリバイバルの熱狂」の回復を求めていったのが、レストレーション(回復)運動である。

Dここで、最も問題なのは、アッセンブリー教団等の諸教派が「神学的に健全な道」を歩み、福音主義神学会等で信用を勝ち得ていったのに反して、レストレーションの諸運動は「神学的なセンターライン」から次第に逸脱していったということである。

E逸脱した教えは多々あるが、その根源にあるものは、「啓示論」における逸脱であるといわれる。

F普通の福音派の「啓示論」は、JECが宣教指針として採択している「ローザンヌ誓約」にもあるように、以下のものである。

第2項 聖書の権威と力

私たちは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書き記された神のことばであり、それが確証するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを確認する。私たちはまた、神のことばはご自身の救いのみ旨を成就する上において力あるものであることを確認する。 聖書の使信(メッセージ)は人類全体にむけて語られているものである。キリストと聖書による神の啓示は変ることがない。それを通して聖霊は今なお語っておられる。聖霊は、ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明し、そのようにして神の多様多彩な知恵を全教会に明らかにするのである。

 (IIテモテ3・16、IIペテロ1・21、ヨハネ10・35、イザヤ55・11、Iコリント1・21、ローマ1・16、マタイ5・17、18、ユダ3、エペソ1・17、18;3・10、18)

GH.M先生は、この問題を以下のように指摘しておられる。

「 JEAがなぜアッセンブリー教団しか加入を認めないのか、それは啓示問題でした。聖書啓示の上に直接啓示を置くかどうかです。預言運動、新使徒運動の教会は加入できないのです。



H普通の福音派は、「1.聖書的適格性、2.正統的公同性、3.今日的適用性、4.学問的革新性」の四つの要素を大切にします。レストレーション運動の教えは、この四つの視点からみますと、聖書的に不適格な聖書解釈、正統的公同性からの逸脱、今日的に問題のある適用、学問的問題性が数多く見られます。

I誤った教えの代表的なものには、三位一体を否定したワンネスの教え、教職制度の発展の歴史を否定的に見る「使徒職・預言者職」の回復の教え、ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムに基づくイスラエルの土地・エルサレム・神殿(ダビデの幕屋)回復の教え、等々があります。

Jこれらの誤った教えの根源に、誤った「啓示論」があると思います。普通の福音派では、聖書は「完結した啓示」であり、いわば「完結した遺言」のようなものです。その遺言を、書き加えたり、削ったりすることは犯罪にあたります。「私たちは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書き記された神のことばであり、それが確証するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを確認する」という啓示論にたつとき、わたしたちは「不変の、共通のデータ」から「共通の福音理解」を受け取ることができます。これが、福音派には教派的多様性があっても、その「福音理解」においてはほとんど共通になる理由です。

Kレストレーション諸運動においては、いわば「もぐら叩き」のように、普通の福音派から「異端的」といわれ、叩かれても、叩かれても、次から次へと「誤った教え」が量産されてくる根源には、「啓示論」の問題が存在すると思います。彼らは、「表向き」聖書から、聖書用語を用いて語りますが、その「意味・内容」を“変質”させることが平気です。「聖書用語」を使用しつつ、いわば、金の子牛礼拝のように“繁栄の神学”を語り、世俗の講演のように“成功哲学”を話します。第三世界のリバイバルが語られますが、「キリスト教用語」と「キリスト教の儀式」で教会は溢れているのですが、その中身は“土着の宗教”に変質しているとの分析も多々あります。ある意味、「聖書用語」を“器”のように利用し、その器に“世俗的価値観”、“異教的価値観”を盛り付けることにもなんの“違和感”もないかのように思われるところがあります。今日、米国で最も成長している教会は、“繁栄の神学”、“成功哲学”のメッセージで有名とのことです。わたしは、このような教会の姿をみると、モーセが十戒の石の板を受け取りにシナイ山に登っていた間に、ふもとで「金の子牛」を作って歌い踊っていたイスラエルの民の姿と重なります。(※教勢と献金という教会成長の規模だけでみていくと大きな誤りに陥る危険があります)

Lエペソ2:20には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」とあります。聖書は、旧約のユダヤ主義的な“殻”を脱ぎ捨てて、ユダヤ人も異邦人もないと使徒たちが語っているにも関わらず、トム・ヘス著『ダビデの幕屋』では、使徒の教えと異なる教えが満ちています。(※使徒的聖書観と使徒的聖書解釈は、わたしたちに何が“真札”であり、何が“真水”であるのかを教えてくれます。ほとんど見分けがつかなくても“偽札”は偽札であり、“塩水”は真水ではありません。ほんの小さな「飛行角度」の誤差が、長い飛行の後に別地点に連れて行くのです。)

M今日のレストレーション諸運動の多くの集会では、『ダビデの幕屋』の回復運動の人たちが主導権をとっています。『祈りの塔』や『エンパワード』や『ホームカミング』や『…を慕い求める祈り会』等も、同様の運動の流れの延長線上にあるように思います。(※これは、長期の視点でみますと、決して見過ごせない“誤差”なのです。)

N米国で起こっているさまざまな運動を分析した本で、以下のようなことが書かれています。これまでの教会・教派は「共通の福音理解」の近い教会同士で形成されてきたが、近年みられたヴィンヤード運動等では、「共通の方法論」で群れを形成するかたちが生まれてきた、と。つまり、教理的背景はバラバラなのに、礼拝形式・賛美形式、癒しの実践等々で「共通の方法論」を掲げて群れを形成していった例です。(※「ダビデの幕屋」のグループの方は、賛美や礼拝の専門家、ないしセミ・ブロフェッショナルのような方が多いように思います。しかし、そこにわたしたちが陥りやすい「誘惑」があり、陥ると抜けられない「罠」があるように思います。)

Oしかし、ヴィンヤード運動では、後に内部で次々と問題が噴出してきました。そして、ジョン・ウィンバー牧師たちは「トロント・ブレッシング問題」等、その問題の処理に振り回されることになりました。そのような混乱が起こり、英国では、ロンドンにあるホーリー・トリニティ・チャーチ・ブロンプトン(HTB)からアルファ・コースが誕生し、「健全な教え」を強調し、英国のカリスマ運動で重要な働きをするようになりました。やはり重要なものは「方法論」ではなく「福音理解」であることを教えているのではないでしょうか。(※「方法論」で栄えるのは一時的であると思います。そして一定期間の後に、「福音理解」において取り返しつかない“傷”を負っていることに気がつかされることになると思います。“異なった福音理解”は、“ひえやあわ”のように繁殖力が旺盛であるように思います。一度、混入すると、それを完全に取り除くことは不可能といっても良いと思います。)

P
現在、日本では、S.T氏やT.N氏を中心に賛美集会、主を慕い求める集会が集中的に行われているようであるが、それらの運動や集会の背景や福音理解については知っているだろうか。それらは上記のレストレーション諸運動を背景にし、それらの福音理解を内包している。
http://www.revival.co.jp/rj/2011/09/post-188.php

http://www.revival.co.jp/rj/2013/05/post-290.php

http://shop24-365.org/


http://chop-tod.com/


Qわたしは、「集会形式」がJECまたKBIと合っているとか、似ているとかで、それらの集会に参加したり、それらの講師を招いたりすることは大変危険であると考えている。わたしは、「レストレーション諸運動の中にある“啓示論”に根ざす“さまざまな誤った教え”は、米粒に混じって蒔かれる“ひえやあわ”の種粒に似ている」と受けとめている。最初は「米粒」が蒔かれるのであるが、会衆がリーダーを信頼し、心を開いてくると「ひえやあわ」が蒔かれる危険が増してくるように懸念している。

Rその集会のときには、あまり影響がないように見えても、私たちの心の田畑に蒔かれた種は、時を経て“実を結ぶ”ようになる。田畑に広範に蒔かれた後に、取り除くことはほとんど不可能なこである。良い稲まで引き抜く危険もある。「三つ子の魂、百まで」といった感じである。わたしは、「ディスペンセーション問題」克服のために尽力してきだが、信仰の初期に蒔かれたこれらの教えを払拭することはどんなに大変なことであるかを身をもって知っている。ある人の場合は、それを取り除き健全な教えに回復することはほとんど不可能である。牧師であってもそのような人をときどきみかける。それは間違った教えが「血なり、肉となってしまって」取り除けないのである。

Sそのような意味で、最善の選択は、集会の宣伝上手に魅かれて、「ひえやあわの種粒」が蒔かれるかもしれない集会に信徒をつれていかないことである。参加しないよう説得することである。自分こそは大丈夫と思って参加しないことである。間違った教えの集会や交わりからはできるだけ遠ざかることである。

※JECとKBIは、現段階では、福音派の間でその福音理解において、「エリクソン著『キリスト教神学』のような福音理解の群れ」であると信頼されているが、このままレストレーション諸運動との交流をいろんなレベルで深めていったら、JECとKBIはレストレーション諸運動の一部とみなされる日がくるかもしれない、「グレイゾーン」に位置する流れであると受けとめられる日が来るのではないか。外見的な評価だけでなく、中身も「レストレーション化」していくのではないかと懸念しているところである 。そうならないように、次世代の先生方には、福音理解のセンターラインを死守していただきたいと思うのである。

 信用を得るには、数世代の時間を必要とするが、それを失うのは実に簡単である。そして再びそれを得るためには数世代を必要とするのである。先輩の先生方とともに築いてきた信用を大切に守り抜いていただきたいものである。わたしは、それが今、失われようとしているのではないか、それを真剣に心配している。