How Shall They Be Saved?

9章 死後伝道

2011/07/19


 

  1. 死は最後の機会ではない

    1. 地獄についての教理

    2. 運命は死において決定されないという人々

    3. 人間の反応を見分ける神の必要

    4. 比較宗教/終末

    5. 聞く機会の不適切さ

     

  2. 救いは死後に提供される

    1. その主張の基盤

    2. 1ペテロ3:18−20と4:6の解釈の問題

    3. 解釈の類型

    4. 選択肢の吟味

     

  3. 既述事項の追加
     

  4. 結論


  1. 死は最後の機会ではない(?)

    1. 地獄についての教理

    2. 運命は死において決定されないという人々

    3. 人間の反応を見分ける神の必要

    4. 比較宗教/終末

    5. 聞く機会の不適切さ

     

  2. 救いは死後に提供される(?)

    1. その主張の基盤
       

    2. 1ペテロ3:18−20と4:6の解釈の問題

      幾つかの問題がこの箇所の解釈に含まれている。それらの問いと与えられた解答の主要な類型は以下の通り:

      新改訳 Tペテ3:18-20

      3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

      3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

      3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

       

      新改訳 Tペテ4:6

      4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

       

      1. 誰がみことばを宣べたのか

        1. イエス(数えきれない解釈者たち)

        2. エノク

        3. ノア、しかし実際にはキリストが聖霊において彼を通してみことばを宣べられた
           

      2. そのみことばは誰に宣べられたのか

        1. 堕落した天使たち

        2. 陰府にいる人

        3. 大洪水において死ぬ直前に悔い改めた人

        4. ノアの時代に生きていた人々
           

      3. 何が宣べられたのか

        1. 福音:救いが可能とされる良き知らせ

        2. 死に対するキリストの勝利

        3. 裁きあるいは罪の宣告
           

      4. そのみことばは何時宣べられたのか

        1. ノアの時代

        2. イエスの死と復活の間

        3. イエスの復活後、昇天以前

        4. ちょうどマリヤへの顕現後、イースターの日曜の朝のキリストの「目に見えない昇天」の時

        5. 単一の文字通りの出来事というよりむしろ、救いの普遍性は歴史を通じて象徴的なものである

           

    3. 解釈の類型

       
      すべての可能な結合を考慮するとき、これはおそらく180の異なった説を許容することになる。しかしながら、多くの場合においてそれらの問題のひとつに取り上げられる立場は、他の問題に有益な選択肢制限されるゆえに、実際の数はかなり少なく、基本的に以下の六つの一般的な解釈の類型に減じられる。

      1. 「霊において」キリストが、箱舟を作っていた時代にノアを通してみことばを宣べられた。これは、そのときは地上にあったが、今は「捕われの霊たち」(すなわち、陰府にいる人々)である不信者なる人々に与えられた悔い改めと義のメッセージであった。
         

      2. 彼らは地上の生涯の間そのような提供を役立てることはなかったのだけれども、キリストの死と復活の間に、彼らに悔い改めと義のメッセージを与え、従って彼らに信じ救われる機会を提供されるために、陰府にいる人々のもとに行かれ、みことばを宣べられた。
         

      3. この期間の間、キリストは陰府にいる人々のもとに行かれ、彼が彼らに対して勝利されたこと、そして彼らへの罪の宣告は最終的なものであるというみことばを宣べられた。
         

      4. この期間の間、キリストは大洪水直前に悔い改めた人々に解放を宣言された。彼は煉獄への投獄から天国へ彼らを導かれた。
         

      5. 彼の死と復活の間、また彼の復活と昇天の間、キリストは陰府に下られ、大洪水以前に女性をめとることにおいて罪を犯した堕落した天使たちに勝利を宣言された。
         

      6. みことばを宣べることへの言及は、文字通りとられるべきではない。それは、贖いがその範囲とか影響において普遍的であるという思想からこの絵画的描写において伝えられている象徴的なものである。

         

    4. 選択肢の吟味

      1. 問いへの基本的な問題のひとつは、何が宣べられたのかに属し、特に 3:19と 4:6の“ケリューソー”ということばの意味を中心に展開している。上記の3と5の見方によれば、これは聴衆に対して裁き、罪の宣告、あるいは勝利の宣言を宣べることを意味しているにちがいない。1と2の見方に関して、それは悔い改めの必要性と罪の赦しの可能性についての宣言を意味している。4の見方では、赦しと解放の宣言を意味している。したがって、1と2と4において、「良き知らせ」として理解されるべきである。しかるに、3と5の見方においては、「悪い知らせ」としてみられるべきである。ここではどちらの意味として理解されるべきなのか。
         

      2. ここで使用されている言葉は、単に宣言のための広範な言葉である。それは必ずしも伝道とか良き知らせの宣言に限定される必要はない。しかしながら、もしここでの言葉が悪い知らせとして取られるべきであるとしたら、そのときそれは幾つかの基盤に関して問題があるように思われる。ひとつのことに関して、それは他のイエスの説教に関して本当に一貫していない。彼は確かにパリサイ派の人々に厳しい非難やさらに罪の宣告の言葉を発せられたが、すでに牢獄に入れられたり、他の人々に害を与えたり、あるいは誤った方向に導いたりすることのできない人々に「威張り散らされる」イエスについて示唆しているものを見出すことは困難である。さらに、その脈絡はこの解釈にうまくはまっているようには思われない。その主張の全主旨は証しをすること、人の信仰について説明すること、などに関心があるように思われる。事実、15節は「優しく、慎み恐れて」この証しをすることについて語っている。これは罪の宣告とかキリストの側の勝利についての描写とほとんど一致していないように思われる。このことは、解釈の1か2に賛意を表明しているように思われる。
         

        新改訳 Tペテ3:15

        3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
         

        3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

         

      3. さらなる疑問は、そのメッセージの受領者に関係している。彼らは誰だったのか。彼らは人間であったのか、あるいは天使であったのか。多くのものは、ノアの時代の間に不従順であった天使たちのところに行かれ、みことばを宣べられたということについて語っているエノク書と平衡の思想とされてきた。その主張は、伝承がペテロの読者が親しんでいたものであり、彼はそのときに単にその線にそって彼の主張の雛形としたとされた。さらに、創世記6章の「神の子たち」は天使たちであったという主張がある。そのとき、創世記6章はUペテロ 2:4 とユダ 6 と結び付けられている。最後に、Tペテロ 3:19 はそれらの幾つかの節と堕落した天使たちに宣べられたみ言葉の思想と結び付けられている。
         

        6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

        6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

        6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

        6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

        6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

        6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

        6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

        6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

        新改訳 Uペテ2:4

        2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

         

        新改訳 ユダ 1:6

        1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

         

        新改訳 Tペテ3:19

        3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

         

      4. その時代の環境において、天使への少なからぬ関心があったゆえに、この見方がかなり推薦されている。しかし、それにもかかわらず、それには問題がある。ひとつのことは、創世記6章の正しい解釈が「神の子たち」を天使と同一視しているとの保障がない。これは大いに議論のある箇所である。さらに、天使が子孫を残すために人間をめとるという思想は、マタイ 22:30 におけるイエスの陳述と矛盾しているように思われる。後半の箇所は、彼らが結婚しないということを示唆しているように解釈されうるのに、彼らは結婚している。しかしながら、それは幾分拡大解釈をしているように思われる。
         

        新改訳 マタ 22:30

        22:30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。


         

      5. これは洪水の時代に悔い改めた人々への解放の宣言であるが、裁きを避けるには余りに遅すぎるという第4の見方についてはどうか。この見方に関して同様の幾つかの難しさがある。ひとつのことは、大洪水の説明はそのような悔い改めへの言及が含まれていない。もうひとつのことは、これは旧約聖書時代に生き、死んだ人々の残りの人々と比較して、それらの人々に特別のクラスを生み出している。なぜこのことがなされるべきなのか。もし悔い改めた旧約聖書の人々が霊的に助命されたとしたら、おそらく、彼らは大洪水において肉体的には死ぬけれど、それらは同様に扱われるであろう。それでは、なぜこの宣べ伝えられたみことばは彼らに焦点が当てられるべきなのか。
         

      6. ウォルフルト・パネンベルクは、この箇所は象徴的に理解されるべきであるという第6の見方を主張している。使徒信条の講解において、彼は陰府においてキリストがみことばを宣べられたことについての初期の教会の伝承を議論している。そして、新約聖書において、この伝承が明確にそれに言及している唯一のテキストTペテロ 3:19-20; 4:6 で見出されることに留意している。彼がこの陰府くだりとみことばを宣べることを文字通りに取らないのは、それが陰府に下られたのは十字架に釘付けられたときの主なのか、あるいはよみがえられたときの主なのかというルター派と改革派の論争が、物事自体がもつイメージを混乱させているその種の知性においてのみ起こりうるという彼のコメントに示唆されている。これは、それ自身がTペテロの陳述に帰する「ますます死者の領域あるいは陰府においてイエスがみことばを宣べられたことについての神話的概念」について語っている、彼の「イエス:神そして人」においてさらに明確なものとされている。それはむしろ「呪いの下にあるイエスの代償的な死の普遍的意味の表現」として考えられるべきである。彼はこれをもう少し長い文章で説明している:

        死者の領域にあるイエス自身による初期のキリスト教の宣教のメッセージの宣言は、十字架刑のような、ひとつの歴史的出来事ではない。さらにこの概念の絵画的特徴は、特別な歴史的に限定できる出来事である復活のケースにあるような、単に一部分の表現の様式ではない。イエスの陰府下りと死者の領域におけるみ言葉の宣教についての象徴的言語は、まさに偽ってイエスの復活について主張されたものである。すなわち、もうひとつの出来事、彼の死の真の重要性についての陳述である。
         

      7. パネンベルクの立場の基盤を確かめることは難しいことである。使徒信条と私たちの信仰に関係のある聖書の証しの性質に含まれている伝承の資格は、完全に明確にはされてない。パネンベルクの神学において、聖書の手伝承でも、教会の伝承でもない自動的に限定された権威を伝えている。したがって、これが信仰のゆえに私たちに推奨すべきものであると何故感じているのかに関して幾分困惑がある。最後の分析において、聖書において現れているこの思想は聖書以外の基盤の上に権威あるものとして受け入れられているように思われる。
         

      8. これは私たちに二つの主要な選択肢として第一の見方と第二の見方を残す。第二の解釈は、死後伝道の思想を支持するものとして用いることのできる唯一のものであるように思われる。しかし、それはみことばの宣べつたえはノアの時代からそのグループになされたものなのか、あるいは他の人たちには関係のないものであったのかに関して幾つかの問題に直面する。換言すると、ノアの時代の人々への言及との脈絡の結びつきはこの理論に関して奇妙なもののように思われる。加えて、それは他の関連からの支持を引き出そうとしている。しかし、詳細な吟味においてそれらはさらに曖昧なものである。それらは神がハデスにイエスの魂を捨て置かれないへの言及、あるいは三位一体の第二位格が地に下られたことの思想ともっと合致しているかである。
         

      9. もちろん、最初の解釈は捕われの「霊たち」と宣べられたみことばとの両方に難しさがある。しかしながら、後者は平衡箇所はないように思われる。たとえば、ルカは聖霊がダビデの口を通して預言されたと語っている。そして「主のことばがわたしにもたらされて、言った‥。」という表現は、事実上旧約聖書預言者の典型である。捕われた霊たちに関して、セルウィンはプニューマは人間の霊たちに言及して(例えば「属格の語法に限定する」ことなく)決して独立して用いられておらず、したがって良き天使の霊たちと悪しき天使の霊たちに言及されているにちがいないと主張している。しかし、グルーデムはこれはそのケースではないということを明らかにしている。グルーデムはさらに、「捕われた霊たち」に関する時代の問いは著者の時代のについての見方から理解されるとよいと主張している。
         

        新改訳 使 1:16

        1:16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

         

        新改訳 使 4:32

        4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。


         

      10. おそらく、それらの二つの見方の間で最も重要な問題は、脈絡である。その箇所全体の要点は、反対に直面したときにさえ、人の信仰に対して誠実で優しく、尊敬に値する証しであるように思われる。第一の見方は後代にあまり人気はなかったのであるが、ノアの時代の人々への言及に加えて、わたしにとって第一の見方に賛成すべきように思われる。通常の異論を説明したり、選択肢の弱さをうまく指摘したりすることにより、この立場についての大変注意深い擁護論が最近発展してきた。
         

      11. しかしながら、より広範な脈絡の問題は聖書において教えられているより広範な教理的問題とこの教えの調和に関心を寄せている。ここで私たちは、福音主義者と保守主義者は一般に陰府下りとキリストのみことばの宣べられたことを保持していないことを観察すべきである。1960年代後半、ホウィートン大学のチャブレンは、使徒信条に関する一連の礼拝メッセージが良いと決定しました。聖書学部のメンバーは使徒信条の異なった箇所のそれぞれを説教するよう求められました。しかしながら、だれもそれを信じていなかったから、だれひとりとして「陰府にくだられた」という箇所から説教したがりませんでした。その箇所はそのシリーズから取り除かれました。
         

      12. この箇所と概念についてのためらいの主な理由は、聖書は死がキリストに対する決心のすべての機会を終わらせると教えているという確信に由来している。その結果、永遠の運命は死において定められる。これは幾つかのテキストの基盤にたって主張される。ひとつはラザロと金持ちの物語あるいは、例話である。これは例話として理解されるべきかどうかに関して少なからぬ論争がなされてきた。もしそうだとしたら、登場人物のひとりに名前がつけられている唯一の例話である。それが例話であると主張する人々は、例話から教理を得ることはできないと主張している。しかし、イエスの例話において、言及されている特別な出来事が歴史的出来事ではなかったかもしれない時て゜さえ、その出来事の詳細において何事も人生に真実であったということに留意すべきである。したがって、放蕩息子の例話において言及されている出来事はある実際の家族の三人のメンバーに起こっていなかったかもしれないが、人生の環境に反した例話には何事も存在しない。その時代の文化に反してなにも存在しない。同じことがより厳密な研究における他の例話において真実であることが見出される。しかしながら、もしこの箇所が例話であるとしたら、ラザロと金持ちは実際の人間でないかもしれない、そしてこの出来事は起こらなかったことかもしれない。しかし、もしこれがこのことを超えた世界についての、そして死に続く人間の状態についての不正確な描写であるとしたら、この例話は他の例話とは異なっている。
         

      13. それはまた時々、その例話の主要なポイントは終末論を教えることではないと異議を唱えられている。例えば、サンダースは、「そのような字義的解釈は、特にルカ16章の三つの例話の論点は、特に終末論についでてはなく、富の使用について私たちに教えることであるという事実の観点において学問の世界では一般的に受け入れられていない。」と陳述している。これは、ひとつの箇所から引き出される唯一の教訓は中心となる教訓であると仮定する通常の誤謬の実例であるように思われる。しかしながら、これは厳密なかたちで弁明の事由の必要があるひとつの仮定にすぎない。というのは、もし基本的な教えが三段論法の結論のようであるとしたら、その次にその結論がその前提から真実なものとして続くものであるとしたら、それらの前提もまた真実であるにちがいない。それゆえ、結論とともに前提をその箇所から引き出すかもしれない。
         

      14. 同様に他の箇所も機会に終止符を打つものとして死の思想について語っているように思われる。詩篇49篇の要点は、罪人が墓に下り、そこで朽ち果てるということであり、そこから解放されるいかなる可能性も示唆されてはいない。黙示録 20:11-15 は、彼また彼女のわざを基盤として裁かれることを望んでいるそれぞれの人々が裁かれ、そして、すべての人が有罪の申し開きをさせられる、大いなる白い裁きの御座の情景を含んでいる。そこにはいかなる種類の救いの提供もない。加えて、ヘブル 9:27 の帰結は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」は、受け入れの追加的な機会へのいかなる言及もなく、ひとつの場所から他の場所への不変の移行を仮定しているように思われる。これは沈黙からの主張に分類されるかもしれない。しかし、証拠の重荷は介入を決定するその機会を主張する人々の上に置かれているように思われる。
         

        新改訳 詩 49:1-21

        49:1 すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。

        49:2 低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。

        49:3 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。

        49:4 私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。

        49:5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。

        49:6 おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。

        49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。

        49:8 ――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。――

        49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。

        49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。

        49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。

        49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。

        49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。セラ

        49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。

        49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

        49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

        49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

        49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

        49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。

        49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

         

        新改訳 黙 20:11-15

        20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

        20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

        20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

        20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

        20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

         

        新改訳 ヘブ 9:27

        9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、


         

      15. それらの箇所の解釈において、完全に満足のゆくものはない。私たちは困難さが最小のものを見出すことで満足しなければならない。ひとり聖書解釈者そして神学者として、私は特にその文脈において最も問題の少ないものとして、それらのうちの最初のものに、御霊によってキリストがノアを通して当時の人々に語りかけているという思想を見出す。しかしながら、私が組織神学者としてその箇所に、全聖書の啓示を首尾一貫した全体においてもたらそうと試みつつアプローチするとき、それはさらに強靭さをもって好ましいものと分かる。

     

  3. 追加的前提

    1. たとえ私たちが、キリストが陰府に下られ、そこに投獄された罪人への救いを提供されたと語っている解釈を受け入れたとしても、死後伝道の議論は必ずしも成功していないということに留意それるべきである。というのは、たとえそれが達成されたとしても、それはただ単にそれらのわずかな人々の面倒をみるだけである。それは、その時以来生きていた人々や、あるいは未来に生きるであろう他の人々についてはなにも語っていない。なるほど、すべての機会の終局である墓あるいは死を超えた救いの原則は破られる。しかし、それは他の人々が救われるであろうという保障を与えるものではない。それは独特の状況であるかもしれない。すなわち、キリストがそれらの投獄された罪人に対して御言葉を宣べられ、救いを提供されたゆえ、来るべき他の人々に対しての機会もまたあるであろうという、議論における追加的な結びつきを立証することが必要である。どんな支持がこの特殊な前提のために提供されているのか。
       

    2. 私たちは、この問題についての立証、あるいは明らかな事情通においてさえ驚くべき欠落を見出す。たとえば、サンダースは、前者から後者にすばやく動いている要点を見ているようには思われない。ブローシュは、「陰府下りの教理が主張しているものは、完全なかたちで福音を決して聞かなかった人々に対する救いの機会である最初の機会の普遍性である。」と陳述している二つのものを識別しているように思われる。「しかしながら、それは私にとって陰府下りの教理が教えているであるようには思われない。もしブローシュの方法で解釈するとしたら、その個所が主張しているものは、イエスが、すべての人が第一の機会を保障されているということではなく、その時にハデスにいる人々に御言葉を宣べられ、救いを提供されたということである。パネンベルクもまたここで多くの助けを提供してはいない。彼はこれを第一義的に所長として見ている。その結果、真理は特殊な出来事と同一視されるべきではない。しかしながら、これは私たちが聖書を巧みにさばく方法の明らかに重大な改訂を必要としている。
       

    3. ジョージ・ビーズリー・マーレーは、幾分異なったアプローチをとっている。明らかに、彼はここに言及されている世代はまた歴史上最も悪しき世代としてみなされているという事実であることをその個所の解釈における鍵とみなしている。したがって、それは極端なケースとして、すべての世代に対する希望があるという真理の実例となる。彼は以下の通り語っている。

      二つの陳述(3:19 と 4:6)の第一義的関連は、同じである。そして、著者の思いにおける第意義的な学習は、キリストの贖いのみわざの普遍的な範囲とすべてのひとはそれを知るべきであるとの神の望みを例証している。十字架とイースターの間のキリストの御言葉の宣べつたえは、歴史上の最も悪しき世代が彼の憐れみの結びつきと贖いの範囲を越えたところにはないということを立証することを意図している。ここに、神のより偉大なメッセンジャーの御言葉の宣べつたえを拒否した大洪水の世代よりもさらに大きな罪をおかし、最後の裁きに直面する現在の世代に対する望みが存在する(4:7)。
       

      新改訳 Tペテ3:19

      3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

       

      新改訳 Tペテ4:6

      4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

       

      新改訳 Tペテ4:7

      4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
       

      しかしながら、ここでもう少しの証拠と議論が求められるだろう。ビーズリー・マーレーは、これが著者の第一義的な意図であったということをどのように知るのだろうか。こごのもっともらしい説明は、それ自身理論以上の証拠はなく、ありそうに思われるものに変えられてしまっている。
       

    4. クラーク・ピノックにとって、彼が呼んでいるように、その主張は確かな論理の上に置かれている。彼は、死後についての思想に関する聖書の保障はキリストの陰府における御言葉の宣べつたえにみている。彼が「陰府下りの意味は、生涯において福音に決して出会わなかった人々が死後の状況においてそれを受け入れることができるということなのだろうか。そのような可能性は、すべての人がそれを知るであろうところの恵みの普遍性と神の望みを補うだろう。最も悪しき罪人さえ神の憐れみの範囲外にはなく、神は彼らに対してさえ忍耐強いということを明確にしている。」と語っているとき、彼は同様の主張をビーズリー・マーレーにそれにさせているように思われる。それは可能なのか。はい、確実にそれはひとつの可能性である。しかしながら、それは本当に可能なのか。それは真の問いである。ピノックは、「死後の出会いに関する聖書の証拠はありふれたものではない。」ことを知っている。しかし、「その乏しさはそのための神学的議論の力において相対的に扱われる」と主張している。

  4. 結論

    1. したがって、結論において、私たちは、明確な聖書の教えが存在せず、そして論点において他のより明確な聖書の教えと矛盾しているように思われる死後伝道の見方を受け入れるかどうかに直面している。アピールされている主な聖書個所は、ロバート・モウンスが「新約聖書のすべての中で理解するこの最も困難な個所と広く認識されている」と語っているものである。そのように曖昧な個所に人間の永遠の運命についての教理を置くことは奇妙なことのように思われる。。この見方の提案者の認可において、一連の聖書解釈や哲学や他の前提を基盤としているその教理は、多くのケースの中に、最良の可能性があり、数においてはわずかである。しかしながら、ひとつの理論が一連の陳述や推論を基盤としているとき、それぞれはかなり低い確率のレベルのうちにある。幾つかのステップや前提の確率は、加えられず増加させられる。したがって、四つのステップの議論において、それぞれのステップは75%の確率であり、結論における確率は32%にすぎない。このような見方に関する証拠の重さは、それを提案している人々の上に置かれている。そしてここで、観察されなければならないことは、その証拠が論証にはひどく不足していることである。