ICI ホームページ表紙 2.近代精神の九つの相 カント デカルト
人間の「成人性」と「自律」の原理−カント
2011/07/19
- エルンスト・カッシラー『啓蒙主義の哲学』
- ルネサンス−「人間と世界とを中世的な教会支配より解放かつ独立させ、自律的存在として再定義した運動の台頭」
- インマヌエル・カント−三つの基本的問題への取り組み−人間とは何か
- 「私は何を知りうるか」−『純粋理性批判』
- 「私は何をなすべきか」−『実践理性批判』
- 「私は何を希望してよいか」−『判断力批判』
- 啓蒙とは?
- 「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。」
- 「未成年状態とは、他人の指導(例:教会)なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。」
- 近代における人間の新しい方向性とあり方とを決定的な形で表現したきわめて象徴的なもので、
「コペルニクス的転回」と呼ばれている。
- 近代人の「成人性」の問題
- 自律的人間の独立宣言
- カントの認識論、倫理説、宗教観の核心=|「自律性のドグマ」
- 一切の伝統的ないし外的権威の束縛・保護から解放された「自律的人間」のいわば独立宣言
- 自律的理性−究極的準拠点
- 人間の「自律的理性」を、真理問題、倫理(善)問題、宗教問題における意味付与者、究極的判定者、究極的準拠点。
- 自律的人間の自律的理性による立法作用、合理性の投入作用、解釈付与作用−自然・道徳の唯一の法則性の根拠。
- 聖書との関連−二面からなる事態
- イエス・キリストによる人間の再生に基づく聖書の自由概念の世俗化≠ニしての自律的自由≠フ主張
- 実在世界を未解釈的原野=ibrute fact)とみなし、
- 自律的理性がガリレオ=ニュートン流の自然科学の範型によってすべての実在を再構成・再解釈するという意味での
- 聖書の創造論の世俗化
- 春名純人『哲学と神学』−カント的立場は、歴史的キリスト教と著しい対照
- キリスト者は完結した啓示としての聖書を
- 唯一の真の神の御言葉として受け入れ、
- 神の御言葉が、信仰と生活の唯一の規準であると考える。
- 科学が問題とする事実の領域も道徳的領域も神の支配の下にある。
- 聖書を貫く中心テーマは創造−堕落−キリストによる贖いであって、
- 自然の世界も道徳の世界も霊の世界も神の主権の下にあり、
- 創造−堕落−贖いの関係における神と世界・神と人・人と世界の正しい関係の認識を離れては、
- 事実認識や道徳的行為は成立しない。
- 理性は、完結した神の啓示としての御言葉において示される神の解釈の再解釈者にすぎない。
- 事実の存在と解釈は共に神の啓示において示される。
- 神の思惟は根源的であり、人間の思惟は類比的である。
- 神は創造者として自存的自己充足的であり、人間は被造者として依存的であり派生的である。
- キリストによって贖われたものとしてのキリスト者の事実存在の法(法則)と事実解釈の法(論理)は、
- 理性が自律的に定立するものではなくて、
- 神によって与えられている被造的秩序と構造を神によって与えられている解釈にしたがって見出していくこと(再解釈)にある。
- 事実についての認識は神の与えられる法の下に認識素材を包摂することによって成立する。
- 人間の行為の規準も、
- 人間理性が御言葉を離れて、自分勝手に立てる道徳法則ではなくて、
- 御言葉において示される神の御意志である。
-
『あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神の喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ人への手紙12:2)と言われている。
- キリスト者の実践的理性は
- 御言葉をわれわれの行為を律すべき道徳法則として常に意識する贖われた新しき理性であり、
- キリスト者の意思は、
- この神の律法によって自分自身を行為へと規定しようとする能力としての新しき意思である。
- このようにキリスト者にとっては
- 理論的認識も宗教的であり、
- 道徳行為も宗教的であって、
- 創造−堕落−贖いは、事実認識と道徳的と行為とを貫く根本的宗教的動因なのである。