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2026年3月22日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ13:16~20「自分が選んだ者たちを知っています」
-この世の愚かな者、この世の弱い者、取るに足りない者や、見下されている者、無に等しい者を選ばれ-
https://youtu.be/OqLHGxgBpfo
この三月は、わたしたちにとってはひとつの過渡期であります。信仰の父祖アブラハムがカルデヤのウルの地を旅立ったように、またイスラエルの民がエジプトの地を旅立ったように、わたしたちも、わたしの故郷である一宮を旅立ち、家内の故郷である西宮に拠点を移しつつあります。旅立ちというものは大変な作業が伴います。長年慣れた生活下でたくさんの生活用品が増えているからです。旅立つ時には、身の回りの物を整理し、身軽になる機会であります。必要な物と必要でない物を選別し、今後の生活に必要な物以外の物を処分し、整理する機会です。
田舎の大きな家に住んでいたものですから、価値あるものは捨てずに生きてまいりました。そうこうするうちに、大量生産の時代に部屋という部屋は物で一杯になっていました。引っ越しまではそのことに余り関心がなかったのですが、いよいよ必要な物だけに絞って整理する段階に入った時、物そのものには価値があるけれど、今後五年十年に不必要な物が一杯あることを教えられました。これらの不要な物を整理していく上で、今後五年十年、あるいはそれ以上生きるかもしれない余生に最低限必要な物だけを残し、それ以外のすべての物を処分することにしたのです。
一宮と西宮の二拠点生活、二拠点ミニストリーを年金生活者として始末しつつ、奉仕していくために、二重にかかるさまざまな経費も節減することにしました。二月末で、電話と光ファイバーのインターネットを西宮だけにし、一宮のネット環境を撤去し、モバイル・ルーターの安いワイファイを活用することにしました。ただこれは失敗でした。容量が少なく二日間でインターネット接続が困難になりました。それで、無制限の容量があり、安価な楽天の最強プランを試すことにしました。田舎で4Gしか使えない地域なので、i-Phone17eをパソコンのモバイル・ルーター兼用で活用することで、一宮の不定期滞在のインターネット環境を確保しつつ、安価な経済生活を試行錯誤し、探求していきたいと考えています。ウェブ環境やパソコンと携帯とアプリも整備中ですので、視聴してくださっている皆様にはご不便をおかけしますがご容赦お願いします。近況報告が長くなりました。では、旅立ちなどとは比べ物にならない。単なる環境の変化ならぬ、栄えある公生涯から十字架上での死刑という事態の大転換期のイエスについて記した今朝の聖書の箇所に傾聴してまいることに致しましょう。
ヨハネ福音書
A.しもべと主人の関係と謙卑の精神(13:16-17)
B.選ばれた者とかかとを上げる者の失敗(13:18)
C.起こった時に、わたしが『わたしはある』であると知る(13:19)
D.わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを、またわたしを遣わした方を受け入れる(13:20)
今朝の箇所も含め、ヨハネ福音書を読むごとに、ヨハネ福音書はまことに「教理の宝石箱のような文書である」と教えられます。今朝は最初に[13:16
まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません]とあります。ナザレ人イエスは、イスラエルの王として子ロバに乗って凱旋された際に、出世争いに余念のない弟子たちに対し、神の国の出世はこの世の「内閣の組閣におけるポストにおける右と左の席」のようなものではなく、「十字架にくぎ付けられたイエスの、右と左の十字架にくぎ付けられる」ようなものだと示唆されます。そして仕えられる者のようではなく、仕える者のように「謙卑」のスピリットをもって仕え合うことを勧められました。最近、目配りしている本の一冊に、ジョン・V・テイラー著『キリストのような神』という本があります。
イギリスの宣教団体の責任者として奉仕された方の著作です。その解き明かしは「『キリストのような神』の中心的な主張は、イエスは人間の生活における神の存在の反映である」ということであります。「神さまがキリストのようなお方である」とすれば、それはなんと素晴らしいことではないでしょうか。神さまは、御父、御子、御霊の三位一体のお方であり、この神さまの本質は、この神さまがどのようなお方なのかということは、キリスト、ナザレ人イエスにおいて明らかにされている、ということなのです。このお方は、天から来られ、聖霊により処女マリアを通して受肉され、三位一体の神がどのようなお方であるのかを明らかにしてくださいました。このお方は、カナの婚礼において水をぶどう酒に変える奇跡から始まり、死んで四日目のラザロをよみがえらせる奇跡をなさった三位一体の、御子なる神キリストであられました。そのお方が、「神の国到来、イスラエル王国の再興における出世争い」に熱心な弟子たちに、あるべき姿を自ら率先して教授されました。
師であるナザレ人イエスが、弟子たちの足を洗われたのです。それは、本来は当時の奴隷の立場にある人がする下賤なとされる仕事でありました。しかし、ナザレ人イエスは謙卑のスピリットを持って、そのような奉仕を率先してなされたのです。ある人は、奴隷のなすべき仕事を高貴な人がした場合、その高貴な人をさげすむこともあるでしょう。ですから、謙卑のスピリットをもって、世の慣行に逆らい、謙卑な行為をなすということは危険な行為でもあるのです。ですから、ナザレ人イエスは[13:17
これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです]と言われました。通常の秩序や慣行というものがあります。霊的な世界にも秩序があります。三位一体の御父なる神は天高くはるかかなたにおられる創造者です。三位一体の御子なる神キリストは二千年前に受肉され地上で謙卑な生涯を生きられたお方です。三位一体の聖霊なる神は御子の昇天後に注がれた後、わたしたちの内に内住され臨在してくださっているお方です。
世の慣行や秩序、霊的世界の慣行や秩序をわきまえつつ、それらを無視するのでも、踏みにじるのでもなく、それらの意味や意義を踏まえつつ、謙卑のスピリットをもって生活しなさい、仕え合いなさい。わたしたちが信じているお方は、そのような高みにおられたお方でありましたのに、地の底に下られて、愛し合い、仕え合う生活を教えられたお方なのです。ここで、[13:18
わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです]と言及されています。ヨハネ福音書では、裏切り者ユダについてあまり批判めいた記述はありません。この世においては、悪の問題がなくなることはありません。教理の世界でも、悪の問題の扱いは大変難しい問題のひとつです。ここにおけるヨハネの描写は、悪しき出来事と思われる事も、神の手のうちにあり、神の摂理の御手の中でコントロールされているということです。
私たちの生涯においても、不意の、きわめて受け入れがたい事や事態、病や事故、障害、人間関係等が存在するでしょう。人生というものは、長距離の障害物競争のようなものと思います。危機管理の原則は、起こりうる最悪の事態を想定し、そのような事態が起こった場合の備えをしておくことだそうです。わたしは、クリスチャンもそのような考え方もって、最悪の事態が到来してもそれらを乗り切って生きていく処方箋を、神さまとともに備えをしておくことが大切だと思います。その備えには、いろんな備えがあると思いますが、それらの備えにおいて最も本質な備えのひとつに、「エジプトのヨセフの生涯に見る神の摂理の教理」があると思います。エジプトのヨセフは、兄弟たちにねたまれ、穴に落とされ、エジプトに奴隷として売られ、そこでも罠にはめられ、牢獄に入れられる苦難の生涯を送りました。わたしは、難しい状況に陥った時には、いつも自分の状況をヨセフと重ね合わせることを学びました。
その置かれている状況、追い込まれた境遇のただ中で、主の臨在と共に生きることです。ヨセフは困難な状況の中で「創世
39:3,21,23
主がヨセフとともにおられ」たので、ヨセフはその置かれた所で祝福され、祝福の基とされたと教えられています。わたしは、祝福された生涯は、環境や境遇ではないことを教えられました。主の臨在を大切にする。置かれた状況のただ中で主と共に生かされることが、祝福された生涯の秘訣であることを教えられたのです。ヨハネは、ユダの記述について恨みつらみは書きませんでした。十字架にまつわるユダの悪しき行いについても、エジプトのヨセフの生涯における悪しき兄弟たちのように、主の御手のうちにあり、摂理の中で、主の贖罪のみわざのシナリオで、いわば「バイキンマン」のように用いられたのです。
[13:19
事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです]とあります。わたしたちの人生にはいろんなことかあります。起こります。順風満帆ななだらかにな海のような日々もあれば、海面のうたかたのように浮き沈みのただ中に置かれることもあるでしょう。しかし、わたしたちは、朝毎に夕毎に、ひねもす、主の臨在の中に生き、そこから湧き出ずるものによって養われ、導かれていけば良いのです。イエスはね言われます。[マタ11:29
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい]と。わたしたちの神は、三位一体のお方であり、「キリストのようにへりくだってくださるお方」です。御子なる神キリストであられるお方でありますのに、ユダのようではなく、ペテロのように三度も「わたしはこの方を知りません」と断言するような弱さを持つ者であるにも関わらず、罪と欲と誘惑で汚れた足を何度でも、その十字架の血潮で洗い、その割かれたからだでぬぐってくださるお方です。
わたしたちは、生涯の中で「何かが起こる」ごとに、それが[13:19
起こったときに]、主の臨在のただ中で、主がどのようなお方であるのか、主がその出来事のただ中で教えようとされているを学ぶのです。最後の節にある[13:20
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです]では、教会の教理を教えられます。ヨハネが言及した「わたしが遣わす者」とは、十字架の出来事に直面し、四散する弟子たちに対する励ましの言葉です。イエスは、十字架の出来事に直面して、逃げ隠れする弟子たちや「断じて、イエスは知らない」と三度も言い張る弟子たちが念頭にあります。打ちのめされた弟子たちは、その後に「自分たちは、弟子にふさわしくない」と考え、漁師の仕事に舞い戻ってしまいました。そのことがイエスの念頭にあります。
イエスは、[13:18
わたしは、自分が選んだ者たちを知っています]と言われました。イエスは、弟子たちのことをよくご存じでした。その名誉欲も、その恐怖に直面して逃げ隠れする弱さも。そのような過去と現在を見極めつつ、そのような欠点や課題や弱さを持つ弟子たちが、近い将来、聖霊の臨在の助けを得て、福音を宣べ伝え、地中海世界中に教会を建て上げていくことになると信じておられるのです。弟子たちは、自分たちがナザレ人イエスを選び、盛り立て、支えていくのだと自信を持っていました。しかし、彼らの自信は十字架と共に葬り去られてしまいました。イエスは、[ヨハ15:16
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため]であると言明されました。このお方は、[Ⅰコリ1:27
この世の愚かな者を選び、…この世の弱い者を選ばれ…、1:28
この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれ]、世界中に福音を宣べ伝え、キリストのからだなる教会を建て上げけるために、そのように弱さを内包する弟子たちを選び、立てられました。わたしたちは、そのような弟子たちの中のひとりであります。キリストの贖罪に根差し、よみがえりの聖霊の臨在に包まれて歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: J.V.テイラー『キリストのような神』)
2026年3月8日
ヨハネ13:12~15「あなたがたに模範を示したのです」-生きることはキリスト、死もまた益なり-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SKkIkKDx6AA
今から52年前、19歳のクリスマスの時に洗礼を受けました。その二週間後には成人式がありました。すなわち、わたしのクリスチャン生活はほぼ成人の日から始まったのです。わたしは、中学校の時には野球部に属していました。勉強がまあまあ出来ていたこともあってか、部員による選挙でキャプテンに選ばれてしまいました。ただ体が小さかったので、ポジションはセカンドでありました。普段は堅実な守備力を保持していましたが、緊張する性格のせいか本番の大切な場面でよくエラーをした思い出があります。高校の時は、一年間だけ野球部に属していました。担任の先生との面談で、「野球に打ち込んで、高卒で就職するのか?
野球部をやめて、受験に集中するのか? よく考えて決めるように!」と迫られました。
所属していたチームは強豪で、わたしが三年生の時にチームメイトは兵庫県の決勝まで勝ち進みました。わたしは「からだが小さかったので、レギュラー・ボジションを獲れないかもしれない?」と考え、自分の将来性を生かす「受験の道」を選択することにしました。野球部での猛練習の経験は、大学進学を目指しての猛勉強へと変わり、夕食後にすぐ寝て、真夜中に起きて、朝まで勉強する生活をしていました。一年間、野球に打ち込んで、授業中はほとんど寝ていたので、一年間の空白を埋めるためでありました。猛勉強のおかげもあり、志望校に合格して大学生活が始まりました。
しかし、大学での勉強内容はあまり面白くないものでありました。目標を見失ったわたしは、芸術や哲学に活路を見出そうと、絵画部弦月会に入部し、芸術の世界の豊かさを学びました。また、経済学部に入ったのですが、文学部等の「哲学」に興味をもち、その方面の勉強をしました。そのような試行錯誤の後に、西宮市上ヶ原六番町の電信柱に貼られた一枚のポスターに誘われて、教会の門をくぐることになりました。「あの一枚のポスターを見なかったら、わたしの人生はまったく異なったものになっていただろう」と思う時、人生というものの不思議を感ぜずにはいられません。わたしが、今、このように聖書からお話しすることも、SNSでブログをしたためるのも、わたしのささやかな取り組みが、ある人にとって「あの電信柱の一枚のポスターのような役割を果たしてくれたら」と願うからです。そのような思いを抱いて、今朝の箇所に傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.ナザレ人イエスの存在と行為の意味を問い続ける(13:12)
B.ナザレ人イエスは、『主』―すなわち三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストなるお方である(13:13)
C.私たちの神は、足を洗ってくださるお方である(13:14a)
D.私たちも、御子なる神イエス・キリストに倣って、足を洗い合うべきである(13:14b-15)
わたしが、二十歳の成人式の直前に、「わたしは、わたしに賦与された人生を如何に生きるべきか?」という問いに、不変の解答を手に入れることができたのは、本当に幸いなことでした。そのキーワードのひとつは、新約聖書[ピリ1:21
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です]という言葉です。それは、大学二年生の冬、経済学部の一般教養課程を終え、三年生からの専門ゼミナールを選択する時期でした。学部の友人たちは、「どこそこのゼミナールに入ると、どこそこの会社に入ることを約束されたようなものだ!」という会話が溢れていました。わたしの場合は、自営業の仕事が存在していたので、就職の事は考えることなく、自分が取り組みたいテーマを掲げているゼミナールを選択することにしました。
そのゼミナールは、天川潤次郎教授の「英国の産業革命前後の経済状況と天職意識に関する教会のメッセージの変遷」というものでした。わたしは、自分の人生を生きる意味と目的に悩んでいましたので、このゼミナールに所属することで、この問題に取り組むことにしたのです。産業革命以前の英国での「天職意識」に関するメッセージは、“天職神授説”と言われるものでした。爺さんが鍛冶屋であれば、お父さんも、息子も孫もまた、鍛冶屋でなければなりませんでした。静的な封建社会においては、人間が自由意志において職業を変えることは“大きな罪”であったのです。
しかし、英国の産業革命はその状況を一変させてしまいました。エンクロージャー・ムーブメント(すなわち、領主や地主が、小作人である農民から取り上げた畑や共有地だった野原を柵で囲い込んで、羊を飼うための牧場に転換する)という運動が起こりました。そのような大規模な経済状況の変化は、人々を失業に追い込み、都市部での仕事に追い込んでいきました。今日、日本の少子高齢化社会への急激な変化とも重なるような事態が起こっており、神社、お寺、教会等にも大きな影響を与えています。当時、原書で読みました本の中には興味深い記述がありました。それは、当時の英国の教会の説教では、社会情勢の激変ににもかかわらず、「献金と礼拝出席」という教勢の低下を防ぐために、あくまで“天職神授説”にこだわり、職業を変え、都市部に移動する信徒を非難していたのです。
しかし、神の変わらない言葉を掲げ、解き明かす教会であっても、静的な経済の封建社会から、動的な経済の産業革命社会への変遷にいつまでも抵抗することはできませんでした。やがて、教会の“天職意識”に関する聖書解釈と適用は、“天職神授説”から“天職選択説”へとシフトしていきました。わたしは、キリスト教会における“召命論”においても、このような社会情勢の激変に即し、対応していく柔軟な聖書解釈と適用が大切なのではないかと思っています。このような考え方が根底にありましたので、献身者としてのわたしの奉仕生涯も、かなり柔軟性に満ちたものとなりました。神学校卒業後の三年は神学校助手、七年間は教会で牧師、三年間は研究生活、その後の三十五年間は研究所での働き―すなわち講義・講演・翻訳・執筆・SNS等―というかたちで、本質は変わりませんでしたが、その奉仕の外観と形式は、いわば“カメレオン”の皮膚のように柔軟に変化するよう導かれてきました。
今朝の箇所を、わたしの証しと重ね合わせて見てまいりましょう。ナザレ人イエスは、[13:12
彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか」]と。クリスチャン生活とは、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストが受肉され、まぶねに寝かされ、エジプトに逃避行し、生涯の大半を人知れず、大工ヨセフの長男として生活されたナザレ人イエスに倣うことであると教えられています。わたしも、若い時には、画集に付帯している画家の伝記などを読み、星空にまたたく天才画家たちの才能と業績に圧倒されたことを思い出します。それに比して、自分はなんと平凡な存在なのだろう。いや、地面の上に転がっている価値のない石ころのようであり、ジメジメした岩陰にうごめいている害虫のような存在にすぎないのではないかと悩みました。
「自分が生きていることに意味や価値があるのだろうか」と、深刻に悩んだのです。そのような時に、[ピリ1:21
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です]という聖書の言葉が、わたしの心の中に響きました。「どんな優れた業績を残すのか」とか「自分の内に才能や能力のような価値を探すのか」とかではなく、「キリストのように生きたかどうか」という一点こそが、人生を生きる“絶対評価の座標軸”
なのだ、ということを教えられたのです。
今朝の箇所で、ナザレ人イエスは[13:12
わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか]と問われました。ナザレ人イエスは、「13:13
『主』」なるお方、すなわち三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストなるお方であり、その三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストなるお方が、[13:14a
足を洗って]くださったということです。これは、カナの婚礼の奇蹟から始まり、ラザロのよみがえりで頂点に達した時期に、弟子たちはまもなくイスラエル民族の復興、植民地支配の終わりとなり、「自分たちは一体、どのような立場の“閣僚”として奉仕することになるのだろう」(マタイ20:21)と胸膨らませていた時に、ナザレ人によって、打たれたワクチンのようなものでした。
エルサレム入城間近のタイミングで、弟子の母のひとりは、[マタ 20:21
イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」]と願い出ました。これに対して、ナザレ人イエスは弟子たる道は、栄達の道ではなく、十字架を背負う道であることを語られました。事実、弟子たちの多くの者は、後に殉教することになります。玉座の右と左に座るのではなく、十字架の右と左に釘付けされる道であることを弟子たちはまだ知りませんでした。洗足の記事は、同じ文脈にあります。それは、選挙に大勝して“入閣間近”と待ち望み、期待する当選した議員のようでした。その気持ちは高揚していました。
弟子たちのそのような気持ちの高揚を察して、ナザレ人イエスは「これから起こることへの備え」をなさったのです。わたしたちの人生で、無意味・無価値な事は何一つないと教えられます。主は[ロマ8:28
すべてのことがともに働いて益となる]と約束されているからです。全知全能の父なる神は、子なる神イエス・キリストの恵みに根ざし、御霊なる神聖霊を通して、すべての事柄を働かせ、神の摂理の内に導いてくださいます。ですから、わたしたちは、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストが、ナザレ人イエスにおいて[Ⅰペテ2:21
その足跡に従うように]とわたしたちに残された模範に従って歩んでまいることにいたしましょう。
ロトが低地を選んだ時に、アブラハムは残された山地を選びました。弟子たちが、玉座の右と左を希望した時に、イエスは十字架の右と左を示されました。わたしたちは、この世が上昇志向に走る時、キリストの謙卑の教理を思い起こしましょう。弱さのただ中で十字架に釘付けされた神に倣い、下降志向に生きる者とされてまいりましょう。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだ」られたナザレ人イエスの生涯をのみ、“絶対評価の座標軸”として生かされてまいりましょう。わたしたちは[ヨハ13:4
上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとって]、失敗と罪と弱さで汚れた、お互いの足を洗い合う者とされてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:
M.J.エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』26章キリストのわざへの序論、1.キリストのわざの初諸段階、⑴謙卑、①受肉・➁死)
2026年3月1日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ13:4~11「弟子たちの足を洗い、ふき始められた」
-弱さの中に十字架につけられる神のイメージにこそ価値を置く-
https://youtu.be/2xweLoEq_ZM
今朝の箇所は、有名な洗足の記事です。この箇所に関連して、ひとつの事を思い出します。関西聖書学院の神学生であった時のことです。講義を受けるだけでなく、作業の時間もありました。裏庭の掃除をしていますと、スンベリ院長がのそっと現れてきて、「ドブの中も清掃しないといけませんよ」と言われましたので、ドブの蓋を開けてスコップか何かを使って大まかにドロをかきだしていますと「手を使って綺麗に掃除するように…」と言われ、即座に手を入れてドロをかき出し始めると、先生は驚かれ「関学を卒業しているのに、このようなことを…!」と、目の涙を浮かべられた姿が、一枚の写真のように強い印象となって心に残りました。先生との関わりで、そのような場面が幾度となくあり、百の講義に勝る、“真の教育者”たる者の心の動きを深く教えられました。
江戸時代とは異なり、今日の日本では、職域の範囲は明確ではありませんが、第三世界では「人によって、してはいけない仕事と、しなければならない仕事」の範囲がはっきりしているようです。1世紀の中東では、汚れた足を洗い、タオルでそれを拭き上げる仕事は、奴隷と呼ばれる人々の仕事でありました。それで、
ペテロはイエスに「13:8
決して私の足を洗わないでください」と言ったのです。「決して」という言葉は“絶対に”という意味の言葉です。1世紀の文化的環境の下での、ペテロの反応は自然なものといえます。このような出来事がなぜ受難週に重要な教えとして記述されたのでしょう。そのような点に注目しつつ、今朝の箇所に注目してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.イエスによる洗足(13:4-5)
B.ペテロとイエスの問答(13:6-7)
C.洗足と十字架の意味(13:8-9)
D.聖いの意味(13:10-11)
ペテロが、「13:8
決して(絶対に)私の足を洗わないでください」と言った理由は、イエスに対する絶対的な尊敬が存在していたからです。「イエスのようなお方が、当時の奴隷がする汚れている、下々の者がする奉仕をしていただくことはできません。困ります」ということなのです。しかし、イエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と教えられました。この洗足の記事があるのは、ヨハネ福音書だけです。また受難週という、イエスの公生涯のクライマックスで、他の共観福音書では最後の晩餐での「聖餐の儀式」制定が主眼でありますのに、ヨハネ福音書では「洗足」に焦点があわされています。その理由に、注目すべきです。
さて、ヨハネは、何を意図して受難週の夕食と最後の晩餐で、「聖餐」に変えて「洗足」を配置したのでしょう。それは、1世紀末の状況があったでしょう。AD60年前後に記された共観福音書やコリント書の時期には「聖餐の儀式」が確立されていく必要とその教えが大切でありました。教会の形成期、教会秩序が確立させていく時期でありました。しかし、「聖餐の儀式」がすでに確立していた1世紀末には、受難週における「聖餐」よりも、受難週における「躓きや裏切り」といった要素が重要でありました。1世紀末には、[ヨハ16:2
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます]という状況があったからです。
AD30年代のキリスト在世当時の、受難週に「弟子たちが直面した危機」と1世紀末の教会とユダヤ教会堂における“隠れキリシタン迫害”には重なる要素がありました。それゆえ、受難週描写に、励ましと勧めとなる要素、すなわち「洗足」を入れて編集したのです。受難週における弟子たちのさまざまの反応、そしてつまずきや裏切りは、1世紀末のユダヤ教会堂での“隠れキリシタン”排斥圧力と重なる要素があります。弟子たちは、ナザレ人イエスが逮捕され、裁判にかけられ、十字架にかけられることになりますと、逃げ隠れ、霧散してしまいます。しかし、その後、弟子たちや兄弟姉妹の多くが復活された三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストの下に集められます。そして、ペンテコステの日には、キリストの贖罪信仰を基盤として注がれた、三位一体の御父・御子・御霊の、聖霊なる神の内住を経験します。
ナザレ人イエスの下に集まっていた人々の間にはさまざまな人がいました。私利私欲のために集まっていた人もあるでしょうし、また純粋な信仰を抱いていた人たちもあったでしょう。ナザレ人イエスは、ご自身が十字架にかけられ、処刑されることをご存知でありました。それゆえ、その状況の中で弟子たち、また信仰者たちの間でどのような動揺がおこるのかも知っておられました。それで“洗足”という象徴的なミニストリーをなさったのです。それは、ある意味で、「インフルエンザの予防注射」のようなものです。カナの婚礼における奇蹟から、ラザロの復活に至る公生涯の最高潮の時期のエルサレム入城から数日での、逮捕・裁判・十字架刑という、急転直下の目まぐるしい出来事に弟子たちはほとんど対応できませんでした。一体何が起こっているのかを見定めることもできないまま、恐怖に襲われて四散し、逃げ隠れしてしまいました。
ナザレ人イエスは、イエスを信じ、愛しているにも関わらず、恐怖のあまり、イエスを見捨てて逃げて隠れてしまうことになる弟子たちを予期し、そのように、弟子たちを最も必要とされる時に逃げ隠れし、その足を「ドロドロ」に汚してしまうだろうけれども、「このわたしは、あなたがたの失敗やつまずきを赦し、受け入れ、聖い者として、再び立たせる存在なのです」と前もって諭しておられるのです。もちろん、それらの中には、ユダのように打算でイエスの下に来て、打算で裏切り、二度と帰ってくることのない者もいました。しかし、ナザレ人イエスは、「わたしは、あなた方が汚す足を何度でも洗って、拭う存在です」と身を持って告白されているのです。
ペテロは、[13:6 主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と問い、その意味が分からず、[13:8
決して私の足を洗わないでください」と言ってしまいます。これは、わたしたちの祈りに参考になります。わたしたちの思いと神さまの思いが異なる時、このような“ちぐはぐな”祈りと応答になります。しかし、そうだからと言って、口を閉ざすのは得策ではありません。逆に、このようなことは日常的起こり得ることだとわきまえて、真摯に対話を重ね、調整していくことが大切です。神さまがしておられることを、「13:7
今は分からなくても、後で分かるように」なるからです。わたしたちは、“ちぐはぐ”であったとしても、思い切って、自分の確信するところを、大胆に「13:8
決して私の足を洗わないでください」と申し上げましょう。
天上の右の座に、大祭司としてとれなしておられるイエスは、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と返答されるでしょう。その時に、わたしたちは、あのペテロのように、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」と大胆に申し述べましょう。即座の真逆の反応でした。わたしたちの思いや確信は、ブランコのように揺れ動くのが常です。そのような私たちを、イエスは「13:10
水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」と、思い違いを正してくださいます。このような“対話の祈り、交流の祈り”が大切です。「これが、主のみ旨だ!」とか「これは主のみ旨ではない!」と、慌てて断定しすぎないよう注意しましょう。主との朝毎、夕毎の“対話の祈り、交流の祈り”の積み重ねを大切してまいりましょう。
イエスは、「13:10
水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」と弟子たちを諭されました。「水浴した者」で象徴されている意味は、一度、ナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして信じた者は、その贖罪の恵みにより“聖なる者”として神に聖別されている、ということです。ですが、一度限り、ナザレ人イエスを信じた者であっても、失敗やつまずきや罪や裏切りが起こるのが世にある生活です。必ずと言って良いほど、スネに傷ができてまいります。ローマ7章にあるように「肉につける者」である故、スネに傷のないクリスチャンは存在しないと思います。そのような弱さを内包する私たちに対し、ナザレ人イエス、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、わたしたちの“罪と汚れというドロにまみれた足”を何度でも洗い、拭ってくださるお方なのです。クリスチャン生活は、ショックアブソーバーがあり、事故の時に膨らむ風船でついている車のようです。
ですから、私たちは、私たちが内包する“弱さ”を恐れる必要はありません。クリスチャン生活は、主にあってなされる“七転び八起き”の生涯なのです。転んでも、倒れても、何度でも、“七を七十倍”するほどに、贖罪の恵みに根ざし、内住の御霊に支えられ、導かれて立ち上がって行ける生涯です。“失敗は成功の母”とも申します。失敗の数だけ、わたしたちは“良き学習の機会”を得るのだということです。神さまから「主のみ旨に沿って生きる知恵」を増し加えられます。ペテロは、弟子たちのリーダー格で、イエスのために死ぬことも厭わないことを告白していました。しかし、肝心のイエスの裁判の席で、三度も「知らない」と断言してしまいました。
イエスと同様に逮捕され、裁判にかけられ、十字架刑に処せられる恐怖のあまり、“反射的に”そのような反応をしてしまいました。ペテロは鼻っ柱を折られ、意気消沈し、その後、漁師に舞い戻ってしまいました。もはやイエスに、同僚弟子たちに、兄弟姉妹たちに“顔向けできない”と思ったのです。しかし、ナザレ人イエス、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、そのようなペテロにも手を差し伸べられました。わたしたちにも手を差し伸べられています。三度イエスを否認して、“ドロドロになったペテロの足”を洗うかのように、「わたしを愛しますか」、そして「わたしの羊を飼いなさい」と三度呼びかけられました。一度ではなく、三度呼びかけられました。三度の失敗が、ペテロの心を痛めていたからです。わたしたちには何度呼びかけられているでしょうか。
最近読んだ本の中に、「オリンピックでメダル競争をするイメージではなく、弱さの中に十字架につけられる神のイメージにこそ価値を置く」ことの大切さが記され、教えられました。「弱さの中に十字架につけられる神のイメージ」、それは、“たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められ”るキリストのイメージと重ならないでしょうか。1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の間には、受難週のような葛藤がありました。つまずきや裏切り、恐怖と勇気がありました。失敗を赦し、「足を洗い合う」励ましがありました。わたしたちも、お互いに、“ドロドロになった足”を洗い合いましょう。祈りましょう。
(参考文献: John V.Taylor,“The Christlike God”)
2026年2月22日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ13:1~3「ご自分の時が来たことを知って」
-時を知り、悪巧みを扱い、摂理に委ねる-
https://youtu.be/EnkpM8xyO7o
今朝の13章から、ヨハネ福音書の第二部が始まります。1章から12章までの公の働きにおいては、たくさんの人々を相手に囲まれて奉仕されてきましたナザレ人イエスは、13-17章の地上での最後の週を、彼の弟子たちだけを相手にされています。再び、18-19章で公けに姿を現わされる時には、彼は逮捕され、裁判を受け、十字架につけられて処刑されます。そして、20-21章の最後には、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして復活し、弟子たちだけと交わりを持たれます。前半である1-12章の、「世に対する栄光の啓示」と13-21章の「教会への栄光の啓示」のコントラストが鮮やかに見られます。今朝は、そのような視点に注目しつつ、傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.自分の時を知る(13:1a)
B.愛する対象と悪しき悪巧みの扱い(13:1b-2)
C.神から出て、神に帰ることの意味(13:3)
今朝の箇所から始まる13-17章は、13-16章の「別離の講話」と17章の「別離の祈り」で構成されています。今朝の箇所は、ナザレ人イエスの地上での最後の週であり、13章の「洗足」、14-16章の「もうひとりの助け主」の講話、共観福音書では最後の晩餐、ゲッセマネの祈りが記述されている週、すなわち召される直前になされた「別離の講話」なのです。それは親しい者の間だけでなされました。まもなく、召される臨終の席に集った家族や親しい友人のようであったでしょう。その意味で[13:1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた]と申しますのは、ナザレ人イエスは「まもなくの死期を悟っておられた」ということです。
わたしは、19歳のクリスマスに洗礼を受け、二十歳の年から52年間、キリスト教信仰をもって生きてまいりました。キリスト教信仰は、「生きる意味と目的を探していた」わたしに、それを与えてくれました。受験勉強を経て大学に入りましたが、その時に次の目標を見失い、「自分は一体何者で、自分は一体何のために生きているのか」分からなくなっていたのです。そのような時に、西宮市上ヶ原六番町の一本の電柱にポスターが貼られていました。それは『ここに愛がある』という映画でした。そのタイトルに誘われて、入った建物が教会であり、出会ったのが、キリスト教信仰でありました。半年間の求道生活を経て、クリスマスに洗礼を受けました。ですので、西宮という地域は学生生活、教会生活、助手勤務等の10年とその後神学校教師として生涯の大半にわたる奉仕の場所を与えてくれた恵みの地域ということになるでしょう。
大阪で7年、東京で3年、兵庫の一宮チャペルと一宮基督教研究所で35年奉仕し、今再び神さまの導きにより、奉仕生涯の最後の時期、西宮市愛宕山に居を構えることができることは大きな恵みです。まさに[13:1
時が来た]という印象です。わたしが愛読している本のひとつに、ポール・トゥルニェ著『人生の四季』があります。その本から教えられたことのひとつは、一年に春夏秋冬の“四季”の区別や特徴があるように、人の一生にも幼年から思春期に至る「詩情豊かな春」のような時期、成人となり社会で活躍し、家庭等を築き上げる「活動的な夏」のような時期、活動期を経て成功や失敗の数々の「収穫をなす秋」のような時期、そして真っ白な雪にも覆われる静けさが支配する「老年の冬」のような時期がある、ということでした。今、毎日取り組んでいるエッセイやブログ、礼拝説教に際する執筆生活は「人生の晩秋における収穫作業」にあたるのだと思います。
72歳となりましたわたしは、「晩秋から冬の季節に入りつつあるのだ」と自覚しています。人生の時期の特徴と置かれている状況また環境を総合的に考慮し、住まいを年老いた者に便利な所に移すのは良い判断だと思い、一宮と西宮の二拠点生活、二拠点ミニストリーを決心しました。ちょうどわたしの働きは、時間や空間に縛られないインターネット上にある「一宮基督教研究所」であったことも幸いしています。その研究生活とそれをシェアする生活スタイル、奉仕スタイルにはほとんど影響がないからです。
次に、[13:1b
そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された]とあります。これも教えられるところです。わたしたちクリスチャンは、全世界の人々を愛し、全世界の人々の救いのために祈っています。しかし、その範囲はあまりに広大で、無限です。わたしたちがナザレ人イエスに教えられることは、
[世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された]ということです。ナザレ人イエスの愛は、広大で無限でありましたが、具体的かつ時間的には、「今、そこにいる、一緒に生活し、奉仕してきた弟子たち」を愛されたということです。わたしたちの生活や奉仕においても、祈りは無限大であっても、具体的には「限定的に、ターゲットを絞る」ことの大切を教えられます。わたしの場合は、ネット上のICIで、共に学んでくださる視聴者の皆さんが対象に当たるのでしょう。
実際に、ナザレ人イエスの別離の講話を聴くことができたのは、三年半一緒に過ごし、奉仕してきた弟子たちでありました。ナザレ人イエスが[彼らを最後まで愛された]という具体的な中身のひとつは、ナザレ人イエスの遺言とも言える[別離の講話]でありました。その中でも、特筆すべきは[14:16
もうひとりの助け主]の講話でしょう。御子なる神イエス・キリストの十字架のみわざの目標は、その贖罪を基盤として、復活・昇天により天上の右の座から、三位一体の御父・御子・御霊の、聖霊なる神をわたしたちの内に内住させることにありました。その意味では、バプテスマのヨハネの二つの証言―「1:29
神の小羊」と「1:33
聖霊によってバプテスマ(満たし、内住)を授ける方」に沿って、ヨハネ福音書は構成されていると言えます。
ナザレ人イエスは、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストでありましたが、[ピリ2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2:9
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。2:10
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する]という目的達成のために、贖罪死と復活・昇天・聖霊の注ぎという一連のみわざ完成のため、[13:3
イエスは、神から出て、神に帰ろう]とされています。
しかし、ここで不思議な挿入があります。[13:2
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた]というのです。わたしたちは、善意をもって主の働きを成して行っても、誤解されたり妨害されたりすることが多々あります。そのような時、どのように考え、どのように対応すれば良いのでしょう。わたしたちは、すでに聖書に啓示されているドラマの全体を知っています。しかし、当時のドラマ展開は、ヒヤヒヤ、ドキドキものであったと教えられます。物語がどう転び、どう展開していくのかは読めませんでした。わたしたちの人生も、奉仕生涯もまた然りです。それは成功なのか失敗なのか、それは祝福なのか、挫折に終わるのか、先が読めないのが人生です。弟子たちすら、このようなドラマ展開は予想していなかったし、「極悪人としての処刑方法である十字架による死刑」はあってはならないことでありました。人生は、最悪のケースを予測し、備えをして生きることが大切と「危機管理」の本で教えられました。この世の思い、力は、「ナザレ人イエス」のご自身が三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストであるとの証しを拒絶し、否定し、いわば詐欺師として抹殺しようとするものでありました。わたしたちの伝道が困難な理由のひとつは、「その教えの真実性か見えない、確信できない」ところにあると思います。ただ、シャルル・ド・フーコー神父のように「キリストにある愛」を分かち合って生きることはどこででもできる真実な生き方だと思います。
この十字架刑の受難というドラマ展開は、一見悪しき者たちの勝利に終わったように見えました。わたしたちの人生にもそういった「成功と失敗、祝福と挫折」という世間一般の、水平軸の物差しがあります。しかし、三位一体の御父・御子・御霊なる神は、創世記のヨセフ物語にありますように[創50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました]という、神さまの視点からの、垂直の物差しがあります。使徒パウロが申しましたように、[ロマ8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、(悪しき悪巧みも含めて)すべてのことがともに働いて益となる]べく、摂理の力を働かせてくださるのです。ですから、わたしたちは、疑心暗鬼になって悪しき者の悪巧みを恐れる必要はありません。そのような悪巧みをドラマ展開のわき役に取り入れて、変わることのない神のみ旨を遂行してくださるのです。そのように、神の視点から、わたしたちひとりひとりの人生というドラマを書いていけば良いのです。『人生はドラマ、あなたは主役』という本があります。あなたは、神さまが与えられた一度限り人生のドラマの「主役」なのです。
最後に、[13:3
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた]とあります。ここに、大きなパノラマを見せられます。三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、ヨハネ福音書冒頭で[ヨハ1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった]と創造者であったと証しされています。また[コロ1:16
天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られた…。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。1:17
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立って]いると、御子は万物の創造者であり、主権者であると書かれています。
また、贖罪を成し終え、復活し昇天され、御父なる神の右の座に着座された、[1:18
御子はそのからだである教会のかしら]なるお方です。御子なる神イエス・キリストは、[1:20
その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださった]のです。それが、[13:3
ご自分が神から出て、神に帰られること]の意味であり、[父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと]の意味です。ヨハネの記述の一言一句の背景に、包括的な神学のパノラマ世界が展開されています。1世紀末にこの福音書を書き上げたヨハネの神学的成熟の豊かさ、他の新約書簡との霊的・神学的な有機的連携がここかしこに見られます。わたしたちは、ヨハネとともにそのような霊的・神学的豊かさの中に養われ、その福音理解において「成熟」させられてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: ポール・トゥルニェ『人生の四季』、J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』、D.A.Carson,“The
Gospel according to John”)
2026年2月15日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ12:44~50「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見る」
-慎み深く、威厳をもち、その祈りと瞑想の内に生かされて行く-
https://youtu.be/K17yqrYeowY
この半年間は、店と一宮の家と愛宕山の家の、いわゆる「断捨離」で走り回っています。今はまだ72歳という元気な時期に、「断捨離」に取り組めることは幸いなことです。両家の両親のほぼ半世紀分の様々な荷物を片付けるのは大変なことです。もう少し高齢になればおそらくできなかったでしょう。このような人生の終わりの大作業は、健康と時間の両方がある時期にしか取り組めないことだと思い知らされています。両親の荷物だけでなく、わたしたちとすでに社会に巣立っていった子供たちの荷物も整理しておかねばなりません。というのは、わたしたちの年代の人たちは、すでにポツリポツリと地上の生を終えて行っているからです。子供たちに迷惑を掛けないように、いつ如何なる時に召されても、残された者たちが困ることのないようしておかねばならないと肝に銘じているのです。それと引っ越しが絡み、電話やメール・アドレスの変更、銀行関係のさまざまな手続き等、とても頭を使うことがたくさんあり、年齢とともに訪れる認知症が進むと不可能となることが多いです。目や耳は少し衰えてきていますが、理解力はまだ少しの間大丈夫なようです。
わたしたちは、ある日突然、創世記5:24のエノクのように、この地上から取り去られることになるでしょう。その時に、後に残された者たちが困ることのないよう、今日・明日取り去られても良いように、「旅立つ直前の旅人のように身軽な生活環境に整理しておくべき時期に来たのだ」と心に刻んでいるのです。今学んでいますヨハネ福音書において、ナザレ人イエスは十字架上で召される直前におられます。一世紀末のAD90年代に記された、成熟した神学のヨハネ福音書では、イエスの死を苦難(マルコ8:31、9:12、ヘブル12章)としてや、謙卑(ピリピ2:6-11)として語ろうとしていません。ヨハネは、イエスの死を「神の栄光の啓示」として語ろうとしています。なんという神学でしょう。通常は敗北と見られる「死」を「重罪人としての十字架によるはりつけの死刑」を、真逆の「神の栄光の啓示」と見ているのです。わたしたちも、自らの死、召されるその時を「神の栄光を証しする時」とさせていただきたいと思います。そのような願いを抱いて、今朝の箇所に傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A. 信仰とは、何か―イエスを通して神を信じる(12:44)
B.神とはどのようなお方か―イエスを通して神を知る(12:45)
C.闇の中に輝く光としてのイエス(12:46)
D.イエスにおける救いと裁き(12:47-48)
E.御父なる神が、御子なる神イエス・キリストを通して語られている(12:49)
F.永遠のいのちとは、三位一体の御父・御子・御霊の、聖霊なる神のことである(12:50)
今朝の箇所は、前半の「世に対する神の栄光の啓示」と後半の「教会に対する神の栄光の啓示」の架け橋にあたります。前半の序文がヨハネ1:1-18にありましたように、ヨハネ12:44-50は後半の序文のような内容となっています。最初の節は[12:44
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです]となっています。先週は、[ヨハ12:37
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった]という不信仰と、[ヨハ12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた]、また[ヨハ12:19
見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった]というかたちで、人々の間にさまざまな反応が起こったことをみてきました。
わたしたちクリスチャンが、この世の中に「共在」し、主の臨在と愛をもって証ししていても、なかなか人を導けないのが常であることを教えられます。「対話」し、「説得」し、「回心と洗礼」へと導くまでには多大な労力と時間を要します。その労を考えると、考えるだけで疲れ果ててしまいます。そのような時に、シャルル・ド・フーコー神父のような生き方、伝道の仕方を耳にしますとほっとさせられます。「その人は、エノクのように神と共に歩む人、また神との不断の交わりの中からひとかけらの神の似姿を得る人である」と言われます。わたしたちは、あくせくとせせこましく生きるのではなく、ただ主を深く愛し、その主との祈りと交わりを通して得た「キリスト者としての臨在」をもって生活すれば良いのです。
乾いた雑巾をしぼるように生きるのではなく、まず自分のコップに溢れるようにキリストの臨在を満たしていただき、そのコップが溢れこぼれる水滴の一滴一滴をもって、周囲のの人たちの祝福となれば良いのです。わたしたちの人生において求められているものは、「それだけだ!」―「主を愛し、身近な隣人に主からいただいた愛を分かち合うことだけだ」と知ることは幸いな事です。それ以上の事を求める必要はないし、それ以上の事を求めて苦しむ必要はないのです。わたしたちは、ある意味で、できもしないことを無限に自分に求めて苦しむところがあります。それは、「無限の律法」の下に、「無限の要求」の下に自分を置くことです。わたしたちは、キリストの贖罪によって一切の負債と要求から免除されている者です。ですから、キリストの贖罪の恵みを基盤として「ますます安息」しましょう。「贖罪に根ざした安息」に生きましょう。もはや自分は何もしなくて良い者、負債から解放された者であることを喜び、愉しみましょう。
その上で、その基盤の上に立って、「内住の御霊」に満たされて、溢れるように「恵み」の下で生かされていきましょう。この「満たされて、溢れる」という視点が大切です。すること、成すことのすべてを「恵みの下」で換算し、御霊に導かれ、毎日を「子供たちのピクニック」のように生活してまいりましょう。さて、[12:44
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです]とあります。まもなく召される時となる時期に、わざわざ「大きな声」で言われたのですから、よほど大切なことなのでしょう。
その内容は[12:44
わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです]というものでした。なるほど、これは、キリスト教信仰の大黒柱となる教えです。ナザレ人イエスを、「三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストである」と信じる者は、[申6:4
聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。6:5
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい]と教えられてきた唯一の神を信じることと同じなのですよ、と言われているのです。これは、ユダヤ教の神観からすれば、太陽系の星は地球中心に回っていた天動説と思っていたのだけれど、実はそうではなく太陽を中心に地球も回っている地動説なのだとした、いわゆる「コペルニクスス的転回」と似ています。創造者である神と被造物である人間の、「無限の質的差異」が、ナザレ人イエスにおいて、「ぶっ飛んだ」という感じですね。ユダヤ人の多くがそれを受け入れられませんでしたが、神を畏れる異邦人の多くがそのような信仰を受け入れていきました。三位一体の御父・御子・御霊の神がそのような「自己啓示の方法」を選ばれたのなら、それをそのまま受け入れるしか道ははありませんね。
唯一の神は、はるか天高くにおられる単一のお方と思っていたのに、その方はいわば「ひと房のぶどうが三粒のブドウを包摂している」ようなかたちで、「その唯一性は単一の唯一性ではなく、複数性を宿す唯一性のお方」であり、三位一体の御父・御子・御霊の、三つの位格をもっておられ、その中の御子なる神イエス・キリストが
[ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない]のでありますが、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれ]、その受肉によって、
[父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]のですから、「ナザレ人イエス」を三位一体の御父・御子・御霊の、「御子なる神イエス・キリストとして信じる」ことは、イコール、「キリストを通して、御父を信じることである」のですよ、と教えているのです。
紀元325年のニケア・コンスタンチノープル会議における「神の三位一体の告白」、紀元451年のカルケドンにおける「キリストの神・人の二性一人格論」は、ともにキリスト教信仰において「イエス・キリスト」の位置づけを明確にするものでありました。ヨハネ福音書には、そのようなかたちで、「ユダヤ教の単一神信仰から脱皮していきつつある、初代キリスト教会の三位一体の複数性の位格を宿す唯一性を許容するキリスト教信仰へのシフトを促す内容」がたくさん含まれています。そこには、ユダヤ教会堂内で苦慮する隠れキリシタンもいたことも想像されます。そのあたりの信仰告白で、[ヨハ12:42
議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった]とあるからです。またヨハネは躊躇するユダヤ人たちにたたみかけるように語りかけられるイエスのことば、[12:45
わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです]を取り上げています。この宇宙とその中のすべての生き物を創造された全知全能の唯一神がどのようなお方なのかを知りたければ、「ナザレ人イエスを見なさい」と言われているのです。
いろんな宗教で、種々多様な神観が紹介されておりますが、キリスト教ほど「神がどういうお方なのか」を詳細に、分かりやすく、自分の手でさわれる(Ⅰヨハネ1:1)ようなかたちで、自己紹介された神はないと思います。キリスト教では、旧約聖書で千数百年掛けて啓示されてきた唯一の神は、「このようなお方なのですよ」というかたちで、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストを受肉させ、人間のかたちにして三十数年生活されたお方、この方が三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストであり、「このお方を見る」ということは、三位一体の御父・御子・御霊の、「御父なる神を見るということを意味しているのですよ」と言っているのです。三角柱を上から見ると、ひとつの三角だけが見えます。しかし、横から眺めるとこの柱には三つの側面があると教えられます。そのように、唯一性の神であられるのですが、御父・御子・御霊の三つの位格をもっておられるお方なのです。
この御子なる神イエス・キリストは、[12:47
わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです]と罪と死と滅びからの救い主であり、そして、世の終わりには、審判があり、生きていた間になしたことについて、裁きを受けることになる(12:48)と、御子なる神イエス・キリストは[終わりの日のさばき]主でもあることを明らかにされています。そして最後に[12:50
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています]と、永遠のいのち、すなわち三位一体の御父・御子・御霊の、聖霊なる神について暗に言及されています。この聖霊なる神は、キリストの贖罪に根ざし、昇天され天上の右の座から注がれた聖霊を指します。このお方は、わたしたちが、御子なる神イエス・キリストを信じる時にも働かれ、その信仰とともにわたしたちの心の中に内住されます。この方のいのちが、「永遠のいのち」なのです。それは、「死後に迎え入れられる天国すなわち新天新地における終末的ないのち」であるとともに、「今現在の内住の御霊の臨在」でもあります。エペソ書では、それを「証印とか保証」またヘブル書では「前味」と紹介されています。わたしたちが、慎み深く、威厳をもち、その祈りと瞑想の内に生かされていく時に、三位一体の主はわたしたちを通して、「永遠のいのちの香り」を放ってくださることでしょう。主は、十字架上に上げられることによって、神の栄光を現わされていきます。わたしたちも、日々の負うべき十字架を背負って、神の栄光を現わしてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: ジョージ・S・ヘンドリー著『聖霊論』、Theological Dictionary of the New
Testament)
2026年2月8日
ヨハネ12:37~43「目が見えないよう、心が頑なにされ」-彼らの役割は祈りと静寂であり、隠された愛の臨在である-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/2EnV2__XFQ8
先週は、家の片付けのため、西宮市の愛宕山6-4に行っていました。昨年の9~10月は店の片付け、11~12月は一宮の家の片付け、そして今年に入って2~3月は西宮の家の片付けに奔走しています。それぞれ家を建ててから半世紀を経ています。それぞれの両親の半世紀分の荷物が残されていました。それらの中には、ゴミとおぼしき物もありましたが、まだ使える物や高価な物もたくさんあり、片付けつつクリーンセンターに運ぶには、ある意味「勇気と決断」が求められました。まだ新しい物、価値ある物でありますが、過去何十年もしまい込んだままになっていた物で、この先5~10年使用する可能性のない物は、狭い空間を開けるため、捨てようと決断しました。
まだ「価値ある物」でも、次の新しい価値ある取り組みのために、捨てつつ生きることの大切さを教えられています。大量生産、大量消費の今の時代は、家を「価値ある物の倉庫」へと変えてしまうからです。御子なる神イエス・キリストは、シンプルな生活、生涯を生きるよう勧められています。物がたくさんありすぎると、必要な時に必要な物を取り出すことができなくなります。それで、見つけられなくて、また新たに買い足すことになります。家に住んでいるというよりも、管理できない倉庫に住んでいる感じになっていきます。それで、使徒パウロではないのですが、[ピリ3:7
私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを…3:12
得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです]とあるように、すべてを片付けて、家の中、心の中を「空」にし、「無」の空間となし、創世記の創造のはじめのように、[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた]とあるように、何もない空間、無の空間の中で、「神が仰せられる」ことを待ち望みたいと思っているのです。今、最も必要な事を聴き取るために、「空」となり、「無」となる必要があるのです。手の中に何かを握っていては、新しい価値あるものを掴むことはできないからです。そのような、西宮市愛宕山での「新しいステージの展開」をも念頭に置き、今朝の箇所に傾聴してまいります。
ヨハネ福音書
A. これほど多くのしるしにも関わらず(12:37)
B. 不信仰という自由意志と信仰における神の主権(12:38-40)
C. ヨハネのイザヤ解釈(12:41)
D. 議員たちの中のイエス信仰と会堂追放圧力(12:42)
E. 神からの栄誉と人の間での栄誉(12:43)
今朝の箇所は、[12:37
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった]と、ユダヤ人たちの、ナザレ人イエスに対する不信仰を責める言葉で始まっています。わたしたちがクリスチャンとして証ししていきます時に、「もし本当に神さまがいらっしゃるのなら、ここに出してみろ!」と言われることがあります。わたしたちが聖書を読みます時に、まさに神さまがなさったことが「そのこと」であるのです。神さまは、ご自身が如何なるお方なのかを、「この広大無限の宇宙とその中に住むさまざまな生き物」という作品を通して証しされています。わたしたちは、これらの作品を通して、作者であるお方が全知全能のお方であることを知ります。
さらに、聖書は、イスラエルの歴史を通し、その民の取り扱いを通して、神さまとは如何なるお方であるのかを証ししています。そして最後に[ヘブル1:1
神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、1:2
この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました]とある通り、三位一体の御父・御子・御霊の神さまは、御子なる神イエス・キリストをナザレ人イエスに受肉され、最も親密なかたちでご自身を現わされました。そのナザレ人イエスは、[12:37
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われた]と言われている通り、ご自身が如何なるお方であるのかを示す多くの証拠を提供されました。聖書には、[ヨハ20:30
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない]とあるように、聖書に収めきれないほどのたくさんのしるしと不思議なわざを行われ、人々を癒し、助けられました。
ガリラヤのカナの結婚式において、水を葡萄酒に変える奇蹟から始まり、死んで四日を経たラザロをよみがえらせる奇蹟に至るまで、[12:37
これほど多くのしるしを彼らの目の前で行われた]にも関わらず、ナザレ人イエスを神から遣わされたお方と信じないユダヤ人がいました。その状況をヨハネは、[12:38
それは]という言葉で説明しています。この説明は、難しいと言われる日本で証しするわたしたちにとって、大きな励ましでもあります。[12:37
これほど多くのしるし(証し)を彼らの目の前で行われた]にも関わらず、ナザレ人イエスを神から遣わされたお方と信じない人々がある、というのは沢山の宣教師が来日し、数えきれない数のミッション・スクールが作られ、耕され、証しの種が蒔かれたにも関わらず、人口の1%弱のクリスチャンに留まっている状態を説明する言葉でもあります。
聖書はイザヤ書の言葉を引用し、12:40
「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように」と言われています。もちろん、人間の次元から申しまして、キリスト教を、そしてナザレ人イエスを信じることに心を閉ざしたのは、「人間の側の自由意志」の結果であります。しかし、同時に、ナザレ人イエスの中に、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストの本質を、[彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返る]反応を起こさせるのには、神さまの恵みが必要があることを教えているのです。人間は、「自分が存在と人生の主人公であり、王様のように君臨し、誰にもこの権威・権力には逆らえない」かのように思って生きています。
しかし、アダムにあって堕落の中にある人間の罪の性質においては、神さまが提供しようとされている恵みに対し、[12:40
目を見えないように。また、心を頑なに]にされた状態にあり、罪の中にある人間は[彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもない]状態に置かれているのです。ですから、神さまがその状態を[癒やし]、霊の目が見えるようになり、心の目が開かれ、神さまの恵みを理解できるようにしていただかないと、ナザレ人イエスが三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして信じ、受け入れることは不可能なのです。神さまを信じるということは、人間本人の自由意志の次元を超えた、神さまの恵みの次元の事柄でもあるのです。ですから、未信者・求道者にそのような恵みが与えられるよう祈る必要があります。
このことは、わたしたちのクリスチャン生活の始まりを振り返ると明らかになるのではないでしょうか。わたしたちは、いつ、いかなるかたちで、どのように、ナザレ人イエスを三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして信じ、受け入れることができるようになったでしょうか。わたしたちがクリスチャンとなる以前は、固く踏みしめられ、固められた道のような心であったのではないでしょうか。また、いばらやあざみが生え広がった荒地のようであったのではないでしょうか。そのようなわたしたちの心を、神さまはまず「土地を開墾するかのように、切り拓き、石ころを掘り出し、耕し、水と肥料を注ぎ、作物の種や苗が育つ肥沃な土壌に作り変える」作業工程を施されていきました。
多くの人は、その固い心を砕き柔らかくするために、病いや不幸や苦難の道を通らされたことでしょう。痛みは、コンクリートのような心の壁にひびを入れ、その壁を撤去するのに必要な恵みのプロセスです。そのようなプロセスを経て、神さまはわたしたちの心の土壌を柔らかく整えていってくださいます。わたしの愛好する「ローザンヌ誓約」という小冊子の中に「伝道の本質」という箇所があり、伝道の段階を四つに分けています。最初に「共在」の段階があり、「対話」へと続き、次に「説得」、そして「告知」まで辿り着きます。伝道の困難な職場や地域においても、なしうる「伝道」があります。それは「共在」というレベルの伝道です。福音がまだ届いていない人々の間に入っていき、まだナザレ人イエスを信じていない人々の間に「共在」することです。わたしたちは、35年前に、教会のない兵庫県宍粟市一宮町のわたしの郷里に帰って来て、「共在」レベルの伝道を開始しました。教会学校や英会話クラス、チラシ配布やクリスマス等たくさんの取り組みをしてきました。多くの人たちが教会に出入りし、「福音」に触れる機会を得ました。大きな収穫はありませんでしたが、地域の人々の「心の土壌を耕す共在レベルの伝道と証し」はかなりできた恵みに感謝しています。兵庫の山間部の小さな町で、キリスト教会のあることと牧師とその家族が、働きながら生活していたことを知らない人はほとんどないくらいに、「共在」レベルの伝道は成功しました。
わたしは、シャルル・ド・フーコー神父の次の言葉が好きです。シャルル・ド・フーコー神父の「イエスの小さき兄弟団、小さき姉妹団」は、「彼らは説教をせず、組織化された事業をせず、普通の伝道方法は一切採用せず、彼らは、ただこの世の中の極めて貧しい人たちと共に住むように召されているのだと信じた。…地球上のあちこちに散在し、彼らは隣人と共に働く。彼らの役割は祈りと静寂であり、隠された愛の臨在である。普通の宣教活動を破棄しつつ、シャルル・ド・フーコー神父は『わたしの生活全体によって福音を叫びたく思う。福音をのべ伝えるためには、わたしは地の果てまでも行く用意があり、また裁きの日まで生きる用意がある』」と教え導きました。わたしたちの兵庫の山間部、過疎地での「開墾と種まきの開拓伝道」で、収穫は少なかったけれども、「わたしたちの生活全体で福音を叫び続ける」ことはできたのではないかと感謝しています。
齢70を過ぎ、主の導きで、この一宮と共に、新たに西宮市愛宕山の二拠点伝道のステージに移行します。宍粟市一宮町は6854人の少子高齢化地域で、今後もあらゆる手段を活用し種蒔き伝道は続けます。西宮市は48万人の人口でミッション・スクールもたくさんある、ある意味でキリスト教信仰に耕された地域です。ただ「福音がいまだ届いていない未信者は四十数万人」おられると思います。わたしたちは、神学研究を通しての貢献を使命とする「一宮基督教研究所」を軸に、これまでも奉仕してきましたし、これからもそれは変わらないと思います。そのようなわたしたちが、一宮と西宮の二つの拠点に生活しつつ「シャルル・ド・フーコー神父のような“共在”宣教」を通し、隣人への敬意と愛、キリストの臨在をもって、証しの余生を送れたらと願っています。
アダムの堕落にあって、主によって[12:40
彼らの目を見えないようにされ]ているわけですから、キリストの愛の臨在によって[彼らの頑な心、見ることのできなくなった目]は、ベテスダの池の病人が、また生来目が見えなかった人が癒やされ、ナザレ人イエスを理解し、受け入れ、信じ神に立ち返ることができたように、わたしたちの西宮市愛宕山での家庭集会の「共在」を通して、西宮市の「未伝地」の一角が開墾され、まずは「蒔かれたみことばが芽を吹きやすい肥沃な土壌」へと少しでも変えられていけばと願っています。
また、この箇所には[12:42
それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった]とあります。阪神間には、数多くの教会があり、ミッション・スクールの働きがなされてきました。そこは、山間部の過疎地とは異なり、過去に教会に足を踏み入れたけれども、家族、親戚関係のしがらみや、社会の荒波ののまれるうちに教会を離れたままになっている方々もおられるでしょう。わたしたちが35年間、開墾・種蒔き伝道した地域でも、「こんな田舎に!」と思うほど、各自治会にひとりくらいの感じでクリスチャンの方がおられました。また、その昔クリスチャンのお医者さんが教会学校やクリスマスをしておられ、それに出席していた子供さんが町に出てクリスチャンとなり、献身して尊いキリスト教団体で奉仕しておれる方もおられました。その方は、わたしの同級生の姉妹でありました。また都市部でクリスチャンとなり帰省のたびに礼拝に出席してくださった兄姉も少なからずおられ、神の栄光を崇めました。神さまは、人知れず、わたしたちが知らないうちに、隠されたかたちでたくさんのみわざを至る所で成し続けておられるのです。
6854人の加速度的に進行する少子高齢化と過疎化の地域ですら、このような潜在性があるのですから、48万人の中にある「未伝地の人々、信じたけれども教会に属していない人々、求道者であったが洗礼を受けるまで辿り着けなかった人々」等、わたしたちがいまだ見知らぬ人々がおられるでしょう。使徒行伝にあるように、[使16:9
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」]、「西宮市愛宕山に渡ってきてわたしたちを助けてください」と叫んでおられるのでしょう。わたしたちの四月からの、一宮と西宮の二拠点生活は、その祈りの答えとなるでしょう。わたしたちは、これまで通り「神学の研鑽と分かち合い」を軸に、キリスト教教職者として静かな余生を送りつつ、シャルル・ド・フーコー神父のように「キリストの臨在と愛に溢れて共在する」ことを通して、さまよえる魂を幾人かでも導けたらと願っています。祈りましょう
(参考文献: ジョン・ストット著『ローザンヌ誓約』、J.V.テイラー著『仲介者なる神』)
2026年2月1日
ヨハネ12:27~36「すでに栄光を、再び栄光を」-置かれている状況・苦境に打ちのめされそうになる時にこそ-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/81v0U5q9dSw
今朝の説教のタイトルは、「すでに栄光を、再び栄光を」です。ヨハネ福音書は、前半は「世に対する神の栄光の啓示」、後半は「教会に対する神の栄光の啓示」で構成されています。「ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」、「ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」とあるように、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストの受肉を通して、神の栄光が現わされました。
また、[ヨハ2:11
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現され]ました。さらに[ヨハ11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」11:40
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る]と言われ、ラザロをよみがえらせました。実に数々の奇蹟を通して神の栄光を現わされました。この世は圧倒され、[ヨハ12:11
彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるように]なりました。[ヨハ12:19
それで、パリサイ人たちが…「見てみなさい。…世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」]と言う状況が生まれていました。
そして、異邦人であるギリシア人、おそらくはギリシア語を話す異邦人世界の人々の総称で呼ばれる人々の間にさえも、[ヨハ12:20
さて、ギリシア人が…12:21
「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」]という機運が生まれていたのです。まさに、イエス・キリスト信仰の大リバイバル前夜、群衆と共にエルサレムに入城された後、神殿の庭で大きな政治集会を開催されたら、パレスチナ全域から勇士が立ち上がり、ローマ帝国からの独立を宣言する臨時政府が誕生していたかもしれません。そのように公生涯の奉仕が成功裏に進展し、その頂点に至った矢先に、[ヨハ12:23
すると、イエスは…「人の子が栄光を受ける時が来ました。12:24
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます]という真理を語り始められました。
人々の期待が、ダビデ的メシアのイメージで満たされていたただ中で、イザヤ53章に示されている「苦難のしもべ」、人類を罪の力、悪しき力から解放する
[ヨハ1:29世の罪を取り除く神の子羊]として、十字架の上に[12:32
地上から上げられ]て殺されるのだと予告されたのです。弟子たちや群衆は、そのようなことが起こってはならないし、起こさせてはならないと確信していました。しかし、神さまのみ旨は、異なるところにありました。十字架の御業を完遂することにありました。人の思いと神の御思いとはなんと異なるところにあるのでしょう。そのような視点をもって今朝の箇所から傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.ゲッセマネの苦闘と栄光啓示の使命(12:27-28)
B.天からの確証(12:29-30)
C.この世に対する審判と救い(12:31-33)
D.ダビデ契約のキリストのイメージと上げられる人の子(12:34)
E.世の光であるナザレ人イエスを信じるチャレンジ(12:35-36)
今朝の箇所では、群衆がダビデ的メシアの期待で沸騰している最中で、この先に担うべき主の栄光のみわざに思いを馳せられるナザレ人イエスの姿を見ます。人々は、ローマ帝国の植民地支配からの解放の夢を見ていました。しかし、ナザレ人イエスは全人類を罪と悪の支配から解放する根拠となる十字架のみわざを眼前に置かれていることが分かります。ナザレ人イエスは、悪しき思い(マタイ4:8-9)の誘惑を退け、十字架にある代償的刑罰の犠牲となる方向に道を定め、
[12:27 「今わたしの心は騒いでいる]中、[ヘブル5:7
キリストは、…大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ]、[12:27
このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ]と自分が負うべき十字架を背負う道を歩まれます。わたしたちも、「人の思いや期待」に合わせて生きるのではなく、「主の御思い」が何であるのかに焦点を合わせて生きていきたいと思います。
この[Ⅰペテ2:21
模範]は[その足跡に従うようにと]残されたものでもあります。神学校で教えられたことのひとつは、「クリスチャン生活とは、階段を昇っていくようなかたちの成長ではない。階段を地下室へと下っていく成長である」ということでした。その奉仕が成功するか、失敗するかどうか分かりません。そのミニストリーが祝福され人々の賞賛を得るのか、失敗してののしられ、あざけられることになるのか(Ⅰペテロ2:23)、分かりません。そのようなことは神さまに委ねて、ただ[12:28
わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう]と言ってくださる主に身をゆだねて、[12:27
いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ]と確信する事に絞り込んで、それを「自らが負うべき十字架」として専念していきたいと思うのです。
わたしは、今72歳となりました。朝の祈りと瞑想の時に、いつも主に問いかける祈りは、「主よ、わたしは、今何をなすべきなのでしょう?」という問いです。主はいろいろな成し得るアイデアを提供してくださいます。わたしは、“神律的相互性”という言葉を愛好しています。天から一方的に指示が降りてきて、それをロボットのようにこなすクリスチャン像ではなく、神さまからいただいたこの存在と個性、時間と環境を生かして、成し得ることをあれこれ内住しておられる御霊と相談し、意見交換しながら、主権者たる神さまの認可・認証を受けるイメージです。それは、宗教的従属に生きるイメージではなく、主との人格的交流に生きる人間の個性と賜物、人格と自由意志を尊重する神さまとの関係のイメージです。
神さまは、[12:28
わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう]と言ってくださっています。神さまは、わたしたちの「これまでの人生」において、すでに数々の栄光をあらわしてきてくださいました。そして神さまは「これからの人生」において[12:28
再び栄光を現そう]
と言ってくださっているのです。わたしたちの奉仕生涯も、西宮市上ヶ原時代→大阪府岬町時代→千葉ニュータウン・東京チャペル時代→山崎・一宮チ ャペル時代を経て、終の棲家ともなるであろう西宮市愛宕山時代を迎えようとしています。神さまが奉仕生涯最後の時間をどのように導いてくださるのか楽しみにしています。
ナザレ人イエスが「上げられる」みわざにおいて、[12:31
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出され]るとあります。悪しき力は、「ナザレ人イエスを十字架に釘付けすることによって、勝利した」と勘違いしたことでしょう。神さまがなされることは、不思議です。世の人々が「ナザレ人イエスは敗北した!」と見るところで、実は「圧倒的な勝利を収められた」のです。ですから、わたしたちは「失敗する」ことを恐れてはいけません。神さまは「世間的に失敗と見られることを通して栄光を現されることがある」からです。
ナザレ人イエスは、[12:32
わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます]と言われました。ナザレ人イエスは、世の人々が「失敗したメシア」と見る十字架刑を通して、「人類のための贖罪死」を遂げられ、御父なる神のみ旨を遂行されました。そして、この[12:32
わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます]という言葉には、「カルバリの丘の十字架に上げられる」という意味に留まらず、「死んで三日目によみがえり、昇天して、御父なる神の右の座に着座され、約束の聖霊を注がれ、ダビデ的支配を内住の御霊により、全世界に及ぼされる」ところに「上げられる」ことをも意味しています。AD30年代からは、近い将来に訪れる教会時代の予測であり、AD90年代からは、「御子なる神イエス・キリストことばがその通り確証されています」との証しの言葉でもあります。
それが[ピリ2:10
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです]ということで意味されていることです。この天上におけるダビデ的メシアの王座は、旧約のダビデ契約で約束された王座の永遠性を保証するものです。このような啓示の光が12章以降明らかにされてまいります。35-36節は、「このような福音の光が、ナザレ人イエスから発せられているのだから、このお方を、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして、信じ受け入れるように」励ましチャレンジしています。この後、十字架の出来事が起こり、暗い闇の時間帯となりますので、前もってそのことを予告し、心備えをしてくださっているのです。
この闇は、紀元30年代のイエス在世当時にもありましたし、紀元90年代にヨハネ福音書が執筆された時期にもありました。そして、わたしたちの人生において「闇に覆われる」時期における備えでもあります。ナザレ人イエスは、全人類の贖罪のいけにえとして十字架上にささげられることを通して、罪と悪の力に対する勝利の根拠を確立されました。わたしたちも、それぞれさまざまなかたちにおいて「自分の十字架」を背負って生かされています。それらは、時には[12:27
今わたしの心は騒いでいる]というゲッセマネの苦悶に満ちた祈りと叫びを伴うものでもあるでしょう。
しかし、[わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう]と言ってくださるお方です。わたしたちは、わたしたちの「これまでの人生」において数々の神の栄光のみわざを見せられてきたはずです。ですから、わたしたちは[わたしは再び栄光を現そう]と語りかけてくださるお方を信じても良いのではないでしょうか。置かれている状況・苦境に打ちのめされそうになる時にこそ、主イエスのゲッセマネの苦しみを思い起こし、[12:27
いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ]と信仰を働かせようではありませんか。主がお一人お一人の上に、主の栄光を現わしてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson,“The Gospel According to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2026年1月25日
ヨハネ12:20~26「自分のいのちを愛する者、憎む者」-死からよみがえらされたものとして個性と賜物を生かし-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/2PdargdiUgo
今朝の聖句は、前半の「世に対する栄光の啓示」と後半の「教会に対する栄光の啓示」の架け橋のような箇所です。一見、あまり重要でない「つなぎの部分」、「経過説明」の箇所のように読み過ごしてしまいますが、救済史的に重要な示唆があり、福音理解における本質をも提示している場所でもあります。そのような視点から今朝の箇所に傾聴してまいりましょう。
ヨハネ福音書
A.ギリシア人の来訪(12:20-22)
B.栄光を受ける時の到来(12:23-24)
C.いのちを愛することと憎むこと(12:25-26)
まず最初に[12:20
さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた]とあります。この過越しの祭りの際に、エルサレムに上ってきた「何人かのギリシア人」には、深い意味があります。この「何人かのギリシア人」という描写には、彼らに続く全世界の異邦人への福音宣教に風穴があいたことを示唆しているからです。ナザレ人イエスの三年半の公生涯は、主として「啓示の受領者として選ばれたユダヤ人」を対象とするものでした。しかし、テーブルの上から落ちるパン屑を拾って食べるかのように、その周辺で神を畏れ、慕う異邦人たちも、そのおこぼれにあずかっていました。多くのユダヤ人たちは、ナザレ人イエスの三年半の公生涯でなされた数多くの教えやしるしと不思議に驚かされ、死んで四日目によみがえらされたラザロを見聞きするに至って、いわば今日の政治情勢のように、熱狂と反感の両極の嵐が渦巻いていました。一方では、旧約聖書に約束されていたメシヤ、ローマの植民地支配からの解放者が、ついにやって来られたと凱旋将軍のように、エルサレム入城を歓迎しました。他方では、「暴徒のリーダーに担ぎ上げられかねない」と懸念する人々には、「殺す以外に選択肢はない」と捕縛と殺害リストのお尋ね者とされていました。そのような喧噪のただ中に、「ナザレ人イエスを真に慕い求める人たち」が生まれていました。
それらの人々は、十字架の出来事の後、復活・昇天され、天上の右の座から注がれる聖霊によって、「キリストのからだなる教会が形成される苗代」とされた人々でした。[12:21
イエスにお目にかかりたい」と頼んだ]、[12:20何人かのギリシア人]は、そのような人々でありました。[12:21
この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ]とありますから、おそらくガリラヤのベツサイダでピリポと知己のある「神を畏れ、神を慕う異邦人たち」の代表格の人たちであったでしょう。彼らが後に使徒に選ばれるピリポを頼ったのは、大祭司やパリサイ人たちによる殺害をガードする要人であったナザレ人イエスに近づくことの困難さを表しています。テロリストに狙われる要人警護の厳しさは群を抜いていたでしょう。
[12:21
この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。[12:22
ピリポは行って(後に使徒として選ばれるシモン・ペテロの兄弟)アンデレに]相談しました。アンデレの了解が得られたので、[アンデレとピリポは行って、イエスに話し]ました。これらの事は、受難週においてナザレ人イエスとの面会はきわ めて慎重に行われていたことが分かります。多くの人に慕われていたナザレ人イエスは、側近の弟子たちを中心とする屈強な人々の細心の注意を払った警護により、大祭司やパリサイ人たちの殺害計画から守られていたのです。
[12:20 何人かのギリシア人]の[12:21
「イエスにお目にかかりたい」]との要請を聞かれたナザレ人イエスは、唐突に、[12:23
すると、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来ました]と言明されました。わたしは、[[12:20
何人かのギリシア人]の[12:21
「イエスにお目にかかりたい」]との伝言]で、ナザレ人イエスは何を察知され、このように反応されたのだろうと考えました。この挨拶のことばは、何かに似ていると思いました。そのひとつは、[マタ2:1
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」]という挨拶です。
旧約の救済史で預言されていたメシヤたるキリストの誕生のお祝いに駆けつけた東方の博士たちの、「面会」の希望であります。[12:21
「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ]ギリシア人たちは、一体どのような面持ちで、ナザレ人イエスとの面会を頼んだのでしょう。わたしは、ギリシア人たちは、[マタ2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方]、まもなく[ヨハ1:49
イスラエルの王]に即位されるお方に拝礼したかったのだと思います。そのような期待が、ユダヤ人の間のみならず、神を畏れ敬う異邦人の間にも広がり続けていることを、ギリシア人の訪問に認められたナザレ人イエスでありましたから、そのような意義をもつギリシア人たちの訪問に、[12:23
人の子が栄光を受ける時が来ました]との時のしるしを感知されたのでしょう。わたしたちも、あらゆることにおいて、祈りの内に、さまざまな事象のうちに、「時のしるし」を感知することは大切と思います。
で、なぜナザレ人イエスは、[12:23
すると「人の子が栄光を受ける時が来ました」]と言明されたのでしょう。わたしは、おそらくはベツサイダ地方に住まう神を畏れ敬う群れの[12:20
何人かのギリシア人]リーダーたちの、[12:21
「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」]という嘆願の中に、ナザレ人イエスは、[創12:3
わたしは、…地のすべての部族は、あなたによって祝福される]との救済史の転換点を見られたのでしょう。また十字架のみわざを終え、昇天し、天上の右の座に着座し、聖霊を注がれたペンテコステの日には[使2:21
しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる]という約束が現実のものとなることを望み見ておられたのでしょう。主の時が来た。人の子が栄光を受ける時が来た、と実感されたのでしょう。
目の前にいるのは、イエスとの面会を望む何人かのギリシア人たちでしたが、ナザレ人イエスの目には、受肉から始まり、三年半の公生涯、そして最後の仕上げとしての死んで四日目によみがえらされたラザロの奇蹟によって、「世に対する神の栄光の啓示」は完了しました。世には歓声と殺戮の両極の反応が頂点に達していました。そして、そこで明らかにされていく「隠されていた福音の奥義」は地の果てまで運ばれていく下拵えもできはじめました。使徒行伝では、ユダヤ民族を超えて、ギリシャ語を話す異邦人世界へ、すなわちエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで、と福音が運ばれていく様子が記されています。その萌芽を[12:20
何人かのギリシア人]の面会希望に見ることができるのです。
そのような「異邦人世界からの代表者たる何人かのギリシア人」のことは、さておいて、ナザレ人イエスは、[12:23
すると、「人の子が栄光を受ける時が来ました」]と彼らに宣言されました。ナザレ人イエスは、こまごまと説明される方ではなく、「簡にして要を得た」お方だと教えられます。丁寧でなければなりませんが、主の働きにおいても、唐突さと断片主義は恐れてはいけませんね。説明がすぎると、主が働かれる余地をせばめてしまうことがあると思います。説明の足りなさを我慢し、主が働かれる余地を残し、祈りの内に委ねることが大切です。[ときは今 あめが下しる 五月哉]は、明智光秀が本能寺の変を起こす五日前に催された茶会で詠んだ句です。[伝3:1
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある]とあります。「時」を知ることの大切さを教えられます。人の思いをはるかに超えて、主が働かれるタイミングを大切にしてまいりましょう。
ナザレ人イエスは、[12:23
すると、「人の子が栄光を受ける時が来ました」]と彼らに答えられました。そして、「新しい神の民、新しいイスラエルとなる人々」に「教会に対する神の栄光の啓示」を語り始められます。それは、ダビデ王的メシアによる「ユダヤ民族の再興」を望むユダヤ人の期待とはいささか異なるものでありました。聖書が約束していた真のメシアは、イザヤ53章に隠されたかたちで記されてきた「苦難のしもべ」としてのメシアでありました。ナザレ人イエスは、受難週に至って、そのような深い部分について明らかにされていきます。「12:24
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」と、麦の種蒔きと収穫のイメージを用いて、自らの十字架上で、神を冒瀆した犯罪者として裁かれる出来事をあらかじめ説明されています。
そして、[12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります]と語られ、[Ⅰペテ2:21
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された]とあるように、キリストの模範に習うように言われました。「自分のいのちを愛する」と「自分のいのちを憎む」という表現は、微妙な表現です。捉え方を間違えると、行き過ぎた自己否定や過度な禁欲に走る危険が信仰の世界に見られてきました。その点、パウロはそのあたりを深く解き明かし、[ロマ6:12
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。6:13
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい]と記しています。すなわち、「自分のいのちを愛する」とは、罪や罪深い欲望に従ってからだを用いることなのです。「自分のいのちを憎む」とは、そのような悪しき用い方をやめ、同じからだを「死者の中から生かされた者として あなたがた自身を神に献げ」る献身を促しているのです。同じからだですが、神に聖別されたからだは聖いものです。その聖いからだをもって、主の聖いみ旨に従い「義の道具」として用いて行くようにと勧めているのです。
クリスチャンは、ときには福音書の少しバランスの欠いた、コントラストのきつい表現に、嵐の海のうたかたのように翻弄されることがあります。特に、聖書解釈に未熟で若く、幼い信仰の時は、 そのようなことがあります。信仰が、そして福音理解において成長し、成熟していくと、パウロ書簡等にある健全でバランスの取れた豊かな聖書解釈と生活への適用ができるようになります。神さまは、わたしたちの個性と賜物を否定することを喜ばれるのではなく、その真逆です。神様は、罪と欲の下で、個性と賜物を用いることを喜ばれませんが、罪と欲から離れ、死からよみがえらされたからだとして、わたしたちの個性と賜物を十二分に用いることを願っておられるのです。[12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります]とあります。
ナザレ人イエスは、[マタ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです]と言ってくださるお方です。わたしたちは、主の下に荷物を下ろし、主の下で安息し、主との人格的語らいを通し、ささげられ、死からよみがえらされたものとして個性と賜物を生かし、納得づくで一歩一歩バランスのとれた日常生活を歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson,“The Gospel According to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2026年1月11日ヨハネ12:9~11「逆説の視点での人生の意味・意義の解説」-十字架につけられたメシアこそが、イスラエルの王である-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/-9Uq0uwyl5I
明けましておめでとうございます。先週は正月休みで、敦賀より帰省していた拓人神学生からの証しとメッセージでした。主がこの四年間、拓人神学生の上に働いてきてくださったことを振り返る感謝のひと時でした。さて、神さまはわたしたちひとりひとり、それぞれに対し、多様な働きをなしてくださっています。昨年一年間の「60年続いた家業閉店の作業」もまた然りです。わたしたちの人生の大きな節目の年となりました。ただ、毎日していることは、店の仕事がないだけで、これまでとほとんど変わらないような気もしています。朝毎に、祈りをもって一日を始め、聖書を読み、神学書に目を通し、教えられたことをフェイスブック、ユーチューブ等を通して分かち合い続ける毎日は変わりません。
毎週の礼拝で取り組んでいます『ヨハネ福音書の神学傾聴シリーズ』は、前半の「世に対する栄光の啓示」から、後半の「教会に対する栄光の啓示」へと入って行こうとしています。それは、まるで山頂に上っていくようなイメージで捉えることができます。ナザレ人イエスの伝道活動は、「カナの婚礼から始まり、ニコデモとの対話、サマリアの婦人との対話、ベテスダの池の癒し、五千人の人々の給食、海上歩行、生来目の見えない人の癒し、そして死んで四日目であったラザロのよみがえり」の頂、分水嶺にまで到達しました。ここからは、ある意味で下り坂です。その結果が今朝の箇所でまとめられています。
ヨハネ福音書
A.大勢のユダヤ人の群衆の集合―公生涯伝道の成功(12:9)
B.祭司長たちの陰謀とその動機―成功によってもたらされた危機(12:10-11)
過越しの祭りの頃、ナザレ人イエスは、エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18)のところにあるベタニアに来られていました。それを伝え聞いた[12:9a
大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た]のです。「メジャーリーグ・ベースボールの最下位のチーム成績で、いつもは空っぽの観客席が、ドジャースの大谷翔平選手が来る試合になると満席になる」とのことです。イエスの三年半の公生涯、その数々のしるしと不思議を伴う伝道活動は大成功をおさめ、スーパースターのようなお方の登場をひと目見ようと、[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]はやってきたのです。
そして、[12:9b
イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでも]ありました。出エジプトの出来事の際には、十の災害としるしと不思議がありましたが、決定的なものは「エジプトのすべての家の初子の死」という出来事でありました。ナザレ人イエスの公生涯にも、数々のしるしと不思議がありましたが、最も決定的なものは「死んで四日を経たラザロのよみがえり」でありました。そのような奇跡は、旧約聖書の中にもありませんでした。出エジプトの際にも、対抗する魔術師たちが類似のしるしと不思議を行いましたが、真似することができないものもありました。ナザレ人イエスの場合も、「これは、もう否定することが出来ない、死んで四日を経てよみがえらされた証拠であり、証人であるラザロ」がいました。それは、キリストにおいて起こる決定的な出来事の予表でもありました。
大勢のユダヤ人の群衆は、[12:9b
イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを]見て、ナザレ人イエスがどのようなお方であるのかをさらに深く理解したのです。[12:9b
イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを]見て、ナザレ人イエスが旧約聖書に約束されていたメシヤであり、キリストであると理解しました。このような理解は、野火のように、人から人へ、口から口へ、パレスチナ全土に伝えられていきました。その様子が、[12:11
彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになった]から分かります。パレスチナ全土が「ちゃぶ台返し」にあったような事態です。祭司長たちやパリサイ人たちに指導されていたユダヤ教会堂に属していたユダヤ人たちが、
[12:11イエスを信じるように]なり、祭司長たちやパリサイ人たちの指導から
[多くのユダヤ人が]離れて行き、ナザレ人イエスの運動と教えに共鳴するという事態を引き起こしていたのです。
もちろん、この[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]の中には、心の底よりナザレ人イエスを、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストとして信じるようになった人々の苗代となった人たちも多くいたでしょう。と同時に、この[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]の中には、ナザレ人イエスが当時のローマ帝国の植民地支配から解放してくれる独立運動指導者と期待しただけの人たちもいたでしょう。そのような中の人たちは、イエスが死刑判決を受けた時には、失望のあまり「十字架につけよ!」と叫んだ人たちもいたでしょう。当時の[12:10
祭司長たちは]、ナザレ人イエスがローマ帝国の植民地支配からの指導者として祭り上げられ、ローマ帝国支配に対する反乱等の不穏な状況になっていくことを懸念していました。騒乱が起こると、宗教的な自治権も失う危険がありました。それで、その騒乱の元凶になるかもしれない「ナザレ人イエス」と決定的な注目を集めさせている「よみがえらされたラザロ」も殺し、騒乱の根を断とうと相談していたのです。当時の宗教指導者たちは、ローマ帝国植民地支配下で享受していた限定的な宗教的自由と経済的な恩恵を手放したくなかったのです。
この12章を最後にして、13章からは「教会に対する栄光の啓示」が始まります。弟子たちをも含め、[12:9
大勢のユダヤ人の群衆]も、ラザロの復活までも通して、見せられた「世に対する栄光の啓示」を見て、旧約聖書に預言されてきたイスラエル民族の栄光の回復の期待は最高潮に達していたでしょう。弟子たちは、復興させられたイスラエル国家において、要職に就くことを夢見ていたでしょう。ダビデの王座を回復されるはずのメシアは、他民族による支配を蹴散らし、王国を回復されるはずでした。しかし、13章から明らかにされる「教会に対する栄光の啓示」は、ある意味で彼らの期待とは正反対のものでありました。
13章から始まる「教会に対する栄光の啓示」は、十字架上に殺されるダビデの王座に座するメシア像でありました。異教徒、異民族を蹴散らし支配するダビデの王座の回復であるはずのものが、すべて目に入る様相は正反対でした。ナザレ人イエスの十字架上での死は、自らを「三位一体の御父・御子・御霊なる、御子なる神イエス・キリスト」である主張を抹消し、むなしいものとするものでもありました。しかし、まさにこの「十字架に釘付けられたイエスこそ、メシアである」と強調されているのです。「十字架につけられたメシアこそが、イスラエルの王である」と宣言されているのです。わたしたちクリスチャンの生涯に起こり得る出来事にも多くの「逆説」があるように思います。この「逆説」の視点での人生の意味・意義の御霊による解説を学んでまいりましょう。
今朝の箇所で、わたしたちは、[12:9
イエスに会うため…ラザロを見るため]に[12:9やって来た][大勢のユダヤ人の群衆]を見ました。またナザレ人イエスだけでなく、[12:10
ラザロも殺そう]と策略を練る[祭司長たち]を見ました。それぞれの人が、それぞれの動機をもち、思惑を抱き、行動している姿を見ます。しかし、それらすべての思惑やはかりごとを超えて、ナザレ人イエスを中心にすべてのパズルが組み合わされ、三位一体の御父・御子・御霊の神のみ旨が成就されていく様子を教えられます。それゆえに、わたしたちにとって最も大切な事柄は、人の思いや考えごとに振り回され、右往左往することではなく、神さまのみ旨を探り求め、そこを軸にして、内住の御霊とともに共に考え、その導きの中で一歩ずつ進んで行くことではないでしょうか。主がこの新しい一年を歩んでいく「新しい生ける道」を導いてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』)