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ICI Daily & Diary Lectures
2010年度 ICI日誌
2017/06/02
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/10/01-12/18
One More
Chapter ! −聖書神学的視聴のひととき−
─────── A Series of Re-Reading
”The Theology of Paul’s
Letter”
メリー・クリスマス!
九月のマンスリーの配信以来、多忙にかまけて怠っていました
マンスリーの配信をようやく再開できるようになりました。なが
らく配信ができなかったことと年末と新年は通信が込み合うこと
を覚え、ひと足早くマンスリーを配信させていただきます。
ここ数カ月はあまりにも多忙で昨日のことも明日のことも考え
る余裕はなく、ただその日その日の労苦を背負うのみの毎日であ
ったように思います。そのような中で、ウルリッヒ・ヴィルケンス
著『ローマ人への手紙』を片手にローマ書を繰り返し熟読させて
いただきました。ローマ書がこれほど慰めとなり、力となるとは
…。神の聖さ、峻厳、罪に対する聖なる怒り、ユダヤ人・異邦人
を包摂する人類の普遍的罪深さ、神の聖なる御旨の下ですべての
人が直面している終末における審判、律法とは別に、律法と預言
者に示されたキリストとその贖罪のみわざ、そして贖罪のみわざ
に根差したキリストの御霊の信仰者の内に働く贖罪的働きにより、
律法において示されている神の御旨の本質の成就において示され
ている“信仰者における義認”の立場と実体化等々、パウロによ
り解き明かされた福音の力を再び教えられるひとときでありました。
ロマ書
11:33
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
詩篇119:50
これこそ悩みのときの私の慰め。
まことに、みことばは私を生かします。
来年以降もよろしくお願い致します。
ICIあぐろ
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2011.01.19
ガラテヤ書CDシリーズに関する質疑と応答
ICI-HP閲覧者に有益な内容の場合、了解を得て匿名・編集により一部紹介しています
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#Rom03d
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2010.12.19
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「信仰によって律法を無効にするのか、否律法を確立するのである」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101219_yc_ag_Rom3_27-31_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙3章27-31節
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2010.12.18
福音主義神学誌 41号のご案内
!
『福音主義神学会 創立四十周年記念号』
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· 先日、『福音主義神学』第41号:福音主義神学会創立四十周年記念号が完成しました。大変素晴らしい仕上がりになっているのではないかと思います。編集委員の藤本満先生は巻頭言にて「創設以来、福音主義神学会にコミットし、この学究的交わりを育ててくださった先輩の方々に執筆をお願いすることにした。創設期のビジョンとエネルギー、本学会にあって活動された40年間の個人的な足跡、変わらずに抱いてこられた問題意識、あるいは今後の展望など、先輩から直接に伺ってみたいという編集委員の願いは、他の学会員も共有しておられると思う。それは福音主義神学の原則や神学会の運営に関わることになるかもしれない、自らが40年間取り組んでこられた研究テーマかもしれない。それらを、本学会創設を知らない者たちのために、福音主義神学会の将来を担う者たちのために、『メッセージとして語っていただきたい』という願いが形を成したのが本号である」と記念号のねらいと意図を紹介しておられる。巻頭言においては、記念号の論文が「1.研究者・牧師の交わり:村瀬氏・横山氏・鍋谷氏・宮村氏・安村氏の論文、2.福音主義神学:宇田氏・丸山氏の論文、3.福音主義神学会のあり方・方向付け:湊氏・村瀬氏・安村氏の論文」の三つに分類されており、全体をバラバラの論文としてではなく、多様性の中に統一性を読みとれるようにと配慮がなされ、40年間が全体的に総括されているのは読者として大変ありがたい。小生の拙稿『デジタル時代における“福音主義神学会”公式サイト-拡充の案内と協力のお願い-』も掲載されているので、ご一読いただきたい。
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2010.12.14
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
『ローマ書講解説教シリーズ with
ウルリッヒ・ヴィルケンス』
通常録音、CD枚数未確定、音声のみ、
20〜30分の各ショート・メッセージ集、随時販売中!
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『ローマ書講解説教シリーズ with
ウルリッヒ・ヴィルケンス』通常録音、CD枚数未確定、音声のみ、20分〜30分の各ショート・メッセージ集、随時販売中!
・1:1-16… 義人は信仰によって生きる(29分:290円)
・1:17-32…神の怒りが天から啓示されている(27分:270円)
・2:1-16…神は行いに従って報いをお与えになります(25分:250円)
・2:17-29…神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている(21分:210円)
・3:1-8…ユダヤ人の優れている点は何か(22分:220円)
・3:9-20…全世界が神の前で裁きに服する(20分:200円)
・3:21-26…恵みのみ、キリストのみ、贖いのみ(20分:200円)
*EKK新約聖書註解『ローマ人への手紙』著者ウルリッヒ・ヴィルケンス紹介…1928年ハンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学神学部においてG.ボルンカムに師事。1953-1955年牧会の従事。1958-1960年マールブルク大学神学部の講師、1960-1968年ヘルリン神学大学の新約学教授、1981年10月より北エルベ福音主義教会教区のホルスタイン・リューベックの監督に就任。
#Rom03c
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2010.12.12
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「恵みのみ、キリストのみ、贖いのみ」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101212_yc_ag_Rom3_21-26_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙3章21-26節
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2010.12.11
ICI Information News
引っ越し先でのICI-Serverの再設定完了のお知らせ
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2010年12月11日、本日新しい環境でのICI-Server再設
定を完了し、再公開できるようになりました。
以前、ADSLの環境から光ファイバーの環境に移行し、
サーバー機器も、Qube3から、Fujitsu Primergy S5、
そしてFujitsu
Primergy S6になり、今回新しい環境の
ADSLの下で再設定となりました。
この移行に関する情報は断片的でありましたので、
ルーターやサーバーの設定を何度もやり直しておりました。
この件で教えられたことは、インターネットやサーバーの
設定は、“福音理解”が創造・堕落・贖罪の脈絡から
絶えず再構築されることが必要なように、個々の設定の
背後にある基本的な概念を理解することの大切さでした。
これまでにも活用した多くの資料を再検討するとともに、
その関連で数多くの項目について学び直すことができた
ことは幸いなことでした。感謝!
#Rom03b
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2010.2.05
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「全世界が神の前で裁きに服する」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101205_yc_ag_Rom3_9-20_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙3章9-20節
#Rom03a
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2010.11.28
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「ユダヤ人の優れている点は何か」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101128_yc_ag_Rom3_1-8_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙3章1-8節
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#101119
ICI News
一宮基督教研究所「実践神学シンポジウム」
今日の教会のあり方-三つの運動の分析と評価
…ハウスチャーチ・ムーブメント、エリヤハウス・
ムーブメント、レストレーション・ムーブメント…
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奈良県生駒市にある一宮基督教研究所で恒例の実践神学
シンポジウムが開催され、わたしもささやかな奉仕をさせ
ていただいた。その報告と資料をお分かちしたい。
発題講演パワーポイント
『レストレーション・ムーブメントの包括的視点からの分析と評価』
詳細なレポートは、リバイバル・ジャパン2011年新年号
に掲載されているので、ここではわたしの担当したレストレ
ーション・ムーブメントに関する資料のみをPDFで紹介させ
ていただく。午前中の三つの発題講演はDVDに収録されて
一宮基督教研究所から発売されているので、関心のある方は
直接問い合わせてご注文いただきたい。
電話でのご連絡
受付時間
火曜〜金曜: A.M.8:30〜P.M.4:00
※時間外は院長室又は管理人室に転送されます。
住所:奈良県生駒市門前町22−1
TEL:0743-70-8600 / Fax:0743-70-8601
Email:ICI-mark117@ares.eonet.ne.jp
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特徴を知ることができて感謝でした。また、近年の異端
識別の基準を明確に教えていただけたことも大変有益
でした。また、レポートはまとめられると思いますが、
関係者としてわたしも少しまとめさせていただきました
ので、参考にしていただければ幸いです。
1.神中心というよりも、教祖中心
2.教祖による、聖書の自由自在の拡大解釈・縮小解釈
3.普遍的信仰共同体の一部である地方教会の分裂を画策
4.歪曲された理解にも関わらず、聖書を100%理解したとの高慢
5.使徒信条等、公同の世界信条の否認
6.教祖崇拝
7.終末の日時の確定
8.経済問題に焦点を当てて、強制的献金要求をする
9.間違った神秘主義の傾向
10.教祖の主観的体験を教理化して、信徒をマインド・コントロールする
11.反道徳的・反社会的行動をとる
12.地上における天国を強調
13.諸宗教との教えの混淆(シンクレティズム)の傾向
会等による分析と評価により、韓国における幾つかの
グループは、明白な異端としての評価が韓国のキリスト
教会では定着しているとのことです。
インターネット上のホームページでは、福音的な信仰
告白が掲載されていますが、実態は「羊の衣を身にま
とった狼」であるようです。
●
・韓国で猛威をふるう新しい異端に対する傾向と対策
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=1887
連絡先Tel.080・3216・3475。Email:jako0153@yahoo.co.jp
#Rom02b
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2010.10.24
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101024_yc_ag_Rom2_17-29_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙2章後半
自分をユダヤ人ととなえ、律法をもつことに安んじ
律法を誇りとしているあなたがたが、律法に違反して
神を侮るのか
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません
参考文献:ウルリッヒ・ヴィルケンス著『EKK新約聖書註解 Y/1 ローマ人への手紙(1-6章)』pp.194-214…パウロはそのユダヤ教の対話相手の特に重い現実的罪を非難した。それは、この罪の故に対話相手が律法の賜物を引き合いに出して自己と罪深い異邦人との間を区別し、みずからを正しいと言い張ることができないようにするためであった。その際パウロはまったくユダヤ教的な根本命題を徹底化することによってそうする。というのは、トーラーは守られねばならないが故に、律法に違反すればすべての行為者は一ユダヤ人もまた一罪人となることはユダヤ教神学も決して否定しはしなかったが、しかしユダヤ人がともかく背教者にならない限り、契約の民への所属をが彼の義への所属を原則的に保証すると主張することによって、当時の一般のユダヤ教神学はユダヤ人の罪と異邦人の罪を本質的に区別した。それに対しパウロは次のようなラディカルなテーゼを立てる。それによれば、神は最後の審判において、トーラーの民に所属しているかどうかということとは無関係に、ただわざにしたがってのみ人間に判決を下されるが故に、ユダヤ人の罪と異邦人の罪は同じ次元にある、実際ユダヤ人の罪人はそれどころか選びの民の成員として最初に審かれる者でさえある、ということである。
ユダヤ人の罪(2:1-29)
律法を誇るユダヤ人に対するわざによる審き(2:17-24)
割礼を誇るユダヤ人に対するわざによる審き(2:25-29)
#Rom02a
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2010.10.17
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「神は行いに従って報いをお与えになります」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101017_yc_ag_Rom2_1-16_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙2章前半
裁くユダヤ人が、異邦人と同じ罪を犯している
神にはえこひいきはない−ユダヤ人をはじめギリシア人にも
律法を聞く者ではなく、行う者が正しいと認められる
参考文献:ウルリッヒ・ヴィルケンス著『EKK新約聖書註解 Y/1 ローマ人への手紙(1-6章)』pp.162-194…旧新約聖書関連資料をこえて、ユダヤ教関連文献や歴史上の諸文献・資料への言及もあり、聖書解釈の深さ、広さ、豊かさを教えてくれる註解書である。特に、プロテスタントとカトリックで議論のある“義認論”に関するエキュメニカルな視点はかなり新鮮である。翻訳者である岩本修一氏が「註解書に対する釈義的対論を期待しておいた」と呼びかけておられることをも念頭に、ローマ講解説教シリーズの中で、“宇田−エリクソン”福音主義神学に立脚する一神学教師として、ヴィルケンスの註解と対論しつつ語りかけていきたい。ヴィルケンスの註解は、本当に深く考えさせられ、神学的思索へと導き入れられる稀有なローマ書註解書である。
ユダヤ人の罪(2:1-29)
異邦人を審くユダヤ人が神の審きに直面している(2:1-11)
付論:わざによる審きT(伝承史的前提)
ユダヤ人および異邦人に対するわざによる審き(2:12-16)
付論:(釈義的・影響史的にみた)パウロにおける良心の理解
付論:わざによる審きU(神学的解釈)
#Rom01b
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2010.10.10
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「神の怒りが天から啓示されている」
一部紹介
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101010_yc_ag_Rom1_18-32_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙1章後半
創造・堕落・贖罪の脈絡:神の義の啓示、神の怒りの啓示
神論・人間論の脈絡:神を崇めず、感謝もせず、思いは空しく、暗く
終末論・刑罰論の脈絡:そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定め
#Rom01a
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2010.10.03
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「義人は信仰によって生きる」
d/stream/10_yc_ss/Rom_mp3_all/101003_yc_ag_Rom1_1-17_all.mp3
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新約聖書 ローマ人への手紙1章前半
ハバクク2章4節の意味…ハバククは、神の民が抑圧され、うめいていると神に叫ぶ(BC.7世紀後半)。そして神によって、悪者は決して勝利せず、義人は究極的に正しいとされ、「水がおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる」(ハバクク2:14)という確信を与えられる。この幻はすぐには成就しないかもしれないが、必ず成就する。その間、義人は最後まで耐え忍び、神への忠誠を貫き、神の約束を信じて、励まされていく。
タルムードにおける律法の“一文圧縮”…タルムードでは、同じ預言が、アモス5:4「わたしを求めて生きよ」とともに引用されている。それは、いかにして律法全部を一文に要約できるかを示している。「『求めよ』(アモス5:4)は、『律法全体を求めよ』を意味しているのか」とラビ・ナフマン・ベン・イサクは尋ねる。「いいえ」とラビ・シムライは答え、「ハバククはアモスに続き、律法を一文を圧縮した。『義人は信仰によって生きる』と」。
パウロ神学を解く鍵としての1章17節…パウロはハバククのことばを引用し、そこに福音の基礎的な真理を見る。そして次のように解釈する。「信仰によって正しい(義とされた)者こそが生きる」。…「信仰によって正しい(義とされた)者こそが生きる」は、それゆえ、「信仰によって正しい(義とされた)者こそが救われる」を意味する。パウロにとって、救いという意味におけるいのちは、義認とともに始まり、それを超え、聖化も含み、最終的な栄光において完成される。この包括的な意味において、「救い」は「パウロ神学の独房の錠を開くための」鍵とも言える。
参考文献:F.F.ブルース著、岡山英雄訳『ティンデル聖書注解:ローマ人への手紙』pp.82-83、いのちのことば社、2008
『ローマ人への手紙講解説教シリーズ』は、現在販売中の『ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ』CDと同様CDの形で、後日販売されます。ローマ書一章前半のみメッセージの全体を公開しています。一章後半以下の章は、メッセージの前半のみの公開とさせていただきます。ご了解ください。
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2010.09.27
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
『ガラテヤ書講解説教シリーズ
with J.D.G.Dunn』発売中!
CD[通常録音]210分1750円
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『ガラテヤ書講解説教シリーズ』通常録音、CD三枚、210分1750円(税込、送料サービス、後払い):J.D.G.ダン著『叢書新約聖書神学8:ガラテヤ人書の神学』に「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は正しく理解しえない」とある。それゆえ、「ローマ書講解説教シリーズ」に取り組む下準備として「ガラテヤ書講解説教シリーズ」に取り組んだ次第である。ガラテヤ教会を舞台にパウロとユダヤ主義キリスト者教師とが織りなす迫真のドラマには、私たちの心を捉えてやまないメッセージが溢れている。まだ、五回、十回とこのガラテヤ書の講解説教に取り組みたいと思うのであるが、このガラテヤ書という、いわば“玄関口”を通って、来週から「ローマ書講解説教シリーズ」に取り組まなければならない。
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ライフ・センターにて委託販売中! 税込 500円
一昨年、所属団体における必要から− 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.61 − 「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」を翻訳することになった。翻訳し所属団体の講演をしている中で、これは福音派全体にとって有益な文書であると思い、関西ミッション・リサーチ・センター(KMRC)の先生方と相談し、刊行させていただくことになった。ただ、「著作権の交渉等はさせていただきますが、KMRCには出版資金がないので、安黒先生の個人出版というかたちでお願いしたい」ということであった。わたしの手元にもお金はなかったので、所属団体JECより出版資金50万円を融資していただき、2500冊作成させていただいた。主な販売対象は、所属団体JECや奉仕神学校KBI、そしてインターネットを通してICI関係者等、わたしと個人的コネクションのある方々であり、数百冊を購入していただいた。大変貴重な小冊子であるが、まだ広く提供されていない現状の改善を模索している中で、ライフ・センターへの委託販売の道が開かれた。まずは、六ヶ月間の委託ということなので、販売促進に役立つ“援護射撃”となるような情報提供に取り組めたらと考えている。また、「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」は、「ローザンヌ誓約」同様、人間の“骨格”にあたる“声明”なのでJ.R.W.ストットがしているように“肉付け”としての“解説”があれば、もっとこの小冊子のもつ意味が生かされるのではないかと考えた次第である。これから、ライフ・センターにて委託販売中の六ヶ月間、「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」の解説とオーディオ(WMA)によるミニ・レクチャーに導かれるままに取り組んでいきたい。小冊子をお持ちでない方にも「ナイロビ声明」を広く知っていただくために、ナイロビ声明(安黒訳−閲覧可・印刷不可) というかたちで全文を掲載させていただいているが、関心のある方は、ぜひライフ・センターにて小冊子を購入し、アンダーラインや書き込みを書き入れつつ、「解説とミニ・オーディオ・レクチャー」を視聴していただけたら幸いである。
一昨年、取り組みました「霊の戦いに関するナイロビ声明」がライフセンター
にて委託販売中です。福音派内で議論のある領域に関するバランスのとれ
たガイドラインを提示しているローザンヌ・シリーズの貴重な一冊です。
この機会にぜひお買い求めください。税込500円という手頃な価格で
提供させていただいています。
小冊子とともに、「ナイロビ声明」解説DVD(80分)や
その神学的背景としての「悪の問題」「天使論」ビデオ
講義録も一緒に学ばれるとさらにこのテーマを立体
的に学ぶことができます。
できるだけ多くの方に提供させていただきたい
ので、従来の価格体系(60分=1000円)をはずし、
『ナイロビ声明』発売記念特価とさせて
いただいています。
ご案内:小冊子はライフセタンーにて購入していただけます。
「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」小冊子 =定価 500 円(税込)
「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答DVD(80分) =通常価格1300円を特価 500 円(税込)
「悪の問題」「天使論」(6時間)+「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答(80分)計7時間20分
BD-R(ブルーレイ・ディスク)=通常価格7300円を
特価 1000 円(税込)
ご紹介
「ナイロビ声明-表紙・目次・序」紹介
080815_Introducing_Nairobi_2000.pdf (印刷可)
「ナイロビ声明-解説DVD-R・研究BD-R」紹介
080815_Introducing_Nairobi_2000_dvd_bd.pdf (印刷可)
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[Monthly]
一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2010/09/01-09/30
One More Chapter ! −聖書神学的視聴のひととき−
─────── A Series of Re-Reading
”The Theology of Paul’s
Letter”
主の御名を崇めます
9月に入り、うろこ雲もみえ、急に秋めいてきました。
礼拝では、ガラテヤ書研究の後半に取り組みました。三十年ほど前、関西
聖書学院で『祝福の約束と律法―海面下のガラテヤ3・4章―』と題した卒論
レポートをまとめました。それ以来の、徹底したガラテヤ書研究でした。数多く
の著名な注解書に目を通すことができて幸いでした。特に、村瀬俊夫論稿
「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、とJ.D.G.ダン著
『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社からは、多くのことを
教えられました。
十月からは、「ガラテヤ書の神学の研究」という玄関口を通って、「ローマ書
の神学の研究」という本丸を扱った『ローマ書講解説教シリーズ』にチャレンジ
させていただくつもりです。現在、目を通していますのが、
・F.F.ブルース著『ローマ人への手紙』いのちのことば社…神のみことば(十戒)を納めた「契約の箱」の運用法(運び方)を誤り、手を伸ばしてそれを押さえようとする。だが、もしそうすれば、それは不遜な割り込みとなる。…聖書が語ろうとすることに自己を空しくして徹頭徹尾耳を傾けることであり、著者の存在を意識した上で、テキストの意味を正確に理解し説明することに他ならない。…安心して読める福音派のスタンダードを示す注解書。
・ジョン・マーレイ著『ローマ信徒への手紙』聖恵授産所…恩師のひとりである宇田進師が米国で学ばれた時の指導教官が、ジョン・マーレイ教授とコーネリウス・ヴァンティル教授であったと聞く。マーレイのローマ書注解は、“ディスペンセーション問題”、“イスラエル問題”を扱った時に、必ずしも改革派の立場を立証しようとするのではなく、精確な聖書解釈に固着しようとする姿勢を見たときである。その時に、この書も精読したい書籍のひとつとなった。
・ウルリッヒ・ヴィルケンス著『ローマ人への手紙』教文館…「ローマ書は、極端に先鋭化された論争の書であるガラテヤ書に比して、何か全体教会的な立場を代表する福音理解の提示となっている。宗教改革において、カトリックとプロテスタントの聖書解釈の相違が先鋭化し、論争が続いている。」ヴィルケンスは、「歴史批評的釈義が、次第次第に事実上テキストそのものの歴史的意味への接近に導いた」ことを指摘している。そして「パウロ的義認論の旧約・ユダヤ的基礎を明らかにし、教派に与えた影響の歴史における決定的な論争点を捉え直し、パウロ神学の根本的意義に貢献したい。論争に満ちた教派的不一致を正当化したローマ書が、それが書かれた当時引き起こそうとしたこと、すなわち教会の一致を引き起こすかも知れないからである。」と記している。なかなか興味深いスタンスである。いうなれば“信仰義認論”再考ということなのだろうか。
・Klaus Haacker,”The
Theology of Paul’s Letter to the Romans”,Cambridge…J.D.G.ダン編集「叢書:新約聖書神学シリーズ」の一冊である。『ガラテヤ書の神学』は、ダン自身が受け持ち、大変すぐれた貢献をしているように思う。『ローマ書の神学』は、来年の秋に邦訳が刊行される予定と新教出版社から聞いた。待ちきれないので、洋書を取り寄せて、精読している最中である。「ガラテヤ書の神学」を読んだときとはまた異なった印象であるが、なかなか読みごたえのある内容に仕上がっている。この書からも多くのことを紹介したいと願っている。
他、数冊がある。そのようなわけで、単なる講解説教ということではなく、新約聖書神学シリーズともいえる内容になりそうである。 「信仰義認」理解等をみていっても、保守的・伝統的解釈の視点に立脚しつつ、旧約的背景と一世紀の文脈の聖書・批評学的な検討のすぐれた理解また解釈にも目配りしつつ、ローマ人への手紙を“再読”していきたいと思っている。
あぐろ
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2010.09.27
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
『ガラテヤ書講解説教シリーズ』発売中!
CD[通常録音]210分1750円
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『ガラテヤ書講解説教シリーズ』通常録音、CD三枚、210分1750円(税込、送料サービス、後払い):J.D.G.ダン著『叢書新約聖書神学8:ガラテヤ人書の神学』に「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は正しく理解しえない」とある。それゆえ、「ローマ書講解説教シリーズ」に取り組む下準備として「ガラテヤ書講解説教シリーズ」に取り組んだ次第である。ガラテヤ教会を舞台にパウロとユダヤ主義キリスト者教師とが織りなす迫真のドラマには、私たちの心を捉えてやまないメッセージが溢れている。まだ、五回、十回とこのガラテヤ書の講解説教に取り組みたいと思うのであるが、このガラテヤ書という、いわば“玄関口”を通って、来週から「ローマ書講解説教シリーズ」に取り組まなければならない。
§
参考文献
§ 村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社
§ J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社
§ ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局
§ 山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局
§ R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans
§ F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans
§ Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament
★下記の「ガラテヤ書講解説教シリーズ」紹介リンクは、ショート・メッセージの前半のみを視聴できます。全体を視聴したい方は、CDをお買い求めください。J.D.G.ダン著『叢書新約聖書神学G
ガラテヤ書の神学』新教出版社を繰り返し学びつつ、CDを視聴されると、ガラテヤ書が“3D”で飛び込んでくる印象をもたれると思います。
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2010.09.26
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエル」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙6章
キリストの律法を全うしなさい
肉のために蒔く、御霊のために蒔く
私も世界に対して十字架につけられた
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.484-
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.149-157
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.240-260
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.343-384
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.223-240
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.259-278
Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.284-320
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2010.09.19
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「御霊によって導かれるなら、律法の下にはいません」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙5章後半
自由と律法:肉の働く機会としないで、愛をもって
御霊と肉:肉の願うことは御霊に逆らう
十字架と御霊:肉を十字架につけ、御霊に導かれて進もう
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.480-484
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.128-149
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.225-240
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.308-343
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.202-223
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.239-258
Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.243-283
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.284-315
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2010.09.12
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙5章前半
またと奴隷のくびきを負わせられないように
割礼を受けるなら、律法の全体を行う義務
わずかのパン種がこねた粉全体を発行させる
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.478-480
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.128-131
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.215-225
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.286-308
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.185-202
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.226-238
Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.216-242
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.260-284
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ライフ・センターにて委託販売中! 税込 500円
− 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.61 −
「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」
解説とオーディオ(WMA)によるミニ・レクチャー@
ローザンヌ運動・ナイロビ協議会・ナイロビ声明(安黒訳−閲覧可・印刷不可)
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一昨年、所属団体における必要から− 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.61 − 「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」を翻訳することになった。翻訳し所属団体の講演をしている中で、これは福音派全体にとって有益な文書であると思い、関西ミッション・リサーチ・センター(KMRC)の先生方と相談し、刊行させていただくことになった。ただ、「著作権の交渉等はさせていただきますが、KMRCには出版資金がないので、安黒先生の個人出版というかたちでお願いしたい」ということであった。わたしの手元にもお金はなかったので、所属団体JECより出版資金50万円を融資していただき、2500冊作成させていただいた。主な販売対象は、所属団体JECや奉仕神学校KBI、そしてインターネットを通してICI関係者等、わたしと個人的コネクションのある方々であり、数百冊を購入していただいた。大変貴重な小冊子であるが、まだ広く提供されていない現状の改善を模索している中で、ライフ・センターへの委託販売の道が開かれた。まずは、六ヶ月間の委託ということなので、販売促進に役立つ“援護射撃”となるような情報提供に取り組めたらと考えている。また、「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」は、「ローザンヌ誓約」同様、人間の“骨格”にあたる“声明”なのでJ.R.W.ストットがしているように“肉付け”としての“解説”があれば、もっとこの小冊子のもつ意味が生かされるのではないかと考えた次第である。これから、ライフ・センターにて委託販売中の六ヶ月間、「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」の解説とオーディオ(WMA)によるミニ・レクチャーに導かれるままに取り組んでいきたい。小冊子をお持ちでない方にも「ナイロビ声明」を広く知っていただくために、ナイロビ声明(安黒訳−閲覧可・印刷不可) というかたちで全文を掲載させていただいているが、関心のある方は、ぜひライフ・センターにて小冊子を購入し、アンダーラインや書き込みを書き入れつつ、「解説とミニ・オーディオ・レクチャー」を視聴していただけたら幸いである。
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2010.09.05
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「アブラハムにふたりの子があり」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙4章後半
わたしのようになってください
アブラハムにふたりの子があり
あなたがたはイサクのように約束の子です
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.474-477
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.196-213
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.250-285
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.166-185
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.207-226
Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.195-216
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.230-259
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.124-131
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ライフ・センターにて委託販売中!
「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」
小冊子・解説ビデオ・神学的背景ビデオ講義録のご案内
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一昨年、取り組みました「霊の戦いに関するナイロビ声明」がライフセンター
にて委託販売中です。福音派内で議論のある領域に関するバランスのとれ
たガイドラインを提示しているローザンヌ・シリーズの貴重な一冊です。
この機会にぜひお買い求めください。税込500円という手頃な価格で
提供させていただいています。
小冊子とともに、「ナイロビ声明」解説DVD(80分)や
その神学的背景としての「悪の問題」「天使論」ビデオ
講義録も一緒に学ばれるとさらにこのテーマを立体
的に学ぶことができます。
できるだけ多くの方に提供させていただきたい
ので、従来の価格体系(60分=1000円)をはずし、
『ナイロビ声明』発売記念特価とさせて
いただいています。
ご案内:小冊子はライフセタンーにて購入していただけます。
「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」小冊子 =定価 500 円(税込)
「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答DVD(80分) =通常価格1300円を特価 500 円(税込)
「悪の問題」「天使論」(6時間)+「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答(80分)計7時間20分
BD-R(ブルーレイ・ディスク)=通常価格7300円を
特価 1000 円(税込)
ご紹介
「ナイロビ声明-表紙・目次・序」紹介
080815_Introducing_Nairobi_2000.pdf (印刷可)
「ナイロビ声明-解説DVD-R・研究BD-R」紹介
080815_Introducing_Nairobi_2000_dvd_bd.pdf (印刷可)
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/08/01-08/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
8月は猛暑の夏でした。9月も残暑が続いています。健康に留意してください。
礼拝では、ガラテヤ書研究に取り組みました。聖書研究ではなくメッセージで
すので、詳細な掘り下げはできませんでしたが、近年のすぐれた注解書を参照
しつつ、ガラテヤ書の学びを深められたことは感謝なことでした。ダンについて
は、賛否両論、多くの議論がありますが、パウロの手紙の背景・文脈の解釈
につきましては刺激に満ちた要素が多くありました。これらの要素を注意深く
精査しつつ、ガラテヤ書とローマ書の学びを続けたいと思います。
また、晩秋11/19にKBIで開催される実践神学シンポジウムに向けて、
担当予定の「レストレーション・ムーブメントの包括的分析と評価」の準備を
しています。Allan
Anderson,"Introdution to Pentecostalism"は20世紀の
ペンテコステ運動の多様な歴史と幅とその神学的内容の分析と評価がなさ
れている良書です。そのような包括的な視点にたって「レストレーション・ムー
ブメントの包括的分析と評価」を試みたいと考えているところです。
8月末には、学会誌『福音主義神学』の諸論文が集まり、今後四十周年
記念号の編集がなされます。わたしも宇田進先生の“手書き”論文を受け取り、
入力させていただきました。これらの論文には、福音主義神学会の創設期
からの歴史と展開が記されており貴重な記念号となりそうです。ご期待ください。
あぐろ
PS
一昨年、取り組みました「霊の戦いに関するナイロビ声明」がライフセンター
にて委託販売中です。福音派内で議論のある領域に関するバランスのとれ
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ビ声明」は、ライフ・センターにて委託販売されています。
小冊子とともに、「ナイロビ声明」解説DVD(80分)や
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的に学ぶことができます。
できるだけ多くの方に提供させていただきたい
ので、従来の価格体系(60分=1000円)をはずし、
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いただいています。
ご案内:小冊子はライフセタンーにて購入していただけます。
「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」小冊子 =定価 500 円(税込)
「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答DVD(80分) =通常価格1300円を特価 500 円(税込)
「悪の問題」「天使論」(6時間)+「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答(80分)計7時間20分
BD-R(ブルーレイ・ディスク)=通常価格7300円を
特価 1000 円(税込)
ご紹介
「ナイロビ声明-表紙・目次・序」紹介
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「ナイロビ声明-解説DVD-R・研究BD-R」紹介
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2010.08.29
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「全財産の持ち主なのに」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙4章前半
後見人・管理者の下にある子供
律法の下にある者を贖い出し、子としての身分を受ける
「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.471-474
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.185-196
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.229-250
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.157-166
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.191-207
Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.179-194
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.209-230
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.122-124
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2010.08.22
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「では律法とは何でしょうか」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙3章後半
違反を示すために付け加えられた:律法の断罪的用法
キリストへ導くための私たちの養育係:律法の教育的用法
律法は神の約束に反するのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。:律法の規範的用法
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.466-471、『新聖書注解』いのちのことば社
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.194-218
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.144-154
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.168-182
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.115-121
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.180-202
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2010.08.15
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「義人は信仰によって生きる」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙3章前半
律法を行ったからか、信仰をもって聞いたからか?
律法ののろいと祝福の約束−キリストにより、信仰により、約束の御霊を受ける
信仰、御霊、バプテスマ
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.463-471、『新聖書注解』いのちのことば社
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.165-228
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.126-157
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.147-191
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.84-121
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2010.08.08
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙2章
今、走っていること、またすでに走っていることが無駄にならないため
ケパに非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました
もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.455-462、『新聖書注解』いのちのことば社
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.97-165
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.45-83
J.D.G.ダン著『新約学の新しい視点』すぐ書房、pp.47-88
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2010.08.06
Tコリント書12章13節の解釈
− E.シュヴァイツァー、J.D.G.ダン、A.ビットリンガーから学びつつ −
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、
一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
*************************************************
先週、ある先生からこの箇所の注解について問い合わせがあった。すでにR.H.カルペッパーがその名著『カリスマ運動を考える』(ヨルダン社、pp.105-158)において、多くの重要参考文献からの引用に基づき、客観的な視点から適切な解説をしている。ここでは、カルペッパーが参考にしている資料源にあたることにしたい。わたしの手元にあるカトリックのカリスマ運動指導者のK.マクドネルの編集した“Presence, Power, Praise”(The Liturgical Press)の三巻本には、プロテスタントとカトリックのさまざまの教派のカリスマ的経験に関する解釈や声明が紹介されている。カルペッパーの書物のpp.106-121にも「聖霊のバプテスマ」についての多様なカリスマ的解釈を代表的人物名をあげつつ紹介されている。そこには、R.A.トーレー、マイケル・ハーパー、デニス・ベネット、トマス・A・スメイル、スーナン枢機卿、J・ロッドマン・ウィリアムズ、ラリー・クリステンソン、ディビッド・デュ・プレシ、アーノルド・ビットリンガー等とその解説が記されている。そして、その後に、「評価」がなされおり、その構成は「@新約聖書における聖霊のバプテスマの意味、Aキリスト者の体験の内容、Bペンテコステの性質、C聖霊のバプテスマの受け方、D水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、E霊の力」である。
わたしの所属している団体は、スウェーデン・バプテスト系諸教会を背景として形成されたスウェーデン・オレブロ・ミッション(現在、三派合同でインターアクト)の宣教師により形成された。オレブロ・ミッション諸教会は、ペンテコステ的経験にひらかれたスタンスをとっていたので、日本で開拓・教会形成されたJEC(日本福音教会)諸教会もまた、そのスタンスを継承している。現実には、二十世紀中期のプロテスタント諸教派で広まっていったカリスマ運動の影響が強いと思われる。この時期によく読まれた書物としては、米国聖公会のカリスマ運動指導者のデニス・ベネット著『朝の九時』『聖霊とあなた』がある。聖化の関係でよく読まれたのが、ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』『キリスト者の行程』であった。聖化理解において、聖化のバプテスト理解としての漸進主義理解と聖化のホーリネス的理解の危機主義理解の両者を包摂する折衷的理解として、JECの聖化理解の基準書ともなった。鍵となる概念は“In Christ”であり、イエス・キリストを信じるだけで、すべての恵みを受け取っており、そのキリストにある客観的立場に立脚して、漸進的かつ危機的の両面において聖化の主観的恵みを、“already, not yet-tension”の中でキリストのうちから引き出していくというものである。原理的にはパウロがローマ六章で詳述しているように、イエス・キリストを信じるということは、キリストの中にあることであり、同時にキリストの死・葬り・復活の経験に同一化“Idetification”していることなのである。イエス・キリストを信じたときに、キリストの中にあることにより、時間と空間を超えてわたしは「キリストとともに、死に葬られ、復活した」という立場に置かれるのである。そしてパウロがローマ七章・八章で詳述しているように、この立場が私たちのクリスチャン生活の中で現実化するのは、キリストの御霊によるのである。
カリスマ的経験に関する文脈の中で、『キリスト者の標準』と『キリスト者の行程』に言及したのには訳がある。実は、JECにおける「聖霊のバプテスマ理解」の基本が、「聖化理解」と同じ線上にあるからである。キリスト者の標準において、示されていることは「聖化の課題」に関し、キリストにある客観的立場に安息することであり、御霊の啓示の働きにより、みことばに示されている霊的立場を「@知り、A認め、Bその認識の上に自分をささげ、C御霊の導きに従って歩み、D十字架を負う」ことであると進歩の行程が詳述されている。
JECの福音理解の礎を据えられた故我喜屋光雄師は、上記の福音理解の線上において、「聖霊のバプテスマ」を理解しておられ、わたし自身は“その視点から”の聖霊のバプテスマ理解の説明を何度も耳にし、目にした。このポンイトは、わたしにとって、JEC(日本福音教会)またKBI(一宮基督教研究所)の福音理解の扇の要であると受けとめている。JECにおいても、またKBIにおいても、福音理解の多様化が進んできていると感じている。これは、JECまたKBIのバプテスト的体質が背景にある。そのような中で、福音理解を継承・深化・発展させる場としてのJECという群れ、またKBIという神学校という委ねられている私たち教職者には大きな責任があると思う。Tコリント書12章のキリストのからだ理解において見られるように、多様性は大きな祝福である。わたしは、群れや神学校における多様性は大きな祝福であると受けとめている。ただ、烏合の衆に陥るのはよくない。では、どうすればよいのか。J.D.G.ダン著『新約聖書の統一性と多様性』において、ダンは「本質において一致、本質的でない事柄おいて自由、すべての事柄において愛」と記している。新約聖書において、ダンはすでに多くの多様性を見出している。教会像においても「@使徒行伝にみられる熱狂的教会像、Aパウロ書簡前半にみられる御霊の賜物豊かな教会像、Bパウロ書簡後半にみられる健全な教理を重視する教会像、Cヨハネ文書にみられる熱の冷めた、儀式化の傾向をもつ教会像」を提示している。そして、新約聖書教会の多様性の中における統一性、統一性の中における多様性に学ぶことをすすめている。
わたしは、JECとKBIにおける本質のひとつは、キリストの身代わり“Substitution”とキリストとの同一化“Idetification”にあるのではないかと考えている。両者ともに、イエス・キリストを信じるのみで、キリストの中にあること“In Christ”によってすでに受け取っているものである。「信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ」である。それ以外のものを付け加えることをパウロの福音は許さない。茶道や花道、剣道や柔道にいろんな流派がみられるように、聖霊経験に関しては、この一元的な恵みをどのように主観的に受け取っていくかについて、多様な解説は許容される。ただ、聖書記述の客観的意味とその意味の主観的適用とは厳密かつ繊細に区別されていくことが、JECまたKBIの福音理解においてもきわめて重要であると思っている。
キリストとの同一化“Idetification”についてのパウロの解説は、わたしたちに聖化の立場と経験だけでなく、聖霊のバプテスマの立場と経験についても、健全な理解を提示してくれている。故我喜屋師は、『キリスト者の標準』と『キリスト者の行程』にヒントを得て、ペンテコステ経験またカリスマ的経験を、キリストにある客観的立場と聖霊による主観的経験の両面から説明してくださった。聖霊のバプテスマの立場と経験はどのように理解できるのか。その鍵となる聖句のひとつはエペソ「エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」キリストにある霊的立場として、イエス・キリストを信じたときに私たちはキリストの中にあることによって(In Christ)、キリストとともに死に、葬られ、よみがらされ、天のところに座らせてくださっている、ということです。歴史的事実として、イエス・キリストは、使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた、とあります。そして、使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
そのときに、使徒2:12
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
2:14
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25
ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29
兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
ペテロのペンテコステの出来事の解説である。あと、サマリヤ、パウロの回心、コルネリオ、エペソにおいて、回心と聖霊の注ぎ、また満たしの出来事への言及がある。この一連の聖霊経験の理解と解説において、種々の立場が生まれてきている。二十世紀初期に形成された古典的ペンテコステ派は、使徒行伝を基盤として「異言を伴う聖霊のバプテスマ」の立場に立つ、中期に伝統的諸教派に広まったカリスマ運動は前期パウロ書簡を基盤とし、聖霊の種々の賜物が伴う聖霊の満たしを伝統的福音理解との調和の中で多様なかたちで語ろうとする。後期にフラー神学校のC.P.ワグナーやC.クラフト、ヴィヤード運動のJ.ウィンバーに指導された展開した第三の波は福音書にみられる知識の賜物と癒しを強調した。そしてその後の霊の戦いの教えにおいては、福音派の間にいろんな議論が巻き起こってきた。
わたしの個人的な重荷のひとつして、スウェーデン・バプテスト系の穏健なカリスマ運動の流れにオープンな群れらに属し、上記のテーマに常に関わってきた神学教師として、全面肯定とか全面否定という極端なスタンスにたつのではなく、是々非々というか、上記の歴史的展開の中にある良きものを継承・深化・発展させ、課題として残っているもののひとつひとつを神学的視点から整理し克服への道筋を示していくということがある。
今回、Tコリント12章13節を取り扱うのも、この重荷から発している。わたしがペンテコステ的な理解の中にある課題を取り扱おうとすると、「安黒先生は、保守的な立場になられたのか?」という声が聞こえてくる。そうではないのである。わたしは、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々を包摂するスタンスにたちつつ、その中にあり、取り扱われずに残されている宿題を片付けようとしているだけなのである。「火中の栗を拾わず」という生き方をする人もあるが、わたしの召しと賜物は「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」なのである。現時点では、反発されても、長い先において必ずこのような取り組みが評価される日がやってくることを信じて、地道に取り組むだけである。
Tコリント12章13節の解説には、多くの書籍が出されており、多様な解釈がなされている。それぞれの書籍には一定の価値がある。ただこの聖書箇所の解釈で第一義的に大切なことは、客観的な聖書釈義を扱っている書籍と主観的な適用を扱っている書籍を識別することであると思う。わたしが初期に読んでいた多くの書籍は、霊想書関係の主観的適用に触れた説教調のものであった。それらの書籍は聖書の御言葉に言及しつつ、聴衆の必要に触れようとして、ときには読み込みやこじつけに近い解釈と思われるケースもあるから注意が必要である。その著者が厳密な聖書解釈を重んじる教職者なのか、説教者としては有名であるが聖書解釈には課題をもつタイプなのか、識別が大切である。
Tコリント12:13の聖書解釈をみていくときに、カルペッパーが書いているように、運動推進のため書籍や運動非難を目的とする両極の書籍にも注意が必要である。それらは、その目的のために聖書をその目的にかなうように解釈する傾向があるからである。そうではなく、客観的かつ中立の立場で、一世紀の状況の中で、パウロが言わんとしたことは何であったのかを徹底して探求する姿勢こそが必要なのである。一世紀のコリント教会の文脈の中でパウロが語ろうとしたことは何であったのか、それが重要である。それを明確にして後、はじめて二十一世紀のわたしたちの文脈への適用が可能となるのである。
新約聖書における「聖霊のバプテスマ」の意味について、「聖霊のバプテスマ」という言葉は、新約聖書の中には一回も出てこないのだが、「バプテスマを授ける(または受ける)」という動詞が聖霊という言葉と関連して用いられているところは七つある。その内容は預言的に言われている、マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33である。そのどれもが、ペンテコステの日のことを預言しており、実際にその通りになった。この五つの聖句は、信仰者が回心後に熱心に求めた結果としての体験をのべているのではなく、聖霊の注ぎという歴史上の出来事(ペンテコステ)をのべているところである。
さて、この五つの聖句とならんで第六番目の重要な聖句は使徒行伝11章16節である。大きな文脈の中にあるこの聖句は、歴史的な関わりの中で読みとるべきところであって、ペテロがコルネリオの家で異邦人に伝道した時、異邦人に起こったことをエルサレムのクリスチャンに報告している中の一節である。ここでも、ペンテコステの日と同じことがまた起こっている。しかしこのときは回心と同時に起こり、しかも回心体験の不可欠な一部となっている。
第七の聖句は、Tコリント12:13で、教訓的または教理的な内容が書かれている。それは、クリスチャンの体験について神学的解釈を与えている箇所であり、新約聖書が聖霊のバプテスマの教理をどう語っているのかを理解するために非常に重要な箇所である。この聖句は、聖霊のバプテスマの教理を理解するための鍵となる。なぜなら、教理的な性質をもつ聖句というのは、当時の問題を神学的に解釈するところであり、それを基盤にして預言的、歴史的性質をもつ聖句を理解しながら教理を形成していくというのが、聖書解釈の健全な原則である。
この箇所の、ギリシャ語の前置詞“エン”は、英語では“in”とか“with”と訳すのが普通である。しかし例外的に“by”と訳すこともできる。初めにあげた六つの聖句は、改正標準訳(RSV)では“with”と訳しているが、このTコリント12:13では“by”を使っているということで、バプテスマの授与者がキリストではなく聖霊であるとの解釈がなされることがある。しかしこの解釈は正しいのであろうか。この箇所の正しい解釈を求めて、わたしたちは非常に高い評価を得ているキッテルの新約聖書神学事典(TDNT)をみることにしよう。
キッテルの新約聖書神学事典(TDNT, vol.6)の聖霊(プニューマ)の項目、pp.332-455は、この分野の第一人者のひとり、E.シュヴァイツァーによって書かれている。「パウロは、すべてのメンバーを含んでいる、挙げられた主の霊的なからだのアイデアを分かちあっている。このことは、彼がすでにキリストのからだについて語っている自然な形でみられるかもしれない。彼はそのことを紹介せずにであるが、明らかにこのことを前提としている。それは、キリストにあって(In Christ)という」聖句においてもみられる。そのアイデアは、Tコリント12:13においても紹介されている。12節におけるキリストとからだとの明白な同一視は、これが単にメンバーがともに集められることをもってゴールに到達したことを示すのみならず、それだけではなく信仰者がバプタイズされるところの存在するからだを意味している。そのアイデアはそのように首尾一貫している。そのからだは、信仰者は統合され、彼らが皆飲むようにさせられる(13b)霊的な要素である。13aの「エン プニューマチ」は、おそらくはTコリント「6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」とあるように手段として受け取られるべきであるだろう。しかしながら、一致を結実する力は、繰り返し実質的にひとつの要素として理解されているのである。(Editors: Gerhard Kittel,"Theological Dictionary of the New Testament")
R.H.カルペッパー著『カリスマ運動を考える』のp.125には、「Tコリント12:13についての有用な学問的解釈についてはダンの『聖霊のバプテスマ』を参照されたい。ダンはペンテコステ派の中の新ペンコテステ的解釈とサクラメントとしての解釈との中間の立場をとっている」と記されている。「Tコリント12:13…御霊のバプテスマについて明白に語られているパウロの一節であるTコリント12:13は、ペンテコステ派にとって重要な箇所である。この箇所がペンテコステ派の神学と一致するようにする種々の試みがなされてきた。パウロは、ここで水のバプテスマとか、御霊のバプテスマを話しているのではない。そうではなく、第三のバプテスマ、つまり回心の別の呼び方である御霊によるバプテスマについて語っているのである。この解釈は主としてRSVの翻訳を基盤としている。しかし「エン」が道具的な効果をもつという主張は多くの学者によって支持されている。しかしながら、その解釈はほぼ確実に退けられている。新約聖書において、「バプティゼイン」に伴う「エン」」は決してバプテスマを施す人物を示してはいない。その反対に、それはいつも受洗者が浸される要素を示している。…御霊のバプテスマについて語られている他の六つの箇所(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33、使徒1:5、11:16)のそれぞれにおいて、ヨハネのバプテスマにおいて使用される水に対照されて、御霊はメシヤのバプテスマにおいて使用され要素なのである。(James D.G.Dunn“Baptism in the Holy Spirit”SCM Press, pp.127-128)
R.H.カルペッパー著『カリスマ運動を考える』のp.149において、彼は「ルター派のカリスマ運動指導者であるアーノルド・ビットリンガーは正しい見方をしています」と高く評価している。このビットリンガーがTコリント12-14章を扱った彼の著書においてTコリント12:13の大変すぐれた注解をしているのでここに紹介したい。「ひとつの御霊にあずかることを通して、わたしはひとつのからだの一員となる。この御霊にあずかる以前は、彼らはあらゆる種類の民族的、文化的、社会的、宗教的なグループに結び付けられていた。ひとつの御霊にあずかることによって、キリストのからだにおいて御霊を所有している人々はそれらのすべての人間的結びつきや縛り付けているものを超越する。この新しい関係は以前のすべての結びつきよりも強いものである。あらゆる他の結びつきは基盤となるものは、からだ(たとえば、人種、皮膚の色、等)とか、魂(たとえば、文化、宗教、等)に関係があった。しかしキリストのからだのメンバーはひとつの御霊にあずかっている。「バプテスマを受ける」とか「飲む」という表現を使用するとき、パウロは御霊を受ける行為が多種多様な側面から眺められうることを明らかにしている。「バプテスマを受ける」という表現は、「何かに浸されること、また沈められる」ことを意味している。バプテスマのときに水がそうであるように、御霊が信仰者を取り囲み、おおうのである。しかしながら、「飲む」という表現は聖餐式のときにパンとブドウ酒をいただくときのように、彼自身の内に御霊を受け入れるとの印象を与える。信仰者は「御霊の内に」にあり、そした御霊は「信仰者の内に」ある(これは、パウロが「私たちはキリストの内にあり」と同時に「キリストはわたしたちの内におられる」との並行表現を使用していることに比較される)。両方のケースにおいて、ギリシャ語の動詞形は、御霊を受けることは過去における特別な時に生起した単一の経験であることを示唆している。パウロが「バプテスマを受ける」ことと「飲む」という表現を使用していることは、洗礼と聖餐にある光を投げかけている。個々のメンバーが内的にキリストのからだに結び付けられているように、洗礼と聖餐を通してキリストのからだは外的に表現されているのである。しかしながら、私たちは内的と外的との間キリストのからだを分けてはならない。私たちは見える教会と見えない教会を区別することはできない。私たちは教会の中いる悪しき人々を「見える」教会に退けることはできない。私たちは外的なしるしと内的な実質の間に矛盾がなきよう、もっと関心を寄せるべきである。イエスはそのしるしを私たちが破壊することをゆるされなかった。そのシンボルを傷つける人はだれでも、同時にその物事そのものの一部分をも破壊するみとにもなる。Tコリント11:29fにおいて、パウロはみからだをわきまえないで聖餐にあずかる人々はキリストのからだに病をもたらすであろうと明確に語っている。バプテスマと聖餐の目的はひとつ、つまり「御霊がなしておられる力強い流れに引き寄せられる」ことである。」(Arnold Bittlinger“Gifts and Grace-a commentary on 1 Corinthians 12-14-”Hodder and Stoughton, pp.57-58)
上記に示されているような福音主義の客観的な聖書解釈に立脚しつつ、その基盤の上に多様性を有する霊的経験への適用を位置付けるべきだと思う。このあたりの包摂的な整理を、英国のカリスマ運動指導者ディビッド・ワトソンが下記の通りしているのは参考になる。
すべてのクリスチャンは『全クリスチャンが聖霊を所有している』ということに賛同する。
すべてのクリスチャンは、『必ずしも、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされているわけではない。』ということに賛同する。
全てのクリスチャンが『聖霊のバプテスマ』という表現に賛同しているわけではない。しかし、正しい観点をもっいるものであるなら、互いにもう一方の立場を認め合うことができる。
『バプテスマ』という用語は、疑いなく、クリスチャン生活の端緒に結びつけられている。少なくともその意味において、全てのクリスチャンはすでに聖霊のバプテスマを受けている。それは持てる者と持たない者の問題ではない。私たちがキリストにあるや否や、私たちはすべてものを所有している。少なくとも潜在力において。
『バプテスマ』とか、『バプテスマを受ける』という用語は、豊かな表現である。『バプテスマを受ける』という言葉は『端緒となる』という意味と、『満たされる』という意味の両方で話されている。前者は客観的立場についての説明であり、後者は主観的経験についての説明である。混乱は、一方が他方の損失において強調されるときに生じる。たとえば、クリスチャン生活の端緒から全く別個の経験として聖霊の満たしが考えられる場合に混乱が起こる。ただ経験的には必ずしも一つではないけれども、理論上また潜在的には一つである。他方で聖霊の満たしは全く経験されていないのに、クリスチャンはキリストへのバプテスマを受けることによって『そのすべてを得た』と強調される場合に起こる。
最後の分析において、最も大切なものは聖霊の愛の力と臨在であって用語ではないということである。
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2010.08.01
ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
− ブルースとダンとウォーターから学びつつ −
「私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました」
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新約聖書 ガラテヤ人への手紙1章
私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわるべきです。
以前、私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。
参考文献
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.1-44
村瀬俊夫論稿「パウロの生涯と思想」pp.38-53、「ガラテヤ人への手紙」pp.439-455、『新聖書注解』いのちのことば社
J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書 ガラテヤ人への手紙の神学』を読み終えた。その中に、「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は理解しえない」と書かれている。このことを踏まえて、8月より、ローマ書講解説教シリーズに先んじて、ガラテヤ書講解説教シリーズにチャレンジすることにした。ダンにおいて示されている「パウロに関する新しい視点“New Perspectives on Paul”」を福音主義視点からどのように評価すべきなのか、ウォーターの分析・評価をも念頭に置き、ブルースの解釈あたりを落とし所として、「福音主義”信仰義認の教理”:再考」を取り扱いたい。
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/07/01-07/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
六月初旬に刊行された『聖書神学事典』の初版は、発売二ヶ月足らずで完売、販売元品切れと聞いた。執筆させていただいたひとりとして、感謝なことであった。さっそく再刷の準備に入られたとのことである。この事典が大いに用いられてほしいものである。七月に入り、神学校も夏休みとなり、少し時間をとれている。それで、ローマ書とガラテヤ書の注解書に目を通させていただいている。この二つの書簡を中心にして、「義認論」を丁寧にみていきたい。特に、今回課題としているのは、愛好し、著作を集めてきたJ.D.G.ダンの神学的位置づけと評価を、下記のような視点で整理していきたいと願っている。関心のある方は、またときどきICI日誌をのぞいていただきたい。
ICIあぐろ
J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書 ガラテヤ人への手紙の神学』を読み終えた。なかなか迫力のある著述である。パウロのガラテヤ書がガラテヤ人に送った論争的な手紙であるように、ダンのこの書物もまた今日の私たちに宛てられた論争的な手紙であるように感じた。Guy Prentiss Waters"Justification and New Perspectives on Paul"に記述されているように、NPP(「パウロに関する新しい視点“New Perspectives on Paul”」)の立場の書籍は、学際的であり、数多くの教えられる洞察に満ちているのだが、十六世紀の宗教改革に根差す歴史的な福音主義キリスト教の視点を尊重するわたしの立場からは、「どこか肩すかしをくったような印象が残る」書物である。ダンの、このテーマに関する著作は数多く集めてきているので、詳しく目を通すのはこれからである。福音主義神学会西部部会の友人である遠藤先生からの紹介で入手していたG.P.ウォーターのこのテーマに関する、福音主義的視点からの分析と評価を参考に読めるというのは大変ありがたい。このテーマに関心のある方のために、Guy Prentiss Waters"Justification and New Perspectives on Paul"の概要を下記に記すこととする。
“How the Mighty Have Fallen” : From Luther to Schweizer
Into the Twentieth Century : Bultman, Davies, and Kasemann
Enter the New Perspective : Krister Stendahl
Ad Fontes? : E.P.Sanders on Judaism
Schweitzer Revivus : E.P.Sanders on Paul
After Sanders : Raisanen and Dunn
Enter the Church : N.T. Wright
A Critique of the New Perspective
The Hermeneutical Problems
Flawed Constructins of Judaism
Mistaken Reliance on Scholarly Reconstruction
A Priesthood of Scholars?
Old Testament versus Second Temple Literature?
The Exectical Problems
The "Works of the Law": Jewish Soteriology and Human Inability
Justification and Faith
The Death of Christ(2 Cor 5:21; Rom 3:24-26)
Universal Guilt(Rom 5:12-21) and Paul's Coscience
Theological Problems
Confusing Grace, Legalism, and Merit
Ignoring Imputation
Upsetting the Balance between Forensic and Transforming Grace
Redefining Justification
What's at Stake for Refromed Christianity?
The Doctrines in Dispute
Theological Method
The Doctrine of Scripture
What Is the Gospel?
What Is Justificatin?
What Is the Office of Faith in Justification?
Why Did Jesus Christ Die?
The Doctrine of Regeneration
How Can the Believer Have Assurance of Salvation?
What Is the Role of Baptism in the Chrsitian Life?
The NPP Within Reformed Christianity
Consequences for Reformed Christianity
J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書 ガラテヤ人への手紙の神学』を読み始めた。その中に、「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は理解しえない」と書かれている。ダンのローマ書注解とガラテヤ書注解も目を通しておきたい。ダンの「ガラテヤ書・ローマ書研究史」に対するマクロな分析・評価も大変興味深く目配りしているところである。そして、ダンの「パウロに関する新しい視点“New Perspectives on Paul”」を福音主義視点からどのように評価すべきなのかも、また課題である。「信仰義認の教理:再考」というところである。約30年前に一宮基督教研究所の卒論レポートで『祝福の約束と律法−海面下のガラテヤ三章・四章−』を書きまとめた。一宮基督教研究所で学んでいた旧新約聖書概観関係の二冊の教科書であった、H.スィーガム著『旧新約聖書研究ベテル』の生活の座“Sitz im Leben”の視点からの「祝福の約束と律法」理解とE.ザウアー著『世界の救いの黎明』の新約神学の教理的視点からの「祝福の約束と律法」の理解の比較研究であった。「同じ旧新約聖書研究でありながら、どうしてこのように理解が異なるのか?」と疑問を抱き、将来の奉仕のために整理しておく必要を感じたのである。このときに取り組んだものは初歩的なレベルのものであったが、サンダースの議論をベースにダンが取り組んでいる問題意識とは重なり合う部分があり、ダンの著作集の関連箇所に目を通しているときに、30年前の取り組みと問題意識を思い起こした。ある意味で、今回の取り組みは30年前にはじめた「卒論レポート」の続編ということになるのかもしれない。あの頃、集めた注解書の数々は初歩的なレベルのものであったが、ダンの高度な内容の著作を読んでいて問題意識においては、恥じるところはないと思った。今回の取り組みにおいて、やり残してきたいろんな課題を整理していきたい。
書斎にある「ローマ人への手紙」関係の書籍を探してみた。意外に少ないのに驚かされた。目に留まるところからリストアップしていく。内村鑑三著『ローマ書研究』、ロイドジョンズ、J.R.W.ストット、泉田昭等、聖書講演やメッセージに関するものが多い。全巻ものの注解書としては、いのちのことば社の『新聖書注解』、実用聖書注解、ランゲの注解シリーズ等がある。各巻ものでは、ジョン・マーレー著『ローマ信徒への手紙』等がある。今回、高橋昭市先生の著書に触発されて、長年課題としていた「ローマ人への手紙」に取り組めることを感謝している。高橋師は“簡にして要を得た”小冊子を書かれた。この小冊子から教えられたことをヒントに、私自身の「ローマ人への手紙」理解を掘り下げる機会としたい。高橋師は、ローマ1:16−17を軸に、ローマ書の重要な部分をコンパクトに解説しておられる。わたしは同じことをオウムのように繰り返してもいけないので、JECやKBIで高橋師や故我喜屋師等諸先生方が教えてきてくださったコンパクトな教えの背後にあるものに挑戦することにおいて、いくばくかの貢献をしたい。
で、JECまたKBIの「ローマ人への手紙」研究におけるニュー・フロンティアとは何なのだろう。それは、私にとって、この六月に刊行された『聖書神学事典』の原稿執筆の経験が深く影響している。『聖書神学事典』は刊行後一カ月あまりで完売し、在庫なく、再版待ちと聞いた。文字文書の販売不振の時代にすごいことと思った。この『聖書神学事典』原稿執筆依頼には、キッテルの新約聖書神学事典(TDNT)とボターヴェックの旧約聖書神学事典(TDOT)のシリーズ完成を背景に、それらの研究成果と学識を福音主義神学の視点から生かすかたちで原稿を執筆してほしい旨、書かれていたように思う。僻地に住む私の手元にはTDNTもTDOTもなかったので、それらの約25巻を購入して執筆依頼された聖書用語の箇所を研究させていただいた。約1600年間40人あまりの聖書記者によって記された聖書66巻に記されているそのすべての用語において、歴史的文脈の中において、その原意と意味の変化を読み解いていくことの重要性を教えられた。
この二年間のそのような経験を、今回の「ローマ人への手紙」研究に生かすことができないだろうか、と考えていた。そのような思いをもって、関連文献の収集にあたっている中で、わたしの関心に答えてくれる文献を発見した。そのひとつは、ウルリッヒ・ヴィルケンス著『EKK新約聖書注解
W
ローマ人への手紙』である。「義人は信仰によって生きる」の豊かな解説からは、この短い聖句の立体的な意味合いについて教えられるところが多い。その他、ケーゼマン著『ローマ人への手紙』、クラウス・ハッカー著『新約聖書神学叢書
ローマ人へのパウロの手紙の神学』(洋書)、J.D.G.ダン著作集、F.F.ブルース著『ローマ人への手紙』がある。ブルースの著作は、ティンダル・シリーズのひとつであり、福音主義の視点から書かれておるとともに、ヴィルケンスやケーゼマン等への目配りがあり、聖書性・公同性・今日性・自己革新性という“真正な”福音主義聖書解釈の特性を宿す大変すぐれた注解書であると思う。
さて、ここから「ローマ人への手紙」についての研究にどう取り組んでいくのか、それが問題である。以前は、下記の記述にあるように、わたしの所属団体JECにおける福音理解に影響のあったウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』を軸に歴史的背景を含め、研究をすすめていこうと考えていた。しかし、ダナ・ロバーツ著『ウォッマン・ニーを理解すること』を読んだ時、ウォッチマン・ニーの神学教育と福音理解における古典的ディスペンセーション主義の聖書解釈方法論・人間論・教会論・終末論の歪みはあまりに大きく、この方面からの取り組みは、時間の浪費になってしまう危惧が強いと知った。古典的ディスペンセーションの内包する課題は昨年度のシリーズにおいて、かなり取り扱ったので、それらを参考にしていただきたい。
しかし、「ローマ人への手紙」の研究は、なさねばならない課題のひとつである。所属団体のJECにおいては、故我喜屋光雄師が、一宮基督教研究所(KBI)において、『パウロ書簡』をよく講じられた。また高橋昭市師も『ローマ書』を講義された。故我喜屋光雄師には「パウロ書簡講義」のレジュメがあり、高橋昭市師には「一宮基督教研究所記念誌論文」や著書があるので、それぞれ堺福音教会や高橋師本人に問い合わせて参考にしていただきたい。なかなか良くできた資料また文献なので、「福音主義神学会」のホームページで多くのすぐれた論文がそうされているように、堺福音教会に連なる教職者の先生方の尽力により、将来はなんらかのかたちで、たとえば故我喜屋師の場合は「堺福音教会」や高橋師の場合は「西宮福音教会」ホームページ等から閲覧・ダウンロード・印刷できるようにしていただければ、それらの教えを慕う多くの兄弟姉妹にとって霊的祝福となると思う。
それで、わたしのJECの群れにおいてなすべき「ローマ人への手紙」研究の領域とは一体どこにあるのだろうか。すでになしてきたことはすでに下記に記した。次の段階、新しいフロンティアはどこにあるのだろうか。それは、JECの群れにおける聖書神学的領域の取り組みへの方向性を示すことではないだろうか。ここ数年取り組んできた課題として、JECの群れにおける古典的ディスペンセーション主義の影響の払しょくということが存在していた。これは、日本の福音派の多くの教派・教会が似たような状態に置かれていることもある。ICIにおける務めとして、エリクソン著『キリスト教神学』翻訳ということがあり、その基本的視点として“リフォーミング・ファンダメンタリズム”ということがあった。もうひとつの視点としてはポスト・モダニズムの時代における福音主義神学の再構築ということである。この視点と取り組みについては、昨年秋の福音主義神学会西部部会神学研究会におけるわたしの基調講演をみていただきたい。
歴史神学の視点に関しては、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』と『総説福音主義神学』をテキストとして講義したDVD講義録がある。次の課題として、視野においているのが、これらの包括的取り組みの一環として位置付けられる聖書神学の領域における取り組みである。すでにこれらの取り組みの先駆者としてG.E.ラッド著作集にも関心を寄せてきた。今回取り組もうとしている「ローマ人への手紙」研究は、以上に示したマクロ的な視点と問題意識にたつ聖書神学的研究であり、旧新約各書の聖書釈義の取り組みである。この取り組みをしていく上で、まずは、書斎にある「ローマ人への手紙」の文献をリストアップしていきたい。
ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』における「ローマ人へ手紙」理解とは何であったのか。この問いは、JECのアイデンティティとは何なのか、またJECの福音理解とは一体何であるのか、問うことでもあると思う。ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』における「ローマ人へ手紙」理解とは何であったのか、それは、Dana Robert,"Understanding Watchmasn Nee(再版書:Secrets of Watchman Nee, Bridge-Logos)"においてよく分析されている。結論から言うと、それは英国におけるケズィックの約一週間の聖会のメッセージを再構成したものである、ということである。これは、すでに別のページに記述しているので関心のある方は閲覧していただきたい。今回の「ローマ人への手紙」研究においては、さらにこれまでの研究を進めて、「英国におけるケズィックの約一週間の聖会のメッセージ」とは何なのか、を掘り下げていきたい。これらに関する優れた文献としては、“Five Views on Sanctification”(Zondervan)の中のJohn F. Walvoodの“Keswick View”である。ケズィックの実践的聖化理解に関する良書としては、Steven Barabas,"So Great Salvation"がある。また、アウグスティヌス理解、ケズィック理解、ウェスレー理解の簡潔な神学的比較研究書としてはJ.I.Packer,"Keep in Step with the Spirit"がある。
「ローマ人への手紙」と第二の大きな関わりは、名著ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』であった。わたしの所属している日本福音教会(略称JEC)では、今から約35年前、スウェーデン・バプテスト系オレブロ・ミッション宣教師により戦後形成されてきた諸教会が、日本福音教会(略称JEC)を設立する時期に差し掛かっていた。日本福音教会(略称JEC)が形成される理由のひとつに、JECのアイデンティティの特性というものがあったと聞いている。それは、名実ともにJEC日本人教職者における第一世代のリーダーであった故我喜屋光雄牧師(堺福音教会)の説教・講演・講義・セミナー・記念誌・小冊子・JECニュース等々の中に残されている。JECにおける必要として、これらの資料をきちんと、編纂し、JECの歴史的資料として残していくことが大切であると思う。ICI電子図書館構想の取り組みの中においても、考慮していくことができたらと考えている。
さて、JECのアイデンティティとしての「福音理解」の輪郭は、故我喜屋光雄師に負っている部分が大きい。そして故我喜屋師がその福音理解において最も参考にされていたのが、上記のウォチマン・ニー著『キリスト者の標準』と『キリスト者の行程』であった。であるから、故我喜屋師が据えられたJECの福音理解の礎の上に、JECの福音理解を継承・深化・発展させながらJECの福音理解を構築していくためには、ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』における「ローマ人へ手紙」理解とは何であったのかを掘り下げて理解しておくことが重要であると思うのである。
「ローマ人への手紙」の研究と講解説教シリーズという課題を自らに課した。このテーマは、長年課題としてきたところである。「ローマ人への手紙」との関わりを振り返ってみたい。関学生の二年のクリスマスに洗礼を受けてから、最初に参考になった書籍は、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』であった。ちょうど、KGKの交わりの中で教えられていたJ.C.D.アンダーソン著『静思の時』を実践していたときに、聖書各書の背景を理解しつつ読んでいく上で大きな助けとなった。『聖書ハンドブック』を活用して三カ月かけて旧新約聖書を通読したとき、聖書全体を大づかみにではあったが、明確に理解できたと確信できた。そのときの大きな喜びは忘れることができない。「キリスト教信仰というものが、なんという素晴らしい、ゆるがない岩盤の上に構築されているのか」との大きな感動があった。『聖書ハンドブック』にあるローマ書概説は、ローマ書の意義・目的を把握する大きな助けとなった。聖書全体、また聖書各書を読んでいく上で、「領域全体の見取図を示し,研究の道案内を提供」してくれる良書である。クリスチャン生活の初期には、このようなすぐれた入門的概説書を片手に、旧新約聖書そのものを繰り返し、通読することをおすすめしたい。そのことは、「かなり広範囲に及んでいる神学研究において、学問研究の発達は専門の分化をますます促してきており、その課題を掘り下げ、その任務を誠実に果すために、いろいろな部門に分れ、学科目も驚くほど多岐にわたっている」中で、“鹿を追う者、森を見ず”ということを避けるためにも重要なことである。
神学会のホームページも、一段落した。今後は、少しずつ学会誌の巻頭言・書評・会員の刊行文献リスト・事務的記述等をスキャナーで読み込みつつ、神学会活動四十年史のようなかたちにホームページ全体を仕上げていきたい。そして、必要をもって閲覧される方々にとって有益で役立つホームページとして活用されるよう、いろんな仕掛けやアレンジを加えていきたいと考えている。ICIホームページは、その間少し手を加えることができなかった。しかし一段落したので、ICIホームページ構築にも取り組んでいきたい。現在、幾つかの新たな取り組みを模索している。その中のひとつが『ローマ人への手紙』講解説教である。昨年は、所属神学校と所属団体において“古典的ディスペンセーション聖書解釈・教会論・終末論問題”があり、必要に迫られるかたちで、これらのテーマを扱った講義・講演・書籍・資料・DVD等作成とともに、それにそった「黙示録」講解説教シリーズを作成するよう導かれた。
今年は、現段階においては、特に大きな問題は起こっていないので、安息の年、ヨベルの年としたいところである。ただ、最近恩師のひとりである高橋昭市先生が『ダビデの石投げ−ロマ書の要約的研究−』を出版された。昨年のJEC一泊牧師会でも「ローマ書」を扱って講演され、そのレジュメをいただいた。そのときに、「安黒先生にも聞いていただきたかった。そしてレスポンスをしてほしかった。」と言われたことが心に残っている。7/19に出版記念講演会が開催された。なんとかして行きたかったのだが、環境がそのことをゆるさない。そこで、礼拝説教のかたちで、ささやかなレスポンスをさせていただけるのではないかと思った次第である。『ダビデの石投げ』は何度か目を通させていただいた。そして幾つかのポイントが浮き上がってきている。ただ、それらのポイントをどう扱うのかが問題である。それはひとそれぞれによって異なるのかもしれないが、わたしの場合、ローマ書理解といえば、やはり信仰初期に繰り返し熟読したウォッチマン・ニー著の『キリスト者の標準』が存在する。その後、数多くのローマ書注解書等に目配りしてきて、『キリスト者の標準』をも客観的にクリティカルに評価する視点も加えられてきた。昨年のシリーズと同様、関連文献紹介をしながら、「ローマ人への手紙」を再度、丁寧に読んでいきたい。シリーズ説教には、参考文献購入費用も多々かかるので、WMA(ウィンドウ・メディア・オーディオ)ストーリーミングは、「文字による概要紹介」とし、後日まとめて「ローマ書講解CD説教シリーズ」として販売させていただきたい。
七月は、『日本福音主義神学会』公式サイトの構築に力を傾注している。こちらのホームページも内容豊かで、今後なかなか楽しみなホームページとして成長していくと思う。ICI(一宮基督教研究所)とJETS(日本福音主義神学会)の二つのホームページに今後期待していただきたい。
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/06/01-06/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
7/2は、『聖書神学事典』の出版記念会に、神戸ルーテル神学校に行かせていただいた。午前中は、昼食をかねて感謝会があった。それぞれの自己紹介と執筆項目等の紹介があった。執筆のときの苦労話とともに、いのちのことば社創立60周年記念出版に関われたことへの感謝のことばが多かった。同感である。この事典が多くの教職者と信徒の方々の間で用いられていくことを願っている。
さて、六月はそれまでの超多忙な生活の後の、しばしの中休みの期間であったように思われる。スケジュール的には少し休めたのだが、パソコンとサーバーにトラブルが続き、別の面であわただしい月であった。それらのトラブルを乗り越えて、「福音主義神学会」のホームページ再構築に取り組めたことは感謝なことであった。このホームページも、今後日本語で神学研究に取り組まれる方々にとって貴重なホームページとなるよう、ICIで培ったノウハウのすべてを傾注して取り組んでいきたい。多くの関係者の協力と支援をお願いしたい。
ICI あぐろ
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2010/06/07:「福音主義神学会」の全国研究会議準備委員会が名古屋で開催された。この委員会に引き続き、全国理事会が開催され、「日本福音主義神学会」公式ホームページの今後のあり方について、2010/03/01の『福音主義神学』学会誌編集委員会での話し合いの結果を藤本満師がまとめられた提言を、新全国理事長の内田和彦師(葬儀のため急遽欠席)に代わり、前全国理事長の市川康則師が報告された。全国理事会は、『福音主義神学』学会誌編集委員会からの提言を了承し、今後「日本福音主義神学会」公式ホームページの管理・運営を一宮基督教研究所に委託することとした。以後、「日本福音主義神学会」ホームページは、全国理事会の監督の下、具体的な事柄については学会誌編集委員会の助言を受けつつ、一宮基督教研究所(安黒)により構築されていく。キリスト教宣教の歴史をみると、キリスト教会は、神の永遠のみことばを、変化し続ける社会の中で、その時代の最先端のテクノロジーを駆使してその活動を展開してきた。福音主義神学会も、このことにならって前進し続ける学会であってほしいと願っている。上記の最後のリンクから開くことができるので、一度閲覧していただきたい。
今日、久しぶりに共立基督教研究所時代の恩師である宇田進先生に電話させていただいた。先生には、『福音主義神学』四十周年記念号の原稿を依頼しており、経過をお尋ねしたのである。先生は「本格的な論文というよりは、神学会創立から今日までの神学的な努力を振り返りつつ、教義学全体の領域で気のついたことをしるすかたちで…」書き始めてくださっているとのことであり、大変感謝であった。その他、神学会創立期にたずさわられた先生方に貴重な原稿を書いていただけるとのことで、大変楽しみにしている。モーセがピスガの尾根から約束の地を望み見た、その箇所を思い起こす。申命記34:1
「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、34:2
ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、34:3
ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。34:4
そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。」宇田師は、先月に私の作成した「福音主義教会論:再考」三部作を東京基督神学校の神学生に、「啓示論」「教会論」「終末論」の講義の際に紹介してくださり、神学生の間で回し読みされていると聞かされた。宇田先生から教えられた事柄や資料をふんだんに活用させていただいているので、報告がてらに先生に送らせていただいているものであるが、そのように紹介していただいていると聞いて大変光栄なことだと思い感謝した。
現在、「日本福音主義神学会」公式ホームページの責任を任され、営為そのための取り組みをしつつある。福音派全体の益のために用いられる“神学研究情報の巨大なダム”を構築していけるようお祈りいただきたい。イメージとしては、ノアの日のような“巨大な大いなる水の源”となるような神学研究情報のダムのイメージである。創世記6:11 「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」 そのように、宣教と教会形成現場にとって“神学的兵站”と位置づけられようなサイトを神学会会員の先生方とともに構築していきたい。
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/05/01-05/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
いよいよ六月に入りました。わたしくしごとで申しますと、この五ヶ月間は『教会論研究』に没頭させていただいた期間でした。それは、5/31に「関西聖書塾での福音主義教会論:再考の講演奉仕」と6/1に「JEC拡大教師会での教会政治論セミナーでの総括奉仕」があったからです。その直前には「生駒聖書学院でのエリクソン著キリスト教の神学の教会論」の集中講義もあり、全体をひとつの奉仕として位置付け、机の上に三百冊くらいの教会論の書籍を積み上げ、早朝の時間帯において集中的に勉強させていただきました。そのひとつの結実が、『福音主義教会論:再考三部作』です。かなり充実した内容で仕上がっていますので、学ばれる皆さんにはきっと満足していただけると思います。内容は、@教会論の鳥瞰図と争点(関西聖書塾講演と質疑:180分=3000円)、A福音主義教会論の争点の整理(生駒聖書学院「エリクソン教会論講義」:180分=3000円)、B福音主義教会論の適用の実際(JEC拡大教職者会総括講演部分のみ:20分=330円)と配送料・手数料: 340円からなっています。定価で個別に購入していただくこともできますが、三点セットで購入される場合は、合計額6330円+配送料・手数料: 340円=6670円×0.7=4670円の特価(三割引き)にてお分かちします。現在、編集中です。今月中旬には、注文された方の順番に配送させていただきます。支払いは品物到着後一週間以内に同封します郵便振替用紙にてお振り込みください。注文・問い合わせは下記のICI安黒までメールにてお申し込みください。よろしくお願い致します。
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」セミナー
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案内させていただいていました下記のセミナー、祝福のうちに終了しました。主催者の了解を得て、上記の通りこのセミナーの講演部分のみのDVD講演録を販売させていただくことになりましたので、案内させていただきます。その概要は以下の通りです。
関西聖書塾:“福音主義教会論:再考”60分
神の民としての教会
霊性と秩序としての教会
職務の階層制の形成
カトリック教会観の脱構築としてのプロテスタント教会観
福音主義教会観の破滅としての自由主義教会観
神学の問いしての教会観
エキュメニカル運動における教会観の三期にわたる変遷
方向性−エディンバラ会議からバンコク会議まで
対比−エキュメニカル派と福音派
肯定面と否定面−聖書的伝道の四つの要素
一般文化史への解消か?、自己の根源への問い直しか?
生駒聖書学院:エリクソン“福音主義教会論:争点の整理と掘り下げ”180分
教会の本質…Changing World の中で、Essential Ecclesiology の“変質”が深刻な問題となっている今日、神によって霊感された誤りのない言葉を基盤として建てられた「福音主義的教会論」のあり方、絶対死守すべき教会論の本質とは何かについて学ぶ
教会の役割と政治…宗教改革における個人の聖書解釈の権利と自由は、必然的に聖書が許容している範囲内での多様な教会政治論をも生み出すこととなった。そのような多様性の聖書的基盤を検討しつつ、今日の宣教と教会形成においてどのような教会政治の原則がよりベターなのかを探求する
教会の儀式:洗礼と聖餐…洗礼論と聖餐論においても、多様な捉え方がある。それらの主張を丹念に学び、その支持聖句の丁寧な解釈を通して、より聖書的な洗礼論・聖餐論のあり方をもさくし、提言する
JEC拡大教職者会:安黒−総括講演“福音主義教会論:適用の実際”20分
教会論の鳥瞰図のエッセンス
教会論における争点のエッセンス
教会における実際的問題−教会の本質の変質、教会政治の恣意的変容、礼典論の崩壊等
『福音主義“教会論”:再考』 講師:安黒 務
●日時:2010年5月31日(月)午前10:30-午後2:30
●場所:近畿放送伝道事務所(Tel.06-6767-2558)、〒543-0013
大阪市天王寺区玉造本町9−1松屋ビル201(Tel.06-6767-2561)
●参加費:3000円、●申し込み・問い合わせ:Tel/Fax.072-444-7650(岸和田東聖書教会内事務局)
●主催:
関西聖書塾(KBJ)運営委員会[清水昭三(長)、小林久実、鈴木健之、高橋博、中野博誉、森田悦弘]、協賛:近畿放送伝道協力会(近放伝)
■テーマ『福音主義“教会論”:再考』について
昨年、日本福音主義神学会(西部部会秋期神学研究会議)において、『福音主義神学:再考―聖書・伝統・文化の中で―』というテーマで、基調講演させていただいた。そして市川康則氏(神戸改革派神学校校長)より「宇田=エリクソン路線(私の専門研究分野)は、根本的な聖書信仰と聖霊信仰に堅く立つ限りで幅広い教会と神学の伝統の交流と協力が可能となるような意味での福音主義神学である」との総括をいただいた。次の課題として、この基盤の上に構築されている「神論」から「終末論」までの“各論”の福音主義的再考があげられる。今回は、その中のひとつ、“教会論”を宇田=エリクソン路線において再考する機会とさせていただきたい。詳細に関しては、ICI日誌の「福音主義教会論:再考」準備ノート・シリーズ−3月、4月、5月に記述しているので参考にしていただきたい。
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート 22
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関西聖書塾の講演「福音主義教会論:再考」の時間的構成は、午前の部と午後の部からなっており、それぞれ約60分の講演と約30分の質疑と聞いている。現段階では、午前の講演で「@教会論についての歴史的鳥瞰図とその変遷から生ずる問題意識」、そして午後の講演で「Aそれらの問題意識へのレスポンスという視点から見た“宇田・エリクソン神学における教会論”」というかたちはどうだろうか、と考えている。
「A宇田・エリクソン神学における教会論」は、福音主義のスタンダードな指標を示す、ひとつの教会論である。一見目を通すだけでは、普通の福音派の教会論である。ロウソクの灯は、昼間はあまり目立つことはない。しかし、深夜にはその意義を発揮する。「宇田・エリクソン神学における教会論」は、「@教会論についての歴史的鳥瞰図とその変遷から生ずる問題意識」の中に正しく位置付けてはじめて、その意義を明らかにするものと思うのである。
宇田師は、ローザンヌ会議のレポートの中で、20世紀のWCCにおける教会論の変遷と宣教との統合に積極的な意義を見出しておられる。とともに聖書的宣教からの逸脱ともとれる課題を指摘しておられる。教会論の動向と展開においても、積極的に学ぶべきポイントを評価するとともに、否定的な課題を含むポイントを識別・分析・ろ過していく力量が求められているのではないか。WCCとローザンヌをマクロな視点から対比しつつ、福音主義教会論を再考していくことは重要、そう思うのである。
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関西聖書塾の講演「福音主義教会論:再考」の構成を、絵画でいうクロッキーないし、スケッチ調の感じで何度も描いている。今日も1枚の下絵を描いてみたい。
宇田進著『総説福音主義神学』は、わたしの神学的営為を刺激する内容に満ちている書物である。何をどのように考えるべきなのか。特に、神学的思索の道筋や手順のあり方を懇切丁寧に教えてくれる書物である。昨年の神学会の「福音主義神学:再考」においてもそうであったが、今回の関西聖書塾の「福音主義教会論:再考」についても、どのように神学的に思索していくべきなのか。どこに問題意識の焦点を置くべきなのか。そして着地点はどこを目指すべきなのか、を照らしてくれる。我が足のともしび、我が道の光である。
この著作の著者の意図は、「16世紀の宗教改革に根差す歴史的な福音主義キリスト教の視点を尊重する立場から、@今日の神学的状況と動向に関する分析と情報の提供、A注目すべき問題点と主要な争点の指摘、Bそして、福音主義を標榜する諸教会の“核”を成すその“信念体系”の確認と、それに関するより一層の掘り下げへの一つの呼びかけと、そのための一つの材料になればという思いがある」ところにある。
この基本的考え方が大切である。@は鳥瞰図とその分析、Aはその全体図の中で問題意識の焦点、Bは福音主義の立場に立つべき位置の確認、の三点である。「福音主義教会論:再考」においても、この三点を基本的構成として論を組み立てていきたい、そう願っている。宇田師の『福音主義キリスト教と福音派』と『総説福音主義神学』、エリクソンの『新福音主義神学』と『キリスト教神学』がそれぞれ歴史神学軸、また組織神学軸である。そしてその長年講義し使い慣れ、親しんできた基本的フレームワークの中に、H.G.ペールマンやL.ベルコフの鳥瞰図的資料、斎藤正彦のシュライエルマッハーの教会論、C.ウィリアムズ等の二十世紀のWCCにおける教会論の動向分析等を通して、福音主義教会論に関し、@鳥瞰図、A問題意識、B立つべき位置、について現段階における考察をまとめていきたい。
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート S
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エリクソンの処女作『新福音主義神学』に、エリクソンの神学的営為の青写真が描かれていることは、昨年の神学会の基調講演で述べた。さて、その青写真の細部の項目「教会」におけるエリクソンの言及をみることとしたい。
「救いの経験は論理的に、クリスチャンが単に孤立した個々人として存在するものではないゆえに、教会の教理へと導く。新福音主義者たちは、直接的に教会に関する大著を書き記すことはなかった。主だった貢献のひとつは、カーネルの論稿である。教会の第一義的定義において、カーネルは、改革派の伝統に従っている。教会は、あらゆる時代の、すべての贖われた人、また彼が書き記しているように、制約とか環境に関わらずアブラハム契約をともにするすべてのの人々からなっている。それは新約聖書で始まるのではなく、彼と彼の子供たちが神の特別な民であり、彼の救いと祝福を受け取るというアブラハムへの契約をもって始まる。新約聖書と新約聖書以後の時代において、このことは広げられていった。パウロはガラテヤ3章において、アブラハムの子孫とはアブラハムの血縁的子孫ではなく、むしろ彼の信仰を共有する人々であると語っている。カーネルは、ギリシャ語のエクレシアつまり教会が、セプチュアギンタつまり旧約聖書のギリシャ語訳においてイスラエルの民の集まりに使われている。教会は単純に神の民である。」
「私たちは、まず外的また経験的なかたちにおいて教会と出会うのであるから、私たちは時々それをその方法で定義するという誤りをおかす。むしろ、教会は霊的な現象であり、神的に創造された、同じ救い主を信じる罪人の交わりである。教会は、教会との結びつきによって定義されているクリスチャンよりむしろ、救われた人々を包括することにおいて定義される。教会は、そのメンバーが礼拝・交わり・奉仕において集まるときにのみ見えるからだとなるところの見えないからだである。」
「しかしながら教会は、具体的な現実となる。多様な地方性において、信仰者はお互いを建て上げ、主の命令を遂行するために集められる。このことは、彼らが個々別々にあるよりもより効果的になしうるためである。ひとつのピアノをそれぞれが別々にひと続きの階段の五分の一ずつを持ち上げようとしている五人の人より、五人全員が一緒にずって運ぶほうがまさっている。同様に、地方教会はばらばらな個々人よりもすぐれたかたちで神の国の働きを促進することができる。これは実際に、コリントにある教会、ローマにある教会、テサロニケにある教会とっいたかたちで、新約聖書にきわめてしばしば言及のある、教会の第二の意味である。」
「理想的、普遍的な見えない教会と、地方にある見える教会はコインの両面である。地方教会の外側にクリスチャンはいるべきではない。地方教会の内側に未信者はいるべきではない。しかしながら実際には、その理想は決して実現されることはない。ただ再生したクリスチャンのみが教会のメンバーシップに加えられるよう、すべての努力が確実になされたとしても、なおイエスの教えの現実的な考察では、穀物の間の雑草に結び付けられ、それらは最後の審判まで取り除かれないと啓示されている。」
「キリストのからだの地方的な現われにおいては、評議委員会、委員会、役員を伴った組織的な構造を必要とする。それは、教会の仕事をきちんと秩序をもって保持する実際的な必要、そして主の下に教会の責任遂行を容易にするための便宜上の事柄である。カーネルは、聖書が教会政治の形態について特別な事柄を詳述しているとは信じていない。私たちは政治形態について、詳細にではなく幾つかの一般的な諸原則を与えられている。」
「新約聖書は、いろいろなタイプの務めが存在することを示唆している。仕えること(執事)の務めは、祈りと御言葉の奉仕という、彼らの主要な務めの遂行を妨げるありふれた仕事から解放するために設立された。今日でもなお、より一般的な仕事の幾つかを信徒に委ねることは牧師にとって必要なことである。そのことによって、彼はより十分なかたちで失われた魂に伝道することができ、信仰者たちを建て上げるために自身を提供できる。」
「教えることと治めることの務めは、実に最初から教会の中に存在していた職制である長老の職務である。すでにキリストの時代においてユダヤ人のシナゴグに長老は存在していた。そして新約聖書時代の会衆は、そのその存在している組織的構造を発展させた。パウロは、彼が教会を設立したそれぞれのところで長老を任命した。このようにして、同じ政治形態が異邦人諸教会に広がっていったのは明らかであった。」
「今日の教会における職務の性質はどうあるべきなのか。カーネルは、使徒行伝20章の箇所は監督(bishop or overseer)、長老(presbyter or elder)、牧師(pastor or shepherd)という用語は交換可能なかたちで使用されていることに留意している。それゆえ、それらの職務相互の相違は原則にではなく、便宜性に由来するものである。さらに、彼は治める務めはその時代時代の必要に従って発展する自由が与えられていると主張している。教会政治の多様な形態は異なった文化的諸要素とか便宜性に関わる諸状況の結果として生み出される。」
「職務の正確な呼称は決定的重要性をもつものではない。ある教派は監督(bishop)と呼ばれる監督的職務をもつ。そしてもうひとつの教派は(executive secretary)と呼ぶ同様の職務をもっている。その呼称は問題ではない。決定的な問題は、これがその交わりを増進し、促進させるかどうかである。教会の組織的構造に関する第一義的機能は、聖書が何を教えているのかを決定することであり、第二に教会の働きを遂行することについての実際的問題である。」
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート R
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ルイス・ベルコフ著『キリスト教教理史』も、大変すぐれた書籍である。第八章「教会とサクラメントの教理」は、教理史における「教会論」が簡潔明瞭にまとめられていて分かりやすい。そのp.251「プロテスタントの考え方はローマ・カトリックの教会観を背景にして見たとき、最も良く理解される」とある。福音主義教会論とは何か。それは、宗教改革時代におけるプロテスタント教会論をみるときによく分かる。そしてそのプロテスタント教会論は、@堅固に構築されていた“カトリックの教会論”の、A聖書の啓示にそうかたちでの脱構築(分解)という背景において理解されなければならない。その使徒的継承をどのように理解するかは、ひとつの鍵である。「宗教改革から生まれた教会観はローマカトリック教会のそれとは全く異なっていた。」プロテスタント諸派は、ローマカトリックの教皇主義的教会観から離れていった。アウグスブルグ信仰告白は、目に見える教会を「福音が正しく伝えられ、サクラメントが正しく執行される聖徒の群れ」と定義している。この後、プロテスタント諸派における共通性と多様性をどのように捉えるのか、という課題を抱えたまま歴史は展開している。このあたりの課題をエリクソンはどのように考え、扱っているのかをみていきたい。
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日本福音主義神学会・西部部会春期神学研究会議DVD講演録のご案内
主題研究「福音主義聖書論:再考」と部門別研究発表
西部部会特別価格:1000円(送料別)
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■2010年4月19日(月) 10:00am−16:00pmに、福音聖書神学校
http://www.wombat.zaq.ne.jp/auaig108/
〒563-0038 大阪府池田市荘園2−1−12 072−761-1397(代表)において、開催されましたDVD講演録です。西部部会会計からの補助があり、できるだけ安価で提供させていただいています。「DVDとレジュメ・ブックレット」のセットで、西部部会特別価格1000円(送料別)で提供させていただいています。
■問い合わせ・注文・支払い:一宮基督教研究所(あぐろ)まで、メールにてお願い致します。振替用紙を同封して送付させていただきます。
■テーマ:「聖書論再考」
昨秋の「福音主義神学再考」の流れを受け、2011年の全国研究会議とも繫いでいく点でこのテーマを掲げました。16世紀の「宗教改革」の大きな旗印は「聖書のみ」でありました。聖書こそが信仰と実践に唯一絶対の指針を与えるものでありました。しかしながらこの立場は、「主知主義」、「人本主義」、「科学主義」、「主観主義」、「相対主義」等の攻撃にさらされながらも、今日まで古今の福音主義的陣営によって摂理的に守られてきたと信じます。ポストモダニズムの極端な相対主義の荒波が押し寄せている21世紀、私たちは、自分たちのIdentity
の原点である「聖書のみ」を、もう一度検証し始める必要を感じています。
■プログラム:
10:00−10:30 受け付け
10:30−11:00 開会礼拝:福音聖書神学校のスタッフ
11:00−12:30 部門別研究会議
(T部:10:00−11:45;U部:11:45−12:30)
@歴史・組織神学:黒川豪氏・崔榮九氏
A歴史・組織神学:野崎浩二氏・仲井隆典氏
B聖書神学 :竹内茂夫氏・眞鍋献一氏
12:30−13:30昼食
14:00−15:00 主題研究会:司会進行(大田氏)
■以下の神学校の聖書論の把握と特徴を発表していただき質疑応答に入ります。
@神戸改革派神学校
A大阪キリスト教短期大学神学科
B神戸ルーテル神学校
C福音聖書神学校
15:00−15:40 質疑応答
15:40−16:00 総括と閉会の祈り(滝浦氏)
コーディネーター:大田氏、滝浦氏、眞鍋(文責)
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート Q
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What is the Evangelical Ecclesiology ?(初代〜宗教改革)
宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』より
「エバンジェリカル」−融通無碍な呼称
福音派の源流と歴史的遺産−@神学的・教理的要素、A歴史的要素、B社会的・文化的要素
宗教改革の三大原理と福音派−@聖書のみ、A信仰義認、B聖徒の交わりとしての教会
Why does deconsruct the Evangelical Ecclesiology ?(啓蒙思潮〜現代)
宇田進著『総説福音主義神学』「第八章 教会の理解と誤解−第一節 教会の一般文化史への解消」より
「教会は月のよう」(アンブロシウス)か?:ピーター・フォーサイス『教会とサクラメント』、D.ブローシュ『教会の改革的形成』、ロバート・ネルソン『贖罪の領域−現代ブロテスタント神学における教会論研究』、ハンス・キュンク『ゆるぎなき権威?−無謬性を問う』
「福音主義教会観の破滅」?:リチャード・R・ニーバー『シュライエルマッハーのキリストと宗教』、斎藤正彦『イエス・キリストと教会』
“世俗的宣教”を担う“政治的教会”?:『アウグスブルグ信仰告白』、『スコットランド信条』、『ベルギー信条』、J.C.ホーケンダイク『明日の社会と教会』、C.W.ウィリアムズ『教会』、ジョージ・ウェーバー『宣教における会衆』
“潜在的教会”と「教会の外の教会」(D.ゼレ):パウル・ティリッヒ『組織神学』、D.ゼレ『教会の外の教会』
無教会主義と「ひとり一教会」?:ブルンナー『教会の誤解』、岩隈直『無教会主義とはなにか』
「自己の根源について徹底的に」:ユンゲン・モルトマン『聖霊の力における教会』
How do we reconstruct the Evangelical Ecclesiology ?(ポストモダン)
M.J.エリクソン著『キリスト教神学』第四巻「第十一部 教会」
教会の本質
教会の定義
@教会に関する混乱、A教会の経験的−動態的定義、B教会の聖書的−言語的定義
教会の聖書的イメージ
@神の民、Aキリストのからだ、B聖霊の宮
特別な問題
@教会と御国、A教会とイスラエル、B見える教会と見えない教会、C教会の始まりの時期
教えられること
教会の役割
教会の機能
@伝道、A建徳、B礼拝、C社会的関心
教会の働きの中心:福音
教会の特徴
@喜んで仕えること、A順応性
教会の政治
教会政治の形態
@監督制、A長老制、B会衆制、C非統治制
今日のための教会政治の構築
教会の入会儀礼:バプテスマ
バプテスマに関する基本的な諸見解
@救いに至る恵みの手段としてのバプテスマ、A恵みの契約のしるしおよび証印としてのバプテスマ、B救いのしるしとしてのバプテスマ
問題の解決
@バプテスマの意味、Aバプテスマの対象、Bバプテスマの様式
教会の継続儀礼:主の晩餐
意見の一致する点
@キリストによる制定、A繰り返しの必要性、B福音告知の形態、Cあずかる者への霊的福益、Dキリストに従う者への限定、E水平的次元
一致しない点
@キリストの臨在、A儀式の効力、B適切な執行者、Cふさわしい受け手、D使用されるパンとぶとう酒
主要な見解
@伝統的ローマ・カトリックの見解、Aルター派の見解、B改革派の見解、Cツウィングリ派の見解
問題の処理
@キリストの臨在、A儀式の効力、B適切な執行者、Cふさわしい受け手、D使用されるパンとぶどう酒、E行う頻度
教会の一致
教会の一致を支持する論証
@信仰者の一致に関する聖書の教え、A一般的な神学的考察、B実践的考察:共通の証しと効果性
一致の本質についての考え方
@霊的本質、A相互認識と交わり、B協議会的一致(Conciliar Unity)、C有機的一致
エキュメニズムの歴史と現状
@神学上の問題、A教会論上の問題、B方法論上の問題、C目的論上の問題
福音主義者が提起する諸問題
行動の指針
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/04/01-04/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
今月は、他教会奉仕、神学校奉仕、セミナー奉仕等の諸準備をホームページ上で取り組んだということもあり、結構多くの書き込みをすることが
できました。メインは先月と同様『福音主義教会論:再考』という視点です。
1948年の世界教会協議会で、ゲオルギー・フロローフスキー神父は、「教会に関する教理は神学以前の状態をほとんど超えていない」と主張しました。エリクソンも、その著作『新福音主義神学』において、福音主義者の間で、「教会論のすぐれた著作が少ない」ことに言及しています。これは、三位一体論、キリスト論、贖罪論等に比べて、「教会とは何なのか」という中心主題にまで至ることがなかったからだと言われています。WCCでは、その後数多くの教会論についての議論と著作が生み出されてきました。それらの全体の展開を眺望しつつ、福音主義にたつ私たちにとっての「教会論」のあり方、考え方、捉え方について、いろいろと考えてみました。宇田師も「教会は、自己の根源について徹底的に問い直し」とモルトマンの言葉を引用してチャレンジしておられます。まだ、発展途上の取り組みではありますが、皆様のご奉仕の参考にしていただければ幸いです。
また、五月末には、案内しておりますように、『福音主義“教会論”再考』というテーマで、聖書と歴史における“教会論”の鳥瞰図を眺め、福音主義“教会論”の取り組みがなされた宗教改革と正統主義神学の時代、そして福音主義教会論の破滅と位置づけられるシュライエルマッハーの教会論の捉え方と今日のWCCやローザンヌ運動における教会論への言及等々に目配りし、歴史的に構築されてきた「福音主義教会論」の輪郭を特定し、その基盤がゆるがされてはいないのかを点検・修理し、宇田−エリクソン路線で「福音主義“教会論”」を再構築していく手順・道筋を探っていく試みを提示ざていただきます。午前・午後一時間ずつの講演と、20−30分ずつの質疑応答の時間が予定されています。参加してくださる方々にとって豊かな学びのときとなるようお祈りください。また、時間のある方はぜひ出席し、ともに「福音主義教会論」に関してともに研鑽のときをもっていただけたら感謝です。
今回のICI Monthly April は、少し分量が多いですが、それは五月末のセミナー内容について知っていただきたいという願いからのものです。ブリントアウトして繰り返し読んでいただけますと、多くの洞察と刺激を得ていただけるものと思います。
あぐろ
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート P
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「福音主義教会論:再考」のセミナー講演の準備をしている。この準備は、ひとつのセミナー奉仕だけが念頭にあるのではない。私自身のうちに構築されてきた「福音理解」の分解と再構築が課題としてある。その全体の文脈の中にあるひとつの出来事としてのセミナーである。また、このセミナーの直前には生駒聖書学院で、エリクソン著『キリスト教神学』第四巻、第十一部「教会論」の集中講義があり、セミナーの翌日には所属団体JEC日本福音教会の拡大教職者セミナーで「JECアイデンティティ・シリーズ:JECの教会論“教会におけるリーダーシップ(教会政治論)について”の基調講演・パネルディスカッション・質疑応答・全体総括」が予定されている。わたしは、その中で全体の総括をすることになっている。生駒の集中講義は、エリクソンの「教会論」を再度丁寧に振り返る機会、セミナーはわたしにとって新しい領域を切り開く機会となっている。そしてセミナー講演は、教職者会での総括に向けての下準備ともなっている。つまり、多くの奉仕の中で単発的に準備することは難しいので、常に諸奉仕全体の文脈の中でセミナー準備を位置付けながら準備しているのである。また、「福音主義教会論:再考」は、神学入門再考から終末論再考に至る他の項目との有機的関連性も意識しながら進めていくつもりである。このように意識し関連づけで取り組むことは、いくつかの奉仕がいろんな意味で衝突することなく、かえって相乗効果が生まれるのである。つまり、負担の軽減に役立つということである。ひとつの奉仕準備することは、他の奉仕準備をすることでもある。
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート O
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「福音主義教会論:再考」準備ノート N
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「福音主義教会論:再考」準備ノート M
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多忙のゆえ、しばらくとまっていた「福音主義教会論:再考」の準備を再開したい。ノアの放ったカラスのように、長らくたくさんの教会論関係の文献を手探りしてきたが、奉仕まであと一ヶ月と迫ってきているので、そろそろ鳩を放って若葉をくわえてもらわなければならない。講演のおおまかな輪郭はできあがりつつある。これをどのような糸先から語り始めたら良いのか、それが問題である。これまでの経験から、自分の証しから語り始めると講演全体が分かりやすいものになると考えている。教会論全般から、つまり普遍から話し始めるのではなく、私自身の教会論との接点、つまり個別から話し始めるということである。というのは、教会論関係の文献が書斎の机の上に溢れていて、その展開の広さと多様性に圧倒されているからである。主題は「教会論」であるのだが、何を、どのように語っていけば良いのか、五里霧中という感じなのである。それでも、ペールマン著『現代教義学総説』から新約聖書の教会論・教会史における教会論・今日の教義学における教会論の主要な議論の眺望、丸山忠孝師から学んだ「教会論史」講義ノートから、旧約・新約聖書の教会論・教会史における教会論、そして特にWCCとローザンヌ誓約にみられる教会論の対比、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を教会論の視点から読むときに教えられる構図、『総説福音主義神学』からリベラル陣営を含む、今日における教会論の議論の展開、ローザンヌ会議後に書かれた諸論稿・諸論文にみる教会論関係の議論、エリクソン著『キリスト教神学』の教会論からは、オーソドックスではあるが、今日的な視野も教えられる。福音主義の立場における幅と多様性を教えられる。教会政治や儀式における理解に関してである。教会の機能についてもそうであるだろう。では、それらの多様性を扇の展開としてみた場合、扇のかなめとしての共通する本質的要素とは一体何なのだろう。このあたりを掘り下げ、整理していきたい。それと、エリクソンの教会論では、特別な問題として、教会と神の国・イスラエルと教会等が扱われている。これは、エリクソンがリフォーミング・ファンダメンタリズムの立場であり、ラッドが抱いたのと同様の問題意識をもって教会論を扱っていることを教えられる。つまり、古典的そして修正ディスペンセーション主義の内包する問題を過去の問題としてではなく、現在でも扱わなければならない問題として位置付けているということである。それと、エリクソンの教会論には、バプテストの伝統への忠実というスタンスがあるように思われる。
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2010.04.25 山崎チャペル・一宮基督教研究所
詩篇シリーズA
Ichinomiya Christian Institute
Chapel Short Message
『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません』
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主は私の羊飼い、緑の牧場、いこいの水のほとりに(vv.1a,2)
乏しさ、災い、敵−死の陰の谷を歩くことがあっても(vv.1,4a,5a)
生き返らせ、ともにおられ、杯は溢れています(vv.2,3,4b,5,6)
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2010.04.18 山崎チャペル・一宮基督教研究所
詩篇シリーズ@
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます』
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あなたの目は胎児の私を見られ、書物にすべてが(vv.13-16)
よみに床を設けても、海の果てに住んでも(vv.1-12)
あなたの御思い、その総計を知ることは(vv.17-24)
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委託販売中! 仲井隆典著
『ディスペンセーション終末論の克服』
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『ディスペンセーション主義終末論の克服』…携挙について、再臨のあり方、イスラエルと教会、患難について、千年期について、の五つの項目に関し、「ディスペンセーション主義の主張」を、「エリクソン・ラッド・グルーデム・マーレー・岡山等の福音主義のすぐれた神学者の見解」を引用し、的確に論破した大変すぐれた論文。神学生論文であるが、古典的、また修正ディスペンセーションの誤った教えから脱却を求めるすべてのクリスチャンにおすすめしたい。このテーマで、神学的一里塚を形成している画期的な論文である。
ブックレット:31ページ白黒、簡易製本、500円、送料別100円(ICIで、実費にて委託販売中!)メールにてご注文ください。
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ICI
audio streaming lectures
『神学入門』
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「神学入門」の講義です。サンプル講義なので無料でお聴きになれます。以下、本年度からオーディオのみで、安価なかたちで聴講できるコースを作りましたので、ご利用ください。約180分:通常価格750円(=60分あたり250円×3時間)
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ICI News
100419
いのちのことば社創立60周年記念出版
『聖書神学事典』のご案内
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ICI安黒も、ささやかながら執筆させていただいていました『聖書神学事典』がいよいよ刊行されます。皆さまのご奉仕、霊的成長のお役に立てていただけることを祈念しています。お近くのキリスト教書店等にご注文ください。
内容紹介
特色
監修:鍋谷堯爾、藤本満、小林高徳、飛鷹美奈子。執筆者:安黒 務、石黒則年、池上 安、市川康則、伊藤明生、岩上敬人、遠藤勝信、大嶋美枝子、大塚 篤、岡山英雄、金井由嗣、鎌野直人、川嶋直行、河野克也、河野行秀、菊地 実、橘内明裕、工藤弘雄、倉沢正則、込尾隆義、佐々木哲夫、清水武夫、杉本智俊、関野祐二、瀧浦 滋、竹内茂夫、蔦田崇志、津村春英、南場良文、西岡義行、橋本昭夫、藤原導夫、正木うらら、真鍋 孝、丸山悟司、丸山忠孝、三浦 譲、水垣 渉、水草修治、村岡崇光、安田吉三郎、山崎ランサム和彦、山下正雄、山田泉、山中猛士、油井義昭、吉川直美、ショート・ランドル、渡辺睦夫、飛鷹美奈子、鍋谷堯爾、藤本満、小林高徳。
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Evangelical Theology: Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義神学入門:再考」準備ノート B
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KBIでながらく「聖書通論」を教えてこられた吉岡先生の後を教える予定の後輩の教職者から、「新約通論」について助言をいただきたい」と頼まれている。他の新しい教師からも「日本基督教会史について良い参考文献があったら教えてください」と聞かれ、そのままになっている。心に留めているのであるが、忙しくてなかなか手が回らないのである。それで、どこまで、どの程度助言ができるのか分からないのであるが、後輩の教師への助言をも視野におくかたちで、「福音主義神学入門:再考」準備ノートを書き綴っていきたい。
とりあえず、心にあることは、ここ数年来取り組んできたことであるが、フラー神学校に関するマーズデンの書籍“Reforming Fundamentalism”とい視点に立つことが、今日、福音派神学教師として立つ基本的な立脚点であると思う。この点については、ここ数年来、特に昨年の“古典的ディスペンセーション主義問題”の取り組みと“福音主義神学:再考”の取り組みの中で明らかにしているので、これらの資料を熟読し、DVDを通してよく学んでいただきたい。それらの中に、基本的なポイントが示されている。「最初のボタンを正しくとめなくては、最後のボタンはとめられない」といわれるように、基本的な視点で失敗すると、長い先に自分の教えてきたことの誤りを深く悔いることになる。
その意味で、「神学教育」の全体像を、鳥瞰図の視点からよくよく眺めつつ、神学教育全体の中における各科目の位置づけを絶えず問いかけていく必要があるのである。担当する科目の全体における位置づけ・意義というものを深く考えていくことが大切である。それゆえ、教えようとする「教科書」に精通するのみでなく、その周辺の関連文献にも広く目を通して置くことが求められる。
「新約学」の領域の文献に関しては、救われた当初はH.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を片手に、聖書を何度も通読した。その後、教会の聖書研究会やKBIでH.スウィーガム著『旧新約聖書研究ベテル』を学んだ。KBI卒業後助手として奉仕し、M.C.テニイ著『新約聖書概観』を教えた。共立基督教研究所と東京基督神学校では宮村武夫先生から、G.E.ラッド著『新約聖書神学』を学んだ。
そのときは、あまり意識しなかったのだが、最近になって、G.E.ラッドの著作集の基本的視点が“Reforming Fundamentalism”であり、“古典的ディスペンセーション主義問題”の克服であることが分かってきた。エリクンソ神学の中においても、これは基本的視点となっている。このような問題意識を明確にもってなされる神学教育と、単に雑多な神学知識を分かち合うだけの神学教育とでは、その効果・意義において大きな差異が生じるものと思う。
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「福音主義神学入門:再考」準備ノート A
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先月、「福音主義神学入門」の3週間バイブルコースにおける特別講義を依頼されてときには、まだずいぶん時間があるように思ったが、あと数日となった。現在、やはりこれまで通りの『神学入門』の講義資料に手を入れて、分かりやすく語ることが、短期コースの方にも、長期コースの方にも有益ではないかと考えている。H.G.ペールマンは「議論の見通しのきかない原始林に林道をつけてやる責任」について書いている。わたしは、多くの神学校においてなされているように、神学を学び始める最初に、一生涯続ける神学の学びの最初において、「神学の学び」の全体像と本質を明らかにしておくことは、今後スムーズかつ有益な神学の学びを、それぞれのペースにおいて取り組んでいく上できわめて有益なことであると考えているのである。
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Evangelical Anthropology: Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義人間論:再考」準備ノート
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次週、4/20にKBIの新学期のわたしの講義が始まる。二年・三年合同クラスの、エリクソン著『キリスト教神学』第三巻、第五部「人間論」である。メイン・テキストは「人間論への序論」「人間の起源」「人の中にある神のかたち」「人の構成の性質」「人類の普遍性」の五つの章で構成されている。要約版では「人間の教理への導入」「人間における神の像」「人間を構成している性質」の三つの章で構成されている。要約版をベースにして講義している。60分三回で、三つの章を進むのか、90分二回で、二つの章を進むのか、いつも迷うところである。
それと、自分自身に対し今年の課題としていることがある。それは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』を並行して読んでいくことである。人間論の講義においても、授業の中で扱うことはできないと思うが、「人間論」の聖書神学的、そして歴史神学的“鳥瞰図”を押さえつつ、今日の組織神学的領域における主要な議論をみていくことである。そして、それらの議論との関連で、重要参考文献に目を通していくことである。この点において、新教出版社の「現代神学の潮流」シリーズは、大変助けとなる神学書である。断片的かつつまみ食い的にいろんな本を読むことにも意味があるが、現代神学の全般的な視野を与えてくれる点で、大きな助けになっている。このシリーズのNo.6は、R.L.シン著「人間−新しいヒューマニズム」である。これらのシリーズ書籍に目を配りつつ、組織神学の各領域のテーマを今日的に掘り下げていきたいと考えている。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート L
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昨日、注文していたトム・ヘス、他著『ダビデの幕屋の回復(Restration of the Tabanacle of David)』が届いた。十人の講師による「ダビデの幕屋の回復」に関する論稿やメッセージを収録した編集書籍である。この五月に、KBIで『祈りの祭典』と題して、二泊三日の聖会が開催される。神学生からこの集会に関して質問を受けたので、おおまかな返答をしておいた。そして、また調べた上で正確なコメントをしたいと返事をしておいた。それで、関連書籍を集めている次第である。この書籍を一読して、『ダビデの幕屋の回復』というテーマは、アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈の問題であることが分かった。十人の論稿、またメッセージに目を通した。十人十色とまではいかないが、結構、幅のある理解が提示されているように感じた。特に、一章のトム・ヘス師と二章のアブネル・ボスキー師の立場にはかなりの相違があるように思われる。トム・ヘス師は、「ダビデは契約の箱を取り戻し、エルサレムの自分の宮殿の裏庭に安置した。そこでは礼拝ととりなしが、一日24時間、一週に7日間、神の御座のもとに昇りはじめていた」と記し、そこを起点として「24時間の礼拝ととりなし」の運動を展開しておられる。トム・ヘス師のこの運動を評価するためには、「アモス9:11-15と使徒15:12-20」の聖書解釈を包括的な視点から分析・評価することが大切と思う。
いのちのことば社の新聖書注解・新約2の「使徒の働き」には、この箇所の解釈を「この救いの計画の事実を、ヤコブはアモス9:11-12から引用して説明する。この引用も70人訳によっているので、ヘブル語本文と若干異なっている。あるいは、この教会会議はギリシャ語でなされたのかもしれない。ヘブル語本文は、ダビデ王家が、滅亡した繁栄を回復し、ダビデ王国に属していた領土をことごとく統治するということを語っている。しかしヤコブは、ダビデの幕屋の再建を、ダビデの子キリストの復活、およびキリストの弟子による新しいイスラエルによって成就されたとしている。さらに、残りの民が主を求めることは、信仰を持つユダヤ人だけではなく、信仰を持つ異邦人が存在することによって成就されたという意味において引用している。このように、異邦人も神の民の一員になることは、旧約時代から明らかにされていた神のご計画であった」とある。信頼できる注解書から、この聖書箇所の背景、文脈を理解し、その中で意味されていることは何かを特定することが、健全な聖書解釈の第一歩である。
「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」を取り扱った神学書を求めて、書斎にある神学書を時間をかけて探してみたが、以前扱った「セカンド・チャンス」、「霊の戦い」、「ディスペンセーション主義」等の諸問題でみられたように、この聖書箇所とテーマで取り扱った資料や文献はなかなか見つからなかった。大きな神学的問題、また大きな勢力を構成する運動になっていないのか、とも思った。そうであったとしても、これらの箇所の聖書解釈のあり方をきちんと押さえて置くことは重要であるゆえ、書斎を再度探してみた。そのような中で、使徒行伝を専門的に扱った聖書神学書のひとつ、J.D.G.Dunn“Beginning from Jerusalem”、1345ページの大著があった。この著作の中で「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」が扱われていて教えられた。その記述の中に、R.Bauckham“The Book of Acts in Its First-Cetury Setting, Vol.4, : The Book of Acts in Its Palestine Setting. Ed, R.bauckham”への言及があり、「ボウカムは、アモスの預言は異邦の諸民族の終末論的回心をメシヤ時代における神殿の回復と関係づけている諸預言の脈絡において読まれており、“ダビデの幕屋の再建”は終末論的神殿としてのエルサレムの共同体への言及としてみられていたであろう、と正しく主張している」と書き記している。ボウカムといえば、昨年「ディスペンセーション問題」でラッドと岡山師とボウカムをよく学んだ。今日、ボウカムの上記の本も注文した。また、届いたら、関連箇所を翻訳して紹介したい。
レストレーション・ムーブメントの上記のポイントの聖書解釈における課題は、かなり明白に理解できるようになってきた。これからの課題として、レストレーション・ムーブメント自身の歴史的ルーツとその発展についての情報収集である。そして今日における展開についても調査する必要がある。今、ひとつの聖書箇所を心に示されている。
<Eph>
4:11
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
KBI関連諸教会の中に、KBIが立てられている意義を再度考えさせられた。今日、世界各地から押し寄せるさまざまなムーブメントの中で、翻弄されることなく、それらの肯定的側面と否定的側面を識別し、地方教会の建徳的成長に生かしていくことが求められている。KBIは、第一義的に、神学生に対し、そして副次的に関連諸教会に対して、これらの識別・評価に対して責任があると感じている。私たちは万能ではないけれども、長年神学研究と神学教育に携わってきたひとりとして、責任から逃げることなく、その責任を果たしていくべきだと思うのである。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート K
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今朝は、Clarence B. Bass "Backgrounds to Dispensationalism -its Historical Genesis and Ecclesiastical Implications-"の教会論を読んだ。第四章「ダービーの教会論」は、「@荒廃の中にある教会、A教会の本質、B教会の歴史的誕生、Cキリストのからだとしての教会、D神の御住まいとしての教会、Eキリスト−教会のかしら、F地上にある教会、G教会の一致」というかたちで解説されている。英国国教会におけるリベラル化の進行が歴史的背景としてあり、その荒廃し、形骸化した“組織”としての教会から、離脱して純粋な信仰者による“純粋”な教会を形成しようとする運動であることを教えられる。しかし、それらの教えのひとつひとつの中に極端な傾向を見出す。これらについて整理しておくことは大切である。
また、Dana Roberts "Understanding Watchman Nee"の教会論の箇所を読んだ。第五章「教会とその働き」は、「@歴史的考察、A普遍的教会、B地方教会、C終末における教会」という構成で書かれている。その内容は、ウォッチマン・ニーの著書とエッセンスとを紹介していく方法である。それらは“The Glorious Church”,“Assmbly Together”,“The Normal Christian Church Life”,“What Shall This Man Do ?”,“The Orthodoxy of the Church”,“Spiritual Authority”,“Further Talks on the Church Life”,“Come, Lord Jesus”,“God's Plan and the Overcomers”,“Love not the World”,“Gospel Dialogue”等に関する分析と評価が書かれていて興味深い。このあたりの解説を読むと、ウォッチマン・ニーの著作に、いかにJ.N.ダービーの著作を起源とする古典的ディスペンセーション主義の影響が濃厚であるのかを教えられる。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート J
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4/6に、JECのEブロック牧師会があった。今回は、特に6/1のJEC拡大教職者会「JECアイデンティティ・シリーズ『JECの教会論:教会におけるリーダーシップのあり方(教会政治論)』」についての基調講演・パネル・ディスカッション・質疑応答・全体総括等が行われる。今回、このテーマに関して話し合う過程において、ひとつのことに気がついた。私自身は、高橋牧師時代の西宮ECと蒲田師が主管牧師時代の岬ECの教会政治しか知らない。その時の「教会政治」は、完全な“会衆制”であった。すなわち、監督制である英国国教会内における改革運動のひとつであった「会衆派ピューリタン」をルーツに、やがてバプテスト運動が生起してくる。この運動の中においては、「教会役員は、教会員の選挙によって選ばれる」という原則がある。スウェーデン・バプテスト諸教会を背景にもつオレブロ・ミッション(現在、三派合同でインターアクト)の宣教師は、そのような意味で「教会政治」においては“会衆制”を指導されたので゜はないかと考えている。ただ、第一世代の日本人教職者のある先生は、“会衆制”の原則を一部修正して「教会政治」を行ってこられたようである。「牧師による教会役員の任命制」を行っておられる教会があることを今回の話し合いの中ではじめて知った。
JECは、宣教師から”バプテスト的な教会観”を受け継いで今日まできた。しかし、その内容はある範囲内で変容している部分もあるようである。「教会政治」に関する課題は、至高の権威は、神ご自身にあることに関しては共通理解があるのだが、この地上の教会において、“神の権威”がだれに、どこに、現わされ、どのように行使されていくのか、についてどのように考えるか、実践するのか、ということである。私たちJECの教職者は、宣教師から受け継いだ“会衆制”のあり方を、宣教現場、教会形成の現実の中で、“長老制”や“監督制”からの良き洞察を取り入れながら、試行錯誤しつつ今日まできたようである。
牧田吉和著『改革派信仰とは何か』の第九講には「改革派信仰とは、長老政治を確立し、徹底的に聖書的教会を形成しようとする信仰である」とあり、第一章「教会政治の重要性」、第二章「長老主義政治の要諦」−第一節:役員として長老が存在すれば長老主義政治といえるのか?、第二節:長老主義政治の要諦としての「共同監督」の理念−@長老主義の中核としての「中会(プレスビテリィ)」、A監督主義との関係、B会衆主義との関係、C長老主義の中庸性、第三節:長老主義政治と教会の王にして頭なるキリスト、第三章「長老主義政治確立のために留意すべき問題点」−第一節:教職の平等性をめぐる問題、第二節:教師(宣教長老)と治会長老の平等性をめぐる問題、第三節:会議制をめぐる問題−@会議のセンス、A会議の霊性と自由さ、B教会会議の段階性に対する理解、C法に対する理解、結び。このような構成と内容となっていて、教えられるところが多々ある。
私自身は、上記のように「教会政治」においては、“会衆制”の流れを汲むものであるが、会衆制を軸として、牧田師が扱っておられるような議論を、監督制・長老制・会衆制・非統治制等の長所と短所を吟味しつつ、宣教現場・教会形成の取り組みの実際の中で、JECの今日までの脈絡の現実を踏まえつつ、整理していく必要があると感じている。このあたりの、“会衆制”を落とし所とした議論は、エリクソン著『キリスト教神学』第四巻、第52章「教会の政治」で分かりやすく取り扱われているので参考にしていただきたい。エリクソンは、聖書においては、どの教会政治がベストであるとは描写されてはいない。ただ、@秩序の価値、A万人祭司の原則、Bそれぞれがからだ全体にとって大切である、という原則を抽出し、これらの原則を一番よく満たしている教会政治の形態として、“会衆制”を推奨している。その他、封建時代における教会政治のあり方、民主主義の時代における教会政治のあり方、等、時代背景との関連してみる視点の提供、また教会の規模や成長段階、特に開拓と教会形成初期の次期の牧師のリーダーシップの必要性、また大きな規模となっていった段階での“代表制”に対する考慮の必要にも言及しており、その本質的原則を押さえつつ、時代状況と教会成長諸段階における「教会政治」のあり方に対する“フレッキシブルな神学的思索力”からは教えられる。
5/31の関西聖書塾におけるテーマは、「福音主義教会論:再考」ということで、その講演の射程は「教会の本質論」に限定すべきように感じている。しかし、その翌日には、JEC拡大教職者会にて、福音主義教会論の中の「福音主義教会論:“教会政治論”再考」を射程とするJEC内部のシンポジウム(討論会)がなされる。ある意味で、同じ線上にあるので、「福音主義教会論:再考」準備ノートのシリーズにおいて、この準備も扱わさせていただく。私は、そのシンポジウムの全体総括の奉仕を依頼されているので、そこでどのような基調講演・パネルディスカッション・質疑応答がなされるのか、ある程度予測して、それらの議論の全体の輪郭とエッセンスを要約し、JECの今後の宣教・教会形成に生かしうる簡潔なカイドラインを提示することができたらと考えている。
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2010.04.04 和歌山福音教会イースター・ファミリー礼拝
教会論シリーズI
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『復活のいのちに生きる教会』
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新約聖書:ヨハネ20:24-29、ローマ8:9-11、4:17-25
復活信仰を“信じる”(ヨハネ20:24-29)
復活信仰を“生きる”(ローマ8:9-11)
復活信仰を“活用する”(ローマ4:17-25)
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「イースター礼拝説教」準備ノートB
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『復活信仰に生きる教会』
復活信仰を“信じる”(ヨハネ20:24-29)
イエスは、なぜ信仰者にのみ、復活されたご自身を現わされたのか?(Tコリント15:3-8)
信仰者とイエスの関係は、愛しあう二人の「愛の告白」に似ている。「愛しています」と告白することは、ある意味で非常に危険な行為である。もし相手に拒否されると、深く傷つくからである。イエスへの信仰と愛のあるところに、イエスはご自身を現わされる。それは、“信仰”というものの性質上、本質的にそうなのである。
キリストは、歴史上検証しうる要素としては、“空虚な墓”のみを残された。不信仰者にとっては、それは“死体盗難”を意味する。しかし、信仰者にとっては、それは“復活”を意味する。十字架における“贖罪”に続く、最も崇高な行為としての“復活”、それは“愛の告白”に似ている。それが不信仰者に現わされても、再び十字架にかけようとするであろう。なじり、侮蔑し、汚すであろう。しかし、信仰者にとっては、“純白のウェディングドレスを着た花嫁”のようである。福音書の復活の記事とその目撃者からの印象は、“そのような空気”を伝えている。
それゆえ、すべての人に対しては“空虚な墓”のみを残されたことは、“神の知恵”である。信仰者のみに“復活されたご自身”を現わされたのは、“神の愛”である。私たちの前には、すべての人に明らかな“空虚な墓”と信仰者のみに明らかな“復活されたイエス”に対する目撃者の証言がある。約二千年の時間を経て、私たちがこれらの記事を読むとき、聖霊を通し時間と空間を超えて、トマスとイエスとの出会いの場面に引き込まれる。トマスが「彼らと一緒にいなかった」ように、私たちも二千年前の復活の現場にはいなかった。しかし、私たちが心を開いて聖書に読み浸るとき、聖霊は私たちを二千年前のこの現場に没入させてくださる。トマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と。これはある意味、トマスの信仰者としての“誠実さ”でもある。主イエスへの不信仰ではない、主イエスを深く愛していた。ただ、“復活”という出来事を唐突に聞いて、受け入れることができなかったのである。その意味での「不信仰」であり、彼の性格の“真実さ”を示すものである。これは、新約のクリスチャンに貫かれているアーメン(真実)たる特徴である。
そのようなトマスに対して、イエスは“愛をもって”ご自身を現わされた。「あなたの指を、ここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい」と。トマスは、胸が熱くなったであろう。そこまでして、トマスの不信を解きほぐそうとしてくださる主イエスの“迫りくる愛”に触れたからである。トマスは、その一言で反射的に“ひれ伏して”しまった。「私の主、私の神」と告白して。これは、19歳のときの私の経験である。同一、同質の経験である。心を開いて、この箇所を読んでいるとき、同じ経験に引き込まれた。主は霊である。私たちは、聖霊によって、“キリストの現臨”を今ここで、私の心が燃えるほどに経験することができる。トマスが出会った主に、聖霊を通して今ここで出会うことができるのである。
復活信仰を“生きる”(ローマ8:9-11)
私たちは、「空虚な墓」と「新約の使徒たちの“真実な”証言」に根差して、キリストの十字架の贖罪と復活を信じる者である。パウロは、このキリストの復活の“事実”に根差して、復活信仰を“生きる”よう励ましている。で、復活信仰を“生きる”とはどういうことであろうか。
復活信仰を生きる方向には、二つあるように思われる。一方は、内面的な方向であり、他方は外面的な方向である。内面的な方向性は、ローマ書の6-8章に詳しく記述されている。これらのエッセンスをJ.D.G.ダンが簡潔にまとめているので紹介したい。この理解は、わたしの福音理解、人間理解、聖化理解を明確にしてくれたものであり、ダンには深く感謝している。
パウロにとって、信仰者の宗教的経験は矛盾と葛藤−いのちと死の矛盾、御霊と肉の葛藤によって特徴づけられている。それは、常に問いと疑いに悩まされる信仰、常に死に悩まされるいのち、肉に悩まされる御霊について(ガラテヤ5:16ff)の、挑戦(Anfechtung)の中にある信仰である。それは、緊張の中にある生−時にはほとんど耐えられないような緊張(ローマ8:22f、Uコリント5:4)−同時に二つの世界に属する緊張、御霊のいのちを知るのであるが、それは死のからだを通してそれを現わすことにおいてなのである。それは、一生涯継続するし続ける緊張である。ローマ7:24のフラストレーションの叫びは、クリスチャンに一生涯続く叫びである。クリスチャン生涯を通じて、信仰者は二つの陣営に足跡を記す(ローマ7:25b、8:10)。生涯を通じて、クリスチャンの前には、肉に従って歩むのか、御霊に導かれて歩むのかの二つの選択肢−二つのリアルな可能性、少なくともある程度の現実性がこの生涯の終わるときまで置かれている。
回心、御霊の経験、カリスマ的経験が、この葛藤を超えて信仰者に生起するのではなく、むしろ御霊の臨在と活動はその葛藤をさらに鋭いものとするということを理解するのは大切である。確かに、パウロは、彼が彼自身から離れるという経験−それはそのときには肉体を離れていたように思われる経験(Uコリント12:2ff)をすら知っている。しかし、そのような経験はパウロにとってあまり重要でないものであった。彼が、神とより親密となり、彼を通して神の力が最も効果的なものとされるのを見出す場所は、日々の弱さの経験においてであった(Uコリント12:9f、13:4)。もしパウロが正しいのであれば、この緊張と葛藤を回避するいかなる試みも誤りには連れ込むものである。御霊にある人と肉にある人の二つに深く裂かれた状態の現実から、信仰者を免除するより高みの経験などは存在しない。信仰者は肉の中に留まり続ける限り、彼は御霊にある全き生活を楽しむということはできない。そこにはただ二つの脱出の道がある。そして両者とも死の道である。ひとつは前方にある道−肉体の死というその終局まで御霊と肉の葛藤に従事する。他方は後方にある道−葛藤を放棄し、肉のレベルにのみ生きる生活に後退し、死のみが支配するレベル、死の道である。換言すれば、脱出の唯一の道は死−肉体の死あるいは人間の包括的な死なのである。
要約すれば、パウロが真剣に取り上げているクリスチャンは、彼の宗教的経験における矛盾と葛藤に驚かされることは決してない。彼は敗北において意気消沈させられたり、あるいは恵みは苦闘を消し去ると結論したりもしない。逆に、霊的葛藤はいのちのしるし−御霊が人格を形づくることにおいて物語っているというしるしである。苦闘は希望を生みだす(ローマ5:3ff)。死はいのちの現在の経験の一部分である(Uコリント4:10ff)。いのちは今このからだにおけるいのちに違いないのだから、御霊は矛盾と葛藤としてのみ現わされる。この矛盾と葛藤の存在こそが、健全な宗教的経験の標識なのであり、その不在ではない。「私たちが、敗北するときにではなく、私たちが戦うことをやめるとき、御霊は不在となられる。」
復活信仰を“活用する”(ローマ4:17-25)
もうひとつの「復活信仰」を生きる方向性として、外面的な方向性があるように思われる。私たちの父祖、アブラハムがそうであったように、「望みえない」状況、「死んだも同然である」状態の只中で、復活信仰を“活用”させていただく道である。神が共におられるのでないならば、私たちは苦境に陥ったとき絶望するしかない、あきらめるしかない。しかし、もし全能の神が私たちと共におられるのであれば、私たちには望みがある。
昔、「ジュラシック・パーク」という映画を見た。“蚊の化石”の中に保存されている“恐竜のDNA”から、恐竜を復活させるストーリーである。その中で、ある生物学者の短いセリフが心に残った。その生物学者は、恐竜が卵から孵化する様子を見、感激し、ひとつの言葉を発する。「いのちあるものは、必ず道を探し出すのだ!」と。
さて、バブルの崩壊、さらにリーマン・ブラザーズの倒産等、世界と日本の経済の苦境についてはすでに多くのことが語られた。私たちの個人の生活、社会における生活、教会における生活においても、「復活信仰」を活用させていただく領域は溢れているのではないか。
私たちの信じている神は、「死者を生かす」神であり、「無いものを有るもののように」呼ばれる神である。「望みえないときに、望みを抱かせる」神であり、不妊と老齢で「自分のからだが死んだも同然であること、サラの胎が死んでいる」ことを認めても、「信仰をますます強めて」くださる神である。アブラハムは“空の星”を見せられ「あなたの子孫はこのようになる」と約束を受けた。神は“真実な”神である。真実な神は“真実な言葉、また真実な約束”を語りかけられる。真実な神は、私たちの生涯、人類の歴史の中でその“約束に対する真実性を立証”される。
アブラハムは、“空の星”を見せられ「あなたの子孫はこのようになる」との約束を受け、即座にすべてを手に入れることができたのではない。ひと粒種の“約束の子”イサクが与えられるまでにさらに時間を要した。その子孫の中に、神の独り子イエス・キリストが受肉されるまでにはさらに長い年月を要した。しかし、長い年月を経て、神の真実性は人類史の中に実証されている。アブラハムと“同質”の復活信仰を宿す旧約の真の信仰者と新約の真の信仰者からなる“空の星”のごとくの神の民が世界に溢れており、それは数えることができない。救済史における神の真実性は、私たち個人の信仰生活においても、群れとしての教会生活においても、応用され、活用されるよう励まされている。「求め」「たたき」「探す」(マタイ7:7-8)よう勧められている。
私たちに対する「神の約束」とは一体何なのだろう。私たちが「復活信仰」を活用するとは一体どういうことなのだろう。それは人類史、救済史的の視野から、本質的・演繹的に思索していくこもひとつの道筋であるが、私たちの個人の信仰生活・教会生活の領域の個別的・具体的な事柄から帰納的に思いめぐらすこともまた大切である。イエス・キリストは贖罪のみわざを終えられ、復活・昇天し、神の右の座に着座し、父なる神から受けられた約束の御霊を私たちに注いでくださっている。その聖霊の注ぎと内住の信仰生活・教会生活の中で、私たちには「復活信仰」を“活用”させていただける領域が展開している。その領域は、A.A.ファンルーラーの言う“神律的協働性”の領域であると思う。
私たちは、神の聖定と摂理の支配の下、キリストの現臨である聖霊との対話・交流しつつ、個人史・教会史の新しいページ・新しいドラマの展開を書き記していくべく召されている。ダビデは、いつも「私はいつも、私の前に主を置いた」(詩篇16:8)と語った。「まことに助言をくださった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える」(16:7)とある。“自問自答”のようであるが、その中に“御霊の介在”がある。御霊はそのような介在の中で、私たちに“夢”や“幻”を与え、その説き明かしとしての“預言”を与えられる(使徒2:16-18)。わたしはこのようにして、救い・献身・初期の教会形成・現在の神学教育取り組みを導かれてきた。それらは、御霊の“超越的な働き”というよりも、“内在的な語りかけ”こそが主要なものであったように思う。
奉仕の生涯の中で、私は、ときどき“落盤事故”にあった炭鉱労働者のような感じを抱いたが、そこで絶望しなかったのは、その只中で“主がともにおられ”、主の語りかけがあり、「必ず、出口があるはずだ!」という確信をもって、地層の薄い部分、冷たい風が吹き込む方向、蟻や虫が出入りする道筋、外からの声がかすかに聞こえてくるのではないかと耳をすませること、ありとあらゆる可能性を「求め」「たたき」「探す」中で、復活の主が、いのちの御霊、死者をよみがえらせる御霊として、苦境からの“脱出口”に向けて岩石を掘り崩し、道筋を切り開いていってくださったからである。「いのちあるものは、必ず道を探し出す」、これは至言である。
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書籍紹介
@ Pöhlmann,
Horst G.:Heiliger
Geist
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最近、特に教えられている本のひとつは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』である。現代の教義学における鳥瞰図とその中における議論がどのように展開しているのかについて、分かりやすく教えてくれる本である。彼の著作の中に、Autor: Pöhlmann, Horst G.:Titel: Heiliger Geist があることを知った。彼の『現代教義学総説』のpp.399-402 に、O.A.ディルシュナイダー「キリスト教神学は、急性の御霊の欠如病にかかっている」「神学は幾世紀もの間、第二項のキリスト中心神学に固着していた」「それを超えて救いの事実としての聖霊降臨の出来事を忘れてしまった」、カトリックの神学者であるH.ミューレンの聖霊中心の傾向、R.ボーレンは、説教論で現代の「言語喪失」は、「ただ聖霊の到来によってのみ」「克服される」、ボーレンはA.A.ファン・リューラーの御霊の働きとキリストの働きとの間の構造的区別を取り上げる、U.A.フォン・バルタザール、M.ヴェルカー、H.ベルコフ、J.モルトマン等を取り上げて、聖霊論の議論を紹介している。その最後に、「神学内部、また外部のより新しい現代的な聖霊論についての鳥瞰は、“Autor: Pöhlmann, Horst G.:Titel: Heiliger Geist”をみよ」とある。ドイツ語版しかないようであるが、上記の内容のさらに詳細な議論の紹介があるようなので、辞書を片手に一度読んでみたい書籍である。
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「イースター礼拝説教」準備ノートA
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昔、ある先生から「説教とは、要するに“御言葉”+“証し”である」と聞いた。きわめて単純で明解な説教についての定義であり、教えられた。また、あるときに「私たちの信仰は、御言葉を“信じる”だけでなく、御言葉を“生きる”というところに強調がある」と聞いた。神学とは何か。説教とは何か。復活信仰とは何か。いろいろ考えてみる。
神学は、本質的には“教会”の機能である。私たちは神学をただ、“教会の肢”として、“教会の委託”、“教会に対する奉仕の意識”をもって行う。神についての“語り”としての神学は、全く中立的な学問ではありえず、むしろただ実存的にのみ関わりうる学問である。なぜなら神は、あらかじめ“神によって捉えられる”ことなしには、理解えないからである。神学は、“前もって神と語った”時にのみ、神について語るのである。“神讃美”でない神学はもはや神学とはいえないのである。神学は“実存的”性格をもつものである。それゆえ、語る者の“具体的”、“実存的”状況と関わることなしに、神について語ることはできない。神について語ることは“自分自身について語る”ことを意味する。あらかじめ“自分を基礎づけている”もののみ基礎づける。このような神学の実存的性格付けは、同時にすべての神学外の領域との間の限界線を示している。もちろん、神学の実存性が、神学の学問性を犠牲にしてしまうわけにはいかない。「制御のきかない熱狂主義」や「実存的関わりを失った学問的神学」の両者は誤りである。中立性とか無前提性が学問の本質を形成するものとするなら、神学は学問ではない。なぜなら神学は、神に対する“信仰の前提”から出発し、その認識対象からして、このことをなさざるをえないからである。神は“人の思考を絶したお方”である。神は“神についての学問”以前に存在するのである。(H.G.ペールマン)
説教においては、御言葉に基づく客観性が求められるとともに、その客観性に根差しつつ、私たちの“生”のコンテキストとの実存的関わり、意味合いが探求されなければならない。聖書のコンテキストとともに、私たちの“生”のコンテキストにおいて、「復活信仰」はどのように働くものなのだろうか。クリスチャン生活は、ダビデの例証にみられる贖罪信仰とともに、アブラハムの例証にみられる復活信仰の働く生涯である。私たちの生涯の中に、具体的に、実存的に「復活信仰」が働く道筋を明らかにしなければならないのではないだろうか。
私自身の生涯の中で、「復活信仰」はどのように働いてきたのであろうか。@新生に導く「トマスの不信仰」(ヨハネ20:24-29)の箇所、A聖化のプロセスを励ますローマ8章の「死ぬべきからだを生かす」福音理解(ローマ8:9-11)、B与えられた召しの「約束を必ず成就してくださる」全能かつ摂理の神の御力(ローマ4:17-25)等々、これらの背景にも復活信仰の本質を垣間見るのである。
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Japan
Evangelical Churches & All of Evangelical Denominations in Japan
「私は、二つのJを愛する」下書きノート @
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昨年、JEC(日本福音教会)の月刊誌に、使徒信条の構成に沿う形で、エリクソン著『キリスト教神学』に見るJECの福音理解の特徴を連載させていただいた。昨秋の神学会において明らかにしたように、わたしには、所属教派であるJEC(日本福音教会)の福音理解の@聖書的、A公同的、B今日的、C自己革新的な“再構築”というひとつの重荷がある。そして、この重荷は、JEC(日本福音教会)の範囲にとどまらず、日本における福音派諸教会全体(All of Evangelical Churches"Denominations" in Japan)を意識したものでもある。内村鑑三は「ふたつのJ(Jesus and Japan)を愛する」と語った。わたしは少し異なった視点であるが、わたしもまた「ふたつのJ[JEC(日本福音教会)と日本における福音派諸教会全体(All of Evangelical Churches"Denominations" in Japan)]を愛する」と告白しつつ、福音派諸教会・諸教派で共有できる神学的要素等を紹介していこうと考えている。
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「イースター礼拝説教」準備ノート@
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イースターは、和歌山福音教会でのメッセージを依頼されている。イメージとしては、教会論シリーズのひとつとして「復活信仰に生きる教会」というあたりを思いめぐらしている。似たような題名の本として松田和憲著『福音宣教の使命に生きる教会』がある。復活との関連では、齋藤正彦著『イエス・キリストと教会』があり、@教会の成立の根拠としてのイエス・キリストの出来事、A福音主義教会の成立根拠としてのイエス・キリストの出来事、という構成になっている。イエス・キリストの死と復活は、信仰箇条における「中心における中心」であり、神の救済の約束が成就したと宣言したのは「初代教会の復活信仰」であり、「イースターなしには、主もなく、教会もない」のである。
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/03/01-03/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
できました。メインは『福音主義教会論:再考』という視点です。メッセージも
そのラインで取り組んでみました。メッセージで、新年より視聴が困難になられ
た方がありました。サーバーソフトをバージョンアップしていますので、視聴用
ソフトである「ウインドウズ・メディア」のバージョンアップが必要なのかも知れま
せん。無料ダウンロード・サイトをリンクしていますので、必要な方はそこから
ダウンロードしてください。よろしくお願い致します。
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2010.03.28 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズH
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『受難のキリスト、苦難の教会』
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地上の寄留者としての教会(vv.1-5)
信仰の試練を通して精錬される(vv.6-9)
苦難と栄光を証しする内にいますキリストの御霊(vv.10-13)
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「受難週礼拝説教」準備ノート
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<犠牲なるがゆえに勝利者>によって、キリスト論が立ちも、倒れもする。キリスト論は救済論でもある。神の共在の意味は、私たちと代わることである。この驚くべき交換。パウロの概念、カタラゲー(和解、Uコリント「5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」、ローマ「5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」は、その原義が「交換による取り換え」を意味し、その動詞形のカタラセインも本来、「交換する」ことを意味した。[E.プシュヴァラ]
キリストは、私たちの〈罪〉のゆえにあるべきあの〈犠牲〉となる、それに代わって私たちが〈勝利者〉なのである。神は、私たちの受くべき〈罰〉を自らに引き受ける、その代わりに私たちに〈平和〉を与える(イザヤ「53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」)
彼は〈貧しく〉なる、その代わりに私たちに〈富〉を与える(Uコリント「8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」,「6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」)
彼は私たちを〈強く〉するために、〈弱く〉なられる(Tコリント「1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」、Uコリント「12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」)
彼は〈死ぬ〉、その代わりに私たちに彼の〈いのち〉を与える。
彼は彼自身の〈栄光〉と私たちの〈悲惨〉を取り換える。
彼自身の〈喜び〉と私たちの〈苦悩〉とを、ご自身の〈勇気〉と私たちの〈不安〉とを、ご自身の〈すべて〉と私たちの〈虚無〉とを(ローマ「4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」、ピリピ「2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」)取り換えられる。
したがって、私たちは「何も持たない(虚無をもつ)」にも関わらず、「すべてをもつ」(Uコリント6:10)のである。
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ICI 近況ニュース
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今朝、いのちのことば社から電話があり、「お待ちいただいている『新・聖書神学事典』は今年の五月か六月頃に刊行される予定」と聞いた。わたしも「真理・罪・啓示・恥・苦難のしもべ」の五つの項目を執筆させてもらった。最初は、“組織神学的”な内容の原稿を書いていたが、“聖書神学的”な内容の原稿に全面的に書き直させていただいた。原稿依頼を受けてから一年半あまり、大変良い経験をさせていただいた。出版されたらぜひお買い求めいただきたい。大変素晴らしい内容に仕上がっている。
また、在庫切れとなっていたエリクソン著『キリスト教神学』第二巻は、「第一巻+第二巻」の合本版となって再版される。「印刷所から届いた」との連絡があった。神学校の四月からの講義に間に合う。感謝!
それと、少し前になるが、宮村武夫先生から電話があり、「『宮村武夫著作集』について、コメントをよせてほしい」との連絡を受けた。第一巻は贈呈していただいた。わたしの所属教派の関連もあり、「聖霊論」についての記述には深い関心をもって読ませていただいた。宮村先生の初期からのことを少し知っている者として、先生の広範囲の交友、配慮の深さ等をその文面から読み取ることができるような気がした。先生の著作でその他に期待していることは、先生から『新約神学』を学んだひとりとして、ジョージ・ラッドの神学への言及をどのように記述されるかに関心を寄せている。私自身、ラッドの著作集を集めて読み続けている者として、フラー神学校における『リフォーミング・ファンダメンタリズム』の旗手のひとりとして、また「古典的・修正的ディスペンセーション主義」の聖書解釈の誤りの克服に果敢に挑んだ神学者として、多くのことを教えられてきた。わたしのラッド研究への扉を開いてくださったのが、宮村武夫先生なのである。わたしの興味・関心と宮村先生との興味・関心とは重なり合う部分があると感じている。ただ、その範囲がどの程度のものなのか、先生の著作集を学ばせていただく中で明らかになっていくことと思い、楽しみにしている。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート I
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「福音主義」とは何か、「福音主義神学」とは何かについては、昨秋の日本福音主義神学会西部部会神学研究会議で、基調講演させていただいた。その中で、「福音主義神学」には、三つの要素があり、@神学的・教理的要素、A歴史的要素、B社会的・文化的要素がある、と言及した。「福音主義とは何か」という問題が、教会史において本格的な意味で最初に問題となったのは、16世紀の宗教改革においてである。
そこで、16世紀宗教改革における「教会観」をみていく。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート H
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H.G.ペールマンは、「教会論」における現代の議論の「前提」をコンパクトにまとめている。旧約への言及は避けられている。旧約と新約における「神の民」の連続性と非連続性に関する記述は、「聖書論」における「旧約聖書の権威」の項目にゆずっているように思われる。叙述は新約から始められ、新約→古代→中世→宗教改革→古プロテスタント正統主義→敬虔主義→ロマン主義・新ルター主義、リヒアルト・ローテ、最近のカトリシズム…と展開されている。最後の部分のリヒアルト・ローテの言葉は、宇田進氏の教会論の「教会の“一般文化史への解消”?」と符合するものであり、このあたりに深い問題意識をもって「教会論」と取り組むことが重要と考えている。
少しポイントを拾って整理してみる。
ペンテコステの霊的教会は、終末が近いという期待が消えていくと共にやがて制度的教会となったと多くの解釈者は考えている。新約における教会像において、霊と秩序とは、退けあうのではなく、互いに包含しあう。
新約の教会は、神の教会である。したがって垂直的なもので、水平的なものではない。自ら集まるのではなく、神によって集められる。
新約時代、霊的教会が同時に制度的教会であるとはいえ、、そこには、まだ職務の階層性は存在していない。
古代においては、教会は使徒信条とニカイア信条の中に表現されている。前者は「聖徒の交わり」、また後者は「一つなる、聖なる、公同の、使徒的教会」という四つの本質規定をあげている。
新約において、ペテロおよび使徒の職務は、歴史的に一回限りのものであるゆえに、移譲することは不可能である。キリストをじかに見、聞いた証人として、歴史、一回的繰り返し不可能な教会の「基礎」なのである。
しかし後になって、ペテロの職をローマの監督(教皇)に、使徒職を諸監督に移行させることによって、教会の基礎・建設が変えられるようになった。中世においては、教皇制はその力の頂点に達した。教皇は、最高の法的権能をもち、信仰と道徳の問題で司教座から発言される時、それは「無謬性」をもつ(第一ヴァチカン公会議、1870)とされた。
宗教改革は、教会論において転換をもたらした。@教会と国家は、区別されるべきである。A真の教会の二つの目印、本質的指標は「福音の純粋な宣教」と「サクラメントの正しい執行」であり、「伝統・聖職階層性・使徒伝承等」ではない。B教会は、ひとつの霊的交わりであり、そのものとしては見えない、ただ信仰によってのみ見えるものであり、制度的教会に内在している。C教皇と公会議とは、誤ることもありうる。彼らではなく、ただ神のみことばのみが規範である。D聖職階層性は人間的なものであって、神的法ではない。霊的職務は決して支配ではなく、奉仕である。聖職奉仕においては、すべての者は奉仕し、ただひとりキリストのみが支配する。教会は、キリスト支配的に設定されるべきであって、教皇制でも監督制でも、民主制でもない。
敬虔主義においては、真実の教会は、教会の中の小教会であって、秘密集会的な、分派的様相を帯びる。
敬虔派の教会批判の線は、啓蒙主義によって強められ、他律的教会に代わって、自律的個人の良心が権威として出てくる。その結果は脱教会である。
シュライエルマッハーによれば、キリスト教会は「個々の再生した者たちの協力により、秩序づけられた上下関係作用と相互関係作用へと」「形成されたものである」。したがって教会は、水平的なもので、人間の社会的衝動から発生した、一種の同じ志をもった者の結合である。
リヒアルト・ローテによれば、キリスト教の歴史は「カトリック的ないしは教会時代」と「プロテスタント的ないしは、国家的・現世的・倫理的・政治的時代」の二つの時期に分かれている。宗教改革は、二つのの時代の限界線・転換点である。「キリスト教会の歴史は、先に行けば行くほど、いよいよキリスト教的人間が文化史に解消し、最後には教会自身が一般的・宗教・倫理的国家共同体に注入していくように、一般文化史の中に入っていく」。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート G
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エリクソン著『キリスト教神学』第四巻の「第50章 教会の本質」の「第一節 教会の定義」の「@教会に関する混乱」と「A教会の経験的−動態的定義」の箇所のポイントを整理した。最も重要なポイントは、20世紀の「文化」において形而上学や存在論を嫌悪する傾向が広まり、「教会の本質」がどうあるべきなのかという理論的本質から、経験的存在へ重点の移行が起こったことであり、「教会の動態的な定義」へと方向転換がなされたということである。これは、"Changing Church in the Changing World"といえる考え方であり、"Eternal Church in the Changing World"という視点が試されているといえる。このあたりは、H.G.ペールマンがよくまとめているので、これも紹介したい。
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ICI 3Weeks Short-Bible Course "Sit, Walk, Stand
!"
「福音主義神学入門」準備スケッチ A
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あとふたつの選択肢が念頭にある。“福音主義”に焦点を当てる方向と“神学入門”に焦点をあてる方向とである。「“福音主義”神学入門」とするとき、「福音主義」とは何かが焦点となり、それについての入門的な学びとなる。しかし「福音主義“神学入門”」となるなら、「神学」教育全般についてのオリエンテーション的な学びとなる。60分×三回の講義として、@“Sit, Walk, Stand !”で、『キリスト者の行程』の著述背景、そのメッセージの輪郭と本質、義認・聖化・聖霊の満たし、等についてH.ベルコフやJ.D.G.ダンの捉え方などを包摂して学ぶことは興味深いかもしれない。A“福音主義神学”については、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』と『総説福音主義神学』の輪郭とエッセンスをよくまとめてある『新キリスト教辞典』の宇田論稿「福音主義」はコンパクトにまとめられたすぐれた資料である。この資料をもとにして、福音派教会が共有している歴史的ルーツと霊的遺産におけるアイデンティティについて学ぶことは、戦後50年間の狭窄的な視野でしたか神学的思索ができない狭さを克服していく上で大変意味ある学びであると思う。私自身もこの学びを通して、二千年の視野で所属教派のルーツとアイデンティティを考える(JEC50周年記念誌論文、JECニュース連載論稿集)ことができるようになった。B“神学入門”の講義も捨てがたい。この講義は、神学校での学びの最初になされるべき講義であり、「神学研究」という密林を鳥瞰図の視点から望み見る学びである。まず全体図を鳥瞰し、三年間の時間を使って有意義な学び、効果的な学びをする心づもりをすることが大切である。また、学ぶ数多くの科目間の相互関係をしることも重要である。ただ、熱心に学ぶだけでは、整理のつかない倉庫に膨大な荷物を無造作に詰め込むだけであり、必要な時に、必要なものを取り出すことはできないのである。倉庫の構成をきちんとし、学んだものを計画的に倉庫の棚に整理していく技術が求められるのである。神学入門の学びは、そのために大変有益な学びである。三つのうちのひとつ(3時間)、ないし二つ(90分×2講義)、あるいは三つ(60分×3講義)とするべきなのか、準備しながら考えていきたい。
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2010.03.21 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズG
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『神の教会(エクレシアン・トゥ・テウー)』
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単なる会衆ではなく、“神”の会衆(v.28)
神とその恵みのみことば:悔い改めと信仰(v.32,21)
それぞれに備えられた、走るべき行程を走り抜ける(v.24)
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ICI 3Weeks Short-Bible Course "Sit, Walk, Stand
!"
「福音主義神学入門」準備スケッチ @
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一宮基督教研究所の三週間コース・一年生神学生合同クラスで、「福音主義神学入門」を依頼された。「準備ノート」に入る前に、対象となる学生の名簿をみながら、いくつかの構想を軽いスケッチ風に描いてみる。的をしぼることができたら、準備ノート作成に入りたいと思う。
三週間バイブル・コースに申し込まれた信徒の方、一年聖書コースに入学された神学生、三年フルタイム・コースで学ばれる神学生の混成のクラスである。どのような内容構成にしていくべきか、少々悩むところである。三週間コースのテーマが“Sit, Walk, Stand !”であるので、そこに焦点をあてると、あの有名なウォッチマン・ニー著『キリスト者の行程』の著者、著述背景、内容構成を、Dana. Robert"Understanding Watchman Nee"や"Five Views on Sanctification"の中のJ.Robeetson McQuilkin"Keswick View"やSteven Barabas"So Great Salvation"やJ.I.Packer"Keep in Step with the Spirit"等を資料源にして、宗教改革の遺産を体系化した正統主義神学の、正統的実践としての敬虔主義運動のひとつの枝、“実践的聖化”を中心テーマとするケズィック運動、ケズィック聖会の幅と多様性のあるメッセージの輪郭と本質を整理する取り組み、これも選択肢のひとつである。
あとふたつの選択肢が念頭にある。“福音主義”に焦点を当てる方向と“神学入門”に焦点をあてる方向とである。今回の導きがどの方向なのか、祈りの内に導かれたい。
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JECニュース連載論稿
「日本福音教会の源流と歴史的遺産」(閲覧可)のご案内
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「日本福音教会の源流と歴史的遺産」(閲覧可)ー一宮基督教研究所での「福音主義神学」の講義の課題は、「所属教派の歴史的ルーツとアイデンティティをまとめよ」であった。私自身も同様の課題をもち、所属教派であるJECのルーツとアイデンティティの探求に取り組んだ。戦後五十年の狭い視野で考えるのではなく、教会史二千年の中で“所属教派のルーツとアイデンティティ”を考えるのではなければ、私たちはバランスのとれた健全な自己理解をもつことはできない。(ブックレット:30ページ、白黒、簡易製本、送料込、500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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JECニュース(2007-2008-2009)連載論稿
『十戒・主の祈り・使徒信条解説集(閲覧可)』のご案内
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十戒・主の祈り・使徒信条解説集(閲覧可)ー宗教改革を受けて、十七世紀プロテスタント教会は、十戒・主の祈り・使徒信条を枢要部にして信条・信仰告白を形成していった。これを意識しつつ、今日の歴史的状況の中で私たちは何を信じ、どう生きるべきなのか、の指針として再考したシリーズ(ブックレット:30ページ、白黒、簡易製本、送料込、500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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2009年度リバイバル・ジャパン誌連載−神学的エッセイ集
『宗教・カリスマ的経験の座標軸』のご案内
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『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』−J.D.G.ダン著『イエスと御霊−新約聖書において反映されているイエスと初代のクリスチャンの宗教的・カリスマ的経験に関する研究−』等、二十世紀の最良の神学資料を駆使してペンテコステ的経験と福音主義神学の調和を探求した“神学的エッセイ”集。リバイバル・ジャパン誌における一年間の連載を終了し、ブックレットとして販売しています。概要は、リンク先にて紹介しています。(ブックレット:28ページ白黒、簡易製本、送料込500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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1985年岬福音教会25周年記念誌〜1991年共立基督教研究所論文までの10の論稿集
『ICI
ミニストリー25年間を振り返って』のご案内
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『ICI ミニストリー25年間を振り返って』ーペンテコステ的経験と福音主義神学の調和的理解を探求してきた25年間に、必要に迫られるかたちで作成し続けた論稿資料集の総集編、ルカ記述による使徒行伝的経験を、パウロ書簡の光の下、クリスチャン生活全体の中で再解釈している10の論稿集(ブックレット:190ページ白黒、簡易製本、送料込2500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート F
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1952年、ルンドにおいて開かれた、信仰と職制に関する第三回世界教会会議は、…「教会論がキリスト論と聖霊論との密接な関連において取り扱われることが」決定的に重要であると述べている。宇田氏の『総説福音主義神学』の「第八章 教会の理解と誤解」が、「第一節 教会の一般文化史への解消?」、と「第二節 教会と聖霊」の構成になっており、第一節が“キリスト論”的基礎への言及が中心であり、第二節が“聖霊論”的関連で記述されているのと符合している。教会論とキリスト論、教会論と聖霊論の教理的有機的関係が深く探求される必要がある。
また、ロアジの「イエスは神の国を予告した。そして到来したのは教会であった」というこの言葉の中に、イエスと教会との関係についての重要な史学的問題が提起されている。C.K.バレットは『イエスと福音書伝承』において「イエスと教会との間には、どのような種類の継続性が存在するのであろうか」という問題を提起している。R.N.フルーは『イエスとその教会』において、イエスは神の国の到来を告知されただけたではなく、この統治の下に生きる新しい契約共同体の設立を期待されていたと考え、その根拠として、彼の教説と行動の中にあらわれる新しいイスラエルの概念や、この新しいイスラエルの核としての彼の弟子たちにたいして、新しい共同体と、この新しい要求を満たす力を前提とするイエスの倫理的教説を教えられたという事実をあげている(齋藤正彦著『イエス・キリストと教会』)。私自身としては、「神の国と教会」に関しては、これらの問題提起に焦点をあわせるかたちで、G.E.ラッドの著作集を読み返す必要を感じている。
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2010.03.14 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズF
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『神の教会の三位一体性』
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神の建物「神の民」としての公同性(v.9,16)
建物の土台としての「キリスト論」(vv.10-11)
「聖霊により」煉られ、清められ、純化された金・銀・宝石で建てられる(vv.12-15)
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「福音主義教会論:再考」準備ノート E
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『福音主義教会論:再考』ということで、数多くの資料に目を通している段階である。基本的なことは、「教会論」全般に対する“鳥瞰図”が必要であるということである。そして、その鳥瞰図の中で、何が問題とされているのかを特定し、その問題を分析・評価し、私たちの『福音主義教会論:再考』にどのように生かすのかが課題である。その意味で、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』は、大変有益な書物である。また、「教会の本質」論においては、主要な文献においては、宇田氏が指摘されているように、“神の民”、“キリストのからだ”、“聖霊の宮”という「三位一体論的」構成で扱っているものが多い。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート D
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エリクソン著『キリスト教神学』の「第50章 教会の本質」の中の「特別な問題」−@教会と御国、A教会とイスラエル、B見える教会と見えない教会、C教会の始まりの時期、に関する議論は、昨年扱った“古典的ディスペンセーション主義聖書解釈の誤り→教会論の誤り→終末論の誤り”の教会論の部分を扱っている。その資料源は、フラー神学校で「新約聖書神学」を講じ、“古典的ディスペンセーション主義問題”と戦ったG.E.ラッドの著作集である。このあたりも掘り下げていきたいところである。また、C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』(PW:jec)も“古典的ディスペンセーション主義聖書解釈の誤り→教会論の誤り→終末論の誤り”の文脈の中で「教会論の誤り」を扱っているので、このあたりも丁寧にみていきたい。要するに、秋期の神学研究会の基調講演で扱ったように、宇田氏の教会論は二千年の教会史が射程であり、リベラル神学の問題が焦点であるのに対して、エリクソンの教会論はリベラル神学への反動としてのファンダメンタリズムの克服が射程にあり、その中のディスペンセーショナリズム問題が焦点になっているということを教えられる。ある人々にとっては、ディスペンセーショナリズムの問題は“過去形”の問題であるが、C.B.Bass著“Backgrounds to Dispensationalism”の再版の序文で、ホイートン大学の教授 Stephen R. Spencerが「漸進的ディスペンセーション主義は、ディスペンセーション主義の教師や学生の間に用意のできた読者を見出しているけれども、それは膨大なディスペンセーション主義の人々の中で少数派を代表するのみである。ディスペンセーション主義者の大多数は、より初期の発展の形態を信奉し続けている。」ライリーのスタディ・バイブルに加えて、(1995に改訂された)ライリーの著作と改訂されたスコフィールド・バイブルは、そのニュアンスはレフト・ビハインド・シリーズのような大衆文学とは異なっているけれども、最も主要な神学的言明を残存させている」と書いている。その意味で、ディスペンセーションの問題は、今日の問題であるのであり、『福音主義教会論:再考』というテーマを扱う時に、落としてはならないテーマであると思うのである。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート C
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昨秋の『福音主義神学:再考』がそうであったように、今回の『福音主義教会論:再考』も、“宇田−エリクソン”神学路線で、神学的に思索していっている。今日の神学の世界において、ひとつの主題に取り組もうとするとき、“ジャングル”の中に放置されている自分自身を見出すのである。私たちは、この密林の中に、林道を切り開き、道案内をしてくれる信頼できる案内人を必要としている。わたしは、宇田氏の『総説福音主義神学』とエリクソンの『キリスト教神学』の中にそのような要素を見出すのである。宇田氏の『総説福音主義神学』の中の第二部、第八章の「教会の理解と誤解」は、わたしにとって“教会論”を、“福音主義的視点”から、“再考”していく道筋を照らす「私の足のともしび、私の道の光」(詩篇199:105)である。その第一節「教会の“一般文化史への解消”」は、今世紀の“教会論”の議論の鳥瞰図を教えられる。
第一節「教会の“一般文化史への解消”」…今世紀の“教会論”の議論の鳥瞰図
「教会は月のよう(」アンブロシウス)か?
「福音主義教会観の破滅」?
“世俗的宣教”を担う“政治的教会”?
“潜在的教会”と“教会の外の教会”(D.ゼレ)
無教会主義と「ひとり一教会」?
「自己の根源について徹底的に」
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「福音主義教会論:再考」準備ノート B
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高石聖書教会の清水昭三先生から、5/31の関西聖書塾での午前・午後の講演を依頼され、テーマは「聖書と教会」であった。「内容は、安黒先生の自由にしてください。ただ、方法論的な内容ではなく…」ということであった。清水先生とは、長年、教会の英会話クラスの講師の件で大変お世話になってきていたこともあり、快く引き受けさせていただいた。このテーマを聞いたとき、ひとつの書名が頭に浮かんだ。A.A.フーケマ著『聖書と未来』であった。内容は、「聖書的終末論とは何か」というものであった。それで、「聖書」と「教会」という二つの要素をどのように関係づけて、講演内容を構成するのかの悩みが吹っ切れた。依頼の内容からすると、「聖書と教会」というテーマは、「聖書的教会論とは何か」ということであろうと受けとめた。
このときに、昨秋の福音主義神学会西部部会での基調講演『福音主義神学:再考−文化・伝統・聖書の中で−』を思い出した。これは、キリスト教二千年、そして宗教改革、啓蒙思潮、リベラリズム、ファンダメンタリズム、エヴァンジェリカリズムという文脈を振り返りつつ、ポスト・モダニズムという新たな背景の中で福音主義の神学はどうあるべきなのかを再考していこうとするものであった。宇田進氏の「福音主義神学」とエリクソン氏の「キリスト教神学」を、この主題解析の“メス”として用いさせていただき、所属する教派の“構築”された福音理解(伝統)を、新しい歴史的文脈(文化)の中で、一度丁寧に“分解”し、部品を点検し、消耗したものを新しいものと交換し、新たな環境に適応すべくバージョン・アップし、“再構築”するというロードマップを提示させていただいたのである。この奉仕に取り組んでいるときに、次の課題が明らかとなっていた。それは、『福音主義神学:再考』においては、歴史的背景(文化)の中で、私たちの保有する福音理解(伝統)を、神の啓示(聖書)に基づいて、分解し再構築する原則を提示したわけであるから、その提案は次の段階として「福音主義聖書解釈論:再考」「福音主義聖書論:再考」「福音主義神論:再考」「福音主義人間論:再考」「福音主義キリスト論:再考」「福音主義聖霊論:再考」「福音主義救済論:再考」「福音主義教会論:再考」「福音主義終末論:再考」への取り組みをもたらすはずだということである。
それで、今回の「聖書と教会」の講演を依頼され、しばらく思案して返事をさせていただいた。つまり、このような私自身の神学的課題への取り組みという文脈の中で、『福音主義教会論:再考−宇田・エリクソン神学路線から−』と題して講演準備させていただくことにしたのである。今回扱う『福音主義教会論:再考−宇田・エリクソン神学路線から−』は、かなり射程を絞り込んでいるが、それでもそれらの中で紹介されている重要参考文献に目を通すだけでも大変な作業となっている。これは、今回の奉仕のためだけではない。もっと長い先を見通した奉仕の準備であると自分を励ましている。将来にどんな奉仕が待ち受けているのかと知らない。しかし、このように追い込まれるのには“神さまの側に訳がある”はずである。そのように信じて、この奉仕に取り組まさせていただいている。講演では、その一部を分かち合うのみである。それではもったいないので、「福音主義教会論:再考」準備ノート・シリーズというかたちで、取り組みのポイントを“雑録”として記述させていただく。このような神学的思索が、だれかに“ひらめき”を与えることになれば幸いである。
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2010.03.07 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズE
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『教会の根源について徹底的に』
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あなたがたは、わたしをだれだと言いますか(vv.13-15)
あなたは、生ける神の御子キリストです(vv.16-17)
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(vv.18-19)
#20100307
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「福音主義教会論:再考」準備ノート@
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重要な参考文献紹介とその内容をも紹介していきたい。
C.W.ウィリアムズ著『教会』新教出版、pp.7-27
「アムステルダムにおける1948年の世界教会協議会で、…教会に関する教理(教会論)は神学以前の局面を通過したとは言い難い…」との主張がさなれた。「第一期(1948年のアムステルダム会議から1954年のエバンストン会議まで)には、、共通の教会論を探求することにより私たちの分裂の背後にある“連続性”を精密に研究した。」「第二期(1954年のエバンストン会議から1961年のニューデリー会議まで)には、…教会論追及の内部志向的性格が自己挫折を起こし、…“宣教”は教会の基本的しるしとして付加されなければならない」という強調点の変化があった。「第三期(1961年のニューデーリー会議から1968年のウプサラ会議まで)には、…教会論が中心点になるや否や、それが誤りであることを示される。…教会はそれ自体を目的とすることを意図せず、この世に対する神の使命のしもべとなることを意図している」とさらに根本的な転換を示してきている。
J.C.ホーケンダイク著『明日の社会と明日の教会』新教出版、pp.1-7
「わたしたちは、事物を神−世界−教会(神−教会−世界ではなく)の背景においてみます。」「わたしたちは、多元的な世界に住んでいます。」「現代人の種々な状況に現在することを願う他者のための教会は、多元的な構造をとる」「要するに、ある特定の状況のもとで、教会の構造がどのようなものになるかについては、わたしたちはあらかじめ知ることはできません。」
「教会論」の良書ですが、Paul Minear, "Images of the Church in the New Testament"があげられます。そのpp.66-104の「神の民」においても、「新約は旧約と連続して,この概念を一貫して旧約から継承し,発展させたものと見ることができる.つまり,この「神の民」という概念は,イスラエルの歴史と新約の教会を貫く神の救済の歴史の文脈から教会をとらえていることを示している(参照ローマ11章).すなわち受肉以前のイスラエルの歴史を貫く救済の歴史の中で,あらかじめ準備されていた神の民としての教会が,救い主の到来において歴史の中にその究極的な形態を見出したのであり,それゆえに教会は使徒たちの土台の上にだけではなく,預言者たちの基礎の上に建てられたと言われるのである(エペソ2:19,20).従って,教会は受肉から再臨までのいわば″挿入″(parenthesis)であるとする解釈は不適切である.」と、ディスペンセーション主義聖書解釈の前提である“イスラエルと教会”の峻別が否定されています。宇田師『新・キリスト教辞典』の「教会、教会論」の論稿は、今日の福音派のスタンダードな「教会論」理解と思います。「ミラード・エリックソンとともに三一的視点から聖書の教会の本質の理解に向かうのが妥当と思う(Christian Theology, 1986,第4章).具体的には,神の民としての教会,キリストのからだとしての教会,聖霊の御住まい・交わりとしての教会という3点から考察することとなる.」とありますように、宇田師はエリクソン神学を、福音派のスタンダード、また座標軸、共通項となる神学と位置づけておられます。「キリスト教界には多様な教会論の提唱が見受けられる.そもそも近年において,教会論が改めて真剣に問われるようになったのは,それぞれ独自の特色ある教会・教派理解を持った海外宣教師たちが一緒に宣教活動に当らなければならなかったミッション・フィールドにおいてであり,それを受け止める形で,教会合同運動を推進してきた世界教会協議会(WCC)を中心とするエキュメニカル運動によって教会論は神学的注目を浴びるようになった.ちなみにPaul Minear, Images of the Church in the New Testament, 1960は,WCCの設立を宣言したアムステルダム会議(1948年)からエバンストン会議(1954年)までの成果の一つと言われている.
宇田進著『総説福音主義神学』の教会論の箇所で紹介されているJ.Robert Nelson “The Realm of Redemption :Studies in the Doctrine of the Nature of the Church in Contemporary Protestant Theology” Kessinger Publishing’s Rare Reprintsは、大変素晴らしい教会論の研究書です。私は、5/31の関西聖書塾における『聖書と教会―福音主義教会論:再考―』を、宇田師の福音主義神学(歴史神学軸)とエリクソン師のキリスト教神学(組織神学軸)の鳥瞰図の中に、ロバート・ネルソンの議論を入れて、“教会の本質”とは何かについて講演しようと下準備中です。この書物は、手元に集めた百冊ほどの教会論の中でも、最上位に位置する内容の神学書です。特に、今読んでいます「教会の起源」では、“イスラエルにおける教会のルーツ”という項目があり、ディスペンセーション主義の“イスラエルと教会を峻別する解釈”の非聖書性を再認識させられます。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート : 序
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5/31の関西聖書塾における「聖書と教会−福音主義的教会論:再考−」の準備をしています。時間があまりないので、早朝の三時間が貴重な時間となっています。この学びをも少しずつ紹介していきたいと思います。
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2010.03.02 一宮基督教研究所
『中央聖書神学校』訪問報告
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3/2のアッセンブリー神学校での先生方との交わりの中でも、ひとつの夢が与えられました。それは、神学校同士の交流を盛んにして、独立性を尊重しあうとともに、お互いの良いところを学びあい、また助け合う相互依存性を高めていく時代に突入してきているということです。最近、いろんな神学校の先生方との交流が盛んとなり、講義・講演・等々の奉仕の場が無限に広がっている感じがしています。そこで感じることは、神学校はお互いの良きものをもって助け合う時代に入っている、神学校はお互いが必要とするもので広く助けを求めることができる、そのような時代に入っているということです。そのような協力の輪が広く、深く、長く、高く、形成されていくよう、お祈りください。
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2010.03.01 一宮基督教研究所
『福音主義神学』誌の編集委員会報告
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3/1は、東京、お茶の水CCで、『福音主義神学』誌の編集委員会に出席していました。3/1の『福音主義神学』誌編集委員会で、いろんな話し合いをしていて、ひとつの夢が
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/02/01-02/28
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
Monthly ICI
の配信が三月にずれ込んでしまいました。
といいますのも、3/1は早朝5:30に車で家を出発
し、30km南へ下り、姫路駅の南側の有料駐車場に車
を放り込んでおいて、新幹線に飛び乗って、東京のお茶
の水まで出かけていたからです。『福音主義神学』誌の
編集委員を仰せつかっておりまして、年に一度の江戸ま
いりです。
それに引っかけて、今回はアッセンブリーの中央聖書
神学校をも訪問させていただくことができ、昨年の聖契
神学校訪問に続き、素晴らしい機会となりました。3/1
の夜は次期校長の北野耕一先生との会食と交わり、翌朝
は神学生に対するチャペルでのメッセージ奉仕、そして
教師と神学生に囲まれての神学的ディスカッション、図
書室の蔵書の閲覧等々、大変内容豊かな訪問となりました。
また、このような機会を生かして、関東の有名神学校
を訪問させていただきたいと願っています。
二月は、聖書神学事典の最終校正と神学生の卒論指導、
そして「福音主義教会論:再考」の講演準備等々で、大
変忙しくしており、ホームページの更新は、礼拝メッセ
ージの“教会論”シリーズのみとなりました。
今年は、また神さまが新たな挑戦を与えてくださる
ような気がしております。お祈りください。
あぐろ
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2010.02.28 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズD
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『真の教会のしるし(指標)』
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福音が純粋に語られ、聖礼典が執行される(v.2)
尊い、生ける石として、霊の家に築き上げられる(vv.4-5)
選ばれた種族、王である祭司として証しする(v.9)
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2010.02.21 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズC
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『神のひとつの民、神のひとつのプログラム』
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全人類の救いのために準備された民(11-12節)
二つの民の隔ての壁は崩された(13-17節)
十字架と御霊によってひとつの神の家族とされる(18-22節)
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2010.02.14 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズB
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『十字架と聖霊−福音理解の変遷』
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私が植え、アポロが水を注いだ。
しかし、成長させたのは神(1-9節)
土台とは、イエス・キリスト(10-11節)
木、草、わらと金、銀、宝石の建物(12-15節)
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2010.02.07 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズA
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『無教会主義とひとり一教会』
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獄中でひとりのパウロ(4:1-6)
礼典・制度と人格共同体としての信者の集まり(4:7-10)
個人主義・独善的なものの克服としての公同性(4:11-16)
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/01/01-01/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
新年も早や一ヶ月を過ぎようとしています。クリスマス、年末、新年と
さまざまな行事があり、独特の雰囲気に包まれるのですが、ここにきて
ようやく普段のペースに戻ってきた感じがしています。
年末から、新年のここまでに実に多くの取り組みをしてきたのですが、
ネット上に現わされるのは、ごくわずかで、毎週の礼拝メッセージが
主なるものとなっています。
秋の福音主義神学会(西部部会)の研究会議では、『福音主義神学:
再考(再構築)』でありましたが、その後のICIサーバーS6も再構築
、ICIホームページも再構築と続きました。この後も、春の関西聖書
塾での『聖書と教会』を大枠としての奉仕でも『福音主義“教会論”:
再考』という取り組みとなる方向です。基本的には、福音派の共通項
としての“宇田神学・エリクソン神学”における“教会論”取り組み
を概観しつつ、その本質的な洞察に迫り、それを今日の教会形成に
どのように適用していくことができるのか、ということです。
礼拝メッセージでも、教会論シリーズに取り組んでいきたいと
考えています。お祈りください。
あぐろ
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2010.01.31 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズ@
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『ふたりでも、三人でも』
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福音書における「教会」
天上におけるキリストの地上的顕現としての「教会」
「小教会」としての「ふたりでも、三人でも」
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2010.01.24 山崎チャペル・一宮基督教研究所
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『苦難のしもべ』
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見とれる姿も、慕う見栄えもなし(v.2)
罪のために刺し通され、咎のために砕かれた(v.5)
砕き、痛めることは主の御心(v.10)
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2010.01.29 NTT西日本の電気通信工事 午前(深夜)1:00-午前5:00
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IP通信網設備工事のため、最大60分程度、サービスを
利用できない、とのことです。
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2010.01.17 山崎チャペル・一宮基督教研究所
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『違反が世界の富となり、失敗が異邦人の富となる』
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恵の選びによって残された者がいます(vv.4-5)
違反が世界の富となり、失敗が異邦人の富となる(vv.11-12)
神の知恵と知識の富は、底知れず深い(vv.33-35)
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2010.01.10 山崎チャペル・一宮基督教研究所
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『
自分たちの労苦は、主にあって無駄ではない』
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最も大切なこと−死・葬り・復活されたキリスト(v.1-4)
この神の恵みは無駄にならず(v.10)
自分たちの労苦は、主にあって無駄ではない(v.58)
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2010.01.03 山崎チャペル・一宮基督教研究所
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『
労苦の只中で、恵みで満ち足らせてください』
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人生とは、移ろう草のようである(v.5,6)
人生は、労苦とわざわいに満ちている(v.10)
その只中に、恵みで満ち足らせ、
すべての日に喜び楽しむようにしてください(v.12,13)
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2010.01.1-3 山崎チャペル・一宮基督教研究所 近況
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・ 少しずつ、ICI ホームページを 新ホームページ・ソフト MS Expression Web 3
で試行錯誤しつつ、
再構築しつつあります。まだ、未整理なファイルも多々あり、アクセスしてくださる方々にご迷惑を
おかけすると思います。よりベターなサイトが再構築されていくようお祈りください。
・ 2010年01月03日…家内の父の召天一周年記念会を家族でもちました。
・ 2010年01月01日…元旦の午後、父の米寿の時を家族で祝いました。