ICIストリーミング・ビデオ・ワールド:エリクソン著作集 、宇田進著作・資料集、ラッド著作集、その他(科目別・時系列分類)/アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー JEC牧師会・拡大教職者会 福音主義神学会 関西聖書塾・阪神宣教祈祷会 生駒聖書学院 大阪聖書学院 諸教会 (岬EC・高槻EFC・他) 、電子メール講義録 、ヨハネの黙示録、ガラテヤ書、ローマ書、ヘブル書、雅歌 説教要約集『仁美記』
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ICI Daily & Diary Lectures
2017年度 ICI日誌
2021/12/22
ICI ホームページ表紙 年度別 ICI日誌 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013(休み) 2014 2015 2016
★2017年度のICI日誌は、「年度別-ICI日誌」に転記させていただきました。
ICI インフォメーション・メール
20171231/20180101号―2017年度ICI のたどたどしい足跡(一部紹介)
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本日は、年末感謝礼拝の日、明日は元旦礼拝です。ICIでも、一年間のたどたどしい歩みを振り返るひとときをもっております。
下記のサイトに掲載しています。関心のある方はご覧ください。
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2017.htm
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2017年度の、家の教会、また安黒塾のような一宮チャペルと一宮基督教研究所の歩みを簡単に紹介させていただきます。
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一月には、わたしの母の米寿の祝い、IBCでの集中講義(1,5,10月)、
二月には早起きの突貫工事で『キリスト教教理入門』を訳了、
四月には義父の納骨式、
六月には京都で「レストレーション運動の分析・評価セミナー」
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2017.htm#20170616
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https://www.youtube.com/watch?v=IRAwR770gx4&list=PLClE1DIlx0olopnFOqt0RGf-mN-7ZxY3N
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、ラッド著『使徒行伝』翻訳開始、ディスペンセーション問題シリーズ、黙示録シリーズ等の紹介、
八月にはN.T.ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』の読み方について問い合わせがあり、応答する中で、
ベネマ著『福音を正しく理解する―宗教改革の視点と新しい視点の評価』の翻訳の必要を
覚え、いわばパウロに対する“マケドニヤからの叫び”と受けとめ、翻訳の優先順位を急遽変更し、早期の刊行を企画。
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2017.htm#20170816
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そのような中、フリー聖餐問題で混乱している教会の事情を聞き、その対応に奔走。迷いの中にある教会の助けになればと思う。
https://youtu.be/WgxwuEosrHE
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また礼拝奉仕、信徒セミナー、神学校集中講義、クリスマス奉仕等で、
https://youtu.be/pIXcXaHsRTQ?list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh&t=965
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二週間で訳了予定が年末までずれ込む。
先日、訳了し、神学会の数人の友人に翻訳に目を通してもらっている。一月中に、推敲を完了し、出版社に送り、できれば三月末か四月はじめの刊行を目指したいと思っている。
祈っていただきたい。
2017年12月23日
新約聖書ヨハネによる福音書03:16「Cur Deus Homo(クール・デウス・ホモ)― 神は何故、人となられたのか? ―Cあなたが滅びることなく、永遠のいのちをもつため―ひとり子を賜う愛」(高槻福音自由教会クリスマスイブ燭火礼拝説教)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今日は、クリスマス・イブです。さて、クリスマスイブ礼拝の説教は「神は何故、人となられたのか?」というテーマでお話します。
ヨハ 3:16
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
+
【序】
Merry Christmas !
クリスマスおめでとうございます!
さて、クリスマスとは、一体何を意味する行事なのでしょう。
聖書に
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と書いてあります。
クリスマスとは、「神が人となってあらわれてくださった」日、
つまり約二千年前、神の御子イエスが、聖霊により、処女マリヤを通して生まれてくださったことをお祝いする行事です。
+
【T】神の愛
では、「神はなぜ人となって生まれられたのでしょうか」
神が人となってお生まれになったことの意味には、たくさんの意味があります。
ただ、今日短い時間でそのすべてをお話しすることは不可能です。
それで、今日は、「神はなぜ人となって生まれられたのか」―クリスマスの中心的な意味をヨハネ3:16から短くお話しさせていただきます。
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「神はなぜ人となって生まれられたのか」―この問いに対する解答が、ヨハネ3:16にあります。
ヨハ 3:16には
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。
+
「神はなぜ人となって生まれられたのでしょうか」
ヨハ
3:16によれば、それは、第一に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、あなたを愛されている」ゆえです。
神は、“あなた”を愛しておられるのです。
最も大切なもの―“そのひとり子をお与えになったほどに、“あなた”を愛しておられるのです。
神の“あなた”に対するこの愛をどのように表現できるでしょうか。
神さまの、あなたに対する「最も大切な、最愛のひとり子を与えるほどの愛」はどのように表現できるでしょうか
それは、大変むずしかしいことですが、このように表現できると思います。
+
ネット上で「人のいのち救う為に、火の中に飛び込むことができますか?」という問いがなされていました。
「できるかできないかと問われて、それに答えることはできません。
しかしできたかどうかと問われれば、経験があると答えることができます。
火の中ではありませんでしたが、阪神大震災の時です。
相手は私の子供でした。
同じことを再びできるかどうかはわかりません。」
+
地震や火災のときに、
自らのいのちの犠牲をも省みることなしに、
その崩れ落ちる家、
燃え盛る炎の只中に飛び込み、
愛する子供を救おうとする親の愛というものがあります。
神のひとりごをたもう愛は、このような愛に似ていると思います。
実に、「燃え盛る火炎の中に残された幼子を救うために、自らのいのちを省みずに、叫びつつ飛び込む親の姿」は、
「神はなぜ人となって生まれられた」理由を教えてくれます。
+
【U】神の聖
神様は、どのような火炎の中に残されているわたしたちを救おうとされているのでしょぅか。
聖書のヘブル9:27には、「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」と書いてあります。
+
ここでわたしたちが知らなければならないことは、神さまは「光」のような方で、絶対的な聖さをお持ちの方であるということです。
たとえで話しますと、「ふとんに生息するダニは、温かく湿度のある環境で生息しやすく、
人間のフケや皮膚などのエサが豊富なふとんはまさにダニに繁殖地といわれ、
大量のダニのすみかとなっています」。
この布団を太陽の光にさらして干すと、
「ダニは滅菌」されてしまいます。
聖書によると、わたしたち人間は、「ダニがすみかとして住まうふとん」のような存在なのです。
+
【V】人間の罪
聖書には、
『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と書かれています。
しかし、それだけではありません。
腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
『姦淫してはならない』と書かれています。
しかし、それだけではありません。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです、と書かれています。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
法律に違反した罪を犯さないだけでは足りません。罪深い思いや考え、動機、心の性質や傾向のような、ほこりのような小さな罪も問題なのです。
+
聖書によれば、神様は絶対的な聖さのお方です。
天国また新天新地もまた絶対的な聖さの場所です。
どんな小さな罪があってもそこに入ることはできません。
ですから、「罪」の問題の解決は、わたしたちの人生で最も大切な事柄、最重要事項なのです。
しかし、わたしたちの「罪の問題」は、殺人とか姦淫とかの行為だけの問題ではなく、
「心のいろいろな考えやはかりごとを判別」されます。
レントゲンやCTスキャン、MRTの精密検査のように調べ尽くされます。
「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです。」と書いてあります。
神さまの絶対的な聖さは、わたしたちの心の中の罪、動機、性質までも照らし出し、さらけ出されます。
そのような「滅菌作用」から、「死後の審判」をどのようにしてクリヤーできるでしょうか。
そのような方法は、道はあるのでしょうか。
+
【W】受肉と十字架
その方法をつくるため、その道を切り開くために、「神の御子、イエス・キリストは人となられ」ました。
罪人である人間の犠牲は、「その人自身」にとっても十分な犠牲とはなりえません。
ましてや、「全人類の犠牲」のためには、「絶大な犠牲」が必要となります。
また、人間の身代わりの犠牲となるものは、「正真正銘の同じ人間」でなければなりません。
「神の御子、イエス・キリスト」は神ご自身であり、絶大な、無限の価値をもたれる方です。
また「聖霊により、処女マリヤを通してお生まれになった御子イエス・キリスト」は、正真正銘の人間となられたお方です。
100%神であり、100%人間となられた、御子イエス・キリストだけが、
身代わりの犠牲となって、罪に対する刑罰を受け、人々を天国に迎え入れることができるのです。
+
そのような意味で、「神はなぜ人となって生まれられた」理由の中心点は、
永遠の死と滅びの火炎の中から、あなたを救い出そうと、その中に飛び込んでこられ、
十字架という身代わりの刑罰という、いわば“全身やけど”を負って死なれたことにより、
わたしたちはその火炎のど真ん中から救い出されたということなのです。
+
【信仰と理解】
わたしたちは、「神はなぜ人となって生まれられた」理由のすべてを知り尽くすことはできません。
この全宇宙を作り、全歴史を支配しておられる神さまと比べて、ノミの脳みそほどもないわたしたちです。
しかし、ある神学者が申しました―「わたしたちが信じるのは理解するためである」と。
わたしたちは、聖書のこと、神様のこと、十字架の意味、それらすべてのことを知り尽くすことはできません。
しかし、神様がわたしたちの罪と死と滅びの身代わりとなって死ぬためにお生まれになった。
神様がそのような火炎の只中に飛び込んで私たちを救うためにクリスマスにお生まれになった。
このような神さまを、このような御子イエス・キリストを信じることはできるのです。
リンゴは、眺めているだけでは味は分かりません。
かじってみて初めて甘みのあるおいしいリンゴであるとわかるのです。
キリスト教も眺めているだけでは、味が分かりません。
イエス・キリストを信じることによって、「永遠のいのち」とは何であるのかを理解できるようになるのです。
祈りましょう。
+
【祈り】
今日、神の御子、イエス・キリストを信じる者とされましょう。
「神はなぜ人となって生まれられたのでしょうか」―
それは、 「神が、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、あなたを愛しておられるからです。
それゆえに、あなたが御子イエス・キリストを信じ、死後に滅びることなく、
永遠のいのちを持ち、神の御国に入る者とされるために、
約二千年前、ユダヤのベツレヘムで、神の御子、イエス・キリストは、処女マリヤからお生まれになったのです。
神さま、今日、わたしは、わたしを愛して、その一人子をくださったあなたを信じたいです。
わたしを永遠の死と滅びから救うために、ゲヘナの炎の只中に飛び込んできて
わたしを救いだしてくださったあなたを信じます。
わたしは、あなたをわたしの神、わたしの主として受け入れます。
どうぞ、わたしの心を、まぶねとして、わたしの心の中にお生まれ下さい。アーメン。
2017年12月23日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―E“ハレー彗星”のイメージで迫られる」
+
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。
クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。
このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
+
■千里の道、万巻の書
教会の門をくぐって半年、「神 さま、あなたが本当に生きておられるのでしたら、私の罪を教えてださい」と真剣に祈ってから、
数ヶ月を経ていた。神さま本当に 生きておられ、私は神の前に自分
自身の存在がいかなる者かを照らされ、自分自身に対して“嘔吐”するほどになっていた。自身が罪人であることは十分過ぎるくらい知る者とされた。あとは、心で信じていることを、いつ告白すべきなのか、であった(ローマ10章)。
しかし同時に「千里の道を行き、万巻の書を読んだ後」でもいいのではないか、という思いがもたげてもいた。
+
■“ハレー彗星”のイメージ
そのような時期、アドベントの礼後、洗礼準備会(四回)の最後の
準備会がもたれていた。西宮福音教会の牧師であった高橋昭市先生に「安黒さん、のぞいてみませんか」と、チャペルの隣のクラス・
ルームに誘い入れられた。たくさんの人が出席していた。一番後ろ
に座り、静かに聞いていた。そのときに主は私の心に語りかけられた。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と。私の心に一つのイメージが走馬灯のように走った。“ハレー彗星”(
氷と 塵からなる彗星。地球の近くにあ らわれる周期はおよそ76年である)のイメージである。
「今、こ
の半年、神に近く、またイエス・
キリストに近く生活できているが、このような機会はいつまでも続くとは限らない。他のことにかまけるようになったら、二度とこのようなチャンスはない。最接近している今が生涯でただ一度の機会である」と。モノローグ(独白)
の中における聖霊による神の熱烈な迫りであった。その瞬間、高橋先生から「他に洗礼を希望される方はありませんか」との最後の問いかけがあった。私は反射的に挙手してしまった。いわば神の“不可抗的恵み”であった。
すると、 先生は「安黒さん、証ししていただけますか」と勧められた。何を証ししようかととぎまぎしていた
ところ「罪について告白されると
恵まれますよ」とアドバイスがあった。あれこれと自分の犯してきた罪を思い起こそうとしたところ、聖霊により、埃のような小さな罪が山のように積み上がっている幻を見せられた。そしてすで
に、このことは個々の罪の問題ではなく、罪の性質の問題であり、アダムにある原罪、そしてパウロの描写にある“肉性”の問題であることを聖霊によって深く照らされていたので、イザヤのように驚愕し、畏怖し、言葉を失い、涙と
鼻汁が洪水のように溢れてきた (イザヤ6章)。
翌週の洗礼式までに一週間あり、ある兄弟が心配して「もう少し洗礼は先に延ばした方が良いのでは…」と話しに来てくれた。私は聖書から「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言している
の で す。」( ヨ ハ ネ 5章 )、「御覧なさい。水があります。私 がバプテスマを受けるのに、何か
差し支えがあるでしょうか。」そこでピリポは言った。「もしあな たが心から信じるならば、よいのです。」(使 徒8 章) と 説
明 し、「私はイエス・キリストを心の底から信じているから大丈夫!」と 逆に説得したことを覚えている。
+
■天地造りし神は
翌週、クリスマスの聖日に洗礼式があった。その年は二十人近くが洗礼を受けたリバイバルの年であった。私は誰にも相談せずに洗礼を受けた。両親は下宿のおばさんを通して後日知ることとなった。洗礼式の日の夕方、夕日がなんとも美しかった。教会からの帰
り道、その夕日を背中全体に受け、神さまがわたしを祝福してくださっているように強く感じた。
心のうちには聖歌480番が響いていた。
「天地造りし神は、人をも造り変えて、正しく聖き魂持つとならしめたもう。」
私は、アダムにある原罪、パウロ の描く肉の性質をきわめて深刻に意識していた。聖霊が照らしてお られたので、死者を生かす神、肉
の性質にどっぷりと浸かっている 存在をよみがえりの御霊によって 生かしてくださる神、古い創造秩
序に属する私を新しい創造秩序の 中に再創造してくだる神への信仰 に懸けた(ローマ8章)。
2017年12月22日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―D蚊を殺すこと、人を殺すこと」
+
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。
クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。
このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
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ここ数回、私の求道期を回想している。前回は、私たちの胸の奥に生まれたときから潜んでいるもの、すなわち「原罪」について考えた。私は自身の経験から、聖霊の最も重要な働きのひとつは「原罪」を照らす働きではないかと考えている。このことと関連し、ひとつのことを思い出した。
+
■ニーチェ著『ツァラトゥ ストラかく語りき』
関西学院大学にはたくさんの思い出がある。そのひとつは哲学者ニーチェとの出会いである。一般
教養科目で選択したのが「哲学」であった。その時、「哲学」の津田教授はニーチェの専門家ということであった。この講義を機縁に、ニーチェの著作を読むようになった。やがてニーチェの主著『ツァ
ラトゥストラ、かく語りき』は私
にとってバイブルのようになっていった。この本の綴り糸を解いて、バラバラにし、Gパンの後ろポケットに入れて、時間を見つけては読み耽った。
「神なき人生に生きる強者としての人間」―生命のない状態から無限の時間の中で、単純な生命体が生まれ、それは陸に上がり、やがて二本足で立ち、類人猿は人間へと進化していった。しかし、この人間もまた進化途上の存在であり、やがては“超人”へと進化す
る。このような無神論的な世界観、進化論的な人間観は、当時の私にとって大変魅力あるものであった。
あるときに、「青白い犯罪者」の章に差し掛かった。その一節に「しかし、思念と行為は別ものである。それと行為の表象とはなおさら別ものである。それらのあいだには
因果関係の車輪はまわっていない。」この個所を読んだとき、無神論と進化論の本質を垣間見たような気がした。神なき世界とは道徳のない世界である。進化の世界は弱肉強食・適者生存・突然変異の世界である。
「殺意」と「殺人の行為」と「殺人の結果」とはなんらの因果関係なきものとしたら、神なき・進化の世界において「蚊を殺す」と「人
を殺す」ことの間には差異はない。
アウシュビッツのユダヤ人虐殺も、南京虐殺も、広島・長崎の原爆投下も同じ次元の問題なのか、と愕然としたのである。殺意を抱いた人間と殺人の行為を犯した人間と殺害された人間の現実との間に、“因果関係の車輪が回っていない”としたら、神なき・道徳なき・責任も裁きもない世界になってしまう。
+
■良心は裁きを知っている
聖書においては、宇宙に「天体の運行法則」があるように、人間の心の奥底には「道徳法則」が存在する。被造物の冠である人間は道徳的な存在者、人格をもつものとして造
られた。これらは、被造物世界の背後に、創造者であり、道徳的な人格者である神の存在を示している。
人間はなぜ人間を殺戮して平然としておれないのか。それは人間の心の奥底には善悪を判断する“良心”があり、それは聖い神の義なる審判を知っているからである。しかし、人間はなぜ時に血に飢えた獣のよう
に悪辣になれるのか。それは、アダムにおける“原罪”ゆえである。全人類はアダムにあって罪を 犯した。そのことにより、全人類
は神の御前に罪責ある者となり、 罪と腐敗の性質の中に生きるものとなった。
+
■私たちの肉性を反映する鏡
聖書の視点からみれば、アウシュビッツも、南京も、広島・長崎も、人類に普遍的に存在するア
ダムにある性質に起因するものである。この世界にあるあらゆる悪は私たちの“肉の性質を反映する鏡”である。その意味で、アダムにある私たち全人類は断罪されるべき存在であり、ゴミのように火の池で滅ぶべき存在である。私たちはこのことに留意すべきである。
実に、キリストにおいて、私たちの古きアダムの性質は断罪され、絶滅させられたのである。では、私たちの現在の“生”とは一
体何であるのか。それは、キリストにあるよみがえりのいのちによる“生”であり、新しい創造の端緒である。
ドストエフスキー著『悪霊』の 準備ノートにこのような一節があ
る。「キリストに出会ったことのない人は、いまだ生きたことのない人である」聖霊は、私たちの“肉”性に十字架における断罪の
原理を適用し、死臭を放つ私たち の存在をよみがえらせるようにして生かされるのである(ローマ8・9―11)。
2017年12月21日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―C自分の胸の底に生れた時から潜 んでいるもの」
+
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。
このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
+
前回は“氷点”を照らし、溶かすお方としての聖霊について考えた。この“氷点”とは聖書で言う「原罪」を意味する。昨年の夏、『現代聖書神学辞典』の五つの論稿を依頼された。その中のひとつ
が「罪」であった。
+
■夏目漱石著『こころ』
十九歳のとき「神さま、あなた が本当に生きておられるのでした ら、私の罪がどのようなものなの かを、教えてください」と祈っ
た。罪を悔い改めて、私の罪の身 代わりとなって刑罰を受けてくだ さったイエス・キリストを信じて
クリスチャンになりたいのだが、 自分の罪が神さまの前にいかなる ものであるのか分からなかった。そのような時に、文学書や哲学書
はいろいろと助けになった。夏目 漱石著『こころ』の中に「私の胸にはその時分から時々恐ろしい影 が閃きました。初めはそれが偶然
外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。
然ししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から
来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるものの如くに思われ出して来たのです。私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。」とある。
この小説はおもに、主人公と先生、友人K、下宿屋をしている未亡人とその娘さんの四人が登場してくるストーリーである。善人である先生の「こころ」のうちに暗い影があ
り、それが先生を苦しめ、やがては自殺に追い込む。その構成は「自分の胸の底に生れた時から潜 んでいるもの」を解き明かすかた
ちで展開していく。「その感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたい。人に鞭たれるよりも、自分で鞭つ可きだ。自分で自分を鞭つよりも、自分を殺すべきだという考が起ります」と続く。
祈り始めてから、しばらく後のことである。聖霊はあらゆる機会を生かして私の心の奥底を照らしてくだ
さり、私もまた「道を歩いている 時、知らない路傍の人から鞭うた れたい」と思うようになってい
た。先生は、“善人”だと思って生 きていた。しかし、その善人の「こころ」の中心部に“罪”という虫が巣くっていることに気がつ
く。聖書でいう“原罪”の問題で ある。すべての人間は、アダムにあって、神の御前に罪深い道徳的
腐敗と罪責の問題を背負って生まれてくる。
+
■「罪」という問題
「罪」という問題は、きわめて分かりにくい問題である。聖書において罪を表す用語は「不信仰・
反逆・強情・的をはずす」等、多
様性に富んでおり、それぞれがいくらか異なった側面を強調している。この当惑するような多様性の中から総合的定義を形成することが求められる。
しかし、罪とは一体何であるのか。罪の特徴を貫く共通した要素は、罪人が神の律法を成就することに失敗した、という考えである。旧約においては、多くは外的行為の問題である。新約においては内的な思いや動機が行為と同じくらい重要視されている。それゆえ、聖書においては罪
とは、悪しき行為や思いだけでなく、生来の内なる傾向の問題なのである。
さらに、多方面にわたる相違の中で特徴づけるひとつの潜在的要素として「肉 欲・自 己 本
位・神の排除」等の見解があるが、旧約の十戒、新約の一番大切な戒めから、神をふさわしく認めることが第一であ る。肉欲・自己本位
等、いかなる形であろうと神のみにふさわしい第一の場所に他のものを置くこと、つまり偶像礼拝こそが 罪の本質である。
+
■絶望の中の感謝の雄 たけび
燦々と降り注ぐ陽光の下に害 虫は存在しえない、布団干しのごとく滅菌されるのである。しかし
湿気た石の下には虫はうようよしている。バイ菌の天国である。私たち人間は神に向けて創造された存在である。神に心を閉ざし、その光を受け入れないとき、私たちの心は暗くなり、欲望のうごめく世界とな
る。
神を神として崇めず、感謝もしないとき、その思いは空しくなり、その「こころ」は
暗くなる。漱石は、「自分の胸の底に生 れた時から潜んでいるもの」を洞察し、見事な小説を書き上げた。その「人間に対する深い
洞察」には驚嘆させられる。ただ 解決策が示されていない。しかし、聖書にはその絶望の只中で感
謝の雄たけびがある(ローマ7・24-25)。
2017年12月20日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―B“氷点”を照らし、溶かすお方としての聖霊」
+
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
+
前回は“生”の意味を照らす聖
霊について考えた。その意味で真 理の御霊(ヨハネ16・13)は、私 たちの生・死・永遠を照らすお方である。
+
■罪について
本田弘慈師の「ここに愛がある」という伝道映画を契機に教会 に足を踏み入れた私であった。誘われて毎週日曜朝に礼拝に集うよ
うになった。讃美と祈りと証しに は、聖霊の臨在があり、身も心も 洗われるひと時であった。「自分
もクリスチャンになりたい」と心
から思った。しかし「悔い改めて、福音を信ぜよ」(マルコ1・15)と語られる。クリスチャンにはなりたいのだが、自分はそれほ
ど罪人であると思わなかった。自分の身代わりに神の御子キリストが刑罰を受けなければならないほど罪深いとは思わなかった。自分
が地獄で永遠に刑罰を受けなければならないほどの罪人とは思わなかった。自分の罪の深さが分からないから、十字架を自分との深い関わりの中で受けとめることができなかった。それで「神さま、もしあなたが本当に生きておられるのでしたら、私がどれほど罪深い
罪人であるのかを教えてくださ い」と祈った。初めての真剣な祈りであった。
夏となり、KGK(キ リスト者
学生会)のキャンプに誘われた。 ある夜、主事であった片岡伸光師は、ニーチェを愛読する無神論者
で、ダーウィンを信じる進化論者の私を根気よくカウンセリングしてくださった。私は心の中にあった「キリスト教」に対するあらゆ
る疑問を強く問いただした。おそ らく、主事は「この青年が救われ るのはかなり難しいだろう」と思われたのではないかと思う。しか
しそのとき私の心には大きな変化が起きつつあった。疑問は解けていなかったが、なぜか心はいたく虚しくなっていた。
+
■義について
最後の夜、キャンプ・ファイヤーがあり、証しのときがあっ た。あるクリスチャンが涙ながら に自分の心の罪の告白をし、心の
底から悔い改める姿を見た。その瞬間、聖霊は私に触れられ、そし
て心の奥底を照らされた(ローマ8・27)。私は“罪”を刑法上の事柄と考え、「自分はイエス・キ
リストに十字架で身代わりに死んでもらうほど、罪人ではない」と考えていた。しかし、その涙なが らの証しは、私の心を打ち、「ク
リスチャンは、表面上の罪のみを 問題にしているのではない。聖い 神の前に、心の奥底まで照らさ れ、聖く正しく、真実に生きんと
している人たちなのだ(ヘブル4・13)」と教えられた。その夜 一大決心をした。「私も、このクリスチャンのように一生涯、神に
渇き、聖書を食して生きていこう」と。
+
■裁きについて
その後、大学生の日常に戻っ た。講義を受け、油絵を描き、 マージャンを打ち、夜半に「無為
な一日を過ごした」ことを後悔し、酒を飲み床についた。ただ寝床で「聖書だけは読んでから寝よう」そう決めていた。渇ききった
心に御言葉の種は蒔かれていっ た。私は、殺人とか姦淫とかの刑 法上の罪は犯していないが、心の
奥底に、殺人の種、姦淫の種が潜むことを照らされた。もし、右の目が、あなたをつまずかせるな
ら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失って も、からだ全体ゲヘナに投げ込ま れるよりは、よいからです(マタ
イ5章)。神の聖い方であるこ と、その峻厳を教えられた。私の内に潜む罪は私の“生”を破壊する力のみならず、永遠の苦しみを
もたらす最も憎むべき元凶であると知った。
三浦綾子著『氷点』の中で、主人公の陽子は遺書をしたためている。「私は人を殺したことがあり ません。しかし法にふれる罪こそ
犯しませんでしたが、考えてみま すと、父が殺人を犯したというこ とは、私にもその可能性があることなのでした。自分の中の罪の可
能性を見出した私は、生きる望み を失いました。いま陽子は思いま す。一途に精一杯生きてきた陽子
の心にも、氷点があったのだとい うことを。私の心は凍えてしまい ました。陽子の氷点は『お前は罪人の子だ』というところにあった
のです。」私も、心の内奥を照ら され氷点を見出した。そこで凍て
ついている自分自身を見出した。しかし、聖霊は凍てついている私を照らしだすのみならず、そのよ うな私自身を溶かしてくださった。
2017年12月19日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―A私たちの“生”を照らす光としての聖霊」
+
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
+
前回は、私の“実存的な苦境”を
“不安に満ちた十三時間の登攀”の 類比の中で語った。私には“生”へ
の大いなる問いがあった。この夏、このテーマで老人ホームからキリスト教講話を依頼された。
+
■神の最高傑作として の人間
日本では一般的に、本居宣長
の“カミ”についての有名な定義「何にまれ、尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳のありて、可
畏(かしこ)きものをカミとはいうなり」がある。しかし聖書はそ れらが神の作品であり、神ご自身 ではない。神の作品ではなく、創
造主である神ご自身を崇敬すべき と教える。
もう一つの考え方として、「神はいない」とする無神論や「人間
は生命のないところから単純な生命が生まれ、無限の時間の中で少しずつ進化してきたもの」とする 考え方がある。そして人間はカル
シウムや鉄分や水分等の物質から 成るものであり、物質として計算すると約千円の値打ちしかない存
在であり、偶然に目的も意味もなく生まれ、死んでいく存在である。人間の一生とは、「地下室の 裸電球を取り換えようとして、手
を滑らせて、電球を落としたよう なものである。それは落下し、コ ンクリートの地面に叩きつけられ
て、“グシャ”と潰れて終わる。 死後には、天国も地獄もない。消滅して終わる」という無神論的・ 進化論的な人生観がある。
しかし、聖書には私たち人間が 被造物の中で最高傑作の作品であ ると書かれている。「神は人をご自身のかたちとして創造され」
た。神さまと人格的な交わりの中で生きるように創造された。山や岩は物質でありいのちがない。草や木はいのちがあっても魂がな
い。虫や動物は本能があっても神
と交わることがない。人間だけが、神の人格に似せて造られ、神と人格的な交わりの中に生きるように造られた。このことが、世界中に無数の宗教が存在する理由である。この宗教心、神を畏怖し、神との交わりに渇く心の“真”の
目標は、被造物の冠たる人間と創造主との人格的な交わりである。
御父と御子のように、“アバ、父よ。我が子よ”と我と汝の深い人格的交流の中に生きるのである。
+
■“生”の意味と価値
また、主は「栄華を窮めた ソロモンでさえ、このような花
一つほどにも着飾ってはいませんでした」と、私たち人間の “生存”そのものに至高の価値 があり、私たちの“生涯”は神
が摂理をもって導かれる至福のドラマであると教えている。人 間の一生は、神が御霊により、導かれ、その瞬間瞬間を神の召
しと人間の応答によって紡ぎあ げられていく高価な“西陣織”の着物のようである。人生とは、私たちひとりひとりが主役
のドラマである。私たちひとり ひとりの上にスポットライトが 当てられていて、あたかもハリ
ウッドでオスカー賞をとるようなドラマを生きることを神は期待 しておられる。
ある人は、「自分の人生はいたって平凡である」と言われるかもしれない。しかし、本当に素晴らしい映画というのは、きわめて平凡な
ストーリーである。その中にこそ、人々が求めている普遍的な メッセージが隠されている。私たちの“生”を通してのメッセージ
とは何か。その固有性と多様性のゆえに、外形的にそれが何であるかを特定することはできない。しかし本質的・根源的には言明でき
る。それは「キリスト」である。「生きることは、キリスト」それ が絶対的・本質的な基準である。
+
■平凡な“生”を照ら す光
アラン著『芸術に関する101
章』に「芸術家は、ありあまるほどいる。美術であれ、音楽であれ、まずまずといった段階には、すぐに到達するものである。偉大
な彫刻とか深遠な彫刻とかは、まったく、人を寄せつけない。だが、平凡な彫刻ならば、誰にでもすぐ手を伸ばせるところにある。
文章を書くということでも、たくさん読み、うまく真似をするだけで、十分である。こうした作品は、すべて、うまく書かれ、うまく描かれ、うまく彫られている。
そのくせ、中見が空っぽなのだ」 とある。
学生時代にこの本を読んだとき、夜空にきらめき輝く星のような芸術家に比べて、自らの存在と生涯の平凡さに打ちのめされ
た。しかし、聖霊は私の平凡な “生”を照らす光となった。
2017年12月18日
「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか ―@溺れる者、藁をも掴む」
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『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、幕末から明治へ、激動の時代を生きた内村鑑三が、自らの魂の変容を記した記録である。クリスマスとは、約二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけにイエス・キリストが誕生された出来事であるが、同時に未信者であった者がひとりひとりの心の中にキリストを信じて受け入れる出来事もまた、ある意味で“個々のクリスマス”であるといえる。このクリスマスの季節、ひとりの無神論者の青年がどのように導かれて、キリスト教信仰をもつに至ったのか、興味をもっていただけるのではないか。そう思い。「わたしは如何にして、クリスチャンに導かれたのか」の小さな証し(Revival
Japan 2009-2010年度連載記事『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』の一部)を、クリスマスまでの一週間のシリーズでお分かちしたい。
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■君は何故、クリスチャンに
この夏、高校時代の同窓会があり、友人からひとつの質問を受けた「ぼくは、キリスト教系の幼稚 園に通ったが、それでクリスチャ
ンになったわけではない。君は、キリスト教系の大学に行って、クリスチャンになった。その理由は何なのだ」と。この問いを受けた
瞬間、十九歳の回心の時期にタイ ム・トラベルしたような錯覚をもった。三十六年前の、あの時の
自分に戻った。目標であった大学合格を果たした。しかしその先の目標を喪失していた。生きる意味と目標を求め格闘していた。経済学部であったが、私の関心は芸術であったり、哲学であったりし
た。そんなある時、ヨーロッパを 三週間旅行する機会が与えられた。主として、美術館や公園巡りであった。イタリア・スイス・ド
イツ・ベネルクス三国・フランス・イギリスをまわった。そし
て、イギリスのハイド・パークを散策しているときに、ホテルに帰る道を見失った。ホテルの名前も住所ももっていなかった。似たよ
な建物が立ち並んでいたが、これもあれも宿泊のホテルではなかった。夕闇がせまってきた。「もう日本に帰れないのではないか」という不安がもたげた。必死になって探しかなりの時間が過ぎた。そして真っ暗になる直前に、そのホテルに辿り着いた。「助かった」と思った。しかし、そのときの“小さな経験”は、帰国後
の私の心に“大きな影響”を残し た。
+
■不安に満ちた13時 間の登攀
最近読んだハーヴァード大学 教授ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』の解説に
似た経験が記されていた。ジェームズは、一八八九年の 七月、ギフォード講義のために
ヨーロッパへ出発する前の幾日かを利用して、再びアディロンダック(ニューヨーク州北東部にある広大な自然公園と山脈)へ出かけたが、そのある日の午後、山中で『道に迷い、散歩のつもりであったのが、食べ物もなく不安に満ちた十三時間の登攀に変わってしまった』ために健康状態が急激に悪化し、意気は沮喪し、計画は挫折した(こ
のときに発した心臓の病が、その後の病弱の原因となり、ついには死を招くに至った)。」
+
■私の“生”そのものが
このジェームズ博士の経験 は、私の「なぜクリスチャンに なったのか」の契機説明の例証
として使える。ヨーロッパの各
地の散策は、アディロンダック自然公園の山脈登攀に例えられる。その最終地のイギリスで道に迷い、不安に満ちた時間を過ごした小さな経験は、帰国後に「実
は、私の“生”そのものが、“宇 宙の中で迷子”の状態であり、“不安に満ちた十三時間の登攀” なのではないか」と切実な実感を
もって受けとめ、そこから抜け出せないでいた。そのような実存状況の中で、心の中でうめき、叫んでいた。この時期に、近くのキリ
スト教会で映画集会があり、はじめて教会の門をくぐり、そしてイ エス・キリストを信じた。「私は 苦しみの中に主を呼び求め、助け
を求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助 けを求めた私の叫びは、御耳に届 いた」(詩
18・6)。『溺れる者、 藁をも掴む』の言葉通りである。
「君はなぜ藁を掴んだのだ」と尋
ねられるかもしれない。その問いは簡単なようで、その答えはそれ
ほど単純なものではない。答えに窮するのである。しかし、溺れて死にそうになっている者ものにとって、死に物狂いで“藁”を掴む他
に選択肢はないのである。それで「助かれば良し、溺れ死んでも仕
方なし」である。ただ、私にとって、その“藁”が、実存的な苦境から引き揚げる命綱となったので あり、私に生きる意味と目標を授
けるものともなったのである。「私にとっては、生きることはキ リスト、死ぬことも益です」(ピリピ1・21)の言葉通りである。
キリストは、私たちの救い主であ ると同時に、生きる意味であり、基準であり、目標である。
2017年12月17日
新約聖書ヨハネによる福音書01:06-18(MP3
/ YouTube)「Cur Deus Homo(クール・デウス・ホモ)― 神は何故、人となられたのか? ―Bことばは人となって、私たちの間に住まわれた―光が、やみの中から輝き出よ」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今朝は、アドベントの第三週です。
さて、今年は12/23ノクリスマスイブ燭火礼拝に、高槻の教会に招かれていますので、それに向けての準備も兼ねてアドベントの礼拝期間を過ごしたいと思います。
高槻でのクリスマスイブ礼拝の説教は「神は何故、人となられたのか?」というテーマでお話しする予定となっています。
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では、ヨハネによる福音書の1:1-18と3:16を交読しましょう。今朝は、特に 1:6-18から学びましょう。
ヨハネ1章は創世記1章のこだまであると話してきました。振り返りつつ見てまいりましょう。
創 1:1
初めに、神が天と地を創造した。 1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
ヨハ 1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神であった。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光はやみの中に輝いている。
今朝の箇所、1:9には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」、1:14
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」、1:18
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。
キリストは、三位一体の神であり、人性を帯びてクリスマスにマリヤを通してお生まれになりました。そのことにより、「人とはいかなる存在なのか」を明らかにされました。わたしたちはどう生きれば良いのか、を示されました。わたしたちは、本質的・原理的には「生きることは、キリスト」であって良いのです。すべての基準はキリストにあります。真の人間の生き方の本質は、キリストにおいて明らかにされています。
また、キリストは「神がいかなる方なのか」を明らかにされました。神とはどのようなお方なのでしょうか。だれも神を見た者はありません。しかしわたしたちはキリストを見ることにより、神とはいかなる方であるのかを本質的かつ具体的に知ることができます。
1:16
には「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とあります。わたしたちがキリストを信じるということは、土の器の中に、宝を入れるようなものです。空の燭台にローソクを立て、灯火をつけるようなものです。わたしたちが、キリストを信じ、クリスチャンとして生きていくとき、わたしたちの存在、生活、人生の中に、神の「恵みとまこと」が溢れます。また満ち溢れるようになります。罪と肉と死と滅びの闇の中にあった、存在・生活・人生に、Uコリ4:6にあるように
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださいます。4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
わたしたちは、無価値な、朽ちて果てる、弱い、ちりから造られた存在ですが、そのような土の器なるわたしたちを通して、神の「恵みとまこと」が溢れます。わたしたちは罪と肉と死と滅びの闇の中にあった者ですが、今や空の燭台には、キリストというローソクが立てられ、点火されて、光を放つ存在とされました。神さまを知らない闇の中にさまよう人たちの間で、キャンドルとなって輝いています。
今、昔学生であった頃、関西学院大学では、世界的に有名なグリークラブという男性合唱団が、クリスマスの時期にはキャロリングといって、ローソクを片手に、訪問してくれて、クリスマスの歌を歌ってくれたことを思い出します。
先日、おじさんの告別式があり、神戸に行ってまいりました。
そこで、別のおじさんから、ゲートボールで、わたしの高校時代の同級生に出会ったことを知らされました。
それで、わたしのことを覚えてくれていた感謝のしるしとして、小さな著作物をひとつ差し上げることにしました。
その中には、無神論者であったわたしが、クリスチャンとなったいきさつが書いてありました。
クリスマスといっても、なかなか福音を伝える機会というものはないものです。
それで、ひとつの機会、ひとつの接点を神様が与えてくださったのではないかと受けとめ、証しの小冊子を差し上げることにしたのです。
「英文翻訳術」という本があり、その中で安西先生は「翻訳のノウハウを伝えるのに、適当な方法がなかなかみつからない。翻訳という作業は、とにかく非常にこみいった、複合プロセスである。いろいろなレベルの判断を同時にくだし、総合的、多角的に処理してゆかなければならない。要するに、“出たとこ勝負”的な要素が非常に多い。それで、結局のところ、徒弟制度的な実地訓練で、つまりは見よう見まね、経験とカンでわかってもらうより仕方がないということなる」と書いてあった。
「福音伝道術」というものがあるとすれば似たところがあるかなと教えられた。
つまり、何か飛び込んできた機会や接点が見えたら、「ひょっとしたら、神様が与えてくださった伝道の機会、証しの機会かもしれないと受けとめて、何かできることを考えてみる。そしてそれを実行してみる」という“出たとこ勝負”的な要素が非常に多いのではないかということである。
わたしの好きな聖句に、伝道者の書がある。
11:4
風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。
11:5
あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。
11:6
朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。
チャンスがあれば、「ひょっとしたら、神様が与えてくださった伝道の機会、証しの機会かもしれないと受けとめて、何かできることを考えてみる。そしてそれを実行してみる」という“出たとこ勝負”に出る、ということである。
メリークリスマス!、ハレルヤ!
2017年12月12日
落穂抄「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」―母校関学の勝利から教えられる
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11月19日の関西学生リーグ最終戦で、関学は7対21と立命に完敗。平均体重差10kgでクォーターバックをサックされ、健脚の選手には走り回られた。
二週間後、12月3日に開催されたアメリカンフットボールの大学日本一を決める甲子園ボウル出場をかけた西日本代表の決定戦が行われた。「どうせ負けるんだろう」と、最初だけ見て、テレビを消すつもりで視聴した。それが、関西学院大が立命館大に34対3で圧勝し2年連続51回目の甲子園ボウル出場を決めてしまった。体力で劣る戦力を、戦術でカバーした見事な采配であった。また、その戦術をこなす選手たちの日ごろの練習内容の豊かさを垣間見せられる好試合であった。
その戦術を少し紹介すると、最初の攻撃を、わざと?
クォーターバック・サックさせ、相手に「関学、たいしたことなし、前回と同じだ」と油断させ、その直後に正面からの攻撃を避け、横にショート・パスを流し、その選手のために「通路」を開ける味方の選手が二人、防せごうと走りこむ選手とぶつかり「道」を切り開く。まるで将棋の「香車」を活用した戦法のようであった。ここかしこに見る戦術はまるで、孫氏の兵法のようであり、「体力差」において勝る相手を知略・戦術によって圧倒する好試合だった(立命の人たちには申し訳なく思う)。
孫氏の兵法の『孫子・謀攻』に「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し(敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない。敵情を知らないで味方のことだけを知っているのでは、勝ったり負けたりして勝負がつかず、敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける)」とある。
類似の事例が聖書の中にある。少年ダビデと巨人ゴリアテの戦いが「第一サムエル記」第17章に記されている。ペリシテ軍はエフェス・ダミムに陣を敷き、イスラエル軍はエルサレムの南西にあるエラの谷)に陣を敷き対峙した。ペリシテ陣営からゴリアテという巨漢の戦士が現れると「勇者を一人出して一騎討ちで決着をつけようではないか。もしお前たちが勝てばペリシテはお前たちの奴隷となる。ただし俺が勝てばお前たちはペリシテの奴隷となれ」と40日間、朝と夕の2回にわたってイスラエル兵たちを辱めた。しかしイスラエル兵はゴリアテに恐れをなし、戦いを挑もうとする者はいなかった。
羊飼いのダビデは、イスラエル軍に参加していた兄に食料を送り届けるために陣営を訪れていたが、この話を聞くと憤り、イスラエル軍を率いていたサウルにゴリアテの退治を申し出た。サウルは初めは難色を示したが、他に手段がなかったため、ダビデの出陣を許可した。サウルは自分の鎧と剣をダビデに与えたが、ダビデは「慣れていないので歩くこともできないから」とそれらを身に着けず、羊飼いの武器である杖と、投石器と、川で拾った滑らかな5個の石という軽装でゴリアテに挑んだ。
ゴリアテは「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と嘲ったが、ダビデは「お前は剣と槍を頼りに戦うが、私はお前がなぶったイスラエルの戦列の神、万軍の主の名を頼りに戦う。戦いは剣と槍の力で決するものではないことを人々は知ることになるだろう。これはイスラエルの神の戦いである」と返答した。これを聞いたゴリアテはダビデに突進した。ダビデは袋の中から1個の石を取り出し勢いよく放つと、石はゴリアテの額に命中し、うつ伏せに倒れた。ダビデは剣を所持していなかったため、昏倒したゴリアテに近寄って剣を奪い、首をはねて止めを刺した。
ペリシテ軍はゴリアテの予想外の敗退により総崩れとなり、イスラエル軍はダビデの勝利に歓喜の声をあげた。イスラエル軍は敗走するペリシテ軍を追って、ガテやエクロンまで追撃して勝利を収めた。
巨人ゴリアテのような相手との戦いに思える「日本宣教」であるが、神様から知恵を与えられて、チャレンジする機会に満ちている時代であるともいえる。苦境に陥った時こそ、神様から奇跡的な知恵をいただける時かもしれない。そう思う。
2017年12月11日
落穂抄「小さくて、私的なことが大切 !」―カズオ・イシグロさん(63)ノーベル文学賞受賞おめでとうございます!
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くすしくも、わたしと同い年の63歳。わたしはあと一ヶ月で64歳となるところです。今回を契機に、代表作「日の名残り」や「わたしを離さないで」の映画を見た。記念講演の中で、「音楽や映画などを通じたささいな感情が重要な転機になったこと」、「小さくて、私的なことが大切だ。突き詰めれば小説とは個人から個人へ感情を伝えることだからだ」と話されたことに教えられた。
昔、TCTSでのI師の説教学の講義で、「神学では、マクロ・コスモスの視点から包括的・客観的な学びをするが、そのままでは会衆の心に届く説教にはならない。説教では、客観的な神学に根差しつつ、神学のある主題の、ある局面の、ある断片の一側面、ミクロ・コスモスから主観的な言葉をもって語らなければならない」というようなレクチャーを受け、神学と説教について対比的な整理ができたように記憶している。
ある牧師夫人は「説教とは、つまるところ、“み言葉プラス証し”といえます」と語られた。わたしも、そのような“切り口”で、本質的・普遍的な福音のメッセージを、小さく、私的に、個人から個人へと感情を伝えるという形式でメッセージを分かりやすく分かち合いたい、そう願わされた。
2017年12月10日
新約聖書ヨハネによる福音書01:03-05(MP3
/
YouTube)「Cur Deus Homo(クール・デウス・ホモ)― 神は何故、人となられたのか? ―A光はやみの中に輝いている―すべてのものは、この方によって造られた」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今朝は、アドベントの第二週です。
さて、今年は12/23ノクリスマスイブ燭火礼拝に、高槻の教会に招かれていますので、それに向けての準備も兼ねてアドベントの礼拝期間を過ごしたいと思います。
高槻でのクリスマスイブ礼拝の説教は「神は何故、人となられたのか?」というテーマでお話しする予定となっています。
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では、ヨハネによる福音書の1:1-18と3:16を交読しましょう。今朝は、特に 1:3-5から学びましょう。
1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
+
先週は、1:1-2を開きました。
ヨハ 1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
このヨハネによる福音書は、非常にユニークな福音書です。
というのは、マタイがアブラハムから、マルコがイザヤ書から、ルカがザカリヤとエリサベツから
ヨハネは、創世記の最初からが意識されている。このことは、ユダヤ人クリスチャンのヨハネが、ユダヤの伝統と文化、ユダヤ教の衣を脱ぎ捨てることができていたことをも意味している。
+
創1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
ヨハ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2
この方は、初めに神とともにおられた。
1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
+
ここにみるものは、創世記からのこだまであり、創世記とヨハネ伝のハーモニーである。
1-2では、イエス・キリストは永遠の神、三位一体の神
3-5では、イエス・キリストは創造の神、啓示の神
+
1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
すべての存在の中心、すべての主権、無からの創造―前もっての材料なし
宗教的多元主義の時代の今日、これは、重大な真理―ヒンズー教、仏教は被造物との区別希薄
聖書の神―神と世界の区別、神との経験は、人格的であり、アニミスティックなものではない。
+
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった
このいのちは、人格的ないのちである。
ロゴスはいのちの与えぬしである。
すべてのいのちは、キリストから派生する。
ヨハネがみたいのちは、光の視点からみつめられている。象徴的表現である。
+
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
これは、創世記1章のこだまである。
この被造物宇宙は、キリストの偉大さを宣言している。これまで伝統的に「一般啓示」光とみられてきた―創造物、良心、歴史。
そして、いのちそのものとしての光は、イスラエルの歴史、神のことば、そして受肉
御子は光そのもの、神の言葉、また一般啓示は光の反映
+
詩 19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。
ロマ
1:20
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる
+
罪と悪は、このキリストに打ち勝つことはない。
黙
4:8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
4:10
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
+
自然は、敬意を抱き、保持されるべきものである。
キリストの作品として、種子、森、土壌、河川、海の汚染問題、キリストの作品を汚す行為、環境問題―信仰に深く関わる問題
キリスト教国アメリカの環境からの脱退―神のみこころにかなうものかどうか。アドベントの時期、米国と米国のキリスト教会のためにもとりなしてまいりましょう。
2017年12月08日
「エルサレムを首都に認定」トランプ氏が正式表明―の報に接して思うこと
+
アドベントの季節、ルカ2:14 「いと高き所に、栄光が、神に
あるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
シャロームの都、平和の町、エルサレムにまた争乱の兆しが
懸念される出来事が起こりました。その引き金の一部、その
騒乱の片棒、その責任の一部が「誤った聖書解釈法」とそれに
根差す運動にあるというのは、悲しみであり、心の痛みです。
+
「エルサレムを首都に認定」トランプ氏が正式表明―の報に接して、米国では「福音派の保守派」がこの動きを強く推進する力となった、とのことである。
「福音派の保守派」という表現に違和感を抱いた。この動きを推進した人たちは、わたしはキリスト教を誤解している部分があるように感じている。わたしはより正確には「福音派保守派の中の、ディスペンーション主義聖書解釈法に立つ、キリスト教シオニズム運動に共鳴している人たち」と定義できるのではないかと思う。福音派保守派の大統領であったカーター大統領の取り組みに触れた論文がある。アマゾン書店キンドル版で120円で読むことができる。エルサレム問題等を含む「健全な聖書解釈法」を示す内容となっている。
その一部を下記に引用する。関心のある方は、下記の『福音主義イスラエル論』安黒務著、を読んでいただきたい。また、その論文紹介の講演も参考にしていただきたい。
【一部紹介】
この課題への建設的取り組みにおいて、米国大統領ジミー・カーターとイスラエル首相イツハク・ラビンの足跡にも注目すべきであると思う。キャンプ・デービッドの合意、エジプト=イスラエル平和条約をもたらした米国元大統領のジミー・カーターは、イスラエルの政策の是非について沈黙が支配するアメリカの言論界で、あろうことかイスラエルの占領政策を正面きって批判し、イスラエルがパレスチナの領土を占領しつづけ植民地化していることこそが、中東和平を妨げる最大の要因…。イスラエルが占領地で行っている入植地や分離壁の建設をアパルトヘイトと呼んで非難…」した。その後のカーター・センターの取り組みも同じ線上で注目される事柄である。ジミー・カーター著『カーター、パレスチナを語る―アパルトヘイトではなく、平和を―』(晶文社、2008年)。
+
オスロ合意にこぎつけたイツハク・ラビン首相は、対アラブ関係において「鉄の壁」を越えようとした数少ない政治家の一人であった。しかしポスト鉄の壁時代の到来を期待させた和平への流れは、ラビン暗殺によって突然断たれる形となった。レア・ラビン首相夫人は弔問に訪れたリクード党首ベニヤミン・ネタニヤフの握手を拒んだ。彼の過激な演説や行動が右派を扇動し、夫の暗殺を招いたという認識からである。実際に暗殺犯イガル・アミルは政治的・宗教的極端主義の温床とされるバルイラン大学の学生であり、1967年戦争の勝利以来の熱狂的メシアニズムに影響されたシオニストであった。森まり子『シオニズムとアラブ―ジャボティンスキーとイスラエル右派―』(講談社、2008年)
208頁。
+
シオニズム運動に属し、後に離脱したユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは、Israel and the World (
New York: Schocken Books, 1973), p.248
において「シオニズム運動は国家的エゴイズムか、国家的ヒューマニズムのどちらを選びとるのかを決めなければならない。前者を選び取るなら、その民族は真に超越的な使命に位置づけられることなく、浅薄なナショナリズムに降りかかる運命を被ることなる。しかし、もしヘブル的ヒューマニズムを愛することを選び取るなら、人類に対して語りかけ、人類に貢献するものをもつ運命を授かるものとなりうる」と語りかけている。
+
わたしは、米国の大統領と米国また日本のキリスト教会には、カーター元大統領のようなスタンスをとっていただきたい。また、イスラエルの首相と国民、また世界に散在するユダヤ人の人たちには、ヘブル的ヒューマニズムを愛し、それを追求することにおいて「大きな暗闇を吹き払う小さな灯」であり続けてほしい。
+
【福音主義イスラエル論:
神学的・社会学的視点からの一考察】安黒務著
【論文紹介講演ビデオ】
https://www.youtube.com/watch?v=97Ft8tRLQO4&t=19s
2017年12月03日 新約聖書ヨハネによる福音書01:01-02(MP3
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YouTube)「Cur Deus Homo(クール・デウス・ホモ)― 神は何故、人となられたのか? ―@初めに、ことばありき―ことばは神であった」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
今日からアドベント、クリスマスを待ち望む季節に教会歴に入ります。
アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」のことです。
西方教会では、教会の1年は待降節から始まります。11月30日に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約4週間で、最も早い年で11月27日、遅い年でも12月3日に始まり、今年は、最も遅い、12/3に始まるアドベントです。
+
さて、今年は12/23ノクリスマスイブ燭火礼拝に、高槻の教会に招かれていますので、それに向けての準備も兼ねてアドベントの礼拝期間を過ごしたいと思います。
高槻でのクリスマスイブ礼拝の説教は「神は何故、人となられたのか?」というテーマでお話しする予定となっています。
ヨハネによる福音書を開きましょう。1:1-18と3:16です。
+
今朝は、特に 1:1-2から学びましょう。
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2
この方は、初めに神とともにおられた。
+
ヨハネは、特別な用語を使用しています。
イエス・キリストは「神のことば」であると。
この言葉は、1世紀の文化・哲学の背景と関係があります。
第一義的に、その関係は、旧約聖書とユダヤ教に関係があります。
ヨハネは、旧約聖書についての生きた知識をもっている読者を意識し、最初のことばは「はじめに」と書き始めます。
このことばは、旧約聖書の最初のことば、創世記1:1「はじめに神が天と地を創造した」が意識されています。
そして「神の言葉」もまた創世記1章にあらわれ、神の創造の行為において「神は言われた『光あれ』」と。
神の言葉は、神の創造の行為の中「神ご自身」です。
神ご自身が、力ある創造の行為をなし、解放のわざをなし、審判をなされます。
預言書においては、神の言葉は、「神の御思いであり、神の意志」です。
知恵文学等において、神の言葉は「知恵」において人格化されて語られています。
+
第一義的に、旧約聖書に根差しつつ、同時に当時のギリシャ世界、ギリシャ文化、ギリシャ語との関連も見受けられます。
ヘラクレイトスという哲学者は、宇宙の原理について語りました。
その背景において、ユダヤ人哲学者のフィロンは「ロゴス」について言及しています。
ギリシャ哲学においては、宇宙の秩序への参与に関連して「ロゴス」について語られます。
しかし、ヨハネは「ことばは肉をまとわれた」まとわれたと、神が人性をまとわれた。
神が人間イエスとなられた、と言明します。
+
イエス・キリストは、神の永遠性とわかちあっています。
イエス・キリストは、神と永遠におられた。
イエス・キリストは、神とひとつのお方です。
+
ヨハネは、ユダヤ人であり、旧約聖書の「厳格な唯一神信仰に根差しつつ、多神教のかたちを排斥しつつ、また単一神にも走らず」
絶妙の間合いで、「複数性を内包する唯一神信仰」を表明しています。
それは、たとえれば「ひと房のぶとう」のようです。粒は三つついているけれども、それはひと房である。
神は唯一であるけれども、御父・御子・御霊の位格的複数性を宿す唯一のお方である、ということです。
+
わたしたちは、このような三位一体の神さまがなぜ人性をまとわれたのか、このアドベントの時期、そのことをヨハネとともに深く思索させていただきましょう。
そして、その思索を通して、神さまのさらに深い御思いに触れ、神に栄光と感謝をささげるものとされてまいりましょう。
【ICIインフォメーション・メール
20171129号】
新しいビデオシリーズの紹介です―【高槻福音自由教会礼拝:「エペソ人への手紙」傾聴シリーズ】&【高槻福音自由教会版・信徒セミナー】ビデオ講演シリーズ
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新しいビデオシリーズの紹介です。関心のある方は
ご視聴ください。
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【高槻福音自由教会礼拝:「エペソ人への手紙」傾聴シリーズ】
https://www.youtube.com/watch?v=uE9dDEbeKBM&list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh
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【高槻福音自由教会版・信徒セミナー】ビデオ講演シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=wXRJ-tWZrEw&list=PLClE1DIlx0onWF2M0Y5IbbFVGrNe-SfZW
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高槻福音自由教会で、エリクソン著『キリスト教教理入門』(近刊準備中)をテキストとして使用しての「信徒セミナー」も12回を数えることとなった。残すところ「聖霊論」「救済論」「教会論」「終末論」の4回である。
わたしが、所属教派「日本福音教会(JEC)」とその神学教育機関「関西聖書学院(KBI)」のために、M.J.Erickson,”Introducing
Christian
Doctrine”の翻訳を始めたのは1999年であった。それまで神学校ではH.シーセン著『組織神学』が使用されていたのだが、より聖書的、より公同的、より今日的、より学問的に優れた内容を有するエリクソンの本に変えていたが、その時のテキストは洋書であった。英語の苦手な神学生のためにと、講義用資料として翻訳を開始し、「電子メール講義録」として編集していった。
それらがやがて「いのちのことば社」の目にとまり、「大は小を兼ねる」ということで、主著“Christian
Theology”を翻訳することとなった。ただ、わたしには「要約版”Introducing Christian
Doctrine”の方が、バイブル・スクールのレベルにある神学校や、教会における信徒対象の教理教育には適している」という思いがあった。
わたしは、翻訳刊行された、エリクソンの主著『キリスト教神学』を使って“組織神学”講義を教え続けたが、時間的要素と神学生の素養に配慮し、内容としては“要約版”の範囲で教え続けた。それはバイブル・スクールのレベルにある神学生にとって大変分かりやすい講義となってきたように思う。また、卒業した後に教え子たちが、赴任した教会で「信徒対象の教理教育」に取り組むときの大きな助けになっていると思う。
わたしにはひとつの夢がある。「日本のすべての教会において、要約版M.J.Erickson,”Introducing
Christian
Doctrine”をテキストとして、信徒対象の教理教育がなされたら、日本の教会の福音理解は真に豊かなものになっていくのではないか」という夢である。すでに多くの神学校では、エリクソンの主著『キリスト教神学』をテキストとして組織神学教育がなされて久しい。ここで、聖書のみを片手に理解可能な、要約版『キリスト教教理入門』(近刊準備中)が刊行されたら、「教会における信徒の福音理解を底上げし、キリストのからだなる教会の体力と健康を強化できるのではないか」という夢である。そしてそのことが、いわばベトナム戦争のように祖国統一のために戦ったベトコンのゲリラ戦のような長期に渡る持久戦にも耐えうる「神の国の武器、弾薬、食料、水等」の兵站を保証するものとなるのではないかという夢である。
三年前、「母校関西聖書学院を会場にして、日本福音主義神学会全国研究会議がなされたら…」という夢もかなった。そして、わたしのライフワークのひとつとしてのG.E.ラッド著『終末論』の翻訳と日本福音主義神学会神学誌『福音主義神学45号』所収論文「福音主義イスラエル論」(アマゾン書店キンドル版にて販売)の執筆させていただいた。この二冊は、わたしの福音理解の“核心”を表明している。そのことの故に、わたしは卒業以来36年間休むことなく奉仕し続けた母校の奉仕に区切りをつけることとなった。
そのような時に、大学生時代からの親友戸田隆兄から「無牧の教会を助けてくれないか」との相談があり、上記の「信徒セミナー」が企画立案された。それは、わたしの夢を現実にするものと思えたので快諾させていただいた。
本来は、要約版『キリスト教教理入門』(近刊準備中)が刊行されてから、セミナービデオを販売促進も兼ねて公開していこう考えていたのだが、出版社の新しい聖書の刊行と重なり先送りされているので、高槻福音自由教会の役員の皆さんの了解を得、「マタ
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」「マル 14:9
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とあるように、これらの信徒セミナービデオが、日本の数多くの教会で「信徒対象の教理教育」のためのひとつのサンプル(見本)となれば、またそのようにして学ばれる場所においては「このような学び会は、無牧の教会のある兄弟の立案で開催されたことがはじめです」と語り継がれたら、と願う。
20171126_高槻福音自由教会版_『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”K―
新約聖書エペソ6:10-24「神のすべての武具を身に着けなさい―クリスマスを前にして」
https://youtu.be/wKcBM-ORHvs
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まもなく、クリスマスを前にしたアドベントの季節である。主はわたしたちを罪と死と滅びから救うために、ベツレヘムでお生まれになった。わたしたちは今、魂を救いに導くために“神の武具”を身に着けるべき時が来ているのではないだろうか。パウロは「鎖につながれていても、語るべきことばを大胆に語れる」ように祈ってほしい、と強く要請した。祈りのあるなしは、ホームとアウェイのサッカーの試合の差のようである。パウロは上からの大能の力を帯び、“神の武具”を身にまとい、福音の奥義を語り続けた。悪しき諸勢力は厳然と存在し策略をもってしかけ、彼は牢獄で鎖につながれる者とされてしまう。しかし、十字架につけられたキリストの大使たる彼にとって、牢獄はローマ帝国中心部にある神の国の大使館、また福音音宣教の拠点と化す。また彼の手足にきしむ鎖はキリストの手足を貫いた五寸釘を思い起こさせる「キリストの代理たる大使」として威厳あるしるしとなる。
*
〇高槻福音自由教会版_『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”@〜Kのシリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=uE9dDEbeKBM&list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh
〇高槻福音自由教会版_『信徒セミナー』@〜Kのシリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=wXRJ-tWZrEw&list=PLClE1DIlx0onWF2M0Y5IbbFVGrNe-SfZW
*
【次回・次々回の安黒務―奉仕予定日】
●クリスマスイブ燭火礼拝:2017年12月23日 午後4:00-5:00
Cur Deus Homo(クール・デウス・ホモ)
― 神は何故、人となられたのか? ―
●礼拝:2018年3月25日 午前10:00より
・信徒セミナー:12:30-14:00は、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』からの歴史編の学びを終え、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版『キリスト教教理入門』”Introducing
Christian Doctrine”3rd
Editiont(近刊予定)の抜粋・拾い読みによる教理篇の学びに入っています。13回目は「聖霊論―その人格とみわざ」について学びます。
・高槻福音自由教会(http://www.takatsukiefc.com/)
2017年11月26日
新約聖書エペソ人への手紙06:21-24(MP3
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YouTube)「あなたがたが私たちの様子を知り、また心に励ましを受けるためです」
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おはようございます。長いようであった「エペソ書よりの傾聴」も今日で終わりです。「エペソ書そのもの」に傾聴し続けた私自身が一番祝福されたように感じています。わたしは「エペソ書」を読んで、読んで、読んで、そのメッセージがさやかに聴こえてくるまで読んで、「聖書とは何か、聖書解釈とは何か、説教とは何か」を教えられ続けた期間であったように思います。
+
今朝の箇所は、エペソ6:10-24です。
パウロは、6:10で「終わりに言います」と語ります。エペソ書の構成で、この箇所は第三の部分を構成し、また最後の部分を構成しています。第一の部分(1-3章)は、キリストにある神の恵みでした。第二の部分(4-6章前半)は聖霊にあるクリスチャン生活でした。第三の部分(6章後半)は、悪しき諸権威・諸権力に対する霊的な戦いについて書かれています。
+
この箇所は、難しい箇所ではありますが、全体の文脈を理解することは、この箇所を解釈し適用していく上で大きな助けとなります。まず、第一に小アジア地域の兄弟姉妹の信仰、心配、思い煩いへの配慮です。「心配し、思い煩うのではなく」ということです。
+
6:21
あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
6:22
テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
6:23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
6:24
私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
+
その当時は、現在のような情報網はなく、パウロに関する誤った情報が伝えられる危険があったことでしょぅ。
それで、パウロは、「様子」「何をしていか」「一部始終」を知らせ、そのことによって「心に励まし」「平安と信仰に伴う愛」「キリストを朽ちぬ愛を持って愛する人々」の上に溢れるようにと願いました。
+
第二に、パウロの置かれている様子とは、何か、ということです。
6:19
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20
私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
+
パウロは、「福音の奥義を宣べ伝えた」ことで、ユダヤ教徒から「ローマ帝国に騒乱を引き起こしている」と訴えられ、殺意に燃える人たちを避けて、ローマで証しするため、カイザルの法廷に上訴し、今はローマ帝国の首都ローマで軟禁状態に置かれ、裁判を待っている状態であること。そして、そこではユダヤ人、異邦人の多くの人が出入りし、パウロから「福音の奥義」を聞く機会を得ているということです。
+
あるユダヤ教徒たちは、パウロを亡き者にしようと画策しました。それは、パウロがユダヤ教のあり方を変えてしまおうと受けとめたゆえでした。それは一面正しいし、一面では誤解が含まれています。
+
誤解というのは、福音書全体に溢れているように、新約全体に溢れているように、キリストの来臨と十字架のみわざは、「旧約聖書の成就」であったということです。ユダヤ教徒は、パウロを「旧約聖書に根差すユダヤ教の破壊者」と考え、彼を亡き者にしようとしましたが、それは誤解でした。パウロは「旧約聖書で約束されていた約束の成就」について宣べ伝えていたのです。
+
正しい面というのは、これも福音書また新約聖書全体に溢れているように、「ひよこが生まれてくるとき、卵の殻を脱ぎ捨てる」ように、「新しい葡萄酒が発酵すると、古い皮袋が張り裂ける」ように、割礼や食べ物の規則や、ユダヤ教独特の慣習や、何よりも神殿とそれにまつわるさまざまの犠牲の儀式が、「それらはキリストとそのみわざを予表するものであり、キリストの来臨と十字架のみわざの完成により」脱ぎ捨てられるべき、「卵の殻」のようなものとなってしまったということなのです。
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ユダヤ教徒は、イエスを預言者のひとりとしては認めましたが、メシヤまたキリスト、そして三位一体の神として認めることには強く反対し、「石打の刑」をもって、「神を冒瀆する」ものとして扱いました。
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そのような「福音の奥義」のために、パウロは今「鎖につながれ」ていました。
パウロは、このような状況に対して、ユダヤ人やユダヤ教徒を「敵」として見つめることはありませんでした。パウロは「反ユダヤ主義者」ではありませんでした。パウロ自身がユダヤ人でした。メシヤであるイエスもまたユダヤ人として生まれました。しかし、メシヤの民は、それが理解できず、メシヤを排斥し、十字架につけました。メシヤの福音を伝えるパウロを葬り去ろうとつけねらいました。
+
パウロは、このような動きの背後に、神に敵対する悪の存在を見つめています。「同胞のユダヤ人やユダヤ教徒を憎むのではなく、その背後にあり、彼らの目を見えなくさせている悪の存在」を見つめているのです。
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悪しき諸勢力は厳然と存在し策略をもってしかけ、彼は軟禁状態で鎖につながれる者とされてしまいました。しかし、十字架につけられたキリストの大使たる彼にとって、「閉じ込められ、地中海世界全体への布教活動の道は閉ざされた」牢獄はローマ帝国中心部にある神の国の大使館、また福音音宣教の拠点と化しました。ローマ帝国がキリスト教化される種がこの時に蒔かれました。
2017年11月19日
新約聖書エペソ人への手紙06:18-20(MP3
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YouTube)「御霊によって祈りなさい―サルバトール・ムンディ」
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長いようであった「エペソ書よりの傾聴」も来週で終わりである。スット著『エペソ人への手紙のメッセージ』から学びつつ語り続けた。聴いてくださった会衆からも好評であったが、ストットを通し「エペソ書そのもの」に傾聴し続けた私自身が一番祝福されたように感じている。ストットのみ言葉を聴き取る力とそれを整理して「モナリザの男性版ともいわれる”サルバトール・ムンディ”のようなひとつの美しい絵画」に仕上げる力量には恐れ入った。このシリーズの期間、わたしはストットの膝元で聖書とは何か、聖書解釈とは何か、説教とは何かを教えられ続けた「ひとりの弟子」のような感覚に陥った。
今朝の箇所は、エペソ6:18-20である。6:10-17の「御霊による神の武具」に続き、「御霊による祈り」が奨められている。
v18、この祈りは、四つの要素がひとつのキーワードで結ばれている。それは"all"という言葉である。「どんな"all"ときにも」、「すべて"all"の祈りと願いを用いて」、「忍耐の限り"all"を尽くして」、「すべて"all"の聖徒のために」と美しい讃美歌のような”
繰り返しのフレーズ”がある。そこでは、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして汝の神である主を愛せよ」。そのエコーとしての「汝自身と同様に汝の隣人を愛せよ」と繋がるスピリットで貫かれている。祈りも信仰もその中心軸は微動だにしていないのである。それゆえ、我々はあれをしなければならない、これをしなければならないと”右往左往”する必要は何一つない。本当に必要なことは「ただひとつなのである」。
2017年11月12日
新約聖書エペソ人への手紙06:16-17(MP3
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YouTube)「信仰の大盾、救いのかぶと、剣である神の言葉」
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今、日本海には、米国の三つの空母群が展開しており、それに日本の自衛隊と韓国の軍隊が加わり演習を行っているという。世界最強の軍隊のデモンストレーションであり、北朝鮮の行動に対する威嚇である。それはまた、間接的にロシアのバルト三国への脅威、中国の南シナ海進出に対する威嚇でもあろうと思う。無謀な行動に出れば、世界の警察官たる米国が黙って見過ごすことはないという示威行動である。戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア紛争等、多くの争乱があった。ぎりぎりのところで平和を維持してほしいものである。
エペソ書を書いたパウロの目の前にも、当時世界最強の軍隊があった。ローマ帝国の軍隊である。そしてのその装備は完ぺきなものであった。そしてパウロは神の国の悪に対する戦いを類比して語り、神の国の兵士たるわたしたちが身に着けるべき装備品について説明する。
v.16「信仰の大盾」とは何か。当時ローマ軍には小さな丸い小盾と、大きな長方形で縦120cm、横75cmの大盾とがあった。「これらすべてのものの上に」と兵士のいのちを覆うように守るのが、この大盾である。この大盾は、悪魔が打ち込む、良心の呵責をかきたてる火矢を跳ね飛ばし、「みな消す」ことができる。
v.17a「救いのかぶと」をかぶりとある。ローマ軍のかぶとは、羽飾りのあるものもあり、美的にも優れたものであった。しかし、それ以上に頭や顔を守るためにいろいろな工夫がなされていた。特に顔の部分には顔の両側から蝶番で開け閉めできる覆いがついていた。ローマ兵士の装備は、まるでアメリカンフットボールの選手の装備のように完璧である。そのように私たち神の国の兵士のヘルメットもまた完璧である。そこには「罪の赦し、肉の力からの解放、神の子とし、神の家族の一員としての立場、復活に預かる約束、神の御子に似た者に変えられる望み」等が詰まっている。
v.17b「御霊の与える剣であるみことば」とは、イエスが荒野で戦われたのと同じである。霊感された神のみ言葉の正しい適用は、霊と魂を切り分けて、動機までも明らかにさらす。また、黙示録にあるように、それは殉教をも恐れずに語る「証しのことば」である。わたしたちは、人生のドラマにおいて、いろいろな場面に連れ出される。しかし、栄光の御霊がわたしたちの上に、内にとどまり「証しの言葉」が与えられると約束されている。日本史には、キリシタン殉教の歴史がある。スコセッシ監督の『沈黙』の最後には、棺桶の中の転びの宣教師の手の中に「十字架につけられたキリスト」が握られていたのが印象に残った。
2017年11月10日
『虫やカエルのように』:「限定再生リスト」の一部公開のご案内https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ
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配信を少し休んでおりました。同時に幾つもの奉仕するのが難しい年齢になってきたかなと思いつつ、ベネマ著『福音を正しく理解すること―宗教改革の視点と新しい視点の評価』の本文と脚注の推敲に時間をとっている今日この頃です。完成すれば、幾人かの先生に目を通していただき、刊行に結び付けたいと思っています。
昨年は、夏バテでありましたが、今年はこの寒暖の差のせいか、秋バテ気味です。以前、同窓会でお世話になった先生が「安黒君、60歳前後の時期は、からだの状態が大きく変化する時期だから気をつけなさいよ!」と自分の経験から語ってくださったことを思い起こしています。
若い時ほどには、無理がきかず、集中力にも波が出てきたと受けとめ、「集中」と「弛緩」の交互のバランスとリズムを念頭に、少し徒然なるままに過ごしている今日この頃です。今日は全身の筋肉の緊張を解き、ハイ・
テンションで走るパソコンのデー タ処理のような神学的思索の電源
を落とし、久しぶりにトラクターに乗って草が伸びかけた田畑を耕しておりました。何も考えず、トラクターのエンジン音と振動にゆらゆらと揺られながら時間を過ごすのは精神の健康に良いものだと感じました。
小鳥の声、風のそよぎ、落葉の 音、陽の光、そういうものを、
黙って聞き、見る。受け身で、自分をカラにして受け取る。そのように御霊の風のそよぎに身を任せることを学んでおりました。
スポルジョンは、仕事の合間の休息は大切であると書いておりました。農作業の合間に休み、鎌を研ぐことは、新たな精力的な労働の源である、というようなことを。
耕していると、土の中から虫やカエルが姿を現し、それを貴重なエサとみて、トンビやカラスや小鳥がトラクターのすぐそばにたむろするのはどこか微笑ましい光景のように思いました。
少し元気が出てきたので、今日は「土の中に埋もれたままになっていた再生ビデオ・リストの一部」を虫やカエルのように紹介してみようと思いました。関心のある方はご視聴ください。
一番上に「視聴回数の多いビデオ」がリストされ、下の方に「公開再生リスト一覧」がリストされています。一番下の「もっと見る」をクリックするとさらにたくさんの再生リストが隠されています。より多くの方々に講義・講演ビデオを視聴していただくことはわたしの喜びです。God
bless you all !
PS
なお、ICIサポーターの方々には、2017年度生駒聖書学院(ibc)での新しい講義録が「限定公開」で追加掲載されておますので、下記の「視聴総合リスト」より、ご視聴ください。
http://aguro.jp.net/membership-sites/ici_stvw/ici_stvw_list_for_members.html
2017年11月05日
新約聖書第一コリント人への手紙15:35-41(MP3
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YouTube)「おのおのの種に、それぞれからだをお与えになります―世々限りなく星のように」
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親戚のおじさんの前夜式で、親族を代表しての挨拶を頼まれた。その一節である。
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「わたし個人としましても、川で採って来られたアユをいただいたり、丹精を込めて栽培されたスイカをいただいたり、数々の感謝の思い出で一杯です。
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庄太郎さんが行かれるところどこでも、病院でも、保育園でも、スイカやサツマイモのおかげもあり、故庄太郎さんのファン・クラブができるくらいの人気のおじさんであったと聞いております。
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『人間は、生きて来たように、天国でもまた生きる』と言われます。おそらく庄太郎さんは、天国の川でも『アユを採り、ドジョウをすくい、おいしいサツマイモやスイカを作り、多くの人たちに感謝される、人気者となられる』ことと思います。
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わたしもやがて天国に行く日が来たら『おい、務、おいしいスイカ作って待っとったぞ』と言ってくださるような気がして、またの再会を楽しみにしているところです。」
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この短い挨拶で、わたしは死の向こう側に存在する希望の光を垣間見せたかった。この挨拶の言葉の背後には、わたしの神学的確信が横たわっている。それを分かちあいたい。
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C.S.ルイスは、現世の生の意味を、「幼い子供が、仔馬のポニーをもらって乗馬の訓練をしているようなものだ。というのは、新天新地の厩には鼻息荒い競走馬が乗り手を待っているからである」と書いた。
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E.ザウアーは、わたしたちの現在の生を「リンゴの小さな種」に、来生の生を実り豊かな「リンゴの木」に例えた。
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H.バーフィンクは「私たちが地上の生において蒔くものを、永遠の生において刈り取る」と記した。
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新約Tコリント書15:41には「個々の星の栄光」が、旧約ダニエル書12:3には「大空の輝きのように、…世々限りなく星のように」と書かれている。
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わたしたちは皆、同じ救いの恵みを受け取るが、個々の星々の栄光の輝きは、それぞれ個性的に神の栄光を反映させる。
2017年10月29日
新約聖書エペソ人への手紙06:13-15(MP3
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YouTube)「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え」
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エペソ6章後半は、少し難解な箇所でもある。それで、基本的な捉え方をH.ベルコフ著『キリストと諸権威』から学んできた。確認できたことをベースにして、ストット著『エペソ人の手紙からのメッセージ』に戻り、丁寧な聖書解釈を試みたい。
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v.13「神のすべての武具」とあるが、旧約聖書においては「神ご自身」が砦であり、武具である。わたしたちは、その武具のシェア(分かち合い)にあずかっているのである。その武具は攻撃的なものではなく、霊的な武具である。鎧ではなく、神の栄光の衣である。
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その武具の第一に、v.14a「真理の帯」とある。これは鎧の下に着けるものであり、ベネマの書名にあるように「福音を正しく知る」ことである。
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第二に、v.14b「正義の胸当て」とある。これは、福音理解に対する私たちの心の姿勢である。「リバイバルのためには手段を選ばず」という風潮も見られるが、キリスト教会は「目的も、手段も」選ぶべきであるということである。今日、聖書解釈法で二つの懸念される傾向がみられる。ひとつは「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の誤った傾向であり、もうひとつは「パウロ研究に関する新しい視点に基づく聖書解釈法」の微妙な問題である。前者に関しては、ラッド著『終末論』や拙著『福音主義イスラエル論』、後者に関してはベネマ著『福音を正しく知る』(翻訳中)で、この課題に向かう上でのガイドラインを示している。エリクソンは「飛行機の場合、わずかなコンパスの角度の誤りが、まったく異なった目的地に飛行機を運ぶことになる」と警鐘を鳴らしている。
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第三に、v.15「福音の備え」をはくとある。パウロは奉仕生涯の前半は小アジアとギリシャ地方を歩き回って福音を宣べ伝え、諸教会を設立し、長老や若手の教職者に委ねていった。しかし後半生のパウロは、今牢獄にあり軟禁された状態にある。しかし、彼の福音は牢獄にはとどめられていない。彼は、地中海世界を、そしてヨーロッパとグローバルな世界をふるい動かす手紙をしたためた。彼は牢獄にとどめられ、福音理解の深い思索に没頭せざるを得ない環境に縛られたが、その福音理解は「サンダルを履かせられた手紙」となって世界中を歩き続けることとなった。ハレルヤ!
2017年10月22日 新約聖書エペソ人への手紙06:10-13(MP3
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YouTube)「神の大能の力によって強められなさい」
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エペソ6章後半から、「キリストと諸権威」をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。本日、日本は衆議院選挙に結果が出た。
移民・難民・テロの急増から、米国での「アメリカ・ファースト」、ヨーロッパでの「ネオ・ナチの台頭」。北朝鮮のミサイルと核による脅しと日米の対応。中国の軍事強国化と海洋進出。世界情勢の急変は、「平和憲法」があたかも「平和ボケ」であるかのようにレトリックされ、戦後の「平和国家日本」は現在の軍事環境への対応を迫られてきたように追い込まれている。そういうことなのかなと選挙結果を見て考えさせられている。東アジアは、今後「軍拡競争の時代に入るのか?」どうなのだろう。そのようなことを考えさせられている。
選挙の真の争点はどこにあったのだろうか。種々の見解を聞かせられるが、わたしにはずっと議論になっており、またこれからもなり続けるひとつの基本的な争点があるように思われる。それは、日本国家の約束をどこに置くのかという問題である。イスラエル民族は「アブラハムへの祝福の約束」を基軸に、「モーセの十戒」を与えられ、エジプトの十の災害の只中で守られ、神の民、神の国を形成していった。
わたしは、日本という国には、江戸の無血開城を通しての明治維新による明治政府、天皇中心制、大日本帝国憲法、国家主義、富国強兵政策というビジョンと昭和における日本人三百万人・アジア二千万人の犠牲の後に与えられた戦後政府、主権在民、日本国憲法、個人の基本的人権、平和主義・軽武装経済重視政策というビジョンの対照的なビジョンが今あるように思われる。
日本国憲法は、世界の理想を先取りしたような内容をもつ憲法といわれる。ある人たちは、憲法制定の経緯から、この憲法を否定的にみて、明治憲法的なものに郷愁を感じている。しかし、国民の大半はこの新しい憲法に親しみ、その精神を空気や水のように享受して生きている。また、その内容としての精神はきわめて聖書的なスビリットに満ちているといえるのではないだろうか。イスラム世界における過激思想、欧米にみられる危険なナショナリズムに類する日本における右傾化には警戒が必要と思われる。
戦争と戦後の苦難からの脱出の基盤に、平和憲法があったことを忘れてはならないし、その精神を継承・深化・発展させることに「アブラハムの祝福」そして「モーセの十戒」に類する新しい日本の原点・基盤・出発点、そして未来に向けての理想を探し求め、その本質を今日の東アジア、そして世界にコンテクスチュアライズしていく使命を負っているのではないだろうか。
歴史からの経験として、一国の軍拡は他国の軍拡・右傾化を生み、ブレーキ・歯止めがきかなくなる危険が潜んでいる。今後、日本は憲法改定の具体的プロセスに入るだろう。北朝鮮や中国の軍拡を利用して、日本の右傾化・軍拡をはかろうとする政治家やジャーナリズムや軍需産業にとっては好機到来である。
しかし、わたしたちは、それらの風に翻弄されてはならない。圧勝した与党の中にも、「平和憲法を守っていきたい」と考えている穏健かつリベラルな政治家は多くいる。野党の中にも過激な言動をふりかざす政治家もいる。与党・野党の枠組みを超えて、現在の平和憲法の原点を見失うことなく、国民に広く深く理解され、浸透し、現在の平和国家日本を形成してきた平和憲法を前提とし、基軸とした「加憲」という考え方は、優れたひとつのスタンスのように思われる。現在の憲法の「否定」からの出発ではなく、「肯定」からの出発である。そのようなスタンスで、現在の世界情勢に翻弄されるかたちではなく、50年、100年、1000年後の日本国家、日本国民の世界におけるあり方を「理想」を追求する、そのような建設的な、超党派の立場での「憲法調査会」の議論、「国会」での議論を見守っていきたい。
わたしたちクリスチャンは、旧約・新約全体の歴史をいつも振り返りつつ生きる「聖書の民」である。アブラハムから見れば、四千年の歴史のスパンで思索しつつ生きる民である。そのようなスパンで日本のあり方を眺望し、祈っていきたい。戦争なき世界を探求してやまない「”真の意味での”積極的平和主義」を探求する民として、ひとつの模範的な国家となってほしい。
2017年10月15日
新約聖書コロサイ人への手紙01:13-18「すべて御子によって造られた―王座、主権、支配、権威」
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エペソ6章後半から、「キリストと諸権威」をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。エペソ6章後半と同じ文脈において、同時期に書き送られた手紙がコロサイ人への手紙である。『キリストと諸権威』を書き記したヘンドリクス・ベルコフ著『キリストと諸権力』の後半に「キリストと宇宙」というヘルシンキ大学神学部講演が収められている。
そこで扱われているのが、コロサイ人への手紙1:13-18である。読んでいて、この宇宙のすべてのものが「すべて御子によって造られた」こと、そしてその中で摂理の下、歴史的に形成されてきた「王座、主権、支配、権威」の諸権威は、御子の支配の下にあるべきこと、ただ悪しき力にコントロールされる可能性もあること、またみ旨にコントロールされる可能性もあることの両面を教えられる。
今日、日本では憲法改定を焦点のひとつとしての選挙があり、東アジアは北朝鮮の金成恩委員長と米国のトランプ大統領の動きが微妙である。政治、経済、安全保障政策が選挙では議論される。コロサイ人への手紙1:16には「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」とあり、神の御心に従って、政治も経済も安全保障も政策が立案され、執行されていくことが求められている。
その意味で、戦争の犠牲の上に、聖書の価値観の本質が、民主主義、基本的人権、平和主義というかたちで勝ち取られた現在の憲法の精神が継承・深化・発展させられるかたちで憲法が現在のまま保持されるか、改訂されるとしてもその本質が変質しないかたちでなされるよう見守っていきたい。
2017年10月08日
新約聖書エペソ人への手紙06:10-20「B悪魔の策略―誰が主なのか、戦況はどうなのか、その視点に立って堅く立ち続ける」
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エペソ6章後半をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。
英国の王立総合防衛安全保障研究所の分析によれば、米国と北朝鮮の戦争勃発は今や「現実的な可能性」となっている、と報告している。
わたしたちの目は、テレビやニュースやさまざまなジャーナリズム報道に翻弄され、右往左往させれられやすい。トランブ大統領は、ホワイトハウスで開いた軍高官らとの夕食会で報道陣の冒頭撮影に応じた際、軍高官らを見渡しながら「これが何を意味するか分かるかな。嵐の前の静けさだよ」と述べた。メディアの間では、トランプ政権が近く安全保障分野での懸案に関し、軍事攻撃などの新たな行動に踏み切る前触れではないかとの臆測が広がっている、とのことである。
戦争となれば、@第一段階として、核施設、ミサイル基地等へのピンポイント攻撃がなされ、A北朝鮮の反撃の程度により、B第二段階として、全面攻撃が考えられているとのことである。報復として、ソウルや東京等、韓国と日本の大都市への攻撃があるかもしれないとのことである。多くの犠牲者と世界的な経済の混乱が懸念されている。北朝鮮が核とミサイルを断念し、平和裏に問題の解決が図られることを祈りたい。
ここでパウロの洞察から教えられることは、@悪魔の策略のひとつは、「誰が主の主、王の王であるのか」を見えなくすることであると教えられる。創造の神、贖罪のキリストは、今や王の王、主の主として御座の右の座に着座されている。A悪魔の策略の第二は、戦況を見えなくすることである。わたしたちは、局地戦の一進一退に目を奪われ、敗退の危機にあるのかと誤解しやすい。しかし、わたしたちはキリストの贖罪と復活により、すでに勝利を確定(Dデイ)されている。そして最終的な勝利に向けて掃討戦の中にある(Vデイ)という、戦況の全体に目を向ける必要を教えられる。Bそのような立場と全体を見渡す視点を抱きつつ、現在の「邪悪な日」の只中で、堅く立っていくことが求められているのである。
2017年10月01日
新約聖書エペソ人への手紙06:10-20(MP3)「A邪悪な日に際して対抗できるように、堅く立つことができるように―小さな光が大きな闇を吹き払う」
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エペソ6章後半をローマ帝国時代と今日の日本を重ね合わせて開いている。その背景と文脈の理解から始めている。今朝は、@「主権、力、支配、暗闇」という状況理解、A「対抗でき、堅く立つ」ための備え、B「真理、正義、平和」の価値観、C「信仰、救い、神の言葉」という武器、D「御霊、祈り、語るべき言葉」という実際について、考えてみたい。
解散前に、小池百合子氏と松井一郎氏と安倍晋三氏の極秘会談がなされていた(朝日新聞、10/1一面)そうである。これはわたしの想像であるが、「協調と共にどこが勝っても、憲法改定に向けて協力しあう相談がなされた」というのはうがった見方であろうか。民進党解党と希望への合流の流れで、リベラル派のそぎ落としがなされようとしている。ここで少し全体のストーリーが見えてきた。民進党内のリベラル派は参議院議員とともに、リベラル派新党の準備入ったようである。
改憲勢力が多数派を占める流れにあるのかもしれないが、日本国の極端な右傾化に少しでもブレーキをかけるために、リベラル派新党?には頑張っていただきたいと思う。「塩が塩気を失ったら、何の価値もなくなってしまい、捨てられるだけである」。少数政党であっても、“塩”の役割を果たす勢力の存在は貴重だと思う。多数派を狙って、主義主張を変質させていく議員たちは最後には価値なく捨てられていくことになるのではないだろうか。
2017年09月24日
新約聖書エペソ人への手紙06:10-20「主権、力、この暗闇の世界の支配者たちー『キリストと諸権力』」
『キリストと諸権力』という本がある。この本は、第二次大戦が終わった翌年に書かれた本である。H.ベルコフは、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2:15)の説教を準備中、突如としてパウロの『権力論』が、当時およびわれわれが直面した問題に、鋭く肉薄してきたのを、今でも生き生きと思い出さずにはおられない」と日本語版の序を書き始め、そして「日本の主にある兄弟姉妹たちが、今日、この目まぐるしく移り変わる時代にあって、この世の隠れた背景にある諸権威や諸権力に、言葉と行為をもって、神の多種多様の知恵を告知する道を見出すために、この小著が役立つならば幸甚である」と締めくっている。
高槻福音自由教会での『エペソ人への手紙』傾聴シリーズ準備のために、エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)のパラグラフに傾聴しようとしている。この箇所の理解のために、まず最初に読み返したいと思った本が上記の著作であった。昨日一日かけて関連聖書箇所を何度も開きつつ丁寧に読み返した。
そのときに、二年前に安保法案を扱った『雅歌』傾聴シリーズで扱ったテーマと今週から一宮チャペルで扱おうとしている『エペソ書6:10-24』傾聴シリーズのメロディーがシンフォニーのように調和して響き渡るのを感じた。
パウロが、ローマ帝国時代に牢獄から、迫害期を予感しつつ書きとめ、ペテロ書、ヨハネの黙示録へとつないでいったシンフォニーを、安保法案から憲法改正(改悪?)時代へとシフトしつつある日本にも響かせてみたい。
20170917_高槻福音自由教会版_『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”J―
新約聖書エペソ6:01-09「主にあってーコーラム・デオ(神の御前に)」
https://youtu.be/iIcDWNWnfVE
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神は、太陽の光のようであり、キリストとそのみわざはその光を美しい七色に分色するプリズムのようです。パウロは、この世の事象すべてのことの中に、この世のすべての人間関係、夫と妻、父母と子、雇い主と雇われ人、すべての人間関係の中に、神の愛と祝福を見ていました。そのような信仰の本質を表現する言葉として、ラテン語で「コーラム・デオ(神のみ前に)」という言葉があります。わたしたちは、このような視点で、夫と妻、親と子、雇い主と雇われ人の間に、神さまの御前から注がれている光を感じ取り、さらにそこに「十字架というプリズムで分色された色、神さまが置かれている意味」を発見していくとき、人生の、人間関係の、出来事のすべてのボイントで、「神の意味」を発見することができ、そのことがわたしたちの生に輝きを与え、生に活力を与えるのです。
*
【次回の安黒務―奉仕予定日】
・礼拝:2017年11月26日 午前10:00より
・信徒セミナー:12:30-14:00は、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』からの歴史編の学びを終え、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版『キリスト教教理入門』”Introducing
Christian Doctrine”3rd
Editiont(近刊予定)の抜粋・拾い読みによる教理篇の学びに入っています。12回目は「キリストのみわざ論―キリストのみわざ論への序論、贖罪の中心的主題」について学びます。
・高槻福音自由教会(http://www.takatsukiefc.com/)
2017年9月18日 【旧”引原小学校”お別れ見学会】ー「すると、すぐに、彼らは網を置いて従った」
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9/17(日)の高槻福音自由教会の礼拝と信徒セミナーへの準備で頭が一杯の、余裕のない土曜日のわたしに、家内が偶然にひとつの新聞記事を見つけ「最後になるんやから、行ってみたら」と声をかけてくれた。「そうやな…」とつれない返事をしたわたしに、「あの時の給料で結婚できたんでしょ…」と語りかけてくれた。しかしまだ"思考停止"に陥っているわたしをみかねて「後悔しないでね」と"新聞記事の切り抜き"を大切な手紙を渡すかのようにくれた。
翌9/18(月)台風一過の朝、大きな奉仕を終え、重圧から解放されたわたしは、新聞の切り抜きー「姫路市立引原野外活動センターとして活用されてきた『旧波賀町立引原小学校』が解体されることになり、解体前に地域や卒業生などゆかりのある方々に最後の校舎の姿をご覧いただくため、施設を一般公開します。2017年09月18日(月曜日)午前9時から午後3時まで」を読み直し、朝早くひとりで"40年前の自分探し"のドライブに出かけることにした。
実は、この「引原小学校」には、わたしの"人生の分水嶺"ともなった大切な思い出がつまっている。関西学院大学経済学部在学中にクリスチャンとなり、卒業後関西聖書学院一年生に学んでいた。将来は、「牧師となるのか、一般の学校の社会の教師となり"聖書研究同好会の顧問"を目指すのか」ー二つの道を探っていた。そのような時、当時院長であったフレッド・スンベリ師は「安黒君、大学を卒業してそのまま牧師になる道を進むよりも、一度社会に出て社会経験を積んだ方が良いのではないか」とアドバイスを下さり、そして「わたしもスウェーデンで社会の教師をした経験がある。君も、一般の学校の先生の仕事についてみたらどうか」と言われた。
元々、地理・歴史大好き人間で「社会の教師」になることを夢見て中学と高校の教師資格は保有していたので、その道を探った。ただ、オイル・ショックの直後ということもあり、専門教科である社会の教師となる倍率は生半可なものではなかった。世話してくださった故郷の恩人の先生は、「まず募集の多い小学校の教師となり、その後に中学校に移してもらい社会の教師となれば良い」と励ましてくださった。それで、佛教大学の通信教育で小学校教師資格を取りつつ、兵庫県の採用試験を受けた。ピアノのレッスンもバイエルから学び、採用試験に合格した。並行して、一ヶ月間小学校の教育実習を受ける必要があり、故郷の宍粟市の引原小学校が引き受けてくださった。引原小学校は、引原ダムが造られた時に地域全体が水没し、ダムのそばに隣接して建てられた「美しくデザインされた円形校舎」から成っていた。ダムあり、滝ありの観光地にある名所のひとつでもあった。わたしが赴任したときには、全校生徒18名で、教職員が10名ほどの過疎地・観光地の小学校であった。
一ヶ月間の教育実習が終わる頃、「産休の先生の臨時教師として続けて教えてもらえないか」と頼まれた。それで、燃えるような紅葉で真っ赤に染まる晩秋の山々のど真ん中で、そして冬は1メートル以上降り積もる豪雪地帯の只中で、清らかな山水の谷には清流を好む「マムシ」が生息する、素晴らしい地域で、思いがけない臨時教師としての生活は始まった。
わたしは、小学1年生の「小椋さん」という可愛い女の子を教えることとなった。生徒の半数が小椋姓であった。わたしのクラスの生徒は一名、三つの学年が一名で、どこか家庭教師のようであった。小学校教師は全科目を教えるので、家に帰ると毎晩「受験勉強」のように授業準備に明け暮れた。予定の範囲を教えても、グルーブ学習ができないので授業時間はまだ半分残ることもしばしばであった。産休の先生が音楽も教えておられたので、三学年合同の音楽の時間も教えることになった。そして引原小学校と野尻小学校との合同の音楽祭には、『大きな古時計』を合唱することになっていた。それで「安黒さん、ピアノよろしく!」と言われた。固辞したが逃げられなかった。わたしはストーブのない冷凍庫のような講堂で、放課後厚着をし、オーバーを羽織って、その曲の練習に明け暮れた。冬は豪雪のため、坂の上の学校まで車がのぼれないので、坂の下で臨時の駐車場を造った。楽しい思い出である。
四ヶ月間の引原小学校生活が終わる頃、正式採用通知を受け取り赴任する小学校も決まっていた。岐路に立ち"振り子のように、損得勘定に走り、迷いに迷った"。しかしついに、わたしは「網を置いて」主に従うようにと導かれ、その御声に応答し従った(新約聖書マルコによる福音書1:18)。
この時に与えられた「僻地手当を含む給料」が結婚資金となった。スンベリ師夫妻は、後に神学校の助手となったわたしと家内の結婚を祝福してくださり「箸二膳と茶碗ふたつあれば大丈夫!」と励ましてくださった。「住まいは、神学校の学生寮の部屋の壁を一枚破ればOK!」とも言われた。いかにも破天荒な先生であった。わたしは本当に何も持っていなかった。あれから環境は大きく変化し続けた。ただひとつのことがいえる。わたしはあの時、あの教室で、いわば"捨てる技術(あるいはささげるスピリット)"を身に着けたのかもしれないと。
そして今日、不思議な導きで40年ぶりに解体直前の校舎の中に入ることができた ―
算数を教えたあの部屋、音楽を教えたこの部屋、お茶を飲んだ職員室、教師の机ひとつ、生徒の机ひとつの教室、…
そうした時間が、思い出の空間
が、風が吹くように語りかけてくれた、"君の生き方、君のスピリットは今もなお、あの頃のまんまだよ!"
と。そのような気がした…。
2017年09月17日
新約聖書エペソ人への手紙06:05-09(MP3
/ YouTube)「奴隷たちよ、主人たちよーコーラム・デオ(神の御前に)」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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1.
奴隷制度というのは、古代の世界では普遍的にみられました。
ある神学者は、ローマ帝国においては約6000万人の奴隷がいたであろうと書き記しています。
彼らは、各家庭における家事や農場の労働力としての奴隷の場合もあったが、医者や教師や行政官のような専門的能力をもつ奴隷もいました。
奴隷は、家財や家畜のように相続され、売買もされていました。
彼らは、いろんな理由で奴隷の身分に身を落としていました。返済できない借金の場合もありましたし、戦争により捕虜となり奴隷とされたて者も多くありました。
ヘンドリクス・ベルコフという神学者は、キリストの贖罪に根差す御霊の働きが、社会のさまざまな制度を変革してきたと述べております。
奴隷制度の克服もまた、人権宣言なども、長い目で見れば、そのような神の再創造の御手の働きと考えてよいと思います。
南アフリカの人種隔離政策の克服もまたそのような取り組みでありました。
今日においても、ユーゴスラビア解体後のボスニア・ヘルツェビナでの民族虐殺・民族浄化問題、
最近では、ミャンマーでの少数派イスラム教徒ロヒンギャの民族虐殺・民族浄化問題が起こっております。
わたしたちは、神の知恵、知識の光が注がれ、民族や宗教の壁を超えた解決が与えられるよう祈る必要があると思います。
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2. 雇われ人、雇い主における「キリスト中心主義」の原則
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、「キリストに従うように」、”恐れおののいて””真心から”地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、「キリストのしもべとして」、”心から神のみこころを”行い、
6:7 人にではなく、「主に仕えるように」、”善意をもって”仕えなさい。
6:8
良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、「それぞれ”その報いを主から”受ける」ことをあなたがたは知っています。
6:9
主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して「同じように」ふるまいなさい。「おどすこと」はやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を「差別されることがない」ことを知っているのですから。
この教えのキリスト中心主義ははっきりと打ち付けられています。
奴隷の視点は、変化させられています。
彼は、人にへつらい喜ばせようとする奴隷根性から解放されています。
彼の命令による任務はより高い第一の任務に吸収・昇華されています。
すなわち、神の御心、キリストを喜ばせることに焦点が当てられています。
この同じ原則が、今日のすべての職業に応用することができます。
わたしたちの最大の必要は、イエス・キリストを真正面に置くことです。
主婦においても、キリストに料理を準備するように、キリストをお迎えするために掃除をするように
教師が子供を教える際にも、
医者が患者を診る際に、看護師が病人の世話をする際に、
店員がお客さんを応対する際に、
それぞれの事例において、彼らが”あたかも”イエス・キリストに仕えるように。
2017年09月10日
新約聖書エペソ人への手紙06:01-04(MP3
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YouTube)「子供たちよ、父たちよーコーラム・デオ(神の御前に)」
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おはようございます。七月末より、四回に分けて、ローマ人への手紙4章を開いてきました。それは、9/3の岬福音教会の礼拝準備と重ねてでした。9/17には、高槻EFCの礼拝奉仕と信徒セミナーがありますので、来週からはエペソ人6章を開きたいと思っていました。しかし、急遽、フリー聖餐の問題が生起し、十日ほどその克服・解決に尽力しておりました。予定は少しずれましたが、今日と来週は、エペソ6章前半を学びたいと思います。
+
第一節には、6:1
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものですとあります。この「あなたの父と母を敬え。」は、十戒前半の神に対する畏怖・崇敬の最後の命令であり、十戒後半の隣人に対する敬意・尊重の最初の命令であります。この戒めは前半・後半の戒めの「蝶番」のような役割を果たしています。
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この前半の「神への畏怖・崇敬」のスピリットは、第五戒の「父と母を敬え」の蛇口を通して、隣人愛の水路へと流れていくかのようです。それは、ちょうど神の権威・神の造られた秩序というものへの畏怖・崇敬は「目には見えません」。しかし、それは、この地上にある「見える、具体的な秩序である親子関係の秩序」の中に映し出されると教えているかのようです。つまり、「神を畏怖し、崇敬」しているといいながら、「親に対する敬意・尊重」に欠けているということは矛盾であることを暗示しています。わたしたちが神さまを畏怖と崇敬しているというなら、その畏怖と崇敬のスビリットは、父母への関係の中に投影されていくことが大切です。
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第二に、「6:4
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と父母に対する教えが示されています。この箇所から教えられることは、エペソ5:29
「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」キリストが教会を「養い育ててくださる」ように、夫は、妻を「養い育てなさい」ということです。
+
ウィリアム・バークレーという神学者は、ローマ時代の父親の権威というのは、家庭では絶大であったと記しています。父親は、子供を奴隷として売ったり、農場で鎖につないで働かせたりでき、父親は家庭における「法律そのもの」であり、好きなように罰することも、死に至る刑すら与えることができたとのことです。そのような時代において、パウロは、この世の事象すべてのことの中に、この世のすべての人間関係、夫と妻、父母と子、雇い主と雇われ人、すべての人間関係の中に、神の愛と祝福を見ていました。
+
神は、太陽の光のようであり、キリストはその光を美しい七色に分色するプリズムのようです。夫と妻の関係に親と子供の関係に美しい光の色を描き出しています。信仰の本質をあらわす言葉として、ラテン語で「コーラム・デオ」という言葉があります。これは「神の御前に」という意味です。
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最近、ある政党でひとつのスキャンダルが取り上げられました。才色兼備の女性の事件でした。あれほど有能な人がなぜこれほどもろいのか、考えさせられました。この出来事をみて、エジプトのヨセフのことを思い起こしました。ヨセフは誘惑にあった時「39:9どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(旧約聖書 創世記39章)と拒みました。主の御前に、畏怖の念をもって生きることの大切さを教えられます。クリスチャンは、み言葉に導かれて、「神を生活の中心」とし、「神の御前に」生きようとします。み言葉とともに働く御霊は、詩篇の記者のように「昼も夜も神を思う」生活に導きます。クリスチャンは、何を行っても、そこには「神の御前で」という意識が伴い、その意識に貫かれています。生のどの領域も神様から遠く離れているものはありません。わたしたちは、その意味で、夫と妻、親と子、雇い主と雇われ人の間に、神さまの御前から注がれている光を感じ取り、さらにそこに「十字架というプリズムで分色された色、神さまが置かれている意味」を発見していかねばなりません。わたしたちが、そこにそのような意味をほのかに見出していくとき、人生のすべてのポイントで、人間関係のすべてのポイントで、出来事のすべてのボイントで、「神の意味」を発見し、そのことが、わたしたちの生に輝きを与え、生に活力を与えるのです。(務記)
2017年09月03日j「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「I2017年09月03日
岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門C―聖餐式の背景、本質、実践の原則」新約聖書
Tコリント11:23-26、10:16-17、11:27-28
https://youtu.be/WgxwuEosrHE
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【キリスト教信仰入門C―聖餐式の背景、本質、実践の原則】
序―伝道のために「"受洗者陪餐の原則"をゆるがす教職者の資格はく奪事件」をどう受けとめるか
⑴
聖餐式の背景―Tコリント11:23-26
_a. 聖餐式制定の聖書の背景
_b. 聖餐式遵守の教会史的状況
⑵ 聖餐式の意味―Tコリント10:16-17
_a.
キリストの死のバプテスマにあずかることと、キリストの血・からだにあずかること
_b.
象徴と福音理解の全体の関係―海面上の氷山の一角と海面下の氷山の巨塊
⑶ 聖餐式実践の原則
_a.
「愛→結婚式→夫婦生活」と、「信仰→洗礼式→聖餐式」の類比関係
_b.
陪餐対象は「十二弟子」、信じてバプテスマを受けた責任ある教会員は「キリストの弟子」
結び―信じて、バプテスマを受け、責任ある教会員となってから聖餐式にあずかるべきではないか
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【聖餐式の実践】(受洗者のみに陪餐)
賛美 聖歌206 しみもとがも 1.2.3.
・式辞
・聖書
・聖別祈祷
・パンの分餐 BGM 聖歌396
・杯の分餐 BGM 聖歌402
・感謝祈祷
・賛美 聖歌206 しみもとがも 4.5.6.
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神学校を卒業し、三年間母校で助手として奉仕し、七年間岬福音教会牧師として奉仕させていただいた。神学研鑽への重荷捨てがたく、祝福されていた教会の牧師を辞し、三年間共立基督教研究所にて宇田進師を中心に薫陶を受けた。研修後、郷里に帰り、家業を手伝いつつ、開拓伝道と神学教育に集中させていただいた。ときどき、岬には礼拝奉仕させていただいていたが、前任の牧師の下で十年ほど前に「フリー聖餐」に移行していたとは知らなかった。今回、わたしのスケジュールの都合で第一聖日となり、聖餐式も引き受けた。しかし、奉仕十日前に「フリー聖餐」スタイルに移行していることを知らされ、わたしが「受洗者陪餐」に取り組んできたことを説明し、「奉仕のキャンセルか、日程変更等」をお願いした。この春からの新任の牧師と相談する中で、今回の機会を「フリー聖餐から、正常な“受洗者陪餐”」にする契機としたい意向が伝えられてきた。それで、奉仕までの十日間は「主が、寝ずの番」をされたように、すへでの奉仕を棚に上げ、愛する岬福音教会のため、わたしも寝てもさめても、このテーマをどう扱えばよいか苦闘していた。その結実が、今回の礼拝説教であり、聖餐式である。わたしの岬福音教会に対する深い愛を感じ取っていただけたら感謝である。
この十日間、八月末までベネマの著作の翻訳を棚上げにしてきたので、今日、集中的に「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズとしてアップさせていただいた。明日からは、ベネマの翻訳に戻りたい。わたしの拙い諸資料が、「フリー聖餐問題」の解決に役立てていただければ幸いである。
2017年09月03日i「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「H2017年09月03日
新約聖書Tコリント人への手紙10:16-17(MP3 /
YouTube)「キリストの血、からだ、ひとつのからだにあずかる―象徴と福音理解の全体」
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聖餐式の意味について(パート2)
今日の箇所には「聖餐式とは何か?」が簡潔に示されている。それは、「キリストの血、からだ、1つのからだにあずかる」ということである。
「聖餐式」とは「教会の心臓部分」であるという事が出来る。聖餐式とは「いつでも、どこでもどんな時にも」「洗礼を受けた者に限定して」もたれてきた儀式なのである。
求道者や新しい方々に疎外感を与えるのを避けるために、「フリー聖餐」(洗礼を受けた信者でなくても誰でも聖餐にあずかれるやり方)を行われる教会がある。そして、それを勧める本も存在する。
しかし、それは非常に大きな問題を含んでいる。「日本基督教団」では、団体から注意を受けたにもかかわらず、「フリー聖餐」を止めようとしない教職者に対して、教職者資格剥奪の命令が下された事例がある。
「フリー聖餐」とは、あらゆる人に聖餐にあずかってもらうという聖餐式の持ち方である。高い敷居をやっとの思いでまたいで来てくださった来会者に対し、「聖餐式」という儀式のために「疎外感」を与えるのは問題ではないか?という思いやりの気持ちから起こった解決法?である。
新来会者や求道者に対して「ウェルカムの心」や「おもてなしの心」は大切である。だから、それは礼拝の後の「愛餐会」で大いにおもてなしすれば良い。しかし、その「おもてなしの心」を、「聖餐式」で発揮することには、深刻な問題がある。
そもそも2000年の間、主イエスが定められ、その持ち方を使徒パウロが聖書の中に書き記して来た由緒ある儀式である。そこには、洗礼を受けた信者によってのみあずかるという大切な決まりがある。
「聖餐式」の意味を、お寺で甘茶を飲みお菓子をいただくような感覚で捉える方もおられる。しかし、それとは全く意味が違うのである。
2000年の間、教会の心臓部分として、イエス様を心から信じて公に洗礼を受けた者たちが、毎月(教派によっては1年に一度など、持ち方は様々であるが)継続的にあずかる儀式、それが「聖餐式」である。
心で信じたことを公に告白する2つの儀式、それが「洗礼式」であり、「聖餐式」であると言えるだろう。
「洗礼式」は、イエス・キリストの「死と葬りと復活」を象徴した儀式であり、信仰の本質を絵画的に象徴した素晴らしい儀式である。それに対して、「聖餐式」は、イエス・キリストとの「最後の晩餐」を象徴している。そこに招かれたのは弟子たちのみであった。
その食事の後、イエス様はゲッセマネの園に出向かれ、血の汗を流し祈られた。そこで、弟子の裏切りによって捕らえられ、裁判を受け、いばらの冠をかぶせられ、40に1つ足りない鞭を受け、嘲られ、罵られ、ドロローサの道を歩まされた。
その当時、最も過酷で悲惨な十字架刑に処せられた。釘で打ち付けられ、強盗と共に、肉体的精神的、霊的な苦しみを味あわれた。その時裂かれた肉体と流された血を象徴して受ける儀式が「聖餐式」なのである。
決して軽々しく行ってはならないし、誰でも受けても良い式ではない。
主イエス・キリストへの信仰は「幼子のような信仰」でも良い。しかし、パウロが手紙に記しているような「福音」の深さ、豊かさを、学び理解することを怠ってはならない。その信仰の1番基本であって大切なのが「洗礼式」と「聖餐式」なのである。
海に浮かぶ氷山のほとんどが海の中に存在するように、私たちが学ぶべき福音の本質は巨大なものである。
10:16
a「私たちが祝福する祝福の盃は、キリストの血にあずかることではありませんか。」
私たちが目にして手に取るのは「イエス・キリストの血」を象徴する「ブドウジュースの杯」である。しかし、その一杯の小さなジュースには、巨大な福音理解を抱えている。
ローマ1,2章には「死と滅び」に直面した私たちの姿が描かれている。また、3~5章には「キリストの犠牲による贖罪の御業とその価値」が描かれており、私たちはその小さな杯によって、福音の全体を味わうことが出来る。
10:16 b 「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
ローマ6~8章には、キリストと共に十字架につけられたことにより、「罪の力から解放された」こと、「律法から解放された」こと、いのちの御霊により「罪と死の法則から解放された」こと、イエスが死からよみがえらせられたように、「私たちもよみがえらせられるように生かされる」こと、内住の御霊が、キリストに復活のからだ、栄光のからだを与えられたように、私たちも「復活のからだ、栄光のからだが与えられる」ことを意味している。
10:17
「パンは1つですから、私たちは、多数であっても、1つのからだです。それは、みなの者がともに1つのパンを食べるからです。」
もともと1つのパンであった物を、私たちがいただく。キリストのからだを象徴するパンをいただくことには、私たちが神の御霊を宿しているという意味がある。1人ひとりはキリストを頭とするいろんな器官であって、責任ある教会員である。
「キリストのからだにあずかる」ということは、深い大きな意味を持っているのである。
私たちはパンをいただき、杯をいただくごとに、この深い福音の奥義を味わわなければならない。(仁美記)
2017年09月03日h「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「G2017年08月27日
新約聖書Tコリント人への手紙11:17-25(MP3 /
YouTube)「主イエスは、渡される夜、こう言われました―陪餐にふさわしい者とは誰か」
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先月より、岬の教会の礼拝奉仕のために、4回にわたってローマ
4章を開いてきたが、今回は「聖餐式の意味について」語るべきと示され、新約の教会における、聖餐式のあり方、意味について教えられたいと思う。
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1 , 11:23,24
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
聖餐式の始まりは、イエス様が十字架にかかられる前夜の「最後の晩餐」からである。この時期はちょうどイスラエルの「過越の祭」の食事の時期と重なっていた。
紀元前、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民が、自分たちの故郷イスラエルに帰ろうとした時、労働力の低下を恐れて、王であるパロは反対した。
そこで神様は10の災いをエジプトに下した。第10番目の災いというのは、エジプトにいる全ての男子の初子を殺すという恐ろしいものであった。あまりにも恐ろしいさばきに、エジプトの民はイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのである。
その10番目のさばきが下される夜、イスラエルの民が食べた食事が「過越の食事」=「最後の晩餐」である。神様の言われたことばを信じたものは、家の門とかもいに「小羊の血」を塗り、人々は家の中にいて「過越の食事」を取った。その夜、その血を見て、神様はその家には災いを下さず過越されたのである。
この「小羊の血」は、十字架上でキリストの流された血を象徴している。
全ての人間がいつか、天の大法廷に立たなければならない。裁判官である神様が見られるポイントは何か?それは、キリストの十字架によって罪が許されると信じているかどうか、その人がキリストの血をまとっているかどうかである。
過越の出来事は、イエス・キリストにおける救いの「予表」であった。
「聖餐式」は過越の儀式、つまりはキリストの十字架の業を表している。神の怒りの審判が下る「凄惨な儀式」なのである。司式者が1つのパンを裂いて信者たちに渡す。これはキリスト自身の身体が引き裂かれたことに由来している。いばらの冠をかぶせられ、40に1つ足りない鞭を受け、十字架に釘付けられた、無惨な身体をいただくのである。
キリストはそのようにして、私たちの代わりに刑罰を受けてくださった、その事を深く考えなければならない式なのである。
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2 , 11:25,26
「夕食の後、盃をも同じようにして言われました。「この盃は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この盃を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
「聖餐式」とは、私たちの罪を「精算する場所」なのである。
1度は悔い改め、私たちは救いに導かれたのだが、毎日毎日私たちのいろいろな思いが小さな埃のように湧いてきて、いつの間にか山のように罪がたまってしまう。そのような時、聖く正しい神様に罪を照らされて、悔い改め、身代わりとなってくださったキリストをもう一度信じ「義」と認められる。天国も新天新地も私たちに用意されている事を再確認する式なのである。
未来の大法廷は一生に一回きりのものである。また、人生で大きな回心も一回きりのものである。しかし、私たちは日々、大小の罪を犯し続けるものであるがゆえに、日々の悔い改めを必要としている。それが1日の終わりに持たれるとすれば、月に一度の「聖餐式」は、前の月1月の「罪の精算式」なのである。
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3 , 11:27~32
「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の盃を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、盃を飲みなさい。
みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」
「聖餐式」は「聖なる式」つまり、「正しい式」である。
16世紀の宗教改革によってもたらされた「教会観」は、教会とは正しく福音が語られる所、また、教会とは正しく「洗礼式」と「聖餐式」が行われる所であった。
キリスト教会の2000年の歴史の中で、「聖餐式」にあずかれるのは「洗礼を受けた人」と決められている。お寺で誰でもが茶菓子をいただくようなものではなく、パンと盃をいただける正しい対象があるのである。
旧約聖書においてはエジプトの「過越の儀式」が、割礼を重んじるイスラエルの民と限られていたように、「聖餐式」は「洗礼」という「心の割礼」を受けたクリスチャン限定である。
また、イエス様が設けられた「最後の晩餐」に参加したのが12弟子であったように、「聖餐式」に参加できるのは、あらゆる国のキリストを信じてバプテスマを受けた信者たちと定められている。
イエス様を心から信じて罪を告白し、洗礼を通してその身分を公のものとし、教会員になった人たち、この責任ある教会員が自分を吟味してパンと盃をいただくのである。
昔は「聖餐式」と「愛餐会」が同じ時に持たれていた。お金持ちはお金に物を言わせて、ご馳走を持ち寄り、朝早くからやってきて飲み食いしていた。貧しい人たちは集まるのも遅れて、その頃には食べ物も飲み物もほとんど残っていない有様だった。
この状態を憂いて、パウロは手紙を書いている。「金持ちは肥えふとり、貧しい者はやせ細っている」と・・・
必要以上の飲み食いは健康を害することになる。「聖霊の宮」である私たちの身体は、神様からの預かりものとして、きちんと管理しなければならない。そして、お互いに愛による配慮を忘れず、分かち合うことを大切にしなければならない。
2000年のキリスト教の歴史を見れば、受洗者の陪餐が基本である。それは、教会が「凄惨な十字架」をありがたく受けとめ、日々の自分の罪の「精算」をし、キリストの教会員として「愛を分かち合う」場所であるからである。(仁美記)
2017年09月03日g「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「F20031126 k ct53 54 icd38
教会の儀式―洗礼と聖餐」の講義紹介
https://youtu.be/3r4oyo4dj2s
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今から16年前、2003年11月26日に、母校関西聖書学院の二年・三年生合同クラスで隔年で、エリクソン著『キリスト教神学』第三巻、第四巻を講義していた記録の一部を紹介しておきたい。「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズを扱う上で、聖餐論全体を知っておくこともまた大切と思うのである。ただ、この時期の画質は荒く、部屋の照明は暗いのが残念である。
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「第八部:教会―38.教会の儀式―洗礼と聖餐」
http://aguro.jp.net/d/po/pp/icd37pp.pdf
すべてのキリスト教会はバプテスマ式を執り行っているので、バプテスマが教会生活で果たす役割は重要である。キリスト者の異なる集団から、三つの基本的な見方が出されている。これらの問題を解決するために、バプテスマの意味、バプテスマの対象、バプテスマの様式を考察することが重要である。主の晩餐はキリスト者のどのグループにとってもきわめて重要な問題である。主の晩餐は、人がキリスト教信仰に入信することにおいてバプテスマが始めたことを継続させる。主の晩餐には四つの主要な見方があり、少なくとも三つの見方から提示されている、解決されなければならない問題が存在する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
2017年09月03日f「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「E2011年12月刊行―日本福音主義神学会『福音主義神学42号:
聖餐』「巻頭言」の紹介
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable_with_Password/042-01.pdf
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「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズに取り組むにあたり、下記の巻頭言にある通り、「聖餐に関する問題を基本的に述べ、わずかなりとも聖書解釈と神学構築の領域から福音主義聖餐論の共通性と多様性を見つめる視点と、福音主義聖餐論の聖書的適格性・正統信仰の公同性・現代的適応性・自己革新性に目配りできる材料とを提供しておきたい。」
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【巻頭言】
学会誌は、以前「讃美歌」(35号)、「祈り」(36号)
に合わせるかのように『霊性』(37号)を取り上げた。今回は「聖餐」(42号)を、今秋の全国研究会議講演の次年度刊行の論文集『説教』(43号)を前にして取り上げることとなった。これは、「新約聖書によれば神が十字架と復活のキリストによって造り出す救いは信仰者に対し“御言葉の宣教・洗礼・聖餐”によって伝達される」(H.G.ペールマン著『現代教義学総説』)ゆえである。また、ずっと前に『礼拝』(24号)に取り組んだ。そのとき、様々な教派の伝統を包含する学会であるがゆえ、ルター派、改革派、ホーリネス派に登場していただいた。折しも、日本基督教団では「聖餐論」が分裂の原因となっている(芳賀力編『まことの聖餐を求めて』)。それに言及するかどうかは論者に委ねられており、それは別として今回は広く、@神学的・教理的要素、A歴史的要素、B社会的・文化的要素(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』)を内包する「福音主義に立つ聖餐論」の多様性の豊かさを味わいたい。
読者のための読みやすい構成をと考え、論文テーマに沿うかたちで今回の聖餐論特集を便宜上以下のように分類した。@聖書神学の立場から大坂太郎氏『宗教儀式、宣教行為、そして一致の象徴―Tコリントにおける“主の晩餐”再考―』、山崎ランサム和彦氏『新約聖書における聖餐―救済史的視点からの概観―』、A歴史神学・組織神学の立場から正木牧人氏『主の晩餐:ルター派の聖餐理解と実践』、坂井純人氏『改革派聖餐論の特色―カルヴァンからウェストミンスター信仰基準へ―』、坂本誠氏(日本ナザレン教団)『不信仰に陥った者たちへの励ましとしての聖餐―ウェスレーの宣教のわざとしての聖餐を基盤にして―』、C実践神学の立場から坂本誠氏(日本同盟基督教団)『今日のキリスト、今日のパン―礼拝において、今日のキリストをどう表すか―』、三好明氏『教会形成における聖餐の意義―カルヴァンの立場から―』の論文が、それぞれの分野また教会・教派の聖餐論として紹介されている。
聖餐論特集の巻頭言を書くにあたり、ひとつの文章が心にある。それは「聖霊を取り扱おうとするなら、御霊の恵みが真に必要である。彼について十全な語り方ができるように、というのではなく−それは不可能である−、聖書が教えているものを語ることによって、危険なしにこの主題を身につけるために、である」(H.ベルコフ著『聖霊の教理』)。聖餐論を取り扱うときにも、同じ畏れを抱く。力量不足を自覚しつつ、しかし神学校において組織神学・歴史神学を教えているひとりとして、聖餐に関する問題を基本的に述べ、わずかなりとも聖書解釈と神学構築の領域から福音主義聖餐論の共通性と多様性を見つめる視点と、福音主義聖餐論の聖書的適格性・正統信仰の公同性・現代的適応性・自己革新性に目配りできる材料とを提供しておきたい。
ではまず、聖餐の「聖書的適格性」と「正統信仰の公同性」の領域に目配りしたい。神学的・教理的要素からみて、聖餐とはいかなる儀式なのであろうか。洗礼は入会の儀式であるが、聖餐は見える教会で継続されている儀式である。聖餐とは、キリストご自身が、ご自身の死の記念として行うようにと教会のために制定した儀式、と予備的に定義できる。ただ、私たちはすぐに聖餐についての奇妙な事実と出会う。キリスト教の事実上すべての教派が聖餐を行っている。聖餐はキリスト教のほぼ全ての教派をつなぐ“共通要素”である。しかしその一方で“いろいろな解釈”が存在する。歴史的にも、クリスチャンをいろいろなグループに分断してきた。つまり聖餐はキリスト教界を“一つにする要素”であると同時に“分ける要素”なのである。いくつかの伝統または教派は、一般的かつ非常に重要な課題に関してかなり一致している。それは、@キリストによる制定、A繰り返しの必要性、B福音告知の形態、Cあずかる者への福益、Dキリストに従う者への限定等についてである。反対に、一致しない点もある。それは、@キリストの臨在、A儀式の効力、B適切な執行者、Cふさわしい受け手、D使用されるパンとぶどう酒等についてである。その中でも、焦点になるのは「キリストの臨在」の問題であり、パンとぶどう酒は、(a)カトリック−キリストの物理的なからだと血“である”[
are ]、(b)ルター派−物理的なからだと血を“含む”[ contain ]、(c)改革派−からだと血を“霊的に含む”[
contain spiritually ]、(d)ツヴィングリ派−からだと血を“象徴する”[ represent ]、等
の代表的解釈がある(M.J.エリクソン著『キリスト教神学』)。
次に、聖餐の「現代的適応性」と「自己革新性」の領域に目配りしたい。福音派とは教会の歴史において幾重もの発展や発達過程を経て生成を見るに至った生きた実体である。そして、その歴史の中で形成されてきた聖餐論もまた然りである。プロテスタント教会の礼拝の歴史、また聖餐の歴史を眺望すると、神学的・教理的要素のみでなく、歴史的要素、社会的・文化的要素もまた大きな比重を占めており、歴史的状況の中での変化に応じて多様な礼拝伝統が生まれてきた経緯がある。16世紀には、50年間に五つの重要なプロテスタント礼拝の伝統が形成された。ルター派、改革派、アナバプテスト、アングリカン、ピューリタンの諸伝統は、1520年から1570年までの間に恒久的な礼拝の形式や順序をしっかり形成するに至った。中世後期までに生み出されたいろいろな会衆と信仰行為に対応するきわめて多様な可能性がこの短期間に出現した。その後の数世紀間にこうした展開の速度は緩やかなものとなっていったが、それでもそのプロセスそのものは確実に継続していった。平均すると一世紀にひとつの割合で新たな伝統が生まれた。17世紀にクェーカーが、18世紀にメソディストが、19世紀にフロンティア派が、そして20世紀にはペンテコステ派が生まれた。こうした九つの伝統のそれぞれにおいて、多様な民族的文化的集団にその伝統を適応させるための様々な形式が発達した。このように聖餐論の伝統と歴史的展開を福音と文化の“コンテクスチュアリゼーション”から眺望する視点も見落としてはならない。
そして、現代という時代は、プロテスタントとローマ・カトリックの双方において、西方教会の礼拝が互いに接近しつつある時代のように思われる。多様な伝統の豊かさがこれほど広く分かち合われたことはいまだかつてなかった。それにもかかわらず、もろもろの伝統が接近する際、そこに一定の危険が伴うことは避けえないことであって、ある特定の伝統がそこから得るものは、そこで失うものに対して釣り合いのとれたものでなければならない。こうした接近があまりにも極端なものとなる場合、私たちはそこでプロテスタント教会の多様性における豊かさが犠牲となるようなことが生じないかどうかを問わねばならない。プロテスタント礼拝の豊かさとは、その多様性にあるのであり、またその多様性ゆえに広く様々な立場の人々に仕えることができる可能性があるのである(J.F.ホワイト著『プロテスタント教会の礼拝―その伝統と展開―』)。
さて福音主義聖餐論は、その歴史的経緯が示すように、共通性とともに多様性を内包している。今日、福音主義神学会は、この共通性と多様性をどのように理解すべきなのかを問われている。一方で聖書の中に“普遍的規範”を見出そうという試みがあり、他方に“規範の喪失”という事態が散見される。聖書の十全霊感を信じる福音主義神学会における聖餐論は、今何処にあり、何処に向かおうとしているのだろうか。『新約はまた、受け入れられうる多様性の限界線を描き出すところの正典として機能する』(J.D.G.Dunn“Unity
and Diversity in the New
Testament”)と言われる。霊感された聖書の御言葉から発し、伝統というかたちでコンテクスチュアライズされた聖餐論は、多様性の限界線をどのように照らし出しているのだろうか。私たちは、今回執筆された聖餐論から、その聖餐論が構築された歴史的背景、問題意識、聖書解釈、神学形成、実践と効用、そしてそれらの歴史的変遷等を学びあいたい。そしてそのことを自派の伝統を確信し継承・深化・発展させる契機にすると共に、他派の伝統へのより深い理解と尊敬をも学びあう時としたい。
In essentials, unity;
in non-essentials, liberty;
In
all things, charity
(編集委員 安黒務)
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なお、『福音主義神学42号: 聖餐』掲載論文は下記サイトにて公開されています。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers42.html
2017年09月03日e「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「Dフェイク・ニュースならぬ、フェイク資料問題」―『日本基督教団における未受洗者への配餐の問題―その本質にあるもの』東京神学大学
大住雄一教授による「聖餐の学び」(日本基督教団大宮教会において)紹介(下記サイトより講演資料をダウンロードして印刷できます)
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その概略のみ、以下に紹介する。聖餐論問題における今日の混乱を資料源にさかのぼって研究発表されたものであり、大変貴重なものである。「フリー聖餐問題を分析・評価する」ときに、欠かすことのできない資料のひとつである。
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【日本基督教団における未受洗者への配餐の問題―その本質にあるもの】東京神学大学 大住雄一教授
[以下の文章は、2008年3月16日主日午後に日本基督教団大宮教会において開かれた「聖餐の学び」での発表原稿である。当日は、簡単な資料集を兼ねたレジュメを手許におき、それを、そのつど必要なコメントを付けながら読むという形で話した。以下にご覧頂くのは、配布した資料付きレジュメに、当日付したコメントを書き加え、資料の書誌データや、当日挙げることのできなかった他の資料を補ったものである。]と始められ、
+
⑴ 今日の主題
⑵ 資料検索
⑶
『陪餐問題に関する資料ガイド』のミスガイド
⑷ 問題の本質を表す応用問題
⑸
今日私たちは、どういう礼拝をしているのか
⑹ まとめ 牧会的課題へ
という構成で講演されている。
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特に、考えさせられた点は、“ミス・ガイド”問題である。
「…と紹介されている。ところが前後を含めて訳してみると…」
「資料ガイドは言う。しかし、以下のような文脈においてである…」
「資料ガイドによれば、…。これも文脈を考えなければならない」
「資料ガイドによれば…。しかしこの問いは修辞疑問文なのだろうか」
「資料ガイドによれば…。段落全部を訳すと」
「補足事項…。この文書の表紙しかみていないのではないか」
と、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本基督教団出版局、2006年、について厳しい分析・評価をくだしている。わたしたちは、「フリー聖餐問題を分析・評価する」取り組みをする場合、礼拝学の書籍の内容の信ぴょう性、また執筆者の思想・信条・人格にまで目配りが必要な時代となっていることを痛感させられる講演であり、資料である。
米国の大統領選で、「フェイク・ニュース」が話題になったが、「未受洗者陪餐問題」においても、同様の「フェイク(にせもの、模造品、まやかし)資料」の事態が生じているということを教えられる。
2017年09月03日d「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「C日本基督教団公式サイト【教団新報】2007/12/08―北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」紹介
http://uccj.org/newaccount/15525.html
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今回のシリーズで、何度も出てくる「未受洗者配餐」牧師への退任勧告決議について、ご存知ない方もあると思われる。今回のシリーズの取り組みの発端のひとつがそこにある。それゆえ、「日本基督教団公式サイト【教団新報】2007/12/08―北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」のサイトを紹介しておきたい。未受洗者配餐問題の、日本のキリスト教会における状況を理解する一助としていただけたら感謝である。
2017年09月03日c「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「B100920_リバイバル・ジャパン誌神学交歓コーナー_e_福音主義聖餐論再考」【全文紹介PDF】
http://aguro.jp.net/d/ici/100920_リバイバル・ジャパン誌神学交歓コーナー_e_福音主義聖餐論再考.pdf
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『まことの聖餐を求めて』芳賀力編、教文館―を読んで、落穂拾いのようなかたちで『福音主義聖餐論:再考』を執筆した。以下に、序文のみ紹介する。全文を読みたい方は、PDFで自由にプリンアウトし読んでいただきたい。
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序
■信仰・洗礼・聖餐
十九歳の時に教会に導かれ、罪を 悔い改め、福音を信じ、洗礼を受け た。その時から聖餐にあずかってい
る。私の所属していた教会では、受 洗者のみに配餐されていた。礼拝に 続く聖餐式においては、牧師が「聖
餐式は、イエス・キリストを信じ、 洗礼を受けている人が対象になって います。将来、洗礼を受けられ、と
もに聖餐にあずかることができるよ う期待します。」等、アナウンスされ ていたように記憶している。
後日、献身し、やがて神学校で「組 織神学」を教えるようになった。紅葉が赤く染まる晩秋、エリクソン著
『キリスト教神学』の教会論の「教 会の儀式:聖餐論」講義に差しかか った。その時、一人の神学生が可愛
らしい右手を挙げ「先生、質問して よろしいでしょうか。私たちの教会 では、まだ洗礼を受けておられない
方にも配餐しています。うちの牧師 は礼拝出席者全員に配餐して『今、 イエスさまを信じて、一緒に聖餐に
あずかりましょう。』とアナウンスさ れています。これは正しいのでしょ うか。」と質問をした。
それに対し、神学教師としての私 は「キリスト教会は歴史的に“受洗 者配餐”の原則を保持してきました。
『未受洗者に疎外感を与えないため の人間的配慮から未受洗者に配餐す る』のは、キリスト教会が歴史的に
保持してきた聖餐論に対する理解の 欠如に起因するのではないでしょう か。」と答えた。ただその時以来、「キ
リスト教会が歴史的に保持してきた 聖餐論」についての研究は組織神学 教師としての私にとって“ひとつの
宿題”のようになってきた。
さらに今回、このテーマで原稿を 書くように導かれたのは、「日本基督
教団で“未受洗者配餐”推進派の教 職者の資格停止が議論になっている」 ことが挙げられる。一方では、“教職
資格停止に価する深刻な問題”と捉えられているのに、他方では未受洗 者配餐が“求道者への欠かせない配
慮”として受けとめられている。この落差は一体何なのだろう。このギ ャップはどこからくるのだろう。そ
してそれはどのようにして埋められ るのだろう。ふつふつと湧いてくる 疑問に、福音主義神学に立脚する神
学教師の一人として、「聖餐論」全体 を丁寧に再考し整理しておく必要を 感じたのである。
しかして、今回は幅広く「聖餐論」 関係の文献収集に取り組み、様々な 立場の聖餐論を研究することとなっ
た。数多くの「聖餐論」に関する著 作の中で一番参考になったのは芳賀 力編『まことの聖餐を求めて』( 2 0 0 8 、
教文館)であった。その中で教えら れたことを、いうなれば“ルツの落 ち穂拾い”のように紹介することに
より、読者の皆さんに「聖餐論」全 体について再考していただく材料に していただければと願っている。
2017年09月03日b「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ「AICI for JEC インフォメーション
090321『まことの聖餐を求めて』芳賀力編、教文館 ― 「未受洗者配餐問題」に関し、JEC聖餐論のひとつの基礎資料の紹介―」
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_200901-03.htm#090321
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問題が、「教会論の”心臓”部分」といわれる聖餐論だけに、また聖餐論に関する無知から生まれる軽視や偏った情報による混乱(斎藤正彦著『イエス・キリストと教会』「福音主義教会観の破滅としての自由主義教会観」)を避けるために、ルカにようにできるだけ丁寧に、「順序立てて」(ルカによる福音書1:1-4)、この問題を取り扱っていきたい。
わたしが、最初にこの問題を取り扱ったのは、2008年11/30のクリスチャン新聞に掲載され「日本基督教団の未受洗者配餐問題」の記事からであった。下記にその時の記述があるので参考にしていただきたい。
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主の御名を崇めます
「ICI for JEC
インフォメーション
090305」号にて、2008年11/30のクリスチャン新聞に掲載されました日本基督教団の未受洗者配餐問題の記事をPDFファイルで添付して紹介させていただき、今年度の「ICI
for JEC」の課題のひとつとして「聖餐論」の基礎資料づくりに言及させていただきました。
これは、昨年度の牧師会にてJECにおける「未受洗者配餐問題」が話し合われ、そのままになっていることを受け、KBIにて組織神学を教えさせていただいている一教師として、聖書的・歴史的・組織神学的な総合的な視点から、きちんと整理しておく必要を感じたことからきています。
神学教師として、無責任で曖昧な発言はできませんので、まず「聖餐論」に関する主要な著作の収集に取り組みました。それらには、以下の書籍があります。
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●「未受洗者配餐」に賛成の立場の本
・『聖餐―イエスのいのちを生きる57人の発言―』
高柳富夫編、新教出版社
・『聖餐の豊かさを求めて』山口雅弘編著、新教出版社
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●「未受洗者配餐」に反対の立場の本
・『聖餐―福音主義教会における聖餐の理解と実践のための指針―』
ドイツ福音主義教会常議員会、教文館
・『主の晩餐―現代アメリカにおける聖餐への問い―』
ロバート・リーサム著、一麦出版社
・『洗礼から聖餐へ―キリストのいのちの中へ―』
芳賀力著、キリスト新聞社
・『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか―神の恵みの手段としての洗礼と聖餐―』
赤木善光著、教文館
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●両方の立場を考慮に入れ、議論を尽くした後、「未受洗者配餐」の問題性を明らかにし、この問題の焦点を明らかにし、「未受洗者配餐」問題を克服する手順までも示しているすばらしい書物。JEC拡大教職者会や牧師会で、「JECの聖餐論のあり方」を話し合っていく「基礎資料」のひとつとして推薦される書籍です。
・『まことの聖餐を求めて』芳賀力編、教文館
【内容】
○旧約学の立場から
1.「契約」概念から聖餐問題を考える―聖餐をめぐる聖書神学的考察―
○新約学の立場から
2.「聖餐」の歴史的三つのルーツを探る
3.パウロにおけるサクラメント理解
○教会史と諸伝統の中で
4.ローマ・カトリック教会における聖体祭儀
5.未受洗者の陪餐−聖公会の立場から
6.キリストにあって神の真実を受け取る―福音の説教と聖餐―ルーテル教会の理解と実践から
7.改革教会の伝統の立場から
○組織神学の立場から
8.荒野に供えられた主の食卓
○実践神学の立場から
9.すこやかに教会を生かす聖餐を祝おう
○各国の現状
10.ドイツ福音主義教会の現状
11.アメリカ合同メソジスト教会の現状
○教会の実践の中から
12. 神の宣教とキリストの教会
13.取れ!キリストの命を
○おわりに
14.それが「聖餐の豊かさ」なのだろうか
と、13人のすぐれた神学者や牧師たちが執筆しており、. 「未受洗者配餐」問題が
何であり、どのように考え、どのように解決していくべきかを丁寧に解説しています。
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■特に、教えられる点をあげますと、
1.聖書が教えている「愛餐」と「聖餐」とを混同してはいけない。
2.聖書は、「洗礼」から「聖餐」への順序を明確に語っている。
3.教会の歴史において、「受洗者配餐」が守られてきている。
4.「開かれた聖餐」の議論は、教派を超えての合同聖餐式の議論であって、「未受洗者配餐」の議論ではなかった。
5.「未受洗者配餐」問題が、欧米の教会において議論され、それを許容する流れになっているという主張は、故意による情報操作とも思われる「歪曲された情報流布」であり、そのような流れにはなっていない。
6.欧米の教会を含め、キリスト教会は「受洗者配餐」が守られている。
7.求道者への配慮を主張し、「未受洗者配餐」を推進しようとする牧師の問題には、「聖書観」の弱さからくる「教会観」の弱さ、そして「聖餐論」の本質の喪失という問題が内包されている。
8.求道者等、「未受洗者」への配慮は、「未受洗者配餐」というかたちでなされてはいけない。洗礼や聖餐についての説明やパンフレット作成等、もっと別の分野で配慮されるべきである。
9.明確な悔い改めと信仰を経て、洗礼を受け、聖餐式にあずかるという聖書的な順序を無視してなされる「未受洗者配餐」は、洗礼への決心をしなくても、聖餐共同体としての教会の交わりの一員として認められているという意味で、救いの機会を遠ざけることにもなっている。
10.その他、pp.338-349には、「日本基督教団西宮教会」の前任牧師が「未受洗者配餐」を推進されてきた後に赴任された岡本知之牧師が数年の時間をかけて、教会をあげて聖餐の意味を学び続け、「受洗者配餐」の聖書的姿に教会を戻していった、丁寧な取り組みの紹介が掲載されており、現在JEC内で、「未受洗者配餐」をされている教会にとって、参考になるのではないかと思います。
11.日本基督教団は、「未受洗者配餐」問題で苦闘している最中にあり、牧師の資格問題が議論になったりしています。これらの情報はまわりまわって、JECの教職者や信徒の人々の間にも話題になっていくことと思います。聖書的にも、歴史的にも、組織神学的にも、今日的のキリスト教会の実践においても、基本的な教会の在り方としての「受洗者の陪餐」という原則のもつ意味を、牧師会等にて話し合っていくことができたら、将来起こり得るかもしれない大きな火種を未然に消すことができるかもしれません。
12.これらの課題を整理して、今年の“ICI for JEC”神学誌にて取り扱っていきたいと思っています。お祈りください。
2017年09月03日a「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズ―「@なぜ、その牧師は、固まり、のけぞってしまわれたのか?」
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8月20日を最後に、しばらくフェイス・ブックも、YouTubeも、ベネマの著作の翻訳も、棚上げになっていた。詳しく言及することはできないのであるが、それは神様から急遽「フリー聖餐問題の分析と評価」に取り組むように導かれたからである。
ある教会の姉妹が「わたしが、わたしの教会では“フリー聖餐”をやっています、と話したら、親しくしてきた他の教会の牧師先生は、“固まって”しまわれ、その反応にビックリした」と証しされた。
礼拝に出席されるすべての人に聖餐を提供する「フリー聖餐」―これは、伝道で苦闘する日本の教会の中で、せっかく来られた求道者の方に対し、聖餐式で“疎外感”を与えまいとする牧師の配慮からであろうと思われる。わたしも求道者の時期があり、今牧師をしていて、聖餐式のある礼拝に求道者がつどわれるとき、ものすごく配慮が必要と感じるひとりである。
しかし、最後の晩餐における「聖餐式」の制定以来、キリスト教会はほぼ教派を超えて歴史的・伝統的に、その聖書解釈と実践において「受洗者陪餐の原則」を遵守してきた。であるから、普通の教会の牧師は「フリー聖餐をしている」と聞いて、「二千年間教会が大切に守ってきた“受洗者陪餐の原則”をないがしろする“違法聖餐”を実践している教会の教会員なのか」と、ザカリヤ(ルカ1:12)のように、恐れを抱きのけぞってしまわれたのであろう。「フリー聖餐問題」を詳しく知る由のない、純真な信徒の姉妹の、“痛ましい経験”ひとこまである。
わたしは、今、このような痛ましい経験や、「違法聖餐実践牧師」「違法聖餐実践教会」「違法聖餐実践教会信者」というレッテルをはられることなく、これまで通り福音派諸教会における教派を超えた豊かな交わりが促進されるため、「フリー聖餐問題」をきちんと分析・評価し、歩むべき方向性を示しておくことは時宜にかなっているように思うのである。批判のための分析・評価ではなく、建徳的な視点を大切にしてこの課題に順を追って取り組みたい。
いつものように、十六世紀の宗教改革に根差す歴史的福音主義キリスト教の視点を尊重する立場から、⑴今日の聖餐論に関する神学的状況と動向に関する分析と情報の提供、⑵聖餐論に関する注目すべき問題点と主要な争点の指摘、⑶そして、聖餐論に関する福音主義を標榜する諸教会の“核”を成すその“信念体系(福音理解)”の確認と、それに関するより一層の掘り下げへの一つの呼びかけとそのための材料になればと思っている。
2017年08月20日
新約聖書ローマ人への手紙04:17-25(MP3
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YouTube)「望みえないときに、望みを抱いて―有限なる人間が無限なる神に」
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岬と高槻の礼拝の準備として、一宮チャペルでは、ローマ書及びエペソ書を少しずつ学んでいる。そして、それと並行に今月から、ベネマという人の本の翻訳にも取り組んでいる。それは、「宗教改革の遺産」とは何だったのか?という原点を探る取り組みである。つまりその原点とは、ローマ書4章の始めにあったように、「不敬虔な者が信仰によって義と認められる」ということである。
「信仰による」という事は「行いによる」のではないという事である。
その事をパウロは、ダビデ王がどのようにして「義」と認められたのかを書いている。
ダビデは「姦淫」と「殺人」という大きな罪を犯した。この罪は、ダビデがいかに善行を重ねたとしても挽回できるものではない。
私たちはこれほどの罪を犯す事は無いかもしれないが、心の中を見れば、「情欲」「憎しみ」「妬み」など、罪の種子を多く発見する。そして、聖い神様は例え種子のような罪であっても見逃す事は出来ない、裁かれるお方「義なる神」なのである。
この聖い神様の御心の基準によれば、誰1人天国には行けないことになる。
しかし、神様はキリストを地上に送られた。キリストが全ての人の身代わりとなり、十字架にかかり死なれることによって、その事を信じる全ての人々の罪を許すことにされたのである。
だから、努力や頑張りは「信仰」ではない。イエス・キリストの十字架の恵みの雫を、ひたすら器に入れていただくこと、これが「信仰」なのである。
神の民の始祖である「アブラハムの信仰」を通して、パウロはイエス・キリストの「死」と「葬り」と「復活」の意味を深く分析し評価している。
まず、彼の信仰は「望み得ない時に望みを抱く信仰」である。つまり、「神様との約束は必ずなる」と信じる信仰である。
話は少しそれるが、先々月、高槻の教会でした信徒セミナーの「人間論」の準備中に教えられたことがある。それは、「人間は限界のある存在である」ということである。
人間は良き創造の中に、良き存在として造られた。しかし、神様のように無限の存在にはなり得ないものである。人間は常に「時間」「空間」「能力」全てにおいて限界をもっている。つまり、「有限性」の中で生きなければならない。これは罪のゆえではないし、無限の存在になる必要もない。
ただ、人間は自分自身の有限性の中に、無限性の神を信じて生きるべき存在なのである。
ヘブル人への手紙の中で、アブラハムは広大な土地と星や砂のように多くの子孫を得るとの神様の約束を得たと書かれている。しかし、アブラハムは生存中に約束のものを得てはいなかった。
私たちも神様に祝福されて生きることが出来ると信じているが、現実には様々な困難がある。
最近は少子高齢化で、高度成長期のように全てのことが祝福されることを実感して生きることが出来ない低成長の時代である。土地や建物もかつては値打ちがあったが、今や「負の遺産」である。そして、子供の4割は結婚しないというより、低収入のため結婚出来ないのである。
戦後から高度成長期またバブル期が、朝から次第に日の登る真昼だとすれば、今からの時代は日も傾き夕方になり山の端に沈もうとしているということになる。
しかし、こんな時代だからこそ、アブラハムの信仰が私たちの力となる。
「無いものをあるもののように考える」ことの出来る神様を、信じる必要のある時代なのである。
やはり、アブラハムは「望み得ない時に望みをいだいた信仰」であった。
私たちも自分の健康や老後の資金についての悩みがある。子供や孫の学業、就職、結婚などの悩みも尽きない。しかし、アブラハムやサラの死んだも同然の身体という現実がある中での、アブラハムの神様を見上げる信仰であった。
私たち自身は、かつての幼子のような純粋な信仰ではなくなっていると自覚している。たぶんアブラハムもそうであったと思う。ただ、彼は神様の約束を手放さず、永遠を見る視点、終末論的、聖霊論的に神様の約束の成就を見ることが出来る「信仰」を持っていた。
私たちもアブラハムの信仰に立って生き続けたい。問題や困難の只中で、神様にうめきつつ、叫びつつ生きてみたい。アブラハムの永遠の視点を持って、迷路のような、また、山の中で道を失ったかのような時も、アブラハムを思い出したい。じっと耐え、体力を温存し、神様の助けが来ると信じて待ち望みたい。
詩篇18篇のダビデのように・・・神がサウルの手からダビデを救い出された日のように・・・私たちも「望み得ない時に望みをいだいて」待ち望みたい!(仁美記)
#20170816
【コーネリス・P・ベネマ著『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』紹介シリーズC】
今年は、日本福音主義神学会全国研究会議の年である。三年前には、母校関西聖書学院で開催され、全国から多数の同労者、神学生、兄姉が参集してくださり、大きな祝福を受けた。前回の準備責任者のひとりとして、参加する責任を感じているのだが、置かれている環境と都合により参加が難しい。それでも、今年のテーマ「日本福音主義神学会
第15回全国研究会議 : 三つの「のみ」の再発見 〜宗教改革500年によせて〜」は魅力的である。多くの参加者で溢れることを期待している。
わたし個人は参加が難しいのであるが、そのお詫びの意味も込め、前回の全国会議、そして『福音主義神学』誌の諸論文、各部会における研究発表、この間刊行されている関連書籍等を覚えつつ、兵庫の宍粟の山奥の小さな町からささやかな貢献でもできたらと考えている。
ひとつは、エリクソン著『キリスト教神学』に続く、その要約版『キリスト教教理入門』の刊行であり、聖書の記述的研究のラッド著作集の『終末論』に続く、『若き教会―使徒行伝』の刊行、そして使徒行伝で明らかなように「1世紀のパレスチナ・ユダヤ教を背景に出現してきた」キリスト教のあり方についての、タイムリーな今日的研究書であるベネマ著『福音を正しく得る―パウロ研究に関する宗教改革の視点と新しい視点を評価する』の翻訳である。お盆休みを利用し、すでに三分の一の翻訳を終えている。90ページなので今月中に訳了し、推敲に時間を取り、早期刊行を目指している。
最後のベネマの著作は、今日の「パウロ研究に関する新しい視点」をどのようなスタンスで学んでいくべきなのか、についてバランスのとれたガイドラインを提示している意味で大変意義深い小冊子である。すでに一部紹介しているが、下記のような構成で「日本福音主義神学会
第15回全国研究会議 : 三つの「のみ」の再発見
〜宗教改革500年によせて〜」とも共鳴する部分があるのではないかと考えている。まだ、未推敲の下訳にすぎない訳稿であるが、関心のある方もおられると思うので、「さわりの部分―序と結論」のみを紹介させていただきたい。
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・序
「すべての世代のクリスチャンは、誠実さをもち、聖書の教えに準拠して、イエス・キリストの福音を宣言するという課題に直面している。
16世紀におけるイエス・キリストの教会の偉大な宗教改革の時代に、特に緊急を要するかたちで直面した。中世のローマ・カトリック教会の教えに直面したとき、宗教改革者たちは、彼らがキリストにある神の恵みの福音の深刻な誤解として見たものに対し抗議せざるを得なかった。
間違いなくプロテスタント宗教改革の二人の最も偉大な教師、ルターとカルヴァンは、福音の中心にはキリストの従順と贖いの犠牲を基盤として有罪の罪人に対する神の恵み深く、無代価での受容の福音があると主張した。
彼らの視点で功績的な良きわざとともに恵みにもよるローマ・カトリックの義認の教えは、無代価の義認の福音の根元をひそかに傷つけてきた。そして、彼らは恵みの福音を教会の聖書理解の正当な場所に回復させることに尽力した。そうするとき、彼らはパウロの書簡、特にガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙が、教会がイエス・キリストを通して救いの福音を宣言した主要な資料であることを発見した。
ここ数十年、特に英語圏では、使徒パウロの福音と教えに関する「新しい視点」が、宗教改革の視点の基本的な教理の幾つかに挑戦するかたちで出現してきた。新しい視点の著者によると、中世ローマ・カトリック教会の教えに対する宗教改革者の対抗がパウロの解釈を歪めた。
宗教改革たちは、誤ってパウロがわざによる救いのユダヤ教の教えに反対していたと信じた。歴史的資料の新鮮な研究に基づいて、より新しい視点の著者たちは、パウロの義認の教理が、非常に異なる問題、すなわち多くのユダヤ人の信者が律法についてある「契約の境界のしるし」に従うことなしには、神の契約の民の共同体に異邦人を認めようとしないことに焦点を当てていると主張している。
この本の目的は、パウロに関するより新しい視点が引き起こした福音に関する重要な議論の短い要約を提供することである。新しい視点は伝統的なプロテスタントの義認の理解の基本的な特徴の幾つかに挑戦しているので、綿密な研究と思慮に富んだ評価が必要である。福音主義教会の福音宣教の形は今日それほど重要なものではなくなっている。この本の目的は、必要とされているパウロに関する新しい視点の、研究と評価の種類について比較的簡潔な紹介をすることである。
この本は、バナー・オブ・トルース・トラスト社が出版に喜んで同意した大部の著作の要約版を表している。それは、使徒パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点を十分に取り扱った著作の要約版であるから、より大きな著作の聖書的・神学的議論の多くは割愛されたり、大幅に要約されたりしている。ある意味では、この本は大きな著作の骨組みだけを提供しており、この要約版だけで十分ということではない。現在のこの著作は主題の一種の概略に過ぎないゆえ、読者は続刊の大著に向かうことを奨められる。」
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・第一章 導入
・第二章
パウロに関する宗教改革の視点―
…⑴「義認」:宣義による神の受け入れ、
…⑵「恵みのみ」:価なしの義認の基盤、
…⑶宗教改革の視点の鍵となる特徴
・第三章 パウロに関する「新しい視点」―
…⑴第二神殿ユダヤ教の新しい視点:E.P.サンダース、
…⑵「律法の行ない」の新しい視点:J.D.G.ダン、
…⑶「義認」の新しい視点:N.T.ライト
・第四章 新しい視点に対する批評―
…⑴サンダースの業績の過大視、
…⑵パウロ書簡における「律法の行ない」、
…⑶パウロにおける神の義
…⑷「義認」の本質、
…⑸「代理」・「転嫁」・「信仰」、
…⑹行ないを基盤とした「最後の審判」
・第五章 結論
「イエス・キリストの福音の世界への宣言は、あらゆる世代のキリスト教教会の大きな責務である。福音主義の信仰者は、十六世紀のプロテスタント宗教改革の時から、福音の中心的な恩恵は、イエス・キリストの従順と犠牲のみを基盤とした、神のみ前での信仰者の無代価の義認また受容であると告白してきた。
福音の中心には、神の不敬虔な者の義認について驚くべき知らせがある(ローマ四・五)。神の義はイエス・キリストの福音の中で明らかにされた。イエス・キリストは我々の罪のために死に、我々が義と認められるためによみがえられた(ローマ四・二五)。すべての人は罪を犯し、神の栄誉を受けることができない。しかし、福音のうちに明らかにされている神の義は信仰に始まり信仰に進ませ(ローマ一・一七)、イエス・キリストを信じるすべての人に神との平和を与えている(ローマ五・一)。
神による無代価の義認と受容の福音は、神とともに立っている場所を知ることを必要としているすべての人に新鮮さと力をもって語り続けている。信仰者の身代わりとなったイエス・キリストの救いのみわざのゆえに、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ八・一)という確信をもって喜んでいる。
ここ数十年のパウロ研究に関する新たな視点の出現に伴い、この古くからの宗教改革の使徒パウロの義認の教理の解釈は、継続的な批判にさらされてきた。新しい視点からの宗教改革の視点に対する批判が永続的なものと証明されるかどうかはまだ分からない。
しかし、新しい視点の幾つかの問題点を特定することは、宗教改革の視点を時代遅れと宣言するのが時期尚早であることを示す。パウロの義認理解を神の契約の民への所属するアイデンティティの問題に引き下げる新しい視点とは異なり、宗教改革の視点は聖書全体がそうであるようにパウロの著作においても幾つかの広範な主題に訴えかけている。
宗教改革の視点によれば、人間が直面する最も基本的な問題は、神の前での自分の罪責の問題である。人間の功績や道徳的な行為は、人間の罪と不従順を神のみ前で償うことができない。誰も、神の聖い律法の要求に対し自分の従順を基盤として、神の愛顧を見出すことはできない。十字架におけるキリストの全き従順と犠牲死だけが、神の義なる要求を満たし、信仰者の正しい立場を神のみ前に確保することができる。
パウロ研究に関するの宗教改革の視点は、これらの根本的かつ永続的な聖書のテーマを基礎にしているので、福音主義の教会は、不敬虔な者の義認におけるそのみわざの基本的な恩恵を含む、キリストの救いのみわざの古い物語を説教する義務の下に立ち続けるよう説得されたままである。
新しい視点が、パウロの福音の理解の幾つかの重要な側面を浮き彫りにしていると認められるかもしれないが、パウロの福音の解釈を宗教改革よりもより満足のいくものにするという主張は、最も良く評価しても誇張のように、そして最も悪く評価した場合明らかに間違っているように思われる。
宗教改革の視点は、聖書的かつ神学的に説得力のあるかたちで、キリスト教の福音の偉大なテーマのひとつ、すなわちキリストの恩恵による、正しい者をではなく不敬虔な者を義と認める神の驚くべき恵みを捉え続けている。」
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この要約版のメイン・テキストの“Gospel
of Free Acceptance in Christ”
も、今日、明日中に届くので、並行して学びを深め、漸次関心のある兄姉に分かち合っていきたい。
2017年08月13日
新約聖書ローマ人への手紙04:13-16(MP3
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YouTube)「信仰の本質の定義のありか―シオニズム?、1世紀のユダヤ教?、キリストの人格とみわざ?」
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4:13
「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」
これは素晴らしい言葉である。創世記15章で神様がアブラハム言われた「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」つまり、カナンと見渡す限りの大地をアブラハムとその子孫に与え、その子孫は星の様になるとの神様からの約束であった。
新約聖書の時代になって、キリストによって神の御業は完成した。見渡せないほどの広い世界、全人類がキリストを信じる信仰によって神の世界の相続人とされたのである。
以前はユダヤ民族、限定された地域での働きであったが、今や地球全て、被造物世界すべてがキリストによって贖われることを待ち望んでいる。
私が以前書いた「福音主義イスラエル論」にあるように、ユダヤ民族や特定の地域にこだわり、領土を回復するという野心を抱き続けることは、聖書を読み違えているとしか言いようがない。
キリストの、また、パウロの解き明かしはどの様であるのか?贖われた人々は天国に、つまり新天新地に入れられる。しかし、律法によるのではない。また、良いことをして天国に入るのでもない。もし、律法を守り良い行いを沢山しないと天国には入れないのであれば、そんな高い基準に到達する人はひとりもいない。
ユダヤ人たちは選民的特権意識を持ち、割礼や戒めや律法を守ろうとする。
しかし、以前は自らもそうであったパウロは、キリストに出会うことによって、その考えが根本的に覆された。
では「信仰とは何を意味しているのだろうか?」この世の中には沢山の信仰がある。「イワシの頭も信心かな!」というものまである。
聖書の信仰、信仰の本質とは何なのか?
4:14,15,16
何かをする(律法をまもること、良い行いをすること)などという「条件付きの信仰」は虚しくなると書かれている。そして、律法を守ろうとすると怒りに満たされてしまうというのである。なぜならば、何とか守ろうとすればするほど、「あれも出来ていない、これもしていない!」不十分な自分ばかりが目につき、まるで違反切符を次々と切られているような気分になってしまうというのである。
4:16 「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、」
「信仰により、恵みによる」とは理解するのが難しいかもしれない。
「ダビデは行いとは別の道で」4:6
と書いてあった。ダビデの犯した罪は「姦淫」「殺人」という大きな罪であり、そのままであったなら滅び、死刑が待っているだけであった。しかし、彼は彼の罪を覆う大きな力のお方を知っていた。人の罪を代わりに背負い生贄として捧げられる動物たち、神が定められたその身代わりの犠牲に、彼は自分の全てをかけた。
これが聖書の言っている「信仰」である。
「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じること」「罪深い者が、キリストの血潮で覆われることにより、無代価で聖いと宣言されるということをうけとること」これこそ聖書で言うところの信仰である。
アブラハムはとことん年老いて、死んだも同然、子を望むのは不可能なことであった。しかし、神様はこのような者を蘇らせ、生かすお方であった。キリストは亡くなられたが復活された。アブラハムの出来事もキリストの御業に焦点が当たっている。
最近の流行りの教えの中に、第2神殿時代という考え方がある。それはキリストの御業に焦点が当たらず、「ユダヤ教がわからなければ聖書がわからない」などという考え方である。
パウロは誰よりもユダヤ教の教えを知りながら、キリストにのみ焦点を当てている。
贖罪の原点、復活の力がキリストにあることを知らずして、キリスト教信仰はわからない。
キリストを単純に、素朴に信じるだけで、誰でも天国に入り、新天新地を相続するのである。
キリストの贖い、蘇りがいかに恵みであるか、さらに学んで行きたいと思う。(仁美記)
8/11【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズ&教職セミナー編C【20061112
JEC補教師セミナー「JEC神学入門」 その構築・分解・再構築の道筋】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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わたしは、現在ICI(一宮基督教研究所)で保有している千数百のビデオ等をさまざまなシリーズのかたちで紹介していっている。この中心、「背骨」となる部分が「ルーツとアイデンティティ、そして福音理解」つまり『福音主義神学』シリーズであり、『キリスト教教理入門』シリーズである。そして、わたしの取り組みの特徴は、それらが神学校の講義で終わるのではなく、それらの輪郭とエッセンスを所属団体の「信仰の一致と御子に関する知識の一致」(エペソ4:13)にコンテクスチュアライズすることに尽力し続けたというところにある。また、わたしが神学校における講義の紹介にとどまらず、所属団体の教職セミナーや牧師会講演等を紹介する意図は、宇田師、エリクソン、ラッド、牧田師等が指し示してくださっている「超教派的な福音主義のガイドライン」を神学校での学びで終了させるのではなく、そのラインに沿って教会や教派や神学校、そして宣教等の形成の“ひとつのモデル・ケース”として、さらに多くの方々に役立ててもらうところにある。振り返れば1990年度末から十数年間、毎年のように数多くのセミナー、講演、ブックレット等を分かち合ってきた。それらをひとつのサンプルとして参考にしていただき、それぞれの教会・教派の“脈絡”に合うようにコンテクスチュアライズしていただき、さらに優れたかたちで活用していただきたく思うのである。
わたしが神学生であった頃、現場の長いある先輩から「組織神学なんか勉強しても現場では何の役にも立たないよ」と言われたことがある。わたしは即座に心の中で「それは間違っている」と反応したことを昨日のことのように覚えている。相手が先輩であったので口には出さなかった。確かに、宣教と教会形成の現場で“難しい神学的な議論”は無益であり有害でもあるだろう。しかし、J.R.W.ストットが『ローザンヌ誓約―その解説と注釈』で「教会が直面する問題は、基本的には、神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする」と記していることは至言である。
ここ十数年、さまざまな運動や教えに影響され翻弄される危険が迫ったこともあり、その時々に要請を受け、所属団体の必要に迫られ、数多くの奉仕をさせていただいた。振り返って、それらの取り組みのすべてを再整理して紹介したいのだが、分量が多くそこまで手が回らないのが実情である。それで、主たるビデオ紹介のみにとどめ、JEC教職者に年四回、季刊誌として配布し続けたブックレットについては、下記の【ICI
for JEC 季刊誌・資料等の概要一覧】(1985-2016)にテーマや概要のみを紹介している。
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◎資料紹介
【20061112_JEC補教師セミナー_「JEC神学入門」関連資料『福音主義神学:再考』安黒講演】p.41-46にJEC神学入門ビデオで板書した「福音理解の構築→脱構築→再構築」作業プラン一覧(2009年時点)がある。JEC補教師セミナーで取り組み始めた企画が、三年後日本福音主義神学会西部部会講演で結実したともいえる資料である。わたしの神学的営みの青写真が記載され、西部部会の同労者のレスポンスや総括もついている。参考にしていただきたい。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20091116_jets-w_aguro_Evangelical-Theology_Re-Construction_all_in_printable_with_Password.pdf
(PW:129)引用・抜粋が含まれているので、パスワードをつけている。
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【ICI for JEC 季刊誌・資料等の概要一覧】(1985-2016)
http://aguro.jp.net/d/file/b/booklist07.htm
8/10【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズ&教職セミナー編B【20061003 JEC拡大教職者会
「JEC信仰告白」その構造とエッセンスの解説】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
所属教派である日本福音教会(JEC)において、第一段階として宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』のルーツとアイデンティティ理解の輪郭とエッセンスを教職者セミナーで分かち合う機会を得た。第二段階として分かち合ったのは、エリクソン著『キリスト教神学』で解き明かされている福音理解であり「これは、エリクソンがスウェーデン・バプテスト系の組織神学者であることと相まって、ルーツを辿ればスウェーデン・バプテスト系諸教会を背景とする諸教会をベースとして派遣されてきたオレブロ・ミッション宣教師により形成されたJECが”空気のように受け継いでいる福音理解”を神学用語で表現するとこのようになると言っても良い内容で仕上がっている福音理解」であった。第三段階としてわたしが試みた今回紹介している課題は、「簡易信条であるJEC信仰告白を、上記の福音主義のルーツとアイデンティティとスウェーデン・バプテストの福音理解の両面を意識しつつ、肉付けすること」であった。限られた時間であったので、JECの信仰告白の特徴的な部分にしぼって扱うこととなった。それは、JECにおける「聖霊論と教会論の特徴」であった。
JECにおける「終末論の課題」についても少しずつ触れてきていたが、初期には静かに、また慎重に取り組んでいた。この沈黙を破る「鐘が鳴り響いた」のは2010年度であった。その年には、ディスペンセーション主義問題を引き起こす多くの出来事があった。わたしは群れと神学校の将来に大きな危機感を抱き、沈黙していることができなくなり「ディスペンセーション主義問題:三部作」を生み出すこととなった。そしてその取り組みは、2015年度のラッド著『終末論』の翻訳と安黒著『福音主義イスラエル論』刊行へと発展・結実していくこととなる。わたしは、所属している群れと主力となって支えている神学校を、福音主義のルーツとアイデンティティとその福音理解のセンターラインに沿って歩む助けとなる“ガイドライン”の必要を切実に感じ、寝食を忘れるかのようにして、この二冊の本を刊行した。主が、二冊の本を“二本のろうそく”として行く道を照らしてくださり、群れと神学校を守ってくださるよう祈っている。
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【20061003 JEC拡大教職者会
「JEC信仰告白」解説配布資料】
http://aguro.jp.net/d/jec_kbi/jec_confession_061003.pdf
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【『使徒信条』に沿って学ぶ−エリクソン著『キリスト教神学』
What JEC ? シリーズ Kindle版】
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【内容紹介】
−『使徒信条』に沿って学ぶ、エリクソン著『キリスト教神学』−は、戦後、スウェーデン・バプテスト系オレブロ・ミッション宣教師により形成された諸教会の群れである「日本福音教会(Japan
Evangelical Churches:略称JEC)」の月刊誌に“What JEC
?”シリーズとして連載(2009年度)されたものに少し手を加えたものです。
この文書をキンドルにて再販する目的は、第一に日本福音教会の人たちに世代を超えて繰り返し味わっていただきたいということ、第二に日本福音教会の枠を超えてキリスト教会全般に、そしてさらにキリスト教会を枠を超えて日本語の読めるすべての人々に、エリクソン著『キリスト教神学』に見る信仰の特徴の学び方について知っていただきたいということです。
今回の内容はJECの特徴に焦点を当てていますが、その中にはJECの特徴を超え、福音主義的真正性を示す、@聖書的適格性、A歴史的公同性、B今日的適用性、C学問的自己革新性の四つの要素をも見ることができるのではないかと思います。
いわば、歴史的に構築(Construct)されたJECの福音理解を脱構築(De-Construct)し、新しい時代に向けて再構築(Re-Construct)していく視点を大切にしているということです。エリクソン著『キリスト教神学』は、私たちの福音理解に対して、そのような取り組みを励ましている組織神学書なのです。
神様が、Kindle Direct Publishing
という機会を生かし、この小さき者の拙い文章を通し「地のすべての人々」に、使徒たちが信じ、伝えた信仰の、それぞれの教派的脈絡における継承・深化・発展の道筋のあり方を照らしてくださいますように。
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【目次を見る】
■まえがき
■使徒信条
@我は“聖書”を信ず
■私は、聖書が神のことばであると信じます
■エリクソン著『キリスト教神学』とJEC信仰告白
■聖書の霊感、無誤性、信頼性、権威
■クリスチャンは、とんでもないことを信じているのだ!
■神さま、もし本当にいらっしゃるのでしたら
■洗礼を受けてから三年間すぎても
A我は“神”を信ず
■私は、天地の造り主、全能の“アバ”父なる神を信じます
■三位一体の神、創造と摂理の神
■神論と神のみわざ論
■ニーチェ著『ツァラツストラ、かく語りき』は、私のバイブル
■無意味な生を直視して
■聖書のイエス・キリストを通して、神を見た
■幼児が父親に向かって“お父ちゃん”と
■“アバ、父よ”という意識が無尽蔵に湧き出る泉のように
B我は“イエス・キリスト”を信ず
■私は、その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます
■キリスト論とキリストのみわざ論
■魂のこもった讃美歌をともに歌う礼拝
■「キリストの血」の教理的意味
■御言葉は“砂”、体験は“水”、そして教理的解説は“セメント”
■聖化と聖霊経験の教理的確信
■キリストにある客観的立場に立脚して聖霊の主観的体験を求める
■キリスト論は「宝石箱」
■地下室へと降りてゆく成長
C我は“聖霊”を信ず
■私は、聖霊と、その実・その賜物を信じます
■聖霊論の学びの大切さ
■二十世紀の聖霊運動の変遷
■「霊の戦い」の教えでの論争
■真理と偽り−識別のための原則
D我は“教会”を信ず
■私は、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じます
■JECの「教会観」における特徴
■聖なる公同の教会・聖徒の交わり
■“信仰者のみ”の洗礼
■埋葬を表す“浸礼”の象徴性
■旧約の過越、新約の聖餐“死の記念”
■“会衆制”:神の会衆としての教会政治
E我は“終末”を信ず
■私は、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信じます
■多様性生まれる患難・再臨・千年王国
■多様性の中での、より優れた選択肢
■根本的に異なる二つの聖書解釈
■旧新約の神の民-霊的本質的一体性
■関連聖句全てに適う最も自然な解釈
8/09【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズ&教職セミナー編A【20051120
JEC補教師セミナー「JECの組織神学軸」 その教会論・終末論の特徴】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「一宮基督教研究所(ICI)」の働きを重荷とするようになったのは、共立基督教研究所で学んでいた時であった。関西学院大学を卒業し、関西聖書学院で学び、卒業後助手として奉仕を開始し、H.スウィーガム著『旧新約聖書研究ベテル』やメリル・テニイ著『新約聖書概観』を教えるように導かれた。その後、大阪府最南端、岬公園の近くにある岬福音教会で七年間牧師として奉仕しつつ講師として教えた。教えつつ、課題として感じていたことは、神学教師として充実した奉仕生涯を送るためには、「バイブル・スクールのレベルの基礎的学びと独学での継続的学び」では“継ぎ接ぎの雑学”的な学びとなってしまうということであった。それで、どこかの神学校でよりハイ・レベルな内容の、包括的な神学教育を受けたいと願い、祈っていた。
そのような時に、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を入手し、引き込まれるように読みふけった。この本を通して、わたしが何者であり“Who
am I ?”、そしてわたしが生涯をかけてなすべきことが何なのか“What should I do
?”を深く教えられた。それで、宇田進所長時代の共立基督教研究所で、一年間の予定で内地留学に導かれた。共立を通じて、東京基督神学校の科目も受講できた。一年が二年となり、二年が三年となり、福音主義の四部門(聖書学部門、歴史神学部門、組織神学部門、実践神学部門)の神学的薫陶を心ゆくまで受けることができた。
三年間の神学研鑽の時期を終えて、奉仕の後半生のあり方を祈っているときに、ひとつのみ言葉を示された。「ルカ14:27
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。14:28
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。14:29
基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、14:30
『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。」
伝道・牧会の現場に戻って奉仕する道と、神学教師として研鑽・教育にささげる道が目の前にあった。わたしの召しと賜物は、後者にあると自覚していた。それで主の前に祈り願ったことは、「人事に翻弄されることなく、秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕(Tコリント7:35)できる後半生を送るにはどうすべきでしょうか」ということであった。多くの雑務に浪費する生涯ではなく、ひたむきに神学の研鑽と教育に専念する道を歩むことを願った。道は選び取られ、選択され、やがてひとつに絞られた。郷里で働きつつ、開拓し、その小さな家の教会を拠点に「神学の研鑽と教育に専念する生涯」に導かれた。
まずは、母校関西聖書学院講師に復帰し、『福音主義神学』、『比較宗教学』、『組織神学』と教えていった。共立と東京基督神学校で得た膨大な学びと資料をベースに、紹介された参考文献を収集し、バランスのとれた継続神学研究課程を自ら策定し課し、共立修了後の神学研鑽の道を歩み続けた。共立研修三年間で、神学教師としての“基礎”を築いていただき、修了後の生涯をかけて福音主義神学の“建物”を建て続けている。
そうする中で不思議なことがたくさんあった。ひとつのことは、『組織神学』を教えるようになり、エリクソン著『キリスト教教理入門』の翻訳を開始した後しばらくして、いのちのことば社から「翻訳を出版していただけないでしょうか」との電話が入った。わたしはマリヤに対する“受胎告知”のような印象をもって受けとめ、それを引き受けた(ルカ1:26-38)。”世捨て人”のように兵庫県宍粟市の山中で黙々と神学の研鑽と教育に励んでいるだけの者を主がかえりみてくださったことに感謝した。
『キリスト教神学』の翻訳・刊行とともに、わたしは所属団体の内外で忙しくなった。わたしは、わたしの導かれている奉仕内容の意味・意義を自覚していたので、そのすべてをビデオ収録していった。そのときそのときの参加当事者のみが対象なのではなく、いつもその参加者の背後におられる多くの人たちを見つめていた。わたしは、恩師宇田進師から学んだ「福音主義神学」、宇田師の講義を通して学んだエリクソン著『キリスト教神学』、そしてエリクソンの著書を通して学んだ「ラッド著作集」の、福音理解の基本的輪郭とエッセンスに魅せられていた。そして、それらの普遍性を信じていた。ポストとか、サラリーとか、奉仕場所は関係なかった。ただ、それらを心置きなく学び続け、それらを必要とされる方々に分かち合い続けることがわたしの生きがいであり、生きる意味・目的であった。
今月は、そのような研鑽を神学校、所属団体、諸教会へと流し出していったビデオを"時系列順"に分かち合っている。視聴してくださる方に気づいていただけると思うが、私の所属している団体は、伝道と教会形成そして世界宣教に熱心な団体である。また神学校を保有し、バイブル・スクールのレベルの実践的な神学教育に共同経営で取り組んでいる。スウェーデン・バプテスト系諸教会を背景とし、カリスマ的経験にオープンなスタンスをとるオレブロ・ミッション(現在、三派合同により“インターアクト”)により形成された諸教会で形成されている。わたしが神学教師のひとりとして重荷として取り組んだことは、「バイブル・スクールのレベルの実践的な神学教育」に、恩師宇田進師から学んだ「福音主義神学」、宇田師の講義を通して学んだエリクソン著『キリスト教神学』、そしてエリクソンの著書を通して学んだ「ラッド著作集」の、福音理解の基本的輪郭とエッセンスという“内実”を提供し、母校と所属団体が“福音派のセンターライン”を照らし続ける福音理解で養われ、育てられ、証し続ける群れまた学校となることであった。母校での奉仕は終えたが、駅伝のように“たすき”を受けた若手の先生方がそのようなラインに沿って走り続けてくれることを祈っている。
以上のような視点から、教職者セミナー・ビデオを視聴していただけたら感謝である。そこでは、JECのルーツとアイデンティティを丁寧に再確認しつつ、その文脈にコンテクスチュアライズするかたちで、福音派の基本的かつ普遍的な輪郭とエッセンスが扱われている。そして、自画自賛に 終始することなく、下記の「シカゴ・コール」序文で指摘されているように、内包する課題を明示し、その克服への道筋をも明らかにしている。課題を指摘し、それを取り扱うことにアレルギーを抱かれる方もあるが、医者が「患者の健康を害している病巣」を発見しながら、健康を保証し治療に目をつぶることは、医者の使命の否定につながるのではないだろうかと考えている。
これは【シカゴ・コール「序」「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ】にあるポイントでもある。その<前文には、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。われわれは、教会における福音主義の復興をとおして神の祝福が与えられていることを感謝している。しかしながらそのような成長期にこそ、またわれわれの弱点について一層敏感であることが必要である。現代の福音派は、歴史的キリスト教信仰を縮小変形させているために、自らの十分な成熟の達成を妨げられている。」とある。
これは、わたしがICIの働きにおいて、またJECのセミナーについていつも心にとめていたポイントのひとつである。今、母校で助手をしていた時の、恩師スンベリ師の言葉を思い出す。それは強い雨の日で、普段は気づかなかった壊れた”トユ”から雨水が溢れていた。「見てごらん。安黒兄弟、あの壊れた”トユ”を。気がついたときに修理しなかったら、二十年間そのままだよ!」と。
8/08【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズ&教職セミナー編@【20031116
JEC正・補教師セミナー「JECの歴史神学軸」 その歴史的ルーツとアイデンティティ】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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約40年間さまざまなかたちで奉仕してきた「一宮基督教研究所(ICI)」としての使命は何なのだろうといつも考えさせられる。そのひとつは、神学的研鑽を積んできたこと、そしてそれらを神学校を中心として教えてきたこと、またそれらを牧師会やセミナーで分かち合ってきたことが無駄にならないように(Tコリント15:10)、今日の諸々の手段を活用して分かち合い続けることである。すでに、文書、テープ、CD、MD、DVD、BD等で分かち合ってきた。そして近年はICIサーバーを通しての「ストリーミングビデオ」やFaceBook、YouTubeを活用して分かち合っている。
【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズを分かち合ったのは、まず所属団体の日本福音教会(JEC)においてであった。高槻福音自由教会「信徒セミナー」ビデオ紹介の前に、”時系列順”ということでJECで分かち合った諸資料を紹介していきたい。これらの資料は、直接には視聴者のすべての方に適用されるものではないと思う。ただわたしの願いとしては、“超教派的な内容と共通項”をもつ【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズは、JECの教職者の同労者にJECの文脈に“コンテクスチュアライズ”して分かち合った「ひとつの実例」として、また高槻福音自由教会「信徒セミナー」ビデオ紹介シリーズは、福音自由の文脈に“コンテクスチュアライズ”して分かち合った「ひとつの実例」として学んでいただけるのではないかと思うのである。このようにして、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』とエリクソン著『キリスト教教理入門』をそれぞれの教会・教派の文脈の中に“コンテクスチュアライズ”していく、ひとつのサンプル、またモデル・ケースとして活用していただくことがわたしの願いである。
8/07【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&神学生・教職セミナー】シリーズ―序:【キリスト教会の源流と歴史的遺産−シカゴ・コールへのひとつのレスポンス−
What JEC ? シリーズ Kindle版】紹介
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P.トゥルニエは、『人生の四季』において、準備の時期を「春」、活動の時期を「夏」、収穫の時期を「秋」、そしてまもなく召される時期を「冬」と説明していて教えられる。わたしの場合、誕生から大学卒業までを“準備”の「春」、神学校での神学教師としての働きの約40年間は“活動”の「夏」、今現在を“収穫”の「秋」として受けとめている。
神学教師としての基礎的準備は母校関西聖書学院で開始され、本格的仕上げは宇田進所長時代の共立基督教研究所(また並行して受講した東京基督神学校)でなされた。そこで教えられたことのひとつは、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』所収の「シカゴ・コール」(p.244-251)によくまとめられている。その時期の指導・教育は、”優れた大工の棟梁”の下で良い指導・教育を受けた弟子であったように思い起こす。その後のわたしの神学教師としての奉仕は、おおむねその指導に沿ったかたちで導かれてきた。
その意味で、今回の【福音主義神学&「キリスト教教理入門」】シリーズは、わたしの神学教師としての奉仕生涯の“背骨”を表現している。それは自らに対する“Who
am I ?”という不断の問いかけであり、“What should I do
?”という回答の終わることのない探求である。わたしは、まず自らに、そして神学生に、所属教派の同労者に、そして今広く福音派諸教会に問いかけ続けている。
ルーツとアイデンティティを確認する「福音主義神学」講義ビデオシリーズを紹介してきた。この講義を受講した神学生には、この「福音主義神学」理解の輪郭と本質を基軸にして、神学生それぞれが所属している教会・教派のルーツとアイデンティティの資料を収集し、わたしが教えた“福音主義神学”を背骨にして、再編集し再構築することを課題として課した。わたしは、この取り組みにより「奉仕生涯の最初の三年間の基礎的神学教育課程」で“アン・バランスな状態”にある神学生の「福音理解とルーツ・アイデンティティ」をより健全なものにする一助になったと思う。この最初の時期に、「健全でバランスのとれた聖書神学軸、歴史神学軸、組織神学軸、実践神学軸」を身に着けることは大切である。
わたしは、神学校でのこの取り組みを「自らにも課し」、自身と所属教会・所属団体のルーツとアイデンティティの探求に時間を割いた。その結実として、所属団体の機関誌「JECニュース」、また「JEC50周年記念誌」「KBI50周年記念誌」小論文、「JEC補教師セミナー」、「JEC諸教会セミナー」等において分かち合ってきた。私たちの団体は、スウェーデン・バプテスト系諸教会にルーツとアイデンティティがあるとともに、カリスマ的な経験にも穏健かつオープンなスタンスで臨んできた。わたしは、そのようなバランスのある立場を歓迎している。ただ、戦後50年間の伝道・教会形成とその間の新たな運動や教えに翻弄される面には懸念を示してきた。わたしの願うことは、次世代の同労者が、今日の宣教に有効なさまざまなツールやパフォーマンスに習熟するとともに、二千年間の教会史の中に綿々と流れる「健全でバランスのとれた聖書神学軸、歴史神学軸、組織神学軸、実践神学軸」を継承・深化・発展させていってもらうことである。上記の論稿をまとめたものが下記のKindle版である。関心のある方に一読していただきたい。また読んで教えられるところがあれば、読者それぞれが同様の取り組みをしていただければ望外の喜びである。
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【キリスト教会の源流と歴史的遺産−シカゴ・コールへのひとつのレスポンス−
What JEC ? シリーズ Kindle版】
2017年08月06日
新約聖書ローマ人への手紙04:09-12(MP3
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YouTube)「聖書は何と言っていますか―解釈軸は15章?、17章?」
ローマ書は、「初代のキリスト者とユダヤ人の耳をもって聞く」ことが大切である。「使徒パウロの過去に連れ戻された者がそこでパウロが言い得たことを自分自身に語られたものとして聞き、それについて思索することが深ければ深いほど、歴史的釈義が引き起こす現代からの距離というものは一層生産的となるのである」とU.ヴィルケンスは言う。
パウロは、ローマ書において何を語っているのか。「1世紀のパレスチナ・ユダヤ教内にある“誤解”を取り扱っている」といえないだろうか。ユダヤ人の選民的特権意識に対して「ユダヤ人も異邦人もともに、神の怒りと審判の前にある」(1章)と断言し、「律法を誇るユダヤ人」、「割礼を誇るユダヤ人」に対して裁きがあると語る(2章)。そして、救いは「恵みのみ、信仰のみ、キリストによる贖いのみ」(3章)によると語ってきた。
四章に入り、父祖アブラハムと王ダビデの“信仰”から、聖書が、そして神が語られる“信仰”の本質とは何かを説明する。ユダヤ人のラビ(教師)は創世記22章を軸に15章を解釈し“信仰”の本質を“忠実・誠実”と解釈してきた。また、17章を軸に15章を解釈し“信仰”を“割礼”による選民的特権と誤解してきた。誤解の只中にいたサウロ(パウロ)は、ダマスコ途上の経験から「目のうろこ」が落ち、“信仰”の本質に目が開かれた。創世記15章を軸として示されている“信仰”の本質は、「キリストの贖い」にあることを。この贖いを恵みとして「姦淫と殺人の罪の只中にあり、断罪される以外、滅びる以外に道がない」不敬虔な罪びとが、身代わりの刑罰を“空手”で受け取る―これが信仰の本質であることを知った。
わたしたちは、今日の諸学の進展から、第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナ・ユダヤの文脈から学び続けることのできる素晴らしい時代に生かされている。これは感謝なことである。ただ、「1世紀のパレスチナ・ユダヤ教内にある“誤解”」を軸に、パウロの「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ」を再解釈する傾向には注意が必要である。創世記15章を軸とする、聖書の、キリストの、パウロの「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ」の福音理解の豊かさを補完する周辺資料として注意深く識別しつつ、建徳的に活用していくべきである。(務記)
8/05【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズG-【近代のリベラリズムと福音派】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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G-【近代のリベラリズムと福音派】
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth28.htm
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プロテスタント神学は、十七世紀の正統主義において一つの完結に達したと見られているが、十八世紀に入ると強力な嵐に見舞われた。その嵐とは、一般に「啓蒙思潮」として知られているヨーロッパの思想運動である。…中略…
さて、以上のような考え方に立っていた啓蒙思潮の攻勢に対して、キリスト教はどのような対応を示したのだろうか。この思潮に対して批判・改革の道ではなく、「適応・適合の道」を選んだキリスト教の流れ―それは一般に近代主義(モダニズム)とか自由主義(リベラリズム)と呼ばれている流れである。…中略…
このことと関連して、自由主義が隆盛をきわめようとしていた時期に起った一つの歴史的出来事に注目することが大切である。それは、1846年にロンドンで結成された福音主義同盟(エヴァンジェリカル・アライアンス)である。会議のハイライトは、九項目より成る福音主義信仰を確認し、それを全教会に向かって表明したことである。このような立場は、今日の多くの福音的な諸教会や諸団体の信仰規準は、だいたいにおいてこの九か条を基本にして作られていった。
(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.125-152)
8/04【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズF-B自由教会の伝統】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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F-B【自由教会の伝統】
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth27.htm
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以上は、宗教社会学と歴史的研究によって明らかにされているアメリカ自由教会の体質的特徴である。…戦後、生み出された多くの福音派初教会の場合には、ろ過する時間がまだ短いこと、ろ過するための十分な手立て―神学的パースペクティブ、歴史的判断力、宗教社会学的分析能力―を備えていないために一層顕著である。
(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.118-124)
8/3b【落穂抄】「
コーネリス・P・ヴェネマ著『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』紹介シリーズA 」
https://www.amazon.co.jp/Getting-Gospel-Right-Venema/dp/085151927X/ref=sr_1_4?s=english-books&ie=UTF8&qid=1501476784&sr=1-4
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D.A.ブースの興味深い「カスタマー・レビュー」から教えられるもうひとつのことは、「小冊子『福音を正しく得ること』は、批評よりも聖書の資料を肯定的に提示することに、はるかに重点を置いています」と書いているところである。
これは、ヴェネマ著『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』の下記の構成からも教えられるところであるが、
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・序
・第一章 導入
・第二章 パウロに関する宗教改革の視点―
…⑴「義認」:宣義による神の受け入れ、
…⑵「恵みのみ」:価なしの義認の基盤、
…⑶宗教改革の視点の鍵となる特徴
・第三章 パウロに関する「新しい視点」―
…⑴第二神殿ユダヤ教の新しい視点:E.P.サンダース、
…⑵「律法の行ない」の新しい視点:J.D.G.ダン、
…⑶「義認」の新しい視点:N.T.ライト
・第四章
新しい視点に対する批評―
…⑴サンダースの業績の過大視、
…⑵パウロ書簡における「律法の行ない」、
…⑶「義認」の本質、
…⑷「代理」・「転嫁」・「信仰」、
…⑸行ないを基盤とした「最後の審判」
・第五章
結論
+
まず、自身の「福音理解」のルーツとアイデンティティが確立し、明確なことである。これは、現在ビデオ紹介中の宇田進師の『福音主義キリスト教と福音派』でも、その続編の『総説福音主義神学』、またラッドやエリクソンや牧田吉和師の著作集でも同様にみられることである。わたしは、「パウロ研究に関する新しい視点(NPP)」の学びを通して、「第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナのユダヤ教についての研究の進展とそれらの1世紀のキリスト教との関わり」の学びを深めていく時に、もつべき“基本的スタンス”の確立が大切と考えている。
まず第一に、私たちのルーツとアイデンティティにおける「福音理解」において、基本的な要素―「義認」、「恵みのみ」、宗教改革の視点の鍵となる特徴をよく押さえることである。
その上で、「パウロ研究に関する新しい視点(NPP)」の学びを通して、「第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナのユダヤ教についての研究の進展とそれらの1世紀のキリスト教との関わり」の学びから、わたしたちの「宗教改革の視点に根差す福音理解」に“資する”建徳的な要素が見いだされる場合には、それらを慎重に“アーティキュレイト(有機的に整合)”していくべきである。
「第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナのユダヤ教についての研究の進展とそれらの1世紀のキリスト教との関わり」の学びには、胸襟を開いて謙遜な学徒として学び続けるべきであるが、「パウロ研究に関する新しい視点(NPP)」の基本的な命題がどの程度立証されているのだろうか、これには検証が必要と考えている。
E.P.サンダース、J.D.G.ダン、N.T.ライトが共通して主張している「パウロ研究に関する新しい視点(NPP)」の基本的な命題とは、
⑴宗教改革におけるパウロ解釈は、中世カトリック教会の功績的救済理解に対する異議申し立てという枠組みに規定されており、
⑵それによってパウロ解釈が歪められてしまったという点である。
⑶つまり、この枠組みによって、パウロ時代のユダヤ教を律法主義の宗教と規定し、当時のユダヤ教の本質を読み間違えたというのである。
⑷そのような枠組みによってではなく、紀元前六世紀後半のエルサレム神殿の再建から紀元七十年の神殿崩壊までの第二神殿時代、特に紀元一世紀のパレスチナのユダヤ教の枠組みの中でパウロを解釈しなければならない、という主張である。
これらの命題のうち、どの命題にどの程度信ぴょう性があるのか。それらを検証することも課題である。
このようにこの課題を全体から捉えなおしていくとき、多くの未解決・未検証の課題を内包していることを教えられる。そのような中で、我々が最も大切にすべきことは、最初に戻るが「小冊子『福音を正しく得ること』は、批評よりも聖書の資料を肯定的に提示することに、はるかに重点を置いています」という”場所”である。
ひとつ思い起こすことがある。「神学入門」の講義で、「神学が真に聖書的であるためには,聖書をありのままに受け取らなければならない.つまり,聖書自身の用語で聖書を受け入れ,聖書そのものの基盤に立ち,聖書自身の見地から研究し,その成果を提示すべきなのである.」これこそ、「宗教改革において目指したパウロ研究の視点」ではなかったのか。「私たちは聖書を無理に異質の哲学思想の中に押し込めてはならない」と教えられた。これはトレルチの歴史的方法に関して言われた事柄であるが、「紀元一世紀のパレスチナのユダヤ教の枠組みの中でパウロを解釈しなければならない」という解釈方法に問題はないのか、「紀元一世紀のパレスチナのユダヤ教の枠組み」という解釈軸をもって、パウロの福音理解を“曲解”する懸念はないのだろうかと。これもまた検証しなければならない課題と考えている。これらのポイントを大切にしながら、今日の聖書学の進展からも多く事を学ばせていただきたい。N.T.ライト著『新約聖書と神の民―キリスト教の起源と神の問題1』上巻も、興味深く読ませていただいたことも書き添えておきたい。
+
箴言 5:15
あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。
5:16
あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。
8/03【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズF-A【敬虔主義の遺産】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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F-A【敬虔主義の遺産と自由教会の伝統】
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth27.htm
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今日の福音派教会の実態を知ろうとする場合、どうしても見落とすことの許されない二つの重要な事柄がある。一つは十七、十八世紀のヨーロッパに起こった霊的刷新運動、ピューリタニズム、近代の信仰覚醒運動、十九世紀以後の聖霊派運動を含む広い意味での敬虔主義運動である。もう一つは、1800年以後のアメリカにおいて発達した“自由教会”(free
church)である。
(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.108-118)
8/2【落穂抄】「
コーネリス・P・ヴェネマ著『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』紹介シリーズ@ 」
https://www.amazon.co.jp/Getting-Gospel-Right-Venema/dp/085151927X/ref=sr_1_4?s=english-books&ie=UTF8&qid=1501476784&sr=1-4
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60歳台となり、一宮基督教研究所(ICI)の働きを手探りしつつ取り組んでいる。振り返ってみて、約四十年間の神学教師としての奉仕全体がICIの働きであり、それがいろいろな場所で「花を開かせ」ていたのではないだろうかと思う。そのようなICI40年間の取り組みの果実を少しずつお分かちしている毎日である。先週までは、聖書神学シリーズとして、ラッド著『終末論』のシリーズを、そして今週は歴史神学シリーズとして宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』シリーズをお分かちしている。ラッド、宇田進、エリクソンはわたしの福音理解の背骨をつくってくれた聖書・歴史・組織の各神学である。それを分かち合いつつ、その周辺の運動や教え、また学識との対話にも目配りしている。そのひとつが、最近ではNPPであり、N.T.ライトでもある。それゆえ、これら全体の取り組みの基本的枠組みを守りつつ、それらに対しても言及していきたいと考えている。約
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先日も、少し紹介させていただいたのだが、ラッド著『若き教会―使徒行伝』の翻訳の合間に、「パウロ研究に関する新しい視点」の流れの中で、『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』コーネリス・P・ヴェネマ著に目配りしている。そして思うことは、「パウロ研究に関する新しい視点」のテーマで、このようにコンパクトで優れたガイドブックが邦訳であれば多くの兄姉にとって「私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119:105)となるだろうと思う。
D.A.ブースが、興味深い「カスタマー・レビュー」を記しているので、まずそれから始める。「近年、新約聖書学を教える人と組織的神学を教える人の間で、福音派の神学のなかには目立った裂け目がみられる。この裂け目を説明する一つの方法は、それぞれのグループがN.T.ライトをどのように評価しているのかを観察することである。概して、新約聖書学の教授たちは、(彼等がそれに同意しない場合でも)ライト主教を高く評価する傾向がある。しかし、組織神学の神学者たちは彼を教会の教義の純粋さへの脅威と見なす傾向がある」と。
読んでいて、なるほどと教えられた。新約聖書学の研鑽を求める人たちは、「第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナのユダヤ教についての研究の進展とそれらの1世紀のキリスト教との関わり」について深い関心を示すのは自然な成り行きである。また、組織神学の研鑽を探求している人たちは、「二千年間の、そして特に16世紀の宗教改革以降の遺産の集大成である組織神学の基盤また基礎資料としての聖書解釈、特に新約聖書解釈に“脱構築”のような現象が起きているのではないか」と疑心暗鬼になるのもまた当然の反応のような気がする。
その意味で、ヴェネマが下記のような構成で、この議論についての基本的なガイドラインを指し示してくれていることは私にとって大きな助けとなっている。
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・序
・第一章 導入
・第二章
パウロに関する宗教改革の視点―
…⑴「義認」:宣義による神の受け入れ、
…⑵「恵みのみ」:価なしの義認の基盤、
…⑶宗教改革の視点の鍵となる特徴
・第三章 パウロに関する「新しい視点」―
…⑴第二神殿ユダヤ教の新しい視点:E.P.サンダース、
…⑵「律法の行ない」の新しい視点:J.D.G.ダン、
…⑶「義認」の新しい視点:N.T.ライト
・第四章 新しい視点に対する批評―
…⑴サンダースの業績の過大視、
…⑵パウロ書簡における「律法の行ない」、
…⑶「義認」の本質、
…⑷「代理」・「転嫁」・「信仰」、
…⑸行ないを基盤とした「最後の審判」
・第五章 結論
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翻訳・刊行に至るかどうかは別にして、とにかく今の時代、今の必要に“有益かつ建徳的”に役立つ冊子であるので、折をみて少しずつ紹介していきたい。
7/31【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズD【近世における四つの流れとアルミニウス主義】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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先日の、「パウロ研究に関する新しい視点」の流れの中で、『福音を正しく得る―パウロに関する宗教改革の視点と新しい視点の評価』コーネリウス・P・ヴェネマ著に目配りしている。目次は、
・序
・第一章 導入
・第二章
パウロに関する宗教改革の視点―「義認」:宣義による神の受け入れ、「恵みのみ」:価なしの義認の基盤、宗教改革の視点の鍵となる特徴
・第三章
パウロに関する「新しい視点」―第二神殿ユダヤ教の新しい視点:E・P・サンダース、「律法の行ない」の新しい視点:J・D・G・ダン、「義認」の新しい視点:N・T・ライト
・第四章
新しい視点に対する批評―サンダースの業績の過大視、パウロ書簡における「律法の行ない」、「義認」の本質、「代理」・「転嫁」・「信仰」、行ないを基盤とした「最後の審判」
・第五章 結論
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で、パウロに関する”宗教改革の視点”が軸に据えられ、座標軸が明確なので大変分かりやすい内容・構成となっており読みやすい。ヴェネマには、この要約版の他に「詳細版」として”
The Gospel of Free Acceptance in
Christ”という著作がある。こちらも読んでみたい書物である。
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C.P.Venema,” Getting
the Gospel Right” の「カスタマーレビュー」の中の「The Best critique fo the NPP
for lay people」は参考になる。聖書学者と組織神学者のN.T.ライトに対する評価の差異、組織神学者は最新で最良の聖書学の資料への目配りを必要とすること、N.T.ライトの著作集を読み始めるときに「まず最初に読むべきガイドブックとしてC.P.Venema,”
Getting the Gospel
Right”が推奨される」こと、同時にそのうえでN.T.ライトの著作集の読書もまたすすめられること、等がバランスよく記述されている。
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https://www.amazon.co.jp/Getting-Gospel-Right-Venema/dp/085151927X/ref=sr_1_4?s=english-books&ie=UTF8&qid=1501476784&sr=1-4
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D【近世における四つの流れとアルミニウス主義】
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth25.htm
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十六世紀のプロテスタント宗教改革は、その発展過程の中で、次の四つの主要な流れ(あるいは信仰類型とも言える)を生み出した。⑴ルター派、⑵カルヴァン派、⑶アナバプテスト派、⑷英国のプロテスタント。…中略…
今日、福音派の実体を正しくつかむためには、どうしてもアルミニウス主義について知らなければならない。…この派の祖となったヤコーブス・アルミニウス(1560-1609)は、ジュネーブでベザに学んだあと、母国オランダに戻り、アムステルダムの改革派教会の牧師やライデン大学の教授を歴任した人である。彼はカルヴァンの予定説に疑問をもつようになり論争を起こした。…中略…
だが、ストーリーはそれで幕切れにはならなかった。1784年には、メソジスト派が英国教会から独立したが、その際に同派は英国教会からアルミニウス主義を受け継いだ。そして、このメソジスト派が母体となって、後にアメリカにおいてホーリネス、ナザレン、アライアンス、フリー・メソジストなどの教会が、またペンテコステ派の流れが生み出されていったのである。また、バプテスト派も、そもそもは同じ英国の地においてカルヴァン主義に立つバプテストと、アルミニウス主義に立つバプテストとに分かれていった。
(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.88-96)
2017年07月30日
新約聖書ローマ人への手紙04:1-8(MP3
/
YouTube)「アブラハムの場合はどうでしょう―解釈軸は15章?、22章?」
ローマ書4章は「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。」から始まる。
ローマ書1~3章において、パウロは自分のイエス・キリストの福音の理解を述べている。
創世記において、神様は天地万物を造られ、最後に人間も造られたと書かれている。神様は人間を神との交わりが出来るものとして最高の被造物として造られた。しかし、人間は神様に背を向け、その結果として「死と滅び」の中に身を置くこととなった。
その対象はユダヤ人も異邦人も関係なく、全ての人間が対象である。
1度死ぬことと死後に裁きを受けること、これが全ての人間に課せられた。では、その裁きから逃れ、救われ天国に入るためにはどうすれば良いのだろうか?
パウロは言う、全ての人間は罪の下にあって、誰1人として行いによっては天国に行けないのだと。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ「義」と認められるのであると。
そのためには、イエス・キリストの身代わりの死、恵みとしての救いを信じることが必要である。
4:2
パウロはユダヤ教の教えの中において、アブラハム理解、信仰理解に誤りがあると言うのである。
ラビの教えの中に、「アブラハムは行いによって義と認められた。」という間違いがある。
アブラハムのことは創世記15~22章にかけて書かれているが、アブラハムは信仰によってイサクを捧げたとある。
ユダヤ教のラビによれば、神様の教えや命令に従順に従ったので、アブラハムは「義」と認められたのだという。パウロ自身もクリスチャンになる前は、一生懸命行いによって「義」と認められようと努力していた1人であった。しかし、彼もそう信じていたアブラハムの信仰の義の解釈は、間違っていると確信したのである。
アブラハムは行いによって「義」と認められ救われたのか?そうであれば、パウロが言うようにアブラハムは自分を誇ることが出来ただろう。
しかし、聖い、正しい神様の前では、自分がいかに汚れたものであるかがわかるはずである。
聖書はなんと言っているのか?「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創 15:6 とある。
ユダヤ人はアブラハムが神に従順に従い行ったので「義」と認められたと言うが、それは創世記
“22章を軸として15章を解釈している”のではないだろうか?
4:4「働く者のばあいに、その報酬はめぐみではなくて、当然支払うべきものとみなされます。」
もし、アブラハムが行いによって「義」と認められると考えるなら、それは「報酬」であって「めぐみ」ではない。そこには神のめぐみは不必要なものとなってしまう。
4:5
しかし、イエス・キリストがこの地上に来られたのは、人間全てが罪の中にあり、自分の行いによって自分を救うことが出来ないからこそ、何の働きもない者のために「義」を得させようと神はご計画されたということである。
要するに創世記の正しい理解は、”15章を軸として、22章を考える”ということである。
アブラハムはまず神を神として信じた、そのことを神様は良しとされ、アブラハムを「義」とみなされた。その信仰があったからこそ、御霊の「実」として彼はイサクを捧げることが出来たのである。
信仰の本質をユダヤ人たちは取り違えている。
何の働きもないもの、不敬虔なものを、神様は「義」と認めてくださる。私たちが何かをするとかしないとかいうことではない。
ある人がこう言っている。「信仰とは空っぽの器を、神様の前に差し出すことである。」と。信頼して器を差し出すと、神様がめぐみを溢れるほどに入れてくださるのである。つまり、めぐみをその器に入れていただくこと、それが信仰である。
4:6
ダビデはイスラエルの歴史の黄金時代の王である。それほどの王が告白している。自分は行いとは別の道で、神様に「義」とみとめられたと。まさに、アブラハムと同じ信仰である。
「不法をゆるされ、罪をおおられた人たちは、幸いである。」4:7
何かをすることではない。ただ、罪を悔い、キリストの血潮で覆われることなのだと告白しているのである。
4:8
「主が罪を認めない人は幸いである。」
人生とはこのようにみ言葉を正しく理解し深めていく螺旋階段のようなものである。正しく理解すればさらに深みを知り、さらに下へ下へと目標に向かって進むことが出来る。
「ダビデのばあいは、どうでしょうか?」
詩篇32編でダビデは告白している。いかに大きな罪であっても、神の前に告白すれば、赦され、感謝の念が心の底から湧いてくるのだと。
信仰の本質は行いには無い。朝毎に夕毎に、「神を認める」ただそれだけである。(仁美記)
7/29【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズC【宗教改革の三大原理と福音派】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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C 【 宗教改革の三大原理と福音派 】
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth24.htm
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福音主義の問題が大きくクローズアップされるようになるのは、なんといってもあの十六世紀のプロテスタント宗教改革においてであった。プロテスタントという名称は“抗議する者”を意味するだけではない。それは“公に告白・証言する者”という積極的な意味を持っている。当時、宗教改革者たちは「カトリック主義の“教会的”に対し、“福音的”という名称を選び、みずから“福音派”と称した」ということである。…(中略)…
以上、宗教改革の三大原理を概観した。「聖書のみ、信仰義認、聖徒の交わりとしての教会」の三点はそれぞれ客観的・主体的・社会的要素と呼び、それらを宗教改革の三大原理とみている。また福音主義キリスト教はこの三大原理を忠実に継承するゆえに、宗教改革のすえである。(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.68-87)
7/27
【福音主義神学&「キリスト教教理入門」&信徒セミナー】シリーズA【使徒的キリスト教と福音派】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
A 【
使徒的キリスト教と福音派 】
+
「福音に献身している者」―福音派に関するこの定義は、あまりにも一般的で簡潔すぎる感じをぬぐい得ないが、見方によっては、大変要領よく核心をついたものであると言えよう。
この定義には二つの根本的に重要な事柄が実現されている。ひとつは「福音」であり、もう一点は「献身している」ということである。前者は信仰の客観的内容の問題であり、後者は信仰の生きざま、実存の問題である。(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.54)
7/26b 【My
Pool ! : 一宮スポニックパークの温水プール】紹介
申命記34:7
「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」
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60歳台に入り、少々体力に衰えを感じてきている今日この頃です。高校生の頃は、野球部に所属し、甲子園を目指して猛練習に明け暮れておりました。冬場は毎日10〜15km走り、猛暑の夏の県大会を七連勝し決勝まで勝ち進む体力づくりに励んでおりました。バットの素振りは毎日三百回、手には血豆ができ、腹筋は二百回お尻の皮も剥けたりしておりました。体力には自信がありました。校内の千五百メートルの記録会に出たすぐ後に、軽く10〜20kmを走っても平気でした。わたしは受験もあり、クラブは一年間だけでしたが、同級生のチームメイトは三年生のときに兵庫大会の決勝まで進み、報徳と戦い、惜しくも甲子園を逃しました。甲子園大会の予選のあるこの時期にはいつもあの頃のことを思い出します。
気持ちはいつも、あの頃、青春時代のままですが、体力の衰えは隠しようもありません。ソフトボール大会では靭帯を切るはめに陥り、夏のベランダの作業の後には熱中症、冬の風邪の季節には気管支炎となり、無理のできない年齢になってきたと自覚せざるを得ません。地域の高齢の方々は、早朝によく散歩をされていますが、わたしはまだ若いのでそれには抵抗があります。それで隠れて体力づくりに励んでおります。その場所はすぐ近くにあるスポニックパーク一宮のスイミングプールです。一年間一万円で自由に泳げるので格安です。昨年は諸奉仕と翻訳で多忙のため一回しか行けませんでした。それで今年は一念発起してできるだけ毎日スイミングに行く決心をしました。末永く、良い奉仕を続けるためには、健康と体力の保持を欠かすことはできないからです。五時起床、体操、朝食、仕事。昼食、昼寝、プール、仕事。夕食、風呂、就寝。一日にリズムができ、疲れて夜はよく眠れます。一日15分だけですが、泳ぐと「腹式呼吸」で気管支が強くなり、サウナで「発汗」し暑さに強くなり、そうそう長時間同じ姿勢での翻訳で生じる「肩こり」も癒されました。一石三鳥ですね。健康に留意し、奉仕の量を調節し、モーセのように生涯の終わりまで良き奉仕を続けさせていただきたいと思っています。このような施設がすぐ近くの山のふもとに備えられていることを感謝しつつ、スポニックの温水プールの写真を掲載・紹介させていただきます。My
Pool !
7/26
【福音主義神学(歴史神学)&「キリスト教教理入門」(組織神学)&信徒セミナー】シリーズ紹介
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
@ 【 重要な三つの要素 】
福音派とは、教会の歴史において幾重もの発展を経て生成を見るに至った生きた実体である。このことを念頭に置いて福音派のアイデンティティをつかもうとする時、次の要素を考慮しつつ考えていかなければならない。
まず第一に、最も基本的な要素として神学的・教理的要素がある。第二に、歴史的要素に目をとめなければならない。第三に、社会的、文化的要素がある。
(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.49-50)
+
ICI(一宮基督教研究所)の継続神学教育課程は、「聖書神学部門」「歴史神学部門」「組織神学部門」「実践神学部門」に分かれており、ラッド著作集の学びはこの聖書神学部門の中心である。また聖書各書の「講解説教シリーズ」は実践神学部門に整理できるものと思う。ラッド著『終末論』は、彼の聖書神学のフレームワークとエッセンスがコンパクトに整理されているので、この本をビデオとともに繰り返し学ばれると健全な聖書解釈の大きな助けになるものと受けとめている。
母校、関西聖書学院を卒業後、36年間神学教師として奉職させていただいた。その初期に担当させていただいたのは「聖書神学部門」であった。そして、さらなる神学研鑽の必要を感じ、宇田進所長時の共立基督教研究所にて三年間の神学の薫陶を得た。その後、再び母校で教えることとなった。当時の高橋昭市院長より「歴史神学と教理史の領域を教えてもらえないか」と依頼を受けた。それで「膨大な歴史神学と複雑な教理史を限られた講義時間数で、奉仕生涯の最初の三年間、その基本的輪郭と本質を学び、それらを伝道と教会形成の中に生かしていく」上で大きな助けとなるテキストとして、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を選び、わたしたちのルーツとアイデンティティを戦後宣教の50年史でみるだけでなく、二千年間の教会史・教理史の全体から学ぶことを試みた。
わたしの念頭には、D.ウェルズ師が「福音派教会内部における”聖書の真理の喪失の事態”と”アイデンティティの希薄化現象”」を指摘しておられることがあり、伝道と教会形成に携わる教職者には「自らの信仰と神学のルーツとアイデンティティ」を再確認・再確立していくことがあった。
そのために、⑴いきなり個々の各論的問題に沈潜するというミクロ的観点からではなく、大局的な見地に立って、マクロ的観点から、⑵新約の使徒的キリスト教から現代までを展望しながら、歴史的に鳥瞰することに重きを置き、⑶できるだけコンサイスであることを旨とし、事柄を平易にかつ要点的に教えることを志し、そのための最良の一冊として宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を選び、これをテキストとして学ぶとともに、福音派の「福音理解のルーツとアイデンティティ、その基本的輪郭とエッセンス」の共通項をしっかりと認識し、その認識を骨格として、神学生それぞれの「教会・教派の歴史と福音理解」を有機的に接合(アーティキュレーション)させていくレポートを課題として課した。このために、神学生諸氏は各自所属教派・教会の歴史と福音理解の資料を収集し、それらをまとめ、福音派全体のルーツとアイデンティティの共通項の中に自らの信仰を位置づけ、自らの福音理解を豊かに受肉させていく供給源を確立させることを目指した。
これらの講義は、最初、宇田進師が共立基督教研究所で「継続神学教育課程」の中でなされたものであるが、わたしは母校関西聖書学院でこれをアレンジしつつ『福音主義神学(歴史神学)』として取り組み、それらはテープ・CD・MD等に録音されていった。KBIで「組織神学」を担当するようになり、この科目がなくなっていった後には生駒聖書学院で講義を復活させビデオ収録していった。これが今回のシリーズである。
これらのICIの講義ビデオを高槻福音自由教会の戸田隆兄が購入・視聴され、教会で学ぶ機会をもちたいと希望された。この企画は役員会で認められ、現在礼拝における「エペソ人への手紙講解説教シリーズ」とともに「二年半・十数回の信徒セミナー」がもたれている。この信徒セミナーの講演ビデオは当初、教会内のみで視聴されていたが、「教派を超えて多数の神学校において、エリクソン著『キリスト教神学』が学ばれていることから、今後刊行されていくその要約版『キリスト教教理入門』を教会レベルでどのように学んでいくことができるのかのひとつのモデル・ケースとして、広く紹介していきたい」とのわたしの希望を、高槻福音自由教会の役員の皆さんが理解・応援してくださり、今回公開できる運びとなった。
わたしの夢は、聖書と歴史と神学と実践の各領域において、”超教派的な基本”を分かりやすく分かち合うことである。神学校での「福音主義神学(歴史神学)」&「キリスト教教理入門(組織神学)」の学びと、それらの「教会における信徒教育の一環としての信徒セミナー」の試みを広く紹介させていただくことである。神学校での奉職期間は長いが、信徒対象ということではこの取り組みはまだ緒についたばかりである。「神学校レベルの神学教育課程を、教会の信徒レベルにかみ砕いて分かりやすく教え、養い育てる」という取り組みの、いわば「手探り・試行錯誤の部分」も多々ある。完成品として提供するものではなく、「神学校での神学教育と教会での信徒教育の谷間を埋めていくひとつの取り組み」として視聴していただけたら幸いである。そして視聴された方々にさらに工夫していただき、それぞれの教派・教会で「教職者レベルの内容を理解・共有する信徒層」そして「信徒層の必要を深く知り、その必要を神学的視点から豊かに提供できる教職者」として共に成長していくことができたらと考えている。
すでに所属団体JEC日本福音教会においては、記念誌・機関誌・補教師セミナー等で上記の事柄を分かち合ってきた。そして、今所属教派を超えた取り組みが諸教会・諸教派で展開しつつある。福音自由教会の歴史と福音理解に関しては、福音自由教会の諸文献に目配りしつつ、神学教師としての安黒務がまとめ、マクロな視点で位置づけたものである。講演内容については最善の努力を払っているが、問題や不備な点については、ご教示いただければ幸いである。各教会での信徒セミナーを試みられるときには、「歴史・信仰告白」の部分をそれぞれの教派・教会の歴史・信仰告白に置き換えて教えられると良いと思う。宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』とエリクソン著『キリスト教教理入門』をテキストとしての学びは、福音派における教派を超えた“共通項”の部分、最も基本的な部分であると確信している。そして、福音派諸教派の先生方にはこのような基本的な共通項を大切に育みつつ、教派的な個性・文化また今日の新たな神学の研究領域に取り組んでいただきたいと願っている。
2017年07月25日a【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第九章
神の国―@神の国の神学―人間は地上に住むべく創造された、歴史の中に置かれた人間を来訪し救い、裁かれる神、A単一の複合的出来事―主の日、人の子の来臨、死者の復活、最後の審判、B神の国の究極的舞台は地上である―変貌した地、新しい創造、復活のからだ(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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2015年3月に翻訳・刊行したG.E.ラッド著『終末論』は、「ICI資料集リスト」から分かるように【2006】年の日本福音主義神学会・西部部会春期神学研究会議での『歴史的前千年王国説におけるユダヤ人伝道の神学的位置づけ』の研究発表に発し、【2009】年度の牧師会や神学校における「ディスペンセーション主義問題三部作―@:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義・主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』、A:「黙示録特別講義:イスラエルと教会」、B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答」、そしてその視点に立脚しての「ヨハネの黙示録講解説教シリーズ−エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した」、
さらに【2012】年度にアッセンブリー教団関西地区のアドンバンスト・スクール・オブ・セオロジーより依頼での二泊三日にわたる『福音主義終末論:再考』講演@「近代における終末論」:自由主義神学発生以後、伝統的終末論がどのように変化していくのか。近代の諸見解と代表的人物と立場を紹介し、課題点をあげて考察する、A「ディスペンセーショナリズムの終末論」:いわゆるディスペンセーショナリズムの発生を歴史的に位置づけ、その歴史観と独自に体系化された終末論的見解およびその影響を検討する、B「21世紀の終末論の諸課題T」:旧新約の黙示文学と呼ばれるジャンルの聖書解釈の原則を学び、再臨、空中携挙、最後の審判を巡る諸説を比較検討する、C「21世紀の終末論の諸課題U」:教会内で特に議論されることの多いテーマである千年期と患難時代にまつわる諸説を並べ、英語文献の新しい知見を交えながら理解を深める、D信徒セミナー「世の終わりと教会の霊性」。
そして、【2014】年度の母校関西聖書学院で開催された日本福音主義神学会全国研究会議に年に、準備委員長の奉仕をしつつ執筆した「福音主義神学」誌45号論文『福音主義イスラエル論』―神学的・社会学的視点からの一考察―第一部:神学軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何:
A)「使徒的聖書解釈法」とは何か、B)「使徒的イスラエル論」とは何か、C)神学軸における「評価」、
・第二部:社会学軸―実践における「使徒的正統性」の反映の如何: A)考察の焦点としての「キリスト教シオニズム」、B)使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素、C)社会学軸における「評価」、結語:「福音主義イスラエル論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけ。
これらの取り組みの総決算として【2015】年3月の、『終末論』は、満を持して刊行された。この本は、数多くのラッドの著作の中で、最後の著作、つまり絶筆となった著作である。それだけに、ラッドがライフ・ワークとして取り組み、多くの著作で詳しく扱ってきた内容―ディスペンセーション主義問題、イスラエル論問題、グノーシス問題、復活問題、神の国問題等に関する議論の輪郭とエッセンスが凝縮され、ディベート(討論)のスタイルで分かりやすく扱われている。
G.E.ラッドの伝記を読むと、ディスペンセーション主義聖書解釈が猛威をふるっていた約半世紀前にラッドが”ディスペンセーション主義問題”に取り組み始めたとき、友人たちから「ラッドさん、このような取り組みをしていたら、キリスト教会で奉仕の場所を無くしてしまうよ」と助言されたとのことである。しかし彼はその使命感からこの問題の克服に尽力し、米国の福音主義神学会の形勢を大きく変えることとなった。
「ディスペンセーション主義聖書解釈法とイスラエル論の問題」は、日本の福音派の中で今尚議論されている重要な課題のひとつである。この課題の解決に向けてラッドは、その奉仕生涯の最後の時期(The
Last Stage)に渾身の力をふるって本書(The Last
Things)をしるし、他の著作とあいまって大きなインパクトを与えた。それらの結果として、ディスペンセーション主義の指導者たちは種々の主要な教理と終末論においてラッドの立場に接近し続け、ディスペンセーション主義の教えの牙城であったダラス神学校、グレイス神学校、タルボット神学校等の指導的教授陣は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに今日では漸進主義ディスペンセーション主義へと大きく変容していっている。ダニエル・フラーはディスペンセーション主義に関して「二〇〇〇年になってついに、ダラス神学校は、一九五五年の段階でジョージ・ラッドがいた地点に辿り着いた」とコメントした(『テーブルにおけるひとつの場所』二〇〇八、J・A・デリア、一七六頁、一八一頁)。ただ、このような変化は知的レベルの高い神学教師や神学生の間にとどまっており、ディスペンセーション主義者の大半は今尚、より初期の教えを信奉し続けている(『ディスペンセーション主義の背景』一九六〇、C・B・バス、再販版の「序文」S・R・スペンサー、三頁)。
【2015】年3月末、『福音主義イスラエル論』論文執筆と『終末論』刊行を機に、母校での36年間の奉仕に区切りをつけることとなり、「籠から解き放たれた小鳥」のように、諸神学校や諸教会、また翻訳や執筆、そしてこれまでとこれからの取り組みの収録であるビデオ等をFaceBookやYouTube、またICIストリーミング・ビデオワールドを通して紹介させていただいている。
【2015】年の刊行直後に、与えられた機会は生駒聖書学院での『終末論』刊行記念講義。翌【2016】年春には大阪聖書学院での『終末論』特別講義。さらに【2016】年夏には、教え子たちによる企画による『終末論』特別セミナーが本拠地「一宮基督教研究所」で一泊集中セミナー。
【2017】年の今年、今現在取り組んでいるラッド著『若き教会―使徒行伝』の翻訳も、「旧約の伝統と預言の色」が濃厚なルカ伝と「ユダヤ教の伝統の揺りかごの中から羽ばたいていく」ユダヤ人と異邦人からなるキリスト教という視点が明確であり、旧約と新約の関係理解、イスラエル民族とキリスト教会の関係理解が混濁している今日の状況に、パウロの伝道旅行とローマの獄中生活に常に同行した医者”ルカの視点”は、基本的な事柄に明確な光を投じることになるだろうことを期待している。
これに付随して、第二神殿時代の、そして1世紀のパレスチナにおけるユダヤ教に関する最近の研究にも目配りしていきたいと考えている。この点に関しては、“ハード・ランディング”なアプローチにも思われるJ.D.G.ダンやN.T.ライト等よりも、“ソフト・ランディング”なアプローチと思えるR.ボウカムの著作(『黙示録の神学』や『イエスとその目撃者たち:
目撃者証言としての福音』の邦訳もある)の方により親近感を抱いており、R.Bauckham,”The Jewish World
around the New Testament”等に目配りしている最中である。
20170723_高槻福音自由教会版_『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”I―
新約聖書エペソ5:21-33「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい―わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh
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【2017年07月23日 高槻福音自由教会礼拝メッセージ要約】
エペソ書は、神が新しい共同体である教会に期待しておられる新しい基準の本質を描いている。それは一致であり、聖さである。この二つは、召しにふさわしく、神の民の立場にかなう、欠かすことのできない二つの特質である。このような特質がクリスチャン生活のすみずみに浸透することを神は願っておられる。この願いは、まずこの被造物世界の最小のユニットである家庭に向けられる。その家庭の柱である夫婦に焦点があてられる。次に親子、そして職場の主人と雇われ人と続く。家庭と社会でクリスチャンはいかにふるまうべきなのか。いかにすれば調和は生まれるのか。パウロは扇の要のように「キリストを恐れ尊んで」とすべての事柄をキリストに還元し、続いて扇の展開のように「互いに従いなさい」と聖霊が照らされる道筋を示す。
2017年07月23日
新約聖書エペソ人への手紙05:31-33(MP3
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YouTube)「ふたりは一心同体となる―愛しなさい、敬いなさい」
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「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、2人は一心同体となる。」5:31
これは創世記 2:24
にある言葉である。
そしてまず、神はこう仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従わせよ。」(創 1:28)
人間の生殖能力による人口増加と、大地の管理者としての人間の使命が書かれている。
そして、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創
1:27) とあるように、人は神の人格に似せて造られ、神と人間、男と女の人格的交わりが出来るように創造された。
そしてまた、すると人は言った。「これぞ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創
2:23)
とある。これは肉体的、性的結合による一体だけではなく、自分を愛するように妻を愛する夫、この2人が人格的に1つにされる事を象徴し表現している。
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「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」5:32
夫の妻に対する愛が、キリストと彼の妻である教会への愛をさしているというのである。
かつて、山上の垂訓を述べられる時、イエス様は古くからの律法をまず述べられ、その後、「しかし、私は言います。」と律法よりも更に深い意味を述べられた。今回はそのパウロ版である。「私は、キリストと教会をさして言っているのです。」
キリストの犠牲的な愛、それをパウロは夫婦の神秘的で聖なる性的結合に例えて言及しているのである。
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しかし、「この奥義」とは、エペソ 3:1~6
にあるように、キリストと教会の結合をさしているだけではなく、今までいがみ合い、否定し合っていたユダヤ人と異邦人の結合をも意味している。
つまり「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、2つのものをご自身において新しい1人の人に造り上げて、平和を実現するためであり、」エペソ
2:15
パウロは結婚という関係の中に、敵意を捨て、違いを乗り越えていく男女のように、キリストと共にある教会の美しい姿を見ている。結婚した2人が1人となるように、キリストを信じるものたちは新しい1人の人となるのである。
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「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」5:33
ここで用いられている「敬う」はギリシャ語では「フォベタイ」畏れなさいという意味である。その感情を分析すれば、まず「単純な尊敬」から、「畏怖の念」を通り、最終的に「崇敬」へと至るニュアンスを持つ動詞である。
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「妻は夫に従いなさい」とは、夫が神の意図されているリーダーシップを発揮できるように従うということであって、単に盲目的に従うことではない。
また夫への「自分と同様に愛しなさい」とは、自分の妻が、神様が願われる「妻のあるべき状態」になれるように、夫も犠牲を払い仕えなさいということである。
(仁美記)
2017年07月22日a【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第八章
審判―@自らの行いに責任があり、聖く正しい神の前に立つ審判の日に直面しなければならない、A「行い」とは何を意味しているのか、B本質的な問いとは「義認」とは一体何か(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
【新薬の副作用とそれに対する治療】
以下のように、N.T.ライトに対して懸念される問題点を指摘してきた。
⑴
「神の義」の問題に関し、「宗教改革が見出した“信仰義認”は聖書の中でまったくその場所をもたないのであろうか、宗教改革のパウロ解釈は単なる曲解なのであろうか」と問いかけ、「聖書が示す“神の怒りの現実性”が義認の“前提”として厳然と存在する。
⑵
「義の転嫁」の問題に関し、義認は“教会論”との関係は見失われてはならないが、“救済論的性格”をもつのであり、単に「契約のメンバーに属する」という理解ではカバーできない。
⑶
義認における「信仰」でも、単に「契約の民のメンバーとしての“目印”」にとどまるものとは理解されえず、キリストによって成し遂げられた義を受け取る「手段」である。
⑷
「現在の義認」と「将来の義認」に関して、聖霊に言及されているとはいえ、「行いに基づく」という点でセミ・ペラギウス的要素が指摘されていることには理由がある。
G.E.ラッド著作集は、少し時代は古いものであるが、N.T.ライト等による問題提起を通して少し混乱されている方々にとって、「その副作用に対する治療」に役立つのではないかと思う。ラッドは優れた聖書神学者として、聖書神学において示されている「義認」や「審判」についての基本的な真理について、最も自然な聖書解釈の流れに従って分かりやすく解き明かしているように思われる。エリクソンも、大切にしなければならないこととして「その文脈における最も自然な解釈」をあげている。
これに比して、「紀元前六世紀後半のエルサレム神殿の再建から紀元七十年の神殿崩壊までの第二神殿時代、特に紀元一世紀のパレスチナのユダヤ教の枠組み」による再解釈というものは、時としてわたしにとって“文脈に沿った自然な解釈”を歪曲してしまう「視力に合っていない老眼鏡」のように思われるのである。わたしの不勉強といわれるかもしれないが、現時点においては、わたしはわたしにとっての“文脈に沿った自然な解釈”を励ましてくれるラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和著作集等を大切にいきたいと思っているのてある。
2017年07月21日b【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第七章
復活と携挙―@救いとは、存在全体の救いを意味、A初穂の後、全面的な収穫が続く、B二つの復活―再臨の後と千年王国の終わりに(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
2017年07月21日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第六章
反キリストと大患難(B)(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
2017年07月20日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第六章
反キリストと大患難(A)―@アンティオコス・エピファネスと反キリスト、A終末論的解釈vsメシヤ的解釈、B「聖なる所に立つ」とは、礼拝要求を意味する(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
ICIインフォメーション・メール
20170719号 【「ガラテヤ書講解シリーズ with J.D.G.ダン」と「ローマ書講解シリーズ with
ウルリッヒ・ヴィルケンス」】等の紹介
+
●「ガラテヤ書講解シリーズ with J.D.G.ダン」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okeSav21YOAvFt6BA_N-W9G
●「ローマ書講解シリーズ with ウルリッヒ・ヴィルケンス」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okzBWMHpmMJo69rSX_LW-XS
+
主の御名を崇めます。
60歳を区切りとして、一宮基督教研究所の働きに専念している今日この頃です。翻訳の仕事とともに、適度に諸教会での奉仕や諸神学校での奉仕があり、リズムのある生活を送らせていただいています。FaceBookでは「質疑と応答」の時もあり、生活の雰囲気は「神学校のクラスルーム」そのままです。
先週は、N.T.ライト、物語神学、無誤性の議論等について質問があり、「⑴状況分析、⑵主要な争点、⑶福音主義の立場のあり方」等について、わたしの考えてきたことや関連資料の紹介をさせていただきました。
またその関連で、保有しておりました「ガラテヤ書講解シリーズ」と「ローマ書講解シリーズ」もYouTubeで公開させていただいています。ガラテヤ書の方は、J.D.G.ダン著『叢書新約聖書神学8:ガラテヤ人への手紙の神学』を、ローマ書の方は、ウルリッヒ・ヴィルケンス著『EKK新約聖書註解
ローマ人への手紙』を熟読しつつ、シリーズに取り組ませていただいたものです。ショート・メッセージ集ですので、参考文献等を目配りしつつ、「再生リスト」で順を追って視聴していただければ良き「聖書研究」のひとときにもしていただけると思います。
7/17
【一宮チャペル『ローマ人への手紙』傾聴シリーズ】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okzBWMHpmMJo69rSX_LW-XS
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先日より、書斎の中の数十冊はある「パウロ研究の新しい視点」に関する著作を振り返って拾い読みしている。その中に、二年前の東部講演準備に熟読した一冊の著書と論文がある。それは、K.W.McFaddenの”Judgement
according to Work in Romans” Fortress Press, 2013. とその関連で発⾒した
”The Fulfillment the Lawʼs DIKAIOMA: An Another Look at Romans
8:1-4”である。これらの資料からは、下記の牧田師の分析・評価にもある「「神の義」の問題に関し、「宗教改革が見出した“信仰義認”は聖書の中でまったくその場所をもたないのであろうか、宗教改革のパウロ解釈は単なる曲解なのであろうか」と問いかけ、「聖書が示す神の怒りの現実性が義認の前提として厳然と存在する」という主張が見事に、ローマ書そのものから立証されている。
また、ウルリッヒ・ヴィルケンスの詳細なローマ書注解においても、そのことがローマ書理解の前提として据えられている。そのことを思い出しので、今回の質疑応答の一環として、【一宮チャペル『ローマ人への手紙』傾聴シリーズ】も紹介しておきたい。
以下に、牧田師から教えられたことを少し書きまとめたので、関心のある方は参考にしていただきたい。抜粋・編集してまとめたものなので、詳細は牧田師の著作そのものから学んでいただきたい。
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E.P.サンダース、J.D.G.ダン、N.T.ライトが共通して主張している「宗教改革におけるパウロ解釈は、中世カトリック教会の功績的救済理解に対する異議申し立てという枠組みに規定されており、それによってパウロ解釈が歪められてしまったという点である。つまり、この枠組みによって、パウロ時代のユダヤ教を律法主義の宗教と規定し、当時のユダヤ教の本質を読み間違えたというのである。」「そのような枠組みによってではなく、紀元前六世紀後半のエルサレム神殿の再建から紀元七十年の神殿崩壊までの第二神殿時代、特に紀元一世紀のパレスチナのユダヤ教の枠組みの中でパウロを解釈しなければならない」という主張である。
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わたし(あぐろ)は、最初ダンの著作を読んだとき、大きな刺激をもって受けとめたが、今は少し醒めた目でみている。この命題には、検討されなければならない「未検証な数多くの要素」が数多く内包されていること。またこのような立場を信用し「無批判で受容」していった場合、わたしたちが長年養われてきた聖書解釈や福音理解がさまざまな“副作用”を受ける危険があること。これらをきちんと認識するために、NPPとは何なのか。ライトが主張していることは何なのか。それらはわたしたちのこれまでの聖書解釈や福音理解にどのような影響を及ぼす可能性があるのか、について教職者と信徒は、いわばこの「新薬」を飲む前に、効能と副作用の両面から「注意書き」に目を通しておくことが必要と感じている。以下は、いわば、薬剤師が新薬を提供するときに口頭と文書で渡す「注意書き」である。
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【この新薬の特徴】
E.P.サンダース、J.D.G.ダン、N.T.ライトの立場については、牧田吉和著『改革派教義学 5.
救済論』の中に、コンバクトな分析・評価の記述がある。牧田師は「宗教改革の信仰義認論」に立った上で、特にN.T.ライトの福音理解の分析・評価を試みられ、⑴プロテスタント神学が「救いの秩序」に集中する傾向に対し、「大きな聖書の物語」「全被造物への神の計画」の枠組みにパウロ神学を位置づけようとしていること、⑵「神の義」の概念で神の義とは「ご自身の信実」を意味すること、⑶「義認」の問題に関し、「神の契約の民のメンバーに属する」ことを意味する。⑷「信仰による義」で、信仰は「神の民のメンバーとしての唯一の目印」を意味する。⑸現在の義認と未来の義認に関して、最後の審判における義認は「わざによる義認をも含む」ものと主張されること等を指摘され、ポイントを分かりやすく整理されている。
NPPに関する著作は、膨大な数にのぼるし、その賛否、また評価・分析は多岐にわたる。ゆえに、それらを読破し、ポイントを要約・抽出し、NPPに対する自らの立場を決することはきわめて困難である。それゆえ、このようなバランスのとれた包括的な著述は大きな助けとなる。
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【この新薬の効能】
その上で、成熟した組織神学者として、「無批判の受容」でもなく、「一方的な批判・決別」でもなく、ライトの立場と宗教改革以来の福音主義神学の立場との間に「関係の橋」をかける、知恵のある試みをされており教えられる。
⑴契約的規範主義に対して、「このような律法理解は一定の評価が可能」と述べられ、契約関係における「規範としての律法理解」と重なると指摘されている。
⑵ライトが義認論を「救済論的枠」ではなく、「教会論的枠」において理解しようとした神学的意図は理解できるとされている。従来のプロタスタントは「個人主義的な問題意識で救済論」を捉えがちであったと反省が述べられている。
⑶義認を「神の民のメンバーとしての唯一の目印」と捉えるとき、救済論における「神の子性」の概念重視とも重なると展開しておられる。
⑷「大きな聖書の物語」への位置づけは、「神の国の文脈」でパウロ神学を位置づける試みとして評価しておられる。
+
【この新薬の副作用】
以上のように「関係の橋」をかける試みをなしつつ、関連聖句を取り上げつつ懸念される問題点、つまり「対立点」をも以下のように明確に指摘されている。
⑴
「神の義」の問題に関し、「宗教改革が見出した“信仰義認”は聖書の中でまったくその場所をもたないのであろうか、宗教改革のパウロ解釈は単なる曲解なのであろうか」と問いかけ、「聖書が示す“神の怒りの現実性”が義認の“前提”として厳然と存在する。
⑵
「義の転嫁」の問題に関し、義認は“教会論”との関係は見失われてはならないが、“救済論的性格”をもつのであり、単に「契約のメンバーに属する」という理解ではカバーできない。
⑶
義認における「信仰」でも単に「契約の民のメンバーとしての“目印”」にとどまるものとは理解されえず、キリストによって成し遂げられた義を受け取る「手段」である。
⑷
「現在の義認」と「将来の義認」に関して、聖霊に言及されているとはいえ、「行いに基づく」という点でセミ・ペラギウス的要素が指摘されていることには理由がある。
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【結び】
牧田師から教えられることは、組織神学者として「自らの立ち位置」が明確なことである。そして、そこに立ちつつ、「自らの福音理解」と「ライトの福音理解」を対話させ、関係づくりが可能な領域と抗して対峙しなければならない領域をきちんと整理し、「安全なガイドライン」を設定しておられることである。
今日、キリスト教系の新聞や幾つかの出版社から、「流行のスター」を追っかけるようにライトの著作が次々と刊行され、多くの人がそれに群がるのをみるにつけ、わたしをも含めて教職者ならびに信徒は「安全なガイドライン」を身にまといつつ、いわば「予防のワクチン」を事前に摂取した上で、真偽がまだ検証されていない「今日の新たな神学研究の地平」のジャングルを探検していくことが求められているように思う。
7/17
【一宮チャペル『ガラテヤ人への手紙』傾聴シリーズ】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okeSav21YOAvFt6BA_N-W9G
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先日より、書斎の中の「パウロ研究の新しい視点」に関する著作を振り返って拾い読みしている。二年前の東部講演準備に熟読したガイ・ウォーターズの“Justificatio
and the New Perspectives on
Paul”も五色のボールペンと五色の蛍光ペンの下線や書き込み、付箋で一杯であり、懐かしく読み直した。そのときに、七年前のガラテヤ書講解シリーズを思い出した。埋もれさせておくのももったいないので、公開し関心のある方に視聴してもらうことにした。ガラテヤ書のときは、J.D.G.ダンの著作を熟読し参考にした。
本来は、ローマ書講解を取り組む予定であったのだが、J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書
ガラテヤ人への手紙の神学』の中に、「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は理解しえない」と書かれていた。このことを踏まえて、8月より、ローマ書講解説教シリーズに先んじて、ガラテヤ書講解説教シリーズにチャレンジすることにした。ダンにおいて示されている「パウロに関する新しい視点“New
Perspectives on
Paul”」を福音主義視点からどのように評価すべきなのか、ウォーターの分析・評価をも念頭に置き、ブルースの解釈あたりを落とし所として、「福音主義”信仰義認の教理”:再考」を取り扱いたいと考え、取り組んだ。
2017年07月16日 新約聖書エペソ人への手紙05:28-30(MP3
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YouTube)「神は深い眠りを下され―あばら骨をひとつ取り」
5:28
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」
創世記 2:21
では「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の1つを取り、そのところの肉をふさがれた。」と書かれている。アダムのあばら骨からエバは造られたのである。
+
この世界における男性と女性の関係、夫と妻との関係を見ると、相変わらず男性中心の社会であり、ある国や社会では女性は物のように扱われている。
しかし、聖書を見ると、最初の女性であるエバは、アダムの「あばら骨」から造られたと書かれている。足や手など身体の末端からではなく、また、口や目や耳などからでもない。最も人間にとって大切な心臓に近い部位、昔の考え方によれば「心=ハートがあると考えられる部位」から骨を取り、神様は女性を造られた。
そこには、男性の「最も大切なパートナー」として、女性を造られた神様の御思いが現れている。妻は夫の「最も大切な部位」から造られた存在であり、夫にとって妻はまさに身体の一部分なのである。
+
5:29
「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」
夫と妻の愛、夫婦の愛、男性と女性が愛し合うとはどういうことなのだろうか?
それは、お互いがお互いを「最も大切なパートナー」として、養い、育て、ケアーするということである。
+
トゥルニエという人が書いた『結婚の障害』という愛についての本がある。
その本の中に、愛するためには「理解し合わなければなりません」と教えている。
では、どうすれば良いのか?理解し合うためには、まず、理解しようと強く願わなければならない。そして、理解し合うためには、生まれつきの違いを受け入れる必要がある。そして、理解し合うためには、男と女の違いがいかに大きいかを認めなければならない。そして、最後に、理解し合うためには、愛における男と女の違いを認めなければならない、とある。
つまり、男性は大体において、理性的・論理的で、常に仕事や働きのことを考える傾向があるが、女性は大体において、情緒的・人間中心的で、家庭や家族に対する関心を抱く傾向があるというように、違いを理解しあって、そこをどう調節するか?が大切なのである。
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夫婦とは聖書において「一体の存在」であるが、別々の役割や機能を保有するがゆえに、組み合わせや調節の仕方によっては、摩擦や衝突が生じ、イライラが募ることになる。
合唱が美しく聞こえるのは、それぞれの違ったパートが異なった旋律を歌い、しかし、合わされた時に調和している時である。そのためには、そんぞれのパートが正しく音を取りかつ他のパートと響きあう繊細な調整が必要となる。
このように夫婦での調整がうまくいくと、1組の成熟した夫婦として、神様の栄光を表すことが出来るのである。
+
4:31,32
「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みなすてさりなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いたさい。」
近すぎる関係ではあるが、互いに親切な心を持ち、優しい言葉が溢れる生活をしたいものである。
5:25
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
キリストの贖罪の御業を規範として、赦し合い、様々な違い、衝突を乗り越えていくべきである。肉の性質、生まれつきの弱さも受け入れつつ、御霊に導かれて、ともに変えられていくことを感謝するべきである。
+
5:30 「私たちはキリストのからだの部分だからです。」
エバがアダムのからだの「最も大切な部分」から造られたように、教会はキリストのからだの「最も大切な部分」であるということである。
アダムが深い眠りにつかされ、エバが造られたように、キリストが十字架にかかられ死なれたことによって、私たちは生まれ変わることが出来たのである。
2:6 「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
私たちはキリストとともに死の眠りにつき、ともによみがえらされたものなのである。
+
つまり、私たちは「第2のエバ」、「キリストの花嫁」である。
単にキリストを頭とするからだなる教会というだけでなく、私たちは「最も大切なあばら骨」から造られた教会であり、キリストの「心」に象徴される大切な存在として、神様はご覧になっているということである。
Iコリ 2:16 「私たちには、キリストの心があるのです。」(仁美記)
2017年07月15日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第五章
再臨についてのことば―@再臨は二段階なのか、一段階なのか、A再臨描写の三つの言葉―パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイア、Bキリストの来臨は単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
中国の民主活動家でノーベル平和賞受賞者、劉暁波氏が召された。彼は1989年の天安門事件後に投獄や強制労働などの迫害を受けても国内にとどまった。「私に憎しみはなく、敵はいない」。その信念を貫いた、と言われる。
わたしも、ICI一宮基督教研究所という場を与えられて、翻訳や執筆、講演や講義、FaceBookやYouTube等を通して、16世紀の宗教改革に根差す歴史的な福音主義キリスト教の視点を尊重する立場から、⑴今日の神学的状況と動向に関する分析と情報の提供、⑵注目すべき問題点と主要な争点の指摘、⑶そして、福音主義を標榜する諸教会の“核”を成すその信念体系の確認、それに関する一層の掘り下げへの一つの呼びかけと、そのための一つの材料を提供していければと願っている。また、立場の異なる運動や教えからも、その真理契機を認識し、自らの神学構造の中にそれを正しく位置づけ、真の神学的解決を示すことこそが、自らの神学を成熟させることにつながると確信している。
その意味で、NPP、物語神学、無誤性の議論からも、レストレーション運動、ディスペンーション主義運動、ダビデの幕屋、キリスト教シオニズム、使徒・預言者運動からも、学ぶべきところは学び、批判すべきところは批判し、排他的にアプローチするのではなく、包摂的にアプローチし、北風のようではなく、太陽のようにアプローチし、健全な福音主義的なアイデンティティへのシフトを助ける「建徳的な指針やガイドライン」を提示し、お互いの神学の成熟に役立てていっていただけるように尽力していきたいと考えている。「私に憎しみはなく、敵はいない」と語った劉暁波氏のような信念を貫いていきたい。ICIの働き・取り組みの中にそのようなものを感じ取っていただけたら幸いである。
2017年07月14日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第四章
キリストの再臨―@世界からの逃避・神のもとへ逃避 vs
神の来臨・歴史の中への来臨、A主の日、終末的神顕現、更新された地上における救い、B受肉において開始されたみわざの完成、DデイとVデイ(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
7/14a
「無誤性についての議論」についての質疑への応答
Q:
聖書の無誤性などについてもシカゴ声明賛成派と非賛成派に二分されているように感じます。昨晩は、混乱しましたので福音主義神学45号を持ち出し、福音主義イスラエル論を読みました。ともかく、この二派の橋渡しは可能でしょうか。
+
A1:
シカゴ声明に関する経緯については、下記の公開されている資料で触れられているので参考にしていただきたい。
+
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20131118_jets-w_keynote-address_by_Ichikawa-Yasunori.pdf
福音主義神学の基盤を点検する ― 今 後 の 営 み に 向 け て ―
(日本福音主義神学会西部部会秋季研究会議講演要旨)
2013 年11 月18 日 於 関西聖書学院 担 当 市川康則
(神戸改革派神学校)
+
序.問題への視点―日本福音主義神学会(JETS)設立の背景と目的から
1.JETS創立の背景と目的
2.“福音主義”の意味合いをもとめて―反福音主義との対峙において
3.福音に生かされる―福音主義の本質
結び.
+
A2:
二分されているように見えるとのことですが、わたしの捉え方としましては、その議論から入るよりも少し視点を変えて、キリスト論的視点から見る聖書観と聖霊論的視点から見る聖書観という捉え方が益が多いように感じています。「啓示論→霊感論→無誤性論→照明論」の有機的連関性をキリスト論的視点と聖霊論的視点の両面から考察していくことが大切と思います。そのあたりをヘルマン・バーフィンクが扱っているところを牧田先生が分かりやすく解説しておられるので参考にされると良いと思います。下記のものは「改革派神学」に掲載された論文の概略です。現在は、『改革派教義学 1.
序論』の中にも掲載されています。
http://aguro.jp.net/d/file/m/makita00.htm
【H.バーフィンクの聖書論−その基本的性格をめぐって−】
1. 啓示と聖書
_1. 啓示の中心としての受肉の意義
_2. 受肉から聖書への移行
_3.
啓示と聖書の関係における二つの克服すべき立場
2.
聖書の霊感
_1. 有機的霊感の主張
_2. 聖書の僕形態の概念
_3. 聖書の権威の性格
_4.
中心と周辺
3. 聖霊の時代における聖書
_1. 「霊感」と「内的照明」
_2. 「内的証明」と「内的照明」
_3. 聖書と教会と聖霊
_4.
聖書の終末論的位置
4.
バーフィンクの聖書論の意義
+
A3:
バーフィンクの洞察を援用して、下記の資料を作成しました。わたしは、今日の福音派にとって最も大切な事柄のひとつ―「啓示論→霊感論→無誤性論→照明論」の有機的連関性をキリスト論的視点と聖霊論的視点の両面から考えることの大切さ―が大変分かりやすく書かれているように思います。
【「レストレーション運動の分析・評価」講演資料】
http://aguro.jp.net/d/ici/20170616_jhs_An_Analysis_and_Evaluation_of_the_Restoration-Movement_Paper_all.pdf
以上、ポイントと資料紹介だけですが、参考にしていただければ幸いです。
2017年07月13日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第三章
中間状態―@ギリシャ的世界観とヘブル的世界観、Aギリシャ的人間観とヘブル的人間観、B人間の死後の状態(
再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
ギリシャ的世界観、またギリシャ的人間観と比して、世界と人間についての聖書の概念はまったく異なっている。旧約聖書思想の根本は、神は創造者であり、世界は神の世界である、そしてそれゆえに本来は良いものであるという信念である。「神はそれを見て良しとされた」(創世記一・一二、一八、二一、二五、三一)。世界は神の栄光のために創造された(詩篇一九・一)。
ここに見られるのは、「良き創造の教説」であり、わたしたちの被造物性を「喜ぶ神学」である。その参考資料のひとつとして、牧田吉和著『改革派教義学』2
神論 p.266-274 にある「良き創造の教説」と『改革派信仰とは何か』p.220-253
にある「喜びに満ちたカルヴィニズム―改革派信仰における<喜びの神学>の構築」をお薦めしたい。
「良き創造の教説」そして「喜びの神学の構築」は、ラッドの中間状態や復活の章を理解する上で大きな助けとなる。
+
PS
G.E.ラッド著『若き教会―使徒行伝』の翻訳は順調に進んでいる。『終末論』のシリーズの後に、概要、先読み等を紹介していきたい。少しお待ちいただきたい。
7/12 質疑への応答
N.T.ライトの著作は結構持っています。「クリスチャンであるとは」は興味深く読ませていただきました。あと、洋書、和書何冊か持っていますが、まだ十分に目を通すところまではいっていません。あと、『福音主義神学』誌の46号に、N.T.ライト著『義とすること―神の計画とパウロの展望』に関するガイ・ウォーターズの書評論文が掲載されています。ライトからは、たくさんの刺激を受けますが、その福音理解とそこにある用語の定義が伝統的な理解また定義と異なっているように思います。そのあたりが分かりにくさの一因ではないかと思います。わたしは、福音理解には「アーティキュレーション(有機的接合性)」という要素が大切と思っています。その意味で、ライトの福音理解の「言語体系」とわたしたちの福音理解の「言語体系」の共通するものと齟齬のあるものとをよくよく整理し、わたしたちの福音理解を継承・深化・発展させる道筋において、ライトから幾つかの洞察を光として受け入れるという視点が大切ではないかと思っています。ライトの福音理解をそのまま吸収しようとすると、良きにつけ悪しきにつけわたしたちの福音理解が、いわば「電波障害」を受けたような状態に陥る危険もあるようにも思います。これは、わたし自身が感じている「ある部分」です。刺激に満ちた良い本とは思いますが、取り入れ方には注意が必要と思います。二年前の下記の東部部会の「義認と審判」についての講演の中でもライトの「義認論」に触れています。ただ、わたしの場合、ライトからは刺激は受けますが、わたしの探究している道筋のセンターラインを照らす助けになっているのは、ラッドや宇田師やエリクソンや牧田師等の著作や論文集です。東部の講演や先日の京都講演の中でも触れていますファン・ルーラーやヘルマン・バーフィンクの「キリスト論的視点」と「聖霊論的視点」の構造的差異の視点が主要な関心事のひとつとなっています。ライトは注目されている神学者のひとりですが、わたしにとっては主要な神学者ではありません。ひとりひとり探求している道筋において「引き込まれてやまない神学者」―「あなたのみことばは、私の足のともしび、わたしの道の光です」と呼び交わし合い、こだまするように響き合う神学者の書物をむさぼるようによむことが大切と思っています。今、思いつくことを書き綴りました。参考にしていただければ幸いです。
+
あと、わたしが参考になっているのは、M.J.Erickson,"Christian Theology" 3rd
Editionの「救いの始まり:客観的側面」の章で、New Perspectives on Paul
に関して、N.T.ライトに言及しており「法廷的義認を批評する人たちはしばしば、彼らの前提の多くが最近の知的環境から派生してきたものであることを理解し損ねている。そして、彼らは聖書の材料の中にそれらを読み込んでいる」等の指摘をしています。ライトに関しては学ぶべき点と注意して読むべき点があり、複眼的な読み方が必要と思っています。
+
【講演ビデオ】ライトに関する言及あり
https://www.youtube.com/watch?v=c5d_GpeTG5w&t=13s&index=14&list=PLClE1DIlx0onBrT8jJ77DZOexCBmxJpZU
+
※レジメ(印刷可設定)ライトに関する記述あり
http://aguro.jp.net/d/ici/20151116_jets-e_the_justification_and_the_Judgement_outline.pdf
ICIインフォメーション・メール
20170712号 【G.E.ラッド著『終末論』講義・講演ビデオシリーズ &
『若き教会―使徒行伝』概要・先読み・拾い読み】等の紹介
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
主の御名を崇めます。
60歳を区切りとして、母校での神学教師としての奉仕を終え、翻訳・執筆活動に重心を移す予定でしたが、幾つもの奉仕が入り、今年の二月にようやくエリクソン著『キリスト教教理入門』の翻訳原稿をいのちのことば社に渡すことができました。現在、新しい聖書の刊行と重なっておりますので、その後での刊行となる方向のようです。
六月の「レストレーション運動の分析と評価」のセミナーを終えて、現在次の翻訳G.E.ラッド著『若き教会―使徒行伝』に取り掛かっています。ラッドには、『神の国に関する重要問題』(一九五二)、『祝福された望み』(一九五六)、『神の国の福音』(一九五九、島田福安訳、一九五九)、『若き教会』(一九六四)、『イエスと神の国』(一九六六)、『新約聖書と批評学』(一九六七、榊原康夫・吉田隆共訳、一九九一)、『新約聖書の真理の型』(一九六八)、『ヨハネの黙示録注解』(一九七二)、『未来の臨在』(一九七四)、『新約聖書神学』(一九七四)、『わたしはイエスの復活を信じる』(一九七四)、『千年期の意味:四つの見方』「歴史的千年王国説」(一九七七、R・G・クラウス編集)、『終末論』(一九七八)等の著作があります。
聖書神学者ラッドの著作集から教えられることは、神の国、旧約と新約の関係、イスラエルと教会の関係、聖書批評、新約に共通する神の国、義認、永遠のいのち、復活、教会と終末等の聖書神学においておさえなければならない”基本的な真理、概念、定義”等にきちんと取り組んでいることです。聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門における「福音理解」のアーティキュレーション(有機的接合性)が希薄化し、混沌としてきている今日、「古きをたずねて、新しきを知る」という感じで、ラッドが取り組みました聖書神学における基本的な事柄を再確認し、深く思索し、今日に生かすことはとても大切と思います。
ラッドの著作は、「基本的な福音理解のあり方」を教えるもので、わたしたちがすでに理解している材料ではあるのですが、鋭い問題意識から発する扱い方から、基本的な真理に新鮮な光があてられるように思います。
「詩 119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
YouTubeやFaceBook等で、G.E.ラッド著『終末論』講義・講演ビデオシリーズ &
『若き教会―使徒行伝』概要・先読み・拾い読み等を少しずつ紹介していますので、関心のある方はご覧ください。
【ICI-YouTube】
https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ
【ICI-FaceBook】
https://www.facebook.com/tsutomu.aguro
2017年07月11日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義紹介「第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか―@旧約と新約の関係、A二つの解答、B三つのメシヤ預言」( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
2015年3月に刊行されたラッド著『終末論』の翻訳は、2006年の「日本福音主義神学会・西部部会神学研究会議」での「千年王国諸説とユダヤ人伝道の位置づけ:G.E.ラッドの”歴史的千年王国前再臨説”の視点から」の研究発表の時に決意した。飽きっぽいわたしが9年間もその意思を抱きつづけることができたこと自体がある意味奇跡である。多くの方の祈りと巷に溢れる必要がわたしをこの重荷から解放してくれなかったともいえる。翻訳をなしつつ、講義や講演をなし続けることができたことも良き支えとなった。
初版は刊行された間もなく在庫薄となり、ネット上では一万円近い値段で売買されるようになった。それで、翌春に再販で900部刷ってもらった。さらにオンデマンド版にしていただき、在庫薄となればいつでも増刷していただける体制となったことに感謝している。
この本は『終末論』の本であるが、同時に「聖書神学」の基本を教えてくれる本である。聖書神学の基本とは、旧約と新約の関係をどう見るのか、イスラエル民族とキリスト教の関係をどうみるのか―ということである。ラッドはそれに対する解答はふたつあり、ひとつは「ディスペンセーション主義聖書解釈法」であり、他方は「帰納法的な聖書解釈法であり、別名では使徒的聖書解釈法」であるという。そしてこの命題を「三つのメシヤ預言の解釈法」から、裁判における検察による立証のように、明白な根拠を示し、説得力のあるかたちで論証している。この書は多くの方にとって、「ディスペンセーション主義聖書解釈法」が内包する問題点の認識と治療のための有効な処方箋として役立つことになると確信している。
2017年07月10日【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】G.E.ラッド著『終末論』講義・講演全集―20060424_日本福音主義神学会・西部部会・神学研究会議講演「千年王国諸説とユダヤ人伝道の位置づけ
: G.E.ラッドの”歴史的千年王国前再臨説”の視点から」( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
ラッド著『終末論』の翻訳を決意する契機となった「日本福音主義神学会・西部部会神学研究会議」での「千年王国諸説とユダヤ人伝道の位置づけ:G.E.ラッドの”歴史的千年王国前再臨説”の視点から」の研究発表
+
元々は、穏健なディスペンセーション的な見方を教えられてきて、よく分からないまま「そうなのか」と受け入れてきましたが、エリクソン著
『キリスト教神学』を翻訳させていただき、それをテキストとして「終末論」を何度か講義しているうちに、わたしはエリクソンの理解の方がよりすぐれた聖書解釈であると確信するようになりました。そして、エリクソンの理解の基盤にG.E.ラッド、J.マーレー、G.ヴォスの聖書神学・聖書解釈があることも知りました。今回のビデオはそのあたりを紹介しています。(1)「旧約聖書の預言的箇所」の
聖書解釈の原則の検討(ジョージ・E・ラッド
より)、(2)「ローマ9,10,11章の解釈」からのイスラエルの神学的位置づけ(ジョン・
マーレーより)、(3)より困難の少ない見方としての「歴史的前千年王国説」(ミラード・J・ エリクソンより)です。
わたしは、健全な福音派諸教派・諸教会の中にも、ラッドが指摘し、その克服に生涯をかけた「聖書神学においての最も根本的な問題―旧約と新約の関係理解、イスラエルと教会の関係理解の最も根っこの部分にある―“二つの神の民、二つの神の計画”なのか、”ひとつの神の民、ひとつの神の計画”なのかという―問題が横たわっていると思います。そして、この基本的な問題を克服しないことが様々な問題を含む運動や教え(ダビデの幕屋・祈りの塔運動、キリスト教シオニズム運動等)に翻弄される原因にもなっていると思います。祈りや賛美の集会またユダヤ人の救いの使命は高く評価したいと思いますが、これらの運動や教えが内包している“根本的な病巣”を識別し対処することは、健全な福音理解にたつ教会形成において欠かせないと思います。この問題を正しく考えていただく手段として、今回の「G.E.ラッド著『終末論』講義・講演全集」ビデオ集を活用していただけたら感謝です。
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【G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』いのちのことば社】
※ “tsutomuaguro@gmail.com”にも注文できます(税込1944円、送料サービス。残部少々)。
2017年07月09日
新約聖書エペソ人への手紙05:25-27(MP3
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YouTube)「キリストがご自身をささげられたように妻を愛しなさい―ブライダル・バス」
+
5:21
には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とある。キリストとの関係を軸として、横の関係である人間どうしの関係を構築すべきであると聖書は述べている。
5:25
クリスチャンの生活の規範は「キリスト」である。キリストがクリスチャン生活の基本なのである。夫はキリストを模範として妻を愛さなければならない。生活のあらゆること、生きることすべてを、キリストを規範として行わなければならないのである。
何という高い基準、高い理想だろうか?
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パウロの時代、古代ギリシャのストア派の哲学の中でも「夫は妻を愛するべき」と教えていた。あらゆる宗教、あらゆる哲学がそのように教えている。
ギリシャ哲学において、「夫は妻を愛するべき」という言葉の中に使われたのは「フィレオー」という言葉であり、友情を表す言葉であった。
他にも「エロス」という、性的な愛を表す言葉もある。しかし、ここで使われているのは「アガペー」という愛である。この世界で最も強く、高く、深い愛である。そしてまた、「アガペー」は犠牲的な愛を表す。
ここで言われていることは、男女の愛というものの「質」「豊かさ」は、キリストの様に犠牲的な愛で結ばれる必要があるということであり、その愛が素晴らしい夫婦の関係を牽引していくということである。
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日本文学の有名な作家に有島武郎というという人がいる。彼の書いた本に「愛は惜しみなく奪う」というものがある。ここに描かれているのは、まさしく「エロス」、奪い合う愛、奪う本能、引き付け合う本能である。この本によって、彼は「新しい女性論」を追求したと称された。
+
しかし、聖書のいう「愛」は「アガペー」、惜しみなく与える愛である。
三浦綾子さんの書かれた小説「道ありき」という本がある。キリスト教作家である三浦綾子さんは、クリスチャンになる前、敗戦と病の中に虚しく人生を歩んでいた。
そこに、前川正さんという医学生が現れる。彼は誠実なクリスチャンの男性であった。
前川さんがいくらキリストの愛を伝えようとしても、綾子さんの心は固く閉ざされていた。
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ある日、道端に落ちていた石を拾い上げ、前川さんは自分の足を叩き始めた。あまりにも激しく打ち続けるのを見て、三浦綾子さんは驚いて止めたと言う。
前川さんが何故その様なことをしたのかと言うと、「自分は綾子さんの健康のために祈り続けてきた。綾子さんが元気になり救われるためであれば、自分の命も要らないと思ったほどである。しかし、自分の信仰が薄いので、綾子さんは神様の救いを受け取ろうとしない。そんな自分を罰するため、こうして石で打ち付けているのだ。」というのである。
その時の前川さんの真摯な態度が、「アガペー」の愛が、虚無的になっていた三浦綾子さんの心を動かしたのである。
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「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、・・・自分の妻を愛しなさい。」神様が望んでおられるのは、夫と妻が心から愛し合う姿である。それは、小さな思いやりの言葉、手伝い、心の優しさかもしれない。人間の本来の姿では、愛のない、自分本位の空っぽのダムのようである。しかし、キリストの十字架から流れるアガペーの愛は、私たちの干上がったダムにも注ぎ続けられる。
ローマ 5:5 「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
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5:26
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」
キリストの愛の意味・目的とは何なのだろうか?
エペソ 1:4
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」この聖く、傷のない者とは、「みことばにより、水の洗いをもって」なされると書いてある。
5:18 「御霊に満たされなさい」、コロ 3:16
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」とも書かれている。つまり、聖霊に満たされ、神のことばが溢れることによって、わたしたちの心は、水で洗うように罪が洗い流されていくのである。
+
5:27
「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何1つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
パウロはここで、「夫婦、男女、結婚」の意味・目的を「キリストと教会」の結婚に類比して説明している。神の民であり、キリストのからだである教会は、「キリストの花嫁」と言われている。
黙 19:7 「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚礼の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」
黙
21:2
「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。」
+
結婚式を迎えるにあたって、花嫁は「ブライダル・バス」といって、美容院に行き、からだを洗い清められ、肌や髪を整え「しみや、しわや、そのようなものの何1つない、聖く傷のない」美しい花嫁に整えられる。
同じように、救われ、キリストのものとされた私たちは、「ブライダル・バス」の美容院にいるようなものである。
みことばの本質と共に働く聖霊、聖霊と共に働くみことばの本質は、私たちを美しいキリストの花嫁へと整える働きをしている。
やがて、再臨の時、花婿であるキリストの前に立つ花嫁である私たち、教会が恥ずかしくないように、日々整えていかれなければならないのである。(仁美記)
7/8b【キリスト教信仰入門編:ローマ人への手紙よりの傾聴】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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2016年05月25日
岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門@―我々は神の永遠の大法廷において被告として立っている―
新約聖書ローマ1:15-21
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2016年08月07日 岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門A―義の栄冠を慕い求めて」新約聖書
ローマ人への手紙2:1-16
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2016年10月30日
岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門B―宗教の役割は、苦難の意味を解き明かすところにある」新約聖書
ローマ人への手紙3:19-26、ヘブル4:16
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※昨年度の岬福音教会での礼拝メッセージも掲載しました。
7/08a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 22_1-21 「彼らは永遠に王である」(
再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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黙示録講解説教シリーズも、今日が最後となった。共立基督教研究所での三年間の研修後、郷里での開拓伝道と一宮基督教研究所の働き、神学会と所属団体と母校での諸奉仕、翻訳出版と執筆活動等、数多くの取り組みを導かれてきた。わたしは、それらの取り組みの普遍性を意識していたので、パウロが記したようにそれらの奉仕が無駄にならないために、すべて収録するように導かれた(ガラテヤ2:2b)。たどたどしい内容の部分もなきにしもあらずであるが、それらをルカがテオピロ殿に順序だてて書きまとめたように、わたしもわたしの取り組んできたことをテーマごとに整理しつつ紹介していきたいと思っている。
+
現在、ラッド著『若き教会―使徒行伝』を翻訳している。なぜ、ルカは『ルカによる福音書』と『使徒行伝』を記したのか。それは、ローマ帝国の裁判の行方に、キリスト教の運命がかかっていたからである。もしユダヤ教徒からの告発(使徒25:7)が認められたら、キリスト教は“邪教”として扱われ、弾圧・禁教の対象とされたことであろう。日本におけるキリシタン禁教・弾圧・迫害を生み出していたかもしれなかった。それでルカは大きな危機意識をもって、同時に有能な弁護士のように諸資料を収集し、福音書記者でただひとり「旧約聖書とキリストとキリスト教会」の有機的連関関係を二巻の文書(あるいは裁判に益する資料)としてまとめた。
+
テオピロ殿に、キリスト教がすでに公認宗教のひとつとして認められていた旧約聖書に根差す宗教に発するもの(ユダヤ教の一宗派とみられていた)であるとともに、キリスト教の立場からは「旧約聖書に約束されていたものの実現」なのであることを順序だてて立証しているのである。「ルカによる福音書と使徒行伝」二巻本全体の序文として「ルカ
1:1 2
私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、
1:3
私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
1:4
それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」とある言葉から、その背景に、パウロの裁判とキリスト教の行方がかかっていたことを読み取ることは大切である。
+
黙示録シリーズに続いて、ラッド著『若き教会―使徒行伝』の翻訳「先読み」紹介とともに、ラッド著『終末論』のビデオ・シリーズを経緯を振り返りつつ紹介していきたいと思っている。わたしは、「ディスペンセーション主義聖書解釈」を異端・セクトとは考えていないが、"誤った聖書解釈法"であるとの認識を持っている。"この誤った聖書解釈から派生している、今日数多くの誤った運動や教えが増え広がりつつある"と懸念している。ルカがキリスト教の行方を心配して、『ルカ伝―使徒行伝』の二巻本を書き記したように、わたしもこれらの誤りから多くの兄姉を救済・治療するために「順序立てて」講義・講演ビデオを紹介していきたい。ラッドが照らし続けたように「福音理解のセンターライン」がどこにあるのかを照らし続けたい。
+
【黙示録22章】
21,22章は「新天新地、新しいエルサレムについて」、世界の終わりについて書かれている。かつて世の初めに、神様がこの天地万物を造られて以来、いよいよその創造が完成の時、1つのストーリーが結びの時を迎えようとしている。
22:1
聖書の初めに、天地万物、宇宙、そしてそれらの中にある物全てが造られた。そして、それらは非常に良かった。1番最後に人を造られ、神様は満足された。
エデンの園に4つの川が流れていた。そして、園の中央には「いのちの木」があった。その小さなエデンの園が、世の終わりには、都となり新しいエルサレムが完成しようとしている。エデンの園には、アダムとエバのたった2人だったが、新しいエルサレムには、神様を信じる大群衆がやって来る。
この都の川の両岸には「いのちの木」があって、もはや涙も無い、悲しみも苦しみも無い世界である。新しい都は、わたしたちをあらゆる苦しみ、悲しみから解放してくれる「いやしの都」である。
22:5 天国とはどんなところなのか?が書かれている。
神様はこの物質世界を良いものとして造られた。そして、その管理者として人間を置かれた。私たちがこの世界に生かされている意味は、決して小さくは無い。人は生まれて、7,80年生きて死んでいくだけの存在ではない。この被造物世界の中で、「産めよ、増えよ、地を満たせ!」そして「地を従わせよ!」この世界の支配者として、また、管理者として、王として、神様からの権威を委ねられたのである。
そして、次には、新しい都・エルサレムにおいて、その命令が引き継がれていくのである。
人間は死ぬことによって、肉体は朽ちるが、魂は直ちに神様の懐に迎え入れられる。その時裸である魂は、再臨の時復活の着物・栄光の身体を着せられて、地上に降り、新天新地で生かされることになる。
天の御国、神の国とは、神の支配される領域である。そこで、私たちは神様と共に「管理者」としての栄誉にあずかることになる。
人間は、罪によって堕落した。そこで、本来は恵みである労働が「呪われたもの」になってしまった。しかし、イエス・キリストの十字架の御業によって、贖われ、聖霊によって生かされ、労働が再び祝福となった。その事も、新しい都・エルサレムでは完成されるのである。
「神様の祝福の中にある労働」という視点が大切なのである。
私たちが救われる目的は、贖われ、栄光化された地上で、祝福となる永遠を生きることにある。そして、私たちの地上での生涯には、大切な意味がある。それは、永遠の労働と関係がある。
C・S・ルイスはその著書の中でこう言っている。「私たちの地上での仕事は、小さな子供が子馬を与えられたようなものである。」「神の国の馬屋には、鼻息の荒い競走馬が待っている。その馬を乗りこなすために、地上では子馬を乗りこなさなければならないのである。」
地上での仕事に、真面目に、勤勉に取り組み、神様に仕え、人に仕えながら生きるなら、新天新地において、都の管理者として生きる時に活かされてくるのである
「この書の預言のことば」という言葉が7,10,18,19節に繰り返し書かれている。
パトモス島で、囚われの身であるヨハネが、愛する教会に送った手紙である「黙示録」は、今、迫害や患難の中に置かれている教会を、神様が必ず保護して下さる。勤勉で、霊に燃え、証しを続け、殉教も恐れず生きよ!との励ましの手紙であると共に、私たちに永遠の視点、旧新訳の視点を一貫して語り続けている書物である。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev22
7/07a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 21_1-27
「また、私は新しい天と新しい地を見た」( 再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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この黙示録講解説教シリーズは、下記の研究資料情報サイトに書き記しているように2009年度に取り組んだものである。この年には、わたしの母校や所属団体に「ディスペンセーション主義聖書解釈、教会論、終末論」を唱導される先生が関与してこられた年であった。多くの先生方はそれを歓迎されたが、わたしはエリクソンやラッドの著作集から、その問題点を明確に認識していたので、数多くの警鐘メールを送らせていただいた。またYouTubeの『ディスペンセーション主義問題三部作』にあるように、精力的に講演や講義を重ねて行った。その延長として、これまでにハル・リンゼイ著『地球最後の日』やティム・ラヘイ共著『レフト・ビハインド』等の小説まがいの黙示録理解の影響を受けておられる先生方に、ラッドや岡山英雄によるスタンダードな黙示録理解を提示しておくことが必要と思った。それで、ひとつのサンプルとして一章ずつ講解説教に取り組んでいった。少し古いものであるが、メッセージは普遍的と思う。昨年末に音声録音から書き起こし要約してくれた家内に感謝したい。
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【黙示録21章】
この章は、「新しい天と地の章」である。
旧約聖書の1番最初に、「はじめに神は天と地を創造された」とある。そして、新約聖書の終わりに、「新しい天と地とを見た」とある。
神様は天地万物を造られた。そして、その中の生き物も、すべて造られた。神様は創造者であられる。しかし、人類を代表するアダムとエバは、エデンの園において、全人類を代表して罪を犯した。彼らの罪によって、地は汚されてしまった。そして、創造物として造られた人間も、滅びる者となってしまった。
しかし、神は人間を憐れみ、聖書の中にメシアの預言を書かせ、約束の御子を地上に送り、十字架の御業を通して、人間を贖い出して下さった。
人類の歴史に罪が入った事によって、人間だけでなく、被造物全体がうめいており、贖われる日を待っている。聖書には、私たち人間が救われて、身体が贖われ、天国に入れるという事だけでなく、被造物自体も全く新しくされると書かれているのである。
一般的に、今の世界は滅ぼされて、私たちは天国という異次元に行き、霊的な状態で過ごすのだというイメージがあるが、聖書では、私たちが死ぬと今の肉体は滅ぶが、魂は直ちに天に迎え入れられる。これを中間状態と言い、魂は裸の状態で天国にあるのだが、まだ完成ではない。
裸の魂は、やがて栄光の身体を着せられるという段階が待っている。そこから教えられる事は、聖書においては、霊的な事だけでなく、物質的な事もまた、重要なものなのであるという事である。
そして、この世界も滅んでしまって消え失せてしまうのではなく、被造物世界もまるで、衣替えするかのように、新しい天と地にリニューアルされるのである。
ギリシャ哲学を経て中世では、人間の魂は地上を去って、精神的な天国へ行くと考えられていた。「物質的なものは悪であるが、精神的な物は善である」という「二元論」の考え方である。しかし、聖書は、「一元論」である。人間の堕落によって、世界も堕落したが、新しい天と地として贖われた世界が舞台となり、その世界は永遠なのである。そして、永遠の身体を着せられた人間は、その世界で生かされる。神が新しく創造される世界は物質的な世界であり、神の栄光の世界なのである。
19:6,7で、クリスチャンと教会が、キリストの花嫁として描かれていたが、21:2には、「聖なる都、新しいエルサレム」が、同じような類比で、花嫁のように表現されている。贖われたクリスチャンたちは、「神の都」という新しい地で住む。この「聖なる都、新しいエルサレム」は千年王国で来ると考える人たちもいるが、私はそうは考えない。
21:11,12 ここには新しいエルサレムの描写がある。この都には神の栄光が満ち満ちている。
城壁の都市であり、朝夕門が開閉される。神の永遠の都では、イスラエルの役割が、功績として門にその名が刻まれる。旧約聖書における「真の神の民」で本当の信仰を持っていた者たちである。
21:14
また、都の城壁の土台石には、イエスの十字架の御業を解き明かし、全人類が救われるための功績のある、12弟子の名前が刻まれる。
21:16
都の長さや幅を表す1万2千スタディオンとは2,220kmとなり、エルサレムからローマに至る距離である。この通りの距離という事ではなく、神の都の完全性を象徴していると思われる。
21:19~21
アカデミー賞で、映画俳優たちが赤絨毯の上を歩くように、天国で私たちが歩く都は、非常に華やかで、大通りは透き通ったガラスの様な純金で出来ている。神様の素晴らしさと栄光を象徴している。
私たちはすでに、御霊を内に宿し、聖霊の臨在の中で生活しているが、それが全面的に展開する世界、そんな世界に私たちは迎え入れられる。
21:22,23
ディスペンセーション主義聖書解釈では、旧約聖書に基づいて、神殿やいけにえやいろんな物が復活すると考えられているが、「この都の中に神殿を見なかった。」と書かれている。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev21
7/06a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
20_1-15 「神の民は一千年間、キリストとともに支配する」( 再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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「レストレーション運動の分析と評価」特別セミナーの準備・当日・フォローの記述・掲載のために、一時休止していた「新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ」の残りを紹介しておきたい。ラッド、岡山、ボウカムの著作により、ヨハネが黙示録を通して語りかけているメッセージをクリヤーに理解できるようになった。そして、それらをいろんなかたちで分かち合っていくうちに、多くの先生方から「わたしも、先生に習って黙示録の講解説教を始めました」と聞くようになった。最近分かち合っているエペソ書講解シリーズでも同様の効果がみられるように思っている。現在取り組んでいる「ラッド著『若き教会―使徒行伝』の邦訳」と今後取り組むかもしれない「使徒行伝講解説教シリーズ」[The
Message of Acts: With Study Guide: To the Ends of the Earth
(The Bible Speaks
Today)J.R.W.Stoot参照]を通しても良い影響を与えることができたらと願っている。ストットからは「神の言葉を預かり、その本質を洞察・抽出し、今日の必要という文脈の中に“コンテクスチュアル”なかたちに受肉して新鮮に語りかける」わざを「弟子が刀匠から学ぶ」ように教えられている。
レストレーション運動においては、使徒・預言者職の回復(レストレーション)や預言の回復(レストレーション)がうたわれたり、現代における預言運動・預言集会も盛んに喧伝されているように思う。わたしは、ここに大きな問題とともに、隠された挑戦も秘められているように思うのである。牧田吉和氏の文献『改革派教義学』「第一巻
序論」から引用するかたちでセミナー資料の中にも記させていただいたように、聖書の「啓示・霊感・照明」論の有機的連関性の挑戦であり、「聖霊の時代に属する聖書」という視点、つまり「聖霊論的視点からの聖書を捉えなおす」必要性の認識と取り組みである。これは私たちが毎週の講壇で取り組んでいることであるが、さらに神学的かつ自覚的にこのことに焦点をあてて取り組むことが求められているように思うのである。わたしたちは風があるからと凧を手元に安全に保持するだけの者であってはいけない。糸をコントロールせずに空高くあげてはいけない。ときに糸が切れ、あるいは凧は墜落し大きな破損をこうむるだろう。しっかりした糸をピーンと張り、コントロールしつつ、風を利用し空高くあげるべきなのである。
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【「レストレーション運動の分析・評価」講演資料】
http://aguro.jp.net/d/ici/20170616_jhs_An_Analysis_and_Evaluation_of_the_Restoration-Movement_Paper_all.pdf
【「ローザンヌ誓約・第二項 聖書の権威と力」の注釈】
他方、この「聖書の使信」の不可変性は、死せる、無表情の、無味乾燥な画一性のことではない。聖霊はみことばの記者たちの個性と文化を用い、その一人一人を通して事柄を新鮮かつ適切に伝達されたように、今日においても『ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明する』。
私たちの心の目を開かれるのは、この御霊ご自身であり、…すべてが、その恵みの対象なのである。聖霊が聖書を通して『神の多種多様な知恵』を明らかにされるのは、まさにこの『人類という壮大ないりくんだモザイク』(ドナルド・マクギャブランの言葉)に対してである。
このように『全教会』は、神の啓示全体を、そのすべての美しさと豊かさとともに受け取ることを求められるのである。
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【黙示録20章】
19章はイエス・キリストの再臨、20章は千年王国、21章は新天新地について書かれている。
終末については、いろいろな考え方があるが、ディスペンセーション主義聖書解釈でもなく、旧約聖書のイスラエルは、教会に置き換えられたのだとする改革派教会の「置換神学」でもない中間の考え方をしたいと思う。
それは、イスラエルにも役割を見つつ、クリスチャンたち異邦人も含めての者が一つとなって、千年王国をキリストと共に支配するという、穏健で中庸な考え方である。
極端な考え方をせず、キリストの弟子たちが持っていた、バランスの取れた教えを身につけるべきである。
20:1~3
患難時代が終わり、キリストが再臨されて、にせ預言者、獣、サタンの代理のような者たちは、硫黄の池に生きたまま投げ込まれた。
キリストが再臨されて、天に携挙されたクリスチャンたちは、千年の間、再び地上に降りてきて、キリストと共に支配する。この千年という長さは、完全数10の3乗であるが、本当に千年なのかは定かではない。
20:4
1世紀の教会は、ローマ帝国下で迫害に遭い、多くの者たちが殉教していった。日本においても、秀吉の頃の安土桃山時代、徳川時代などキリシタンたちは迫害を受けた。中でも有名なのは「高山右近」である。
キリシタン大名であった高山右近は、キリスト教信仰を捨てれば、立場は安泰であったが、それを拒み、すべてを捨てて、国外追放となりフィリピンの地で熱病により亡くなった。
歴史の時代に翻弄され、イエス・キリストの信仰の故に殺されていった人々も、キリストの復活にあずかるのである。
今の地上での生活にも戦いがある。お金持ちだから成功するわけではない。キリストを救い主と信じて亡くなった者が、キリストが再び来られた時に、生き帰らされて共に世を治める者とされるのである。
地上では報いが少ないが、最後にはキリストと共に生きた者が、最終的な勝利者となるのである。
20:7~9
千年の終わりには、サタンが牢から解き放たれ、ゴグとマゴグの戦いが起こる。そして、天から火が降ってきて、彼らは焼き尽くされ、サタンも最終的には滅ぼされてしまう。
20:10 キリストの再臨の時に、にせ預言者や獣たちが投げ込まれた池に、サタンも投げ込まれてさばきを受ける。
ディスペンセーション主義聖書解釈をする人たちは、この千年王国がイスラエルの人々にとって、特別な時であると考える。旧約聖書から新約聖書、黙示録を理解しようとして、旧約聖書におけるイスラエルに対する預言は、この千年王国において成就するのだと考えるのである。
千年王国について書かれているこの20章に、イスラエルに何かが起こるとは何一つ書かれていない。また、ローマ書9~11章にも、千年王国の事について書かれているが、イスラエルについては一言も書かれていない。
新約聖書は、旧約聖書を弟子たちが、イエス・キリストの十字架の御業を通して再解釈して書いている。イスラエル民族を特別に見る見方ではなしに、イエス・キリストを信じる者は、イスラエル民族であろうとなかろうと、すべてクリスチャンであり、一つの神の民であって、終末期に訪れる千年王国は、キリストとすべてのクリスチャンである神の民が、キリストと共に支配する世界であるという事である。
神の民は普遍的な神の民である。終末期においては、その時代に生きている神の民が大患難時代を通され、後に来る千年王国も普遍的な神の民がこの世界を支配し、後に来る新天新地を迎えるのである。
終末期の世界は、すべての民族が和解して、キリストが支配する世界へと移行して行くのである。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev20
ICIインフォメーション・メール
20170705号 【「レストレーション運動の分析・評価」シリーズ / 再生リスト集】&
ジョージ・E・ラッド著『若き教会―使徒行伝』等の紹介
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olopnFOqt0RGf-mN-7ZxY3N
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主の御名を崇めます。
先月、「レストレーション運動の分析・評価」セミナーにお招きを受け、その講演と諸事例に対する質疑と応答等の時を持たせていただいた。20世紀ペンテコステ運動における「レストレーション運動」は、Alan
Anderson,”An Introduction to
Pentecostalism”の定義から、健全な福音主義神学に根差そうとした“Cold”Pentecostalismに対するアズサ通りのリバイバルの回復(レストレーション)を目指した熱狂主義的“Hot”Pentecostalismの総称と定義することができるのではないかと思う。そして、このレストレーション運動にはさまざまな教えや運動が合流しており、もはや一枚岩で理解することはできない。それゆえ“単数形”で呼ぶことはできず“複数形”で“Hot”Pentecostalisms
と呼ぶことがふさわしいと思われる。
この状況は、「レストレーション運動の分析・評価」するときに、レストレーション運動全体が共通して内包する本質的な問題「糸(啓示・霊感・照明)と凧(霊的経験)の関係」に光をあてる必要を示している。また、「諸事例に対する質疑と応答」においては、その本質的病巣(啓示からの逸脱傾向)に発する―諸々の病状(糸の切れ方とそれに伴う凧の結果)を扱うことを意味している。
セミナー奉仕で数多くの質疑を受け、気づかされたことがひとつあった。それは、【シカゴ・コール「序」「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ】にあるポイントである。その<前文>には、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。われわれは、教会における福音主義の復興をとおして神の祝福が与えられていることを感謝している。しかしながらそのような成長期にこそ、またわれわれの弱点について一層敏感であることが必要である。現代の福音派は、歴史的キリスト教信仰を縮小変形させているために、自らの十分な成熟の達成を妨げられている。」とあり、<歴史的ルーツと連続性への呼びかけ>が以下のようになされている。「われわれは、聖書と聖霊さえあれば過去とは無関係であると性急に思い込むことによって、われわれのキリスト教的遺産の豊かさをしばしば見失ってきたことを告白する。その結果、われわれは神学的に皮相なものとなり、霊的には虚弱となり、他の者たちの間でなされている神のみわざには盲目となり、われわれをとりまく文化と安易に結託してしまった。」
わたしは、レストレーション運動に関わる諸教会が「聖書の啓示からの逸脱が疑われる」新奇な運動や教えに翻弄されるのは、やはり「その福音理解における基本的な体力」が虚弱であるところにひとつの原因があるように思わせられている。「体力のない人には抵抗力がなく、さまざまなウイルスに感染しやすい」のと同様である。この治療には、バランスのとれた栄養食が必要であり、ラッドの著作集は大きな助けになるものと思う。
またセミナーの質疑でもあったように、ペンテコステ系のレストレーション運動にとどまらず、日本の福音派系諸教会が内包しており、その克服と治療がなされなければならない病のひとつとして、「旧約と新約」の関係理解、「イスラエルと教会」の関係理解が挙げられると思う。聖書は「魚」に、聖書解釈法は「包丁」にたとえられる。「曲がった包丁で切ると、どこを切っても曲がって切れる」といわれる。わたしは、日本の教会において克服されなければならない「最も基本的な課題」のひとつとして、「曲がった包丁を真っすぐに打ち直す」ということがあると思わせられている。
この課題への取り組みとして、すでにラッド著『終末論』(いのちのことば社)を翻訳し、拙著『福音主義イスラエル論』(Amazon,
Kindle)を刊行させていただいた。わたしは次の取り組みとして下記の著書の翻訳に取り組んでいる。イスラエル民族に約束された約束が、キリスト教会に取って代わられたとする「置換神学」を批判し、「神の二つの民、神の二つの計画」を主張する人々がおられるが、それは使徒たちの聖書解釈と異なる解釈である。使徒行伝においてもこのことは明らかである。ラッドの使徒行伝の健全な解釈からは、その移行期を記した歴史家であり神学者でもあった、パウロの同労者医者ルカが「神のひとつの民、神のひとつの計画」をどのように描写しているのかを心底から納得させられるかたちで教えられる。そのラッド著『若き教会―使徒行伝』はそのような信徒向きの良書である。
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【『若き教会―使徒行伝』ジョージ・E・ラッド著】紹介
第一章 「使徒行伝」の目的―その歴史的方法、パウロの運動、ルカの歴史的精緻、目的をもった歴史、ユダヤ的希望の変貌
第二章
「使徒行伝」の計画―教会の始まり、エルサレムにおける教会、離散によるパレスチナの教会の伸張、アジアとヨーロッパにおける教会の伸展、ローマへの教会の延伸
第三章
「使徒行伝」の意味―歴史と「終末」、全人類のための神の国、宣べ伝えられた復活、すべての人がよみがえらされる、メシヤであり主であるイエス、開始された新時代、このイエスこそが「主」である
第四章 教会の本質―新しいイスラエル、本質的にひとつである教会、克服された民族的な偏見、交わりの様態
第五章
教会の生活―簡素な交わり、「祝福」の分かち合い、「パン裂き」
第六章
教会とイスラエルーイスラエルの置換、代替えされたユダヤ人の礼拝、「神の民」としての異邦人、パウロのミニストリー、ルカの方法、教会におけるセクト
第七章 教会とローマーパウロと統治者、ユダヤ教の変形、ローマにおける不利ではない審判
第八章
その本の力―新約聖書のパターン、現代的再生ではなく、「ひとつ」の教会、神の宣教、「使徒たちの教理」、二つの世界の人々、証のための宣教、「来るべき世」の教会
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【関連ビデオ―ディスペンセーション主義問題三部作】再生リスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0onI8Nvrb7t9_Qw4B_4NmDW_
2017年07月02日
新約聖書エペソ人への手紙05:21-24(MP3
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YouTube)「妻たちよ。夫に従いなさい―夫のケアへの感謝の応答として」
今朝も、いつものように「エペソ書講解」の流れを復習しつつ、エペソ5:21-24を開きたいと思います。五章の後半の鍵の聖句として、5:21をみることができると思います。5:21には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」とあります。前半は「キリストを恐れ尊んで」てあり、後半は「互いに従いなさい」です。この構造のあり方が、クリスチャン生活の基本であり、わたしたちの福音理解の基本であると思います。
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エペソ書の構造も同様です。1-3章は、この視点からいえば、「キリストを恐れ尊んで」―つまり神を畏怖し、キリストを崇敬することが基本的にあります。そして4-6章は、垂直軸のそのような崇敬から流れるスビリットに根差して「お互いに従いあう」ことを教えているのです。垂直に降り注ぐスピリットと、それが水平に流れる生活との構造を、5:22-24に見てまいりましょう。
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V.22
「妻たちよ、夫に従いなさい」とあります。ここには、二つの理由(Tコリ11:3-12、Tテモ2:11-13、創2:21-28)
が示されています。ここで教えられることは、「男性の首位性」は、創造に根差しているということです。聖書の啓示から、今日の経験に目を転じると、男らしさ、女性らしさは、肉体的にとともに、心理的にも相違がみられます。ただ、相違性を認めつつ、聖書の光は「ガラ
3:28
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と両性の同等性と相互補完性を認めています。
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両性の相互補完性とは何でしょうか。人類学また心理学的にいえば、父権性、男性の達成意欲、男性支配性は―普遍的にみられます。それは、男性、女性の肉体において分泌されるホルモン等の関係もあります。人類学的、心理学的相違性を、パウロは創造の光のもとで神学的に再構成・再陳述しています。しかし,服従を隷属へとはおとしめてはいません。かえって、聖書的意味の文脈の中に、再配置し一貫した意味を持たせることに腐心しているのです。
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ウィリアム・バークレーは当時の女性観について、ユダヤ人は、女性を低くみていた。毎朝の祈りは「神がわたしを異邦人、奴隷、そして女性にお造りにならなかったことを感謝します」であったと。ギリシャ人は、女性をさらに悪く扱っていた。家事や育児に忙しく働く牛や馬のような存在にすぎなかったと。ローマ人の間では、不倫がはびこり、結婚生活に破たんがみられたと。そのような社会の中において、パウロは、福音が垂直に「天からの雨」のように、その雨水が次に水平に、社会に、家庭に、夫婦に「田畑に流れ込み」それらを潤すことを期待しました。そのような意味で、パウロは「首位性と従順」関係をキリストとの関係のあり方の反映としてみつめているのです。ここに果実や稲麦の発育・成長・成熟(エペソ4:15-16)が可能とされる世界があるのです。
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妻に対する夫の首位性は、キリストの教会に対する首位性に似ています。妻の従順は、規則として、またルールとしての命令ではありません。妻の従順は、夫のケア(世話、配慮)に対する感謝の応答なのです。パウロは、キリストと教会との関係でみられるように、妻の夫に対する従順の中に―自発的で、自由で、喜びに満ちたパートナーシップをみているのです。つまり、夫の首位性は、キリストの首位性を鏡のように反映させているものであるので、夫の愛による保護と備えへの従順は、女性らしさを失わせるものではなく、かえって積極的にそれを豊かに養うものなのです。(務記)
安黒務『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”H―
新約聖書エペソ5:01-21「愛されている子どもらしく、歩みなさい―四つのインセンティブ」を再生リストに追加しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh
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【2017年06月25日 高槻福音自由教会礼拝メッセージ要約】
エペソ書は、神がキリストのみわざを通してなしてくださったこと、そして今日聖霊がなしておられることに焦点を当てている。1-3章は「新しいいのち、新しい社会」、4-6章は「新しい基準、新しい関係」について書かれている。使徒は4章で、「新しい社会」に属しているゆえに「新しい基準」に生かされていると教えた。そしてさらに5章で聖潔への励まし―⑴厳粛なる審判の存在(5-7)、⑵光の実への呼びかけ(8-14)、⑶知恵を生かした生活(15-17)、⑷御霊の満たしの本質(18-21)―を書き添えている。優れた雇用主は従業員からインセンティブ(やる気、動機付け)を引き出すという。パウロは新しい社会で新しい基準に生きる「ベストのインセンティブ」を引き出そうとしている。
*
【次回の安黒務―奉仕予定日】
・礼拝:2017年7月23日 午前10:00より
・信徒セミナー:12:30-14:00は、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』からの歴史編の学びを終え、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版『キリスト教教理入門』”Introducing
Christian Doctrine”3rd
Editiont(近刊予定)の抜粋・拾い読みによる教理篇の学びに入っています。10回目は「罪論―罪の本質と根源、罪の結果、罪の重大さ」について学びます。
・高槻福音自由教会(http://www.takatsukiefc.com/)
2017年06月25日
新約聖書エペソ人への手紙05:20-21(MP3
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YouTube)「キリストを恐れ尊んで―規範としての主イエス・キリスト」
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エペソ 5:18~21 には「聖霊の満たし」について書かれている。
エペソ 1:13
では私たちが御霊を内住させているということは、神様の所有であるという「証印」が押されているということである。
エペソ
4:30 には、人格を持っておられる聖霊を、悲しませてはいけないということが書かれている。
そして、今日の箇所では、人生を生きる最大の「秘訣」それは、「聖霊に満たされること」である、ということを学びたい。
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5:20
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
「感謝しなさい」という言葉は、5:4bにも出て来る。「感謝」の反対は「不平不満」である。それは、旧約の神の民「イスラエル」の特徴でもあった。彼らの不平不満は、40年にわたる荒野での旅路の間中、食べ物、飲み物に始まり、あらゆることの中に「不平不満」が溢れていた。
また、異邦人の生活は「偶像礼拝」に始まり、不品行、汚れた言葉で溢れていた。
私たち自身は、イスラエルの民や異邦人と同じ罪人であるが、「十字架の力」が私たちの内に働き、「肉性」「古き人」を取り扱ってくれる。
そのため、パウロは「感謝」に溢れた生活をしなさいと勧めているのであり、5章の前半は「感謝しなさい」という言葉でサンドイッチのように挟まれているのである。
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パウロは「いつでも、すべてのことについて」と言っている。字義通りに取れば、無制限に何でもかんでも感謝すべきだと捉える人もいるかもしれない。しかし、ここには制限がある。「主イエス・キリストの名によって」である。ここに制限があり規範がある。
「キリストの名によって」ということは、キリストの人格と品性において、またキリストの十字架の死、葬り、復活を規範的原理として、という意味合いがある。
だから、「暴飲暴食」をして感謝とか、「不品行や汚れに満ちて」感謝すべきではない。また、「飲酒酩酊状態」になって、賛美に溢れてはいけないのである。
「主イエス・キリストの名によって」きちんと生活をした上で「感謝」するべきなのである。
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5:21 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
「御霊に満たされなさい。」は「命令形」である。
時々、御霊に満たされたと自称する人が、攻撃的で上から目線であるのを見かける。しかし、聖霊は鳩のようなお方で、謙遜、柔和で優しいお方である。神である三位のお方が、お互いに尊敬し従いあっておられるということである。
教会でも夫婦の間でも、最も大切なのは互いに尊敬し従うということである。そのようなスピリットは何処から来るのだろうか?それは、キリストを恐れ尊ぶところから発生するものである。
私たちは自然にしている限り、罪の性質を帯びている。それは自己中心であり、他の人を自分より低く見ようとする姿である。しかし、キリストはご自分を無にして、十字架にかかられた。だから、私たちは畏敬の念をもつて、彼を礼拝する。キリストの品性と人格を恐れ尊ぶことにより、私たちは十字架の原理原則、規範にそって感謝し、聖霊に満たされることが出来るのである。(仁美記)
6/22a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】Video紹介C Q & A 1/7 【Q3:
福音主義キリスト教の危機的転換点のマクロ的視点について、Q4:
教派・教会における三つの要素(聖書的・神学的要素、歴史的要素、社会的・文化的要素)について等の質疑と応答レクチャー】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
【Q1:
レストレーション運動の起源、また唱道者について、Q2: Hotへの回復とColdへの回復の二面性について、Q3:
福音主義キリスト教の危機的転換点のマクロ的視点について、Q4:
教派・教会における三つの要素(聖書的・神学的要素、歴史的要素、社会的・文化的要素)について等の質疑と応答レクチャー】
約1時間の基調講演が終わり、後は質疑に対して応答しながらレクチャーするかたちで展開していった。参加者の大半がきよめ派等、保守的な福音派からの先生が多かったので、レストレーション運動との関わりで派生する諸問題は喫緊の課題とは受けとめられなかったかもしれない(現段階では、ペンテコステ・カリスマ派内部、またその周辺における問題?)。しかし、このテーマで扱った「基本原則は普遍的な内容をもつ」ものであったので、その原則を自分たちの必要の文脈の中に“コンテクスチュアライズ(文脈化)”しようとさまざまな角度から熱心かつ有意義な質疑がなされた。
第三ビデオの終わりから第四ビデオでは、Q1: レストレーション運動の起源、また唱道者について、Q2:
Hotへの回復とColdへの回復の二面性について、Q3: 福音主義キリスト教の危機的転換点のマクロ的視点について、Q4:
教派・教会における三つの要素(聖書的・神学的要素、歴史的要素、社会的・文化的要素)について等の質疑があり、それらへの応答レクチャーが収録されている。
M.J.エリクソンは『キリスト教神学』の序文に、今日の特徴を「一般のレベルでは、深い思索を離れ宗教経験に向かう傾向があり、神学の未来にとって見通しは明るいとは言えない。にも関わらず、キリスト教信仰が競合する諸宗教や無宗教的イデオロギーからの脅威にさらされていることは、本書『キリスト教神学』の初版が書かれた時点に比べ、緻密な神学的考察と確認が、なお一層重要になっていることを意味している」と記している。
なお、Q3とQ4については、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』をテキストにした一年間の『福音主義神学』講義ビデオ(YouTube)や、この学びを所属団体のバランスのとれた「ルーツとアイデンティテイ」描写に取り組んだ『福音主義キリスト教の源流と歴史的遺産―シカゴ・コールへのひとつのレスポンスとして』(Amazon
Kindle)等で、その具体的な取り組みをしたものがある。シカゴ・コールの呼びかけに応えるかたちで、それぞれの所属教派・教会において、バランスのとれた「ルーツとアイデンティテイ」の確立していかれる際に参考にしていただきたい。
+
【『福音主義神学』講義ビデオ】シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=mQ24yky6-8w&t=56s&list=PLClE1DIlx0onBrT8jJ77DZOexCBmxJpZU&index=7
20170621号【ICIインフォメーション・メール:
レストレーション運動の分析・評価セミナーの「ビデオ&講演資料」紹介】
空梅雨といわれていましたが、ついに雨が送られてきました。
さて、先週開催されました「レストレーション運動の分析と評価」セミナーは、各地から多くの先生方が集まってくださり、大変祝福されました。前半の基調講演に続き、後半は「質疑と応答」スタイルの中で準備原稿等を分かち合いました。
今回のテーマで「レストレーション運動」を扱っています。その運動の輪郭をおさえつつ、この運動が提起している「本質的な問題」に焦点をあてています。
それは、「啓示論・霊感論・照明論」の有機的連関性の問題です。糸と凧の関係においてみられるように、糸が切れると凧は風に翻弄されてしまいます。レストレーション運動の問題の本質は、糸(聖書)と凧(霊的経験)の関係にあります。この聖書と霊的経験の関係を神学的に掘り下げた資料として、牧田吉和著『改革派教義学1』より、「バーフィンクの聖書論」を参考にしています。
キリストにある啓示の一回性が、聖書において文書化され、その一回性が聖霊における連続性の中で「構造と本質」を保持する規範となっていること―このことを「照明論」の中で徹底的に掘り下げることがチャレンジされているように思わせられています。
後半は、質疑中心となっておりますが、最初の「問題設定―定義と分析・評価の基準」において語り、個々の質疑において繰り返したことは以上の事柄です。その抜粋・引用を講演ノートの中に記しています。これらの講演に解説・関連資料を加えつつ「ポスト・
セミナー」レクチャーとして、漸次紹介しています。関心のある方はご視聴ください。
【レストレーション運動の分析・評価】セミナー紹介
ICIフェイスブック:https://www.facebook.com/tsutomu.aguro
YouTube :
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
講演準備ノート:
pdf
⑴ 準備note-001
⑵ 準備note-002
⑶ 準備note-003
⑷ 準備note-004
⑸ 準備note-005 「宗教の神学の座標軸―オウム事件に関連して」
⑹ 準備note-006
「宗教の神学の座標軸―キリスト教シオニズムの分析と評価への応用例」
⑺ 準備note-007
「ひとつの焦点としての『ダビデの幕屋の回復(Restoration of the Tabanacle of David)』」
⑻ 準備note-008
「教会論の鳥瞰図と争点のひとつとしてのディスペンセーション主義聖書解釈に基づく教会論』」
⑼ 準備note-009 「狭義のレストレーション運動の定義」
⑽ 【キリスト教における三つの流れの特徴―儀式、神学、経験】
⑾
【北米の初期のペンテコステ主義の本質を示す四つの用語―フル・ゴスペル、後の雨、使徒的信仰、ペンテコステ】
⑿
【経験に対する強調、’それは認識論的なパッケージ(つまり「福音理解それ自身」)を粉砕してしまうほど全面的’】
⒀ Video紹介@ What ?―【レストレーション運動の定義】
⒁ Video紹介A How ? ―分析と評価の基準 ⑴
【ローザンヌ誓約・第二項 聖書の権威と力】
⒂ Video紹介B How
? ―分析と評価の基準 ⑵ 【シカゴ・コール「序」・「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ】
6/20a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】Video紹介B How ? ―分析と評価の基準 ⑵シカゴ・コール
& note-015
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
How ?
―研究対象の「定義」を終えた今、その研究対象の「分析と評価」の基準を、「ローザンヌ誓約・第二項
聖書の権威と力」とシカゴ・コール「序」「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ」におきたい。次に、シカゴ・コールをみよう。
+
【シカゴ・コール「序」「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ】
<前文>
「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。われわれは、教会における福音主義の復興をとおして神の祝福が与えられていることを感謝している。しかしながらそのような成長期にこそ、またわれわれの弱点について一層敏感であることが必要である。現代の福音派は、歴史的キリスト教信仰を縮小変形させているために、自らの十分な成熟の達成を妨げられている。」
+
<歴史的ルーツと連続性への呼びかけ>
「われわれは、聖書と聖霊さえあれば過去とは無関係であると性急に思い込むことによって、われわれのキリスト教的遺産の豊かさをしばしば見失ってきたことを告白する。その結果、われわれは神学的に皮相なものとなり、霊的には虚弱となり、他の者たちの間でなされている神のみわざには盲目となり、われわれをとりまく文化と安易に結託してしまった。」
+
これがために、われわれのキリスト教的遺産の回復を要請する。教会の歴史において、キリスト教の絶大な救いの恵みを宣べ伝え、聖書に従って教会を改革しようとする福音主義的な衝動が絶えず存在していた。この衝動は、公教会的な諸会議が明らかにした教理、古代教父たちの敬虔、アウグスティヌス的恩恵の神学、修道院改革者たちの熱心、実践神秘主義者たちの献身、クリスチャン人文学者たちの学問的な誠実さの中に表れた。さらに、プロテスタント宗教改革者たちの聖書への忠誠と宗教改革急進派の倫理的熱心の中で花を咲かせ、宗教改革を完成させようとしたピューリタンと敬虔主義者たちの努力のうちに引き継がれた。それはまた、18,9世紀の信仰覚醒運動の中に表された。これらの覚醒運動はルター派、改革派、ウェスレー派およびその他の福音的諸派を、教会の刷新と、福音の告知と社会実践による宣教の拡大、という全教会的なわざにおいて一致団結せしめた。
+
この衝動は、キリスト教史のどの時点においても、福音が聖霊の働きによって説き明かされるときにはいつでも存在していた。たとえば、ギリシャ正教会とローマ・カトリシズムの中にも、またわれわれと異なる形態をとるプロテスタント諸派内部における聖書的洞察のあるものの中にも存在している。
+
われわれは聖書が示している福音の枠を越えようとは思っていない。しかし、われわれは、福音の全体的意味に関して、他の時代や、他のもろもろの運動から学び取る必要を認識しないでは、十全な意味で福音主義的であるということはできない。
+
[参考文献]
『シカゴ・コール』“The
Chicago Call ― An Appeal to
Evangelicals”は、1977年に、教派的背景を異にする福音派の指導者たちと、大学、神学校関係者たちとによる研究会議が開かれ、その際40名の署名をもって公表されたアピールである。詳しい解説は、
Robert Weber, Common Roots, Zondervan
等にある。宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』いのちのことば社も、この『シカゴ・コール』へのひとつのレスポンスでもある。
6/19a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】Video紹介A How ? ―分析と評価の基準 &
note-014
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
How ?
―研究対象の「定義」を終えた今、その研究対象の「分析と評価」の基準を、「ローザンヌ誓約・第二項
聖書の権威と力」とシカゴ・コール「序」「歴史的ルーツと連続性への呼びかけ」におきたい。まず、ローザンヌ誓約からみていくことにしよう。
+
【ローザンヌ誓約・第二項 聖書の権威と力】
「私たちは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書き記された神のことばであり、それが確証するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを確認する。
…聖書の使信は人類全体にむけて語られているものである。キリストと聖書による神の啓示は変ることがない。それを通して聖霊は今なお語っておられる。聖霊はご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明し、そのようにして神の多種多様な知恵を全教会に明らかにするのである。」
+
【「ローザンヌ誓約・第二項 聖書の権威と力」の注釈】
他方、この「聖書の使信」の不可変性は、死せる、無表情の、無味乾燥な画一性のことではない。聖霊はみことばの記者たちの個性と文化を用い、その一人一人を通して事柄を新鮮かつ適切に伝達されたように、今日においても『ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明する』。
私たちの心の目を開かれるのは、この御霊ご自身であり、…すべてが、その恵みの対象なのである。聖霊が聖書を通して『神の多種多様な知恵』を明らかにされるのは、まさにこの『人類という壮大ないりくんだモザイク』(ドナルド・マクギャブランの言葉)に対してである。
このように『全教会』は、神の啓示全体を、そのすべての美しさと豊かさとともに受け取ることを求められるのである。
+
【参考文献】
・ジョン・ストット著、宇田進訳『ローザンヌ誓約―解説と注釈』いのちのことば社
・G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』いのちのことば社
・安黒務著『福音主義イスラエル論―神学的・社会学的視点からの一考察』アマゾン書店
・宇田進論稿「神学入門」『新聖書辞典』いのちのことば社
+
※ローザンヌ誓約は、スイスのローザンヌで開催された1974年の第1回ローザンヌ世界宣教会議から生まれた。イギリスの牧師/神学者であるジョン・ストットが起草委員会委員長を務め、実質的にこの文書をまとめ上げた。ローザンヌ誓約は、福音派とは、何を信じ、どう行動するかについての最終的権威を聖書に置く者たちであると定義する。本誓約は、現代教会史上、最も広範に用いられている文書の1つである。
2017年06月18日
新約聖書エペソ人への手紙05:19(MP3
/
YouTube)「詩と賛美と霊の歌とをもって―小さな赤々と灯る可憐な花」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olAxmwS_HCcuMI4cb9FiUmt
+先週金曜日に、京都でレストレーションの諸問題についての講演をさせていただいた。
エリクソンは「組織神学の講義は、賛美を歌うように教えなさい!」と語っている。歌うように語り、質疑を受け、応答する。今回の集会は、まさにエリクソンが言い、私の願っている集会の形ではなかったかと感謝している。
今後は、ユーチューブで公開し、視聴者と共に語り合いながら、さらにこの問題を学んでいきたいと思っている。
5:19 「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
保守的な教派と聖霊派においては、多様性がある。ジェームズ・F・ホワイトの「プロテスタント教会の礼拝」という本には、初代、古代、中世を背景に、宗教改革が起こり、それは礼拝改革をも結実させたと書かれている。そして、そこからルター派、改革派、聖公会、メソジスト、クエーカー、リバイバリズム、ペンテコステ派等、様々な礼拝形式が生まれてきたことが書かれている。
今世界は多様な時代であり、国の文化や個性も伴って、1つの礼拝様式が絶対ではなくなっている。
イギリスのカリスマ運動の研究者であるJ. D. G.
ダンは、「酒に酔ってはいけません。・・・御霊に満たされなさい」を見て、この背景にはI コリ 11:21
が頭にあったのではないかと考える。「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば酔っている者もいるというしまつです」。教会での愛餐会において、お金持ちはご馳走を持ってきてはたらふく食べ、酒に酔っているのに、貧しい人たちには食べ物すら無い、まるで主の愛から外れているかの様であるというのである。
パウロも、全ての心から溢れる賛美を禁止しているわけではないが、しかし、お酒を飲んでその勢いで歌うようにではなく、御霊の衝動によって湧き上がる賛美をすすめている。
1人の人が御霊の迫りを受けて歌い始めると、周りの人々もハーモニーをもって歌い始める。イギリスのカリスマ的な教会で繰り広げられた、麗しい光景である。
霊の歌の中には、哀歌やヨブ記のような、怒りや嘆きという一面もある。人間の心情の吐露である。つまり、信仰は人間がその豊かな情緒を吐露するためのものとも言えるだろう。内容は上から来るメロディーや言葉であって、聖書から離れたものであってはならない。
心の中に御言葉の種が蒔かれて、それが成長し収穫されるように、自然と賛美が湧き上がって来る、若者たちが賛美の集会に集められ、信仰を表現し成長していくことは、その時代に何が必要なのかを私たちに教えてくれる。
しかし、ヘビメタのような激しい歌は、その音楽やリズムに酔いしれるのが目的となってしまい、霊の歌とは言えず、ケースによってはブレーキをかける必要があるだろう。
I コリ 14:15
「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」
詩と賛美と霊の歌とは何なのか?それは言葉を超えた歌である。ローマ8:26にあるように、「いいようもないうめき」である。ハンナも捧げた「言葉を超えた祈り」また、詩編の作者のような「魂を注ぎ出す祈り」である。
クリスチャンは義務として祈るのだろうか?そうではない。クリスチャンには生きている限り息をするように「祈りのチャンネル」が開かれている。
以前にもお話ししたことがあるが、ドイツの神学者ヴェスターマンがロシア戦線において、弾丸が頭上を飛び交う中ほふく前進していた時、目の前に小さな赤い花が可憐に咲きほこっていたのを見た。その瞬間、心の深みから湧き上がってきたのは、神への褒め称えの思い―「この赤々と灯るように咲いている小さな花は、この大きな戦争よりも偉大なのだ
!」であったという…。
クリスチャンはどんな状況においても、日々の闘いの中にあっても、「詩と賛美と霊の歌」が私たちの内から湧き上がって来るのである。(仁美記)
6/17a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】Video紹介@ & note-013
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
昨年末、年末までにエリクソン著『キリスト教教理入門』の翻訳・推敲の最終版を完成させようと取り組んでいる最中、昨年末、K先生より、案内にあるような内容―「レストレーション運動の分析と評価」というテーマで講演依頼のお電話を受けた。以前神学校でのシンポジウムや講義で扱ったテーマであったことと、もう少し本質的部分を掘り下げておきたい領域、つまり「啓示論と霊感論と照明論の有機的連関性」があったので、この奉仕を引き受けることにした。「自らをその研究への集中に追い込める」と考えた。そしてこれを今なすことがわたしの使命であると受けとめた。翻訳・推敲は二月末までかかったので、このテーマの掘り下げには三ヶ月半ほど時間を振り向けることができた。過去の関連研究や資料、参考文献とひたむきに取り組んだ。読むべき文献が書斎に溢れた。抜粋・コピー資料を分厚い数冊のファイルにまとめた。読み込み、反芻し、「解釈学的らせん」という階段をより深く、さらに深く下り、「レストレーション運動」に関して、何が「本質的な問い」として問われているのか―肯定面・否定面の両面のバランスをもち、できるだけ公平・中立のスタンスにたって「分析・評価」を試みようと心掛けた。このような「基本的考え方」とともに扱った「参考文献」等をも含め、この運動の分析・評価に関心のある人々すべてに益となるものを「ルツの落穂拾い」のようにその断片を拾い集めつつ、ビデオとともに紹介していきたい。
+
【導入】
さて、今回のテーマでいう「レストレーション運動とは一体どのような運動なのか?」、レストレーションとは、「回復」という意味である。キリスト教会には、「回復」を目指す運動は多々ある。そのような中で、今回は「レストレーション運動」を以下のように定義して、このテーマを扱いたい。
+
@What ?―【レストレーション運動の定義】
20世紀初期からの古典的ペンテコステ主義に代わる、中期からのペンテコステ派の中のレストレーション運動
(伝統的プロテスタント諸教派内におけるカリスマ運動とは異なる)。
古典的ペンテコステ主義は、”Oneness”ペンテコステ運動における分裂騒ぎもあり、福音主義的信仰へシフト、神学的な安定に入るとともに、熱狂主義は抑制され、それは次第に醒めていった。
このシフトに反発し、“Cold” Pentecostalism に対し、“Hot” Pentecostalism
の回復―”Restoration”、熱狂主義の回復を求めた、また求め続けている運動である。その中には、同じ傾向を宿す多種多様な運動や教えを包摂しつつ、さらなる展開を続けており、その全体像を把握することはとても困難である。今回は、主として、この分野の研究として最良の名著
Alan Anderson, An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity (2004, 2014),
Cambridgeを資料源として、「レストレーション運動」の輪郭と本質の把握に尽力している。G.E.ラッド、宇田進、M.J.エリクソン、牧田吉和の著作集から多くを学ぶ、福音主義にたつ神学教師として、講演内容には最善の努力を払ったが、問題や不備な点があればご教示いただければ幸いである。
6/14a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-012
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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【経験に対する強調、’それは認識論的なパッケージ(つまり「福音理解それ自身」)を粉砕してしまうほど全面的’】
+
ハーヴィ・コックスは、初期のペンテコステ主義の記録に特徴的な、多くの異なった恍惚的な経験(そのページから零れ落ちる’しるしと不思議’)を描写し、それらの御霊のバプテスマの諸経験はただ単に’入会の儀礼’なのではなく、’神秘的な出会い’であった。そしてそれらはすでに’歴史における全面的な新次元’に生きていると確信させるものであった。コックスは、ペンテコステ主義の本質は、’教義や教理’を通じて理解することはできない、神の経験を通してはじめて理解されるものである。つまり、’中心を支えている表現としての物語の神学は証しなのである’と語る。コックスは、経験に対するこの強調、’それは認識論的なパッケージを粉砕してしまうほど全面的’なものであると考えている。(Alan
Anderson, An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity (2004) p,61, Cambridge. Havey Cox,
Fire from Heaven – The Rise of the Pentecostal Spirituality
and the Reshaping of Religion in the 21st Century (1995) p,58,
68-71,, Da Capo Press)
2017年06月11日
新約聖書エペソ人への手紙05:18(MP3
/
YouTube)「御霊に満たされなさい―ディオニソスのようにではなく」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olAxmwS_HCcuMI4cb9FiUmt
+
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
今日のメッセージの主題は「御霊の満たし」である。
1:13
に「約束の聖霊をもって証印を押されました。」とある。家畜が持ち主を明らかにするため焼印を押されるように、私たちは内に御霊を宿すことによって神様の持ち物としての証印が押されていることになる。神様の所有となった私たちに「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(4:30)と言われているのである。私たちの内におられる聖霊は豊かな感情を持たれた方であり、悲しまれる方なのである。
+
世の人々は何のために生きているのか?と問われれば「学歴を積み重ね、豊かな富と社会的地位を手に入れるため」と答えるだろう。しかし、私たちクリスチャンは何のために生きるのか?それは、「御霊に満たされるため」である。それが人生の目標なのである。
「御霊に満たされる」と言うことは、「主が共におられる」と言うことである。エジプトのヨセフのように、そして結果として主の民である教会では「語り合い」「賛美し」「感謝し」「従い合う」ことになるのである。(5:19~21)
+
1 , 神学的に言えば、それはまず第1にクリスチャンの「義務」を表現している。
酒による酩酊を避けなさい、御霊の満たしを追い求めなさい、そうすれば、前に述べた4つの約束を得ることになるのである。
「聖霊の満たし」ということについて、20,21世紀では激しく論争されてきた。「聖霊の満たし」とは何なのか?パウロはここで「酒に酔うこと」とコントラストしているのである。
表面上、「酒に酔うこと」と「聖霊に満たされること」は、似ているのかもしれない。酒に酔うのはアルコールの支配下にあり、聖霊に満たされるのは聖霊の支配下にあるからである。
+
しかし、パウロは類似点を直ぐに終了し、相違点をあげている。
ギリシャ、ローマ時代には「ディオニソス」という豊穣、酒、酩酊をつかさどる神があった。その異教において、酒に酔うということは「霊感を得る手段」と考えられていた。
そして今、キリスト教会ではそうであってはならないにもかかわらず、酒に酔うように酩酊状態を求める集会が多くある。酒に酔うように、賛美に、祈りに、ダンスに、預言に、癒しに、奇跡に「酔う」傾向が見られる。
+
この酩酊状態というものは、宗教学上よくある状態である。学術的に見てもストレス発散にもなり、神様を求めているかのようであって、実は「酩酊状態」を追求する事が目標になってしまっており、ディオニソスの異教と何ら変わることはない。そのような中での霊感、しるし、不思議を体験するのである。
+
2 , パウロが言わんとしていることは、正反対の解釈である。
ガラテヤ書にある御霊の実を見てみると「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)
ここに「自制」とある。御霊の実としてあげられているのは、聖霊下においてセルフコントロールをするということである。
つまり、「聖霊に満たされる」ということは、主の御旨にかなった健全なセルフコントロール状態になるということである。
+
日本に招かれてくる有名な指導者の中には、浮気や姦淫、離婚、金銭欲にまみれた人もいる。その口から出るのは「富と繁栄の神学」である。どんなに沢山の人を集めても、どんなに派手なパフォーマンスをしても、またそのメッセージは、どんなに表面的にはキリスト教の用語に満ちていても、その集会は「ディオニソスの集会」と何ら変わりはない。アフリカやラテンアメリカなどで多くの人を集めていることを聞き、日本でも学ぼうとそうした指導者を呼び集会を持てば、間違った教え、間違った神学を取り込んでしまうことになるのである。
+
3 , 使徒行伝
2章に、ペンテコステの時、人々が異なった言葉で話すのを見て、「甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。しかし、彼らはセルフ・コントロール状態にあり、神様の御座から御霊が注がれたが故に、そう見えただけである。
+
4 ,
マルティン・ロイドジョーンズという有名な説教者がいる。彼は医師であり牧師でもあるが、「御霊による激励」と題してこの箇所にふれている。
「酒に酔う」とは、ワインやその他のアルコールによって、薬理学的に「酔う」つまり神経抑制効果が現れている状態であって、人間は自制、つまりセルフ・コントロールが麻痺した状態である。そのため、知恵、理解力、識別力、判断力、バランス感覚、すべての中枢神経が麻痺しているのである。
これに反して、「聖霊の満たし」によって得られるものは正反対のものである。つまり、薬理学的に言えば、「覚醒させるもの」であって、思い、心、知性がはっきりとして、正しい判断が出来るようになるのである。
+
「酒に酔う」ことの結果は「放蕩(アソーティア)ギ」であって、凶暴、放縦、獣のような己をコントロール出来ない愚かな状態である。
「御霊に満たされる」ということは、人間をさらに人間らしくし、ついにはキリストに似たものへと変えてくださる力を持っている。
このように、御言葉の表面だけをとらえるのではなく、パウロのメッセージの本質を学びたいものである。(仁美記)
+
※ディオニソスという異教―「ディオニソス(ディオニューソス・デオニュソス)」とは、ギリシャ神話における豊穣・酒・酩酊をつかさどる神のことで、その宗教では、酒に酔うことは「霊感を得る手段」としてみられていた。
6/10a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-011
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
【北米の初期のペンテコステ主義の本質を示す四つの用語―フル・ゴスペル、後の雨、使徒的信仰、ペンテコステ】
+
アラン・アンダーソンは、北米の初期のペンテコステ主義を評価して、以下のように要約している。
ウィリアム・フォーペルは、北米の初期のペンテコステ派で使用されており、初期のペンテコステ主義の本質を表現している、相互を関連づける四つの用語を明らかにしている。
⑴
フル・ゴスペル…義認、聖化(ホーリネス的ペンテコステ)、癒し、再臨(通常、千年王国前再臨説)、聖霊のバプテスマ(通常、異言を語ることによって明らかにされる)
⑵
後の雨…今、救いの歴史の最高潮と見られる、”失われていた”御霊の力の回復を信じるディスペンセーション主義(神の配剤・摂理)哲学
⑶
使徒的信仰…:使徒的教理(フル・ゴスペル)の回復の運動としてのペンテコステ主義へのより鋭くした見方、使徒的力:御霊の賜物と’しるしと不思議’、使徒的権威:使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の’奉仕の賜物’、使徒的実践:使徒行伝の書における教会のモデルを基盤とした新約聖書の教会を回復させること。
⑷
ペンテコステ…二重の意義―@ディスペンセーション主義側面:ペンテコステ的経験は新時代の開始としてみられる。A霊的側面:ペンテコステは信仰者の経験において繰り返されるべき出来事でありライフ・スタイルである。(Alan
Anderson, An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity (2004) p,60-61, Cambridge)
+
この四点の詳述は、ウィリアム・フォーペル著『永遠の福音』の「第二章 概念―ペンテコステ派のメッセージ」の「第二項
メッセージの構造」にある。(D. Williams Faupel, “The Everlasting Gospel –
The Significance of Eschatology in the Development of
Pentecosatl Thought” , p.27-43, deo)
6/09a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-010
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
【キリスト教における三つの流れの特徴―儀式、神学、経験】
+
J.D.G.ダンの名著”Baptism in the
Holy Spirit”に、「キリスト教の回心―入会(Christian
conversion-initiation)」について、キリスト教会の三つの流れの言及がある。「カトリックは、教会と水の洗礼(そして按手)の役割を強調する。プロテスタントは、個人と説教と信仰の役割を強調する。ペンテコステ派は聖霊によりバプテスマを授ける方としてのイエス・キリストと聖霊によるバプテスマを強調する」(J.D.G.Dunn,
Baptism in the Holy Spirit (1970) p224,
SCM,)と記しており、三つの流れの本質的特徴をよくおさえているように思う。
アラン・アンダーソン著『ペンテコステ主義入門』の中の、「12章
聖書とフル・ゴスペル」を読むと、「ペンテコステ派の学究者は基本的に保守的な福音主義の立場と同じく聖書の正しい解釈に立脚しているが、ほとんどのペンテコステ派の人々は、聖書の字義的理解よりもむしろ経験に基盤を置いている。それゆえ、テキストのみの解釈を議論することはあまり意味をなさない。ペンテコステ派の人々は、御霊による照明を信じている。それは、聖書を生きたものとし、他のいかなる書物とも異なるものとする御霊の即時的経験である。ペンテコステ派の人々は、聖書テキストに多種多様な意味を付与する。説教者はしばしばより深い意味を付与する。世界各地のペンテコステ派の多くの説教者はこの原則の実例である。深淵で難解、理論的な原則は影を潜め、物語、実例、証しが説教の内容の中心である」(Alan
Anderson, An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity (2004) p,226,
Cambridge)とあり、カトリックは”儀式”の客観性、プロテスタントは”聖書”の客観性、ペンテコステ派は”聖霊”の主観性を大切にしていることを教えられる。
6/07a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-009 「狭義のレストレーション運動の定義」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
6/5には、会議があり名古屋に行ってまいりました。その準備、当日、事後の処理でFBに数日の空白が生まれました。多忙な時期には、このような空白がでることをご了解ください。さて、再び、6/16の【レストレーション運動の分析と評価】セミナーに向けて準備しなければなりません。ビデオ紹介はしばらく今のままで固定しておき、準備note
記述・作成に力を注ぎたいと思います。参考文献等の箇所も記しておりますのは、エリクソンが教えていますように、神学というものは「⑴研究についての明確な主題、⑵主題となる事柄を研究し、主題を立証する方法、⑶研究が学習者の直接経験の外の現象を扱うものであり、それゆえに第三者によるアクセスが可能な研究という意味での客観性、⑷提示された主題間の一貫性、つまりその内容は無関係とバラバラの事実ではなく明確な知識体系を構成する」(近刊予定のエリクソン著『キリスト教教理入門』より)という考え方に従っています。レストレーション運動に関わっておられる方々にとっても有益な学びとなればと願っています。関心のある方に目を通していただければ感謝です。
+
名著『ペンテコステ派の人々』を著したW.J.ホレンウェガーによれば、ペンテコステ派の最大の教派アッセンブリー・オブ・ゴッド教団の歴史的推移を以下のように記している。
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【アッセンブリー教団の教派的成熟への経緯―四つの段階】
「ホレンウェガーは、アッセンブリー教団の教派的成熟への経緯を四つの段階で振り返る。
⑴熱狂主義の衰え―会員の経済的、社会的地位の改善、教職者は聖書学校で訓練を期待され、リーターシップは牧師に限定された。
⑵1950年代の癒しの伝道者との分裂―申し立てられた道徳的腐敗、利己主義そして癒しや富への行き過ぎた強調に対して、アッセンブリー教団の教職者から非難が増大した。
⑶倫理的厳格さの緩和―初期には、着飾った衣装、化粧、劇場、映画そして高等教育が禁止されていた。
⑷入念に組織された教会学校―すべての家族に標準的な教育が提供され、聖書学校、大学、牧師と宣教師を訓練する神学校の数は増大していった。」Alan
Anderson, “An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity” , p,53-54
+
【後の雨運動”the ‘Latter Rain’ revival movement”を契機としたペンテコステ派の分裂】
「1948年、もうひとつの大きな論争がペンテコステ運動を分裂させた。それは、後の雨運動”the ‘Latter Rain’
revival
movement”が起こったからである。その運動は、堕落し”冷たくなった”ペンテコステ主義を以前の栄光に”回復”(restore)させるよう主張し、幾人かの主要なペンテコステ派の指導者が辞職したときに生起した。この運動は、教会に使徒職と預言者職の賜物、預言を語ること、そして”教派主義”を避け地方教会の独立自治、の回復を主張した。
今日、(伝統的教派内におけるカリスマ運動とは区別される)北米のペンテコステ主義の大半を構成する単立のカリスマ的教会の多くは、後の雨運動”the
‘Latter Rain’ revival movement”にルーツをもっている。」
+
【参考文献】
■元西南学院大学神学部教授による、伝統的教派内における穏健なカリスマ運動についてのバランスのとれた記述としては、R.H.カルペッパー著『カリスマ運動を考える』ヨルダン社。
■今日、(伝統的教派内におけるカリスマ運動とは区別される)北米のペンテコステ主義の大半を構成する単立のカリスマ的教会後の雨運動”the
‘Latter Rain’ revival
movement”については、以下の文献が詳しい。「宗教の神学の座標軸」で分析・評価して位置づけると”福音主義的な聖書性・公同性・今日性・学問性”の神学的評価において、”神学的規範”の規範性の希薄化またときに喪失の実例がみられる。ただ、そのような群れの中にも健全な福音主義的アイデンティティを探求しておられる方々がおられると信じ、それらの方々を応援するためにもこの記述をしている。
・Alan Anderson, “An Introduction to Pentecostalism – Global
Charismatic Christianity” , p,51, Cambridge…後の雨運動についての記述。
・D. Williams Faupel, “The Everlasting Gospel – The
Significance of Eschatology in the Development of Pentecosatl
Thought” , p.30-36, deo…後の雨運動についての記述。
・Robert M. Anderson,
“Vision of the Disinherited – The Making of American
Pentecostalism” , p.176-194, Hendrickson…ワンネス信仰についての記述。
2017年06月04日
新約聖書エペソ人への手紙05:15-17(MP3
/
YouTube)「賢い人のように歩みなさい―時を知り、み旨を知り」
+
エペソ人への手紙は、使徒パウロがイエス・キリストの福音を、どのように理解したら良いのかを綴った「宝石箱」のような書である。
5章に入り、倫理的な聖い生活をするための動機付けについて学んだ。
1 ,
厳然とする審判の存在について(5~7)
神様に造られた人間は、神様の御心に沿って生きる責務がある。それ故に、人間には1度死ぬ事と死後に裁きを受ける事が定まっている。
2 , 神様の光の下に生きる時、人間は豊かな恵みを受ける。(8~14)
私たちの人生において、御霊の実を結び続けるためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなければならない。
3 ,
知恵深い生活をしなさい。(15)
「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」
倫理的生活の送り方において、賢い人と賢くない人をコントラストして描いている。ここで私たちは、クリスチャンになっても2種類の生き方があるという事を教えられる。そして、ここにおいてチェックしなさい、吟味しなさい「あなたはどちらなのか?」と問われているのである。
+
1 , 「賢い人」の生き方の特徴
ここでの「賢さ」とは、学校の勉強が出来る、知能指数が非常に高いという事ではない。
「機会を生かして用いる人」(16)と言えるだろう。ここで使われているのはギリシャ語の「エグザゴラゾー」という単語で、「時間を贖いなさい、時間を買い戻しなさい」という意味である。いわゆる「時は金なり」であり、人間の一生においてあっという間に時間は過ぎていくという事である。
「時」の価値を理解する人は、平等に与えられている24時間、365日、そして80年,90年,100年の人生を大切に生きることが出来る、そんな人こそ「賢い人」であると言うのである。
私ごとではあるが、私は約25年前、千葉県にある共立基督教研究所での研鑽を終えた後の、自分の人生について模索していた。
ソロモンに対して神様が言われた言葉「何か1つ願え!私がそれを叶えてあげよう。」を思い起こし、私は「一生涯、神学を研鑽する時間と、それを分かち合う空間を与えてください!」と祈った。その結果が、郷里のガソリンスタンドで働きながら、神学を研鑽するというライフ・スタイルである。
都会に比べて、それほど忙しくない仕事の合間に、私にとっては恵みであり賜物でもある神学を学び、山奥であっても瞬時に繋がるインターネットという技術で、日本中世界中を繋ぐという空間が与えられている。今はただ、後ろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進むのみである。
人間はそれぞれに人生を与えられ、時間を与えられている。その1つ1つがドラマであり、1人1人がその主人公である。全知全能の神様が、全ての人にドラマを準備し、脚本を書いていてくださる。演じている私たちにはその台本は白紙のように見える。しかし、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(エペソ
1:4)、私たちのために御計画を立てていてくださった。しかも、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました」(詩
139:16)。
私たちは神様の素晴らしい作品の主人公として、抜擢いただき、脚本を与えられ、御霊と語り合いながら、神様のご計画を手探りしながら、奇跡のような宝石のような人生という舞台で演じさせていただけるのである。
夕には感謝しつつ眠り、朝には今日も主が導いてくださるように祈りつつ1日を始めれば、1日をまた1時間を大切に生き、その結果として「御霊の実」を実らせることが出来るのである。
+
2 , 「賢い人」とは主の御心が何であるのかを悟る人である。
神様が与えてくださった「聖書」を通して、神様の御心を理解できる人である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(IIテモテ3:16)。幼い頃から聖書に親しみ、御言葉を私たちの心に豊かに宿すことが大切なことである。
私たちの心は土壌のようなものであり、御言葉に養われ耕された人は、神の原則を知っており、常識ある選択や決断をすることが出来る。毎日の出来事の中で、具体的、個別的、状況的に対応する知恵が与えられる。
神様を信じ、御心の中に倫理的に生きる。そのような人は、時の価値を知り、自分の人生を大切に、御心を探りながら生きることが出来るのである。(仁美記)
6/03a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-008
「教会論の鳥瞰図と争点のひとつとしてのディスペンセーション主義聖書解釈に基づく教会論』」 「福音主義教会論:再考」セミナー(教会論の鳥瞰図と争点:
関西聖書塾講演)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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最近、下記のメールをいただいた。「安黒先生、ご承認ありがとうございます。K市に住み、R教会に所属しています。FBはまだ日が浅いのですが、本当にクリスチャンといってもいろいろな方がいらっしゃいます。特に驚いたのはシオニズムを礼賛する方々が多いことでした。最近になって先生の投稿からディスペンセーション神学とイスラエル問題について教えられています。まさに胸のすくような明解なお教えに感謝しております。」(配慮して匿名にさせていただいています)
エリクソンが書いているように「深い思索を離れ宗教経験に向かう傾向」がある今日は、
「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたり」の時代であるように思う。だれかが「愛をもって真理を語り」、折にかなった助けを提供していくことが必要とされている。わたしの小さなFaceBookがその一助とされていることを嬉しく思う(Tコリント9:22b)。下記の内容をもつこの講演は、「ダビデの幕屋の回復(レストレーション)」を扱った2010年の同時期に、ディスペンセーション主義聖書解釈に基づく教会論をも含めて扱ったものである。参考にしていただきたい。
+
【関西聖書塾:“福音主義教会論:再考”― 教会論の鳥瞰図と争点】PP
&
資料
1. 神の民としての教会
2.
霊性と秩序としての教会
3. 職務の階層制の形成
4. カトリック教会観の脱構築としてのプロテスタント教会観
5. 福音主義教会観の破滅としての自由主義教会観
6. 神学の問いしての教会観
7.
エキュメニカル運動における教会観の三期にわたる変遷
8. 方向性−エディンバラ会議からバンコク会議まで
9.
対比−エキュメニカル派と福音派
10. 肯定面と否定面−聖書的伝道の四つの要素
11.
一般文化史への解消か?、自己の根源への問い直しか?
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2010.htm#20100307
6/01a【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-006
「宗教の神学の座標軸―キリスト教シオニズムの分析と評価への応用例」
+
神学生たちからの質問がこの論文を書かせた。その時期には、わたしの周辺には「祈りの塔」、「ダビデの幕屋」、「レストレーション運動」、「ディスペンセーション主義」、「キリスト教シオニズム」等、これまであまりなじみのない運動や教えの集会が増えていた。それで、数多くの重要文献を収集し、きちんと分析・評価する上で参考となる方法論を模索していた。そのときに、『比較宗教学(宗教の神学)』で教えていた方法論”宗教の神学の座標軸”を援用できるのではないかと思い至ったのである。福音主義神学誌のこの号はあっという間に完売したこと、またそれゆえにアマゾン書店のKindle版(120円)を製作し販売しているが、その売れ行きと無料読み放題の回数レポートから、この方法論の有効性はある程度、説得力のあるものとして受けとめられているものと思う。今月開催のセミナーでは、レストレーション運動のすべてを取り扱うことは不可能なので、いつものことであるが、この運動と教えの「輪郭とエッセンス」をおさえること、そしてそれらを分析・評価して「宗教の神学の座標軸」に位置づけることを試みたいと思うのである。そして、そこから教えられる原理・原則を「極端な傾向に流れて行く傾向」をもつ諸運動とその教えに応用することを試みたい。
+
内容紹介
2014年の夏、イスラエルの空にはミサイルが飛び交い、パレスチナの街には爆弾が雨あられのように降り注いでいた。そのような朝、ひとりの神学生からひとつの質問が発せられた―「イスラエルのために祈れ。そうすれば教会に祝福と繁栄がもたらされる。イスラエルを支援することは教会の責任である。」−「先生、わたしたちはこのような教えをどう理解すれば良いのでしょうか」と。確かに、旧約聖書にはそのような聖句が存在する。しかし「それらの聖句を、今日の世俗国家としてのイスラエルに当てはめて、そのように解釈し実践を促すことは、新約時代に生きるクリスチャンとして適切なことなのだろうか」―本論文は、そのような素朴な疑問に対するひとりの神学教師のささやかな応答である。
【目次を見る】
「福音主義イスラエル論」−神学的・社会学視点からの一考察―
序
第一部: 神学軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何
A)「使徒的聖書解釈法とは何か」
_A-1)共通の聖書観
_A-2)二つの物語
_A-3)二つの聖書解釈法
B)「使徒的イスラエル論」とは何か
_B-1)マクロの背景―「イスラエル論に関する議論」のベクトル
_B-2)ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル
_B-3)使徒的イスラエル論とは何か
C)神学軸における「評価」
第二部: 社会学軸:実践における「使徒的正統性」の反映の如何
A)考察の焦点としての「キリスト教シオニズム」
_A-1)「キリスト教シオニズム」とは何か
_A-2)キリスト教シオニズムの諸形態
B)使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素
_B-1)使徒的実践に「適合しない要素」とは何か
_B-2)使徒的実践に「適合する要素」とは何か
C)社会学軸における「評価」
結語:「福音主義イスラエル論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけ
+
●結語:「福音主義イスラエル論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけ
「福音主義イスラエル論」の聖書解釈と実践の、神学的・社会学的診断の結果は、「福音主義イスラエル論の神学的社会学的座標軸」(注2)において「契約主義聖書解釈」を基盤とした「契約主義アプローチ」をコインの両面と捉え、評価を重ね合わせると、その部分は「Aゾーン」に位置づけられる。そして「ディスペンセーション主義聖書解釈」に根差した「キリスト教シオニズム」もその評価を重ね合わせると、その部分は「Dゾーン」に位置づけられる。
以上の神学的かつ社会学的診断に基づき、筆者は「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響下にある兄弟姉妹
に呼びかけたい。筆者は彼らが福音主義の教理の大半をわたしたちと共有している主にある熱心な兄弟姉妹であることを認める。その上で「福音主義イスラエル論」という領域において「Dゾーン」にある要素の有無について精査をお願いしたい。もしそのような要素を見出されたとしたら、この「神学的・社会学的観点から考察」をひとつの手立てとし、「使徒的正統性の回復」に精力的に取り組んでいただきたい。
以上が、「論文冒頭に記した神学生の質問」に対する筆者の現段階における解答である。同様の素朴な疑問を抱いておられる兄弟姉妹に参考にしていただけたら幸いである。
「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない。」
(シカゴ・コール)
5/31【落穂抄】【レストレーション運動の分析と評価】準備note-004
毎週、水曜日は「ICIインフォメーション・レター」の配信日である。五月末頃から、ICIの取り組みの焦点は、6/16の「レストレーション運動の分析と評価―何故、極端な傾向に流れて行くのか」セミナー講演と質疑
http://aguro.jp.net/d/ici-stvw/20170616_Restoration-Movement-Its_Analysis_and_Evaluation.pdf
に向けての準備に置かれている。
この取り組みの基本的な視点は、わたし自身のライフワークである『福音主義神学再考―構成・分解・再構成』というエリクソン著『キリスト教神学』で示されている取り組みのわたしを取り巻く環境での実践・適用である。ビデオ・シリーズで明らかなように、数多くの課題を取り扱ってきた。「レストレーション運動問題」はそのひとつであり、すでにシンポジウムや講義で取り扱ってきた。今回の講演と質疑は、これらの取り組みを基盤としつつ、前回は「広義の意味でのレストレーション運動」を取り扱ったのであるが、今回要請されているのは「狭義の意味でのレストレーション運動」であり、20世紀初期の古典的ペンテコステ運動とその保守化に対して、中期において「後の雨運動」とか「使徒・預言者運動」等のかたちで、20世紀初期の熱狂的リバイバルの回復(レストレーション)を求めた運動と教えの分析と評価である。
このテーマに課せられた課題は、「狭義の意味でのレストレーション運動」に焦点を当て、「極端な傾向に流れて行く傾向」について分析・評価する方法を提示することである。翻訳作業と並行して準備してきた中で、ひとつ示されていることは拙著『福音主義イスラエル論』で提示したP.L.バーガーの”神学的・社会学的座標軸”の有効性である。これは、「オウム真理教」事件の分析・評価においても活用した。
http://aguro.jp.net/d/file/c/coed06.htm
今日のキリスト教世界における「何故、極端な傾向に流れて行くのか」は、神学的視点だけでは不十分で、社会学的視点からも分析・評価していくことが必要とされているように思う。すべての事柄・要素を扱うことは不可能であるけれど、これらの視点から”本質的かつ原理的”な分析・評価の手法を提示することは可能ではないかと思っている。
現在、【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】において、この課題全体を見渡す「福音主義神学再考」、「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価」、そして「極端な傾向に流れて行く傾向のバランスのとれた分析・評価を取り扱った諸講演」(
再生リスト、最下部)掲載していっているので参考にしていただきたい。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
5/30b【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】2010年11月16日関西聖書学院神学シンポジウム&詳述版講義「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価:
B. 組織神学軸」( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
【レストレーション運動の分析と評価】準備note-003
この年、母校KBIでは、「寄せ来る数々のムーブメントの中で、日本の教会はどのように進むべきか」というタイトルで、幾つかの運動と教えが取り上げられた神学シンポジウムが開催された。そのときのわたしが分担したのが「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価:
A. 歴史神学軸、B. 組織神学軸」であった。このビデオは「詳述講義」の後半部分のである。
+
【『ペンテコスタリズム研究』…ペンテコステ主義に関する包括的な視点からの分析と評価:B.神学編:カリスマ的キリスト教の未来の視点から−With
“Introduction to Pentecostalism”by Allan Anderson−】
http://aguro.jp.net/d/jec_kbi/110201_i_ag_An_Introduction_to_Pentecostalism_by_Anderson_for_90m_B.pdf
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2010.htm#101119
+
2017.6.16【レストレーション運動に関する分析と評価】セミナー案内…四時間の講義をベースにしつつ、さらに本質な部分を深く掘り下げて取りあつかう予定です。
http://aguro.jp.net/d/ici-stvw/20170616_Restoration-Movement-Its_Analysis_and_Evaluation.pdf
5/30a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 19_1-21
「花嫁は用意ができ、小羊の婚姻の時がきた」( 再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
+
【黙示録19章】
19:1
この章では、いよいよキリストが再臨される。そこでは、大きな賛美が起こる。1,3,6節「ハレルヤ!」ヤーウェを褒めよ!
「最後の審判」が悪であり闇に対する裁きだとすれば、「小羊の婚姻」は光の部分に当たる。
19:2
神様に敵対し、背を向けた社会や文明が溢れている世界に対し、神様を信じ世の汚れから聖くあろうと戦い、証し、迫害されつつも生きて行く、花嫁のような「神の民」がいる。
「神のさばきは真実で、正しいからである。」だから、賛美しよう!
世界の歴史を見れば、大変な事がたくさんあった。ナチスドイツによる、ユダヤ人300万人の虐殺、日本軍による「南京大虐殺」など、人間は間違った事を沢山起こしてきた。これらの犯罪を人間が裁くには限界がある。しかし、神のさばきは真実で正しい。
不品行、悪行で地を汚した人々は、放っておかれる事はない。1世紀のローマ帝国で迫害を受けていたクリスチャンたちは、「聖い生き方をしてどうなるのだろうか?」と迷ったかもしれない。
しかし、天に引き上げられたヨハネが見た幻を見る時に、「神様は正しく裁いて下さる!」ハレルヤ!
19:3
神様は正しい者たちを救い出して下さるだけではなく、悪い者たちを裁いて下さり、正義を行って下さる。
19:6
世の初めから、神様は「王の王、主の主」であるが、この地上では、悪がはびこってきた。しかし、裁きの日には神様が「王の王、主の主」であることがはっきり分かる。
19:7
イエス様が再び患難の時、裁きの後に、地上に来られる「再臨の時」は「小羊の婚姻の時」であり、教会またクリスチャンたちは、「小羊の花嫁」として迎え入れられ、天に引き上げられる。
19:8 花嫁が着る「光り輝く、きよい麻布の衣」は、7:9,14
に書かれていた「大群衆の白い衣」の事である。その衣は小羊の血で洗われ、小羊を信じる者に与えられた衣である。「与えられた」はギリシャ語でデカイオーマーと言われ、「正しく宣告された」という意味である。
この事は、クリスチャンたちが正しいことばかりをしてきた、というのではなく、私たちは元々罪人であり、罪深い性質を持っているが、キリストを信じることによって「正しいと宣言された」ということである。
そして、生きて行く中で、正しい行いが出来るように、御霊が生かし助けて下さるのである。私たちは、決して自分を誇ることは出来ない。キリストがそうであったように、謙虚な
気持ちでただ生きるだけである。
19:9 イエス様が再臨される時、私たちは結婚式に招待される。
19:10
御使いを見た時、ヨハネは神様だと思って拝もうとした。御使いは「いけません。御使いは神様に仕える者であって、クリスチャンと同じ神の僕です。」と言った。パウロがギリシャのアテネで説教をした時に、人々がパウロを拝もうとして、パウロが止めさせたのと同じことである。
どんなに優れた信徒や指導者であっても、神のように拝んだり礼拝してはならない。神様だけが、礼拝されるべきお方である。
19:11
イエス様は白い馬に乗って来られる。白は「勝利」の象徴である。勝利の主として再臨され、「忠実また真実」と呼ばれる。
イエス様の十字架は私たちの罪のためであった。十字架での身代わりの裁きを受けられ、3日目に蘇られ、わたしたちを罪の中から救い出して、赦して下さった。十字架の出来事は、世界中の人々の出来事なのである。まず、御子が裁きの中に置かれた。その裁きの中に私たちも置かれ、裁かれて、御霊によって生かされた。この繰り返しが、クリスチャンの毎日の現実であろう。
19:13 「その方は(カルバリの丘の十字架で流された)血に染まった衣を着ていて」、そこは、決死の戦いの場であった。
19:14 天の軍勢の戦いは、武器による戦いではない。十字架による戦いである。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev19
5/29b【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】2010年11月16日関西聖書学院神学シンポジウム&詳述版講義「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価:
A. 歴史神学軸」( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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【レストレーション運動の分析と評価】準備note-002
前回、次の奉仕について言及した。まもなくなので、その奉仕の準備と重ね合わせて関連ビデオを紹介していきたい。
この年、母校KBIでは、「寄せ来る数々のムーブメントの中で、日本の教会はどのように進むべきか」というタイトルで、幾つかの運動と教えが取り上げられた神学シンポジウムが開催された。そのときのわたしが分担したのが「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価:
A. 歴史神学軸、B. 組織神学軸」であった。
わたしがこのテーマを引き受けたのには訳があった。その時期には、これまでのオーソドックスなあり方から離れて、聞きなれない運動や教えを耳にするようになっていた。同労者や神学生たちからも「先生、レストレーション運動とはどういう運動なのですか?」としばしば尋ねられた。わたしは差しさわりのない一般的な答えに終始していたのだが、神学教師としての責任感から、本格的に、信頼できる「この運動についての数多くの書籍」を収集し始めていた。そして半年ほど集中的に分析・評価し、その結果をシンポジウムの割り当てられた20分ほどの講演と資料で分かち合った。ただ、それは研究成果の輪郭とエッセンスをかいつまんで紹介しただけであったので、神学校の「組織神学」の補講として「レストレーション・ムーブメントに関する包括的な視点からの分析と評価:
A. 歴史神学軸(180分)、B. 組織神学軸(90分)」の計四時間の講義で分かち合うことにした。これがその記録である。
主として、参考にしたのは、アラン・アンダーソン著『ペンテコステ主義入門』(Alan Anderson,
“Introduction to
Pentecostalism”)というこの領域できわめて権威のある名著である。アンダーソンは、南アフリカのペンテコステ派の神学者であり、W.
ホレウェガーの下で学び、その後継者と目される大変優れたペンテコステ運動と教えに関する学者である。ペンテコステ主義に関する多数の著作があるが、それらの中で最良の書といえるのが本書である。わたしたちは、この本を通してペンテコステ主義について、基本的な輪郭とエッセンスを学ぶことができる。また有益な洞察とともに内包する課題をも直視することができるようになる。わたしは、保守的な諸教派にとっても、ペンテコステ的諸教派にとっても、有益な内容に満ちた本と受けとめている。この本の輪郭とエッセンスの最も重要な部分を四時間の講義ビデオを通して紹介できることを喜んでいる。
+
【『ペンテコスタリズム研究』…ペンテコステ主義に関する包括的な視点からの分析と評価:A.歴史編:初期北米ペンテコステ主義の評価する視点から】
http://aguro.jp.net/d/jec_kbi/110201_k_ag_An_Introduction_to_Pentecostalism_by_Anderson_for_90m_A.pdf
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2010.htm#101119
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2017.6.16【レストレーション運動に関する分析と評価】セミナー案内…四時間の講義をベースにしつつ、さらに本質な部分を深く掘り下げて取りあつかう予定です。
http://aguro.jp.net/d/ici-stvw/20170616_Restoration-Movement-Its_Analysis_and_Evaluation.pdf
5/29a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 18_1-24
「わが民よ。この女から離れなさい」( 再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録18章】
この章は、「大バビロンへの裁き」についてである。
旧約聖書に出てくるバビロン帝国は、巨大な国、そして、バビロンはその首都であった。栄華を極め、豊かな都「バビロン」は、道徳的に腐敗し、人間の罪深さ、弱さが際立っていた。
18:1,2 「大バビロンが倒れた。」倒れるまでは、素晴らしい権力を誇っていたのに・・・
この聖書の箇所を見ていると、アメリカのニューヨークで起きた、同時多発テロを思い出す。栄華を極めた、世界で最も最先端で優れた頭脳を持つ人々が働く「ワールド
トレードセンタービル」に、あの日、二機の飛行機が突っ込んだ。逃げ惑う人々、全世界の人々が見守る中、無惨にも崩れ落ちた二本の巨大なビル。モウモウと立ち込める煙の中で、多くの人々が命を落とした。
豊かさにはもろい一面がある。ダニエル書にあるように、バビロン帝国はたった一夜で滅ぼされてしまった。豊かさと守りの強固さを象徴する「ユーフラテス川」をせき止められる事によって・・・また、近年では、世界中が酔いしれる中、リーマンブラザースの倒産に始まる「バブル崩壊」も然りである。
バビロン帝国は、外側は素晴らしかったが、内側は「悪霊の住まい・・・」であった。1世紀の迫害下にあるクリスチャンたちに、ヨハネは言う。「ローマ帝国の繁栄の内側は、汚れた物で満ちている。そして、神様はそのままにしてはおかれない。神様を信じる者は、地上の偽物の豊かさに惑わされるな!」
18:3
ローマ帝国の虚構の文化、文明の繁栄は、内側を見れば、いっぱい汚れを詰め込んだぶどう酒を飲んでいるようなものである。そんな物に協力し、経済的な繁栄と引き換えに、不道徳や不品行に染まる国々や経済人たち。好色に便乗する事で得た富は、虚しいものである。
好色とはギリシャ語でストゥレーノス、意味は「好色と贅沢」である。
18:4
「わが民よ。この女から離れなさい。」虚飾の大バビロンも1世紀のローマ帝国も、そして、今の時代の資本主義社会も、拝金主義に染まっている。しかし、それに染まらないように、その罪を見抜いて影響を受けないように!と、神様は勧めておられる。
現実味のない「マネーゲーム」によって、全てを失い莫大な借金を抱え込む人々は多い。偽りの豊かさ、それに伴う不品行、好色に呑み込まれてしまわない様に気をつけなさい。
18:8
「彼女は火で焼き尽くされます。」今の虚飾の富が、永遠に続くかの様に錯覚し、巻き込まれた人々は、遊女の様に焼き尽くされる。
神様は天におられて、正しい裁きをなさる。バビロンのような、弱肉強食の世界は、弱い人々、小さな企業を食い尽くすように、踏み潰していく。
18:10
『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』偽りの豊かさは砂上の楼閣のように、あっという間に大水が寄せれば、一夜のうちに、その根本が崩されてしまう。
店々に溢れる沢山の商品、宝石、などなど、飛ぶように売れていたのに、国が破れ、買うものがいない。立琴を奏で、歌を歌っていた人々もいなくなってしまった。(18:22)
ヨハネがこの黙示録を書いた後、ローマ帝国もバビロン帝国と同じように滅びてしまった。
18:20
神様は生きておられて、聖いお方、公正な裁きをされるお方である。
バビロン帝国やローマ帝国において、富を求めず、聖く、真面目に生きている人々が迫害に遭い苦しめられている。しかし、時代や歴史を超えて、本質を見抜いて、神様の御心に従って生きて行くように勧めている。
18:24 迫害され、苦しめられながらも、神様の前に忠実に一歩一歩歩んでいる人々を、神様は忘れてはおられない。
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev18
2017年05月28日
新約聖書エペソ人への手紙05:08-14(MP3
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YouTube)「光の結ぶ実―土と苗と光合成」
1~3章は、キリストの贖罪の恵み、十字架の恵みの豊かさについて学んだ。
4~6章では、キリストの贖罪の恵みに根ざした、倫理であり生活とはどのようなものであるのか?を学んでいる。また、4章の前半では、教会の一致、教会が成長するという事はどういう事なのか?また、後半では、教会の倫理的な聖さ、純粋さについて学んだ。
5章に入り、パウロはもっと具体的な事や感謝すべき事、光の下に生活を見つめるべき事を述べ、具体的には異邦人の歪んだ性の見方ではなく、クリスチャンは感謝の光の下で性を見るべきであると述べた。
また、倫理的、模範的な生活を推し進めるための動機付けをパウロは説いている。すべての人には最後の審判があり、そのゴールを目指して、意識して恵みに根ざして感謝して聖く生きるということが必要であると説いた。
今朝の5:8~14では、光の下で生活するとはどういうことなのか?実を結ぶとはどういうことなのか?についての動機付けまたチャレンジを述べている。
パウロは絵描きのように(レンブラントは「光の画家」と呼ばれたが)、象徴的な表現で「暗やみと光」のコントラストによってその事を説明している。
「暗やみ」とは、「無知、誤り、悪」であって、神様に対して遠く離れている状態である。「光」とは、「真理、義」に象徴される生活であり、クリスチャンになるという事はそういう状態になるという事である。
謙遜な心を持ってパウロは自分も含めて「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」と言っている。私たちのあるべき姿目指すべき姿をチャレンジしているのである。
今、この辺りでは田植えの真っ最中である。秋から冬の間、田んぼには水は無く、土は硬くなっている。春になって何度かトラクターで土起こしをし、水を引き入れ代掻きをする。そこに稲の苗を植え、夏の間雑草を引き水の世話をすると4ヶ月後には豊かな実りが得られる。毎年、天候は一定ではなく、暑すぎたり台風が来たりと自然の影響はまぬがれない。
私たち自身も田んぼに似ている。神様を知る前は乾ききった心であった。「むなしい心、無知な心、頑なな心」であった。しかし、聖霊の水の注ぎによって、心の土壌は柔らかく整えられ、み言葉の種が蒔かれ、聖霊の励ましを受けながら、田んぼのように実りの秋を迎える。
ただ、聖書を読むだけ聞くだけではいけない。御霊の語りかけを感じる感受性を養われなければならない。
5:10
「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」―主が喜ばれること、御霊が喜ばれることは何であるのか?選択しつつ生きるのである。人生は悪路を車で走るようなものである。難しい道、狭い道、石ころの道、etc.どんな道を通ろうとも、慎重に運転し生活をコントロールしなければならない。
私たちは「暗やみ」から「光」へと変えられたものである。しかし、全く罪の無い者になったというわけではない。今でも肉にある罪深い性質は持っている。
5:13 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
5:14 a
「明らかにされたものはみな、光だからです。」
地上にある限り罪ある者である私たちは、扉を開いて神様の光に自分自身をさらす、弱さをさらけ出すことによって、光にさらされている者、「光の者」光を反映させる者となるのである。
5:14b
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」2章で「罪過と罪の中に死んでいた」私たちだが、「やみの中」を歩むのではなく、「光の中」を歩む者として召されている。そうすれば、キリストが私たちを照らされる。そして、世の終わりには、豊かな実りを収穫することになる。
「主に喜ばれる生き方とは何なのか?光の実を結ぶためにはどうすれば良いのか?」を考えつつ、1日1日を歩ませていただきたいと思う。(仁美記)
5/27b【日毎の、一宮基督教研究所の講演・講義録紹介】2009年11月16日の日本福音主義神学会・西部部会での基調講演『福音主義神学再考―聖書・伝統・文化の中で』―を掲載(1週間限定)しました( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
【レストレーション運動の分析と評価】準備note-001
5/23-24生駒聖書学院での集中講義が終わり、5/25結婚記念日を節目に、6/16日本異端・カルト対策キリスト者協議会から依頼されている『レストレーション運動の分析と評価』と題してのセミナーの準備に本格的に取り組むべき時がきたと実感している。
依頼内容は、主題文の「日本異端・カルト対策キリスト者協議会では外部講師をお招きし研鑽を積んでまいりました。”なぜ、極端な傾向に流れていくのか”は、異端・カルト対策に関わる者にとっては解明しなければならない課題です。今回、安黒務先生に”レストレーション運動の分析と評価”と題して”極端な傾向に流れていく危険”について語っていただきます。先生からは、”レストレーション運動=異端ではないが、
異端へシフトしていく危険は内包している”と助言をいただきました。むずかしい分野で、正確
な知識と分析力が必要と感じます。先生の主題講演は”レストレーション運動”に限定せず、他の事例も触れていただくことになっております。異端・カルト対策の現場で格闘されている先生方と共に、分析・評価の仕方、神学的な系譜、
危険な兆候など、今後の手助けとなる学びができればさいわいです。」に記されている
わたしにとって、奉仕生涯全体がこのような課題への取り組みであったし、また必要に迫られて牧師会・神学会等で分かち合った講演・質疑応答も、幾つかの著作・翻訳もまた同じ線上に位置づけられるように受けとめている。
それゆえ、ICIのビデオ紹介を今回の準備ノートづくりと重ね合わせて紹介させていただきたい。まずは、「扇のかなめ」に位置づけられる包括的な講演と資料として、2009年11月16日の日本福音主義神学会・西部部会での基調講演『福音主義神学再考―聖書・伝統・文化の中で』を紹介したい。この講演では、エリクソンの位置づけ・役割・意義等について講演している。まさしくエリクソンとは、”なぜ、極端な傾向に流れていくのか”について分析・評価する方策を示している稀有の神学書といえるのではないだろうか。
【関連資料サイト】
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20091116_jets-w_aguro_Evangelical-Theology_Re-Construction_all_in_not_printable.pdf
5/27a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 17_1-18 「獣に乗っている大淫婦への裁き」(
再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録17章】
この章は、終末における神の正しい裁きについて、そして、神は正しい形で神の民を救われるということが書かれている。
17:1 この時代を、神様がどのように見ておられるのかが分かる。
「大水の上にすわっている大淫婦」神様から離れた生活、偶像礼拝、不道徳、不品行を行う人間を、「姦淫」とか「売春婦」という表現をする。
日本では、「信仰心さえあれば、どの神を拝んでも良いではないか。」という考え方があるが、聖書では、1人の夫と1人の妻のように、信仰は純粋な物でなければならないと書かれている。多くの神々を拝み、作られた偶像を拝むという事は、多くの男女と関係を持つことに例えられる。
神を知らない乱れた世界、これが「大淫婦のような世界」という事になる。文明は豊かであっても、信仰から離れ、偶像、物質、お金、地位を欲しがっていると、不品行や不道徳に染まってしまう。
17:3
巨大な国の繁栄をもとに、神を汚す偶像礼拝や不品行などがいっぱい満ちた文明、社会があるが、そのような物は永遠ではない。物質的な豊かさに目を、心を、奪われてしまうことなく、神様を信じて慎ましく生きたい。
17:6
「この女」とは、バビロン帝国、ローマ帝国の事である。イエス・キリストの十字架の御わざを伝える「聖徒たち」、「証人たち」をこれらの国々は迫害し、殉教させた。その血に酔うかのように・・・しかし、神はそれらの事をいつまでも放っておいたりはなさらないだろう!とクリスチャンたちを励ましている。
17:7~14 「この女の秘儀と、・・・獣の秘儀とを話してあげましょう。」
ローマ帝国に起こる事、また、ローマやバビロンがどのようになるのかを、ヨハネは神様からの預言として語っている。
「7つの頭とは、・・・7つの山で、7人の王たちのことです。」(17:9)
ローマには7つの丘があったという。それは、まるで7人の皇帝を象徴しているかのようであった。アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラディウス、ネロ。(このネロは恐怖の王と呼ばれ、ローマの町を綺麗にしようとして、古い粗末な家々に火を放ち、都市開発を進めようとした。しかし、その事を責められると、クリスチャンたちの仕業だと嘘をつき、多くの命を奪った。クリスチャンたちが「世の終わりには災いが来る」と言って、それを実現するために、火を放ったのだと嘘をついたのである)
皇帝ネロが自殺をした後、ローマ帝国は一時期分裂騒動などもあり、崩壊するかに思われたが、ウェスバシアヌス、ティトゥスと短い期間の皇帝の後、ドミティアヌスが現れ、ネロの再来と言われた。
このネロとドミティアヌスの事が、「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上ってきます。」(17,8)
と書かれている。この文章は、皇帝の事でもあり、「底知れぬ所から上がってくる」サタンの事でもある。そして、「最後の審判」において、「ついには滅びます。」と触れられているのである。
ローマ帝国及びその周辺の十本の角である十人の王たちは、本当の神様から離れ、偶像礼拝、皇帝崇拝を行い、不品行、不道徳に走っていた。
17:14
小羊と連なるクリスチャンたちの戦いは、武器を持った戦いではない。イエス・キリストと共に生きる戦い、十字架を背負った戦いである。偶像礼拝、皇帝崇拝をせず、不品行、不道徳に走らない戦いである。たとえ、強制されても屈せず、殉教の道を選ぶ。そのような証しをしながら、最終的には勝利を収める。
17:15~18
「大淫婦」と言われたバビロン帝国は、ユーフラテス川のほとりにあった。ローマも大帝国の首都であり、多民族、多言語で豊かな町であった。
しかし、人々に偶像礼拝、皇帝崇拝を強要した。
今は、十本の角と言われる周辺諸国も、ローマに従っているが、やがてローマに敵対し、反乱を起こし、旧約聖書での売春婦の処罰のように、「裸にされ火で焼かれる」運命にあると宣言する。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev17
5/26b【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】―20170523 生駒聖書学院講義:
「00.神学入門」を掲載(1週間限定)しました( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
【関連資料サイト】
・00.神学入門
http://aguro.jp.net/d/file/k/kbi_i_usintro.htm
【ビデオ講義リスト】
生駒聖書学院で、『キリスト教神学』と要約版『キリスト教教理入門』を学ぶ、新しい「三年サイクル」が始まりました。神学の研鑽は、アマゾンのジャングルを探検するようなものなので、まずは神学研究全体の”鳥瞰図”を身に着けることが大切です。これを身に着け、鳥の眼をもって全体を鳥瞰しつつ、個々の主題の輪郭とエッセンスを丁寧に学んでまいります。エリクソンの福音理解の捉え方は、超教派的で分かりやすいので、三年間という限られた時間ですが、神学生ひとりひとりはバランスのとれた「福音理解」において見違えるほどに成長させられていくのを見せられます。これは、み言葉による「神の奇跡」のひとつと思わせられています。
5/26a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 16_1-21 「神の激しい怒りの七つの鉢」(
再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録16章】
バブル崩壊は、アメリカの低所得者に対する、無理な住宅ローン(サブプライムローン)の破綻から始まった。いつか返済できなくなる、その事を分かっていながら、金融業界は低所得者に高額な住宅ローンを組ませたのである。低所得者の人たちは、一時バラ色の夢を見たが、その夢は粉々に砕けてしまった。
原油価格も高騰したり下落したりしている。世の中に溢れたお金が、ギャンブルのように、投機の世界に流れ込んでいる。
イラク戦争はしなくても良かったのではないか?と言われる。作り過ぎた武器の処理のための戦争、一部の人たちの利益のために、一定期間で戦争が引き起こされていると思われる。政治、軍事、経済が、本当に世界の人々の事を考えてなされているのだろうか?政治も経済も弱肉強食の獣のようになっている。そして、環境までもが狂ってきている。まさに、終わりの時代である。
16:1
この世界を見ると、人間の欲望のおもむくままに、政治も経済も動かされているように見える。本当に神はおられるのだろうか?しかし、聖書は言う「今いまし、昔います聖なる方。」16:5
「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」(16:7)
人間の欲望のままに操られる政治や経済は、必ず神様が正しい裁きをされる。神様がこの世界を支配しておられるのだから。
16:2~4
「第一の御使いが、鉢を地に向けてぶちまけた。」すると、「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」
出エジプトの時、神様はエジプトの人々に「10の災い」を送られた。災害を通して、イスラエルの民はエジプトから解放されたのである。
今の時代、仕事が無かったり、経済的な苦しみがあったり、健康の不安があったりする人々が多い。しかし、神様はそんな苦しみから救い出して下さるのである。そして、終末期には、偶像崇拝をする人々や、クリスチャンを迫害する人々には、災いが送られる。
「第二、第三の御使いが鉢をぶちまける」と、海が、川が血になった。出エジプトの時、川が血の色に変わり、飲むことが出来なくなったように、環境問題は、ますます激しくなり、水、空気の汚染、鳥インフルエンザなどが人々を悩ませる。
16:8
「第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。」空気中のCO2が増えすぎると、地球の大気を守っているオゾン層が破壊される。オゾン層が破壊され薄くなると、オゾンホールが出来、地上に必要以上の紫外線が降り注ぎ、皮膚ガンになる。
災害を治める神様の事を、災いを通して認め畏れる人々もいるが、エジプトのパロのように、ますます頑なになる人もいる。「封印された巻物」「7つのラッパ」などは、救済的、警告的な災いである。神様の存在に気付き、悔い改めて、救いに導こうとする災いである。しかし、「7つの鉢」は、もはやその段階ではない。総括的、究極的な災いなのである。救済的、警告的な災いをもたらしても、心を頑なにして、かえって神にけがしごとを言う罪人の姿がそこには見られる。
16:10
,11「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。」環境汚染はますますひどくなり、空気が汚染されて、苦しみとはれものが出来た。太陽の光線は強すぎてもいけないが、スモッグに覆われて、届かなくなると、殺菌作用は弱まり、作物は育たなくなり、空気の清浄作用もできなくなる。また、喘息、肺がん、などの病も増える。
16:12
「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。」ユーフラテス川が枯れるということは、強大なバビロン帝国の滅亡を招いた。ユーフラテス川を自然の堀として利用し、鉄の守りを誇っていたバビロン帝国は、メディア・ペルシャ帝国に滅ぼされてしまった。その方法は、ユーフラテス川を川上でせき止め、枯れた川の水門から潜入するという方法であった。
同じように、栄華を極めたローマ帝国も、東からメディア・ペルシャ帝国に攻め込まれてしまう。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev16
5/25c【1980年5月25日―期日限定掲載】その昔「今日は何の日?」―という番組がありました。
https://youtu.be/Wb5erypGbNs
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昔々、その昔、「今日は何の日?」―という番組がありました。いつも神学やメッセージを分かち合っていますので、今日は「ひと呼吸」おいて、我が家の「今日は何の日?」を紹介させていただきます。この日は、いつも同じビデオを視聴し、あの日を振り返り、お世話になった方々に感謝の気持ちを新たにしています。そして今日はわたしたちの人生の一部の証しとして紹介させていただきます。
時は、1980年、昭和55年5月25日、ペンテコステの日。わたしと家内の結婚式の日です。覚えやすい日なので忘れたことがありません。あの日、多くの方の世話になりました。そのひとりが現在、大阪グレイスキリスト教会の牧師、林田和博先生です。長らくカメラの会社に勤めておられたので、その頃には珍しい8ミリ・カメラで結婚式を撮影していただきました。関西学院大学のランバス記念礼拝堂はうす暗く画質はぼんやりしていますが、わたしたちにとって貴重な思い出が記録され本当に感謝でした。あの結婚式のことを昨日、今日のことのように思い出します。
昔は、8ミリ映写機を借りてきて視聴しておりましたが、それは大変手間がかかりましたので、いつしか見ることもなくなり、書斎でほこりをかぶっておりました。しかし、このまま朽ち果てさせるのは忍びなく、少しお金がかかりましたが、カメラ屋さんに相談すると「1万円でDVDビデオに編集できます」とのこと。それで、お願いし、その年から毎年DVDで視聴させていただいています。多くの知人、友人、家族、親戚、先生方、教会の皆さん等を画面の中に見て、こんなに多くの方々に支えられ助けられて結婚式を挙げられたのだと感謝しています。あれから、37年経ちましたが、ビデオを視聴しますと、昨日、今日のことのように思います。感謝
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5/25b【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「終末論」関連講演―20121002
アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー講演:「福音主義終末論 : 再考」 04
21世紀の終末論の諸課題02」を掲載(1週間限定)しました( 再生リスト、最下部)。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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教会内で特に議論されることの多い千年期と艱難時代にまつわる諸説を取り上げ、英語文献の新しい知見を交えながら理解を深める。
【講演レジメ】
http://aguro.jp.net/d/ici/20121001-2_AST_resume_all.pdf
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2012.htm#note-033
5/25a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 15_1-8 「モーセの歌と小羊の歌を歌って」(
再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録15章】
黙示録を見ていくと、裁きのレベル、内容、徹底性が、まるで螺旋階段のように何重にも折り重なっていくのを感じる。まるでオペラを見ているように、第一幕、第二幕、第三幕と、たたみ込むようにフィナーレへと続いていく。それが、「7つの封印」「7つのラッパ」そして、今回の「7つの金の鉢」である。
15:1
ヨハネはパトモス島で、また、幻を見た。それは、最後の災害の幻である。最終的には、「最後の審判」があるのだが、それに至る患難、災害がある。
「神の激しい怒りはここに窮まるのである。」の「窮まる」とは、「目的を達成する」という意味である。神様を信じる人たちが救われ、天国に入れるという目的が達成されるように、それとは逆に、永遠の裁きに入れられる人たちにも、目的があり、達成されねばならない。
15:2~4 「火」とは、神様の「怒りと裁き」を表している。その反対に神様は「愛と赦し」の神でもある。
天上には、水晶の海があるという。2,500年前にエジプトで迫害の中にあった民は、患難の中守られ、紅海を渡った。新旧約の歴史の中の神の民、終末期を経験する神の民は、人生の旅路を終えて天の海を渡る。しかし、獣や像を拝み罪の性質を持つ者は、人々に偶像崇拝、皇帝崇拝、不道徳、不品行を要求し、人々はそれに従う。彼らはこの地上では豊かな人生を生きるかもしれない。そして、神様に真実、忠節を尽くしている者が迫害され、時には命を落とすこともある。
地上では、豊かで人々を踏みつける者が勝利者と呼ばれるのかもしれない。そして、神の民はへりくだり、十字架の小羊のような扱いを受けるのかもしれない。しかし、神の民はキリストのようにさげすまれるが、苦難を通して勝利を収める。
そして、彼らは「ガラスの海のほとりに立っていた。」出エジプトのイスラエルの民が、10の災いの只中で守られたように、敵対する者からは迫害されるが、神の民は「神様からの災い」からは区別して守られる。
そして、神の民は「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。・・・あなたの道は正しく、真実です。」と神様に賛美を捧げる。
出エジプトで、脱出して行くイスラエルの民を追いかけた軍勢は、海の水にのまれて死んだ。彼らは神様の裁きを経験したのである。ここで、私たちは、神様の峻厳さ、裁きの厳格さを見る。
15:5~8
「天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」幕屋の聖所とは神様ご自身がおられる所である。旧新約の時代から終末期に至るまで、地上において、神の軍勢と悪の軍勢の戦いは続いて来た。ついに、天上における決戦の火蓋が切られるのである。
聖所である神の本陣には、「きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めた」7人の御使いがいる。これらの装いは、神の裁きの正当性、公平性、潔白性を象徴している。神様は怒りに任せてではなく、聖い神であるから、正しい裁きをされる。
「永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた7つの金の鉢を、7人の御使いに渡した。」こうして、神の武器は装着され、スタンバイの状態になる。峻厳なる7つの災害、誰も立ち入ることは出来ない、もはや、とりなすことも出来ない。最終的な裁きが始まるのである。
16章には、これらの詳しい内容が書かれているが、出エジプトを彷彿とさせる恐ろしい裁きである。
パロの行動を見ていると、人間の罪深さがよく分かる。心を柔らかくしたかと思うと、次の瞬間に頑なになる。それが、何度も何度も繰り返される。もし、私たちが、神の声を聞いたなら、直ぐに従い、降伏して、生きて行きたいものである。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev15
2017年05月21日
新約聖書エペソ人への手紙講解説教シリーズ 5:05-07(MP3
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YouTube)「これが偶像礼拝者です―仲間づくりの倫理」(再生リスト、最下部)
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前々回では、男女の性とは天地創造の神からの贈り物であって、「創造の光」「感謝の光」の中で受けとめるべきものである事を学んだ。
道徳的であるか不道徳的であるか?「性的倫理」をどのように捉えるのか?は、その人がどのような信仰を持っているのかや、どの様なお方を信じているのかにかかっていると思われる。
5:5
「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です。」この御言葉を読んだ時、私には違和感があった。偶像礼拝をするから不品行や汚れやむさぼる者になるのではないのか?と・・・何故ならば、4:17~19にあったように、「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。・・・神のいのちから遠くはなれています。」とあり、真の神様から離れているから、むなしい心となり、知性は暗くなり、その結果としてあらゆる不潔な行いをむさぼるようになったと読めるからである。
しかし、5章では神からの離反、不道徳のむさぼりは、不品行であるがゆえに汚れ、汚れているがゆえにむさぼり、これが偶像礼拝者の本質であるというのである。
今日は、一世紀の頃ほど偶像礼拝者=不品行な者とは言えない。偶像礼拝に熱心だから不品行であるとは限らないからである。
むしろ、熱心なクリスチャンの中にも、不品行な者はいる。キリスト者が多数の国で、有名なキリスト教の指導者が不品行の罪を犯したり、金銭欲にまみれている場合がある。そういう人たちを指導者として奉っている教会には、大きな問題があると思われる。そして表面的な教会の拡大や立派な会堂を見て、素晴らしい指導者として集会やセミナーに招く日本の教会は、愚かであり反省すべきであろう。
エペソ書やローマ書でのパウロの福音理解では、まず前半に「キリストの贖いの赦し」があり、後半には「そのキリストの贖いの赦しに根ざした倫理的な生活」を指導するということが重要であると考えられる。
パウロは「肉による生活」「御霊による生活」を、微妙なタッチで描き出し、目の前に提示することによって「良い方を選びなさい!」「御霊による選択をしなさい!」と勧めている。
トランプ大統領は、選挙戦の時から移民や少数者に対して差別的であった。それに引きずられるように、今やアメリカの人々が差別的な言葉や行動をしているのは大きな問題である。さらに、自分の選挙中の問題でFBIの長官をクビにした。このままではトランプ大統領は、弾劾されて辞めざるを得なくなるのではないか?と懸念する。
アメリカはキリスト教的倫理観によって培われてきた国である。どうかこれからも「指導者が法を犯しても裁かれない」というような独裁国家にならない事を希望している。
キリスト教世界は、今、第2のリバイバルの時期を迎えている。アフリカやアジア、ラテンアメリカなどでクリスチャンが増えている。しかし、そこにはいろいろな問題が生じている。聖書の真理や福音が変質して行きつつあるのである。(これをシンクレティズム”宗教混交”という)
元来の聖書の教えが汚染され、「繁栄の神学」「富と健康の神学」が教会で語られ、そうした教会が栄えているのである。
御利益をうたい大衆的な雰囲気で、大衆的な人々に受け入れられている。
しかし、どんなにそんな手法で成功したとしても、その成功、富、繁栄は、むさぼりに過ぎない。ただ、多くの教会やクリスチャンたちは、それを批判しようとせず、沈黙を守っている。
来月行われるセミナーは、初代教会にも同じような傾向を見出したパウロが、真の医者のように躊躇なく指摘しているところから学ぼうというのである。キリスト教的な視点から「不品行」「むさぼり」「汚れ」とはどういう事なのか?また、それらはどのように診断すれば良いのか?を参加者の皆さんと学び合おうというセミナーである。
教会という名のもとに、信徒はガンに侵されているような生活をし、指導者はまぎらわしいメッセージを語る。キリスト教では否定されている「欲望」や「不品行」や「むさぼり」を促す神学。神様のいのちから遠く離れた「倫理」を語るメッセージ。
教会でなされる「預言(メッセージ)」はよくよく吟味され、分析され、評価されなければならない。
「偶像礼拝」とは、木や石の像を拝むことだけではない。もっと本質的なことである。神のいのちから離れている。元来「肉にある生活」と「御霊にある生活」は天と地の差があるものである。まず教会のリーダーたちこそ「診断」「評価」される必要がある。
5:5,6
でパウロは、神の怒りと審判に言及し、私たちがキリストの贖罪に根ざし、正しい生活に邁進するように勧めている。御国を相続するための判断基準とは何なのか?神様はそうした私たちの行くべきゴールをはっきりと定めておられるのである。
むなしい言葉の羅列の集会、人を集めるためには手段も選ばず、目的は教会を大きくすることだけ・・・こんな集会はガン細胞を転移させているだけに過ぎない。
私たちはキリスト者としての「仲間づくり」の倫理・節度―交わり・協力の間合い・距離間をわきまえる必要がある。そして、いのちの源が何処にあるのかを確認しつつ日々歩む事が大切である。(仁美記)
5/21b【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「終末論」関連講演―アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー講演:「信徒セミナー
世の終わりと教会の霊性」を再生リストの一番下に掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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このたび「福音主義終末論: 再考―
宇田・エリクソン神学の脈絡において」をテーマとした教職セミナー開催に伴い、安黒務先生を講師にお迎えしての信徒セミナーを企画しました。昨今の日本や世界を取り巻く状況を思うと、クリスチャンは聖書から世の終わりについて深く学ぶ必要を感じます。また、世の終わりに向けて、共同体としての教会の霊性はどう関わっていくかを教えていただきます。
【講演レジメ】
http://aguro.jp.net/d/ici/20121001-2_AST_resume_all.pdf
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2012.htm#Note-026
5/21a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 13_1-18 「ここに聖徒の忍耐と信仰がある」(
再生リスト、最下部)https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録13章】
この章は、2匹の獣についての章である。
13:1
「海から上がってきた獣」ここに書かれた「獣」という言葉は、国家の野獣性を象徴しており、10本の角と7つの頭とは、歴史上、次々と台頭した権力者や勢力を表している。
13:2 ここに書かれている事は、ダニエル書7章のダニエルが見た夢「4頭の獣」が、背景にあると考えられる。
獅子は百獣の王である「バビロン帝国」
熊はバビロン帝国を滅ぼした「メディア・ペルシャ帝国」
この国は、比較的緩やかな自由をもたらした国であった。それ故、イスラエルの民は国へ帰り、自分たちの宗教を復活することが出来た。
ひょうは「ギリシャ帝国」アレキサンダー大王に率いられた国であり、ひょうの様に凄まじい速さで、中東からアジアまで領土を広げた。その結果として文化交流も盛んであった。
13:3
そして、ここに書かれているのは「ローマ帝国」歴史上かつてないほどの強大な帝国であった。しかし、「その頭のうちの1つは打ち殺されたが・・・」とあるように、皇帝ネロは自殺に追い込まれた。そのため、ローマ帝国は一時的に混乱状態となったが、ドミティアヌス帝によって立ち直ることが出来た。そして、残念なことに、クリスチャンへの迫害は続くこととなった。
13:4
あまりにも強大な皇帝の権力のために、人々は「皇帝崇拝」を強制させられた。それが「彼らは獣をも拝んで」に表現されている。
13:11
「もう1匹の獣が地から上がって来た。それには小羊のような2本の角があり・・・」このもう1つの獣は、黙示録の後半にも出てくる「偽キリスト」である。
日本においては、「皇室神道」「国家神道」がそれに当たると考えられる。この問題の複雑さは、天皇を崇拝し、拝礼することが、「偶像礼拝」にはあたらず、「愛国心」の表明であると解釈されるからである。
第2次世界大戦中、日本キリスト教団の富田満は、全てのキリスト教会に、「神社参拝をするように!」との書簡を送り、協力を要請した。「小羊の王国」の著者である岡山英雄先生は、「もし、黙示録13章からのメッセージを、あの時代の教会の指導者たちが、正しく捉えていたら、キリスト教会の対応はもっと違うものであったのではないだろうか?」と書かれている。
そのような流れの中で、ごく1部のクリスチャンたちは抵抗したが、多くの人たちは気づかなかった。私たちクリスチャンはこの事を忘れてはならない。
13:12
靖国神社の大祭や、終戦記念日が近づく度に、「誰が参拝するのか?どういう立場で参拝するのか?」がいつも問題になる。そして、「日の丸・君が代」も学校で、スポーツの祭典で「国旗・国歌法」が決まってから、ますます締め付けが厳しくなっている。
戦争によって多くの犠牲を払い、「教育基本法」も「日本国憲法」も与えられた。しかし、それを変えようとする勢力は根強く働き続けている。
明治時代に作られた「大日本帝国憲法」は、天皇を拝礼する「神道中心」の国家のあり方が色濃い憲法である。その中には「もう1匹の獣」「偽キリスト」を礼拝する、国家のあり方「アイデンティティ」が働いている。
安倍首相の言葉である「美しい国、日本」は、本来は自由に宗教を選べる国の事でなくてはならない。終戦記念日には「靖国神社」ではなくて、兵士も一般市民も追悼される「無宗教の国立墓地」に、誰でも行けるようにすべきである。そのような施設であれば、どんな宗教者であっても、アジア諸国の首脳であっても、追悼することが出来る。
日本にキリスト教が伝来してから、キリシタン迫害、国家神道、内村鑑三不敬事件など、クリスチャンたちは迫害されて来た。1世紀から、歴史の中で、また、終末期と、クリスチャンたちは常に苦難と迫害の中にある。しかし、権力者や偽キリストに惑わされることなく、「本物の小羊の王国の民」であり続けたいと思う。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev13
5/19b[挿入講演]【日本福音主義神学会・西部部会・春季神学研究会議・分科会発表―安黒務『福音主義イスラエル論』論文紹介】
パワーポイント
(再生リスト・最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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エリクソン講義を軸にしつつ、臨機応変、[関連講義]あり[挿入講演]ありとなっている。アドバンスト・スクール・オブ・セオロジーでの講演(2012年)を自ら再視聴していて、「オランダ神学」に言及したことを思い出した。この講演準備の時に、福音主義の立場におけるイスラエル論についての文献を手広く収集し目配りさせていただいた。そしてその成果をいつかまとめたいと願っていた。その機会は意外に早くやってきた。この関係の集会やセミナーが巷に溢れ、多くの人が「羊飼いのいない羊のように」、その事態をどううけとめてよいのか迷い始めていたからである。それらの問いはわたしの元に「打ち寄せる波」のようにやってきた。その時に必要に迫られ「寝ずの番をする」かのようにしてまとめたのが『福音主義イスラエル論』論文(2014/10/31)であり、Kindle版(2015/3/7)であり、神学会発表(2015/4/20)である。その年は、全国研究会議(2014/11/4-6)の準備委員長としての奉仕、G.E.ラッド著『終末論』(20153/3刊行)の翻訳が重なり大変であった。しかし、わたしは大きな使命感と責任感を覚え、日夜休みなく続く”突貫工事”のように、寝る時間も惜しむかのようにして取り組んでいた。それゆえ、ここにこの講演を挿入させていただくことにした。
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わたしは今、約40年間、神学教師として奉仕してきた行程を振り返りつつ、その間に収録した講義・講演・説教を紹介させていただいている。ひとつひとつが客観的内容をもつ学問的な講義・講演であるとともに、それらの講義・講演が「真空」の中で語られたのではなく、「神学的かつ実際的な課題」と直面して語られたものであることを理解していただくことの重要性を自覚している。それは、わたしの取り組んだ課題は、多くの方々が「今、直面している課題」であり、「その克服の道筋」を必要としておられるからである。わたしは、毎年地域の「定期健康診断」を受けている。体全体の健康度を客観的な数値、検査によって確認しているのである。その意味で、ICIビデオ講義紹介は、わたし自身の「福音理解」の定期健診とその治療の記録でもあるので、講義の「経緯・背景・文脈」を、ストーリー性をもって分かち合うことにより、今は自覚症状のない方をも含め、定期健診と病巣を発見されたときの治療を励ますものとなると思う。
今は、Kindle版で電子本となっているこの論文『福音主義イスラエル論―神学的視点と社会学的視点からの一考察』は、ここ十年ほどに起きてきたことに対する神学教師としてのわたしのひとつの応答である。わたしが、まだ神学生であった頃、鳥羽でひとつの大きな集会があり、責任ある先生の人間関係のつながりから、わたしたちも参加することになった。その二泊三日の集会から帰って来たとき、院長であったスンベリ師は神学生全員を集めて「レストレーション運動の教えの間違いに気がつきましたか?」と問われた。スンベリ師は「レストレーション運動」に大きな懸念と強い警戒心をもっておられたことが印象として残っている。
あれから、約三十年を経た頃、ある先生方を通して「レストレーション運動」との交流が盛んになってきた。わたしの周囲では、今まであまり耳にしなかった教えや集会が開催されるようになり、不安に思う神学生や同僚、信徒の方々から問い合わせが殺到するようになった。ある教え子は「これまで対岸の火事のように受けとめていたものが、今や隣の家の火事となり、その延焼を防ぐのにやっきなっています」と嘆いていた。
わたしは、ひとりの、責任ある神学教師として、これらの問題をひとつひとつ、包括的な視野から検証していく責任を感じていた。そして神学校での講義や所属団体等の教職者会での講演に取り組んでいった。教職者でも神学的な理解力のある先生と実践に賜物のある先生とがおられ、一筋縄ではいかなかった。わたしが懸念している運動や教えの集会への参加は深まり、もはやブレーキはかけられないのかと心配した。また、「わたしが存命中はこのような警鐘を鳴らすことができるが、わたしが引退した後、わたしたちの群れや神学校は一体どのようになってしまうのだろうか」と懸念した。
そのときに、ひとつのことを示された「口伝であれば、伝言ゲームのように変質していく懸念の中、神の啓示は”文書化”されたのである」ということを。それで、わたしは、今見えるところでは、懸念されるいろんな動きがあるが、長い目で見て、「永続的な効果・効力」を発揮する基準的な本を翻訳し、治療に役立つ冊子を執筆し、それらを分かりやすく解説する講義・講演ビデオを作っていくことにした。この『福音主義イスラエル論』もその一冊である。多くの方に”治療薬”として用いていただけたら幸いである。
「レストレーション運動問題」も、ある先生方は何も問題がなかったかのように、広く深くどこまでも、あらゆる次元で交わりを深めていっておられるようであるが、わたしは「恩師スンベリ師の言葉」が心から離れない。約40年ぶりになるが、「レストレーション運動の教えの間違いに気がつきましたか?」という問いかけに、今年の『レストレーション運動の分析と評価』セミナー奉仕に向けた準備の中で、答えを出していきたい。
http://aguro.jp.net/d/file/11_diary.htm#20170616
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『福音主義イスラエル論―神学的・社会学的視点からの一考察』
2014年の夏、イスラエルの空にはミサイルが飛び交い、パレスチナの街には爆弾が雨あられのように降り注いでいた。そのような朝、ひとりの神学生からひとつの質問が発せられた―「イスラエルのために祈れ。そうすれば教会に祝福と繁栄がもたらされる。イスラエルを支援することは教会の責任である。」−「先生、わたしたちはこのような教えをどう理解すれば良いのでしょうか」と。確かに、旧約聖書にはそのような聖句が存在する。しかし「それらの聖句を、今日の世俗国家としてのイスラエルに当てはめて、そのように解釈し実践を促すことは、新約時代に生きるクリスチャンとして適切なことなのだろうか」―本論文は、そのような素朴な疑問に対するひとりの神学教師のささやかな応答である。
【目次を見る】
「福音主義イスラエル論」−神学的・社会学視点からの一考察―
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序
第一部: 神学軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何
A)「使徒的聖書解釈法とは何か」
A-1)共通の聖書観
A-2)二つの物語
A-3)二つの聖書解釈法
B)「使徒的イスラエル論」とは何か
B-1)マクロの背景―「イスラエル論に関する議論」のベクトル
B-2)ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル
B-3)使徒的イスラエル論とは何か
C)神学軸における「評価」
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第二部: 社会学軸:実践における「使徒的正統性」の反映の如何
A)考察の焦点としての「キリスト教シオニズム」
A-1)「キリスト教シオニズム」とは何か
A-2)キリスト教シオニズムの諸形態
B)使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素
B-1)使徒的実践に「適合しない要素」とは何か
B-2)使徒的実践に「適合する要素」とは何か
C)社会学軸における「評価」
結語:「福音主義イスラエル論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけ
https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E8%AB%96-%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E7%9A%84-%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E7%9A%84%E4%B8%80%E8%80%83%E5%AF%9F-%E5%AE%89%E9%BB%92-%E5%8B%99-ebook/dp/B00UEAEE5S/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1495061578&sr=8-3&keywords=%E5%AE%89%E9%BB%92%E5%8B%99
5/19a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 11_1-13
「エリヤとモーセのような二人の証人」(再生リスト、最下部)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録11章】
黙示録の8~10章は、「御使の7つのラッパ」つまりは災害について書かれている。これらは、読んでいただければ比較的分かり易いので、省かせていただく。
11:1,2
「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」とは、どういう事なのか?昔は、神殿や城壁を壊したり建て直したりする時に、その正確な大きさを測った。
神様の保護を必要とする「神の民」を正確に区別するため、このような表現がなされている。本当に神様を信じる民と、そうでない民をはっきりさせ、神様は「神の民」を徹底的に守ろうとされるのである。
社会が神様に背を向け、神様を愛する人たちが迫害にあった時代がある。日本が国家神道に傾いた時代、ドイツのナチス政権下、ロシアにおけるスターリンの時代などである。歴史の中で、大規模に、また、局所的に常にクリスチャンたちは迫害されてきたが、終末期には、大患難時代が訪れる。
42ヶ月とは、約3年半、聖なる都は踏みにじられると言う。エジプトでの出来事は430年、バビロン捕囚は70年、神様の預言はなされ、その通りになった。
11:3,4
大患難の中、神の民は導かれ、証しをする。オリーブの木は預言者、燭台は教会である。神にあらがい、反キリストの人たちが多くなる時代に、神様がおられる事を宣べ伝え、罪を悔い改めて天国へと導く「証人」が現れる。
11:5,6
どんな大患難の時代が来ても、神の民は保護される。エジプト時代のイスラエルの民の様に、バビロン時代のダニエルたちの様に・・・
「天を閉じる力」を持っていたのはエリヤの事であり、「水を血に変えた」のはモーゼであった。エリヤは偶像に染まっていたアハブ王に、「私の仕える神に祈れば、雨は降らない!」と断言した。そして、アハブ王がいくら偶像に雨乞いしても、雨は一滴も降らず、エリヤが彼の信ずる神に祈ったところ、滝のように雨が降った。モーゼも、何度も心変わりするパロに対し、神様の力をいただいて、何度も奇跡を行った。そして、最終的には、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、パロの兵士や戦車は海の藻屑と消えた。
大患難の時代に、神の民にはこのような力が注がれるというのである。
闇が深いほど、ロウソクの炎の光が輝くように、大患難の時代にクリスチャンたちの力強い証しが際立つ。政治、経済、文化の中に、神様の御旨がなるように、祈り続ける必要がある。
しかし、クリスチャンたちの断罪と攻撃は、この世を愛している人々には苦しみとなり、かえって乱れた淫乱な行いや、猛獣資本主義と言われるような「弱肉強食」の社会になる。そして、富と繁栄を追求した結果、環境は破壊され、自然は人間に牙をむき始める。
11:7~10
素晴らしい証しをする預言者たちを、悪の力が働いて殺してしまう。天的な視点では、人間の生死は問題ではない。この世の中では「死んだらおしまいだ」と言うが、天的な視点では、「キリストを礼拝するのか?」それとも、「悪に親しむのか?」の2つに1つである。人間にとって、「死」は1つの通過点に過ぎない。だから、神の民は殉教をも恐れないのである。
ソドムやエジプトのような巨大な都市で、クリスチャンはさらされる。クリスチャンとして生きるという事が、さらされる人生、キリストもそうであったように、天を見つめて真っ直ぐに生きる者はそうした迫害を受ける。
ここに出てくる「証人」も、侮辱される事を良しとし、人々の心に訴え、罪の悔い改めに導こうとする。
11:11
侮辱され、苦しめられた殉教者は、もう一度、神の息によってよみがえらされる。
11:12
そして、「ここに上れ」という、神の声によって、エノクやキリストが生きたまま肉体をもって天に挙げられたように、「証人たち」は天に挙げられる。それを彼らの敵は「見る」事になる。
終末の大患難の時代に、このような事が起こる。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev11
5/18c【落穂抄】「名は体を表す」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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YouTubeの再生サイトの紹介内容が多様になってきておりますので、再生サイト名を「日毎の、一宮基督教研究所の講義・講演録(Daily
- 1 Lecture, Weekly - 7 Lectures)」とさせていただきました。
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シリーズものなので、新しいものは「一番下」に掲載しています。新しい聖書の刊行の時期と重なり、出版社の校正作業が少し遅れています。刊行は少し先になるかもしれません。お祈りください。
M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』の講義ビデオを中心に、ICIの講義、講演、セミナー・ビデオを漸次、YouTubeで一部紹介しています。少しずつ紹介のスタイルに変化が出てきています。「名は体を表す」かたちにした方が良いと思い、サイトの名前を「日毎の、一宮基督教研究所の講義・講演録」と改めました。
ただ、ビデオ講義の半数はエリクソン神学講義です。聖書を片手に、刊行される『キリスト教教理入門』等
を開き、「牛の食事のように"反芻"」し、多様な「ICIビデオ講義」を繰り返し学んでいかれますと、あなたの「福音理解」の骨格、筋肉、神経は、バランスのとれたアーティキュレーション"有機体的接合性"をもって形成されていきます(エペソ4:12-16)。漸次掲載中のすべての講義(2003〜現在)を随時に視聴されたい方は、あぐろ(tsutomuaguro@gmail.com)にお問合せください。
5/18b【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「終末論」関連講演―アドバンスト・スクール・オブ・セオロジーにて:「福音主義終末論
: 再考」「02 ディスペンセーショナリズムの終末論」を再生リストの一番下に掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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【20121001
アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー講演:「福音主義終末論 : 再考」 02 ディスペンセーショナリズムの終末論】
いわゆるディスペンセーショナリズムの発生を歴史的に位置づけ、その歴史観と独自に体系化された終末論的見解およびその影響を検討する。
【講演レジメ】
http://aguro.jp.net/d/ici/20121001-2_AST_resume_all.pdf
【関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2012.htm#Note-019
5/18a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 7:1-17(MP3)「旧新約の真の神の民の軍隊」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録7章】
黙示録7章は、議論のある箇所である。また、6章から続くこの箇所は、大患難期の序章であると言われる。1節にある「四人の御使が地の四隅に立って、地の四方の風を堅く抑え、・・・」というのは、いつか来る大患難期の到来を、少しでも先送りし、1人でも多くの人々が救われることを願い、神様が忍耐しておられるということである。
7:2,3
患難期がなぜ先送りされているのかは、救われるべき人々が、その額に印を押されるのを神様は待っておられるのである。その印は「イエス様の印」である。
黙示録には、出エジプトの描写がここそこに見られるが、エジプトに起こった10の災いの最後に、神様は「家のかもいに血を塗る様に」とおっしゃった。そして、その印が付けられた家は災いが通り過ぎた。このかもいに付けられた血こそ、イエス・キリストの血「小羊の血」を予表している。同じエジプトにいながら、この印によって、人々は災難を逃れることができたのである。
7:4~8
「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、14万4千人であった。」この14万4千人という数字は、神様の完全数12が2回かけられ、10が3回かけられた数であり、「真の神の民全体」を象徴している。ある人たちは「これはイスラエル民族を指している」と言うが、ヤコブは「国外に散っている12の部族へ、挨拶を送ります。」(ヤコブ
1:1)と言っている様に、この真の神の民は、クリスチャンたちのことである。
民族的イスラエルの中にも「真の信仰者」がおり、新約時代にも、キリストを信じる異邦人を含めた「真の信仰者」がいる。そうかと思えば、ヨハネが言っているように、血縁的なユダヤ人が「サタンの会衆に属している」場合もある。
神学者ボウカムによれば、これは”
神の民の軍隊”の兵士の数を象徴していると言う。イスラエルの人口調査は、徴兵のためであり、20才以上の男子に限られた。
”
神の民の軍隊”、すなわち「真の神の民たち」は、いつの世も偶像礼拝を避け、不道徳に陥ることをせず、十字架を掲げて戦い抜いてきた。
7:1~8が、「神の真の民」である地上の”
神の民の軍隊”のことを書いていると考えれば、7:9~12は、天上における礼拝の様子が書かれている。ここでも黙示録の特徴として、時間も空間も一瞬のうちに、1世紀から終末へとワープしていくように感じる。旧約時代には民族としてのイスラエルに神様の啓示がなされたが、ペンテコステ以降は、全世界に神様の威光と尊厳があまねく明らかにされている。
7:13~17
天上で礼拝している民を見て、長老のひとりが「どこから来たのですか?」と問うた時、ヨハネは「あなたこそご存知です」と言った。白い衣を着た人たちは、大きな患難を抜けてきた人たちである。印を額に付けられた、イエス・キリストの十字架を信じて救われた人たちである。キリストが地上に来られる前は、はるかに十字架を望み見て救われた。そして、キリスト以後の人々は実際の十字架を信じて救われた。
1世紀において、バビロンにおいて、現在から終末期においても、クリスチャンたちは患難を通り抜け、これからも通り抜けようとしている。
イエス・キリストがサタンの策略により、十字架に処されたように見えても、そこで流された「小羊の血」で人々は衣を洗い、衣を白くしながら、十字架を経験していく。キリストと同じ経験をしながら、御国にたどり着くまで旅を続け、喜びをもって迎え入れられる。
地上で経験した、飢えや渇きなどは、天上において2度と経験することはない。天上で待っているのは、小羊であられる主と、永遠に続く喜びの祈りと礼拝である。(仁美記)
*
【解説・関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev07
日毎の、一宮チャペル "ショート" メッセージ
― 安黒仁美要約集】新約聖書・ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
_黙示録5章1-14節「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録5章】
5:1
~4「御座に座っておられる方の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、7つの封印で封じられていた。」巻物の内側にも外側にもにも、ギッシリと書かれた文字は「神様の御心、神様のご計画」である。この神様の御心は、「7つの封印」で完全に封じられ、誰も理解できる者がいなかった。
この世の中は、神様が支配しておられるというのに、患難があり、迫害がある。いったい、神様はどうしておられるのか?と人々は思っている。
ヨハネもまた、巻物を開く者が見当たらず、途方に暮れて激しく泣いていた。「すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、7つの封印を解くことができます。」ここに書かれた「獅子」「ダビデの根」こそ、メシアなるキリストのことである。イザヤ11:1
に書かれた「エッサイの根かぶから新芽が生え、その枝から若枝が出て実を結ぶ」、この預言の成就がキリストのあらわれであった。
しかし、実際に、キリストがこの地上に現れた時、ユダヤ人たちは、最初はこの預言の成就と喜び、ローマの支配からユダヤ人を救い出し、イスラエルを取り戻してくださると喜んだが、神様の御心はそのような「地上での勝利」ではなかった。
ユダヤ人は絶望し、律法学者や宗教指導者たちはやっかみや妬みから、キリストを十字架につけた。イザヤ53:3
にあるように「彼には私たちが慕うような見栄えもなく・・・」キリストは貧しい大工の子として生まれ、30年間歩まれた。その後約3年間、公の生涯を歩まれたが、そのお姿はユダヤ人の待ち望んだお姿ではなかった。
つまり、この巻物の中に秘められていたメシアは、「病を負い痛みを知っておられた。」天上における「完全なる勝利」の前に、私たちのメシアは「ほふられた子羊」としてこの地上に現れざるを得なかった。このように、神の御心を知り、理解することは難しいことなのである。
5:9,10
では、神様が地上を、人々を治めるとは、どのような方法なのであろうか?それは、「ほふられた子羊の方法」である。上から高圧的に従わせる方法ではなく、一見、敗北と見られるような形、「へりくだった方法」である。
5:12,13
天上の国においては、心からの賛美が溢れている。4つの生き物、長老たち、御使いたち、被造物全てが神を賛美している。強制された礼拝ではなく、心から感謝の溢れる礼拝、賛美である。
固く固く封じられた巻物を解く鍵は、「ほふられた子羊」の中にあった。そして、1世紀のクリスチャンたちも、ヨハネも、そして、今を生きる私たちも。人生の問題を解く鍵は「ほふられた子羊」すなわち「十字架にかかられたキリスト」の中にあるのである。
「ユダ族の獅子」であられるキリストが、勝利を取ってくださったにもかかわらず、地上においては困難がある。キリストが歩まれたように、そして、キリストのように私たちも生き、証しをする。苦難の只中で、神に守られ、キリストのような勝利を得ることが出来る。
そして、やがてキリストが再臨される時には、完全な勝利が実現する。
「ユダ族から出た獅子」は、この5章のみであるが、「ほふられた子羊」は28回も登場する。何度も何度も敗北と苦難を繰り返しながら、「7つの御霊」完全な御霊と共に、私たちは勝利へと導かれるのである。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev05
特別講演『(古典的)ディスペンセーション聖書解釈』の問題:参考資料―クラレンス・B・バス著『ディスペンセーション主義の背景』、他多数
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#20091006
2009.10.06:JEC牧師会研修基調講演と質疑応答…音声と映像、ホワイト・ボードにカラフルな板書、図示しながらの講演で、ディスペンセーション主義聖書解釈が生まれてきた歴史的背景、パウロ・ペテロ・ヤコプ・ヨハネの使徒たちとは異なった聖書解釈の原則から、構築される誤った「教会論」と誤った「終末論」が形成されていく経緯を丁寧に教えられます。ディスペンセーション主義聖書解釈方法の問題・教会論の誤り・終末論の誤り
構築されたディスペンセーション主義神学の影響を受けた神学を分解し、不良品を取り除き、再組み立てをしていく手順の明確化基調講演に対する質疑と応答*但し、ディスペンセーション主義の流れも、すぐれた教師陣を有する神学校レベルでは、古典的ディスペンセーション主義→修正ディスペンセーション主義→漸進的ディスペンセーション主義と変遷してきており、その内容は伝統的な福音主義の理解に接近してきている。しかし、大衆的な牧師や信徒レベルでは依然として、古典的ディスペンセーション主義の影響は強く残っている。それゆえ、C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』は、ディスペンセーション主義運動の初期の重要な段階についてのより良き理解に貢献している。(C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』の序文を書いたホイートン大学のS.R.スペンサー教授の分析)私の作成した上記の資料も、ディスペンセーション主義を批判するためのものではなく、建徳的な対話を呼び掛けているものと受けとめていただければ幸いである。
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*なお、教会へのひとつの召命としてのユダヤ人伝道の重要性を扱った、バランスのとれた包括的な文書としては、下記のものがある。この取り組みに関しては、アンバランスなものや、ディスペンセーションの教えの影響が濃厚なものなど、極端なものもあるので、注意が必要である。
このテーマを包括的な視野でとらえる鳥瞰図と健全な福音主義神学にたつ聖書解釈・イスラエルと教会の有機的一体的理解・患難期と千年王国と新天新地における普遍的な神の民の視点がきわめて大切である。その意味で、この小冊子とICIの資料を参考にして考えていただければ幸いである。
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●誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60
『ユダヤ人伝道−教会への召命−』
関西ミッション・リサーチ・センター:Tel. 078-221-6956
発売
いのちのことば社 定価1000円+税
神のユダヤ人との契約とユダヤ人伝道
ユダヤ社会とユダヤ人伝道
教会におけるユダヤ人信者
ユダヤ人伝道の際に直面する諸問題
ケーススタディ:ユダヤ人伝道における戦略とイニシアティブ
今日、私たちはは祈ります。天にまします我らの父よ。
付録A ローザンヌ・ユダヤ人伝道協議会(LCJE、LCJE日本支部)
付録B ユダヤ人伝道を支援するLCJEの声明
付録C ユダヤ人の人口
付録D 「ユダヤ人と異邦人の夫婦」への伝道−ケーススタディ
5/16c
【落穂抄20170516】■“Small CTE Home CTE”の時代―Amazing ! Miracle World
!
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家内が、昨年度の一宮チャペルの「エペソ人への手紙からの傾聴」シリーズで、要約の欠落していたMP3を視聴して書き起こしてくれた。現在は、昨秋、書き起こしてくれた「ヨハネの黙示録からの傾聴」シリーズを掲載しているので、また機会を見つけて掲載紹介していきたい。
少し前に、「一般の企業に勤めています会社の通勤電車の中等でFB
を始め楽しんでいます」と連絡を受けた。そのときに、「そういう時代になったのだ」と感慨深く、以前書いた、以下の論稿を思い出した。そして、そのときに描いていた夢が今実現していることに驚かされている。あの頃は、文字の世界を見ていたのが、音声の世界となり、今高画質ビデオも可能な時代となった。Amazing
! Miracle World !
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■“Small
CTE Home CTE”の時代
http://aguro.jp.net/d/file/p/pc04.htm
ネット時代の特徴のひとつは、“場所の制約”が消滅したということです。以前は株取引の中心はニューヨークのウォール街にいないと仕事にならなかったわけですが、今日、ディーリングルームはコネチカット州の森の中、湖の側に立つ古めかしい館の二階ということが可能なのです。
つまり今日の神学教育機能は、ネットワークに接続されていれば、いまやどこにいるか、つまりポストとか場所とか所属教派とか組織とかは問題ではなくなってきているのです。神学教育の“実質”を提供できる者が“学習者”という世界市場によって評価される、ある意味で公平な時代が到来したといえるのです。
オフィスに集まっていた仕事を、在宅で電子メールを通してする“Small Office Home
Office”の世界の到来は、私にとっては“Small CTE Home
CTE”の時代の到来と写っています。それは教会でも、神学校でも、出版書籍でもない、新しいタイプの継続神学教育(Continual
Theological
Education)の“機能”を担う働き、いわばベンチャー企業ならぬ“ベンチャー神学校”のような働きが展開される時代になっています。
私の取り組んでいます「一宮基督教研究所オンライン」では、米国の福音的なキリスト教大学や神学校で教派を超えて“基準的”組織神学書と評価されていますM.J.エリクソンの組織神学書をテキストにして段落単位の電子メール講義をほぼ毎日配信していて好評です。生徒の層は大学生・OL・ビジネスマン・主婦・医者・BSテレビ関係者・牧師・宣教師・他校神学生などあらゆる層にわたっており、地域も日本各地からアメリカ・オセアニア・アジア(香港・バングラディッシュ・インドネシア)などの各地に点在しています。そこでは、Q&A機能などを駆使しての親切で丁寧なフォロー、そして必ずしも詳細な解答を提供するのではなく、ヒントとか参考文献の紹介など、解答に至る道筋のガイド役を果すようにしています。
「一宮基督教研究所オンライン」は、年間数千万もかかる神学校運営経費は必要ありません。セルフ・サポートで運営しておりまして、一生涯“無料”での継続神学教育の受講が可能となっています(一部、有料の資料もあります)。また、現在は、NTTドコモの「iモード携帯電話」でも受講したり閲覧したりできるようになっています。わたしの夢は、特別な人が対象なのではなく、すべての年代、すべての階層のクリスチャンに提供される、いわば"太陽の熱(詩篇19:6)"のような恵みとしてのインターネットを通しての継続神学教育です。あらゆる人に提供されているこの機能を生かして、電車・車・バス停・喫茶店・道端のどこにいても、一生涯無料で"世界的スタンダードな神学の学び"を受講してもらうこと、またCS教師、各会のリーダー、聖職者の方々が、地球のどこにおられても携帯電話片手にメッセージの準備の助けを受けられる"教理的説教の材料の宝庫"を提供することです。
また近い将来には、光ファイバー網の敷設や衛星通信網の展開によって、大容量・高速通信のブーロードバンド時代が到来します。そのときには、神学校での私の講義をデジタル・カメラで実況中継し、全世界の家庭のデジタル・テレビで学べるようにしたいと考えています。(*この原稿は、神戸ルーテル神学校神学誌「宣教と神学」
No.22、AD 2000記念号に掲載させていただいたものです。)
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詩篇
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6
その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
5/15b【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ 4:1-11(MP3)「天にひとつの御座があり」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録4章】
黙示録1~3章は、1世紀の教会に当ててのヨハネからの手紙であった。4~19 章は、患難時代について書かれている。
4,5章は、天における御座、礼拝のことが書かれている。
*
4:1
天国の門、すなわち天のエルサレムの事が書かれている。1章にも書かれていたが、「ラッパのような声」とは、主が再臨され、教会が携挙される時の、神様の声ではない。ヨハネだけが、神の御前に経験させられた神の声である。
これと同じ事は、パウロも経験している。その書き方は、自分の事の様ではない様な書き方ではあるが、確かに、パウロは天上の世界を見せられたのである。
教会は、1世紀から今も終末までも、地上にあって患難の中で守られ、証しすることが使命とされている。もし、患難時代の前に、教会及びクリスチャンが、天に挙げられるとするならば、黙示録はクリスチャンにとって、関係のない書物という事になってしまう。
そうではなく、私たちクリスチャン全てに関係があることを、この1節は教えているのである。
*
4:2 ~4
御霊に感じて、第3の天、天上に挙げられたヨハネは、イエス様が天の右の座に座っておられるのを見た。しかし、神様ご自身を直接見たり触れたりする事は、人間にとって「死」を意味する。したがって、神様の臨在、栄光を表現するために、その印象を「宝石」に例えている。
24人の長老とは、民を取り仕切る、統治する存在である。イスラエルの12部族+12使徒を合わせた24の数ではないか?と言われている。彼らは神の民、天の国を統治する「天使的な存在」である。
ヨハネにこの事が見せられたのは、地上における絶望的な状況(迫害があり、悪がはびこっていること)に、クリスチャンたちが押しつぶされてしまわない様に、天の国の有り様を見せ、励まされたと考えられる。
*
4:5
ここで、ヨハネが経験した「稲妻や雷鳴」は、シナイ山で十戒を与えられたモーゼも、イザヤ、ダニエル、エゼキエルも経験している。7という数字は「完全」を表し、4は世界の四方、つまり「全地」を表している。
4:6 ~10
「ガラスの海」は、出エジプトの紅海が意識されている。ここに描かれたいろいろな出来事は、天上の実態を説明するものである。「目で満ちた4つの生き物」とは、一見、グロテスクの様にも思えるが、「前も後ろも目で満ちている」ということは、彼らは寝ずの番をしている、常に、天上の国の目配りをしている動物であり、知性に満ちその動きは素早い生き物であるということである。
これら4つの生き物は、神の御座の周りにおり、見張り人というだけでなく、礼拝者でもある。
*
ヨハネのいた1世紀から3世紀まで、地上ではクリスチャンたちは迫害を受けた。しかし、ヨハネに見せられたこの「黙示録」によって、天国には万物の創造者であり支配者である「神」がおられることを、クリスチャンたちは望み見ることが出来たのである。そして、地上においても4世紀には、キリスト教は皇帝によってローマ帝国の「国教」に定められることになる。
*
24人の長老たちは天の御国の内閣であり、礼拝者であり、天の世界の代理統治者でもある。また、神様の御わざを人間に仲介したりもする。受胎告知をするためにマリヤのもとを訪れた、天使の様な働きもする。
4:11
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と譽れと力を受けるにふさわしい方です。」に表されている様に、長老は神に創造された者であり、あくまでも神の代理人であって、その姿勢は礼拝者としてのあるべき姿を見せている。
*
私たちは、地上において、苦しみつつも主を仰ぎ礼拝している。そして、私たちが天上に行った時、そこでも礼拝者として生きる。そこで、私たちは神様の栄光と譽れのおこぼれにあずかることが出来る。
今は、地上において、「天に神の御心がなるように、地上においても行われるように」と祈る日々である。(仁美記)
*
【解説・関連記述】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev04
5/15a【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】特別講義:ディスペンセーション問題三部作
A-B:090925b k01 ディスペンセーション問題三部作A-B :
「黙示録研究―鳥瞰図・字義主義・聖書解釈」を再生リストの一番下に掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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特別講義:ディスペンセーション問題三部作
A-B:090925b k01 ディスペンセーション問題三部作A-B : 「黙示録研究―鳥瞰図・字義主義・聖書解釈」
『イスラエルと教会』DVDU:2009.09.25
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#20090925
90分集中講義
@歴史的鳥瞰図
A字義主義の問題
B患難期と教会
C聖書解釈の原則
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【ディスペンセーション問題三部作―作成の経緯】
この三部作の取り組みの出発点となった経緯は、2009年6月2日の記述から教えられる。関心のある方は、この日より2009年度全体のICI日誌を読んでいただきたい。わたしが、日本の諸教会で起ころうとしている何を懸念し、将来起こり得る大きな問題を未然に防ごうと取り組んだのかを見ていただき、それぞれ置かれている状況に生かしていただけたら幸いである。
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#20090602
5/14a【日毎の、一宮チャペル "ショート"
メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
3:1-22(MP3)「全世界への試練の時には、あなたを守ろう」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【黙示録 3章】
黙示録2,3章は、小アジアにある7つの教会に、ヨハネが送った手紙である。それぞれの教会に特徴がある。
1~6節に書かれた、サルデスは古代ルデア王国の首都で、「アルテミス」という大きな神殿があった。
7~13節には、フィラデルフィアという街の名前があり、そこにはお酒の神様「リオニソス」という神が祀られていた。
14~22節には、ラオデキアという街の事が書かれ、金融業、毛織物、目薬など、産業豊かな街であった。豊かであるが故の盲点について、ヨハネは語っている。
*
7節に、「ダビデの鍵」という言葉が出てくるが、ダビデの町の鍵とは、「エルサレム」の事である。昔の都市は城壁によって取り囲まれ、夜になると門の鍵を閉め、その町を守っていた。だれも閉じることの出来ない門とは「天国の門」「天のエルサレムの門」「パラダイスの門」の事である。
イエス・キリストが、天国の門の鍵を持っておられる。なぜならば、キリストの十字架の贖いを通して、人々は救われ、行いによらずキリストの血によって、天国の門に入れられるからである。
*
この黙示録が書かれた1世紀は、ローマ帝国の支配下にあり、皇帝が神のように崇められ、「皇帝崇拝」の時代であった。それゆえに、キリストを信じ、偶像礼拝を避けて生きるという事は、たやすい事ではなかった。しかし、クリスチャンたちは偶像礼拝をせず、迫害にもめげることなく、勇敢に生きた。
*
9節には、ユダヤ人のことが書かれている。ヨハネは厳しい言葉を用いている。「サタンの会衆に属する者」、要するに、メシアであるキリストを拒否して生きている者ということである。本来なら、キリストによって救われるべきユダヤ人たちが、クリスチャンを迫害し、告発している。パウロもそうして、告発され殉教した。そのため、ヨハネは厳しい言葉を浴びせている。
私たち日本人は、「ユダヤ人」と聞くと、旧約聖書の専門家のように受けとめるが、みんなが皆専門家ではない。その証拠に、キリスト教の異端は、ユダヤ的な聖書解釈の歪みや間違いから生まれている場合が多い。
*
「真のユダヤ人」というのは、アブラハムから生まれた者(血縁的ユダヤ人)ということではない。イサクから出た者、要するに「イエス・キリストを信じる者」が「真のユダヤ人」ということになる。血縁的なことだけで、自分は「真のユダヤ人」であるという者は、自称しているだけであって、「真の神の民」ではなく虚構の世界に生きていることになる。
*
10節、1世紀のローマ帝国の迫害の下にある、クリスチャンの忍耐について書かれている。黙示録だけではなく、聖書の中には、試練に対するクリスチャンの原則、また、本質が書かれている。「神の言葉を守り、キリストを否まなかった人々について・・・」それは、1世紀のことだけではなく、「終末における大患難の時」のことでもある。
ギリシャ語で「エクフューゴー」という言葉がある。~の只中でという意味である。初代クリスチャンたちから現在のクリスチャンたちまで、そして、大患難の時代のクリスチャンたちも、神様は苦難の只中で、「あなたを守ろう」と言ってくださる。
*
誤った終末解釈に、「患難の前にクリスチャンは、天に引き上げられ、患難を通るのは、イスラエルの民とクリスチャンではない人たちだけである。」というものがある。しかし、これは間違っている。なぜなら「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と書いてある。
イエス様ご自身も、エルサレムの陥落と終末について語られた。「その時は、世が始まってから今までなかったようなひどい苦難がある。」と・・・しかし、その只中でクリスチャンたちは証しし、保護されると・・・これらの苦難の日の後、人の子は再臨され、宗教者全体が(ユダヤ人もクリスチャンもキリストを信じる者は皆)天国に入れられると言われた。
世の終わりの時、背教の者が現れ、不法の者が来て、地上のクリスチャンたちは試練の時を迎える。
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev03
2017年05月14日
新約聖書エペソ人への手紙06::02-03(MP3
/ YouTube)「あなたの父母を敬え―"母の日"のもう一つの意味」(母の日礼拝)
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今日は「母の日」である。5月の第2聖日が「母の日」と定められているのだが、そのルーツをたどっていくと、あることにたどりついた。
アメリカの南北戦争直後に、女性参政権運動家の女性が、「今後は2度と夫や子供を戦場に送るのは拒否しよう!」と「母の日宣言」を発表した。
彼女の死後、彼女の娘が1907年5月12日に、亡き母を偲び、教会の記念会で母の好きな白いカーネーションを贈った。そのことが全米に広がり、今や全世界に広がっているのである。
私が驚いたのは、母親の凄さである。父親、男性というものは、ある意味「戦いも止むを得ず」と考えてしまうところがある。しかし、母親は自分が産み出した子供に対して、自分の身体の一部のように愛情を抱き、戦場で失うことの悲しさを誰よりも知っているということである。だからこそ、夫や子供を戦場に送ることは、断固として認めることは出来ないとの決意の日が「母の日」なのである。
今の世界は無制限に戦いを挑む傾向が見られる。リーダーも強い発言をする者が評価される時代でもある。しかし、平和を願って戦った母の姿を思う時、無意味な犠牲を強いる戦争は極限まで避けたいものである。
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6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第1の戒めであり、約束を伴ったものです。と書かれている。ここには神様の御性質・御思いが隠されている。
モーセの十戒において、最初に書かれているのは「神と人との関係」である。また、イエス様も十戒の前半を要約して「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ!」と言われ、後半を要約して「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ!」と言われた。
十戒もイエス様の言葉も、第1には神を愛する事をあげ、縦の関係を表している。そして、第2に、隣人や身近な人々を愛するという横の関係を表している。
そこには、神の愛、御子イエスの十字架の愛を知る事なしに、本当の意味で隣人を愛することは出来ない、私たちは自己中心なものである事を教えている。
これからの季節、田植えの行われる時期であるが、もし雨が降らなければ田植えをすることは出来ない。乾ききった土が雨に潤され柔らかくされ、田んぼに並々と水が張られなければ、植えられた苗は育つことが出来ない。
それと同じ様に、私たちの心にまず神の愛が注がれ満たされる事なしに、他の人を愛することは出来ないのである。
モーセの十戒では、安息日の規定の直後に「あなたの父と母を敬え。」と書かれている。ここには、神様の御思い・秩序が隠されている。
「愛」というと、私たちは直ぐに「男女の愛」を思い浮かべる。創世記にも「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)と書かれている。
人間を見てみると、自分自身を愛する「自己愛」と「男女の愛」は、自然にしていても発生するもの、他の愛の前提となるものである。だからあえてそれには触れず、周囲の人間関係の最も基本のもの「あなたの父と母を敬え」を第1の戒めとしているのである。
十戒の前半で、神様を崇拝し、尊敬し、畏敬の念を抱くことは、人間として最も基本の事とし、その次に、一人一人に命を与える管となった父母を尊敬することは、人間としてのスタートでありルーツを大切にすることでもある。
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先日「赤ちゃんポスト」のことが話題になり、その病院の看護師であった方がこう話されていた。あの制度の1番の問題は、「赤ちゃんの出自がわからなくなることである。」と言われていた。大人になって自分の出自を調べたくなっても、調べられない。どの様な親から生まれ、どういういきさつでその様な結果になったのか?自分の存在の意味・価値・ルーツを明らかにすることが、永遠に出来ないのである。自分の出自を調べることで、さらに悲しい事実を知ることになるのかも知れないが、そこを再出発点として前を向いて歩み始めることが出来るというのである。
「あなたの父と母を敬え」という言葉は、あなたの出自に敬意を払えるようにしなさい!ということになる。あなたの人生にルーツと価値を与える、神様からの本質的なメッセージである。
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罪を犯し、それを責められた時、ダビデも詩篇51編でこう言っている。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(51:5)辛い現実にダビデは直面している。しかし、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(51:7,10)現実を直視し責められることがあっても、神によって赦され、たち直ることが出来る事を、ダビデは教えられた。
また、詩篇139編には、神様が昔から御計画をもって、ある時ある親から、一人一人は生まれることになっているというのである。そこには「創造の業」がある。
神様はこの世に私たちを生まれさせただけではなく、私たちの人生にシナリオを持っておられる。神様の全知全能の力が、私たちの人生に働いているのである。
朝目覚める時、主の臨在の中に目覚め、夜眠る時、主の臨在の中に眠る。私たちは肉の両親を敬いながら、霊の父である主とともに生きるのである。(仁美記)
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【日毎の、一宮チャペル "ショート" メッセージ /
安黒仁美要約集】(再生リスト)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
5/13d【落穂抄20170513】『福音主義神学』(歴史神学)シリーズ:テキスト―宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』『現代福音主義神学総説』等―A「使徒的キリスト教と福音派」
https://www.youtube.com/watch?v=GAk5lEKOySE&t=53s
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この講義シリーズについての「ストーリー」を少しお分かちしたい。わたしが最初に、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を読んだのは、大阪府の最南端、岬公園のすぐ近くにある「JEC岬福音教会」の牧師をしている時であった。わたしは、関西学院大学を卒業し、関西聖書学院で学び、岬福音教会に赴任しつつ、母校関西聖書学院で教鞭をとっていた。その頃のわたしの教育内容は恥ずかしながら「雑学」の域を出ていないように感じていた。独学で神学教師としての力量をつけることに孤軍奮闘、努力していた。
そのような時に、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』を手にした。そして、魅入られるように読みふけった。わたしは、神学教育をする者はその福音理解に関する「ルーツとアイデンティティ」に詳しくないといけないと思っていた。そのようなわたしにとって必要な内容の「輪郭とエッセンス」がその本には満ちていた。
それまでのわたしは、戦後50年間のスウェーデン・バプテスト系オレブロ・ミッション宣教師と第一世代のJEC牧師たちのことしか念頭になく、戦後のさまざまな運動や教えの中で思考していたように思う。しかし、宇田進師からは、二千年の教会史の伝統と遺産の中で思索することの大切さを深く教えられた。
それまでは、海外に留学しての継続神学研修を考え準備していたが、この本と『ポスト・ローザンヌ』を読んで、ここにわたしが必要とする学びがあると確信し、祝福されていた岬福音教会の牧師を辞させていただき、共立基督教研究所で三年間、宇田進師のひざ元で学ぶ機会を得た。
共立基督教研究所への内地留学の後、郷里で開拓しつつ、関西聖書学院の教壇に再び立った。そのときに、「教理史」担当の先生が欠けていたので、「教理史」の科目の相談を受けた。いろいろお聞きし、わたしは『福音主義神学』という名前で、歴史神学分野の「教会史」「教理史」の内容の輪郭とエッセンスを総合しつつ、神学生ひとりひとりの教派・教会の歴史的ルーツと神学的アイデンティティを探る材料を提供する講義をさせていただくことを提案し、了承された。この科目は関西聖書学院で数年間教えさせていただき、多くの神学生に自らの教派・教会のルーツとアイデンティテイについて資料を収集させ、それぞれレポートを書いてもらった。神学生たちは素直で、みるみるうちに「ゆがんだ理解」を修正し、「健全な理解」へと成長させられていった。
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わたしも、JECやKBIのルーツとアイデンティティについての小論文や一年間にわたるJECニュース連載記事を書かせていただいたりした。戦後50年間の視野からだけでなく、教会史二千年間の視野の中に、正しく位置づけることは、「分派的な偏見・誤り」に陥りやすい世界で、自らの神学の健全な成熟ために欠かせない作業であると確信している。これらの神学資料が、地道に読み続けられ、健全なルーツとアイデンティティに根差した伝道と教会形成のあり方を模索されることにより、今日さまざまな教えや運動に翻弄される時代にあって、"錨"また"座標軸"の役割を果たし続けることを期待している。
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【福音主義神学(歴史神学)】
http://aguro.jp.net/d/file/k/kbi_eth00.htm
【比較宗教学(宗教の神学)】
http://aguro.jp.net/d/file/k/kbi_reli00.htm
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ただ、この「福音主義神学」と「比較宗教学」の科目は、わたしが「組織神学」の科目を担当させていただくようになって、休止されることとなった。多くの教師陣を抱える中で、わたしの担当する講義時間が多くなりすぎていたからである。しかし、わたしはそれらの事情を超えて、これらの科目の重要性を考えていたので、後に生駒聖書学院で”復活”させていただくことにした。そのことによって、ビデオ収録が可能となり、今皆さんに紹介することができている。このビデオによる提供というスタイルは、ある意味未来永劫、YouTubeを通して「地の果て」まで、「世の終わり」まで、講義を提供し続けることができるという可能性を開いているように思わせられている。生駒聖書学院でそのような機会を与えてくださった栄義之校長に、心より感謝している。
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以下は、宇田進師の論稿からの抜粋である。
【日本の福音主義神学に未来はあるか】
http://aguro.jp.net/d/pd/pdf/intro/intro_future_in_evangelicals.pdf
まず、基本的なこととして、今日、福音主義神学はただ過去の伝統と遺産を忠実に継承・
反復するだけでなく、過去・現在・未来を展望しつつ“Authentic”(真性)な福音主義神
学の展開を求められている。期待されているこの“Authentic”(真性)な福音主義神学は、
根本的には次の四つの特質によって特色づけられていなければならないであろう。 @
真に聖書的、福音的であること。『聖書的適格性』の問題。神のことばである聖書に 向かっていつも従順であること。 A
分派的自己流であってはならず、公教会的であること(ベルギー信条 29 条)。「あら
ゆるところで、常に、すべてによって信じられてきた(五世紀のレランのヴィンケン
チュース)」ところの『正統信仰の公同性』を反映するものでなければならない。 B
『現代的適応性』と四つに取り組むものでなければならない。
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【使徒的キリスト教と福音派】講義アウトライン
http://aguro.jp.net/d/file/e/eth22.htm
5/13c【落穂抄
20170513】「礼拝説教シリーズ」の ”傾聴”
という言葉の意味―聖書が語ろうとしていることに自己を空しくして徹頭徹尾耳を傾けること
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礼拝説教のシリーズで”傾聴”という言葉を使用している。ここにわたしの説教に対する考え方がある。宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』(p.54-55)に以下の記述がある。
「さて、福音と言う場合、喜ばしい知らせなら何でもよいというわけではない。聖書が福音という場合、それはほかでもなく初代教会の使徒たちが宣べ伝えた使信(メッセージ)そのものを指している。現代は、方法とか、成果とか、実存ということが強調され優先する時代である。
しかしストットは、ローザンヌ会議の講演の中で第一世紀の使徒たちの宣教にふれ、その中でもっとも中心的なことは、実は方法でも成果でもなく、使信(メーセージ)そのものであったと語って注目された」。
今日、フェスティバル(祭典)スタイルのビッグな催しが目白押しである。少子高齢化、宣教戦線の硬直を背景にそのような取り組みの価値・意味、必要性・重要性は認識させられており、高く評価している。ただ、ひとつ懸念させられていることがある。それは、米国の社会学者ピーター・バーガーがその著書『聖会の騒音』で指摘している点である。華々しい祭典のど真ん中で、意味と意義ある”真のメッセージ”が語られ、人々の心に、そして社会に健全な”地の塩・世の光”としての影響を及ぼしているだろうかという―問いである。彼は、神学的視点と社会学的視点のふたつの視点で分析・評価する手法を紹介している。祭典というメソドロジー(方法論)に、「福音の本質的使信とその優れた適用」が語られたら、それは素晴らしい評価を受けることになると思う。
語られるべき福音のあり方について、ひとつ参考になることがティンデル聖書註解シリーズ『エペソ人への手紙』(p.1,8)に記されているので紹介したい。
「イエスは、申命8:3の『人は主の口から出るすべてのもので生きる』とのみことばを用いてサタンの誘惑を退けられた。今も、『試みる者』は執拗にわれわれに迫り、人の魂を生かすものがもっと別のところにあるかのようにささやく。
これに加え、われわれも、しばしば律法の詳細な規定を見失って、神のみことば(十戒)を納めた『契約の箱』の運用法(運び方)を誤り、手を伸ばしてそれを押さえようとする。だが、もしそうすれば、それは不遜な『割り込み』となる。…
改めて、教会を形成するいのちの群れのために、神のみことばへの全面的な信頼に基づいて、それが常に健全に説き明かされる必要を覚える。…聖書が語ろうとしていることに自己を空しくして徹頭徹尾耳を傾けること…テキストの意味を正確に理解し説明すること…、ここに講壇の説教の使命があり」と。
このディンデル・シリーズの「エペソ人への手紙」注解を執筆したフランシス・フォールケスは、エペソ人への手紙に関する書物の豊かさを述べ、近年の優れた書物として幾つかを紹介しており参考になる。わたしが「エペソ人への手紙」傾聴シリーズで参考にしているのは、Anchor
BibleのMarkus Barthによる二巻の註解書とJ.R.W.StottのThe Message of
Ephesians(The Bible Speaks Today
シリーズ)である。フォールケスは、ストットの著作を「釈義の詳細に対する関心と、エペソ人への手紙の教えの私たちの現在の状況への適用を見事に調和させている」と解説している。
わたしは、ストットの釈義と優れた適用を含むメッセージの中に、「聖書的・公同的・今日的・学問的」という健全な神学と福音理解において欠かすことのできない四つの”栄養素”がバランスよく含まれていることに感動、また感嘆している。
わたしは、ストットの足元にも及ばない小さなしもべに過ぎないが、このようなあり方を理想、また目標として一歩ずつ成長させられていきたいと願っている。また、ICIのホームページ、FaceBook、YouTube
等を通して学んでくださっている皆さんにはそのようなあり方を共に追い求めていっていただきたい、その一助にしていただきたいと願っている。
5/13b【日毎の、一宮チャペル
"ショート" メッセージ ― 安黒仁美要約集】新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
2:1-11(MP3)「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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表題の"日毎の"は、実はJ.R.W.ストット著『日毎の聖書』から着想を得て、名づけました。わたしは、講義・講演・メッセージをどこまでも広く、深く、高く、長く、分かち合うことを使命として受けとめていますが、家内はその正反対で、フェイスブックの仲間も少人数の親しい友人だけでやっています。その家内が『日毎の聖書』から教えられたことを分かち合っており、わたしもそれから教えられています。
振り返れば、大学生時代の卒論も、ストット著『聖書理解のためのガイドブック』をフレームワークにして、英国の産業革命以前・産業革命・以後の、英国の教会における"天職意識"の変遷―天職神授説、天職選択説、天職意識喪失の時代―について書きました。
そして今、エペソ書のシリーズはストット著『エペソ人への手紙のメッセージ』を参考にしています。わたしの説教の師は、「J.R.W.ストット」その人であるといっても過言ではないと思います。今も、徒弟制度の師と弟子のように、彼の足元で学ばさせていただいています。
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【黙示録2章】
黙示録の2~3章は、小アジアにある7つの教会に向けての、ヨハネからのメッセージである。小アジアとは、今のトルコのギリシャ寄りの部分である。大都市であり、港町であり、エーゲ海に面したエペソを中心に、半径160キロ以内にこの7つの教会は全てある。
*
1節に出てくる「御使い」とは何か?教会の代表者や監督、または、メッセンジャーと呼ばれる伝達をする人たちの事なのか?それとも、「黙示文学」に登場する守護天使の事なのか?
*
この手紙の特徴として、繰り返しが見られる。7,11,17,29節に見られる「耳のある者は」という言葉は、この手紙が送られた7つの教会全てに、大切な事を伝えようとしているという事に注意を向けさせている。
これら7つの教会の状況は、常にパウロやヨハネに伝えられてきた。その結果としての、パウロの13通の手紙であり、この黙示録もヨハネからの手紙である。
*
2・3節には、これらの教会の肯定的な評価が書かれている。最近、考えている事、導かれていることなどを全て把握し、評価しているのである。その1つとして「使徒と自称しているが・・・、その偽りを見抜いた」と・・・
現在、日本のキリスト教会にも、あるグループの存在が明らかになっている。「使徒職の復活」である。「使徒」には、いくつかの定義があり、狭い意味では、イエスから直接任命され、イエスを目撃することのできた「12使徒」がある。そして、広い意味では、巡回宣教師たちも「使徒」に含まれる場合もある。
しかし、近年では、名刺に「使徒○○」と書いておられる方がおられる。使徒という名称の中に「誤りのない先生」というイメージが先行してしまう。初代キリスト教会においても、パウロやバルナバのように立派な人たちもいたが、問題があるのに自ら「使徒」と名乗る者もあった。あちこちの教会に行っては、メッセージをしたり献金を受け取ったりする者もあった。
エペソの教会には、それを見分ける知恵があり、自称「使徒」を見抜く霊的洞察力や目を備えていたようである。
*
聖書の中には「旅人をもてなせ」という御言葉がある。しかし、あまりにも「無邪気」にまた「お人よし」に、そのような自称「使徒」のような人たちを鵜呑みにし、表面的な広告宣伝に騙されて、集会やキャンプに招いたりすれば、その人たちの蒔いた「間違った教え」に後から気付き、取り除こうとしても、大変な労力を要する事になってしまう。
試す力、偽りを見抜く力は、正しい健全な教えを徹底するために不可欠なものである。真札と偽札を見分ける力をつけるためには、まず、真札を徹底的に知らなければならない。色、手触り、ここかしこに隠された本物にしかない印、匂い、これらを習得すれば偽物はすぐに分かる。アメリカで問題になり、取り組まれた問題が、半世紀遅れた今、日本に広がり、私をはじめいろいろな神学者たちが取り組んでいる真っ最中である。
*
4節には、今度は7つの教会の「課題」が書かれている。
地上の教会に完璧な教会、教派、神学は無い。「非難すべきこと」「課題」の無い教会は無い。これらは、建てられた家の様に、絶えずリフォームする必要がある。どんなにしっかりと建てられた家でも、年数とともに歪みや隙間が出来るのは、致し方無いことである。
*
宗教改革の時のスローガンに「聖書に従って改革された教会は、絶えず聖書に従って改革されるべきである」というものがある。伝統や教派の個性を活かしながら、今議論のある「終末論」や「黙示録理解」のリフォームが必要な時代なのである。日本の社会は、人間関係を大切にするあまり、どの先生の話も受け入れて、とにかく仲良く、識別力は使わず、吟味しない傾向が強い。
*
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev02
5/13a【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】特別講義:ディスペンセーション問題三部作
A-A:「終末論:イスラエルと教会」特別講義 ―主要資料:岡山英雄著『小羊の王国』、他
多数」を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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特別講義:ディスペンセーション問題三部作
A-A:「終末論:イスラエルと教会」特別講義 ―主要資料:岡山英雄著『小羊の王国』、他 多数」
1. 日本史と黙示録
2. 黙示録全般と千年王国
3. 千年王国とイスラエル
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http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#20090915
5/12b【日毎の、一宮チャペル
"ショート" メッセージ・安黒仁美要約集】(再生リスト)
家内がせっかく起こしてくれた要約ですので、1章ずつ丁寧に紹介していきたいと思います。一日に一章、一週間で七つ掲載し、その後差し替えていきます。自動再生リスト形式ですので、新しく追加された章は一番下に掲載されます。すべてのメッセージを視聴したい方は、ICIサポーター登録されるとIDとPWで、随時すべてのビデオを視聴できます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
1:1-20(MP3)「私ヨハネは、パトモスという島にいた」
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字数オーバーで途切れている「要約」は、下記の『"Old"ナルドの香油』サイトの「説教メモ」の該当する日付の箇所で最後まで読めます。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~aguro/index.html
【ヨハネの黙示録 1章】
黙示録はAD81年~96年、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスが支配していた時代に、書かれた書物である。ネロに引き続き、ドミティアヌスもクリスチャンを迫害していた時代、今のトルコにあるエペソから南西に約90キロのエーゲ海にある、パトモスという島に流刑になったヨハネが書いた書物である。
*
黙示録の「黙」とは、覆い隠されている物ということである。そして、「示」は明らかにするということである。つまり、覆い隠された「神のご計画」が、ヨハネによってはっきりとこの世の中に示される書物だということである。
1章から3章は、7つの教会について、4章から19章は大患難時代について書かれている。
*
ヨハネが生きていた1世紀の時代は、ローマ帝国によって支配されていた。聖書は焼かれ、クリスチャンたちは迫害を受けた。私たちの国、日本においても、クリスチャン人口は1%と言われて久しいが、そんな私たちをも励まされるほど、初期のクリスチャンたちは圧倒的な国の力にくじけることなく、宣教の戦いを繰り広げていた。
*
1:3
「この預言のことばに、心をとめる人は幸いである。」黙示録についての本は、山のようにあり、極端なことが書かれている本が多い。私も何十冊も持っているが、自分とは無関係のこと、ずっと未来のことが書かれている様に思われて、今まであまり気にとめることはなかった。ハル・リンゼイの「地球最後の日」やティム・ラヘイの「レフト
・ビハインド」などは、その典型である。
そんな、好奇心をかき立てる様な、いかがわしい集会やセミナーが今や人気を博し、クリスチャンが大勢つめかけている姿は、なんとも嘆かわしい次第である。
*
本当に、黙示録に書かれているのはどういう事なのか?真剣に取り組む中、出会ったのが岡山英雄先生の「小羊の王国」という本であった。
この岡山先生は、1990年に牧師を辞められ、イギリスに私費で留学されている。奇しくも、同じ頃、私も共立研究所に内地留学していた事がある。生まれ年も同じ、終末論や黙示録の解釈も似ており、そういった意味でも、大変共感させられた方である。
岡山先生は、この本の他にも、「ローマ書」と「黙示録」のティンダルの註解書の翻訳にも取り組んでおられる。「小羊の王国」にそって黙示録を読んでいくと、濁っていた水が澄みきっていく様に、雑音にかき消されていた主旋律が、はっきりと聞こえてくるかの様な感覚に私はとらわれた。
*
4節にも、8節にも、「神である主、昔いまし、常にいまし、のちに来られる方」とある。「昔」それは過去的解釈、ヨハネが生きていた時代は、ローマ帝国の圧政にクリスチャンたちが呻いていた時代である。そして、「常に」は初代キリスト教の時代から、終末期に至る前の全歴史と解釈できる。そして、「常に」は未来の事であり、終末期に対する預言と考えられる。
1世紀の苦難と患難の中にある教会に向けて、ヨハネは励ましの言葉を送っている。そして、終末期にも、大患難時代がやってくる事を預言している。また、局所的には、「常に」宣教し続ける教会に対して迫害がある。どんな時代にも、迫害はある事を聖書は教え、忍耐をもって生きる事を勧めている。
*
誤った終末論を唱える人たちは「キリストの空中携挙の後、患難時代がやって来る」と言う。しかし、エジプトにいたイスラエルの民は、エジプトに10の災いが起きた時、すでにエジプトを脱出していたであろうか?いや、彼ら神の民はその災いの只中にいたのである。只中にいながら、神への信仰と「小羊の血」によって守られたのである。
だから、「患難時代の地上に、もはや教会はない」という教えは、間違いである。凄まじい患難の時代にも、教会はこの地上で、神によって守られるのである。
*
【研究資料情報】
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev01
5/12a【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「特別講義:ディスペンセーション問題三部作
@-B:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義
― 主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』」を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今週掲載している「ヨハネの黙示録講解説教シリーズ(CD全集)」に取り組んだ2009年度は、「ディスペンセーション問題三部作(DVD)」ができあがった年であった。@-Aは二年・三年生合同クラス(90分)で、@-Bは一年生のクラス(180分)で神学校で講義したものであり、内容は重なる部分があることを了解していただきたい。
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2009年度、わたしは、所属団体の支援のもと神学を専門的に学ばせていただいた者として、所属団体と関連神学校を誤った教えから守るため、「火中の栗を拾おう」と決意した。最初は「安黒先生が変なことを言いだした」と、理事会からクレームがつき、ある先生が代表して「有名な先生に対する誹謗中傷をやめなさい」との理事会の指示を伝えてこられた。しかし、わたしがわたしの懸念を神学的に丁寧に説明したところ、その先生は理解してくださり、逆に理事会を説得してくださり「牧師会で、安黒先生の説明を聞こう」という展開となっていった。ここがわたしの所属団体の素晴らしいところである。理解力の乏しい理事ばかりの団体であれば、教職者の立場を失っていたかもしれない。
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そして、その後の展開は素晴らしかった。牧師会で岡山英雄先生の「患難期と教会」(DVD-1)、『小羊の王国』(DVD-2)を紹介でき、後にはDVDを作成し配布できた。そして最後にクラレンス・バスの名著『ディスペンセーション主義の背景』からの特別講演と質疑応答(DVD-3)へとつながっていった。全員ではないが、所属団体の多くの教職者がわたしの講義・講演を理解し、賛同し、同じ立場に立つことを表明してくれた。この時、わたしは群れが誤った運動や教えから守られると確信した。
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2009年の春には、わたしの目に「暴風雨の海で沈没しそうに見えた船が、奇跡的に嵐の海を乗り越えた」のである。わたしは、この福音理解をより確かなものにするために、黙示録の講解シリーズ、ラッド著『終末論』の翻訳、『福音主義イスラエル論』の執筆・刊行、『キリスト教教理入門』翻訳へと導かれていった。
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そして、今「奉仕生涯の秋の季節」の年齢となり、これまでに作成してきたものを「土の中に埋めた」愚かなしもべではなく、これまでに作成してきた資料をYouTube等のインターネット・インフラを最大限活用しつつ、広く分かち合うことに努めている。今、わたしの期待をはるかに超えて多くの視聴者が与えられていることを神さまに感謝している。
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また多忙な生活の中、過去の音声資料から「分かりやすい要約」を起こしてくれている家内の賜物にも感謝している。語ってきたことを「申命記」のように”復誦”する機会を与えられ、一番恵まれているのは私自身かもしれない。
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主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』(日本福音主義神学会公式サイトに公開掲載されているので、プリント・アウトし、繰り返し熟読していただきたい)
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/031-2_in_printable.pdf
5/11【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「特別講義:ディスペンセーション問題三部作
@-A:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義
― 主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』」を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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このシリーズは、基本的にM.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』をテキストにした講義録である。ただテキストの主題に関連しつつ、その折々の必要を看取し、「特別講義」を挿入してきた。今週掲載している「ヨハネの黙示録講解説教シリーズ」に取り組んだ2009年度には、ディスペンセーション問題三部作ができあがり、「教えの風に吹き回され、波にもてあそばれ」ていた多くの方々にとって「折にかなった助け」(ヘブル4:16)となることができたことを感謝している。黙示録のシリーズを紹介に合わせ、その背景・文脈を理解していただくためにも、これらのビデオを紹介させていただきたい。
*
20090623_ディスペンセーション問題三部作
@:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義
― 主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』…黙示録理解の鍵は、患難期と教会の関係をどのように理解するのかにかかっている。下記の岡山英雄論文には、その鍵が分かりやすく解き明かされている。(福音主義神学会・公式サイトで公開中の論文)
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/031-2_in_printable.pdf
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2009年当時、わたしの周辺には「ディスペンーション主義聖書解釈」「ディスペンーション主義教会論」「ディスペンーション主義終末論」「ディスペンーション主義黙示録解釈」等の暴風雨が吹きすさんでおり、船は荒れる波間で翻弄されていた。わたしは、この問題の本質を明確に認識していたので、神学教師としての使命感から、危険をも顧みず、溺れる人たちを救出するために波間に飛び込んだ。そして、その結果として、「ディスペンセーション問題三部作」「ヨハネの黙示録講解説教シリーズ」ができあがっていった。
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ただ、溺れている人たちすべてを救出できたわけではなかった。多くの人を救い出すことができ、それらの人たちからは心よりの感謝のことばをいただいた。それらの方々は聖書解釈と説教に大きな変化を経験されたことと思う。しかし、その後も今も、まだ波間で溺れている人たちを救出しようと何度も海に飛び込むのであるが、差しのばす手を拒否されることもしばしばである。これがこの問題の難しいところである。しかし、真の医者が瀕死の状態の患者を見捨てられないように、神学教師としての使命感から、拒否されても、噛みつかれても、足を引っ張られても、「救いの手」を指し伸ばし続けざるを得ないのである。ここに、ICI(一宮基督教研究所)の使命があるように受けとめている。
5/10b
日毎の【一宮チャペル】ショート・メッセージ 傾聴シリーズ―紹介
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olpbZBz9zn-LZMCfMiSbKRp
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【一宮チャペル】『ヨハネの黙示録』傾聴シリーズは、2009年度に必要に迫られて作成していったシリーズである。2009年度は、日本各地でディスペンセーション主義聖書解釈に基づく「終末論」のセミナーが華々しく開催されていた年であったように思い起こす。わたしは、この「誤った聖書解釈法による聖書解釈と教会論と終末論」の克服に地道に取り組んできていたので、この暴風雨と荒波に翻弄される教職者・神学生・信徒の方々の姿を見て、大変驚かされた。それで、その年には、主に導かれて講義・講演を数多く行うとともに、「ディスペンセーション主義問題三部作」DVDを作成し、多くの方々を誤りから救い出そうと尽力した。周囲から数多くの石が飛んできたがひるむことはなかった。
そして、その一環として「ディスペンセーション主義聖書解釈に立つ黙示録解釈」ではない、「健全なヨハネの黙示録解釈」を提示する必要を示され、ひとつのサンプルとして「一宮チャペル」ショート・メッセージ集を作成していった。後に、知人・友人・教え子、そして見知らぬ人たちから、「わたしも、先生と同じ立場に立って黙示録の講解説教を始めました」とメールをいただいた時は嬉しかった。このシリーズは、2009年度のものであるが、家内仁美がMP3の録音から要約集を書き起こしてくれたので、さらに多くの方に読み、視聴していただきたく、今回はそれらをYouTubeでも広く分かち合うこととした。ひとりでも多く、誤った聖書解釈から救い出され、「健全な聖書解釈」を味わう者となっていただけたら幸いである。
2009.06.21
から、開始した「ヨハネの黙示録講解説教シリーズ」は福音派の中でも尊敬を集めている神学者たち− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場であり、それは「大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説」に立つ立場である。この立場にたって、黙示録を読むとどのような理解になるのかを味わっていただきたい。一度、じっくり傾聴されると、「確かに、このような解釈こそが、使徒ヨハネが黙示録で意図した意味であり、解釈である」と深く確信されることになると思う。そして、黙示録だけでなく、聖書全体を健全に読む読み方を身に着け、霊的に成長していかれることと思う。
そしてさらに、黙示録の学びを深めたい方は、下記のサイトで学びの資料が紹介されているので参考にしていただきたい。
http://aguro.jp.net/d/file/m/mi_2009.htm#Rev01
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安黒家の墓碑は、『五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書―復活の島』の中に掲載されている「長崎・五島・久賀島の永里97号墓」をサンプルとして作らせていただいた。そのデザインの美しさと背後にあるストーリーに感動し、日本国に生きる同じクリスチャンとして、いかなる苦難の中にあっても同じように生きる者とされたいと願って建碑させていただいた。文書のコピーが含まれているので、パスワードをつけさせていただいている。子供や孫や親戚の方への証しになればと作成した資料であるが、患難期の教会の苦難を扱う「ヨハネの黙示録」の写真にふさわしいかなと思い、写真の解説資料紹介を下記にリンクさせていただいた。
http://aguro.jp.net/d/ici/20110815_Erection_of_a_monument_formula-papers.pdf
(PW: aguro)
【一宮チャペル・礼拝メッセージ(YouTube)掲載サイト】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0olAxmwS_HCcuMI4cb9FiUmt
【一宮チャペル・礼拝メッセージ(MP3)掲載サイト】Since 1997
http://www2s.biglobe.ne.jp/~aguro/index.html
一節、一節を丁寧に解説するランニング・コメンタリー・スタイルのショート・メッセージのシリーズ。二ケ月に一度の高槻福音自由教会での礼拝説教の準備を重ね合わせたシリーズで、このシリーズでの収穫したものが高槻福音自由教会での『エペソ人への手紙』傾聴シリーズとして結実している。
5/10【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第一部:導入―03pm.ポストモダンと神学」(2004年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
「宇宙の合理性を信じる」モダニズム(近代主義)は、20世紀の品質証明書をもっていた。しかしながら、今日、モダンの視点に対して批判が増大してきている。その現れとして、ポストモダン運動が台頭し、神学を含む知的営為の全領域に影響を及ぼすことになってきた。ポストモダニズムを理解して、それがどういうものかを示し、それに応答する神学を建て上げることは、キリスト者にとって重要な課題である。ポストモダニズムのある側面は、聖書的なキリスト教神学と矛盾することなく、補佐するものと見られ、ある側面においては相反するものとなっている。キリスト教神学は、後者の対立する部分を拒否しつつ、前者の諸点を認め活用することが大切である。(『キリスト教教理入門』第二版より)
*
なお、エリクソンの著作集の分類と整理、特徴の解説は、アーノルド・ファスタッドの論稿「ミラード・J・エリクソンの著作に関する文献的エッセイ
」にあり、エリクソンの著作歴を立体的に理解する助けになる。⑴ 第一期:Christian Theology第一版は、The
New Evangelical
Theologyで示された神学的営為の青写真に沿い、根本主義”Fundamentalism”が内包する課題の克服が焦点とされている。⑵
第二期:Chiristian Theology
第二版では、ポストモダン時代到来への取り組みがなされ、新しい章「ポストモダンと神学」が追加されている。この時期にはその関連著作が多くなされている。⑶
第三期:Chiristian Theology
第三版では、ポストモダンは既知の事柄とされ、「ポストモダンと神学」の章は削除、各章の中に吸収され、再び第一版の「聖書のメッセージの本質とその今日化」の基本が”扇の要”として確認されている。また”扇の展開”として近年の神学における諸議論―贖罪、義認、予知の問題、そして新しい章「聖霊に関する近年の諸問題」が追記されている。
5/9【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第一部:導入―02.キリスト教のメッセージを今日化すること」(2004年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
+
「第一部:導入―02.キリスト教のメッセージを今日化すること」
変化の加速、また情報の爆発と断片化は、時代がゆっくりとしたスピードで進んでいた以前の数世紀にそうであったよりも、今日の世界において神学をすることをより難しいものにしている。重要なことは、二十一世紀において理解されうる用語で福音のメッセージをはっきり述べることである。その取り組みにおいて、ある神学者たちは表現の形式だけでなく、その内容まで変質させてきた。キリスト教のメッセージを今日化することの目標は、その内容と聖書的教理を保持しつつ、今日においてより理解しやすいものにすることである。五つの基準がそのメッセージの健全性を評価するために提示されている。
*
5/8【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第一部:導入―02.キリスト教のメッセージを今日化すること」(2004年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第一部:導入―02.キリスト教のメッセージを今日化すること」
変化の加速、また情報の爆発と断片化は、時代がゆっくりとしたスピードで進んでいた以前の数世紀にそうであったよりも、今日の世界において神学をすることをより難しいものにしている。重要なことは、二十一世紀において理解されうる用語で福音のメッセージをはっきり述べることである。その取り組みにおいて、ある神学者たちは表現の形式だけでなく、その内容まで変質させてきた。キリスト教のメッセージを今日化することの目標は、その内容と聖書的教理を保持しつつ、今日においてより理解しやすいものにすることである。五つの基準がそのメッセージの健全性を評価するために提示されている。
*
2004年度 kbi版 :
M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』
http://aguro.jp/d/ici-stvw/2004_kbi.pdf
5/8【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第一部:導入―01.神学とは何か」(2004年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第一部:導入―01.神学とは何か」
キリスト教神学は、聖書に啓示されている神を理解し、神が創造された被造物、とりわけ人間とその悲惨なありさま、そして神がその状態から如何に贖われるのか、について理解に努めるものである。神学は、その出発点として聖書を基盤としつつ、明確な方法論に基づき、最も有効性を発揮できるかたちで詳述しようとするものである。
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※漸次掲載中【2017年5月現在、千数百の講義・講演・メッセージのうち、約206ビデオをアップロード済】
http://aguro.jp.net/d/file/i/ici_stvw-list_all.html
の、2003年から現在までのすべてのビデオを随時視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
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再生リスト一覧(一般の方は、再生リストの中の「日毎のビデオ」のみを視聴できます。ICIサポーター登録者は、再生リストの「すべてのビデオ」を視聴できます。)
2004年度 kbi版 : M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』
http://aguro.jp/d/ici-stvw/2004_kbi.pdf
2017年05月07日
新約聖書エペソ人への手紙05:03-04(MP3
/ YouTube)「聖徒にふさわしく、むしろ感謝しなさい―神の賜物・祝福としての“性”」
5/7【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第九部:終末―40-42.終末論概論」「(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第40章 再臨とその結果
http://aguro.jp.net/d/po/pp/icd39pp.pdf
聖書は再臨の時に起こる三つの特殊な出来事を概説している。再臨という出来事そのもの以外に、復活もあり、それは最後の審判という出来事に先立つ。これらの出来事の目的は神の御手のもとにあり、それに向かって導かれるのもこのお方である。そして信仰者が神理解のうちに保持している希望は、これらの出来事に合わせて実現する。
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第41章 千年王国と患難時代についての見方
http://aguro.jp.net/d/po/pp/icd40pp.pdf
千年王国(the
millennium)とはイエス・キリストの地上での支配を指す。終わりの時代に関し、千年王国についての三つの見解が展開されてきた。無千年王国説とは、キリストの地上支配はないという立場である。後千年王国説とは、千年期はキリストの再臨に先立っていると見なすものである。最後に、前千年王国説とは、千年王国の直前に再臨があると主張するものである。前千年王国説は、患難時代と教会の役割についての論争も作り出してきた。患難期前再臨説を唱える者たちは、キリストは大患難が地上に来る前に教会を携挙すると信じている。反して、患難期後再臨説に立つ者たちは、キリストの再臨が大患難の後に起こると主張する。
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第42章 最終の状態
http://aguro.jp.net/d/po/pp/icd41pp.pdf
個々の人間の未来の、永遠の状態の如何は、現在与えられている人生でどのような決心をするかで決定される。義人には、主の臨在の中での永遠のいのちが結末として与えられる。悪人には、神の御前からの追放という永遠の刑罰が与えられる。義人に対する審判と悪人に対する審判の双方において、報酬または刑罰には程度差、もしくは諸段階が存在する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※漸次掲載中【2017年5月現在、千数百の講義・講演・メッセージのうち、約206ビデオをアップロード済】
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の、2003年から現在までのすべてのビデオを随時視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
5/6【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第九部:教会―39.導入的事柄と個人終末論」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第九部:教会―39.導入的事柄と個人終末論」
http://aguro.jp.net/d/po/pp/icd38pp.pdf
終末論の学びは、キリスト者の間に、事実上の逃避からその教理への完全な没頭まで、いろいろな反応を呼び起こす。どちらの極端も好ましくない。すべての個々人に、死という終末的現実が存在する。肉体の死にすべての人が関わっているが、信仰者でない者は霊的死をも経験する。中間状態という困難な問題に今日の三つの視点から取り組み、その問題に対する解決策を提示する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
5/5【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第八部:教会―38.教会の儀式―洗礼と聖餐」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第八部:教会―38.教会の儀式―洗礼と聖餐」
すべてのキリスト教会はバプテスマ式を執り行っているので、バプテスマが教会生活で果たす役割は重要である。キリスト者の異なる集団から、三つの基本的な見方が出されている。これらの問題を解決するために、バプテスマの意味、バプテスマの対象、バプテスマの様式を考察することが重要である。主の晩餐はキリスト者のどのグループにとってもきわめて重要な問題である。主の晩餐は、人がキリスト教信仰に入信することにおいてバプテスマが始めたことを継続させる。主の晩餐には四つの主要な見方があり、少なくとも三つの見方から提示されている、解決されなければならない問題が存在する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
5/4【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第八部:教会―37.教会の役割と政治」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第八部:教会―37.教会の役割と政治」
教会はこの世でキリストの働きを実行することをゆだねられている。これを達成するために、いくつかの機能が満たされなければならない。これらの機能のバランスのとれていることが、からだの健康と幸福にとって必須である。福音は教会の働きのまさに中心であり、教会のすべての機能に内在するものである。教会が広がるにつれて、教会政治のいくつかの形態が現れた。最も基本的な形態は監督制(episcopal)、長老制(presbyterian)、会衆制(congregational)、非統治制(nongovernment)の四つである。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
5/3【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第八部:教会―36.教会の本質」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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「第八部:教会―36.教会の本質」
教会は、信仰者の間の共同体的関係を表す、数少ない目に見える形態の一つである。教会の一致において意味されている幾つかの概念が存在する。聖書は教会を表現するためにたくさんのイメージを使用している。それらのイメージのうちで、重要度の高いものとして、神の民、キリストのからだ、聖霊の宮がある。イメージのそれぞれは教会について理解する上で役に立っている。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
5/2【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第七部:救い―35.救いの継続と完成」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第七部:救い―35.救いの継続と完成」
神は救いという奇蹟的なみわざの後、引き続き、信仰者をキリストのかたちへと変えていく。聖化は、罪から離されて、聖くなることへと向かい、罪のない生活をするという目標へと向かう過程である。堅持とは、神が信仰者を、残る生涯において信仰にとどまっていられるようにすることを意味する。栄化は来るべき世で完成し、そのとき我々は、全く神が意図したとおりのものとなる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
5/1【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第三部:神―11.神の三一性:三位一体」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第三部:神―11.神の三一性:三位一体」
聖書は神を三位一体の存在とする見解を明白な形で教えていない。しかし、神が唯一であり、三つの位格(persons)をもっておられるという聖書の教えは、明らかにこの見解を含んでいる。この深遠な真理を理解するために多くの試みがなされてきた。そのいくつかは、このまことに重要な教理を歪めるものであった。我々がこの難しい教理を完全に理解することは決してないかもしれないが、よりよく理解するために役立つ類比はある。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/30【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第三部:神―10.神の慈しみ深い善性」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第三部:神―10.神の慈しみ深い善性」
神の慈しみ深い善性は、被造物との関係のすべてに見いだされる。それは、純潔、誠実、そして神の愛として認識される特徴の全体から成る道徳的属性において、最も効果的に表されている。これらの属性は、正義と愛の場合のように、互いに相いれないものと見られることがある。しかしながら、正確に見れば、そうでないことがわかる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
2017年04月30日
新約聖書エペソ人への手紙05:01-02(MP3)「愛されている子どもらしく―愛のうちに歩みなさい」
今まで行ってきた授業や講演のビデオを、毎日ユーチューブに上げているが、沢山の方が視聴して下さっている事を喜んでいる。
毎週学んでいるエペソ人への手紙は、本当に豊かな書物で、開くたびに宝物が出て来るようである。
エペソ人への手紙の1~3章は「救いの意味」を説いている。私たちが頂いた「救い」というものが、どれほど豊かな恵みに溢れているかが書かれている。パウロはこの書簡において、福音の総決算を提供している。その恵みは汲めども汲めども、汲み尽くす事の出来ない恵みなのである。
4~6章には「救いを受けた者の生活について」書かれている。4:1には「その召しにふさわしく歩みなさい。」と書かれている。また、5:2には「愛のうちに歩みなさい。」と書かれている。これらの章は賛美歌のように、同じメロディで深められていくように思える。
どのようにすれば愛されている子供らしく歩めるのであろうか?神様の愛のうちに生活するためには、神様に愛されている事を深く意識する必要がある。
毎日生活していると、神様に愛されている事がわからなくなることがある。無感覚になってしまうのである。だからパウロは「愛されている子供である事を意識して生活しなさい」と言っている。
先日、白浜のアドベンチャーワールドで飼育されているパンダの事をテレビでやっているのを見る機会があった。
パンダという動物は出産回数が少ないため、個体数が増えず、種の保護が難しい生物である。中国ではパンダが出産後間違って子供を押し潰す事があったため、親から離して哺乳瓶で育てる方法が一般的であった。
そのような中、白浜にパンダのペアが提供された。白浜のスタッフたちは、中国の飼育方法では、パンダの親子の自然な愛情の交流が欠けてしまうのではないか?と考えた。そこで、子供は親に育てさせるが、親に押しつぶされる危険を防ぐため、24時間体制で監視し続けるという方法を取った。
すると、様々なハプニングには遭遇しながらも無事に子供は成長し、毎年のように次々と子供が生まれ、世界のパンダ飼育の手本にされるほどになっていった。
この事をクリスチャン生活に当てはめてみると・・・
毎日の自分の思いや生活を見ていると、「私は本当に神様に愛されているのだろうか?」と思うことがある。しかし、そこで救いの原点を確認するのである。私たちは聖く正しい者だから救われたのではない。ローマ5:8にあるように、「私たちがまだ罪人であったとき」つまりダビデほどではないかもしれないが、罪深い者であった時に、すでに神の愛を明らかにしてくださったのである。そして、現在も罪人であるけれども愛されている。さらには、未来も罪人であるけれども愛されるのである。
赤ちゃんパンダにとって、お母さんの下で育つという事は、お母さんパンダに直接授乳されるというだけの事ではない。お母さんパンダの体温を感じ、柔らかい胸に抱かれ、優しさに包まれながら育てられ、母親の愛情や信頼を授乳していることになるのである。
私たちクリスチャンは、キリストの十字架から神様の愛を授乳し続けるのである。それは教理としてではなく、信頼や情緒の世界である。神様からの愛を十分に受けているクリスチャンは、接する周りのすべての人々にキリストの香りを放ち、その交わりにおいて神様の愛を分かつことが出来るのである。(仁美記)
4/29【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第三部:神―09.神の偉大さ」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第三部:神―09.神の偉大さ」
神についての幾つかの属性は、神の偉大さを明らかにしている。本章では、神が人格的な方であり、全能であり、永遠であり、霊的な存在であり、あらゆる被造物のうちに遍在し、その完全さにおいて不変であるということであることに、焦点を絞る。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/28【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第三部:神―08.神の近さと遠さー内在性と超越性」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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4/27【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第二部:啓示―07.神の言葉の力:権威」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第二部:啓示―07.神の言葉の力:権威」
すべての真理の創造者であり源である神には、すべての人間に信仰と従順を要求する権利がある。神による権利の行使は、直接行われる場合もあるが、通常は、神は人間にメッセージを伝えるという、別の手段を用いる。これは聖書を通して起こる。聖霊は、人間の知性と心に対し聖書の教えを照明し、適用する。聖書はすべて、歴史的に権威がある。すなわち、特定の時代と場所において特定の人々に神が何を期待し、何を要求したかについて正しく伝えるものである。聖書はまた、規範的に権威をもつ箇所もある。すなわち、それらの箇所に記された規範については、最初に与えられたのと同じ仕方で適用し、従う必要がある。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/26【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第二部:啓示―06.神の言葉の信頼性:無誤性」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
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「第二部:啓示―06.神の言葉の信頼性:無誤性」
無誤性とは、聖書は、その教えのすべてにおいて十分に信頼できるという教理である。神学者たちは、聖書がどの程度無誤であるかについて議論してきた。聖書が無誤でないとしたら、我々のもつ神についての知識は不正確で信頼できないものとなるだろう。無誤性は聖書の十全霊感の結果として導き出されるものである。聖書に詳細な科学的記述や、数学的に正確な記述を求めることはできない。無誤性とは、聖書がその時代の用法から判断して、真理を教え、いかなる誤りも確認できないということである。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
安黒務『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”G―
新約聖書エペソ4:17-32「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい―エデンの園の臨在を求めて」を再生リストに追加しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0onBwIV_VdhKp3Oxswv_1Vzh
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【2017年04月23日 高槻福音自由教会礼拝メッセージ要約】
わたしたちは、1-3章において「新しいいのち、新しい共同体」について学んだ。そして4-6章において「新しい基準、新しい関係」について学ぼうとしている。それはどのような基準なのだろう。どのような生き方なのだろう。それは「三位一体論的基準」である。それは神のいのちに近く置かれ、キリストに聞き、教えられ、聖霊を喜ばせる生き方である。それは異邦人のように偶像と不道徳な生き方ではなく、バプテスマ式で絵画的に表現される死・葬り・復活に合わせられた生活、つまり「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る生活」である。それは十戒・山上の垂訓に示される「神の聖さの水準」を生きる生活である。それは聖霊の人格の深みに触れて”神律的協働性”が機能する生活である。
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【次回の安黒務―奉仕予定日】
・礼拝:2017年6月25日 午前10:00より
・信徒セミナー:12:30-14:00は、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』からの歴史編の学びを終え、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版”Introducing
Christian Doctrine”3rd Edition
の抜粋・拾い読みによる教理篇の学びに入っています。9回目は「人間論―序論・神のかたち・構成の性質」について学びます。
・高槻福音自由教会(http://www.takatsukiefc.com/)
4/25【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録】「第二部:啓示―04.神の特別啓示」(2003年kbi版)を再生リストに掲載(1週間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第二部:啓示―04.神の特別啓示」
神について理解するためには、たいていの場合、自然と一般の歴史を通して得られるよりも人格的な交わりが必要である。神は自身についての特別啓示を提供している。神が用いる様態には、歴史的出来事、神の語りかけ、キリストにおける神の受肉などがある。特別啓示が命題的か人格的かを巡っては、神学者たちの間に意見の相違が見られる。聖書は、神についての認識的知識と情操的知識の両方を提供している。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/24【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第九部:終末―42.最後の状態」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
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第九部:終末―42.最後の状態
個々の人間の未来の、永遠の状態の如何は、現在与えられている人生でどのような決心をするかで決定される。義人には、主の臨在の中での永遠のいのちが結末として与えられる。悪人には、神の御前からの追放という永遠の刑罰が与えられる。義人に対する審判と悪人に対する審判の双方において、報酬または刑罰には程度差、もしくは諸段階が存在する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
2017年04月23日
新約聖書エペソ人への手紙04:29-32(MP3)「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません―聖霊を悲しませるな!」
本日は高槻の教会での奉仕のため、一宮チャペルは録音による礼拝である。高槻でのメッセージはエペソ4章の後半であるが、一宮チャペルでは1月かけて学んで来た。
4:29 パウロは言う。「人間の口の使用は、神からの賜物である。」と・・・
私たちの神様は語りかけて下さる神であり、人間は語る生き物である。そこが他の動物とは違う存在であると言えるだろう。人間は神に似せて造られた存在であり、話すことの出来る唯一の存在である。
言葉はまた、私たちの心を明らかにする道具である。不注意な言葉、軽率な言葉は神様のノートに全て記録されていて、裁きの時には評価されると言う。使徒ヤコブもまた「舌」の力について語っている。救われて新しい創造物である人間は、会話の新しい基準を発展させるように召されている。言葉で人を傷つけるのではなく、人を助け、励まし、愛し、安らかにし、激励するように召されている。クリスチャンは言葉の語り方においても、成長していかなければならないのである。
箴言
12:18に「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」とある。また、今日の箇所4:30には「神の聖霊を悲しませてはいけません。」と書かれている。パウロはここで、言葉について述べた直後に聖霊について言及している。
人はあらゆる行為の背後に、目に見えない人格的な存在がある事を知っている。そして、私たちの内におられる聖霊は、聖い人格の持ち主である。4:27に「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」とある。そして、「聖霊を悲しませるな!」と言うのである。悲しみ、これはギリシャ語で「リペオー」と言い、(悲しみ、痛み、苦しみ悩むこと)とある。これらの感情は人格ある存在が経験することである。
「聖霊」、彼は不義・不一致を悲しまれる。また、真理の御霊であるが故に、言葉の誤った使用に驚かれる方である。
私たちは贖いの日のために「証印」を押されている。贖いとは最終的に救いが完成する日であるが、私たちは既に「罪の赦し」と「御霊の内住」という贖いの恵みに預かっている。最終的な救いの完成のための、プロセスにあると言えるだろう。救いの発端と完成の間におり、存在の全てが贖われる途中にある。
御霊はその発展の一部始終を、一喜一憂しながら辛抱強く見守っていて下さる。御霊は感受性の優れたお方なのである。
4:31には、6つの御霊にとって喜ばしくない事柄がリストされている。また、4:32には、反対に3つの喜ばしい事柄がリストされている。イエス様は「悪い木は悪い実を実らせ、良い木は良い実を実らせる。」とおっしゃった。
私の昔住んでいた家には沢山の柿の木があった。その中に1本だけ渋柿の木があった。甘柿は熟れれば直ぐに食べられるが、渋柿は食べられない。だからと言って捨ててしまう必要はない。渋柿は取って皮をむき、軒先に吊るしておけば2~3週間で甘柿とは全く違う濃厚な甘い柿になるのである。
私たちは以前は31節にあるような悪い実を実らせるだけの木であった。しかし、キリストとともに十字架に付けられて、古き皮を脱ぎ捨て、今は御霊を内住している。聖霊の辛抱強く優しいフォローによって、私たちは甘柿よりももっと甘い干し柿となり、32節にあるような良い実を実らせる木に変えられつつあるのである。
だから、この御言葉を心に留めて生活したいと思う。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(4:29)(仁美記)
4/23【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第九部:終末―41.千年期と患難時代についての諸見解」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第九部:終末―41.千年期と患難時代についての諸見解
千年王国(the
millennium)とはイエス・キリストの地上での支配を指す。終わりの時代に関し、千年王国についての三つの見解が展開されてきた。無千年王国説とは、キリストの地上支配はないという立場である。後千年王国説とは、千年期はキリストの再臨に先立っていると見なすものである。最後に、前千年王国説とは、千年王国の直前に再臨があると主張するものである。前千年王国説は、患難時代と教会の役割についての論争も作り出してきた。患難期前再臨説を唱える者たちは、キリストは大患難が地上に来る前に教会を携挙すると信じている。反して、患難期後再臨説に立つ者たちは、キリストの再臨が大患難の後に起こると主張する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/22【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第九部:終末―40.再臨とその結果」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
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第九部:終末―39.導入的事柄と個人終末論
終末論の学びは、キリスト者の間に、事実上の逃避からその教理への完全な没頭まで、いろいろな反応を呼び起こす。どちらの極端も好ましくない。すべての個々人に、死という終末的現実が存在する。肉体の死にすべての人が関わっているが、信仰者でない者は霊的死をも経験する。中間状態という困難な問題に今日の三つの視点から取り組み、その問題に対する解決策を提示する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/21【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第九部:終末―39.導入的事柄と個人終末論」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。掲載順序から言えば、「救済論、教会論」です。14年前に講義し、ビデオ録画し、DVDを作成した記録はあります。ただ、ビデオ・ファイルが見つかりませんでした。それで、「終末論」を掲載させていただきます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第九部:終末―39.導入的事柄と個人終末論
終末論の学びは、キリスト者の間に、事実上の逃避からその教理への完全な没頭まで、いろいろな反応を呼び起こす。どちらの極端も好ましくない。すべての個々人に、死という終末的現実が存在する。肉体の死にすべての人が関わっているが、信仰者でない者は霊的死をも経験する。中間状態という困難な問題に今日の三つの視点から取り組み、その問題に対する解決策を提示する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/20【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第七部:救い―31.救いの諸概念」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第七部:救い
―31.救いの諸概念
救いとは何かに関するいろいろな考えは長い年月にわたって発展し、さまざまな面を強調してきた。それらは、救いが時間、本質、扱われる必要の場所、救いの手段、救いにおける運動の方向性、救いの範囲がどのように関係しているのかにおいて相違がある。今日の救いの諸概念のうちの五つのものには、解放の神学、実存論神学、世俗神学、現代のローマ・カトリック神学、そして福音主義神学が含まれる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/19【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―27.贖罪の中心テーマ」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
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第五部:キリスト
―27.贖罪の中心テーマ
神の本性、律法の位置、人間の状態、キリスト、旧約聖書の祭儀制度についての教理は、贖罪観に大きな影響を与えている。福音書で、イエス・キリストはご自身を身代金、身代わり、そして人間にいのちを与える者として述べている。パウロはキリストの贖罪のみわざを、人間の罪に対する神の怒りへのなだめ、あるいは和らぎとして描いた。それゆえ贖罪を神の人間に対する関係における犠牲、なだめ、身代わり、和解を含むものとして理解してもよい。贖罪について、この関係を最もよく表現しているのが刑罰代償説である。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/18【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―26.キリストのみわざへの序論」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第五部:キリスト
―26.キリストのみわざへの序論
キリストのみわざは、三位一体においてキリストが維持している役割にユニークな形でふさわしいものである。時間的に、キリストのみわざには二つの主要な段階がある。それは謙卑と高挙である。伝統的にイエスのみわざは、彼が行う三つの基本的機能に分類されてきた。すなわち、啓示的役割、支配、和解のわざである。和解のわざの基本的な領域は贖罪である。歴史的に、贖罪の意味は何なのかについて、多くの論争がなされてきた。それらの多様な要素は、贖罪についての諸説において扱われてきた。贖罪において明白に現れている諸要素は皆、贖罪の説明に含まれていなければならない。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/18【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―25.キリストの人格の統一性」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第五部:キリスト
―25.キリストの人格の統一性
イエス・キリストの人格の教理は、その神性と人性を記述する時点で終わるのではない。これら二性の統一は、キリスト教神学の理解に広範囲な影響をもっている。これまでに、人間学的な理解を通して、イエス・キリストにおける統一性という見解を否認することか、あるいは過度に強調する試みが存在してきた。しかし聖書資料と歴史資料は、キリストは一人格のうちに統一された人性と神性とをもっているという見解を支持している。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/17【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―25.キリストの人格の統一性」を再生リストに掲載(1週間期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第五部:キリスト
―25.キリストの人格の統一性
イエス・キリストの人格の教理は、その神性と人性を記述する時点で終わるのではない。これら二性の統一は、キリスト教神学の理解に広範囲な影響をもっている。これまでに、人間学的な理解を通して、イエス・キリストにおける統一性という見解を否認することか、あるいは過度に強調する試みが存在してきた。しかし聖書資料と歴史資料は、キリストは一人格のうちに統一された人性と神性とをもっているという見解を支持している。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/16【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―24.キリストの人性」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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第五部:キリスト
―24.キリストの人性
キリストの人性の教理にはキリストの神性の教理ほどの論争がなかった一方、イエスの人性を否定あるいは過小評価する幾つかの見解が存在してきた。イエスが処女降誕を通して人間のかたちをとられたことは、キリストの超自然性の証拠として重要である。イエスの無罪性も一つの特別な問題となっている。イエスが罪を犯さなかったのなら人間ではありえない、とある者たちは主張するが、必ずしもこのような結論に至る必要はない。イエスの全き人性を受け入れることによって、いくつかの示唆が与えられる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
2017年04月16日
新約聖書エペソ人への手紙04:25-28(MP3)「施しをするため、正しい仕事をし、働きなさい―御霊の道筋としての十戒」
今朝は、キリスト教の暦の上で、最も大切な「キリストの復活をお祝いする日、英語表現で”Easter”イースターの日」、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとして死なれ、葬られ、三日目によみがえられた日です。全世界で、復活祭のお祝いの行事がなされています。
今朝は、今日のテキスト、エペソ4:25-28から「イースターのキリストの復活」の意味について学ぶことにしましょう。わたしたちは、キリスト教教理の小さな「宝石箱」のようなエペソ書が、あの歴史を揺るがしてきた論文、ローマ書と重なり、符合することをみてきました。
今朝の箇所とイースター復活祭を結びつけるローマ書の言葉は、ローマ6:4b「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とある言葉です。つまり、「キリストの復活」がわたしたち「クリスチャン生活の新しい歩み」と重なるものであるということです。クリスチャンとしてのわたしたちの「新しい日々の歩み」は、「日々、よみがえりいのちによって、死者の中からよみがえらされるようなかたちで生かされる歩み」であるということなのです。
では、「よみがえりいのちによる新しい歩み」とは具体的にどういうものなのでしょうか。そのことが、エペソ4:25-28に記されています。「復活のいのちによる新しい生活」とは、25節「偽りを捨てる」こと、26-27節「憤ったままでいない」こと、28節「盗みをしない」こと、「正しい仕事をする」こと等が挙げられています。
ここを読んでひとつのことを気づかされます。それは「モーセの十戒」であり、その十戒の本質的解説である「山上の垂訓」です。十戒とは何でしょうか。種々の律法とは何でしょうか。ローマ7:12に「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」とあります。十戒を中心とするさまざまな律法は、神様の聖いご性質に根差すものであり、神様のわたしたちに対するみ旨を表現するものです。
よく「律法主義」とか「律法主義者」とか、否定的な意味で使用されることがありますが、それは「律法」の本質的意味をはき違えて解釈・適用した場合に言われる表現です。
この「はき違え」とは異なり、ジョン・ヘッセリンク著『カルヴァンの律法についての概念』の最後の要約には「カルヴァンにとって、最も豊かな意味における律法は、神の言葉と同一であり、御霊の恵みと同一なのである」とまとめられています。アーメンです。
わたしは、パウロの「御霊による新しい歩み」「よみがえりいのちによる新しい歩み」の道筋に、「モーセの十戒」で示された道筋との重なりをみるのです。
25節「偽りを捨てる」ことは、出エジプト20:16「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と重なります。26-27節「怒り、憤ったままでいない」ことと、マタイ5:21-22「殺してならない、腹を立てる」の実と種の関係、28節「盗みをしない」ことと出20:15
「盗んではならない」、「正しい仕事をする」ことと出20:8 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」、出 20:9
「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」とが符合するように思います。
要するに、「御霊による新しい歩み」「よみがえりのいのちによる生活」とは、聖書のみことば、律法、十戒という楽譜に合わせて歌う生活であり、その本質的なリズムに合わせて踊る踊りであるということです。聖霊は、そしてよみがえりいのちはそのように働かれるということなのです。
前回みたように、「古き人を脱ぎ捨てる」、つまり「偽り」「憤り」「盗み」の生活を捨て、訣別する必要があります。そして「新しき人を身に着ける」、つまり「真実を語り」「怒りをコントロールし」、「正しい仕事をなし、施しのできる生活」を身に着けるよう指導しています。
このようにみていくと、最初に申しました、今朝の箇所とイースター復活祭を結びつけるローマ書の言葉、ローマ6:4b「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とある言葉―「復活のいのちによる新しい歩み」「よみがえりいのちによる新しい生活」は、「天にのぼる」ようであったり、「地の奥底に下る」ようにわたしたちの日常から縁遠い話であったりするのではなく、わたしたちの「近く」にあり、わたしたちの「心」にあるということを教えられるのです。
キリストにあり、御霊にあって、そのように、それほどまでに「身近か」にあり、日常的な「復活のいのちの歩み」「よみがえりいのちの生活」をこのイースターの朝、そして今週も日々、瞬々歩んでまいらせていただきましょう。(務記)
ICIストリーミング・ビデオ・ワールド(掲載総合リスト/視聴総合リスト)を作成しました。千数百ありますビデオ講義・講演等をほぼ毎日、漸次掲載していっていますので、ときどき御覧ください。
4/15【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第五部:キリスト―23.キリストの神性」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第五部:キリスト
―23.キリストの神性
キリストの神性は、キリスト教信仰に関する論議と信念体系の頂点に位置している。エビオン派やアリウス派など、いわゆる異端的な見方をもつ人たちは、キリストを神的な本性をもたない一人の独特な人間として描いてきた。関連する聖書箇所は、このような見方は聖書の示している真相とは別物であることを明らかにしている。キリストの神性は、神についての知識、新しいいのち、神との個人的関係、およびキリストをそのような方として礼拝する力等を信仰者に与えることにおいて真の意味また価値をもっている。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/14【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―22.罪の重大さ」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第四部:人間
22.罪の重大さ
罪に関する旧約と新約聖書双方の記述から、罪が普遍的なものであることは明白である。さらに旧約も新約も、すべての人間の中で罪の深さと広さを断言している。全的堕落の概念は、適切に理解されていれば、罪人の状態を説明するのに役立つ。原罪に関する三つの歴史的見解は、ペラギウス主義、アルミニウス主義、カルヴァン主義を含む。罪の重大性の今日的理解は、聖書全体からの見方とそれらの伝統的諸見解のうちの最良の要素を統合している。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/13【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―21.罪の結果」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第四部:人間
21.罪の結果
罪は、罪人と神との関係に非常に深刻な結果をもたらす。この結果には、神に嫌われること、罪責、刑罰、死が含まれる。罪はまた、個人としての罪人に影響を与える諸結果をもたらす。これらには、奴隷状態、現実逃避、罪の否定、自己欺瞞、無感覚、自己中心、不安が含まれる。罪人へのこれらの影響はまた、競争、感情移入の能力の欠如、権威の否定、愛する能力の欠如という社会的側面をもつ。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/12【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―20.罪の本質と根源」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第四部:人間
20.罪の本質と根源
聖書資料の分析は罪の本質、根源、結果を最もよく理解する準備となる。罪は神に反抗する悪しき行為または悪しき動機である。簡単に言うと、罪とは、神をして神たらしめることに失敗することであり、神にふさわしい卓越性の地位に他の何かを、あるいは誰かを置くことである。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/11【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―19.人間の構成の性質」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第四部:人間
19.人間の構成の性質
人間の構成に関しては三分説、二分説、一元論の三つの伝統的な見解がある。聖書的考察を注意深く検討すると、三つの伝統的見解は否定されることになる。これらの代わりになるモデルとして、人間の条件つき統一体を提示し、それは五つのことを示唆する。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
4/10【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―18.人間における神の像」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
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第四部:人間
18.人間における神の像
人間の中にある神のかたちは、我々を人間たらしめているものが何であるかを理解する上で重要である。神のかたちに対する実体的、関係的、機能的見解は、完全に満足のいく説明ではない。我々は聖書的データからの推論によって、神のかたちに関する結論に達しなければならない。神のかたちの示唆することは我々を励まし、すべての人間に関する我々の見解に光を与え、その基礎であるべきである。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※漸次掲載中【2017年4月現在、千数百の講義中、約130講義掲載】の、2003年から現在までのすべてのビデオを随時視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 : 2003-2005年ibc版一覧】
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2017年04月09日 新約聖書エペソ人への手紙04:20-24(MP3)「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けなさい―バプテスマ、死・葬り・復活の原理」
今週は受難週である。2,000年前に、イエス様が十字架にかかられた事を覚える一週間である。金曜日に十字架にかかられ、亡くなられ、葬られ、日曜日に復活された事を考える週である。
今、世界の人口は約70数億人、そのうち20数億人がクリスチャンだと言われている。その一人一人がどの様にしてこの1週間を過ごすのだろうか?
今日の箇所には「古い人を脱ぎ捨てるべきこと」(4:22)、また「新しい人を身に着るべきこと」(4:24)と書かれている。受難週である今週に、ふさわしい箇所ではないだろうか?
パウロは洗礼式の様子を思い浮かべながら、この箇所を書いたと考えられる。
洗礼式に臨み、羽織っていたガウンを脱ぎ捨て、人々は川や池に入って行く。洗礼式はキリストの死と葬りと復活とを重ねた儀式である。その事はローマ6章にも書いている。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(6:4)
古い人を脱ぎ、新しい人を着るとはどういう事なのだろうか?
着る物にはいろいろな種類がある。作業着として考え出されたジーンズは、どちらかというとラフな若者の服だろう。また、会社に出かけるとなれば、多くの人はスーツを着る。結婚式には美しいドレスを着、お葬式には悲しみを表す喪服を着る。
もし、それが逆になれば、おかしな事になってしまう。それぞれの状況、儀式に応じて、人はふさわしい服装を選ぶのである。
また、着る物は、その人の職業を表す。
軍隊に属している人は軍服を着ているし、裁判官は厳粛なガウンを身につけている。その服装が、彼らの職務を表しているのである。役割が変わり、立場が違うと衣装も変わる。
囚人は囚人服を着ているが、刑期を終えれば普通の服に着替える。同じように、兵士も退役し兵士でなくなれば、普通の服装となる。
4:22
パウロは私たちがまだキリストを知らなかった時は、「虚しく暗く無知で、偶像礼拝をしても何とも思わない人間であった」と言っていた。また、「知性においても暗く、道徳的に無感覚で、不潔な行いをしていても平気であった」とも言っていた。
しかし、キリストを知った今、「あなた方はそのような行いはやめなさい!そのような汚れた服は脱ぎなさい!」と言っている。
キリストの死と葬りと復活によって、新しくされたあなた方は、「罪の奴隷であった頃の服は脱ぎ捨て、クリスチャンにふさわしい服を着なさい!」と勧めている。
クリスチャンとして新しい服を着るとはどういうことなのか?それは日々、キリストの十字架の死と葬りと復活を体験していくという事である。私たちの生活様式の中に、倫理的基準の中に、その一瞬一瞬、奇跡の中に生かされている事を認め続けるという事である。
私たちの内には肉なる性質が残っている。自然にしていれば、引力の法則のように悪に傾く情けない者である。しかし、毎日下着を新しい物に交換するように、毎日脱ぎ捨てては着替える、一瞬一瞬脱ぎ捨てては着替える、この繰り返しが地上における正しいクリスチャン生活である。(仁美記)
4/9【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第四部:人間―17.人間論への序論」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第四部:人間
17.人間論への序論
キリスト教的人間観は、人間が神の被造物であり、神のかたちに造られたものであるという立場に立っている。これは、現代の三つの人間観と対照的である。神による直接の人間の創造は、進化論的な説明よりもより満足のいく説明を提供している。さらに、漸進的創造論は聖書と科学双方のデータに基づく最も優れた解釈を示している。最後に、創造の神学的意味についての七つの結論に導かれる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
4/8【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第三部:神―14.神の摂理」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第三部:神
14.神の摂理
保持(preservation)としての神の摂理(providence)は、神が生み出した被造物を維持することを意味する。統治(government)としての摂理は、神が自ら創造したものに、ご自身の目的を達成するために積極的に関わることであり、罪がその目的を妨げることはできないことを意味する。祈りは神を変えることはできないが、キリスト者は祈りによって神の目的に一致させられ、そのようにして神はその目的を達成することができる。神はその目的を達成するために、時に自然法則に逆らう選択をする。これは奇蹟において起こる。信仰者にとって、神はつねに臨在し、積極的にケアしてくださるお方である。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
4/7【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第三部:神―13.神の創造」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第三部:神
13.神の創造
神は、既存の材料を用いることなく、すべてのものを創造された。創造に関する聖書の教えには、少なくとも四つの要素がある。その聖書の教えから、少なくとも九つの神学的結論を導き出すことが可能である。創造の年代と、被造世界内での発達を調和させるために、いくつもの仮説が提起されてきた。しばしば漸進的創造論(progressive
creationism)と呼ばれる、日を時期ととる説は創造の年代に関して、最も信頼できそうな解答と思われる。キリスト者は、宇宙とその中にあるすべての神の被造物のうちに、神の偉大さを確信することができる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
4/6【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第三部:神―12.神の計画」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第三部:神
12.神の計画
神は歴史に対して明確な計画をもっておられる。神の計画に関する聖書箇所から引き出される結論は、少なくとも九つある。カルヴァン主義とアルミニウス主義は、神の計画と人間の行為のどちらが論理的に先にくるかという問題に、異なった解決を提示している。我々の分析によると、穏健カルヴァン主義の立場が最も聖書的な根拠をもっていると結論づけられる。最後に、歴史に関してはさまざまな見解があるが、聖書的見解は、神がご自身の目標に向かって歴史を導いておられると断言している。もし我々が神の目的と提携するなら、歴史の確かな結果に向かって進んでいると確信できるとその見解は断言している。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
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4/5【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第三部:神―11.神の三一性:三位一体」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第三部:神
11.神の三一性:三位一体
聖書は神を三位一体の存在とする見解を明白な形で教えていない。しかし、神が唯一であり、三つの位格(persons)をもっておられるという聖書の教えは、明らかにこの見解を含んでいる。この深遠な真理を理解するために多くの試みがなされてきた。そのいくつかは、このまことに重要な教理を歪めるものであった。我々がこの難しい教理を完全に理解することは決してないかもしれないが、よりよく理解するために役立つ類比はある。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
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4/4【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第三部:神―8.神の教理、9.神の偉大さ、10.神の慈しみ深い善性」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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第三部:神
8.神の教理
聖書は、神が内在的であり、同時に超越的であると教えている。神は被造世界の中に存在し、行動している。しかし、自身が創造したいかなるものよりも優れていて、それから独立している。この聖書的思想のバランスを保たなければならない。どちらか一方を強調しようとするなら、神についての誤った概念をもたらす。神の属性すなわち特質を分類するために、いくつかの方法が用いられてきた。我々は、神の偉大さと慈しみ深い善良さとを区別する分類方法に従うことにする。
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9.神の偉大さ
神についての幾つかの属性は、神の偉大さを明らかにしている。本章では、神が人格的な方であり、全能であり、永遠であり、霊的な存在であり、あらゆる被造物のうちに遍在し、その完全さにおいて不変であるということであることに、焦点を絞る。
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10.神の慈しみ深い善性
神の慈しみ深い善性は、被造物との関係のすべてに見いだされる。それは、純潔、誠実、そして神の愛として認識される特徴の全体から成る道徳的属性において、最も効果的に表されている。これらの属性は、正義と愛の場合のように、互いに相いれないものと見られることがある。しかしながら、正確に見れば、そうでないことがわかる。(まもなく刊行の『キリスト教教理入門』より)
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※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
4/3【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 :
2003-2005年ibc版】「第二部:啓示―5.:啓示の保存:霊感、6神の言葉の信頼性:.無誤性、7.神の言葉の力:権威」を再生リストに掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
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●第二部:啓示
5.:啓示の保存:霊感
今日、激しく議論されている論題の一つに、聖書はどのくらい神によって霊感されているのかという問題がある。霊感がなぜ必要かと言えば、それは、聖書による神の特別啓示の性質を確かなものにするためである。聖書的な神学の重要な要素は、聖書の霊感の範囲に関する理論を体系化することである。種々の諸理論は詳細に調べられ、評価される。霊感は本来の意味では記者のうちになされるものであるが、その派生的な意味で、書かれたもの自身も霊感されていると言って差し支えないのである。
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6神の言葉の信頼性:.無誤性
無誤性とは、聖書は、その教えのすべてにおいて十分に信頼できるという教理である。神学者たちは、聖書がどの程度無誤であるかについて議論してきた。聖書が無誤でないとしたら、我々のもつ神についての知識は不正確で信頼できないものとなるだろう。無誤性は聖書の十全霊感の結果として導き出されるものである。聖書に詳細な科学的記述や、数学的に正確な記述を求めることはできない。無誤性とは、聖書がその時代の用法から判断して、真理を教え、いかなる誤りも確認できないということである。
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7.神の言葉の力:権威
すべての真理の創造者であり源である神には、すべての人間に信仰と従順を要求する権利がある。神による権利の行使は、直接行われる場合もあるが、通常は、神は人間にメッセージを伝えるという、別の手段を用いる。これは聖書を通して起こる。聖霊は、人間の知性と心に対し聖書の教えを照明し、適用する。聖書はすべて、歴史的に権威がある。すなわち、特定の時代と場所において特定の人々に神が何を期待し、何を要求したかについて正しく伝えるものである。聖書はまた、規範的に権威をもつ箇所もある。すなわち、それらの箇所に記された規範については、最初に与えられたのと同じ仕方で適用し、従う必要がある。
※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
4/2【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
】再生リストに、「一般啓示、特別啓示」(2003-2005年ibc版)を掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
その概要を紹介します。
*
●一般啓示
人間に対する神の自己啓示についての研究は、二つに分類されてきた―それは一般啓示と特別啓示である。神の一般啓示は、自然、歴史、人間の三つの領域に見いだされる。一般啓示の包括的普遍性に関心を持つ神学者たちは、自然神学と呼ばれるものを展開してきた。自然神学は、聖書以外の資料をとおして、神の存在を知る方法について研究する。特に理性を用いることを重視する。自然神学ではない一般啓示論もあるが、罪の影響によって、未信者が神の認識へと至ることはできない。個々人が神の一般啓示によって救われるかということは、ただ信仰によってのみ計られる。
*
●特別啓示
神について理解するためには、たいていの場合、自然と一般の歴史を通して得られるよりも人格的な交わりが必要である。神は自身についての特別啓示を提供している。神が用いる様態には、歴史的出来事、神の語りかけ、キリストにおける神の受肉などがある。特別啓示が命題的か人格的かを巡っては、神学者たちの間に意見の相違が見られる。聖書は、神についての認識的知識と情操的知識の両方を提供している。
*
まもなく刊行されるであろう、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』の講義ビデオを漸次、YouTubeで一部紹介しています。まず、ビデオ収録を開始した
2003年のシリーズから現在のものまでを「毎日1講義、1週7講義“Daily 1 Lecture, Weekly 7
Lectures”」を入れ替えつつ紹介してまいります。聖書を片手に、刊行される『キリスト教教理入門』
を開き、「牛の食事のように"反芻"」し、ビデオ講義を繰り返し学ばれますと、あなたの「福音理解」の骨格、筋肉、神経は、バランスのとれた"有機体的接合性"をもって形成されていきます(エペソ4:12-16)。漸次掲載中のすべての講義(2003〜現在)を随時に視聴されたい方は、あぐろ(tsutomuaguro@gmail.com)にお問合せください。
4/1【日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 】<
2003-2005年ibc版>再生リストに、「第一部
導入:1.神学とは何か、2.キリスト教のメッセージの今日化」を掲載(期間限定)しました。
【Daily
1-Lecture, Weekly 7-Lectures】
試行錯誤しつつ、ICIストリーミング・ビデオ・ワールドの紹介をしています。2017年度の4月1日より、「日毎の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録
: 2003年版」紹介を開始しました。再生リストにほぼ毎日、ひとつのビデオ講義を掲載(期間限定)してまいります。
聖書を片手に、まもなく刊行される『キリスト教教理入門』
を開き、「牛の食事のように"反芻"」し、ビデオ講義を繰り返し学ばれますと、あなたの「福音理解」の骨格、筋肉、神経は、バランスのとれた"有機体的接合性"をもって形成されていきます(エペソ4:12-16)。
*...
※ここ数年の収録ビデオは、高画質で板書もきれいに見えますが、14年前のこの時期はまだ低画質で板書が見えにくくなっていることをご了解ください。
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●第一部:導入
1. 神学とは何か
キリスト教神学は、聖書に啓示されている神を理解し、神が創造された被造物、とりわけ人間とその悲惨なありさま、そして神がその状態から如何に贖われるのか、について理解に努めるものである。神学は、その出発点として聖書を基盤としつつ、明確な方法論に基づき、最も有効性を発揮できるかたちで詳述しようとするものである。
*
2. キリスト教のメッセージを今日化すること
変化の加速、また情報の爆発と断片化は、時代がゆっくりとしたスピードで進んでいた以前の数世紀にそうであったよりも、今日の世界において神学をすることをより難しいものにしている。重要なことは、二十一世紀において理解されうる用語で福音のメッセージをはっきり述べることである。その取り組みにおいて、ある神学者たちは表現の形式だけでなく、その内容まで変質させてきた。キリスト教のメッセージを今日化することの目標は、その内容と聖書的教理を保持しつつ、今日においてより理解しやすいものにすることである。五つの基準がそのメッセージの健全性を評価するために提示されている。(※『キリスト教教理入門』より)
※【随時視聴可の、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録 : 2003-2005年ibc版一覧】漸次掲載中の、2003年から現在までのすべてのビデオを視聴されたい方は、あぐろ(tsutotmuaguro@gmail.com)まで。
2017年04月02日
新約聖書エペソ人への手紙04:17-19(MP3)「異邦人のように歩むべからず―空しい心、暗い知性、頑なな心、道徳的無感覚」
「キリスト教教理入門」の翻訳を終えて1ケ月、いのちのことば社では水面下での取り組みが行われており、今週にもこれからの予定が告げられると思う。
この本の出版に合わせて、過去25年間の講義の記録を公開しつつある。1つの講義が30分〜3時間と様々であるが、1日1つの公開を行い、1週間では7つの公開となる。
ICIサポーターに登録し、出版される「キリスト教教理入門」の本とビデオでの学びをしていただくと、神学の学びがその方の血となり肉となる「大きな助け」となると期待している。
ボブディランの「風に吹かれて」という歌があるが、私もキリスト教界全体に『キリスト教神学』に続く、一大ムーブメントとしての風を吹かせたい!と願いまた夢を見ている(使徒2:17)。
以上の学びと関連付けると、今日の箇所はまさしくパウロの人間理解(人間論)であり、神から離れた人間の状態(罪論)である。
ローマ書にも同じ内容が書かれている。(ローマ 1:18〜33)
古代教会の神学者であるアウグスティヌスは「人間には神によってしか埋められない空洞がある」と言った。本当の神を知らなければ、どんなに豊かで社会的地位があっても、どうしても否定できない空虚感や絶望感を味わうということである。
4:17
今日の箇所の17〜19節と20節以降とは、対照的なコントラストを描いている。「キリストを信じるクリスチャン」と、「神を知らない人々」の心の状態や光と闇についてである。
4:18
神を知っていると「神の命」に満たされ、幸福感に満たされるという。しかし、「神の命」から遠く離れていると、真昼なのにまるで暗闇の中にいる様だという。なぜならば、「クリスチャン」が聖書を通して、神にある幸福な生き方を学ぶのに対して、「神を知らない人々」は虚しい心のままで、神を知らないで歩んでいるからである。
「彼らは、その知性において暗くなり」神様の命を知らないと、知性においても暗くなるのだという。岩陰にいる虫が日の光をさけて生きる様に、神様を知らない人々は自分自身が何のために生まれ、何を目標として生きていくべきか?がわからないのである。
カルヴァンは「まず最初に神様を知ることなしに、いかなることも知りえない」(キリスト教綱要)と言った。神様を知らないと、人間は自己存在の根源がわからなくなるのである。
4:19
神様はまた、「道徳の基準」である。創造の昔から、全ての人に良心という基準が与えられている。しかし、神様を認めないと、その良心は麻痺し腐敗していく。「神様の命」から遠く離れていると、道徳的に無感覚になってしまうのである。
ある有名な俳優が奥様の体調不良の中、不適切な関係を他の女性と結んでいると報道されている。どんなに有名で世界的な立場を築き、名誉を手に入れたとしても、神様を知らなければ不道徳な行いを拒むことが出来ないのである。
私が岬の教会にいた頃、幼い洋子ちゃんと恵子ちゃんに「先生!面白いとこ連れて行っちゃろか?」と言われ、豚小屋に連れて行ってもらったことがある。豚は丸々と太っていて、何の心配もないかの様に見えた。しかし、小屋は糞や尿にまみれていて、悪臭が満ちていた。
私はそれを見ていて1つの話を思い出した。
ある商店街に散髪屋や洋服屋などのお店があった。なかなか商売がうまく行かないので、みんなで知恵を出し合い、1つのアイデアが決定された。
その町で1番汚くみすぼらしい人を連れてきて、その人を綺麗に変身させたら、商店街の宣伝になるのではないだろうか?というアイデアであった。そこで、町にいる1人の浮浪者を連れてきて、お風呂に入れ髭を剃り頭も綺麗にして、素晴らしい洋服を着せてみた。
すると、彼は見違える様な紳士に変身した。商店街の人たちはその結果に満足し、この人の変身ぶりは、商店街の宣伝になるであろうと喜んだ。
しかし、商店街から謝礼をもらったその人は、すぐさま謝礼を酒に変え、酒を浴びる様に飲み、道端に転がり泥まみれになり、元の姿に戻ってしまったという話である。
神様を知らず、肉の性質にまみれて生きていると、豚のようにいくら糞尿にまみれていても、自分ではわからなくなってしまうのである。
神様の光の中に、聖さの中に生きる者とされたいものである。(仁美記)
2017年03月26日
新約聖書エペソ人への手紙04:16(MP3)「結び目によって、組み合わされ、結び合わされ―"アーティキュレーション"有機的接合性」
エリクソンの「キリスト教教理入門」の翻訳と後書きを、すでにいのちのことば社に送っている。そして、私は今、25年間の自分が成して来た講義やセミナーを、1つ1つ起こし、2003年,4,5年と順番にネット上にアップロードしている最中である。そして、私のサポーターとして登録してくださった方には全て、そうでない方でも1部は見られるように、ICIストリームワールドとして提供していく予定である。
キリストのからだである教会が、御霊による一致を保つためには、その信仰が一致していなければならない。そして、そのためには福音理解の養いがなされなければならない。
エリクソンの「キリスト教神学」また「キリスト教教理入門」を訳しながら、日米の単位制度についての本を読む機会があった。
もし、それぞれの地域や学校で自分勝手な授業が行われたなら、幼稚園から大学院に至る教育が繋がっていかないことになる。学ぶ必要のないことを学ぶことは無駄であるし、我流で教えられたなら、子供それぞれのレベルのギャップや軋轢を生むことになってしまう。そして、このことは神学教育においても、同じことが言えるだろう。
私は共立研究所の3年間で、世界におけるキリスト教会共通の理解、公同性を学ぶことが出来たと思う。その基礎を踏まえた上で、さらに今日的な諸問題に対処する術を教わった。これは有機的関連性と言われ、1つの統一性と連続性を有している。
今の時代は、教会も社会も流動性があり、転籍をするクリスチャンが多い。そんなクリスチャンにとって、教会を変わるたびに教えが変わるのでは馴染むことが出来ない。だから、教会はどんな教会でも、有機的関連性をもち、今日的諸問題に取り組める教会でなければならない。
「アーティキュレーション」とは、音楽の世界でよく使われる言葉であるが、別の意味では筋肉や骨の接合点である関節や節目を意味する言葉である。この有機的結合性を表す言葉は、エリクソンの著書の本質を表す言葉であると私は思っている。
4:16
教会にはいろんな賜物を持った人がおり(4:7)、多様性に富んでいる。ある人を牧師・・・(4:11,12)などに召し、教会はチームワークで進んでいく。その姿は画一的なものではなく、多様性の中の一致である。それは、オーケストラのようであり、先日のWBCのチームのようでもある。
人間のからだにはいろんな器官があり、それぞれが機能と働きを担っている。からだがそのように助け合い補い合っているように、教会での働きも同じようになされていくべきである。そしてまた、教会の内側においても、福音理解の一致が大切になってくる。エリクソンの教える「神とは?」「罪とは?」「人間とは?」・・・これらの有機的な連続性が、今日的な教会の必要に答えるのである。
「キリストによって、からだ全体は、1つ1つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(4:16)(仁美記)
【ICIビデオ講義録】『キリスト教教理入門』【近刊予定】シリーズ@神学とは何か
●20040916講義録紹介
https://youtu.be/HV1MCJ4sTdQ
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「熱心で従順な学習が子供時代の法則であり、自主的な行動が成年期の法則であったように、人生の意味の探究が老年期の法則となるのです」とP.トゥルニエは『人生の四季』で語る。「年齢が高くなった者も、自分を引退してまった大人とみなさずに、自分がもっと高く評価されうるような秘策を発見すべきなのです」と。
兵庫の山深い山村に住むわたしにとって、秋とは「収穫の季節」である。春にトラクターで何度もすいて土を柔らかにする―「土おこし」。春の雨の降る時期には「田植え」をする。水をはり、暑い夏には田畑は緑色から金色へと変色し、豊かな実りの穂をつける。そして、台風の来る時期を見計らいながらコンバインで結実した実を収穫し、乾燥機に入れる。
人生の秋に属するわたしが今なすべきことは、「収穫の実」を乾燥機に入れ、分かち合いに備えることである。それで、約40年間の神学教師としての奉仕の結実である「講義ビデオ」を漸次インターネット上に整理・掲載しつつある。これは、近刊予定の『キリスト教教理入門』を学んでいただくための「土おこし」でもある。
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●ICI全ビデオ・リスト紹介【漸次掲載・更新中】
http://aguro.jp.net/d/ici/ici_streamingvideo_world_Video-List.pdf
●ICI全ビデオ視聴リンク・リスト一覧【ICI会員対象】
http://aguro.jp.net/membership-sites/ici_stvw/ici_stvw_list_for_members.html
2017年03月19日
新約聖書エペソ人への手紙04:14-15(MP3)「むしろ愛をもって真理を語り―吹き回されず、もてあそばれず」
人生には、四季があるという。「そうです。こんなふうに秋は突然近寄って来るものなのです」とP.トゥルニエは語る。
詩情豊かな幼少期から思春期まではつぼみが芽を吹くまでの春、多くの準備の後、成功を求めて全速力で駆け抜ける成人期から退職の実年期までは焼け付く強い日差しがさす夏、心身ともに変化の兆しは秋の特徴、更年期障害や老年障害の季節が訪れてくる。人生のたそがれを、朝と同じ計画にしたがって生きることは不可能、生命力の溢れている時には、成功を獲得する戦いである。しかし、夏と秋が異なるように、成功の季節と敗北の季節には差異がある。旧約の初期、キリストの生涯の初期には、成功と祝福が物差しのようである。しかし、後期のヨブ記や預言書、キリストの生涯の後期からは試練と敗北の中に、勝利よりも、もっと勇ましく実り豊かな成果が存在することを教えられる。ひとつの季節から別の季節への移り変わりを素直に認め、受け入れ、順応して生きることの大切さを教えられる。
わたしの生涯も、誕生から大学卒業までの20年を春、KBI、岬、共立までが夏の前半、共立修了から『キリスト教神学』翻訳、いくつかの神学校・神学会等での奉仕にフル回転した後半とあわせての40年が夏、そして60〜80歳あたりまでが秋といえるのだと教えられる。秋の特徴は、収穫の季節であることである。現在、春に種をまき、夏の労苦の結実としての講義・講演ビデオをネット上に整理していっている。日本また世界各地の兄弟姉妹に『キリスト教教理入門』を片手に視聴し学んでいただくためである。
ここ10数年気にしてきたことが、今日の聖句に書き記されている。少子高齢化の時代、多くの人が起死回生の方策を祈り求め、それは大切なことなのであるが、ときに危なっかしい運動や教えに吹き回され、翻弄されている姿を見せられてきた。日本にあった宣教方策が模索されることは大切である。しかし、福音の真理の変質には敏感であらねばならないと思うのである。断罪的にではなく、愛をもって真理を語る勇気が求められている時代であると思わせられている。
今日は、世界的にポピュリズムやフェイク・ニュースが横行している時代である。キリスト教会もまたそのような汚染にさらされている。エリクソンは次のように書き記している―『キリスト教神学』第一巻の序文に「一般のレベルでは、深い思索を離れ、宗教体験に向かう傾向があり」、キリスト教信仰がさまざまなものから脅威にさらされていることは、「緻密な神学的考察が、なう一層重要になっていることを意味している」。(務記)
2017年03月16日 【ICIサポーター会員ニュース】【ICIストリーミングビデオ・ワールド】の「エリクソン神学の世界:視聴総合リスト」に、2003年度の講義ビデオをアップロードしました。「ICI会員用IDとPW」で視聴できます。
2017年03月12日
新約聖書エペソ人への手紙04:13(MP3)「ついに大人の身たけに達するため―人格・品性・福音理解において」
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高槻の教会でのメッセージに合わせて、一宮チャペルでは数節ずつ学んでいる。
今日は、今までの所を振り返りながら、13節を学びたいと思う。
4:1
「その召しにふさわしくあゆみなさい。」神様に救われた私たちは、救われた立場にふさわしい生活をしなさいと勧めている。
どのように具体的に展開して行くのだろうか?
4:4~6
「御霊は1つ」「主は1つ」すべてを貫く唯一のお方がおられる。ここでは「一様性」「一致」が語られている。「単一性」「画一性」がテーマである。
4:7
「しかし、・・・」と新たな展開がある。クリスチャンは一人一人がそれぞれ個性を持って生きる事を、神様は望んでおられる。キリストが十字架に掛かり、苦しみを経験し最も低いところに下られたのは、最も高いところに上られるためであった。その上られたところから、人々に賜物を分け与えられたのである。そうして、キリストを信じる者には様々な賜物が与えられ、用いられるようになった。「多様性」がテーマである。
4:11
「こうして、・・・」様々な賜物を分け与えられたのは、バラバラになるためではない。神から与えられる「職務」「御霊の賜物」「様々な奉仕の賜物」これらにはバラバラではなく、秩序がある。何故ならば、目指すところが「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」とあるからである。
そんな中、私には翻訳という職務を与えられている、と私は感じている。それは、今回の翻訳本『キリスト教教理入門』は「教会を建て上げるために役立つであろう」と確信するからである。
4:13
「ついに、わたしたちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた見たけにまで達するためです。」
この節には「達する」という言葉が2回繰り返されている。ここで言う「達する」と言う事は、どういう事なのだろうか?
1つは、キリストの再臨というゴールに達するという事である。Iコリント13:12
には、こう書いてある。今はぼんやりと見ているものが、その時には顔と顔を合わせるように見る事になる、と言っている。今は、一部しか見ていないが、その時が来ると、完全に見えるようになる、というのである。キリストの花嫁として迎えられる私たちは、キリストの再臨の時、主と1つとされる。
また、達するのは天の御国だけではない。この地上においても、目指すべきゴールがある。ピリピ3:12~14
にあるように、パウロは「キリストを知る」という事に命をかけている。私はパウロのすごいモチベーションに圧倒されるのである。
私の訳した『キリスト教教理入門』は、今の、聖書における神との人格的な出会いを重視し、教えを軽視する風潮に警鐘を鳴らすものである。
男女の恋愛を見てもわかると思う。最初の印象、一目惚れというものは確かにあるだろう。しかし、その後、さらにお互いを知る事はもっと重要である。「どんな価値観を持っているのか?」「考え方の基準は何なのか?」「将来の夢は何なのか?」
キリスト教信仰もそれと同じである。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」わたしたちは主を知らなければならない。いや、知りたいと思うはずである。救われて何年たっても子供のままの信仰であってはならない。大人の成熟した信仰者としての品性、人格共に整えられて行くべきである。
今日のキリスト教界には、新しい教えの風が吹いている。新しいものは魅力的に見えるのかもしれない。しかし、薬でもそうであるように、新しいものはまだ分かっていない副作用がつきものである。古い教えには新鮮さはないが、良し悪しがチェックされた確かなものである。
エリクソンの神学は、聖書的かつ正統的で古典に乗っ取りながら、今日的であり、開放的でもある。多くの神学書が書かれているが、今の所、この本に代わる物はないと私は思っている。
すべての教会が、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達するため、もっと聖書を学んで欲しい、そして、神の願われるゴールに達して欲しいと願うものである。(仁美記)
#20170616
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第 8 回 日本異端・カルト対策キリスト者協議会
春集会のご案内
主題 「レストレーション運動の分析と評価」
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主の御名を崇めます。
そして、打ち合わせの後、下記のようなプログラムとなりました。前回は、名著アラン・アンダーソンの“Introduction
to Pentecostalism”から、ペンテコステ派の歴史と教理と未来について発表させていただきました。
今回は、それらをベースとしつつ、エリクソン著『キリスト教教理入門』の新しい章「聖霊に関する今日的
諸問題―預言、諸宗教、諸霊」との関わりをどうみるのか、についての深い思索と洞察等から学びつつ、そしてそこから形成される肯定面・否定面のガイドラインについて、参加者の皆さんとともに、考えさせていただきたいと思っています。
レストレーション運動の方々を十羽ひとからげ扱うことはできせん。それらの多様性を有する運動の中におられる方々にとっても、エリクソン等の客観的かつ丁寧な分析と評価は有益なものになると思います。
【第 8 回
日本異端・カルト対策キリスト者協議会 春集会】のご案内 ―第 8 回目の集会のご案内をいたします。
●日時 2017 年 6 月 16 日(金)
10:00−16:00
●会場 日本イエス・キリスト教団 京都聖徒教会 (牧師 船田献一師)
〒603-8143 京都市北区小山上総町 50-1 ☎075-451-2363 京都地下鉄 烏丸線 北大路 6 出口
●主題 「レストレーション運動の分析と評価」
日本異端・カルト対策キリスト者協議会では、外部講師をお招きし研鑽を積んでまいりまし
た。「なぜ、極端な傾向に流れていくのか」は、異端・カルト対策に関わる者にとっては解明し なければならない課題です。
今回、安黒務先生に「レストレーション運動の分析と評価」と題して「極端な傾向に流れてい
く危険」について語っていただきます。先生からは、「レストレーション運動=異端ではないが、
異端へシフトしていく危険は内包している」と助言をいただきました。むずかしい分野で、正確
な知識と分析力が必要と感じます。先生の主題講演は「レストレーション運動」に限定せず、他
の事例も触れていただくことになっております。
異端・カルト対策の現場で格闘されている先生方と共に、分析・評価の仕方、神学的な系譜、
危険な兆候など、今後の手助けとなる学びができれば、さいわいです。
●講師 安黒務先生
・プロフィール 関西学院大学、関西聖書学院、東京キリスト教学園 共立基督教研究所専門研
修課程(宣教学)修了。日本福音教会正教師。エリクソン博士と同じスウェーデン・バプテスト
の流れをルーツとする日本福音教会(JEC)の西宮福音教会・岬福音教会・堺福音教会東京チャ
ペル・関西聖書学院講師等の奉仕を経て、現在一宮チャペル牧師、生駒聖書学院講師、2004 年
春より、日本福音主義神学会西部部会理事。『福音主義神学』編集委員等を務めるかたわら、イ
ンタ−ネットをとおしての継続神学教育機関である「一宮基督教研究所」を主宰。
・著作に、「J.D.G.ダンの“イエスと御霊”に関する一考察」、「キリスト教会の源流と歴史的
遺産-シカゴ・コールへのひとつのレスポンス」、「日本の宗教土壌を改良する“モーセの十戒”」、「殉教と背教のはざ間にうめく“主の祈り”」、「“使徒信条”に沿って学ぶ-エリクソン著“キ
リスト教神学”」、「日の丸・君が代・天皇制問題を切開する“ローザンヌ誓約”」、「宗教的・
カリスマ的経験の座標軸」、「福音主義イスラエル論: 神学的・社会学的一考察」(Amazon Services
International)。
・翻訳書に、ミラード・.J
・エリクソン著『キリスト教神学』(第一巻、第二巻)。「霊の戦い:その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」(誰もが知りた
いローザンヌ宣教シリーズ No.61 ブックレット)。ジョージ・ E ・ラッド著『終末論』。
●プログラム
10:00-10:15(15 分) 奨励、祈祷、讃美、オリエンテーション
10:15-11:15
(60 分) 講演T 講師 安黒務先生
11:15-11:45(45 分) 質疑応答
11:45-12:45(60 分) 食事 (自由ですが、 後半に、自己紹介、懇談の時を持ちます)
12:45-13:45(60 分) 講演U 講師 安黒務先生
13:45-14:15(30 分) 質疑応答
14:15-14:30(15分) 休憩
14:30-15:45(75分) 「異端・カルト集団の最新情報」
@キリスト教会のカルト化の現状
A韓国異端(統一協会、摂理、新天地、神様の教会、グッドニュース宣教会
中央万民教会、タラッバン、その他)
Bエホバの証人
Cモルモン教
Dその他
(※
参加の先生方に発表を依頼しますので、よろしくお願いいたします)
15:45-16:00(15 分)
次回 2017 年秋集会予定(以下は役員試案です。他の案も検討し決定します)
●日時 9/22(金) 9/29(金)
10/20(金) 10/27(金)
●会場 お茶の水クリスチャンセンター
●主題 「異端・カルト集団の最新情報」
(仮題)
他 「教会健康度チェック」の評価、韓国異端の最新情報など。 祈祷、感謝、散会
●申込み
1, 事前に参加確認をメールでお願いします。
紹介者も事前にお名前、所属をお知らせください。当日飛び込みの参加は不可。
2, 費用 参加費 ¥2,000
会員は年会費¥1,000
3, 確認事項 @名前 A所属
4, 申込み
問い合わせ 代表:小岩裕一(yuikoi@gmail.com) ☎ 090-9697-1338
日本イエス・キリスト教団横浜栄光教会牧師 以上
2017年03月05日
新約聖書エペソ人への手紙04:12(MP3)「それは、聖徒たちを整えて―キリストのからだを建て上げるため」
*
先週、2月末に、翻訳原稿全てを「いのちのことば社」に送った。
2月に仕上げたいと思い、予定を何も入れないようにしていたのに、思わぬ大雪が降り、雪どけと配達に手を取られ、翻訳にあてる時間が無くなってしまった。どこで時間を工面すれば良いかを考えると、夜は難しいので、朝3時,4時に起きて工面することとした。
そうしたところ、不思議と力が与えられた。おりしもアメリカではスーパーボールが行われており、ペイトリオッツとファルコンズが素晴らしい試合を繰り広げた。第3クォーターあたりまでに28対3と一方的な試合であったが、その後最終クォーターにスーパープレイを連発し、終了直前に28対28に追いつき、オーバータイムに逆転したのである。
翻訳はきめ細やかに丁寧にすれば、確かによく練られたものが出来上がる。しかし、それには無限の時間が必要となり、いつまでやっても終わらない。
そうではなく、すでにやったことを信じて次に進み、時間に間に合わせる事も大切だと教えられた。翻訳とは胆力と共に、信じる力また諦める事、そして限界を受け入れる事も必要だと感じた。そして、自分の手を離れたら、「いのちのことば社」という出版社のチームの力に委ねる、任せる、信頼が大切だと学んだ。
後書きを書きながら、今日の箇所「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」という御言葉が、私に迫ってきた。
何故、私が「キリスト教教理入門」を、こんなにまで精魂尽くして翻訳してきたのか?それは、まさにこの御言葉のスピリットによるものである。
そして、それに至る過程が、神のご計画と言わざるを得ないものであった。
祝福されていた岬福音教会の奉仕を7年で引退させていただき、私は家族で、千葉の印西に移転されたばかりの、共立研究所に内地留学した。その当時、学園には海外留学を終えて、研鑽を積んで来られた教授方が、宇田先生をはじめ沢山おられた。
東京基督教学園には、3つの学校があり、私は3つの学校の科目を自由に選択し、思う存分学ぶことが出来た。1年と考えていた学びの期間も、蒲田先生、我喜屋先生などからの配慮もいただき、東京チャペルで奉仕しながら、3年の学びの時を与えられたのである。
私はこの3年間で「福音主義神学」の基礎を学ぶことが出来たと思っている。その後、所属教団に戻り、KBIの教師に復帰した。そこで教えたのが、バプテスト・ジェネラル・カンファレンスに所属し、私たちのスウェーデン・バプテスト系に近いエリクソン著『キリスト教神学』であった。
しかし、その頃は日本語に訳された物は無く、神学生が学ぶためには、私が翻訳して教える必要があった。そして「キリスト教神学」は分量が多く、全て教えるのは難しかった。すると、「要約版」があるのを知り、1つ1つ私が訳しながら生徒たちに教えたのである。
このように、私が神学校でエリクソンを教えていることを「いのちのことば社」が知り、「キリスト教神学」を翻訳してくれないか?と依頼を受けたのである。1,2巻は私、3巻は聖契神学校の伊藤淑美先生、4巻は仙台バプテスト神学校の森谷正志先生が担当される事になり、監修は宇田進先生がされるという素晴らしいチームが組まれたのである。
この「キリスト教神学」は多くの神学校で教科書として使われている。福音派全体の共通項を耕すため、大いに用いられている。しかし、今、日本の教会は「少子高齢化」の波にもまれ、牧師不足が目立ってきている。牧師、宣教師ではなく、信徒たちが「バランスのとれた、福音メッセージ」が出来る説教者とされる必要がある。そのために福音理解においてレベルアップする必要がある。
私が去年から行かせていただいている高槻の教会も、やはり同じ必要を感じておられた。信徒の代表であり、私の親友でもある戸田夫妻が、ぜひ来て欲しいと言われ、2年で12回の「キリスト教教理入門セミナー」を持つこととなったのである。翻訳を続けてきた私から、信徒全員のレベルアップのためにセミナーで学んでくださっている。高槻福音自由教会の取り組みは、これからの日本の教会のひとつのモデルケースとなると思われる。
私が辿って来た道は、今振り返ると1つの流れがあり、神様の「摂理」を感じる。大学、教員免許の資格の取得、KBIでの学び、西宮、岬、東京チャペルでの奉仕、共立での学び、キリスト教神学の翻訳、要約版の翻訳。神様は1人の人間の青写真を描き、計画を持って1つ1つ導かれる。私が意図していようといまいと、神様のご計画は変わることはない。
その神様のご計画は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」にあるのである。(仁美記)
2017年03月03日 ”Introducing Christian Doctrine”翻訳完結―共同作業の実”
M.J.エリクソン著『キリスト教神学』の第三版の要約版、”Introducing
Christian Doctrine”の翻訳・編集・推敲原稿のすべてを「いのちのことば社」に送らせていただきました。今後、刊行に向けての校正・編集等の作業が進んでいくと思います。それらのすべてがスムーズに進むようお祈りください。
振り返れば、約30年前、共立基督教研究所に内地留学の機会を得、恩師宇田進所長からエリクソン著『キリスト教神学』をテキストとした「組織神学」の講義を受け、神学の薫陶を受けた。内容の濃い三年間の神学の研鑽の後、母校関西聖書学院にて「組織神学」講義を任された。テキストは自由に選んで良いといわれ、所属教派のルーツとアイデンティティを考慮に入れたとき、エリクソン著『キリスト教神学』は最良の選択と思った。しかしそのときは洋書しかなく、大きな冒険であった。内容が膨大であったので、なにか良い方策をと探していた時、要約版”
Introducing Christian Doctrine”1st
Editionを発見し、それを教科書として使用することにした。そのときから、神学生のために1st、2nd、3rd
Editionと翻訳し続け、資料を作成し講義していった。そのことが、いのちのことば社の目に留まり、下記のチームワークの中で、”
Christian Theology” 2nd Edition
の邦訳出版に結実することとなった。
2017年02月26日
新約聖書エペソ人への手紙04:11(MP3)「こうして、キリストご自身が―教師としてお立てになった」(証し)
今日の箇所に書かれている5職のうち、使徒と預言者というものは、現在あまり耳にしない。たいていは、伝道師、牧師、教師という職に献身する。
私は子供の頃から人に教えるのが好きであった。小学校の頃、夏休みに年下の子供たちが宿題が出来ていないと聞くと、地域の公民館に集め、勉強を見てやり宿題を片付けさせた。そして、その子供たちの親御さんにたいそう有り難がられたものであった。
そんな教える事の好きな私にとって、教師という仕事は憧れの仕事であった。大学を決める時も、地域の国立の教育学部を受けようかと思ったが、私立の大学でも教師の資格が取れると聞き、結局、関西学院大学の経済学部に入り、社会の先生を目指す事とした。
しかし、大学に入ってみると、何か目標としていたものを見失い、虚ろな日々を過ごしていた。そのため、学業にも力が入らなくなってしまった。
絵画部に属していた時、ヨーロッパに行くツアーに参加した折、イギリスで迷子になり自分の泊まるホテルが分からなくなり、大変恐怖と孤独感を味わった。その不安な気持ちはその後も私にまとわりつき、ますます心が落ち込んでしまった。それを払拭してくれたのが、教会であった。
教会に通うようになった私は、再び教師になる夢に挑もうと考えた。しかし、3年生から取り始めた教職課程は厳しく、朝から晩まで授業を受けたが、4年で卒業することは出来なくなってしまった。
たった1つの単位のために留年した私は、残りの時間に聖書学校に通うことにしたのである。そして、先生であられたスンベリ師の勧めもあって、私は田舎の小さな小学校の産休先生となった。
小学校で毎日算数や国語を子供達に教えながら、「自分が本当に教えたいのはこんなことではないのではないか?」と疑問を抱くようになっていた。
教職試験にも通り、二次試験にも通り、赴任する小学校まで決まっていたのに、私の心は揺れていた。「やっぱり、聖書を教える教師になりたい!」そう決めた私は、親にも親戚にも反対され、お世話になり指導してくださった先生にもたいそう迷惑をかけたが、自分の思いを押し通し、再び聖書学校に戻る事となった。
それからの私は、西宮で伝道師をしながら聖書学校で助手の仕事をし、岬に行き、岬の教会でも大変祝福された。しかし、3人目の子供が生まれた直後にバイクで事故を起こし、「人間とはいつまで生きられるか分からないものである。」と知った。
だから、岬の教会の方々の思いを知りながらも、わがままを聞いていただき退職し、共立研究所に内地留学させていただいた。
その頃の共立は、国立から千葉印西に移転したばかりで、宇田先生をはじめ多くの優秀な先生方が教鞭をとっておられ、私は1年と思っていた学びを3年に延長し、多くの事をそこで学ぶことが出来たのである。
卒業後の事も、いろんな教会からお招きをいただいたが、神学研究を続けられる環境を求め、自分の郷里に戻ることにしたのである。
サポートも、自分で主にしなければならない、ガソリンスタンドで働きながらではあるが、私は神様の導きを強く感じていた。なんのポストも無いが、福音主義の教会のために、大切な本を翻訳し、人々に知らしめる働きをさせていただいている。聖書学校で教えてきた授業や、講演会での講演をビデオにして見ていただくことが出来る。
私は神様からの「教師」としての導きを、感謝し喜びを持って仕えさせていただいているのである。
最後のラストスパートをかけて、翻訳の仕上げに取り組んでいる。最後の最後まで、気を抜かず、神様の栄光のために走りぬきたいと思う。(仁美記)
2017年02月19日
新約聖書エペソ人への手紙04:07-10(MP3)「高いところに上られ、賜物を分け与えられた―王位への即位、凱旋と分捕りものの分与の重ね絵」
エペソ4:1~6は、御霊による一致「ユニティー」、統一性を述べている。しかし、4:7~10では、一人一人の多様性「バライティー」について述べている。
私が大学生の頃、参加したKGKキャンプでは、「クリスチャンとは画一的で同じ色に染まらないといけないものではない!」と教えられた。自動販売機に130円を入れると、ガチャっと出てくる飲み物ではない。枠にはめて、矯正されて生活する事ではないと言われた事を覚えている。クリスチャンは神であるお方、イエス・キリストを主として受け入れるが、個性が大切にされる人々なのである。
4:6
「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」ここには、御霊の命、命の一様性が書かれているが、神様は決して、変化のない、単色で、退屈で、大量生産で画一的の様なものをお望みなのではない。
キリスト教は一人一人の存在、個性、人権を大切にしてきた。神の前には、人種、宗教、肌の色、男女の違いを超えて平等な人間なのである。なぜならば、人間は神の像に造られた唯一の被造物であるからである。
今の教会で、もし人種差別があるとしたら、それは罪の力であって神の命の輝きではない。そういう意味でも、アメリカは今、分かれ目に立っている。民主主義、平等において、世界を牽引してきた国が、移民排斥、自国第一主義、白人中間層優遇を行なおうとしている。
アメリカも欧州も、移民によって活力を生み出して栄えてきた国々である。シリコンバレーの優秀な人々も移民であり、社会の底辺を支えているのも移民である。移民無しでは世の中が回らないほどになっているのである。
比べて、日本という国は移民、難民を受け入れない国である。しかし、急速に進む「少子高齢化」によって、都市だけが成長し地方は衰退の一途をたどっている。いずれ門戸を開かなければ、日本の人口は激減し、力のない弱小国になってしまうだろう。
世界中で差別や排斥の動きが激しくなる中、クリスチャンこそが「自由、平等、人権」のメッセージを発する必要がある。開かれた社会、その中には一人一人の賜物と個性、価値観が与えられている。
4:8~10
この箇所は詩篇68:18と並べて語られる。「主がシナイ山に降り立ち、王として即位され、人々から貢物を受け取られる」というのである。しかし、この二つの箇所は全く同じ意味ではなく、パウロはキリストの御業の意味を引き出すために援用していると思われる。
ローマ帝国が支配していた頃は、鍛え抜かれた軍隊が各地に出かけては地域を占領し、その地域の人々や財宝を手に入れては持ち帰り、分捕りものを分け合っていた。その凱旋のイメージを、主の即位と重ねているように思われる。
しかし、実際のキリストは、その凱旋の前にまず、地の低いところに下られたお方なのである。神であられた方なのに、最も低い人間の姿を取り、謙遜で苦しみの生涯を送られた。罪を犯されなかったにもかかわらず、十字架の刑罰を受け、御子としては最も苦しい父なる神の臨在からの断絶、苦しみの極限を味わわれたキリストは、深いところからよみがえり、昇天された。
キリストが昇天された時に受けられた聖霊の賜物、それを罪の奴隷から解放されたクリスチャン一人一人に惜しみなく注がれる。その人の存在、個性を大切にして、創造の時のイメージのままに、その人への御思いを成就される。
最も低いところに下られた主は、ダムの水量が増し、溢れて流れるように、私たちクリスチャンに恵みの賜物を分け与えて下さる。エペソには職務的な賜物、コリントには奇跡の賜物、ローマには一般的な賜物、キリストに変えられた人々は、いろんな形で花を咲かせていく。生きることの意味、すべてのものを貫く命、キリストの内から流れ出した賜物は、いろんな形で実を結んでいくのである。
(仁美記)
2017年02月12日
新約聖書エペソ人への手紙04:03-06(MP3)「御霊の一致を保ちなさい―One
Spirit, One Lord, One God」
*
「キリスト教神学」の要約版、「キリスト教教理入門」の翻訳・推敲もいよいよ最後の段階に入っている。一宮と高槻で開いているエペソ書の学びは、この翻訳・推敲のモチベーション「やる気・動機付け・激励」を高めるひとつの力となっている。
翻訳・推敲という奉仕は、やっていて「マラソン」に似ていると思う。
マラソンは、42.195kmの長丁場の戦いである。翻訳・推敲も、本の厚さにもよるが、かなりの年数・時間のかかる奉仕である。マラソンは、その長距離をひとりで走り切らなければならない「孤独なスポーツ」である。翻訳もまた、英語本との「孤独な対話」である。その意味やメッセージを正確に聴き取り、読み取り、さらに読者に理解され、心の奥底に届くように「日本語に変換」していかなければならない。
「英語翻訳術」という本の中に、「翻訳は英語ができるというだけでは駄目なのである。日本語においても熟達していなければならないのである。」という言葉がある。その意味で、このエリクソン著『キリスト教教理入門』を用いて、約20年間神学校で教え続けてきたことは、英語からのメッセージを聴き取る戦いであり、聴き取ったメッセージを日本語に翻訳する取り組みであったといえる。
その20年間の取り組みを翻訳として結実させる機会をいただけたていることは、この上もなく「光栄なこと」であると思う。この翻訳と並行して、エペソ書を学ぶようになり、翻訳のモティベーションを強化していただけているように思う。
その意味で、エペソ書は、わたしの翻訳の取り組みのモティベーションを高めてくれる手紙であるとともに、わたしたち一人一人のクリスチャン生活、また教会生活を「マラソンのように走り続ける力」を強化してくれる手紙であるとも思わせられている。エペソ書にはそのようにモティベーションを高めてくれる多くの霊的ポンイトがあるが、今日もそれらの中の幾つかを見ていきたい。
今朝の箇所は、4:3-6である。
4:3 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」とある。
わたしたちは、キリストを信じることにおいて、御霊を内に宿し、その意味において、わたしたちはすでに「御霊において、御霊による一致のうちに置かれている」ということができる。
しかし、同時にわたしたちは「すでに置かれている御霊にある一致」を現実の中の一致に反映させるために「その一致を熱心に保持するよう努めるようチャレンジされている側面がある」ということである。
これを分かりやすく説明すると、「教会」を家族に置き換えて考えてみると良い。この世にはいろんなかたちの家族が存在している。男性があり、女性があり、愛し合うようになり、結婚し、子供が生まれ、家族を形成していく。そこにはひとつの家族がある。
しかし、家族としての一致、調和が高いレベルで保持されている家族はどれだけ存在するだろうか。子供たちは幼い頃は親の「言う通り」に生活していくが、やがて家庭を巣立ち、親の元から独立していくと、「それぞれ、独立独歩、自分の道」を進んでいく。それは、ある意味健全なことである。
そのような状況の変化を超えて、「家族の一致」はどのように保たれていくのだろうか。
それは、外的要素では多様性が生まれてくるし、それは尊重しなければならない部分である。
わたしたちが「保つべき一致の領域」はもっと本質的な部分―「価値観また生き方の本質的部分」にあるのではないだろうか。
わたしたちが熱心に保つべき「御霊の一致の内容」とはどのようなものなのか。それが、4-6節に書いてある。
4節には「ひとつの御霊“One Spirit”」、5節には 「ひとつの主、イエス・キリスト、“One
Lord”」、6節には「唯一の神、ひとつの神、私たちすべての父“One God”」4:4
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。ひとつの御霊があるゆえに、ひとつのからだが形成されている。ユダヤ人も異邦人もない。奴隷も自由人もない。神の御前に平等な共同体
4:5
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。ひとりの主、イエス・キリストがおられるゆえに、ひとつの召し、ひとつの望みに生かされている。待望する再臨の望みにも生かされている。
4:6
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。唯一の神、すべてのものの父なる神がおられるむゆえ、わたしたちはひとつのクリスチャンの家族である。
わたしたちは、「御霊によってすでに与えられている“三位一体的”一致」を家庭に、教会に、親子に、隣人に、社会に反映させていく、地の塩、世の光として今日のさまざまな手段をも生かして取り組んでいく者とさせられたい。(務記)
2017年02月05日
新約聖書エペソ人への手紙04:02(MP3)「謙遜と柔和の限りを尽くし―わたしから学びなさい」
毎週、少しずつ、エペソ人への手紙から学んでいるが、み言葉から教えられるということは、まるで御国の食卓、饗宴のご馳走にあずかっているようで、豊かさを感じる。
1~3章は、私たちがキリストを信じるということは、「新しい命」が与えられたということであり、その新しい命によって、教会は「新しい共同体」となったということであった。
そこには、私たちがいかに生きるべきか?という、新しい「倫理」「基準」が示されている。
4:1
では、「その召しにふさわしく歩みなさい。」というみ言葉から、私たちが救いに入れられている「恵み」「立場」とは、どのようなものであるのか?どう生きるべきか?を学んだ。御父が計画を立てられ、キリストが土台を築き、御霊によって目標とされているのは、「神の1つの民(ワン・ピープル)」であり、「神の聖い民(ホーリー・ピープル)」であった。
ただ、私たちは、教会だけに視野を置くべきではない。5章後半から6章に書かれているように、夫と妻、親と子、雇い主と従業員のように、社会生活全般に、神様の恵みが満ち溢れるように導かれているのである。
4:2
「謙遜と柔和の限りを尽くし、」とある。そのほかにも「寛容、愛、忍耐」と、5つの原則が続くのだが、今日は「謙遜と柔和」に絞ってお話しをさせていただく。
「謙遜の限りを尽くす」とはどういうことなのか?
古代ギリシャでは、「謙遜」とは「自己卑下」「自信のなさ」「奴隷のような根性」と否定的に捉えられていた。今のアメリカ大統領のトランプさんも、「謙遜」的な考えはお嫌いなようである。
一国の首脳であるメキシコ、オーストラリアの大統領との電話会談でも、罵倒したり、途中で電話を切ったり、失礼千万、「謙遜」のかけらも無い態度である。指導者のそのような態度は、社会にも悪影響をもたらし、学校や社会で伝染しつつあるようであり、大統領が許可したかのように噴出している。
現実世界は謙遜のかけらも無い人たちが多いが、私たちの模範とすべきは「御子 イエス・キリスト」である。ピリピ
2章に、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人をじぶんよりもすぐれた者と思いなさい。・・・・それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(2:3~7)
自分を低くすることの素晴らしさ、人間社会で幸せに生きていくための要素を、キリストから教えられる。
「謙遜」とは、調和のとれた人間関係にとって、最も必要な原則である。国と国、社会の中では摩擦が起こったり、衝突するのは避けられないことである。そんな状況になった時、どのように処理するのか?そこが大切なのである。
昔の中国の言い伝えに、このような物がある。昔の中国はたくさんの小さな国に分かれていた。別の国に住んでいる2つの家の子供が、些細なことから喧嘩になった。そこに親が乗り出し、次には地域が乗り出し、しまいには2つの国どうしの大きな戦争にまでなってしまった、というものである。
小さな諍いが大きな戦争にまでなるというのは、お話の中だけの問題ではない。ユーゴスラビアで、昨日まで仲良く暮らしていた人々が、戦い合ったボスニア人とセルビア人の戦い。アフリカのルワンダで起こった、大国の植民地政策によって作られたツチ族とフツ族の戦い。そして、ロシアが侵入し占領したことで、今でも問題になっているウクライナ。
個人でも、家庭でも、社会でも、教会でも、国家でも私たちの身につけるべきものは、御子が模範となられ示された「謙遜」なのである。
次に「柔和の限りを尽くす」とはどういうことなのだろうか?
今の世界の傾向として、振り子が極端から極端へと振るところが見られる。不動産で富を築き、白人労働者に支持されるトランプさん、社会主義者で学生や若者に人気なサンダースさん。政治家は、自分の人気取りのために、極端な言動を取り、穏健な政治家は軟弱であると切り捨てる。
イギリスのEU離脱、フランスのルベン氏は移民排斥を唱え、極端な言動で社会を振り回す。このポピュリストたちは、社会の不満をそのように自分たちの人気取りの材料にしている。社会に歪みが起き、人々に不満が募る時、政治はもっと堅実な方法で、治療していく必要がある。人々を煽り立て、差別を助長し、劇薬で極端な政策を提示し先導すると、結局は数多くの副作用を生み出してしまうのである。
アメリカのトランプ大統領は、就任以降次々と大統領令を乱発している。中でも、7カ国の人々に対する「入国禁止令」は、6万人もの人々のビザを停止状態にしてしまった。彼を見ていると、酒に酔った気の短い父親が、ちゃぶ台をひっくり返しているようにしか見えない。
アリストテレスは、極端な考えを嫌い、中庸を重んじた。それは、問題があっても、怒りすぎず、または、決して怒らずではないということである。問題があれば、声を上げるべきであるが、感情に支配され自制心を失ってはならないということである。
韓国では大統領の弾劾裁判、日本との慰安婦問題、サードのミサイル迎撃システムなどのことで、国民の感情に振り回され、内憂外患状態である。
このような極端な時代に、「柔和」という言葉は中途半端のそしりを受ける。オバマ大統領のいろんな面での「融和政策」は、弱い大統領というレッテルを貼られてしまった。
「柔和」というのは、弱さではない。かえって、時代の風に流されない、大衆の力に動かされない強さがある。
ある人は「柔和」の事を「飼われている動物のようだ」と言った。小さい時に飼われだした子犬は、人懐っこく、動物の野生の強さが失われているように見える。しかし、ある時、飼い主が熊に襲われると、その小さな犬が命をかけて熊に吠え掛かり、あまりの迫力に熊は退散してしまったという出来事があった。「柔和」とは、そのような気質のことを言うのである。
今は、あまりにも極端な政治家が多すぎる。
キリストは「ユダの獅子(ライオン)」と呼ばれた。キリストの気質は「柔和」で、ロバの背に乗られるほど「謙遜」なお方である。しかし、自分の民を守られる際には「獅子」のごとく強く勇敢になられるお方なのである。
クリスチャンである私たちは、主を愛し、御霊に導かれて歩む時、キリストのごとく歩み、御霊の実を結実させることが出来る。キリストから目を離さないで、歩み続けたいものである。(仁美記)
2017年01月29日
新約聖書エペソ人への手紙04:01(MP3)「その召しにふさわしく歩みなさい―召しの本質が歩みを規定する」
一宮チャペルと高槻の教会で、ずっとエペソ人への手紙を通して、「クリスチャン生活とは何か?」「教会とは何か?」を学んでいる。
1,2章では、神様は私たちに新しい命を与えてくださった事を学んだ。(ニュー・ライフ)
3章では、新しい社会、共同体をどのように作り上げれば良いのかを学んだ。(ニュー・ソサイエティ)
神様が天にあるもろもろの祝福をもって、私たちを祝福していて下さる。御父による「選び」、御子による「贖い」、御霊による「御国の豊かさの相続」、これらの恵みによって、私たちがキリストのように、満ち満ちた身丈にまで満たされることを、神は望んでおられる。パウロ自身も祈り、教え、とりなすことによって、クリスチャンたちが成長することを応援している。
4,5章からは、「神様の前にどう生きるべきか?」その基準が示されている。
かつて紅海を渡り、エジプトを脱出してきたイスラエルの民も、荒野においてどのように生きれば良いのかを「十戒」によって示された。パウロが示そうとしているのは「新しい基準」(ニュー・スタンダード)である。
荒野を40年さまよい、ヨルダン川を渡って、ようやく約束の地に着いたイスラエルの民。「十戒」によって、あれほど偶像礼拝を避け、神の御心に生きるようにと教えられたにもかかわらず、またもや不道徳、偶像礼拝に陥り、アッシリア、バビロンに捕囚される。
イスラエルの民を見ていると、今のアメリカの状況が重なってくる。
オバマ大統領は、国際協調、自由、平等を目指し、差別の撤廃、難民の受け入れを進めてきた。しかし、今のトランプ大統領は、全てをひっくり返し、白人の中間労働者を喜ばせる政策を取ろうとしている。オバマ大統領が距離を置いてきたイスラエルとも接近し、エルサレムにアメリカ大使館を移す案まで出ている。
そのような事をすれば、今まで協力的であった穏健なアラブの人たちまでが憤り、下手をすれば「第5次中東戦争」まで起こりかねない。今のアメリカには、大切な「いさめる力」が衰えてしまっているのである。
4:1 「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
今までのところ、アメリカの大統領は、就任式の宣誓の時、聖書に手を当てて宣誓する。トランプ大統領の進めようとしている政治は、クリスチャンにふさわしい政治と言えるのだろうか?自己主張が強く、まるで、ローマ時代のネロのようである。移民によって力を得、発展してきたアメリカが、移民、難民にとって暮らしにくい国になってしまうとは、人間の醜い罪の力が噴き出して来ているようである。
1,2章では、キリスト教の教え、教理が述べられていた。生きた教理である。
4章では、クリスチャンの責務、義務について語られている。
いくら正しい教理を聞いていても、成していることが正しくなければ、その人の信仰は矛盾していることになる。アメリカに今起きている差別的な発言は、クリスチャンの国として恥ずべきことである。しかも、大統領自身がそれを挑発しているのであるから救いようがない。
旧約聖書の時代、トップが腐敗してしまった時には、神様は底辺から預言者をおこし、指導者が心を改めるようにされた。エレミヤもそのような働きを成し、「涙の預言者」と称された。さて、アメリカに、そのような勇気ある預言者が起こされるであろうか?
1~3章には、主にある「贖い」「恵み」「祝福」が書かれていた。
4章の1節に、「主の囚人である私は・・・」と書かれている。現実には、パウロはローマにある皇帝ネロの牢獄の囚人であった。しかし、彼の心はキリストに捕らえられていた。主のための囚人であった。だから、むしろ自ら進んで囚人となり、首都のローマで牢獄の中から証詞をしているのである。
パウロの心は「キリストの福音」に捉えられている。「クリスチャンの兄弟姉妹!私が模範となって、主の召しに応答し、走り続けている。自分たちの務めを発見して、どうぞ続けて走ってください!」また、「私は牢獄の鎖に繋がれていますが、あなたたちは「キリストの愛の鎖」に繋がれて、福音への忠節を貫いてください。」とうったえているのである。
今の世界に広がる「不寛容」は、正しい教理を逸脱し、誤った教えに振り回されている結果である。パウロが述べる神の御心は、世界中が「1つの民」となり、「新しい人類」として人々が生きることである。
私たちは、救われたものとしてふさわしい生き方をしているだろうか?4章の1~16節では、クリスチャンは「1つの民」であり、信仰は「1つである」と書かれている。キリストがなぜこの地上に来られて、十字架にかかられたのだろうか?それは、人々の間の隔ての壁を壊すためではなかったのか?それなのに、人々は、愚かにもまた再び壁を築こうとしている。
4章の17節から5章の21節では、「神の聖さ」について書かれている。神様は私たちに神に習った「ホーリー・ピープル」純粋な民になって欲しいと願っておられる。神様が聖いお方ならば、私たちも習うべきではないのだろうか?(仁美記)
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主の御名を崇めます。
一月は、思いがけずかなりの雪が降り、雪かきに時間を取られました。そのような中、相変わらず、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版、“Introducing
Christian Doctrine”3rd Edition の翻訳・推敲に明け暮れる毎日です。
わたしの願いのひとつは、日本の多くの神学校で学ばれているエリクソン著『キリスト教神学』、その中で示されている“福音理解”が、広く諸教会の聖書研究会や個人の聖書の学びに生かされるようになることです。
エペソ人への手紙に
「 4:11
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
とある通りです。
そのためのひとつの優れた教材として、この要約版が活用されることを願って奮闘しています。
今月も、高槻福音自由教会で、エペソ書の講解説教とともに、要約版の抜粋をもとに、啓示論を学びました。二ヶ月に一度くらいのペースで信徒セミナーを開催させていただき、二、三年で教会で『キリスト教神学』の要約版を学ぶ、ひとつのモデル・ケースになるように思います。
また、生駒聖書学院では、要約版にそうかたちで、一泊二日6時間の「終末論」集中講義をさせていただきました。三年間で『キリスト教神学』の輪郭とエッセンスを分かりやすく学んでいます。一年生のときには、右も左も分からないような神学生も、三年間の丁寧な学びを通し“福音理解”に習熟し、ひとりの棟梁の下に弟子入りした見習い大工のように、ひとりひとりが賢い建築家のように成長されていく姿を見せられることは感謝なことです。卒業後は、日本各地で、導かれる求道者、クリスチャンの心の内に、素晴らしい“福音理解”の家を建築し続けていっていただきたいと願っています。
下記のYouTube、FaceBook、ICIホームページ等でも一部紹介していますので、関心のある方はご視聴ください。福音派における終末論理解において、“盲点”になりやすい部分をよく照らし出し、その克服の道筋を示唆する内容に仕上がっていると思います。
なお、一泊二日6時間の「終末論」集中講義のすべてを視聴されたい方は、下記の方法がございます。参考に
してください。
安黒務 講義録:エリクソン著『キリスト教神学』要約版「終末論―@導入」(一部紹介)
https://youtu.be/z3_9NLzhVzw
【6時間集中講義】内容
「終末論―@導入、A人間の時間的死(1)・(2)、B中間状態、C再臨(1)・(2)、D千年王国(1)・(2)、E患難期(1)・(2)、Fヨハネの黙示録・G新天新地」
※ なお、今回の終末論集中講義は、エリクソン著『キリスト教神学』要約版のフレームワークに従いつつ、ラッド著『終末論』、A.A.Hoekema,"The
Bible and the
Future"、R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』、岡山英雄著『小羊の王国』、『患難期と教会』、『ヨハネの黙示録注解』、H.Bavinck,"Reformed
Dogmatics"等、数多くの優れた文献をも参考にして講義していることをご了解ください。
すでに、登録されています方は下記サイトから、お手持ちのIDとPWで【6時間集中講義】のすべてを視聴できます。
http://aguro.jp.net/d/file/i_b/ici_stvw-ICD_by_Erickson_2016.html
安黒務
講義録:エリクソン著『キリスト教神学』要約版「終末論―@導入」(一部紹介)
https://youtu.be/z3_9NLzhVzw
*
エリクソン著『キリスト教神学』の終末論は、五つの章から構成されており、膨大な分量となっている。この内容を詳細に扱う時間もない。限られた時間で有効な学びをする方法として、我々は、まず鳥瞰図をえることとする。「全体をまず把握し、それに基づいて部分を理解しようとする」のである。重要な点を把握する。以下のように、「重要・crucial・なことと些細・trivial・なことを区別」して学ぶのである。
まず、「終末論に関する優れた文献」を紹介する。次に、「語義・概念・神学」を定義する。「終末論とは、終りの事柄に関する教理」であり、神の永遠の聖定に基づく「終り、完成」の部分である。終末論−啓示に基づく神学としての共通理解がある。
まず、「個人終末論−個人の時間的死、霊魂の不死、死から復活までの中間状態」の領域があり、次に「世界終末論−世の終りのしるし、キリストの再臨、死者の復活、最後の審判、千年王国、新天新地(世界の完成)」の領域がある。
そして、枝葉の部分として、終末論における啓示の解釈の多様性は、数少なくない形態の終末論を生み出し、それは「千年王国説」そして「.患難期と再臨の関係」において表される。我々は、これらの諸説を横に並べて並列に扱うのではなく、縦に並べてその聖書的価値を分析・評価し、判定・識別する力を養う。
*
【ICIサポーター( ICIプライム会員)募集案内】
一日あたり10円で、ICIのすべてのビデオを見放題 ! ICIサポーター登録案内 (無料視聴資格貸与)
http://aguro.jp.net/d/file/i_b/ici-supporters.html
安黒務『エペソ人への手紙』よりの”傾聴”E―
新約聖書エペソ3:14-21(MP3)「わたしはひざをかがめて祈ります―わたしの杯は溢れています」
https://youtu.be/n7_7j7kmPUM
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【2017年01月22日 高槻福音自由教会礼拝メッセージ要約】
1章から3章前半までを踏まえ、パウロは「こういうわけで」(14節)と、ひざをかがめての祈りに導き入れられる。ユダヤ人は立って祈るのが常である。なのにパウロは、ゲッセマネのイエス(ルカ22:39-44)のように、石打ちを受けて召されようとするステパノ(使徒7:54-60)のように、ひざをかがめて祈ろうとしている。ここにパウロの真摯な祈りの姿をみる。パウロ書簡全体が三位一体論的視点で貫かれているように、パウロの祈りもまた三位一体論的特徴を豊かに宿している。私たちは今の時代、どのように祈るべきなのだろう。パウロの祈りは、私たちの今年の「祈りの生活」の道標でもある。
*
【次回の安黒務―奉仕予定日】
・礼拝:2017年3月26日 午前10:00より
・信徒セミナー:12:30-14:00は、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』からの歴史編4回の学びを終え、エリクソン著『キリスト教神学』の要約版”Introducing
Christian Doctrine”3rd Edition
の抜粋・拾い読みによる教理篇8回の学びに入っています。三回目は「神論」について学びます。
・高槻福音自由教会(http://www.takatsukiefc.com/)
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※これまでの「エペソ人への手紙」講解説教ビデオを、ICIストリーミングビデオ・ワールド登録者は、下記サイトより自由に視聴できます。
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2017年01月22日
新約聖書エペソ3:19b-21(MP3)「私たちのうちに働く“御霊”の力によって―満ち満ちたクリスチャン生活とは」
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3回にわたって、エペソ3:14~21を詳しく学んできた。1回目は御父について、2回目はキリストについて、そして本日の3回目は御霊と祈りについてである。
3:19b 「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とパウロは語っている。
私は初め、その意味がよく分からなかった。神様が満ち満ちた方であることは分かっている。しかし、私たちがそうなれるのか?については不思議な表現である。
私たちの神様は、この宇宙を造られた「大きな方」「無限の方」「測ることの出来ない方」である。それに比べて、私たちは「小さい者」「限界のある者」「想像の域を超えない者」である。神様の器が巨大な物だとすれば、私たちの器はいわば「盃(おちょこ)」ほどの容量しかない。
そんな、ちょっと注げば溢れそうな器に、無限の方から流れてくる物を受け止めるのは、不可能と言えるだろう。
しかし、パウロが言うには、神様は私たちの器を満たしたいと、考えておられるのだと言う。
ちょっと入れては、一杯になって溢れそうになる。それを飲み干しては、また入れてもらう。この経験こそ、大切な経験なのである。気の遠くなるような、そんな経験を繰り返し繰り返し、無限に繰り返せば、「満たされるクリスチャン生活」を送る事になるのではないだろうか?
3:20 「わたしたちのうちに働く力によって」とある。これは、16節にもあったように、「御霊の力と臨在」の事である。
三位一体の神は、「御父が、その栄光の豊かさ」に従い、「御子キリストの無限大、無尽蔵の愛」を、御座から注がれ、私たちの内に内住しておられる御霊により、「願うところ、思うところのすべてを越えて」豊かに施して下さるのである。
旧約聖書では、イザヤが6章で、高く上げられた王座に座しておられる主を見上げ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と告白した。
また、新約聖書では、ヨハネ
20:26,27において、疑い深いトマスの事が書かれている。復活されたイエスに出会った他の弟子たちが、その経験を証詞するが、トマスは信じる事が出来なかった。「私は、その手に釘の跡を見、私の指をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とまで言い張った。
8日後に、戸が閉じられた部屋の中にイエスが入って来られ、トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
私たちの信じる神は、語りかけ、触れてくださる神なのである。トマスはたまらず告白した。「私の主、私の神」と・・・
トマスと同じように、私たちの心の内にも、疑いや恐れの思いが湧き上がってくる事がある。エペソ、ピリピ、コロサイにも手紙をしたためたパウロは、ピリピ
4:6、7で勧めている。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」いつでもどんな事でも、神様のところに自分の思いを差し出すようにせよと、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
私たちの思い煩いの霧は、神の平安によってかき消されていくであろう。
長血を患う女は、キリストの衣に触れるだけで癒された。そのように、私たちはそんなに大きな立派な祈りをする必要はない。主の前に、素直に自然体で祈る。時には身体を横たえて、また、歩きながら、スタイル、形、状況にかかわらず、息をするように祈る。その都度、私たちの小さな盃を主の前に差し出す。
そうすれば、詩篇23:5 のように、告白できるだろう。「私の杯は、あふれています。」と(仁美記)
2017年01月15日
新約聖書エペソ人への手紙03:17-19a(MP3)「こうしてキリストが―朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
1つの缶詰が話題になっている。缶のラベルには「オバマが大統領であった時の空気」と書いてあるという。
オバマ大統領は、核の廃絶、広島訪問、キューバとの国交回復、アメリカ兵の戦地からの撤退など、議会で民主党が少数であるがゆえに苦しみはしたが、平和に向けて前進しようとする大統領であった。しかし、今月20日に大統領になるトランプ氏は、白人労働者の本音を引き出し、差別を助長することによって、その座に着こうとしている。
アメリカの今後4年、8年後の空気はどうなっているだろうか?私たちは、自国のためにも、アメリカのためにも、ひざをかがめて祈る必要があると思う。
15節の終わりに、「・・・父の前に祈ります。」とある。そして、16節に、「どうか父が、・・・、御霊により、・・・。」そして、17節には、「こうしてキリストが・・・」と続く。
ここに書かれている「三位一体」の神の説明は、私たちがクリスチャンとして生きるという事を、どのように生きれば良いのかを教えてくれている。
朝に夕に、私たちは神様にお祈りする。まるで、携帯やタブレットを充電するかのように、朝に祈り1日の霊の力、生きる力をいただき、夕に祈り感謝と共に安らかに眠りに着く。クリスチャン生活も、神様による充電によって、生かされ守られているのである。
私たちがキリストを救い主として信じた時から、キリストの御霊は私たちの内に住んでいて下さる。しかし、その意識は忙しい生活の中、薄れやすいものである。だから、私たちの心の内に、「キリスト」が住んでいて下さる事を、確認しなさいとパウロは教えているのである。
そして、一時的にではなく、共に、永遠に住んでいて下さるという事を、内なる人を強くされることによって、確認しなさいと勧めている。
「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、」という言葉の中には、私たちの存在の根元に「キリスト」を見つめる、「キリストの愛」を発見する事を勧めている。
神を知らない人たちの心の中には、神でしか埋めることの出来ない「空洞」があるという。また、植物が枯れずに支えられているのは根があればこそである。そして、建物がしっかりと揺るがないのは、しっかりとした基礎の故である。
私たちは、自分たちが生きる「命の源」を、キリストの愛の中に確認しつつ生きなければならない。
3:18
キリスト御自身の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになり、」それを理解する力を、与えられ、増し続けられる人生を私たちは追い求めるべきである。
私たちが悩む時、迷う時は、私たちのキリストの愛に対する理解力が落ちている時、と言えるかもしれない。問題が無い人生は無い。私たちの状態が、問題をさらに深刻なものとしてしまうのである。
18節の、「すべての聖徒とともに、」とある。イエス様を信じた人の人生の中に、歴史の中に証詞され経験されてきた事である。
先週も述べた、遠藤周作の「沈黙」という小説がある。日本に宣教に来たフェレーラとロドリゴという宣教師の話である。宣教というものは、不思議なことに、宣教師が迫害に会い殉教すれば、さらに宣教が進むというところがある。そのため、時の役人たちは、その宣教師たちに信仰を捨てさせ、その心を腐らせ、背教者にする事を企てた。
そのために信者であるキリシタンたちに拷問を加え、その叫び声や呻き声を聞かせて、宣教師たちに踏み絵を踏むよう促したのである。そして、本人たちにも逆さ吊りなどの拷問を加え続け、ついに踏み絵を踏む事を迫られた時、宣教師たちは心に葛藤を覚え苦しんだ。しかし、その時、彼らはキリストの声を聞く。「踏むがいい!」「お前たちの苦しみはわかっている。そのために、私は十字架にかかったのだ。」
しかし、この場面で私は考える。たとえどんなにキリストが、苦しむ人々の思いを知っておられようと、キリスト教の信仰を否定する行為に導かれるはずがない。その信仰は偶像に対するものと変わらず、信仰の純粋性を侮辱するものである。
現に、彼らは踏み絵を踏んだ後、他の踏んだ人たちに「唾を吐け!」と命令されたり、キリスト教を否定する本まで書かされる事になる。2人の宣教師は、長く生かされるが、生きたまま地獄を味わう事となってしまった。
遠藤周作の「深い川」にも見られるが、彼は結局、いろんな宗教の中に救いを見出している。そのひずみが、イエス様の踏み絵からの語りかけという描きかたにも現れているのだと思う。
しかし、今のキリスト教界にも、アジアやアフリカの土着の宗教を取り入れ、非倫理的でシャーマニズムに近いものになってしまっているものもある。
遠藤周作の作品に出てきた2人の宣教師も、現在の誤まった布教活動も、誤った聖書解釈の結果だと言えるだろう。
私たちはいろんな苦しい事、辛い事に出会った時、パウロが祈ったように「内なる人を強くしてください。」「キリストが心の内に住んでいて下さい。愛に根ざし、理解する力を与えて下さい。」と祈るべきである。
3:19 「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」
パウロの時代の初期のクリスチャンたちも、迫害され酷い形で殉教していった。しかし、彼らは遠藤周作が描いたバテレンの宣教師たちのようではなかった。苦難の中にあっても、パウロの勧めたような祈りの中にある生き方を貫いたのである。
それが、旧約の神の民の歴史2000年、新約のキリスト教2000年、合わせて4,000年の歴史を作っている。(仁美記)
2017年01月08日
新約聖書エペソ3:14-16(MP3)「ひざをかがめ祈ります―人間が哀しいのに、主よ海があまりに碧いのです」
http://aguro.jp/d/stream/17_ic_ss/170108_ic-ss_Eph03_14-16.mp3
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最近、NHKで放送された1つの番組に、関心を持った。アメリカの映画監督(シチリア系イタリア移民)である、スコセッシ監督によって映画化された、遠藤周作の「沈黙」(サイレンス)である。
遠藤周作は多くの方がご存知のように、彼自身の母親がカトリック信者であり、彼自身もそうであった。
彼は先の大戦中に思春期を迎え、予備役の兵士となったが、肋膜炎の持病のため、兵役に就くことはなかった。しかし、多くの同世代の若者が、夢、願い、幸せを達成できずに、戦争というものに、人生を捻じ曲げられ、悲しみや苦しみを体験させられた。
そのことによって、自分にとって人間にとって「信仰」とは何なのだろうか?との問いが「沈黙」という一冊の本になったのである。
安土桃山時代の後半から江戸時代にかけて、秀吉、家康によってもたらされた「キリスト教の禁令」のために、長崎の沿岸地域に多くのキリシタンたちが集まった。その当時、僻地で貧しい地域であったその場所には、領主の支配も届かず、また、むしろ積極的にキリシタンを受け入れ、密かに信仰を守り続けることが出来たのである。
しかし、そんな地域にも遂に弾圧がおよび、キリシタンは火攻め、水攻め等の拷問にあい、踏み絵を踏まされることによって、信仰を奪われていった。そして、素朴で純粋なキリシタンたちは、踏み絵を踏むこと拒否し、無残にも殺されていった。
遠藤周作が書いた「沈黙」のテーマは、神に対して「どうして、苦しい私たちに対して、あなたは沈黙されているのですか?」という心からの叫びである。遠藤周作記念館の碑にも刻まれているが、「人間がこんなに悲しいのに、主よ!海があまりにも碧いのです」とある。
世界は2つの大戦を終え、平和を謳歌するものと思われた。しかし、今だに、貧困、難民、テロ、戦争、独裁、ポピュリズムが横行し、差別主義は蔓延している。
そのような世界を見て、私は「人間の世界がこんなに悲しいのに、主よ!福音はあまりにも美しいのです。」と叫びたい気持ちである。
エペソ3:14
「こういうわけで、・・・」とある。1章、2章に書かれていた、神の啓示の福音の豊かさを受けて、私は今年ひざをかがめて、主の前に祈らされる年としたいと思う。ユダヤ人は祈る時、立った姿勢で両手を上げて祈るが、パウロはここで真摯なへりくだった思いを込めて、「ひざをかがめて」と言っている。
聖書の中にも、ひざをかがめて祈った人たちが出てくる。イスラエルの罪を悔いて祈ったエズラ、ゲッセマネにて血の汗を流しながら祈られたイエス、人々に罵られ石を投げつけられながらも祈ることをやめなかったステパノ、彼らは姿も心も神の前にひざまずいていた。
神様は決して一部の人たちだけを見ておられるのではない。天上と地上のすべての人を視野に入れておられる。クリスチャンだけではない、未信者も、被造物世界も、神が自ら創造された神の作品であり、救われるべき対象なのである。
3:15~16
だから、「父の前に祈ります。」「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
私たちの信じる神は全知全能の神である。全人類の貧困問題を考えた時、神様なら物質的に満たすことがお出来になるのではないだろうか?
御子キリストが、十字架にかかられることによってもたらされた栄光の豊かさによって、「御霊により」「力をもって」、日用の糧や、無病息災、商売繁盛だけでなく、第一義的に「内なる人」を強くしてくださることを強く祈る。
どうして、あの凄まじい迫害の中、キリシタンたちは痛みに耐え、苦しみに甘んじることが出来たのだろうか?神様は決して「沈黙」しておられたのではないと私は思う。苦難の只中で、彼らの内なる人は「御霊により」「力をもって」強くたくましくされていたのではないだろうか?(仁美記)
2017年1月3日 大村哲子宅
洗礼後の自宅「聖別式」
「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」(新約聖書Tコリント人への手紙8:4)
1世紀におけるキリスト教会の状況は、最初の教会に120人のクリスチャンたちがいた。しかし、3世紀の終わりにはローマ帝国の皇帝までがクリスチャンになり、国の宗教と定められるまでになる。
この聖句は、そんなキリスト教が伝わっていく過渡期に、パウロによって書かれた手紙の内容である。本当の神様ではない偶像に、供えられた肉が、市場に出回っているという問題であった。「偶像に供えられた肉を、クリスチャンである我々は食べて良いのであろうか?」という疑問の声が、パウロのもとに聞こえてきたのであろう。
パウロの答えは明解であった。この全宇宙には、私たちの信じる神が「唯一の神」である。他に神はいない。他の偶像は本物の神ではない。
だから、それ等に供えられた肉を食べようと食べまいと何の問題もない。ただ、弱い人のつまづきにならないように、食べない方が良いというだけのことである。
日本でクリスチャンになって、仏壇や位牌を処分しようとすると、「罰当たりな!」とか「祟りがある!」という人がいる。しかし、仏壇自体は人が作った木の箱であり、位牌は、元々は、寺で生きている間に修行をした人が、ご褒美としてもらう戒名の書かれた紙の代わりの物である。
だから、現在の、修行もせず、お金を出せば立派な戒名が書かれた位牌がもらえる、というのは意味のない物である。
しかし、見えない神様を知らない人たちにとって、目に見える仏壇や位牌を拝むという事は、自然なことかもしれない。また、昔の偉人や先祖、自然の木や山や川、人の世の儚さや自然の脅威を知っている人たちにとっては、畏怖の念を抱き、神として拝む対象になりやすいのかもしれない。
自分たちの先祖を敬うという点では、聖書にも、祖先を敬愛し、感謝の心を忘れてはならないと書かれている。モーセがシナイ山で神から与えられた「十戒」にも、まず垂直の関係である「神」を敬い愛すること、そして、次に水平の関係である「隣人」を愛するようにと書かれている。その隣人の中でも、特に「あなたの父と母を敬え」と明記されている。
自分の父母を大切にしない者は、人生が上手くいかない、自分自身が幸せになれないのだと、聖書は教えている。自分のルーツであるところの祖先に対して、感謝と敬愛を忘れてはならないのである。
聖書にも出てくる「信仰の父」アブラハムは、4,000年も前に亡くなった。しかし、マクペラの洞窟に作られたアブラハムの墓地は、今に至っても、大切に管理され保存されている。
私たちがクリスチャンになる前は、自然も、他の神々も、祖先も父も母も、礼拝し崇拝する信仰の対象であった。本物の神とそうではない尊敬すべき人々も、神が作られた自然も、ごちゃ混ぜにしていたのである。
しかし、クリスチャンになった今、イエス様の信仰により、それ等を整理していく必要がある。
安黒家も、私たちがこちらに帰って来て以来、仏壇や位牌を片付け、墓地をキリスト教式に変え、石に刻まれていた戒名を、元の名前に変え、1つ1つ整理していった。
そして、大村家も、昨年の春には墓地を整理し、初夏にお母さんが洗礼を受け、今日、哲子さん自らの願いにより、仏壇や位牌を片付けるところまで導かれた。そして、この春にはイースターに、亡くなったお父さんの遺骨を、教会の墓地に納骨させていただく予定である。
私たちクリスチャンが注意すべき事は、弱い人々をつまづかせないようにする事、そして、周りの人々にも救いの道を開く「告白」として、これ等の儀式を丁寧に行うという事である。(仁美記)
2017年1月1日 「わたしの母の米寿の祝い」です。
若い頃は綺麗だった母ですが、今は、腰も曲がり、しわも増え、もう「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」年寄りとなってしまいました。しかし、昔、高校生の時に写真部に所属していた時に、写真集の中に「顔全体がしわだらけの老婆の写真」がありました。そしてその写真家は「若い女性には、その若さから生まれる美しさがあるが、それはある意味浅薄な美しさである」と。そして「老婆には、年老いた女性の美しさがあり、そのしわはその生涯の苦悩によって培われた宝石のようであり、ひとつの芸術作品なのである」と。わたしを産み、育ててくれた母に感謝。今、「二度童子」になりつつある母の世話をする。
2017年01月01日 旧約聖書詩篇139篇(MP3)「わたしが目覚める時―なおも、あなたとともにいます」
http://aguro.jp/d/stream/17_ic_ss/170101_ic-ss_Psa139.mp3
この詩篇の19節以降には、厳しい言葉が続いている。詩篇にはこのような詩篇が度々見られる。
これを書いた作者は、無実であるのにもかからわず、告発を受けている。そして、現実の世界を見れば、正しい者が裁かれ、悪い者が栄えている。この詩篇は、苦難、苦境に対する叫びであり、祈りの詩篇なのである。
「悪者」という所に、「病」と入れてみたらどうだろうか?「障害」、「経済」、「人間関係」と入れる事も出来るだろう。少々の苦難、苦境ではない、「極限」を歌っている、祈っているのである。この詩篇は祈りであり、叫びであり、賛美の書なのである。表面的な綺麗事ではない、心のど真ん中から、主に叫ぶ信仰の言葉である。
19節から24節を始めに持ってきて、1節に戻るとどうだろうか?神様はすべてを知っておられるという。「私のすわるのも立つのも、知っておられ、」(139:2)
、「私のあゆみと伏すのを見守り、」(139:3) 、「ことばが私の舌にのぼる前に、・・・ことごとく知っておられます。」
(139:4) 私たちの神は全知の神なのである。
また、御霊は私たちの心の深いところを、探り極める理解者である。キリストがなぜ肉体をとってこの地上に来られたのだろうか?私たちと同じ苦難を味わわれるためであった。キリストが辿られたのと同じ苦難を、私たちも辿っているのである。
神様は、例えば、私たちが天に昇っても、よみに床を設けても、そこにおられると書いてある。私たちの神は遍在される神なのである。この詩篇の作者は言う。私たちがどんな所に行こうと、神はそこに共にいて下さると・・・
たとえ、私たちが、今おかれている所よりさらに低い所に行ったとしても、そこに主はおられるのである。人生において、苦しい事、悲しい事、ヨブのようにさらに深い底に入れられようと、その扉を開く鍵がここにある。
139:13~18
ここには、母の胎内での事が書かれている。私たち1人1人は、神の創造による作品なのである。神様が、母親の体の中で、私たちを組み立てられる。まだ、生まれてもいない、胎児の記録が、人生のシナリオが、神によって書かれていく。
将棋や碁の名人は、何百手、何千手の先を読むという。私たちには、生きる限り無限の可能性がある。私たちの可能性は、海の砂、空の星よりも多いと、この詩篇の作者は言っている。
139編18節の後半を見てみよう。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」とある。1日を始める時、1年を始める時、神様は私たちとともにいてくださる。そして、いつか、私たちが人生を終えて、眠りにつく時もまた、目覚めれば天の国で、私たちは主とともにいるのである。
神様が、この年も、みなさんとともにおられることを、ともに感謝したい。(仁美記)