mi_200712.htm mi_200711.htm mi_200710.htm mi_200709.htm mi_200708.htm mi_200707.htm mi_200706.htm mi_200705.htm mi_200704.htm mi_200701-03.htm
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/08/01-08/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
夏季のさまざまな諸奉仕で多忙な日々を過ごされた
ことと思います。特に、今年は猛暑の夏であったと
いえるかもしれません。ここ数日は雨も降り、少し
過ごしやすくなってきたように思います。
この八月は、先月の継続として、堀尾輝久先生の
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介を中心
に、この問題を考えてみました。そして後半は、
日本国の社会的罪としてのアジア諸国への戦争犯罪、
そしてそこからエリクソン著「キリスト教神学」の
罪論を学んでいくことにしました。
皆様の学びの一助にしていただければ幸いです。
ICI 安黒務
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020004-ct_27_p127 】
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【B罪は霊的不能性である。】
新改訳 ロマ 1:21
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
新改訳 ロマ 1:28
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
新改訳 ロマ 1:29-31
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
新改訳 ロマ 12:2
12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
「罪は霊的不能性である。」
「それは私たちの内的状態、私たちの性質を
変える。」
「罪を犯すとき、いわば、私たちはねじれたり、
曲った者となる。」
「私たちが創造された神の像は、乱れたものと
なる。」
ローマ一章において、パウロはこの経過を描写
している。」
「神を知ることを拒否するとき、罪人は彼らの思
いにおいて空しくなり、無知な心は暗くなった。
〔21節〕」
「神は彼らをよくない思い〔28節〕、事実上不適
切で、不適格な思いに引き渡されました。」
「それ自身で放っておかれるとき、人間の思い
は正しく知ったり、私たちの行為を方向づけたり
することができない。」
「この霊的不能性の結果が29-31節の一覧に
載せられている罪である。」
「神による心の一新を通してのみ、個々人は捻
じ曲げられていない、霊的に健康な状態〔ロー
マ12:2〕に回復されうる。」
「罪は霊的不能性である」の段落は、「罪を表す
用語」の「罪の原因を強調する用語」の「無知」
の段落で言及されているものと符合しています。
この段落においては、ローマ一章の解説が中心
ではなく、エペソ4:18 の解説がされており、その
内容が符号しています。
エリクソンは、罪が「霊的不能性」という結果を
もたらすことを指摘し、ローマ一章において罪が
霊的不能性をもたらすプロセスを解説しているこ
とを指摘しています。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020003-ct_27_p135-138 】
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罪を表す用語をエリクソンは、「原因、特徴、結果」
の三つに分類しています。それらは、木に例えま
すと「根、幹、果実」に例えられるのではないでし
ょうか。
根:@罪の原因を強調する用語:無知・誤り・不注意
幹:A罪の特徴を強調する用語:的をはずす・無信仰・
違反・不正または誠実の欠如・反逆・裏切り・歪曲・
忌み嫌うべきこと
果実:B罪の結果を強調する用語:動揺または不
安・悪または良くないこと・罪責・災い
【A罪は反逆であり不従順である】
新改訳 ロマ 2:14-15
2:14 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
――
新改訳 創 2:16-17
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
「罪は反逆であり、不従順である。」
「聖書は、すべての人が神の真理に接触している
と仮定している。」
「パウロは、これは、神の特別啓示を所有していな
いけれども、心に書かれた神の律法を持っている
〔ローマ2:14-15〕異邦人をさえ含んでいると言及
している。」
「特に、公然とわざわざ提示されたときに、そのメッ
セージを信じ損ねるのは、神に対する不従順であり、
反逆である。」
「根本的な例は、アダムとエバの罪である。」
「彼らは、エデンの園でどんな実を食べることも許
されていたが、神は善悪の知識の木からは食べ
てはいけないと命令されていた。〔創世記2:16-17〕」
「アダムとエバは、何が善であり何が悪であるのか
について語る神の大権を拒絶した。」
「彼らは、神の権威に反逆し、そのようにして彼に
不従順であった。」
【第二節 罪の本質に関する聖書的見方】の
「A罪は反逆であり不従順である」もまた、ひとつ
の項目からの抜粋ではありません。
これは「第四節 罪を表す用語」の中の複数の項目
からのエッセンスの抜粋と再構成によってできた
ものだと思います。
pp.135-136 の「第四項 違反」の中のアダムとエバ
の禁断の実を食べたこと、pp.136-138 の「第五項
反逆」の箇所の幾つかの部分の抜粋・編集です。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020001-ct_27_p126 】
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【第二節 罪の本質に関する聖書的見方】
「罪という主題に関して、今日の多くの人々は、
無知であったり、あまり心地よくないけれども、
私たちがこの教理を検討するのは絶対必要で
ある。」
「聖書は罪の本質についてたくさんの見方を
提示している。」
この文章は、メイン・テキストにはないのです
が、メイン・テキストを抜粋し構成していく中で
必要なつなぎの文章ということができます。
メイン・テキストには、「罪について学ぶ方法」、
「罪を表す用語」、「罪の根本的な性質」という
かたちで展開されていっています。
「罪」という主題にアプローチする方法として三
つが提示されています。第一に「経験的また
帰納的アプローチ」、第二に「パラダイム方式」、
第三に「罪を表す聖書的用語のすべてに注目」
です。
エリクソンは、第三のアプローチを選択していま
す。
このことは、「第一義的に聖書を基盤とし…」と
いうかたちで神学形成に取り組むエリクソン神
学にふさわしいことです。
「神学入門」で繰り返し学ぶことですが、神学が
「聖書的」であるためには、まず聖書をありのま
ま受け取らなければならない 、聖書「自身の用
語」で聖書を受け入れ 、聖書の「そのものの基
盤」に立ち 、聖書「自身の見地」から研究し 、
その「成果」を提示すべきである、つまり、聖書
を無理に異質の哲学思想の中に押し込めては
ならない、ということです。
そして、聖書学部門の成果を、組織神学部門
において、重視するポイントとして、福音の真理
を 断片的・部分的にはではなく、全体像を明確
化し、個々の教理を バラバラにではなく、他の
諸教理と有機的相互関連性の中で陳述し、キ
リスト教真理の有意義性・妥当性を現代という
状況を踏まえつつ立証していくことが求められて
いるのです。
エリクソンは、「罪を表す聖書的用語のすべてに
注目」していきます。そこには「多種多様な概念」
が登場します。
次にこれらの概念を検証して、罪の本質的要素
を発見します。
【罪を表す用語】は、「@罪の原因を強調する用
語:無知・誤り・不注意」と「A罪の特徴を強調す
る用語:的をはずす・無信仰・違反・不正または
誠実の欠如・反逆・裏切り・歪曲・忌み嫌うべき
こと」と「B罪の結果を強調する用語:動揺また
は不安・悪または良くないこと・罪責・災い」とリ
ストされ、それそ゜れの用語が解説されています。
そしてそれらの多種多様な概念が検証されて
「罪の本質的要素」が抽出され、【罪の根本的な
性質】として「@肉欲、A自己本位、B神の排除」
が提示され、それぞれ分析評価され、「罪は基
本的に肉欲や自己本位という見解より望ましい
代わりの見解は、罪の本質は単に神を神たらし
めることに失敗することである」というものである、
と定義されています。
「罪を表す聖書的用語のすべて」から「多種多様
な概念」を検証し、その中から基本的要素を抽出
し、最終的に「罪の本質」として“Displacement
of God〔神の排除〕”という結論に到達していくと
ころからはいろいろと教えられます。
聖書的であろうとすることが、扇の展開のように
拡散し、雲散霧消≠オてしまうことになってしま
うのではなく、組織神学者としてひとつの結論に
導き、しぼっていく過程、手順の運び方からは多
くのことを教えられます。
さて『基督教教理入門』では、五つのポンイトが
示されています。それらは「@罪は内的傾向で
ある。A罪は反逆であり不従順である。B罪は
霊的不能を伴う。C罪は神の基準の不完全な
達成である。D罪は神の排除である。」と。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020002-ct_27_p126 】
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【@罪は内的傾向である】
新改訳 マタ 5:21-22
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
新改訳 マタ 5:27-28
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
「罪は内的傾向である。」
「罪は単に悪しき行為であるだけではない、そ
れは罪深さでもでもある。」
「それは、私たちを悪しき行為へと向かわせる
生来の内的傾向である。」
「さて、動機は事実上、行為と同様に重要なも
のである。」
「だから、イエスは殺人と姦淫と同様に、怒りや
情欲を激しく非難された。〔マタイ5:21-22, 27-
28〕」
「私たちが罪を犯すゆえに、私たちは罪人であ
るということは単純ではない。私たちは罪人であ
るゆえに、罪を犯すのである。」
「それでは、この罪の定義を提供しよう。」
『罪とは、能動的ににであれ、受動的にであれ、
神の道徳律に一致しないことである。これは行
為、思い、内的傾向や状態に関する事柄である
かもしれない。』
「罪とは、神が期待しておられることに、行為や
思いや存在において達していないことなのであ
る。」
エリクソンは、要約版における「罪の性質に関
する聖書的見方」において、五つのポイントを
あげています。
メイン・テキストと比較しながら、その取り上げ
方に注目していきますと、メイン・テキストの構
成に従ってない、アットランダムなかたちで扱
われているような気がします。
メイン・テキストでは、p.127-146までの約20ペ
ージで扱われている内容を約1ページに圧縮
して記述するわけですから、それは仕方のない
ことだと思います。
しかし、それだけに要約版は、メイン・テキスト
の詳細な原語からの解説で散漫になりやすい
内容を、簡潔明瞭によくまとめられていると思
います。
要約版における「罪の本質に関する聖書的見方」
の第一項「罪は内的傾向である。」は、「罪を表す
用語」からの項目でも、「罪の根本的な性質」から
の項目でもありません。
対応する箇所を探していますと、「罪の根本的性質」
の三つの項目「肉欲」「自己本位」「神の排除」の
導入における説明、つまり“総花的”に扱ってきまし
た「罪を表す用語」と「罪の根本的性質」をつなぐ
“架け橋”的な位置の文章の中にあるエッセンスを
要約版における「罪の本質に関する聖書的見方」
の第一項「罪は内的傾向である。」と取り上げられ
ているのです。
エリクソンの著述の“妙〔まねることができないほど
すぐれていること〕”のひとつとして、“つなぎの、接
続文”があげられます。
部と部、章と章、節と節をつないでいく文章の神学
的味わい、これに注目して読まれることをおすすめ
します。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010003-ct_27_p126 】
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「さらに、多くの人は“罪”(sin)という概念を、内に
ある力、生来の状態、自分を支配する力としてと
らえることができない。」
「今日では、sins すなわち個々の間違った行為と
いう点から考えるほうが多い。sins とは外的で具
体的なものであり、論理の上で個人から分離して
いる。」
「これに基づいて、悪いこと(一般に外的な行為を
考えている)をしない人は善良な人と見なされてい
る。」
その昔、コンパニオン・バイブルという英語の聖書
を購入しました。
聖書の各章、各節を分解して構造的に再構成され
ているところが新鮮でした。
文章の構造が明確にされて読みやすいと思いまし
た。
そのローマ書の構成で、Sin:
its self と sins:
its
results と分解表があり、ローマ書理解の助けとな
りました。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010002-ct_27_p126 】
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「罪を論じることが難しいもうひとつの理由は、多く
の人にとってそれがなじみのない概念であるという
ことである。」
「社会の諸問題を人間の罪深さよりも不健全な環
境のせいにすることで、客観的な罪意識は、ある
人々の間では相対的にまれなものとなっている。」
「部分的にはフロイト主義の影響で、罪意識とは人
がもつべきでない非合理的な感情であると理解さ
れている。」
「超越的で有神論的な基準がなければ、自分や他
の人間以外に、人が応答や説明の責任を負う相手
はいない。」
「したがって、もし自分の行動がどの人にも害を与え
ないのなら、罪責を感じる理由はないことになる。」
「不健全な環境のせいにする」というポイントは解
放の神学=A「人がもつべきでない非合理的感情」
というポイントはフロイトの心理学=A「超越的で
有神論的基準がなければ…」というポイントは中
村元著『東洋人の思惟方法3:第四編 日本人の思
惟方法 第三節 人倫重視傾向』≠ヘ、参考になるの
ではなかろうか。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010001-ct_27_pp125-126 】
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「第六部 罪論」を全体的にみていくことにしましょう。
要約版『基督教教理入門』の二十章の第一節は、
以下の記述から始められています。
「罪の教理は重要であるが、いくつかの理由から、
今日たやすく論じられる主題ではない。」
「理由の一つは、罪は死と同じように心地よい主題
ではないということである。」
「我々は自分を悪しき人間と考えることを好まない。」
「ところが罪の教理は、これが我々の生来の姿であ
ることを教える。」
「我々の社会は、積極的な精神的態度をとることを
強調する。」
「積極的な考えと考慮、人間の可能性と業績のみを
目立たせることが強調されている。」
「人間を罪人として語ることは、非常にあらたまった
威厳のある上品な集まりでは、あるいは教会でさえ、
不敬な言葉やわいせつな言葉を絶叫するのと同じ
ようなことなのである。」
「それは禁じられている。」
「一般的にであるこのような態度はほとんど、新しい
タイプの律法主義となっている。」
「そのおもな禁止令は『あなたは否定的なことを語っ
てはならない』である。」
ここでの導入は、米国におけるキリスト教メッセージ
への可能性思考≠ニか成功哲学≠フ影響の大
きさへの言及です。
ロバート・シューラー師のメッセージを読みましたとき、
これは果たして「キリスト教のメッセージといえるのだ
ろうか?」と大きな疑問を感じました。
聖書の言葉は使用されていますが、その内容は「成
功哲学・可能性思考」のオンパレードのように思いまし
た。
昨年、先輩の牧師から米国で急成長しているある教
会の話を聞きました。そのメッセージとは「積極的思
考」だと言うのです。
教会成長学的には評価すべき幾つかの点があると
思いますが、福音主義神学の視点からは「問題多し!」
といわねばならないと思います。
丁寧な聖書解釈の延長線上に、聖書にある本質的メ
ッセージの今日的適用の一部として、そのようなメッ
セージが生まれてくることまでは否定できませんが、
徹頭徹尾、いわば金太郎飴≠フように聖書のどこを
解釈しても、そのようなメッセージが生まれてくるとす
るなれば、「これは問題多し!」といわざるを得ないと
思います。
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2007.08.26 Yamasaki Chapel Short Message
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出エジプト 20:1-9
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 B 】
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1989年ベルリンの壁崩壊の頃、東京キリスト教
学園の共立基督教研究所で学んでおりました。
そのときに、奉仕教会でありました堺福音教会
東京チャペルで、元JEC奈良福音教会長老で
ありました清水氾先生〔東京キリスト教学園教授〕
に三浦綾子文学について講演を依頼しました
ところ、『氷点』と『続氷点』についての講演をし
ていただきました。
『氷点』と『続氷点』は、大学受験時代からの愛
読書のひとつであり、わたしの「キリスト教信仰」
への道備えをしてくれた書物でありました。すで
に内容は熟知しているつもりでありましたが、そ
のときの講演において新しく、より深い洞察を
いただきました。
それは、『氷点』のテーマは個人の原罪≠ナ
あり、『続氷点』のテーマは社会的罪≠ナある、
ということでした。『氷点』は真っ白な雪に埋もれ
た河原で陽子は自殺をはかります。『続氷点』で
は夕焼けが流氷を真赤に染め上げます。そこに
は、イエス・キリストの十字架の贖いが強く暗示
されています。
エリクソン著『キリスト教神学』の罪論は、「罪の
本質・罪の根源・罪の結果・罪の重大性」と
個人の原罪≠ノ焦点をあてています。しかし、
そこで終わりません。「罪の社会的側面」におい
て社会的罪≠ノも光を注いでいます。この神
学の領域を学びますときに、私たちは今日と未
来に目を向けるだけでなく、「アジア諸国になし
た2000万人の犠牲、日本国民になした300万
人の犠牲」の内容について、背負っている過去
に対しての神学的な思索をなし続ける責任が
あると思います。
このテーマはエリクソン著『キリスト教神学』の
「第六部:罪論−31章:罪の社会的側面」を学
ぶときに必ず触れられねばならない領域であり、
日本における神学校の神学教育において欠け
てはならない領域だと思います。
この事柄に触れない神学教育は、輸入神学
教育≠ニいわれても仕方がないと思います。
日本における宣教と教会形成の歴史の「教会
と国家」の問題を直視し、その問題との神学的
格闘の上にこそ、日本における真の神学教育
のあり方がみえてくるのではないでしょうか。
古屋安雄・大木英夫著『日本の神学』や稲垣
久和著『大嘗祭とキリスト者』等は、このテーマ
に関するよい参考文献と思います。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 A 】
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「第六部:罪論」は、メイン・テキストの『キリスト教
神学』においては、
27章:罪の本質
28章:罪の根源
29章:罪の結果
30章:罪の重大さ
31章:罪の社会的側面
の五つの章から構成されています。
サブ・テキストの『基督教教理入門』においては、
・罪の本質と根源
・罪の結果
・罪の重大さ
の三つの章から構成されています。
ここでは、すでに出来上がっていますメイン・テキ
ストの翻訳を参考に、そのエッセンスをコンパクト
に取捨選択・整理統合されているサブ・テキスト
の教えの解説というかたちで取り組んでいきたい
と思います。
メイン・テキストの「罪の社会的側面」からは、
“How JEC ?”シリーズで取り組んできました
「大日本帝国の戦争責任問題」を神学的に考え
る枠組みが提供されているように思います。
「教会と国家の問題」はあまりにも大きく、わたし
の小さな頭では整理しつくすことはできませんが、
神学的に考える手順・枠組みをもっておくことはと
ても大切と思います。時流に流され、戦前の教会
が犯した同じ過ちを繰り返さないために。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 @ 】
*************************************************
エリクソン著『キリスト教神学』は、翻訳・出版され
ましたが、神学校での講義は講義時間数の関係
と神学生の理解のレベルへの配慮もあり、講義
内容としましては要約版の『基督教教理入門』の
翻訳を使用してきました。
ただ、要約版の翻訳も約半分で終わっています
ので、メイン・テキストとの関係を解説しつつ、残り
の部分の解説講義に取り組んでいきたいと思いま
す。
現在までに「翻訳・解説メール講義」が終了してい
る箇所は、『要約版:基督教教理入門』の
第一部:神学方法論
第二部:啓示論
第三部:神論
第五部:人間論[の中の「人間論への序論」]
第十部:救済論
第十一部:教会論
第十二部:終末論
となっています。
残されている箇所は、
第四部:神のみわざ論
第五部:人間論の大半
第六部:罪論
第七部:キリストの人格論
第八部:キリストのみわざ論
第九部:聖霊論
です。
ここしばらくは、神学校における「卒論指導」の
関係もあり、「第六部:罪論」に取り組んでみた
いと思います。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【序】
*************************************************
“How JEC ?”シリーズの【No.1】は、JECニュース
に半年間連載させていただいたことが始まりでした。
そこでは、「モーセの十戒」の語りかけの本質を今
日のさまざまなコンテキストにあてはめることを試み
ました。
“How JEC ?”シリーズの【No.2】は、七月初旬の
JEC牧師研修会での発題と質疑応答でした。
与えられた課題としての「憲法九条」に関連して
歴史的な脈絡を振り返ることと、「戦争と平和」
に関して聖書とキリスト教会の歴史においては
どのように扱われているのかを考えてみました。
“How JEC ?”シリーズの【No.3】は、「日の丸・
君が代」へのクリスチャンの対応いかにあるべき
か、について堀尾先生のテキストから教えられる
ことを紹介させていただきました。
今年前半に取り組ませていただきましたテーマは、
「日本福音主義神学会西部部会の春期と秋期の
神学研究会議」のテーマとも重なることもあり、数
多くの関連諸文献の収集と研究に集中して時間
をさくことができました。
まだ、秋季神学研究会議に向けての諸準備の関
係で目配りしていかなければならないのですが、
いつまでもこのテーマだけに時間をさいているわけ
にもいきませんので、このあたりで本筋の「神学
研究」に戻させていただきたいと思います。
本筋の神学研究と申しますのは、組織神学では、
エリクソン著『キリスト教神学』の研究、歴史神学
では、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』・
『総説現代福音主義神学』、宗教の神学では、
稲垣久和著『大嘗祭とキリスト者』他です。
神学校で教えさせていただいている関係での、
講義の下準備という側面と、講義時間に制限さ
れることなく、丁寧に深く神学の研究を継続して
いき、それらをネットを通して分かち合うという部
分があります。
そして、日本の福音派の諸教会に、福音派のス
タンダードな神学のあり方を提示していくとともに、
わたしの所属しています「日本福音教会」の教職
者に福音派の中庸な流れの中に自らの福音理解
の位置を再確認していっていただければと願って
います。
『キリスト教神学』の翻訳が完成するまでは、要約
版の『基督教教理入門』の一段落単位の翻訳・
解説タイプのメールによる講義に取り組んでおり
ました。そして念願でありました翻訳・出版となり、
次の目標を模索してきました。まだまだ試行錯誤
のかたちではありますが、画一的なかたちにとら
われないで、わたしの神学研究の取り組みの足
跡を残すというようなかたちで、気負うことなく取り
組んでいきたいと考えています。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
*************************************************
堀尾輝久先生の『国旗・国歌を考える』では、
人間として、日本人として、教師として考える
べき多くのポイントがあると思います。そして
それらの中にはクリスチャンとして、この日本国
において生きる上で見落としてはならないポイン
トがあるように思います。
私たちは「聖日礼拝」において「主の祈り」を唱和
しますとき「天においてみこころがなりますように、
地においてもみこころがなされますように。」と
祈ります。
この「地においてもみこころが…」との祈りの内容
が、ぼんやりしているように思うのです。戦前を知
り、戦後を知る中で、私たちはクリスチャンとして
この戦前の日本と戦後の日本をどう生きるべき
なのか、神さまのみこころに対する鋭い洞察を
いただくことができるのではないでしょうか。
堀尾先生の記述では、「教育という仕事」、「教育
行政のあり方」、「転機の八九年の指導要領」、
「君とは何か」、「問題は画一的な押しつけに」と
いった項目があります。
わたしには見たくないものが幾つかあります。
それは、右傾化する日本の風潮に無防備な
教会の姿、そして一部のその風潮に迎合して
いくクリスチャンの姿です。
昨日、硬式野球の甲子園大会の決勝があり、
佐賀北高校と広陵高校が戦い、佐賀北高校が
劇的な逆転で勝利しました。その試合内容にも
感動しましたが、最近気にしていますのは「君
が代」に対する対応です。「君が代」演奏のとき
テレビ局、特にNHKは選手ひとりひとりをアップ
にして映し出します。まるで、歌っている生徒と
歌っていない生徒を明確にするためのように…。
サッカーの試合でも同様の扱いがなされます。
わたしは、この問題は「内心の自由」に関わる
問題ですので、「このひとは歌っている。この人
は歌っていない。」ことを明示するような映像の
出し方は、基本的人権の侵害にふれると考え
ています。
サッカーの選手も必ずしもすべての選手が歌っ
てはいません。また、広陵の選手はひとりも歌
っていませんでした。これには本当に感動しま
した。多くの人は佐賀北高校の副島選手の逆
転満塁ホームランに感動したかもしれませんが、
わたしは広島≠ニいう背景を背負い、甲子園
の決勝の表彰式という全国民が注視する場で、
彼らの内心にある決意≠見せられたような
気がしました。
私たちクリスチャンは、戦前における「君が代斉
唱、天皇崇拝、神社参拝強制」の背景を、
過去に何もなかったかのように≠ワた
これからは何も起こらないかのように
命じられるままに、「君が代」を唱和することは
許されるのでしょうか。
1889年、大日本帝国憲法の成立、翌年の教育
勅語の成立、その翌年に小学校祝日大祭日儀
式規程ができて広く「君が代」を歌うようになって
いきました。そして「神格化された天皇の御代
が千年も万年も続くように」との意味で「君が代」
が歌われるようになりました。
戦後は新憲法が生まれ、天皇の位置は大きく
変わり、象徴でしかなくなった。その「君が代」
が国歌として歌うことを強制されるようになって
きました。はたして、「こういった歴史をもった君
が代が現代の日本国を代表する国歌たりうる
のだろうか」という疑問を持ち続けることは、偶
像礼拝と戦争協力という大罪をおかした日本人
クリスチャンとしての義務ではないでしょうか。
ドイツのクリスチャンが「ナチス・ドイツ」の犯罪を
忘れることがないように、日本のクリスチャンも
「大日本帝国の犯罪を忘れることはすまい。」
との決意をどこかに保ち続ける必要があるので
はないでしょうか。
入学式や卒業式で、…式典の後ろ側に「日の
丸」が掲げてあり、演壇に昇る方はひとりひと
りまず頭を下げます。何に頭を下げているので
しょうか。…それをしないことは愛国心がない
からなのでしょうか。
堀尾先生は、「先生は、思想・信条の自由の
重要性を教えて国旗・国歌に対してる敬礼
しない自由=A歌わない自由≠ェ保障され
ていることをきちんと指導しなければならない」
と記述されています。
わたしも堀尾先生と声をあわせて「牧師は、
戦前の『教会と国家』の関係において陥った
過ちを踏まえ、思想・信条の自由の重要性を
教え、国旗・国歌に対して敬礼しない自由
、歌わない自由≠ェ保障されていることを
きちんと指導しなければならない」と思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■職務命令の根拠とは
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日の丸・君が代が国旗・国歌たりうるか、このこと
で最も心を痛めているのは、教育現場にある教師
です。この問題を解決するために「職務命令」の根
拠を強化することが、法制化の狙いです。
しかし、大きく意見が分かれる問題を「職務命令」
のゆえに強制的に従わせる、従わない者は処分
する。「公務員の教師だから…」と言われます。
それでよいのでしょうか。
「この職務命令を強行する理論的な根拠として、
特別権力関係論≠ニいうのがあります。」
「これは行政法の理論で、戦前のいわば命令
を強行する根拠として、一般的な市民と国家
との関係ではなくて、たとえば公務員の世界
では特別に国家権力の命令に従わなければ
ならないという議論があります。」
「まさにいま文科省が使っている議論はそれ
です。しかし、この特別権力関係論なるものが、
たとえば行政法学会でどういうふうにとらえられ
ているか…。」
「行政法学会においても、特別権力関係論一般
に対して批判が強まり、こんにちでは、特別権
力関係論の不必要説をもあわせて、もはや特別
権力関係論は通説でないのみならず一般に積
極的な学説の支持が得られなくなっている…」
「職務命令、そしてその根拠は、公務員だから
と言っています。」
「しかし公務員の中でも教育公務員には、特別
の自由が保障されているはずです。」
「では私学はどうなのか。公教育という場合に、
私学を含んで公教育なのです。私学に保障され
ている自由は公立学校にも保障されてよいもの
なのです。」
「それでは公教育とは何か。それは教育という
ものが一人ひとりの権利であると同時にパブリ
ックなのであって、公といえば国家が介入する
という公観そのものが戦後否定されたわけです。」
「戦後改革によって教育は国家への臣民の義務
から国民の権利に変わり、子供の権利、親の
教育権、教師の教育の自由と責任を軸として、
教育の自律性と自由を励ますこと、そのための
条件整備をこそ教育行政の軸に据えなければ
ならない。」
「公教育だから、公務員だから従わなければい
けない、そんなことではない。むしろ、職務命令
の内容自体が憲法に違反するような場合どう考
えるかということが大きな問題であり、」
「日の丸・君が代の押し付けは、それが子供の
内面の自由、さらに教師の思想・信条の自由を
抑圧することにならないか。」
「それを強要する職務命令こそ憲法に違反する
のではないか。」
「日の丸・君が代」の問題は、戦前のひとつの価
値観の強制につながる可能性を強くもっています。
かつて「日本精神」論者が唱えたような「国体」観
念がそのいい例です。
ですがそれらは、よく調べてみると、ある時代以後
に初めて「支配的」になった、創られた伝統にすぎ
ないことも多いのです。
そしてまた、そうした伝統復活論は、「非支配的」
で「傍流」であった考え方を無視する「ドグマ」の上
に立って、「伝統」を語る。
それに対して丸山真男は、過去の思想の中から
何を「われわれの伝統」として定着させるべきかは、
「現在におけるチョイスの問題」だとします。
「支配的ででない、つまり時代の通年とはならな
かったが、まぎれもなく過去にあった考え方という
ものからわれわれが自由に糸を紡ぎ出してもいい
わけです。」
伝統は、「われわれが主体的に自分の人類の過
去の遺産から選択」し、血肉とすべきものである
以上、外来文化であるということは、それを伝統か
ら排除する理由にはならない。」
たとえば「幕末以来輸入したヨーロッパの文明や
思想」も、現代の日本人にとっては、十分に「伝統」
とよびうるのです。
〔苅部直著『丸山真男』pp.198-199〕
先月の参議院選挙においては、安倍総理は「戦後
レジームからの脱却」を主張し大敗北しました。
終戦記念日には、衆議院の河野洋平議長は「われ
われは、戦前のレジームを批判し、戦後レジーム
を選択して、今日ある」と語られました。
私たちは戦前レジームの反省の上に、戦後の新し
いレジームを日本の新しい伝統として継承・深化・
発展させていく義務があるのではないでしょうか。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
関連文献:読書週間レポート
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ここ、一、二週間、あまり記述せずに、読書に時間
をとっておりました。それらは、堀尾輝久著『日本の
教育』『天皇制国家と教育』、丸山真男著『忠誠と
反逆』、苅部直著『丸山真男−リベラリストの肖像
−』、丸山真男・武田清子、他『日本文化の隠れた
形』、武田清子著『正統と異端の間』『土着と背教』
等の今回のテーマにおける関連個所を拾い読みし
ておりました。
関連文献は次第に広くなり、上記の著者の数多く
の著作とともに、高橋哲哉氏の著作も集めること
になりました。高橋哲哉著『国家と犠牲』からも新
たな洞察を教えられました。この書に関しましては、
稲垣久和著『靖国神社解放§_』と比較して
読みますと、無神論的なリベラリストと有神論的な
リベラリストの視点の相違が明らかにされます。
前者は、国家が戦争の悲惨さを隠ぺいするために
して靖国神社のような装置をつくることを、諸外国
の実例もあげつつ解説されています。後者は、そ
の焦点が遺族の上に向けられているところに特徴
があるように思います。前者は、宗教的要素の否
定的見方が特徴としてありますが、後者には宗教
的要素に肯定的な見方があり、靖国的な一元的
な扱いには否定的ですが、より開かれた多元的
見方が提唱されているように思います。
特に、印象に残りました他の関連書籍としまして、
藤原彰著『餓死した英霊たち』と城山三郎著『落
日燃ゆ』があります。学校の歴史の授業では、明
治・大正・昭和の歴史のおおまかな流れを学びま
した。
日本国憲法の国民主権・基本的人権・平和主義
の生まれてきた背景を学ぶためには、それらの歴
史の内容を学ぶことが大切と思います。歴史の表
面だけを見て歴史を美化≠キるだけでは片手落
ちになると思います。
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2007.08.19 Yamasaki Chapel Short Message
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新改訳 ロマ 5:1-11
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
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2007.08.12 Yamasaki Chapel Short Message
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新改訳 イザ 51:1-3
51:1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
51:3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■教育の本質と国家の関係
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昨日、「日本福音主義神学会西部部会・秋季神学
研究会議」のコーディネーター会議に出席してまい
りました。
今回の担当は、会場校の「神戸改革派神学校」校
長の市川康則先生と関西聖書神学校校長の工藤
弘雄先生と一宮基督教研究所から私の三人がコーディ
ネーターとして、「秋季研究会議」の準備にあたらせ
ていただいています。
今回のテーマは、「教会と国家−右傾化する時代
における信仰と宣教−」となりました。“How JEC ?”
シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJECで扱って
きましたものと符合する内容になると思います。
■教育の本質と国家の関係
堀尾先生は「政府は思想・信条の自由に枠をはめ、
特定の解釈を固定化して押しつけていいか」という
問題を「教育の本質から考えるべきだ、そして教育
の本質と国家の関係を問うべきだ。」と語られてい
ます。
この設定の仕方は、歴史神学の領域で「教会と国
家」の関係を扱うときの設定の仕方と類似していま
す。私は、堀尾先生の「教育の本質と国家の関係
を問うべきだ」との語りかけを、「教会の本質と国家
の関係を問うべきだ、またキリスト教信仰の本質
と国家の関係を問うべきだ」と読み変えて学ぶべき
点か゜多いように思います。
堀尾先生は、コンドルセというフランス革命期に活
躍した思想家が、「近代の国家と教育の基本的関
係」について「政府はどこに真理が存し、どこに誤
謬があるかを決定する権利はもたない、政府によ
って与えられる偏見は、真の暴政であり、自然的
自由のうちの最も貴重な部分の一つに対する侵
犯である」と紹介されています。
コンドルセは「公教育の必要を説き、そしてその公
教育で何をなすべきか、それは人権としての教育
をすべての国民に対する保障する制度としての公
教育、そのためには国家はその内面に介入すべ
きではない、どこに真理がありどこに誤謬があるか
を決定する権利はもたない。」こと、つまり「教育の
独立性、自律性」を主張しました。
さらに、イエリネックというドイツの法哲学の大家は
「国家は内面に関わるものは何も生産しない」と
語っています。堀尾先生は、これが「内面の自由、
そして教育の本質と国家の関係についての学説
的に非常に大事なポイント」と指摘されています。
堀尾輝久著『人権としての教育』岩波書店、
pp.10-11 には「『国民の生涯を通じての学習権』
の思想は、なによりもまず、人間の本性に根ざし、
人間の創造性と文化の永続性、人間の未完成さ
と、より完成した姿へ向かっての不断の努力の
なかに、その根拠がある。この思想は、生涯にわ
たっての国民統制的発想からくる『生涯教育論』
とは、鋭く対立するものである。『自己学習の権利』
の思想を軸とする生涯教育論の源流は、これまた
コンドルセに求めることができよう。」と記述されて
います。
「日の丸・君が代」の問題は、ある意味で深刻な
問題をはらんでいると思います。
「日の丸・君が代」の問題は、「政府は思想・信条
の自由に枠をはめ、特定の解釈を固定化して押し
つけていいか」という問題であり、「政府はどこに
真理が存し、どこに誤謬があるかを決定する権利
はもたない、政府によって与えられる偏見は、真
の暴政であり、自然的自由のうちの最も貴重な
部分の一つに対する侵犯である」ということなの
です。それゆえ、人権としての教育をすべての国
民に対する保障する制度としての公教育、その
ためには国家はその内面に介入すべきではない、
どこに真理がありどこに誤謬があるかを決定する
権利はもたない。」こと、つまり「教育の独立性、
自律性」の問題なのです。
ある神学者は「文化の本質は宗教[信仰]であり、
宗教[信仰]の表現は文化である」と語っています。
ローザンヌ会議の、分野別の継続会議である
ウィローバンク会議のレポートの中に文化につい
ての定義があります。
「文化とは、〔神や本質的な存在や究極的意味
についての〕信仰や、〔何が真実であり、善であ
り、美しく規範的なものであるかについての〕価値
や、〔どう振舞い、他人と関わり、話し、祈り、着飾
り、働き、遊び、商売し、農作し、食べたらよいか
等々についての〕習慣や、またこれらの信仰や、
価値や、習慣を表現する機構〔政府、裁判所、寺
院や教会、家族、学校、病院、工場、商店、組合、
クラブ等〕など社会を一つに結びあわせ、一体感
や尊厳性や安心感や連帯意識を与える一つの統
合された体系であると言える。」
「日の丸・君が代」の問題は、小さな事柄のように
思われるかもしれませんが、小さな「外的行為」
の強制からはじめられ、やがて習慣→価値→信
仰へと国家の内面への介入をゆるす最初の一歩
になりはしないか懸念されるところです。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■戦前の反省から生まれた十九条
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日本国憲法 第十九条
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
「これはまさに戦前の反省を通してこの十九条が生ま
れた。」戦前の反省ということですが、「これは天皇制
国家、大日本帝国憲法が精神の自由にとってどうい
う制約となっていたか」ということです。
「憲法」の解釈というものを考えていきますときに、そ
の歴史的コンテキストをよく考慮しなければ、本当の
意味はみえてこない、そのことを教えられます。それ
は「聖書」解釈の原則も同様です。新約聖書は、一
世紀のローマ帝国を背景にした文脈において語られ
ており、そこで語られているメッセージの本質を二十
一世紀の日本の文脈にその本質を文脈化していか
なければなりません。
ローマ帝国では「皇帝崇拝」を強制する時期があり、
迫害の下、数多くの殉教者を出しました。しかし、後
にローマ帝国はキリスト教化されることになります。
日本においては、織田・豊臣・徳川の時代にキリシ
タンの宣教があり、豊臣・徳川の時代には弾圧され、
多くの殉教者を出しました。
時代は流れ、鎖国の扉を開いた明治・大正・昭和の
近代化の時代には、「キリスト教禁令の高札」は撤去
されましたが、制限下の「信教の自由」しか与えられ
ていませんでした。
「この帝国憲法が1889年に成立し、そして翌年、教
育勅語がつくられます。」
「その勅語ができた直後に文部省は各学校に配布
し、その普及に務めるのですが、当時第一高等中
学校の教師であった内村鑑三は、勅語への礼拝を
しなかったことが問題となり、教師をやめさせられる
という事件、いわゆる内村鑑三不敬事件〔1891年〕
が起こるわけです。」
「内村鑑三事件というのは、そういう意味では帝国
憲法下の精神の自由というものがいかにいびつな
ものであったか、その自由が許されていなかったか
を端的に示す事例であります。」
「内村は、ご存じのようにキリスト教徒ですけれども、
同時に彼は愛国者でもありました。」
「自分にとって大事なものは二つのJだ、ジーザスと
ジャパンなんだということをいつも言っています。」
「同時に、君が代は天皇をたたえる歌であり国民の
歌ではない、国歌ではないんだということも彼は言っ
ていました。」
「そういう問題を含めて、この思想・信条の制約、さ
らに治安維持法体制のもとでの思想弾圧の歴史を
考えれば明白なことで、大学人も多く大学を追われ
たのですが、その反省に立って十九条が生まれた
ということを大事に考えなければいけない。」
「これはじつは教育の問題と深く関係しているわけ
で、そもそも教育というものは、精神の自由、内面
の自由を大事にしながら、感性を豊かにする、理
性を育てるのが教育の目的であるわけであります
けれども、その仕事に教師はどういう責任を持つか
という問題がそこに関わっているくるわけです。」
鎖国下の江戸時代の諸法度は、国際的な基準か
らして、大きく立ち遅れた内容をもつものであったの
ではないかと推察します。このあたりについても詳
細な研究が必要と思います。
薩長を中心とした明治政府は、西欧列強と対等に
列していくために、西欧なみに諸法令を整備してい
く必要がありました。
幕藩体制から明治の中央集権国家、富国強兵政
策の推進というグランドプランからは明治の政治家
の有能さを教えられます。しかし、歴史の進展、民
主主義の進展、基本的人権の拡充という視点から
みますと、足らざるところ多々あり、「天皇制国家、
大日本帝国憲法が精神の自由にとってどういう制
約となっていたか」を冷静に評価することが必要で
す。
インターネット上の「MSNニュース」に参院選『美し
い国』惨敗−本当の理由」と題して、作家・保阪正
康さんの興味深い記事が掲載されていました。
「首相不適格」と判断、居座りは国民に悲劇−
「自民党はなぜ、歴史的な敗北を喫したのか。確
かに今回は、年金問題をはじめ閣僚の失言や不
祥事疑惑が相次いだ。一般的にはこれらを敗因
と見るのだろうが、私は、より本質的な問題こそ
が敗因だったと考えたい。それは、安倍首相自身
の政治姿勢、そして歴史認識である。」
「安倍政治を象徴するのが「美しい国」だ。「美しい」
は形容詞だが、安倍首相はその内容について抽
象的な説明に終始し、国民に分かるように説明し
ない。このことは、権力が「美しい」という言葉の
意味を勝手に定義し、国民はそれに従えと言って
いるに等しい。まるで戦前の「すめらぎの国」のよ
うであり、森喜朗元首相の「神の国」発言に匹敵
する無神経さだ。」
「また、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と
言う。しかし、戦後レジームとは本来、戦前のファ
シズムの負の遺産を清算し、過去を克服するた
めに作られたものだ。脱却すると言うならばまず、
戦後レジームをきちんと評価した上で、今の時代
に合わせて変えていくという前向きな発言がある
べきだった。「戦後レジームからの脱却」と繰り返
すだけでは「戦前レジーム」への回帰を望んでい
るようにしか聞こえない。」
「安倍氏の首相就任後、日本社会は何かレベル
ダウンしてしまった感がある。「美しい国」「戦後
レジーム脱却」「憲法改正は3年後」などの言葉
だけが先行し、実体は何一つ見えない。今回ば
かりは国民も「おいおい、これはとんでもない首
相だぞ」と気付き、それが選挙結果につながった
のではないか。
「安倍首相は敗因を年金問題や閣僚の失言、野
党の攻撃と考えているかもしれない。しかし、そ
れだけが敗因なら自民党はここまで大敗しなか
っただろう。政策では修正しえない、安倍首相自
身の政治家としての資質や歴史認識が問われ
た選挙だったからこそ、ここまで負けたのだと、
安倍首相も自民党も自覚すべきだ。」
保坂さんは、「非常に大切な本質をついておられ
る」と感心しました。わたしは、自由民主党の結
党の理念と深い関係のある中曽根元首相の「戦
後政治の総決算路線」や安倍首相の「戦後レジ
ームからの脱却路線」には、歴史の進展の中に
ある「基本的人権」の視点からみて「根本的な欠
陥」があると思います。自民党はこの根本的欠陥
を修正しないがきり未来はないと思います。歴史
に背を向けているからです。
今朝の朝日新聞には、「参院改憲派三分の二割
る」と書かれていました。
広島の平和宣言の中に「平和憲法をあるがまま
に順守し、米国の時代遅れで誤った政策にはは
っきり『ノー』というべきです。」と政府に迫る内容
があり、大変感激しました。広島市は今秋から、
2008年11月の米大統領選を視野に首都ワシン
トンと全米50州の計101都市を網羅する「全米
原爆展」を展開する、とのことです。「21世紀は
市民の力で問題を解決できる時代」「都市が立
ち上がり、市民の声で国際政治を動かそうとし
ている。」と宣言されました。
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2007.08.05 Yamasaki Chapel Short Message
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新改訳 マタ 6:19-34
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。…
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。…
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。…
6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。…
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。…
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■内面の自由の問題
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「天皇主権」から「国民主権」への大変化における
君が代の扱い、「侵略性」のシンボルとしての日の
丸の扱い、クリスチャンにおいては、天皇崇拝・神
社参拝強制の中で用いられた日の丸・君が代とい
う部分もあります。戦後におけるクリスチャンの戦争
責任告白においては侵略戦争に加担したことの悔
い改めとの関連において何をなすべきか、何をなす
べきでないか、を考慮することも大切と思います。
このような問題を内包する「日の丸・君が代」であり
ますから、「国旗・国歌」法案が審議されているとき、
世論は賛否が二つに割れており、世論調査におい
ては反対派・慎重派がますます増えるただ中で、
強行採決されてしまった、という経緯があります。
中曽根元総理に代表される「戦後政治の総決算」
とか、安倍総理の「戦後レジームからの脱却」という
方針は、戦後「国民主権」となった日本国民の間
では多様化が生まれてきており、「画一的な戦前を
思い起こす日本のあり方」を押し付けはきたる衆議
院選挙において必ず大きな反対を受けることにな
ると思います。一時的に人をだますことはできても、
長い間選挙民をだますことはできないと思います。
教育現場で起こっている混乱、日中戦争・太平洋
戦争において失われた日本人三百万人の犠牲、
アジア諸国二千万人の犠牲の上に勝ち取られた
「思想・信条の自由」の権利を、国旗国歌法、教育
基本法の改訂、憲法改訂において踏みにじり、
国民の「内心の自由」に国家が介入しようとする
ことは、その実体が見えてきたときに、全国民から
猛反対を受けることになると思います。
この「内心の自由」の問題は、年金の問題・国会
議員の会計処理の問題よりも、もっと大きな争点
だと思います。
■内面の自由の問題
「このような問題のある日の丸・君が代を、国旗・
国歌として学校現場におしつけることは、憲法の
保障する、そしてまた子供の権利条約が保障し
ている精神の自由、内面の自由の問題と深く関
わる問題です。」
「内心の自由は子供の内心の自由を奪うことに
ならないかというレベルの問題と、もうひとつ、教
師の内心の自由を奪うことにならないかという問
題があります。さらに、それがはね返って、たとえ
ば教職関係の教育をやっている大学の教師の学
問の自由を制約することにもなっていかないか、
そういう問題を含んでこの内心の自由の問題が
あるわけです。」
「内心の自由というのは基本的人権のなかでも、
本当に大事な精神の自由、これが基本的人権
の中核なわけです。」
「日本国憲法も、第十九条には『思想及び信条
の自由は、これをおかしてはならない。』という
大原則が書かれている。なぜこの原則が書か
れたのか。…少なくともこれは思想・信条の自
由を奪われていたその経験に即して、そういう
ことがあってはならない、それは人間の尊厳を
侵すことになるんだという強い過去の批判を通
してこの十九条が成立したわけであります。」
「『註解日本国憲法』を引いてみますと…
『本条は外的権威に拘束されない内心の自由
を保障することにより、民主主義の精神的基盤
をなす国民の精神的自由を確保することを目的
とする。過去において危険思想、反国家思想、
反戦思想等の名をもって思想の弾圧が行われ
た経験に鑑み、再びかかることなからしめよう
とする意味をもつ』こういうふうに書かれていま
す。」
「内心の自由」の問題は、左翼・右翼、宗教の
種類に関わらず、あらゆる立場の国民にとって
最も重要な関心事であると思います。
一度、国家による「内心の自由」への介入をゆ
るせば次々といろんな名分をかかげて手を打っ
てくると思います。それは権力を手にした人々
への誘惑です。政治的立場、宗教的立場を超
えて、「内心の自由」への国家の介入を阻止し
ていかなければなりません。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■侵略性のシンボル
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堀尾先生は、「日の丸」と「君が代」を区別して
考えることを提案されています。「地球時代」に
ふさわしい、お互いの民族的な伝統を尊重し合
いナショナルなアイデンティティを尊重し合うよう
な国家であるべきで、、その象徴としての国旗・
国歌というものが必要である。
しかし、にわかに、日の丸・君が代が国旗・国歌
であるということではない。また、日の丸と君が代
は象徴の意味が違うのであるから別々のものとし
て扱うべきと考えておられます。以下に「日の丸」
についてみていきましょう。
■侵略性のシンボル
「日の丸に関しても、それが過去、侵略のシンボ
ルであったということをきちんと心に刻む必要が
ある…。」
「1932年、満州事変の翌年、満州国が成立した
その直後です。上海で白川司令官のもとで天張
節を祝う式典があったのです。日の丸が掲げられ、
君が代が歌われたその直後に爆弾が投げられて、
白川大将は亡くなり、重光葵氏は右足を失った、
こういう事件なのです。犯人は伊奉吉〔ユン・ボン
ギョ〕という青年です。」
「日の丸に関しても、君が代に関しても、その侵
略性というのは、戦争が始まって先頭に日の丸
を立ててと、そういうイメージだけではない…」
「その侵略性ということは、…韓国人の人たちから
見れば、これはもう心からぬぐい去れないもので、
しかも新しい記念館〔伊奉吉:ユン・ボンギョ〕を建
てて、そして若い人たちがそこに行っている。」
「だから、日本の若者と韓国の若者の言うなれば
相互の理解と感情の亀裂というのは非常に大き
いのです。」
「だから、日の丸に関しても、その侵略のシンボル
であったということをきちんと心に刻む必要がある、
このことを私は教える必要があると考えています。」
「その上でしかし私は侵略のシンボルだったから
いけないという議論をしていません。」
「少なくとも日の丸に関しては戦前、戦後を通して
日本の国のシンボルたり得るだろう。」
「戦前はたしかに侵略のシンボルであった。しかし、
戦後は違ったシンボル、平和主義のシンボルとし
ての新しい日本のシンボルたり得ないかどうか、
ぜひそうしたいというのが私の個人の意見です。」
「そのことは日の丸は法制化してよいということで
はありません。まして、学校におしつけることとは
全然別の問題なのです。」
「日の丸」についての堀尾先生の議論の焦点は、
「侵略性」の問題です。朝鮮半島、中国そして
東南アジア、南アジアの諸国の人々にとって、
「日の丸」はどのような過去をもっているのだろう
か、について思いを潜める必要があると思います。
戦時中の日本において、「最初キリスト者は、
神社礼拝には関与しないようにしていたが、政府
が、神社参拝は宗教的実践ではなく、単なる愛国
心の表明にすぎないことを言明すると、プロテスタ
ントやカトリックはいずれもこれに参加するようにな
った。」また、「すべての礼拝の前には、『国民的
儀式』として知られる五分間の儀式が行われなけ
ればならなかった。そして、これらの儀式とは、天
皇の写真ないしは宮城の方角に向かっての再敬
礼や『君が代』の斉唱などが含まれていた。」
わけ
で、クリスチャンにとって「日の丸・君が代」は戦前
の天皇崇拝・神社参拝・日の丸・君が代・教育勅
語・天皇の写真等−偶像礼拝三点セットのような
印象が残るところです。
もちろん、日の丸掲揚に整列すること、君が代を歌
うことそれ自身が直接的に「偶像礼拝」とイコール
ということでありませんが、それなら問題ないのか、
といいますと「問題は内包されている」と答えなけ
ればならないと思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■国民主権にふさわしい歌
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「さて憲法体制が大きく変わり、天皇の意味も
大きく変わりました。」しかし問題は「君が代は
歌としては残っている。」ということです。
「天皇の意味」は憲法上では大きく変わりました。
「国事行為」の上では、大きく変わりました。しか
し、宗教上の「天皇の意味」は私事行為の中に
おいてはそのまま残されています。ここがクリス
チャンとしては、微妙な問題を残していると思い
ます。
■国民主権にふさわしい歌
堀尾先生の視点は、「天皇主権から国民主権
へと変わったのだから、その国民主権にふさわし
い歌が必要なのではないか。国民主権、人権の
尊重、平和主義、さらには二十一世紀にふさわ
しい国際的な感覚を持った歌、…そういう思いを
込めた新しい歌こそがつくられていいのではない
か」
「地球時代こそが拓かれていかなければならな
い…、その中での国のあり方というものを考え
なければいけいない…。そこでは平和憲法が国
際的にも誇りうる憲法ではないか…。」というこ
とで、わたしも同感です。
歴史を学びますと、ひとりのクリスチャンとして
「君が代」を歌うことには躊躇を覚えます。
1971年にカリフォルニア大学バークレー校に
提出されました、カルロ・カルダローラ氏の博
士論文『内村鑑三と無教会−宗教社会学的
研究−』pp.255-279 にはクリスチャンと「ナシ
ョナリズムとの衝突」について詳しく記述され
ています。以下に抜粋にて紹介します。
【内村鑑三と無教会−宗教社会学的研究−】
「軍事的拡張主義は、ナショナリスティックな
衝動の自然的な表出であって、政治的教化
と強力な中央集権的統制によって国民に教
え込まれた。」
「イデオロギー的観点から言えば、日本ナシ
ョナリズムの基本観念は、公式の『国体』観
念によって表明されたように、日本は神聖な
る国家であり、天皇はすべての臣民が無条
件で随従すべき現人神であるという仮説で
あった。」
「天皇は絶対的に神聖不可侵であるという
考えは、1890年の教育勅語に表明され、さ
らに、新教育制度を通じて熱心に促進された。」
「文部大臣は大衆の教化を奨励することに
よって、中央集権化の成長に主たる役割を
果たした。」
「天皇への崇敬、国家への忠誠、軍事的伝
統の賛美、排外主義、優勢民族の明白な権
利としての侵略の是認などが、文教政策を
通じてとられたプログラムの主要なテーマ
であった。」
■ナショナリズムと日本の教会
「キリスト教が、国家から疑惑の目をもって
みられた主たる原因は、その異教的な性格
とその信仰の排他性であった。」
「1889年、文部省は正規の授業時間以外
においても、私立学校教育や宗教的礼拝
を禁止する旨の訓令を発した。生徒は教会
に行くことを認められず、教会に心を向ける
ものは学校から追放されることになった。」
「強制的に勅語を暗唱させることは、キリス
ト教主義の学校にとっては大問題であった。」
「1891年までに文部大臣は、天皇宸署の
教育勅語の写しを天皇の写真と共に各学
校に配布し、別に建てられた奉安殿に安置
させた。これらの二つの帝国の象徴は、礼
拝の対象として取り扱われるよう要求された。」
「勅語は、各学校でもたれる特別の儀式に
おいて常に奉読されなければならなかった
が、それは、天皇への忠誠心を養成し、公民
を訓練する、という特別の目的をもっていた。」
「政府が繰り返し主張するように、これらの
儀式には政治的・愛国的な意味しか考えな
かったかもしれないが、しかしこれらを宗教
的なコンテキストから切り離すことは、実際
にはほとんど不可能であった。」
「これらの儀式は、教会と関係のある学校
においていくつかの問題を惹起した。」
「たとえば、仙台の東北学院では、国粋主
義者たちが、チャペルのステンド・グラスの
窓にあるキリスト像が勅語を読む教職者の
頭上にあるという理由で、騒動を起した。」
「神社参拝は、国民生活の中心となったも
うひとつの愛国的実践であった。」
「国民の聖日は、神話に従って祝われたり、
国民の英雄たちが彼らの偉業のゆえに尊
敬され、また、すべての家族は、家に神道
の祭壇を設けてまつることが望まれ、地方
の官営の神社でもたれる神道の儀式に加
わることが要望された。」
「こうした実践は、軍事に関する熱心さの表
白であるばかりでなく、真の日本臣民であ
ることの証しでもあった。」
「最初キリスト者は、神社礼拝には関与しな
いようにしていたが、政府が、神社参拝は
宗教的実践ではなく、単なる愛国心の表明
にすぎないことを言明すると、プロテスタント
やカトリックはいずれもこれに参加するように
なった。」
「宗教諸派に対する政府の統制は、漸次、
あらゆる宗教団体に及び、1940年4月1日
づけをもって効力を発揮し、1939年に通過
した宗教団体法によって、それは絶対的
なものとなった。」
「その法律によれば、文部大臣ならびに、
彼を通じて知事や地方官吏もまた、すべて
の宗教団体の組織、職員、行動、教説とい
ったすべての事柄において、監督上の責任
を行使する権限を与えられたのである。」
「その法律は全教派をひとつに統合し、国
家が容易に統制しうるところの一人の統理
者に責任を委託することを余儀なくさせた。」
「こうした圧力の下で、1941年6月、三十以
上のプロテスタントの教派が日本基督教団
として合同することを決めた。」
「神道的ナショナリズムの教義と矛盾する
ような実践あるいは表明を排除するために、
政府が指令を発した。」
「たとえば、使徒信条−これは新しい基督
教団の信仰の共通した告白であった−
では、『天と地の創造者』としての神とか、
『生ける者も死せる者も裁く』キリストという
伝統的な属性は削除された。」
「その訳は、そのいずれの表現も、天皇と
日本の神秘的な起源に、また天皇の『天
地とともに千代に八千代に』ゆるぎない玉
座という観念にもとるからである。」
「同様に、賛美歌は修正されなければな
らなかった。」
「キリストを表す『大君』という語は、同一の
語が天皇の威厳を表すために使用されて
いるという理由で、末梢され、『進めキリスト
の兵士』とか『神は我が砦』といつた賛美歌
も削除された。」
「説教の題は一年中、官憲によって指図さ
れていた。」
「すべての礼拝の前には、『国民的儀式』
として知られる五分間の儀式が行われな
ければならなかった。そして、これらの儀式
とは、天皇の写真ないしは宮城の方角に
向かっての再敬礼や『君が代』の斉唱など
が含まれていた。」
わずか、六十年あまり前に上記のような状
況がありました。
それを何もなかったかのように「君が代」を
国歌として歌うことができるでしょうか。
ドイツのクリスチャンたちが「ナチス問題」を
心に刻んで生きているように、私たち日本人
クリスチャンは、明治から昭和に至る歴史
を心に刻んで生きることが大切と思います。
天皇問題の本質とは何か。内村鑑三不敬
事件の意味するものは何か。戦前の政府
の考え方がどのようなかたちで現政府の中
に流れているのか。国旗・国歌法、教育基
本法改訂、憲法改訂においてどのような国
にされようとしているのか。教育現場で苦闘
する教師の姿は、明日のクリスチャンの姿
ではないのか。教育勅語を基本とする戦前
の教育がアジア諸国にとれほどの苦難を
もたらしたのか。
「自虐的歴史観」を書きなおす教科書検定、
客観的な事実を教える教育から国家形成
のための歪んだ教育、過去を隠蔽する教
育、それらの流れの中に「日の丸・君が代」
教育があることを見落としてはならないと
思います。
そのような試みは、「朝鮮の植民地化」、
「日中戦争」「太平洋戦争」という過去に対
する深い反省から出発し、経済的成功を
なしとげた日本に対するアジア諸国からの
尊敬をだいなしにし、西欧諸国の信用も
失う結果になっていることは今日明らかな
ことです。
森野善右衛門著『目標を目指して走り』
pp.175-177 には、日本とドイツという二つの
戦敗国の、歴史への責任のとり方について
の考え方を対照的に示す二つの演説が紹介
されています。
「そのひとつは、1985年5月8日に、連邦議会
でなされた西ドイツのヴァイツゼッカー大統領
の演説です。この演説の中でヴァイツゼッカー
大統領は、1933年1月30日〔ヒトラーが政権
についた日〕が1945年5月8日〔ドイツ敗戦の
日〕をもたらしたものであるとして、この両日
を切り離すことは許されないと注意を喚起し、
5月8日は何よりもドイツ人が過去に犯した
罪責を心に刻む日であるとして、まず第一に、
ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万
人のユダヤ人、また戦いに苦しんだすべての
民族、とりわけソ連・ポーランドの無数の死者
を心に思い浮かべるべきた゜と率直に述べて
います。」
「そして、『過去に目を閉ざす者は、結局のとこ
ろ現在も見えなくなる。非人間的な行為を心
に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥
りやすい』というくだりで、聴衆の共感の拍手
が湧き起こっています。」
「ここには、過去を克服することは、決して過去
を水に流して忘れることではなく、過去に犯さ
れた罪責の認識と告白を通して、同じ誤りを
繰り返すまいとする決意の上に、新しい未来
の歴史が築かれるとの自覚が強く息づいて
おり、罪責告白からの出発なしに、歴史を
担い、創造する業はありえないことを深く教え
られます。」
「こなた、わが日本の中曽根首相〔当時〕は、
同じ1985年7月27日に、自由民主党の軽井沢
セミナーで講演して、『戦後政治の総決算』の
使命を謳いあげ、『国のために倒れた人に対し
て国民が感謝をささげる場所があるのは当然
のことだ。そうでなくてはだれが国に命を捧げ
るか』と戦前の国家主義者も顔負けの調子を
一段と張り上げて語っています。」
「『世界史的普遍性』に立って『日本のアイデ
ンティティを確立する必要がある』とか、『汚辱
を捨て、栄光を求めて進むのが国家であり、
国民である』とか、内容空疎で非論理的な
言葉づかいをもって聞く人たちの情緒に訴え
かける中曽根演説の調子は、独裁者ヒトラー
の演説に共鳴する部分があることを感じてさ
せて、背筋が寒くなる思いです。」
「そしてその年の8月15日に、中曽根首相は、
大多数の閣僚を伴って、A級戦犯を合祀した
靖国神社に、戦後の歴代総理として初の『公
式参拝』を敢行したのです。」
「歴史に対する罪責を認識、告白して、歴史に
学ぼうとする者と、歴史を美化、忘却して、歴
史を歪める者。この同じ敗戦国でありながら、
政治的指導者に見られる歴史認識と罪責感
の落差の大きさには、嘆息を禁じえません。」
「戦争責任を敗戦責任に矮小化し、『一億総
懺悔』論によって責任の真の主体を忘却させ
たところに、日本人の戦後責任があると言わ
なければなりません。」
今回の参議院選挙の自民党敗北の中心的要
素のひとつに、安倍首相の教育改悪と憲法改
悪路線があると思います。それは、沖縄戦の
教科書記述の改悪に対する沖縄県民の怒り
にも表わされています。学校現場での日の丸・
君が代の強制も同様です。米国の下院でも
従軍慰安婦問題への謝罪要求が可決されまし
た。
しかし、安倍首相は選挙敗北の責任を年金問
題と閣僚の発言等に転嫁してごまかしています。
そして「国民のために果たすべき使命がまだ残
されている」と語る始末です。
中曽根元首相と同様の「新保守主義」の路線こ
そが、沖縄から、教育現場から、国民から、アジ
ア諸国から、欧米諸国から拒絶されたのだと次
の衆議院議員選挙で明らかにされてほしいと思
っています。
そして、新しい政権には、現憲法にある「国民
主権」「基本的人権」「平和主義」をさらに具体化
する政策に取り組んでいただきたいと思います。
英国のプラウン新首相は米国の世界戦略からは
少し距離をおき、世界の貧困問題に取り組むとの
ことです。日本の世界戦略も貧困問題への取り
組みを通してテロリズムの温床を取り除く方向に
向かっていってほしいものです。平和への取り組
み、人権への取り組みを通して国民と世界からの
尊敬を集める議員、官僚、政権であってほしいと
思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■大きく変わった天皇の意味
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「日の丸・君が代」の問題につきましては、明治・
大正・昭和という歴史、特に戦前と戦後、1945年
の大日本帝国憲法から現在の日本国憲法への
変化という問題をどう考えるか、ということがあり
ます。
クリスチャンにおきましては、「内村鑑三不敬事件」
を含む「国家」と「キリスト教」の関係のあり方の全
体の中で、またアジア諸国侵略の過去を踏まえて、
この問題を考えていく責任があると思います。
■大きく変わった天皇の意味
「1945年の終戦、そして47年には大日本帝国憲法
が現在の憲法に変わった、そのことによってじつは
天皇の意味が大きく変わってくるわけであります。」
「1945年、あるいは新憲法の成立、そのことの意味
をどうとらえるかということが非常に問題なので、私
は、この憲法第一条なるものをどう解釈すべきか…。」
「この第一条をどう解釈するか。第一条は天皇です。
天皇をたたえる条項を第一条に置いたのか。そうで
はないんですね。」
「つまり、大日本帝国憲法、そこで天皇は統治権の
総攬者であり、陸海軍の総帥であり、そして教育
勅語を通して国民の精神的な権威の保持者であっ
たその天皇が、今度はそうではない、この国のあり
方が大きく変わるんだ、天皇主権から国民主権に
変わる、そのことによって天皇は象徴になったのだ、
象徴でしたかないのだということ…。」
『註解日本国憲法』昭和二十八年、1953年刊行の
日本国憲法の註解書として最も権威ある書物によ
りますと「本条は、日本国憲法の冒頭において、
この憲法の基本的組織原理を表明したものである。」
この基本的原理とは何か。「即ち、国民主権主義
の原理である。第一条の規定が含まれている第一
章は天皇と題されており、従って本条は、規定の
直接の目的からいうと天皇の憲法上の地位を宣明
したものであるようにみえるが、しかし規定自体の
趣旨は、むしろ新憲法における天皇の特殊な法的
地位を宣明することによって、結局その基礎である
国民主権主義の原理を確認するにあったといわな
ければならない。」と書いてあるのです。
明治憲法と教育勅語により確立していきました「天
皇主権」の考え方は、日本国に元からあった考え方
ではないことを認識することは大切なことと思います。
古代において、日本における一豪族でありましたも
のが大和朝廷というかたちで、国内の統一をはかり
統一国家が形成されていきます。しかし、貴族社会・
武家社会を通して、その権威は形式的・儀式的なも
のとなっておりました。その形骸化していた権威を
奪取した権力の正統化のために利用したというのが
現実に近いと思います。
徳川三百年の幕藩体制から、権力を奪取した薩摩・
長州連合軍がその権力を正当化するために「創作
したフィクション」が明治憲法と教育勅語にはありま
す。堀尾輝久著『日本の教育』p.62 には、明治時代
の「天皇制教育体制のもとでは、憲法で、教育に関
する事項は天皇大権のひとつされていました。…
この天皇大権は、現実には枢密院を中心にする元老
たち、もっと現実的には軍部と内務官僚の手に握ら
れていた」とあります。「天皇主権」といいながら、
現実に権力を握っていた人々は別に存在していた
ということです。
戦後の自民党政権の結党の精神、その後の右寄り
の方向性も、必ずしも「天皇」を尊敬するからという
素朴な敬愛の情から発するものではなく、「権力の
正統性」を保障するものとしての利用価値をみている
からと考えるのは考えすぎでしょうか。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■日の丸・君が代は国旗・国歌たりうるか
*************************************************
堀尾輝久先生の「国旗・国歌を考える」から教え
られるポイントを拾いつつ、解説していきたいと
思います。
『国旗・国歌をどう考えるか』
「そもそも、国旗・国歌というものをどう考えるか」
二十一世紀の国際社会のあり方を地球時代
という考え方、つまり「地球上に存在するすべての
人間、すべての民族、すべての国家が一つの連
帯感を持って共生しなければならない時代に入っ
ている。」
二つの世界大戦を経て、中央集権国家、国家主義、
植民地争奪、帝国主義の時代は終わったのであり、
ヨーロッパがそうであるように、東アジアの経済とい
うものを考えてみましても、二十一世紀は「できるだ
け国境は低く、あまり日本、日本という必要のない、
存在するすべてのユニークな価値を認め合う」その
ような、「国家を単位としつつインターナショナルな関
係」というものがつくりだされなければならない。
その限りにおいて、その国を象徴する国旗・国歌と
いうものは必要であろう。」
■日の丸・君が代は国旗・国歌たりうるか
「日の丸・君が代が国旗・国歌たりうるか。…なぜ
日本の国民のあいだに日の丸・君が代を国旗・国
歌として法制化することに対して批判があるのか、
あるいは学校現場でそれを押し付けることに対して
批判があったのか。…それを強引に法制化して教
育界に押し付けることについて国民は多くの疑問
を持っている…」
「さらに、日の丸と君が代を同じレベルで考えてい
いのだろうか。」
「日の丸は日本国の象徴として、その日本国とい
うのは戦前の大日本帝国憲法下の日本、そして
現在の憲法をもつ日本国、あるいはさらに遠い歴
史を含んでの日本国の象徴としての意味を持つこ
とはできるだろう…。」
「しかし、君が代ははたして日本の国を象徴する
歌であり日本国民の歌でありうるのか。これには
歌詞があり曲がある、そして限定された意味があ
る。」
「そういう点でいうと、日の丸と君が代には、明ら
かにその象徴性に違いがある。それを同じオー
ダーで論ずるべきではない…。」
「日の丸」と「君が代」の問題につきまして、二つの
視点があると思います。それは、日本国民一般と
して、ひとりの人間としての「日の丸」と「君が代」
の問題であり、「基本的人権」の背景としての「自
然権」の尊重という視点です。これは国民全体とし
て共有できる部分、共同戦線をはっていくことの
で゛きる部分だと思います。
もうひとつはひとりのクリスチャンとしての視点です。
信仰に関わる部分であり、偶像礼拝の禁止にふれ
る問題です。
クリスチャンによっては、「日の丸」は単なる旗であ
り、「君が代」は単なる歌である、と考える向きもあ
るようですが、事はそれほど単純ではないというこ
とを丁寧にみていきたいと思います。
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「滋賀でおきた完全な政権交代」を見て
*************************************************
今日、テレビの番組欄を見ていましてABCテレビの
「ムーブ!」という番組で「滋賀でおきた完全な政権
交代」をドキュメンタリー・タッチで扱っており興味深
く拝見しました。
嘉田知事が「もったいない!」をキャッチ・フレーズに
滋賀県知事に当選されましたが、議会は自民党の
過半数で政策を遂行できませんでした。そこで、今
年の統一選で「対話の会」でしたでしょうか、嘉田
知事のマニフェストの実現に共鳴される方々が多く
立候補され、当選されました。その中には元県会議
員の方や村会・市会議員の方も多くおられ、かなり
プロフェッショナルな方々であるそうです。
新しい議会では、自民党勢力は過半数を失い、議会
の議長選で、嘉田知事の勢力が優勢になったとのこ
とです。
これまでの、滋賀県の保守性は、靖国国家護持法
案法案では、県会・市会・村会の議会の支持決議の
多さや、「日の丸・君が代」の促進支持の決議の多さ
から、日本でも最も保守的な県のような印象を抱いて
おりました。
しかし、そのように超保守的であった滋賀県も有権
者の中から地殻変動を起しているのをみますと、日
本もまだ見捨てたものではない、と思いました。
滋賀県は、中部と京阪神のちょうど中間にあり、現
在多くの新しい企業の進出もあり、人口が急増して
いる地域だそうです。
いろいろな要素がからみあいながら、明治・大正・
昭和前半までの明治憲法と教育勅語に基づく教育
の世界を大切にしようとする傾向が弱められて、
戦後の日本国憲法と教育基本法の下で教えられた
「国民主権」「基本的人権」「平和憲法」の教育が
日本国民の中にますます浸透していってほしいもの
です。
今年の統一地方選と参議院選挙の傾向は、右寄り
の方向に突き進む力に一定の歯止めをかけた部分
があるのではないかと思います。
次回の衆議院選挙で、政権交代がなされ、特に
文部科学省の右寄りの政策を大きく転換していた
だきたいと思います。教科書問題でも、「自虐的史
観」からの脱却ということで、沖縄の記述、戦争慰
安婦、南京虐殺等、「客観的な学問」とは違う、
「民族のアイデンティティ形成」のための教育の再
編を目指している現在の文科省からは「右寄りの
官僚」を取り除いていただきたいと思います。
教育現場における基本的人権を尊重する文科省に
なっていただきたいと思います。教師と生徒の「思
想・信条の自由」を徹底して尊重する環境をつくって
いただきたいと思います。
「日の丸・君が代」についても、敬礼する自由・敬礼
しない自由、歌う自由・歌わない自由を尊重する教
育、多様な価値観を尊重する社会人を育成する教
育を目指していただきたいと思います。
もし可能なら、右寄りの傾向を内包する「改訂教育
基本法」は元に戻し、個人の尊重を大切にする「教
育基本法」を再度、教育の憲法として採用していた
だきたいと思います。
多様な価値観をもつ現在の日本人のすべてに愛さ
れる国、少数者の価値観を尊重する国となっていっ
てほしいと思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Kローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介B
【 国旗・国歌を考える 】
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堀尾輝久氏の「国旗・国歌を考える」の導入は、
「日の丸・君が代を国旗・国歌とする法律が制定
された。政府は、その扱いについては従来通り
とする談話を発表したが、しかし現実は、懸念さ
れたごとく、体育祭など様々な恒例行事を足がか
りに、日の丸・君が代を押し付ける扱いが目立っ
ている。それを認めないのは非国民だといった発
言も散見される。…」という書き出しで始まってい
ます。
そして「卒業式や入学式に、どう取り組むのか。
現場では頭の痛い問題である。それだけにこの
問題に取り組むためにの、国旗・国歌、日の丸・
君が代についての基本的認識を確認しておくこ
とが必要である。」
そして「本稿はそのための参考として、1999年8月
3日、参議院の特別委員会で、参考人として意見
を述べた時の議事録をもとに再構成したものであ
る。」と記述されています。
今年に入りまして、日本福音主義神学会の春期
神学研究会議のテーマ、またJECニュースの
シリーズの内容、そして七月のJEC牧師研修会
の発題と質疑等が、ひとつの事柄に焦点をあて
られていたように思います。
わたし個人としましても、それらの事柄に関連する
文献をできるだけ収集してまいりました。そして
収集しました書籍の中で洞察力に満ち、私にとっ
て最も助けとなりましたのが、堀尾輝久氏の書籍
集でした。この先生の書籍集を熟読していく中で
今まで見えていなかった多くの事柄の本質が見
えるようになりました。そのことを皆様に丁寧に
紹介していきたいと思います。
「国旗・国歌法」が制定されたことにより、日本人
は、戦争における日本人300万人の犠牲、アジア
2000万人の犠牲の上に与えられた「基本的人
権」の中の大切なものを失ってしまったように思い
ます。
明治憲法・教育勅語の時代にあり、二度と目にし
たくないと思っていた事態、「内村鑑三不敬事件」
のような事態が、今日の教育現場で起こっている
のです。
私たちは「「基本的人権」の中の大切なもの」−
思想・信条の自由の権利、内心の自由の権利
を取り戻すための戦いを私たちに与えられている
あらゆる局面において継続していかなければなら
ないと思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Jローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介A
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1999年8月9日、「国旗・国歌法」が、強行成立され
ました。そして、この書籍は2000年10月10日に初
版が出版されました。約七年前のものですが、その
内容は「原理的」なもので、今日の私たちクリスチャ
ンに対して語りかける内容をもっていると思います。
「日の丸・君が代」が法制化され、入学式や卒業式
において、文科省や教育委員会による「押しつけ強
化」が問題になっています。こうした押しつけに対す
る国民の批判が広がっていることは、国民の良識を
示すものですという語りかけではじまっています。
昨年でしたか、関西で開催されたキリスト教の大き
な集会で、外国からの著名な講師の導きで「皆さん、
君が代を歌いましょう。愛国心は大切なものです。」
といったかたちで、「君が代」が唱和されたことをある
新聞の記事にあり、非常に驚かされました。わたし
の反応は「キリスト教の集会でこのようなことがあっ
て良いのだろうか?否!決してあってはいけないこ
とではないのだろうか。」というものでした。
先月開催されましたJEC牧師研修会では、憲法九
条問題が焦点であったのですが、「日の丸・君が代」
の問題も基本的人権の問題の関連で質疑として
出てきました。
「この問題をクリスチャンは、どのように受けとめ、ど
のように対応していったらよいのだろうか。」という問
題を考える上で、わたしにとって大変参考になりまし
た書物のひとつが堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共
著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』でありました。
特に、東京大学教育学部で三十一年間教鞭をとら
れた堀尾輝久教授の記述はクリスチャンにとって大
変参考になる内容ではないかと思いますので、クリ
スチャンの視点から解説しながら紹介していきたい
と思います。その概略は以下の通りです。
【 堀尾輝久「国旗・国歌を考える」 】
国旗・国歌をどう考えるか
日の丸・君が代は国旗・国歌たり得るか
大きく変わった天皇の意味
国民主権にふさわしい歌
日の丸と君が代を区別して考える
侵略性のシンボル
内面の自由の問題
戦前の反省から生まれた十九条
教育の本質と国家の関係
教育現場に与える影響
職務命令の根拠とは
教育という仕事
教育行政のあり方
転機の八十九年の指導要領
「君が代」を教える
「君」とは何か
式典での扱い方
問題は画一的な押しつけに
「国旗及び国歌に関する法律案」の審議に関する見解と要望
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Jローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介@
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六回にわたり、堀尾輝久著『日本の教育』から学ぶ
ときを持ちました。その中心は【内村鑑三不敬事件】
の日本思想史における位置付けであり、今日の教
育現場で混乱を引き起こしている「日の丸・君が代」
問題をクリスチャンがどのように考えるべきなのか、に
ついての知っておくべき基本的な情報を提供するこ
とにありました。
堀尾輝久著『日本の教育』は、東京大学教育学部で
三十一年間教鞭をとられた堀尾教授が、その最後
の学期に十三回にわたって行われた特別講義と最
終講義の記録です。
この書籍は、「現代日本の教育の思想と構造」を非
常に分りやすく解説されている点で教えられるところ
が多くありました。このような書籍を紹介します訳は、
政治家やジャーナリズムにみられる無責任な右傾
化した報道があることと、三流週刊誌なみの文庫本
で右翼思想をベースにした著作物が横行している
ことがあります。クリスチャンの中にも表層的な情報
をもとに右傾化に毒される傾向もみられます。また、
その反対側には歴史的背景に深い理解なしに左翼
思想の影響を受けるという部分もあるかと思います。
この書籍の「はしがき」には、その作業の輪郭が
「1945年を思考の座標軸とし、敗戦後の開国と改革
がいかなるものであったかを、@それが否定した戦
前日本の教育、A改革時の国際関係と改革が参照
した欧米の近・現代の教育、B戦後教育史の流れ
と戦後改革評価の推移、の三つの視点から、歴史
的・構造的に明らかにしようとした。」ものでありま
す、と記されています。
JECの牧師研修会で「日の丸・君が代」に対する
クリスチャンのスタンスのありかたについての質疑
があり、その応答とのかねあいで、表層的な質疑
応答では不十分であり、やはり堀尾先生が明らか
にされている『日本の教育』全体をその思想と構造
を歴史的にきちんと把握することが必要と思い、
堀尾先生の著作を収集し、堀尾輝久・右埼正博・
山田敬男共著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』
において、語りかけておられる主張の真意を汲み
取ることに努力してきたということです。
堀尾先生の著作にあるような視点をしっかり持ちま
すと、先日米国の下院で可決された「従軍慰安婦」
の問題も理解するとこができます。戦後十年ほどの
民主的な教育改革の後、朝鮮戦争と反共の防波
堤としての日本の役割への転換にあわせ、教育
行政は大きく「右旋回」「戦前の価値観への回帰」
へと舵がきられていきました。自由民主党の結党
の理念がそのような内容になっています。今回の
参議院選挙の大敗北を含め、今後の選挙の敗北
を通して、民主党の同様な思考をされる議員も、
「基本的人権、思想・信条の自由、内心の自由」
がどれだけ大切にされなければならないものなの
か、それらを大切にする国づくりが選挙の票になる、
そのような時代になっていってほしいと思います。
時代背景的な事柄と、日本思想史においてまた
クリスチャンとしてきわめて重要な意味をもつ「内
村鑑三不敬事件」を扱うことができましたので、
『日本の教育』全体を扱う全体的な視点から、
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』の細部の
事柄に焦点をうつして、堀尾輝久・右埼正博・山田
敬男共著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』
を丁寧に扱う中で、クリスチャンの信仰のあり方
を考えていきたいと思います。
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“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Iローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久著『日本の教育』【内村鑑三不敬事件】紹介
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明治憲法下では「国体に反するような思想・信条」の
自由はない」ということでありました。天皇制国家は
擬似宗教国家でありました。
【内村鑑三不敬事件】
「内村鑑三不敬事件…、これは天皇制国家の精神
構造のありようをみせてくれる一つの事件でした。」
「内村鑑三は当時、第一高等中学校−その後第一
高等学校になる、いわゆるエリート校−の先生をし
ていました。1890年に教育勅語が出され、、文部
大臣はすべての直轄学校に勅語を配布して、『祝
日その他適当な時期をみてそれを奉載し、その精
神を生徒たちみんなに伝えるように』という指示を出
したのです。」
「第一高等中学校でもその翌年早々、一月の初め
に教育勅語の奉載式というものをやります。そのと
き校長は恭しく勅語を拝読し、参加者はそれに拝
礼しなくてはならないのだけれど、内村はそれに拝
礼しなかったのです。」
「それを見とがめられて、内村は不敬であるという
ので、結局学校を追われたのです。」
「内村は学校をやめざるをえなくなりましたが、そ
れに対してクリスチャンは当然、内村擁護の論陣
をはります。」
「押川方義や植村正久は『基督教新聞』に共同声
明を出しておりまして、そのなかで『皇上は神なり、
之に向かって宗教的礼拝を為すべしと言わば、こ
れ人の良心を束縛し、奉教の自由を奪わんとする
ものなり』と言っています。」
「つまり、天皇は神であり、それに対して宗教的な
礼拝をしろということは、人の良心を束縛すること
になり、信教の自由を奪うことになるではないか、
という論旨です。」
「このクリスチャンの内村擁護の論陣は、日本近
代思想の中で、国家と宗教、権力と内面的自由
の領域の緊張関係、そして世俗の権力が内面の
自由の領域に介入してはいけないということを
強力に主張した事実です。」
「明治啓蒙期には、ヨーロッパの思想・信条の自
由の原理はとりあえず導入されていたし、紹介も
されていたのです。…しかし、実際の政治的・社
会的な緊張関係のなかでその原理を主張した人
というと、まず内村とその周辺にいたクリスチャン
ということになります。」
「そういう意味で、内村鑑三不敬事件とそれをめ
ぐる論議は、日本思想史のなかでも重要なもの
…。」
「こういうクリスチャンの内村擁護の議論に対し
て、『勅語衍義〔えんぎ〕』を書いた井上哲次郎
は『教育と宗教の衝突』〔1891年〕という有名な
論文を書きます。」
「この論文で『宗教』というのはキリスト教、『教
育』というのは国体を軸にした教育です。」
「彼はそこで、キリスト教は国体に反するという
論陣を張るのです。…井上からみれば、キリス
ト教は国家の安寧秩序を妨げるもので、臣民
の義務に背くものだ、という議論になっている
のです。」
「体制イデオローグたちがそういう仕方でキャン
ペーンを張る中で、クリスチャンの論理はだんだ
んと防衛的になっていきます。」
「勅語は精神の自由を犯すものだという主張で
あったのが、だんだんと、キリスト教は国体に
反しないというふうに、防衛的にその論理を変
えていかざるえなくなり、そういう仕方で生き残
っていくことになります。」
「明治の末〔1912年〕に仏教、神道。キリスト教
の三者が会合し、『各々、その教義を発揮し、
皇運を扶翼』することを約した三教会合同はこの
変化を決定的なものにしたのです。」
「戦前の日本のキリスト教の歴史は、ある意味
ではそれ自体が受難の歴史でもあったわけで
すが、天皇制国家の中で信仰の自由を守る
ために、逆に、国体・天皇制なるものとの妥協
の歴史をたどることにもなります。」
「この事件が示しているように、天皇制国家にお
いては思想・良心の自由が大きな制約の下に
おかれることになった、と言わざるをえないので
す。」
「…天皇制国家のもとで神道と国家が癒着して
いる。それを批判したのはまずクリスチャンでし
た。その人たちはプロテスタントだったのです。
内村を軸に、ほとんどの人たちはプロテスタント
でした。…このへんは思想史的になかなかおも
しろい問題ではないかと思います。」
私たちクリスチャンは、特にキリスト教聖職者は、
「日本におけるクリスチャンのあり方」を考える
ときに、「内村鑑三不敬事件」のもつ思想史的
意味について深く考えることが大切だと思いま
す。
「内村鑑三不敬事件」からは、多くの事柄を教
えられると思います。それらの中の幾つかのポ
イントを拾っていきたいと思います。
それらの中のひとつは、クリスチャンは「内心の
自由」の問題に非常に敏感な人々であると思い
ます。
「天皇制」の問題について考えますと、キリスト
教的視点からみますと、この問題は徹頭徹尾
水平軸≠フ問題として扱わないといけない
問題、人間の次元の問題であるということです。
といいますのは、私たちクリスチャンにとりまし
ては、縦の関係、つまり垂直軸≠フ関係に
あります神は「天地創造の唯一の父なる神」以
外にはありえないからです。
「天皇」の問題は、「祖先」の問題との類比の
中で整理できるのではないかと思います。
聖書の信仰においては、偶像礼拝か禁じられ
ており、祖先崇拝は禁じられています。しかし、
「父母を敬え」とあり、水平軸の次元の視点
において、私たちの血縁的なルーツである「祖
先」に対する感謝と敬愛の念を抱くことが大切
な事柄であると教えられていると思います。
それと同様に、「天皇」を垂直の次元≠ナ
崇拝・崇敬の対象とすることは禁じられていま
すが、水平の次元≠ナ歴史的に、統一国家
をもたらされた人物として、その家系として、
感謝と敬愛の念を抱くことは大切なことではな
いかと思います。
ただ、私たちクリスチャンが警戒の念を解くこ
とができないのは、「天皇と天皇制」のもつ宗教
性の部分です。明治憲法下ではその宗教性の
ゆえに、日本とアジアのクリスチャンたちは弾圧
され、殉教したクリスチャンも少なくありません
でした。
日本国憲法下では、信教の自由、思想・信条
の自由が与えられていますが、日本人の国民
性は戦前と戦後で革命的変化を起したとは考
えられません。
国際情勢の変化、政治状況の変化によって、
「国事行為」「私事行為」と分けられている天皇
の働きが、いついかなるときにあいまいにされ
て、戦前へ回帰していくかもしれない潜在性
を常に秘めています。
「天皇・天皇制」の問題は、氷山に例えられます。
私たちがマスコミを通してみます「現在の天皇の
活動」は、憲法に定められている「国事行為」が
中心です。しかし、天皇の活動の大半は「私事
行為」であり、一年のほとんどを「皇室神道」の
儀式に費やしておられます。前者はいわばだれ
にでも明らかな「海面上」の天皇の働きであり、
後者は秘められ、隠された「海面下」の天皇の
働きといえると思います。
下記に「君が代」の解釈についての総理大臣の
答弁があります。その表面上はいかなる問題も
ないかのように見えます。
【矛盾と混迷の「君が代」解釈】
以下のものは、〔衆院本会議1999.6.29〕における
小渕恵三内閣総理大臣の答弁である。
「伊藤英成議員にお答え申し上げます。…君が代の
「君」に関するお尋ねであります。議員ご指摘のよう
に、君が代の歌詞は、平安時代の古今和歌集や和
漢朗詠集に起源を持ち、その後、明治時代に至るま
で祝い歌として長い間民衆の幅広い支持を受けてき
たもので、この場合、君が代の「君」とは、相手を指
すことが一般的で、必ずしも天皇を指しているとは
限らなかったものと考えられます。」
「ところで、古歌君が代が、明治時代に国歌として歌
われるようになってからは、大日本帝国憲法の精神
を踏まえ、君が代の『君』は、日本を統治する天皇の
意味で用いられてまいりました。」
「終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も戦
前とは変わったことから、日本国憲法下においては、
国歌君が代の『君』は、日本国民の統合の象徴であ
り、その地位が主権の存する日本国民の総意に基
づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民
の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合
の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、
そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したもの
と解することが適当であると考え、かつ、君が代につ
いてのこのような理解は、今日、広く各世代の理解
を得られるものと考えております。」