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2024/07/07
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2024年7月7日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ2:12~22「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」-細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし-
https://youtu.be/Hzdji_e1TII
ヨハネ福音書
A.過越の祭りが近づき、エルサレムに(2:12-13)
B. 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし(2:14-16)
C.あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす(2:17-18)
D.この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日で(2:19-20)
E.イエスが死人の中からよみがえられたとき、言われたことを思い起こし(2:21-22)
水がめ一杯の水が最高級のブドウ酒に変えられるという奇蹟の後に、商売の場と化していた神殿の周囲が、御子なる神イエス・キリストによって大掃除されます。これを読んでおりまして、イエス・キリスト伝道団の立ち上がりとして、カナの婚礼での奇蹟は大成功の印象を抱きます。しかし、過越しの祭りの際の、[2:14
そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、2:15
細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、2:16
鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」]と言われた宮清めの行為はどうでしょう。
それは、「御子なる神イエス・キリスト伝道団」入門直後の弟子たちにとって[2:17
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こ]す衝撃の経験でありました。その情景を見て、思わずのけぞったことでしょぅ。それは、飛行機がうまく離陸したかに思われた直後に、乱気流に巻き込まれるような経験でありました。[御子なる神イエス・キリストは、「ラビ(すなわち、先生)、メシア(すなわち、キリスト)、律法や預言書に書いてある方、神の子、イスラエルの王」かもしれないが、きわめて過激なお方なのだ]という印象を抱いたことでしょう。
そうなのです。御子なる神イエス・キリストがなそうとされていることは、ある意味でユダヤ教の歴史と伝統を「 2:15
細縄でむちを作って、…みな宮から追い出し、…金を散らして、その台を倒し」追い出し、ひっくり返すようなことであったのです。それは、後でわかってきます。御子なる神イエス・キリスト門下に入門したての弟子たちは、「御子なる神イエス・キリスト」伝道団は、御子なる神イエス・キリストの過激と思われる熱心によって、 大変な危機の中に突入していくことを予感したことでしょう。「イエスさま、そんな過激なことをしてはいけません!わたしたちの働きの妨げになります!」と心の中で叫んでいたかもしれません。
ヨハネ福音書は、3-12章で「世に対する栄光の啓示」により、「光と闇との戦い」が始まっています。[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]、[ヨハ1:9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]ということを明らかにしていっています。わたしたちは、ユダヤ人たちの反応の中に「闇とは何であるのか」を見ます。
そして、13-20章では、「信仰者に対する栄光の啓示」により、光の勝利が描かれます。[ヨハ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:13
この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ] ました。
カナの婚礼では、[ヨハ2:6
ユダヤ人のきよめのしきたりによって、…置いてあった]石の水がめの水が、御子なる神イエス・キリストの奇蹟により、[良いブドウ酒]に変換されました。それは、旧約の歴史で準備されたものが、時満ちて到来された御子なる神イエス・キリストの人格であり、後にもたらされる御子なる神イエス・キリストの十字架・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎの一連のみわざを前もって象徴するものでもありました。御子なる神イエス・キリストは、旧約の次元を新約の次元に、いわば「水」の次元を、「最高級のブトウ酒」の次元に変換されるために到来されたのです。
カナの奇蹟に続く、エルサレムでの宮清めの事件にも同様のメッセージが提示されています。カナの奇蹟においては、途方にくれた人間に、御子なる神イエス・キリストの充満を分け与え、現臨されています。信仰は、カナの出来事の中に、御子なる神イエス・キリストの栄光を垣間見ます。エルサレムでの宮清めにおいては、世は御子なる神イエス・キリストの大掃除の攻撃を受けます。御子なる神イエス・キリストは温和で柔和なだけで「毒にも薬にもならぬ」お方ではありません。病を真に治療する「劇薬」のようなお方であり、必要ならば「躊躇なく手術」を施される勇敢な医者のようなお方です。世は、[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と、自信に満ちて、御子なる神イエス・キリストの資格証明を求めることによって、はっきりと自らの不信仰を表明しています。しかし、彼らの不信仰は、不思議なことに「どんなしるし」をもってしても、泥沼にさらに足をとられていくのです。
御子なる神イエス・キリストは、立ち上げたばかりの伝道団を引き連れて、エルサレムに上られます。それは、この伝道団の設立をお披露目するのに、カナの婚礼と並ぶ絶好の機会であったでしょう。その機会に、弟子たちの目には、「御子なる神イエス・キリストはどんでもないことをしでかされた」と写ります。わたしたちも、主の導きと確信してなしたことで非難を受けることが時々あるのではないでしょうか。「そんなことしなかった方がよかったのに!」と言われることがあるのではないでしょうか。しかし、信じ確信したことに着手しないことは、「義を見てせざるは勇無きなり」と言われても仕方ありません。「確信したことに取り組んで失敗しても、主が必ず尻ぬぐいをしてくださる」と信じて、勇気をもって取り組みましょう。
イエスは、過越の祭りが近づき、エルサレムに上られると、[2:14
宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、2:15
細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、2:16
鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」]と、宴会で酒を飲みすぎて、正体不明となり、だれかれ構わず乱暴狼藉を働くかのような大立ち回りを演じられたのです。
信仰には、ある場合には、このようなところがあると思います。衆目の一致するところで、「聖人君子」のように生きるだけが信仰生活ではありません。「和を以て貴しとなす」とするだけが信仰生活ではありません。信仰者は、時に導かれて「火中の栗を拾い」、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とダニエルのように危険のただ中に、飛び込みます。それは、信仰のなせるわざです。イエスもそのような行為に出られ、弟子たちは唖然としました。[2:17
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした]とあるように、「御子なる神イエス・キリスト伝道団の、エルサレムの過越しの祭りの際の、素晴らしいお披露目というプランは台無しになってしまった。多くの敵を作ってしまった」と思ったことでしょう。神殿の周辺で商売をし、犠牲の動物や貨幣の両替等で収入を得ていた者たちは、
[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と大変憤慨し、御子なる神イエス・キリストに断固抗議し、「我々の商売の邪魔をしてくれたな!落とし前をつけてもらう」という感じで詰め寄りました。
ユダヤ人たちは、御子なる神イエス・キリストが、ご自身を父なる神と同等視され、[2:16
わたしの父の家を商売の家にしてはならない]と厳命されたことに対し、その厳命の正当性の「資格証明」を問題にしました。「一体なんの権威によって、我々の正当な商売を邪魔するのか」と猛然と抗議したのです。これに対し、御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と、一見的外れな答えをされました。これは、意味深なことばです。ですが、神殿周辺で商売をしているユダヤ人たちは、[2:20
この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか]と笑い飛ばしました。話はかみ合いませんでした。その後の展開は、どうなったのか明らかではありませんが、場所代や仲介料をせしめていた宗教関係者たちの大きな火種ともなっていったことは明白でした。
弟子たちも、その時は[2:17
あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす]と事態の悪化を心配するばかりであり、イエスが死人の中からよみがえられたときまで、その意味を理解できませんでした。[2:22
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた]とある通りです。このように、ヨハネ福音書は、現在と未来、天上と地上、旧約と新約と時間軸、空間軸の交錯をもって進んでまいります。そこを読み解きながら、立体的に読んでいく魅力に溢れた福音書です。弟子たちの信仰者としての成長の道程も興味深い部分です。わたしたちにもそのような道程の中を歩んでいます。
しるしを求めるユダヤ人たちの[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」という、その権威行使の由来要求に対し、御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と答えられました。何とも言えない解答法です。御子なる神イエス・キリストは、このような解答法を数多く示されます。直接対決をかわし、はぐらかしたような解答でありますが、的は外してはおられません。それは、この時点で、御子なる神イエス・キリス トの十字架のみわざ、その死・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ等について詳しく語っても、だれも理解できなかったでしょう。主はそれをご存じなので、このような紋切り型の語り口となります。
しかし、御子なる神イエス・キリストは、分からないからということで、「ヘブル6:1
初歩の教え」に終始されるようなお方ではありません。「成熟」目指して、[ヨハ 13:7
わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります]と布石となる言葉を語られるお方です。わたしたちも、説教で「離乳食」のような聖書の解き明かしに終始してはいないでしょうか。少しずつ「成熟」目指して、[ヨハ
13:7
わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります]と布石となる解き明かしを提供していくことの大切さを教えられます。この後、ニコデモやサマリヤの女にも、分からないフラストレーションのようなものが明らかにされます。しかし、そのような時、「分かりにくい話をするな」と腹を立てるのではなく、[今は分からなくても、後で分かるようになりますようにしてください」とお祈りすれば良いのです。そうすれば、主が「理解できる恵み、知識と啓示の光」を注いでくださいます。ちなみに、アウグスティヌスの説教は、聖書全体をふんだんに扱いつつ、聖書の各所を解き明かしています。その豊かさに脱帽されられます。このような豊かなみ言葉の養いが、無学文盲の多い古代の教会にもあったのだと。
宮清めをなさる御子なる神イエス・キリストに対し、[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と、その行為の正当性の資格証明を要求したユダヤ人たちに対し、小手先の奇蹟によって答えるのではなく、最終的・決定的なしるしによって「その答え」が明らかにされると御子なる神イエス・キリストは言明されました。それは、実に厳粛な出来事への言及です。御子なる神イエス・キリスト伝道団の、エルサレムの過越しの祭りの際の、お披露目で、決定的な事柄に言及されています。御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい(すなわち、わたしを殺してみなさい)。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と十字架のみわざに言明されたのです。
それは、御子なる神イエス・キリストの贖罪と復活のみわざへの言及であり、同時に古い神殿、すなわち古い旧約の時代の終わりにより、新しい神殿の時代が到来することをも意味しています。この新しい時代の到来こそが、御子なる神イエス・キリストの資格を証明すると言われているのです。ユダヤ人に
よって汚された神殿の、御子なる神イエス・キリストによる宮清めは、神殿再建のはじまりであり、その新しく立て直される神殿とは「御子なる神イエス・キリスト」ご自身であるという新しい意味が与えられているのです。
このように、1世紀末の、ユダヤ教会堂とキリスト教会との関係を思い浮かべますと、ヨハネ福音書の冒頭には、旧約と新約の関係を象徴する「水と最高級のブドウ酒」が示され、さらに、ローマ軍により破壊された古い神殿と「壊され、三日目に再建された新しい神殿」たるキリストご自身を礎石とするキリストのからだなる教会(エペソ2:19)、霊の家に生ける石として築き上げられるクリスチャン(Ⅰペテロ2:5)、御霊なる神が内住される神の宮・神殿としてのクリスチャン生活(Ⅰコリント3:16)への示唆が、ヨハネ福音書の全体を貫くモティーフとして鳴り響くことを予感させています。
御子なる神イエス・キリストは、この時点では、まだ地位やポスト等、他のものに関心を寄せていた弟子たちが、 [2:17
あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす]と予感したそのままの公生涯を走り抜けられます。わたしたち人間は、いわば風見鶏のように、吹かれる風向きを読みながら生きてしまいやすい者です。御子なる神イエス・キリストは、この点においても、わたしたちの模範です。祈りましょう。
(参考文献: R.ブルトマン『ヨハネの福音書』)
2024年6月30日
ヨハネ2:1~11「水がめを水でいっぱいにしなさい」-さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/8MAZrNtMhuI
ヨハネ福音書
A.カナでの婚礼―地元の名士の婚礼?、イエス・キリスト伝道団のお披露目の機会?、キリスト信仰の萌芽期の出来事(2:1-2)
B.不測の事態とイエスの反応―参加者の急増による危機と神の介入のタイミングの存在(2:3-4)
C.置かれた環境と母マリヤの依頼―マリヤの信仰による機転とあるものによる奇蹟(2:5-6)
D.給仕の者たちへのイエスの指示―神の語りかけと信仰者の応答への示唆(2:7-8)
E.世話役の無知と感動―御子なる神イエス・キリストを知る者と知らない者の反応(2:9-10)
F.最初のしるしと弟子たちの信仰―最初のしるしから最後のしるしに向けての弟子たちの信仰の成長(2:11)
洗礼者ヨハネによって準備された弟子たちをリクルートした御子なる神イエス・キリストは、[2:1
それから三日目に、ガリラヤのカナ]に現れました。弟子たちの「信仰育成学校」の開始ともなりました。それは、[2:1
ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母]もおり、[2:2
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた]時のことです。すでに有名であった洗礼者ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」運動と教えに対して、御子なる神イエス・キリストが結成された、いわば「イエス・キリスト伝道団」はまだ無名でした。三年半という短い公生涯で、「地の果てまで、世の終わりまで福音をのべ伝える伝道体である教会」の礎を築き上げるには、短期間で効果的な広報活動が必要だったことでしょう。幼い頃から、イエスの非凡さを見聞きしていたイエスの家族や親戚や知人・友人たちは、生活圏のナザレから約15kmに位置するカナでの結婚式と披露宴への出席は、地元の名士と相談し、「イエスの旗揚げ、弟子たちのお披露目の絶好の機会として、出席をアレンジしていた」のではないでしょうか。
しかし、結婚式と伝道団のお披露目という、二つの要素の重なりは、「大谷翔平の試合」のように、予想をはるかに上回る人たちが集まることとなりました。花婿・花嫁は、出席予想をはるかに上回るブドウ酒を用意していたにも関わらず、瞬く間にブドウ酒はなくなってしまいました。当時、結婚式・披露宴でブドウ酒がなくなるということは、その両家の名誉を著しく傷つける社会的惨事でありました。大勢の出席者のあちこちから「ブドウ酒がないぞ!」「ブドウ酒はまだか!」という声が上がったことでしょう。イエスの母マリヤは、息子の旗揚げの機会にと思って出席し、迷惑となっている責任を感じたのではないでしょうか。大きな危機感をもって[2:3
ぶどう酒がなくなると、…イエスに向かって]大変なことになりました。「ぶどう酒がありません」と言いました。
2:4 すると、イエスは母に「2:4
女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。この言葉は、理解することが難しいことばです。花婿・花嫁と両家が陥りそうになっている危機的状況の最中、パニックになっている母に対することばとは思えません。まるで、「わたしの責任ではありません」と無関係をよそおい、参加者急増の責任逃れをし、素っ気なく突き放すような物言いです。しかし、これは両家にとっての社会的惨事であるとともに、おそらく急に追加出席を了承され、「イエス・キリスト伝道団」のお披露目の機会をいただいた、御子なる神イエス・キリストと弟子たちにとっても、その出だし興行での大きなつまずき、下手をすれば悪評の材料となり、その後の集会は惨憺たるものとなったことでしょう。
そのような意味で、[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った]ことは、わたしたちの日常の経験でもあります。わたしたちは、日が照ると「今日は暑いな!」と不平の面持ちとなり、雨が降ると「今日はうっとうしいな!」と、いろんな小さなことで、いつも預言者ヨナのようにつぶやく者です。その意味で、わたしたちは意識するかしないかは別にして[イエスに向かって「ぶどう酒がありません」]と、ひっきりなしにつぶやいている者であるような気が致します。これに対して、御子なる神イエス・キリストは、[2:4
「あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えられるのです。これは何を意味している言葉でしょう。
このことばの意味を解く鍵は、「2:4 わたしの時はまだ来ていません」にあります。“2:4
わたしの時”とは、「御子なる神イエス・キリストの時」です。御子なる神イエス・キリストは、私利私欲や個人的感情や関係や忖度で、神としての奇蹟的な力を行使することはできないのです。それは御父との御思いとひとつになってはじめて行使できるものなのです。“2:4
わたしの時”とは、[ヨハ12:23
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました」]であり、[ヨハ13:1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた]とあるように、十字架による贖罪と復活・昇天・着座・聖霊の注ぎによる内住の御霊の一連のみわざがなされる時のことです。その一連のみわざの萌芽的、予表的関連においてはじめて行使されうるものなのです。それは、単なる奇蹟の行使ではなく、信仰者や弟子たちの信仰の成長に結びつく意義が欠かせないのです。
ヨハネ福音書の2章のカナの奇蹟から11章のラザロのよみがえりまでは「しるしの章」と言われ、さまざまなしるしを用いて、ご自身がいかなるお方であるのかを証しされる「世に対するしるしの章」です。すなわち、[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った]時の問題は、母が息子に対する立場からのお願い、「なんとかしてください」というお願いであったのかもしれません。おそらく、母マリヤは、イエスの誕生の経緯から30歳の公生涯の始まりまで、数えきれない神の不思議、奇跡、知恵を御子なる神イエス・キリストに見てきたことでしょう。そのような経験が[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言わせたのだと思います。「イエスは、このパニックを解決することができる」と確信していたからこその発言でありました。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、「親子の情で神の奇蹟的力を行使することはできません」ということと、「神の奇蹟的力が働くためには、神のスケジュールがあり、神のタイミングがあります」と、少しパニクっていた母マリヤに冷静でいるように諭されました。母マリヤは、思慮深い女性でありましたので、イエスの言われんとしたことをすぐ察知し、即座に給仕の者たちに「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と頼みました。信仰者にはこの機転が大切です。軽いフットワークに価値があります。このようなことはわたしたちの信仰生活にもあることです。[2:3
ぶどう酒がありません]ということは、しばしばです。人生は問題山積、長距離障害物競争のようなものです。
そのような時、わたしたちは、カナの婚礼の時に重ね合わせ、母マリヤのように、御子なる神イエス・キリストに[2:3
ぶどう酒がありません]と申し上げましょう。すると、御子なる神イエス・キリストは、一度突き放すかのように[2:4
○○さん、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません]と言われて、キョトンとすることでしょう。しかし、ここからが信仰生活の信仰の力の発出場所なのです。ここで、主のサイン、合図を見落としてはいけません。母マリヤは、御子なる神イエス・キリストの意図・意味を察知し、即座に「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と反応しました。この速度が大切です。タイミングが重要です。風に乗らないとそれは通り過ぎていきます。
[2:4
わたしの時]、それは、広大な神の計画においては、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざの栄光の現れる時です。同時に、
[2:4
わたしの時]は、その文脈の中に置かれて、その文脈の中での意味・意義を与えられて、神の最良のタイミングで神の介入がなされる時です。母マリヤは、[2:4
わたしの時はまだ来ていません]という言葉に、「まだ何か準備が整っていない状況がある」と察知します。それで、それが何かは分からないけれども、イエスには「その何か分からない準備をもすることができる」と信じたので、「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と給仕の方にお願いしました。信仰は、このような次々と湧き上がる想像力をイメージを創り出していきます。このいろんなかたちでの奇蹟を想像し、期待し、待ち望む心こそ信仰生活を満喫していく秘訣です。主イエスにあって、「期待しなさい。想像しなさい。夢を膨らませなさい。」わたしたちにも奇蹟を起こしていただくために、給仕の者たちのように何か「主のみわざの下ごしらえ」をすることができるかもしれません。それを御霊によって想像し、描き出し、実践してまいりましょう。
[2:6
そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのもの(1メトレテスは、40リットル)であった]とあります。[2:6
そこには、…あった]とあります。神様は、わたしたちの生活空間に大小の奇蹟を起こす際に、地の果てから、天の果てから、材料を集めてくる必要はありません。「そこに、たまたまある」ものを用いて、奇蹟をなすことができるのです。それは、奇蹟のために特別に準備されたものではありませんでした。たまたまその家には、その会場には[ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ]置いてありました。もし、それがなかったら、御子なる神イエス・キリストは、別の形で奇蹟をなさったことでしょう。ですから、わたしたちは、「自分には備えがない」と思って恐れる必要はありません。神はそこらにある石ころひとつからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる(マタイ3:9)と言われるお方だからです。
わたしたちは、パニクった時、御子なる神イエス・キリストに、[2:3
ぶどう酒がありません]とつぶやくだけでは十分ではありません。母マリヤのように、冷静になって、主の語りかけ、主の諭しに耳を傾け、主イエスが[2:5
言われることは、何でも」させていただくことにしましょう。それは、時に危険なこともあるかもしれません。勇み足もあるでしょう。人を傷つけることになることもあるでしょう。しかし、そのことによって、閉ざされ錆びついていた扉が開かれ、建徳的な新たな道が見えてくるやもしれません。主の導き、主の語りかけと信じることに勇気をもって、「水の上に一歩足を踏み出しましょう」(マタイ14:28-29)、み旨にかなえば「パニックは乗り越え」られます。たとえ沈んでも、主が引き上げてくださいます。
とにもかくにも、給仕の者たちは、イエスに言われた通り、[2:7
水がめを縁までいっぱいに]しました。水がめ6個×80~120リットル=480~720リットルを、なみなみと縁まで一杯に入れました。これは、膨大な量では。入れるだけでも大変な量であり、労力がかかります。給仕の者たちには「どうしてこんなことをさせるのか」というつぶやきはなかったのでしょうか。わたしたちは、自分にとって無意味と思われる奉仕・労働に対してはつぶやきが溢れることでしょう。途中で「やめた!」ということになりかねないでしょう。まさか「ブドウ酒がなくなっている危機的状況を水を飲ませてごまかせる」とは誰も思わなかったでしょう。
しかし、さらに決定的なことば、「2:8
さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」が発せられます。わたしなら、「いや、それはできません!」と反応したでしょう。これは、大変な騒動になりかねない愚かな行為です。宴会の世話役に「ブドウ酒がなくなりました」と伝え、皆さんにそれを理解してもらうことも社会的惨事かもしれませんが、「水をブドウ酒と偽って飲ませた」なら、それは大きなスキャンダルとなったことでしょう。婚姻関係を結ぶ両家は恥さらしと呼ばれ、「イエス・キリスト伝道団」の旗揚げは醜聞にまみれたことでしょう。「水をブドウ酒と偽って」飲ませる宗教集団呼ばわりされたことでしょう。
それは、御子なる神イエス・キリストが公生涯の最初に直面された危機でありました。しかし、不思議なことが起こりました。仰々しい奇跡的なパフォーマンスは何一つ見かけません。「ただ、御子なる神イエス・キリストの指図に従って、水がめに水を入れ、それを汲んで宴会の世話役のところに持って行った」だけです。[2:9
宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した]とあります。どの瞬間に「水がブドウ酒に変化したのか」分かりません。奇蹟はときに気づきのないそよ風のように起こります。その奇蹟も「水っぽいブドウ酒とか、ブドウ酒の香りがするけれど、水のような気もする」といったまがいものでありませんでした。
それは、味見をするソムリエのような世話役によって、[2:10
あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」と、最高級のブドウ酒であることが判明し、花婿は賞賛されました。給仕の者たち、また弟子や母マリヤは、この奇蹟がだれによって引き起こされ、「結婚式の披露宴でブドウ酒がなくなる」という社会的惨事が防がれたかを知っていました。[2:11
それで、弟子たちは]、イエスは只者ではないと[イエス]に対する信仰を成長させていきました。わたしたちも、日々「イエスは只者ではないと[イエス]に対する信仰を成長させて」まいりましょう。このようにして、[2:11
イエスはこれを]1~12章の至る「しるしの章」における最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、「13~20章に至る栄光の章」に向けて、[ご自分の栄光]を現わしていかれたのです。
わたしたちも、信仰者としての生涯を、弟子たちとイエスの公生涯の関わりのように過ごしてまいります。その信仰は、御子なる神イエス・キリストの贖罪のみわざと内住の御霊によって完全でありますが、弟子たちが漸進的に御子なる神イエス・キリストの栄光に霊の目が開かれていったように成長させられてまいりましょう。わたしたちもわたしたちの生涯において、いろんな場面に出くわし、社会的惨事また宗教的醜聞に巻き込まれんとすることがあります。しかし恐れることはありません。わたしたちは、そのような時[2:7
水がめを縁までいっぱいに]させていただく者とされましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament
Commentaries, Richard Bauckham,“Gospel of Glory – Major Themes
in Johannine Theology”、Colin G. Kruse, “John” Tyndale New
Testament Commentaries)
2024年6月23日
ヨハネ1:43~51「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」-象徴的、暗示的、立体的、神学的な歴史描写であり、物語全体の設計図-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/2KExh0QSjoE
(概略)
ヨハネ福音書
A.ピリポの召命とナタナエルへの証し(1:43-45)
B.ナタナエルの疑問とイエスの証し(1:46-47)
C.イエスの全知と予知能力、そしてナタナエルの信仰告白(1:48-49)
D.序論(1:1-51)の結論―イエスについて何を証しするよう期待されているのかの暗示(1:50-51)
今朝の箇所は、前回のアンデレとペテロと同様に、ピリポとナタナエルに示された三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの全知と予知能力についての証しです。ヨハネ1章は、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストが地上に受肉・来訪されるにあたって、洗礼者ヨハネの証し、そして弟子となる人々が彼の下で準備されていたことを告げています。弟子たちの受け渡しに際し、エルサレムから派遣された詰問者への回答、すなわち「1:20
わたしはキリストではありません」があり、キリストと洗礼者ヨハネとでは「1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と雲泥の差があると告白します。
そのような出来事の直後、時間を惜しむかのように、「その翌日」「その翌日」と駆け足でドラマは展開していきます。洗礼者ヨハネの前に、イエスが現れられた(1:29)のです。洗礼者ヨハネは、イエスを見るや否や「1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫びます。それは、イエスが洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受けられた時(マタイ3:13-17)、「ヨハネ
1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる」のを見たからです。それゆえ、洗礼者ヨハネは、弟子たちをイエスに引き継ぐため、イエスの通られるであろう通りに立って待ち構えていました(1:35)。
そして、イエスが歩いて行かれるのを見て「1:36
見よ、神の小羊」と叫びました。それが洗礼者ヨハネとふたりの弟子たち(アンデレと、おそらくはゼベダイの子ヨハネ)の別離の合図となりました。アンデレは、一晩イエスと親しく交わり、その語りかけに傾聴した結果、「1:41
わたしたちはメシヤ(訳すと、キリスト)に出会った」と確信しました。アンデレは、さっそく兄弟のシモンを連れてきて、シモンは「ケファ(言い換えれば、ペテロ[岩の意])」となるとの預言をいただきます。イエスの公生涯への登場三日目で、弟子グループのリーダーが予知されました。
イエスは、さらに生ける石として「Ⅰペテロ2:5 霊の家」を築き上げる「エペソ2:20
土台」となる弟子たちを集め続けられます。そうなのです。イエスは、公生涯の最初から、今日まで、フルタイムであるか、仕事を持ちながらであるか別として、イザヤ書にあるように、[イザ6:8a
私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」]と探し求めておられるのです。
わたしたちは、主のあわれみと恵みによって「イザ6:8b
ここに私がおります。私を遣わしてください」と決意・応答すべきではないでしょうか。
ピリポは、ナタナエルに「1:45
私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」と証しします。この箇所を読んで気になることは、ピリポがあえてつまずきになる「生活拠点」のことに言及していることです。これは、当然「1:46
ナザレから何か良いものが出るだろうか」とい反応が予測されるものです。メシヤ預言に、ヘツレヘムはあっても、ナザレへの明確な言及は見当たらないからです。ピリポに誘われて、ナタナエルはイエスのもとにやってきました。ナタナエルの心には、
「1:46 ナザレから何か良いものが出るだろうか」という疑問を問いただそうと意気込んでいたかもしれません。
しかし、ナタナエルがやって来るのを見て、イエスは「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と、ペテロと同様、またもやナタナエルの本質を言い当てられました。それは、
ナタナエルの疑問「1:46
ナザレから何か良いものが出るだろうか」に対する回答でもありました。「百聞は一見に如かず」と申します。ナタナエルの態度は一変しました。彼は問いただそうと意気込んできたのに、そして「イエスとのややこしい議論になるかもしれない」と重たい心でやってきた途端、
意表をつくかのように「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と、ナタナエルがそのような疑問・問いを抱くことを是認・受容するのみならず、そのような神のみ前に真実に生きようとするナタナエルの信仰を称賛されたのです。
わたしたちは、ヨハネ福音書の中に、ナタナエルのような事例をたくさんみます。ナタナエルのような疑問を多く見ます。わたしたちは、そのひとつひとつの事例に、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストがどのように対応されていったのかを教えられます。ある意味、わたしたちもそのようであったのではないでしょうか。「どうして、人間が神であったりするのだ?」とか、「イエスとは、単に優れた道徳教師のひとりに過ぎないのではないか?」とか、数多くの疑問を抱いてイエスに近づいたことでしょう。そのようなわたしたちひとりひとりに、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストは、どのように対応されたのか―その証しをあなたも持っている、経験しているはずです。それを掘り起こし、耕し、ヨハネ伝のように書き綴り、証ししてまいりましょう。重たい思いを抱いてイエスに面会したナタナエルは、イエスから思いがけない言葉をいただきます―
「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」。これは、1:19-28に登場したエルサレムから、洗礼者ヨハネを詰問に来た「ユダヤ人」の描写とは、「光と闇」の対照的な位置関係にあります。ヨハネ福音書の記者は、紀元70年のエルサレムと神殿の崩壊後、ユダヤ教諸派が壊滅・衰退する中で、律法遵守を軸とするユダヤ教会堂の再編成を指向するパリサイ派主導の「ユダヤ人」のあり方の中で、イスラエル民族の中にも「イエスを受け入れ、メシヤと信仰告白する、神が意図された、真の“1:47
イスラエル人”」残れる民をナタナエルの内に見いだされたのでしょう。
ナタナエルは、自分自身が最も大切にしていることを言い当てられ、びっくり仰天、反射的に、「1:48
どうして私をご存じなのですか」と質問します。これに対し、イエスはまたも、質問に直接答えず、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と、ご自身の「全知性」を証しされました。高みから、ナザレ出身のイエスのみせかけを暴いてやろうと乗り込んできた「偽りのない、真の“1:47
イスラエル人” 」ナタナエルは、この証しを聞くや否や、全面降伏し、心の中ではイエスにひれ伏すかたちで「1:49
先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白するに至ります。
しかし、イエスは今度は、一転して「 1:50
あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか」とナタナエルをたしなめられます。というのは、ナタナエルにとって、また他の弟子たちにとって、イエスを「ラビ(訳すと、先生)、メシヤ(訳すと、キリスト)、モーセや預言者が書いている方、神の子、イスラエルの王」であると確信に至った“第一歩”に過ぎないからです。この、いわば“入口”が入って、「1:50
それよりも大きなことを、あなたは見る」ことになると預言されます。それは、弟子たちにとって大きなつまづきの石となるかもしれないものでありました。それは、「十字架につけられるイスラエルの王」であったからです。
この「1:50
それよりも大きなこと」とは何でしょう。弟子たちは、イエスにつき従って、一体何を“見る”のでしょう。イエスは、この時点では、その内容を詳しく、具体的に述べることなく、謎めいた言葉で暗示的に口にされています。[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするという事が何を意味するのか明瞭ではありません。
しかし、この言葉は[創28:12
すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた]を想起させます。そこではベテルにおけるヤコブの夢で天使が天にかけられた梯子を上り下りしていました。ベテルとは「神の家」を意味し、創世記の物語ではヤコブは夢の後に、[創28:16
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」28:17
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ」と告白しています。
すなわち、イエスは、イエスにつき従って「1:50
それよりも大きなこと」を“見る”といわれたのですが、この時点ではその内容を、いわば“写真”を撮るように具体的に描くことはされなかったのです。それはこの時点の弟子たちには受け容れる準備ができていなかったからです。イエスは、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストが受肉されたお方でありましたが、その人格とみわざの全体・全内容を理解し受け容れるには時間が必要でした。いくつもの段階を丁寧かつ漸進的に導かれる必要がありました。それは、わたしたちの「求道者」の時期を振り返るとよく分かると思います。また、信仰者としての成長・成熟の「達しえたところに従って進む」(ピリピ3:16)ことからも教えられます。
そのような意味で、ヨハネ福音書の記者(おそらく、ゼベダイの子ヨハネ)の言語は、熟考の上、意識的に、象徴的であり、暗示的な描写を使用しています。それは、創世記の光景とイエスの来るべき伝道と証し、その人格とみわざの「輪郭と本質」を呼び覚ましているのです。第四福音書は、他の三つの共観福音書とともに「歴史」に関心をもっていますが、その描写は「平面的」ではなく、「立体的」な歴史描写なのです。ヨハネ福音書記者の神学的思索の深さ、豊かさが、ここにその表現を見出しているのです。
イエスが[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と言われたことは何を意味しているのでしょう。これについては、分かち合うべきたくさんの内容が存在します。ただ、語りうる時間は限られています。それゆえ、要点のみ申し上げます。ヨハネ福音書に記されている三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに関するすべての記述が、このイメージの中に包摂されます。このお方、天と地の交流の唯一の「創
28:17 天の門」また「 ヨハ 14:6 道」であり、臨在のあふれる「創 28:17 神の家」また「ヨハ10:30
わたしと父とは一つ」であり、「ヘブル1:3 神の本質の完全な現れ」でありました。
わたしたちは、御子なる神イエス・キリストを“見る”ことで、御霊なる神を通し、御父なる神の「解き明かし」(1:18)を見るのです。御子なる神イエス・キリストは、受肉というかたちで地に下って来られましたが、モーセが荒野で蛇を上げたように、キリストは地の上に天に向けて立てられた十字架に上げられ、贖罪のみわざを成し遂げられました。その代償的贖罪の死から聖霊によってよみがえらされ、天上の右の座に上げられ、約束の御霊を注がれ、「真のイスラエル、新しい普遍的な神の民」が、御子なる神イエス・キリストを礎石し、洗礼者ヨハネから継承した弟子たちを土台する「神の家」を形成することになりました。
ですから、イエスが[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と言われたことは、福音書記者にとって、[十字架・復活・昇天の出来事を焦点に置いているものであり、御子なる神イエス・キリストの福音の物語全体、その最初から最後までを視野に入れた設計図]であるのです。イエスは、公生涯に入られた最初の週の五日目に、弟子たちがその三年半の公生涯で“見る”もの、そして弟子たちが生涯をかけて証しするものが何であるのかの“輪郭と本質”を暗示されているのです。わたしたちも、ヤコブが見せられた「み使いたちが天から地上に向けて立てられた梯子(人の子)の上を上り下りする夢」に重ね合わせて、御子なる神イエス・キリストが、イエスは酸いぶどう酒を受け取り「ヨハ19:30
完了した」といわれたみわざの全体を味わい続ける者、証し続ける者とされたいと思います。祈りましょう
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament
Commentaries, Richard Bauckham,“Gospel of Glory – Major Themes
in Johannine Theology”、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』叢書 新約聖書神学)
2024年6月16日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:35~42「そして、イエスのもとにとどまった」-初めて出会う未知の人を知り、かつ見抜く神的人間-
https://youtu.be/zr5uJtHDRgc
(概略)
ヨハネ福音書
A.ヨハネの弟子のイエスへの受け渡し(1:35-37)
B.イエスと二人の弟子の交わり (1:38-39)
C. アンデレとシモン・ペテロ(1:40-41)
D. イエスのペテロへの預言(1:42)
「ヨハネ福音書」には、重要な二週間があると言われます。それは、イエス・キリストが登場される最初の一週間と、イエス・キリストが[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]となられる最後の一週間、すなわち受難週です。最初の週は、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの証人、洗礼者ヨハネの証しであり、洗礼者ヨハネが準備した弟子の受け渡しが主たるテーマです。最初の週は、第一日目に「1:19-28
ヨルダンを超えたベタニヤ」でエルサレムからの調査団による詰問がありました。「1:29
その翌日」、すなわち第二日には、洗礼者ヨハネの御子なる神イエス・キリストについての証言[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]がなされました。
[ヨハ1:29
ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て]放った第一声が、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊]でありました。洗礼者ヨハネは、[マル1:4
バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]とあります。洗礼者ヨハネは、罪と死と滅びの中に置かれている人々の心を整え、[ヨハ1:29
世の罪を取り除く神の子羊]である、御子なる神、イエス・キリストを信じ、受け入れる(1:12)備えをしていたのです。
[1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた]とあります。そして、あたかも一枚の絵のように、短く簡潔に御子なる神イエス・キリストがいかなるみわざをなさり、メシヤとして、キリストとしての使命を果たされるのかを示した言葉を繰り返し、「1:36
見よ、神の子羊」とふたりの弟子に語りかけます。すると[1:37
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行]きました。この無駄な言葉を削り落としたシンプルな展開の行間を探ってまいりましょう。洗礼者ヨハネは、聖書に預言されていた「キリストでもなく、エリヤでもなく、あのモーセのような預言者ではない」(1:19-28)と告白し、[ヨハ1:29
自分の方にイエスが来られるのを見て]、 [1:29 世の罪を取り除く神の子羊]と語りました。
[1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた]とありますので、おそらくその前夜「ふたりの弟子(アンデレと最愛の弟子ゼベダイの子ヨハネ?)」に懇々と語りかけていたのでしょう。長年、生活をも共にしてきた敬愛する師と弟子の関係を次の段階に移行させることは心情的にも大変なことであったことでしょう。洗礼者ヨハネは、いわば「断腸」の思いといいますか、「泣いて馬謖を斬る」という思いといいますか、「わたしを遣わした方が来られた。よって、お前たちはわたしの弟子たるを卒業し、あの方の弟子となるべき時が来た」と語りかけ、説得したことでしょう。その説得に応じたのが多くいる弟子たちの中のふたりであったのでしょう。洗礼者ヨハネは、結婚式で愛する娘を花婿の元に送り出す父親のような心境であったことでしょう(3:28-30)。それで、洗礼者ヨハネは手塩にかけ育てた愛する二人の弟子を、御子イエス・キリストに受け渡すために、イエスが通りかかられるであろう道筋に立って、イエスを待ち受けていたのでしょう。それゆえ、[1:36
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った]瞬間、長年世話になった洗礼者ヨハネと別れを惜しむ様子もなく、ただちに[1:37
イエスについて行]きました。
それまで、洗礼者ヨハネの弟子であったふたりは、洗礼者ヨハネが[ヨハ1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と言われたお方にどのように接触していけば良いのかとまどいながら、距離を置いてしずしずついて行っておりました。そのようなふたりの弟子を見て、親切にもイエスの方から[1:38
あなたがたは何を求めているのですか」と問いかけられました。二人の弟子は、たくさん聞きたいことがあったでしょう。たくさん話したいことがあったでしょう。ただ、それらは道端の立ち話のように一言二言で済むような内容でもありませんでした。それで、ふたりの弟子は話し合って、時間をとってお話したいので、「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか」と今日宿泊される場所を尋ねることにしました。
イエスは、 [1:39
来なさい。そうすれば分かります]と、彼らを[イエスが泊まっておられるところ]へと誘導されました。[そしてその日、イエスのもとにとどま]りました。時はおよそ第十の時(すなわち、今日の午後四時)でありました。これは、何を意味しているのでしょう。これは、その日ふたりの弟子は、その宿泊所で時間を忘れイエスとともに長い時間を過ごし、数多くの会話を交わしたということです。数時間であったでしょうか。あるいは徹夜で、尊敬する教師への尊称として呼んだ「
1:38 ラビ(訳すと、先生)
」たるイエスから教えを乞うたでしょうか。それは、彼らの期待をはるかに超えた恵みとまことに満ちたひとときであったことでしょう。わたしたちも、聖書とそれを照らし出される内住の御霊において、そのようなひとときを持つことが可能にされています。
[1:39
彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところ]に行き、[そしてその日、イエスのもとにとどま]りました。ふたりの弟子は、何を問うたのでしょう。そしてイエスはどう答えられたのでしょう。それは、記されていません。ふたりの弟子とイエスの「小教理問答集」のようなものがあればと思ったりします。今日の「組織神学の講義」のような豊かさがあったのかなと思ったりします。御子イエス・キリストは、[コロ2:3
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されて]いるお方であり、[コロ2:9
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って]いるお方ですから、いわば「無尽蔵の宝物蔵」の扉が開かれたような印象を抱いたことでしょう。
ここに、ちいさなヒントがあります。[1:40
ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。1:41
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った]とあります。アンデレは、洗礼者ヨハネの紹介に導かれイエスの元を訪問し、一晩交わったのですが、「イエスは、洗礼者ヨハネが紹介された通りのお方であると確信させられました。それで、翌日、さっそく自分の兄弟であり、おそらく洗礼者ヨハネの弟子グループの中でもリーダー格であったであろう[1:42
シモンをイエスのもとに連れて来]ました。そこで、不思議なことを散見いたします。
[イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます」]と言われたのです。イエスは、彼を見つめて、彼の名を呼ばれました。[1:42
あなたはヨハネの子シモンです]。つまりイエスはそれ以前には彼に会ったことがないのに、彼を知っておられます。そればかりでなく、彼、シモンはやがて「ペテロ(すなわち岩)」という別名をもつようになるという「預言」を付け加えられます。つまり、この箇所で言われんとしていることは、イエスというお方は、「初めて出会う未知の人を知り、かつ見抜く“神的人間”」としての自分を明らかにされたということなのです。福音書には、このような経験が溢れているのです。そして、そのことは聖書と内住の御霊により、わたしたちの生活にも、生涯にも溢れることにつながるのです。
このようなことから、[1:39
その日、イエスのもとにとどまった]ふたりの弟子は、「闇の中に輝く光」(1:5)を見、「恵みとまこと」に満ちた方(1:14,17)に人格的に触れあい、「父のふところにおられる御子による、神の解き明かし」(1:18)を耳にしました。そして、そのことによって[1:41
私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った]と確信したのです。わたしたちも同様です。わたしも19歳の時期、渇いた心で、福音書を毎晩丁寧に読むことを通して、
[1:39
イエスのもとにとどま]りました。そうこうしているうちに、みことばの種は、御子なる神イエス・キリストとの交わり、触れあいを通して実を結ぶかたちで、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、説き明かされた]神を信じることができました。「私はメシア(訳すと、キリスト)に会った]と確信できたのです。
そして、その神は、御子なる神イエス・キリストは、わたしたちを、わたしたちの生涯を見つめておられます。わたしを見つめ、またわたしの生涯を見つめ、「あなたは安黒務です。あなたは…と呼ばれます」と、牧師また教師として召し、キリストのからだなる教会の、神学教育の礎のひとつとして機能させてきてくださいました(Ⅰペテロ2:4-7)。そのような生涯は、わたしの[Ⅰコリ2:9
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの]でありました。そのような生涯を、神は、…備えてくださった]のです。それは、わたしだけでなく、[ロマ8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益と]してくださるのです。
わたしたちは、今起こっていることのすべては分からないかもしれません。わたしたちの視野は狭く、いつも目先のことに心を奪われているからです。しかし、御子なる神イエス・キリストは“今も”、そのようなわたしたちに、[1:38
あなたがたは何を求めているのですか]と問いかけてくださいます。わたしたちが[主よ、あなたはどこにおられるのですか?]と問いかけさえすれば、[1:39
来なさい。そうすれば分かります」と指示され、[そして、イエスのもとにとどま]るならば、「主がおられるところにとどまり」さえすれば、道は開けます。そしてアンデレのように[1:41
私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った]と叫ぶことになるでしょう。証しすることに結びつくでしょう。祈りましょう。
(参考文献:Richard Bauckham, “Gospel of Glory – Major Themes in
Johannine Theology”、R.ブルトマン『ヨハネの福音書』)
2024年6月9日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:29~34「御霊が鳩のように天から降って」-この転換点を境に、救済史全体が新たな方向へと転じる-
https://youtu.be/-nQ1cCw_8Ds
今朝の箇所は、洗礼者ヨハネが自身の展開してきた準備としての「水のバプテスマ」と先在者である三位一体の神、御子なるイエス・キリストによる、成就としての「聖霊のバプテスマ」に証ししている箇所です。今朝の箇所で最も注目すべきは[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことの意味、そしその結果として、御子が十字架の死・葬り・復活のみわざをなし終えて、昇天・着座・聖霊の注ぎを通し、[1:33
聖霊によってバプテスマ]を授けられることの意味です。これらのことに留意しつつ、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書とヨハネ福音書に傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.ヨハネによる水のバプテスマ―旧時代からの準備、悔い改めと献身の表明(1:29-31)
B.御子なる神、イエス・キリストによる聖霊のバプテスマ―御霊による新時代の到来(1:32-34)
今朝の箇所で最も注目すべきは[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことの意味であると申し上げました。これは、救済史における「御霊による新時代の到来」という視点から理解する必要がある言葉です。洗礼者ヨハネの説教と御子なる神イエス・キリストの説教の違いに注目しますと、洗礼者ヨハネにとって「終末の時」はまだ完全に未来のことでありました。差し迫っていましたが未来でした。審判の洗礼を通して終末と王国をもたらされる厳粛なメシヤは、彼らの前に迫っていたにもかかわらず、まだ来ていなかったのです。メシヤを待望する旧約の、いわば「夜」は終わろうとしていましたが、まだ太陽は昇っていなかったのです。
来たるべき「御子なる神イエス・キリスト」の到来に備えるよう告げ知らせ、「悔い改めと献身」の表明としての水の洗礼を施していた洗礼者ヨハネは、「律法と預言者」の古い時代に属していました(ルカ16:16、マタイ11:11)。ヨハネにとって完全に未来であった神の国は、
[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]御子なる神イエス・キリストの公生涯のスタートによって、人々の上に、人々の中に(マタイ12:28、ルカ17:20)到来しました。サタンはすでに縛られ、略奪されています(マルコ3:27)。つまり、「救済史における決定的な転換」が起こりました。では、どの時点で起こったのでしょう。その答えは明らかです。「ヨルダン川で、御子なる神イエス・キリストが聖霊で油注がれた時」です。
この出来事の後、「救済史において約束されていたことの成就」の報告が入ります。マルコによる福音書の、御子なる神イエス・キリストの最初の言葉は「(終末論的な)時は満ちた」(1:15)です。すなわち、[イザ11:1
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。11:2
その上に【主】の霊がとどまる]という「終末論的な聖霊が来た」のです。御父なる神が、御子なる神に、御霊なる神を注がれたので、[イザ61:1
【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2
【主】の恵みの年]が到来したと朗読され、[ルカ4:20
イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21
イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」]と宣言されました。
洗礼者ヨハネが準備した「悔い改めと献身」という準備された旧約精神の土壌の上で、御子なる神イエス・キリストの奉仕は、[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことをもって、開始されました。終末論的な「ヨハネの黙示録」の特徴も示されています。それは「天の裂け目」は、天の領域から地上への突破を示しています。御父なる神が、御子なる神に、御霊なる神を注がれたのです。この瞬間、「聖霊に油注がれたメシヤ」についての旧約預言者たちの終末論的な希望(イザヤ11:2、61:1)が実現したのです。
おそらく、[1:32
「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]のを見たときの「鳩のイメージ」にも意味があるでしょう。それは[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた]であり、それは洪水後にノアが放った「鳩」を思い起こさせるでしょう。「鳩」は、罪と死と堕落で消し去られるべき被造物世界の「新たな始まり」の象徴であり、「再創造」に向けて「虚無に包まれた被造物世界」の上を動く聖霊なる神の胎動の開始でもあったでしょう。
次に、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、[マル1:10
イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。1:11
すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」]があります。この言葉は、王の戴冠式の[詩2:7
「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ]の言葉と、神の僕の選びの[イザ42:1
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う]の聖句の組み合わせと言われます。
御子なる神イエス・キリストは、マリヤを通しての受肉以前から、その通りのお方でありました。ただ、救済史という時間と空間の中で、覆われていたヴェールが剝がされるように、ご自身が如何なる方であるのかが明らかにされていきました。御父が、聖霊なる神の注ぎを通して、御子なる神イエス・キリストに明らかにされた役割、メシヤとしての立場はどのようなものであったのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、新しいイスラエルの代表であり、さらには新しい人類の代表、第二のアダムともされました。その視点からみますとき、マルコは「ヨルダン川の出来事」を「紅海渡河」と同等の重要性をもつものと見ていたとみられます。このことは、聖霊なる神の受容に続く「誘惑の物語」で分かります。
申命記では、神がイスラエルの民を荒野に40年間導き、謙虚にし、試し、懲らしめた(申命記8:2-5)にように、イエスは聖霊によって荒野に40日間導かれ、試されました。「マルコ1:11あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と、「子」として受容された御子なる神イエス・キリストは、この時点で厳しく試されます(マタイ4:3,6)。神はイスラエルと契約を結び、イスラエルが忠実であるかどうかを試されました。そしてイスラエルは何度もその試練に失敗しました。今、救済史の新しい段階に入り、御子なる神イエス・キリストによる「新しい契約」が導入され、「新しいイスラエル」は忠実であるかどうかが試されています。
御子なる神イエス・キリストがこのように試され、従順であることが証明され、契約がご自身の中で、また自分自身のために確証されたときにのみ、イエスは他の人々のために「子」として、また「しもべ」として奉仕に出て行くことができるのです(ヘブル5:8以下)。聖霊の降臨と聖霊の導きによって、最初の人類の代表であるアダムと同様に、同じサタンと戦うために荒野に導かれ、その堕落の悲劇的結果を覆すために、まず自ら屈服することを拒否し、次に堕落した人類のために行動されました。この「人類の救済史」の第二部は、[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]瞬間をもって開始されたのです。
聖霊の降臨によってのみ、救済史における「新しい契約、新しい時代」が始まり、それによってのみ、イエス自身も「新しい契約と新しい時代」に入られました。イエスは、イスラエルと人類を代表して、人間の代表として入られました。このように、この最初の聖霊の注ぎ、また聖霊による洗礼は、神が各人を「イエスの足跡」に従わせるものです。これは、その後の「すべての聖霊による洗礼」の典型です。人類の代表として、イエスは「人々になされた約束」御霊の新時代に最初に入られたお方なのです。わたしたちに対するこの「聖霊による洗礼」は、キリストが[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]として贖罪のみわざを成し終えられ、死んで後、復活され、昇天・着座・聖霊の注ぎを受けられ、それをすべての肉なる者に注がれてから十全なものとなります。
そのような意味で、救済史においては、洗礼者ヨハネの[1:31
水のバプテスマ]は、準備であり、影でありました。そして、「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]のは、聖霊による新時代の到来の「開始のラッパ」のようなものでした。イエスは、救済史に約束されたものの成就であり実体でありました。その実体の「典型」として[1:33
御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまる]経験であり、それがイエスを御子なる神イエス・キリストとして告白するものすべてに授けられる「聖霊による洗礼、すなわちバプテスマ」(Ⅰコリント12:13)なのです。御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちは、内住の御霊というかたちでその恵みにあずかっています。まだ求道の中におられる方は、イエスを信じ、その恵みにあずからせていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献:James D.G. Dunn, “Baptism in the Holy Spirit”)
2024年6月2日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:19~28「ヨハネの証しはこうである」-私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません-
https://youtu.be/XCLfGNISDM4
新約聖書
『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、すでに六回目となります。このシリーズは、『ヨハネ福音書』を単に傾聴するだけでなく、『ヨハネ福音書』の中に“ヨハネが意図した神学”というものを発見していこうとするものです。ヨハネが「一冊のイエスの伝道活動物語を書いた」という単純な事実がありますが、その上で「その歴史的な伝道活動が彼の書いた文章を解釈する上で、適切かつ完全な、前後関係とか枠組みを準備しているか」ということをわたしたちは問いつつ読んでまいります。そのとき、J・ルイス・マーティンが彼の『ヨハネ福音書における歴史と神学』の中で論じているように、その物語は「二つの舞台で演じられている」という視点が大切と思われます。
ふたつの視点とは、紀元30年あたりの三年半の「イエス自身の舞台」と1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」とです。よく考えてみると、説教というものは、いつもそのような構造をもつものです。すなわち「事実と解釈と適用」の三要素です。すなわち、聖書が記録している事実、その解釈された意味を、わたしたちの置かれている新たな状況に適用していく、というステップのことです。ヨハネは、紀元30年あたりの三年半の「イエス自身の舞台」の伝道物語の“事実”を編集するにあたって、1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」を視野に語りかける説教として、“解釈し、適用”し編集しているということです。
『ヨハネ福音書の神学』の要点を明らかにしていくということは、どのようにマーティンの言う1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」で、「ヨハネの関係するキリスト教共同体」の“必要”から、また“その必要”に関連し、“その神学的強調が引き起こされたか”を明らかにすることです。このような視点から、今朝の聖書箇所に傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.ユダヤ人たちの詰問と洗礼者ヨハネの回答に垣間見る二つの舞台(1:19~23)
B.選民イスラエルの真の悔い改めと御子なる神イエス・キリストへの畏怖の必要(1:24~28)
まず、[1:19
さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき]と始まります。この箇所に、[1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」]がいかなるものであったのかのヒントがあります。この[1:19
ユダヤ人たち]は、[1:19祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わし]、洗礼者ヨハネの素性、活動の動向を調査していました。その調査チームの黒幕は[1:24
パリサイ人から遣わされて来ていた]と特定されています。ここに、マーティンが指摘する1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」の特徴を垣間見ることができます。
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書は、エルサレムと神殿崩壊の紀元70年以前の60年代に書かれたとみられ、「大祭司、サドカイ人、パリサイ人、律法学者、ヘロデ党の者たち」がユダヤ人の主力として登場しますが、紀元70年のエルサレムと神殿崩壊以後、二十数年を経た、一世紀末に書かれたヨハネ福音書では、「大祭司、サドカイ人、ヘロデ党の者たち」は姿を消し、「パリサイ人」がユダヤ人の主力として登場しています。ここに、ヨハネ福音書の、紀元30年代の「イエスの伝道物語」と一世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」の重なり、すなわち「事実・解釈・適用」の構成をみせられます。つまり、ヨハネ福音書を読む際には、ただ単に紀元30年代の「イエスの伝道物語」として読むだけでは浅くしか読めず、その「イエスの伝道物語」の“事実”を土台として、[70年のエルサレムと神殿崩壊以後、二十数年を経た、一世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」にどのようなメッセージが語りかけられているのか]という視点をもつことによって、より深い“解釈と適用”を読み取ることができるということなのです。
「洗礼者ヨハネの証し」、それは紀元30年代の出来事です。60年代に書かれた共観福音書では、「洗礼者ヨハネ」から「一方的な宣言・証し」はなされていますが、一世紀末に書かれたヨハネ福音書では、エルサレムのサンヘドリンといわれるユダヤ人の政治と司法の最高評議会は、パリサイ派が主導していたのです。「洗礼者ヨハネの証し」をそのような背景において読み返しますと、「洗礼者ヨハネ」に対する[トーラーの研究を続けることでユダヤ教の伝統と先祖からの文化的遺産を絶やすまい]とするヤムニヤ会議の流れが、[かつてのエルサレムのサンヘドリン(最高議会)]の後継に位置づけられていた様子が見えてきます。
そのような意味で、「 1:19
さて、ヨハネの証しはこうである」は、ヤムニア会議の後、ユダヤ会堂での「隠れユダヤ人キリシタン発見」の取り組みと重なるところがあるのです。「洗礼者ヨハネ」は、エルサレムから派遣された官憲たる祭司やレビ人から、ある意味で「詰問」を受けたのです。エルサレムからの詰問の目的は、「ユダヤ民族の中から起こっては、騒乱を起こした後、立ち消えとなる異民族支配からの独立を達成する指導者たろうとする人物」の調査であったことでしょう。使徒行伝にも、[使5:34
ところが、民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人が議場に立ち、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、5:35
それから議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけてください。5:36
先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。5:37
彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました]とあるような運動のひとつとみて警戒していたのかもしれません。わたしは、ユダヤ教シオニズムの「土地・首都・神殿」の回復の追求とその応援団としてのキリスト教シオニズムの応援団の、行き過ぎたビジョンとしてのヨルダン川西岸とガザ地域の入植地拡大と吸収という傾向にも、同様の危険を感じています。
パリサイ人から派遣されていた官憲たるレビ人に対する回答は明確なものでした。[1:20 「私はキリストではありません」、
1:25
「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもない」]と返答しました。「キリストではない」とは、ユダヤ人の期待していた「イザヤ11章等にみられる油注がれたダビデ的王による異民族支配から脱却させる政治的解放者ではない」という意味でしょう。「エリヤではない」とは、[マラキ
4:5
見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす]の約束、「あの預言者」とは、[申命記
18:15
あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない]の約束でありました。
洗礼者ヨハネは、いずれの「身分証明書」のジャンルにも当てはめられることを拒み、[イザヤ 40:3
荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ]と「バビロン捕囚民がその捕囚から解放され、砂漠を通ってエルサレムに帰還する情景を思い浮かべたイザヤ」のイメージに重ね合わせ、「罪と死と滅びの捕囚からの解放者としてのメシヤたるイエス・キリストを受け入れる備えをする者」と証ししました。そこで、パリサイ人から派遣された官憲レビ人(レビ人は神殿礼拝で祭司のサポートとともに、神殿警察等の役割も担っていました)は[1:25
彼らはヨハネに尋ねました。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」]と、ユダヤ人に洗礼を授ける権威・資格について追加質問をすることになったのです。
紀元30年当時、洗礼は行われており、ユダヤ人の間でも知られていました。しかし、それはユダヤ教への改宗者となった異邦人が対象でした。しかし、洗礼者ヨハネの活動の特異さは、「すでにユダヤ人である者に、罪の悔い改めの洗礼を授ける」ところにありました。これは、神の啓示の受領者、神の福音の伝達者として選ばれた選民イスラエル自身が、まず「神の御前に、真に心からの罪の悔い改め」をなし、御子イエス・キリストの「贖罪と内住の御霊を受け入れる」ことなしには、「罪と死と滅びという捕囚状態」からの解放はないことを意味しています。
洗礼者ヨハネは、[1:25
彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」]という詰問に対し、彼らの詰問の文脈に合わせて答えるのではなく、「問うべきは、洗礼者ヨハネの身分証明ではなく、洗礼者ヨハネはあるお方のために準備者に過ぎないのであって、洗礼者ヨハネがいかなる者であるのかを百回繰り返すよりも、洗礼者ヨハネが準備者としてあずかっているそのお方が如何なるお方であるのかが、最も大切である。選民イスラエルの悔い改めのバプテスマの権威は、そのお方から受けているものだから…。そのお方を理解し、信じ受け入れることなしに、洗礼の意味も意義も理解できないでしょう」と御子なる神、イエス・キリストに焦点を合わせるよう促しました。
[1:26
ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます]とあります。洗礼者ヨハネは、ザカリヤとエリサベツ夫婦からの誕生の経緯、そして[ルカ
1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]という成長の様子、また彼は、誕生と成長の経緯のみならず、彼のミニストリーの実践は、[マタ3:4
このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5
そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6
自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と記されるほど有名人でありました。
しかし、そのような時代を画する「ユダヤ人の悔い改めのバプテスマ」を唱導・実践する運動家が、
「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」と、ナザレ出身の無名の大工ヨセフの息子を紹介しています。[1:27
その方は私の後に来られる方]と、洗礼者ヨハネが準備した運動体を、弟子たちを継承されることになります。ある意味で、そのような下拵えがあったことが、御子なる神イエス・キリストの三年半という、きわめて短い公生涯の証しと奉仕で、今日のキリスト教会の礎を完成させることができたのです。そのような意味で、わたしたちも無名の、そして無数の[1:23
『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』]のひとつとされたいと思います。
さて、洗礼者ヨハネは、[マタ 11:11
まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした]とイエスに評されるほど偉大な人物でありました。しかし彼は、[1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と、洗礼者ヨハネ自身のそのお方との立ち位置を説明します。一世紀のユダヤ社会において、サンダルを脱がし、足を洗う奉仕は、異邦人の召使い奴隷の仕事でありました。洗礼者ヨハネは、御子なる神イエス・キリストに対し、そのような意識を抱いていたのです。それはまさに、[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、6:2
セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、6:3
互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。6:5
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」]と告白したイザヤの三位一体なる神の荘厳さではなかったでしょうか。
わたしたちは、今朝「洗礼者ヨハネの証し」の中に、ヤムニアの第十二祈願の響きを聴いたでしょうか。わたしたちは、ある意味、今日の日本で、家族・兄弟姉妹・隣人・学校・職場で、「パリサイ人から遣わされてきた人の詰問」にさらされているといえるでしょう。そのときには、わたしたちは「わたしたち自身の偉大さの身分証明」を証しする必要はなく、
[1:27 私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と証しすれば良いのではないでしょうか。祈りましょう。
(参考文献: Colin G. Kruse, “John” Tyndale New Testament
Commentaries)
2024年5月26日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:14~18「私たちはこの方の栄光を見た」-簡単には見せられない、覗かせられない、測り知れない繊細な心のありか-
https://youtu.be/Gv6pAijSITk
どのような本を書く場合でも、本文構成を「首・胴・尾」であれ、「起承転結」であれ、仕上げて後に序文また導入を書き上げるのが常です。「ヨハネ福音書」も、1:1-18は、あとに展開している本文のねらいが簡潔にまとめた要約として記されています。イエス在世当時の証しは、[ヨハネ21:25
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない]とあるように、膨大なものでした。それらの記録と証言の中から、ひとつの目的と必要にかなうべく、最小限の証しが選択・選別されて記されているのです。その目的とは[ヨハネ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため]でありました。
「ヨハネ福音書」は、「ロゴス(ことば)」という当時のヘレニズム的背景を意識させる表現や、「光と闇」という当時の前グノーシス主義、バプテスマのヨハネの運動の影響を受けたと思われるマンダ教等との深い関わりを考える向きもあります。しかし、「ヨハネ福音書」の序論1:1-5は、三位一体の神と「創世記」の天地創造の関係を解説するものであり、1:6-8と1:15は当時の洗礼者ヨハネの影響力下で、彼と御子なる神、イエス・キリストとの関係を整理するものです。また、1:9-13は、「ヤムニアの第十二祈願」に示される、御子イエス・キリストの受け皿として千数百年準備されてきたイスラエル民族の中に起こった二つの反応とみることができます。
今朝は、序文の最後の箇所1:14-18です。この箇所もまた、旧約聖書を強く意識する示唆に満ちています。このようなことから、「ヨハネ福音書」の読み方は、これを「ヘレニズムやグノーシス」といったギリシャ的背景に溶かし込んで読むよりも、「旧約的背景」を耕して教えられることの方が優れていると思います。それは、著者・編集者である「イエスが愛された弟子」(ヨハネ21:20)は、ヘレニズム社会にあったとはいえ、ユダヤ民族の中で育ち、生きた者であるからです。わたしたちも、「旧約的背景」を耕すことに重点をおいて「ヨハネ福音書」に傾聴していくことに致しましょう。では、今朝の聖書箇所をお読みいたします。
(概略)
ヨハネ福音書
A.荒野の幕屋、シオンの山の神殿のように(1:14)
B.旧約預言者の集大成洗礼者ヨハネ、にまさる方(1:15)
C.満ち満ちた神の本質、神の溢れる恵み・慈しみ(1:16)
D.モーセに象徴される律法は影、恵みとまことの実体はイエス・キリスト(1:17)
E.御子なる神が、三位一体の神とそのわざの本質を啓示された(1:18)
今朝の箇所で、最も注目したいのは、[私たちはこの方の栄光を見た]という箇所です。先週は、この箇所の関連でリチャード・ボウカム著『栄光の福音』という本を繰り返し熟読し、その解き明かしに感動しておりました。「栄光」という言葉は、旧約ヘブル語では「カボード」、新約ギリシャ語では「ドクサ」という用語が使われています。その意味するところは、「名誉、名声、良い評判、目に見える輝き」などです。旧約では、それはモーセがシナイ山で十戒を受け取る出来事の中で出てきます。[出24:15
モーセが山に登ると、雲が山をおおった。24:16
【主】の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。24:17
【主】の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった]。
また、幕屋設立での出来事―[出40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである]とあり、そして神殿建立の時、[Ⅱ歴代5:11
祭司たちが聖所から出て来たときのことである。…5:13
ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。…そのとき、雲がその宮、すなわち【主】の宮に満ちた。5:14
祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである]とあります。
最初に、この聖句[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]は、「ロゴス(ことば)なる、子なる神イエス・キリスト」が歴史上の人物として「人間」の領域に入って来られたことを意味しています。また[1:14
住まわれた]の原語は、天幕また幕屋生活をも意味するギリシャ語であり、「荒野の幕屋やシオン山の神殿」に神がその民と共に住まわれているように、わたしたちと共に生きてくださっていることを示唆しています。
次に[1:14
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた]と続きます。ここで、考えさせられることが出てきます。[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれ]とは、ある意味で、「神とはいかなるお方であるか」がすべての人に明らかとなったのです。というのは、それまでは、「神がどういうお方であるのか」をはっきりと知ることは不可能であったのです。[出33:18
モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」…主は、[33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」…33:21
また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。33:23
わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」]存在の方でありました。
また、イザヤ書にあるように、[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、…6:2 セラフィムが…6:3
互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。6:5
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」]というようなお方でありました。そのようなお方が、救済史の「時が満ちて」(ガラテヤ4:4)、[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]のです。
そのお方の生と死の一切のみわざの証言者として[Ⅰヨハ1:1
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。1:2
このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。1:3
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます]と証ししています。「先在の神、創造の神、三位一体の神」が、[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]を現わしてくださったのです。
ヨハネ福音書1~12章を見ると、世に対する数々の「栄光のしるし」を現わしておられます。しかし、奇跡等のしるしは世の人々を驚嘆させる場合もありますし、反発しそれを悪霊の働きとしたりもする姿を見ます。ここに「信仰」ということの難しさを教えられます。人間の罪や盲目というものは、神の人格とみわざとしか思われないものを見ても、そのような方が「自身の欲望を叶えるものとはならない」と判断するや否や、十字架に釘づけしてしまうのだと教えられます。
次に、[1:17
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである]とあります。モーセは、救いの啓示の準備者のひとりとして用いられ、十戒や幕屋や犠牲等を通して、罪と死と滅びに定められたこの世界に、「救い主、御子イエス・キリスト」の意味と意義を教えるたくさんの視聴覚教材を提供してきました。それを「神が本来、意図された通りに理解し、受け取る」ことができたら、イスラエルの民のほとんどは「
[1:14
父のみもとから来られたひとり子」を信じ、受け入れたことでしょう。しかし、イスラエルの民は誤解し、歪曲し、盲目となり、[ヨハ1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]のです。
なぜ、このような悲劇が起こったのでしょう。それは、三位一体の神に満ちている[1:14
恵みとまこと]に対する誤解があったからだと思います。この[1:14 恵みとまこと]は、旧約のシナイ山において[出34:5
【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称されるお方です。
しかし、シナイ山で、三位一体の神が意図されていた[出エジプト34:6 恵みとまこと]とは、一体どのような[ヨハネ1:14
恵みとまこと]であったでしょう。その内容、実質、実体が[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]として現わされ、[1:17
恵みとまことはイエス・キリストによって実現した]と紹介・説明されているのです。そうなのです。旧約のあのシナイ山でモーセに語られた[出エジプト34:6
恵みとまこと]の、いわば「本心」は、わたしたちの身代わりとなって、わたしたちを罪と死と滅びから贖われた[1:18
父のふところにおられるひとり子の神]の人格とみわざによって、[説き明かされた]のです。
ここで[1:18
いまだかつて神を見た者はいない]といわれ、モーセが岩の間に身を隠し、イザヤや畏れおののいた「三位一体の神の聖性」の奥義を垣間見せられるような気がします。それは、ある意味で、「簡単には見せられない、覗かせられない、測り知れない繊細な心のありか」でもあるのです。[34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称される三位一体の神の、いわば「心臓部」にあたる[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]、[1:16
この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた]贖罪と内住の御霊の経験、それは、その[1:17
恵みとまことはイエス・キリスト(の人格とみわざ)によって実現した]ものであり、そのようにして[1:18
父のふところにおられるひとり子の神が]、三位一体の神の心臓部にあるみ旨の本質を[説き明かされた]ということです。
当時の弟子たちと新約のクリスチャンたちは[1:14
私たちはこの方の栄光を見た]と証言しました。シナイ山、幕屋設立、神殿建立の時に見たのは「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)でありました。そしてカルバリの丘で三本の十字架の真ん中に見ました。霊的に閉ざされた目には、「十字架にはりつけにされた王」、また「十字架に釘付けされた神」はつまずきでありましたが、信じる者の目には「三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの贖罪死」は、
[1:14 この方の栄光]でありました。
そして、贖罪に続く復活・昇天、聖霊の注ぎによる「キリストの御霊の内住」による、「神の神殿、また聖霊の宮」(Ⅰコリ3:16、6:19)の経験は、
「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)を見る経験ではなく、三位一体の神、御子なるイエス・キリストの御霊により、あたかも「顔と顔を合わせて見つめ合う」ような、[Ⅰヨハ1:1
私たちが聞いた…、自分の目で見た…、じっと見つめ、自分の手でさわ]る経験なのです。「ヨハネ福音書」は、内住の御霊にあってわたしたちを、日々シナイ山に、幕屋の設立に、神殿建立の場に連れて行ってくれます。[1:14
私たちはこの方の栄光を見]つ、それを証しつつ暮らす幸いな民なのです。祈りましょう。
(参考文献:Richard Bauckham,“Gospel of Glory―Major Themes in
Johannine Theology”)
2024年5月12日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:9~13「ただ、神によって生まれた」-聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます-
https://youtu.be/MqZRSaFLC-s
今朝の箇所は、「ヨハネ福音書全巻の一切が1:1-18のプロローグ(序文)に縮小されて詰め込まれている」と言われている箇所です。すでに、1:1-5で「御父と御子の関係」、1:6-8で「御子と洗礼者ヨハネの関係」について傾聴しました。今朝、1:9-13では「御子とこの世、御子とご自分の民との関係」について傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.御子なる神、イエス・キリストの来臨前夜(1:9)
B.御子なる神、イエス・キリストの人格とみわざと世の関係(1:10)
C.御子なる神、イエス・キリストに対するご自分の民による拒絶と抹殺(1:11)
D.御子なる神、イエス・キリストを受容する人々に賦与される特権(1:12)
E.それは、人間の努力・精進によるのではなく、聖霊のみわざである(1:13)
では、順を追って見てまいりましょう。[1:9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。]とあります。それは、まさにクリスマス前夜、待降節(アドベント)に歌う讃美歌の歌詞のようです。それは、まさにマラキ書をもって閉じられた預言書の時代の後の、「中間時代」、メシヤ、キリストを沈黙をもって待ち望む期間についての描写ようであります。朝日を待ち望む、夜明け前の「あけぼの、あかつき」の時間帯のような聖句であります。
次の節には[1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]とあります。これは、1:1-3の復誦を基盤としています。[1:10a
この方はもとから世におられ]は、御子イエス・キリストの先在性、御父との同等性、御父・御子・御霊なる神の三位一体性を告白するものです。[1:10b
世はこの方によって造られた]とは、天地万物とその中の生き物すべては、三位一体の神により創造された。御父により、御子なる神イエス・キリストを通し、御霊によって創造されたことを繰り返す内容です。しかし、[1:10c
世はこの方を知らなかった]というのです。
この[世]という言葉は、三回繰り返されています。[1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と。「世」が最初に現れたときには「中立的」です。それは、単に、御子なる神イエスが現れた「場」を指しています。第二の「世」は「積極的」です。「世」は、三位一体の神により、御子なる神イエス・キリストを通してなされた「神の良き創造物」です。第三の「世」は「否定的」です。その「世」は、「イエスにおける神の啓示」を拒否します。こうして、ヨハネ福音書における「否定的な意味での世」は、まさに「イエス・キリストを知ることを退け、拒否する」というかたちで自らを規定しています。
そこで「世」は、神に反抗し、ヨハネ的な、神と世という、二元論の主要な正反対の極の位置を占めます。しかし、第四福音書では、神と世の二元論は絶対的なものではありません。「世」は神に「良きもの」として創造されただけではなく、堕落・断罪の後にあっても、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである]とあるように、「神の愛と救いの対象」であるのです。
第三には、[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]とあります。この聖句は、「最小のイエス伝」といわれる聖句です。この一句でイエスの全生涯が語り尽くされているといわれています。三位一体なる神は、この被造物世界を愛をもって創造されました。しかし、アダムの堕落により、虚無に服し、罪と死と滅びに定められてしまいました。そのような悲惨な状況を打開するために、救済の計画を立てられ、人類の中にその受け皿(機能・手段)として、アブラハムとその子孫を選ばれ、神の啓示の受領者、救いの福音の伝達者として準備されようとしました。
その民は、その啓示の受領者また福音の伝達者として用いられるはずでした。時が満ち、準備が整い、満を持して、御父は御子を御霊により受肉されるかたちで送られました。御子は、その民の所有者であり、王子であるお方ですので、大歓迎されるはずでした。御子なる神、イエス・キリストは、ユダヤ人のひとりとして生まれ、活動されました。その言葉、食事やラザロ復活にみる奇蹟に「植民地支配からの解放は近い」と熱狂した民衆と、「騒乱と既得権益へのおびやかし」に危機感を抱いた宗教指導者たちは、イエスを、おのれを神とし、冒涜した罪で十字架刑に追い込みました。
ヨハネ福音書の序文は、[1:10 世はこの方を知らなかった。…1:11
ご自分の民はこの方を受け入れなかった]というヨハネ福音書の神学の全体構想を予測しています。この[1:10
知らなかった。…1:11
受け入れなかった]という言葉は、単なる無知、無関心という冷めた内容でとどまるものではなく、もっと激しい拒絶、抹殺という「闇」を伴うものであります。これは、ギリシャ語で不定過去(アオリスト)で記されており、キリストの一回きりの十字架の出来事をさしています。しかし、ヨハネ福音書は「闇」の深さを描写するだけの書物ではありません。それは[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]という内容の書物です。
1世紀末に記された「ヨハネの黙示録」との関連でみますとき、ヨハネ福音書で「ローマ帝国の公認宗教としてのユダヤ教会堂から追放されたユダヤ人クリスチャンたち」は、その保護の外に置かれ、やがて「ローマ帝国の獣が獲物を食い尽くすような迫害」の対象ともされていく時代の行く末を読み取ることができます。『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの背景、また前提に[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]と念頭に置きました。それは、ユダヤ教会堂からの追放という苦難の発端であり、その道はローマ帝国によるさらに苛烈な迫害へとつながる「十字架を背負って上っていくドロローサの道」のようでもありました。それは、日本のキリスト教史に目を置けば、「キリシタンに対する踏み絵」のようなものであり、「五人組による告発」のようでありました。また、国家神道時代の「天皇崇拝」強制のようでもありました。
そのような時代状況の中で、[1:12神の子どもとなる特権をお与えに]なるとはいえ、[この方を受け入れ]たり、[その名を信じ]
告白して生きていくことがどれほど大変な犠牲を伴うものであったのかは、はかり知れません。それゆえにこそ、[1:13
この人々は、…肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである]と記されているのでしょう。このような状況・背景の中で、この言葉を読むとき、このような状況で、人間の努力や頑張りだけで「三位一体の神、御子イエス・キリストの人格とみわざ」を信じ、受け入れ、告白して生き続けることは、大変困難なことであったということです。神の御霊による恵みの働きなしには、そのような選択肢を選ぶことは不可能なことです。ただ、マリヤが告白したように、[ルカ1:37
神にとって不可能なことは何もありません]。ただ、それはあなたに対する、御霊による恵みのみわざです。
[1:13
この人々は、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれた]とあるのは、もちろん、神学的には、おのれの業によらず、「恵みのみ、キリスト・イエスによる贖いのみ、信仰のみ」といわれる本質を宿すでしょう。ただ、それとともに、エリサベツやマリヤが直面した高齢出産の危機や処女受胎の危機における聖霊へのより頼み、すなわち[ルカ1:35
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます]があるでしょう。[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり]とあるように、三位一体の神への無知・無関心の「闇」、さらには御子なる神イエス・キリストの拒絶・抹殺の「闇」が、この「世」をおおっています。
しかし、三位一体の神、御霊もまた[創世記1:2
その水の面を動いていた]とあるように、働いておられます。そして、三位一体の神、御子イエス・キリストの受肉・来訪は、[1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とあるように、それはまさに宇宙のはじめのビッグバンのようです。わたしたちは、そのような「闇」におおわれた世界たる「世」に、いわば「鏡」のようにして、御子イエス・キリストの光を反射・反映させて生きているのです。それは、わたしたちが、御子イエス・キリストを信じることにおいて、「神の御霊なるいのち」を内に宿しているからです。
わたしたちは、ヨハネ福音書において、「闇」の中に輝く光の証し人たちを見るでしょう。弟子たちの召命、ニコデモやサマリヤの婦人との対話、五千人の給食、ラザロのよみがえり等の証しの中に、「光」を見るでしょう。わたしたち信仰者の毎日の生活、生涯もまた、ある意味で「福音書」の続編であります。わたしたちの毎日の生活の中に、[聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおお]い、神のいのちの息吹きがわたしたちの存在・生活・生涯のささえであると日々自覚しつつ歩ませていただきましょう。あなた、そしてわたしの「福音書」を綴ってまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』等)
2024年5月12日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:6~8「ただ光について証しするために来た」-エリサベツとマリヤ、洗礼者ヨハネとイエス・キリストにみる御霊の働きの連動・呼応-
https://youtu.be/Ke_St_8ZZfw
今朝は、五月の第二聖日、母の日です。また、今朝の聖書箇所は、ヨハネ福音書1:6-8、バプテスマ(洗礼者)のヨハネについての箇所です。このふたつを念頭に、一週間準備していまして、洗礼者ヨハネとそのお母さん、エリサベツに目を留めるように導かれました。洗礼者ヨハネとその母、エリサベツについての記述は、ルカによる福音書の1章に詳述されています。これらの箇所に目配りしつつ、今朝のみ言葉に傾聴してまいりましょう。
はじめに、ヨハネ福音書を読ませていただきます。
ヨハネによる福音書
A.エリヤのような、旧約最後の預言者(1:6)
B.洗礼者ヨハネの召命・使命(1:7)
C.洗礼者ヨハネは、キリストではなく、その証言者(1:8)
ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの箇所に入る前に、その背景として、ルカによる福音書の1章をかいつまんでみてまいりましょう。
ルカによる福音書
[1:5
ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。1:6
二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。…1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。]
メシヤを紹介した人であり、人間の中で最も偉大な人物とも評される洗礼者ヨハネの誕生のルーツを探りますと、その誕生は非常に困難な状況にあったことを教えられます。[ルカ1:7
エリサベツが不妊だった…また、二人ともすでに年をとっていた]と、アブラハムとサラのように旧約特有の表現で、それはもう不可能と思われるような状況の中での妊娠であり、出産であったことです。現在でも、高齢出産には危険が伴います。また、障害を宿した状態での生まれてくる危険をも内包します。母親自体にも危険が及ぶことがあります。しかし、医療環境の整っていない約二千年前、そのような危険のただ中で、[ヨハネ1:8
光について証しする]器は誕生したのです。ですから、問題や課題というものは、「克服できない壁」ではないと教えられます。
洗礼者ヨハネの健康については、[ルカ1:41
エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた]とか、とても健康な胎児であったようでもあり、また[1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあり、今日で言う、少しアスペルガーのような傾向の表現もあります。詳細は分かりませんが、わたしたち奉仕者や献身者の間にも、生まれや生い立ち、心身の健康等で問題を抱えている方もある中で、そのような困難や危険、病や障害等を抱えつつ、召命・使命の中に生かされている者の、「ひとつの模範」ともいえる人物です。その秘訣は何でしょう。
[1:15
その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ]とあるように、「聖霊に満たされていた」という一点にあるようです。「聖霊の満たし」は多くの問題・課題を克服していくひとつの鍵です。洗礼者ヨハネが母の胎内にいるときから聖霊に満たされていたいきさつは、その父母であるザカリヤとエリサベツの霊的環境にもあるでしょう。この夫婦は[1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」]とあるように、祈り深い夫婦であり、洗礼者ヨハネはそのような霊的環境の中で育ったのです。使徒パウロは、牧会書簡の中で、「伝道や牧会以前に、家庭を治めることの大切さ」を語っています。働き以前に、わたしたちの存在のあり様がもっとも示される夫婦や親子のあり様に目配りが必要です。
危険きわまりない状況下で生まれてきた洗礼者ヨハネは、貧しくとも、霊的環境に恵まれて成長していったようです。[ルカ1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあったり、[マルコ1:6
ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた]とあるように、パレスチナにある辺境のユダヤ教とも言うべき、クムラン教団にそのひとつの例をみるようなセクト的教団から出てきて大衆を相手に洗礼を施していた、ある意味ユニークな運動とも見られます。ともあれ、洗礼者ヨハネの預言運動は、ユダヤ全国を揺り動かし、国民的宗教運動にまで発展しました。
[マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と記されるほどでありました。まことに洗礼者ヨハネは、厳然として荒野にそびえ立つ巌にも比すべき存在でありました。いわば、アフリカ医療宣教のシュバイツァー、インドの貧民窟宣教のマザーテレサ、クルセード集会のビリー・グラハムのような、一世を風靡した存在でしょうか。そして、洗礼者ヨハネの風貌は、かつての預言者エリヤの姿(Ⅱ列王1:8)を鏡の中に彷彿させるようでありました。
洗礼者ヨハネこそ、すべての人に先立ってイエスを神の子・世の救い主として認めた人であり、彼こそは、イエスが何者であるかを理解した唯一の人でありました。世の「暗闇」が完全な盲目に眠っていたとき、彼はひとり目覚めて「光」を認めました。ひとり立って荒野に叫ばなければならなかった孤独な預言者ヨハネは、孤独な神の子イエスの真相を見抜いていました。神から遣わされた御子を理解することは、同じく神より遣わされた預言者においてはじめてなし得る大事業でありました。洗礼者ヨハネと神の御子イエス・キリスト、この二人の魂の間には、ちょうどエリサベツとマリヤの間に流れた共感と交流と同様のものが、呼応していたことでしょう。
歴史に目を転じますと、洗礼者ヨハネの名前は、ユダヤを中心に遠くローマ世界にも聞こえていました。ヨセフス、タキトゥス、スエトニウスといった当時の歴史家たちの叙述からしますと、イエスに関する言及は曖昧であるのに対し、洗礼者ヨハネに関しては、はっきり語られています。世間の目には、洗礼者ヨハネの方が偉大であるとの印象が残っていたかもしれません。このような状況下で、第四福音書は、その序文で断固として、イエスの優位性を宣言しており、洗礼者ヨハネは証言者としてのみ言及されているのです。そして、後の聖書箇所で扱いますが、洗礼者ヨハネは、「イエスが神の御子である」ことを告知したという意味だけでの証言者であるだけではありませんでした。
マルコ福音書では、[マルコ1:16
イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。1:17
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」1:18
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った]と、漁師が召命を受けて、即座に従った情景がうかがわれるのですが、ヨハネ福音書ではその経緯と背景を[ヨハ1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。1:36
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。1:37
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った]と説明しており、アンデレやペテロが洗礼者ヨハネの弟子であったことを明らかにしています。アンデレやペテロは、洗礼者ヨハネ門下で薫陶を受け、修練した優れた弟子であったことが暗示されています。これが、今日、奉仕生涯の最初の三年間の基礎神学教育課程の重要性を教えています。良き準備なしに、良き奉仕なしと教えられます。
わたしは、御子イエス・キリストが、四国の二倍ほどのパレスチナの土地を数回巡回された約三年間という、短期間で「新約の教会の礎を築く」ことのできた背景には、洗礼者ヨハネの罪の悔い改めに導き、[1:16
イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ] 、[1:17
不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意」するという、いわば「苗代のための土づくり」といった取り組みがあったからだと思うのです。そういうふうに考えていきますと、ゼカリヤとエリサベツ、そしてマリヤへの受胎告知、両者の交流と励まし合い、エリサベツと洗礼者ヨハネ、マリヤとイエスの母子の交流と成長、洗礼者ヨハネが取り組んだ「土壌づくり」とその土壌の上で芽吹き、進行した「神の御子イエス・キリストの啓示」と新約の教会の形成準備(エペソ2:20)に、わたしは御霊の働きの連動と共鳴をみせられるのです。
これらのことを思い巡らしているうちに、「御霊の働きの連動と共鳴」は、ローザンヌ誓約「第4項 伝道の本質」にもみられると教えられました。それは「伝道」を定義して、[伝道とは、イエス・キリストが聖書にしたがって私たちの罪のために死に、かつ死よりよみがえり、現在、主権を持ちたもう主として、悔い改めて信じるすべての者に、罪の赦しとみ霊による解放の恵みを提供しておられるという、よきおとずれを広めることである。私たちキリスト者がこの世界の中に共在し、相手を理解するために同情的に耳を傾ける類の対話を持つことは、伝道にとって不可欠なことである。しかしながら、伝道それ自体は、あくまでも、人々が一人一人個人的にキリストのもとに来て、神との和解を受けるように説得する目的をもって、歴史的、聖書的キリストを救い主また主として告知することである。
この福音の招きを公布する際に、私たちは弟子として求められる犠牲からしりごみすることは許されない。イエスは、今もなお、自己を否定し、おのが十字架を負い、主の新しい共同体の一員になりきってご自身に従うものたちを召し集めておられる。伝道は、キリストヘの従順、ご自身の教会への加入、この世界内での責任ある奉仕などの結果を含むものである。(Iコリント15・3、4、使徒2・32-39、ヨハネ20・21、Iコリント1・23、IIコリント4
・5;5・11、20、ルカ14・25-33、マルコ8・34、使徒2・40、47、マルコ10・
43-45)]と整理されています。
すなわち、伝道は、「回心して主の新しい共同体の一員」となる一段階のみでなるものではなく、その前段階として[共在→対話→説得→告知]という、いわゆる「土壌づくり、苗代づくり」の段階があるということです。わたしのケースを振り返りますと、やはり三浦綾子著作集は、わたしにとってそのような段階を導いてくれました。わたしたちは、主にあってさまざまなかたちで、さまざまなレベルで[1:8
ただ光について証し]して生きています。わたしたちはひとりぼっちではありません。神さまは、困難な最中で、しかし不思議な方法で、「御霊による連動と呼応」により万事を働かせ、わたしたちの内にいます御霊の臨在の「小さなともしび」をもって、暗闇を吹き払っていってくださるでしょう。わたしたちは、「光」そのものではありません。しかし、「贖罪と内住の御霊」の臨在のともしびを輝かせ続けることはできます。祈りましょう。
(参考文献:ジョン・ストット『ローザンヌ誓約―解説と注釈』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、高橋三郎『ヨハネ伝講義
上』)
2024年4月28日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:1~5「光は闇の中に輝いている」-ヨハネ福音書の特色ある強調のヒントや目的を捜す-
https://youtu.be/n1SXY76EO-o
先週から新たにスタートしました 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、ヨハネ福音書9:22, 12:42,
16:2から「ヨハネ福音書の背景」として[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]の視点を紹介させていただきました。その祈願は[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]というものでした。「会堂での祈り」がこのように改訂され、ユダヤ教会堂に属しつつ、イエスを御子なる神キリストとして信じる、いわば「隠れユダヤ人クリスチャン」が追放されていく時代に「ヨハネ福音書」は記されたことを学びました。このような視点をもって、ヨハネ1:1-5に傾聴してまいりましょう。
まず最初に、ヨハネ1:1-5のテキストの背景としての旧聖書箇所を読みましょう。それは、創世記1:1-3です。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。]
次に、今朝のテキスト、ヨハネ1:1-5のポイントを確認しつつ、読みましょう。
(概略)
A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性 (v.1-2)
B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造(v.3)
C.創造時のように地は闇に、再創造時にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている(v.4-5)
わたしは、この半年間、数十冊のヨハネ関連文献に目配りしつつ、教えられましたことは、ヨハネ福音書研究の巨匠ブルトマンの『ヨハネの福音書』を巡る文献や説教集が多いことでした。そして、この状況が内包する課題を克服するかのように登場した分岐点がJ・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』であり、その延長線上にあるD.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』が留意している「ヨハネ福音書の背景としてのヤムニアの第十二祈願」なのです。紀元70年のエルサレムと神殿崩壊後のユダヤ教会堂におけるクリスチャンの置かれた状況を理解する上で大切な視点なのです。ヨハネの福音書をこのような視点を大切にしてみていくとき、神がヨハネの福音書を通して語られていることをより鋭く、正確に傾聴できるように思います。
新約の最初の四つの福音書を読む方は、だれもマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネの第四福音書の違いを感じられることでしょう。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、ダビデ系の系図や誕生との関連で、イエスのルーツを説明しようとしています。これに対し、ヨハネは、イエスの生誕にまつわる、地上のどんなに謙遜な誕生物語も、彼の天的な起源の適切な説明としては十分ではないと考えました。ヨハネは、イエスの起源は、外面的な、この世の姿とは、明確な対照をなすような逆説としてみたのです。
それは、一方で、イエスは、その町は人によっても、他の何によっても記憶されたことがない(1:46)、ナザレ出身のヨセフの息子(1:45)であることです。しかし、他方では、ロゴスであり神の子です。もちろん、物語の最初においても(1:1、18)、また最後においても(20:28)、彼はテオス(神)と呼ばれています。しかしながら、イエスのこの彼岸性にもかかわらず、彼の人間としての起源も忘れられて良い事柄ではありません。そうでなければ、福音書が強調するような彼に対する目撃証言(1:14、2:11、19:35、21:24)は、考えられません。ヨハネ版のイエスは、天的な側面とともに、彼の独自な地上的な面をもっています(Ⅰヨハネ1:1-3)。
ここで、ヨハネ福音書の全体を眺望してみましょう。ヨハネ福音書は、ひとつのまとまった梗概(こうがい)あるいは構造を備えており、序論的な部分の後に(1章)、イエスの公の伝道活動の記録があり(2-12章)、それらは、これから見ていくように、共観福音書のものとはかなり違っています。イエスの受難と復活(18-21章)の前には、他の福音書よりもはるかに長い最後の晩餐の記事があります。この福音書の後半部分は(13-20章)、ブルトマンの『ヨハネの福音書』という注解書によって、前半が「世に対する栄光の啓示」とされているのに対し、「教会への栄光の啓示」と呼ばれています。この区別の先鋭さは、この福音書によく似合い、その二元論的性格についてものがたっています。
そこで、イエスの弟子たちの教会は、運命的なほどに敵対する世から退き、イエスと共にのみ存在しています。共観福音書がその名の通り、イエスの伝道について共通した理解を記しているのに対して、ヨハネ福音書の構造と内容がまったく異なったものにしているのは、イエス自身と彼の行動の描写であり、説教の眼目です。それは、信ずるか信じないかに関わり、ユダヤ教の信仰とキリスト教の新機軸による提案とに関わる紛争という形に投げ込もうとしています。イエスは、ファリサイ派と論争しますが、それは律法の解釈を巡ってではなく、イエスを誰とするかに関わっています。他の福音書に対するヨハネ福音書のこの独特さ、ヨハネの特色ある強調は、どのように理解すれば良いのかを考えていきたいと思います。
ヨハネ独特の強調に関連し、今朝の1:1-5の、創世記1:1-3の「御子イエス・キリスト」の視点からの解釈の新機軸の由来は、どのように理解すれば良いのでしょう。D.M.スミスは、ヨハネ福音書は[どのようにして、あるいはなぜ、福音書記者がそのような仕方で、彼が(幾つかの資料源から)受け取ったものを表現しようとしたのかを、告げてはいない。同様に、第四福音書の一般的な宗教的・文化的環境(ヘレニズム、前グノーシス主義、ユダヤ教の死海写本や知恵の諸モチーフ)は、この福音書記者が書いている概念や語彙を提供しはするが、彼の特色ある強調を説明しはしない。そこで、研究者は、なぜ、また、どのようにして、特色ある強調が出て来たのかに注目しつつ、第四福音書を読まねばならない。つまり、読者は、この福音書の特別な設定や目的の、物語の中から顕れるかもしれないちょっとしたヒントや目的を捜すのである。それは、さして難しい仕事でないかもしれない。なぜなら、福音書記者はしばしばわれわれに、彼自身の時代ならびに状況とイエスの時のそれとの重要な相違を彼が自覚していたことを告げているからである]と記しており、わたしたちの研究は大変勇気づけられます。
わたしたちは、今朝、ヨハネの独特の序文を読み、[この福音書の特別な設定や目的のヒント]を発見したいのです。それは、ヨハネが本福音書の最初で、創世記1:1-3を「御子イエス・キリスト」を中心にして、旧約の唯一神信仰(申命記6:4)を、三位一体の神信仰で再解釈し、再表現したのかということです。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]を、三位一体の神が本来意味されていた線に沿って、ヨハネはより精密に解説しています。その巧みさは「優れた刀匠」のようです。
[1:1 [初めに]ことばがあった。ことばは[神]とともにあった。ことばは[神]であった。1:2
この方は、初めに[神]とともにおられた]は、[A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性]を明らかにしています。[1:3
すべてのものは、この方によって[造られた]。[造られた]もので、この方によらずに[できた]ものは一つもなかった]は、[B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造]されたことを説明しています。[1:4
この方にはいのちがあった。このいのちは人の[光]であった。1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった]は、[C.創造時のように地は闇にあったように、キリストの初臨をもって始まった再創造の開始された今にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている]と、1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の間の不穏な状況を示唆しているように思います。
わたしたちは、先週、J・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』から、ヨハネ福音書の独特さを解くひとつの鍵を入手しました。その鍵をもって、今朝の「唯一神論信仰」テキストとしての旧約聖書の前提の創世記1:1-3の、ヨハネによる「三位一体論信仰」を御子イエス・キリストを軸とした御父・御子・御霊なる神の告白と、その創造のみわざとして、再解釈のヨハネ1:1-3を、ヨハネ福音書に関わるキリスト教共同体が直面しているユダヤ教会堂とのせめぎ合いの論争(9:22,
12:42, 16:2)に対するひとつの解答としてヨハネ福音書執筆を捉えますと、 「1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった」の[闇]は、この三位一体の神との関係を表現しているものでしょう。
ヨハネは、その[闇]を「世」という用語で表しています。[ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と、世はアダムの堕落により、今は疎外と断絶、罪と死と滅びの状態にあります。[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、ご自身の人格とみわざを啓示し、その受領者として、最初に受け入れるべきであったイスラエルの民の大半は、拒絶し、信じる者を迫害し、ついには異端視し、ユダヤ教会堂からの排除へと舵を切ったのです。これは、恐るべき「盲目であり、闇」です。[1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった]と、残れるユダヤ人クリスチャン、異邦人クリスチャンへの恵みが紹介されています。ヨハネ福音書は、このような情勢の中で、対外的にはイエスを信じながらも告白できないでいる者たちに決断を促し、また対内的には教会員たちに、もう一度イエスの言葉(ひしては教会のケリュグマ)にしっかり留まるように訴えるという目的のために書かれたのです。
ヨハネ福音書の序文は、ヨハネの教会の再結集、新しい創造の中心としての、言葉(ロゴス)としてのイエス、歪んだ単一神信仰ではなく、複数性を宿す唯一神信仰の深みと豊かさとしての三位一体の神信仰、そして御子なるイエス・キリスト信仰を掲げているのです。このお方こそ、旧約聖書に約束されていた「真のメシヤ」だと、口酸っぱく最初に宣言しているのです。ユダヤ人であるヨハネの同胞のユダヤ人伝道への情熱の塊、すなわち「ビッグバン」のような信仰告白です。それは、[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]のヤムニアの第十二祈願に象徴される「イエスを信じるか、信じないか。イエスを誰とするのか」という「闇」に関わる根本問題に対する解答であったのです。
わたしたちは、今自由のある国で自由な教会を満喫しています。しかし、家族、親戚、兄弟やそこで行われる冠婚葬祭や地域や自治会で催される宗教行事においては、種々のレベルの「闇」の中に置かれているのではないでしょうか。わたしたちが、そのような状況に向かい、ヨハネにならって[A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性]
、[B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造]を信じ、告白し、そこに目を留めて生きていく時、わたしたちは1世紀のヨハネ共同体のクリスチャンたち、またユダヤ教会堂のただ中にいるクリスチャンたちのように、内住の御霊の臨在による「光」をもって、わたしたちは、
「[闇]の中に輝いている[光]」として証ししていけるでしょう。祈りましょう。
(参考文献:松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2024年4月28日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書9:22, 12:42, 16:2「導入―ヨハネ福音書の背景」
-はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき-
https://youtu.be/TMIFO_8ldaE
先週で、三年三ヶ月あまりをかけた『詩篇』傾聴シリーズの旅を終え、今日からは『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの旅に旅立ちます。この旅は、2023年の初夏、神学校二年生であった息子に「『ヨハネ福音書の序文からメッセージを作りなさい』という課題が与えられたのだけれど、良い注解書や優れた参考文献等はあるかな」と相談されたことが契機でありました。かなりの蔵書を備えている一宮基督教研究所の図書室でありますが、福音書関係の注解書と参考文献は結構手薄であることに気づかされました。それとともに、わたしの奉仕生涯において「福音書関係からの説教は結構断片的であった」ことにも気づかされました。
それで、「この機会に、まずはヨハネ福音書関係の注解書と参考文献を収集し、腰を据え、ヨハネ福音書研究に取り組んでみよう」と思ったのです。まずアマゾン書店や古書店等から和書の注解書と参考文献また説教集を数十冊収集し、目配りしました。それで二十世紀の福音書研究の状況や経緯を教えられました。ルドルフ・ブルトマン著『ヨハネの福音書』を軸とした展開等、いろいろと教えられました。そして、あの有名なJ・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』で取り上げられた「ヤムニアの第十二祈願」が新たな展開を導いていること、そして、デイル・ムーディ・スミスの『ヨハネ福音書の神学』がそれらの洞察を接続させようとしていることを教えられました。
このようなことから、わたしが恩師宇田進師よりいただいた「日本の福音主義神学に未来はあるか」
https://aguro.jp.net/d/pd/pdf/intro/intro_future_in_evangelicals.pdf
で示された「①聖書的適格性、②正統信仰の公同性、③現代的適応性、④学問的自己革新性」の四つの要素のバランスのとれた「ヨハネ福音書」の傾聴に取り組んでいきたいと願わされました。そのときに、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』は大変参考になると有益な書籍であると確信させられたのです。それゆえ、今日から始まる『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの旅は、第一義的に「ヨハネによる福音書」に段落単位で傾聴してまいりますが、同時にその段落の中に存在する「歴史的背景や神学的意味合い」を深堀りし、その本質を今日のわたしたちの信仰生活に適用していきたいと願っています。
今回の『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、片手に「ヨハネによる福音書」を持ち、もうひとつの手にD.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』を携えながら、聖書に傾聴していこうとしています。わたしがクリスチャンになった当初は、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を用いて、スコップで聖書の表面を掘るように浅く読むだけでした。しかし、あれから半世紀を経た今、『ヨハネ福音書の神学』をボーリング機械で地下数千メートルを掘削するようにして、鉱脈・油田・温泉等を発見していきたいのです。
その手始めに、J・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』が発見し、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』が留意している「ヨハネ福音書の背景としてのヤムニアの第十二祈願」についてみていきたいと思います。これは、紀元70年のエルサレムと神殿崩壊後のユダヤ教会堂におけるクリスチャンの置かれた状況を理解する上で大切な視点なのです。
まず、ヨハネ福音書の中の、[ヤムニアの第十二祈願]と関連とみられる三つの聖書箇所を読んでおきましょう。
【ヤムニア会議での、「第十二祈願改訂による隠れキリシタン」の摘発の決定】―[ヨハ 9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。]
【「第十二祈願」を唱える代表に指名されないよう取り計らうことにより、発覚を逃れる】―[ヨハ 12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。]
【会衆代表として任命し、「第十二祈願」を大声で唱えさせるよう追い込み、ためらう者を追放する】―[ヨハ 16:2
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。]
ここには、ユダヤ教会堂にとどまりつつ、イエスをメシヤと信じていたクリスチャンたちへの言及があり、彼らが「ユダヤ教会堂からの追放」の危機の中に置かれていたことを示しています。ヨハネ福音書は、このように押し迫る暗闇の危険・恐怖の視点で読まれるとこの福音書のリアリティにより深く入っていけるのです。
さて、ここで、ヨハネ福音書をメリハリのきいた読み方をするために、ヨハネ福音書の背景として研究の進んでいる「ヤムニアの第十二祈願」について学んでおきたいと思います。ユダヤ教会堂とユダヤ人クリチャンの完全な分離を決定づけたこの祈願を決めた「ヤムニア会議」とは何でしょうか。
[第一次ユダヤ戦争によって、エルサレムは破壊され、壮麗なエルサレム神殿は焼け落ちました。このことはユダヤ教の歴史において大きなターニングポイントとなりました。これにより、ユダヤ教の神殿祭儀とユダヤ王朝に価値を置くサドカイ派は存在意義を失い、一方シナゴーグの活動を中心とするファリサイ派が民族的アイデンティティを担うことになりました。エルサレムの陥落から逃れたユダヤ教の(主にファリサイ派の)指導者たちは、ローマ帝国当局の許可を得て、エルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニア)にユダヤ教の研究学校を設け、ユダヤ暦を計算し、トーラーの研究を続けることでユダヤ教の伝統と先祖からの文化的遺産を絶やすまいとしていました。ヤムニア会議とはいわゆる現代的な意味での会議ではありません。それは、このユダヤ教学校に集まった学者たちが長い時間をかけて議論し、聖書(ヘブライ語聖書)の正典(マソラ本文)を定義していったプロセスを指しています。この時代、すでにキリスト者はユダヤ教の一分派という枠を超えて、地中海世界へ飛躍しようとしていました。しかし、この会議によってキリスト者はシナゴーグからの追放が決定的となりました。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BC%9A%E8%AD%B0
ラバン・ガマリエルは、紀元80年頃から115年頃までヤムニアの学院の長でありました。ヤムニアに集められた学者たちの集団の権威は、彼の指導のもとにかなり大きなものとなり、その結果、その集団はみずからを実際にかつてのエルサレムのサンヘドリン(最高議会)の後継者とみなすようになりました。ユダヤ教に「アミダーの祈り」(十八祈祷文)というものがあり、ユダヤ人は日々にこれを唱えるそうです。ガマリエルは、当時の「イエスをメシヤと信じつつ、ユダヤ会堂にとどまっている状況」を打開するために、この祈りの「異端者たちに反対する祈願」を次のように改訂しました。
【第十二祈願】
[背教者たちには、希望がないように。
そして尊大な政府は
われわれの時代にすみやかに根こそぎにされるように。
ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。
そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように。
主よ、誇るものたちを卑しめたもう汝は、ほむべきかな。]
このような動向は、紀元70年以後の状況を物語っています。悲惨なローマとの戦争とエルサレム神殿の破壊の時代においては、ユダヤ人の間に多様性が許容されなくなってきていました。サドカイ派の大祭司団はみずからが主宰していた神殿を失いました。クムランのエッセネ派は死海の修道院をローマ軍の攻撃で失いました。ローマへの抵抗を主張していた熱心党は、信用を失っていました。その結果として、ユダヤ教が生き残る道は「旧約聖書と律法」のみであり、そこに依拠する宗教として再構成されつつありました。そこでファリサイ派の重要性が格段に増していったのです。そのような動向の中で、「イエスをメシヤと信じるユダヤ人」は会堂の中での居場所をなくしつつあり、ユダヤ人は「ファリサイ派」と同一視され、対立・亀裂が深まっていきました。そのような状況下で、ヤムニア会議で「十二祈願」改訂が行われたのです。
1世紀末、90年代に記されたといわれる「ヨハネ福音書」にはそのような背景がありました。このような状況を念頭に置きますと[ヨハ
9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると(ヤムニア会議で)決めていた]という聖句の理解にも、メリハリがつくことでしょう。90年代に記されたといわれる「ヨハネ福音書」は、二つの舞台を重ね合わせて綴られています。つまり、「イエス自身のAD.30年代の舞台」と「ヨハネ福音書記者のAD.90年代の信徒と教会の舞台」とです。ヨハネは、[イエスをメシヤと信じるユダヤ人たちを説得して、ユダヤ教会堂から退かせ、それと明確に区別されるキリスト教共同体である、キリストのからだなる教会に入会させる]ことを目的のひとつとして「ヨハネ福音書」を執筆したのです。そのような視点で読むと、ヨハネ福音書には、ここかしこにそのような実存的決断を迫る物語が満ちていることに気づかされます。
わたしたちが「ヨハネの神学」に傾聴し、その要点を明らかにするということは、どのように、「90年代の第二の舞台である、ヨハネのキリスト教共同体の必要」から、また「その必要に関連して、その神学的強調がひきおこされたか」を示すことです。その必要とは何かを知る上で、[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]という視点が大切なのです。ユダヤ会堂に属したまま、イエスをメシヤと信じていたユダヤ人クリスチャンは、キリシタン時代の「隠れキリシタン」のように、いわば「踏み絵」としての「ヤムニアの第十二祈願」を唱えるよう追い込まれていたのです。そして、このような事態は、1世紀末のユダヤ会堂でも、豊臣・徳川時代の日本でも、国家神道時代でも、また今日のあらゆる類似する霊的戦いの中において、時間と空間を超えて経験される危機です。
そのような状況下で二つの時間軸・二つの空間軸が重なるようにして、引き起こされるキリストとの出会い、意味、そして引き出される応答が起こるのです。ヨハネの時代の経験を経験し続けるのです。それが「ヨハネ福音書」経験であり、ヨハネが14・15・16章で明らかにしている「助け主(パラクレートス)」の経験なのです。そこにおいて、1世紀末の実存的決断を御霊において21世紀に経験するためです。ニコデモの経験、サマリヤの女の経験、生来盲目の人の経験、トマスの経験の類似の経験をわたしたちも、わたしたちの生涯のただ中で御霊において経験し続けているのです。それをわたしたちの生活の中に発見していくことが『ヨハネ福音書の神学』傾聴の旅なのです。このような視点から、ヨハネによる『福音書』に傾聴し、D.M.スミスの『ヨハネ福音書の神学』からの神学的薫陶を受けていきたいと思います。
今朝は、本シリーズの主旨を説明させていただきました。また副題の[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]は、「ヨハネ福音書」の最初のことば「はじめにことばありき」をもじったもので、このシリーズの最初の学びから最後の学びまで常に念頭に置いていただきたいこととして、掲げさせていただきました。このことばを反芻しながら、このことばの歴史的内実をイメージしながら、傾聴し続けていただけたら感謝です。わたしにとっても、今回の取り組みは結構難解です。ましてや、視聴者である皆様においては、わたしの語っていることのすべての事柄を一度に理解することは難しいかもしれません。ただ、それでもわたしはこのような取り組みに召されているのです。ここが「研究所のチャペル」ということで許されているとも言えます。とにもかくにも、このようなかたちで「船出」します。それぞれが「達しえたところに従って」一歩でも、二歩でも、霊的にも、神学的にも成長していくひとつの糧としていただければ幸いです。祈りましょう。
(参考文献:
J・ルイス・マーティン著『ヨハネ福音書における歴史と神学』、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』、“John”
Abingdon New Testament Commentaries、J.L.メイズ編『ハ-パ-聖書注解』)
2024年4月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇150篇「息のあるものはみな、主をほめたたえよ」-その大能のみわざ、その偉大さにふさわしくハレルヤ・コーラスを-
https://youtu.be/z0-SqspICTY
本詩150篇傾聴をもって、三年三ヶ月あまりをかけた『詩篇傾聴シリーズ』も終わります。さて、『詩篇傾聴シリーズ』とかけて何と解けば良いでしょう。わたしは、『詩篇傾聴シリーズ』とかけて「アウトランダー(未知なる地へ向かう冒険者)と解きます。そのこころは、『詩篇傾聴』とは連続するタイムスリップに似ている」です。
「アウトランダー」というドラマは、[看護師のクレア(カトリーナ・バルフ)は夫とスコットランドのハイランド地方で休暇を過ごしていたが、途中に訪れたストーンサークルで、一人200年前にタイムスリップしてしまう!辿り着いた先は、スコットランドとイングランドの緊張が高まる1743年。現代と過去の愛と運命に翻弄されながら、
激動の時代を懸命に生き抜くクレアの物語]です。
クリスチャン生活は、ある意味で、「現在と過去と未来」をタイムスリップしながら生きる人生であると思います。そこに、わたしたちの存在と人生に深みと豊かさが生まれてくるのだと思うのです。
このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
詩[ 150 ](詩篇150篇全体を締めくくる、ハレルヤ・コーラスのような賛栄唱)
A.賛美への召喚(v.1)
B.賛美の理由(v.2)
C.賛美の方法(v.3-5)
D.賛美召喚の範囲(v.6)
本詩を読んで、皆さんはどのような印象をもたれるでしょうか。ハレルヤで始まり、「神(主)をほめたたえよ」が11回繰り返され、ハレルヤで終わっています。「賛美への招き」で始まり、その「賛美する理由」が述べられ、「あらゆる楽器を用いて賛美せよ」、「息をするすべてのものよ」と召喚の範囲が普遍的であると知らされます。本詩は、五巻からなる詩篇150篇の全体を締めくくる賛栄唱であり、「ハレルヤ」が「ヤーウェ(神、主)をほめたたえよ」を意味することから理解しますと、これはヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」に似ているように思います。
ハレルヤ・コーラスは、逸話とも言われますが、ロンドンで開演演奏に招かれた英国国王も、神の御前における荘厳さに打たれたイザヤのように、思わず椅子から起立したと聞き及びます。詩篇全体の最後を締めくくる賛栄唱である150篇は、[150:6
息のあるものはみな]そのように起立して、ハレルヤを唱和するよう招いている詩篇です。わたしは、そのような印象を抱いたものですから、先週は一週間、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を聴きながら、本詩に傾聴させていただきました。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Handel_-_messiah_-_44_hallelujah.ogg
振り返りますと、詩篇150篇に傾聴し続けることができたこの三年三ヶ月あまりは、本当に幸いな期間でありました。この期間、わたしは毎週、詩篇の一篇ずつと取り組むよう、自らに課しました。該当する詩篇を繰り返し読み、朝に夕に五色のマーカーと五色のボールペンで教えられること、示されること、連想すること、与えられる知恵等を、大判聖書の空白部分にびっしりと書き込み続けました。同時に、信仰の先輩方の注解書、解説書、説教集、研究書等を幅広く目配りし続けました。それらの取り組みの中で、信仰生活の深さ、高さ、広さ、長さを本当に豊かに教えられたように思います。それは、タイムマシンに乗って旅するような毎日でありました。
若い頃の夢は、大きな家に住み、広い庭を造り、読書と音楽鑑賞にふけり、世界各地を地理的に、いわば“水平に旅行する”
ことでした。しかし、クリスチャンになってから少し考えが変わりました。聖書を通して、時間軸を超えて「過去・現在・未来」を、いわば“垂直に旅行する”
ことができるようになったからです。聖書を開くと、わたしたちは、黙示録のヨハネに [黙4:1
その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。]と言われたように、天にある[150:1
神の聖所]に引き上げられるからです。わたしたちは、そこから[御力の大空]を見下ろします。
わたしたちが、天にある[150:1 神の聖所] から見下ろす[御力の大空]の世界の下には、[創1:1
はじめに神が天と地を創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とある記事に関し、諸説―https://aguro.jp.net/d/jec_kbi/20121116_ks_ag_What_is_Bible_and_Hermenuetics_in_the_Post-Modern-Ages.pdf
があります。科学的データとの調和を重んじるある神学者によれば、約140億年前のビッグバンにあたるのではないかと推測しています。そして約40億年前に地球は生物が生息可能な状態とされ、その1億5000年後に地球は生物で満ち溢れたと推測されています。
わたしは、創世記の創造物語の解釈については特定の立場に立つものではありません。幼子のように「全知全能の神さまが六日間で天地万物を創造された」ことも受け入れられますが、同時に現代の科学者の理解との対話を通してもたくさんのことを教えられ続けています。創造物語の解釈・説明はどのようであれ、神による天地創造という[150:2
その大能のみわざ]を思い、神をほめたたえることが大切だと思うのです。
また、神さまの[150:2
その大能のみわざ]というとき、それはまた、神の啓示の受領者として用いられたイスラエルの民の歴史に思いをはせることです。[創1:31
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった]と良き創造の教説ともいわれる世界が、人間の罪と死と堕落により虚無に服してしまいました。この世界と人類を救いに導くために、ひとりの人アブラハムとその子孫が選ばれ、人類の、また被造物世界の贖い主イエス・キリストが受肉・来訪されました。この人類贖いのドラマを説明する視聴覚教材として、イスラエル民族の歴史は用いられました。出エジプトの出来事、荒野の旅程、約束の地の征服、ダビデ王朝の確立、南北王国時代の取り扱い、審判としての捕囚とその回復もまた、神さまの計画と摂理の[150:2
大能のみわざ]であります。わたしたちは、内住の御霊と聖書のみことばにより、その歴史の当事者として入り込むことが許されているのです。
わたしたちクリスチャンは、いわば聖書というタイムマシンを通して、繰り返し、繰り返し、ビッグバン以降の宇宙生成の歴史、地球形成と生物が満ち溢れる世界という「神の栄光の舞台」にタイムスリップするように招かれています。それによって、わたしたちの存在と生涯は退屈なものではなく、「神秘の世界の同伴者」となりえます。また、「はじめに神は園を造り給えり」といわれるように、「良き創造」としてのエデンの園とその後に起こる悲劇の現場に、招かれ、わたしたちの犯した罪、わたしたちの内部に棲息する生まれながらの罪の性質の直視にも招かれます。そして、あの姦淫と殺人を犯したダビデの詩篇32篇、51篇の罪の告白、赦しの懇願にも導かれます。わたしたちは、聖書を傾聴しつつ、人生を旅する旅人です。
その旅は、わたしたちが、「聖書の物語や祈りや賛美の中に入り込んでいく」側面と、聖書の物語が「わたしたちの人生の中に、存在の中に滲透してくる」側面の両面があり、それは表裏一体ともいえます。それが、内住の御霊を経験しつつ生かされる生涯を「雲の柱、火の柱」となって守り・照らすのです。それは、ちょうどいろんな果物がミキサーで砕かれてミックスジュースとされるように、わたしたちの存在と生涯が、聖書に啓示されている[150:2
その大能のみわざ、…その比類なき偉大]な人格とに、ミキサーにかけられ続けるようなものです。
そのお方は、旧約の準備的な啓示では[出34:6
【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神]と言われる神です。新約に至り、完全なかたちで啓示された神は[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである]という三位一体で御子なるイエス・キリストです。このお方を通して、神の偉大なる人格は[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]に惜しみなく示されています。(※次週より、この『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズに導かれています。お祈りください。)
このように、世界の創造、イスラエルの歴史、そして新約の出来事において啓示されている聖書のみことばを通し、 [150:2
その大能のみわざ、…その比類なき偉大]な人格に触れていきますとき、わたしたちは詩篇150篇を背景に、また聖書における創造物語と終末における完成物語に取り込まれ、没入し、旧約では地上にある影としての[150:1
神の聖所]から、地上から[御力の大空]を仰いで 、新約では天にある実体としての[150:1
神の聖所で]から、天上から[御力の大空]を見下ろして、福音書冒頭にあるように、天使たちの聖歌隊と天上と地上の、民族を超えたすべての神の民とともになす、ハレルヤ・コーラスに加えられるのです。
そのときには、[150:3 角笛…琴と竪琴…。150:4 タンバリンと踊り…、弦と笛…。150:5
音の高いシンバル…鳴り響くシンバル]等、あらゆる楽器が総動員され、すべて神をたたえるために使われています。昔、『ダラム便り』という本を通し、英国での沈黙と静寂のただ中で神さまの臨在を感得する礼拝のあり方と、第三世界のキリスト教会におけるタンバリンやシンバル、太鼓と踊り等の。身体的動作が加わり、音楽のリズムにあったドラマ参加スタイルの礼拝・賛美の多様性について読んだことがあります。わたしたちは、それぞれの文化や歴史の中で、個性的な礼拝・賛美の形式を有しています。それが、静寂の中であれ、リズミカルな動作を伴うものであれ、わたしたちは天上と地上のすべての神の民とのハレルヤ・コーラスに参加するよう招かれているのだと知ることが肝要と思います。今日、そして一生涯、わたしたちもまた、この詩篇150篇のハレルヤ・コーラスに参加させていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献::Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2024年4月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇149篇「口には神への称賛、手には両刃の剣」-半分は工事を続け、もう半分はよろいで身を固めていた-
https://youtu.be/LOf5QYy3t7E
本詩は、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]をもって始まります。イスラエルの賛美は第一義的に、広大な創造の業や人間の歴史の全般にあらわされた神の知恵と力に対する一般的な宗教心によって、呼び覚まされたものではありませんでした。むしろ彼らの賛美は、この民の生活状況の中で、神の救いの力と目的を体験したことに基づくのです。当時の最も強大なエジプト帝国に従属する犠牲者として、くびきにつながれた奴隷の悲惨な歴史的状況に介入された神は、無からひとつの民を創造し、出口のない袋小路から未来への新しい道を開くという素晴らしい業を行ってくださったのです。
そのため、イスラエルの最も初期の詩歌の狙いは、このような救いの力を現わしてくださった神に答えて、喜ばしい賛美の叫びを響かせる(出エジプト15:1-18)ことでした。そして、本詩の背景は、第二の出エジプトともいわれるバビロン捕囚からの解放と母国への帰還、神殿とエルサレムの再建において、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]と呼びかけられているネヘミヤ時代のものと思われます。新約の光においては、民族主義的な、いわば「栗のイガ」は、イエス・キリストにある普遍主義において払拭されており、霊的な次元から、罪の奴隷状態からの解放と普遍的な神の民の創出における[149:1
新しい歌]へと召されているのです。そのような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 149 ]
A.自らの造り主にあって喜べ。自らの王にあって楽しめ(v.1-4)
B.彼らの口には神への称賛、彼らの手には両刃の剣(v.5-9)
[149:1
新しい歌を【主】に歌え]に唱和するとき、イスラエルの民は、具体的な悲惨の中から神に祈り、ついで経験した具体的な救いの業のゆえに賛美が爆発したミリアムの歌を思い起こしたことでしょう。出15:21
ミリアムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」。新約の光において、わたしたちはイスラエルの民がエジプトで、またバビロンで奴隷状態の中に置かれていたように、罪と死と滅びの、いわば奴隷状態の中に置かれていました。[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]とある通りです。
しかしそのようなわたしたちに対して、[ヘブル9:26
キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました]。イエス・キリストの十字架の出来事は、新約のわたしたちにとっての出エジプトの出来事であり、バビロン捕囚からの解放の経験であります。それゆえ、わたしたちは、ミリアムのように、またネヘミヤのように[149:2
自らの造り主にあって喜べ。…自らの王にあって楽しめ]と励まして良いのです。神は天地万物の創造主でありますが、民族を超えた、普遍的な神の民の創出者でもあります。
またこのお方は、[149:2
王]でもあられます。キリストの血によって贖い出された新しい神の民を、内住の御霊を通して統治される王なるお方です。わたしたちは、無神論的なニヒルな眼をもって、自己の存在や生涯をみつめる必要はありません。W.H.オーデンのクリスマス・オラトリオで、コーラスは[巡礼の道は深淵に導かれた。かくも苦難に満ちた現実に出会うだめであったのか、我々が居心地の良い無知を後にしたのは。あの勝利に満ちた答えはこれだというのか。巡礼の道は深淵に導かれた]と歌います。不安と混沌の中で、現代人であるわたしたちは、ある意味でエジプト脱出後の古代イスラエル人の経験にあずかっています。
聖書の脱出物語には、約束の道に向かう近道が阻まれ、「神は荒野の道に回らされた」(出13:18)と記されています。わたしたちにもそのように意識する場面が多々あるのではないでしょうか。つまり、「旅する民」に属する人々は、歴史を貫く彼らの旅の目的地が、決して楽な高速道路を経て到達されず、そのかわり、詩人や芸術家が描く「荒地」に通じる大きなう回路を歩まなければならないことを理解しているのです。それが人生です。「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味は分からない」といわれるゆえんです。今、振り返りますと、長かった詩篇傾聴シリーズの旅も残すところわずかとなったと思います。詩篇にはいつの日か取り組みたいと願っていましたが、その分量がヨブ記の約四倍弱ということで尻込みしていました。ただ、背中を押すひとつのメッセージがありました。
これは、わたしが「『詩篇傾聴』シリーズに取り組みたい!」と動機づけられた一節です。それは、ドイツ旧約学の黄金時代を招来したひとり、クラウス・ヴェスターマンの言葉です。ヴェスターマンの神学的思索では、第二次世界大戦の戦争体験が原体験となっている、といわれます。「戦時中、わたしがかつて自然に対して抱いていた思いや培っていたロマンチックな考えはことごとく崩された。その時、聖書の中で創造に関して言われていることがようやくわかった。機関銃の弾丸の飛び交う中、地面を這うように前進してもはやへとへとになっていたその時、まさに地面を這う自分の目の前に、小さな、しかし赤々と灯るような赤い花がいくつも咲いているのが見えた。その花々を見た時はじめてわかった。この小さな可憐な花々は、この戦争よりも偉大なのだ、と…」(クラウス・ヴェスターマン『説教集』詩篇104:27-30)
「詩篇研究の中には、このような感動があるのか」と感動し、それを教えられたくて、詩篇150篇の旅へと旅立つ決心をしたのです。詩篇研究を念願し、「内地留学」ならぬ「内心留学」、すなわち、著書や文献等を通して薫陶を受け続けるべくその門下に入ったのです。2020年12月27日
年末感謝礼拝の詩篇1篇から始まりましたから、三年四ヶ月弱の旅でありました。数多くの先輩の文献から薫陶を受け続けましたが、最も教えられた一冊をあげるとしますと、B.W.アンダーソン著『深き淵より―現代に語りかける詩篇』がそれです。わたしは、イスラエルの民の「深き淵より」の叫びを傾聴しつつ、わたしの「深き淵より」の叫びをも耕し続けることを学ばせていただきました。それは本当に豊かな時間帯でありました。わたしは、飛行機で飛び去るような人生ではなく、潜水艦のように「深き淵」に潜航し、そこから学ぶこと、教えられる人生を大切にしたかったのです。
それで、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]は、わたしにとって、詩篇傾聴シリーズに挑戦することでありましたし、今そのシリーズを終えようとしている今は、「ヨハネ福音書」傾聴シリーズへの挑戦への促しとして受けとめています。次のシリーズへの呼び水として言及しておきますと、A.M.ハンター著『現代新約聖書入門』には、彼が[BBC放送ラジオ放送で、…「文学の中で最も美しい書き出しをしているものは何でしょうか」と尋ねられた時、「それはヨハネの福音書の序文」ですと答えた]と記しています。[ヨハネ1:1
はじめにことばがあった]で始まるこの序文は、「ロゴス賛歌」ともいわれ、初代キリスト教会における讃美歌の一節でもあったのではないかと思われるものです。素晴らしいロゴス賛歌をもって始まる、ヨハネ伝に傾聴し続ける新たな旅に期待しています。
そのようなことで、今朝は次のシリーズの準備と重ね合わせて本詩に傾聴しているわけです。わたしにとっての[149:1
新しい歌]としての「ヨハネ福音書傾聴シリーズ」は、[149:2
自らの造り主]が、わたしの個性と賜物を生かして取り組むように導かれているものです。このような次々の聖書各巻傾聴シリーズの展開は、召されるその日まで続けることができるものではないかと楽しみにしているのです。それは、またわたしにとって[自らの王にあって楽し]み得る、主の統治と支配のもとでの召命に対する応答であり、決意であります。その奉仕は、御父に見守られつつ砂場で戯れる幼子のようであり、[149:3
踊りをもって、…タンバリンと竪琴に合わせて]主を賛美する楽隊のようでもあります。わたしたちひとりひとりに、それぞれの個性と賜物に合わせた召命があり、それを通して歌う「新しい歌」があると思います。それを惜しみなく歌う者、奏でる者となりましょう。
本詩の後半は、[B.彼らの口には神への称賛、彼らの手には両刃の剣]とあるように、これらの召命に従う旅路では、妨げにも直面します。ちょうど、本詩の背景としての、ネヘミヤが[ネヘ4:9
そこで私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた。…4:16
その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った]とあるように、奉仕に対する妨げの存在とそれとの戦い方を教えてくれます。わたしたちが召命と賜物によって、奉仕の現場に派遣されるとき、そこは「オオカミの中に送り込まれた羊」のような側面があることに無知であってはなりません。そこにおいては、「鳩のような素直さとともに、蛇のような知恵深さ」が必要とされます。少しの不注意で取返しのつかない人間関係の破壊やときには心身の障害を被ったり、奉仕そのものの挫折を来たらせたりするからです。アイアンドームのようなミサイルの防空システムが必要であり、いつも、ソロモンのような神の知恵、カイザルのコインのようなイエスの知恵を祈り求める必要があります。
彼らのエルサレムの城壁の再建という奉仕には、[149:5
敬虔な者たちは栄光の中で、喜び躍]るような、そして[自らの床の上で、高らかに歌]うような、[149:6
神への称賛があ]る共に、[彼らの手には、両刃の剣があ]りました。両面作戦です。一方だけに偏ってはいけないのです。それは、ネヘミヤにおいては、エルサレムの城壁再建という召命と賜物を妨げ、破壊する力の存在がありました。それとの戦いには、失敗はゆるされませんでした。それは民族の存亡、そして安定的成長の可能性に関わるものでした。新約のわたしたちにとっては、そのような戦いは、軍事的なものではなく、平和的なものであり、それは福音宣教に関わるものと理解されるでしょう。神さまは、[149:7
それは国々…、もろもろの国民を…、149:8
王たちを…貴族たちを…]、福音理解に導き、彼らを罪と死と滅びから救い出すために、[149:9
また書き記されたさばきを、彼らの間で行]い、み旨を全世界で達成するために、ご自身の民を用いられるでしょう。そしてそのような召命と賜物にあって、奉仕にあずかるわたしたちにとって、[これは、主にある敬虔な者すべての誉れ]となることでしょう。では、祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、C.ヴェスターマン『詩篇選釈』、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2024年4月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇148篇「主が命じて、それらは創造された」-食傷気味の詩篇を如何に意味深く味わうか-
https://youtu.be/URR79bFLPWQ
本詩148篇を読んでいて、ある言葉を思い出しました。詩篇に関するある本の最初にひとりの神学生が、「わたしは詩篇につまずきました」と語っていたことをです。最初は「なんてことを言うのか」と思いましたが、詩篇150篇に取り組んでいるうちに、「なるほど詩篇にはそのような要素がある」と理解できるようになりました。本詩には、前半だけで8つ「ほめたたえよ」という言葉が繰り返されています。前半は「天において、主をほめたたえよ」、後半は「地において主をほめたたえよ」が連呼されています。ストーリー性もなく、同じ言葉が繰り返される。これはいくらなんでも「食傷気味になる」のではないか。これが、上記の神学生のつまずきでありますが、多くのクリスチャンも、「同様の印象を抱く」のではないでしょうか。では、そのように受けとめられかねない詩篇を、「今日のわたしたちの生活に意味ある賛美として受けとめるためにどのような工夫が可能なのでしょうか」。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 148 ]
A.「いと高き所の、主のほめたたえ」に目が開かれなさい(v.1-4)
A’.「主が命じ、創造された」ことの意味に思いを潜めなさい(v.5-6)
B.「地において、【主】をほめたたえる」反響に覚醒されなさい(v.7-12)
B’.主が明らかにされている神学的含蓄に目を開かれなさい(v.13-13)
本詩148篇は、「命令形による詩篇」、すなわち「ほめたたえの詩篇」に属しています。1-6節は[いと高き所で、主をほめたたえよ]と、天から主をほめたたえるよう、7-12節は[地において、【主】をほめたたえよ]と、地から主をほめたたえるよう促されています。神をほめたたえることが、広がっていく様子が描かれています。見えない被造物である[148:2
すべての御使いたち]、そして見える被造物である[日、月、輝く星たち]、そして[大空である天、空の上にある水たち]―これらは、創世記の創造物語が、神の栄光を物語っていることを言い表しています。本詩は、その物語の断片ですが、詩人は創造物語全体を思い起こし、イメージでパノラマのように再現することを求めています。
創造の物語には、みわざの中に表されている神の栄光があります。詩篇19篇にあるように、「昼は次の昼に語り…」、「夜は次の夜に語り伝え」、そのリズミカルな連続は神の栄光を語り伝えることを中断することはありません。それは、何世紀にもわたり、宇宙の歴史を物語っています。それは、被造物によって創造者がほめたたられる歴史であり、反響です。信仰者がこの被造物世界をみるとき、そのような音楽の大合唱をみます。不信者がこの世界をみますとき、それは無音と沈黙がおおい、それは虚無に服しています。それゆえ、[いと高き所で、主をほめたたえよ]は、今から「ほめたたえる」ことを始めなさいという意味であると取るよりも、
[いと高き所で、(すでになされている)主のほめたたえ]に、[心の目を開いていただきなさい](エペソ1:18)と呼びかけられていると取る方が優れています。わたしたちが初めて賛美に召喚されるというよりは、天からの被造世界をあげての大讃美・大合唱・大演奏会の末席に、「地上から」加えていただくということです。
この「地上から」の主のほめたたえには、[148:7 海の巨獣よ、すべての淵よ]と出エジプトの紅海の経験、[148:8
火よ、雹よ、雪よ、煙よ。みことばを行う激しい風よ]とシナイ山の経験、[148:9
山々よ、すべての丘よ。実のなる木よ、すべての杉よ]と約束の地カナン征服の経験、[148:11
地の王たちよ、すべての国民よ。君主たちよ、地をさばくすべての者たちよ]と周辺諸国征服の経験を垣間見ることができます。それは、神が介入され、そのご計画と摂理をもって導かれる歴史です。新約の視点からは、数多くの教理的含蓄・示唆を掘り起こすことが可能です。
わたしたちは、この世界を見るとき、以前は虚無に服したニヒルな眼をもって観察していたでしょう。しかし、今わたしたちは「神の栄光」を軸にして、創世記の「創造物語」を教科書にして、この被造物世界が「神の栄光の舞台」であると受けとめることができます。この世界は、いまや「罪と死と滅び」にまみれた様相を示していますが、わたしたちは、神が「良き創造の教説」にしたがって、この世界を贖い、完成させてくださることを望み見ています。わたしたちは、「額に汗して、糧を得る」苦労・苦痛の多い人生を、贖罪と内住の御霊により、まるで「御父の傍らで、砂場で戯れて過ごす」(箴言8:30-31)幼子のようにして過ごします。
C.S.ルイスは問いました。「わたしたちがこの世に生を受けた目的、この地上における労働の意味は何でしょうか?」と。彼は、聖書の真理を分かりやすく、子供にでも分かるように「それは、小さな子供が仔馬のポニーをもらって乗りこなす練習をしているようなものだ」と。そしてその目的は「新天新地のうまやで、鼻息の荒い競走馬を乗りこなすためである」と。バーフィンクは、「救いの恵みはすべての人に平等・公平である。しかし、報奨の恵みは天空の星の輝きに千差万別あるように多様である」と聖書のみことばを解き明かしています。
わたしは、一見「食傷気味」と受け取られかねない本詩148篇の「ほめたたえ」の連呼の背景に、このような神学的含蓄を読み取り、傾聴していくなら、「天における」ほめたたえ、そして「地における」ほめたたえの、いわば「こだま」のような繰り返し、被造物世界のすべての楽器・合唱に気づかされます。そして、[148:11
すべての国民よ。…148:12
若い男よ、若い女よ。年老いた者と幼い者よ]と、民族を超えた普遍的な賛美、老若男女を問わず、[148:14
すべての賛美]のシンフォニーが溢れていることに目が開かれるのではないでしょうか(Ⅱ列王19:35、ルカ2:13、黙示録5:11-13他)。いつもこのような賛美の世界に目が開かれていましょう。では、祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、C.ヴェスターマン『詩篇選釈』、牧田吉和『改革派信仰とは何か』、『改革派教義学 2.神論』)
2024年3月31日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇147篇「鳴く烏の子に食物を与える方」-受難週のただ中に、「イースターの朝」を体験しつつ-
https://youtu.be/TjnkCUqURGU
今朝は、キリスト教の暦でイースター、約二千年前、わたしたちの罪の身代わりとして十字架上で刑罰を受けられ、死なれたイエス・キリストが三日目によみがえられた日です。わたしがクリスチャンになったのは、19歳のクリスマスの日でした。翌年の春に、西宮市にあるたくさんの教会の数えきれないくらいのクリスチャンがイースターの早朝に、神戸女学院の大きなステージと大きな庭に集まり、聖歌127番「墓の中に」を大きな声で大合唱したことを覚えています。感動的な光景でした。
今朝はまた。礼拝後に、昨年末に召されたわたしの母の納骨式を行います。母は、まことにわたしの生涯において、真のサポーターのひとりでした。一度は、「すべてをささげて献身した息子が、学校教師としての道を探る」折にも、「再びそれをささげて牧師の道を歩んだ」折にも、さらには「その道をささげて郷里へと帰り、神学教師としての道を歩んだ」折にも、いつもそれを肯定的に受けとめ、理解し支援し続けてくれました。そのような理解者と環境があったからこそ、ICI一宮基督教研究所を通しての神学営為中心の奉仕生涯を送り得たのです。元々は、「伝道し、教会形成に取り組み、その合間に母校を中心に神学教師としての務めを果たす」イメージで歩んでおりました。そのような中、共立基督教研究所への内地留学の機会を与えられ、そこで恩師宇田進師より「神学営為中心の奉仕生涯」の幻を与えられたのでした。
しかし、その道を歩むためには、セルフサポート、すなわち「自立・自活したパウロのようなスタイルで奉仕生涯を駆け抜ける以外に道はない」ように思いました。そのような行き詰った状況の中で、示されたのが「郷里に帰り、自営業で自立・自活しつつ、24時間365日、神学の研鑽とその結実を分かち合って生きる生涯の可能性」でありました。共立基督教研究所での「24時間365日、神学の研鑽」は、神学教師としての基礎・土台を築いたにすぎない感覚がありました。これで伝道・教会形成の現場に戻れば、「あの人は基礎を築いただけで、上に建物は建てられなかった」というみことばが響いていました。
わたしは、それが認められるかどうか。それが成功するかどうか。それは分かりませんでした。共立基督教研究所で築いた基礎の上に、立派な「福音理解」という建物を建てることができるかどうかは分かりませんでした(訳書や冊子、ユーチューブ・サイトは、ひとつの結実であります)。しかし、幾つかあった都市部の教会からの招聘の選択肢をお断りし、[共立基督教研究所で築いた基礎の上に、立派な「福音理解」という建物を建てる]という夢・幻・ビジョンに賭けることにしたのです。それは、「紅海の岸壁に立ったモーセたちが、危機的な状況下で、神がなしてくださることを見届けようとしている」かのようでありました。わたしは、郷里に帰り、働きながら、「一年でも、二年でも、三年でも良い。もし24時間365日、神学の研鑽とその分かち合いに生きることができるならと過ごし、不思議に守り支えられ、荒野の旅程のように、その生活が今日までほぼ35年間続くことになりました。
四人の子供も育て終え、神学校や神学会、牧師会や教職者セミナー等の数々の奉仕にもあずかり、祝福された奉仕生涯でありました。ある神学者が記しているように、[歴史的に存在している人間は、決断の瞬間において、繰り返し過去と未来との間の選択をしなくてはならない。人間は、可視的事物の世界、集団の世界の中に自己を喪失するか、それともあらゆる確実性の破棄と、自分はその上に何の規制力をももたない将来への無条件の降伏のうちに、自己の「現実性」を獲得するかどうかを決めなくてはならない]のです。要するに、人間は、人生の岐路に立つとき、「既存の捉え方の中で流されるままに生きる道」と「主なる神の、細き小さな呼びかけ(コーリング、召命)を聴き取り、それに負うべき十字架を背負って、死に葬られ、復活する道」を選び取るかの“決断”に迫られるということなのです。
わたしは、皆さんが置かれている状況は分かりませんが、ある人は、「紅海を前にして岸壁に立っておられる」でしょう。ある人は、「ピラトや大祭司の前に立って詰問を受けておられる」でしょう。“What
is your
calling?”―「あなたに対する、神の呼びかけは何ですか?」それを問い続ける者でありましょう。主にあってかけがいのない人生を生きるためです。わたしは申し上げたい。キリストの十字架は、信仰者たちを罪の「力」から解放し、その生涯を犠牲と献身に用いる道を開くものであること。あなたにとっての「罪の力」とは何でしょう。十字架はあなたのどのような部分・課題の中に働くのでしょう。
そして、わたしたちが十字架につけられたイエス・キリストを信じるということは、わたしたちがキリストの十字架を自分自身のものとして受け入れ、自分がキリストと共に十字架につけられることをよしとするということだ、ということを。そこにおいてのみ、「復活の朝」を体験しうるのです。あなたにとっての「復活のいのちの道」、すなわち[その生涯を犠牲と献身に用いる道]はどのようにして開かれていくのでしょうか。わたしたちの生涯が受難週のようであり、またそのことによって「イースター、復活の朝」を体験し続けられるよう祈ります。そのような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 147 ]
A.心の打ち砕かれた者を癒やし、彼らの傷を包まれる(v.1-6)
B.雨を備え、草を生えさせ、食物を与える(v.7-11)
C.雪を、霜を、氷を投げつけ、これらを溶かし、最良の小麦で満たされる(v.12-20)
70人訳では,1‐11節が146篇,12‐20節が147篇となっており,「ハレルヤ,ハガイとゼカリヤによる」という表題が両方に付けられています。つまり、これらの詩は、エルサレムの復興を感謝する詩で、2節[147:2
【主】はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集められる]、また[147:13
主はあなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ]からネヘミヤ時代(前445年頃)とする説があります。イスラエルに対する主の特別な恵み,自然界における主の力,世界の統治等が織り混ざっている、いわばモザイクのように編集された詩篇です。構成は、3つの区分が,それぞれ賛美への招きで始まっています。
第一詩節は、[147:1
ハレルヤ。まことにわれらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく賛美は麗しい]と主へのほめたたえで始められています。そして、2節以降でその理由が述べられています。[147:2
【主】はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集められる]は,ネヘミヤによる城壁修復と人々の再入国のことでしょう。 [147:3
主は心の打ち砕かれた者を癒やし、彼らの傷を包まれる]は、捕囚からの解放と故国帰還のことでしょう。
わたしたち新約のクリチャンにとっては、それは「罪と死と滅びからの救い」と受けとめられるものです。ただ「救い」は、そのように否定的な状況からの救いであるだけではありません。救いは、[147:4
主は星の数を数え]とあるように、アブラハムが星空を見上げ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたことの成就・実現としてのわたしたちがその「星」のひとつひとつです。[そのすべてに名をつけられる]とあるように、わたしたちは、ごみ箱のような倉庫から救い出されただけの「一本のギター」ではありません。それはきれいに清掃され、ワックスをかけられ、弦を貼り換えられ」飾られるだけの楽器でもありません。主の手に抱かれ、主の御霊によって、神律的相互性のみわざの中で、「人々を感動させてやまない音楽を演奏する」証し人へと召しだされているのです。このようなわたしたちの人生のただ中への主のみわざは、[147:5
偉大であり、力強くその英知は測り知れ]ません。主は、へりくだって、そのような主の摂理の働きを受け入れ、その節目節目に決断していく、謙遜で[147:6
心の貧しい者を支え]られます。
第二詩節も、[147:7
感謝をもって【主】に歌え。竪琴に合わせてわれらの神にほめ歌を歌え]と賛美で始まります。それは、[全被造物に対する恵み深い摂理のみわざの告白と賛美(98:4‐5)]です。そのみわざをわたしたちの人生に当てはめれば、[申2:7
事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった]といえるでしょう。
わたしたちが、共立基督教研究所での内地留学の三年目の三学期に、家内が「今月は水光熱費を支払うお金がありません」と言うことがありました。そのときは、打ちっぱなしのコンクリート建築の家族寮に住んでいましたが、「床が抜けるような感覚」に襲われました。しばらく後に、団体の会計責任者の方の思い違いがあり、「三月分までの約束が、十二月分で終わりだとして、振込がストップしていた」ことが分かり、安堵しました。
わたしたちは、自立・自活し、収支のバランスのとれた人生を送る必要があります。しかし、時に、「経済的な危機、また不安」に直面します。そのような時には、「抜けた床の穴にへたり込んで、主を仰いで祈る」より他ありません。すると、困窮状態は変わりないかもしれませんが、[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]とあるように、不安に打ちのめされることなく、神の不思議な平安に包まれる中で、ひとつひとつの課題に善処していくことが可能となります。8節は、「小がらすは親鳥に捨てられ,したがって生き残るためには全く神に依存するのだという一般的な……信仰があったのだろう」と言われています。その子ガラスのようになりましょう。
12節から第三詩節が始まります。13節[147:13
主はあなたの門のかんぬきを強め]は、城壁と城門の修復のことでしょう。シオンは,その住人を子供として守る母なる城壁都市です。14-18節は、自然を支配される主の力あるわざが続きます。それは、冬に、特にガリラヤ北部の山々に貴重な雪をもたらす言葉です。[147:16
主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。147:17
主は氷をパン屑のように投げつけられる]と。それは、[だれがその寒さに耐えられるだろうか]と、否定的な状況・経験・時期のように思われる季節です。わたしたちの人生にもそのような季節があります。しかし、[147:18
主がみことばを送ってこれらを溶かし、ご自分の風を吹かせると水は流れる]とあるように、その否定的と思われる「雪」は、解けて後、雨となり、川となり、渇いた大地を潤すのです。いわんとすることは、「若いうちの苦労は、お金を払ってでもしないさい」ということです。これは、同じ自治会の人生の先輩の言葉です。今は会社の会長をしておられますが、若い頃の「丁稚奉公」の経験は貴重であるとの教えです。社会経験や牧会インターン研修は人生経験の宝庫のひとつではないでしょうか。
[申11:9
また、【主】があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。11:10
なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。11:11
しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。11:12
そこは、あなたの神、【主】が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、【主】が絶えずその上に目をとどめておられる地である]。主にあって、「冬の季節の価値」に目を留める者とされましょう。
19‐20節[147:19
主はヤコブにはみことばを、イスラエルにはおきてとさばきを告げられる]とあるように、出エジプト、約束の地での取り扱い、バビロン捕囚、帰還と再建等のあらゆる機会で、「主はヤコブにはみことばを、…おきてとさばきを」告げられてきました。わたしたちの人生においても、同様です。主はその節目節目で、そして日々瞬々、主はわたしたちに「呼びかけ“Calling”、語りかけ」ておられます。これが「祝福」です。「天からの雨」です。[147:20
主はどのような国々にも、このようには]なさりませんでした。わたしたちの神さまは、創造の神であり、自然界を支配し、歴史を人生を支配・統治してくださるお方です。それゆえに、わたしたちは天を仰いで[147:20
ハレルヤ]と口ずさみつつ、人生の馳せ場を走り抜けるのです。受難週のような生涯のただ中に、「イースターの朝」を体験しつつ歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、Michael Wilcock、“The Message of Psalms 73-150:
Songs For The People Of God ” The Bible Speaks Today Old
Testament、J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』聖書文学学会執筆、ヘルマン・リダボス著、山中良知訳『現代神学入門』「第二部
ブルトマンの神学」 )
2024年3月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇146篇「幸いなことよ、神を助けとし、望みを置く人」-キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と-
https://youtu.be/HWwfZKc16yk
今週は、教会の暦の中で、受難週にあたります。少し振り返りますと、約二千年前のちょうどこの週の日曜日に「エルサレムに入城」され、月曜日に「宮きよめ」を行われ、水曜日に「ユダの裏切り」にあい、木曜日に「最後の晩餐、ゲッセマネの祈り」があり、金曜日に「ローマ総督ポンテオ・ピラトによる裁判」を受けられ「十字架につけられ」て亡くなられました。イエスは「人の子は、必ず多くの苦しみを受け(ポーラ・パシェイン)、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならない」(ルカ
9:22)と話されました。
「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられました(Ⅰペテロ2:21,24)。パウロは、「私たちはキリストの栄光をともに受けるために、苦難をもともにしている」(ローマ8:17、コロサイ1:24、Ⅱテモテ3:12)と書き記しました。つまり苦難は教会にとって避けるべきものではなく、教会の地上における本質的なあり方であります(ヨハネ16:33)。神の民は「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主と会うと語られているのです。
一宮チャペルでは、この受難週の礼拝を最後に、ひとりの神学生を「自立・自活の牧会インターン研修」に送り出そうとしています。それは、ある意味で受難の生涯、苦難の奉仕生涯への旅立ちでもあります。そのような神学生に、宮沢賢治の「雨にも負けず」を贈りたいと思います。[雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだを持ち、欲は無く、決していからず、何時も静かに笑っている]そのような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 146 ]
A.私は生きているかぎり、【主】をほめたたえる―ほめたたえの生涯(v.1-2)
B.あなたがたは頼みとしてはならない。救いのない人間の子を―あらゆる境遇に対処する秘訣(v.3-4)
C.幸いなことよ、その神【主】に望みを置く人―神に望みを置く生涯とは(v.5-9)
D. 【主】はとこしえに統べ治められる。ハレルヤ―王として統治される神に(v.10)
本詩は、神を助け手として信頼する者の歌です。神の民イスラエルは、人に頼るのではなく、いかなる時も、主の力と守りに身をゆだねるべきであることを教えています。「献身」ということを振り返りますとき、約50年前のわたしのことを思い出します。イエス・キリストを信じ、人生をどのように生きていくべきなのか、手探りしていました。最初は、中高の学校の社会科教師となり、聖書研究会でも開き、顧問となって証ししていく生涯を描きました。それで、大学三年生から教職資格を取るための科目をも追加し、それが原因で卒業には一科目不足して、一年間余分に過ごすこととなりました。ただ、それが幸いして、関西聖書学院の一年コースを学ぶ機会となりました。
その年の秋に、院長のフレッド・スンベリ師が「一度、社会人として社会を経験した方が良いのではないか。わたしも、宣教師となる以前、高校の倫理の教師していた」とアドバイスされました。教師資格を持っていたので、採用試験を受ける準備をし、パスし、臨時採用で入り、数ヶ月勤務し、正式採用の通知を受け取りました。そのときに、そのまま学校教師としての生涯を送るのか、フルタイムの献身の道を歩むのか、の岐路に立ちました。ニ、三ヶ月悩んだ中で示されたのは[ヘブル11:26
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました]というみことばでした。安定した給与と福利厚生のある学校教師の道をささげて、そのような豊かさを期待できない「牧師、また教師」の苦難の道を歩むことを決断しました。
はっきり言って、この世の損得勘定から考えると、献身者の道は、モーセが語ったように損失の多い、受難の生涯です。しかし、献身者はなぜそのような苦しい人生をあえて選択するのでしょう。それは、[キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富]と換算できる眼が与えられているからです。パウロもまた、[ピリ3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています]と、この世の価値観からの大転換を証ししています。この転換なしには、献身者の道を歩むことはできません。
このように、モーセの[キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考え]うる価値観、[自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思う]価値観、このような価値観の大転換は、献身者の召命を証しするものでしょう。このような考え方ができることが奇跡なのです。献身のステップの中で、献身の動機や内面を[「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)]行きます。「召命」の確信、また「献身」の決意というものは、このようなプロセスを経てなされる[詩66:10
私たちを試し銀を精錬するように私たちを錬られ]る神の「刀匠」のようなみわざなのです。
このような視点に立ってはじめて、その奉仕生涯が苦難に満ちても、どれほど貧にまみれていても、第一詩節の[146:2
私は生きているかぎり、【主】をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う]生涯を送り得る確信が芽生えてきます。また、第二詩節では、このような「召命確信と献身の決意」が、[詩
12:6 土の炉で七度試され純化された銀]と練られていく中で、[146:3
あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を]とあるように、「依存」からの「自立」が取り扱われます。アダムも[創2:24
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである]とあり、アブラハムも[創12:1
【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい]と、「依存」からの「自立」が促されています。
さて、献身者が絶対的に依存し、全面的に依拠する神さまとはどういうお方なのでしょう。神さまは、[146:6
主は天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた]天地創造の神さまです。このお方は[とこしえまでも真実を守り、146:7
虐げられている者のためにさばきを行い、飢えている者にパンを与える方。【主】は捕らわれ人を解放される]お方です。そして[146:8
【主】は目の見えない者たちの目を開け、【主】はかがんでいる者たちを起こされる。【主】は正しい者たちを愛し、146:9
【主】は寄留者を守り、みなしごとやもめを支えられる]お方です。これらの箇所からどのようなメッセージを傾聴できるでしょうか。
主の力強さと確かさの表明が創造のわざによって示され,人の不確かさと対比されています。7節の後半から9節まで,〈主〉という言葉が連続5回,文の冒頭に置かれて強調され、「神の力と恵みは,人間の力がくずれ去ったところで正に力をあらわす。圧迫され,屈められ,捕らわれ,飢え,病み,守りなき人々,たとえば外国人,みなしご,やもめ等のすべてが神のもとに助けと救いを見出します。最高の裁判官である神が,権利や助けのない外国人,孤児,寡婦など特別な保護と援助を必要としている者を正しくさばいて下さいます。
これら第三詩節の展開を読んでいて、共立とTCTSで学んだ泉田昭著『キリスト教倫理』の講義を思い出しました。その内容は[①キリスト教倫理、②人間として生きる、③生命の倫理、④霊性の倫理、⑤教会の倫理、⑥社会の倫理、⑦家族の倫理、⑧国家の倫理、⑨戦争と平和、⑩キリスト教と文化、⑪キリスト教と民族、⑫終末の倫理]という構成からなっています。新約の牧会書簡の教えは、「健全な教え」を土台にした「健全な生活」で構成されています。そこで教えられることは、「献身者は、どういう者でなければならないか」という基準です。基本的に、献身者は「自立し、自活できる社会人クリスチャンでなければならない」ということです。社会においても、家庭においても「模範」でなければ、教会において「証し」にならない。かえって「つまずき」になるということです。
ですから、牧師子弟は、注意しなければなりません。社会で通用しないから「でもしか教師ならぬ、でもしか牧師」となってはならないのです。旧約でいうエリの息子たち(Ⅰサムエル2:22-24)のようであってはならないのです。ですから、ある意味で「献身の環境」に恵まれた教職者子弟は、ひと一倍「火の中、水の中」を通されて、その「召命の内容、献身の決意」の程度・真価を証明していかなければ、いつまでも侮られる対象になりかねないのです。それは、親である牧師夫妻、ひいてはそれを許容された神さまが侮られかねない事態を引き起こす危険すらあるのです。
しかし、その「召命の確信と献身の決意」が、[詩 12:6
土の炉で七度試され純化された銀]と精錬されていけば、神の栄光をあらわしうる器となり、[146:10
【主】はとこしえに統べ治められる]と、王たる神の統治の栄光をあらわす奉仕生涯を送り得るでしょう。主が若手の神学生、また伝道者諸氏を、そのような「主のしもべ」の生涯に導いてくださり、[いのちのあるかぎり、神にほめ歌を歌う]生涯、王たる神の統治の栄光をあらわす奉仕生涯を送らせてくださいますよう、祈ってまいりましょう。
(参考文献:(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、Michael Wilcock、“The Message of Psalms 73-150:
Songs For The People Of God ” The Bible Speaks Today Old
Testament、泉田昭『キリスト教倫理』 )
2024年3月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇145篇「彼らに食物を与えられます」-倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます-
https://youtu.be/24UUfudUPhg
本詩145篇は、ダビデ詩篇集の最後のものであり、また八つのアクロスティック、すなわちアルファベット順のいろは歌の最後のものです。また、神の民,神のしもべの務めは,全人類と共に王なる方を礼拝することであること、真の王である神は永遠のお方でありますから,その支配の下にある人間も絶えず主をほめたたえるべきであることを教えています。そして、最後の箇所では、神の全世界的支配の告白と全人類に賛美への参加を促す普遍的な勧めで閉じられつつ、同時に詩篇全体の終りの部分(145‐150篇)の始まりとしての役割を果しています。このように全世界的な視野をもつ本詩の祈りと賛美と告白をどのように傾聴し、わたしたちの人生に適用していけば良いでしょうか。一宮チャペル・一宮基督教研究所では、ひとりの神学生がある地方教会に派遣され、自立・自活しつつ牧会のインターン研修を受けようとしています。今朝は、そのような状況に思いを馳せ、神さまの守りと支えがあらんことを祈りつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 145 ]ダビデの賛歌。
A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき(v.1-3)
B.賛美の理由・根拠―創造と解放、誕生と救いのみわざ(v.4-7)
C.奉仕の根拠―はじめに赦しありき(v.8-9)
D.神の国の一員として召し用いられる―王国の栄光を語り、知らせ(v.10-13)
E.健康と経済を支えられる神―かがんでいる者を起こし、食物を与えられる主(v.14-16)
F.奉仕生涯を導かれる神―わたしたちの内に願いを起こし、それを成就される主(v.17-20)
G.奉仕生涯の終わりに―証しと賛美ありき(v.21)
奉仕生涯の最初にふさわしいものとは何でしょうか。それにはいろいろあるでしょう。本詩は、[145:1
私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。145:3
【主】は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは測り知ることもできません]という言葉で始まっています。この言葉から、わたしは第一詩節に[A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき]とタイトルをつけさせていただきました。長らく睡眠の問題で苦しんでいた息子が、健康を取り戻し、長年の念願であった聖書学校に入学して二年を経ました。
最初の一年間は、戦いの中にありましたが、不思議なことに二年目にはすっかり健康を取り戻し、週末は堺福音教会チャペル犬山で二泊三日の奉仕の機会を与えられ、毎週の礼拝説教を語らせていただきました。このようなことは、夢にだに浮かぶことはありませんでした。背景に東京基督教大学神学科での学びがあったとはいえ、ヨハネ伝にあるように、[ヨハ11:38
イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」11:40
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」11:41
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。…11:43
そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」11:44
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た]とあるように、
洞穴に葬られていたラザロがよみがえらされたかのような奇跡を見ている面持ちでありました。
そのような経過がありましたので、スイスイと三年生に上がり、ただちに伝道・牧会の最前線に立つことには一抹の不安もありました。そのような中、聖書学院側から「完全な修了でもなく、三年生への進級でもない、第三の道として“他教会での一年間の牧会インターン研修”」の提案をいただきました。その提案をお聞きし、主のみこころと確信し、学院の先生方とインターン研修受け入れ教会の先生に対して心からの感謝を申し上げ、すべてをお任せすることになりました。まさに[伝3:1
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。…3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい]と神の導きに感謝と賛美をささげました。30~40年間にわたる奉仕生涯の最初の時期にじっくりと時間をかけ、大切に育ててもらうことにしたのです。親鳥の庇護から離れ、ひな鳥は「巣立ちの時」を迎えたのです。それをわたしたちは一抹の不安を抱きつつ「
A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき」と名付け、“他教会での一年間の牧会インターン研修”の機会のゆえに [145:1
私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します]と賛美をもって送り出したいと思っています。
第二詩節は、[B.賛美の理由・根拠―創造と解放、誕生と救いのみわざ]です。本詩節は、第一詩節の「王たる神」をほめたたえる理由・根拠が明らかにされています。[145:4
あなたのみわざ…あなたの大能のわざ…。145:5 主権の栄光の輝き、…奇しいみわざ…。145:6
恐ろしいみわざの力…あなたの偉大さ…。145:7
あなたの豊かないつくしみの思い出…あなたの義を高らかに歌います]と語ります。それは、創造主である神の天地万物の創造のみわざであり、贖い主である神のエジプトでの奴隷生活からの解放・救出のみわざでありました。それをわたしたちの存在、また人生に当てはめれば、両親を通して与えられた「生」、またキリストとの出会いを通して与えられた「救い」ということになるでしょう。わたしたちは、旧約の神の民がそうであったように、わたしたちの存在と生涯に起こった神のみわざを思い起こし、[145:1
私はあなたをあがめます。…あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します]と告白し続けましょう。
第三詩節は、[C.奉仕の根拠―はじめに赦しありき]とタイトルしました。それは、わたしたちが「献身」を意識しますときに、発する問いがあるからです。「わたしはそれにふさわしいのだろうか?」と。このように問いかけると、「土の器」であり、あちこちに傷があり、欠けのあるわたしたちは「わたしはふさわしくないのではないか?」と解答せざるを得ません。しかし、ある意味で、このような答えをもつ者こそが「神の奉仕者として、ふさわしい」といってもらえるのかもしれません。
ルカによる福音書に[ルカ18:9
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。18:10
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。18:11
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。18:12
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』18:13
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』18:14
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」]とある通りです。
第三詩節の[145:8 【主】は情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵みに富んでおられます。145:9
【主】はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります]は、出エジプト記に出てくる言葉で、[出34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」34:8
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。34:9
彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」]とあるように、奉仕者として立っていくためには、「土の器」であり、「罪人」であり、「うなじの固い人間」であるとの謙遜とそのような自分が「神の赦し」「神の恵み」によって立たせられているのだという絶対的な基盤が必要であるのです。「姦淫者」ダビデや「殺人協力者」パウロが用いられたのも、そのような自覚と基盤があったがゆえでした。すねに傷があるかどうかは問題ではありません。それを悔い、認め、情け深く、あわれみ深い神の赦しと恵み上に立ち続ける者となりましょう。
第四詩節は、[D.神の国の一員として召し用いられる―王国の栄光を語り、知らせ]る奉仕にあずかる、ということです。神さまは、罪深いわたしたちを赦し、義と認め、神との交わりの中で、その品性と人格を[145:10
敬虔な者]として次第に整え、その昔、預言者や使徒たちを時間をかけて備えられていったように、神の[145:11
王国の栄光を告げ、…大能のわざを語り…145:12
主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を知らせ]るかたちで[145:13
永遠にわたる王国]の代々限りなく統治の一端を担わせてくださいます。教職者であれ信徒であれ、献身者、奉仕者は、いわば
[145:13 永遠にわたる王国]の政府機関の官僚であり、公務員であるともいえる光栄な職務に就くことなのです。
第五詩節は、[E.健康と経済を支えられる神―かがんでいる者を起こし、食物を与えられる主]という視点でみてまいりましょう。確かに神さまは、Ⅰコリント書にありますように、[Ⅰコリ1:26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。1:27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。1:28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです]と書かれています。本詩にあるように、神さまはあえて[145:14
倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされ]るようなかたちで、主の働きを進められていることに気づかされます。
ただ、聖職者には、今日大企業や公務員等で保証されているような「豊かな給与や福利厚生」は期待できません。それは「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」といわれるような生活であり、生涯となるやもしれません。わたしも、献身当初は「将来は、新聞配達しながらの開拓伝道となるのかな?」と思い描いたものです。家内も歯医者の受付、保険会社の外交員、牛乳配達、宿舎の清掃員等かずかずの仕事に携わり、わたしの召命と賜物を支えてきてくれました。わたしも神学の研鑽と神学教育が第一であり、それを成し遂げるために、使徒パウロのように働きつつ奉仕することになんのためらいもありませんでした。否、奉仕生涯の大半がセルフサポートであったがゆえに、「神学の研鑽と神学教育を第一とする生涯を送り得たのだ」と確信させられています。ですから、若い神学生の兄姉に申し上げたい。「働きながら、召命と賜物を達成しようとすることを恥じと思わない」でいただきたい。それは、たくましい奉仕者の証しでもあるのですから。
わたしの経験から申し上げられることは、「ひたむきに自らの召命と賜物と思うことに専心しなさい」ということです。サポートが十分あれば働かなくて済みますし、足りていなければその分働けば良いし、まったくのセルフサポートなら、「パウロもテントメーカー、すなわち現場労働者として働きつつ、奉仕生涯を送ったのだ」と励まして、パウロのように奉仕生涯を走り抜けたら良いのです。自立・自活し、働きながら奉仕生涯を送ろうとする者には妨げはなにもないのですから…。[マタ6:33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます]とある通りです。神さまは、[145:15
時にかなって、…食物を与えられます。145:16
あなたは御手を開き、…すべての願いを満たされます]とある通りにです。要するに、重要視していることは、わたしたちそれぞれに与えられたと確信する「召命と賜物における達成度」であって、経済的な豊かさとか、社会や教会での名声等には、あまり関心を持たなくて良いのです。神様の垂直からの絶対評価のみが、わたしたちの人生評価の尺度であるのです。
第六詩節は、[F.奉仕生涯を導かれる神―わたしたちの内に願いを起こし、それを成就される主]です。申命記には、[申2:7
事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった]とあります。二十歳台に献身し、神学校で学びと訓練を受けた献身者の卒業後の奉仕生涯はほぼ四十年間がひとつの目安でしょう。もちろん、召される日までなんらかのかたちで奉仕は続けられるでしょうが…。それは、ちょうど、エジプトから解放された神の民が、シナイ山で十戒を受け取り、示された青写真に沿って幕屋が建設されたように、奉仕生涯の最初の数年間に基礎神学教育を受け、伝道と牧会の訓練を経験し、ほぼ四十年間、荒野の旅程のように奉仕生涯を送らせていただくことに類比されます。彼らは出エジプト記・申命記の道徳法・民法・刑法、レビ記の礼拝形式、民数記の秩序を得て、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、約束の地カナンへと旅を続けました。それは、新天新地の御国に向かって地上の旅を続ける新約の神の民のイメージと重なります。
本詩の第七詩節では、[145:17
ご自分のすべての道]をみことばと御霊によって指し示し、その奉仕生涯の必要においてなされる[すべてのみわざにおいて恵み深い方]であると教えられます。それは、僻地での種蒔きと証し、そして「一宮基督教研究所」という不思議な奉仕のフロンティアを導かれた小さな主のしもべの証しとして告白できます。[145:18
主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、【主】は近くあられます。145:19
また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて救われます。145:20
すべて主を愛する者は【主】が守られます]と。献身者・神学生に申します。「奉仕の場所がないと嘆くなかれ。奉仕の場所は無限にあります。あなたが主に導かれて、だれも耕していない新しいフロンティアを開拓していけば良いのです」と。求めなさい。願いなさい。そうすれば、神様は、だれの思いにも浮かんだことのないフロンティアを、幻を見せてくださいます(エペソ4:20)。
そして、七十歳の齢を越えた今、[G.奉仕生涯の終わりに―証しと賛美ありき]と証しできたら本当に幸いです。[145:21
私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように]。わたしのように小さな者を用いてくださったのですから、若き神学生、献身者が、用いられないはずがありません。彼らが一人残らず、本詩に告白・証しされているような生涯を送ることができますよう祈っています。では、祈りましょう。
(参考文献:デレク・キドナー著『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解、Michael Wilcock、“The
Message of Psalms 73-150: Songs For The People Of God ” (The
Bible Speaks Today Old Testament )
2024年3月10日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇144篇「よく育てられた植木、宮殿の刻まれた隅の柱」-願わくば、我に七難八苦を与えたまえ(山中鹿之助)-
https://youtu.be/bDAjSAt43Zs
ティンデル聖書注解によれば、「この詩篇は寄せ集めであって、一枚岩ではない。…この詩篇の題材のほとんどは、ダビデの他の詩篇からの引用である」とあります。このような寄せ集めの詩篇は、背景を読み取ることはとても困難です。集められた詩篇にひとつのストーリーを読み取り、ひとつのメッセージを聴き出すこともまた難しく思います。一週間、繰り返し読み返し、傾聴しようとするのですが、文字面を追いかけることに終始してきたように思います。そのような中、最近の多くの注釈者が推測するのは、本詩は後代の編者がこの詩篇をダビデの後継者たちのために編集したのではないかということです。すなわち、ダビデが享受したのと同じ祝福と勝利を新たに経験させてくださるようにと祈った詩篇であるということです。紀元前の古代の祝福と勝利に励まされて、本詩を今日の私たちの祈りに役立てさせていただきましょう。
(概略)
詩[ 144 ]ダビデによる。
A. 神は如何なるお方か?―戦のために私の指を鍛えられる方(v.1-2)
B. 人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影(v.3-4)
C. 過去におけるみわざ―シナイ山で、紅海で介入された神(v.5-8)
D. 現在における祈り―救いを与え、悪の剣から解き放たれる神(v.9-11)
E. 未来における結実―よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱(v.12-15)
今朝は、第二礼拝で一宮チャペル&一宮基督教研究所の神学生である安黒拓人神学生が関西聖書学院の二学年の学びと訓練の証しをしてくれるとのことです。先日、関西聖書学院を二学年で修了しました。そのまま三学年に上がる方向で考えておりましたが、将来のことを考え、この春から一年間の「インターン牧会研修」に敦賀の教会に導かれ、その後に三学年に上がる方向で考えています。ことわざに「急がば回れ」「石橋を叩いて渡る」とある通りです。奉仕生涯の最初の基礎神学教育と奉仕訓練は、きわめて重要な意味をもつと思います。拓人神学生はこの二年間で大きく変えられ、整えられてきたように思います。KBIの先生方と週末奉仕の教会、同僚の神学生等、すべての皆様と共に働かれた主に心より感謝をささげます。今朝は、そのことに感謝するとともに、そのことに重ね合わせて本詩に傾聴させていただくことに致しましょう。
本詩1節は[144:1
戦いのために私の手を、戦のために私の指を鍛えられる方]という言葉で始まります。これは、まさに「奉仕生涯の最初の訓練と学び」にふさわしい言葉ではないでしょうか。ダビデは、詩に音楽に賜物を有しておりました。それが王のそばに引き上げられる契機となりました。これは、[144:2
主は…私の民を私に服させる方]とあるように、いわば「政治学部」教育となり、将来の王国統治を学ぶ機会ともなったでしょう。また、霊感に溢れたその膨大な詩篇集作成は、メシヤ預言とその王国の未来を指し示す価値ある文書を結実させました。ダビデは、羊飼いの仕事をなし、石の飛び道具で熊やオオカミを打ち倒す戦士として育っていきました。これは、将来の巨人ゴリアテや周辺の敵国と戦う戦略を学ぶ機会となったことでしょう。サウル王の追撃体験すら、イスラエルの地形を学び、それを利用しての戦略を将来に生かしたことでしょう。要するに、ダビデは、「一を聞いて十を知る」というような現場教育の中で、すさまじい学習能力を発揮していったのです。それは、預言者サムエルを通して油注ぎを受けた日から、激しく聖霊が注がれていた(Ⅰサムエル16:15)からです。主に用いられるしもべとなるために、このような学習意欲を増し加える聖霊の満たしを受け続けましょう。
1-2節が「神は如何なるお方か?―戦のために私の指を鍛えられる方」であるとすれば、3-4節は「人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影」といえるでしょう。わたしは、1979年に関西聖書学院を卒業し、43年経ちました。「どう振り返られますか?」と尋ねられますと、「人は息、その日々は影」と簡潔に表現できるかもしれません。「光陰矢の如し」とか、「難波のことは夢のまた夢」ともいわれますように、始まるときは人生は永遠の長さをもっているかのように思いを馳せるのですが、走り終えた今、それは「ほんの一瞬」だと振り返ります。それで思うことは、無限に時間があるかのように「あれやこれや、すべてのものを引き受けて取り組む」のは無謀であるということです。
わたし自身の証しから申しますと、共立基督教研究所の三年間の内地留学が終わる頃、進路に悩みました。恩師の宇田進師は、「安黒先生は、研修終了後、どのようにされるのですか?」と問われました。わたしは、当然のごとく「伝道と教会形成の現場に戻ると思います」と答えました。すると先生は「伝道と教会形成の現場にも意味・意義があるけれど、神学的営為に尽くす道もありますよ」と助言してくださいました。その結果として、幾つかの教会からの招聘をお断りし、ある意味無謀な選択ではありましたが、郷里に帰り、自営業のガソリン・スタンドを手伝いながら、小さな開拓と伝道と教会形成のための「神学的兵站基地」としての一宮基督教研究所(ICI)づくりに邁進してきた三十数年でありました。ラッド、エリクソン、宇田進、牧田吉和等の「伝道と教会形成のための神学的営為にささげられた先輩たち」の御足跡(Ⅰペテロ2:21)をたどり続けた三十数年でありました。僻地でのセルフサポートでの「神学的営為としてのICI」が伝道と教会形成のための「健全な福音理解」のあり方にどれくらい寄与してきたかは、「主の日」に明らかにされるでしょう。
わたしが聖書学校で学んでいたときに、響いていたみことばは、いつも「小さな事に忠実でありなさい」(マタイ25:23)というみことばでした。わたしの召命は、大宣教命令を叫ぶことでもなく、都市部の大きな教会で奉仕することでもなく、セルフサポートで僻地の開拓をなし、そこに「伝道と教会形成のための神学的兵站基地」を形成することであったのです。わたしは、奉仕生涯に導かれた若手の神学生・修了生・卒業生に証ししたいと思います。[人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影]であると。一年過ぎるのは早いでしょう。それは感覚として分かります。奉仕生涯とは、その一年を30-40回繰り返して終了するのだと思えば良いと思います。わたしの申し上げたいことは、こうです。「奉仕生涯は皆さんが思っておられるよりも短い」ということです。ですから、[召命と賜物]をみきわめ、小さな事に焦点を絞り込み、全力で課せられた重荷に取り組むべきだ、ということです。
5-8節は、[過去におけるみわざ―シナイ山で、紅海で介入された神]ということです。旧約聖書を通して教えられる神さまは、「この世界に来訪される神、事件や歴史の中に介入される神」であるということです。5-6節の[144:5
天を押し曲げて、降りて来て…山々に触れて、噴煙を上げさせ…144:6
稲妻を放って…]という光景は、エジプトから脱出してきた300万人の烏合の衆に、基本法、民法、刑法、礼拝儀式法等の基礎となる「十戒の二枚の板」を与えられたシナイ山での光景を思い出させます。7節の[144:7
いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水からまた異国人の手から、私を解き放ち救い出して]は、紅海の岸壁でパロの軍勢で全滅させられそうになった時に介入された経験を思い出させます。そうなのです。神の民とは、「苦境のただ中にあるときに、神の介入により救い出された記憶・イメージを基盤として生かされている民」であるのです。
9-11節は、「苦境のただ中にあるときに、神の介入により救い出された記憶・イメージを基盤として生かされている民」であるだけでなく、神の民は、現在[144:10
救いを与え]られる神を経験し、[悪の剣から解き放たれ]る経験をするのです。よく年配の方から「若い時の苦労は、お金を払ってでもしなさい」といわれました。つまり丁稚奉公の経験ですね。そうそう、わたしの結婚式の時にも義父から、お祝いの言葉として「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という山中鹿之助の言葉をいただきました。それは、義父の人生哲学であるとともに、これから人生を始める、青二才である愛する娘夫婦に、[ロマ5:3
苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す]ことを励ましたものであったと振り返ります。若い神学生に、エレベーター式に三学年進級させず、医学生のインターン研修期間のように「一年間の、働きながらの、自立・自活で、教会住み込みの牧会研修」というのは、なんという大きな恵みであることでしょう。それは、ひな鳥が親鳥の巣から飛び立つ練習期間のようです。メンター(指導者、助言者)となってくださっている先生方に感謝しています。
12-14節は、[未来における結実―よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]となしてくださる、との主の約束です。わたしたちが、神を知り、人生を理解し、そこに関わってくださる神のみわざを繰り返し、イメージで復誦するのは、わたしたちの人生への神の介入を求めるがゆえです。「可愛い子には旅をさせよ」と申します。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と申します。それは何のためでしょう。その答えがここにあります。それは、[詩
12:6
土の炉で七度試され純化された銀]とされるためです。わたしたち献身者は、幾度となく、「献身の動機」を試され、純化されていきます。いわば奉仕生涯そのものが「土の炉」であり続けるのです。この生涯は、主からの栄誉はあるでしょうが、この世的にはなんの利得もありません。それをいろんな角度から思い知らされていくのです。それは、「金箔を剥ぎ取られていく幸福な王子さまの像」のような生涯です。
しかし、そのようにして、わたしたちは、そして若き神学生たちは[よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]とされていくのです。経済的に[144:13
私たちの倉は、もろもろの産物で満ち]ていますという奉仕者は多くないでしょう。また、[私たちの羊の群れは、私たちの野で幾千幾万となり]といった教勢を誇る大きな教会となる奉仕者はごくひとにぎりでしょう。魂が救いに導かれ、[144:14
私たちの牛が子牛をよくはらみ]、救われた魂が教会を離れることなく[早産も流産もなく、哀れな叫び声が私たちの町にありません]という教会もどれくらいあることでしょう。しかし、わたしたちは、詩篇のイメージに合わせて祈ります。み言葉に示されている線にそって、主が働いてくださいますようにと。それが、受洗者数であれ、礼拝出席者数であれ、ICIのようにインターネット神学講義の受講生数であれ、それぞれの召命と賜物によって、戦いとってきた「主の恵み」において、[144:15
幸いなことよ、このようになる民は]と祈り続けることができますように。若き神学生の兄姉の上に、その七難八苦を通して彼らを[よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]となし、
[144:14
私たちの牛が子牛をよくはらみ、早産も流産もなく、哀れな叫び声が私たちの町にありません]という奉仕生涯を送らせてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: デレク・キドナー著『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解)
2024年2月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇142篇「ダビデが洞窟にいたときに」-正しい人たちは私の周りに集まるでしょう-
https://youtu.be/KhO4I17EDrA
マスキールの意味は明確ではありません。ただ、詩篇32:8の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もあります。13の詩篇に表題として用いられており、詩篇47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すとも思われます。本詩は、ダビデが体験した重大な危機(Ⅰサム22,24章)と関連付けられた詩であり、同時に、捕囚あるいはそれ以後の困難の状況の中で,主に希望を託し,救いを待ち望むイスラエルの祈りであります。このような視点で、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 142 ] ダビデのマスキール。ダビデが洞窟にいたときに。祈り。
A.私は逃げ場さえも失って(v.1-4)
B.正しい人たちは私の周りに集まる(v.5-7)
詩篇の編纂者は、本詩に[ダビデが洞窟にいたときに]という表題をつけました。これは、おそらくⅠサムエル記22章のアドラムの洞穴の経験を意識したものでしょう。ダビデは、少年の頃から羊の世話をなし、彼らをオオカミや熊から守っていました。その経験が巨人ゴリヤテとの戦いにも役に立ちました。わたしたちクリスチャンも、若い時から聖書に親しみ、教会学校で小羊を養い、霊的な戦いを学んで育つのは良い訓練となります。それらの経験は、[142:3
あなたは私の道をよく知っておられます]とあるように、諸段階を経て養い育てられ、訓練を受け、その召命と賜物が信徒であるか教職者であるかは別として、[エペソ書4:12
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。4:13
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです]とあるように育てられていきます。わたしたちは、それぞれが「到達したところ」(ピリピ3:16)を基準としてさまざまな段階を経て成長を導かれていくべきです。
ダビデの生涯は、そのような霊的成長を願うわたしたちにとって、最良のモデルのひとつです。ダビデは、サウルの次の王として油注がれました。しかし、それはサウル王朝の継続を願う王の願いを脅かすことでありましたので、危険なことでありました。ダビデは、やがて[142:4
私は逃げ場さえも失って][142:6 私を迫害する者から救い出してください][142:7
私のたましいを牢獄から助け出し]てください、[142:1 声をあげて、私は【主】に叫びます][142:5
【主】よ、私はあなたに叫びます]と、主への叫びで溢れる生活に追い込まれます。これは、わたしたちにとって大きな励ましです。わたしたちが救われ、聖霊に満たされ、主のみ旨と信じるところを証ししていくとき、イエスのように荒野に導かれます。弟子たちのように、オオカミの中に送り出された羊のようになります。クリスチャンがこの世で生きていくとき、それは[142:2
御前に自分の嘆きを注ぎ出]す人生を生きることであり、[私の苦しみを御前に言い表]す人生に生きることであると教えられるからです。
ダビデがその人生で最も祝福された時期はいつであったでしょう。ヘブロンでユダ王国の王とされた時でしょうか、南北王国が統一された時でしょうか。もちろん、それは約束の成就された時であり、大きな喜びであったでしょう。しかし、そこには、バテシェバ事件や子供たちの事件等、身から出たさびと申しますか、誘惑と罪の多い時でありました。ダビデが主と最も深い交わりをなし、主をのみ[142:5
あなたこそ私の避け所、生ける者の地での私の受ける分]と叫び続け、依拠し続けた時期は、[ダビデが洞窟にいたとき]でありました。ダビデは、名もなき田舎で羊飼いをしておりましたが、預言者サムエルに油注がれ、音楽も才もあったことなどから、[Ⅰサム16:18
家来の一人が答えた。「ご覧ください。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。弦を上手に奏でることができ、勇士であり、戦士の出です。物事の判断ができ、体格も良い人です。【主】が彼とともにおられます。」]と推奨され、サウルの側近に抜擢されました。
さらには、ペリシテ軍との戦いに遭遇し、[Ⅰサム17:49
ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた]とあるように、ペリシテ軍を打ち破り、一躍注目を集めました。しかし、そのような成功は、新たな危機の種ともなりました。それは、ダビデが[Ⅰサム18:5
ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収め…18:7
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」]と言われるようになったからです。人間の世界では、成功した時がまた一番危険な時でもあることを教えられます。それは、サウル王に嫉妬と妬みからくる怒りを呼び起こしたからです。ダビデの大きな成功は、サウル王朝存続の脅威とみなされ、ダビデはいのちを狙われるようになります。日本のことわざでも、「出る釘は打たれる」とか、「能ある鷹は爪隠す」とか言われます。成功したとき、祝福の社交辞令を受けるとき、わたしたちは「新たな地雷原」に足を踏み入れているのだと知りましょう。賞賛の言葉の上昇気流に酔うのではなく、[Ⅰペテ5:6
神の力強い御手の下にへりくだり]ましょう。謙卑の精神に寄り添い、身をかがめる者にしていただきましょう。
サウル王のダビデ殺害計画は、手段を選ばずあらゆるかたちで進められていきました。ダビデを愛する王の娘ミカルも利用されました。ダビデを擁護しようとする息子のヨナタンすら殺されるところでした。サウル王は、ダビデを反逆者として指名手配し、追撃部隊を送り続けます。それで、ダビデは、イスラエル南部の洞窟地帯に避難することにしたのです。ダビデは、孤独でした。不安でした。すべてのものを失いました。戦士たちの長としてのポストも、サラリーも、妻も。愛する国家から見捨てられ、いのちをつけねらわれるお尋ね者となってしまいました。
しかし、不思議なことに、そのような危機の時に、並行して神のみわざが進行してまいったのです。[Ⅰサムエル記22:1
ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。22:2
そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった]とあるように、ただちに神は兄弟たちや、彼の家のみなの者を送り、洞穴で合流させました。そして次第に仲間となる者を加えていかれました。そして、この仲間たちは後に、ダビデ王国の中枢となるべく準備されました。要するに、ダビデの人生におけるこの干潮期が、実は転換点であったと教えられるのです。
あなたにも、わたしにも、「Ⅰサムエル記22:1
アドラムの洞穴」のような時期があるでしょう。体験があるでしょう。「そのような洞窟」の中で、悶々と過ごした日々があるでしょう。主に祈り、叫び続け、憂いと不安な思いを注ぎ出し続けた時があるでしょう。その「洞穴」は、あなたが、またわたしが、すべてを剥ぎ取られた時間であり、同時に主のみが[142:5
私の避け所、生ける者の地での私の受ける分]であると自覚させられたときであるのです。そのような時、あなたも、わたしも「No
Post. No Salary」に追い込まれ、さらには「No
Honor」に留まらず恥や嘲り、ののしりさえ、鞭うたれ、つばをかけられ、いばらの冠をかぶせられさえするのです。
しかし、主は[142:3
私の道をよく知っておられます]。主は、わたしたちの成長段階を知っておられ、それぞれの段階にふさわしい備えをしてくださいます。仕掛けられている「142:3罠」から救い出し、閉じ込められている「142:6
牢獄」から助け出してくださいます。それだけでなく、正しい人を[142:7
私の周りに集]めてくださいます。わたしたちが、絶望の淵に沈まんとするとき、[創22:8
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださ]っているのです。[エペ3:20
私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて]備えを、供給を与えてくださるのです。わたしたちが、「Ⅰサムエル記22:1
アドラムの洞穴」で過ごした時期に、主がどんなに[142:7 私に良くしてくださ]ったかを思い起こしましょう。祈りましょう。
(参考文献: Michael Wilcock, The Message of the Psalms 73-150:
Songs for the People of God, Walter Brueggemann,
Psalms、デレク・ギドナー『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解)
2024年2月18日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇141篇「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」-「よみ(シェオール)」は、独自の経験で自由に満たしうる-
https://youtu.be/_o_NjQf4nAo
本詩141篇は、140,142,143篇との類似性が見られます。それらは、試練と誘惑の中で,詩人は罪からの守りを求め、また正しい叱責を求めているところです。5節後半から7節までは,訳出に困難な箇所です。解釈を特定することはできません。ただ全体の文脈は明らかで、詩人は正しい者からの叱責を喜びつつ,同じように悪人が正しい者の叱責によって悪い行いを改めるよう祈っています。7節は主に従う者たちが受ける迫害の激しさの表現で,木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように,主に従う者の骨が地上に散らされるほど多くの危険に囲まれているという表現です。このような危険の中で,8‐10節には主に信頼する者の確信が述べられています。今朝は、本詩をキリストの受難週の祈り、さらには十字架上の祈りのイメージとも重ね合わせ傾聴していくことにいたしましょう。
(概略)
詩[ 141 ] ダビデの賛歌
A.わが父よ、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(マタイ26:39)v.1-2
B.しかし、イエスは黙っておられた(マタイ26:63)v.3-4
C.父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです(ルカ23:34)v.5-6
D.「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)v.7-
E.父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)v.8-10
「詩篇傾聴シリーズ」が終了しますと、次に「ヨハネによる福音書傾聴シリーズ」に取り組みたいと思っています。ティンダル聖書注解シリーズの最新版、コリン・G・クルーズ著『ヨハネ』では、[①福音の標識、②二段階のドラマ、③物語批評]という三つの先駆的な研究がみられるとのことです。その詳細は、またシリーズが始まってから申し上げることになります。ここでは、ヨハネによる福音書は、「イエス在世当時の描写」と「1世紀末の教会の状況とその霊的必要」の二段階のコンテキストが言及されているということを指摘するにとどめます。このような複数段階のコンテキスト、すなわち歴史的状況また文脈の中で、詩篇も祈り、歌われ続けてきました。
そして、本詩141篇のような「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」といった「逆境の祈り」は、イスラエルの歴史の「逆境」のおける祈りの凝縮のひとつであり、わたしたちは、本詩を通して彼らの逆境を追体験するとともに、そのような「逆境」は、私たちの主イエス・キリストの生涯やミニストリーに中にも見いだされるのであり、そのことによりわたしたちが「逆境」に置かれるときの祈りともなり、力強い励ましにもなるのです。「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」とは、死者の墓をあばくことであり、死者をよみに眠らせることなく、なしうる最大の侮辱、屈辱を与えること、敵がわたしたちの肉体を畑のように耕し、木でもあるかのように切り刻み、そのしかばねを灰のように散らすことを意味します。その意味で、本詩は敵によって最大限の侮辱を受け得る危機に追い込まれた時にささげる祈りともいえるでしょう。
本詩の祈り・叫びの中心が、そのような侮辱・さげすみ・恥に対するものであると見るならば、この祈り・叫びはわたしたちの人生に欠かせないものとなります。詩篇は、間違った場所としての「穴」について述べます。聖書は、エジプトのヨセフのように「穴」に落とされた人について語ります。この「穴」は、見捨てられ、死人の間に置かれ、殺され、記憶されることなく閉め出された人のイメージを描きます。それは、[詩28:1
【主】よ、私はあなたを呼び求めます。わが岩よ、どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が穴に下る者どもと同じにされないように]とあるように、すべてを失い、主との関係も失い、沈黙させられ、忘れ去られ、死んだ者とされることです。クリスチャンであっても、教職者であっても、このような思いにさいなまれることはあるでしょう。
[詩30:9
私が墓(シェオール)に下っても私の血に何の益があるでしょうか。ちりがあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか]とあるように、居場所を失い、深刻な逆境に置かれることがあります。そして「穴」を掘った者、[141:8
危険] [141:9
罠…落とし穴]から、守ってください、と祈り叫ぶのです。「シェオール」は、単に曖昧模糊とした、力のない、灰色の場所で、喜びも、神との対話もないところです。暗く、失意に満ちた、死のイメージは、望みのない状況を描き、[141:10
私が無事に通り過ぎる]ことを祈り求めるものです。ここで大切なことは、この「穴」や「よみ(シェオール)」は、私たちの置かれた状況によって、さまざまな違った内容で満たされ得ます。このように本詩の苦境は、驚くほど大きな空間を提供しているのであり、わたしたちはその空間を、受験であったり、就活であったり、出会いや結婚であったり、施設への入所であったり、独自の経験で自由に満たすことができるのです。
この時期になりますと、所属団体の年次総会資料が準備され、それぞれの教会の礼拝出席や献金の状況が一覧表にされます。それは、教職者や教会が一年間かけて労した成果の報告です。都市部や地方で大きな差が出ます。キリストのからだなる教会の働きには、伝道と教会形成だけではなく、世界宣教の宣教師の働きもあり、また神学の研鑽と神学教育に重荷をもつ神学教育機能の働きもあります。宣教と教会形成の基盤の部分、神学教育を支える「兵站機能」はあまり顧みられない、また評価されることのない「見えない教勢」の領域です。貴重な訳書や刊行小冊子、そしてネット配信の千数百の講義・講演等の少なくない視聴者数は、人々の目から隠れたままです。そのようなとき、わたしたちは「キリストの謙卑の教理」の本質を学びます。人間に評価されずに生きる者の幸いを、です。イザヤ53章のようないきざまができるのだというスピリットの祝福を受けます。目の見えるところによる「人の栄誉、賞賛」を期待するのではなく、目の見えないところに目を留めてくださる主にのみ依拠する生き方です。
ゆえに、わたしたちは、上に目を上げるのです。[141:1
私はあなたを呼び求めています。…私の声に耳を傾けてください。141:2
私の祈りが御前への香として手を上げる祈りが、…立ち上りますように]と。人が認めてくれなくても、人が評価してくれなくても、わたしたちは、主の御前で、ある場合はセルフサポートで、自らが重荷とするところを「主からの召命」として、黙々と励み精進し続けます。召されるその日まで奉仕し続けます。わたしたちの働きの評価は、人によるのではなく、上から、主からくるのですから、「主の目を留めてもらっている」という感触と自覚があれば、もうそれで充分です。主にあって「十分な自己充足」が可能です。
わたしたちの「評価に向けての祈り・願い」は、人に向けてささげられるのではなく、神に向かって日々なされます。人に向かうと、それは「十分な評価をうけてない」と不平不満のはけ口となりやすいです。しかし、主を見上げてなされると小さなことにも感謝と賛美が溢れます。主が「わたしたち人間の思いをはるかに超えて高い評価を、人間世界のように[どんぐりの背比べ]ではなく、ひとりひとりの働きや奉仕に対して、“Only
One”の絶対的評価を与えてくださる」からです。ですから、人に向かって不平不満を言わないようにしましょう。[141:3
【主】よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください]と。わたしたちの心を[141:4
悪に向けさせず、…悪い行いに携わらないように]してください、と祈りましょう。
忠言にも耳を傾け、[141:5
真実の愛をもって私を打ち、頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように]と祈りましょう。主は心を閉ざしやすい忠言にも耳を開いてくださいます。川が流れを変えるように、人の心を変えてくださいます。人間世界では、磁石のN極とN極が自然と反発しあうように、頑なな人の心は不思議に反発しあうものです。しかし、わたしたちが主に祈って生活していくとき、主に叫んで主のみ旨に委ねて生きていくとき、水流が蛇行しつつも、自然に流れを形成していくように、人生は、奉仕は、わたしたちの進路は、不思議と導かれていくものです。主に祈りましょう。[141:5
私の頭がそれを拒まないようにしてください]と。困難に直面しても、掘り起こされ、砕かれ、まき散らされても、どんなに不運なことが続いても、「なおも祈り]ましょう。
きっと主は、[141:9 仕掛けた罠から、…落とし穴から]守ってくださり、[141:10
私が無事に通り過ぎる]よう助けてくださることでしょう。主イエスの受難週の祈り、さらには十字架上での祈りはまさしくそのような祈りであり、詩篇141篇と共鳴しあい、こだまするものです。わたしたちも、そのような祈りに共鳴しあい、日々、事ごとにこだまするよう紡いでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、浅野順一著作集4『詩篇研究』、Colin G. Kruse, “John”
Tyndale NT Commentaries )
2024年2月11日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇140篇「苦しむ者の訴えを支持し、さばきを行われる」-キリストにある贖罪と内住の御霊によって、悪に打ち勝つ生き方を確立していく-
https://youtu.be/MSu0fZsCkO4
詩篇138篇から145篇までの八つの詩篇は、表題に「ダビデ」が付されるところから、「ダビデの小詩篇集」と呼ばれるものです。その詩集の中央に、「敵に攻撃された信仰者が神ヤーウェに救いを求める祈り」の四つの詩篇、140篇から143篇が配置されています。本詩は、その最初の作品にあたります。本詩において、詩人は彼を攻撃する敵を[140:1
よこしまな人][暴虐を行う者]と呼び、それらの内容の[140:2 悪]を[140:3
舌…唇]の下にあるまむしの毒と説明しています。その[暴虐]は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取・抑圧することを意味しています。すなわち、本詩は、不当な告発によって苦しい立場に置かれている信仰者が、
[140:12
【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]ことを願う祈りとして編まれたものと思われます。このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 140 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
A.主の祈り「我らを試みにあわせず」(v.1-5)
B.主の祈り「悪より救い出したまえ」(v.6-8)
C.十戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」(v.9-13)
本詩140篇は、[140:1
【主】よ、私をよこしまな人から助け出し、暴虐を行う者から守ってください]という言葉から始まります。この言葉は、[140:4
【主】よ、悪しき者の手から私を守り、暴虐を行う者からお守りください]でも繰り返され、この祈りの切実さを教えられます。今日は、「法の下に平等」ということがうたわれ、それが大統領であれ、それが財力豊かな者であれ、貧しい者であれ、また芸能界における権力者であれ、弱い者であれ、それが男性であれ、女性であれ、肌の色が何色であれ、「法の下に」平等に保護され、守られ、助けられねばならないとされる社会です。しかし、わたしたちが目にするところ、耳にするところ、いまだに弱い者が踏みにじられるところが多々みられます。21世紀においてもそのようであるとするならば、「法律、またその執行において不備の多い」古代の世界ではどのようであったことでしょう。冤罪の数は、天文学的な数字であったことでしょう。それゆえ、本詩のような叫びは日常的なものであり、欠かすことのできない祈りでありました。
詩人は、はじめのふたつの段落で、神の保護・守りを懇願し、敵の攻撃を訴えます。このふたつの段落は、二行目が[140:1
暴虐を行う者から守ってください]、[140:4
暴虐を行う者からお守りください]と同じであるだけでなく、構成も同じ交差配列法です。古代社会における「暴虐」には、さまざまなかたちがあったことでしょう。しかし、それは今日の問題でもあります。どれだけ法律が整備され、その運用の不備解消への取り組みがなされたとしても、そのグレイゾーンがなくなることはないでしょう。その法律の抜け穴を見つけ、悪用する人は後を絶たないでしょう。
それゆえ、わたしたちは、古代の祈りに学び、今日の祈りとして活用することができます。安穏と構えていて、被害・悲劇を被るのではなく、このような祈りをささげ、主に[140:2
悪を企み]に気づかせていただき、仕掛けかけられている[戦い]に備えさせていただきましょう。その表面的な社交辞令や美辞麗句に惑わされることなく、人間の本質・事態の本質を見抜き、[140:3
蛇のようなその舌]、[唇の下にあるまむしの毒]を洞察させていただきましょう。[140:4
私の足をつまずかせよう]とのさまざまのかたちの企みの[140:5
罠…、網…、落とし穴]を発見させていただきましょう。イエスが[マタイ 10:16
いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい]と言われたように、純朴な信仰と御霊による知恵・識別力が与えられるよう祈りましょう。
9-12節には、敵への呪いの言葉が連ねられています。『復讐の連鎖(ファウダ:アラビア語で「混沌」を意味する)』というドラマがあります。憎しみや憎悪の心に支配されると「やった、やられた」の繰り返しで終わりがないことを教えられます。それで、詩篇はわたしたちのうちの多くの悩みや苦しみを「主の御前にだけ、注ぎ出す」ことを勧めます。[140:9
私を取り囲んでいる者たちの頭。これを自らの唇の害悪がおおいますように。140:10
燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。彼らが火の中に深い淵に落とされ、立ち上がれないようにしてください]と。140:11
そしる者が地上で栄えませんように。わざわいがすぐにも暴虐を行う者を捕らえるようにしてください」と。わたしたちが、神の御前に注ぎ出す行為は、わたしたちの心の重荷となり、苦しみの原因となっていた憎しみや悩みの心を「主に明け渡す」儀式となります。それで、不思議とわたしたちの心は軽くなります。わたしたちの主イエスが、[マタ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます]と言われている通りです。パウロが[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]と語っている通りです。
わたしたちの祈りは、わたしたちの信仰であり、そのように信じているとの告白・証しです。わたしたちは信じています。この世界には、この歴史には、[140:12
苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]神がおられることを。それゆえ、わたしたちの存在において、人間関係において、わたしたちの人生において、「復讐、憎悪、悩み、苦しみ」等、わたしたちの人間性、人格に悪影響を与え、破壊し続ける力を「主に委ね続けます」、「明け渡し続けます」。そのような内住の御霊と共なる祈りにおいて、[ロマ12:17
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行う]ように心がける力が与えられます。わたしたちは[12:19
自分で復讐]することはしません。しかし、悪に妥協したり、降伏したわけではありません。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」言われている神を「信じ」、神に「委ねる」のです。
わたしたちが信仰の目をもって、多くの人の人生を見つめるとき、悪しき者の[140:9
唇の害悪]そのものが、彼らのそのような傾向・人格・習性により、[140:9
私を取り囲んでいる者たちの頭]そのものに、彼ら[自らの唇の害悪]がおおっている現実をみます。彼らのそのような存在、生き方そのものが、[140:10
燃える炭火]を彼らの上にもたらしているのです。彼らの生涯は[火の中]の生涯であり、彼らの存在そのものが、落とされた[深い淵]と化しているのです。見えるところの裕福さや成功は、必ずしも[140:11栄え]を意味しません。多くの成功者とみられていた会社やスターは、[わざわいがすぐにも暴虐を行う者を捕らえる]時代ともなりっています。「私も」を意味する#MeToo(ミーツー)運動は、今まで沈黙されてきた問題を多くの人が公表することで、世の中を変えていこうとする運動です。これらの運動の中にも、[140:12
私は知っています。【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われることを]という歴史における神の摂理の働きを見せられます。
ある時代に許容されていたり、あいまいであったりして、法の穴をかすめたり、グレイゾーンで甘い汁を吸ってきた人たちがいます。しかし、それは一時的な栄華であり、長い目でみますとき、また神の目で見ますとき、どんでもない量の「燃える炭火」を積み上げていることにもなります。それゆえ、わたしたちは、人の前―すなわちその時代や文化・風習で良しとされているものに流されるのではなく、神の御前で良しとされるのかどうかを物差しとして、判断して進んでまいりましょう。日々、また問題に直面するごとに、主の祈り「我らを試みにあわせず」「悪より救い出したまえ」と祈ってまいりましょう。十戒にあるように「あなたの隣人について、偽りの証言」を差し控え、真実を証ししてまいりましょう。そのように生きていくときに、[140:13
まことに正しい人はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう]という言葉があなたの人生に実現するでしょう。
新約のローマ書には、[[ロマ12:17
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。…12:21
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい]とあります。わたしたちがキリストにある贖罪と内住の御霊によって、悪に打ち勝つ生き方を確立していくとき、詩篇51篇が現実のものとなります。[詩51:10
神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。…51:12
あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください]と。わたしたちは、よこしまな者、悪しき者、暴虐を行う者を恐れません。[140:12
【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]と信じているからです。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、W.Brueggemann “Psalms”、安黒
務『殉教と背教のはざ間にうめく主の祈り』、『日本の宗教土壌を改良するモーセの十戒』)
2024年2月4日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇139篇「胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました」-吐き出されることにより、憎しみから自省への転換点になる-
https://youtu.be/emjfWJzKOww
久しぶりに、三浦綾子さんの本に目配りしています。その中の一冊『旧約聖書入門』に、詩篇への言及があります。その中に、聖書の言葉に傾聴しつつ生きているクリスチャンには好きな詩篇があるであろうこと、そして[その人の信仰と、好きな詩篇とは、かなり深い関係にある。その人の好きな詩篇は、その人の魂の養分となっているからである]と記されています。本詩139篇もまた、クリスチャンに深く愛されてきた詩篇のひとつだと思います。この詩篇の特徴について学んでまいりましょう。
(概略)
詩[ 139 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
A.神の全知(v.1-6)
B.神の遍在(v.7-12)
C.神の創造と摂理(v.13-18)
D.悪の存在、世における戦い、肉との葛藤(v.19-24)
詩篇傾聴も、139篇を数えることとなりました。あと残るところ、本詩を入れて12篇となりました。短い詩篇もあり、長めの詩篇もありでした。本詩は中ほどの長さといえるでしょうか。本詩を最初読んだときの印象はどうでしょう。わたしは「扇のようにあらゆる方向に展開している」ような感覚を抱きました。なにか散弾銃のように、多方向に弾が飛んで行っているようで、「素晴らしい詩句に満ちているが、これをメッセージとしてまとめることは至難のわざだ」と思ったのです。そう思いつつ、信仰の先輩たちの「詩篇139篇注解」に目配りしていきました。勘が当たったかのように、千差万別、多種多様な注解に目配りすることとなりました。
散らかった部屋を眺めるかのように、各節それぞれバラバラの注解もありました。また逆に、ひとつのメッセージを発見しようとする注解もありました。ブルッゲマンの注解によりますと、[詩篇139篇の読者にとってのジレンマは、しばしば引用される1-18節の美しい詩的なイメージを、19-22節の敵に対する衝撃的な請願とどのように結びつけるのか]ということだと書いています。1-18節は、瞑想的な口調であまねく臨在される主への称賛で満ち溢れ、舞い上がるような詩的な言葉で紡がれています。そのような流れが急変し、19-24節は敵に対する強い非難を含む請願に移行しています。それで、全体の一貫性を担保するために、19-24節を軸に「虚偽の告発」の存在を想定し、本詩全体を「無実の表明」のメッセージとして注釈しています。
「そのような解釈の可能性もあるのかな」と思いつつ、過ごした一週間でしたが、「もう少し、素直に読み、自然な流れで傾聴した方が良いのではないか」というところに落ち着きました。ここでのポイントは、前半の「瞑想的かつ格調高い主をほめたたえる言葉」と後半の「敵に対する強い非難」のジレンマの取り扱いです。わたしは、本詩を繰り返し読み、傾聴しているうちに、ひとつのことを思い出しました。それは、「本詩の構成は、エリクソン著『キリスト教教理入門』の神論の構成と似ている」というものでした。
エリクソン著『キリスト教教理入門』の神論は、「神の内在性と超越性」から始まり、「神の偉大さと神の善良さ」そして「神の計画・創造・摂理」へと展開しています。そしてそのような神が創造され摂理をもって導いておられる歴史のただ中にある「悪の問題」を扱っています。悪の問題には、大地震や大津波のような「自然悪」もありますし、戦争・犯罪・差別等の「道徳的な悪」もあります。その意味で、本詩1-6節は[139:1
私を探り知っておられ…139:2 私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られ…。139:3
私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられ…139:4
ことばが私の舌にのぼる前に、…そのすべてを知っておられ]る「神の全知性」の生活感溢れる描写といえるでしょう。わたしたちは、このようなかたちで「教理を生きて、生活のただ中で学び」血となし肉としていくべきでしょう。
その昔、わたしは共立基督教研究所への内地留学の機会を得、その際に東京駅からすぐ近くにあります「堺福音教会の東京チャペル」で奉仕にあずかっていました。ある礼拝でこのように語り始めました[御父は超越的で天のはるか離れたところにおられ、同様に御子も歴史の中で遠く引き離されています。しかし聖霊は信仰者の生活の中で活動し、我々のうちに住んでくださっています。現在、三位一体のお方が働かれる際に特に働かれるのは、三位のお方のうちの聖霊を通してです]と。このときに、チェリストで有名なボーマン氏の奥様が「あの表現は印象に残りました」と言われたことが記憶に残っています。7-12節
[139:7 私はどこへ行けるでしょう。…139:8
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられ…。139:10
そこでもあなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。139:11
たとえ私が「おお闇よ、私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても139:12
あなたにとっては闇も暗くなく、夜は昼のように明るい…]は、まさにその聖霊の臨在のことであり、三位一体の神の内在性、また遍在性の事柄なのです。
わたしは、この教理をエジプトのヨセフの生涯の中にも見ます。ある意味で、ヨセフの生涯は苦難に満ちた生涯と言えます。父に愛された子供でありましたが、他の兄弟から嫉妬されました。賜物と能力に恵まれた子供でありましたのでよく夢を見ました。それもまた兄弟の憤慨を買うことになりました。そして、ある時に、悪だくみにはまり、深い穴に落とされ、後にエジプトへ奴隷として売られてしまいました。そこで家令として仕えていましたが、その家の奥さんに罠にはめられ、牢獄に入れられる身となりました。まさに「七難八苦」の人生でありました。
しかし、その「七難八苦」の生涯には、ひとつの特徴がありました。それは[主がともにおられたので…、主が彼とともにおられ、彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た]という記述です。わたしは、これは信仰者の特権だと思います。ヨセフほどでないとしても、わたしたちの人生は大なり小なり「七難八苦」の連続ドラマのシリーズです。どうして、こんなにも次々と困難や問題にまみえるのだろうか。わたしに非があるのだろうか。なにか罪でもおかしたのだろうか。あるいは呪われているのだろうか、等、いろいろな思いが去来することと思います。
わたしは、そのような時に、「ヨセフの生涯」をわたしたちの人生に重ね合わせて、理解することをおすすめします。わたしたちの人生はある意味で、「階段を登っていくようなものではなく、地下室に降りていく」ようなところがあります。そのような時に、うちひしがれるのではなく、エジプトのヨセフの生涯を思い出し「主がともにおられるのだから、大丈夫!主が今、この地点で、この場所で祝福してくださる」と信じましょう。
13-18節をみますと、聖書にある創造と摂理の教理が、実にわたしたちの生活感溢れるものとされていると気づかされます。[139:13
あなたこそ私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です]から、わたしたち個々人の誕生が、主にある創造であると教えられます。[139:14
あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです]からは、わたしたちは、偶然の産物ではなく、主にある奇蹟、主によって創造された芸術品であると教えられます。母の母胎という[139:15
隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、…139:16
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました]と、わたしたちは、神の作品であり、神を監督とするドラマの俳優であり、ひとりひとりがその主役であると教えられます。神さまはわたしたちを、神のドラマの主演俳優、また主演女優として選んでくださっているだけでなく、そのドラマにおけるシナリオやセリフもまた用意しておられる、ということです。
では、そのドラマのシナリオやセリフはどこにあるのでしょう。わたしたちはその脚本を入手することはできません。監督のみが保持しておられるからです。わたしたちは、主との交わり・祈りのうちで、また生活のただ中で御声・導きを感知しつつ、神さまの主導権の下、御霊との二人三脚で、わたしたちにおいてはその空白のページを埋めていかねばならないのです。その不思議な人生の行程を詩人はこう告白しています。
[139:17 神よ、あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。そのすべてはなんと多いことでしょう。139:18
数えようとしてもそれは砂よりも数多いのです]そうなのです。わたしたちの人生には、無限の選択肢が前に置かれています。そのような自由のただ中で、「いろんなものに流されて生きる自分自身から、神が本来あなたに意図された真実なる自分自身」となり、神の栄光をあらわすために日々決断していくことが大切と思います。[私が目覚めるとき、私はなおもあなたとともにいます]とあるように、朝目覚めるときに、「主よ、今日もあなたがわたしを導いてください」との祈りと献身をもって一日を始めましょう。具体的な事柄は、日々瞬々に示されることでしょう。それを心に留め、メモし、そのひとつひとつにチャレンジしてまいりましょう。
エリクソン著『キリスト教教理入門』には「第15章
悪と神の問題」の章があります。そこでは[神が全能で、まったき愛の方なら、なぜ世界に悪が存在できるのか]という問題が取り扱われています。19‐24節は,このような神学的・哲学的問いの実践版といえるでしょうか。それは、神を畏れる者と畏れない者との間の信仰の戦いです。神を畏れる者は自分を神の側に置き,神への忠誠を誓い,神の支配に身をゆだねようとします。これに対し、このような生き方をする信仰者、また共同体への迫害もまた起こり得ます。そのようなただ中にある者の祈りです。新約では、「汝を迫害する者のために祈れ」というイエス・キリストの高い道徳規準も示されています。もちろん、それは大切なことです。ただ、この箇所の激烈な言葉[139:19
神よ、どうか悪者を殺してください。…139:21
【主】よ、私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を嫌わないでしょうか。139:22
私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます]にも意味があるとブルッゲマンは語ります。
これは、人に対して発せられた言葉ではなく、憂いと悩みを神の前に注ぎ出したハンナのように、神に向かって注ぎだした祈りであると。人にではなく、神の御前に注ぎだす「ありのままの思い」は、それが言葉されて注ぎ出されると、「それは考えられていたほど危険なものではない」と。かえって、激しい憤り、怒りが勢いを失い、正気を取り戻す近道であると。破壊の行為に変わる「想像力と誇張に満ちた祈りの言葉」は、それが吐き出されることにより、憎しみから自省への転換点になると。21‐22節は「悪を行う者に対する強い嫌悪の表明」であり、そして23節の「探り」は1節と同じ言葉であり、徹底的な調査によってわたしの誤りが照らされ,深い自省を経て正しい道へと導かれることを願うものです。そのような意味で、詩篇139篇は、「生活感溢れる神の教理についての詩篇」といえるのではないでしょうか。神の教理をそのような次元で学んでまいりましょう。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献:三浦綾子『旧約聖書入門』、M.J.エリクソン『キリスト教教理入門』、W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、“Psalms”)
2024年1月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇138篇「心を尽くして、私はあなたに感謝をささげます」-御前への叫びは御耳に届いた-
https://youtu.be/F9xEqmBMIVA
本詩138篇から145篇までは、表題に「ダビデによる」と記される「ダビデ小詩篇集」です。この「ダビデによる」とありますのは,ダビデ起源の詩篇を帰還後に編集したためと思われます。旧約聖書のギリシャ語訳セプチュアジンタ、すなわち70人訳では「ダビデ,ハガイとゼカリヤ」とあり,帰還後のイスラエルの人々との関係が見られます。そのようなところから、本詩は,捕囚からの解放への感謝と主による回復への確信の歌とみられています。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 138 ]ダビデによる。
A.捕囚からの解放への感謝―救い(v.1-3)
B.地のすべての王は、主のみことばを聞く―証し(v.4-5)
C.主はすべてのことを成し遂げられる―完成(v.6-8)
以前、読んだ本に、『寺院消滅』という本があります。その本によりますと、[日本のお寺は、かつてないほどの危機に瀕している。菩提寺がなくなり、お墓もなくなってしまった――。こんな事態が現実になろうとしている。中でも地方のお寺の事態は深刻だ。高齢化や過疎は檀家の減少につながり、寺の経営を直撃する問題となっている。寺では食べていけないことから、地方の寺では、住職の跡継ぎがいない]と。
これは、急速な少子高齢化の波による社会現象であり、寺院のみならず、キリスト教会もまた直面している問題です。市町村の機能も、幼小中高の学校も、再編統合を繰り返し、将来の予測に基づき経費の最小化の中での有意義な機能の効率的活用に取り組んでいます。伝道・教会形成・神学教育の機能においてもまた、革新的な取り組みが必要な時代であると思います。ICIでは、過疎化・限界集落化の状況下で、神学教育機能において神の栄光を表し、諸教会に貢献していくことを召命・賜物、また重荷として取り組ませていただいています。
本詩を繰り返し熟読し、思い巡らしていますと、「昨今のそのような現況に響く声」が聞こえるような気が致します。最初に申しましたように、[本詩は,捕囚からの解放への感謝と主による回復への確信の歌]であります。すなわち、本詩は一般的な感謝の意味でも用いることができますが、さらに深い次元で「第二の出エジプト」とも呼ばれる「バビロン捕囚から解放された」神のみわざへの感謝であるのです。1節の[心を尽くして、…感謝をささげます]は、儀礼的な表現ではなく、国を失い、首都は灰燼に帰し、神殿も跡形もなくされ、70年間の捕囚の後に、母国の再建の機会を得た民の、喜びと感謝の表れでしょう。
[138:2
あなたのみことばを高く上げられた]とは、なんのことでしょう。それは、申命記に約束されていることばであるでしょう。申命記には、こうあります。[申命記30:1
私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り、30:2
あなたの神、【主】に立ち返り、私が今日あなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、30:3
あなたの神、【主】はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。30:4
たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される。30:5
あなたの神、【主】はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やされる。]それは、申命記に約束されていることばであり、エズラ記、ネヘミヤ記において実現された神殿の再建、エルサレムの城壁の再建であります。
[138:2 私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し]からは、エズラ記の3章の[3:10
建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、…3:11 …民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた]情景を思い起こします。そうなのです。[138:1
心を尽くして、私はあなたに感謝をささげます]の前段には、バビロン捕囚における絶望があるのです。
そのような絶望感は、聖書の各所に溢れています。そのひとつは、ヨナ書にある以下のものです。[ヨナ2:2
「苦しみの中から、私は【主】に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。2:3
あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。2:4
私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』2:5
水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。2:6
私は山々の根元まで下り、地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。2:7
私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました]ヨナは絶望のただ中で、神に叫び、起死回生の救いを経験しました。
詩篇18篇の絶望のただ中での叫びもまたそのひとつです。[詩18:3
ほめたたえられる方。この【主】を呼び求めると私は敵から救われる。18:4
死の綱は、私を取り巻き、滅びの激流は、私をおびえさせた。18:5
よみの綱は、私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。18:6
私は苦しみの中で【主】を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた]
わたしたちの人生は、順風満帆の日々ばかりではありません。雨の日、嵐の日、大地震、大津波の日もあります。いついかなる時に、ヨブのような災難にまみえるか分かりません。中高大学への入学試験、会社での資格取得試験、献身者の進路や招聘の人事の最中の、なんとも言えない圧迫、苦しみ、不安な気持ちもまた、ヨナや詩篇18篇に似たものであるでしょう。要するに、わたしたちは、意識するとせざるとに関わらず、ほぼ日常的にそのような「詩篇の世界」に生きているのです。そして、[138:3
私が呼んだその日にあなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました]とあるように、[2:7
私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました][18:6
私は苦しみの中で【主】を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた]という経験をするのです。それが信仰生活の醍醐味です。人生は、ドラマです。わたしたちと神様とともにあるドラマです。その役回りを見事に演じてまいりましょう。
では、わたしたちが祈る「祈り」は必ず聞かれるのでしょうか。それは分かりません。しかし、はっきりしていることがあります。神様は生きておられるということ。わたしたちは祈ることが、叫ぶことができるということです。そして「わたしたちの祈る祈りは聞かれた」と“信じる”ことはできます。ただ、どのように聞かれるか、神さまはわたしたちの生涯に“最善”をなすために、[138:3
私が呼んだその日に、(わたしに、あなたに、どのように)答え]られるかは、主に委ねなければなりません。
138:4には、[地のすべての王は、あなたに感謝するでしょう。彼らが、あなたの口のみことばを聞いた]とあります。それは、申命記の[30:4
たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される]と語られたみことばでしょう。そして、また神のしもべとも呼ばれ、その実現を導いたペルシャ王キュロスの口を通して発せられた「主のことば」でしょう。[エズ1:2
「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。1:3
あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である]
それは、[138:5
【主】の道…]そして[【主】の(摂理の)栄光]でしょう。主は被造物世界のすべてを創造された神であるとともに、全歴史を導かれる摂理の神です。旧約の歴史をみますと、弱小の民イスラエルは存続し続け、アッシリアやバビロンといった強国は滅んでしまいました。現実の世界は、強者が弱者を制圧するかに見えます。しかし、長い目でみれば、歴史の覇者は衰退し消滅していきました。事実、西アジアのほぼ全域を版図に収めたアッシリア帝国は、BC7世紀に消滅しました。またエルサレムを陥落させたバビロン帝国の覇権も1世紀以上は続きませんでした。ペルシャ帝国でさえ2世紀を超えることはありませんでした。
古代イスラエルの信仰者たちは、こうした歴史の背後に、[138:6
低い者を顧み]てくださり、[高ぶる者を遠くから見抜かれ]低くされる神の意志を読み取ったのです。砕かれ、小さく、貧しくされた低き者に目を注がれる神をみつめ、[138:7
私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます]と告白し、[138:8
【主】は私のためにすべて(すなわち、捕囚からの帰還)を成し遂げてくださいます。…あなたの御手のわざ(すなわち、神殿の再建、エルサレムまた国土の復興)をやめないでください]と祈ったのです。
旧約の次元でイスラエル民族と国土の上に明らかにされた摂理の御手は、新約の次元でわたしたちクリスチャンの日常生活のただ中に光が当てられています。同様の主の働きが、より本質的なかたちにおいて、聖霊がなしてくださることを信じ、祈ってまいりましょう。
(参考文献:実用聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』)
2024年1月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇137篇「シオンの歌を一つ歌え」-エルサレムと神殿は、幼子を岩に打ちつけるが如く破壊され-
https://youtu.be/gawj1ZhDwvU
本詩137篇は、「報復を求める叫び」として有名な詩篇です。この詩は,バビロン捕囚から帰還した音楽関係のレビ人の作ではないかと推測されます。作られた年代は前538/537年頃。故国エルサレムの荒廃の現実を前にバビロン時代を振り返り,エルサレムでの礼拝の再開と破壊者バビロンに対する主からの報復を願ったものです。さて、本詩で問題となりますのは、[137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ、岩に打ちつける人は]とある箇所で、詩篇の作者が報復を求めて神に叫び立て、さらに「敵」に対する激烈な復讐さえも祈り求めている事実です。
新約のクリスチャンとして、呪いと復讐の詩篇を含めて保持した方がよいのか、あるいはイエス・キリストによる神の啓示に合致しないと思われる点に関して、各詩篇を検閲した方が良いのか、という議論があります。その中には、ボンヘッファーは[すべての詩篇を、取捨選択することなく、朝晩の祈りとして使う]ことを主張しています。詩篇の嘆きの歌は、[人間の苦悩の底から、残酷さや憎悪の感情がえてしてわき上がる深淵から]生じてきました。そのような[人間生活のあらゆる情念や激情]がそのまま詩篇に表現されています。詩篇は、[真善美の理想的で、超歴史的な、極楽浄土]を示しているものではなく、[変化と闘争と苦難に満ちた歴史的状況]に関わるものなのです。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 137 ]
A.捕囚体験の回想(v.1-3)
B.聖なる歌は余興のために歌えない(v.4-6)
C.報復の祈り(v.7-9)
1‐3節は,バビロン捕囚時代の体験を描写しています。[バビロンの川]は複数形で、多くの川や支流があったことを表しています。[137:1
バビロンの川のほとり、そこに]、また[137:3
それは私たちを捕らえて来た者たちが、そこで私たちに歌を求め]とは,すでにバビロンから帰還した者が捕囚体験を回想している言葉です。[137:1
バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り]の[座る]は嘆きの状態を表しています。彼らの故国は占領され,首都エルサレムと神殿は破壊され、神殿礼拝は断絶,神から見捨てられたことを深く実感した悲しみで満たされていました。捕囚の人々は琴を奏でて悲しみの歌を歌いたかったのですが,3節の理由で歌えませんでした。3節の[137:3
余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言った]のは,主のご性質とみわざの告白であるので,聖なる歌を余興のために歌うことは出来ないという告白です。[シオンの歌]とは神殿礼拝の歌であり,「主の歌」であるからです。
わたしは、この箇所を読んだとき、「伝道また証しのために歌うことはできなかったのかな」と思いました。といいますのは、先月母を天国に見送りましたときに、その前夜式また告別式のブルーレイディスクを作成し、「いつくしみ深き」「世にもとうとく清きふみあり」「神ともにいまして」の讃美歌・聖歌にあふれる、主の慰めの臨在と主ともにあった生涯の物語の証しのメッセージを家族・親戚等にお配りさせていただいたからでした。キリスト教の前夜式・告別式には、一時的な別離の寂しさとともに、天国で再び再会できるという希望に溢れています。その希望の臨在に、「イエスの衣に触れて癒された長血をわずらう女性」(マタイ9:20)のように触れていただきたかったのです。
しかし、本詩のこの箇所には、また別の意味があるようです。バビロン帝国の首都バビロンでは、ユーフラテス川から水を引くために、碁盤の目のように掘削された灌漑用の運河がありました。そうした運河の川底は流れ込む土砂で埋まっていきます。そのために、毎年のように底をさらって、洪水がおこらないようにしていました。
[137:4
どうして私たちが、異国の地で【主】の歌を歌えるだろうか]と書かれていますが、それは反語的であり、現実はさかさまであったのではないかと思われます。つまり、「異国の地で、聖なる首都エルサレム、シオンの山にある神殿で歌われるべき【主】の歌を、[137:3
私たちを捕らえて来た者たち、…私たちを苦しめる者たち]のために、すなわち運河における労働の合間に、[余興]として歌えるだろうか、そのような用い方はあってはならず、わたしたちにはそれはしてはいけない」ことと受けとめられたでしょう。しかし、現実として、捕囚民であるわたしたちにとって、バビロニア人たちからの求めを拒絶することはゆるされず、そうした求めにやむなく応じ、竪琴にあわせて歌う他にとるすべはなかったでしょう。
[137:4
どうして私たちが、異国の地で【主】の歌を歌えるだろうか]という言葉は、そうであってはならないと思うにも関わらず、聖なる[【主】の歌]を労働の合間の余興として歌わされてしまったことへの慙愧の念を反転させたものでしょう。わたしは、これは異教の地である日本でもありうることだと振り返ります。田舎に住んでいますと、自治会や子供会・婦人会・老人会の行事の大半は神社やお寺等の宗教行事にからんでおり、そのような中で、「宗教に絡まない自治会行事や奉仕のみに参加させていただきます」と一線を引き、無用な摩擦を避け、調整し理解していただき、それを遵守していくことはなかなか大変なことです。
ただ、大変ですが、そのように一線を遵守し、理解してもらえるようになることは感謝すべきことです。わたしの家の墓碑は、長崎のキリシタンの墓碑を採用させてもらいました。それは、「あのキリシタン迫害の時代にも、偶像礼拝を避け、唯一神信仰を貫いた人々」の存在を心に刻み、彼らの信仰の子孫として生きるためです。そして、思うのです。「あのような熾烈な迫害下で一線を遵守しつつ生きようとしたキリシタンに倣って、そのような精神をもって今日生きるとしたら、どのように生きることができるのだろうか」と。「あの時代は、殺されるかもしれない危険があったのに、できるだけ純粋に生きようとした。今はいじめや迫害はあるかもしれないけれども、まず殺されることはないのに、一体何を恐れているのか」と反問するのです。
本詩137篇から学ぶべきことは、「そういう反問を心の中で繰り返すことが信仰生活ではないのか」と言うことです。その反問が記されています。5‐6節は,「エルサレムでの礼拝や賛美を慕い求めた捕囚の人々の心情」です。「神への賛美が正しく行われることを願った人々の断固とした態度の表明」です。余興を求める人々に屈することはエルサレムでの礼拝を忘れることであり,主への不忠実と受けとめられたからです。もしそうなれば、[私の右手が……忘れるように]は、楽器演奏のテクニックを忘れるようにであり、6節では,[私の舌が]語ることや歌う力を失うようにと願っています。バビロンでは、主の歌を、神殿礼拝の歌を余興に用いられることの苦渋の思いが、またキリシタンの時代には、神社・仏閣に絡む諸行事・諸儀式に絡むことに対する苦渋・反問があったことでしょう。これが、クリスチャン生活です。そこに何の抵抗も葛藤もなくなったとき、「地の塩」の役割は終えるのだと知るべきでしょう。
7‐9節は,荒廃したエルサレムの復興と神殿礼拝を願う詩人が,エルサレムを荒らした敵たちへの主ご自身の報復を求めています。[137:7
【主】よ、思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ、破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを]。エドムは、ヤコブの兄エサウの子孫である。エドムの兄弟愛の欠如が責められています。また、[137:8
娘バビロンよ、荒らされるべき者よ]は、バビロンの町々を意味しています。[137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ、岩に打ちつける人は]という激烈な言葉は、[137:8
幸いなことよ、おまえが私たちにしたことに仕返しする人は]を背景にしており、エドム等の周辺国がエルサレムの徹底的破壊を求めたように、バビロン帝国はエルサレムの中心にあった最も聖なるもの、イスラエルの民が愛してやまないもの、いつも歌っていたシォンの歌、主の歌、忘れることのできないもの、至上の喜びとしたもの―家族にとって最も愛らしく、最も大切で至上の喜びの焦点である「幼子」のようなもの、すなわち神殿を「岩に打ちつける」ように徹底的に破壊したことに対する思いを述べるものでしょう。
当時はペルシャ王クロスの寛容な政策によって,バビロンはまだ繁栄を享受し、それほど荒れてはいませんが,必ず主からの報復がなされる都でありました。バビロンに対する主の報復は、7節の〈主よ〉という呼びかけに,新約の報復を主にゆだねる信仰者の心(ローマ12:9)を見ることができます。怒りや報復を抑え込みすぎると病気になります。しかし、それを具体的に行使すれば悲惨な結果をもたらします。それらをイメージや告白として表現し、祈りの内に、報復を主にゆだねることが最良の選択のひとつになるのではないでしょうか。祈りましょう。
(参考文献:実用聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2024年1月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇136篇「主の恵みはとこしえまで(アーメン、ハレルヤ!)」-イメージ化し、その本質を類比的に適用して生きる-
https://youtu.be/BYpULfmFq6w
本詩136篇は、独唱もしくは特別な合唱と全会衆との間で交わされた礼拝用の交誦歌です。それは、エズラ記3:10-13にある[3:10
建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。3:11
そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。3:13
そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた]においてもみられる要素です。感動と嘆きの応答に溢れる礼拝はいつでも魅力的なものです。今日においても、米国の黒人教会等において、説教とそれに応答する「アーメン、ハレルヤ!」の交錯する礼拝は同様の魅力に溢れているといえるでしょう。
さて各節の前半が語り歌われた後、「その恵みはとこしえまで」という感動の応答が繰り返されています。その本詩各節の前半概要を見てまいりましょう。1‐3節は感謝の呼びかけです。4‐9節は創造主なる神の告白です。10‐15節は出エジプトの恵みの告白です。16‐22節は荒野の守りと約束の地への導きの告白です。23‐26節は自然とイスラエルに対する主の恵み深い摂理と支配の要約的告白です。イスラエルの民の、このような感謝と告白と応答の詩篇をわたしたちはどのように傾聴し、わたしたち信仰者の人生に生かすべきなのでしょうか。そのあたりを考えながら、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 136 ]
A.感謝の呼びかけ―私たちにとって、主は如何なるお方なのか(v.1-3)
B.創造主なる神の告白―創造と誕生の類比(v.4-9)
C.出エジプトの恵みの告白―出エジプトと救いの経験の類比(v.10-14)
D.荒野の守りと約束の地への導きの告白―荒野の旅程とクリスチャン人生の類比(v.15-22)
E.主の恵み深い摂理の要約的告白―わたしたちの人生に働く摂理への類比(v.23-26)
冒頭の絶叫[136:1
【主】に感謝せよ]は、「ほめたたえよ」とも訳されます。折り返しの[その恵みはとこしえまで]は、原意に従えば「そうだ」「まさに」と訳されるのが最良といわれます。それゆえ、[136:1
【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで]は、「ハレルヤ!
主はまことに慈しみ深い」という呼びかけに対する「アーメン!」と置き換えても良いものです。1‐3節は、その「慈しみ深い主」への感謝を呼びかけます。[神の神]、[主の主]は、そのお方が「絶対的主権」をもっておられるとの表明です。
4‐9節は「創造主なる神」を告白しています。「英知をもって」は、神の計画は建築家の設計であることを意味しています。それは、最初は心の中に描かれ、次に意図とデザインにしたがって紙の上に描かれ、その後初めて実際の建築において実行されるように宇宙は創造されました。その経緯は、6‐9節に[136:6
地を水の上に敷かれた…。136:7 大きな光る物を造られた…。136:8 昼を治める太陽を…。136:9
夜を治める月と星を]とあり、それは創世記1章に基づいています。さて、[136:1
いつくしみ深い]主にある創造信仰はわたしたちにとって何を意味するのでしょうか。そこから派生する意味は掘り尽くすことはできず、汲み出し尽くすこともできないでしょう。たとえば「組織神学」の創造論や人間論には、ある意味「無限の教理的含蓄」の一部が汲み上げられていると言えます。
ここでは、「創造」の意味合いを、わたしたちの人生における「誕生」に重ね合わせましょう。V.6-9に「地、大きな光る物、昼をおさめる太陽、夜を治める月と星」とあります。そして、環境が整って最後に、人間は創造されました。これは、赤ちゃんの誕生を前にして、ゆりかごとかオムツとか、哺乳瓶とかあらゆるものを備える愛情溢れる夫婦に似ています。これは、創造の記事のならず、わたしたちの人生における誕生とも似ています。神さまは、わたしたちの両親を通してあらゆるものを備えさせ、人生の準備をしてくださいました。神さまは、わたしたちに生きるべき環境を備え、入るべき幼小中高等の学校も備えてくださいました。わたしたちは、「わたしたちの人生の家庭、また環境の中に、主の創造の御手と御力をみることができる」のではないでしょうか。
10‐15節には、「出エジプトの恵み」の告白がなされています。出エジプトの出来事は、実に[136:4
大いなる不思議]のみわざでありました。三百万人にも増えたイスラエルの民は、エジプトにとって国内の脅威であるとともに、ピラミッド建設等の公共事業に欠かすことのできない奴隷労働力でありました。エジプト王朝は、彼らを「生かさず、殺さず」巧妙に酷使し続けました。彼らの叫びは、神に届き、モーセが遣わされました。しかしモーセによるパロ説得は届かず、イスラエルの民を解放する交渉は完全に行き詰ってしまいました。そのような八方ふさがりの状況を打開するために神は全能の力をもって介入されたのです。十の災害をもって[136:11
その地から導き出され]、[136:13
葦の海を二つに分け]る奇蹟をもって、まずイスラエルに対するパロの執着を捨てさせ、最終的に彼らの追撃力を紅海のもくずとされました。
出エジプトの出来事は、新約の光においてパウロは、[コロサイ1:13
御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました]等、救いの出来事と重ね合わせて解釈しています。[ロマ1:21
神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく]なっていた不信仰と罪の奴隷であった生活から贖い出された出来事には、エジプト脱出と似た戦いがあることでしょう。そこから学ぶことは多くあります。たとえば、紅海の経験は「洗礼」と類比されます。心で信じるだけで中途で止まっているクリスチャンは、この世からの「追撃力」から解放する「洗礼が内包する力」を熟考する必要があると思います。紅海を渡ることなしにエジプトの支配からの解放はなく、洗礼を受けることなしに世の影響からの解放もないことを考慮しましょう。
16‐22節は、「荒野の守りと約束の地への導きの告白」です。出エジプトに続く、シナイの荒野での四十年間の旅程は、[Ⅰコリント10:11
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです]とあるように、荒野の経験にはクリスチャンの生涯への教訓が溢れています。本詩では、イスラエルの不平・不満、つぶやき等の罪の告発はなく、[136:16
荒野で御民を導かれた方に感謝せよ]で始まり、[136:17 大いなる王たちを打たれた…。136:18
主は力ある王たちを殺された。…136:19 アモリ人の王シホンを。…136:20 バシャンの王オグを。…136:21
こうして彼らの地をゆずりとして与えられた]と、荒野の旅を導き、ヨルダン川東岸の[アモリ人の王シホン、バシャンの王オグ]を征服し、ヨルダン川両岸の地を[ゆずりとして与えられた]と言明しています。新約では、霊と肉、御霊による新しい自我とこの世とつながる古い自我との葛藤に焦点が当てられています。
新約の光では、地上の植民地主義的な土地争いの色彩は払拭され、神の国の概念が、天上の右の座に着座された、民族を超えた普遍主義の、天的な神の国の支配へと変貌しています。そして視野は、今日、地球規模の環境問題等にまで広げられています。このことの故に、「土地、首都、神殿」の回復を応援するキリスト教シオニズムの考え方は、旧約の影を背負ったキリスト教の“亜流”であり、民族を超えた普遍主義的な神の国理解からの逸脱であると教えられます。
23‐26節は「創造と主の恵み深い摂理の要約的告白」です。[136:23 私たちが卑しめられたとき]、また[136:24
そして主は私たちを敵から解き放たれた]とは,イスラエルの歴史の中のエジプト時代やバビロン捕囚のことを中心にして,あらゆる事柄における主の救いと導きを指します。わたしたちがクリスチャンとして豊かな霊的祝福をいただいて人生を生きるためには、聖書の出来事をイメージ化し、その本質をわたしたちの人生に投射する想像力が求められていると思います。すなわち、聖書の出来事、教え等をわたしたちの生活の中に「類比」を発見し続ける能力のことです。
わたしたちクリスチャンの人生も、「万事、順風満帆の人生であった」という方は多くはないでしょう。卑しめられ、評価されることのない時間、さまざまの敵に囲まれたり、数々の問題に直面する環境に置かれることもあったでしょう。しかし、イスラエルの民に信仰があったように、わたしたちにも信仰があります。わたしたちは、イスラエルの民がそうであったように、聖書に記されている「信仰告白」を傾聴し、それらをイメージ化し、その本質を、わたしたちの生活の中に、人生の中に類比的に適用し、「アーメン」と唱和し、「ハレルヤ」と賛美致しましょう。聖書に書いてあるものを、わたしたちの人生に書き込まれている「信仰告白」と解釈して、誕生と創造を、救いを出エジプトと、御国へと向かう人生の旅を40年間の放浪と約束の地征服と重ね合わせて、「アーメン」と唱和し、「ハレルヤ」と賛美しつつ、残された旅を続けてまいりましょう。
(参考文献: 実用聖書注解、ハーパー聖書注解)
2024年1月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇135篇「主の御名をほめたたえよ」-人間のおもな、最高の目的は、何であるか-
https://youtu.be/O9Z_oKIrPqs
新年あけましておめでとうございます。昨年末には、母を主の元へ見送ることができました。一時的な別れとなり、一抹の寂しさはありますが、御国における再会の希望を抱いて歩んでまいりたいと思います。今年は、年初から石川県能登半島での大きな地震があり、羽田空港では支援に向かおうとしていた飛行機の事故があり、日本は悲しみに包まれています。震源地の珠洲市には、家内の友人も住まわれており、家族が被害にあったかのように心を痛めています。主の慰めと支えが豊かにありますように。また国内外からの支援や援助が多からんことを祈っていきたいと思います。
さて、今朝の聖書箇所は、旧約聖書詩篇の第135篇です。この詩篇は,134篇を展開したものと言うことが出来ます。主を賛美せよとの呼びかけで始まり,創造と救済(選び)の恵みを告白し,神の民イスラエルにゆだねられた「世界の祝福の基としての務め」を自覚させるものです。エズラ,ネヘミヤによる第2神殿での礼拝が整えられた時期のものと思われます。これは、父祖アブラハムが「祝福の約束」を受けて、約束の地を受け継ぎ、ダビデ・ソロモン王朝の時にそれが実現し、その後、「約束の地において申命記の基準によって取り扱われ」、アッシリア捕囚とバビロン捕囚を経験したのち、神のあわれみにより、「再び約束の地における再建がなされていく」時期のものです。このような背景を念頭に、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 135 ]
A. 【主】の御名をほめたたえよ(v.1-4)
B.自然における主の大能(v.5-7)
C.歴史における主の救いのわざ(v.8-12)
D.主の永遠性と偶像の無能性の告白(v.13-18)
E.主の恵みと力と栄光を証しせよ(v.19-21)
1‐3節には,〈ヘ〉ハレルーが4回繰り返されています。年初の不幸な出来事を思えば、主すなわち〈ヘ〉ヤーハを「ほめたたえよ(ハレルー)」を連発する本詩は、なにか場違いの印象を受けます。しかし、このような「主のほめたたえ」の前景をみますとき、南北王国時代の神の取り扱いと悲惨きわまる捕囚の経験があることに鑑みれば、かえってその意味の適切さを教えられるのではないでしょうか。アッシリア帝国による捕囚とバビロン帝国による捕囚を経験したイスラエルの民は、震災を経験した人々のように、彼らの人生をかけて作り上げてきたものすべてを失ってしまいました。その彼らに対して、[135:1
ハレルヤ、【主】の御名をほめたたえよ]と呼びかけているのです。それは、暗闇の中に灯される一本のロウソクのようです。小さなロウソクのともしびが深い暗闇を吹き払うのです。2024年、この新しい年、暗いニュースが溢れています。ウクライナでも、ガザでも日々多くの人々が死んでいっています。国内でも、地震があり、事故があり、心ふさがれる情報で溺れそうです。そのような時に、イスラエルの詩篇の記者に励まされ、新年の第一声として[135:1
ハレルヤ、【主】の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ、【主】のしもべたち]と自らの魂に呼びかけようではありませんか。
わたしたちは、何ゆえに、また何をもって[主をほめたたえる]のでしょうか。それは、まず第一に主が[135:3
まことにいつくしみ深い]方であるからです。先月、別離の悲しみのおり、讃美歌「いつくしみ深き」を歌いました。よく知られた、大変美しい曲であります。しかし、この曲を作詞した人が「結婚式の前日に、婚約者を亡くした」人と知っている人は多くないでしょう。この歌を歌う際に、この作詞者の心に思いを馳せ、その人の心の痛み、悲しみに没入し、「悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣き」つつ唱和するとき、この歌の真実に、深みに触れることかできるでしょう。同様に詩篇の作者が、主は[135:3
まことにいつくしみ深い]と告白するとき、同じような記憶、経験、実体を抱えているのです。どのように慈しみ深いかと申しますと、[135:4
【主】はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝として選ばれた]とある通り、「〈宝〉の民としての選ばれた」(出19:5,申7:6参照)という約束の通り、バビロン帝国によって滅ぼされてしまうことなく、捕囚によって取り扱い、不純なものを取り除かれた銀のように精錬され、再び約束の地における回復を経験できた、約束に対する主の誠実さをほめたたえ、感謝しているのです。新約の神の民であるわたしたちも、暗闇の深い時代にあって、「
135:3
まことにいつくしみ深い」主イエス・キリストに焦点をあて、このお方をほめたたえ、わたしたちを覆うさまざまの暗闇を吹き払いつつ、新しい一年を歩んでまいりましょう。
5‐7節には,自然における主の大能が歌われています。わたしたちが信じる神さまは、世界を創造し、それを保持していてくださるお方です。私たちは、神さまが造ってくださったこの地球の管理者としてたてられています。この地球はさまざまな資源、植物、動物に満ちた「エデンの園」のような星です。近年、大きな問題のひとつは、温暖化の問題で、気候のメカニズムが狂ってきています。ひとつのメカニズムの変調は他のものにも影響していきます。気温の上昇、大雨による洪水、地殻変動等はなんらかのかたちで連動しているのかもしれません。[135:7
主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される]と言われています。わたしたちは、神の園である地球の管理者です。わたしたちの行動・生活が大地の管理に影響を与えています。神とともにある「良き管理者」として、生活や行動、また選挙や買い物において、「良き影響力」を発揮していくものとされたいと思います。
8‐12節は,「歴史における主の救いのわざ」を賛美歌風に告白しています。出エジプトの経験、ヨシュア記・士師記の戦い、ダビデ・ソロモンの黄金時代等を連想させる記事です。きわめて民族主義的・好戦的な記事といえます。このような記事を今日の「世俗的イスラエル国家」にあてはめて、「神のみ旨」とすることはできません。それは、「イエス・キリストの人格とみわざ」において最終的に明らかにされている「神のみ旨の啓示」の原則に反するからです。イエス・キリストにおいて、最終的に明らかにされている「神の国」は、民族主義を払拭した「普遍主義的なもの」です。新約においては、これらの記事は、霊と肉の戦い、善と悪の戦いの次元に昇華されています。[135:21
シオンで【主】がほめたたえられるように。エルサレムに住まわれる方が。ハレルヤ]とあるシオンやエルサレムも、地上的なものではなく、「天的な実体」の予表また影として捨象されています(ヘブル8-10章)。12節.〈相続の地〉は、「御国」を意味したり、わたしたちの個性と賜物に根ざした「召命」として受け取るのが良いでしょう。
13‐18節は,イスラエルの神,主の永遠性と偶像の無能性の告白です。主は生きておられ、わたしたちの祈りに答えてくださる方であり、わたしたちの人生に、また生活に深く関わってきてくださるお方です。19‐21節は,イスラエルが一つとなって主をほめたたえることにより,主の恵みと力と栄光とを世界に証言するようにとの呼びかけています。ウエストミンスター小教理問答の第一問は、[問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか]であり、その答は、[人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を全く喜ぶことである(2)(1.ロマ11:36、Ⅰコリント10:31、2.詩73:24-28、ヨハネ17:21-23)]です。
わたしたちも、[問1 本年の、わたしたちのおもな、最高の目的は、何であるか]と問い、その答は、[本年の、わたしのおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである]と応答し、[【主】の御名をほめたたえ]ることをもって、一年をはじめ、「雨にも負けず、風にも負けず」
[【主】の御名をほめたたえ]続ける日々を送らせていただきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: 実用聖書注解、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)