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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2009/07/01-07/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
今月は、主として「デイスペンセーション主義聖書解釈」
の課題を扱うかたちとなりました。
まず、この課題を正面から扱った日本語の文献として
岡山英雄論文『患難期と教会』とその著作『小羊の王国』
の紹介と8月再版の案内をさせていただいています。
この論文を基本資料として、「千年王国と大患難の見方」
について集中講義をさせていただき、そのDVD講義録を
作成し関心のある方々に提供させていただいています。
さらに、この論文の立場にたって、ヨハネの黙示録の講解
説教をすると「どのようなメッセージが聞きとれるのか」の
挑戦をさせていただいています。この取り組みにおいて、
岡山先生の論文とともに、ラッドの黙示録注解書とボウカム
の黙示録の神学は、大変参考になっており、そのポイント
をメッセージとともに記述させていただいています。
そして、今月には岡山英雄著『小羊の王国』が再販され
ますので、9月中旬にはこの著作をテキストに黙示録に
ついての集中講義を行い、DVD講義録を作成する予定
です。また、10月にはこれをテキストとして牧師会での
基調講演を行い、質疑応答を受ける予定です。お祈り
ください。また、このテーマやこれらの資料に関心のある
方は、メールにてDVD等の資料をお求めになると良いと
思います。よろしくお願い致します。
あぐろ
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2009.08.02 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「旧新約の真の神の民の軍隊」
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地上:額に印を押された十四万四千人の軍隊
…旧新約の真の神の民、真の十二部族
天上:数えきれないほどの大群衆による礼拝
…あらゆる国民、部族、国語
大きな患難から抜け出て来た者たち
…衣を小羊の血で洗って白くした
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2009.07.26 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「小羊が封印を解いたとき」
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白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬(v.1-8)
祭壇の下にいる殉教者の魂(v.9-11)
御怒りの大いなる日が来た(v.12-17)
神学書:
G.E.Ladd"A Commentary on the Revelation"pp.95-109
…一節単位の詳細な注解がなされていて大変
参考になる。ひとつどうかなと思ったのは、二節
の「白い馬」の箇所の解釈。「白」をキリストの関
連聖句の中で解釈し、「勝利」を福音宣教の線で
解釈しているのだが、他の三頭の馬の解釈と符
合しない。この四頭の馬は基本的に、「害をもた
らす」否定的な文脈の中で解釈されるべきだと
考える。
この四頭の馬と騎手のイメージの引用源である
旧約聖書ゼカリヤ書6:1-8も、四台の戦車の役
割は、「ユダを捕囚にしたバビロンが神のさばき
を受けて崩壊し、メディヤ人ダリヨスが即位する
が、その後多くの反乱、混乱が起こった」を指す
記述である。
レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』pp.101-111
…「第一の馬は『白』であり、その乗り手は『弓』
を持っている。白い馬の乗り手は、後に『神の
ことば』と呼ばれているので(19:11-13)、多くの注
解者はこれをキリストとする。しかし馬の色以外
に類似点はないので、これでは不十分である。
「これはヨハネの幻全体の構造を台無しにする」
(ビアズレー・マーレー)この章のすべては封印
を示しており、一連のわざわいが明らかにされ
てゆく。…騎手は、福音の勝利に導く進展の象
徴であるとも考えられる。しかしそれを示すもの
はない。四人の騎手は、全体として、破壊、戦慄、
恐怖を示している。これは戦争や、勝利の征服
戦争を表している」(p.103)という解釈は、この箇
所の文脈から最も自然な解釈であると考えられ
る。黙示録全体から解釈するのは大切だが、
この「白い馬の騎手」をキリストとし、「勝利」を
福音宣教の進展と解釈するのは、行きすぎで
ある。
ビリー・グラハム著『今よみがえる黙示録の預言』pp.115-158
…「神だけが知っている時に、四人の騎手の乗る
馬の、雷鳴のようなひづめの音が、人間の歴史
の舞台を駆け抜けて行きます。そして想像を絶す
る大規模の惑わし、戦争、飢え、死をもたらすでし
ょう。」黙示録の四頭の馬と四人の騎手について
の適切な解釈とともに、今日的かつ適切な適用
がなされている。以下に、項目のみを紹介する。
霊的な惑わし
ニューエイジ
惑わす者の働き
注意が必要
戦争をもたらす者
戦争の狂気
悪の終わり
獣の到来
選択の結果を認める
地上の飢饉
絶望の只中の浪費
子供たちを来させなさい
少しの予防
清潔な水と健康
全体を見通す感覚
キリストの名によって
私たちクリスチャンの務め
死の影
青白い馬と青白い騎手
地獄の幻
神の愛
中絶という虐殺
エイズの流行
民族紛争の勃興
地球を救うために
義に立ち返る
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2009.07.19 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」
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御座にある方の手に巻物があるのを見た(v.1)
巻物を開く者が見つからなかったので
激しく泣いていた(v.2-4)
ほふられた小羊が封印を解くことができます(v.5-14)
神学書:リチャード・ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』pp105-106より
「封印を解かれた巻物」…
巻物は、これまで秘密だった神の目的に従い、
神の地上支配の確立において小羊の勝利が
効果的となる仕方を啓示するはずである。小羊
だけが、巻物を開いてその内容を啓示すること
ができる。というのも、小羊の勝利こそが、巻物
に記された神の目的の遂行を可能にするからで
ある。もっとはっきり言えば、後で見るように、キ
リストに従う者たちが証しと犠牲と勝利に関して
彼に従うことで、どのように神の国の到来に参加
するはずであるかについて、巻物は啓示するであ
ろう。小羊は征服したので、彼は自分に従う者
たちに、彼らもまたどのように征服するはずである
のかを啓示することができる者なのである。
神学書比較
本日は、ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』
から引用しています。ヨハネの黙示録については
多くの解説書が出版されています。ディンデル聖書
注解では、レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』
がありますが、概説的で説教準備には十分なもの
ではありません。メリル・テニイ著『ヨハネの黙示録』
は概観や分析からは教えられますが、黙示録の
本質的メッセージの構造は見えません。その他、
多くの黙示録についての著作の多くが、似たような
現状にあると思います。
そのような中で、岡山英雄師が師事されたボウ
カム師の著作は、“ぜい肉”のない著作といいま
すか、全体の概観の捉え方、メッセージの本質、
難解な主題の分析、今日的な適用等のすべてに
おいて、卓越した洞察力をもった書籍だと思い
ます。岡山英雄師が、大きな犠牲を払って私費
留学をされた理由を教えられます。黙示録の深
みのある研究を目指す方は、岡山師の論文や著
作を足がかりに、ボウカム師の著作集を収集し
て研究されるのが良いと思います。
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2009.07.15 Revival Japan : 「宗教的・カリスマ的経験の座標軸」
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I 聖霊運動−21世紀への神学の動向
21世紀への神学の動向
アバ意識−“サンシップ”
“アドプション”の教理
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2009.07.12 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「天にひとつの御座があり」
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ラッパのような声で「ここに上れ」(v.1)
天にひとつの御座があり(v.2)
四つの生き物、二十四人の長老(v.6,10)
「天の視座」…
ヨハネは孤島パトモスにありながら、聖霊によって、
時空を超えた神の御座に引き上げられ、天の礼拝
を目撃し、再び地上へと戻ってくる。そのとき、たと
え眼前の現実は同じでも、それを見る視座は異なっ
ている。彼は同じ現実を、異なる光、天の新しい光
の中で見つめ、地上の王国の逆説性を悟った。
黙示録において、天の幻と地の幻は交互に現れ、
鋭く対比されている。四〜五章では、ヨハネは天に
上げられ、永遠の神と「小羊」への礼拝を目撃する。
…このような天と地との対比によって、黙示録は、
私たちに視座のありかを問いかけ、地上をはるかに
超えた天の視座を得るよう求めている。
聖書解釈のポイント…
v.1「ラッパのような声で」「ここに上れ」を空中再臨、
携挙と解釈してはならない。(G.E.Ladd“A Commentary
to Revelation of John”pp.70-78)
この箇所は、第二コリント12章のパウロの第三の
天に上った個人の経験との類比の中で解釈すべき
である。(G.E.Ladd."The Blessed Hope" pp75-77)
「12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
ヨハネは、この後、天と地の間の行き来を経験する。
v.10:1, 18:1において、ヨハネは地上にいて、「御使い
が天から下ってくるのを見た」と書いている。
v.4,10「24人の長老」を空中携挙された教会、クリスチ
ャンと解釈してはならない。v.6-8の「四つの生き物」
がそうであるように、これらは天界の生き物であり、
24人の長老は天使的被造物であり、天界の統治を
神のかたわらでつかさどる政治的役割をもつ存在
として解釈されるべきである。
黙示録の解説書として、エリクソン著『キリスト教神学』
第四巻、岡山英雄著『小羊の王国』、論文『患難期と教会』
を推薦しています。推薦書にもう一冊加えさせていただきます。
それは、岡山英雄先生が、42歳に大きな決断をされ、
福音派の黙示録研究の権威である英国のアンドリューズ
大学のボウカム先生の下に私費留学をされました。
そのボウカム先生の著作集のひとつが翻訳されています。
黙示録解釈のポイントを丁寧に解説されています。
私の「黙示録連続講解説教」の資料源のひとつです。
大変分かりやすい本です。キリスト教書店に行かれることが
ありましたら、ぜひ手に取って読んでみてください。
○リチャード・ボウカム著『新約聖書神学Nヨハネの黙示
録の神学』新教出版社
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2009.07.05 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「全世界への試練の時には、あなたを守ろう」
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誰も閉じることのできない門を開いておいた(8節)
ユダヤ人だと自称しながら実はそうではない者(9節)
試練の時には、あなたを守ろう(10節)
神学論文:岡山英雄著『患難期と教会−黙示録の終末論−』より
患難期前携挙説が釈義的に成り立ち得ないことに関しては、
すでにラッドとワルブードの1950年代の論争があり(G.E.
Ladd, The Blessed Hope,
Eerdmans,1956)、またその後、
R.H.Gundry のThe Church and the Tribulation: A Biblical
Examination of Posttrbulationism(Zondervan,1973)や、
The Rapture: Pre, -Mid, or -Post-Tribulational ?
(Zondervan,1984)という優れた論文集も出版れているの
で省略するが、(特にの中の、D.J.Mooの論文
pp.169-211
を見よ。)
幾つかの重要な点のみを指摘するなら
患難期前携挙説は、教会史においてきわめて歴史の
浅い特殊な説であって、初代教会から中世、宗教改革
を経て十八世紀に至るまで、このような終末論は存在
しなかった。(近年この説には大きな変化があり、「漸
進的“Progressive”ディスペンセーショナリズム」と呼ば
れる説をとる者たちは患難期前携挙説を不可欠なもの
とは考えない。)
黙示録の記述のほとんどは、患難期にかかわるもので
ある。患難の時代における神の民のあり方、警告と励
まし、戦いと勝利などが、この書の主題である。(患難
期前携挙説をとる者は、黙示録四章一節で教会は天
に携挙され、四章以下は地上に残されたイスラエルの
ためのものであるとするが[ワルブード]、現代の主要な
注解者で、このような解釈を支持する者はいない。)
マタイ24章1-31節は、反キリストの出現、患難期、続い
て再臨という終末的順序を示唆している。
第二テサロニケ2章1-12節によれば、教会は、反キリス
ト(不法の人、滅びの子)の支配する患難期を通って
再臨の主に会う。「まず背教が起こり、不法の人が現れ
なければ主の日は来ない。」
患難の用例を見ると、患難は教会にとって避けるべきものでは
なく、教会の地上における本質的なあり方である(ロマ5:3、Uコ
リント4:17)。(たとえばイエスの預言「あなたは世にあっては患難
があります」[ヨハネ16:33]や、パウロの警告「私たちはこのような
苦難に会うように定められている」[Tテサロニケ3:3]など)。
神の民は「多くの苦しみを経て」(使徒14:22)、苦難によって練られ、
清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、
マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主に会う。
(『福音主義神学 31』特集テーマ「終末論」pp.38-39)
R.H.Gundry, “The Church and the Tribulation: A Biblical Examination
of Posttrbulationism” の(Zondervan,1973)
概要
問題にアプローチする
ディスペンセーション主義教会論の背景
期待と切迫性
怒りと携挙
黙示録における関連箇所
主の日
Tテサロニケ4:13-5:11における慰め
Uテサロニケにおける矯正
オリーブ山講話
世の終わり
世の完成に関する補論
復活
ヨハネ14:1-3における約束
沈黙、調和、区別
審判
歴史的確認
七十週の未来性に関する付記
大患難期後再臨説の切迫性に関する付記
大患難中期再臨説に関する付記
部分的携挙説に関する付記
パルーシアのストロームベックの見方に関する付記
Three Views on the Rapture: Pre, -Mid, or -Post-Tribulational ? (Zondervan,1984)
目的、仮説、そしてアプローチ
患難期と再臨
患難期の本質
再臨の語彙
携挙−三つの基本的聖句
Tテサロニケ5:1-11
Uテサロニケ1-2章
オリーブ山講話
黙示録
イスラエルと教会
切迫性
結論
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2009.07.04
一宮基督教研究所
C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』
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今日は、少し時間がありましたので、C.B.バス著
『ディスペンセーション主義の背景』を半分ほど
読みました。ディスペンセーション主義の歴史的な
誕生と教会論的意味合いについて、知らなかった視
点も幾つか教えられました。客観的で結構読みやす
い書物です。1960年初版で古い書物ですが、2005年
に再販されました。これは、すぐれた神学校レベル
では、ディスペンセーション主義の問題は、過去の
ものとなっているのですが、バイブル・スクール・
レベルのファンダメンタルな聖書学校や大衆的な関
心のレベルでは、まだまだこの誤った聖書解釈法が
息づいているということから、改めて「ディスペンセ
ーション主義の背景」についての客観的情報の必要
性が高まっているということのようです。
1. ディスペンセーション主義の特徴
(ア)ディスペンセーションの本質と目的
(イ)聖書の字義的解釈
(ウ)イスラエルと教会の二分法
(エ)教会についての制限された見方
(オ)王国のユダヤ的概念
(カ)延期された王国
(キ)律法と恵みの相違
(ク)聖書の分割・区分された見方
(ケ)患難期前携挙説
(コ)大患難の目的
(サ)キリストの千年王国支配の性質
(シ)永遠の状態
(ス)キリスト教界の背教的性質
2. J.N.ダービー:人物に対する評価
(ア)人物についての評価
(イ)宗教的指導者としてのダービー
(ウ)結論
3. ディスペンセーション主義の歴史的背景
4. ダービーの教会論
(ア)荒廃している教会
(イ)教会の本質
(ウ)キリストのからだとしての教会
(エ)神のみすまいとしての教会
(オ)キリスト:教会の頭
(カ)地上にある教会
(キ)教会の一致
5. ダービーの終末論
(ア)教会の地上にある栄光
(イ)教会の天上にある栄光
(ウ)イスラエルの希望
6. 今日の教会生活にとっての価値と意義
(ア)ダービーの個人的貢献
(イ)天上にある教会
(ウ)字義主義的解釈の原則
内容は、客観的なデータを駆使して、公平・中立
なスタンスから大変すぐれた分析・評価がなされ
ています。それらの分析の中に、U先生の分析・
評価と同じものが見受けられました。以下に、そ
の要点を整理したものを書きます。参考にしてく
ださい。
●付記:U先生「組織神学」講義ノートより
●ディスペンセーション主義聖書解釈の問題を扱う意図
- 単に批判のための批判ではなくて、バスやエリクソンの取り扱いのように、ディスペンセーション主義のポジティブに評価すべき部分とネガティブに批判すべき部分の両面でみていきたいと思います。ディスペンセーション主義の歴史的背景、歴史的意義、神学的課題等々についての客観的な情報を収集し、それを公平・中立な視点から分析・評価していくことが大切と思います。
- 終末論に対するスタンスの取り方は、エリクソンが『キリスト教神学』第四巻、pp.367-368に記述していますように、共通項「個人終末論:個人の時間的死、霊魂の不死、死から復活までの中間状態」と「世界終末論:世の終わりのしるし、キリストの再臨、死者の復活、最後の審判、新天新地」という幹となる教えで一致すべきであり、「大患難、再臨、千年王国」の時期と関係についての相違は枝葉の教えであり、それらは尊重しあうべきである。そして、枝葉の教えで特定の立場をとることを正統派の基準としたり、キリスト者の交わりや一致の条件とすべきではないと思います。
- しかし、「それぞれの所属している群れや神学校においては、より聖書的な終末論理解、また黙示録理解を求めて探究の手をゆるめない」ということも大切な部分です。もしそのような取り組みがなければ、「聖書解釈が内包する課題」は永遠に克服されませんし、終末論また黙示録から、今日の必要に対する聖書的なメッセージをくみ取ることもできなくなると思います。
- ひとつの団体の、ひとつの集会で、ひとりの先生が“患難前携挙説”をこれが聖書的だと教え、別の先生が“患難後携挙説”をこれこそ聖書的だとメッセージするというようなことは、会衆を混乱させることになるので、よくよく精査し、ひとつの団体、ひとつの神学校ではどのあたりに基軸を据えるのか、について共通理解を醸成していく必要があるのではないかと思います。また、ひとつの方向性がしめされてきたなら、急旋回したりせずに、着陸地点を目指してしっかりと飛行していくべきだと思います。
- つまり、当初は幾つかの混乱の生じる可能性もありますが、そのあたりは方向性を見失わないかたちで収束させ、共に問題を直視し、Task-Orientedな(問題に焦点を当てた)神学的な取り組みが必要とされているということなのです。これはなにも、ディスペンセーション主義の問題に限らずです。「改革された教会は、常に改革され続けるべきである」とのスローガンにある通り、私たちの前に置かれる緊急の課題のひとつひとつに丁寧に取り組んでいきたいと思います。
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2009.07.01 Revival Japan : 「宗教的・カリスマ的経験の座標軸」
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H 霊による賛美・霊による祈り
「霊による賛美」の解釈
「霊による祈り」の解釈
超越的描写と内在的描写