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K日本福音教会あれこれ(安黒試論)

「レストレーション運動」についての考察 A

16/07/08


Q:「著名な講師は招かず、事前のプログラムを作らず、聖会ではなく、イベントではなく、セミナーでもなく、主の御前に謙虚に出ること、心と心の絆を結ぶことを最大の目的としている」集会とは?

A: 昨日は、関学生時代の、聖書研究会ポプラで一緒だった友人が訪ねてきてくれた。「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」である。日本基督教団の牧師をしていて、神学談義に花が咲いた。
 近く開催される集会にも話が及んだ。「著名な講師は招かず、事前のプログラムを作らず、聖会ではなく、イベントではなく、セミナーでもなく、主の御前に謙虚に出ること、心と心の絆を結ぶことを最大の目的としている」集会のようである。近年は、「主宰者の背景や集会目的、集会内容、講師等までが伏せられたままの集会が増えてきているのかな? まるで、“原野商法”、“水源地商法”みたいだね !」と少し心配になってきた。
 しかし、いったいどのような集会なのだろうと、いろいろ調べてみると、下記のサイトで「類似の集会」の解説がされていた。要するに「預言運動」、「使徒運動」という系統の集会であるようである。

http://maranatha.exblog.jp/22181687?_ga=1.155780347.1161486830.1428535535

 しかし、わたしたちの「福音理解」は、旧約聖書を背景にして成し遂げられたイエス・キリストの人格とみわざにおいて「永遠に、一度だけ」完成されたものを、新約の使徒と預言者によって解説された新約聖書において、「完結したかたち」で提示されているのではないのだろうか。これがわたしたちの「福音理解」の“基盤”であり、“出発点”ではないのだろうか。
 最近、ヘブル人への手紙を一章ずつ講解説教してきた。ユダヤ人クリスチャンが、以前のユダヤ教に郷愁を覚え、そのような方向に「押し流される」(ヘブル2:1)懸念に対して著された手紙である。わたしたちは今、日本において「ディスペンセーション主義聖書解釈→キリスト教シオニズム諸運動→レストレーション諸運動」に押し流される教会の「危険な状況」を目の前に見ている。それゆえ、この手紙を今日の「懸念される文脈」の中で解き明かすように導かれた(そのメッセージは、ICIホームページの「ICI日誌」から聴くことができる)。
 その手紙の9章15-17節に「遺言」に類比されて、「新約の恵み」が語られている。ヘブル書全体の文脈とこの類比から教えられるひとつのことは、イエス・キリストのみわざの「一度きり」の「永遠性」と「絶対性」である。そして、その恵みの解き明かしに選ばれたのが、初代教会の使徒と預言者たちである。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:20)と書いてある通りである。
 これを、ヘブル書の「遺言」の類比と重ね合わせると、より理解が深まるのではないか。つまり、聖書という書物は、「公正証書遺言」のようなものではないか、ということである。
 公正証書遺言は、「 (1)証人2名以上の立会いがあること、(2)遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授すること、(3)遺言者が口授した内容を公証人が筆記して公正証書を作成し、 これを遺言者及び証人に読み聞かせ、又は閲覧させること、(4)遺言者及び証人が公証人の筆記の正確なことを承認した後、 各自署名、 押印すること、(5)公証人が適式な手続に従って公正証書を作成したことを付記して、 これに署名、 押印することによって作成される」遺言である。
 「すでに約束されている永遠の財産」(ヘブル9:15)があり、イエス・キリストの十字架における死を通し、“完結された遺言内容”を使徒と預言者たちが公証人の立場で、“公正証書遺言”のように完成させたものが『新約聖書』ではないのか」ということである。
 「遺言」の偽造、変造の事実が発覚すれば、遺産相続の権利は失われ、偽造、変造の程度によっては、私文書偽造の罪に問われる。聖書の場合も、同様である。「すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」(Uペテロ2:20)。また「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」(黙示録22:18-19)とある(これは、黙示録についての言及であるが、聖書全体にも応用しうる原理とメッセージを内包している)。
 ペンテコステ運動の中でも、アッセンブリー教団等が、健全な福音主義神学を大切にし、福音主義神学会内で神学的信用を勝ち得ていったのに反して、レストレーション運動は、その方向性から逸脱し「20世紀初頭のアズサ通りのリバイバルの熱狂の回復“レストレーション”」に向かっていった運動であるといわれる。わたしは、この「“熱狂”回帰の原理・原則」−そのものの中に“吟味・検討すべきもの”が内包されていると感じている。
 ハーヴィ・コックス(ハーバード大学教授)は、ペンテコステ運動における諸種の霊的経験とその証しを評価しつつ、「経験への強調というものが、認識論的パッケージ(つまり、福音理解)を粉砕」(Harvey Cox, “Fire from Heaven : The Rise of Pentecostal Spirituality and the Reshaping of Religion in the Twenty-first Century” London : Casell , pp.58, 68-71)する危険があると指摘している。
 Simon Colemanは, “The Globalization of Charismatic Christianity: Spreading the Gospel of Prosperity” , Cambridge, p.36において、米国に起源をもつ(ペンテコステ主義にみられる)諸思想には、(世界の諸文化の中にあるものを)文化的に借用ないし取り入れ、盗用し、魅力的なものに再包装し、文化を超えていくかたちで溶け合わせられるという“不断の変形・変質”の受けやすさがあると指摘している。
 健全な霊的経験は大切な要素であるが、「使徒的福音理解」のコントロールから逸脱した極端な「熱狂的経験」追及主義、またダビデの幕屋運動等にみられる極端な「熱狂的賛美・祈り・預言」追及等の集会への参加を深めていくと、「使徒的福音理解」の“粉砕”、“変質”、“変形”、“逸脱”を許容し、そのエア・ポケットのような心理状態の中に、アフリカのリバイバルの中に見られる“異教的要素”の受け入れ、米国発の教会成長にみられる“富と健康と繁栄の神学”との差し替え、“ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム的神学”への変質を、知らず知らずのうちに進行させてしまうのではないか、そのように懸念している。
 また、「使徒的福音理解」を堅持しつつなされる健全なコンテクスチュアリゼーションは必要だが、「使徒的福音理解」を変質させる不健全なシンクレティズムは危険である。そして、それはやがて「キリスト教用語」や「キリスト教儀式」という器に盛られた“異教信仰”ないし“世俗哲学信仰”、あおりたてられ歪んでしまった“ユダヤ的ナショナリズム”ということになりはしないのだろうか、と懸念している。
 「使徒運動」と「預言運動」は、イエス・キリストとキリストに立てられた使徒パウロや預言者ヨハネのような人たちによって、書き記された、いわば「公正証書遺言」の上に立って、新しい私的解釈や新しい追記また削除を行う“危険”が存在している。わたしたちは、この部分をはっきりと見きわめないと危ないと思う。
 「偵察をかねて参加します」という先生がおられるが、「集会」という“氷山の一角”では、レストレーション運動の問題を識別することは難しい。“水面下の氷山”の部分、つまり、@「過去の水面下の氷山」−この百年間のレストレーション運動の歴史、その教えと実践、A「現在の水面下の氷山」−奉仕される先生方の人脈ネットワークにおける現在の教えと実践、B「未来の水面下の氷山」−今後予想される交流においてもたらされる人脈とその教え実践に巻き込まれるのを良しとするのか、これら全体をしっかりと下調べし、自身の信仰への影響と教会の会衆への影響を熟慮の上で参加の良し悪しを決められるのが良いと思う。
 ローザンヌ誓約〈第二項 聖書の権威と力〉にあるように、神がイエス・キリストにおいて「啓示(Revelation)」してくださったものを、使徒と預言者たちが「霊感(Inspiration)」に支えられ書き記した聖書を通し、内住の御霊による「照明(Illumination)によって」わたしたちは導かれるのである。

  ローザンヌ誓約〈第二項 聖書の権威と力〉 
 われわれは、旧・新両約聖書全体が、神の“霊感” (Inspiration)による、真実で、権威ある唯一の書かれた神のことばであり、それが主張するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを表明する。また、神のことばはご自身の救いの御旨を成就する上において、力あるものであることを表明する。聖書の使信は人類全体に向けて語られているものである。キリストと聖書による神の“啓示” (Revelation)は変ることがない。それをとおして聖霊は今なお語っておられる。聖霊は、ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を“照明” (Illumination)し、神の多様多彩な知恵を全教会に明らかにするのである。
IIテモテ3・16、IIペテロ1・21、ヨハネ10・35、イザヤ55・11、Iコリント1・21、ローマ1・ 16、マタイ5・17、18、ユダ3、エペソ1・17、18、3・10、18