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M日本福音教会あれこれ(安黒試論)

「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」との関係について

17/06/03


 前述した2014年11月4、5、6日、ICIを会場として「日本福音主義神学会・全国神学研究会議」が開催された。その初日の朝、同じ場所で「JEC牧師会」が開催され、『20分で分かる全国研究会議―全国研究会議の中に見る、これからのJECの福音理解:聖書観➡聖書釈義➡教理形成➡歴史の只中での実践―』というテーマと副題設定で、全国研究会議の「@釈義、A教理、B歴史・実践」の輪郭と「@状況、A争点、Bガイドライン」のエッセンスを略解しつつ、それらをJECが置かれている文脈と絡ませつつ、全国研究会議で取り組まれるディスカッションにならって、JECそのもの―つまりJECにおける状況・争点・ガイドラインを同じ原理原則の下で「まな板」に乗せさせていただいた。

 わたしにとっては、「JECにとって、今、最も必要なこと、最も大切なこと」を語らせていただいたつもりであったが、ある先生は「114日の牧師会における安黒師の講演に対して、表題の『20分でわかる福音主義神学会』というタイトルとはかなり異なっており、講演姿勢に対する疑問が呈せられた」とのことであった。この疑問を呈された方はあまり自覚されてはいないと思われる。ただこの疑問には、数多くの誤解が含まれており、講演内容についての意見や質疑ではない、わたしに対する「人格攻撃」(米国の裁判で用いられる手法で、証拠内容の問題では争わずに、証人の人格的信憑性に疑問を投げかけるやり方)の意味合いも感じたので、JEC教職者の皆さんには、メールにて詳しく説明させていただいた。それは、今後、牧師会、拡大教職者会、一泊牧師会等で、JECが「今日置かれている状況」に見ざる、聞かざる、言わざるの立場をとることなく、状況をきっちりと認識し、取り扱うべき「争点」を明確にし、守るべき「ガイドライン」を明確にする、JECが福音派(ペンテココステ・カリスマ派を含む)全体の中で、真に尊敬を受け、真に評価されうる「福音理解」に生きる群れであるために成すべきこのような大切な取り組みをする人間を、葬りさらせないためである。よく言われることだが、醸造されたぶどう酒の樽に「死んだハエ」が一匹落ちるだけで、そのぶどう酒は腐ってしまうのである。それで、それが落ちた瞬間にその部分をごそっと取り除くことによって、ぶとう酒全体が守られるのである。わたしは、今テーマにおける「病状」が発覚したときに、すぐに声を上げたのであるが、「臭いものにフタ」をされたしまった経緯がある。その間、時間は経過し、わたしの診断では、JEC内外でその病状は悪化していったとみている。しかし、不思議なことに、この問題が明らかになっていった今日においても、その病状を放置、また助長、推進し、JEC内外に大きな神学的損害を被らせた人たちは、なんの責任もとっておられないし、謝罪のことばもないのである。教会というのは、このような意味でも特別な世界なのかな、と思ってしまうのである。

 ただ感謝なことに、ある先生から「先生の講義でいつも教えられ、励まされています。牧師会での講義もよくわかりました。キリスト教会も艱難を通らなければならないので、それに備えた教会形成に励んでいます。私は、最近、黙示録1章からメッセージしています。ようやく14章まできました。安黒先生の講演に対して、批判があっても、あまり気になされないほうがよいと思います。先生が神様から示されていることを大胆に発信していかれれば、メッセージで励まされ、教えられる方もおられます。安黒先生の働きに感謝しています。」とメールがあり、慰められ励まされた。その時に、このメールを読みました時、使徒18:9-11が心に響きました。「使 18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。18:11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」数年前に、このテーマで語り始めたときには、理事会と牧師会から、「安黒先生が勝手な事を語っている」という冷たい反応ばかりであったが、今、ようやく、JEC教職者の皆さんのここかしこに、改善の兆しが見られるようなってきていることか本当に感謝なことである。わたしも、今年すでに還暦を迎えた、残す奉仕期間は約十年である。「石を投げられ続けながら」ではあるが、JECの群れ全体のため、ある意味、「預言者」のように語り続けたい。

 わたしたち、JECは、元々「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教えや実践」には無関係の群れであった。それが、歴史的な経緯の中で、いわば「流行性インフルエンザ」に感染し風邪と熱に苦しむことになったが、今や「神学的なワクチン」の準備が整い、治療がはじまったのである。まだワクチンを拒絶する先生方もおられるが、いずれそう遠くない将来、治癒された先生方のアドバイス等にも助けられ、JEC全体が治癒される日もそう遠くないと期待し、その日が訪れるのを夢見ている。わたしにとって、エリクソン著『キリスト教神学』、ラッド著『終末論』(2014年三月刊行予定)、『福音主義神学』「福音主義イスラエル論−その神学的・社会学的一考察」、「ディスペンセーション主義」「レストレーション運動」「キリスト教シオニズム」等のさまざまなICI資料は、わたしがJECにささげる「神学的ワクチン」のシリーズなのである。

 そして、それとともに、主はひとつのことを思い出させられた。上記の牧師会の質疑応答の最後に、JECの前の理事長のT師から建設的な提案があったことをである。前理事長のT師は、「わたしたちはほとんど何も知らずに知り合いの先生方に案内され誘われるままに、ディスペンセーション主義やキリスト教シオニズム等の集会に参加し、良きにつけ悪しきにつけ影響を受けてきた。間違った運動の教えや実践に翻弄されないため、JEC教職者のために、ディスペンセーション主義の多様性について、ひとつひとつ説明していただきたい」近年、KBIを会場として、「ディスペンセーション主義聖書解釈・教会論・終末論」関係、「レストレーション運動」関係、「ダビデの幕屋」関係、「キリスト教シオニズム」関係の集会が開催されるようになってきた。講義に行った時に、神学生から「ダビデの幕屋とか、祈りの塔とか、あれは一体どのような教えと実践の運動なのでしょうか?私たちはどのようにそれを受けとめれば良いのでしょうか?」といった質問を受けるようになった。それで、本格的な解答を書き記す前段階として、いろいろと下調べしていったメモを紹介したい。上記の課題に関する本格的で、包括的な取り扱いを記した『福音主義神学 45号』(2014年12月末刊行)誌に掲載されている、安黒論文『福音主義イスラエル論』の記述の一部、「ディスペンセーション主義」と「キリスト教シオニズム」に関する言及を下記に少し紹介したい。

 わたしが、このような情報を研究し、紹介する重荷を抱いたのは、JECまたKBI関係の教職者の上記の種々の運動や教えへの傾斜また傾倒を強く懸念するからである。2014年11/4のJEC牧師会でも講演させていただいたのだが、わたしの目からすれば「水面上の氷山だけを見て、水面下の氷山をみずに、傾斜・傾倒していっているのではないか」と思うのである。

 わたしは、よくよく注意していないと、JECまたKBIがこれまで継承してきた「二千年間の教会史」のセンターラインを流れてきた「福音理解」を変質させてしまう教えと実践が含まれている危険があると受けとめている。

B-2) ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル

 次に、上記の神学的思索の細部のベクトルとして「ディスペンセーション主義」の起源と変遷[1]を扱う。これは、最も論争的なテーマといわれる「キリスト教シオニズム」の神学的基盤を構成している。「ディスペンセーション主義」は、1800年代初期から中期の英国においてジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下に出現した。それは、リベラリズムとの闘争という時代状況の中で、霊感された書物としての聖書観が危機に瀕したときに、その防御の戦いにおいて「正の貢献」があった。しかし同時に「負の遺産」を生み出した。それは、もうひとつの極端に振れた振り子のように、そこに極端な字義主義を生起させ、極端な聖書解釈をもたらした[2]。そして19世紀と20世紀前半に米国において、ディスペンセーション主義は多様化しつつ発展していった。第一段階として「古典的ディスペンセーション主義」の立場は、「イスラエルと教会の間にある多くの相違点」を指摘し、「二つの異なった民に対する二つの別個の計画」の存在を主張した。展開の第二段階として「改訂ディスペンセーション主義」の立場が登場し時代を画した。展開の第三段階は「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実し、1980年代と1990年代に出現した。歓迎すべき大きな変化が起こり続けているが、「J.N.ダービーの遺伝子」とでも言うべき「民族としてのイスラエル」を軸にした理解は陰に陽に残されたままである[3]。今日、「イスラエルを軸とした」聖書理解とか、イスラエルを軸とした「神のマスタープラン」という強調がなされることがあるが、それらの多くは上記のディスペンセーション主義聖書解釈法に由来するものである。

B-3)
使徒的イスラエル論とは何か

 さて、マクロとミクロの背景説明を終えた今、次の課題を扱う準備が整った。前節において「使徒的聖書解釈」の原則を確認した。では、その原則に立脚した「使徒的イスラエル論」とは何なのか−これが第二の問いである。

旧約は「イスラエルの未来における救い」を見ている。しかし、新約はどうか。新約は、それらの預言が「教会において霊的に成就された」と解釈しているのか。あるいは旧約預言の字義通り「選民イスラエルのための未来を用意しておられる」と解釈しているのか。どちらなのか。契約主義神学は前者の「教会を軸とした」イスラエル論をとり、ディスペンセーション主義神学は後者の「イスラエルを軸とした」イスラエル論をとる。新約でこの課題について、最も詳しく述べている箇所はローマ人への手紙9-11章である。そのローマ人への手紙925節の旧約の文脈(ホセア書)では「イスラエルへの言及」である箇所の大部分が「異邦人からなるキリスト教会に適用」されている。これは、「メシヤ預言とキリスト論」の関係でみた「同じ聖書解釈の原則」が「イスラエルに関する預言と教会論」の間でもみられるということである。ここで「旧約の諸概念」は解釈され、旧約では予見不可能なことが言われている。ホセア書からの引用がローマ人への手紙926節(ホセア書110節)にある。旧約の文脈では「字義通りのイスラエルに言及されている預言」であるが、新約では「(異邦人)教会に適用」されている。ホセア書110節、223節の預言も「教会において霊的に成就」とされ、教会は「本質的イスラエル性」を内包する「霊的イスラエル」として理解されている。アブラハムが「無割礼のときにもった信仰」の足跡は、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父となるためであったのであり、「信仰の内実」を有するアブラハムの子供が「霊的イスラエル」である。これは不可避の結論である(ローマ人への手紙416, ガラテヤ書37節)。

ディスペンセーション主義者は、「霊的解釈」を最も危険視している。ジョン・ウォルヴォードは、それを「カトリック、リベラル、非ディスペンセーション系保守の特徴」[4]とみている。しかし、ラッドは「旧約において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用しているという原則を見出すのであるから、霊的解釈を採用しなければならない」[5]と断言する。ここに「使徒的イスラエル理解」の原則があり、「使徒的正統性」を判別する尺度が存在する。



[1] Clarence B.Bass, Background to Dispensationalism (Eugene, Oregon: Wipf & Stock, 2005), pp.@-B. Wayne Grudem, Systematic Theology (Nottingham: InterVarsity Press, 1994), pp.859-863 に、ディスペンセーション主義聖書解釈の三類型とその変遷の記述がある。

[2] Bass, Background to Dispensationalism, p.21 において、バスは「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記している。

[3] Grudem, Systematic Theology, p.863 において、グルーデムは漸進主義ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間に残された相違に関し「ディスペンセーション主義者は、教会がイスラエルに関する旧約聖書預言の多くの適用の受領者であるとする。しかしそれらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされるという点を許容する。」しかし、教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就であることを否定するいかなる強固な理由も存在しないと記している。

Vern S. Poythress, Understanding Dispensationalists (Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian and Reformed, 1987), p.137において、ポイスレスは古典的立場から修正主義へ、さらに漸進主義へと変遷しているディスペンセーション主義の将来を、ついには「G.E.ラッドが手本として提示している契約主義プレミレニアリズムに安らぎの港を見出すことになる」と予測している。筆者は、その理由として、聖書神学が基本構造としてもつ「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」がもたらす必然的結果であると考える。後千年王国説、無千年王国説、歴史的(契約主義)前千年王国説は、現在面と未来面の強調点等の些末な相違はあるものの、この「神の国の神学」の基本構造の認識を共有している。G.E.ラッド『神の国の福音』(聖書図書刊行会、1965年)は、このテーマに関する良き入門書である。

[4] John Walvoord, The Millennial Kingdom (Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1959), p.71.

[5] Ladd, The Last Things, p.24.

 

A-2) キリスト教シオニズムの諸形態

 さて、わたしたちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き[1]を目にし、また耳にする。しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか。よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの「神学と実践」の「輪郭と本質」を知っておきたい。今日の福音派のキリスト教シオニズムには、大別して「四つの相違する形態」がある。それらは、「教会とイスラエルの関係、伝道、帰還、イスラエルの地、入植、エルサレム、神殿、ハルマゲドン」に関する神学的理解の相違を契機として生まれてきた。それらには、@契約主義的プレミレニアリズム[2]、Aメシヤニック・ディスペンセーション主義、B黙示的ディスペンセーション主義、C政治的ディスペンセーション主義の四つがある。」[3]ここでは特徴的な要素のみを取り上げる[4] 第一に「契約主義的プレミレニアリズム(ヒグトン、リガン:CMJ, CWI)」はユダヤ人に対する「伝道」とパレスチナへの「帰還」を特徴とし、第二に「メシヤニック・ディスペンセーション主義(ローゼン、ブリックナー、フルクテンバウム:JFJ, AMFI)」はユダヤ人に対する「伝道」とともに、「二契約神学」のゆえに「神殿における実践」を含み、「ユダヤ教的礼拝の復活」をも引き受けている。第三に「黙示的ディスペンセーション主義(リンゼイ、エヴァンズ、ラヘイ:DTS)」はハルマゲドンの熱望というかたちで「終末預言」と「中東の平和に関する悲観主義」の傾向が強い。第四に「政治的ディスペンセーション主義(ロバートソン、ファルウェル:ICEJ, BFP)」は、米国のイスラエルとの「軍事的かつ政治的結びつき」を強固に維持することへの傾倒とユダヤ人への「伝道の否認、楽観的な終末論、キリスト教の福音の再解釈」によって他と区別される。政治的ディスペンセーション主義にとって、「教会の目的とはイスラエルを支援し祝福する」ことである。なぜなら、ユダヤ人は「彼ら自身の契約を基盤にして神に受け入れられ」ており、ユダヤ人は「メシヤが再臨される時にメシヤを認める」ことになるからである。「福音主義イスラエル論の座標軸」(注2)において評価すると、契約主義的プレミレニアリズムがキリスト教シオニズムの中で「最も正統的かつ穏健な形態」とみなされ、政治的ディスペンセーション主義は「最も問題を含む形態」であると思われる。それぞれは、重なり合う部分を持つとともに、グループ内に様々なグラデーションある強調点を抱えており、その判別は代表者や唱道者等の発言や著作から、それぞれのグループの「特徴の輪郭」と「教えの本質」を判断することとなる[5]

 



[1]日本における「ユダヤ人伝道」関係には、ローザンヌ・ユダヤ人伝道・日本支部(LCJE)の交わりがあり、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、ミッション・宣教の声、ライフイン・メサイヤ、シオンとの架け橋、アルコ・イリス・ミニストリー、ハティクバ・ミニストリーズ等の参加がある。ユダヤ人伝道関係でバランスのとれた小冊子として、誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60『ユダヤ人伝道―教会への使命―』(関西ミッション・リサーチ・センター、2006年)がある。また、日本リバイバル同盟(NRA)は、イスラエルに本拠地を持つトム・ヘスの Jerusalem House of Prayer for All Nations の働きに呼応し「祈りの祭典」や、「エンパワード21ムーブメント」に関わるようになっている。

[2] LCJE JAPANジャーナル』200910 Vol.1には、契約主義的プレミレニアリズムの立場に立つトニー・ヒグトンの「キリスト教シオニズムの不適合な要素」に対する批判とJ.R.プライスの幾つかの反論、そしてその反論へのヒグトンの応答がある。私も共感できるヒグトンのこの立場は、G.E.ラッドやM.J.エリクソンと近いものがある。

[3] Sizer, Christian Zionism, p.255.

[4] 関連団体等の参照。CMJ (Church’s Ministry Among Jewish People), CWI (Christian Witness to Israel), JFJ (Jews for Jesus), AMFI (American Messianic Fellowship International), DTS (Dallas Theological Seminary), ICEJ (International Christian Embassy Jerusalem), BFP (Bridges for Peace).

[5] キリスト教シオニズムの「聖書、選民、帰還、エルサレム、神殿、未来」等に関する特異な神学的強調に関しては、Sizer, Christian Zionism, pp.106-205 また、idem, Zion’s Christian Soldiers? の全編にわたって詳しく解説されている。