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ICI Daily & Diary Lectures
2014年度 ICI日誌
2023/11/06
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2014年12月28日:旧約聖書
詩篇103:1-5 説教: 安黒務 牧師
クリスマスが終わり、新年までの間はその年の感謝なことを考える期間である。1月には、私自身が還暦を迎えた。自分の老いを意識すると共に年末には孫がまた一人生まれ、老いていく者があれば生まれて来る者がある、この世の摂理を教えられた。
1月、2月は「キンドル版で小冊子」を七冊出版した。3月、4月には「G.J.ラッドの本の翻訳」が遂に終わり、来年3月にはいのちのことば社から出版される予定となっている。この本はディスペンセーション主義を克服するために、いろんな神学校で教科書として使われることになるだろう。ディスペンセーション主義については牧師会でも講演をさせていただいた。
一年間かけて準備された「福音主義神学会全国研究会議」は、この11月に多くの先生方を集めて、生駒のICIで催され、素晴らしい会議となった。その間にも、「ディスペンセーション主義やシオニズムについての論文」を仕上げ、福音主義神学誌に載せていただくこととなった。人口も少ない、片田舎に住みながら、神学についてのいろいろな課題に取り組ませていただいている日々である。
今日の詩編の箇所は、まるでモーゼの十戒の様である。神は唯一であり、まず、主をほめたたえよ、とある。神が良いことをして下さるからとか愛して下さるから、ほめたたえるのではない。神が神であり、神の存在そのものの故にほめたたえるのである。
そして、その次に、"主のしてくださったことを、何1つ忘れるな。"とある。この一年間を振り返り、私たちが何もしなかったとしても、まず主が共にいて下さったことに感謝しようではないか?「コーラム デオ」、これは「主の御前に」ということである。
一日、一年、一生の秘訣は、いつもあなたの目の前に主を置くことである。主にあって、この一年間を振り返り、その出来事一つ一つに感謝し、宝石箱にしまう。主に結びついていたからこそ、いろいろな危険から守られてきた。また、始まる新しい年も、一生を良い物で満たして下さる主に期待して、一つ一つのことにチャレンジしていきたいと思う。
2014年12月21日:新約聖書ルカ2:1-7,
ピリピ2:1-11 説教: 安黒務 牧師
今日はクリスマス礼拝である。
マリヤが初子を生んで、その子は飼い葉桶の中に寝かされた。この状況は美しいストーリーとして語られることが多い。しかし、実際はピリピ2:6-8に書かれている様に、"キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、"とある様に非常に貧しく粗末な状況であった。
神の御姿とはギリシャ語でモルフェという言葉で、神の本質の全てが揃っておられる方という意味である。日本では多くの神々が祀られているが、神の本質とは何か?イエス・キリストを見ること無しに本物の神を見ることは出来ない。
人間は長く生きても80回から90回の誕生日を迎えたら人生の終わりを迎える。もし、神様がおられなかったら、人間は暗闇の中を歩まなければならない。しかし、神様はキリストの様なお方である。神様ご自身が被造物となってこの地上に来られたのである。
その方は王の様にではなく、この世の最も低い所に降りて来られ、人間の全ての苦しみ、悲しみ、痛みを経験された。このイエス様が私たちと共に生きて下さり、共にいて下さる。
人口の数パーセントが富の半分以上を持っていると言われる。このいわゆる勝ち組になろうと人々は頑張るのだが、ほとんどの人々はなれないでいる。
キリストの生涯のゴールは十字架の死であった。貧しい大工の息子として生まれ、苦労を重ねた末に辱めを受け罵られ、ローマ時代で最も残酷な十字架の刑に処され亡くなった。
私たちの身代わりとなって死んで下さったキリストを見ると、人生のあり方、価値観が変わる。私たちを知らんとして低い所に降りて来て下さったキリスト。そのキリストを信じる者は目に見える物ではなく、見えない物にこそ価値を見いだす生き方が出来る。
何のへんてつもない人間が、神と共に生きる。目の見えるところにではなく、キリストの臨在に目をおいて生きていく。人生を終えた後には神の栄光の冠がその人を待っているのである。
2014年12月14日:新約聖書ルカ1:39-66 説教: 安黒務 牧師
アドベントに入ってから、ザカリヤとエリサベツ、またマリヤに起こった出来事について学んできた。
エリサベツが妊娠6か月になった頃、マリヤは彼女を訪ね、ヨハネが生まれる直前まで3ヶ月間一緒に過ごしたという。
年老いたエリサベツに起こった奇跡、また、未婚のマリヤに起こった奇跡。二人は自分たちに起こった神の御業に喜びを抱くと共に神への畏敬の念を抱いたことだろう。彼女たちは自分の身をもって、神の御業を証明したのである。
マリヤの挨拶にエリサベツの胎の子が踊り、エリサベツは聖霊に満たされた。また、マリヤは詩編の言葉を引用して、神様を讃えた。話に聞いていた神の御子が、自分という人間を通して、人の形を取って来られるということに対する驚き。
しかし、マリヤはこの上も無い神の奇跡の喜びを経験すると共に、イエスの成長を見つめ、我が子に科せられた重大な任務に悩み、遂には我が子の死に直面しなければならない大きな悲しみを経験することになる。このマリヤの姿はクリスチャンの母親の手本とも言える。
神様から与えられた子供への期待。神の言葉である聖書の御言葉が親子の心に蒔かれ、ある時は希望を膨らませ、ある時は悲しみを慰められ、親子を成長へと導いていく。神様は真実な方であり、いろいろなことを実現させて下さる。毎日が奇跡の連続である。
ウェストミンスター信仰問答に、人間の生きる目的は何かという問いが、一番最初に出てくる。そして、その答えとして、"神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。"とある。
マリヤはイエス様を身ごもり育て、その一生を見守る。それが彼女に神から与えられた使命であった。クリスチャンとは何か?毎週、教会に行き、献金し、奉仕をする。また、不道徳なことはせず、酒、タバコも控え、とにかく、宗教的な生活をする。そのような事だと勘違いしている人が多い。
人として、社会人として、主にあって生きていく。すべての物事を神の視点から見直すと、私たちが普通に生きて行くすべての道筋に神の奇跡がちりばめられていることに気が付くであろう。
2014年12月07日:新約聖書ルカ1:24-38 説教: 安黒務 牧師
先週はザカリヤとエリサベツの夫婦の間に、バプテスマのヨハネが誕生する聖書の箇所から学んだ。
そのエリサベツが妊娠6か月目に入った頃、同じ主の使いがマリヤのもとに訪ねて来た。それが今日の箇所である。
処女マリヤからイエス・キリストが生まれることは、旧約聖書の中に記されている。そのキリストが生まれる準備がヨハネの誕生と重ねられながら、既に始まっていた。神様の業は単体でポンポンと現れるのではなく、いろいろなことが折り重なる様に行われていく。
マリヤの所に主の使いガブリエルがやってきた。マリヤにとっては唐突な出来事であるが、神様の側としては旧約聖書全体で計画されていた事である。
神様の目はこの世の目とは違っている。マリヤはどこかの有名な才色兼備のお嬢様ではなく、片田舎の名も無い女性であった。
この箇所を通して、神様はマリヤだけではなく、無名の私たち一人一人にも神様の目は注がれているということを教えられる。
"おめでとう、恵まれた方"その言葉は私たちに送られている言葉でもある。
もちろん、マリヤもすぐに理解することは出来ず、"何の挨拶かと考え込んだ"しかし、否定的に反応したザカリヤとは違い、マリヤは前向きに思い巡らすことが出来た。
未婚の女性が妊娠するということは命にもかかわる危機的なことである。しかし、神様の恵みはこの様に危機的な状況の中に現される。
思い巡らしたマリヤは、聞いていた旧約聖書の預言についても知っていたであろう。神様の計画ははっきりしている。聖霊の助けも受けて、マリヤははっきりとこう言うことが出来た。"神にとって不可能なことは一つもありません。""おことばどおりこの身になりますように。"
ここにマリヤの献身の姿がある。神様の素晴らしい御計画もマリヤの様に主体的に参与していく献身が無ければ、進んでいかないのである。
私たち一人一人にも、神様は御計画を持っておられ、私たちの前向きな献身によって、主の業が進んでいくのである。
2014年12月06日:11月の初旬にJETS全国研究会議を祝福のうちに終えることができた。あと、BD-Rの編集・発送作業や、収支会計報告書作成であっという間に一ヶ月が過ぎてしまった。12月となり、ようやくすべての荷を下ろして、以前の生活に戻ることができた。そんな印象である。以前の生活とは、日本のキリスト教会のために、M.J.Erickson著“Introducing Christian Doctrine”(第三版)の翻訳・出版計画のことである。現時点では、第二版の42章中、翻訳もあと4つの章のみとなっている。年内ないし、一月末までにこれを仕上げて、推敲期間に入る。そして、六月に刊行予定の「第三版」を待ち、刊行とともにそれとの「照らし合わせ」を行い、なんとか年内ないし来年度中には出版へと持ち込みたい。わたしも、すでに60歳となった。元気に奉仕できるのもあと十年くらいかなと思う。その十年間で主への最後のご奉公できるものとは何なのか、それを絞り込ませていただき、その奉仕に集中したい。そう願う日々である。祈っていただきたい。
2014年11月30日:新約聖書ルカ1:1-25 説教: 安黒務 牧師
キリスト教会ではクリスマスの時期(待降節)は、キリストの誕生の御言葉を学ぶ時期となっている。
今日の箇所は、キリストの生まれる前の出来事である。そして、著者ルカは自分のことを目撃者と言っている。つまり、これから書こうとしていることは彼が自身の目で見たこと、また聞いたであり、神話や作り話ではない、ということである。
まず驚くことは、ザカリヤのところに天使が現れたことである。ザカリヤは当然驚き、恐怖に襲われた。しかし、天使が告げたのは"子供が与えられる。"という祝福のメッセージであった。不思議なことに、神様の成されることには時間差がある場合がある。
その当時、子供が無いということは神様からの呪いであり、恥とされていた。ザカリヤ夫婦がこれまでどれだけ祈り願ってきた課題であろう。しかし、祈り続けて来た願いは人生の終わる頃に叶えられることとなった。
神様は真実な方であり、その真実さを証明するために、正しい願いであれば神様にとってふさわしい時期に実現されるのである。
ザカリヤとエリサベツが神の前に捧げて来た正しい願いが遂に実現し「旧約聖書最後の預言者となるバプテスマのヨハネ」をこの世に誕生させることになる。
バプテスマのヨハネの働きは人々に心から悔い改めをさせることである。形だけではなく、心の底から。世の中では勝ちがあり負けがある。人々は外側にとらわれ、中身を見ようとしない。しかし、バプテスマのヨハネは人々の心の中身にこだわる。形ではない罪の悔い改めに。
ザカリヤは天使のお告げに対して不信仰な反応が示してしまった。人間の常識にとらわれてしまった。そして、その結果として口がきけなくされた。ザカリヤにとって話せなくなったことも神の奇跡であった。天使が告げた通りになったのだから。
ザカリヤは自身の中で起こったことを静かに考え、思い巡らす時間が与えられた。
私たちの人生には大変な材料、環境、課題が次々と起こって来る。この問題は無くなることが無い。しかし、その問題に取り組むことによって、神様の祝福がいかに自分の周りを取り巻いているかを発見することが出来るのである。(仁美記)
2014年11月23日:新約聖書マルコ14:3-9 説教: 安黒務 牧師
2014年11月16日:旧約聖書創世記39:1-23 説教: 安黒務 牧師
今日の箇所は、エジプトのヨセフの物語である。
兄弟から疎まれ、策略によってエジプトの地に連れて来られたヨセフ。エジプトの地でもいろいろなことがヨセフを待っていた。そして、遂には一人の女性により牢獄に監禁されることになる。
クリスチャンはそれぞれの場所で様々な理由によって様々な環境の中で生きる。
いつも、否定的なことばかり言う人の周りに人は寄って来ない。優しい言葉、思いやりや慰めの言葉を話す人の周りには人が集まって来る。
また、人口の多い街であっても、廃液を垂れ流し、悪臭を放つ様な工場の周りに人は寄って来ない。しかし、どんなに秘境であっても、素晴らしい水質で環境やもてなしが素晴らしければ、何時間かかろうと人々は絶えることが無い。
ヨセフの場合はどうだろう。ヨセフは素晴らしい人であったとは書いていない。"主はヨセフと共におられ"と書いてある。"主が彼と共におられ"たからこそ、彼は神様の恵みを受け、それを人々に伝えるので周りの人々は祝福され、牢獄の長にまで信頼されすべてのことを彼に任せた。
私たちもどこで何をしていても構わない。私たちが主と共に生き、歩んでいる限り"主が共におられるので、"私たちは祝福された人生を歩むことが出来るのである。
2014年11月09日:旧約聖書ヨシュア記4:1-7 説教: 安黒務 牧師
一年余り準備して来た福音主義神学研究会議は期待以上の素晴らしい会議となった。今日の箇所にある様に、この度の会議を記念の石として残すため、DVDや福音主義神学誌が作られる。
三章では四十年荒野をさまよった後、イスラエルの民がヨルダン川を渡ろうとしたことが書かれていた。そして、その時神の契約の箱が川の真ん中にあった。
それと同様に、会議もいままで触れられてこなかった挑戦的課題にも触れられ、侃々諤々の議論がなれ、素晴らしい会議となった。しかし、その裏で三台あったビデオカメラが一台紛失していることが判明した。
このことが単に何処かに間違って入り込み、また見つかるということなのか、会議の内容に反対する何者かの仕業なのか、外部の人間が盗んで行ったのかは定かではない。
コリント人への手紙は第一と第二の間にもう一つ手紙が存在すると言われている。パウロが書いた手紙は聖書の中に十三通残されているが、おそらくもっと存在したであろう。
したがって、ビデオカメラが見つからなくても会議の内容は他の方法で残っていくと考える。
渡り終えた後、ヨシュアは12の石を取り、記念として残した。この度の会議でも12名の先生方が総括とガイドラインを示された。また、福音主義神学誌という形で今年と来年号に取捨選択されて載せられる。
厳しい目で一つ一つの論文が吟味され、審査されて選ばれた物だけが掲載される。
私は次の号の巻頭言を書かせて頂く。
画期的な全国会議が終わって元通りの生活に戻っていく。生活は元通りだが、立っている場所は元通りではない。ヨルダン川を渡ったヨシュアは対岸から約束の地に移った。その後もまた、戦いが待っていた。エリコの城を七度回ると、城壁が崩れた。
そこにも神の箱があり、ヨシュア達を後押ししていた。
私は今回の会議で神の言葉、存在に対する強い畏怖の念を抱かされた。全国会議での取り組みがヨルダン川を渡らせ、新たな領域へといざなった。ここから福音主義神学会の福音主義的な戦いが続いていくのである。
20141107: JETS全国神学研究会議のスナップ写真集をアップしました。JETSの契約サーバーの容量が少ないので、写真データを容量制限なしのICIサーバーに置き、リンクしています。
2014年11月02日:旧約聖書ヨシュア記3:1-17 説教: 安黒務 牧師
いよいよ明後日から三日間の全国研究会議が約200名を集めて行われる。あまりに人数が増え過ぎて、本当に興味がある方意外はお断りしなければいけない状況になりつつある。この全国研究会議を前にして、ICI生に導入的な授業を行った。その時、与えられたのがこの箇所である。
40年ほど前に、福音主義神学会というものが出来た。"聖書は誤りの無い神の言葉である。"ということを追求し続けてきた。その歴史を考えていたら、イスラエルの民がエジプトから脱出し、シナイ山で十戒を与えられた後、40年間荒野をさまよい、いよいよヨルダン川を渡ろうとしているこの箇所が頭に浮かんだのである。
会議では、発表とレスポンスに12名の先生方が立てられている。"主の契約の箱が出発したら、その後に続かなければならない"契約の箱には十戒の石の板が入っていた。石の板はすなわち神の言葉、神の御心である。神の言葉はまたキリストご自身でもある。
神の言葉、福音を担って12人の先生方が勇気を出して渡る。研究会議の議題の中には保守的な人たちには初めて聞く事や、議論になっているテーマも含まれている。安全で保守的に歩んで来た人たちにとって、新しい皮袋に新しいぶどう酒を注がれる様な経験かもしれない。
しかし、そこで私たちは行くべき道を、しかも通ったことの無い道を歩かなければならない。JECが以前から掲げてきた、"十字架と聖霊"とは違ったいろんな教えに振り回されている姿が見えてくるかもしれない。
神様がこの会議の主権を握っていてくださる。ICIが西宮から生駒に移る時、私はどちらかと言うと反対であった。しかし、実際建物を見てその素晴らしさに驚いた時、この建物で素晴らしい神学教育が出来たら、また、この場所で素晴らしい日本福音主義神学会の全国神学研究会議が出来たらどんなに素晴らしいことだろうと「白昼夢」のようなイメージを抱いた。そして視察の午後に開催された牧師会で、最初に意見を求められ、移転反対派であったわたしが移転に賛成した。
「老人は夢を見る」と使徒行伝2:17にある。私があの時に見せられた幻が現実のものになった。神様の導きは不思議なものである。全国から集められる約200名の先生方に、この会議で得られた事をそれぞれ遣わされている所に持ち帰って、信徒の皆さんに分かち合ってもらいたい。
ヨシ 3:17
「【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
2014年10月26日:新約聖書エペソ人への手紙4:1-16 説教: 安黒務 牧師
一年半あまり準備してきた福音主義神学会の全国会議が後10日ほどに迫って来た。参加者が多い場合は約200名になる。受付から二泊三日のスケジュールが上手く流れていく様に、準備委員をはじめ、ICIのスタッフ、理事が協力してあたらなければならない。
二節に"謙遜の限りを尽くし"とある。人が集まれば意見の相違、考え方の違いなどが次々と出て来る。そういう時に高飛車に出て物を言うと問題は更にこじれ、問題そのものよりも感情論になってしまう。
我喜屋先生は"十字架をクッションとして置く"とよくおっしゃった。問題は直視すべきであるが、その問題や課題をワンクッション置いて捉えなければならない、ということである。そのクッションとは十字架による神の許しと愛である。あらゆる問題にこのことを適用すれば、人間関係はもっとスムーズに行くだろうとおっしゃった。
五節に"主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。"とある。唯一の神がおられる。民族を超えて全ての宗教を超えて・・・全ての軋轢を超えて人々を癒やす神がおられる。
社会や教会には多様性がある。それらはキリストの愛と恵みによって調整される必要がある。それが一つの集会であっても同じことである。奉仕一つ一つがそれぞれの力量にふさわしく分担されなければならない。ある者は集会の進行や課題の発表などの表舞台を担い、ある者は集会の全体に目を配り、スムーズな進行を助ける裏舞台を担う者もいる。
受付や食事の準備、清掃や空調の管理、これらは一つでも欠ければ良い集会を持つことは出来ない。ここにキリストによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて全国研究会議は成功に終わったと感謝出来るのである。
2014年10月19日:新約聖書ルカ10:38-42 説教: 安黒務 牧師
2014年10月12日:新約聖書ルカ1:24-38 説教: 安黒務 牧師
今日の箇所はよくクリスマスに読まれる所である。かつて、「3Kの仕事」といわれ人々から敬遠された「キツイ、キタナイ、キケンな仕事」というものがあった。今日はそれとは逆に、クリスチャン生活における「恵みの5K」というものを紹介したいと思う。
(1)24,25節、"主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ。"かつて神を信じる女性にとって、子供が与えられないということは神に顧みられない、恥ずかしいことであった。エリサベツは長い人生において恥の生涯を送ってきた。しかし、「神様は彼女を覚えておられた。孤立感からの解放のK」。しかも、彼女は旧約聖書最後の預言者、"バプテスマのヨハネ"を産むのである。
(2)26節、私たちの世界では今、ノーベル賞の話題でもちきりである。しかし、普通の人間はそんな表舞台に立つことはめったに無い。名もない片田舎のガリラヤのナザレに住むマリヤ。そんな女性を神は選ばれた。人間とは違う神様の尺度でマリヤの開かれた心をご覧になったのである。当然、最初は驚き考え込んだ。しかし、最終的に自分のことを心にかけておられる神の御心を受けとめた。「マリヤの様に神様の御心を知ることの出来る感受性のK
(3)30節、地上の物とは違う神の国の使命とは何か?永遠を見渡す視野を持ち、神の国の市民の一員であるとの意識を持ったクリスチャン。私たちから生まれて来る子供たちは自分の存在価値を知っている。神の国の使命が子供たちにも与えられている。「神の国の市民の価値観のK
(4)38節、"ほんとうに、私は主のはしためです。"マリヤは神の途方もない計画を知ったがその計画をへりくだった心で受けとめることが出来た。「へりくだった心で受けとめる謙遜のK
(5)"あなたのおことばどおりこの身になりますように。"驚くべき神のご計画を知り、自分がその使命に生きることを受けとめたマリヤ。この命がけの献身によって、世界の人々に救い主が与えられたのである。「命がけの献身のK
私たちクリスチャンは恵みの5Kによって、子々孫々千代に至るまでの祝福を神様から頂けるのである。
2014年10月05日:新約聖書ローマ9:1-18 説教: 安黒務 牧師
9月末に一応論文を仕上げたが再び校正の作業中である。
校正の作業をしていて、この作業は竹の子の様だと思った。竹の子が成長するにつれ皮を脱ぎ捨てていく様に、余分な所は切り捨てるなどの必要がある。 本当のイスラエルとは何か?神様の救いの計画を人間に知らせるためアブラハムをはじめイスラエルの人々に神の言葉が与えられた。
イスラエルの人々は自分達は"選ばれた民"だから全て救われる。と思ったがそのイスラエルがキリストを十字架につけた。では、イスラエルの人々は神に見捨てられたのか?そうではない。
イサクとイシュマエルに表された神の選びは、人間の努力によって生まれたイシュマエルと、人間にはどうする事も出来ない状態の中、つまり年老いたアブラハムとサラに、神の奇跡によってイサクが生まれたことの中に表されている。イサクの誕生はキリストの死と葬りそして復活を予表している。
ヤコブとエサウも真のイスラエル性とは何か?ということを表している。世の中一般の常識として、後継ぎは長子であろう。しかし、神の選びの常識はそうではなかった。踏まれても蹴られても自我をさらけ出し揉まれ遂には滅び、神の前に裸でまみえるヤコブの真のイスラエル性こそ神の選びと祝福を勝ち取ったのである。
長かった論文生活も、いよいよ後残すところわずかとなり、明日夜にも提出しようと思っている。神学誌の論文というのは一生に一度書けるかどうかという物で、クリスチャンになってから取り組んできた物を一つの形に出来る事は幸いである。
今日の箇所でパウロはクリスチャンとしてどう生きるべきなのか?ということを教えている。
私自身、大学卒業の時にピリピ人への手紙の"生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。"という御言葉をいただいて、キリストの様に生きるとはどういうことなのかを考え続けてきた。
救われた頃は子供の様な信仰でもだんだんと成長させられ大人になっていく。大人のクリスチャンとは何か?それは、"教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたり"しない人のことである。
私の論文がそういう意味でも、教会を守る"地の塩"となれればと願っている。また、個性や賜物が用いられて美しいメロディーの様になり、全ての教会が成長させられることを願っている。
私を支え祈って下さった全ての方々に感謝いたします。
2014年09月21日:新約聖書使徒2:25-41 説教: 安黒務 牧師
9月も終わりに近づいて、成すべきことが山の様にある。その中で自治会のことや農業にも取り組んできたが、自分の体力・気力にも限界があり、精査して優先順位を決めていかなければいけないと思わされた。
今日の箇所はペンテコステの日にペテロが語った言葉である。
イエス・キリストという方が旧約聖書の預言通りにこのパレスチナの地に天から送られ、この地を三年半巡られた。イエス・キリストは預言者なのか?教師なのか?
しかし、キリストはただの預言者でも教師でもなかった。
聖書の預言通り三日目に墓より蘇り、その後弟子たちに会われ、オリーブ山より天に引き上げられて見えなくなられた。そして、以前言われていた通り、約束の聖霊がこの地上に注がれたのである。聖霊が注がれたということは、やはりキリストがおっしゃっていた通り、ご自分が天の右の座に着かれたことの証明でもある。
ダビデは預言者ではあったがメシヤではない。なぜなら、ダビデには墓が残っている。しかし、ダビデの子孫から永遠の王座に着かれる方が出ると知っていた。ローマの政治的支配からの解放ではなく、罪の支配からの解放である。ペンテコステの出来事はそのことの証拠であった。
人々が失望感から十字架に付けてしまったキリストは初穂として死から蘇り、天に昇り、約束の聖霊を受けられた。この聖霊はペテロによる解釈では、全ての人々に与えられる物である。民族主義的考えを覆し解釈することによって、旧約聖書を再解釈しているのである。
2014年09月14日:旧約聖書詩篇122:6-9 説教: 安黒務 牧師
福音主義神学会の論文はいよいよ仕上げの段階に入ってきた。論文を書くということは大変なことで、寝ても覚めてもこの半年間思い巡らしながら生活してきた。
旧約聖書を解釈するという作業はコーヒーを入れることによく似ていると思わされた。聖書の御言葉という固い豆をミルで擦り潰す様に何度も噛み砕き、濾過器で蒸し成分や旨味を抽出する様に慎重に解釈することを繰り返し、熱湯を注ぎながら仕上げていく。
私が聖書を読み始めた頃、旧約聖書はなんとユダヤ民族主義的な書物かと感じた。しかし、新約聖書でキリストに触れるにつれ、キリストを知る為に旧約聖書を読むと神の素晴らしさを知ることが出来た。
イエスの十字架と聖霊の豊かさと愛は私たちが所属しているスウェーデンのオレブロミッション(今のインターアクト)から伝わった素晴らしい家風である。しかし、最近、いろいろな新しい風が吹いて来て、幾つかの"キリスト教シオニズム"との交流が盛んになって来た。私が教える神学生にも"イスラエルの為に祈るべきなんでしょうか?"と質問を受ける。
私たち新約の民はどうすべきなのだろうか?創世記12章を見れば、アブラハムは祝福の基であり、アブラハムの子孫たるイスラエルの為に祈ることが祝福されることの様に思われ、強調される集会が目立つ。
しかし、パウロはイエスキリストの福音があらかじめ旧約で語られており、その成就が新約時代になされた事なのだと語っている。
旧約聖書はイスラエルの盛衰の歴史の中で民族主義的な事柄を通して神の御心が語られており、それをそのまま直感的に捉えようとすると無理が生じてくる。そこで、コーヒーを入れる時の様に、聖書の言葉をイエスキリストの十字架という濾過器に入れ、聖霊という熱いお湯を注ぐ事によって、これは全ての民族の救いのことについて書かれていることに気づかされる。
その事がわかれば、今日の箇所にある、"エルサレムの平和のために祈れ"という言葉ユダヤ人のためにもパレスチナ人のためにも祈れということになる。
キリストの普遍的な贖罪愛は隔ての壁を十字架によって打ち壊し、2つの民族2つのは国家の共存共栄ために祈ることを私たちクリスチャンに示している。
2014年09月07日:新約聖書ヨハネの黙示録21:1-4, 22:1-2 説教: 安黒務 牧師
最近の論文の進行状況は導入、パート1、パート2はほぼ終わり残りはパート3と結論を残すのみという状況である。大切なのは竹に木を接いだ様な物ではなく、いかに良い流れでつないで行くかである。
図らずも、今の時期、中東問題に焦点が当たっており、イスラエルとパレスチナの争いと和解に世界中の目が注がれ、タイムリーな論文となった。
旧約聖書の初めに天地創造が描かれ、人がどのように造られたのかが書かれている。罪を犯した人間がどのようにその罪と滅びの中から十字架によって救われ、黙示録21:1にある新しい天と地に入れられるのか?
イスラエルの為に祈り、イスラエルに集まろうと間違った方向に導かれるクリスチャンも増えてきた。
確かに神は旧約聖書の中でイスラエルを選ばれ、ユダヤ民族に神の業をなさってこられた。
しかし、地上にイエス・キリストを迎えて後は、キリストの再臨と共に天上の全ての宝は、キリストを信じる私たちクリスチャンが相続すると定められた。それは、アブラハムの信仰をもつ者だけがアブラハムの真の子孫であり、“真のイスラエル性”を内実として有する者のみが、真の神の民の民であり、真のイスラエルであるからである。神殿に関して、教会は聖霊の宮であり、カナンの約束の土地に関しては世界の相続人とあり、天地も造り変えられあがなわれる。キリストを信じるクリスチャンはキリストの再臨の時、あがなわれた蘇りの身体を与えられる。
約束の地においては幕屋も神殿も必要無く、民族を越えて神の臨在がある。
今の地上には領土の争い、富と格差の拡大があり、社会に絶望した若者が戦闘員として紛争地に集まっている。
しかし、あがなわれた地はエデンの園の様に神の臨在があり、神の川が流れている。
破壊的、一方的、運命論的な偏った聖書の誤った理解は捨てて、使徒たちが持っていた健全な聖書理解が広まって欲しい。
民族主義的な考えから抜け出して全ての国の人々を癒やす、格差も差別も無い世界を視野に置く、真の聖書的かつ使徒的イスラエル論を論文を通して述べたいと思っている。
2014年08月31日:新約聖書エペソ人への手紙2:11-22 説教: 安黒務 牧師
8月末の論文完成を目指し、これまでのところ約7割方書き上げた。これを9月に磨きをかけて完成させたいと願っている。これからは神学校の授業も始まるので忙しくなると思われる。ただ、忙しかった盆以降二週間ほど集中出来る時期があったので助かった。
最近の中東の争いを見ていると、スンニー派対シーア派ではなく"イスラム国"という勢力の台頭が目立って来た。その根底には貧困、富の奪い合い、不平不満があると思われる。
イスラエル論においても、置かれている立場、状況によっても考え方が違うが、私たちは聖書に根ざして考えるべきであろう。
"初めに神ありき"、神の言葉"聖書ありき"でなければならない。混沌とした中に光があり、世界の秩序が整理される。
旧約聖書ではユダヤの民に"カナンの地を与える"という言葉が出てくる。ということはその土地は永遠にイスラエル人の物なのか?その他にも、いろいろ書かれているがユダヤ民族を中心にしたメッセージが書かれている。
しかし、新約聖書になるとイエスを中心に解釈し、弟子たちがその教えを確立していった。
信者の多くは異邦人であり、イエスの十字架によって神の民とされ、隔てていた壁が壊され、一つにされた。キリスト・イエスによりユダヤ人もギリシャ人もアラブ人も異邦人もなくなったのである。
誰でも一つの御霊において、神の臨在に入ることが出来る。
ユダヤ民族だけの考えは捨てて、新約聖書の使徒たちの解釈で福音が伝えられる様、今も、間違った方向の考え方はあるが、私たちは世の光、塩となって正しい解釈を広げることが出来たらと思う。
そのためにも、私の論文や秋の福音主義神学会の研究会議が用いられることを切に祈るものである。
2014年08月24日:新約聖書ローマ人への手紙13:1-7 説教: 安黒務 牧師
先々週、納涼祭が終わってから一週間はあっという間に過ぎてしまい、宍粟市の集団検診を受けた以外は何をしていたのかと考えると、イスラエルの政治と中東戦争の本を読んでいたことを思い出した。
第二次世界大戦後、イスラエルは建国されたが、その後も何度も戦争がおこり、今のイスラエルとパレスチナの関係が出来上がった。
強いイスラエルが弱いパレスチナを迫害しているかの様に見えるが、今や中東を眺めると、シリアもイラクもアフガニスタンもひどい状態で、日本の戦国時代を思わせる有り様である。
ある民族が追い払われたり、家族を失ったり、混沌とした状態を見ていると、今日の箇所にある、神様の立てられている権威というものの大切さを考えさせられた。
人間の社会には秩序が必要であり正しい者は幸せになり、悪を行う者は罰を受けるべきである。
2000年前の中東には、ローマ帝国による平和があり、その平和のうちに福音が述べ伝えられた。第一次世界大戦の頃までは、オスマントルコという大きな国で多民族で部族や宗教も入り混じっていたが、民族国家としての独立が進み、第二次世界大戦後はユダヤ民族もイスラエルという国を建国した。
イスラエルの建国後の中東戦争では、武器弾薬の多いアラブの国々が強いかに見えたが、イスラエル軍には優れたリーダーが立てられ、命を懸けて戦う少数の精鋭とアメリカの援助によって、イスラエルは強く安定した国になっていった。
イスラエルはエジプトやヨルダンとも平和条約を結び、軍事力は大きいが抑制しながら戦うという方針で長い目で見たら、ユダヤ人多数派を維持しつつではあるが、アラブの国々の中に西洋の影響を受けて民主主義で多民族、多宗教という国を維持している。
カナンの地は全てイスラエルの所有でなければならないという考えは間違っていると思うが、人間の歴史の中に、平和、共存、共栄をもたらして来た点では優れたものがある。
かつて、パレスチナの過激派に飛行機がハイジャックされイスラエル人が100人人質にされるという事件が起り、アフリカのウガンダに連れて行かれた。過激派の要求はイスラエル人の人質と交換にパレスチナの過激派の服役中のテロリスト52名を解放せよ!というものであった。しかし、イスラエル軍は相手の要求に屈せず、人質奪還作戦を敢行し、救出隊員一名の死亡はあったものの、残りの人質を全て救出した。
この亡くなった隊員が今の首相である、ネタニヤフ首相の兄であった。彼はハーバード大学で哲学を学んだ程の秀才であったが人質の救出作戦の隊長を務め犠牲となった。
イスラエルという国の強さは、有能な人たちがイスラエル存続のために命を捧げているというところである。その陰にはアウシュヴィッツを代表とする迫害の歴史がそうさせているのかも知れない。
願わくば、対立を乗り越えて共に歴史を受け継ぐ隣人同士であって欲しい。私たちクリスチャンも、ユダヤ人も異邦人もない(パレスチナ人、アラブ人を含む)とされる新約のイエス・キリストの福音における神が中東において成そうとしておられる事に注目しつつ見守りたいと思う。
2014年08月17日:新約聖書エペソ人への手紙4:7-16 説教: 安黒務 牧師
昨夜は安黒自治会の行事があった。昔は盆踊りであったが、安黒は小規模の自治会なので、夜店をやろうということになった。隣保ごとに夜店を出し、その他にも、カラオケ大会やビンゴゲームなどが行われ、大雨警報が出されていたが、多くの方が参加され良かった。
しかし、自治会長と役員のみが多くの負担を担うことには少し課題があると思われる。
どこの地域や自治会にも人はいるがバラバラの所が多く、その中では安黒自治会は小さいけれどまとまりは良い。手探りではあるが、それぞれが役割分担をし、神様に造られた一人一人に個性と賜物が与えられている。(全ての人間は神に造られた者だからである。)
ある人は調理、ある人はゲームや手品、私自身はカラオケ大会の司会を任され、司会の合間に小話を入れたりして、教会の集会での司会や日曜学校での経験がいかされたのではないかとおもう。
カラオケ大会もおおいに盛り上がり、飛び入りも三組出るなど、普段お年寄りの多い地域だが、お年寄りから子供までいろんな年代が参加出来たことは素晴らしかった。
自治会が一つの身体の様に活動し、最後の花火大会ももっと小規模の物かと思っていたが、消防団の青年達が工夫を凝らし大変凝ったものになっていた。
私たちクリスチャンは神社や寺の行事には関わらないが、普通の行事には協力することが出来る。
先日は終戦記念日であり、戦争に関するニュースをいろいろ目にした。その中に、ドイツの事も書いてあった。ドイツの中にはナチスに協力する人々もあったが反対した人々もあったというのである。ユダヤ人救出に協力した人々は約17500人、その中に、ドイツ人は336人。また、その中の40-45人はドイツの国防軍の軍人であったという。
この人達に勇気があったというだけでは無く、確固とした思想信条の持ち主であったということである。ドイツ人の一人の軍曹が人民の移送ということで300人のユダヤ人をトラックで救出したという出来事があった。この軍曹は結果として銃殺されてしまうのであるが、この記事を書いた人は、この軍曹の事を"単なる善人ではない。自らの生きる姿勢を国家権力に売り渡さないという信念がそこにはある。"と書いていた。
我々はどうだろうか?自治会のカラオケ大会の司会をしながら、私はふと思った。人々が興奮状態になり国が一つの方向に傾いて行く時、間違った方向に行こうとする時、その記事にあった軍服を着た救済者たちの様に、そういう生き方が出来るであろうか?と・・・
彼等には生まれつき身についた生き方があったに違いない。自分自身の繁栄や守りだけではない、生きる価値観。それは、命を越えて大切な物であり、神様に心を照らされて初めて見える価値観であったと私は思う。
2014年08月10日:新約聖書ローマ人への手紙9:1-33 説教: 安黒務 牧師
今日はお昼から42年ぶりに高校時代の同窓会が山崎で開かれる。当時の山崎高校は一学年約350名で知らない人も多い。楽しみでもあり、不安でもある。
今日の箇所で、パウロは自分と同じユダヤ人の中に、イエス・キリストを信じる人が多くない事を悲しんでいる。旧約聖書の預言通りにメシアが来られたのに、ユダヤ人は受け入れなかった。
それと同様に、私も同級生の中にはたしてクリスチャンはいるのだろうか?それとも自分一人なのだろうか?と考える。
私がいた頃の山崎高校は、林業科、家政科、普通科の中に就職コース、進学コースに分かれていた。勉学やスポーツに優れた学年で、先生や公務員などになった者が多く、その中の一人が今の、宍粟市長である。
ただ、彼らの卒業からの40年の人生にキリストとの出会いはあったのだろうか?高校時代にギデオン聖書をもらい、私自身はいろいろな有名な言葉が載っているのに気づいていた。しかし、毎日通る通学路に教会があるのを知っていながら、行ったことは一度もなかった。
受験時代に三浦綾子さんの氷点というドラマに出会い、本も読んで、罪の解決こそが人生において最も大事であるという事を知った。何の問題意識も持たなかった人間が、神の光に照らされて自分の本質に気づくのである。
今日、旧友との交わりの中で、証詞する機会が与えられたらと願う。
今、日本ではどこでも聖書が買えるし、教会にも行こうと思えば何時でも行ける。何かきっかけがあれば聖書に触れ、教会に行き、御言葉の種がまかれ、芽を出す"奇跡"が起こるかもしれない。
この、心に起こる"奇跡"はやがてその人の人生を揺るがすほどの力を持っている。
どんなに時代が変わっても、一つの価値観で貫かれた人生は何にも代え難い物である。私自身も神様を知らなければ、もっと地位や名誉や富を求める人生を歩んでいたかも知れない。
27節に、"救われるのは、残された者である。"とある。何とかして、私たちの同胞が神に出会い人生が変えられる"奇跡"を体験して欲しいと強く願っている。(仁美記)
2014年08月03日:旧約聖書創世記17:1-8 説教: 安黒務 牧師
8月末に向けて、論文に取り組んでいる。このことと同時期にイスラエルとパレスチナの紛争が続いている。主の祈りの中で"御心が天においてなる様に、地においてもなります様に"と祈るが、本当にそうなって欲しいものである。
私たちクリスチャンは、聖書に書かれていることが、現実になります様にと願い、聖書の言葉に耳を傾けながら人生を生きて行く。そこには、聖書をどのように解釈していくのかが重要になってくる。今日の箇所八節には、"カナンの全土"とある。これによって大イスラエル主義のユダヤ人はユーフラテス川からナイル川まで神様から与えられた土地である、と解釈する。ここに解決出来ない問題がある。
2000年間パレスチナ人が住んできた土地に、イスラエル人が住みだした。迫害されてきた民族に周りの理解もあり、共存共栄出来るように半分以上の土地がイスラエル人に与えられた。しかし、パレスチナ人には不満が残り、奪還しようと戦争をしかけ、戦争をする度にイスラエルが勝って土地を広げるという結果になってきた。
どこにイスラエル人がここまで徹底的にパレスチナ人を虐げて良いという根拠があるのか?イスラエルを支援する人々は口を揃えてこう言う。"聖書に書いてある!"と・・・。本当にそうなのだろうか?パレスチナ人を全滅するかの様な攻撃をして良いのだろうか?
今の、アメリカももともとはインディアンの土地であった。日本の北海道もアイヌの人々の土地であった。しかし、アメリカはヨーロッパからの移住民によって支配されていくし、北海道も本州からの移住によって支配されていった。沖縄ももともとは琉球王国という独立国である。
アブラハムに対する祝福の約束は、旧約時代には土地と子孫に対するものであったが、ガラテヤ書3:14にある様に、新約の時代にはもっと普遍的で限定されていない物になった。つまり、イエス・キリストを信じて約束の御霊を受けることによって、罪の許しと永遠の命を受け取ること。これこそが、クリスチャンの受け取るべき遺産であろう。今の様に、一方にかたいれして、軍事力でねじ伏せるというのでは神様の愛からかけ離れて行くばかりである。対話と交渉により、共存共栄の道をこそ探るべきである。クリスチャンが支援する道はそこにこそあるのではないか。(仁美記)
2014年07月27日:旧約聖書創世記1:26-31 説教: 安黒務 牧師
イスラエル論の論文のために、毎日沢山の本を読み取り組んでいる。
ニュースや新聞などではパレスチナの状況が絶えず報道されているが既に、1000人以上のパレスチナの人々が亡くなった。
アメリカのディスペンセーション主義の考え方の教会では、イスラエルが約束の地であるパレスチナの土地を奪還し、エルサレムがその首都となるべきである。という考えが信じられている。聖書ははたしてどう語っているのか?
神様が宇宙を造り、地球を造り、植物や動物、そして、最後に人間を造られた。全ての物を造られた後に被造物を管理する者として、神様に似せて人格を持つ、神様の御心を知る者として創造されたのである。
ある人々はユダヤ人を神聖化し、パレスチナ人を劣った者として考える人々がいる。しかし、世界人権宣言では、全ての人が安全で幸せに生きる権利を有すると宣言している。民族には自決権が与えられており、国境も定められている。
最近、日本の周りでも力によって国境線を変えようとする動きがある。また、ロシアはウクライナに侵攻しクリミアなどを併合しようとしている。イスラエルも、決められた国境を越えどんどん侵食し、いろんな資源を取り込もうとしている。
アメリカの後ろ盾によってイスラエルとパレスチナは巨人とこびとの戦いを繰り返している。
創世記の箇所で神様は男と女に創造された。とある。そこには、ユダヤ人とパレスチナ人という民族差別はない。
ユーゴスラビアもかつて民族浄化の名の下に殺し合いが行われた。ドイツもナチスによって民族浄化の運動が進められたが、今は移民にも権利を与え、この度のワールドカップの優勝も、その成果の現れと言えるかもしれない。
イスラエルとパレスチナも地域に与えられている祝福を分かち合いながら、共存共栄を目指していくことは出来ないのだろうか?それを阻むアメリカのキリスト教会の歪んだイスラエル理解は正されていかなくてはならない。日本の教会も、全人類は神の形に造られ、尊厳を持っており、男も女も民族も神の前には平等であると、祈り支援していくものとされなければならない。(仁美記)
2014年07月20日:新約聖書ガラテヤ人への手紙3:1-14 説教: 安黒務 牧師
2014年07月13日:新約聖書マルコによる福音書12:28-31 説教: 安黒務 牧師
聖書の中で、最も大事な教えは神様を愛し、次に隣人を愛することである。神様との関係が縦軸だとすれば、人間関係は横軸と考えられる。
私の住む地域の自治会には、"ふれあい喫茶"なる物があり、2ヶ月に一度地域の人たちの交流を図るため、お茶を飲みながらの交わり会が地域の福祉委員を中心に開かれている。
今日もその開催日であり、今回はカラオケ同好会との合流で開かれている。私は福祉委員と自治会との連絡役としてたてられているのだが、毎回、チラシを作る役割も担っており、今回のチラシの裏には、先日の福祉委員の研修会で聞いた内容を印刷させて頂いた。
少子高齢化が進む昨今、福祉委員だけではなく、自治会員全員で見守り活動をおこなおう。ということである。このチラシについてはいろんな方から共感の言葉を頂いた。
神様からの第二の戒めの実践には地域のことだけではなく、親戚との付き合いも含まれるであろう。時には、余分なこと、煩わしいことのようにも思われるが、天においても、地においても、神様の御心をなさしめて下さい。と祈るのであれば避けられないことである。
ローザンヌ誓約の中に、伝道について1:共在(共に存在する)証詞をする。2:対話(声を掛け合う)3:説得する。神様について4:告知する、とある。教会は伝道すべき組織であるが、伝道以前の伝道(耕し)を充分にしておく必要がある。いろんな機会を通して、隣人をあなた自身の様に愛することを実践すべきである。
7・8月でイスラエル論をまとめようと、しているのだが、三人の男の子の殺害をきっかけとして、また、イスラエルとパレスチナの戦いが激化している。ユダヤ人の迫害が行われた第二次世界大戦後、イスラエルは建国を許され、パレスチナの地に戻って来た。しかし、戻って来たイスラエル人によって偏った政策がおこなわれ、パレスチナ人はガザとヨルダン川西岸に追い出されてしまった。
旧約聖書を字義的に解釈しようとする人たちは、パレスチナはイスラエルに神から与えられた土地だから、イスラエル人が占領して当然だ、それこそ神の御心だと断言する。(大イスラエル政策)
しかし、パウロが新約聖書でどう言っているのか?今や、ユダヤ人もギリシャ人も無いと言っているのである。それからいけば、アラブ人もイスラエル人も関係なく神様に愛されているのではないか?キリストがこの地上に来られてからの新約時代は民族の壁という物は崩れ去ったのである。
神様を愛するとは隣人を愛すること。イスラエル人の安全を祈り、また、パレスチナ人の平和を祈る、これこそクリスチャンのあるべき姿であろう。
アメリカのカーター大統領はイスラエルの民族主義的な力を抑えようとした。今のオバマ大統領も近い考え方である。しかし、レーガン大統領やブッシュ大統領等はそうではなかった。
天にも地にも平和がある様に、キリスト教会は公義と正義に満ちた福音の伝え方をしなければならない。これこそ、神の御心である。
2014年07月06日:新約聖書ローマ人への手紙9:6-33 説教: 安黒務 牧師
人間が生きていく時、どのように歩み、どのように生きていくかを決定しているのは、当然自分だと思っている。しかし、今日の箇所を見ると、「神様が主権を持って、全てを導いておられる」と書いてある。聖書は神様の言葉である。その言葉に偽りはないはずである。
11節を見ると、神様にはご計画があるという。昨日、NHKのドキュメンタリー番組を見ていたが、自然科学の領域では進化論に基づいて物事が考えられる。そこには、偶然やいろいろな現象は語られるが、人生の意味も目的も見いだせない。聖書は神が全てを創造されたと語っており、考え方を変えれば、進化論の圧縮された型で創世記に書かれているとも言える。そこには、初めから終わりまで神が存在しておられるという違いがある。
では、偶然私たちが存在しているのでなければどのように生きれば良いのか?この宇宙を創造されたほどの凄い神様の御心に沿って生きるとはどうすれば良いのか?
そこには、神の選びの確かさに対する信頼が必要である。私は救われた当初、学校の先生になりたいという願いがあった。田舎に帰り学校の先生をしながら、近くの教会に通い、教会学校の先生でもできればと考えていた。しかし、実際に臨時教師として働いた時に感じたのは、自分は普通の学校で算数や国語を教えたいのではないということであった。神様のことを教えたい自分に気づいたのである。そこで、私は自分の生き方を変える決心をした。
私たちは自分の行きたい方向に進んでいると、間違った方向に進んでいても判らない場合がある。神様のご計画である青写真から逸れてしまうのである。自分が自分の人生の王だと勘違いしているのだ。神を王と認め、神の御心を求めて生きるのでなければ、暴走してしまうのである。
エジプトのパロは心が柔らかくなったり硬くなったりしたが、その背後に神様がおられたと18節に書いている。川の水は赴くままに流れている様に見えるが、地形にコントロールされている。人の心は川の水の様であり、自分の頑張りや努力などでコントロールされる物ではない。
自分が自分の人生をコントロールするのでなく、砕かれた心によって神の主権を求めて生きれば、神の御心が私たちの人生に成る。信仰の義を求めて生きれば、しなやかな調整可能な生き方が出来、人間関係においても柔らかさを持って対処することが出来る。神の御心のままに神の計画に沿った歩みは、あなたの持っている良さを一番発揮出来る生き方となる。(仁美記)
2014年06月29日:旧約聖書出エジプト記20:1-17 説教: 安黒務 牧師
出エジプト記二十章はモーセの十戒(十の戒め)すなわち、神の御心が書かれている箇所である。
日本においては八百万の神と言われ、何でも神である。しかし、聖書においての神は、この世界全てを設計され歴史を治め、人間の人生を導いておられる方である。
この地域においても、年中偶像の行事があり、それらをそつなくこなしておれば、人間関係はうまくいくであろう。しかし、聖書の神様が願っておられることははっきりしている。十戒の最初の4つの戒めは、神の前に生きる者は本当の神のみを愛するべきであり、このことこそ祝福の秘訣であると述べている。
八節からは私たちの生活について書かれている。安息日を神様の日として聖別する事によって、リズムのある生活となり、神様を意識して生活を整理すれば、朝から夜までメリハリのある生活となる。
昨夜、NHKのドラマで"結婚相談所"というのをやっていた。人間は幸せを求めて結婚するのであるが、実際、そこには苦労が多い。夫婦の関係、子供の教育、就職、結婚。また、親や親戚との付き合いなど、枚挙にいとまがない。また、ともすれば夫や子供が偶像化してしまい、失望に終わることが多い。
しかし、その関係の中に神様がおられたらどうだろう。私たちがまず神様から直接恵みや愛をいただいて、その溢れこぼれて来る愛を周りの人々に注げるとしたら、失望に終わることは無いのではないか?神様のもとに生活を聖別するとはそういうことなのだと思った。
12節からは不道徳を避けるようにと戒めている。どのようにして不道徳なことを避けることが出来るのだろう。そこには、自分と同じようにあなたの隣り人を愛せよという御言葉が当てはまる。私たちのことを愛してやまない方、罪の縄目から解き放って下さった方からの愛をもって私たちの隣り人を愛することが出来れば、不道徳から守られるのである。
安息日の一日を聖別すれば、残りの六日間も祝福される。なんと素晴らしい一週間であろう。 そうでなければ、真昼の暗闇の様な一週間になってしまうかもしれない。
2014年06月22日:新約聖書ガラテヤ人への手紙3:6-14 説教: 安黒務 牧師
今年は、秋に予定されている全国福音主義神学会研究会議の準備と、神学誌の原稿のための準備に追われている。すでに多くの準備をしてきた。そして、神学誌の論文の準備は神学校の授業が終わる7月〜8月がピークになる。
私の論文のテーマは、"イスラエル論"である。ローマ書においてもパウロは"では、イスラエルはどうなのですか?"といっている。
20世紀、ナチスによってユダヤ人は約600万人とも言われる虐殺による犠牲者を出した。戦後、中東の地にイスラエルは建国され、アメリカにおいて"クリスチャン シオニズム"というイスラエルの国作りを支援する考え方が広まった。
国連はパレスチナ人とユダヤ人で地域を分けて二つの国の作るという決定がなされたが、それに反対しては戦争が起こり、起こした側のパレスチナが敗れ、結局、イスラエルが国を広げるという泥沼の争いが続いている。
創世記12章・13章でアブラハムに"この地を与える"という神の約束が書かれているが、その言葉通りであれば、パレスチナ全域はイスラエルの土地であるかともとれる。では、パレスチナ人はどうすれば良いのだろうか?
旧約聖書の言葉を、キリストの御業の後の時代にどう考えれば良いのか。ガラテヤ3:6-7にユダヤ人は血縁的にアブラハムの子孫であるが、イエス様を信じる人が皆アブラハムの子孫なのだと書いてある。
だから、新約の光から見れば、パレスチナ人にとっても約束の地なのである。
"土地と約束"(“The
Land of Promise”Philip Johnston and Peter Walker, ed,
IVP)という本がある。旧約聖書の時代は地上的・民族的な神の国であったが、新約聖書の時代は国境も民族も越えた全ての国民のための神の国である。そこには、ユダヤ人も異邦人も差別は無い。ガラテヤ3:14には、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と書かれている。パレスチナだけが対象なのではなく、被造物世界全てが対象なのである。
Gart
2014年06月10日:
Stephen Sizer の名著 "Christian Zionism" を読んでおりました。この本の最後に、Gart
Ten measures of beauty God gave to the world, nine to Jerusalem,
one to the reminder.
Ten measures of sorrow God gave to the world, nine to Jerusalem,
one to the reminder.
May the justice of God fall
down like fire and bring a home for the Palestinian.
May
the mercy of God pour down like rain and protect the Jewish
people.
And may the beautiful eyes of a Holy God who weeps
for his children
Bring his healing hope for his wounded
ones
For the Jew and the Palestinian.
2014年06月15日:新約聖書ローマ人への手紙8:31-39 説教: 安黒務 牧師
今、世界および日本はワールドカップに注目が集まっている。国と国との戦いは途絶えたことは無いがスポーツを通して戦い、エネルギーが発散出来れば素晴らしいことである、
信仰の面、霊的な面での歴史を通してのワールドカップもまた、繰り返されてきた。キリストが十字架にかかり死なれたのは、全世界、私たちの罪をその身に背負い、私たちに罪の許しと蘇りの命を与えるためであった。
現実の社会の霊的戦いにおいて、私は地域の役員に任ぜられ、昨夜の役員会では来月の秋葉神社の催しについて話し合いがなされた。伍長以上は出席が求められ、私は伍長である。しかし、私は伍長を引き受ける際、宗教行事はノータッチという条件を認められたので引き受けた経緯があり、不参加とさせていただいた。
現憲法が思想信条の自由を認めているので、昔の田舎では考えられないキッパリとした態度がとれるのであるが、今の政権はそれをなし崩しにしようとしている。私にとっては集団的自衛権の行使容認問題も重大であるが、思想信条の自由を奪われることはもっと重大な問題である。
信仰者として純粋に生きていこうとする時、お葬式でも死者を拝んだり焼香することは出来ない。死者は拝まない(十戒の前半:唯一神礼拝規定)が、大切な人を失った遺族に対して心を伝えるため、生きておられる遺族に対しては弔意を示し礼をする(十戒の後半:隣人愛規定)ようにしている。地上で日々戦う私たちのために、イエス様は祈って下さっている。
神が与えられた十戒の1〜4までは神様についての戒めである。唯一の神のみを崇め、偶像を拝んではならないのである。神は私たちが不道徳を避け、罪との戦いに勝てる様に祈っていて下さる。
日の丸君が代の国旗国歌法の改定で、多くの先生方が仕事を追われている。今の日本人は知らぬ間に死刑場に引っ張って行かれているかの様に見える。しかし、その中にあってクリスチャンは神様だけを礼拝し、揺るがない。揺るがないだけではなく、圧倒的な勝利者となると書いてある。
私たちは神のワールドカップの選手であり、すでに勝利された神に支えられている。胸を張って生きていこう!(仁美記)
2014年06月08日:新約聖書使徒行伝2:29-39 説教: 安黒務 牧師
今日の礼拝はペンテコステの礼拝である。イエス キリストが十字架にかかられ、三日目に復活されてからちょうど五十日目の日である。キリストは蘇られてから四十日は、地上においていろんな人にその姿を見せられた。そして、地上を離れ天に帰られた。
キリストが地上を去り天に戻るのには理由があった。イスラエルの民は(王であり、預言者でもあった)ダビデの様なかたちでキリストが現れ、この地上でイスラエルを確立して欲しいと願っていた。しかし、神様は全世界が視野にあり、イスラエルの民には神の祝福を全世界に分かち合う民になって欲しいと思われていた。
ヨセフとマリアの間にお生まれになって約三十年、この地上を人として歩まれたイエス様。十字架の死をもって終わりではない。三日目に預言通り死から蘇り、蘇りの身体となって天に帰られた。天に帰られたキリストには王の王、主の主としての戴冠式が待っていたのである。
キリストが真の王として冠をかぶせられる戴冠式があってこその聖霊の注ぎ。キリストに注がれた聖霊が溢れ流れて地上にも注がれる。この地上にペンテコステの日聖霊が注がれたのは、キリストが王として天の右の座に着座された証拠であった。
その王である、キリストはやがてこの地上に再臨され、全ての敵を討ち滅ぼされる。
それにつけても、民衆、大衆の力というものは恐ろしい。イエス様が働きを始められた時は、この人こそこのイスラエルを救うメシアに違いないと大フィーバーが起こり、大勢の人が押し寄せた。しかし、次第に自分たちが望むメシアとのギャップに人々はがっかりし、イエス様を見捨て、しまいには"十字架につけろ"と叫び声をあげた。
イスラエルが待ち望んだメシアであるキリストの教えは、一部のユダヤ人から異邦人へと広がり、ローマの国教となって、安息日もユダヤの土曜日から日曜日へと変わってしまった。先の大戦で、ユダヤ人はドイツのナチスの手によって凄まじい殺戮にさらされ激減してしまった。しかし、パレスチナ地域を統治していたイギリスにより、ユダヤ人の帰還が認められ、イスラエルという国が再建された。
近年、ユダヤ教の習慣を守りながら、悔い改めてイエスを信じる、メシアニックジューと言われる人々が増えているという。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、罪を悔い改め、イエス キリストを信じ、バプテスマを受けるなら誰でも救われ、賜物としての聖霊を受けるのである。(仁美記)
2014年06月01日:新約聖書テモテへの第二の手紙3:14-17 説教: 安黒務 牧師
第二テモテ三章十六節は大変有名な箇所である。
聖書全体が神の霊感によって(著者に霊感を通して語られ)間違いの無い書物とされている。紀元前1500年頃から紀元100年頃まで、1600年をかけて約40数人の記者によって書かれている。その記者には王がおり、学者がおり、羊飼がおり、多種多様な人々が関わっている。
クリスチャンは"聖書の民"とも言われ、イスラエルでは聖書を学ぶことイコール勉強であった。日々、聖書に励まされて生きることこそクリスチャンの生きる姿であろう。
神の霊感を感じて、記者は書くわけであるが、その書かせられる方法に特徴がある。ある信仰者がそれぞれの時代に生きつつ、書き記た信仰者の証詞や経験が取捨選択され、時代の必要を考えながら編集された書物が聖書である。私自身も神学誌の編集に携わることがあるが、苦労して原稿を書き、祈りつつ神と共に考えながら一つひとつ仕上げていく。
クリスチャンは全て、神の霊感に導かれて生きる人々である。祈りとはモノローグ(独り言)ではなく、ダイアローグ(神との対話)であると言われる。それは、まさに母親と赤ん坊の関係に例えられる。母親は微妙な泣き声の違いを聞き分け、赤ん坊の欲する要求を満たすことが出来る。
私たち人間に、神の全ては解らないが、神の御前にいつも思いを巡らせていると、神の御思いがわかり、導きがわかる様になる。毎日の生活、一年間の計画、一生の生き方もその様に導かれる。
毎日、自分の思いを主に託し、新しく始まるこの一週間も、神の霊感に満たされつつ、神と共に歩んでいきたい。
2014年5月25日:新約聖書テモテへの第二の手紙2:1-6 説教: 安黒務 牧師
このテモテ2章の2節は三十数年前、スンベリ先生から頂いた御言葉である。先生はその時々に適切な言葉を下さるので、暗闇の中に光が差し込む様な思いがしたものである。
私自身、いつまでも神学生であるかの様に、神学の研鑽を続けてきた。共立研究所で学ばせて頂いたのは三十代、共立を終えた後、普通の教会に赴任すべきところ、そうはしなかった。その理由の一つには、教えてくださった丸山先生の言葉があった。国立から千葉県の印西にキャンパスを移し、先生方への負担は大変な物であったらしい。神学研究者である丸山先生にとって、名誉ある地位よりも、自分自身がすべき神学研究が出来ないことの方が重大である。とおっしゃった。
そんな、忠告も踏まえて、私はあえて、ノーサラリー、ノーポジションを選んだ。私に時間を下さい!と祈りつつ・・・神様は私の望み通り、時間を与えてくださった。
そのお陰で、"ICI
for JEC"も刊行出来るし、ICIやIBCで教鞭をとり、福音主義神学会では重責を担わせて頂いている。
そして今、かつて、この御言葉を与えてくださったスンベリ先生と同じぐらいの年齢に私もなりつつある。ICIの教師陣も次の世代になりつつある。教えの力のある忠実な人たち、ICIで神学を教えられる力のある人たちに継承したい。
四節にある様に、私もかつて、フルタイムの人間は普通の仕事に就いてはいけないのではないかと思っていた。しかし、パウロ自身も天幕作りをしながら、大切な働きを行った。外側はそうは見えないかもしれないが、兵士としてのスピリットは失ってはならない。また、規定に従って、聖書の福音を正しく語り、正しく導ける人に少しずつ後進を譲っていきたい。
いろいろなムーブメントに振り回されず、しかし、良いことは学び、正しいあり方を継承して欲しい。そのためには、地上では苦闘を強いられるであろうが、主と共に生きた後には天国での報いが待っている。
2014年5月18日:新約聖書テモテへの第二コリント人への手紙4:7-18 説教: 安黒務 牧師
3月までは翻訳で忙しかった。これからは少しゆっくり出来るかと思っていたが、5月は毎週、神学校での講義があり、先週はICI生の来訪、自治会の諸行事があり、今週は田植えが待っている。その他、依頼を受けている神学誌への論文や秋の神学会に向けての準備を進めている。
私たちクリスチャンは人間性という弱さを持つ土の器の中に聖霊が宿っておられる存在である。そのため、あまりにも忙しいと、ただ流れに身を任せる生き方の方が楽なのではないか?と思ってしまう。イザヤ53章の様に、ただほふられるのを待つ様な生き方で良いのか?10節にある様に、身を任せて生きる生き方の中で積極的に生きると神の栄光が表される。
11節にある様に、生きるということは絶えず死に渡されている様なものであるが、その死ぬべき私たちのただ中にイエスの命が明らかにされ、輝くという不思議である。
次から次へと襲って来る問題も、そのことを通して多くの人々に恵みが及び、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるためであるならば甘んじて受けようという気持ちにされる。
寒暖の繰り返しで、体力的には非常に厳しいが、今週も内におられるお方により頼みながら歩ませていただきたい。(仁美記)
2014年5月15日:一宮基督教研究所三年生のICIへの来訪-観光・論文指導・蔵書探し(サムネイル版➡クリックすると大きくなります)
2014年5月11日:新約聖書テモテへの第二の手紙3:15-17 説教: 安黒務 牧師
今日、5月第二日曜日は"母の日"である。1908年、アメリカのバージニア州ウェーブスターにあるメソジスト教会で、ひとりの素晴らしいご婦人の功績を讃えて催しがもたれた。その後、1914年アメリカの上院議会において、当時大統領であった、ウィルソン大統領は5月の第二日曜日を"母の日"とすると決議した。
先ほど、母の日の聖歌を賛美したが、"母の読みし御文"という歌詞を聞くと、私が東京チャペルで奉仕していた頃にお目にかかった方の事を思い出す。岡部兄のお母さんは脳梗塞のリハビリに取り組んでおられたがその一環として、聖書を最初から最後まで大学ノートに書き写しておられたのだ。何冊にもなったノートを見て、私は感動したことを覚えている。
私が聖書に初めて触れたのは高校生の時であった。学校や病院、ホテルなどに配布されるギデオン聖書を担任の先生から頂いたのであった。その後、聖書を読んだり三浦綾子さんの『氷点』のテレビドラマをみたりして、『氷点』を本でも何度も繰り返し読んだ。
『氷点』は北海道の旭川というところにある、病院長の家庭を描いた小説である。夫は医師であり、妻は上品で美しく、男の子と女の子に恵まれ絵に描いた様な幸せな家庭を舞台としている。ある日、可愛い娘を何者かに殺害されることから、一つの家庭が崩れていく様子を描いた小説である。三浦綾子さんが『氷点』の中で描きたかったのは、どんなに裕福で社会的に地位があったとしても、罪の問題が解決されていなければ、家庭は冷たい物になってしまう。そんな家庭において幸せな人生は送れないということである。
罪の結果と罪の力からの救いとは、単に天国に行けるようになるということだけではなく、自己中心的な考えや生き方から救われるということをも含むのである。キリスト教神学の「罪論」の中で、エリクソンは"罪は愛することを不可能にしてしまう。"と書いている。夏目漱石の名著『こころ』のテーマは、"人間にとって、愛されるということは絶対に必要なこと、そして人間にとって愛することは絶対に不可能であること、この二つを、素晴らしい筆致で証明したことである"と言われる。
長年、連れ添ってきた夫婦はどうすれば愛を保つことが出来るのだろうか?まず、自分が神に罰され、永遠の刑罰にふさわしいほど罪深い存在であること、そしてそのような存在である自身が、神の御子の身代わりの刑罰によって限りなく赦された罪人であると知ることである。そのような無限の贖罪の愛によって赦された存在であることを心底から知る者とされること、そして「死人のように腐れ果てた存在である自身が、キリストをよみがえらされた御霊によって、日々よみがえるように生かされる存在である」ことを知り、そのような贖罪の御霊の働きに自身を委ねつつ生きることである。
夏目漱石と三浦綾子は見事な人間理解と洞察によって、死人のような醒めきった自己理解を氷点として提示してくれている。しかし、一方には見えないものを他方は見せてくれている。それは、贖罪の十字架とよみがえりの御霊の領域である。わたしたちが聖書を愛する対象から送られてきた手紙のように読みふける時、個々人にとっても、あらゆる家庭においても、普遍的な必要な領域が、そこにあるのではないかと教えられるのである。(仁美記)
2014年5月4日:新約聖書使徒行伝2:25-36 説教: 安黒務 牧師
旧約聖書のダビデについての預言を見ると、イスラエルにダビデの様な救い主が生まれ、イスラエルの民族的復権がなされると、ユダヤの民は希望を抱いていたに違いない。しかし、この段階(謙卑の段階)でのイエスの宣教と働きはその希望に反し政治的な要素は含んでいなかった。ただ、イエスを見て弟子たちは旧約聖書の読み方が変わった。キリストはユダヤ人だけのためのメシアではなかった。全人類のメシア、王の王、主の主であった。イスラエルの民族主義的な壁が破られ、普遍主義的な神の御業が行われた。
さて今日は、25節の「わたしはいつも、自分の目の前に主を見ていた」に注目してみていきたい。"コーラム デオ"とは、"主の御前に"という意味であり、朝、目覚めた時から、夜、眠りに着くまで、つねに主を意識し主の御前にあるという意味である。
来週、神学校で罪論を教えることになっている。"罪とは?"なんぞや、罪とは人との問題ではなく、神様との問題である。十戒の第一の板"あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。"この板がバラバラになってしまっては神様がわからなくなってしまう。 神様のことを知ること無しに、人間の姿は解らない。
十戒の第一の板がわかったら、第二の板が解る様になる。神の光の中にあれば、全ては清い。神の光を避けると汚れた物となる。神に心を開いて生活すれば、そこは、主と共にいる所となる。
人生とは問題の山である。問題があることが問題ではない。問題にどう対処するかが問題である。環境の中に十字架、人間関係の中に十字架、十字架を置くとは、クッションを置くと言い換えることが出来る。十字架が整理することだとすれば、聖霊は管理することだと言える。十字架の贖罪の領域がまったき受け身なのに対して、御霊の次元は神との共同作業(神律的協働性)である。
御霊と共に生きるとは、シュミレーションして生きるということである。忙しい中にも主と共に生きるシュミレーション、創造的にシュミレーション。"それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。"
主を第一として、感謝と喜びの日々を過ごそうではないか。
2014年4月20日:新約聖書ルカによる福音書24:1-43 説教: 安黒務 牧師
イースターの日にちは、325年のニケヤ会議において、毎年春分後の最初の満月の直後に相当する日曜日と決定され今日に至っている。今年は今日がイースターである。
全人類の罪を背負い、イエスは十字架にかかられた。処刑の日が金曜日であったので、日没になれば安息日が始まり何も出来なくなるため、イエスの亡きがらは慌ただしく葬られ、日曜日の朝を迎えていた。
丁寧に葬ることが出来なかったので、女達は準備しておいた香油を持って墓へと急いだ。すると、石の扉はどけられ、イエスのからだはなかった。イエス様が生前おっしゃっていた復活を彼女たちは信じていなかった。
誰かが盗んだのか?ローマの兵士が厳重に見張っていたにもかかわらず・・・そこに、天使が現れて、"なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。"と聞いた。女達はようやくイエス様が生前言っておられたことを思いだした。
女達が言ったことを使徒たちは信じなかった。からっぽの墓を見ても、ただ驚き、よみがえられたとは全く信じなかった。そのため、よみがえられたイエス様みずから、使徒たちに近づいてこられた。
37節にある様な、復活のからだというのは、お化けの様な霊だけではなく、肉体を伴っていた。(39節)イエス様は肉体を伴ってよみがえられた。復活のからだ、栄光のからだである。それは、私たちも肉体を持った栄光のからだを与えられて復活するということを示している。
イエスは死んで復活された後、見える世界と見えない世界を自由に移動出来るお方となられた(30・31節)
イエスのこのうよな復活は、私たちがそうなるという証拠である。歴史のただ中に確かに起こった、初穂として、復活されたイエスは、それに続く全面的な収穫のサンプルである。
イースターの日、イエス様は復活によって死に勝利された。"イースター、おめでとうございます!"(仁美記)
2014年4月13日:旧約聖書イザヤ53:1-12 説教: 安黒務 牧師
今週はキリストが十字架にかかられたことを覚える受難週である。
聖書の預言の成就として、この地上に送られたイエス様をユダヤ人は自らの手によって十字架に付けた。
ローマ帝国によって支配されていたユダヤを解放してくれる、メシアとしての期待は、ラザロを生き返らせ、五千人を養ったイエスにいやがおうでも大きくなって行った。
しかし、イエス様の真の姿はダビデの様な偉大な姿ではなかった。その姿はまさに、イザヤ53章の様な苦難のしもべそのものであった。ユダヤ人はこの箇所がメシアの預言にあたるとは考えなかったのである。
このキリストの姿は、地上を歩む私たちクリスチャンの生きる姿に似ている。クリスチャンになれば富も名誉も健康も与えられる、とおもいきや、待っているのは苦しみであり悲しみである。
また、東南アジアやアフリカでのリバイバルを聞くにつけ、日本はどうなっているのか?とジレンマに襲われる。
戦国時代に日本に伝えられたキリスト教は西洋の文化と共に国を強くする方法として、指導者に受け入れられ、民にまで広められていった。しかし、秀吉の禁教令が出るやいなや指導者はキリスト教を捨て、本当に信じていたのは高山右近らごく一部であった。民衆の間には隠れたかたちで信仰は続けられていったが、明治になってカトリックが入って来た時には、キリスト教とは言えない代物になってしまっていたという。
その様に、キリスト教世界においては受洗者の数ばかりにとらわれるよりも、救われた人たちの信仰の質が問われなければならない。
キリストの十字架による代理贖罪をどう受け止めるのか?イエス様はご自分の苦しみの意味を知っておられた。今は、あなたがたにはわからないが、とおっしゃった。しかし、試練が与えられた時には、あなたがたにもその意味がわかり、目が開かれると・・・
全ての人の罪の代価としてのいけにえとなられたキリストと"あなたがたのからだを生きた聖なるささげものとしてささげなさい"と全焼のささげものになる様求められている私たち、どちらも非常に苦しい歩みが待ち受けている。しかし、"彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。"とある。
苦しみのあとには何ものにも代え難い喜びがある。そんな私たちの生き方を通してキリスト者としての本物の証詞を世の人々にすることが出来るのである。
2014年4月06日:新約聖書テモテへの第二の手紙4:1-8 説教: 安黒務 牧師
今週から、ICIや生駒聖書学校での授業が始まる。私の仕事は日曜の礼拝だけではなく、岬町での働きでも近所の子供たちを集めての学習会や英会話など、教師としての働きも常に行ってきた。そういう働きをするためにも、常に自分自身が勉強し英語を学ぶ必要があった。
そのことが今の神学会での働きや神学誌での発表などに大変役立っている。小さい頃から人に教えることが好きで、小学校の先生になろうとしたこともあったが、算数や国語を教える先生ではなく、神学を教える先生になりたいと願う様になり神学教師の道を歩んできた。
このテモテへの手紙は、まさしく師であるパウロが愛弟子テモテに書き送った手紙である。自分がこの世を去る前にどうしても伝えたかった思い・・・それが、みことばを(聖書)宣べ伝えなさい。という思いであった。地中海からヨーロッパ、そして全世界へパウロの思い通りみことばは宣べ伝えられてきた。
その中には日本も含まれている。クリスチャン人口1パーセントと言われて久しいが、日本には他の宗教に比べてキリスト教系であるミッションスクールが非常に多く、人々の間には自分でも知らぬ間にキリスト教の思想が行き渡っている。仏教的に言えば、人が亡くなれば極楽浄土に行くと言うべきところを天国に行ったと言う人が多い。
つまり、まわりの状況にかかわらず、時が良くても悪くても、クリスチャンは地の塩、世の光として、まさしく聖書を宣べ伝える使命を帯びているのである。その信者さんたちを導く指導者を養成する神学校は健全な学びの場でなければならない。
正しく真理を見極め、識別する力を養わなければならない。真理を宣べ伝えるというのは楽な仕事ではない。正しいことを教えるためには、時には争いが必要なこともある。それをも恐れず走るべき道のりを走り終えれば、天国では義の栄冠の冠が待っているのである。
2014年3月30日:新約聖書ローマ人への手紙11:1-5 説教: 安黒務 牧師
約3ヶ月ほど取り組んでいた三冊目の翻訳が終わり、後はいのちのことば社の判断を待つのみとなった。次の目標としては、この秋までに纏めなければならない、福音主義神学会誌の"イスラエル論"の原稿の準備がある。
雑誌"7000(セブンサウザンド)"というものがあるのだが、まさに、この四節にある男子七千人の意味である。伝統的な教会では、それ程"イスラエル"というものを強調しない。イエス・キリストご自身もユダヤ人であったし、弟子たちもそうであったが、やがてサマリア人の様な非ユダヤ人にひろがり、いわゆる異邦人のキリスト信者が増えていく中、ユダヤ人はパウロがそうであった様に、キリスト信者迫害の筆頭と化してしまう。
キリストを十字架につけ、弟子たちを迫害したのもユダヤ人であった。そこで,一節のパウロの疑問がある。神から選ばれしユダヤ人は神から退けられてしまったのかと・・・
パウロが言うのは、エリヤの頃のことである。イスラエルの民が偶像礼拝の罪に染まり、バアルの神を拝んでいた時、真の神を礼拝しているのは自分だけなのではないかという恐怖を感じたが、エリヤの捧げたいけにえにのみ天から炎を下された神がエリヤに言われた言葉のことである。"バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。"今、あなたを迫害しているユダヤ人の中に信仰者を沢山残してある。と神はエリヤにまた、パウロにおっしゃったのである。
民族としてのイスラエルには宗教儀式の型はあるがキリストへの信仰はない。 現在、未来、終末において、イスラエルの民はどうなるのだろうか?イスラエルに対する神の御心を半年かけて探ってみたいと思う。
2014年3月23日:新約聖書エペソ人への手紙4:1-16 説教: 安黒務 牧師
先週は久しぶりに地域の行事も無く、祭日もあって自分のペースで生活が出来た。ただ、翻訳の文章が横書きではなく、縦書きの方が良いのではとの助言があり、その作業がなかなか大変であった。また、神学校の海外研修に関するメールのやり取りにも時間がかかった。
4〜6節にある様に、過去、現在、未来にわたって神は一つである。"平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい"とある。しかし、私たちには、いろんな考えの違いや立場の違いがあり、どこまで一緒にやるかというてんで難しさを覚える。その団体との親しさや近さ、今までの歴史等が関係してくる。
ただ、7節からにもある様に、教師として立てられた私としては、私たちの信仰の一致の為に、いろいろな会派の教えを紹介すると共に、どういう団体なのか、自分たちの立場とはどうなのかということを神学生に教えざるを得ない。
神学校は医者や薬剤師を育てる様なところでもある。治療や処方を誤れば、とんでもない被害が出る危険性もあるので、何が正しくて何処までが許容範囲なのかをきちんと教えてあげる必要がある。
14節にもある様に、神学生が卒業した社会には様々な教えやセミナー等があり、働き人として彼らは、どれに出席しどれに距離を置くのか判断していかなくてはならない。その教えの信憑性を信者さんに問われれぱ応えなければならない立場になるのである。
16節には、"それぞれがその力量にふさわしく働く力により"とあり、一人一人がしっかりしなければ"しっかりと組み合わされ"ることはないのである。
新しく社会に送られて行く神学生が自分の学んだことをしっかりと握りしめながら、この世の波を物ともせず真っ直ぐに神の業に励んでくれることを祈っている。
2014年3月16日:新約聖書コリント人への第一の手紙1:18-31 説教: 安黒務 牧師
"十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。" 我喜屋先生のメッセージである"十字架と聖霊"はいつも同じ様だけれども、聞く我々は素晴らしい絵画を鑑賞させられるかの様に語られるので聞き飽きることがないとある先生がおっしゃったことがある。
今、翻訳を終え、すいこうを繰り返しながら訳を滑らかにする工程を重ね、艶のある言葉へと仕上げたく取り組んでいる日々である。我喜屋先生のメッセージがそうであった様に、私も昔油絵を描いていた頃を思い出し、展覧会に出品する作品を仕上げる様に上へ上へと絵の具を塗り重ねている最中である。
1:22に、ユダヤ人は旧約聖書を与えられていて、メシアはダビデ王の様な、イスラエルの独立を成し遂げて下さる方に違いないと信じてきたのに、実際来られたイエス様は、イザヤ53章の様に、見るべき姿も無く十字架に付けられ亡くなってしまわれたことにつまずいた。
ギリシャ人は哲学を好み、理性的で、身体の欲望から解放され霊魂を重んずるが故に、キリストが肉体を取って現れたことにつまずいた。
しかし、事実、キリストは神様が良いとされたこの地上に、神様が良いとされた肉体をまとって生まれられた。人は一度死んだ後に裁かれ、贖われた肉体を持って復活するのである。
受難のメシアとして来られたキリストを、信仰によって受け入れるためには心を低くし、幼子の様にならなければならない。
2014年3月9日:新約聖書コリント人への第二の手紙4:7-16 説教: 安黒務 牧師
ひととおりの翻訳が終わり、最終的な推敲とより分かり易くするための資料作りの段階になっている。
そんな中思い出したのが、関学の絵画部の先輩のことであった。その方は抽象画家として有名な方で、真っ白なキャンバスに丸を書くだけというユニークな作品でよく知られている。丸を書くだけといっても無限の可能性がある。それと同様に、翻訳する時の日本語表現も無数にある。どう表現するのか一つを選ばなければならない。
4:13に"私は信じた、ゆえに語った"とある様に、翻訳も自分の信じた言葉に訳さざるを得ない。スンベリ師がこの箇所から昔教えて下さった。彼は預言者の様な方であり、洞察力の優れた方であった。"私たちは土の器であり、弱くもろい存在であると。しかし、その様な器の中に死と葬りと復活の力を持ったイエスキリストが内住して下さる。"と。
私にとっては何よりも時間との戦いの日々である。外なる人はどんどんと衰えていくのが分かる。しかし、内なる人は日々新たにされるとある。毎日を大切にし、与えられた課題に全力投球したい。
2014年3月2日:新約聖書エペソ人への手紙3:1-21 説教: 安黒務 牧師
今朝、何気なくテレビをつけるとアジアで活躍する日本人のことをやっていた。日本で美容師として働いていたが活躍の場が無く、一念発起シンガポールに渡り、自分の理想とする美容を求めて来た人のレポートであった。
自分の名前を看板にして、本来なら門外不出であるはずの美容技術を自分の考えに同調してくれる人には惜しげもなく伝え、"フランチャイズ"として広める事を許すという画期的な方法であった。それによってシンガポールで表彰されるという名誉も手にしている。ほんの短いレポートの中で、私の心に残ったのは、その人のお客さんの言った一言である。"You
strike a vein
!(あなたは鉱脈を見つけましたね)"それは、美容師として働いて来たその人に、"あなたは生きる使命、ライフワークを見つけましたね。"という讃辞であった。
この言葉を聞いて、私は自分が救われてからの歩みを省みる一時が与えられた。献身の思いが与えられ、いくつかの教会での牧会をさせて頂いた後、思いがけない共立での三年間の学び、牧師ではなく、神学教師としてスペシャリストになりたい。そうした歩みの中、開かれた"キリスト教神学"や"Thelast
things"という本との出会い。エリクソンの本は日本中の福音派系神学校で教科書ないし主要なサブ・テキストとして用いられ、今回翻訳させて頂いた本G.E.ラッド著「終末論」も"ディスペンセーション問題"や"グノーシス問題"の克服のための教科書として用いられていくと確信している。私にとっての金の鉱脈"a
vein of
gold"は、福音理解における隠された奥義を見いだすことであり、神学の基礎を学ぶための解説書を世に送り出すことである。
宍粟という限界集落に成りうるかも知れない片田舎で、ガソリンスタンドを生業としながら、合間に少しずつ神学書を訳し、これまでに三冊訳させて頂いた。翻訳の作業を楽しみ、"これは、私の賜物かもしれない"と思わされるようになってきた。あのパウロほどの有能な人が牢獄に縛られ、数々の手紙を書いたことと重ねては申し訳ないが・・・ 「用いられるために、閉じ込められる」ことは必要なことと教えられる。天上におられる方が、苦しみの中を生きる私たちの内なる人を強くして下さる様に、また、人の思い、願いをはるかに越えて事を成してくださるキリストの愛を知り、事の成るを見届け、その愛に満ち満たされる様に祈りたい。(仁美記)
2014年2月23日:新約聖書ピリピ人への手紙3:10-16 説教: 安黒務 牧師
3月の第一火曜日の牧師会で二十分程の発表の機会が与えられている。いつも起きる前と眠る前に約三十分程、うつらうつら考え事をするのが日課になっているのだが、発表の内容についても考える一時となっている。クリスチャンという者は素晴らしいことに、そうした時に聖書の箇所が浮かんで来るのである。
共立の学びを終える際には、"土台だけを立てて上を建てられなかったら恥をかく"(ルカ14:28-30)という御言葉が与えられ続けて神学の学びが出来る環境を選んだ。"私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。"(ピリピ1:21)という御言葉を大学生の時に与えらて、この本質にそって生きれば、素晴らしい人生が生きれると確信した。キリストの葬りと復活の原則に従って生きる。キリストの苦しみにもあずかって生きる。これこそ最も価値ある生き方ではないか?
オリンピックもそろそろ終わりを迎えているが、さまざまな努力を重ね、やっと目標のオリンピックに出られた選手でさえ、風向き一つでメダルを逃してしまう。しかも、このメダルで彼らは人生が変わってしまうこともある。私はメダルを逃した選手達が、何を語るかに興味が湧いた。だいたい、メダルを受ける人はごく僅かであって、その他の人は見たところは敗北者なのである。
それと同様に、人間の人生にも、成功と失敗がつきまとう。しかし、その失敗や弱点の中に"苦しみにあずかる極意"が隠されているのである。パウロがこの箇所を書いた時、ギリシャのオリンピックのイメージがあったと思われる。自分も神様の開催しておられるオリンピックに出ているのだ。一人一人、出ている競技は違うし段階も違うが、ただ大切なことは、"うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む"ことだと薦めている。
我々も現在立っている地点を大切にしつつ、一歩でも二歩でも、キリストの復活の力をいただいて、前に進もうではないか。(仁美 記)
2014年2月16日:新約聖書ローマ人への手紙9:1-13 説教: 安黒務 牧師
最近はG.E.ラッドの"The Last Things(終末論)"の翻訳が一応ひととおり終わり、推敲の作業に入っている。
旧約聖書の中にある預言について、どう考えるのか?それは、新約聖書を通して旧約の預言の意味が解るのである。罪の中に堕落した人類ではあるが、旧約のアブラハムとの約束の中にすでに救いの約束がある。選ばれた民族である、本家本元のイスラエルの人々に神の御心が解らない。旧約の預言のとおりイエス様を地上に送り、十字架に掛け、3日後によみがえらせたにもかかわらず、認めることが出来ない。神はイエスの業を通して旧約の預言の意味、十字架の意味が解る様にされていたのに。
今日の箇所でパウロははっきりと言っている。血縁的民族的なイスラエルが神の子供になるわけではないと・・・アブラハムの復活信仰、ダビデの贖罪信仰を信じた者こそが霊的な神の子供になるのだと・・・。旧約の歴史はイスラエルの歴史でもあるが、ペンテコステの時にユダヤ人プラス異邦人が本当の神の民となった。
この箇所にあるパウロの嘆きは最近の私の嘆きでもある。G.E.ラッドの本は、思えば訳し始めて八年になる。その間にはもう訳す必要も無くなっただろかと思うこともあった。しかし、ここ最近の"ディスペンセーション""レストレーション""ダビデの幕屋"等の運動を見ていると、ますますこの本の必要を痛感している。
神の御心を知る唯一の書物である"聖書"を私たちはもう一度正しく見直すべきではないだろうか?
2014年2月9日:新約聖書エペソ4:11-16 説教: 安黒務 牧師
先週は月・火と奈良で牧師の一泊研修会があり、奈良学セミナーハウスというところで行われた。月曜夜は長らくJECのリーダーであられた富浦先生からいままでのいろんなお証詞をお聞きした。火曜朝は4人の先生方からそれぞれが取り組んでおられる働きについてのお分かちがあった。今日の箇所にもある様に、一人一人には個性があり賜物があり、それらは全てキリストのからだを建て上げるためであると書かれている。
JECの先生方には多様性がありその中で自分は神学教師という賜物が与えられているのだと思う。ホームページや神学校での授業、また翻訳など伝道と教会形成と神学研修、これら三つがあってこそ教会は成長していけると確信している。我喜屋先生がおっしゃった"十字架と聖霊"はもちろんのこと、私たちがスウェーデンから伝えられた良き伝統と歴史の中での、正統的な福音理解を継承することの大切さ、そのためにもエリクソンの"キリスト教神学"は是非学んで頂きたい。
音楽の楽譜を見ても、モーツァルトの良さを解る人は少ないが、曲を聞けば素晴らしい曲であることが多くの人に解る様に、エリクソンの本は少々難解だが、神学校の生徒たちに解る様に語る私の授業は理解していただけるのではないかと思う。そうした考えもあって、ICI
for JECには私の授業をストリーミングで聞ける案内をしている。
神学がしっかりしていないと、いろいろな間違った教えに惑わされる危険性があるので、様々な教えを見極めて識別する力が必要である。私の思いが正しく受け止めていただけるかどうかは難しい問題だが、"愛を持って真理を語り"荒野で叫ぶバプテスマのヨハネの様に歩み続けたいと思う。(仁美
記)
2014年2月2日:新約聖書ヘブル人への手紙12:1-13
説教: 安黒務 牧師
先週は一泊で生駒聖書学校に教えに行き、また、ICIでは試験が行われた。一年間を通し、ある生徒たちには三年間を費やして、エリクソンやG.E.ラッドの書物を用いて私は生徒たちに講義を行ってきた。
今の福音派における正しい聖書の理解の仕方を繰り返し繰り返し教えて来た。しかし、試験のレポートを見て愕然とさせられた。あれだけ教えたはずなのに、私の教えを反映させた内容のレポートはあまり多くなかった。所属教会や教派、また牧師の立場・考え方等に、ディスペンセーション主義やレストレーション運動、ダビデの幕屋運動等と関わりのある教会が背景にあり、致し方ないのだろうか?自分はいったい何をしているんだろうと、ほとほと疲れ果て、弱り果ててしまった。何とも言えぬ絶望感の中、G.E.ラッドの"テーブルの中の一つの座席"という本を思い出し、手に取って読み出した。
G.E.ラッドはフラー神学校の教授で、ダラスの神学校でディスペンセーションの教えと戦った教授である。その頃バリバリのディスペンセーションの教えに染まっていたダラス神学校のウォルブード校長に対し、「この教えは間違っているので正さなければならない」と戦い続けた人であった。四面楚歌の中、彼を支えたのは"自分が戦わなければ、真理は歪められ学校は間違った方向に行ってしまう"という信念である。孤立無縁の中ラッドは四十数年戦い続けた。そうするうちに、ダラス神学校は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに漸進主義ディスペンセーション主義へと、少しずつ正され今に至っている。45年間を経て、やっと「ラッドの背中に追いついた」といわれる。
12章の1節にある様に、多くの証人達が私たちを取り巻いているのだから、私も間違った教えの津波から学校をまた、教団を守る為の防潮堤を築かなければならないと、その本を読んで改めて励まされた。すぐ目の前にある現実は、福音派全体の縮図でもある。神様が福音派の中に様々な問題があると私に教えて下さっているということなのだ。こういう状況だからこそ、お前にはやるべきことがある。真実で純粋な信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。使徒たちの聖書解釈の原則から目を離さないでいなさい。そうすれば、ラッドの様に後になって平安な義の実を結ぶことになると励まされた。(仁美
記)
2014年1月26日:新約聖書Tペテロ2:1-10
説教: 安黒務 牧師
このペテロの手紙が書かれた頃は紀元60年代で、この地上を歩まれたイエス様に、生きて出会えた人達が、苦難の中で殉教したり、年を取り召されて行くという状況の中で書かれた書簡である。自分が経験したこと、教えられたことを、何としてでも伝えたい、その思いが溢れている。私も、スウェーデン・バプテストの流れにある、JECという団体の教会の中で救われ、今まで学んで来たこと、教えられて来たことを書き残しておく時期に入ったと自覚している。そのための物がICI
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JECであり、JECまたICIのルーツとアイデンティティに属する福音理解を解き明かしているエリクソンや、同じく中間派としてのバプテストの福音理解の解説者であるラッドの本の翻訳である。ここで、ペテロは"間違った、歪曲された物ではなく、純粋なみことばの乳をしたい求めなさい。"と教えている。各教派には伝統があるが、伝統を守るためにはしっかりした神学教育が必要である。教会は人によって成り立っているが、常に人間関係の複雑な問題を抱えている。だから,人間関係に目を奪われていると、時には間違った結論を出してしまうことがある。例えば、ユダヤの民が長年切望していた救世主がやっと目の前に現れたのに、自分達のイメージしていた救世主とは違うということや宗教上の考えの違いでキリストを十字架にかけてしまった。"人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石"だった。キリストは本当に聖書に預言されてきた救い主だった。だから、人を恐れず、神を畏れて生きるべきであると私は自戒している。私が語ることが今は"つまずきの石、妨げの岩"と思われるかもしれないが、私たちの後の世代に、認めてもらえる時が必ず来ると信じている。人間関係は大切だが神の真理はもっと大切だと思っている。(仁美
記)
2014年1月23日:本日夕方、ようやく、G.E.Laddの最後の著作、さまざまな奉仕の関係で遅れ遅れになっておりました“The Last Things”の訳了しました。安西徹雄著『英文翻訳術』は大変助けとなりました。英文翻訳どうあるべきか、時期時期において迷いが生じて、「火の柱、雲の柱」が停止して動かなくなってしまったかのように感じることもしばしばありましたが、その基本的なところがよくまとめられている書籍です。この本を読んで元気が湧いてきて、訳了できたといっても過言ではありません。今後は、訳了した翻訳の推敲に少し時間をとりたいと思います。安西先生のアドバイス-@英語を知ること、A日本語を習うこと、B翻訳という仕事を愛すること、含蓄のあるアドバイスに満ちています。翻訳における基本の確認を教えられました。迷いや悩みの扱い方も教えられました。翻訳を愛するとはどういうことか教えられました。長らく、翻訳は苦痛でありましたが、今は翻訳は喜びとなりました。翻訳を愛すること、それは言葉への愛、言葉を愛することである、とは安西先生の言葉です。本当に、そう思います。この書を片手に、励ましを受けつつ、推敲に全力を傾注したいと思います。翻訳業、それは本当に素晴らしい仕事なんですね! 感謝!
2014年1月19日:新約聖書マルコ12:28-31
説教: 安黒務 牧師
毎朝、目覚めた時、真っ暗で寒いので"ああ、今日もまたしんどい仕事が待っているんだな。"と思ってしまう。そんな自分の姿を見て、自分の貧しさや惨めさを痛感させられる。しかし、その貧しく惨めな自分の中に聖い御霊が住んでいて下さるということに目が向けられると、飼い葉桶の中のイエス様の姿が思い出されて、感謝の心が溢れて来る。 闇から光へと、毎朝、心が向けられれば、1日を爽やかにスタートすることが出来るし、眠る時も感謝の心で終えることが出来れば安らかに心身を休ませることが出来る。
"心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛する"とはどんなにすごいことかと思ってしまうが、私が思うに、朝起きた時、夜眠る時、神様を意識すること神様に心を向けて生活することが、まさにそういうことなのではないか?と思わされている。そんな生き方をしていると、神様の祝福が滝の様に天から降り注いで来る様に感じる。滝の様に注がれた私への愛は溢れ出して隣りの人にも流れて行く。そこで、"あなたの隣り人をあなた自身の様に愛する"ことが出来るのである。
"あなたの隣り人"というのは、人だけではなくて"あなたの仕事"も指すのではないかと思わされている。私は長年、翻訳という仕事に携わって来たが、長年やっていると、翻訳という仕事はその本を書いた著者ほどは認められることも無く、収入も僅かなのに、やればやるほど、自分の英語力の無さに打ちのめされる。
ラッドの本も、忙しいということもあるが、ちょっと疲れてしまって随分ほったらかしになっていた。しかし、最近、翻訳についての本に出会い、まず、私自身が翻訳という仕事を愛さなければいけない、ということを教えられた。英語を勉強すればするほど難しいと感じ、翻訳の深さを知る。でも、そこで、自分はこの本を知りたいんだ、だから、訳したいんだと取り組めば、分かった時の感動は素晴らしく、他の人達に分かち合いたくなる。
その本を読み、教えられて、翻訳を再開したら、ラッドの本の素晴らしさだけでなく、日本語の表現の素晴らしさや言葉の美しさまでもが分かる様になって来た。いろんな本に出会わせてくれる、翻訳という仕事を私は愛したいと思う。(仁美
記)
2014年1月18日:【落穂ひろい】「西欧語は物事を抽象的、客観的、論理的に述べようとするのにたいして、日本語はできる限り具体的な“場”(situation, context)を踏まえ、いわば“場”によりかかった形で発想する」安西徹雄著『英文翻訳術』p.69。「メッセージとは何ですか?」という問いに対し、先輩の牧師は「要するに、メッセージとは、御言葉プラス証しなんです。」と答えられた。この言葉を思い出した。
2014年1月18日:【落穂ひろい】ルツ記2章に以下の記事がある。「 モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』そして、ボアズの畑に導かれ、その好意を受けることとなる。…家内に「あなたは気が多いすぎる!」と言われることがある。すでに両手一杯の奉仕を抱えつつ、さらに広く多くのことに関心を抱き、首が回らなくなっているわたしの姿を、そのように評するのである。それでもわたしはやめられない。“病気”のようなものである。常にいろんなことに関心を抱き、読書家としては多読である。今年は、それらの多読の中から「ハッ!」と教えられたこと」を、いわばルツの“落穂拾い”のような感じで、拾い集め、“パンセ(断想)”風に書き留めていってみたい。
2014年1月15日:新刊紹介! 岡山英雄著『ヨハネの黙示録注解』【紹介講義ストリーミング・ビデオとパワーポイントPDF】
すでにご案内し、ご存じの方も多いと思いますが、待望されていました岡山英雄著『黙示録注解(めぐみがすべてに)』が刊行され、わたしのもとにも、委託販売のかたちでとりあえず百冊お預かりしております。岡山氏の視点は、ICIあぐろの視点と共鳴する部分が多々ありますので販売協力させていただいています。この註解書は、M.J.エリクソンやG.E.ラッドと同じく「キリストの教会は大患難を経験し、苦難の只中で守られ、殉教をも恐れずに証しし、その後に、キリストが再臨され、すでに死んでいたクリスチャンはよみがえらされ、生きているクリスチャンは携えあげられ、空中で主に会い、報酬を受け、栄光のからだに変えられ、地上に下りてきて、主とともに一千年地上を支配し、その後新天新地が到来する」“患難後・前千年王国再臨説”にたつ立場でのはじめての本格的な黙示録注解書です。すなわち岡山氏の視点として明確な「ディスペンセーション主義聖書解釈法の克服」つまり、旧約聖書の光の下で新約聖書を再解釈する視点ではなく、新約聖書の光、新約の使徒たちの聖書解釈原則の下で旧約聖書を再解釈する視点、が明白な注解書です。
日頃、ICIの働きを覚え、祈ってくださっている皆様に感謝の意味を込めて少しお安く提供させていただくことができます。ご希望の方は、下記の安黒までメールにてお知らせください。直接、手渡し販売の場合は、岡山先生の好意により、ICIを通して一割引き【定価3780円➡特価3400円】にてお分かちします。郵送させていただきます場合は、【定価3780円(送料サービス)】にてお願い致します。郵便振替用紙同封にて送らせていただきますので、書籍到着後一週間以内にお振込みください。
【岡山英雄著『黙示録注解(めぐみがすべてに)』】推薦の言葉(R.ボウカム氏)
岡山英雄氏の注解は、ヨハネの黙示録についての長年の研究と熟考の成果であり、この書は彼がこの分野における主要な学者の一人であることを示している。彼は黙示録を詳しく深く知っており、そのメッセージが今日の教会にとってますます重要となっていることに気づいている。氏の書いた注解書は厳密な意味で学問的であると共に、今の時代との関連性を示している。 黙示録を宿命と報復の書、世界に対するある種の脅迫と見る解釈者たちとは異なり、岡山氏は適切にも、黙示録が実はこの世界に対する豊かな恵みの書、世界への教会の宣教の書であることを強調している。黙示録は、まさに教会を宣教に召し、そのための力を与える書である。黙示録はあらゆる時代の教会のための書であるが、またそれは日本を含む現代世界と特別に関連している書でもあることを彼は示している。岡山氏の注解書が、この鍵となる聖書のテキストの豊かさを開き、日本の教会と福音に益となることを切に願う。
【岡山英雄著『黙示録注解(めぐみがすべてに)』】内容紹介(抜粋)
はじめに神が万物を祝福し、終りにキリストが万物を祝福する。天地創造のみわざが新天新地において完成し、神のみわざは全被造物に及ぶ。 (黙示録には)神の恵みによる地上の民の悔い改めと救いという主題が提示されている。この主題は「二人の証人」の幻に鮮やかに示されている。「二人の証人(神の民・教会)は証言を終えると殺されるが、復活し、昇天する。その後、大地震が起こり、七千人が死ぬが、生き残った者たちは恐れ、悔い改めて「神に栄光を帰す」(11:13)。神の民の殉教的証言によって、地上の民は回心に導かれる。(キリストの)初臨において目立たなかった「苦難のしもべ」の預言が成就したように、再臨においても傍流のように見える「諸国民の回心」の預言が成就する。黙示録において旧約の預言がすべて成就し、さらにそれを超える神の驚くべき救済の計画が実現される。
ボウカムの黙示録に関する論文集「預言の頂点(The Climax of Prophecy)」、その釈義の緻密さ、斬新な解釈に驚いた。その中心をなすのは九番目の論文「諸国民の回心」であり、百ページにわたって11:13こそが黙示録の中心であると論じている。終末において地球規模でのキリスト教への大回心が起こるという解釈は、限りない慰めと希望を与えるように思えた。注解の執筆を終えた頃、依頼されていたクリストファー・ライトの『神の宣教』の14章を翻訳した。彼は聖書を諸国民への宣教の書として読み、黙示録をその頂点としている。それは筆者の理解とほぼ同じであり、宣教学的な点からも黙示録はきわめて重要な書であることを確信した。
2014年1月12日:新約聖書
黙示録1:7, 11:3-4, 11:12-13, 21:24-26 説教: 安黒務 牧師
黙示録を読み解く時に岡山先生の注解書やリチャード・ボーカム氏の書物を参考にしていくと、イエス様が再びこの地上に来られるということの意味が今までのものと違ったものに変えられた。イエス様が再び来られるのは、王として、人々を審判されるためである。という視点で考えて来たが、世の終わりの時、クリスチャン達の命を懸けた働きによって、全ての国民が救われる、リバイバルの時がやって来るということに目が開かれた。
過去の歴史を振り返っても、ローマ時代の激しい迫害の後に、王様までもが改心し、キリスト教はローマの国の宗教となった。また、日本においても、江戸時代、明治から昭和の敗戦まで、多くのクリスチャン達が戦いながら命を懸けて証詞して来た。この世の終わりが来た時、我々クリスチャンに対して激しい迫害が起こるであろうが、いろいろな災いの中生き残った人々は、少数派であっても、塩気を保ち光を失わなかったクリスチャン達の証詞を通して救われる。
ここで大切なことは、この世にすり寄り、妥協して人々の色に染まらないことである。妥協して人々に媚びることではなく、アブラハム・ヤコブ・ダビデ・ダニエルの様に真の信仰者として、殉教者のスピリットを持って生きることである。我々がその様に生きる時、旧約のイスラエルの民の教会が新約の民の教会となった様に諸国の民の教会が出来るのである。
P.バーガーという社会学者は「受容されやすくなるが、皮肉にも誰もそれを特別に欲しないものになってしまう」と、福音宣教の本来的意図に逆行する運命をたどる危険を指摘している。少数派であっても、殉教的証しにより再臨時に諸国民の地球規模の大リバイバル、最後的勝利がもたらされるのである。塩気を失っい、変質と妥協よりもたらされた多数派は無価値であるとの警告でもある。(仁美
記)
2014年1月5日:
旧約聖書第一列王記3:1-28 説教: 安黒務 牧師
お正月に子供達や親戚の人達との交わりがあり、大変祝福された。その中で教えられたこと、また、今年一年のことを考えていた時今日の箇所が示された。この箇所は私が岬での牧会を終え、共立での三年間の学びを終えた時に、自分はどう歩むべきかを思案していた頃に示された箇所でもある。いろんな方面からお誘いを頂いたのだが、最終的には、"自分自身が何を望むのか"を主に迫られた様な気がする。 "あなたに何を与えようか。願え"と神様は問われ、私は"時間を下さい!"と申し上げた。ノーサラリー、ノーポジションでも構わないから、さらに神学に没頭出来る時間が欲しかった。そして、この願いは聞かれ今に至っている。ソロモンの願いも主の御心にかなうものであった。トップに立てられた者にとって、最も必要な資質はその場その場での判断力と知恵ある言葉である。イエス様を初めとして、エジプトのヨセフ、バビロンのダニエル、そして、パウロ。彼らは皆、愛による正しい判断力を持っていた。私たちも毎日の生活の中で、神様から知恵と判断力を頂いて、行動していく必要があるし、知恵ある言葉を周りの全ての人に語れる者とされたい。(仁美
記)
20140101 : 明けましておめでとうございます。「2014年賀状 」です。それと、還暦の祝いをしていただきました。感謝!