ICI ホームページ表紙 3.神の啓示 1.啓示概念のシフト 2.自然神学への回帰? 3.一般啓示の理解−How? 4.特別・救贖啓示 5.特別啓示と聖書 6.聖書に関する12項 7.バルトの「神の言葉」 8.聖書のバビロニア捕囚 9.聖書の非神話化論
第二節 自然神学≠ヨの回帰?
2011/07/19
- 「ドイツキリスト者」運動
- バルトとブルンナーの「自然神学論争」
- ブルンナーの自然神学
- バルトの「キリスト一元主義」と「関係の類比」
- 新しい自然神学の試み
- 自然神学−新しくて古い問題
- 自然神学の再燃とそのゆくえ?
- 「ドイツキリスト者」運動
- 「ロックム宣言」(1933)
- 「バルメン宣言」(1934)
- バルトとブルンナーの「自然神学論争」
- 十八世紀、十九世紀−「自由主義神学」
- 神の啓示−「理性・自然・倫理・文化・歴史」へと解消→神の独比な啓示のリアリティを見失った「人間主義的な内在論」
- シュライエルマッハー…「絶対依存の感情」を神の啓示とみる立場
- ハルナック…文化と歴史の発展の中に神の声を聞こうとする「歴史主義」
- エルンスト・ヴォッバーミン…良心への自己信頼によって生きること=神の力の顕現とする「宗教心理学」
- トレルチ…「宗教的アプリオリ」−キリスト教を一般文化史・宗教史へと解消する試み
- 二十世紀−「弁証法神学」
- ブルンナーの自然神学
- 『時の間』−「神学のもう一つの課題」
- バルトの教義学のみ=|神学方法論上の問題
- 創造論的視点から人間を見る−生ける神信仰とこの世の思想・生き方との間の対決・挑戦=争論的事態−「弁証学」「争論学」
- バルトによるブルンナー批判
- 「罪責ある人間」における人間性と人格性−神と人の「接触点」ではない、「神の似像性」でもない
- ブルンナーの応答『自然と恩恵』−「正しい自然神学への帰路を見いだすことこそ、この時代におけるわれわれの神学的課題である。」
- ブルンナーの自然神学の骨子をなす主張
- 人間における「神のかたち」
- 形式的側面…「主体的存在」、「応答責任性」
- 実質的側面…「原初的義」→「反人格的な人格」
- 神認識の可能性
- 神の創造世界−すべての被造物において「なんらかの仕方」で−認識可能
- 神のわざのうちに神認識する可能性−罪による妨げ−but−破棄されていない。「良心」と呼ばれる応答責任性
- 接触点の問題−罪によっても破棄されていない「形式的な神のかたち」
- 「人間の主体的存在性」、「応答責任性」−「言語の能力」、「語る可能性」
- バルトの「キリスト一元主義」と「関係の類比」
- 「否!エミール・ブルンナーに対する答え」
- バルト神学の基調−二つの命題−キルケゴールとの関連
- 「有限なるものは無限なるものを受けえない」
- 「罪人は神の言葉を受けえない」
- 神認識・信仰の成立可能性−not 人間に固有な内在的可能性 but 神から恵与される神的可能性
- 神の言葉に接するとき→神の言葉を聞く可能性
- 啓示自身→必要な接触点を人間のうちに創造
- not 人間から、下から but 啓示から、上から
- 具体的な批判
- ブルンナー:形式面では破棄されていない人間における『神のかたち』=神の啓示に対する「客観的可能性」・「啓示可能力」
- ←バルト:啓示によって与えられる神の恩恵に対する人間の側からの協同≠ニいう問題の指摘。
- ブルンナー:被造物世界における神認識の可能性
- 「なんらかの仕方で認識可能」
- 「なんらかの仕方で神の意思、神の律法を知る」
- 生来の人間にある神意識・罪意識−「半分の真理」
- ←バルト:ブルンナーの罪による暗黒化−not 全き失明 but 視力の問題
- 「なんらかの仕方で」=「実際には啓示なくしても」
- 「啓示的能力」=「形式的なもの」には「実質的なもの」が
- 接触点について
- バルト:神の啓示=実質、人間=徹頭徹尾「罪びと」
- →人間の理性、応答責任性−全く「無力」
- →形式的なもの−人間の固有の能力・接触点−不可能
- バルトへの批判
- トマス主義の「存在の類比」、プロテスタント近代主義の内在論、ブルンナー神学−への闘争
- 世界の無意味化を主張するニヒリズム・懐疑主義
- 創造と罪を同一視−創造と和解とを対立関係に見る−歴史の意味を抹殺
- オッカム以上の唯名論的非合理主義の傾向
- 自然と歴史の領域から−神を追放するカントの影響
- バルト:『教会教義学』第三巻「創造論」
- not 「存在の類比」 but 「関係の類比」
- 創世記1:26−三位一体ご自身の中に−「呼びかける我」と「呼びかけられる汝」の人格的交わり
- 「造ろう」という決意性−神ご自身における区別と関係 and 愛の共存・協動の人格的応答関係
- 神ご自身のうちに見られる関係→類比的に、人間の「男と女」 and 「人間と他の人間」の間にも
- 神存在の内側−認識と行為における「人格応答関係」→神と人間→人間と人間の「認識と行為の人格的交わり」の中に反映
- 罪の中に失われた人間、人間の中に「救いの条件」存在せず←「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)=神の呼びかけに「応答する可能性」
- 人間の「応答可能性」−not 堕罪において喪失したり、救いの恵みにおいて回復する実質|ut 関係性=$レ触点
- 新しい自然神学の試み
- 自然神学−新しくて古い問題
- 自然神学の再燃とそのゆくえ?