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2022年12月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇85篇「地に恵みを施し、ヤコブを元どおりにされます」-生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける-
https://youtu.be/1dBe1t-nlkY
メリークリスマス、クリスマスおめでとうございます。今朝は、クリスマス礼拝でありますとともに、今年最後の礼拝でもあります。さて、アドベントの期間、いろんなことがありました。11月末に「ハーベスト問題講演」が終わり、奉仕の疲れを癒していると、今年七月に設立された「性の聖書的理解ネットワーク(NBUS)」から、F師の「LGBTQ問題講演」に対するW師の「LGBTG問題について聖書は何と述べているか(2)
-F師の講演を聞いて-」の情報が送られてきて、「可能なら講評をいただきたい」とのことでした。それで、丁寧に視聴させていただき、個人的なコメントを書き添えて返信させていただきました。友人のE先生から「次に取り組むべき課題のひとつは、LGBTQ問題ですね!」と励まされていたことを思い起こしつつ、一冊の本の熟読を始めました。
その本というのは、ジェフリー・S・サイカー編、森本あんり監訳『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』です。[本書は同性愛という論題を「双方の立場から」論じ合った書物です。本書は、同性愛とキリスト教をめぐる特定の諸問題に一義的な解答を与えようとするものではありません。まず何よりも“議論の土俵”
を整備し、それぞれの論者が“最低限の共通理解” を得た上で、十分な“話し合いへの展望”
が開かれれば、という願いのもとにまとめられています。本書では、聖書・伝統・科学・経験という四つの分野において、立場の異なる人々がそれぞれ“一対の議論”
を交わしています。]
[いずれにせよ、読者にお願いしたいのは、自分の立場に近いと思われる議論には“その短所”
を、遠いと思われる議論には“その長所”
を、それぞれ読み取るよう努力していただく]ことが求められています。監訳者の国際基督教大学教授である森本あんり師はー[私自身は、以前からこの問題を「キリスト教倫理」の授業で扱っており、本書は“定番の課題図書”
であった。…キリスト教や同性愛に関心をもつ多くの人々に読まれ、“実りのある議論を始めるための出発点”
として活用されよう望んでいる]と記されています。キリスト教会において、両極に分かれて、いわば川の両岸からの“水掛け論”に終始しやすい『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』というテーマについて、丁寧に取り組んでいきたいと思わせられたアドベント期間でありました。
きわめて難しい課題のひとつでありますので、両者の捉え方、考え方、聖書解釈とその適用等を丁寧に学びつつ、分かち合っていく新年としていきたいと願っています。エリクソンやラッド、宇田師進師や牧田吉和師、等に学びつつ、福音派の福音理解のセンターラインを紹介するとともに、福音派が直面している諸課題のひとつひとつに取り組んでいくことも、一宮基督教研究所に与えられている使命と受けとめているからです。「聖書の傾聴」シリーズでは、ローマ書ではウルリッヒ・ヴィルケンス、黙示録ではリチャード・ボウカムや岡山英雄師、牧会書簡ではJ.R.W.ストットの傾聴に見習ってきました。そして、『詩篇傾聴』シリーズでは、カルヴァンから始まり、ブルッゲマンやアンダーソン等に導かれています。[Ⅰペテ2:21
その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された]とありますように、キリストにあり、御霊とともにあって[聖書の使信を要約し、私たちの時代に対し新たに理解していこうとする、神についての教会]的学識を提示してくれている信仰の先輩たちの助けを得つつ、それらをも通して語っておられる「神からの静かなる御声」に聞き耳を立て傾聴していこうではありませんか。さて今朝は、詩篇85篇に傾聴してまいりましょう。
本詩85篇は、先週の麗しい84篇から、嘆きの詩篇への逆戻りです。最近、イスラエルで総選挙が行われ、ネタニヤフ氏が勝利し、宗教的な右派と協力し、政権を奪還する方向となりました。右派の人たちは、ヨルダン川西岸地域等の占領地の併合と敵対者の弾圧、国外追放等を追求していく目標を掲げているようです。そして、主として米国のキリスト教シオニズムの流れの人たちは、それらの人々の応援団を形成しているようです。本詩を字義通り読んでいますと、右派の人たちの祈りと重なるように思います。[85:1
【主】よ、あなたはご自分の地に恵みを施し、ヤコブを元どおりにされます]は、バビロン捕囚からの解放を意味しており、この祈りは「土地、首都、神殿の回復」を懇願する祈りをも暗に含むからです。
イスラエルの民は、70年間のバビロン帝国による捕囚の後、ペルシャ帝国により解放され、母国の地に舞い戻ってきます。その回復の経験を[85:2
あなたは御民の咎を担い、すべての罪をおおってくださいます。セラ 85:3
あなたは激しい怒りをすべて収め、燃える御怒りから身を引かれます]と詠っているのです。この箇所は、申命記の教えに不従順な時には[申28:64
【主】は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす]と言われ、[申30:2
あなたの神、【主】に立ち返り、…御声に聞き従うなら、30:3
あなたの神、【主】はあなたを元どおりにし、…あなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる]という申命記的歴史の実現です。
バビロン帝国による南ユダ王国滅亡と捕囚は、神の怒りとして受けとめられていました。ですので、捕囚からの解放は審判の期間は終わり、その悔い改めは聞き入れられ、[85:2
あなたは御民の咎を担い、すべての罪をおおってくださいます。セラ85:3
あなたは激しい怒りをすべて収め、燃える御怒りから身を引かれます]と詠われたのです。しかし、希望に満ちた捕囚解放は祖国再建に直結しませんでした。エズラ記3章以下に書き留められていますように、エルサレム再建は種々の困難に直面しました。捕囚解放(BC539年)からエルサレム神殿完成(BC515年)まで、25年という歳月が流れ(エズ6:13-22)、その後も内外から様々な難問が押し寄せました(ネヘ3、5、6章)。
本詩の第一段「A. 過去に実現した捕囚からの解放への賛美」に根差した第二段「B.
苦境の訴えと回復の懇願」は、そのような困難な時代を背景にしています。イスラエルの民は、歴史的経験を神に直結して受けとめます。強国バビロン帝国による滅亡と捕囚を、民族の偶像礼拝と不道徳に帰し、義なる神による怒りの審判と捉えます。捕囚からの解放を、より民主的で民族と文化と宗教を尊重するペルシャ帝国の政策とは捉えず、その背後に「神の怒りの収まり、民族の罪・咎の贖い・赦し、神の慈愛と恵みによる民族の土地回復」と捉えます。しかし、故国に帰還したものの、数多くの困難に直面しつづける中で謡われた本詩は、「嘆きがとりもなおさず、神の不在時において、神を賛美する方法であった」といわれるものです。
神が南ユダとエルサレムと神殿を去られた故に、南ユダ王国は滅亡し、神殿は破壊され、民はバビロンへの捕囚民として連れていかれました。今日、ウクライナの民がシベリア各地に移されていることに似ています。パレスチナの民が散られていることにも似ています。[85:4
帰って来てください]というのは、母国へ帰還したけれども、神殿も城壁もない状況に置かれているからでした。主ご自身が再び来訪される時、すべての困難な状況の歯車はかみ合わされ、稼働しはじめ、神の摂理の御手により建立も再建も可能となるという信仰です。
主が再び、来訪し、建立される神殿に、再建される城壁のある安全な首都エルサレムに住まわれるとき、そこには、[85:8平和]、
[85:9
御救い]…[栄光が私たちの地にとどまる]と期待されています。しかし、新約の「イエス・キリストの人格とみわざ」に照らされて詩篇に傾聴するわたしたちは、新約の使徒たちがそうしているように、民族主義的な色彩の濃い旧約の古い皮袋を破り、新しい皮袋である解釈を提示しなければなりません。拙著『福音主義的イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』に記しましたように、[適合する第三の要素は、「教会理解」である。教会がキリストにおいて「刷新され回復されたイスラエル」であり、そして今それはあらゆる民族の人々を包含するかたちに広げられていると主張している
。キリスト教シオニズムが根拠の薄弱な聖書的・神学的主張によって国家としてのイスラエルを正当化し、神聖化するのに対し、教会をそのように理解する契約主義は相互の認知と和解の上に、正義と平和についての聖書的原則を基盤とした国際的な平和への努力推進を強く支持する理解である
。サイザーは言う、「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる
。」]と。
わたしたちは、今、世界の国々とともに、ロシアとウクライナがそれぞれの国家と国土を尊重しあい、共存できるように背後から助けているように、イスラエルとパレスチナの人々に対しても、国連決議に従った国境線を尊重しあうかたちでの「二国家共存」を助けていく必要があると思います。旧約的次元をもつ詩篇を、新約の光に照らしだし、そのキリストにある新しい原則を今日のさまざまな状況に適用していくべくー教会は挑戦を受け続けている、といえるでしょう。[85:10
恵みとまことはともに会い、義と平和は口づけします]とある通りです。[85:11
まことは地から生え出で、義は天から見下ろします。85:12
【主】が良いものを下さるので、私たちの大地は産物を産み出します。85:13
義は主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします]とあります。
ロシア人とウクライナ人、イスラエル人とパレスチナ人ーという、過去を辿れば兄弟のような関係にある民族に、[生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける]ー
そのような祈りとして、本詩を現代の祈りとして祈っていきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、tephen Sizer, “Christian
Zionism”、”Zion’s Christian Soldiers?”、安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』)
2022年12月18日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇84篇「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」-詩篇84篇のようなイメージの教会のビジョンを抱いて何十年もの年月を-
https://youtu.be/9pOU0edi1Iw
アドベント第四週となりました。クリスマス直前となりました。先週より、関西聖書学院で学んでいます安黒拓人神学生が第一礼拝の説教を担当してくれています。わたしは、第二礼拝でクリスマスの時期に詩篇に短く傾聴しています。降誕の箇所ではなく、詩篇を学んでいます。クリスマスといいますと、粉雪が舞い、クリスマス・ソングが鳴り響き、ローソクが灯り、クリスマス料理・プレゼントが溢れるーそんなイメージがあり、祭りのような、ひとつの祭典のような行事の季節感で満ちています。しかし、同時に、これは神の御子が全人類の罪の身代わりとなって、「代償的刑罰」を受けるために生まれてきてくださった日でもあります。その意味では、暗く、陰鬱な、そして深刻な問題の解決のために、ご自身のいのちをささげるために来臨され、誕生された“厳粛な日”でもあるのです。
詩篇は、神の民の祈りの書物です。ヴェスターマンという神学者は、捕虜収容所で「詩篇研究」を書き上げたそうです。その中で、詩篇は嘆きの詩篇とほめたたえの詩篇から成り立っていると語っています。クリスマスを想うとき、このふたつの面が共存しています。飼い葉おけの御子を想うとき、美しいクリスマスの物語に思いをはせるとともに、それがわたしたちの罪のためであったのだと自覚するときに、神のみ前に厳粛な思いを抱かされ、頭を垂れざるを得ないのです。「ああ、自分はなんと高慢な人間なのだろう…!」と嘆息せざるを得ないのです。このような視点から、今朝の詩篇84篇に傾聴してまいりましょう。
わたしたちが詩篇傾聴シリーズで参考にしています文献のひとつに、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』があります。この書の目次を見ますと「①詩歌における神学、②賛美の上に座する者ーイスラエルの信仰告白、③信仰の試練ー嘆きの詩篇、④新しい歌を歌えー感謝の詩篇、⑤創造の驚異ー讃美歌、⑥静まって私こそ神であると知れー祝祭の歌と典礼、⑦流れのほとりに植えられた木ー信頼と教導との詩篇」で構成されています。詩篇の祈りや賛美やうめきには、さまざまなジャンルがあり、わたしたちは信仰生活の豊かさーその深さ、高さ、広さ、長さを教えられます。詩篇には、わたしたちの霊的生活を掘り耕し、豊かな実りを提供するものに満ちています。
先週までの、悲哀に満ちた、苦難のただ中における嘆きの祈り、叫びである「アサフの賛歌」のシリーズの後に、祝祭の賛歌・典礼のジャンルの「コラ人による賛歌」に入りますとき、その雰囲気の急変に驚きを禁じえません。前者は、いわば真冬の寒気団に包まれ、苦難と絶望が神の民を覆っています。後者には春の陽光が差しており、祝福と希望と賛美に溢れています。
本詩を一週間読んでおりまして、奉仕生涯の初期に担当しておりました「宣教学・教会成長学」のことを思い出しました。この科目は、フラー神学校の宣教学コア・カリキュラムの内容に沿ったもので、「①宣教の聖書的基盤、②宣教の歴史的・地理的展開、③宣教と文化の関係、④宣教の戦略的構築」という構成で教えておりました。
「④宣教の戦略的構築」の中で、フラー神学校の宣教学研究や教会成長学研究の諸文献から、実例研究のデータからの原理原則に教えられるところが多々ありました。その中のひとつが、「アサフの賛歌」と「コラ人による賛歌」に共通していると教えられました。キリスト教信仰には、短調と長調、陰鬱な暗さと陽気な明るさが同居していると思います。それらの両面は、コインの表と裏のように密接に、分割不能なかたちで結合しています。しかし、イエス・キリストの贖罪と復活の希望の上に建てられた教会、また礼拝には、「アサフの賛歌」の絶望と「コラ人による賛歌」の希望の両面があり、その低音には暗さを内包するとも、その高音においては詩篇84篇のような酸素に溢れた空気が必要と思います。
冒頭の感嘆から結びの祝祷に至るまで、この詩は神が死すべき者達と共に宿ってくださることによって与えられる喜びをほめたたえています。シオンの山にある神殿は神の臨在の場所であったゆえに、神を求める者は巡礼という歴史的形態を取ったのでした。神が住まわれる場所が心から愛され、切に求められたのは、魂が神に焦がれるからです。鳥でさえも巣をかけるのに望ましい所として見出します。シオンで神にまみえるために、いよいよ力を増してその道を進む限り、「前の雨」は自分たちに伴うものと理解しています。
神殿の中にいる一日は他で過ごす千日に勝るのです。主に逆らう悪人と共に居住するものとなるよりも神の家の入口に立っている方がましなのです。本詩は、ほんの短い時間であったとしても、また最低限の仕方であったとしても、ご臨在の場所にいるということに何にも比べ難い価値を置いています。旧約時代は、エルサレムとそのシオンの山に、神殿があり、その臨在の象徴である契約の箱がありました。かし、新約時代のわたしたちは、その時間的・空間的場所に縛られる必要はなくなりました。
イエス・キリストの人格とみわざこそが、神殿や契約の箱で象徴的に示されたものの実体であるからです。わたしたちは、ヘブル人への手紙やローマ人への手紙の光に照らされて、本詩とは異なる仕方で、しかも本詩を通して神のもとに行き、賛美をささげるのです。本詩は、教会もチャペルも、神の愛の宿る場所、神にまみえることを求めてたぎる思いが慕い求める神の住まいとなるよう、奨めるメッセージを語りかけています。短調と長調、闇と光、寒波と春の陽光ーアサフの賛歌とコラ人による賛歌の対照は、少子高齢化社会における教会の礼拝のあり様、方向性をも示唆しているように教えられます。
米国における教会成長学の一冊に「このような居心地の良さ」というものーそれは教会成長にとって大切な要素のひとつである、と記されていました。終わりに、先週届きました記念誌がありました。聖書学校時代の同窓生からのものでした。その教会の開拓から成長の足跡を読んでいるときに、本詩84篇を思い起こしました。同窓生のH牧師夫妻は、「この詩篇84篇のようなイメージの教会のビジョンを抱いて何十年もの年月を歩んでこられたのだな」と感慨深く振り返りました。本詩は、そのようなことを改めて教えてくる詩篇です。祈りましょう。
(参考文献:B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、
J.L.メイズ著『現代聖書注解 詩篇』、安黒務著『宣教学講義ノート』)
2022年12月11日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇83篇「あなただけが、全地の上におられるいと高き方」-新約の普遍的神の国、すなわち“民族主義的色彩をもつ旧約聖書”を再解釈する視点にもつ“聖書解釈法”-
https://youtu.be/MueurSbQpXQ
アドベント第三週となりました。クリスマス間近となりました。キリストの来臨のうち、初臨はひそやかなものでした。名も知れぬ村ナザレの大工の、名も知れぬいいなずけマリヤから始まり、彼らの本籍地であるベツレヘムの町への徒歩の旅で始まります。時代は、[ルカ2:1
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た]とありますように、ローマ帝国の植民地支配下にありました。[2:3
人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。2:4
ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った]とある通りです。
そのような時代背景の中にあって、ユダヤ人が待ち望んでいたメシヤとは、ローマによる植民地支配から独立戦争を戦い、民族独立を果たしてくれる“ダビデ王”のような政治的・軍事的指導者の登場でありました。多くの奇跡をなし、ラザロの復活で頂点に達し、五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちを養われました。イエスがわずかなパンと魚をもって五千人を養われた奇跡の後、無理やりイエスを連れて行き、彼を王にする民衆の動きが起こりました(ヨハネ6:15)。実際に、ここで神の力を付与された人物と認められたのです。彼にわずかな刀と槍を提供しえたなら、彼はそれらを増やすことができるので、ひとつの軍隊をすら用意することができると受けとめられました。そのとき、ピラトの軍隊は彼の前に立ち向かうことはできなかったでしょう。
しかしながら、このようなことは、イエスの現段階での使命ではありませんでした。人の子としての彼は、まず苦難のしもべとして来られたのです。そしてこの苦難の使命を終えた後においてのみ、天的な人の子となられるのでした。ユダヤ人が待ち望んた「政治的軍事的指導者」としてメシヤ像と、「罪と死と滅びからの解放者」としてのメシヤの実体とのギャップは、熱狂的にイエスを迎え入れた民衆に大きな失望を与え、やがては彼らによって十字架につけられる運命を辿られたのでした。クリスマス物語の背景、また文脈としての「メシヤの初臨」には光と闇の物語が含まれています。これは、わたしたちの信仰にも適用できる要素を含むものです。そのような視点をもって今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
本詩は、アサフ詩集に編み込まれた四つの「民の嘆きの詩篇(74,80,83篇)」のひとつです。本詩は、前半部(1-8)と後半部(9-18)に分かれます。前半部は、[83:4
さあ彼らの国を消し去ってイスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう]、[83:12
神の牧場を奪って、われわれのものとしよう]と、イスラエルの抹消をもくろむ敵の策謀を神に訴え、後半部は、[83:13
私の神よ、彼らを風の前に吹き転がされる藁のように、…83:14
林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように]してくださいと、敵の撃退を神に懇願する内容です。
イスラエルの敵は、神を憎み、神に敵対する人々です。5-8節には、神に逆らって互いに「盟約を結ぶ」勢力が具体的に名指しされています。[83:6
エドムの天幕の民とイシュマエル人モアブとハガル人、83:7
ゲバルとアンモンそれにアマレク]までは、イスラエルの南方と東方の近隣諸族、[ペリシテさらにはツロの住民]は地中海海岸の人々です。9-12節は、士師記に伝わる対外戦争の伝承を回顧し、そこで撃破された勢力、その将軍や王たちの名[83:9
ミディアンやキション川でのシセラとヤビン、…83:11
オレブとゼエブ、…ゼバフとツァルムナ]を具体的に引いて、5-8節で名指しされた敵たちをそのように滅ぼしてほしいと、神に懇願しています。
神の介入を、預言者が多用する審きの象徴的表現を用い、[83:13
風の前に吹き転がされる藁のように、してください。83:14 林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように」、[83:15
疾風で彼らを追い、…嵐で]おののかせてください、と嘆願します。弱小の民イスラエルは、その歴史においてしばしば民としての同一性を喪失しかねない事態に遭遇しました。王国時代の北イスラエル王国は幾度となくアッシリア帝国の脅威にさらされ、BC721年に滅亡し、捕囚民として連行され、かの地で民族としては消滅してしまいました。
それに対して、南ユダ王国はアッシリア帝国の攻撃に耐ええたものの、BC587年、バビロン帝国軍によってエルサレムが陥落し、捕囚民としてバビロンに捕え移されました。しかし、ユダ王国の捕囚民は、民としての同一性を保持し、捕囚解放後に母国での共同体の再建に向かうことができました。このことは、キリスト教会にとっての教訓があります。それは、「北イスラエル王国」的な信仰のあり様のキリスト教はいずれ“世に埋没し、消え失せていく”運命にあるということであり、「南ユダ王国」的な信仰のあり様のキリスト教は、“少子高齢化”時代の荒波を乗り越え、「真の神の民としての同一性を保持」しつつ、「共同体としての建設」に向かうことができるということではないでしょうか。
ジョン・ストットが、第一回のローザンヌ会議の講演で、第一世紀の使徒たちの宣教に触れ、「その中で最も中心的なことは、実は方法でも成果でもなく、使信(メッセージ)そのものであった」と語って注目されました。少子高齢化の日本の若者伝道が必要され、その中で「音楽やさまざまなパフォーマンス」の効用が注目されています。それは、大切なこととして考慮される必要があると思います。ただ、その効用にだけ注目されて、「福音理解の健全さ」が軽視される傾向があるように思います。宇田進師からは、「ローザンヌ誓約」にみられる“宣教観”と福音主義に立つ“福音理解”の共通項の大切さを教えられました。
さて、今朝の詩篇83篇は、その本質的原則を抽出し、いろんな方向に適用できるように思います。最近、イスラエルの選挙で勝利し、ユダヤ教右派と組んで、「ヨルダン川西岸の入植と併合」を推進する人たちは、この詩篇をそのように読み、解釈し、適用するでしょう。ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの人たちは、そのような運動や傾向をさまざまな分野で支援していくでしょう。
しかし、福音主義に立ち、詩篇を「イエス・キリストの人格とみわざ」の視点から再解釈する人々は、イエス・キリストや使徒たちとともに“民族主義的エゴイズムの衣”を脱ぎ捨て、より本質的な意味を聖書から読み取ろうとするでしょう。83:4
の「さあ彼らの国を消し去ってイスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう」の、“イスラエルの名”は、民族を超えた普遍的神の国の“名”として、その言葉の深淵において読まれ、「民族的偏狭さとエゴイズムに根差す植民地主義」こそが、“民族を超えた真の神の民、神のイスラエル”を取り囲み、「神の牧場を奪って、われわれのものとしよう」とする運動や教えであるとの再解釈に傾聴するでしょう。
わたしたちが反省し、平和をもたらす神の子と証しし続けるためには、シカゴ・コールに「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。われわれはおのおのの伝統を謙虚に、かつ批判的に精査し、間違って神聖視されている習慣を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」とあるように、「民族的偏狭さとエゴイズムに根差す植民地主義」の推進と応援の神学的根拠として、“旧約の影”に基づく誤った解釈に惑わされることなく、「イエス・キリストの人格とみわざ」の“普遍的神の国の光”に基づいて、詩篇を再解釈し、“今日の情況下で語り続けておられる神の真の御声”を傾聴していく者とされましょう。
すなわち“民族主義的色彩をもつ旧約聖書”を、新約の普遍的神の国の光をもって再解釈する視点にもつ“聖書解釈法”こそ、イスラム・ヒンズー、仏教・神道等、世界中の人々を[83:16
御名を捜し回]る人々に変えうる福音であり、そのような“普遍的神の国”を掲げる宣教のみが、[83:18
その名が【主】であるあなただけが、全地の上におられるいと高き方であることを]知ることができるように、と祈ることができる宣教なのではないでしょうか。困難な状況に陥ってはいますが、ユダヤ人とパレスチナ人の平和共存のために、またロシアとウクライナの戦争終結のため、祈り続ける者でありましょう。祈りましょう。
(参考文献:
宇田進『福音主義キリスト教と福音派』、J.R.W.ストット編著『ローザンヌ誓約ー解説と注釈』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2022年12月4日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇82篇「神よ立ち上がって、地をさばいてください」-弱者に対する正義が、真の神とその神に仕える真の神の民の特質である-
https://youtu.be/f5kz1Etw8xo
夏季に「ハーベスト問題」に関する集いに加えていただき、九月に「流出問題」に関する証しと対応策についてお聞きできました。そのときに、「ハーベスト問題による信徒流出現象の神学的核心について」講演と質疑のときを依頼されました。その準備として、フェイスブック上で、この件に関し過去に取り組んだ数多くの資料を紹介しつつ、ある意味で「私自身の神学的思索の道筋の証し」をお分かちし、No.81まで綴ることができました。また、6週間前から「このテーマに関する詳述箇所として、ローマ人への手紙9-11章の礼拝説教シリーズを、ウルリッヒ・ヴィルケンスの註解の再読」をなし、ローマ書全体、パウロ書簡全体、新約全体、旧新約聖書全体の中で、この問題がどのように語られているのか、について思索を深める機会をもたせていただきました。これらの取り組みも整理し、いずれ文書化し、この問題で悩みの淵にある数多く教会、兄姉たちの一助としていただくことができればと願っています。
この問題は、先日の講演でひと区切りとなりましたが、「これで終わるはずがない。わたしたちは、この問題によってもたらされる“信徒流出現象”の入り口に立った、というだけではないか」という懸念を抱いています。とにもかくにも、わたしなりに、ここ30年余り取り組ませていただいてきたことの輪郭とエッセンスは紹介できたのではないか。それらはなんらかのかたちで、この問題解決の一助にしていただけるのではないかーそのように願いつつ、本日より、元の研究、本来の『詩篇傾聴』シリーズに戻らせていただきます。詩篇82篇を朗読させていただきます。
今週は、アドベント第二週です。『詩篇傾聴』シリーズをそのコンテキストに重ね合わせ、傾聴していきたいと思います。さて本詩82篇は、「天上の法廷」を描く特異な詩篇です。まずは[82:1
神は神の会議の中に立ち、神々のただ中でさばきを下す]と、冒頭で、神は神の主宰される集いに立ち構え、神々の間で「審きを行う」と法廷の開催が宣言されます。続いて[82:2
いつまでおまえたちは不正をもってさばき、悪しき者たちの味方をするのか]と、糾弾と勧告が「神々」に向けて告げられます。そして、[82:3
弱い者とみなしごのためにさばき、苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ]と、「お前たち」の責務は、社会的に弱い立場にある人々のために審きを遂行し、[82:4
弱い者と貧しい者を助け出し、悪しき者たちの手から救い出せ]と、彼らを邪悪な者の手から救い出すことではなかったのか、と。
ところが、[82:5
彼らは知らない。また悟らない。彼らは暗闇の中を歩き回る。地の基はことごとく揺らいでいる]と、神による糾弾と勧告を真摯に受けとめることなく、「神々」は不正を続け、創造の秩序すら崩壊させるに至ります。これを受けて[82:7
おまえたちは人のように死に、君主たちの一人のように倒れる]と、神はあらためて「神々」に死罪を言い渡されます。そして、最後に[82:8
神よ立ち上がって、地をさばいてください。あなたがすべての国々をご自分のものとしておられるからです]と、そうした神による判決が実際に執行されるよう、真の神こそが地上のあらゆる国民の統治者である、との言明をもって法廷は閉じられます。
このように描き出される「天上の法廷」はメソポタミアの神話的な背景からの影響がみられる、といわれます。本詩は、「天上の会議」という神話的観念を踏まえる一方で、預言者の社会批判を引き継ぐ内容をもっています。天上における真の神の至上権をうたいあげつつ、地上における苦しんでいる民の救いを展望しています。そのような意味で、本詩82篇には、社会的に弱い立場にある者たちを正しく審くことをしない「神々」など神々ではなく、真の神こそが世界の審き主である、との確固とした信仰が響き渡る詩篇です。
さて、アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」のことです。旧約聖書においては、驚嘆すべき神の訪れは、“神の顕現(テオファニー)”とも呼ばれ、「主の日」は神の訪れの栄光の日として記されています。ギリシヤ人の思想では、「人間は世界から逃れ、神のもとに逃避」しますが、聖書の神観・世界観・人間観においては「神は人間のもとに下って来て下さる。歴史のただ中にご自身をあらわし、歴史の中にいる人間を訪れ」とくださると言明しているのです。
わたしたちクリスチャンは、幼子のような信仰をもって、「イエスさまを信じて天国に行く」と申します。これは一面正しく、また他の面で誤解を含みやすい言葉であります。わたしたちが「見える物質世界から、肉体を脱ぎ捨て、見えない精神世界に逃避するかのように飛翔」するイメージがあるからです。聖書の信仰は、この被造物世界を善き世界として創造してくださった神とその善き創造の世界を、神のみ旨に沿って管理する人間への召命について教えています。罪と堕落した人間により空しくされ、偶像崇拝・不法・不道徳がはびこる世界を審判され、悪を一掃される聖なる義なる神を啓示しています。
この旧約の「主の日」は、新約において「初臨としてのクリスマス」と「再臨」とに二つに分けられています。初臨はわたしたちに「救いの日、恵み日」をもたらしました。再臨は「審判の日」でもあります。わたしたちは、Ⅰコリント3:9-15[3:9
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。3:10
私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。3:11
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。3:12
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、3:13
それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。3:14
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります]とありますように、不敬虔な罪人であるわたしたちは、受肉されたキリストの贖いの犠牲により、罪赦された者とされ、その基盤に立って、内住の御霊によって「主にある人生」という建物を建てるべく召された者です。ブーフーウーの物語に示唆されていますように、わたしたちの人生のある部分ーすなわち肉によって生きた部分は焼き尽くされるでしょう。そして、神律的相互性の下、御霊とともに生きた部分に対しては報い・報償を受けるでしょう。本詩82篇には、預言者的精神が溢れています。信頼しうる神の「神性の基準」が明示されています。
それらは「弱い人々のための正義」が地球全体を特徴づけますようにという祈りです。世界にはウクライナ問題等があり、温暖化等の環境問題、移民難民問題、キリスト教会内にもLGBTQ問題等、難しい問題が溢れています。受肉された御子は、この被造物世界の「不正、悪に審きをくだし、弱い者、苦しむ者、貧しい者を救い出す」ために初臨された真の神です。このお方を信じ、このお方とともに生きるということは、「弱者に対する正義が、真の神と、その神に仕える真の神の民の特質である」と、言葉と生活で証しし続けるよう召されていることを意味します。御子の初臨に感謝し、再臨を待ち望むわたしたちも、御子にならう者とされましょう。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、G.E.ラッド著『終末論』)
2022年11月29日 ハーベスト問題検討会講演―「HTMの聖書フォーラムによる信徒流出問題とその神学的核心を検討する」
https://youtu.be/qgfHK0GfiEY
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こんにちは、JEC日本福音教会一宮チャペル牧師で、「一宮基督教研究所」を主宰している安黒務です。前回、九月のハーベスト問題を検討する集いがあり、「ハーベスト問題の神学的核心について講演し、質疑応答の時をもっていただきたい」との依頼を受けました。本日の講演では、“参考文献の紹介と関連情報の提供”をなしつつ、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題とは何なのか」を共に考え、その神学的核心としてのー「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”」を使徒的視点から分析・評価してまいりたいと思います。時間は、講演60分、質疑応答30-40分とお聞きしていますので、宜しくお願い致します。(講演は40分、質疑応答部分は録画しませんでした。講演ノート)
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●第一部: HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラムによる信徒流出問題とは何なのか
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1. 米国のキリスト教メディアの分析・評価とHTM
はじめに、ハーベスト問題を考える上で、参考となる本を紹介したいと思います。生駒孝彰氏の『ブラウン管の神々』と『インターネットの中の神々』です。米国における、ラジオの時代→テレビの時代→インターネットの時代のキリスト教番組の変遷が記されています。五人の著名な伝道師として、「政治的言動」のパット・ロバートソン、「癒しのミニストリー」のオラル・ロバーツ、「可能性思考」のロバート・シューラー、「健康と富の神学」のジム・ベーカー、「洗練された音楽」のジミー・スワガードと、人物と番組の特色が紹介されています。その中の幾人かは、性的スキャンダルや金銭的スキャンダルで失墜しています。また、二人の巨人として、ジェリー・ファルウェルとビリー・グラハムと落ちた巨人としてレックス・ハンバードが紹介されています。そして、テレビ伝道の実態の分析・評価がなされ、視聴総数が飽和状態になっていく中で、番組の急増に伴う過当競争、視聴者の争奪戦、献金の争奪戦等の問題とそれに伴う番組内容の「視聴者主導・視聴者ニーズ中心の編成、特色のある内容の必要」が取り上げられています。
キリスト教メディア・ビジネスの世界での激烈な戦いが、米国でみられてきたように、日本の人口の1%程度といわれるクリスチャン人口とその周辺のキリスト教求道者層の中での「キリスト教メディアとしてのHTM」の経済的サバイバルの歩みは大変なことであったと思われます。少子高齢化社会で、クリスチャン人口の減少も予想される中、一般社会も、教会も、大変な時代に突入しつつあることは明らかです。そして、元々財政基盤がぜい弱な日本のキリスト教メディアにとって、魅力的で個性的な番組やビデオやスポーツ等、多様多彩なメディア競争の中で「視聴者数と献金額を維持していく」ことは、大変なことだと思います。
そこで、「超教派的な共通項を内容」とするテレビ伝道から、「視聴者獲得と献金獲得の新規プロジェクトとしての可能性」を、“ディスペンセーション主義神学”の原理的前提の徹底を“錦の御旗”に掲げることの中に見出されていったものと思われます。
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2. 米国におけるディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの興隆とHTM
J.R.W.ストットも推奨している、スティーブン・サイザー著『キリスト教シオニズム』と『シオンのクリスチャンの兵士たち』の中で、ディスペンセーション主義神学に立脚するキリスト教シオニズム運動についての分析・評価があります。その要旨は、拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』で紹介しています。ここで、今回のテーマとの関連で、「キリスト教シオニズムの意義」の箇所から、ひとりの牧師を紹介します。[ジョン・ハギーによる最近のスピーチから、動きとその戦略の趣向をお話ししましょう。
ハギーは、テキサス州サンアントニオにある 18,000
人の会員を擁する福音派教会であるコーナーストーン教会の創設者であり、主任牧師です。 ハギーは、毎週160 のテレビ局、50
のラジオ局、および 8 つのネットワークを使用して、世界中の推定 9,900
万世帯に全国的なラジオおよびテレビのミニストリーを放送しています。2006 年、彼は他の 400
人のキリスト教指導者の支援を受けて、クリスチャン・ユナイテッド・フォー・イスラエルを設立しました。
わたしは、米国のキリスト教メディアにおける「視聴率、献金獲得競争」の市場での、「ディスペンセーション主義神学に立脚するキリスト教シオニズム運動」の興隆が、参考になっているのではないかと思います。キリスト教メディア同士の中での視聴者獲得・献金獲得競争もありますが、この世のメディアとの間の視聴者獲得の戦いの上でも、中川氏が「イスラエル」に目をつけられたのだと思います。
キリスト教シオニズムの中には、ディスペンセーション主義を神学的基盤としているものが三つあります。黙示的ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム、メシヤニック・ディスペンセーション主義シオニズム、政治的ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムです。(ディスペンセーション主義とは異なり、バランスのとれた健全な契約主義的なキリスト教シオニズムもあることを書き添えておきます)。
HTMは、ハル・リンゼイ著『地球最後の日』やティム・ラヘイ共著『レフト・ビハインド』等にもみられる黙示的ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの傾向をもつ再臨運動だと思います。また、メディア戦略として「イスラエル」に特別な価値を見ておられる中川氏は、メシヤニック・ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムのフルクテンバウム氏とその著作・ビデオ等を効果的に活用しておられるように思います。
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3. 「ウィキペディア」におけるHTMの紹介ーその歴史と方向転換の経緯、今後の目標
HTM問題を正しく理解するために、風聞だけでなく、米国との関係や日本での歴史と方向転換の経緯、今後何をなそうとしておられるのかを知ることが大切です。そのときに、インターネット上の辞典である「ウィキペディア」や、ハーベストのホームページは役に立つと思います。そこでは、ハーベストの働きが以下のように紹介されています。
[ハーベスト・タイム・ミニストリーズ(Harvest Time
Ministries)による「聖書研究から日本の霊的覚醒を図る」、「聖書の解説講義、ネット配信、文書活動」、「インターネットの広報力に着目した、聖書に関する動画配信」、「過去の講義を含めた1400本以上の動画の「メッセージステーション」での無料視聴。
ハーベスト・タイム・ミニストリーズの主筆として、「ヘブル的聖書解釈による信徒訓練を目指して日々のディボーション・テキスト、『clay(クレイ)』の刊行」。再臨運動を重視し、2010年に「1.日本のリバイバル、2.ユダヤ人の救い、3.メシアの再臨をテーマとして、第一回ハーベスト再臨待望聖会が開催」された。
キリスト教伝道の本来的な目標に立ち還り、「理論的な解釈学に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てる」為に、信徒訓練の場である聖書塾の運営と、塾生が全国各地で行っている聖書フォーラム運動のサポートへ活動の機軸を移す。]
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4.「聖書フォーラム分布図」(2019年七月)
キリスト教伝道の本来的な目標に立ち還り、「理論的な解釈学に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てる」為に、信徒訓練の場である聖書塾の運営と、塾生が全国各地で行っている聖書フォーラム運動のサポートへ活動の機軸を移され、十年の月日が流れた結果として、スライドにあるようなかたちで、全国各地に「聖書フォーラム」が形成されてまいりました。
スライドにあるものは、2019年七月の「聖書フォーラム分布図」です。それから、三年あまりを経過していますので、今はもっと多いと思います。特に、この問題の深刻さは、過去においてテレビ伝道のハーベストタイムを支援してきた教会内に形成された「ハーベストタイムのシンパ層」が、”ひとつの、あるいは主要な?
“ターゲットにされている点にあると思います。HTMの聖書フォーラムの増加は、イコールではないと思いますが、諸教会からの「信徒流出」と符合して起こっていると聞き及びます。わたしの所属団体の幾つかの教会も被害にあっています。
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5. 農地ならぬ、羊の囲い込み運動(エンクロージャー・ムーブメント)
「ハーベスト問題」とは一体何なのでしょう。「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」運動と並行して全国各地の教会で起こっている“信徒流出”現象は、どのように理解し、説明できるのでしょうか。
ひとつの類比を試みます。わたしはこのように表現することはできるのではないかと考えています。これは、「HTMによる羊の囲い込み運動」なのではないかと。英国の産業革命以前には「細かい土地が相互に入り組んだ混在地制における耕地を統合し、所有者を明確にした上で排他的に利用すること。特にイギリスにおいて16世紀の第一次の農地の囲い込みは羊毛産業のための牧羊目的で個人主導で行われました」。
すなわち、2010年までのテレビ伝道から、インターネット神学教育へのシフトに際して、全国各地で起こり続けている「既成の諸教会からの“HTM→聖書塾→聖書フォーラム”への信徒流出」現象は長年諸教会の内外で培われた求道者や信徒のHTMシンパ層に対し、「教会の垣根を壊し、シンパ層の羊に対するHTMの所有権を主張する羊の囲い込み運動(エンクロージャー・ムーブメント)」と、類比して理解できるのではないかと。
わたしは、ここに「それぞれの歴史的ルーツと共通の福音理解に根差した、神の家族としての地方教会」と「教会を超えた機能を果たし、地方教会に対して補完的役割を担う超教派機関」との信頼関係の破綻をみます。
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6. 聖書フォーラムの”達成方法” 2.自立への道 ― 教会の病理現象(FATIM)からの脱却(流出)によって
では、「超教派テレビ伝道機関HTMへの地方教会の支援献金」と、「テレビ伝道で導かれた求道者の地方教会への紹介」という、“ウィンウィン”にあったHTMと地方教会の関係はどのように破綻していったのでしょう。わたしは、HTMの「聖書フォーラムとはー2.自立への道
― 教会の病理現象(FATIM)からの脱却」というページにある記述に“戦略”のヒントがあるように思います。
これを読んで皆さんはどのように思われるでしょうか。「なかなか斬新な取り組みだ」、「革新的なアイデアだ」、「これからの教会はかくあるべし」等々、肯定的な意見・感想もあることでしょう。一般の宣教分析の本ではそのような肯定的な評価ができるかもしれませんが、現在の、「既存の教会からの、全国規模での、HTM管轄下の聖書フォーラムへの信徒の流出」現象の事態を前にして、このリストでわたしに思い浮かぶ言葉は、孫子の兵法の中の「兵は詭道なり」という言葉です。そのこころは、「戦いは、敵に手の内を見せないことによって勝利を収めることが肝要である」ということです。
既存の教会のあり方を前者で表現し、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」のあり方を後者で表現し、前者を“病理現象”、すなわち“悪”と断定し、後者をその“悪からの脱却、解放、いやし”と捉え、「HTMの羊の囲い込み運動」に積極的に参与していくことを“善”であり、“神のみこころにかなう”ことであると促し、既存の教会の家族から切り離されることに対する“良心の痛み”を和らげる鎮静剤の役割を果たしているように思います。
わたしは、中川氏のこのような「つるバラのつるを誘引する」ような美辞麗句は、詭弁を弄するものーすなわち、詭弁を弄するとは、「間違っていることに関して、特殊な理屈を使って正当性を主張する」ことのように思います。わたしは、既存の教会で大切に育てられた羊を、詭弁を弄して「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」に囲い込もうとしておられるように思うのです。
確かに、さまざまな理由での教会間での信徒の移動というものはあります。しかし、教会間での信徒の移籍には、家族の一員としての教会員の、ある意味“養子縁組”のような責任ある、信頼関係に基づいた手順というものが存在しています。それを、牧師も教会員も知らぬ間に、ある意味“闇に紛れて”、羊を「聖書フォーラム」に囲い込むというのは、地方教会と超教派団体の倫理に違反する“主の御前における犯罪行為”にあたるのではないでしょうか。
わたしは、既存の小さな教会からの「HTM→聖書塾→聖書フォーラムへの羊の流出」の証しを聞くたびに、Ⅱサムエル記12:1-4の預言者ナタンを通して語られた神の言葉を思い起こし、心が痛みます。皆さんはいかがでしょうか。
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●第二部: ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を使徒的視点から分析・評価する
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1. 聖書フォーラムの”神学的基盤” 1.共生のためのABC
さて、後半では、B.
その神学的核心としての「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を使徒的視点から分析・評価する」について考えたいと思います。
HTMの「聖書フォーラムとはー1.共生のためのABC」のページをみますと、スライドの記述があります。このページの⑴と⑵の内容では、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」運動の“錦の御旗”として、「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”」が掲げられています。「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”」とは、「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」(中川健一著『ディスペンセーショナリズムQA』p.23)です。
数多くの「自称ディスペンセーション主義者の方が、経緯から単に影響を受けておられるだけである」のに比して、この命題を徹底することを、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」運動の目標としておられるからです。この“非使徒的な命題”を徹底する程度にしたがって、「使徒的福音理解」が歪められていくのです。このことが「HTMによる羊の囲い込み運動」の最大の問題であると思います。
その意味でHTMの中川氏は、二重に罪深いと思います。ひとつの罪は、「地方教会と超教派機関との倫理的関係を破壊しておられる」という罪であり、もうひとつの罪は、地方教会から流出させ、HTMの聖書フォーラムに囲い込んだ羊に「“誤った神学教育”を施しておられる」からです。
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2. ディスペンセーション主義誕生の歴史的背景ー倫理的解釈への反動としての字義主義
では、次に、なぜこのような非使徒的な、極端な字義的解釈がまかりとおったのでしょう。それをみてまいりましょう。英国における優れた宗教改革運動とも見られたダービーたちの教えや運動が誤った方向に逸脱していく背景をみていきたいと思います。
クラレンス・バス著『ディスペンセーション主義の背景の, p.21.
に「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記されています。
これも、当時からの歴史的背景、神学的背景に属することです。18世紀の啓蒙思潮を背景に、19世紀にはリベラリズムーつまり神学的自由主義が台頭します。これは、聖書観において、大きな変化が起こったということです。聖書を「神の言葉」として絶対化することをやめ、「人間の手によるひとつの宗教書・倫理道徳の本」として読む傾向です。天地創造とか受肉とか、復活とか再臨とかは、「理性という網」に掛からない水となり、愛とか義とかは「キリスト教ヒューマニズムの倫理・道徳」として、いわば“魚”として網の中に残るということです。このような傾向に対して、聖書の言葉を「誤りのない神の言葉」として、“極端に字義通り”捉える反動が起こってきました。
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3.
伝統的ディスペンセーション主義聖書解釈法の最大の問題点―イスラエル民族の盛衰とその栄光の回復を神聖視・目的化した聖書解釈の構造
わたしは、ラッド著『終末論』1章「聖書の預言箇所はとのように解釈すべきか」、2章「イスラエルについてはどうか」から、伝統的ディスペンセーション主義の聖書解釈法には、新約解釈の“前提”として働く“構造からの圧力”が、新約解釈の歪曲を生むようになったのではないか、と考えています。
その構造とは、「旧約の中では、イスラエルは神の民のまま、イスラエル民族の栄光の回復が未来の焦点となっている」=これが、新約再解釈の前提、座標軸また構造を構成している」ということです。この解釈学的構造が「強固な解釈上のフレームワーク」として機能するときに、「神の国の未来性」に属する「千年王国・新天新地」は、「イスラエル民族の栄光回復」のイメージに染め直されます。そして、それを実現するために、「キリスト教会」は、“臨時の挿入”の立場に、その地位を貶められてしまうのです。
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4. ディスペンセーション主義の牙城と言われた神学校でみられる近年の健全化の動向
今日、「ディスペンセーション主義の牙城と言われた神学校」であったダラスやグレイス、タルボットという神学校でも、伝統的なディスペンセーション主義の教えの誤りに気づき、近年では健全化の動きが盛んなようです。
その動向を、バスの著書の序文を書いたスペンサーや、トリニティのグルーデム、ウエストミンスターのポイスレスが簡潔に紹介しています。ディスペンセーション主義の教えは、ダービーたちの古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義、そして漸進主義ディスペンセーション主義へと変遷していっていると言われています。古典的と改訂では、まだ「神の二つの民、神の二つの計画」を保持し「患難期前再臨説」のままですが、漸進主義になると、「神のひとつの民、ひとつの計画」となり、「患難期後再臨説」にシフトしているとのことです。
ただ、グルーデムの分析によれば、漸進主義でもまだ「イスラエル民族を軸とする傾向」を内包している点を問題視しています。ポイスレスの分析では、漸進主義もやがては「そのような中間地点」にとどまってはおられず、「ラッドの示している歴史的前千年王国・患難期後再臨説」においてのみ“安らぎの港”を見出すことなると予想しています。その文章が、次のスライドにあります。
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5. グルーデムとスペンサーとポイスレスの分析・評価
グルーデムやスペンサーは諸説のうち、ディスペンセーション主義者の理解については、知的に優れたディスペンセーション主義の神学者の間で、「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」と大きな変化を遂げていることを説明している。
それで、大きな変化を遂げている漸進主義ディスペンセーション主義の、将来の「行くべき方向」について、どのように考えたら良いのであろうか。本書との関係で考えられる、興味深い、ひとつの可能性を紹介しておきたい。以下のものは、ウエスミンスター神学校のV・S・ポイスレスの予測である。「わたしは、漸進主義ディスペンセーション主義者が、古典的ディスペンセーション主義の主要な教えを乗り越え取り組んでいる研究に、深い共感と評価を表わしたい。わたしは、彼らが、以前よりもさらに誠実に聖書的真理を解明しようとしている動きをみて嬉しく思う。また、わたしは彼らの神学的営為が協調的な気風に溢れていることに敬意を表明する。
しかしながら、彼らの立場は生来、不安定なままである。わたしには、彼らが、いわば長く厳しい航海の後に、古典的ディスペンセーション主義と契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)との間に、安らぐことのできる港を創り出し、そこに辿り着くという、可能性は低いとみている。そのような中間地点に辿り着くのではなく、彼ら自身の観察に基づく言説が動かしている諸々の力は、やがてジョージ・E・ラッドが手本として示したものを後追いさせ、ついには契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)に至らせる可能性が最も高いと判断している」。
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6. 福音理解の健全化とその逆流(ポロロッカ)としてのHTM
わたしは、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」のディスペンセーション主義の教えの徹底を目指しておられる運動と教えは、福音理解の健全化と逆流(ポロロッカ)のように思います。ディスペンセーション主義の知的レベルの高い層での聖書解釈法、教会論、終末論での健全化の動きがある中で、ディスペンセーション主義の大衆レベルの先生方の層では、さらなる悪影響の広がりがみえるからです。(「ポロロッカ」とは、潮の干満によって起こるアマゾン川を逆流する潮流のこと。トゥピ語で「大騒音」を意味する。)
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7. “逆流”の運動や教えの特徴ー伝統的ディスぺンセーション主義の前提の誤り
わたしが翻訳しましたエリクソン著『キリスト教教理入門』には、下記のように記述されています。[ディスペンセーション主義とは、聖書解釈方法論であるその解釈方法の前提ー「聖書は文字通りに解釈されなければならない」とする。具体的には、「イスラエル」は教会ではなく、国家ないし民族としてのイスラエルを指すと解釈。よって、「イスラエル」と「教会」の区別に大きな強調がなされる。現在、神は「イスラエルを主役とする神の取り扱いのドラマ」を中断しておられる。「教会」は神のドラマ全体の中における「幕間の挿入」にすぎない。神が「イスラエルを主役とするドラマ」を再開されるとき、「教会」は取り去られる。患難期は、イスラエルを主役とするドラマ再開の「移行期間」である。千年王国は、神のドラマの主役であるイスラエル中心。著しくユダヤ的性格を帯びたものとなる。]
さて、論理学では、「前提が間違っていると、結論もまた間違っている」といわれます。最初のボタンを間違えてとめると最後のボタンはとめられません。HTMが錦の御旗としているディスペンセーション主義の三つの基本的”前提”は、①間違った聖書解釈方法論が、②間違った神の二つの民論を生み出し、③イスラエル民族中心の栄光の回復という誤った終末論を結実させているのです。これは、誤った教えの運動です。
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8. イスラエル民族を神聖視・目的化するD主義とイエス・キリストの人格とみわざを神聖視・目的化する使徒たちの教え
信徒流出問題の神学的核心として「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を使徒的視点から分析・評価する」ということですが、この問題で最も大切なことは、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」が錦の御旗としているディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”は、使徒たちの教えとは異なる、ことを理解することです。
その意味で、中川健一氏は、テレビ伝道時代からファンやシンパ層にとっては、キリスト教メディアの「スター」のようであり、分かりやすく教えてくれる「尊師(グル)」ようですが、キリスト教神学の視点から分析・評価しますと、「誤っている教えを、正しい教えのように教えておられる」ように思います。
中川氏が教え、徹底しようとされている「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”」とは、「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」(中川健一著『ディスペンセーショナリズムQA』p.23)です。
この命題をもう少し分かりやすく詳述すれば、ウォルブードやライリーや中川氏の主張されている“イスラエル民族”に焦点を当てて詳述しますと、「①(イスラエルという表現と民族的イスラエルを指す)聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別」という旧約聖書解釈法の原則とそれによって結実される「③聖書が書かれた目的は神の栄光(イスラエル民族の栄光の回復・完成)」ということになります。
このように“イスラエル民族を神聖視し、目的化する”命題を金科玉条(きんかぎょくじょう:人が絶対的なよりどころとして守るべき規則)として掲げられています。
このような教えは、使徒たちの①字義的と霊的のバランスのとれた聖書解釈、②旧新約の霊的本質的な神の民はひとつ、③聖書が教える神の国・新天新地は、民族的差異が克服された普遍的な神の国、という教えとは異なる歪み、誤った教えと思います。イスラエル民族を神聖視・目的化するD主義は誤った教えであり、イスラエル民族を機能視・手段化し、イエス・キリストの人格とみわざを神聖視・目的化する使徒たちの教えが、健全かつ正しい教えなのです。
十分に語り尽くせたとは思いませんが、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題解決の一助としていただければ幸いです。足りないところは、質疑応答の中で補うことができたらと思います。ご清聴ありがとうございました。
2022年11月27日 新約聖書 ローマ人への手紙
11章15-36節「こうして、イスラエルはみな救われる」-福音に関して言えば神に敵対し、選びに関して言えば神に愛されている-
https://youtu.be/44DhXoX4qqs
今週より、アドベント第一週に入ります。アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」のことです。ギリシア語の「エピファネイア(顕現)」と同義で、キリスト教においては、アドベントは人間世界へのキリストの到来、そして、キリストの再臨(ギリシア語のパルーシアに相当)を表現する語として用いられています。そのような意味で、主キリストの降誕を振り返るクリスマス礼拝への心備えをする四週間であり、また主キリストの再臨を待ち望む意味合いをも含んでいます。さて、わたしたちの主は、「注がれた聖霊」を通して数多くのことを為し続けておられる主です。わたしたちは、このお方の主導権のもと、現在直面している課題に「御霊とともにあって参与させていただく」恵みにあずかっています。主の再臨と主のご支配の完成を待ち望みつつ、キリストがかの日に完成される“新たな創造”を、今日少しでも目に見えるようにせんと日々、御霊とともに取り組む者であります。
さて、講演まであと二日となりました。さて、有名なシカゴ・コールの一節に「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…
おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神
は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」安黒 務. 福音主義イスラエル論 Part
Ⅰ: 神学的 社会学的視点からの一考察 (p.20). Kindle 版.
]とあります。一宮基督教研究所における千数百の公開ビデオも、今回の講演も、このシカゴ・コールの呼びかけに対する応答のようであります。ここに、わたしに与えられた使命があります。主が一度来られた“同じようなかたちで”再び来られるその日まで、地道にひとつずつ、このような取り組みに励んでまいりましょう。
今回依頼されているのは、「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という講演奉仕です。それで、その奉仕準備に集中するため、この一ヶ月間『ローマ人への手紙9-11章傾聴』に取り組ませていただきました。今朝は、その最後の箇所、ローマ人への手紙11章15-36節です。この箇所を中心に、ローマ書また聖書全体から幾つかの課題を取り上げ、見てまいりましょう。
わたしたちが、ローマ書傾聴で聴きとってきたメッセージとは何でしょう。それは、[ロマ3:1
それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか]であり、[ロマ9:4
彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。9:5
父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました]です。つまり、「イスラエル民族には“救済史的特権”があるのか、ないのか」ということを問うているのです。パウロの回答は、「異邦人と同様全イスラエルも例外なく“罪の下に”あるので(3:9)、罪深いイスラエルが他のすべての国民に比べ、選ばれた神の民として自分たちに与えられた“救済史的特権”をたてに取ることは無益である」ということでした。
また、異邦人と同様にイスラエルにとっても死をもたらす罪の支配からの救いはキリストの贖罪死によってしか、“罪人の義認”としてしか存在しないので、戒律としての律法遵守にこだわり、その視点からの“義人の義認”に固執することは、神に対する不義・敵対・不敬虔となるのです。その帰結として、[ロマ11:1
それでは、…神はご自分の民を退けられたのでしょうか]という問いが発せられるのです。なぜ、このようなことになったのでしょうか。その一因として考えられることは、基本的な前提における誤り、誤解があると思われます。
[ロマ3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。…3:2
第一に、彼らは神のことばを委ねられました]と評価され、“神からの啓示の受領者”としての召命と賜物をいただきました。ユダヤ人は、特別な存在であり、特別な民です。それは、創世記1-11章に啓示されているように“創造→堕落→贖罪”という救済史の前提の脈絡において、アブラハムとその子孫は選ばれ、聖書を通し[Ⅱテモ3:15
キリスト・イエスに対する信仰による救いを受ける知恵の“受領者”]となりました。
[ガラ3:8
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました]とあるように、アブラハムとその子孫の役割は、創世記1-12章、またローマ1-2章において啓示されている“罪と死と滅び”の脈絡にある全人類に救いに至る知恵を提供するための“手段として機能する”ように選ばれ、用いられた民族でありました。この選ばれた民族には、割礼が施され、律法が与えられ、礼拝儀式や祭り等ーさまざまな視聴覚教材が提供されていきました。
イスラエル民族は、アブラハムとその子孫に祝福の約束ーすなわち土地と子孫の約束が与えられました。そして、それらは約束の地カナンにおいて成就しました。しかし、その約束の地においては“申命記的歴史”ともいわれるかたちで、神のみ旨に従順であれば祝福され、不従順であれば審判がくだされました。そして、ついには、二つの捕囚を経験し、土地は失われ、民は散らされました。ただ、神さまの恵みにより、民は苦難のただ中で保護され、やがて“歴代志的歴史”といわれるかたちで、約束の地への帰還と再建にあずかりました。
そのような苦難の歴史のただ中で、“メシヤ預言”が与えられ、励まされ、希望を抱き続けました。旧約に啓示されたメシヤ預言には三つの種類があります。第一に「ダビデ王のようなメシヤ」(イザヤ11章)です。第二に「天の雲に乗ってこられるメシヤ」(ダニエル7章)です。そして第三に「苦難のしもべとしてのメシヤ」(イザヤ53章)です。これらの預言は、旧約の、いわば月明かりのような光だけでは”解くことのできないパズル”のような聖句です。ただ、これらの三つのメシヤ預言を統合しうるものが唯一存在します。それは“イエス・キリストの人格とみわざ”です。
これら点を整理した文章を紹介させていただきます。[それらは、旧約において並列しておか
れ、互いの関係が不明な、大変異なった概念である。しかし新約はイエス・キリストの使命を旧約預言解釈の「マスター・キー」として、この三つのメシヤ思想を統合し解釈している。キリストの謙卑と高挙と再臨の段階、神の国の現在性と未来性の区別を念頭
に「イエスと彼の後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命の視点から解釈した。人の子は、彼が栄光に入る前に、地上に現れなければならない。そして、彼の地上における使命は、苦難のしもべの役割を成就することである。…キリスト論であるか終末論であるかは別にして、最終的に権威のある言葉は、新約聖書の中に見出されなければならない」のである。これこそが使徒たちのなした「聖書解釈」の原則であり、「使徒的正統性」の反映の度合いを判別する尺度である。]と、安黒
務. 福音主義イスラエル論 Part Ⅰ: 神学的 社会学的視点からの一考察 (pp.7-8). Kindle 版.
]にまとめていますので参考にしていたたければ幸いです。
さて、初代教会において、大多数のユダヤ人たちは、彼らが受けた準備教育の“実体であるメシヤたるキリスト”が来られたにもかかわらず、このキリストを十字架にかけ殺してしまいました。さらには、旧約の霊的・本質的な神の民としての、キリストのからだ・聖霊の宮としての、民族的差別の壁を破った、ユダヤ人と異邦人を包摂した教会を迫害し滅ぼそうとしていました。なぜ、このような悲劇が起こったのでしょうか。わたしは、中心的な問題として、イスラエル民族に内在する“救済史的特権”意識があると思います。的の外れた“選民意識”が、イスラエル民族そのものを“神聖視”し、“目的化”してしまう誤りに陥らせたのではないかと思います。パウロは、ローマ書やガラテヤ書で、新約著者たちはヘブル書や黙示録で、”その誤り”を繰り返し、繰り返し指摘しています。イスラエル民族は、[11:16
麦の初穂]であり、[根]なのです。野生のオリーブであるわたしたちは、[その枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている]のです。わたしたちの福音理解は、[そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けて]おり、[11:18
根が]支えているのです。
わたしたちは、イスラエル民族が“その盛衰史と希望”において、全人類の救いと完成のために受領してくれた「福音の恵み」の恩恵に浴しているのです。わたしたちは、イスラエル民族への感謝と敬意を失ってはなりません。しかし、イスラエル民族の大半が、自らとその文化を「誤った選民意識」をもって神聖視し、本来神聖視すべきメシヤたるキリストに盲目になったことは認識しなければなりません。この誤りの傾向に似たものが、[ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”]の中に存在しているように思います。
使徒たち等の新約文書の視点から分析・評価していくとき、[ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”]の中には、[「①(イスラエルという表現と民族的イスラエルを指す)聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別」という旧約聖書解釈法の原則とそれによって結実される「③聖書が書かれた目的は神の栄光(イスラエル民族の栄光の回復・完成)」]という内容が重要な要素として存在しています。ここに、神の啓示の受領者として選ばれ、全人類のしもべとして、“手段として、機能として”尊く用いられた「イスラエル民族」を、誤り、誤解して、「イスラエル民族そのものとその未来」を神聖視し、目的化する傾向を読み取るのです。
この福音理解の根幹にかかわる問題ー旧約をどう理解するのか、アブラハムとその子孫に対する土地・子孫についての約束をどのように解釈・適用するのか等において、キリスト教会を深刻な誤りに導いていると思います。パウロが[11:28
福音に関して言えば]、[選びに関して言えば]と、“救済史におけるイスラエル民族の役割・位置づけ”を区別し、「イスラエル民族とその未来の希望」を神聖視せず、機能視していること、目的化せずに手段化していることを、見きわめることが大切だと思います。そして、全人類のために、福音の準備的受領に用いられたイスラエル民族自身も、[11:26
イスラエルはみな救われる]必要があることイスラエルは遺棄されたのではなく、「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る」とあるように、異邦人伝道を通して、イスラエル民族自身にも福音がのべ伝えられ続けており、多くのユダヤ人がキリストに導かれてきたことは、歴史の証明するところです。旧約の影の中に準備され続けているイスラエルの民たちの「救い」のために祈り続けましょう。
「11:29
神の賜物と召命は、取り消されることがない」とありますように、ユダヤ人学者たちによる旧約の霊的本質的遺産とその研究は全人類にとって、測り知れない富の一部だと思い、感謝しています。同時に、サイザーが言うように、苦境の中に置かれているパレスチナの人々のためにも祈りましょう。「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける」(安黒
務. 福音主義イスラエル論 Part Ⅰ: 神学的 社会学的視点からの一考察 (pp.18-19). Kindle
版.)ことができるよう祈ってまいりましょう。明後日の講演会のためにもお祈りください。
(参考文献:ウルリッヒ・ヴィルケンス著『ローマ人への手紙註解』、G.E.ラッド著『終末論』、安黒
務著『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱ )※次週礼拝より、『詩篇傾聴』に戻り、詩篇82篇から傾聴してまいります。
2022年11月20日 新約聖書 ローマ人への手紙
11章1-14節「わたし自身のために、男子七千人を残している」-蝶が羽化していくときに、蛹(さなぎ)が脱ぎ捨てられていくように-
https://youtu.be/uz7sajhW2Pg
11月に「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という講演奉仕を依頼されています。それで、その奉仕準備に集中するため、この一ヶ月間は『ローマ人への手紙9-11章傾聴』に取り組ませていただいています。といいますのは、「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という、わたしに課せられた「この主題についての最も詳細な議論が記されている」のが「ローマ人への手紙9-11章」である(ラッド著『終末論』「第二章
イスラエルについてはどうか」)からです。今朝は、ローマ人への手紙11章1-14節を中心に、ローマ書全体、聖書全体をも短く見てまいりましょう。
ローマ書は、「旧約聖書におけるイスラエル民族の盛衰史と未来への約束」をどのように理解すべきなのか、という問題をも扱っています。使徒パウロは、その奉仕生涯のこの時点で、旧約の預言者エリヤのように、11:3
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています」という事態に直面していました。そのような苦境の只中で、11:4
「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」という励ましを受けていたのです。
パウロは、「イエス・キリストの人格とみわざの福音を、イスラエルに対する約束の成就」としてのべ伝えておりましたが、イスラエルの民の大半は受け入れず、パウロはお尋ね者とされ、殺されそうにもなっておりました。今日の箇所で興味深いことは、[11:4
「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」]の”七千人”について、ユダヤ教においては、その「残された者たち」に”律法に対する忠実さ”を読み取ったのに対し、パウロはその箇所を“反対の意味”に解釈しているのです。パウロは、その箇所の字義的意味から、“霊的本質的意味”を抽出し、バアルに膝をかがめなかった者たち]
=[11:5
恵みの選びによって残された者たち]に適用しているのです。ディスペンセーション主義者は、「霊的」解釈を旧約聖書解釈上で最も危険なこととみなしていますが、その“最も危険なこと”が、パウロや他の使徒たちの旧約解釈の原則なのです。
このようにパウロの旧約解釈は、字義的解釈の奥底にある「霊的本質的意味」を抽出し、イエス・キリストの人格とみわざにおいて、イスラエルに対する約束が成就した事態に適用しているのです。すなわち、「イスラエル民族を軸とする聖書解釈法」ではなく、「イエス・キリストの人格とみわざを軸として、旧約の字義的解釈の奥底にある“霊的本質的意味”を抽出し、適用する解釈法」なのです。わたしは、このようなパウロや、ペテロやヨハネやヘブル書の著者たちの旧約解釈に、いわば「蝶の羽化」のような旧約理解があるように感じています。蝶は完全変態(かんぜんへんたい)をする昆虫の仲間です。完全変態とは、一生を卵、幼虫、蛹(さなぎ)、成虫と成長とともに体の仕組みや形を変えていく事です。蝶の一生は大まかに分けると、卵(たまご)、幼虫(ようちゅう)、蛹(さなぎ)、成虫(せいちゅう)の4ステージあります。そこには、聖書の啓示に似た「連続性、漸進性、多様性を内容とする有機的一体性」が見受けられます。
旧約の啓示にも、いくつもの段階があります。天地創造と人類史、アブラハム等の族長時代、出エジプトと律法の時代、約束の地と王国の時代、捕囚と再建の時代等があります。イスラエル民族の盛衰史には、「アブラハムへの神の約束、ダビデへの神の約束等」ー数多くの神の約束が内包されています。ただ、それらの約束が、伝統的福音主義者が言うように「イエス・キリストの人格とみわざにおいて成就した」のか、古典的・改訂ディスペンセーション主義者が言うように「イスラエル民族の未来に残されている」のか、という課題があります。わたしたちがみてきたローマ書全体と、特に9-11章をみますとき、イスラエル民族そのものに約束された未来は、「蝶が羽化していくときに、蛹が脱ぎ捨てられていく」ように、また脱ぎ捨てられるかたちで、美しくはばたく蝶のように、イエス・キリストの人格とみわざが出現した“解釈”が提示されているように思います。割礼も、律法も、影であり、それゆえ羽化する蝶にとっての“蛹”のような位置づけとして再配置され理解されているのです。影であり、それゆえ羽化する蝶にとっての“蛹”のような位置づけとして再配置され理解されているのです。このような解釈法は、必然的に[11:1
それでは…神はご自分の民を退けられたのでしょうか]という問いを引き起こします。これに対して、パウロは即座に、断固として[11:1
決してそんなことはありません]とそれを否定します。しかし、それは「イスラエルの民は“選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民”ーすなわち割礼を受け、律法を有する“選民”として救われる」という保証を提供するものではありません。パウロの言わんとすることはこうです。全人類を代表して、「神の啓示の受領者」として用いられたことには違いはない。しかし、ユダヤ人も異邦人も不敬虔な罪人であるのだから、神の前に悔い改め、その神の啓示の“実体”である「イエス・キリストの人格とみわざ」を“恵み”として受け入れる以外に”救われる”選択肢はない、ということです。旧約における「イスラエル民族に対する約束」は、そういうかたちで、「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸にして、再配置され、再提示されているのです。
そして、肉による民族としてのイスラエルの中に、このような福音を受け入れる「霊的本質的イスラエル」が残されていると励まされたのでした。この「残された者たち」を中心に、異邦人回心者たちも加え、初代の教会が形成されていきました。この「霊的本質的イスラエル、真の神の民」には、民族的な区別・差別はありません。旧新約を超え、天と地にある神の民のすべてにより、普遍的な神の国が形成されていくのです。
ですから、パウロは、聖書から、 [11:5
ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます]と、神の励ましを受け続けます。
迫害し、いのちを狙っている者たちのために祈ります。9章で、[ロマ9:1
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、9:2
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています]と言い、10章で、[ロマ10:1
兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです]と告白し、11章で、[11:14
私は何とかして…彼らのうち何人かでも救いたいのです]と吐露します。
パウロによれば、ユダヤ人もまた、異邦人と同様、罪と死と滅びに直面している「不敬虔な罪人」です。パウロにならってわたしたちも、ユダヤ人の救いのために祈りましょう。また日本の教会を混乱させているディスペンセーション主義の人々のためにも祈りましょう。「旧約の影に縛られ、極端な字義的解釈に走り、霊的本質的解釈を対立的・否定的にみる」人々のためにも祈りましょう。使徒たちのなした「バランスのとれた字義的かつ霊的本質的解釈の並立」を取り戻すことができるように。誤った解釈法で生まれた「イスラエルと教会を二元的にみる」誤りから救い出され、解放されるように。「霊的本質的イスラエル、真の神の民の有機的一体性」という健全な理解に導かれるように。誤った解釈法で生まれた「イスラエルと教会には二つの計画がある」とする誤りから救いだされるように。神の目的は「ユダヤ人中心の民族主義的神の国ではなく、多様な民族からなる普遍的な神の国の栄光が目標」であることを理解できるように。祈りましょう。
(参考文献:ウルリッヒ・ヴィルケンス著『ローマ人への手紙註解』、G.E.ラッド著『終末論』)
2022年11月13日 新約聖書 ローマ人への手紙
10章11-21節「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません」-キリストの人格とみわざを軸とする、使徒たちによる聖書の有機的統一的解き明かし-
https://youtu.be/I8sm778VUb8
11月に「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という講演奉仕を依頼されています。それで、その奉仕準備に集中するため、この一ヶ月間は『ローマ人への手紙9-11章傾聴』に取り組ませていただいています。といいますのは、「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という、わたしに課せられた「この主題についての最も詳細な議論が記されている」のが「ローマ人への手紙9-11章」である(ラッド著『終末論』「第二章
イスラエルについてはどうか」)からです。今朝は、ローマ人への手紙10章11-21節を中心に、ローマ書全体をも見てまいりましょう。
今回の講演で、わたしに求められているのは、[HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題]の神学的核心は何なのか?―という課題です。 わたしは、この現象の神学的核心には、「原理主義ともいえるディスペンセーション主義の三つの命題」が横たわっていると考えています。三つの命題というのは、「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」(中川健一著『ディスペンセーショナリズムQA』p.23)です。「原理主義ともいえる」と冠していますのは、この命題を徹底することを、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」運動の目標としておられるからです。
この命題の普及・浸透に参与している幾つかの団体や運動があります。わたしは、そのことを拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ』と『福音主義イスラエル論Ⅱ』で詳述させていただいていますので参考にしていただけたら幸いです。わたしは、昨今の「信徒流出」問題の背景に、「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」の命題の有害性に対する無知があると受けとめています。この命題は、はた目には分かりにくいのですが、神の啓示の受領者として選ばれ、その手段・機能として用いられたイスラエル民族を、神聖視し、目的化する誤りを内実とするものです。ですから、「イスラエル民族を軸とする聖書解釈」という枕詞は、「良さそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで、好ましく」(創世記3:6)思えるのですが、それは「使徒たちの旧約解釈を歪曲する聖書解釈原理」であると理解であると識別することが大切と思います。
米国の聖公会の聖職者で神学者の、ステファン・サイザーはイスラエル問題に関わるこの分野で大変優れた研究をまとめて二冊の本を書いています。誤った傾向をもつ運動と教えを三つに分類し、健全な運動と教えと対照しています。それを少し紹介させていただきます。今日の福音派における「イスラエル問題」に関わる運動、すなわち「キリスト教シオニズム」には、大別して「四つの相違する形態」があります。これらは、「教会とイスラエルの関係、伝道、帰還、イスラエルの地、入植、エルサレム、神殿、ハルマゲドン」に関する神学的理解の相違を契機として生まれてきました。それらには、①契約主義的プレミレニアリズム
、②メシヤニック・ディスペンセーション主義、③黙示的ディスペンセーション主義、④政治的ディスペンセーション主義の四つがあります。
ここでは特徴的な要素のみを取り上げます。第一に「契約主義的プレミレニアリズム(ビグトン、リガン:CMJ,
CWI)」はユダヤ人に対する「伝道」とパレスチナへの「帰還」を特徴としています。第二に「メシヤニック・ディスペンセーション主義(ローゼン、ブリックナー、フルクテンバウム:JFJ,
AMFI)」はユダヤ人に対する「伝道」とともに、「二契約神学」のゆえに「神殿における実践」を含み、「ユダヤ教的礼拝の復活」をも引き受ける傾向を持っています。第三に「黙示的ディスペンセーション主義(リンゼイ、エヴァンス、ラヘイ:DTS)」はハルマゲドンの熱望というかたちで「終末預言」と「中東の平和に関する悲観主義」の傾向が強いです。第四に「政治的ディスペンセーション主義(ロバートソン、ファルウェル:ICEJ,
BFP)」は、米国のイスラエルとの「軍事的かつ政治的結びつき」を強固に維持することへの傾倒とユダヤ人への「伝道の否認、楽観的な終末論、キリスト教の福音の再解釈」の傾向により他と区別されます。政治的ディスペンセーション主義にとって、「教会の目的とはイスラエルを支援し祝福する」ことです。なぜなら、ユダヤ人は「彼ら自身の契約を基盤にして神に受け入れられ」ており、ユダヤ人は「メシヤが再臨される時にメシヤを認める」ことになるからです。「福音主義イスラエル論の座標軸」(『福音主義イスラエル論Ⅰ』注2,
p.2)において評価すると、契約主義的プレミレニアリズムがキリスト教シオニズムの中で「最も正統的かつ穏健な形態」とみなされるものです。
政治的ディスペンセーション主義は「最も問題を含む形態」であると思われます。それぞれは、重なり合う部分を持つとともに、グループ内に様々なグラデーションある強調点を抱えており、その判別は代表者や唱道者等の発言や著作から、それぞれのグループの「特徴の輪郭」と「教えの本質」を判断することなります。
わたしは、1990年代半ばからであったでしょうか。米国におけるキリスト教シオニズム運動の勃興を背景に、日本各地の教会に、そしてわたしの所属団体や母校に、いわば“津波”のように、それらの各種の運動や教えの集会や祈り会が押し寄せるようになりました時、この問題に取り組むよう導かれました。多くの先生方は、これらの運動や教えが「教会成長と協力宣教の拡大」に役立つと受けとめられていたように思います。そのような中にあって、わたしはマタイ13:24-26の聖書箇所を心に浮かべておりました。[マタ13:24
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25
ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。13:26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた]と。
わたしの心にあったことは、以下のようなことです。さて、私たちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働きを目にし、また耳にします。しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているでしょうか。よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの「神学と実践」の「輪郭と本質」を知っておきたい]と考えたのです。それは、これらの運動や教えの“前提”に掲げられている「原理主義とも思われるディスペンセーション主義の三つの命題」に“妙な違和感”があったからです。「果たして、このような“命題・前提”は、使徒的福音理解と正面衝突しないのだろうか?」と。このような「運動教えの種、福音理解の“前提”が、識別されず、無意識のうちに、“眠っている間”に蒔かれ続け」将来、ひえやあわが増え広がっていたということにならないのだろうか。将来、何か大きな問題になっていかないのだろうか。日本の健全な教会が、このような運動の誤った熱狂に堕してしまわないのだろうか」と懸念したのです。
そのような意味で、今日、私たちが目の前に見ている[HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題]は、わたしの団体や母校関係教会も含め、福音派諸教会全般にみられる、この問題に関する“神学的なわきの甘さ”に一因があるのではないか、と受けとめさせていただいているところです。中川氏は「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」という“命題”の徹底を、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」運動で推進されています。この取り組みは、諸教会の中の信徒の人たちの「健全な福音理解」の中に、いわば“ひえやあわ”のような「歪んだ福音理解の前提の種」を蒔き続けているように思います。このことを認識することが大切だと思います。そして、これらに類する運動や教えと“距離”を置くように、信徒を指導し、“トランプ現象”にも似た、“中川現象”の熱を冷ましていくことが大切と思います。
前置きが長くなりましたが、このような視点をもって、パウロ書簡、ローマ書、今朝の箇所を短く見ていきますとき、[10:12
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません]と出てきます。このような民族を超えた普遍主義は、新約メッセージの“前提”とも言えるもので、旧約にみられる民族主義の衣を脱ぎ捨てるものです。この“前提”を理解することなしに、新約は理解できないと思います。このことを理解しない新約解釈は、いわゆる「論語読みの論語知らず」ー「聖書読みの聖書知らず」といわれても仕方ないと思います。ですから、ディスペンセーション主義の第二命題[②イスラエルと教会の一貫した区別]は、新約の教えに反する教えなのです。イスラエル民族は、「全人類の救いのための手段として選ばれ用いられた民族」なのです。それ以上でも、それ以下でもないのです。神聖視し、目的化することは、聖書解釈上、最も基本的な誤りなのです。
イスラエル民族の盛衰史には、[【旧約聖書の3つの基本思想】が提供されています。[1.
アブラハムへの神の約束では、「彼の子孫によってすべての国民は祝福される」―神は全世界に対するメシヤの国民という、特別な目的をもってヘブル民族を創始されました。すなわち、1つの民族によって、全民族に神よりの大いなる祝福をもたらそうとしました。2.
ヘブル民族との神の契約では、「もし人々が、偶像の世にあって、忠誠をもって神に仕えるなら、彼らは1つの民族として繁栄し、もし人々が、神を捨てて、偶像に仕えるなら、彼らは1つの民族として破滅させられよう。」―すべての民族は、偶像を礼拝していました。神々は至る所にありました。…旧約聖書は、偶像を礼拝する諸国民の世界に1つの民族を立て、全宇宙には「1人の真の生ける神」がおられるという理念を確立するための多年にわたる神の努力について記述しています。3.
ダビデへの神の約束]では、「彼の家の者(子孫)が神の民を永遠に統治する」―神の家の民がついに大国民になった時、神は1つの家族つまりダビデの家を選び、その家族を中心に神の約束を確立し始めました。すなわち、その家の者から1人の偉大な王が現れ、その王は永遠に生きて、限りなく続く世界王国を打ち立てるであろうとの約束です。
【旧約聖書における3大思想の発展の段階】があります。ヘブル民族は、この民族を通して全世界が祝福されるために創始されたものです(メシヤの国民)。ヘブル民族が世界を祝福する方法は、ダビデの家の者によってです(メシヤの家族)。ダビデの家の者が世界を祝福する道は、その家の者(家系)のうちに生まれる1人の偉大なる王によってです(メシヤ)。このように、神がヘブル民族を創始された「究極の目的」はキリストを世界に来たらせることでした。]それ以上でも、それ以下でもないのです。
イスラエル民族は、全人類の救いの手段として、神の啓示の受領者として用いられました。そして、そのように用いられた民には、まず最初に「イエス・キリストの人格とみわざ」を受け入れ、救いの恵みに与り、救いの福音の伝達者として、さらに用いられることが期待されていました。かし、パウロ自身もそうであったように、当時のユダヤ人たちは、イエスを迫害し十字架にかけてしまいました。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。[10:13
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」]のにもかかわらず、一番近くにいたユダヤ人たちは、このお方を信じ受け入れなかったのでしょうか。
イスラエル民族のうちの一部のみが受けいれ、大半はイエスとクリスチャンたちを迫害する者となり、クリスチャンは全世界に散らされ、福音は異邦人世界に「二千年間、熟成され完成したブドウ酒の樽が壊され、その滴りが、その香りが四方八方に広がっていく」ように、展開していきました。この箇所で、パウロはいくつもの質疑応答を繰り返し、答えを提示しています。[10:12
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。10:13
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです]と。
聖書に啓示されている神は、ユダヤ人だけの神ではありません。[同じ主がすべての人の主]とあるように、全人類の神です。これは、イスラエル盛衰史以前の前提なのです。問題となっているのは、民族的出自に根差す「外形的イスラエル性」ではなく、民族を超えた「霊的本質的イスラエル性」なのです。それを、全人類の中に生み出すことが目標なのです。パウロは、問います。そして何が本質的な問題なのかを明らかにしていこうとしています。問題の核心は、[10:17
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです]です。そうなのです。「キリスト」こそ、聖書の最も中心的なものなのです。霊感された聖書全体は、中心性と周辺性を宿しつつ、ひとつの生命的有機体を形成しているのです。使徒たちは、そのキリストの人格とみわざを軸として、旧約聖書を適切に再解釈しているのです。その意味で[「①(イスラエル民族を軸とする)聖書の字義通りの解釈、③聖書が書かれた目的は「(イスラエル民族を目標とする神の栄光」]という内実を有する命題は、使徒的解釈に対する“不従順と反抗”(10:21)を意味しているもののように思います。
問題の核心は、イエス・キリストの人格とみわざと、このお方とこのお方によるみわざの“使徒的解き明かし”にあります。問題の核心は、イエス・キリストの人格とみわざを軸とする、使徒たちによる聖書の有機的統一的解き明かしにあるのです。ユダヤ人たちは、出自があり、割礼があり、戒律があり、祭り等があり、それらを遵守していくことで、「選民性に基づいて神の国に入れてもらうことができる」という意識があったことでしょう。しかし、パウロが解き明かした旧約聖書理解では、[ロマ3:9
では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある]というかたちで、「ユダヤ人の選民性意識に基づく特権」をはく奪するようなものでした。
このような「民族を超えた福音理解」を、さらには「さまざまな戒律遵守や儀式や祭り等から解放された自由な信仰のあり方」を受け入れることができず、[10:19
「わたしは、民でない者たちであなたがたのねたみを引き起こし、愚かな国民であなたがたの怒りを燃えさせる」こととなりました。当時のユダヤ人には、パウロの福音は“ユダヤ文化を破壊する”ものとして映ったことでしょう。これに対して異邦人においては、[10:20
「わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と、歓迎されたことを証ししています。パウロの福音は、“ユダヤ文化への回心”ではありませんでした。罪や肉、そしてすべての文化的縄目から解放してくれる“キリストと共なる死・葬り・復活の領域”に入れてくれる自由と解放の福音であったのです。初代教会の頃には、このように二つの反応がありました。
これは、神の啓示の漸進性における摩擦であり、軋轢であり、カルチャーショックのようなものでもあります。旧約時代にも、遊牧民の時期からカナンにおける農耕定住社会への移行期、また政治体制としての部族連合国家から王制への移行期にも、軋轢・葛藤の形跡をみることができます。旧約のさまざまな約束の成就としての「メシヤの到来とそのみわざの完成」において、死と滅びに定められた被造物世界と人類のための、贖罪と御霊の内住によって出現した「旧約の中に準備されていた霊的本質的イスラエル,真の神の民」が、キリストのからだなる教会として、聖霊の宮としての共同体を出現させられているのです。
そして、初代の教会がそうであったように、今日の教会もまた、「旧約聖書という啓示の書」の遺産を私たちにもたらしてくれたイスラエル民族に対する感謝と敬意を忘れることなく、イスラエルの民に、そしてパレスチナの人々に[10:21
「終日、手を差し伸べ]続ける必要があるのです。わたしたちは、誤った運動や教えに翻弄されることなく、健全な教えと運動を識別し、「イスラエルの民の救い、パレスチナの人々の救い」のために、祈っていくべきなのです。祈りましょう。
(参考文献:Stephen Sizer, “Christian Zionism”、”Zion’s Christian
Soldiers?”、安黒務『福音主義イスラエル論Ⅰ』、『福音主義イスラエル論Ⅱ』 )
2022年11月6日 新約聖書 ローマ人への手紙
10章1-10節「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」-新宅に配設された“電灯設備”にスイッチオン-
https://youtu.be/GJt0nKcStnk
11月に「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という講演奉仕を依頼されています。それで、その奉仕準備に集中するため、この一ヶ月間は『ローマ人への手紙9-11章傾聴』に取り組ませていただいています。と言いますのは、「ディスペンセーショナリズムの“三つの基本的命題”を、使徒的視点から分析・評価する」という、わたしに課せられた「この主題についての最も詳細な議論が記されている」のが「ローマ人への手紙9-11章」である(ラッド著『終末論』「第二章
イスラエルについてはどうか」)からです。今朝は、ローマ人への手紙10章1-10節を中心に、ローマ書全体を見てまいりましょう。
ディスペンセーション主義の三つの基本的命題というのは、「①聖書の字義通りの解釈、②イスラエルと教会の一貫した区別、③聖書が書かれた目的は「神の栄光」(中川健一著『ディスペンセーショナリズムQA』p.23)のことです。「原理主義ともいえる」と冠しているのは、この命題を徹底することを、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」運動の目標としておられるからです。
この一ケ月は、この命題を「ローマ9-11章で明らかな使徒的視点」から検証しています。すでに、旧約聖書の字義通り解釈にとどまっているディスペンセーション主義の「イスラエル民族の盛衰史とその未来における希望」という枠組みと、その枠組みにおいて「ユダヤ民族を神聖視し、目的化する」“選民意識”(9:1-5)が、「イガの皮を剥くかのようにはがされ、霊的本質的イスラエルとの分別工程」(9:6-18)が「陶器師と土器との関係にみられる神の主権」(9:19-23)においてなされていること、そして、パウロの旧約聖書解釈法の実例として、ホセア書が取り上げられ、ホセア書では「字義通りのイスラエル」に適用されているものが、ローマ9:25では「ユダヤ人も異邦人も含む教会」に適用されていることを見てきました。
このように、パウロは「字義的解釈」を前提としつつ、さらに「字義的解釈」を超えて深く解釈しています。すなわち「イエス・キリストの人格とみわざ」に直面した結果、旧約の中に準備されてきた「霊的本質的イスラエル、真の神の民」が、その贖罪の基盤を受け入れ、その贖罪の原理に従った内住の御霊の働きにより、ペンテコステ以来完全なかたちで出現した「ユダヤ人も異邦人も含むキリストの身からだなる教会」をも含みつつ予表した“神の語りかけ”である(9:24-25)と解説しているのです。これが、新約の使徒パウロの旧約聖書解釈法です。中川氏の推進されている原理主義的ディスペンセーション主義聖書解釈法は、“旧約の影”に中に留まっており、“新約の光”が届いていないかのようです。使徒たちを通しての“神の声”が聴こえていないかのようです。このように「イエス・キリストの人格とみわざ」の、いわば太陽の光に照らされたパウロの預言書解釈は、「民族的偏狭さという旧約の影に束縛されたディスペンセーション主義のイスラエルと教会の一貫した区別の教え」は破綻していることを教えられます。
10:1の[兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです]は、9:1-3の祈りと重なるものです。パウロが同族のユダヤ人の救いのために祈っていることは、ユダヤ人が「救済史の中で、神の啓示の受領者として用いられ、キリストへと導くためのさまざまな視覚教材・教育教材をその盛衰史の中に保有している」としても、それだけでは救いに不十分であること。そして、ユダヤ人自身も異邦人と同じように、罪を悔い改めて、イエス・キリストの人格とみわざを信じる必要があることを示しています。
自分たちには、「律法がある。守ろうとしている戒律がある。異邦人のような罪人ではない。割礼を受けた神により選ばれた特別な選民である」という意識も、福音の前提として存在する「ユダヤ人、異邦人のすべてを含む全人類の普遍的罪深さ」の前には、聖であり、義なる裁判官たる神の御前には、何の価値も値打ちもありません。貧しい者も、お金持ちも、「法の下に平等」といわれるように、ユダヤ人も異邦人も「すべての人が罪の下にあり」(3:9)、「神にはえこひいきがなく」(2:11)、神の審判が行われるのです(2:16)。ローマ書には、ユダヤ人からと思われる抗議の数々が記されています。それは、ユダヤ人の間で当然と思われていたことに対し、異なる内容の「福音」を提示したからです。
ユダヤ教の救済論の立場から見ますと、パウロの福音はきわめて腹立たしい内容でありました。わたしたちが、ユダヤ教の救済論による「救いへの道」を競技場にたとえるなら、それは「選びの歴史」から次ように言えるでしょう。そもそも競技への参加を認められた走者はユダヤ人だけなのです。それに反し、異邦人は生まれつきの罪人として、最初から参加資格は持っておらず、競技から締め出されているのです。
なぜなら、この競争において問題となっているのは、「救いの道としての戒律の成就」であるからです。戒律をもたない異邦人は、まさにその戒律なしに不義のうちに生活していると言われていたのです。それゆえ、異邦人はそもそも義の勝利の栄冠である救いを獲得するためのこの義人の競争にあずかる権利もチャンスも持っていないのです。
ところで、パウロは2-3章で、すべてのユダヤ人は例外なく罪を犯したため、「異邦人なる罪人」と同じになったと語りました。その場合、そこから生じる結論は、「すべての者は罪人である」ということになります。そして、パウロの福音によれば、戒律遵守のコースを一度も走ったことのない「律法なき異邦人」は、イエス・キリストの人格とみわざを受け入れることによって「目標に達した」(9:30)と言われました。しかし逆に、絶えず「戒律に対し、この上もない熱心をもって、戒律遵守による義を目指して走ったユダヤ人は何も得ずに終わった」というのです(9:31)。これでは、パウロの福音に憤慨し、「パウロの福音は、どんでもない教え」だと反対するユダヤ人たちの言い分も納得できるでしょう。何ということでしょう。
ちなみにミルトン・スタインバーグ著『ユダヤ教の基本』という本には、「ユダヤ教には613の遵守すべき戒律がある」と記されています。同じ旧約聖書を読む私たちクリスチャンは、モーセの十戒とか、付随する民法・刑法やレビ記の儀式法等くらいが念頭にあるくらいで、イエスが教えられたように、旧約の教えは、霊的本質的に「神への愛と隣人の対する愛」がいつも留意されているのではないでしょうか。聖書のみことばは、御霊が導かれる規範の本質を示している要素としては受けとめられても、戒律主義な受けとめ方はあまり見受けられないでしょう。私たちクリスチャンは、人類の普遍的罪深さを前提に審判があることを念頭に置き、イエス・キリストの人格とみわざにおける「贖罪の基盤」に立脚し、わたしたちの内面と生涯に「内住の御霊が贖罪の原理」において働き続けることを“神律的相互性”において受けて入れ、そこに積極的に参与していく恵みに与っているということでしょう。
つまり、私たちの「神のみ旨にかなうコースの走り方」は、戒律主義的な走り方ではありません。ユダヤ教徒のような戒律主義的なコースを走り「自らの義を立てよう」(10:3)とするものではなく、福音の内に啓示された「神の義に従う」走り方です。パウロの福音は、律法を含め、イスラエル民族に約束されたすべての約束、提供されたすべての視覚教材等を「目指すものはキリスト」(10:4)に再配置するものです。神の「裁く義」は、イエス・キリストの人格とみわざの恵みのゆえに「赦す義」と再配置されています。しかし、それは「不敬虔な者を義とする」ことが無法や放縦容認を意味することではないことを、1-8章で「福音が、救いを生み出す力である」ことをその内容と行程を明らかにしています。それは、贖罪を基盤とし、内住の御霊を行程とするものです。
10:5-8で、パウロはレビ記18:5で[あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる]、申命記30:11-14で[30:11
まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。30:12
これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。30:13
また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。30:14
まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる]のこみことばを、「まず字義的理解に立脚し、その上で“イエス・キリストの人格とみわざの光”の下で再解釈し」クリスチャンの信仰告白の意味・意義に適用しています。
旧約の文脈では、モーセが約束の地での「戒律主義的な遵守」の生活を送るよう励まし、勧めている文章を、パウロはその聖句を“イエス・キリストの人格とみわざの恵み”に重ね合わせ、「近い言葉」をキリスト論的に再解釈し、[10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる]と、それは千里の道を行き、万巻の書を読んで後、悟るような真理ではなく、難行苦行を重ね生涯の終りに辿り着く港のようなものではないと諭しています。それは、御子イエスが
[ルカ18:17
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません]語られたことと同じです。
しかし、私たちが幼子のような信仰で受け容れ、告白する信仰内容は、天よりも高く、陰府よりも深く、永遠よりも長い”深淵な内容”を保有するものです。[10:9a
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し]と言う表現に、その片鱗を垣間見ることができます。この信仰告白の本質は、いわば「海面上に見える氷山の一角」のようなものです。イエスを主とする信仰告白は、「イエス・キリストの人格とみわざ」の本質を最も短く告白する表現です。それは、受肉された御子を「主の主、王の王、三位一体の御子なる神」と告白するものです。これは、ユダヤ教徒には絶対に受け入れられない告白です。「人間を神とする、神を冒涜する罪」と受け取られかねない表現だからです。ですから、「神の義」であるキリストが分かりません。「律法等、神の視覚教材の目指している焦点がキリストである」ことが分かりません(9:3-4)。旧約を字義的にだけ解釈するユダヤ教徒にとって、「キリスト」は躓きの石、妨げの岩となりました。
原理的ディスペンセーション主義者にとっても、旧約の一切の影を吹き払う「キリストの灯火、真昼の太陽のような光」は、聖書解釈上、幾分か“躓きの石、妨げの岩”となっているように思います。彼らは、「“旧約で、神聖視されたかに映る民族としてのイスラエルの影”を、新約の光を遮る雲によって維持したい」のです。そのことによって、「新約各書の解釈を曲がった包丁で歪めて解釈し続けています」。
さて、[10:9b
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる]は、御父が御子においてなされた創造、(堕罪からの)贖い、再創造をも視野に置く、贖いの基盤、贖いの原理、内住の御霊による贖いの完成の本質表現です。この表現は、ローマ1章にもあるもので、[ロマ1:2
──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、1:3
御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4
聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです]ーを1-8章にわたって詳述・展開してきたものです。
例えていいますと、旧約聖書といいますのは、新宅に配設された“電灯設備”のようなものです。真夜中にそこは“闇に覆われ”ています。しかし、時満ちて、発電所からの電気が初めて流されたとき[マタ4:16
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る](イザ9:2,
42:7)とあるように、新館全室に光が灯るように、旧約全巻に解き明かしの光が注がれるのです。私たちが、新約各書に見るのは、“旧約各書、各部屋への点灯作業”のような記述であり、解き明かしなのです。私たちが、人生のある瞬間、イエス・キリストの人格とみわざとの出会いによって、幼子のように「心に信じ、口で、また(洗礼という教会加入儀式を通して公けに)告白する」とき、わたしたちは「贖罪の基盤に根差し、内住の御霊により贖罪の原理に生かされる」恵みの生涯を体験するのです。それが[10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる]が意味していることです。
祈りましょう。
(参考文献:ウルリッヒ・ヴィルケンス著『ローマ人への手紙註解』、ミルトン・スタインバーグ著『ユダヤ教の基本』)
2022年10月9日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇80篇「万軍の神、主よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください」-旧約の影を振り払い、イエス・キリストの人格とみわざを軸とする新約の光を降り注いでください-
https://youtu.be/FWc_e1UQhWE
本詩は、前篇79篇に続く「民の嘆きと祈り」です。嘆きといえば、エジプトから引き出された経験からして、「虐げられた奴隷状態のただ中からの叫びが聞かれた」という解放でありました。イスラエルの民は、土地と子孫を得、王をいだき繁栄した国家となりました。しかし、のちに近隣の強国に蹂躙され、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。国が滅亡するだけでなく、その国の再建を担うであろう人たちが捕囚民として移されていきました。それは、土地と人間を切り離すと、民族独立闘争とか反抗心をそぎ落とし、支配しやすくなるからです。
近年のウクライナも、歴史をみればイスラエルと似たようなかたちで、近隣諸国の支配を受け、独立を失った期間もありました。世界の中には、また歴史の中にはそのような国や民族は数多くあります。詩篇におけるイスラエルの民の祈りは、ただ単に「イスラエルの独立の回復、繁栄の回復、栄光の回復」という視点のみでなく、「諸民族の独立の回復、繁栄の回復、栄光の回復」という視点からも読むことができるものです。イスラエルの民の「嘆きの祈り」は、諸民族の「嘆きの祈り」の実例、また模範ともいえます。私たちは、ある人々のように、これらの祈りを「イスラエルの民族主義的色彩」をまとって祈るのではなく、より普遍的に「諸民族の苦難の祈り」に変換し、またより本質的に「私たち個々の生活における苦難の祈り」に変換して祈ることができるのです。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩80篇は、イスラエルの民を[80:8 ぶどうの木]にたとえ、[80:9
地を整えられた…、それは深く根を張り地の全面に広がり…、80:10 山々もその影におおわれ…、80:11
ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで、伸ばしました]と、かつての繁茂から、[80:12
その石垣を破り、…その実を摘み取るままにされ…、80:13
猪はこれを食い荒らし、…野に群がるものもこれを食らっています]と、一変したその惨状を嘆く詩篇です。そして、その嘆きは[80:3,
7, 19 元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます]とその再生への懇願に重点が移されます。
構成としましては、第一段落と第四段落とが「救いと回復の嘆願」の大枠を構成し、第二段落と第三段落が「民の惨状を嘆き訴える」かたちで構成されています。
第一段落(1-3)は、[80:1
聞いてください。…光を放ってください。][御力を呼び覚まし、私たちを救いに来てください。][80:3
私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。]と、懇願しています。
それは、国家の滅亡とアッシリア捕囚、バビロン捕囚が念頭にあったことでしょう。日本のように島国であれば、貴族社会から武家社会に変わっても、徳川の幕藩国家から明治の中央集権国家に、また戦後の民主憲法の国家に変わっても、いわば会社の経営者が変わるだけという印象でしょう。しかし、国家が失われる。民族が四散する。文化が消滅する、といった苦難は「自分たちがよって立つアイデンティティが失われる」というとてつもなく大きな危機であり、絶望であります。そのような危機、惨状のただ中での祈りなのです。
本詩には、ひとつの特色があります。それは、[80:1 ヨセフを羊の群れのように]と[80:2
エフライムとベニヤミンとマナセの前で]ということばです。[エフライムとベニヤミンとマナセ]は、ヨセフの子です。また、そのうちの[エフライムとマナセ]は、北イスラエルを代表する部族の名前です。ですから、本詩の嘆きと回復の祈りにおいては、最後まで残された南ユダ王国の回復のみならず、以前に滅びた北イスラエル王国をも含めた「イスラエル全体の繁栄と栄光の回復」の嘆願ということができます。
第二段落(4-6)は、[80:4 いつまで怒りを燃やされるのですか。][80:5
涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。]と、苦難が続いていることへの嘆きが歌われています。ウクライナも、ミャンマーも、ウイグルも、世界各地で「涙のパン」は溢れています。その苦難とというのは、[80:6
私たちを隣人らの争いの的とし、私たちの敵は私たちを嘲っています。]と、あるように、近隣諸国が競い合うようにして、イスラエルを攻めたてていたのです。
昔、読んだ『ことわざ小辞典』に「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない」という言葉がありました。私たちは、本詩を読み、イスラエルの苦難にアイデンティファイ(同一化)するとともに、諸民族の苦難、私たちの個々の苦難、苦しみ、障害、弱さ等にアイデンティファイし、同情心豊かな者として生かされてまいりましょう。「泣くものとともに泣き、笑う者とともに笑う者」とならせていただきましょう。直に会い、近況・消息を分かち合う同窓会等にもそういう役割・機能があるのかもしれません。人間は、人と人の間を必要とする存在です。人は、「愛の慰め、御霊の交わり」を必要としているのです。
第三段落(8-13)は、イスラエルの民をぶどうの木にたとえ、はじめに、この民がエジプトから解放され、カナンの土地取得を経て、統一王朝にいたるまでの歴史を簡潔に回顧しています。[80:8
エジプトからぶどうの木を引き抜き、…それを植えられ…、80:9
…地を整えられたので、…深く根を張り地の全面に広がり、…80:10 山々もその影におおわれ…、80:11
ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで、伸ばしました]と。これは、ダビデ・ソロモン王朝の繁栄が想起されているものです。
ところが、ぶどうの木を守るはずの[80:12
その石垣]は壊され、周辺の国々が[その実を摘み取るままに]されてしまいました。[80:13
林の猪はこれを食い荒らし、野に群がるものもこれを食らう]ようにです。大変悲惨な状況がイスラエルに降りかかりました。日本も、鎌倉時代のモンゴルのフビライの襲来、第二次大戦時のソ連のスターリンによる本土占領などがあったら、中央アジアやシベリアあたりに捕囚民として移され、日本と言う国も文化も民族も消え失せていたかもしれません。
わたしの父親は、満州軍にいたために、戦後シベリアのイルクーツクで二年半の捕虜生活を送りました。「アブラハムの腰にある」という言葉でいえば、「父親の腰にあってわたしも、シベリアにいた」とも言えると思い、『シベリア捕囚日誌』にあるシベリアの凍結した大地を掘って道をつくったり、木々を伐採して引きずりながら運ぶ姿にアイデンティファイし、シベリア捕虜生活の中にいる自分の姿を時々想像したりします。「自分はあのような苦難を生き延びることができただろうか?」と。
第四段落(14-19)では、こうした事態が[80:16 火で焼かれ、切り倒されています]と表現され、あらためて[80:14
どうか帰って来てください。…ご覧になってください。顧みてください。]と、イスラエルの民の再生と回復が懇願されています。それは、イスラエルの民が神が[80:15あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝]
であるからです。
旧約のイスラエルの民には、神の選民としての意識が溢れています。その「選民意識」が民族としてのアイデンティティであり、苦難のただ中における希望の源であったのです。しかし、徐々に明らかにされていくという意味での「神の啓示の漸進性」の歴史において、新約のローマ書においては、[ロマ9:6
しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。]と、旧約の約束のみことばの本質が明らかにされていきます。旧約のみことばは、字義的に読むとともに、新約の光の中で本質が抽出されなければ「真の著者である、神の意図」を知ることができないのです。パウロは、イシュマエルではなくイサクが選ばれ、エサウではなくヤコブが「神の主権的自由」において選ばれた、と解き明かします。
ですから、わたしたちは、[80:19
万軍の神【主】よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます]を表面的な意味を超えて、新約の光のもとに掘り下げて理解していきます。それは、「イスラエル民族の回復と栄光」を軸とする現在と未来への狭窄的な視野をもつ聖書解釈ではなく、より普遍的・包括的な神の召命と賜物としての「諸民族の回復と栄光」という解釈です。新約書簡と最後の黙示録に溢れているのは、イエス・キリストの人格とみわざを軸とした、神の召命と賜物としての「(イスラエル民族の回復と栄光をも包摂する)諸民族の回復と栄光」であり、民族的優劣を超越した「普遍的な神の国の完成」であるからです。
神学の世界では「旧約の影に覆われて聖書に傾聴するのではなく、新約の光に照らされて聖書に傾聴する」ことを教えられます。今日、「イスラエル民族を軸とする聖書解釈」という旧約の影に覆われた誤った聖書解釈の諸種の運動が流行しています。私たちは、そのような誤った運動や教えに翻弄されることなく、新約の光に照らされて聖書に傾聴することを学び続けましょう。そのような運動や教えに巻き込まれている教会や兄弟姉妹たちのためにも祈りましょう。万軍の神【主】よ、旧約の影を振り払い、イエス・キリストの人格とみわざを軸とする新約の光を降り注いでください。彼らを元の教会に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ(詩篇76篇から第100篇まで)』、ウルリッヒ・ヴィルケンス著『EKK新約聖書註解
ローマ人への手紙 Ⅳ/2』)
2022年10月2日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇79篇「御名の栄光のために。救い出し、罪をお赦しください」-栗のイガを剥いて、その実を食べるように-
https://youtu.be/8T_bqXYrscc
本詩は、アサフ詩集に編み込まれた四つの「民の嘆きの詩篇(74,80,83篇)」のひとつです。詩篇74篇では、[エルサレムの陥落(BC.587)と神殿の破壊から生まれた共同体の嘆きの詩篇です。当時の強国、バビロン帝国との戦いで敗戦した悲しみを込めて作られたものでしょう。本詩からは、三つの視点を教えられます。第一に、イスラエルの民にとって、神殿は宇宙の中心であり、古代イスラエルの民の生活の中心でありました。それゆえ、神殿の破壊はその中心が失われたことを意味しました。第二に、不滅の神殿が破壊されたということは、神がその礼拝共同体を拒絶されたのだと理解されました。第三に、中心的役割を果たしていた神殿が破壊されたことは、信仰の危機をもたらしました。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう]と始めました。
本詩もまた、[79:1
神よ、国々はあなたのゆずりの地に侵入し、あなたの聖なる宮を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました]という殺伐とした情景描写から始まります。それは、まさに今日のウクライナに照らし合わせますと、ブチャでの虐殺であり、イジュームで掘り起こされた手足を縛られ、拷問の跡がみられる膨大な死体と重なります。隣国ロシアの横暴は、美しいウクライナの諸都市を[汚し、瓦礫の山と]としてしまっています。これを教会に当てはめますと、昨今の全国各地で頻発している「聖書フォーラムによる信徒流出」もまた、既存の教会に「侵入し、聖なる宮を汚し、エルサレムを瓦礫の山」と化させているとみることもできます。このような視点をもって本詩に傾聴し、古代の祈りを私たちの現代の祈りとさせていただきましょう。
さて、詩篇という文書は一体どのような書物なのでしょう。詩篇は、祈りの書であり、「魂の叫び」の書です。それは、私たちが「古代の信仰者の祈りと叫び」に触れることによって、「信仰者たる私たちの、今日における祈りと叫び」を解き放つ“呼び水”として活用すべき書物なのです。本詩79篇は、わたしたちの、そして何よりも私自身の「“現在の”祈りと叫び」をどのように解き放ってくれるのでしょう。詩篇傾聴とは、そのような祈りに対する挑戦であり、そのような叫びへの「実験室」に入室することなのです。本詩は、三つの段落に分けられます。
第一段落(1-4)は、[79:1 神よ]と、神への呼びかけに続き、[79:1
国々はあなたのゆずりの地に侵入し、あなたの聖なる宮を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました]と、エルサレムとその神殿の破壊を、次に[79:2
彼らはあなたのしもべたちの屍を、空の鳥の餌食とし、あなたにある敬虔な人たちの肉を、地の獣に与え]と、神の民の殺戮とその死体の辱めを、最後に[79:4
私たちは隣人のそしりの的となり、周りの者に嘲られ、笑いぐさとなりました]と、諸国民の嘲笑と侮蔑の対象になっています。
第二段落(5-9)では、[79:5
【主】よ、いつまでですか。とこしえにあなたはお怒りになるのですか。いつまであなたのねたみは火のように燃えるのですか]と、神の怒りとねたみに言い及んでいます。これは、第一段落で述べた「神の都エルサレムとそのみすまいである神殿」の破壊の背後に、神の怒りとねたみを認めざるを得なかったからです。この怒りまたねたみを招いた原因は、[79:8
先祖たちの咎]としての偶像礼拝であり、[私たちの罪]としての不道徳でありました。今、南ユダ王国は、[79:6
あなたを知らない国々に。御名を呼び求めない王国に]、[79:7
食い尽]され、[その住む所を荒ら]されたままです。その原因克服のために、[79:8
先祖たちの咎を、私たちのものとして思い出さないでください]と祈り、[79:9
御名の栄光のために。私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください]と叫んでいるのです。
第三段落(10-13)では、[79:10
あなたのしもべたちの流された血の復讐が、私たちの目の前で国々に果たされますように]、また[79:12
主よ、あなたをそしったそのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください]イスラエルの民の敵に対する[復讐]が叫ばれています。[79:11
捕らわれ人のうめき]、[死に定められた人々]と、苦境に立たされ、[79:8
ひどくおとしめられて]いるわたしたちにを[生きながらえさせてください]と祈っています。そして、[79:13
私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。私たちはとこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げます]と神の導きと養い、支えを念じつつ、神賛美の誓いをもって閉じられます。
本詩の「エルサレムの悲劇」と「悲惨な境遇」には、いくつかの信仰の論理が示されています。第一の信仰の論理は、[79:1
あなたのゆずりの地、あなたの聖なる宮、エルサレム]が瓦礫の山とされたことです。[79:2
あなたのしもべたちの屍]が、空の鳥の餌食とされ、[あなたにある敬虔な人たちの肉]が、地の獣に与えていることです。[79:3
彼らの血が、エルサレムの周りに水のように、注ぎ出]され、[彼らを葬る者もい]ない野捨ての状態にあることです。[79:4
私たちは隣人のそしりの的となり、周りの者に嘲られ、笑いぐさ]となっており、[79:10
彼らの神はどこにいるのか]とののしられている状態にあるということです。この訴えは、巨人ゴリアテがイスラエルを、そして少年ダビデを蔑み、ののしったことに似ています。その論理とは、[79:9
御名の栄光]がののしられているのですから、[助けてください]と祈っているところです。わたしたちが苦境に置かれる時、苦難に直面するとき、ただ単に「助けてください。救ってください」というだけでなく、「
79:9 御名の栄光」という視点に還元し、整理して祈ることの大切さを教えています。
第二に教えられる信仰の論理は、[79:8 先祖たちの咎を、私たちのものとして思い出さないでください]と祈り、[79:9
御名の栄光のために。私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください]と叫んでいる点です。祈りにおいて、わたしたちの過去と現在の生活や心のうちを省みることも価値があります。それは、詩篇139篇にもある謙遜でへりくだった心の姿勢です。[詩139:23
神よ私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24
私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください]。私たちは、完璧完全な聖人ではないのですから、いつもこのような姿勢が望まれています。[詩51:17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません]とある通りです。
第三の信仰の論理は、住まう国に侵入し、汚し、町々を瓦礫の山とし、家族を友人を屍とし、野捨て状態で空の鳥、野の獣の餌食とした敵に対して溢れる怒り、憎しみを神に注ぎ出します。これは良いことです。私たちは私たちに害を加えた者に対し、その悲惨の度合いに比例して怒り、憎しみが溢れます。これは仕方のないことです。しかし、怒り、憎しみが余りに強すぎると、その被害者としての当然の権利として行使する態度・心の自然な姿勢が、私たち自身の精神、存在、人生をも狂わせてしまう危険があるのです。この世界における苦しみは、普通の人間の心では受けとめきれないものも多くあります。人間を破壊し、狂わせてしまう力があります。また、どんなに努力しても頑張っても、すぐに解決されたり、克服できない苦難も数多くあります。そのような時に、どう反応して生きていくのか試されるのです。この点で、神の民イスラエルの経験とその反応としての詩篇の祈りは、小さな宝石箱のようです。わたしたちは、彼らに倣って「彼らの存在の中心であり、彼らの依拠するすべてであった、エルサレムと神殿を失った神の民」のように、神の民とともに、害を及ぼした敵に対する「正義」をも祈るのです。イスラエルの民に対してとともに、パレスチナの人々のためにも「公正」を求めるのです。イスラエル民族主義の外皮の皮を剥き捨てつつ、パウロのように、怒りに支配されずに「公正な審判」をなしてくださるは神に委ねつつ祈り叫ぶのです。
私たちは、詩篇の解釈と適用においても、「栗のイガを剥いて、実を食べる」かのように、詩篇を味わい、それを私たちの生活に適用することができるです。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ(詩篇76篇から第100篇まで)』)
2022年9月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇78篇「私たちが聞いて知っていることを、後の時代に語り告げよう」-分断を煽る闇のメッセージではなく、多様性を包摂する光のメッセージを-
https://youtu.be/NhN_yOOQFxE
本詩は、最長の詩篇119篇に次いで長い詩篇です。導入部に続き、出エジプトからシロの聖所の破壊に至る民族の伝承を回顧して、最後にシオンの山とダビデの選びを付しています。歴史伝承の回顧は、出来事の経過を時系列になぞるというよりも、神のみわざとイスラエルの民の不信仰という点に焦点が当てられています。概要は、以下のように構成されています。
【概要と構成】
序詩①教えとしての語り伝え(1-4)
序詩②語り伝えることの意味(5-8)
導入ーエフライムの律法不履行(9-11)
回顧①出エジプトと荒野の奇跡(12-17)
回顧②荒野の奇跡と民の反抗(18-22)
回顧③マナとウズラの奇跡と結末(23-32)
中間総括ー想起と忘却の繰り返し(33-42)
回顧④エジプトにおける災厄(43-51)
回顧⑤エジプト出立と民の定住(52-55)
回顧⑥民の異教礼拝と神の怒り(56-64)
結びーシオンとダビデの選び(65-72)
※以下、少し長いですが、イスラエルの歴史の回顧とその中から得られる霊的教訓を傾聴し、私たちの個々の状況に当てはめていくことにいたしましょう。
本詩は、長いので、細部にはいることはせず、概要から傾聴できるポイントに注目し学んでまいりましょう。本詩には、比較的長い序詩が付され、本詩の意図が明示されています。イスラエル民族の歴史伝承は、そこに示された「神の不思議なみわざ」と不可分であり、この民の確かな信仰はそこに基礎づけられます。これらの「神のみわざ」の経験を後代に語り伝えることは、後の世代が「神のみ旨」の中を歩み、「神に真実な世代」であり続けるため、「私たち」に課せられた義務です。ICIが、教職者・神学生のための「継続神学研究」また信徒のための「生涯教育」に尽力している使命もそこにあります。
次に、本詩の中心をなす「イスラエルの歴史の回顧」は、ふたつの部分に分けて詠われています。出エジプトから荒野時代の奇跡と民の反抗を回顧する①~③と、同じく出エジプトからはじまり、嗣業地を配分された民が異教礼拝に陥り、神の怒りを買うまでを回顧する④~⑥です。両者の間に「中間総括」がおかれ、イスラエルの歴史というものが「立ち返りと離反」を繰り返す挫折の歴史であるという趣きを示しています。そして、そのような挫折の歴史のただ中に「神の憐れみ」が貫かれていると証言されています。
さらに見ていきますと、「エフライムの子ら」の律法不履行をのべる導入(9-11)と、エフライムでなく、「ユダ部族とシオンとダビデの選び」を詠う結び(65-72)とが呼応関係を保ちつつ、歴史伝承の回顧部分を囲んでいるのを発見します。要するに、本詩は神が外形としての民族的イスラエルの一部分「北イスラエル」を選ばなかった理由と、霊的・本質的イスラエルの象徴としての「ダビデ王朝を戴く南ユダ王国」の選びを示唆しているのです。これもまた、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」というパウロの解説を予表するものです。
さて、私たちは「出エジプトからダビデの選びまでの歴史を回顧する本詩」から、どのようなメッセージを傾聴し、私たちの今日の個々の状況に生かせばよいのでしょう。先日、[「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題解決の一助として:
55.
中川健一氏の教えの「資料源・前提を構成しているフルクテンバウム氏の教え」の“神学的問題の核心”を、V.S.ポイスレス著『ディスベンセーション主義者を理解する』に照らし合わせ、分析・評価する]と綴らせていただきました。ポイスレスが指摘する“神学的問題の核心”は、ラッド著『終末論』と同様のものと思われます。
そしてポイスレスが「追記―1993年」で明らかにしているポイントには、注目すべき価値があると思いまそしてポイスレスが「追記―1993年」で明らかにしているポイントには、注目すべき価値があると思いまこのような点を念頭に、本詩に傾聴していくきと、私には「序詩①②」は、創造・堕落・贖罪の脈絡の中、贖罪の啓示の受領者として選ばれ、その中に救い主を受け入れた「イスラエル民族」は、キリストの公生涯において、「旧約の出エジプトや荒野の導き、約束の地の相続、主の臨在のシオンの山、聖所、ダビデの王座を象徴において指し示す“実体”としてのイエス・キリストの人格とみわざ」を拒み、逆らい、信ぜず、罪を犯し、神を悲しませました。しかし、イスラエルの民の一部、霊的・本質的イスラエル性を内包する「残りの者」は、旧約の約束の“実体・成就”としての「イエス・キリストの人格とみわざ」に耳を傾け、信頼し、受け入れていきました。旧約の中で準備されていた「真の神の民」が、ペンテコステにおいて「神のイスラエル、霊的イスラエル、キリストのからだなる教会」として出現したのです。
使徒たちの教えによれば、霊的・本質的イスラエル性を宿す「イエス・キリストの人格とみわざ」を受け入れる人々の間では、ユダヤ人と異邦人の区別はなく、すべての人は民族的差異を超えて、ひとつの神の民、ひとつの神の国の市民です。これに対し今の時代は、悪い時代です。民族的差異を過度に強調し、「〇〇ファースト!、△△ファースト!」といって、特定の民族や特定の地域や階層の人々の利益を最大限追求させようとする時代、差別を助長、分断を深刻化することによって票を集めようとする「ポピュリスト政治家」が跋扈する時代です。地の塩、世の光であるべき、クリスチャンですら、教会ですら、大衆伝道者や牧師たちも、そのようなポピュリストに翻弄されやすい時代です。そのような愚かな人を主が諫めてくださいますように。このような姿は、神を悲しませ、聖なる方の心を痛めさせたイスラエルの姿と重なります。
誤った運動や教えの氾濫するこの時代において、私たちは、使徒たちの示した「福音のセンターライン」はどこにあるのか探し求める者となりましょう。教会の内外に溢れる分断の波に翻弄されてはなりません。“二つの神の民、二つの神の計画”といった前提をもつ「ガードレールを突き破るような暴走解釈や、健全化の流れに反抗し、いわば“逆走”するような解釈」に警戒しまょう。そのような解釈を煽り立て、「“ひとつの神の民、ひとつの神の計画”という健全な教えのある教会から、騙されやすい素朴な信徒を扇動・流出させる唱道者」に警戒しましょう。私たちは、使徒たちの示した「福音の倫理的実践」に敏感なものでありましょう。「時代状況や一般啓示からのさまざまな光の研究に進展」に盲目で、浅薄かつ極端な「字義主義解釈」に基づき、“断罪的な”倫理を推進する運動や教えに警戒しましょう。三千五百年前から千数百年間に渡って書き綴られた聖書から、この二十一世紀の状況に、神の御心がどう語られているのかー「静かな細き御声」を傾聴することに尽力する者とされましょう。
私たちは「聖なる地、相続の地、聖なる山、シオンの山、聖所、ダビデの王としての任職等」ー本詩にみられる描写を、新約の光において、象徴的・本質的に「イエス・キリストの人格とみわざ」において解釈し、そこにおいて御声を聴き、それに従って生きるよう召されています。使徒たちから「私たちが聞いて知っていることを」もって、本詩を照らし出し、今の時代、また「後の時代に語り告げ」る者、証ししていく者とされましょう。分断を煽り、「神を悲しませる」闇のメッセージではなく、差別のない、多様性を包摂する「神を喜ばせる」光のメッセージを証ししていく者とされましょう。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ(詩篇76篇から第100篇まで)』、V.S.ポイスレス著『ディスぺンセーション主義者を理解する』)
2022年9月18日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇77篇「苦難の日に、私は主を求め、手を差し伸ばした」-両極分断の道ではなく、冷静な聖書解釈に基づく穏健で中庸な道を-
https://youtu.be/RzVCqGTfQtc
先日、開催された[「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」による信徒流出問題]に関する、全国各地の超教派の先生方からなるズームによる牧師会で、[次回の11月の会議は、安黒先生の視点から“神学的問題の核心”
について話していただけないでしょうか」と依頼されました。この問題に“神学的視点”から、十数年間取り組んできた神学教師としてお役に立てればと思い、「微力でありますが引き受けさせていただきます」と返事させていただきました。いつものことでありますが、この奉仕準備状況における祈りとして、この二ヶ月間の詩篇を傾聴させていただきたいと思います。すなわち、詩篇傾聴の詩句からの洞察を、11月の奉仕に向けての祈りとして用いさせていただく方向で、傾聴させていただきたいと思います。
また、できますればこの機会に、皆様にも詩篇の洞察にあわせ、日本各地の教会が直面している「信徒流出」という由々しき問題解決に思いをはせていただくことができたら幸いに思います。そして、わたしの講演がこの問題の克服に向けての、いわば“有効なククチン”のひとつとして、
“神学的問題の核心”に触れ、この問題の病巣にメスを入れ、根源的な解決に向けての一助として用いられますよう、良き準備ができるよう祈っていただければと願います。そのような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
先週届いたクリスチャン新聞(2022/9/25号)に下記の記事が掲載されておりましたので紹介させていただきます。[キリスト教会福音派における性的少数者の理解について議論が起き、立場の異なる団体が相次いで設立された。この状況を憂い、「第三極」として、福音主義神学に立つ教会どうしの対話と、教会と性的少数者のかかわりを模索する新たな団体「ドリームパーティー」が9月3日に設立された。発起人は大頭眞一、久保木聡、賛同人は藤本満、水谷潔、西原智彦、岡谷和作の各氏。同ホームページ(https://dreamparty.church/)では、「当事者また支援者のかたがた」、「保守的なかたがた」、「すべての福音派の方がたへ」それぞれに「悔い改め」や「お願い」のメッセージを寄せ、長期的な提案として、共同研究などの継続、緊急の提案として当事者を受け入れる教会間ネットワーク構築、対話のためのオンライン会議などを挙げた。日本の福音派の中では、近年、性的少数者に関する論考や書籍が出版され、2021年に開催された福音主義神学会東部部会での講演を契機に、性的少数者理解についての議論や活動が活発化した。今年7月14日には、性的少数者理解について、「聖書からの逸脱」を問題視する有志によって「性の聖書的理解ネットワーク」(以下NBUS)が設立された。一方、それに反発する性的少数者や、その支援者などにより8月18日に「性の聖書的理解ネットワーク『NBUS』を憂慮するキリスト者連絡会」が設立された。両団体はそれぞれ署名活動を展開した。「ドリームパーティー」の発起人らは、両団体やそれぞれに関係する教会の対話が困難となったことを憂い、「この膠着した状態に身を委ねることが、決して福音主義神学に立つ日本の諸教会にとって益とはならない」として新たな団体を設立した。]とありました。
わたしは、このように両極に分断される傾向の中で、[両極分断の道ではなく、冷静な聖書解釈に基づく穏健で中庸な道を]探る取り組みは非常に大切と思っています。10年あまり前から、私の母校や所属団体の周辺に「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えを分かち合うグループが急増してきました。また、数年前でしょうか。「性の聖書的理解ネットワーク」(以下NBUS)に名前を連ねておられる先生の講演も開催されたりしました。わたしは、これらの動きの背後に、いつも「米国における悲しむべき二極化の傾向」の日本のキリスト教会への反映を見ていました。まだまだ、勉強中でありますが、さまざまな分野でそれらの動向の輪郭と本質には常に目配りし、[両極分断の道ではなく、冷静な聖書解釈に基づく穏健で中庸な道を]探りつつ歩んでいきたいと願っています。
そのような意味で、本詩77篇にある[77:2 苦難の日に、私は主を求め、夜もすがら、たゆまず手を差し伸ばした]の[77:2
苦難の日に]を、両極分断の傾向を帯びた米国からの極端な運動や教えの[77:16
大いなる水]の大津波に模することができるのではないでしょうか。テレビのデジタル化を機にテレビ伝道時代を終え、2010年前後から「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えの普及と弟子づくりにシフトされ、「HTM(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)→聖書塾→聖書フォーラム」の運動や教えが大々的に推進されていった背景にも、米国における背景からの影響を強く意識してきました。そして、始まりは小さいけれども、その背景の巨大な力からして、日本の小さな教会は「赤子の手をひねる」ように簡単に翻弄され、その色に染め上げてしまわれるのではないかと危惧しておりました。
それで、ロシアのクリミア侵攻以来、ウクライナが将来のさらなる侵攻を予測して準備してきたように、わたしも2010年前後からずっと、神学的視点からこの問題への対処を準備してきました。10年あまりの間、時と場所と機会を得て、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」に対する神学的視点からの対処法を分かち合ってきました。
それは、わたしが最初の[77:2 苦難の日に]、[77:1
声をあげて叫]んだからです。「イスラエル民族を神聖化し、目的化し、その民族の栄光の回復を神の至上目的ー神の栄光とする」ことは、使徒たちの旧約解釈ではないと確信していたからです。
そして、やがて起こるであろう[77:2 苦難の日]を予測し、その日のために、その日に備えて、日夜[77:2
たゆまず手を差し伸ばし]続けたからです。膨大な文献を収集し、目を通し、分析・評価し、この誤った教えと運動の歴史や神学について研究を積み重ねていきました。さて、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」といっても、さまざまなレベルがあり、グラデーションがあります。「ディスペンセーション主義」と自称している先生方でも、中身は「かなり福音主義的な理解」である方も多いです。極端な原理主義的ディスぺンセーション主義の先生と少しだけ影響をうけておられる穏健なディスペンセーション主義の先生がおられます。
穏健なディスペンセーション主義で中身はほぼ福音主義の先生は「神のひとつの民、神のひとつの計画」であり、「神の国は民族的差別のない普遍的な神の国」の理解をもっておられます。極端な原理主義的ディスペンセーション主義の先生は、「神の二つの民、神の二つの計画」を聖書解釈の原理とされ、その目標を「ユダヤ人の栄光の回復としての神の国」とされます。その延長線上に、地上における「土地、エルサレム、神殿」の回復の運動を推進されています。福音主義では、「土地は被造物世界全体に、地上のエルサレムではなく天上のエルサレムに、神ご自身が神殿そのものであり、もはや神殿は不必要」と使徒たちと同じ理解です。
本詩において、詩人は[77:2 苦難の日]のただ中における内的葛藤を言い表しています。[77:7
「主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。77:8
主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。77:9
神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか]と。これが信仰生活です。これがクリスチャンの祈りです。
[77:2 苦難の日]には、このような煩悶や葛藤が、 [77:17
雨雲…雷雲]のように覆い、時にはいらだちや怒りが[77:18
雷…稲妻]のように鳴り響きます。わたしたちの奉仕の場も[震え揺れ動き]行き場を見失うかもしれません。
しかし、詩人は[77:2
苦難の日]のただ中で、[神に声をあげて叫]びます。見える現状は、困難をきわめています。そのような中、葛藤と煩悶は続き、ついに[77:10
私はこう言った。「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ」と]不信仰とも思える結論を発します。「神がお見捨てになった」のではないかと。しかし、その瞬間に[77:11
私は【主】のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。77:12
私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたのみわざを静かに考えます]との言葉が溢れてきます。これが信仰です。ローマ七章にもみられるクリスチャン生活です。
[77:2 苦難の日]には、夕があり朝があります。 [77:2 苦難の日]には、影と光があります。
[77:2
苦難の日]に、神はいままで「目が見たことのないもの。耳が聞いたことのないもの。人の心に思い浮かんだことのないもの」を備えてくださいます。イスラエルの民においては、民がエジプトの戦車に追い詰められた時、神が紅海の水を分け、進むべき道を開かれました。そうです。神は絶体絶命の窮地に陥った民のために[77:13
、あなたの道は聖]といわれる[77:14 奇しいみわざ…御力、77:15
御腕をもって贖われ]る道を開かれました。襲い掛かろうとする混乱と混沌の水は、[77:16
水はわななき…。大いなる水も震え上がりました。煙るシナイ山で、神はモーセにご自身を示し[77:17
雨雲は水を注ぎ出し、雷雲は雷をとどろかし]ました。神さまは、聖書を通し、歴史的状況と世界観の中で、冷静な対話のもと、主の“真の、細き御声”を聴かせてくださるでしょう。
それらは、わたしたちの心の深みに[77:18
雷の声…のように鳴り、稲妻]のように[世界を照らし]、誤謬や先入観、偏見や差別感情の古い皮袋張り裂けさせるでしょう。それらの「新しいブドウ酒」としての深淵な解釈は、いわば地震のように古い伝統の地を[震え揺れ動]すでしょう。神さまは、苦難の日のただ中で、「わたしたちの願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて」知恵を、洞察を示されるでしょう。[77:19
あなたの道は海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした]と言われる道を。神さまは、[出エ14:1海辺に宿営し]、当時最強のエジプト軍に対し“絶体絶命の背水の陣”を敷くよう導かれました。エジプト王のファラオに「彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった」と見下され、えり抜きの戦車600とエジプトの全戦車により全滅寸前に、[77:19
海の中]に開かれた道をたどって[77:20 羊の群れのように導かれ]ていきました。
このように、両極分断の道ではなく、冷静な聖書解釈に基づく穏健で中庸な道を開いていってくださいますように。神学的核心に光を当てた深い解釈の道がしめされますように。米国からの余波としてしばらくは続くであろう「苦難の日」に、主を求め、手を差し伸ばし続けてまいりましょう。
(参考文献: 小畑進『詩篇講録 下巻』、月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅳ』)
2022年9月11日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇76篇「地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられ」-解釈学的螺旋の深みにおいてLGBTQ問題を考える-
https://youtu.be/3CPiPFko4zo
先週は、理事会報告で「LGBTQについての学びが開始される。きわめてセンシティブかつ複雑な問題なので祈ってほしい」との祈りの要請がありました。祈らせていただきたいと思います。そして、微力ながら、バランスのとれた健全な方向が見出していけるようICIでも尽力させていただきたいと思います。
LGBTQ問題とは、簡単に言えば[従来、法律的・社会的に割り当てられた性別(sex)=自分の性別であり、その性別を生きていくということが自明であるかのように考えられてきた。しかし、近年では、「性のあり方」は、一般的に言われる「男性」「女性」という2通り以上にもっと多様であるという考え方が広がってきている]ーこの課題に対し、教会として、また神学校として、どのように受けとめ、どのように考え、どのように教えていくべきなのか、ということなのです。特に、奉仕生涯の最初の三年間に、どのような教えがなされるかは、「三つ子の魂百まで」というように、大きな影響があることでしょう。
これは、大変複雑かつ難しい問題です。軽々に取り扱うと火傷を負いかねない課題です。しかし、継続神学教育に取り組んでいるICIとしましては、恐れをなし「敵前逃亡」のように逃げてはならない課題のひとつであり続けています。長年、念頭にあり、ある先生からは「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム問題の次は、LGBTQ問題ですね」と励ましとチャレンジを受けているもので、まだまだ勉強中という状態です。
資料や文献を収集していっている中で、近年「ソロモンの知恵、カイザルのコイン」のような光が差し込んできた経験がありました。それが、2021年5月31日日本福音主義神学会東部部会研究会での、[LGBT肯定を評価し、聖書をどう読むか冷静に検討を促す]藤本満師の講演でした。①歴史的状況、②人間観、③聖書解釈、④LGBT問題への適用を考えさせられるー解釈学的螺旋の深みにおいてLGBTQ問題を考えさせられる貴重なひとときでした。この講演を念頭に置きつつ、本詩76篇に傾聴し、その祈りの本質に合わせ、この課題に取り組む、勇気ある人たちのために祈るひとりとされたいと思います。
本詩は、[76:1 神は、ユダに、ご自分を示される。イスラエルに、その御名の偉大さを。76:2
その仮庵はサレムに、その住まいはシオンにある。76:3 神はそこで、弓の火矢を砕かれる。盾と剣も戦いも]と[A.
本拠地におられる神]をもって、開始されます。本詩は、シオンは「神が住まわれる都であるがゆえに難攻不落である」とするシオン神学を前提とする歌です。聖書で、神は「ユダの獅子」にたとえられ、そのライオンの巣窟ー[76:2
その仮庵はサレムに、その住まいはシオンにある]と言われます。周辺の大国のひとつ、アッシリアはいわば「百獣の王、King of
kings」の巣を襲うという誤りを犯しました。
その様子は、Ⅱ列王記18-19章やイザヤ36-37章に克明に記されています。南ユダ王国の首都エルサレムは、アッシリア帝国のセンナケリブ王に包囲され、陥落寸前でありました。しかし、この苦境は一夜にして逆転しました。[Ⅱ列王19:32
それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。19:33
彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。19:34
わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」19:35
その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた]と。
絶体絶命の状況下への神の介入劇です。陥落間近の[76:2
仮庵はサレム]、[その住まいはシオン]から、「ユダの獅子」である神は、苦境の最後のタイミングで[その夜、【主】の使いが出て行き]とあるのです。わたしたちの神は、「飾り物、置物で運んでもらわないと動けないような偶像」とは異なります。わたしたちの神は、苦境の只中で[76:3
弓の火矢を、…盾と剣も戦いも]一夜にして砕かれる方です。粉砕される方です。城壁の上にたって、エルサレムの周囲、四方八方を見渡す限り、アッシリア帝国の精鋭の軍勢が野山を埋め尽くしていました。
しかし、彼らは一夜にして[76:5
剛胆な者たちは略奪され、深い眠りに陥りました。どの勇士たちにも手の施しようがありませんでした。…76:6
戦車も馬も倒れ伏しました]。
翌朝、起きてみると、ユダの獅子の[76:2
仮庵はサレム、…その住まいはシオン]の周囲にあった、アッシリア帝国軍の喧騒は消えていました。城壁の周囲は、静寂に包まれていました。それは、昨夜[76:6
ヤコブの神が(アッシリア軍を)叱りつけ]られたからです。それは、主が[76:7 お怒りになり、…76:8
天から宣告]を聞かせられた]からです。主は神の民の絶望、怒り、憤り、叫びに耳を傾けられる方です。[76:10
人の憤り…あふれ出た憤りを身に帯び]大地を裁かれます。[76:12
君主たちの霊を…地の王たちに]審判をくだし、刈り取られる方です。
私たちは、本詩をどのように「LGBTQ」問題に適用し、励ましまた祈りとすることができるでしょうか。それは、[76:9
神がさばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられ]るという詩句にヒントがあります。
藤本満師は、東部講演において「LGBTQ」問題を、伝統的で保守的で「表面的な字義的解釈」から入らずに、創世記の「神の像」論から入り、「キリストの似姿」へと贖われていくことに出口を見出しておられるように思われます。これは聖書解釈法の道筋、すなわち主線と伏線、中心性と周辺性の識別力の問題です。
また、人間観において、「性器」をもって男性と女性を区別する従来の短絡的・画一的な捉え方から、「グラテーションのある捉え方」、性の同一性を作り上げている複数の因子[染色体上の性、性腺(卵巣/精巣)、それによって作り出されるホルモン、体内の生殖器官、体外の性器、人から判断された性別、それに従って生育されてきた自分、社会的に認知される性別]というものがあり、単純に性器をもって男性か女性か決めつけられない。そして、社会にあって以上に教会において、LGBTQの人たちは、「存在的な苦悩と葛藤の生涯に強いられる」傾向にある、指摘されています。
LGBTQ問題に対しては、教会の中に「配慮ある反対派」と「配慮ある肯定派」とが存在しています。藤本師は、そのあたりの根深い問題を丁寧かつ知恵深く整理してくださっています。諸教会また、諸神学校でこの課題に取り組まれるときの冷静な議論のための一指針として参考にしていただければと願います。このような状況下で、本詩に傾聴していく時、[76:9
神がさばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに]という詩句が、わたしの心に「 [76:9
神がさばきのために、LGBTQ問題で苦しんでいる人々を救うために、立ち上がられたそのときに」と響きます。ユダの獅子たる神が、この課題においても、[76:1
ご自分を…、その御名の偉大さを]示してくださいますように。あなたの[76:4
輝かしい…、威厳]を。あなたが聖書解釈と人間観を新たに照らし出し[76:8
天からあなたの宣告]を聴かしめしてくださいますように。現在またこれまでの捉え方に誤りがあれば[76:3
弓の火矢を砕き、…略奪し、…叱りつけ…倒れ伏]させられますように。[76:8 沈黙]させ、[76:12 刈り取られ]
ますように。
この問題の複雑さから、軽々に結論を出すことはできないと思いますが、「主よ、御心にかないますれば、藤本満師が示しておられる線にそって、この問題に関する聖書観、聖書解釈方法論、人間論」が明らかにされていきますようにと祈りつつ、諸教会・諸神学校・神学会等での議論の行方を見守っていきたいと思っています。皆様にもお祈りいただけれは幸いです。祈りましょう。
参考文献: 藤本満講演関係資料リンクー神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿 1-5)2022年9月11日
旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇76篇「地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられ」-解釈学的螺旋の深みにおいてLGBTQ問題を考える-
https://youtu.be/3CPiPFko4zo
先週は、「LGBTQについての学びが開始される。きわめてセンシティブかつ複雑な問題なので祈ってほしい」との祈りの要請がありました。祈らせていただきたいと思います。そして、微力ながら、バランスのとれた健全な方向が見出していけるようICIでも尽力させていただきたいと思います。
LGBTQ問題とは、簡単に言えば[従来、法律的・社会的に割り当てられた性別(sex)=自分の性別であり、その性別を生きていくということが自明であるかのように考えられてきた。しかし、近年では、「性のあり方」は、一般的に言われる「男性」「女性」という2通り以上にもっと多様であるという考え方が広がってきている]ーこの課題に対し、教会として、また神学校として、どのように受けとめ、どのように考え、どのように教えていくべきなのか、ということなのです。特に、奉仕生涯の最初の三年間に、どのような教えがなされるかは、「三つ子の魂百まで」というように、大きな影響があることでしょう。
これは、大変複雑かつ難しい問題です。軽々に取り扱うと火傷を負いかねない課題です。しかし、継続神学教育に取り組んでいるICIとしましては、恐れをなし「敵前逃亡」のように逃げてはならない課題のひとつであり続けています。長年、念頭にあり、ある先生からは「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム問題の次は、LGBTQ問題ですね」と励ましとチャレンジを受けているもので、まだまだ勉強中という状態です。
資料や文献を収集していっている中で、近年「ソロモンの知恵、カイザルのコイン」のような光が差し込んできた経験がありました。それが、2021年5月31日日本福音主義神学会東部部会研究会での、[LGBT肯定を評価し、聖書をどう読むか冷静に検討を促す]藤本満師の講演でした。①歴史的状況、②人間観、③聖書解釈、④LGBT問題への適用を考えさせられるー解釈学的螺旋の深みにおいてLGBTQ問題を考えさせられる貴重なひとときでした。この講演を念頭に置きつつ、本詩76篇に傾聴し、その祈りの本質に合わせ、この課題に取り組む、勇気ある人たちのために祈るひとりとされたいと思います。
本詩は、[76:1 神は、ユダに、ご自分を示される。イスラエルに、その御名の偉大さを。76:2
その仮庵はサレムに、その住まいはシオンにある。76:3 神はそこで、弓の火矢を砕かれる。盾と剣も戦いも]と[A.
本拠地におられる神]をもって、開始されます。本詩は、シオンは「神が住まわれる都であるがゆえに難攻不落である」とするシオン神学を前提とする歌です。聖書で、神は「ユダの獅子」にたとえられ、そのライオンの巣窟ー[76:2
その仮庵はサレムに、その住まいはシオンにある]と言われます。周辺の大国のひとつ、アッシリアはいわば「百獣の王、King of
kings」の巣を襲うという誤りを犯しました。
その様子は、Ⅱ列王記18-19章やイザヤ36-37章に克明に記されています。南ユダ王国の首都エルサレムは、アッシリア帝国のセンナケリブ王に包囲され、陥落寸前でありました。しかし、この苦境は一夜にして逆転しました。[Ⅱ列王19:32
それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。19:33
彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。19:34
わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」19:35
その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた]と。
絶体絶命の状況下への神の介入劇です。陥落間近の[76:2
仮庵はサレム]、[その住まいはシオン]から、「ユダの獅子」である神は、苦境の最後のタイミングで[その夜、【主】の使いが出て行き]とあるのです。わたしたちの神は、「飾り物、置物で運んでもらわないと動けないような偶像」とは異なります。わたしたちの神は、苦境の只中で[76:3
弓の火矢を、…盾と剣も戦いも]一夜にして砕かれる方です。粉砕される方です。城壁の上にたって、エルサレムの周囲、四方八方を見渡す限り、アッシリア帝国の精鋭の軍勢が野山を埋め尽くしていました。
しかし、彼らは一夜にして[76:5
剛胆な者たちは略奪され、深い眠りに陥りました。どの勇士たちにも手の施しようがありませんでした。…76:6
戦車も馬も倒れ伏しました]。
翌朝、起きてみると、ユダの獅子の[76:2
仮庵はサレム、…その住まいはシオン]の周囲にあった、アッシリア帝国軍の喧騒は消えていました。城壁の周囲は、静寂に包まれていました。それは、昨夜[76:6
ヤコブの神が(アッシリア軍を)叱りつけ]られたからです。それは、主が[76:7 お怒りになり、…76:8
天から宣告]を聞かせられた]からです。主は神の民の絶望、怒り、憤り、叫びに耳を傾けられる方です。[76:10
人の憤り…あふれ出た憤りを身に帯び]大地を裁かれます。[76:12
君主たちの霊を…地の王たちに]審判をくだし、刈り取られる方です。
私たちは、本詩をどのように「LGBTQ」問題に適用し、励ましまた祈りとすることができるでしょうか。それは、[76:9
神がさばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられ]るという詩句にヒントがあります。
藤本満師は、東部講演において「LGBTQ」問題を、伝統的で保守的で「表面的な字義的解釈」から入らずに、創世記の「神の像」論から入り、「キリストの似姿」へと贖われていくことに出口を見出しておられるように思われます。これは聖書解釈法の道筋、すなわち主線と伏線、中心性と周辺性の識別力の問題です。
また、人間観において、「性器」をもって男性と女性を区別する従来の短絡的・画一的な捉え方から、「グラテーションのある捉え方」、性の同一性を作り上げている複数の因子[染色体上の性、性腺(卵巣/精巣)、それによって作り出されるホルモン、体内の生殖器官、体外の性器、人から判断された性別、それに従って生育されてきた自分、社会的に認知される性別]というものがあり、単純に性器をもって男性か女性か決めつけられない。そして、社会にあって以上に教会において、LGBTQの人たちは、「存在的な苦悩と葛藤の生涯に強いられる」傾向にある、指摘されています。
LGBTQ問題に対しては、教会の中に「配慮ある反対派」と「配慮ある肯定派」とが存在しています。藤本師は、そのあたりの根深い問題を丁寧かつ知恵深く整理してくださっています。諸教会また、諸神学校でこの課題に取り組まれるときの冷静な議論のための一指針として参考にしていただければと願います。このような状況下で、本詩に傾聴していく時、[76:9
神がさばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに]という詩句が、わたしの心に「 [76:9
神がさばきのために、LGBTQ問題で苦しんでいる人々を救うために、立ち上がられたそのときに」と響きます。ユダの獅子たる神が、この課題においても、[76:1
ご自分を…、その御名の偉大さを]示してくださいますように。あなたの[76:4
輝かしい…、威厳]を。あなたが聖書解釈と人間観を新たに照らし出し[76:8
天からあなたの宣告]を聴かしめしてくださいますように。現在またこれまでの捉え方に誤りがあれば[76:3
弓の火矢を砕き、…略奪し、…叱りつけ…倒れ伏]させられますように。[76:8 沈黙]させ、[76:12 刈り取られ]
ますように。
この問題の複雑さから、軽々に結論を出すことはできないと思いますが、「主よ、御心にかないますれば、藤本満師が示しておられる線にそって、この問題に関する聖書観、聖書解釈方法論、人間論」が明らかにされていきますようにと祈りつつ、諸教会・諸神学校・神学会等での議論の行方を見守っていきたいと思っています。皆様にもお祈りいただけれは幸いです。祈りましょう。
参考文献: 藤本満講演関係資料リンクー神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿 1-5)
https://1co1312.wordpress.com/?s=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E6%BA%80%E5%B8%AB%E3%82%B2%E3%82%B9%E3%83%88%E6%8A%95%E7%A8%BF
2022年9月04日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇75篇「すべての者が揺らぐとき、地の柱を堅く立てる」
-福音主義イスラエル論の座標軸による分析・評価の必要性-
https://youtu.be/kGIXbxgbJLc
本詩、75篇は、「滅ぼすな」という調べに合わせてうたわれた、混沌とした世界に公正な神が審判を通して救いをもたらしてくださるとの信仰告白の賛美です。イスラエル民族は、周辺の強国に蹂躙された歴史をもつ民族でした。ちょうど現在のウクライナ民族のように。北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、70年間捕囚民となって、帝国の首都バビロンに連れていかれました。大国の狭間にある小国は、そのような悲哀の歴史、苦難の物語を数多く抱えています。そのような民にとって、そのような人生を抱えて生きている民族にとって、本詩は励ましの歌、希望の賛美です。そのような視点から本詩を傾聴し、今日を生きるわたしたちに適用してまいりましょう。
本詩を読んだ最初の印象は、「特徴のない詩だな」というものでした。「この詩から、一体どのようなメッセージを傾聴できるだろうか」という不安でした。しかし、いろんな注解書に目配りしつつ、繰り返し傾聴していく中で、本詩の構成とメッセージがくっきりと見えてきました。そして、自分自身の生活また必要に当てはめることができるようになっていきました。そのことを証ししたいと思います。本詩は、神殿音楽家ギルド(職業団体)アサフによるものです。先の73篇は[73:2b
私の歩みは滑りかけた]、74篇は[74:1 なぜ、…牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか]との絶望から歌は開始されています。
これに反し、75篇は[75:1 私たちは、あなたに感謝します]と感謝で開始され、[75:9
ヤコブの神にほめ歌を歌います]で終わっています。音楽でいえば、前奏と後奏が「感謝と賛美」をもって構成されているのです。そして、この曲を構成する主要部は[75:2
「わたしが定めの時を決め、わたし自ら公正にさばく]、[75:7
まことに神こそ、さばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる]と、神が公正な裁き主であると信仰告白されています。私たちは、このような審判のメッセージを私たちの生活にどのように適用していけば良いのでしょうか。「裁きを通しての救い」という希望のメッセージをどう生かしていけば良いのでしょうか。
わたしが取り組ませていただいていますひとつのテーマがあります。それは、「旧約聖書の意味・意義とは何か」ということであり、ひいては「イスラエル民族の意味・意義とは何か」ということです。神は、全世界の人々の救いのために、アジア・アフリカ・ヨーロッパの架け橋の位置にあり、強国の谷間にあって苦難の歴史を生きるひとつの小さな民族を、神の啓示の受領者として選ばれ、その召命と賜物を導かれました。わたしたちクリスチャンは、その民族を通してもたらされたイエス・キリストによる救いの啓示の恩恵にあずかっています。それは、大変感謝すべきことです。それは忘れてはならないことです。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、イスラエル民族を通して受けた「イエス・キリストの人格とみわざによる救いの恵み」には感謝すべきなのですが、神学的素養が薄く、福音理解において未熟な人々の中には、救いの啓示の受領者として「機能的に、手段として」用いられたイスラエル民族そのものを「神聖視し、目的化」する誤りに陥りやすいのです。これをひとつの類比を用いてお話しましょう。私たちの存在は「父や母、祖父母」があってはじめてもたらされたものです。それゆえ、十戒には「出エ20:12
あなたの父母を敬いなさい」とあります。しかし、同時に「出エ20:3
あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない」とあります。
すなわち、わたしたちは、父母、祖父母への感謝と敬愛を失ってはいけないのですが、祖先崇拝というかたちで崇拝してはいけないのです。同様に、わたしたちは「旧約聖書をもたらしてくれた民」として、イスラエル民族に対する感謝と敬意を大切にしなければならないのですが、「イスラエル民族そのものを神聖視と、目的化」することは、間違った捉え方なのです。このような視点から、本詩75篇を読み返し、新約の「イエス・キリストにある救いに生きる」私たちの生活に当てはめてみてまいりましょう。
[75:1b
あなたの御名は近くにあり、あなたの奇しいみわざが語り告げられています]とある感謝の詩句は、新約の私たちには「イエス・キリストの人格とみわざ」のゆえに湧き上がる感謝と映ります。[75:9
とこしえまでもみわざを告げ]る賛美・ほめ歌は、「イエス・キリストの人格とみわざ」のゆえに与えられている内住の御霊から溢れる[エペ
5:18 御霊に満たされ…、5:19
詩と賛美と霊の歌をもって…主に向かって心から賛美し、歌]う歌です。しかし、いつの時代でも、誤った運動や教えは勃興するものです。今日にも[75:3
地とそこに住むすべての者が揺らぐとき]と、創世記1:2にあるような混沌と暗闇がキリスト教会をおおう運動や教えがはびこりつつあります。
そのような危機の時代には、神さまは各地の牧師会を動かし、ここかしこに神の器を立て、[わたしが地の柱を堅く立てる]と、健全な福音理解の回復に取り組まれます。「神聖視し、目的化した誤ったイスラエル論」ではなく、「機能視し、手段化されイスラエル論」という[地の柱]を堅く立ててくださいます。イスラエル民族そのものを「神聖視し、目的化した誤ったイスラエル論」を唱道する大衆的な伝道者や聖書教師に対し、主は[75:4
『誇るな』…『角を上げるな。…75:5 横柄な態度で語るな]と叱責してくださいます。
[75:6
高く上げることは、東からでもなく西からでもなく荒野からでもない]と言われます。ひとつの民族を「神聖視し、目的化」し[高く上げる]ことは間違っています。イエス・キリストにおいては、ユダヤ人もギリシア人もないと言われています。全人類に救いをもたらされ、昇天され御座に着座されたイエス・キリストこそ、「高く上げ」られるべき唯一のお方です。それゆえ、[75:7
まことに神こそ、さばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる]と言われています。[ヘブル1:3
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました]とある通りです。
それゆえ、この御座に着座されている御子イエス・キリスト以外のものを[高く上げ]ようとか、[角を上げ]ようとする一切の運動や教えは、
[75:8
【主】の御手には杯があり]と、神の裁きの下に置かれます。新約の光の下、神学的な分析と評価の下に置かれます。わたしは、「イスラエル民族そのものを、神聖視し、目的化する」運動や教えがいかに誤っているのかを理解する助けとして、“福音主義神学の座標軸”や“福音主義イスラエル論の座標軸”というものを提示しています。それは、これらの運動や教えが、新約聖書の教えからどれくらい逸脱しているのか、またその実践が使徒たちの倫理的実践からどれくらい
“さかさま”な実践となっているのかを照らしだすものです。
ここで有名なシカゴ・コールという声明を紹介したいと思います。1977年に教派的背景を異にする福音派の指導者たちと、大学、神学校関係者たちとによる研究会議が開かれ、その際40名の署名をもって公表されたアピール「シカゴ・コール」の冒頭にある言葉です。「シカゴ・コール」には、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』(いのちのことば社、1993)244頁、と記されています。
わたしは、今日生起している大きな問題のひとつとしてー「諸教会からの、聖書フォーラムへの信徒流出」問題に、本詩を当てはめたいと思います。イスラエル民族そのものを「神聖視し、目的化する」その特異な聖書観、聖書解釈法、教会論、終末論等の教えと、「土地、エルサレム、神殿」の地上的回復の実践というベクトル(運動の方向性)を内包する「HTM→聖書塾→聖書フォーラム」運動は、誤った教えに導く、誤った運動であり、健全な教会から、誤った「聖書フォーラム」に信徒を流出させていると指摘しておきたいと思います。[75:8
【主】の御手には杯があり]とは、神さまの審判を示すイメージです。このようなモチーフ(題材)は、預言書に数々あり、新約の黙示録にも示されています。
わたしは、「HTM→聖書塾→聖書フォーラム運動による信徒流出」問題は、
「シカゴ・コール」にあるように、「聖霊が諸教会に、また牧師会や神学校や諸団体に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられ、…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられる」という意味で、キリストのからだなる諸教会・諸団体・諸神学校・諸神学会等において「分析・評価のまな板」の上にのせられていきつつあることを見ています。[75:8
【主】の御手には杯があり]とは、神さまは「誤った運動や教えやその実践」が野放図に放任される方ではない、ということです。
[75:8
混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている]とは、酒の調味料である蜜のことと言われています。それは口当たりが甘くていくらでも飲めるのですが、思わず量が過ぎて酔いつぶれ、前後不覚にさせるお酒のことです。米国のキリスト教会の中で、「ディスペンセーション主義に立つ、キリスト教シオニズム」の喧伝活動は広く知れ渡っていることです。テレビ局やインターネット等を通して影響力と集金力を誇っています。その中心的働きをされているひとりのハジーという牧師は、「聖書を神の言葉と信じているクリスチャンを親イスラエルにするのは簡単である」と語っています。サイザーという牧師の『シオンにおけるクリスチャンの兵士たち』という著書に記されています。わたしは、日本におけるディスペンセーション主義キリスト教シオニズムのここ十数年の「津波のような押し寄せ」の背後に、米国におけるキリスト教シオニズムの勃興を見ています。そして、この運動と教えの誤りを甘く見ていれば、今日のキリスト教シオニズムの影響に染まった米国の教会の姿が、「明日の日本の教会の姿」となるのではないかと懸念しています。
わたしは、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」は、ある意味で[75:8
混ぜ合わされた泡立つぶどう酒]のように、それは口当たりが甘くていくらでも飲めるし、イスラエルのさまざまな情報や学びで、一見教会にとって霊的な益になるように映るように思われるのですが、知らず知らずのちに、「イスラエル民族を神聖視し、目的化する」誤った教えに染められ、やがては「土地・エルサレム・神殿の地上的回復」という新約のクリスチャンには教えられていない教えと運動に巻き込まれていく、つまり思わず量が過ぎて酔いつぶれ、前後不覚にさせるお酒を[飲みかすまで飲み干す]まで、福音理解が歪曲されてしまう危険があるように思わせられているのです。
わたしたちは、そのような危険のある時代に生きています。米国のキリスト教のあり方や勃興する運動や教えは必ずしも模範にはなりません。そのような時代にあって、わたしたちは、[75:1
あなたの御名は近くにあり、あなたの奇しいみわざが語り告げられています]と、主イエス・キリストの人格とみわざのみを高く掲げて歩んでまいりましょう。わたしたちが、[75:9
しかし私はとこしえまでもみわざを告げます]と歩み、[ヤコブの神にほめ歌を歌い]続けるとき、神さまは私たちの周囲から誤った運動や教えの[75:10
角をことごとく切り捨て]、健全な福音理解、健全なイスラエル論の[正しい者の角を高く上げ]る健全な教会を建て上げ続けてくださるでしょう。祈りましょう。
(参考文献: R.Bauckham,”The Climax of Prophecy”, S.Sizer,” Zion's
Christian Soldiers?: The Bible, Israel and the Church”,
安黒務『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱ)
2022年8月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇詩篇74篇「廃墟に踏み入れ、契約に目を留めてください」-人間の生にとって、希望は酸素のような役割を果す-
https://youtu.be/D_JnsnMH_0s
本詩、詩篇74篇は、エルサレムの陥落(BC.587)と神殿の破壊から生まれた共同体の嘆きの詩篇です。当時の強国、バビロン帝国との戦いで敗戦した悲しみを込めて作られたものでしょう。本詩からは、三つの視点を教えられます。第一に、イスラエルの民にとって、神殿は宇宙の中心であり、古代イスラエルの民の生活の中心でありました。それゆえ、神殿の破壊はその中心が失われたことを意味しました。第二に、不滅の神殿が破壊されたということは、神がその礼拝共同体を拒絶されたのだと理解されました。第三に、中心的役割を果たしていた神殿が破壊されたことは、信仰の危機をもたらしました。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は、[74:1
神よ、なぜいつまでも拒み、御怒りをあなたの牧場の羊に燃やされるのですか]という、嘆きの詩篇に特徴的な祈りで始められます。詩人は、なぜこのように嘆いているのでしょう。神に見捨てられた意識に苛まれているのでしょう。それは、強国バビロンが、[74:3
聖所であらゆる害を加え]、[4:4 聖なる所でほえたけり]、[自分たちのしるしをそこに掲げ]、[74:5
木の茂みの中で、斧を高く振り上げ]、[74:6 手斧と槌で、聖所の彫り物をことごとく打ち砕き]、74:7
聖所に火を放ち、御名の住まいを汚し]たからです。
バビロン帝国軍は、[74:8
ことごとく征服し]、[国中の神の聖所をみな焼き払い]、南ユダ王国の首都エルサレムとその中心にあった神殿は[74:3
永遠の廃墟]と化してしまいました。まるで今のウクライナ南部のようです。国中にバビロン帝国の国旗が風になびき、神の民イスラエルの南ユダ王国の[74:9
しるしは見られ]なくなりました。国が危機の最中にある時に、励まし、語りかけ、時には悔い改めを迫る[預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も私たちの間にはいません]と、絶望感に包まれて[74:3
廃墟]の中に立ち尽くす詩人でありました。そして、神に問いかけています。[74:10
神よ、いつまではむかう者はそしるのですか。敵は永久に御名を侮るのですか]と。詩人は、緊急の助けと導きを求めて[74:11
なぜあなたは御手を右の御手を引いておられるのですか。その手を懐から出して、彼らを滅ぼし尽くしてください]と祈り、叫んでいます。
1-11節は、[74:3
永遠の廃墟]とされた神殿、エルサレム、国土にたたずむ詩人の祈り、叫び、問いかけでした。そこでは、[74:1
神よ、なぜいつまでも][74:10 神よ、いつまで][74:11
なぜあなたは]と、なぜ神は敵が聖地を冒涜することをゆるされるのか。敵はいつまで勝利を収めるのだろうか。神が神の民のために行動されないのはなぜなのだろう、という問いが繰り返されています。これは、イスラエルの民の記憶の中に[74:12
神は昔から私の王、この地において救いのみわざを行う方]という信仰が宿っているからです。神は、その昔、[出エジプト3:9
今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た]とありますように、抑圧されているイスラエルの民を見て行動を起こされた方でした。
その記憶の中に生きている詩人は、[74:2
どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られ、ゆずりの民として贖われたあなたの会衆を。あなたの住まいであるシオンの山を]と訴え、神を動かし、神の民を救う行動を呼び起こそうとしているのです。1-11節の神に対する激しい問いかけの後、12-17節は、昔からの王として、救いをもたらす王としての神であるとの信仰告白をなしています。それらは、出エジプトであるとともに、創造でもあります。これらは、いわばコインの両面のように共鳴し合い、[創世記1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり]とあるように、宇宙創造時の混沌とした状態が念頭にあります。
創造時のこの混沌のイメージは、バビロン捕囚のような歴史的悲劇、アウシュヴィッツ等のホロコースト、広島・長崎への原爆投下、ロシアによるウクライナ侵攻と残虐な行為等にも応用可能なものです。また、実存的には、わたしたち個人個人における無意味さの脅威、虚無への恐怖へも理解を広げうるものです。混沌の[74:13
竜の頭][74:14 レビヤタンの頭]は、1-11節で描かれている南ユダ王国を[74:3
永遠の廃墟]とした侵略者と並行しています。創造時の混沌の生き物を飼いならし、天と地、海と乾いた土地、光と季節、人が生きるのに必要なすべてのものが揃えられた秩序ある世界が創造された、神のみわざを思い起こしています。
そのように宇宙を創造され方は、イスラエルをエジプトの圧政から救い出し、神の民を創造された方でもあります。この方は[74:12
神は昔から救いのみわざを行う方]、この方は、紅海を分け[74:13
御力をもって海を打ち破り]、追撃するパロとエジプト軍の[竜の頭を砕かれ]た方、[74:14
レビヤタンの頭を踏みにじり]、海の藻屑とし魚の[餌食とされ]た方です。イスラエの民をエジプトから贖われた方は、荒野に道を[74:15
切り開き]、約束の地の前でヨルダンの[流れの絶えない川を涸らされ]渡河を導かれた方です。[74:16
昼は]雲の柱が、[夜も]火の柱が、荒野の旅を導いてきました。
18-23節は、そのような記憶の反芻の中に生き、神によってなされたアブラハムに対する、そしてダビデに対してなされた[74:20
契約に目を留め]てくださるよう祈り求めています。その約束に基づき、神が再び混沌からいのちの完全な祝福をもたらしてくださるよう祈っています。神の民は、
[74:18敵がそしり、愚かな民が御名を侮っている]と、いまだ嘲笑の中にあります。土地は、現在、闇と暴力を保持しています。しかし、詩人はそのような混乱・混沌の中で、神がその民に対する約束を尊重してくださるという希望を抱いて生きています。酸素が供給されないと,人間には呼吸困難や窒息死という事態が起ってきます。人間の生にとって希望はちょうど酸素のような役割を果すのです。今の時代においても、さまざまなんたちの混沌と混乱の最中に置かれている多くの人たちがいます。そのような人たちのことを覚えましょう。では、祈りましょう。
(参考文献:参考文献:W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン著『深き淵より』、B.W.Anderson,“Creation
vesus Chaos” )
2022年8月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇73篇「ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った」-カルト的教祖の繁栄・虚飾に騙されることなく-
https://youtu.be/b3ngbImO1dI
今日から、詩篇第三巻(73-89篇)に入ります。第一巻(1-41篇)・第二巻(42-72篇)を振り返ります時に、申命記30:15-20の「祝福とのろい」もしくは「祝福と審判」を念頭に置くと、詩篇の構造がより深く分かります。申命記
30:15-20には、神の御心に従うなら祝福され、神の御心に背くなら裁かれると示されています。
詩篇第一巻は「詩1:2-3
主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人。…そのなすことはすべて栄える」と、申命記的な「祝福」、「光」をもって始まりました。詩篇第二巻は「詩42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2
私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。…42:3
昼も夜も私の涙が私の食べ物でした」と、申命記的にいえば「裁き」であり「影」のような絶望の中での祈りで始まりました。詩篇第三巻もまた、[73:1
心の清らかな人たちに][まことに神はいつくしみ深い]と、申命記の伝統、トーラー信仰の核となる主張をもって始められます。しかし、本詩は[心の清らか]に生きんとした詩人が、また神の民は、[いつくしみ深い]祝福や光とは裏腹の現実に直面したーこのことをどう理解したら良いのか、ということなのです。そのような意味で、本詩は、ヨブ記のように「全知全能で絶対善のはずの神が、なぜ悪人が栄え、善人が苦しむのを許容されているのか?」という難問に取り組む「知恵の詩篇」に分類されるものです。そのような視点から本詩をみてまいりましょう。
本詩の要点は、[73:1 まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに、心の清らかな人たちに。73:2
けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた]に示されています。だれもが神さまの「祝福豊かな人生」を送りたい、「幸せな生涯」を生きたいと願っていると思います。聖書には、モーセの十戒をはじめとした「神のみ旨」とその展開・応用がイスラエルの歴史、また教会の歴史の中に刻まれています。その要点は、否定的には「偶像礼拝の禁止」であり、「不道徳の禁止」です。肯定的には「真の神への愛」であり、「隣人への愛」に生きることです。聖書は、神の祝福ある安全な道と神の審判のある危険な道をはっきりと教えています。ただ、私たちが実際に生きる人生においては[73:2
けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけ]ることがあるーこの時に、私たちはどう考えれば良いのか、詩人はどのように考えたのかーこのことを教えているのが本詩なのです。
昨今のテレビや新聞で、「旧統一原理」ー改名して「世界平和統一家庭連合」が話題となっています。この問題に焦点をあてて考えてみましょう。その悪辣さは、邪教またカルトの中でも群を抜いた教団です。宗教の衣をまとった「反社会的集団」ということができるでしょう。元々は、朝鮮半島を発祥の地とする「淫らな血分け宗教」に由来し、それが「キリスト教の衣」をまとい、「羊の衣を着たオオカミ」となって、布教活動に成功してきた経緯があります。教祖文鮮明は、朝鮮半島でも、また米国でも投獄された過去をもつ人物であり、諸宗教をミックスしたとんでもない教義と巧妙なマインドコントロールの手法により、特に日本で成功し、多くの青年や婦人をかどわかし、人生を崩壊させ、家庭を破壊してきた「悪徳集金の反社会団体」として活動してきました。その「霊感商法」は、大きな社会問題ともなってきました。
本来は、オウム真理教の地下鉄サリン事件の際に、「統一原理(世界平和統一家庭連合)」もまた、本部捜索がなされ、その反社会性が裁かれるべきであったのでしょう。欧米のように、宗教の衣をかぶって反社会的犯罪をかさねている団体に対し、さまざまな段階において法的に対処しうる法律が作られるべきであったのでしょうが、そのような建設的な取り組みが「政治的な動機から握りつぶされてきた」経緯があるようなのです。このあたりの経緯を解明し、本来あるべき「反社会的団体の抑制と被害者の救済等」のための法律づくりに取り組んでいただきたいものです。
旧統一原理(世界平和統一家庭連合)の状況を垣間見ますと、日本のある政治家たちの保護の下でなされてきた「反社会的集金活動」により蓄えられた金銀財宝により、さまざまな企業活動にも取り組み、大いなる繁栄を享受してきたかに見えます。まさに[73:3
それは私が悪しき者が栄えるのを見て]とあるようにです。文鮮明と統一原理(世界平和統一家庭連合) の歴史は、[73:4
実に彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは肥えている。]と富と繁栄を謳歌し、反社会的活動をしても、ある種の政治家に守られ、他の反社会的団体のように[73:5
打たれることもない]。[73:6
それゆえ暴虐の衣が彼らをおおって]きました。野放しにされてきたのです。ある種の政治家とつるんだ[73:7
彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思い描くものがあふれ出]。それらの結果として、マインドコントロールにかかった人々とその家庭の金銭は[73:10
豊かな水は彼らに汲み尽くされ]、最後に残ったなけなしのお金までも巻き上げられる。
聖書の教えを“換骨奪胎”して、最も禁じられている偶像礼拝を行い、嘘や盗みを推奨し、キリスト教の中心である「イエス・キリスト」のところに「教祖文鮮明」を置き換えて、キリスト教の衣をチラつかせ、[73:11
そして彼らは言う。「どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」]と。なんと、真の神を恐れず、キリストと聖書の教えに反し、キリストを冒涜し、聖書の教えの逆さまを教える団体なのだろう。それは、[73:12
見よ、これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで富を増している]と言われている通りです。
今日、旧統一原理(世界平和統一家庭連合)は、既存のメディアや神学校・教会等の中にも巧妙に侵入してきているように見えます。非常に類似した名前で、「羊の衣を着たオオカミ」が各所に現れてきています。「クリスチャニティ・トゥディ」というのは、米国の著名なキリスト教雑誌ですが、「クリスチャン・トゥディ」という名前で、旧統一原理(世界平和統一家庭連合)の神学校の校長であった方がオーナーのサイトがあるそうです。この問題を指摘されたある新聞記者は、「旧統一原理(世界平和統一家庭連合)」側からだけでなく、「キリスト教会で篭絡されている指導者たち」からも批判を受ける被害を経験されています。
まさに[73:13
私は自分の心を清め、手を洗って自分を汚れなしと]、主に対する愛と主の民に対する誠実のゆえに、自らを犠牲にして、「間違った教えや運動」「反社会的活動」への間接的関与、無知ゆえの「記事や論説への協力」等の危険を指摘していくとき、いろんな方面から[73:14
私は休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受け]るというような経験をもします。このような時点で、この地上のみの“ソロバン”、損得勘定で判断すれば、[73:15
もしも私が「このままを語ろう」と言っていたなら]主に対する愛を、神の民に対する誠実を[裏切]ることになるでしょう。私たちが、この地上に生きる。主の御思いを知り、それを遂行するというとき、私たちは“ソロバン”を、すなわち目先の損得勘定を離れ、天上からの視点で[73:16
私はこのことを理解]しなければなりません。それが[私の目には苦役]であるとしてもです。わたしには、あまりにも間違った意味で“大人の対応”をとる人が多く、“安逸な道”を選び取る人が多いように思われるのです。しかし、詩人は、このような地上だけの物差しで見る“虚像、虚構”の煙幕にだまされませんでした。詩人は“苦役”のようにも思える苦しい思索の中で、ある意味“預言的な洞察”を与えられます。それは、神の臨在の深みにおいて、[73:17
ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った]とある通りです。
エリクソンは、悪と世界の問題で、神義論でいう「全知全能で、ひとり子を給うほどの愛に満ちた神とこの世界の不条理」を扱った章で、地上の生涯という範疇だけでは、この問題の解決は不可能であること。そして、天的視点、永遠の視点をもってはじめてこの問題は解決可能であると記しています。本詩の18-19,27節は、その視点を照らしています。
今日、カルト的教祖が、多くの素朴な人々、苦しんでいる人々を搾取し、その犠牲の上に黄金財宝をため込んでいます。その[73:12
いつまでも安らかで富を増している]姿をみますとき、わたしたちの[73:2
足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけ]そうになります。しかし、私たちが聖書から、真の神の御声を聴き取ろうと“理解するための苦役”に賦すとき、私たちは見える現実とは“真逆”な真実に目が開かれます。わたしたちは、金箔で飾られ虚像、金メッキされた虚構が剝される時の訪れを見せられるのです。今、カルト的教祖は、大聖堂の中に鎮座しているかもしれません。大邸宅と広大な庭園の中で安逸をむさぼっているかもしれません。しかし、それは一時的な蜃気楼のようです。聖書にこう書いてあるからです。[73:18
まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。73:19
ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。73:20
目覚めの夢のように、主よあなたが目を覚ますとき、彼らの姿を蔑まれます]と。
詩人は、真の神の前に[73:13
自分の心を清め、手を洗って自分を汚れなし]として生きていました。しかし、その結果は[73:14
私は休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受け]る生活でありました。私たちは、[73:15
「このままを語ろう」]と生きてはならないと教えられます。わたしたちの価値観・人生観は、この地上だけをすべてとするものではありません。天上と地上の両眼の“複眼的”な価値観です。一時的と永遠の“時間軸”をもった人生観です。このような価値観・人生観の中心には、折にかなって入りうる[73:17
神の聖所]があります。
それは、新約における私たちには、内住の御霊です。御霊により、御霊とともに、わたしたちは天上の聖所におられる大祭司キリストに近づくことができます。詩人のように、[73:21
心が苦みに満ち、内なる思いが突き刺され、…73:22
私は愚かで考えもなく、あなたの前で獣のよう]になる時があるとしても、そのただ中で、[73:23
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。73:24
あなたは私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます]と告白出来ます。そして[73:25
あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。…神は私の心の岩、とこしえに私が受ける割り当ての地]と告白してまいりましょう。
わたしたちは「羊の衣を着たオオカミ」「天使の装いを身にまとった悪魔」が跋扈するこの地上世界に生きています。虚飾と虚構の誘惑に向かっては[73:27
見よ、あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます]と防壁を固めましょう。みことばの盾で身を守りましょう。[73:28
しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は【神】である主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げます]と賛美しつつ、そのような価値観・人生観をもって歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン著『深き淵より』 )
2022年8月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇72篇「神よ、あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に与えてください」-次世代の教職者に、神の義と公正に基づいた識別力を-
https://youtu.be/ticrpkNayYc
本詩72篇は、詩篇第二巻を締めくくるのにふさわしい詩といえると思います。本詩は、「王のための詩篇」のひとつです。本詩の要点は、[72:1
神よ、あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に与えてください]にあります。[72:20
エッサイの子ダビデの祈り]の最後として、[ソロモンのために]ささげられた祈りとして位置づけられているのです。王ダビデは、息子であり後継者ソロモンの行く末を案じて、祈りをささげているのです。日本の教会にあてはめますと、どこの教会・教派も戦後第一世代の時代から第二・第三世代へと、伝道・教会形成・神学教育の「バトン、たすき」が受け渡されていっています。その意味で、ダビデのソロモンのための祈りは、私たちの祈りでもあるのです。そのような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は、[72:1
神よ、あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に与えてください]という祈りをもって始まります。ダビデは、なぜこのような祈りをささげたのでしょうか。それは、王制の支配が貪欲な役人、贅沢な宮廷、搾取的な支配によって、神の祝福と民衆の支持を失い、国家・民族が滅亡する危険を知っていたからです。ダビデの下に国家が形成される以前、イスラエルは部族国家連合というゆるやかな絆で結びあわされていました。その当時、イスラエルのあらゆる部族は中央聖所に寄り集う習慣がありました。神礼拝を中心とする共同体でありました。しかし、周辺国の勃興が繰り返しイスラエルを苦しめるようになり、対抗し防御しうる強力な軍事力を保持する中央集権国家とその指導者が求められるようになったのです。ただ、国家というものは、義と公正によって治められなければ、国家そのものが民衆を搾取し、強奪する組織と化してしまう危険があります。本詩は、指導者の見識や倫理観の大切さを教えられる詩篇です。
ソロモン治世の後に、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。ソロモンの偶像礼拝、不道徳、重税等が国民の不興を買いました。南北王国時代のイスラエルは、出エジプト期に賦与された申命記で教えられた「神の義、公正」によって生きるときに祝福され、そのことを忘れるときに裁かれる歴史であり、BC.722年に北イスラエル王国は滅び、BC.586年に南ユダ王国は滅亡します。ですから、ダビデ王の祈りを「美しい儀礼的な祈り」としてだけ受け取ることはできません。「社交辞令的な美辞麗句」として受け流すこともできません。これは、「それなしでは、王制は立ち行かない」という切実な祈りなのです。ダビデ王家の行く末・将来を見つめた、見通した祈りなのです。
このことは、私たちの時代の多くの事例に応用することが可能です。たとえば、ICIで最近扱わせていただいています「誤った運動と教えによる信徒流出問題」に対して、キリスト教指導者が、「義をもって、公正をもって」、使徒たちが提示している、イエス・キリストの人格とみわざを軸とした「民族的差別を超えた普遍的な神の国の福音」をもって導かず、旧約の外皮としての民族主義とその栄光の回復を軸とした「民族的差別色の強い、ユダヤ民族主義的神の国」の誤った福音を説いているときにも、この祈りは有効です。誤った運動や教えに翻弄され[72:4
苦しむ]信徒たちがいるでしょう。神学的素養が薄く、群れを正しい教えで導けない[72:4 貧しい]教職者もおられるでしょう。
しかし、そのような時に、義なる神の諸教会は、牧師会は、神学会は、健全な教えに満ちた神学校は、[72:6
牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように]、使徒たちが新約時代に、歪んだ民族主義の旧約の影を払しょくし、イエス・キリストの人格とみわざを軸にした、新約の普遍的神の国の光をもってわたしたちを照らしてくれるでしょう。そのような普遍的な福音理解は、アブラハムの復活信仰やダビデの贖罪信仰という旧約の本質に根差し、イエス・キリストの人格とみわざにおいて完成したものです。このような福音理解は、[72:5
日と月の続くかぎり]、[72:7 月がなくなるときまでも][72:8
海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで]といわれるように、教会史を通じて「あらゆるところで(公同性)、常に(古代性)、すべてによって(一致同意)
信じられてきた」正統信仰の根幹を示すものです。
エリクソンという神学者は、「偽札を識別する仕事をしている専門家は、四六時中真札に触れるようにしている。そのことによって、偽札と真札の微妙な差異が直観的に分かるようになる」と申しています。わたしは、今日、「ヘブル的視点で聖書を読む」「聖書を字義通り読む」「神の栄光が目的」等の美辞麗句が並ぶ運動や教えの危険性を深く教えられています。これらのスローガンを掲げる運動や教えには、警戒しなければなりません。使徒たちが教えた「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする普遍的神の国の福音」を、ユダヤ民族主義的な差別主義な内容に変質させてしまう“非聖書的・非使徒的な前提”が内包されているからです。「ヘブル的視点で聖書を読む」「聖書を字義通り読む」「神の栄光が目的」等の美辞麗句を耳にするとき、眉に唾を付けて果たしてこの運動と教えは、「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする普遍的神の国の福音」と同じものなのか?ーと問い直される習慣をつけられるようお勧めします。
とはいえ、彼らもまた福音理解の多くの部分で共通点を有する、主にある兄弟姉妹であります。私たちの姿勢としましては、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…
おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、
間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(シカゴ・コール)という立場に立ち、“偽札”たる誤った運動や教えに翻弄されている兄弟姉妹たちに、“真札”たる正しい聖書の教え、使徒たちが提示した教えに立ち返る機会が与えられるよう祈ることです。
[72:12 王は叫び求める貧しい者や助ける人のない苦しむ者を救い出す]、72:13
王は弱い者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います]、[72:14
虐げと暴虐から王は彼らのいのちを贖います]、[王の目には彼らの血は尊いのです]とありますように、義なる神は、人間の健康なからだがそうであるように、キリストのからだなる教会は、“悪性のウイルス”感染のような教えや運動に対して、免疫機能を発揮するでしょう。牧師会では、誤った教えに対する感染防止のためのマスク着用や手洗いを奨励しています。神学校や神学会では、このウイルスに対するワクチン開発のための神学研究や神学教育への取り組みが盛んとなっています。このようにして、誤った運動や教えに流出した兄弟姉妹を「義しい教え」に気がつかせ、元の教会に、愛すべき兄弟姉妹たちの元に立ち返らせてくださるでしょう。
[72:9 砂漠の民は王の前に膝をつき、王の敵はちりをなめますように。72:10
タルシシュと島々の王たちは貢ぎを納め、シェバとセバの王たちは贈り物を献げます。72:11
こうしてすべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えるでしょう]とあるように、誤った運動や教えをしていた大衆的で、時代遅れの唱道者たちは、やがてその誤りに気がつき、使徒的な「民族を超えた、新約の普遍的な神の国の福音」の前にひざまずき、悔い改めることになるでしょう。半世紀以上前に、古典的・改訂ディスベンセーション主義の牙城とも呼ばれていたダラス、グレイス、タルボットのような神学校が、古典的→改訂→プログレッシィブ(漸進主義)ディスベンセーション主義へと変貌していった歴史の様相は、このれらの聖句と重ね合わせることができます。
[72:15
どうか王が生き続け、彼にシェバの黄金が献げられますように。王のためにいつも彼らが祈り、絶えず王をほめたたえますように。72:16
大地には穀物が豊かにあり山々の頂では実がレバノンのようにたわわに揺れ町の人々は地の草花のように咲き誇りますように]とありますように、聖書的で、公同性をもって、教会史二千年間保持されてきた「ユダヤ人も異邦人もないと、民族的差別色が払しょくされた」正統的な福音理解は、全世界に広がり続けています。このような福音、このような神、このような神の民のあり方を信じる私たちは本当に幸いです。パウロは申しました。[ガラテヤ1:6
私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。1:7
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです]と。
また、[エペソ4:14
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです]と申しています。今、わたしはダビデが後継者ソロモンのために祈ったように祈っています。次世代を担う若手の教職者たちが、誤った運動や教えに翻弄されることがなく、聖書性、公同性、今日性、自己革新性をもった「福音主義の未来」をになっていってくれるように、ICIの継続神学教育のビデオ・ライブラリーが用いられますようにと。
[72:17
王の名がとこしえに続き、その名が日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され、すべての国々が彼をほめたたえますように。72:18
ほむべきかな神である【主】イスラエルの神。ただひとり奇しいみわざを行われる方。72:19
とこしえにほむべきかなその栄光の御名。その栄光が全地に満ちあふれますように。アーメン、アーメン]とあるように、神さまはきっとそのように用いてくださり、次世代を担う教職者たちが、[72:1
神の義]にしっかりと根差し、[72:2
神の義をもって]、神の教会を、キリストのからだを、誤った運動や教を裁き、識別し、その感染から守り、[公正な]正しい使徒的な教えをもって、誤りに苦しむ民を。義と公正に、混乱と軋轢ではなく、祝福と収穫の幸福の中に役立ててくれるものと期待しています。ですから、わたしは祈ります。
[72:1
神よ、あなたのさばきを、あなたの義を王の子(次世代の指導者たち)に、神の義と公正に基づいた識別力を与えてください]と。祈りましょう。
(参考文献: W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年8月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇71篇「私は生まれたときから、年老いたときもあなたに抱かれています」-歴史と生涯における神のわざの黙想・回想-
https://youtu.be/NavwOGhSBCU
本詩は、69篇、70篇に続き、苦難からの救いを求める信仰者の祈りです。本詩においては、[71:6
私は生まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方]と誕生から、[71:9
年老いたときも、私の力が衰え果てても]と晩年に至った今も、主にある生涯を回想しています。本詩は、そのような意味で、聖書において提供されている私たちの信仰とは「歴史における神のみわざの黙想」であり、そのような信仰を「私たち個々の生涯における神のみわざの回想」を励ますものです。私たちの人生は「風が通り過ぎると、もはや何もない」という浅薄で空しい生涯なのではなく、「主のみわざの豊かさを繰り返し、回想と黙想しうる」重厚であぶらしたたる人生なのです。イスラエルの詩歌は、礼拝という場で信仰を告白するために「彼ら自身の歴史的な体験をもっぱら想起」する機会を提供しました。
イスラエルの歴史の始まりにあった「救いの出来事」が、同時に「創造の出来事」であったのであり、神の民イスラエルは「無から、歴史的な忘却の虚無から、抑圧された無意味な混沌から」新たに創出されたのでした。「エジプト脱出の出来事」は、イスラエルが神を知り、民としての自らの存在をわきまえる上で、「決定的な救いの体験」であったため、繰り返し繰り返し語り告げられてきました。新約時代においては、その出エジプトに予表され、過ぎ越しの小羊の出来事に重ね合わせられるように、「イエス・キリストの人格とみわざの出来事」が、ひとつの歴史として、物語として語り続けられているのです。
イスラエルの歴史は、「その最初から約束の地に入るまで」、神と神の民の間に展開されるドラマを要約するものです。それらは神の民としての「イスラエルの自己理解」にとって根源的な出来事と、「神は何者であるか」というイスラエルの本質的な理解とを伝達するものです。詩篇における「歴史の強調」は、私たちもまた「歴史的な存在」であることを照らします。「魚が水の中にいる」ように、「私たちは歴史の中にいるのです」。私たちは「私たちが生きている歴史の中において、自らのこの生涯のただ中で」神とそのみわざを経験し続ける恵みのうちにあるのです。
本詩の詩人は、[71:6
私は生まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方]と誕生から、[71:9
年老いたときも、私の力が衰え果てても]と晩年に至る「主にある生涯を回想」しています。私たちも、本詩を味わいながら、「自らの、主にある生涯を回想」してまいりましょう。
本詩を、[71:6
私は生まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています]、[71:9
年老いたときも、私を見放さないでください。私の力が衰え果てても、見捨てないでください]、[71:17
神よ、あなたは私の若いころから私を教えてくださいました。私は今なお、あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。71:18
年老いて白髪頭になったとしても、神よ私を捨てないでください。私はなおも告げ知らせます]を軸にしてみてまいりましょう。私たちは、まだ神さまを知らない時に、この世に生を受けました。そのときに、私たちは神さまと無関係であったのでしょうか。わたしの場合、19歳に、イエス・キリストの人格とみわざを受け入れる以前の生涯は、神さまと無関係であったのでしょうか。
そのようなことはありえません。神は全人類の神です。全宇宙とその中に生を受けるすべてのものは、神の御手のわざであり、神の作品です。ですから、わたしたちは信仰生活の視野を、信仰をもってからに狭める必要はありません。救われる以前も含め、全生涯を「神の御前」に位置づけるべきです。私の場合、姫路市で生まれました幼いころの記憶はわずかで、電車の踏切の音、住宅の前に砂場があったこと、裏手に誘導円木のある公園があったこと等です。思春期に、哲学者ニーチェの影響もあり、非常に虚無的となった時期がありました。徹底したニヒリズムの世界を見せられた後、絶望的な気持ちに包み込まれ、そこからなかなか抜け出せませんでした。「生きることに何の意味があるのだろう」と深く悩み、絶望という“深き淵”にはまり込んでいました。
しかし、ある時に、教会に導かれ、イエス・キリストの人格とみわざを受け入れました。そこで、パスカルの言う「神なき人生の悲惨、神とともにある人生の至福」というものを知りました。わたしは、自らの存在と生を“虚無”の中に見ていましたが、“神”の中に見ることができるようになりました。自らの存在と生を[71:6
私は生まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方]と見ることができるようになったのです。今、わたしは年老いてきました。19歳でイエス・キリストを信じ、今68歳となりました。半世紀をキリスト教信仰者として生きてきました。
イエス・キリストを信じて、洗礼を受けました。キリスト教のすべてのことが理解できて、洗礼を受けたのではありませんでした。「千里の道を行き、万巻の書を読んで後」、キリスト教を信じるべきだと納得できたら洗礼を受けようと思っていました。しかし、ある時に、そのように先送りしていたら、この生涯でそのような確信に辿り着けるだろうかという不安がよぎりました。また、このような重大な問題を考える機会は、今しかないのではないか。「ハレー彗星は、75.32年周期で地球に接近する短周期彗星」と言われるーわたしが、イエス・キリストを信じ、洗礼を受ける決断ができる機会はこの時期しかないのではないか、そのようにも考え、[ヘブル3:7
ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、3:8
あなたがたの心を頑なにしてはならない]というみ言葉に応答しました。
この半世紀を回想してみて、神さまは[私を救い助け出してください。私をお救いください。71:4
わが神よ、私を助け出してください]という叫びに、イスラエルの民における「出エジプトの出来事」のように、私を「ニーチェのニヒリズム」から、「実存の罪と死と滅び」から救い出し、助け出してくださいました。その後も、節目節目で「救い出し、助け出し」てくださった数々のことを思い浮かべます。そして[71:9
年老い、私の力が衰え果て][71:18
白髪頭になった]今も、事あるごとに「救い出し、助け出し」てくださっています。特に、最近は、「誤った運動や誤った教え」が起こしている「信徒流出」問題に取り組ませてもらっています。このような問題に取り組む時、「和を以て貴しとなす」感覚を持たれている方の間では、「和を乱すふらちなやから」という批判を受けるものです。本詩でいう[71:10
私のいのちを狙う者、71:13
私をなじる者ども私を痛めつけようとする者ども]が跋扈するのです。そのような中、私たちは、明確な神学的確信をもてていない場合、日本人特有の傾向と申しますか“風見鶏”のようになりやすいものです。北風が吹けば、北を指し。南風が吹けば南を指す。山風が吹き下ろせば、山を指し。谷風が吹けば谷を指します。
パウロは、新約の教会のあり方として、「エペ4:14
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」と勧めています。わたしたちは、鼻で息をする人間を恐れることなく、周囲の暴風雨のように吹き荒れる「誤った運動の教え」の流行に翻弄されることなく、神ご自身を[71:3
避け所の岩][71:7 力強い避け所]とし、[71:2 あなたの義によって][71:15 あなたの義と救いとを][71:16
ただあなたの義だけを心に留めて][71:24
私の舌も絶えずあなたの義を告げます]と、誤った運動と教えを正し、健全な方向に神の教会を誘導していく努力を惜しんではならないと思います。
今の時期の、“線状降水帯”のような降雨による河川の氾濫と似た「地方教会からの信徒流出」続出問題のただ中で、わたしの半世紀にわたる神学研鑽の取り組みの結実としてのICIユーチューブ・ライブラリーのビデオやICIブックレット等が[71:15
私の口は絶えず語り告げます][71:18 私はなおも告げ知らせます][71:24
私の舌も絶えずあなたの義を告げます]というかたちで、最近とみに用いられるようになってきたことは感謝なことです。兵庫県の山中の引き籠りのような、小さなわたしがコツコツと記録し続けたビデオを多くの方々の必要を満たすため、直面しておられる喫緊の課題克服のため、活用していただけることは、感謝なことです。
69篇、70篇、71篇と流れる苦難、諸問題、諸課題のただ中における「助けてください。救ってください」という嘆願は、[71:8
私の口にはあなたへの賛美が、あなたの栄えが絶えず満ちています][71:14
しかし私は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切にあなたを賛美します][71:22
私もまた琴であなたをほめたたえます。あなたにほめ歌を歌います。71:23
私の唇は高らかに歌います]と、溢れる賛美と希望に結びついています。誤った運動や教えが猛威をふるうとき、わたしたちは諸教会がそれに翻弄されるのを垣間見て“絶望的な気持ち”にも陥ります。愛する兄姉が去っていくのですから。
しかし、私たちは、詩篇の作者ように希望を失いません。教会が生まれたとき、[71:6
生まれたとき、あなたに抱かれて]と、初子が生まれたかのように喜びに満たされ、少しずつ成長してきた神の家族が、今日、多くの教会が信徒流出という[71:20
苦難とわざわい]にあわせられ、苦境に陥れられています。しかし、私たちには希望があります。神が、諸教会の知恵、力を結集して、ご自身の教会を[71:20
再び生き返らせ、地の深みから再び引き上げ]ようとされているからです。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅲ』、B.W.アンダーソン『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年7月31日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇70篇「私は苦しむ者、貧しい者です。急いで私を助けに来てください」ー病める人間(ホモ・パティエンス)の在宅人工呼吸器(HMV:Home
Mechanical Ventilation)-
https://youtu.be/JU2lpqmJWvU
本詩は、詩篇40篇13-17節と同じです。順序から申しますと、はじめに本詩が成立し、それが二次的に40篇に組み込まれたものであるでしょう。本詩は、周囲からの攻撃と嘲りにさらされた信仰者の祈りです。その端緒となった[70:2
私のわざわい]の内実は明らかではありません。ヨブのように重い病であったのかもしれませんし、パウロが[Ⅱコリ 12:7
私は肉体に一つのとげを与えられました]、[ガラ 4:13
あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。4:14
そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあった]と証ししているように、心身につまずきとなるようなものがあったのかもしれません。ただ、本詩は、むしろ詩人の苦境を特定せず、[70:5
私は苦しむ者、貧しい者です]という一般的な苦難の訴えを用いることにより、様々な苦難にも適用しうる祈りとして歌い継がれるように編集されたものです。このような視点をもって、簡潔な本詩に短く傾聴してまいりましょう。
「人間はいかなる存在であるのか」という問いは、普遍的な問いです。彫刻家ロダンの作品「考える人」は、「人間とは理性的な存在(ホモ・サピエンス)である」ことを示し。哲学者パスカルは、人間とは宇宙で最も弱い存在のひとつであるが、”考える”という特別な賜物を付与されているかけがいのない存在であるという意味で、「人間とは考える葦である」と語っています。このような意味で、人間論という領域は興味の尽きることのない深い領域です。それで本詩は、人間をどのような存在として捉えているのでしょうか。
[70:5
私は苦しむ者、貧しい者です]とあります。つまり本詩は「人間とは、苦しむ者、貧しい者」として捉えているのです。共立モノグラフという論文集で、人間論が取り上げられた時、今日の心身のアンバランスの課題が取り上げられ、「人間とは、病める存在(ホモ・パティエンス)」であると定義されていました。フランシス・マクナットは『癒しの御ちから』という著書の中で「すべての人間は、多かれ少なかれ病んでいる存在である。ただ、違うのは、癒されている程度差である。ある者は多く癒され、ある者は少なく癒されている。即座の癒しもあり、長期にわたる漸進的な癒しもある。即座の完全な癒しにこだわる人は、未熟な人である」というようなことを彼の経験から語っています。
本詩は、短い詩篇であり、短い祈りですが、詩篇の特徴、また聖書の信仰の特徴・本質を的確に言い表しています。聖書、特に詩篇の祈りの特徴は、[70:5
私は苦しむ者、貧しい者です]という、苦境から発しています。つまり、祈りとは緊迫した状況からの叫び、悩みに満ちた現実に当惑しているところから立ち上る煙なのです。神は、この世界を「善き創造」として創造してくださいました。しかし、人間の罪と堕落によって、さまざまなかたちの苦難が到来するようになりました。それは、わたしたちの人生の中に、存在の中に、人間関係の中に、さまざまなかたちで影響してまいります。
詩人は[70:2
私のいのちを求める者たちが、恥を見、辱められますように。私のわざわいを喜ぶ者たちが、退き、卑しめられますように。70:3
「あはは」とあざ笑う者たちが、恥をかいて、立ち去りますように]と、環境の中に、周囲の人間関係の中に、人々が自身をどう見ているか、どう評価しているのかという世間体の中に大きなプレッシャーを感じています。それらのプレッシャーを取り除いてください。それらの環境・状況を取り換えてください、と祈り叫んでいるのです。わたしたちも、ひとりの人間として生きていくとき、さまざまな社会的なプレッシャーと直面します。生きるということは、それらとの戦いです。カエルが生きていくとき、蛇と直面します。虫が生きていくとき、トンビやカラスや小鳥と直面するようにです。それは、ある意味避けられません。
わたしたち人間も、生きていくとき、[70:2 私のいのちを求める者たち。私のわざわいを喜ぶ者たち。70:3
「あはは」とあざ笑う者たち]と直面します。そのような世界で、わたしたちの存在また人生における[70:5
苦しみ、貧しさ]ーすなわち、私たちの心身における弱さ、とげ、病等は、敵のこの上ないターゲットとなりえます。パウロが記しているように、わたしたちが生きるということは[ロマ8:36
私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされ]ているようなものです。詩篇の意義は、そのような人生の旅路のただ中で、私たちは叫び続ける特権、恵みが与えられているということなのです。それは、祈りというよりも、それを止めるとなれば死に至る、「呼吸」のようなものとしてです。
どんなに苦しい時にも、呼吸を止めることはできません。呼吸を止めることは死に直結します。[70:1
神よ、私を救い出してください。【主】よ、急いで私を助けに来てください]という祈りは、四六時中、起きているときだけでなく、寝る間も、問題のすべてが何であるのかも把握できず、どう祈ってよいのか分からないままでも、人間の心をさぐる方、すべてのことを働かせて益としてくださる方に心身を、環境を、将来を委ねて「おお主よ、おお主よ。
[70:1 私を救い出してください。【主】よ、急いで私を助けに来てください]
」と呼吸するように、ハンナのように酔っているかのように、詩篇の作者のように時には魂を注ぎ出すように、時には夢の中で寝言のように、時に整った言葉で、時に言葉を失って、意識をまた無意識に思いを流し出すようにして祈ることなのです。「おお主よ、おお主よ」という、ため息の中にさえ、呼吸の祈りは存在しているのです。
それゆえ、クリスチャンにとって祈りは苦痛ではありません。祈りとは、私たちが「クリスチャンは祈らなければならない」という戒律のようなもの、義務のようなものではなく、わたしたちがイエス・キリストを信じたときに与えられている内住の御霊により、御霊の思いに重ね合わせて祈ること、否、御霊とともに「呼吸」することなのです。いわば、肺や心臓、神経や筋肉の病気で自然な呼吸のできない人が、在宅人工呼吸器(HMV:Home
Mechanical Ventilation)の助けにより、機械を使って呼吸を助けてもらう治療を受けているようなものです。
私たちは、存在論的に、社会的に「病める人間(ホモ・パティエンス)」です。心身に問題を抱えているわたしたちは、それゆえ内住の御霊により、「祈りの呼吸」を24時間365日させていただいているのです。
そのような流れの中で、突発的な苦難、苦境に遭遇したときには、患難のどん底から神に叫び声をあげうるです。[70:1
神よ、私を救い出してください。【主】よ、急いで私を助けに来てください]と。2-3節のように、問題や課題を、ブルドーザーのように踏みつぶし、吹き飛ばし、粉砕し、雲や霧のようにしてかき消してくださいと。そして、対照的に4節では[70:4
あなたを慕い求める人たちがみな、あなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神は大いなる方」といつも言いますように]と、愉しみと喜びに満たしてくださいますようにと。
詩篇からいつも教えられることは、また本詩から教えられることは、「苦境に嘆く詩篇にこだまする、神を待ち望む調べ」です。本詩の根底にあるメッセージは、[70:4
あなたを慕い求める人たち。あなたの救いを愛する人たち]が、まだ信仰の果実を手にしているのではない(Already, Not
Yet ー tension)ということです。信仰者が[70:4
あなたにあって楽しみ喜びますように。「神は大いなる方」といつも言いますように]という果実を受け取る道筋・方向・希望に生かされているのであり、「神が人間の叫びを必ず聞き入れてくださる、未来を開いてくださる」という確信の下、その中間地点に置かれているということです。
ですから、わたしたちも存在の弱さのはしばしで、人生のドラマのさまざまな局面で、この詩篇の作者にならって、叫びましょう。祈りましょう。呼吸するかのように祈りましょう。おお主よ、おお主よ、[70:5
私は苦しむ者、貧しい者です][70:1 私を救い出してください。急いで私を助けに来てください]と。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅲ』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、J.V.テイラー著『仲介者なる神』)
2022年7月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇69篇「私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています」ー奔流が私を押し流さず、深い淵が私を呑み込まず、穴が私の上で口を閉じないように-
https://youtu.be/9J1U0i-Kyxo
本詩は、詩篇22篇と同じく嘆きの詩篇として分類される詩篇です。この詩篇は、いきなり[69:1
神よ、私をお救いください。水が喉にまで入って来ました]と、自らを泥水の激流に襲われた者になぞらえて、迫る危機を神に嘆き訴えています。パレスチナでは、雨季に、突如として出現する激しい泥流に呑み込まれて生命を絶たれる悲劇が今日でも起こるそうです。遠くに降った雨がいくつもの涸れ谷をつたって合流し、激流となって低地を襲うのです。本詩の詠い手にとって、彼に起こった経験はそうした激流のように感じられたのです。しかし、本詩が具体的にどのような出来事を指すのかは不明です。詩からは、実際の問題が何なのか、すなわち、病気なのか、見捨てられたのか、罪か、投獄かを決定することはできません。
詩人か、多くのことを語るべき能力をもっていますが、それでもなお、あらゆることを未確定のままにしておくのです。このように詩篇は驚くほど大きな空間を提供します。その結果として、わたしたちはその空間を、自分たちの独自の経験で自由に満たすことができるのです。少し長い詩篇ですので、「私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています」ー奔流が私を押し流さず、深い淵が私を呑み込まず、穴が私の上で口を閉じないように-という詩句を昨今の課題に適用しつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
皆さんは、夢をみられることがあるでしょうか。わたしも、たまに夢をみることがあります。また、祈りにおいて、思いめぐらしの中で、多種多様なアイデアや洞察をイメージのようなかたちでいただくことがあります。昨日、ハーベストタイム・ミニストリーズ(略称:HTM)のことをFBで取り上げさせていただきました。2010年ころ、HTMはテレビのデジタル化を機に、インターネットの働きにシフトされ、それまでのテレビ伝道の働きから、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の普及に焦点を当てられるようになりました。直接的な理由は、2011年の地デジ完全移行に伴う放送機材調達の費用が過大であることでした。HTMの変貌は、おそらくは米国における「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の勃興の反映でもあったのでしょう。「理論的な解釈学に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てる」為にということで、信徒訓練の場である聖書塾の運営と、塾生が全国各地で行っている聖書フォーラム運動のサポートへ活動の機軸を移されていきました。わたしの母校では一時期、教師の一員としても招き入れられました(わたしは、猛反対でした)。
2010年ころ、その皮切りに東京と大阪と沖縄で、「1.日本のリバイバル、2.ユダヤ人の救い、3.メシアの再臨」をテーマとして、第一回ハーベスト再臨待望聖会が開催されていきました。わたしの所属団体と母校関係者は、全面的に協力し、教職者も信徒も神学生もこぞって参加するように促されていた感がありました。わたしは、団体と母校の中で、専門的に神学の研鑽の機会を与えられた神学教師のひとりとして、「大変なことが起こりつつある」と思いました。HTMが看板に掲げていた「ヘブル的字義通りの解釈」と「ディスペンセーション主義による解釈」の誤りに気がついていたからです。
それで、わたしは、所属団体と母校を誤った教えや運動に染まることから守るために、電子メールで牧師たちにこの運動と教えの問題点を指摘し続けました。所属団体の理事会からの最初の反応は、「著名なテレビ伝道者であるN氏に対する誹謗中傷をやめなさい」という警告でした。しかし、わたしは「これは、単なる誹謗中傷ではなく、神学の世界の大局の問題であり、この対応を誤ると将来にわたって取り返しのつかない悪影響を団体と母校にもたらすことになります」とメールを送り続けました。わたしの団体の良い所は、意見の相違があるときは、牧師会で釈明やディスカッションの機会が設けられるところです。それで、わたしはJEC牧師会やKBI教師会、JEC教職者の種々のセミナー、KBIとIBCでの講義、エリクソンやラッドの翻訳、神学会講演、イスラエル論論文執筆等、数えきれないほどの取り組みとその分かち合いに尽力してまいりました。わたしのこの十年、二十年の取り組みは、本詩と重なります。本詩の余白の空間に、わたしの主にある経験を、恵みを重ね合わせて傾聴してまいりましょう。そして、それは、あなたの固有の経験を本詩に重ねていただくための「呼び水」です。
わたしは、今も2010年の出来事をまざまざと覚えています。それは「69:1
神よ、私(所属団体と母校)をお救いください。水が喉にまで入って]来ようとしています。[69:2
私(所属団体と母校)は深い泥沼に沈み、足がかりも]なくなろうとしています。[私(所属団体と母校)は大水の底に陥り、奔流が私(所属団体と母校)を押し流]そうとしているからです、と叫んでいました。というのは、共立基督教研究所での内地留学後、1992年から母校の働きに講師として復帰し、健全な福音主義神学教育に専心していたのです。約20年間、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』をテキストにした『福音主義神学(歴史神学)』やエリクソン著作をテキストにした『キリスト教神学(組織神学)』を教え、エリクソンが終末論の資料源としていたラッド著作集も深く研究・翻訳し目配りしつつ教えていました。
これらの教えは、団体・母校において大変好評で、時を重ねていく中で、「聖書解釈法、教会論、終末論における課題はやがて克服されるであろう」と楽観視しておりました。田畑は、金色の穂をたわわに実をつけ、収穫間近と感じておりました。しかし、2010年の春、所属団体と母校に、突如「東日本大地震と破壊的な津波による未曽有の被災」のような出来事が起こりました。HTMの運動と教えが、大々的に展開されるようになり、「わたしの20年間にわたる取り組みも、海の藻屑と消え去る」ような気がいたしました。東北の町々が、大きな津波に呑みこまれていったように、わたしの愛する団体と母校が「HTMの運動と教えの津波」に呑み込まれていくような気がしたのです。
その時以来のわたしのHTM問題に対する取り組みは、FB、YT、Twitter等において明らかです。2010年にわたしが予想していた通り、HTM問題は、わたしの所属団体や母校関係者の問題にとどまらず、広くキリスト教会全体の問題にまで広がりをみせてきました。このHTM問題の何が問題なのかと申しますと、その前提とされているテーゼが誤っていることです。HTMの運動と教えの前提は、「聖書は、ユダヤ民族を軸にして解釈されなければならない」というポイントです。しかし、これはイエスと使徒たちの前提とは異質なものです。イエスと使徒たちは「聖書は、イエス・キリストの人格とみわざを軸に解釈されなければならない」というものです。そして、この解釈においては「もはや、ユダヤ人、異邦人の分け隔てはない」のです。
ある人たちは、N氏の分かりやすい語り口を気に入り、なかなかその運動と教えとの関わりから離れられないでしょう。しかし、知っていただきたいことは、この運動と教えが目指しているものは、非常に危ないものです。「イエス・キリストの人格とみわざを軸にした、民族的差別のない普遍的なキリスト教のあり方」を、ひっくり返す教えを前提にしているからです。「最初のボタンを留め違えると最後のボタンは留められない」と申します。『キリスト教教理史』の最初の講義で教えられることは、キリスト教会が最も最初に直面した課題は、「ユダヤ民族の歴史の盛衰史と未来について記されている旧約聖書を、イエス・キリストの人格とみわざとの関係において、どのように解釈すればよいのか」ということでした。
この課題のために、イエスは使徒たちを準備され、「ユダヤ人も異邦人も分け隔てのない、イエス・キリストの人格とみわざを信じる神のひとつ民とひとつの計画」を示されました。この真理を解き明かした文書が新約聖書です。ですから、「神の二つの民、神の二つの計画」という使徒たちが記した新約聖書に反する教えをするHTMの運動と教えはその前提から誤っているのです。ですから、「分かりやすいから」とか「とっつきやすい」「教えられる」といって、この運動と教えの深みに取り込まれていきますと、普通の、健全なキリスト教会で教えられている「ユダヤ人も異邦人も分け隔てのない、イエス・キリストの人格とみわざを信じる神のひとつ民とひとつの計画」から、知らず知らずのうちに、使徒たちが記した新約聖書に反する「神の二つの民、神の二つの計画」という教えにシフトさせられ、やがて牧師の正しいメッセージが間違っていると聞こえるようになるのです。
使徒たちが記した新約聖書に反する「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えに染められ、健全な教えをしている既存の教会から、信徒を引き連れて開拓伝道を行う「聖書フォーラム」が、全国各地で増えているとのことです。わたしの所属団体も、長年HTMのテレビ伝道を応援・協力してきた関係もあり、幾つかの教会で信徒の流出が起こっています。これは、N氏とHTMに親近感をもつ兄姉を数多く抱えている教会にとっては深刻な問題です。ただ、信徒流出という結果のみに目を留めるのではなく、キリスト教会が最初に直面した課題ー「ユダヤ民族の歴史の盛衰史と未来について記されている旧約聖書を、イエス・キリストの人格とみわざとの関係において、どのように解釈すればよいのか」という問題にきちんと取り組んでこなかった教会の「福音理解における脆弱性」に目を向け、そこに真剣に取り組み、被害を未然に防ぐ努力が必要と思います。
つまり、HTMのみらず、使徒たちの教えた「使徒的福音と使徒的実践」から、グレイゾーンやレッドゾーンに逸脱していく教えや運動のウイルスに感染しないように、健全な教理的ワクチンを普段から接種しておくことです。[69:14
私(諸教会)を(誤った運動や教えの)泥沼から救い出し、沈まないようにしてください。私(諸教会)を、(誤った運動や教えの)大水の底から救い出してください。69:15
(誤った運動や教えの)奔流が私(諸教会)を押し流さず、(誤った運動や教えの)深い淵が私(諸教会)を呑み込まず、(誤った運動や教えの)穴が私(諸教会)の上で口を閉じないようにしてください]と祈りつつ、今週も歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: M.J.Erickson,“Contemporary Options in Eschatology: A
Study of Millennium”、G.E.ラッド『終末論』、安黒務『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱ、他)
2022年7月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇68篇「いと高き所に上り、贈り物を与えられ、神がそこに住まわれる」ー召命はわたしたちの賜物の中に、聖所はわたしたちの存在の中心部に-
https://youtu.be/zoiTJyZVgQM
本詩は、神とそのみわざを讃える詩篇として編まれていますが、個々の段落相互の関連性は必ずしも明らかではありません。それゆえ、本詩の成立経緯も不透明であり、研究者の見解も定まっていません。ただ、ほとんどの解釈者に共通しているところもあります。、それはこの詩篇テキスト全体を「勝利の歌」として理解するところです。本詩は、讃美の詩篇である65-68篇の四つの詩篇の最後にあり、この讃美集の集まりは最後にあります「ほむべきかな、神」で結ばれます。本詩を統一的にみますと、①神による敵の撃破と苦しむ者たちの救い、②神によるエルサレムの選びとイスラエルの回復、③神の世界支配とそれに対する讃美から構成されています。そのような視点で本詩を傾聴してまいりましょう。
さきほど申し上げましたように、本詩を統一的にみていこうとしますとき、個々の詩句の解釈・分析から入るのではなく、本詩全体を眺望する視点を定めるのが良いでしょう。すなわち、[68:7
神よあなたが御民に先立って出て行き、荒れ野を進み行かれたとき][68:8
地は揺れ動き、天も雨を降らせました。シナイにおられる神の御前で。イスラエルの神である神の御前で]と、エジプトの奴隷労働から解放されたイスラエルの民は、出エジプト19章で、シナイ山のふもとに立ちます。[出19:16
三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17
モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18
シナイ山は全山が煙っていた。【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:19
角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。19:20
【主】はシナイ山の頂に降りて来られた。【主】がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った]と、モーセがシナイ山に登り、十戒の二枚の板を授けられる箇所を彷彿させます。
そして、その神は[68:9 神よ、あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れたあなたのゆずりの地を堅く立てられました。68:10
あなたの群れはその地に住みました。神よ、あなたはいつくしみをもって、苦しむ者のために備えをされました]と、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に、受け継ぐべき[ゆずりの地]を与え、彼らは[その地に]住むようになりました。神は[苦しむ者のために備えを]してくださるお方です。そして、[ゆずりの地]を与えるだけでなく、神はその地の中心の山を[その住まいとして望まれ]、[とこしえに、そこに住まわれる]といわれるのです。
神さまは、その地の中心に、その地の中心の山に住まれ、[68:17
主はその中におられる]、奴隷であった民をエジプトから小羊の血によって贖い出し、シナイ山で臨在とみ旨を示された[シナイの神は]いまや、約束の地パレスチナの、シオンの山の、エルサレムの[聖所の中に]臨在を現わしてくださるのです。それだけではなく、[68:18
あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り、人々に頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた]とあるように、戦勝品として与えられた財貨・財宝が分配されるというのです。そして、それらの財宝は、最初は幕屋を建て上げるため、後には神殿を建て上げるために用いられています。それは[神であられる【主】がそこに住まわれるために]でありました。
イスラエルの民は[68:24 神よ、人々はあなたの行列を見ました。聖所で私の王私の神の行列を。68:25
歌い手が前を進み、楽人が後に続く。タンバリンを鳴らすおとめたちのただ中を]をと、神のみ旨の本質の表明としての十戒の二枚の石の板を入れた契約の箱を[聖所で私の王私の神の行列]として運び、[歌い手が前を進み、楽人が後に続き、タンバリンを鳴ら]して進みます。[68:29
エルサレムにあるあなたの宮のゆえに、王たちはあなたに献上品を携えて来ます]と、ささげものが集まります。
神は、[68:35
ご自分の聖なる所におられます]。そして[イスラエルの神こそ、力と勢いを御民にお与えになる方です]と讃美が溢れます。
わたしたちは、このような本詩をどのように理解し、わたしたちの信仰生活の日常に適用していけば良いのでしょうか。それは、キリストによってです。わたしたちは、キリストの人格とみわざにおいて、詩篇のメッセージの本質を変換し、適用していくよう召されています。本詩は、[68:1
神は立ち上がり、その敵は散り失せる。神を憎む者たちは、御前から逃げ去る]をもって始まりました。神は、[出2:23
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた]とあるように、わたしたちの祈りにもまた叫びに耳を傾けてくださる方です。
わたしたちの日常生活の諸問題・悩み・苦しみという敵が[68:2
煙が追い払われるように]追い払ってください。[ろうが火の前で溶け去るように]、[滅び失せますように]と祈りましょう。生きておられる[68:1
神は立ち上がり]、その敵である諸問題は[散り失せる]でしょう。諸課題は、[御前から逃げ去る]ことでしょう。そして、この地上で最も弱い立場にある[68:5
みなしご]や[やもめ]、[68:6
孤独な者]、[捕らわれ人]を歓喜の歌声とともに導き出]してくださるのです。ただ単に救い出すのみでなく、[68:3
小躍りして喜び。神の御前で喜び楽しみ]、[68:4
神に向かって歌い、御名をほめ歌い]、[捕らわれ人]を歓喜の歌声とともに導き出]してくださるのです。
このお方は、[68:7
御民に先立って出て行き、荒れ野を進み行かれ]るお方です。わたしたちを罪と死と滅びから救い出しただけでなく、わたしたちの人生を生涯にわたって、[出
13:21
【主】は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった]とあるように、御言葉と御霊によって、日々導いて行ってくださる方です。生きる意味も目的も分からなかった私たちに、[68:9
豊かな雨を注ぎ、疲れたあなたのゆずりの地を堅く立て]てくださる方です。私たちは、主とともにある新しい人生のドラマという[68:10
その地に住む]ことになります。神が[いつくしみをもって、苦しむ者のために備え]られた、あなたが、神が意図されて創造された、ありのままのあなたとして完成させられる個性的な役者として演じ切るドラマの主人公として生かされるようになります。
[68:18
あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り、人々に頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた]という詩句は、新約のエペソ人への手紙4:7-8で、[エペ4:7
しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。4:8
そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」]と引用されているものです。使徒パウロは、この詩句をキリストの昇天・着座・聖霊の油注ぎという、勝利の凱旋、褒美の分与、また王位戴冠式等と重ね合わせ、主イエスを信じたことによる罪からの救い・贖いが、私たち自身が聖霊の宮・神の神殿とされる聖霊の内住、そしてわたしたちの存在をその聖霊の臨在・導きに明け渡していく生涯の中で個性と賜物の成長・成熟を通して、神の民、キリストのからだの中において、それぞれに他のものに置き換えることのできない貢献を用意されているのです。[68:10
神よ、あなたはいつくしみをもって、苦しむ者のために備えをされました]と。
新約で、パウロは、Ⅰコリ 3:16
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか]と記しています。神は[68:10
いつくしみをもって、苦しむ者のために備えをされました]とあります。神はどのような備えをわたしたちにしてくださったのでしょう。それは、わたしたちの存在と生涯を[68:16
神がその住まいとして望まれた]のです。[68:17 主はその中におられる。シナイの神は聖所の中に]、[68:18
あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り、人々に贈り物を与えられた。神であられる【主】がそこに住まわれる]と、わたしたちの存在と生涯のただ中に、そのど真ん中に[まことに【主】はとこしえに、そこに住まわれる]と語っておられるのです。
[68:24
人々はあなたの行列を見ました。聖所で私の王私の神の行列を]と、神の臨在を象徴する契約の箱を宿すわたしたちは、人生の荒野を旅し、運ばれる神の幕屋のようです。そのような生涯には、[68:29
エルサレムにあるあなたの宮のゆえに、王たちはあなたに献上品を携えて来ます]とあるように、多くのささげものがあるでしょう。しかし、それらは昨今問題となっている「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」のようなあくどい献金、財産の収奪、社会倫理に反する諸活動、政治家とのもたれあい等のようであってはならず、新約のローマ人への手紙にありますように12:1
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です]とありますように、「宗教の神学の座標軸」で分析・評価される聖書的な本質にかなう社会正義の実現というベクトルを示すものであるかどうかが不断に吟味されていかねばならないと思います。
そのような意味で、「宗教の神学の座標軸」による分析と評価の課題は、以前になした「オウム真理教」に対する分析・評価の原則を「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」にも適用することを要請するものであり、キリスト教会の内外にみられる諸々の運動や教えにおいて、宗教的要素のみならず、倫理的要素において社会正義の実現にどのように取り組んでいけば良いのかを再考させるものでもあります。そのような視点から、最後の詩節を見ます時、米国での堕胎や同性婚問題、ウクライナでのロシアの蛮行等、[68:33
いにしえから天の天を御される方に。聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を]とある御声を、正確に聴き取ることの難しさを覚えます。そのような弱さの中にあっても、私たちは天を仰ぎ[68:34
力を神に帰せよ。威光はイスラエルの上に、御力は雲の中にある]と主の御声を聴き取ろうと努力をなし、また、[68:35
神よ、あなたは恐るべき方。あなたはご自分の聖なる所におられます]とわたしたちの存在の深みに内住される御霊の臨在に照らされて声を発する、キリストの血ですすがれ、洗い清められた良心に耳を傾けつつ、わたしたちがなしうる小さなことに忠実であろうとして、カメの歩を進めるものです。このように小さな私たちですが、歴史のただ中で神の民を励まし導かれた主は、今の時代の荒野を旅する私たちにも、[力と勢いを御民にお与えになる]と確信しているのです。[ほむべきかな神]、祈りましょう。
(参考文献: W.Brueggemann,”Psalms”、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅲ』)
2022年7月10日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇67篇「どうか神が、私たちをあわれみ祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように」ーコーラム・デオとウエストミンスター小教理問答第一問への連想-
https://youtu.be/BForBk0jc78
先週、元総理の安倍晋三氏が銃撃を受け、死亡されました。政治的な立場は多々あるかと思いますが、哀悼の意をささげたいと思います。政治家ですので、評価する人により功罪半ばするところはあるかと思いますが、祖父岸信介、父安倍晋太郎の英才教育の成果でもあろうと思われますが、明治期の伊藤博文に似たところがあられる「国家百年の計を念頭に置かれた傑出した政治家」として記憶されるのではないでしょうか。世界からの評価をみますと、ロシアのウクライナ侵攻を見せられている中で、安倍氏は戦後内向的であった日本のあり方を、中国の台湾侵攻を抑制する意味で、「アーミテージ・ナイレポートに沿ったかたちでの、安倍氏の地球儀を俯瞰する外交」が評価されてきたように思います。キリスト者としては、「安倍氏が推し進められた右傾化路線」には今なお賛同できませんが、ウクライナの惨状を見ますとき、中国の経済力・軍事力が強大化している現在、「インド洋・太平洋地域の平和保持・戦争抑止についての考え方」については、傾聴すべきところがあるように思います。
今朝の詩篇67篇は、[民6:24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。6:25
【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。6:26
【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように]という、アロンの祝福を彷彿させる祈りです。神さまの祝福は、心の平安とともに、世界の平和のうちにあるように思います。あの美しかったウクライナの諸都市が瓦礫の山と化していくさまを見せられ、つくづくそのように思います。わたしたちの日本において、祖父や父の時代には戦争があり、日本とアジア各地は瓦礫の山となりました。わたしたちの時代は平和な時代・繁栄の時代でした。この平和と繁栄を維持していくために、戦争を起こさないために、わたしたちは何をなすべきなのか考えなければならない時代となってきているように思います。そのような意識をも抱いて今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
さてアロンの祝福の祈りを彷彿させる本詩は、七つの節からなるきわめて短い詩篇です。この祝福の祈りをどのように解釈し、どのようにわたしたちの生活に適用していけば良いのでしょうか。多くの注解書に目配りしましたところ、解釈や適用に共通項や方向性で見るべきものがなく、注解者も苦慮しているのだと思わせられました。それは、本詩の詩句が抽象的、一般的で、その数も少ないところからきているように思います。それは、狭い滑走路から飛行機を飛び立たせようとしているのですが、飛行機を離陸させるには滑走路が短すぎるのです。
本詩を繰り返し読んでいるうちに、三つの詩句が光を放ちはじめ、それが教理的連想に展開していきました。その三つの詩句とは[67:1
どうか神が、私たちをあわれみ祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように] ][67:6
大地はその実りを産み出しました][67:4
国々の民が喜び、また喜び歌いますようにです。これらの詩句から、わたしが連想させられましたのは、ウエストミンスター小教理問答第一問「人のおもな目的は何であるか」であり、その答えとしての「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」でありました。すなわち、神に創造され、神の御前(コーラム・デオ)に生かされている私たちの生の祝福を祈り、祝福する詩句として傾聴する視点です。
この詩篇で最初に注目する詩句は、[67:1
どうか神が、私たちをあわれみ祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように]です。わたしたちを祝福してくださる神は、天から降り注ぐ陽光のように[御顔を私たちの上に照り輝かせて]くださる神です。わたしたちを導いてくださった宣教師スンベリ師は、ダビデのように「使徒2:25
私はいつも、主を前にしています」と言われました。関学のグランドを夫婦で手をつないで祈りつつ散歩されている姿が目に焼き付いています。わたしにとって祈りの模範でありました。カルヴァンもまた、「常に生ける神の前に立っている」と意識していた聖霊の神学者と言われています。わたしたちは、救いに関わることだけでなく、個人・家庭・社会生活のどの領域も、「常に生ける神の前で」、神の[あわれみ祝福]の下、降り注ぐ太陽の陽光のごとく[御顔を私たちの上に照り輝かせて]いただきつつ、生かされているのです。
第二に注目したい詩句は[67:6
大地はその実りを産み出しました]です。ウクライナにみますように、戦争や破壊が起こりますと、灌漑施設や農地は荒れ果て、世界的な飢饉すら起こりえます。創造世界における「67:4
神の公平な、諸国の民に対するさばき、地の国民の導き」による神の平和の祝福は、麗しい自然環境を保持し、豊かにされた[大地はその実りを産み出し]豊作をもたらします。大地のみならず、この創造世界の一部として創造されたわたしたちも、与えられた時間と空間という人生において、「神の栄光をあらわす」恵みにあずかっています。この創造世界は「神の栄光の舞台」といわれます。
被造物の冠として、神の似姿に造られた人間は、栄光の神の御前で、その御顔の光を浴びつつ、神のみこころにしたがって神の代理者としてのわざを行うことにより、神の栄光が繁栄され、神の栄光をあらわすことになるのです。それは、倉庫の奥にゴミのように打ち捨てられていたギターが見つけ出され、救い出されただけでなく、綺麗に清掃され。ワックスをかけられ、弦を張り替えられただけでなく、創造者の御手に抱かれてその楽器固有の音色を奏でて、多くの人に慰めや感動を与え、そのことによって神の栄光を現わすためです。わたしたちはそのようにして[67:6
大地はその実りを産み出しました]とありますように、あなたも、わたしも、それぞれの人生に「実り」を生み出していくように召されているのです。
第三に注目したい詩句は[67:4
国々の民が喜び、また喜び歌いますように]です。わたしたちが、神の御前(コーラム・デオ)で、[67:1
御顔を私たちの上に照り輝かせ]られ人生を生きてまいりますときに、わたしたちはひとりひとり、「神の似姿に造られた存在」として「神の栄光の舞台」で、神の栄光をあらわすドラマを演じる、いわばアカデミー賞の役者となります。人類が75億人としますと、75億通りのシナリオがあり、脚本があります。わたしたちは、その内容を詳しくしりません。それで、わたしたちは、ローマ8章にありますように、主のみこころを探し求め、日々瞬々祈りつつ、御霊に導かれつつ、歩んでいくのです。
わたしたちは、主とともに歩んでいく道筋の色彩は「喜び」であると知ることは大切です。箴言にこういう聖句があります。[箴8:30
わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた]天地創造のときの、御父と御子の様子を暗示するものです。それは、苦悩や苦痛の、しかめっつらした表情や色彩ではなく、親に見守られつつ、無心に砂場で遊ぶ幼児に溢れる喜びです。神の子性をいただいているわたしたちには、砂場で興じて安心感・幸福感で満ち満ちて生かされる人生観が提供されているのです。
本詩の詩句から、教理的に連想させられます恵みと祝福は何でしょうか。人の生きる目的とは何か。わたしたちは、神の御前に(コーラム・デオ)生かされ、[御顔を私たちの上に照り輝かせて]いただいています。その神の御顔の祝福の下で、わたしたちはキリストに贖われ、きよめられ整えられ、「神の栄光を現わし」、その生涯のうちに[その実りを生み出し]、砂場で時間を忘れ、戯れる幼児のように「永遠に神を」[喜び、喜び歌]うことです。アジアに、そして世界に、心置きなく、ひたすら、そのような人生を送ることができる自由な社会、自由な国家、自由な世界、そして平和が保持されてまいりますように。そのような願いと祈りをもって、本日の参議院選挙にも投票してまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 牧田吉和著『改革派信仰とは何かー改革派神学入門』)
2022年7月3日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇66篇「さあ聞け、すべて神を恐れる者たちよ。神が私のたましいになさったことを語ろう」ー詩篇のメロディーを傾聴し、与えられた具体的な恵みを歌詞として作詞し、歌い続ける恵み-
https://youtu.be/kTKrFNVSVq8
先々週は、母校であり、卒業以来36年間ほぼ休みなく神学教師としての奉仕にあずかってきた関西聖書学院(KBI)から神学生が送られてきて、この宍粟の山間部の小さな町で祈りつつ、手作りトラクトを配布してくれました。それは、難攻不落のエリコの城壁のまわりを歩いたイスラエルの物語と重なります。KBI神学生の来訪奉仕は三回目です。この機に、一宮チャペル、また一宮基督教研究所(ICI)の働きを振り返る時をもたせていただきました。歴史を大局的に振り返りますと、この地のキリスト教との関連で、キリシタン大名黒田官兵衛の領地であったことも心に留める必要があります。また、今日的に地域を見渡すとき、教会・教派は異なりますが、普遍的教会の一員として、あそこにここにと、クリスチャンの方々が住んでおられることを耳にし、目にします。
わたしの同級生でも、「昔この地域でクリスチャンのお医者さんがおられ、教会学校をされていて、それに出席していた」と聞きます。その中のひとりは、旧姓福井桂子さんで、京都のWECのラウンドヒル宣教師の群れで救われ献身し、キリスト教団体で貴重な奉仕をされています。他にも「宣教師の方の英会話クラスで英会話と聖書を教えてもらっていた」という話や、近くにある重度身体障碍者ホームの「自立の家」も、英国からのキリスト教の精神に深い関わりをもつ社会福祉施設です。地の果てのような、少子高齢化著しい地域でありますのに、私たちの働きだけでなく、いろんなかたちで多種多様な種まきや耕しが行われてきた恵みを覚えます。
また、先日、わたしのフェイスブックを読んでくださった福田勝敏先生から励ましのメールを受け取りました。この方は、私の家の近くに住んでおられる方の従弟で、現在は宮城県仙台市に住んでおられます。「私たち家族は第二次世界大戦の時(1945年、二歳)に、神戸市灘区から両親の出身地である安黒に疎開をし、小学4年まで安黒にいました。その後、神戸から休み度に安黒に行って、たくさんいる従弟たちと川遊びなどをしていました。従弟の家は私の母の実家でもあります。私たちは、神戸の兵庫区に住み17歳の時、日本イエス・キリスト教会神戸中央教会(当時の牧師は本田弘慈牧師)で受洗しました。その後、24歳で関西聖書神学校(神戸塩屋)に入学し、28歳で卒業後、兵庫県で4年、仙台市の仙台国見教会で28年、神戸中央教会で5年、徳島県の羽ノ浦キリスト教会で11年奉仕をし、76歳で日本イエス・キリスト教団を定年引退をして仙台に住む長男家族と生活し、以前奉仕をしていた仙台国見教会の会員として私たち夫婦、息子夫婦、孫(1歳)と礼拝に出席しています」とのことでした。なんということでしょう。仏教や神道の冠婚葬祭で浸されたこの一宮の背後に、このような物語や証しを神さまは散りばめておられたのです。
わたしは、共立基督教研究所への内地留学後、郷里一宮に帰り、教会学校伝道やELI英会話伝道等を軸に種まき伝道をしてまいりましたが、これといった実りもなく種まきに終始してきました。そうこうしているうちに、並行して取り組んでいた神学校での『福音主義神学(歴史神学)』『比較宗教学(宗教の神学)』『キリスト教神学(組織神学)』等の講義奉仕が増大し、さらにその講義のためのテキスト翻訳等に導かれ、時間の大半を取られるようになっていきました。伝道・教会形成にあまり尽力できない心苦しさを秘めながら、神学教育機能としてICIの働きが充実・展開していきました。ICIは、兵庫県宍粟市の山間部に埋もれるかのように存在していますが、その働きはエリクソン著『キリスト教神学』や『キリスト教教理入門』の翻訳・執筆等やその千数百ビデオ講義録を通して、福音派系神学校や福音派諸教会に広く深く高く長く、用いられています。
わたしのこの地における働きながらの、行き届かない、片手落ちのような奉仕生涯の中で、神さまはこの「創世記1:2a
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり」という一宮の地において、「神の霊がその水の面を動いていた」とありますよう、この地にゆかりのある魂に触れておられ、わたしたちに目の行き届かない領域においても、そのひとりひとりの魂に「固有の、主とともにある物語」を、これまでも、今も、これからも未来永劫、形づくり続けておられるのだと教えられました。前置きが長くなりましたが、今朝は、そのような視点から詩篇66篇をかいつまんで傾聴してまいりましょう。
本詩は、複雑な詩です。会衆への呼びかけとしての前半(v.1-12)と個人の証しとしての後半(v.13-20)に分かれ、それぞれはさらにセラにおいて、三つと二つに区分されています。わたしたちは、このような本詩をどのように傾聴し、わたしたちの生活に生かすことができるのでしょう。わたしは、本詩を繰り返し唱和・熟読・傾聴していまして、このように適用できるのではないかと教えられました。
V.1-4は、「全地よ、神に向かって叫べ」と始まり、それは全世界に、全被造物に呼びかける「詩篇にみる創造讃歌」の一部のようであり、「御名の栄光」「神の誉れ」を讃える讃美は、その世界における神の王権、神の主権的支配をほめたたえるものです。わたしたちにとって、このような創造讃歌は、この世界の一員として、創造され、生を与えられたことへの感謝、わたしたちの生涯の上に働く「主の摂理的支配」の恵みへの信仰告白として用いえます。
V.5-7は、「 66:6
神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った」とありますように、この神のみわざは出エジプトやヨルダン川渡河を示唆しています。わたしたちの人生、わたしたちの存在というものー私たちの生きる意味、私たちの存在価値というものに思いを潜めますときに、創造讃歌は大きな意味・価値を発揮します。そして、わたしたちの存在・人生における最大の問題としての「罪」の問題を直視しますときに、イスラエルの民がエジプトで奴隷労働にあずかっていたように、わたしたちは「罪の奴隷」としての「神を神としてあがめず、感謝もせず、思いは空しく」生きていました。しかし、イスラエルの民が、「小羊の血」によりエジプトから贖い出されたように、わたしたちもまた「キリストの代償的みわざ」によって、罪の支配から神の支配へと贖い出されたのです。あなたも、わたしも、イエス・キリストを信じ、受け容れたその日を覚えていることでしょう。その前後の出来事、物語の展開はまさに「
66:6 神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡」るような経験であったと振り返られることでしょう。
V.8-12には、[66:10
神よ、まことにあなたは私たちを試し、銀を精錬するように私たちを錬られました]とあるように、イスラエルの歴史における苦難・試練を示唆し、それは、アッシリア捕囚のように「網に引きいれられ」囚われる経験であり、バビロン捕囚のように「腰に重荷を負わされ」る経験であったことでしょう。イエスも、「ヨハネ18:33
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました。パウロも「ローマ5:3-4
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と教えています。ヨハネも「黙示録3:10
全世界に来ようとしている試練の時には、わたしはあなたを守る」と、[66:12
火の中、水の中を通]る試練のただ中で、主の臨在のうちに守り、[豊かなところ]、緑の牧場に導きだしてくださいます。私たちは試練に遭遇するとき、数千年間の神の民が通ってきた[66:12
火の中、水の中を通]る試練の物語に重ね合わせて試練の炎の中・水の中を通過していくのです。それは、わたしたちが「栄光を受けるために苦難をともにして」おり、「神の相続人であり、キリストとともに共同相続人」であることを証しするものです。
V.13-15は、創造され、贖い出され、試練をも共にし、豊かな所に導きだされたわたしたちの、主への感謝としての「全焼のささげ物」をする箇所です。[66:14
それは私の苦しみのときに唇を大きく開き、この口で申し上げた誓いです]というこの個所を読みますときに、ひとつの証しを思い出します。
それは恩師のひとり、山中良知先生(関西学院社会学部キリスト教哲学教授)の証しです。先生は、戦争末期に学徒動員で満州に送られ、終戦後はシベリアで捕虜生活を送られました。そのときに、ずっと大切にしてきた聖書をもっておられましたが、捕虜の友人に「ぼくも聖書を読んでみたい」といわれたとき、あれほど大切にしていた聖書を「あげるから読んでください」とブレゼントできた不思議な経験だった、と証しされていました。また、捕虜生活の間、毎日祈っていたが「主のみ旨がなりますように、とは祈れなかった。絶対に、生きて日本に帰国させてください、帰国させてくださったあかつきには、主のために働きますと祈っていた」と証しされていました。そして、その祈りは聞かれ、無事に日本に帰国されたあかつきに、大学でそして、日本のキリスト教会で、神学・哲学・倫理の分野で歴史的な貢献をなし続けられたのです。わたしたちは、大学生のときに、毎日昼食時に15分ほど、山中教授室でこのような証しに耳を傾け、いわば山中スピリットの薫陶を受けつつ養われていたのです。
その意味で[66:16
さあ聞け、すべて神を恐れる者たちよ。神が私のたましいになさったことを語ろう]と、信仰者の証しというものは貴重なもので、それは金・銀・宝石のように価値あるものです。わたしは、信仰者ひとりひとりに[66:17
私はこの口で神を呼び求め]た歴史があり、この舌で神をあがめた。[66:19
確かに神は聞き入れ、私の祈りの声に耳を傾けてくださった]という証しがたくさんあると思います。[66:20
ほむべきかな神。神は私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった]という経験が山ほどあると思います。
詩篇を傾聴するということは、詩篇の中に象徴化され、断片化され、要約され、凝縮されている詩句を、あるときはスコップのように、あるときはショベルのように、あるときはユンボのように、そしてあるときは数千メートルを掘削して油脈を吸い上げるボーリング機械のように駆使し、私たちの人生において「わたしたたちが、この口で神を求めた」記録、私たちの生涯のはしばしにおいて「神が聞き入れ、私たちの祈りの声に耳を傾けてくださった」記録、「神が御恵みをわたしたちにくださった」記録を、証し続け、シェアし続け、励まし合う大切さを本詩は証ししているのではないでしょうか。詩篇のメロディーを傾聴し、あなたに与えられた具体的な恵みを歌詞として作詞し、歌い続ける恵みにあずかってまいりましょう。祈りましょう。
(参考資料:W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン著『深き淵より』)
2022年6月26日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇65篇「神よ、御前には静けさがあり、シオンには賛美があります」ー【主】は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいた
すべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた-
https://youtu.be/w2HBhur9XCg
これまで傾聴してきました詩篇51-64篇はダビデを苦しめて来た多くの紛争を背景としてきましたが、65-68篇の四つは「諸歌」とも呼ばれる詩篇で、その詩の雰囲気は一変しています。本詩65篇は、神殿(v.1-4)、世界(v.5-8)、収穫(v.9-13)の内容で構成されており、これらの三つの要素をどのように関連づけるのかが、大切なポイントです。編纂された背景をもつ本詩を歴史上、どの地点に結びつけるのかは、困難な課題です。ただ、背景問題は棚上げにしておいて、本詩のポイントを歴史に重ね合わせることは可能です。わたしたちは今朝、本詩を歴史的には「ユダへのアッシリア来襲」と、今日的には「ウクライナへのロシア侵攻」と重ね合わせ傾聴することにさせていただきましょう。
詩篇という書物は、祈りの書であり、讃美の書です。しかし、詩というものは、その性質上きわめて断片的な表現をとります。それゆえ、この祈りの断片、讃美の切れ端を、いかなる状況の中に投げ入れるのかが重要事項となってきます。最初に申しましたように、本詩を「ユダへのアッシリア来襲、ウクライナへのロシア侵攻」に重ね合わせますと、本詩の詩句は生き生きとした力を発揮し始めます。イスラエル国家分裂後、南ユダには20人の王が立てられ、そのうちの、アサ、ヨシャパテ、ヨアシュ、ヒゼキヤ、ヨシヤの五人の王は「神に従った王」として記録されています。
南ユダの歴史は、王が神のみ旨を求め、礼拝を重んじ、神殿を尊び、偶像礼拝を拒絶するなら、物質的繁栄、軍事的勝利、長命な一生等の祝福が与えられることを強調しています。逆に、もし神に背き、神殿を汚し、偶像礼拝と不道徳の罪に陥るなら、敵による敗北、さまざまな災い、恥辱が与えられると教えられています。このような視点で、本詩の[65:7
あなたは海のとどろきを鎮められます。その大波のとどろき、もろもろの国民の騒ぎ]を、特にヒゼキヤ王の時代における、アッシリアのセンナケリブ王の来襲に当てはめますとき、本詩は光をはなち始めます。
ヒゼキヤ王は[65:1
神よ、御前には静けさがあり、シオンには賛美があります]と祈りを始めます。この静けさとは一体何でしょう。ひとつは、[Ⅱ歴代32:20
ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。32:21
【主】は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた]という、エルサレムを包囲していたアッシリアのセンナケリブ王の大軍勢が一夜にして壊滅した朝の静けさであり、もうひとつは、、[Ⅱ歴代32:20
ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求め]、その祈りに答え、エルサレムを守ってくださった主の荘厳さ、厳粛さであります。
ヒゼキヤとイザヤは、主の神殿で陥落を間近にした首都エルサレムの丘の上にある神殿で、絶望のただ中で、徹夜で祈り叫んでいたことでしょう。もはや祈るしか術のない状況でありました。二月下旬のウクライナの首都キエフもそうでありました。しかし、夜が明けると、エルサレムの城外には、アッシリア軍の大軍勢の武器や太鼓や罵声の「海のとどろき」も「騒ぎ」も消え失せていたのです。そこには、累々と重ねられた死体があるばかりでした。ヒゼキヤとイザヤの「65:2
祈りは聞かれ」たのです。ヒゼキヤとイザヤはどのような祈りをささげたのでしょうか。それは、[65:3
数々の咎が、私を圧倒しています]とあるように、これまで犯されてきたイスラエルとユダ王国の数々の罪の告白であり、悔い改めでありました。
しかし、その告白の祈り、悔い改めの祈りは功を奏しました。神は[私たちの背きを、赦して]くださったのです。そして、[65:5
私たちの救いの神]は、[恐るべきみわざで、義のうちに答え]てくださったのです。神は、[65:6
御力によって山々を堅く据え、大能を帯びておられ]る方です。それゆえに、[65:7
海のとどろき(のようなアッシリアの軍勢)を]、[その(軍勢の)大波のとどろき]を、[(アッシリア)の国民の騒ぎを]鎮められるのです。神は、首都エルサレムを包囲するアッシリアの大軍勢を一夜にして鎮めることのできるお方です。このようなお方がおられるのですから、首都キエフを包囲していたロシア軍、そして現在ウクライナの東部・南部に侵攻しているロシア軍もいずれ鎮めることができるのではないでしょうか。
今朝のニュースで、東部の要衝セベロドネツクはロシア軍に破壊しつくされ、ウクライナ軍は撤退を余儀なくされたとのことです。ウクライナを支援し祈る私たちにとっては落胆させられる情報です。しかし、ミクロな地域での戦術的撤退は、よりマクロな戦略的戦いで勝利を収める上で大切なことです。一歩さがって二歩前進するためです。
ヒゼキヤ王は、神に祈り、勝利を収めました。エルサレムの城壁の周囲には、もはや恐るべきアッシリアの軍勢はいなくなり、静寂を取り戻しました。それは、エルサレムの神殿にもある静寂でした。神と人、神とユダの民との間にあり、圧倒していた[65:3
数々の咎]が、ささげられた犠牲によって[65:3
赦]されたところにある静寂でした。血を流すことなしに赦しはないのです。聖餐式は礼拝の中心にあります。旧約の犠牲が、十字架で全人類の代償的刑罰を受けてくださったキリストが[65:3
赦してくださいます]。そこに[65:1 静けさがあり]ます。心の底から静かに湧き上がる[65:1
賛美があります]、感謝があります。
その場所こそが、私たちの[65:4
大庭]、私たちの[家]、私たちの[宮]であり、そこにおいて、良いもの、聖なるもので満ち足りるのです。アッシリアの軍勢の侵攻により荒廃し尽くしたユダ王国の地で、ヒゼキヤ王は祈りまた[65:8
高らかに歌]います。それはウクライナの人々にとってもそうでしょう。EU加盟候補国とされ、ウクライナ戦後復興計画ー第二のマーシャルプランが策定されつつあります。そして、これらの教訓は私たちの生涯にも当てはめることができる祈りであり、賛美です。
見えるところは一面焼き尽くされた都市、踏み荒らされ収奪され尽くした農地を見まわし、[65:9
あなたは(戦争で荒廃し尽くしたユダの)地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は、水で満ちています。あなたはこうして地を整え、人々の穀物を備えてくださいます。65:10
(ウクライナの破壊し尽くされた町々、踏み荒らされた農地)のあぜ溝を水で満たし、その畝をならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます]。神は復興の神です。[65:11
あなたはその年に、御恵みの冠をかぶらせ]、[あなたの通られた跡には、油が滴っています]という時代の希望が見えています。今は、ミサイルや砲弾が飛び交うウクライナの[65:12
荒野の牧場に滴り、もろもろの丘も喜びをまと]うようになるでしょう。
わたしたちの人生も、今の時の小さな苦難は、神の[ 65:5 恐るべきみわざで]、神の[65:6 御力によって]
、私たちの内面に、また周囲にある[65:7 海のとどろき]
、[その大波のとどろき]、[もろもろの騒ぎ]を鎮めてくださいます。そして、極東の[65:8
最果てに住む]私たちも、神の[数々のしるし]を体験し、私たちの人生という[65:13
牧草地は羊の群れをまとい、広やかな平原は穀物を覆い]とするようになり、喜び叫び、歌うことになるでしょう。大切なポイントは、このような祈りと賛美が、巨大な隣国アッシリア帝国の大軍勢に首都エルサレムが包囲され、陥落寸前から脱するその前後・瞬間の、張りつめた静寂の中に溢れる、沈黙の讃美であることです。祈りましょう。
(参考文献: Michael Wilcock ”The Message of Psalms 1-72: Songs for
the People of God”)
2022年6月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇64篇「神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください」ーあなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし-
https://youtu.be/7i9UNSBZlqI
今週は、神学校卒業以来、36年間、ほぼ休みなく神学教師として奉仕させていただきました関西聖書学院(KBI)から、宣教ウィークということで、神学生のひとつのチームの男女6名が、一宮基督教研究所(ICI)に来訪してくださいます。宣教ウィーク終了後に、神学校で証しの時がもたれるようなので、一泊二日の短い期間ですが、ICIで有意義な時間を過ごしていただけたらと願っています。神さまの宣教の働きには、伝道・教会形成・神学教育の三つの要素があるといわれます。このみっつがバランスよく整合しているとき、歴史を超え、地域を越え、全世界の隅々に世の終りまで、健全な宣教が継続されていくのです。そのような意味で、ICIでの宣教ウィーク体験においては、神さまの宣教の働きにおける「ICIの継続神学教育の役割・機能・使命」について理解を深めていただき、神学生各自がその奉仕生涯への視野を広めていただく機会にしていただければと願っています。このような視点をもって、今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
今朝の詩篇64篇は、[64:1
神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください]とあるように、嘆きの詩篇に分類される詩篇のひとつです。「嘆きの歌という名称は、「回避しようのない悲劇を哀悼する」という悲観的な処世観を示唆していると思われがちですが、このような見方は詩篇作者のムードとはほど遠い見方です。聖書の、詩篇の「嘆きの歌」を特徴づけているものは、もし神が介入されるならば状況は変わるという信頼なのです。つまり、聖書の、詩篇の「嘆きの歌」は、絶望的な状況に神が介入し、状況を変えて下さるよう祈る、神のあわれみへの嘆願なのです。神が泥沼から、わたしたちを引き上げ、岩の上に立たせる力をもっておられることを信頼しつつ、深い淵から叫び求める祈りなのです。このゆえに、嘆きの歌は単なる嘆きではありません。嘆きの歌は讃美の表現でもあります。つまり[64:10
正しい人は【主】にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな誇ることができます]とありますように、神は忠実な方であると信頼して、短調でささげられる讃美であり、嘆きの中にも新しい生命のあふれを先取りして、ほめたたえる詩歌なのです。
私たちは、今朝の詩篇をICIの役割・機能・使命という視点から傾聴させていただくことにしました。そのような視点からこの詩篇に傾聴しますとき、[64:1
神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください]は、約30年前に共立基督教研究所に三年間内地留学終了間近に祈った祈りと重なります。最初は、学びが終わった後は、「伝道と教会形成」の現場に戻るものだと思っていました。しかし、奉仕生涯のあり方に導きを求めていたとき、[ルカ14:27
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。14:28
あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。14:29
計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、14:30
『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう]というみことばを示されました。そのときに、わたしは神学教育者としてまだ土台を築いたにすぎないことを照らされました。そして、そのうちにこの築いた土台の上に「福音理解」という建物を築いていくことがわたしへの固有の召命であると示されたのです。
この神学教育者として、さらに研鑽を積み、成長し、成熟させられることに奉仕生涯をささげるよう導かれたのです。しかし、招へいされるどこの教会でも「神学研究・研鑽をささげ、120%伝道と教会形成に打ち込んでください」という要望がありました。それで、神学教育者として120%打ち込む奉仕生涯は、セルフ・サポートによる以外ないのだと悟り、兵庫県の山間部でガソリン・スタンドの自営業をしていた両親のもとで、そのような奉仕生涯を生きる決断をしました。
最近、このような奉仕生涯に生きるよう導かれたわたしに励ましとなる本を最近読みました。それは、内村鑑三の無教会運動の流れの高橋三郎先生の『高橋三郎著作集
2.
無教会論』の一節です。無教会の指導者がその召命に応答していく道筋についての証しです。[日曜ごとの集会は、概してカルヴァン的な聖書講義の形式を取ることが多い。その際、将来伝道の責任を担うであろう人々は、現実の世界における職業生活の真っ只中で、この学びを続けるという点が、きわめて重要である。ただ、職業人としての仕事のかたわら行う学びであるから、時間的にも経済的にも、高度の緊張と努力を要することはいうまでもない。
このようにして、独立伝道者として、伝道の第一線に召し出されるまでには、十年、二十年、場合によっては三十年にも及ぶ、長い期間を要することがあり、彼らはその間、いわば待機の姿勢で、神の召命を待っているのである。誰に、いつ、この召命が臨むかは、厳密に神の手中にあることであって、人間の方から、先取りすることはできない。しかし、内的準備が熟し、神によって召し出された者は、本当にみ言葉によって、人の魂を養いうる力が与えられているのである。]
わたしが、自営業の仕事に携わりつつ、神学教育者として、一日24時間、一年365日間、ひたむきに神学研鑽に取り組む時間を与えられ、そのかたわら神学校・神学会・牧師会等で講義・講演、また翻訳や出版に明け暮れた奉仕生涯を送らせていただけたことはこの上ない祝福でありました。わたし自身は、多くの同労者の先生方のように、土地を購入し、会堂を建て、教勢を伸ばすという、目に見える働きの実を残すことはかないませんでしたが、教会を超え、教派を超えた広々とした世界で、福音派諸教会・諸教派全体に共通しうる「福音理解」という建物を、教職者・神学生・信徒の方々の心の中に建て続ける働きをさせていただくことができてきたことは、神さまからのわたしの奉仕生涯への大きな恵みでありました。
今朝の詩篇をローマ7章・8章の霊と肉との内的葛藤の視点から傾聴しますと、わたしの心には、いつも「伝道と教会形成の実」という尺度で測る成績表があり、「成績があがっていないではないか」という[敵(肉の思い)の脅(おびや)かし]があり、私のいのち(わたし固有の召命と賜物)を守ってください]という葛藤と祈りがあり続けました。[64:3
彼ら(肉の思い)はその舌を剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放]ち続けるからです。[64:4
全き人(神からの固有の召しと賜物に生きている人)に向けて、彼ら(肉の思い)は隠れた所から射掛け、不意に矢を射て]くるからです。[64:5
彼ら(肉の思い)は悪事に凝って]、[ひそかに罠をかけ] てきます。[64:6
彼ら(肉の思い)は不正を企み「企んだ策略がうまくいった」と言っています。人の内なる(肉的な)思いと(肉的な)心とは底が知れ]ないのです。
わたしたちは、神さまから与えられ、「雲の柱、火の柱」で導かれる「召命と賜物」を軽んじてはなりません。人の評価の目を恐れて、神さまから与えられている固有の賜物を「土の中に埋めて」はならないのです。神さまは、迎撃ミサイルミサイル・システムであるアイアン・ドームのような防御を提供しておられ、わたしたちの内面における「肉の思いからの、剣や矢、罠や策略」の巧みな攻撃に対し、[64:7
しかし神が彼ら(肉の思い)に、(御霊の思いの)矢を射掛けられ]、肉の攻撃の矢を打ち落としてくださいます。[64:8
彼ら(肉の思い)は自らの舌につまずき]、[彼ら(肉の思いの評価)を見る者はみな(それは違うだろうと)頭を振って嘲]られることになります。そうなのです。わたしたちが、それぞれに固有の召命をいただき、それぞれの賜物において、キリストの体なる教会全体に対して貢献を示しつつ、奉仕生涯を生きていくということは、肉の思いの評価との葛藤と御霊の思いによる評価に導かれる十字架の道筋に生きるということなのです。
さて、最初に学びました通り、嘆きの詩篇は単なる嘆きの歌ではなく、[64:9
こうしてすべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります]とあるように、賛美の歌でもあります。イスラエルの賛美は、神のみわざによって呼び覚まされました。エジプトにおける嘆きの祈りは、虐げられた奴隷の群れを顧み、奇しくも彼らに新しい生の可能性を開きました。したがって、彼らの賛美は、超越的な神の権能に対する畏敬の念に基づくのではなく、むしろ聖なる神は歴史の真っ只中に姿を現し、虐げられている人々を救ったという福音に基づいているのです。私たちも、人生の岐路に差し掛かるとき、道に迷うとき、深い霧に覆われ将来がまったく見えなくなったとき、不安に包まれ苦しいとき、[64:1
神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください]と祈ることができるのです。神さまは、困難な状況の中で、モーセに紅海の中の道を示されたように、私たちにも未来のフロンティアを切り開いていってくださるのです。わたしの場合は、ICIがそれでありました。
わたしたちは、苦境にあるとき、まだ「神の道」がどこにあるのか知りません。わたしたちは、不安の中にあるとき、まだ「神のみわざ」を見ていません。ただ[64:1
神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください]と祈るだけです。しかし、そのようにして主とともに生きていくとき、そのようにして主に導かれて歩んでいくとき、主は祈りのうちに[出14:16
あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる]と示されます。それは、私たちの心に思い浮かんだことのない思いかもしれません。それは、わたしたちが見たことのない新しい道筋かもしれません。ただ、わたしたちには、そのときに[Ⅱコリ4:13
「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれていますように、私たちはモーセのごとく[出14:21
手を海に向けて伸ば]します。すると、そのときに、[【主】は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた]とあるような神の栄光のみわざがあらわれるのです。
わたしは、あの日あの時、東京の深い地下鉄のホームで長い時間、自らに与えられた召しと賜物を生かし、築き上げた土台の上に「福音派共通の福音理解」という建物を完成させる生涯に生きていきたいという強い思い・心の底からの願いを敬愛する蒲田三郎先生の心に、モーセのように[出14:21
手を海に向けて伸ば]したのです。それゆえ、ICIにおける奉仕生涯に生きるという恵みがゆるされたのは先生のおかげでもあるのです。わたしたちは、わたしたちの生涯における神の栄光のみわざのすべてを知り尽くすことはできません。また、それを言い表すこともできません。説明しきることも不可能です。さらに「二兎を追う者は一兎をも得ず」と海の真中の道を進み、迷惑をかけた方々、また犠牲を伴った家族には、平身低頭謙虚にならねばなりません。ただ、私またわたしたちがなしうることは、主のゆるしのうちに[64:1
神よ、私が嘆くとき、私の声を聞いてください]と祈りつつ生き、人生を振り返って神が[なさったことを悟り]、[64:10
【主】にあって喜び]、誇り、[神のみわざを]証ししつつ生かされていくだけなのです。祈りましょう。
(参考文献:B.W.アンダーソン著『深き淵より:現代に語りかける詩篇』、『高橋三郎著作集 2. 無教会論』)
2022年6月12日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇63篇「水のない衰え果てた乾いた地で、あたかも聖所にいるかのように」ー優れた軍師のごとく、詩篇を危機管理マニュアルとして-
https://youtu.be/F_D1rPUNRQY
今朝は、自治会の墓地草刈り奉仕活動があり、早朝の一時間だけ奉仕協力させていただき、あわただしく礼拝にかけつけさせていただきました。これまでは、首筋とか、背中に「山ヒル」の一撃をくわせられていたので、帽子つきのカッパで完全防備のつもりでしたが、「山ヒル」の方が一枚上手なようで、今年は足元のスネから献血するハメとなりました。このようなあわただしさは、今朝の詩篇のダビデの動向の中にも見受けられます。信仰生活には、順風満帆の日々のみでなく、事態が急変するあわただしい日々も訪れます。小さな日常から世界に目を転じますと、ウクライナの人々にあってもそうでありました。突如、平穏で幸せな毎日の中に、隣国からの軍事侵攻が起こったのでした。美しかった町々は廃墟と化し、幸せな日々は奪われ、多くの人命が失われ続けています。
今朝の詩篇63篇を編纂者は、[ダビデがユダの荒野にいたときに]という表題をつけています。それは、ウクライナへの軍事侵攻のように、「寝耳に水」「青天の霹靂」といった感じで突発的に起こった息子アブサロムのクーデター(Ⅱサムエル15-18章)でありました。ダビデは、民の支持を失ったサウルの跡を継ぎ、将来を嘱望された王でありましたが、王自身の姦淫と殺人、第一王子アムノンの罪と死、第三王子アブサロムの殺人と逃走、それに続く彼の帰国と自宅謹慎など、次から次へと王家をめぐる醜聞が流れたことによって民の信頼を失っていきました。王に対する不満の声が国中に満ちていたことでしょう。
さらに加えて王の病を示唆する詩篇41篇と55篇について考えれば、アブサロムがその陰謀をめぐらしていた四年間、王の政治は病気のために多少行き届かなかったと推測できます。アブサロムは、このような政情をたくみに利用して世論におもねり、民の不満を吸い上げて、「Ⅱサムエル15:6
イスラエル人の心を盗み」ました。四年たって、アブサロムは主に立てた誓願を果たすためということに事寄せて、王の承諾を得ると、ヘブロンへ行きました(v.7-9)。彼は、クーデターを起こすために、かねての手はずどおりに事を進め、ついにヘブロンにおいて反旗を翻したのです(v.10-12)。ダビデは、アブサロムがクーデターを起こした知らせを聞くと、ただちに家族と家来たちを従えて王宮を出ていきました(v.16)。王宮に閉じ込められる危険を避け、忠義な家来たちとともに「キデロンの谷を渡り、荒野の方へ渡って」(v.23)行きました。このような視点で、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩を読み解く鍵は[63:1
神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない衰え果てた乾いた地で、私のたましいはあなたに渇き、私の身もあなたをあえぎ求めます]の「水のない衰え果てた乾いた地」をどう理解するのか、です。そして、[63:2
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖所であなたを仰ぎ見ています]の「こうして聖所で」をどう理解するのか、です。
私は、本詩の第三王子アブサロムの突発的なクーデターの時に、敵味方の判別の困難な王宮に立てこもるよりも、信頼できる側近だけを引き連れて、安全な荒野に緊急避難したダビデの「戦略感」は素晴らしいと思います。クーデターの成否の鍵は「ダビデ王のいのち」をとれるかどうかにかかっていたからです。年老いたとはいえダビデは優れた軍師でありました。クーデターを起こす側には、「クーデター成功の高い勝算があるから、行動を起こしたのだろう」と直感的に推測します。ただ、その計画・協力者がどのようであるのかが不明な時点においては、「最も安全な選択肢」をとるのが正しいと思われたのです。
私たちも同様です。突発的な危機に直面したとき、オロオロして中途半端な対応をし、取り返しのつかない事態を招くよりも、「石橋を叩いて渡る」ように、考えうる「最も安全な選択肢」を選び取ることが肝要でしょう。それは、甘い予測をして最悪の事態を招かないための知恵です。「危機管理とは、考えられうる最悪の事態を想定し、それに対して最善を尽くす」ことであるからです。突発的なクーデターとか、隣国の軍事侵攻いう時間帯においては、何が起こるか分かりません。ローマ皇帝カエサルを暗殺した側近のブルータスのように、味方と思っていたひとりが暗殺者であったりするからです。それゆえ、荒野という安全な空間で、国内の動向、勢力分析の時間を得て、敵味方を明確に把握した上で、将来の禍根の根を絶つかたちでクーデターをつぶす戦略を立てようとしたのです。
信頼している家族、愛する息子と彼を担ぎ上げる勢力にクーデターを起こされたダビデは、衝撃を受け、いのちからがらの逃亡をし、荒野に身を潜めています。そこは[63:1
水のない衰え果てた乾いた地]であったでしょう。ダビデは、生まれつきの戦士であり、まれにみる軍師でありました。なので、「突発的なクーデター等々の危機が生じたときの、幾つかの選択肢のマニュアル」を心の中で準備していたと思います。「サウルから逃れたユダの荒野の数々の要害」と「国内にはりめぐらした信頼できる情報網」は、緊急避難と事態への対応・勝利・復権に大いに役立つことになりました。このような物語は、私たち個人、家庭、社会においても、また教会や奉仕の働きにおいても応用できる「危機管理の知恵」を掘り起こすことができると思います。詩篇は、「あなたの、わたしの想像力の宝庫」なのです。詩篇の祈りに唱和していく世界とは、「わたしたちの人生という空に、想像力の翼をはばたかせる世界」なのです。私たちにとって「祈りの聖所」は、主とともにあり、主の御霊に導かれ、見せられるかのように「起こりうる危機の情景」を映し出していただく劇場のスクリーンであり、また舞台のような世界です。
本詩は、空間と場所が [63:1b
水のない衰え果てた乾いた地]であったばかりでなく、ダビデのたましいの状態そのものも[63:1
水のない衰え果てた乾いた地]のようでありました。それゆえ、ダビデは[63:1c
あなたに渇き、私の身もあなたをあえぎ求めます]と告白し、うめき叫びました。このような祈りの時、ダビデの「主とともにある、主の御霊とともになされる想像力の世界」とはいかなるものであったことでしょう。私たちも、私たちの人生の中に[63:1c
(神)に渇き、(神)をあえぎ求め]る [63:1b
水のない衰え果てた乾いた地]という時間帯を抱いているのではないでしょうか。その時間帯に、あなたの「主とともにある、主の御霊とともになされる想像力の世界」が存在してきたはずなのです。それは、あなたにとっての「大小の様々な宝石のような詩篇の世界」のひとこまなのです。それは、あなたの人生という物語の中の詩篇63:1です。神さまは、あなたの人生というドラマの中に、この詩句を、アブサロムのクーデターで荒野に放逐されたダビデの苦悩に重ね合わせ、うめき叫ぶことがゆるされているのです。
このような状態・描写は、詩篇の中に数えきることはできません。あなたの人生においても同様です。詩篇42篇では、詩人は[詩42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ私のたましいはあなたを慕いあえ]いでいます。あなたも、渇いた鹿のように慕いあえがれたことがあるでしょう。荒野での「暗黒の時間帯」のただ中で、[63:2
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖所であなたを仰ぎ見ています]の情景があります。あなたも、その苦しみ・悩み・不安のただ中で「聖所にいるかのようにして主を仰ぎ見られた」ことがあるでしょう。このコントラストこそが信仰の神髄です。あなたは確かに[63:1b
水のない衰え果てた乾いた地]を人生の中に抱き、 [63:1c
(神)に渇き、(神)をあえぎ求め]られた時間帯を携えておられるでしょう。しかし、あなたはこの時間帯のただ中で、ダビデのような経験にあずかるよう備えられているのです。
ダビデのような経験とは何でしょう。それは[63:2
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖所であなたを仰ぎ見ています]という経験です。ダビデは苦難のただ中で[63:1b
水のない衰え果てた乾いた地]で、聖所に向かって祈り、あたかも聖所の中にいるかのように[聖所で(神)を仰ぎ見]る経験です。詩篇42篇は[42:3
昼も夜も涙が私の食べ物]である時の[詩42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神を慕いあえ]ぐ時間帯です。しかし、そのような時間帯は、その暗闇のただ中で[聖所にいるかのように(神)を仰ぎ見]る時間帯でもあるのです。
詩篇23篇を見ますと[23:2
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます]と順風満帆とみえる人生にも、[23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても]と暗闇の時間帯があることを教えられます。この暗闇の時間帯において神さまは[23:5
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています]という経験を与えられます。それが[63:1b
水のない衰え果てた乾いた地で]、[63:2
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖所であなたを仰ぎ見]る経験なのです。ダビデは、クーデターの危機に荒野に緊急退避し、その荒野で、エルサレムにある聖所の方に向かい、[63:1c
(神の臨在)に渇き、(神の臨在)をあえぎ求め]ました。
そのときにダビデが経験したことは、[23:5
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださる。私の杯はあふれる]経験でした。それが[63:5
脂肪と髄をふるまわれたかのように、私のたましいは満ち足り]る経験でした。ダビデは、今なお、緊急退避した荒野にありました。テントであったでしょうか。あるいは、着の身着のままの退避で満天の星の下での寝起きであったかもしれません。おそらく、父祖アブラハムのように、夜空に無数にまたたく星々を見上げ、[63:6
床の上であなたを思い起こし、夜もすがらあなたのことを思い巡ら]しました。まことに神は、この突発的な危機からの[63:7
私の助け]でしたと安堵の気持ちを吐露し、この神の[御翼の陰]で私は守られ、保護されていることを確信したのでした。
ダビデは、愛する第三王子アブサロムを担いでクーデターを起こそうとした者たちを荒野から見きわめ、勝利を確信しまし、[63:9
私のいのちを求める者どもは滅び、地の深い所に行くでしょう。63:10
彼らは剣の力に渡され、狐の餌食となる]と宣言しました。私たちも、個々多様な人生の物語の中で、このように詩篇の祈りに唱和できるのです。さまざまな詩篇の祈りを重ね合わせ、ダビデの生涯と重ね合わせ、今の時代の苦難・戦争と重ね合わせ、私たちの人生のひとこまひとこまを重ね合わせて祈ることができるのです。「水のない衰え果てた乾いた地で、あたかも聖所にいるかのように」主を仰ぎ見て祈ることができるのです。これこそが、戦士ダビデ、軍師ダビデの心の中に置かれていた「危機管理マニュアル」の中心でありました。詩篇をこのようなかたちで活用させていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献:
甲斐慎一郎著『サウルとダビデの生涯』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、ブルッゲマン著『詩篇を祈る』)
2022年6月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇62篇「私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む」ー神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら-
https://youtu.be/GlzePpGLshk
今朝の詩篇62篇は、「 62:1
私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む」と沈黙の祈りから始まります。しかし、それは単なる沈黙を意味するのではないようです。8節に「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」とあるからです。この「沈黙」の意味するところを掘り下げるために、最初に出エジプト記14章の出来事に注目しましょう。出エジプト記14章では、エジプトでの奴隷生活から解放され、エジプトから約束の地へと旅立ったイスラエルの民は、紅海の海岸に導かれました。海を前にして袋小路となったイスラエルの民に、エジプトの正規軍が襲い掛かろうとしておりました。そしてこのような情況に追い込んだ指導者モーセに不満が爆発しておりました。そのような全滅の危機の最中で語られました言葉が[【出エジプト記14:13
モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。14:14
【主】があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」]でありました。ロシアに北・東・南の三方向から侵攻の布陣を整えられ、脅迫されたときのウクライナのゼレンスキー大統領も、モーセと似たような状況に置かれていたのかもしれません。私たちも、岐路に差し掛かるとき、苦難の中に置かれるとき、不幸にまみえるとき、心は右に左に揺れ動きオロオロしてしまうのではないでしょうか。そのようなとき、詩篇62篇はわたしたちに力と方向性を与えてくれます。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
わたしは、詩篇という「詩」を理解するためには、何度も繰り返し味わうのが良いと思います。「詩」というものは、断片的で、象徴的な言葉の「パズル」のようなものですので、ときには「前後関係」を入れ替えたり、ひっくり返したりの工夫により意味するところが明らかになっていきます。それぞれの言葉の断片を「一粒の種」のように扱い、「聖書の物語」や「私たちの世界の物語・私たちの人生の物語」の水をやり、「想像力」の花を咲かせ、祈りの生活を豊かにしていくことができると思います。
今朝は、まず「v.1
黙って」を出エジプト14:14をもって、想像力の花を咲かせましょう。この出エジプト記14章の、パロとエジプト軍をプーチン大統領とロシアの軍隊に、モーセとイスラエルの民をゼレンスキー大統領とウクライナの国民に重ね合わせて思いめぐらし、主がロシアの支配からウクライナを解放してくださるよう祈ることができます。紅海に追い詰められたイスラエルのように、国家存亡の危機に追い詰められていたウクライナは、「出14:21
主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた」ように、欧米の世論の風を受けて、さまざまな支援物資を受けられるようになりました。どれくらい時間がかかるか分かりませんが、最終的にはロシアは敗北し、ウクライナは自由と独立を勝ち取ると思います。もはや、力ある国が、弱い隣国を屈服させ、属国のような扱いをすることはゆるされない時代だと思います。それは、今日に対する神さまのみ旨であるように思うのです。[62:1
(ウクライナの人々)のたましいは、黙ってただ神を待ち望む。(ウクライナの人々)の救いは、神から来る]と祈り変えることができるでしょう。
最初に申しましたように、この詩篇の「詩句」の順番を入れ替えて読んでみましょう。本詩では、[62:3
おまえたちはいつまで一人の人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。城壁を傾け、石垣を倒すように。62:4
実に彼らは、人を高い地位から突き落とそうと企んでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心では呪う]を先に味わうと、この詩人が置かれていた危機的状況を垣間見ることができます。危機的状況の背景が見えてくるからです。詳細は分からないのですが、[62:3
おまえたちは]と言われている相手は、同じくイスラエルに属する同胞であったでしょう。[口では祝福し、心では呪う]と言われているように、うわべでは愛想よく、善意の交わりが成り立っているかのように見えたとしても、心では詩人の失脚を狙っているのであり、場合によっては友好の仮面を脱ぎ捨て、「こぞって打ち殺そう」とするに至ります。
この虚偽と暴虐を一身に受けて、詩人もさまざまな手段を講じ、これに対抗しなければなりませんでした。[v.4
人を高い地位から突き落とそうと企んでいる]とありますから、詩人は地位の高い人であったでしょう。そして[v.3
城壁を傾け、石垣を倒す]という表現は、堂々たる櫓(やぐら)の崩壊を示唆する言葉なので、これも地位高き人のそびえ立つ偉容が、今や敵する者の攻撃と策略によって一敗地にまみれ、今や瀕死の危機に瀕していたと思われます。ウクライナもキーウに北部からと北東部からロシア軍がせまっていた危機がありました。南部のマリウポリや南東部のセベロドネツクも危機の中にあり続けています。しかしウクライナは、やみくもに戦うのではなく、国力、戦力にあわせた戦略的撤退もし、冷静かつ平静で慎重な戦いをしているようです。これは、彼らにとっては、国家存亡の戦いであり、「奴隷となって屈従するのか」、「犠牲を払って自由を勝ち取るのか」の戦いであるからです。私たちも、「本当に大切なもの、真に価値あるもの」に優先順位を置いた戦いの生涯を送らせていただきたいものです。それを「妨げようとする力」がいつの時代においても働いているからです。これは、わたしたちが「一体何のために生きているのか」を深い次元で問うものです。
そのような戦いの背景をダビデのものとしますと、[62:2
神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない]の「わが岩」の具体的な意味が見えてきます。ダビデや詩人が「わが岩」というとき、それは[Ⅰサム23:25
サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。23:26
サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、23:27
一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。23:28
サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。23:29
ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ]ダビデは、間一髪のところで、サウルの捕縛から逃れ、死海の西方にあるエン・ゲディの荒野にある岩場と洞窟のある要害に住みました。
ダビデにとって、「岩」場は追撃からいのちを「救う」「やぐら」でありました。「やぐら」は、砦や城塞、要塞の中心として建てられている見張り台のことです。ダビデにとりまして、神は「難攻不落」の岩場であり、城塞・要塞のようなお方でありました。ダビデは、岩場に逃れ、場所を変えながらの逃避行を続けておりました。それゆえ、[62:2
神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら]という詩句は、単なる美辞麗句や文学的表現であったのではなく、ダビデが「九死に一生を得る」をいのちからがらの体験の歴史の中で知った神の特性であるのです。ダビデは、[Ⅰサム19:10
サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした]。[Ⅰサム19:11
サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。]、[Ⅰサム20:32
ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」20:33
すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。][Ⅰサム22:19
彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。][Ⅰサム23:14
ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった]とあるように、サウルの強烈な殺意とダビデのいのちからがらの逃走劇のドラマです。あなたの人生は、ダビデのように大小の苦難の連続でしょうか。もし少しでもそうなら、詩篇を傾聴しつつ生きる意味があります。
ウクライナも、ロシアにより[62:4
実に彼らは、人を高い地位から突き落とそうと企んでいる。彼らは偽りを好み]とありますように、欧米志向のゼレンスキー大統領を廃し、傀儡政権を立てようとされたり、「ウクライナとロシアは一体だという偽りの物語」のプロパガンダに翻弄されたりしてきました。しかし、いつの間にかロシア国民向けのプロパガンダは、国民を洗脳したばかりか、指導部自身もその「プロパガンダ」に汚染されてしまった感があります。プーチン大統領のまわりは「イエスマン」ばかりが集められ、「ソ連邦のようなロシア帝国の復活」という不可能な幻想が、ロシアの軍事力をもってすれば「実現可能」なのだと思われるようになってしまったようです。「ウクライナに侵攻しても、エネルギーで支配されているバラバラのヨーロッパは手も足も出せない」と。しかし、ウクライナ侵攻は、バラバラのヨーロッパをひとつにしてしまいました。
[62:9a
低い者はただ空しく、高い者も偽りだ]とあるように、テレビしか見ないロシアの大衆はその幻想に酔い、夢見る大統領の下の指導陣はその幻想世界でしか居場所・ポストを占めることが許されていないのです。そのような彼らの生き方を歴史が評価したなれば、[62:9b
秤にかけると彼らは上に上がる。彼らを合わせても息より軽い]と言われるでしょう。なんという愚かなことでしょう。そのような生き方は、あるロシア外交官が言ったように「ウクライナやウクライナ国民に対してだけでなく、ロシア国家、またロシア国民に対する重大な罪」を犯していることになるでしょう。「魚は頭から腐る」、すなわち「組織は上層部からダメになっていく」と言われます。ロシアのプーチン大統領の[v.10a
圧制]、ロシア軍のウクライナでの[v.10b 略奪]や暴行、ウクライナの土地や[v.10c
富]の不法奪取は、一時的に成功したかのように見えても落胆は無用です。それらは、いずれすべて断罪されることになるでしょう。
私たちは、聖書の中に、人類の歴史の中に「不条理」を見せられつつ「詩篇」に傾聴しています。ある意味で、詩篇のいくつかは戦争を背景にしなければ、戦争の不条理、苦しみ、悲しみを念頭に置かなければ理解することが難しい文書かもしれません。ウクライナの人々、ミャンマーの人々、パレスチナの人々、シリアの人々、アフガニスタンの人々、等々ー詩篇の詩句に重ね合わせて、ニュースや解説情報に重ね合わせ、想像力の翼をはばたかせ、祈りのうちに今日を生きるよう召されているのではないでしょうか。そのときに、わたしたちもまた単に「ニュース中毒」におかされることなく、「祈りの翼」をもって世界の苦しんでいる人たちとともに泣き、また喜び、抱擁しあうことができるのではないでしょうか。祈りましょう。
(参考文献: J.L.メイズ『詩篇』、H.リングレン『詩篇詩人の信仰』、W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』)
2022年5月29日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇61篇「及びがたいほど高い岩の上に」ーいばらの冠と絶望の叫びの十字架を、即位の王座とし-
https://youtu.be/bH-5BH9ODBY
詩篇61篇は、心うちひしがれる信仰者が神に呼び求めて、救いの確信を与えられてゆく消息を書き留めた簡潔な詩篇です。ところが、唐突にも7-8節に「王」のためのとりなしの祈りが記されます。この二つの要素をどのように理解すべきなのか。またどのように関連づけるべきなのか、がこの詩篇全体を理解する上で大切なポイントです。このポイントに注目しつつ、この詩篇を傾聴してまいりましょう。
本詩の本体は、[61:1 神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。61:2
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てからあなたを呼び求めます]と「個人の嘆き」の詩篇を思わせる祈りの句ではじまります。祈り自体は非常に簡潔で、嘆きや訴えは具体的に語られていません。ひとつヒントがあるとしますのが[私は地の果てからあなたを呼び求めます]という言葉です。この言葉を具体的な言葉と受け取りますとき、それは故郷から、故国から遠く離れた異郷、また「地の果てで自分が見捨てられている」という深い挫折感で「心が衰え果て」てしまいつつあることを嘆いているのです。約百年前、ロシア革命後のウクライナから、ハルピンを経て、神戸の東灘に流れ着いたウクライナの人々もそうであったようです。それは、「詩篇137
バビロンの河のほとりに座り、シオンを思い出して涙を流した」ような経験かもしれません。
また「地の果て」を象徴的に捉えますと、「深き淵から」立ち上るイスラエルの叫びと同様に、国家としてのイスラエルが、たえず巨大国の強権によって屈辱的な敗北を喫し、圧政に苦しんできたように、神はイスラエルを救うべく訪れることもなく、民はただ幻滅の悲哀を味わっている状態を意味しているのかもしれません。私たちは、このような祈りと叫びを自らの人生の中に取り込まねばなりません。それが詩篇が聖書に置かれている意味なのです。私たちは、世間一般の人々がそうであるように「順風満帆」な生涯が幸せな人生であると考えやすい者であります。確かにそうです。「家内安全、無病息災、商売繁盛」は幸せな人生に大切なポイントです。私たちも、「我らの日用の糧を与えたまえ」「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と祈ります。
しかし、人生というドラマには大なり小なり起伏があるものです。ある人々の生涯は「ジェットコースター」のような起伏が伴うでしょう。ウクライナの歴史もそうです。9-13世紀のキエフ大公国の時代、13世紀のモンゴルの来襲による崩壊。その後も、独立や周辺国による分割、内乱等を繰り返す悲哀の歴史です。1917年のロシア革命を機に、ウクライナは再度独立を果たしますが、「ウクライナ・ソビエト戦争」があり、今日見られるようにウクライナの地は主戦場となり、1922年には結局ソビエト連邦の結成により、またしてもウクライナの独立は失われることになりました。ロシアにとって、ウクライナはすべての産業の中心地であり、クリミア半島は軍港として確保したかったのです。
その後の、独ソ戦では、ウクライナは500万人以上の犠牲者を出しています。ウクライナは第二次世界大戦において最も激しい戦場でありました。ウクライナは、ソ連とは別に国連での議席を持っていましたが、スターリン政権下では「ロシア化」が推し進められ、フルシチョフ政権下では「ウクライナの民族・文化」が尊重され、1954年にクリミア半島もウクライナに移管されました。ブレジネフ政権下では、再びウクライナ弾圧が行われ、その後の東欧革命やウクライナ語の公用化により、ウクライナの民族運動は激化し、1991年8月にはウクライナの独立が宣言されました。2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命、クリミア危機、親ロシア派騒乱など親欧米派と親ロシア派の対立が高まり、2022年にはロシアによる全面侵攻に発展しています。
私たちは、旧約詩篇の背景にイスラエルの歴史を読み、その詩篇で再発見する「祈りと叫び」を今日のウクライナの歴史と情景の中に照射しようとしています。このようにして詩篇を読みますとき、[61:6
どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。61:7
王が神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまことを与えて王をお守りください]の意味するところが見えてきます。旧約のイスラエルの民にとりまして、「王の救い」は「民の救い」と別ではありませんでした。捕囚から帰還した後の、第二神殿時代のユダヤの民が、ダビデ契約に基づく「ダビデ王朝永続の約束と王朝再興の願い」を保持し続けたことはよく知られていることです。
このダビデ王朝再興の願いは、大国の支配下におかれた民の政治的独立への願いの象徴でもありました。王国時代に成立した王の詩篇の数々が、この時代に歌い継がれた理由もそこにありました。このように見ていきます時、詩篇61篇の[61:1
神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。61:2
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てからあなたを呼び求めます]という「個人の祈り」の中に「王のための祈り」が加えられた理由が分かります。
第二神殿時代、もともと「個人の祈り」として編まれた詩篇が、「神殿に集う会衆の祈り」として共有され、「民の詩篇」として歌い継がれるなかで、その末尾に「民への祝福祈願が付される」のと同じ理由で、「王への祝福」が加えられたのです。この詩篇61篇の場合、王はこの民にとって「奪われた政治的独立が回復する希望の象徴」であったのです。それは、今日、ウクライナの人々が、どんな犠牲を払っても、ロシアの支配からの完全な独立を果たそう、民族と文化、言語を守ろうとする戦いの原動力でもあります。他国による弾圧と強制により、アイデンティティを奪い取られた「管理された人間」となるよりも、言論の自由と民主主義と基本的人権の尊重される「真の独立国家、真に独立した人間」であることを希求しているのです。国土や言語を奪われたり、強制移住や皆殺しの運命を経験したことのない「島国日本」の私たちには理解が難しい精神性かもしれません。真の独立のチャンスが訪れた時には、「子々孫々のために、いかなる犠牲を払ってもそれを手に入れたい」という高貴な精神性のことです。
わたしは、[61:1 神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。61:2
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てからあなたを呼び求めます]をウクライナの人々の苦難の歴史と現在の「叫びと祈り」として読みますとき、そして[61:6
どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。61:7
王が神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまことを与えて王をお守りください]を、言論の自由と民主主義と基本的人権の尊重される「真の独立国家、真に独立した人間」であることへの希求として読みます時、[61:2b
どうか及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください]の意味が見えてくるように思うのです。
イスラエルの民は、アッシリヤ捕囚やバビロン捕囚等の経験を背景にこれらの詩篇を歌い継いできました。おそらく「アウシュヴィッツ等のショア」を経験したユダヤ人たちもそうでしょう。彼らにとって、「及びがたいほど高い岩の上」とは一体何なのでしょう。
「及びがたいほど高い岩の上」とはどこなのでしょう。それは、[61:3 あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐら。61:4
私はあなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避けます]とありますように、究極的には「主ご自身」であり、「幕屋」とありますように「主の臨在」であり、そここそが私たちが安息しうる唯一の「御翼の陰」なのです。
イスラエルの民は、二千年の流浪の旅の後、パレスチナに「v.5
御名を恐れる者の受け継ぐ地」を回復しました。ウクライナの人々は、13世紀のモンゴル来襲以来、苦難の歴史に生きています。21世紀の今、もうそろそろNATOという集団防衛の枠組みで「
61:3 避け所、強いやぐら。61:4
幕屋、御翼の陰」を、民主主義と言論の自由、基本的人権の尊重を大切にする者たちが「受け継ぐ地」を得られるようにしてあげても良いのではないでしょうか。彼らは、そのような安全保障への所属、そのような民族の生存と安息、ーそれをウクライナの国民は「v.2b
どうか及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」と祈り願っていると思います。
私たちは、今朝、大国に蹂躙された民族、イスラエルまたウクライナの祈りまた叫びとして、詩篇61篇に傾聴しました。そして、このような祈り・叫びは、私たちの「日ごと」の出来事に「とこしえ」までも応用することができるものです。わたしは、61:1-2を読みます時、わたしが小学五年生の時に、突然「弟の死」の知らせを受けた瞬間を思い起こします。わたしは、61:1-2を読みます時、同労者の娘さんが沖縄の宮古島のスキューバダイビング中に急死されたことを思い起こします。わたしは、61:1-2を読みます時、米国の小学校の銃撃で21人の子供たち等のいのちが失われたことを思い起こします。ああ、深い悲しみの中にあるご両親、兄弟姉妹、ご家族を「v.2b及びがたいほど高い岩の上に」導いてあげてくださいと。
そして、その「及びがたいほど高い岩の上」には、「十字架上の絶望の叫び」と「いばらの王冠」を身に着け、「エルサレムの十字架」を即位の王座とされた主が座しておられるのです。私たちは[61:7
(メシヤなるキリスト)が神の御前で、いつまでも王座に着いて]おられることを確認し、確信し、地上での一時的な戦いでも祈りますが、同時に、永遠にも目を向けるのであり、やがてもたらされる「新天新地」での「受け継ぐ地」を深く確信し、[61:8
こうして私はあなたの御名をとこしえまでもほめ歌い、日ごとに私の誓いを果た]す、いわば“複眼的思考”において、詩篇を祈りつつ生かされる者とされているのです。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅲ』、高橋三郎・月本昭男共著『エロヒム歌集』、ウィキペディア「ウクライナの歴史」)
2022年5月22日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇60篇「あなたは、あなたを恐れる者に旗を授けられました」
ーダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを-
https://youtu.be/rLnqUD5j0L4
デレク・ギドナーによる詩篇60篇の註解には、「もしこの詩篇とその表題が存在しなかったら、ダビデの力の絶頂期に、隣接する敵対諸勢力が回復していたことに私たちは気がつかなかったであろう。まさに彼の成功が、敵たちの間の同盟という危機と、国を遠く離れての戦闘という危険をもたらしたのである」とあります。詩篇60篇は、国家存亡の危機を大地を揺るがす大地震に譬えている詩篇です。[ダビデの主戦力がダビデとともに(北方の)ユーフラテス川の近くにあったとき(Ⅱサムエル8:3)、(南方の)エドムは明らかにその機会を利用し]たのでした。そうだとすると、この詩篇の状況設定は、国は荒廃し(v.1-3)、そして見たところ、それに報復しようとした最初の試みも敗北に終わった(v.10)という、意気消沈させる知らせでした。しかし、そのような哀しみに溢れるこの詩篇も、それを支配するのは、神の驚くほど荒々しい返答(v.6-8)なのです。そのような視点で、今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
少し背景を見てまいりましょう。イスラエル国家は、サウル王のダビデに対する嫉妬とつのる猜疑心によって、国の内部で戦いが続いておりました。そのようなイスラエルの東西南北には、虎視眈々と狙う国々が控えておりました。その第一は、西部戦線に位置するペリシテでありました。イスラエルのたぐいまれなる勇士ダビデ、巨人ゴリアテをも打ち破った歴戦の勇士ダビデ追撃で国力を弱めていたサウルは、そこを隣国のペリシテにつかれ、ついに大敗北を被ってしまいます。
Ⅰサムエル記を読みましょう。[31:1-31:7]国が内部分裂している時は、危険な時間帯です。それは、今日のウクライナにも見られたことでした。国家が右に揺れ、左に揺れているうちに、虎視眈々と獲物を狙っていた隣国の介入を呼び込んでしまいました。しかし、今は、その愚かさに気づき、民族一丸となって戦っているようです。
時を経て、ダビデは全イスラエルの王となりました。[Ⅱサム5:1-5:4。]しかし、隣国ペリシテは、ダビデが全イスラエルの王となり、まだ国をまとめきらないうちに、強国化しないうちにと、戦争をしかけてきました。二、三日で首都キーウを攻め落とし、傀儡政権樹立を目指したウクライナの隣国のように。[Ⅱサム5:17-5:25]隣国ペリシテの電撃攻撃は失敗しました。Aプラン、Bプラン、Cプラン等々ー手の内がすべて見透かされているかのように。それは、情報戦に失敗したウクライナの隣国にも類比される要素が散見されます。このダビデ即位直後のⅡサムエル5章の戦いの記事が、今朝の詩篇60篇の表題で言及されているⅡサムエル8,10章へと続くのです。[Ⅱサム8:1-8:14]
ダビデ時代のイスラエルは、東西南北を敵国に囲まれていました。ガリラヤ湖の北方にはアラム人、ヨルダン川東方にはアモン人、死海東方にはモアブ人、死海南方にはエドム人、西方にはペリシテ人が住んでいました。Ⅱサムエル記8:3-6に記されている戦争は、10章と11章において詳細に記されているアモン人とその同盟国に対する大戦争の中の一事件にすぎず、この時、アモン人がイスラエルを攻撃するために雇った援軍の数が非常に多かったので、ダビデの王国は、いまだかつてなかった危機に直面しました。この時に、神の助けを求めたことが詩篇60篇に結びつけられているのです。
私たちは、ダビデ物語といいますと、[Ⅱサム5:19-5:25]、[Ⅱサム8:14]、とダビデは、主に伺いを立て、主に導かれたダビデは、「向かうところ敵なし」状態での“常勝軍団、常勝将軍”というイメージを持ち、「それは、ダビデだから、そうだろう。わたしたちのような罪深い、小さな者は違う」と受けとめてしまいます。
しかし、ダビデの詩篇の中に、[60:1-
60:3]と「国家存亡の危機」に陥った時のダビデの不安な心理がうたわれていることを知りますときに、ダビデもまた「私たちと同じように試みに」(ヘブル4:15)遭遇していたことを学ぶのです。ですから私たちは[ヘブル4:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために]、詩篇60篇のような悲痛な祈りをささげ、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。私たちは、苦境の中の祈りにおいて、人生におけるさまざまな戦いにおいて「拒まれ、破られ、怒られ」「揺るがされ、引き裂かれ」「苦しい目にあわされ、よろめかす酒をのまされ」るようなことがあるでしょう。
戦いにおいて惨敗をきし、[60:9
だれが私を防備の町に連れて行くのでしょうか]と敗残兵を退却させ、かくまわれることを求めることでしょう。マリウポリのウクライナ兵の妻や子供たちのように。[だれが私をエドムまで導くのでしょうか]と、ユーフラテス川近くの北方戦線で苦戦しつつ、スキを突かれるように起こった死海近くの南方戦線での応戦の知恵を祈り求めることでしょう。ウクライナも北方からの首都キエフ攻略、東方からの第二の都市ハリコフ攻撃、南方からの黒海海岸線の地域占領等の攻め方にも似ています。
困難な戦いの中にあって、ダビデは祭司ないし預言者から[60:6-60:7]と、“約束の地”についての神からの確証を受けます。そして、隣国との関係も整理されます。[60:8]ロシアとウクライナの二国間関係においても「“国境線”はどこに引かれるべきなのか」という問題が最も大切なようです。プーチン氏は、独特の歴史観を披歴し、「ウクライナはロシアの一部だ」「ウクライナのロシア語圏は、ロシアのものだ」「緩衝地帯として旧東欧諸国、旧ワルシャワ条約機構からNATOは撤退すべきだ」とか、ここでも諸案を提示しています。しかし、このように身勝手な歴史の書き換えを始めますと、ヨーロッパのみならず、全世界での国境線が「その時代、その時代の力ある国」によって、軍事的圧力・暴力・脅迫によって、書き換えられ続ける。血を流し続けることになるでしょう。ウクライナが「(ウクライナが旧ソ連から独立した)1991年の国境以外は知らない」と主張することは、国際問題解決の“原則”を指し示しているのではないでしょうか。世界の大半の国家は、不平不満があるとしても、歴史のある時点での知恵ある妥協の産物として現在の国境線を受け入れ合い、尊重しあうこと。そして、問題や異論があれば、武力によらず、平和裏に問題解決の知恵を模索しあうことを求めているのではないでしょうか。
ダビデは、イスラエル存亡の危機に[60:1c どうか私たちを回復させてください。60:2b
その裂け目を癒やしてください]と祈りました。四方の外敵との戦争のみならず、国内においても、サウル王朝派とダビデ王朝派、ダビデ王朝の中でも、第一王子アムノン派、第三王子アブシャロム派、最年長の王子アドニヤ派、ソロモン派等々の権力闘争が、節目節目で繰り返されました。これは、どこの国でも、どこの家庭でも、どこの教会でも起こりうることです。ですから、祈りを欠かすことができないのです。祈りの中で、ダビデは、6-8節にある“神の約束の再確証”を受け取ります。このことは、きわめて重要です。この世界は、「盛者必衰の世界」です。株価が上下するように、ジェットコースターの上り下がりを繰り返すように、世情を映し出します。しかし「驕る平家は久しからず」と言われるように、いつまでも繁栄は続きません。そのような不安定な世界で大切なことは、「神の義に基づく大義」です。わたしの場合は、「神の義に基づく健全な福音理解」です。一時的な敗北は、大した問題ではありません。長い目で見るとき、黙示録のヨハネのように「天からの視点」で物事を見るとき、「神の義に基づく健全な福音理解」が勝利を収めることは確実と信じているからです。今は、所属教派・所属神学校で少数派であるとしても、わたしは「神の義に基づく大義」のあるところに、[60:4
あなたは、あなたを恐れる者に旗を授けられました。弓から逃れた者をそこに集めるために]とあるように、「神の大義の御旗」の下に志のある人たちが集められることになると信じているのです。ウクライナも、大国に蹂躙され、「二、三日もつか」と見られていたのに、属国的な立場での平和と繁栄を拒否し、犠牲を払って[ガラ5:1ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい]とあるように、「真に独立した民主主義と言論の自由と基本的人権等の尊重された国」を確立するために血を流して戦っています。
このような戦士、このように勇敢な国民をわたしたちは再び目の前にしています。巨人ゴリアテの前に立ちはだかった、五つの小石を携えたダビデのように。ゴリアテは[Ⅰサム17:9]イスラエルをペリシテの奴隷国家、属国にしようとしました。多くのイスラエル兵が恐れおののく中、ダビデは[Ⅰサム17:32]毅然として立ち上がります。
このダビデのような勇気を、ウクライナの国民の中に人々は、見たのでしょう。大国ロシアの核戦力と軍事力に恐れおののいていたヨーロッパの国々は、次々とウクライナ国民の背後で立ち上がっていきました。フィンランドのような「属国的地位」に甘んじていた隣国も、多くの国々の支援のもとに、スウェーデンとともにNATO加盟を申請しました。属国的地位に置かれているロシアの同盟国も、ロシアから距離を置こうとしているように見えます。恐怖による支配は永遠には続きません。このような「大国の脅迫」からの解放を願う国々の勇気の源とは何なのでしょうか。下手をすると、国土が蹂躙されたアッシリア捕囚やバビロン捕囚のような苦難を背負うことになりかねないという局面で、「五つの小石を握って、巨人の前に立ちはだかる」ーそのような勇気はどこから来るのでしょう。
わたしは、そのような世界の人々を、世界の国々を奮い立たせる勇気は、詩篇60篇に見られる、“あらゆる危機存亡のただ中”でささげられる祈りから生まれるのできないかと思うのです。V.1-5で、苦境が叫ばれ、回復と癒し、救いが祈られます。V.9-12で、戦いに惨敗し、[60:10
神よ、あなたご自身が私たちを拒まれるのですか。神よ、あなたはもはや私たちとともに出陣なさらないのですか]と絶望の祈りが、神に対する問責の告発がなされます。しかし、このような苦境の只中で、「神の義に基づく約束」がv.6-8の真中に響き渡っています。そうなのです。「福音」とはこのように力あるものなのです。
福音は、デュナミス“力”です。その昔、讃美グループで「デュナミス」というグループがありました。ダイナマイトの語源ともなった言葉です。[ロマ1:16]わたしは、個人であれ、国家であれ、「真の独立、民主主義、言論の自由、基本的人権の尊重等」には、キリストにある福音の普遍的本質から派生したものを見ています。そのような視点から、わたしたちはウクライナの「真の独立、民主主義、言論の自由、基本的人権の尊重等」のために祈り、またロシア国内の歪んだ独裁者からの「真の独立、民主主義、言論の自由、基本的人権の尊重等」のために祈るのです。
[60:11 どうか(独裁者)から私たち(ウクライナの国民とロシアの国民)を助けてください][60:12
神にあって、私たちは(ウクライナとロシアの真の独立、民主主義、言論の自由、基本的人権の尊重等の確立に向かって)力ある働きをします。神が(独裁者)を踏みつけてくださいます]と。私たちも、それぞれが置かれた歴史的状況と場所で、ダビデのように、ウクライナの人々のように、“真に勇気ある生き方”を選び取っていきたいものです。詩篇60篇の祈りを自らの祈りとし、あなたと、あなたの周囲におられる人々の生活を存在を生き方を変貌させる“神のデュナミス”とされていきたいものです。[あなたは、あなたを恐れる者に旗を授けられました]とあるように、神は、あなたに、あなたの人生に「神の義に基づく大義の御旗」を授けられます。それでは、祈りましょう。
(参考文献:
デレク・ギドナー著『詩篇1-72篇』、甲斐慎一郎著『サウルとダビデの生涯』、高橋三郎・月本昭男共著『エロヒム歌集』)
2022年5月15日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇59篇「ダビデを殺そうとサウルがその家の見張りをしたときに」ー今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます-
https://youtu.be/S14JCi46mMY
詩篇は、神の民数千年の歴史の中で唱えられてきた祈りです。この祈祷集は、英国国教会の祈祷書にありますように「あらゆる種類の、あらゆる状況にある人々」のために提供されている祈祷集です。私たちは、この祈祷集たる詩篇の中に、「共通の経験」を探り当てて生きていくように、そのようにして神の民の歴史に蓄積された祈りに「溶け合わせられ、重ね合わせられ」生きていくように招かれているのです。それは、「祈りの生活」を豊かなものとするためであり、私たちの山あり谷ありの人生を「神の中に」掘り下げていくためです。このために、私たちはまず「詩篇に書かれているものを注意深く見る」ことが大切です。そして次に「私たち自身の生活の中で起こってきたことを注意深く観察していく」ことが大切です。今朝は、そのような視点をもって、詩篇59篇をみてまいりましょう。
今朝の詩篇には[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに]という表題がつけられています。それは、詩篇編纂者が、この詩篇の内容の[59:1
私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。59:2
不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください]という懇願の祈りを、サムエル記第一の19章の記事と結び付けたことを意味しています。それは、[Ⅰサム19:11
サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」19:12
そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。]という記事です。
[Ⅰサム19:1
サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた]とあるように、サウル王はダビデを殺す決意を知らせ、一度は、ヨナタンのとりなしで翻意するも、[Ⅰサム19:9
わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。19:10
サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。]
さらに20章では、ダビデをかくまう息子ヨナタンに対してまでも、[Ⅰサム20:30
サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。20:31
エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」20:32
ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」20:33
すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った]とあります。
詩篇は、ある意味で「ジグソーパズルの断片集」です。詩篇59篇は、[A. 懇願: 敵の攻撃からの救い、B. 糾弾:
夕暮れの犬のように、C. 信頼: わが力なる慈愛の神、A’. 懇願: 呪い欺く敵の自滅、B’. 糾弾:
夕暮れの犬のように、C’. 歓呼:
わが力なる慈愛の神]の祈りの断片集なのです。それらのパズルには、欠けたパズルが多くあり、その空白部分は、「私たちの独自の経験」で埋めることができるように空けられているのです。数世紀にわたる祈りの集積から生成されてきた祈りは、特定できる部分は多くありません。それらは、祈りの輪郭だけであり、またエッセンスだけなのです。これは、ある意味で「薬」のようなものです。薬は、薬そのものでは意味をなしません。薬は、それに適合する「病」に対して効果を発揮するのです。
詩篇編纂者は、この詩篇59篇という「薬」の対象を示唆しています。
それは表題の[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに]という状況です。ダビデは、[59:3
今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。【主】よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。59:4
私には咎がないのに彼らは走り身構えています]と無実を主張しています。なぜなら[59:7
ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです][59:12
彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに]と、ペリシテとの戦いに成果をあげればあげるほど、サウル王には猜疑心が溢れ、サウル王の側近の「イエスマン」たちの雑言にもより、窮地に追いやられます。このようなことは、わたしたちの世界でも時折みられることです。
そうなのです。[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをした]ーそのような窮地・問題・課題に追い込まれるときに、私たちはこの詩篇の一部もしくは全部を用いて祈るように招かれているのです。ダビデは、つい先ほど[Ⅰサム19:9
わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。19:10
サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた]ばかりでした。そして、あわてふためいて妻ミカルとの新居に逃げ帰り、ミカルに「おまえの父親に殺されるところだった!」と言ったでしょう。
ミカルは、最初は「まさか、愛する娘の夫に、父サウルがそんなことをするはずはないでしょう」と一笑にふしたことでしょう。ダビデは、武将としての感として、寸分寸暇を惜しんで逃亡の身支度をしておりました。ミカルは「そんなことをしなくても、大丈夫ですよ」と言いながら、窓の外をちらりとうかがいみると、多くの兵によって包囲されつつあることを見ます。その瞬間ミカルは、状況を理解するに至ります。愛する夫ダビデに[Ⅰサム「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」]と告げ、封鎖された玄関の門と裏門は無理と判断し、目立たない通りにある窓を見つけ、ここは今なら大丈夫でしょうと、[19:12
ミカルはダビデを窓から降ろし]、ダビデの逃亡を助けました。さらに、[19:13
ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。19:14
サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った]と、寝ているように使者たちに見せかけ、それでダビデが遠くまで逃亡できるよう時間をかせぎました。サウルは、仮病を疑い、[19:15
サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」]と命じます。使者たちが、玄関のドア、部屋のドアを打ち破り、強行突破して[19:16
使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった]ーこのようにして、ミカルのおかげで時間をかせぐことができたダビデは、なんとか無事に逃亡し、サムエルのところにまいります。サウルは神から退けられているのに、いまだに王座にいます。ダビデは隠されたかたちで次の王として油注がれていますが、命からがら逃亡の身です。これが、神の国のパラドックスです。いつの時代でも、人は「外」を見ますが、神は「内」を見られる方です。
[Ⅰサム20:3
私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」]と、告白します。わたしは、ダビデのこのような危機のただ中の叫びとして祈りがあるのです。これは、私たちに祈りの道を開く鍵です。「あなたは、あなたの人生において、このような危機的局面に出会ったことはありませんか」という問いかけです。
私たちは、流れる川の水のように、「今流れている川のせせらぎ」しか目の前にはありません。しかし、私たちの「人生という記憶の宝庫」には、実は詩篇集が蓄えられているのです。おそらく、あなたも「人生の危機的局面」において、「娘の婿として迎え入れられながら、槍で壁に突き刺そう」とされたり、「娘との新居を包囲されて袋の中のネズミ」とされ「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」という恐怖にさいなまれる、大小の一瞬を経験されたことがあるのではないでしょうか。それは、ダビデのような経験に「外形的一致」を探し求めているということではなく、「霊的・本質的一致」を探し求めているのです。私たちが、時々「悪夢」という記憶の一シーンを呼び起こすのは、そのような瞬間を記憶しているからです。
このように、霊的・本質的一致のある危機的経験の一シーンを探し求めていくとき、詩篇集は「私たちの人生の記憶の宝庫」となります。新約のヘブル書に[10:7
『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります]とあるようにです。私たちは、私たちの人生の危機的局面を、詩篇のジグソーパズルの欠けた「空白部分」に書き込みましょう。その字句の隙間、隙間に、「あなたの危機的局面」を書き添えるのです。詩篇集は、あなたの、あなたの人生の「記憶の宝石箱」と変換していくのです。これは、大きな恵みです。悪夢が、ダビデの生涯のように「主がともにいてくださった危機」に変換されていく恵み、ヨセフの生涯のように「祝福された記憶」へと変えられていく恵みとなるのです。
私たちを取り囲む問題・課題は、夕暮れ時に徘徊する犬に譬えられ[59:14
彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回り、59:15
食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明か]すと表現されています。夜半の街中を徘徊する野犬の群れは恐怖です。私たちの人生には「「娘の婿として迎え入れられながら、槍で壁に突き刺そう」とされたり、「娘との新居を包囲されて袋の中のネズミ」とされ、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」というような恐怖に包まれる瞬間が、形を変え品を変え、何度も訪れることでしょう。であるからこそ、私たちは繰り返し、繰り返し[59:1
私の神よ私を(問題・課題)から救い出してください。向かい立つ(問題・課題)よりも高く私を引き上げてください。59:2
不法を行う(問題・課題)から私を救い出してください。人の血を流す(問題・課題)から私を救ってください。59:3
今しも(問題・課題)私のたましいを待ち伏せし、力ある(問題・課題)は私に襲いかかろうとしています。]と祈り続けるのです。
過去であれ、現在であれ、未来であれ、人生の危機的局面ではいつでも、ダビデのように祈り、叫ぶものとされましょう。ダビデは、そのように祈り生きるよう、励ますために与えられたサンプルなのです。では、祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅲ』、W.ブルッゲマン著『サムエル記上』、『詩篇を祈る』)
2022年5月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇58篇「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる」ーウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて-
https://youtu.be/5796eDwC7Ww
今朝の詩篇58篇は、「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇のひとつです。58:10には
[正しい人は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗う]という過激な表現があります。また呪いの詩篇の最も顕著な例は、詩篇137の結びの句です。それは、紀元前587年にユダ王国を滅亡させたバビロニア人と、エルサレムの略奪に手を貸したエドム人(オバデヤ10-14節)に対して、復讐を求めて叫ぶ民の歌です。[詩137:7
【主】よ思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。137:8
娘バビロンよ、荒らされるべき者よ。幸いなことよ、おまえが私たちにしたことに仕返しする人は。137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ岩に打ちつける人は。]と。なんという激しい言葉でしょう。人権尊重の21世紀に、特にか弱い女性や幼い子供に対するこのような表現はゆるされない今日であります。このような「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇を、新約のキリスト者としてどのように受けとめたら良いのかということは、詩篇を傾聴するものにとって大きな課題です。
ただ、言えることは、このような詩篇の嘆きの歌が、人間の苦悩の底から、残酷さや憎悪の感情がえてして湧き上がる深淵から生じてきたことは容易に理解できます。旧約聖書が全体としてそうであるように、人間生活のあらゆる情念や激情がそのままここに表現されているのです。詩篇は、真善美の理想的で超歴史的な、極楽浄土を示しているのではありません。むしろ詩篇は、変化と闘争と苦難に満ちた、歴史的状況に関わるものなのです。先に示しました詩篇137篇は、弱小の民族が大帝国の軍隊に蹂躙され、今まで大切に保ってきた一切を、またたく間に奪い取られた苦難に満ちた歴史的状況に由来しています。このような「紀元前587年にユダ王国を滅亡させたバビロニア人」の情況に類するものを、私たちはこの21世紀のウクライナのブチャに、マリウポリに見ています。そのような視点をもって、今朝の詩篇をウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて見てまいりましょう。
新約の光に生きるクリスチャンは、「呪い」または「呪詛」と呼ばれてい詩篇を無反省に唱和することはできません。しかし、同時に、この詩篇58篇や詩篇137篇等が、現代社会においても数多くの並行例を持っていることを、ゆめ忘れてはなりません。チェチェンのグローズヌイ、シリアのアレッポでも残虐な殺戮がなされました。ジョージアの一部、モルドバの一部も占拠されています。クリミア・ルハンスク・ドンパスの地域も切り取られようとされています。そして、マリウポリ、キーウ、ウクライナ全土も標的にされました。このような状況下で、わたしたちにはどのような祈りが与えられているのでしょうか。
問題は、ロシアのように人類全体を絶滅させる核兵器をもつ強国の前で、わたしたちはどのような主張をもつことができるのか。わたしたちはどのような祈りをもつことができるのか、という問いなのです。私たちは、「核戦争」の恐怖・脅迫の前に膝を屈し、ウクライナを、そして東欧諸国を差し出し、「偽りの平和」を謳歌すべきなのでしょうか。それとも、常任理事国のひとつであり、核大国であるロシアに対して、その不当な領土要求に対し、[58:1
力ある者(ロシア)よ、おまえは本当に義を語り、人の子らを公正にさばくことができるのか。力ある者(ロシア)よ、58:2
実におまえは、心で不正を働き、地で手の暴虐をはびこらせている]だけではないのか、と自由と民主主義の最前線に立って戦うウクライナの人々とともに、神の義に立脚し、ロシアの不正と暴虐に立ち向かうべきなのではないでしょうか。ウクライナのために祈り、とりなすべきなのではないでしょうか。
御しがたい核大国ロシアの大統領プーチン氏には、彼の大統領選出の経緯においてすら大きな疑惑にまみれています。無名のプーチン氏が一躍有名になり、突如大統領に当選した背景には、その直前に頻発した集団住宅の連続爆破事件があり、そこから生じたチェチェン人に対するロシア人の憎悪がプーチン首相のチェチェン壊滅の力の源となり、第二次チェチェン戦争で勝利したプーチン氏は一躍国家的ヒーローとなり、大統領に当選したのでした。この戦争で味をしめたプーチン氏は、メディアを支配し、脚本を作成し、選挙と戦争を見事にからめて独裁者としての地位を固めていきました。ロシア国民をひとつにした「集団住宅の連続爆破」そのものが、元FSB(旧KGB)長官であったプーチン首相が仕組んだことだと疑われているのです。もし、これが真実だとしますと、[58:3
悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。]
とあるように、プーチンは「大統領選出」の出発点から、「踏み迷い」「さまよい」ロシア国民を欺いていることになるのです。
エリツィン大統領の混乱期を引き継いだプーチン氏は、その大統領としての「その出自」から、今日の「ウクライナ侵攻」に至るまで、
FSB(旧KGB)長官の[58:4
蛇の毒のような毒]と策略によってロシア国民を欺き、民主主義や言論の自由を抑圧し、他の意見には[耳の聞こえないコブラのように耳を閉ざし]、58:5
[聞こうとしない]
の思考の中で生きているのではないでしょうか。しかし、いまやプーチン氏の偽りの数々は、全世界に明らかとされるようになってきています。「人を一時的に騙すことはできても、永遠に騙し続けることはできない」と言われる通りです。隣国ウクライナに無理難題を強制する独裁的指導者に対し、欧米中心に、今や世界の大半の国々が、[58:6
神よ、彼ら(ロシア)の歯をその口の中で折ってください。【主】よ、若獅子たち(プーチン)の牙を打ち砕いてください。]と大量の武器や経済的協力を提供するようになっています。世界を敵に回して、ロシアに勝ち目はないでしょう。
ロシアの巨大な軍事力に対することにしり込みしていた欧米は、最初は「三日程度で首都キーウは陥落し、ゼレンスキー大統領は亡命するのではないか」と見ていたようです。しかし、ウクライナは不意に襲われ、奪われた2014年のクリミア制圧以後、さらなる侵攻があると予測し準備していました。分裂していた国論もひとつとなり、ロシアによる侵攻阻止のために国民は一丸となりました。ウクライナは、二ヶ月あまり持ちこたえているだけでなく、北部は押し返し、撤退に追い込みました。欧米の支援は、経済封鎖から、軍事支援にレベルをあげていき、今や五月下旬には失地回復の反抗ができうるまでに兵器が整うと見られています。今や、「ロシアの属国とされるかもしれない」という絶望は、「民主主義と言論の自由のある独立国家達成」の希望へと変わってきています。ウクライナは、欧米の軍事的・経済的支援を得て、[58:7
(侵攻しているロシアの軍隊)が流れ行く水のように消え去り、(欧米の経済封鎖の)矢を放たれるとき(ロシア経済が)干上がりますように。][58:8
(ロシアの軍事力)が溶けて消え行くなめくじのように、日の目を見ない死産の子のようになりますように]と祈る希望をもちうるまで励まされています。今回の侵攻で、ロシアは経済も、軍事力も二度と侵攻できないほどに弱体化していくことでしょう。ロシアの占領軍は、いずれの日にか[58:9
釜が茨の火を感じる前に、それが緑のままでも、燃えていても等しく(ウクライナの地から)吹き払われ]、撤退せざるをえなくなるでしょう。
そのとき、[58:10
(ウクライナの人々、また自由と民主主義を求める人々)は、復讐(すなわち、ロシア軍の撤退)を見て喜]ぶことになるでしょう。多大な被害を与えたロシアは、ウクライナに対する莫大な賠償金を支払うことなしに、国際社会に受け入れられることは困難となるでしょう。兵のみでなく、多くの市民、老若男女、子供たちの犠牲を強いられましたウクライナの人々の足は[悪しき者の血で洗う]と表現されているように、(不法侵入し、支配を強制しようとしたロシア兵もまた多大な死傷者)を出したことも記憶されるでしょう。それは、偉大なソビエト連邦復活の野望を抱いたただひとりの愚かな独裁的指導者によって、ウクライナとロシア双方にもたらされた、測り知れない人災なのです。そのようなプーチン氏には、いずれ審判が下されるでしょう。ウクライナの勇敢な人々とその子孫には報われるときが訪れるでしょう。「言論の自由と民主主義のあるヨーロッパをいのちがけで守った人たちがいた。それは、勇敢なウクライナ人たちだ」と人類の歴史に刻まれるでしょう。[58:11
こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」]と。
今朝の詩篇58篇は、「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇のひとつです。今朝の詩篇をウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて見てまいりました。このように、
「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇も、わたしたちの今日の情況に適用できるのです。ウクライナの事象のだけでなく、私たちの日ごとの出来事においても、これらの詩篇を適用しうるものとされるようになってまいりましょう。では、祈りましょう。
(参考文献: B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年5月1日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇57篇「私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます」ーダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに-
https://youtu.be/uxoNRsPbgzU
コロナ禍が収束したわけでありませんが、時は「コロナとの共存」の時期へと入ったようで、私たちの所属団体の春期聖会も久しぶりに再開され、「同窓会」で出会うかのように、多くの先生方や兄弟姉妹と再会し、挨拶を交わすことができました。知己の顔を見ますと、「古いアルバム」が開かれ、「数々の過去の祝福の思い出」がよみがえってきます。それらは、私たちの「主にある人生の財産であり、宝石箱」のようなものです。さて、私たちが取り組んでおります「詩篇傾聴」もまた、神のみ言葉である聖書を「座右の書」として生きる「信仰者のアルバム」です。私たちが「詩篇に傾聴する」とは、その「アルバム」の中に、私たちの人生を、さまざまな経験を、涙と喜びを、痛みと感謝を、数々の辛い経験とその中でいただいた濃厚な臨在の祝福を「詩篇の中に持ち込み、自由闊達な想像力を展開」し、詩篇の言葉の助けを得、私たちの人生のここかしこに散りばめられている「主からいただいた宝石の原石」のような思い出を「研磨」し続けるということなのです。詩篇傾聴とは、自らの思い出の原石を「研磨機」にかける作業のことなのです。では、今朝の箇所を朗読させていただきます。
詩篇57篇は、[ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに]という表題が掲げられています。それは、この詩篇の内容から、その想像力の翼をはばたかせる上で、「サウル王のあくなき追撃を、きわどく、かろうじてかわし続けるダビデの姿」が重なるからです。この詩篇の祈り、叫びは、マリオポリの地下に封じ込められ、猛烈な爆撃を受けているウロライナの兵隊や市民の情景とも重なります。繰り返し傾聴しますとき、この詩篇は前半と後半で、音の旋律が変化していると気づかされます。前半は嘆きの歌であり、後半は感謝の歌で構成されています。これは、クリスチャン生活のもつ光と影の二面性をも示しています。クリスチャン生活には、光だけということも、影だけということもありません。一日に「夕があり、朝がある」ように、クリスチャン生活においても「影の局面があり、光の局面がある」のです。
詩人は、[57:1a
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]と、自らが置かれている状況のただ中から叫んでいます。それは、サウル王の精強な軍隊に追い詰められ、洞窟の中に逃げ込み、「袋の中のネズミ」となったダビデと少数の家来たちの姿でもありました。人生には、至る所にそのような洞窟があります。ダビデの物語をみますとき、ダビデは「私も、もはやこれまでか!」と思ったのではないかと思われる場面が幾度も出てきます。それは、いわば明智光秀の軍隊に包囲された「本能寺で果てる織田信長」のようにです。信長は「もはや、これまで!」といさぎよく切腹をし、首を敵の手に渡さないようにと屋敷に火をはなちました。ダビデは、[57:1b
私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。]とただただ主により頼みます。危機の極限、絶体絶命のピンチ、滅びるばかりに追い詰められている洞窟の奥に潜み、希望を捨てずに戦っているのです。キリスト教信仰とは、「希望という酸素」を呼吸しつつ生きる信仰であると言われます。
ダビデは、なぜこのように偉大な信仰をもつことができたのでしょう。敵に対する時だけではありません。味方にも殺されそうになりました。[Ⅰサム30:6
ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出した]ことがありました。皆さんは、家庭の中で、親族の中で、教会の中で、また団体の中で、神学校の中で、さまざまなレベルの摩擦・軋轢・意見の相違・対立に直面されることがあるでしょう。地上にあるものは、不完全で発展途上にあるものだからです。「私心なく善良な心でなしたことも、悪によって報いられる」と感じることもあるのです。[しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。30:7
ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。30:8
ダビデは【主】に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」]と。ただ、問題が発生することが問題なのではありません。第一の問題が片付けば、第二の問題が目に付くようになります。第二の課題が片付けば第三の課題が頭をもたげてきます。大切なことは、どのような状況下でも「主に伺いを立てつつ生きる」ことであり、コロナと共存していくように、さまざまな問題と共存し、主に依拠してそれらの問題をひとつひとつ乗り越えていくということです。ダビデから教えられることは、ダビデが主との、いわば「ホットライン」を駆使していることです。ちょうど、弱小のウクライナの軍隊が、世界的強国のロシアの攻撃から国土と市民を守る際に、イーロン・マスク氏から[57:3
天から助け]を受け「スターリンク」を活用し、大きな戦車に、小さな対戦車ミサイルで正確無比な攻撃をしかけたようにです。
私たちも、この世界、この人生のさまざまな問題・課題に囲まれ、「洞窟の奥に身を潜める」しかない場面で、神の「スターリンク」を活用することはできないのでしょうか。ダビデは、サウル王の正規軍の精鋭の囲まれ、[57:4
獅子たちの間で、貪り食う者の間で横たわ]り、[彼らの歯は槍と矢、彼らの舌は鋭い剣]のえじきになろうとしています。物音ひとつ立てても、いのちを失いかねない緊張感の張りつめる中、洞窟の奥に家来とともに身を潜めるダビデでありました。しかし、ダビデは「心の奥まった部屋でエポデを身に着け」で祈り、叫んでおりました。[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。][私のたましいはあなたに身を避けています][私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます][57:2
私はいと高き方、神を呼び求めます][57:3 神は天から助けを送って私を救い、私を踏みつける者どもを辱められます]と。
この詩篇から、ダビデの祈りと叫びの力を教えられます。私たちも、「滅び」に囲まれる時、ダビデのように「神の御翼の陰」に身を避け、祈り叫ぶ者とされたいと思います。さて、この詩篇は、わたしたちクリスチャン生活のように、「嘆き」の前半を持ちますとともに「感謝」の後半を有します。前半の、槍と矢、鋭い剣で貪り食らいつく獅子たちに囲まれた獲物の滅びという「短調の暗い旋律」から、後半の感謝と讃美の明るい長調へと移行しています。詩篇を通して教えられる祈りの特質は、嘆願者は、「神に必ず聞き入れられるという確信」をもって、「悲嘆や抑圧」のただ中から「神による解放」を待望し、[57:7
神よ、私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。]と、神の恵みのみわざを先取りし、讃美で終わるところにあります。私たちも、詩篇の助けを得て、信仰生活の中にこの二面性を耕し、開発していこうではありませんか。
ダビデは、いまだ洞窟の奥に潜んでおり、絶体絶命のピンチのただ中に置かれています。そのただ中から、ダビデは[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。]と祈り叫びます。新約ピリピ書で、パウロも申します。[ピリピ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。]と、[4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。]と。すなわち、祈りと叫びの中で、霊的な「ホットライン」が機能します。「ジリジリーン、ジリジリーン」と相手の受話器が鳴り、「通話」のサインが現れます。私たちは、[[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]とSOSのサインを送ります。
私たちの世界でも、事故が起これば119、救急車、火災が発生すれば消防車、犯罪があれば110、パトカーが緊急に駆けつけてくれます。私たちは、この地上の機能以上に、「天のスターリンク」ならぬ、「神さまとのホットライン」の活用をダビデから学ぶべきではないでしょうか。ダビデは、いまだ[57:6
彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。]と、洞窟の奥で、うなだれています。しかし、祈り叫んだ後には[彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。]と「神さまが必ず絶体絶命のピンチから救い出し、立場を逆転させてくださる」という確信を表明しています。戦いにおいては、「勝利しうるとの確信」を抱く側に、「勝利の女神はほほえむ」と言われます。これが信仰生活です。これが祈りの機能です。三日で陥落すると見られていたウクライナの首都キーウは、持ちこたえただけでなく、押し返し、退却させ、その犠牲を惜しまぬ勇気に奮い立たせられた西側の国々は「ウクライナは勝つだけでなく、奪われていた地域も奪還して勝利するかもしれない」と希望を持つようになってきています。犠牲、信仰、希望の力を教えられます。
[57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]の暗い短調の嘆願は、[57:7
神よ、私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。]との明るい長調の感謝・讃美へと移行させられるのです。神の救いを確信したダビデは、洞窟の奥に身を潜めつつ、心の中で、心の奥底から[57:8
私のたましいよ、目を覚ませ。琴よ、竪琴よ、目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。]と暗闇が明けはなたれる朝明けを間近に意識しています。預言者サムエルを通し真実な「油注ぎ」をダビデに与えられた神は、「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」も、この約束への確信を再確証し、[滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避け]させてくださったのです。
神が、人生の春の嵐の日に、わたしたちを洞窟の奥にかくまい、その暴風雨が過ぎ去るまで、護ってくださいますように。ウクライナがロシアの侵攻の嵐から護られ、御翼の陰に身を避けさせてくださいますように。知床岬の観光船で亡くなられた方々、また遺族の方々の上に主の慰めがありますように。お祈りしましょう。
(参考文献: ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年4月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇56篇「まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから」
ーダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた-
https://youtu.be/w4a9rPHu2GY
今朝の詩篇56篇は、「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに」という表題がつけられています。詩篇編纂者は、この詩篇の内容から、ダビデにとっての最大の危機、最大の岐路のひとつをこの詩篇の「祈り、状況・理由、信頼の告白、誓約・感謝」と結び付けたのです。ということは、私たちがこの詩篇を傾聴し、祈る際に、私たち自身の生涯における「危機・岐路」と結び付けて祈るよう、状況と理由を重ね合わせて祈るよう、信頼・感謝・誓約の告白へと展開させるように、励ます詩篇であるのです。そのような視点をもって、この詩篇に傾聴してまいりましょう。では、朗読いたします。
まず、表題「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに」をみてまいりましょう。ダビデの生涯を振り返ります。ダビデは8人兄弟の末っ子で羊の番をしていました。神は、預言者サムエルを遣わし、ダビデに油を注がれ、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しくくだった」(サムエル記第一16:12-13)とあります。その瞬間から、サウル王はおびえるようになり、やがてダビデ殺戮を追い求めるようになりました。それは、新約でイエスがヨルダン川でバプテスマを受け、御霊が鳩のように下った後、「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられ…。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた」(マルコ1:9-13)ようにです。ある先生が「クリスチャンが肉的に生きている時、サタンは庭先で昼寝をしているが、クリスチャンが聖霊に満たされるとただちに起き上がってくるので、戦いが始まる」と。
ダビデは、不思議な神の御手で、やがて仇敵となるサウル王のもとで竪琴をひく者とされました。小さなことに忠実なダビデは、王宮で、政治を学ぶ機会が与えられたことでしょう。(サムエル記第一16章)また、そのようなダビデを引き立てる舞台が用意されました。その背の高さは六キュビト半(2m86cm)もある「ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人」(サムエル記第一17:23)でした。この巨人の勇士ゴリアテを「五つの滑らかな石」と石投げを用いて、打倒したのでした。その後、戦士の長とされたダビデは、連戦連勝し、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と言われるようになりました。サウル王の、ダビデに対する殺意は頂点に達し、あらゆる機会を捉えて亡き者にしようと画策するようになりました。
ダビデは、サウル王の娘ミカルやヨナタンの助けも得て、いのちからがら逃げおおせていました。ダビデには、多くの理解者、支持者がいたことを教えられます。神さまは、「義にある者」に対し、数多くのシンパ層を備えてくださいます。そして、先日言及しましたノブの祭司、アヒメレクとの出会いの後、「ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た」のでした。ダビデはサウル王の敵意に追われて、イスラエルの中に身の置き所のない窮地に陥っていました。その結果として、本来イスラエルの宿敵でありましたペリシテ人の地に脱出したことは、ダビデの苦境がいかに追い詰められたものであったかという事情を示しています。いわば万策つきて、ダビデは敵の本拠に潜入したのでした。しかし、そこでイスラエルの勇将ダビデであることを見破られ、捕縛されてしまったのでした。
そのときに、捕縛したダビデを連れてきて[Ⅰサム21:11
「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」]とアキシュの家来たちはアキシュに告発します。ダビデは、この言葉の意味を一瞬にして悟ります。「このままでは、ペリシテの最大の脅威の人物として殺される」と。[21:12
ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた]とあるように、わたしたちは展開していく人生のさまざまの状況の中で、そのときそのときの「言葉の意味を瞬間的に洞察」するということは大切なことだと思います。それによって、私たちの人生というドラマの展開は大きく変わることになるからです。岐路に立ったときに、「主の本質的なみ旨」がどこにあるのかを洞察する力のことです。
このことに関連し、ひとつのことを申しあげておきましょう。わたしは、拙訳のエリクソン著『キリスト教教理入門』のある個所(p.321-322)から大きな助けを受けてきました。そこでは、ハイデガーという哲学者の「非本来的実存と本来的実存」という考え方が示されています。そしてブルトマンという神学者は、その概念を応用し、救いとは、神が本来的に意図されている「真実なる自己自身に呼び出す」ことであると定義しています。そしてカール・バルトという神学者は、福音を「義認・聖化・召命」という範疇で捉え、「義と認められ聖化されたキリスト者は、今やキリストのみわざに参与すべく、証人たるべく召されている」(H.ベルコフ著『聖霊の教理』p.143)と解説しています。ヘンドリクス・ベルコフという神学者は、「聖霊は義認においては、われわれの中心を占有するが、聖化においては、われわれの人間性の全領域を占有する。そして、われわれの中に満ちることによって個性を占有する」と整理し、「この個性というのは私だけが持つ特別なしるしであり、生全体のために私がなすべき特別な貢献である」(前掲書、p.142)と述べています。
わたしが、今朝この詩篇から傾聴したい「v.4,10
みことば」ーすなわち、神の御思い、神の約束、神の導きは、ここにあります。神により選び出されたダビデは、まずサウル王からの追撃を受け、さらに宿敵ペリシテの王に捕えられる身ともなりました。「もはやダビデの人生はこれまでか」と思われた絶体絶命のピンチで、ダビデは、[56:1
神よ、私をあわれんでください。]とA.
祈り、サウル王やアキシュ王が[私を踏みつけ、一日中戦って、私を虐げているからです。56:2
私の敵は、一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです]とB.
状況・理由を説明しています。これらは、ダビデの心の中の叫びでありました。私たち、大小の危機において、常に「ダビデのように、神に向かい、心の中で思い切り叫ぶ」ことを学びましょう。
また、[56:5 一日中彼らは、私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私に対する悪です。56:6
彼らは襲おうとして待ち伏せし、私の跡をつけています。このいのちを狙って。56:7
不法があるのに、彼らを見逃されるのですか。神よ、御怒りで国々の民を打ち倒してください。]と、 B’.
理由・状況を説明し、[56:8
あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。]と、苦汁・苦境の中で悶々とする思いを、A’.
祈り、開陳しています。
ダビデは、[Ⅰサム21:11
「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」]という言葉が、「将来、ペリシテにとって、最大の脅威となりうる勇士、将来のイスラエルの王ダビデの首は、今取っておかねばなりません」と聞こえたことでしょう。そのような絶体絶命の状況のただ中での祈り・叫びは、ひとつの洞察をダビデにもたらしました。ダビデは、アキシュの家来の言葉を聞いた瞬間に「神からの知恵」をいただき、恥も外聞も気にせず、[Ⅰサム21:13
ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした]のでした。なんという機転でしょう。なんと機敏な反応でしょう。このような洞察・機転・機敏な反応に学びたいものです。
これは、巨人ゴリアテを倒した羊飼いダビデ、ペリシテに連戦連勝した戦士の長ダビデ、油注がれた将来の王ダビデのいのちを救う唯一の「脱出の道」(Ⅰコリント10:13)でありました。そのよう逃れ道を一瞬のうちに見出すダビデに舌を巻きます。このようにして、ゴリアテの故郷ガテの王アキシュは、「ペリシテにとっての最大の脅威となるダビデ」を取り除く千載一遇のチャンスを失います。ダビデは、外国に逃避する計画をあきらめ、イスラエル国内の荒野やほら穴を転々とする、困難な逃亡生活を続け、サウル王の巨大な正規軍との戦いには、ウクライナ国民のようにゲリラ戦術での防戦にあたります。そのことにより、すぐにも吹き消される「ほのくらい灯芯」のようであったダビデのいのちは死から救い出され、ダビデの足はつまずきから解放されることとなりました。そして、ひそかにイスラエル国民に浸透し続けていた「ダビデの灯」はやがてイスラエル全土をおおう光として輝く日が訪れます。なので、「神の義」が私たちの側にあれば、恐れることはありません。あわてることも必要ありません。瞬間瞬時を大切にし、主の導きに丁寧に応答していくだけで良いのです。これは、「主の戦い」であり、「私の、私的な戦い」ではないのですから。
わたしたちの人生には、[56:3 心に恐れを覚える日]があります。悶々とする[56:8
私のさすらい、私の涙の日々は神の皮袋に蓄えられ、神の書に記され]ています。そのような日々に今朝の詩篇とダビデの物語は助けとなります。私たちが人生の岐路にさしかかる時、また私たちが絶体絶命の危機に陥る時、[ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたとき]を思い起こしましょう。私たちも、「人生の“ガテ”」で捕らえられる時があるでしょう。絶体絶命のピンチがあったでしょう。そのような時に私たちは、恐怖に包まれつつも、心の底から、ダビデのように祈りましょう。叫びましょう。[56:1
神よ、私をあわれんでください]と。
恐怖のただ中でダビデのように[56:3 心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します]と [56:9
私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを]告白しましょう。そして、神さまが人生の岐路において、あなたの召命と賜物を守り、その人生の針路を「神のみ旨」に沿う方向に導いてくださることに感謝をささげましょう。[56:13
まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに、神の御前に歩むために]神さまは、あなたの救いの神です。罪を赦し義と認め、心と生活を聖化し、さらにあなたの存在と人生を聖霊で満たし、個性と賜物を成熟させ、あなたに対する、あなたの人生に対する「神のみ旨」を実現してくださいます。
今、心に響きますのは、わたしの愛好する『ウエストミンスター小教理問答書』[問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか]であり、[答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである]です。私たち人間は、人間世界における「成功の尺度」で神の栄光を測ろうとする傾向があります。しかし、神さまの「栄光の尺度」は人間世界の尺度を粉砕します。神さまの「栄光の尺度」は、もっと多彩であり、もっと多様です。人類75億人としますと、75億通りの人生のドラマがあり、75億通りの「栄光のあらわし方」があるのです。
神さまは、あなたを救い、義とし、聖とし、召し栄光を現わすものとされています。あなたは、人生の岐路に立つとき、これを妨げるものと戦わなければなりません。召命が危機にさらされると察知するときには、ダビデのようにその危機を切り抜けねばなりません。神さまは、あなたが「その本来の召しと賜物に生きる」ように、あなたの召命のいのちを死の危機から。あなたの足を召命から逸脱するつまずきの危機から、救い出し、あなたが召命に応答し、個性と賜物を成熟させ、神の栄光の光のうちに、神の御前に歩む人生に導こうとされているのです。祈りましょう。
(参考文献:
ミラード・エリクソン著『キリスト教教理入門』、ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』、高橋三郎・月本昭男共著『エロヒム歌集』詩篇42-72篇講義、ウォルター・ブルッゲマン著『サムエル記上』現代聖書注解)
2022年4月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇55篇「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」ー彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない-
https://youtu.be/owlAjDWKn_0
おはようございます。今朝は、キリスト教の暦で、イースター、キリストが復活された朝を記念する礼拝の日です。今から、約二千年前、中東のエルサレムの地でキリストは全人類の罪を背負い、十字架上でその罪の身代わりの刑罰を受け、死に葬られ、三日目によみがえられました。私たちが毎週の礼拝で「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の中からよみがえり」と唱和し、信仰告白している通りです。さて、今朝は、そのイースター礼拝の意味と重ね合わせ、詩篇55篇を開いてまいりましょう。
詩[ 55 ]
は、ダビデのマスキール[教訓詩]と表題され分類されています。この詩篇の表題は、ダビデの生涯のどの時期を想定しているのでしょうか。註解書を多々、目配りしていきますと、諸説入り乱れていると教えられます。そのような中、カルヴァンは「サウル王とダビデ」の関係の中に、この詩篇を読み解いており、わたしもその視点が最もしっくりいくように思います。この視点から読み解き、私たちに適用してまいります。
ダビデの、[55:1 神よ、私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いに、耳を閉ざさないでください。55:2
私をみこころに留め、私に答えてください。私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。]という「A. 祈り、願い」は、[55:3
それは敵の叫びと悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを降りかからせ、怒って私を攻めたてています。55:4
私の心は内にもだえ、死の恐怖が私を襲っています。55:5 恐れと震えが私に起こり、戦慄が私を包みました。]という[B.
危機的情況]の中でささげられた祈りであると理解されます。ダビデは、「密かに油注がれた王」であり、サウル王から猜疑心の対象となり、「迫害、わざわい、攻めたて」を受け、「死の恐怖、恐れと震え、戦慄」に包まれる生活へと追いやられました。そのような輪郭と本質は、わたしたちの日常生活に中にも、教会の働きの中にも、神学教育の中にも、ひいては激動する世界のさまざまな動向の中にも、応用できる要素を内包しています。
おそらくダビデは、「油注がれた王」としての召命を打ち捨てて、「C.
逃れ場へ飛び去りたい」と思ったことでしょう。召命・使命には、そのような要素が伴います。それは、ダビデ自身の野心から派生したことではなく、主のみ旨から発生したことであり、それは「逃れることのできない、背負うべく定められた重き十字架」であるからです。私たちが神学教師として生きる時、「古き皮袋に新しいブドウ酒を注ぎ込む」よう、導かれる時があります。しかし、新しいブドウ酒は発酵現象を起こし、古い皮袋は裂けるような圧力を受けることになります。「聖書のみことばによって改革された教会は、聖書のみことばによって改革され続ける」と言われる通りにです。所属している群れにおける、たゆまない「福音理解の健全化」のプロセスにおいて、常に起こりうる現象です。その時の「叫び、迫害、わざわい、攻めたて」から生じる「もだえ、死の恐怖、恐れ、震え、戦慄」は、使命に生きる者が背負うべき重き十字架です。そのような時、ダビデのように[55:6
私は言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。55:7
ああどこか遠くへ逃れ去り、荒野の中に宿りたい。セラ55:8
嵐と疾風を避けて、私の逃れ場に急ぎたい。」という思いが去来することでしょう。ある人は、問題・課題を棚上げにし、先送りしようとします。しかし、果たしてそれは「主のみ旨」にかなうことなのでしょうか。そのような責任回避は、群れが宿す病状をさらに深刻にする危険はないのでしょうか。いつ、どのタイミングで、そのガンの病巣を切除する手術に取り組むのでしょうか。全身に転移した後では、「手遅れ」ということにならないでしょうか。
しかし、使命に忠実に生きんとする主のしもべは、ダビデがその「油注ぎ」から逃避することなく生き抜いたように、「D.
都にみる暴虐と欺瞞」を、問題・課題を直視し、生きていくのではないでしょうか。ダビデは、サウル王とその取り巻きの問題を見て[55:9
主よ彼らの舌を混乱させ、分裂させてください。私はこの都の中に暴虐と争いを見ています。55:10
昼も夜も彼らは城壁の上を歩き回り、不法と害悪が都のただ中にあります。55:11
破滅が都のただ中にあり、虐待と詐欺はその広場を離れません。]と神さまの視点から現実を直視し、とりなしています。私たちも、「自身の損得勘定」を物差しにするのではなく、主の御前における自分の置かれた場所を自覚し、その場所における召命・使命が何であるのかを探りつつ歩む者とされましょう。「主ご自身の損得」を物差しにして判断するなら、間違うことはありません。
ダビデは、サウル王とその取り巻きの中に、かつてダビデが活躍していた時の「私の同輩、私の友、私の親友」の姿をみて嘆いています。[55:12
まことに私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは、私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。55:13
それはおまえ。私の同輩、私の友、私の親友のおまえなのだ。55:14
私たちはともに親しく交わり、にぎわいの中、神の家に一緒に歩いて行ったのに。]と。問題の取り扱いが、課題の取り組みが、
異端とか異教とか、明白な逸脱である場合は軋轢は起こりにくいのですが、「私の同輩、私の友、私の親友」が熱心に取り組んでいる運動や教えに話が及ぶとき、摩擦・軋轢は避けることは困難です。それは、先輩を、同僚を、後輩を傷つけることにもつながるからです。しかし、これを避けることは、「誤った自己愛」に根差していると気づきません。真の友情があるなら、自らが損失を招くこと、自らが傷つくことをも乗り越えて、
「私の同輩、私の友、私の親友」の治療に、手術に取り組み、いのちを救おうとするはずです。神学教師の務めが「預言者的要素」を含むとしましたら、ごまかして「和を以て貴しとなす」ことは、己が使命を否むことになります。主のみ旨を踏みにじることにつながります。知恵は必要ですが、果たすべき使命を把握しつつ、それを土の中に埋めることはできないのです。そこには、私にしかできない使命、あなたにしか果たすことのできない使命というものがあると思います。人生の意味また価値とは、そういうものを発見し、そこで生ずる使命にどう応答いくのか、いかないのか。正面から受けとめるのか、逃げるのか、避けるのかが日々問われているものだと思います。
そのような葛藤の中で、問題・課題を真正面から受けとめ、ダビデは祈っています。[55:16
私が神を呼ぶと、【主】は私を救ってくださる。55:17
夕べに、朝に、また真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。55:18
主は私のたましいを、敵の挑戦から平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。]と。私たちの人生は、ある意味で「戦いの生涯」です。そこは「戦場」です。神学教師として約40年間奉仕してきまして、常に「福音理解のセンターライン」に沿って歩むことを心掛けてきました。教育することに専心してきました。その間、気がつかされてきたことは、いわば「もぐらたたき」のゲームのように、次から次へと「誤った運動や教え」の「挑戦」と取り組まされてきたように振り返ります。翻訳し、使用してきたエリクソンのテキスト『キリスト教教理入門』そのものが、いわば「戦場のテキスト」といえると思います。問題・課題と葛藤せずに、文字面をなぞって「知識の切り売り」として教えることもできます。しかし、それは著者の意図に反しています。主のみ旨も踏みにじるものです。「火中の栗を拾う」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という真正面から取り組む勇気を与えてくれる本です。つまり、神学教育というものは、いわば「格闘技」なのです。諸説をリングで打ちあわせ、畳の上で投げを打たせ、土俵の上で激しくぶつかり合わせるディベート(議論)なのです。自らの全身全霊をかけ、心、思い、知性、力を尽くしてなされる格闘技なのです。このような格闘技においてレベルアップした群れ、また教職者を育てる神学校は、嵐の海で翻弄される木片のようではなく、荒波を乗り切り、安全な港に操舵できる艦長を育てることができると思います。主の期待に応えうる健全な教えとバランスのとれた実践豊かな教職者を育てることができると思います。
それは、まさにパウロが新約の諸教会にみたものと似ています。[エペ4:14
人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりする]姿であり、[エペ5:27
しみや、しわや、傷]のある教会の姿です。ダビデは、[55:18 敵の挑戦、争う者が多い]ただ中で、[55:17
夕べに、朝に、また真昼に嘆きうめ]いておりました。パウロもまた、誤った運動や教えが「雨後の筍」のように生え出る新約諸教会の間で、「主イエスの十字架と復活のみわざに根差す民族を超えた普遍的な神の国の福音」を、[55:17
夕べに、朝に、また真昼に私は嘆きうめ]きつつ、のべつたええておりました。
ダビデの苦しみのひとつは、サウル王に与する[G.
友の裏切り]にありました。パウロの苦闘も、福音理解のセンターラインから逸脱した教えや運動にありました。それに巻き込まれる同僚にありました。今日でも、類する問題で、既存の教会に巧妙になされる戦略に見られます。[55:20
彼は親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を犯している。]と。教会と超教派のテレビ伝道の間の倫理が破られたりしています。非常に分かりやすい語り口で、誤った教えが語られ、巧妙な手口で教会から羊は奪われていきます。[55:21
その口はよどみなく語るが、心には戦いがある。そのことばは油よりも滑らかだが、それは抜き身の剣である。]とある通りです。しかし、多くの教会はこの問題の深刻さに「覆いが掛かった」ままのようです。煙幕がはられ、問題の本質が見えなくされているようです。
時には、誤った運動や教えの方が、風を受けて海上を疾走するヨットや帆船のようにみえ、その恩恵に乗っかろうとする愚かな輩も跋扈します。しかし、聖書の歴史から、またキリスト教の歴史から教えられることは、誤った運動や教えは「一時的に勢いを得、栄え繁栄する」ように見えますが、それらの運動や教えに与した人々や教会はやがて、神が定めておられる運命を刈り取ることになります。木は木として、わらはわらとして、草は草として、分析・評価され、審判され「キリスト教の亜流また逸脱」として打ち捨てられる運命をたどります。[55:23
しかし神よ、あなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは、日数の半ばも生きられないでしょう。]とある通りです。ですから、私たちは表面的な繁栄・成功を求めて、誤った運動や教えに翻弄されないように気を付けなければなりません。そして[55:22
あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。]とあるように、
[創3:6
その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好まし]く見えても、そのような運動や教えに誘惑されず、翻弄されず、健全な福音理解のセンターラインに沿って地道に、堅実に[私はあなたに拠り頼みます。]と告白しつつ、歩んでまいりましょう。
今朝は、イースター、主イエスが復活された日です。使徒行伝に、キリストは「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」
に[捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない]と記されています。キリスト教信仰は、リアルなよみがえりの力、復活の力であり、危機・苦境から救い出す力そのものです。ダビデも数々の危機から救い出されました。パウロも数々の誤った教えや運動から教会を救い出しました。私たちもさまざまなかたちの「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」から救いだされます。そのような力を経験しつつ生かされてまいりましょう。そしてウクライナの人々が「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」から救い出されるためにも祈ってまいりましょう。では、祈りましょう。
2022年4月10日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇54篇「ジフの人たちが来て、サウルに言ったときに」ーダビデの危機、キリストの受難、わたしたちの試練-
https://youtu.be/-MkGtdbQQYU
おはようございます。キリスト教の暦では、今週は「受難週」にあたります。私たちの詩篇の学びは、詩篇54篇ー[ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに]という表題が付されており、それは「危機のただ中」でささげられた祈りです。これの意味するところは、私たちが「試練」に直面するときに、ダビデの生涯にわたしたちの生涯を重ね合わせて生きるように、ダビデの祈りにわたしたちの祈りを重ね合わせて祈るように提供されている材料集といえます。では、詩篇54篇とその背景となっている第一サムエル記の幾つかの箇所を抜粋朗読させていただきます。
[ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに]というこの前書きは、第一サムエル記23:19の出来事を指しています。ダビデがサウル王の追跡を逃れて、イスラエル王国の最南部のユダ族のジフの地域に潜伏していたとき、ジフ人がサウル王にこれを密告したのです。ジフ人はその後、26:1でも[Ⅰサム26:1
ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」]と密告を繰り返しています。
これは、祭司アヒメレクがダビデのことを通報しなかった等の疑いをかけられ、「祭司の町ノブ」が絶滅させられた恐怖が効いていたのかもしれません。非協力的なウクライナ人を見せしめに殺戮したロシアの残虐な行為を彷彿させます。その通報に基づいてサウル王は三千の精鋭を率いてダビデ逮捕に向かいました。これらの密告は、ダビデたちの生死に関わる大きな危険をもたらしました。この危急の中からこの祈りがささげられたのでした。
第一サムエル記23:24-29に、その行動と報告が記されています。サウル王のダビデ追撃は成功し、サウル王の正規軍の精鋭三千人は、ダビデたちを追い詰めていきます。丘から丘へ、崖から崖へ、岩山から岩山、岩から岩へと導いていきます。サウル王は猟師であり、狩られる獲物ダビデはついに追い詰められます。サウル王と部下は周囲から迫って、袋のネズミとし、あと一歩で捕えんとします。ダビデたちは、絶体絶命の危機にありました。この追跡がもう一節、あるいはもうひと岩続くなら、サウル王の精鋭は、ダビデたちを捕らえていたでしょう。
しかし、その捕縛寸前で[23:27
一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」]との急信が伝達されました。何というタイミングでしょうか。サウル王とダビデは深刻に争っているとはいえ、外敵ペリシテとの戦いが国の存亡にかかわる事柄であることを知っていたのです。まさに、危機一髪でした。まさに「
髪の毛1本ほどのごくわずかな差」がダビデたちの生死を分けたのです。私たちの人生にも、このような瞬間があるのではないでしょうか。「
54:1 神よ、あなたの御名によって、私をお救いください」と叫び、そして「 54:7
神がすべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになった」瞬間のことです。
この背景には、第一サムエル記23:1-5でのケイラの出来事があります。[Ⅰサム23:1
「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。23:2
ダビデは【主】に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」23:3
ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」23:4
ダビデはもう一度、【主】に伺った。すると【主】は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」23:5
ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。]
ダビデは、逃亡中の身でありながら、イスラエルのケイラの人々をペリシテ人から救っていたのです。たいした人間です。サウル王が、常に「自身の損得勘定」で生き、行動しているのに対して、ダビデは「自身の損となることでも、主のみ旨にかなう」ことなら、犠牲を払い、冒険をする「主の真の勇者」であると教えられます。わたしたちも、こうありたいと思います。ダビデのこのようないきざま、行為、判断は、ダビデの即位、王朝の安定的継承に。万事「良き種まき」ともなっていきます。ペリシテは、ケイラの戦いで敗北していたがゆえに、それに対する反撃として、内紛状態にあるイスラエルのすきを狙い、イスラエルの背中から攻撃をしかけたのです。しかし、不思議なことに、それはダビデのいのちを救う「神の道具」とされたのです。敵ペリシテの攻撃すらも、ダビデのいのち救出の手段として用いられることになったのです。よく探してみると、私たちの人生には、このように不思議なことが多々あるのです。
さて、詩篇54篇は、そのような危機的状況においてささげられた祈りです。[A. 救いの懇願]は、[ 54:1
神よ、あなたの御名によって、私をお救いください]で始まります。「あなたの御名によって」という言葉は、ただ神の力の発動を願うだけではなく、「神ご自身が自分の側に立ってください」と祈っている言葉です。生死を賭けた対決において、ダビデは「唯一の避け所を神に求めた」のです。事実、このサウル王の飽くなき追撃は、ダビデに非があるわけではありませんでした。サウル王は誤りにより、王位から退けられていました。そして、反対に神の一方的な主権的選びにより、「隠れたかたちで、ダビデが王として油注がれていた」ことに起因しています。
ですから、サウル王とダビデの対決がどのように決着するのかは、単に「幸不幸の問題」を越えて、「神の御名に関わる公的問題、神の名誉に関わる義の問題」であるということなのです。わたしたちも、このようなポイントに焦点を合わせて生きることが大切です。教会も、この世と変わらず「目的のためには手段を選ばず」となってはいけません。健全な教え、健全な運動に沿って、成長を図るのでなければ主の御霊を悲しませることになります。わたしたちの身の回り、キリスト教会全体における誤った教えや運動の問題にも、大国と小国の問題にも、独裁と自由と民主と人権の問題にも、「神の御名に関わる公的問題、神の名誉に関わる義の問題」があるように思います。わたしたちが信じる神さまのこの世界に対するみ旨というものには、「魂の救い」ととともに「天おいて御心が行われるように、地においても御心が行われますように」という、祈りと戦いが、地の果てまで、世の終りまで続くように思います。この戦いにおいて、どのように生きるのかにおいて、私たち自身も、終わりの日に吟味され、審判され、弁護されることになります。
[B. 困難の叙述]ー[54:3
見知らぬ者たちが私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。]サウル王は、うすうす神のみ旨に気がついています。誤りのゆえに、すでに王位から退けられていることを。サウル王は、やがてサウル家にとって代わって、ダビデ家が王位に着くことを知っています。それで、必死になってそれを防ごうとしているのです。[
サウル王が私に立ち向かい、サウル王が私のいのちを求めています。]、サウル王は神の摂理を実感しつつ、それを妨げよう、阻止しようと全力を尽くします。ダビデが[使徒2:25
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。]と、“コーラム・デオ”ーいつも主の御前に生きておりましたが、サウル王は、[神を前にせずに、神のみ旨に背いて]ダビデを迫害し、そのいのちを絶たんとしていました。主のみ旨を察知しつつ、それにはむかって生きるとはなんと恐ろしいことでしょう。できるだけ早期に悔い改め、主に立ち返ること、主の御思いに針路を修正していくことが大切です。
サウル王のこのような姿は、過去のものではありません。わたしたちの身近かにも、キリスト教会の中にも、ロシアvsウクライナ紛争の中にも見受けられるものです。わたしには、今回の紛争の行方、ロシアのプーチン大統領とウクライナのゼレンスキー大統領は、サウル王とダビデとの関係、またその行方と重なってみえます。世界の多くの国々、多くの人々がウクライナのために祈り、さまざまなかたちで支援しています。
[C. 信仰の告白]ー[54:4
見よ、神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。]と、ダビデは「その御名ゆえに」助けられ、危機一髪で何度もいのちを救われました。[D.
ささげものの誓い]ー[54:6
私は心からのささげ物をもって、あなたにいけにえを献げます。【主】よ、あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。]と、神さまが「その御名」のゆえに、公的正義を実現するための介入を、救出のみわざをなしてくださったことに「内から湧き上がる感謝の自発的表現」として、ささげものの誓いをなします。
[54:7
神がすべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになったからです]といまだ押し迫り続ける敵に対し、「すでに勝っている」との信仰に立ち、攻め込んでいる「敵を平然と眺める」内的な余裕を示しています。苦境の中から神による救いを切に懇願したダビデの祈りは、確実に神に届き、恵みの応答をいただけるとの確信がダビデの心を包みます。ダビデの魂は、まだ続く危機の中にあっても「勝利の確信」へと飛躍していきました。この驚くべき「内的ダイナミズム」こそが、信仰生活の醍醐味です。このように深い神との「内的交流の息吹」をこの詩篇54篇は伝えているのです。
この詩篇から「人生はドラマ」と言われる言葉を思い起こします。神さまが与えてくださった一度きりのあなたの人生、その人生を、主とともに“脚本家”のように、あなたの人生をアレンジしていかせていただきましょう。セリフも、ストーリー展開も、一挙手一投足を、主とともにアレンジしていって良いのです。試練の場面もあるでしょう。そのときには、ダビデの危機的場面の物語、ダビデの詩篇の祈り・叫びと重ね合わせで、「脚本をアレンジ」させていただきましょう。うめき、叫びのただ中で、あなたは「神の国のアカデミーの脚本賞」をいただける取り組みをさせていただいているのです。
脚本の材料は、聖書中に満ちています。その霊的信仰的エッセンスを、私たちの人生のドラマの中にちりばめ、その本質を「扇のように展開」させていけば良いのです。詩篇の編集者は、編纂され続けた詩篇の中に、信仰者ダビデの本質を洞察しています。私たちは、信仰者としての私たちの生涯の中に、私たち自身の信仰の中に「ダビデ的本質」を見出して生きるように召されているのです。それが、サムエル記の意味であり、詩篇が記された意味なのです。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献: W.ブルッゲマン『サムエル記上』「現代聖書注解」、高橋三郎・月本昭男『エロヒム歌集』詩篇42-72篇講義)
2022年4月3日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇53篇「見よ、彼らは恐れのないところで大いに恐れた」ーああ、ウクライナの救いが世界中からもたらされますように!神がウクライナの民を元どおりにしてくださいますように!-
https://youtu.be/8H-ocNoEkJM
今朝の詩篇53篇の書き出し[53:1
愚か者は心の中で「神はいない」と言う]を読んで、「これは哲学的無神論者の愚かさについて書かれているのだろう」と受けとめる人もあるかもしれません。しかし、そうではありません。では、どういう意味なのでしょうか。そこで詩篇150篇全体、そして詩篇全体の文脈を知るために詩篇集全体の導入である詩篇1篇をみておくことにしましょう。
詩篇1篇をお読みします。[1:1
幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。1:2
【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。1:3
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。1:4
悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。1:5
それゆえ悪しき者はさばきに、罪人は正しい者の集いに立ち得ない。1:6
まことに正しい者の道は、【主】が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。]
詩篇全体の編集者は、ふたつの姿勢、ふたつのライフ・スタイルを対比させ、詩篇集を編んでいます。一方に、神に依存していることを謙遜に認め、トーラーを学んで神の意志を知ろうと努める人が記されています。彼らは、昼も夜も絶え間なく神の言葉を求め、熱心に耳を傾け、こうして神との個人的な交わりに生きる人々です。彼らは、この世の尺度から見ると、偉大な人物ではないかもしれませんが、神から与えられた人生の意味を心安らかに受け入れ、祝福の中に生きている人々です。しかし、他方に、宗教的な伝統に何の関心も払わず、自らの力と望みのままに生きようと決意し、神に敬虔を尽くす生活をあざ笑う人々が記されています。
このような人々は、内心深く「53:1神はいない」とうそぶく愚か者の範疇に入る人々です。彼らは、生活実践における無神論者であり、神を真剣に受けとめることもなく、自分勝手気ままに生きることができると考えている人々です。これらの人々について、詩篇作者は、彼らが「生の深い根拠」を欠いているがゆえに、小麦の脱穀で[1:4
まさしく風が吹き飛ばす籾殻]のようであると語っています。H.リングレンは、「神に依存しないで、自分独りで、自分の力に頼って生きる」というバビロニアの古い言葉に注目しています。すなわち、「神をして神たらしめる」生き方の拒絶こそ、罪の本質なのです。
では、この[53:1
心の中で「神はいない」]という生き方は何をもたらすのでしょう。神を真剣に受けとめることもなく、自分勝手気ままに生きることができると考えている人々、「生の深い根拠」を欠いている人々、「神に依存しないで、自分独りで、自分の力に頼って生きている」人々は、倫理的人格的な、義なる神、聖なる、慈愛に満ちた神との人格的交流なしに、いわば“水源”なしに生えている木々のようです。乾ききった地の木々はどうなるでしょうか。神との人格的交流なしの人間はどうなるでしょうか。[53:1
「神はいない」と言う]生き方は、「腐っている」生活、「忌まわしい不正」に満ちた人生、すなわち「善を行う者はいない」「だれ一人いない」という人生を結実させるというのです。もちろん、神なしの人間すべてが「100%悪に染まった生き方をする」ということではありません。本質において、そのような傾向を内包しているという指摘なのです。これらの詩篇箇所は、新約聖書ローマ人への手紙3:10-18で、[3:10
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。3:18
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」]とアダムにある人類全体の“普遍的罪深さ”の本質が描写されています。
この詩篇53篇の[53:1
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。53:2
神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。53:3
彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。]で教えられることは、創造された人間の「創造者に対する“責任応答性”」です。「神はいない」とは、創造された人間の「創造者に対する“責任応答性”」の否定を意味しています。腕時計は、人間によって造られました。腕時計は人間の腕にはめられ、「今は何時かな。今は何時かな」と造った人間に見つめられ、活用されることにおいて存在意義を見出します。
神によって造られ、人生を与えられた私たち人間は、[神に依存していることを謙遜に認め、聖書を学んで神の意志を知ろうと努める]べく生かされています。魚が水の中に生きるように、鳥が空気の中にはばたくように、神によって造られた人間は「神のみ旨」の中において、真に生きることができ、真にはばたくことができるのです。神にいのちを与えられた人間は、「昼も夜も絶え間なく神の言葉を求め、熱心に耳を傾け、こうして神との個人的な交わりに生きる」よう人生を与えられているのです。腕時計が「野に打ち捨てられる」とき、腕時計はその存在意義を失います。人間が「創造者なる神」を見失うとき、「53:5
見よ、彼らは恐れのないところで大いに恐れた」とあるように、ローマ8:20-21
神のシェキナーの栄光また臨在を喪失し、“虚無”が、“滅び”が彼らをおそいかかります。[神が、あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ]と記されている通りです。創造の冠たる人間なのに、ちりあくたやゴミのように無意味な存在となってしまうのです。
この詩篇53篇で注目すべきは、[53:3
彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない]という包括的言語と、[53:4
わたしの民。53:5 神が、あなたに。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。53:6
ああイスラエルの救いが。神が御民を]と不法を行う者と貧しい義人を区別されている区別的言語があることです。それは、詩人が暮らしている社会を特徴づけている振舞いがあり、強者が弱者を踏みつけにしています。預言者のそのような社会学的倫理的分析をなしています。そして、それらは、新約においては、御子のみわざの結果として、全的堕落の教理形成の材料として用いられています。
最後に、この詩篇の祈りの、ひとつの適用として、世界情勢に、ウクライナ情勢に目を向けましょう。そこでは、大国ロシアが小国ウクライナへの侵攻が続いています。チェチェンのグローズヌイやシリアのアレッポのような都市壊滅による市民虐殺が続いています。世界は嘆き、うめき祈っています。しかし、大国ロシアは短期決戦のもくろみがくずれ、政治的にも経済的にも、世界中から制裁を受け、危機的状況に追い込まれつつあります。なぜ、このように愚かな侵攻に踏み切ったのでしょうか。大きな疑問です。そこで、その参考となる記事を見つけました。
2009年5月のことです。ロシア政府はチェチェンでのテロ活動が沈静化したとして、「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言し、ここに第二次チェチェン紛争が終結しました。この言葉・表現はどこか「ウクライナにおける特別軍事作戦」と似ていますね。ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われています。要するに、「刃向かう者は皆殺し」にされたということのようです。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要でありました。第二次チェチェン戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされています」とアメリカ下院でエレーナ・ボンネル(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)は証言をしました。無名のプーチン氏は、FSB(旧KGB)の画策とも疑われている集合住宅連続爆破事件の結果、国中が恐怖に包まれる中、チェチェンのクローズヌイを崩壊させ、大量虐殺を正当化し、一夜にしてロシアの英雄に祭り上げられ、大統領に当選したと言われています。
エリツィン辞任後、ただちにプーチンは大統領代行に就任し、4カ月足らずで大統領に初当選、2004年に再選を果たしました。その後、憲法上、連続2期の大統領就任が制限されていたため、2008年から2012年までドミトリー・メドベージェフの下で再び首相を務め、2012年の大統領選挙では不正疑惑と抗議行動により大統領に復帰し、2018年に再選されました。2021年4月、国民投票を経て、あと2回再選に立候補できるようにすることを含む憲法改正案に署名し、大統領の任期を2036年まで延長する可能性があます。またこの権限強化により事実上終身大統領となる事が可能になるため、懸念されているとのことです。選挙の節目には、政治家は往々にして、目的達成のために「物語」を仕込む傾向があります。
今回のウクライナ侵攻の目的が「2024年の大統領選挙であり、事実上の終身大統領へ道の確立」のためであるとしましたら、ウクライナにとっては悲劇、またロシア国民にとっても「苦難の時代の到来」ということになると思われます。プーチン大統領の野望は、創作された物語は、大義名分は予想しなかったところー[53:5
見よ、彼らは恐れのないところ]ーNATO、EU、G7、国連総会等の結束、世界中からの援助によって粉砕されています。大国ロシアが小国ウクライナに対して[53:5
陣を張]りましたが、その軍隊の「骨を散らされ」、小国ウクライナは大国ロシアの戦車を辱め、彼らは戦車を、武器を捨てて、退散しています。私たちは祈ります。[53:6
ああ“ウクライナ”の救いが、“世界”から来るように。]停戦がなされ、復興がなされ[神が“ウクライナの人々”を元どおりにされるとき]が訪れますように。そのとき、ウクライナもロシアも共に楽しむ時となりますように。そして世界もまた、その喜びにあずかれますように。祈りましょう。
(参考文献:
J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』聖書の研究シリーズ、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、ウィキペディア「ウラジーミル・プーチン」)
2022年3月27日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇52篇「欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように」
ー「サウル王の疑心暗鬼と妄想」の夢から覚ましてください! 「ドエグの虐殺」を止めてください!-
https://youtu.be/1Z87OMc2Tgw
今朝の詩篇第52篇は、[エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときに。]という招詞が添えられています。その背景を理解するために、第一サムエル記21、22章をも読むことにしましょう。
権力欲に満ちたサウルは、ダビデを恐れ、殺害しようとしておりました。しかし、そのダビデを守り、逃亡を助けたのはサウルの息子ヨナタンでした。サウル王は、イスラエルの多くの人たちの心がダビデになびいているのを恐れ、疑心暗鬼になっていました。今日にも、憲法を変え、皇帝のように権力の座にしがみつき続ける専制主義国家が散見されます。一度、権力者の座に着くとその身略にとらわれ、手放したくなくなってしまうのです。権力にはそのような魔力があります。また、個人としてのわたしたちも、その長い人生の間には、ダビデのような境遇に置かれることが多々あります。そのような苦境に生きるとき、自分自身をダビデと重ねてこの物語を読み、また詩篇52篇を唱和することは大きな励ましとなります。人の目は、順風満帆の中に「神の祝福」を見ようしますが、聖書は「ダビデのような逆境」のただ中に「神の恵み」を再発見させるからです。事実として、「栄華の中のダビデ」には誘惑や危険がみえ、「逆境の中のダビデ」には輝く信仰を見せられるのです。
3000年前の詩篇を、21世紀に読むとき、「今朝の詩篇を、わたしたちはどのように読むことができるでしょうか?」という問いに直面いたします。今朝の詩篇を深く傾聴し、その中に響くメッセージの本質を抽出し、私たちの置かれているさまざまな状況に適用していくことを求められるのです。私たちが置かれている「とりなしの祈り」の状況のひとつに、ウクライナの状況があります。今朝も、その「とりなしの祈り」の流れの中に、第一サムエル記21,22章を背景とされている詩篇52篇を味わいたいと思います。
この詩篇の1-4節では、[A. 破滅的な人間]が描写され、告発されています。[52:1
なぜおまえは悪を誇りとするのか。52:2 欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。52:3
おまえは善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。52:4
欺きの舌よ、おまえはあらゆる滅びのことばを愛している。]と。破滅的な人間とはだれでしょう。それは、ダビデが祭司アヒメレクの会話を盗み聞きしていたエドム人ドエグのことです。ドエグは、決定的で不吉で下劣な役割を物語の中で演じています。
ドエグについては[21:7
その日、そこにはサウルのしもべの一人が【主】の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった]とあり、彼はサウル王がイスラエル各地に放っていた、KGBやFSB[
KGB ( 国家保安委員会 )であり、今日では主として 連邦保安庁 ( FSB )と 対外諜報庁 ( SVR
)と名づけられる二つの機関によって継承されている]の諜報員であったのでしょう。おそらく、サウル王には、いろんな報告があがってきていたことでしょう。しかし、ヨナタンを含め、多くの家臣たちはダビデに同情的で、報告をあげていなかったようです。そのような中で、ドエグは、彼の諜報報告を王にあげていました。それで、王はその事態の経緯は度外視して「アヒメレクとその一族もろとも」を「ダビデにシンパシーを抱き続けるとこうなるぞ」と、[52:2
欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。]と、見せしめの虐殺を行ったのです。
諜報報告会で、[22:8
それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」というサウル王の不満の爆発という局面で、[22:9
サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。22:10
アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」]と、祭司アヒメレクが反逆者ダビデに対する協力者であるという「印象操作」をもたらす報告をしました。ドエグの報告は、「誤った文脈」における「正しい報告」でありました。結果としてドエグの報告は、神の御前において「悪」であり、「欺き」であり「偽り」、「滅びのことば」でありました。
[22:18
王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。22:19
彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。]と「鋭い刃物」でありました。
私は、この世界においても、キリスト教会の中においても、「誤った文脈」における「正しい報告」というものを時折、目にし、耳にします。それは悲しいことです。それは、間違った「印象」で受け取られていることを感知しつつ、なされる「言葉上の正しい報告・説明」です。わたしは、心の中で「あれ?
そういう意味ではないのに…」と思うやりとりの場面がどれほど多いか経験しています。私たちの世界においては、米国のCIAやソ連のKGB、そしてロシアのFSB等も、誤ったプロパガンダの下に「虚構のストーリー」を構成し、戦争や虐殺や政権転覆を正当化する傾向があるように思います。それもまた悲しいことのひとつです。少なくないメディアが客観的な報道に心がけるよりも、所属勢力のための「宣伝工作」に堕しているようにも思います。祭司アヒメレクは、ドエグの「誤った印象操作のある正しい報告」により、無実の罪を着せられたとき、雄弁な弁護を行い、自らと一族のいのちを救おうとしました。しかし、サウルはそれに耳を貸そうとはしません。サウルの目的は、アヒメレクやダビデの有罪・無罪が問題なのではなく、サウル一族の権力を脅かす一切の危険の芽を摘むこと、すなわち、ダビデとその一族、ダビデにシンパシーをもつすべての人の抹殺であり、恐怖による支配であったからです。このような傾向は、現在のウクライナ紛争の背後にも見られますし、キリスト教会における誤った運動や教えの問題の中にも垣間見ることができるように思います。
ダビデは、パンだけでなく、槍も必要としていました。戦士でもあるダビデに槍がないのは奇妙です。この点は、ダビデがいかに大急ぎで着の身着のまま、緊急避難的に王の下から逃亡したのかを示しています。わずかな側近を伴った、手ぶらの逃亡者であったのです。ダビデは立場を一挙に失い、王に対する反逆者の汚名を着せられた逃亡者となってしまいました。しかし、ダビデに落ち度があったわけではありません。預言者サムエルにより、すでに霊的に退けられていた、サウル王が「おびえた幻想に満ちた世界」に生きるようになっていたことに原因があります。専制国家の独裁者はいつの時代でも「この病」にかかるようです。権力を失うことが「身の破滅」に直結すると考えるようになるのです。彼は、死ぬまで権力を手放すことができません。あらゆる手段を駆使し、死に物狂いで権力を保持しようと試みます。しかし、民の信頼を基盤としない、そのような権力者は弱く、[B.
正しい者が恐れるかたちで、滅ぼされ]ることになることが多いのです。[52:5
だが神はおまえを打ち砕いて倒し、幕屋からおまえを引き抜かれる。生ける者の地からおまえは根絶やしにされる。]と。
しかし、神の恵みに根差す正しい人たちはそのようなかみのみわざを見て、[C.
神への信頼の告白・感謝]をささげます。[52:8
しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。52:9
私はとこしえに感謝します。あなたのみわざのゆえに。私はあなたにある敬虔な人たちの前で、すばらしいあなたの御名を待ち望みます。]と。ダビデは、疑心暗鬼のサウル王により、逃亡者の身に転落させられてしまいました。疑心暗鬼の大統領により、侵攻を受けたウクライナもまた同様です。しかし、この時期のダビデは、第一に、もはや無邪気な牧童でありませんでした。ダビデは、今や有名で、あてにできる同盟者たち、召集できる支持者たち、そしてダビデ自身の未来についての政治的機知を持っていました。第二に、他者の行動の消極的な受け手ではありませんでした。今や自信に満ち、必要で大胆なイニシアチブを取る準備がありました。
この落ちぶれたダビデは、いつものやり方通り、逃亡を繰り返します。しかし、国家による大規模な正規軍に対し、臨機応変に対応しうるゲリラ戦術で対抗します。そこは、岩山、砂漠、川、ほら穴、敵地等、あらゆるところで神出鬼没し攻撃をしかけます。そして、隣国の都市国家の王、アキシュ等には「サウルの最も危険な指揮官としてではなく、嗣業の地イスラエルの将来の王」と見られます。アキシュは、「イスラエルの民の中に溢れていたうわさ話」ー「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」を知っています。イスラエル国内においても、周辺の隣国においても「ダビデが王となることは必然である」との印象が溢れておりました。ダビデには、下剋上を起こす野心はありませんでしたが、主なる神は「実質的に、ダビデを王とすべく」すべてのことを働かせて準備されていきました。
ですから、私たちは、自分が何になろうとか、何者であらねばならないとか考えて、「下剋上」を起こす必要はありません。主を信頼し、たがえられることはありません。神さまは、ポストとかサラリーとか、名誉とか立場とかとは別のところで、「実質」において神の国の奉仕に配置してくださるからです。私たちは、天を仰ぎ、「天からの視点での秩序」のみに目を留めることにしましょう。ですから、私たちは、誤った文脈における印象操作としての「v.2
ドエグの、鋭い刃物のような言動」に気をつけ、いつもある「v.1 神の恵み」に寄り添い、「v.3
義を語り、善行を愛し」、「v.7
神を力」としてまいりましょう。このような生き方をするときに、私たちは一時的に苦境の中に置かれていても、ダビデのように「強力な磁石」となり、あらゆる種類の周辺の人々を引き寄せ(Ⅰサムエル22:1-2)、彼らの指導者にして、「集結点」となりました。孤立し疑心暗鬼の深みに沈むサウル王に比して、ダビデに対する支援の手立ては多く、さまざまありました。民衆による政治的支援だけでなく、宗教的権威を持つ預言者を通した神の助言もありました。
苦境の中のダビデは、絶えず「主に伺いをたて」つつ歩んでおりました。着の身着のまま、逃亡生活の中にあったダビデは、武器もなく、飢えておりました。それで、祭司アヒメレクからパンを分けてもらい、ゴリアテの剣を受け取りました。今、ウクライナは大国ロシアの侵攻を受け、南東部の港湾都市マリウポリは、砲撃により廃墟のようになり、建物から建物へ、階から別の階へと戦闘が続いています。NATOや世界の国々は、大国の小国蹂躙を許さず、軍事、食料、医療、そして経済的封鎖等さまざまの支援を行っています。まだ、戦争は続いています。悲惨な殺戮は続いています。主が、プーチン大統領を「サウル王の疑心暗鬼と妄想」の夢から覚ましてくださいますように。ウクライナのマリウポリ等の諸都市での「ドエグの虐殺」を止めてくださいますように。詩篇1篇にあるように、小国ウクライナを守り[52:8
神の家に生い茂るオリーブの木」のようにしてくださいますように。ロシアを隣国を蹂躙する国から「世々限りなく神の恵みに拠り頼む]平和な民としてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: 現代聖書注解『サムエル記 上』W.ブルッゲマン著、『詩篇』J.L.メイズ著)
2022年3月20日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇51篇「神よ、私をあわれんでください: ミゼレーレ・メイ、デウス」ーロシア人の良心を呼び覚ましてください!
ウクライナ人の勇気を支えてください!-
https://youtu.be/OFSaQNh9ArY
今朝の詩篇51篇は、第6,32,38,51,102,130,143篇の七つの痛悔の詩篇のひとつです。哀願者にのしかかる苦悩は、深い罪責感です。これらの詩篇は、人々を虐げ押しつぶす外的な力である「敵」ではなく、悪の問題を内面化しています。「敵」は単に、社会の中や外的に離れた所にいるばかりでなく、実に「自分自身の存在の深み」に現存しています。これらの詩篇において「聖なる神の現存」は、避けがたい裁きと恵み溢れる受容という両面で内心深く体験されます。
神殿で預言者イザヤが体験した召命物語(イザヤ6章)でみられるように、イザヤが受けた神の聖にして超越的な尊厳の幻があります。[イザヤ書6章
1,ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、2,セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、3,互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」4,その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。5,私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」]という悲痛な叫びをイザヤに引き起こしました。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という、よく親しまれた讃美歌に今なお響いているように、この物語によれば、預言者は神の聖性がただ人間の罪を暴き出す裁きに顕れるばかりでなく、罪の赦しにも示され、こうして人をきよめて任務のための力を与えることを納得するに至りました。キリスト教の音楽と典礼を通して響き続けているミゼレーレ(あわれみたまえ)の叫びは、詩篇の中でも珠玉の名作といわれる詩篇51篇の冒頭の嘆願ー「主よ(デオ)、我を(メイ)あわれみたまえ(ミゼレーレ)」からのものです。これらの詩篇の祈りは、あらゆる時代の、あらゆる状況の中で活用できるよう、主が備えられた祈りであり讃美です。わたしは、今朝、この詩篇をロシア人とウクライナ人の人々の叫びと祈りに重ね合わせて唱和したいと思います。この紀元前1000年前の詩篇は「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。」という招詞によって始まります。
わたしは、この導入・文脈説明を「ロシアがウクライナに侵攻した後、二つの民族を神が照らされたときに」と、紀元2000年代に、いわば時間と空間を超え3000年タイムスリップさせて読みたいと思います。なぜ、このような読み方を思い立ったのでしょうか。それは、ロシア国営放送第一チャンネルのマリナ・オフシャニコワさんが、女性キャスターがニュースを伝えているときに、突然音を立ててメッセージを掲げながら入ってきたのです。メッセージは英語で「No,
War(戦争反対)」と書かれ、さらにその下にはロシア語で「戦争を止めろ。プロパガンダを信じないで。彼らはあなたに嘘をついている」と綴られていました。なんという勇気ある行動でしょう。今のロシアでこのような行動をすると15年間の禁固刑を受ける危険があるにも関わらず、自らの犠牲を顧みずこのような行動をされたマリナさんに敬意を表したいと思いました。今のロシアには、このように良心を痛めている方が数多くおられるのだと信じたいと思います。今のロシアのような、専制主義国家、警察国家では、「本当のことを語る」ことには危険が伴います。マリナさんの行動は、どこか、エステルのような勇気ある行動ではないでしょうか。
さて、51:1-2は「A.
叫び」です。罪からの救いを求める叫びです。[1,神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。2,私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。]は、ダビデの姦淫と殺人の罪を思い浮かべる言葉です。しかし私は、マリナさんの心の叫びがこの中にも聞こえるように思いました。「[1,神よ、ロシアをあわれんでください。」と。嘘と偽りで満ちた情報の宣伝で何も知らない国民をマインドコントロールし、平和に暮らしていたウクライナに侵攻させているロシアの指導者の大きな罪とそれに協力させられている放送関係者たちの良心の呵責からの叫びです。[1,神よ、そのようなロシアをあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。あなたに対するロシアの背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。2,ロシアの侵攻の咎をすっかり洗い去り、殺戮の罪からロシアをきよめてください。]と。そのような叫び、うめきがあなたには聞こえてこないでしょうか。
51:3-6は、「B.
うめき」です。[3,まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。4,私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しく、さばくときあなたは清くあられます。5,ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。6,確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。]これは、神の御前に感じる逃れようのない深い罪過の意識です。「わたしは、あなたの前に罪を犯しました」と。わたしは、神の御前に生かされているすべての人間には、このような意識が大切と思います。それは、箴言に[1:7
【主】を恐れることは知識の初め。]とあるようにです。ソ連崩壊後、エリツィン大統領の混乱期を、プーチン大統領が収拾し、資源外交によりロシアに安定と成長の10年間をもたらした貢献があるとしても、虐げられてきたウクライナが独立を果たし、ひとつの民族として言語・文化を復興させている今、再びロシアに従属させることは不可能でしょう。ウクライナ国民は、いのちを賭けてロシアの侵攻と殺戮に抵抗し続けることでしょう。一刻も早く、この戦争と殺戮を止めねばなりません。
この詩篇は、ダビデの詩篇とありますが、おそらくその背景を意識しつつ、相当の発展段階を経てきたものでしょう。この詩の成立史の過程には、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルにみられる「新しい心」「新しい霊」等の主題と通じるものが含まれているからです。それゆえ、礼拝共同体とその成員である個々人によって、贖罪日(レビ記16:30参照)との関連で用いるために整えられた祈りと理解することができるでしょう。そして、これらの詩篇集は旧約の歴史と空間を超え、今の時代の必要に重ね合わせて祈る祈りとして活用されるよう提供されているのです。
[1,神よ、私をあわれんでください。]と始まり、[3,まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。4,私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。]と続きます。罪の告白は「神のあわれみ」に基があります。この嘆願は「神の変わらざる愛と尽きることのないあわれみ」に向けられています。ロシア人とウクライナ人の両親のもとに生まれたマリナさんには、両国に家族・親戚があることでしょう。ロシアとウクライナの二つの民族、ふたつの国家間の殺戮の応酬は、マリナさんにとって、身内同士で殺し合う、(祖父母・両親・おじ・おばなど、親等上
父母と同列以上にある血族(尊属)を殺害する)尊属殺人のような印象を抱いておられるのではないでしょうか。それは、普通の神経ではとても耐えられないことです。
愚かな指導者の命令により、ポストとサラリーを、身の安全を守るため「虚偽にみちたプロパガンダ」に協力させられることは、「戦争と殺戮」の犯罪協力者に堕してしまうことを意味し、それに耐えられなかったのだと思います。このような現象また行為は、社会のすみずみに、そしてキリスト教会の中にもみられることです。「もう、このような罪を犯し続けることはできない。どんな犠牲を払うことになったとしても、今自分にできることをしなければならない」ーその一念であったのだと思います。このような決心が大切です。主の導きへの応答が大切です。多くの人々の心の中に、主が働いてくださいますように。主の語りかけ、導き、諭しに敏感であれますように。
さて、罪は、本質的に「神学的なカテゴリー」です。人の行いの規範となる御旨と御心をお持ちの神が、ただ神のみが、人に罪を啓示されます。[4,私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。]と、罪を御目に悪とみられることと定義しています。罪について語ることを意義あるものとし、不可避なものとするのは、人のいのちを見通しておられる「神の眼差し」なのです。この神の眼差しに思いを向けずに罪について語ろうとすれば、罪という語彙は意味を失い、色褪せたものとなってしまいます。聖書は、またこの詩篇は、預言者たちの言葉と捕囚の経験を通して、イスラエルはより一層強く、深く、彼らが裁きの下にいるのだということを知るに至りました。彼らの良心を照らしてくださったのです。マリナさんをはじめ、多くの良心的なロシア人たちの心のように。それを知った者の声が響いています。[4b,
ですからあなたが宣告するときあなたは正しく、さばくときあなたは清くあられます。]と。わたしたちキリスト者は、この告白の真実を十字架を通して知っています。「罪からの救いの第一歩は、罪びとにくだされる神の裁きである」と。この戦争に関わるすべての人が、カルバリの十字架のふもとにひざまずくことができますように。
前半で、時間を取り過ぎましたので、後半を簡単にみてまいりましょう。前半は「叫びとうめき」でありました。後半は「嘆願と誓約」です。V.7-13の嘆願では、[7,
私は雪よりも白くなります。8,楽しみと喜びの声を聞かせてください。10,神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。12,あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。13,私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。]と、創造的な言葉、積極的・肯定的な言葉と誓約で溢れています。そうなのです。姦淫と殺人の罪の暗闇の中でうちひしがれていたダビデの上に、今注がれているこのまぶしいばかりの陽光は一体何なのでしょう。それは、滅ぶべき罪びとであるわたしたちの状態を根源から変えうる神の赦しの力、聖霊の新生の、再創造の恵みなのです。このような言葉は、イザヤ書40-66章で「すでにあるものが変えられて異なるものが生じる神の救いのみわざ」として、「創造する」「新しくする」ということばで象徴され、溢れています。
V.14-19の「誓約」では、[14b, 私の舌はあなたの義を高らかに歌います。15b,
私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。]と、救いの喜び、新しく創造された誉をシェアしていくと誓約しています。わたしは、これらの嘆願と誓約の中に、ウクライナの人々の民族防衛の忍耐と国家再建への決意をみたいと思います。民族独立を果たしたウクライナ国民は、二度と「大国に隷属する奴隷」に成り下がることを良しとしませんでした。どんな犠牲を払っても民族の未来のために、国家の独立と自由と人権を守る決意です。神もまた、それらを尊重される神です。それが私たちの信仰です。「自由な国家における、自由な教会」です。わたしたちは、「内心の自由」を管理しようとするいかなる専制をも拒否します。わたしたちは、そのような自由と独立を求めるウクライナの人々を支持し、彼らのために祈ります。
彼らのスピリットは[17,
砕かれた霊。打たれ砕かれた心。]です。[18,どうかご恩寵により、ウクライナにいつくしみを施し、キエフの城壁を築き直してください。]と祈ります。戦争と殺戮が停止し、義なる平和がもたらされる時、[19,そのとき、あなたは義のいけにえを焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき雄牛があなたの祭壇に献げられます。]とあるように、ウクライナの人々のスピリットが全世界の人々の自由と独立、人権尊重と内心の自由が保障された未来への「全焼のささげ物」として証しされ続けますように。どんな大国も、それを圧殺することはできなかったと。ああ、神よ。ロシア人の良心を呼び覚ましてください!
ウクライナ人の勇気を支えてください! 祈りましょう。
(参考文献: B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、J.L.メイズ著『現代聖書注解ー詩篇』)
2022年3月13日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇50篇「天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると」
ー神が全世界の人々を、全世界の指導者を、全世界のすべてのものを用いて、戦争を、殺戮を止めてくださいますように-
https://youtu.be/9RUIrDacbRU
今朝は、詩篇50篇です。詩篇150篇のうちの三分の一の終わりに辿り着いたということです。ひとつの節目です。ある神学者は、「片手に聖書、もうひとつの手に新聞を持て」と申しました。これは、極端な字義的解釈者が「聖書の中に、今日生起する事件の預言を読み込む」誤りをすすめる言葉ではありません。そうではなく、わたしたちの人生において神の座標軸をもって生きることをすすめている言葉です。そうなのです。わたしたちクリスチャンは、「神の言葉、聖書」という人生のガイドラインを携えて人生を旅しています。その航海における羅針盤、飛行経路を示すレーダーとしての役割を「神の言葉である聖書」が果たし、機能してくれるのです。
わたしたちクリスチャンは、安全な航海、飛行のための機器を備えた船のようであり、飛行機のようです。そして、わたしたちが旅を続ける「この人生」の海、空は、未来や過去、宇宙のかなたにあるではなく、この世界にあるのであり、今の時代にあります。そうなのです。「歴史」の只中にあるのです。そのような意味で、わたしたちは「詩篇150篇」に示されている、この地上の生を生きる「ガイドラインの本質」を学びつつ、それをわたしたちが「今生かされている歴史の只中に、そのガイドラインを投影・反映・適用する恵み」にあずかっているのです。これが「片手に聖書、もうひとつの手に新聞を持て」の真の意味なのです。この原則がわたしたちが「詩篇を傾聴」しつつ、「ウクライナの人々の未曽有の苦難、うめき、叫び」に呼応させるのです。新聞を読み、テレビやネットのニュースの情報が入るごとに、わたしたちは「心の奥の間にある祈りの部屋」に入るのです。詩篇のみ言葉のエッセンスに促され、天を仰ぎ、とりなしに追いやられるのです。
今朝の詩篇50篇は、[6,天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者である]と、神の審判について記された詩篇です。ふたつの問題が取り上げられています。ひとつは、[7,「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ、わたしはあなたを戒めよう]と、神と神の民の、いわば垂直の関係、礼拝生活の形骸化の問題です。神さまは、信仰者の礼拝的生活に問題を感じておられるのです。「形骸化している」と。神は何を言わんとしておられるのでしょうか。「ささげものが少ない」と言われているのでしょうか。そうではありません。[8,あなたのいけにえのことで、あなたを責めるのではない]とあります。ささげものの問題ではないのです。それでは一体何が問題なのでしょうか。
[8b,
あなたの全焼のささげ物は、いつもわたしの前にある。]と、「ささげものはもう十分にささげられている」と語っておられます。それだけではありません。ささげられているものだけでなく、ささけられていない[10,森のすべての獣]、[11,山の鳥も。野に群がるものたち]、[12,
世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。]と言われます。そうなのです。神さまはわたしたちに養われるお方であり、「たくさんのささげものをしないと、神さまは飢えられ、もしかしたら私たちを呪われ、たたられるかもしれない」ーそのような心配をしないといけないようなお方ではない、ということなのです。そのような考え方は「本末転倒な捉え方」なのです。そうではなく、神とは「この世界のすべてのものの創造者であられ、わたしたちを愛し、すべてのものを祝福また恵みとして提供してくださっている方」なのです。
わたしたちがなすべきこととは[14,感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いを、いと高き神に果た]すことです。わたしたちが神さまをお助けするのではなく、わたしたちが[15,苦難の日に、]助けられるために、神さまを[呼び求め]ることです。そのときに、神さまは[あなたを助け出し]てくださり、わたしたちは神さまを[あがめる]のです。それゆえ、私たちは、ウクライナのニュースを見るたびに、心の中の奥まった部屋で手を挙げて祈るのです。「ああ、主よ、彼らをお救いください」と。わたしたちもまた、あの爆撃音の響く町の地下室に共にいるかのような気持ちを抱いてとりなすのです。「主よ、この戦いを収めてください!
すべての人を死の恐怖からお救いください!」と。
V.7-15の第一の問題は「垂直の神と民の礼拝の問題」でありました。V.16-23の第二の問題は、「垂直の神信仰を、水平の生活の中に、歴史の中に倫理」として反映させる問題です。神さまは、[16,しかし、悪しき者に対して、神は仰せられる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にするとは。]と詰問されています。神さまの「おきて」は語られ、「契約」は口に溢れています。それは、[8,
あなたの全焼のささげ物は、いつもわたしの前にある]ように、「おきて」も「契約」の溢れているのに、彼らの「倫理的生活」、また「歴史的状況」は、と申しますと、[17,おまえは戒めを憎み、わたしのことばをうしろに投げ捨てた。18,おまえは盗人に会うとこれと組んで、姦通する者と親しくする。19,おまえの口は悪を放ち、舌は欺きを仕組む。20,おまえは座して、兄弟の悪口を言い、自分の母の子をそしる。]と、盗むな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え等ー十戒にしめされている倫理的本質違反のオンパレードである、というのです。
要するに、それは、真の神との礼拝生活に「本末転倒」の誤りがあるのであり、真の神との深い倫理的交流に根差した「生活の中、歴史の只中における倫理的展開」において深刻な問題が潜んでいるという指摘なのです。それゆえ[22,神を忘れる者どもよ、さあこのことをよくわきまえよ。そうでないと、わたしはおまえたちを引き裂き、救い出す者もいなくなる。]と心の底からの悔い改めをすすめておられるのです。礼拝生活の改善、倫理的生活の修復を励ましておられるのです。モルトマンという神学者は、その著書『希望の倫理』の中で、「正義に基づく平和の倫理」について以下の項目で詳述しています。⑴判断形成の基準、⑵神的な義と人間的な義、⑶キリスト教における竜殺しと平和づくり、⑷管理は良いが信頼はもっと良い、⑸神の義および人間と市民の権利、と。わたしは、力による属国的支配を拒否し、自由と市民の権利の尊重、そして独裁的管理による平和よりも、欠陥や犠牲を伴うとも信頼の上に形成されていく自由な社会を求めるウクライナの人々は、神から人類に恵みとして与えられている普遍的な権利のための戦いが含まれているように思います。それゆえ、彼らに共感し、彼らとともに戦い、彼らのために祈らされるのです。
順序が逆になりましたが、最後にv.1-6にふれたいと思います。わたしは、この箇所を繰り返し読んでおりまして、拙訳のG.E.ラッド著『終末論』の「第四章
キリストの再臨」を思い起こしました。もちろん、この詩篇は直接的にキリストの再臨に言及したものではありません。しかし、旧約聖書の中心的メッセージである「主の日」への言及をにじませるメッセージを感知させる要素がここかしこに見受けられます。ラッドは申します「ギリシア人の思想では、人間は世界から逃れ、神のもとに逃避する」しかし、「ヘブル人の思想では、神が人間のもとに下ってくる」と。今朝の詩篇にも[3,私たちの神は来られる。黙ってはおられない]とあります。
「神は歴史の只中にご自身を現し、歴史に中にいる人間を訪れることによって知られる」と。[3,私たちの神は来られる。黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その周りには激しい嵐がある。]は、シナイ山におけるモーセの出来事が念頭にあると思われます。雷鳴とそれに続く嵐には、全能者、審判者なる神の登場を連想させるイメージがあります。[1,神の神、主は語り、地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。]とありますが、キリスト再臨の折には、「マタイ24:38
人の子は大きなラッパの響きとともにみ使いたちを遣わします。するとみ使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」とあります。
[2,麗しさの極みシオンから、神は光を放たれる。]とあります。ラッドは、「神は歴史的出来事の中で神の民を審判する方である。審判者としての神の啓示は、…『主の日』として鮮やかに描写されている。」と申します。6節では、[6,天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者である]とあります。ラッドは「旧約聖書と最も際立った啓示的みわざは、エジプトにおける神の訪れである。そのとき神は、イスラエルの民を解放してご自身の民とした」と。ああ、今このネットの時代、全世界の国々の指導者たち、全世界の人々がリアルタイムで「大国による小国の蹂躙」を目の前にしています。もしかしたら、チェチェンのグロズヌイやシリアのアレッポのような都市崩壊とそれに伴う大量虐殺が起ころうとしているのかもしれません。そのような悲惨をわたしたちは他人事のように、横目で見ながら通り過ぎて良いのでしょうか。
それゆえ、わたしたちは、心の中で手を挙げて祈ります。「全能者なる神、義なる審判者なる神が、ウクライナの人々を救ってくださいますように。神が全世界の人々を、全世界の指導者を、全世界のすべてのものを用いて、戦争を、殺戮を止めてくださいますように」と。祈りましょう。
(参考文献: ユンゲン・モルトマン著『希望の倫理』、G.E.ラッド著『終末論』)
2022年3月6日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇49篇「たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない」ー『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』-
https://youtu.be/MqO3Wpfwf3Q
今朝の詩篇49篇は、「知恵の詩篇」と呼ばれる種類の詩篇です。この種の詩篇は、「知恵文学」と分類されるヨブ記、箴言、伝道者の書に特徴的な形式や主題を含むものとなっています。この詩篇を味読しますとき、「どこかで読んだことがある」と思い起こす箇所が多々あるのは、それが理由なのです。この詩篇の主題は、現世と来世の両方で「いのちを失う」ことと、「いのちを保つ」ことです。V.1-4は、[49:3
私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。49:4 …謎を解き明かそう。]と、知恵文学に特徴的な書き出しで始まります。
聴衆に向けてなされる冒頭の説教は、話がすべての人間を考慮に入れていることを明言しています。詩は、最大限に広い範囲に適用されることを求めています。それは、v.3[49:3
私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。]と、「魂が満たされて生きる道を、人々が生きることができるように、知恵と英知を与える」ことです。知恵は、[49:4
私はたとえ話に耳を傾け、竪琴に合わせて謎を解き明かそう。]と、人生を生きる知恵は生の謎を解くひとつの道としての聖書的な「格言」に耳を傾け、黙想することから与えられます。わたしも人生を振り返ってみますとき、その節目節目において、また岐路に立ったときに「みことば」「格言」等に耳を傾け、黙想し、そこから諭しを得て、「進むべき道」の選択を助けられてきたように思います。
5節には、[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。]と、この知恵の教師自身が味わった「人生で最も悲しい物語」のひとつに対して取った対処法について語っています。カルヴァンは、この個所の「かかと」を、[彼らが権勢において彼を凌駕し、言ってみればその足で彼のかかとを押しまくり、ビタッと背後に着き、彼を打ち負かす好機を求める限りにおいて、彼らの邪悪な迫撃が、彼の両のかかとにまで迫っているのである]と説明しています。この個所は、まるでロシア軍に包囲されて、空軍の爆撃と陸軍の集中砲火をあび、無差別攻撃で住宅や建物ごと粉砕され、殺戮されているウクライナの市民と重ならないでしょうか。これは、血も涙もない独裁者のなせるわざだと思います。厳しく断罪されなければなりません。21世紀にこのような殺戮がゆるされてよいのでしょうか。私たちは[出エジプト記
3:7
【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。]とあるように、ウクライナの人々のうめき、叫びに合わせ、祈る必要があります。
V.6に、[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]とあります。この知恵の詩篇は、富める者と貧しい者の問題を広く取り扱っています。箴言は、平時における倫理を語っています。「律法の本質において明らかにされている御心に導かれて生きるなら、神さまの祝福豊かな生涯を送れる」と。しかし、聖書は祝福の側面のみでなく、「伝道の書」においては人生のはかなさの側面を照らし、「ヨブ記」は主の御心に導かれて生きる人生にも、耐えがたい苦難がある、と危機における倫理の側面を照らし出すことをもって励ましています。この詩篇は、そのあたり全般を照らし出している「知恵の詩篇」です。
わたしは[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]この個所を読むときに、ヨブ記3章のヨブの叫びを思い起こします。ヨブは、信仰深い人間でありました。善行に溢れる生涯を送っていました。それなのに、立て続けに不幸にまみえることになりました。[ヨブ3:1
そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。3:2 ヨブは言った。3:3
私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。3:4
その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。…3:11
なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。3:12
なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。]「生まれた日を呪った」というのです。なんという悲惨、なんという不幸でしょうか。人は、耐えられないような不運、不幸にまみえるとき、このような心境に陥ります。ウクライナの人々の気持ちはどのようなものでしょうか。先日まで、幸せな家庭で暮らしていた人々が、気ちがいじみたひとりの独裁者の「古きソビエト連邦の栄光」の固執によって、数日のうちに、その生活を、その人生を破壊されてしまったのです。
その意味で、この詩篇は、主が創造され、み旨に従って、万民が平和に暮らすべきはずの世界における矛盾を照らし出し、その問題の中に生きる人々の苦悩を癒す、いわば「薬」です。この富める人の「v.6自分の財産、豊かな富」、「49:11
彼らの心の中では、その家は永遠で、住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。」[49:16
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。][49:16
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。][49:18
たとえ人が自分自身を生きている間に祝福できても、あなたには物事がうまく行っていると、人々があなたをほめたたえても。][49:20
人は栄華のうちにあっても]と、この世界における成功も失敗も、富も貧困も、幸せも不幸も、すべてが「死」をもって清算され、ご破算となる、ということです。
すなわち、[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。]という苦境の只中に置かれています。そして、[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]という豊かな者、富める者、力ある者のゆえなき圧迫・弾圧・攻撃を見せられ、「神さま、なぜこのようなのですか?」という信仰的な苦しみ・葛藤の中に生かされています。そのような苦しみのただ中で、ひとつの治療薬として「知恵のことば、また格言」が与えられます。それが、わたしたちの暗闇を照らすのです。攻撃している力ある者である[49:9
人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。]と。
「死」は、すべてを清算してしまうのです。[49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。][49:17
人は死ぬとき何一つ持って行くことはできず、その栄誉もその人を追って下ることはない。]
という、家族を殺し、同胞を殺し、国を破滅に追い込む独裁者をどう受けとめたら良いのかと苦しむ心を癒す洞察をいただくのです。独裁者は、いろんな手段によって、その権力を、富を得て、栄華をきわめるでしょう。その手にした軍事力によって反対者を容赦なく弾圧し、言論を、人権を、民主主義を抑え込むでしょう。時には、暗殺すら手掛けます。やりたい放題です。そのような時代に処世術にたけた人は、「寄らば大樹の影」「長物には巻かれろ」と、独裁者の太鼓持ちとなるでしょう。神のみ旨を探って判断するのではなく、「現世における損得勘定」を彼らの「善悪判断」の物差しとするのです。それらの人々は一時的には富と栄華のおこぼれにあずかるでしょう。しかし、彼らは「死体のまわりに群がるハゲタカ、またハイエナ」のような輩です。「v.12,20
滅び失せる獣」のようです。
しかし神さまは、天から「魂の値打ち」を計っておられるお方です。ダニエル書のこのような言葉があります。[ダニ5:24
そのため、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。5:25
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』5:26
そのことばの意味はこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。5:27
『テケル』とは、あなたが秤で量られて、目方の足りないことが分かったということです。5:28
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシアに与えられるということです。」]独裁者の支配は、永遠には続きません。早晩、終わりをづけます。そして、民主的なかたちで、それぞれの国、民族は自治権を得、また独立していくことでしょう。
大切なことは、「このような変動期に、神さまの御前においてどのように生きるのか」ということです。わたしたちは、この世の一時的な「栄華」のために、「滅び失せる獣」のような道を選択して生きるのか、あるいは、この世では「わざわいの日々」を送り、「かかとを狙う者の悪意」に取り囲まれて生き、最終的に[49:15
しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる]ー逆転サヨナラ満塁ホームランの試合を味わうのか、いつもその岐路に立たされているように思います。
最後に、【映画】「Winter on Fire: ウクライナ ー
自由への戦い」というドキュメンタリー映画のことを話しましょう。これは、2013年から2014年にかけてウクライナで起こった公民権運動を93日間にわたって記録したドキュメンタリー映画です。当初、ウクライナの明るい未来を求め、欧州統合を支持する平穏な学生デモとして始まりましたが、政治家の裏切りが続き、やがて大統領の辞任を要求する運動へと変貌していきました。ウクライナ全土から100万人近い市民が結集し、要求や表現の自由を抑圧しようとした当局に対して抗議運動を展開していった様子が描かれています。民主主義・基本的人権尊重・言論の自由への憧れとその未来を獲得するため、今もまた犠牲を払い続けるウクライナ国民のスピリットに心打たれます。このスピリットが今のウクライナ国民の底流にあるのだと教えられます。
ロシアの無差別爆撃、都市殲滅の攻撃を見て、「チェチェン等でも同じような殺戮を繰り返してきたのだろうな」、「このような獣のようなことをして、神を畏れないのか」と思いました。このような血も涙もない独裁者に[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。49:7
兄弟さえも、人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。49:8
たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。]を示したいと思います。「神は、このような殺戮者をほおっておかれることはない。必ず、審判の席に着かせられる」と。
そして、瓦礫の中でいのちを落としていっているウクライナの老若男女の人たちに[49:15
しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる]のみことばを贈りたいと思います。ウクライナは、民主主義、言論の自由、基本的人権を獲得する戦いの最前線と思います。彼らは、ある意味で、私たちに代わって最前線で戦ってくれているのです。そのような意識をもって、祈り続けたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:
J.L.クレンショウ『知恵の招き』、聖書神学辞典、J.L.メイズ『詩篇』、カルヴァン『詩篇Ⅱ』、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2022年2月27日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇48篇「東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる」
ー時代の流れを読む目と、棹の差し方を教えてくださいますように-
https://youtu.be/yZtGramqkSI
詩[ 48 ] 歌。コラ人の賛歌。
今朝は、戦火で苦しみの中にあるウクライナの人々のことに思いを馳せつつ、詩篇48篇に傾聴しましょう。この詩篇の真中には、[48:4
見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。]と、神の都、シオンたるエルサレムを支配下に置こうとして攻め上る周辺国の王たちのことが記されています。そうなのです。アジア、アフリカ、ヨーロッパの架け橋のような位置にありました古代イスラエル民族また国家は、たえず他国からの侵略の脅威にさらされていました。特に、南方にはエジプト帝国、北方にはアッシリア帝国、東方にはやがてバビロン帝国が興隆し、この民族また国家を苦しめることになります。大国の隣国となるのは恐ろしいことです。今日のウクライナもまた、大国ロシアの隣りにあって苦しんています。
この大国の狭間に生きる小国イスラエル民族また国家における「安寧秩序の祈り」であり、「48:1
b主の聖なる山、私たちの神の都」、「48:2 高嶺の麗しさ。」「北の端なるシオンの山」「大王の都」、「48:3
その都の宮殿」であるとの信仰の表明です。このような詩篇は、「シオンの歌」として分類されるもので、それらは「ダビデ契約の神学による主要な教義」を前提としています。つまり、「神はシオンを神の臨在の場所として選ばれた」という信仰です。イスラエルは、小国ではありますが、神の特別な加護をいただいている民族であり、国家であり、その核心は「ダビデ契約」にあるということなのです。
[48:2
高嶺の麗しさ、北の端なるシオンの山は大王の都]とありますが、これは詩的な表現です。シオンの山はそれほど高い山ではなく、地理的にも「北の端」といわれるほど北部に位置しているわけではありません。これは、[イザヤ14:13
おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。]と記されているように、至高神の座が「北の最果て」にあるとイメージされていたことからくるものです。戦争戦火で混とんとする歴史に翻弄される小国にとって、このように勇ましい信仰はどれほど大きな励ましであったことでしょう。見える現実は厳しいものであります。経済力や軍事力は大国に比べると貧弱なものかもしれません。そのような状況において、[48:3
神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示され]、その小国を守り、その都を“難攻不落”なものとしてくださっていると歌っているのです。わたしは、この詩篇48篇を大国の不当な侵略に苦しむウクライナ市民に送りたいと思います。
[48:4
見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。]とあります。大国ロシアは、小国ウクライナに侵攻してまいりました。その高度な兵器と、比べ物にならない兵員をもってすれば、あっという間に首都キエフも陥落するだろう。腰抜けのゼレンスキー大統領は降伏するだろうと考えていたことでしょう。ウクライナの国民は、恐怖のあまり政権をすげかえるだろう、と考えていたことでしょう。しかし、ウクライナの国民は、独裁的な支配者による属国のような支配を拒み、祖国防衛に立ち上がっています。クリミア半島を奪われてから、ウクライナは国家として、軍隊として、国民としてしたたかに準備していたようです。ウクライナ国民は、大国に支配下で、ある意味で「精神的に奴隷のように屈辱的な扱いを受けて生きる道」ではなく、いのちを賭けて「民主的な国家、国民として生きる道」を選んでいるようです。「民族自決権、言論の自由、宗教の自由、内心の自由等が保証された世界に生きる、人間の基本的人権が尊重される世界に生きる」ということは、人間がおいしい空気のなかに生きる、魚がきれいな水の中に生息することと同様非常に大切なことです。わたしは、聖書の信仰の本質として、その本質の表明として、「十戒」の偶像崇拝からの自由というものの本質のひとつは、「内心の自由」であると受けとめています。今見ているウクライナ国民の戦いの本質もまた、「従属国家,従属民族として豊かに生きる」よりも、「貧しくても、困難があろうとも,内心の自由のある誇り高き民族,国家として生きていきたい」という切なる願望であるのではないでしょうか。
ロシア軍は、同じ民族的ルーツをもち、かつて友好国であったウクライナ国民のいのちを賭けた激しい抵抗を目の当たりにしたとき、[48:5
彼らは見ると驚き、おじ惑い、慌てた。48:6
その場で、震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが]とらえたことでしょう。ロシア人は平和を愛する国民と思います。ロシア兵もまた同じと思います。しかし、そのような国民に、そのような兵士たちに、祖国を愛し、家族を守るためにいのちを賭けて戦うウクライナの人々を殺戮していくことは、ロシア兵の良心の呵責を呼び起こすことでしょう。
アフガン戦争でも、ロシア国民の間に反戦運動が広がりました。同じ民族で元友好国のウクライナへの侵攻は、さらに広範な反戦運動をロシア国内に引き起こすことでしょう。
[48:7
東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる。]とあります。タルシシュの船とは、地中海交易用の強力な船団のことです。ロシアのプーチン政権は、独裁を強めた強力な国家とみられていますが、今回の「ウクライナ侵攻」は、強力な「東風」によって沈没させられた「タルシシュの船」となってしまう可能性があります。つまり、国内の反戦運動と、国際的な兵糧攻めによって、プーチン政権崩壊のはじまりとなる可能性があるのです。第二次大戦において、ナチス・ドイツはヨーロッパ全域を支配下に置こうとし、帝国日本は、アジア・太平洋地域一帯を支配下に置こうとしました。それを確実なものにしようと、「真珠湾奇襲攻撃」を敢行しました。英国首相チャーチルは、この知らせを聞き「これで戦争に勝った」と言ったとのことです。及び腰であった最強国アメリカの参戦を決定づけたからです。ウクライナへの全面侵攻は、全世界の世論をひとつにし、ロシアを人間の鎖で取り巻いています。ロシア国民の良心が呼び覚まされる時が到来したといえるのではないでしょうか。
わたしたちは、歴史の出来事の中に神のみわざをみたいと願っています。神さまの権能は全地に及んでいます。[48:9
神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを、48:10
神よ、あなたの誉れは、地の果てにまで、あなたの右の手は義に満ち、48:11
あなたのさばき]が、と。わたしたちは祈ります。民主的な小国を、独裁的な大国が蹂躙しないように、と。主がウクライナを属国的な支配から解放してくださいますように。「48:3
神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示された」とありますように、あなたが「大国の隣にある小国に民主主義と言論の自由を保障する砦」となってくださいますように。今、大きな犠牲を払って、子々孫々のためにそれを獲得せんとして、戦いの中に身をささげているウクライナ国民の上に、神さまの加護がありますように。
最後に、[48:12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。48:13
その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。48:14
この方こそ、まさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる]とあります。歴史的に特別啓示として示された「都シオンと永遠の神」をわたしたちは、どのように理解すれば良いのでしょう。ある人たちは、これらの記述を極端に字義的に、今日のイスラエルに対して適用しようとします。しかし、それは誤った解釈です。歴史的にみて、神殿を含むシオンの山、エルサレム一帯は、永遠の都ではありませんでした。「神の神殿、王宮、エルサレムのすべての家々」はバビロン帝国の軍隊に焼き払われてしまいました(列王記下5:9)。
ところが、神殿は炎上しても、それによって全地を支配する主なる神への信仰は消滅しませんでした。すでにイザヤ、ミカ、エレミヤ等の預言者たちは、主の審判によって堕落したエルサレムとその神殿が荒廃に帰すことを大胆に告知していました。エルサレムは、その神の御心を実践する都でなければなりませんでした。そうでない場合、主なる神はこれを棄てられるであろうと。エレミヤは、涙の預言者といわれ、同族に嫌われるメッセージを取り次ぎ続けました。いつの時代においても、預言者的な使命に生かされる人たちは皆、そのような生涯に生かされます。
では、わたしたちは、この個所[48:12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。48:13
その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。48:14
この方こそ、まさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる]をどのように読み、どのようなメッセージを聴き取り、どのように生かされるのでしょうか。それは、繰り返して申していますように、神さまは、歴史に根差した特殊的な「イスラエル民族主義的」ともみられる啓示の中に、普遍的なメッセージを語っておられるのです。豊かな普遍性を持つキリスト教信仰は、「歴史に根差した特別啓示」から与えられる詩的イメージの全ドラマを「エルサレムにおけるメシヤの出現、死、勝利」に集約しています。この中心的な出来事こそが、「神の都」「シオンの歌」で与えられている詩的イメージの実体なのです。
主が、「シオンの歌」として分類される、「主がシオンを地上における神の支配の中心として選ばれた」という思想は、イエス・キリストの人格とみわざを指し示す詩的イメージとして解釈すべきなのです。その手本を新約にみます。[使徒13:33
神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。]シオンでの祝祭、シオンへの燃えるような切望、神の王国の主権、即位式、混沌の上に君臨される王、ダビデに対する恵みの約束、油注がれた者、神の子、神の右に座する者、神の都、シオンの歌等のすべてが、新約においては、イエス・キリストの人格とみわざを指し示す詩的イメージとして、美しく解釈・適用されているのです。
今朝は、ロシアのウクライナ侵攻に思いを馳せつつ、詩篇48篇に傾聴しました。プーチン氏は、ソビエト連邦としての栄光からの没落をかみしめているのでしょう。それを押しとどめたいのでしょう。しかし、その歴史の流れをとどめることはできません。いさぎよくそれを受け入れるのみです。そして、その流れの中で、主のみ旨を悟って、上手に棹を指すことです。主が、世界の指導者に、そしてキリスト教会の指導者に、時代の流れを読む目と、棹の差し方を教えてくださいますように。多くの人々が苦しみに呑み込まれる前に。
私たちの主イエス・キリストの御思いを「巡り、その周りを歩き、その塔を数え、その城壁に心を留め、その宮殿をめぐり歩く」ことができますように。「後の時代」に恥じることのない選択また生き方ができますように。主が、価値ある生き方のためには死をも恐れず生かしてくださいますように。「死を越えて私たちを導いて」くださいますように。ズミイヌイ島で殉死した13人のウクライナの国境警備隊とその家族のために祈りましょう。キエフに進軍しつつあるロシアの戦車の前に立ちふさがるウクライナ市民とともに祈りましょう。赤の広場とロシア全土で戦争反対に立ち上がる勇敢なロシア市民とともに祈りましょう。ウクライナの旗を掲げ、全世界の隅々で祈る人々とともに祈りましょう。祈りましょう。
2022年2月20日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇47篇「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を」ーウクライナ危機の中で、詩篇47篇を唱和する-
(讃美)
栄光主に、力ある神(赤本157)
https://www.youtube.com/watch?v=9jwJQCCXQvA
なんという喜び(青本61)
https://www.youtube.com/watch?v=wMJwJV0UeFU
(詩篇47篇朗読と傾聴)
https://youtu.be/qTBsOODomL4
J.L.メイズ著『詩篇』で、47篇は「全地に君臨される王」となっています。この詩篇だけを読むとしますと、「全地に君臨される王」を讃美し、ほめたたえる歌であると教えられます。なんの変哲もない、「王たる主」をほめたたえる歌であると読み飛ばしやすいと感じます。しかし、それで良いのでしょうか。この詩篇は、そのように通り一遍の、うわべだけ、形だけの味わい方で終わって良いのでしょうか。この詩篇を一週間味わっていて、そのような問題意識を抱きました。
では、この詩篇47篇を美味しいブドウ酒のように味わうには、どうすれば良いのてしょう。詩篇の一篇一篇は、それぞれが年代物の最高級のブドウ酒であり、熟成された150本のワインの貯蔵室のようなものであるからです。その味わい方のひとつは、この詩篇のジャンル(分類・種類)を知ることです。ブドウ酒にもいろんな種類がありますように、詩篇にもいろんな類型があります。詩篇47篇は、同じジャンルである詩篇2篇と重ね合わせますと、その背景を深く理解できます。詩篇2篇を読んでまいりましょう。
(詩篇2篇朗読)
今、ロシアとNATO(北大西洋条約機構)は、ウクライナをはさんで戦争の瀬戸際にあります。詩篇2篇は、権力抗争に明け暮れる国々によって編まれてきた「歴史の問題」に直面した、信仰共同体の抱く問いに焦点を絞っています。この問いは、21世紀に生きる私たちにとっても、新鮮な問いであります。近くは、ミャンマーがあり、香港があり、南シナ海があり、北朝鮮があり、その大小の騒乱の種は尽きることがありません。ここで、信仰者に与えられた言葉は、「メシヤの告知」です。神はそのメシヤの支配のもとに諸国を置かれるのです。詩篇2篇は、主に油注がれた者、天の御座に着いておられる方、わたしの王を立てた、聖なる山シオンに、あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだーと、メシヤたる王の任職式、戴冠式を描写しています。この詩篇2篇の内容は、王を主題とする他の詩篇群(詩篇18,20,21,45,72,89,110,144,等)の先触れとなるものです。
詩篇2篇は、v.1-3で、「国々とその王たちが主のご支配と油を注がれた方に逆らう」ことへの驚きが表されています。V.4-6で、「天を王座とする主の嘲りと憤りの応答」を描いています。主は、王たちの反逆に対し、「主みずから、聖なる山でご自身の王をお立てに」なります。V.7-9で、「主が認めた王とは誰であるか」そして「その王の支配」について記されています。王は「主の父権により、特別な日に、主の子とされ、全地の支配とそり支配を成し遂げる力を約束」されます。V.10-12で、「地を治める者たちが、王の王権に服従」するように諭され、彼らは主のご支配に挑むすべてに対して下される「さばきの怒りを受けるか否か」の選択を迫られます。
前置きが長くなっていますが、今朝の詩篇47篇も、詩篇2篇と同じ線上で理解されます。最初の招詞[47:1
すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって、神に大声で叫べ。]は、[47:2
まことにいと高き方、【主】は恐るべき方。全地を治める大いなる王。47:3
国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。47:4
主は私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ47:5
神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。]と、主によるご支配確立へと至る道筋を記すことによって補われています。
第二の招詞[47:6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。]には、[47:7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。47:8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。47:9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。]と、主がそのことばの中心にある王座に着いておられることの記述が続きます。[セラ]は、5節[47:5
神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。]の直前に置かれ、区別されることにより、この詩全体の頂点であり、中心である出来事を描写しています。
この讃歌の「場」は、主は上られ、王座に着かれるという戴冠式です。この出来事は、神殿の典礼式においてならば「神の箱を担いで進む行列」によって表現されたことでしょう。古代近東の宮廷儀式ならば、王が壇上に登り、王座に着くーすなわち戴冠式において、宮殿を取り囲む者が王の支配に対し喝采した出来事でしょう。また、
[47:2 全地を治める大いなる王、47:3 もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる、47:4
私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを」は、イスラエルの土地取得に至る過程の記憶と解釈の伝承です。混沌は征服され、古代近東の宗主権条約にある用語の意味での、神とイスラエルの関係における「神の愛」が記されています。属国に示される好意は、「宗主国の王の胸先三寸」でありました。
主の王権は、地上のすべての国とすべての民に対する主張の基盤です。イスラエルに示された「特殊性」が、「普遍性の基盤」であり、「普遍性」が「特殊性の意味」を描き出すのです。神の王権についての詩篇の見方は「多面的」です。そこには、歴史、儀式、神話が含まれ、さらに過去の記憶、現在の経験、そして未来への希望が含まれます。「神が主導されたこととしての征服」を思い起こすことは、これらを考える時に重要です。主が「全地の王である」ことの啓示として、この点をみるなら、このことに「宇宙論的かつ終末論的意味」を与えることになります。それは、「歴史の混沌」と「背後と上で起こっていること」の顕示となります。「主が世界支配の座に着かれた」ことを、礼拝において喜び祝うことは、「その記憶とその意味を、今ここで味わう」ことです。
これらのことを考えますと、この詩篇47篇は「神の統治の正しい理解」の模範であり、またそれを「喜ぶことの範例」であります。神の統治は、人の世の出来事と離れたところでは決してありえず、しかし、どんな出来事の中にも決してとどまるものでもありません。また神の統治は、純粋に終末論的に限定されるものではありません。過去にも、現在にも適用されうるものです。しかし、終わりの日にの完成においてのみ、それは満ち満ちたものとなります。それは、今日のいかなる人の行いによっても、完全には表すことのできないものです。しかし、礼拝の讃美と祈りにおいて、わたしたちはそれを実際のこととして味わうことができるのです。
最後の[47:9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。]の「神の民」に含まれている意味に注目すべきでしょう。神の民は、漢民族やウイグル族、ロシア人やウクライナ人等ー「民族や国家的アイデンティティ」によってではなく、「主の支配を信じ、認めることによって結び合わされたもの」のことです。種々の形で「悪しき民族主義」「悪しき愛国主義」をあおり、政治的利益を得ようとするジヤーナリズムや政治家等を警戒しなければならないと思います。「悪しき民族主義」「悪しき愛国主義」を唱道する宗教家による運動や教えにも警戒が必要と思います。多様な歴史と文化をもつ民族の上に超越し、愛をもって統治しようとされている「全地を治める、大いなる王」に焦点を合わせるべきと思います。
この考え方は、シナイを越えて「アブラハムへの約束」に遡ります。その約束とは、「創世記12:1-4
アブラハムの子孫を通して、地上のすべての民が祝福を受ける」ということでした。この詩篇47篇における「神の全世界に及ぶ王権の神学」は、その成就を指し示しています。ユダヤ教の伝承によりますと、詩篇47篇は、新年の幕開けに「吹き鳴らされるトランペットの音の前に七回、神殿で歌われた」といいます。初代教会では、この詩を「主イエスの昇天」を讃美するために用いられました。この詩は、ウクライナ危機の最中、左の耳・左の眼で水平方向のニュースに翻弄される今日、右の耳・右の眼でこの詩篇47篇を通して「垂直方向からのイメージ」に立ち、そこを起点としてたくましく歩み続ける者とされたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: J.L.メイズ著『詩篇』、B.W.アンダーソン著『深き淵より』)
2022年2月13日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇46篇
「やめよ。知れ。わたしこそ神」ーその特殊的なものを通して「普遍的なもの」をイスラエルに教示し-
*
(傾聴)
[讃美]
「神はわがやぐら」讃美歌第267番、新聖歌280
https://www.youtube.com/watch?v=_G5yik1KpkY
川がある [楽譜番号 赤本:48]
https://www.youtube.com/watch?v=j23_F0_EU34
[詩篇46篇朗読と傾聴]
https://youtu.be/MqaV-FmxQNk
________________________________________
この二週間くらいは、既刊のキンドル本をペーパーバッグ版化、すなわち文書化することに尽力していました。いろいろと細かい作業も数多くあり、寝ても覚めてもの日が続き、深夜までの日もありました。
四六時中、交感神経を使い過ぎたようで、睡眠が浅くなり、疲れがとれず、からだのだるい日が多かったように思います。なので、これからは自宅で交感神経を使い過ぎないようにし、副交感神経とのバランスを大切にしていくことを学びたいと思っています。さて、今朝は、先週の「王家の結婚式」の詩篇45篇のお祝いのムードと希望に満ちたトーンが継続している詩篇46篇です。詩篇46、47、48篇では、「シオンからの神の統治・支配」に焦点が当てられています。
わたしたちは、詩篇第一巻(1-41篇)を振り返り、「避け所としての主」がこれらの詩篇の重要なテーマであることを思い起こします。この詩篇46篇は、ルターによる讃美歌第267番「神はわがやぐら」で有名になった詩篇で、この歌は関学時代、一時間目と二時間目の間、毎日30分間あるチャペル・タイムでよく歌いました。この詩篇は、[46:1
神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。]と、神がわたしたちにとって「避け所」であり、困り果て、苦しみの中にあるときの「助け」であるという肯定から始まっています。
V.1-3の第一詩節(スタンザ)においては、[46:2b たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。46:3
たとえその水が立ち騒ぎ泡立っても、その水かさが増し山々が揺れ動いても。]と、阪神大震災や東日本大震災、大津波、原発による災害等のような自然界の天変地異や事故があっても、[46:2a
われらは恐れない。]と、危機の最中に投げ込まれるとしても、絶望しない、勇気を失わないとの信仰の告白がなされています。その信仰・希望・勇気の源は、
[46:2 それゆえ]にあります。「それゆえ」とは一体何でしょうか。それは、[46:1
神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。]であるからなのです。
古代の中東では、「海の中心にある」山は、空を所定の位置に保持する大地の柱と考えられていました。[46:2たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。]と、その大黒柱が崩れ、折れ、破壊され、空が落ちて来ても、そして、そのことによって[46:3
たとえその水が立ち騒ぎ泡立っても、その水かさが増し山々が揺れ動いても。]と、地震による大津波による災害が起こってもと、温暖化による環境破壊との戦いに適用可能な言葉が続きます。この詩篇の第一詩節は、「クリスチャン、この温暖化による環境破壊の時代、いかに生きるべきなのか」、神を避け所として、神の力、神の助けをいただきつつ、いかに戦うべきなのかの挑戦状がたたきつけられているように思います。
第二詩節のv.4に入りますと、そのv.1-3の「天変地異のトーン」からの顕著な移行をみます。第一詩節では、混沌とし、破壊された海は、[46:4
川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。46:5
神はそのただ中におられ、その都は揺るがない。神は朝明けまでに、これを助けられる。]と、これは、ダビデ契約に基づき「神はシオンの都を神の臨在の場所として選ばれ」ている、という確信の表明であります。この詩的なイメージは、何を意味しているのでしょうか。これは、エゼキエル書47:1-12や黙示録22:1-2、ヨハネ7:38に示されているものです。それを少し読んでみましょう。
エゼキエル書を開きましょう。[47:1
彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。47:2
次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。47:3
その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。47:4
彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。47:5
彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。47:6
彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。47:7
私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。47:8
彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。47:9
この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。47:10
漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。47:11
しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。47:12
川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」]とあるように、エゼキエル書における未来に関する預言とも重なります。
黙示録を開きましょう。[22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2
都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。]とありますように、未来の新天新地における預言とも重なります。
そして、それらは、ヨハネによる福音書[7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。]のー現在の私たちへの祝福とも重なるものです。
詩的なイメージによりますと、神殿の下からいのちを与える泉が湧き出し、この町シオンから死海へと流れ下り、荒野を肥沃な土地に変え、死海を淡水湖に作り変えるというのです。「罪と死のからだ(ローマ7:24)」のようなわたしたちの存在における御霊の内住の経験とも重なります。そして、この被造物世界全体へのわたしたちの使命・貢献もそこにあります。
ここで注意すべきポイントを指摘しておきたいと思います。といいますのは、このようなポイントには、誤った解釈と誤った運動への落とし穴も見受けられるからです。旧約のダビデ契約、その神殿、エルサレム、それら一帯を含む意味でのシオンの中心性の意味を、新約の光の中に生かされるクリスチャンいかに理解すべきなのか、という問題です。新約の光に従って「民族を超えた普遍性」を重んじるわたしたちの信仰の本質において、「シオンの中心性」を強調することは、ある意味「民族主義的排他性、民族主義的国粋主義」の響きをもち、神学的に耳障りな要素です。
なぜ、シオンが他の場所に優って、神学的な優先権を持たねばならないのでしょうか。それに対する健全な答えは、聖書の真の意味は「民族主義的要素」の中にあるのではなく、シオンが「超越的な意味のシンボル」を担っているというポイントにあるのです。詩篇の中に数多くある「シオンに関する詩篇」は、歴史に根差した特殊的・民族主義なものから芽生える「普遍的なもの」を表現しているのです。詩篇作者にとって、シオンは「民族的・歴史的な意味を解き明かす中心」でありますが、そのことの意味・目標・意図は、「民族主義的な優先権の主張や保証」ではありません。神が意図された真の意味は、その特殊的なものを通して「普遍的なもの」をイスラエルに教示し、イスラエルはその「普遍性」を全世界に向けて顕わすために、選ばれ、用いられた、ということなのです。イスラエルの「選び」の真の意味を誤解すると、落とし穴に落ち込み、逸脱と亜流の運動と教えに巻き込まれます。
イスラエル民族の中に、イスラエル民族の歴史の中に「啓示された意味」は、イスラエルに限定されたものではありませんでした。その啓示は、第三詩節に
[46:9 主は地の果てまでも、戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。46:10
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」]と、ありますように、戦争、憎悪、誤解という歴史を担う「あらゆる人間存在に対する意味」を持っているのです。この「普遍的な意味」をイスラエルという特殊性の中に、見出す鍵はキリストの人格とみわざにあり、使徒たちは御霊による啓示により、健全でバランスのとれた旧約解釈を、詩篇解釈を提示しています。この理解に立たないと、中東に真の和平は訪れないでしょう。クリスチャンは、健全な福音理解に立ち、真の和平への仲介者となっていくべきなのではないでしょうか。
今日も、ロシアとNATOとの間で、ウクライナの領土紛争が起こっています。ここでは、形式的にはキリスト教国同士ではあります。なのに、クリミヤ半島は征服され、ウクライナの東部も危険な状況です。そこには、強国が弱い国を踏みにじる姿があります。戦いが始まれば、多くの犠牲が生まれることでしょう。弱い国も、周囲の助けを得て、死に物狂いで戦い続けるからです。
主は、[46:10
「やめよ。知れ。わたしこそ神。]と語られています。豊かな「普遍性」をもつキリスト教の信仰は、「シオン中心の狭い考え方」ーすなわち「排他的民族主義、排他的愛国主義」の狭い考え方に偏ったものではありません。それらは、キリスト教信仰の本質とは異質な「亜流であり、逸脱」といえます。
民族に対する神の関わりの全ドラマは、「シオンたるエルサレムに出現されたメシヤなるキリスト、その贖いの死と復活の勝利」に集約されているのです。この中心的な出来事こそ、このお方こそ、クリスチャンの礼拝において再現されているものであり、民族を超えた「普遍的な神の民」のシオンであり、歴史の中心なのです。そのようなお方を、そのようなみわざを、そしてそれを現実化する内住の御霊を「わたしたちの避け所」とし、「わたしたちの力」とし、「強き助け」とし、世界の平和のため、私たちの身近の真の平和のために、祈り続け、取り組み続けましょう。祈りましょう。
(参考資料:W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン著『深き淵より』)
2022年2月6日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇45篇 「すばらしいことばで、私の心は沸き立っている」ーキリストと行進し続けるバージンロード-
https://youtu.be/OUMTJ2V2nI8
(傾聴)
わたしは最近、NHK-BSの「グレートトラバース:日本三百名山」という番組をよく見ています。日本の中にある三百の有名な山を踏破する風景ビデオのシリーズです。日本の山といえば、一般的なイメージがありますが、ひとつひとつ踏破していくときに、それぞれの山には「個性と特色」があることを教えられ感動させられます。今、わたしたちが傾聴しています『詩篇の150篇』もある意味で、「個性と特色」のある山々のようだと教えられます。詩篇第二巻の最初、42、43、44篇は、苦難のただ中での「嘆きの祈り」でありました。しかし、45篇の山に登ると風景は一変します。これは、王家の結婚式のお祝いの歌なのです。
そして、この王家の結婚式の歌は、ヘブル1:8-9で[1:8
御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。1:9
あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」]と、メシヤなる御子イエス・キリストを指すことばとして引用されています。また、創世記1-2章の解説書としての『雅歌』、そして福音書(マタイ9:15)・エペソ書(5:22-33)・黙示録(19:7-9、21:2、22:17)に記されていますように、王の婚礼は神と神の民、花婿なるキリストと花嫁たる教会また信仰者ひとりひとりの関係の類比として用いられています。聖書全体に眺望せられるそのような類比の風景全体を眺めつつ、王家の結婚式の祝いの歌をみてまいりましょう。
さて、絶対王政の支配する社会では、王家の婚礼はまことに重大な行事です。それは、単なる恋愛の問題以上に、国家間の同盟をも意味する事柄でありました。わたしたちとキリストとの関係にもそのように言える側面があります。新約のローマ書に[8:31
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。]と、わたしたちのキリストとの関係は、ある意味で“最強国家”との同盟関係でもあるからです。この祝宴には、同盟国や従属国の王族も出席しました。しばしば婚礼は「外交儀礼の場」でもありました。今日でも、オリンピックもそのような場です。なので、「外交的ボイコット」等が話題になったりしています。キリストとの婚姻関係の中にあるわたしたちの様子を、神さまの事を知らない多くの人たちが見つめています。わたしたちの人生、生活はマタイ伝に
[5:14
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。]とありますように、「隠れることのできない山の上の町」なのです。
詩篇45篇は、そのような結婚にまつわる儀式の進行によって構成され、その壮麗な雰囲気をかもしだしています。王は、[45:8
あなたの服はみな没薬アロエシナモンの香りを放ち]と、東方の高価な香料の香り立つ王衣をまとい、その花嫁は[45:13
王の娘は、その衣には黄金が織り合わされている。]と、金糸と色糸で織られた晴れ着を身に着けています。[45:14
おとめたちが彼女の後に付き従い]と花嫁は乙女らをしたがえ,[45:15
喜びと楽しみをもって、彼女たちは導かれ、王の宮殿に入って行く]と、高らかな音楽が象牙模様で装飾された宮殿の部屋に、あたかもラッパやパイプオルガンが鳴り響く中、宮殿に進み入っていくようにです。
花婿は、これ以上ないほどの賛辞(v.2-9)を受けます。それから、花嫁は、[45:10
娘よ、聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。45:11
そうすれば、王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそ、あなたの主。彼の前にひれ伏せ。]と、王を夫として、君主として、その人の妻として、その人に従うものとして受け入れることの勧めを受けます。花嫁は、[45:14
彼女は、王の前に導かれる。彼女はあなたのもとに連れて来られる。45:15
彼女たちは導かれ、王の宮殿に入って行く。]と王にまみえ、結婚が成立するために宮殿に導かれていきます。王は子孫を約束され、その子らを通して支配は全土に、そして来るべき代々に至ります。
この詩篇で、問題となりますのは、[45:6
神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。]です。王を「神(エロヒーム)」の呼称で呼んでいるところです。旧約聖書の中には、このような例はありません。聖書の唯一神信仰からして、これは大きな問題といえる箇所です。幾つかの聖書的説明が可能とされています。そのひとつとして、新約聖書の使徒行伝があげられます。[2:29
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。2:30
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。2:31
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。2:32
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて,今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。2:34
ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』]と、『主は、私の主に』と、御父が御子イエス・キリストに言われたと、預言者としての詩人のことばの中に、メシヤ預言を予表的に読みっています。
それと同様のかたちで、詩篇45篇の[45:6 神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。45:7
あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ神よ、あなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。]は、新約聖書ヘブル人への手紙1章で[1:8
御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。1:9
あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」]と、詩篇45:6の[45:6
神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。]の神(すなわちエロヒーム)が、“御子イエス・キリスト”の永遠の支配を預言的に、予表的に示されたものであることを明らかにしています。
この詩篇45篇は、[45:1
すばらしいことばで、私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。]と、熟達した宮廷の書記であり、詩人の手による「王の婚礼」のための美しいことばです。これは、最初から繰り返し申しておりますように、メシヤを指し示すテキスト、神と神の民のテキスト、花婿なるキリストと花嫁としてのわたしたちを描写するものです。かの「チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式の入場」は、大変美しい場面でありましたが、後には汚されてしまいました。しかし、「キリストとわたしたちの入場行進」は、今も毎日続いている名実ともに、美しく清らかな入場行進です。そのイメージを、すばらしいことばで、心を沸き立たたせつつ人生を歩んでまいりましょう。今週も、また召されるその日まで、そして再臨の主にまみえる日まで、主とともに、真っ白なバージンロードを歩んでまいりましょう。では、祈りましょう。
(参考資料:J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、J.L.Mays,“The Lord reigns: A
Theological Handbook to the Psalms”)
2022年1月30日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇44篇
「あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」ーこの「深き淵から」立ち上るイスラエルの呻吟は、試練のただ中で歌い続けられる讃美でもある-
https://youtu.be/ZfEGTNKPXeg
(傾聴)
今朝の詩篇、44篇の祈りは、まずv.1-3で救いの歴史の回顧から始められ、v.4-8で信仰の告白と信頼の表白、v.9-12で現在置かれている惨憺たる現実、v.13-16で向けられている敵意、v.17-22で災いの責任を問われることは誠実さの主張によって拒絶され、v.23-25の嘆願と主に対する訴えで閉じられています。この詩篇は、力強い嘆きの祈りとなっています。詩人は、まず「v.1
先祖たちが語ってくれました。あなたが、彼らの時代、昔になさったみわざを」と先祖たちの信仰を想起します。過去において、先祖たちが神による救いのみわざを経験してきたことを。V.2-3で、土地と子孫が与えられ、v.4で[44:4
神よ、あなたこそ私の王です]と、神が王であり、主である国家が創出されたことを誇り、ほめたたえています。
しかし、この詩篇の中心は、前半の「神の救いのみわざ」とコトラストされる、後半の「神の沈黙」にあります。それは、[44:9
それなのに、あなたは私たちを退け卑しめられました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。]であり、[44:22
あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています]とある通りです。神を礼拝する多くの人々にとって問題は、「もし神が過去においてそれほど活動的であったのなら、深い苦しみの中に人々が呻吟する現在、神は一見なすところもなく、手をこまねいておられのか」ということなのです。これは、ある意味で私たちの日常的な経験でもあります。ただ私たちの中には、亡国や捕囚、キリシタン弾圧やユダヤ人の絶滅収容所のような激烈な経験をもつ人は多くないでしょう。
しかし、私たちがこの世界に生き、毎日のニュース等で世界のどこかで大小の苦難・苦境の中に置かれている人々がおられることを知る時、苦しんでいる人々の苦しみに同一化(アイデンティファイ)して、「嘆きの詩篇」を唱えることの大切さを教えられるのです。この詩篇のv.9-22を読みます時、痛ましい経験の中に置かれる時、「神はその民を忘れてしまわれたのではないのか」とか、「神は人間のあげる苦悩の叫びを意に介されないのではないのか」という深刻な疑問がもたげてくることを教えられます。それと同時に、そのような世界に生かされているすべての人に向けて、「捕囚の最中で、追い立てられ、打ちひしがれた民が口にした嘆きの歌」は、現在の世界の中で不正と抑圧の残忍な重さに呻吟している多くの人々とともに、わたしたちがあげるべき「叫びの原型」であると教えられるのです。神に向かって、信仰の父祖たちになされた数々の神のみわざを掲げ、ほめたたえつつ、[44:9
それなのに、あなたは私たちを退け卑しめられました]と詰問します。
[44:17
これらすべてが私たちを襲いました]と問題・トラブルの数々を並べ立てます。これは、現実に生起している問題を直視する目の大切さであり、その問題を神とともに解決していこうとするエネルギーの源であります。神の全能と摂理を信ずる詩人は、[44:19
あなたはジャッカルの住みかで私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。]そして[44:22
あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。]と、問題の背後に神の御手をみてとります。問題の最終的解決のカギは、神にあるのです。それゆえ、神を起点とし、神の視点で問題の解決を思索していかねばならないのです。それゆえ、問題の解決のカギを握っておられる方、主なる神に[44:23
起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。44:24
なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。]と嘆願します。
この祈りは、新約でイエスが教えられた祈りの姿勢を思い起こさせます。ルカ11:5
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。11:6
友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』11:7
すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』11:8
あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。私たちも、詩篇の記者のように、またイエスの教えに導かれて、問題や苦境に悩まされている人々のために、彼らに成り代わって、[44:23
起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。44:24
なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか]と嘆願の祈りをささげる者となりましょう。
このように見ていく時、私たちは「なぜイスラエルの詩篇に、嘆きの歌がこんなにも多いのか」について考えさせられます。実に、詩篇の三分の一以上は、圧迫と脅威の状況から生まれ、神に対する訴えや嘆きの部類に入るものです。表題の中で、ダビデの生涯における出来事に言及する詩篇が一つ残らず嘆きの詩篇である、という事実は実に驚くべきことです。イスラエルがエジプト人のしいたげに屈していたとき、敵対する力が余りに巨大で前途に何の希望も持てなかったとき、民が解放を求めて主に叫んだように、イスラエルの歴史を通じて続けられる巡礼の道々で、この民は繰り返し繰り返し患難のどん底から神に叫びをあげてきました。「深き淵から」立ち上るイスラエルの叫びを。ただ、この「深き淵から」立ち上るイスラエルの叫び・呻吟は、試練のただ中で歌い続けられる讃美でもあるのです。
(参考資料:B.W.アンダーソン著『深き淵より』pp.58-61)
最後に、ひとつの話をして終わりましょう。それは、マルティン・ブーバーと並ぶ20世紀最大のユダヤ教神学者、エイブラハム・ジョシュア・ヘッシェル博士とその著作についてです。アブラハム・ヨシュア・ヘシェルは、1907年にモシェ・モルデハイ・ヘシェルとライゼル・ペルロ・ヘシェルの6人の子供の末っ子としてワルシャワで生まれました。彼らの父モシェは、アブラハムが9歳の1916年に
インフルエンザで亡くなりました。1938年10月下旬、ヘシェルがフランクフルトのユダヤ人家族の家の貸し部屋に住んでいたとき、彼はゲシュタポに逮捕され、ポーランドに移送されました。ヘシェルの妹エスターはドイツの爆撃で殺されました。彼の母親はナチスによって殺害され、他の2人の姉妹、ギッテルとデボラはナチスの強制収容所で亡くなりました。1939年9月のナチによるポーランド侵攻直後にビザを得てワルシャワを脱出し、ロンドンを経て1940年3月にアメリカ合衆国に亡命。ヘブライ・ユニオン・カレッジで講師をした後、ユダヤ教神学院で教職の地位を得、研究活動を続けました。晩年の10年間には、黒人の公民権運動とベトナム反戦運動に献身しました。わたしは今、ヘシェルの人となり、いきざまに深く共感・感動しつつ、彼の著作を読ませていただいています。
彼の名著のひとつ、『イスラエル預言者』(上・下)の見開きの献呈の言葉に[1940年から1945年にかけて殉教の死を遂げた同胞たちに捧げる]とあり、[わたしたちはあなたのことを忘れたことはなく、あなたとの契約を裏切ったこともないのに、これらすべてがわたしたちの身にふりかかりました。わたしたちのこころはあなたに背いたことはなく、わたしたちの足はあなたの道からそれたことはありませんでした。…あなたゆえにわたしたちは殺される身となりました…なぜあなたはみ顔を隠されるのですか]と、今朝の詩篇44篇が、書き添えられています。
アブラハムから数えて四千年、キリストから数えて二千年の、神の民の苦難、人類の、また諸民族の苦難、そしてそれらのすべてをわたしたちの日常の大小の苦しみ・哀しみに重ね合わせ、この詩篇を唱和し、詩篇の苦味をも賞味しつつ生きてまいりましょう。祈りましょう。
(参考資料:B.W.Anderson,” Contours of Old Testament Theology”
pp.245-246、A.J.ヘッシェル著『イスラエル預言者』上・下)
2022年1月23日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇43篇「神よ、私のためにさばいてください」ー神は、その“荒れ球”を胸のど真ん中で受けとめてくださる-
https://youtu.be/jkVYDZ7jVvc
(讃美)
命ある限り(Holy Power 10)
注ぎたまえ 主よ(Holy Power 11)
(序)
先週は、パソコンの故障があり、古いパソコンで録画しています。お聞き苦しいところがあるやも知れませんがご了解お願い致します。では、今朝は、先週の42篇と今日の43篇を合わせてみてまいりましょう。といいますのは、このふたつに分けられている詩篇は、ひとつの詩篇ではないかと言われているからです。分けられた事情は分かりませんが、これらの詩篇がひとつの詩篇であろうという可能性は理解できます。それは、この詩篇が、42:5,
42:11, 43:5
の「わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」と詩人が自分自身に向かって話しかける「三度の繰り返し」をもった三つの詩節で構成されていると理解されるからです。
では、これらの詩篇の後半であろう詩篇43篇を朗読させていただきます。(詩[ 43 ]朗読)
この詩篇は、「嘆きの詩篇」のひとつです。嘆きの詩篇における最も困難な問題のひとつは、神への祈りにおいて、「敵」が中心的な場を占めているという事実です。「共同体の嘆き」の場合、この問いに答えるのは難しくありません。共同体が、敵の軍隊、飢饉、旱魃、イナゴのような災害に脅かされて、嘆き求めた祈りの事例と分かります。しかし「個人的な嘆き」の歌においては、それが病気なのか、事故・災害なのか、事件・裁判なのか、流浪・捕囚なのかー何が問題になっているのかがはっきりしないのです。なぜなら、詩篇作者は「苦しむ人間の状況」を描くのに「あいまいな表現」を使っているからです。
先週みました42篇の「乾季の涸れ谷にあえぎ、雨季の怒涛に溺れる」詩篇作者は、「正体不明の敵」による嘲りと攻撃にさらされ、42:1-4の第一の詩節で、実に痛ましく嘆きを訴え、神を渇き、神を求めています。そして42:6-10の第二の詩節で、さらに深いレベルの苦しみが見通され、彼の詩的な想像の中で、雨季のヨルダン川の怒涛の激流に引きずり込まれる「死の恐怖」におびえています。それらの二つの詩節は、詩人の自分自身への語りかけで区切られています。それはまるで「音楽の折り返しのコーラス部分」のようにです。そして、43篇で第三の詩節に入ります。「乾季の涸れ谷、雨季の怒涛」のような“詩人の精神的危機”は、正体不明の敵の存在によって、苦しみと悩みが倍加されていきます。敵たちは、この詩人の信仰を嘲り、疑ってやまないからです。
詩篇43篇の第三の詩節に入りまして、この詩篇作者の祈りはー[42:3
昼も夜も、私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と、人が絶えず私に言う間。42:9
私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」42:10
私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。]ー「嘲り虐げる敵」を前にして弱々しい「嘆きの祈り」から、[
43:1 神よ、私のためにさばいてください。]ーと力強い「報復の求め」に変わります。[43:2
あなたは私の力の神であられるからです。]と力強い神の介入を求める祈りです。ある意味で、それは、詩人の”信仰による問題解決能力”と言えるかもしれません。
この祈りを聴いて私たちは、どう思うでしょうか。私たちが「大小のトラブル」に巻き込まれた時、どう祈るでしょうか。振り返ってみますのに、私は「主のみ旨がなりますように」と祈ることが多かったように思います。これは、ある意味“美しい祈り”ではありますが、迫力に欠けるきらいがあります。また、「逃げ腰、無責任、丸投げ」の印象すら残ります。主とともに、主にあって「問題に直面し、克服・解決していく」気概に欠けているようにも反省させられます。神の主権と聖霊の働きに関して“神律的相互性”という言葉があります。つまり、神は全能者としてすべての事柄を、摂理をもってコントロールし、律しておられるのですが、同時に信仰者は内住の御霊において、神のみ旨に沿って”共同作業”の道が開かれているということです。
[43:1
神よ、私のためにさばいてください。]には、[私の訴えを取り上げ、不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。]と「不敬虔な民」や「欺きと不正の人」の「言い分」によっておとしめられることがあります。罠にはめられ、背中から刺され、背後から撃たれることがあります。そのような時に、「美しい言葉」はなんの役にも立ちません。「臭いものに蓋をする」だけです。一時的な知恵ある解決策のように見えますが、問題をそのままにして隠蔽し、先送りするだけです。それではいけません。問題は、隠されたかたちでくすぶり続け、将来の“大火”に結びつくことになりえます。そのような時、オブラートのように“苦い薬”を包んで飲むような言葉には“力がありません”。そのような時には、直截に、ストレートに、“苦い”ものは苦いまま飲み干すべきなのです。そのような祈りには、力が湧いてきます。それは、“リアル”な実質をもった“裸”のことばの祈りだからです。
私たちは、きらびやかな美しい衣を脱ぎ捨て、灰をかぶり荒布をまとい、生きた祈りを学び者とされましょう。詩篇の宝石のような祈りを手に入れるために、個人の祈りの生活においては「美辞麗句の衣」をまとって祈りことをやめましょう。詩篇にみる裸の祈りを学んでまいりましょう。[43:1
神よ、“この問題に関して”私のためにさばいてください。]と、“この弾薬のような、刀の鋭い切っ先のような”祈りの言葉を駆使することを学びましょう。私たちが直面している「大小の問題」のボールを、直球勝負で全力投球で神様にぶつけることを学びましょう。神様は、優れた野球選手がそうであるように、その“荒れ球”を胸のど真ん中で受けとめてくださると思います。神様はきっと、
[43:3 光とまことを送り私を導き]、[あなたの聖なる山、あなたの住まいへと私を連れ]行ってくれることを、そして[43:4
こうして私は、神の祭壇に、私の最も喜びとする神のみもとに行き、竪琴に合わせてあなたをほめたたえ]ることを学ぶでしょう。祈りましょう。
2022年1月16日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇42篇「乾季の涸れ谷にあえぎ、雨季の怒涛に溺れる」ー
いのちの水の一滴、救命の藁の一本 -
https://youtu.be/JdR4y2uGy4Q
(讃美)
輝く日を仰ぐ時(聖歌480,497)
荒野に水が [楽譜番号 赤本:27]
(序)
先週で、詩篇第一巻(1-41篇)傾聴を終了し、今週から詩篇第二巻(42-72篇)に入ります。この区分の根拠は詩篇それ自体にあり、それぞれの集まりの締めくくりに頌栄が置かれています。詩篇第二巻には、神殿音楽隊のコラの子たちのもの(42-49篇)、もうひとつの神殿グループであるアサフのもの(50篇)、ダビデのもの(51-65,
68-70篇)、ソロモンのもの(72篇)、そして匿名の詩篇(66,67,71篇)があります。詩篇の構造は、いわば何世紀もかけて建設され、様式が多様でありながらも調和している大聖堂に比せられます。
今朝の詩篇42篇には、「コラの子たち」と表題されています。詩篇では、十二の詩篇(42-49、84-85、87-88篇)が、このレビの家系で、この名をもつ反逆的指導者の子孫に帰せられています。レビの孫として、コラは、モーセとアロンと「いとこの関係」にあたります。民16:1
レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、16:2
モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。16:3
彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは【主】の集会の上に立つのか。」16:4
モーセはこれを聞いてひれ伏した。16:5
それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、【主】は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。
民数記26:10-11に「26:10
そのとき、地は口を開けて、コラとともに彼らを呑み込んだ。それは、その仲間たちが死んだときのこと、火が二百五十人の男を食い尽くしたときのことである。こうして彼らは警告のしるしとなった。26:11
ただし、コラの子たちは死ななかった。」とあります。反逆者コラたちは死にましたが、コラの子たちは命拾いし、この家系の一部は、神殿の門衛および監視者(Ⅰ歴代9:17-、詩篇84:10参照)、一部はダビデのもとでヘマンによって創設された神殿聖歌隊の歌い手および楽器演奏者となりました(Ⅰ歴代6:31,33,39,44)。反逆者コラの子孫としてみなされていたその子孫が再び神の栄光の神殿の奉仕、また特に讃美する聖歌隊の奉仕、詩篇のシンガー・ソング・ライターのような奉仕にあずかれるようになったのは、なんと幸いなことだったでしょう。
では、今朝の聖書箇所を開きましょう。朗読させていただきます。(聖書朗読)
(傾聴)
この詩篇42篇には、ひとつの思い出があります。大阪府の最南端にあるみさき公園の近くにありますJEC岬福音教会の牧師をさせていただいていました時、同じ交わりの中にある泉南福音教会で合同集会があり、キリスト教文学者であり、奈良福音教会の長老をされていました清水氾先生(当時、奈良女子大教授)が講演をしてくださいました。そのときに、この詩篇42篇が取り上げられました。「皆さん、この詩篇の一節を読まれて、どのような情景を思い浮かべられるでしょうか?」と。聖歌480番の歌詞に「森にて鳥の音を聴き、そびゆる山に登り、谷間の流れのこえにまことの御神を思う」とあるように、「森林と谷川の水で溢れる情景に慣れ親しんでいる日本人なら、”鹿が美味しそうに清水を味わっている”のを思い起こすのではないでしょうか」と。
しかし「この詩が記された中東パレスチナの地域は、地中海と砂漠に囲まれ、”シロッコ”という高温に熱せられた砂漠の空気がパレスチナを襲いますと、その熱風で大地が焼き尽くされたようになり、緑の草木は姿を消す世界です。」「42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」の一節は、そのような中東の世界を表現しています。
ヨエル1:20では、「野の獣も、あなたをあえぎ求めています。水の流れが涸れ、火が荒野の牧場を焼き尽くしたからです。」とある日照りによる苦悩(ヨエル1:2)なのです。
エレミヤ14:1では、「日照りのことについて、エレミヤにあった【主】のことば。14:2
『ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。14:3
高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。14:4
地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。14:5
野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。14:6
野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」とあるように、その乾季の日照りで土地は荒れ果て、動物はうつろな目をして死んでいく世界の情景なのです。
詩篇42篇の冒頭の「42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2
私のたましいは、神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば、私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」とは、そのような世界で激しい渇きに苦しむ野の鹿が、谷川に流れるいのちの水を慕い求める姿に重ね合わせ、詩人もまたいのちの神に対する渇きにあえぎ苦しんでいる、と告白しているのです。そして、42:3では[
昼も夜も、私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と、人が絶えず私に言う間。]と陰の詩句が展開し、42:4では[私は自分のうちで思い起こし、私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげて、あの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。]と、追憶の陽の詩句が対照されて、影と光の生涯を描写しています。
42:5では
[わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。]と“私”と“わがたましい”を別存在、別人格のように扱い、現実の苦悩の中にあるたましい、「涙を食べ物」とし、絶望の中で「うなだれ」「思い乱れ」ているみずからのたましいに向かって「神を待ち望め」と叱咤激励し、次の瞬間には、「悲惨な現実」の最中にあって、
“私”と“わがたましい”
を一体化し、「なおも神をほめたたえ」「御救い」の手が差し伸べられることを待つ、と宣言しているのです。信仰生活には、このような“スイッチの切り替え経験”のようなものがあります。それを評価し大切にしなければなりません。
わたしは、この詩句がそらんじられた世界は、アッシリア捕囚とかバビロン捕囚、起源70年のローマ帝国による離散、20世紀における「ショア(絶滅収容所)」とイメージするとき、この詩句の本質を浮き立たせうるのではないかと思います。そして、わたしたちも、わたしたちそれぞれの人生において経験してきた、「激しい渇きに苦しむ野の鹿」のような情況に置かれた時を思い出しつつ、それと重ね合わせてそらんじる時、この詩句の中に「谷川の流れ」を見出しうるのだと思います。
後半を短くみてまいりましょう。前半が「乾季に枯渇する河床」にたたずむ鹿としますと、後半は「雨季に降り落ちる激流」に呑み込まれ、浮き沈みする溺れんとする者を描いています。42:7では
「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。」とあります。
この詩句を理解する助けとして、ヨナ書2章の類縁詩句をみておきましょう。[ヨナ2:1
ヨナは魚の腹の中から、自分の神、【主】に祈った。2:2
「苦しみの中から、私は【主】に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。2:3
あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。2:4
私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』2:5
水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。]
パレスチナでは、荒涼とした夏が過ぎ、秋が到来すると雨季が始まります。11月くらいからです。雨季といっても、毎日降るわけではありません。でも、降るときは非常に激しく降り、それがワディ(涸れ谷、水無川)に流れ込んで奔流に変わり、荒れ地の低地では危険な洪水を引き起こします。半年以上カラカラだった谷底が一変して大河のようになります(『現代聖書講座』第一巻
聖書の風土・歴史・社会)。その雨季の怒涛の水量は、ノアの日のような審判、またバビロン捕囚のような経験を思い起こさせたことでしょう。
後半の全体を簡単に振り返ります。42:6では書き出しとして、
[私の神よ、私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地から、またミツアルの山からあなたを思い起こします。]と、ヨルダン川の有名な源流への言及があります。わたしたち日本人が富士山に言及するように。42:7の
[あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。]は、陰の詩句であり、後半の中心詩句です。42:8の[昼には【主】が恵みを下さり、夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。]は、陽の詩句であり、絶望のただ中に光が差し込んでいます。
42:9の[私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」]と42:10の
[私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。]は、マーチン・スコセッシ監督の映画『沈黙』の中の、干潮の海の中に建てられた十字架にはりつけにされた三人のキリシタン指導者たちに、満潮の海水の波が打ち寄せ、水没していく姿を彷彿させます。長崎の遠藤周作記念館の『沈黙の碑』に記された言葉「人間がこんなに哀しいのに、 主よ、海があまりに碧いのです」と思い起こさせます。
ああ、わたしたちは、この宝石のような詩篇42篇の詩句の断片を、いつどのようにくちずさむのでしょう。数千年間の歴史のただ中で、この歌をくちずさんできた神の民の記憶とともに、わたしたちも「わたしたちの人生の闇と光が交錯する」生涯のただ中で、この詩句を口ずさみつつ歩んでいきたいものです。この詩句は、涸れ谷をさまよう時のあなたにとって、「いのちの水の一滴」となり、淵に溺れ沈む時のあなたにとって「救命の一本の藁」となることでしょう。では、祈りましょう。
2022年1月9日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇41篇「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される」―ひとつの神の民の嘆願と讃美の祈りへの有機的一体化を学び続ける巡礼の旅―
https://youtu.be/-fykwWrmCxs
(讃美)
イエスはわれの幻(聖歌259)
山々が生まれる前から-詩篇90篇
(傾聴)
今朝は、記念すべき朝です。といいますのは、約一年かけて『詩篇』第一巻(1-41篇)の最後に辿り着いた朝だからです。それで、今朝は最初に詩篇はどのように集められ、編集されてきたのかについてお話したいと思います。この詩篇150篇の詩は、もともと幾つかに分かれて存在していた詩集を集めたものです。少しのダビデ以前の要素と、主としてダビデ時代から捕囚後の時代に至る数百年の間の歌がいろいろな状況のもとで集められたものです。多分最初の集成は、ダビデの時代か、そのすぐの後の紀元前十世紀には集められたものでしょう。それがいわゆるダビデ集として保存されているものでしょう。後の王たちの時代にも、神殿聖歌隊や祭儀のために、そうした集成が行われたものと思われます。
これらの詩集をあげれば、以下のようになります。
ダビデ集
第一集(3-41)33を除く。
第二集(51-72)66,67,71,72を除く。
その他(86,101,103,108-110,122,124,133,138-145)
アサフ集(50,73-83)
コラの子集(42-49,84,85,87,88)
都上りの歌(120-134)
ハレルヤ集(104-106,111-113,115,117,146-150)
このようにして小さな集成をみた歌集は、さらに神名を手掛かりとする二次的な編集を受けました。すなわち3-41篇のほとんどの神名は「ヤーウェ」であり、42-83篇のほとんどは「エローヒム」です。また、84-89篇や90-150篇でも「ヤーウェ」が多く、「エローヒム」はわずかです。
これらの点かみて
「ヤーウェ集」(1-41)
「エローヒム集」(42-89)
「ヤーウェ集」(90-150)
という三つの区分に編集された段階がありました。その後、詩篇の編集者たちが、現在の五つの区分をするのに何を基準としたのかは明らかではありません。ひとつの興味深い説明は、詩篇を「モーセ五書」に対する会衆の五部の応答として表現したのではないかと言われています。現在の詩篇に至るまでに少なくとも六世紀が費やされたのです。(参考文献:『新聖書注解』旧約3
ヨブ記~イザヤ書、いのちのことば社、pp.136-137)
では、今朝の聖書箇所を開きましょう。詩篇41篇を朗読させていただきます。
(聖書朗読)
さて、聖書に書いてありますように、この詩篇41篇は、詩篇五巻の中で第一巻の最後に置かれています。それは、この詩篇が詩篇第一巻のメッセージの本質をよく捉えていることからきていると思います。この詩篇は、A.
祝福の言葉ー弱者を思いやる者たちに対する主の是認と救い(v.1-4)、B. 救いを求める祈り(v.5-9)、C.
感謝に満ちた讃美(v.10-12)、D. 頌栄ー詩篇 第一巻を閉じる「しるし」(v.13)で、構成されています。この「v.1
弱者を思いやる心」は、主ご自身のものであり、弱者をあわれまれる主から信仰者の心に流れてくるものであり、信仰者の人格と生活を通して溢れることが期待されているものです。41:4
「【主】よ、あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。」とあります。41:10
「【主】よ。あなたは私をあわれみ、立ち上がらせてください。」とあります。“ホモ・パティエンス”ーすなわち「人は病める者」弱い存在なのです。主のあわれみなしに、v.2
生きていけない者、v.3 起き上がること、v.10 立ち上がることのできない者なのです。
申し上げましたように、41:1
「弱っている者に心を配る人」とは、主のあわれみを流し出す“通り良き管”となって生かされている人のことです。そのような人は、「
41:11
あなたが私を喜んでおられる」と、主に喜ばれる人です。しかし、この詩篇での要点は、世界で生きていく時に、そのような生き方をしている人であっても、「v.1
わざわいの日」に直面しうる、ということです。そのようなことが起こりうるのが、この世界なのです。主イエスは、「ヨハ 16:33
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。また、私たちはどれほど隣人愛に溢れて生きたとしても、「v.3
病の床」に伏せったりもします。年齢を重ねていくと、人間のからだは「万病のデパート」のようになっていきます。同窓生で集まると、「わたしはあそこが悪い。あいつはどこそこが悪い。」と病気の自慢会のようにもなると言います。
そのような人生に生きている私たちにとって、この詩篇はどういう意味を持つものとなりえるのでしょうか。わたしたちがこの詩篇を自分の生活の中に取り入れ、生かしていくためには、「v.1
わざわいの日」「v.3
病の床」を象徴的に解釈し、広く適用していくことが大切と思います。つまり、この詩篇の断片を唱和するときに、その「否定的状況を表す象徴的イメージの枠」の中に、私たち自身の「否定的材料のセメント」を流し込むのです。詩篇のイメージの中に、私たちの生活の中で生じるさまざまの否定的な出来事を流し込み、この詩篇、さらには1-41篇、そして150篇のすべてを「折にかなった適用をしていく」ということで、祈ること、叫ぶことを学び続けることがゆるされていることなのです。この詩篇の作者は、彼の人生の「v.1
わざわいの日」「v.3 病の床」で何が起こったのかを記しています。「V.2 敵の意のままに」「v.5
敵は私の悪口を言います」「見舞いに来ても、その人は嘘を言い、心のうちでは悪意を蓄え、外に出ては言いふらします」と人間関係社会でよくみられる現象について語ります。日本では、「腹芸」と言いますか、言葉としての社交辞令と心や行動で示されることの間にはギャップがあり、裏表があり、逆さまである場合もあることも経験します。純朴に生きることの難しい世界なのです。
さらに悪いことには、敵対関係にある者だけではなく、「v.9
信頼した友」や、また「私のパンを食べている」という世話をし、面倒をみてやっている者までもが「私に向かってかかとを上げます」と悲惨な状況に言及しています。なんという不条理でしょう。なんという義理も人情もすたれた社会であることでしょう。大切なポイントは、このような目に合っている人が、普段から「v.1
弱っている者に心を配っている人」であるということです。しかし、歴史を振り返りますと、社会全般がそのような状況に陥ることがあります。ナチス時代のドイツがその支配したヨーロッパ各地で、先日まで友人であった人たちがユダヤ人ということだけで、「かかとを上げ」られる経験をしたことが明らかになっています。仕事だけでなく、家も財産も、家族も、いのちまでもが奪われていったのです。「君子豹変する」といいますが、前日まで親切にしあっていた隣人が、そのようになってしまったのです。羊の皮を脱いで現れたのは、「オオカミ」だったのです。人間というものは、なんともろい存在なのでしょう。
日本でも、キリシタン迫害の時代や戦時中の国家神道の時代においては、類似の事件が起こりました。私たちの時代は、今そこまで緊迫していませんが、難しい人間関係や自身や家族の中に病気や障害を抱え、困難な闘いの中にある人は少なくないと思います。どこの家族の中にも、なんらかの弱さをもつ家族を抱えているように思います。健全と思われる人でもなんらかの人格的課題や弱さを内包していることは良く知られていることです。そのような中に置かれて生かされている私たちは、そのただ中において「v.10
しかし、主よ。あなたは、私をあわれみ、立ち上がらせてください」と叫ぶ特権が与えられています。「41:12
私の誠実さゆえに、私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。」と祈ることが赦されています。
さて、詩篇とは、一体どのような祈りの書なのでしょう。エジプト脱出の時、パロの軍隊の追撃を受けた民は、神に叫び、ぎりぎりのところで海の真中に道が開かれ、救われました。そして、敵軍は海の藻屑と消え去りました(出15:1-18)。その時の、ミリアムの讃美(出15:21)が最初に記録された讃美の歌と言われています。しかし、聖書の脱出の物語は、約束の地に向かう途上、「荒野」を通過することになりました。ある有名な歌で「巡礼の道は深淵に導かれた。かくも苦難に満ちた現実に出会うためであったのか」と詠われています。あわれみの神、恵みの神に救い出された私たち信仰者は、いかなる生涯を生きるように定められているのでしょう。ローマ11章の終りにあるように「ロマ11:33
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」とあるように、神の道ははかりがたいものです。そして、その道は時として「深淵」に、「苦難」に、荒野へと私たちを導くのです。
そうなのです。数百年かけて神の民の中で形成されてきた「嘆きの祈りと感謝の祈り」の詩篇集は、「人生の荒野をさまよう」その時点で、混乱と動揺にさいなまれ、私たちの生が混とんの極みにあるかのように思われる状況下でささげられた嘆願と讃美の記録なのです。私たちが参考にしています本のひとつに、後にハイデルベルク大学の教授となったひとりのドイツ人牧師クラウス・ヴェスターマンの本があります。ヴェスターマンは、第二次世界大戦中、捕虜収容所にいたとき、新約聖書と詩篇を携えており、収容所の中で詩篇の研究に取り組んだそうです。そうなのです。私たちも「私たち自身が人生の数々の苦難の中にある」と思う時、その時というのは「詩篇が意味するものは、何なのか」ということに取り組む機会なのです。ヴェスターマンは、これらの詩篇の歌が、多くの人々の試練に際して何を意味するか深く考えさせられ、思索させられました。今日、詩篇の歌は、「あなたに与えられた苦しみ、あなたが直面している試練において、この詩篇の断片にはどういう意味があるのか?」と問うているのです。あなたが、そのことに取り組み、従事していくとき、計り知れない恵みの宝庫をそこに見出すことになるのです。
ナチス・ドイツ下で殉教したボンヘッファーという牧師は、「家族や友人から強制的に引き離された場で、人々が聖歌や祈りの語りかけ、あるいは沈黙でもって、神を讃美するきとにはいつも個人としてではなく、共同体のメンバーとしての自分を意識した。」とのことです。一個人としてだけではなく、大きな神の民の一員として、その一部として自分の苦しみと讃美を見つめる恵みにあずかったということです。「飢えと寒さの中で、尋問のあいまに、あるいは死刑宣告を受けたときでさえ、神を讃美する特権があった。いつでもどこでも、全教会があずかる神への讃美によって支えられていることを実感した」と書き遺しています。私たちも、そうありたいと思います。「私たちは一人で苦しんでいるのではないのだ。星の数ほどの神の民、砂の数ほどの神の民の一員として苦しんでいるのだ」と。詩篇の嘆願と讃美の祈りの断片にあずかるとき、私たちは「神の民の有機的一体性」において、より広く、より高く、より深く、より長く、永遠の視野で成長させられていくのです。では、祈りましょう。
【四世代合同新年礼拝】
きゅうやくせいしょしへん40ぺん「ほろびのあなから、どろぬまから、しゅはわたしをひきあげてくださった。わたしのあしをいわおにたたせ、わたしのあゆみをたしかにされた」ーよんひきのこぶたのいのり-
https://youtu.be/S287E6ZNVGU
(讃美)
GOD BLESS YOU
https://www.youtube.com/watch?v=6WNu4f04uoI
父の涙
https://www.youtube.com/watch?v=6RcuABlF1NE
(挨拶)
あけましておめでとうございます。けさは、2022ねんのさいしょのれいはいです。
したは 2さいから、うえは、95さいまでの「4世代いっしょのれいはい」です。
けさひらきます「しへん40ぺん」を、わかりやすくするために、しゃしんをりようし、「3びきのこぶた」をもじって「4ひきのこぶたのいのり」として「こうはんからぜんはんへ」とみていきたいと思います。
A. いじめ・いじわる、びょうき・くるしみなどー「あな」におとされたときのいのり
・いのりへのいりぐち
40:11
しゅよ、あなたはわたしにあわれみをおしまないでください。あなたのめぐみとあなたのまことがたえずわたしをみまもるようにしてください。
① 「あな」におとされたときのいのり
40:12
かぞえきれないわざわいがわたしをとりかこんでいるのです。わたしのとががおそいかかり、わたしはなにもみることができません。それはわたしのかみのけよりもおおく、わたしのこころもわたしをみすててました。
40:13 しゅよ、みこころによってわたしをすくいだしてください。しゅよ、いそいでわたしをたすけてください。
② てきへのしゅのこらしめをもとめるいのり
40:14
わたしのいのちをもとめ、ほろぼそうとするものたちが、ことごとくはじをみ、はずかしめられますように。わたしのわざわいをよろこぶものたちが、しりぞき、いやしめられますように。
40:15 私わたし「あはは」とあざわらうものどもが、みずからのはじにあぜんとしますように。
③みかたにたいしてのしゅくふくのいのり
40:16
あなたをしたいもとめるひとたちが、みなあなたにあってたのしみよろこびますように。あなたのすくいをあいするひとたちが、「しゅはおおいなるかた」といつもいいますように。
・むすび
40:17
わたしはくるしむもの、まずしいものです。しゅがわたしをかえりみてくださいますように。あなたはわたしのたすけ、わたしを救い出すかた。わがかみよ、おくれないでください。
B. 「あな」からのきゅうしゅつされたときのさんび・かんしゃ・あかしのいのり
①ききとどけられたいのり
40:1 わたしはせつにしゅをまちのぞんだ。しゅはわたしにみみをかたむけ、たすけをもとめるさけびをきいてくださった。
40:2
ほろびのあなから、どろぬまから、しゅはわたしをひきあげてくださった。わたしのあしをいわおにたたせ、わたしのあゆみをたしかにされた。
② あふれるさんびのいのり
40:3
しゅは、このくちにさずけてくださった。あたらしいうたを、わたしたちのかみへのさんびを。おおくのものはみておそれ、しゅにしんらいするだろう。
40:4 さいわいなことよ、しゅにしんらいをおき、たかぶるものやいつわりにかたむくものたちのほうをむかないひと。
③かんしゃのいのり
40:5
わがかみ、しゅよ、なんとおおいことでしょう。あなたがなさったくすしいみわざとわたしたちへのはからいは。あなたにならぶものはありません。かたろうとしてもつげようとしてもそれはあまりにおお多くてかぞえきれません。
40:6
あなたは、いけにえやこくもつのささげものを、およろこびにはなりませんでした。あなたは、わたしのみみをひらいてくださいました。ぜんしょうのささげものやつみのきよめのささげものを、あなたはおもとめになりませんでした。
40:7
そのときわたしはもうしあげました。「いま、わたしはここにきております。まきもののしょに、わたしのことがかいてあります。
40:8
わがかみよ、わたしはあなたのみこころをおこなうことをよろこびとします。あなたのみおしえはわたしのこころのうちにあります。」
④あかしのいのり
40:9
わたしは、おおいなるかいしゅうのなかで、ぎをよろこびしらせます。ごらんください。わたしはくちびるをおさえません。しゅよあなたはごぞんじです。
40:10
わたしはあなたのぎをこころのなかにおおいかくさず、あなたのしんじつとあなたのすくいをいいあらわします。わたしはあなたのめぐみとあなたのまことをおおいなるかいしゅうにかくしません。
(メッセージ)
A. いじめ・いじわる、病気・障害・苦しみの「穴」に落とされた四匹の子ブタの祈り
この詩篇40篇の祈りをー「穴に落とされた四匹の子ブタの祈り」として見てまいりましょう。
・序
昔々、ある街に可愛らしい四匹の子ブタがいました。子ブタたちは、イエスさまを信じて、楽しく幸せに暮らしていました。
ところがある日、怖いオオカミの群れがやってきました。そして、言いました「おお、まるまる太っておいしそうな子ブタたちだ。いじめて穴に落として食べてしまおう」と。それに気がついた子ブタたちは、神様にお祈りをしました。「40:12
数えきれないわざわいが私を取り囲んでいるのです。40:13
【主】よ、みこころによって私を救い出してください。【主】よ、急いで私を助けてください。」と。幸せな暮らしの外の世界には、オオカミのように怖い動物もいたのです。
子ブタたちは、オオカミの群れに追いかけられ、深い「穴」の中に落とされてしまいました。オオカミたちは、いじわるをしましたが、子ブタたちは直接仕返しをしようとはしませんでした。オオカミを懲らしめることは、神様がしてくださることなので、子ブタたちは仕返しはしなかったまです。しかし、「繰り返しいじめられることがないよう、神様にお祈りをしました。オオカミたちを懲らしめてくださるように」と。それがこの祈りです。「40:14
私のいのちを求め滅ぼそうとするオオカミたちが、ことごとく恥を見、辱められますように。私のわざわいを喜ぶオオカミたちが、退き、卑しめられますように。40:15
私を「あはは」とあざ笑うオオカミどもが、自らの恥にあ然としますように」とお祈りしました。このように祈ることは、私たちが心の中に「苦い心」をため込まないために必要な祈りです。また、相手を傷つけない「安全な祈り」です。聖書に「復讐、こらしめは神様がしてくださいます」とあります。
そして、四匹の子ブタの兄弟たちや家族の「安全と祝福」のために祈りました。「40:16
あなたを慕い求める兄弟が、みなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する家族が、「【主】は大いなる方」といつも言いますように。40:17
私たち四匹の子ブタは苦しむ者、貧しい者です。主が私たち四匹の子ブタを顧みてくださいますように。あなたは私たち四匹子ブタの助け、救い出す方。わが神よ、遅れないでください。」と祈りました。
普通の詩篇は、最初に「救いの願いの祈り」があり、あとに「感謝の祈り」で終るのですが、この詩篇40篇は、「感謝の祈り」が先にあり、「救いの願いの祈り」があとから出てきます。これは、何を意味するのでしょうか。これは、救い→感謝→再び「別のオオカミ、別の穴」に落とされる。ーつまり「人生至る所に“落とし穴”あり」ということを教えていると思います。
そういうわけで、四匹の子ブタたちは、オオカミに襲われるたびに、「穴に落とされる」たびに神様に祈りました。祈りは、いつも祈りを聞き届けられました。その感謝の祈りがこれです。「40:1
私たち四匹の子ブタは切に【主】を待ち望んだ。主は私たち四匹の子ブタに耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。40:2
滅びの穴から泥沼から、主は私たち四匹の子ブタを引き上げてくださった。私たち四匹の子ブタの足を巌に立たせ、歩みを確かにされた。」と。
この「巌(いわお)」とは、要塞や城を意味することばです。神さまは、「落とし穴」の底から、「泥沼」に足をとられる所から、安全で堅固な「城」の中に救い出してくださるのです。どんな深い「落とし穴」に落とされても、「そこから助け出してくださる主に祈る」ことができるから大丈夫なのです。四匹の子ブタたちは、「落とし穴」に落とされることを恐れなくなりました。主に祈れば、必ず助け出されることを経験し続けてするからです。
四匹の子ブタたちは、「オオカミたちに穴に落とされるたびに救出されました」「穴に落とされ、救出される」ごとに、子ブタたちの心には、讃美が溢れました。それがこの告白です。「40:3
主は、この口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。」
また、その救出のたびごとに、四匹の子ブタたちの心には、「神様への感謝」が溢れました。それがこの感謝の祈りです。「40:5
わが神【主】よ、なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません」と。ああ、私たちはどれくらい「神さまの救いの奇跡」を経験していることでしょうか。私たちが「苦しいこと」を経験している数だけ、私たちは「さまざまなかたちの救いの奇跡」を経験しています。それは、「あまりにも多くて数えきれない」のです。「語ろうとしても語りきれない」のです。ー「神さまが私たちになしてくださった奇しいみわざと私たちへの計らいは」。
そして、そのようなさまざまな苦しみからの救い・解放の経験は、「証し」となって実を結びました。四匹の子ブタたちは、告白・宣言しています。「40:9
私たちは大いなる会衆の中で、義を喜び知らせます。唇を押さえません。40:10
私たちはあなたの義を心の中におおい隠さず、あなたの真実とあなたの救いを言い表します。あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません」と。このように四匹の子ブタたちは、神さまは、いつでも「苦しみの穴」から救い出してくださる方であることを学び続けているのです。私たちも、四匹の子ブタたちのように「穴の底から祈る」ことを学び続けたいと思います。
聖書のことば、そしして特に詩篇のことばは、そのように「穴の底から祈る」のために天から与えられたことばです。イエスさまも、「十字架の苦しみの最中で、詩篇の祈り言葉」を発せられました。それほどに、「詩篇の祈りの言葉」がイエスさまの心の中に沁みとおっていたということです。私たちも、詩篇の祈りの言葉を、
”降り積もる雪”
のように心にたくわえ、身と心のすみずみに、人生の苦しみ、穴のすみずみに沁みとおらせーそのような意味での「豊かな人生」を送らせていただく者とされましょう。祈りましょう。
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