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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/01/01-03/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI E-Mail Lectures Headline Digest
主の御名を崇めます。
昨年の十二月中旬から今年の二月末くらいまで、パソコンとサーバの故障で
困っておりましたが、今後五年間くらいのICIの働きを考慮して、思って切って
機器の更新をさせていただきました。三月下旬には、新しいパソコンとサーバ
も使いこなせるようになってきました。
三月は、私たちの団体の教職者セミナーがあり、そのアフターケアといいます
か、フォローといいますか、この半年間取り組んできましたさまざまな書籍や
資料の紹介もふくめてかなりたくさんの記述をさせていただいています。
中心的な内容としましては、JEC拡大教職者会のテーマでありました“Homo
Patience(病める人間)”へのさまざまなアブローチに関連しての「コーディネー
ター安黒の個人的見解としての総括」メモをいろんな視点から解説させていた
だいているものです。
個人的な総括とさせていただきましたのは、この半年間の準備期間、また過去
十数年間のJECにおける取り組み、そして今回のセミナーの全体を振り返って、
JEC教職者として留意すべき三つのポイントを今後の課題として総括的に提示
させていただきましたが、全体のコンセンサスとして採択されたわけではありま
せんので、個人的な総括として紹介させていただいています。
今月の“ICI Monthly”では、その三つのポイントのうちで最も大切なポイントであ
る「世界観」の問題の神学的な扱い方を再考すべきではないのか。そしてどこに
問題があり、どのような手順で再考していくべなのか、について文献紹介も含め
て、かなり詳細に記述させていただいています。
文献紹介や抜粋引用は、下記の先生のものがあります。
○M.J.エリクソン著『キリスト教神学』
○ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』
○宇田進著『総説現代福音主義神学』
○M.J.エリクソン著“The
Evangelical Mind & Heart -Perspectives on Theological and Practical Issues-”
○アリスター・マグラス著『キリスト教の将来と福音主義』
○牧田吉和先生の発表論文『三位一体論的・終末論的・神の国的霊性の展開 -福音主義における霊性の統合的理解の試み-』
○牧田吉和著『改革派神学入門:改革派信仰とは何か』
○牧田吉和論文、改革派神学 第32号『ファンルーラーにおける三位一体論的・終末論的・神の国神学と聖霊論』
○ルイス・B・スミード編集“Ministry and the
Miraculous -A Case Study at Fuller Theological Seminary-”
関心のある方は、下記サイトに掲載していますので、ご覧ください。また、感想や
意見等ありましたらメールにてレスポンスください。よろしくお願いします。
3/29 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説I
- ルイス・B・スミード教授が編集された“Ministry and the Miraculous
-A Case Study at Fuller Theological Seminary-”の「神と神の世界につい
ての私たちの見方」の中には、今回の「全人的癒しへのアプローチ」という
テーマに関連する多くのすぐれた洞察が記述されています。
- その中のひとつを紹介します。それは「私たちが私たちの世界観について
話すとき、私たちは必然的に私たちの神観について話すことになる。私た
ちの世界観は私たちの神観のエコー(こだま)である。そして私たちの神観
は私たちの世界観を形づくり、形成する。私たちが私たちの聖書的神観と
世界観についての理解を話し進めるとき、程度差はあれもし世俗主義者の
パラダイムに、あるいは降神術者のパラダイムのどちらかに降服・支配され
ているとしても、−私たちのパラダイムをシフトする≠謔、に−それを変化
させる備えをすることになる。」
- 「私たちの世界観は私たちの神観のエコー(こだま)である。」という記述は、
きわめて重要な記述です。私たちは、「迷信的・アニミズム的世界観」の
パラダイムの中に、キリスト教のメッセージを順応させていくべきなのでは
ありません。それは「ミイラ盗りがミイラになる」類であり、「ひさし貸して、
母屋とられる」の類です。私たちの「神観」を基盤として世界観というパラダ
イムを形成していくべきなのです。
- 「神観」と申しましたが、世界観形成のベースとしての「神観」ということに
関連して以下のことを留意すべきと思います。
- ミラード・J・エリクスンは,「特別啓示の主要な結実は神知識である.ここで
神知識という場合,ただ神の本性に関する知識だけではなく,神がなされた
みわざ,創造,人間の本性と現実の状況,神と人間との関係に関する知識
をも指している.そして,この知識は神から人間へ伝達された真実な,客観
的な,そして合理的な情報であることに注目すべきである」
(Christian Theology,p.191,1986)と言っている。
- つまり、私たちのパラダイムとしての「世界観」は、私たちの健全な「神観」
を反映しており、その神観は健全な神学全体を背景として持っているのだ、
ということです。健全な「組織神学」の素養の豊かさに欠けると、私たちの
パラダイムとしての「世界観」が、「迷信的・アニミズム的世界観」に汚染さ
れるときに、敏感に反応することが難しいのではないかと思います。
- 私自身、最初はウィンバー、クラフト、ワグナーの多くの著作を英語で読んだ
ときは、その教えや語り口に新鮮な印象を受け、歓迎したものでした。しかし、
共立基督教研究所で宇田進先生から学び、また関西に戻りました後は、
エリクソン神学の研究と講義に没頭してきました。そして神学会の交わりか
ら牧田吉和先生からさまざまな機会を通して教えられ、より包括的な神学の
視野から神学的思索≠することができるようになってきたと思います。
- 牧田先生には『改革派神学』誌を通して多くのことを教えられました。その
神学誌の牧田論文の概略を下記に紹介させていただきます。ありふれた
どこにでもある一般的な内容ではなく、預言者的な洞察に満ちている内容
で、読む者をひきつけてやまない内容となっています。本当にすぐれた神学
教師のひとりと思います。宇田先生といい、エリクソンといい、牧田先生といい、
このような先生と巡り合えたことに心より感謝しています。
- 牧田吉和論文、改革派神学 第32号『ファンルーラーにおける三位一体論的・終末論的・神の国神学と聖霊論』
- 「三位一体論」の観点
- 「十分に展開された三位一体論の必要性」と聖霊論的展開の必要性
- 歴史的観点から見た「十分に展開された三位一体論の必要性」−特に聖霊論の展開の必要性との関連において
- 「終末論的神の国」の観点
- 「聖定論」の観点
- 聖霊論の構造的特質−「キリスト論的観点と聖霊論的観点の構造的差異性」の問題
- 受肉においては「人性」、聖霊の注ぎにおいては「人格」が問題
- キリスト論においては「人性」、聖霊論においては「人間存在の個的固有性」が問題
- キリスト論においては「代理性」、聖霊論においては「神律的相互性」が問題
- キリスト論的には「贖いの犠牲」、聖霊論的には「感謝のささげもの」が対応
- 受肉は一回的な救済的事実、ペンテコステの聖霊の注ぎも一回的であるが連続性の一回性
- キリスト論的な「位格的結合」、聖霊論的には「内住」の概念
- キリスト論の肉の摂取の「秘儀」と聖霊論的に霊と肉の戦いにおける「接触」
- キリスト論では「混合」の概念は異端、聖霊論においては救済と堕落した存在との「混合」
- キリスト論的には「完全主義者」、聖霊論的には「人間の不完全性」
- キリスト論的には「キリストは我々の内に、我々に代わって」、聖霊論的には「我々はキリストと共に、我々がキリストの内に」
- 三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論−「キリストの形態獲得」との関連において
- 全体的総括及び評価と批判
- 牧田吉和論文、改革派神学 第17号『H.バーフィンクの聖書論−その基本的性格をめぐって−』
- 啓示と聖書
- 啓示の中心としての受肉の意義
- 受肉から聖書への移行
- 啓示と聖書の関係における二つの克服すべき立場
- 聖書の霊感
- 有機的霊感の主張
- 聖書の僕形態の概念
- 聖書の権威の性格
- 中心と周辺
- 聖霊の時代における聖書
- 「内的証明」と「内的照明」
- 聖書と教会と聖霊
- 聖書の終末論的位置
- 終章−バーフィンクの聖書論の意義
- 牧田吉和論文、改革派神学 第19号『改革派神学と聖霊論−改革派神学の新しい可能性を求めて−』
- H.バーフィンクの聖霊論の神学的検討
- 聖霊のフィリオクエ問題の神学的論議
- 神学的認識原理の問題
- 改革派正統主義の歴史的評価と聖霊の自覚的位置づけ
- 救済史的思考と聖霊の自覚的位置づけ
- カイパーではなく、なぜバーフィンクの聖霊論なのか
- 聖霊論的視点からの改革派神学の新しい展開
- 「聖霊の時代」の認識の鮮明化と「聖霊の僕形態」の概念
- 「聖霊の時代」における聖霊の働きの構造的特質
- 聖霊論的視点からのいくつかの事例研究
- 聖書の問題
- 説教の問題
- 聖餐の問題
- 礼拝の問題
- 祈祷の問題
- 結び−神学的位置設定と今後の方向
- 牧田吉和論文、改革派神学 第29号『A.ファンルーラーの神学的文化論の中心点−文化論におけるカイパー批判に関連して−』
- ファン・ルーラーにおけるカイパーの文化論批判の主要点
- カイパーの文化論を規定するスピリチュアリティッシュな特別恩恵理解
- 「特別恩恵」と「文化」との媒介としての一般恩恵
- キリスト教文化とは何か
- 「一般恩恵の発展としてのキリスト教文化」
- 特別恩恵から生み出された「再生の文化としてのキリスト教文化」
- 「一般恩恵の発展としてのキリスト教文化」と「再生の文化としてのキリスト教文化」との関係
- 終末における特別恩恵と一般恩恵
- 暫定的要約
- ファン・ルーラーの神学文化論の中心点−カイパーとの比較において−
- 「神の国」と「キリストの国」
- 「キリストの国」と聖霊
- 「キリストにおいてそして聖霊によって」
- 「混合」の問題
- 「キリストの形態」の獲得と「断片性」、「トルソ性」、「挫折性」の問題
- 「キリスト教化」における「教会」と「国家」の問題
- 結び
- 牧田吉和論文、第30号『終末と事物性−A.ファンルーラーの終末論のひとつの神学的意図−』
- 創造における神と事物性との関係
- 罪と事物との関係
- 救済と事物との関係
- 終末と事物との関係
- ファンルーラーの神学的意図
- ファンルーラーの神学的思惟の評価と問題点
3/28 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説H
- 今日は、ルイス・B・スミード教授が編集された“Ministry and the Miraculous
-A Case Study at Fuller Theological Seminary-”の翻訳に努めていました。
その構成を下記に紹介させていただきます。
- 前文
- 序文
- 神の国の到来と癒しのミニストリー
- 初代教会の信仰と実践
- 神と神の世界についての私たちの見方
- クリスチャンの経験の中における苦しみの位置
- 信憑性と奇跡
- フラー神学校の特徴
- 奇蹟的癒しと責任あるミニストリー
- 結語
- 上記の構成のそれぞれに重要な教え、両極端を避けバランスのとれた教えが
見事にまとめられています。ここでは、今回扱っていますテーマとの関連で、
「神と神の世界についての私たちの見方」のエッセンスを紹介していきたいと
思っています。
- まず、何度か目を通してポイントの確認をしているところです。その中で、教えら
れるひとつの事柄は、「私たちは私たちの世界を神が浸透されたコスモスとして
見るということを断言することによって始める。」との主張です。この主張の詳細は、
徐々に明らかにしていくことになりますが、このことに関連してお分かちしたい書籍
を紹介させていただきます。それは、牧田吉和著『改革派神学入門:改革派信仰
とは何か』です。その構成を紹介して後、説明を加えたいと思います。
- 改革派信仰とは、<神の前に>(Coram Deo コーラム・デオ)徹底的に生きる信仰である。
- 改革派信仰とは、神の言葉である聖書を徹底的に重んじる信仰である。
- 改革派信仰とは、純粋な教理を徹底的に追及する信仰である。
- 改革派信仰とは、神中心主義を徹底的に主張する信仰である。
- 改革派信仰とは、予定論において救いにおける恩恵性を徹底的に保持する信仰である。
- 改革派信仰とは、善き生活を徹底的に生きようとする信仰である。
- 改革派信仰とは、有神論的広がりの中で文化的働きをも徹底的に尊重する全包括的信仰である。
- 改革派信仰とは、聖書的神礼拝を徹底的に展開する信仰である。
- 改革派信仰とは、長老主義政治を確立し、徹底的に聖書的教会を形成しようとする信仰である。
- 改革派信仰とは、教会の自律性の保持のために徹底的に戦い抜く信仰である。
- 付録: 喜びに満ちたカルヴィニズム−改革派信仰における<喜びの神学>の構築
- スミードの「私たちは私たちの世界を神が浸透されたコスモスとして見るということ
を断言することによって始める。」との主張を読みましたときに、私の心に浮かんだ
ものは、牧田先生の第一講の「改革派信仰とは、<神の前に>(Coram Deo コー
ラム・デオ)徹底的に生きる信仰である。」でありました。
- 私たちは世界観の問題を、大別して「科学的・機械的世界観」と「聖書的世界観」
と「迷信的・アニミズム的世界観」というかたちで取り扱っています。この中の両極
端からの守られて、中庸的位置にあります「聖書的世界観」に堅く立ち続けるため
に必要な基本的教理として<神の前に>(Coram Deo コーラム・デオ)徹底的
に生きる信仰≠フ大切さです。私はリベラル神学の背景となっている世界観にも
問題を感じますが、ワグナーやクラフトの世界観にも問題を感じています。彼らが
受け入れるようにせまっている世界観とは、第三世界にあるアニミズム的世界観
であって、聖書的世界観とは異質なものではないのか、という問いかけが私のうち
にはあります。
- 私は姫路に生まれ、郷里である兵庫県の山間部の宍粟市で幼・小・中・高と育まれ
ました。郷里である日本の田舎は、アニミズムの世界観の息づいている世界でも
ありました。そして大学生のときにクリスチャンになるのですが、わたしの意識としま
して、「アニミズム的世界観」から救われ、「聖書的世界観」の中に解放される経験
こそが救いではないのか、との強い思いがあります。
- <神の前に>(Coram Deo コーラム・デオ)徹底的に生きる信仰≠ノついて、
牧田先生の説明をみていきましょう。「聖霊はキリストがわれわれを有効にご自身
と結びつけたもうきずな」(V・1・1)であると理解し、キリスト者の存在を聖霊によって
キリストに結びあわされている存在として規定しました。カルヴァン研究者の中には、
この「キリストとの結合」こそカルヴァンの神学の核心である、と主張する人たちもい
ます。筆者も、この主張に賛成です。そして聖霊によってキリストに結びあわされて
いる存在とは、キリスト者の存在がキリストにあって常に生ける神との交わりに生き
る存在、すなわち常に生ける神の御前に生きる存在だということを意味しています。
そうだとしますと、キリスト者の生活が常にそしてどの領域においても神の御前にあ
る生活とみなされるのは当然です。
この「キリストとの結合」の概念をキィ・ポイントにして「神の御前に生きる」ことを
把握することはきわめて重要です。「キリストとの結合」の概念こそ、「神の御前に生
きる」ことのキリスト教%I意味内容を決定的に与えることになるからです。さらに
「神の御前に生きる」ことは絶えず個人的理解へ流れる危険性をもっていますが、この
概念は、<キリストに結びあわされている>という点を明確に認識させることによって、
「神の御前に生きる」ことをキリストのからだなる教会≠ニの関連において理解させる
はずです。
- <神の前に>(Coram Deo コーラム・デオ)徹底的に生きる信仰≠フ大切さ、クリ
スチャン生活の最も基調となる色彩は何であるのか、ということを教えられます。ワグ
ナーやクラフトの「迷信的・アニミズム的世界観」の強調から与えられる色調との相違
を理解していただけるのではないかと思います。
- そして、牧田先生は、「キリストとの結合」の概念」が<神の前に>(Coram Deo
コーラム・デオ)徹底的に生きる信仰≠フ内容を与えるのだと強調しておられます。
このキィ・ポイント「キリストとの結合」の概念」こそは、JECの第一世代日本人教職者
の中心的リーダーであられた我喜屋光雄先生が、メッセージやパウロ書簡の講義で
繰り返し強調された“In Christ”(キリストにある=キリストとの結合)の教理と共鳴
するものなのです。
- 我喜屋先生の「十字架と聖霊」のメッセージの色調も明るく、健康的、恵みと憐みに
満ち溢れたものでした。今日、ときどき耳にしますワグナーやクラフトの「迷信的・アニ
ミズム的世界観」が「おそらく…帰納的に…推論された…憶測であり…暗示であり…
曖昧な聖書からの仮説」をベースにして、日本のアニミズム的宗教的土壌に応用
されて、アニミズム的キリスト教のメッセージがなされている傾向から受ける印象は、
私たちが救い入れられた「聖書的世界観」の印象とはくらべものにならないほど、暗く
恐れの霊に満ちたものであると思います。
- 私たちは、「迷信的・アニミズム的世界観」をもって世界を見るのではなく、キリストに
あって、三位一体論的・終末論的・神の国的パースペクティブの中に世界を見るべき
ではないでしょうか。
3/27c JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説G
- 福音主義神学誌の No.37 のテーマは『霊性〔スピリチュアリティ〕』でありました。
日本福音主義神学会西部部会の研究会議のテーマと全国研究会議のテーマも
同様でした。それらの発表の中から、改革派神学校の前校長でありました牧田
吉和先生の発表論文『三位一体論的・終末論的・神の国的霊性の展開 -福音
主義における霊性の統合的理解の試み-』から学ぶことにしましょう。その構成
は以下の通りです。
- 序として
- 三位一体論的・終末論的・神の国的霊性の基本構造
- 作業前提としての「霊性」(spirituality)の概念規定
- 三位一体論的霊性
- 終末論的霊性
- 神の国的霊性
- 個としてのキリスト者の霊性
- 救済史における中間時として今≠ニ個としてのキリスト者の霊性
- 宗教改革的信仰義認の霊性≠フ重要性とその問題点
- 聖化の霊性
- 「神の子≠ニしてのキリスト者の霊性」の再発見の必要性
- 共同体としての神の民の霊性
- 共同体としての神の民の霊性≠フ重要性
- 共同体的霊性と聖餐
- 共同体的霊性と説教
- 共同体的霊性と聖徒の交わり
- 共同体的霊性と教会政治
- 神の民の世界との関わりにおける霊性
- 神の国的霊性理解の重要性
- 世との関わりにおける神の民の霊性
- 対国家との関係における神の民の霊性
- 被造世界との関係における神の民の霊性
- 結び
- 牧田先生の論文から教えられることは、「霊性という言葉は、今日では他宗教に
おいても用いられ、仏教的霊性≠竍神道的霊性=A時には世俗的霊性
などについても語られ、キリスト教内部においても多様な意味で用いられている。
…しかし、いずれについても霊性についての議論の難しさや混乱は、用語の内容
規定の不明確さに一つの原因があると思われる。…<真の霊性>とは、大文字の
『霊性』(Spirit)すなわち『聖霊』が、今や罪と汚れの中にある人間の『霊』(小文字
のspirit)を革新し、その革新された人間の霊と共に働いて、そこに生み出されて
くるものが真の霊性である。この意味において霊性とは聖霊の実りであり、聖霊
の賜物である。すなわち、真の霊性とは、聖霊の働きの筋道を追うことによって
正しく追及されるということである。」と真の霊性探究の筋道を明確にしておられ
るところです。〔福音主義神学誌 No.37 『霊性〔スピリチュアリティ〕』p.120〕
- アリスター・マグラス著『キリスト教の将来と福音主義』のp.170には、
「ジェームズ・I・パッカーがバンクーバーのリージェント・カレッジの最
初の中国神学院神学教授に就任した。彼が就任講義に選んだ題は
、内容と同様に印象的な「組織的霊性への序論」というものであった。
その講義でパッカーは、福音宣教と奉仕に関わるすべての人に向けて、
霊性の重要性を次のように説いた。」「霊的倦怠や枯渇、さらには発育
を阻止され歪められた霊的成長とは正反対の、霊的健全さを構成する
ものは何かについて、はっきりした考えを持たなければ、キリストにある
誕生、発育、成熟のためのカウンセラー、霊的指導者、先導者として
十分に機能することはできない。だから、医学生にとって生理学の学
びが必要なように、福音の働きをしようと望むわれわれにとって、霊性
の学びは必要である。それなしでは済まされないのである。」との
パッカー教授の就任講義の解説があります。
- 牧田先生の論文は、マグラスは「霊性の全体論的な見方を提示している。
しかし、これは神学的な表明としては十分とはいえいな。今回の「三位一体
論的・終末論的・神の国的霊性」は、そのような全体論的霊性理解の神学的
基礎づけと展開を意図している。」と記述しておられます。
- 牧田先生の論文は、ファンルーラーの神学を基盤としつつ、きわめてすぐれた
神学的かつ牧会的指針を提示したものであると思います。聖書神学の健全な
解釈をベースに、歴史神学の葛藤と経過を踏まえ、組織神学的に集大成され
た神学的遺産を総集計したような構成になっており、「組織神学」を教えてい
ますひとりとして圧倒されるような思いにさせられます。それらの神学的集積
が実践神学の分野に溢れだし、個人・教会・世界へと展開しているのは
見事≠フひとことです。
- パッカーは「組織的霊性」を語りました。また牧田師は「組織神学的霊性」を
語られていると思います。ここで教えられることは、私たちが「アニミズム的
霊性」に汚染されることから守られるためにも、「キリスト教的、聖書的、組織
神学的内実」を堅固な構造として内包する「組織神学的霊性」を養われる
ことの大切さです。そのように育まれるとき、私たち日本のキリスト教が、
アニミズム的キリスト教の道に進むことはないでしょう。
3/27b JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説F
- M.J.エリクソン著“The Evangelical Mind & Heart -Perspectives on Theological
and Practical Issues-” p.171 には、クラフトとワグナーの迷信への傾向についての
言及があります。
- 「私たちは迷信への傾向について前に話した。クラフトのことばや物が力
わ帯びる≠アとについての議論は、キリスト教信仰と奇跡についての議論
よりも迷信や魔術により多く示唆的なものである。同様に、フラーの教授会
の多くの教授を当惑させたのは、クリスチャンが特に外国の異教の神殿等
を訪れたときは、悪霊がそれらの人々や荷物に付着したかもしれないから、
彼らの家を悪霊から祓い清めるのは賢明な行為である、という C.ピーター・
ワグナーの助言である。」
- 「フラーの教授陣が当惑させられた。」ように、私もワグナーの著作に目を通してい
まして同様に当惑させられた者のひとりです。そのときは「私の信仰が乏しい、ある
いは貧しいゆえなのかな。」と受けとめました。
- しかし、多くの教職者から間接的に耳にすることの中で、同様の当惑を感じている
今日この頃です。「人形に悪霊が付着しているので処分した。」とか、「牧師と役員
会との仲が悪いのは、偶像を祀っている○○山から流れてくる水を水道水として
使っているからだ。」とか、「…悪霊との契約を断ちきらなければならない。」とか…、。
- 私は稲垣久和著『大嘗祭とキリスト者』をテキストにして、『比較宗教学』あるいは
『宗教の神学』を長年の間教えさせていただいている関係で、日本の諸宗教や世
界の諸宗教の関連文献にもかなり目を通してきました。それらの学びをベースに
して感じることですが、クラフトやワグナーの著作の中のこれらの言及は、
客観的な神学よりも、主観的な経験を重んじる教派や教職者、ナイーブ〔天真爛漫、
無邪気〕な信仰の教職者や信徒の間に、きわめて深刻な悪影響を及ぼしている
ように思います。宣教への情熱を掻き立てるという積極面とアニミズム的世界観
による汚染という破壊的側面が、神学的にしっかりしたかたちでガイドラインとして
構築されていないために、宣教現場から帰納的にもたらされたデータからの原則
や結論が、聖書の周辺的な教えや暗示的で曖昧な聖書箇所と関連づけられ、
推論から新たな推論へ、憶測から新たな憶測へ、仮説から新たな仮説へと、
神学的に無防備なまま、新たなメッセージがなされ、新たな適用がさなれていく
とき、「ミイラ盗りがミイラに」、「ひさし貸して、母屋とられる」というかたちで、
キリスト教信仰の本質の「変質」が意識されないまま進んでしまうのではないか
と懸念しています。
3/27a JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説E
- 「「科学的・機械的世界観」と「聖書的世界観」の範囲の識別にも繊細な理解
が求められますし、「聖書的世界観」と「迷信的・アニミズム的世界観」との範囲に
も同様のことが言える」と申しました。
- この事柄を論じますときに、「科学的・機械的世界観」と「聖書的世界観」の範囲
の識別を論じている、エリクソン著『キリスト教神学』第一巻の「第四章 神学と聖
書の批評的研究」の中の「第五節 批評学的方法を評価するためのガイドライン」
は「聖書的世界観」と「迷信的・アニミズム的世界観」との範囲を識別するさいに
役立つもののように思います。言葉を置き換えながら、考えていきたいと思います。
- 第三世界にあるアニミズム的世界観の効用と確実性を過大評価せず、またその
不適当なものを採用しないための助けとなるガイドラインがいくつか存在する。
- アニミズム的世界観が持っている前提に警戒する必要がある。
- 循環論法の存在を見つける必要がある。第三世界でのリバイバルの経験
を神学の再構築の助けとして用い、その後に再構築された神学を他の説
明をするために利用するときには循環論法の誤りを犯している。
- 根拠のない推測に対する警戒を怠ってはいけない。根拠のない推測や仮
定が基準となったり、前提とされたりしてないか。
- 恣意性や主観性に気づく必要がある。自分たちによる生活の座の再構築、
原因や起源の説明をかなり確実なものと考える。しかし、実際はそれらの
結論は独立した手段によって検証することができない。
- 信仰一元主義的な前提が存在することに警戒すべきである。特別啓示と
一般啓示、神の内在的働きと神の超越的働き、医療の技術と癒しのミニ
ストリーの相互補完的関係の在り方に留意することが大切である。
- これらすべてにおいて我々が扱っているのは確実性というより蓋然性であ
ること、そして蓋然性が他の蓋然性に依存している場合はその結論に
蓄積効果がもたらされることに、注意する必要がある。
3/26 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説D
- 「世界観」の問題に関して思いますことは、極端なかたちでありますが、大別して
「科学的・機械的世界観」と「聖書的世界観」と「迷信的・アニミズム的世界観」が
あるということです。
- ただ、「科学的・機械的世界観」と「聖書的世界観」の範囲の識別にも繊細な理解
が求められますし、「聖書的世界観」と「迷信的・アニミズム的世界観」との範囲に
も同様のことが言えると思います。
- ここで参考になる視点として、宇田進著『総説現代福音主義神学』pp.78-81 に
ある下記の記述です。
- 「弁証学における前提主義的方法≠ナ知られるコーネリウス・ヴァン・
ティルは、ドーイウェールトと同様に、近代思想は真に統一ある解釈を可
能にする基盤を失っていまっている、つまり根こぎ≠フ状態にあると
診断している。そして、『組織神学序説』〔1961〕の中で、近代思想は、
「合理的モチーフ」と「非合理的モチーフ」との決して解決を見ることのな
い際限なき弁証法的緊張と内的拮抗の歴史を繰り返すのである、と
指摘している。」
- 要するに、教えられることは、「科学的・機械的世界観」と「迷信的・アニミズム
的世界観」の問題は、いわば時計の振り子の現象≠フように、合理主義的
世界観と非合理主義的世界観の両極に振れている現象のように思われると
いうことです。
- 「モダーンな世界観」の時代から、「ポスト・モダーンな世界観」の時代へ移行
している時代の風潮と歩調を合わせるかのように、キリスト教会においても
そのような傾向が顕著になってきていると思います。
- ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』p.161 には下記の記述があります。
- 「キリスト者と非キリスト者とを問わず多くの人々が、このキリスト教化
の過程はルネサンスと啓蒙時代で停止し、それとは根本的に違った
過程、世俗化のそれにしだいに取って代わられた、と信じている。
しかしこの意見は誤っている。まず第一に、世俗化はキリスト教化の
継続である。その相違は、近代において福音の諸結果は、主として
教会の外にあり自分たちの霊感の源に気づかない人々によってもた
らされた、という事実にある。近代は、科学の発見と技術の発明に
よって特色づけられる。西ヨーロッパと北アメリカとがこの騒々しい進
化の担い手であったという事実は、自然の非神話化がこれらの領域
で最も徹底的な仕方で遂行されたという事実に基づく。」
- 「古い諸宗教は自然を、神々や悪鬼の住む場所と見ていた。だから、
人々は、神の怒りを引き起こす危険を犯さずに自然過程に干渉する
ことはできなかった。これに反してイスラエルは、神は自然に対して
人間の側にあり、彼の名において自然を支配するよう人間を召して
おられる〔創世記1:26-30、詩篇8篇〕と信じていた。人間の自然観
におけるこの根本的変化がなければ、科学、技術、疫病との戦い
その他のものは、今日の程度にまで達しえなかったであろう。」
- この記述は、ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』の第五章「聖霊・世・
救いの完成」の「@創造と保持における聖霊、A神の霊と人の霊、Bイス
ラエル史における聖霊、Cキリスト教化における聖霊、D聖霊の終末論的
連関、Eキリスト・聖霊・救いの完成」の中の「Cキリスト教化における聖
霊」にある記述です。
- この記述は、エリクソンの「必要とされているように思われるものは、適切
な制限内での科学の確実性と有用性を認めるアプローチである。しかし
ながら、事実上起こっている問題は、進歩してきた信仰の利害に関わる
問題である。」に関連があります。つまり、「科学的・機械的世界観」への
反動として「迷信的・アニミズム的世界観」の方向に振り子を振り切って
しまってよいのか、という問題です。
- ヘンドリクス・ベルコフには、『キリストと諸権力』という著作もあり、
「@諸権力-キリスト教思想への挑戦、Aパウロにおける<諸権力>概念、
B諸権力と堕落した被造物、C贖罪における諸権力、D教会と諸権力、
E危機と諸権力のキリスト教化、F結語」で構成されており、難解な
聖句の解釈に努めています。
- M.J.エリクソン著『キリスト教神学』においては、第二巻「神論・神のみわ
ざ論」の中の「第21章 神の特別な代理人」で取り扱われている内容に
あたります。その構成は「@本教理の歴史、A良い天使〔1.用語、
2.天使の起源・性質・地位、3.天使の顕現、4.天使の能力と権限、
5.組織、6.難しい用語、7.天使の活動〕、B悪い天使〔1.今日の悪霊論
の状態、2.悪霊の起源、3.悪霊のかしら、4.悪霊の活動、5.悪霊憑き、
6.サタンと悪霊の運命〕、C天使の教理の役割」となっています。
- ヘンドリクス・ベルコフやミラード・エリクソンの場合は、組織神学者で
あるので、このテーマに関する「@聖書の資料の収集、A聖書の資
料の統合、B聖書の教えの分析、C歴史における取り扱いの検討
調査、D他文化のもつ視点の検討、E教理の本質のみきわめ、
F聖書外の資料からの光、G教理の今日的表現、H解釈における
中心的モチーフの展開、I主題の層別化」という神学形成の手順が
厳密に守られている印象を受けます。〔M.J.エリクソン著『キリスト教
神学』第1巻、pp.62-86〕また、神学的言明の権威の度合について
の神学的繊細さが感じられます。
- ピーター・ワグナー著・編集の『霊の戦いの祈り』『地域を支配いる
霊』『都市の要塞を砕け』等々の中に言明されている教えは、宣教
現場で活躍しておられる教職者たちからの体験に根差す教えや
データに基礎づけられ、それを聖書に記述されている関連個所に
関連づけられるという手法がとられています。
- この方法をエリクソンの「神学的言明の権威の度合い」に照らし合
わせてみますと、「@聖書の直接的言明、A聖書からの直接の含意、
B聖書がおそらく含意していると思われるもの、C聖書から帰納的に
引き出される結論、D一般啓示から推論された結論、E全くの憶測
・聖書における暗示を基盤にした仮説・曖昧な聖書箇所から引き出
された仮説」といったかたちで、「神学的な教え」を語るさいに、
「その資料の源泉の性質という観点から、大きすぎも小さすぎも
しない妥当な価値」を与えつつ、その範囲でその「神学的な教え」
を語ることの大切さを教えています。
- ピーター・ワグナー著・編集の『霊の戦いの祈り』『地域を支配する
霊』『都市の要塞を砕け』等々の中に言明されている教えは、
神学的言明の権威の度合いとしましては、BからEの間に位置
づけられる教えが多いことに気づかされます。この範囲に位置づ
けられる「おそらく…帰納的に…推論された…憶測であり…暗示
であり…曖昧な聖書からの仮説」であることを肝に銘じて、「その
教えが与えられている権威の度合の範囲内で」十分に抑制され
たテンションで語ることが教職者には求められていると思います。
- わたしが、ピーター・ワグナーの著作集に感じる印象は、それら
の「神学的言明の権威の度合い」に対する繊細なセンスに欠如
しているのではないか、ということです。わたしは、多くの日本人
クリスチャンの読者が、その意味で多くの誤謬を吹き込まれてい
るのではないかと懸念しています。
- 宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.115 の中に、「敬虔
主義運動」に共通してみられる特徴は、「第一に倫理的対立の
思想である。…第二に、神と人間とに敵対するサタン〔悪魔〕の
存在とその働きが鋭く意識され、この世はまさにそのサタンと神、
サタンと神の民の間の激しい戦場と見られる。…第三に、非常に
リアルな悪魔観を眼前にすえながら、神の民として、また神の国
の奉仕によりよく備えることを目標として、信仰上の霊的訓練
や修練が強調される。…」と記述されている。
- また、同著の pp.120-121 の中に、「リバイバリズム」にみられる
特色的なことは「@福音を分かりやすく伝える。言い換えれば問
題を単純化する。Aだれにでも必ず救いは訪れると主張する。…
B…人間の自由意思を強調する方向に進む。C一人でも多くの
回心者を生み出すために、地獄の恐ろしさを知らせる説教が強
調される。D大衆にうけるダイナミックな説教者たちが、新たな
指導者として歓迎される。E地方の牧師たちは、自分の地域で
定期的にリバイバルを成功させるために、いかにその能力を発
揮するかという面から、牧師としての資格を判定されるようにな
る。」と記述されています。
- ピーター・ワグナーの著作集は、「神学的な書物」というよりは、
「敬虔主義運動に見られる構造を」もつ書物や「リバイバリズム
に見られるアジテーショナル〔扇動的〕な特色」をもつ書物という
ことができるように思います。霊的生活に強烈なチャレンジを与
えたり、宣教運動に刺激を与えたり、鼓舞したりすることにおい
て大きな貢献がみられます。しかし、長い目で見て「神学的貢
献」という視点からは、きわめて大きな問題を内包しているように
思います。
- 教職者は、そのあたりをよくみきわめて、書かれている教えを
丸のみ≠ケず、神学的に識別し、神学的パースペクティブ、
歴史的判断力、宗教社会学的分析能力を用いて、聖書の健
全でバランスのとれた福音理解を通して十分に濾過≠オた
上で、取捨選択的に教えられることが大切であると思います。
- ジョン・ストット解説、宇田進訳『ローザンヌ誓約:解説と注釈』
に「文化とリーダーシップ」の<誓約・第十項 伝道と文化>「世
界伝道に必要な諸方策の開発をみるために、今求められてい
るのは、想像力に富む開拓的な諸方法である。それによって
神のもとにあって、キリストに深く根ざしつつ、自己をとりまく
文化とも密接なかかわり合いを持った教会が起こされるように
なる。ところで、文化は、常に聖書によって精査され、かつ判定
されなければならない。人間は神の被造者であるゆえに、彼
が織り成す文化のあるものは、美と特性を豊かに示している。
とともに、人間は罪に堕落しているゆえに、その文化のすべて
は罪によって汚染されており、その中のあるものは悪魔的で
さえある。…」とある。
- そしてその解説の「〔2〕リーダーシップの養成」には、「神学教
育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は
急を要する。教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学
的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につける
ことによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できる
ような指導者たちを必要とする。」と記述されています。さまざ
まな情報があふれ、邦訳書籍がつぎつぎと出版され、さまざま
なムーブンメントが手を変え品を変え押し寄せてくる日本にあっ
て、濾過する能力のある神学的センス≠身につけた教職
者が必要とされている時代であると思います。
3/25 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説C
- 「前置き」といいますか、「背景説明」が長くなりましたが、ここ
で「JEC拡大教職者会」で取り上げたかったテーマ、取り組み
たかった課題のひとつひとつを再度取り上げて解説していきた
いと思います。
- 「個人的見解としての総括」で取り上げました三点の中でも
「中心的なテーマ」は、「世界観」の問題でした。断片的な引
用でしたが、ここではエリクソンの文章の翻訳を紹介させて
いただこうと思います。
- 「現代の科学的世界観に対照的に、クラフトとウィンバ
ーは彼らが超自然的世界観と同一視している第三世
界のタイプの物の見方を推奨している。
しかし、事実上提示されている世界観は科学以前の
世界観あるいは前近代的世界観である。それは、時
計の針を戻したり、科学革命を無視したりすることは、
実際上可能なのか、そしてそれは望ましいことなのか、
という問題を引き起こしている。もし今日の大多数の
人々を見限ることを避けうるとしても、必要とされてい
るように思われるものは、適切な制限内での科学の
確実性と有用性を認めるアプローチである。しかしな
がら、事実上起こっている問題は、進歩してきた信仰
の利害に関わる問題である。クラフトとウィンバーは
迷信を推奨しているように思われる。彼らが保証して
いると思われる物の見方は、真の超自然主義とアニ
ミズムの双方を包摂している。その物の見方は百害
あって一利なしである。」
- 「特に、クラフトのアプローチで不安にさせている物の
見方は、彼が彼自身の世界観を反省的に批評する
ことができていないという点にある。彼は、彼の世界
観と聖書の世界観は同じものであると仮定している。
しかしながら、それは間違っているかもしれない。彼
の世界観は、単純に、彼が聖書における情報と文化
における情報から観察している、一揃いの仮定から
のものである。彼の世界観が必ずしも聖書的な教え
ではないと認識することにおける彼の誤り、従ってそ
れを正しく批評することにおける失敗は、彼の人類学
的専門知識に導かれて著しく間違った方向に牽引さ
れている。真に必要とされていることは、彼が人類学
的手法において仮定している物の見方が哲学的に
批評されることである。換言すれば、世界観について
の彼の論議はより広範な脈絡の中で考察されるべき
である、ということである。」
〔M.J.Erickson“The Evangelical Mind & Heart”p.168-169〕
- 私は、フラー神学校のワグナーやクラフト、ヴィンヤード運動の
ウィンバーの取り組みを高く評価しているひとりでありますが、
神学教師のひとりとして、彼らの著作に感じていることは、彼
らの取り組みのすべてを丸のみ≠キることはきわめて危険
であるということです。
- 彼らの「世界観」についての教え、「霊的戦い」や「地域を支配
する霊」等についての教えは、聖書的基盤はきわめて脆弱で
あり、薬に例えれば「まだ十分な臨床試験を受けていない
試験薬%Iな教えである。」ということです。つまり、「その
薬の有用性、危険性、副作用等々はまだ十分に確かめられ
ていない」教えであるということです。
- 第三世界の宣教現場で収集されたデータから試験的に
生み出された教えが、今日の出版界の売れ筋の著作集とな
り、副作用≠ェ確かめられないまま、日本のキリスト教会に
氾濫し、読まれ、それが宣教現場で大々的に語られ、応用さ
れている現実に、神学教師としては懸念≠表明せざるを
えません。
- 日本の宗教史を振り返りますと、アニミズムの世界であった
日本に、外来の宗教である仏教が伝来したときに、時を経て、
仏教の本質は換骨奪胎≠ウれて「アニミズム的仏教」と
変質していったのと同様の道筋に片足を踏み入れてはいない
のか、神学的反省が必要とされている時期ではないのかと
考えさせられています。
- ただ、この指摘は特定の人や特定の運動を批判しているの
ではなく、九割方健全である運動であるとしても、高く評価さ
れている運動であるとしても、多くの魂を導き、大きな教会
を生み出している運動であったとしても、神学教師として洞察
するところがあるとすれば、ある意味でガン患者を見出し、
早期発見により早期治療によって救い出そうとする医者のよ
うな眼≠もって、そこにある神学的な病巣≠摘出する
べきではないかという診断をくだすことは、批判のための批
判ではなく、健全な運動がいつまでも健全さを保ち、神の栄光
をあらわす、その手助けをすることにつながるのではないかと
思うからです。わたしの尊敬している先生方が神学的な健全
さを保ち続けていただくことを願っているのです。
3/24 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説B
- 今回のJEC拡大教職者会についての相談がなされたのは、
昨年の秋でした。そのときの話し合いで、「JECの中には、
いろいろな癒しのミニストリーの取り組みがあるが、一度
それらを分析・評価し、整理する試みが必要ではないだろう
か。」それらの話し合いの中で、候補のひとつとして上げら
れたのが、今回主講師として奉仕してくださいました李光雨
先生でした。インテグレーション・カウンセリング・ミニストリー
という働きをなされており、わたし自身もお誘いを受けて、近
隣の教会に来られたときに一泊二日のセミナーに参加させて
いただき、教えられるところが多々ありましたので、「一度李
先生をお呼びしてはどうか。」と提案させていただきました。
U先生は、フラー神学校で同じ時期に聴講されていて、李先
生のことをよくご存じでした。
いろんな話し合いがなされ、基本的な方向性が導き出され
ていきました。それは、ここ十数年間、JEC内外で取り組ま
れてきた「癒しのミニストリーや癒しのセミナーへの関わり
等々を全般的に振り返ること、そしてそれらの中から神学的・
牧会的指針のようなものを輪郭だけでもつくりだしていくこと
はできないだろうか。」ということでした。そこで、白羽の矢が
立てられたのが、フラー神学校でC.クラフトの下で学ばれ、
長年“Deep Healing Ministry”に取り組んでこられた李先生
でした。
- さっそく携帯で連絡をとり、依頼の内容をお知らせし、引き受
けていただきました。こちらの狙いは、「ここ十数年間の世界
における癒しのミニストリーの分析と評価、そして今後の方向
性等について教えていただけないか。」というものでした。その
ときにわたしの念頭にあった協議事項を正しく扱っている文書
として、フラー教授会のスミード師のまとめた文書とエリクソン
の小論があります。
- こちらからも、いろんな情報を提供し、心理学との融合が進み
すぎたかたちの「心理学的異端」という危険性等についても話
していただけるよう打診していました。これは、宇田進著『総説
現代福音主義神学』において、米国の神学的動向についての
分析の中で懸念されている傾向であり、この関係で、「心理学
と神学」の関係の在り方を分析・整理しておかなければならな
いと考えていたわけです。
- セミナーの構成も、講師の先生の一方的な講演に終始しない
ように、JECの中で長年また最近このテーマに取り組まれてい
る先生方をパネラーとして奉仕していただき、JECの脈絡との
コンテクスチャライズをはかれるように工夫もこらしました。ただ、
それぞれの先生方に十分な時間を配分することができない
と思いましたので、小論集というかたちで、まとまった原稿に
おいてそれぞれの先生の多様なアプローチを紹介していただく
ことを期待しました。
- セミナーがちかづく中で、李先生との相談のプロセスの中で、
こちらの当初から求めている要素は、こちらで用意する方向と
なり、時間的に制限のある中で李先生のミニストリーのエッセ
ンスを紹介していただく方向となっていきました。このことは、
当初の企画案からはずれるので少し迷いましたが、時間が
迫っていることと、「李先生の良きものを分かち合っていただく
ためには、この方向がよいのかもしれない。」と受けとめるよう
になり、李先生の言われたように、こちらの狙う部分は、小論集
とセミナー全体の流れと総括の中で触れることにさせていただき
ました。
- 企画委員〔コーディネーター〕としては、拡大教職者会の最後の
総括の部分で、少し述べさせていただいた三つのポイントを、
今回のセミナーで深く扱いたかったのですが、10分前後の時間
内では十分に扱いきれませんでしたし、エッセンスのみをお分
かちしましたので、「木に竹を接ぐ」といった感じとなり、「集会全
体と総括の関係のつじつまがあわないのではないか」と感じられ
た方もあったように思います。
- そのような意味も含めて、「総括」部分の収録ミスを「怪我の功名」
として、準備段階、小冊子作成、当日の全体を視野にいれた「総
括」ビデオを再収録していますので、参考にしていただけたら感謝
です。
- 講師の先生、パネラーの先生方、小論・証しを書いてくださった先
生方、また当日会場からの質疑をしてくださった先生方等、大変
貴重な奉仕をしてくださったと思います。李先生からは「心の病」
へのカウンリング的アプローチの新しい領域に光があてられ、励ま
されました。出席してくださった先生方は、それぞれの必要に応じ
て、チャレンジを受け、また学びを深められたセミナーではなかった
でしょうか。
- わたし自身の役割としましては、まだ「安黒個人の神学的視点か
らの総括」として受けとめられている段階の神学的・牧会的指針
のエッセンスを、さらにJECの脈絡の中で消化吸収していけるよ
うに、フラー神学校の教授会やエリクソンたちが、「第三の波と呼
ばれてきたウィンバー、ワグナー、クラフトたちの運動や著作を
どのように分析し評価しているのか。」を紹介していけたらと願っ
ています。
- わたしは、神学教師としての立場から、「これらの文書には、今
日の教職者がどうしても聞かなければならないきわめて大切な
神学的メッセージが含まれている。」と受けとめています。
3/22 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説A
- JEC拡大教職者会のテーマは「Homo-Patience:ホモ・パティエンス
(病める人間)」ということで、「精神医学の知識を活かしつつ、祈りの
力によって働く」という視点を、インテグレーション・カエンセリング・
アソシエーションの李光雨先生から学びつつ、さまざまなかたちで
JECの中における癒しのミニストリーに取り組んでおられる先生方を
パネラーとして、また会場からの質疑応答も含め、多彩な内容となり
ました。
- そして、最後には一宮基督教研究所で「組織神学」を担当させてもらってい
る立場から、「癒しのミニストリー全般」に対して、また特に「第三の波」
と呼ばれるウィンバー、ワグナー、クラフトの癒しのミニストリーへの
取り組みを全般的に分析・評価しているフラー神学校の L.B.スミード編
集、D.A.フッバードが序文を記しています“Ministry and the Miraculous
-A Case Study at Fuller Theological Seminary-”と M.J.エリクソン著
“The Evangelical Mind and Heart -Perspectives on Theological and
Practical Issues-”の中の第八章“Are Signs and Wonders for Today ?”
を資料源として、三つのポイントで「神学的総括」をさせていただきました。
- スミードとエリクソンの記述には、肯定的評価のポイントも多くあるので
すが、15分間での総括でしたので、JECにおける癒しの取り組みに
おいて反省的に留意すべきポイントにしぼって、ひとつの神学的指針と
いうかたちで提示させていただきました。
- JECという群れは、元々はスウェーデン・バプテスト系の諸教会をベース
にして、20世紀に生起したペンテコステ・カリスマ運動にきわめてオー
プンな立場をとり、受け入れてきたオレブロ・ミッション〔現インターアクト〕
をマザー・ミッションとして形成されてきました。JECはマザー・ミッション
と同様のかたちで「簡易信条主義」タイプの教派であり、20世紀中期
からの種々のムーブメントの影響を積極的に受け入れてきました。
- ただ、第一世代の教職者の中心的位置におられた故我喜屋光雄先生
は、いつも「キリストにある“In Christ”」をキーワードにして、新約における
パウロ神学の光のもとに、パウロの福音理解のもとに、種々の運動を
分析・評価しつつ、学ぶべき点を受け入れ、退けるべき点を捨て去る
かたちで、いわば「JECにおける福音理解というフィルター」を通し、
濾過するかたちで海外からの運動との関係を築かれていかれていた
ように思われます。
- ここにきて、今日の私たちが直面している事柄、「JECにおける全人的
癒しへのアプローチ」にも同様の「JECにおける福音理解というフィルタ
ーを通して受け入れるという作業を順守することが大切なのではないか、
またそれらの作業は具体的にどのようになされるべきなのか。そのとき
に私たちが留意すべき点とは一体どのような点なのか。」を明らかに
していくことが、今回のJEC拡大教職者会で求められた中心的なポイント
であろうと思います。
- すでに、小論集というかたちで、講師・スタッフ・パネラー・主要な教会に
おける証し・またEブロックの教会からの証し等においてこれらのポイント
への御言葉と経験からの知恵がさまざまな視点から、多様なかたちで
記述されています。
- その意味で、今回の拡大教職者会は、一日のセミナーというのではなく、
ここ十年、二十年のJECにおける全人的癒しへの取り組みをベースにし、
その祝福と挫折、光と影を隠すことなく反省し、またさまざまな運動の
初期には明らかではなかった神学的分析と評価をするために、この半
年間は、このテーマに関する多くの重要参考文献を読みとおし、また
その思索に明け暮れていました。小論や証しを書いてくださった先生方
もともに、この数か月間「JECにおける全人的癒しへのアプローチ」の
あり方を全般的に振り返って小論をまとめてくださいました。つまり、
JEC拡大教職者会は、これらの全体がセミナーの各部分であるという
ことです。当日語られた言葉だけでなく、それらの言葉を耳にし、小論
を読み、その中で自問自答されたサイレント・マジョリティ〔沈黙されてい
た大多数〕の教職者の先生方も、またレスポンスされ質疑された先生方
も、このセミナーをかたちづくってくださったということができると思います。
- セミナーは過去にルーツをもつとともに、今後の「JECにおける全人的
癒しへの取り組み」に向けて、いろんな助言に満ちたものともなりました。
また、「忠言、耳に痛し」と言いまして、称賛は聞き入れやすいものですが、
説教演習ではありませんが、神学生とは異なり、奉仕の第一線にたたれ、
ひとつの教会の「一国一城のあるじ」のような立場にたたれている教職者
にとって、差し出がましい「神学的反省を伴う留意事項」を耳にすることは
時には腹だたしいことであろうと思います。
- しかし「義を見てせざるは勇なきなり」ということわざがあります。人の不評
を買うことを恐れて、その運動の内包する諸課題を指摘することを躊躇する
ということは、
神学教師として立てられている者としては恥ずべきことでは
ないかと思います。
- そのような意味で、今回は私自身も含めてのJEC全体の「全人的癒しへ
の取り組みが内包している諸課題、特に神学的課題をスミード師やエリ
クソン師の著作から虚心坦懐に学ぼうではないか。」というところに、
JEC拡大教職者会の企画・準備・進行のコーディネーターを引き受けさせて
いただいた私の目標がありました。15分という短い「総括」でありました
ので、そのエッセンスのみしか触れることができませんでした。しかし、
ビデオ・ディスクの容量の関係で「総括」の最初の3分くらいしか録画されて
いませんでしたので、最初はかなりショックでした。ただ主との交わり
のなかで黙想しておりましたら、「さらに詳細な『総括』を再収録するチャン
スが与えられたのだ。」と考えなさい、と諭されたような気がしましたので、
「怪我の功名」というかたちで、エッセンシャルな総括に詳細な肉付けを
与えて「再収録版の総括」DVDを作成させていただきました。「総括の
再収録などと…!」と怒りの声も聞こえてきそうですが、この総括のもつ
内容とその意味の重要性というものを理解していただけましたら、きっと
理解していただけるものと思います。
- これらのDVDは、小論集も含めて今後の「JECにおける全人的癒しへの
アプローチ」の指針小論集またDVDとして活用していただけるものと期待
しています。そして、これらの材料をこのテーマを扱う長い旅程の最初の
一里塚として位置づけてくださり、今後さらにすぐれた小論集やDVDが
作成されて、主のみこころにかなったJECの在り方が諸先生方とともに、
漸進的なかたちで探究されていくことを期待しています。
3/21 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説@
- 今回の教職者会で扱われたテーマは、いろんな意味でかなり重要な
神学的な課題を含んでいると思われる。それらの課題への取り組みは、
JEC〔日本福音教会〕に所属する教職者のみでなく、福音派全体の
教職者にとって普遍的な課題であると思われるので、この公開サイト
でひとつずつ取り扱っていきたいと思う。
- 私の所属するJEC〔日本福音教会〕の第一世代の日本人教職者の中
心的存在であった故我喜屋光雄牧師〔堺福音教会〕は、いろんな意味
で、JECにとって「礎となる石」を据えられた先生であると思う。
- 我喜屋先生のすばらしさは多くあると思うが、神学的な視点から言えば、
「キリストにある」というキーワードで福音を理解するように指導されたこ
とである。
- 我喜屋先生は一宮基督教研究所においては「パウロ書簡」の講義を長年に
わたり担当され、パウロ書簡、パウロ神学のキーワードは「キリストにあ
る“In Christ”」であると教えられた。
- 現在、一宮基督教研究所〔KBI〕で組織神学の講義のテキストとして使用さ
れているM.J.エリクソン著『キリスト教神学』第四巻、p.122には「キリスト
との結合」についての教理、つまり“In Christ”の教理についての解説
があり、「ある意味で、キリストとの結合は救い全体を包括する用語であ
り、他のいろいろな教理は下位区分(subparts)にすぎない。」
- この言葉をその教派の福音理解のキーワードとすることは、その教派
の福音理解に健全なバランスを与えることを意味する。細部の特定の
教理に福音理解の重心を置くと、聖書の提示している福音をバランス
よく理解することが困難となっていく。
- その意味で、JECの福音理解をバランスのとれたものとして提示された
我喜屋先生の神学的貢献は大きいと思う。我喜屋先生は、米国から、
また韓国から流入してくるさまざまなムーブメントから学ばれることに
オープンであったが、常にパウロ書簡、パウロ神学のキーワード「キ
リストにある“In Christ”」を座標軸にして、それらの運動からの良き
部分を吸収されてきたように思う。
- わたしの神学研鑽の恩師、宇田進先生は「知らず知らずのうちに、自己
を特色づけたり、絶対的なものとするところの特定の教理、主張に固執
しようとする傾向」について言及されており、「二次的な事柄にみられる
相違点」よりも「キリスト教全体が共有する伝統に対する意識と掘り下げ」
の大切さを強調しておられる。
3/20 JEC春季拡大教職者会報告と「総括」部分についての注釈
3/15 Windows Server 2003 R2 の基本的な設定が完了しました。
- 本日、午後10:45より、ICIサーバーは Windows Server 2003 R2 の
時代に入りました。今日からこれまで通り常時接続が可能となります。
感謝!
- 今後、 Windows Server 2003 R2 のさまざまな機能に習熟し、これまで
にない、コリント書にある通り、「目が見たことのないもの、耳が聞いた
ことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を
愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
そのような主の恵みに溢れたサイトを構築していきたいと考えています。
お祈りください。
3/1 ICIホームページについて
- ICIホームページは夜間以外は引き続きアクセス可能です。準備が
できしだい、データを新しいWindows Server 2003 R2 に移す予定
です。サイトのアドレスは変わらないと思います。
3/1 ICIイントラネットとJEC&ICIイントラネットの機能停止のお知らせ
- 二月末をもちまして、ICIイントラネットとJEC&ICIイントラネットの機能を
停止させていただきました。現在、それらを統合しました新しいWindows
Server 2003 R2 の設定準備中です。これまでの機能の数倍いやそれ
以上の豊かな内容をもつサーバーを構築していけそうです。大きな辞書
のような数冊のマニュアル本を購入して猛勉強中です。三月は移行期間、
四月には本格的に再開できると思います。
2/25 サーバーの夜間停止のお知らせ
- 現在の「コバルト・キューブ3」サーバーは、ときどき騒音がひどくなります
ので夜間は停止させていただいています。悪しからず。2/26に「Windows
Server 2003 R2」が届きます。新サーバーが軌道にのりましたら、また
24時間アクセスできるようになります。
2/22 ICIの働きは、「VistaパソコンとWindows Server 2003」の時代に入ります !
- 年末から、この二か月、五年間使用してきましたXPパソコンと三年間使用
してきましたサーバーが故障しまして大変苦労していました。多くの関連
文献に目を通し、専門家にいろいろと相談を重ねてきました結果、わたしの
召命である「神学研究と神学教育をさらに新たなかたちで推進していく」ため
には、VistaパソコンとWindows Server 2003 が必要であると分りましたので、
多額の出費を伴いますが、大きな決断をさせていただきました。
- これによりまして、パソコンのトラブルとサーバーのトラブルを克服し、さらに
これまで「ICIホームページ」「ICIイントラネット」「JEC&ICIイントラネット」の
三つに分かれていました働きを統合したかたちで、新たにダイナミックな展開
が可能になっていくものと思います。
- イントラネットでの働きは二月末でとまりますが、三月中に新しいサーバーで
またすばらしい働きを準備していけるものと思いますので、よろしくお願い致し
ます。
2/7 今月の予定
- 次週 2/14の礼拝は、和歌山福音教会で奉仕です。久しぶりにあちらに
行きますので、時間があれば岬福音教会にも立ち寄りたいと思っています。
翌日に神戸に行きますので、日曜夜はJEC本部事務所に宿泊の予定です。
- 2/15−16は、ペアーレ神戸にて「JEC一泊牧師会」です。御言葉と交わり
と討議のひとときです。個人的には、「JECのアイデンティティ」について
協議事項をリストアップし、よくよく準備して有意義なひとときにしていけたら
と願っています。
- 2/20は、KBI教師会で「心理学と神学の関係」について発題です。
ナラモアが、心理学と神学の関係のあり方をR.ニーバーの『キリストと文化』
の類型にあわせて整理しているのが目を引きました。
2/6 サーバーの復活と、ビデオ・ファイルの復活
- ICIサーバーが、修理から帰ってきました。特に故障の箇所は見つからなかった
とのことでした。ひょっとしたら、サーバーの下に置いていたレンガのせいで不安定
になっていたのかと思い、しばらくそれを取り除いて様子を見ることにしました。
- それで、ビデオ・ファイルもこれまで通り復活させることにしました。
- しばらく様子をみました結果、やはりサーバーの騒音はひどいままでした。