mi_200712.htm mi_200711.htm mi_200710.htm mi_200709.htm mi_200708.htm mi_200707.htm mi_200706.htm mi_200705.htm mi_200704.htm mi_200701-03.htm
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/0901-09/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
九月も残暑が続き、夏バテを覚えられた方も多かった
のではないでしょうか。月末になり少し秋風が吹き、
過ごしやすくなりました。
今月も、ICIのささやかな取り組みであります「マ
ンスリーICI」をお届けします。おもな取り組みと
しましては「『キリスト教神学』の学びを少しでも豊か
にしていただきたい」という願いをもって「キリスト
教神学」とその要約版である“Introducing Christian
Doctrine”の関係を扱い、福音派の組織神学のスタン
ダードと言われる「エリクソン神学」のより分かりや
すい学び方を模索しています。皆様の学びの一助とし
ていただければ幸いです。
ICI 安黒務
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2007.09.30 Yamasaki Chapel Short Message
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新改訳 ピリ 3:1-21
3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:13 ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
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エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第三節
諸見解の示唆すること:罪の治癒法
icd_20_030209b-ct_28_p.167-168
*************************************************
『基督教教理入門』と『キリスト教神学』
「第三節 諸見解の示唆すること:罪の治療法」の
メイン・テキストの記述は、「第一節 罪の根源につ
いて諸概念」のリベラルな神学における諸概念に
ついて、要約版においてはエッセンスのみに言及
されただけでしたので、メイン・テキストでは七つの
段落にわたって記述されているのですが、要約版
においては、この節は構成されずに、「聖書的教え」
の第九段落において「まとめ」のようなかたちで記
述されています。
七つの段落の概要をみていきましょう。@罪の原因
についのて見解が罪の治癒法についての見解を決
定する。Aテナント:罪の原因を「動物的先祖からの
本能と行動パターン」とし、治癒は「古い本能からの
解放」であり「進化論的過程が人類を正しい方向へ
連れて行きつつある」とする。Bニーバー:罪は「有
限性の不安」から生起したものであり、治癒は「有
限性と切望する自由の緊張を自分の努力で克服し
ようとする試み」であるとする。Cティリッヒ:罪は「人
間の実存的疎外」とし、治癒は「自分が存在の一部
であり、存在の根底に参与しているという事実の自
覚」とする。D解放の神学:罪は「社会構造」にある
とし、治癒は「抑圧と富と権力における不公平を除去」
することにあるとする。E福音主義の見地から、罪
は「人間が本質において罪深く、罪へと誘う強い力
のある世界に住んでいる」ことにあるとし、治癒は
「超自然的に人間の本性の変革が生み出される」
ことにあるとする。
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エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第二節 聖書的教え
icd_20_030201-9a-ct_28_p.163-167
*************************************************
『基督教教理入門』と『キリスト教神学』
「第二節 聖書的教え」の記述は、メイン・テキストと
要約版はほとんど同じ内容のものです。内容は、メ
イン・テキスト本文を参考にしていただきたい。
ここでは、「概要」を学んでいきたい。第二節は、
リベラルな神学の「五つの異なる見解」には「深刻
な不足」があるとの分析・評価を経て、「罪の根源」
に関して「聖書が教えているもの何か」について
関連聖句の解き明かしを基盤に九つの段落にわた
って焦点をあてていく。
@聖書が実際に何を教えているか。A罪は神によ
って引き起こされるのではない〔ヤコブ1:13〕。B
人間は食欲・性的衝動等、幾つかの欲求をもって
いる。C人間の能力にも注目する。D自然の欲求
はそれ自体は良いものであるが、誘惑と罪の可
能性をもつ領域でもある。−(@)物事を楽しみた
いという欲求、(A)物を手に入れたいという欲求、
(B)物事をしたい、達成したいという欲求。〔Tヨ
ハネ2:16〕E欲求には満足させるふさわしい方
法があり、また神が課した限界がある。Fイエス
の誘惑において、サタンは正当な欲求に訴えた。
G最終的には罪はそれを犯す人間の選択であ
る。〔創世3:4-5〕究極的な責任は本人にある。
H堕落後の我々には「肉」と呼ばれるものがあ
り〔ローマ7:18〕、自己中心の生活、神の存在の
否定また拒絶を指す〔ガラテヤ5:16-24〕。
*************************************************
エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 個人主義と競争性:icd_20_030006-ct_28_p.160-163
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【D 罪の根源は、個人主義と競争性にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
ハリソン・サケット・エリオットは個人主義的な競争
に罪の源があるとみました。罪は教育や社会状態
を通して学習されるものであるから、それは同じ方
法で排除されなければならない。その解毒剤は共
通のゴールに向かって競争的ではない努力を強調
する教育にある。
〔メイン・テキスト『キリスト教神学』概要〕
メイン・テキストにおいては、十の段落にわたって
詳述されています。それらは、@罪は個人主義と
競争に由来する。Aエリオットは「人間は全く罪深
い」ということを否定した。B罪とは、生来の才能と
社会的遺産の否定または誤用である。C「人間は
罪人である」という思想は論理的な分析のもとでは
もちこたえられない。D「人間は罪人である」と思想
は、心理学的に不健全で有害でありうる。E人間
の状態の心理学的分析は「人間は罪人である」と
いう結論には至らない。F罪は生来のものではな
く、習得されるものである。G個人主義的な競争
性は生来のものではなく、教育という手段によっ
て修正しうる。H教育は個人の活動・競争・成功
の代わりに共同的活動を強調すべきである。I
エリオットの進歩主義的教育の提案−人間の本
性を徹底的に修正するという希望は実現してい
ない。
〔解説〕
ハリソン・サケット・エリオットは、ニューヨークの
ユニオン神学校のキリスト教教育の教授で、
「人間の善性と完成可能性」を求めた。
彼は、哲学におけるジョン・デューイの道具主義
と教育への進歩主義的取り組みに強い影響を
受けている。
Harrison S. Elliott, Can Religious Education
Be Christian? (New York: Macmillan)pp.152-153
ジョン・デューイにつきましては、エリクソン著
『キリスト教神学』第一巻、第一部、「第二章
神学と哲学」の「第二節 20世紀の哲学」の
「第一項 プラグマティズム」pp.39-42 にその
思想の解説があります。
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2007.09.23 Yamasaki Chapel Short Message
エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 経済的闘争:icd_20_030005-ct_28_p.157-160 関連
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新改訳 出 2:23-25
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
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エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 経済的闘争:icd_20_030005-ct_28_p.157-160
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【C 罪の根源は、経済的闘争にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
解放の神学によれば、罪の源は経済的闘争にある。
その解決は所有と権力における圧迫と不公平を排除
することである。個々人を伝道していくことより、私た
ちが主として従事すべき事柄は経済的・政治的活動
であり、社会の構造の変革を目標とすべきである。
〔メイン・テキスト『キリスト教神学』概要〕
メイン・テキストにおいては、九つの段落にわたって
詳述されています。それらは、@解放の神学におけ
る「罪の定義」を述べ、その罪の理解の鍵が「出エジ
プト記1−3章」におかれている、A罪の「内心化」を
拒否し、罪の「社会的、政治的、経済的局面」に関
心を示す、Bグティエレスは、「罪とは、利己的に自
分の中にひきこもり、隣人愛を拒む」ことであるという。
C解放の神学者たちは「イデオロギー的神学者」と
「バランスの神学者」とに分類される。Dイデオロギ
ー的神学者にとっての罪とは「抑圧された状況に黙
って従う」ことである。E解放の神学は「神には自己
卑下によって最善の形で仕えることができる」という
考え方を拒否する。F解放の神学とマルクス主義の
間に“並行関係”を認めることは難しくない。G解放
の神学の前提は「経済的闘争、特に権力と富の不
公平が人間の行動を決定する」というものである。
Hしかし現実には、この理論はうまくいっていない。
旧ソ連の例をみても、権力と富を分配し直しても
「罪」は排除されない。
福音派においては、『ローザンヌ誓約』における
「クリスチャンの社会的責任」の項目が参考になり
ます。
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2007.09.16 Yamasaki Chapel Short Message
キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第三項 実存的疎外:icd_20_030004-ct_28_p.155-157 関連
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新改訳 ピリ 4:4-19
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
4:8
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4:10
私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。
4:15
ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。
4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。
4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
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エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第三項 実存的疎外:icd_20_030004-ct_28_p.155-157
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【B 罪の根源は、実存的疎外にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
「パウル・ティリッヒは、罪を、事実上創造物の自然な
同伴であるように思われる他者そして自身、存在の
基盤〔ティリッヒによる神の定義〕からの疎外に関係
づけている。
ここでもまた、根本的な治療は、回心の事柄ではな
く、態度の変化の事柄である。
解決は、存在の一部であるという事実、また存在の
基盤に関係しているという事実をますます知るよう
になることを伴う。
結果は、存在の基盤、他者、そして自身からの疎外
の終焉である。」
ここ一週間は、書斎にあるティリッヒ関係の文献に
目を通していました。ティリッヒ自体を専門的に勉
強してきたわけではありません。
ただ、エリクソンのメイン・テキストに記述されてい
ることはきちんと理解できるようにしなければなら
ないと考えているのです。
メイン・テキストにおけるティリッヒの「罪の概念」は、
六つの段落に詳述されています。
ティリッヒは、@「罪観」を実存主義的な基礎の上
に構築し、創世記の三章の字義的理解を理解を
拒否しています。A「神論」において、神は「存在
の根底」であるとし、人間の状況は「存在の根底
から、他の存在から、そして自分自身からの疎外」
であるとします。B「堕落」は時間のある時点で起
きたものではなく、「創造と堕落は一致する」としま
す。Cティリッヒは「人間は先在において堕落した」
のであり、「創造と堕落の同一性」を受け入れます。
Dティリッヒは、「非時間的な構成」を提示しており、
「あらゆる瞬間にすべての人は自分自身の選択に
よって自らを疎外している」とします。Eこのような
ティリッヒの理解に対して、エリクソンは「ティリッヒ
は本当に問題を解決したのであろうか」と内包して
いる諸課題を指摘しています。
エリクソンは、『基督教教理入門』において、ティリ
ッヒの「罪の概念」のエッセンスが“疎外”である
ことを指摘しています。
また『キリスト教神学』において約三ページにわた
り、“疎外”の意味するところを解説しています。
“疎外”の問題を扱うことは、福音主義神学におい
ても極めて大切なことであると思います。
この意味で、リベラル派の神学であるティリッヒの
神学の「鋭い時代感覚」と「高度の学問性」には
深い洞察があることを教えられます。それらの点
を学びつつ、ティリッヒ神学にある課題も見分けて
いかなければなりません。
ティリッヒとその神学についての入門的な良書と
しまして、大島末男著『ティリッヒ』清水書院、が
あります。「このシリーズ『人と思想』は、世界の有
名な大思想家の生涯とその思想を、当時の社会
的背景にふれながら、立体的に解明した思想の
入門書です。第一編の生涯編で、思想家の生涯
を交友関係や、エピソードなどにもふれて、、興味
深く克明に記述、第二編では、その主要著書を選
択して、概説とその中心となる思想を、分りやすく
紹介してあります。」とあります。
第二編の「思想」についての記述は分りにくいとこ
ろが多々ありますが、第一編の「生涯」は伝記的
かつ歴史的記述ですので、神学や哲学の予備知
識がなくても分かりやすいと思います。
その一部を紹介します。
「ティリッヒは生粋のドイツ人であったにも拘わら
ず、社会主義者やユダヤ人を支持し救援したの
で、大学教授の職を追われて、アメリカへ亡命
しなければならなかった。ところが大義のために
小我を棄てたティリッヒは、人の思い〔人間的打
算〕に遙かに勝る神の恵みに与ったのである。
神の命令に従って見知らぬ国へ旅立ったアブラ
ハムのように、ティリッヒは…アメリカへ亡命した
からこそ、現代における最高の哲学的神学を構
築することができたのである。神の祝福は、人
間の計画がむなしくなるところに逆説的に啓示
される。」
このような記述にあふれ、神学的立場は異なる
とはいえ、読む者に感動を与えるいきざまを提示
してくれています。
今回の「実存的疎外」の概念に関連する記述と
しましては、pp.158-165 に「人間の疎外と罪の
概念」、「自己破壊と罪の教義」、「新存在の探
究とキリストの意味」があります。
【文献紹介:エリクソン著『キリスト教神学』】
エリクソン著『キリスト教神学』の場合、神学方
法論から終末論に至る各部分において、常に
「リベラルな神学」への言及があり、それらの
全体的関連を常に視野の中において神学の
研究に携わることが大切と思います。
「ティリッヒの神学」につきましての詳細な記述
は、第二巻第三部第15章「神の近さと隔たり:
内在性と超越性」pp.61-64 に「内在性の現代
版」に「パウル・ティリッヒ」の“内在論的”神論:
万有在神論の記述があります。
【文献紹介:W.E.ホーダーン著
『現代キリスト教神学入門』】
この書の第八章に「自由主義神学と新正統主
義神学の境界線−パウル・ティリッヒ−」として
紹介されています。
この章で教えられた箇所をひとつあげますと、
「ティリッヒは深い思想家であり、それだけに
その思想は複雑であった。したがってここでや
っているように、一章という制限された紙数で
もって百科事典がやりとげるように彼の思想を
要約することはできない。もしここで何かできた
とするならば、彼の思想の幅と厚み、それも彼
のユニークな点のみを指摘したということにすぎ
ないだろう。」という点です。
【文献紹介:A.E.マクグラス編
『現代キリスト教神学思想事典』】
この事典は、きわめてすぐれた内容をもつ事典
であると思います。
読んでおりまして「パウル・ティリッヒ」について
の論稿をまとめられた学者の能力と翻訳者の
能力のすばらしさを感じさせられました。
〔導入〕
導入部分には、通常の解説通り誕生、ナチスと
の対立、ユニオン神学校、ハーバード大学という
経歴、神学的領域と文化の領域の関係づける
取り組み、護教的神学として時代状況から生ま
れた問題に答えることを目的とし、彼の著作の
ダイナミックさ、自己変革性、新たな問題に新た
に言い換えられ、新たに組み合わされた解答の
提供、…。
そのような意味において、「ティリッヒの思想の
極めて重要な要素を理解しようとすれば、彼の
神学体系の基本的原理の概略を知るのみなら
ず、ある特定の文化的状況から生じた特定の
問題とそのような問題の挑戦に神学的に答え
ようとした彼の試みとの間に彼が作りだした相互
関連をたどってみなければならないだろう。」と
記述されています。
ティリッヒの神学を理解していく上で最も大切な
視点であろうと思います。
〔観念論の遺産:1886-1916〕
ここでは、ティリッヒの神学の基本的な概念、前
提となる事柄が記されています。
ティリッヒの思想に決定的影響を与えたものとして
シェリングの思想に対する取り組みがあります。
この事柄について、ティリッヒが1963年の春学期
にシカゴ大学で「19,20世紀のプロテスタント神学」
を講義し、そのときの講義をテープから起こし、そ
れに基づいて編集・出版されたティリッヒ著、佐藤
敏夫訳『近代プロテスタント思想史』p.192 の中に
「私は、ベルリン大学に行く途中、非常にまれにし
か出会わない初版本のシェリング著作集を、偶然
手に入れた時の忘れがたい思い出をもっている。
私は金をもつていなかった。しかし、とにかくそれ
を買った。このように私はもっていなと金を使った
のであるが、それは、のちに私がほかでもってい
ない金を使った場合にせよ、時にはもっていた金
を使ったにせよ、どの場合よりも恐らく重要な金
の使い方をしたことを意味していた。というのは、
私がシェリングから得たものは、私自身の哲学的
神学的発展にとって、決定的な要素となったから
である。」と告白しています。
ティリッヒは、シェリングから神学上もっとも中心概
念を取り入れました。それらは「無限存在と有限
存在としての神と世界の考え方、存在の根底と
無限の深淵としての神の見方、あるいは『神を越
える神』の観念、宗教的象徴と哲学的概念を超越
した真理の考え方」といったものです。
「導入部分」と「観念論の遺産〔1886-1916〕」に
続いて、「転換点:文化の神学と社会主義への
決断〔1916-1933〕」、「移住、実存主義、組織神
学〔1933-1965〕」、「ティリッヒの神学の未来」と
構成されていて大変わかりやすい解説となって
います。
【その他の参考文献】
『キリスト教組織神学事典』の「ティリッヒ」pp.270
-276 …コンパクトな解説
ハーヴィ・コーン著『現代世界神学』の「第十三章
存在の神学」pp.132-140…福音主義神学の視点
からの分析と評価、要点的で分かりやすい。
宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』pp.139
-141、『総説現代福音主義神学』の「存在論神
学における神の啓示−P.ティリッヒ−」pp.147-
151,「“上”でもなく“外”でもなく、“存在の深み”
に」pp.304-308 …ティリッヒの神学のエッセンス
を福音主義神学の視点から分かりやすく解説さ
れています。
*************************************************
エリクソン神学の学び方
:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第二項 有限性の不安:icd_20_030003-ct_28_p.152-155
*************************************************
【A 罪の根源は、有限性の不安にある。】
「ラインホルド・ニーバーの見方では、罪の根源は
私たちの有限性と切望との間の緊張を己が努力
を通して打ち勝とうとする試み、つまり人間の有
限性によって引き起こされる不安である。」
「治療は、私たちの有限性を受け入れ、私たちの
信頼を神に置くことである。」
「しかし、この治療は私たちの態度を変える事柄
であって、真の回心ではない。」
*************************************************
2007.09.09 Yamasaki Chapel Short Message
キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第二項 有限性の不安:icd_20_030003-ct_28_p.152-155関連
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新改訳 創 2:9-25
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
新改訳 創 3:1-9
3:1
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_030002-ct_28_p.148-152】
*************************************************
【@ 罪の根源は、動物的性質にある。】
「フレデリック・テナントは、罪の根源は私たちの動
物的性質にあると主張している。」
「罪は単に、動物的祖先から人間が道徳意識を習
得した時代に至る通常の本能や行為のパターンへ
の執着にすぎない。」
「このケースにおいて、治療は初期の無垢の時代
への単純な反転であることはできない。」
「むしろ、それはそれらのより古い本能から私たちを
完全に自由にする事柄であり、またそれらを支配し
正しく導くことを学ぶことであるだろう。」
「罪の治療についてのこの概念は、進化のプロセス
が人類を正しい方向に導いているという楽観的な信
念を包み込んでいる。」
「文化一般」のコンテキストの中にある「罪の根源」
についての見方の第一に取り上げられていますの
は、「進化論」をベースにして「罪論」というものを
再構築する試みであるといえます。
第一段落では、「創造と堕落」についての聖書の
記述が“異なった光”のもとでみられるようになった、
と指摘されています。つまりは、「創造と堕落」に
ついての聖書記事の再解釈のことです。
その背景として、「五書の批評学的研究・文書資料
説」の受容と「生物学的進化論」の人気がありました。
「創造と堕落」の記事の歴史的信憑性が問題視され、
新しいコンテキストのもとで「罪の起源」についての
別の説明が求められるようになりました。
テナントは、「自然科学と他の学問分野〔文書批評と
歴史的釈義、比較宗教と人種心理学、地質学と人
類学〕」が、「人間は自由を用いて反逆し、原初の
義の状態から堕落した」という“堕落の教理”を信じ
ることを不可能にしていること、
またふたつの前提−@罪の普遍性とA罪意識の
問題を「すべての人はアダムにおいて罪を犯した」
という“アウグスティヌスの原罪の教理”の代わりに、
@人間の本質を構成するものとA進化の過程の中
での道徳意識の発展に見いだせると考えています。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
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【罪の根源:種々の概念】
「私たちは罪に関する幾つかの聖書的見方に言及
してきた。」
「さて私たちは、罪の根源、罪に至る原因あるいは
誘因について問う必要がある。」
「それが非常に重要であるのは、罪の治癒がその
原因を特定し、それを取り除くことを必ず含んでいる
からである。」
エリクソンは神学を定義して「第一義に聖書を基盤
とし、文化一般の文脈の中で、今日的な表現を用
いて、生の諸問題に関連づけながら、キリスト教信
仰の諸教理についての首尾一貫した言明をするべ
く努める学である」と記述しています。
27章で、エリクソンは「罪について学ぶ方法」を「@
経験的・帰納的アプローチ、Aパラダイム方式、B
罪を表す用語のすべての注目する」のうちの、第三
の方法を選択し、罪を示す聖書的用語のすべてに
注目し、多種多様な概念を検証し、罪の本質的要素
を見出しました。
罪を表す用語は多様性に富んでおり、それは当惑す
るような多様性をもっており、それらの中から、さまざ
まな仕方を貫く共通した要素をつきつめていくことに
より、罪の本質とは何かを明らかにしていきました。
27章では聖書における「罪を示す聖書的用語」の
コンテキストをみることを学びました。28章では、
もうひとつのコンテキストである今日の文化一般、生
の諸問題との関連における思想・哲学・神学におい
て、「罪の根源」についての理解の多様性をみてい
くことになります。
それらの中でエリクソンは、以下のものを取り上げて
います。それは@動物的性質〔フレデリック・テナント〕、
A有限性の不安〔ラインホルド・ニーバー〕、B実存
的疎外〔パウル・ティリッヒ〕、C経済的闘争〔解放
の神学者〕、D個人主義・競争性〔ハリソン・エリオ
ット、ジョン・デューイの哲学の信奉者〕です。
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2007.09.02 Yamasaki Chapel Short Message
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新改訳 ロマ 5:20-21
5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
新改訳 ロマ 7:24-25
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
新改訳 ロマ 8:1-2
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
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【D罪は神を排除することである。】
新改訳 出 20:3
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
新改訳 マコ 12:30
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
「罪は神を神たらしめることに失敗することであ
る。」
「それは神のものである最高の座にほかの何か
を、何でもほかのものを置くことである。」
「神の上に何か有限の対象を選択することは、た
とえ無私なことであったとしても、悪である。」
「この主張は、旧約と新約の聖書の主要なテキス
トによって支持されている。」
「十戒は、神に適切な場所を与える命令で始まっ
ている。」
「『あなたはわたしのほかに、ほかの神々があっ
てはならない。』〔出エジプト20:3〕は、律法にお
ける最初の禁止事項である。」
「同様に、イエスは最も大切な戒めは、『心を尽く
し、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あ
なたの神である主を愛せよ。』〔マルコ12:30〕で
あると断言された。」
「神をふさわしく認めることこそ第一である。」
「高慢ではなく、いかなるかたちであっても偶像
礼拝こそ罪の本質である。」
「神の排除」は、英文テキストでは、“Displacement
of God”です。
New College English-Japanese
Dictionaryによれば、
@転置、置換、A排除、立ち退き、B解任、解職と
記述されています。かなり強い意味のことばである
とのニュワンスが伝わってきます。
それと、「罪について学ぶ方法」で三つのアプローチ
の中から、第三のアプローチである「罪を表す聖書的
用語のすべてに注目する」方法を選択し、@多種多
様な概念を見出し〔当惑するような多様性〕、Aそれ
らの概念を検証し〔総合的定義〕、B罪の本質的要
素を特定〔基本的原則・潜在的要素〕していきました。
その結果が、三つの見解−@肉欲、A自己本位、
B神の排除、の中から、より望ましい見解として「神
の排除」の選択でありました。
この「罪論」構築のプロセスは、非常に分かりやすい
ものだと思います。
この背景には、第一巻のpp.30-32「学としての神学」
にあります通り、@知識の明確な対象、A明確な、
首尾一貫した道筋、B自身と他者への説明責任、
という基本原則に忠実な扱いとなっています。
さらに詳細には、第三章「神学の方法」に提示され
ています「神学研究の過程:@聖書の資料の収集、
A聖書の資料の統合、B聖書の教えの意味の分析」
の手順がきちんと守られています。
エリクソンは、「罪について学ぶ方法」の第三のアプ
ローチを選択しているわけですが、第一のアプローチ
である「経験的・帰納的アプローチ」、第二のアプロー
チである「パラダイム・アプローチ」を用いて研究した
場合の「罪論」構築のプロセスは、実際的にどのよう
なものなのか、そのようなアプローチをした神学には
どのような神学書があるのか、そしてその結論はど
のようなものになっているのか、そのあたりの比較
研究も興味深いものになると思います。
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“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_020005-ct_27_p131-133,143 】
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【C罪は神の基準の不完全な達成である。】
新改訳 Tサム15:23
15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
新改訳 マタ 6:2
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
新改訳 マタ 6:5
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
新改訳 マタ 6:16
6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
「罪は神の基準の不完全な達成である。」
「罪についての聖書の特徴のすべてを通じて
共通する要素は、罪人が神の律法を成就する
ことに失敗したという思想である。」
「私たちが神の義の基準を満たすことに失敗
するそのかたちは多種多様である。」
「与えられた限界を越える、つまり『違反する』
こともある。」
「基準に全く達しない、あるいは神が命じ期待
されることを何もできないこともある。」
「サウルは、アマレクと彼らが所有するすべて
を聖絶するようにとの神の命令に従い通すこと
に失敗した。」
「サエルは王アガグと最良の家畜類を惜しんだ
ゆえ、神はサウルをイスラエルの王から退けら
れた。」〔Tサムエル15:23〕
「私たちはときどき、悪い動機で、正しいことを
行うかもしれない。したがって、律法の精神を
達成することなく、律法の文字を達成する。」
「マタイ六章において、イエスは第一義的に神
を喜ばすことよりも、他の人々の賞賛を得よう
とした善行を非難された。」
「C罪は神の基準の不完全な達成である。」
は、メイン・テキストではpp.131-133の「的を
はずす〔Missing the Mark〕」の内容に符合し
ています。
「的をはずす」という用語は、「罪は、神の全
き愛と神への完全な服従という、神の立てた
目標、その基準に命中することに失敗するこ
とであるゆえに、つねに神に対する罪である。」
p.132
「第五節 罪の根本的な性質」CT,p.143 には、
「罪を表す用語」の異なった側面、当惑するよ
うな多様性の中から“総合的定義”の形成が
試みられており、「神の基準の不完全な達成」
は、「的をはずす」や「違反」の項目を中心に
「罪の特徴を強調する用語」において貫かれ
ている“共通の要素”をもっています。
今日、説教壇から「罪について」語ることの困
難さを、「否定的なことを語ってはならない」と
いう時代の風潮の下でエリクソンは指摘して
います。しかし、肯定的に考えることの効用は
ある程度評価するとしても、その切り口だけで
は聖書的なメッセージは失われてしまうことに
なると思います。
罪についてふれる説教をするとき、聖書学部
門の成果のみでは弱いと思います。それは、
「罪論」という福音の真理を 断片的・部分的に
はではなく、全体像を明確化し、「罪論」の教
理を バラバラにではなく、常に「罪論」の全体
性はいかなる内容をもつものなのかを説教準
備の“基本的視点”としてもっておく必要があ
ると思います。
「罪」についてふれるときは、「罪論全体」の教
理的内容との有機的相互関連性の中で陳述し、
キリスト教真理の有意義性・妥当性を現代とい
う状況を踏まえつつ立証していくことが求めら
れていると思います。
説教準備の基本的視点を身につけるために、
「第六部 第二十七章 罪の本質」においては、
「罪を表す用語」は、聖書学的な詳細な解説
であり、「当惑するような多様性」を感じる領域
であります。そのあたりは軽く見ていくことにし
て、繰り返し熟読するのによいと思われる箇所
は、「罪の教理と他の教理との相互関係」、
「罪を論じることの困難」、「罪について学ぶ方
法」、「罪の根本的な性質」です。
これらのイントロダクションとコンクルージョンを
繰り返し“反芻”するようにして学ぶことは、基
本的視点を身につける上で有益だと思います。