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2024年12月29日
ヨハネ5:25~29「神の子の声を聞く時―今とそのとき」-ヨハネ福音書の読み方を熟成していきたい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/8we4j2Ws2js
ヨハネ福音書
A.死人が神の子の声を聞く(5:25)
B.御父と御子がもっておられるいのち(5:26)
C.さばきを行う権威(5:27)
D.墓の中にいる者が聞く(5:28)
E.善行と悪行、いのちと裁き(5:29)
今朝は、2024年度、最後の礼拝の時です。教会では、「年末感謝礼拝の日」とも言われます。テレビや新聞でも、一年間にあった様々な出来事を振り返ります。わたしたちも個人と教会における一年間を振り返り、そこにあった神さまの恵みと祝福に目を留めて感謝をささげる一日です。わたしにとりまして、ICIのホームページやフェイスブック、ユーチューブは、一年間の記録簿のようなものです。一年の終わりには、それらを振り返ります。今年は、不思議な感覚に包まれました。「個人の働き、奉仕として特別なものは何もなかった一年だった」という感覚です。奉仕生涯の大半には、それぞれの年になんらかの奉仕があり、それらが、いわば「台風の目」となり、それらのひとつひとつに注力して一年が回るものなのですが、そのようなものが何もない「無風地帯」のような一年であった感覚です。「七十歳」という大台は、不思議な区切りとなりました。何もないといことは、素晴らしいことです。そフェイスブック自分のしたいこと、取り組みたいことができる時間帯」であるからです。
ICIユーチューブには、四十年余りの神学校等を軸とした奉仕生涯で分かち合ってきた講義・講演をアップロードしてきました。追記をなし、毎日講義をしている感覚がありました。それがほぼ完了したことも、[ヘブル4:4そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた]という言葉が響くところなのでしょう。[出20:9
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。20:10
七日目は、あなたの神、【主】の安息である]と言われます。これを人生に援用しますと、約六十年間働いて、七十年目くらいからは「安息」の年月としても良いと教えられます。リタイア―の年月です。心身の健康が少しずつ衰え始める、人生という飛行機が着陸態勢に入る年月です。
父母が準備してくれた家業があったことで、共立基督教研究所での学びの後の研究生活をふるさとで継続し、それを一生涯の使命、また召命として過ごすことができました。昨年は、東京知事選で石丸氏、兵庫知事選で斎藤氏がSNSの活用で大きな結果を残しました。従来のどぶ板選挙、組織・団体票選挙から、大きな環境変化が起こっています。これは、人々の生活スタイルがSNS社会において変貌してきているということです。そこには、功罪があり、賛否も両論がありますが、キリスト教会としても、この変貌に対応し、良きものは活用していく必要があるでしょう。ICIの取り組みは、その先鞭のひとつであるように思います。少なくない人たちが、ICIの基礎と継続神学教育を、それぞれの生涯教育の養いとして活用してくださっていることは大きな喜びであり、少子高齢化で窒息させられそうな伝道と教会形成の時代に「希望」という酸素を供給しているようにも思います。
今朝の箇所の最後には、[5:29
そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます]と、わたしたちの人生がきわめて複雑に見えて、実はきわめてシンプルな二者択一の人生であると教えています。すなわち[善を行って…いのちを受ける]、あるいは[悪を行って…さばきを受ける]か、の選択であるというのです。これは、「一生」という期間で考えられますが、同時に「今年一年」という期間でも見ることができます。「一日一善」、すなわち1日に一つの善行をして、それを積み重ねるようにしなさいという呼びかけの言葉があります。
聖書には、[マタイ10:42
この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません]とあります。どんな小さな善行をもお忘れにならないお方を信じて、小さな善行に励みましょう。自分では覚えきれない、気づかないほどの小さな善行を自然体で無意識にしてしまうほどに、そのような水につかり、そのような風に押され、促されて生活してまいりましょう。学生の頃、本屋で一冊の本が目に入りました。ドストエフスキー著『悪霊』という本でした。そのタイトルに惹かれ、パラパラと拾い読みをしたとき、その最後の「準備ノート」の箇所に「キリストに出会ったことのない人は、いまだかつて生きたことがない人だ」という記述がありました。
今朝の最初の箇所、[5:25
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます]を読んだとき、そのことばを思い出しました。ここで「
5:25 死人」とは一体どのような存在なのでしょうか。ここで「 5:25
死人が…生きる」ということは、どういう意味なのでしょうか。それは、神さまの目から見て、「その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である」と言われる神さまとの人格的交流の中にない人間というものは、霊的に死んだ存在(エペソ2:1)と見られているということです。
霊的に死んだ状態の人間の特徴は、[ロマ1:21
神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗く]なっていると教えています。[5:25
死人が神の子の声を聞く時が来ます]とは、どういうことでしょう。それは、御子なる神イエス・キリストが天から降って来られ、受肉し、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]ということです。そして[5:25
それを聞く者は生きます]ということは、この御子なる神イエス・キリストを信じ、愛し、受け入れる者は、[ヨハ3:16
一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ]ということです。
[5:26
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです]というのは、人格的ないのちそのものである御霊なる神聖霊のことです。三位一体なる唯一なる神は、御父・御子・御霊の深い人格的交流の中に存在しておられ、わたしたちが「永遠のいのち」にあずかるというのは、その人格的交流の中に招き入れられることです。よく「キリストを信じなければ地獄に行く」と言われますが、その意味するところは「三位一体の、御父・御子・御霊の神の人格的交流のないところは、虚無の世界であり、地獄のようなところであり、三位一体の、御父・御子・御霊の神の人格的交流のあるところが、パラダイスである」ということなのです。
ですから、ヨハネは、御子なる神イエス・キリストが今ここに来臨されている。[Ⅰヨハ1:1
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。1:2
このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見た]、このお方の声を、今じかに聞くことができている。今、御子なる神イエス・キリストからみ言葉をじかに聞き、理解し、納得し、受け入れることができる。そして、このお方との「人格的交流の中に」[5:25
生きる]ことができると教えているのです。
ここで、御霊なる神聖霊による「人格的いのち」の交流に言及したのち、[5:27
さばきを行う権威]に言及されています。と申しますのは、「永遠のいのち」の問題は、「永遠の裁き」と表裏をなす問題であるからです。ですから、今朝の箇所には、「ヨハネ福音書の神学」の一端がよく現れています。「いのちと審判」は、未来的なものであるだけでなく、現在的なものであるということです。ヨハネは、[5:25
今][死人が神の子の声を聞き][聞く者は生き]ると、現在における救い、「永遠のいのち」の賦与を説きます。
と同時に、[5:28
墓の中にいる者がみな、子の声を聞く]未来の時があると申します。身体的には生きているが、霊的に死んだ状態にある者と、すでに[5:28
墓の中に]あり、いわゆる「中間状態」にある者の扱いに言及します。そこでは[5:29
そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます]と述べています。長年「組織神学」を教えてきた神学教師として、この箇所を読みますと、少し言葉を補足する必要を感じます。それは、ローマ人への手紙で明らかにされているパウロ神学の光の下に、この箇所を読み返し、補足説明をしないと誤解・誤読が生じるのではないかと懸念するからです。
新約時代きっての「組織神学者」パウロは、善行と悪行、律法と良心に啓示された神のみ旨に対する違反に対しての裁きをローマ1-2章で説明し、[ロマ2:6
神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられ]ると断じます。そして[ロマ3:9 すべての人が罪の下にあり][ロマ3:20
人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない]という人間観を示しています。パウロは、キリストの贖罪(ローマ3-5章)を基盤とし、内住の御霊(ローマ6-8章)による神のみ旨を成就する生き方を説いています。ヨハネは、「ヨハネ1:29
世の罪を取り除く神の子羊」と「ヨハネ1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者」という表現で同じ「福音理解の構造」を示しています。
このように見ていきますと、30~60年代前半まで奉仕したパウロは、贖罪に根ざした内住の御霊により、律法の本質をまっとうする救済論に光を当てた宣教活動をしていたことに対し、70年のローマ帝国によるエルサレムと神殿・祭司制度の崩壊とパリサイ派の人々による律法遵守を軸としたシナゴーク時代の迫害下に生きたヨハネが90年代に執筆したヨハネ福音書は、[5:29
そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受ける]という、ある意味でユダヤ教との共通概念は深く扱うことなく、御子なる神イエス・キリストがいかなるお方なのかに焦点を当てて、執筆していると教えられます。御子は御父と同等の、三位一体の唯一の神の位格であり、「永遠のいのち」の賦与も、「永遠の裁き」の権限ももっておられるお方である、というのがヨハネの主張なのです。
パウロは、彼の求道者層がまだユダヤ教の枠内にとどまっている時代のアプローチとして適切であったのであり、ヨハネはシナゴークから、ある意味、イエスを呪う「ヤムニアの第十二祈願」強制を通して、隠れキリシタン発見・追放の危機の時代における必要なアプローチであったのだと教えられます。わたしたちは、ヨハネ福音書から、神論・キリスト論を教えられ、パウロ文書からは救済論を深く教えられるといえるでしょう。わたしたちは、パウロ文書とヨハネ文書を相互補完的に用い、学び、バランスのとれた「福音理解」の中に養われてまいりましょう。三年半かけた『詩篇』傾聴シリーズを終わり、今年の4月28日の聖日から『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズを開始しました。
かの有名な太宰治は[聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か]と記しています。わたしたちの『ヨハネ福音書の神学』傾聴も、少なからずの時間がかかりそうです。新しい年もまた、「美味しいブドウ酒を醸造する」ように、ヨハネ福音書の読み方を熟成していきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、H.G.ペールマン『現代教義学総説』、『ウエストミンスター信仰基準』)
2024年12月22日
ヨハネ5:19~23「子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません」-御子なる神イエス・キリストへの崇敬が永遠の運命の全てを決する-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/qCTzklMk8SI
ヨハネ福音書
A.御父から御子への啓示―大工ヨセフが息子イエスに教えるように(5:19-20)
B.御父なる神から御子なる神イエス・キリストへの神の大権の委譲―生死と審判をつかさどる権限(5:21-22)
C.御子なる神イエス・キリストへの崇敬が永遠の運命のすべてを決する(5:23-24)
メリークリスマス!
クリスマスおめでとうございます!主の初臨と再臨を待ち望むアドベントの期間を経て、今年もクリスマスの礼拝を迎えることができました。約50年前、19歳のクリスマスに洗礼を受けました。その時には、50年後の自分のあり様は夢にすら描くことはできませんでしたが、「あっという間に」50年経ちました。[申2:7
事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった]と記されているイスラエルの民の荒野の40年間の旅のように、主の守りと支えを振り返ることができ感謝です。わたしの祖父や父は、印象深い想い出であったのでしょう。その晩年、若かりし頃の戦争体験をテープレコーダーのように繰り返し語り聞かせてくれました。同様に、わたしたちクリスチャンは皆、自分自身の「申命記」を心に留め、その恵みと祝福を回想する「人生の晩秋と冬季を迎える」ことは良いことだと思います。わたしも、今、人生の信仰体験を「ICI安黒務の神学的エッセイ」でとりとめもなく書き綴っているところです。
今、目を閉じると50年前の西宮福音教会のチャペルの洗礼槽を掃除して、お湯を入れている情景が目に浮かびます。あの年は、一年間でほぼ20名が洗礼を受け、皆熱心なクリスチャン生涯を送っています。それらの中には、峰町キリスト教会の安食弘幸先生、関西聖書学院の大田裕作先生、日本イエス・キリスト教団で活躍された川原崎晃先生等もおられます。四回開催されました洗礼準備会の最後に誘われて参加し、末席で洗礼式に加えてもらうことになったわたしも、「安黒さんは、大丈夫だろうか?
続くだろうか?」と心配をかけながら、守り支えられ50回目のクリスマスをお祝いしています。
今朝は、クリスマスでありますのに、ヨハネ福音書を開いております。それは、[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった]、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである]、[ヨハ10:30
わたしと父とは一つです]、[ヨハ14:9 わたしを見た人は、父を見たのです]、[ヨハ20:28
私の主、私の神よ]と、ヨハネ福音書に一貫して明らかにされているように、クリスマスとは、神が人となってこの世界に来訪された接点、また瞬間(ヨハネ1:14)であるからです。しかし、旧約聖書で約束されたこのお方が人類の救いのために来訪され、公生涯を始められた時、まず最初に受け入れることが期待されたユダヤ人の間にふたつの反応があったことが明らかにされているのです。三十歳となられた御子なる神イエス・キリストは、ユダヤ、サマリア、ガリラヤで耕しと種まき伝道を開始されました。そのための弟子たちをバプテスマのヨハネが準備し、御子なる神イエス・キリストに託しました。ガリラヤのカナでの奇蹟、エルサレムでのニコデモとの対話、サマリアの女との出会い、王室の役人の息子の癒し、ベテスダの池の病人の癒し等を通して多くの人の信仰を耕し、将来のリバイバルに向け、み言葉の種を蒔いていかれました。と同時に、これらの伝道活動は、律法遵守を中心に据えたユダヤ教のあり方にとって「脅威」でありました。
御子なる神イエス・キリストは、その公生涯における伝道において、「ご自身が如何なる存在者であるのか」を示そうとされていました。このことが明らかにならないと、ご自身の十字架のみわざは誰にも理解されずに終わるかもしれないからです。当時存在するユダヤ教の一派として、ラビすなわちユダヤ教の教師のレベル止まりのようなお方ではありませんでした。御子なる神イエス・キリストの位置づけは、二章にある宮清めの出来事のように、ユダヤ教のあり方を「ちゃぶ台返し」するようなものでありました。律法遵守を軸とする唯一神信仰から、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを軸とする三位一体信仰へ正しくシフトするものでありました。1世紀末に書かれたヨハネ福音書の背景として、70年のエルサレム崩壊と神殿の消滅がありました。1世紀末の時代のユダヤ教は、バビロン捕囚期のように、律法遵守を軸とするシナゴーク中心のユダヤ教へと回帰していきました。御子なる神イエス・キリストの在世当時と1世紀末を重ね合わせて読むと深い洞察を得ることができます。
1世紀末のパリサイ派の人たちは、シナゴーク、すなわち会堂内に潜む「隠れユダヤ人クリスチャン」の摘発に熱心でありました。そのような状況が、[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである]と書かれたことばの背後にあります。クリスチャンは、週のはじめの日、御子なる神イエス・キリストが復活された日を記念し、礼拝を守るようになっていました。ユダヤ教の「安息日規定」は本質は遵守され、期日については柔軟に対応されるようになったのです。クリスチャンたちは、聖書の「外形」すなわち「栗のイガ」を剥き捨て、聖書の「本質」すなわち「栗の美味しい実」である御子なる神イエス・キリストご自身とそのみわざを大切にしました。それは、旧約の「外形的信仰」から、「実質的信仰」へのシフトでありました。御子なる神イエス・キリストの在世当時、また1世紀末会堂に潜むユダヤ人クリスチャンたちのそのような状況を、パリサイ派の人々は許容することができませんでした。御子なる神イエス・キリストは、ご自身が「神と等しいものである」かのように発言し行動していると激烈な批判を受けておられたのです。
それは、パリサイ派ユダヤ教徒にとっては、信仰の生命線ともいうべき規範でありました。モーセの十戒の前半に、[出20:3
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。…20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、…20:7
罰せずにはおかない]等とあるからです。創造者なる神と被造物なる人間との間にある「存在論的ギャップ」を犯すことは、神を冒涜する最大の罪と受けとめられていたのです。御子なる神イエス・キリストが、「5:18
ご自分を神と等しい」者であると匂わせられるたびに、パリサイ派の人々の心には殺意が芽生えたのです。これは、クリスチャンであるわたしたちが偶像礼拝を強制された時に、「いのちを賭して、その信仰的貞節を守ろう」とする姿勢に似ているところがあるかもしれません。パリサイ派の人々にとって、神を冒涜したとみられる人がいた場合、[レビ24:16
【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない]と教えられていたのです。このような危険な状況下で、御子なる神イエス・キリストは沈黙したり、謝罪めいた釈明をしたりはなさいませんでした。
逆に[5:19
まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。5:20
それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです]と、大工の父ヨセフがその大工仕事を長男である息子御子なる神イエス・キリストに、見よう見まねで教え伝えたように、御父なる神は、御子なる神イエス・キリストに神に属する大権のすべてを委譲されていったのです。[また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります]とは、ベテスダの池の癒しのような個々の小さなわざのみでなく、神にのみ属する根本的な大権の行使を見ることになると予告されているのです。
神にのみ属する根本的な大権の行使とは、[5:21
父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。5:22
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました]とあるように、人間の生死とその後の裁き、永遠の行方を司る大権が、御子なる神イエス・キリストに委譲されるということです。パリサイ派の人々は、旧約の律法の「文字」にとらわれ、その本質であり、実体である御子なる神イエス・キリストが見えなくなっていました。彼らは、唯一の神を信じていると確信していましたが、その御父なる神の御子が来訪されたにも関わらず、そのお方を殺そうと策謀するのみでした。唯一の神を信じつつ、御子なる神イエス・キリストを否認する人たちへの厳しい言葉です。それは、[5:23
子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません]とあるように、パリサイ派の人々には「大きなボタンの掛け違い」があることを指摘されています。
「外形」的だけでなく、真に「実質」的に、「本質」的に、そして「人格」的に、聖書の啓示に沿って、まことの唯一の神を愛し、崇敬し、信頼し、信じている者は、「御子なる神イエス・キリスト」の[5:24
ことばを聞い]たなら、それは「旧約聖書で明らかにされている唯一なる神の品性と人格と教えであると理解し、確信し、幼子のように安心し、信頼に満ちた心で受け入れるはずだ」との確信が御子なる神イエス・キリストにはあるのです。御子なる神イエス・キリストは、[わたしを遣わされた方を信じる者は、(御子なる神イエス・キリストとその十字架のみわざを通し、注がれた御霊なる神聖霊により)永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています]と、ここでも、クロノロジカル(時間軸)では、まだ未来にあるのですが、バーティカル(垂直軸)では、御父・御子・御霊の一連のみわざを結集し、御子なる神イエス・キリストへの信仰を軸にして賦与される「さばきにあうことがなく、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移」る霊的現実に触れられています。これが、クリスマスの現実であり、本質なのです。[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]とある通りです。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、D.Moody Smith,“John” Abingdon New
Testament Commentaries 、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』)
2024年12月15日
ヨハネ5:9b~18「ご自分を神と等しくされた」-安息日に癒しのみわざを行われた意味・目的は何なのか?-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/lGlfgxQElFw
ヨハネ福音書(概略)
A.安息日なのに、『床を取り上げて歩け』と(5:9-11)
B.それがだれであるかを知らなかった(5:12-13)
C.治してくれたのはイエスだと伝えた(5:14-15)
D.イエスを迫害し始め、殺そうとするようになった(5:16-18)
今週は、教会の暦で申し上げますと、本年のアドベント第三週にあたります。「アドベント」には「来臨」「来訪」―すなわち神さまが私達のところに訪れて下さるという意味があります。紀元60年代に書かれたマタイ、ルカの福音書は、イスラエルの系図や歴史からクリスマスの降誕の記事をもって始まります。しかし紀元70年のローマ帝国によるエルサレム崩壊後、紀元90年代に書かれたヨハネ福音書は、永遠の神の視点から来臨と受肉の記事が書かれています。これは、60年代には、旧約聖書に約束されていたメシヤ預言の成就として、旧約聖書との連続性が強調されていたということであり、キリスト教はまだローマ帝国の公認宗教ユダヤ教の一宗派として見られていた時代背景があります。
これに対して、ユダヤ教徒は紀元70年のローマ帝国からの独立闘争を経て植民地であった祖国を失うはめとなりました。その結果、キリスト教徒は旧約聖書に根ざしつつも、ユダヤ教とは別の宗教として分岐しつつあったことを示しています。マタイ福音書が[マタ1:1
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図]で始まるのに対し、ヨハネ福音書は[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった]をもって始まります。一方からはイスラエル民族の歴史と宗教が思い起こされ、他方からは天地創造以前の永遠の神の世界が思い起こさせられます。
ヨハネ福音書は、御子なる神イエス・キリストが[ヨハ1:1
初めにことば(御子なる神イエス・キリスト)があった。ことば(御子なる神イエス・キリスト)は神とともにあった。ことば(御子なる神イエス・キリスト)は神であった]という告白から、始められているのです。そして、この
[ヨハ1:14
ことば(御子なる神イエス・キリストが)は人となって、私たちの間に住まわれた]のが、クリスマスであり、降誕の出来事であると証言しているのです。これは、何を意味しているのでしょう。1世紀末のユダヤ教は、神殿も祭司制度も喪失し、バビロン捕囚期のようにシナゴーク(会堂)を中心とし、律法遵守を大切にするあり方へと変化していました。
律法を遵守する生活というのは、バビロン捕囚後のエズラ記によくあらわれています。アフラハムに与えられた祝福の約束に基づき、土地と子孫を与えられた「神の国」としてのイスラエルは、偶像礼拝と不道徳により、申命記の原則に従って捕囚の運命を辿りました。そこで、イスラエルの栄光の回復の道として、申命記の原則に立ち返り、生活の隅々に「神のみ旨の表現」である十戒をはじめとして与えられた民法・刑法・儀式法等を解釈して適用していこうとしたのです。十戒前半は[出20:2
「20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。20:4
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない]という偶像礼拝の禁止から始まり、[出20:8
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。20:9
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。20:10
。20:11
それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした]と命じられています。
これは、紀元前千数百年の時代の命令です。「週休一日制」が施行されているのです。当時は、一般労働者には休日がありませんでしたので、短命の生涯でした。そのような時代に革命的な教えに生きた民がいたのです。イスラエルの民です。今日では当たり前の常識は、当時は「人生の七分の一を無駄にしている」怠け者と呼ばれたユダヤ人から与えられた歴史的遺産です。前置きが長くなりました。今朝の箇所は[5:9
ところが、その日は安息日であった]ということばから始まっています。
御子なる神イエス・キリストは、最初の過越しの祭りでエルサレムにのぼられました(2:13)。そして、宮清め騒動を起こし(2:14-19)、ニコデモと対話されましたが、バプテスマのヨハネより多くの弟子を作っておられることをパリサイ人たちが知った(4:1)ことを察知されると、このタイミングでの衝突を避け、サマリアを通ってガリラヤへ向かわれました(4:4)。サマリアでは、使徒行伝で起こる「回心」のリバイバルに向けての「共在・対話・説得」の耕しと種まきを行われ、このレベルでの信仰を覚醒されました。聖書においてみられる宣教と信仰の覚醒には、さまざまなレベルがあることは、さまざまなレベルで苦闘しているわたしたちの宣教活動に対する大きな励ましです。「どのレベルの宣教も信仰の覚醒も無駄に終わることはない」と励まされるからです。
わたしたちの耕しは、わたしたちの種蒔きは、わたしたちの手による「刈り取り・収穫」に至らなくても、神さまはわたしたちの思いをはるかに超えて、「別の刈り取り手を備えてくださるかもしれない」と信じさせてくださるからです。[Ⅰコリ15:58
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でない]とある通りです。さて、今朝の箇所は[5:9
ところが、その日は安息日であった]ということばで始まります。福音書の中での癒しのわざは、意図的に[5:9
安息日]を舞台に行われています。それはなぜなのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、なにゆえ、わざわざ[5:9
安息日]に癒しのみわざを行われたのでしょう。それが今朝の問いの焦点です。
[5:9
安息日]以外の平日に、癒しのわざを行われていたら、律法学者やパリサイ人の怒りを買うことはなかったかもしれません。少なくとも、わたしたちは地元の人々への証しの際には、いろいろと配慮します。律法学者やパリサイ人たちが、十戒の前半の「偶像礼拝禁止」とそれに続く、「安息日遵守」に、ある意味いのちを賭けていたのに、この「安息日遵守」を[5:18
安息日を破]るかたちで、彼らが最も怒りを爆発させる部分に「点火」するかたちで、癒しのわざを行われたのです。御子なる神イエス・キリストの覚悟と意図・目的を考えさせられる一連の出来事です。この癒された人は、[ヨハ5:5
三十八年も病気にかかっている人]で、ベテスダ池で最も有名な病人であったことでしょう。他の人の病気やケガは直されることはあっても、この病人の「親玉」ともいうべき人は、「絶対に癒されることはない」と思われていた人であったことでしょう。
御子なる神イエス・キリストは、ベデスダ池のそばで横になっている大勢の病人(5:3)の中から、特筆すべき人を選び、その人に[ヨハ5:8
起きて床を取り上げ、歩きなさい]と言われました。癒すだけなら「癒されよ」と命令し、「安息日だし、騒ぎになってもいけないから、静かにしていなさい」と言われてもよさそうなのに、[ヨハ5:8
起きて床を取り上げ、歩きなさい]と言われたのです。旧約聖書の[エレ17:21
【主】はこう言われる。…安息日に荷物を運ぶな。…17:22
また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ](エレミヤ17:21-22)とあります。
パリサイ派の人々は、「神のみ旨に反する生活が、バビロン捕囚をもたらしたのだから、神のみ旨を生活の隅々に反映させる」ことを追求し、「出20:8
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。20:10
七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」と規定の解釈を発展させていきました。さて、「仕事」とはどういうことなのでしょう。たとえば、礼拝から家に帰ってくると、道端のバラのしげみに、枯葉が一枚見つかりました。そこで、立ち止まってその枯葉をちぎり取るとします。これで、わたしは働いたことになるのでしょうか。これはまだ大丈夫でしょう。次に、枯れた小枝を見つけました。それを折り取りました。でも、これも大丈夫でしょう。
今度は、手では折れない少し太い枝を見つけたので、ポケットからナイフを取り出して、それを切り取りました。果たしてわたしは安息日を犯したことになるのでしょうか。さらに、わたしの親指ほどもあって、わたしの手でも、ナイフでも切り取れない太い枝を見つけ、剪定バサミをもってきて切り取りました。これはどうなのでしょう。さらに、エンジンがかかってしまい、ついでだからと、本格的に、庭のバラの手入れをしてしまいました。さあ、どこまでが安息日にゆるされる作業の範囲であり、どこからが「安息日の聖」を犯す違反となるのでしょう。このようなことを徹底的に研究し、追求し、「必要な義の定義」を提供してくれる膨大な量の言い伝えをミシュナに、後にはタルムードという律法解釈の解説本としてまとめていったのです。パリサイ派の人たちは、それを厳格に守ろうとしていたのです。
律法学者やパリサイ人にとって、「律法遵守」は民族の盛衰に関わるものでしたから、それを守ることには命懸けでありました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのようなあり方に正面から挑戦されました。わざわざ[5:9
安息日]を選び、 [5:18 安息日を破]るかたちで、大勢の病人(5:3)の中から、 [ヨハ5:5
三十八年も病気にかかっている]特筆すべき人を選び、[エレ17:21
安息日に荷物を運ぶな]という規定を公然と違反し、[ヨハ5:8
起きて床を取り上げ、歩きなさい]と命じられたのです。これは、もう大変なことです。[出20:8
安息日を覚えて、これを聖なるもの]としようといのちがけで守り、人々にも守らせようとしてきた律法学者やパリサイ人たちにとって、赦されざる大罪であったのです。
御子なる神イエス・キリストは、なぜこのような挑戦をされたのでしょう。エリクソン著『キリスト教教理入門』の「23章
キリストの神性」の「⑴イエスの自己意識」には、「イエスは、安息日の位置を定義しなおす権利をはっきりと主張した。事実上、神と等しい者のみに属する権利をである」とあり、「また、イエスが御父と普通ではない関係を主張するのを見る。特にヨハネの福音書で報告されている言葉がそうである。たとえば、御父と一つであると主張されている(ヨハネ10:30)」とあります。要するに、1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、1世紀末のシナゴークでの「律法遵守」中心の生活様式から分離し、旧約の歴史的・信仰的遺産を継承しつつも、ちょうど太陽系の中心が太陽であり、それを中心に他の惑星が配置されているように、本質であり、実体である「御子なる神イエス・キリスト」への信仰を軸とし、「旧約の歴史的・信仰的遺産」を再整理し直す意図をもった挑戦の書としても編集されているのです。
御子なる神イエス・キリストが、ご自身と御父との関係を明らかにされるたびに、律法学者やパリサイ人は「十戒に違反している。自分を神と同等にする瀆神罪である」と予断をもって判断してしまうのでした。[5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである]というのは、御子なる神イエス・キリストがご自身が如何なる者であり、十戒を再定義して、ユダヤ教の盲点を明らかにされるのは、「
5:18 ご自分が神と等しい」者であることを明らかにするためでありました。
しかし、人類の盲目は [ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]し、イスラエルの民の盲目も[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]とある通りです。御子なる神イエス・キリストを信じ、このお方を中心にして、旧新約聖書を読むわたしたちは、聖書の中心は「御子なる神イエス・キリスト」であり、安息日規定も、それ自体を神聖視したり、目的化する誤りに陥ることなく、[マタ
12:8
人の子は安息日の主です」という視点から、御子なる神イエス・キリストにあるみ旨を軸に、機能視し手段化し、御霊なる神聖霊に導かれ、「時と場所と機会(TPO)」に柔軟性をもって対応してまいります。わたしたちは、御子なる神イエス・キリストの精神に沿って、御霊なる神聖霊に導かれて「安息日(聖日)」に真に意図されている深いみ旨を大切にし、人生を歩んでまいりましょう。
(参考文献:
D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、G.E.ラッド『神の国の福音』、A.J.ヘッシェル『シャバット―安息日の現代的意味』)
2024年12月8日
ヨハネ5:1~9a「イエスは見て、知って、言われた」-問題があれば、すぐに「心の奥底にある“携帯電話”」を-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/q-NQ3lYAozc
ヨハネ福音書
A.ベテスダ(あわれみ)と呼ばれる池(5:1-2)
B.三十八年間、病気にかかっている人がいた(5:3-5)
C.イエスは見て、知って、言われた(5:6-7)
D.袋小路を打開される御子なる神イエス・キリスト(5:8-9a)
今週は、教会の暦で申し上げますと、本年のアドベント第二週にあたります。「アドベント」には「来臨」「来訪」―すなわち神さまが私達のところに訪れて下さるという意味があります。今朝の箇所は、御子なる神イエス・キリストが「
5:5
三十八年もの間、病気にかかっている人」を訪れてくださったお話です。今年は、NHKの大河ドラマ「光る君へ」を大変興味深く視聴させていただきました。紫式部、源氏物語、平安時代等を学ばせていただく機会ともなりました。今朝の箇所との関係で申しますと、
「 5:5 三十八年もの間」という言葉、年数に心がとまりました。
桓武天皇の794年平安京遷都から1192年までの約400年間を平安時代といい、1000年前後に紫式部は『源氏物語』を執筆しています。平安時代の平均寿命については諸説ありますが、長い説でも男性が50歳、女性が40歳とのことです。今朝の[5:5
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた]というのは、平安時代よりも約500年も昔のことです。人類史初期の平均寿命がおそらく20~35年、紀元前200~300年ギリシャ・ローマ時代の平均寿命は27年であったとの研究報告がされています。
細かいことはさておき、今朝の[5:5
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた]というのは、この人は人生のほとんどを[5:5
病気]の中で過ごしてきたということです。[5:2
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池]があり、大きなプールのようでした。南北40メートル、東西52メートルの大きな池と、その対をなしている、東西64メートル、南北47メートルの台形をした双子池でありました。御子なる神イエス・キリストが降誕の時に登場するヘロデ大王が設けたもので、周囲が美しい五つの柱廊で囲まれていました。
ひとつは男性の巡礼者の沐浴の場所であり、もうひとつは女性の巡礼者の沐浴の場所であったようです。そこは「ベテスダ」すなわち「あわれみの家」とも呼ばれ、病気も癒される「あわれみの池」として知られていました。そのような「治癒奇蹟伝承」のゆえに、池の周りには、さまざまな種類の病気を抱えた、あるいは身体上のハンディキャップを負った大勢の人たちが集まって、治りたい一心で、池の周りで水の動くのを待っていました。「水が動く時に、真っ先に入る者は癒される」という言い伝えがあったからでした。そこに重い病を得ているために、池に入ることのできないまま長い年月、横たわっていた人が、御子なる神イエス・キリストに出会って、その言葉に従った時に、病気が癒されたというお話です。
わたしは、この箇所[5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた]を読んで[「5:2
ベテスダと呼ばれる池」は、大きな病院のようだな」と思いました。1世紀のパレスチナという地域の医療水準の限界もありますし、ギリシャ・ローマ世界の医療を受けるにしても治療費のない人もあったでしょう。難病や重い身体障害がある場合、お金がいくらあっても治らないケースもあったでしょう。パレスチナ近郊の人々だけでなく、巡礼で訪れる人たちの中にも、
「5:2 ベテスダと呼ばれる池」の奇蹟、すなわち、天使が池の水を[5:7
水がかき回したとき、池の中に]最初に入った者だけが、どんな病でも、どんな障害でも癒される」という言い伝えを聞き及び、「溺れる者は藁をもつかむ」心情で待ち望んでいたことでしょう。
どこか宝くじにでも当たるか当たらないかの賭けむのようなものでした。ただ、このプールは階段状であり、運よく[5:7
水がかき回されたとき]に出くわしても、常に水面を注視し、水が少しでも動くと我先にとプールに走り下り、飛び込む[5:3
大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たち]をかき分け、最初に水に入ることは至難のわざでした。なぜなら、彼は[5:5
三十八年もの間、病気にかかっていた]のであり、[
5:6もう長い間、伏せった]ままであり、[水がかき回されたとき、池に]運び入れてもらう必要があったからです。[5:5
三十八年もの間、病気にかかっていた]人は、いつ頃この「5:2 ベテスダと呼ばれる池」に運ばれてきたのでしょう。彼は「5:2
ベテスダと呼ばれる池」のそばに伏して、食事はどうしていたのでしょう。風呂やトイレは、着るものや布団はどうしていたのでしょう。彼の家族や親族、兄弟姉妹はどうしていたのでしょう。[5:5
三十八年もの間、病気にかかっていた]人は、ただ水面をみつめ、動くたびに一瞬からだを動かし、プールに向かおうと這いつくばり、匍匐前進しようとしますが、その瞬間他の元気な人がプールに飛び込む姿を目撃し、打ちのめされます。
ですから、[5:6
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」と言われたとき、
5:7
病人は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」]と答えました。これは、なにも文句を垂れているのではないと思います。
[5:5
三十八年もの間、病気にかかっていた]人は、その心の底に蓄積されてきた“絶望感”を正直に吐露しているのです。現在の年齢でいえば、80歳くらいに当たるでしょうか。家族も、知人も友人もなく、ベテスダの池のそばに運ばれ、捨てられて、物乞いで生きているだけであったのかもしれません。わたしは、御子なる神イエス・キリストが、全知全能でどんな病でも、どんな障害でも癒せるお方であるのなら、[
5:3 大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっている] [5:2
ベテスダと呼ばれる池]に病院を開設し、「そこにいるすべての人、そこに集まって来る全世界の人々を癒されたら、どうであったろうか?」と思ったりもします。
御子なる神イエス・キリストは、 [ 5:3 大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっている] [5:2
ベテスダと呼ばれる池]で、病人の中の、そして障碍者の中の“親玉”ともいうべき。 [5:5
三十八年もの間、病気にかかっていた]人を癒されたと記されています。このような書き方、このような働き方の紹介は、ヨハネ福音書で明らかです。神さまには、“目的”があります。御子なる神イエス・キリストには、
“栄光を現す時”があります。御霊なる神聖霊は内住して永遠のいのちを賦与されます。「その目的、栄光を現す時、永遠のいのちを賦与する」ことに参与する場合に限定して、全知全能の力を行使されているのです。
これは、何を意味しているのでしょうか。すべての人が完全に癒されないこともあると知る時、それは神さまの愛の乏しさ、限界を意味しているのでしょうか。御子なる神イエス・キリストは、あなたに、わたしに、いつでも必要な時に、[5:8
起きて、床を取り上げて歩きなさい]と言えるお方であり、そう言ってくだされば、[ 5:9a
すぐに直って、床を取り上げて歩き出す]ことができますのに、なぜ、必要な時に、必要な場所で、必要な機会に、そのように言って下さらないのでしょうか。わたしたちは、必要な時に、必要な場所で、必要な機会に、癒されるように、障害が克服されるように、問題が解決するように祈ります。それは、大切なことです。
しかし、「神さまに、わたしたちを癒しなさい!問題を解決しなさい!」と命じることはできません。神さまは主権者であり、わたしたちは被造物です。神さまは、御子なる神イエス・キリストをくださったほどに私たちを愛してくださっており、その愛に根ざしてすべてのことを配剤してくださいます。それゆえに、完全な癒しに固執することなく、[ピリ
4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]という使徒パウロのすすめに寄り添うことは大切です。
フランシス・マクナットという人は、「“御心のままに”癒してください!」と祈るのが良いと勧めています。どの程度、どのようなかたちで、癒されていくのか―わたしたちには分からないからです。終末的に、新天新地での完全な癒しは明白です。しかしながら、現世においては、程度差はあれ、すべての人がなんらかのかたちで、“不完全”を伴いながら生きていくのです。御子なる神イエス・キリストの愛に根ざし、御霊なる神聖霊はわたしたちの存在に、生涯の隅々に関与され続けます。わたしたちは、その苦難と祝福のすべての瞬間において、御父の聖なる臨在と愛に触れること、包まれ続けることが大切なのです。
わたしたちは、祈り続けます。求め続けます。しかし、経過と結果については「み旨と摂理」に委ね続けます。水野源三というクリスチャンの詩人がおられます。この人の詩集『わが恵み、汝に足れり』(主婦の友出版)に、「もしも、わたしが苦しまなかったら、神さまの愛は知らなかった」とあります。水野さんは、幼いときに病で、まばたきしか出来ない、一生寝たきりの生活を余儀なくされました。親子共々何回も自殺しよう、親子心中しようと思っておられました。その人が、御子なる神イエス・キリストに出会って、ものの見方、考え方が一変しました。クリスチャンになってから、親子で文字をひとつひとつ拾う努力をしながら、このような詩を書いてこられました。
このような詩があります。[病に伏すときも、一人ではない。死んでよみがえられたイエス・キリストが見守りたもう。その目を見つめる]。水野さんは、御子なる神イエス・キリストに出会ってから、このような思いで生涯を過ごすことができました。「イエスのまなざし」で自らの存在を、自らの人生を見つめる「まなざし」見出したのです。今朝、ベテスダの池のそばに、[5:5
三十八年もの間]病床に臥せっている人を、イエスは見て、知って、言われたことを見てきました。
この人は、[5:6
イエスは…見て、…知って、「よくなりたいか」と…言われました。わたしたちの人生も同様です。御子なる神イエス・キリストは、内住の御霊なる神聖霊を通して、一日24時間、365日、「出エジプト12:24
寝ずの番」をして、 [5:6 イエスは…見、…知って、…語りかけて]おられます。わたしたちは、ある事柄については [5:7
主よ。私には、…]と苦渋の中、手詰まり、袋小路にあることを告白することがあるでしょう。そのような時、 [5:8
起きて、床を取り上げて歩きなさい]と言われ、[ 5:9a
すぐに直って、床を取り上げて歩き出す]ことを経験するというのです。これは何を意味するのでしょう。
わたしたちは、「癒しや問題の解決」がどのように起こるか知りません。ただ、わたしたちは四六時中、心の中にうめき、祈る“御子なる神イエス・キリストとのホットライン”を与えられているのです。問題があれば、すぐに「心の奥底にある“携帯電話”」を取りましょう。それは、メールやラインやユーチューブなどよりも優れたものです。[ヘブル4:16
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか]。祈りましょう。
(参考文献: 土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】第4~6章』)
-イエスは彼“の信仰を見て”言われました- 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/VyBq_xsKmdA
ヨハネ福音書(概略)
A.病気の息子がいる王室の役人の状況(4:46-47)
B.御子なる神イエス・キリストへの王室の役人の懇願(4:48-49)
C.御子なる神イエス・キリストの癒しと王室の役人の信仰(4:50-54)
本日は、教会の暦で申し上げますと、本年のアドベント第一週にあたります。「アドベント」には「来臨」「来訪」―すなわち神さまが私達のところに、聖霊の臨在によって、訪れて下さるという意味があります。御父・御子・御霊なる三位一体の神さまは、約二千年前のクリスマスに、御子なる神イエス・キリストとして来臨・来訪してくださいました。そのことを記念し、感謝し、わたしたちは「クリスマス」を祝うために心を整えていくアドベントの期間を大切に致します。また、「アドベント」は、十字架のみわざを終え、昇天され、神の右の座に着座され、御霊なる神聖霊を注がれた御子なる神イエス・キリストが肉体を伴って再び「来臨」「来訪」されることを待望する心の準備の期間でもあります。すなわち、クリスチャンの時間軸は、わたしたち個人の人生の70,80,90年の生涯に限られているのではなく、天地創造から旧約聖書の約束、そしてその成就である御子なる神イエス・キリストの受肉・十字架・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ・再臨・新天新地の永遠を「ゆりかご」のようにしているのです。
今朝の箇所は、[4:46
カペナウムに病気の息子がいる王室の役人]から始まります。この役人は、「王室の役人」とありますから、当地の王であったヘロデ・アンティパスの宮廷従事者であったと考えられます。そのような立場にあった人ですから、当時の医療の粋を集めて[4:47
死にかかっていた]息子の治療に当たったことでしょう。しかし、財産を投じた治療、当時の最高の医療水準をもってなした治療も甲斐なく、まもなく愛する息子のいのちの灯が消えることのを見届けねばならない段階にありました。
そのような危機的状況の時に、[4:47
イエスがユダヤからガリラヤに来られた]情報を手に入れたのです。本節の導入に、[4:46
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である]とありますから、この[王室の役人]は、イエスが[4:46
かつて水をぶどう酒にされた]ことを伝え聞いていたでしょう。病床に臥せる役人の息子はカペナウムにおり、御子なる神イエス・キリストが来訪されたカナまでは30kmでした。この一宮チャペルからは姫路の病院くらいまでの距離です。救急車なら40分、救急ヘリなら15分くらいでしょうか。古代の中東の整備されていない道を歩いて迎えに来た父親は、時速4kmとしても8時間くらいはかかったことでしょう。
[4:47
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたから]とあります。この父親が急ぎ足でカペナウムからカナまでを駆ける姿が目に浮かびます。年齢はどれくらいであったでしょうか。それは分かりません。父親は心身が疲れ果てても、立ち止まり休むことはできません。愛する息子のいのちがいつ果てるか分からないからです。どこにそのような体力があり、どこにそのような精神力があったのかと思うほど、「オリンピックの競歩の選手」みたいに、「手遅れにならないように、御子なる神イエス・キリストをカペナウムまで連れ帰りたい」の一念で駆け続けました。
この父親は、駆け続ける間、ずっと祈りつつ駆け続けていたでしょう。「神さま、どうぞ御子なる神イエス・キリストをカペナウムにお迎えできますように!」「神さま、どうか御子なる神イエス・キリストの手を通して息子のいのちが助かりますように、癒されますように!」と。そして、ようやくカナにおられる御子なる神イエス・キリストの元に辿り着き、必死の懇願をしました。ところが、
[4:48
あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない]と言われ、御子なる神イエス・キリストの反応は一見、冷たいもの、突き放した感のあるものでした。これはまことに、御子なる神イエス・キリストの人格と品性に反する冷たい反応のように見えます。
しかし、このことにも意味があります。この箇所で御子なる神イエス・キリストは「あなたは」と死に臥せる息子の父親を指して言っておられるのではありません。
[4:48
あなたがたは]と、おそらくこの父親と一緒に連れ来たった物見遊山的な人々一般を指しておられるのでしょう。そのような人々の態度を冷静に批判しつつ、これはサーカスやショーのような類のものではなく、神の栄光を現すためのものであり、ヨハネ伝の目的・目標である「ヨハネ3:16
御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことに至る信仰を呼び起こすためのものであることを明らかにしようとされたのです。
[4:49
その王室の役人は]イエスの論評には目もくれず、ただひと言「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」と申し上げました。この王室の役人の[4:49
主よ]には、「もう万策つきて、あなたにすがるより他はないのです。おそらくは、わたしのいのちにかえても良いですから、息子のいのちを救ってください」という信仰が、[4:49
どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」には、カナで水をブドウ酒に変え、エルサレムでも数々のしるしを行われたあなたなら、瀕死の状態の息子を必ず救えるにちがいありません」という信仰が垣間見えます。そこには、「御子なる神イエス・キリストがカペナウムに来てくださるまでは、ここを一歩も動きません」という父親のからだといのちを張った決意が見えます。御子なる神イエス・キリストは、わたしたちの人生の節目において、このような信仰を発揮することを期待されています。
おそらく、御子なる神イエス・キリストは、瀕死の息子を救うためにいのちがけでカナまで駆け急いできた父親の目に溢れる涙を見、その訴えてやまない心情と、「御子なる神イエス・キリストには必ず息子を癒すことができる」と信じるその信仰を見て正しく応答されました。それは、「今日はもう遅いから明日の朝、一緒に出掛けましょう」とか、「幾つかの予定があるから、それを済ませてから駆けつけましょう」というものでもありませんでした。[4:50
イエスは彼に言われました。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と即断即決、信号無視で走行できる救急車でも、ひとっ飛びで病院に直送できる救急ヘリよりも早いものでした。[4:50
イエスは彼に言われました]の箇所は、文脈から申しますと、[4:50
イエスは彼“の信仰を見て”言われました]と理解するのが良いでしょう。
不思議なことに[4:50その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた]とあります。なんということでしょう。
[4:50
イエスは彼“の信仰を見て”]、その瞬間、カナとカペナウムの30kmの距離超え、御子なる神イエス・キリストの癒しの大権を行使され、
[4:50
帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と宣言されました。瀕死の息子のために、御子なる神イエス・キリストを迎えに来た父親のその時の反応、表情はどのようなものであったでしょう。わたしには、ひとつの聖句が心に浮かびます。[ピリ
4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]。
瀕死の状態の息子をかかえる王室の役人は、どのくらいの権力をもつ人であったでしょうか。もしそれなりに権力を行使できる立場にある人なら、瀕死の息子を救うために絶対にカペナウムに来てもらう。もし了解してもらえない場合は、連れて来た従者にロープで捕縛し、護送車でカペナウムに拉致しようと考えていたかもしれません。しかし、御子なる神イエス・キリストの前に立ち、その三位一体の神の臨在に触れ、[4:47
イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願い…「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」]と心の底から振り絞るような懇願に耳を傾けていただき、その応答として[4:50
帰って行きなさい。あなたの息子は直っています]という約束のことばを御子なる神イエス・キリストから聞いたとき、「瀕死の息子のいのちは救われ、癒される」と不思議に信じることができたのです。これは信仰者がその生涯において、特に危機的な場面においてしばしば経験するものです。わたしたちは、わたしたちの生涯の危機的局面の折々に[ピリ
4:6
願い事を神に知って]いただくことができます。癒しが起こるか、問題が完全に解決するかどうかはわかりません。しかし、確かなことは
そのように生きていく時[4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が]わたしたちの心と思いを包み込んでくれることを知っているのです。[4:50
その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた]とあります。
なんという御子なる神イエス・キリストに対する信仰でしょう。彼はまだ息子の治癒という[4:48
しるしと不思議]を見ていません。見ずに信じたのです。しかし、その「信じた癒し」を確認・確証するために、また急ぎ足でカペナウムへの30kmの道を急ぎます。するとカペナウムでは、瀕死状態の息子の高熱がひいていました。それで、看病していたしもべたちは、これまた早馬を立てその朗報を知らせようとカナに向かって走りました。カナとカペナウムの中間地点くらいでしょうか。
[4:50 帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」言われたことばを信じて、帰途についた]急ぎ足の父親と、[
4:51
彼の息子が直ったことを告げ]るしもべたちは、宇宙のランデブーのように道の道中で鉢合わせます。お互いは、こんなかたちで再会するとは予想だにしていませんでした。父親は「息子の容体が急変したのか」と心配したかもしれません。しもべたちは、御子なる神イエス・キリストをお迎えできなかった早い帰還と受けとめたかもしれません。しかし、両者の懸念は出会った瞬間に払拭されます。両者は喜びの笑顔と癒された安堵に満ちていたからです。
[ 4:52
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ね]ました。これで、時刻がずれていたら、「高熱は引くべくして引いたのかもしれない」とか、「こんなに早く高熱が引くのであれば、あわててカナまで行く必要はなかったかもしれない」との疑念も生まれていたかもしれません。しかし、しもべたちの証言は驚くべきものでした。「きのう、第七時に熱がひきました」と言った]のです。[4:53
それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じ]ました。このように書かれていることから、この家族は、単に「しるしと不思議」で沸き立つ信仰の人々ではなく、それなりに旧約聖書に親しみ、御子なる神イエス・キリストの来訪を歓迎し、息子の高熱を機会に御子なる神イエス・キリストに近づき、「共在、対話、説得、回心」の端緒に導き入れられたのでしょう。
この時点では、まだ御子なる神イエス・キリストのみわざはまだ完了していません。しかし、御子なる神イエス・キリストへの信仰の「種子」は蒔かれ、芽を吹きました。まだ、「からし種」のように小さな信仰かもしれませんが、それは病という接触点(ポイント・オブ・コンタクト)を通し、御子なる神イエス・キリストとの接点を見出しました。21世紀の日本に生きるわたしたちも、御子なる神イエス・キリストとの接触点を提供するために「共在」しています。クリスチャンは、「御霊なる神聖霊」を宿すことにおいて、ある意味クリスマスに受肉された御子なる神イエス・キリストのようです。主が、わたしたちを通し、さまざまなかたちの「闇」や「病」で苦しんでいる人たちに[4:50
帰って行きなさい。あなたの息子は治ります]との福音を分かち合うことができますように。祈りましょう。
(D. Moody Smith、“John” [Abingdon New Testament Commentaries] )
2024年11月24日
ヨハネ4:43~45「預言者は自分の故郷では尊ばれない」-ポスト真実の社会における教会に必要な機能-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/C5qD8RcIphc
ヨハネ福音書(概略)
A.サマリヤ伝道を終えて、ガリラヤ伝道へ(4:43)
B.預言者は自分の故郷では尊ばれない(4:44)
C.ガリラヤの人たちの歓迎の理由(4:45)
今朝の箇所は、[4:44
預言者は自分の故郷では尊ばれない]という言葉をもって始まります。この言葉は、60年代に書かれたマタイ(13:57)、マルコ(6:4)、ルカ(4:24)の共観福音書では、ガリラヤのナザレを指しています。[マタ
13:55
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
13:56
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう]と言う既存の知識は、御子なる神イエス・キリストの本当の姿を見えなくしてしまいました。
1世紀末の90年代に書かれたヨハネ福音書での[4:44
預言者は自分の故郷では尊ばれない]の引用の意味は、ユダヤ教の中心地であるエルサレムとユダヤ地方、(これに反目する歴史を有するゲリジム山とサマリヤ地方)、そして少し離れた遠隔地に位置するガリラヤ地方全体を指しています。ヨハネ福音書の冒頭には、[ヨハ
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった]とあり、御子なる神イエス・キリストは。[ヨハ
1:11 ご自分のくにに来られた]のに、御子なる神イエス・キリストとして受け入れられず、[4:44
預言者]であり、祭司であり王であるメシヤたる、御子なる神イエス・キリストは[自分の故郷では尊ばれ]なかった構図が示されています。
しかし、ヨハネ福音書の構図は、[4:44 「預言者は自分の故郷では尊ばれない]という“闇”だけではなく、[ 1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった]という“光”をも描写しています。そういう意味で、ゼベダイの子ヨハネは、“光の画家”といわれたレンブラントのようです。
[4:45
それで]という接続詞は、「前述の事柄を受けて、それを理由としてあとの事柄を導く場合に用いる」ことばです。ここでいう「前述の事柄」とは、1章から4章に至る文脈を拾うことです。はじめに「御子なる神イエス・キリスト」が存在しておられ、そのお方が不信仰に満ちた世界、“闇”に包まれた世界に“光”として来られました。“闇”はそのことを理解せず、「1:11
受け入れず」、そのともしびを吹き消そうとしました。[1:19
パリサイ派のユダヤ人たち、祭司たちとレビ人たち]の詰問があり、秘密警察のような捜査がありました。そのような危険きわまりない状況の中で、御子なる神イエス・キリストは、バプテスマのヨハネが準備した弟子たちを招集(1:37)し、神学教育を施し、伝道訓練と教会形成の下準備をされていきました。
召命の出来事の中にも、御子なる神イエス・キリストの「全知性」を示す奇蹟がありました。御子なる神イエス・キリストは、わたしたちの存在、人格・品性・賜物・個性等のすべてをご存じです。御子なる神イエス・キリストは、わたしたちを選び・召し、御霊によって個性と賜物を成熟させ、交響楽団の多様な楽器演奏者の一員として育まれていきます。そして、[2:13
過越しの祭り]のタイミングでエルサレムにのぼり、宮清めというセンセーションナルな挑戦と「2:19
十字架と復活」への言及さえなされます。
その間、[ヨハ 2:23
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた]とあります。そこには何もしるされていませんが、[多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた]とあるのですから、ガリラヤのカナでなされた奇蹟のような“しるし”があったのでしょう。最近の出来事に比すれば、大谷翔平選手のストーリーにも似ています。大リーグに「投打の二刀流」で挑戦したとき、「彼のレベルは高校野球レベルだ」とくさされました。腕の手術は二度ありました。ギャンブルとお金の問題にも巻き込まれました。しかし、彼はそのような非難や苦境にも負けず、最も大切な場面で、漫画の世界でしか描かれないような場面を実現してきました。昨年受けた右肘手術のリハビリ中にも関わらず、[9回にサヨナラ満塁ホームランを打ち、今シーズンホームラン40本、40盗塁に到達]し、[大谷は同試合の一回に三盗、二回に二盗をそれぞれ決め、今季の盗塁数を51に伸ばした。また、六回の第4打席でライトスタンドに49号2ラン、続く七回にレフトスタンドへ50号2ランを放つと、九回にも51号3ランをライトスタンドに運び、6打数6安打10打点2盗塁と圧倒的な存在感を示した]のです。
大谷翔平選手はわたしたちが子供の時に、読んでいたマンガの世界のヒーローが、現実世界に飛び出してきたような選手です。「それは、現実にはありえないだろう」という想像の世界の出来事を目の前に実現するのです。これが、野球界を超えて、大谷選手をスーパーヒーローにする所以です。わたしたちがヨハネ福音書に見る世界は、本当はそれ以上のものです。今日の大谷選手の活躍にみる興奮を見聞きする時、御子なる神イエス・キリストが、登場されたパレスチナ世界における興奮を、そして覚醒された「旧約預言の成就」に対する信仰を垣間見ます。
その熱狂の渦は、すでに[4:45
イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていた]人々によって、今日のように、SNSによるのではなく、口から口へと情報拡散されていました。[4:45
それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した]のです。ここに、ヨハネの醒めた目を見ます。これは、ヨハネ福音書の特徴のひとつです。すべての人々は、通常の人が成し得ないことを成すと、スーパーニュースとして取り上げられ、それを成し遂げた人と出来事に熱狂します。
しかし、昨今の世界の選挙をみていますと、「熱狂」の恐ろしさをも感じます。岡山英雄著『黙示録の希望』を読みますと、わたしたちは、「ポスト真実の時代に生かされている」ことを教えられます。[欺きの力はあらゆる時代に働いているが、21世紀になってその力が急速に強まり、嘘が真実として拡散している。情報は真実かどうかではなく、信じるか否か、好きか嫌いかによって評価される。脱真実の時代である]というのです。相手の主張をフェイクニュースと罵倒し、客観的な真実を不明とし、SNSの情報力で圧倒したものが勝利する世界の始まりです。
断片化した個人は、SNSで情報を集め、SNSは一方的な情報の渦の中に人々を、自覚なしにマインドコントロール状態に酔わせる時代です。1世紀のパレスチナにもそのような状況がありました。それで、[ヨハ
2:23
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので]とあります。
御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ 3:16
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため]に来られました。ヨハネ福音書に[ヨハ 20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため]に書かれました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、信仰者が増えればそれで良いと、「目的は手段を正当化する」と考えられるようなお方ではありませんでした。キリスト教会のあり方を示すローザンヌ誓約には、[教会は、神の宇宙大の目的の中心点であり、福音伝播のために神が定められた手段である。だが、十宇架を宣べ伝える教会は、それ自身が十宇架のしるしを帯びているものでなければならない。教会は、福音を裏切ったり、神への生き生きとした信仰、人々に対する純粋な愛、事業の振興と資金の調達を含むあらゆる面での誠実さを欠くならぱ、自らが伝道に対するつまずきの石となることを銘記しておかなければならない]と書かれています。
御子なる神イエス・キリストは、罪のないお方でありました。しかし、キリスト教会の歴史には数多くの汚点が指摘されています。わたしたちは、宗教改革の精神といわれる「聖書のみことばによって改革された教会、聖書のみことばによって改革され続けなければならない」とのスローガンを掲げ続ける必要があります。わたしも、奉仕生涯を通じて、エリクソン著『キリスト教教理入門』をテキストに、福音派諸教会の「福音理解」の「聖書のみことばの正しい解釈に基づく」健全化に尽力してきました。あるテーマは共通理解を得て、喜んで聞き入れてもらえましたが、別のテーマにおいては困難に直面したこともあります。
[4:44
預言者は自分の故郷では尊ばれない]と言われる通りです。健全なみことば解釈を不断に探求する神学教師は、[Ⅱテモ4:2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです]というみことばに目を留めます。現在の教会に喜ばれるメッセージのみならず、将来の教会のあり方を危うくする「フェイクニュース」ならぬ、「誤り、外れた聖書解釈や教えの危険」に警鐘を鳴らします。
[2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので]とあるように、ポスト真実の時代の教会は、ポスト真実の社会の大きな波に翻弄されていくことでしょう。わたしたちは、それが伝道と教会成長に効果的だということで、誤った教えの波に「教会を任せて」はなりません。健全な聖書解釈に根ざす「福音理解」の中にしっかりと[ヘブル6:19
錨]を下ろし、古び歪み傷んだ「福音理解」は聖書のみことばによって不断にリフォームし続ける機能が必要です。そのような預言者的機能が尊ばれる伝道・教会形成・神学教育の三位一体的要素豊かな群れとして成長していけるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、J.L.メイズ編『ハーパー聖書註解』 )
2024年11月17日
ヨハネ4:39~42「自分で聞いて、分かった」-この方が本当に世の救い主だ-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/6U_Sd6xnKr0
ヨハネ福音書(概略)
A.女のことばによって(4:39)
B.二日間そこに滞在された(4:40)
C.イエスのことばによって(4:41)
D.この方が本当に世の救い主だ(4:42)
今朝の箇所は、[4:39
さて、その町の多くのサマリア人が、…女のことばによって、イエスを信じた]という言葉で始まります。このサマリア人の女性のことばとは、[ヨハ4:29
来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか]のことです。千数百年前、モーセに与えられた預言[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる]の成就が目の前にあるのではないかと思わせたのです。
それは、日陰者の人生を送ってきたサマリア人の女性が人目を避け、秘密にし、隠し通してきた部分に光が差し込んだということです。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ4:16
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と語りかけられました。それは、サマリア人の女性が「閉ざしていた心の扉」を開く行為でした。一体どのようにして「閉ざされている心の扉」を開くことができるでしょうか。それは、御子なる神イエス・キリストの慈悲と慈愛に満ちたアプローチがそれを促しました。御子なる神イエス・キリストが姦淫の現場で捕らえられた女性に示された慈悲と慈愛(ヨハ8:3-11)と同じものをもって、[ヨハ4:16
行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と語りかけられたのです。サマリア人の女性は、心臓にナイフを突き刺されたような衝撃を受けたことでしょう。彼女が絶対に触れてほしくない事柄に、御子なる神イエス・キリストは優しく、しかし直截に、手を伸ばし、優しく触れられたのです。それは、そこが彼女にとっての「患部」であったからです。[マタ
9:12 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です]。医者は患部に触れることなく治療はできません。
彼女の即座の反応は、きわめて自己防御的なもので、[4:17
私には夫がいません]ということでした。半分真実であり、半分は隠そうとしたものです。しかし、御子なる神イエス・キリストの慈愛は、その積極面を評価し、「正直さ」と評価し[自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです]とその女性をたてられました。弱く打ちのめされている不幸な女性を断罪するのではなく、「その正直さのかけら」を高く評価されたのです。わたしは、今日語られる「人権尊重の精神」をここに見ます。[4:18
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました]と、御子なる神イエス・キリストは、そのふしだらで不幸に満ちた生涯を断罪するのではなく、あわれみの心をもっておおわれたのです。その結果、その女性は[4:19
主よ。あなたは預言者だとお見受けします]と、全面降伏し、「ヘブル4:13
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです」という信仰を告白しているのです。
[4:39
さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた]とあります。すごい証し力です。わたしたちは友人・知人に時と場所と機会を生かしていろいろと証しして生涯を生きてまいりますが、[その町の多くの人が、…と証言したことばによって、イエスを信じた]ということはなかなか難しいことです。わたしの住んでいる町は、小さな田舎町で地域の人は、クリスチャンでなくても、「どこそこのだれだれさんは、クリスチャンで牧師さんだ」ということは知れ渡っています。伝道と教会形成は大変な地域ですが、都市部のように近隣の人々が互いに対して無関心な地域に比べて、「この田舎町にも教会があり、牧師さんがいて、毎週日曜日には礼拝メッセージを語っている」ことが知れ渡っているということは、ひとつの証しではないでしょうか。大谷選手が全世界に知れ渡っているように、藤井棋士が日本中に知られているように、わたしもこの田舎町では知られているひとりなのです。この町に「神の国への入口」(創世記28:17)が存在していること、証しされ、人々がそれらのことをなんらかのかたちで知らされているということが重要なのです。それは、ゴールではありませんが、その地域に「神の国が到来している」始まりではあるのです。
[4:39
さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた]とあります。御子なる神イエス・キリストの弟子たちは、スカルの町に買い出しに行きましたが、伝道やリバイバルはまだはるか先のことと考え、何もせずに帰ってきたようです。しかし、何もせず、ヤコブの井戸のかたわらでへたり込んでおられた御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ4:7
わたしに水を飲ませてください]というひと言で、サマリア地方のリバイバルに火をつけられました。たくさんの活動、奉仕の量で証しすることも大切ですが、心のこもった「一杯の水」「ひと言の声掛け」にも深い意味がこもっていることを忘れずにいましょう。
[4:39
さて、その町の多くのサマリア人が、…女のことばによって、イエスを信じた]とあります。サマリア人の女性が、どのような証しをしたのかの詳細は明らかではありません。ただ、[4:39
その町の多くのサマリア人…イエスを信じ][ヨハ4:30
そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た]とあるのです。多くのサマリア人を炎天下の真昼にスカルの町からヤコブの井戸まで約1.2kmを引き連れて、御子なる神イエス・キリストの元に連れ来たわけですから、相当インパクトのある、説得力のある「本人しか知らない秘密の開示」があったのではないかと思います。だれにも知られないはずの「個人の生涯の秘密」をすべて言い当てられたモーセが預言した申命記18:18にある「4:19
預言者」のようなお方が、「スカルの町からヤコブの井戸」のところにおられると証ししたのです。サマリアの人々は、御子なる神イエス・キリストがモーセが預言した「預言者」かもしれないと思ったのです。これは、伝道と証しのレベルでは、「共在」です。その時代に、その地域に「御子なる神イエス・キリスト」の存在が知られる、証しされることです。
シャルル・ド・フーコーという神父がいます。彼は「エノクのように神と共に歩む人、また神との不断の交わりからひとかけらの神の似姿を得る人」を目指し、「キリストの臨在」を強調します。彼らは、説教をせず、組織的活動をせず、普通の伝道方法は一切採用しないそうです。ただ、この世の貧しい人々と一緒に住み、人々の間にあって「キリストの臨在」を放つのです。フーコー神父は「わたしの生活全体によって福音を叫びたく思う」と、燃えるような宣教熱心を告白し、「福音をのべ伝えるためなら、わたしは地の果てまで行く用意があり、また裁きの日まで生きる用意がある」と述べています。
この沈黙の崇敬ともいうべき「共在」は、神の御霊の導きにより、時と場所と機会(TPO)を得て、サマリアの女性のように[ヨハ4:28
自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に]証しするよう導かれます。サマリアの人々は[4:40
それで、イエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在され]ました。何が尋ねられ、どう答えられたのかは書かれていません。ただ[4:41
さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた]、[4:42
彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです]とありますので、ユダヤ人とサマリア人の「礼拝する場所がゲリジム山なのか、エルサレムなのか」を含む旧約聖書理解に関する歴史的な論争、「御霊と真理によって礼拝する時代の到来」等の話を含む数多くの質疑と知恵深い応答がなされたことでしょう。しかし、この時点で[4:42自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです]というのをわたしたちの感覚とレベルで「救われてクリスチャンになったのだ」と考えるのは、かなり“一足飛び”な印象を抱かされます。それは、この段階では、御子なる神イエス・キリストの十字架の一連のみわざはまだ未来の事柄であり、御霊なる神聖霊もまたまだ下っておられなかった(7:39)からです。
ですから、[4:42
自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かった]というのは、時系列的にはサマリア人が「タヘブ(回復者)、究極の預言者、啓示者」として神の真理を明らかにしてくれる人として、受けとめたことを意味しています。このような予備的諸段階を経て、御子なる神イエス・キリストの一連の十字架のみわざとペンテコステの聖霊の注ぎが起こり、使徒行伝8章の[使8:1
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされ]、[使8:4
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。8:5
ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた][使8:12
しかし人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。][使8:14
エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。8:15
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。8:16
彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。8:17
そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた]とあります。
[4:42この方が本当に世の救い主だと分かった]というのは、ユダヤ人の民族的宗教と思われていた信仰の歪みが正され、創世記12章にあるように、全人類の祝福の基としてなるように召され、啓示の受領者となり、その伝達者となったイスラエルの「残れる者」から始まったキリスト教会の信仰告白でもあります。1世紀末に記されたヨハネ福音書は、「サマリア伝道の始まり」という時系列的な物語の記録とともに、それに重ね合わせて「十字架のみわざと聖霊の注ぎ、贖罪と内住の御霊信仰」という使徒行伝のサマリア地方のリバイバルと1世紀末の信仰告白を言い表しているように思います。わたしたちの日本の地は、共生・対話・説得・回心の四レベルでは、大規模な回心以前の「共生・対話・説得」で苦闘している段階と思われます。わたしは、シャルル・ド・フーコー神父のような忍耐と情熱を大切にしていきたいと思っています。サマリア人の女性の証しは、わたしたちにとって大きな励ましのひとつです。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、J.L.メイズ編『ハーパー聖書註解』D.M.スミス「ヨハネ福音書注解」、J.V.テイラー『仲介者なる神』 )
2024年11月10日
ヨハネ4:35~38「目を上げて畑を見なさい」-市町村消失時代の教会の労苦は無駄ではない-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/9FSMxYNCt1Y
ヨハネ福音書(概略)
A.目を上げて畑を見なさい(4:35)
B.刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集め(4:36)
C.ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実に(4:37-38)
今朝の聖句は、[4:35b
目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています]という言葉をもって始まっています。御子なる神イエス・キリストは、弟子たちが[4:35
まだ四か月あって、それから刈り入れだ]と、時間的余裕のある捉え方をしている弟子たちの言葉に光を当てられました。弟子たちの会話の言葉から、本質的な「捉え方の課題」に入るのは、御子なる神イエス・キリストの神学教育のひとつのパターンです。これは、「収穫期はまだずいぶん先だ」と捉える考え方に対する警鐘です。弟子たちの目の前には、農作物の実りの季節の日常会話がありました。それに、引っ掛けて「今の時代がどういう時代なのか」に関する認識のギャップ、すなわち御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨の意義に光が当てられているのです。目先にある現象から、神学的・救済史的本質の議論に入られたのです。野山や道端、食事の席、すべての場所が、御子なる神イエス・キリストにとって「教室」でありました。それは、今日の牧師・伝道師・見習いインターン生にとっても同様でしょう。
神の啓示は、 [4:37
一人が種を蒔き、…ほかの者たちが労苦し]とあるように、旧約聖書千数百年かけ、イスラエルの民の中に、そして多くの預言者たちの証しを通し、人類の中に備えられた「神の啓示の苗代」として準備されてきました。それゆえ、わたしたちは
[4:37
一人が種を蒔き、…ほかの者たちが労苦し]を読む時、千数百年かけての「啓示の受領者」の先輩たちに思いを馳せるのです。彼らは、み言葉を受け取り、時にはイスラエルの民の迫害下でみ言葉の種を蒔き続けました。彼らがおぼろげに望み見ていたものは、「御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨であり、十字架を中心とする死・葬り・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎの一連のみわざ」でした。弟子たちは[4:35
まだ四か月あって]と、ウェイティング、すなわち“いまだ、待ち”の姿勢です。しかし、御子なる神イエス・キリストは、[4:36
すでに]と、千数百年間待ち焦がれた[Ⅱコリ 6:2
恵みの時、救いの日]が、御子なる神イエス・キリストの来臨と受肉、そして共生・対話・説得・回心のブロセスに置かれたことにより、[4:36
すでに、…永遠のいのちに至る実を集めています]と、未来の終末における救いと審判のみならず、“今、すでに”救いと審判の“前味”にあずかっているのだと教えられているのです。
偶然とも思われるサマリア人の女性との「4:7
わたしに水を飲ませてください」というひと言の会話は、モーセに対する[申命記18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる]から、千数百年の時を経て、現実のものとなりました。わたしたちは、五年、十年、また五十年、百年の「福音の種蒔き」で音を上げ、苦しさに耐えられず、弱音を吐き、降参しやすい弱い者です。教勢の「どんぐりの背比べ」をしやすい弱い者です。少子高齢化社会の進展は、地方を中心に、あらゆる産業・社会機能を脆弱なものに変えていっています。それは教会とて例外ではありえません。若い者や子供のみならず、年老いた者すら急激に少なくなっています。わたしたちが見せられているのは、「沈みゆく船、消えつつある町や村」の現実です。そのような時代における「教会の意義、教会のサバイバルの方策」が求められています。そのような時代において、どのような「宣教学」が可能なのでしょうか。本当に「本質的な宣教戦略」が必要とされている時代と思います。
わたしたちは、まず御子なる神イエス・キリストの「基本的視点」に立ち返り、そこにしっかりと立つ必要があります。弟子たちの会話から、御子なる神イエス・キリストは、サマリアの歴史的特殊性から「モラトリアム、すなわち一定の猶予期間」を意識し、[4:35
まだ四か月あって]と、「まだ先だ、将来だ、未来のある時だ、あるいは終末時に彼らの救いはあるかもしれない」と“棚上げ、先送り”する弟子たちの「福音理解」を取り上げられました。御子なる神イエス・キリストは、「誤り、歪曲」に気がつけば、婉曲な表現をも用いて、「即座の修正・矯正」に取り掛かられるお方であると教えられます。私の恩師のスンベリ師は、「雨の日、壊れたトユから雨水が溢れているのを指し示し、『安黒くん、あれをご覧なさい。トユが壊れ、雨水が溢れている。気がついた時に直さなければ、10年-20年そのままだよ!』」と。わたしは、そのことを「福音理解」に応用して受けとめています。エリクソンやラッドは、極端な字義主義と極端な象徴主義に振れる解釈を「中庸でバランスのとれた理解に修正する取り組み」を提示してきました。わたしは、トユの話を聞いて以後、ほぼ半世紀「福音理解の修繕」に取り組むよう導かれてきました。「忠言耳に逆らう」と申しますが、痛いことであっても、気がついた時に、それを「内に留めつつか、外に出すタイミングかは祈りつつ測りつつ」取り組みを開始してきました。これは、わたしの使命でありました。
弟子たちの[4:35
まだ四か月]という思いに対し、御子なる神イエス・キリストは、本質的修正を試みられます。御子なる神イエス・キリストの受肉から始まった一連のみわざは、[4:35
目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています]―すなわち[Ⅱコリ6:2
見よ、今は恵みの時、今は救いの日]であると宣言されているのです。弟子たちの思いを「救済史の転換点」に目覚めさせようとされているのです。さて、日本宣教は、カトリック宣教師が1549年、プロテスタント宣教師は1859年で、日本人口の1%程度がクリスチャンとのことです。ローマ帝国における古代のキリスト教会は、最初の三世紀くらいは人口の1%くらいがクリスャンであったそうで、今の日本の状況と似ているかもしれません。キリスト教会は、数々の迫害や弾圧、試練を乗り越えて、今や世界の隅々にその福音は届けられています。と同時に、宣教の困難な時代、教会成長よりも教会のサババイバル、すなわち生き残りがかかってきている地域もあります。そのような苦難の中で、今朝のみことばは励ましのひとつとなるでしょう。
弟子たちの思いは[4:35
まだ四か月あって、それから刈り入れだ」という消極的、またある意味、「まだまだだ!」と否定的な傾向を帯びていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、[4:35目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています]と、霊的・神学的状況に光を当てられました。教会や聖会でも、このような宣教チャレンジがなされます。しかし、「それは無理やろ、刈り入れ前というよりも、表面的な掛け声とは裏腹に、荒れ地の・雑草地のままではないのか」と、長らくの停滞から来る絶望感、挫折感が心の底で支配しているのです。しかし、この言葉の意味は、御子なる神イエス・キリストの到来によって、千数百年の種蒔きの時代は、収穫の季節を迎えている。すなわち[3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ]ことが可能とされた時代に入っていることを告げられているのです。この事実に目を留めましょう。そのことを確信して、喜びに溢れて「共生」しましょう。主にあって安息しましょう。そして、祈りましょう。機会を捉えて「対話」しましょう。導かれたら「説得」し、「回心」に導いていただきましょう。
キリスト教宣教の歴史を見渡しますと、時代により、地域により、前進と後退、成長と消失、それらはジェットコースターのような浮き沈みを体験しつつ、サバイブ、すなわち困難の中で生き残り、地の果てまで広がり続けているのです。神の国の奉仕は多彩で、多種多様です。それは、人間のからださまざまな機能や肢体があるように、わたしたちの個性や賜物も多彩です。神さまは、わたしたちひとりひとりを御霊なる神聖霊に満たし、三位一体の神の愛の交流の交わりの中で、
[4:37
一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる]という奉仕分担にあずからせてくださっています。わたしの場合、「神学的兵站」を受け持つよう導かれ、ささやかながら神学書の翻訳やそれを用いての講義・講演等に用いられてきた生涯でありました。
ある本に「ダビデには、多くの部下がいました。ある者は将軍、ある者は門番に任じられていました。神の国における奉仕は無限です」というようなことが書かれていました。世のビジネスには、浮き沈みがあり、出現しては消え、消えてはまた新たなビジネスが生まれています。平家物語の一節「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」と言える変化の大きな時代です。それに比べ神の国は、不変で、歴史を越えた働きです。その一員として、わたしたちの個性と賜物が御霊なる神聖霊に満たされ、何らかのかたちで用いられます。奉仕する環境・機会・場所等により、今生では十分に[4:38
その労苦の実]にあずかることができない場合があったとしても、[Ⅰコリ15:58
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でない]と記されています。
[Ⅱテモ4:8
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです]とパウロは記しました。[その日には、(奉仕する環境・機会・場所等のすべてを換算し、考慮して評価してくださる)正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです]と、伝道とか、教会形成の結実による相対的な評価のみでなく、「主にあってなされた労苦」そのものに対する“絶対的評価”が約束されているのです。今生で受ける[4:38
労苦の実]から目を離しましょう。それが、種蒔き(伝道)であれ、刈り入れ(教会形成)であれ、また神学教育であれ、わたしたちは、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨と一連のみわざの時代のただ中に生かされていることを感謝し、主が置かれた場所で命じられた使命を全うしてまいることに致しましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、J.L.メイズ編『ハーパー聖書註解』D.M.スミス「ヨハネ福音書注解」 )
2024年11月3日 ヨハネ4:31~34「あなたがたが知らない食べ物がある」-三度の飯よりも好きな [4:32
食べ物]を通して神の栄光を現す-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ChKldMCLegY
ヨハネ福音書(概略)
A. 雑務に追われる弟子たち(4:31)
B. 御子なる神イエス・キリストの優先事項(4:32)
C. 弟子たちに対する産婆術 (4:33)
D. 三度の飯よりも好きなことを通して神の栄光を現す(4:34)
「三度の飯より…が好き」という表現があります。「三度の飯より…が好き」という表現は、趣味で行っている事などが「最高に好きだ」「他の何よりも好きだ」「これ以上に楽しいことはない」という意味で用いられる定番の表現です。今日の聖書箇所「
4:32
わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」は、サマリヤの町スカルへの食べ物の買い出しから戻ってきた弟子たちが、「4:31
先生、食事をしてください」と語りかけたときの御子なる神イエス・キリストからの反応です。御子なる神イエス・キリストは、弟子たちの誤解や困惑、謎かけのような受け答えの中で、真理を語り、神学教育を施されています。
御子なる神イエス・キリストが「復活」の話に言及されたとき、ユダヤ人たちの[ヨハ2:20
この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか]という誤った反応や、御子なる神イエス・キリストが「回心、新生」について言及されたときの、ニコデモの[ヨハ3:4
人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」といった箇所にもトンチンカンなやり取りが記されています。御子なる神イエス・キリストは、そのような反応を見越し、変化球を投げ、空振りしたところで、ある意味「空になった心」に向けて、「そのこころは…である」と本質的真理を解き明かされています。
御子なる神イエス・キリストは、喉が渇き(4:7)、空腹でもあられましたが、そんなことは後回しにし、先ほどまでのサマリア人の女性との「共在→対話→説得→回心」に至る交流をされていた「満足感・充足感・満腹感」に浸っておられたようです。この箇所から、御子なる神イエス・キリストの三年半の公生涯における「弟子訓練」の一端を教えられます。弟子たちは、飲み食いのまかないに走り回っていて、それらは大切なことにはちがいないのですが、ある意味そのような雑務以上に大切なものがあることを教えようとされたのです。
わたしたちの人生は、[詩90:10
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。…瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります]と言われています。厚生省の日本人男性の健康で生きられるのは平均70歳、寿命は平均80歳とのことです。わたしも、今年70歳となりました。平均でいけば健康年齢を過ぎ、次第に衰えていく「人生という飛行機は、高度を落とし、着陸態勢」の季節です。若い頃には、「人生には無限の時間がある」かのように錯覚しておりましたが、今70歳となり、「70~80年の人生」は「光陰矢の如し」、「瞬く間に過ぎ去るのだ」と教えられます。ですから、わたしたちは[詩90:12
どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください]と祈る必要があります。わたしたちは、平均的に「70~80年の人生」が与えられています。しかし、その総時間をもって何をするのかが問われているのです。何が大切であり、何がそれほどでもないか、優先順位を決め取捨選択していく御霊の知恵が必要とされています。
先日、メジャーリーグの野球で、ヤンキースとドジャースのワールドシリーズがありました。四勝一敗でドジャースが勝ちましたが、試合の個々の内容はほぼ互角なのにヤンキースが負けたのはなぜか、という分析が興味を引きました。際立った実力ある選手が揃う両チームはほぼ互角といわれます。どちらが勝っても不思議ではありませんでした。そして、試合の勝敗を決した要因は、ごく小さなミスといわれています。肝心なところでヤンキースには不正確な捕球や送球等で小さなミスが続きました。これに反してドジャースには、ひとつの例としてベッツ選手のほぼアウトとみられた一塁への全力疾走でのセーフや塀際の球の、素早く正確な返球により二塁打を単打に押しとどめたファインプレーがあげられていました。これは、ヤンキースの普段からの漫然とした練習とドジャースの真剣な練習の積み重ねの差が露呈した結果であると分析されていました。
今朝、わたしたちは、三年半の弟子訓練期間の、御子なる神イエス・キリストと弟子たちとのやり取りをみています。御子なる神イエス・キリストは、サマリア人の女性との間で、来臨・受肉の目的であり、最重要事項の「御父から受けた使命」を遂行されていました。御子なる神イエス・キリストは、弟子たちにこのような取り組みの重要性を理解してほしかったのだと思います。食物の買い出しも大変であったでしょう。心身の健康もとても大切な要素です。それに対しては感謝を抱きつつ、同時にそのような世の諸事を超越して「優先事項の第一に掲げられているもの」があるということを気づいてほしかったのです。優先順位に気づいているということ、これは簡単なようで、本当に難しいことです。それは、多くの軋轢や葛藤もある中で、み旨に従い勇気をもって不断に取捨選択していくことです。
御子なる神イエス・キリストは、弟子たちが[ヨハ4:27
そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた]とき、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」等、尋ねてほしかったのだと思います。そして、このことから起ころうとしている福音書そして使徒行伝に至るサマリアの地で起こりつつあるリバイバルについても教えたかったのだと思います。しかし、弟子たちは、驚き、疑問に思ったことについては何も尋ねず、[4:31
先生、食事をしてください]と勧めるのみでした。[4:32
ところが、イエスは]この教育機会を失うことなく、神学校のような講義を開始されました。唐突に「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と語り始められました。それで、弟子たちはさらにビックリしました。サマリア人の女性かだれかが、[4:33
食べる物を]提供したのだろうかとザワザワつきました。誰が、何を、どのようにして提供したのだろうと問題意識を深める彼らの状況を見て、御子なる神イエス・キリストは、[4:34
わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです]と弟子たちに伝授したかった伝道の本質を分かち合われたのです。弟子たちは、三年半後に、「伝道・教会形成・神学教育」のみこころとみわざ達成のために派遣されていきます。その下準備・訓練期間であったからです。
御子なる神イエス・キリストと弟子たちの三年半の公生涯は、神学教育のひとつの見本、サンプルです。御子なる神イエス・キリストは、「わたしは神である」というような宣言を押しつけられるのではなく、「それ以外の何者でもない」といったかたちで、間接的証拠を惜しげもなく提供されています。その上で、「あなたはわたしをだれだと思いますか?、あなたはわたしをどのように信じますか?」と問いかけておられるのです。「信じる」という行為・決意は、「鰯の頭も信心から」といったようなものではなく、ある意味「身も心もささげあって、一生涯を共に過ごす結婚する時の誠実な決心」のような高貴な質を内包するものですから、それを極限まで尊重してくださるお方なのです。結婚の決断と信仰の決断は、きわめて人格的な深みをもつものである点で似ています。信仰とは、「強制や押しつけ」によるものではなく、「御子なる神イエス・キリストに対し、自ずから溢れる真剣な人格的愛」に基づくものなのです。それゆえに、教会また個々のクリスチャンはキリストの花嫁とも呼ばれるのです。
御子なる神イエス・キリストは、弟子たちの奉仕生涯の三年半の神学教育・弟子訓練期間に、主とその会衆に仕える奉仕のスピリット、精神に言及されています。御子なる神イエス・キリストは、三度の飯より[4:34
わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること]が好きであることを告白しておられます。そこには、他の何物にも代えがたい満足感・充足感・満腹感が溢れます。わたしたちは、「牧師だから、…をしなければならない。伝道師だから…をしなければならない。神学教師だから…をしなければならない」ということであってはならないのです。義務感からなすことではないのです。三度の飯より[4:34
わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること]が好きだから、そのことに取り組むのです。取り組まざるを得ないのです。そのような「食べ物」性が、求められています。空腹だから、食べ物に食らいつきます。渇きのために、水分を欲しがります。みこころを行い、そのわざを成し遂げることは、内住の御霊とともにある「食欲に似た本能」です。
最初に紹介しましたベッツは、すでに殿堂入り確実と言われている名手ですが、練習時、また試合前にはフェンスからの跳ね返りのボール処理の基本練習を欠かすことがないとのことです。普段からの全力疾走や基本練習の真剣な積み重ねが大舞台でのファインプレー連発の背後にあるのです。わたしたちも、一度きりの人生という舞台でファインプレーを連発できるよう、「御霊とともにある日頃の真剣な基本練習」を怠らないように致しましょう。御子なる神イエス・キリストは、偶然とも思われる、炎天下の真昼の、サマリア人の女性との出会いのチャンスを、福音書と使徒行伝でみられるサマリア地方のリバイバルの端緒とされました。
人生は不思議なドラマです。何がどう働くのか、わたしたちは最後まで知りません。将棋でも、小さな駒のひとつの動きが「勝利を決定づける」と解説されます。わたしたちも、チャンスと示されたら、信仰をもち、勇気をもって、海面に一歩踏み出しましょう。わたしたちに知らされないかたちでも、不思議なことが多々起こります。わたしたちも、わたしたちそれぞれの個性と賜物に根ざし、私たち自身のTPO(時と場所と時間)を生かし、私たちを通し[
4:34 遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げ]させていただき続けるでしょう。あなたの、わたしの
三度の飯よりも好きなこと(隠された、知られていない食べ物)を通して神さまの栄光を現わさせてくださるよう、祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to John” )
2024年10月27日
ヨハネ4:27~30「私がしたことを、すべて私に」-「闇」に覆われていた人から、「光」がこぼれるのを見る-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/-wfZ-MebXzU
ヨハネ福音書(概略)
A.民族差別、男女差別を超えるお方(4:27)
B.御子なる神イエス・キリストの全知(4:28-29)
C.共在、対話、説得、回心(4:30)
今朝の箇所は、[ヨハ 4:27
イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた]という言葉をもって始まります。わたしたちは、すでに[ヨハ4:9
ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった]ことをみてきました。人権情報が広く行き渡っている今日でさえ、民族差別や男尊女卑はわたしたちの文化の一部となっています。キリスト教福音派の「伝道」についての見解表明として有名なローザンヌ誓約には、
[第10項 伝道と文化
世界伝道に必要な諸方策の開発という点で、今求められているのは、想像力に富む開拓的な諸方法である。それによって神のもとにあって、キリストに深く根ざしつつ、自己をとりまく文化とも密接なかかわり合いを持った教会が起されるようになる。ところで、文化は、常に聖書によって精査され、かつ判定されなければならない。人間は神の被造者であるゆえに、彼が織り成す文化のあるものは、美と徳性とを豊かに示している。とともに、人間は罪に堕落しているゆえに、その文化のすべては罪によって汚染されており]とあり、[教会は、ただキリストの栄光のために、文化を変革し、それを実り多いものにするように、ひたすらつとめて行かなければならない]とあります。
聖書は[ガラ3:28
ユダヤ人もギリシア人もなく、…男と女もありません]と、民族差別、男尊女卑を乗り越えていくよう励ましています。弟子たちは、
[ヨハ 4:27
イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた]と書かれています。[だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった]とあります。それは、御子なる神イエス・キリストの「人間観」についていけず、思考が停止し、からだが凍ったように動かなくなってしまったかのようです。これは、今日のクリスチャンの状態でもあるでしょう。米国での選挙を見ていますと、差別や分断を助長することの中に教会も巻き込まれてしまっているかのようです。教会はそれらの流れに抗して変革の力になるべきでしょう。
キリスト教会の歴史には、「美と徳性とを豊かに示している」部分とともに、「人間は罪に堕落しているゆえに、その文化のすべては罪によって汚染」されている部分があります。クリスチャンは、御霊なる神聖霊を宿す者ですが、その器たる人間性は、霊肉の混ざりものです。「あの人はクリスチャンなのに…」と言われるゆえんです。ですから、わたしたちは、サマリア人の女性に接触し、民族や性差の分け隔てなく会話を交わされる御子なる神イエス・キリストのあり様を見習うことに致しましょう。わたしたちの内にある「罪によって汚染」されている傾向を払拭しましょう。御霊なる神聖霊によって、内におられるのは、御子なる神イエス・キリストであられるのですから。
サマリア人の女性は、[ヨハ 4:27 弟子たちが戻って来]た瞬間、何を思ったのか、炎天下の真昼、大切な[4:28
自分の水がめを置いたまま町へ]足早に駆け出しました。昨日、メジャーリーグのワールドシリーズ第一戦で、足首をねん挫しているドジャースの三番フリーマンが逆転サヨナラ満塁ホームランを打ちました。ドジャースファンにとっては「爆発する喜び」、ヤンキースファンにとっては「張り裂ける悲しみ」であったでしょう。サマリア人の女性は、「マタイ13:44
畑の中の宝」「13:45 良い真珠」を発見したと思ったのです。ダマスコ途上で光に打たれたサウロのように、 [ピリ3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています]といった、御子なる神イエス・キリスト出会いの端緒を経験したのでしょう。
サマリア人の女性は、彼女にとって貴重な財産のひとつである[4:28
自分の水がめを置いたまま町へ]突っ走りました。その競歩のような速足が目に浮かびます。わたしたちのクリスチャン生活の中にも、そのような瞬間があるでしょう。その“go
!”サインを見逃さないようにしましょう。それは、サマリア人にとって、[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる]と約束された預言者が、本当に来られたのであれば、それは天地をふるい動かすほど大事件であったからです。「火事場(かじば)の馬鹿力(ばかぢから)」という言葉があります。[《火事のときに、自分にはあると思えない大きな力を出して重い物を持ち出したりすることから》切迫した状況に置かれると、普段には想像できないような力を無意識に出すことのたとえ]です。
サマリア人の女性は、パリ・オリンピックの陸上選手のようにヤコブの井戸からスカルの町までの約1.2kmを駆けたことでしょう。そして、片手を膝に、反対の手をヤコブの井戸の方向に向け、ゼイゼイと呼吸しながら、[4:29
来て、見てください]と叫び続けたでしょう。それは、モーセの時代から千数百年を経て、御父なる神の元から、御子なる神イエス・キリストが来臨されたかもしれなかったからです。サマリア人の女性の確信は、御子なる神イエス・キリストが、[4:29
私がしたことを、すべて私に話した]ことにありました。サマリア人の女性は、人に話せないような波乱万丈の人生を生きていました。彼女には本人しか知らない、誰にも話したことのない秘密がありました。彼女はそれらの秘密を隠すことにより、秘密が人々との交わりを遠ざけ、それらの秘密は鎖のように彼女を縛り、蝕んでいました。
ところが、いつものように炎天下の真昼、人目を忍んでヤコブの井戸に来てみると、御子なる神イエス・キリストから「わたしに水を飲ませてください」との声がありました。神さまは、はるか天高くにおられるだけの方ではなく、また死後の世界のかなたで待っておられるだけの方ではなく、今、現在、ここの井戸端で座り、声をかけてくださるお方なのです。この声に、耳を傾けましょう。それは、[ヘブル4:12
心の思いやはかりごとを見分ける]ほどにわたしたちを知ってくださっており、その意味で[4:13
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています]と言われるお方です。
サマリア人の女性は、[4:29
来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した]方を紹介しました。それは、人には決して知られるはずのないことのすべてが、御子なる神イエス・キリストの御前では[すべてが裸であり、さらけ出されて]いることに気づいたからです。わたしたちも、このことに気づいていましょう。しかし、御子なる神イエス・キリストがそれを指摘されたのは、サマリア人の女性を縛り付けている「闇の鎖」から解放するためでありました。御子なる神イエス・キリストに出会うまでのサマリア人の女性は、人目を避けた人生を歩んでいました。しかし、御子なる神イエス・キリストの光が彼女の心に差し込んだ今、彼女の心の部屋の窓は全開され、暗闇に包まれていた部屋は、注ぎ込む光で溢れました。
[4:29
来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した]御子なる神イエス・キリストを紹介するために、彼女の暗闘の生涯のどこまでを証ししたかは書かれていません。それは、彼女に与えられた恵みのみわざです。しかし、いまや彼女は、暗闇の鎖の一本にすら、縛られていません。支配されていません。彼女は自由になったのです。日陰者ではなくなりました。日の当たるところを歩めるものとなりました。[ヨハ
8:32
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします]とある通りです。わたしたちが、御子なる神イエス・キリストに出会う時、このお方の真理の光に照らし出される時、わたしたちは「真に自由な者」とされます。
わたしたちは、サマリア人の女性の生涯について詳しくは知りません。その一端を垣間見せるものがありました。先日の新聞に、検察のエースと呼ばれた方が、後輩に性的被害を与え、被害を受けられた女性が[被害を受けてから約6年間、ずっと苦しんできた。女性として、検事としての尊厳を踏みにじられ、身も心もぼろぼろにされた。家族の平穏な生活も奪われた]と訴えられていました。わたしは、この記事を読んだ時、サマリア人の女性に思いを馳せました。[ヨハ4:18
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない]と指摘されたときの、サマリア人の女性の驚きはいかばかりであったろうと。
しかし、サマリア人の女性の反応は素晴らしいものでありました。隠すのでもなく、反発するのでもなく、[ヨハ4:19
主よ。あなたは預言者だとお見受けします]と、ある意味、御子なる神イエス・キリストの御前にひれ伏したのです。そして、それまでに秘めていた最も重要な質問をします。「礼拝すべき場所は、ゲリジム山なのか、エルサレムなのか?」と。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ4:21
この山でもなく、エルサレムでもない]と答えられました。ゲリジム山もエルサレムも、聖書に根ざした主張でありました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、御父・御子・御霊なる三位一体の神とそのみわざに根ざした聖書解釈により、彼らの伝統的な解釈を超越した「礼拝理解」を提示されています。
これらの一連の、御子なる神イエス・キリストの来臨と共在、井戸端での対話、説得による疑問点の解消等への道を辿り、サマリア人の女性は、回心への軌道に乗せられてまいります。そして、さらに素晴らしいことには、彼女は自分の大切な[4:28
水がめ]をほっぽり出したまま
[町へ行き、人々に]証ししはじめたのです。御子なる神イエス・キリストとの真の出会いを経験した人は、皆黙っていることはできません。黙っていても、周囲の人々は、その人の大きな変化に気がつきます。「闇」に覆われていた人から、「光」がこぼれるのを見るからです。大声をあげなくても、静かに黙っていても、御子なる神イエス・キリストに出会った人から溢れる喜びは隠しおおせるものではありません。世の人々は、「あなたには何があったのですか?」とか、「あなたには何か起こったことがあるでしょう?」と尋ねる人があるでしょう。そのときに、わたしたちは申し上げましょう。4:29
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to John”、朝日新聞
「元検事初公判」2024年10月26日 35面記事)
2024年10月20日
ヨハネ4:25~26「このわたしがそれ“キリストと呼ばれるメシア”です」-サマリア人の女性と大祭司の前でのひとつの告白、ふたつの対照的な反応-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/5b_32bS8od8
ヨハネ福音書(概略)
A.サマリア人の女性[と大祭司(マタイ 26:63)]の問い(4:25)
B.御子なる神イエス・キリストの応答[と二つの異なる反応(マタイ26:65)](4:26)
今朝の箇所は、[4:25
私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう]との言葉をもって始まります。さて、サマリア人の女性が、この「キリストと呼ばれるメシアという」言葉をどの程度理解していたのかについては、いろいろと議論があります。サマリア人の女性は、御子なる神イエス・キリストが言っておられることの「メシア的な意味」を間違いなく捉え、「ユダヤ人とサマリア人との間にある軋轢の一切はその方によって解決させられるでしょう」と期待を告白しています。
この[4:25 私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています]の言い回しは、「ヨハ1:38
ラビ(訳すと、先生)」、「1:41
メシア(訳すと、キリスト)」と同じくセム語の表現を翻訳したものです。今日の研究では、当時のサマリア人は「4:25キリストと呼ばれるメシア」という用語を定期的には使っていませんでした。では、なぜサマリア人の女性はここで「4:25キリストと呼ばれるメシア」という言葉を使ったのでしょう。それは、イエスはユダヤ人ではありますが、サマリア人の女性に優しく声をかけ、さらにはサマリア人の女性の素性のすべてを言い当てられた「“4:19
預言者”のようなお方」との衝撃から、自然に生まれた敬意であったでしょう。
当時、サマリア人は「タヘブ、すなわち回復者、あるいは戻って来る者」という表現を好んでいました。サマリア人は、[申
18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる]という言葉に根ざし、「タヘブ」すなわち回復者が戻ってくると、すべてを説明してくれると期待していたのです。サマリア人は「タヘブ、すなわち回復者、あるいは戻って来る者」を「究極の預言者としての役割に沿って真理を明らかにする人」として描いていました。
これに対し、当時のユダヤ人は、一般にメシアを第一義的に「教師」とは考えていませんでした。御子なる神イエス・キリストは、サマリア人に対しては「自分が、メシア、すなわちキリストである」とはっきりと宣言されましたが、ユダヤ人に対しては最後の段階、すなわち大祭司による尋問[マタ
26:63
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」26:64
イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです]の時まで伏せられていました。それは、多くのユダヤ人にとって、「メシア、すなわちキリスト」という称号には、「ダビデ的なメシアが登場し、政治的・軍事的な、すなわちローマ帝国の植民地支配からの解放してくださる」との意味合いが含まれていたから、“ローマ帝国によるユダヤ地方の安寧秩序を脅かす危険人物視”される恐れがあったのです。
そのようなユダヤ人の期待の状況下では、御子なる神イエス・キリストの自己啓示は、必然的により控えめで巧妙なものでなければならなかったのです。今日でも、誤った運動や教えの課題を扱うときには、「ソロモンの知恵、カイザルのコイン」のような御霊の知恵が求められるところがあるように思います。実際に、ユダヤ人たちは、[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]、[ヨハ10:24
ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」]という群衆の“誤った”圧力は、御子なる神イエス・キリストを難渋させました。今日の米国での、キリスト教会の「行き過ぎた政治運動化・分断」には同様の懸念が見受けられます。
その意味で、今朝の御子なる神イエス・キリストとサマリア人の女性のやりとりは、まことに不思議な感じが致します。ユダヤ人の祭司たちとパリサイ人たちは、最初洗礼者ヨハネを調査対象とし、「1:19
あなたはどなたですか」と問い、洗礼者ヨハネしは「1:20
私はキリストではありません」と即答しました。次に、御子なる神イエス・キリストに調査対象を移し、さまざまな傍証を集め、その絶大な影響力を恐れ、亡き者にしようと画策し続けました。そして、最後には逮捕にこぎつけました。しかし、最後の最後まで証言はかみ合うことなく、無罪放免されようとしていました。偽証が続き、らちがあかない中、
[マタ 26:63
イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」]と堪忍袋の緒が切れ最後の質問をしました。その瞬間に、ユダヤ人たちに伏せられていた言葉を発せられます。[26:64
イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです]と。
これが決定打となりました。御子なる神イエス・キリストは、最終局面で、ユダヤ人の大祭司の前で、ご自身がいかなる者であるのかを隠すところなく、証しされたのです。しかし、頑迷で、霊的な真理・真実に目が閉ざされていた大祭司たちは、群衆を扇動してローマ帝国からの独立を扇動するイエスは、ユダヤ民族の宗教的自治を危険にさらす人物として「おのれを神とした、神を汚した罪」で処刑する宗教裁判の判決が下されました(マタイ26:65-66)。これに反し、ローマ総督のポンテオ・ピラトは、ローマの法律では、宗教的問題では違法性が立証されないので無罪で釈放しようとしました。
しかし、 [マタ27:20
しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。27:21
総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」27:22
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」27:23
ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」27:24
ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て]ピラトは違法な判断に追い込まれてしまいました。このように、誤った宗教的熱心と知的盲目性というものは、本当に恐ろしいものだと教えられます。
わたしたちも、今日における「誤った宗教的熱心と知的盲目性」のありやなしやの自己吟味が必要です。今朝の箇所から教えられることのひとつは、差別されていたサマリア人であり、さらに男尊女卑の時代に、五人もの夫を離婚か死別して変えざるを得なかった不幸この上もない、日陰者のひとりの女性に、彼女がたまたま汲みに来た井戸端で待ち受け、「4:7
わたしに水を飲ませてください」と声をかけ、「4:10-14 生ける水」の話を語りかけ、さらには「4:16-19
女の素性をすべて知っている」と、モーセが記した“預言者”のようなお方であることを明らかにし、ユダヤ人とサマリア人の民族分断の恩讐の解決の道を示し、ユダヤ人には最後の瞬間まで伏せられていた真理―「御子なる神イエス・キリストが、聖書に約束されてきたメシア、すなわちキリスト」であることを、なんのためらいもなく[4:26
あなたと話しているこのわたしがそれです]と告白、自己紹介されたことです。
これには驚きを禁じ得ません。この世では、強者になびき、風見鶏のように寄り添う生き方が「己が利を保証する」生き方と捉えられやすいようですが、聖書で明らかにされている神さまは、強者にきびしく責任を問い、弱者には行き届いた配慮に満ちたお方であると教えられます。御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちも、人生の最後、召される日―[Ⅱテモ4:8
正しいさばき主である主]の前に立つ日まで、沈黙し続けるのではなく、我らの主イエスに習い、時と場所と機会(TPO)をわきまえ、御霊なる神聖霊に導かれ、わたしたちの前に備えられた「サマリア人の女性」のような人々に、御子なる神イエス・キリストが「4:26
それ“すなわち、キリストと呼ばれるメシア”です」と紹介し、証ししてまいりましょう。主がそのように導いてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to John”)
2024年10月13日
ヨハネ4:20~24「御霊と真理によって父を礼拝する」-クロノロジカルな物語描写の横糸の中に、カイロス的な縦糸が織り込まれている-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/aE_J35c4UZY
ヨハネ福音書(概略)
A.ゲリジム山なのか、エルサレムなのか(4:20)
B.ゲリジム山でもなく、エルサレムでもない時が来る(4:21)
C.救いは、アブラハム、モーセにとどまらず、ダビデへの約束からも(4:22)
D.御父を、御子の真理と御霊の助けにより(4:23)
E.30年代、1世紀末、そして今日までも、の三重構造(4:24)
先週は、サマリア人の女性が「4:15 その水を私に下さい」というところまで導かれ、御子なる神イエス・キリストが「4:16
あなたの夫をここに、呼んで来なさい」と、サマリア人の女性の本質的必要を照らす質問をされ、「4:17
私には夫がいません」と微妙に真実を覆い隠しつつ、正直な告白に導かれました。その時に、御子なる神イエス・キリストは、「4:18
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました」と的を射た応答をされました。その瞬間に、サマリア人の女性の霊の目が開かれ始めました。「4:19
主よ。あなたは預言者だとお見受けします」と、御子なる神イエス・キリストが特別な存在であると目のうろこが剥がれ始めます。
フランシスコ・ザビエル以来、そして明治以降、さらには戦後のキリスト教宣教の歴史がありますが、「キリスト教教養に憧れをもつシンパ層」を形成できてきたかもしれませんが、「4:19
主よ。あなたは預言者だとお見受けします」といった御子なる神イエス・キリストに対する刮目にまで導かれる人はごくわずかであったように思われます。エペ
1:18に、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」とあるように、すべての人にとって、御子なる神イエス・キリストに対する心の目が開かれることが最も重要です。祈っていきたいと思います。そして、サマリア人の女性は、隠してきた男性関係を正確に言い当てた御子なる神イエス・キリストに、さらなる問いをぶつけることになります。これは、ユダヤ人とサマリア人を分断する、解決不可能な深い溝のように思われていたものでした。
ただ、サマリア人の女性は、「この方から、長年ユダヤ人とサマリア人との間で論争されてきた難問に解決策をお聞きすることができるかもしれない」と思ったのです。そのような問いを引き起こすことも、求道の契機につながると教えられます。エリクソン著、拙訳『キリスト教教理入門』には、「キリスト教教理とは、…生の根源的基礎をなす諸問題についての…問いに対して、キリスト者が提供しうる解答」が多くあると記されています。御子なる神イエス・キリストを知るわたしたちには、多くの人々が求めている「問い」に対する「解答」が手の内にあることを信じましょう。それを自然な会話の中で分かち合ってまいりましょう。その問いとは「4:20
私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」―どちらが正しいのでしょうか?と。この問いは、旧約の歴史をどのように読み解くのかに関係しています。イスラエルの民は、四十年の荒野の旅の後、約束の地カナンに侵入してまいりました。サマリア人は、「申命記12:5
あなたの神、主が選んだ場所を探し求めよ」とある言葉からその場所を見つけるためにモーセ五書そのものに目を向けました。
サマリア人は、ゲリジム山から見下ろすシェケムが、アブラハムが約束の地に入った後に最初に祭壇を築いた場所(創世記12:6-7)であると考えたのです。約束の地に入った後、契約共同体に対して祝福を叫ぶのは「ゲリジム山」でした(申命記11:29-30、27:2-7,12、ヨシュア記8:33)。これに対して、ユダヤ人は、モーセ五書だけでなく、後に啓示された旧約の他の部分も認めていたゆえ、「エルサレム」がその場所であると結論したのです。ダビデは、そこに神の神殿を建てることを決意し、神はその息子ソロモンにそれを許可されたのです。神殿は、破壊された後に再建され、ヘロデがそれに装飾を加えていました。しかし、サマリア人はこのことを一切認めていませんでした。このような対立が、南北王朝時代とその滅亡・離散と帰還・再建の時代を経て、新約時代にも続いていたのです。南北朝鮮の正統争いや今日のイスラエルとパレスチナの戦い、ウクライナとロシアの領土問題等にも通じる要素があるかもしれません。御子なる神イエス・キリストの解決策は、一方に組するものではなく、より“普遍主義”的なものでありました。争いに平和的解決に至る“神の知恵”を祈りたいと思います。
御子なる神イエス・キリストは、モーセ五書のみから考えるサマリヤ人の解釈を否定し、「 4:22
救いはユダヤ人から出る」と、アブラハム、モーセ、ダビデへの約束を念頭に、アブラハムの子孫から生まれる民族、モーセの十戒に示された倫理に加え、列王記・歴史代志や預言書も視野に入れ、ダビデの家系から生まれる「御子なる神イエス・キリスト」による救いについて語られつつ、歪んだ民族主義を排し、その救い、また礼拝は「
この山でもなく、エルサレムでも」なく、「 4:23
まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」と、いわば喧嘩両成敗のような解答を提示されます。その解答の、第一は「その時が来れば、エルサレム神殿も、ゲリジム山の遺跡」も礼拝の場として決定的に時代遅れになるということです。第二に、「その救いは、サマリア人のようにモーセ五書に限定するのではなく、旧約啓示全体を神のことばとして受け入れ、ダビデの子孫として受肉される御子なる神イエス・キリストによってもたされる」と指摘されます。最後に、御子なる神イエス・キリストは、「エルサレムとゲリジム山の相反する主張を永遠に無効にする礼拝の本質」について説明されています。「4:23
まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言明されています。水平に流れている時間が、突然稲妻の落雷のように、上から垂直に降ってきたような語り口です。
ヨハネ福音書では、「時」(bora)が無修飾の場合、常に「御子なる神イエス・キリストの十字架、復活、昇天の時、またはイエスと受難と昇天に関連する出来事(16:32)、イエスの受難と昇天によってもたらされる状況(2:4)」を指しています。ヨハネ福音書には、クロノロジカルな、時間的・水平軸の“モノクロの横糸”の物語描写の流れの中に、カイロス的な、神学的・垂直軸の要素が、“カラフルな縦糸”が織り込まれ記されているように思います。「4:23まことの礼拝者たち」すなわち神の新しい民であるクリスチャンたちが、「御父」に向かって、「御霊」を内に宿し、御子イエス・キリストの十字架の贖罪の「真理」によって「礼拝する」時が来ると、三位一体の交わりの中に加えられることを礼拝の本質と捉えているのです。
「4:23
今がその時です」とチャレンジしておられます。これらの文章は、この時点でのサマリア人の女性には、少し高度な内容の印象もあります。先に進みすぎではないかとも思うのです。その意味で、御子なる神イエス・キリストの言葉は、30年代のサマリア伝道の舞台描写とともに、ヨハネ福音書が書かれ、読まれた1世紀末のキリスト教会の状況、そして21世紀のわたしたちへの普遍的メッセージの三重構造を有しているのではないかと。そのような預言的構造が意図されているのではないかと思うのです。1世紀末のキリスト教会とユダヤ会堂との軋轢は、神殿を喪失し、モーセ五書の律法遵守に戻った会堂の礼拝のあり方と、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに根ざす礼拝のあり方との軋轢でもありました。
そのような状況に語りかけるメッセージとして「4:24
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。すなわち、「Ⅱコリ3:6
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」とあるように、過去の時代の文化と慣習に属する内容を含むかたちで記された聖書は、いわばコーヒー豆のようなものです。霊なる御父のみ旨にふさわしいかたちで、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざで、いわばコーヒー豆のように“粉砕”された後、熱湯ですなわち御霊によって、その本質を“抽出”され、今日の必要の中に適用されていくべきでしょう。
わたしたちは、ゲリジム山やエルサレムという過去の遺物によって支配されるのではなく、「ローマ12:1
神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」として、三位一体の神の交わりの中で、今日の世界でダイナミックに生き、礼拝をささげ、証ししていく者へと変えられてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、R.コート、J.ストット共著「地の深みまで-キリスト教と文化序説-」)
2024年10月6日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ4:15~19「あなたは本当のことを言いました」
-御霊なる神聖霊により、一歩ずつ助け・導きを受ける-
https://youtu.be/qyBkPaIjYL8
ヨハネ福音書(概略)
A.サマリア人の女性の要請(4:15)
B.サマリア人の女性の夫の召喚(4:16)
C.サマリア人の女性の告白(4:17)
D.告白に対するイエスの賞賛(4:18)
E.サマリア人の女性の驚嘆と信仰の前進(4:19)
今朝の箇所は、[4:15
主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい]という言葉から始まります。それは、スカルの町からヤコブの井戸まで約1.2km、井戸の深さは23mあったからです。炎天下の真昼に、このような距離を、定期的に桶を担いで「ヤコブの井戸」までやってきて、水を汲み上げ運ぶことがとても大変であったからです。水が豊富な日本でも、能登も、地震や洪水で水道の水が届かなくなった生活の大変さが、テレビで伝えられています。ましてや、水がいのちそのものと表現される乾燥した中東の地域で水はどれほど貴重なものであったことでしょう。サマリア人の女性は、大変苦しい毎日を送っていました。水汲みの労働だけで、一日の労働時間や体力のかなりを使っていたことでしょう。
その労働から解放される「夢のような水」―[ヨハ4:14
いつまでも決して渇くことが]なく、[その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出]る不思議な水が提供されるというのです。サマリア人の女性は、驚きました。そして―[ヨハ4:14
決して渇くことが]なく、[その人の内で泉となり、…水が湧き出]るという、「不思議な水がほしい!」と思い、[4:15
主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と、イエスの申し出に飛びつきました。キリスト信仰への接点です。“ポイント・オブ・コンタクト”すなわち「接触点」とも申します。わたしたちすべてにそのような「接触点」があったことでしょう。それを思い返し、掘り耕し、み言葉と聖霊により養い育て、分かち合ってまいりましょう。
この世界には、「生まれつきのクリスチャン」という存在はありません。神さまが創造された世界の中に、神さまからいのちを与えられ、存在するようになります。しかし、クリスチャン・ホームであろうとなかろうと、すべての人は、神さまのことを知らないかたちで生まれ、育ちます。しかし、わたしたちは[ロマ1:19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。1:20
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる]とある通り、神の作品であるこの創造された世界を通し、この世界を創造された神さまがおられることを無意識のうちに感じ取ってまいります。
わたしたちは、神の作品であるこの創造世界を見て、神さまの偉大さを知ります。しかし、それだけでは、この神さまがどのような人格のお方なのかは分かりません。それゆえ、神さまは、旧約聖書千数百年の歴史を通し、少しずつ準備をなし、旧約聖書で預言され、約束された通りに、「御子なる神イエス・キリスト」を人類の中に送られました。それは、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである]とある通り、神さまがどのような人格をお持ちの方であるのかを明らかにするためでありました。「もし神さまがおられるのなら、出してみなさい。見せてみなさい」といわれることもありますが、旧新約聖書は、躊躇なく答えています。[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神(イエス・キリスト)が、神(がどのような人格をお持ちの方なのか)を説き明かされた]のだと。
さて、御子なる神イエス・キリストの申し出にサマリア人の女性は、驚きました。そして―[ヨハ4:14
決して渇くことが]なく、[その人の内で泉となり、…水が湧き出]るという、「不思議な水がほしい!」と思い、[4:15
主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と、その申し出に飛びつきました。この反応が大切なのです。わたしも、19歳の関学生のとき、当時の哲学の学びの影響もあったのでしょう。また大学に入った後に、目標を失ったこともあったのでしょう。そしてヨーロッパ旅行で「迷子」となり、「自分が実は宇宙の迷子、人生の迷子のような状態にある」のだと深刻に悩んだことも重なったのでしょう。
そのような悩みのるつぼの中にあったとき、電柱に貼られた一枚のポスターを見て、教会の映画集会をのぞくことになりました。そして、その集会を契機に、毎週その教会の礼拝に通うようになったのです。はじめのうちメッセージは、よく分かりませんでしたが、聖歌の賛美は、毎週日曜の朝、清らかなシャワーを浴びるような印象がありました。今振り返れば、それは御霊なる神聖霊の臨在でありました。「昼間は大学の授業を受け、午後は絵画部で油絵を描き、夜は友人仲間とマージャンをし、ウイスキーを飲んで寝る」という生活を送っておりました。人生で最も祝福された青春期であるはずなのに、無意味・無目的で、時間を浪費し、退廃的な生活を送り、思想的・精神的にはきわめて虚無的であったのです。
そのような時期に、一枚のポスターで教会に導かれました。それは、わたしにとっての「スカルの井戸端」で御子なる神イエス・キリストと出会う時となりました。わたしたちすべてが、そのようなキリストとの出会いの時を持っているでしょう。わたしは、一週間、無意味・無目的でだらしのない生活を送っておりましたが、日曜の朝は教会で過ごすようになりました。聖歌を歌い、聖書のみことばに耳を傾ける生活でありました。「ああ、歌を歌うなんて、高校の音楽の授業以来だな…」と思いました。心のうちは空しい思い、暗い気持ちで満ちているのに、聖歌を歌い、聖書の話を聴くと元気がでてきました。埃と汗にまみれた心とからだが清流に洗い流されるような気がしたのです。当時は、ニヒリズムの精神に圧倒されており、絶望感に溢れていたのですが、教会は「希望の臨在」に溢れていました。それは、渇いた心が「生ける水」をすするような経験でした。
それで、ちょうど今朝のサマリア人の女性が「4:15
主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言ったように、「わたしも日曜ごとに聖歌を歌い、聖書のことばに耳を傾けるクリスチャンのような人生を送りたい」と思うようになったのです。そうこうするうちに、「クリスチャンになるためには、イエス・キリストの十字架の意味が分からないといけない」ことが分かりました。そして「イエス・キリストの十字架の意味を理解するためには、そのために死んでくださった“自分の罪”が分からないといけない」と知りました。罪の悔い改めとキリストの十字架信仰は、コインの表と裏、表裏一体のものでありました。この“自分の罪”が、「永遠の滅びに値するほど罪深く、御子なる神イエス・キリストに身代わりに死んでもらう以外に救われない」ほどのものであることがなかなか分からなかったのです。「信じてクリスチャンになりたいのに、それ以上は進めない」もどかしい気持ちでした。
聖書には[Ⅰコリ15:3
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと]とあります。御子なる神イエス・キリストは、[マル1:15
悔い改めて福音を信じなさい]、すなわち「自分の罪を悔い改めて、御子なる神イエス・キリストを信じなさい」と言われました。クリスチャンになるために必要なことは、きわめてシンプルです。簡単です。「自分の罪を悔い改めて、御子なる神イエス・キリストを信じる」―それだけです。そして、その信仰告白の公の表明として「洗礼」を受けるのです。赤ちゃんが生まれた後、「産湯」で洗われるようにです。
しかし、「自分が御子なる神イエス・キリストに身代わりで刑罰を受けてもらわないと救われないほどの罪人である」と理解するのにかなり時間を要しました。自分は「クリスチャンになりたい」のだけれども、「自分の罪が分からない。ゆえに、キリストの十字架も分からない」という段階でブレーキがかかってしまったのです。それで、水曜日の夜の聖書研究祈祷会と言う集会にも出席しているときに、促され祈ることとなりました。はじめてのたどたどしい祈りでありました。このように祈りました―「わたしは、まだ神さまのことがよく分かりません。特に、自分が罪びとであることがよく分かりません。自分がキリストに身代わりの刑罰を受けてもらうほどの罪人であることを教えてください。アーメン」。
それから、難攻不落の城のようなわたしの自我が、御霊なる神聖霊によって照らされ始めたように振り返ります。「わたしのような者がクリスチャンになるなんて、それは不可能だ!」と思う方は、ぜひ素直な気持ちになって祈っていただきたい。あなたにはそれは不可能なことであるかもしれませんが、神さまには不可能なことはないのですから。きっと、ひとそれぞれにふさわしいかたで不思議な経験をされると思います。わたしの場合、当時よく読んでいた太宰治『人間失格』や夏目漱石『こころ』、三浦綾子『道ありき』『塩苅峠』『氷点』等、文学的視点を通し、聖霊はわたしの自我の問題、エゴイズムの問題に光を当てられたと思います。雨戸と遮光カーテンで閉め切られていたわたしの自我の戸が開かれ、カーテンが開かれていったとき、夏目漱石のいう「心の底でうごめく生来のもの」が明らかになっていきました。三浦綾子は「罪というと『殺人とか犯したことがない』と思うが、人間は小さなほこりのような罪を毎日犯し続け、一生涯振り返ってみると、それは殺人以上の、罪の山となっている」と語っています。真っ暗な部屋で分からなくても、光が注ぎ込まれると、部屋の中に小さな埃が舞っていることが明らかになるでしょう。
わたしは、それらの文学書や哲学書等とともに働かれた御霊なる神聖霊の助けにより、罪の問題、自我の問題をはっきりと照らされて、イエス・キリストの十字架の意味、そして、罪・自我の問題を深く教えられ、さらにそれらを超えて、復活のいのちにある新しい自我の創造の希望にまで引き上げられることとなりました。19歳のクリスマスに洗礼を受けた下宿への帰り道、夕日を背中に受けて、神さまの、御子なる神イエス・キリストにある祝福を実感しました。虚無感・絶望感に溢れていた生活が一変しました。御霊なる神聖霊により、新しい天と地の「前味」を噛みしめて生きることができるようになったのです。
テキストに戻ります。サマリア人の女性が「渇くことのない、泉となって溢れる不思議な水」を心の底から求めたとき、御子なる神イエス・キリストは、[4:16
行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい]と言われました。それは、サマリア人の女性に「あなたの生活にはこのような問題があるから、この水を与えるのにはふさわしくありません」と詰問するためではありませんでした。それは、御子なる神イエス・キリストが何者であり、与えようとされているものがどのようなものであるのか、明確に伝えるための誘導でありました。というのは、御子なる神イエス・キリストは、サマリア人の女性の真の必要を理解しておられました。「目先の井戸の水」をはるかに超えた「生ける水、泉となって永遠に溢れる泉」に導く必要、提供する必要、受け取る必要がありました。
そのためには、方向転換が必要でした。サマリア人の女性は、「自然の水」を求めていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、サマリア人の女性の「渇きの真の本質」を満たそうとされていたのです。そこに導くためには、まことの神の前に立ち、自らの「真の姿」をさらけ出す必要がありました。もちろん、[ヘブル4:13
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています]とある通り、全知の神さまはすべてのことをご存じです。しかし、この全知の神さまの前に[自分の本当の姿を告白し、裁判所で行うように、正直に申し開きをなし、すべてを正直に告白し、心の底より悔い改めた後]、御子なる神イエス・キリストの十字架の代償的刑罰の恵みが授与されうるのです。それは、心を開くことです。閉ざされていた雨戸・遮光カーテンを開き、神の臨在の光を受け入れることです。
御子なる神イエス・キリストが、[マル1:15
悔い改めて福音を信じなさい]と言われた意味はそういうことなのです。夫の召喚―4:16
「あなたの夫をここに呼んで来ない。」があり、女の告白―4:17
「私には夫がいません」と続き、イエスの全知―「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。4:18
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから」そして、イエスの女への賞賛―「あなたは本当のことを言いました」が申し述べられ、女の告白は受け入れられます。そして、女の信仰の前進―4:19
「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」との驚嘆の信仰が呼び起こされます。御子なる神イエス・キリストは、御霊なる神聖霊により、一歩ずつ丁寧に導いてくださいます。
場所は、約二千年前のスカルの近くにある井戸端でありますが、そのやりとりは「天にある大法廷」でなされているやりとりのようです。このようにして、一歩ずつ、御子なる神イエス・キリストが差しだしてくださっている「渇くことない水、永遠に湧き出る泉」を受け入れるステップを導いておられるのです。サマリア人の女性は、完全には正直でありませんでした。彼女の五人の夫とは離婚していたか、死亡していたかは分かりませんが、罪悪感と傷を隠しつつ、人生の繊細な領域へのさらなる探りを避けようとしたようです。しかし、御子なる神イエス・キリストは追求してやまない検察官のようではなく、彼女の側にたってできるだけ穏やかな方法で真実を明らかにする弁護士のように、真実を含む告白を賞賛しつつ、さらなる真実を明らかにすることにより、罪の悔い改めと御子なる神イエス・キリストへの明確な信仰へと導こうとされているのです。
わたしたちの主、御子なる神イエス・キリストは、サマリア人の女性に対してなされたように、今日の私たちに対してもそのように優しく配慮に満ちたお方なのです。[ヘブル4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…4:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか]。わたしたちは、不十分な者、不完全な者でありますが、御霊なる神聖霊により、一歩ずつサマリア人の女性のように歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson,“The Gospel According to
John”、江藤淳『夏目漱石』、黒古一夫『三浦綾子論』)
2024年9月29日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ4:11~15「この水を飲む人はみな、また渇きます」-人間とは、際限なく飢え渇き、癒されることのない“喉”-
https://youtu.be/gMGX4vWgn3k
ヨハネ福音書(概略)
A.“How”―生ける水、どこから、どのように?(4:11)
B.“Who”―父ヤコブより偉い方?(4:12)
C.人間―渇く存在(4:13)
D.御子なる神イエス・キリスト―渇くことない泉(4:14)
先週は、サマリア人の女性の[ヨハ4:9
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか]という問いに対する、御子なる神イエス・キリストの[ヨハ4:10
もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら]という応答までお話しました。この箇所で重要な事柄は、ナザレ出身のユダヤ人、イエスが、“Who?”―「ヨハ4:10b
だれなのか」ということであり、このお方が与えようとされている「 ヨハ4:10a 神の賜物]、すなわち[4:10c
生ける水」がどういうものなのか、どのようにして与えられるのか―“How?”ということです。
その意味で、ニコデモと同様、そのやりとりは誤解をも含みつつも、突き放されたかたちのニコデモとは異なり、サマリア人の女性は一歩ずつ、御子なる神イエス・キリストが意図しておられる領域へと導かれてまいります。それは、その女性の存在の深みにある「心の渇き」の切迫性があったでしょう。「溺れる者は藁をもつかむ」といった切迫性、必要性がなければ、なかなか信仰には至りません。それは神の国の神秘であり、神の国の不思議です。しかし、サマリア人の女性はまだそのことを意識していませんでした。目先にある世俗的な「井戸水」の問題に終始していました。
これは、今日の多く人が置かれている状況と似ています。「本当の問題、永遠の問題」に焦点が当てられず、「目先の問題」に追いまくられているのです。御子なる神イエス・キリストは、今日においてもわたしたちの日常生活の「井戸端」に座って待っておられます。「真正なもの、永遠なもの、究極的なもの、本来的ないのち」に焦点を与えようとして待ち受けておられます。
サマリアの町にはヤコブが掘ったと伝えられる井戸があります。とても深い井戸で、かつてここを訪問された方は、その際に言われて小石を落としてみたところ、かなりの時間が経ってからポチャ!と底から音が聞こえたそうです。スカルの町からヤコブの井戸まで約1.2km、井戸の深さは23mとのことです。ずいぶんの距離であり、汲み上げるのには大変な深さの井戸です。人目を避け、炎天下の真昼に、このような距離を、定期的に桶を担いで「ヤコブの井戸」までやってきて、水を汲み上げ運ぶことはどんなに大変な生活であったでしょう。そのような苦境に生きざるを得ないことは、別の意味で「御子なる神イエス・キリストとの出会いの接点」ともなりました。問題があることが問題なのではなく、「接点をもたらす要素」がないことが問題なのです。
御子なる神イエス・キリストは、私たちの罪のために死んでよみがえられ、今天上の右に座し、注がれた聖霊を通し、内住の御霊なる神を通し、全世界の至るところの「ヤコブの井戸端」に待っておられます。しかし、人々は炎天下の中を歩き続け、
[4:13
この水を飲む人はみな、また渇きます]といわれる「ヤコブの井戸の水」をのみ繰り返し汲み上げる人生を生きています。もし「ヤコブの井戸の傍ら」にへたり込んでおられる御子なる神イエス・キリストに気づき、彼から語りかけられる言葉にどんなかたちであろうと応答できたらと思います。わたしたちクリスチャンは、内住の御霊を宿すことにおいて、「井戸端にへたり込んでいる」存在であるのです。
炎天下に長い道のり桶を担いで歩いて近づいてくる人に、「御子なる神イエス・キリストが示される言葉」をかけることに致しましょう。「主よ、かけるべき言葉をお示しください」と祈りのうちに生活しましょう。主イエスは、[ヨハ4:7
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た]とき、「わたしに水を飲ませてください」とひとことだけ声をかけられました。これで良いのです。次の反応は、御霊が導いてくださるので心配いりません。御霊に委ねてその反応を待ちましょう。わたしたちの内にいます御霊の「語り口」を発するとき、[創世記1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]と記されていることが起こります。
御霊を宿すわたしたちの「祈りのうちの発語」は、そのようなみわざを起こすものであると信じましょう。そして、主がみわざを続けてくださることを祈りましょう。そこから、サマリア人の女性と御子なる神イエス・キリストとの、ブランコのような、誘導円木のような、行きつ戻りつのやりとりが始まります。御子なる神イエス・キリストの[ヨハわたしに水を飲ませてください]との厚かましいお願いに対し、サマリア人の女性は[ヨハ4:9
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか]と、一度は拒否反応を示します。これもよくあることです。しかし、拒否反応であっても、反応があるのは良いことです。そのようなかたちで対話交流が続くからです。
わたし自身もそうでしたが、19歳の時、クリスチャンのキャンプに導かれたとき、当時KGK主事でありましたK師がいろいろと対話交流の時間をもってくださいました。しかしそこでのわたしの反応は、ニーチェ著『ツァラトゥストラ、かく語りき』から学んだ無神論的進化論をまくしたてるものでありました。それで、わたしをフォローし、カウンセリングを依頼してくれた友人はK師から「安黒さんをクリスチャンに導くことは難儀だ」と報告されたと聞きました。しかし、不思議なことにK師が受けられた印象とは真逆なことがわたしの心の内に起こり始めていたのです。そのカウンセリングは、わたしの心の内にあるキリスト教に対する疑問を洗いざらいぶちまけ、注ぎ出す機会となりました。しかし、その後、わたしの心の中はいわば大掃除されたかのように「空しく」なったのです。K師の御霊とともにあるカウンセリングのおかげです。
ニーチェ著『ツァラトゥストラ、かく語りき』で教えられている「無神論的進化論を信じて、生きていくとして、それでどうなるのだ?」と思うと無性に空しくなったのです。そして、その夜、キャンプファイヤーがありました。その最後にあるクリスチャンが涙をもって、自分が神のみ前に罪びとであることを告白し、悔い改める姿をみました。そのときに、「自分はなんと不真実な人間なのだろう」と思ったのです。「自分は警察のやっかいになったことはないけれども、心の中は罪や汚れに満ちており、このような状態、性質の問題に対し、一度も直視したことがない」と思ったのです。そして、「神の御前に罪の性質の問題をきちんと扱うことなしに人間の幸福というものは存在しえない」ことを悟ったのです。その夜、わたしは「一生涯、聖書を座右の書として読み、神のみ前に真摯に生きていこう」と決心したのです。
すなわち、わたしの言わんとすることは、クリスチャンは伝道し、回心と洗礼を受ける人が起こされることを目指します。しかし、それはひとつのゴールであって、わたしたちが取り組むべき端緒ではありません。わたしたちの端緒は、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]とあるように、共に住み、生活をする「共生」であります。この世に、内住の御霊を宿すクリスチャンが「世の光、地の塩」として存在すること、それ自体に意味があるのです。私たち自身は、「土の器」であり、あちこちに「欠けた穴やひび割れ」があるやもしれません。しかし、わたしたちのそのような弱い部分から、欠けた穴から「内住の御霊の臨在の光」が漏れて輝きます。わたしたちは「伝道や証しに失敗したかもしれない」と失望や落胆に思いに打ちのめされるのですが、不思議なことに、そのような思いにとらわれるときにこそ「主のみわざ」をみせられることが多いのです。
「共生」に続いて「対話」の段階があります。そして「説得」、「回心」へと進んでまいります。サマリア人の女性と御子なる神イエス・キリストの対話交流は、不思議な会話です。かみ合わない対話です。サマリア人の女性は、[ヨハ4:9
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか]とか、[ヨハ4:11
あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか]とか、[4:12
あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか]と質問しますが、御子なる神イエス・キリストはそれらの問いに対して、くどくどと長々しい解答をされた形跡はありません。これは、御子なる神イエス・キリストの目的・目標が明確なことのゆえです。
御子なる神イエス・キリストは、「自分が何者であり、何を与えるために来られたのか」を知ってほしいと願っておられます。しかし、この世の人は、世俗一般の次元での「対話交流」に終始しやすいのです。そのままでは、[ヨハ3:12a
地上の]話のどうどう巡りとなってしまい、[ヨハ3:12b
天上の]話に行き着くことがありません。ニコデモとの対話交流ではデッドロック(行き詰まり)に突き当たりました。ところがサマリア人の女性の場合は、対話交流が継続され発展をみます。それは、サマリア人の女性の「心の渇き」がニコデモよりも大きかったゆえでしょう。
サマリア人の女性は、的外れではありますが、カミツキガメのように、御子なる神イエス・キリストに嚙みついて離れません。このような人を煩わしく思わないようにしましょう。それはその人の「心の渇き」の表明のひとの形態なのです。サマリア人の女性は、[4:11
その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか]、[4:12
あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか]と食い下がります。サマリア人の女性は、炎天下の真昼に長い距離を、桶を担いで運ぶ生活から解放してくれるかもしれない「不思議な水」の話に乗ろうとします。そうなのです。御子なる神イエス・キリストに接近し、触れあおうとする動機は、人類80億人(2023年統計)千差万別です。それがどのような動機であれ、どのような接触点であれ、「乗る」ことが大切です。
御霊を宿すわたしたちは、そのような「千差万別の接触点」を、御霊の知恵に導かれて提供・提示することを促されています。サマリア人の女性にとっては、それは「生ける水」として提供・提示されました。H.W.ヴォルフ著『旧約聖書の人間観』には、「人間とは何であるか」と問い、「人間とは“喉”である」と記しています。そこでは、旧約聖書で「魂」と訳される「ネフェッシュ」という言葉がありますが、実は「ネフェッシュ」という言葉は、むしろ「喉」と訳すべき箇所が多いと記されています。人間とは、際限なく飢え渇き、癒されることのない“喉”、これが人間の真相であるというのです。
御子なる神イエス・キリストが[4:13
この水を飲む人はみな、また渇きます]と言われたのは、サマリア人の女性が真に必要とする本質をつかれた応答でした。もちろん、サマリア人の女性にとっての「井戸の水」の必要はご存じでありました。しかし、その問題を奇蹟的に解決したとしても、サマリア人の女性にとって、最も必要な問題の解決には至らないということを指摘されたのです。わたしたちにも、「数多くの井戸の水」が必要です。少子高齢化の日本、経済停滞と人口の減少、国家も教会の未来も暗たんとしている部分があります。それらは取り組むべき課題であり、克服すべき戦略も必要です。それらに無関心であってはなりません。
しかし、御子なる神イエス・キリストがここで教えておられることは、この世が価値とするものをいくら追い求め、獲得しても、人間の「心の渇き」は癒されないということです。「人間は限りなく飢え渇く者である」ことを意味しています。人間は、ひとつの欲望を満たすと、次に新しい欲望が生まれてきます。今最も必要とするひとつの欲望がみたされたら、それで終わりということはありません。欲求不満はますます激しくなり、安らぐことはないのです。「サマリア人の女性」は、わたしたちの姿の一形態です。わたしたちは、今日もなおスカルの町のヤコブの井戸端にへたり込んでおられる御子なる神イエス・キリストに「際限なく飢え渇き、癒されることのない“喉”」であることを告白しましょう。
そして、いつまでも決して渇くことのない御子なる神イエス・キリストが[4:14
与える水]を飲ませていただきましょう。わたしたちの内で[4:14泉となり、永遠のいのちへの水が]
湧き出る御子なる神イエス・キリスト与えてくださる水を、わたしたちの周囲に置かれ「共生」している、わたしたちにとっての「多彩なサマリア人の女性」たちに汲んで飲ませてあげることに致しましょう。それは、わたしたち自身ではなく、わたしたちのうちに内住される御霊の臨在であり、ナルド香油のような香り(ヨハネ12:3)であるでしょう。祈りましょう。
(参考文献: 大串元亮『光は闇のなかに』ヨハネによる福音書講解説教、H.W.ヴォルフ『旧約聖書の人間観』)
2024年9月22日
ヨハネ4:7~10「ユダヤ人なのに、サマリアの女の私に」-さまざまなあり様のサマリアの女性に知恵のことばを-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/wc5IJH0fshw
ヨハネ福音書(概略)
A.サマリア伝道の発端(4:7-8)
B.ユダヤ人とサマリア人の壁(4:9)
C.御子なる神イエス・キリストは壁を越える(4:10)
今朝の箇所は、[4:7
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た]場面から始まります。御子なる神イエス・キリストが井戸の傍らで休んでおられると、サマリア人の女性が水を汲みにやってきました。時は、炎天下の正午頃でありました。そんなに暑い時間帯にはだれも来ませんでした。ここに後に明らかにされるその女性の境遇がありました。彼女には、うしろめたい生活実体があり、後ろ指さされ、悪い噂の対象となる危険、また恐怖を避けるために、あえてだれも来ないであろう炎天下の真昼の井戸に水を汲みに来たのでした。この箇所は、わたしたちの主、御子なる神イエス・キリストはそのような所にいてくださることを教えています。
そして、クリスチャンもまた、御霊なる神、聖霊に導かれ、そのような場所に出向きます。マザー・テレサはインドの貧民窟で死に瀕している人に寄り添いました。マルティン・ルーサー・キング牧師は、白人一色の教会と黒人一色の教会に分裂していた差別溢れる米国のキリスト教社会の中で差別解消のために立ち上がりました。先週申し上げましたような歴史的経緯と宗教的理由により、[4:9
ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった]のです。そこにはきわめて強い差別感情や偏見がありました。これは、今日でもみられることです。移民問題、経済格差、男女の性の多様性における意見の衝突等があります。
わたしが教えてきましたM.J.エリクソン著『キリスト教神学』の中の「人間論」に「人類の普遍性」の章があります。そこでは、[女性は時折、人類の中で、せいぜい二流のメンバーと見なされてきた。参政権など男性が享受する権利を行使することは認められず、妻はある場合には事実上、夫の所有物と見なされてきた。聖書の世界では、女性の持っている権利は、少なくとも男性よりはるかに少なかった。旧約聖書は、ある程度までこの状況を覆すことはなかったが、神の目には女性は同等の立場をもっているということが初めから示されていた。これらの兆候は時が立つにつれて増え、特別啓示は次第により高いレベルへと移った]と書かれています。エリクソンは、福音派の神学者でありつつ、聖書の歴史的要素、社会的要素、文化的要素の中から、聖書のことばの本質を抽出し、それを今日の文脈の中に適用していく重要性を教えています。
最近読んで感銘を受けた新聞記事に東京女子大学学長の森本あんり氏のものがありました。プロテスタント・キリスト教のふたつの傾向について、福音派の[特徴は、書かれている言葉の通りに聖書を読もうとすることです。二千年前に書かれた聖書には当然、原子爆弾もAIも出てきません。主流派は現代に当てはめる形で聖書を読み直そうとするのですが、福音派は聖書の言葉をそのままの形で受け取ろうとします]。[たとえば聖書には同性愛の否定と読める記述があり、福音派の人はそれを理由に同性愛に反対します。それに対して主流派の多くは、当時の言葉をその背景から理解しないとダメだと考えます。二千年前には性的指向や性自認への理解がなかった現実を踏まえて、平等や愛の意味を現代的に捉え直す方向で、聖書を読み直すのです]。
このような聖書観と聖書解釈法の違いが現在の米国政治に大きな影響を及ぼしており、それは、[進歩派と反進歩派の対立として表れています。二十世紀後半の以降の米国では、平等な社会の実現に向けて女性や少数派の権利を尊重する流れが強まりました。他方それは、一連の流れを知的エリートによる進歩的な改革と見て反発する動きも引き起こしました。福音派の伸長は、エリート支配が固定化することへの反発や進歩に対する反動でもあり、それがトランプ支持と繋がっています]と、米国の状況の宗教的に深い部分を分かりやすく解説されています。そして最後に[米国の福音派の中にも、聖書の教えに基づいてトランプ氏を批判する人がいます。社会的弱者や外国からの寄留者を守りなさいという教えに反していると主張しているのです。]わたしは、福音派の一員ですが、トランプ氏に対しては批判的なひとりです。福音派の中の根本主義の人々のトランプ支持に心を痛めているひとりです。
[米国史を振り返ると、奴隷制に反対したり様々な権利を拡張したりする運動の背景には、キリスト教の改革運動がありました。困難な道ではありますが、宗教が米国社会を自省的・批判的に見直す契機になる可能性を期待しています]と記されていました。福音理解とその解釈の適用を、神学軸と社会学軸の両面から、自省的・批判的に見直すことを大切にしているわたしにとりまして、森本氏の分析と評価は「腑に落ちる」ものでありました。今朝の聖書箇所は、[4:7
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た]という何気ない記事でありますが、わたしは「森本あんり氏が語られている記事」との深い関連を教えられます。
1世紀当時、ユダヤ人とサマリア人の間には、今日の民族問題を視野におけば、イスラエル人とパレスチナ人にも類比されうる歴史的また宗教的対立がありました。[4:9
ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった]のです。拙著『福音主義イスラエル論』に書きましたが、イスラエル人とパレスチナ人の争いの火に油を注ぐようなアプローチではなく、[ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける]ことを教会の使命とすべきと思います。また今日の男女の性やジェンダーの問題を視野に置いて、以下の聖句を考えてみましょう。[4:9
そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に]と、当時の文化状況で、男性が公共の場で女性と会話を始めるのは奇妙なことでありました。御子なる神イエス・キリサマリア真昼間にたったひとりで身を隠すようにして、そそくとさ井戸に水を汲みに来た、問題を抱え、差別され、いちじるしく蔑視されているサマリア人の女性に、唐突に[4:7
「わたしに水を飲ませてください」と言われ]ました。
だれとも話したくない、だれからも声をかけられたくない、身を隠すようにして井戸端にたどり着いたサマリアの女性は、不意をつかれたようにびっくりして[4:9
あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか]と、防御的な反応を示しました。それは、御子なる神イエス・キリストの差し伸べられた手を振りほどくようなとっさの、自然な反応でありました。これは、わたしたちが直面する事柄でもあります。御子なる神イエス・キリストの福音を提供しようとしますとき、世の人々は、またある意味で救われる以前のわたしたちもまた、このサマリアの女性のような反応をしてきたことでしょう。わたしたちの「救われる以前と救われた瞬間と救われた後」の三つの時間で、繰り返し、絶えず振り返ることには意義があります。多くの知恵と多彩なアプローチが必要なことを教えられます。
ですから、「サマリアの女」のような反応は折り込み済みなのです。御子なる神イエス・キリストの福音の提供は、世のこのような人々に対し、そのような反応を起こさせるものです。すなわち心を閉ざし、差し伸べる手を払いのけられることも予測されるのです。そのような人々に、わたしたちの内におられる内住の御霊を通して、御子なる神イエス・キリストが、水を汲みに来たサマリアの一女性に対し[4:7
わたしに水を飲ませてください]と声をかける行為なのです。もちろん、内住の御霊に導かれ、励まされ、押し出されるようにして[4:7
わたしに水を飲ませてください]のような言葉や挨拶の言葉をちいさな声を振り絞り、発します。しかし、返って来る反応はといえば、時にはサマリアの女性の反応と似通った冷たいものであるかもしれません。しかし、それは問題ではありません。御子なる神イエス・キリストは、その「サマリア人の女性」にとって、真に必要な「生ける水」が何であるかを知っておられました。わたしたちもまた、わたしたちの周囲に、神さまが置いておられる「サマリアの女性」のような人々の真に必要な「生ける水」が何であるかを知っており、それを確信しています。それが重要なのです。
それゆえ、わたしたちは、内住の御霊に導かれ、励まされて、わたしたちの周囲に神さまが置いておられる、神さまが井戸端に呼び寄せられる「さまざまなかたちの、あり様のサマリアの女性」に、勇気をもって「導かれる知恵の言葉」を発します。親切に、丁寧に、心を込めて。それは、わたしたちが[4:10
神の賜物]が何であるのかを知っており、わたしたちの内住の御霊を通して[水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのか]を知っているからです。そして、このお方、御子なる神イエス・キリストを、あなたの、わたしの[さまざまなあり様のサマリアの女性]が知ることになったら、その人の心の奥底から[生ける水]が溢れるようになることを知っているからです。主が日々、わたしたちの井戸端に送ってくださる[さまざまなあり様のサマリアの女性]に信仰と愛と慰めに満ちた知恵のことばをかけることができますように、それがひと言であっても、ふた言であっても。では祈りましょう。
(参考文献: Colin G. Kruse, “John” Tyndale New Testament
Commentaries、M.J.エリクソン『キリスト教神学』第三巻、森本あんり「トランプ支持の底流」朝日新聞)
2024年9月15日ヨハネ4:4~6「イエスは、疲れ、ただ座っておられた」-沈黙と崇敬をもって溢れるくりぬき井戸、途切れることない泉-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/6GcOyW64q4o
ヨハネ福音書(概略)
A.サマリアを通って(4:4)
B.そこにはヤコブの井戸が(4:5-6a)
C.イエスは疲れから、ただ座って(4:6b)
D.時はおよそ正午(4:6c)
パレスチナは、南部ユダヤ・中部サマリア・北部ガリラヤに分類されます。先週は、パレスチナ南部のユダヤ地方でのパリサイ人たちの諜報活動とその後にもたらされる危険を察知された御子なる神イエス・キリストの宣教の戦略的再配置について学びました。宗教的中心地のエルサレムのあるユダヤ地方は、宣教にとって最重要地域でありましたが、パリサイ派の支配が強い危険な地域でありました。宣教を、「城攻め」に例えると、エルサレムは天守閣であり、サマリアは内堀、ガリラヤは外堀ということになるでしょうか。ガリラヤ宣教を優先させた戦略は、徳川家康が難攻不落の大坂城を落とすのに、冬の陣の後に外堀、そして内堀を埋め、夏の陣で陥落させたことに似ていないでしょうか。
今朝の聖書箇所は[4:4
しかし、サマリアを通って行かなければならなかった]という言葉で始まります。エルサレムとユダヤ地方での宣教活動から遠隔地であるガリラヤ宣教にシフトされた御子なる神イエス・キリストでありましたが、その途中の時間を無駄にはされませんでした。そうサマリア宣教です。ユダヤ地方からガリラヤ地方には三日かかりました。ユダヤ人にとって唯一の選択肢は、エリコの近くでヨルダン川を渡り、東岸を北上し、主として異邦人の領土を通り、ガリラヤ湖の近くで西岸に戻ることでした。ユダヤ人は、サマリア人を嫌っていたためにサマリア地方を迂回する必要があったのです。
サマリア地方は、イエスの時代には政治的に独立した存在ではなく、ローマ総督のもとでユダヤ地方と統合されていました。しかし、ユダヤ人とサマリア人にとって、この地域は歴史と宗教の両方によって定義されていました。オムリ王は北の新しい首都を「サマリア」と名付けました(Ⅱ列王16:24)。この名前は、やがて南北王国分裂を経て北王国に引き継がれました。そして紀元前722-721年にアッシリア帝国がサマリア地方を占領した後、彼らはすべての有力なイスラエル人を追放し、その土地に外国人を定住させました。外国人は生き残ったイスラエル人と結婚し、なんらかのかたちで古代の宗教を信仰していました(Ⅱ列王17-18章)。
バビロン捕囚後に、廃墟となった南王国に帰還を許されたユダヤ人は、サマリア人を政治的反逆者の子孫としてだけでなく、さまざまな容認できない要素によって宗教が汚された人種的混血者と見ていました(ネヘミヤ13章)。ユダヤ人たちは、サマリア人たちとの交流を避けていたのです。そのような中で、御子なる神イエス・キリストは、[4:4
しかし、サマリアを通って行かなければならなかった]のです。ここには、御父のみ旨、すなわちサマリア宣教をも成すことを使命として生きておられる御子なる神イエス・キリストの姿があります。ここでもユダヤの慣習や伝統を破り、脱ぎ捨てる生き方を教えられます。
御子なる神イエス・キリストは、歴史的・宗教的に汚れている、敵対してきたサマリア地方のど真ん中を直進し、北上されていきました。これが、御子なる神イエス・キリストの民族主義的信仰から普遍主義的信仰への脱却の道筋なのです(この道筋は、エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで、という使徒行伝の展開と同じです)。
三章で登場したニコデモは、学識があり、権力があり、尊敬され、正統派で、神学の訓練も受けていました。これに対して、四章で登場するサマリア人の女は教育は受けておらず、影響力もなく、軽蔑され、サマリアの民間信仰しか持ち合わせていませんでした。しかし、両者に共通するものがありました。それは、二人とも御子なる神イエス・キリストを必要としていました。
[4:5
それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた]とあります。これは、[創48:21
イスラエルはヨセフに言った。…、「48:22 私は、…あのシェケムを与えよう。」]と関係があり、[4:6
そこにはヤコブの井戸]がありました。この井戸は、掘り抜き井戸でありますが、同時に今日に至るまで地下の泉が水が供給されています。
さて、御子なる神イエス・キリストは、弟子たちが町に食料の仕入れに出かけた後、ただひとり残っておられました。それは、弟子たちの妨げなしにサマリア人の女性との出会いのためでした。[4:6a
そこにはヤコブの井戸]があり、[4:6c
時はおよそ第六の時]すなわち炎天下の真昼、正午でした。この時間帯には、だれも水を汲みに来たりはしませんでした。水汲みは、太陽の熱がそれほど強くない日中の早い時間帯か、あるいは遅い時間帯に来るからです。御子なる神イエス・キリストは、この時間帯に来るサマリア人の女性を待ち受けておられました。それは、全知全能なる御子なる神イエス・キリストの予知の能力の賜物でしょう。御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちには、御霊なる神聖霊が内住しておられ(ヨハネ14-16章)、わたしたちにとっての「サマリア人」に示しや諭しや洞察を賦与してくださいます。わたしたちは、その示しに対し敏感であり、繊細な愛をもって応答する者でありたいと思います。
[4:6b
イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた]とあります。炎天下のパレスチナの道を歩いて旅をして疲れておられたのです。疲労困憊の上、喉もひどく渇いておられました。今日のスポーツでは給水タイムがあり、脱水症状を防ぐ試みが大切とされています。御子なる神イエス・キリストは、
[4:6a
ヤコブの井戸]の傍らにへたり込んでおられました。そこに、犬猿の仲にあるユダヤ人とサマリア人との出会いがありました。わたしは、この箇所を読んだ時、一冊の本を思い浮かべました。J.V.テイラー著『仲介者なる神』という本です。
その中に「11.愛すること―聖霊における祈りと宣教の沈黙」という章があります。幾つかの名言を紹介しましょう。[イエス・キリストの本質的な意味は、彼の父なる神との不断の直接的な交わりの中にある]、[キリスト者とは、イエスが知っていたのと同じ父なる神との交わりの体験が与えられた人]、[祈りとは、イエスがただ「アバ父よ」と呼びかけることしかできなかったようなあの慈悲深い人格的な現実に対して、自分自身を開くことである]、[したがって、聖霊ご自身がイエスの祈りの息そのものなのである。仲介者なる聖霊の中に浸って彼はアバ父よと叫び、彼自身神の愛する子であるということを知った。そして彼の友人たちの相互に開かれた心に対してその聖霊を注ぎ、彼はアバ父というこの同じく素朴で大胆な呼びかけを用いる権利を彼らと分かち合われた]、[したがって、祈り中に生きるということは、聖霊の中に生きることである。祈りとは我々が何かをするということなのではなく、一つの生きざまなのである]、[彼の宣教に従事するといことは、この祈りの生活に生きることである]、今日の宣教における最大の問題は、[狂気の活動主義]の問題である。[本質的な宣教活動は、祈りの中に生きることである]、[エノクのように神とともに歩む人、神との不断の交わりからひとかけらの神の似姿を得る人である]、[彼らは、人々と共に住み、…沈黙の崇敬をもち、隣人たちと同じような仕事をなし、…惜しみなく友情を与えるのである]、[彼らは隣人と共に働き、祈りと静寂のうちに、隠された愛の臨在を分かち合うのである]、[他の人々がそこから神の愛を把握するかもしれないような慈悲を、伝染的なキリスト者を作る唯一の性質と言うべき慈悲]、そのような慈悲は沈黙と静寂の祈りによってもたらされる。
わたしは、[4:6b
イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた]という、ユダヤ伝道とそこからの移動の疲労のただ中で、炎天下の正午
[4:6a
ヤコブの井戸]で、犬猿の仲にあるサマリア人の女性を待ち受けておられるユダヤ人、御子なる神イエス・キリストに、そのように「伝染する慈悲」を見せられ、教えられるのです。わたしたちも、疲労困憊でへたり込むことがあるかもしれません。そのような時にも、沈黙と崇敬をもって、御父・御子・御霊の三位一体の愛の交わりの中に生活し、その溢れる慈悲をくりぬき井戸のように、溢れて途切れることない泉のように、渇いた隣人の心を潤す生きざまを示してまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson,“The Gospel According to
John”、J.V.テイラー『仲介者なる神―聖霊とキリスト教宣教』)
2024年9月8日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ4:1~3「それを知るとイエスは」-天上の右の座におられるわたしたちの偉大な“軍師”-
https://youtu.be/A-yPKHDwVC0
ヨハネ福音書(概略)
A.パリサイ人たちは、伝え聞いた(4:1a)
B. イエスは、再びガリラヤへ向かわれた(4:1b-3)
今朝の聖書箇所は、[4:1
パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた]という短い言葉で始まります。短い言葉ですが、御子なる神イエス・キリストの約8ヶ月の初期ユダヤ伝道を要約しています。御子なる神イエス・キリストの公生涯は三年半といわれます。それを大まかに概観しますと、三つないし四つの時期に分かれます。⑴初期ユダヤ伝道(ヨハネ2:13-4:3)、⑵ガリラヤ伝道(ヨハネ4:43-7:1)、⑶ベレヤ伝道と後期ユダヤ伝道(ヨハネ7:2-11:57)、⑷最後の一週間(12-19章)。地域は、四国の二倍ほどの広さで、そこを数回巡回伝道されました。
さて、わたしたちは、ヨハネ福音書の1-3章に傾聴してまいりました。最初に御子なる神イエス・キリストがいかなるお方であるかの紹介(1:1-18)があり、次に洗礼者ヨハネがこのお方の到来の準備の役割を担った(1:19-34)ことを学びました。洗礼者ヨハネは、弟子たちを訓練し、イスラエルの民を悔い改めの信仰と洗礼に導きました。それは、御子なる神イエス・キリストを受け入れる「心の土壌」を整えるためでありました。御子なる神イエス・キリストが公生涯に立たれた時、洗礼者ヨハネの弟子たちを受け継ぎ(1:35-51)、カナの婚礼時にお披露目され(2:1-12)、エルサレムにのぼり「宮きよめ」の出来事等において、古い律法や神殿儀式の時代が過ぎ去り、御霊による新時代が到来することを明らかにされていきました(2:13-25)。
洗礼者ヨハネは、御子なる神イエス・キリストの登場を受けて、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)、そして「聖霊によってバプテスマを授ける者」(1:33)と証言しました。さらに、「悔い改めの洗礼運動」に携わっていた弟子たちを、御子なる神イエス・キリストに受け渡していきました(2:35-37)。洗礼者ヨハネの弟子たちは、御子なる神イエス・キリストと共に過ごし、対話していく中で、「ナザレ出身の大工の息子イエス」を「ラビ(先生)、メシヤ(キリスト)、神の子、イスラエルの王」と確信していきました(2:38-52)。
[4:1
パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた]とあります。ただ[4:2
─バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが─]と注釈があり、御子なる神イエス・キリストは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)、そして「聖霊によってバプテスマを授ける者」(1:33)であられ、その信仰内容である「キリストの、そしてキリストに合わせられた死・葬り・復活」の実体の象徴的表現、また美しい告白形式としての水の洗礼を授けていたのは弟子たちでありました。御子なる神イエス・キリストの「贖罪と御霊の内住」のみわざの完成はまだ未来ではありましたが、過渡期・準備段階として、「新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」の苗代が準備されつつありました。それらは、ヨハネ福音書でさまざまな象徴的な表現で示されています。
[4:1
パリサイ人たちは、…と伝え聞いた]とあります。それは、1:19-25にみられるイスラエル国内にある宗教運動の調査活動において、その問題対象が「洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼運動」から、「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」
運動にロックオンされたことを意味します。この時期、ヨハネ14-16章にあるように、まだ助け主である御霊なる神が来られていないので、弟子たちにはすべてのことが理解できてはいなかったのですが、神の奥義としての「福音理解」の断片の種が、洗礼者ヨハネにより備えられた「悔い改めた、柔らかい心の土壌」に蒔かれていきました。御子なる神イエス・キリストの「リバイバル運動」の成果は目を見張るものでありました。大きな祝福でありました。
しかし、[4:1
イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている]状態は、パリサイ人たちには看過できないものでした。このような運動や民衆の動きを大変危険なものと見ていました。ここでパリサイ人に焦点が当てられ、大祭司やサドカイ人、熱心党等の他のグループがはずされていることも注目点です。ここにも、AD30年代の状況とAD90年代の状況のヒントが示唆されています。福音書記者は、「洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼運動」から、「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」
運動へのパリサイ人の注目を、1世紀末の教会とユダヤ教会堂の状況に重ね合わせているようです。1世紀末の教会とユダヤ教会堂は緊張関係にあり、ユダヤ会堂内に存在する隠れキリシタンやその予備軍、シンパ層は大変危険なものと見られていたのです。ヨハネ福音書記者はその状況を意識しつつ、本福音書を編集してものと思われます。ヨハネ福音書の行間はそのような緊張感に満ちています。
[4:1
イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている]こと、そして「皆があの方の方に行っています」の評価(3:26)は、いまだ洗礼者ヨハネのもとに留まっていた弟子たちを「洗礼者ヨハネ運動とその弟子たちの運命」を不安にさせました。しかし、洗礼者ヨハネは自分を「花婿の友人」(3:29)に例えて、そのような不安を払拭することに尽力しています。今日の教会でも、何事において移行期には不安があり、無用な軋轢も生まれやすいです。それゆえ洗礼者ヨハネのような考え方のできる人が必要です。自己中心的な人ではなく、主の御心を軸にへりくだれる人が必要です。しかし、パリサイ人たちは異なります。[4:1
イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている]との情報は、洗礼者ヨハネのグループの状況の調査の時に認識され、その後の8ヶ月にわたる調査は、[「洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼運動」は、まだユダヤ教内のひとつの運動として許容できるものであるが、「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」
運動は、ユダヤ教を「水」とすれば、それを「ブドウ酒」に変えようとするものであり、神殿や律法に根ざすユダヤ教の伝統を、御子なる神イエス・キリストの贖罪と御霊の内住に換骨奪胎してしまう]危険な運動として感知し始めたことでしょう。御子なる神イエス・キリストの運動と教えは、古い皮袋を破る、発酵して膨れ上がる新しいブドウ酒のようであったのです。それは、旧約聖書の約束の真の成就でありましたが、多くのユダヤ教徒には理解しがたいものでありました。
御子なる神イエス・キリストの弟子たちですら、宮清めのようなことをされていると「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(2:17)という聖句を思い出し、御子なる神イエス・キリストの運動と教えは、ユダヤ教の神殿と律法の伝統の継承ではなく、古い衣を脱ぎ捨て、新しい衣を身に着けることであるとの直観教育を受けていきます。弟子たちも古い考え方を捨て去る教育課程に置かれていたのです。御子なる神イエス・キリストは、伝道の当初、過越しの祭りの頃にエルサレムに上り、最初になされた注目すべき宮清めの出来事で、「神殿の崩壊とご自身の死と復活」を重ね合わせて(2:19)証しされています。御子なる神イエス・キリストの教育方法は、「最初から本質的なことを語り、そのときはよく分からなくても、御霊が後に、ちょうどよい時に思い出させ、目を開かせてくださる」というものです。今日の説教にもそのようなところがあります。分からないところは、理解させてくださる御霊の照明を祈りましょう。わたしたちも、内住の御霊、真理に目を開かせてくださる御霊に信頼して、最初から最も大切なことを、その本質を躊躇なく証しするものとされましょう。
[4:1b それを知るとイエスは、…4:3
ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた]とあります。ここから、わたしたちは、御子なる神イエス・キリストの伝道が、「下手な鉄砲、数打てば当たる」といったものでないことを教えられます。また、むやみやたらに「万歳突撃」する戦法でもないと教えられます。[4:1b
それを知る]とあります。御子なる神イエス・キリストは、ペテロの特質を知り、ナタナエルの人格を深みから読み取られました。
御子なる神イエス・キリストは、全知全能の神の属性を保持しておられました。ただ、受肉の期間、それらの使用を御父の許容範囲に制限されていました。公生涯に入られて、8ヶ月間のユダヤ地方での「共生、対話、説得、回心」の伝道活動は大成功でした。洗礼者ヨハネの長年の活動は[マル1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と言われるほどのものでありました。ある意味で、その弟子と運動を継承・発展させたかたちの「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」運動は、その端緒であるにも関わらず、新しいスターの登場は[ヨハ3:26
皆があの方のほうに行っています]と、洗礼者ヨハネのブームは「衰え」、御子なる神イエス・キリストの苗代づくりは「盛ん」(3:30)となっていきました。ただ新しいブームの到来というだけでなく、洗礼者ヨハネのシンパ層は根こそぎ、御子なる神イエス・キリストの運動と教えに持っていかれたかたちです。
[4:1b それを知るとイエスは、…4:3
ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた]のはなぜでしょうか。それは、この熱狂がもたらす危険を察知されたということです。「ヨハ2:25
イエスは、人のうちに何があるかを知っておられ」とありますように、ユダヤ人たちの心の内にあるものを知っておられました。それは、しるしと不思議を伴うメシヤの到来であり、そのお方が植民地支配下にあるこの国をローマ帝国の支配からの独立を勝ち取ることでありました。彼らは、そのようなリーダーを待ち望み、御子なる神イエス・キリストにその可能性があるとみると、彼を担ぎあげようとしました。
しかし御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ2:24
彼らに自分をお任せにならなかった]のです。それは、ローマ帝国に対する反逆であり、御父の「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」運動を台無しにするものであったからです。AD30年代の宗教指導者たちは、ローマ帝国の支配を受け入れつつ、宗教的自由を得て、経済的な恩恵も享受していました。それゆえ、政治的メシヤ運動で騒動を起こり、そのような自由と恩恵を失うことはするまいと決心していたのです。
パリサイ人たちは、祭司やレビ人を使い、内偵活動をしていました。パリサイ人たちが[4:1a
イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている]と認識したということは、ユダヤ教自治組織レベルで、御子なる神イエス・キリストのユダヤ地方の伝道活動に警戒信号が灯されたということです。[4:1b
それを知るとイエスは、…4:3
ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた]というのは、当時のパレスチナ地域が、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ地方に分かれており、エルサレムから離れたガリラヤ地方では、パリサイ人による監視や妨害活動はゆるいという判断があったでしょう。
「御子なる神イエス・キリストの新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」
運動は、イエスと弟子たちの故郷でもあるガリラヤ地方で約二年間続けられます(4:43-7:1)。神学校には、「宣教学」という科目があり、そのコア・カリキュラムで「⑴宣教の聖書的基盤、⑵宣教の歴史的・地理的展開、⑶宣教と文化の関係、⑷宣教の戦略的構築」を学びます。わたしは、宣教の中の「⑴伝道、⑵教会形成、⑶神学教育」の第三の神学教育機能の役割を、自らの召命として受けとめ、その生涯を走り続けています。その時に、留意していることのひとつは、「⑷宣教の戦略的構築」ということです。
わたしは、中国の歴史書の『史記』という本が好きで、その中に「孫子の兵法」の話が出てきます。国と国との戦いで、「本当に優れた軍師」を得ることが大切だと教えられます。小さくて弱い国でも、優れた軍師を得ることができれば、大きくて強い国から小さな国を守ることができるということを教えられます。[4:1b
それを知るとイエスは、…4:3
ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた]を読みます時、わたしは御子なる神イエス・キリストのうちに「優れた軍師」の才能を教えられます。御子なる神イエス・キリストは、死を恐れてはおられません。ただ「わたしの時」(2:4)、「ご自分の時」(13:1)を知っておられたのです。
聖書の「伝道者の書」には、「すべてのことには定まった時期があり」(伝道3:1)とあります。御子なる神イエス・キリストは、この時はまだご自身が十字架のみわざをなす時ではないと知っておられたのです。ですから、パリサイ人たちのいる危険地域で「万歳突撃」するべきでなく、そこから遠く離れた、より安全なガリラヤ地方で「⑴共生、⑵対話、⑶説得、⑷回心」のさまざまなレベルでの伝道と証しの活動に専念されたのです。わたしたちは、少子高齢化という困難な伝道と証しの時代に生かされています。しかし、「孫子の兵法」に学びましょう。否定的な状況と材料に満ちた時代に、「内住の御霊による、神の知恵による兵法」があるのではないでしょうか。絶えず、天上の右の座におられるわたしたちの偉大な“軍師”たる御子なる神イエス・キリストと対話しましょう。このお方から、御霊による知恵・知識をいただき、それに応答して歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.M.Smith “John” Abingdon New Testament
Commentaries、Colin G. Kruse, “John” Tyndale New Testament
Commentaries、D.A.Carson,“The Gospel According to John”)
2024年9月1日
ヨハネ3:31~36「受け入れた者は、神が真実であると認め」-御子なる神の自己証言の権利と陪審員としてのわたしたち-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/uyeCA3L4x5s
(概略)
ヨハネ福音書
A.すべてのものの上におられる超越者(3:31)
B.超越者の証しに対する二つの反応(3:32-33)
C.御父・御子・御霊の三位一体の愛の交わり(3:34-35)
3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
D.信仰者と不信者の対照的生活(3:36)
今朝の箇所は、ヨハネ福音書の特徴がよくあらわれている箇所です。この部分の内容は、1:1-18の序文や有名な3:16-21にあるように、第四福音書の記者とその教会の「宣教のことば(ケリュグマ)」また「福音理解」と思われます。そうなのです。ヨハネ福音書は、バプテスマのヨハネやナザレ出身のイエスにまつわる出来事や物語を書き記しつつ、そのはしばし、そしてつなぎの箇所等で第四福音書の記者とその教会が「ナザレ出身のイエス」をどのようなお方として理解しているのかの「解説文」を、すなわち「信仰告白文」を挿入して構成されているのです。
今朝の箇所は、[3:31
上から来られる方は、すべてのものの上におられる。…天から来られる方は、すべてのものの上におられる]という言葉で始まります。これは、旧約聖書、またそれを基盤として形成されたユダヤ教に教えられている「神は超越されたお方」であるという教えから来ています。すなわち[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た]等、イザヤ書をはじめ、旧約各書で、神は天におられ、世界のはるか高みにおられる方として意識されていました。洗礼者ヨハネの証言の後に、この一文が記されているのは、文章のつながりからみますと、少し違和感を感じます。
洗礼者ヨハネの最後の証言の後に、この一文が置かれた意味はどこにあるのでしょう。その意味は、ヨハネ福音書の構成の骨格は、1:1-18の序文や3:16-21の第四福音書の記者とその教会の「宣教のことば(ケリュグマ)」にあることを示しています。表面的に読めば、これらの一文は唐突なものとして受けとめられるのですが、実は第四福音書の記者とその教会の「福音理解」が主軸であり、挿入されているさまざまな証しや記録はその「福音理解」を立証するための数々の証拠であるのです。裁判でいえば、序文は冒頭陳述であり、洗礼者ヨハネの証言やイエスと弟子たち、イエスとニコデモ等の会話は、「イエスが御子なる神イエス・キリストである」と立証する証拠の一部といえます。
ヨハネ福音書は、[ヨハ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2
この方は、初めに神とともにおられた]と、ナザレ出身のイエスが、三位一体の神であり、御父なる神とともにおられた御子なる神イエス・キリストであると証ししています。すなわち、ナザレ出身のイエスが、実は被造物世界を創造された、この世界を超越しておられる[3:31
すべてのものの上におられる]お方であり、そのお方が御霊なる神の力により、マリヤを通して人間のかたちをとって[3:31
上から来られ…天から来られ]たのだと証言しているのです。福音書記者は、まどろっこしいことをうだうだと並べ立てた説明はせず、すべてのことを省いて[3:32
この方は見たこと、聞いたことを証しされる]と申します。どこかいさぎよいさわやかさを感じます。
例えば法廷において,すべての人に自己証言の権利を与えられています。事件が起こった場合、証拠や証人が集められ、疑わしい人のアリバイを調べ、裁判での議論を経て判決を得、事件の解決へと導かれます。しかし,時には、誤解や不運から誤った判決が生まれることもあります。どのような証言や証拠が集められ、どのような追求がなされ、時に誤った判決に導かれることがあるとしても、ただひとつの権利は守られます。それは、「自己証言の権利」です。ある特定の人に関する真相とか真実というものは,その人自らが口を開いて初めて明らかになる場合が多いからです。ナザレ出身のイエスの場合もそうです。外から見れば、一介の普通の人間にしかみえません。しかし、彼は自分自身について知っておられることを証言できるのです。
そうなのです。ヨハネ福音書は、御子なる神イエス・キリストの「自己証言の書」なのです。福音書記事には、[ヨハ20:30
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない]と記されています。宮きよめの出来事の時にも[ヨハ2:23
過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた]とありますが、それらの奇蹟はこまごまとは記されていません。それは、ヨハネ福音書の編集・著述の目的が[20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得る]ことにあったからです。御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れ、永遠のいのちを得させるという目的達成上、必要最小限の「自己証言の書」であるのです。裁判の陳述も、無限に続くと知性も働かなくなるでしょう。これは、いわば美しい真珠の首飾りのように選び抜かれた「自己証言」の宝石の玉の集まりなのです。
繰り返し語っているように、ナザレ出身のイエスの「自己証言」とその証言を偽りがない、真実性のある証言であると信じた福音書記者とその教会は、いわば裁判の席で
[3:33
その証しを受け入れた]陪審員のようであり、御子なる神イエス・キリストを通して証しされている[神が真実であると認める印を押した]人々であるのです。[3:31
地から出る者は地に属し、地のことを話す]と言われているように、被造物世界の一員であるわたしたちは、被造物世界のことしか分からないのです。わたしたちは、この被造物世界の木々の一本一本の太さを測定することはできます。それらは諸学の中にまとめられてきました。しかし、森の外のことは分かりません。宇宙の創造以前と終末について、人間の生まれる前と死んだ後について、そして罪と死と永遠のいのちについて等、分からないことで一杯です。
そして[3:34
神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである]とあります。31節「上から来られる方」がヨハネ福音書の冒頭の「ことば神とともにあった。ことばは神であった」を意識しているように、34節の「神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるから」は、ヨハネ14~16章の「助け主」「真理に導かれる御霊」が意識されています。そこには、有限の存在である人間を通して啓示される無限の存在である「御子なる神イエス・キリスト」を受け入れ、理解することを助けてくださる「御霊なる神である聖霊」への言及があります。
[3:32
この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない]というのは、いつの時代でも、キリスト教会が直面する事柄です。その典型例が、創造者たる神と被造物たる人間の「存在論的ギャップ」「質的差異」を旧約聖書を通して教えられ、取り扱われてきたユダヤ教徒たちでありました。ですから、彼らをさげすむことはできません。そのような反応は人間として自然なことですし、彼らの宗教教育がそれを先鋭化したのです。御子なる神イエス・キリストの「ありのままの、真実な自己証言」すなわちこの方が[3:32
見たこと、聞いたことを証し]されたとき、彼らは「神をぼうとくしている」と受けとめ、殺そうとさえし、実際に十字架につけて殺してしまったのです。
[3:34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。3:35
父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった]とありますように、御父は御子を御霊を通して三位一体の愛の交わりの中におられ、「御霊を限りなく」「その手にすべてを」与えられ、全権委任のもとで「神のことばを語られ」ました。被造物たる人間の理解力を超えた「御子なる神イエス・キリスト」の自己証言は、福音書記者やその教会に注がれ、内住している「御霊なる神である聖霊」によって、「イエスは主である、御子なる神イエス・キリスト」であるとの告白に導かれます。[3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持っている]とは、聖霊の助けによって、「御子なる神イエス・キリスト」の自己証言を「真実なものである」と確信させられた人々にある御霊の臨在であり、内住です。
同じように、御子なる神イエス・キリストの自己証言を耳にし、数々のしるしや不思議を目の前にするのですがある人々はさらに心を閉ざしていきます。そして[3:36
御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる]と言われています。ユダヤ教徒の中に、二つの反応が見られたように、いつの時代でもこのような二つの反応が見られます。ただ、教会を迫害し、殉教者までもたらしたサウロでさえ、ダマスコ途上でキリストの光に打たれて回心しました。ヨハネ福音書、新約聖書、そしてキリスト教宣教の歴史の中には、困難な時代、困難な地域での宣教と証しの物語が満ちています。
ローザンヌ誓約には、伝道について「共在」「対話」「説得」「回心」という四つの段階があると書かれています。フランシスコ・ザビエルによる日本キリスト教宣教から500年弱であるが、日本のキリスト教人口は1%足らずと言われています。「笛吹けども踊らず」と申します。聖書は[3:32
この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない]と証しします。しかし、神の恵みにより、その不思議なわざにより、御子なる神イエス・キリストを通して提供されている「御父・御子・御霊なる三位一体の神の愛の交わり」の真実性に触れ、その臨在を受け入れる人々もあります。
少子高齢化社会で、日本社会全体が縮小する中で、教会をも含め、あらゆるものがダウンサイジングしていっています。そのような中でも、できることはあります。そのような社会状況のただ中で「共生」はできるでしょう。わたしたちは、「すべてのものの上におられた超越されたお方、上から来られた方、天から来られた方」の自己証言を真実なものとして心の底から受け入れ、三位一体の神の愛の交わりの中に、そして三位一体の神の愛の語りかけの臨在の中に、永遠のいのちの中に生かされています。そのことを日々、確認し、確信し、そのようなお方を崇め、感謝することが大切です。
[申6:4 聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。6:5
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい]とあります。そのような神への崇敬と感謝が溢れる「生」が、砂漠の中のオアシスのように存在することが大切なのです。[3:36
御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどま]っているとあります。わたしたちは三位一体の神の愛の交わりの外にとどまっている人々の「永遠のいのちの泉、オアシス」となりましょう。すぐに救いにつながらなくても、彼らはわたしたちから流れ出る「永遠のいのち水」をすすって暮らしていけるでしょう。そして、いつの日にか彼らにも「御子なる神イエス・キリストの自己証言」の真実に目が開かれるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献:M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』、宇田進論稿「啓示と聖書」実用聖書註解等))
2024年8月25日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ3:22~30「人は、天から与えられるのでなければ」-友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます-
https://youtu.be/dw_IBy-TTzw
ヨハネ福音書
A.洗礼者ヨハネと御子なる神イエス・キリストのバプテスマ(3:22-25)
B.洗礼者ヨハネと御子なる神イエス・キリストの関係(3:26-28)
C.花婿の友人と花婿・花嫁(3:29)
D.洗礼者ヨハネの運動と御子なる神イエス・キリストの共同体の趨勢(3:30)
今朝のテキストは[3:22
その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた]で始まります。それは、ユダヤ教共同体を母胎として、「御子なる神イエス・キリストの人格とみわざ」を信じる共同体が誕生していく胎動の経過説明であります。一章で洗礼者ヨハネの紹介があり、彼の下で準備された弟子たちの一部が「御子なる神イエス・キリスト」の弟子へと受け継がれ、キリスト教共同体の核が準備されていきました。彼らはカナの婚礼の時にお披露目された後、エルサレムに現れます。そこで旧来の神殿のあり方から、贖罪のみわざを終え、復活される「御子なる神イエス・キリストの人格とみわざ」による新しい神殿のビジョンが暗示されました。
エルサレムでの証しは、多くの人を信仰に導きました。しかしその「福音理解」はまだまだ不十分なものでありました。そこで御子なる神イエス・キリストの人格とみわざによってもたらされる「福音理解」の紹介が始まります。それは、ニコデモとの対話等によって明らかにされています。それは、「ユダヤ教のきよめのしきたり」や「神殿においてささげられる犠牲」等で示される伝統的なユダヤ教の継承の中で捉えられるようなものではなく、それらによって予表はされているけれども、まったく新次元に属するものでありました。それは、ユダヤ教のしきたりの中にあった「水」が「高価なブドウ酒」に変えられるような「キリストの贖罪の出来事」であり、神殿が壊され、三日目に建て上げられる「キリストの復活の出来事」を暗示するものでありました。
それは、古い罪深い生き方に死んで「新しく生まれる経験」であり、それは古いユダヤ教共同体から離れ「御霊の内住によって証しされ、水の洗礼によって新しくキリスト教共同体に属する経験」でありました。先週、先々週のヨハネ3:16のみことばは、「御子なる神イエス・キリストの人格とみわざ」を心臓部とする福音理解がいかなるものであるのかを簡潔に証しするものです。御子なる神イエス・キリストが、その福音理解をどのように語られていたのかは判然としません。公生涯の最初においては、キリストのみわざはまだ未来にありましたし、弟子たちや信者たちの理解力もまだ不十分でありました。御子なる神イエス・キリストは、最初からすべてのことを証ししようとされていますが、彼らの乏しい理解力に忍耐を強いられている様子が散見されます。それは、あたかも「小さな杯にバケツ一杯の水を入れようとする」ようなものでした。それは、「まだ御霊が下っていなかった」(7:39)のゆえでありました。エペソ書にありますように「知恵と啓示の御霊」(エペソ1:17)の助けなしには多くのことが理解できないからです。わたしたちもまた、すべてのものを見ることができていません。謙遜になって「知恵と啓示御霊の照明」を祈る者とされましょう。[エペ1:18
心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか]が見えるようになってきます。
とにもかくにも、[3:22
イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられ]ました。御子なる神イエス・キリストの公生涯の「キリスト教共同体」形成の取り組みの素早さを感じます。紀元30年代においてはまもなく完成される御子なる神イエス・キリストのみわざ完成に基づき送られる御霊なる神の内住を待望しつつ、受ける水の洗礼であり、ペンテコステの日に明白なかたちで出現する「新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮」の胎動でありました。[3:23
一方ヨハネも、…バプテスマを授けていた]とありますように、キリストの到来とともに、洗礼者ヨハネは引退し隠遁生活に入ったのではなく、「真の悔い改めに基づく洗礼を受けることによって救われる」というバプテスマのヨハネの洗礼運動は、並行して続いていました。これらの記事は、洗礼者ヨハネから、御子なる神イエス・キリストの公生涯への移行期をよく説明しています。
[3:25
ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした]とあります。その論争の内容への言及はありません。ただこの記述の直後に[3:26
彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています]と当時の状況と洗礼者ヨハネの弟子たちの懸念が示されています。おそらくは、ユダヤ教徒内での「きよめ」問題についての優劣の議論の中で、洗礼者ヨハネの運動の衰微と新しく登場した御子なる神イエス・キリストの運動と教えの人気、また熱狂が話題に上っていたのでしょう。まるで、バイデンさんとトランプさん、そしてハリスさんの登場で目まぐるしく動く支持率をみるようです。
洗礼者ヨハネの弟子たちは、ユダヤ教諸派の中での「きよめ」について議論をやっている場合ではないことに気づき、急遽[3:26
彼らはヨハネのところに]駆けつけて、「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます]―すなわち、大変なことです。わたしたちのおかぶが取られてしまっています。これまで、わたしたちの集会に参集していた人々[皆があの方のほうに行って]おり、わたしたちの集会の集まりはまばらになってきています、と危機感を訴え出たのです。まるで、大リーグにおける「大谷翔平」の登場のようです。御子なる神イエス・キリストの斬新な教えと、それに伴うしるしは、当時のユダヤの人々に熱狂の渦を起こしたのです。
このような弟子たちの危機感に対して、洗礼者ヨハネは[3:27
人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません]と答えました。なんと素晴らしい受け答えでしょう。洗礼者ヨハネにとって、その教えと働きは、自分のものではなく、天から授けられたものでありました。洗礼者ヨハネは、「真の悔い改めに基づく洗礼による救い」運動を成功させ、一世を風靡していました。このような場合、特別なラビまた教師として、お山の大将となり、みんなに担ぎ上げられて、時には教祖のようにもなり、下手をすれば「御子なる神イエス・キリストのキリスト教共同体形成運動」に対抗心を抱く危険すらありました。
洗礼者ヨハネは、自身が生涯を賭けた召命と働きが危機的状況に置かれたとき、対抗心を抱く誘惑から守られました。そこに洗礼者ヨハネの謙遜と偉大さがあります。彼はどのようにして対抗心を抱く誘惑から守られたのでしょう。それは、主から与えられた賜物と召命の範囲についてのわきまえです。聖書には、[ロマ12:3
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい]とあり、[エペ4:7
しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました]とあります。
その昔、神学生の頃にひとつのお奨めを聴きました。それは、わたしたちひとりひとりが「負うべき十字架」についてでした。ある奉仕者が神さまの前に出てこのような希望を申し出ました。「神様、今わたしが背負っている十字架は小さすぎて張り合いがでません。わたしにピッタリの十字架を与えてください」と、もっと大きな十字架を求めました。神さまは「分かりました。では、いろんなサイズの十字架の置いてある倉庫に案内しましょう」と導かれました。その奉仕者はさまざまなサイズのある十字架の倉庫に入りました。背負ってきた十字架をそのあたりに立てかけ、無数の十字架の中から希望する十字架を探しました。最初はできるだけ大きな、偉大な先輩たちが担った十字架をかつごうとしましたがあまりにも重くてかつげませんでした。それで、楽にかつげるサイズの十字架を探し、担いました。するとあまりにも軽くて張り合いがもてませんでした。長い時間をかけて無数の十字架をかつぎ、ついに自分の力にピッタリの十字架を見つけました。大喜びで「神さま、とうとう見つけました。これがわたしにピッタリのサイズの十字架です」と。すると神さまは「それは、あなたがかついできた十字架です」といわれたとのことです。もちろん、わたしたちには担うべき十字架を選択する自由があります。わたしたちは、自分に与えられた個性と賜物に応じて、それを主とともによくよく吟味熟考して、担うべき十字架のサイズを選び取っていかねばなりません。そこでは、下手な怠惰や謙遜も、過ぎた貪欲や高慢も注意しなければなりません。それは、自分にとっても周囲の人々にとっても残念な結果となります。何よりも神さまのみ旨を損ねます。
洗礼者ヨハネは、「真の悔い改めに基づく洗礼による救い」運動のリーダーでありました。それは、キリストの出現とともにある意味でそれを引き継ぐ「真の悔い改めと御子なる神イエス・キリストの人格とみわざへの信仰」に基づく御霊の内住とその表現としての水の洗礼に移行していきました。このような移行期には、人はその弱さから「反動」を起こしやすいものです。洗礼者ヨハネに属する人々の一部は、敵愾心を抱いたかもしれません。しかし洗礼者ヨハネは、彼の追随者の一部と違って、イエスの人気が高まっているという知らせに動揺しませんでした。洗礼者ヨハネは、その召命と賜物の範囲を明確に理解していました。彼の召命は人から出たものではなく、神から[3:27
天から与えられ]たものであると自覚していました。そして、その召命の内容は[3:28
キリストの前に私は遣わされた』]と告白していました。自分は目的そのものではなく、つなぎのため、旧約時代から新約時代へと橋渡しする準備者であることを明確に理解していました。
この洗礼者ヨハネの模範は、いろんな移行期に応用し教えられる原則を有しています。そのひとつは、教職者の世代交代です。教会の牧師の世代交代人事においても、洗礼者ヨハネから教えられることは多いと思います。最後に[3:29
花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています]とあります。わたしたちはこの言葉を、この表現をどのように受け取るでしょう。一世紀末に記されたヨハネ福音書記者は、すでに回覧されていた多数の新約文書を知っていました。復活後の教会がキリストを「花婿」、教会を「花嫁」として描くということをよく知っていました。
30年代に登場した洗礼者ヨハネと御子なる神イエス・キリストの関係のみならず、一世紀末には御子なる神イエス・キリストがかしらとなられているキリスト教共同体がありました。キリスト教共同体は、ユダヤ教共同体との難しい問題の中にありました。ヨハネ福音書は、ユダヤ教共同体から離れ、御子なる神イエス・キリストを純粋に告白して生きるべきかどうかの瀬戸際に立たされていました。福音書記者は、洗礼者ヨハネの言葉に重ね合わせて、花婿なる「御子なる神イエス・キリスト」と信仰者が純粋にひとつとなることを願い、歓迎しています。新約に[Ⅱコリ11:2
私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させた]とあり、[エペ5:31
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」5:32
この奥義は偉大です]とあり、[黙21:9
ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう]とある通りです。キリスト教信仰の特徴のひとつは、その信仰の質にあります。それゆえに御子なる神イエス・キリストとクリスチャンとの関係は、心から愛し合う男女の愛、信頼、尊敬、誠実、献身等に特色づけられています。
洗礼者ヨハネの使命は、まことの神の民の苗代を準備することでありました。洗礼者ヨハネは、その準備を成し終え、弟子たちをイエスに引継ぎ、さらには彼の下に集まっていた会衆すら喜んで明け渡していったのです。[3:30
あの方は盛んになり、私は衰え]ることを喜びとしました。洗礼者ヨハネの下にとどまった一部の人々は憤慨し、大きな危機感を抱きましたが、洗礼者ヨハネは「花婿と花嫁の結婚を取り持つ友人」のように大きな喜びに包まれました。キリスト教会における世代交代もまた、洗礼者ヨハネの模範に習うものでありたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』等)
2024年8月18日
ヨハネ3:16~21「信じない者はすでにさばかれている」-御霊なる神の臨在そのものが私たちが経験する「永遠のいのち」-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/vonU30XShwA
今朝、一通のメールをいただきました。ひとりの主のしもべが天に召された知らせでありました。そこには「敦賀自由キリスト教会の札場齋(ふだばひとし)創立牧師が2024年8月17日、午前4時40分に老衰で天に召されました」と記されていました。敦賀自由キリスト教会には想い出があります。そこは、45年前、わたしが関西聖書学院三年生の時に、キャラバン伝道で訪問させていただいた教会でありました。
この春から、「牧会インターン研修」ということで、息子がお世話になっておりましたので、先日礼拝後にお邪魔させていただいたところでした。弱っておられるとは聞いておりましたが、こんなにも早く召されるとは思っておりませんでした。ご遺族と教会員の皆様の上に主の慰めを祈らせていただきます。先日、45年振りに同じ教会堂の前に立ったとき、感無量でした。教会堂を再び見た時、それは札場先生の奉仕生涯の結晶のように感じたからです。その建物に、壁に、礼拝堂に、その奉仕の労がしみつき、滲み出ているように感じたのです。「Ⅰコリ15:58
自分たちの労苦が主にあって無駄でない」と書かれているからです。さて、わたしたちは、この春より『ヨハネ福音書の神学』を傾聴しております。このヨハネ福音書もまた、ヨハネの奉仕生涯の結晶であります。わたしたちは、今朝、この福音書の一節一節に「しみ込み、滲み出ている」ものを味わってまいりましょう。
(概略)
A.世をさばくためではなく、世が救われるため(3:16-17)
B.信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている(3:18-19)
C.悪を行う者は光の方に来ない。真理を行う者は光の方に来る(3:20-21)
今朝の箇所 [3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]は、“小さな聖書”とも言われる聖書の中で最も有名な箇所です。その内容は、先週傾聴しました「十字架の上にあげられた主、昇天された御子なる神イエス・キリスト」にありました。この箇所は[3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである]と続きます。「さばき」の否定があり、御子なる神イエス・キリストによる“代償的刑罰”によって「救われる」ということが主眼であると書かれています。
しかし、[3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている]と、さきほど語られた「救い」が「御子を信じる者」に限定されたものであり、「信じない者」に対する「さばき」が宣言されます。まことに対照的な描写です。この描写はいささか意外な感じが致します。[3:16
神は、…そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。…一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ…、3:17
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため]と神の恵みのみわざの展開が始まったかと思いきや、[3:18
信じない者はすでにさばかれている]と、いわば山の天候の急変のごとく情景が変わります。これは、ヨハネ福音書にある「光と闇」「救いとさばき」といった二元論的な特徴です。
また、ヨハネ福音書のイエスの言葉は、15節までであり、3:16-21は、福音書記者による「福音の解説」です。これもまた、ヨハネ福音書に特徴的な書き方です。[3:16
神は、“ホ・セオス”]とか書かれています。御子なる神イエス・キリストは、通常、御父なる神を“ホ・セオス”とは呼ばれません。それで、この箇所からの説明(3:16-21)は福音書記者のものと分かります。しかし、聖書は、ここで語られている言葉が、御子なる神イエス・キリストの言葉なのか、福音書記者の言葉なのか区別していません。それは、聖書においては、御子なる神イエス・キリストの声と福音書記者の声は“ひとつになっている”からです。すなわち、ヨハネ福音書の使信は、両方合わせて「イエス自身が告げられた使信そのもの」なのです。
御子なる神イエス・キリストの声と御霊に導かれて書いた福音書記者の解説は“ひとつとなって”、御子なる神イエス・キリストの到来の最重要な性質(3:17-21)が記述されているのです。ここで語られていることは、裁きであり罰であるのか、救いであるのかは、「本人の応答」に関わっているということです。ヨハネ福音書は、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざと直面した人々の「実存的決断」の証し集です。それが記されたのは、今日のわたしたちもまた、それぞれの状況と段階において「御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに実存的決断」を迫るためです。ヨハネ福音書は、ただ読むだけではもったいない文書です。「あなたの今に、必要な決断を迫る書」として読まれるべきです。[3:18
信じない者はすでにさばかれている]。聖書の中で一番厳しい言葉がここに記されています。すなわち、「裁きは世界の終末を待つまでもなく、現在決定的に起こっている」のです。ここに、時間的・歴史的記述が特徴の共観福音書と、現在的・実存的記述が特徴のヨハネ福音書の違いがあります。
御子なる神イエス・キリストが受肉・来臨されたのは、[3:17
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため]でありましたが、すべての人々が御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに肯定的に応答するに至らず、結果的に、御子なる神イエス・キリストの到来は、罪と死と滅びの中にいる人たちを「二つに分けてしまう」こととなりました。イエスの出現によって、群衆の中にも(7:43)、パリサイ人たちの中にも(9:16)、ユダヤ人たちの中にも(10:19)、分裂が起こったことが明白に述べられています。分裂は弟子たちの中にも起こります。ヨハネ福音書のみが、弟子たちの中から脱落者があった(6:6-66)ことを記しています。そのような意味で、ヨハネ福音書は、わたしたちを、わたしたち自身の中にある「霊と肉」を選り分けていく書でもあります。ヨハネ福音書は、イエスが「御子なる神イエス・キリスト」であると宣言します。イエスを受け入れるか、拒絶するかが問われているのです。イエスと対決して、「人間は二つに分かれます」。そして、信じない者にとっては、「分かれた」ことが即「裁き」であると言われているのです。すなわち、第四福音書においては「終末論」の“現在化”が御霊によって顕れているのです。「裁き」は、もはや「将来における終末の日に最後の審判が行われ、そこで信仰のあるやなしやとか、信仰によってどのように地上の日々を送ったのかによって決定される」だけでなく、「今ここで、イエスを信じるか否かによって決定される」と語られているのです。終末は御霊によって現在に侵入しているのです。
「永遠のいのち」は今や、「歴史のかなたにおいて、地上の生の後に、最後の審判の判決に従って、復活のからだとして信仰者が享受する」ものであるだけでなく、「イエスを信じる者が現在与えられるものとして生きることのできる」ものなのです。また、「イエスを信じない者が終末時になってはじめて裁かれる」というだけでなく、「光が来たのに闇の中にとどまっている、その事実自体がすでに裁きになっている」というのです。御父なる神が送り、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざで完成され、御霊なる神によってもたらされる臨在の現実の中にいるか、外にいるのかが問題なのです。「闇の中にとどまる」こと、それ自体が「すでに滅びの中にある」ことであり、逆をいえば「光がさしてきて、その光を受け入れ、光の中に自分自身を見出す」そのこと自体が「すでに永遠のいのちを味わっている」ことにほかならないのです。
御子なる神イエス・キリストを離れて「この世」に属する限り、救いの可能性はとざされており、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを信じ、受け入れ、その共同体に属することが「救い」なのです。光である御子なる神イエス・キリストが人格とみわざをもって到来されたにも関わらず、[3:20
光を憎み][3:19 [光よりも闇を][3:18
神のひとり子の名を信じなかった]、そのことによって、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざの臨在の外にとどまっていること自体が「死であり、滅び」そのものであり、さばきなのです。
ユダヤ人たちは「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして『あなたがたは自由になると言われるのですか?』」(8:33)と、イエスに問いました。これは、当時のユダヤ教徒たちの「神観、人間観、世界観」を言い表しています。当時のユダヤ教徒たちは、選民意識の下、律法を遵守していれば、神の国の一員からはずれることはないと考えていました。それは、ある意味、世の多くの宗教のように「自分は警察のやっかいになっていないから、結構善人の部類に入る」と考える日本人一般と似ているかもしれません。すなわち、新約聖書ローマ人への手紙に記されているような「御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを必要とする絶望的な罪人」としての意識は持ち合わせていませんでした。その意味で彼らは「聖書読みの聖書知らず」でありました。
ある意味、そのような「罪意識」は御子なる神イエス・キリストの臨在によるのであり、注がれた御霊なる神の臨在によってのみ照らされる神の賜物です。イザヤのように、主の臨在に触れてはじめて、自分の罪深さに震えおののくのです。ヨハネは、パウロのような用語を使用していませんが、「パウロが罪と考えていたものに似た何か」を前提にしていたと思われます。人間の置かれている状況は、本質的に「罪と死と滅び」に性格づけられておりましたが、当時のユダヤ教徒にはそのような危機感はありませんでした。そこに、「御子なる神イエス・キリストを信望する追従者」と「御子なる神イエス・キリストに敵対する反対者」の抗争が生まれる素地がありました。それをヨハネは、光と闇と名付けました。当時の「ユダヤ人たち」は、御子なる神イエス・キリストを猛烈に拒否し、非難の山を積み上げる代表者となりました。
ヨハネの描写はこうです。御子なる神イエス・キリストは、その人格とみわざにおいて、「罪と死と滅び」の世界に来られました(3:16-17)。こうしてイエスは世の光であるばかりでなく(1:5,
8:12)、復活でありいのちであり(11:25)、神のもとから下り、また神のもとに上るお方でありました(3:13、6:38、17:13)。御子なる神イエス・キリストは、光を憎み、闇を愛する人々の期待を無視し、放棄されます。しかし、同時に、御子なる神イエス・キリストは、聖書に記され期待された方、まことのイスラエルの民のメシヤ、キリスト、最も深い人間の必要を満たす存在であられました。御父なる神が備えられ、私たちに与えられた御子なる神イエス・キリストの人格とみわざにより、御霊なる神によって提供されている臨在、そのものが、「現在、そして未来永劫」私たちが経験する「永遠のいのち」なのです。御霊の臨在に導かれ、闇を憎み、光を愛して歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』等)
2024年8月4日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ3:1~11「水と御霊によって生まれなければ」-何がイエスとニコデモとの間で本当のやりとりだったのか-
https://youtu.be/6OcrUK6rc6U
ヨハネ福音書
A.ヨハネ福音書におけるニコデモの位置(3:1-2)
B.新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(3:3-4)
C.水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません(3:5-7)
D.風は思いのままに吹きます(3:8-9)
E.あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません(3:10-11)
一宮基督教研究所のチャペルでの礼拝メッセージは、幾分神学校での「ヨハネ福音書の神学」の聖書講義のようでもあります。少し難解な部分もあるかもしれませんが、説教原稿を含め、よく味わっていただければ、味わい深い内容盛りだくさんのメッセージと思います。さて、イエスとニコデモの出会いは、ヨハネ福音書の物語の中での一つの早い転換点となっています。イエスは、体制側の一員、3:1パリサイ人のひとりであり、ユダヤ人の議員のひとりであったニコデモから、3:2好意的歓迎の言葉を受けますが、3:3イエスは慇懃にそれを拒絶されます。ニコデモは、物語の流れの中で舞台から姿を消しますが、後にイエスを弁護して公平な裁判を受ける権利があるとし(7:50-52)、また最後にイエスを葬るために戻ってきます(19:39)。ユダヤ人、またパリサイ人たちの中にも、イエスに好意的な人々、また穏健な人たちもいたことを教えられます。
この後の展開で多くのパリサイ人たちは、イエスを拒絶し、イエスはそのパリサイ人たちを弾劾されます。ヨハネ福音書の第5章から10章までは、一種の宗教的な護教論の手引きであり、キリスト教のユダヤ人論難とユダヤ教からの反駁の教科書です。ヨハネ福音書のこの中心部分を読み通したときに初めて、第3章に戻って何がイエスとニコデモとの間で本当のやりとりだったのかを理解することになります。ニコデモはひとりの素直な存在として、イエスに近づいたのかも知れません。ニコデモのイエスとの出会いは、共観福音書の「富める若者」(マルコ10:17-22)、あるいは「神の国から遠くないとされた律法学者」(マルコ12:28-34)の友好的接近と比較されます。
双方ともにイエスに接近する者たちは、ニコデモがそうであるように、「イエスと討論の共通基盤」があると感じています。50-60年代に書かれた共観福音書においては、イエスは暗黙のうちに、その「共通基盤」を認めています。しかしながら、90年代に書かれたヨハネ福音書ではイエスは明らかにそれを受け入れていません。時代状況が激変しています。それが[3:3
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません]の意味です。イエスを信じ、公にキリスト教共同体に属することを証しする洗礼が求められています。ニコデモは[3:2
先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません]と、パリサイ人であり、ユダヤ人の議員の中の良識派であり、イエスの理解者として、イエスに対話交流を呼びかけています。
それは、まるで「宮きよめの騒動で起こった、にっちもさっちもいかなくなっているイエスとパリサイ人たちとの間の紛争を仲裁しましょう」といった融和的な、夜半の申し出のようでもあります。ニコデモの主張をもう少し丁寧に見ていきましょう。ニコデモは[3:2
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません]と、「2:23イエスの行われたしるし見て、その名を信じた」ひとり、良心的で良識のある穏健なパリサイ人のひとりとして、急進的で過激でイエスを抹殺しようとするパリサイ人たちとの間の妥協点を探りに来たのやもしれません。
イエスは、2:25ニコデモのうちに何があるかを知っておられました。それで、「問題は、そのような政治的かけひきとか、妥協にあるのではありません。御子なる神イエス・キリストの真の姿が見えない、分からないところにあるのです」と言っておられるようです。外形的で社交的な遠回しのニコデモのアプローチに対し、直球でど真ん中ストレート勝負といったところでしょう。ユダヤ教保守派のラビである、ミルトン・スタインバーグ著『ユダヤ教の基本』という本があります。その中にユダヤ人から見たイエスという箇所があります。彼は[ユダヤ人にとってイエスとは、非常に美しく気高い魂であり、人間、それも特に不幸で悩める人間に対する愛と憐れみで光り輝き、信心深く、人間の性質について造詣が深く、たとえ話や警鐘句の優れた才能をもち、そして何よりも熱心なユダヤ教徒であり、彼自身の民族の信仰を固く守った人であった。つまるところ、イエスとは、ユダヤ教の信仰と道徳の基本原理についての、熱心な教師であった]と描いています。
これに対して、「キリスト教についてのユダヤ教の考え方」においては、特にキリスト教におけるパウロ的要素として、①すべての人間は罪を負い、刑罰に定められているという「罪論」、②イエスを単なる人間ではなく、神が受肉された人間と解釈している「キリスト論」、③人間は御子なる神キリストの代償的刑罰によって救われる「贖罪論」、④イエスは死人の中からよみがえり、再臨の時に人間をさばき、神の国を建てる「終末論」、⑤御子なる神イエス・キリストを信じる者は救われ、否定する者は裁かれる「救済論」―ユダヤ教はこれらの命題とそれらに付随するものを拒絶すると記されています。ヨハネ福音書で教えられる「ヨハネ的要素」は、用語や表現には違いがありますが、「パウロ的要素」と共通するものであり、それがヨハネ福音書の最初から記されています。ヨハネ福音書は「キリスト教についてのユダヤ教の考え方」への回答書のようです。
要するに、パリサイ人であり、ユダヤ人の議員のひとりであるニコデモの夜半の訪問とその申し出が記された意味は、何でしょう。この記事は50-60年代の共観福音書には記されていない夜半の訪問であります。90年代というのは、70年のエルサレムと神殿の崩壊とユダヤ教の共同体の危機的状況下での、パリサイ派による再編・再構築の取り組みの中で記されたヨハネ福音書独特の記事であるのです。共観福音書では、最後の週、十字架につけられる週のはじめに出てくる宮きよめの出来事が、ヨハネ福音書では奉仕生涯の最初の週のあたりに記されているのです。うがった見方かもしれませんが、ヨハネ福音書の宮きよめの出来事は、どこか70年のエルサレムと神殿の崩壊とユダヤ教の共同体の危機的状況とも重なります。
このように見ていきますと、紀元30年代の御子なる神イエス・キリストの公生涯の歴史、それを最初に書き記した50-60年代の共観福音書の「共通項」を感じさせる描写、そして90年代のヨハネ福音書の描写には、キリスト教共同体とユダヤ教共同体がまだ融合していた時期と決定的な分離に追い込まれていた時期との状況の差異があるように見受けられます。いわば、卵の殻からひよこが殻を破って出てこようとしていた過渡期から、ひよこが育ち、完全に殻を脱ぎ捨てていく時期の差異のようです。「ヨハネ福音書の神学」傾聴シリーズの最初に、[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]と題しました。それは、ヨハネ福音書の書かれた90年代という「編集の場」が、一世紀末の、パリサイ派を中核とするユダヤ教の再編・再構築の状況下での、「キリスト教共同体とユダヤ教共同体」の緊迫した状況であるとしたときに見えてくるものがたくさんあるのです。
すなわち、ユダヤ教の側からいいますと、キリスト教はユダヤ教の一分派であり、イエスをキリストとすることも「ユダヤ教のメシヤ観」の枠内で理解している限り無難に過ごせました。また、洗礼という形自体も、クムラン教団の入団式としての浸水礼があり、洗礼者ヨハネの悔い改めの先例があったので、いずれも「ユダヤ教の枠内」にあり抵触しませんでした。要するに「ユダヤ教の延長線上にキリストの福音を考え、旧約の連続線上に新約を見る」限り、「密やかな弟子」の存在は黙認されてきました。しかし、摂理と申しますか、70年のエルサレムと神殿の崩壊という出来事は、パリサイ派によるユダヤ教再編・再構築を生み出し、「ユダヤ教会堂内の隠れキリシタンの存在」は許容されなくなりました。ヨハネ福音書の執筆の背景にはそのような状況がありました。
一世紀末の、パリサイ派を中核とするユダヤ教の再編・再構築の状況下での、「キリスト教共同体とユダヤ教共同体」の緊迫した状況においては、「ヤムニアの第十二祈願」のようなかたちで、ユダヤ教会堂に潜む、いわば“隠れキリシタン”のような信仰者をあぶりだし、見つけ出し、追放する力が働くようになっていました。ニコデモの夜半の訪問は、30年代の出来事であり、ニコデモは、はじめは「イエスの行われたしるしを見て、神がともにおられる教師」といったキリスト教理解者であり、シンパでありました。イエスを陰ながら応援し、葬りの時には公然と自らの信仰を明らかにしたひとりのようです。同時に、「ニコデモ」は、ユダヤ教会堂、ユダヤ教共同体の中において多数存在した“隠れキリシタンの型”でもあります。「ニコデモ」タイプのクリスチャンが多くいたのです信仰 日本でいえば、戦後の日本はミッション・スクールが最も多い国であり、キリスト教シンパ層は大きなものであったと思います。しかし、彼らの大半は「キリスト教精神に好感を示すものの、神道の氏子・仏教の檀家組織から、真の回心、新生、洗礼により、キリスト教共同体に転回に至る」ものではありませんでした。ニコデモ・レベルの信仰者にイエスのようにチャレンジしていくことが大きな課題です。
御子なる神イエス・キリストが、パリサイ人で議員であるニコデモの「“ユダヤ教内キリスト派”的な信仰でも受け入れられるでしょうか」という申し出に対し、イエスは、明確に[3:3
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:5
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません]と話されました。それは、いわば「水をブドウ酒に変える」ような転換であり、「商売の家となっていた宮をちゃぶ台返し」するような出来事でありました。
少子高齢化による人口減少時代、また冠婚葬祭のあり方の根源的変化の時代は、「キリスト教精神に好感を示すものの、神道の氏子・仏教の檀家組織から、真の回心、新生、洗礼により、キリスト教共同体に転回に至る」力の働く余地のある時代なのかもしれません。
イエスはニコデモとの間に存在する「深刻な溝」があることを指摘されました。その中心には、人間イエス、教師イエスとしてしか見ることのできないユダヤ教徒の限界を見切った「御子なる神イエス・キリスト」の視点がありました。イエスとパリサイ人たちとの間には、一方か他方か、どちらに属するのかを決めなければならない“境界線”がはっきり引かれていることをニコデモは気づいていませんでした。ヨハネ3:16-21には、その「選択の鋭さ」が鮮明に引かれています。それは、あたかも、二つの共同体、ふたつのグループがあって、それらの境界線はかつては曖昧でありましたが、一世紀末の、パリサイ派を中核とするユダヤ教の再編・再構築の状況下での、「キリスト教共同体とユダヤ教共同体」の緊迫した状況においては、もはや曖昧なままで進むことはできなくなっていました。イエスは、明確に[3:3
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:5
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません]とチャレンジされました。ヨハネ福音書には、御霊なる神についての描写が最初の章から終わりの章まで溢れています。しかし、[ヨハ7:39
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである]とあるように、それらの描写が完全な形でクリスチャン生活の中に現実のものとなるのは、贖罪・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ等の一連のみわざが終わった後においてです。ヨハネ福音書は、時間的次元が複雑に交錯し、前のめりになることつまり、それらが読者であるヨハネ共同体のクリスチャンにとってすでに現実となっていることをいとわずに描写しています。キリストの御霊がこれらのことを成し遂げてくださいますように祈りましょう。
イエスは、[3:3
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と申されました。この「新しく」は、「上から」(3:31,
19:11)とも訳される言葉です。要するに、「1:13神によって生まれる」「3:3新しく生まれる」「3:5御霊によって生まれる」等々の霊的経験は、同じ現実を言い表しています。それらは、弟子たちは福音書の中で漸進的に御子なる神イエス・キリストの人格とみわざ霊の目が開かれていっていますが、十分なかたちで目が開かれるのは、御子なる神イエス・キリストの一連のみわざが完成して、聖霊が注がれ、信じる者のうちに、キリストの御霊が内住される時においてです。
クリスチャンは、その内住の御霊に満たされることにおいて、[エペ1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。1:18
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、1:19
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを]知ることができるようになります。わたしたちは、御子なる神イエス・キリストを信じ、キリストの御霊を宿すことにおいて、「神の国を見る」ことができるようになるのです。
3:5
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません]とは、ニコデモが「会堂から追放されることを恐れて」(9:22)、「信じていても告白しなかった」(12:42)ユダヤ人たちの典型として描かれていることを思い当たらせられます。それゆえ、この箇所の「水」は、キリスト教共同体の一員であることを告白する儀式である「洗礼」を意味し、その洗礼は「形だけの洗礼」には意味がなく、内住の御霊により「自らの罪を悔い改めて、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを信じ告白」する信仰の実質が必要であることを意味しています。
[3:8
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです]とあります。御霊による新生の経験は、クリスチャン本人にもなかなか説明のつかない部分があります。すべてのことが分かって、クリスチャンになるのではないのです。御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを信じてから、少しずついろんなことが分かってくるのです。クリスチャンはそれぞれ、神さまの主権的恵みをもって、十人十色、多種多彩なかたちで、救いに導かれます。それは、赤子の誕生似ています。赤ちゃんは本人の自覚なく、母親の生みの苦しみを通して産まれてきます。わたしたちの努力・精進によってではなく、キリストの十字架の苦しみを通して、御霊の産みの苦しみを通して、クリスチャンとして誕生するのです。赤子は、未熟ではありますが、全きからだと機能をもって生まれてきて、家族に守られ、支えられて健やかに成長してまいります。世界で一番小さな「からし種」のような信仰でも、寝たり起きたりしているうちに、鳥が宿るほどの大きな木に育つと言われますので何も心配いりません。
[3:11
わたしたちは知っていることを話し、見たことを証し]していると、イエスは、また福音書記者は、風のように働く御霊の経験をさまざまなかたちで、一章ごとに証し・紹介してまいります。しかし、[あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません]と、頑ななユダヤ人、またパリサイ人たちは、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに反抗を重ねてまいります。そのような意味で、最初に申しましたように、[パリサイ人たちは、イエスを拒絶し、イエスはパリサイ人たちを弾劾されます。
ヨハネ福音書の第5章から10章までは、一種の宗教的な護教論の手引きであり、キリスト教のユダヤ人論難とユダヤ教からの反駁の教科書です。ヨハネ福音書のこの中心部分を読み通したときに初めて、第3章に戻って何がイエスとニコデモとの間で本当のやりとりだったのかを理解することになります]。わたしたちも、ヨハネ福音書の第5章から10章を学んでいく中で「何がイエスとニコデモとの間で本当のやりとりだったのか」についての理解を深めていきたいと思います。御霊によって生まれ、御霊に導かれて生きるとは、どういうことなのかを教えられていきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』等)
2024年7月28日
ヨハネ2:23~25「彼らに自分をお任せにならなかった」-ヨハネ福音書の目的・目標に向かって進む「号砲」-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/p36l3bX7xjg
ヨハネ福音書
A.イエスの行われたしるしを見て、その名を信じた(2:23)
B.イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった(2:24)
C.イエスは、人のうちに何があるかを知っておられた(2:25)
1章で荘厳な序文から始まり、洗礼者ヨハネの証言、弟子たちの召命があり、2章でカナの婚礼での奇蹟、過越しの祭りの時期の宮きよめへと展開する「ヨハネ福音書」は、3章からニコデモやサマリヤの女との出会いに移行していきます。今朝の箇所は、その橋渡し、つなぎの文章です。それにしても、紀元50~60年代に記されたマルコ、マタイ、ルカの共観福音書との違いは明らかです。共観福音書は、系図から始まり、荒野の誘惑や神の国のメッセージが特徴としてありますが、90年代に記されたヨハネ福音書は、紀元70年のエルサレムと神殿が崩壊し、ユダヤ教の宗教的文化的なものが消失した、いわば戦後日本の焼け野原の状態の中で、パリサイ派による律法による再建がなされている最中にあるキリスト教会を背景としているからに他なりません。
今朝の箇所は[2:23
過越の祭りの祝いの間]で始まりますが、共観福音書での過越しの祭りの週、そして宮きよめの出来事は、御子なる神イエス・キリストが十字架につけられる、奉仕生涯最後の週に出てくるだけです。ヨハネ福音書では、それが最初の週の頃の出来事として書かれているのです。この一点を通しても、ヨハネ福音書がいかに神学的な文書として記されたのかが分かります。「その翌日」とか「それから三日目に」とか、「その後に」というつなぎの言葉が記されていますが、それはヨハネが1世紀末の教会に伝えんとしている神学的、教理的メッセージの集合体であるヨハネ福音書の編集用語であり、必ずしも歴史的な順序を表現するものではありません。
[2:23
過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた]とあります。不思議なことに、[イエスの行われたしるし]についての言及はありません。ヨハネ福音書の最後に[ヨハ21:25
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う]とあるように、
[イエスの行われたしるし]は数知れないほどのものがありましたが、福音書記者はそのすべてを書き記そうとはしていません。そこに執筆の目的があったわけではないのです。
[イエスの行われたしるし]については神学的目的に沿って必要最小限記されているのみです。
わたしたちの生活でもそうでしょう。御子なる神イエス・キリストを信じ、内住される御霊なる神とともに生きる生活、生涯における大小の奇蹟は[その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない]ものとなると証しできるのではないでしょうか。わたしたちはそれらを声高に証しする必要はありません。ただ、空気のように吸い、水のように飲み、それが日々の当たり前のことのように主を崇め、栄光を帰すのみです。
この箇所の最後には、[2:23
多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた]とあります。多くのユダヤ人たちが、[イエスの行われたしるしを見て]、[その名を信じた]のです。ここでわたしたちは、信仰にはいろんな種類やいろんな段階があることを教えられます。すでに「ラビ(先生)、メシヤ(キリスト)、モーセや預言者の書いている方、神の子、イスラエルの王」という表現がありました。これらは、旧約聖書にある約束の一部でした。その期待の中心には、ローマ帝国の支配下にあった国と民族を解放し、独立を導いてくれるダビデのような政治的・軍事的指導者の到来がありました。日本も、元の来寇時や第二次大戦後にソ連の植民地支配に置かれていたなら、鮮烈な独立闘争の歴史が起こっていたことでしょう。ユダヤ人たちは、「これほどのしるしや不思議をなさる方なら、植民地からの解放を成し遂げてくださるかもしれない」と期待したのです。
しかし、このような上滑りなメシヤ観は、その期待はずれと思われる否や、弱く、偽りに満ちた偽物の指導者としてさげすまれ、見捨てられ、「十字架につけろ!
十字架につけろ!」の叫びの対象へと変質していく危険なものでありました。そのような意味で、聖書の福音をどのように理解するのかということは重要な課題です。上滑りのメシヤ観が危険なものであったように、一面的な福音理解にも落とし穴があります。
今月は、岡山英雄師の新刊『黙示録の希望』の書評に取り組んでいます。岡山師は、聖書神学舎の神学生であったとき、ラッドの著作集に出会い、「終末論」と「黙示録」研究に生涯をささげる決心をされました。それは、当時流行していた終末論、また黙示録理解に「きわめて上滑りな解釈」を看取されたからです。その40年余りの奉仕生涯の最初から今日まで、モーセの荒野の恵みと苦難の旅程のように、「患難期と教会」の理解を軸に、字義的解釈と象徴的解釈のバランスのとれた終末論、黙示録理解を提示されてきました。
その旅程は順風満帆なものではなかったことでしょう。G.E.ラッドが米国福音派にもたらした変化の過程が生易しいものでなかったように、岡山師が所属団体、神学校、諸教会と、それを超えて取り組まれた数えきれない奉仕には、多くの困難が伴ったことでしょう。波風の立つテーマを避けて、奉仕の機会とサラリー安定に価値を見出す奉仕世界の中で、勇気ある主のしもべであると教えられます。周囲の思惑に仕える以上に、御父のみ旨に仕えようとするこのような献身者によって、キリスト教会は健全さを担保されていくことができます。
[2:24 イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった]とあります。これは、[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]と関係のあることばです。御子なる神イエス・キリストは、[2:25
人のうちに何があるかを知っておられた]とあることばの内容を示しています。その内容とは、イエスがわずかなパンと魚をもって五千人を養われた奇跡の後、無理やりイエスを連れて行き、彼を王にする民衆の動きが起こりました。実際に、ここで神の力を付与された人物と認められました。彼にわずかな刀と槍を提供しえたなら、彼はそれらを増やすことができるので、ひとつの軍隊をすら用意することができました。そのとき、ピラトの軍隊は彼の前に立ち向かえるはずがない、ということなのです。
少しうがった見方かもしれませんが、御子なる神イエス・キリストは、[2:25
人のうちに何があるかを知っておられた]、それゆえ [2:24
イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった]とある何気ないつなぎの一文を繰り返し熟読していますと、また、[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]という関連文書に流れる状況描写には、共観福音書には記され、ヨハネ福音書では記されなかった「荒野の誘惑」の描写に重なるものを感じないでしょうか。
御子なる神イエス・キリストの奉仕生涯には、数えきれないほどの次から次への、「人間の思い」「世の誘惑」「サタンからのチャレンジ」等の試みがあり続けたことを思わせられます。わたしたちの信仰生活、奉仕生涯においても同様の経験が溢れています。「御子なる神イエス・キリストのように、御父の御思いのみを第一にして生涯を走り抜けたい」ものです。
御子なる神イエス・キリストは、 [2:25
人のうちに何があるかを知っておられ]ました。人々の心のうちにある念願は、[神の民イスラエルを異教徒の憎むべきくびきから解放すること]でありました。バプテスマのヨハネは「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、わたしたちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:2-3)と尋ねました。この困惑の理由はこれでした。ヨハネはローマ帝国の権威の下でガリラヤを治めていたヘロデ・アンティパスに投獄されていました。メシヤの行為―それは何であったのでしょう。教え、病人の癒し、ハンセン病患者のきよめ、当時の宗教指導者たちの反感を買うことだったのでしょうか。しかし、これはメシヤがすべきものとは考えられていませんでした。
ユダヤ人の理解からすれば、イエスはローマ帝国に挑戦すべきでありました。悪しき者を殺害すべきでありました。ヘロデ・アンティパスが彼の兄弟の妻と公に姦淫の中に生きていたとき、どのようにしてメシヤたることを証明できたでしょう。その統治者、ポンテオ・ピラトがユダヤにおいて体現していたローマ帝国の支配に挑戦されませんでした。そのときに、イエスはどのようにしてメシヤたりうるのでしょう。イエスは多くの良いわざをなされていた。しかしダビデ的なメシヤに期待されていた行為はなにもされませんでした。ヨハネは落胆せず、神の召命を疑うことなく、来るべき方を宣言していました。ヨハネ自身は「殻を消えない火で焼き尽くされます」(マタイ3:12)と告知していました。それで、イエスはどのようにしてメシヤたりうるのでしょう。これを尋ねたのでした。イエスの行為が期待されていた王たる行為ではなかったからです。事実、イエスは、神の目的にかなった新しい啓示の体現者でした。彼は本当に、ダビデ王たるメシヤでありました。しかしその時点における彼の使命は、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する―政治的なものではなく、罪の重荷から人々を解放する―霊的なものであったのです。
それゆえ、ヨハネ福音書の3章からの記述は、ニコデモと再生の話となり、サマリヤの女と生ける水の話となります。50~60年代に記された共観福音書では、旧約やユダヤ民族の系譜、ダビデ王朝の栄光の回復等との連続性が意識にありましたが、90年代に記されたヨハネ福音書では、国家や民族の色彩は払拭され、個人の魂の実存とその救いに焦点が移されています。
そのような意味で、今朝の箇所は、ただ単に2章から3章への「小さな橋」を渡る文章であるだけでなく、[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]とあるヨハネ福音書の目的・目標に向かって進む「号砲」でもあるのです。わたしたちも、その号砲「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」に背中を押され進んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』等)
2024年7月7日
ヨハネ2:12~22「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」-細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/Hzdji_e1TII
ヨハネ福音書
A.過越の祭りが近づき、エルサレムに(2:12-13)
B. 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし(2:14-16)
C.あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす(2:17-18)
D.この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日で(2:19-20)
E.イエスが死人の中からよみがえられたとき、言われたことを思い起こし(2:21-22)
水がめ一杯の水が最高級のブドウ酒に変えられるという奇蹟の後に、商売の場と化していた神殿の周囲が、御子なる神イエス・キリストによって大掃除されます。これを読んでおりまして、イエス・キリスト伝道団の立ち上がりとして、カナの婚礼での奇蹟は大成功の印象を抱きます。しかし、過越しの祭りの際の、[2:14
そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、2:15
細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、2:16
鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」]と言われた宮清めの行為はどうでしょう。
それは、「御子なる神イエス・キリスト伝道団」入門直後の弟子たちにとって[2:17
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こ]す衝撃の経験でありました。その情景を見て、思わずのけぞったことでしょぅ。それは、飛行機がうまく離陸したかに思われた直後に、乱気流に巻き込まれるような経験でありました。[御子なる神イエス・キリストは、「ラビ(すなわち、先生)、メシア(すなわち、キリスト)、律法や預言書に書いてある方、神の子、イスラエルの王」かもしれないが、きわめて過激なお方なのだ]という印象を抱いたことでしょう。
そうなのです。御子なる神イエス・キリストがなそうとされていることは、ある意味でユダヤ教の歴史と伝統を「 2:15
細縄でむちを作って、…みな宮から追い出し、…金を散らして、その台を倒し」追い出し、ひっくり返すようなことであったのです。それは、後でわかってきます。御子なる神イエス・キリスト門下に入門したての弟子たちは、「御子なる神イエス・キリスト」伝道団は、御子なる神イエス・キリストの過激と思われる熱心によって、 大変な危機の中に突入していくことを予感したことでしょう。「イエスさま、そんな過激なことをしてはいけません!わたしたちの働きの妨げになります!」と心の中で叫んでいたかもしれません。
ヨハネ福音書は、3-12章で「世に対する栄光の啓示」により、「光と闇との戦い」が始まっています。[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]、[ヨハ1:9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]ということを明らかにしていっています。わたしたちは、ユダヤ人たちの反応の中に「闇とは何であるのか」を見ます。
そして、13-20章では、「信仰者に対する栄光の啓示」により、光の勝利が描かれます。[ヨハ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:13
この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ] ました。
カナの婚礼では、[ヨハ2:6
ユダヤ人のきよめのしきたりによって、…置いてあった]石の水がめの水が、御子なる神イエス・キリストの奇蹟により、[良いブドウ酒]に変換されました。それは、旧約の歴史で準備されたものが、時満ちて到来された御子なる神イエス・キリストの人格であり、後にもたらされる御子なる神イエス・キリストの十字架・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎの一連のみわざを前もって象徴するものでもありました。御子なる神イエス・キリストは、旧約の次元を新約の次元に、いわば「水」の次元を、「最高級のブトウ酒」の次元に変換されるために到来されたのです。
カナの奇蹟に続く、エルサレムでの宮清めの事件にも同様のメッセージが提示されています。カナの奇蹟においては、途方にくれた人間に、御子なる神イエス・キリストの充満を分け与え、現臨されています。信仰は、カナの出来事の中に、御子なる神イエス・キリストの栄光を垣間見ます。エルサレムでの宮清めにおいては、世は御子なる神イエス・キリストの大掃除の攻撃を受けます。御子なる神イエス・キリストは温和で柔和なだけで「毒にも薬にもならぬ」お方ではありません。病を真に治療する「劇薬」のようなお方であり、必要ならば「躊躇なく手術」を施される勇敢な医者のようなお方です。世は、[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と、自信に満ちて、御子なる神イエス・キリストの資格証明を求めることによって、はっきりと自らの不信仰を表明しています。しかし、彼らの不信仰は、不思議なことに「どんなしるし」をもってしても、泥沼にさらに足をとられていくのです。
御子なる神イエス・キリストは、立ち上げたばかりの伝道団を引き連れて、エルサレムに上られます。それは、この伝道団の設立をお披露目するのに、カナの婚礼と並ぶ絶好の機会であったでしょう。その機会に、弟子たちの目には、「御子なる神イエス・キリストはどんでもないことをしでかされた」と写ります。わたしたちも、主の導きと確信してなしたことで非難を受けることが時々あるのではないでしょうか。「そんなことしなかった方がよかったのに!」と言われることがあるのではないでしょうか。しかし、信じ確信したことに着手しないことは、「義を見てせざるは勇無きなり」と言われても仕方ありません。「確信したことに取り組んで失敗しても、主が必ず尻ぬぐいをしてくださる」と信じて、勇気をもって取り組みましょう。
イエスは、過越の祭りが近づき、エルサレムに上られると、[2:14
宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、2:15
細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、2:16
鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」]と、宴会で酒を飲みすぎて、正体不明となり、だれかれ構わず乱暴狼藉を働くかのような大立ち回りを演じられたのです。
信仰には、ある場合には、このようなところがあると思います。衆目の一致するところで、「聖人君子」のように生きるだけが信仰生活ではありません。「和を以て貴しとなす」とするだけが信仰生活ではありません。信仰者は、時に導かれて「火中の栗を拾い」、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とダニエルのように危険のただ中に、飛び込みます。それは、信仰のなせるわざです。イエスもそのような行為に出られ、弟子たちは唖然としました。[2:17
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした]とあるように、「御子なる神イエス・キリスト伝道団の、エルサレムの過越しの祭りの際の、素晴らしいお披露目というプランは台無しになってしまった。多くの敵を作ってしまった」と思ったことでしょう。神殿の周辺で商売をし、犠牲の動物や貨幣の両替等で収入を得ていた者たちは、
[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と大変憤慨し、御子なる神イエス・キリストに断固抗議し、「我々の商売の邪魔をしてくれたな!落とし前をつけてもらう」という感じで詰め寄りました。
ユダヤ人たちは、御子なる神イエス・キリストが、ご自身を父なる神と同等視され、[2:16
わたしの父の家を商売の家にしてはならない]と厳命されたことに対し、その厳命の正当性の「資格証明」を問題にしました。「一体なんの権威によって、我々の正当な商売を邪魔するのか」と猛然と抗議したのです。これに対し、御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と、一見的外れな答えをされました。これは、意味深なことばです。ですが、神殿周辺で商売をしているユダヤ人たちは、[2:20
この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか]と笑い飛ばしました。話はかみ合いませんでした。その後の展開は、どうなったのか明らかではありませんが、場所代や仲介料をせしめていた宗教関係者たちの大きな火種ともなっていったことは明白でした。
弟子たちも、その時は[2:17
あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす]と事態の悪化を心配するばかりであり、イエスが死人の中からよみがえられたときまで、その意味を理解できませんでした。[2:22
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた]とある通りです。このように、ヨハネ福音書は、現在と未来、天上と地上、旧約と新約と時間軸、空間軸の交錯をもって進んでまいります。そこを読み解きながら、立体的に読んでいく魅力に溢れた福音書です。弟子たちの信仰者としての成長の道程も興味深い部分です。わたしたちにもそのような道程の中を歩んでいます。
しるしを求めるユダヤ人たちの[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」という、その権威行使の由来要求に対し、御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と答えられました。何とも言えない解答法です。御子なる神イエス・キリストは、このような解答法を数多く示されます。直接対決をかわし、はぐらかしたような解答でありますが、的は外してはおられません。それは、この時点で、御子なる神イエス・キリス トの十字架のみわざ、その死・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ等について詳しく語っても、だれも理解できなかったでしょう。主はそれをご存じなので、このような紋切り型の語り口となります。
しかし、御子なる神イエス・キリストは、分からないからということで、「ヘブル6:1
初歩の教え」に終始されるようなお方ではありません。「成熟」目指して、[ヨハ 13:7
わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります]と布石となる言葉を語られるお方です。わたしたちも、説教で「離乳食」のような聖書の解き明かしに終始してはいないでしょうか。少しずつ「成熟」目指して、[ヨハ
13:7
わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります]と布石となる解き明かしを提供していくことの大切さを教えられます。この後、ニコデモやサマリヤの女にも、分からないフラストレーションのようなものが明らかにされます。しかし、そのような時、「分かりにくい話をするな」と腹を立てるのではなく、[今は分からなくても、後で分かるようになりますようにしてください」とお祈りすれば良いのです。そうすれば、主が「理解できる恵み、知識と啓示の光」を注いでくださいます。ちなみに、アウグスティヌスの説教は、聖書全体をふんだんに扱いつつ、聖書の各所を解き明かしています。その豊かさに脱帽されられます。このような豊かなみ言葉の養いが、無学文盲の多い古代の教会にもあったのだと。
宮清めをなさる御子なる神イエス・キリストに対し、[2:18
こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか]と、その行為の正当性の資格証明を要求したユダヤ人たちに対し、小手先の奇蹟によって答えるのではなく、最終的・決定的なしるしによって「その答え」が明らかにされると御子なる神イエス・キリストは言明されました。それは、実に厳粛な出来事への言及です。御子なる神イエス・キリスト伝道団の、エルサレムの過越しの祭りの際の、お披露目で、決定的な事柄に言及されています。御子なる神イエス・キリストは、[2:19
この神殿を壊してみなさい(すなわち、わたしを殺してみなさい)。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と十字架のみわざに言明されたのです。
それは、御子なる神イエス・キリストの贖罪と復活のみわざへの言及であり、同時に古い神殿、すなわち古い旧約の時代の終わりにより、新しい神殿の時代が到来することをも意味しています。この新しい時代の到来こそが、御子なる神イエス・キリストの資格を証明すると言われているのです。ユダヤ人に
よって汚された神殿の、御子なる神イエス・キリストによる宮清めは、神殿再建のはじまりであり、その新しく立て直される神殿とは「御子なる神イエス・キリスト」ご自身であるという新しい意味が与えられているのです。
このように、1世紀末の、ユダヤ教会堂とキリスト教会との関係を思い浮かべますと、ヨハネ福音書の冒頭には、旧約と新約の関係を象徴する「水と最高級のブドウ酒」が示され、さらに、ローマ軍により破壊された古い神殿と「壊され、三日目に再建された新しい神殿」たるキリストご自身を礎石とするキリストのからだなる教会(エペソ2:19)、霊の家に生ける石として築き上げられるクリスチャン(Ⅰペテロ2:5)、御霊なる神が内住される神の宮・神殿としてのクリスチャン生活(Ⅰコリント3:16)への示唆が、ヨハネ福音書の全体を貫くモティーフとして鳴り響くことを予感させています。
御子なる神イエス・キリストは、この時点では、まだ地位やポスト等、他のものに関心を寄せていた弟子たちが、 [2:17
あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす]と予感したそのままの公生涯を走り抜けられます。わたしたち人間は、いわば風見鶏のように、吹かれる風向きを読みながら生きてしまいやすい者です。御子なる神イエス・キリストは、この点においても、わたしたちの模範です。祈りましょう。
(参考文献: R.ブルトマン『ヨハネの福音書』)
2024年6月30日
ヨハネ2:1~11「水がめを水でいっぱいにしなさい」-さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/8MAZrNtMhuI
ヨハネ福音書
A.カナでの婚礼―地元の名士の婚礼?、イエス・キリスト伝道団のお披露目の機会?、キリスト信仰の萌芽期の出来事(2:1-2)
B.不測の事態とイエスの反応―参加者の急増による危機と神の介入のタイミングの存在(2:3-4)
C.置かれた環境と母マリヤの依頼―マリヤの信仰による機転とあるものによる奇蹟(2:5-6)
D.給仕の者たちへのイエスの指示―神の語りかけと信仰者の応答への示唆(2:7-8)
E.世話役の無知と感動―御子なる神イエス・キリストを知る者と知らない者の反応(2:9-10)
F.最初のしるしと弟子たちの信仰―最初のしるしから最後のしるしに向けての弟子たちの信仰の成長(2:11)
洗礼者ヨハネによって準備された弟子たちをリクルートした御子なる神イエス・キリストは、[2:1
それから三日目に、ガリラヤのカナ]に現れました。弟子たちの「信仰育成学校」の開始ともなりました。それは、[2:1
ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母]もおり、[2:2
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた]時のことです。すでに有名であった洗礼者ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」運動と教えに対して、御子なる神イエス・キリストが結成された、いわば「イエス・キリスト伝道団」はまだ無名でした。三年半という短い公生涯で、「地の果てまで、世の終わりまで福音をのべ伝える伝道体である教会」の礎を築き上げるには、短期間で効果的な広報活動が必要だったことでしょう。幼い頃から、イエスの非凡さを見聞きしていたイエスの家族や親戚や知人・友人たちは、生活圏のナザレから約15kmに位置するカナでの結婚式と披露宴への出席は、地元の名士と相談し、「イエスの旗揚げ、弟子たちのお披露目の絶好の機会として、出席をアレンジしていた」のではないでしょうか。
しかし、結婚式と伝道団のお披露目という、二つの要素の重なりは、「大谷翔平の試合」のように、予想をはるかに上回る人たちが集まることとなりました。花婿・花嫁は、出席予想をはるかに上回るブドウ酒を用意していたにも関わらず、瞬く間にブドウ酒はなくなってしまいました。当時、結婚式・披露宴でブドウ酒がなくなるということは、その両家の名誉を著しく傷つける社会的惨事でありました。大勢の出席者のあちこちから「ブドウ酒がないぞ!」「ブドウ酒はまだか!」という声が上がったことでしょう。イエスの母マリヤは、息子の旗揚げの機会にと思って出席し、迷惑となっている責任を感じたのではないでしょうか。大きな危機感をもって[2:3
ぶどう酒がなくなると、…イエスに向かって]大変なことになりました。「ぶどう酒がありません」と言いました。
2:4 すると、イエスは母に「2:4
女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。この言葉は、理解することが難しいことばです。花婿・花嫁と両家が陥りそうになっている危機的状況の最中、パニックになっている母に対することばとは思えません。まるで、「わたしの責任ではありません」と無関係をよそおい、参加者急増の責任逃れをし、素っ気なく突き放すような物言いです。しかし、これは両家にとっての社会的惨事であるとともに、おそらく急に追加出席を了承され、「イエス・キリスト伝道団」のお披露目の機会をいただいた、御子なる神イエス・キリストと弟子たちにとっても、その出だし興行での大きなつまずき、下手をすれば悪評の材料となり、その後の集会は惨憺たるものとなったことでしょう。
そのような意味で、[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った]ことは、わたしたちの日常の経験でもあります。わたしたちは、日が照ると「今日は暑いな!」と不平の面持ちとなり、雨が降ると「今日はうっとうしいな!」と、いろんな小さなことで、いつも預言者ヨナのようにつぶやく者です。その意味で、わたしたちは意識するかしないかは別にして[イエスに向かって「ぶどう酒がありません」]と、ひっきりなしにつぶやいている者であるような気が致します。これに対して、御子なる神イエス・キリストは、[2:4
「あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えられるのです。これは何を意味している言葉でしょう。
このことばの意味を解く鍵は、「2:4 わたしの時はまだ来ていません」にあります。“2:4
わたしの時”とは、「御子なる神イエス・キリストの時」です。御子なる神イエス・キリストは、私利私欲や個人的感情や関係や忖度で、神としての奇蹟的な力を行使することはできないのです。それは御父との御思いとひとつになってはじめて行使できるものなのです。“2:4
わたしの時”とは、[ヨハ12:23
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました」]であり、[ヨハ13:1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた]とあるように、十字架による贖罪と復活・昇天・着座・聖霊の注ぎによる内住の御霊の一連のみわざがなされる時のことです。その一連のみわざの萌芽的、予表的関連においてはじめて行使されうるものなのです。それは、単なる奇蹟の行使ではなく、信仰者や弟子たちの信仰の成長に結びつく意義が欠かせないのです。
ヨハネ福音書の2章のカナの奇蹟から11章のラザロのよみがえりまでは「しるしの章」と言われ、さまざまなしるしを用いて、ご自身がいかなるお方であるのかを証しされる「世に対するしるしの章」です。すなわち、[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った]時の問題は、母が息子に対する立場からのお願い、「なんとかしてください」というお願いであったのかもしれません。おそらく、母マリヤは、イエスの誕生の経緯から30歳の公生涯の始まりまで、数えきれない神の不思議、奇跡、知恵を御子なる神イエス・キリストに見てきたことでしょう。そのような経験が[2:3
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言わせたのだと思います。「イエスは、このパニックを解決することができる」と確信していたからこその発言でありました。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、「親子の情で神の奇蹟的力を行使することはできません」ということと、「神の奇蹟的力が働くためには、神のスケジュールがあり、神のタイミングがあります」と、少しパニクっていた母マリヤに冷静でいるように諭されました。母マリヤは、思慮深い女性でありましたので、イエスの言われんとしたことをすぐ察知し、即座に給仕の者たちに「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と頼みました。信仰者にはこの機転が大切です。軽いフットワークに価値があります。このようなことはわたしたちの信仰生活にもあることです。[2:3
ぶどう酒がありません]ということは、しばしばです。人生は問題山積、長距離障害物競争のようなものです。
そのような時、わたしたちは、カナの婚礼の時に重ね合わせ、母マリヤのように、御子なる神イエス・キリストに[2:3
ぶどう酒がありません]と申し上げましょう。すると、御子なる神イエス・キリストは、一度突き放すかのように[2:4
○○さん、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません]と言われて、キョトンとすることでしょう。しかし、ここからが信仰生活の信仰の力の発出場所なのです。ここで、主のサイン、合図を見落としてはいけません。母マリヤは、御子なる神イエス・キリストの意図・意味を察知し、即座に「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と反応しました。この速度が大切です。タイミングが重要です。風に乗らないとそれは通り過ぎていきます。
[2:4
わたしの時]、それは、広大な神の計画においては、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざの栄光の現れる時です。同時に、
[2:4
わたしの時]は、その文脈の中に置かれて、その文脈の中での意味・意義を与えられて、神の最良のタイミングで神の介入がなされる時です。母マリヤは、[2:4
わたしの時はまだ来ていません]という言葉に、「まだ何か準備が整っていない状況がある」と察知します。それで、それが何かは分からないけれども、イエスには「その何か分からない準備をもすることができる」と信じたので、「2:5
あの方が言われることは、何でもしてください」と給仕の方にお願いしました。信仰は、このような次々と湧き上がる想像力をイメージを創り出していきます。このいろんなかたちでの奇蹟を想像し、期待し、待ち望む心こそ信仰生活を満喫していく秘訣です。主イエスにあって、「期待しなさい。想像しなさい。夢を膨らませなさい。」わたしたちにも奇蹟を起こしていただくために、給仕の者たちのように何か「主のみわざの下ごしらえ」をすることができるかもしれません。それを御霊によって想像し、描き出し、実践してまいりましょう。
[2:6
そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのもの(1メトレテスは、40リットル)であった]とあります。[2:6
そこには、…あった]とあります。神様は、わたしたちの生活空間に大小の奇蹟を起こす際に、地の果てから、天の果てから、材料を集めてくる必要はありません。「そこに、たまたまある」ものを用いて、奇蹟をなすことができるのです。それは、奇蹟のために特別に準備されたものではありませんでした。たまたまその家には、その会場には[ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ]置いてありました。もし、それがなかったら、御子なる神イエス・キリストは、別の形で奇蹟をなさったことでしょう。ですから、わたしたちは、「自分には備えがない」と思って恐れる必要はありません。神はそこらにある石ころひとつからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる(マタイ3:9)と言われるお方だからです。
わたしたちは、パニクった時、御子なる神イエス・キリストに、[2:3
ぶどう酒がありません]とつぶやくだけでは十分ではありません。母マリヤのように、冷静になって、主の語りかけ、主の諭しに耳を傾け、主イエスが[2:5
言われることは、何でも」させていただくことにしましょう。それは、時に危険なこともあるかもしれません。勇み足もあるでしょう。人を傷つけることになることもあるでしょう。しかし、そのことによって、閉ざされ錆びついていた扉が開かれ、建徳的な新たな道が見えてくるやもしれません。主の導き、主の語りかけと信じることに勇気をもって、「水の上に一歩足を踏み出しましょう」(マタイ14:28-29)、み旨にかなえば「パニックは乗り越え」られます。たとえ沈んでも、主が引き上げてくださいます。
とにもかくにも、給仕の者たちは、イエスに言われた通り、[2:7
水がめを縁までいっぱいに]しました。水がめ6個×80~120リットル=480~720リットルを、なみなみと縁まで一杯に入れました。これは、膨大な量では。入れるだけでも大変な量であり、労力がかかります。給仕の者たちには「どうしてこんなことをさせるのか」というつぶやきはなかったのでしょうか。わたしたちは、自分にとって無意味と思われる奉仕・労働に対してはつぶやきが溢れることでしょう。途中で「やめた!」ということになりかねないでしょう。まさか「ブドウ酒がなくなっている危機的状況を水を飲ませてごまかせる」とは誰も思わなかったでしょう。
しかし、さらに決定的なことば、「2:8
さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」が発せられます。わたしなら、「いや、それはできません!」と反応したでしょう。これは、大変な騒動になりかねない愚かな行為です。宴会の世話役に「ブドウ酒がなくなりました」と伝え、皆さんにそれを理解してもらうことも社会的惨事かもしれませんが、「水をブドウ酒と偽って飲ませた」なら、それは大きなスキャンダルとなったことでしょう。婚姻関係を結ぶ両家は恥さらしと呼ばれ、「イエス・キリスト伝道団」の旗揚げは醜聞にまみれたことでしょう。「水をブドウ酒と偽って」飲ませる宗教集団呼ばわりされたことでしょう。
それは、御子なる神イエス・キリストが公生涯の最初に直面された危機でありました。しかし、不思議なことが起こりました。仰々しい奇跡的なパフォーマンスは何一つ見かけません。「ただ、御子なる神イエス・キリストの指図に従って、水がめに水を入れ、それを汲んで宴会の世話役のところに持って行った」だけです。[2:9
宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した]とあります。どの瞬間に「水がブドウ酒に変化したのか」分かりません。奇蹟はときに気づきのないそよ風のように起こります。その奇蹟も「水っぽいブドウ酒とか、ブドウ酒の香りがするけれど、水のような気もする」といったまがいものでありませんでした。
それは、味見をするソムリエのような世話役によって、[2:10
あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」と、最高級のブドウ酒であることが判明し、花婿は賞賛されました。給仕の者たち、また弟子や母マリヤは、この奇蹟がだれによって引き起こされ、「結婚式の披露宴でブドウ酒がなくなる」という社会的惨事が防がれたかを知っていました。[2:11
それで、弟子たちは]、イエスは只者ではないと[イエス]に対する信仰を成長させていきました。わたしたちも、日々「イエスは只者ではないと[イエス]に対する信仰を成長させて」まいりましょう。このようにして、[2:11
イエスはこれを]1~12章の至る「しるしの章」における最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、「13~20章に至る栄光の章」に向けて、[ご自分の栄光]を現わしていかれたのです。
わたしたちも、信仰者としての生涯を、弟子たちとイエスの公生涯の関わりのように過ごしてまいります。その信仰は、御子なる神イエス・キリストの贖罪のみわざと内住の御霊によって完全でありますが、弟子たちが漸進的に御子なる神イエス・キリストの栄光に霊の目が開かれていったように成長させられてまいりましょう。わたしたちもわたしたちの生涯において、いろんな場面に出くわし、社会的惨事また宗教的醜聞に巻き込まれんとすることがあります。しかし恐れることはありません。わたしたちは、そのような時[2:7
水がめを縁までいっぱいに]させていただく者とされましょう。祈りましょう。
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament
Commentaries, Richard Bauckham,“Gospel of Glory – Major Themes
in Johannine Theology”、Colin G. Kruse, “John” Tyndale New
Testament Commentaries)
2024年6月23日
ヨハネ1:43~51「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」-象徴的、暗示的、立体的、神学的な歴史描写であり、物語全体の設計図-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/2KExh0QSjoE
(概略)
ヨハネ福音書
A.ピリポの召命とナタナエルへの証し(1:43-45)
B.ナタナエルの疑問とイエスの証し(1:46-47)
C.イエスの全知と予知能力、そしてナタナエルの信仰告白(1:48-49)
D.序論(1:1-51)の結論―イエスについて何を証しするよう期待されているのかの暗示(1:50-51)
今朝の箇所は、前回のアンデレとペテロと同様に、ピリポとナタナエルに示された三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの全知と予知能力についての証しです。ヨハネ1章は、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストが地上に受肉・来訪されるにあたって、洗礼者ヨハネの証し、そして弟子となる人々が彼の下で準備されていたことを告げています。弟子たちの受け渡しに際し、エルサレムから派遣された詰問者への回答、すなわち「1:20
わたしはキリストではありません」があり、キリストと洗礼者ヨハネとでは「1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と雲泥の差があると告白します。
そのような出来事の直後、時間を惜しむかのように、「その翌日」「その翌日」と駆け足でドラマは展開していきます。洗礼者ヨハネの前に、イエスが現れられた(1:29)のです。洗礼者ヨハネは、イエスを見るや否や「1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫びます。それは、イエスが洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受けられた時(マタイ3:13-17)、「ヨハネ
1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる」のを見たからです。それゆえ、洗礼者ヨハネは、弟子たちをイエスに引き継ぐため、イエスの通られるであろう通りに立って待ち構えていました(1:35)。
そして、イエスが歩いて行かれるのを見て「1:36
見よ、神の小羊」と叫びました。それが洗礼者ヨハネとふたりの弟子たち(アンデレと、おそらくはゼベダイの子ヨハネ)の別離の合図となりました。アンデレは、一晩イエスと親しく交わり、その語りかけに傾聴した結果、「1:41
わたしたちはメシヤ(訳すと、キリスト)に出会った」と確信しました。アンデレは、さっそく兄弟のシモンを連れてきて、シモンは「ケファ(言い換えれば、ペテロ[岩の意])」となるとの預言をいただきます。イエスの公生涯への登場三日目で、弟子グループのリーダーが予知されました。
イエスは、さらに生ける石として「Ⅰペテロ2:5 霊の家」を築き上げる「エペソ2:20
土台」となる弟子たちを集め続けられます。そうなのです。イエスは、公生涯の最初から、今日まで、フルタイムであるか、仕事を持ちながらであるか別として、イザヤ書にあるように、[イザ6:8a
私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」]と探し求めておられるのです。
わたしたちは、主のあわれみと恵みによって「イザ6:8b
ここに私がおります。私を遣わしてください」と決意・応答すべきではないでしょうか。
ピリポは、ナタナエルに「1:45
私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」と証しします。この箇所を読んで気になることは、ピリポがあえてつまずきになる「生活拠点」のことに言及していることです。これは、当然「1:46
ナザレから何か良いものが出るだろうか」とい反応が予測されるものです。メシヤ預言に、ヘツレヘムはあっても、ナザレへの明確な言及は見当たらないからです。ピリポに誘われて、ナタナエルはイエスのもとにやってきました。ナタナエルの心には、
「1:46 ナザレから何か良いものが出るだろうか」という疑問を問いただそうと意気込んでいたかもしれません。
しかし、ナタナエルがやって来るのを見て、イエスは「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と、ペテロと同様、またもやナタナエルの本質を言い当てられました。それは、
ナタナエルの疑問「1:46
ナザレから何か良いものが出るだろうか」に対する回答でもありました。「百聞は一見に如かず」と申します。ナタナエルの態度は一変しました。彼は問いただそうと意気込んできたのに、そして「イエスとのややこしい議論になるかもしれない」と重たい心でやってきた途端、
意表をつくかのように「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と、ナタナエルがそのような疑問・問いを抱くことを是認・受容するのみならず、そのような神のみ前に真実に生きようとするナタナエルの信仰を称賛されたのです。
わたしたちは、ヨハネ福音書の中に、ナタナエルのような事例をたくさんみます。ナタナエルのような疑問を多く見ます。わたしたちは、そのひとつひとつの事例に、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストがどのように対応されていったのかを教えられます。ある意味、わたしたちもそのようであったのではないでしょうか。「どうして、人間が神であったりするのだ?」とか、「イエスとは、単に優れた道徳教師のひとりに過ぎないのではないか?」とか、数多くの疑問を抱いてイエスに近づいたことでしょう。そのようなわたしたちひとりひとりに、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストは、どのように対応されたのか―その証しをあなたも持っている、経験しているはずです。それを掘り起こし、耕し、ヨハネ伝のように書き綴り、証ししてまいりましょう。重たい思いを抱いてイエスに面会したナタナエルは、イエスから思いがけない言葉をいただきます―
「1:47
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」。これは、1:19-28に登場したエルサレムから、洗礼者ヨハネを詰問に来た「ユダヤ人」の描写とは、「光と闇」の対照的な位置関係にあります。ヨハネ福音書の記者は、紀元70年のエルサレムと神殿の崩壊後、ユダヤ教諸派が壊滅・衰退する中で、律法遵守を軸とするユダヤ教会堂の再編成を指向するパリサイ派主導の「ユダヤ人」のあり方の中で、イスラエル民族の中にも「イエスを受け入れ、メシヤと信仰告白する、神が意図された、真の“1:47
イスラエル人”」残れる民をナタナエルの内に見いだされたのでしょう。
ナタナエルは、自分自身が最も大切にしていることを言い当てられ、びっくり仰天、反射的に、「1:48
どうして私をご存じなのですか」と質問します。これに対し、イエスはまたも、質問に直接答えず、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と、ご自身の「全知性」を証しされました。高みから、ナザレ出身のイエスのみせかけを暴いてやろうと乗り込んできた「偽りのない、真の“1:47
イスラエル人” 」ナタナエルは、この証しを聞くや否や、全面降伏し、心の中ではイエスにひれ伏すかたちで「1:49
先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白するに至ります。
しかし、イエスは今度は、一転して「 1:50
あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか」とナタナエルをたしなめられます。というのは、ナタナエルにとって、また他の弟子たちにとって、イエスを「ラビ(訳すと、先生)、メシヤ(訳すと、キリスト)、モーセや預言者が書いている方、神の子、イスラエルの王」であると確信に至った“第一歩”に過ぎないからです。この、いわば“入口”が入って、「1:50
それよりも大きなことを、あなたは見る」ことになると預言されます。それは、弟子たちにとって大きなつまづきの石となるかもしれないものでありました。それは、「十字架につけられるイスラエルの王」であったからです。
この「1:50
それよりも大きなこと」とは何でしょう。弟子たちは、イエスにつき従って、一体何を“見る”のでしょう。イエスは、この時点では、その内容を詳しく、具体的に述べることなく、謎めいた言葉で暗示的に口にされています。[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするという事が何を意味するのか明瞭ではありません。
しかし、この言葉は[創28:12
すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた]を想起させます。そこではベテルにおけるヤコブの夢で天使が天にかけられた梯子を上り下りしていました。ベテルとは「神の家」を意味し、創世記の物語ではヤコブは夢の後に、[創28:16
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」28:17
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ」と告白しています。
すなわち、イエスは、イエスにつき従って「1:50
それよりも大きなこと」を“見る”といわれたのですが、この時点ではその内容を、いわば“写真”を撮るように具体的に描くことはされなかったのです。それはこの時点の弟子たちには受け容れる準備ができていなかったからです。イエスは、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストが受肉されたお方でありましたが、その人格とみわざの全体・全内容を理解し受け容れるには時間が必要でした。いくつもの段階を丁寧かつ漸進的に導かれる必要がありました。それは、わたしたちの「求道者」の時期を振り返るとよく分かると思います。また、信仰者としての成長・成熟の「達しえたところに従って進む」(ピリピ3:16)ことからも教えられます。
そのような意味で、ヨハネ福音書の記者(おそらく、ゼベダイの子ヨハネ)の言語は、熟考の上、意識的に、象徴的であり、暗示的な描写を使用しています。それは、創世記の光景とイエスの来るべき伝道と証し、その人格とみわざの「輪郭と本質」を呼び覚ましているのです。第四福音書は、他の三つの共観福音書とともに「歴史」に関心をもっていますが、その描写は「平面的」ではなく、「立体的」な歴史描写なのです。ヨハネ福音書記者の神学的思索の深さ、豊かさが、ここにその表現を見出しているのです。
イエスが[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と言われたことは何を意味しているのでしょう。これについては、分かち合うべきたくさんの内容が存在します。ただ、語りうる時間は限られています。それゆえ、要点のみ申し上げます。ヨハネ福音書に記されている三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの人格とみわざに関するすべての記述が、このイメージの中に包摂されます。このお方、天と地の交流の唯一の「創
28:17 天の門」また「 ヨハ 14:6 道」であり、臨在のあふれる「創 28:17 神の家」また「ヨハ10:30
わたしと父とは一つ」であり、「ヘブル1:3 神の本質の完全な現れ」でありました。
わたしたちは、御子なる神イエス・キリストを“見る”ことで、御霊なる神を通し、御父なる神の「解き明かし」(1:18)を見るのです。御子なる神イエス・キリストは、受肉というかたちで地に下って来られましたが、モーセが荒野で蛇を上げたように、キリストは地の上に天に向けて立てられた十字架に上げられ、贖罪のみわざを成し遂げられました。その代償的贖罪の死から聖霊によってよみがえらされ、天上の右の座に上げられ、約束の御霊を注がれ、「真のイスラエル、新しい普遍的な神の民」が、御子なる神イエス・キリストを礎石し、洗礼者ヨハネから継承した弟子たちを土台する「神の家」を形成することになりました。
ですから、イエスが[1:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と言われたことは、福音書記者にとって、[十字架・復活・昇天の出来事を焦点に置いているものであり、御子なる神イエス・キリストの福音の物語全体、その最初から最後までを視野に入れた設計図]であるのです。イエスは、公生涯に入られた最初の週の五日目に、弟子たちがその三年半の公生涯で“見る”もの、そして弟子たちが生涯をかけて証しするものが何であるのかの“輪郭と本質”を暗示されているのです。わたしたちも、ヤコブが見せられた「み使いたちが天から地上に向けて立てられた梯子(人の子)の上を上り下りする夢」に重ね合わせて、御子なる神イエス・キリストが、イエスは酸いぶどう酒を受け取り「ヨハ19:30
完了した」といわれたみわざの全体を味わい続ける者、証し続ける者とされたいと思います。祈りましょう
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament
Commentaries, Richard Bauckham,“Gospel of Glory – Major Themes
in Johannine Theology”、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』叢書 新約聖書神学)
2024年6月16日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:35~42「そして、イエスのもとにとどまった」-初めて出会う未知の人を知り、かつ見抜く神的人間-
https://youtu.be/zr5uJtHDRgc
(概略)
ヨハネ福音書
A.ヨハネの弟子のイエスへの受け渡し(1:35-37)
B.イエスと二人の弟子の交わり (1:38-39)
C. アンデレとシモン・ペテロ(1:40-41)
D. イエスのペテロへの預言(1:42)
「ヨハネ福音書」には、重要な二週間があると言われます。それは、イエス・キリストが登場される最初の一週間と、イエス・キリストが[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]となられる最後の一週間、すなわち受難週です。最初の週は、三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの証人、洗礼者ヨハネの証しであり、洗礼者ヨハネが準備した弟子の受け渡しが主たるテーマです。最初の週は、第一日目に「1:19-28
ヨルダンを超えたベタニヤ」でエルサレムからの調査団による詰問がありました。「1:29
その翌日」、すなわち第二日には、洗礼者ヨハネの御子なる神イエス・キリストについての証言[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]がなされました。
[ヨハ1:29
ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て]放った第一声が、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊]でありました。洗礼者ヨハネは、[マル1:4
バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]とあります。洗礼者ヨハネは、罪と死と滅びの中に置かれている人々の心を整え、[ヨハ1:29
世の罪を取り除く神の子羊]である、御子なる神、イエス・キリストを信じ、受け入れる(1:12)備えをしていたのです。
[1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた]とあります。そして、あたかも一枚の絵のように、短く簡潔に御子なる神イエス・キリストがいかなるみわざをなさり、メシヤとして、キリストとしての使命を果たされるのかを示した言葉を繰り返し、「1:36
見よ、神の子羊」とふたりの弟子に語りかけます。すると[1:37
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行]きました。この無駄な言葉を削り落としたシンプルな展開の行間を探ってまいりましょう。洗礼者ヨハネは、聖書に預言されていた「キリストでもなく、エリヤでもなく、あのモーセのような預言者ではない」(1:19-28)と告白し、[ヨハ1:29
自分の方にイエスが来られるのを見て]、 [1:29 世の罪を取り除く神の子羊]と語りました。
[1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた]とありますので、おそらくその前夜「ふたりの弟子(アンデレと最愛の弟子ゼベダイの子ヨハネ?)」に懇々と語りかけていたのでしょう。長年、生活をも共にしてきた敬愛する師と弟子の関係を次の段階に移行させることは心情的にも大変なことであったことでしょう。洗礼者ヨハネは、いわば「断腸」の思いといいますか、「泣いて馬謖を斬る」という思いといいますか、「わたしを遣わした方が来られた。よって、お前たちはわたしの弟子たるを卒業し、あの方の弟子となるべき時が来た」と語りかけ、説得したことでしょう。その説得に応じたのが多くいる弟子たちの中のふたりであったのでしょう。洗礼者ヨハネは、結婚式で愛する娘を花婿の元に送り出す父親のような心境であったことでしょう(3:28-30)。それで、洗礼者ヨハネは手塩にかけ育てた愛する二人の弟子を、御子イエス・キリストに受け渡すために、イエスが通りかかられるであろう道筋に立って、イエスを待ち受けていたのでしょう。それゆえ、[1:36
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った]瞬間、長年世話になった洗礼者ヨハネと別れを惜しむ様子もなく、ただちに[1:37
イエスについて行]きました。
それまで、洗礼者ヨハネの弟子であったふたりは、洗礼者ヨハネが[ヨハ1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と言われたお方にどのように接触していけば良いのかとまどいながら、距離を置いてしずしずついて行っておりました。そのようなふたりの弟子を見て、親切にもイエスの方から[1:38
あなたがたは何を求めているのですか」と問いかけられました。二人の弟子は、たくさん聞きたいことがあったでしょう。たくさん話したいことがあったでしょう。ただ、それらは道端の立ち話のように一言二言で済むような内容でもありませんでした。それで、ふたりの弟子は話し合って、時間をとってお話したいので、「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか」と今日宿泊される場所を尋ねることにしました。
イエスは、 [1:39
来なさい。そうすれば分かります]と、彼らを[イエスが泊まっておられるところ]へと誘導されました。[そしてその日、イエスのもとにとどま]りました。時はおよそ第十の時(すなわち、今日の午後四時)でありました。これは、何を意味しているのでしょう。これは、その日ふたりの弟子は、その宿泊所で時間を忘れイエスとともに長い時間を過ごし、数多くの会話を交わしたということです。数時間であったでしょうか。あるいは徹夜で、尊敬する教師への尊称として呼んだ「
1:38 ラビ(訳すと、先生)
」たるイエスから教えを乞うたでしょうか。それは、彼らの期待をはるかに超えた恵みとまことに満ちたひとときであったことでしょう。わたしたちも、聖書とそれを照らし出される内住の御霊において、そのようなひとときを持つことが可能にされています。
[1:39
彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところ]に行き、[そしてその日、イエスのもとにとどま]りました。ふたりの弟子は、何を問うたのでしょう。そしてイエスはどう答えられたのでしょう。それは、記されていません。ふたりの弟子とイエスの「小教理問答集」のようなものがあればと思ったりします。今日の「組織神学の講義」のような豊かさがあったのかなと思ったりします。御子イエス・キリストは、[コロ2:3
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されて]いるお方であり、[コロ2:9
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って]いるお方ですから、いわば「無尽蔵の宝物蔵」の扉が開かれたような印象を抱いたことでしょう。
ここに、ちいさなヒントがあります。[1:40
ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。1:41
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った]とあります。アンデレは、洗礼者ヨハネの紹介に導かれイエスの元を訪問し、一晩交わったのですが、「イエスは、洗礼者ヨハネが紹介された通りのお方であると確信させられました。それで、翌日、さっそく自分の兄弟であり、おそらく洗礼者ヨハネの弟子グループの中でもリーダー格であったであろう[1:42
シモンをイエスのもとに連れて来]ました。そこで、不思議なことを散見いたします。
[イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます」]と言われたのです。イエスは、彼を見つめて、彼の名を呼ばれました。[1:42
あなたはヨハネの子シモンです]。つまりイエスはそれ以前には彼に会ったことがないのに、彼を知っておられます。そればかりでなく、彼、シモンはやがて「ペテロ(すなわち岩)」という別名をもつようになるという「預言」を付け加えられます。つまり、この箇所で言われんとしていることは、イエスというお方は、「初めて出会う未知の人を知り、かつ見抜く“神的人間”」としての自分を明らかにされたということなのです。福音書には、このような経験が溢れているのです。そして、そのことは聖書と内住の御霊により、わたしたちの生活にも、生涯にも溢れることにつながるのです。
このようなことから、[1:39
その日、イエスのもとにとどまった]ふたりの弟子は、「闇の中に輝く光」(1:5)を見、「恵みとまこと」に満ちた方(1:14,17)に人格的に触れあい、「父のふところにおられる御子による、神の解き明かし」(1:18)を耳にしました。そして、そのことによって[1:41
私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った]と確信したのです。わたしたちも同様です。わたしも19歳の時期、渇いた心で、福音書を毎晩丁寧に読むことを通して、
[1:39
イエスのもとにとどま]りました。そうこうしているうちに、みことばの種は、御子なる神イエス・キリストとの交わり、触れあいを通して実を結ぶかたちで、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、説き明かされた]神を信じることができました。「私はメシア(訳すと、キリスト)に会った]と確信できたのです。
そして、その神は、御子なる神イエス・キリストは、わたしたちを、わたしたちの生涯を見つめておられます。わたしを見つめ、またわたしの生涯を見つめ、「あなたは安黒務です。あなたは…と呼ばれます」と、牧師また教師として召し、キリストのからだなる教会の、神学教育の礎のひとつとして機能させてきてくださいました(Ⅰペテロ2:4-7)。そのような生涯は、わたしの[Ⅰコリ2:9
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの]でありました。そのような生涯を、神は、…備えてくださった]のです。それは、わたしだけでなく、[ロマ8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益と]してくださるのです。
わたしたちは、今起こっていることのすべては分からないかもしれません。わたしたちの視野は狭く、いつも目先のことに心を奪われているからです。しかし、御子なる神イエス・キリストは“今も”、そのようなわたしたちに、[1:38
あなたがたは何を求めているのですか]と問いかけてくださいます。わたしたちが[主よ、あなたはどこにおられるのですか?]と問いかけさえすれば、[1:39
来なさい。そうすれば分かります」と指示され、[そして、イエスのもとにとどま]るならば、「主がおられるところにとどまり」さえすれば、道は開けます。そしてアンデレのように[1:41
私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った]と叫ぶことになるでしょう。証しすることに結びつくでしょう。祈りましょう。
(参考文献:Richard Bauckham, “Gospel of Glory – Major Themes in
Johannine Theology”、R.ブルトマン『ヨハネの福音書』)
2024年6月9日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:29~34「御霊が鳩のように天から降って」-この転換点を境に、救済史全体が新たな方向へと転じる-
https://youtu.be/-nQ1cCw_8Ds
今朝の箇所は、洗礼者ヨハネが自身の展開してきた準備としての「水のバプテスマ」と先在者である三位一体の神、御子なるイエス・キリストによる、成就としての「聖霊のバプテスマ」に証ししている箇所です。今朝の箇所で最も注目すべきは[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことの意味、そしその結果として、御子が十字架の死・葬り・復活のみわざをなし終えて、昇天・着座・聖霊の注ぎを通し、[1:33
聖霊によってバプテスマ]を授けられることの意味です。これらのことに留意しつつ、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書とヨハネ福音書に傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.ヨハネによる水のバプテスマ―旧時代からの準備、悔い改めと献身の表明(1:29-31)
B.御子なる神、イエス・キリストによる聖霊のバプテスマ―御霊による新時代の到来(1:32-34)
今朝の箇所で最も注目すべきは[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことの意味であると申し上げました。これは、救済史における「御霊による新時代の到来」という視点から理解する必要がある言葉です。洗礼者ヨハネの説教と御子なる神イエス・キリストの説教の違いに注目しますと、洗礼者ヨハネにとって「終末の時」はまだ完全に未来のことでありました。差し迫っていましたが未来でした。審判の洗礼を通して終末と王国をもたらされる厳粛なメシヤは、彼らの前に迫っていたにもかかわらず、まだ来ていなかったのです。メシヤを待望する旧約の、いわば「夜」は終わろうとしていましたが、まだ太陽は昇っていなかったのです。
来たるべき「御子なる神イエス・キリスト」の到来に備えるよう告げ知らせ、「悔い改めと献身」の表明としての水の洗礼を施していた洗礼者ヨハネは、「律法と預言者」の古い時代に属していました(ルカ16:16、マタイ11:11)。ヨハネにとって完全に未来であった神の国は、
[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]御子なる神イエス・キリストの公生涯のスタートによって、人々の上に、人々の中に(マタイ12:28、ルカ17:20)到来しました。サタンはすでに縛られ、略奪されています(マルコ3:27)。つまり、「救済史における決定的な転換」が起こりました。では、どの時点で起こったのでしょう。その答えは明らかです。「ヨルダン川で、御子なる神イエス・キリストが聖霊で油注がれた時」です。
この出来事の後、「救済史において約束されていたことの成就」の報告が入ります。マルコによる福音書の、御子なる神イエス・キリストの最初の言葉は「(終末論的な)時は満ちた」(1:15)です。すなわち、[イザ11:1
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。11:2
その上に【主】の霊がとどまる]という「終末論的な聖霊が来た」のです。御父なる神が、御子なる神に、御霊なる神を注がれたので、[イザ61:1
【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2
【主】の恵みの年]が到来したと朗読され、[ルカ4:20
イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21
イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」]と宣言されました。
洗礼者ヨハネが準備した「悔い改めと献身」という準備された旧約精神の土壌の上で、御子なる神イエス・キリストの奉仕は、[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]ことをもって、開始されました。終末論的な「ヨハネの黙示録」の特徴も示されています。それは「天の裂け目」は、天の領域から地上への突破を示しています。御父なる神が、御子なる神に、御霊なる神を注がれたのです。この瞬間、「聖霊に油注がれたメシヤ」についての旧約預言者たちの終末論的な希望(イザヤ11:2、61:1)が実現したのです。
おそらく、[1:32
「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]のを見たときの「鳩のイメージ」にも意味があるでしょう。それは[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた]であり、それは洪水後にノアが放った「鳩」を思い起こさせるでしょう。「鳩」は、罪と死と堕落で消し去られるべき被造物世界の「新たな始まり」の象徴であり、「再創造」に向けて「虚無に包まれた被造物世界」の上を動く聖霊なる神の胎動の開始でもあったでしょう。
次に、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、[マル1:10
イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。1:11
すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」]があります。この言葉は、王の戴冠式の[詩2:7
「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ]の言葉と、神の僕の選びの[イザ42:1
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う]の聖句の組み合わせと言われます。
御子なる神イエス・キリストは、マリヤを通しての受肉以前から、その通りのお方でありました。ただ、救済史という時間と空間の中で、覆われていたヴェールが剝がされるように、ご自身が如何なる方であるのかが明らかにされていきました。御父が、聖霊なる神の注ぎを通して、御子なる神イエス・キリストに明らかにされた役割、メシヤとしての立場はどのようなものであったのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、新しいイスラエルの代表であり、さらには新しい人類の代表、第二のアダムともされました。その視点からみますとき、マルコは「ヨルダン川の出来事」を「紅海渡河」と同等の重要性をもつものと見ていたとみられます。このことは、聖霊なる神の受容に続く「誘惑の物語」で分かります。
申命記では、神がイスラエルの民を荒野に40年間導き、謙虚にし、試し、懲らしめた(申命記8:2-5)にように、イエスは聖霊によって荒野に40日間導かれ、試されました。「マルコ1:11あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と、「子」として受容された御子なる神イエス・キリストは、この時点で厳しく試されます(マタイ4:3,6)。神はイスラエルと契約を結び、イスラエルが忠実であるかどうかを試されました。そしてイスラエルは何度もその試練に失敗しました。今、救済史の新しい段階に入り、御子なる神イエス・キリストによる「新しい契約」が導入され、「新しいイスラエル」は忠実であるかどうかが試されています。
御子なる神イエス・キリストがこのように試され、従順であることが証明され、契約がご自身の中で、また自分自身のために確証されたときにのみ、イエスは他の人々のために「子」として、また「しもべ」として奉仕に出て行くことができるのです(ヘブル5:8以下)。聖霊の降臨と聖霊の導きによって、最初の人類の代表であるアダムと同様に、同じサタンと戦うために荒野に導かれ、その堕落の悲劇的結果を覆すために、まず自ら屈服することを拒否し、次に堕落した人類のために行動されました。この「人類の救済史」の第二部は、[1:32
御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]瞬間をもって開始されたのです。
聖霊の降臨によってのみ、救済史における「新しい契約、新しい時代」が始まり、それによってのみ、イエス自身も「新しい契約と新しい時代」に入られました。イエスは、イスラエルと人類を代表して、人間の代表として入られました。このように、この最初の聖霊の注ぎ、また聖霊による洗礼は、神が各人を「イエスの足跡」に従わせるものです。これは、その後の「すべての聖霊による洗礼」の典型です。人類の代表として、イエスは「人々になされた約束」御霊の新時代に最初に入られたお方なのです。わたしたちに対するこの「聖霊による洗礼」は、キリストが[1:29
世の罪を取り除く神の子羊]として贖罪のみわざを成し終えられ、死んで後、復活され、昇天・着座・聖霊の注ぎを受けられ、それをすべての肉なる者に注がれてから十全なものとなります。
そのような意味で、救済史においては、洗礼者ヨハネの[1:31
水のバプテスマ]は、準備であり、影でありました。そして、「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる]のは、聖霊による新時代の到来の「開始のラッパ」のようなものでした。イエスは、救済史に約束されたものの成就であり実体でありました。その実体の「典型」として[1:33
御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまる]経験であり、それがイエスを御子なる神イエス・キリストとして告白するものすべてに授けられる「聖霊による洗礼、すなわちバプテスマ」(Ⅰコリント12:13)なのです。御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちは、内住の御霊というかたちでその恵みにあずかっています。まだ求道の中におられる方は、イエスを信じ、その恵みにあずからせていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献:James D.G. Dunn, “Baptism in the Holy Spirit”)
2024年6月2日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:19~28「ヨハネの証しはこうである」-私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません-
https://youtu.be/XCLfGNISDM4
新約聖書
『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、すでに六回目となります。このシリーズは、『ヨハネ福音書』を単に傾聴するだけでなく、『ヨハネ福音書』の中に“ヨハネが意図した神学”というものを発見していこうとするものです。ヨハネが「一冊のイエスの伝道活動物語を書いた」という単純な事実がありますが、その上で「その歴史的な伝道活動が彼の書いた文章を解釈する上で、適切かつ完全な、前後関係とか枠組みを準備しているか」ということをわたしたちは問いつつ読んでまいります。そのとき、J・ルイス・マーティンが彼の『ヨハネ福音書における歴史と神学』の中で論じているように、その物語は「二つの舞台で演じられている」という視点が大切と思われます。
ふたつの視点とは、紀元30年あたりの三年半の「イエス自身の舞台」と1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」とです。よく考えてみると、説教というものは、いつもそのような構造をもつものです。すなわち「事実と解釈と適用」の三要素です。すなわち、聖書が記録している事実、その解釈された意味を、わたしたちの置かれている新たな状況に適用していく、というステップのことです。ヨハネは、紀元30年あたりの三年半の「イエス自身の舞台」の伝道物語の“事実”を編集するにあたって、1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」を視野に語りかける説教として、“解釈し、適用”し編集しているということです。
『ヨハネ福音書の神学』の要点を明らかにしていくということは、どのようにマーティンの言う1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」で、「ヨハネの関係するキリスト教共同体」の“必要”から、また“その必要”に関連し、“その神学的強調が引き起こされたか”を明らかにすることです。このような視点から、今朝の聖書箇所に傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.ユダヤ人たちの詰問と洗礼者ヨハネの回答に垣間見る二つの舞台(1:19~23)
B.選民イスラエルの真の悔い改めと御子なる神イエス・キリストへの畏怖の必要(1:24~28)
まず、[1:19
さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき]と始まります。この箇所に、[1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」]がいかなるものであったのかのヒントがあります。この[1:19
ユダヤ人たち]は、[1:19祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わし]、洗礼者ヨハネの素性、活動の動向を調査していました。その調査チームの黒幕は[1:24
パリサイ人から遣わされて来ていた]と特定されています。ここに、マーティンが指摘する1世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」の特徴を垣間見ることができます。
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書は、エルサレムと神殿崩壊の紀元70年以前の60年代に書かれたとみられ、「大祭司、サドカイ人、パリサイ人、律法学者、ヘロデ党の者たち」がユダヤ人の主力として登場しますが、紀元70年のエルサレムと神殿崩壊以後、二十数年を経た、一世紀末に書かれたヨハネ福音書では、「大祭司、サドカイ人、ヘロデ党の者たち」は姿を消し、「パリサイ人」がユダヤ人の主力として登場しています。ここに、ヨハネ福音書の、紀元30年代の「イエスの伝道物語」と一世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」の重なり、すなわち「事実・解釈・適用」の構成をみせられます。つまり、ヨハネ福音書を読む際には、ただ単に紀元30年代の「イエスの伝道物語」として読むだけでは浅くしか読めず、その「イエスの伝道物語」の“事実”を土台として、[70年のエルサレムと神殿崩壊以後、二十数年を経た、一世紀末の「ヨハネ福音書記者の時代の信徒と教会の舞台」にどのようなメッセージが語りかけられているのか]という視点をもつことによって、より深い“解釈と適用”を読み取ることができるということなのです。
「洗礼者ヨハネの証し」、それは紀元30年代の出来事です。60年代に書かれた共観福音書では、「洗礼者ヨハネ」から「一方的な宣言・証し」はなされていますが、一世紀末に書かれたヨハネ福音書では、エルサレムのサンヘドリンといわれるユダヤ人の政治と司法の最高評議会は、パリサイ派が主導していたのです。「洗礼者ヨハネの証し」をそのような背景において読み返しますと、「洗礼者ヨハネ」に対する[トーラーの研究を続けることでユダヤ教の伝統と先祖からの文化的遺産を絶やすまい]とするヤムニヤ会議の流れが、[かつてのエルサレムのサンヘドリン(最高議会)]の後継に位置づけられていた様子が見えてきます。
そのような意味で、「 1:19
さて、ヨハネの証しはこうである」は、ヤムニア会議の後、ユダヤ会堂での「隠れユダヤ人キリシタン発見」の取り組みと重なるところがあるのです。「洗礼者ヨハネ」は、エルサレムから派遣された官憲たる祭司やレビ人から、ある意味で「詰問」を受けたのです。エルサレムからの詰問の目的は、「ユダヤ民族の中から起こっては、騒乱を起こした後、立ち消えとなる異民族支配からの独立を達成する指導者たろうとする人物」の調査であったことでしょう。使徒行伝にも、[使5:34
ところが、民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人が議場に立ち、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、5:35
それから議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけてください。5:36
先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。5:37
彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました]とあるような運動のひとつとみて警戒していたのかもしれません。わたしは、ユダヤ教シオニズムの「土地・首都・神殿」の回復の追求とその応援団としてのキリスト教シオニズムの応援団の、行き過ぎたビジョンとしてのヨルダン川西岸とガザ地域の入植地拡大と吸収という傾向にも、同様の危険を感じています。
パリサイ人から派遣されていた官憲たるレビ人に対する回答は明確なものでした。[1:20 「私はキリストではありません」、
1:25
「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもない」]と返答しました。「キリストではない」とは、ユダヤ人の期待していた「イザヤ11章等にみられる油注がれたダビデ的王による異民族支配から脱却させる政治的解放者ではない」という意味でしょう。「エリヤではない」とは、[マラキ
4:5
見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす]の約束、「あの預言者」とは、[申命記
18:15
あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない]の約束でありました。
洗礼者ヨハネは、いずれの「身分証明書」のジャンルにも当てはめられることを拒み、[イザヤ 40:3
荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ]と「バビロン捕囚民がその捕囚から解放され、砂漠を通ってエルサレムに帰還する情景を思い浮かべたイザヤ」のイメージに重ね合わせ、「罪と死と滅びの捕囚からの解放者としてのメシヤたるイエス・キリストを受け入れる備えをする者」と証ししました。そこで、パリサイ人から派遣された官憲レビ人(レビ人は神殿礼拝で祭司のサポートとともに、神殿警察等の役割も担っていました)は[1:25
彼らはヨハネに尋ねました。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」]と、ユダヤ人に洗礼を授ける権威・資格について追加質問をすることになったのです。
紀元30年当時、洗礼は行われており、ユダヤ人の間でも知られていました。しかし、それはユダヤ教への改宗者となった異邦人が対象でした。しかし、洗礼者ヨハネの活動の特異さは、「すでにユダヤ人である者に、罪の悔い改めの洗礼を授ける」ところにありました。これは、神の啓示の受領者、神の福音の伝達者として選ばれた選民イスラエル自身が、まず「神の御前に、真に心からの罪の悔い改め」をなし、御子イエス・キリストの「贖罪と内住の御霊を受け入れる」ことなしには、「罪と死と滅びという捕囚状態」からの解放はないことを意味しています。
洗礼者ヨハネは、[1:25
彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」]という詰問に対し、彼らの詰問の文脈に合わせて答えるのではなく、「問うべきは、洗礼者ヨハネの身分証明ではなく、洗礼者ヨハネはあるお方のために準備者に過ぎないのであって、洗礼者ヨハネがいかなる者であるのかを百回繰り返すよりも、洗礼者ヨハネが準備者としてあずかっているそのお方が如何なるお方であるのかが、最も大切である。選民イスラエルの悔い改めのバプテスマの権威は、そのお方から受けているものだから…。そのお方を理解し、信じ受け入れることなしに、洗礼の意味も意義も理解できないでしょう」と御子なる神、イエス・キリストに焦点を合わせるよう促しました。
[1:26
ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます]とあります。洗礼者ヨハネは、ザカリヤとエリサベツ夫婦からの誕生の経緯、そして[ルカ
1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]という成長の様子、また彼は、誕生と成長の経緯のみならず、彼のミニストリーの実践は、[マタ3:4
このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5
そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6
自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と記されるほど有名人でありました。
しかし、そのような時代を画する「ユダヤ人の悔い改めのバプテスマ」を唱導・実践する運動家が、
「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」と、ナザレ出身の無名の大工ヨセフの息子を紹介しています。[1:27
その方は私の後に来られる方]と、洗礼者ヨハネが準備した運動体を、弟子たちを継承されることになります。ある意味で、そのような下拵えがあったことが、御子なる神イエス・キリストの三年半という、きわめて短い公生涯の証しと奉仕で、今日のキリスト教会の礎を完成させることができたのです。そのような意味で、わたしたちも無名の、そして無数の[1:23
『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』]のひとつとされたいと思います。
さて、洗礼者ヨハネは、[マタ 11:11
まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした]とイエスに評されるほど偉大な人物でありました。しかし彼は、[1:27
私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と、洗礼者ヨハネ自身のそのお方との立ち位置を説明します。一世紀のユダヤ社会において、サンダルを脱がし、足を洗う奉仕は、異邦人の召使い奴隷の仕事でありました。洗礼者ヨハネは、御子なる神イエス・キリストに対し、そのような意識を抱いていたのです。それはまさに、[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、6:2
セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、6:3
互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。6:5
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」]と告白したイザヤの三位一体なる神の荘厳さではなかったでしょうか。
わたしたちは、今朝「洗礼者ヨハネの証し」の中に、ヤムニアの第十二祈願の響きを聴いたでしょうか。わたしたちは、ある意味、今日の日本で、家族・兄弟姉妹・隣人・学校・職場で、「パリサイ人から遣わされてきた人の詰問」にさらされているといえるでしょう。そのときには、わたしたちは「わたしたち自身の偉大さの身分証明」を証しする必要はなく、
[1:27 私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません]と証しすれば良いのではないでしょうか。祈りましょう。
(参考文献: Colin G. Kruse, “John” Tyndale New Testament
Commentaries)
2024年5月26日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ1:14~18「私たちはこの方の栄光を見た」-簡単には見せられない、覗かせられない、測り知れない繊細な心のありか-
https://youtu.be/Gv6pAijSITk
どのような本を書く場合でも、本文構成を「首・胴・尾」であれ、「起承転結」であれ、仕上げて後に序文また導入を書き上げるのが常です。「ヨハネ福音書」も、1:1-18は、あとに展開している本文のねらいが簡潔にまとめた要約として記されています。イエス在世当時の証しは、[ヨハネ21:25
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない]とあるように、膨大なものでした。それらの記録と証言の中から、ひとつの目的と必要にかなうべく、最小限の証しが選択・選別されて記されているのです。その目的とは[ヨハネ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため]でありました。
「ヨハネ福音書」は、「ロゴス(ことば)」という当時のヘレニズム的背景を意識させる表現や、「光と闇」という当時の前グノーシス主義、バプテスマのヨハネの運動の影響を受けたと思われるマンダ教等との深い関わりを考える向きもあります。しかし、「ヨハネ福音書」の序論1:1-5は、三位一体の神と「創世記」の天地創造の関係を解説するものであり、1:6-8と1:15は当時の洗礼者ヨハネの影響力下で、彼と御子なる神、イエス・キリストとの関係を整理するものです。また、1:9-13は、「ヤムニアの第十二祈願」に示される、御子イエス・キリストの受け皿として千数百年準備されてきたイスラエル民族の中に起こった二つの反応とみることができます。
今朝は、序文の最後の箇所1:14-18です。この箇所もまた、旧約聖書を強く意識する示唆に満ちています。このようなことから、「ヨハネ福音書」の読み方は、これを「ヘレニズムやグノーシス」といったギリシャ的背景に溶かし込んで読むよりも、「旧約的背景」を耕して教えられることの方が優れていると思います。それは、著者・編集者である「イエスが愛された弟子」(ヨハネ21:20)は、ヘレニズム社会にあったとはいえ、ユダヤ民族の中で育ち、生きた者であるからです。わたしたちも、「旧約的背景」を耕すことに重点をおいて「ヨハネ福音書」に傾聴していくことに致しましょう。では、今朝の聖書箇所をお読みいたします。
(概略)
ヨハネ福音書
A.荒野の幕屋、シオンの山の神殿のように(1:14)
B.旧約預言者の集大成洗礼者ヨハネ、にまさる方(1:15)
C.満ち満ちた神の本質、神の溢れる恵み・慈しみ(1:16)
D.モーセに象徴される律法は影、恵みとまことの実体はイエス・キリスト(1:17)
E.御子なる神が、三位一体の神とそのわざの本質を啓示された(1:18)
今朝の箇所で、最も注目したいのは、[私たちはこの方の栄光を見た]という箇所です。先週は、この箇所の関連でリチャード・ボウカム著『栄光の福音』という本を繰り返し熟読し、その解き明かしに感動しておりました。「栄光」という言葉は、旧約ヘブル語では「カボード」、新約ギリシャ語では「ドクサ」という用語が使われています。その意味するところは、「名誉、名声、良い評判、目に見える輝き」などです。旧約では、それはモーセがシナイ山で十戒を受け取る出来事の中で出てきます。[出24:15
モーセが山に登ると、雲が山をおおった。24:16
【主】の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。24:17
【主】の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった]。
また、幕屋設立での出来事―[出40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである]とあり、そして神殿建立の時、[Ⅱ歴代5:11
祭司たちが聖所から出て来たときのことである。…5:13
ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。…そのとき、雲がその宮、すなわち【主】の宮に満ちた。5:14
祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである]とあります。
最初に、この聖句[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]は、「ロゴス(ことば)なる、子なる神イエス・キリスト」が歴史上の人物として「人間」の領域に入って来られたことを意味しています。また[1:14
住まわれた]の原語は、天幕また幕屋生活をも意味するギリシャ語であり、「荒野の幕屋やシオン山の神殿」に神がその民と共に住まわれているように、わたしたちと共に生きてくださっていることを示唆しています。
次に[1:14
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた]と続きます。ここで、考えさせられることが出てきます。[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれ]とは、ある意味で、「神とはいかなるお方であるか」がすべての人に明らかとなったのです。というのは、それまでは、「神がどういうお方であるのか」をはっきりと知ることは不可能であったのです。[出33:18
モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」…主は、[33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」…33:21
また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。33:23
わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」]存在の方でありました。
また、イザヤ書にあるように、[イザ6:1
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、…6:2 セラフィムが…6:3
互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」6:4
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。6:5
私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」]というようなお方でありました。そのようなお方が、救済史の「時が満ちて」(ガラテヤ4:4)、[1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]のです。
そのお方の生と死の一切のみわざの証言者として[Ⅰヨハ1:1
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。1:2
このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。1:3
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます]と証ししています。「先在の神、創造の神、三位一体の神」が、[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]を現わしてくださったのです。
ヨハネ福音書1~12章を見ると、世に対する数々の「栄光のしるし」を現わしておられます。しかし、奇跡等のしるしは世の人々を驚嘆させる場合もありますし、反発しそれを悪霊の働きとしたりもする姿を見ます。ここに「信仰」ということの難しさを教えられます。人間の罪や盲目というものは、神の人格とみわざとしか思われないものを見ても、そのような方が「自身の欲望を叶えるものとはならない」と判断するや否や、十字架に釘づけしてしまうのだと教えられます。
次に、[1:17
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである]とあります。モーセは、救いの啓示の準備者のひとりとして用いられ、十戒や幕屋や犠牲等を通して、罪と死と滅びに定められたこの世界に、「救い主、御子イエス・キリスト」の意味と意義を教えるたくさんの視聴覚教材を提供してきました。それを「神が本来、意図された通りに理解し、受け取る」ことができたら、イスラエルの民のほとんどは「
[1:14
父のみもとから来られたひとり子」を信じ、受け入れたことでしょう。しかし、イスラエルの民は誤解し、歪曲し、盲目となり、[ヨハ1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]のです。
なぜ、このような悲劇が起こったのでしょう。それは、三位一体の神に満ちている[1:14
恵みとまこと]に対する誤解があったからだと思います。この[1:14 恵みとまこと]は、旧約のシナイ山において[出34:5
【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称されるお方です。
しかし、シナイ山で、三位一体の神が意図されていた[出エジプト34:6 恵みとまこと]とは、一体どのような[ヨハネ1:14
恵みとまこと]であったでしょう。その内容、実質、実体が[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]として現わされ、[1:17
恵みとまことはイエス・キリストによって実現した]と紹介・説明されているのです。そうなのです。旧約のあのシナイ山でモーセに語られた[出エジプト34:6
恵みとまこと]の、いわば「本心」は、わたしたちの身代わりとなって、わたしたちを罪と死と滅びから贖われた[1:18
父のふところにおられるひとり子の神]の人格とみわざによって、[説き明かされた]のです。
ここで[1:18
いまだかつて神を見た者はいない]といわれ、モーセが岩の間に身を隠し、イザヤや畏れおののいた「三位一体の神の聖性」の奥義を垣間見せられるような気がします。それは、ある意味で、「簡単には見せられない、覗かせられない、測り知れない繊細な心のありか」でもあるのです。[34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と自称される三位一体の神の、いわば「心臓部」にあたる[1:14
父のみもとから来られたひとり子としての栄光]、[1:16
この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた]贖罪と内住の御霊の経験、それは、その[1:17
恵みとまことはイエス・キリスト(の人格とみわざ)によって実現した]ものであり、そのようにして[1:18
父のふところにおられるひとり子の神が]、三位一体の神の心臓部にあるみ旨の本質を[説き明かされた]ということです。
当時の弟子たちと新約のクリスチャンたちは[1:14
私たちはこの方の栄光を見た]と証言しました。シナイ山、幕屋設立、神殿建立の時に見たのは「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)でありました。そしてカルバリの丘で三本の十字架の真ん中に見ました。霊的に閉ざされた目には、「十字架にはりつけにされた王」、また「十字架に釘付けされた神」はつまずきでありましたが、信じる者の目には「三位一体の神、御子なる神イエス・キリストの贖罪死」は、
[1:14 この方の栄光]でありました。
そして、贖罪に続く復活・昇天、聖霊の注ぎによる「キリストの御霊の内住」による、「神の神殿、また聖霊の宮」(Ⅰコリ3:16、6:19)の経験は、
「三位一体の神の栄光」のいわば「背中」(出33:23)を見る経験ではなく、三位一体の神、御子なるイエス・キリストの御霊により、あたかも「顔と顔を合わせて見つめ合う」ような、[Ⅰヨハ1:1
私たちが聞いた…、自分の目で見た…、じっと見つめ、自分の手でさわ]る経験なのです。「ヨハネ福音書」は、内住の御霊にあってわたしたちを、日々シナイ山に、幕屋の設立に、神殿建立の場に連れて行ってくれます。[1:14
私たちはこの方の栄光を見]つ、それを証しつつ暮らす幸いな民なのです。祈りましょう。
(参考文献:Richard Bauckham,“Gospel of Glory―Major Themes in
Johannine Theology”)
2024年5月12日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:9~13「ただ、神によって生まれた」-聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます-
https://youtu.be/MqZRSaFLC-s
今朝の箇所は、「ヨハネ福音書全巻の一切が1:1-18のプロローグ(序文)に縮小されて詰め込まれている」と言われている箇所です。すでに、1:1-5で「御父と御子の関係」、1:6-8で「御子と洗礼者ヨハネの関係」について傾聴しました。今朝、1:9-13では「御子とこの世、御子とご自分の民との関係」について傾聴してまいりましょう。
(概略)
ヨハネ福音書
A.御子なる神、イエス・キリストの来臨前夜(1:9)
B.御子なる神、イエス・キリストの人格とみわざと世の関係(1:10)
C.御子なる神、イエス・キリストに対するご自分の民による拒絶と抹殺(1:11)
D.御子なる神、イエス・キリストを受容する人々に賦与される特権(1:12)
E.それは、人間の努力・精進によるのではなく、聖霊のみわざである(1:13)
では、順を追って見てまいりましょう。[1:9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。]とあります。それは、まさにクリスマス前夜、待降節(アドベント)に歌う讃美歌の歌詞のようです。それは、まさにマラキ書をもって閉じられた預言書の時代の後の、「中間時代」、メシヤ、キリストを沈黙をもって待ち望む期間についての描写ようであります。朝日を待ち望む、夜明け前の「あけぼの、あかつき」の時間帯のような聖句であります。
次の節には[1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]とあります。これは、1:1-3の復誦を基盤としています。[1:10a
この方はもとから世におられ]は、御子イエス・キリストの先在性、御父との同等性、御父・御子・御霊なる神の三位一体性を告白するものです。[1:10b
世はこの方によって造られた]とは、天地万物とその中の生き物すべては、三位一体の神により創造された。御父により、御子なる神イエス・キリストを通し、御霊によって創造されたことを繰り返す内容です。しかし、[1:10c
世はこの方を知らなかった]というのです。
この[世]という言葉は、三回繰り返されています。[1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と。「世」が最初に現れたときには「中立的」です。それは、単に、御子なる神イエスが現れた「場」を指しています。第二の「世」は「積極的」です。「世」は、三位一体の神により、御子なる神イエス・キリストを通してなされた「神の良き創造物」です。第三の「世」は「否定的」です。その「世」は、「イエスにおける神の啓示」を拒否します。こうして、ヨハネ福音書における「否定的な意味での世」は、まさに「イエス・キリストを知ることを退け、拒否する」というかたちで自らを規定しています。
そこで「世」は、神に反抗し、ヨハネ的な、神と世という、二元論の主要な正反対の極の位置を占めます。しかし、第四福音書では、神と世の二元論は絶対的なものではありません。「世」は神に「良きもの」として創造されただけではなく、堕落・断罪の後にあっても、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである]とあるように、「神の愛と救いの対象」であるのです。
第三には、[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]とあります。この聖句は、「最小のイエス伝」といわれる聖句です。この一句でイエスの全生涯が語り尽くされているといわれています。三位一体なる神は、この被造物世界を愛をもって創造されました。しかし、アダムの堕落により、虚無に服し、罪と死と滅びに定められてしまいました。そのような悲惨な状況を打開するために、救済の計画を立てられ、人類の中にその受け皿(機能・手段)として、アブラハムとその子孫を選ばれ、神の啓示の受領者、救いの福音の伝達者として準備されようとしました。
その民は、その啓示の受領者また福音の伝達者として用いられるはずでした。時が満ち、準備が整い、満を持して、御父は御子を御霊により受肉されるかたちで送られました。御子は、その民の所有者であり、王子であるお方ですので、大歓迎されるはずでした。御子なる神、イエス・キリストは、ユダヤ人のひとりとして生まれ、活動されました。その言葉、食事やラザロ復活にみる奇蹟に「植民地支配からの解放は近い」と熱狂した民衆と、「騒乱と既得権益へのおびやかし」に危機感を抱いた宗教指導者たちは、イエスを、おのれを神とし、冒涜した罪で十字架刑に追い込みました。
ヨハネ福音書の序文は、[1:10 世はこの方を知らなかった。…1:11
ご自分の民はこの方を受け入れなかった]というヨハネ福音書の神学の全体構想を予測しています。この[1:10
知らなかった。…1:11
受け入れなかった]という言葉は、単なる無知、無関心という冷めた内容でとどまるものではなく、もっと激しい拒絶、抹殺という「闇」を伴うものであります。これは、ギリシャ語で不定過去(アオリスト)で記されており、キリストの一回きりの十字架の出来事をさしています。しかし、ヨハネ福音書は「闇」の深さを描写するだけの書物ではありません。それは[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった]という内容の書物です。
1世紀末に記された「ヨハネの黙示録」との関連でみますとき、ヨハネ福音書で「ローマ帝国の公認宗教としてのユダヤ教会堂から追放されたユダヤ人クリスチャンたち」は、その保護の外に置かれ、やがて「ローマ帝国の獣が獲物を食い尽くすような迫害」の対象ともされていく時代の行く末を読み取ることができます。『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの背景、また前提に[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]と念頭に置きました。それは、ユダヤ教会堂からの追放という苦難の発端であり、その道はローマ帝国によるさらに苛烈な迫害へとつながる「十字架を背負って上っていくドロローサの道」のようでもありました。それは、日本のキリスト教史に目を置けば、「キリシタンに対する踏み絵」のようなものであり、「五人組による告発」のようでありました。また、国家神道時代の「天皇崇拝」強制のようでもありました。
そのような時代状況の中で、[1:12神の子どもとなる特権をお与えに]なるとはいえ、[この方を受け入れ]たり、[その名を信じ]
告白して生きていくことがどれほど大変な犠牲を伴うものであったのかは、はかり知れません。それゆえにこそ、[1:13
この人々は、…肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである]と記されているのでしょう。このような状況・背景の中で、この言葉を読むとき、このような状況で、人間の努力や頑張りだけで「三位一体の神、御子イエス・キリストの人格とみわざ」を信じ、受け入れ、告白して生き続けることは、大変困難なことであったということです。神の御霊による恵みの働きなしには、そのような選択肢を選ぶことは不可能なことです。ただ、マリヤが告白したように、[ルカ1:37
神にとって不可能なことは何もありません]。ただ、それはあなたに対する、御霊による恵みのみわざです。
[1:13
この人々は、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれた]とあるのは、もちろん、神学的には、おのれの業によらず、「恵みのみ、キリスト・イエスによる贖いのみ、信仰のみ」といわれる本質を宿すでしょう。ただ、それとともに、エリサベツやマリヤが直面した高齢出産の危機や処女受胎の危機における聖霊へのより頼み、すなわち[ルカ1:35
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます]があるでしょう。[創1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり]とあるように、三位一体の神への無知・無関心の「闇」、さらには御子なる神イエス・キリストの拒絶・抹殺の「闇」が、この「世」をおおっています。
しかし、三位一体の神、御霊もまた[創世記1:2
その水の面を動いていた]とあるように、働いておられます。そして、三位一体の神、御子イエス・キリストの受肉・来訪は、[1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とあるように、それはまさに宇宙のはじめのビッグバンのようです。わたしたちは、そのような「闇」におおわれた世界たる「世」に、いわば「鏡」のようにして、御子イエス・キリストの光を反射・反映させて生きているのです。それは、わたしたちが、御子イエス・キリストを信じることにおいて、「神の御霊なるいのち」を内に宿しているからです。
わたしたちは、ヨハネ福音書において、「闇」の中に輝く光の証し人たちを見るでしょう。弟子たちの召命、ニコデモやサマリヤの婦人との対話、五千人の給食、ラザロのよみがえり等の証しの中に、「光」を見るでしょう。わたしたち信仰者の毎日の生活、生涯もまた、ある意味で「福音書」の続編であります。わたしたちの毎日の生活の中に、[聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおお]い、神のいのちの息吹きがわたしたちの存在・生活・生涯のささえであると日々自覚しつつ歩ませていただきましょう。あなた、そしてわたしの「福音書」を綴ってまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』等)
2024年5月12日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:6~8「ただ光について証しするために来た」-エリサベツとマリヤ、洗礼者ヨハネとイエス・キリストにみる御霊の働きの連動・呼応-
https://youtu.be/Ke_St_8ZZfw
今朝は、五月の第二聖日、母の日です。また、今朝の聖書箇所は、ヨハネ福音書1:6-8、バプテスマ(洗礼者)のヨハネについての箇所です。このふたつを念頭に、一週間準備していまして、洗礼者ヨハネとそのお母さん、エリサベツに目を留めるように導かれました。洗礼者ヨハネとその母、エリサベツについての記述は、ルカによる福音書の1章に詳述されています。これらの箇所に目配りしつつ、今朝のみ言葉に傾聴してまいりましょう。
はじめに、ヨハネ福音書を読ませていただきます。
ヨハネによる福音書
A.エリヤのような、旧約最後の預言者(1:6)
B.洗礼者ヨハネの召命・使命(1:7)
C.洗礼者ヨハネは、キリストではなく、その証言者(1:8)
ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの箇所に入る前に、その背景として、ルカによる福音書の1章をかいつまんでみてまいりましょう。
ルカによる福音書
[1:5
ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。1:6
二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。…1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。]
メシヤを紹介した人であり、人間の中で最も偉大な人物とも評される洗礼者ヨハネの誕生のルーツを探りますと、その誕生は非常に困難な状況にあったことを教えられます。[ルカ1:7
エリサベツが不妊だった…また、二人ともすでに年をとっていた]と、アブラハムとサラのように旧約特有の表現で、それはもう不可能と思われるような状況の中での妊娠であり、出産であったことです。現在でも、高齢出産には危険が伴います。また、障害を宿した状態での生まれてくる危険をも内包します。母親自体にも危険が及ぶことがあります。しかし、医療環境の整っていない約二千年前、そのような危険のただ中で、[ヨハネ1:8
光について証しする]器は誕生したのです。ですから、問題や課題というものは、「克服できない壁」ではないと教えられます。
洗礼者ヨハネの健康については、[ルカ1:41
エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた]とか、とても健康な胎児であったようでもあり、また[1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあり、今日で言う、少しアスペルガーのような傾向の表現もあります。詳細は分かりませんが、わたしたち奉仕者や献身者の間にも、生まれや生い立ち、心身の健康等で問題を抱えている方もある中で、そのような困難や危険、病や障害等を抱えつつ、召命・使命の中に生かされている者の、「ひとつの模範」ともいえる人物です。その秘訣は何でしょう。
[1:15
その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ]とあるように、「聖霊に満たされていた」という一点にあるようです。「聖霊の満たし」は多くの問題・課題を克服していくひとつの鍵です。洗礼者ヨハネが母の胎内にいるときから聖霊に満たされていたいきさつは、その父母であるザカリヤとエリサベツの霊的環境にもあるでしょう。この夫婦は[1:13
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」]とあるように、祈り深い夫婦であり、洗礼者ヨハネはそのような霊的環境の中で育ったのです。使徒パウロは、牧会書簡の中で、「伝道や牧会以前に、家庭を治めることの大切さ」を語っています。働き以前に、わたしたちの存在のあり様がもっとも示される夫婦や親子のあり様に目配りが必要です。
危険きわまりない状況下で生まれてきた洗礼者ヨハネは、貧しくとも、霊的環境に恵まれて成長していったようです。[ルカ1:80
幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた]とあったり、[マルコ1:6
ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた]とあるように、パレスチナにある辺境のユダヤ教とも言うべき、クムラン教団にそのひとつの例をみるようなセクト的教団から出てきて大衆を相手に洗礼を施していた、ある意味ユニークな運動とも見られます。ともあれ、洗礼者ヨハネの預言運動は、ユダヤ全国を揺り動かし、国民的宗教運動にまで発展しました。
[マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。1:5
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた]と記されるほどでありました。まことに洗礼者ヨハネは、厳然として荒野にそびえ立つ巌にも比すべき存在でありました。いわば、アフリカ医療宣教のシュバイツァー、インドの貧民窟宣教のマザーテレサ、クルセード集会のビリー・グラハムのような、一世を風靡した存在でしょうか。そして、洗礼者ヨハネの風貌は、かつての預言者エリヤの姿(Ⅱ列王1:8)を鏡の中に彷彿させるようでありました。
洗礼者ヨハネこそ、すべての人に先立ってイエスを神の子・世の救い主として認めた人であり、彼こそは、イエスが何者であるかを理解した唯一の人でありました。世の「暗闇」が完全な盲目に眠っていたとき、彼はひとり目覚めて「光」を認めました。ひとり立って荒野に叫ばなければならなかった孤独な預言者ヨハネは、孤独な神の子イエスの真相を見抜いていました。神から遣わされた御子を理解することは、同じく神より遣わされた預言者においてはじめてなし得る大事業でありました。洗礼者ヨハネと神の御子イエス・キリスト、この二人の魂の間には、ちょうどエリサベツとマリヤの間に流れた共感と交流と同様のものが、呼応していたことでしょう。
歴史に目を転じますと、洗礼者ヨハネの名前は、ユダヤを中心に遠くローマ世界にも聞こえていました。ヨセフス、タキトゥス、スエトニウスといった当時の歴史家たちの叙述からしますと、イエスに関する言及は曖昧であるのに対し、洗礼者ヨハネに関しては、はっきり語られています。世間の目には、洗礼者ヨハネの方が偉大であるとの印象が残っていたかもしれません。このような状況下で、第四福音書は、その序文で断固として、イエスの優位性を宣言しており、洗礼者ヨハネは証言者としてのみ言及されているのです。そして、後の聖書箇所で扱いますが、洗礼者ヨハネは、「イエスが神の御子である」ことを告知したという意味だけでの証言者であるだけではありませんでした。
マルコ福音書では、[マルコ1:16
イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。1:17
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」1:18
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った]と、漁師が召命を受けて、即座に従った情景がうかがわれるのですが、ヨハネ福音書ではその経緯と背景を[ヨハ1:35
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。1:36
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。1:37
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った]と説明しており、アンデレやペテロが洗礼者ヨハネの弟子であったことを明らかにしています。アンデレやペテロは、洗礼者ヨハネ門下で薫陶を受け、修練した優れた弟子であったことが暗示されています。これが、今日、奉仕生涯の最初の三年間の基礎神学教育課程の重要性を教えています。良き準備なしに、良き奉仕なしと教えられます。
わたしは、御子イエス・キリストが、四国の二倍ほどのパレスチナの土地を数回巡回された約三年間という、短期間で「新約の教会の礎を築く」ことのできた背景には、洗礼者ヨハネの罪の悔い改めに導き、[1:16
イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ] 、[1:17
不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意」するという、いわば「苗代のための土づくり」といった取り組みがあったからだと思うのです。そういうふうに考えていきますと、ゼカリヤとエリサベツ、そしてマリヤへの受胎告知、両者の交流と励まし合い、エリサベツと洗礼者ヨハネ、マリヤとイエスの母子の交流と成長、洗礼者ヨハネが取り組んだ「土壌づくり」とその土壌の上で芽吹き、進行した「神の御子イエス・キリストの啓示」と新約の教会の形成準備(エペソ2:20)に、わたしは御霊の働きの連動と共鳴をみせられるのです。
これらのことを思い巡らしているうちに、「御霊の働きの連動と共鳴」は、ローザンヌ誓約「第4項 伝道の本質」にもみられると教えられました。それは「伝道」を定義して、[伝道とは、イエス・キリストが聖書にしたがって私たちの罪のために死に、かつ死よりよみがえり、現在、主権を持ちたもう主として、悔い改めて信じるすべての者に、罪の赦しとみ霊による解放の恵みを提供しておられるという、よきおとずれを広めることである。私たちキリスト者がこの世界の中に共在し、相手を理解するために同情的に耳を傾ける類の対話を持つことは、伝道にとって不可欠なことである。しかしながら、伝道それ自体は、あくまでも、人々が一人一人個人的にキリストのもとに来て、神との和解を受けるように説得する目的をもって、歴史的、聖書的キリストを救い主また主として告知することである。
この福音の招きを公布する際に、私たちは弟子として求められる犠牲からしりごみすることは許されない。イエスは、今もなお、自己を否定し、おのが十字架を負い、主の新しい共同体の一員になりきってご自身に従うものたちを召し集めておられる。伝道は、キリストヘの従順、ご自身の教会への加入、この世界内での責任ある奉仕などの結果を含むものである。(Iコリント15・3、4、使徒2・32-39、ヨハネ20・21、Iコリント1・23、IIコリント4
・5;5・11、20、ルカ14・25-33、マルコ8・34、使徒2・40、47、マルコ10・
43-45)]と整理されています。
すなわち、伝道は、「回心して主の新しい共同体の一員」となる一段階のみでなるものではなく、その前段階として[共在→対話→説得→告知]という、いわゆる「土壌づくり、苗代づくり」の段階があるということです。わたしのケースを振り返りますと、やはり三浦綾子著作集は、わたしにとってそのような段階を導いてくれました。わたしたちは、主にあってさまざまなかたちで、さまざまなレベルで[1:8
ただ光について証し]して生きています。わたしたちはひとりぼっちではありません。神さまは、困難な最中で、しかし不思議な方法で、「御霊による連動と呼応」により万事を働かせ、わたしたちの内にいます御霊の臨在の「小さなともしび」をもって、暗闇を吹き払っていってくださるでしょう。わたしたちは、「光」そのものではありません。しかし、「贖罪と内住の御霊」の臨在のともしびを輝かせ続けることはできます。祈りましょう。
(参考文献:ジョン・ストット『ローザンヌ誓約―解説と注釈』、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、高橋三郎『ヨハネ伝講義
上』)
2024年4月28日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書1:1~5「光は闇の中に輝いている」-ヨハネ福音書の特色ある強調のヒントや目的を捜す-
https://youtu.be/n1SXY76EO-o
先週から新たにスタートしました 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、ヨハネ福音書9:22, 12:42,
16:2から「ヨハネ福音書の背景」として[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]の視点を紹介させていただきました。その祈願は[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]というものでした。「会堂での祈り」がこのように改訂され、ユダヤ教会堂に属しつつ、イエスを御子なる神キリストとして信じる、いわば「隠れユダヤ人クリスチャン」が追放されていく時代に「ヨハネ福音書」は記されたことを学びました。このような視点をもって、ヨハネ1:1-5に傾聴してまいりましょう。
まず最初に、ヨハネ1:1-5のテキストの背景としての旧聖書箇所を読みましょう。それは、創世記1:1-3です。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。]
次に、今朝のテキスト、ヨハネ1:1-5のポイントを確認しつつ、読みましょう。
(概略)
A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性 (v.1-2)
B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造(v.3)
C.創造時のように地は闇に、再創造時にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている(v.4-5)
わたしは、この半年間、数十冊のヨハネ関連文献に目配りしつつ、教えられましたことは、ヨハネ福音書研究の巨匠ブルトマンの『ヨハネの福音書』を巡る文献や説教集が多いことでした。そして、この状況が内包する課題を克服するかのように登場した分岐点がJ・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』であり、その延長線上にあるD.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』が留意している「ヨハネ福音書の背景としてのヤムニアの第十二祈願」なのです。紀元70年のエルサレムと神殿崩壊後のユダヤ教会堂におけるクリスチャンの置かれた状況を理解する上で大切な視点なのです。ヨハネの福音書をこのような視点を大切にしてみていくとき、神がヨハネの福音書を通して語られていることをより鋭く、正確に傾聴できるように思います。
新約の最初の四つの福音書を読む方は、だれもマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネの第四福音書の違いを感じられることでしょう。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、ダビデ系の系図や誕生との関連で、イエスのルーツを説明しようとしています。これに対し、ヨハネは、イエスの生誕にまつわる、地上のどんなに謙遜な誕生物語も、彼の天的な起源の適切な説明としては十分ではないと考えました。ヨハネは、イエスの起源は、外面的な、この世の姿とは、明確な対照をなすような逆説としてみたのです。
それは、一方で、イエスは、その町は人によっても、他の何によっても記憶されたことがない(1:46)、ナザレ出身のヨセフの息子(1:45)であることです。しかし、他方では、ロゴスであり神の子です。もちろん、物語の最初においても(1:1、18)、また最後においても(20:28)、彼はテオス(神)と呼ばれています。しかしながら、イエスのこの彼岸性にもかかわらず、彼の人間としての起源も忘れられて良い事柄ではありません。そうでなければ、福音書が強調するような彼に対する目撃証言(1:14、2:11、19:35、21:24)は、考えられません。ヨハネ版のイエスは、天的な側面とともに、彼の独自な地上的な面をもっています(Ⅰヨハネ1:1-3)。
ここで、ヨハネ福音書の全体を眺望してみましょう。ヨハネ福音書は、ひとつのまとまった梗概(こうがい)あるいは構造を備えており、序論的な部分の後に(1章)、イエスの公の伝道活動の記録があり(2-12章)、それらは、これから見ていくように、共観福音書のものとはかなり違っています。イエスの受難と復活(18-21章)の前には、他の福音書よりもはるかに長い最後の晩餐の記事があります。この福音書の後半部分は(13-20章)、ブルトマンの『ヨハネの福音書』という注解書によって、前半が「世に対する栄光の啓示」とされているのに対し、「教会への栄光の啓示」と呼ばれています。この区別の先鋭さは、この福音書によく似合い、その二元論的性格についてものがたっています。
そこで、イエスの弟子たちの教会は、運命的なほどに敵対する世から退き、イエスと共にのみ存在しています。共観福音書がその名の通り、イエスの伝道について共通した理解を記しているのに対して、ヨハネ福音書の構造と内容がまったく異なったものにしているのは、イエス自身と彼の行動の描写であり、説教の眼目です。それは、信ずるか信じないかに関わり、ユダヤ教の信仰とキリスト教の新機軸による提案とに関わる紛争という形に投げ込もうとしています。イエスは、ファリサイ派と論争しますが、それは律法の解釈を巡ってではなく、イエスを誰とするかに関わっています。他の福音書に対するヨハネ福音書のこの独特さ、ヨハネの特色ある強調は、どのように理解すれば良いのかを考えていきたいと思います。
ヨハネ独特の強調に関連し、今朝の1:1-5の、創世記1:1-3の「御子イエス・キリスト」の視点からの解釈の新機軸の由来は、どのように理解すれば良いのでしょう。D.M.スミスは、ヨハネ福音書は[どのようにして、あるいはなぜ、福音書記者がそのような仕方で、彼が(幾つかの資料源から)受け取ったものを表現しようとしたのかを、告げてはいない。同様に、第四福音書の一般的な宗教的・文化的環境(ヘレニズム、前グノーシス主義、ユダヤ教の死海写本や知恵の諸モチーフ)は、この福音書記者が書いている概念や語彙を提供しはするが、彼の特色ある強調を説明しはしない。そこで、研究者は、なぜ、また、どのようにして、特色ある強調が出て来たのかに注目しつつ、第四福音書を読まねばならない。つまり、読者は、この福音書の特別な設定や目的の、物語の中から顕れるかもしれないちょっとしたヒントや目的を捜すのである。それは、さして難しい仕事でないかもしれない。なぜなら、福音書記者はしばしばわれわれに、彼自身の時代ならびに状況とイエスの時のそれとの重要な相違を彼が自覚していたことを告げているからである]と記しており、わたしたちの研究は大変勇気づけられます。
わたしたちは、今朝、ヨハネの独特の序文を読み、[この福音書の特別な設定や目的のヒント]を発見したいのです。それは、ヨハネが本福音書の最初で、創世記1:1-3を「御子イエス・キリスト」を中心にして、旧約の唯一神信仰(申命記6:4)を、三位一体の神信仰で再解釈し、再表現したのかということです。[創1:1
はじめに、神が、天と地を、創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が、大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]を、三位一体の神が本来意味されていた線に沿って、ヨハネはより精密に解説しています。その巧みさは「優れた刀匠」のようです。
[1:1 [初めに]ことばがあった。ことばは[神]とともにあった。ことばは[神]であった。1:2
この方は、初めに[神]とともにおられた]は、[A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性]を明らかにしています。[1:3
すべてのものは、この方によって[造られた]。[造られた]もので、この方によらずに[できた]ものは一つもなかった]は、[B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造]されたことを説明しています。[1:4
この方にはいのちがあった。このいのちは人の[光]であった。1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった]は、[C.創造時のように地は闇にあったように、キリストの初臨をもって始まった再創造の開始された今にも「ヤムニアの第十二祈願」のような反キリストの闇が覆っている]と、1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の間の不穏な状況を示唆しているように思います。
わたしたちは、先週、J・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』から、ヨハネ福音書の独特さを解くひとつの鍵を入手しました。その鍵をもって、今朝の「唯一神論信仰」テキストとしての旧約聖書の前提の創世記1:1-3の、ヨハネによる「三位一体論信仰」を御子イエス・キリストを軸とした御父・御子・御霊なる神の告白と、その創造のみわざとして、再解釈のヨハネ1:1-3を、ヨハネ福音書に関わるキリスト教共同体が直面しているユダヤ教会堂とのせめぎ合いの論争(9:22,
12:42, 16:2)に対するひとつの解答としてヨハネ福音書執筆を捉えますと、 「1:5
[光]は[闇]の中に輝いている。[闇]はこれに打ち勝たなかった」の[闇]は、この三位一体の神との関係を表現しているものでしょう。
ヨハネは、その[闇]を「世」という用語で表しています。[ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった]と、世はアダムの堕落により、今は疎外と断絶、罪と死と滅びの状態にあります。[1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、ご自身の人格とみわざを啓示し、その受領者として、最初に受け入れるべきであったイスラエルの民の大半は、拒絶し、信じる者を迫害し、ついには異端視し、ユダヤ教会堂からの排除へと舵を切ったのです。これは、恐るべき「盲目であり、闇」です。[1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった]と、残れるユダヤ人クリスチャン、異邦人クリスチャンへの恵みが紹介されています。ヨハネ福音書は、このような情勢の中で、対外的にはイエスを信じながらも告白できないでいる者たちに決断を促し、また対内的には教会員たちに、もう一度イエスの言葉(ひしては教会のケリュグマ)にしっかり留まるように訴えるという目的のために書かれたのです。
ヨハネ福音書の序文は、ヨハネの教会の再結集、新しい創造の中心としての、言葉(ロゴス)としてのイエス、歪んだ単一神信仰ではなく、複数性を宿す唯一神信仰の深みと豊かさとしての三位一体の神信仰、そして御子なるイエス・キリスト信仰を掲げているのです。このお方こそ、旧約聖書に約束されていた「真のメシヤ」だと、口酸っぱく最初に宣言しているのです。ユダヤ人であるヨハネの同胞のユダヤ人伝道への情熱の塊、すなわち「ビッグバン」のような信仰告白です。それは、[背教者たちには、希望がないように。…ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように]のヤムニアの第十二祈願に象徴される「イエスを信じるか、信じないか。イエスを誰とするのか」という「闇」に関わる根本問題に対する解答であったのです。
わたしたちは、今自由のある国で自由な教会を満喫しています。しかし、家族、親戚、兄弟やそこで行われる冠婚葬祭や地域や自治会で催される宗教行事においては、種々のレベルの「闇」の中に置かれているのではないでしょうか。わたしたちが、そのような状況に向かい、ヨハネにならって[A.キリストの先在性、御父なる神との平等性、御子なる神の神性]
、[B.御子なる神の創造のみわざ、御父を起源、御子を通し、御霊によって創造]を信じ、告白し、そこに目を留めて生きていく時、わたしたちは1世紀のヨハネ共同体のクリスチャンたち、またユダヤ教会堂のただ中にいるクリスチャンたちのように、内住の御霊の臨在による「光」をもって、わたしたちは、
「[闇]の中に輝いている[光]」として証ししていけるでしょう。祈りましょう。
(参考文献:松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2024年4月28日 新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
ヨハネ福音書9:22, 12:42, 16:2「導入―ヨハネ福音書の背景」
-はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき-
https://youtu.be/TMIFO_8ldaE
先週で、三年三ヶ月あまりをかけた『詩篇』傾聴シリーズの旅を終え、今日からは『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの旅に旅立ちます。この旅は、2023年の初夏、神学校二年生であった息子に「『ヨハネ福音書の序文からメッセージを作りなさい』という課題が与えられたのだけれど、良い注解書や優れた参考文献等はあるかな」と相談されたことが契機でありました。かなりの蔵書を備えている一宮基督教研究所の図書室でありますが、福音書関係の注解書と参考文献は結構手薄であることに気づかされました。それとともに、わたしの奉仕生涯において「福音書関係からの説教は結構断片的であった」ことにも気づかされました。
それで、「この機会に、まずはヨハネ福音書関係の注解書と参考文献を収集し、腰を据え、ヨハネ福音書研究に取り組んでみよう」と思ったのです。まずアマゾン書店や古書店等から和書の注解書と参考文献また説教集を数十冊収集し、目配りしました。それで二十世紀の福音書研究の状況や経緯を教えられました。ルドルフ・ブルトマン著『ヨハネの福音書』を軸とした展開等、いろいろと教えられました。そして、あの有名なJ・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』で取り上げられた「ヤムニアの第十二祈願」が新たな展開を導いていること、そして、デイル・ムーディ・スミスの『ヨハネ福音書の神学』がそれらの洞察を接続させようとしていることを教えられました。
このようなことから、わたしが恩師宇田進師よりいただいた「日本の福音主義神学に未来はあるか」
https://aguro.jp.net/d/pd/pdf/intro/intro_future_in_evangelicals.pdf
で示された「①聖書的適格性、②正統信仰の公同性、③現代的適応性、④学問的自己革新性」の四つの要素のバランスのとれた「ヨハネ福音書」の傾聴に取り組んでいきたいと願わされました。そのときに、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』は大変参考になると有益な書籍であると確信させられたのです。それゆえ、今日から始まる『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズの旅は、第一義的に「ヨハネによる福音書」に段落単位で傾聴してまいりますが、同時にその段落の中に存在する「歴史的背景や神学的意味合い」を深堀りし、その本質を今日のわたしたちの信仰生活に適用していきたいと願っています。
今回の『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、片手に「ヨハネによる福音書」を持ち、もうひとつの手にD.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』を携えながら、聖書に傾聴していこうとしています。わたしがクリスチャンになった当初は、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を用いて、スコップで聖書の表面を掘るように浅く読むだけでした。しかし、あれから半世紀を経た今、『ヨハネ福音書の神学』をボーリング機械で地下数千メートルを掘削するようにして、鉱脈・油田・温泉等を発見していきたいのです。
その手始めに、J・ルイス・マーティンの『ヨハネ福音書における歴史と神学』が発見し、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』が留意している「ヨハネ福音書の背景としてのヤムニアの第十二祈願」についてみていきたいと思います。これは、紀元70年のエルサレムと神殿崩壊後のユダヤ教会堂におけるクリスチャンの置かれた状況を理解する上で大切な視点なのです。
まず、ヨハネ福音書の中の、[ヤムニアの第十二祈願]と関連とみられる三つの聖書箇所を読んでおきましょう。
【ヤムニア会議での、「第十二祈願改訂による隠れキリシタン」の摘発の決定】―[ヨハ 9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。]
【「第十二祈願」を唱える代表に指名されないよう取り計らうことにより、発覚を逃れる】―[ヨハ 12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。]
【会衆代表として任命し、「第十二祈願」を大声で唱えさせるよう追い込み、ためらう者を追放する】―[ヨハ 16:2
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。]
ここには、ユダヤ教会堂にとどまりつつ、イエスをメシヤと信じていたクリスチャンたちへの言及があり、彼らが「ユダヤ教会堂からの追放」の危機の中に置かれていたことを示しています。ヨハネ福音書は、このように押し迫る暗闇の危険・恐怖の視点で読まれるとこの福音書のリアリティにより深く入っていけるのです。
さて、ここで、ヨハネ福音書をメリハリのきいた読み方をするために、ヨハネ福音書の背景として研究の進んでいる「ヤムニアの第十二祈願」について学んでおきたいと思います。ユダヤ教会堂とユダヤ人クリチャンの完全な分離を決定づけたこの祈願を決めた「ヤムニア会議」とは何でしょうか。
[第一次ユダヤ戦争によって、エルサレムは破壊され、壮麗なエルサレム神殿は焼け落ちました。このことはユダヤ教の歴史において大きなターニングポイントとなりました。これにより、ユダヤ教の神殿祭儀とユダヤ王朝に価値を置くサドカイ派は存在意義を失い、一方シナゴーグの活動を中心とするファリサイ派が民族的アイデンティティを担うことになりました。エルサレムの陥落から逃れたユダヤ教の(主にファリサイ派の)指導者たちは、ローマ帝国当局の許可を得て、エルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニア)にユダヤ教の研究学校を設け、ユダヤ暦を計算し、トーラーの研究を続けることでユダヤ教の伝統と先祖からの文化的遺産を絶やすまいとしていました。ヤムニア会議とはいわゆる現代的な意味での会議ではありません。それは、このユダヤ教学校に集まった学者たちが長い時間をかけて議論し、聖書(ヘブライ語聖書)の正典(マソラ本文)を定義していったプロセスを指しています。この時代、すでにキリスト者はユダヤ教の一分派という枠を超えて、地中海世界へ飛躍しようとしていました。しかし、この会議によってキリスト者はシナゴーグからの追放が決定的となりました。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BC%9A%E8%AD%B0
ラバン・ガマリエルは、紀元80年頃から115年頃までヤムニアの学院の長でありました。ヤムニアに集められた学者たちの集団の権威は、彼の指導のもとにかなり大きなものとなり、その結果、その集団はみずからを実際にかつてのエルサレムのサンヘドリン(最高議会)の後継者とみなすようになりました。ユダヤ教に「アミダーの祈り」(十八祈祷文)というものがあり、ユダヤ人は日々にこれを唱えるそうです。ガマリエルは、当時の「イエスをメシヤと信じつつ、ユダヤ会堂にとどまっている状況」を打開するために、この祈りの「異端者たちに反対する祈願」を次のように改訂しました。
【第十二祈願】
[背教者たちには、希望がないように。
そして尊大な政府は
われわれの時代にすみやかに根こそぎにされるように。
ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。
そして、彼らは生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように。
主よ、誇るものたちを卑しめたもう汝は、ほむべきかな。]
このような動向は、紀元70年以後の状況を物語っています。悲惨なローマとの戦争とエルサレム神殿の破壊の時代においては、ユダヤ人の間に多様性が許容されなくなってきていました。サドカイ派の大祭司団はみずからが主宰していた神殿を失いました。クムランのエッセネ派は死海の修道院をローマ軍の攻撃で失いました。ローマへの抵抗を主張していた熱心党は、信用を失っていました。その結果として、ユダヤ教が生き残る道は「旧約聖書と律法」のみであり、そこに依拠する宗教として再構成されつつありました。そこでファリサイ派の重要性が格段に増していったのです。そのような動向の中で、「イエスをメシヤと信じるユダヤ人」は会堂の中での居場所をなくしつつあり、ユダヤ人は「ファリサイ派」と同一視され、対立・亀裂が深まっていきました。そのような状況下で、ヤムニア会議で「十二祈願」改訂が行われたのです。
1世紀末、90年代に記されたといわれる「ヨハネ福音書」にはそのような背景がありました。このような状況を念頭に置きますと[ヨハ
9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると(ヤムニア会議で)決めていた]という聖句の理解にも、メリハリがつくことでしょう。90年代に記されたといわれる「ヨハネ福音書」は、二つの舞台を重ね合わせて綴られています。つまり、「イエス自身のAD.30年代の舞台」と「ヨハネ福音書記者のAD.90年代の信徒と教会の舞台」とです。ヨハネは、[イエスをメシヤと信じるユダヤ人たちを説得して、ユダヤ教会堂から退かせ、それと明確に区別されるキリスト教共同体である、キリストのからだなる教会に入会させる]ことを目的のひとつとして「ヨハネ福音書」を執筆したのです。そのような視点で読むと、ヨハネ福音書には、ここかしこにそのような実存的決断を迫る物語が満ちていることに気づかされます。
わたしたちが「ヨハネの神学」に傾聴し、その要点を明らかにするということは、どのように、「90年代の第二の舞台である、ヨハネのキリスト教共同体の必要」から、また「その必要に関連して、その神学的強調がひきおこされたか」を示すことです。その必要とは何かを知る上で、[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]という視点が大切なのです。ユダヤ会堂に属したまま、イエスをメシヤと信じていたユダヤ人クリスチャンは、キリシタン時代の「隠れキリシタン」のように、いわば「踏み絵」としての「ヤムニアの第十二祈願」を唱えるよう追い込まれていたのです。そして、このような事態は、1世紀末のユダヤ会堂でも、豊臣・徳川時代の日本でも、国家神道時代でも、また今日のあらゆる類似する霊的戦いの中において、時間と空間を超えて経験される危機です。
そのような状況下で二つの時間軸・二つの空間軸が重なるようにして、引き起こされるキリストとの出会い、意味、そして引き出される応答が起こるのです。ヨハネの時代の経験を経験し続けるのです。それが「ヨハネ福音書」経験であり、ヨハネが14・15・16章で明らかにしている「助け主(パラクレートス)」の経験なのです。そこにおいて、1世紀末の実存的決断を御霊において21世紀に経験するためです。ニコデモの経験、サマリヤの女の経験、生来盲目の人の経験、トマスの経験の類似の経験をわたしたちも、わたしたちの生涯のただ中で御霊において経験し続けているのです。それをわたしたちの生活の中に発見していくことが『ヨハネ福音書の神学』傾聴の旅なのです。このような視点から、ヨハネによる『福音書』に傾聴し、D.M.スミスの『ヨハネ福音書の神学』からの神学的薫陶を受けていきたいと思います。
今朝は、本シリーズの主旨を説明させていただきました。また副題の[はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき]は、「ヨハネ福音書」の最初のことば「はじめにことばありき」をもじったもので、このシリーズの最初の学びから最後の学びまで常に念頭に置いていただきたいこととして、掲げさせていただきました。このことばを反芻しながら、このことばの歴史的内実をイメージしながら、傾聴し続けていただけたら感謝です。わたしにとっても、今回の取り組みは結構難解です。ましてや、視聴者である皆様においては、わたしの語っていることのすべての事柄を一度に理解することは難しいかもしれません。ただ、それでもわたしはこのような取り組みに召されているのです。ここが「研究所のチャペル」ということで許されているとも言えます。とにもかくにも、このようなかたちで「船出」します。それぞれが「達しえたところに従って」一歩でも、二歩でも、霊的にも、神学的にも成長していくひとつの糧としていただければ幸いです。祈りましょう。
(参考文献:
J・ルイス・マーティン著『ヨハネ福音書における歴史と神学』、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』、“John”
Abingdon New Testament Commentaries、J.L.メイズ編『ハ-パ-聖書注解』)
2024年4月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇150篇「息のあるものはみな、主をほめたたえよ」-その大能のみわざ、その偉大さにふさわしくハレルヤ・コーラスを-
https://youtu.be/z0-SqspICTY
本詩150篇傾聴をもって、三年三ヶ月あまりをかけた『詩篇傾聴シリーズ』も終わります。さて、『詩篇傾聴シリーズ』とかけて何と解けば良いでしょう。わたしは、『詩篇傾聴シリーズ』とかけて「アウトランダー(未知なる地へ向かう冒険者)と解きます。そのこころは、『詩篇傾聴』とは連続するタイムスリップに似ている」です。
「アウトランダー」というドラマは、[看護師のクレア(カトリーナ・バルフ)は夫とスコットランドのハイランド地方で休暇を過ごしていたが、途中に訪れたストーンサークルで、一人200年前にタイムスリップしてしまう!辿り着いた先は、スコットランドとイングランドの緊張が高まる1743年。現代と過去の愛と運命に翻弄されながら、
激動の時代を懸命に生き抜くクレアの物語]です。
クリスチャン生活は、ある意味で、「現在と過去と未来」をタイムスリップしながら生きる人生であると思います。そこに、わたしたちの存在と人生に深みと豊かさが生まれてくるのだと思うのです。
このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
詩[ 150 ](詩篇150篇全体を締めくくる、ハレルヤ・コーラスのような賛栄唱)
A.賛美への召喚(v.1)
B.賛美の理由(v.2)
C.賛美の方法(v.3-5)
D.賛美召喚の範囲(v.6)
本詩を読んで、皆さんはどのような印象をもたれるでしょうか。ハレルヤで始まり、「神(主)をほめたたえよ」が11回繰り返され、ハレルヤで終わっています。「賛美への招き」で始まり、その「賛美する理由」が述べられ、「あらゆる楽器を用いて賛美せよ」、「息をするすべてのものよ」と召喚の範囲が普遍的であると知らされます。本詩は、五巻からなる詩篇150篇の全体を締めくくる賛栄唱であり、「ハレルヤ」が「ヤーウェ(神、主)をほめたたえよ」を意味することから理解しますと、これはヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」に似ているように思います。
ハレルヤ・コーラスは、逸話とも言われますが、ロンドンで開演演奏に招かれた英国国王も、神の御前における荘厳さに打たれたイザヤのように、思わず椅子から起立したと聞き及びます。詩篇全体の最後を締めくくる賛栄唱である150篇は、[150:6
息のあるものはみな]そのように起立して、ハレルヤを唱和するよう招いている詩篇です。わたしは、そのような印象を抱いたものですから、先週は一週間、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を聴きながら、本詩に傾聴させていただきました。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Handel_-_messiah_-_44_hallelujah.ogg
振り返りますと、詩篇150篇に傾聴し続けることができたこの三年三ヶ月あまりは、本当に幸いな期間でありました。この期間、わたしは毎週、詩篇の一篇ずつと取り組むよう、自らに課しました。該当する詩篇を繰り返し読み、朝に夕に五色のマーカーと五色のボールペンで教えられること、示されること、連想すること、与えられる知恵等を、大判聖書の空白部分にびっしりと書き込み続けました。同時に、信仰の先輩方の注解書、解説書、説教集、研究書等を幅広く目配りし続けました。それらの取り組みの中で、信仰生活の深さ、高さ、広さ、長さを本当に豊かに教えられたように思います。それは、タイムマシンに乗って旅するような毎日でありました。
若い頃の夢は、大きな家に住み、広い庭を造り、読書と音楽鑑賞にふけり、世界各地を地理的に、いわば“水平に旅行する”
ことでした。しかし、クリスチャンになってから少し考えが変わりました。聖書を通して、時間軸を超えて「過去・現在・未来」を、いわば“垂直に旅行する”
ことができるようになったからです。聖書を開くと、わたしたちは、黙示録のヨハネに [黙4:1
その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。]と言われたように、天にある[150:1
神の聖所]に引き上げられるからです。わたしたちは、そこから[御力の大空]を見下ろします。
わたしたちが、天にある[150:1 神の聖所] から見下ろす[御力の大空]の世界の下には、[創1:1
はじめに神が天と地を創造された。1:2
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった]とある記事に関し、諸説―https://aguro.jp.net/d/jec_kbi/20121116_ks_ag_What_is_Bible_and_Hermenuetics_in_the_Post-Modern-Ages.pdf
があります。科学的データとの調和を重んじるある神学者によれば、約140億年前のビッグバンにあたるのではないかと推測しています。そして約40億年前に地球は生物が生息可能な状態とされ、その1億5000年後に地球は生物で満ち溢れたと推測されています。
わたしは、創世記の創造物語の解釈については特定の立場に立つものではありません。幼子のように「全知全能の神さまが六日間で天地万物を創造された」ことも受け入れられますが、同時に現代の科学者の理解との対話を通してもたくさんのことを教えられ続けています。創造物語の解釈・説明はどのようであれ、神による天地創造という[150:2
その大能のみわざ]を思い、神をほめたたえることが大切だと思うのです。
また、神さまの[150:2
その大能のみわざ]というとき、それはまた、神の啓示の受領者として用いられたイスラエルの民の歴史に思いをはせることです。[創1:31
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった]と良き創造の教説ともいわれる世界が、人間の罪と死と堕落により虚無に服してしまいました。この世界と人類を救いに導くために、ひとりの人アブラハムとその子孫が選ばれ、人類の、また被造物世界の贖い主イエス・キリストが受肉・来訪されました。この人類贖いのドラマを説明する視聴覚教材として、イスラエル民族の歴史は用いられました。出エジプトの出来事、荒野の旅程、約束の地の征服、ダビデ王朝の確立、南北王国時代の取り扱い、審判としての捕囚とその回復もまた、神さまの計画と摂理の[150:2
大能のみわざ]であります。わたしたちは、内住の御霊と聖書のみことばにより、その歴史の当事者として入り込むことが許されているのです。
わたしたちクリスチャンは、いわば聖書というタイムマシンを通して、繰り返し、繰り返し、ビッグバン以降の宇宙生成の歴史、地球形成と生物が満ち溢れる世界という「神の栄光の舞台」にタイムスリップするように招かれています。それによって、わたしたちの存在と生涯は退屈なものではなく、「神秘の世界の同伴者」となりえます。また、「はじめに神は園を造り給えり」といわれるように、「良き創造」としてのエデンの園とその後に起こる悲劇の現場に、招かれ、わたしたちの犯した罪、わたしたちの内部に棲息する生まれながらの罪の性質の直視にも招かれます。そして、あの姦淫と殺人を犯したダビデの詩篇32篇、51篇の罪の告白、赦しの懇願にも導かれます。わたしたちは、聖書を傾聴しつつ、人生を旅する旅人です。
その旅は、わたしたちが、「聖書の物語や祈りや賛美の中に入り込んでいく」側面と、聖書の物語が「わたしたちの人生の中に、存在の中に滲透してくる」側面の両面があり、それは表裏一体ともいえます。それが、内住の御霊を経験しつつ生かされる生涯を「雲の柱、火の柱」となって守り・照らすのです。それは、ちょうどいろんな果物がミキサーで砕かれてミックスジュースとされるように、わたしたちの存在と生涯が、聖書に啓示されている[150:2
その大能のみわざ、…その比類なき偉大]な人格とに、ミキサーにかけられ続けるようなものです。
そのお方は、旧約の準備的な啓示では[出34:6
【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神]と言われる神です。新約に至り、完全なかたちで啓示された神は[ヨハ1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである]という三位一体で御子なるイエス・キリストです。このお方を通して、神の偉大なる人格は[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]に惜しみなく示されています。(※次週より、この『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズに導かれています。お祈りください。)
このように、世界の創造、イスラエルの歴史、そして新約の出来事において啓示されている聖書のみことばを通し、 [150:2
その大能のみわざ、…その比類なき偉大]な人格に触れていきますとき、わたしたちは詩篇150篇を背景に、また聖書における創造物語と終末における完成物語に取り込まれ、没入し、旧約では地上にある影としての[150:1
神の聖所]から、地上から[御力の大空]を仰いで 、新約では天にある実体としての[150:1
神の聖所で]から、天上から[御力の大空]を見下ろして、福音書冒頭にあるように、天使たちの聖歌隊と天上と地上の、民族を超えたすべての神の民とともになす、ハレルヤ・コーラスに加えられるのです。
そのときには、[150:3 角笛…琴と竪琴…。150:4 タンバリンと踊り…、弦と笛…。150:5
音の高いシンバル…鳴り響くシンバル]等、あらゆる楽器が総動員され、すべて神をたたえるために使われています。昔、『ダラム便り』という本を通し、英国での沈黙と静寂のただ中で神さまの臨在を感得する礼拝のあり方と、第三世界のキリスト教会におけるタンバリンやシンバル、太鼓と踊り等の。身体的動作が加わり、音楽のリズムにあったドラマ参加スタイルの礼拝・賛美の多様性について読んだことがあります。わたしたちは、それぞれの文化や歴史の中で、個性的な礼拝・賛美の形式を有しています。それが、静寂の中であれ、リズミカルな動作を伴うものであれ、わたしたちは天上と地上のすべての神の民とのハレルヤ・コーラスに参加するよう招かれているのだと知ることが肝要と思います。今日、そして一生涯、わたしたちもまた、この詩篇150篇のハレルヤ・コーラスに参加させていただきましょう。祈りましょう。
(参考文献::Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2024年4月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇149篇「口には神への称賛、手には両刃の剣」-半分は工事を続け、もう半分はよろいで身を固めていた-
https://youtu.be/LOf5QYy3t7E
本詩は、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]をもって始まります。イスラエルの賛美は第一義的に、広大な創造の業や人間の歴史の全般にあらわされた神の知恵と力に対する一般的な宗教心によって、呼び覚まされたものではありませんでした。むしろ彼らの賛美は、この民の生活状況の中で、神の救いの力と目的を体験したことに基づくのです。当時の最も強大なエジプト帝国に従属する犠牲者として、くびきにつながれた奴隷の悲惨な歴史的状況に介入された神は、無からひとつの民を創造し、出口のない袋小路から未来への新しい道を開くという素晴らしい業を行ってくださったのです。
そのため、イスラエルの最も初期の詩歌の狙いは、このような救いの力を現わしてくださった神に答えて、喜ばしい賛美の叫びを響かせる(出エジプト15:1-18)ことでした。そして、本詩の背景は、第二の出エジプトともいわれるバビロン捕囚からの解放と母国への帰還、神殿とエルサレムの再建において、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]と呼びかけられているネヘミヤ時代のものと思われます。新約の光においては、民族主義的な、いわば「栗のイガ」は、イエス・キリストにある普遍主義において払拭されており、霊的な次元から、罪の奴隷状態からの解放と普遍的な神の民の創出における[149:1
新しい歌]へと召されているのです。そのような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 149 ]
A.自らの造り主にあって喜べ。自らの王にあって楽しめ(v.1-4)
B.彼らの口には神への称賛、彼らの手には両刃の剣(v.5-9)
[149:1
新しい歌を【主】に歌え]に唱和するとき、イスラエルの民は、具体的な悲惨の中から神に祈り、ついで経験した具体的な救いの業のゆえに賛美が爆発したミリアムの歌を思い起こしたことでしょう。出15:21
ミリアムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」。新約の光において、わたしたちはイスラエルの民がエジプトで、またバビロンで奴隷状態の中に置かれていたように、罪と死と滅びの、いわば奴隷状態の中に置かれていました。[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]とある通りです。
しかしそのようなわたしたちに対して、[ヘブル9:26
キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました]。イエス・キリストの十字架の出来事は、新約のわたしたちにとっての出エジプトの出来事であり、バビロン捕囚からの解放の経験であります。それゆえ、わたしたちは、ミリアムのように、またネヘミヤのように[149:2
自らの造り主にあって喜べ。…自らの王にあって楽しめ]と励まして良いのです。神は天地万物の創造主でありますが、民族を超えた、普遍的な神の民の創出者でもあります。
またこのお方は、[149:2
王]でもあられます。キリストの血によって贖い出された新しい神の民を、内住の御霊を通して統治される王なるお方です。わたしたちは、無神論的なニヒルな眼をもって、自己の存在や生涯をみつめる必要はありません。W.H.オーデンのクリスマス・オラトリオで、コーラスは[巡礼の道は深淵に導かれた。かくも苦難に満ちた現実に出会うだめであったのか、我々が居心地の良い無知を後にしたのは。あの勝利に満ちた答えはこれだというのか。巡礼の道は深淵に導かれた]と歌います。不安と混沌の中で、現代人であるわたしたちは、ある意味でエジプト脱出後の古代イスラエル人の経験にあずかっています。
聖書の脱出物語には、約束の道に向かう近道が阻まれ、「神は荒野の道に回らされた」(出13:18)と記されています。わたしたちにもそのように意識する場面が多々あるのではないでしょうか。つまり、「旅する民」に属する人々は、歴史を貫く彼らの旅の目的地が、決して楽な高速道路を経て到達されず、そのかわり、詩人や芸術家が描く「荒地」に通じる大きなう回路を歩まなければならないことを理解しているのです。それが人生です。「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味は分からない」といわれるゆえんです。今、振り返りますと、長かった詩篇傾聴シリーズの旅も残すところわずかとなったと思います。詩篇にはいつの日か取り組みたいと願っていましたが、その分量がヨブ記の約四倍弱ということで尻込みしていました。ただ、背中を押すひとつのメッセージがありました。
これは、わたしが「『詩篇傾聴』シリーズに取り組みたい!」と動機づけられた一節です。それは、ドイツ旧約学の黄金時代を招来したひとり、クラウス・ヴェスターマンの言葉です。ヴェスターマンの神学的思索では、第二次世界大戦の戦争体験が原体験となっている、といわれます。「戦時中、わたしがかつて自然に対して抱いていた思いや培っていたロマンチックな考えはことごとく崩された。その時、聖書の中で創造に関して言われていることがようやくわかった。機関銃の弾丸の飛び交う中、地面を這うように前進してもはやへとへとになっていたその時、まさに地面を這う自分の目の前に、小さな、しかし赤々と灯るような赤い花がいくつも咲いているのが見えた。その花々を見た時はじめてわかった。この小さな可憐な花々は、この戦争よりも偉大なのだ、と…」(クラウス・ヴェスターマン『説教集』詩篇104:27-30)
「詩篇研究の中には、このような感動があるのか」と感動し、それを教えられたくて、詩篇150篇の旅へと旅立つ決心をしたのです。詩篇研究を念願し、「内地留学」ならぬ「内心留学」、すなわち、著書や文献等を通して薫陶を受け続けるべくその門下に入ったのです。2020年12月27日
年末感謝礼拝の詩篇1篇から始まりましたから、三年四ヶ月弱の旅でありました。数多くの先輩の文献から薫陶を受け続けましたが、最も教えられた一冊をあげるとしますと、B.W.アンダーソン著『深き淵より―現代に語りかける詩篇』がそれです。わたしは、イスラエルの民の「深き淵より」の叫びを傾聴しつつ、わたしの「深き淵より」の叫びをも耕し続けることを学ばせていただきました。それは本当に豊かな時間帯でありました。わたしは、飛行機で飛び去るような人生ではなく、潜水艦のように「深き淵」に潜航し、そこから学ぶこと、教えられる人生を大切にしたかったのです。
それで、[149:1
新しい歌を【主】に歌え]は、わたしにとって、詩篇傾聴シリーズに挑戦することでありましたし、今そのシリーズを終えようとしている今は、「ヨハネ福音書」傾聴シリーズへの挑戦への促しとして受けとめています。次のシリーズへの呼び水として言及しておきますと、A.M.ハンター著『現代新約聖書入門』には、彼が[BBC放送ラジオ放送で、…「文学の中で最も美しい書き出しをしているものは何でしょうか」と尋ねられた時、「それはヨハネの福音書の序文」ですと答えた]と記しています。[ヨハネ1:1
はじめにことばがあった]で始まるこの序文は、「ロゴス賛歌」ともいわれ、初代キリスト教会における讃美歌の一節でもあったのではないかと思われるものです。素晴らしいロゴス賛歌をもって始まる、ヨハネ伝に傾聴し続ける新たな旅に期待しています。
そのようなことで、今朝は次のシリーズの準備と重ね合わせて本詩に傾聴しているわけです。わたしにとっての[149:1
新しい歌]としての「ヨハネ福音書傾聴シリーズ」は、[149:2
自らの造り主]が、わたしの個性と賜物を生かして取り組むように導かれているものです。このような次々の聖書各巻傾聴シリーズの展開は、召されるその日まで続けることができるものではないかと楽しみにしているのです。それは、またわたしにとって[自らの王にあって楽し]み得る、主の統治と支配のもとでの召命に対する応答であり、決意であります。その奉仕は、御父に見守られつつ砂場で戯れる幼子のようであり、[149:3
踊りをもって、…タンバリンと竪琴に合わせて]主を賛美する楽隊のようでもあります。わたしたちひとりひとりに、それぞれの個性と賜物に合わせた召命があり、それを通して歌う「新しい歌」があると思います。それを惜しみなく歌う者、奏でる者となりましょう。
本詩の後半は、[B.彼らの口には神への称賛、彼らの手には両刃の剣]とあるように、これらの召命に従う旅路では、妨げにも直面します。ちょうど、本詩の背景としての、ネヘミヤが[ネヘ4:9
そこで私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた。…4:16
その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った]とあるように、奉仕に対する妨げの存在とそれとの戦い方を教えてくれます。わたしたちが召命と賜物によって、奉仕の現場に派遣されるとき、そこは「オオカミの中に送り込まれた羊」のような側面があることに無知であってはなりません。そこにおいては、「鳩のような素直さとともに、蛇のような知恵深さ」が必要とされます。少しの不注意で取返しのつかない人間関係の破壊やときには心身の障害を被ったり、奉仕そのものの挫折を来たらせたりするからです。アイアンドームのようなミサイルの防空システムが必要であり、いつも、ソロモンのような神の知恵、カイザルのコインのようなイエスの知恵を祈り求める必要があります。
彼らのエルサレムの城壁の再建という奉仕には、[149:5
敬虔な者たちは栄光の中で、喜び躍]るような、そして[自らの床の上で、高らかに歌]うような、[149:6
神への称賛があ]る共に、[彼らの手には、両刃の剣があ]りました。両面作戦です。一方だけに偏ってはいけないのです。それは、ネヘミヤにおいては、エルサレムの城壁再建という召命と賜物を妨げ、破壊する力の存在がありました。それとの戦いには、失敗はゆるされませんでした。それは民族の存亡、そして安定的成長の可能性に関わるものでした。新約のわたしたちにとっては、そのような戦いは、軍事的なものではなく、平和的なものであり、それは福音宣教に関わるものと理解されるでしょう。神さまは、[149:7
それは国々…、もろもろの国民を…、149:8
王たちを…貴族たちを…]、福音理解に導き、彼らを罪と死と滅びから救い出すために、[149:9
また書き記されたさばきを、彼らの間で行]い、み旨を全世界で達成するために、ご自身の民を用いられるでしょう。そしてそのような召命と賜物にあって、奉仕にあずかるわたしたちにとって、[これは、主にある敬虔な者すべての誉れ]となることでしょう。では、祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、C.ヴェスターマン『詩篇選釈』、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2024年4月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇148篇「主が命じて、それらは創造された」-食傷気味の詩篇を如何に意味深く味わうか-
https://youtu.be/URR79bFLPWQ
本詩148篇を読んでいて、ある言葉を思い出しました。詩篇に関するある本の最初にひとりの神学生が、「わたしは詩篇につまずきました」と語っていたことをです。最初は「なんてことを言うのか」と思いましたが、詩篇150篇に取り組んでいるうちに、「なるほど詩篇にはそのような要素がある」と理解できるようになりました。本詩には、前半だけで8つ「ほめたたえよ」という言葉が繰り返されています。前半は「天において、主をほめたたえよ」、後半は「地において主をほめたたえよ」が連呼されています。ストーリー性もなく、同じ言葉が繰り返される。これはいくらなんでも「食傷気味になる」のではないか。これが、上記の神学生のつまずきでありますが、多くのクリスチャンも、「同様の印象を抱く」のではないでしょうか。では、そのように受けとめられかねない詩篇を、「今日のわたしたちの生活に意味ある賛美として受けとめるためにどのような工夫が可能なのでしょうか」。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 148 ]
A.「いと高き所の、主のほめたたえ」に目が開かれなさい(v.1-4)
A’.「主が命じ、創造された」ことの意味に思いを潜めなさい(v.5-6)
B.「地において、【主】をほめたたえる」反響に覚醒されなさい(v.7-12)
B’.主が明らかにされている神学的含蓄に目を開かれなさい(v.13-13)
本詩148篇は、「命令形による詩篇」、すなわち「ほめたたえの詩篇」に属しています。1-6節は[いと高き所で、主をほめたたえよ]と、天から主をほめたたえるよう、7-12節は[地において、【主】をほめたたえよ]と、地から主をほめたたえるよう促されています。神をほめたたえることが、広がっていく様子が描かれています。見えない被造物である[148:2
すべての御使いたち]、そして見える被造物である[日、月、輝く星たち]、そして[大空である天、空の上にある水たち]―これらは、創世記の創造物語が、神の栄光を物語っていることを言い表しています。本詩は、その物語の断片ですが、詩人は創造物語全体を思い起こし、イメージでパノラマのように再現することを求めています。
創造の物語には、みわざの中に表されている神の栄光があります。詩篇19篇にあるように、「昼は次の昼に語り…」、「夜は次の夜に語り伝え」、そのリズミカルな連続は神の栄光を語り伝えることを中断することはありません。それは、何世紀にもわたり、宇宙の歴史を物語っています。それは、被造物によって創造者がほめたたられる歴史であり、反響です。信仰者がこの被造物世界をみるとき、そのような音楽の大合唱をみます。不信者がこの世界をみますとき、それは無音と沈黙がおおい、それは虚無に服しています。それゆえ、[いと高き所で、主をほめたたえよ]は、今から「ほめたたえる」ことを始めなさいという意味であると取るよりも、
[いと高き所で、(すでになされている)主のほめたたえ]に、[心の目を開いていただきなさい](エペソ1:18)と呼びかけられていると取る方が優れています。わたしたちが初めて賛美に召喚されるというよりは、天からの被造世界をあげての大讃美・大合唱・大演奏会の末席に、「地上から」加えていただくということです。
この「地上から」の主のほめたたえには、[148:7 海の巨獣よ、すべての淵よ]と出エジプトの紅海の経験、[148:8
火よ、雹よ、雪よ、煙よ。みことばを行う激しい風よ]とシナイ山の経験、[148:9
山々よ、すべての丘よ。実のなる木よ、すべての杉よ]と約束の地カナン征服の経験、[148:11
地の王たちよ、すべての国民よ。君主たちよ、地をさばくすべての者たちよ]と周辺諸国征服の経験を垣間見ることができます。それは、神が介入され、そのご計画と摂理をもって導かれる歴史です。新約の視点からは、数多くの教理的含蓄・示唆を掘り起こすことが可能です。
わたしたちは、この世界を見るとき、以前は虚無に服したニヒルな眼をもって観察していたでしょう。しかし、今わたしたちは「神の栄光」を軸にして、創世記の「創造物語」を教科書にして、この被造物世界が「神の栄光の舞台」であると受けとめることができます。この世界は、いまや「罪と死と滅び」にまみれた様相を示していますが、わたしたちは、神が「良き創造の教説」にしたがって、この世界を贖い、完成させてくださることを望み見ています。わたしたちは、「額に汗して、糧を得る」苦労・苦痛の多い人生を、贖罪と内住の御霊により、まるで「御父の傍らで、砂場で戯れて過ごす」(箴言8:30-31)幼子のようにして過ごします。
C.S.ルイスは問いました。「わたしたちがこの世に生を受けた目的、この地上における労働の意味は何でしょうか?」と。彼は、聖書の真理を分かりやすく、子供にでも分かるように「それは、小さな子供が仔馬のポニーをもらって乗りこなす練習をしているようなものだ」と。そしてその目的は「新天新地のうまやで、鼻息の荒い競走馬を乗りこなすためである」と。バーフィンクは、「救いの恵みはすべての人に平等・公平である。しかし、報奨の恵みは天空の星の輝きに千差万別あるように多様である」と聖書のみことばを解き明かしています。
わたしは、一見「食傷気味」と受け取られかねない本詩148篇の「ほめたたえ」の連呼の背景に、このような神学的含蓄を読み取り、傾聴していくなら、「天における」ほめたたえ、そして「地における」ほめたたえの、いわば「こだま」のような繰り返し、被造物世界のすべての楽器・合唱に気づかされます。そして、[148:11
すべての国民よ。…148:12
若い男よ、若い女よ。年老いた者と幼い者よ]と、民族を超えた普遍的な賛美、老若男女を問わず、[148:14
すべての賛美]のシンフォニーが溢れていることに目が開かれるのではないでしょうか(Ⅱ列王19:35、ルカ2:13、黙示録5:11-13他)。いつもこのような賛美の世界に目が開かれていましょう。では、祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、C.ヴェスターマン『詩篇選釈』、牧田吉和『改革派信仰とは何か』、『改革派教義学 2.神論』)
2024年3月31日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇147篇「鳴く烏の子に食物を与える方」-受難週のただ中に、「イースターの朝」を体験しつつ-
https://youtu.be/TjnkCUqURGU
今朝は、キリスト教の暦でイースター、約二千年前、わたしたちの罪の身代わりとして十字架上で刑罰を受けられ、死なれたイエス・キリストが三日目によみがえられた日です。わたしがクリスチャンになったのは、19歳のクリスマスの日でした。翌年の春に、西宮市にあるたくさんの教会の数えきれないくらいのクリスチャンがイースターの早朝に、神戸女学院の大きなステージと大きな庭に集まり、聖歌127番「墓の中に」を大きな声で大合唱したことを覚えています。感動的な光景でした。
今朝はまた。礼拝後に、昨年末に召されたわたしの母の納骨式を行います。母は、まことにわたしの生涯において、真のサポーターのひとりでした。一度は、「すべてをささげて献身した息子が、学校教師としての道を探る」折にも、「再びそれをささげて牧師の道を歩んだ」折にも、さらには「その道をささげて郷里へと帰り、神学教師としての道を歩んだ」折にも、いつもそれを肯定的に受けとめ、理解し支援し続けてくれました。そのような理解者と環境があったからこそ、ICI一宮基督教研究所を通しての神学営為中心の奉仕生涯を送り得たのです。元々は、「伝道し、教会形成に取り組み、その合間に母校を中心に神学教師としての務めを果たす」イメージで歩んでおりました。そのような中、共立基督教研究所への内地留学の機会を与えられ、そこで恩師宇田進師より「神学営為中心の奉仕生涯」の幻を与えられたのでした。
しかし、その道を歩むためには、セルフサポート、すなわち「自立・自活したパウロのようなスタイルで奉仕生涯を駆け抜ける以外に道はない」ように思いました。そのような行き詰った状況の中で、示されたのが「郷里に帰り、自営業で自立・自活しつつ、24時間365日、神学の研鑽とその結実を分かち合って生きる生涯の可能性」でありました。共立基督教研究所での「24時間365日、神学の研鑽」は、神学教師としての基礎・土台を築いたにすぎない感覚がありました。これで伝道・教会形成の現場に戻れば、「あの人は基礎を築いただけで、上に建物は建てられなかった」というみことばが響いていました。
わたしは、それが認められるかどうか。それが成功するかどうか。それは分かりませんでした。共立基督教研究所で築いた基礎の上に、立派な「福音理解」という建物を建てることができるかどうかは分かりませんでした(訳書や冊子、ユーチューブ・サイトは、ひとつの結実であります)。しかし、幾つかあった都市部の教会からの招聘の選択肢をお断りし、[共立基督教研究所で築いた基礎の上に、立派な「福音理解」という建物を建てる]という夢・幻・ビジョンに賭けることにしたのです。それは、「紅海の岸壁に立ったモーセたちが、危機的な状況下で、神がなしてくださることを見届けようとしている」かのようでありました。わたしは、郷里に帰り、働きながら、「一年でも、二年でも、三年でも良い。もし24時間365日、神学の研鑽とその分かち合いに生きることができるならと過ごし、不思議に守り支えられ、荒野の旅程のように、その生活が今日までほぼ35年間続くことになりました。
四人の子供も育て終え、神学校や神学会、牧師会や教職者セミナー等の数々の奉仕にもあずかり、祝福された奉仕生涯でありました。ある神学者が記しているように、[歴史的に存在している人間は、決断の瞬間において、繰り返し過去と未来との間の選択をしなくてはならない。人間は、可視的事物の世界、集団の世界の中に自己を喪失するか、それともあらゆる確実性の破棄と、自分はその上に何の規制力をももたない将来への無条件の降伏のうちに、自己の「現実性」を獲得するかどうかを決めなくてはならない]のです。要するに、人間は、人生の岐路に立つとき、「既存の捉え方の中で流されるままに生きる道」と「主なる神の、細き小さな呼びかけ(コーリング、召命)を聴き取り、それに負うべき十字架を背負って、死に葬られ、復活する道」を選び取るかの“決断”に迫られるということなのです。
わたしは、皆さんが置かれている状況は分かりませんが、ある人は、「紅海を前にして岸壁に立っておられる」でしょう。ある人は、「ピラトや大祭司の前に立って詰問を受けておられる」でしょう。“What
is your
calling?”―「あなたに対する、神の呼びかけは何ですか?」それを問い続ける者でありましょう。主にあってかけがいのない人生を生きるためです。わたしは申し上げたい。キリストの十字架は、信仰者たちを罪の「力」から解放し、その生涯を犠牲と献身に用いる道を開くものであること。あなたにとっての「罪の力」とは何でしょう。十字架はあなたのどのような部分・課題の中に働くのでしょう。
そして、わたしたちが十字架につけられたイエス・キリストを信じるということは、わたしたちがキリストの十字架を自分自身のものとして受け入れ、自分がキリストと共に十字架につけられることをよしとするということだ、ということを。そこにおいてのみ、「復活の朝」を体験しうるのです。あなたにとっての「復活のいのちの道」、すなわち[その生涯を犠牲と献身に用いる道]はどのようにして開かれていくのでしょうか。わたしたちの生涯が受難週のようであり、またそのことによって「イースター、復活の朝」を体験し続けられるよう祈ります。そのような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 147 ]
A.心の打ち砕かれた者を癒やし、彼らの傷を包まれる(v.1-6)
B.雨を備え、草を生えさせ、食物を与える(v.7-11)
C.雪を、霜を、氷を投げつけ、これらを溶かし、最良の小麦で満たされる(v.12-20)
70人訳では,1‐11節が146篇,12‐20節が147篇となっており,「ハレルヤ,ハガイとゼカリヤによる」という表題が両方に付けられています。つまり、これらの詩は、エルサレムの復興を感謝する詩で、2節[147:2
【主】はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集められる]、また[147:13
主はあなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ]からネヘミヤ時代(前445年頃)とする説があります。イスラエルに対する主の特別な恵み,自然界における主の力,世界の統治等が織り混ざっている、いわばモザイクのように編集された詩篇です。構成は、3つの区分が,それぞれ賛美への招きで始まっています。
第一詩節は、[147:1
ハレルヤ。まことにわれらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく賛美は麗しい]と主へのほめたたえで始められています。そして、2節以降でその理由が述べられています。[147:2
【主】はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集められる]は,ネヘミヤによる城壁修復と人々の再入国のことでしょう。 [147:3
主は心の打ち砕かれた者を癒やし、彼らの傷を包まれる]は、捕囚からの解放と故国帰還のことでしょう。
わたしたち新約のクリチャンにとっては、それは「罪と死と滅びからの救い」と受けとめられるものです。ただ「救い」は、そのように否定的な状況からの救いであるだけではありません。救いは、[147:4
主は星の数を数え]とあるように、アブラハムが星空を見上げ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたことの成就・実現としてのわたしたちがその「星」のひとつひとつです。[そのすべてに名をつけられる]とあるように、わたしたちは、ごみ箱のような倉庫から救い出されただけの「一本のギター」ではありません。それはきれいに清掃され、ワックスをかけられ、弦を貼り換えられ」飾られるだけの楽器でもありません。主の手に抱かれ、主の御霊によって、神律的相互性のみわざの中で、「人々を感動させてやまない音楽を演奏する」証し人へと召しだされているのです。このようなわたしたちの人生のただ中への主のみわざは、[147:5
偉大であり、力強くその英知は測り知れ]ません。主は、へりくだって、そのような主の摂理の働きを受け入れ、その節目節目に決断していく、謙遜で[147:6
心の貧しい者を支え]られます。
第二詩節も、[147:7
感謝をもって【主】に歌え。竪琴に合わせてわれらの神にほめ歌を歌え]と賛美で始まります。それは、[全被造物に対する恵み深い摂理のみわざの告白と賛美(98:4‐5)]です。そのみわざをわたしたちの人生に当てはめれば、[申2:7
事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった]といえるでしょう。
わたしたちが、共立基督教研究所での内地留学の三年目の三学期に、家内が「今月は水光熱費を支払うお金がありません」と言うことがありました。そのときは、打ちっぱなしのコンクリート建築の家族寮に住んでいましたが、「床が抜けるような感覚」に襲われました。しばらく後に、団体の会計責任者の方の思い違いがあり、「三月分までの約束が、十二月分で終わりだとして、振込がストップしていた」ことが分かり、安堵しました。
わたしたちは、自立・自活し、収支のバランスのとれた人生を送る必要があります。しかし、時に、「経済的な危機、また不安」に直面します。そのような時には、「抜けた床の穴にへたり込んで、主を仰いで祈る」より他ありません。すると、困窮状態は変わりないかもしれませんが、[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]とあるように、不安に打ちのめされることなく、神の不思議な平安に包まれる中で、ひとつひとつの課題に善処していくことが可能となります。8節は、「小がらすは親鳥に捨てられ,したがって生き残るためには全く神に依存するのだという一般的な……信仰があったのだろう」と言われています。その子ガラスのようになりましょう。
12節から第三詩節が始まります。13節[147:13
主はあなたの門のかんぬきを強め]は、城壁と城門の修復のことでしょう。シオンは,その住人を子供として守る母なる城壁都市です。14-18節は、自然を支配される主の力あるわざが続きます。それは、冬に、特にガリラヤ北部の山々に貴重な雪をもたらす言葉です。[147:16
主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。147:17
主は氷をパン屑のように投げつけられる]と。それは、[だれがその寒さに耐えられるだろうか]と、否定的な状況・経験・時期のように思われる季節です。わたしたちの人生にもそのような季節があります。しかし、[147:18
主がみことばを送ってこれらを溶かし、ご自分の風を吹かせると水は流れる]とあるように、その否定的と思われる「雪」は、解けて後、雨となり、川となり、渇いた大地を潤すのです。いわんとすることは、「若いうちの苦労は、お金を払ってでもしないさい」ということです。これは、同じ自治会の人生の先輩の言葉です。今は会社の会長をしておられますが、若い頃の「丁稚奉公」の経験は貴重であるとの教えです。社会経験や牧会インターン研修は人生経験の宝庫のひとつではないでしょうか。
[申11:9
また、【主】があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。11:10
なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。11:11
しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。11:12
そこは、あなたの神、【主】が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、【主】が絶えずその上に目をとどめておられる地である]。主にあって、「冬の季節の価値」に目を留める者とされましょう。
19‐20節[147:19
主はヤコブにはみことばを、イスラエルにはおきてとさばきを告げられる]とあるように、出エジプト、約束の地での取り扱い、バビロン捕囚、帰還と再建等のあらゆる機会で、「主はヤコブにはみことばを、…おきてとさばきを」告げられてきました。わたしたちの人生においても、同様です。主はその節目節目で、そして日々瞬々、主はわたしたちに「呼びかけ“Calling”、語りかけ」ておられます。これが「祝福」です。「天からの雨」です。[147:20
主はどのような国々にも、このようには]なさりませんでした。わたしたちの神さまは、創造の神であり、自然界を支配し、歴史を人生を支配・統治してくださるお方です。それゆえに、わたしたちは天を仰いで[147:20
ハレルヤ]と口ずさみつつ、人生の馳せ場を走り抜けるのです。受難週のような生涯のただ中に、「イースターの朝」を体験しつつ歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、Michael Wilcock、“The Message of Psalms 73-150:
Songs For The People Of God ” The Bible Speaks Today Old
Testament、J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』聖書文学学会執筆、ヘルマン・リダボス著、山中良知訳『現代神学入門』「第二部
ブルトマンの神学」 )
2024年3月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇146篇「幸いなことよ、神を助けとし、望みを置く人」-キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と-
https://youtu.be/HWwfZKc16yk
今週は、教会の暦の中で、受難週にあたります。少し振り返りますと、約二千年前のちょうどこの週の日曜日に「エルサレムに入城」され、月曜日に「宮きよめ」を行われ、水曜日に「ユダの裏切り」にあい、木曜日に「最後の晩餐、ゲッセマネの祈り」があり、金曜日に「ローマ総督ポンテオ・ピラトによる裁判」を受けられ「十字架につけられ」て亡くなられました。イエスは「人の子は、必ず多くの苦しみを受け(ポーラ・パシェイン)、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならない」(ルカ
9:22)と話されました。
「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられました(Ⅰペテロ2:21,24)。パウロは、「私たちはキリストの栄光をともに受けるために、苦難をもともにしている」(ローマ8:17、コロサイ1:24、Ⅱテモテ3:12)と書き記しました。つまり苦難は教会にとって避けるべきものではなく、教会の地上における本質的なあり方であります(ヨハネ16:33)。神の民は「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主と会うと語られているのです。
一宮チャペルでは、この受難週の礼拝を最後に、ひとりの神学生を「自立・自活の牧会インターン研修」に送り出そうとしています。それは、ある意味で受難の生涯、苦難の奉仕生涯への旅立ちでもあります。そのような神学生に、宮沢賢治の「雨にも負けず」を贈りたいと思います。[雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだを持ち、欲は無く、決していからず、何時も静かに笑っている]そのような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 146 ]
A.私は生きているかぎり、【主】をほめたたえる―ほめたたえの生涯(v.1-2)
B.あなたがたは頼みとしてはならない。救いのない人間の子を―あらゆる境遇に対処する秘訣(v.3-4)
C.幸いなことよ、その神【主】に望みを置く人―神に望みを置く生涯とは(v.5-9)
D. 【主】はとこしえに統べ治められる。ハレルヤ―王として統治される神に(v.10)
本詩は、神を助け手として信頼する者の歌です。神の民イスラエルは、人に頼るのではなく、いかなる時も、主の力と守りに身をゆだねるべきであることを教えています。「献身」ということを振り返りますとき、約50年前のわたしのことを思い出します。イエス・キリストを信じ、人生をどのように生きていくべきなのか、手探りしていました。最初は、中高の学校の社会科教師となり、聖書研究会でも開き、顧問となって証ししていく生涯を描きました。それで、大学三年生から教職資格を取るための科目をも追加し、それが原因で卒業には一科目不足して、一年間余分に過ごすこととなりました。ただ、それが幸いして、関西聖書学院の一年コースを学ぶ機会となりました。
その年の秋に、院長のフレッド・スンベリ師が「一度、社会人として社会を経験した方が良いのではないか。わたしも、宣教師となる以前、高校の倫理の教師していた」とアドバイスされました。教師資格を持っていたので、採用試験を受ける準備をし、パスし、臨時採用で入り、数ヶ月勤務し、正式採用の通知を受け取りました。そのときに、そのまま学校教師としての生涯を送るのか、フルタイムの献身の道を歩むのか、の岐路に立ちました。ニ、三ヶ月悩んだ中で示されたのは[ヘブル11:26
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました]というみことばでした。安定した給与と福利厚生のある学校教師の道をささげて、そのような豊かさを期待できない「牧師、また教師」の苦難の道を歩むことを決断しました。
はっきり言って、この世の損得勘定から考えると、献身者の道は、モーセが語ったように損失の多い、受難の生涯です。しかし、献身者はなぜそのような苦しい人生をあえて選択するのでしょう。それは、[キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富]と換算できる眼が与えられているからです。パウロもまた、[ピリ3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています]と、この世の価値観からの大転換を証ししています。この転換なしには、献身者の道を歩むことはできません。
このように、モーセの[キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考え]うる価値観、[自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思う]価値観、このような価値観の大転換は、献身者の召命を証しするものでしょう。このような考え方ができることが奇跡なのです。献身のステップの中で、献身の動機や内面を[「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)]行きます。「召命」の確信、また「献身」の決意というものは、このようなプロセスを経てなされる[詩66:10
私たちを試し銀を精錬するように私たちを錬られ]る神の「刀匠」のようなみわざなのです。
このような視点に立ってはじめて、その奉仕生涯が苦難に満ちても、どれほど貧にまみれていても、第一詩節の[146:2
私は生きているかぎり、【主】をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う]生涯を送り得る確信が芽生えてきます。また、第二詩節では、このような「召命確信と献身の決意」が、[詩
12:6 土の炉で七度試され純化された銀]と練られていく中で、[146:3
あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を]とあるように、「依存」からの「自立」が取り扱われます。アダムも[創2:24
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである]とあり、アブラハムも[創12:1
【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい]と、「依存」からの「自立」が促されています。
さて、献身者が絶対的に依存し、全面的に依拠する神さまとはどういうお方なのでしょう。神さまは、[146:6
主は天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた]天地創造の神さまです。このお方は[とこしえまでも真実を守り、146:7
虐げられている者のためにさばきを行い、飢えている者にパンを与える方。【主】は捕らわれ人を解放される]お方です。そして[146:8
【主】は目の見えない者たちの目を開け、【主】はかがんでいる者たちを起こされる。【主】は正しい者たちを愛し、146:9
【主】は寄留者を守り、みなしごとやもめを支えられる]お方です。これらの箇所からどのようなメッセージを傾聴できるでしょうか。
主の力強さと確かさの表明が創造のわざによって示され,人の不確かさと対比されています。7節の後半から9節まで,〈主〉という言葉が連続5回,文の冒頭に置かれて強調され、「神の力と恵みは,人間の力がくずれ去ったところで正に力をあらわす。圧迫され,屈められ,捕らわれ,飢え,病み,守りなき人々,たとえば外国人,みなしご,やもめ等のすべてが神のもとに助けと救いを見出します。最高の裁判官である神が,権利や助けのない外国人,孤児,寡婦など特別な保護と援助を必要としている者を正しくさばいて下さいます。
これら第三詩節の展開を読んでいて、共立とTCTSで学んだ泉田昭著『キリスト教倫理』の講義を思い出しました。その内容は[①キリスト教倫理、②人間として生きる、③生命の倫理、④霊性の倫理、⑤教会の倫理、⑥社会の倫理、⑦家族の倫理、⑧国家の倫理、⑨戦争と平和、⑩キリスト教と文化、⑪キリスト教と民族、⑫終末の倫理]という構成からなっています。新約の牧会書簡の教えは、「健全な教え」を土台にした「健全な生活」で構成されています。そこで教えられることは、「献身者は、どういう者でなければならないか」という基準です。基本的に、献身者は「自立し、自活できる社会人クリスチャンでなければならない」ということです。社会においても、家庭においても「模範」でなければ、教会において「証し」にならない。かえって「つまずき」になるということです。
ですから、牧師子弟は、注意しなければなりません。社会で通用しないから「でもしか教師ならぬ、でもしか牧師」となってはならないのです。旧約でいうエリの息子たち(Ⅰサムエル2:22-24)のようであってはならないのです。ですから、ある意味で「献身の環境」に恵まれた教職者子弟は、ひと一倍「火の中、水の中」を通されて、その「召命の内容、献身の決意」の程度・真価を証明していかなければ、いつまでも侮られる対象になりかねないのです。それは、親である牧師夫妻、ひいてはそれを許容された神さまが侮られかねない事態を引き起こす危険すらあるのです。
しかし、その「召命の確信と献身の決意」が、[詩 12:6
土の炉で七度試され純化された銀]と精錬されていけば、神の栄光をあらわしうる器となり、[146:10
【主】はとこしえに統べ治められる]と、王たる神の統治の栄光をあらわす奉仕生涯を送り得るでしょう。主が若手の神学生、また伝道者諸氏を、そのような「主のしもべ」の生涯に導いてくださり、[いのちのあるかぎり、神にほめ歌を歌う]生涯、王たる神の統治の栄光をあらわす奉仕生涯を送らせてくださいますよう、祈ってまいりましょう。
(参考文献:(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、Michael Wilcock、“The Message of Psalms 73-150:
Songs For The People Of God ” The Bible Speaks Today Old
Testament、泉田昭『キリスト教倫理』 )
2024年3月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇145篇「彼らに食物を与えられます」-倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます-
https://youtu.be/24UUfudUPhg
本詩145篇は、ダビデ詩篇集の最後のものであり、また八つのアクロスティック、すなわちアルファベット順のいろは歌の最後のものです。また、神の民,神のしもべの務めは,全人類と共に王なる方を礼拝することであること、真の王である神は永遠のお方でありますから,その支配の下にある人間も絶えず主をほめたたえるべきであることを教えています。そして、最後の箇所では、神の全世界的支配の告白と全人類に賛美への参加を促す普遍的な勧めで閉じられつつ、同時に詩篇全体の終りの部分(145‐150篇)の始まりとしての役割を果しています。このように全世界的な視野をもつ本詩の祈りと賛美と告白をどのように傾聴し、わたしたちの人生に適用していけば良いでしょうか。一宮チャペル・一宮基督教研究所では、ひとりの神学生がある地方教会に派遣され、自立・自活しつつ牧会のインターン研修を受けようとしています。今朝は、そのような状況に思いを馳せ、神さまの守りと支えがあらんことを祈りつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 145 ]ダビデの賛歌。
A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき(v.1-3)
B.賛美の理由・根拠―創造と解放、誕生と救いのみわざ(v.4-7)
C.奉仕の根拠―はじめに赦しありき(v.8-9)
D.神の国の一員として召し用いられる―王国の栄光を語り、知らせ(v.10-13)
E.健康と経済を支えられる神―かがんでいる者を起こし、食物を与えられる主(v.14-16)
F.奉仕生涯を導かれる神―わたしたちの内に願いを起こし、それを成就される主(v.17-20)
G.奉仕生涯の終わりに―証しと賛美ありき(v.21)
奉仕生涯の最初にふさわしいものとは何でしょうか。それにはいろいろあるでしょう。本詩は、[145:1
私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。145:3
【主】は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは測り知ることもできません]という言葉で始まっています。この言葉から、わたしは第一詩節に[A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき]とタイトルをつけさせていただきました。長らく睡眠の問題で苦しんでいた息子が、健康を取り戻し、長年の念願であった聖書学校に入学して二年を経ました。
最初の一年間は、戦いの中にありましたが、不思議なことに二年目にはすっかり健康を取り戻し、週末は堺福音教会チャペル犬山で二泊三日の奉仕の機会を与えられ、毎週の礼拝説教を語らせていただきました。このようなことは、夢にだに浮かぶことはありませんでした。背景に東京基督教大学神学科での学びがあったとはいえ、ヨハネ伝にあるように、[ヨハ11:38
イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」11:40
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」11:41
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。…11:43
そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」11:44
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た]とあるように、
洞穴に葬られていたラザロがよみがえらされたかのような奇跡を見ている面持ちでありました。
そのような経過がありましたので、スイスイと三年生に上がり、ただちに伝道・牧会の最前線に立つことには一抹の不安もありました。そのような中、聖書学院側から「完全な修了でもなく、三年生への進級でもない、第三の道として“他教会での一年間の牧会インターン研修”」の提案をいただきました。その提案をお聞きし、主のみこころと確信し、学院の先生方とインターン研修受け入れ教会の先生に対して心からの感謝を申し上げ、すべてをお任せすることになりました。まさに[伝3:1
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。…3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい]と神の導きに感謝と賛美をささげました。30~40年間にわたる奉仕生涯の最初の時期にじっくりと時間をかけ、大切に育ててもらうことにしたのです。親鳥の庇護から離れ、ひな鳥は「巣立ちの時」を迎えたのです。それをわたしたちは一抹の不安を抱きつつ「
A.奉仕生涯の冒頭に―はじめに賛美ありき」と名付け、“他教会での一年間の牧会インターン研修”の機会のゆえに [145:1
私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します]と賛美をもって送り出したいと思っています。
第二詩節は、[B.賛美の理由・根拠―創造と解放、誕生と救いのみわざ]です。本詩節は、第一詩節の「王たる神」をほめたたえる理由・根拠が明らかにされています。[145:4
あなたのみわざ…あなたの大能のわざ…。145:5 主権の栄光の輝き、…奇しいみわざ…。145:6
恐ろしいみわざの力…あなたの偉大さ…。145:7
あなたの豊かないつくしみの思い出…あなたの義を高らかに歌います]と語ります。それは、創造主である神の天地万物の創造のみわざであり、贖い主である神のエジプトでの奴隷生活からの解放・救出のみわざでありました。それをわたしたちの存在、また人生に当てはめれば、両親を通して与えられた「生」、またキリストとの出会いを通して与えられた「救い」ということになるでしょう。わたしたちは、旧約の神の民がそうであったように、わたしたちの存在と生涯に起こった神のみわざを思い起こし、[145:1
私はあなたをあがめます。…あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。145:2
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します]と告白し続けましょう。
第三詩節は、[C.奉仕の根拠―はじめに赦しありき]とタイトルしました。それは、わたしたちが「献身」を意識しますときに、発する問いがあるからです。「わたしはそれにふさわしいのだろうか?」と。このように問いかけると、「土の器」であり、あちこちに傷があり、欠けのあるわたしたちは「わたしはふさわしくないのではないか?」と解答せざるを得ません。しかし、ある意味で、このような答えをもつ者こそが「神の奉仕者として、ふさわしい」といってもらえるのかもしれません。
ルカによる福音書に[ルカ18:9
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。18:10
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。18:11
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。18:12
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』18:13
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』18:14
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」]とある通りです。
第三詩節の[145:8 【主】は情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵みに富んでおられます。145:9
【主】はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります]は、出エジプト記に出てくる言葉で、[出34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」34:8
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。34:9
彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」]とあるように、奉仕者として立っていくためには、「土の器」であり、「罪人」であり、「うなじの固い人間」であるとの謙遜とそのような自分が「神の赦し」「神の恵み」によって立たせられているのだという絶対的な基盤が必要であるのです。「姦淫者」ダビデや「殺人協力者」パウロが用いられたのも、そのような自覚と基盤があったがゆえでした。すねに傷があるかどうかは問題ではありません。それを悔い、認め、情け深く、あわれみ深い神の赦しと恵み上に立ち続ける者となりましょう。
第四詩節は、[D.神の国の一員として召し用いられる―王国の栄光を語り、知らせ]る奉仕にあずかる、ということです。神さまは、罪深いわたしたちを赦し、義と認め、神との交わりの中で、その品性と人格を[145:10
敬虔な者]として次第に整え、その昔、預言者や使徒たちを時間をかけて備えられていったように、神の[145:11
王国の栄光を告げ、…大能のわざを語り…145:12
主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を知らせ]るかたちで[145:13
永遠にわたる王国]の代々限りなく統治の一端を担わせてくださいます。教職者であれ信徒であれ、献身者、奉仕者は、いわば
[145:13 永遠にわたる王国]の政府機関の官僚であり、公務員であるともいえる光栄な職務に就くことなのです。
第五詩節は、[E.健康と経済を支えられる神―かがんでいる者を起こし、食物を与えられる主]という視点でみてまいりましょう。確かに神さまは、Ⅰコリント書にありますように、[Ⅰコリ1:26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。1:27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。1:28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです]と書かれています。本詩にあるように、神さまはあえて[145:14
倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされ]るようなかたちで、主の働きを進められていることに気づかされます。
ただ、聖職者には、今日大企業や公務員等で保証されているような「豊かな給与や福利厚生」は期待できません。それは「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」といわれるような生活であり、生涯となるやもしれません。わたしも、献身当初は「将来は、新聞配達しながらの開拓伝道となるのかな?」と思い描いたものです。家内も歯医者の受付、保険会社の外交員、牛乳配達、宿舎の清掃員等かずかずの仕事に携わり、わたしの召命と賜物を支えてきてくれました。わたしも神学の研鑽と神学教育が第一であり、それを成し遂げるために、使徒パウロのように働きつつ奉仕することになんのためらいもありませんでした。否、奉仕生涯の大半がセルフサポートであったがゆえに、「神学の研鑽と神学教育を第一とする生涯を送り得たのだ」と確信させられています。ですから、若い神学生の兄姉に申し上げたい。「働きながら、召命と賜物を達成しようとすることを恥じと思わない」でいただきたい。それは、たくましい奉仕者の証しでもあるのですから。
わたしの経験から申し上げられることは、「ひたむきに自らの召命と賜物と思うことに専心しなさい」ということです。サポートが十分あれば働かなくて済みますし、足りていなければその分働けば良いし、まったくのセルフサポートなら、「パウロもテントメーカー、すなわち現場労働者として働きつつ、奉仕生涯を送ったのだ」と励まして、パウロのように奉仕生涯を走り抜けたら良いのです。自立・自活し、働きながら奉仕生涯を送ろうとする者には妨げはなにもないのですから…。[マタ6:33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます]とある通りです。神さまは、[145:15
時にかなって、…食物を与えられます。145:16
あなたは御手を開き、…すべての願いを満たされます]とある通りにです。要するに、重要視していることは、わたしたちそれぞれに与えられたと確信する「召命と賜物における達成度」であって、経済的な豊かさとか、社会や教会での名声等には、あまり関心を持たなくて良いのです。神様の垂直からの絶対評価のみが、わたしたちの人生評価の尺度であるのです。
第六詩節は、[F.奉仕生涯を導かれる神―わたしたちの内に願いを起こし、それを成就される主]です。申命記には、[申2:7
事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった]とあります。二十歳台に献身し、神学校で学びと訓練を受けた献身者の卒業後の奉仕生涯はほぼ四十年間がひとつの目安でしょう。もちろん、召される日までなんらかのかたちで奉仕は続けられるでしょうが…。それは、ちょうど、エジプトから解放された神の民が、シナイ山で十戒を受け取り、示された青写真に沿って幕屋が建設されたように、奉仕生涯の最初の数年間に基礎神学教育を受け、伝道と牧会の訓練を経験し、ほぼ四十年間、荒野の旅程のように奉仕生涯を送らせていただくことに類比されます。彼らは出エジプト記・申命記の道徳法・民法・刑法、レビ記の礼拝形式、民数記の秩序を得て、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、約束の地カナンへと旅を続けました。それは、新天新地の御国に向かって地上の旅を続ける新約の神の民のイメージと重なります。
本詩の第七詩節では、[145:17
ご自分のすべての道]をみことばと御霊によって指し示し、その奉仕生涯の必要においてなされる[すべてのみわざにおいて恵み深い方]であると教えられます。それは、僻地での種蒔きと証し、そして「一宮基督教研究所」という不思議な奉仕のフロンティアを導かれた小さな主のしもべの証しとして告白できます。[145:18
主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、【主】は近くあられます。145:19
また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて救われます。145:20
すべて主を愛する者は【主】が守られます]と。献身者・神学生に申します。「奉仕の場所がないと嘆くなかれ。奉仕の場所は無限にあります。あなたが主に導かれて、だれも耕していない新しいフロンティアを開拓していけば良いのです」と。求めなさい。願いなさい。そうすれば、神様は、だれの思いにも浮かんだことのないフロンティアを、幻を見せてくださいます(エペソ4:20)。
そして、七十歳の齢を越えた今、[G.奉仕生涯の終わりに―証しと賛美ありき]と証しできたら本当に幸いです。[145:21
私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように]。わたしのように小さな者を用いてくださったのですから、若き神学生、献身者が、用いられないはずがありません。彼らが一人残らず、本詩に告白・証しされているような生涯を送ることができますよう祈っています。では、祈りましょう。
(参考文献:デレク・キドナー著『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解、Michael Wilcock、“The
Message of Psalms 73-150: Songs For The People Of God ” (The
Bible Speaks Today Old Testament )
2024年3月10日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇144篇「よく育てられた植木、宮殿の刻まれた隅の柱」-願わくば、我に七難八苦を与えたまえ(山中鹿之助)-
https://youtu.be/bDAjSAt43Zs
ティンデル聖書注解によれば、「この詩篇は寄せ集めであって、一枚岩ではない。…この詩篇の題材のほとんどは、ダビデの他の詩篇からの引用である」とあります。このような寄せ集めの詩篇は、背景を読み取ることはとても困難です。集められた詩篇にひとつのストーリーを読み取り、ひとつのメッセージを聴き出すこともまた難しく思います。一週間、繰り返し読み返し、傾聴しようとするのですが、文字面を追いかけることに終始してきたように思います。そのような中、最近の多くの注釈者が推測するのは、本詩は後代の編者がこの詩篇をダビデの後継者たちのために編集したのではないかということです。すなわち、ダビデが享受したのと同じ祝福と勝利を新たに経験させてくださるようにと祈った詩篇であるということです。紀元前の古代の祝福と勝利に励まされて、本詩を今日の私たちの祈りに役立てさせていただきましょう。
(概略)
詩[ 144 ]ダビデによる。
A. 神は如何なるお方か?―戦のために私の指を鍛えられる方(v.1-2)
B. 人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影(v.3-4)
C. 過去におけるみわざ―シナイ山で、紅海で介入された神(v.5-8)
D. 現在における祈り―救いを与え、悪の剣から解き放たれる神(v.9-11)
E. 未来における結実―よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱(v.12-15)
今朝は、第二礼拝で一宮チャペル&一宮基督教研究所の神学生である安黒拓人神学生が関西聖書学院の二学年の学びと訓練の証しをしてくれるとのことです。先日、関西聖書学院を二学年で修了しました。そのまま三学年に上がる方向で考えておりましたが、将来のことを考え、この春から一年間の「インターン牧会研修」に敦賀の教会に導かれ、その後に三学年に上がる方向で考えています。ことわざに「急がば回れ」「石橋を叩いて渡る」とある通りです。奉仕生涯の最初の基礎神学教育と奉仕訓練は、きわめて重要な意味をもつと思います。拓人神学生はこの二年間で大きく変えられ、整えられてきたように思います。KBIの先生方と週末奉仕の教会、同僚の神学生等、すべての皆様と共に働かれた主に心より感謝をささげます。今朝は、そのことに感謝するとともに、そのことに重ね合わせて本詩に傾聴させていただくことに致しましょう。
本詩1節は[144:1
戦いのために私の手を、戦のために私の指を鍛えられる方]という言葉で始まります。これは、まさに「奉仕生涯の最初の訓練と学び」にふさわしい言葉ではないでしょうか。ダビデは、詩に音楽に賜物を有しておりました。それが王のそばに引き上げられる契機となりました。これは、[144:2
主は…私の民を私に服させる方]とあるように、いわば「政治学部」教育となり、将来の王国統治を学ぶ機会ともなったでしょう。また、霊感に溢れたその膨大な詩篇集作成は、メシヤ預言とその王国の未来を指し示す価値ある文書を結実させました。ダビデは、羊飼いの仕事をなし、石の飛び道具で熊やオオカミを打ち倒す戦士として育っていきました。これは、将来の巨人ゴリアテや周辺の敵国と戦う戦略を学ぶ機会となったことでしょう。サウル王の追撃体験すら、イスラエルの地形を学び、それを利用しての戦略を将来に生かしたことでしょう。要するに、ダビデは、「一を聞いて十を知る」というような現場教育の中で、すさまじい学習能力を発揮していったのです。それは、預言者サムエルを通して油注ぎを受けた日から、激しく聖霊が注がれていた(Ⅰサムエル16:15)からです。主に用いられるしもべとなるために、このような学習意欲を増し加える聖霊の満たしを受け続けましょう。
1-2節が「神は如何なるお方か?―戦のために私の指を鍛えられる方」であるとすれば、3-4節は「人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影」といえるでしょう。わたしは、1979年に関西聖書学院を卒業し、43年経ちました。「どう振り返られますか?」と尋ねられますと、「人は息、その日々は影」と簡潔に表現できるかもしれません。「光陰矢の如し」とか、「難波のことは夢のまた夢」ともいわれますように、始まるときは人生は永遠の長さをもっているかのように思いを馳せるのですが、走り終えた今、それは「ほんの一瞬」だと振り返ります。それで思うことは、無限に時間があるかのように「あれやこれや、すべてのものを引き受けて取り組む」のは無謀であるということです。
わたし自身の証しから申しますと、共立基督教研究所の三年間の内地留学が終わる頃、進路に悩みました。恩師の宇田進師は、「安黒先生は、研修終了後、どのようにされるのですか?」と問われました。わたしは、当然のごとく「伝道と教会形成の現場に戻ると思います」と答えました。すると先生は「伝道と教会形成の現場にも意味・意義があるけれど、神学的営為に尽くす道もありますよ」と助言してくださいました。その結果として、幾つかの教会からの招聘をお断りし、ある意味無謀な選択ではありましたが、郷里に帰り、自営業のガソリン・スタンドを手伝いながら、小さな開拓と伝道と教会形成のための「神学的兵站基地」としての一宮基督教研究所(ICI)づくりに邁進してきた三十数年でありました。ラッド、エリクソン、宇田進、牧田吉和等の「伝道と教会形成のための神学的営為にささげられた先輩たち」の御足跡(Ⅰペテロ2:21)をたどり続けた三十数年でありました。僻地でのセルフサポートでの「神学的営為としてのICI」が伝道と教会形成のための「健全な福音理解」のあり方にどれくらい寄与してきたかは、「主の日」に明らかにされるでしょう。
わたしが聖書学校で学んでいたときに、響いていたみことばは、いつも「小さな事に忠実でありなさい」(マタイ25:23)というみことばでした。わたしの召命は、大宣教命令を叫ぶことでもなく、都市部の大きな教会で奉仕することでもなく、セルフサポートで僻地の開拓をなし、そこに「伝道と教会形成のための神学的兵站基地」を形成することであったのです。わたしは、奉仕生涯に導かれた若手の神学生・修了生・卒業生に証ししたいと思います。[人の一生はどのようなものであるか?―人は息、その日々は影]であると。一年過ぎるのは早いでしょう。それは感覚として分かります。奉仕生涯とは、その一年を30-40回繰り返して終了するのだと思えば良いと思います。わたしの申し上げたいことは、こうです。「奉仕生涯は皆さんが思っておられるよりも短い」ということです。ですから、[召命と賜物]をみきわめ、小さな事に焦点を絞り込み、全力で課せられた重荷に取り組むべきだ、ということです。
5-8節は、[過去におけるみわざ―シナイ山で、紅海で介入された神]ということです。旧約聖書を通して教えられる神さまは、「この世界に来訪される神、事件や歴史の中に介入される神」であるということです。5-6節の[144:5
天を押し曲げて、降りて来て…山々に触れて、噴煙を上げさせ…144:6
稲妻を放って…]という光景は、エジプトから脱出してきた300万人の烏合の衆に、基本法、民法、刑法、礼拝儀式法等の基礎となる「十戒の二枚の板」を与えられたシナイ山での光景を思い出させます。7節の[144:7
いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水からまた異国人の手から、私を解き放ち救い出して]は、紅海の岸壁でパロの軍勢で全滅させられそうになった時に介入された経験を思い出させます。そうなのです。神の民とは、「苦境のただ中にあるときに、神の介入により救い出された記憶・イメージを基盤として生かされている民」であるのです。
9-11節は、「苦境のただ中にあるときに、神の介入により救い出された記憶・イメージを基盤として生かされている民」であるだけでなく、神の民は、現在[144:10
救いを与え]られる神を経験し、[悪の剣から解き放たれ]る経験をするのです。よく年配の方から「若い時の苦労は、お金を払ってでもしなさい」といわれました。つまり丁稚奉公の経験ですね。そうそう、わたしの結婚式の時にも義父から、お祝いの言葉として「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という山中鹿之助の言葉をいただきました。それは、義父の人生哲学であるとともに、これから人生を始める、青二才である愛する娘夫婦に、[ロマ5:3
苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す]ことを励ましたものであったと振り返ります。若い神学生に、エレベーター式に三学年進級させず、医学生のインターン研修期間のように「一年間の、働きながらの、自立・自活で、教会住み込みの牧会研修」というのは、なんという大きな恵みであることでしょう。それは、ひな鳥が親鳥の巣から飛び立つ練習期間のようです。メンター(指導者、助言者)となってくださっている先生方に感謝しています。
12-14節は、[未来における結実―よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]となしてくださる、との主の約束です。わたしたちが、神を知り、人生を理解し、そこに関わってくださる神のみわざを繰り返し、イメージで復誦するのは、わたしたちの人生への神の介入を求めるがゆえです。「可愛い子には旅をさせよ」と申します。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と申します。それは何のためでしょう。その答えがここにあります。それは、[詩
12:6
土の炉で七度試され純化された銀]とされるためです。わたしたち献身者は、幾度となく、「献身の動機」を試され、純化されていきます。いわば奉仕生涯そのものが「土の炉」であり続けるのです。この生涯は、主からの栄誉はあるでしょうが、この世的にはなんの利得もありません。それをいろんな角度から思い知らされていくのです。それは、「金箔を剥ぎ取られていく幸福な王子さまの像」のような生涯です。
しかし、そのようにして、わたしたちは、そして若き神学生たちは[よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]とされていくのです。経済的に[144:13
私たちの倉は、もろもろの産物で満ち]ていますという奉仕者は多くないでしょう。また、[私たちの羊の群れは、私たちの野で幾千幾万となり]といった教勢を誇る大きな教会となる奉仕者はごくひとにぎりでしょう。魂が救いに導かれ、[144:14
私たちの牛が子牛をよくはらみ]、救われた魂が教会を離れることなく[早産も流産もなく、哀れな叫び声が私たちの町にありません]という教会もどれくらいあることでしょう。しかし、わたしたちは、詩篇のイメージに合わせて祈ります。み言葉に示されている線にそって、主が働いてくださいますようにと。それが、受洗者数であれ、礼拝出席者数であれ、ICIのようにインターネット神学講義の受講生数であれ、それぞれの召命と賜物によって、戦いとってきた「主の恵み」において、[144:15
幸いなことよ、このようになる民は]と祈り続けることができますように。若き神学生の兄姉の上に、その七難八苦を通して彼らを[よく育てられた植木、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱]となし、
[144:14
私たちの牛が子牛をよくはらみ、早産も流産もなく、哀れな叫び声が私たちの町にありません]という奉仕生涯を送らせてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: デレク・キドナー著『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解)
2024年2月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇142篇「ダビデが洞窟にいたときに」-正しい人たちは私の周りに集まるでしょう-
https://youtu.be/KhO4I17EDrA
マスキールの意味は明確ではありません。ただ、詩篇32:8の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もあります。13の詩篇に表題として用いられており、詩篇47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すとも思われます。本詩は、ダビデが体験した重大な危機(Ⅰサム22,24章)と関連付けられた詩であり、同時に、捕囚あるいはそれ以後の困難の状況の中で,主に希望を託し,救いを待ち望むイスラエルの祈りであります。このような視点で、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 142 ] ダビデのマスキール。ダビデが洞窟にいたときに。祈り。
A.私は逃げ場さえも失って(v.1-4)
B.正しい人たちは私の周りに集まる(v.5-7)
詩篇の編纂者は、本詩に[ダビデが洞窟にいたときに]という表題をつけました。これは、おそらくⅠサムエル記22章のアドラムの洞穴の経験を意識したものでしょう。ダビデは、少年の頃から羊の世話をなし、彼らをオオカミや熊から守っていました。その経験が巨人ゴリヤテとの戦いにも役に立ちました。わたしたちクリスチャンも、若い時から聖書に親しみ、教会学校で小羊を養い、霊的な戦いを学んで育つのは良い訓練となります。それらの経験は、[142:3
あなたは私の道をよく知っておられます]とあるように、諸段階を経て養い育てられ、訓練を受け、その召命と賜物が信徒であるか教職者であるかは別として、[エペソ書4:12
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。4:13
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです]とあるように育てられていきます。わたしたちは、それぞれが「到達したところ」(ピリピ3:16)を基準としてさまざまな段階を経て成長を導かれていくべきです。
ダビデの生涯は、そのような霊的成長を願うわたしたちにとって、最良のモデルのひとつです。ダビデは、サウルの次の王として油注がれました。しかし、それはサウル王朝の継続を願う王の願いを脅かすことでありましたので、危険なことでありました。ダビデは、やがて[142:4
私は逃げ場さえも失って][142:6 私を迫害する者から救い出してください][142:7
私のたましいを牢獄から助け出し]てください、[142:1 声をあげて、私は【主】に叫びます][142:5
【主】よ、私はあなたに叫びます]と、主への叫びで溢れる生活に追い込まれます。これは、わたしたちにとって大きな励ましです。わたしたちが救われ、聖霊に満たされ、主のみ旨と信じるところを証ししていくとき、イエスのように荒野に導かれます。弟子たちのように、オオカミの中に送り出された羊のようになります。クリスチャンがこの世で生きていくとき、それは[142:2
御前に自分の嘆きを注ぎ出]す人生を生きることであり、[私の苦しみを御前に言い表]す人生に生きることであると教えられるからです。
ダビデがその人生で最も祝福された時期はいつであったでしょう。ヘブロンでユダ王国の王とされた時でしょうか、南北王国が統一された時でしょうか。もちろん、それは約束の成就された時であり、大きな喜びであったでしょう。しかし、そこには、バテシェバ事件や子供たちの事件等、身から出たさびと申しますか、誘惑と罪の多い時でありました。ダビデが主と最も深い交わりをなし、主をのみ[142:5
あなたこそ私の避け所、生ける者の地での私の受ける分]と叫び続け、依拠し続けた時期は、[ダビデが洞窟にいたとき]でありました。ダビデは、名もなき田舎で羊飼いをしておりましたが、預言者サムエルに油注がれ、音楽も才もあったことなどから、[Ⅰサム16:18
家来の一人が答えた。「ご覧ください。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。弦を上手に奏でることができ、勇士であり、戦士の出です。物事の判断ができ、体格も良い人です。【主】が彼とともにおられます。」]と推奨され、サウルの側近に抜擢されました。
さらには、ペリシテ軍との戦いに遭遇し、[Ⅰサム17:49
ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた]とあるように、ペリシテ軍を打ち破り、一躍注目を集めました。しかし、そのような成功は、新たな危機の種ともなりました。それは、ダビデが[Ⅰサム18:5
ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収め…18:7
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」]と言われるようになったからです。人間の世界では、成功した時がまた一番危険な時でもあることを教えられます。それは、サウル王に嫉妬と妬みからくる怒りを呼び起こしたからです。ダビデの大きな成功は、サウル王朝存続の脅威とみなされ、ダビデはいのちを狙われるようになります。日本のことわざでも、「出る釘は打たれる」とか、「能ある鷹は爪隠す」とか言われます。成功したとき、祝福の社交辞令を受けるとき、わたしたちは「新たな地雷原」に足を踏み入れているのだと知りましょう。賞賛の言葉の上昇気流に酔うのではなく、[Ⅰペテ5:6
神の力強い御手の下にへりくだり]ましょう。謙卑の精神に寄り添い、身をかがめる者にしていただきましょう。
サウル王のダビデ殺害計画は、手段を選ばずあらゆるかたちで進められていきました。ダビデを愛する王の娘ミカルも利用されました。ダビデを擁護しようとする息子のヨナタンすら殺されるところでした。サウル王は、ダビデを反逆者として指名手配し、追撃部隊を送り続けます。それで、ダビデは、イスラエル南部の洞窟地帯に避難することにしたのです。ダビデは、孤独でした。不安でした。すべてのものを失いました。戦士たちの長としてのポストも、サラリーも、妻も。愛する国家から見捨てられ、いのちをつけねらわれるお尋ね者となってしまいました。
しかし、不思議なことに、そのような危機の時に、並行して神のみわざが進行してまいったのです。[Ⅰサムエル記22:1
ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。22:2
そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった]とあるように、ただちに神は兄弟たちや、彼の家のみなの者を送り、洞穴で合流させました。そして次第に仲間となる者を加えていかれました。そして、この仲間たちは後に、ダビデ王国の中枢となるべく準備されました。要するに、ダビデの人生におけるこの干潮期が、実は転換点であったと教えられるのです。
あなたにも、わたしにも、「Ⅰサムエル記22:1
アドラムの洞穴」のような時期があるでしょう。体験があるでしょう。「そのような洞窟」の中で、悶々と過ごした日々があるでしょう。主に祈り、叫び続け、憂いと不安な思いを注ぎ出し続けた時があるでしょう。その「洞穴」は、あなたが、またわたしが、すべてを剥ぎ取られた時間であり、同時に主のみが[142:5
私の避け所、生ける者の地での私の受ける分]であると自覚させられたときであるのです。そのような時、あなたも、わたしも「No
Post. No Salary」に追い込まれ、さらには「No
Honor」に留まらず恥や嘲り、ののしりさえ、鞭うたれ、つばをかけられ、いばらの冠をかぶせられさえするのです。
しかし、主は[142:3
私の道をよく知っておられます]。主は、わたしたちの成長段階を知っておられ、それぞれの段階にふさわしい備えをしてくださいます。仕掛けられている「142:3罠」から救い出し、閉じ込められている「142:6
牢獄」から助け出してくださいます。それだけでなく、正しい人を[142:7
私の周りに集]めてくださいます。わたしたちが、絶望の淵に沈まんとするとき、[創22:8
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださ]っているのです。[エペ3:20
私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて]備えを、供給を与えてくださるのです。わたしたちが、「Ⅰサムエル記22:1
アドラムの洞穴」で過ごした時期に、主がどんなに[142:7 私に良くしてくださ]ったかを思い起こしましょう。祈りましょう。
(参考文献: Michael Wilcock, The Message of the Psalms 73-150:
Songs for the People of God, Walter Brueggemann,
Psalms、デレク・ギドナー『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解)
2024年2月18日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇141篇「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」-「よみ(シェオール)」は、独自の経験で自由に満たしうる-
https://youtu.be/_o_NjQf4nAo
本詩141篇は、140,142,143篇との類似性が見られます。それらは、試練と誘惑の中で,詩人は罪からの守りを求め、また正しい叱責を求めているところです。5節後半から7節までは,訳出に困難な箇所です。解釈を特定することはできません。ただ全体の文脈は明らかで、詩人は正しい者からの叱責を喜びつつ,同じように悪人が正しい者の叱責によって悪い行いを改めるよう祈っています。7節は主に従う者たちが受ける迫害の激しさの表現で,木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように,主に従う者の骨が地上に散らされるほど多くの危険に囲まれているという表現です。このような危険の中で,8‐10節には主に信頼する者の確信が述べられています。今朝は、本詩をキリストの受難週の祈り、さらには十字架上の祈りのイメージとも重ね合わせ傾聴していくことにいたしましょう。
(概略)
詩[ 141 ] ダビデの賛歌
A.わが父よ、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(マタイ26:39)v.1-2
B.しかし、イエスは黙っておられた(マタイ26:63)v.3-4
C.父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです(ルカ23:34)v.5-6
D.「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)v.7-
E.父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)v.8-10
「詩篇傾聴シリーズ」が終了しますと、次に「ヨハネによる福音書傾聴シリーズ」に取り組みたいと思っています。ティンダル聖書注解シリーズの最新版、コリン・G・クルーズ著『ヨハネ』では、[①福音の標識、②二段階のドラマ、③物語批評]という三つの先駆的な研究がみられるとのことです。その詳細は、またシリーズが始まってから申し上げることになります。ここでは、ヨハネによる福音書は、「イエス在世当時の描写」と「1世紀末の教会の状況とその霊的必要」の二段階のコンテキストが言及されているということを指摘するにとどめます。このような複数段階のコンテキスト、すなわち歴史的状況また文脈の中で、詩篇も祈り、歌われ続けてきました。
そして、本詩141篇のような「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」といった「逆境の祈り」は、イスラエルの歴史の「逆境」のおける祈りの凝縮のひとつであり、わたしたちは、本詩を通して彼らの逆境を追体験するとともに、そのような「逆境」は、私たちの主イエス・キリストの生涯やミニストリーに中にも見いだされるのであり、そのことによりわたしたちが「逆境」に置かれるときの祈りともなり、力強い励ましにもなるのです。「私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました」とは、死者の墓をあばくことであり、死者をよみに眠らせることなく、なしうる最大の侮辱、屈辱を与えること、敵がわたしたちの肉体を畑のように耕し、木でもあるかのように切り刻み、そのしかばねを灰のように散らすことを意味します。その意味で、本詩は敵によって最大限の侮辱を受け得る危機に追い込まれた時にささげる祈りともいえるでしょう。
本詩の祈り・叫びの中心が、そのような侮辱・さげすみ・恥に対するものであると見るならば、この祈り・叫びはわたしたちの人生に欠かせないものとなります。詩篇は、間違った場所としての「穴」について述べます。聖書は、エジプトのヨセフのように「穴」に落とされた人について語ります。この「穴」は、見捨てられ、死人の間に置かれ、殺され、記憶されることなく閉め出された人のイメージを描きます。それは、[詩28:1
【主】よ、私はあなたを呼び求めます。わが岩よ、どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が穴に下る者どもと同じにされないように]とあるように、すべてを失い、主との関係も失い、沈黙させられ、忘れ去られ、死んだ者とされることです。クリスチャンであっても、教職者であっても、このような思いにさいなまれることはあるでしょう。
[詩30:9
私が墓(シェオール)に下っても私の血に何の益があるでしょうか。ちりがあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか]とあるように、居場所を失い、深刻な逆境に置かれることがあります。そして「穴」を掘った者、[141:8
危険] [141:9
罠…落とし穴]から、守ってください、と祈り叫ぶのです。「シェオール」は、単に曖昧模糊とした、力のない、灰色の場所で、喜びも、神との対話もないところです。暗く、失意に満ちた、死のイメージは、望みのない状況を描き、[141:10
私が無事に通り過ぎる]ことを祈り求めるものです。ここで大切なことは、この「穴」や「よみ(シェオール)」は、私たちの置かれた状況によって、さまざまな違った内容で満たされ得ます。このように本詩の苦境は、驚くほど大きな空間を提供しているのであり、わたしたちはその空間を、受験であったり、就活であったり、出会いや結婚であったり、施設への入所であったり、独自の経験で自由に満たすことができるのです。
この時期になりますと、所属団体の年次総会資料が準備され、それぞれの教会の礼拝出席や献金の状況が一覧表にされます。それは、教職者や教会が一年間かけて労した成果の報告です。都市部や地方で大きな差が出ます。キリストのからだなる教会の働きには、伝道と教会形成だけではなく、世界宣教の宣教師の働きもあり、また神学の研鑽と神学教育に重荷をもつ神学教育機能の働きもあります。宣教と教会形成の基盤の部分、神学教育を支える「兵站機能」はあまり顧みられない、また評価されることのない「見えない教勢」の領域です。貴重な訳書や刊行小冊子、そしてネット配信の千数百の講義・講演等の少なくない視聴者数は、人々の目から隠れたままです。そのようなとき、わたしたちは「キリストの謙卑の教理」の本質を学びます。人間に評価されずに生きる者の幸いを、です。イザヤ53章のようないきざまができるのだというスピリットの祝福を受けます。目の見えるところによる「人の栄誉、賞賛」を期待するのではなく、目の見えないところに目を留めてくださる主にのみ依拠する生き方です。
ゆえに、わたしたちは、上に目を上げるのです。[141:1
私はあなたを呼び求めています。…私の声に耳を傾けてください。141:2
私の祈りが御前への香として手を上げる祈りが、…立ち上りますように]と。人が認めてくれなくても、人が評価してくれなくても、わたしたちは、主の御前で、ある場合はセルフサポートで、自らが重荷とするところを「主からの召命」として、黙々と励み精進し続けます。召されるその日まで奉仕し続けます。わたしたちの働きの評価は、人によるのではなく、上から、主からくるのですから、「主の目を留めてもらっている」という感触と自覚があれば、もうそれで充分です。主にあって「十分な自己充足」が可能です。
わたしたちの「評価に向けての祈り・願い」は、人に向けてささげられるのではなく、神に向かって日々なされます。人に向かうと、それは「十分な評価をうけてない」と不平不満のはけ口となりやすいです。しかし、主を見上げてなされると小さなことにも感謝と賛美が溢れます。主が「わたしたち人間の思いをはるかに超えて高い評価を、人間世界のように[どんぐりの背比べ]ではなく、ひとりひとりの働きや奉仕に対して、“Only
One”の絶対的評価を与えてくださる」からです。ですから、人に向かって不平不満を言わないようにしましょう。[141:3
【主】よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください]と。わたしたちの心を[141:4
悪に向けさせず、…悪い行いに携わらないように]してください、と祈りましょう。
忠言にも耳を傾け、[141:5
真実の愛をもって私を打ち、頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように]と祈りましょう。主は心を閉ざしやすい忠言にも耳を開いてくださいます。川が流れを変えるように、人の心を変えてくださいます。人間世界では、磁石のN極とN極が自然と反発しあうように、頑なな人の心は不思議に反発しあうものです。しかし、わたしたちが主に祈って生活していくとき、主に叫んで主のみ旨に委ねて生きていくとき、水流が蛇行しつつも、自然に流れを形成していくように、人生は、奉仕は、わたしたちの進路は、不思議と導かれていくものです。主に祈りましょう。[141:5
私の頭がそれを拒まないようにしてください]と。困難に直面しても、掘り起こされ、砕かれ、まき散らされても、どんなに不運なことが続いても、「なおも祈り]ましょう。
きっと主は、[141:9 仕掛けた罠から、…落とし穴から]守ってくださり、[141:10
私が無事に通り過ぎる]よう助けてくださることでしょう。主イエスの受難週の祈り、さらには十字架上での祈りはまさしくそのような祈りであり、詩篇141篇と共鳴しあい、こだまするものです。わたしたちも、そのような祈りに共鳴しあい、日々、事ごとにこだまするよう紡いでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、浅野順一著作集4『詩篇研究』、Colin G. Kruse, “John”
Tyndale NT Commentaries )
2024年2月11日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇140篇「苦しむ者の訴えを支持し、さばきを行われる」-キリストにある贖罪と内住の御霊によって、悪に打ち勝つ生き方を確立していく-
https://youtu.be/MSu0fZsCkO4
詩篇138篇から145篇までの八つの詩篇は、表題に「ダビデ」が付されるところから、「ダビデの小詩篇集」と呼ばれるものです。その詩集の中央に、「敵に攻撃された信仰者が神ヤーウェに救いを求める祈り」の四つの詩篇、140篇から143篇が配置されています。本詩は、その最初の作品にあたります。本詩において、詩人は彼を攻撃する敵を[140:1
よこしまな人][暴虐を行う者]と呼び、それらの内容の[140:2 悪]を[140:3
舌…唇]の下にあるまむしの毒と説明しています。その[暴虐]は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取・抑圧することを意味しています。すなわち、本詩は、不当な告発によって苦しい立場に置かれている信仰者が、
[140:12
【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]ことを願う祈りとして編まれたものと思われます。このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 140 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
A.主の祈り「我らを試みにあわせず」(v.1-5)
B.主の祈り「悪より救い出したまえ」(v.6-8)
C.十戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」(v.9-13)
本詩140篇は、[140:1
【主】よ、私をよこしまな人から助け出し、暴虐を行う者から守ってください]という言葉から始まります。この言葉は、[140:4
【主】よ、悪しき者の手から私を守り、暴虐を行う者からお守りください]でも繰り返され、この祈りの切実さを教えられます。今日は、「法の下に平等」ということがうたわれ、それが大統領であれ、それが財力豊かな者であれ、貧しい者であれ、また芸能界における権力者であれ、弱い者であれ、それが男性であれ、女性であれ、肌の色が何色であれ、「法の下に」平等に保護され、守られ、助けられねばならないとされる社会です。しかし、わたしたちが目にするところ、耳にするところ、いまだに弱い者が踏みにじられるところが多々みられます。21世紀においてもそのようであるとするならば、「法律、またその執行において不備の多い」古代の世界ではどのようであったことでしょう。冤罪の数は、天文学的な数字であったことでしょう。それゆえ、本詩のような叫びは日常的なものであり、欠かすことのできない祈りでありました。
詩人は、はじめのふたつの段落で、神の保護・守りを懇願し、敵の攻撃を訴えます。このふたつの段落は、二行目が[140:1
暴虐を行う者から守ってください]、[140:4
暴虐を行う者からお守りください]と同じであるだけでなく、構成も同じ交差配列法です。古代社会における「暴虐」には、さまざまなかたちがあったことでしょう。しかし、それは今日の問題でもあります。どれだけ法律が整備され、その運用の不備解消への取り組みがなされたとしても、そのグレイゾーンがなくなることはないでしょう。その法律の抜け穴を見つけ、悪用する人は後を絶たないでしょう。
それゆえ、わたしたちは、古代の祈りに学び、今日の祈りとして活用することができます。安穏と構えていて、被害・悲劇を被るのではなく、このような祈りをささげ、主に[140:2
悪を企み]に気づかせていただき、仕掛けかけられている[戦い]に備えさせていただきましょう。その表面的な社交辞令や美辞麗句に惑わされることなく、人間の本質・事態の本質を見抜き、[140:3
蛇のようなその舌]、[唇の下にあるまむしの毒]を洞察させていただきましょう。[140:4
私の足をつまずかせよう]とのさまざまのかたちの企みの[140:5
罠…、網…、落とし穴]を発見させていただきましょう。イエスが[マタイ 10:16
いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい]と言われたように、純朴な信仰と御霊による知恵・識別力が与えられるよう祈りましょう。
9-12節には、敵への呪いの言葉が連ねられています。『復讐の連鎖(ファウダ:アラビア語で「混沌」を意味する)』というドラマがあります。憎しみや憎悪の心に支配されると「やった、やられた」の繰り返しで終わりがないことを教えられます。それで、詩篇はわたしたちのうちの多くの悩みや苦しみを「主の御前にだけ、注ぎ出す」ことを勧めます。[140:9
私を取り囲んでいる者たちの頭。これを自らの唇の害悪がおおいますように。140:10
燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。彼らが火の中に深い淵に落とされ、立ち上がれないようにしてください]と。140:11
そしる者が地上で栄えませんように。わざわいがすぐにも暴虐を行う者を捕らえるようにしてください」と。わたしたちが、神の御前に注ぎ出す行為は、わたしたちの心の重荷となり、苦しみの原因となっていた憎しみや悩みの心を「主に明け渡す」儀式となります。それで、不思議とわたしたちの心は軽くなります。わたしたちの主イエスが、[マタ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます]と言われている通りです。パウロが[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]と語っている通りです。
わたしたちの祈りは、わたしたちの信仰であり、そのように信じているとの告白・証しです。わたしたちは信じています。この世界には、この歴史には、[140:12
苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]神がおられることを。それゆえ、わたしたちの存在において、人間関係において、わたしたちの人生において、「復讐、憎悪、悩み、苦しみ」等、わたしたちの人間性、人格に悪影響を与え、破壊し続ける力を「主に委ね続けます」、「明け渡し続けます」。そのような内住の御霊と共なる祈りにおいて、[ロマ12:17
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行う]ように心がける力が与えられます。わたしたちは[12:19
自分で復讐]することはしません。しかし、悪に妥協したり、降伏したわけではありません。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」言われている神を「信じ」、神に「委ねる」のです。
わたしたちが信仰の目をもって、多くの人の人生を見つめるとき、悪しき者の[140:9
唇の害悪]そのものが、彼らのそのような傾向・人格・習性により、[140:9
私を取り囲んでいる者たちの頭]そのものに、彼ら[自らの唇の害悪]がおおっている現実をみます。彼らのそのような存在、生き方そのものが、[140:10
燃える炭火]を彼らの上にもたらしているのです。彼らの生涯は[火の中]の生涯であり、彼らの存在そのものが、落とされた[深い淵]と化しているのです。見えるところの裕福さや成功は、必ずしも[140:11栄え]を意味しません。多くの成功者とみられていた会社やスターは、[わざわいがすぐにも暴虐を行う者を捕らえる]時代ともなりっています。「私も」を意味する#MeToo(ミーツー)運動は、今まで沈黙されてきた問題を多くの人が公表することで、世の中を変えていこうとする運動です。これらの運動の中にも、[140:12
私は知っています。【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われることを]という歴史における神の摂理の働きを見せられます。
ある時代に許容されていたり、あいまいであったりして、法の穴をかすめたり、グレイゾーンで甘い汁を吸ってきた人たちがいます。しかし、それは一時的な栄華であり、長い目でみますとき、また神の目で見ますとき、どんでもない量の「燃える炭火」を積み上げていることにもなります。それゆえ、わたしたちは、人の前―すなわちその時代や文化・風習で良しとされているものに流されるのではなく、神の御前で良しとされるのかどうかを物差しとして、判断して進んでまいりましょう。日々、また問題に直面するごとに、主の祈り「我らを試みにあわせず」「悪より救い出したまえ」と祈ってまいりましょう。十戒にあるように「あなたの隣人について、偽りの証言」を差し控え、真実を証ししてまいりましょう。そのように生きていくときに、[140:13
まことに正しい人はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう]という言葉があなたの人生に実現するでしょう。
新約のローマ書には、[[ロマ12:17
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。…12:21
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい]とあります。わたしたちがキリストにある贖罪と内住の御霊によって、悪に打ち勝つ生き方を確立していくとき、詩篇51篇が現実のものとなります。[詩51:10
神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。…51:12
あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください]と。わたしたちは、よこしまな者、悪しき者、暴虐を行う者を恐れません。[140:12
【主】が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のためにさばきを行われる]と信じているからです。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、W.Brueggemann “Psalms”、安黒
務『殉教と背教のはざ間にうめく主の祈り』、『日本の宗教土壌を改良するモーセの十戒』)
2024年2月4日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇139篇「胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました」-吐き出されることにより、憎しみから自省への転換点になる-
https://youtu.be/emjfWJzKOww
久しぶりに、三浦綾子さんの本に目配りしています。その中の一冊『旧約聖書入門』に、詩篇への言及があります。その中に、聖書の言葉に傾聴しつつ生きているクリスチャンには好きな詩篇があるであろうこと、そして[その人の信仰と、好きな詩篇とは、かなり深い関係にある。その人の好きな詩篇は、その人の魂の養分となっているからである]と記されています。本詩139篇もまた、クリスチャンに深く愛されてきた詩篇のひとつだと思います。この詩篇の特徴について学んでまいりましょう。
(概略)
詩[ 139 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
A.神の全知(v.1-6)
B.神の遍在(v.7-12)
C.神の創造と摂理(v.13-18)
D.悪の存在、世における戦い、肉との葛藤(v.19-24)
詩篇傾聴も、139篇を数えることとなりました。あと残るところ、本詩を入れて12篇となりました。短い詩篇もあり、長めの詩篇もありでした。本詩は中ほどの長さといえるでしょうか。本詩を最初読んだときの印象はどうでしょう。わたしは「扇のようにあらゆる方向に展開している」ような感覚を抱きました。なにか散弾銃のように、多方向に弾が飛んで行っているようで、「素晴らしい詩句に満ちているが、これをメッセージとしてまとめることは至難のわざだ」と思ったのです。そう思いつつ、信仰の先輩たちの「詩篇139篇注解」に目配りしていきました。勘が当たったかのように、千差万別、多種多様な注解に目配りすることとなりました。
散らかった部屋を眺めるかのように、各節それぞれバラバラの注解もありました。また逆に、ひとつのメッセージを発見しようとする注解もありました。ブルッゲマンの注解によりますと、[詩篇139篇の読者にとってのジレンマは、しばしば引用される1-18節の美しい詩的なイメージを、19-22節の敵に対する衝撃的な請願とどのように結びつけるのか]ということだと書いています。1-18節は、瞑想的な口調であまねく臨在される主への称賛で満ち溢れ、舞い上がるような詩的な言葉で紡がれています。そのような流れが急変し、19-24節は敵に対する強い非難を含む請願に移行しています。それで、全体の一貫性を担保するために、19-24節を軸に「虚偽の告発」の存在を想定し、本詩全体を「無実の表明」のメッセージとして注釈しています。
「そのような解釈の可能性もあるのかな」と思いつつ、過ごした一週間でしたが、「もう少し、素直に読み、自然な流れで傾聴した方が良いのではないか」というところに落ち着きました。ここでのポイントは、前半の「瞑想的かつ格調高い主をほめたたえる言葉」と後半の「敵に対する強い非難」のジレンマの取り扱いです。わたしは、本詩を繰り返し読み、傾聴しているうちに、ひとつのことを思い出しました。それは、「本詩の構成は、エリクソン著『キリスト教教理入門』の神論の構成と似ている」というものでした。
エリクソン著『キリスト教教理入門』の神論は、「神の内在性と超越性」から始まり、「神の偉大さと神の善良さ」そして「神の計画・創造・摂理」へと展開しています。そしてそのような神が創造され摂理をもって導いておられる歴史のただ中にある「悪の問題」を扱っています。悪の問題には、大地震や大津波のような「自然悪」もありますし、戦争・犯罪・差別等の「道徳的な悪」もあります。その意味で、本詩1-6節は[139:1
私を探り知っておられ…139:2 私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られ…。139:3
私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられ…139:4
ことばが私の舌にのぼる前に、…そのすべてを知っておられ]る「神の全知性」の生活感溢れる描写といえるでしょう。わたしたちは、このようなかたちで「教理を生きて、生活のただ中で学び」血となし肉としていくべきでしょう。
その昔、わたしは共立基督教研究所への内地留学の機会を得、その際に東京駅からすぐ近くにあります「堺福音教会の東京チャペル」で奉仕にあずかっていました。ある礼拝でこのように語り始めました[御父は超越的で天のはるか離れたところにおられ、同様に御子も歴史の中で遠く引き離されています。しかし聖霊は信仰者の生活の中で活動し、我々のうちに住んでくださっています。現在、三位一体のお方が働かれる際に特に働かれるのは、三位のお方のうちの聖霊を通してです]と。このときに、チェリストで有名なボーマン氏の奥様が「あの表現は印象に残りました」と言われたことが記憶に残っています。7-12節
[139:7 私はどこへ行けるでしょう。…139:8
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられ…。139:10
そこでもあなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。139:11
たとえ私が「おお闇よ、私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても139:12
あなたにとっては闇も暗くなく、夜は昼のように明るい…]は、まさにその聖霊の臨在のことであり、三位一体の神の内在性、また遍在性の事柄なのです。
わたしは、この教理をエジプトのヨセフの生涯の中にも見ます。ある意味で、ヨセフの生涯は苦難に満ちた生涯と言えます。父に愛された子供でありましたが、他の兄弟から嫉妬されました。賜物と能力に恵まれた子供でありましたのでよく夢を見ました。それもまた兄弟の憤慨を買うことになりました。そして、ある時に、悪だくみにはまり、深い穴に落とされ、後にエジプトへ奴隷として売られてしまいました。そこで家令として仕えていましたが、その家の奥さんに罠にはめられ、牢獄に入れられる身となりました。まさに「七難八苦」の人生でありました。
しかし、その「七難八苦」の生涯には、ひとつの特徴がありました。それは[主がともにおられたので…、主が彼とともにおられ、彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た]という記述です。わたしは、これは信仰者の特権だと思います。ヨセフほどでないとしても、わたしたちの人生は大なり小なり「七難八苦」の連続ドラマのシリーズです。どうして、こんなにも次々と困難や問題にまみえるのだろうか。わたしに非があるのだろうか。なにか罪でもおかしたのだろうか。あるいは呪われているのだろうか、等、いろいろな思いが去来することと思います。
わたしは、そのような時に、「ヨセフの生涯」をわたしたちの人生に重ね合わせて、理解することをおすすめします。わたしたちの人生はある意味で、「階段を登っていくようなものではなく、地下室に降りていく」ようなところがあります。そのような時に、うちひしがれるのではなく、エジプトのヨセフの生涯を思い出し「主がともにおられるのだから、大丈夫!主が今、この地点で、この場所で祝福してくださる」と信じましょう。
13-18節をみますと、聖書にある創造と摂理の教理が、実にわたしたちの生活感溢れるものとされていると気づかされます。[139:13
あなたこそ私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です]から、わたしたち個々人の誕生が、主にある創造であると教えられます。[139:14
あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです]からは、わたしたちは、偶然の産物ではなく、主にある奇蹟、主によって創造された芸術品であると教えられます。母の母胎という[139:15
隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、…139:16
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました]と、わたしたちは、神の作品であり、神を監督とするドラマの俳優であり、ひとりひとりがその主役であると教えられます。神さまはわたしたちを、神のドラマの主演俳優、また主演女優として選んでくださっているだけでなく、そのドラマにおけるシナリオやセリフもまた用意しておられる、ということです。
では、そのドラマのシナリオやセリフはどこにあるのでしょう。わたしたちはその脚本を入手することはできません。監督のみが保持しておられるからです。わたしたちは、主との交わり・祈りのうちで、また生活のただ中で御声・導きを感知しつつ、神さまの主導権の下、御霊との二人三脚で、わたしたちにおいてはその空白のページを埋めていかねばならないのです。その不思議な人生の行程を詩人はこう告白しています。
[139:17 神よ、あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。そのすべてはなんと多いことでしょう。139:18
数えようとしてもそれは砂よりも数多いのです]そうなのです。わたしたちの人生には、無限の選択肢が前に置かれています。そのような自由のただ中で、「いろんなものに流されて生きる自分自身から、神が本来あなたに意図された真実なる自分自身」となり、神の栄光をあらわすために日々決断していくことが大切と思います。[私が目覚めるとき、私はなおもあなたとともにいます]とあるように、朝目覚めるときに、「主よ、今日もあなたがわたしを導いてください」との祈りと献身をもって一日を始めましょう。具体的な事柄は、日々瞬々に示されることでしょう。それを心に留め、メモし、そのひとつひとつにチャレンジしてまいりましょう。
エリクソン著『キリスト教教理入門』には「第15章
悪と神の問題」の章があります。そこでは[神が全能で、まったき愛の方なら、なぜ世界に悪が存在できるのか]という問題が取り扱われています。19‐24節は,このような神学的・哲学的問いの実践版といえるでしょうか。それは、神を畏れる者と畏れない者との間の信仰の戦いです。神を畏れる者は自分を神の側に置き,神への忠誠を誓い,神の支配に身をゆだねようとします。これに対し、このような生き方をする信仰者、また共同体への迫害もまた起こり得ます。そのようなただ中にある者の祈りです。新約では、「汝を迫害する者のために祈れ」というイエス・キリストの高い道徳規準も示されています。もちろん、それは大切なことです。ただ、この箇所の激烈な言葉[139:19
神よ、どうか悪者を殺してください。…139:21
【主】よ、私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を嫌わないでしょうか。139:22
私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます]にも意味があるとブルッゲマンは語ります。
これは、人に対して発せられた言葉ではなく、憂いと悩みを神の前に注ぎ出したハンナのように、神に向かって注ぎだした祈りであると。人にではなく、神の御前に注ぎだす「ありのままの思い」は、それが言葉されて注ぎ出されると、「それは考えられていたほど危険なものではない」と。かえって、激しい憤り、怒りが勢いを失い、正気を取り戻す近道であると。破壊の行為に変わる「想像力と誇張に満ちた祈りの言葉」は、それが吐き出されることにより、憎しみから自省への転換点になると。21‐22節は「悪を行う者に対する強い嫌悪の表明」であり、そして23節の「探り」は1節と同じ言葉であり、徹底的な調査によってわたしの誤りが照らされ,深い自省を経て正しい道へと導かれることを願うものです。そのような意味で、詩篇139篇は、「生活感溢れる神の教理についての詩篇」といえるのではないでしょうか。神の教理をそのような次元で学んでまいりましょう。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献:三浦綾子『旧約聖書入門』、M.J.エリクソン『キリスト教教理入門』、W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、“Psalms”)
2024年1月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇138篇「心を尽くして、私はあなたに感謝をささげます」-御前への叫びは御耳に届いた-
https://youtu.be/F9xEqmBMIVA
本詩138篇から145篇までは、表題に「ダビデによる」と記される「ダビデ小詩篇集」です。この「ダビデによる」とありますのは,ダビデ起源の詩篇を帰還後に編集したためと思われます。旧約聖書のギリシャ語訳セプチュアジンタ、すなわち70人訳では「ダビデ,ハガイとゼカリヤ」とあり,帰還後のイスラエルの人々との関係が見られます。そのようなところから、本詩は,捕囚からの解放への感謝と主による回復への確信の歌とみられています。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 138 ]ダビデによる。
A.捕囚からの解放への感謝―救い(v.1-3)
B.地のすべての王は、主のみことばを聞く―証し(v.4-5)
C.主はすべてのことを成し遂げられる―完成(v.6-8)
以前、読んだ本に、『寺院消滅』という本があります。その本によりますと、[日本のお寺は、かつてないほどの危機に瀕している。菩提寺がなくなり、お墓もなくなってしまった――。こんな事態が現実になろうとしている。中でも地方のお寺の事態は深刻だ。高齢化や過疎は檀家の減少につながり、寺の経営を直撃する問題となっている。寺では食べていけないことから、地方の寺では、住職の跡継ぎがいない]と。
これは、急速な少子高齢化の波による社会現象であり、寺院のみならず、キリスト教会もまた直面している問題です。市町村の機能も、幼小中高の学校も、再編統合を繰り返し、将来の予測に基づき経費の最小化の中での有意義な機能の効率的活用に取り組んでいます。伝道・教会形成・神学教育の機能においてもまた、革新的な取り組みが必要な時代であると思います。ICIでは、過疎化・限界集落化の状況下で、神学教育機能において神の栄光を表し、諸教会に貢献していくことを召命・賜物、また重荷として取り組ませていただいています。
本詩を繰り返し熟読し、思い巡らしていますと、「昨今のそのような現況に響く声」が聞こえるような気が致します。最初に申しましたように、[本詩は,捕囚からの解放への感謝と主による回復への確信の歌]であります。すなわち、本詩は一般的な感謝の意味でも用いることができますが、さらに深い次元で「第二の出エジプト」とも呼ばれる「バビロン捕囚から解放された」神のみわざへの感謝であるのです。1節の[心を尽くして、…感謝をささげます]は、儀礼的な表現ではなく、国を失い、首都は灰燼に帰し、神殿も跡形もなくされ、70年間の捕囚の後に、母国の再建の機会を得た民の、喜びと感謝の表れでしょう。
[138:2
あなたのみことばを高く上げられた]とは、なんのことでしょう。それは、申命記に約束されていることばであるでしょう。申命記には、こうあります。[申命記30:1
私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り、30:2
あなたの神、【主】に立ち返り、私が今日あなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、30:3
あなたの神、【主】はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。30:4
たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される。30:5
あなたの神、【主】はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やされる。]それは、申命記に約束されていることばであり、エズラ記、ネヘミヤ記において実現された神殿の再建、エルサレムの城壁の再建であります。
[138:2 私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し]からは、エズラ記の3章の[3:10
建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、…3:11 …民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた]情景を思い起こします。そうなのです。[138:1
心を尽くして、私はあなたに感謝をささげます]の前段には、バビロン捕囚における絶望があるのです。
そのような絶望感は、聖書の各所に溢れています。そのひとつは、ヨナ書にある以下のものです。[ヨナ2:2
「苦しみの中から、私は【主】に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。2:3
あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。2:4
私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』2:5
水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。2:6
私は山々の根元まで下り、地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。2:7
私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました]ヨナは絶望のただ中で、神に叫び、起死回生の救いを経験しました。
詩篇18篇の絶望のただ中での叫びもまたそのひとつです。[詩18:3
ほめたたえられる方。この【主】を呼び求めると私は敵から救われる。18:4
死の綱は、私を取り巻き、滅びの激流は、私をおびえさせた。18:5
よみの綱は、私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。18:6
私は苦しみの中で【主】を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた]
わたしたちの人生は、順風満帆の日々ばかりではありません。雨の日、嵐の日、大地震、大津波の日もあります。いついかなる時に、ヨブのような災難にまみえるか分かりません。中高大学への入学試験、会社での資格取得試験、献身者の進路や招聘の人事の最中の、なんとも言えない圧迫、苦しみ、不安な気持ちもまた、ヨナや詩篇18篇に似たものであるでしょう。要するに、わたしたちは、意識するとせざるとに関わらず、ほぼ日常的にそのような「詩篇の世界」に生きているのです。そして、[138:3
私が呼んだその日にあなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました]とあるように、[2:7
私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました][18:6
私は苦しみの中で【主】を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた]という経験をするのです。それが信仰生活の醍醐味です。人生は、ドラマです。わたしたちと神様とともにあるドラマです。その役回りを見事に演じてまいりましょう。
では、わたしたちが祈る「祈り」は必ず聞かれるのでしょうか。それは分かりません。しかし、はっきりしていることがあります。神様は生きておられるということ。わたしたちは祈ることが、叫ぶことができるということです。そして「わたしたちの祈る祈りは聞かれた」と“信じる”ことはできます。ただ、どのように聞かれるか、神さまはわたしたちの生涯に“最善”をなすために、[138:3
私が呼んだその日に、(わたしに、あなたに、どのように)答え]られるかは、主に委ねなければなりません。
138:4には、[地のすべての王は、あなたに感謝するでしょう。彼らが、あなたの口のみことばを聞いた]とあります。それは、申命記の[30:4
たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される]と語られたみことばでしょう。そして、また神のしもべとも呼ばれ、その実現を導いたペルシャ王キュロスの口を通して発せられた「主のことば」でしょう。[エズ1:2
「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。1:3
あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である]
それは、[138:5
【主】の道…]そして[【主】の(摂理の)栄光]でしょう。主は被造物世界のすべてを創造された神であるとともに、全歴史を導かれる摂理の神です。旧約の歴史をみますと、弱小の民イスラエルは存続し続け、アッシリアやバビロンといった強国は滅んでしまいました。現実の世界は、強者が弱者を制圧するかに見えます。しかし、長い目でみれば、歴史の覇者は衰退し消滅していきました。事実、西アジアのほぼ全域を版図に収めたアッシリア帝国は、BC7世紀に消滅しました。またエルサレムを陥落させたバビロン帝国の覇権も1世紀以上は続きませんでした。ペルシャ帝国でさえ2世紀を超えることはありませんでした。
古代イスラエルの信仰者たちは、こうした歴史の背後に、[138:6
低い者を顧み]てくださり、[高ぶる者を遠くから見抜かれ]低くされる神の意志を読み取ったのです。砕かれ、小さく、貧しくされた低き者に目を注がれる神をみつめ、[138:7
私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます]と告白し、[138:8
【主】は私のためにすべて(すなわち、捕囚からの帰還)を成し遂げてくださいます。…あなたの御手のわざ(すなわち、神殿の再建、エルサレムまた国土の復興)をやめないでください]と祈ったのです。
旧約の次元でイスラエル民族と国土の上に明らかにされた摂理の御手は、新約の次元でわたしたちクリスチャンの日常生活のただ中に光が当てられています。同様の主の働きが、より本質的なかたちにおいて、聖霊がなしてくださることを信じ、祈ってまいりましょう。
(参考文献:実用聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』)
2024年1月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇137篇「シオンの歌を一つ歌え」-エルサレムと神殿は、幼子を岩に打ちつけるが如く破壊され-
https://youtu.be/gawj1ZhDwvU
本詩137篇は、「報復を求める叫び」として有名な詩篇です。この詩は,バビロン捕囚から帰還した音楽関係のレビ人の作ではないかと推測されます。作られた年代は前538/537年頃。故国エルサレムの荒廃の現実を前にバビロン時代を振り返り,エルサレムでの礼拝の再開と破壊者バビロンに対する主からの報復を願ったものです。さて、本詩で問題となりますのは、[137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ、岩に打ちつける人は]とある箇所で、詩篇の作者が報復を求めて神に叫び立て、さらに「敵」に対する激烈な復讐さえも祈り求めている事実です。
新約のクリスチャンとして、呪いと復讐の詩篇を含めて保持した方がよいのか、あるいはイエス・キリストによる神の啓示に合致しないと思われる点に関して、各詩篇を検閲した方が良いのか、という議論があります。その中には、ボンヘッファーは[すべての詩篇を、取捨選択することなく、朝晩の祈りとして使う]ことを主張しています。詩篇の嘆きの歌は、[人間の苦悩の底から、残酷さや憎悪の感情がえてしてわき上がる深淵から]生じてきました。そのような[人間生活のあらゆる情念や激情]がそのまま詩篇に表現されています。詩篇は、[真善美の理想的で、超歴史的な、極楽浄土]を示しているものではなく、[変化と闘争と苦難に満ちた歴史的状況]に関わるものなのです。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 137 ]
A.捕囚体験の回想(v.1-3)
B.聖なる歌は余興のために歌えない(v.4-6)
C.報復の祈り(v.7-9)
1‐3節は,バビロン捕囚時代の体験を描写しています。[バビロンの川]は複数形で、多くの川や支流があったことを表しています。[137:1
バビロンの川のほとり、そこに]、また[137:3
それは私たちを捕らえて来た者たちが、そこで私たちに歌を求め]とは,すでにバビロンから帰還した者が捕囚体験を回想している言葉です。[137:1
バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り]の[座る]は嘆きの状態を表しています。彼らの故国は占領され,首都エルサレムと神殿は破壊され、神殿礼拝は断絶,神から見捨てられたことを深く実感した悲しみで満たされていました。捕囚の人々は琴を奏でて悲しみの歌を歌いたかったのですが,3節の理由で歌えませんでした。3節の[137:3
余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言った]のは,主のご性質とみわざの告白であるので,聖なる歌を余興のために歌うことは出来ないという告白です。[シオンの歌]とは神殿礼拝の歌であり,「主の歌」であるからです。
わたしは、この箇所を読んだとき、「伝道また証しのために歌うことはできなかったのかな」と思いました。といいますのは、先月母を天国に見送りましたときに、その前夜式また告別式のブルーレイディスクを作成し、「いつくしみ深き」「世にもとうとく清きふみあり」「神ともにいまして」の讃美歌・聖歌にあふれる、主の慰めの臨在と主ともにあった生涯の物語の証しのメッセージを家族・親戚等にお配りさせていただいたからでした。キリスト教の前夜式・告別式には、一時的な別離の寂しさとともに、天国で再び再会できるという希望に溢れています。その希望の臨在に、「イエスの衣に触れて癒された長血をわずらう女性」(マタイ9:20)のように触れていただきたかったのです。
しかし、本詩のこの箇所には、また別の意味があるようです。バビロン帝国の首都バビロンでは、ユーフラテス川から水を引くために、碁盤の目のように掘削された灌漑用の運河がありました。そうした運河の川底は流れ込む土砂で埋まっていきます。そのために、毎年のように底をさらって、洪水がおこらないようにしていました。
[137:4
どうして私たちが、異国の地で【主】の歌を歌えるだろうか]と書かれていますが、それは反語的であり、現実はさかさまであったのではないかと思われます。つまり、「異国の地で、聖なる首都エルサレム、シオンの山にある神殿で歌われるべき【主】の歌を、[137:3
私たちを捕らえて来た者たち、…私たちを苦しめる者たち]のために、すなわち運河における労働の合間に、[余興]として歌えるだろうか、そのような用い方はあってはならず、わたしたちにはそれはしてはいけない」ことと受けとめられたでしょう。しかし、現実として、捕囚民であるわたしたちにとって、バビロニア人たちからの求めを拒絶することはゆるされず、そうした求めにやむなく応じ、竪琴にあわせて歌う他にとるすべはなかったでしょう。
[137:4
どうして私たちが、異国の地で【主】の歌を歌えるだろうか]という言葉は、そうであってはならないと思うにも関わらず、聖なる[【主】の歌]を労働の合間の余興として歌わされてしまったことへの慙愧の念を反転させたものでしょう。わたしは、これは異教の地である日本でもありうることだと振り返ります。田舎に住んでいますと、自治会や子供会・婦人会・老人会の行事の大半は神社やお寺等の宗教行事にからんでおり、そのような中で、「宗教に絡まない自治会行事や奉仕のみに参加させていただきます」と一線を引き、無用な摩擦を避け、調整し理解していただき、それを遵守していくことはなかなか大変なことです。
ただ、大変ですが、そのように一線を遵守し、理解してもらえるようになることは感謝すべきことです。わたしの家の墓碑は、長崎のキリシタンの墓碑を採用させてもらいました。それは、「あのキリシタン迫害の時代にも、偶像礼拝を避け、唯一神信仰を貫いた人々」の存在を心に刻み、彼らの信仰の子孫として生きるためです。そして、思うのです。「あのような熾烈な迫害下で一線を遵守しつつ生きようとしたキリシタンに倣って、そのような精神をもって今日生きるとしたら、どのように生きることができるのだろうか」と。「あの時代は、殺されるかもしれない危険があったのに、できるだけ純粋に生きようとした。今はいじめや迫害はあるかもしれないけれども、まず殺されることはないのに、一体何を恐れているのか」と反問するのです。
本詩137篇から学ぶべきことは、「そういう反問を心の中で繰り返すことが信仰生活ではないのか」と言うことです。その反問が記されています。5‐6節は,「エルサレムでの礼拝や賛美を慕い求めた捕囚の人々の心情」です。「神への賛美が正しく行われることを願った人々の断固とした態度の表明」です。余興を求める人々に屈することはエルサレムでの礼拝を忘れることであり,主への不忠実と受けとめられたからです。もしそうなれば、[私の右手が……忘れるように]は、楽器演奏のテクニックを忘れるようにであり、6節では,[私の舌が]語ることや歌う力を失うようにと願っています。バビロンでは、主の歌を、神殿礼拝の歌を余興に用いられることの苦渋の思いが、またキリシタンの時代には、神社・仏閣に絡む諸行事・諸儀式に絡むことに対する苦渋・反問があったことでしょう。これが、クリスチャン生活です。そこに何の抵抗も葛藤もなくなったとき、「地の塩」の役割は終えるのだと知るべきでしょう。
7‐9節は,荒廃したエルサレムの復興と神殿礼拝を願う詩人が,エルサレムを荒らした敵たちへの主ご自身の報復を求めています。[137:7
【主】よ、思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ、破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを]。エドムは、ヤコブの兄エサウの子孫である。エドムの兄弟愛の欠如が責められています。また、[137:8
娘バビロンよ、荒らされるべき者よ]は、バビロンの町々を意味しています。[137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ、岩に打ちつける人は]という激烈な言葉は、[137:8
幸いなことよ、おまえが私たちにしたことに仕返しする人は]を背景にしており、エドム等の周辺国がエルサレムの徹底的破壊を求めたように、バビロン帝国はエルサレムの中心にあった最も聖なるもの、イスラエルの民が愛してやまないもの、いつも歌っていたシォンの歌、主の歌、忘れることのできないもの、至上の喜びとしたもの―家族にとって最も愛らしく、最も大切で至上の喜びの焦点である「幼子」のようなもの、すなわち神殿を「岩に打ちつける」ように徹底的に破壊したことに対する思いを述べるものでしょう。
当時はペルシャ王クロスの寛容な政策によって,バビロンはまだ繁栄を享受し、それほど荒れてはいませんが,必ず主からの報復がなされる都でありました。バビロンに対する主の報復は、7節の〈主よ〉という呼びかけに,新約の報復を主にゆだねる信仰者の心(ローマ12:9)を見ることができます。怒りや報復を抑え込みすぎると病気になります。しかし、それを具体的に行使すれば悲惨な結果をもたらします。それらをイメージや告白として表現し、祈りの内に、報復を主にゆだねることが最良の選択のひとつになるのではないでしょうか。祈りましょう。
(参考文献:実用聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2024年1月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇136篇「主の恵みはとこしえまで(アーメン、ハレルヤ!)」-イメージ化し、その本質を類比的に適用して生きる-
https://youtu.be/BYpULfmFq6w
本詩136篇は、独唱もしくは特別な合唱と全会衆との間で交わされた礼拝用の交誦歌です。それは、エズラ記3:10-13にある[3:10
建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。3:11
そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。3:13
そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた]においてもみられる要素です。感動と嘆きの応答に溢れる礼拝はいつでも魅力的なものです。今日においても、米国の黒人教会等において、説教とそれに応答する「アーメン、ハレルヤ!」の交錯する礼拝は同様の魅力に溢れているといえるでしょう。
さて各節の前半が語り歌われた後、「その恵みはとこしえまで」という感動の応答が繰り返されています。その本詩各節の前半概要を見てまいりましょう。1‐3節は感謝の呼びかけです。4‐9節は創造主なる神の告白です。10‐15節は出エジプトの恵みの告白です。16‐22節は荒野の守りと約束の地への導きの告白です。23‐26節は自然とイスラエルに対する主の恵み深い摂理と支配の要約的告白です。イスラエルの民の、このような感謝と告白と応答の詩篇をわたしたちはどのように傾聴し、わたしたち信仰者の人生に生かすべきなのでしょうか。そのあたりを考えながら、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 136 ]
A.感謝の呼びかけ―私たちにとって、主は如何なるお方なのか(v.1-3)
B.創造主なる神の告白―創造と誕生の類比(v.4-9)
C.出エジプトの恵みの告白―出エジプトと救いの経験の類比(v.10-14)
D.荒野の守りと約束の地への導きの告白―荒野の旅程とクリスチャン人生の類比(v.15-22)
E.主の恵み深い摂理の要約的告白―わたしたちの人生に働く摂理への類比(v.23-26)
冒頭の絶叫[136:1
【主】に感謝せよ]は、「ほめたたえよ」とも訳されます。折り返しの[その恵みはとこしえまで]は、原意に従えば「そうだ」「まさに」と訳されるのが最良といわれます。それゆえ、[136:1
【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで]は、「ハレルヤ!
主はまことに慈しみ深い」という呼びかけに対する「アーメン!」と置き換えても良いものです。1‐3節は、その「慈しみ深い主」への感謝を呼びかけます。[神の神]、[主の主]は、そのお方が「絶対的主権」をもっておられるとの表明です。
4‐9節は「創造主なる神」を告白しています。「英知をもって」は、神の計画は建築家の設計であることを意味しています。それは、最初は心の中に描かれ、次に意図とデザインにしたがって紙の上に描かれ、その後初めて実際の建築において実行されるように宇宙は創造されました。その経緯は、6‐9節に[136:6
地を水の上に敷かれた…。136:7 大きな光る物を造られた…。136:8 昼を治める太陽を…。136:9
夜を治める月と星を]とあり、それは創世記1章に基づいています。さて、[136:1
いつくしみ深い]主にある創造信仰はわたしたちにとって何を意味するのでしょうか。そこから派生する意味は掘り尽くすことはできず、汲み出し尽くすこともできないでしょう。たとえば「組織神学」の創造論や人間論には、ある意味「無限の教理的含蓄」の一部が汲み上げられていると言えます。
ここでは、「創造」の意味合いを、わたしたちの人生における「誕生」に重ね合わせましょう。V.6-9に「地、大きな光る物、昼をおさめる太陽、夜を治める月と星」とあります。そして、環境が整って最後に、人間は創造されました。これは、赤ちゃんの誕生を前にして、ゆりかごとかオムツとか、哺乳瓶とかあらゆるものを備える愛情溢れる夫婦に似ています。これは、創造の記事のならず、わたしたちの人生における誕生とも似ています。神さまは、わたしたちの両親を通してあらゆるものを備えさせ、人生の準備をしてくださいました。神さまは、わたしたちに生きるべき環境を備え、入るべき幼小中高等の学校も備えてくださいました。わたしたちは、「わたしたちの人生の家庭、また環境の中に、主の創造の御手と御力をみることができる」のではないでしょうか。
10‐15節には、「出エジプトの恵み」の告白がなされています。出エジプトの出来事は、実に[136:4
大いなる不思議]のみわざでありました。三百万人にも増えたイスラエルの民は、エジプトにとって国内の脅威であるとともに、ピラミッド建設等の公共事業に欠かすことのできない奴隷労働力でありました。エジプト王朝は、彼らを「生かさず、殺さず」巧妙に酷使し続けました。彼らの叫びは、神に届き、モーセが遣わされました。しかしモーセによるパロ説得は届かず、イスラエルの民を解放する交渉は完全に行き詰ってしまいました。そのような八方ふさがりの状況を打開するために神は全能の力をもって介入されたのです。十の災害をもって[136:11
その地から導き出され]、[136:13
葦の海を二つに分け]る奇蹟をもって、まずイスラエルに対するパロの執着を捨てさせ、最終的に彼らの追撃力を紅海のもくずとされました。
出エジプトの出来事は、新約の光においてパウロは、[コロサイ1:13
御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました]等、救いの出来事と重ね合わせて解釈しています。[ロマ1:21
神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく]なっていた不信仰と罪の奴隷であった生活から贖い出された出来事には、エジプト脱出と似た戦いがあることでしょう。そこから学ぶことは多くあります。たとえば、紅海の経験は「洗礼」と類比されます。心で信じるだけで中途で止まっているクリスチャンは、この世からの「追撃力」から解放する「洗礼が内包する力」を熟考する必要があると思います。紅海を渡ることなしにエジプトの支配からの解放はなく、洗礼を受けることなしに世の影響からの解放もないことを考慮しましょう。
16‐22節は、「荒野の守りと約束の地への導きの告白」です。出エジプトに続く、シナイの荒野での四十年間の旅程は、[Ⅰコリント10:11
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです]とあるように、荒野の経験にはクリスチャンの生涯への教訓が溢れています。本詩では、イスラエルの不平・不満、つぶやき等の罪の告発はなく、[136:16
荒野で御民を導かれた方に感謝せよ]で始まり、[136:17 大いなる王たちを打たれた…。136:18
主は力ある王たちを殺された。…136:19 アモリ人の王シホンを。…136:20 バシャンの王オグを。…136:21
こうして彼らの地をゆずりとして与えられた]と、荒野の旅を導き、ヨルダン川東岸の[アモリ人の王シホン、バシャンの王オグ]を征服し、ヨルダン川両岸の地を[ゆずりとして与えられた]と言明しています。新約では、霊と肉、御霊による新しい自我とこの世とつながる古い自我との葛藤に焦点が当てられています。
新約の光では、地上の植民地主義的な土地争いの色彩は払拭され、神の国の概念が、天上の右の座に着座された、民族を超えた普遍主義の、天的な神の国の支配へと変貌しています。そして視野は、今日、地球規模の環境問題等にまで広げられています。このことの故に、「土地、首都、神殿」の回復を応援するキリスト教シオニズムの考え方は、旧約の影を背負ったキリスト教の“亜流”であり、民族を超えた普遍主義的な神の国理解からの逸脱であると教えられます。
23‐26節は「創造と主の恵み深い摂理の要約的告白」です。[136:23 私たちが卑しめられたとき]、また[136:24
そして主は私たちを敵から解き放たれた]とは,イスラエルの歴史の中のエジプト時代やバビロン捕囚のことを中心にして,あらゆる事柄における主の救いと導きを指します。わたしたちがクリスチャンとして豊かな霊的祝福をいただいて人生を生きるためには、聖書の出来事をイメージ化し、その本質をわたしたちの人生に投射する想像力が求められていると思います。すなわち、聖書の出来事、教え等をわたしたちの生活の中に「類比」を発見し続ける能力のことです。
わたしたちクリスチャンの人生も、「万事、順風満帆の人生であった」という方は多くはないでしょう。卑しめられ、評価されることのない時間、さまざまの敵に囲まれたり、数々の問題に直面する環境に置かれることもあったでしょう。しかし、イスラエルの民に信仰があったように、わたしたちにも信仰があります。わたしたちは、イスラエルの民がそうであったように、聖書に記されている「信仰告白」を傾聴し、それらをイメージ化し、その本質を、わたしたちの生活の中に、人生の中に類比的に適用し、「アーメン」と唱和し、「ハレルヤ」と賛美致しましょう。聖書に書いてあるものを、わたしたちの人生に書き込まれている「信仰告白」と解釈して、誕生と創造を、救いを出エジプトと、御国へと向かう人生の旅を40年間の放浪と約束の地征服と重ね合わせて、「アーメン」と唱和し、「ハレルヤ」と賛美しつつ、残された旅を続けてまいりましょう。
(参考文献: 実用聖書注解、ハーパー聖書注解)
2024年1月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇135篇「主の御名をほめたたえよ」-人間のおもな、最高の目的は、何であるか-
https://youtu.be/O9Z_oKIrPqs
新年あけましておめでとうございます。昨年末には、母を主の元へ見送ることができました。一時的な別れとなり、一抹の寂しさはありますが、御国における再会の希望を抱いて歩んでまいりたいと思います。今年は、年初から石川県能登半島での大きな地震があり、羽田空港では支援に向かおうとしていた飛行機の事故があり、日本は悲しみに包まれています。震源地の珠洲市には、家内の友人も住まわれており、家族が被害にあったかのように心を痛めています。主の慰めと支えが豊かにありますように。また国内外からの支援や援助が多からんことを祈っていきたいと思います。
さて、今朝の聖書箇所は、旧約聖書詩篇の第135篇です。この詩篇は,134篇を展開したものと言うことが出来ます。主を賛美せよとの呼びかけで始まり,創造と救済(選び)の恵みを告白し,神の民イスラエルにゆだねられた「世界の祝福の基としての務め」を自覚させるものです。エズラ,ネヘミヤによる第2神殿での礼拝が整えられた時期のものと思われます。これは、父祖アブラハムが「祝福の約束」を受けて、約束の地を受け継ぎ、ダビデ・ソロモン王朝の時にそれが実現し、その後、「約束の地において申命記の基準によって取り扱われ」、アッシリア捕囚とバビロン捕囚を経験したのち、神のあわれみにより、「再び約束の地における再建がなされていく」時期のものです。このような背景を念頭に、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 135 ]
A. 【主】の御名をほめたたえよ(v.1-4)
B.自然における主の大能(v.5-7)
C.歴史における主の救いのわざ(v.8-12)
D.主の永遠性と偶像の無能性の告白(v.13-18)
E.主の恵みと力と栄光を証しせよ(v.19-21)
1‐3節には,〈ヘ〉ハレルーが4回繰り返されています。年初の不幸な出来事を思えば、主すなわち〈ヘ〉ヤーハを「ほめたたえよ(ハレルー)」を連発する本詩は、なにか場違いの印象を受けます。しかし、このような「主のほめたたえ」の前景をみますとき、南北王国時代の神の取り扱いと悲惨きわまる捕囚の経験があることに鑑みれば、かえってその意味の適切さを教えられるのではないでしょうか。アッシリア帝国による捕囚とバビロン帝国による捕囚を経験したイスラエルの民は、震災を経験した人々のように、彼らの人生をかけて作り上げてきたものすべてを失ってしまいました。その彼らに対して、[135:1
ハレルヤ、【主】の御名をほめたたえよ]と呼びかけているのです。それは、暗闇の中に灯される一本のロウソクのようです。小さなロウソクのともしびが深い暗闇を吹き払うのです。2024年、この新しい年、暗いニュースが溢れています。ウクライナでも、ガザでも日々多くの人々が死んでいっています。国内でも、地震があり、事故があり、心ふさがれる情報で溺れそうです。そのような時に、イスラエルの詩篇の記者に励まされ、新年の第一声として[135:1
ハレルヤ、【主】の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ、【主】のしもべたち]と自らの魂に呼びかけようではありませんか。
わたしたちは、何ゆえに、また何をもって[主をほめたたえる]のでしょうか。それは、まず第一に主が[135:3
まことにいつくしみ深い]方であるからです。先月、別離の悲しみのおり、讃美歌「いつくしみ深き」を歌いました。よく知られた、大変美しい曲であります。しかし、この曲を作詞した人が「結婚式の前日に、婚約者を亡くした」人と知っている人は多くないでしょう。この歌を歌う際に、この作詞者の心に思いを馳せ、その人の心の痛み、悲しみに没入し、「悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣き」つつ唱和するとき、この歌の真実に、深みに触れることかできるでしょう。同様に詩篇の作者が、主は[135:3
まことにいつくしみ深い]と告白するとき、同じような記憶、経験、実体を抱えているのです。どのように慈しみ深いかと申しますと、[135:4
【主】はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝として選ばれた]とある通り、「〈宝〉の民としての選ばれた」(出19:5,申7:6参照)という約束の通り、バビロン帝国によって滅ぼされてしまうことなく、捕囚によって取り扱い、不純なものを取り除かれた銀のように精錬され、再び約束の地における回復を経験できた、約束に対する主の誠実さをほめたたえ、感謝しているのです。新約の神の民であるわたしたちも、暗闇の深い時代にあって、「
135:3
まことにいつくしみ深い」主イエス・キリストに焦点をあて、このお方をほめたたえ、わたしたちを覆うさまざまの暗闇を吹き払いつつ、新しい一年を歩んでまいりましょう。
5‐7節には,自然における主の大能が歌われています。わたしたちが信じる神さまは、世界を創造し、それを保持していてくださるお方です。私たちは、神さまが造ってくださったこの地球の管理者としてたてられています。この地球はさまざまな資源、植物、動物に満ちた「エデンの園」のような星です。近年、大きな問題のひとつは、温暖化の問題で、気候のメカニズムが狂ってきています。ひとつのメカニズムの変調は他のものにも影響していきます。気温の上昇、大雨による洪水、地殻変動等はなんらかのかたちで連動しているのかもしれません。[135:7
主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される]と言われています。わたしたちは、神の園である地球の管理者です。わたしたちの行動・生活が大地の管理に影響を与えています。神とともにある「良き管理者」として、生活や行動、また選挙や買い物において、「良き影響力」を発揮していくものとされたいと思います。
8‐12節は,「歴史における主の救いのわざ」を賛美歌風に告白しています。出エジプトの経験、ヨシュア記・士師記の戦い、ダビデ・ソロモンの黄金時代等を連想させる記事です。きわめて民族主義的・好戦的な記事といえます。このような記事を今日の「世俗的イスラエル国家」にあてはめて、「神のみ旨」とすることはできません。それは、「イエス・キリストの人格とみわざ」において最終的に明らかにされている「神のみ旨の啓示」の原則に反するからです。イエス・キリストにおいて、最終的に明らかにされている「神の国」は、民族主義を払拭した「普遍主義的なもの」です。新約においては、これらの記事は、霊と肉の戦い、善と悪の戦いの次元に昇華されています。[135:21
シオンで【主】がほめたたえられるように。エルサレムに住まわれる方が。ハレルヤ]とあるシオンやエルサレムも、地上的なものではなく、「天的な実体」の予表また影として捨象されています(ヘブル8-10章)。12節.〈相続の地〉は、「御国」を意味したり、わたしたちの個性と賜物に根ざした「召命」として受け取るのが良いでしょう。
13‐18節は,イスラエルの神,主の永遠性と偶像の無能性の告白です。主は生きておられ、わたしたちの祈りに答えてくださる方であり、わたしたちの人生に、また生活に深く関わってきてくださるお方です。19‐21節は,イスラエルが一つとなって主をほめたたえることにより,主の恵みと力と栄光とを世界に証言するようにとの呼びかけています。ウエストミンスター小教理問答の第一問は、[問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか]であり、その答は、[人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を全く喜ぶことである(2)(1.ロマ11:36、Ⅰコリント10:31、2.詩73:24-28、ヨハネ17:21-23)]です。
わたしたちも、[問1 本年の、わたしたちのおもな、最高の目的は、何であるか]と問い、その答は、[本年の、わたしのおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである]と応答し、[【主】の御名をほめたたえ]ることをもって、一年をはじめ、「雨にも負けず、風にも負けず」
[【主】の御名をほめたたえ]続ける日々を送らせていただきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: 実用聖書注解、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)