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2026/01/11
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2026年1月11日ヨハネ12:9~11「逆説の視点での人生の意味・意義の解説」-十字架につけられたメシアこそが、イスラエルの王である-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/-9Uq0uwyl5I
明けましておめでとうございます。先週は正月休みで、敦賀より帰省していた拓人神学生からの証しとメッセージでした。主がこの四年間、拓人神学生の上に働いてきてくださったことを振り返る感謝のひと時でした。さて、神さまはわたしたちひとりひとり、それぞれに対し、多様な働きをなしてくださっています。昨年一年間の「60年続いた家業閉店の作業」もまた然りです。わたしたちの人生の大きな節目の年となりました。ただ、毎日していることは、店の仕事がないだけで、これまでとほとんど変わらないような気もしています。朝毎に、祈りをもって一日を始め、聖書を読み、神学書に目を通し、教えられたことをフェイスブック、ユーチューブ等を通して分かち合い続ける毎日は変わりません。
毎週の礼拝で取り組んでいます『ヨハネ福音書の神学傾聴シリーズ』は、前半の「世に対する栄光の啓示」から、後半の「教会に対する栄光の啓示」へと入って行こうとしています。それは、まるで山頂に上っていくようなイメージで捉えることができます。ナザレ人イエスの伝道活動は、「カナの婚礼から始まり、ニコデモとの対話、サマリアの婦人との対話、ベテスダの池の癒し、五千人の人々の給食、海上歩行、生来目の見えない人の癒し、そして死んで四日目であったラザロのよみがえり」の頂、分水嶺にまで到達しました。ここからは、ある意味で下り坂です。その結果が今朝の箇所でまとめられています。
ヨハネ福音書
A.大勢のユダヤ人の群衆の集合―公生涯伝道の成功(12:9)
B.祭司長たちの陰謀とその動機―成功によってもたらされた危機(12:10-11)
過越しの祭りの頃、ナザレ人イエスは、エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18)のところにあるベタニアに来られていました。それを伝え聞いた[12:9a
大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た]のです。「メジャーリーグ・ベースボールの最下位のチーム成績で、いつもは空っぽの観客席が、ドジャースの大谷翔平選手が来る試合になると満席になる」とのことです。イエスの三年半の公生涯、その数々のしるしと不思議を伴う伝道活動は大成功をおさめ、スーパースターのようなお方の登場をひと目見ようと、[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]はやってきたのです。
そして、[12:9b
イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでも]ありました。出エジプトの出来事の際には、十の災害としるしと不思議がありましたが、決定的なものは「エジプトのすべての家の初子の死」という出来事でありました。ナザレ人イエスの公生涯にも、数々のしるしと不思議がありましたが、最も決定的なものは「死んで四日を経たラザロのよみがえり」でありました。そのような奇跡は、旧約聖書の中にもありませんでした。出エジプトの際にも、対抗する魔術師たちが類似のしるしと不思議を行いましたが、真似することができないものもありました。ナザレ人イエスの場合も、「これは、もう否定することが出来ない、死んで四日を経てよみがえらされた証拠であり、証人であるラザロ」がいました。それは、キリストにおいて起こる決定的な出来事の予表でもありました。
大勢のユダヤ人の群衆は、[12:9b
イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを]見て、ナザレ人イエスがどのようなお方であるのかをさらに深く理解したのです。[12:9b
イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを]見て、ナザレ人イエスが旧約聖書に約束されていたメシヤであり、キリストであると理解しました。このような理解は、野火のように、人から人へ、口から口へ、パレスチナ全土に伝えられていきました。その様子が、[12:11
彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになった]から分かります。パレスチナ全土が「ちゃぶ台返し」にあったような事態です。祭司長たちやパリサイ人たちに指導されていたユダヤ教会堂に属していたユダヤ人たちが、
[12:11イエスを信じるように]なり、祭司長たちやパリサイ人たちの指導から
[多くのユダヤ人が]離れて行き、ナザレ人イエスの運動と教えに共鳴するという事態を引き起こしていたのです。
もちろん、この[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]の中には、心の底よりナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして信じるようになった人々の苗代となった人たちも多くいたでしょう。と同時に、この[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]の中には、ナザレ人イエスが当時のローマ帝国の植民地支配から解放してくれる独立運動指導者と期待しただけの人たちもいたでしょう。そのような中の人たちは、イエスが死刑判決を受けた時には、失望のあまり「十字架につけよ!」と叫んだ人たちもいたでしょう。当時の[12:10
祭司長たちは]、ナザレ人イエスがローマ帝国の植民地支配からの指導者として祭り上げられ、ローマ帝国支配に対する反乱等の不穏な状況になっていくことを懸念していました。騒乱が起こると、宗教的な自治権も失う危険がありました。それで、その騒乱の元凶になるかもしれない「ナザレ人イエス」と決定的な注目を集めさせている「よみがえらされたラザロ」も殺し、騒乱の根を断とうと相談していたのです。当時の宗教指導者たちは、ローマ帝国植民地支配下で享受していた限定的な宗教的自由と経済的な恩恵を手放したくなかったのです。
この12章を最後にして、13章からは「教会に対する栄光の啓示」が始まります。弟子たちをも含め、[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]も、ラザロの復活までも通して、見せられた「世に対する栄光の啓示」を見て、旧約聖書に預言されてきたイスラエル民族の栄光の回復の期待は最高潮に達していたでしょう。弟子たちは、復興させられたイスラエル国家において、要職に就くことを夢見ていたでしょう。ダビデの王座を回復されるはずのメシアは、他民族による支配を蹴散らし、王国を回復されるはずでした。しかし、13章から明らかにされる「教会に対する栄光の啓示」は、ある意味で彼らの期待とは正反対のものでありました。
13章から始まる「教会に対する栄光の啓示」は、十字架上に殺されるダビデの王座に座するメシア像でありました。異教徒、異民族を蹴散らし支配するダビデの王座の回復であるはずのものが、すべて目に入る様相は正反対でした。ナザレ人イエスの十字架上での死は、自らを「三位一体の御父・御子・御霊なる、御子なる神イエス・キリスト」である主張を抹消し、むなしいものとするものでもありました。しかし、まさにこの「十字架に釘付けられたイエスこそ、メシアである」と強調されているのです。「十字架につけられたメシアこそが、イスラエルの王である」と宣言されているのです。わたしたちクリスチャンの生涯に起こり得る出来事にも多くの「逆説」があるように思います。この「逆説」の視点での人生の意味・意義の御霊による解説を学んでまいりましょう。
今朝の箇所で、わたしたちは、[12:9
イエスに会うため…ラザロを見るため]に[12:9やって来た][大勢のユダヤ人の群衆]を見ました。またナザレ人イエスだけでなく、[12:10
ラザロも殺そう]と策略を練る[祭司長たち]を見ました。それぞれの人が、それぞれの動機をもち、思惑を抱き、行動している姿を見ます。しかし、それらすべての思惑やはかりごとを超えて、ナザレ人イエスを中心にすべてのパズルが組み合わされ、三位一体の御父・御子・御霊の神のみ旨が成就されていく様子を教えられます。それゆえに、わたしたちにとって最も大切な事柄は、人の思いや考えごとに振り回され、右往左往することではなく、神さまのみ旨を探り求め、そこを軸にして、内住の御霊とともに共に考え、その導きの中で一歩ずつ進んで行くことではないでしょうか。主がこの新しい一年を歩んでいく「新しい生ける道」を導いてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』)
2025年12月28日
ヨハネ12:4~8「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」-主があなたの「ナルドの香油の壺を割る」決意を祝福してくださいますように-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ(年末感謝礼拝)
https://youtu.be/E8l9hFGLuIs
讃美歌21:
465 神ともにいまして、
https://www.youtube.com/watch?v=-LGXX_E2qp0&list=RD-LGXX_E2qp0&start_radio=1
567 ナルドの香油
https://www.youtube.com/watch?v=NbxpuJ8awVc&list=RDNbxpuJ8awVc&start_radio=1
共立基督教研究所内地留学を終えようとしていた時38歳でありました。わたしの奉仕生涯の時間は、すでに半分消化していました。残された半分の時間をゼロから開拓するには時間が足りないように思いました。招聘の声を掛けてくださる幾つかの教会もありました。私自身は、当初「伝道と教会形成の現場に戻る」のが当然と考えていましたが、恩師宇田進師は「伝道と教会形成も、神の国において重要な働きですが、神学的営為という取り組みもまた重要な働きですよ!」と諭してくださいました。そういうこともあり、自分自身の個性と賜物と残された時間を考慮していった時、残された時間の大半を神学的営為に傾注できる環境を探すようになっていきました。ただ、招聘の声を掛けてくださる幾つかの教会は、当然のことながら「神学の学びは棚に上げて、伝道と教会形成に120%頑張ってください!」という要請でありました。そういう要請でありましたので、わたしのような召命と賜物をもって、それを隠して赴任することは、「背信行為」のように思われました。わたしという存在の心の底には、そのようなマグマが燃え盛っていたのです。それを押さえつけて生きることは、主が賦与された1タラントの賜物を地中に埋める悪いしもべに成り下がるような気もしました。
そのように悩み苦しんでいた時に、あの放蕩息子のように「郷里にある家業のガソリン・スタンドで働きながらであれば、24時間365日、神学の研鑽の生涯を送れるのではないか」という道があることを示されました。両親は放蕩息子が戻ることを歓迎してくれました。それで、声を掛けてくださったところは、それぞれ素晴らしい教会でありましたが、すべてお断りし、兵庫の山深い郷里に帰り、自立自活しつつ「24時間365日神学的営為」に尽くす奉仕生涯が始まりました。奉仕内容は神学校での歴史神学と組織神学の講義が中心でありました。ひとつの講義準備に二週間をかけ、数十冊、数百冊に目配りしました。またその関連でエリクソンやラッドやヘネマ等の著作の翻訳にも携わらせていただきました。神学会での奉仕も多岐にわたりました。わたしは、神学研鑽者としての、もっとささやかな奉仕生涯を予想していましたが、わたしの思いをはるかに超えたかたちで神さまは用いてくださってきました。今年は、そのような34年間の後、その店を閉店することになった年でありました。神さまが、両親を通して「わたしの奉仕生涯を経済的に支え、24時間365日研究生活に生き得る環境」を備えてくださったことに心の底より感謝しています。老後の年金生活等の保障も確立し、閉店後も自立自活しつつ、一宮と西宮の二拠点で「心置きなく研究生活を続けることができる条件」も整えられていることも感謝しています。召されるその日まで、「わたしの個性と賜物に沿った召命である神学的営為」をもって主に心置きなく仕えていきたいと思っています。
さて、「終活」とは、[人生の終わりのための活動の略称で、人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括を意味する言葉や行動]を指します。今朝お読みしますナルドの香油の注ぎは、「マタイ26:2b
人の子は十字架につけられるために引き渡されます」という、御子なる神イエス・キリストの言明に対するマリアの精一杯の応答でした。マリアは、自分の持てるもののうちの、最も大切な物をもって、敬愛してやまない御子なる神イエス・キリストの「ヨハネ12:7葬り」の備えをして差し上げようとした記事です。そこには、大変な反対もあり、マリアは周囲から猛烈に責められることになりました。わたしたちも、主にあって、何かをしようとする時、いつも「ホーム」のように応援してくれる観衆に囲まれているわけではありません。「敵地」での試合のような環境の中で、厳しい反論を受け、逆風の嵐の中を進まざる得ない時もあるのです。この一年の皆さんは順風の一年であったでしょうか。マリアのように逆風の一年であったでしょうか。そのようなことを念頭に、今朝の箇所に傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.ユダの状態と彼の批判(12:4-5)
B.ヨハネによるユダの動機分析(12:6)
C.イエスのマリア分析と評価―マリアの動機とタイミングの大切さ(12:7-8)
共観福音書の同じ記事も見ておきましょう。
マタイ福音書
A.イエスのスケジュール(26:1-2)
B.宗教指導者たちのイエス殺戮への動き(26:3-5)
C.シモンの家での、高価な香油の注ぎ(26:6-7)
D.マリアの適切な動機とイエスの状況に不明な弟子たちの激烈な反対(26:8-9)
E.イエスの状況分析説明とマリアの行動のタイミングの適切さ(26:10-12)
F.マリアとユダの動機と行動のコントラスト(26:13-15)
今朝の箇所で生じた論争は、マリアが300デナリ相当、すなわち当時1デナリは一日分の給与でありましたので、一年分の年収相当の価値のあるナルドの香油をひと瓶すべてをナザレ人イエスの頭から全身に注ぎ出したことに発します。紀元1世紀の三十年代のパレスチナの地域には、生活に困窮していた人たちもたくさんいたでしょう。未亡人や心身に障害をもつ人たちや貧しい子供たちがたくさんいたでしょう。ですから、売れば300万円の価値のある香油を丸ごとイエスに注ぎ出すという行為は、びっくり仰天すべき出来事であったと想像できます。「それを市場で売れば、どれほどの人を助けることができるでしょう」という常識的な怒りも理解できます。分け前が減ることを心配したユダだけではなく、貧しい人たちを考え、弟子たちも揃って、[12:5
どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか]とマリアを非難したことが、マタイ26章とルカ14章に記されています。主の働きとして、「とんでもない損害だ」と断罪したのです。しかし、その判断は「常識」としては正しいのですが、この状況とタイミングでは「誤った判断」でありました。わたしたちも、いつもは正しい「常識的判断」を、時には「その判断は真に主のみ旨にかなっているのかどうか?」という視点で再検討が必要な場合があることを覚えておきましょう。
マリアにとっても、ナルドの香油をイエスの上に注ぎ出すという行為は、大きな決断であったと思います。しかしマリアはそのような決断をせざるを得なかったのです。最も大きなことといえば、弟のラザロが死んでいたのによみがえらせていただいたことがありました。しかし、そのように大きな恩義のあるイエスが、いまやマタイ26:2
「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言明されているのです。弟子たちは「そんなことが起こるはずがない。そんなことを起こさせてはならない」と考え、その先に何が起こるのか、どんな準備しなければならないのか、について考えが及んでいませんでした。弟子たちにも手落ちがありました。
しかし、マリアはイエスの目を見て、イエスの声に耳を傾けて、この先にイエスの身に何が起こるのかを察知していました。愛しお慕いする「御子なる神イエス・キリスト」であられる「ナザレ人イエス」、いつも心に掛け、エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18によると15スタディオン)、オリーブ山の東麓にあった村(マコ11:1,ルカ19:29)をイエスはこの村をよく訪ねておられました。特にその生涯の最後の週には,ここからエルサレムへ通われました(マタ21:17,マコ11:11‐12等)。この村にはラザロとその姉妹マルタとマリヤ(ベタニヤのマリヤと呼ばれている)が住んでいました(ヨハ11:1,12:1)。このベタニヤでは,マルタがもてなしのために心配しすぎたため,イエスがマリヤを模範としてマルタをたしなめたことや(ルカ10:38‐42),死んだラザロがよみがえった奇蹟(ヨハ11:1‐44),らい病人シモンの家で,女(マリヤ)がナルドの香油をイエスにささげた出来事等(マタ26:6‐13,マコ14:3‐9,ヨハ11:1‐8)が起っていたところです。
もしあなたが、今最も世話になり、死の床からよみがえらせてくださったお方、最愛の、敬愛する人が、まもなく亡くなろうとしている時、どうされるでしょうか。「自分にできることを、最善の事を何かしてあげたい」と思わないでしょうか。わたしは、イエスの「マタイ26:2
あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」という言明をまともに受けとめ、激しく心を痛め、眠れない夜を過ごし、今の自分にできる最良のことをして差し上げたいと決心し、家の中に大切にしまっていた家宝ともいうべき「高価なナルドの香油」を取り出し、[
ヨハネ12:7 葬りの日のために、それを取っておいた]というのです。マリアの心に起きていたことを示しています。
マリアはその高価なナルドの香油をどのような考えで所有していたのかは分かりません。家族の財産の一部としてなのか、自分の美容の材料のひとつとしてなのか、あるいは将来貧しい人々のために教会にささげようとしていたのかも知れません。しかし、「御子なる神イエス・キリスト」であられる「ナザレ人イエス」が「マタイ26:2
あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言明された時、ユダヤの地では死者を埋葬する時には、死体に香油を塗る習慣があり、マリアは「このタイミングを逃したら二度とその機会はない」と確信したのでありました。
わたしたちの人生においても、あなたの、そしてわたしの「ナルドの香油」の壺を割って、その高価な香油を注ぎ出すタンミングというものがあることでしょう。そのタイミングには、ユダのような悪しき者の反対もあるでしょうが、弟子たちや同労者たちからの反対も起こり得ることがあるのです。「すべての人の賛同が得られる」ということが必ずしも「主のみ旨」であるというサインではないということです。一般的には、より多くの人の賛同が得られると事がスムーズに運びます。しかし、わたしが洗礼を受ける時にも、学校教師の道をささげフルタイムの献身をする時にも、内地留学する際にも、研修後に自立自活で神学研鑽の道を歩む際にも、「常に、どうして…しなかったのか」という反対の圧力が存在していました。
わたしが、共立基督教研究所内地留学修了の際に、幾つかの教会からの招聘を受け、その奉仕生涯の行方について、「邯鄲の夢」のように想像力を巡らせました。その中には、さまざまな成功物語も描かれ、名誉やサラリーも手に入るものもありました。しかし、自分に賦与されている個性と賜物からすれば、どんなに苦しくても、貧しくても、「神学的営為」において神の国に貢献することが大切なのではないかと考えるよう導かれました。そしてあのソロモンのように祈りました。「神さま、わたしはポストやサラリーは要りません。ただ、神学研鑽のための自由な時間を与えてください」と。郷里に帰り、神さまが家業として備えてくださったガソリン・スタンドの事務所を、自分の書斎とし、図書室として、日夜神学の研鑽とそれを分かち合う神学校での講義に明け暮れた30数年でした。
ウエストミンスター小教理問答の第一問答に「Q1:人のおもな目的は、何ですか。]とあり、[A:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。伝道と教会形成に尽力するキリスト教教職者像の基本形とは少しブレがあるかも知れませんが、わたしの小さな70-80年の生涯で、「神学的営為」を通して神の国にささやかな貢献をさせていただけたことは大きな喜びです。私にとりましては、東京の木場駅の地下深くのホームで、恩師蒲田三郎先生との交わりの中で、その決心を話し、それを受けとめてもらえたこと、その後の一切のことをアレンジしてもらえたことは、マリアの決断に対し、イエスがおっしゃった言葉「12:7
そのままにさせておきなさい」と重なります。主があなたの「ナルドの香油の壺を割る」決意を祝福してくださいますように。お祈りいたしましょう。
(参考文献: 新聖書講解シリーズ『1. マタイの福音書』、ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』)
2025年12月21日
ヨハネ1:14~18「私たちはこの方の栄光を見た」-クリスマスとカルバリは、日々シナイ山に、幕屋の設立に、神殿建立の場に連れて行ってくれる-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ(Review_for_Advent-Christmas)
https://youtu.be/rxRGCZTfMp4
讃美歌21:
264 きよしこの夜
https://www.youtube.com/watch?v=PI_E97Yhjss&list=RDPI_E97Yhjss&start_radio=1
269 飼いばおけにすやすやと
https://www.youtube.com/watch?v=aJ61wiR9U8k&list=RDaJ61wiR9U8k&start_radio=1
メリー・クリスマス!
クリスマスおめでとうございます。クリスマスには、聖書から降誕の聖書箇所が読まれ、メッセージが語られることが多いのですが、ヨハネ福音書では三位一体の御子なる神イエス・キリストの降誕は、[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]という短い一節でまとめられ、紹介されています。中世のアンセルムスという神学者に『神はなぜ人となられたのか?』という著作がありますが、まさにヨハネ福音書は「神が人となって、私たちの間に住まわれた」意味、目的を明確に記した文書であります。クリスマスは、
「神が人となって、私たちの間に住まわれた」意味、目的を熟考するにふさわしいひとときです。そのような視点から今朝の箇所に傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.荒野の幕屋、シオンの山の神殿のように(1:14)
B.旧約預言者の集大成たる洗礼者ヨハネにまさる方(1:15)
C.満ち満ちた神の本質、神の溢れる恵み・慈しみ(1:16)
D.モーセに象徴される律法は影、恵みとまことの実体はイエス・キリスト(1:17)
E.御子なる神が、三位一体の神とそのわざの本質を啓示された(1:18)
三位一体の御子なる神イエス・キリストの降誕をお祝いする今朝のクリスマス礼拝で、最も注目したい聖書箇所は、[私たちはこの方の栄光を見た]という箇所です。この「栄光」という言葉は、旧約ヘブル語では「カボード」、新約ギリシャ語では「ドクサ」という用語が使われています。その意味するところは、「名誉、名声、良い評判、目に見える輝き」などです。旧約では、それはモーセがシナイ山で十戒を受け取る出来事の中で出てきます。[出24:15
モーセが山に登ると、雲が山をおおった。24:16
【主】の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。24:17
【主】の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった]。
また、幕屋設立の出来事で―[出40:34
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである]とあり、さらに神殿建立の時、[Ⅱ歴代5:11
祭司たちが聖所から出て来たときのことである。…5:13
ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。…そのとき、雲がその宮、すなわち【主】の宮に満ちた。5:14
祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである]とあります。
今朝の箇所の最初の聖句[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]は、「ロゴス(ことば)なる、子なる神イエス・キリスト」が歴史上の人物として「人間」の領域に入って来られたことを意味しています。ピリピ人への手紙に[ピリ2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました]とある通りです。また[1:14
住まわれた]の原語は、天幕また幕屋生活をも意味するギリシャ語であり、「荒野の幕屋やシオン山の神殿」に神がその民と共に住まわれているように、わたしたちと共に生きてくださっていることを示唆する言葉です。マタイによる福音書に[マタ1:23
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である]と言われている通りです。
次に[1:14
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた]と続きます。三位一体の、御子なる神イエス・キリストは、誕生の際には泊る宿もなく、厩に泊り、まぶねに寝かされた「ナザレ人イエス」として生まれ、イザヤ書にあるように[イザ53:2
彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。53:3
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた]人として、地上に姿を現されました。わたしたちは、いったい如何様な意味で[1:14
私たちはこの方の栄光を見た]と言うのでしょう。というのは、旧約では[出33:18
モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」…主は、[33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」…33:21
また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。33:23
わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない」]と言われました。そうなのです。三位一体の神さまは、[1:18
いまだかつて神を見た者はいない]存在であられたのです。
イザヤ書にも、[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、…6:2 セラフィムが…6:3
互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。6:5
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」]というようなお方でありました。ここにも、三位一体の神は天高く超越しておられる神さまであり、汚れた罪人であるわたしたち人間が直視すると、それはもう「飛んで火にいる夏の虫」のように死滅してしまうようなお方として紹介されています。テモテへの手紙では、[Ⅰテモ
6:16
死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方]として紹介されています。そのようなお方が、救済史の「時が満ちて」(ガラテヤ4:4)、[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]というのです。
使徒ヨハネは、そのお方の生と死の一切のみわざの証言者として[Ⅰヨハ1:1
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。1:2
このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。1:3
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます]と証ししています。「先在の神、創造の神、三位一体の神」が、[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]を現わしてくださったのです。ヨハネ福音書1~12章を見ると、世に対する数々の「栄光のしるし」を現わしておられます。
しかし、奇跡等のしるしはこの世の人々を驚嘆させる場合もありますし、反発しそれを悪霊の働きとしたりもする姿を見ます。ここに「信仰」ということの難しさを教えられます。神の人格とみわざとしか思われないものを見せられても、必ずしも信仰へと結びつかないという人間の罪や盲目、頑なさというものを教えられます。信じてみたいとか、信じてみようという思いが起こされるための聖霊の働きが必要なのだと教えられます。祈りが必要です。次に、[1:17
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである]とあります。モーセは、救いの啓示の準備者のひとりとして用いられ、十戒や幕屋や犠牲等を通して、罪と死と滅びに定められたこの世界に、「救い主、御子イエス・キリスト」の意味と意義を教えるたくさんの視聴覚教材を提供してきました。
それを「神が本来、意図された通りに理解し、受け取る」ことができたら、イスラエルの民のほとんどは「 [1:14
父のみもとから来られたひとり子」を信じ、受け入れたことでしょう。しかし、イスラエルの民は誤解し、歪曲し、盲目となり、[ヨハ1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]のです。これは人類史上最大の悲劇です。なぜ、このような悲劇が起こったのでしょう。それは、三位一体の神に満ちている[1:14
恵みとまこと]に対する誤解があったからでしょう。この[1:14 恵みとまこと]は、旧約のシナイ山において[出34:5
【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称されるお方です。
しかし、シナイ山で、三位一体の神が意図されていた[出エジプト34:6 恵みとまこと]とは、一体どのような[ヨハネ1:14
恵みとまこと]であったでしょう。その内容、実質、実体が[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]として現わされ、[1:17
恵みとまことはイエス・キリストによって実現した]と紹介・説明されているのです。そうなのです。旧約のあのシナイ山でモーセに語られた[出エジプト34:6
恵みとまこと]の、いわば「本心」は、わたしたちの身代わりとなって、わたしたちを罪と死と滅びから贖われた[1:18
父のふところにおられるひとり子の神]の人格とみわざによって、[説き明かされ]ることが三位一体の神のご計画であったのです。
ここで[1:18
いまだかつて神を見た者はいない]といわれ、モーセが岩の間に身を隠し、イザヤが畏れおののいた「三位一体の神の聖性」の奥義を垣間見せられるような気がします。それは、ある意味で、「簡単には見せられない、覗かせられない、測り知れない繊細な心」でもあるのです。[出34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称される三位一体の神の、いわば「心臓部」にあたる[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]、[1:16
この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた]贖罪と内住の御霊の経験、それは、その[1:17
恵みとまことはイエス・キリスト(の人格とみわざ)によって実現した]ものであり、そのようにして[1:18
父のふところにおられるひとり子の神が]、三位一体の神の心臓部にあるみ旨の本質を[説き明かされた]ということです。
当時の弟子たちと新約のクリスチャンたちは[1:14
私たちはこの方の栄光を見た]と証言しました。シナイ山、幕屋設立、神殿建立の時に見たのは「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)でありました。そしてカルバリの丘で三本の十字架の真ん中に見ました。霊的に閉ざされた目には、「十字架にはりつけにされた王」、また「十字架に釘付けされた神」はつまずきでありましたが、信じる者の目には「三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの贖罪死」は、
[1:14 この方の栄光]でありました。
そして、贖罪に続く復活・昇天、聖霊の注ぎによる「キリストの御霊の内住」による、「神の神殿、また聖霊の宮」(Ⅰコリ3:16、6:19)の経験は、
「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)を見る経験ではなく、三位一体の神、御子なるイエス・キリストの御霊により、あたかも「顔と顔を合わせて見つめ合う」ような、[Ⅰヨハ1:1
私たちが聞いた…、自分の目で見た…、じっと見つめ、自分の手でさわ]る経験なのです。「ヨハネ福音書」は、内住の御霊にあってわたしたちを、日々シナイ山に、幕屋の設立に、神殿建立の場に連れて行ってくれます。[1:14
私たちはこの方の栄光を見]つ、それを証しつつ暮らす幸いな民なのです。祈りましょう。
(参考文献:Richard Bauckham,
“Gospel of Glory―Major Themes in Johannine Theology”)
2025年12月14日
ヨハネ1:9~13「ただ、神によって生まれた」-聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ(Review_for_Advent-Christmas)
https://youtu.be/VAX6qBZT7XI
讃美歌21:
178 あがめます主を
https://www.youtube.com/watch?v=R4b0cHrFQKE&list=RDR4b0cHrFQKE&start_radio=1
233 高く戸を上げよ
https://www.youtube.com/watch?v=_tj4kVGEWZ8&list=RD_tj4kVGEWZ8&start_radio=1
今朝は、アドベント礼拝第三週です。今朝の箇所は、「ヨハネ福音書全巻の一切が1:1-18のプロローグ(序文)に縮小されて詰め込まれている」と言われている箇所です。すでに、1:1-5で「御父と御子の関係」、1:6-8で「御子と洗礼者ヨハネの関係」について傾聴しました。今朝、1:9-13では「御子とこの世、御子とご自分の民との関係」について傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.御子なる神、イエス・キリストの来臨前夜(1:9)
B.御子なる神、イエス・キリストの人格とみわざと世の関係(1:10)
C.御子なる神、イエス・キリストに対するご自分の民による拒絶と抹殺(1:11)
D.御子なる神、イエス・キリストを受容する人々に賦与される特権(1:12)
E.それは、人間の努力・精進によるのではなく、聖霊のみわざである(1:13)
では、順を追って見てまいりましょう。[1:9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。]とあります。それは、まさにクリスマス前夜、待降節(アドベント)に歌う讃美歌の歌詞のようです。それは、まさにマラキ書をもって閉じられた預言書の時代の後の、「中間時代」、メシヤ、キリストを沈黙をもって待ち望む期間についての描写ようであります。朝日を待ち望む、夜明け前の「あけぼの、あかつき」の時間帯のような聖句であります。
次の節には[1:10a
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。]とあります。これは、1:1-3の復誦を基盤としています。[1:10
この方はもとから世におられ]は、御子イエス・キリストの先在性、御父との同等性、御父・御子・御霊なる神の三位一体性を告白するものです。[1:10b
世はこの方によって造られた]とは、天地万物とその中の生き物すべては、三位一体の神により創造された。御父により、御子なる神イエス・キリストを通し、御霊によって創造されたことを繰り返す内容です。しかし、[1:10c
世はこの方を知らなかった]というのです。産んで育ててくれた親に対し、「あなたは知らない」と言う態度を取ることほど親不孝なことはありません。天地万物を創造し、わたしたちにいのちを与え、育んできてくださった神さまに対し、「あなたは知らない」という態度はきわめて罪深いものなのです。
この[世]という言葉は、三回繰り返されています。[1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と。「世」が最初に現れた「世におられ」は「中立的」です。それは、単に、御子なる神イエスが現れた「場」を指しています。第二の「世」は「積極的」です。「世この方によって造られた」は、三位一体の神により、御子なる神イエス・キリストを通してなされた「神の良き創造物」です。第三の「世」は「否定的」です。その「世はこの方を知らなかった」は、「イエスにおける神の啓示」の拒否をあらわします。こうして、ヨハネ福音書における「否定的な意味での世」は、まさに「イエス・キリストを知ることを退け、拒否する」というかたちで自らを規定しています。
そこで「世」は、神に反抗し、ヨハネ的な、神と世という、二元論の主要な正反対の極の位置を占めます。しかし、第四福音書では、神と世の二元論は絶対的なものではありません。「世」は神に「良きもの」として創造されただけではなく、堕落・断罪の後にあっても、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため…。3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため…]とあるように、「神の愛と救いの対象」であるのです。
第三には、[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]とあります。この聖句は、「最小のイエス伝」といわれる聖句です。この否定的な一句でイエスの全生涯が語り尽くされているといわれています。神の御子イエス・キリストは、拒否され十字架につけられ、惨殺されてしまいました。なんと罪深い事が起こったのでしょう。三位一体なる神は、この被造物世界を愛をもって創造されました。しかし、アダムの堕落により、虚無に服し、罪と死と滅びに定められてしまいました。そのような悲惨な状況を打開するために、救済の計画を立てられ、人類の中にその受け皿(機能・手段)として、アブラハムとその子孫を選ばれ、神の啓示の受領者、救いの福音の伝達者として準備されようとしました。それが、イスラエル民族が選ばれた意味であり、目的です。優越性ではなく、人類の救いの手段、機能としての使命が与えられたということです。
その民は、その啓示の受領者また福音の伝達者として用いられるはずでした。時が満ち、準備が整い、満を持して、御父は御子を御霊により受肉されるかたちで送られました。御子は、その民の所有者であり、王子であるお方ですので、大歓迎されるはずでした。御子なる神、イエス・キリストは、ユダヤ人のひとりとして生まれ、活動されました。しかし、その言葉、食事やラザロ復活にみる奇蹟に「植民地支配からの解放は近い」と熱狂した民衆と、これとは真逆な形で「騒乱と既得権益へのおびやかし」に危機感を抱いた宗教指導者たちは、イエスを、「おのれを神とし、神を冒涜したという、これまたまったく的外れな罪」で断罪し、十字架刑に追い込みました。当時の宗教界の代表者たちがそれを主導したということも恐ろしいことです。今日にても、誤った福音理解を扇動する人たちに警戒し、イエス・キリストの人格とみわざを中心とする健全な福音理解に焦点をあわせていく必要があります。
ヨハネ福音書の序文は、[1:10 世はこの方を知らなかった。…1:11
ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、待望されていたにも関わらず、拒絶されてしまったと「ヨハネ福音書の神学の全体構想」を予測しています。この[1:10
知らなかった。…1:11
受け入れなかった]という言葉は、単なる無知、無関心という冷めた内容でとどまるものではなく、もっと激しい拒絶、抹殺という「闇」を伴うものであります。これは、ギリシア語で不定過去で記されており、キリストの一回きりの十字架の出来事をさしています。「
1:11
ご自分の民はこの方を受け入れなかった」という箇所は「ご自分の民はこの方を十字架にはりつけにして、惨殺してしまった」と言い直せます。ただ、ヨハネ福音書は「闇」の深さを描写するだけの書物ではありません。それは[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]という内容の書物です。
1世紀末に記された「ヨハネの黙示録」との関連でみますとき、この「闇」は、ヨハネ福音書で「ローマ帝国の公認宗教としてのユダヤ教会堂から追放されたユダヤ人クリスチャンたち」がその「公認宗教としての保護」の外に置かれ、やがて「ローマ帝国の獣が獲物を食い尽くすような迫害」の対象とされていく時代の行く方向性を読み取ることができます。『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの背景、また前提に[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]と念頭に置きました。それは、ユダヤ教会堂からの追放という苦難の発端であり、その道はローマ帝国によるさらに苛烈な迫害へとつながる「十字架を背負って上っていくドロローサの道」のようでもありました。それは、日本のキリスト教史に目を置けば、「キリシタンに対する踏み絵」のようなものであり、「五人組による告発」のようでありました。また、国家神道時代の「天皇崇拝」強制のようでもありました。第二次世界大戦後の日本は、インテリ層を中心に左傾化の傾向が強くありましたが、今は中国の台頭などもあり、メディアを中心に右傾化の傾向が強まっています。いわば、歴史は「振り子」のように左右に大きく揺れ動いていることにも警戒が必要です。
1世紀末の、そのような時代状況の中で、[1:12神の子どもとなる特権をお与えに]なるとはいえ、[この方を受け入れ]たり、[その名を信じ]
告白して生きていくことがどれほど大変な犠牲を伴うものであったのかは、はかり知れません。それゆえにこそ、[1:13
この人々は、…肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである]と記されているのでしょう。御子なる神イエス・キリストを信じる時、御霊が内住し、神のいのちが賦与されるからです。このような状況・背景の中で、この言葉を読むとき、このような状況で、人間の努力や頑張りだけで「三位一体の神、御子イエス・キリストの人格とみわざ」を信じ、受け入れ、告白して生き続けることは、大変困難なことであったということです。神の御霊による恵みの働きなしには、そのような選択肢を選ぶことは不可能なことです。ただ、マリヤが告白したように、[ルカ1:37
神にとって不可能なことは何もありません]。ただ、それはあなたに対する、御霊による恵みのみわざです。御霊の働きに敏感でありましょう。
[1:13
この人々は、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれた]とあるのは、もちろん、神学的には、おのれの業によらず、「恵みのみ、キリスト・イエスによる贖いのみ、信仰のみ」といわれる本質を宿すでしょう。ただ、それとともに、エリサベツやマリヤが直面した高齢出産の危機や処女受胎の危機における聖霊へのより頼み、すなわち[ルカ1:35
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます]と同じことが起こっているのです。[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり]とあるように、三位一体の神への無知・無関心の「闇」、さらには御子なる神イエス・キリストの拒絶・抹殺の「闇」が、この「世」をおおっています。
しかし、三位一体の神、御霊もまた[創世記1:2
その水の面を動いていた]とあるように、働いておられます。そして、三位一体の神、御子イエス・キリストの受肉・来訪は、[1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とあるように、それはまさに宇宙のはじめのビッグバンのようです。わたしたちは、そのような「闇」におおわれた世界たる「世」に、いわば「鏡」のようにして、御子イエス・キリストの栄光の光を反射・反映させて生きているのです。それは、わたしたちが、御子イエス・キリストを信じることにおいて、「神の御霊なるいのち」を内に宿しているからです。
わたしたちは、ヨハネ福音書において、「闇」の中に輝く光の証し人たちを見るでしょう。弟子たちの召命、ニコデモやサマリアの婦人との対話、五千人の給食、ラザロのよみがえり等の証しの中に、「光」を見るでしょう。わたしたち信仰者の毎日の生活、生涯もまた、ある意味で「福音書」の続編であります。わたしたちの毎日の生活の中に、[聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおお]い、神のいのちの息吹きがわたしたちの存在・生活・生涯のささえであると日々自覚しつつ歩ませていただきましょう。あなた、そしてわたしの「福音書」を綴ってまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』等)
2025年12月7日
ヨハネ1:6~8「ただ光について証しするために来た」-「贖罪の恵みに根ざし、内住の御霊の臨在による証しは、わたしたちの生きる意味・目的-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ(Review_for_Advent-Christmas)
https://youtu.be/mOQcpXiFV5U
讃美歌21:
231 久しく待ちにし
https://www.youtube.com/watch?v=1VzmpbB2zq0&list=RD1VzmpbB2zq0&start_radio=1
252 羊はねむれり
https://www.youtube.com/watch?v=j0__YV7B7JE&list=RDj0__YV7B7JE&start_radio=1
今朝は、アドベントの第二週です。また、今朝の聖書箇所は、ヨハネ福音書1:6-8、バプテスマ(洗礼者)のヨハネについての箇所です。このふたつを念頭に、一週間準備していまして、洗礼者ヨハネとそのお母さん、エリサベツに目を留めるように導かれました。洗礼者ヨハネとその母、エリサベツについての記述は、ルカによる福音書の1章に詳述されています。これらの箇所に目配りしつつ、今朝のみ言葉に傾聴してまいりましょう。
はじめに、ヨハネ福音書を読ませていただきます。ヨハネ福音書
A.エリヤのような、旧約最後の預言者(1:6)
B.洗礼者ヨハネの召命・使命(1:7)
C.洗礼者ヨハネは、キリストではなく、その証言者(1:8)
アドベント第二週ですので、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの箇所に入る前に、その背景として、ルカによる福音書の1章をかいつまんでみてまいりましょう。
[ルカ1:5
ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。1:6
二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。1:7
しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。…1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」]
メシアを紹介した人であり、人間の中で最も偉大な人物とも評される洗礼者ヨハネの誕生のルーツを探りますと、その誕生は非常に困難な状況にあったことを教えられます。[ルカ1:7
エリサベツが不妊だった…また、二人ともすでに年をとっていた]と、アブラハムとサラのように旧約特有の表現で、それはもう不可能と思われるような状況の中での妊娠であり、出産であったことです。現在でも、高齢出産には危険が伴います。また、障害を宿した状態での生まれてくる危険をも内包します。母親自体にも危険が及ぶことがあります。しかし、医療環境の整っていない約二千年前、そのような危険のただ中で、[ヨハネ1:8
光について証しする]器は誕生したのです。ですから、問題や課題というものは、「克服できない壁」ではないと教えられます。「弱さ」を内包していても、優れた証し人として生かされていくことは可能であるということです。神さまは、弱さのただ中で、弱さや問題を通して働かれるお方なのです。
洗礼者ヨハネの健康については、[ルカ1:41
エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた]とか、とても健康な胎児であったようであり、また[1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあり、今日で言う、少しアスペルガーのような傾向の表現もあります。詳細は分かりませんが、わたしたち奉仕者や献身者の間にも、生まれや生い立ち、心身の健康等で問題を抱えている方もある中で、そのような困難や危険、病や障害等を抱えつつ、召命・使命の中に生かされている者の、「ひとつの模範」ともいえる人物です。
その秘訣は何でしょう。[1:15
その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ]とあるように、「聖霊に満たされていた」という一点にあるようです。「聖霊の満たし」は多くの問題・課題を克服していくひとつの鍵です。わたしたちも、聖霊に満たされるよう祈ってまいりましょう。聖霊は「土の器」であるわたしたちの弱さや欠けたところから働いてくださるお方なのです。洗礼者ヨハネが母の胎内にいるときから聖霊に満たされていたいきさつは、その父母であるザカリヤとエリサベツの霊的環境にもあるでしょう。この夫婦は[1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」]とあるように、祈り深い夫婦であり、洗礼者ヨハネはそのような霊的環境の中で育ったのです。わたしたちも、祈りのうちに子供を育ててまいりましょう。使徒パウロは、牧会書簡の中で、「伝道や牧会以前に、家庭を治めることの大切さ」を語っています。働き以前に、わたしたちの存在のあり様がもっとも示される夫婦や親子のあり様への目配りが大切と教えられます。
危険きわまりない状況下で生まれてきた洗礼者ヨハネは、貧しくとも、霊的環境に恵まれて成長していったようです。霊的環境の豊かさを求めてまいりましょう。[ルカ1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあり、また[マルコ1:6
ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた]とあるように、パレスチナにある辺境のユダヤ教とも言うべき、クムラン教団にそのひとつの例をみるようなセクト的教団から出てきて大衆を相手に洗礼を施していた、ある意味ユニークな運動と見られます。ともあれ、洗礼者ヨハネの預言運動は、ユダヤ全国を揺り動かし、国民的宗教運動にまで発展しました。わたしたちの心掛ける霊的環境がそのような子供たちを育んで行くのです。
[マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と記されるほどでありました。なんという影響力でしょう。まことに洗礼者ヨハネは、厳然として荒野にそびえ立つ巌にも比すべき存在でありました。いわば、アフリカ医療宣教のシュバイツァー、インドの貧民窟宣教のマザー・テレサ、クルセード集会のビリー・グラハムのような、一世を風靡した存在でしょうか。そして、洗礼者ヨハネの風貌は、かつての預言者エリヤの姿(Ⅱ列王1:8)を鏡の中に彷彿させるようでありました。
洗礼者ヨハネの特筆すべき点のひとつは、彼がすべての人に先立ってイエスを神の子・世の救い主として認めた人であり、彼こそは、「イエスが何者であるか」を理解した唯一の人であったということです。世の「暗闇」が完全な盲目に眠っていたとき、彼はひとり目覚めて「光」を認めました。わたしたちもそうでありたいと思います。彼はひとり立って荒野に叫ばなければならなかった孤独な預言者であり、彼だけが「孤独な神の子イエスの真相」を見抜いていました。わたしたちが、「ナザレ人イエスを三位一体の御子なる神イエス・キリストと信じる」ということはそういうことです。神から遣わされた御子を理解することは、同じく神より遣わされた預言者においてはじめてなし得る大事業でありました。洗礼者ヨハネのように「真に価値あるお方に目が開かれた生涯」を送らせていただきましょう。洗礼者ヨハネと神の御子イエス・キリスト、この二人の魂の間には、ちょうどエリサベツとマリヤの間に流れた共感と交流と同様のものが、呼応していました。聖霊による不思議なハーモニーです。わたしたちにも、主イエスとの間に、また親しい「共感と交流」のメロディーがハモル、主にある親友という存在があるでしょう。それを評価し、大切にしなければなりません。
歴史に目を転じますと、洗礼者ヨハネの名前は、ユダヤを中心に遠くローマ世界にも聞こえていました。ヨセフス、タキトゥス、スエトニウスといった当時の歴史家たちの叙述からしますと、「イエスに関する言及」は曖昧であるのに対し、「洗礼者ヨハネ」に関しては、はっきり語られています。世間の目には、洗礼者ヨハネの方が偉大であるとの印象が残っていたかもしれません。靴の紐を解く値打ちもないと自己証言した洗礼者ヨハネの方が一般の歴史書には名を残したということも、不思議なことです。わたしは、そこに「三位一体の御子なる神イエス・キリストの謙遜」を教えられます。普通の人は、歴史の中に「名前や業績を残そう」と必死になりますが、「ナザレ人イエス」は真逆のお方でありました。わたしたちもそのようでありたいと思います。このような状況下で、第四福音書は、その序文で断固として、イエスの優位性を宣言しており、洗礼者ヨハネは証言者としてのみ言及されているのです。世は真に価値ある宝石を見分けることができす、それを入れている宝石箱に見とれてしまうことは、芸術等の世界でよくあることです。絵で言えば、絵そのものではなく、「立派な額縁」に見とれる類です。そして、後の聖書箇所で扱いますが、洗礼者ヨハネは、「イエスが神の御子である」ことを告知したという意味だけでの証言者であるだけではありませんでした。
マルコ福音書では、[マルコ1:16
イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。1:17
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」1:18
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った]と、漁師が召命を受けて、即座に従った情景がうかがわれるのですが、ヨハネ福音書ではその経緯と背景を[ヨハ1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。1:36
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。1:37
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った]と説明しており、アンデレやペテロが洗礼者ヨハネの弟子であったことを明らかにしています。アンデレやペテロは、洗礼者ヨハネ門下で薫陶を受け、修練した優れた弟子であったことが暗示されています。これが、今日、奉仕生涯の最初の三年間の基礎神学教育課程の重要性を教えています。三年間だけでなく、献身者・奉仕者には一生涯継続する「継続神学教育課程」を自学自習しながらも継続することが大切です。良き準備なしに、良き奉仕なしであるからです。神のしもべが準備されていく、料理で言う「下ごしらえ」の期間が必要です。ぶどうはそのままでおいしいブドウ酒になるのではなく、ブドウ絞り器でぐじゃぐじゃに潰され、絞り上げられた液体が寝かされ、時間をかけて熟成してはじめておいしいワインとなっていきます。献身者や教職者も同様です。ブドウ絞り器にかけられるように、自己中心な思いが徹底的に砕かれ、主に徹底的に献身する姿勢が整えられて、はじめて成熟していく準備ができたといえます。中途半端な取り扱いや献身者は、後々にその成熟と発酵において問題が生じてくることになるかもしれません。
わたしは、御子イエス・キリストが、四国の二倍ほどのパレスチナの土地を数回巡回された約三年間という、短期間で「新約の教会の礎を築く」ことのできた背景には、洗礼者ヨハネの罪の悔い改めに導き、[1:16
イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ] 、[1:17
不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意」するという、いわば「苗代のための土づくり」といった取り組みがあったからだと思うのです。主の働きの実には、多くのクリスチャン、献身者、同労者たちの協力と継承のチームワークが伴います。メジャーリーグのドジャースは、個々の賜物だけでなく、そのチームワークによる相乗効果によって、二連覇できたのだと言われています。キリスト教会でも、その教勢の成果に関し、成功者としてひとりの牧師の活躍に注目があつまりやすいのですが、そこには謙遜が求められます。先達する宣教師や多くの兄弟姉妹の献身と犠牲なしにどのような結果ももたらされることはないからです。そういうふうに考えていきますと、ゼカリヤとエリサベツ、そしてマリヤへの受胎告知、両者の交流と励まし合い、エリサベツと洗礼者ヨハネ、マリヤとイエスの母子の交流と成長、洗礼者ヨハネが取り組んだ「土壌づくり」とその土壌の上で芽吹き、進行した「神の御子イエス・キリストの啓示」と新約の教会の形成準備(エペソ2:20)に、わたしは御霊の働きの連動と共鳴をみせられるのです。わたしたちも、わたしたちの間に働いている「御霊の働きの連動と共鳴」に目を留めてまいりましょう。わたしも、そのような有機的な一体性をもつ、神の国の働きの一機能として、ICIの小さな働きに預かっています。
これらのことを思い巡らしているうちに、「御霊の働きの連動と共鳴」は、ローザンヌ誓約「第4項 伝道の本質」に、それらのものがみられると教えられました。そこでは「伝道」がこのように定義されています。[伝道とは、イエス・キリストが聖書にしたがって私たちの罪のために死に、かつ死よりよみがえり、現在、主権を持ちたもう主として、悔い改めて信じるすべての者に、罪の赦しとみ霊による解放の恵みを提供しておられるという、よきおとずれを広めることである。]これは伝道の基本的な定義です。次に、伝道の実際的な内容として、[私たちキリスト者がこの世界の中に⑴共在し、相手を理解するために同情的に耳を傾ける類の⑵対話を持つことは、伝道にとって不可欠なことである。しかしながら、伝道それ自体は、あくまでも、人々が一人一人個人的にキリストのもとに来て、神との和解を受けるように⑶説得する目的をもって、歴史的、聖書的キリストを救い主また主として⑷告知することである。]と「共在→対話→説得→告知」の四つの段階が示されています。わたしは、最初期は「直接的に、福音の内容を告知」していなければ、伝道をしたとはいえないように考えていましたが、伝道的な生涯の中には、忍耐に満ち溢れた栄光に満ちた「共在→対話→説得→告知」の四つの段階があるのだと教えられてきました。ですから、直接的な結実が見られなくても落胆したり、卑下したりする必要はありません。忍耐強く「共在→対話→説得→告知」の四つの段階をみきわめ、農夫のように取り組んでいけば良いのです。
すなわち、伝道は、「回心して主の新しい共同体の一員」となる一段階のみでなるものではなく、その前段階として[共在→対話→説得→告知]という、いわゆる「土壌づくり、苗代づくり」の段階があるということです。わたしのケースを振り返りますと、やはり三浦綾子著作集は、わたしにとってそのような「土壌づくり、苗代づくり」の段階を導いてくれました。わたしたちは、主にあってさまざまなかたちで、さまざまなレベルで[1:8
ただ光について証し]して生きています。クリスチャンとして存在していること自体が「内住の御霊を通して、闇の中に輝く光」であるのです。わたしたちはひとりぼっちではありません。神さまは、困難な最中で、しかし不思議な方法で、「御霊による連動と呼応」により万事を働かせ、わたしたちの内にいます御霊の臨在の「小さなともしび」をもって、暗闇を吹き払っていってくださるでしょう。わたしたちは、「光」そのものではありません。しかし、「贖罪の恵みに根ざし、内住の御霊の臨在のともしびを輝かせ続ける」ことはできます。それが、わたしたちが生きる意味であり、目的なのです。祈りましょう。
(参考文献:ジョン・ストット『ローザンヌ誓約―解説と注釈』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、高橋三郎『ヨハネ伝講義
上』)
2025年11月30日(Review_for_Advent-Christmas)ヨハネ1:1~5「光は闇の中に輝いている」-あなたは、きっと「今置かれている深い闇のただ中で光を見出す」でしょう-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4D0d8Nt2Qn8
讃美歌21:
242 主を待ち望むアドヴェント
https://www.youtube.com/watch?v=PKplG14kYnk&list=RDPKplG14kYnk&start_radio=1
267 ああベツレヘムよ
https://www.youtube.com/watch?v=ueqLC-UEq2U&list=RDueqLC-UEq2U&start_radio=1
2024年の4月28日から始めました『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズも、約20ヶ月を経過し、ヨハネ福音書の半分を終えました。まもなく後半、残された10章足らずに入ります。さて教会の暦では、今週からアドベント―すなわちキリストの初臨を記念しつつ、再臨を待ち望む期間に入ります。それで、この機会に共観福音書の描写とは異なる、きわめて神学的含蓄の深いヨハネ福音書の第1章を振り返っておきたいと思います。それで、約20ヶ月前にお分かちしました『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの第1章、すなわち三位一体の御子なる神イエス・キリストの初臨の解き明かしの復習をさせていただきます。
約20ヶ月前、スタートしました 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、ヨハネ福音書9:22, 12:42,
16:2から「ヨハネ福音書の背景」として[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]の視点を紹介させていただきました。その祈願は[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]というものでした。「ユダヤ教会堂での祈り」がこのように改訂され、ユダヤ教会堂に属しつつ、イエスを御子なる神キリストとして信じる、いわば「隠れユダヤ人クリスチャン」が追放されていく時代に「ヨハネ福音書」は記されたことを学びました。このアドヴェントの期間、このような視点をもって、ヨハネ1:1-5に再度傾聴してまいりましょう。
まず最初に、ヨハネ1:1-5のテキストの背景としての旧約聖書箇所を読みましょう。それは、創世記1:1-3です。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。]
次に、今朝のテキスト、ヨハネ1:1-5をポイントを確認しつつ、読みましょう。
A.キリストの先在性、御父なる神との同等性、御子なる神の神性(1:1-2)
B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造(1:3)
C.創造時のように地は闇に、今のこの再創造の初穂時にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている(1:4-5)
わたしが、数十冊のヨハネ関連文献に目配りしつつ、教えられましたことは、ヨハネ福音書研究の巨匠ブルトマンの『ヨハネの福音書』を巡る文献や説教集が多いことでした。そして、この状況が内包する課題を克服するかのように登場した分岐点がJ・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』であり、その延長線上にあるD.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』が留意している「ヨハネ福音書の背景としてのヤムニアの第十二祈願」なのです。紀元70年のエルサレムと神殿崩壊後のユダヤ教会堂におけるクリスチャンの置かれた状況を理解する上で大切な視点なのです。ヨハネの福音書をこのような視点を大切にしてみていくとき、神がヨハネの福音書を通して語られていることをより鋭く、正確に傾聴できるように思います。
新約の最初の四つの福音書を読む方は、だれもマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネの第四福音書の違いを感じられることでしょう。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、ダビデ系の系図や誕生との関連で、イエスのルーツを説明しようとしています。これに対し、ヨハネは、イエスの生誕にまつわる、地上のどんなに謙遜な誕生物語も、彼の天的な起源の適切な説明としては十分ではないと考えました。ヨハネは、イエスの起源は、外面的な、この世の姿とは、明確な対照をなすような逆説としてみたのです。
それは、一方で、イエスは、その町は人によっても、他の何によっても記憶されたことがない(1:46)、ナザレ出身のヨセフの息子(1:45)であることです。しかし、他方では、ロゴスであり神の子です。もちろん、物語の最初においても(1:1、18)、また最後においても(20:28)、彼はテオス(神)と呼ばれています。しかしながら、イエスのこの彼岸性にもかかわらず、彼の人間としての起源も忘れられて良い事柄ではありません。そうでなければ、福音書が強調するような彼に対する目撃証言(1:14、2:11、19:35、21:24)は、考えられません。ヨハネ版のイエスは、天的な側面とともに、彼の独自な地上的な面をもっています(Ⅰヨハネ1:1-3)。
ここで、ヨハネ福音書の全体を眺望してみましょう。ヨハネ福音書は、ひとつのまとまった梗概(こうがい)あるいは構造を備えており、序論的な部分の後に(1章)、イエスの公の伝道活動の記録があり(2-12章)、それらは、これから見ていくように、共観福音書のものとはかなり違っています。イエスの受難と復活(18-21章)の前には、他の福音書よりもはるかに長い最後の晩餐の記事があります。この福音書の後半部分は(13-20章)、ブルトマンの『ヨハネの福音書』という注解書によって、前半が「世に対する栄光の啓示」とされているのに対し、後半は「教会への栄光の啓示」と呼ばれています。この区別の先鋭さは、この福音書によく似合い、その二元論的性格についてものがたっています。
そこで、イエスの弟子たちの教会は、運命的なほどに敵対する世から退き、イエスと共にのみ存在しています。共観福音書がその名の通り、イエスの伝道について共通した理解を記しているのに対して、ヨハネ福音書の構造と内容がまったく異なったものにしているのは、イエス自身と彼の行動の描写であり、説教の眼目です。それは、信ずるか信じないかに関わり、ユダヤ教の信仰とキリスト教の新機軸による提案とに関わる紛争という形に投げ込もうとしています。イエスは、ファリサイ派と論争しますが、それは律法の解釈を巡ってではなく、イエスを誰とするかに関わっています。他の福音書に対するヨハネ福音書のこの独特さ、ヨハネの特色ある強調は、どのように理解すれば良いのかを考えていきたいと思います。
ヨハネ独特の強調に関連し、今朝のヨハネ1:1-5の、創世記1:1-3の「御子イエス・キリスト」の視点からの解釈の新機軸の由来は、どのように理解すれば良いのでしょう。D.M.スミスは、ヨハネ福音書は[どのようにして、あるいはなぜ、福音書記者がそのような仕方で、彼が(幾つかの資料源から)受け取ったものを表現しようとしたのかを、告げてはいない。同様に、第四福音書の一般的な宗教的・文化的環境(ヘレニズム、前グノーシス主義、ユダヤ教の死海写本や知恵の諸モティーフ)は、この福音書記者が書いている概念や語彙を提供しはするが、彼の特色ある強調を説明しはしない。そこで、研究者は、なぜ、また、どのようにして、特色ある強調が出て来たのかに注目しつつ、第四福音書を読まねばならない。つまり、読者は、この福音書の特別な設定や目的の、物語の中から顕れるかもしれないちょっとしたヒントや目的を捜すのである。それは、さして難しい仕事でないかもしれない。なぜなら、福音書記者はしばしばわれわれに、彼自身の時代ならびに状況とイエスの時のそれとの重要な相違を彼が自覚していたことを告げているからである]と記しており、わたしたちの研究は大変勇気づけられる。
わたしたちは、今朝、ヨハネの独特の序文を読み、[この福音書の特別な設定や目的のヒント]を発見したいのです。それは、ヨハネはなぜ本福音書の最初で、創世記1:1-3を「御子イエス・キリスト」を中心にして、旧約の唯一神信仰(申命記6:4)を、三位一体の神信仰で再解釈し、再表現したのかということです。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。]を、三位一体の神が本来意味されていた線に沿って、ヨハネはより精密に解説しています。その巧みさは「優れた刀匠」のようです。
[1:1 [初めに]ことばがあった。ことばは[神]とともにあった。ことばは[神]であった。1:2
この方は、初めに[神]とともにおられた]というのは、[A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性]を明らかにしています。[1:3
すべてのものは、この方によって[造られた]。[造られた]もので、この方によらずに[できた]ものは一つもなかった]は、[B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造]されたことを説明しています。[1:4
この方にはいのちがあった。このいのちは人の[光]であった。1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった]は、[C.創造時のように地は闇にあったように、キリストの初臨をもって始まった再創造の開始された今にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている]と、1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の間の不穏な状況を示唆しているように思います。
わたしたちは、先週、J・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』から、ヨハネ福音書の独特さを解くひとつの鍵を入手しました。その鍵をもって、今朝の「唯一神論信仰」のテキストとしての旧約聖書の前提の創世記1:1-3の、ヨハネによる「三位一体論信仰」を御子イエス・キリストを軸とした御父・御子・御霊なる神の告白と、その創造のみわざとしての再解釈しているヨハネ1:1-3を、ヨハネ福音書に関わるキリスト教共同体が直面しているユダヤ教会堂とのせめぎ合いの論争(9:22,
12:42, 16:2)に対するひとつの解答としてヨハネ福音書執筆を捉えますと、 「1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった」の[闇]は、ユダヤ教徒の「三位一体の神」への盲目と敵意として捉えることができるでしょう。
ヨハネは、その[闇]を「世」という用語で表しています。[ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と、世はアダムの堕落により、今は疎外と断絶、罪と死と滅びの状態にあります。[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、ご自身の人格とみわざを啓示された、その受領者として、まず最初に受け入れるべきであったイスラエルの民の大半は、拒絶し、信じる者を迫害し、ついには異端視し、ユダヤ教会堂からの排除へと舵を切ったのです。これは、恐るべき「盲目であり、闇」です。[1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった]と、一部の信じた、「残れるユダヤ人クリスチャン」、異邦人クリスチャンへの恵みが紹介されています。ヨハネ福音書は、このような状況の中で、対外的にはイエスを信じながらも告白できないでいる者たちに決断を促し、また対内的には教会員たちに、もう一度イエスの言葉(ひしては教会のケリュグマ)にしっかり留まるように訴えるという目的のために書かれたのです。
ヨハネ福音書の序文は、ヨハネの教会の再結集、新しい創造の中心としての、言葉(ロゴス)としてのイエス、歪んだ単一神信仰ではなく、複数性を宿す唯一神信仰の深みと豊かさとしての三位一体の神信仰、そして御子なる神イエス・キリストへの信仰を掲げているのです。このお方こそ、旧約聖書に約束されていた「真のメシヤ」だと、口酸っぱく最初に宣言しているのです。ユダヤ人であるヨハネの同胞のユダヤ人伝道への情熱の塊、すなわち「ビッグバン」のような信仰告白がヨハネ福音書の冒頭に記されている、宣言されているのです。それは、[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]というヤムニアの第十二祈願に象徴される「イエスを信じるか、信じないか。イエスを誰とするのか」という「闇」に関わる根本問題に対する解答であったのです。
先日、わたしは友人夫婦をお招きし、わたしのふるさとを紹介するひとときを持ちました。有名な神社をも案内し、ちょうど今人気のNHKの朝のドラマ「ばけばけ」の主人公のように、わたしの幼い時は冠婚葬祭等でどっぷりと日本古来の宗教的生活につかってきたことを振り返っておりました。しかし多感な青春期に、「生きる意味、目的」に悩みの闇に陥った時、古来の宗教の衣の一切を虚構とみるニーチェの本に出会い無神論的進化論に傾倒しました。ただ、そこで見出したものは「生きる意味や目的は存在しない」という看板のみでした。その「絶望の闇」の中で、見出したものがありました。キリスト教という宗教ではなく、聖書の福音書の中にある「イエス・キリストご自身の人格と品性」でした。わたしは「絶望の深い闇の中に、輝いているひとつの光、イエス・キリストの人格と品性を見出しました」。「このような方がまことの神であれば良いのに」と思いました。「この方を信じて、地獄に落ちるのであれば、それでも良い。なぜなら、この方がおられる地獄は、天国なのだから」と考えました。それで、19歳のアドベントの時期の洗礼準備会に出席し、クリスマスに洗礼を受けました。
わたしたちは、今自由のある国で自由な教会を満喫しています。しかし、わたしたちひとりひとりは、さまざまのレベルの「闇」を経験しているのではないでしょうか。わたしが自分の体験から、確信をもって言えることのひとつは、「そのような闇の中で、輝くひとつの光を見出したければ、三位一体の御子なる神イエス・キリストの人格と品性を見つめなさい」ということです。あなたは、きっと「今置かれている深い闇のただ中で光を見出す」ことになるでしょう。祈りましょう。
(参考文献:松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年11月23日
ヨハネ12:1~3「家は香油の香りでいっぱいになった」-真の幸福感に満ちた、喜びと感謝の香り-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/l0DYHQxPIjY
【今朝選曲の礼拝讃美紹介】…讃美歌21には、素晴らしい讃美がたくさんあります。聴かれたことのない方もあるでしょうから、メッセージの前に、それを紹介させていただきます。
●讃美歌21 289「みどりもふかき」多重録音(worship&hymns歌い隊)
https://www.youtube.com/watch?v=JaBWsTs8GTc&list=RDJaBWsTs8GTc&start_radio=1
●讃美歌21 567「ナルドの香油」多重録音(worship&hymns歌い隊)
https://www.youtube.com/watch?v=NbxpuJ8awVc&list=RDNbxpuJ8awVc&start_radio=1
ヨハネ福音書
A.エフライムからベタニアへ(12:1)
B.マルタは最高級の料理と接待をもって(12:2)
C.マリアは非常に高価な香油をもって(12:3a)
D.家は香油の香りでいっぱいになった(12:3b)
今朝の箇所は、「ナルドの香油」で有名な箇所です。わたしは、19歳のクリスマスに洗礼を受け、最初はキリスト者学生会(KGK)の交わりを通して、J.D.C.アンダーソン著『静思の時』に学び、毎日聖書を一章読み、短く祈ることを習慣としました。次に、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を用いて聖書通読に取り組み、聖書全体に何が書いてあるのかを学びました。第三に、ケズィック聖会のメッセージを整理したウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』を通して、「義認・聖化・御霊による歩み・キリストのからだなる教会における生活・奉仕・宣教」等からなる福音理解の構成を学びました。クリスチャン生活初期に良き書物に出会い、養われたのは幸いなことでした。
このウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』の最後の章に「14.
福音の目的」という章があり、そこに今日開いています「ナルドの香油」のメッセージ記されており、その解き明かしに大変感銘を受けたことを思い出します。三年半の公生涯の最後の一週間の直前に、ナザレ人イエスは、退いておられたエフライムから、[12:1
過越の祭りの六日前にベタニアに来られ]ました。ベタニアは、エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18),オリーブ山の東麓にあった村に来られました。[12:1
そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロ]も一緒に参加していました。死んで四日目、腐臭のする状態からよみがえらせられたラザロは、時のヒーローのようであったことでしょう。
行動派の[12:2 マルタは給仕し]、静寂派の[12:3
マリアは]イエスの足元にいました。マリアは、このタイミングで、[12:3
純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐ]いました。この[一リトラのナルドの香油]というのは、約328グラム(ヨハ12:3)で、当時の価値で300デナリでした。一日の労働の賃金が1デナリでしたので、それは当時の年収総額にあたり、今日の価値に換算しますと、300万円は下らない高価なものでした。兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスへの感謝も込めての「夕食会」を開いたマルタ・マリヤ・ラザロのファミリーはそれなりに裕福な家族であったのでしょう。
しかし、そのような裕福な家族をもってしても、[12:3
マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった]行動は、特別なものでありました。共観福音書と重ねてみれば、マリアにとって秘蔵の香油、最も価値ある香油をイエスの頭から注ぎ(マルコ14:8)、そしてそれはからだ全体をつたって流れ(マタイ26:12)、足元にまで及びました(ヨハネ12:3)。その宝石のように高価な香油は、少しだけ注がれたのではなく、壺の首が折られ、惜しみなく、イエスの全身に注がれたのです。ドジャースの大谷選手が、逆転サヨナラ満塁ホームランを打った時に、ホームベース上で注ぎかけられる水のようにです。
これは、一体何を意味しているのでしょう。おそらく兄弟ラザロのよみがえりは、全財産を投げ出してもよいくらいの感謝をマリヤの心に湧き上がらせたのでしょう。マルタは、最高級の料理と接待でイエスをもてなし、その感謝を表したのでしょう。そしてマリヤはといいますと、事もあろうに[12:3
純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足]をぬぐうことによって、最大級の感謝と献身を表明しました。
わたしたちの生涯においても、時と場所、機会と多様な様式において、何度も「そのような香油の壺を割って注ぎ出す大小の経験」をしてきたのではないでしょうか。わたしも引原小学校の円形校舎の一室で「フルタイムの献身の決意」をした時、東京駅近くの木場駅の地下深くにあるプラットホームで「残された生涯を神学的営為への献身」を決意した時、そのような壺を割る経験をさせていただいたように振り返ります。そして、この「ラザロのよみがえり」の感謝の宴は、ナザレ人イエスの奉仕生涯の頂点を象徴する出来事の折であり、「一週間後の十字架における代償的刑罰による死と葬りへの備え」と、また「三日目のよみがえりの予表的象徴」ともなりました。
マルタとマリアは、「ラザロのよみがえり」に対する感謝から、豪華な宴と高価な香油をもって心の底からもてなしました。それは、健全な信仰のあり方です。しかし、今日新聞等をにぎわしている統一教会の献金強要はきわめて悪質です。人の不幸や弱みを調べ、その人の財産を調べ、あらぬ呪いやたたりをもって脅し、全財産を吸い上げてしまう策略は、もはや健全な宗教とはいえず、「宗教の仮面をかぶった犯罪組織」と思われるものです。
健全な宗教か不健全な宗教かを識別する上で、「宗教の神学の座標軸」は有効です。それは、神学軸と社会学軸からなり、信仰面での健全性とともに、社会や家庭や人間関係において幸福をもたらしている程度を評価するものです。今日の裁判での証言を見聞きする限り、あまりにも悲惨、あまりにも残酷な「宗教の仮面をかぶった犯罪性」が明らかにされています。いくらその教えや信仰内容が立派でも、その信仰者、そしてその家族、職場や社会における評価が否定的なものであれば、「それは、宗教の仮面をかぶったオオカミ」であるのではないかと調べてみる必要があります。
普通のキリスト教会でも、この「宗教の神学の座標軸」は有効です。使徒パウロも、牧会書簡で、立派な社会人として生きること、立派な家庭人として生きること、バランスのとれた経済感覚をもって、人に迷惑をかけることなく、手ずから働いて自立・自活の生活を送り、その上で「コップから溢れる」ものをもって祝福の基となるよう勧めています。自らが祝福された日常生活を築き上げ、その上で周囲の祝福になれるのです。これが健全な宗教の特徴です。
ときどき過激な献金のメッセージを耳にすることもあるでしょう。しかし、聖書は一時的な極端な献金ではなく、バランスのとれた誠実で忠実な献金者であるよう勧めています。昔、ユダヤ教のシナゴークでは、十の家族がひとつの会堂に集えば、ひとりのラビ(教師)を支えることができました。旧約聖書にあるように十分の一をささげれば、そのことが可能となります。十分の九は、それぞれ本人の責任で主のみ旨に沿って、自由に用いて良いのです。これが健全な聖書の原則です。日常生活を危機に陥れる極端なメッセージに下手に応答していると信仰生活は長続きしません。本人も、家族も不幸にし、周囲の人々に迷惑をかけることになります。極端な教師に気をつけましょう。
信徒であれ教職者であれ、しっかり働いて、自らの生活を健全に建て上げ、万が一の備えのために貯金もし、働けなくなる老後のために年金もかけ、平穏で静かに主に仕える生涯を送らせていただきましょう。子供がいれば、ちゃんと教育を施し、有益な社会人・家庭人として幸せな将来を確かなものにしてあげましょう。そして、家族や周囲の人々にとって祝福の基となる人に育て上げましょう。このような視点を大切にせず、無茶な献金を勧める指導者に警戒しましょう。
マルタは祝宴の料理と給仕をもって、マリヤは秘蔵の香油をもって、イエスを接待しました。その時に、[12:3
家は香油の香りでいっぱいに]なりました。わたしたちは、奉仕とか献金とか以前に、パウロが、[ロマ12:1
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい]と勧めているように、まず自分自身を主にささげましょう。主は極端なお方ではありません。バランスがとれ、わたしたち自身をわたしたちの家庭、社会を大切に扱ってくださるお方です。そのような聖書的な信仰を養い、育てましょう。
そして、自らの個性が内住の御霊の聖さと愛に満たされて、それぞれに量り与えられた賜物に応じて、心の底から喜び、感謝をもって奉仕できる守備範囲で、派手でなくても誠実に、たどたどしくても忠実に、家庭で、教会で、社会で、小さな事に仕えてまいりましょう。そこで放たれる「真の幸福感に満ちた、喜びと感謝の香り」を大切にしてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』)
2025年11月16日
ヨハネ11:53~57「彼らはイエスを殺そうと企んだ」-時が良くても悪くても、ひたむきにみ旨を成し遂げることによって栄光を表す-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/lHKOTxBXQik
ヨハネ福音書
A.祭司長たちとパリサイ人たちの企み(11:53)
B.イエスと弟子たちのエフライムへの退避(11:54)
C.過越しの祭り―人の子が栄光を受ける間近となる(11:55-57)
ヨハネ福音書は、まことに見事な内容構成に仕上げられていると思います。ある神学者は、その構成を[プロローグ(1:1-18)、Ⅰ.世に対する栄光の啓示(1:19-12:50)、Ⅱ.教会に対する栄光の啓示(13:1-20:31)、エピローグ(21:1-25)]と解説しています。その内容の中心は、「ナザレ人イエスが、御父・御子・御霊なる三位一体の、御子なる神イエス・キリストである」ことの証言です。なぜこのような構成で記されたのかと申しますと、それは1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の葛藤が背景にあります。
ユダヤ教では、「ナザレ人イエス」を預言者、ラビ(教師)のひとりとして受け入れることはできても、「ナザレ人イエスが、御父・御子・御霊なる三位一体の、御子なる神イエス・キリストである」と受け入れることは本当に困難な事柄でありました。「ひとりの人間を神とすること」―それは、旧約聖書の律法によれば、神を冒瀆することであったからです。しかし、ヨハネ福音書は、その冒頭から[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった]との宣言をもって書き始められ、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た]ことの内容をかいつまんで、「Ⅰ.世に対する栄光の啓示(1:19-12:50)」を順を追って紹介しています。
それは、バプテスマのヨハネの証言から始まり、カナの婚礼、ニコデモやサマリアの女性との対話、ベテスダの池の癒し、五千人の食事の奇蹟、海上歩行、生まれつき目が見えない人の癒し、そして総仕上げとして「死んで四日目の、腐臭のするラザロのよみがえり」をもって構成されています。これは、ナザレ人イエスが単に地上から来られた単なる人間ではなく、旧約に預言されていたモーセのような預言者や優れたラビ(教師)にとどまるお方ではなく、上から、天上から送られてきた「御父・御子・御霊なる三位一体の、御子なる神イエス・キリストである」ことを、この世に啓示されているのです。「啓示」とは、「隠されていたものの、覆いを取り除ける」ことを意味します。
ヨハネ福音書は、「ナザレ人イエス」が、この世に対して[1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである]ことを惜しみなく啓示している証言文書なのです。しかし、不思議なことに、三位一体の神様が慎重に、旧約聖書のアブラハム契約から言えば約二千年、モーセの契約からは約千五百年、ダビデの契約からは約一千年、バビロン捕囚からは約五百年、ご自身とご自身の計画を啓示され、その最後に、「ナザレ人イエス」のかたちで、三位一体の御子なる神イエス・キリストを丁寧に証しされましたのに、その反応は「信じて受け入れる人」と「神に対する冒瀆として殺そうとする人」の両極に分かれました。
その反応がその極点に達したのが今朝の[11:53
その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ]の箇所です。わたしたちは、[「ナザレ人イエス」が「三位一体の、御子なる神イエス・キリスト」であるというのなら、その証拠を見せてみろ」]というような言われ方を耳にするでしょう。しかし、少しの証しで「信仰に目覚める人」とたくさんの証拠があっても「どこまで行っても平行線の人」に分かれるところがあります。これは、不思議な事です。わたしの友人のひとりは、教会の伝道集会に誘ったその夜に信仰の決心をなし、熱心なクリスチャンとしてその生涯を送りました。
わたしなどは、「不信仰のトマス」(ヨハネ20:25)と言われるような人間で、どこまでも信じることができずに苦しみました。キリスト教とは真逆の、ニーチェの思想に傾倒していたために、それは道端のように固い心であり、いばらやあざみに視界が閉ざされた土壌のようでありました。ですから、大学生のクリスチャンのキャンプに参加して、信仰へのカウンセリングを受けた時、導いてくださった先生は「安黒君をキリスト教の信仰に導くことは困難、不可能だ!」との弱音をはかせることになりました。しかし、進化論と無神論とニヒリズムで、キリスト教カウセラーに打ち勝ったわたしは、「自分の思い、価値観、主張のすべてを吐き出し、空しい心で一杯になっていました」―それは、ある意味で酒を飲み過ぎて強度の二日酔いで嘔吐を繰り返した日と似ていました。「すべてを吐き出した」後に、真実なものがあるのであれば、それを見極めたいという魂の渇きが起こったのです。
わたしは、19歳の夏、歌垣であったキリスト者学生会(KGK)の夏季キャンプのキャンプファイヤーで、あるクリスチャンの姉妹が、「自分の心の中にある罪を告白し、悔い改める姿」を見た時、こんな生き方があるのなら、わたしもそれを求めてみたいと思ったのです。わたしは、警察に捕まるような犯罪を犯したことはありませんが、「聖なる神さまの御前で、心の底まで見透かされて、真摯に生きようとしている姿」に感動させられたのです。その夜、「わたは、一生涯、聖書を座右の書として、読み続けよう」と決心しました。
わたしは、19歳のその夏のキャンプまでは、思想的に[11:53
イエスを殺そう]、キリスト教を抹消しようとするニーチェの信奉者でありました。「神なんかいるものか」とうそぶいていました。しかし、その夜「もしそのような神がおられるのなら、わたしも信じてみたい。みかけは普通でも、心の底は邪悪なものに満ちているわたしが、そのような澄み切った摩周湖のような湖となって生きることができるのなら」と受けとめたのです。
さて、ナザレ人イエスは、三年半の公生涯の最後の場面で、きわめて危機的状況に置かれていました。わたしは、この箇所を読んでいて、わたしたちが人生の逆境に、困難な状況に直面した時の「神の知恵」をいただくことができるのではないかと思いました。ナザレ人イエスは、これまでの奇蹟を見れば、何者をも恐れることなく、正面突破できるお方であることは明らかです。しかし、あの「荒野の誘惑」の話のように、むやみに奇蹟を乱用されるお方ではありませんでした。ここで不思議に思ったのは、そのように「正面突破」できるお方が、「退避された」ということです。
[11:54
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された]とあります。逮捕や殺戮の恐怖から、「負け犬」のように逃亡されたのでしょうか。いいえ、そうではありません。[11:55
さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た]とある通り、過越しの祭りが近づいており、多くの人々が集められつつあったからです。ナザレ人イエスには、逆境に立ち向かい「正面突破」し、討ち死にする勇気と覚悟はありましたが、そうはなさいませんでした。ここに、ナザレ人イエスの「信仰の柔軟性」を教えられます。
わたしたち信仰者は、信仰の名のもとで「イケイケどんどん」でなんでもやりすぎる傾向があります。ナザレ人イエスを見ていますと、相撲の熟練者のように、「押さば引け、引かば押せ」という柔軟性が見られます。本当に、主にある知恵者です。ソロモンのような知恵は、カイザルとコインの問答にも見られます。人間の心の動機を読み取り、優れた言葉の駆け引きに巧みなお方です。クリスチャンの霊的成長、霊的成熟というものはこのような領域にも必要と教えられます。
[11:56
彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか」]と、ナザレ人イエスを信じる人々も、彼を神の冒瀆者として殺そうとする人々も、ザワついていました。ある意味で、メジャーリーグのワールドシリーズでの大谷翔平選手の活躍を噂するドジャースファンと活躍してほしくないブルージェズファンの間でうごめく心理のようです。ガリラヤ、サマリア、ユダヤのパレスチナ全域の人々は、「ナザレ人イエス」の動静に注目していました。
[11:57
祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた]とあるように、宗教界の多くの人々は、ナザレ人イエスの運動と教えを抑え込み、その芽を摘む唯一の手段は、もはや脅して黙らせる段階を過ぎ、「生来目の見えない人を癒したり、死んで四日目の腐臭のするラザロをよみがえらせたりする」人の人気を抑え込む手段はなくなったと判断し、民衆がナザレ人イエスを担いで、ローマ帝国の植民地支配に暴動を起こす前に、殺してしまおうとしていました。この後、葬りの備えの香油の出来事があり、イエスは、[ヨハ12:23
人の子が栄光を受ける時が来ました]と話されます。
このように見て行きますと、ナザレ人イエスには無駄な動きがひとつもなく、着実に一歩ずつ、「神の栄光」を表すための道筋を進んでおられたのだと教えられます。ナザレ人イエスの生涯には、無名の長い期間、そして公生涯での人気絶頂の前半と逆境と迫害、死の恐怖の後半の時期があります。ナザレ人イエスの足跡を見れば、時が良くても悪くても、ただ御父の御子に対するみ旨を心に留め、ひたむきにみ旨を成し遂げることによって栄光を表すことに焦点を当てて生きておられたことを教えられます。わたしたちひとりひとりにも、御父のみ旨があります。「主にあって、自分が一体何者であるのか。そして自分は一体どのように生きるべきなのか」を明確にしていただき、わたしたちは、どのようにして「世に対して証し」し、「教会に対して証し」となるべきなのかを導かれてまいりましょう。祈りましょう。
2025年11月9日
ヨハネ11:46~52「一人の人が代わって死んで、滅びないですむ」-地上のクロノスと天上からのカイロスの、二つの時間軸によって生かされる-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/Ec-cHZRonaY
ヨハネ福音書
A.パリサイ人たちへの報告(11:46)
B.最高法院の招集(11:47-48)
C.大祭司の判断(11:49-50)
D.神の摂理的な意味の創出(11:51-52)
先週は、学生時代のクラブの同窓会に際して、自身の青春時代の求道生活を振り返る時を持ちました。わたしは、19歳の時にイエス・キリストを信じ、卒業後聖書学校に行き、三年間神学校助手、七年間牧師の仕事をなした後、三年間共立基督教研究所内地留学でさらなる神学研鑽の時を持たせていただきました。その後、幾つかの教会からの招聘の申し出をお断りし、郷里の自営業(ガソリン・スタンド)で働きながらの「神学研鑽とその成果を分かち合う」生涯に入りました。そのときすでに三十台半ばとなっていました。「献身者としての自分の奉仕生涯に残されているのはあと三十数年だ」と思いました。
わたしの召命と賜物からして、伝道と教会形成に大半の時間を使い、残されたわずかの時間で「神学の継続的研鑽とその実の分かち合い」をするべきなのか、働きながらでも「24時間365日の大半を神学の継続的研鑽とその実の分かち合い」をするべきなのか―を悩みました。その頃、高校生の時に学んだ『邯鄲の夢』を思い起こしました。「邯鄲(かんたん)の夢」とは、有名な中国の故事のひとつです。
[盧生(ろせい)という若者が一旗揚げようと邯鄲に向かって旅をしていた。途中のある町で、昼飯を食べるため一軒の店に入ったとき、そこにいた老人に自分のこれからの夢を話した。老人は若者の話を興味深く聞いてくれたが、飯ができるまで一休みするようにと枕を貸してくれた。
若者が枕をあてると、すぐにうつらうつらし始めた。夢の中で、地位も名誉も財産も持ち、美しい妻や5人の子供に囲まれ、大きな屋敷住んでいる自分自身の姿、50年にわたる波瀾万丈の成功物語を見ていた。誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。「さあ、食事ができましたよ」。その声で若者は目を覚ました。その途端、今まで見ていた屋敷も何もかもが消え、そこにいるのはただのみすぼらしい身なりの自分自身であった。若者は驚いた。老人は若者が何に驚いているのかを知っていた。
自分が今見ていた夢、50年にも渡るあの波瀾万丈のドラマは、粟が煮えるまでのつかの間の出来事に過ぎなかったのか。彼は自分の抱いていた夢のはかなさに気がつき、邯鄲に行くのをやめ、故郷に戻ったという話である。]
恩師の宇田進師は、「卒業後、どうされるのですか?」と尋ねられ、わたしが「卒業後は、再び伝道と教会形成の現場に戻ることになると思います」と答えますと、先生は「伝道と教会形成の働きも大切な奉仕ですが、“神学的営為”の務めもまた、同様に大切な仕事です」と諭してくださいました。そういうこともあり、自分の賜物と召命を福音派全体の中にKCI(共立基督教研究所)があるように、わたしは所属教派と神学校のためにICI(一宮基督教研究所)の取り組みをするように導かれていったのでした。そして、郷里で働き、種蒔き伝道とICIの働きに献身してきた30数年でありました。
「50年にも渡るあの波瀾万丈のドラマは、粟が煮えるまでのつかの間の出来事に過ぎなかった」と言われるほどに、あっという間の30数年でありました。あの時、『邯鄲の夢』の男性のように、「あの道に進めば…。この道に進めば…。そして別の選択肢を選べば…」と夢を見るように、まだ見ぬ30数年のシミュレーションを試み続けていました。そして栄枯盛衰とは関係のない、ポストやサラリー、働きにおける成功物語とは無関係な、郷里へ戻り、「働きながら、種蒔き伝道と神学的営為への献身」にささげるささやかな奉仕生涯を送ってまいりました。
「少年よ、大志を抱け!」という有名なクラーク博士の言葉もありますが、わたしの性格からして、そのような言葉は不相応と思い、「小さなことに忠実であれ!」をわたしの奉仕生涯の枕詞としてきました。母校の神学校では、やがて「組織神学」講義を任せられ、エリクソン著『キリスト教神学』と『キリスト教教理入門』を教科書として教えるようになりました。洋書しかなかったので、英語が得意でない神学生のために、「一段落ずつ翻訳と解説を試みる」電子メール講義の取り組みを始めました。その取り組みがいのちのことば社の目に留まり、翻訳を依頼されました。不思議なことに、これらの本は、全国の福音派系神学校で主要な教科書として用いられるようになっていきました。
わたし自身も、これらの本をテキストに、「組織神学」に取り組み続け、神学校卒業後約50年間神学教師としての奉仕を続けさせていただきました。わたしとしましては、「兵庫県の山深い地域で、静かに、ひたむきに心ゆくまで神学の研鑽に励む時間とその果実を分かち合う機会」を、主にゆるされたことに心の底より感謝しています。30数年前のあの日あの時、わたしは残された生涯の時間・年数を考え、あれやこれやとしていると、あっという間に奉仕生涯は終わってしまうと思い、神さまにソロモンのように祈りました。「神さま、わたしはポストやサラリーはいりません。ただ、神学の研鑽の時間とその実を分かち合う機会を与えてください」と。神さまはその切実な祈りに応えてくださいました。
その時は、残された奉仕生涯で何をなすのか、具体的には何も分かっていませんでした。「ただ、心ゆくまで神学の研鑽に務め、その実を分かち合いたい」という情熱だけがありました。そうして、モーセのように紅海に身を投じて行った時、不思議に海の真中に道は開かれ、神学研鑽の時間とその実を分かち合う機会が添えて与えられていきました。わたしは、ただ朝毎に「主よ、今日も一日、導いて行ってください!」と短く祈り、ガソリン・スタンドで働き、事務所の机で聖書と神学書を開き、ひたむきに隔週に一度、一泊二日で約6時間の講義の準備をなしていきました。それは、あの「靴屋のマルチン」のように、壊れた靴をコツコツ修理する毎日のようでありました。わたしには、いかなる土地も教会堂も残す貢献はできませんでしたが、わたしの小さな取り組みは、いつの間にか約二千の講義・講演・説教のビデオとなりユーチューブに公開されるようになりました。わたしにとってはそれが、ICIの土地であり、「福音理解」の構築物です。
またそれらの取り組みは、いのちのことば社から翻訳刊行されたり、アマゾン書店からキンドル版・ペーパーバック版として刊行され、それらは約30冊を数えるようになりました。そうこうしているうちにわたしも七十の齢を数える年齢となりました。今年の十月末に、いよいよ家業であり、わたしの奉仕生涯を支えてきてくれたガソリン・スタンドで働きを終えさせていただきました。今、店を片付け、また家を片付けています。最近、同窓生の訃報をよく耳にするようになりました。わたしたちは、人生の夕暮れ時にあり、「終活の季節に生きているのだ」と実感させられています。
年のせいか、長々とわたしの奉仕生涯について語ってきました。今日の聖書箇所は、「死んで四日を経たラザロがよみがえらせられた」出来事の結果、[ヨハ11:45
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた]という良好な傾向があったのに反し、[ヨハ11:46
しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた]と、パリサイ人たちのスパイもまた、存在し、ラザロの出来事を密告したことが告げられています。
このように相反する反応が起こり、「祝福の出来事と苦難をもたらす反応」が生じるのは世の常であります。賞賛と非難の二つが同伴するものです。「わたしたちが人生を生きていく」と言う時、わたしたちはこのような両面の事態に備えていく重要性を教えられます。[ヨハ11:47
祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集し…「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに]と、ラザロの復活の事態にあわてふためいておりました。良かれと思って取り組んだことにも非難を受けるケースもあります。そして[11:48
あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる]と、イスラエルの人々全員がナザレのイエスの信奉者になる事態が来ると恐れていました。そうなってしまうと、[ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう]と、植民地とはいえ、宗教的な自治権を付与されている現在の制限付きの自由が、失われてしまうこと、ローマ帝国による植民地支配からの過激な独立闘争・騒乱がもたらす結果を恐れたのです。正しいことでも、それがもたらす影響から苦労を強いられることもあります。
そのような恐れでパニックの中にいる最高法院の人たちの中で、その中のひとり、[11:49
その年の大祭司であったカヤパ]は、[11:49 あなたがたは何も分かっていない。11:50
一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない]と、ナザレ人イエスを死罪に処する方向性を示しました。み旨にかなうお方が死地に追い込まれることになりました。ここまでは、当時の状況であり、時代の趨勢です。いわゆるクロノロジカルな時間の流れの動向描写です。しかし、ここでヨハネは[11:51
このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、11:52
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである]と記述しています。
この記述は一体何を意味しているのでしょう。大祭司は、当時のローマ帝国支配下の植民地たるパレスチナ地方で、ナザレのイエスの運動と教えが勃興し続ければ、騒乱となり、ローマ軍の介入やむなしの事態となることを懸念したのです。これは世においては常に起こり得る傾向です。しかし、その懸念の言葉が[⑴イエスが国民のために死のうとしておられること、⑵
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられること]を、“預言”したとして受けとめられているのです。ここが大切です。きわめてネガティブな出来事・言動のただ中に、きわめてボジティブな神の摂理的意味が内包されているのです。わたしは、この箇所を読んだ時、創世記のヨセフの言葉を思い起こしました。
エジプトの首相となったヨセフは、[創50:15
ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と思い、心配しました。人間世界に浮き沈みする疑心暗鬼の荒波です。これに対し、ヨセフは[50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです]と、兄弟たちの悪巧みの中に、神の摂理的御手の働きを読み取り、赦してやりました。このような判断のできる器が重要です。疑心暗鬼の荒波で流されないように錨を下ろせる器の存在です。わたしは、これらの御言葉は、わたしたちクリスチャンに対し、「人生の捉え方、如何にあるべきか」を教えているように思います。
わたしたちの生涯には、クロノロジカルな、水平の時間軸の流れがあります。1分が60秒、60分で1時間、24時間で1日、365日で1年、それが60,70,80,90,100年と続きます。そして、その間に起きるさまざまな出来事にわたしたちは「波間に翻弄される小舟」のようです。わたしたちが地上の生を生きている以上、それは避けられません。しかし、もうひとつの垂直の時間軸、カイロスの時間、すなわちカイロスとは、ギリシア語で「機会」や「好機」を意味し、計量できない質的な時間や、物事を行うのに最適な瞬間を指します。これは、物理的な時間を意味する「クロノス」とは対照的な概念を表します。この時間軸の重要性です。 わたしたちは、この地上の生涯70~100年の時間を生きてまいります。そして、地上の情勢の中で、わたしたちの「生」の意味や価値、そして目的を計量・評価してまいります。しかし、聖書は「もうひとつの、別の計量の量り」が存在することを教えてくれているのです。
旧約聖書に啓示され、準備され、御父・御子・御霊なる三位一体の、御子なる神イエス・キリストが来たらせられたにも関わらず、まず最初に彼らがもろ手を挙げて歓迎し、受け入れるべきであったのに、彼らの霊的盲目は真逆の反応を示しました。なんという歴史の皮肉でしょう。彼らはその霊的盲目と、彼らの政治的利益のために、神の計画の中心であられた御子なる神イエス・キリストを十字架で殺す方向に扇動することになっていきました。しかし、その年の大祭司カヤパが彼の政治的・宗教的利益に基づく発言が、神の摂理的働きの中で[11:51
このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、11:52
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである]と、彼の殺そうとした意図とは、これまた真逆の意味を意図せずに語らせられているのだというのです。カヤパのクロノスな時間軸の、水平の、人間の言葉が、神のカイロス的な瞬間の、上から垂直にもたらされた、み旨を内包する言葉として用いられた、というのです。これは神のなさる不思議のみわざです。
このことは、地上の70~100年の生涯を生きるわたしたちも、地上のクロノス的な、地上の意味・価値・目的の中でだけ、地上の生涯、また出来事の意味・価値・目的を考えるだけでなく、地上に起こった出来事の中に、「上からの神さまのみ旨を読み取り、解釈していく」よう諭しているのです。皆さんは、今「人生の四季」においてそれぞれさまざまな段階におられることでしょう。わたしは、人生の晩秋の季節にあり、それは「終活」の時期であると教えられています。最初の35年間で準備し、次の35年間で奉仕し、最後の35年間では、取り組んだすべてをゴミのように捨て去り、忘れ去られてしまうのではなく、それらを「資源として再活用していただける」よう、仕分け分類して、受け渡す「タスキ」としていただけるよう、ICIユーチューブまたブックレット等のかたちで尽力させていただいているのです。それぞれの季節にふさわしく生きること、また日々地上のクロノスと天上からのカイロスの、二つの時間軸によって生かされることを学んで参りましょう。祈りましょう。
2025年11月2日
ヨハネ11:38~45「ラザロよ、出て来なさい!」-自分の肉の腐臭のただ中で、イエスの大声に耳を澄ませる-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/0DmGnAMDfu8
ヨハネ福音書
A.死後四日を経て、死者の腐臭を放つラザロ(11:38-39)
B.クリスチャンの信仰、イエスのとりなしの祈り(11:40-42)
C.クリスチャン生活に響くイエスの大声の叫び(11:43-45)
今朝は、死んで四日経ち、肉体が腐りかけ、その悪臭を放つラザロがよみがえらせられた出来事です。この箇所を何回も読んでいて、先週末開催されました学生時代に所属していました絵画部弦月会の同窓会の出来事と重なりましたので、その証しを分かちあいたいと思います。この記事は、ちょうど19歳にイエス・キリストを信じたわたしの出来事と重なりました。わたしは、19歳の頃、「生きる意味」について悩んでいました。実は、絵画部弦月会に入部したのも、「生きることの意味や価値」を探し求めてのものでした。関学の経済学部に入学し、将来は中学・高校の社会科の教師になることを目指していました。家業にはガソリン・スタンドがありましたので、良い就職先を目指しての勉強は不要に思え、絵画を含む芸術や哲学に興味を抱く思春期でありました。三週間のヨーロッパ旅行をする機会を与えられ、イタリア、スイス、ドイツ、ベネルクス三国、フランス、イギリスの美術館や公園を周遊していきました。ルーブル美術館の一角にある印象派美術館には驚かされました。それまでの宗教画の黒や茶色の影から、ブルー系統の透き通る影に感動させられました。それと同時に、アラン著『芸術に関する101章』にある通り、[天に輝く星々のような天才芸術家と地を這う虫のような自分の存在]に打ちのめされるようにもなりました。
英国では、ひょっと出たところにハイドパークがあり、無意識のうちに散策を楽しみました。だんだんと時間が過ぎ、うす暗くなってきたので、ホテルに帰ろうとしました時、なにも持って出てこなかったことに気づきました。似た建物が連立する公園周辺で、宿泊しているホテルを探すことは大変なことでした。この建物かな、あの建物かなと探すうちにすっかり闇夜となりました。絶望する寸前で、泊まっていたホテルを見つけ、その日はショックで出かけることはできませんでした。その時は、まるでウィリアム・ジェームス著『宗教的経験の諸相』にある「山中で帰る道を失った遭難者」のようであり、「外国で迷子になったわたしは、無事帰国できるのだろうか」と必死にもがいておりました。ただ、帰国後もその経験は尾を引き、アルベール・カミュのように「実は、わたし自身が、人生の、宇宙の迷子なのではないのか」という実存的なドツボにはまってしまいました。そのような時に、よく読んだのが、ニーチェ著『ツァラトゥストラ、かく語りき』でありました。わたしの実存的な孤独を、説得力をもって解説してくれた一冊でした。絵の具で汚れたGパンの後ろポケットに、バラバラにしたその本を暗記するくらいに読み続けました。その本の内容は、無神論で進化論で、アメーバのような存在から進化途中にある人間は、それを超えていく「超人」へと脱皮する途中にある存在であり、生きることに意味も価値もない無目的の存在であると教えており、その無意味・無価値・無目的を直視し、それに耐えて生きることに「超人」の特質があると教えられました。
わたしは、不思議にその主張に説得され、「無意味・無価値・無目的な存在」として生きて行こうとしましたが、やがてそのような生き方には耐えられないことが分かりました。フランスの哲学者が、わたしたち人間がその実存を直視するなら、「発狂か自殺」しか出口を見出すことができない、と申しています。わたしもそのようなところに追い詰められていました。わたしが当時描いていた油絵は、「シュール・レアリスム」という流派の絵画であり、それは自分自身の心象風景を、いろんなスケッチを習合し、現実にはない世界、すなわち自身の心象風景を表現する手段として再構成・再構築するものでした。
わたしは、お気に入りの一枚のスケッチを土台に絵を描き始めました。最初は土手のそばを流れる小川と空の美しい絵で始まりました。しかし、油絵は自身が納得するまで絵の具を重ね続けます。ここを直し、あそこを直しと、重ねていくうちに「闇夜のカラス」ならぬ「闇夜のドブ川」となってしまいました。そこで筆を置きました。それが、わたしが描いた百枚ほどの油絵の最後の絵となりました。それは、ある意味で「わたしの自我像」でありました。わたしは、自分の実存的絶望を「闇夜のドブ川」で表現したのです。
今朝の箇所に、[11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」]という箇所があります。わたしの自己意識としては、身体的には生きているのですが、精神的には死んで四日目となり、悪臭を放っているラザロのような意識で生きていたのです。その頃よく読んだ夏目漱石著『こころ』は、「自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもの」を解き明かすかたちで展開していきます。「その感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたい。人に鞭うたれるよりも、自分で鞭うつ可きだ。自分で鞭うつよりも、自分を殺すべきだという考えが起ります」と続きます。教会の「ここに愛がある」という映画集会をきっかけに教会に通うようになりました。そのしばらく後のことです。神の霊はあらゆる機会を生かして私の心の奥底を照らしてくださり、私もまた「道を歩いている時、知らない路傍の人から鞭うたれたい」と思うようになっていました。漱石の『こころ』で、[先生は、“善人”だと思って生きていた。しかし、その善人の「こころ」の中心部に“罪”という虫が巣くっていることに気づきます]。聖書でいう“原罪”の問題です。わたしは、わたしの実存的絶望の病巣を「原罪」にあることに気づかされたのです。三浦綾子さんの著作集『氷点』『道ありき』『塩狩峠』等からはそのあたりのことを分かりやすく教えられました。
わたしは、ニーチェから学んだ実存的絶望の底に行き着いて、イエス・キリストとその十字架の意味の大切さを学びました。「溺れる者は藁をもつかむ」の類です。この「発狂か自殺しか選択肢が残されていない」という絶望の底で、イエス・キリストを信じることの意味・意義・価値を教えられたのです。その頃のわたしは、「自分のことを考えると“ヘドが出て、生きていることの苦しさ”がそこにありました」。それは、わたしにとっては、まさしく死臭を放つラザロの経験であり、それが毎日続いておりました。[11:43
イエスは「ラザロよ、出て来なさい。」と11:43
そう言ってから、イエスは大声で叫ばれました。それは、19歳の年の、わたしの経験でありました。イエスは、霊的・精神的に死に、死臭を放つ、わたしに向かって「アグロよ、出て来なさい!」と叫んでくださったのです。わたしの心は、無神論で進化論で、ニーチェの思想で一杯の洞窟であり、[11:38
石が置かれてふさがれていた]のに、洞窟の前で叫び続けてくださったのです。そうして、霊的に死んでいたわたしも、ラザロと同じように、[11:44
手と足を長い布で巻かれたまま出て来た]のです。洗礼準備会の最後の最後に「他に洗礼を受けたい人はありませんか?」と呼びかけられ、「この機会を逃したら。ハレー彗星のようになってしまう」と思わず、手をあげてしまいました。洗礼を受けた12月のクリスマスの夕方、教会から下宿への帰り道、スポットライトを当てるかのごとく、夕日がわたしの背中に降り注いだことを憶えています。「ああ、神さまは、わたしの新しい人生、よみがえりの人生を祝福してくださっているのだ」と実感し、不思議に聖歌「輝く日を仰ぐとき」のメロディとその歌詞「天地造りし神は、人をも造り変えて、正しく清き魂持つ身とならしめたもう」が浮かびました。
わたしたちの神さまは、「ラザロをよみがえらせた神」です。わたしたちは、もはや人生、またわたしたち自身の実存の無意味・無価値・無目的に悩まされる必要はありません。死んでよみがえられた御父・御子・御霊の三位一体の、御子なる神イエス・キリストにおいて、真に意味があり、真の価値があり、真の目的を宿す、世界でたったひとりの尊い“Only
One”なのです。御子なる神イエス・キリストを信じる時、わたしたちの内に、御霊が内住され、その御霊はわたしたちを一切の死臭から解放してくだり、「あの高価なナルドの香油」の香りを放ってくださる、「ローマ7:24
罪と死のからだの中のよみがえりの御霊」であられるお方です。わたしたちは、信じた後も自分の中の肉の腐臭を感知するかもしれません。しかし、それはクリスチャン生活、その一生涯の健全なしるしのひとつです。わたしたちが地上に生き、肉体を宿すうちはその腐臭、死臭を感知します。ただ、そのようなただ中で、[11:43
ラザロよ、出て来なさい]という、イエスの大声に耳を澄ませて生きてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 安黒務著『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』アマゾン書店)
2025年10月19日
ヨハネ11:28~37「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」-何かを決断し、一歩足を踏み入れる時、「主にある武者震い」を経験する-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/q2aDRU2whws
ヨハネ福音書
A.イエスは、村の入口でマリアを呼ばれる(11:28-31)
B.マリアの嘆きに、(まことの敵、罪と死と滅びとの戦いに)イエスは霊に憤りを覚え(11:32-34)
C.イエスは涙を流された(11:35-37)
先週の箇所で、行動派のマルタは、イエスが来られたと聞いて、村の入口まで出迎えに行き、静寂派タイプのマリアは家で座っていました(11:20
)。ふたりの姉妹とも、ラザロの急死に打ちのめされておりました。しかし、その対応は対照的でありました。教会にはいろんな個性や賜物の人たちが集められますが、そのタイプはさまざまです。活発に奉仕にたずさわる行動派タイプのクリスチャンもいますが、静かに主の膝元に座り、語られるみことばに耳を傾けることを好む静かなタイプのクリスチャンもいます(ルカ10:38-42)。牧師にもさまざまなタイプがあり、「三食のご飯よりも伝道が好き」という行動派の牧師もいれば、神学の研鑽と教育に重荷を持つ学習・教育好きの静寂派の牧師もいます。神様は、多様性を尊重し、それぞれを大切にされるお方です。絵具箱のパレットもたくさんの色彩に溢れていると、美しい絵を描くことができます。わたしたちは、それぞれに個性と賜物を賦与された絵具箱の絵具のひとつひとつです。ありのまま、自然体で生き、主と人々に喜んで仕えることを主もまた喜ばれます。
姉のマルタは、長女であり、気丈なタイプであったのでしょう。それで悲嘆にくれる家族を代表して、ナザレ人イエスを迎えにいきました。そして、マルタなりの「思いのたけ」をイエスの前に注ぎ出しました。そして、おそらくは「マリアたち、家族・親族が待っている家にお越しください」と案内しようとしたでしょう。しかし、イエスは村の入口から入って行こうとはされませんでした。イエスは、なぜ家に行こうとされなかったのでしょう。それは、[11:8
先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか]という言葉に暗示されています。そこには、ナザレ人イエスを捕えようとしたり、石打ちにしようとする人たちもまた待ち構えていたからでしょう。三年半の公生涯最後の時期のナザレ人イエスは、「イエスをメシアと信じる人々」と「イエスを神を冒瀆する罪人とする人々」の両極のはざまにおられました。それで、密かに姉であるマルタに、「家に行くのは危険なので、マリアを村の入口に会いに来るように」と指図されたのです。[11:28
マルタは…帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた]ことには、そのような事情がありました。イエスは、「ご自分の栄光の時、すなわち十字架を通して神の栄光を現す時」を知っておられたので、この段階で逮捕されたり、殺戮されたりするわけにはいかなかったのです。わたしたちも、「わたしたちを通して神さまの栄光を現す時」を教えていただけるよう心がけましょう。そして、「飛んでくるその一瞬のチャンス」を見逃さないように注意致しましょう。神さまは、その一瞬のタイミングを見せてくださるはずです。
マルタは[11:28
マルタは…帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝え]ました。あの少し騒々しいタイプのマルタとしては上出来です。主イエスの置かれている状況をきちんと理解し、誰にも気づかれないように、「そっと」耳元でささやき、「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます」と伝えました。マリアはひとりだけ、だれにも悟られずにその場を抜け出し、「いまや危険にさらされているイエス」に会いに行こうとしました。しかし、それは無駄でした。[11:31
マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った]からです。
しかし、それは、さらなる成功の伏線ともなりました。ついて行ったのは[[11:31
マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たち]だけであったからです。この動きを見ていますと『孫子の兵法』を思い起こします。わたしは、敵対者たちは、ナザレ人イエスは必ずマルタとマリヤの家を訪れると見て、包囲網を張っていたと思います。「飛んで火に入る夏の虫」という感じで、「慈しみ深いと言われているイエスのことだから、必ずや重病のラザロを癒しに駆けつけるだろう」と待ち受けていたのに、来られませんでした。「イエスは評判を落としたな!」と喝采、油断していたでしょう。
しかし、敵対者たちは包囲網は解きませんでした。「ナザレ人イエスのことだから、ラザロが亡くなってから弔問に駆けつけるかもしれない。その時が、逮捕・殺害のチャンスだ」とラザロの家の周囲を固めていたことでしょう。それで、マルタを通してマリアに、[11:28
そっと伝えた]のです。マリアも、イエスの置かれている危険な状況は理解できていましたので、マリアは[11:31
急いで立ち上がって]出て行きました。それは、イエスに敵対者する者たちに動きを察知されないためでした。イエスに敵対する者たちは、スパイをも送り込み、「今か、今か」とイエスの来訪の際の、逮捕の機会を狙っていたからです。
しかし、マルタが意気消沈していたマリアに耳打ちした瞬間、抜け駆けするかのように、突然、マリアは立ち上がり、家から出て行きました。敵対者たちはマリアの行方を見逃しました。しかし、マリアを慰めていたユダヤ人たち、イエスを慕う人たちは、[11:31
マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て]、[墓に泣きに行くのだろうと]勘違いしてついて行くことになりました。ここで起こったことは、ナザレ人イエスを逮捕しようと警戒網を張っていた敵対者たちは出し抜かれ、彼らを置いてきぼりにし、マリアを慰めていたユダヤ人たちだけが、ナザレ人イエスに安全にまみえることになったということです。わたしたちが神さまに導かれて生きていく時に、このような不思議な体験がここかしこにあることを教えられます。これは、日常生活の中に働く「神の摂理」です。
ナザレ人イエスの癒しのための来訪を死ぬほど待ち望んでいたマリアは、打ちのめされた心身の力を振り絞り、村の入口で待っておられるイエスのもとに早足で駆け付けたことでしょう。もはやラザロは亡くなり四日目で、癒すには手遅れではありました。しかし、マリアは主がなぜ急いで駆けつけてくださらなかったのか、なぜ遠く離れていても癒してくださらなかったのか、直談判したかったのです。[11:32
マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに]と、マルタと同じ言葉をぶつけました。信じていなかったら、このような直談判は起きなかったでしょう。しかし、マリアは、イエスには癒す力があることを知っていたし、信じていたので、愛する兄弟ラザロの死は残念で仕方なかったのです。わたしたちにも、神さまに対してこのような失望の経験もあることでしょう。それは、ある意味で「信仰のなせるわざ」でもあるのです。神さまは、このような「直談判」の信仰を喜ばれると思います。
皆さんはどうですか。愛する人が今、瀕死の状態にある時、そこから救命できる医者が目の前にいるのに、なんの処置もしてもらえなかったら、「あなたは、救命できたのに、なぜ助けてくださらなかったのですか?」と心底からの大きな叫びを、抗議をぶつけないでしょうか。とびかかり、胸ぐらをつかみ、力いっぱいぶん殴らないですむでしょうか。[11:32
マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに]には、そのような叫びがあると思います。これは、信仰の光であり、信仰の炎です。これがクリスチャンの「祈り」です。これがクリスチャンが「一生涯の祈り」なのです。わたしたちは、感謝だけでなく、生きていくことの中で生じるすべての「ひずみ、ゆがみ、ストレス」において、マルタやマリアのように「主よ!」と叫ぶことが大切なのです。主は、生きておられ、必ずや何らかのかたちで必ず応えてくださるお方です。
[11:33
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせ]という言葉は、理解することがきわめて難しい言葉です。ある人は、マリアや一緒に来たユダヤ人たちの「不信仰」を嘆いておられるのだと理解します。しかし、そうでしょうか。わたしは、もっと深い意味があるように思います。ここを繰り返し読んでいて、ふたつの箇所を思い起こしました。それは、ひとつは
[マタ26:36
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37
そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。26:38
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです]と言われた箇所であり、もうひとつは[Ⅰコリ15:55
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり]という箇所です。
これらふたつの箇所は、人々が「死」という問題に直面する時の悲しみ、痛み、苦しみがよく表されています。そして「死」という問題が「罪」の問題と深く関連しておるのであり、
[11:33
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせ]と記されている箇所で、ナザレ人イエスが直視しておられる問題は、「罪」の問題であり、それがもたらした「死」という問題であり、それらが愛するマルタ、マリア、そして一緒に泣いている人々が直面している問題であり、ナザレ人イエスが、これから十字架による贖罪死のみわざとそれに続く復活において成し遂げようとされていることの、いわば「戦い直前の武者震い」のような意味が込められていると思うのです。
[11:33
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせ]という言葉は、「あなたがた、ひいては全人類が背負い込んでいる罪と死と永遠の滅びという最大の敵」に対する憤りであり、それは、イエスにとっても、[26:38
わたしは悲しみのあまり死ぬほどです]という悲しみであり、しかし同時に、ナザレ人イエスは「Ⅰコリント15:54-55死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」とその最終・最後・最大の敵に果敢に戦いを挑み、カルバリの丘、十字架の上で贖罪死を遂げることと、その三日目によみがえることにより、「死は勝利に吞み込まれた」という到達点に、今一歩踏み込まれた瞬間を表現する言葉です。
わたしたちも、何かひとつのことを決断し、その道に一歩足を踏み入れる時には、「主にある武者震い」を経験するでしょう。そのときには、恐れもあり、心を騒がせることもあるでしょう。しかし、ヨシュアが約束の地に足を踏み入れる時、「ヨシュア1:6
強くあれ、雄々しくあれ」と主に励まされたように、主は今わたしたちの「新しい一歩の踏み出し」を祝福しておられます。わたしたちに、恐れは伴いますが、それに左右されず、呑み込まれず、主にある「新しい一歩」を踏み出してまいりましょう。そして主がなされることを見届けることに致しましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年10月12日
ヨハネ11:17~27「主よ。もしここにいてくださったなら」-綱渡りのような荒海を漕ぎ渡る生涯を、神の平安に守られて生きて来れた幸い-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/0NWvvZEqXzs
ヨハネ福音書
A.ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた(11:17-19)
B.もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう(11:20-22)
C.あなたの兄弟はよみがえります(11:23-24)
D.わたしはよみがえりです。いのちです(11:25-27)
今朝の箇所は[11:17
ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた]という言葉で始まります。ナザレ人イエスは、マルタとマリヤがイエスのところに使いを送って
[11:3
主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です]と危急の知らせを受けた時、何故ただちに駆けつけられなかったのでしょうか。その疑問が
、[11:20
マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた]という行動と言葉に現れています。心優しい妹マリヤは、愛する兄弟ラザロの死に打ちのめされていたのでしょう。愛するイエスがはるばる来てくださったというのに迎えにいく元気もありませんでした。行動派で活力のある姉マルタは、[11:22
あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています]と、ナザレ人イエスがモーセのような預言者の再来であり、[11:21
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに]と、預言者エリヤのように瀕死の病に臥せるラザロを癒すことができたでしょう、との信仰を告白します。
わたしは、この箇所で『キリスト教教理入門』で学んだ「悪と神の世界」の章を思い起こします。[神は全能のお方である。そして神は善なるお方である。では、なぜそのような神が造られた世界に悪が、また病が存在するのか。神の力に問題があるからなのか。神の愛に限界があるのか。もしそうでないのなら、悪また病はなぜ存在するのか?]といういわゆる「神義論」の問題です。今朝の箇所では、ナザレ人イエスを神から遣わされたモーセやエリヤのような預言者であると信じてやまないマルタは、[11:22
あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は…知っています]とナザレ人イエスに対する信仰を告白しています。
ナザレ人イエスに対し、そのような信仰を、確信を抱いているからこそ、[11:21
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう]という悔恨の念が吐露されています。それは、[11:3
主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です]という急使を送っていたからです。必ずや、なにものをもさておいて、駆けつけてくださるはずだと信じていたでしょう。ナザレ人イエスが、慈しみと愛に満ちておられることを知っていたマルタとマリヤは、[あの方なら、絶対に駆けつけてくださる。ラザロは死ぬことはない]という一念をもって、寝ずの看病を続けていたでしょう。今か今かと、家から出ては遠くの人影を望み見ていたことでしょう。しかし、イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたにも関わらず、[11:6
イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、その時いた場所に二日とどまられた]のです。このような事の運びに、ラザロの容体を案ずるマルタとマリヤの心は打ちのめされていったことでしょう。主が信仰者を愛されていても、人の一生にはこのような側面もあることに思いを馳せましょう。
身内の者が瀕死の状態にある時に、このような行動をとる掛かりつけの医師がいるとすれば、その信用は地に落ちることになるでしょう。しかし、ナザレ人イエスは、人々から「無慈悲なお方」と見られかねない行動、「愛するラザロが亡くなるのを待ち、腐敗が進行する死後四日目の訪問という意図的な遅延行動をとられたのです。またそれだけでなく、ラザロの死という結果は、[11:37
見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか]という、ナザレ人イエスの評判を落とすことにもつながりかねませんでした。そのような人の思いの浮き沈み、また駆け引きとも言える荒波の中を、[11:4
この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります]と、綱渡りのように、神の栄光が現わされる狭く細い道を進んで行かれます。わたしたちにも、またそのように狭く細い道を神経をすり減らしつつ、進んで行く時期というものがあるでしょう。その道は、右にでも左にでも進むことは可能であったりするでしょう。しかし、わたしたちが自ら選べるのなら、「神の栄光を現すことによって、わたしたちも栄光を受ける」という道を手探りし、その道を見出し突き進んでまいりましょう。
マルタは、愛する主イエスに、[11:22
しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は…知っています]、しかし「すべてのことをご存じのあなたなのに、なぜ愛する兄弟ラザロが死ぬ前に来てくださり、その瀕死の病から癒してくださらなかったのですか」と問い、[11:21
もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう]、「残念の極みです」とその心情を吐露しました。親しい肉親、我が子、兄弟を亡くしたことのある者が抱く、抑制できない心情の吐露です。福音書の素晴らしさは、ここにもあります。畏まった美しい宗教用語、美辞麗句による祈り、主との関わりではなく、真正面から「その正直な心情」を吐露しあう関係です。わたしたちも、マルタのように[11:21
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう]と逃げ隠れせず、いわゆる野球でいう「直球勝負」を致しましょう。そうする時、主もまた、「フル・スイング」で応えてくださいます。
愛するマルタの「ラザロの死に際する心情」の吐露・悔恨・うらみ・つらみに対し、ナザレ人イエスは、これまた[11:23
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります」と、ナザレ人イエスの全人格・全存在を投入した回答を提供されます。ナザレ人イエスは、この言葉に深い意味を込めて告げられました。それは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが、受肉され「ナザレ人イエス」のかたちにおいて、証しのための公生涯を送られた「救済史上の重要な出来事」の中で、最も重要な十字架の出来事とそれに続く復活の出来事への、最後の準備であり、そこに向けての扉を開く「ラザロの重病と死の出来事」でありました。重病の愛するラザロが死と腐臭にさらされるまでほっておかれたのは、[11:4
この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受ける]ことこそが、ラザロの出来事が救済史上に果たす意義・意味・役割でありました。わたしたちの生涯における肯定的な出来事の中においてだけでなく、否定的な出来事の中にも、救済史上に果たす意義・意味・役割があることを覚えましょう。
マルタは、そのすべての意味は分からず、[11:24
終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と、死後の、終末時におけるラザロの復活と永遠のいのちに対する希望を告白します。その信仰告白をさらに掘り下げるかたちで、ナザレ人イエスは愛するマルタに、
[11:25
わたしはよみがえりです。いのちです]と宣言されました。これは何を意味しているのでしょう。これは、ヨハネ福音書で繰り返し表明されている「わたしは=ある」という表現であり、出エジプトの燃える柴の光景の中で語られた「出3:14
わたしはあるという者だ」という三位一体の御父・御子・御霊なる神の、自己表現のことばです。すでに、ヨハネ福音書では「いのちの光」「いのちのパン」「いのちの水」とも証しされています。それが、公生涯の最後の場面で「愛するラザロの重病と死と腐臭」のただよう光景で、
[11:25
わたしはよみがえりです。いのちです]と証言されているのです。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの公生涯の目的は「ご自身が如何なる者であるのか」を証しすることでありました。それは、すでに明らかにされ、「ナザレ人イエスが、モーセのような預言者であり、エリヤのような癒しの預言者である」ことは明らかにされていました。そして、公生涯の最後の最後に、明らかにしようとされていたことがありました。それが、
ナザレ人イエスは、単に神から遣わされた「下から、偉大な人間、優れた宗教者」として来られた「モーセのような預言者であり、エリヤのような癒しの預言者」であるだけではありませんでした。それ以上のお方です。ナザレ人イエスは、「上から、神が受肉されたお方」であり、御子なる神イエス・キリストが[11:25
よみがえりのいのち]そのものであられるお方、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストなのです。
[わたしを信じる者は(肉体が)死んでも(終末時に復活のからだを与えられて永遠に)生きるのです]とは、マルタがイエスに告白した[11:24
「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえる]という信仰告白の追認でしょう。そしてさらに進むかたちで、[11:26
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して(霊的に)死ぬことがありません]という、生と死に対する聖書の捉え方を証ししておられます。といいますのは、1世紀末に書かれたヨハネ福音書の聖霊論では、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを信じる者は、「信じる=内住の御霊の受容」を意味するのであり、内住の御霊=神のよみがえりのいのち御霊であり、それこそが、御子なる神イエス・キリストを信じた時に賦与される「永遠のいのち」なのです。愛するマルタは、ラザロの死の出来事でおさまらない悔恨の気持ちをナザレ人イエスに、「直球、ど真ん中勝負」で[もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう]と投げ込みました。これに対し、ナザレ人イエスは、「ご自身が如何なる者であるのか」の最後の局面を証しし、ラザロの死の出来事が、[11:4
死で終わるものではなく、神の栄光のためのもので…それによって神の子が栄光を受ける]べく摂理されたものであると証しされていきます。ナザレ人イエスは、「あなたは、このことを信じますか」と呼びかけられ、愛するマルタは「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と返答致します。ただこの時点においても、マルタは神の啓示の全容をいまだ理解できていなかったでしょう。御霊なる神聖霊がいまだくだっていなかった(7:39)からです。
ただ、マルタは、愛する兄弟ラザロの死という受け入れがたい悲劇のただ中で、ナザレ人イエスのことばと交わりを通し、[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]とあるように、平安を得、少し落ち着きを取り戻していきました。土くれでできた、わたしたち人間には、人生のすべてを支配できません。また、やがて訪れるに違いない自分の寿命の切れる日を伸ばすこともできません。わたしは、19歳の時に、そのような人生の虚無に気づかされ、[11:25
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。11:26
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」と、呼びかけられ、ナザレ人イエスを三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストと信じ、受け入れ、内住の御霊を宿す者となりました。そしてあれから約50年の生涯を生きてきました。マルタのように、まだすべてのことを理解できたわけではありませんが、綱渡りのような荒海を漕ぎ渡る生涯を、神の平安に守られて生きて来れた幸いに感謝しています。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年10月5日
ヨハネ「だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません」-機知とユーモアと象徴的言語をもって、危機を乗り切る者となりたい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/sz9EOq82vV8
ヨハネ福音書
A.昼間と夜(11:7-10)
B.眠りと目覚め(11:11-13)
C.死とよみがえり(11:14-16)
ナザレ人イエスの奉仕生涯は、カナの婚礼において「最上のブドウ酒」が最後まで取って置かれたことから始まりました。ナザレ人イエスが「如何なるお方」なのかを証しする一連のしるしの反復の最後に向かいますと、「生まれつき目の不自由な者が目が見えるようになった」(9章)ことであり、「ラザロを死人のうちから甦らせる」(11章)ことでありました。双方とも、わたしたちが「それはあり得ない」と考えている事柄であります。しかし、なぜナザレ人イエスはその奉仕生涯の最後にこのような「しるし」をもって証しされたのでしょう。
もちろん、これらのふたつは、「そんなことはあり得ない!」と驚嘆すべき「しるし」でありました。しかし、人々を驚嘆させること自体がナザレ人イエスの目的ではありませんでした。こうした行為には、救済の神学的意味が込められているのです。それは、弟子たちをはじめ、イエスを慕い信じる「人々の心の内にある最後の霊的な壁」にひびを入れるためでありました。ヨハネ福音書冒頭にありますように、ナザレ人イエスは、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」が人間の姿をとって地上に来られた方でありました。
しかし、弟子たちを含め、人々は、ナザレ人イエスを「旧約に預言されていた、預言者であり、ラビであり、植民地支配から解放してくださる政治的メシア」として、「人々の間に立てられた」リーダーとして受けとめていたのです。それゆえ、使徒行伝の最初においてすら、[使1:6
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」]と的外れな質問をしています。それゆえ、ナザレ人イエスが十字架につけられる時には、大半の弟子たちが逃げ隠れしてしまいました。彼らには、いまだ「十字架による人類救済の贖罪のみわざ」は見えていなかったのです。
それで、身体的に目が見えない者が見えるようになったということは、「目が見えない者であっても、彼らの霊的な目で見えるべきものが見えるようになった」(9:39-41)ことを意味しているのです。ナザレ人イエスは、「人間の中における最良の預言者」以上のお方、人間を超えたお方、「上から来られた御子なる神イエス・キリスト」であることに目が開かれるために、盲目の幕が切って落とされ、その霊的眼球に光が入る必要があったのです。また、ナザレ人イエスは、「肉体において生きていても、死と永遠の滅びに定められている者たち」(5:24)に生きることを可能にされるお方です。ナザレ人イエスが、「ラザロにいのちを与える」ことは、当時の敵対者たちに最後の一線を超えたものと判断され、「いのちの与え主はいのちを失う」ことにつながります。「ラザロのよみがえり」は、ある意味で「ナザレ人イエスの死と復活」の予型であり、「一度死んだ者が数日後によみがえる」という、「この世ではあり得ない出来事」を受け入れる素地ともなりました。
今朝の箇所は、[11:7
もう一度ユダヤに行こう]というイエスのことばで始まります。これらの言葉には、十字架のみわざを通して神の栄光を現そうとされているナザレ人イエスの決意が感じられます。弟子たちは[11:8
先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか]と、いぶかしく思います。それは、「今、ユダヤに行くということは、殺されに行くようなものではないですか?
それは、やめておいた方が良いと思いますが…」という婉曲的ではありますが、反対意見を述べているのです。実際に、あの疑い深いトマスとして有名な弟子は、意外にも[11:16
私たちも行って、主と一緒に死のうではないか]と反応し、殉教の覚悟を証ししています。
これに対して、ナザレ人イエスは[11:9
昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです]と答えられます。ナザレ人イエスは、実に興味深いお方です。「殉教やむなし」と恐れを抱いている弟子たちに対し、「そんなことでどうするのですか。臆病者!」と叱責するのでなく、「昼間と夜」という象徴的言語を使って、弟子たちを励ましておられます。人の弱さを理解される真の指導者です。ちなみにローマ時代には、正確な時計はなく、人々は日の出から日没までの明るい時間帯を12に分けて生活していました。一時間は現在の60分ではなく、明るい時間帯の12分の1の時間でありました。
「太陽が照っている昼間の時間帯は、暗闇に包まれる夜の時間帯に比して、躓くことなく安全である」という常識を、「主のみ旨にかなう歩みの中を歩んでいれば、主の守りと支えがあるから大丈夫」という意味を込めて、弟子たちの恐れを取り除き、安心感を与えられます。このような時には、「直接的な言語」よりも、「間接的な言語」が有益なのかもしれません。わたしたちも、危機に陥りそうになった時、また危機のただ中に置かれた時、「主のみ旨にかなう歩みの中を歩んでいれば、主の守りと支えがあるから大丈夫」と信じ、主からイメージを与えられ、機知とユーモアと象徴的言語をもって励まし合い、その危機を乗り切る者となりましょう。
そして、ナザレ人イエスは、ラザロの出来事についても、間接的な言語で、[11:11
わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます]と婉曲に語られました。ラザロの死を「眠り」と表現されたのは、弟子たちの苛立ちやショックを和らげる効果があったでしょう。しかし、弟子たちが誤解し、真意が伝わらないのをみて[11:14
ラザロは死にました]とはっきりと言われました。このように言われたのは、ナザレ人イエスの公生涯における最後の、最高峰、頂点のみわざとして「ラザロのよみがえり」を学ばせるためでありました。ナザレ人イエスは、画一的な物言いのお方ではなく、臨機応変に受け答えができ、それに適応できるお方でした。わたしたちも、そうありたいと思います。
そして、[11:15
あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます]と言われました。それは、ナザレ人イエスが即座に駆け付けられていたら、重病で瀕死のラザロを癒さざるを得なかったでしょう。しかし、それは、「贖罪死を経験されるメシア」の復活の予表となることを意図された、救済史における「ラザロの出来事」の位置づけを無に帰することになったでしょう。また、敵対者たちが「ラザロのよみがえり」という決定的な出来事を機に、過越しの祭りに重なり合うよう摂理され位置づけられた「御子なる神イエス・キリストの贖罪死への最後の扉」を開くこともなかったでしょう。これらの出来事は、「出エジプトの過越し」と重なり合うよう摂理された出来事であったのです。わたしたちも、わたしたちの生涯における否定的な出来事の中に、「主の摂理的意味」を見出す者とされましょう。
まさしく、わたしたちの主イエスは、「ラザロの明白な死」を待っておられました。ラザロが死んで四日後のよみがえりの出来事は、[11:15
あなたがたのため、あなたがたが信じるために、わたしがその場に居合わせなかった]ことにより、弟子たちとナザレ人イエス信奉者たちの心に、「復活信仰の土壌」を整えることを意図されたと語られました。このように見ていくと、弟子たちも、人々も、きわめて漸進的に三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの「贖罪死とそこからの復活」という内容をもつ信仰に導かれ、養われていっていることに気づかされます。わたしたちも、わたしたちの主イエスにならって、直接的な伝道とともに、その折々にかなって主から示されるイメージや象徴的言語を、機知やユーモアを加味しつつ証しし、人々の閉ざされた霊的な目を開かせていただく一助とさせていただくことに致しましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年9月28日ヨハネ11:1~6「ラザロが病んでいると聞いてからも、二日とどまられた」-「遅延」もまた主の働きの大切な要素である-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/VmZTGSWAGiw
ヨハネ福音書
A.マリヤ、マルタ、ラザロの愛すべきファミリー(11:1-2)
B.ナザレ人イエスへの、死に瀕するラザロの知らせ(11:3)
C.イエスの公生涯における、このファミリーの位置づけ(11:4-5)
D.イエスの行動の遅延にも意味・目的がある(11:6)
ヨハネ福音書11章は、「11:1-46 ラザロの死と復活」の章であり、「11:47-53
祭司長とパリサイ人たちが最高法院を開催してナザレ人イエスを殺すことを最終的に決意した」節目の章です。先週の10章の末尾では、「ナザレ人イエスの公の宣教活動が、洗礼者ヨハネの証言で始まり、ナザレ人イエスはその証言の通りのお方であった」と締めくくられています。ヨハネ福音書は、10章でひとつの終わりに差し掛かります。ナザレ人イエスは、「自分が如何なる者であるのか」を数々の証拠、すなわち「しるし」を示し、惜しみなく証しされてきました。それらの「しるし」は、旧約聖書の民としてのユダヤ人の間に、二つの反応を引き起こしてきました。
ひとつは、[10:33
あなたは人間でありながら、自分を神としている]と神を冒瀆する罪で殺そうとする人々であり、もうひとつは[10:41
この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言って、イエスを信じる人々でありました。ナザレ人イエスの三年半の公生涯は終わりに近づいていました。ナザレ人イエスは、御父が計画されているみわざを成し遂げねばなりませんでした。それは、洗礼者ヨハネが証言していたように、[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]として、十字架に上げられ、全世界の人々の罪の身代わりとして刑罰を受けることでありました。
ナザレ人イエスの奉仕生涯の最初には、カナでの婚礼がありました。そこでの「しるし」は、最上のブドウ酒が最後まで保存されていることでした。それは、ナザレ人イエスの公生涯には、数々のしるしと不思議がなされましたが、一連のしるしの最後に「ラザロを死人のうちからよみがえらせる」という最良のしるし、福音の本来の、本質、その神学的意味を漸進的に解き明かす「しるし」を提供されることをも暗示しています。確かに、福音はすでに死んだ者たちに対して、永遠のいのちを保証するものでもありますが、ここでは肉体において現在生きている者で、死に定められている者たちに生きることを可能にするものとして語られています。
ヨハネ福音書の1章から10章において、ナザレ人イエスは、ご自身が「1:4, 8:12 いのちの光」「4:4, 7:38
いのちの水」「6:35
いのちのパン」等であることを証しされてきました。そして、伝道と証しの公生涯が終わりを告げ、語って来られた福音の焦点たる十字架のみわざを成し遂げられる導入、また架け橋として「ラザロの死と復活」のしるしを提供されたのです。ナザレ人イエスは、ご自身が「1:4,
8:12 いのちの光」「4:4, 7:38 いのちの水」「6:35
いのちのパン」であることを証しされてきましたが、それらは単に神学的・象徴的な表現としての「豊かな霊的生活の保証」にとどまらず、ナザレ人イエスご自身が、「11:25-26
いのちそのもの」を与えられるお方であり、それは「ご自身の悲惨な十字架での死」を通しての豊かさであることを証ししようとされているのです。
10章の最後には[10:42
そして、その地で多くの人々がイエスを信じた]とありますが、その良き知らせ、福音の内容また本質が明らかにされていくときに、ついていけない人々もあったことでしょう。それは、数々のしるしと不思議が、「ローマ帝国の植民地からの独立を勝ち取るユダヤ民族の栄光の回復」に結びつくものではなく、それは霊的なものであり、多くのユダヤ人たちが期待するものとは真逆な「十字架に釘付けにされて殺されるメシヤ」を通してもたらされるものであったからです。ナザレ人イエスは、多くの人々が「つまづいて去って行く」ことを知っておられました。それゆえ、そのつまづきをひとつを取り除くために、ナザレ人イエスの「死と復活」の出来事の直前に、ある意味で「ラザロの死と復活」という“ワクチン”を打たれたのです。
わたしは、このことによって、ナザレ人イエスを信じた人々の間に「ナザレ人イエスの十字架での死と三日目の復活」を受け入れる、“一定の心の備え”ができたのではないかと思います。「死者の復活」という出来事が、「スキャンダラスな妄想や妄言によるものではなく、ナザレ人イエスにおいては起こり得る奇蹟である」という予行演習のようなものとして機能したのではないでしょうか。11章は、そのような意味で格別な章です。
わたしたちは、「ナザレ人イエスはだれとでも分け隔てなく、平等に接されるお方である」と思いがちですが、ここに特別に愛情を注がれたファミリーを見出します。このファミリー、[11:1
ベタニアのラザロ、マリアとその姉妹マルタ]は、主に特別な愛情を注いだ兄弟姉妹でありました。それは、主イエスが語られる言説から、その死期を予感したマリアは、[11:2
主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐった]女性でありました。マリヤは、[マル14:3
イエスがベタニアで、…食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ]女性でありました。なんとこまやかなで繊細な心の持ち主であったことでしょう。男性はビジョンとかプロジェクトに熱心で、身の回りの事、身近な心の動きに疎いところがありますが、女性には豊かな感受性、見えない心の奥底を察知する賜物があります。
弟子の何人かは、自分の見えるところだけで判断し、[マル14:4 何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。14:5
この香油なら、三百デナリ以上(約300万円、一年分の給料)に売れて、貧しい人たちに施しができたのに]と憤慨しました。しかし、イエスは、[マル14:8
彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました]と彼女だけはナザレ人イエスの言説から、主が死に向かわれていたことを察知していたのです。教会成長やリバイバルも大切ですが、身の回りに主が置いてくださっている兄弟姉妹の小さな心の動きに敏感に心配りしていくことも大切なことだと教えられます。
それゆえ、ナザレ人イエスにとって、[11:2
主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリア]と[彼女の兄弟ラザロ]は、ある意味で実の家族・兄弟のように大切な人々であったでしょう。そのきわめて大切なファミリーから急使が遣われました。今日でいう「電報」の類でしょうか。「11:3
主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と、姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言ました。すなわち「ラザロ、危篤。ただちに駆けつけてください!」と、救急車ならぬ、馬ないし乗り物すら添えて遣わしていたかもしれません。
しかし[11:6
しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた]とあります。わたしは、最初この箇所を読んだ時、「イエスさまはなんと冷たいお方なのだろう」と思いました。「マリヤやマルタの緊急性の伝え方に落ち度があったのだろうか」とも思いました。ただ[11:4
これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」]とあることから、ラザロの病気が、死に至る重病であることは理解しておられたことが分かります。
それ以上に、[11:4 「この病気は死で終わるものではなく]と語り、[11:6
イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた]とあるように、ラザロの死ぬのを待って、死んでから[11:17
四日後]に到着されたのです。わたしたち人間の側の希望では、病に陥る時、困難に出くわす時、ただちに主の介入と助けを必要とし、それを祈り求めます。しかし、神さまのより大きな計画においては、「遅延」もまた主の働きの大切な要素であることを教えられます。
神様は、[11:4
この病気(また苦難)は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります]と、わたしたちが人生で出くわす数々の苦難・困難をも、神の栄光を現す手段・材料としてくださるのです。とにもかくにも、マリヤ、マルタ、ラザロのファミリーは、イエスの公生涯の節目節目に登場し、きわめて大切な証しの材料を提供するものとなりました。マリヤは、イエスに[マル14:8
彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。14:9
まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます]と紹介されました。
マリヤは、イエスの言説から、愛する主イエスはまもなく死なれることを察知し、一年分の収入に匹敵する「ナルドの香油」の壺を割って、葬りの備えをしました。ラザロは、重い病で死んで葬られ、四日後によみがえらさることにより、「ナザレ人イエスの死と三日後の復活」の予表として用いられました。重い病で亡くなることもまた、主の栄光を現す証しとなるのであれば、主を愛するわたしたちがなすすべてのことが「主の栄光を現す証し」となるといえないでしょうか。わたしたちは、「死後の復活信仰」、そして「現世における内住の御霊による、肉による死の力のただ中での、よみがえりの信仰」に生かされています。そのような意味で、わたしたちひとりひとりは日々「ラザロ」のように証ししているといえるでしょう。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年9月21日
ヨハネ10:39~42「ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き」-奉仕生涯の終わりに「献身の最初の地点」に戻り、すべて真実であったと確証して終えたい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/iK-QClagXMQ
ヨハネ福音書
A.主の時はまだ来ていなかった(10:39)
B.最初の場所に回帰された(10:40)
C.洗礼者ヨハネの証しの真実は実証された(10:41)
D.多くの人々がイエスを信じた(10:42)
今朝の箇所の焦点は[10:40
ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き]ということばです。ヨハネ福音書の冒頭にありますように、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、「ナザレ人イエス」のかたちを取って、パレスチナの地を歩まれた「神」でありました。ヨハネ福音書は、このお方を紹介した「洗礼者ヨハネ」の証しから始められています。そして今、ナザレ人イエスのしるしと不思議を伴う伝道活動の終わりにさしかかり、[再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に]戻られたのです。
この場所は、ナザレ人イエスが公生涯を開始された最初の場所、[1:29
ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」]と叫んだ場所でありました。ナザレ人イエスは、出エジプトの時のように、エジプトの地に注がれた「神の審判」を過ぎ越すための「過越しの犠牲の子羊」であられました。罪と死と滅びの運命の中に置かれている全人類を救うための「身代わりの子羊」でありました。ユダヤ人たちは、ローマ帝国の植民地支配からの独立を導いてくれる「メシア」を待ち望んでいました。ナザレ人イエスは、旧約聖書に約束されている「預言者、メシア、キリストであるに違いない」と思わせるしるしと不思議をなさり、多くの人々の期待を一身に帯びていかれました。
しかし、ナザレ人イエスが分かち合われたメッセージは、多くのユダヤ人たちが期待する「ユダヤ民族の栄光の回復」ではなく、「全人類の、罪と死と滅びの運命からの救い」でありました。旧約聖書の中にある「ユダヤ民族の栄光の回復のメッセージの殻」の中にある「真のメッセージである全人類への贖罪のみわざ」を聞き分け、それを聴き取り、「ナザレ人イエス」を三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストとして受け入れるユダヤ人と、このメッセージを「神に対する冒瀆」として殺意に走るユダヤ人とに分化・先鋭化されていきました。
洗礼者ヨハネから弟子を受け継ぎ、ガリラヤ地方から始まった伝道活動は、ユダヤ地方、サマリア地方にも広がりました。カナでの結婚式、ニコデモとの対話、サマリアの女性への証し、ベテスダの池の癒し、海上歩行、生来目の見えない人の癒し、良い羊飼いの教え等を、逮捕や殺害の脅威をかいくぐりつつ、なさっていきました。[10:39
そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた]というのは、「主の時」がまだ来ていなかったのです。「その時」は、「過越しの時」と重なるように摂理されていたのです。三年半の公生涯もついに終わりの時を迎えようとしています。この後、「過越しの時」に向かい、「ラザロの復活」を通し、ナザレ人イエスの贖罪死と復活への扉が開かれていきます。
今日の箇所は、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが、「ナザレ人イエス」として受肉・来臨された「序言」で始まったヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネの証しをもって、「ナザレ人イエス」のしるしと不思議を伴う伝道と証しの公生涯がスタートし、その公生涯の時期の終了を示す「大きな区切り」の箇所です。続く「ラザロの復活」の章では、ナザレ人イエスの「死と復活」がどのような意味を持つのか、掘り下げられていきます。
今日の箇所では、公生涯の最初に明らかにされた「洗礼者ヨハネ」の証し、すなわち[10:41
ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった]という人々の証言が記されています。なんという素晴らしい証しでしょうか。ヨハネ福音書の一章には、「ナザレ人イエス」が如何なるお方であるのかについての洗礼者ヨハネの証言があります。洗礼者ヨハネは、「1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」、「1:29見よ、世の罪を取り除く神の子羊」、「1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者」であると証言していました。世には、誇大広告や偽の履歴が溢れています。それらのもうけ話に引っかかって、大きな損失を被ることはしばしばです。しかし、[10:41
この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった]と言うことばをもって、人生を振り返ることができる人はなんと幸いなことでしょう。わたしたちも、そのようにありたいものです。
わたしは、エリクソン著『キリスト教教理入門』という本を教科書にして、長年神学校で組織神学を講じてきました。その中で、教えられたことのひとつに、神論の「神の誠実さ」の要素として、「①神の真性さ、②神の正直さ、③神の忠実さ」というものがあります。わたしたちの神さまは、①真実な存在のお方です。②このお方は、約束されたことを違えることなく、正直に語りかけられるお方です。そして、③このお方を信じ、このお方とともに生きる生涯は、この神さまが約束されたことを忠実に果たされることを確証しつつ生きる生涯である、ということなのです。真実な神さまの、偽りのない正直な語りかけを心に留め、それを逐一確証しつつ歩んでまいりましょう。
今日の箇所では、ナザレ人イエスの公生涯は、このお方が洗礼者ヨハネが証言した通り「彼が、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であることが立証された。多くのユダヤ人たちが、[10:41
この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった]との確信と告白とに到達した。[10:42
その地で多くの人々がイエスを信じた]と証しされている箇所なのです。もちろん、洗礼者ヨハネが証言した「贖罪の子羊」としての十字架刑、そしてそれに続く死・葬り・復活・昇天・聖霊の注ぎによる「内住の御霊」の現実は、まだこの時点では到来していません。まだ、到来していませんが、ヨハネ福音書記者は、時間を超えてそれを見通しています。信仰にはそのようなところがあります。「本質」をその一部でも掴めば、「その裾に触れた長血の女性」のように、御子なる神イエス・キリストの力が流れていくのです。「イエス」に対し、「キリスト教」に対し、「クリスチャン」に対し、好意・好感を抱く人々には、「その力・そのいのち」が流れていくことを信じましょう。
このように、ナザレ人イエスの公生涯の最後に、「神への瀆神罪」で殺意に燃える人々が存在する時に、同時に[10:42
その地で多くの人々がイエスを信じた]という現実が併存していたことはわたしたちにとって大きな励ましです。この時点での「ナザレのイエス」に対する信仰には、さまざまなグラデーションがありました。しかし、ナザレ人イエスに好感を抱き、信仰めいた気持ちが覚醒し、励まされ、天に向けてその心が引き上げられた人々が多くいたのです。それらの中の、どれくらいの人々が、ペンテコステの出来事の後に、正式にクリスチャンとなり、洗礼を受け、聖餐にあずかり、キリストのからだなる教会を形成していったのかは分かりません。しかし、さまざまなグラデーションをもっていたであろうけれども、兎にも角にも、
[10:42
その地で多くの人々がイエスを信じた]という現実が生起していたことは、事実あったのです。わたしたちの周囲にも、そのような人々が醸成されていっていることを信じましょう。その刈り取りは主に委ね、祈ってまいりましょう。
わたしたちの日本は、フランシスコ・ザビエルの宣教からは約600年、明治からの宣教では約250年の日本宣教で、「キリストのからだなる教会員」と導かれた者は人口の1%足らずと言われています。ミッション・スクール伝道、教会学校伝道、さまざまなかたちでの伝道と証しの積み重ねの中で、不毛の大地は耕され、み言葉の種は蒔き続けられ、好意・好感、そして求道者レベルをも含め、さまざまなレベルのグラデーションで[10:42
その地で多くの人々がイエスを信じた]と評価しても良いのではないでしょうか。そのようなクリスチャン予備軍とみてよい人々は人口の10%とかと学者もいます。もちろん、それらの人々が「キリストのからだなる教会員」とされていくことを祈り求めていく必要はあります。しかし、わたしたちは、それぞれの奉仕生涯の終わりに、「献身の最初の地点」に戻り、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが約束してくださったことは[10:41
すべて真実であった]と確証して奉仕生涯を終えたいと思うのです。そして、そのような信仰・希望のタスキを次の世代のランナーに引き継いでいきたいのです。お祈りしましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年9月14日
ヨハネ10:31~39「わたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい」-神が共におられることを知り、また深く理解するようになる-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ryNAyNtlZE4
ヨハネ福音書
A.父から出た多くの良いわざを示される方(10:31-32)
B.神のことばを受けた人々を神々と呼んだ(10:33-35)
C.御父が聖なる者とし、世に遣わされた者(10:36-37)
D.イエスのわざから、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを信じなさい(10:38-39)
今朝の箇所は、先週の[10:24
あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください]と問い、その解答が[10:30
わたしと父とは一つです]であったことに起因するものです。ユダヤ人たちの反応は、[10:33
あなたは人間でありながら、自分を神としている]という理解であり、それは神を[10:33 冒瀆]する罪にあたり、[10:31
石打ち]に値するという判断でありました。これに対し、ナザレ人イエスは[10:32
わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか]と反論されました。「右のほおを打たれた時に、左のほおを出す」だけでなく、クリスチャンも正当な反論が必要とされる時があります。イエスは、御父なる神のみ旨にかなう「多くの良いわざ」をなさっておられました。これは、わたしたちクリスチャン生活のあり方を示しています。人々をクリスチャンに導くことは大変難しい課題です。しかし、できることがあります。御父なる神のみ旨にかなう「多くの良いわざ」を行うことです。それは、良き証しとなり、良き耕し、良き種蒔きとなります。まず、このことに日々取り組むことに致しましょう。
ナザレ人イエスの[10:32
わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか]との問いに対し、ユダヤ人たちは、[10:33
あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ]と反応します。これは、暗にナザレ人イエスが[10:33
良いわざ]をなしておられることは、否定できないと認めています。世の多くの人は、キリスト教を信じることはできないが、クリスチャンは良い人が多いとは認めてくれているように思います。そうなのです。人々がキリストを信じようが、信じるまいが、わたしたちクリスチャンは、「世の光、地の塩」として[10:33
良いわざ]をなしつつ人生を送るのです。そこに神の栄光が現わされるのです。
ユダヤ人たちは、[10:33
あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ]と反応しました。わたしたちクリスチャンも、ナザレ人イエスを、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」として告白して生きていく時、この世の冠婚葬祭の付き合いの中で、[10:33
石打ち]の類の軋轢、反対、迫害等を経験することになります。ナザレ人イエスは、この反応の中に「反対者の熟考されていない敵意」を読み取られます。確かに、ナザレ人イエスは、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であり、天から来られ、受肉され、人間のかたちをとって現れたお方です。
しかし、ナザレ人イエスは、ユダヤ人たちのつまづきを少しでも取り除き、「狭き門」から導き入れるために、[10:33
あなたは人間でありながら、自分を神としている]という理解困難な課題を解きほぐそうとされています。わたしたちも、対決型のアプローチだけでなく、時には融和のための知恵あるアプローチが求められます。クリスチャンとしての「人権」主張に固執するだけでなく、対話相手の「魂に触れる」知恵ある語りかけや付き合いが求められます。ナザレ人イエスは、ある意味「上からのキリスト論」を保持しつつ、「下からのキリスト論」、すなわちユダヤ人たちの「ナザレ人イエス理解」の文脈を尊重しつつ、ナザレ人イエスが如何なるお方であるのかを[10:38
知り、また深く理解するようになる]道筋を開こうとされています。
あるユダヤ人たちは、[10:30 わたしと父とは一つです]と聞いた時、ナザレ人イエスを[10:31
石打ち]にする自供を手にしたと思ったでしょう。それで咄嗟に[10:31
イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた]のです。しかし、ユダヤ人たちの中には、ナザレ人イエスを信じつつあった人々もいました。それで、この難問、すなわち「上からの視点」で見れば、[10:33
あなたは人間でありながら、自分を神としている]という理解は、当たっています。しかし、これは事実であり、それは神を[10:33
冒瀆]する罪には当たりません。ナザレ人イエスの自己証言は正しく、それは[10:31
石打ち]には値しないのです。ただ、ナザレ人イエスを[10:31
石打ち]にする自白を手に入れることにやっきになっていたユダヤ人たちと、信じつつあるユダヤ人たちの混濁する会衆に対し、一方的に「上からのキリスト論」で突っ走るのは得策ではないことをイエスは理解されていました。
それで、あえて「下からのキリスト論」に話題を転換し、このテーマを[10:34
あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか]と、聖書の文脈の中で「ナザレ人イエスの自己証言」の問題を熟慮するよう促されました。浅慮、短絡、直情的に反応するのではなく、「神の子」という用語について熟慮するよう促されました。これは、詩篇82:6にある言葉で、天上の法廷を描く特異な詩篇(参照“https://youtu.be/f5kz1Etw8xo”)です。そして、[10:35
神のことばを受けた人々を神々と呼んだ]とも記されています。これは、イスラエルの民が「神の長子」(出4:22)と呼ばれていること、そしてこれらの言及は新約のイスラエルであるクリスチャンが「ローマ8:15
神の子とされる御霊を受ける」へと繋がっていきます。人間を「神の子」とすることは、その文脈や意図・目的においては問題はないのです。
ですから、悪意をもって聞く者でなければ、ナザレ人イエスが[10:36
わたしは神の子である]と証しされたことは、[父が聖なる者とし、世に遣わした者]として受けとめられるわけで、そこからいきなり[神を冒瀆している]とこじつけて「石打ち」へと発展させるのは、飛躍が過ぎるのではないのか、ということなのです。ただこれは、悪意をもつユダヤ人が対象ではなく、迷いの中にあるユダヤ人を念頭に語られた知恵のことばでしょう。ナザレ人イエスの自己証言には瑕疵はなく、ナザレ人イエスを公平に見つめることができる人ならば、その行いや教えは[父が聖なる者とし、世に遣わした者]であることを証しされていることが分かるはずなのです。ナザレ人イエスは、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」が受肉され、人間としてご自身を明らかにされた方であり、まことの神以外には成し得ないそのしるしと不思議、そしてその深淵な教えは[10:37
父のみわざを行って]いることを証しされています。
ユダヤ人は、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」を受け入れ、このお方を全世界に証しするために準備された民族でありましたが、このお方が、人々の期待と異なるかたちで来訪され、「民族の栄光の再興」ではなく、「人類の罪からの救いと永遠のいのちの祝福」をもたらされることを聞いたとき、背を向ける人が多く出ました。ナザレ人イエスは、ユダヤ人たちが期待した「独立運動の闘士」のようなメシヤではなく、「十字架上に殺された全人類の救い主」たるメシヤでありました。それは、ユダヤ人たちの「メシヤ性の概念」の全面改訂を迫るものであり、十字架につけられたナザレ人イエスこそ、イスラエルの王であり、全世界の救い主でありました。ナザレ人イエスは、呼びかけられています。[10:38
たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい]と。これは、奇蹟的な癒しについてだけでなく、この後になされる十字架のみわざの全体を包括するものです。
ナザレ人イエスが、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であると信じ、受け入れることは、人間の理性には至難のわざです。しかし、ナザレ人イエスがなされたみわざの数々、その教えの数々を丁寧に辿っていく時、そこからこのお方には[父がわたしにおられ、わたしも父にいる]と言われたことを、徐々に「知る」ようになり、やがては[深く理解するようになり]、このお方を、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」として、そのまま受け入れることができるようになるでしょう。それは、わたしたちに働く御霊なる神聖霊のみわざであり、わたしたちの人格と品性、そして生涯の働く父なる神のみわざも、[10:32
父から出た多くの良いわざ]として用いられるでしょう。[10:38
たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい]とあります。「わたしたちの主イエス・キリストを信じられなくても、わたしたちの人格・品性、そして生活を見てください」とへりくだって証ししてまいりましょう。伝道は難しくても、生活を通しての証しの世界は無限に開かれています。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson, “The Gospel according
to John”)
2025年9月7日 ヨハネ10:22~30「わたしと父とは一つです」-奉仕生涯において、
禁句を発することが必要な場面-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/IEzocp6OW4Y
ヨハネ福音書
A.時は冬であった(10:22-23)
B.ユダヤ人たちの質問とイエスの応答(10:24-26)
C.わたしの羊たちと牧者の関係(10:27-29)
D.ナザレ人イエスと父なる神の関係(10:30)
今朝の箇所は、[10:22
時は冬であった]と言う言葉をもって始まっています。ナザレ人イエスの公生涯の最後の時期です。冬でしたので、野外ではなく、ソロモンの回廊を歩き、教えを説いておられました。この場所は、キリストの復活後、最初の信者たちが定期的に集まるようになった場所(使徒3:11、5:12)でもあります。そのような場所で最後の時期の教えを説かれるナザレ人イエスに対し、[10:24
ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで…「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」]と問いかけました。
なぜ、[10:24
あなたがキリストなら、はっきりと言ってください]という質問をしたのでしょう。この質問は、如何なる種類の質問なのでしょう。ナザレ人イエスが「わたしがイスラエルのメシヤであり、キリストである」と宣言されたら、それを好意的に受け入れ、信じるというのでしょうか。この質問に対するナザレ人イエスの応答にその解答があります。[10:25
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、…]と意味深な応答をされています。
ナザレ人イエスは、「自分が如何なる者であるのか」を、その三年半の公生涯の最初から終わりまで、一貫して証しされています。ナザレ人イエスの教えとそれに伴ってなされたわざは、「ナザレ人イエスが如何なるお方であるのか」をギリギリのところまで惜しみなく証しされてきたのです。なぜギリギリのところで留められたのでしょう。そのひとつの理由は、「信仰」というものの性質にもよっています。「押しつけられたもの」は信仰とはいえないのです。「愛」と同様、おのずから湧き上がるものでなくてはならないのです。それで、[10:25
わたしは話した…。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証し]してきた、とギリギリまで証してきたと言われているのです。まことの天地万物を創造された三位一体の神は、罪と死と滅びに定められた人類を、御子なる神イエス・キリストを通して救う計画を達成するために、その手段としてイスラエル民族の歴史にご自身を啓示し、その準備のもとに、御子なる神イエス・キリストを送ってこられました。
しかし、その受け皿となったイスラエルの中には、ナザレ人イエスとして送られてきた「三位一体の御父・御子・御霊なる神」のご計画を理解できない人々が多くありました。わたしが「ギリギリまで証しされていた」というのには理由があります。[10:24
あなたがキリストなら、はっきりと言ってください]という問いは、当時のユダヤ人の環境で、「わたしは、メシアであり、キリストである」と宣言することは、1世紀のパレスチナでは政治的・軍事的な意味合い(6:14-15、11:48)が強すぎるのです。それは、「ローマ帝国の植民地支配下における独立運動の指導者」の宣言と受けとめられる危険があったのです。そのように曲解されたら、公生涯の最初に訴えられ、ローマ軍によって捕縛されていたでしょう。「三位一体の御父・御子・御霊なる神」の計画は、そのような内容のものではありませんでした。
ナザレ人イエスのそれは、ユダヤ民族国家の再興とか、ローマ帝国に対する独立闘争という次元のものではありませんでした。それは、ユダヤ民族史の中で準備されましたが、その内容は「福音」であり、全人類に対する祝福(創世記12:1-3)でありました。それは、[10:28
永遠のいのち]の問題であり、三位一体の御父・御子・御霊なる神のご計画により、その御子なる神イエス・キリストの贖罪と御霊なる神の聖霊の内住による福音により、[永遠に、決して滅びることがなく]なることであり、そして[10:29
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、…だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません]という確かな救いをもたらすものでありました。
ナザレ人イエスは、このような「三位一体の御父・御子・御霊なる神の]福音を教え、その福音の信憑性の一助として、神にしかできないような、数々の決定的なしるしと不思議をなして来られました。おそらく、これ以上できないほどの教えとしるしと不思議を提供してこられたのです(21:25)。そして、多くのユダヤ人やサマリア人、神を畏れる異邦人の信仰を獲得されていきました。それが、[10:26
わたしの羊の群れに属して]いる人々です。この人々は、ナザレ人イエスが公生涯で導かれた人々であり、ナザレ人イエスが教えられた福音の[10:27
声を聞き分け]、ナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストとして、信じ受け入れていく過渡期にある人々です。これらの箇所には、公生涯中に準備されていった過渡期の人々と、1世紀末のユダヤ教会堂から追放され、ヨハネの教会に属していたクリスチャンたちが重ねて記されているでしょう。
そのあたりのことが、[10:26
あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです」に示唆されています。「羊の群れ」とは、キリスト教会のことであり、そこにおける「御子なる神イエス・キリストと信徒たち」の親しい人格的交流と深い信頼関係を[わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます]と描写しています。そして、御子なる神イエス・キリストを信じる者には、[10:28
永遠のいのち]が与えられます。そしてそれは、民族主義的な国家ではなく「ローマ4:13
世界の相続人」、すなわちそれは、更新された被造物世界たる新天新地を相続し、永遠にその管理人として尽くす者とされるということです。[彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません]とは、そしてそれに続く[10:29
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、…だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません]の背景には、おそらくヤムニアの第十二祈願があったでしょう。
ヨハネが福音書を執筆した1世紀末の背景として、ユダヤ教指導者の[ガマリエルは、当時の「イエスをメシアと信じつつ、ユダヤ会堂にとどまっている状況」を打開するために、会堂でなされていた祈りの「異端者たちに反対する祈願」を次のように改訂しました。ユダヤ教内部においては、キリスト教は「ユダヤ教ナザレ派」として異端視されていたのです。その【第十二祈願】は、[背教者たちには、希望がないように。そして尊大な政府は、われわれの時代にすみやかに根こそぎにされるように。ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]と改訂されました。
ナザレ人イエスの公生涯末期に存在したユダヤ人たちの、ナザレ人イエス抹殺の動向を、そして1世紀末のナムニアの第十二祈願に表明されているような[ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は、瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように]という祈りの圧力を背景に、ヨハネ福音書の[彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません]、
[10:29
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません]を読むと、ヨハネのこれらの言葉が、ユダヤ教会堂の中にいるクリスチャンやキリスト教会の中に転会したユダヤ教徒たちにとって、どれほど大きな励まし、また慰めになったかは測り知れません。
そして、そのような背景と文脈の中で、決定的な言葉が発られます。[10:30
わたしと父とは一つです]。これは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父と御子は、「その羊を完全に守る」ことに携わっておられ、その行動において完全に一致しておられることを意味しています。このような言葉が発せられると、ユダヤ教徒は石を握りしめます。神を冒瀆した者としてナザレ人イエスを打ち殺す(レビ24:13-16)ためです。ナザレ人イエスは、このような発言が、ユダヤ教徒の中にどのような行動を引き起こすのか、よく知っておられました。
ナザレ人イエスほど、神の知恵に満ちておられた方なら、ユダヤ教徒たちの[10:24
あなたがキリストなら、はっきりと言ってください]の質問の背後に潜む、ローマ帝国に対する反逆者としてナザレ人イエスを訴えようとする隠れた意図を洞察されないはずはありません。公生涯の過渡期には、「カイザルのコイン」のような知恵をもってかわされていたナザレ人イエスも、奉仕生涯の最後の時期には、真正面から[10:30
わたしと父とは一つです]と言う、ある意味「禁句」を語られました。それは、宗教裁判で[マタ26:63
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ」]と詰問され、ナザレ人イエスが[26:64
「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」]と答えられた証言と重なります。その結果、ローマ帝国の法律には抵触せずに、ユダヤ教の律法で神に対する冒瀆の罪で[26:66
「彼は死に値する」]と死刑判決に定められます。
ナザレ人イエスには、死刑判決を避けるための道はありました。しかし、それらはあの「荒野における誘惑」の一種でしかありませんでした。わたしたちの信仰生活、また奉仕生涯において、「カイザルのコイン」のように神の知恵によって切り抜けていく場面も多々あります。旗幟を鮮明にせず、風見鶏のようになって危機を乗り越えて行く知恵が必要です。ある意味、混乱を避ける知恵でもあります。と同時に、奉仕生涯のある地点においては、
[10:30 わたしと父とは一つです]というような禁句を発する、旗幟を鮮明にすることがみ旨である場面もあります。
それは、群れの福音理解が将来どのように展開していくのかを決するような場面です。大西洋に流れ込むのか、太平洋に流れ込むのかを決する「分水嶺」にあたるアンデス山脈のいただきにある水流のような地点です。わたしには、群れの「福音理解の健全性」のために犠牲を払う覚悟のある奉仕者が必要と思われるのです。そのような時が来たら、自らの損得勘定を捨てて、御父なる神のみ旨に一致して行動され、証しされていった、ナザレ人イエスとしてご自身を現わされた御子なる神イエス・キリストの生き方に知恵深くならう者とされたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年8月31日
ヨハネ10:16~21「これらのことばのために、再び分裂が生じた」-一人の牧者ナザレ人イエスの声に聞き従い、正義と平和の群れに-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/DTbtnHA4b1o
ヨハネ福音書
A.福音と宣教の範囲・目標―ユダヤ人から始まり、地のすべてのやからに(10:16)
B.福音の本質としての贖罪と復活のいのち(10:17-18)
C.ユダヤ人たちの間のふたつの反応―悪霊憑きなのか、霊的開眼者なのか(10:19-21)
ヨハネ福音書を数節ずつ見て行っています。その時に感じるのは、一節一節の含蓄の深さです。ヨハネはその短い数節に、1世紀末のキリスト教共同体の中にある「凝縮された信仰告白」を入れ込んでいます。それらの中で、ナザレ人イエスが「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であること、そしてそのお方がどのようなビジョンを持っておられたのか、そのビジョンの根幹、また揺るぐことのない基礎は何なのか、それらの福音を提示された時のユダヤ人と異邦人たちの反応はどのようなものであったのか、を見事に編集し、1世紀末の教会と歴史を超え21世紀のわたしたちに語りかけています。
最初の節[10:16
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます]では、イエス在世中はユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ地方の、パレスチナ地域に住まうユダヤ人が伝道の主たる対象でありました。それなのに、いきなり[10:16
この囲いに属さないほかの羊たち]と、ユダヤ人やユダヤ教徒を超えた「異邦人の中から、まことの神に立ち返る人々」の存在がアピールされています。AD60年代前半に記された、医者であり歴史家でもあるルカによる使徒行伝には、「ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで証し人となるという世界宣教の青写真」が提示されています。AD90年代に記されたヨハネ福音書に、イエスの公生涯に発せられた言葉の中から、「ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで証し人となるという世界宣教の青写真」の示唆が拾い集められていることは、ヨハネの編集の意図があり、そこは注目されて良いポイントです。
といいますのは、[10:19
これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた]とあるからです。イエス在世当時と1世紀末のヨハネの教会において、何が問題であったのでしょう。ユダヤ人にとって何がつまずきであったのでしょう。その第一点は、「異邦人問題」でした。その視点から見ていきますと、[10:16
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません]という言葉は、すでにクリスチャンであるわたしたちにとっては、「イエス在世中の、イエスの世界宣教の青写真」をみせられる思いが溢れ、感動させられます。しかし、当時の、そして1世紀末のユダヤ人、ユダヤ教徒たちにとって、ユダヤ人と異邦人の「垣根」を次々取っ払っていかれるナザレ人イエスのあり方、そして1世紀末のユダヤ教会堂内のクリスチャン予備軍とキリスト教共同体の力強い形成に対しては、複雑な思い、またナザレ人イエスを「御子なる神イエス・キリスト」として受け入れることのできないユダヤ人たちには大きな危機感が生まれて行ったことでしょう。
ナザレ人イエスは、ご自身を「御子なる神イエス・キリスト」として提示し、異邦人も[10:16わたしは導かなければなりません]との使命感を吐露されました。そして、その内容は[マル16:15
全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい]というものでした。このようなアプローチ、ユダヤ教が特性として持つ「エペソ2:14
隔ての壁」を打ち壊してしまう要素は、異邦人との分離をアイデンティティとするパリサイ派のユダヤ教徒には受け入れがたいものであったでしょう。その導き方は、[ヨハ10:3
門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します]と、旧来のユダヤ教のあり方から、いわば“真の”ユダヤ教のあり方、すなわちナザレ人イエスを旧約聖書で約束された預言者、またメシヤとして受け入れ、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」として信じる「信仰の声」に導かれるようになるということです。
[その羊たちはわたしの声に聞き従います]とは、ナザレ人イエスを「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」として受け入れることであり、[一つの群れ、一人の牧者となる]とは、1世紀末の状況下では、ユダヤ教会堂から「御子なる神イエス・キリストへの信仰」の声に応答し、キリスト教共同体に導き入れられ、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが、ひとつの「まことの神の民」(エペソ2:11-22)とされることです。このように、ヨハネ福音書は、AD30年代のイエスの公生涯当時の視点とAD90年代のヨハネの教会の状況を重ね合わせて読みますとヨハネがこの箇所で、ナザレ人イエスが発せられた「これらの言葉」を再発見・再集録したのかが分かります。わたしたちの時代で申しますと、「イスラエルの中のクリスチャンとパレスチナの中のクリスチャン」、「ロシアの中のクリスチャンとウクライナの中のクリスチャン」ということになるでしょうか。正義が内包されるまことの平和の確立のために祈っていきたいと思います。
[10:19
これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた]という、第二点は、ナザレ人イエスによってなされる「贖罪と復活・昇天の一連のみわざ」とそのみわざが、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、父なる神によるもの」であり、旧約の約束のすべての結集・その焦点を担うナザレ人イエスは「御子なる神イエス・キリスト」であり、その証明が「復活」であるとの証言です。わたしたちクリスチャンは、「なるほど、その通りだ。アーメン!」とうなずく箇所でありますが、伝統的なユダヤ教徒にとって、これらの内容、これらの「声」を「福音理解」とする信仰には、「生来、目が見えない状態で生まれてきた者」が、御霊なる神聖霊によってなされる“開眼”の奇蹟を体験するような経験が必要でした。ナザレ人イエスは、[10:17
再びいのちを得るために自分のいのちを捨てる]という贖罪・復活の奇蹟的みわざをなされます。「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神は、御子なる神イエス・キリストである」わたしを愛してくださっています。ローマ帝国支配の下、ポンテオ・ピラトの時に、ユダヤ教徒によって十字架の刑を受けることになりますが、それは[10:18
わたしが自分からいのちを捨てる]のであり、それは神が旧約に約束されたものが、神の摂理の御手の下、[わたしが、それを自ら捨て、そのいのちを再び得]られるということです。ナザレ人イエスは、このような「救済史の中で果たすべき使命」を、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の」、わたしの父から、「その御子なる神イエス・キリスト」として受け]ている、と証言されているのです。
キリスト教徒にとっては、最も基本的な信仰告白であり、わたしたちの信仰が内包する「福音理解」のエッセンスを凝縮したものです。しかし、そのような信仰告白、また福音理解というものが、イエス公生涯のユダヤ人の間でも、1世紀末のユダヤ教会堂でも、[10:20
彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか」という、「ナザレ人イエスは、自分を神とする誇大妄想狂の霊に憑かれているのではないか」と受けとめる者と[10:21
これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか]と、人間には不可能な奇跡をなされるナザレ人イエスを、「旧約聖書に約束されているメシヤではないか」と心を開こうとする人々とに分かれていきました。
歴史の中では、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、神道の人々等、さまざまな宗教、信仰から、ナザレ人イエスが「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であるとの「福音の声」に導かれ、その声を聞き分け、その声に従い、今では世界総人口75億人のうちの三分の一の25億人がクリスチャンであると統計されています。[10:16
その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです]とあります。今日も、世界各地で戦争や飢餓でうめいている人々がいます。25億人のクリスチャンが、正義と平和のために祈り、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」の声に傾聴し、従い、よりよき世界がもたらされるよう、心を合わせ祈ってまいりましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年8月24日
ヨハネ10:7~15「羊たちがいのちを得、それも豊かに得るため」-「良い牧者」「良いクリスチャン」の正しい規準を身に着け、邁進する-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/hzSWWPcLXCM
ヨハネ福音書
A.いのちを得させ、豊かに得させる牧者―至福の生涯を生かされる(10:7-10)
B.羊たちのためにいのちをも捨てる牧者―狼と戦ういのちがけの戦士たれ! (10:11-13)
C.御父と御子の関係、牧者と羊の関係―良い牧者の相互認識と深度の規準(10:14-15)
使徒パウロの13通の手紙が論理的な手紙であるのに比して、ヨハネ福音書はまことにイメージ豊かな文書です。イメージを用いたヨハネ福音書の福音理解を、パウロの論理的な福音理解と重ね合わせて読み解いていくと大きな恵みを受けます。今日の箇所は、「まことの羊飼いであるイエスとその羊である信仰者」の関係について記されています。先週も申しましたが、イエスは[10:7
わたしは羊たちの門です]と言われました。[10:9
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。…10:10
わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです]と言われています。
そして[10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。…10:10
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません]と、羊たちに危害を加える者たちと対比して言及されています。「10:8
わたしの前に来た者たち」がだれであるのかははっきりとしません。ただ、はっきりとしていることは、羊たちを羊飼いの元から引き離す人たちのことです。ナザレのイエスは、父祖アブラハムからは約二千年、モーセからは約千五百年、ダビデからは約千年、バビロン捕囚の取り扱いを経てからは約五百年のさまざまな準備を経て、三位一体の御父・御子・御霊なる神から送られてきた御子なる神イエス・キリストでありました。
このお方は、罪と死と滅びに定められた人類にとって、[10:9
門]でありました。このお方がどなたであるのかを信じ、受け入れ、このお方を[通って入る]者はだれでも救われますし、このお方に導かれて生活する者は、御霊に導かれて生活し、[牧草を見つけ]ると言われます。ナザレのイエス以外の所に「入口」を見出そうとする者や教えは、「罪と死と滅びからの救いの道を閉ざす」ことにつながりますから、彼らとその教えは、イエスの元から羊を[10:10
盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする]盗人に他ならないと言われます。イエスの公生涯におけるパリサイ派の人々、また1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂周辺での、旧約聖書理解、そしてナザレのイエスをどのように理解すべきなのか、についての葛藤、軋轢が垣間見られます。
今朝、第一に教えられるのは、ナザレのイエスが、御父の元から来られたのは、[10:10羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです]の箇所です。ナザレのイエスが来られた目的は、罪と死と滅びの運命に定められている人々を「救う」ためでありました。すなわち「
10:10いのち」を得させるためでありました。しかし、単に「罪と死と滅びから救う」だけのためではありませんでした。今日の箇所には、さらに[10:10それも豊かに得]させるためであると言明されています。
これまで、ナザレのイエスに従うことにおいて妨げとなる「すべてを捨てる」ことへの言及が多々ありました。しかし、今朝の箇所では、門を通って救われるだけでなく、自由意志を失うことなく、[10:9
出たり入ったりして、牧草を見つけ]ること、そしてそれを[10:10
豊かに得る]と言われているのです。「キリスト教信仰を持つ時、多くのものを失う」と恐れる方もおられるでしょう。そのような不安をもたらす教えを耳にしたり、み言葉を目にすることもあるでしょう。しかし、信じて良いことは、過度にそのような恐れを抱かすのは、ナザレのイエスを[10:8
盗人であり強盗]と誤解させることです。イエスは、その真逆のお方です。
ナザレのイエスは、「盗人」のようなお方ではありません。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは「強盗」のようなお方ではありません。このお方の関心は、わたしたちが「罪と死と滅び」から免れ、永遠のいのちを得、それを豊かに得続けることを願っておられるお方なのです。この牧者の元に保護されている羊は、安心して良いのです。主に祈りをささげて過ごす一日、一週、一年、一生は安全で安心、満ち足りたものであり、主にあって享受するものは感謝をもって受け取り、主にあって想像しがたいほどに最高の人生を生かされていって良いのです。わたしたちは、そのような主を信頼し安心し、ささやかながらも、主にあって[10:10
いのちを得…、それも豊かに得]て、喜びに満たされ、主の栄光を現す至福の生涯を送らせていただきましょう。
教えられる第二の箇所は、[10:11
良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます]の御言葉です。このようなみ言葉を読むと、「自分はクリスチャンとして、また牧師として、そこまでの気概を持っているだろうか」と自戒させられます。自分はそこまでの献身に届いていないのではないだろうかと謙遜にさせられます。ただ、この箇所から励まされる内容もあります。それは、この文脈が、「かけがいのないいのちの軽視を勧めている」ものではないということです。口先で「わたしはいつでも、
羊たちのためにいのちを捨てられます」ということは簡単なことです。しかし、現実にそのような状況に置かれたとき、あのペテロのように否認に転じるという可能性はないのでしょうか。ここに謙遜が求められており、そのような極限の献身を自らに、また他者に求めるのは賢いやり方とは思えません。それは、その人その人に与えられている「恵みの量り」に応じてなされるものであり、強制されるべきものではないからです。
この箇所の文脈では[10:12
狼が来るのを見ると]とあります。そうなのです。この箇所は、「いのちをそまつにする」ことを勧めているのではないのです。その真逆です。「いのちがけで、いのちを救い出す」勇敢を勧めているのです。この箇所は、あのタビデが[Ⅰサム17:34
しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、17:35
しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。17:36
しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました]が意識されています。そうなのです。この箇所は、神さまから一度切り賦与されたいのちをそまつにすることを勧めているのではなく、その真逆なのです。主の羊を「狼の人たちや教え」から守り、救い出すため、ダビデのように命がけで戦うことを教えているのです。それは、パリサイ派の人々の「誤った聖書解釈から救い出す」ことであり、今日で言えば、誤った運動や教えに翻弄され、餌食にされている教会を「置き去りに」せず…[羊たちを奪ったり散ら]されたままにせず、敢然と立ちあがり、戦い続けることなのです。わたしたちは、時間がかかっても、ポストやサラリーを失うことを恐れず、「誤っていると判断される運動や教え」に慎重に対峙する勇敢な者となりましょう。主から預かっている羊を「腐った食物」から守るため、あの勇敢なダビデのように不断の戦いを陰に陽に続けてまいる者とされましょう。
第三に教えられる箇所は、[10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。10:15
ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます]の御言葉です。良い牧者の秘訣は、三位一体の御父・御子・御霊なる神の間の親密な相互認識、その交わりが基本であることです。御子なる神イエス・キリストは、わたしたち羊を[10:15
羊たちのために自分のいのちを捨て]るほどに、愛してくださっているということです。この相互認識の深さ、交わりの豊かさ、そしてその適用の範囲は「御子なる神イエス・キリストがいのちを差し出してくださる」ほどの愛であるということです。これほど「豊かな牧草地」があるでしょうか。世の人々は、物やお金に、ポストに名誉に走ります。そしてキリスト教会にすら「この世の価値観」が影響されている場合もあります。そのような影響、傾向に対峙し、わたしたちは、御子なる神イエス・キリストの勧めに従い、「良い牧者」「良いクリスチャン」の正しい規準を身に着け、それに従い、自らを、そして同労者を測り、邁進する者とされてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、
D.A.Carson, “The Gospel according to John”)
2025年8月17日
ヨハネ10:1~6「羊たちは、彼の声を知っている」-「まことの牧者」の声を全世界に-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/Ucrokfvu9iU
ヨハネ福音書
A. 盗人と牧者の対照(10:1-2)
B.牧者と羊たちの生活(10:3-4)
C.牧者と盗人の声の相違(10:5-6)
今朝の箇所は、9章の生まれた時から目の見えない人の癒しの話から、10章の羊と羊飼いの話へと急転したかのように見えますが、注解書によれば、「木に竹を接ぐ」かのように受けとめているものもあります。しかしその実は、[ヨハ9:35
イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」]という、ユダヤ教会堂の一員がナザレ人イエスに対する信仰を明らかにし、その結果としてその会堂から追放処分を受けたこと、そしてその人がキリスト教共同体に受け入れられた経緯を説明している章なのです。
[10:1
羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です]といわれているのは、癒されて肉体の目が見えるようになるとともに、霊的な目も見えるようになった人、すなわち、[ヨハ9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです]とナザレ人イエスに対する信仰に目覚め、[ヨハ9:38
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した]人を、脅迫し、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストに対する信仰から引き離そうとするパリサイ派の人々のことです。御子なる神イエス・キリストは、いつの時代でも「世の光」として輝きを放ち、心開く人々を引き寄せておられます。しかし、そのような引き寄せる力を妨げようとする力が働いているということなのです。
ナザレのイエスの公生涯の当初、エルサレムの神殿礼拝と祭儀を中心とするユダヤ教徒の中の一宗派として受けとめられていたキリスト教徒は、AD70年のローマ帝国軍によるエルサレムと神殿崩壊等により、パリサイ派の会堂と律法遵守中心のユダヤ教のあり方が転換していく中で戦いの中にありました。先週の9章は、公生涯における、ヨハネ9章の生まれつき目の見えないかった人の癒しと、その人のナザレのイエスに対する信仰告白、そしてそれに続くパリサイ派の人々による会堂からの追放の出来事、追放された彼を見つけ出して明確なキリスト教信仰に導き、キリスト教共同体に招き入れた様子であり、そしてユダヤ教パリサイ派の人々による、1世紀末のユダヤ教会堂内のカクレキリシタン摘発という大変厳しい状況を「盗人、また強盗」と重ねあせたものであり、10章はというと彼らの行動を、まことの牧者たる御子なる神イエス・キリストと対照して描き出しています。
今日、紛らわしい異端は、[Ⅱコリ 11:14
驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します]とあるように、偽装して教会に忍び込み、羊であるクリスチャンを盗む事があります。パリサイ派の人々はユダヤ教会堂内のカクレキリシタンのみならず、キリスト教会内の元ユダヤ教徒の人々にもいろんな角度から棄教の圧力と脅迫を加えていたのでしょう。1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の間の葛藤で、イエスは[ヨハ10:9
わたしは門です]といわれ、ペテロとヨハネは[使4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない]と言明しています。クリスチャンは、旧新約聖書全体を受け入れます。三位一体の御父・御子・御霊なる神を、御子なる神イエス・キリストを通して信じます。ここにしか「門」はないというのが、キリスト教信仰なのです。
[10:1
「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です]とは、「門」であるナザレのイエスを御子なる神イエス・キリストとして受け入れず、それを受け入れる生来目が見えなかった人をはじめとするクリスチャンたちを脅迫し、滅びへの道に誘うパリサイ派の人々のことです。10章は、9章の出来事で明らかとなった、ナザレのイエスとユダヤ教会堂のパリサイ派の人々の対照的な性格を描き出しています。ナザレのイエスは、救いにおいて「鍵」となる御子なる神イエス・キリストです。その人格とみわざによって、「門」を通って入り、救われます。
使徒パウロが、[ロマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです]と教えている通りです。わたしたちは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御霊なる神聖霊によって「Ⅰコリント12:13イエスは主である」と告白します。御父なる神を内住の御霊により「ローマ8:15アバ、父」と呼びます。さらに、「10:10永遠のいのちを得るだけでなく、それを豊かに得る」と言われます。これは、パウロの聖霊論のヨハネ版です。豊かな牧草地に導くために、[10:3
門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出し…10:4
羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです]と、信じた時に内住される御霊の語りかけ、その導きが提供されます。
日々の、聖書を開き黙想し、祈り瞑想するデボーションは、まことに豊かな牧草をわたしたちに提供してくれます。それは、[詩23:1
【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。23:2
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます]とある通りです。これらすべては、「門」である御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れた結果、もたらされる生活です。ナザレ人イエスに心を閉ざすパリサイ派の人々は、まったく異なる「声」を持っているので、同じ旧約聖書から異なる教えを導き出し、ナザレ人イエスを「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であることを告白することを拒否し、そのように人々を導こうとします。それは「滅び」の道への誘いです。
そのような「声、すなわちメッセージ」は、ナザレ人イエスを受け入れ、内住の御霊に導かれて生活しているクリスチャンにとって、
違和感のある「10:5
ほかの人」であり、それは三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの「声」ではない「ほかの人たちの声」と聞こえるのです。[マタ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです]。このような声は、パリサイ派の人々から聞こえてきません。このような声は、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストからのみ、聞こえてくる御声です。
それは、ちょうど幼い頃から調律されたピアノで学び、「絶対音階」が耳についた人に似ています。まだ楽譜が読めなくでも、聴いていて、外れた音が耳に入ると「強烈な違和感」を抱くと言われます。それは、わたしたちがナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストとして、このお方を「絶対音階」として知り、その「音」を聞き分け、その「声」に心の底より信頼し、[ヨハ10:30
わたしと父とは一つです]と言われる主に従い、内住の御霊によって導かれる生活こそ、「いのちを得、それを豊かに得る」生涯なのです。多くの人々が、さまざまな宗教や教えの「異なった声」に惑わされて生きています。「まことの牧者」の声を全世界に知らしめてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年8月10日
ヨハネ9:35~41「あなたは人の子を信じますか」-イエス在世当時に、そして1世紀末のヨハネの教会にもあった「霊的盲目」との格闘-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ltixxZ4-Yd8
ヨハネ福音書
A.ナザレ人イエスは、ご自身を「人の子」―三位一体の御子なる神イエス・キリストとして提示される(9:35)
B.洗礼準備会のような「福音理解」の教育・導きがなされる(9:36-38)
C.健全な福音理解は、永遠の大法廷における罪びとの裁きと贖罪と御霊の内住を表裏一体とする(9:39-41)
[ヨハ9:30
その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。9:31
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。9:32
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」]と、ナザレ人イエスに対する「預言者」信仰を告白した生まれつき目の見えなかった人は、パリサイ人たちユダヤ人によって会堂から追放されてしまいました。
キリスト教国以外で、イエス・キリストへの信仰を告白する人は、いつもなんらかの犠牲を払わされます。日本の場合も、祖先崇拝を軸とする家族・親族共同体や神道の祭儀を軸とする地域の共同体との関係に「犠牲」がつきまといます。キリスト教に、またイエス・キリストに、クリスチャンに好意を寄せる人は多くいます。しかし、濃厚な人間関係社会である日本で、「犠牲」を払ってまで、入信に踏み入れる人はわずかです。
1世紀末のユダヤ教社会には、そしてユダヤ教会堂には、ナザレ人イエスに対して好印象を抱く人々が少なからず存在していました。ユダヤ教パリサイ派の人々は、そのような信仰が隠されたかたちで浸透していっていることを見過ごしにできず、ヤムニア会議で改訂された第12祈願をもって、「カクレキリシタン」たちをあぶりだし、「ナザレ人イエスに対する信仰を捨てるのか、会堂から追放されるのか」の選択を迫っていたのです。1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂で存在したそのような葛藤の中で、「生まれつき目の見えなかった人」が癒され、その本人が[9:32
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです]と、会堂からの追放を恐れることなく、会堂の責任を負っているパリサイ派の人々に証ししたことは、「選択を迷っているカクレキリシタンたち」にとって大きな励ましとなったことでしょう。
そうなのです。ヨハネ福音書は、ユダヤ教会堂にとどまり続け、背教を迫られている1世紀末の「カクレキリシタンたち」に、三位一体の御子なる神イエス・キリストへの信仰を隠さず、否定せず、「癒された目の見えない人の、会堂追放を恐れずに信仰告白をした証し」に倣うように勧めている文書なのです。今、日本は少子高齢化社会となり、昔のような教会学校伝道とか、青少年や婦人伝道等は難しくなっています。そのような中で、老人ホームやケア・介護施設等の働きを通しての伝道や証しが増えているように思います。社会構造の変遷に伴う、家族・親族関係、地域の共同体の冠婚葬祭の変貌・簡略化は、身寄りのない年老いた人々がキリスト教会やクリスチャンが経営するケア・ハウスやホームの中で、「ナザレ人イエスに老後と死後の世話をお願いしよう」という開かれた心をも生み出しています。
ユダヤ教会堂から追放され、身を寄せるところがなくなった「生まれつき目が見えなかった人」は、ナザレ人イエスに見いだされ、「9:35あなたは人の子を信じますか」と問いかけられました。すでに、[9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです]という「ナザレ人イエス=モーセが預言していた預言者」信仰を抱いていたこの人は、[9:36
主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか]と問いました。そうなのです。信仰とは、一気に成熟・完成に至るものではなく、みことばの種が蒔かれ、芽を吹き、成長して花を咲かせ、実を実らせていくものなのです。御子なる神イエス・キリストを信じ、赤子の産湯のように、洗礼を受け、神の家族たる教会の中で養われ成長させられていくのです。
最初の問い、「9:35あなたは人の子を信じますか」は意味深なことばです。もちろん、その意味するところは単純には「あなたは、イエス・キリストを信じますか?」という問いであるでしょう。しかし、同時に、「人の子」には、旧約聖書の文脈上の意味があり、それらはイザヤ書やダニエル書にみられる「ダビデ的王、力とおおいなる栄光とを伴って雲に乗って来られる天的な人物、贖罪の代償的刑罰を受けられる」三重のメシヤ像が包摂されています。そうなのです。罪を悔い改めて、御子なる神イエス・キリストを信じる福音はきわめて単純な幼子でも分かる信仰です。しかし同時に、その内容は汲み尽くせず、知り尽くせないほどに深く豊かなものなのです。
ですから、ナザレ人イエスへの信仰が芽生えたその人は、[9:36
主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか]と、洗礼準備会でわたしたちが信じる福音理解と教会生活の実際に関する基本的な学びに導かれました。まず、イエスは彼に言われました。
[9:37
あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です]と。彼は[9:38「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝]しました。そうなのです。キリスト教信仰とは、最も単純に言えば「使徒8:35イエスの福音」を宣べ伝えることであり、心の底から、イエス・キリストが神の御子であることを信じればそれで良いのです。
ただ、その信仰には深さと豊かさがあります。それをヨハネは追記しています。[9:39
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました]と。救い主として来られたイエスの主張と違うように感じさせられる箇所です。これらの表現上の齟齬は、福音理解全体の中で理解され、位置づけられることで調整できます。みことばの断片で、誤った教理的主張することは異端にみられる現象です。聖書は「明らかに語られている幹となる教え」を軸に、「多様な枝葉となる表現」を丁寧に解釈しなければならないのです。それは、二千年間の教会の聖書解釈と適用の歴史の中で起こった誤りを繰り返さないためです。著者である神が、聖書全体を通して語られている神学的文脈、また教理的文脈の中で丁寧に解釈していくことです。
ヨハネは、この箇所で健全な神論そして人間論を象徴的言語で語っています。「9:39わたしはさばきのためにこの世に来ました]は、神さまが、聖であり、義なる神であることを明らかにしています。ヨハネ福音書は、御子なる神イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るように勧めている書物です。しかし、その救いを受けるためには前提があります。[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]ことを知る必要があります。使徒パウロは、[ロマ3:9
では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです]と、神の啓示の受領者としての選民性とキリストによる救いは別個の主題であることを明らかにしています。ナザレ人イエスは、「生まれつき目の見えない人が癒され、目が見えるようになった」出来事を例証に、御子なる神イエス・キリストの贖罪のみわざによる救いを教えようとしておられるのです。
[9:39目の見えない者が見えるようになり]というのは、「自身の罪を悔い改め、御子なる神イエス・キリストの贖罪の恵みを信じ、受け入れた者は、聖霊の照らしにより自らの罪深さを示され、神の永遠の大法廷で審判を受ける身であったにも関わらず、御子なる神イエス・キリストの代償的刑罰によって罪が赦され、内住の御霊が与えられることにより、神の永遠のいのちを受けた」ということです。このような内容をもつ福音理解を通して、神を、自身を、世界を見ることができるようになったのです。
[9:39見える者が盲目となる]
というのは、特に1世紀末のユダヤ教会堂にいたパリサイ派の人々が、モーセの律法等を盾に、異邦人・異教徒とは異なり、自分たちは選民であり、すでに「救いの中に」あるとの先入観が妨げとなり、[ロマ3:9
ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下に]あり、[ロマ1:18
不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている]霊的現実に盲目となっている状態のことです。
[9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」]とは、ナザレ人イエスがどれほどのしるしと不思議をもってしても、ユダヤ人たちが聖霊の働きに心を閉ざし、「霊的に目が見えない者である」ことに気づかず、神の前にへりくだらず、御子なる神イエス・キリストを受け入れない状態を指しています。
わたしたちは、ありとあらゆるかたちで、三位一体の御子なる神イエス・キリストの福音を分かち合っています。わたしたちは、イエス在世当時に、そして1世紀末のヨハネの教会にもあった「霊的盲目」と格闘しています。「Ⅱコリ3:18主と同じかたちに変えられていく」主の働きに身をゆだねて、生来目の見えなかった人のように、忍耐強く証ししてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年8月3日ヨハネ9:24~34「私は盲目であったのに、今は見える」-損得勘定を超え、機会ある毎に、わが身に起こったことを-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/LFxJlTZDnW4
ヨハネ福音書
A.目の見えなかった人の再喚問(9:24-26)
B.イエスの弟子か、モーセの弟子か? (9:27-29)
C.イエスはどこから来られたのか? (9:30-34)
今朝の箇所で最も注目すべきは[9:34
彼を外に追い出した]という「会堂追放」の記述です。AD30年代のナザレ人イエスの伝道活動を記したマタイ・マルコ・ルカの共観福音書には見かけない表現です。実際に、共観福音書でナザレ人イエスは会堂を巡りながら伝道活動をされています。AD60年代に記録された共観福音書の特徴です。これに比して、AD90年代に記されたヨハネ福音書では、[ヨハ
9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]と記されており、[ヨハ
12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった]という特徴があるのです。キリスト教シンパ層の増大傾向とそれを抑圧しようとする勢力のせめぎあいの時代でありました。日本の歴史でいえば、キリスト教禁令期から信教の自由と鹿鳴館時代、帝国憲法と教育勅語による「和魂洋才」の歯止めのせめぎ合いと重なるでしょうか。
これは、AD70年のローマ帝国によるエルサレムと神殿の崩壊を境に生じた状況の変化があるでしょう。AD60年代に記された共観福音書においては、ユダヤ教の一派として、ユダヤ教の会堂内に緩やかに浸透していっている「ナザレ人イエス」の教えが見受けられます。しかし、AD90年代に記されたヨハネ福音書においては、ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係は、いわば「水と油、光と闇」という相反する力が歴然としてきていることを証ししています。それは、ナザレ人イエスの公生涯から30年余りの期間は、ユダヤ教を母胎としたキリスト教の揺籃期であったのに対し、AD70年のエルサレムと神殿崩壊後の30年弱の期間はキリスト教の成長期・成熟期への移行であったからでしょう。
AD60年代に記された共観福音書では、「神の国」の到来等、ユダヤ教徒の待望と重なる共通項の記述がたくさんあります。しかし、AD90年代に記されたヨハネ福音書には、ユダヤ教的解釈という、いわばユダヤ教の「卵の殻」を突き破って、イスラエル信仰の「いのちそのものであるヒヨコ」が誕生しようとしている姿を見せられるのです。ヨハネ福音書は、どの共観福音書よりも、ナザレ人イエスの御父なる神との関係を証ししています。三位一体の御父・御子・御霊なる神のあり方がより明らかに啓示されていき、そのこともユダヤ教徒とキリスト教徒の軋轢を高めていったのでしょう。ユダヤ教の単一神論的な理解に立つパリサイ派の人々にとっては、ナザレ人イエスを「御子なる神イエス・キリスト」として受け入れる三位一体的な神理解にシフトすることは許すことのできないことであったのです。
ですから、「安息日論争」というかたちでの議論は、安息日だけの問題ではなく、[ヨハ5:18
イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから][そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった]とある通りです。ヨハネ福音書では、ナザレ人イエスという[一人の人間が、神の子であり、死んでもなお生きており、限りなく弱いのに主であられる。そう言えるためには、神はその御子の御父であり、両者は双方とも同時に信仰者たちの『心』の中に内在すると共に、彼らを超えて超越して働く聖霊を通して働く]という明確にされた「成熟期における福音理解」を共有するように勧められているのです。
今朝の箇所には、生来目が見えなかった人と彼を再度召喚したパリサイ人たちの「反応」が記されています。この対照的なふたつの反応は、AD30年代の公生涯の出来事の中から、AD90年代に直面している状況に適用できるエッセンスを抽出しようとしたものです。繰り返していますように、J.L.マーティンという神学者は、この9章の尋問の後に、[9:34
彼を外に追い出した]という記述の背後に、ヤムニアでなされた[パリサイ的ユダヤ教会堂でなされていた公の「18の祈祷」でなされた改訂を見ています。会堂の公の祈りでなされていた18の祈りの、その第12祈願は、「⑴背教者たちには、希望がないように、⑶われわれの時代にすみやかに根こそぎされるように。⑷ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように、⑸そして、彼らは生命の書から抹殺されるように]と改訂されたのです。要するに、ユダヤ会堂内の「カクレキリシタン」の発見と排斥を目的としたものでありました。
1世紀末、すなわち紀元90年代には、ユダヤ教会堂とキリスト教会には、このような緊張関係がありました。[ヨハ 9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]状況下で、[ヨハ 12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった]時代であったのです。いつの時代でも、どこの国・民族・宗教者の中においても、キリスト教に好意を抱く人々がいます。ナザレ人イエスに好感を抱く人々があります。彼らは、ある意味で「キリスト教徒予備軍であり、シンパ」です。心の土壌を耕し、みことばの種を蒔き、肥料・水・光を提供すれば豊かな実りをもたらす人々です。
しかし、どこの国においても、どのような時代においても、石地のような心があり、いばらやあざみが邪魔をし、優柔不断となり、風見鶏のようになって、途中までしか進めない人々もあります。そうなのです。ヨハネは、
[ヨハ 12:42
イエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった]人々に呼びかけているのです。恐れず前進するようにと証ししているのです。再度呼び出された[9:24
目の見えなかったその人]のように証しし、恐れずに[ヨハ 9:22
イエスをキリストであると告白]するようにと勧めているのです。
目先の損得勘定をすれば、ペテロのように繰り返し「知りません。関係ありません」(ルカ22:54-62)と沈黙し、本心を偽り、逃げ隠れした方が得なる場面もあるでしょう。しかし、目の見えなかった人は、会堂の責任者たちであり、会堂から追放を裁断できる者に喚問され、[9:24
私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と脅迫を受けていました。つまり目の見えなかった人は、癒してくださった「ナザレ人イエスが偽り者で、自分を神とする狂信者で、生来目が見えなかった者を悪霊等を使って癒したとんでもない人物である」という具合の偽りの証言を強制され、脅迫されたのでしょう。ヨハネは、そのような状況下に置かれていた当時の、ユダヤ教会堂内の「カクレキリシタン」たちに、どのように証しすべきなのかの模範として生来目が見えなかった人を紹介しているのです。[9:25
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」]と否定することも、誤ることもない事実関係のみを証ししました。
私たちも、「あなたはどのようにして、クリスチャンになったのか?」家族・親族・友人・知人等に尋ねられる時があるでしょう。人生のあらゆる機会、あらゆる場面で「あなたはなぜ、クリスチャンになったのか?」と聞かれる機会があるでしょう。わたしたちは、キリスト教に関し、すべてのことを知っているわけではありませんし、出会うすべての人をクリスチャンに導くことができるわけでもありません。しかし、できることがあります。[9:25
一つのことは知っています。私は(霊的に)盲目であったのに、今は見える]と証言できるでしょう。パリサイ人たちは、ありとあらゆる角度から意地悪な尋問したでしょう。しかし、生まれつき目の見えない人の証言を崩すことはできませんでした。
かえって、やぶへびに、盲目で生まれ、十分な教育など受けることもできなかった無学な人に、 [9:30
これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです]と証言の機会を与えてしまいました。無学な人でありましたが、大胆かつ正直に[9:31
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。]と彼の確信を披露しました。そして、[9:32
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません]と、自分が経験したことがどれほど大変な奇跡であるのかを証ししました。そして、彼のナザレ人イエスに対する信仰を公然と高らかに宣言しました。[9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」]とキリスト教の歴史に残る最高・最良の証言のひとつをなしたのです。わたしたちにもできます。伝道や教会成長だけが目標ではありません。わたしたちの生涯の中で、神さまが備えておられるあらゆる「小さな機会」を捉えて、神の知恵をいただいて
[9:30 あの方は私の(霊的な)目を開けてくださった」と証ししてまいりましょう。
わたしたちは、「それで多くの人を救いに導ける」とか、「それで、このような収穫をもたらした」とか、方法論や効果を考えがちですが、それ以前に、それ以上に、結果とか効用の損得勘定を超え、機会あるごとに、[9:25
「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」 「9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」]と、わが身に起こった出来事を証ししてまいりましょう。生来盲目で生まれた人は、「会堂からの追放」という犠牲を払いましたが、[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]という目標達成の証し人、また模範のひとりとなりました。わたしたちも、そのひとりとなりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年7月27日ヨハネ9:18~23「もう大人ですから、息子に聞いてください」-信じて、(公の信仰告白としての)バプテスマを受ける者は救われます-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/zga3Sjc2CKM
ヨハネ福音書
A.ユダヤ人たちの不信、目が見えるようになった人の両親の召喚(9:18)
B.ユダヤ人たちの質問、両親の盲目で生まれたことの証言(9:19-20)
C.今見えている理由、誰が癒したのかについては証言拒否(9:21)
D.証言拒否の理由―イエスをキリストであると告白する者は会堂から追放(9:22-23)
今朝の箇所の鍵となるセンテンスは、[9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]という一文です。J.L.マーティンという神学者は、『ヨハネ福音書の歴史と神学』という著書を、ヨハネ福音書の、この9章の解説を軸に記しています。D.M.スミスという神学者は、この箇所を取り上げて「この福音書の性質と目的について何かをわれわれに語る驚くべき鍵がここにある」と述べています。AD60年前後に書かれたマタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、「会堂追放」の切迫感を感じさせる記事はありません。しかし、AD90年代に書かれたヨハネ福音書では「会堂追放」という直面する危機の中で書かれ、この生まれつき目の見えなかった人は、そのような危機の中で「会堂からの追放」を恐れず、「イエスをキリストであると告白する者」として証しし続けた模範として記録されているのです。
[9:18
ユダヤ人たち]とありますが、この表現はいろんな意味で用いられています。ユダヤ人の中には、ナザレ人イエスをいろんな意味、いろんな段階で認め、信仰心が芽生えつつある人もあり、またパリサイ派の人々のように、「偽預言者また罪人」と決めつける人々もありました。そのような混とんとした状況下で、ナザレ人イエスは、実にタイムリーな「生まれつき目の見えない人」が目が見えるようになる、というあり得ない癒しをなさいました。ナザレ人イエスの癒しの記録を見ていきますと、風邪が治ったとか、頭痛がとれたとか、手足のしびれがなくなったとかの軽い癒しではなく、「それは預言者、メシヤ、キリスト、全能者でしか成し得ないのではないか」といったレベルの癒しであると教えられます。[ヨハ9:32
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません]という驚きがそのことを物語っています。
そのようなしるしと不思議を伴う三年半の公生涯の働きは、「ナザレ人イエスとは一体どのようなお方なのか」という問いをイスラエルの人たちの間に投げかけていたことでしょう。ナザレ人イエスは、「ご自身が如何なる者であるのか」の証しを三年半の公生涯の中に散りばめてこられました。ナザレ人イエスは、ご自身が「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であることを証しされてきました。ヨハネ福音書は、そのことに徐々に「霊の目が開かれていく」人々とますます「霊の目が閉ざされていく」人々の対照的な描写がなされています。
今朝の箇所は、[ヨハ9:8
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」]と大騒ぎなったことから始まっています。[ヨハ9:9
ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う」]と言ったのです。近所の人たちは、生まれつき目の見えない人を子供の時から知っていたのでしょう。それで、見間違うことはなかったので、「そうだ、この人は生まれつき目の見えなかった人に間違いない」と驚嘆していたのです。しかし、彼が物乞いであったのを前にチラチラ見ていた人たちにとっては、
[生まれつき目の見えなかった人]が見えるようになったりするはずはないのだから、ただ似ているだけだろうと軽く受け流していたのです。
真偽がどちらにせよ。村や町で大変な騒ぎとなってしまったので、その地域の会堂の責任を担っていたパリサイ人たちに相談を持ち掛け、裁断を仰ぐことにしたのです。それは、展開次第で「9:22
イエスをキリストであると告白する者は、会堂から追放」されるという混乱が生じる恐れがあったからです。ここには、まだ公に「イエスをキリストであると告白」してはいないけれども、心の中で「イエスがキリストであるのではないか」と個々の中で逡巡しているユダヤ人の増加、潜在をうかがうことができます。時を経て、1世紀末には、このような状況に対する危機感が高まり、パリサイ的ユダヤ教会堂でなされていた公の「18の祈祷」でなされた改訂がヤムニアにおいてなされました。
会堂の公の祈りでなされていた18の祈りの、その第12祈願は、「⑴背教者たちには、希望がないように、⑶われわれの時代にすみやかに根こそぎされるように。⑷ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように、⑸そして、彼らは生命の書から抹殺されるように」と改訂されました。日本の歴史でいえば、キリシタン禁令下の「踏み絵」のようであり、国家神道下での「教育勅語」のようなものです。それらはキリスト教信仰の波及の歯止めとして機能してきました。AD70年のローマ帝国による、エルサレムと神殿の崩壊の後、ユダヤ教の再建・再構築に取り組んだラバン・ガマリエルは、AD80-115年ころまで、ヤムニアの学院の長であり、その集団は、みずからをかつてのエルサレムのサンヘドリンの後継者とみなすようになりました。J.L.マーティンという神学者は、このような1世紀末のユダヤ教背景資料と1世紀末のヨハネ福音書の[9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]という記事の研究を結びつけました。
AD60年前後に書かれた共観福音書には、祭司やサドカイ人たち等、多様な人々が舞台に登場しますが、AD70年のローマ軍による首都エルサレムと神殿崩壊後に消滅した祭司階級は、ヨハネ福音書ではあまり登場せず、パリサイ人たちが中心となっていったユダヤ教会堂の在り様が描写されています。すなわち、ヨハネ福音書は、AD30年代のナザレ人イエスの公生涯の事実の描写と1世紀末のヨハネの教会の「二つの舞台」が重ね合わせられて記されているのです。それは、AD30年代のナザレ人イエスの公生涯の事実が要約して描写されているだけでなく、復活・昇天され、御座の右の座から注がれ、信者の内に内住されている聖霊において「現臨」されている御子なる神イエス・キリストが、今、そこで実存的に語りかけられる1世紀末の現実を示しているのです。
前回、パリサイ人であるユダヤ人たちは、まず最初に本人を聴取したことを見ました。生まれつき目の見えなかった人は、ナザレ人イエスによって癒されたことと、自分は「ナザレ人イエスが聖書に預言された預言者である」と思うと証言しました。しかし、会堂の責任を担っていたパリサイ人たちは、「安息日に関する口伝解釈」に基づき、ナザレ人イエスは「罪人である」と決めつけていました。それゆえ、[9:18
ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず]、事の真偽を明らかにするために、[ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出し]、証言させることにしました。
おそらくは、「生来目が見えない人が見えるようになることはあり得ないことだから、どこかに仕掛けや策略が隠されているに違いない、顔がそっくりな双子でもいたのかもしれない」等、多くの推測をしていたことでしょう。このごまかしを解決するには、[目が見えるようになった人の両親を呼び出し]、直に聴取することですべてが明らかになると踏んだのです。そして、勝ち気満々で、尋ねました。[9:19
この人は、あなたがたの息子か]と尋ねました。両親は「 9:20
これが私たちの息子」ですと証言しました。「まことの親子であるのは間違いない」と判断されました。第一関門はクリヤーされました。次に、パリサイ人は、それでは[盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か]と質問しました。
それは、「生来盲目であった者が目が見えるようになるはずがない」と思っていたパリサイ人たちの先入観は粉砕しました。両親が[9:20
盲目で生まれた]と証言したからです。パリサイ人たちはさらに[9:19
そうだとしたら、どうして今は見えるのか]という質問を投げかけています。この質問は深刻な問いをも含んでいます。それは、両親の答え方で分かります。パリサイ人たちは、盲目で生まれたにも関わらず、
[9:19 どうして今は見えるのか]という質問をしているだけなのですが、両親は[9:21
どうして今見えているのかは知りません]と答えるにとどまらず、まだ質問されてないのにもかかわらず、恐怖から[だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません]と踏み込んだ応答をしています。
両親が、パリサイ人たちの意図を察知して、そこまで踏み込んだ応答をした理由を、ヨハネは解説しています。[9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]という背景があったのです。両親は、[9:21
だれが息子の目を開けてくれたのか]を知っていました。これほどの大きな奇蹟を体験したのですから、ナザレ人イエスを「息子のいのちの恩人」のように感謝していたことでしょう。しかし、そのことを証言すれば[9:22
イエスをキリストであると告白する者]の類と詮議の対象とされたでしょう。それで、ある意味、今日で言う「黙秘権」を行使したのです。息子の癒しに感謝し、そのような告白をしたかったかもしれません。しかし、それにはユダヤ教会堂を中心とする共同体からの追放という犠牲が伴うことを知っていたのです。
1世紀末のヨハネのキリスト教共同体は、ユダヤ教会堂内のいわば「カクレキリシタン」問題を抱えていました。それで、AD30年代のナザレ人イエスの公生涯の証しから、1世紀末の教会の状況に必要な証しを拾い集め、新しい状況に移し並べ、新しい状況に翻訳しているのです。この箇所に記されている両親のように
[9:22 イエスをキリストであると告白]したいユダヤ人たちがユダヤ教会堂、ユダヤ教共同体にいたでしょう。彼らは、[9:22
イエスをキリストであると告白]することによって得られる祝福とユダヤ教会堂、ユダヤ教共同体から追放されることでもたらされる損失を天秤にかけていたでしょう。このような逡巡は、
[9:22
イエスをキリストであると告白]するのか、否かという決断に直面する人たち、心の中で信じているが「公の告白」としての洗礼を先延ばしにしている人たちの中に存在するものです。
ヨハネは、そのような逡巡の中で損得計算をしている人たちすべてに対して、呼びかけているのです。[9:21
どうして今見えているのかは知りません。だれが…目を開けてくれたのかも知りません。…9:23
もう大人ですから、息子に聞いてください]と、犠牲を払うことを恐れ、自分自身の信仰を曖昧にし、心の中にある「ナザレ人イエスに対する信仰」を先延ばしせず、その信仰を洗礼により公に告白するよう勧めているのです。
[ロマ10:9
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです]、[マル16:16
信じて(公の信仰告白としての)バプテスマを受ける者は救われます]とある通りです。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、 D.A.Carson,
“The Gospel according to John”)
2025年7月20
ヨハネ9:13~17「おまえは、あの人についてどう思うか?」-口伝上の「安息日規定」に違反するかたちで、ご自身を証しされる意図-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/anXyldIe3xU
ヨハネ福音書
A.パリサイ人たちによる事情聴取(9:13)
B.安息日における癒しが問題(9:14)
C.誰が、何を、どのようにしたのか証言(9:15)
D.罪人なのか、神のもとから来たお方なのか? (9:16)
E.癒された「生来、目が見えなかった人」の告白(9:17)
今朝の箇所は、生来目が見えない人をよく知っていた近所の人や彼が物乞いで生活していたことを知っていた人たちに同伴されて、[9:13
パリサイ人たちのところに]連れて行かれたことから始まります。その理由が、次の節、[9:14
イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった]ことにあります。「生来目が見えない人」が癒されたことはとんでもないことであり、[9:16
神のもとから来た]お方、すなわち [申18:15
あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる]という約束の成就ではないのか、という信仰の覚醒を引き起こしました。
まことの預言者を通して全能者なる神が介入されることなしに、[9:16
このようなしるしを行うことができるだろうか]という思いが吹き上げたのです。今日のような娯楽も、沸き立つニュースもない時代に、このような奇跡のニュースは人々を仰天させたことでしょう。同時に、この驚くべき奇蹟がなされたのは安息日でありました。わたしはナザレ人イエスは、あえて安息日に[9:14
泥を作って彼の目を開け]られたのかを考えてみました。平日であれば、少なくとも「安息日問題」は提起されなかったでしょう。それなのに、あえて安息日に[9:14
泥を作って彼の目を開け]られました。人々は、地元の会堂の指導者であったパリサイ人たちに、この「ナザレ人イエス」をどのように受けとめたら良いのかの判断についてお伺いを立てることになりました。
一部のパリサイ人たちの観点からは、ナザレ人イエスは安息日に関する口伝律法を二点破っていると判断されました。治癒そのものは、生命そのものが危険にさらされている場合を除き禁じられていました。この「生来目が見えない人」の場合、この例外規定は適用できませんでした。また禁じられていた作業の範疇に「こねる作業」が含まれており、「唾と土で泥を作る」ことは禁止事項に該当すると受けとめられました。そのようなわけで、群衆の間に生起していた両極の反応を裁くために、地元の会堂の指導者であるパリサイ人たちに相談をしたのです。
わたしは、今朝の箇所は、安息日問題に発する「より重大なキリスト論問題」に言及していると思います。ナザレ人イエスが公生涯を開始されてから三年余りを経てきた中で、「ナザレ人イエスが如何なるお方なのか」を示す数多くのしるしと不思議と神ご自身の解釈としてしか思えないような卓越した、深淵な聖書解釈、それはまさにモーセが預言した、
[申18:15
私のような一人の預言者をあなたのために起こされる]約束の成就そのものでありました。それが「安息日になされた」ことによって、パリサイ人たちは、[9:16
その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない]と言い、[罪人である]と決めつけようとしたのです。
しかし、群衆の中に分裂(7:40-43)があったように、[9:16
罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか]と考えるパリサイ人もありました。それで、会堂指導者たちの意見が分かれ、「ナザレ人イエスをどのように受けとめたら良いのか」という人々の申し立てに対し裁断をくだせなくなったのです。それで再度、目の見えなかった人に、[9:17
おまえは、あの人についてどう思うか]と尋ねました。しかし、これはある意味、今日よく報道される冤罪を招きかねない誘導尋問の類です。彼はすでに、今回の事例について事実関係を正直に、[9:15
あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです]と答えています。
意見が割れたことで、ナザレ人イエスに対する裁断が下せなくなったパリサイ人たちは、再度、目の見えなかった人に、[9:17
おまえは、あの人についてどう思うか]と尋ねました。この質問は、[ヨハ9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]という、ナザレ人イエスの公生涯当時の雰囲気とユダヤ教会堂内の隠れキリシタン排斥の1世紀末の「ヤムニアの第十二祈願」と重ねて見ていく必要があります。[9:17
おまえは、あの人についてどう思うか]という問いは、いついかなる時においても尋ねられる―「あなたは、ナザレ人イエスをどう思いますか?」という問いかけに結びつきます。
生来[9:13
目の見えなかったその人]は、人生最大の恵みの奇蹟を体験しました。幸福感に満ち、その頂点にいました。ある意味で、野球の大谷、将棋の藤井のようにその時代、その地域のヒーローとなりました。しかし、その奇蹟が「安息日」になされたことにより、この経験は人生最悪の出来事へと暗転してしまいました。彼は、生来目が見えなかったけれども、ユダヤ教会堂に属し、ユダヤ教共同体に守られて生活していました。しかし、彼は、彼の上に全能者でしか成し得ない奇蹟を体験したことで、今や彼の人生の基盤、生活・文化・社会の共同体の軸である会堂、[9:22
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]状況下での質問であったのです。そこには、江戸時代のキリシタン禁令の雰囲気があり、檀家制と五人組制度による告発、「ヤムニアの第十二祈願」には「踏み絵」と似たものを感じさせます。そのような状況下での[9:17
おまえは、あの人についてどう思うか]という問いかけなのです。このような危機的状況下では、人は恐怖心に包まれて、質問者の意図に沿う「逃げ口上」を答えてしまいそうになります。しかし、生来[9:13
目の見えなかったその人]には、勇気がありました。それは、信仰から湧き上がる勇気です。それは、[Ⅰペテ4:14
もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです]の類の勇気です。
歴史上のキリスト教会は、このような人々の勇気によって「ナザレ人イエスが如何なるお方であるのか」について証ししてきました。生来[9:13
目の見えなかったその人]は、パリサイ人たちのところに連れて行かれ、証言をするよう追い込まれました。それは、イエスが泥を作って彼の目を開けられたのが、[9:14
安息日であった]からです。わたしは、ナザレ人イエスが敢えて「安息日規定」に違反するかたちで、ご自身が如何なるお方であるのかを証しされていることに考えさせられます。これには、何か意図があるのではないかと。
パリサイ人たちは、聖書の安息日規定を「口伝レベル」の規定をも含め、細部まで遵守するよう心掛けていました。その遵守行為の盲点をつき、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、「真の意図」を教えようとされたのだと思います。十戒の第四戒、[出20:8
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ]の真の意味を再考させる意図は何なのでしょう。それは、第一戒から第三戒、[1.主が唯一の神であること、2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)、3.神の名をみだりに唱えてはならないこと]を再考させるためです。ナザレ人イエスは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであり、神であられる方が受肉し、人間のかたちをとって地上を歩まれた方です。
「罪と死と滅び」に定められた人類を救うための「啓示の受領者」、その「福音の伝達者」として定められたイスラエルの民は、祝福の「約束」とその「裁き」の申命記的歴史、そしてその「回復」の歴代志的歴史によって彩られてきました。その啓示は受領され、時満ちて「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨」がなされましたが、「唯一の神が人間に受肉してご自身を現わされる」というのは、イスラエルの民にとって「青天の霹靂」であったことでしょう。ただ、そのような現れ方を「唯一の神」は選択され、「複数性を宿す」三位一体の御父・御子・御霊なる神であること、そして御子なる神イエス・キリストの受肉・贖罪、復活・昇天、聖霊の注ぎ・内住の御霊を通して、ご自身を現わされるお方であると示されました。
わたしは、旧約の救済史の中で養われたイスラエルの民の「唯一の神観」の深みを解き明かし、歪みを解きほぐしていく手段として、「安息日問題」は突破口になったのだと思います。それゆえ、敢えて「口伝上の安息日解釈と適用問題」を引き起こし、「ナザレ人イエス」を軸に、口伝上の聖書解釈と適用を再考し、旧約に記されているみ言葉の本質に焦点を当て直すようにチャレンジされているのだと思います。「あなたは、ナザレ人イエスを如何なるお方であると思うのか」という問いは、わたしたちの存在と人生を賭けた重大な問いであります。
生来[9:13
目の見えなかったその人]は、自分の人生で起こった最も幸いな奇蹟の後に、人生最大の危機に陥りました。しかし、彼は実に勇敢な人です。彼は、存在と生活の基盤から「追放」される危険を察知しながらも、実に大胆に告白し、証しし続けました。パリサイ人は、暗に「お前の返事次第では、会堂から追放する」と脅しをかけていたでしょう。そして、「あのナザレ人イエスは、安息日にわたしを癒したので罪人であり、モーセが約束した預言者ではありません」と偽りの告白に追い込み、「会堂に残るための踏み絵」を踏ませられると思っていたのでしょう。[9:17
そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか」と、あの人に目を開けてもらった本人が「ナザレ人イエス」を否定すれば、パリサイ人たちの勝利でした。
しかし、生来[9:13
目の見えなかったその人]は、勇気を振り絞って、「あの方は(モーセが約束した)預言者です」]と告白しました。この結果、生来[9:13
目の見えなかったその人]は、会堂から追放(9:35)されるという犠牲を払うことになりました。しかし、主イエスを信じる明確な信仰に導かれ(9:38)、キリストのからだなる教会に属することになります。このように、いついかなる時代においても、み言葉は蒔かれ、芽を吹き、光合成を繰り返し成長し、やがて実をつけてまいります。その一歩一歩に犠牲的決断が重ねられてまいります。わたしたちも、生来[9:13
目の見えなかったその人]のように、勇気を振り絞って、「あの方は(モーセが約束した)預言者です」]と告白してまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』)
2025年7月13日
ヨハネ9:8~12「私がその人です」-神さまが与えてくださる「ポイント・オブ・コンタクト」-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/RGpCQJUYC4o
ヨハネ福音書
A.座って物乞いをしていた人(9:8)
B.私がその人です(9:9)
C.おまえの目はどのようにして開いたのか(9:10)
D.イエスという方が…(9:11-12)
今朝の箇所を見ていく際に、[ヨハ9:4
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません]という聖句は重要なことばです。この聖句は、「御子なる神イエス・キリストの宣教のみわざ」を、昇天されたキリストが注がれた御霊において、キリスト教会が継続すべきことを語っているのです。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神は御子なる神イエス・キリストを「ナザレ人イエス」として、この地上に遣わし、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、(三位一体の神が如何なるお方なのかと)神を説き明かされ]ました。旧約に啓示されてきた三位という複数の位格を宿す唯一神は、「ナザレ人イエス」において如何なるお方であるのかを余すところなく啓示されました。「ナザレ人イエス」において明らかにされた人格と品性、そしてこのお方を通してなされた教えとしるしと不思議、そしてその中心にある十字架の贖罪のみわざと内住の御霊の働きにおいてです。
今朝の箇所でも[9:11イエスという方が]と、ナザレ人イエスが「御子なる神イエス・キリスト」としてのみわざをなされたことが記されています。ナザレ人イエスは、ご自身が「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であることを、そのしるしと不思議において明らかにされていたのです。これに対して、両極のふたつの反応があったのです。この生来、目が見えない状態で生まれてきた人の周辺では、大きな驚きをもって受けとめられました。[9:8
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」]と。
以前、見えていて、脳神経とか視神経とかに一時的に障害があり、なんらかの刺激や治療によって突然回復したという類ではないのです。この生来、目が見えない状態で生まれてきた人は、その地域では有名な人でした。健康な人でも生きていくことが大変な時代において、「目が見えない」ということはどれほどのハンディであったでしょう。彼は、周囲からあわれみの目で見つめられ、「彼は一生涯、物乞いによって生きていくしかない人間だ」と見られていたのです。この人は、わたしたち「人間存在」のひとつのパターンです。わたしたち人間は、程度差こそあれ、人それぞれが何らかのハンディを背負って生きています。
身体的なハンディのみでなく、環境的・経済的ハンディもあります。さらに信仰的・霊的ハンディこそは、その人の人生の中心、その人の存在の中心に位置しています。この「生来目が見えない人」というのは、全能の神によってしか癒し、開眼させることができない状態にあるということです。ですから、[9:8
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たち]の驚きは尋常なものではありませんでした。なので、世に言う「そっくりさん」ではないのかと考え、[9:9
ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った]のです。
しかし、当人は[9:9
私がその人です]と証言しました。この証言には、大変な勇気が必要であったことがあとで分かります。のちに彼はユダヤ教会堂から追放されることになるからです。J.L.マーティンという神学者は、この箇所をヨハネ福音書が書かれた1世紀末のユダヤ教会堂とキリスト教会の葛藤を背景に、重ね合わせて解釈しています。すなわち、著者ヨハネは[ヨハ21:25
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない]と言われるナザレ人イエスを通しての神のみわざの中から、1世紀末の教会の実情と必要にかみ合う事例を拾い集め、編集していったのです。
ある高校生が昔、こんな証しをしました。「クリスチャンは、伝道をして魂を救いに導かねばならない、と言われるが、相手もあることだし、無理な押し売りのように伝道ということは難しい」と。「ただ自分にできることはある。自分がイエスさまを信じており、クリスチャンであることは証しできる」と。そうなのです。「伝道とか、救霊とか、教会を建て上げるとか」は時間と労力のかかることです。それは、なかなか一夕一朝に結果を出すことは困難なことです。でも、できることはあります。周囲の人たちが、何らかのかたちでわたしたち、あなた方に興味や関心を寄せてくれる瞬間があります。その瞬間は、神さまが与えてくださる「ポイント・オブ・コンタクト」すなわち接触点の瞬間です。
わたしたちは、良きにつけ悪しきにつけ、周囲の人が関心を寄せてくださる瞬間を見落とさないように気をつけましょう。その瞬間は[9:9
私がその人です]と告白し証しするチャンスなのですから。生来目が見えない人は、物乞いだけで生活を立てる悲惨な人生を送っていることで有名でした。しかし、彼は[9:11
イエスという方]に目を留めていただき、彼の存在と人生の上に、全能の神にしかできない大きなみわざを経験しました。わたしたちも同様です。聖書によれば、わたしたちは「罪と死と滅び」の運命の中にあるみじめな存在であり、そのような人生の中に生きておりました。
そのようなわたしたちが、ある時、不思議な導きで、 [9:11
イエスという方]に目を留めていただきました。身体や環境においてしるしや不思議を経験したかどうかは分かりませんが、生来の「霊的盲目」は癒され、あるいは再創造され、三位一体の御父・御子・御霊なる神が分かるようになりました。この世界に神の国と神の支配が見えるようになりました。もしまことの神さまを知らないなら、世界中の富と権力を手に入れたとしても、聖書から見れば、その人は霊的には、[9:8
座って物乞いをしている人]のようでしょう。[9:8
座って物乞いをしていた人]は、ナザレ人イエスに出会い、目が見えるようになりました。身体的に目が見えるようになっただけではなく、霊的に目が見えるように導かれ、[ヨハ9:38
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した]と記されています。[9:8 座って物乞いをしていた人]は、[エペ3:8
キリストの測り知れない富]を共有するひとりとなりました。
その昔、トルストイの『人にはどれほどの土地がいるか』という小説について聞いたことがあります。[この小説の主人公である
パホーム は、貧しい農夫だったのですが、だんだんと成功していくのです。そして、最後には、広大な土地を
非常に安い値段で買えるという話を聞き、遠路はるばるその地にやって来ました。その土地では、金一袋で、一日歩いた分だけの土地を所有することができるのです。ただし、それは、夜明けから日没まで、太陽が沈んでしまうまでに、スタート地点に戻って来なければ、土地を得ることはできず、金も没収されてしまうのです。パホームは、走り続けました。そして、広大な土地を得る直前まで行ったのです。しかし、刻一刻と日は沈み、時間がほとんどないところまでになってしまいました。彼は死に物狂いで走り続け、そして、スタート地点に、やっとのことでたどりついたのです。しかし、彼はそこで倒れ、息絶えてしまいました。彼はそこで、2メートル四方ほどの土地に埋められ、人生を終えてしまいました。]
「人には、どれほどの土地(物)がいるのか?」ということを、トルストイは、私達に鋭く語っています。
聖書は深い部分で、霊的に目が閉ざされた人と霊的に目が開かれた人の差異を語っていると思います。霊的に盲目であったわたしたちが、ナザレ人イエスを通して、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストに目が開かれる時、わたしたちの価値観は[ピリ3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています]と大転換させられます。
[9:8 座って物乞いをしていた人]は、[9:11
イエスという方]と出会って、その身体上の障害が癒され、再生され、大きな騒ぎとなりました。わたしたちは、そのような身体上の奇跡を経験しないかもしれませんが、
[9:8 座って物乞いをしていた人]が霊的な目が開かれ、 [ヨハ9:38
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した]ように、わたしたちは、生来の霊的盲目の状態が癒され、再生させられ、霊的な目が開かれ、
[ヨハ9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝]するのです。
その結果として、わたしたちの世界観、神観、人間観、そして人生観も価値観も大変革させられてまいります。そのような大変革の奇蹟をわたしたちの存在と人生の中に「近所の人たち」は見て、[9:8
これは座って物乞いをしていた人ではないか]というような驚きを経験するのです。そのような瞬間に、わたしたちは恐れることなく、躊躇することなく、[9:9
私がその人です]と 告白・証しすることに致しましょう。そして、[9:10
では、おまえの目はどのようにして開いたのか]と問われた瞬間には、[9:11
イエスという方が…]と、与えられる思いと導かれ言葉をもって証しさせていただくことに致しましょう。わたしたちが「種を蒔き続ける」時、主は別途「刈り入れる者」を備え、送ってくださる(ヨハネ4:35-38)ことを信じ委ね、歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』)
2025年7月6日
ヨハネ9:1~7「この人に神のわざが現れるためです」-救済の神学的意味・象徴的意味が満載されたイエスのしるし-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/QNYk9rUT_r0
ヨハネ福音書
A.肉体の眼と霊の眼、因果応報の人間観と再創造の人間観(9:1-3)
B.在世中と地の果てまで・世の終わりまで、「光、あれ」と光は闇の中に輝いている(9:4-5)
C.唾の泥を塗って見えるように、塵から形造りいのちの息を吹き込まれ(9:6-7)
今朝の箇所は、[9:1
イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった]という言葉で始まっています。すると、[9:2
弟子たちはイエスに尋ねた]というのです。それは「通りすがり」ではありましたが、ナザレ人イエスは立ち止まり、まじまじと[生まれたときから目の見えない人]を見つめられたからでしょう。ナザレ人イエスは、人の心の内にあるものを一瞬にして洞察できるお方です。このお方は[イザ53:3
悲しみの人で、病を知って]おられるお方です。生まれた時から目が見えず、[9:21もう大人]となった彼は、[9:8座って物乞い]をすることによってかろうじて生活していました。ナザレ人イエスが、
[生まれたときから目の見えない人]を見つめられた時、この人の生まれてからの「苦しみ、悲しみ」が、イエスの心の中に注ぎ込まれ、それを受け留め、一体化し、[深いあわれみ]が溢れ出たのを、弟子たちは感知したのでしょう。それで、即座の自然な反応として、「9:2先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と突っ込んだ神学的問いを投げかけました。ここには、素晴らしい神学校があります。弟子たちは、ナザレ人イエスの公生涯の三年半、弟子たちにとっての「基礎神学教育課程」の期間として、陰に陽に、あらゆる機会を通して、このような質疑応答を通して「世界宣教に向けての弟子教育」を受けていたのです。
もちろん、親の道徳的影響や本人の倫理からもたらされる悪影響もあるでしょう。宗教的に言えば、運命論的に「因果応報的な呪いやたたり」を吹聴する向きもあります。この世界には、地震や台風といった天災からの自然悪もあり、戦争や犯罪といった人間による道徳的な悪もあります。病や障害の不幸を背負って生きておられる方も少なくありません。そのような問題をどのように受けとめ、どのように理解するのかは、大きな神学的な課題のひとつです。その解答のひとつがここにあります。ナザレ人イエスは答えられました、[9:3
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです]と。因果応報の連鎖を断ち切り、創造論的・救済論的な解答を提示されたのです。
[9:3
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです]とは、どういう意味なのでしょう。もちろん、罪があれば悔い改めるべきでしょう。「マルコ1:15悔い改めて、福音を信じなさい」とある通りです。しかし、この[9:1
生まれたときから目の見えない人]の不幸は罪に発するものではありませんでした。それで、イエスは、彼と両親を責めることなく、[9:3
この人に神のわざが現れるためです]と、神がなそうとされていることを明らかにされました。この[9:1
生まれたときから目の見えない人]に、[9:3
この人に神のわざが現れるため]という救済論的・創造論的方向性の明示は、意味深なことばです。
それは、[ヨハ9:39
わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです]の箇所からも分かります。AD60年代に記された共観福音書の神のみわざは、「事実の記録」に重点が置かれ、1世紀末の成熟した時期のヨハネ福音書における神のみわざは、救いのみわざの「神学的象徴的しるし」としての解説が伴っています。[9:1
生まれたときから目の見えない人]の記事には、人間論、罪論、悪の問題、そして何よりも救済論の提示という、ヨハネの意図と目的が伴っているのです。
[9:1
生まれたときから目の見えない人]の癒しには、ナザレ人イエスが「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであり、受肉され、地上を歩まれる全能者である」という示唆が含まれています。[9:1
生まれたときから目の見えない人]は、[9:6
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、9:7
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり]ました。この箇所を読んでいて、創世記の記事を思い起こした方もあるでしょう。まるで創造者のような手裁きです。
創世記の天地創造と人間の創造の記事で、[創2:7
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった]と記されています。ヨハネ福音書では、[9:6
地面に唾をして、その唾で泥を作られ…その泥を彼の目に塗って、9:7
「シロアムの池で洗いなさい」と言われ…彼は行って洗った。すると、見えるようになり]とあります。この箇所は、[創1:1
はじめに神が天と地を創造された]という聖句と[ヨハ1:3
すべてのものは、この方によって造られた]という聖句の“連動”する文脈の中にあり、 [9:1
生まれたときから目の見えない人]の目は、“再創造の意味で再生” されたのです。
三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの“全能者なる神”としての、“再創造としての再生”のみわざの文脈の中に、唐突な感じで、
[9:4
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。9:5
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です]という言葉が挿入されています。これは何なのでしょう。8章には[ヨハ8:12
わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます]とあります。それは、[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とある通りです。
さて、パウロ書簡にもある通り、人間は、アダムの罪にあって、 [9:1
生まれたときから目の見えない]状態にあります。ですから、ナザレ人イエスはユダヤ人たちに対し、[ヨハ9:41
もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります]と断罪されているのです。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが、受肉され、その人格と品性、その教えとみわざにおいて、「わたしはあってあるものである」と、ご自身が如何なるものであるのかを惜しみなくあらわしておられるにも関わらず、自分たちの“盲目性”に気づくことなく、「悪霊に憑かれている」とか、「神を冒瀆する罪」というサングラスをかけて物事を見、殺す機会のみを探し求めているのです。
このように見ていきますと、アダムにある人類の“霊的盲目性”がこの9章の冒頭で明らかにされていることが分かります。パウロが[ロマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです]と記している通りの“霊的盲目性”です。その核心は、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが、ナザレ人イエスにおいて明らかに啓示されている」ことに対する“霊的盲目性”にあります。ユダヤ人たちは、神の救いの啓示の受領者として選ばれていましたが、その大半は深刻な“霊的盲目”の中に置かれていました。
しかし、この箇所の[9:1
生まれたときから目の見えない人]や弟子たち、初代教会を形づくった「残された」ユダヤ人たちは、心を開き(ローマ9-11章)、[エペ1:17
主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊]により、[1:18
心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、1:19
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知る]ことができるようになりました。ユダヤ教徒も、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒等、あらゆる人々が、「ナザレ人イエス」が如何なるお方なのかに目が開かれるように祈ってまいりましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、M.J.エリクソン『キリスト教教理入門』)
2025年6月29日
ヨハネ8:48~59「父アブラハムは、わたしの日を見て、喜んだ」-ヨハネ福音書から、パウロ書簡と同等の福音のエッセンスを抽出し-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4_y2HYAATig
ヨハネ福音書
A.ユダヤ人たち―サマリア人で悪霊につかれている(8:48)
B.イエス―わたしのことばを守るなら、いつまでも決して死を見ることがない(8:49-51)
C.ユダヤ人たち―アブラハムよりも偉大なのか(8:52-53)
D.イエス―アブラハムは、わたしの日を見て、喜んだ(8:54-56)
E.ユダヤ人たち―アブラハムを見たのか(8:57)
F.イエス―アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』(8:58-59)
今日の箇所は[8:48
ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」]という言葉で始まっています。これは、先週の[ヨハ8:39
彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」]から始まった議論の中にあります。先週も申し上げましたように、ユダヤ人たちは「罪と死と滅び」に定められた人類の救いの啓示を受け取り、その究極の形態である「受肉された御子なる神イエス・キリスト」の人格とみわざを受け入れ、全人類にもたらす「祝福の基」(創世記12:1-3)となることを期待されていました。
ガラテヤ書に、[ガラ3:14
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした]とあります。ユダヤ人が「選民」として選ばれたのは、全人類に「イエス・キリストにある贖罪と内住の御霊の福音」、すなわち罪と死と滅びからの救いをもたらすためでありました。そのために必要な準備教育を十戒や幕屋等を通しなし、イスラエルの民を取り扱い、「ガラテヤ4:4
時満ちて」その要である三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを受肉させ、贖罪のみわざと内住の御霊の「祝福」をもたらそうとされました。
しかし、御父なる神の、[ピリ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2:9
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。2:10
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです]という究極の啓示は、ユダヤ人たちの間に極端な敵意を生みました。
「ナザレ人イエスとは何者なのか、アブラハムの真の後継者とは誰なのか、ユダヤ人の父とは誰なのか、アブラハムなのか悪魔なのか、そしてナザレ人イエスは悪霊に憑かれているのか」といった問いと議論がユダヤ人たちとナザレ人イエスとの間で飛び交います。ナザレ人イエスは、公生涯の最初から、いや誕生の時から、そして宮のぼりの時にも、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストとしてのご自身を証しされてきました。その内容がより詳しく、より明らかに啓示されていくに従って、「光と闇」の対決が激烈になっています。
ナザレ人イエスが、ご自身が三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを明らかにされていく中で、飛び出した言葉が[8:48
あなたはサマリア人で悪霊につかれている]という民族差別的な人格攻撃でありました。これに対し、イエスは[8:49
わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています]と反撃し、自分の栄光を求めるよくある偽メシア、自称メシアのよう者ではなく、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神の栄光を求める者であり、御父なる神がわたしがそのような者であると証言してくださいます(8:50)。そして
[8:51
だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません]と言われました。これは、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]を内容としています。「ナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストと信じ、その贖罪と内住の御霊の福音を受け入れる者は、罪と死と滅びから救われ、永遠のいのちをもつ」ということです。
ナザレ人イエスのこのような応答に、霊的な、神学的な対話が不可能なユダヤ人たちは[8:52
あなたが悪霊につかれていることが、今分かった]と反応してしまいます。非常に、人間的な、肉的なレベルでの反応です。イエス在世当時も、1世紀末のキリスト教会とユダヤ人会堂との議論も、このような次元で行なわれていたのでしょう。これは、ナザレ人イエスについての伝道と証しがなされるところ、いずこにおいても起こる要素です。信じているわたしたちにとっては、ごく自然なことなのですが、信じていない方々にとっては、そのような信仰は「狂信的な思い込み」にあたる事柄なのです。そのように心得ておくことは相手への思いやりともなります。この議論は、さらに[8:53
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。…あなたは、自分を何者だと言うのか]という発展をみせます。
ナザレ人イエスは、[8:54
わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です]と証言され、「わたしは自称メシアではない。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父から派遣され、御父のみ旨を伝え、御父がみわざをなしておられる」と証言されます。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、[8:55
この方をわたしは知っています。…わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています]と、御父のみ旨に沿って証しをなし、贖罪と内住の御霊のみわざをなそうとされています。このような三位一体の神の文脈の中で、「イスラエル民族の父祖アブラハム」は理解されるべきであると証しされます。[8:56
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです]とある通りです。
この箇所は、ヨハネの旧約聖書の読み方を教えてくれます。そして、新約の神の民、クリスチャンが旧約聖書をどのように読むべきなのかを教えてくれます。ユダヤ人たちの[8:39
わたしたちの父はアブラハムです]という告白は、「わたしたちは、選民イスラエルとしてすでに救いの中にあります」という意味もあります。しかし、彼らはナザレ人イエスを通して「アブラハムに約束された祝福」が成就されることが分かりません。かえって、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神の「御子なる神イエス・キリストの受肉」を通してなされようしている計画を破壊しよう、ナザレ人イエスを殺すことを画策します。このような行為への加担が、「悪魔」のしわざであると言われているのです。
ナザレ人イエスは、アブラハムが「祝福の約束」すなわち、全人類が「御子なる神イエス・キリストの贖罪と内住の御霊」のみわざにより「罪と死と滅びの運命」から救われることを望み見て、[8:56
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見て、喜んだのです]と証しされました。旧約の、アブラハムへの約束も、モーセの契約も、ダビデへの約束も、すべての約束が
[8:56
わたしの日を見て]、すなわち三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを軸に解釈されるべきことです。そのような意味で、1世紀末に記されたヨハネ福音書は、初代教会の組織神学書の議論のエッセンスを書き留めているといえるでしょう。わたしたちは、そのようなヨハネ福音書から、パウロ書簡と同等の福音のエッセンスを抽出し、わたしたちの信仰生活の中に生かしてまいりましょう。祈りましょう
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書』、M.J.エリクソン『キリスト教教理入門』)
2025年6月22日ヨハネ8:39~47「悪魔は初めから人殺し、偽り者、また偽りの父」-悪魔である父の欲望、人殺しにも加担していく危険-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SIKOjLP20ss
ヨハネ福音書
A.私たちの父はアブラハム、私たちにはひとりの父、神がいます(8:39-41)
B.神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはず(8:42-43)
C.あなたがたの父は、悪魔である。御子なる神イエス・キリストを殺そうとしている(8:44)
D.神から出た者は、神のことばに聞き従います(8:45-47)
今朝の箇所は、[8:39
私たちの父はアブラハムです]という言葉をもって始まります。今朝、わたしたちは、イスラエル民族の父祖アブラハムの位置と役割を知るために救済史全般を見渡すことにいたしましょう。三位一体の神は、天地万物を創造されましたが、人類の始祖アダムは悪魔の誘惑にあい、全人類は罪と死と滅びの中に陥ってしまいました。三位一体の神は、罪と死と滅びの中に陥った人類を救うために、救いの計画を立てられました。御子なる神イエス・キリストを送ることにより、全人類の罪を贖い、よみがえりのいのちを与えようとされました。その準備として、全人類の中からひとりの人アブラハムとその子孫イスラエル民族を選び、救いの計画の準備をされました。
ですから、ユダヤ人たちが[8:39
私たちの父はアブラハムです]というのは、一面正しい主張です。ユダヤ人たちは、全人類の救いの準備のための「啓示の受領者」として役割を、人類を代表して果たしてきました。これに対し、ナザレ人イエスは、ユダヤ人たちに[8:44
あなたがたは、悪魔である父から出た者]であると断定されます。なんという激しい対話でしょう。これに対し、ユダヤ人たちは、ナザレ人イエスに[7:20
あなたは悪霊につかれている]と罵倒し、相互に激烈なやり取りが交わされているのです。
ナザレ人イエスは、[あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです]と、アブラハムの神に対する真心、神の声に対する感受性、その従順、誠実さを捉え、アブラハムなら[8:40
神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを]理解し、受け入れたことでしょう、と言われます。[8:40
ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています]と、「光と闇のような真逆の反応」を指摘されています。アブラハムは、彼に与えられた全人類の「罪と死と滅びからの救い」を意味する祝福の約束の成就の日の到来を、「ナザレ人イエスの中に」見て、[8:56
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを大いに喜んだ]でしょう、と言われました。
なぜ、このような真逆の悲劇が起きたのでしょう。カール・バルトは[「反ユダヤ主義」を批判する自らの基本的な立場を明確にした後、ユダヤ人とキリスト者を「分離させるもの」について、「結びつけるもの」と同じであると言う。「それは、ゴルゴタの丘の十字架にかかり給うたユダヤ人である。私たちはそのお方をイスラエルの約束の成就として、それゆえに全世界の救い主として認める。ユダヤ人たちは、彼らが最初にそうすべきであるのに、この一人のユダヤ人であるお方を認めない。これが、ユダヤ人の存在をめぐる、現実であり、存続している、驚くべき謎なのである」(『カール・バルト著作集7』(新教出版社、1975年)
283-284頁)]と記しています。
今も、昔も、「ナザレ人イエスをどのように受けとめ、どのように反応するのか」―このことが決定的に問われています。三位一体の神が、御子なる神キリストを[8:42
神のもとから…神がわたしを遣わされ]ました。そして、ナザレ人イエスは三年半の公生涯の間、神がアブラハムに対してなされた約束の成就として、
[8:40
神から聞いた真理]を語り続けられました。ユダヤ人たちに、アブラハムと同じ霊性と類似性があれば、アブラハムの神がユダヤ人たちの神と同質の神であったなら、[8:42
あなたがたはわたしを愛するはずです]と言われました。ナザレ人イエスを[8:42
愛する]かどうかが、「御父なる神を真に愛しているのかどうか」の試金石であるのです。
[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]のであり、[ヨハ10:30
わたしと父とは一つ]であるからです。ナザレ人イエスの証しは、「徹底した三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」の自意識からなされています。これに対し、ユダヤ人たちは、「伝統的なユダヤ教のメシア観や唯一神論」から、「受肉した御子なる神イエス・キリスト」の証しを、誇大妄想狂なものとしてみなし、ひいては癒しやもろもろの奇蹟を伴う悪霊憑きのしわざとなし、神を冒瀆した大罪で石で打ち殺そうとします。
ですから、ナザレ人イエスの伝道・宣教活動はなまやさしいものではありませんでした。それは、生死を賭けた、救済史における[8:45
真理]の証しの最前線でありました。ナザレ人イエスは、このような戦いを救済史全般の中に見ておられました。ナザレ人イエスは、[三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト]であるという、ご自身の証しが「死」をもたらすであろうことは、重々承知されていました。それで、[8:44
悪魔は初めから人殺し]であると創世記3章の出来事を振り返られました。
蛇に扮した悪魔は、創世記3章で、[創3:3
しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」3:4
すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません]と嘘をつき、全人類の代表アダムを「神との関係を失わしめる霊的な死」、そして肉体的な死、最後には永遠の滅びの運命の中に陥れました。悪魔は、嘘つきで、人殺しで、私たちの人生の破壊者です。竜に扮したこの悪魔は、ヨハネの黙示録で[黙12:4
竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた]と、ナザレ人イエスを殺し、神の救いの計画を破壊しようとしていたと記されています。
ヨハネ8章のこの箇所は、ヨハネによる「罪論」のようなものがよく描写されていると思います。パウロによるローマ7章の「罪論」では、[ロマ7:13
それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました]とあります。パウロの言う文脈とは少し異なりますが、類似点もあります。
[8:39
あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです]と言われます。血縁的にはアブラハムの子孫かもしれないが、霊的本質的には、悪魔を父とする子孫だと言われます。[8:42
神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです]と言われます。聖書を通して啓示されている三位一体の御父・御子・御霊なる神を信じているのなら、御子なる神イエス・キリストを愛し、信じ、受け入れるはずだと言われます。[8:46
わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか]と問われます。伝統的なユダヤ教のメシヤ観や、三位一体の神を受け入れられない狭い唯一神論のゆえに、受肉した御子なる神イエス・キリストの[8:43
話が分からない…、聞き従うことができない]でいると指摘されています。
これらすべての背後には、[8:44
悪魔である父]の存在があり、ユダヤ人たちの宗教的熱情には[(悪魔である)父の欲望]、すなわち[黙12:4
竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまう]欲望を成し遂げることに加担しているのだと言われます。悪魔は、初めから人殺しで、「全人類の滅亡」を目指しています。悪魔は、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨を否定し、アブラハムからの救いの計画の破壊」を試み、ナザレ人イエスに関する「偽り、フェイクニュース」を流しているのです。
このように見ていきますと、当時のユダヤ人に対する約束の焦点である三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨に際し、起こった不可解な出来事、[それは、ゴルゴタの丘の十字架にかかり給うたユダヤ人である。私たちはそのお方をイスラエルの約束の成就として、それゆえに全世界の救い主として認める。ユダヤ人たちは、彼らが最初にそうすべきであるのに、この一人のユダヤ人であるお方を認めない。これが、ユダヤ人の存在をめぐる、現実であり、存続している、驚くべき謎なのである]と言われます。
悪魔によって歪められた宗教的熱情が、御子なる神イエス・キリストの悲劇をもたらしました。そして、その悲劇を通してアブラハムを通し約束されていた「福音」は成就されました(ガラ3:14)。これらのことから教えられることのひとつは、宗教者というものは、その時代、その時代に流される[偽りのフェイクニュースに翻弄され]、時に、御子なる神イエス・キリストにある真理に立つのではなく、[8:44
悪魔である…父の欲望を成し遂げたい]と思わされ、[人殺し]にも加担していく危険です。今日も、ウクライナに、中東のガザに、またイラクにと、人々は戦争に駆り立てられています。わたしたちは、神から出た者、アブラハムの霊的な子孫、御子なる神イエス・キリストのことばに傾聴し、平和を求めてまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書』、『カール・バルト著作集7』、安黒務『福音主義イスラエル論Ⅰ』)
2025年6月15日
ヨハネ8:31~38「子が自由にするなら、本当に自由になる」-あなたがたは…殺そうとしています-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/DrCgxwTB5kk
ヨハネ福音書
A.わたしのことばにとどまるなら―キリストにある福音理解(8:31-32)
B.選民イスラエルであるが、罪の奴隷―啓示の手段たる選民であるが、啓示の焦点たる御子に盲目(8:33-34)
C.奴隷と子の相違―罪と死と滅びの運命の奴隷と御子による贖罪と内住の御霊による自由(8:35-36)
D.肉によるアブラハムの子孫が、その約束成就の焦点たる三位一体の御子なる神イエス・キリストを殺害の悲劇(8:37-38)
今朝の箇所は、驚くべき箇所のひとつです。先週の箇所の最後の聖句[ヨハ8:30
イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた]ことに続き、話された言葉です。今朝の箇所は、[8:31
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた]と続き、ナザレ人イエスを信じたユダヤ人の心の内とこれから起こるゴルゴタの出来事を予想し、[8:37
あなたがたはわたしを殺そうとしています]と指摘されているのです。ナザレ人イエスは、そのしるしと不思議、そして卓越した聖書の理解と権威あるメッセージを通し、多くのユダヤ人を魅了されました。三年半の公生涯の、最終コーナーたる三年を過ぎた頃、[ヨハ8:30
多くの者がイエスを信じた]と言われる状況をうみだされました。にも関わらず、その貴重な信奉者を失いかねない発言、すなわち
[8:37
あなたがたはわたしを殺そうとしています]と言及されたのです。わたしたちは、ナザレ人イエスは群衆におもねるようなお方ではないと教えられます。ナザレ人イエスは、[8:32
真理]を語られます。わたしたちも、そのようにありたいと思います。
さて、ナザレ人イエスが語られた[8:32 真理]とは何でしょう。今朝の箇所では、[8:31
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。8:32
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします]とあります。[8:31
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに]言われました。[あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です]と。[わたしのことば]とは何でしょう。それは、[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである]とあるように、ナザレ人イエスは、さまざまのしるしと不思議と卓越した聖書解釈を通じて、ご自身が三位一体の御父・御子・御霊なる、御子なる神イエス・キリストであると自己証言され続けた[ことば]です。このポイントに焦点を合わせていかなければ、ヨハネ福音書は浅くしか読み解けません。
[ヨハ8:30
多くの者がイエスを信じた]と記されていますが、その内容が問題でありました。彼らの信仰内容は多種多様でありました。それで、試金石となる基準を提示されました。試金石とは、金の品質を計るために使われる黒色の鉱石のことで、一般的には、碁石などの材料として用いられる那智黒石という石が使用されます。石の表面に金を擦り付け、その痕を見ることで金の価値を導き出すことができます。[8:31
あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です]という基準を提示されました。この基準とは、どのような基準であるのでしょう。ヨハネの意図を少し掘り下げ、詳述したいと思います。わたしの愛好する一冊に、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』という本があります。その中に[使徒的福音を割引も水増しもせず忠実に継承する][三位一体の神観とキリストの神性と人性、そして一人格二性のキリスト観の確立]その公同信仰の「あらゆるところで(公同性)」「常に(古代性)」「すべてによって(一致同意)信じられてきた」正統信仰の根幹にとどまることと重なります。この三位一体の神観とキリストの神性と人性、そして一人格二性のキリスト観は、キリスト教会の世界信条、また普遍信条と言われ、西方のローマ・カトリック教会、東方のギリシャ正教会、そしてプロテスタント教会等、正統とされるキリスト教会が共通に共有する信仰告白です。この根幹から外れると異端視されます。
このように、1世紀末に書き記されたヨハネ福音書の聖句の一節一節には、まことに神学的含蓄の深いものがあります。この箇所の背景には、ナザレ人イエスの公生涯の記録と証言ということにとどまらず、1世紀末の教会とユダヤ教会堂、そしてナザレ人イエスの「真の神性」を否定した異端のユダヤ人キリスト者であるエビオン派的な傾向をも読み取れます。ナザレ人イエスの三年半の公生涯とその宣教活動においては、さまざまな反応を引き起こしました。さまざまな信仰を呼び起こしました。しかし、ナザレ人イエスは、「信者が増えれば良い。教勢が伸びれば良い」という考えの持ち主ではありませんでした。その信仰の内容が「ナザレ人イエスの自己証言のことば」に、割引も水増しもせずにとどまっているのかどうかが問題でした。[三位一体の神観とキリストの神性と人性、そして一人格二性のキリスト観の確立]への萌芽が、[「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です]に教えられています。
ナザレ人イエスは、さまざまなレベルで信じた人々に[8:32
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします]と言われました。すると彼らは、[8:33
私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません]と反論します。これは、何を言っているのでしょう。これは、言い換えますと「血縁的、民族的に、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、無条件で神の民である」と考えるユダヤ教の考え方と、「血縁を超え、民族を超えた、ナザレ人イエスを御子なる神イエス・キリストと信じる、信仰による、霊的な神の民」と考えるキリスト教の対立を背景としています(ヨハネ1:13)。彼らは、ユダヤ教のメシヤ観の枠内で、キリストを捉える人々でありました。
これは、旧約の民族的神の国の準備期間を終え、新約の普遍的神の国の到来において生じた軋轢の問題でした。古い皮袋に、新しいブドウ酒を入れると、発酵して古い皮袋が裂けるので、新しいブドウ酒は新しい皮袋に入れなければなりません(マタイ9:17)。ナザレ人イエスは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストでありましたので、ナザレ人イエスによる自己証言の[8:31
ことば]により形成される福音理解、すなわち[8:32
真理]を知り、理解し、そこに[割引も水増しもせず忠実に]とどまることにより、[8:32
自由]になると言われたのです。ユダヤ教の枠組みの中で、ナザレ人イエスを、受肉・来臨された、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを受け留めることはきわめて困難でありました。
これに対し、ユダヤ教的、ユダヤ民族主義的信仰の濃い、ユダヤ人信仰者たちは、[8:33
「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」]と詰問します。彼らは、ナザレ人イエスを特別なお方として受けとめるレベルで信じますが、「選民イスラエルの特権」を揺るがす言行は許容することができず、その特別なお方、ナザレ人イエスに対して殺意すら抱きます(8:37)。このあたりを見ていますと、当時のユダヤ人たちのメシヤ待望とナザレ人イエスの自己証言との間にある「上からのお方と下からのお方」、「垂直と水平」のギャップ、手段また機能としての選民の、目的化・神聖視する見方としての「民族主義と普遍主義」のギャップの谷間の存在、その谷間に張られた綱渡りのロープを、絶妙のバランスを保って渡って行かれる御子なる神イエス・キリストの緊張感溢れる姿を思い浮かべます。
ユダヤ人たちは、ナザレ人イエスの「 8:32 真理はあなたがたを自由にします 」という言明に対し、[8:33
私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」]と激高し強烈に反論します。イエスは、これらの反論の中に、殺意の種を看取されます。十戒の第一戒から第四戒までは、神への崇敬をうたっています。しかし、彼らは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを殺すという最大の罪を犯そうとしているのです。ナザレ人イエスは[8:34
まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です]と神の御子を殺すという最悪の罪を犯そうとしていることを指摘されます。さらに、暗示されていることは、使徒パウロが記しているように[ロマ3:9
ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある]と、アダムにある人類の普遍的な罪の現状と、引きましては、罪と死と永遠の滅びの刑罰の運命という奴隷状態にあることを示唆されています(ヘブル9:27)。
イスラエルの民は、「アダムにある罪と死と滅びの奴隷状態からの」人類の救いのため、人類を代表して、その準備的啓示を受け取るべく選ばれ、機能してきました。しかし、聖書によれば、彼らもまた「一時的に家にいる奴隷」であるのです。彼らは、救いの啓示をもたらす手段として機能しましたが、彼らもまた「罪と死と滅びのただ中にある」奴隷的存在なのです。肉的、血縁的なアブラハムの子孫であるというだけでは「罪と死と滅び」の奴隷状態から救われることはできません。ナザレ人イエスによって明らかにされた、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れることによってのみ、「罪と死と滅び」の奴隷状態から救われるのです。
[8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします]は、[8:36
子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になる]と続きます。ナザレ人イエスの、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]自己証言、[ヨハ1:29
世の罪を取り除く神の子羊]、すなわち代償的刑罰を受けられ、ユダヤ人も異邦人をも含む全人類を「罪と死と滅び」の奴隷状態から救い出すためのみわざ、そして、死に葬られ復活・昇天し、御座から注がれ、[ヨハ1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者]として、パウロがローマ書で解き明かしているように、内住の御霊により、肉による「罪と死と滅び」の原理から解放し、いのちの御霊によって生かされる(ローマ7:24-8:11)という、
「自由」を提供されているのです。
ナザレ人イエスとして、受肉・来臨された三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、当時のユダヤ人たちが、[8:37
アブラハムの肉的・血縁的子孫であることを知って]おられました。と同時に、その中に、ナザレ人イエスを御子なる神イエス・キリストと信じるに至る「本当の弟子」と「十字架にかけて殺す」表面的なシンパにすぎない者が含まれていることを知っておられました。これは、今日、人類80億人の三分の一がクリスチャンと言われますが、本当の弟子たる福音理解とその実を結んでいるクリスチャンとそうではないクリスチャン、中には反社会的、反道徳的な宗教者、また信仰者も含まれているでしょう。わたしは、『聖書神学辞典』の論稿「罪」で、[聖書において、罪は最大の関心事のひとつである。人類史冒頭に現われている罪は、神の民イスラエルの歴史の中にも深い跡をとどめている。イスラエルは、民族としての誕生以来、その悲劇を幾たびとなく繰り返す。選民としての特典にあずかりながら、他の民にまさるとも劣らない罪の中にあった(ヨシュア24:2,14、エゼキエル20:7-8,18)]と書かせていただきました。引きましては、キリスト教国家や教会、個々のクリスチャンにおいても類することが言えるように思い、反省・悔恨の思いが溢れます。
[あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。8:38
わたしは父(御父なる神)のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父(8:44
悪魔)から聞いたことを行っています]と言われます。受肉・来臨された三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストのことばが、わたしたちの心の中に、生きてとどまり、社会的・道徳的な実を結ぶ生涯を送るひとりひとりとさせていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書』、ミルトン・スタインバーグ著『ユダヤ教の基本』、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』)
2025年6月8日
ヨハネ8:21~30「それこそ、初めからあなたがたに話していること」-キリストの測り知れない富の蔵の、一生涯の探索者-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/NmcFalnpcU0
ヨハネ福音書
A.わたしは去って行きます―キリストの贖罪死・復活・昇天・着座(8:21-22)
B.わたしが『わたしはある』である―神論・人間論・キリスト論・救済論(8:23-24)
C.初めからあなたがたに話している―肉的・地上的知見と霊的・天上的知見(8:25-27)
D.あなたがたが人の子を上げたとき―贖罪死・復活・昇天・聖霊の注ぎによる内住の御霊による啓示(8:28-30)
今朝、注目したい聖句箇所は、[8:25
そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか]というみ言葉です。ヨハネ福音書で教えられることは、ナザレ人イエスに対して投げかけられている「8:25
あなたはだれなのですか」という問いです。そしてそれは、わたしたち人間が、ナザレ人イエスを[8:24
『わたしはある』であることを信じなければ、…自分の罪の中で死ぬことになる]という問題です。ナザレ人イエスとは、一体どのようなお方なのでしょう。群衆やパリサイ人たちは、
「8:25
あなたはだれなのですか」と問いかけました。これに対し、ナザレ人イエスは「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか]と答えられました。イエスは、「初めから」自分は如何なる者であるのかを、TPO、すなわち、時と場所と機会を生かして、万事を尽くし、自己紹介を繰り返しておられるのですが、理解されず、
「8:25 あなたはだれなのですか」と問い続けられるのです。
振り返れば、ヨハネ福音書の最初から最後まで、バプテスマのヨハネも、弟子たちも、群衆も、パリサイ人たちも、大祭司も、「8:25
あなたはだれなのですか」と問いかけています。これに対して、ナザレ人イエスは最初から最後まで一貫して「自分が如何なる者であるのか」を証しされています。ザレ人イエスは、様々なしるしと不思議をもって、また聖書に収めきれないほどの聖書解釈と教えをもって、「それこそ、初めから彼らに隠すことなく話して」来られました。
共観福音書も同じです。ナザレ人イエスの誕生は、マリヤの上に働かれた聖霊のみわざによるものでありました。ナザレ人イエスが、12歳の時、過越しの祭りでエルサレムにのぼられ、行方不明となり探した時、「ルカ2:49
わたしが父の家にいるのは当然である」と証しされました。このように見ていくと、ナザレ人イエスは、生来「自らが如何なる者であるのか」を深く自覚されていたのだと教えられます。誕生時も、宿なく、馬小屋のまぶねを寝床とし、まもなくヘロデ王による殺害を逃れ、難民としてエジプトで暮らされ、後に故郷の小さなナザレで大工ヨセフの長男として成長し、労働に服されました。そして、30年間、一労働者として働き、たった三年半、しるしと不思議を伴う神の国の福音の布教活動と、自らが如何なる者であり、何を使命としているのかを証しされました。再臨時の描写のように、天上から全世界に号令をかけられても良かったのに、なんと控えめな登場の仕方でしょう。それは、信仰が人格的信頼から生まれる人格的な愛の性質をもつものであり、強制によるものではなく、心の内側、心の奥底から湧き出ずる性質によるものに価値を見出すからです。
今朝の箇所は、断片的でありますが、まことに神学的な箇所です。[8:24
わたしが『わたしはある』である]とは、先週も申しましたように、モーセに対し、[出3:14
わたしはある]と自己証言された三位一体の御父・御子・御霊なる神のことばです。ナザレ人イエスは、事あるごとに、旧約聖書の象徴やことばを用いて、自らが「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であると自己証言されています。人々は、「8:25
あなたはだれなのですか」と問います。ナザレ人イエスは、 [8:24
わたしが『わたしはある』である]と答えられます。これは、別の並行聖句に置き換えれば、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]、[ヘブル1:3
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ]との証言だと言えるでしょう。
ナザレ人イエスは、しるしと不思議、その卓越した聖書解釈、その人格と品性に圧倒される人々、あるいはいぶかしく思う人々が、[8:25
あなたはだれなのですか]と問う問いに対し、一貫して[8:25
初めから人々に話し]自己証言されていたのです。将来、教会の核になるであろう人々の心が、岩地から、道端から、いばらの地から、肥沃な耕された畑に「土壌改良」されるには、三年半の時間が必要でした。神さまには、何十年、何百年、そして永遠にも、ナザレ人イエスを地上に置き、「三位一体の神が如何なる者であるのか」の証しを続ける、ということも可能であったと思います。しかし、その期間は「三年半」の、最小最短に制限されていました。「剣術の名剣士は、動きを最小にし、一撃で相手を仕留める」と申します。ここに、神さまのご計画の「期間限定性」を教えられます。わたしたちの取り扱いにおいても、哀歌に、[哀3:27
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。…3:30 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。3:31
主は、いつまでも見放してはおられない]とある通りです。
今朝の最初の箇所、[8:21 わたしは去って行きます]は、[8:28
そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき]と繋がります。ユダヤ人たちは、[8:22
わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません]と言われた時、[自殺するつもりなのか]と、いつものようにちぐはぐな受けとめ方をします。肉的で、人間的、水平の次元でしか理解できないのです。これに対し、ナザレ人イエスが語られた意味は、霊的、神学的、垂直の次元で語られています。[8:21
わたしは去って行きます]は、[8:28
「あなたがたが人の子を上げたとき]と繋がり、人々の手により、十字架に上げられることにより、死なれることを指しています。わたしたちも、苦難・苦境に陥る時、人間の肉的次元から、主の取り扱われる霊的次元に視点を転じる者となりましょう。
パリサイ人たち、宗教者たちから見れば、それは政治的には植民地独立運動家、また宗教的には急進的宗教改革派が起こしかねない暴動のリーダーの処刑に過ぎなかったでしょう。しかし、ナザレ人イエスは、事の深刻さを指摘されます。「ナザレ人イエスをどのように受けとめるのか」という問題は、そのような次元の問題ではなく、「あなたがたすべての生と死の問題であり、永遠のいのちの道と永遠の滅びの道の問題である」、[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]ことと関係がある、と述べられているのです。[ヨハ3:14
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。…3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている]とある通りです。
イエスは、[8:21
「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。それは、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストが、全人類の罪を背負って、代償的刑罰を受けて死にふされるということだけではありません。三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、死に、葬られ、三日目によみがえり、昇天し、天上の右の座に着座され、聖霊を注ぎ、信じる者すべての内に三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御霊なる神聖霊を内住させ、神の国の現在性の恵みの中に招き入れ、そして終末には、神の国の未来性、すなわち新天新地の中に置いてくださるのです。わたしたち、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れる者は、御子なる神イエス・キリストが「行かれた」ところに行くのです。そこは、この世のように汚れた世界でなく、しかし霧やかすみのような世界でもなく、御霊なる神聖霊によって贖われた被造物世界であるのです。
このように、ヨハネ福音書の記述は、山上の垂訓のような長い説教講話のエッセンスを要約・編集したものであり、分かりにくいのですが、その内容は、後に助け主なる聖霊により使徒たちが手紙の中で解き明かすことになります。まだ、御霊が下っていなかったので、[8:26
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります]と言われ、一定の耕しの後の啓示は、注がれる御霊に委ねられました。それが[8:28
そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります]の箇所が意味していることです。
弟子たちは、イエスと出会う前にも、幼い頃から会堂等で旧約聖書を学んでいたことでしょう。ナザレ人イエスに出会って、その旧約聖書が証ししている方にフォーカスを当てることができるようになりました。さらに、十字架の一連のみわざと、その後に注がれた聖霊により、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざについての真理に目が開かれていきました。今、一宮基督教研究所のフェイスブックまた、ユーチューブでは、二千年間の教会の歴史の中で、啓示の御霊によって開かれ、整理されていった神ついて、人間について、キリストについて、救いについて、聖霊について、教会について、終末についての、神の宝物蔵にある真理について紹介しています。
わたしたちは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを信じ、すでに救われている者です。しかし、同時に[エペ1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。1:18
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、1:19
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように]と祈ることの許されている途上の者です。
わたしたちは、上げられた御子なる神イエス・キリストが、注がれた聖霊により、[8:28
話していたことを、あなたがたは知るようになります]と励まされていることに合わせ、[エペ3:8
キリストの測り知れない富]の蔵を、一生涯探索し続ける者とされましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年6月1日
ヨハネ8:12~20「わたしは世の光です」-ナザレ人イエスとして、受肉・来臨したわたしは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神キリストです-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/OAoWOfDx3uQ
ヨハネ福音書
A.ナザレ人イエスの自己証言の信憑性(8:12-14)
B.パリサイ人による証言吟味と御子と御父による証言吟味
(8:15-16)
C.御子と御父による証言吟味の信頼性(8:17-18)
D.ナザレ人イエスの父ヨセフと御子なる神イエス・キリストの御父(8:19-20)
今朝の箇所は、少し前の[ヨハ7:37
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」7:39
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである]という箇所からの続きだと言われています。それは、御子なる神イエス・キリストが十字架につけられ、贖罪死を遂げられ、三日目によみがえり、40日後に昇天し、ペンテコステの日に聖霊を注がれる[8:20
イエスの時]到来の半年前の大切な機会でありました。きわめて貴重な、本質的なメッセージが続いていたことを教えられます。
仮庵の祭りの[[ヨハ7:37 終わりの大いなる日に]、ナザレ人イエスは[8:12
わたしは世の光です]と、自己証言なさいました。これはどういう意味なのでしょうか。単刀直入に言えば、「ナザレ人イエスとして、姿を現したわたしは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストです」という自己証言なのです。それを、
[8:12
世の光]という象徴的表現で告白し、聴く力のある者には印象深く受け入れられ、心を閉ざす者にはボカされた表現と受け取られました。それは、人々の心を耕し、信仰を熟す時間を与えるとともに、その曖昧な表現は「イエスの時」までの時間をかせぐことに役立ちました。さて、[8:12
わたしは世の光です]という自己証言をもって、ナザレ人イエスは何を意図されたのでしょうか。
実は、[8:12
わたしは世の光です]という自己証言は、旧約聖書において、三位一体の神がモーセに自己顕現された時の自己紹介のことばと同じものなのです。[出3:13
モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」3:14
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」]と。出3:14
『わたしはある』という自己証言の形式は、ヨハネ福音書では、「ヨハネ6:35 わたしはいのちのパンである」「8:12
わたしは世の光である」「10:7 わたしは羊の門である」「10:11 わたしは良き羊飼いである」「11:25
わたしは復活のいのちである」「14:6 わたし道であり、真理であり、いのちである」「15:1
わたしはまことのぶどうの木である」があります。
このような述語部をもつ出3:14
『わたしは=ある』という自己証言の形式は、ナザレ人イエスのかたちで姿を現された、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストがもたらされる救いにおける役割を象徴によって表現するものです。そのひとつひとつが、人間存在における渇望と必要を前提としており、それらの象徴が人間の必要と完全に反響しあっているのです。仮庵の祭りの[[ヨハ7:37
終わりの大いなる日に]、ナザレ人イエスは[8:12
わたしは世の光です]と、自己証言なさいました。わたしは、この一節は御子なる神イエス・キリストの山上の垂訓のような一連の教説のエッセンスだと思います。
それは、[ヨハ21:24
これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない]と記されているからです。おそらく、それらをすべて書き記したとしますと、「御子なる神イエス・キリストの仮庵の祭りの説教集」という一冊の本ができていたことでしょう。仮庵の祭りの文脈とは如何なるものであったでしょう。
D.A.カーソンによれば、それは、「水を汲む場所の喜びを見たことのない者は、生涯で喜びを見たことがない」といわれるほどの光景でした。それは、神殿の女性たちの庭にある四つの巨大なランプの点灯と、その光の下で行われた熱狂的な祝典の記述の直前に述べられています(ミシュナー
スッカ5:1-4)。「敬虔で善行を積んだ人々は、手に燃える松明を持ち、歌と賛美を歌いながら、夜通し踊りました。…これは仮庵の祭りの毎晩行われ、神殿の領域からの光がエルサレム全体に輝きを放っていました。」この文脈で、イエスは「わたしは世の光である」と宣言されたのです。光の比喩は、旧約聖書の暗示に深く浸透しています。雲の中にある神の臨在の栄光は、人々を約束の地へと導きました(出13:21-22)。イスラエルの人々は「詩篇27:1
主はわが光、わが救い」、神の言葉、神の律法は彼らの「詩篇119:105 道を導く光」でありました。
[8:12
わたしは世の光です]という自己証言は、旧約聖書において、三位一体の神がモーセに自己顕現された時の自己紹介のことばと同じ類のものであり、イスラエルの民が、四十年の荒野の旅程の際に、雲の柱、火の柱によって安全に導かれように、[8:12
わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます]と励ましておられるのです。このようなナザレ人イエスの、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストとしての自己証言に対し、パリサイ人たちは[8:13
あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません]と反論しました。要するに、「ナザレ人イエスであるあなたは、自分勝手に妄想癖のような主張をしているだけだ!
あなた以外にそのことの信憑性を証言する人も証拠もないではないか」と。
これに対し、イエスは [8:14
たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません]と彼らに答えられました。上の世界を知っている者と下の世界しか知らない者の違いを教えられました。パリサイ人たちは、[8:13
あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません]と、ナザレ人イエスの誇大妄想狂的なたわごとと片づけようとしました。イエスは、シンプルに、自分は「下から、人間なのに神になろう」としているものではなく、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであったものが、上から」降ってきて、ナザレ人イエスとして受肉し、贖罪のみわざを成し終えた後、再び元のところへ、上へ、天的立場に戻るものであることを証しされました。しかし、このような真理は、御霊がくだり、内住してくださるまでは弟子たちにすら理解しがたいものでありました。すでにイエス様を神の御子と信じているわたしたちにも、内住の御霊の助けなしに理解しがたい上からの真理はまだたくさんあると思います。いまだ、神の啓示の宝物蔵のごく一部しか見えていないのだと思い、謙遜にさせられます。
次の、[8:15
あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません]は、パリサイ人たちの判断基準がいつも「肉」のレベル、すなわち人間世界のレベルであるとの指摘です。8:15は、[
わたしは(人間世界のレベルでは)だれもさばきません]には、前半の「肉によって」を受けていると理解するのが良いでしょう。ナザレ人イエスは、常に「天から」「上から」受肉・来臨された三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの視点で、自身のこと、また人々のことを識別し、判断・評価されていました。
それゆえ、[8:16
たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです]と言われています。御子なる神イエス・キリストの捉え方は、天的視点であり、御父なる神の視点と同じものです。パリサイ人たちの[8:13
あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません]の主張には、一理ありました。それは、民数記35:30の一人の証言のみに頼って死刑に処してはいけないとあり、[8:17
二人の人による証しは真実である]と認められていました。パリサイ人たちの反論を頭ごなしに否定するのではなく、筋の通っている部分には、整然と論拠を示し答えておられます。
[8:17 二人の人による証し]に関連し、ナザレ人イエス自身の自己証言だけでなく、[8:18
わたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます]と、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神を、いわば法廷に証人喚問されているかのようです。御父は、[マタ3:16
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。3:17
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」]と証言されました。またパウロによれば、[ロマ1:2
──神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束された…1:3 御子に関するもので…1:4
死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方]と証しされたと記しています。
すなわち、ナザレ人イエスは[8:12 わたしは世の光です]
は、「ナザレ人イエスとして、姿を現したわたしは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストです」という自己証言なのです。そして、この証言は、御子を[8:18
遣わした父]が、証言台に立っておられると言っておられるのです。御父は、旧約聖書全体、神の民の歴史をアブラハムから辿れば二千年、モーセから見れば1500年、ダビデからは一千年、バビロン捕囚からなら500年の期間中、ずっと約束と律法と預言者、歴史書・文学書・預言書等を通し、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの来臨・受肉による贖罪のみわざ、そして内住の御霊の祝福について証言され続けておられるのです。
しかし、聖書を通してフォーカスされている三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨に目が閉ざされているパリサイ人たちには、[8:19
すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」とナザレ人イエスの父、ヨセフについて質問を投げかけました。これに対し、イエスは「あなたがたは、わたし(の本当の出自、天から来た者であること)も、わたしの父(が、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神であること)も知りません」と指摘し、「もし、(三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストである)わたしを知っていたら、(三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神である)わたしの父をも知っていたでしょう]と答えられました。この時、パリサイ人たちは、御子なる神イエス・キリストの答えを理解することはできなかったしょう。しかし、彼らのうちのある人々には、後日主イエスを受け入れる準備となりました。
[8:20
イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである]というのは、この時期にナザレ人イエスが語られたことばは、象徴的言語で、いわばオブラートにこそ包まれていますが、その内容は、[ヨハ19:7
律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから]に等しいものでありました。パリサイ人、またユダヤ人たちの間で、光の下に集められる人と光を嫌い、闇の中に身を隠す人とに分別されていきました。ナザレ人イエスは、暗闇の中に光輝くともしびでありました。それは「水を汲む場所の喜びを見たことのない者は、生涯で喜びを見たことがない」といわれるほどの光景でありました。それは、[神殿の領域からの光がエルサレム全体に輝きを放つ]光のようでありました。
ヨハネ福音書は、まさしくこの世の闇の中に光り輝く光についての証しの書です。[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]とある通り、[8:12
イエスは「世の光です。わたし(御子なる神イエス・キリスト)に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです]。贖罪の恵みに根ざし、内住の御霊の「臨在の光」を闇の中にかざし歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年5月25日
ヨハネ8:1~11「彼らはそれを聞くと、一人、また一人と去って行き」-「人の悪計」と思われるものさえも、後々の「良いことのための計らい」と用いてくださる方-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/qWHtYOf4-OI
ヨハネ福音書(概略)
A.御子なる神イエス・キリストのエルサレム伝道(8:1-2)
B.イエスの名声を貶めんとする律法学者とパリサイ人の策略(8:3-5)
C.告発対象のナザレ出身のイエスは、審判者たる御子なる神イエス・キリストに(8:6-7)
D.長く続く沈黙の中で働かれる御霊なる神聖霊の悔悛のみわざ(8:8-9)
E.告発者の律法学者とパリサイ人たちは、自分たちもまた被告席にあると照らされる(8:10-11)
今朝の箇所は[8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。8:2
そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた]ということばで始まります。ナザレ人イエスは、ご自身が「御子なる神イエス・キリスト」であることを証しされるようになってから、神を冒瀆する罪で、いのちを狙われるようになっていました(5:18、7:19)。しかし、それで身を隠し、隠遁するようなことはせず、周囲をも欺いて(7:1-9)、内密にユダヤの中心地であるエルサレムの神殿の庭に現れました。「飛んで火にいる夏の虫」とユダヤ教当局は「ナザレ人イエス」逮捕を試みますが、失敗に終わりました。潜在的にイエスを支持するエルサレム市民も多くいたことと、そのみ言葉の解き明かしの素晴らしさも伴い、神殿警察の下役たちさえ感化されていったからです。これは、今日のわたしたちが「反対がある。その道は危険だ」といって、安全・安心な道を選ぶことが神のみ旨なのかどうかを考えさせます。「火中の栗を拾う」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということばもまたあるからです。主にあっては「危険な道と知りつつ、綱渡りのように進むべき道」もまたあるのです。
とにもかくにも、ナザレ人イエスは、ご自身が「御子なる神イエス・キリスト」であると証しするために、パレスチナ地方の中心地に姿を現し、最後の証しに専念しておられました。それは、その時には「殉教」という結果に終わるのですが、数多くの耕しと数多くの種蒔きとなり、ペンテコステ以降、使徒行伝に見るようなリバイバルを地中海世界全体にもたらしていきます。それゆえ、わたしたちも、宣教困難な地、日本において、「一粒の麦となって生涯を終える」ことを恐れず、生活を通しての証しを通し、地道な耕しと地道な種蒔きに専念してまいりましょう。
ナザレ人イエスが、朝早くから、人々に、神の御言葉を教え始めておられた時、[8:3
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて]きました。これは、「偶然捕らえて連れて来た」というよりも、通常の逮捕は、「ナザレ人イエス支持の群衆」の中では不可能であると悟ったユダヤ教当局者の判断であり、その結果として練りに練られた策略であったでしょう。「ナザレ人イエスとそれを支持する群衆を分断するためには、どうしたらよいのか」ということを熟慮・相談した結果、
[8:3 姦淫の場で捕らえられた女]をナザレ人イエスに裁かせる罠を考え出したのです。
彼らは、聖書の専門家であり、またそれゆえ「律法」を悪用することにも長けていました。これと同じ類の罠が、マルコ12:13-17にあるカイザルのコインとローマへの税金の話です。マル12:14で、パリサイ人たちは、「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか」と問いました。「カエサルに税金を納めなさい」と言えば、政治的には安全な意見ですが、群衆の支持は失います。逆に、「神にのみささげなさい」と言えば、群衆の支持は得られますが、ローマ帝国への反逆者とみなされる危険がありました。
それで、ナザレ人イエスは、[マル12:15
イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」12:16
彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。12:17
するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した]とあります。ローマ帝国の支配下に生活する者として納税の義務を果たすと共に、あなたがたは「神の像が刻印された、神の作品であり、神の所有物」であるのですから、自分たちの存在と生活を神の御心にかなうようにするのが、神のみ旨であることを明らかにされたのです。この「神の知恵のことば」の証しは、ナザレ人イエスが「御子なる神イエス・キリスト」であることを彷彿させる一幕です。
今朝の箇所は、[8:3
姦淫の場で捕らえられた女]の律法による審判の問題です。パリサイ人たちは、まずナザレ人イエスの人気を失わせるための策略を練り、「これこそは!」という計画を思いつきました。[8:3
姦淫の場で捕らえられた女]を連れ出して、ナザレ人イエスに裁かせよう。[8:5
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにする]よう命じている(申命記22:22-24,
レビ記20:10)のだから、イエスは罠に陥るに違いない、そしてイエスの人気は凋落するだろうと。といいますのは、ナザレ人イエスは、傷ついた人、社会的弱者、虐げられている人々に対する同情心、赦しと回復、そして新生と結びついた人生を変える力についてのメッセージで人気があったからです。そこには考えられる幾つかの選択肢がありました。もしモーセの律法を否定して、赦せば、律法学者やパリサイ人の中に広がりつつあった理解者を失うことになり、さらには律法を否定する者として、告発される可能性すらありました。もしモーセの律法に従って、
[8:3
姦淫の場で捕らえられた女]を「石打ちにしなさい」と言われたとしますと、同情心に欠けたその判断は、多くの民衆からの支持を失うことになったでしょう。
さらに、ナザレ人イエスの判断と指示により、 、 [8:3
姦淫の場で捕らえられた女]が、石打ちにより殺されていたとしたら、当時死刑を宣告する権限をもっていたローマ総督の独占権を侵害した者として告発されていたことでしょう。[8:6
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言った]とある通り、このような逃げようのない、複雑な仕掛けが、イエスを貶める策略の中に隠されていました。御子なる神イエス・キリストは、彼らの企みを見抜いて、[8:6
イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いて]おられました。
今日、わたしたちが生活を通し、また言葉を通し、証ししていく時、似た場面に出くわすことがあります。好意的な質問もありますが、そうでない質問や、吹っ掛けられる議論のようなものもあります。すべてに正直に即答する必要はないと思います。また、即答できない難しい問いもあります。そのような時には、イエスが[8:6
身をかがめて、指で地面に何か書いておられた]ように、主の御前で逡巡することは知恵ある選択肢のひとつです。中途半端な即答をするよりも、逡巡し、主が「知恵の言葉」を与えてくださるのを待つこと、そして主が示された範囲内で謙遜に証しすることが大切と思います。問いに対して、正解をもって答えるよりも、優れた答え方があるように思います。それは、主が働かれる余地を残し、必要最小限の「呼び水」を提供することです。井戸から水を提供されるのは、神ご自身ですし、それを汲み上げるのは問いを抱くその人自身だからです。
そして、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして[8:7
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]と言われました。ユダヤ教当局は、ナザレ人イエスの群衆の中にある人気を凋落させ、宗教界とローマ帝国への反逆者として、イエスを逮捕し、裁判にかけ、処刑することが目標となっていました。そのような中、彼らの悪しき策略に答えるのが、最良の解答ではありませんでした。御子なる神イエス・キリストは、彼らの描くストーリーと計略が根源的に間違っていることを明らかにしようと願っておられました。彼らが問い続ける最中、ナザレ人イエスの心の中に、ひとつの思いが与えられました。
[8:7 あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]という思いです。
わたしたち、クリンスチャンの内には、御霊なる神聖霊が内住されている(ローマ8:9)と記されています。わたしたちは、内住の御霊を宿すクリスチャンとして、パレスチナで証しをされた「御子なる神イエス・キリスト」を運んでいます。御子なる神イエス・キリストが、「話すことを、そのときに与え」てくださり、[マタ10:20
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です]と言われているのです。わたしたちは、何も恐れる必要はありません。その時、その場で、示される思いやことばを、自然体で分かち合えば良いのです。それ以上のこと、それから先は、神ご自身が注がれた御霊によって継続的に働いてくださると信じ、委ねたら良いのです。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こし、御父により、御霊を通して示された、ひと言だけを言われました。 8:7
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と。たった、ひと言だけでしたが、問い続ける声は消え失せ、沈黙が支配することとなりました。それは、まさに漆黒の暗闇の真中に投げ込まれた光となりました(創世記1:2-3、ヨハネ1:5)。岩陰には、光を恐れ、闇を好む害虫が潜んでいるのを見ます。岩をめくり取り除くと、害虫たちはそそくさと次の闇を求めて散っていきます。
律法学者とパリサイ人の残酷かつ悪計に満ちた、嵐の湖のような質問の応酬は、[8:7
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]という宣告で、静まり返ってしまいました。わたしは、この言葉で、審判者と被告人が入れ替わったように受けとめました。最初は、ナザレ人イエスが被告人扱いで、律法学者とパリサイ人に告発され、罪と死に陥れられようしていましたが、
[8:7 あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]という宣告を聞いた時、[8:9
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された]というのです。
ここで何が起こったのでしょう。わたしは、[8:9
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き]という言葉の中に、神への畏怖を見ます。律法学者とパリサイ人たちは、ナザレ人イエスを追い詰め、崖から突き落とす寸前に至ったと、心の中で勝ち誇っていたでしょう。しかし、その「問い続け、告発」が最高潮に至った時、
[8:7
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]という言葉が発せられたのです。わたしは、ナザレ人イエスに言われるままに「そうか、そうか、そういわれるのなら」と我先にと石を投げなかった理由は、どこにあるのだろう。ナザレ人イエスが[8:7
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]と言われた瞬間、彼らの心の中にどのような反応がおこったのだろうと考えさせられたのです。
わたしは、律法学者とパリサイ人たち、群衆、そしてイエスを支持する人たち等の間に、中に、特別な聖霊の臨在が感じられたのではないかと思います。御子なる神イエス・キリストは、「世の光」です。わたしたちクリスチャンも「内住される御霊にあって世の光」です。わたしたちが、ある瞬間、ある場所、ある機会で、内住される御霊に示されて、沈黙する間、そして発する知恵のことばは、「嵐を静める」働きをするということです。聖霊はそこで働かれるということです。
[8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き]ました。彼らは、なぜ「8:4
姦淫の現場で捕らえられた女」に石を投げずに去って行ったのでしょう。わたしは、[使2:37
人々はこれを聞いて心を刺され]とあるように、彼らは、主のみ前に引き出され、神の御前で自分たちの本当の姿を照らされたのではないかと思います。彼らには、いまだ「ナザレ人イエス」が如何なるお方なのか、はっきり分かっていません。ただ、
、 [8:7
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい]というひと言が、嵐の湖のように沸き立っていた告発の質問を一瞬にして、静寂の空間をもたらした時、彼らは「神の審判の被告席」に座っている自分を見出したのでしょう。
朝早くから神殿で、ナザレ人イエスから学ぼうとしていた人々は、それなりにまじめな人々でもあったでしょう。去って行ったのが、[8:9
年長者たちから始まり]というのは、年の功と申しますか、人生経験豊かな人ほど、また人間いかに罪深い者であるのかをよく知っているということでもあるでしょう。どちらにせよ。ナザレ人イエスを最高の悪計をもって陥れようしていた律法学者とパリサイ人は、敗北しました。敗北しただけではなく、これらの悪計は[創50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです]とあるように、使徒行伝のペンテコステでの巨大な回心の前触れ、耕しともなったでしょう。わたしたちの人生にも、「人の悪計により苦しめられているのではないか」と感じられる時間帯もあるでしょう。しかし、心配することはありません。わたしたちが信じている神さまは、「人の悪計」と思われるものさえも、後々の「良いことのための計らい」と用いてくださる方なのでから。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年5月18日
ヨハネ7:45~53「なぜあの人を連れて来なかったのか」-ユダヤ人、パリサイ人の中の良識派の人たちと共に-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/XyNm0JSPdcQ
ヨハネ福音書
A.神殿警察の下役たちは、ナザレ人イエスを逮捕しなかった(7:45)
B.下役たちが逮捕しなかった良識(7:46)
C.下役たちの報告に対するパリサイ人たちの先入観を伴った反応(7:47-49)
D.パリサイ人で、律法の専門家ニコデモの弁護(7:50-51)
E.ニコデモに対するパリサイ派の人々の差別的反応(7:52-53)
今朝の箇所は、[7:45
なぜあの人を連れて来なかったのか]ということばで始まっています。それは、祭司長たちとパリサイ人たちが、ナザレ人イエス逮捕のために派遣していたレビ人からなる神殿警察がその使命を果たすことなく帰ってきたからでした。このような問いに対し、下役たちは、[7:46
これまで、あの人のように話した人はいませんでした]と答えました。これを読んだ時、昨日敵将エンジェルスのワシントン監督が「翔平はアナザー・ワールドだ。(別世界の選手だ)」と評したことを思い返しました。初対戦の投手のカットボールの軌道を1球で見抜き、同じカットボールを真芯で捉え、ホームランにしてしまったからでした。
ナザレ人イエスを捜査していた下役たちは、[7:46
これまで、あの人のように話した人はいませんでした]と答えました。彼らは、最初洗礼者ヨハネを調査(1:19,22)し、後にはナザレ人イエスの情報を入手(4:1)していました。それは、ローマ帝国の植民地化にあるパレスチナ地方の治安を守り、将来騒動となるかもしれない運動の芽を摘むためでありました。当初、洗礼者ヨハネの悔い改めのバプテスマの運動を監視対象としていました。その後、[ヨハ4:1
イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている]と伝え聞き、ナザレ人イエスの神の国運動も監視対象に加えていたのです。
[7:46
これまで、あの人のように話した人はいませんでした]というのは、当初の疑いは、ローマ帝国の植民地支配からの独立騒動に発展する容疑でありましたが、ナザレ人イエスの神の国運動には、その疑いはなかったようです。下役たちは調査の結果、[ルカ
17:21
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです]等の教えにより、罪を悔い改めて、神の国に入るという福音の運動であることが明白になっていたのです。
下役たちの[7:46
これまで、あの人のように話した人はいませんでした]という報告には、敵将エンジェルスのワシントン監督が「翔平はアナザー・ワールドだ。(別世界の選手だ)」といった賛辞すら感じさせられます。それは、「調査の結果、ナザレ人イエスにはローマ帝国の植民地支配からの独立運動の疑いはありません。この人の聖書解釈と教えは、これまでに聞いたことのないような深みと豊かさに溢れています。皆さんもぜひ直接お聴きになられるのが良いと思います」といったきわめてポジティブな評価でありました。それゆえに、ナザレ人イエスを調査・逮捕を主導していた超ネガティブなパリサイ人たちは、そのような報告に対し、[7:47
そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか]と怒りの一喝をくらわしました。
そして、その怒りの一喝の理由を、[7:48
議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか]と「政治や宗教に関し造詣が深く、知識や経験豊かな人間ならそのような分析・評価はしない」と説明し、下役たちの分析・評価・判断を[7:49
それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている]とまでこき下ろします。そこまで来たときに、「それは、言い過ぎでしょう」と、下役たちの分析・評価・判断を弁護する人が出てきます。パリサイ人であり、議員でもあった、律法の専門家ニコデモ(3:1)です。
このニコデモは、ヨハネ福音書に三回登場します。「新生により神の国に入る」3:1,「本人からの事情聴取なしの逮捕・処罰は違法」7:50,「弟子たちが逃げ去った状況での葬りの手伝い」19:39です。わたしは、ヨハネ福音書の編集・構成において、[7:48
議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか]という問いかけに対する回答が示されていると思います。使徒行伝5:34にも、[民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人が議場に立ち]、急進的なパリサイ派の人々に対し、きわめて穏健なアプローチをするように諭している姿をみます。このように、ユダヤ人といっても、わたしたち同様、きわめて多様であり、彼らを十把一絡げに扱ってはならないのです。尊敬に値する人々も多くおられたのです。
ニコデモは、[7:51
私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか]と、ナザレ人イエスを逮捕・殺戮しようとする急進的なパリサイ人たちの先走った判断をたしなめ、ガマリエルは、[使5:38
そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。5:39
しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます]と指導し、そのように導きました。
しかし、この場面での急進的なパリサイ派の人々は、主の知恵ある発言をしたニコデモに対し、[7:52
あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう]と、慎重かつ穏健な発言をするニコデモを蔑み、見下したような反応をしました。ただ、預言者ヨナとナホムはガリラヤ出身でありましたので、これはユダヤ地方からガリラヤ地方に対する軽蔑と偏見の意味合いが強いでしょう。下役たちやさらには律法の教師であるニコデモたちにも、ナザレ人イエスに対する好評価が行き渡りつつあることに、頭に血が上ったパリサイ派の人々の様子を垣間見せる会話のひとこまです。
下役たちは[7:46 これまで、あの人のように話した人はいませんでした]と報告し、ニコデモは[7:51
私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか]と、下役たちの報告を真剣に受けとめるよう勧め、逆に誤った先入観をもって、ナザレ人イエスを裁き、死刑に処することに反対していました。わたしは、そのような良識が当時のユダヤ人たちの間にあったこと、そして1世紀末の教会とユダヤ教会堂と軋轢の中で記されたヨハネ福音書に記されていることは、今日のパレスチナ問題にも良識ある解決を求めているように思います。
イスラエルの過激な人々の多くとユダヤ民族中心の聖書解釈にとらわれている過激なキリスト教シオニズムの人々は、元々あの土地に住んでいたパレスチナの人々の民族自決権を完全に奪い取ろうとしていますが、良識あるイスラエルの人々と健全な聖書解釈に基づき、普遍主義的な神の国理解の下で、パレスチナの地での二国家共存の平和が訪れるように祈っていきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to John”
、安黒務『福音主義イスラエル論 Part Ⅱ:
ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』、ナイム・アティーク著、岩城聴訳『サビールの祈り―パレスチナ解放の神学』)
2025年5月4日ヨハネ7:32~36「わたしを遣わされた方のもとに行きます」-この強力な磁石に反応する「鉄分」の心を賦与してくださいますように-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ojhv8IpangA
ヨハネ福音書(概略)
A.ナザレ出身のイエス捕縛の謀略(7:32)
B.御子なる神イエス・キリストの帰還と引き寄せ(7:33-34)
C.回心したユダヤ人と異邦人からなる神の民・キリストの体・聖霊の宮の展望(7:35-36)
わたしの好きな言葉のひとつに「ひたむきに」という言葉があります。「ひたむきに」とは、[ある物事に対して、それのみに集中して一生懸命とりくむさま]を意味しています。御子なる神イエス・キリストは、[ルカ10:42
必要なことは一つだけです]と言われ、使徒パウロは[Ⅰコリ7:35 ひたすら]、主に[Ⅰコリ7:5
専心する]生き方を勧めています。神の国には、多くのことをなす機会があり、その任務は膨大です。しかし、神の民もまた膨大なので、わたしたちにすべてのことをなす責任はありません。わたしたちは、それぞれになすべきことがあり、果たすべき守備範囲というものがあります。主のみ前にへりくだり、主のみ前で、わたしたちひとりひとりがなすべきことを教えていただき、[ルカ
17:10
自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』]と申し上げる者でありたいと思います。今朝のわたしたちは、今朝の聖書箇所に傾聴することに専心いたしましょう。
今朝の聖書箇所でわたしたちが注目したい箇所は[7:33
わたしを遣わされた方のもとに行きます]という言葉です。この言葉にはどういう意味があるのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、その公生涯の最初から[ヨハ1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊]、また[ヨハ1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者]と紹介されていました。これは、ウルリッヒ・ヴィルケンスが『ローマ人への手紙』の注解書で言うように、御子なる神イエス・キリストが、“贖罪のみわざ”と“内住の御霊の働き”を提供される方であることを明らかにしています。このように見ていきますと、ヨハネ福音書は単にキリストの生涯の描写ということにとどまらず、きわめて神学的内容と構成をもった文書であると教えられます。
[7:33 わたしを遣わされた方のもとに行きます]の[7:33
わたしを遣わされた方]は、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御父なる神であることは明らかです。ヨハネ福音書を深く読み込んでいきますと、そこを基点として、聖書全体の「三位一体の御父・御子・御霊なる神」の教理の内容と構成のあり方を豊かに教えられていきます。特に、ヨハネ14,15,16章は、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御霊なる神聖霊の教えの「宝庫」であります。さて、今朝の箇所は、[7:32
パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、…小声で話しているのを耳にした]という言葉で始まります。先週お話しましたように、「ナザレ出身の大工の息子イエス」が「旧約聖書に約束されてきた、メシヤたるキリストかもしれない」といううわさと分争が急拡大していたのです。
強大なローマ帝国支配下で、宗教的自治権を与えられていたパレスチナの地域で、時々起こっていた「独立運動」はそのような自治権を失わせる危険がありました。[それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした]のです。この[下役たち]というのは、レビ人たちからなる宗教警察権を有する人たちで、宗教的熱狂から生ずるかもしれない「騒乱」の芽を摘もうとしていたのです。教えにおいては、「安息日論争」にみられる急進的宗教改革の傾向、また「ご自分を御父と同等の存在」とする神を冒瀆する大罪、それらがだれにも成し得ない奇蹟の連続もあり、大きな津波のような脅威を感じていたのです。
[7:32
祭司長たちとパリサイ人たち]からなるユダヤ教当局は、[ナザレ出身の大工の息子イエス]につきしたがう群衆の規模に驚愕し、「このような動きが発展し、独立運動の騒乱となると、ローマ帝国から賦与されている自治権を失うことになる」と危機感を募らせていました。ただ、[7:32
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした]のですが、群衆のただ中では逮捕・捕縛には至りませんでした。しかしそこでは、送られてきた[7:32
下役たち]、すなわち神殿直属の宗教警察たるレビ人たちとの議論・対話がなされたのです。
群衆の真中で逮捕するためには、正当な逮捕理由が必要でした。逮捕連行しようとする宗教警察に対し、逃げもせず隠れもせず、ただ意味深な説明をなさいます。御子なる神イエス・キリストは、[7:33もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます]と。これはどういう意味なのでしょう。
[7:33もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて]とは、御子なる神イエス・キリストが「贖罪のみわざ」を成し遂げられる栄光の時までは、まだ半年あるということです。この最後の半年間に、御子なる神イエス・キリストは、ラザロのよみがえり等の決定的な奇跡や助け主なる聖霊についての深い教え等の濃厚なミニストリーをなさっていきます。わたしたちも、奉仕生涯の最後の期間に、意味があり、意義のある小さなミニストリーをなし、御国に帰還できたらと思います。
さて、[7:33それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます]とは、どういうことなのでしょう。これに続く[7:34
あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません]とは、どういう意味なのでしょう。この箇所は、ロゴス・キリスト論から理解されるべき言葉です。ロゴス・キリスト論とは、[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった]ということです。御子なる神イエス・キリストが、受肉されて人間のかたちを取られた。それは、「ナザレ出身の大工の息子イエス」が、上から下へ、神のみもとからこの世に遣わされたことです。
そして、今イエスが去って行かれるのは、この世から神のみもとへの帰還です。つまり、この半年後に、「ナザレ出身の大工の息子イエス」、すなわち「御子なる神イエス・キリスト」が十字架に「上げられる」こと、死人の中から「上げられる」こと、そして天に「上げられる」ことは重層的な意味をもっているのです。ヨハネ福音書においては、十字架即復活であり、復活と昇天の時の区別が明確ではありません。
[ヨハ12:32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます]
[ヨハ3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません]
[ヨハ8:23 わたしは上から来た者です]
[ヨハ3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です]
[ヨハ6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか]
[ヨハ20:17
わたしはまだ父のもとに上っていないのです。…『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」]
[ヨハ1:51 天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります]
ヨハネ福音書では、十字架に上げられることと、昇天がひとつの出来事としてみられています。ヤコブの梯子の夢では、天と地、神とこの世の唯一の接点としての「御子なる神イエス・キリスト」を見よと言われています。このように見ていきますと、ヨハネ福音書においては、復活・昇天があたかも同一の「高挙」として理解されているのです。
[7:34
あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません」というのは、そのように贖罪・復活・昇天で引き寄せられるまことの神の民に対し、「御子なる神イエス・キリスト」を捕縛し、十字架刑に処する者たちへの永遠の断罪の警告でもあるのです。そして、[7:35
まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい]という彼らの想像は、大祭司カヤパが[ヨハ
18:14
一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した]言葉が、預言的意味合いを有しているように、使徒行伝に描かれている「ユダヤ教徒からの回心者のみならず、異邦人回心者をも含む」キリストのからだなる教会を視野に置くものです。
1世紀末の、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、まことの神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮としての教会には、[ヨハ12:32
わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます]と預言された通りに、キリストにある多くのユダヤ人と異邦人が引き寄せられていたのです。受肉されたロゴス、すなわち三位一体の、御子なる神イエス・キリストは、今日もなお、その贖罪と復活、昇天と聖霊の注ぎと内住において、「砂鉄を吸い寄せ、集める強力な磁石」のように、全世界からまことの神の民を引き寄せられているのです。それが、[7:33
わたしを遣わされた方のもとに行きます]と言われたことの意味であり、目的でありました。主がすべての人に、この強力な磁石に反応する「鉄分」、すなわち「回心し、主に従う」心を賦与してくださいますように。祈りましょう。
(参考文献:『松永希久夫著作集 第二巻 ヨハネの世界』「ヨハネによるキリストの死の理解」 )
2025年4月27日
ヨハネ7:25~29「私たちはこの人がどこから来たのか知っている」-「ナザレ人イエス」という現実につまずくことなく、神がそこに隠しておられる意味を尋ね求める生涯-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/yRnoirIZk_Y
ヨハネ福音書(概略)
A.エルサレムにおける人々の分争(7:25-27)
B.御子なる神イエス・キリストの応答(7:28-29)
C.ナザレ人イエスの捕縛の失敗(7:30-31)
さて、今朝の箇所は、御子なる神イエス・キリストが十字架で贖罪のみわざを成し遂げられる半年前の出来事です。すでに三年間、ガリラヤ、ユダヤ、サマリアで宣教活動を続けておられました。弟子たちの招集と訓練(1章)、カナでの奇蹟(2章)、ベテスダの池での奇蹟(5章)、五つのパンと二匹の魚で成人男子だけで五千人を養う奇蹟等(6章)、モーセやエリヤがなしたような数多くの奇蹟をなし、ご自身が特別な存在であることを証しされていました。聖書の本質的な解き明かしをなし、ラビすなわち教師、また預言者、そしてもしかしたらメシヤすなわちキリストかもしれないと人々の中に期待と信仰を目覚めさせていかれました(1:38,41,49,4:29,7:31)。
しかし、このナザレ出身の大工の息子イエスが、安息日の慣習を破り、ご自分を自分の父と呼び、ご自分を神と等しい者として証しされ始めた時、ユダヤ教当局は「ヨハネ5:18
イエスを殺そう」とするようになっていました。それは、ローマ帝国の植民地支配のもとで「植民地支配を打ち破る独立運動」に発展すると、保持している宗教的自治権を失うことを危惧したからでした。大きな騒動に発展する前に、「騒乱の芽」となるものをつもうとしたのです(ヨハネ18:4)。
御子なる神イエス・キリストは、そのような陰謀を知っておられたので、兄弟たちにも知られないかたちで(7:1-9)、いきなり宮の真中に立って教え始められました(7:14-24)。エルサレムではさまざまな反応がありました。[7:25
さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか]とか、[7:26
もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか]とか、[7:31
キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか]とか、様々ありました。
それらの中で、今朝注目したいのは、[7:27
しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている]という箇所です。これは、人々が、イエスはナザレ出身で、大工ヨセフの息子であると知っていたのです。わたしたちの立場でいいますと「人間イエス」であると知っていた、といえるでしょうか。ルカによる福音書によれば、[ルカ2:42
イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。…イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47
聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた]とありますので、藤井聡太棋士や大谷翔平選手のように、若い時からその「神童」ぶりは有名であった様子がうかがえます。
しかし、御子なる神イエス・キリストが「ナザレ出身の大工の息子イエス」であると知っていることは、彼らにとって大きなつまずきとなりました。それは、メシヤたるキリストは、[ミカ5:2
ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている]と預言されていたからです。わたしは、神さまはなぜこのようなつまずきをあえて置かれたのか不思議に思います。神さまは全知全能のお方ですので、人間がつまずくであろうすべての「石ころ」を取り除くことが可能なお方です。そのようなお方であるにも関わらず、「敢えてつまずきの石を、囲碁の布石のように置いておかれる」ことの意味は何なのだろうと不思議に思うのです。
それは、わたしたち信仰者の生涯においても言えることです。神さまは、「敢えて、わたしたちの生涯の、ここかしこに布石を打っておられる」ように思います。布石(ふせき)とは囲碁序盤戦の打ち方です。文字通り、お互いが盤上に石を布いてゆき勢力圏を確保しようとする段階、すなわちこれからどういう構想を持って打ち進めていくかを表すいわば土台作りの段階で、盤上での双方のおおよその石の配置を定めていきます。これが転じて「布石」という言葉は、将来のための準備を意味します。問題は、わたしたちが人生の中で、人間関係、また仕事や奉仕の中で、石ころに躓いたり、立ちはだかる壁に直面したときに、どのように反応し、受けとめるのかが試されているように思うのです。
御子なる神イエス・キリストは、人々が何を考え、何を話し、何に疑問を抱いているのかを洞察し、[7:28
イエスは宮で教えていたとき、大きな声で]回答されました。[7:28
あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています]とは、人々の「ナザレ出身の大工の息子イエスがなぜ、旧約聖書で預言されているメシヤたるキリストであったりするのだろう?」という疑問です。その疑問に対する回答は[しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。7:29
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです」ということでした。
この回答は、実に直截で、野球で言えば、「まっすぐのストレートの剛速球、通り過ぎてからバットを振るしかない」類です。[7:28
しかし、わたしは自分で来たのではありません]というのは、「過去に立ち上がった政治的メシアを自称する植民地支配からの解放者と同じ者ではない」ということです。[わたしを遣わされた方は真実です]というのは、三位一体の御父・御子・御霊なる神、の「御父なる神は実在されているお方である」ということです。そのお方が、御子なる神イエス・キリストを、ナザレ出身の大工の息子イエスとして、「隠された道」また「つまずきの道筋」を通して、ご自身を明らかにされたのです。
[ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2:2
これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。2:3
人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。2:4
ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5
身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。2:6
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、2:7
男子の初子を産んだ。]これは、実に不思議なことです。預言書ミカ書には「メシヤたるキリストはベツレヘムを出自とする」とあるのですが、御子なる神イエス・キリストは、ガリラヤのナザレを生活基盤としていたヨセフとマリヤを通し、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、聖霊なる神により受胎し、本籍地のあるベツレヘムで住民登録するための「帰省中」に出産されたということなのです。
そして、ヘロデ王による殺害を逃れるために、[マタ2:13
彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」2:14
そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、2:15
ヘロデが死ぬまでそこにいた。]そして、[マタ2:20
「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました」との示しを受け、[ガリラヤ地方に…2:23
そして、ナザレという町]に住むよう導かれたのです。これは、主の測り知れない知恵・知識によるものです。主の摂理のもとでなされる、わたしたちの人生の転校・転勤・転任、寄留者のたような生涯とも似てますね。
ヘロデ王が死に、息子のアルケラオがユダヤを治めることになりました(マタイ2:22)。御子なる神イエス・キリストが、ベツレヘムに戻り、成長し、そのメシヤ、またキリストとしての片鱗を見せられていたら、どうなっていたでしょう。ユダヤの人々の希望の象徴となり、担ぎあげられ、ヘロデ王家のユダヤ統治は不穏なものとなっていたでしょう。誕生の年月日も調査され、殺害の危険は大きなものとなっていたでしょう。このように見ていきますと、「ユダヤのベツレヘム生まれなのに、それはふせられ、ガリラヤのナザレ人」と呼ばれ、隠されたかたちで、しかしその人格とみわざ、その聖書の解き明かしと卓越した奇蹟の実体から、「ナザレ人イエス」が一体どのようなお方であるのかを悟るようにチャレンジされていくのが、主のご計画であったのです。「Ⅰサムエル16:7
人はうわべを見るが、主は心を見る」とあるように。
このことは、今日のわたしたちに対するチャレンジでもあります。歴史上の人物として「ナザレ人イエス」の存在は明らかです。そしてそのお方が「わたしが一体どのような者であるのか知っていますか?」と問いかけておられるのです。ヨハネ福音書は、最初の言葉[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった]から、全体を要約する最後の言葉[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]まで、「ナザレ人イエス」が、徹頭徹尾、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであると証言しています。わたしが、あなたが、そしてすべての人が、このチャレンジにどのように応答するのか、それが問われているのです。わたしたちの人生において「神さまが打ってくださっている布石」というものが、どういうものかすべては分かりません。わたしたちは、「神さま、このことはどういう意味なのですか?」と問うことも多くあるでしょう。不条理と思うことも起きうるでしょう。そのような時、「神さまは、なぜ御子なる神イエス・キリストをベツレヘムではなく、ナザレ人として置かれたのか」を問いましょう。そして、「ナザレ人イエス」という現実につまずくことなく、そこに神さまが隠しておられる意味を尋ね求める信仰者として生かされてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to John”)
2025年4月20日
ヨハネ7:19~24「安息日に人の全身を健やかにした」-環境、生活、家庭、生涯を健康でバランスのとれたものとする-
https://youtu.be/xBiRZycv8wM
ヨハネ福音書(概略)
A.律法遵守を建前に、無実の御子を殺そうとする(7:19)
B.悪霊に憑かれているのか、真の神の御子イエス・キリストなのか? (7:20-21)
C.割礼規定と安息日規定の齟齬調整は如何に? (7:22)
D.安息日の本質的目的・意義の判別―人の全身を健やかに(7:23-24)
今朝は、教会の暦で、イースター、御子なる神イエス・キリストが死んで葬られ、三日目によみがえられた日です。御子なる神イエス・キリストの十字架における贖罪死とそこからの復活は、キリスト教信仰の「心臓」にあたります。キリストの贖罪と復活は、一体何を目標としているのでしょう。今朝の箇所で申しますと、「
7:23
安息日に人の全身を健やかにした」ということばに集約されるでしょう。三位一体の御父・御子・御霊なる神の目標は、わたしたちの全身、すなわち全存在を健全なものとすることです。議論の対象とされている「安息日」の問題の焦点は、「わたしたちの存在を健やかに保つこと、真の安息をもたらす」ことでありました。
御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨は、「三位一体の御父・御子・御霊なる神がいかなるお方であるのかを示し、このお方のみ旨とみわざを明らかにする」(ヨハ1:18)ためでありました。御子なる神イエス・キリストの伝道と証しの生涯は、きわめて効率的なものでありました。三年半という公生涯できわめて有効な働きをされました。今朝の箇所で[7:21
わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています]と言及されています。「一つのわざ」とはなんでしょうか。それは[4:5
38年も病気にかかっていた人]が癒されたみわざです。それは、人々がモーセやエリヤの世界で聞いていた驚くべき奇蹟でありました。
しかし、その奇蹟が[5:9
ところが、その日は安息日]であったことが大問題となったのです。御子なる神イエス・キリストに、それが激烈な論争となることが理解できないわけがありません。すなわち、それはいわば「ガスで充満した部屋に火を投じる」ような行為でありました。[4:5
38年も病気にかかっていた人]が癒されたみわざですので、御子なる神イエス・キリストは、だれの目にも「特別な存在である」ことを明らかにされました。しかし、この特別なお方がどのようなお方なのかが分かりません。それで、群衆は「ラビすなわち教師、預言者」とか、「メシヤ、すなわちキリスト」であるとか、いろいろと意見をかわすようになります。
御子なる神イエス・キリストが、当時のユダヤ教社会でだれにも受け入れられる範囲にとどまっておられたら、十字架にかけられることもなかったでしょう。キリストが、またわたしたちが十字架にかけられるように至るのは、人々の許容範囲を突き破って、神のみ旨の範囲に導き入れられる時です。有名なシカゴ・コールに[いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない
]とある通りです。伝統や慣習への忠実と神への誠実が衝突する時があるのです。
御子なる神イエス・キリストは、「モーセの律法への忠実」を振りかざして、御子なる神イエス・キリストを告発し、死に至らしめようとしているユダヤ教当局と対決し、御子なる神イエス・キリストの正当性を立証しようとされています。御子なる神イエス・キリストは、ユダヤ教当局が、御子なる神イエス・キリストがモーセの律法に違反していると主張しているひとつのテーマに論争を挑んでおられます。それが「安息日論争」です。ユダヤ教当局は、御子なる神イエス・キリストがわざわざ安息日に[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒され、[5:11
床を取り上げて歩け]と命じられました。ユダヤ教社会の「安息日行動規範を公然と破る」このような言動を、ユダヤ教当局は見過ごしにできませんでした。
このような追求に対して、御子なる神イエス・キリストは[7:19
あなたがたはだれも律法を守っていません]と不意をつく告発をされました。ユダヤ教当局者は、安息日の行動規範を詳細に規定し、その徹底的な遵守に務めていたにも関わらず、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストから、このような断罪を受けました。
なぜ、このようなことが起こったのでしょう。それは、[7:24
うわべで人を]裁き、[正しいさばき]を下せなくなっていたのです。伝統や慣習の中で盲目となり、さらには盲目の人が盲目の人々を導くと穴に陥る(マタイ15:14)とある通りです。
三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、受肉・来臨され、ご自身がいかなる者であるのかを証しされていきました。その中で「安息日」問題も格好の手段・材料となりました。御子なる神イエス・キリストは、ご自身が「安息日」を設定された三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを示すために、あえて「論争の種」となる安息日を選んで、[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒され、[5:11
床を取り上げて歩け]と命じられたのです。ユダヤ教当局からすれば、「飛んで火にいる夏の虫」と思ったことでしょう。
御子なる神イエス・キリストは、「墓穴を掘っている」とみられたことでしょう。自ら批判材料を提供し、自らを「御父」と同等の存在者としておられた(5:18)からです。今朝の箇所でも、[7:19
モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか]と問われています。神の律法を徹底的に遵守することを教え、その違反者を告発し、締め上げ、時には死に至らしめているユダヤ教当局は、実は、神の目から見ますと[7:19
律法を守っていません]と断罪されているのです。このような視野の狭窄は宗教者に起こりやすい現象です。
[7:19
モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか]の一節は、三位一体の御父・御子・御霊なる神が当たられた律法の意義・目的に対する問いかけです。神さまは、十戒で[出20:13
殺してはならない]と命じられました。しかし、今、ユダヤ教当局者は、無実の「ナザレ出身のイエス」を殺そうと画策しています。しかし、さらに罪深いことは、このナザレ出身のイエスが、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であるゆえに、底なしに罪深い行為となるのです。
そうであるにも関わらず、[7:20
あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか]と真逆の反応を示します。彼らに、ナザレ出身のイエスが[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒したという事実を否定することはできません。多くの人がその奇蹟を見ていたからです。この奇蹟を否定できないが、奇蹟を起こした人物の「人格」を攻撃することはできます。今日における裁判でも、犯罪者を告発する「告発者の人格を貶める」ことを戦術とする事例が多くみられます。ナザレ出身のイエスは、ご自身を三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを明らかにされていきますが、これに反論するかたちで[7:20
あなたは悪霊につかれている]と、「ナザレ出身のイエスは神なのであるのではなく、悪霊につかれており、彼の奇蹟的みわざは悪霊によるものである」と批判しているのです。そして、ユダヤ教当局の「ナザレ出身のイエス」殺害の計略を隠すため、「被害妄想の思いにも取りつかれている」と反論しているのです。
御子なる神イエス・キリストは、そのような「闇」の中にいる彼らに、[7:22
モーセはあなたがたに割礼を与えました]と割礼の由来から説明されていきます。御子なる神イエス・キリストは、ディベートの達人です。論理的体系的に物事を、納得・理解が得られるよう説明し、納得に至るよう語りかけられます。有名な神学者であるアンセルムスは、「わたしが信じるのは、理解せんがためである」と申しました。キリスト教信仰は、世にある多くの宗教のような「迷信」ではありません。わたしたちが、人格的に愛し合って生涯を共にする伴侶のように、キリスト教信仰は、人格的な愛に始まり、その人格的な愛の深まりによって導かれていく信仰です。
今朝の箇所には、御子なる神イエス・キリストが、わざわざ、論争の種になる安息日に癒しのみわざを行われた意味が明らかにされています。それは、安息日が定められた意味・目的が[7:23
安息日に人の全身を健やかに]することを明らかにすることでした。これは、ご自身が、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを明らかにするためでありました。ご自身が定められた「安息日の祝福」を、ご自身が再び明らかにされたのです。
[7:22
モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています]とあります。割礼は、父祖であり、族長であったアブラハムの時から、アブラハム契約のしるしとして与えられた、生まれてから8日目に、包皮を切り取る手術(創世記17:9-14)でありました。それゆえ、安息日に生まれた子供は、次の安息日に割礼、すなわち包皮を切り取る手術を受けました。モーセの十戒では、「出20:10
安息日には、いかなる仕事もしてはならない」と定められています。それゆえ、割礼の定めか、安息日規定のどちらかを遵守とどちらかに違反する選択をすることになるのです。
ユダヤ教の伝統と慣習では、アブラハム契約のしるしとしての割礼の手術を優先し、安息日を常習的に破るかたちとなってきていました。御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父・御子・御霊なる神のみ旨が示されている律法の、幹と枝、本質と殻、緊急性と必要性における優先順位等の柔軟性を、策定者本人として明らかにされているのです。そして、安息日の本来の目的、ご自身の本質的意図が[7:23
わたしが安息日に人の全身を健やかに]することであることを明らかにされているのです。わたしたち、今日のキリスト教会においても、教会活動や諸行事の遂行が目的化しやすい中で、クリスチャンひとりひとりの[7:23
人の全身を健やかに]するため、イースターに御子なる神イエス・キリストを死者の中からよみがえらせられた御霊なる神聖霊は働いておられます。信仰者の環境、生活、家庭、生涯を健康でバランスのとれたものとすることを、三位一体の御父・御子・御霊なる神が、意図され、そのようなただ中で聖霊が働いておられることを意識し、そのようなお方のみ旨を探り求めつつ、生きてまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to John”)
2025年4月13日
ヨハネ7:14~18「その人には、分かります」-羊たちはその声を聞き分けます。彼の声を知っているからです-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SOC3Yyvl4rU
ヨハネ福音書(概略)
A.七日間の仮庵の祭りの半ばに(7:14)
B.ラビとなる特別な訓練もなく(7:15)
C.三位一体の御父・御子・御霊なる神の一体性・透明性の下で(7:16)
D.羊は、羊のためにはいのちをも捨てる羊飼いの声を知っている(7:17-18)
教会の暦において、今週は受難週、来週はイースターにあたります。ただ、福音書の展開をみていますと、御子なる神イエス・キリストの生涯は、受難の生涯といえます。ベツレヘムでの誕生の際にも、ユダヤの王に任じられていたヘロデ大王に殺されそうになりました。エジプトでの逃避生活、そしてナザレでの大工ヨセフの下での密やかな生活の後、約三年半の公の働きに入られました。三年半と申しますと、中学校や高等学校の三年間のように大変短い期間であり、あっと言う間に過ぎ去る期間です。なんという濃厚な三年半であったことでしょう。この七章は、公生涯の三年間を経過し、十字架につけられる半年前にあたります。
この三年半を表することばに、[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている]ということばがあります。御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨は、まさしく闇の中に投じられた光でありました。闇は、光を吹き消そうとやっきになりました。しかし、闇が深くなればなるほど、その光はこうこうと照り輝きました。第七章では、御子なる神イエス・キリストが、彼の兄弟の指示によってではなく、そのあとでエルサレムに上っているのを見ます。これは、三度目の旅行であり、御子なる神イエス・キリストは殺意の危険に溢れているユダヤに留まろうとしておられます。受難のミニストリーの最終コーナーに差し掛かかっています。
[7:14
祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた]という言葉で始まります。これは、仮庵の祭り、すなわち「収穫祭」(出23:16,34:22)とも呼ばれている祭りで、ユダヤ人の3大祭の一つで,ユダヤ暦の第7月の15日から22日までの7日間開かれていました。これは、刈入れが終ったその年の終りに持たれ,すべての男性はこの祭の時に主の前に出るように定められていました(出23:14‐17,34:23,申16:16)。それは喜びの時であり(申16:14)、仮庵の祭という名称は,イスラエル人すべてがその祭の7日間は木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むよう命じられているところからきています(レビ23:42)。この祭はイスラエルの民のエジプトからの脱出に関連し,荒野における放浪と仮小屋での居住を記念する意味合いを持っていました(レビ23:43)。
御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨の目的は、ご自身を通して、「三位一体の御父・御子・御霊なる神」がいかなるお方なのか、そしてご自身を通して如何なるみわざをなそうとしておられるのかを示すためでありました。しかし、ユダヤ教の信仰の特質上、「人間イエス」を神として認めることは、きわめて困難なことでありました。また、そのようにご自身を示唆し、表明される「大工ヨセフの息子イエス」は、伝統的なユダヤ教においては、神を冒瀆するもののように思われ、死刑に処せられるべきだと受けとめられていました。ここに、神の啓示の不思議を教えられます。旧約において、特にモーセの十戒とそれに関連する教え、また神の民イスラエルの歴史において、偶像礼拝の禁止、また人間を神とすることの禁止を教え込みつつ、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが「人間イエス」に受肉し、来臨されるという方法をとられたという不思議です。もっと躓かない来臨方法となかったのかとも思いますが、神の知恵と人間の知恵の天と地ほどの開きを教えられます。そこには人間の浅はかな知恵では測り知れない神の知恵が隠されているのでしょう。
それは、まさに旧約において啓示された三位一体の御父・御子・御霊なる神の教えの根幹、モーセの十戒の第一戒から四戒までを吹き飛ばすような、御子なる神イエス・キリストの「人間イエス」受肉・来臨のかたち(ピリピ2:6-11)です。それは、まさにユダヤ教信仰の単一神信仰のど真ん中に投じられた「巨大な爆弾」のように受け取られたことでしょう。実に、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨による自己証言は、伝統的ユダヤ教の神理解においては、「神に対する冒瀆」の罪に値すると判断され、「ナザレ出身の、大工ヨセフの息子イエス」は執拗にいのちを付け狙われることとなりました。神さまは、時に、人間の知識・知恵を超えた、一見矛盾するかのような導きをなさいます。約束の象徴である「イサク犠牲」を求められたアブラハムの経験のような類です。わたしたちの生涯の中にも、そのような「矛盾に満ちた」ものを発見します。しかし、よくよく振り返ると「万事を益とするそのような導きがわたしには最善であった」と感得させられるのです。藤井聡太さんの将棋のような「詰みを読み切った」一手一手であったと…。
わたしたちがヨハネ福音書にみる、ユダヤ教伝統内における「御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨」に対する反応は、三年半の公生涯の時を経るに従って、またご自身を明らかにされるに従って激烈なものになっていく様子です。ユダヤ当局は、すでに「ナザレ出身のイエス」を死刑に処することを決定しています(ヨハ7:19)。これらの当局者は、パリサイ派と呼ばれ、それと大祭司は結託(7:45)しています。七章であきらかにされている和解しがたい敵意は、第八章以降も継続していきます。
御子なる神イエス・キリストとユダヤ教の当局たちの出会いや、彼らの不成功に終わったイエス逮捕の試み(7:32,45-49)は、受難物語で何が起ころうとしているのかを示唆しています。この段階では、明らかにエルサレムの市民にはイエスを潜在的に支持する者たちがいます。確かに、すべての者がイエスに反抗しようと決めていたのではないし、多くは肯定的な印象(7:12,15,25-26,31,40,43,46)をもっています。。その光と闇のせめぎ合いが、そのエルサレムで、仮庵の祭りの最中に繰り広げられているのです。わたしたちの毎日の生活もそのようであるのかもしれません。
御子なる神イエス・キリストは、七日間の祭りの半ば、密かに、その中心地である神殿の境内に登場されました。そこは、逮捕・裁判・処刑につながる危険な場所でありましたが、大勢の集まる場所であり、逮捕を躊躇せざるをえない、逆に安全なところでもありました。そこは、他のラビたちも教えていたところであり、御子なる神イエス・キリストが、ご自身が如何なる者であるのか、またどのようなみわざをなそうとされているのかを知らしめるのにふさわしい場所でありました。御子なる神イエス・キリストは、やみくもに危険に飛び込むのでもなく、殺されることを恐れて地方に引きこもるお方でもありませんでした。神の時、カイロスをわきまえ、御父の導きに従い、綱渡りのような、狭く細い道をたどるかたちで、なすべきミニストリーを遂行されていました。わたしたちも、そのようでありたいと思います。
ガリラヤの会衆は、「マタ7:28
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。7:29
イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」とありますが、ユダヤのエルサレムの会衆も、[7:15
この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか]と驚きました。ユダヤ当局の人たちが[7:15
この人は学んだこともないのに]というのは、当時のユダヤ人社会では、教師すなわちラビとして登場するためには、権威ある学派に属し、そこで学的訓練を受けている必要があったからです。権威ある先輩教師すなわちラビたちの教えに基づいていないと、権威ある教えとして認知されなかったのです。
そのような背景のあるユダヤ教社会で、「ナザレ出身の大工ヨセフの息子イエス」は、突如三十歳にして公の場で聖書を解き明かし、教えるミニストリーを開始されたのです。それは、モーセやエリヤのように旧約を代表する預言者のようなしるしと不思議を伴うミニストリーであり、その聖書の解き明かしは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの権威に溢れたものでありました。律法学者が、権威ある情報源の長いリストを引用して学者のように教えるに対して、御子なる神イエス・キリストは有名な教師、すなわちラビから学んだこともないのに、聖書を使いこなし、その解説において優れた熟達度を示されたのです。
7:15
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」という問いに対し、イエスは彼らに答えられ、[7:16
わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです]と言われました。要するに、学者は「三位一体の御父・御子・御霊なる神が語られたことを記録した預言者たちの教えを解説した諸説のひとつを自分の見解」として示すのでありますが、御子なる神イエス・キリストが言わんとされていることは、「聖書を通して語ろうとし、語られた三位一体の御父・御子・御霊なる神の本心を明らかにし、取り次いでいる」のだと言っておられるのです。つまり、「ナザレ出身のイエス」であるわたしは、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であり、「わたしの教えは、わたしを受肉・来臨のかたちでこの地上に派遣された御父との一体性から、御父の教えそのものである」ということなのです。
御子なる神イエス・キリストの立場から申しますとその教えの内容・実質から判断しなさい。本当に、まことの神を愛し、その方を信じ、受け入れ、その方の真のみこころ、真のみ旨を行いたいと願っている者には、[7:17
この教えが神から出たものなのか」、そうでない内容と実質をもつものなのか判別できます、と言われました。これは、何を言わんとされているのでしょう。それは、御子なる神イエス・キリストの教えを聴く側の「品質」「人間の状態」が問われているのです。キリスト教信仰とは一体何なのでしょう。それは、単純に「イエス・キリストをどのように理解し、どのように受け入れ、どのように生きていくのか」というだと思います。わたしたちには、人生の中で、イエス・キリストに出会う「神の時、カイロス」が提供されています。それは、どのような瞬間なのでしょう。わたしは、ある意味で信仰とは「初恋」に似ている、「一目ぼれ」に似ていると思います。
わたしたちが、だれかに好意を抱けば、その人のことを知りたくなります。その人のそばにいたくなり、その人の声を聞きたくなります。その人と親しく交わりたくなります。わたしたちは、人生のある瞬間に「イエス・キリストとの初恋、あるいは一目惚れする瞬間」に招かれているのです。わたしたちは、羊が羊飼いの声を知っているように、イエス・キリストの声を知るようになります(10:4)。イエス・キリストとの人格的な深い交わりを通して、このお方を深く知るようになります。またこのお方がどのようなみわざを成してくださったのかを理解するようになります。わたしたちは、このお方に全幅の信頼を置き、愛し、仕え、夢中になり、一生涯伴に歩んでいくのです。
[7:17 自分から語っている]とか、[7:18
自分から語る]というのは、学者として語り、自説を通し、自身の栄誉を追求している教師のことでしょう。御子なる神イエス・キリストは、ある意味「透明化」され、御父が御子を通し、御霊によって明らかにされる点において、諸説のひとつであり、個々の学者の栄誉に結びつくものでありません。そこで明らかにされるのは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の一体性であり、三位の中で「透明化」されたただひとつのみ旨のみです。この教えは、「羊のためには、いのちを捨てます」という良き羊飼い(ヨハ10:11)の内容と実質を持っているので、羊は、「ヨハ10:3
その声を聞き分ける」ことができるのです。
三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、「ヨハ10:3
良き羊飼いの声」を発しておられました。その声を聞き、「初恋」「一目惚れ」のように、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを受け入れようとする人々と、その声を聞き、「神に対する冒瀆だ」と断じ、殺そうとする人々がいました。それは、ヨハネ福音書でヨハネが描く「光と闇の世界」です。この受難週、紀元30前後、一世紀末の教会、そして今日の世界においても、この「光と闇の世界」があることを覚え、ひとりでも多くの人を光である御子なる神イエス・キリストに向き合えるよう、私たち自身が「光の子」となって、暗闇の中に小さな灯を掲げてまいりましょう。暗闇が深くなれば、人々が暗闇の中の小さな灯に気がつくことを期待して、祈ってまいりましょう。
(参考文献: D.A.Carson,“The
Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【3】』)
2025年4月6日
ヨハネ7:10~13「イエスについて公然と語る者はだれもいなかった」-御子なる神イエス・キリストを信じ、告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかれる者とされるよう祈ってまいりましょう-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SByp5iEIBrw
ヨハネ福音書(概略)
A.表立ってではなく、内密に―御子の「孫氏の兵法」(7:10)
B.ユダヤ当局は、御子の捕縛・抹殺を模索していた(7:11)
C.群衆の反応は分かれていた(7:12)
D.ユダヤ当局への恐れは、沈黙・躊躇を強いていた(7:13)
本シリーズは、『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズと題しています。それは、J・ルイス・マーティンが彼の『ヨハネ福音書における歴史と神学』で論じているように、「ヨハネ福音書の物語は、二つの舞台で演じられている」と推測されるからです。つまり、紀元30年前後のイエス在世中の舞台と、ヨハネ福音書が執筆された1世紀末の教会の舞台との重なりです。「ヨハネ福音書の神学」を傾聴するとは、マーティンが指摘している「1世紀末の教会、という第二の舞台でヨハネのキリスト教共同体の必要から、また必要に関連して、その神学的強調が如何に引き起こされたのか」を解き明かすことです。そして、その強調点を日本の宣教の歴史に、また21世紀の伝道と教会形成、そして信仰生活に生かしていくことです。
今朝の箇所は、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]ということばをもって始まっています。これは、エルサレムでの[ヨハ7:2
仮庵の祭り]の時を生かして、五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったようなしるしと不思議を伴う大々的な宣教活動を勧めた兄弟たちの提案を背景とするものです。この素晴らしいとも思われる提案を、御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ7:6
わたしの時はまだ来ていません。…7:8
あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです]と退けられていました。
わたしは、ここに、「神の時(カイロス)」の重要性を教えられます。奉仕生涯の初期に、神学校で「宣教学」を依頼され、フラー神学校のグローバル・エデュケーション・プログラムのテキスト・資料を基に「①宣教の聖書的基盤、②゜宣教の歴史的・地理的展開、③宣教と文化の関係、④宣教の戦略的構築」という構成で講義していました。そこで教えられたことは、宣教は霊的・神学的準備だけでなく、宣教対象の研究やそこにどのように福音を到達させるのかの戦略が大切であることでした。現在のミャンマーであるビルマ宣教の父と言われたアドニラム・ジャドソン宣教師は、平地の仏教徒地域と山地のシャーマニズムの地域の両方で宣教し、同様の労力を注ぎましたが、仏教徒の地域ではあまり収穫がなく、シャーマニズムの地域で大きな成功をおさめました。
わたしは、伝道・教会形成・神学教育という宣教の三つの機能において、「孫氏の兵法」のような、自身の準備、対象の研究、戦略の構築の三つの必要を教えられました。今朝の箇所の、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]というのは、御子なる神イエス・キリストが、孫氏のような兵法家であったことを教えています。といいますのは、御子なる神イエス・キリストのしるしと不思議を伴う宣教活動は、ユダヤ当局を刺激し、[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たち(ユダヤ当局)は、ますますイエスを殺そう]とするようになっていたからです。
このユダヤ当局の、御子なる神イエス・キリストに対する態度・行為をどのように考えたら良いのでしょう。ルカによる福音書に次のようにあります。[ルカ20:9
また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。20:10
収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。20:11
そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。20:12
彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。20:13
ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』20:14
ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。20:15
そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。]
三位一体の御父・御子・御霊なる神は、ユダヤ民族を通して、全人類の救いをもたらそうと計画されました。彼らを通して、全世界に救いの祝福を提供しょうとされました。多くの預言者を送り、そして最後には御子なる神イエス・キリストを、神・人二性一人格のお方のかたちで、マリヤを通して送られました。しかし、[ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、人間の知性や理性において、ナザレ出身の「人間イエス」を、「三位一体の、御子なる神イエス・キリスト」として受け入れることは困難でありました。
そして、なかなかそのことを受け入れがたいというだけでなく、[ヨハ5:18
神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]、そのためユダヤ人たち(ユダヤ当局)は、ますますイエスを殺そうとするようになっていたと言われているのです。それゆえに、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]のです。もし公然と、仮庵の祭りに行かれていたら、『飛んで火に入る夏の虫』のごとく、イエスの周辺、また群衆の中にも忍び込ませていた諜報網からの情報で、仮庵の祭りで宣教活動する以前に、逮捕され殺されていたでしょう。
タイガースのヒンチ監督は、「ドジャースの大谷選手が打席に立つを見たくない」といったそうですが、当時のユダヤ当局にとって「ナザレ出身のイエスが、メシヤとして振る舞う」ところを見たくなかったのです。ユダヤ・サマリヤ・ガリラヤのパレスチナ全土を席巻する「ナザレ出身のイエスの運動」を封じ込めるのにやっきになっていたのです。その様子が、[7:11
ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた]ということばに示されています。
[7:12
群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた]と、いろいろと評価が分かれていました。これは、イエス在世当時も、1世紀末のユダヤ教会堂においても、今日のわたしたちの世界でも同様です。「ナザレ出身の人間イエス」は、果たして「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であるのかどうか、という問いです。イエス在世当時も、1世紀末の教会やユダヤ教会堂の周辺でも、今日の世界でも、「ナザレ出身の人間イエス」は、「御子なる神イエス・キリスト」であるのかどうか、という問いが、わたしたちひとりひとりに突き付けられているのです。
[7:13
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった]とあります。これは、イエス在世当時の状況に重なり合う、1世紀末の教会とユダヤ教会堂の状況があった故だと推測されます。この叙述は、本シリーズの最初にお話ししました状況が背景にあると推測されます。それは、[2025年4月28日
ヨハネ9:22, 12:42,
16:2「導入―ヨハネ福音書の背景」-はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ]です。
https://youtu.be/TMIFO_8ldaE
そこでは、1世紀末の教会の周辺にあるユダヤ教会堂では、「御子なる神イエス・キリストを告白する者は、会堂から追放される」という通達があったことに符合します。
ですから、このヨハネ福音書は、イエス在世当時を記録するという使命とともに、それらの中から、1世紀末の状況への生きたメッセージを取り次ぐという使命も帯びていたのです。神のみことばを記録する務めは、ただオウム返しのように記録するだけでなく、新しい状況に移し並べ、翻訳し、新しく語らねばならないのです。新しい状況にふさわしい使信として妥当性を発揮しなければならないのです。ヨハネは、そのことに成功していると思います。[7:13
ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった]という、イエス在世当時の状況の中から、その特徴を抽出し、それを1世紀末のユダヤ教会堂の中の隠れキリシタン等に適用しているからです。
ユダヤ教当局は、イエス在世当時、「御子なる神イエス・キリスト」を亡き者にしようと画策し、1世紀末においては、「御子なる神イエス・キリストを告白する者」をユダヤ教会堂から追放しようとしていた(ヨハネ9:22)のです。このような「恐れ」は、今日においても存在します。日本においても「仏教檀家制」や「神道氏子制」の根の張った地方では、自治会活動や家族・親族の冠婚葬祭のつきあいのあり方において、いつも戦いがあります。そのような目に見えない圧力が、キリスト教に好意を抱いても、また御子なる神イエス・キリストを信じるところまで近づいても、最後の一歩を踏み出すこと、信仰告白をなし、洗礼を受け、聖餐共同体に結ばれて生きることを躊躇させる一因となっています。
ヨハネ福音書は、そのような「躊躇」を取り扱うことを意図して記された書物です。[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]と書かれている通りです。教会の近くまで、また御子なる神イエス・キリストのすぐ近くまで接近して立ち止まっている人たちのために祈りましょう。御子なる神イエス・キリストを信じ、告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかれる者とされるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、『松永希久夫著作集
第二巻 ヨハネの世界』)
2025年3月30日
ヨハネ7:1~9「わたしの時はまだ来ていません。満ちていません」-神さまの「カイロスの時」を、見誤ることなく、見失うことなく-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/9H5rOwhbVGc
ヨハネ福音書(概略)
A.中心地でのユダヤ伝道を避け、ガリラヤでの地方伝道を(7:1)
B.仮庵の祭りという晴れ舞台活用の提案(7:2-5)
C.神さまの「カイロスの時」を、見誤ることなく、見失うことなく(7:6-9)
第七章は、[7:1
その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった]という言葉をもって始まっています。これは、今日の世界でも、イスラムやヒンズーの過激なグループのいる地域で、キリスト教宣教師が直面する危険とも重なります。1世紀のパレスチナの地域では、一般のユダヤ人というよりは、ユダヤ教当局のパリサイ派のリーダーたち(ヨハネ5:18)や大祭司たち(ヨハネ18:14)が、パレスチナの地域の騒乱の元になりかねない「御子なる神イエス・キリストの宣教団」の活動を封じ込めようと躍起になっていた様子がうかがえます。それゆえに、宗教的中心地であり、神殿もあるエルサレムやユダヤ地方にある逮捕や殺害の危険を避けて、ガリラヤ地方での、ある意味「ゲリラ的伝道活動」に専念されていたのでしょう。
しかし、「五つのパンと二匹の魚で成人男子だけで五千人を養う」という、エジプトからの解放と四十年の荒野を導いたモーセに匹敵するような奇蹟を垣間見せられた御子なる神イエス・キリストの奇蹟の後、「わたしは天からの生けるパン」「わたしの血を飲み、肉を食べる」説教は、多くの追従者につまずきを与え、離れ去る原因となりました。「御子なる神イエス・キリストの宣教活動」は危機的状況に陥っていました。モーセのような預言者や、優れた宗教指導者たる教師(ラビ)としての自己紹介にとどまっておられたら、御子なる神イエス・キリストの宣教活動が崩壊の危機を迎えることはなかったでしょう。これは、み言葉のまっすぐな解き明かしに召されている牧師にも言えることです。人々を集めるために、[Ⅱテモテ4:3,4
心地よい話や好みに迎合し、真理から耳を背け、作り話にそれていく]状況は起こり得る誘惑のひとつです。わたしたちは、時が良くても悪くても、聖書のみことばをまっすぐに語り、伝えることに専念致しましょう。
御子なる神イエス・キリストの、肉の兄弟たちはそのような状況を憂えて、[7:2
仮庵の祭り]を挽回の機会にすべきだと助言します。[7:3
ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができ]、離れ去った弟子たちも戻って来るのではないでしょうか。中央から離れた、ガリラヤの田舎で単発的に伝道活動をしていてもあまり効果的ではないでしょう、と。[7:4
自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい]と、兄弟たちが「御子なる神イエス・キリストの宣教活動」に参加していた動機が垣間見えます。彼らの参加動機は、中央進出であり、多くの追従者の支援のもと、宗教界また政治の世界で「公の場に出る」ことであったことを示しています。肉親の兄弟たちが、「御子なる神イエス・キリスト」が如何なるお方であるのかをはっきりと理解するようになったのは、復活後であり、昇天と聖霊の注ぎの後でありました。「灯台下暗し」と申しますが、御子なる神イエス・キリストを肉親として暮らしていた兄弟がそこまで時間がかかったことに驚きを禁じ得ません。そして、「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」と認めることの困難さがいかばかりであったのかを教えられます。本当に、「人間イエス」を「三位一体の、御子なる神イエス・キリスト」として理解することは、聖霊による恵みであるのです。心を開いて、この恵みを受け入れる者とされましょう。
[7:4 公の場に出る][自分を世に示しなさい]という兄弟たちの直言に対し、[7:6
わたしの時(カイロス)]についての理解と、[7:7
世(コスモス)]についての理解を教えられます。御子なる神イエス・キリストの周囲に集まった弟子たち、兄弟たち、群衆等も、その「福音理解」に関しては漸進的でありました。御子なる神イエス・キリストのすべてのしるしと不思議、すべての教え、人格的な深い交わり等、すべてのことは、「人間イエス」が如何なるお方であり、如何なることを人類に対してなしてくださるのかを知らしめることが目的でありました。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハネ1:29
世の罪を取り除く神の小羊]と紹介されているように、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]るためであり、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため]でありました。
それゆえ、御子なる神イエス・キリストのすべての関心の焦点は[7:6 わたしの時(カイロス)]に向けられていました。[7:6
わたしの時(カイロス)]とは、如何なる時なのでしょう。それは、[ヨハ17:1
父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください]と言われた十字架のみわざを成し遂げる時のことでした。弟子たちも、肉親の兄弟たちも、群衆も、「人間イエス」は、多くの支援者獲得後に、モーセのような指導者に、ローマ帝国からの解放者、政治と宗教界の指導者たる王になられるお方だと期待していました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、その真逆の「犯罪者として十字架につけられて死ぬ」というかたちで、そして三日の後に復活し、四十日後に昇天され、天上の右の座に着座され、そこから三位一体の御霊なる神、聖霊をお注ぎになりました(使徒2:30-33)。そして、その後に初めて真の意味の回心による御霊の内住が経験されていきました。内住の御霊によってはじめて、分からなかった多くの事柄が理解できるようになりました。
御子なる神イエス・キリストは、いつも神の時、神の摂理のカイロスの中に生きておられました。三位一体の御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父なる神に、まったき従順の中に生きておられました。わたしたちは、[7:6
あなたがたの時はいつでも用意ができています]とあるように、御父なる神の御思いを悟ることなく、ある意味、きわめて鈍感に、自分の思い、自分の判断、自分の浅知恵で、生きてしまうところがあります。しかし、御子なる神イエス・キリストは、繊細かつ敏感に、御父なる神の御思いを察知され、「ヨハネ10:30
わたしと父とは一つです」といわれるほどに、一体性を示しておられました。わたしたちも、御子がそうされたように、御父の御思い、御霊の御思いとの一体性を、神律的相互性の中で求めてまいりましょう。
御子なる神イエス・キリストは、[7:6 わたしの時はまだ来ていません]、また[7:8
わたしの時はまだ満ちていない]と言われました。なぜ、このような言い方をされたのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、エルサレムで十字架につけられることから始まる一連の神のみわざについてご存じでした。この後、四ヶ月にわたる後期ユダヤ伝道が開始されていきます。それは、陸上競技の1500mや800mの競争で言えば、最終コーナーにあたる一番苦しい場面です。最後の後期ユダヤ伝道は、殺意に満ちた人々の中に飛び込む宣教活動でありました。御子なる神イエス・キリストは、最後までみきわめ、その中で十二弟子が散らされることを知りつつ、彼らを中核とする「キリストのからだなる教会」の下拵えの仕上げをされていったのです。そして、それは、過越しの小羊の犠牲の日から数えて、50日後のペンテコステの日に実現してまいります。
今日の箇所で、 [7:7 世]について大切なことが語られています。[7:7
世はあなたがたを憎むことができない]とは、どういう意味なのでしょう。それは、イエスの肉親の兄弟たちが、世と同じレベルで物事を考え、御子なる神イエス・キリストを捉えていることです。[7:7
世は、わたしのことは憎んでいます]とは、どういう意味でしょう。それは、[ヨハ5:18
ユダヤ人(当局者)たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]です。人間イエスは、ご自身が三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストであると、事あるごとに示唆されてきました。それだけでなく、ユダヤ教徒が遵守していた安息日や神殿の周囲に開いていた店の宮清め等も、ご自身を神とするような権威をもって遂行されていました。御子なる神イエス・キリストとしては、当然なすべき行為であり、見過ごしにはできない状況の改変でありました。しかし、それらは、当時の宗教的権威に逆らうことであり、ご自身を神としてふるまう「人間イエス」の所業は、看過できないものとなっていたのです。
そのような御子なる神イエス・キリストの行動・行為は、「ヨハネ1:5
闇の中に輝く光」の働きであり、すべての人を照らす光がこの世に来たのに、人々はそのことを知らず、受け入れるべきであった民も、受け入れないだけでなく、送られてきた御子を殺そうとしていたのです。御子なる神イエス・キリストが、ご自身の本性を明らかにされるほどに、対立は先鋭化し、パリサイ人たちや大祭司たちの闇は深いものであることが明らかにされていきます。この光と闇のコントラストは、ヨハネ福音書の神学の重要なテーマのひとつです。[わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです]というのは、御子なる神イエス・キリストが、ご自身を明らかにされていくごとに、その「光」の光度は増し加わり、「闇」は反比例するごとくその殺意を先鋭化することにつながっているということです。わたしたちは、ヨハネ福音書の神学を通して、罪とは何であるのか、その深みを教えられます。
パリサイ派の人々や大祭司たちは、「熱心な宗教家」であろうとはしているのですが、まことの神である「三位一体の御父・御子・御霊なる神」がご自身を明らかにされていった時、彼らの「闇」をあばく、その「光」の明るさに耐え切れず、その光を消し去ろうとしていたのです。御子なる神イエス・キリストは、そのような状況を知り尽くしておられたので、ユダヤ地方、そして三大巡礼祭である「過越しの祭り(3-4月頃)、七週の祭り(過越しから50日後)、仮庵の祭り(9-10月)」のうち、最も人気のある収穫祭(仮庵の祭り)に大々的に参集するのではなく、[ヨハ7:10
兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ]ました。御子なる神イエス・キリストは、無鉄砲なお方ではなく、今日異文化の宣教困難地域で奉仕する知恵ある宣教師のように、[マタ
10:16 蛇のように賢く、鳩のように素直]なお方であったことを教えられます。
旧約聖書の伝道者の書に、[伝3:1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。…3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい]とあります。わたしたちクリスチャンの人生においても、それぞれに[7:6,8
わたしの時]―神のカイロスの時があると思います。神さまの「時」を、見誤ることなく、見失うことなく、ジャストのタイミングで、それらの「時」を掴んでまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年3月23日ヨハネ6:64~71「あなたがたも離れて行きたいのですか」-神の主権が完全に確保されつつ、同時に、人間の自由と主体性が全面的に活かされる-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/A9xET5ilcVk
ヨハネ福音書(概略)
A.信じる者、信じない者、裏切る者の背後にある御父の主権的選び(6:64-66)
B.シモン・ペテロとイスカリオテのユダの対照的応答の背後にある神律的相互性(6:67-71)
『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、その名の通り、ヨハネ福音書の中にある神学的なメロディーを聴き取ろうとする試みです。これは、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』に、その名を由来しますが、そこにとどまらず「組織神学を長年講じてきた者は、その生涯の終わりに注解書を書くべきだ」といわれることに励まされ、組織神学的な味わいを含む講解説教シリーズに導かれていると言えます。ある意味で、神学的含蓄の豊かな、1世紀末に書かれたヨハネ福音書から組織神学的意味合いを汲み取ろうとする試みであるとともに、組織神学という神学的視点からヨハネ福音書の著者の意味しようとした内容を抽出しようとする試みであります。
今朝の箇所は、[6:64
けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます]ということばから始まります。それは、まだ昇天され、聖霊が注がれていない段階ですので、どの程度までかは分かりませんが、御子なる神イエス・キリストへの信仰の萌芽がみられる人々の中に、そのようなご自身を次第に明らかにされていくに従って、ついていくことができなくなっている人々が起こってきたことが垣間見られます。御子なる神イエス・キリストは、人々の心の内を洞察できるお方でしたから、彼らの心の内にあるものをよく知っておられ、成人男子だけで五千人を養った奇蹟で驚嘆した群衆と彼らのリーダーたちは、「天からのパン」「血と肉を食べる」話をされる御子なる神イエス・キリストには、「このような人物にはついて行けない」とアレルギー反応を起こし、手から砂粒がこぼれていくように、浜辺から潮が引くように離れ去っていきました。
このようなことは、よくあるものです。Ⅱテモテ4:2-5に書かれていますように、みことばを真っすぐに解き明かすとき、そのような反応が起こることがあります。それで、心地良い話とか好みに寄り添う話が好まれる時代が来るとあります。真理から耳を背ける時代が来ます。信徒が離れていくようなケースも起こり得るでしょう。ですから、どんな場合でも、そのような苦難に屈することなく、御子なる神イエス・キリストのように、みことばを真っすぐ解き明かし、自分の務めを十分に果たすべきなのです。
教会では、教会学校やキャンプや、英会話クラス、また家庭集会、クリスマス・コンサート等、さまざまな集会を通じて、多くの人を教会に招きます。それは、五つのパンと二匹の魚で、群衆を養うようなものです。多くの人が、喜びと感謝に満たされます。そして、それらの中の一部の人々が、御子なる神イエス・キリストを信じる方向へと進み入り、大半の人々はこの世へと帰っていきます。わたしたちは、だれが信じるのか分かりません。それは、聖霊によるみわざです。ひとりひとりが主の前に立たされ、御子なる神イエス・キリストを信じる方向へと進み入るか、背を向けて立ち去るのかを迫られます。
わたしたちには、だれが、御子なる神イエス・キリストを信じたいと思うのか分かりません。なぜ、その人がそのような思いを抱くようになったのか、分かりません。それは、その人をそのような思いに導いた聖霊のみわざであります。そのようなみわざを、聖書は「御父が与えてくださったから、御子なる神イエス・キリストを信じたいという思いを抱くようになったのだ」と言います。本当に、「魂の救い」というものは、神による奇蹟です。ある日突然に「御子なる神イエス・キリストを信じたい」という思いがわたしたちの思いを包み込むようになるのです。
それは、「神さまのことが全部分かったから信じる」とか、「聖書のことが全部理解できたから信じる」というようなものではありません。それは、「一目ぼれ」のような出会いだったり、「fall
in
love」といった「愛に陥る」といったものに似ています。とにかく「御子なる神イエス・キリストに夢中になる」のです。そして「理解は、そのあとにいつまでも続く」のです。そのような出会いを「摂理」と申します。全知全能の神さまが、わたしたちと御子なる神イエス・キリストの出会いを計画、聖定し、地形を造られます。天から注がれた雨は、その地形に沿って河川となり流れていきます。御父は、そのようにして、わたしたちが御子なる神イエス・キリストとの出会いを設定し、聖霊によってそれを達成されるのです。
わたしたちは、すべての人が救いに導かれることを祈り、期待し、さまざまな活動に取り組みます。しかし、[ 6:65
父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない]ということもまた、事実なのです。わたしたちは、わたしたちの個性と賜物を用いて、ベストを尽くします。そして、主の御手に委ねることを学んでまいりましょう。
ローマ帝国の植民地支配からの解放を期待して集まっていた群衆とそのリーダーたちは、御子なる神イエス・キリストの「天からのパン」と「血を飲み、肉を食べる」発言で、「これはついていけない」とアレルギー反応を起こし、[6:66
弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなく]なりました。御子なる神イエス・キリストは、十字架の出来事まで一年となった時点で、「本性」をさらし、「本心」を明らかにされ始めたといえるでしょう。これまでのしるしと不思議、また奇蹟は、「御子なる神イエス・キリストのありのまま」を受け入れる心の準備の期間でありました。
冬の間に固くなっていた土を耕し起こし、草花の種を蒔くような二年余りを過ぎた時点で、「信仰の芽」をふき始めた時が到来したことを察知し、このような「自己証言」と「死・葬り・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ」を象徴する聖餐の儀式の準備メッセージをされたのでしょう。このふたつのメッセージは、イエス在世当時の語りかけを1世紀末の教会とユダヤ教会堂の境界線を示すものでもあります。ヨハネは、紀元30年代の記録を残す使命を果たすとともに、当時置かれていた1世紀末の教会とユダヤ教会会堂に残っている隠れキリシタンに、その信仰告白を明確にし、迫害し、背教の脅しをかけられている状況から脱し、キリストのからだなる教会に移籍し、大工の子ヨセフの子人間イエスが、「天から下ってきた生けるパン」すなわち三位一体の御子なる神が受肉したお方であること、そしてこのお方の「十字架の一連のみわざとその意味を信じ告白する」聖餐の儀式にあずかるように勧めているのです。御父の恵みによる「押し出し、プッシュ」に応答するよう励ましているのです。
[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた]とあります。これは、十二人の弟子たちに対する信仰の確認です。しかし、すでに隠されたかたちで進行していた「裏切り」についても言及されました。それは、他の十一人の弟子たちにもたらされるであろうショックを和らげる配慮でもあったことでしょう。御子なる神イエス・キリストは、行き当たりばったりのお方ではなく、藤井聡太棋士のように、先々まで読み切って、ことばを発し、行動に移られるお方です。
この[6:67
あなたがたも離れて行きたいのですか]ということばは、1世紀末に、ユダヤ教会堂に留まるべきか、キリスト教会堂に移籍すべきか迷っていたユダヤ人クリスチャンに、ヨハネが語りかけたことばであったでしょう。信徒の高齢化とコロナによる集会休止の出来事は、礼拝や集会出席に足が遠のく現象を生み出しています。そのようなわたしたちにも響くことばでもあります。ユーチューブやフェイスブック、さまざまな形態のSNSの活用はそのような時代状況で、空間と時間を超えたかたちでのキリストのからだとの新しいつながりを形成しています。
御子なる神イエス・キリストの働きが、危機的局面を迎えた時、[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]と問いかけられました。このような危機的局面においては、それぞれの人間の本性が明らかになります。それらは、常に二つの対照的なかたちであらわれます。[6:66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]と、御子なる神イエス・キリストの伝道団は、追従していた群衆のかなりを失い、その活動の今後には暗雲がたちこめることになりました。
御子なる神イエス・キリストは、伝道団の中核をしめていた[6:67
十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた]とありますが、その意味するところは、「天からのパン」発言、「血を飲み、肉を食べる」発言で、多くの群衆やリーダーたちを失った今、「あなたがたは、このようなわたしにまだついてきてくれるのですか]という問いかけであり、呼びかけでありました。教会の働きには、伝道・教会形成・神学教育という三つの要素があります。それぞれ「山あり谷あり」の奉仕生涯です。その始まりにも、途中にも、終わりにも「このようなわたしにまだついてきてくれるのですか」という問いかけは一生涯続きます。それは栄光に満ちた召命また働きですが、順風満帆な奉仕生涯ではないからです。伴侶には、相手の「栄華の同伴者」として献身するのではなく、「苦難の同伴者」「召命への同伴者」となる覚悟が必要です。
新約教会の礎となる十二人の弟子たちは、祈り、相談し、代表者のシモン・ペテロを通し、危機的状況下で、新たな決意表明を行います。[6:68
主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。6:69
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」と告白しました。海には無数の魚が周遊しています。しかし、人間をとる漁師御子なる神イエス・キリストに捉えられるのは、一部の魚です。彼らは、御子なる神イエス・キリストについてすべてのことを知っているわけではありません。彼のみわざのすべてを理解しているわけではありません。
しかし、弟子たちがそうであったように、わたしたちも、他に行くべきところを知らないし、他に全体的に頼れるお方を知りません。そしてわたしたちは、御子なる神イエス・キリストが[6:68
永遠のいのちのことばを持っておられ、6:69
神の聖者であると信じ]ているのです。長血をわずらった女性が、「このお方に衣に触れさえすれば癒される」と信じて触ったように、わたしたちもこのお方の上に身を投げます。沈みつつあるからだを、いのちを救うため、「水面に浮かぶ藁にしがみつく」ように、御子なる神イエス・キリストにすがります。このお方のすべてを知っているわけでも、すべてを理解しているわけでもありませんが、御霊の助けにより、本能的に、このお方こそ、三位一体の御子なる神イエス・キリストであると予感し、信じ受け入れ、一生涯ついて行こうと決意しているのです。
これに対し、中核部隊である十二弟子といわれた中のひとりは、御子なる神イエス・キリストが、ローマ帝国の植民地支配からの解放のビジョンをもたない人物であることを知った時、御子なる神イエス・キリストを見限ります。それは、[6:71
イスカリオテのシモンの子ユダ]のことです。イスカリオテのユダについては、あまり資料がありません。ただ、ヒントはあります。「イスカリオテ(シカリオート)」という言葉は、「シカリ党」と関係があり、このグループは、ローマ帝国側からはテロリストと見なされていたグループとユダは関わりがあったという見方があるのです。「シカリ」の「シカ(sica)」は、「人を刺す短剣」に通じ、テロリストの「一人一殺」を思わせるものです。
このように見ていきますと、ユダの「植民地からの解放者イエス」への期待の大きさと、その失望の大きさからきた反動としての「イエスを売り渡す」行為が見えてきます。ユダは、[弟子たちの財布を預かっていた]ので、会計管理をなす銀行マンのように有能な人であったのでしょう。しかし、その金を盗み,貪欲で,主のための犠牲さえ惜しみました(ヨハネ12:1‐6)。そして、ついに銀貨30枚で主をユダヤ当局に売る取引をし,機会をうかがっていました。御子なる神イエス・キリストは、人の心の中にあるものを洞察できるお方でしたので、そのようなことをすべて知っておられ、[6:70
わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です]と前もって、予防注射のように指摘されました。[6:71
イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われた…。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた]とある通りです。
旧約の箴言に[16:4
すべてのものを、【主】はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた]とあります。[6:66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]と言われた危機的状況下で、[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]と問いかけられました。ここにふたつの真逆の反応を見せられます。そのうちのひとりは、[6:68
すると、シモン・ペテロ]です。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。6:69
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えました。そして、もうひとりはイスカリオテのシモンの子ユダです。彼は、心の中で反応していました。[6:71
イエスを裏切ろう]と決意したのです。これに対して、御子なる神イエス・キリストは、それを嘆き悲しみ[6:70
わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です]と表現されました。
[6:68
シモン・ペテロ]も、[イスカリオテのシモンの子ユダ]も、神のかたちに造られた被造物として、徹底的に自由で、人格的に、主体的に、御子なる神イエス・キリストの[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]との問いかけに、応答しました。しかし、それは、神の主権と人間の自由という視点からは、[神の主権が完全に確保されつつ、同時に、人間の自由と主体性が全面的に活かされる]という独特なしかたでこれがなされていることに謙遜のこうべを垂れる―このことの大切さを教えられるのです。わたしたちは、シモン・ペテロのようにあらせてくださいと、祈る者とされましょう。
(参考文献:土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想 4-6章』、牧田吉和『改革派教義学5 救済論』)
2025年3月16日ヨハネ6:60~63「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう」-人間の理性によっては、とても受け入れられない非合理的真理を受け入れる道筋-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4pItaLDRhDs
ヨハネ福音書(概略)
A.多くの弟子たちのつまずき―12弟子とは異なる、群衆のリーダーたち(6:60-61)
B.御子なる神イエス・キリストの反応―御霊の助けなしに理解不可の真理(6:62-63)
今朝の箇所は、驚くべきことばで始まっています。前出の[ヨハ6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです]という言葉と、[ヨハ6:53
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません]という言葉につまずいたのです。この箇所は、三年三ヶ月ともいわれる三位一体の、御子なる神イエス・キリストの公的宣教を二年半を経た時期で、十字架のみわざの一年前の過越しの祭りの時期(6:4)のもので、ガリラヤでの最後の公的な宣教活動です。御子なる神イエス・キリストの公的宣教は、大成功をおさめ、大群衆が押し寄せる事態となっていました。[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」]と言うようになっていたのです。そして、追従者のリーダーのある人々が、[6:15
やって来て、自分を王にするために連れて行こうとしている]ことを、イエスは察知し、身を隠されました。
それは、御子なる神イエス・キリストの使命が「民族的なイスラエルの栄光の回復、ローマ帝国の植民地支配からの独立の達成」でなかったからです。このタイミングで、御子なる神イエス・キリストは、「ご自身の由来がどこにあるのか、ご自身の使命は何なのか」を鮮明にされていかれます。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が、ユダヤ、サマリア、ガリラヤ全土で、[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」]というセンセーショナルな情報が舞い上がっていたのです。御子なる神イエス・キリストは、公的宣教の潮目が来たことを悟り、その運動と教えが誤った方向に進む危険を察知し、人々の誤解を解き、宣教を正しい方向に導くために、ご自身の由来と使命についてあからさまに語り始められまた。
わたしたちも、そのように導かれる瞬間というものがあります。福音派の優れたリーダーたちがまとめた「シカゴ・コール」という文書に、[いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない]とある通りです。その瞬間を捉え、「御霊の導き、示しに正しく反応し、流れに逆らって川をさかのぼるアユのように生きる人」と「いのちのない木のように流されるままに生きてしまう人」があるように思います。わたしたちは、いつも「健全な福音理解の下に生かされる者」となりましょう。
誤った理解に立つ群衆のあるリーダーたちは、「モーセのような預言者の再来」とまでしか受けとめきれていませんでした。それで、[6:15
王にするために連れて行こう]としていたのです。御子なる神イエス・キリストは、「預言者モーセ」レベルのお方でありませんでした。[ヨハ5:46
モーセが書いたのはわたしのことなのです]と、モーセが記し、旧約聖書全体が預言し、約束している「メシヤであり、キリスト」がわたしであると証ししていかれました。御子なる神イエス・キリストの自己紹介を聴いていると、それはまるで「もみ殻と籾の選別機」のようであり、「コーヒー豆からコーヒーを抽出する濾過機」、「ブドウの房からブドウジュースを取り出すブドウ絞り器」のようです。「ナザレ出身の大工のヨセフ息子イエス」を「王」に担ぎ上げようとする群衆とそのリーダーたちは、そのやり取りの中で、[ヨハ6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです]という言葉を聴いてつまずきます。そのことばは、自身を「神由来の存在であり、三位一体の御子なる神イエス・キリスト」を暗示するものであったからです。
当時のユダヤ教の神理解に、「神が受肉して人間となる」という理解は存在しませんでした。ある意味そのような教えは、[6:15
王にするために連れて行こう]としていた人々の反感を買い、分裂を起こす危険な考えであるとも受け止められました。しかし、御子なる神イエス・キリストが、そのようなお方である以上、他にどのように「自分が何者であるのか」について証言できるでしょう。この点を曖昧にすれば、[マタ4:8
悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、4:9
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」]とあるように、御子なる神イエス・キリストのしるしと不思議をもってすれば、ユダヤ・サマリア・ガリラヤ地方一帯で独立王国の王として君臨できたかもしれません。わたしたちにも、そのような誘惑がつきまといます。主のみ旨に沿わない妥協や取引を通じて、成功を手に入れようとする誘惑です。キリスト教の歴史の中には、そのような誘惑に引っかかった異端的な運動やグレイゾーン・レッドゾーンの教えや運動が溢れています。わたしたちは、
[ヨハ6:51 わたし(御子なる神イエス・キリスト)は、天から下って来た生けるパンです]。[マタ4:4
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(御子なる神イエス・キリスト)で生きる』と書いてある]と告白して生きてまいりましょう。
[ヨハ6:53 人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません]という言葉は、[6:60
これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか]という決定的な反応を起こし、[6:66
弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]という結果をもたらしました。それは、異教によくみられた「血を飲む」(レビ7:26)ことは衛生上の危険もあり、旧約聖書では禁止されていたからです。しかし、これは今日の医学で安全が確立している「輸血」を禁止しているものではありません。ヨハネ福音書における洗礼(3:5)と聖餐(6:41-58)に関する予表的告知は、キリスト教共同体の核となる12弟子の選定を含め、三年三ヶ月の御子なる神イエス・キリストの準備教育の一環でもありました。ヨハネ4章のニコデモへの語りかけ、6章の五千人の給食、マタイ26章の最後の晩餐等は、御子なる神イエス・キリストを信じる洗礼共同体・聖餐共同体形成にとって、重要なテキストとして遺されました。そのような意味で、わたしも、奉仕生涯の最後の季節に、アマゾン書店小冊子やユーチューブ・ビデオのかたちで、ささやかながらでもお役に立てればと、「遺稿文書・遺稿ビデオ集作成」に取り組んでいるのです。
今日の聖書箇所では、―12弟子とは異なる、群衆のリーダーたちである「多くの弟子たちのつまずき」がみられます。これは、明治期の鹿鳴館時代に、そして第二次大戦後の戦後の教会に人が溢れるブームがあったことに似ています。しかし、それらは必ずしも大きなリバイバルに結びつくことはありませんでした。おそらくは、キリスト教教養を身に着けるところまでは行っても、大工の息子イエスを預言者・教師・宗教指導者まで受け入れることはできても、「三位一体の、御父・御子・御霊なる、御子なる神イエス・キリスト」として信じ、受け入れ、洗礼を受け、聖餐共同体に加わるところまでは行かなかったということでしょう。それにしても思うことは、[6:60
これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか]という次元の問題が、壁が、ある意味乗り越えることが不可能な淵があることが認識できているのかどうか、もまた問題であると教えられます。信じているわたしたちクリスチャンにとっては、自明の理―すなわち[根拠をあげて証明するまでもない、あたりまえの真理。説明の必要がなく、それ自体で、だれの目にも、明らかなこと]なのですが、未信者にとっては、それはなかなか理解しがたい真理であると理解できているでしょうか。これは、とてつもなく、説明不可能な真理なのです。そして、わたしたちがこの真理を信じ、受け入れられていること自体が「奇蹟」ともいうべき事柄なのです。「天地万物を永遠の昔に創造し、歴史を司っておられる全知全能の神が、二千年前に、千数百年間の旧約聖書歴史と預言の準備期間を経て、ナザレの大工の息子として「受肉」し、その三位一体の、御子なる神イエス・キリストとして、ご自身を明らかにされた」ことを信じられる、というのは三位一体の御霊なる神聖霊による奇蹟的みわざ(ヨハネ14,15,16章)なのです。
御子なる神イエス・キリストは、公の宣教活動のどこかで、これらのことを明らかにしていかねばなりませんでした。御子は、これらの話を理解することがとてつもなく難しいことであることはご存じでありました。それで、彼らのつまずきをあらかじめ予測はされていましたが、そのことを残念にも思い、[6:61
わたしの話があなたがたをつまずかせるのか]と嘆息されました。しかし、御子なる神イエス・キリストに関する話、証言は、この時点でとどまるものではありません。御子が「天から来訪され、聖霊により、マリヤを通して、受肉し、三位一体の神がいかなるお方であるのか」を明らかにされただけではありませんでした。御子なる神イエス・キリストを信じる信仰共同体は、洗礼を受け、聖餐式にあずかる共同体として形成されていきます。その聖餐のパンとブドウ酒を味わう共同体は、[6:62
人の子がかつていたところに上る]のを信仰の目で見て、それを味わう共同体(Ⅰコリント11:23-29)であります。
それは、御子なる神イエス・キリストが、全人類の罪の代償的刑罰を受けられる十字架の上に上げられるとともに、その贖罪を完成し、死に葬られ、三日目によみがえり、昇天し天上の右の座に上げられ、そこから助け主なる「三位一体の御霊なる神聖霊」を注がれ、信仰者の内に内住されることを、「Ⅰコリント12:13みなひとつの御霊を飲んだ」と書かれています。ブドウ酒を飲むことを通し「キリストの血を飲み」、裂かれたパンを食べることを通し「キリストの肉を食べる」ことを象徴する儀式は、ローマ書に表されているようなイエス・キリストにある贖罪信仰(ローマ3-5章)にあずかることであり、キリストの御霊を宿す内住の御霊信仰(ローマ6-8章)にあずかることです。
[6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです]は、イエスが話されたこの時点では、おそらくは十分に理解されなかったでしょう。[ヨハ7:39
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった]とあるからです。[ヨハ16:12
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます]とある通りです。キリストの贖罪の恵みに根ざし、もたらされる「内住の御霊ご自身」が永遠のいのちそのものであります。
御子なる神イエス・キリストは、そのような霊的現実と恵みを知らせようと試みられました。御子なる神イエス・キリストはにある聖霊の臨在の現実に触れ、そのような信仰の端緒に開かれていった弟子たちもいれば、「肉」すなわち「人間的な思い」の先入観やユダヤ教にある伝統的な神理解の限界に縛られ、御子なる神イエス・キリストの証しのことばをそのまま受け入れるのではなく、彼らの「理性の網」すなわち「肉の思い」で制限を設けた神観、恵み理解により、御子なる神イエス・キリストの「6:58天から下ってきたパン」とか、「6:62人の子がかつていたところに上る」といった自己証言は、聞いていられない「6:60ひどい話」として拒否されてしまいました。それは、人間の理性によっては、とても受け入れられないような「非合理的真理」であるからです。この三位一体の御父・御子・御霊なる神の真理、そしてこのお方がなしてくださっているみわざの真理は、御霊に心を開くことにおいてのみ、理解可能となるものなのです。そのような真理に心を柔らかくし、開き、歓迎し、受け入れる心としてくださるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献:J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』、D.Moody Smith, “John” Abingdon New
Testament Commentaries 、D.A.Carson, “The Gospel According to
John”)
https://youtu.be/PARZbaG2DS4
ヨハネ福音書(概略)
A.荒野のマナと天からのパン(6:48-51)
B.ユダヤ人の議論と御子なる神イエス・キリストの応答(6:52-54)
C.御子なる神イエス・キリストの肉と血―聖餐を通しての信仰告白の意義(6:55-59)
御子なる神イエス・キリストは、ヨハネ福音書の最初から最後まで、終始一貫してご自身が如何なる者であるのかを明らかにしようとされています。ヨハネ福音書の最初には、[ヨハ3:16
御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ]こと、ヨハネ福音書の最後には[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]と記されています。御子なる神イエス・キリストが如何なるお方であるのかを知り、そのお方を信じることによって永遠のいのちを得ることが目的とされているのです。
御子なる神イエス・キリストは、TPOすなわち時と場所と機会において、ニコデモには「新しく生まれる」必要をサマリアの女性には「渇くことのない水」の提供について語られました。今朝の箇所では、六章の「五つのパンと二匹の魚をもって、男性だけで五千人もいる群衆の空腹を満たされた」流れで、人々は御子なる神イエス・キリストは、神がモーセに約束された預言者(申命記18:15)の再来であると確信しました。人々は、モーセがエジプトの奴隷生活から解放してくれた政治的リーダーであったように、御子なる神イエス・キリストに「ローマ帝国の植民地支配からの独立の指導者」のイメージを重ね、「6:15
新しい王として担ぎ上げよう」としたのです。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、そのビジョンに水をさし、その計画から身をかわすかのように、 [6:48
わたしはいのちのパンです]と語られました。これは何を意味しているのでしょう。前の節には[ヨハ6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と記されています。何を信じるのでしょう。御子なる神イエス・キリストが、[6:51
天から下って来た]お方、すなわち三位一体の御父・御子・御霊なる神であると信じ、受け入れることです。御子なる神イエス・キリストは、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]と言われました。御子なる神イエス・キリストの[肉を食べ、血を飲む]とは、どういうことでしょう。
これは、[ヨハ6:47 信じる者は永遠のいのちを持っています]と、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]の並行記述で分かります。御子なる神イエス・キリストの[肉を食べ、血を飲む]とは、御子なる神イエス・キリストが、三位一体の御父・御子・御霊なる神であると信じ、受け入れることです。御子なる神イエス・キリストは、人間の理性によって受け入れること、理解することが困難な霊的真理を、象徴的な言葉、イメージで絵画を見せるかのように説明されます。ユダヤ人のある人々は、それを渇いた砂が水を吸い込むように、幼子の素直さをもって信じ、受け入れていきます。
御子なる神イエス・キリストから、同じ証言を耳にしながら、あるユダヤ人たちはコンクリートが水をはじくように、その証言につまずきます。それは、おのおの独立した人格の反応でありますとともに、[箴
21:1
王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる]とある不思議な神のわざでもあります。先週[ヨハ6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか]とつまずいたユダヤ人たちは、今日は、[6:52
この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか]とつまずきます。象徴的な描写は、その描写を通して「本質」をのぞく望遠鏡また顕微鏡にもなりえますが、その描写の表面に捉われる人々には、「本質」を覆い隠す目のうろこにもなり、眼を覆い隠す眼帯にもなりえます。
御子なる神イエス・キリストの、旧約の「天からのマナ」の描写を用いての、自らが「三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリスト」である自己証言は、素直な心をもって、聖霊の働きに心を開き、そのまま受け入れる人々には、福音となりました。しかし、同じ言葉が、頑なな心をもって、聖霊の働きに心を閉ざす人々の間では、[6:52
激しい議論]となってしまいました。御子なる神イエス・キリストは、人間の側のいかなる反応にも関わらず、「正直に自己証言する」他に道はありません。旧約聖書千数百年の証言を活用しつつ、証明していく以外に選択肢はありません。わたしたち、教会の働きもそうです。時が良くても悪くても、聖書の福音をまっすぐに解き明かす以外に術はないのです。ナザレ出身の大工の息子イエスが、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神キリストであると証言する以外にないのです。
わたしたちが紀元30年あたりに見る、御子なる神イエス・キリスト在世中の世界には、ふたつの反応がありました。三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストの証言に静かに傾聴し、受け入れ、信じていく人々と、このお方につまずき、拒否し、背を向けていく人々のふたつです。御子なる神イエス・キリストは、文脈に即して真理を解き明かして行かれるお方です。御子なる神イエス・キリストが、バプテスマのヨハネの弟子たちを引き継ぎ、三年半の共同生活と贖罪と昇天、聖霊の注ぎの後の「民族を超えた神の新しいイスラエル、キリストのからだなる教会」の中核を準備されていかれる中で、漸進的に多くの準備教育の種を蒔かれていることに気づかされます。
まだ、弟子たちとの初対面の時に、弟子たちには十分理解できないであろうことは見越した上で、バプテスマのヨハネを通して[ヨハ1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊]と宣言させ、宮きよめの際には、[ヨハ2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と早々と、ご自身の十字架刑と復活に言及されています。それと同様のかたちで、[6:51
天から下って来た生けるパン]の議論の中で、受難週の最後の晩餐において制定されるキリスト教会における聖餐の儀式の意味・意義について前もって教育されます。文脈としましては、四十年の荒野の旅程におけるパンと水の供給が、瀕死の状態に置かれたイスラエルの民にとっていのち綱であったように、御子なる神イエス・キリストは、[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]限界状況の中で、永遠の新天新地へといのちをつなぐ「永遠のいのち」であることを明らかにされました。
この[ヨハ6:47 信じる者は永遠のいのちを持っています]と、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]の並行記事による説明の深まりは、共観福音書であるマタイによる福音書では、[マタ26:26
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、…「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27
また、杯を取り、…「みな、この杯から飲みなさい。26:28
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です]と、最後の晩餐(26:26-28)にはじめてでてくる記事です。
そして、この聖餐式の制定は、 [Ⅰコリ11:23
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、11:24
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:25
食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」]と初代教会に継承されていきました。洗礼は、心に信じていることをからだをもって公に告白する、いわば相思相愛のふたりが愛情を確信し、一生を添い遂げることの社会的告白として結婚式を挙げることに似ています。
これに対して聖餐は、結婚式をあげ、公に夫婦となったふたりが、定期的にその愛を確認する儀式です。心に信じ、その信仰を洗礼において公にした信仰者は、聖餐において、定期的にその信仰の意味・意義を一生涯確認し続けるように定められているのです。マタイ14章、マルコ6章、ルカ9章の並行記事にはない聖餐論の萌芽記事がヨハネ6章に掲載されている理由は何でしょうか。それは、ヨハネ福音書が執筆された1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の関係にあったと思われます。
ヨハネ9章には、[ヨハ9:22
ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]とあります。そのような時代状況、そのようなユダヤ教会堂に所属しつつ、求道者であったり、隠れキリシタンのようであったりするユダヤ人クリスチャンへのメッセージとして、[ヨハ6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と「心の中での信仰」をいうだけでなく、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]と、信仰生涯の出発点で授けられる洗礼とともに、洗礼を授けられた信仰者は、継続してパンとブドウ酒で象徴される、御子なる神イエス・キリストのみによる贖罪信仰に立脚し、その信仰内容・意味・意義を告白し続けるよう励ましているのです。
これは、キリスト教会誕生以後の、教会における継続的儀式への準備教育の一環でありました。ただ、御子なる神イエス・キリストの公生涯のはじめには、他の多くの真理同様、まだ十分にその意味・意義は理解されていなかったでしょう。まだ、ヨハネ7:39
御子なる神イエス・キリストは、昇天されておらず、三位一体の御霊なる神聖霊が降っておられなかったからです。聖霊によるみことばの照明の働きなしに霊的真理を理解することは困難であるのです。しかし、90年代のキリスト教会では、洗礼に続く聖餐にあずかるという「目に見えるかたちでの公の信仰告白」として重要な意味と意義をもつメッセージでありました。御子なる神イエス・キリストを信じて、三位一体の御父・御子・御霊なる神と交わりの中にあり、すでに永遠のいのちを持つ者は、その信仰内容の公の告白の一環として、[6:53
人の子の肉を食べ、その血を飲む]べきなのです。洗礼を受け、聖餐にあずかり続けるべきなのです。未受洗の人は、信仰告白を明確にし、公の洗礼を受けた上で、聖餐にあずかるべきなのです。
洗礼・聖餐を曖昧にすると、本物のクリスチャンであるか、単なる求道者にすぎないのか、曖昧なクリスチャン生活に陥る危険があります。洗礼を受け、聖餐にあずかっていると、「本物のクリスチャン、真剣なクリスチャンであるのに…」と世の人々が、クリスチャンを偶像礼拝や不道徳に陥ることから守ってくれます。洗礼・聖餐を受けていないと、「まだ本物のクリスチャンでないから…」と本人も周囲も、どこまでも中途半端を許容する状況が生まれます。そのような意味でも、洗礼は結婚式、聖餐は貞淑で誠実な夫婦生活と似ています。
日本には、数限りなくたくさんのミッション・スクールが建てられ、キリスト教精神に立脚し、福音も流し続けてこられました。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、いと近くに引き寄せられてはきましたが、そのかすかに芽生えた信仰らしきものが、確信へと導かれ、洗礼と聖餐に結実してきませんでした。それは、[6:51
天から下って来た生けるパン]である御子なる神イエス・キリストに、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか]とつまずき、[6:51
わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です]と証言される御子なる神イエス・キリストに[6:52
どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか]との議論でとどまるユダヤ人と似ています。それは、御子なる神イエス・キリストが三位一体の神であることを理解できず、「人間イエス」であり、人類の偉人のひとりとして片づけられるからであり、聖書で言われる「信仰」の深い次元が分からないからであります。「天からくだってきた」お方であり、この神的人格の血を飲み、肉を食べるような「信仰」理解は、なかなか理解しがたいものです。しかし、そこにこそ、「人類の至福」の次元があるのです。
三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、「わたしは天から降ってきた者である」、「わたしは天から下ってきた生けるパンである」、「このパンを食べる者は、永遠に生きます」、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れる者は「永遠のいのちをもっています」と宣言されるのです。永遠のいのちとは、キリストの贖罪により、将来ある死後の裁きを免れ、新天新地に永遠に生きうるいのちであり、現在わたしたちが、三位一体の御父・御子・御霊の、御霊なる神聖霊を内に宿し、聖霊を通し、すでにその交わりの中にある、ということです。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson“The Gospel according to John ”
、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』、D.M.スミス『ヨハネ福音書のの神学』、牧田吉和「改革教会の伝統の立場から」-芳賀力編『まことの聖餐を求めて』所収論稿)
2025年3月2日
ヨハネ6:41~47「父が引き寄せてくださらなければ」-もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/78s8Ix4BI4w
ヨハネ福音書(概略)
A.イエスの自己証言とユダヤ人の反発(6:41-43)
B.御父の召命なしに来ること能わず(6:44-45)
C.未来によみがえるだけでなく、現在に永遠のいのちに生きる(6:46-47)
今朝、わたしたちが注目すべき箇所は、[6:45
預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます]です。この箇所からは、神の霊感によって書き記された言葉である旧約聖書を深く学んだなら、ある意味、「熟した柿が落ちる」ように、すべての人は御子なる神イエス・キリストを、三位一体の神であると信じるようになる、と言われているかのようです。しかし、わたしたちがヨハネ福音書を読み進めていく中で見るものは、そのように霊の目が開かれていくユダヤ人と霊の目が閉ざされたままのユダヤ人の姿です。
今朝の最初の箇所、[6:41
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた]というのもその箇所のひとつです。五つのパンと二匹の魚で、成人男性だけで五千人を養われた御子なる神イエス・キリストを追っかける人たちがいました。モーセのような奇蹟を起こすラビ(教師)であり、不世出の預言者のようなお方が登場されたのです。百年に一度のスーパースター、大谷翔平のオープン戦に人々が群がるような感じでしょうか。
しかし、彼らの熱狂は、盲目的熱狂ではありませんでした。彼らの熱狂は、その希望は、繰り返していますように、ローマ帝国の植民地支配からの独立を指導する指導者でありました(ヨハ6:15)。彼らの熱狂は、舟に乗り、湖を越え、御子なる神イエス・キリストを追いかけて(ヨハ6:24)行きましたが、その話を聞いていると、大きなギャップがあることに気づいていきます。彼らの熱狂の中心には、「民族としてのイスラエルの独立と栄光の回復」こそが、神の期待されているわざであり、なそうとしておられるみわざであるとの考えがありました(6:28)。
しかし、御子なる神イエス・キリストが語られることばは、[ヨハ6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と、絶えず「御子なる神イエス・キリスト」に焦点を合わそうとされました。それこそが、すべての神の業の「第一ボタン」であり、すべての神理解の「マスター・キー」でありました。もちろん、旧約聖書には、「神の民イスラエルの栄光の回復と完成」の約束があります。しかし、その約束は、どのようにして成就されるのかの具体的道筋が新約で明らかにされています。ユダヤ人の期待する民族的イスラエルへの約束は、民族主義の「古い衣」を脱ぎ捨て、御子なる神イエス・キリストを信じることによって、永遠のいのちを宿すのです。民族を超えた「新しい衣」を身に着け、普遍的な神の民、まことのイスラエル、霊のイスラエルの民によって成就されるのです(ローマ9:6-8、ガラテヤ6:16)。御子なる神イエス・キリストの人格とみわざにより、御霊なる神聖霊において成就されていくのです。
ミルトン・スタインバーグというユダヤ教保守派のラビが書いた『ユダヤ教の基本』があります。その中で、ユダヤ教は[キリスト教の罪論、神が受肉したというキリスト論、そのキリストの代償的刑罰による救い、復活し昇天したキリストが再臨して神の国を建設する、このキリストを信じる者は救われ、信じない者は裁きに合うという命題とそれに付随するものを拒絶する]と記されています。これらの主張は、[歴史的キリスト教の縦糸と横糸をなすものであり、これらを否定することはキリスト教の織物全体を否定することになる]と記しています。そして、ユダヤ教とキリスト教が和解する日は来るのだろうかと問い。「もちろん」と答えています。伝統主義のユダヤ人は、[教会がユダヤ教に補足したもの、追加したことがらをキリスト教徒たちが取り除きさえすれば]と。伝統主義のキリスト教徒たちは、[ユダヤ人がキリストを彼らの救い主として受け入れさえすれば]と対照的な解答を紹介しています。このように見ていきますと、キリスト教とは、旧約聖書ユダヤ教の「神」のところに、「三位一体の、御父・御子・御霊なる神」を見出し、旧約聖書を御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを軸に解釈したものであると教えられます。
イエスは、[6:41 わたしは天から下って来たパンです]と言われます。これに対し、ユダヤ人たちは、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている]と反発し、「彼は、人間にすぎないのに、なぜ自分を神と同等のものであると言うのか」と不平を言ったのです。これは、『ヨハネ福音書の神学』における神論、三位一体論、キリスト論の議論です。神とはどういうお方なのか、御父・御子・御霊の関係はどのような関係なのか、についての本質的な問題提起なのです。
御子なる神イエス・キリストは、故郷のナザレでも、同様の拒絶を受けておられます(ルカ4:14-30)。人々は、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか]と言ってつまずいたのです。これは、当時のユダヤ人だけの問題ではありません。1世紀末のユダヤ人の間でも、二千年間の宣教現場のあらゆるところで直面されてきた問題であります。ある人が申しました。「神と人間を比する時、蚤のような脳みそしかもたない人間が、全知全能の神、無限の宇宙を創造された神のすべてを理解することはできない」と。神さまは、ご自身についてすべてをご存じです。これを「原型的神知識」と申します。わたしたちが神の恵みにより、聖霊を通して知る神知識は「模写的神知識」と申します。
太陽と月に類比すれば、神さまについての啓示の知識の太陽のような光の一部をぼんやりと受け取り、その光を月のように反映しているのがわたしたちです。わたしたち有限の者には、無限の神のすべてを理解することはできません。しかし、この神は、そのようなわたしたちにご自身について、またそのみわざについて本質的なことを啓示してくださいました。見ることのできないまことの神を見ることができるように、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]と、三位一体の御子なる神イエス・キリストとして紹介してくださったのです。
旧約聖書千数百年をかけて準備し、時満ちて、御子なる神イエス・キリストを通して、三位一体の神はご自身を紹介されたのに、人々は、それに気づかず、文句を言い始めたのです。これは、当時のユダヤ人だけの問題ではありません。全世界の人々が直面している問題です。この「三位一体の御父なる神が、御子なる神イエス・キリストの受肉を通して、御霊なる神聖霊により、ご自身を明らかにされている。さて、あなたはどう応答しますか?」という問題です。
人々は、自分の意志と決断で、これに応答していると思っています。しかし、この場面には、もうひとつの側面があります。[6:44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません]と。三位一体の御父なる神が、御霊なる神聖霊によって、呼びかけておられ、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れるよう招いておられる、というのです。人生におけるこの場面には、「このような雰囲気」があります。それを聖書では「聖霊の臨在」と申します。そのような時に、その瞬間を逃さず、[ヘブル4:7
今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない]と受けとめ、素直に「あなたを信じます」と応答していくことが大切でしょう。
そして、この決断こそは、進学とか、就職とか、結婚等のさまざまな大切な決断にまさって、人生最大、最重要の決断なのです。というのは、この決断が[6:44
わたしはその人を終わりの日によみがえらせます]という、死後の、永遠の在り様を決定するからです。聖書には、[ヘブル9:27
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]とあるからです。そしてこの決断は、死後の未来の在り様に影響するだけでなく、現在の在り様にも大きく影響していきます。[6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と現在形で、御子なる神イエス・キリストを信じる者は、御霊なる神聖霊を宿し、現在も未来も、御霊に導かれて生きる者とされるからです(ローマ8章)。神さまがまことに生きておられるお方なら、昨日も今日も、また明日もあなたに語りかけ続けておられるでしょう。それに耳を傾け、応答し、生きてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:
O.カイザー、E.ローゼ『死と生―シリーズ聖書からⅠ』、ミルトン・スタインバーグ『ユダヤ教の基本』、牧田吉和『改革派教義学
1.序論』)
2025年2月23日
ヨハネ6:36~40「自分の思いをではなく、遣わされた方のみこころを行う」-軸のブレを調整しつつ、奉仕生涯を“完泳”したい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/QxTKcpQVDuw
ヨハネ福音書
A.わたしを見たのに信じません(6:36)
B.父がわたしに与えてくださる(6:37)
C.天から下って来た目的(6:38)
D.わたしを遣わされた方のみこころ(6:39)
E.子を見て信じる者がみな永遠のいのちを(6:40)
今朝の箇所は[6:36
あなたがたはわたしを見たのに信じません]と言う御言葉から始まります。御子なる神イエス・キリストが在世中であった紀元30年あたり、またヨハネ福音書が記された1世紀末、そして今日において「人類最大の問題、人類共通の問題」がここにあります。御子なる神イエス・キリストは、如何なるお方であったのか、という問題です。聖書によれば「ここで、どう反応するのか」によって永遠の運命が決定されるからです。三位一体の御父・御子・御霊なる神がおられ(ヨハネ1:1-2)、この方によって全被造物世界が創造されました(1:3)。しかし、善きものとして創造された世界(創世記1:30)は、罪の中に堕落し、滅びへと定められました(創世記3章、6:11-13、ヘブル9:27、ローマ3:9-19)。
そのような旧約に発するローマ書、ヘブル書等にある前提が、ヨハネ福音書にもみられます。「小さな聖書」とも言われる[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]の中にも、「滅びることなく」と、救いの前提として「滅び」に定められた人間の姿が描写されています。使徒パウロは、ローマ書1-2章で「人類の普遍的な罪」に言及し、「ユダヤ人も異邦人も、すべての人が神の裁きに直面している」と宣言し、詳述しています。ヨハネは、「闇、死、罪、奴隷、偽り」とこの世の肖像を描き、神の救いの対象として「この世の疎外と断罪」の状態を指摘しています。
その極致のひとつが[6:36
わたしを見たのに信じません]という言葉です。滅びと断罪の中にある人々を救おうと、三位一体の御父・御子・御霊なる神が、旧約千数百年の啓示と取り扱いを経て、人類に救いの福音をもたらす「受け皿」として準備されたユダヤ人のもとに、御子なる神イエス・キリストが受肉し、三位一体の神がいかなるお方なのか―[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]ました。しかし、ことわざに「猫に小判、豚に真珠」―[貴重なものを価値のわからない者に与えても、何の役にも立たず無駄に終わるという意味の言葉]にあるように、驚くべきことに、[ヨハ1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]というのです。
目の前に、ユダヤ民族が二千年間待ち受けたメシヤたる、三位一体の、御子なる神イエス・キリストが現れてくださっているのに、分からなかった。この方が[ヨハ1:14
人となって、私たちの間に住まわれ、…この方の栄光を見、…この方は恵みとまことに満ちておられた]のに、信じなかった、というのです。ヨハネは、この状態、このような反応を「1:5
闇」と表現し、そのような「闇」の中で、御子なる神イエス・キリストが[輝いている]と証ししています。それは、もう、火炎に包まれた家の中の人を救おうと飛び込んできた消防士の手を振り払い、救出を拒否している人のようです。「それは、あり得ない」と思うことが起こっているのです。それが、[6:36
あなたがたはわたしを見たのに信じません]が意味しているものです。
これに対し、[6:37
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます]とは、御子なる神イエス・キリストが特別なお方と感得し、少しずつ、あるいは即座に、三位一体の御子なる神イエス・キリストとして、信じ、受け入れるユダヤ人がいました。この反応、応答の違い、差異はどこから来るのか。それを明らかにしています。わたしたちクリスチャンは、ある時、ある場所、ある機会を通じて、「わたしが、三位一体の、御子なる神イエス・キリストを信じた」と考えます。しかし、物事には両面があります。聖書は、[Ⅰコリ12:3
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません]と申します。
わたしたちは、自分の力、知識、そして自分の決断で、ある時、ある場所、ある機会に、御子なる神イエス・キリストを信じたと確信しています。しかし、それは同時に、[ヨハ15:26
父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証し]てくださった結果であり、[ヨハ16:13
真理の御霊が来(て)、…すべての真理に導いて]くださったおかげであるのです。カーテンを閉め切った部屋からは、窓の外の景色を見ることはできません。しかし、そのカーテンを全開すると窓の向こうに広がる景色の全体を見渡すことができるのです。三位一体の御霊なる神聖霊が臨在され、わたしたちのうちに内住される時、高い山の山頂に立って、360度の全景を見渡すように、三位一体の御父・御子・御霊なる神とそのみわざの全景が見えるようになるのです。
三位一体の御子なる神イエス・キリストは、高い山の山頂にある展望台に備え付けられている望遠鏡のようなお方です。このお方を通して、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]、[ヨハ 14:9
わたしを見た人は、父を見た]と言われている通りです。[6:37b
わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません]というのは、主にある救いが堅く保持される教えでありますとともに、1世紀末のユダヤ教会堂での「隠れユダヤ人キリシタン」の会堂からの追放圧力という背景が読み取れることばです。同じ旧約聖書を読み、メシヤたるキリストを待ち望みつつ、ユダヤ教徒たちの望遠鏡はピントの壊れていたもののようです。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ16:9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです]と言われました。彼らは、聖書の神さまを信じていると思っていましたが、政治的メシヤ、植民地からの解放者にピントを合わせていたため、「十字架につけられた、全人類を永遠の滅びから救うメシヤたる、御子なる神イエス・キリスト」にピントを合わせることができませんでした。
[6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです]といわれた「自分の思いを行う」というのは、過去に立ち上がった数多くの「政治的メシヤ自称者」のことが念頭にあったことでしょう。このような「異教徒のローマ帝国の植民地支配からの解放者」には絶大な支援が起こり、数多くのユダヤ人たちが独立闘争に追従する運動として発展していったことでしょう。そのような群衆の期待に反するかのように、[6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため]と、ユダヤ人群衆の期待と「同床異夢」であることを示唆されます。
[6:38
わたしが天から下って来たのは]とは、「地の上から、政治的解放を求める群衆に担ぎ上げられた」独立運動には加担しないことを意味しています。そのような政治的メシヤ運動とは異なった[6:38
天からの、遣わされた(御父)のみこころを行う]ために受肉・来臨したと言われました。そして、[6:39
遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること]、[6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせること]であると宣言されます。政治的独立運動指導者、植民地からの解放者として担ぎ上げようとしていた群衆と御父から永遠の罪と死と滅びからの解放者として立てられ、送られてきた御子なる神イエス・キリストの軋轢は高まっていきます。その軋轢と失望・落胆が、罪のない御子なる神イエス・キリストの十字架刑に結びついていきます。
宗教改革のスローガンに「聖書の御言葉により、改革された教会は、聖書の御言葉により改革され続けなければならない」というのがあります。わたしも、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない
」という「シカゴ・コール」の言葉に励まされ、導かれて、より健全な聖書解釈に立った福音理解形成のために奉仕生涯を駆け抜けてきました。ある意味で、所属教派、所属神学校の「福音理解」、善き部分を継承・深化し、歪んだ部分の精査・再構築を試みるものでありました。これらの取り組みは、現在的には、痛みや軋轢をも伴いますが、将来的には病に伏したからだが、健康体を回復することにつながります。
それらの中で、キリスト教会に蔓延しやすい「群衆心理」というものに対する警戒が必要であると教えられてきました。宣教実践や教会形成で効果があったと報告されて、次から次へと新しい方策や教えが登場し、採用されていきます。そのような中で、邦訳したエリクソン著『キリスト教教理入門』は、いわゆる濾過機のような役割を果たしてきました。ICIユーチューブの1800を超えるビデオシリーズがその取り組みの数々を証ししています。ときどき、みんなが気持ちよく、それらの運動と教えの流れに流されて、伝道と教会形成でも結果を出しているというのに、なぜ流れに逆らって、「精査し、改良を加えようとするのか」と思うこともあります。
しかし、聖書を開いて、主を見上げると、そこには、ユダヤの群衆に囲まれ、あるひとつの方向に担ぎ上げられようとする御子なる神イエス・キリストの、[自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため]という強い意志をみます。[6:39
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること」、[6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせること]であるという、旧新約聖書を通じ、聖書の啓示のセンターラインを流れる[神の啓示に忠実]に生き、奉仕生涯をまっとうするようにとの主からの励ましです。
高血圧対策として、無料の温水プールで泳いでいます。そこで教えられることは、空気の800倍密度によるという水の抵抗は水の密度は空気の約800倍もあり、水中での動作は陸上動作の
12~15倍という抵抗を、体幹を曲げず、あらゆる点において最小化することです。水中では、空気中の重量の約10分の1になります。それで泳ぐときには、重力、浮力をよく理解し、重心移動を活用して泳ぐことが大切です。御子なる神イエス・キリストのように、わたしたちも、群衆心理に流されることなく、「わたしたちを遣わされた方、御父のみこころ」を朝毎に、夕毎に、受け取り、軸のブレを調整しつつ、奉仕生涯を“完泳”したいものです。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、U.ヴィルケンス『ローマ人への手紙』)
2025年2月16日
ヨハネ6:30~35「わたしがいのちのパンです」-最も深い必要や深淵な問いへ、壁を打ち破るブレークスルー-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ASo1hz6MEw4
ヨハネ福音書(概略)
A.ユダヤ人の問い―モーセと同等レベルのしるしを(6:30-31)
B.御子なる神イエス・キリストの応答―モーセは仲介者にすぎない(6:32-33)
C.ユダヤ人の要望―物質的次元に限定(6:34)
D.御子なる神イエス・キリストの解答―エゴー・エイミ(6:35)
今朝の箇所の中心は、[6:35
わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません]という一節です。ここには、聖書が啓示する人間観があります。人間とは如何なる存在なのでしょう。人間とは「飢える者であり、渇く者」であるということです。このような人間観は、旧約聖書の各所に見出されます。人間が創造された時、[創2:7
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるもの(ヘブル語で「ネフェシュ」)となった]と言われました。
このヘブル語の「ネフェシュ」には、「のど」という意味があります。[人間は「のど(ネフェシュ)」のような存在であり、渇く者である]というのです。人間という存在は、[癒しがたい「のど」のような存在であり、そのカラカラに渇いたのどを神は潤わせ、満ち足らせ、飢えと渇きを癒してくださる]というのです。渇きと申しますと、有名な詩篇、[詩
42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます]があります。森林と谷川の水で溢れる情景に慣れ親しんでいる日本人なら、”鹿が美味しそうに清水を味わっている”
のを思い起こすのではないでしょうか。しかし、この詩が記された中東パレスチナの地域は、地中海と砂漠に囲まれ”、シロッコ”
という高温に熱せられた砂漠の空気がパレスチナを襲いますと、その熱風で大地が焼き尽くされたようになり、緑の草木は姿を消す世界です」。「42:
1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」の一節は、そのような中東の世界を表現しているのです。
わたしたちは、特に夏場には「のどが渇き」、日に三度の食事時には「空腹」を覚えます。それは、何を教えているのでしょう。「人間は飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるためです。肉体的に、「飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるのはなんのためでしょう。それは、霊的に「神に飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるためです。哲学者であり、神学者でもあったパスカルは、それを[人の心の中には、神が作った空洞がある。
その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない]と表現しました。
三位一体の、御子なる神イエス・キリストは、人間の実存の最も深みの必要、その霊的渇きと飢えを満たし、溢れさせるお方です。そのことを知らせ、人々を引き寄せ、信じる者を「三位一体の神との不断の交わり」の中に加えようとされたのです。信仰とは何でしょう。「まことのいのち」を受け取ることです。永遠のいのちとは何でしょう。「神との不断の交わりの中にある」ということです。ユダヤ人の群衆は、御子なる神イエス・キリストを、
[6:15 王にするため]、すなわち植民地支配からの解放者とするために祭り上げようとしていました。今日の箇所では、[6:30
私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか]と詰問しています。
イスラエルの民がエジプトでの奴隷労働から解放される際、モーセは神が解放者として立てられたリーダーであると示すために三つのしるしを明らかにしました。出エジプト記4章には、神がモーセをエジプトからの解放者として立てられたことを証明するためのしるしがあります。[第一は、杖が蛇となるしるしであり、第二は手がツァラアトにおかされるしるしであり、第三は地に注いだ水が血に変わるしるし]でありました。このことによって、頑なであったイスラエルの民も、モーセを神が送ってくださった指導者と認めたのです。
その他にも、神はモーセを通して、さまざまなしるしを見せられました。イスラエルの民が荒野で飢え、渇いた時、天からのマナ、岩からの水を提供し続けてくださいました。それらは、成人男子だけで六十万人、女性と子供を入れると約二百万人、四十年の旅程の間、ずっと与えられ続けたのです。神戸市、京都市がそれぞれ百五十万人くらいで、大阪市で二百八十万人くらいですから、出エジプトにおける「水とパン」の毎日の供給量、そして四十年間の供給量は、クロネコヤマトやコープのトラックで換算するとどれくらいの台数になるでしょう。想像もつかない量です。
先祖であるエジプトからの解放者モーセは、[6:31
食べ物として天からのパンを与えられ]という奇蹟を行ったというのです。そして、ローマ帝国の植民地からの解放者として、神が立てられたという保証、すなわち「しるし」を求めたのです。[6:30
私たちが見てあなたを信じられるように]
、[どんなしるし]、[何を]してくれるのか、と。ここで、御子なる神イエス・キリストは、彼らの思い違いを指摘されています。彼らは[ヨハ
9:28
おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ]と自称し、御子なる神イエス・キリストをモーセと対比しようとするのですが、御子なる神イエス・キリストは、モーセに勝った者であるだけでなく、彼をはるかに凌駕するお方、比較にならないほど高いお方、三位一体の御父なる神と同等の御子なる神イエス・キリストであることを証しされているのです。
ユダヤ人の群衆は、約二百万人の人々に四十年間、水と食料の兵站を支えたのは、[6:32
モーセがあなたがたに天からのパンを与えた]ように誤解していました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、
[わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださる]のだと彼らの盲点を指摘されています。ユダヤ人は、三位一体の神よりも、仲介者にすぎないモーセや律法を神聖視し、目的化していました。これに対し、御子なる神イエス・キリストが指摘されていることは、それらは、三位一体の、御父・御子・御霊なる神との交わりに入るための、準備教育であり、手段であり、機能であったと教えられます。
御子なる神イエス・キリストは、彼らの「モーセと同等のレベルで神からの使者であることを明らかにするしるし」を求める詰問に対し、[6:32
わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださる]と提供者は神ご自身である。そしてその[天からのまことのパン]の目的は、物質的な生命維持のための食料よりも、もっと深い深淵な次元の必要を満たすものであり、[6:33
神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える]ものだ、示されます。カナの結婚式では、ご自身を「まことのブドウ酒」、ニコデモには「新しく生まれる」、サマリアの女性には「生ける水」等、さまざまな象徴表現をもって暗示的に紹介されています。
「パン」というのは、「人間存在にとって、欠かすことのできない食料」の総称です。それは、「三位一体の神との交わり」が食料と同じように、すべての人にとって絶対的に必要なものであるということです。人間存在は、水や空気や食料なしでは存在していけません。それらが不足すると「谷川の水を慕い喘ぐ鹿」のように、「酸素吸入器がはずれ、酸欠状態にある患者」のように、それらの不足・欠乏を補おうと死に物狂いになります。[6:33
神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える]と言われます。ユダヤ人たちは、[6:34
主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください]と、依然として物質的な食糧供給、不断の供給を期待しています。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、[6:35 わたしがいのちのパンです]
と宣言されます。この[わたしは…ある]、すなわち[エゴー・エイミ]表現は、出エジプト記に出てくるもので、[出3:14
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である]からきています。福音書には、「わたしは=ある」という表現で、[いのちを与える神のパン、世の光、羊の門、良き羊飼い、復活、道であり、真理であり、いのち]であると、御子なる神イエス・キリストがもたらされる救済を象徴しています。
それらは、その特殊な場、特別な時の出会いにおいて、「その人間の渇望と必要」を前提にして、その象徴が人間の必要と完全に反響しあっているのです。御子なる神イエス・キリストの象徴的な表現は、対象者の想像力を占拠し、彼らの最も深い必要や深淵な問いへの答えを提供する「壁を打ち破り貫通するブレークスルー(突破)」であるのです。御子なる神イエス・キリストがどなたであるのかに気づき始める時、[6:35わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません]といわれるパンくずを食べ始め、いのちの水をすすり始めていることになるのです。祈りましょう。
(参考文献:O.カイザー、E.ローゼ『死と生―シリーズ聖書からⅠ』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年2月9日
ヨハネ6:22~29「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」-神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/nJ8c3-zYpuQ
ヨハネ福音書
A.自分たちだけで立ち去った(6:22-23)
B.先生、いつここにおいでになったのですか(6:24-25)
C.しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから(6:26-27)
D.神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざ(6:28-29)
今朝の箇所は、先週の[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]の続きです。[自分を王にするために連れて行こうとしている]というのは、当時、異教徒であるローマ帝国の植民地支配下にあったユダヤ人の「独立を勝ち取りたい」という民族感情をよく表しています。特に、エジプト帝国の奴隷労働にあったユダヤ人たち解放し約束の地カナンに導いたモーセから数えて千数百年を経て、[申18:15
あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる]という約束が現実のものとなっていたわけです。カナの水をブドウ酒に変える奇蹟、エルサレムで三十八年間病気であった人の奇蹟、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人を養われた奇蹟等で、当地は、いわば「スーパーボール」のような熱狂の中にあったのではないでしょうか。しかし御子なる神イエス・キリストは[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]というのです。ここに、旧約聖書で与えられた御父なる神の約束、すなわち[6:39
わたしを遣わされた方のみこころ][6:40
わたしの父のみこころ]のみ旨の汲み取り方の相違が対照されています。ユダヤ人たちの熱狂は、「植民地支配から独立を勝ち取るモーセのような圧倒的な指導者」への期待であったのです。
これに対し、御子なる神イエス・キリストは、それは「同床異夢」であることを明らかにされていきます。人知れず[6:22
立ち去った]弟子たちや御子なる神イエス・キリストをやっきになって探し出したユダヤ人たちは、御子なる神イエス・キリストに幾つもの質問を投げかけます。その対話の中で、彼らの間にある溝が明らかになっていきます。ユダヤ人たちは、ローマ帝国軍を圧倒する強いリーダーを期待し、御子なる神イエス・キリストを捉え、担ぎ上げようとしていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような「政治運動」に巻き込まれることを避けようとされたのです。
[6:22 立ち去ったことに気づいた][イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると]、[6:24
小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった]とあるように、群衆の「御子なる神イエス・キリスト」追っかけが始まったことが分かります。そして漸く(ようやく)のていで、[6:25
湖の反対側でイエスを見つけ、「先生、(わたしたちに何も告げず、夕闇に紛れて、逃げるかのように)ここにおいでになったのですか」]と詰問しました。このような詰問は、彼らの期待のなせるわざです。といいますのは、これはいわば、「今度、選挙がある。そのための最強の候補が見つかった。ポスター、看板、演説場所の手筈の相談に入っていたら、その候補者が夜逃げし、行方不明になった」という感じでしょうか。「ローマ帝国からの独立解放軍の司令官候補」の行方を追い、その使命に立ち上がるよう説得しようとしていたのです。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは[6:26
あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです]と、彼らが目指す「ローマ帝国からの独立解放軍の司令官要請」を拒否されます。[パンを食べて満腹したからです]と言われているのは、単に食欲の充足の問題ではないのです。その意味するところ、その先には「ローマ帝国からの独立解放」という夢の実現が期待されているのです。これに対して[しるしを見る]とは、どういう意味でしょう。それは、御子なる神イエス・キリストの言動や奇蹟等の[しるし]を通し、その背後におられる[御子なる神イエス・キリスト]ご自身がいかなるお方であるのかを[見る]ということです。
[6:27
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい]とあります。[6:27
なくなってしまう食べ物]とは、単に「食欲」を満たす問題だけでなく、「地上における政治運動、すなわち植民地からの独立運動」の熱情の問題がありました。これに対して[6:27
いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい]とは、広くは「霊的な神の国」建設運動、また狭くは「伝道・教会形成・神学教育」に参与することです。パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられました。[ルカ17:20
神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 …神の国はあなたがたのただ中にある]と言われました。
そして[6:28 神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]と問われた時、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われました。これは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の目標が、「御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのか」を知らしめる「しるし」であったことを意味しています。「カナの結婚式で水をブドウ酒に変える奇蹟」から、「五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人養う奇蹟」までの目的は、「御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのか」を知るための、いわば“信仰ののぞき窓”、「そのための手段であり、しるし」であったのです。ユダヤ人たちは、それを「ローマ帝国の植民地支配からの解放者」の到来と誤解したのです。その誤解に巻き込まれてしまうことを避け、正しい方向づけのための対話を試みておられたのです。
わたしも、神学教師としての奉仕生涯を振り返りますと、二千年の教会史に違わず、今日における誤った運動や教えと直面することがたびたびありました。そのたびに、それらの運動や教えを分析・評価し、正しいと思われる方向への方向づけを提示してきました。それがわたしの召命であり、賜物であると自覚していたからです。しかし、そのような取り組みは、長年の神学教育の弊害の結果ということもありますし、教会や教派が抱える歴史やアイデンティティとの関わりもあり、「一朝一夕」で修正することが叶わないことも多々あったように思います。ただ、それらの努力の結果がどうであれ、それがわたしの召命であり、賜物でありましたので、
[ルカ 17:10
自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』]と主の前に出た時にこうべを垂れて告白するだけです。
わたしたちは、わたしたちの生涯、また奉仕生涯で、[6:28
神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]と問い続けながら、日々奉仕を続けていくでしょう。御子なる神イエス・キリストは、日々、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われます。人の目を気にして、周りの評判を気にして生きるのが、「人間関係社会」たる日本文化・社会の特徴です。しかし、わたしたちは男性だけで五千人、女性と子供たちも入れると二万人はいるかと思われる大群衆に囲まれ、「ローマ帝国の植民地から解放する指導者」として期待の中、[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り]、[ヨハ再びただ一人で山に退かれた]、[ヨハ6:22
弟子たちが自分たちだけで立ち去った]と言われている姿には教えられるものがあります。
「いのちのない大木」は、川の流れに沿って川下へと流されていきます。「いのちのあるアユ」は、流れに逆らって川上へと俎上していきます。[河川の水温が8-10℃を上回るようになると、海から遡上を始める]とのことです。御子なる神イエス・キリストと弟子たちが、当時のユダヤ教社会の運動や教えの圧力の中、そのような民族主義的政治運動に汚染されることなく、御子なる神イエス・キリストの教えと奇蹟の外側を見るだけでなく、それらを御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのかを知り、また見る“窓”、つまり「6:26
しるし」として、見ていった弟子たちとユダヤ人たちにならいましょう。
[6:28 神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]という問いに、御子なる神イエス・キリストは、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われました。これは、 [6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざ(の始まり)です]と言い換えても良い一文と思います。御子なる神イエス・キリストが、如何なる方であるのかを知ること、それを信じて受け入れることは、すべての神の始まりです。[ロマ1:17
信仰に始まり信仰に進ませる]と書いてある通りです。ローマ書的に言えば、キリストの贖罪に根ざし、内住の御霊により、神律的相互性に生きると言えるでしょうか。要するに、御子なる神イエス・キリストを起点としてキリスト教信仰は始まり、そこを起点に空高く揚げられる凧のようなものであるということです。
[6:29 神が遣わした者、(御子なる神イエス・キリスト)を信じ]続けてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:
松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』 )
2025年2月2日
ヨハネ6:16~21「水の上を歩いてあなたのところに」-「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」と学び続ける-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4IGXN8lo2qU
今朝は、三つの「イエスの湖上歩行」の箇所を読ませていただきます。
●マルコ福音書(概略)
A.弟子たちの湖上移動と向かい風(6:45-48a)
B.イエスの湖上歩行と弟子たちの驚き(6:48b-50a)
C.イエスの語りかけと弟子たちの安心(6: 50b-52)
●マタイ福音書(概略)
A.弟子たちの舟による移動(14:22-24)
B.イエスの湖上移動と弟子たちの驚き(14:25-26)
C.イエスの語りかけ(14:27)
D.ペテロのお願い(14:28)
E.ペテロの湖上歩行と失敗(14:29-31)
F. そして弟子たちの信仰告白(14:32-34)
●ヨハネ福音書(概略)
A.夕方、湖、暗闇、強風(6:16-18)
B.湖の中央、イエスの湖上歩行(6:19)
C.エゴー・エイミー(わたしだ!)(6:20)
D.無事到着(6:21)
わたしたちは、今朝、福音書における三つの「湖上歩行」を見てきました。わたしは、今朝、AD60年代半ばに書かれたマルコによる福音書、AD60年代後半に書かれたマタイによる福音書、AD90年代に書かれたヨハネによる福音書から、「イエスの湖上歩行」の記事が書かれた目的を考えたいと思います。舞台となっているガリラヤ湖は、地中海のレベルからしますと、海抜はマイナス200mのところにあり、パレスチナ独特の自然現象が起こります。そこは美しい湖でありますが、自然が荒れることしばしばの湖です。
[6:19
そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ]というのは、4~5km以上漕ぎ出したところです。ガリラヤ湖は南北20km、東西12kmです。ティベリアスからカペナウムまでの直線距離は約13kmありますので、舟は真夜中に半分くらいのところに来ていたことになります。マルコによれば、[6:47
夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。6:48
イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ]とあります。漁師をしていた彼らは、舟を操るプロでありましたが、[向かい風]のために、夜通し[漕ぎあぐねて]いたものと思われます。
もう40年も前になりますが、大阪府の最南端にある岬福音教会の牧師をしていたとき、釣りの得意な教会の長老さんに誘われて、小舟で釣りに出かけたことがありました。鯨の子供が、親鯨と間違えてわたしたちの舟の真下でうろうろしていたことを思い出します。ただ、昼間はなだらかであった海が、夕方になってくると天候が変わり、次第に波立ち、友が島の方から戻る海峡の最後の方にはエレベーターのように小舟が上下しました。地面の上とは異なり、海面というものの恐ろしさを実感しました。ガリラヤ湖は谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば強烈な風が湖に吹きつけ、嵐のようになることがあるのです。台風の時、波に翻弄される小舟を思い浮かべてください。
[6:47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。6:48
イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねている]をご覧になり、[夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた]とあります。距離は約13kmですから、おそらく、夕方、舟が出発したときには、2~3時間、すなわち完全な日没までには到着するつもりであったでしょう。ところが、[6:48
向かい風のために]舟は進まず、一晩中難儀していた、もしくは進めないだけでなく、風の具合如何で、沈没の恐怖にすら襲われていたのかもしれません。皆さんの中にも、その人生にも類する場面をお持ちではないでしょうか。
先日の、新年聖会でマタイ福音書のこの箇所から、伝道・教会形成の証し説教をお聴きしました。わたしたちは、現実の嵐だけでなく、少子高齢化社会における伝道・教会形成において、[ヨハネ6:18
強風が吹いて湖は荒れ始め]、 [マタイ14:24 向かい風だったので波に悩まされ]、 [マルコ6:48
弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐね]、沈没の恐怖にすら直面させられることを学びました。その昔、『寺院消滅』という本を読みましたが、キリスト教会もまた同じ危機に直面しているように思います。福音書の「イエスの湖上歩行」という出来事は、そのような危機のただ中で、御子なる神イエス・キリストが如何なるお方であるのかを教えています。
『シリーズ■聖書から―2.信仰』という本があります。その中で教えられましたことは、信仰は信仰を「ブレークスルーしていく」ということでした。「ブレイクスルー(breakthrough)」は、「破壊」「打破」「打開」を意味する「ブレイク(break)」と、「通り抜ける」「通過する」を意味する「スルー(through)」を組み合わせた言葉であり、「現状の課題や困難、障害を突破する」「突破口」という意味で使われ、[これまでにない考え方で目の前にある障壁を突破する]ことです。ヨハネ福音書を順に傾聴していまして思いますことは、[ヨハ1:1
初めにことば(御子なる神イエス・キリスト)があった。…ことば(御子なる神イエス・キリスト)は神であった]で始まり、洗礼者ヨハネから弟子たちを引き継ぐと、カナで水をブドウ酒に変える奇蹟、エルサレム伝道でニコデモとの対話、サマリヤ伝道でサマリアの女性の導き、ガリラヤ伝道で五千人の男性を五つのパンと二匹の魚で養う奇蹟をなし、その次に「湖上歩行」の奇蹟をなしておられるのです。
この一連の教えと奇蹟の意味は何なのでしょう。わたしには、これらの奇蹟と教えはただ一点を指し示しているように思えます。それは、「御子なる神イエス・キリストが一体どのようなお方なのか」を明らかにするため、弟子たちまた人々の霊の目を開かせるための「ブレイクスルー(breakthrough)」、岩山に穴をあけ、トンネルを貫通させる発破作業のように思えるのです。
それらは、生来の盲人の癒し、さらには一度死んでいたラザロのよみがえりで頂点に達し、人々に熱狂の巨大爆発(ビッグバン)を引き起こします。今朝の箇所で、弟子たちは一晩中、湖上の嵐に悩まされて、疲労困憊と、死の恐怖の中、幻覚でも起こったと思ったのか、死の使いがお迎えに来たと思ったのか―[マタイ14:26
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫]びました。[ヨハネ6:19
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた]のです。
弟子たちは、危機と恐怖のただ中で「御子なる神イエス・キリスト」との再会を果たしました。それは、救助の舟で駆け付けた「御子なる神イエス・キリスト」ではありませんでした。「湖上歩行」で舟に来られた「御子なる神イエス・キリスト」でありました。ウルリッヒ・ルツ著『EKK新約聖書註解―マタイによる福音書』には、[水の上を歩くということは、人間にはできない、神的能力である。神的人間だけがこの能力をもっている。海を渡ることも、水の上を歩くことも人間にはまったく不可能である。湖上歩行をするイエスを、超自然的な存在、また幽霊とみなしたこと、彼らの恐怖も理解できる。恐怖は人間がその理解力を超えるもの、神的なものが生活に入り込んでくるときに、人間が示す自然な反応である]と解説しています。
御子なる神イエス・キリストは、三年半の公生涯という神学教育プログラムで「ご自身が如何なる者であるのかを段階的に明らかに」されていきました。弟子たちは、最初「人間イエスが如何なるお方なのか」を理解していきました。モーセのような預言者であり、エリシャのような奇蹟遂行者であると教え、彼らはダビデのように異教徒を駆逐してくれる政治的メシヤとして期待値をあげていきました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような期待に背を向け、[6:45
それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。6:46
そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれ]ました。
さて御子なる神イエス・キリストは、何を祈るために[6:46
山に向かわれ]たのでしょう。わたしは、その祈りは[ダビデのように異教徒を駆逐してくれる政治的メシヤとして期待値を上げていく弟子たちと追従する群衆を、正しい路線に戻す]ことであったように思います。すなわち、御父が御子なる神イエス・キリストを通して表そうとしておられる「贖罪と内住の御霊」の栄光の道にです。G.E.ラッドは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、[イエスがわずかなパンと魚をもって五千人を養われた奇跡の後、無理やりイエスを連れて行き、彼を王にする民衆の動きが起こった(ヨハネ6:15)。実際に、ここで神の力を付与された人物と認められた。彼にわずかな刀と槍を提供しえたなら、彼はそれらを増やすことができるので、ひとつの軍隊をすら用意することができた。そのとき、ピラトの軍隊は彼の前に立ち向かうことはできないだろう]という期待を群衆に与えたと解説しています。
御子なる神イエス・キリストは、弟子たちや群衆に、「ダビデのような政治的メシヤ」待望が急拡大していくのを見て、現段階の神の栄光はそのようなかたちで現わされるのではないこと、そしてイザヤ53章に示されている「苦難のしもべ」「贖い代」としてのご自身の栄光の現し方へと人々導くため、「人間イエス」の次元に制限されている弟子たちの視野の壁を「ブレイクスルー(breakthrough)」し、彼らの心の目の岩山に穴をあけ、「御子なる神であるイエス」の次元にトンネルを貫通させる突破作業として、「湖上歩行」を敢行されたのです。弟子や群衆は、ローマ帝国の植民地支配からの解放者が登場したとして異常な盛り上がりと熱気に捉われ、[マルコ6:52
彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになって]いました。それで、そのような「人間イエス」が、人間にはなしえない、神的な存在者以外にしかなしえない「湖上歩行」を直に見、[6:51
彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ]という超自然的現象を直に体験させられ、[弟子たちは非常に驚いた]、驚嘆したのです。このお方は一体何者なのだろうと。
このような弟子たちの「信仰の成長」のステップのひとつひとつを見ていきますときに、「御子なる神イエス・キリスト」がどのようなお方なのか、このお方は何をなそうとしておられるのか、聖書はお方についてどのように語っているのか、弟子たちの「目のうろこ」が取り除かれていくプロセス、すなわち「栗のイガ→栗の皮→栗の実」へと一枚一枚、その覆いを取り除かれていく「信仰の成長のステップ」を見ることができます。わたしたちは、御子なる神イエス・キリストを信じることによって救われています。しかし同時に、避けることのできない日々の危機、また苦難を通して「御子なる神イエス・キリスト」の新たな一面を見せられ、そのことによって、日々信仰を「ブレイクスルー(breakthrough)」させられていきます。そのような信仰の挑戦を「カモン、カモン」と自らを鼓舞し、受けて立ち上がってまいりましょう。
危機に直面したとき、わたしたちもペテロのように[14:28
主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください]と申し上げましょう。[14:29
イエスは「来なさい」と言われ]るでしょう。弟子たちは、このようにして「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」として学んで行ったのです。わたしたちも学んで行くのです。わたしたちは、安全な[舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行]く時、ときどき、[14:30
強風を見て怖くなり、沈みかけ][主よ、助けてください]と叫ぶこともあるでしょう。でも大丈夫です。わたしたちの主[14:31
イエスはすぐに手を伸ばし、つかんで]、安全な舟の中に救い上げてくださいます。わたしたちも、実生活の中で、その生涯のただ中で、弟子たちのように「人間イエス」を「湖上歩行もされる御子なる神イエス・キリスト」であることを学び続けましょう。祈りましょう。
(参考文献:ウルリッヒ・ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』、G.E.ラッド『終末論』)
2025年1月26日
ヨハネ6:1~15「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」-現世では「苦難のしもべ」の生涯に生かされることを求め-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/IKf-i1to9fo
ヨハネ福音書
A.序(6:1-4)
B.大勢の群衆の空腹(6:5-7)
C.手持ちの材料―大麦のパン五つと、魚二匹(6:8-9)
D.男性のみで五千人、女性・子供合わせて約二万人の食事(6:10-13)
E.この方こそ、まことの預言者―イスラエルに沸騰した熱狂(6:14-15)
今朝の箇所は、[6:2
大勢の群衆がイエスについて行った]をもって始まります。御子なる神イエス・キリストは、受肉から三十歳まで、大工ヨセフの息子として、無名の年月を過ごし、公生涯に入られました。御子なる神イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが準備した弟子たちを引き継ぎ、カナの奇蹟、ニコデモとの対話、サマリヤの女との出会い、ベテスダの池での癒し、等をなし、それらのわざを通し、また聖書の解き明かしを通じて、自分がいかなる者であるのかを証しされてきました。[6:2
イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった]とありますから、[ヨハ5:5
三十八年も病気にかかっている人]のみならず、[5:3
病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち、死にかかっている人]等、たくさんの人たちを癒されるのを見聞きしていたからでしょう。
[6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て]とあります。その数は、[6:10
男たちは座った。その数はおよそ五千人であった]と言われており、これが成人男子の数だけだとしますと、女性と子供たちを加えると約二万人であったろうと言われています。[6:1
イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれ…6:3
イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた]とあります。おそらく、「山上の垂訓」のように、聖書からの解き明かしを豊かに語られたのでしょう。集会が終わりを告げる頃、御子なる神イエス・キリストは、[6:5
目を上げて、大勢の群衆]をご覧になり、人々が空腹になっていることに気づかれました。
それで、ピリポに [6:5
どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか]と、問いかけられました。成人男子だけで五千人、女性と子供たちを入れて、約二万人の食事の相談をされたのです。ピリポは、この頃、この宣教団の会計実務を担っていたのかもしれません。即座に[6:7
一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません]と悲鳴をもって答えました。一デナリは、当時の一日分の労賃に相当します。今日では約一万円になるでしょうか。「一食百円としても、二百万円必要です。一食百円では、満足のいく食事は準備できないでしょう」。
この会話に、[6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレが]入ってきます。そして、[6:9b
こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう] と否定的な受けとめ方ではありますが、とりあえず[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます]と紹介します。御子なる神イエス・キリストは、この提案を待っておられました。わたしたちが、今日直面している状況は否定的であり、手にしている材料・資源はごくわずかである場合が多いのですが、御子なる神イエス・キリストは
[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹]がありますと提示してくるのを待っておられるような気がします。わたしたちの手の内には何があるのでしょう。
わたしたちのような年齢になって来ると、そろそろと仕事ができなくなり、収入の道が断たれます。それで、生かされる年数と年金・貯金の取り崩しをどのようにしていくのか考えさせられます。それは、まさしく[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹]あります告白して、神さまに祈りつつ、生かされる余生であります。教職者・信徒の立場を超えて、余生の福利厚生を熟慮し、その準備の知恵を祈り求めていくことが大切です。「霞を食って生きる」とは、「仙人は霞を食って生きている」といわれるところから、浮世離れして、収入もなしに暮らすことを言います。クリスチャンはそうであってはいけません。それは、「信仰」ではなく、「無責任」な生き方です。老後に周囲の人たちに迷惑をかけないように、自立・自活して生活していけるよう準備すべきです。使徒パウロは、[Ⅱテサ
3:8
人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました]と記しています。
さて、御子なる神イエス・キリストは、[6:2病人たちになさっていたしるしを見た大勢の群衆]に囲まれ、みことばを語り終えられましたが、そこに約二万人の空腹状態に置かれている大群衆をみられました。それは、弟子たちにとっては、おそらくはひとり三百円の食事代で準備すれば300円×2万人=600万円とかかり、御子なる神イエス・キリスト伝道団は破産の危機を迎えたことでしょう。そして即座に提供できる「手持ちの材料・資源」としては[6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]だけでありました。今日の教会でも、個人でも、このような状況ということは多々あります。「このような状況で一体どうすれば良いのでしょうか?」という神への問いかけです。わたしたちの心に中における苦渋です。
そのような時に、わたしたちはどのようにしたら良いのでしょう。使徒パウロは[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい]と勧めています。御子なる神イエス・キリストは言われました。[6:10
「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った]とあります。神さまは、ふところが広く、深いお方です。わたしたちの「問題状況、足りないところ、必要」のすべてをご存じです。ですから、わたしたちの「願い事」のすべて、「状況・苦境」のすべてを神さまにさらけ出しましょう。神さまの御前には、場所がたくさんあり、草もたくさんあり、どんな問題も課題も、さらけ出し、座らせることができるのです。わたしたちの問題は五千もあるでしょうか。二万もあるでしょうか。
そうするとき、御子なる神イエス・キリストは天上にある大祭司の祈りをもって応えてくださり、[ヘブル4:16
わたしたちはあわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に]近づくことができるのです。御子なる神イエス・キリストは、[6:11
パンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられ、魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられ]ました。「ちょっとずつよ!
少ししかないから、ちょっとずつよ!」と声をかけながらではありませんでした。[6:11
彼らが望むだけ(どんどん)与えられ]たというのです。ここにも、神の国の不思議、御子なる神イエス・キリストの奇蹟をみます。
わたしたちの生涯も、そういう側面があるのではないでしょうか。見えるところは、 [6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]しか所有していない存在であり、人生なのですが、主に祈りつつ、主と共に歩んだ生涯を振り返ってみると[詩23:1
私は乏しいことがありません。…23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。…私の杯はあふれています]という一生ではなかったでしょうか。わたしが結婚した時、手持ち資金は25万円だけでした。小学校教師として勤めていた時の貯えを、教会の「牧羊館」建築に融資していたものが返金されたのでした。ほとんど一文無しで結婚生活を始めましたが、四人の子供を育て、今日まで導かれてきました。
後に、郷里で働きつつの種蒔き・開拓伝道でも、生活資金も、ポスターやチラシや看板等に、何もかも使い果たしてきた、ある意味「無謀な」生涯でありました。ただ、御子なる神イエス・キリストは、
、 [6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]を祝福し、増殖させ、大勢の群衆を養われたように、わたしたちの家族も祝福し、養い、老後の備えも準備してくださいました。それらは、神さまの不思議なみわざです。
神さまは、わたしたちが、健康に必要なものを[6:12
十分食べ]、贅沢をさけ「一つも無駄にならないように]生活し、[余ったパン切れを集め]慎ましい生活をなしていくとき、[6:13
そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった]といわれる余生を保証してくださるのではないでしょうか。わたしが翻訳させていただいたエリクソン著『キリスト教教理入門』の「③神の忠実さ」の項目には「⑴神の真性さとは、神が真実であること。⑵神の正直さとは、神が真実を告げられること。⑶神の忠実さとは、神の真実性が証明されること」であると記されています。わたしたちは、その走り抜ける生涯を通して、わたしたちが信じている神が「真実なお方」であり、その真実な神がわたしたちに「語られた真実な約束」を、わたしたちは「それを真実性を確証し続ける生涯」を生かされているということなのです。
今日の箇所の最大のハイライトは、[6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った]という箇所です。人々は、なぜこのような告白、また熱狂にいたったのでしょう。群衆の告白の背景には、申命記18:15-19の「モーセのような預言者」が現れるという約束がありました。モーセは、異教徒エジプトの圧政の下に置かれていたイスラエルの民を、十の災害と紅海渡河の奇蹟をもって解放し、荒野の四十年間、岩からの水、うずらやマナの食料供給の奇蹟を仲介した指導者でした。
群衆の告白の背景には、モーセに加えて、旧約のヒーローのひとり、エリヤ・エリシャ伝承があると言われています。第二列王記4:42-44で、エリシャが召使いの絶望にもかかわらず、わずか数本の新鮮な穂と大麦のパン20個だけで、100人の人々に食事を与えています。御子なる神イエス・キリストの卓越した聖書の解き明かしと数々の奇蹟的みわざ、そしてモーセを通してのマナやうずら、エリシャを通してのわずかなパンで多くの人を養う記事の「再現」に直面した群衆が、[6:14
人々はイエスがなさった(モーセやエリシャに類似した、あるいはそれらをしのぐ)しるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と(口々に)叫び、[6:15
人々が…(御子なる神イエス・キリストを、異教徒ローマ帝国の植民地からの完全な独立のために戦う)王にするために連れて行こう]としたのも無理からぬことと思います。御子なる神イエス・キリストは、自身が如何なる者であるのかを証しされ続けていました。その成功と裏腹に、群衆は「政治的解放者」という間違った方向に反応していきました。
しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような「政治的行動」は、BC722「アッシリア捕囚」、BC606「バビロン捕囚」、AD70「エルサレムと神殿の崩壊」をもたらすものだと知っておられ、現段階においては、イザヤ11章にみる「ダビデ的王としてのメシヤの役割」の段階ではなく、イザヤ53章の「苦難のしもべ」の段階であることを自覚しておられ、[6:15
再びただ一人で山に退かれ]たのです。わたしたちも、御子なる神イエス・キリストにならって、現世では「苦難のしもべ」の生涯に生かされることを求め、新天新地において「主と共に、栄光の座」につかせられることを期待していきたいと思います。「賞賛のことば」に舞い上がらないよう気をつけましょう。御子の荒野の誘惑の「再現」であるのかもしれないからです。祈りましょう。
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament Commentaries
、D.A.Carson, “The Gospel According to John”、G.E.ラッド『終末論』 )
2025年1月19日
ヨハネ5:41~47「モーセが書いたのはわたしのことなのです」-ユダヤ教徒とキリスト教徒を「分離させるもの」は、「結びつけるもの」と同じである-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/q7yGqjWgrmI
ヨハネ福音書(概略)
A. あなたがたのうちに神への愛がない(5:41-44)
B. モーセが書いたのはわたしのことなのです(5:45-47)
今週のテキストでは、先週の[ヨハネ5:39 その聖書は、私について証ししている]に引き続き、[5:46
モーセが書いたのはわたしのことなのです]と驚くべき言葉が続きます。AD30年前後のユダヤ人たちと御子なる神イエス・キリストの「聖書観」、また「モーセ理解」のギャップが対照されて描かれています。そして、それはヨハネ福音書が書かれたAD90年代の、キリスト教会とユダヤ教会堂の「聖書観」、また「モーセ理解」のギャップの対照でもあります。AD70年にエルサレムと神殿を失ったユダヤ教は、パリサイ派を中心に「律法の遵守」を軸にして再建されていきました。
これに対して、キリスト教会は、聖書を、そしてモーセの証言を、「御子なる神イエス・キリスト」に焦点を当てて理解していました。ユダヤ教社会とユダヤ教会堂に属しつつ、「御子なる神イエス・キリスト」に心惹かれていたユダヤ人求道者またユダヤ人クリスチャンたちは、それらふたつの解釈の間で、ある意味「また裂き」の状態に置かれていました。日本で例えれば、家族・親族は、「伝統的に寺の檀家であり、地域では神社の氏子」でありつつ、キリスト教に心を開き、御子なる神イエス・キリストを信じているが、洗礼を受けることはできず、「二股」状態にあるクリスチャンまた求道者といえるでしょうか。
その意味で、ヨハネ福音書は、そのような「二股」状態にあるクリスチャン、また求道者を励まし、「聖書」に対する確信、そして「御子なる神イエス・キリスト」に対する信仰を強力に励ます文書なのです。ユダヤ教の人たちは、二千数百年にわたって現在もなお、旧約聖書のうち、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、すなわち律法(トーラー)を生活の中心としてきました。ユダヤ教のユダヤ人たちは、日常生活の様々な取り決めの実践にあたり、何が神のみ旨にかなうのかという視点で律法を解釈しました。それが、口頭で伝えられ、文書化され、「ミドラーシ」「ミシュナ」「タルムード」というかたちで編纂され、集大成されていきました。
ヨハネ福音書は、 [ヨハ5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。5:40
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません]と、AD30年前後、また1世紀末のユダヤ教徒たち、特にパリサイ人たちの「律法遵守」の熱心が、逆に聖書が焦点を当てている「御子なる神イエス・キリスト」に対する盲目を引き起こしていると指摘しています。今朝の箇所では、このような来臨された「御子なる神イエス・キリスト」に対する盲目と「聖書観」ギャップの新たな視点が示されています。
今朝の箇所は、[5:41
わたしは人からの栄誉は受けません]をもって始まっています。これは何を意味するのでしょう。これは、[5:43
ほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。5:44
互いの間では栄誉を受け]を反映しています。[5:43 ほかの人がその人自身の名で来れば]とは何でしょう。それは、[使5:36
先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。5:37
彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました]とあるように、イスラエルの歴史の中には、「我こそは、聖書に預言されているメシヤなり」と自称して人々を扇動する「偽メシヤ」が多数現れてきました。
特に、異教徒による植民地支配からの解放を唱える政治的指導者は[5:43
その人自身の名で来れば]受け入れられやすく、[5:44
互いの間で栄誉]や賞賛を勝ち取ることはそれほど難しいことではなかったでしょう。それらの人々は、すでに存在する熱狂的愛国主義とか、また既存する宗教的勢力との結託・協調という共通土壌が存在していたからです。御子なる神イエス・キリストが、[5:41
わたしは人からの栄誉は受けません]と言われた意味は何でしょう。当時のユダヤ教徒、また一世紀末のパリサイ人たちが、御子なる神イエス・キリストを[5:43
受け入れ]なかったのはなぜでしょう。
それは、[ヨハ5:18
神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]でありました。御子なる神イエス・キリストは、[5:43
わたしの父の名によって来た]と、御父なる神の名代として来臨されたと自己紹介されました。[5:43
わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません]というよりは、[わたしが、わたしの父の名によって来た“というから”、あなたがたはわたしを受け入れません]と書いた方が分かりやすいかもしれません。数多くの政治的リーダーは、“水平のレベル”の人間世界の「植民地解放者」としてリーダーシップを発揮しようとしたのです。
しかしながら、御子なる神イエス・キリストは、「上から、御父の元から」降って来られたお方でした。[ピリ2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ]たお方でした。「ヨハネ1:14 神が人となられ」、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]ているのが、御子なる神イエス・キリストであると紹介されているのに、[5:43
あなたがたはわたしを受け入れません]と言われているのです。
ユダヤ教徒のパリサイ派の人々は、御子なる神イエス・キリストの旧約聖書に沿った教えに対しては、受け入れます。つまり教師(ラビ)のひとりとしてなら、その教えを受け入れることができます。彼らにとって、「ヨハ1:14
ことば(御子なる神イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」と言うことは、神を汚す「瀆神罪」であり、「石で打ち殺されなければならない」罪でありました。その感覚が[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった]に示されています。
御子なる神イエス・キリストは、そのような状況、旧約的背景を十分にご存じでした。それにも関わらず、真正面から、妥協も、躊躇もすることなく、[ヨハ5:18
ご自分を神と等しくされ]続けておられるのです。このような姿勢に習いましょう。学びましょう。その反対のある状況を[5:42
あなたがたのうちに神への愛がない]と評価されています。パリサイ派の人々は、まことの神を愛するがゆえに、「御子なる神イエス・キリストは、石打にされなければならない」と考えていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父・御子・御霊なる神なるお方ですので、御子なる神イエス・キリストへの殺意に満たされた彼らが、
[5:42 あなたがたのうちに神への愛がない]と言われても仕方がなかったのです。
パリサイ派の人々は、モーセ五書を学び、それを徹底的に遵守することに[5:45
望みを置いて]いました。モーセは、「ヨハ1:14 ことば(御子なる神イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」
というような教えをする者を石打にして殺すように教えていると確信していたのです。しかし、御子なる神イエス・キリストは、[5:45
あなたがたが望みを置いているモーセ]が、あなたがたの盲目・誤りを明らかにしていると指摘されます。[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。18:19
わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う]と、この預言で言われているのは、「御子なる神イエス・キリスト、わたしのことである」と。
御子なる神イエス・キリストは、パリサイ派の人々が誤解して聖書を読んでいる。誤って解釈していることを指摘されています。モーセの言葉は、パリサイ派の人々が解釈しているように読み、適用されるものではなく、[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こし]は、御子なる神イエス・キリストの受肉・生涯・十字架による死・葬り・復活・昇天・聖霊の注ぎ、再臨・新天新地まで含む御子なる神イエス・キリストついての預言であると指摘されているのです。ですから、[5:46
もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです]というのは、モーセが書いたことを“正しく解釈”したら、御子なる神イエス・キリストが示されたような解釈となり、そのような解釈は、御子なる神イエス・キリストへの信仰へと結びついていくはずであるということです。
[『カール・バルト著作集7』(新教出版社、1975年)
283-284頁、このバルトの著作の中には教会とユダヤ人の関係を深く思索した好論文「ユダヤ人問題とそのキリスト教の応答」があり、彼は「反ユダヤ主義」を批判する自らの基本的な立場を明確にした後、ユダヤ人とキリスト者を「分離させるもの」について、「結びつけるもの」と同じであると言う。「それは、ゴルゴタの丘の十字架にかかり給うたユダヤ人である。私たちはそのお方をイスラエルの約束の成就として、それゆえに全世界の救い主として認める。ユダヤ人たちは、彼らが最初にそうすべきであるのに、この一人のユダヤ人であるお方を認めない。これが、ユダヤ人の存在をめぐる、現実であり、存続している、驚くべき謎なのである」同書、288頁、と記している。]今朝の箇所を読むにつけ、ユダヤ人として生まれられた御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちは、いまだ誤謬また誤った聖書解釈の中にあるユダヤ人またユダヤ教徒の救いのために祈る責任があると教えられます。祈りましょう。
(参考文献: 土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、D.A.Carson,“The Gospel according
to John”, 安黒務『福音主義イスラエル論Ⅰ』)
2025年1月12日ヨハネ5:30~40「その聖書は、私について証ししている」-イスラエルを手段化・機能視し、御子なる神イエス・キリストを目的化・神聖視する聖書観-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/x8-lesE7wtw
ヨハネ福音書(概略)
A.御子の証言(5:30-31)
B.御父の証言(5:32)
⑴洗礼者ヨハネを通しての御父の証言(5:33-35)
⑵御子の存在・生涯・みわざを通しての御父の証言(5:36-38)
⑶聖書を通しての御父の証言(5:39-40)
今朝の第一節、[5:30
わたしのさばきは正しい]は、「人の生死をつかさどり、永遠の沙汰を判断・評価される」御子なる神イエス・キリストの自己証言です。ただ、わたしたちの世界の裁判でも、たとえば殺人犯の疑いで訴えられている人が、「わたしはやってません!」と自己証言しても、それだけでは無罪の証明とは認められません。その主張を立証するため、自己証言を証明する他の証人や証拠が求められます。旧約聖書は、十戒を中心にまことの神以外のものを神とすることを禁じています。ですから、当時のユダヤ人にとって、[ヨハ5:18
イエスが…ご自分を神と等しくされた]ことに我慢がならなかったのです。これに対し、新約聖書は[ヨハ1:1
ことば(すなわち、御子なる神イエス・キリスト)は神であった]、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]と証言するのです。
すでに申し上げていますように、ヨハネ福音書における「紀元30年頃、御子なる神イエス・キリスト在世当時のユダヤ人たちとの確執」の描写は、「70年のエルサレムと神殿の崩壊と離散、シナゴークと律法遵守中心のユダヤ教のあり方の中で、御子なる神イエス・キリストを信じる隠れユダヤ人キリシタン排斥の圧力の時期」に執筆されたものです。ここで問題となっているのは、ユダヤ教を背景にキリスト教は成立していったわけですが、そのユダヤ教の「唯一神教を捨てることなく、しかも御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れるに値する証拠・証人を示す」必要があったのです。その意味で、ヨハネ福音書は「ユダヤ教会堂に属するキリスト教求道者層に向けての伝道メッセージ」でもありました。
当時のユダヤ人にとって、「人となられたイエスを三位一体なる、御子なる神イエス・キリストとして受け入れる」ことは、大変な決断であったでしょう。[5:31
もしわたし自身(御子なる神イエス・キリスト)について証しをするのがわたし(イエスご自身)だけなら]、自らを三位一体の神とする自己証言の信ぴょう性は疑わしいものとなります。誇大妄想者のように扱われます。それで、御子なる神イエス・キリストは、[5:32
わたしについては、ほかにも証しをする方]がおられると証言されています。そのお方とは、三位一体なる神の、御父です。御父による三つの証しが紹介されています。
その第一は、洗礼者ヨハネを通しての御父の証言です。[5:35
ヨハネは燃えて輝くともしび]と表現されています。旧約の[詩132:17
そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える]とあります。この灯火の輝きが喜びをもたらすと預言されているのです。洗礼者ヨハネは、メシヤたる御子なる神イエス・キリストを指し示す旧約時代最後の偉大な預言者として登場しました。彼は、御父の導きと示しによって、「ガリラヤのナザレ出身の大工の息子イエス」を見て、[ヨハ1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊]、[ヨハ1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者]と証言しました。この証言は、洗礼者ヨハネの主観による判断ではありませんでした。それは、ヨハネ自身が[ヨハ1:33
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方(すなわち、三位一体の御父なる神)が、私に言われました]と、御父が主導権もって、洗礼者ヨハネを召し、「御子なる神イエス・キリスト」が如何なるお方であるのかの証言も提供しておられるのです。これは、つまり洗礼者ヨハネを通しての御父の証言なのです。
旧約の唯一神信仰を捨てることなく、三位一体の御父・御子・御霊なる神信仰を受容する第二の証言は、御子なる神イエス・キリストの存在・生涯・みわざを通しての御父の証言です。[5:36
わたしが行っているわざそのもの]が、御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのかを[証しして]います。御子なる神イエス・キリストのみわざとは、一体どのようなみわざなのでしょう。それは、受肉から、公生涯、みことばの解き明かし、癒し等の奇蹟、十字架、復活、昇天、聖霊の注ぎ、キリストのからだなる教会の形成、将来の再臨、新天新地に至るすべてのみわざを包摂しています。それらのひとつひとつ、そしてそれらのすべてが、三位一体の御父・御子・御霊のみわざであることを証ししています。
[5:37
あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません]という御子なる神イエス・キリストの言葉を聞いた時、ユダヤ人は何を思ったでしょう。それは、[出19:9
【主】はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを【主】に告げた]という歴史です。モーセが神から十戒を授与されたとき、ふもとに民衆を残してシナイ山に登って、雲の中から神の声を聞いたことを思い起こしました。十戒と幕屋礼拝は、イスラエルの民をひとつの国民に形成していきました。[5:36
わたしが行っているわざそのもの]すなわち、三位一体の御子なる神イエス・キリストの一連のみわざは、神の[5:37
御声…御姿]となって、新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮を形成して行ったのです。カルバリ山の出来事をシナイ山の出来事と重ね合わせると、三位一体の神のみわざへの理解を深めることができるでしょう。
旧約聖書にある唯一神信仰を捨てることなく、新約聖書にみる三位一体の御父・御子・御霊なる神への信仰を保持する第三の証言とは何でしょう。それは、聖書を通しての御父の証言です。旧約聖書を通し、御父は如何なる証言をしておられるのでしょう。わたしは、奉仕生涯を通じて、数々の旧約聖書の神学書に目を通してきました。そして、今でもその研鑽の道中にあります。ただ振り返って思いますことは、その信仰の初期に、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を熟読したことは、大きな助けとなりました。
旧約聖書の読み方を教えるページに、「旧約聖書の三つの基本的思想」と「旧約聖書における三大思想発展の段階」がありました。[「旧約聖書の三つの基本的思想」には、1.アブラハムへの神の約束、2.ヘブル民族との神の契約、3.ダビデへの神の約束とあり、「旧約聖書における三大思想発展の段階」には、1.メシヤの国民、すなわちヘブル民族は、この民族を通して全世界が祝福されたものである。2.メシヤの家族、すなわちヘブル民族が世界を祝福する方法は、ダビデの家の者によってである。3.メシヤ、すなわちダビデの家の者が世界を祝福する道は、その家系に生まれるひとりの偉大な王によってであるとあり、このように、神がヘブル民族を創始された「究極の目的」は、キリストを世界に来たらせることであった。神が「当面の目的」とされたのは、偶像礼拝の世界のただ中に、来たるべきキリストの背景として、唯一の生ける神がいますとの理念を立てることであった]とありました。
わたしは、19歳のクリスマスに洗礼を受け、20歳の秋に、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を片手に、丁寧に聖書を熟読したとき、
[5:39
その聖書は、わたしについて証ししている]のです、という意味をはっきりと理解しました。それまでは、旧約聖書を読んだ時、「イスラエル民族の祝福・衰亡・再興」の物語が、わたしたちクリスチャンにとって何の意味があるのだろうか?と分からなかったのですが、「イスラエル民族の祝福・衰亡・再興」は、目的ではなく、手段なのであり、それらは神聖視されるべきものではなく、機能視されるべきものであると明確に理解できたのです。今日のキリスト教会の一部において、「旧約におけるイスラエル民族の祝福・衰亡・再興」を目的化・神聖視する傾向が見られますが、ICIユーチューブにみられますように、それらを克服し手段化・機能視する方向にリフォームしていくことも、またICIの重荷のひとつとなっています。[5:39
聖書は、わたし(すなわち、御子なる神イエス・キリスト)について証ししているものです]―これが、ICIの旧約聖書観であり、キリスト教会の福音理解のセンターラインであると確信しているのです。このセンターラインに沿って、今年も走り続けましょう。祈りましょう。
(参考文献: 松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、Bernhard W.
Anderson“The Contours of Old Testament Theology”)