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日本福音教会 あれこれC(安黒試論)

ケズィック運動の考察

17/06/03


  1. The History and Message of Keswick
    ケズィックの歴史とメッセージ

  2. The Method of Keswick
    ケズィックの方法


  ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」、それは日本と世界の福音派においてベスト・セラーとなったキリスト教書籍のうちの一冊である。JECにおいても然りである。わたしたちが洗礼を受けたとき、きまっていただいた受洗記念のプレゼントは「キリスト者の標準」であった。

  では「キリスト者の標準」における教えとはどのような教えなのであろうか。前のページで「彼の神学は全面的に、アンドリュー・マーレーやF.B.マイヤーのそれと同様に恵み深く、例証的なスタイルをもったケズィックの教えのそれである。」と指摘した。

The History and Message of Keswick
ケズィックの歴史とメッセージ

ケズィックは、1875年以来毎年「実践的ホーリネスの促進のための」聖会が開催されている英国の湖水地方にあるリゾートタウンの名前である。その年月のあいだに、いくつかの他の聖会の中心地が同じ希望のメッセージを広める目的のために設立されてきた。−たとえば、アメリカのケズィックや今は現存しないカナダのケズィックがある。しかし多分さらに広くゆきわたった影響は、ケズィックのパターンをかたどった、世界中のあらゆる場所で開催されてきた毎年の聖会である。

初期の発端はアメリカ人から起こった。しかし最初のケズィック聖会からずっと、リーダーシップは英国人であった。例外なしに、その指導者たちは、彼ら自身の低レベルのクリスチャン経験に大変欲求不満をもち、そして聖霊の力において生きる生活を切望した人々であった。彼らはケズィックにそのような生活を見出し、そのような経験はすべての人にとって可能であるという福音を広めるために他の「標準的なクリスチャンたち」と結びついた。そのリーダーシップは、世紀の転換点のあたりの10年間においてケズィック聖会を導いた、聖公会・バプテスト・長老派そして他の教派からの多くの著名な聖職者とともにあらゆる教派からやってきた。

ケズィックは教理的体系ではない。いわんや組織とか教派でもない。多分それがそれへの参与がなぜそのように広範囲なのかを説明している。リードした聖職者や著名な学者たちがその運動を導いたけれども、ケズィックのリーダーはその教えに関する論文を書かなかった。そこにはいかなる公式の神学的声明もないから、その運動の外部のある人たちはその教えを誤解した。そして教理的立場の広い多様性は「ケズィック」とという名前と関連づけて考えられる人々によって主張され教えられた。それにもかかわらず、共通のケズィックのメッセージとかアプローチについて語ることは適切である。わたしたちは、ケズィック聖会の歴史とメッセージについての定義的な扱いの提供をスティーブン・バラバに負っている。バラバ彼自身はケズィックのリーダーではなかったけれども、彼の学問的であり暖かみをもった肯定的な分析はケズィックのリーダーたちの承認をかちとった。

バラバは、その最初の聖会への「招き」において表現されていると結論している。−「実践的ホーリネスの促進のための聖会」。彼は同様にさらに拡大された定義を与えている。

「クリスチャンの力への道程」の真の最初の問題において、著者は信仰の実際的な可能性と考えているものを述べている。「神のことばは、標準的なクリスチャン生活が認識される罪に対する勝利を確証する標準のひとつであると教えている。そして誘惑は神によって供給される逃れ道なしにわたしたちに起こることはゆるされない。その結果わたしたちはそれに耐えることができる、とわたしたちは信じる。」ケズィックはこの信仰から決して離れなかった。始まりから今日まで、信仰と勝利、平和と安息の生活は、すべての神の子の正統な相続財産であり、「長時間の祈祷や骨の折れる努力によっでなく、落ち着いたそして断固とした信仰の行為によって」、それを手に入れることができると教えている。「神の子の標準的な経験は継続的な敗北の代わりに勝利、過酷な重荷の代わりに自由、休まることのない苦悩の代わりに『まったき平和』であるべきであると、それは教えている。キリストにあって、すべての信仰者の勝利、自由、安息が備えられている、そしてこれは不可能な理想を追いかける一生涯の葛藤によって手に入れるのではなく、神への個々人の献身によるのであり聖霊の内住によると、それは教えている。」

1890年の聖会の集会のひとつにおいて、H.W.ウェッブ・ピープルはきっぱりとした文章の中で通常の教えとこれの違いを述べている。「以前、わたしは失敗を期待し、解放に驚かされた。今は、わたしは解放を期待し、失敗に驚かされている。

それらの陳述は共通の神学的基盤をもっており、メッセージの要約とみられるかもしれないけれども、全体的にみてケズィックの神学は基本的に主流派プロテスタント神学である。それゆえに、事実上リーダーシップが神学思想のすべての主要な流れから引き出されることが可能とされてきた。それゆえ、聖会それ自身の方法からもっともよく理解されうるケズィックの多様な強調は、そのメッセージの理解のために欠かすことはできない。

The Method of Keswick
ケズィックの方法

   伝統的なケズィック聖会はそれぞれの日に特別な主題を追求している。最初の日はを強調する。聖さについての神の基準と人間の欠陥は罪と霊的必要についての深い確信を奨励する明白に述べられた意図をもって人々の前に主張されている。

   二日目は勝利的クリスチャン生活のための神の備えが提示される。キリストの成し遂げられたみわざは義認以上のものを供給する。−それは同一化を供給する。事実、キリストとの同一化はパウロの神学の核心とみられている。

キリストの死と復活においてキリストと信仰者の同一化の真理がもっとも明白に提示されている新約聖書の箇所は、ローマ人への手紙6章である。聖化の教理のためのこの章の重要性を過大評価することは不可能だと思う。それは正しく魂のマグナ・カルタそしてクリスチャンの奴隷解放令と呼ばれてきた。

成功的なクリスチャン生活のための神の備えは、キリストの成し遂げられたみわざや生き生きとした臨在のみでなく、聖霊の内的な働きにおいても見出される。三位一体のメンバーのうち、信仰者を聖めるのは聖霊である。聖霊は罪の下方への牽引力を打ち消すように働く。

 

("Five Views on Sanctification"よりの翻訳・抜粋)