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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2009/10/01-10/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
北方より寒波が到来する季節となりました。
さて、十月は所属教派の牧師会で研修講演のときが
もたれ、私が「ディスペンセーション主義聖書解釈の
問題」について、Clarence B. Bass " Background to
Dispensationalism "と岡山英雄著『小羊の王国』等
を基本テキストとして、基調講演を行い、質疑応答
を受けるひとときをもたせていただきました。
わたしの個人的感触としましては、私たちの教派に
ひとつの大きな節目がもたらされたのではないかと
受けとめているところです。近年は毎年のように新し
い課題が与えられています。「右傾化の問題と教会」
「セカンド・チャンス論の問題」「霊の戦いとナイロビ
声明」、そして今年は「古典的ディスペンセーション
主義聖書解釈の問題」を本格的に取り扱うこととな
りました。
これらの経緯全体の中で、神さまから教えられてき
た基本的な事柄を整理するかたちで、11/16には
日本福音主義神学会西部部会秋期研究会議で
『福音主義神学:再考−聖書・伝統・文化の中で』
というテーマで基調講演させていただき、質疑応答
を受ける予定です。まだ、未完成の基調講演原稿
ですが、関心のある方は閲覧のみでありますが、
パスワード(1116)で公開していますので、ご覧くださ
い。神学会当日までにもう少し手を入れて完成させ、
発表したいと考えています。お祈りください。
あぐろ
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2009.10.25 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
黙示録 CDメッセージ全集 のご案内
● 合計19章(8.9.10章除く)×約20分÷60分×1000円=6330円
● 解説資料ブックレット(40ページ)付き 500円
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2009.10.25 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「彼らは永遠に王である」
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都の大通りの中央をいのちの水の川が流れていた(vv.1-4)
彼らは永遠に王である(v.5)
この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである(vv.6-21)
神学書:
岡山英雄著『小羊の王国』pp.214-219
G.E.Ladd“A Commentary on the Revelation of
John”pp.286-296
レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』pp.239-248
R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』pp.175-189
W.ヘンドリクセン著『ヨハネの黙示録講解』pp.343-352
D.E. Aune“Word Biblical Commentary 52C”pp.1133-1241
ポール・マーシャル著『わが故郷、天にあらず』pp.249-276
山中良知著『聖書における労働の意義』
エデンには園を潤す四つの川が流れていた
(創世記2:10-14、エゼキエル47:1-12)。園の
中央には「いのちの木」があった(創世記2:9)。
「新しいエルサレム」には、水晶のように光る
「いのちの水の川」が、神と小羊との御座から
出て、都の大通りの中央を流れている。
地上における死と暴力の終焉とともに、暗黒
の力は完全に消え去り、贖われた被造物世界
の「新しいエルサレム」にはエデンの園をは
るかにしのぐ、究極のいのちが満ち溢れる。
終末における祝福とは、創造における祝福
の回復でもある。エデンの園における神と
人間との平和な関係(創世記1-2章)は、人
の犯した罪ゆえに崩壊したが(創世記3章)、
新しいエルサレムにおいて、その関係は
完全に回復し、さらにすぐれた究極に至る
(黙示録21-22章)。
神による贖いは、人々や国々のみならず、
全被造物へと及んでいく。来臨まで地上では、
教会は少数者として証言を続けるが、贖わ
れた地球、新天新地においては、存在する
ものすべてが、神の贖いの光に包まれる。
単純で霊的な真理とは、この世界が私たちの
故郷であり、この世界での私たちの日々の
労働は、神への奉仕であり、ここで成し遂げる
ものは永遠の価値があり、私たちは肉体の
復活を待ち望んでいるのであり、神が住まわ
れる新天新地を待ち望んでいるのであり、
私たちはこれらを信じて生きるべき者である。
C.S.ルイスはその著書『奇跡』の中で、
私たちの地上での“生”の意味、また“労働”
の意義について、「子供が子馬のポニーを
もらって乗りこなそうと努力しているようなもの」
であり、「新天新地の厩(うまや)には、鼻息
の荒い競走馬がこれを乗りこなす騎手を待ち
構えている」と記している。
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2009.10.18 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「また、私は新しい天と新しい地を見た」
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また、私は新しい天と地を見た(v.1,5-8)
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムを見た(v.2,9-27)
私は「神はともに住み、彼らはその民となる」と聞いた(v.3-4)
神学書:
岡山英雄著『小羊の王国』pp.205-211
G.E.Ladd“A Commentary on the Revelation of
John”pp.275-285
G.E.Ladd“The Pattern of New Testament Truth”pp.13-31
G.E.Ladd“The Last Things”pp.29-39
レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』pp.228-239
R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』pp.62-70,175-188
W.ヘンドリクセン著『ヨハネの黙示録講解』pp.326-343
D.E. Aune“Word Biblical Commentary 52C”pp.1108-1133
牧田吉和論文「A.ファンルーラーの終末論の一つの神学的意図」
『改革派神学』第30号特別記念号,pp14-27
黙示録研究も、いよいよ終局を迎えんとしている。
テーマは「新天新地」である。このテーマを扱う時に、
ギリシャ哲学のグノーシスの考え方を視野にいれ
ておくことは重要な部分である。
ボウカムの著述においても、「創造物に対する創造主
の誠実」への言及があり、「実際に、ヨハネの黙示録
の終末論的な希望の基礎は神を創造主としする
理解に置かれるだけではなく、創造物に対する創造
主の誠実を信じることにも置かれている」とある。
このテーマは、ラッドの著作集にも繰り返し指摘され
ていることである。「新天新地」の解説において、
「その場所にあって、ヨハネは新しい天と新しい地を
見る。聖書全体を通じて、神の民の究極的な運命は
地上的な運命である。典型的な二元論のギリシャ思想
において、宇宙は、地上的あるいは一時的な世界と
永遠の霊的世界の二つの領域に分けられる。救いは
一時的ではかない領域から永遠の現実の領域への
魂の飛翔である。しかしながら、聖書の思想は常に、
地上的存在から天的領域に取り去られることではなく、
贖われた地上に人間を置いている」のである。
ここでは、紙面の関係で、抜粋で断片的にはなるの
だが、上記の資料の中から、この点にさらに深く肉
薄しているファンルーラーの指摘に注目してみたい。
ファンルーラーは、歴史的改革派神学に従い、創造
の業を神の必然の業であることを否定する。創造は
神のよしとされる御旨に基づく、すなわち聖定に基づ
く、神の自由なる主権的行為である。この主権的行為
は善意を意味する。神はこの物質的実在を欲せられ
たのである。神は物質的実在を喜び、ここでご自分
の栄光を顕わされたのである。この世界は「神の栄光」
の劇場である。
しかし、考えて見るならば、このような議論において、
何故ファンルーラーは、「被造物」あるいは「世界」とい
う使い慣れた一般的な言葉の使用よりも、好んで「物質」
とか「事物」という言葉を多用するのであろうか。そこ
には明らかな意図があるであろう。
キリスト教信仰において、内的・霊的側面が強調され、
「事物性」は軽視されやすい。この点を踏まえて、
ファンルーラーは、むしろ被造物の「事物性」を、しかも
「“善きもの”としての事物性」を強調したかったのであり、
そのために上述の議論においても意図的に「物質」
あるいは「事物」という言葉を多用したのである。
このような終末と事物との関係をめぐるファンルーラー
の主張にはいかなる神学的意図が秘められているの
であろうか。すでに明らかなようにファンルーラーの
終末論は創造論と一体的関係にある。当然その場合、
終末論と創造論とがどのように関係するのかが問わ
れることになる。我々はのちほどこの問題に触れる
ことにするが、今ここでは彼の創造論を問題にしたい。
これまでの議論から伺い知れることは、第一に創造論
における「無からの創造」の教説の果たしている役割
である。それは被造物を、幻想や非存在ではなく、
まさに現実として見させるものである。しかし、第二に
そして決定的に重要な役割を果たしているのは、“は
なはだ良かった”と語られた「善き創造の教説」である。
ファンルーラーにとって、救済が救済であり続けるとこ
ろでは、罪が問題になる。地上的なものは罪と腐敗が
絡み、したがって救済が語られるところではたえず地
上的なものへの蔑視が同伴しやすい。救済は“罪と腐
敗”からの救済ではあっても、“被造物的現実性”から
の救済ではない。救済の目的は、あくまで“再創造”
である。
エリクソンも、人間の生・死・永遠において、聖書は
「条件つき一元性」を提示していると説き、死後の中
間状態を除いて、人間存在のモニズム的理解を教え
ている。被造物の冠としての人間と被造物世界
、
堕落した人類と空しくさせられた被造物世界、贖われ
た人間と贖われた新天新地、古い肉体を一時的に
脱ぎ捨て、“裸”の状態にあった魂は、“栄光のからだ”
を着せられ、栄光の新天新地において、生きるもの
とされる。そこにみるものは、被造物たる人間と被造物
世界の栄化である。ラッドやファンルーラーが指摘し
ている通り、“天国”また“永遠の世界”の理解の中に、
ギリシャ的二元論理解
の背景を看取し、聖書の“事物”
理解に立った理解を回復することは終末論、また黙
示録理解にとって大切な部分である。
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2009.10.015
Revival Japan : 「宗教的・カリスマ的経験の座標軸」
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O 私たちの“生”を照らす光としての聖霊
神の最高傑作としての人間
“生”の意味と価値
平凡な“生”を照らす光
*************************************************
ストリーム形式・音声のみ・無料視聴【期間限定】講演
『(古典的)ディスペンセーション聖書解釈』の問題
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今日、イスラエル関係の様々なセミナーが開催されています。
それらの中には、聖書解釈上の問題を内包する教えが
含まれているケースもあります。それゆえ、健全な聖書解
釈の原則のあり方を学び、さまざまな教えを健全な聖書
解釈の視点からクリティカルに、取捨選択しながら学ぶ
ことが必要な時代になっています。
健全な聖書解釈の原則とは一体どのようなものなので
しょうか。日本では、ディスペンセーション系の出版物と
改革派系の置換神学の出版物が大半を占めてきた経緯
もあり、両極の理解が支配的です。そのような中で、
エリクソン著『キリスト教神学』、岡山英雄論文『患難期と
教会』や著作『小羊の王国』等の穏健で中庸な、バランス
のとれた聖書的な理解が提示されてきました。この流れ
にそうかたちでディスペンセーション聖書解釈の内包する
課題を包括的な視点から扱ったDVDを作成しました。
さまざまなセミナーが開催されているという緊急性に鑑み、
この内容を視聴用ということで、ストリーム形式で音声
のみで無料公開させていただきます。DVDを見ながら、
学ばれると一番よいのですが、できるだけ広く、深く、
早く、このような学びを多くの方に提供させていただくた
めに、今回はこのようなかたちにさせていただきました。
図示や板書なしでは、ところどころ聞き取りにくい個所
も多々あるかと思いますので、基調講演・質疑応答の全
体を知りたい方は、DVDをお買い求めください。下記
にも詳しく案内しています。
質疑応答
> 改革派系の置換神学
Q: ”置換神学”という言い方をしていましたが、
どういう意味ですか?
★岡山英雄著『小羊の王国』p.192にも出てきますが、
「イスラエル民族の特殊性を認めず、新約の教会によって
その役割が置き換わったとする置換神学」という記述が
参考になると思います。
Q:なお、”イスラエル” の解釈については 改革派陣営にも 幅があって
霊的なイスラエルととる立場 から (肉的なイスラエルのなかからも
多くの回心者が起こるということを理解して)選民全体と理解する立場
まであったように思います。 後者の立場には、ジョン・マーレーも
含まれるたのでは・・・。
★岡山英雄著『小羊の王国』のp194にも、ヴォス、マーレー、
ホッジ、ラッド、ガンドリー、ブルース、マコミスキイも
同様の立場の神学者に分類されています。ラッドやエリクソン
は、マーレーやヴォスを参考にしているように思います。
その意味で、改革派系=置換神学の立場とするのは、正確では
ないと思います。ただ、そのような傾向が強いのではないかと
いうのが、幾つかの改革派系の神学書や文書を読んだときのわた
しの印象です。
★ディスペンセーション主義の立場にも、大きく分けて古典的、
修正、漸進的の三つの立場があるように、改革派系の間にも、
ローマ書9−11章の解釈に幅があるように受けとめています。
中庸で穏健な解釈への歩み寄りがみられるように思います。
ただ、岡山英雄著『小羊の王国』のpp.192-195で言及されている
「イスラエルの民族性」と「イスラエルの普遍性」をどのような
バランスでみるのかにおいて、漸進的ディスペンセーション主義
の立場と、バプテスト系のエリクソンやラッドや岡山氏と、
改革派系のヴォスやマーレーとの間には、微妙な差異があるように
思います。
★そのあたりに関しては、トリニティ神学校で長年「組織神学」を
教えていたウェイン・グルーデムの言及が参考になります。
Wayne Grudem“Systematic Theology”pp.859-863「教会とイスラエル」
希望される方には、その箇所の資料を差し上げますので、
その旨、メールください。
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2009.10.11 ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:
大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「神の民は一千年間、キリストとともに支配する」
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悪魔である竜は、千年の終わるまで縛られた(v.1-3)
神の民は生き返って、キリストとともに千年支配した(v.4-6)
悪魔といのちの書に名の記されていない者は火の池に(v.7-15)
神学書:
岡山英雄著『小羊の王国』pp.173-200
G.E.Ladd“A Commentary on the Revelation of
John”pp.259-274
レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』pp.219-227
R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』pp.140-143
W.ヘンドリクセン著『ヨハネの黙示録講解』pp.303-326
D.E. Aune“Word Biblical Commentary 52C”pp.1069-1108
前後の章の脈絡は、再臨(19章)→千年王国(20章)
→新天新地(21章)という展開になっている。千年王
国は、サタンの捕縛によって始まり、神の民が復活
して、支配し、その終わりにはサタンの解放と、それ
に伴うゴグとマゴグの戦いが起こるが、天からの火
によって、悪魔とその軍勢は最終的に敗北する。
千年王国には、三つの説がある。千年王国後再臨説
と無千年王国説とは、表裏一体の関係があり、神の
国の“現在性”を強調する。千年王国前再臨説は
神の国の“未来性”を強調する。両者ともにキリスト教
終末論の重要な側面であり、双方を視野に入れる
ことなくして、健全な聖書的終末論の構築はありえない。
その点からは、これらの三つの解釈は、択一的では
なく相補的であって、視点を変えることによって、終末
論の多様な側面が明らかにされていく。
相補的ではあるが、聖書解釈をし、聖書からメッセージ
を語る者としては、よりベターな聖職解釈とは何かを
明確にしていく責任がある。この判断において最も
重要なポイントは二つあり、ひとつは「第一の復活」
(vv.4-6)の意味内容の問題であり、二つ目は「二つの
終末戦争」の関係である。
千年王国後再臨説と無千年王国説では、「第一の復活」
を“新生”の意味で理解するが、これは釈義的に問題
がある。ラッドは、四節のエゼサン(生き返って)と五節
のエゼサン(生き返らなかった)を前者を“新生”、後者
を“肉体の復活”と解釈する理解を、解釈の原則を捻じ
曲げるものであると批判する。同じ文脈で使用される
同じ用語は、基本的に同じ意味で解釈するのが、通常
の聖書解釈の原則である。
千年期の最後の復活が「肉体の復活」であるのなら、
千年期の最初の復活もまた「肉体の復活」と理解する
のが最も自然な聖書解釈であり、この解釈にたつなら、
キリストの再臨のときのクリスチャンの第一の「肉体復
活」と千年期の終わりの未信者の第二の「肉体の復活」
の間に“一千年”の期間が存在するとの理解は、最も
自然な聖書解釈であるといえる。それゆえ、千年期前
再臨説は最も聖書的に自然な解釈である。
「二つの終末戦争」とは、患難期末のハルマゲドンの戦
いと千年期末のゴグ・マゴグの戦いのことである。
千年期前再臨説では、こ二つの戦いは異なる戦争と解釈
するが、無千年王国説と千年期後再臨説では、同一の
戦いと解釈する。
二つの終末戦争の間には、類似した表現もあるが、同じ
戦いではない。なぜなら、ハルマゲドンの戦いは「白い馬
に乗った方(キリスト)」によって勝敗が決するが、ゴグ・
マゴグの戦いは「天から降ってきた火」によってサタンの
軍勢は焼き尽くされ、戦闘は実際には行われていない
からである。
また、両者の違いは、二つの戦争が時間的に連続する
ように書かれているからである。すなわちハルマゲドンの
戦いにおいて、まず「獣」と「偽預言者」が滅ぼされ(19:20)、
そしてゴグ・マゴグの戦いにおいて「悪魔」が滅ぼされるが、
悪魔が投げ込まれる「火の池」には、すでに「獣」と「偽預
言者」はいる(v.10)。
それゆえ、戦争を引き起こすのはハルマゲドンの場合は
「竜、獣、預言者」(16:13-16)であるが、ゴグ・マゴグの場合
はすでに「獣と偽預言者」は滅ぼされている(19:20)ので、
諸国民を招集するのは「竜」のみ(vv.7-8)。それゆえ、黙示
録は、「二つの終末戦争」を時間的に連続する二つの戦争
として描いており、それは千年期前再臨説を支持している。
黙示録解釈の原則は、使徒たちの聖書解釈の原則にたつ
べきである。つまり、旧約は新約によって、すなわちエゼキ
エル書は黙示録によって解釈されるのであって、その逆で
はない。それゆえエゼキエル書の記述に基づいて、終末戦
争をあまりにも詳細に描くことには、慎重でなければならない。
また、「千年王国」についての記述はきわめて少なく、聖書
全体でも、黙示録20:1-10の十節のみである。しかも、それ
は歴史の完成ではなく、新天新地に至る過渡的な期間でし
かない。にもかかわらず人々の関心を集め、空想に基づいた
詳細な記述が試みられてきた。
古典的ディスペンセーション主義の立場にたつ人々は、
この「王国」を強調し、旧約のイスラエルに与えられた預言
の大部分は、千年王国において成就すると主張する。しかし、
旧約の多くは千年王国と新天新地の双方にかかわっており、
それらを千年王国のみに限定することはできない。
また、黙示録の記述はきわめて簡潔なので、この期間につ
いては不明なことが多くある。たとえば、千年王国をイスラ
エル民族に関係した特別な期間とみなす説があるが、イスラ
エルの救いの問題を包括的に扱っているローマ9-11章にお
いて、千年期についての言及はないし、黙示録にも千年期と
イスラエルの結びつきは示されていない。
黙示録、また新約聖書が語っていない事柄については、沈黙
しなければならない。千年王国について、想像力を働かせて
あまりにも細かな描写を試みることは控えなければならない。
千年王国の理解において、また終末における「イスラエル民族
の位置づけ」については意見が分かれており、イスラエルの
“民族性”のみを強調するディスペンセーションの立場とイスラ
エルの“普遍性”のみを強調する置換神学の両極端がある。
しかし、旧約聖書をイエス・キリストの十字架のみわざと聖霊
の働きを中心にして解釈する原理を確立した使徒たちである
パウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、両極端を排した“穏健で
中庸な”聖書解釈のカイドラインを提示している。
このスタンスを明らかにしているのが、ラッド、エリクソン、岡山
氏の立場である。
極端な字義的聖書解釈である古典的ディスペンセーション主義
の歴史的背景、その聖書解釈がどのような経過をたどって
「誤った教会論」と「誤った終末論」を生み出していったのかを
丁寧に解説した講演が、下記に紹介のある『JEC牧師会研修
基調講演−ディスペンセーション主義聖書解釈の問題−』DV
D講演録である。このテーマについての包括的な理解を得たい
人にはぜひ繰り返し視聴し、学んでほしい、このテーマでは最
良のDVD講演録である。
近年、イスラエルをテーマにしたセミナーが各地が開催されて
いる。これは感謝なことであるが、それらのセミナーでの講演
内容が古典的ディスペンセーション的なものとなって、集う教職
者や信徒の方々に対して、使徒たちが確立した「健全な聖書
解釈」「教会論」「終末論」に悪影響をもたらす場とならないよう
にと祈っている。
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ディスペンセーション主義の内包する課題克服を扱う、大変分かり易い三部作
− 単品での購入も可能です! −
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−今、“カデシュ・バルネア”に立って、終末論・黙示録を望み見る−
一宮基督教研究所・終末論特別講義:資料:岡山英雄著『患難期と教会』、他
多数
2009.06.25 新版「千年王国と大患難の見方」DVD講義録
患難期の重要性
患難期と神の民
患難期はいつか
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黙示録特別講義DVD−『イスラエルと教会』
一宮基督教研究所・終末論特別講義:資料:岡山英雄著『小羊の王国』、他
多数
『イスラエルと教会』DVDT:2009.09.15
90分集中講義:1500円(税込・送料込)
日本史と黙示録
黙示録全般と千年王国
千年王国とイスラエル
『イスラエルと教会』DVDU:2009.09.25
90分集中講義:1500円(税込・送料込)
歴史的鳥瞰図
字義主義の問題
患難期と教会
聖書解釈の原則
『(古典的)ディスペンセーション聖書解釈』の問題:
★★★★★(このテーマでは、五つ星の最良のDVD資料)
:C.R.バス著『ディスペンセーション主義の背景』、他多数
2009.10.06:JEC牧師会研修基調講演と質疑応答
90分集中講義:DVD版1500円(税込・送料込)
…音声と映像、ホワイト・ボードにカラフルな板書、
図示しながらの講演で、ディスペンセーション主義
聖書解釈が生まれてきた歴史的背景、パウロ・ペ
テロ・ヤコプ・ヨハネの使徒たちとは異なった聖書解
釈の原則から、構築される誤った「教会論」と
誤った「終末論」が形成されていく経緯を丁寧に
教えられます。【視聴版:音声のみ、板書・図示
なし、質疑応答部分なしでは、半分の理解しか
得られないと思います。基調講演・質疑応答の全
体を知りたい方は、DVDをお買い求めください。】
ディスペンセーション主義聖書解釈方法の
問題・教会論の誤り・終末論の誤り構築されたディスペンセーション主義神学の
影響を受けた神学を分解し、不良品を取り除
き、再組み立てをしていく手順の明確化基調講演に対する質疑と応答
*但し、ディスペンセーション主義の流れも、すぐれた教師
陣を有する神学校レベルでは、古典的ディスペンセーション
主義→修正ディスペンセーション主義→漸進的ディスペン
セーション主義と変遷してきており、その内容は伝統的な
福音主義の理解に接近してきている。しかし、大衆的な牧
師や信徒レベルでは依然として、古典的ディスペンセーシ
ョン主義の影響は強く残っている。それゆえ、C.R.バス著
『ディスペンセーション主義の背景』は、ディスペンセーション
主義運動の初期の重要な段階についてのより良き理解に
貢献している。(C.R.バス著『ディスペンセーション主義の
背景』の序文を書いたホイートン大学のS.R.スペンサー教
授の分析)
私の作成した上記の資料も、ディスペンセーション主義を
批判するためのものではなく、建徳的な対話を呼び掛けて
いるものと受けとめていただければ幸いである。
*なお、教会へのひとつの召命としてのユダヤ人伝道の
重要性を扱った、バランスのとれた包括的な文書としては、
下記のものがある。この取り組みに関しては、アンバラン
スなものや、ディスペンセーションの教えの影響が濃厚な
ものなど、極端なものもあるので、注意が必要である。
このテーマを包括的な視野でとらえる鳥瞰図と健全な福
音主義神学にたつ聖書解釈・イスラエルと教会の有機的
一体的理解・患難期と千年王国と新天新地における普遍
的な神の民の視点がきわめて大切である。その意味で、
この小冊子とICIの資料を参考にして考えていただければ
幸いである。
●誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60
『ユダヤ人伝道−教会への召命−』
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大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −
「花嫁は用意ができ、小羊の婚姻の時がきた」
*************************************************
真実で正しい神は大淫婦を裁かれた(v.1-4)
花嫁は用意ができ、小羊の婚姻の時がきた(v.5-10)
獣と偽預言者は硫黄の燃えている池に投げ込まれた(v.10-21)
神学書:
岡山英雄著『小羊の王国』pp.162-172
レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』pp.210-219
R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』pp.137-140
G.E.Ladd“A Commentary on the Revelation of
John”pp.244-258
W.ヘンドリクセン著『ヨハネの黙示録講解』pp.292-302
D.E. Aune“Word Biblical Commentary 52C”pp.1012-1069
今や、キリストが栄光のうちに、その花嫁である
教会と結婚するためにおいでになる。天にハレ
ルヤの賛美が響き渡る。全天は、神が大淫婦
バビロンに勝利されたことを喜び祝う。
爆発的な賛美の理由をあげる。正義が行われ
た。「大淫婦」は「その不品行」によって地を汚し
たので、天の全体がその倒壊を喜ぶ。
大淫婦バビロンの汚れと徹底的な審判と対照
的に、花嫁である教会は小羊なるキリストとの
婚姻の時を迎える。
聖徒たちの「正しい行い」には、ディカイオーマ
が使用されており、「義認の宣告」の意味を内包
する。「正しい行い」は、聖徒自身からのもので
あるよりは、キリストによって与えられたもので
ある。7:9,14の「大群衆の白い衣」は、着る者の
正しい行いの結果ではなくて、「小羊の血」によ
って洗われた結果であった。
「その方は血に染まった衣を着ていた」とある。
これは明らかにカルバリを指している。キリスト
は自らの血を流して勝利を得た。キリストは他者
の血によってではなく、自らの血によって勝利を
勝ち取られる。
軍勢についてのべた後に、「神のことば」にもどる。
「鋭い剣」が「この方の口から」出ていた。彼の
ことばは力強い。軍勢ではなく、ことばによって、
彼は「諸国の民」を打つ。
誰が最高の主か、疑問の余地はない。人間の大
群衆の死体の宴会が記されている。グロテスク
な描写と思われる。しかし、戦場にしばしばみら
れる情景でもある。エゼキエル39:4,17-20には、
戦場で敗北したときの情景が記されている。
「あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率い
る国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、私はあ
なたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする」
これは、「真実で、正しい神」、「忠実また真実な
キリスト」により、悪が完全に打ち滅ぼされること
を表す。
「獣」も「偽預言者」も滅ぼされ、「硫黄の燃えてい
る池に、生きたまま投げ込まれた」、悪の完全な
滅亡を表している。
キリストの再臨が何を意味するか。それは悪の滅
亡と神の民の救いである。これは、十字架に示さ
れている二面性である。そこには「審判と救い」の
両面が存在していた。刑罰代償説がそれを明らか
にしている。個人の内面においては、ローマ7章に
みられるように「肉と霊」の闘争があり、世界と宇宙
においては「悪とキリスト」の闘争が存在してきた。
しかし、それらすべてに最終的な決着がつけられる。
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2009.10.01
Revival Japan : 「宗教的・カリスマ的経験の座標軸」
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N 溺れる者、藁をも掴む
君は何故、クリスチャンに
不安に満ちた十三時間の登攀
私の“生”そのものが