Watchman Nee の神学の研究

16/07/08


わたしとウォッチマン・ニーの著作との出会いは、19才のクリスマスのときに洗礼を受けた後1年以内であったと思う。ハーレイのハンドブックを活用しつつ三ケ月ほどで丁寧に聖書を通読したことと、聖霊カリスマ・セミナーでの聖霊体験をしたこと、そしてウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」を読んだことは、わたしの信仰の骨格を形成しているように思う。「三つ子の魂、百まで」といわれるが、信仰初期のありようはその後の霊的生涯におおきな影響を及ぼすもののようである。

ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」は、わたしに明確な「福音理解」を与えてくれた。単発的にではなく、その後の数十冊におよぶ彼の著作集の収集と読破と、当時JECの理事長であられた我喜屋先生のメッセージがさらにそれを確かなものとしてくれた。わたしの個人的理解ではあるが、我喜屋先生の「十字架と聖霊」のメッセージは、KBIのパウロ書簡で講解され、JECとKBIの種々の集会で語られ、機関紙や記念誌に掲載されるかたちで、JECとKBIの流れの中心的部分を形成してきたように思う。

JECとKBIにおける「十字架と聖霊」の流れの神学的側面の継承・発展・深化がわたしの個人的重荷である。我喜屋先生のメッセージは礼拝テープや種々のプリントのかたちで残されているが、書籍のかたちでそのメッセージの全体を扱ったものは存在していない。我喜屋先生のいくつかの資料は手元に集めておりその輪郭を知る材料とはなる。しかし「神学的側面の継承・発展・深化」を考慮にいれる場合、それでは不十分である。ではどうすればよいのか。それは我喜屋先生のメッセージの資料源を探り当てて研究することである。

それはどこにあるのか。以前JECニュースの中で、我喜屋先生は「わたしが最も影響を受けたものはウォッチマン・ニーの著作集である。」と記しておられた。我喜屋先生にはウォッチマン・ニー以外に「カリスマ運動」や「教会成長運動」「ヴィンヤード運動」など種々の運動から多くのものを学んでおられるので、ウォッチマン・ニー=我喜屋先生と捉えることはできないが、その幹となる「福音理解」のあり方はウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」「キリスト者の行程」「霊の解放」などに示されている「福音理解」が資料源となっているようである。

わたしは、わたしたちJECの第二世代、第三世代に属するものにとって、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」「キリスト者の行程」「霊の解放」などに示されている「福音理解」が一体何なのか、ということを研究することなしには、JECとKBIにおける「十字架と聖霊」の流れの神学的側面の継承・発展・深化はありえないと思うのである。

そのような意味で、ウォッチマン・ニーとその著作集を包括的に分析しているダナ・ロバーツの「ウォッチマン・ニーを理解すること」という書籍JEC・KBIのアイデンティティ研究に貴重な資料である。わたしはダナ・ロバーツの分析に多くのことを教えられるとともに、いくつかの点には不満を感じている。それゆえ、わたしはこのホームページをつかって、ダナ・ロバーツの「ウォッチマン・ニーを理解すること」をクリティカルに評価しつつ、わたしの「ウォッチマン・ニー理解」を提示していくつもりである。

  1. Understanding Watchman Nee

  2. Normal Christian Life,「キリスト者の標準」

  3. Sit, Walk, Stand,「キリスト者の行程」

  4. What Shall This Man Do ?

  5. Changed into His Likeness

  6. The Glory of His Life


    D.ロバーツの「ウォッチマン・ニーを理解すること」は、ウォッチマン・ニーとその働き、そして彼の著作をクリティカルに考察した書物である。この本は大阪ライフセンターで見つけたものでであり、長い間本棚においていたものである。そしてこの部分的翻訳はKBIの宣教学の講義資料として下準備中のものであった。いつか講義の中で取り扱いたいと思いつつ、詳しくふれないまま、講義時間の関係で、1年間の講義が終わってしまうのが常であった。それと資料として未完成であることと、かならずしもロバーツの主張に賛成ということでもないということがあった。ただ数少ないウォッチマン・ニー評の書籍であることは間違いのないところであった。

    今回、中途半端な資料であるが、ホームページという「書斎」が与えられて、私の書斎の資料をのぞきたいという人に私の関心のある資料を紹介するということで私のホームページにアップロードさせていただいた。いろいろと感想や意見がありましたら、ぜひメールをいただきたい。

    私としては、ロバーツの書籍はいろんな歴史的資料の提供してくれるものとして感謝している。しかし彼の批評のすべてには満足していない。ロバーツの批評にはかなりの妥当性がみられるが、その批評する立場がすこし狭いように思う。私が宇田進師の「福音主義神学研究」から学んだ視点は、使徒的信仰から今日の神学の展開までを含み、神学的・歴史的・社会的文化的要素を立体的に鳥瞰していく学びであった。その中には共通性と多様性があった。宇田進師からは、福音主義的信仰を共通に抱きつつ、歴史的な要素と社会的・文化的要素によって生じる多様性を許容しうるキャパシティーの豊かさを教えられた。

    以上のような意味で、1.ウォッチマン・ニーと彼の著作の研究、2.ダナ・ロバーツの批評、3.「ダナ・ロバーツの批評」を宇田進師から学んだより広い視点から再批評してみたい。これが私のウォッチマン・ニー研究の大枠である。

     



    序文
    ・導入

    1.ウォッチマン・ニーと小さき群の働き
    ・両親と誕生地
    ・誕生と初期の教育
    ・回心
    ・神学教育
    ・小さき群れの成長
    ・小さき群れと革命
    ・同労者の働き

    2.ニーの著作への導入
    ・発表された書籍
    ・本のスタイル

    3.御言葉と御言葉の奉仕
    ・御言葉の研究
    ・聖められた奉仕者
    ・御言葉の奉仕
    ・結論

    4.人間論:霊の人と彼の生活
    ・人間の三一性
    ・人間の創造と堕落
    ・キリスト、すべての霊的総計
    ・霊
    ・魂
    ・からだ
    ・十字架の四重の働き

    5.教会とその働き
    ・歴史的考察
    ・教会の普遍性
    ・教会の地域性
    ・終末における教会

    6.要約と結論
    ・福音主義的評価 (内容)

     



    ・序文

     私自身のウォッチマン・ニーの著作との出会いは、霊的な価値のゆえに彼の名前がアメリカの調査において卓越したものとなる以前の時期、1967年に始まった。私は青年期の身体的にも霊的にも赤ん坊であった、そしてわたしは少なくとも”proof-text-flip”とか一晩に三章の聖書日課をとび越えて得ようと欲した。私は、私が霊的に成熟していると判断した人々からの助言を探し求めた。私の牧師は熱心にニーの「キリスト者の標準」を薦めた。ローマ書を解釈したニーの頭脳明晰さによって「不思議に心が暖められた」、そこでただちに私は「霊の人」を読んだ、そしてここにはその価値を再考慮するように教会を導くであろう霊的イマジネーションの真のダイナモがあると理解した。
     さらなる出版物が続いたとき、私が彼の生涯と教えの広範な研究を引き受けた学位論文まで、私の情熱は持続した。五年間が明らかにしたものは、必ずしもおせじをいえるようなものではなく、宗教的な人々のヒーローたちについての実体化しない説明について何か疑いを抱かしめることとなった。この本は私の研究と分析の一部分を表している。私は、それが教師としてまた神学者としてのウォッチマン・ニーを取り巻く、いくつかの疑問について答えを与えること、そしていくつかの神秘を洞察することを望む。


    ・導入

    1.ウォッチマン・ニーと小さき群の働き

    ・両親と誕生地
    ・誕生と初期の教育
    ・回心
    ・神学教育
    ・小さき群れの成長
    ・小さき群れと革命
    ・同労者の働き

    2.ニーの著作への導入

    ・序・
    ・「霊の人」
    ・「リバイバル誌」・1922-25,1931-48・
    ・「クリスチャン誌」・1925-30・
    ・「バイブル・レコード誌」・1925・
    ・「ミニストリー誌」・1948.6-?・

    ○発表された書籍
     彼の聖書論、人間論そして教会論を組織的に吟味するまえに、彼の教えのミニストリーから、まず書籍の歴史的順序と方向性を理解することが重要である。それらの働きのすべては、時間的に神学的発展の三つの時期:1927-1935, 1936-1945, 1946-1951 に分類することができる。

     (霊的成長)
     最初の時期、1927-1935、ニー自身の証しによれば、その働きは「霊的生活と霊的戦いにおいて神の子供たちを助けること」だった。そこには教会についてのオペレーションに関する教えはほとんどない、むしろ人間の性質における神の働きについての聖書的証拠の再評価を通して個人的霊的成長の手段についての教えである。この時期の神学はオリジナルなものではない、というのはそれは簡単にプリマス・ブレザレンとケズィックの釈義に同一視することができる。
     「霊の人」において、ニーは彼の最も一貫した聖書的人間観を提示した。人間の霊の機能を直観、同化、良心に、魂の機能を感情、知性、意志にさらに区別するこによって、信仰者は宗教的諸実践が神からのものか、・魂・的ごまかしかどうか正しく判定することができると、ニーは感じている。この・魂的・行為と・霊的・行為の間の区別はクリスチャンの成熟に関する彼のメッセージのすべてを貫き、彼の神学のすべてに影響している。
     1930/31の間、ニーは聖書教理に関する50の質問と解答についてのシリーズ−ゴスペル・ダイアローグとして死後に出版された−を準備した。恵み、罪、義認、聖化、赦し、贖い、完全はカルビニズムと完全主義についてのケズィックの混合と同様な方法において定義されている。
     同じころ、「霊的リアリティと観念」のメッセージが与えられた。現在の出版形式でたった64ページに含まれている、その働きは教会内の霊的知識の性質に関する彼の考えへの予備的な議論である。クリスチャンにとって、霊的真理に関して二つの選択肢のみがある。彼は真理の代わりに偽りを主張することにおいて・取りつかれ・/欺かれるか、それとも内なる人における聖霊の働きの助言を通して神の・リアリティ・に触れるかどうかである。個々人における神のこの働きは、神の光のうちに歩むことによって始められる、そして福音主義的敬虔主義によって影響されたケズィックやブレザレンの顕著な特色である。
     1932年の夏に、ニーはペンテコステ派の人々と個人的な接触をもつ以前に、彼は異言の起源、parapsychic現象、他の諸宗教の恍惚的実践、に疑問をもっていると「リバイバル誌」に一連の執筆をした。ミセス.ペン−ルイスの「魂と霊」とG.H.ペンバーの「地球上の最初の時代」の結論に従って、その論稿は「霊の人」の三分説の神学の続編であり、「魂の隠された力」において編集されて再出版された。
     1934年に、ニーは中国のハンコウにおいて、霊的同化の用語において解釈された雅歌の聖書研究を与えた。彼の解釈(雅歌)は、教会における霊的生活のための彼の関心の続編であった。その原資料は、ペン−ルイスの講解書「隠されたもの」とC.A.Bコートの「ソロモンの歌の概略」が統合されたものであると思われる。ニーはそのテキストの実際的内容を注意深く研究し、ミセス.ペン−ルイスの過度の霊的解釈と偽りの「羊飼い仮説」の双方を避けている。
     ニーは再び本当の自己理解への道に焦点をあて、一連のメッセージ(霊的知識)において霊的リアリティの必要を強調している。この自己理解は心理分析的内省によってなされるものではなく、刷新されるべき私たちの知性と割礼を受けるべき私たちの心の必要を明らかにされる神によってなされるものである。クリスチャンの人格の変貌のための方法は、ニーの三分説において理解されたように、内なる人における神の働きである。


     (アンテオケ原則)
     1937年の夏ごろに、日本人は第二次世界大戦を中国の心臓部への侵攻で始めた。避難民の大移動と国の他の部分における福音化に開かれた機会とをもって、ニーは彼の地方教会の構成と宣教的働きのためのガイドラインのいくつかの形式を確立する必要性を理解した。教会は、エペソ書簡(聖化)からのことばに加えてニーがそれを見たように、コリント書簡(政策)に含まれている真理において、いま教えられなければならない。献身と教会の職務についての助言はこの時期の教えの重要な部分である。続く三年半のうちに、彼の最も人気ある、そして多分彼の最もオリジナルな材料を表現している十巻が出版された。
     このことより前に、ウォッチマン・ニーによって設立された諸教会のいくつかは、個々人の霊的生活に付加的な強調である、職業的な聖職、地域外の権威、教派主義、形式的会員制などに反対のブレザレンの原則で設立された信徒セクトとして、正確に表現されうる。変化は「クリスチャンの教会生活の基準(原題:私たちの宣教の再考)」において提供された教えの結果として、やってきた。彼自身の働きの諸活動と聖書の証拠を吟味したのち、ニーは宣教主導的諸教会のための教会秩序のガイドラインをほのめかした。使徒たちは、普遍的教会の範囲において仕えている、賜物により、神によって管理され、教会の認知による宣教師であった。長老たちは地方教会のリーダーたちであった。使徒行伝において、アンテオケにある教会は新約聖書時代の諸教会のうちで、最も宣教師意識をもっていたから、それは中国教会のモデルであるべきである。さらに市や町にはふたつの会衆をもっているようには描かれていないから、ひとつの地域に対してひとつの教会があらねばならない。
     「地域性の基盤」の上への彼のユニークな強調は、小さき群れの諸教会の会衆の間ではなんの議論も起こさなかった。ひとつの地域にひとつの教会以上のものをもつためには、宗教における少数者の運動として、ニーの諸教会はまだあまりにも小さすぎ、あまりにも経済的に弱かった。運動の唯一の目的(愛のうちに神の教会を建て上げる)は分派主義的相違が発展することから会衆を守ることだった。ニーのローカル・チャーチ運動が分離された分派となった後でさえ、「地域主義」は宣教の原理と様式とされた。それらの原理から離れて形成されたどんな教会もあやまちの中に置かれているとされた。モ−オイ・チェアングがニーの教会の地域性の書かれた表現とみなした「教会生活の標準」の本の中で、ほとんどのいかなるものごとも教職的方法によってではなく、人の性質による。

     「いかなるものごとも人間によるのであり、彼の方法によるのではない。もし人が正しくないならば、正しい方法は彼や彼の働きにとって無益である。肉的方法は肉的な人にあてはまっている、そして霊的方法は霊的な人にあてはまっている。肉的な人にとって、霊的な方法を用いることはただ混乱と失敗を結果としてもたらすのみである。」

     ふたつの著作は翌年のヨーロッパ旅行からもたらされた。「キリスト者の標準」は、ローマ5−8章による神への完全な献身の到達点に向かって信仰者の行程を描いている。出版社は”ひとつの霊的古典”としてその働きを紹介した、そしてほんとうにその米国版は60万部以上が売れている。中心的テーマは”神にとどまり”神に向かっての成長のひとつである、しかしニーの釈義の性格にあるように、7章は霊と魂への神の応答に関して十分詳しく述べている。
     「キリスト者の行程」は霊的成長に関するたくさんのこの同様の強調がなされている。ここでニーは、パウロの明瞭な動詞の使用による、エペソ書のメッセージを要約している。英国やヨーロッパにおけるホーリネスの群れに話したとき、それらのメッセージは喜んで傾聴された。彼の神学は、アンドリュー・マーレーやF.B.マイヤーのメーセージと同様に、恵み深く、描写的なスタイルをもっている、全体的にケズィックの教えのメッセージである。
     世に対するクリスチャンの態度に関する一連のメッセージは、「世を愛してはいけない」という書籍からからなる少しの付属的説教とともに、1938〜1941の間に与えられた。ジーザズ・ピープルについての研究において、エンロース、エリクソンそしてピータースは”反文化的ファンダメンタリズム”のゆえにこの著作を過度に批判した。ニーは、地上の資源”聖別されていない手”のうちに堕落しているという彼の失望をのゆえに謝罪しなかった。その解決はザ・チルドレン・オブ・ゴッドのような前千年王国派のこの世からの逃避主義によるのではない。しかし、

     「・・今日、教会は悪魔の領域においてキリストの勝利を抵抗するために神の前に明確な責任をもっている。もしそこにもろもろの権威や力の証しがあるのなら、もしキリストの十字架を通しての主権の衝撃が霊的領域において抵抗されるべきである…」



    ・本のスタイル

    3.御言葉と御言葉の奉仕

    ・御言葉の研究
    ・聖められた奉仕者
    ・御言葉の奉仕
    ・結論

    4.人間論:霊の人と彼の生活

    ・人間の三一性
    ・人間の創造と堕落
    ・キリスト、すべての霊的総計
    ・霊
    ・魂
    ・からだ
    ・十字架の四重の働き



    5.教会とその働き


    ・歴史的考察
    ・教会の普遍性
    ・教会の地域性
    ・終末における教会
     


    6.要約と結論

    要約と結論

     この本の第一章はニーの神学を理解し、評価することにおいてきわめて重要な、たくさんの歴史的に詳細なことを提示した。東洋的なものと西洋的な実践とキリスト教的宣言の混合という文化的背景において引き起こされた、ニーの回心と初期の奉仕は、聖書的要求と人間的実践との間における彼自身の良心の葛藤によってかたどられていた。最初、ニーは聖書の証しと良心の確信の一致において主に仕えることにおける彼の無能さに打ちのめされていた。次に、彼の知性は、なにか非聖書的で純粋に西洋的ものを、中国において福音主義的証しを純化するいくつかの方法を見つけることを考えていた。ニーは最初の葛藤を、重い病いにかかっていた間に、キリストの十字架の働きをあてはめる基盤の上に、・肉的・信仰者と・霊的・信仰者の間を識別することによって解決した。第二のゴールは、・地域性・と・霊的・リーダーシップの原則を基盤とする新しい土着化の教会の設立においてもたらされた。彼が教会に関する彼の見方のいくつかを変えたけれども、ニーと彼の継承者は、キリスト教信仰の・肉的・側面 と・霊的・側面の間を区別しつづけた。
     第二章において、彼の著作のスタイルと内容は継続性の明瞭さが吟味された。それが彼の経歴の初期であるか、また彼の投獄の最近の時期であるかどうか、彼の資料のすべては聖書の・霊的リアリティ・と・キリスト者の標準・を強調するデボーショナルで聖書講解的なかたちで書かれ、また話された。
     続く第三章では、ニーの基本的な教えの分析が提供されている。カール・バルトのように、ニーは聖書と教会の宣言としての神のことばに深い関心を抱いた。霊的な知性の生活における神の完全な恵みの彼の信仰の基盤の上に、彼は聖書の解釈と説教は霊的生活のコミュニケーションにおいて誤りがないとの結論に導かれた。また神のことばに関する彼の著作よりさらに精巧で複雑な、人間論に関する彼の教えは霊・魂・体の人間の三分説を基盤としている。それらの要素なしに、隣人と神との適切な関係に生きること、標準的なクリスチャン生活を生きることは不可能であるとニーは論じている。そのうえに、それが霊的な人々を生み出し、・魂的・なまた肉的信仰者によってもたらされる異端者や分裂者を排斥するという方法において構成されないならば、その教会の生活は正常であるということはできない。事実、教会の最高の目的は単に救われた者と・霊的・な人々とを分けることである。
     それゆえ、歴史的かつ学問的探求の基盤の上に、教会のリーダーかつ解説者としてのウォッチマン・ニーの性質と意義に関していくつかの結論を引き出すことができる。
     1.中国の教会における再編成に対する増大する必要はニーの信仰にとって歴史的生活の座として仕えた。教会内の土着化運動と教会外の反宣教師感情は、ニーの教えの急進的な内容と方向を理解することにおいて重要な要素である。
     2.クリスチャンの霊的変革を通しての教会の再編成は、ケズィックとブレザレンの神学におけるニーの指導に起源をもつニーとローカル・チャーチによって提供された。
     3.信仰者の霊的状態に対する関心は、ニーの説教の経歴を一貫する主題である。
     4.ニーの神学においては、聖書は信仰者における聖霊の内的働きの方法によってのみ神の生けることばとして、理解し、コミュニケートし、認めることができるものである。
     5.クリスチャンは三分説的存在である。聖霊によって、人間の堕落した霊をよみがえらされ、信仰者はからだ、魂、霊の統一体である。それぞれの要素は霊的健康のためにそれ自身の諸機能とそれ自身の諸要求をもっている。
     6.ニーが「標準的」と考えるクリスチャン生活は、霊・魂・体の上への相違する恵みの働きによってもたらされる。
     7.教会は霊的なクリスチャンと肉的なクリスチャンから構成されている。
     8.新約聖書教会は、肉的信仰者の働き(異端、分派、他)を禁じ、霊的信仰者の働きを勇気づける構成をもつものとして解釈される。ニーの考えでは、その構成は「地域性」の原則によってか、霊の人の教育的権威によって治められる。
     9.キリストの再臨において、世に打ち勝った霊的クリスチャンは、肉的な知性をもつ信仰者よりも、千年王国の支配において違った役割を果たすことになる。霊の人は天においてキリストとともに支配する。肉的な人は諸国民の間で地上にいてキリストとともに支配する。
     要約すると、中国においてキリストのいのちと力がより明白なものとなるようという熱烈な願いによって導きだされた、霊の人についてのニーの考えは、啓示・聖書・聖化・完全・教会論・終末論についての彼の教理に実体を与える決定的な基盤となった。



    福音主義的評価


     ウォッチマン・ニーに由来するどんな本でも読んでみると、彼の考えの潜在的な価値に関して、強い意見を生み出すようになると確信する。過去五年の間、私は大多数によるいくつかのコンセンサスを見出すために、多くの牧師、教師、神学校の学生、知識ある信者にインタビューをしてきた。ある人々はキリスト教会とその霊的生活の性質への彼の洞察のゆえにニーを賞賛していた。わずかの人々は、彼の一冊ないしそれ以上の本を学んだ結果として、諸教会がどのようにして刷新を経験したかを述べた。しかし他の人々はニーを間違った教理と・ザ・ウェイ、ザ・チルドレン・オブ・ゴッド、そしてアラモ・ファウンデーション・のような分派組織に対して便利な神学を無意識のうちに供給したことのゆえに非難した。少しの人々は、ニーの霊的信仰者と肉的信仰者の分離によって育まれた霊的プライドが会衆をどのように分裂させたかを述べた。
     それらの反応の両意は、ウォッチマン・ニーを単純に駄目だと決めつけたり、ウォッチマン・ニーに不適当な支持をあたえているということを示唆している。ウォッチマン・ニーは疑いなく神のことばと彼の維持した証しのゆえに投獄された証し人だった。しかし福音主義のひろいスペクトル内のひとりの著者として、福音主義たちによってたくさん読まれるとき、ニーの教えと説教の遺産は神のことばである聖書のはかりなわに従属すべきものである。この基盤にたって、ニーのある教理とある前提は確かに疑わしいところがある。
     ニーは聖書の霊的リアリティを知ることの、聖なる啓示の照明の働きを理解において賞賛に値する、洞察力に溢れた者である。しかし彼はまた神の契約の歴史における真の出来事、言語、文化、そして人々についての神の解釈としての聖書について鑑識眼がないように思われる。ニーの聖書研究の方法についての議論において、彼は聖書の箇所の歴史的背景を決して考慮せずに、聖書の節のテキストを比較することと結集することが理解するための彼の鍵である。デボーショナルな解釈に完全に依存している多くの著者のように、彼は−著者はなぜこのことを言っているのか。それは全聖書のコンテキストにどのように適合するのか。節の歴史的背景は私自身の生活の環境とか私の教会の生活とかに関係するのか。−という聖書のテキストを見分けるいくつかの質問に決して従属させない。
     特に人間論的な用語を解釈することにおいて、ニーの方法は歴史的とか文学的な文脈は考慮されていない、ヤングとかクルーデンのコンコルダンスを通した辞書的な研究からしばしば余りにもかけ離れている。たとえば、第一テサロニケ5章23節はにおいてパウロは聖書的人間論についての叙述をしているのか、あるいは彼は彼の反対者のことばを使っているのか。後者の方が聖書的証拠においてより正しいものである。パウロは彼らの神学への肉体的死と肉体的労働に適応することができない教会にあてて書いている。この時代のギリシャのグノーシス哲学のいくつかのかたちが魂と体の制限の反対において霊をみたということを確かに知っている。もしパウロがキリスト教信仰とともにこの見方を混ぜあわせることに反対しているのであるならば、そのとき第一テサロニケ5章23節は、霊・魂・体は完全に明確な人間の実体であるといことを言っているのではない。むしろパウロは、再臨までキリストにおける漸進的な聖化が人間全体(・徹頭徹尾・)を含むということを言っている。
     またヘブル4章12節も。ニーが議論しているように、人間の性質の二つの部分(魂と霊)に区別し、神のことばによってバラバラに分けられるのか。それとも神のことばの区別することは、思想や心に帰するものが人(魂)からのものか神(霊)からのものかの判断を含んでいるのか。ヘブル4章の全体の文脈は、魂と人間の霊の内的心霊的戦いではなく、私たちは心の動機を扱っていることをほのめかしている。
     文脈を理解することの厳密さから離れたこのプルーフ・テキストの編集は、霊的に照された「アーメン」に確かに矛盾のないものである。しかし聖書のそのような理解は危険なものである。第一に、霊的解釈はしばしば「正典の中の正典」に導く。ニーの「神のことばの奉仕」や「聖書を探求する」において述べられている祈りの方法を通して、完全に聖書の霊的リアリティに触れることを「探求」した諸教会やもろもろの運動は、神の啓示の人間性を扱う物語風の部分をしばしば否定する。ニーの著作において識別しうるイエスの地上の生活がない、むしろニーがいつも説教したのは、教理的神学の復活のキリストである。旧約聖書の歴史書のみが、それらがいくつかの人間論的用語を使うとき、またそれらがキリストの完成されたみわざをあらかじめ示しているときはいつでも触れられている。預言書は贖罪的未来の預言のために議論されており、それらがそれら自身の時代の社会的不正の上に裁きを宣言するときにではない。しかるに福音主義的事柄に関して、ニーは聖書66巻を、実際彼の言葉において歴史的な書物としてよりはもっと霊的な書物としての正典を描いていると断言する。
     第二に、ニーの非歴史的、霊的な聖書理解は、教会の霊的生活は戦争や飢饉や不正の物理的現実に無関心であることを暗示している。ジェシー・ペン−ルイスの雑誌「勝利者」のように、ニーは第二次世界大戦の間中国人の尋常でない苦難への関連なしに書いている。現代のリベラリズムの社会的道徳論者が神の国の霊的側面を無視しているように、ニーの聖書観の基礎をなしている敬虔主義はアモス2・6-8,ルカ14・12-14,ヤコブ5・1-5のような箇所の社会的関心の視野を喪失している。
     最後に、政治の君主制への移行をもって混ぜあわされた、ニーの霊的解釈はウィットネス・リーとローカル・チャーチの現象に導いた。始めから、ウォッチマン・ニーの説教の雄弁は、批評的な判断とか出来事の霊や会衆の中での教えを吟味するようにとの新約聖書の要求の範囲を越えて、大いに彼に栄誉を与え賞賛するようにと導いた。不満を抱くルランド・ウォングのような人々は、不平の原因の会衆的ないかなる表現も決して許可しなかったそして、必然的に離れた。とどまった人々は、彼らの長老たちの教えにより教えやすかった、そして教会の諸教理やリーダーシップに取って代わる変化に不感症になっていった。
     基本的に霊的解釈のアイデアは新約聖書キリスト教に無関係ではない。いろんな程度においてすべての信仰者は、彼のキリストにおける関係のゆえに聖書を知ることにおいて世俗の人を越えて驚くべき益を得ている。しかし霊的釈義によって選択されたそのような祈りと黙想の方法その危険から自由ではない。復活のキリスト教のメッセージがコリントの共同体においてあまりにも霊化されたとき、パウロはキリストの復活顕現の歴史(Tコリント 15・3-9)を再確認することによってその事態を正しい方向に導いた。同様に、今日二つの千年王国の文化的・歴史的変化によって分裂させられるとき、私的・公的宣言は、その文化的(セム的とヘレニスト的)な背景のうちに聖書の中に与えられた歴史的説明と啓示と一致しなければならない。
     聖書解釈の問題を越えて、私たちの霊的生活において、受容できる人間とは何であるか/霊、そして受容できない人間とは何であるか/魂、との間におけるニーの区別は内省的な生活をうみだす。キリスト教信仰は神に自分自身を犠牲的にささげることとして認めず、「キリストにある」生活と共同体は世的な諸価値から離れたものとされる。その代わりに、ニーは「御霊の法則」−魂的と霊的の定義、そしてまったき救いを受け取るための知性の分析を提供する。しかるに、「キリスト者の標準」のような、彼の著作のいくつかは、その水準基標として正しく十字架をもっている、他方「魂の隠された力」や「霊の人」のようなものは、私たちにグノーシス的な心理分析を教えている。後者において、クリスチャンの成熟への鍵は再生したクリスチャンに簡単に見分けられる何かではない。むしろ、成熟についての「霊的知識」と一連の霊的照明によって補われた拡大された聖書研究によって、人は全き救いを受け取ることができる。
     しかしながら、真の霊性は聖霊の活力である、それゆえ神の恵み深い賜物である。それは心理的要求のリストに従うことによって叱りつけることはできない。聖め主としての聖霊は、私たちが私たち自身の願い(肉)に従って生きるときはいつでも、私たちに忠告し、私たちが神の意志(御霊)に従って生きるときは私たちを励ます。人が魂と「人間の霊」の性格を理解するかどうかは、無関係である。罪が知らされるやいなや、継続する成長は、悔い改めと聖霊の働きに私たち自身をより献身させることを条件としていた。
     「肉的」と「魂的」についてのニーの表現は、神の力の完全に独立的なそれ自身の力によって、機能し続けるところのクリスチャンの人格性の部分を全く力強く明らかにしいている。それゆえ、それはいくつかの内的心理的な法則が効力を有するというのは真実であるかもしれない。しかしそれはより豊かに神に仕えるためにそれらを暗唱できることは不必要なことである。ほんとうに、霊の人についての隠された機能の認識にあらかじめ条件を整えられた聖化は、謙遜で罪を深く悔いた心に至るよりもむしろ、誇りの霊に導くことになるかもしれない。
     教会とその生活に関するニーのアイデアの質をだいなしにしているのもまた、この知識の誇りである。特に、それ自身を地理的な地域性の基盤を称しないいかなる地域教会についてのニーの拒絶は、聖書からの彼の隠された知恵のひとつの実例である。「ローカル・チャーチ」という形式にともに団結したウィットネス・リーとウォッチマン・ニーに従った人々は、教理の「回復」は教会についての神の計画により誠実にさせるものであると信じている。しかしながら、聖書は特別な方法で私たちの諸教会にラベルをはるようには決して私たちに要求しない。聖書は私たちの内にいますキリストの御霊の力によって義の実または働きを要求し薦めている。

     最後に、私たちは、今日の教会におけるキリストについての福音主義的証しに最も破壊的であった過ち、牧会的権威に関する彼の教えにおけるニーの誤ちを見出さねばならない。聖書によれば、教会の宣教は王の王と彼の王国を宣言することである、しかしニーは、長老たち、彼ら自身を地方君主に、神の副官にしてしまったように思われる。「霊的権威」において述べられている地方教会の長老たちは疑問のない権威をもっている。そのような権威は、彼らの生活に神の主権的支配を宣言する神の選民には不適当である。ヘブル人への手紙は「あなたがたを支配している彼らに従いなさい」ヘブル13・7 と言っている。しかしヘブル書の著者にとって、長老に従うことはは他の者に神のことばを宣言することによって彼の模範に従うこと、彼のクリスチャン生活に見習うこと、神にある彼の信仰をまねることである ヘブル13・7。その「長老」という言葉が意味しているように、教会において起こされるリーダーは人格を支配することによるのではなく、説教する能力によるのでもなく、彼らの生活の主としてのキリストとの関係の成熟度によるのである。
     ニーのすべての霊的哲学は、指示を与えるところの成熟者は彼らの霊的「カリスマ」のゆえに神によって選ばれると仮定している。「霊的でない」人に恩をきせるところの落ち着いた顔、平安に満ちた微笑みそして霊気は、そのような超霊的な諸教会においてはリーダーのトレード・マークとなる。反して、キリストは、弟子たちの足を洗うことにおいて私たちのために模範となられた、しもべであるところのリーダーは霊的王子ではない。ニーのカリスマ的リーダーについての解釈は、グノーシス的グルに関する今日の文化的探求と心酔にアピールするのだが、それはキリストのようではない。教会が今日必要としているものは、神の誠実なるしもべのひとりとして、私たちに義の実を提示するリーダーである。
     ニー彼自身は、キリストと内的に葛藤のある信仰者との間のひとりの神秘的な仲介者として、いくにんかのクリスチャン読者にとって霊的グルとなった。彼らにとって、彼は霊的になるための鍵を「回復」したのであった。彼の様式とメッセージは、他のクリスチャン著者の価値を判定するガイドとなった。ニーのことばの霊的風味に欠けている人々は、肉的と軽く片付けられるか、それとも魂の力によって汚染されているかであった。
     しかしより多くのクリスチャンたちは、識別する目をもって読んだ。彼らはウォッチマン・ニーに帰するすべての書籍を喜んだり、また賛同したりはしなかった。彼らは違った文学様式や気質のクリスチャンによる書籍を読んだ。しかしニーは、私たちの多くに、どのように十字架上キリストの死が私たちに勝利をもたらしたかのより偉大な理解を教えた。ただこのゆえに、ウォッチマン・ニーの名前は二倍の栄誉を受けるにふさわしい。(Tテモテ5・17)