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ICI Daily & Diary Lectures
2010年04月 ICI日誌
2017/03/20
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/04/01-04/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
今月は、他教会奉仕、神学校奉仕、セミナー奉仕等の諸準備をホームページ上で取り組んだということもあり、結構多くの書き込みをすることが
できました。メインは先月と同様『福音主義教会論:再考』という視点です。
1948年の世界教会協議会で、ゲオルギー・フロローフスキー神父は、「教会に関する教理は神学以前の状態をほとんど超えていない」と主張しました。エリクソンも、その著作『新福音主義神学』において、福音主義者の間で、「教会論のすぐれた著作が少ない」ことに言及しています。これは、三位一体論、キリスト論、贖罪論等に比べて、「教会とは何なのか」という中心主題にまで至ることがなかったからだと言われています。WCCでは、その後数多くの教会論についての議論と著作が生み出されてきました。それらの全体の展開を眺望しつつ、福音主義にたつ私たちにとっての「教会論」のあり方、考え方、捉え方について、いろいろと考えてみました。宇田師も「教会は、自己の根源について徹底的に問い直し」とモルトマンの言葉を引用してチャレンジしておられます。まだ、発展途上の取り組みではありますが、皆様のご奉仕の参考にしていただければ幸いです。
また、五月末には、案内しておりますように、『福音主義“教会論”再考』というテーマで、聖書と歴史における“教会論”の鳥瞰図を眺め、福音主義“教会論”の取り組みがなされた宗教改革と正統主義神学の時代、そして福音主義教会論の破滅と位置づけられるシュライエルマッハーの教会論の捉え方と今日のWCCやローザンヌ運動における教会論への言及等々に目配りし、歴史的に構築されてきた「福音主義教会論」の輪郭を特定し、その基盤がゆるがされてはいないのかを点検・修理し、宇田−エリクソン路線で「福音主義“教会論”」を再構築していく手順・道筋を探っていく試みを提示ざていただきます。午前・午後一時間ずつの講演と、20−30分ずつの質疑応答の時間が予定されています。参加してくださる方々にとって豊かな学びのときとなるようお祈りください。また、時間のある方はぜひ出席し、ともに「福音主義教会論」に関してともに研鑽のときをもっていただけたら感謝です。
今回のICI Monthly April は、少し分量が多いですが、それは五月末のセミナー内容について知っていただきたいという願いからのものです。ブリントアウトして繰り返し読んでいただけますと、多くの洞察と刺激を得ていただけるものと思います。
あぐろ
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート P
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「福音主義教会論:再考」のセミナー講演の準備をしている。この準備は、ひとつのセミナー奉仕だけが念頭にあるのではない。私自身のうちに構築されてきた「福音理解」の分解と再構築が課題としてある。その全体の文脈の中にあるひとつの出来事としてのセミナーである。また、このセミナーの直前には生駒聖書学院で、エリクソン著『キリスト教神学』第四巻、第十一部「教会論」の集中講義があり、セミナーの翌日には所属団体JEC日本福音教会の拡大教職者セミナーで「JECアイデンティティ・シリーズ:JECの教会論“教会におけるリーダーシップ(教会政治論)について”の基調講演・パネルディスカッション・質疑応答・全体総括」が予定されている。わたしは、その中で全体の総括をすることになっている。生駒の集中講義は、エリクソンの「教会論」を再度丁寧に振り返る機会、セミナーはわたしにとって新しい領域を切り開く機会となっている。そしてセミナー講演は、教職者会での総括に向けての下準備ともなっている。つまり、多くの奉仕の中で単発的に準備することは難しいので、常に諸奉仕全体の文脈の中でセミナー準備を位置付けながら準備しているのである。また、「福音主義教会論:再考」は、神学入門再考から終末論再考に至る他の項目との有機的関連性も意識しながら進めていくつもりである。このように意識し関連づけで取り組むことは、いくつかの奉仕がいろんな意味で衝突することなく、かえって相乗効果が生まれるのである。つまり、負担の軽減に役立つということである。ひとつの奉仕準備することは、他の奉仕準備をすることでもある。
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Evangelical Ecclesiology:
Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義教会論:再考」準備ノート O
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「福音主義教会論:再考」準備ノート N
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「福音主義教会論:再考」準備ノート M
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多忙のゆえ、しばらくとまっていた「福音主義教会論:再考」の準備を再開したい。ノアの放ったカラスのように、長らくたくさんの教会論関係の文献を手探りしてきたが、奉仕まであと一ヶ月と迫ってきているので、そろそろ鳩を放って若葉をくわえてもらわなければならない。講演のおおまかな輪郭はできあがりつつある。これをどのような糸先から語り始めたら良いのか、それが問題である。これまでの経験から、自分の証しから語り始めると講演全体が分かりやすいものになると考えている。教会論全般から、つまり普遍から話し始めるのではなく、私自身の教会論との接点、つまり個別から話し始めるということである。というのは、教会論関係の文献が書斎の机の上に溢れていて、その展開の広さと多様性に圧倒されているからである。主題は「教会論」であるのだが、何を、どのように語っていけば良いのか、五里霧中という感じなのである。それでも、ペールマン著『現代教義学総説』から新約聖書の教会論・教会史における教会論・今日の教義学における教会論の主要な議論の眺望、丸山忠孝師から学んだ「教会論史」講義ノートから、旧約・新約聖書の教会論・教会史における教会論、そして特にWCCとローザンヌ誓約にみられる教会論の対比、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を教会論の視点から読むときに教えられる構図、『総説福音主義神学』からリベラル陣営を含む、今日における教会論の議論の展開、ローザンヌ会議後に書かれた諸論稿・諸論文にみる教会論関係の議論、エリクソン著『キリスト教神学』の教会論からは、オーソドックスではあるが、今日的な視野も教えられる。福音主義の立場における幅と多様性を教えられる。教会政治や儀式における理解に関してである。教会の機能についてもそうであるだろう。では、それらの多様性を扇の展開としてみた場合、扇のかなめとしての共通する本質的要素とは一体何なのだろう。このあたりを掘り下げ、整理していきたい。それと、エリクソンの教会論では、特別な問題として、教会と神の国・イスラエルと教会等が扱われている。これは、エリクソンがリフォーミング・ファンダメンタリズムの立場であり、ラッドが抱いたのと同様の問題意識をもって教会論を扱っていることを教えられる。つまり、古典的そして修正ディスペンセーション主義の内包する問題を過去の問題としてではなく、現在でも扱わなければならない問題として位置付けているということである。それと、エリクソンの教会論には、バプテストの伝統への忠実というスタンスがあるように思われる。
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2010.04.25 山崎チャペル・一宮基督教研究所
詩篇シリーズA
Ichinomiya Christian Institute
Chapel Short Message
『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません』
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主は私の羊飼い、緑の牧場、いこいの水のほとりに(vv.1a,2)
乏しさ、災い、敵−死の陰の谷を歩くことがあっても(vv.1,4a,5a)
生き返らせ、ともにおられ、杯は溢れています(vv.2,3,4b,5,6)
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2010.04.18 山崎チャペル・一宮基督教研究所
詩篇シリーズ@
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます』
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あなたの目は胎児の私を見られ、書物にすべてが(vv.13-16)
よみに床を設けても、海の果てに住んでも(vv.1-12)
あなたの御思い、その総計を知ることは(vv.17-24)
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委託販売中! 仲井隆典著
『ディスペンセーション終末論の克服』
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『ディスペンセーション主義終末論の克服』…携挙について、再臨のあり方、イスラエルと教会、患難について、千年期について、の五つの項目に関し、「ディスペンセーション主義の主張」を、「エリクソン・ラッド・グルーデム・マーレー・岡山等の福音主義のすぐれた神学者の見解」を引用し、的確に論破した大変すぐれた論文。神学生論文であるが、古典的、また修正ディスペンセーションの誤った教えから脱却を求めるすべてのクリスチャンにおすすめしたい。このテーマで、神学的一里塚を形成している画期的な論文である。
ブックレット:31ページ白黒、簡易製本、500円、送料別100円(ICIで、実費にて委託販売中!)メールにてご注文ください。
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ICI
audio streaming lectures
『神学入門』
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「神学入門」の講義です。サンプル講義なので無料でお聴きになれます。以下、本年度からオーディオのみで、安価なかたちで聴講できるコースを作りましたので、ご利用ください。約180分:通常価格750円(=60分あたり250円×3時間)
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ICI News
100419
いのちのことば社創立60周年記念出版
『聖書神学事典』のご案内
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ICI安黒も、ささやかながら執筆させていただいていました『聖書神学事典』がいよいよ刊行されます。皆さまのご奉仕、霊的成長のお役に立てていただけることを祈念しています。お近くのキリスト教書店等にご注文ください。
内容紹介
特色
監修:鍋谷堯爾、藤本満、小林高徳、飛鷹美奈子。執筆者:安黒 務、石黒則年、池上 安、市川康則、伊藤明生、岩上敬人、遠藤勝信、大嶋美枝子、大塚 篤、岡山英雄、金井由嗣、鎌野直人、川嶋直行、河野克也、河野行秀、菊地 実、橘内明裕、工藤弘雄、倉沢正則、込尾隆義、佐々木哲夫、清水武夫、杉本智俊、関野祐二、瀧浦 滋、竹内茂夫、蔦田崇志、津村春英、南場良文、西岡義行、橋本昭夫、藤原導夫、正木うらら、真鍋 孝、丸山悟司、丸山忠孝、三浦 譲、水垣 渉、水草修治、村岡崇光、安田吉三郎、山崎ランサム和彦、山下正雄、山田泉、山中猛士、油井義昭、吉川直美、ショート・ランドル、渡辺睦夫、飛鷹美奈子、鍋谷堯爾、藤本満、小林高徳。
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Evangelical Theology: Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義神学入門:再考」準備ノート B
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KBIでながらく「聖書通論」を教えてこられた吉岡先生の後を教える予定の後輩の教職者から、「新約通論」について助言をいただきたい」と頼まれている。他の新しい教師からも「日本基督教会史について良い参考文献があったら教えてください」と聞かれ、そのままになっている。心に留めているのであるが、忙しくてなかなか手が回らないのである。それで、どこまで、どの程度助言ができるのか分からないのであるが、後輩の教師への助言をも視野におくかたちで、「福音主義神学入門:再考」準備ノートを書き綴っていきたい。
とりあえず、心にあることは、ここ数年来取り組んできたことであるが、フラー神学校に関するマーズデンの書籍“Reforming Fundamentalism”とい視点に立つことが、今日、福音派神学教師として立つ基本的な立脚点であると思う。この点については、ここ数年来、特に昨年の“古典的ディスペンセーション主義問題”の取り組みと“福音主義神学:再考”の取り組みの中で明らかにしているので、これらの資料を熟読し、DVDを通してよく学んでいただきたい。それらの中に、基本的なポイントが示されている。「最初のボタンを正しくとめなくては、最後のボタンはとめられない」といわれるように、基本的な視点で失敗すると、長い先に自分の教えてきたことの誤りを深く悔いることになる。
その意味で、「神学教育」の全体像を、鳥瞰図の視点からよくよく眺めつつ、神学教育全体の中における各科目の位置づけを絶えず問いかけていく必要があるのである。担当する科目の全体における位置づけ・意義というものを深く考えていくことが大切である。それゆえ、教えようとする「教科書」に精通するのみでなく、その周辺の関連文献にも広く目を通して置くことが求められる。
「新約学」の領域の文献に関しては、救われた当初はH.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を片手に、聖書を何度も通読した。その後、教会の聖書研究会やKBIでH.スウィーガム著『旧新約聖書研究ベテル』を学んだ。KBI卒業後助手として奉仕し、M.C.テニイ著『新約聖書概観』を教えた。共立基督教研究所と東京基督神学校では宮村武夫先生から、G.E.ラッド著『新約聖書神学』を学んだ。
そのときは、あまり意識しなかったのだが、最近になって、G.E.ラッドの著作集の基本的視点が“Reforming Fundamentalism”であり、“古典的ディスペンセーション主義問題”の克服であることが分かってきた。エリクンソ神学の中においても、これは基本的視点となっている。このような問題意識を明確にもってなされる神学教育と、単に雑多な神学知識を分かち合うだけの神学教育とでは、その効果・意義において大きな差異が生じるものと思う。
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「福音主義神学入門:再考」準備ノート A
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先月、「福音主義神学入門」の3週間バイブルコースにおける特別講義を依頼されてときには、まだずいぶん時間があるように思ったが、あと数日となった。現在、やはりこれまで通りの『神学入門』の講義資料に手を入れて、分かりやすく語ることが、短期コースの方にも、長期コースの方にも有益ではないかと考えている。H.G.ペールマンは「議論の見通しのきかない原始林に林道をつけてやる責任」について書いている。わたしは、多くの神学校においてなされているように、神学を学び始める最初に、一生涯続ける神学の学びの最初において、「神学の学び」の全体像と本質を明らかにしておくことは、今後スムーズかつ有益な神学の学びを、それぞれのペースにおいて取り組んでいく上できわめて有益なことであると考えているのである。
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Evangelical Anthropology: Construction→Deconstruction→Reconstruction
「福音主義人間論:再考」準備ノート
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次週、4/20にKBIの新学期のわたしの講義が始まる。二年・三年合同クラスの、エリクソン著『キリスト教神学』第三巻、第五部「人間論」である。メイン・テキストは「人間論への序論」「人間の起源」「人の中にある神のかたち」「人の構成の性質」「人類の普遍性」の五つの章で構成されている。要約版では「人間の教理への導入」「人間における神の像」「人間を構成している性質」の三つの章で構成されている。要約版をベースにして講義している。60分三回で、三つの章を進むのか、90分二回で、二つの章を進むのか、いつも迷うところである。
それと、自分自身に対し今年の課題としていることがある。それは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』を並行して読んでいくことである。人間論の講義においても、授業の中で扱うことはできないと思うが、「人間論」の聖書神学的、そして歴史神学的“鳥瞰図”を押さえつつ、今日の組織神学的領域における主要な議論をみていくことである。そして、それらの議論との関連で、重要参考文献に目を通していくことである。この点において、新教出版社の「現代神学の潮流」シリーズは、大変助けとなる神学書である。断片的かつつまみ食い的にいろんな本を読むことにも意味があるが、現代神学の全般的な視野を与えてくれる点で、大きな助けになっている。このシリーズのNo.6は、R.L.シン著「人間−新しいヒューマニズム」である。これらのシリーズ書籍に目を配りつつ、組織神学の各領域のテーマを今日的に掘り下げていきたいと考えている。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート L
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昨日、注文していたトム・ヘス、他著『ダビデの幕屋の回復(Restration of the Tabanacle of David)』が届いた。十人の講師による「ダビデの幕屋の回復」に関する論稿やメッセージを収録した編集書籍である。この五月に、KBIで『祈りの祭典』と題して、二泊三日の聖会が開催される。神学生からこの集会に関して質問を受けたので、おおまかな返答をしておいた。そして、また調べた上で正確なコメントをしたいと返事をしておいた。それで、関連書籍を集めている次第である。この書籍を一読して、『ダビデの幕屋の回復』というテーマは、アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈の問題であることが分かった。十人の論稿、またメッセージに目を通した。十人十色とまではいかないが、結構、幅のある理解が提示されているように感じた。特に、一章のトム・ヘス師と二章のアブネル・ボスキー師の立場にはかなりの相違があるように思われる。トム・ヘス師は、「ダビデは契約の箱を取り戻し、エルサレムの自分の宮殿の裏庭に安置した。そこでは礼拝ととりなしが、一日24時間、一週に7日間、神の御座のもとに昇りはじめていた」と記し、そこを起点として「24時間の礼拝ととりなし」の運動を展開しておられる。トム・ヘス師のこの運動を評価するためには、「アモス9:11-15と使徒15:12-20」の聖書解釈を包括的な視点から分析・評価することが大切と思う。
いのちのことば社の新聖書注解・新約2の「使徒の働き」には、この箇所の解釈を「この救いの計画の事実を、ヤコブはアモス9:11-12から引用して説明する。この引用も70人訳によっているので、ヘブル語本文と若干異なっている。あるいは、この教会会議はギリシャ語でなされたのかもしれない。ヘブル語本文は、ダビデ王家が、滅亡した繁栄を回復し、ダビデ王国に属していた領土をことごとく統治するということを語っている。しかしヤコブは、ダビデの幕屋の再建を、ダビデの子キリストの復活、およびキリストの弟子による新しいイスラエルによって成就されたとしている。さらに、残りの民が主を求めることは、信仰を持つユダヤ人だけではなく、信仰を持つ異邦人が存在することによって成就されたという意味において引用している。このように、異邦人も神の民の一員になることは、旧約時代から明らかにされていた神のご計画であった」とある。信頼できる注解書から、この聖書箇所の背景、文脈を理解し、その中で意味されていることは何かを特定することが、健全な聖書解釈の第一歩である。
「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」を取り扱った神学書を求めて、書斎にある神学書を時間をかけて探してみたが、以前扱った「セカンド・チャンス」、「霊の戦い」、「ディスペンセーション主義」等の諸問題でみられたように、この聖書箇所とテーマで取り扱った資料や文献はなかなか見つからなかった。大きな神学的問題、また大きな勢力を構成する運動になっていないのか、とも思った。そうであったとしても、これらの箇所の聖書解釈のあり方をきちんと押さえて置くことは重要であるゆえ、書斎を再度探してみた。そのような中で、使徒行伝を専門的に扱った聖書神学書のひとつ、J.D.G.Dunn“Beginning from Jerusalem”、1345ページの大著があった。この著作の中で「アモス9:11-15と使徒15:12-20の聖書解釈」が扱われていて教えられた。その記述の中に、R.Bauckham“The Book of Acts in Its First-Cetury Setting, Vol.4, : The Book of Acts in Its Palestine Setting. Ed, R.bauckham”への言及があり、「ボウカムは、アモスの預言は異邦の諸民族の終末論的回心をメシヤ時代における神殿の回復と関係づけている諸預言の脈絡において読まれており、“ダビデの幕屋の再建”は終末論的神殿としてのエルサレムの共同体への言及としてみられていたであろう、と正しく主張している」と書き記している。ボウカムといえば、昨年「ディスペンセーション問題」でラッドと岡山師とボウカムをよく学んだ。今日、ボウカムの上記の本も注文した。また、届いたら、関連箇所を翻訳して紹介したい。
レストレーション・ムーブメントの上記のポイントの聖書解釈における課題は、かなり明白に理解できるようになってきた。これからの課題として、レストレーション・ムーブメント自身の歴史的ルーツとその発展についての情報収集である。そして今日における展開についても調査する必要がある。今、ひとつの聖書箇所を心に示されている。
<Eph>
4:11
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
KBI関連諸教会の中に、KBIが立てられている意義を再度考えさせられた。今日、世界各地から押し寄せるさまざまなムーブメントの中で、翻弄されることなく、それらの肯定的側面と否定的側面を識別し、地方教会の建徳的成長に生かしていくことが求められている。KBIは、第一義的に、神学生に対し、そして副次的に関連諸教会に対して、これらの識別・評価に対して責任があると感じている。私たちは万能ではないけれども、長年神学研究と神学教育に携わってきたひとりとして、責任から逃げることなく、その責任を果たしていくべきだと思うのである。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート K
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今朝は、Clarence B. Bass "Backgrounds to Dispensationalism -its Historical Genesis and Ecclesiastical Implications-"の教会論を読んだ。第四章「ダービーの教会論」は、「@荒廃の中にある教会、A教会の本質、B教会の歴史的誕生、Cキリストのからだとしての教会、D神の御住まいとしての教会、Eキリスト−教会のかしら、F地上にある教会、G教会の一致」というかたちで解説されている。英国国教会におけるリベラル化の進行が歴史的背景としてあり、その荒廃し、形骸化した“組織”としての教会から、離脱して純粋な信仰者による“純粋”な教会を形成しようとする運動であることを教えられる。しかし、それらの教えのひとつひとつの中に極端な傾向を見出す。これらについて整理しておくことは大切である。
また、Dana Roberts "Understanding Watchman Nee"の教会論の箇所を読んだ。第五章「教会とその働き」は、「@歴史的考察、A普遍的教会、B地方教会、C終末における教会」という構成で書かれている。その内容は、ウォッチマン・ニーの著書とエッセンスとを紹介していく方法である。それらは“The Glorious Church”,“Assmbly Together”,“The Normal Christian Church Life”,“What Shall This Man Do ?”,“The Orthodoxy of the Church”,“Spiritual Authority”,“Further Talks on the Church Life”,“Come, Lord Jesus”,“God's Plan and the Overcomers”,“Love not the World”,“Gospel Dialogue”等に関する分析と評価が書かれていて興味深い。このあたりの解説を読むと、ウォッチマン・ニーの著作に、いかにJ.N.ダービーの著作を起源とする古典的ディスペンセーション主義の影響が濃厚であるのかを教えられる。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート J
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4/6に、JECのEブロック牧師会があった。今回は、特に6/1のJEC拡大教職者会「JECアイデンティティ・シリーズ『JECの教会論:教会におけるリーダーシップのあり方(教会政治論)』」についての基調講演・パネル・ディスカッション・質疑応答・全体総括等が行われる。今回、このテーマに関して話し合う過程において、ひとつのことに気がついた。私自身は、高橋牧師時代の西宮ECと蒲田師が主管牧師時代の岬ECの教会政治しか知らない。その時の「教会政治」は、完全な“会衆制”であった。すなわち、監督制である英国国教会内における改革運動のひとつであった「会衆派ピューリタン」をルーツに、やがてバプテスト運動が生起してくる。この運動の中においては、「教会役員は、教会員の選挙によって選ばれる」という原則がある。スウェーデン・バプテスト諸教会を背景にもつオレブロ・ミッション(現在、三派合同でインターアクト)の宣教師は、そのような意味で「教会政治」においては“会衆制”を指導されたので゜はないかと考えている。ただ、第一世代の日本人教職者のある先生は、“会衆制”の原則を一部修正して「教会政治」を行ってこられたようである。「牧師による教会役員の任命制」を行っておられる教会があることを今回の話し合いの中ではじめて知った。
JECは、宣教師から”バプテスト的な教会観”を受け継いで今日まできた。しかし、その内容はある範囲内で変容している部分もあるようである。「教会政治」に関する課題は、至高の権威は、神ご自身にあることに関しては共通理解があるのだが、この地上の教会において、“神の権威”がだれに、どこに、現わされ、どのように行使されていくのか、についてどのように考えるか、実践するのか、ということである。私たちJECの教職者は、宣教師から受け継いだ“会衆制”のあり方を、宣教現場、教会形成の現実の中で、“長老制”や“監督制”からの良き洞察を取り入れながら、試行錯誤しつつ今日まできたようである。
牧田吉和著『改革派信仰とは何か』の第九講には「改革派信仰とは、長老政治を確立し、徹底的に聖書的教会を形成しようとする信仰である」とあり、第一章「教会政治の重要性」、第二章「長老主義政治の要諦」−第一節:役員として長老が存在すれば長老主義政治といえるのか?、第二節:長老主義政治の要諦としての「共同監督」の理念−@長老主義の中核としての「中会(プレスビテリィ)」、A監督主義との関係、B会衆主義との関係、C長老主義の中庸性、第三節:長老主義政治と教会の王にして頭なるキリスト、第三章「長老主義政治確立のために留意すべき問題点」−第一節:教職の平等性をめぐる問題、第二節:教師(宣教長老)と治会長老の平等性をめぐる問題、第三節:会議制をめぐる問題−@会議のセンス、A会議の霊性と自由さ、B教会会議の段階性に対する理解、C法に対する理解、結び。このような構成と内容となっていて、教えられるところが多々ある。
私自身は、上記のように「教会政治」においては、“会衆制”の流れを汲むものであるが、会衆制を軸として、牧田師が扱っておられるような議論を、監督制・長老制・会衆制・非統治制等の長所と短所を吟味しつつ、宣教現場・教会形成の取り組みの実際の中で、JECの今日までの脈絡の現実を踏まえつつ、整理していく必要があると感じている。このあたりの、“会衆制”を落とし所とした議論は、エリクソン著『キリスト教神学』第四巻、第52章「教会の政治」で分かりやすく取り扱われているので参考にしていただきたい。エリクソンは、聖書においては、どの教会政治がベストであるとは描写されてはいない。ただ、@秩序の価値、A万人祭司の原則、Bそれぞれがからだ全体にとって大切である、という原則を抽出し、これらの原則を一番よく満たしている教会政治の形態として、“会衆制”を推奨している。その他、封建時代における教会政治のあり方、民主主義の時代における教会政治のあり方、等、時代背景との関連してみる視点の提供、また教会の規模や成長段階、特に開拓と教会形成初期の次期の牧師のリーダーシップの必要性、また大きな規模となっていった段階での“代表制”に対する考慮の必要にも言及しており、その本質的原則を押さえつつ、時代状況と教会成長諸段階における「教会政治」のあり方に対する“フレッキシブルな神学的思索力”からは教えられる。
5/31の関西聖書塾におけるテーマは、「福音主義教会論:再考」ということで、その講演の射程は「教会の本質論」に限定すべきように感じている。しかし、その翌日には、JEC拡大教職者会にて、福音主義教会論の中の「福音主義教会論:“教会政治論”再考」を射程とするJEC内部のシンポジウム(討論会)がなされる。ある意味で、同じ線上にあるので、「福音主義教会論:再考」準備ノートのシリーズにおいて、この準備も扱わさせていただく。私は、そのシンポジウムの全体総括の奉仕を依頼されているので、そこでどのような基調講演・パネルディスカッション・質疑応答がなされるのか、ある程度予測して、それらの議論の全体の輪郭とエッセンスを要約し、JECの今後の宣教・教会形成に生かしうる簡潔なカイドラインを提示することができたらと考えている。
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2010.04.04 和歌山福音教会イースター・ファミリー礼拝
教会論シリーズI
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『復活のいのちに生きる教会』
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新約聖書:ヨハネ20:24-29、ローマ8:9-11、4:17-25
復活信仰を“信じる”(ヨハネ20:24-29)
復活信仰を“生きる”(ローマ8:9-11)
復活信仰を“活用する”(ローマ4:17-25)
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「イースター礼拝説教」準備ノートB
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『復活信仰に生きる教会』
復活信仰を“信じる”(ヨハネ20:24-29)
イエスは、なぜ信仰者にのみ、復活されたご自身を現わされたのか?(Tコリント15:3-8)
信仰者とイエスの関係は、愛しあう二人の「愛の告白」に似ている。「愛しています」と告白することは、ある意味で非常に危険な行為である。もし相手に拒否されると、深く傷つくからである。イエスへの信仰と愛のあるところに、イエスはご自身を現わされる。それは、“信仰”というものの性質上、本質的にそうなのである。
キリストは、歴史上検証しうる要素としては、“空虚な墓”のみを残された。不信仰者にとっては、それは“死体盗難”を意味する。しかし、信仰者にとっては、それは“復活”を意味する。十字架における“贖罪”に続く、最も崇高な行為としての“復活”、それは“愛の告白”に似ている。それが不信仰者に現わされても、再び十字架にかけようとするであろう。なじり、侮蔑し、汚すであろう。しかし、信仰者にとっては、“純白のウェディングドレスを着た花嫁”のようである。福音書の復活の記事とその目撃者からの印象は、“そのような空気”を伝えている。
それゆえ、すべての人に対しては“空虚な墓”のみを残されたことは、“神の知恵”である。信仰者のみに“復活されたご自身”を現わされたのは、“神の愛”である。私たちの前には、すべての人に明らかな“空虚な墓”と信仰者のみに明らかな“復活されたイエス”に対する目撃者の証言がある。約二千年の時間を経て、私たちがこれらの記事を読むとき、聖霊を通し時間と空間を超えて、トマスとイエスとの出会いの場面に引き込まれる。トマスが「彼らと一緒にいなかった」ように、私たちも二千年前の復活の現場にはいなかった。しかし、私たちが心を開いて聖書に読み浸るとき、聖霊は私たちを二千年前のこの現場に没入させてくださる。トマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と。これはある意味、トマスの信仰者としての“誠実さ”でもある。主イエスへの不信仰ではない、主イエスを深く愛していた。ただ、“復活”という出来事を唐突に聞いて、受け入れることができなかったのである。その意味での「不信仰」であり、彼の性格の“真実さ”を示すものである。これは、新約のクリスチャンに貫かれているアーメン(真実)たる特徴である。
そのようなトマスに対して、イエスは“愛をもって”ご自身を現わされた。「あなたの指を、ここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい」と。トマスは、胸が熱くなったであろう。そこまでして、トマスの不信を解きほぐそうとしてくださる主イエスの“迫りくる愛”に触れたからである。トマスは、その一言で反射的に“ひれ伏して”しまった。「私の主、私の神」と告白して。これは、19歳のときの私の経験である。同一、同質の経験である。心を開いて、この箇所を読んでいるとき、同じ経験に引き込まれた。主は霊である。私たちは、聖霊によって、“キリストの現臨”を今ここで、私の心が燃えるほどに経験することができる。トマスが出会った主に、聖霊を通して今ここで出会うことができるのである。
復活信仰を“生きる”(ローマ8:9-11)
私たちは、「空虚な墓」と「新約の使徒たちの“真実な”証言」に根差して、キリストの十字架の贖罪と復活を信じる者である。パウロは、このキリストの復活の“事実”に根差して、復活信仰を“生きる”よう励ましている。で、復活信仰を“生きる”とはどういうことであろうか。
復活信仰を生きる方向には、二つあるように思われる。一方は、内面的な方向であり、他方は外面的な方向である。内面的な方向性は、ローマ書の6-8章に詳しく記述されている。これらのエッセンスをJ.D.G.ダンが簡潔にまとめているので紹介したい。この理解は、わたしの福音理解、人間理解、聖化理解を明確にしてくれたものであり、ダンには深く感謝している。
パウロにとって、信仰者の宗教的経験は矛盾と葛藤−いのちと死の矛盾、御霊と肉の葛藤によって特徴づけられている。それは、常に問いと疑いに悩まされる信仰、常に死に悩まされるいのち、肉に悩まされる御霊について(ガラテヤ5:16ff)の、挑戦(Anfechtung)の中にある信仰である。それは、緊張の中にある生−時にはほとんど耐えられないような緊張(ローマ8:22f、Uコリント5:4)−同時に二つの世界に属する緊張、御霊のいのちを知るのであるが、それは死のからだを通してそれを現わすことにおいてなのである。それは、一生涯継続するし続ける緊張である。ローマ7:24のフラストレーションの叫びは、クリスチャンに一生涯続く叫びである。クリスチャン生涯を通じて、信仰者は二つの陣営に足跡を記す(ローマ7:25b、8:10)。生涯を通じて、クリスチャンの前には、肉に従って歩むのか、御霊に導かれて歩むのかの二つの選択肢−二つのリアルな可能性、少なくともある程度の現実性がこの生涯の終わるときまで置かれている。
回心、御霊の経験、カリスマ的経験が、この葛藤を超えて信仰者に生起するのではなく、むしろ御霊の臨在と活動はその葛藤をさらに鋭いものとするということを理解するのは大切である。確かに、パウロは、彼が彼自身から離れるという経験−それはそのときには肉体を離れていたように思われる経験(Uコリント12:2ff)をすら知っている。しかし、そのような経験はパウロにとってあまり重要でないものであった。彼が、神とより親密となり、彼を通して神の力が最も効果的なものとされるのを見出す場所は、日々の弱さの経験においてであった(Uコリント12:9f、13:4)。もしパウロが正しいのであれば、この緊張と葛藤を回避するいかなる試みも誤りには連れ込むものである。御霊にある人と肉にある人の二つに深く裂かれた状態の現実から、信仰者を免除するより高みの経験などは存在しない。信仰者は肉の中に留まり続ける限り、彼は御霊にある全き生活を楽しむということはできない。そこにはただ二つの脱出の道がある。そして両者とも死の道である。ひとつは前方にある道−肉体の死というその終局まで御霊と肉の葛藤に従事する。他方は後方にある道−葛藤を放棄し、肉のレベルにのみ生きる生活に後退し、死のみが支配するレベル、死の道である。換言すれば、脱出の唯一の道は死−肉体の死あるいは人間の包括的な死なのである。
要約すれば、パウロが真剣に取り上げているクリスチャンは、彼の宗教的経験における矛盾と葛藤に驚かされることは決してない。彼は敗北において意気消沈させられたり、あるいは恵みは苦闘を消し去ると結論したりもしない。逆に、霊的葛藤はいのちのしるし−御霊が人格を形づくることにおいて物語っているというしるしである。苦闘は希望を生みだす(ローマ5:3ff)。死はいのちの現在の経験の一部分である(Uコリント4:10ff)。いのちは今このからだにおけるいのちに違いないのだから、御霊は矛盾と葛藤としてのみ現わされる。この矛盾と葛藤の存在こそが、健全な宗教的経験の標識なのであり、その不在ではない。「私たちが、敗北するときにではなく、私たちが戦うことをやめるとき、御霊は不在となられる。」
復活信仰を“活用する”(ローマ4:17-25)
もうひとつの「復活信仰」を生きる方向性として、外面的な方向性があるように思われる。私たちの父祖、アブラハムがそうであったように、「望みえない」状況、「死んだも同然である」状態の只中で、復活信仰を“活用”させていただく道である。神が共におられるのでないならば、私たちは苦境に陥ったとき絶望するしかない、あきらめるしかない。しかし、もし全能の神が私たちと共におられるのであれば、私たちには望みがある。
昔、「ジュラシック・パーク」という映画を見た。“蚊の化石”の中に保存されている“恐竜のDNA”から、恐竜を復活させるストーリーである。その中で、ある生物学者の短いセリフが心に残った。その生物学者は、恐竜が卵から孵化する様子を見、感激し、ひとつの言葉を発する。「いのちあるものは、必ず道を探し出すのだ!」と。
さて、バブルの崩壊、さらにリーマン・ブラザーズの倒産等、世界と日本の経済の苦境についてはすでに多くのことが語られた。私たちの個人の生活、社会における生活、教会における生活においても、「復活信仰」を活用させていただく領域は溢れているのではないか。
私たちの信じている神は、「死者を生かす」神であり、「無いものを有るもののように」呼ばれる神である。「望みえないときに、望みを抱かせる」神であり、不妊と老齢で「自分のからだが死んだも同然であること、サラの胎が死んでいる」ことを認めても、「信仰をますます強めて」くださる神である。アブラハムは“空の星”を見せられ「あなたの子孫はこのようになる」と約束を受けた。神は“真実な”神である。真実な神は“真実な言葉、また真実な約束”を語りかけられる。真実な神は、私たちの生涯、人類の歴史の中でその“約束に対する真実性を立証”される。
アブラハムは、“空の星”を見せられ「あなたの子孫はこのようになる」との約束を受け、即座にすべてを手に入れることができたのではない。ひと粒種の“約束の子”イサクが与えられるまでにさらに時間を要した。その子孫の中に、神の独り子イエス・キリストが受肉されるまでにはさらに長い年月を要した。しかし、長い年月を経て、神の真実性は人類史の中に実証されている。アブラハムと“同質”の復活信仰を宿す旧約の真の信仰者と新約の真の信仰者からなる“空の星”のごとくの神の民が世界に溢れており、それは数えることができない。救済史における神の真実性は、私たち個人の信仰生活においても、群れとしての教会生活においても、応用され、活用されるよう励まされている。「求め」「たたき」「探す」(マタイ7:7-8)よう勧められている。
私たちに対する「神の約束」とは一体何なのだろう。私たちが「復活信仰」を活用するとは一体どういうことなのだろう。それは人類史、救済史的の視野から、本質的・演繹的に思索していくこもひとつの道筋であるが、私たちの個人の信仰生活・教会生活の領域の個別的・具体的な事柄から帰納的に思いめぐらすこともまた大切である。イエス・キリストは贖罪のみわざを終えられ、復活・昇天し、神の右の座に着座し、父なる神から受けられた約束の御霊を私たちに注いでくださっている。その聖霊の注ぎと内住の信仰生活・教会生活の中で、私たちには「復活信仰」を“活用”させていただける領域が展開している。その領域は、A.A.ファンルーラーの言う“神律的協働性”の領域であると思う。
私たちは、神の聖定と摂理の支配の下、キリストの現臨である聖霊との対話・交流しつつ、個人史・教会史の新しいページ・新しいドラマの展開を書き記していくべく召されている。ダビデは、いつも「私はいつも、私の前に主を置いた」(詩篇16:8)と語った。「まことに助言をくださった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える」(16:7)とある。“自問自答”のようであるが、その中に“御霊の介在”がある。御霊はそのような介在の中で、私たちに“夢”や“幻”を与え、その説き明かしとしての“預言”を与えられる(使徒2:16-18)。わたしはこのようにして、救い・献身・初期の教会形成・現在の神学教育取り組みを導かれてきた。それらは、御霊の“超越的な働き”というよりも、“内在的な語りかけ”こそが主要なものであったように思う。
奉仕の生涯の中で、私は、ときどき“落盤事故”にあった炭鉱労働者のような感じを抱いたが、そこで絶望しなかったのは、その只中で“主がともにおられ”、主の語りかけがあり、「必ず、出口があるはずだ!」という確信をもって、地層の薄い部分、冷たい風が吹き込む方向、蟻や虫が出入りする道筋、外からの声がかすかに聞こえてくるのではないかと耳をすませること、ありとあらゆる可能性を「求め」「たたき」「探す」中で、復活の主が、いのちの御霊、死者をよみがえらせる御霊として、苦境からの“脱出口”に向けて岩石を掘り崩し、道筋を切り開いていってくださったからである。「いのちあるものは、必ず道を探し出す」、これは至言である。
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書籍紹介
@ Pöhlmann,
Horst G.:Heiliger
Geist
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最近、特に教えられている本のひとつは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』である。現代の教義学における鳥瞰図とその中における議論がどのように展開しているのかについて、分かりやすく教えてくれる本である。彼の著作の中に、Autor: Pöhlmann, Horst G.:Titel: Heiliger Geist があることを知った。彼の『現代教義学総説』のpp.399-402 に、O.A.ディルシュナイダー「キリスト教神学は、急性の御霊の欠如病にかかっている」「神学は幾世紀もの間、第二項のキリスト中心神学に固着していた」「それを超えて救いの事実としての聖霊降臨の出来事を忘れてしまった」、カトリックの神学者であるH.ミューレンの聖霊中心の傾向、R.ボーレンは、説教論で現代の「言語喪失」は、「ただ聖霊の到来によってのみ」「克服される」、ボーレンはA.A.ファン・リューラーの御霊の働きとキリストの働きとの間の構造的区別を取り上げる、U.A.フォン・バルタザール、M.ヴェルカー、H.ベルコフ、J.モルトマン等を取り上げて、聖霊論の議論を紹介している。その最後に、「神学内部、また外部のより新しい現代的な聖霊論についての鳥瞰は、“Autor: Pöhlmann, Horst G.:Titel: Heiliger Geist”をみよ」とある。ドイツ語版しかないようであるが、上記の内容のさらに詳細な議論の紹介があるようなので、辞書を片手に一度読んでみたい書籍である。
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「イースター礼拝説教」準備ノートA
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昔、ある先生から「説教とは、要するに“御言葉”+“証し”である」と聞いた。きわめて単純で明解な説教についての定義であり、教えられた。また、あるときに「私たちの信仰は、御言葉を“信じる”だけでなく、御言葉を“生きる”というところに強調がある」と聞いた。神学とは何か。説教とは何か。復活信仰とは何か。いろいろ考えてみる。
神学は、本質的には“教会”の機能である。私たちは神学をただ、“教会の肢”として、“教会の委託”、“教会に対する奉仕の意識”をもって行う。神についての“語り”としての神学は、全く中立的な学問ではありえず、むしろただ実存的にのみ関わりうる学問である。なぜなら神は、あらかじめ“神によって捉えられる”ことなしには、理解えないからである。神学は、“前もって神と語った”時にのみ、神について語るのである。“神讃美”でない神学はもはや神学とはいえないのである。神学は“実存的”性格をもつものである。それゆえ、語る者の“具体的”、“実存的”状況と関わることなしに、神について語ることはできない。神について語ることは“自分自身について語る”ことを意味する。あらかじめ“自分を基礎づけている”もののみ基礎づける。このような神学の実存的性格付けは、同時にすべての神学外の領域との間の限界線を示している。もちろん、神学の実存性が、神学の学問性を犠牲にしてしまうわけにはいかない。「制御のきかない熱狂主義」や「実存的関わりを失った学問的神学」の両者は誤りである。中立性とか無前提性が学問の本質を形成するものとするなら、神学は学問ではない。なぜなら神学は、神に対する“信仰の前提”から出発し、その認識対象からして、このことをなさざるをえないからである。神は“人の思考を絶したお方”である。神は“神についての学問”以前に存在するのである。(H.G.ペールマン)
説教においては、御言葉に基づく客観性が求められるとともに、その客観性に根差しつつ、私たちの“生”のコンテキストとの実存的関わり、意味合いが探求されなければならない。聖書のコンテキストとともに、私たちの“生”のコンテキストにおいて、「復活信仰」はどのように働くものなのだろうか。クリスチャン生活は、ダビデの例証にみられる贖罪信仰とともに、アブラハムの例証にみられる復活信仰の働く生涯である。私たちの生涯の中に、具体的に、実存的に「復活信仰」が働く道筋を明らかにしなければならないのではないだろうか。
私自身の生涯の中で、「復活信仰」はどのように働いてきたのであろうか。@新生に導く「トマスの不信仰」(ヨハネ20:24-29)の箇所、A聖化のプロセスを励ますローマ8章の「死ぬべきからだを生かす」福音理解(ローマ8:9-11)、B与えられた召しの「約束を必ず成就してくださる」全能かつ摂理の神の御力(ローマ4:17-25)等々、これらの背景にも復活信仰の本質を垣間見るのである。
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Japan
Evangelical Churches & All of Evangelical Denominations in Japan
「私は、二つのJを愛する」下書きノート @
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昨年、JEC(日本福音教会)の月刊誌に、使徒信条の構成に沿う形で、エリクソン著『キリスト教神学』に見るJECの福音理解の特徴を連載させていただいた。昨秋の神学会において明らかにしたように、わたしには、所属教派であるJEC(日本福音教会)の福音理解の@聖書的、A公同的、B今日的、C自己革新的な“再構築”というひとつの重荷がある。そして、この重荷は、JEC(日本福音教会)の範囲にとどまらず、日本における福音派諸教会全体(All of Evangelical Churches"Denominations" in Japan)を意識したものでもある。内村鑑三は「ふたつのJ(Jesus and Japan)を愛する」と語った。わたしは少し異なった視点であるが、わたしもまた「ふたつのJ[JEC(日本福音教会)と日本における福音派諸教会全体(All of Evangelical Churches"Denominations" in Japan)]を愛する」と告白しつつ、福音派諸教会・諸教派で共有できる神学的要素等を紹介していこうと考えている。
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「イースター礼拝説教」準備ノート@
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イースターは、和歌山福音教会でのメッセージを依頼されている。イメージとしては、教会論シリーズのひとつとして「復活信仰に生きる教会」というあたりを思いめぐらしている。似たような題名の本として松田和憲著『福音宣教の使命に生きる教会』がある。復活との関連では、齋藤正彦著『イエス・キリストと教会』があり、@教会の成立の根拠としてのイエス・キリストの出来事、A福音主義教会の成立根拠としてのイエス・キリストの出来事、という構成になっている。イエス・キリストの死と復活は、信仰箇条における「中心における中心」であり、神の救済の約束が成就したと宣言したのは「初代教会の復活信仰」であり、「イースターなしには、主もなく、教会もない」のである。