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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/04/01-04/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
──────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline Digest
主の御名を崇めます。
皆様の祈りと支援に支えられて、2007年度の四月を祝福されたかたちで
はじめることができました。
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メールも、ICI日誌の記述
がかなりの量になってきましたので、“ICI Daily & Diary Lectures Headline
Digest”として、内容の主題文のみを紹介させていただこうと考えています。
そして、詳細をご覧になりたい方は「ICI日誌:ICI Daily & Diary Lectures」
の本文をご覧いただけたら幸いです。
また、今年度は、「ICI日誌:ICI Daily & Diary Lectures」をベースにして、
「ICI Theological Efforts for Japan Evangelical Churches」という神学誌
のようなものの作成に挑戦していきたいと考えています。基本的には、わ
たしの所属している「日本福音教会“Japan Evangelical Churches”」の教
職者〔正教師・補教師〕を念頭に取り組むものですが、わたしが取り組み、
目指している“ICI Theological Efforts”は、エリクソン神学が目指しいるも
のがそうであるように「聖書性・公同性・今日性・革新性」を特質として内
包し、わたしの対象としての“Japan Evangelical Churches”は、日本にあ
る福音派の諸教会のすべての教職者・信徒を対象にするものであること
を理解していただきたいと思います。
エリクソンは、「すべての聖書的≠ナあろうとする教会は、バプテスト的
な特質をもつものとなるであろう。」と語っています。わたしもそのような確
信の上にたって、“ICI Theological Efforts for Japan Evangelical
Churches”を紹介させていただきたいと思います。
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2007.04.29 Yamasaki Chapel Short Message
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-
070429_y_ag_ss_phi0121.wma
- 新改訳 ピリ 1:21
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
- 神学校で「組織神学」を教えさせていただいています。そして、神学
生に「組織神学の学びの目標は、教理的説教である。」と励まして
います。
- ときどき、神学生から「安黒先生の教理的説教を聞かせてください。」
と求められます。私の奉仕させていただいています「山崎チャペル」
は、家庭礼拝のような感じの「家の教会」です。メッセージもまた、
家庭の聖書研究祈祷会のような小集会でのショート・メッセージなの
で神学生の期待にこたえるようなものはなにもないのですが、貧しい
説教の中に、教理的な内容を散りばめたものになっていることが
ひとつの特徴ではないか、と思います。
- 教理的説教と申しますと、「難しい!」というイメージがあるのですが、
うちの子供たちには「とても分かりやすい」と評判です。語り方に
いくつかの癖があり、模範的教理説教からはほど遠いのですが、
- 今回、新しいサーバから、ストリーム配信が可能になったことを契機
にし、恥を忍んで、教理的説教へチャレンジされる方々へのひとつの
励ましになればと思い公開させていただきます。
4/28b 千里の道を行き、万巻の書に親しみたい!
- 今週は、先週の「救いの諸概念」の学びの中でふれましたキルケゴ
ールから派生してきたといわれる「実存主義思想・哲学・神学」の流
れを、エリクソンの描写からのみでなく、直接かれらの思想書・哲学
書・神学書にふれるために、「人類の知的遺産」シリーズ、「世界の
名著」シリーズ、清水書院のシリーズ等の中古本をたくさん購入しま
した。
- エリクソンの著作には、現代思想や現代哲学、現代神学への言及
が多く、関連文献研究の範囲を神学の領域だけではなく、その周辺
に広げる必要を以前から感じていました。
- 今年になって、ようやく「組織神学」の講義の準備が軌道にのってき
て、テキスト自体の準備に時間をあまりとらなくてもよくなってきました。
- それで、講義準備の時間のかなりの部分を周辺の関連文献研究に
使うことができるなってきたということです。
- 学生時代に、林先生から「キリスト教学」、野田又男先生から「キルケ
ゴール」、○○先生からは「ニーチェ」を教えていただきました。春名
純人先生からは「キリスト教哲学」、小畑進先生から「哲学入門」、
稲垣久和先生からも多くのことを学ばせていただきました。
- これまでの学びの、それらの蓄積を生かして、もう一度思想や哲学を
全般的に学びなおしておこうと取り組みつつあります。
- 学生時代、生きることに悩み、経済学部でありましたが、「文学部に
移って哲学を学びたい。」とゼミの先生に相談したことがありました。
ゼミの先生は、「経済学部のままでも、他の学部の『哲学』の科目を
学ぶことができるから、そのようにした方がよい。」と励ましてください
ました。
- その後、経済学部の中で、マックス・ウェーバーの天職意識の問題
に取り組むことができたことは感謝なことでした。「天職意識」は、
「生きることはキリスト」を実践していく上でも、わたしのライフ・テーマ
です。ライフ・テーマを探究していく中で、この年齢になって諸思想・
諸哲学に目を通す時間が与えられていることは感謝なことです。
- クリスチャンになる直前、「千里の道を行き、万巻の書を読んで後、
クリスチャンになるべきかどうか決めよう」と考えていた私でしたが、
「私が信じるのは、理解するためです」と言われるように、キリスト教
信仰、キリスト教神学の深みに光をあてていくために、諸思想・諸哲学
−万巻の書に読みふける時間が与えられていることに感謝しています。
4/28a 「悔い改め」を学ぶときには「罪論」も復習されたし!
- 4/26は、KBI〔一宮基督教研究所〕に「組織神学」の講義に行ってまいり
ました。救済論の中の「救いの始まり:主観的側面」と「救いの始まり
:客観的側面」を学びました。
- 「救いの始まり:主観的側面」の学びでは、「悔い改め」の学びにおい
て、ヘブル語〔ナーカム、シュブ〕、ギリシャ語〔メタメロマイ、メタノエオ
ー〕の語義から、「あえぐ、うめく、罪を捨てる、後悔する、心を変える」
等の意味を知っていくことの大切さを学びました。また、救済論の悔い
改めを学ぶときに、以前学んだ「罪論」の各章をもう一度丁寧に復習
することの大切さを思わされました。
- 「救いの始まり:客観的側面」の学びでは、「キリストとの結合」におけ
る行き過ぎた理解の問題−神との本質的融合の見方、人間の人格・
個性の喪失の見方等−に留意しました。エリクソンは、肯定的側面
の記述がわずかでそのあたりは他の資料をもって補わなければなら
ないと思いました。
- 「義認」においては、「罪責」に焦点をあてて神の永遠の大法廷を描写
することに力を注ぎました。洗礼準備会等で救いの確信を与える上で
きわめて大切な教理です。
- 「子とされること」においては、「アバ父よ」という意識と「子とされること」
の教理の関連性を教理的に展開することに留意するようにと指摘しま
した。
4/24a 神学生と卒論指導教師は、共同作業のように!
- 4/22は、礼拝後、KBI一宮基督教研究所にてJEC日本福音教会の年次
総会があり、副書記の奉仕をさせていただきました。その夜は、KBI
家族寮に宿泊させていただき、九州の石崎先生といろいろと交わり
のときをもたせていただきました。感謝!
- 4/23は、神戸の三宮にありますカベナンター書店の二階と三階で、
日本福音主義神学会西部部会春期研究会議があり、理事のひとり
として、また会員のひとりとして出席させていただきました。
- KBIからは、門谷先生が昨年のKBI卒論をベースにして、発表をして
くださいました。クリスチャンにとっての労働の意味とその中における
聖霊の働きについて、組織神学的かつ実践的なきわめてすぐれた発
表であったと思います。
- わたし自身が、大学生のときに取り組みました「天職意識の喪失過程」
というマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義
の精神」に関連しての研究、ヘンドリクス・ベルコフの「聖霊の教理」
における「義認・聖化・召命」のフレームワーク、山中良知先生の「聖書
における労働の意義」における「第一召命と第二召命」の理解、救いへ
の召しと文化命令への召し、ピーター・ワグナーの「聖霊の賜物論」、
エリクソンの「人間における神のかたち論」における実体論・関係論・
機能論的見方等々、神学的エッセンスが濃縮されたすぐれた論文だ
と思いました。
- 卒論指導をさせていただくたびに思いますことは、卒論に取り組まれる
神学生と卒論指導教師との対話の中で、共同作業のようなかたちで
よい働きをさせていただけることは大変感謝なことです。そして、わたし
が取り組んできたさまざまな材料を生かして、さらにまさった視点で
すぐれた論文を書き上げていかれる神学生ひとりひとりからは多くの
ことを教えられています。
4/21a 個々の魂の主体性・自由・選択・高価な価値・ユニークな存在!
- 木曜日にKBIに講義に出かけていました。「第十部 救済論」の中の
「救いの諸概念」と「救いに先立つもの:予定」について講義しました。
- そして昨日は、2007年度版のDVD講義録の最初の一枚を作成しま
した。内容として注目してよい点は、「救いの諸概念」の中の「実存主
義的神学」におけるキルケゴール、ハイデッガー、ブルトマンへと流れ
るメッセージです。「第二章 神学と哲学」の中にも、神学に影響を与え
てきた20世紀の主要な哲学のひとつとして「実存主義」哲学があります。
その中のメッセージとして、「個人の重要性−個々の出来事や事実の
重視」「人間の自由−自ら選択し、自分の運命を決め、自分の世界を
創造する能力」「自由と個別者を破棄してはならない−それは本来性
わ破棄することであり、非本来性に陥ることである」「主体性の内面の
情熱や主体性を呼び起こすこと」等々。
- わたしは、伝道主義や教会成長論のすぐれた面を評価するひとりです
が、ときとしてそれらのメッセージは、ヘンドリクス・ベルコフが「聖霊の
教理」で語っているように、「集団主義」に流れ、クリスチャンひとりひと
りが大切でユニークな存在であることを忘れさせる側面があることを教え
られます。
- 神さまは、そのひとりごを賜ったほどに私たちを愛してくださっています。
わたしたちは、その極限の愛を教会員ひとりひとりに注いでいるでしょう
か。伝道や教会成長の道具として動員している要素はないでしょうか。
私たちは、ひとりひとりの存在を、個性を、生涯を、神の愛にならって
極限まで尊重する視点の大切さを実存主義哲学から教えられます。
- エリクソンが「実存主義には、聖書的キリスト教と並行するモチーフが
あり、時に無視されてしまう主題が、そのモチーフによって改めて
力説されたことがあった。…キリスト教信仰とその真理は、熱い思いを
もって主体的に関わっていくという性質をもっていること、自由があり、
選択が必要であること、ひとりひとりが大切でユニークな存在であること」
と語っている通りです。〔第一巻 pp.42-45〕
- わたしは、「神論」の中の聖定論・摂理論、「人間論」の中の神のかたち
論、罪論、「救済論」の中の聖霊の満たし論等々を新しく、深く、豊かに
切り開く洞察が示されているように思います。
- ヘンドリス・ベルコフは『聖霊の教理』の中で、それを「義認・聖化・召命」
という範疇で語りかけています。
- 特に、「召命論」に関しましては、マックス・ウェーバーが『プロテスタンテ
ィズムの倫理と資本主義の精神』の中で、天職意識≠ニいうテーマで
語っています。ヘルコフはバルトの和解論の構成に注目しています。
改革派神学においては、創世記一章の聖句を基盤にした「文化命令」が
あります。エリクソンの『キリスト教神学』も、召命論という範疇を大切に
して神学的思索をしていけば、学びの上での収穫が多いと思います。
4/16a 神学的思索、またショート・レクチャーとしてのICI日誌!
- ICIの働きのひとつとしまして、「ICI日誌」に“ICI
Daily & Diary Lectures”
という顔を与えて、日々取り組んでいる神学的思索のひとこまを書き
綴っていきたいと思っています。
- 今週は、KBI講義準備の神学的思索の中で教えられたことを中心に
お分かちしたいと思います。
4/14a 福音主義神学との対比において「霊の戦い」の教えを考えてみる!
4/13a
現段階では「臨床試験薬」的な扱いとして!
- 同労者より、一冊の書籍をいただき、日本における「霊の戦い」「地域を
支配する霊」「霊的地図」等々の取り組みがあることを知りました。90年
前後に共立基督教研究所にこもって、東京基督神学校の聴講を含め、
徹底して、聖書神学・歴史神学・組織神学部門の数多くの科目と、宣教
学の四部門のかなりの諸科目の学びに明け暮れておりました。そして、
三年間の学びを終えて、郷里にての働きながらの開拓伝道と神学校で
の「福音主義神学〔歴史神学〕、比較宗教学〔宗教の神学〕、キリスト教
神学〔組織神学〕」の三科目を教えることに専念していましたので、世間
の動きにあまり関心を注ぐ時間がありませんでした。あと、翻訳活動や、
福音主義神学会での活動も大切な部分でした。
- それで、フラー神学校のワグナー、クラフトたちのみでなく、日本において
も「霊の戦い」「地域を支配する霊」「霊的地図」等々の取り組みがあるこ
とを知り、関連文献を収集し、一通り目を通したところです。この関係の
著作を書いておられる先生方は、私たちの団体とも懇意にされている
先生方なので、慎重な記述が求められるところだと思います。
- ただ、私たちの団体の同労者の先生方も結構、これらの書籍を読んで
おられ、良きにつけ、悪しきにつけ、いろんな影響がでてきているように
聞き及んでおります。そこで、JECに置かれている神学教師のひとりと
して、「霊の戦い」「地域を支配する霊」「霊的地図」等々の教えについて
神学的に全般的な分析・評価をする必要がでてきている、ということなの
です。
- この運動や教えには、肯定的な要素も多々あろうかと思いますが、ざっと
一読した上で、JECに属する神学教師のひとりとして神学的視点から
「個人的見解として」感想を記述させていただきたいと思います。
- そのひとつは、聖書解釈の方法について、「偶像礼拝」や「性的関係」
を悪霊との契約行為≠ニ断定されて「告白と断ち切る祈り」を個別に
することにより「契約を無効にし、解放される」というくだりが繰り返し出て
きますが、この聖書解釈の神学的有効性について疑問を感じました。
- 罪の悔い改め、信仰等々は、救済論でかなり詳述されてきた豊かな教
理的内容を有する主題ですが、「悪霊との契約」という概念は、きわめて
新奇な概念であると思います。また、「家系の束縛からの解放」という教
えに驚かされています。キリスト教神学では、個人≠フ、現在≠フ、
創造神との関係に焦点をあてており、エリクソンなどは、「罪論」に五つの
章をあてて詳細に記述しています。このあたりも神学的にどうなのか
慎重な検討・吟味が求められているように思います。全体として、組織
神学的思索が欠けているのではないかと感じさせられます。
- 聖書解釈と適用において、一節主義%Iな聖書解釈が多用されてい
るのが目につきます。そして、一節主義的な教えを補強するために、霊
的体験の証しが散りばめられています。また、体験が先に語られ、証明
聖句的に聖句が利用されているように思います。霊的体験の真実性・
信憑性につきましては、フラーの教授陣のレポートで最も重要なポイント
のひとつです。霊的体験は異教や異端にも膨大な報告が溢れています
ので、霊的体験を立証材料として使用することは、あまり賢明な態度と
はいえないと思います。健全な聖書解釈と教理構築、バランスのとれた
クリスチャン社会生活等の整合性が大切と思います。
- 福音の真理は、断片的・部分的にではなく、全体像を明確にしてかねば
なりません。個々の教理をバラバラに語るのではなく、それらは他の諸
教理と有機的相互関連性の中で陳述されねばなりません。そして独善
的な主張を繰り返すのではなく、キリスト教真理の有意義性・妥当性を
現代という状況を踏まえつつ立証していかねばなりません。
- それと、わたしも比較宗教学〔宗教の神学〕を教えてきましたので、日本
の諸宗教の知識はある程度もっております。ただ、わりと客観的な分析
と評価をキリスト教哲学的視点で、日本の宗教の「原質」と「形式」という
手法で学んできましたものとしまして、日本の諸宗教を悪霊と同一視す
るような乱暴な扱い方には唖然とさせられます。もちろん、悪霊的なもの
あるでしょう。しかし諸宗教の問題はそれほど単純なものではないと思
います。また、他宗教に対してそのような極端なアプローチのみでは、
宗教の神学の視点から申しますと、神学的視点と社会科学的視点とが
ありまして、他宗教への悪魔的な評価のアプローチの体質をもつ教団
は、「社会性に欠ける教団」として問題多き特異セクト≠ノ位置づけ
られるでしょう。古屋安雄著『宗教の神学』『日本の神学』、稲垣久和著
『大嘗祭とキリスト者』他多数の著書、このふたりのバランスのとれた
宗教理解、日本理解を丁寧に学ばれることをおすすめしたいと思います。
わたしの印象としまして、ひとつの極端にはまってしまっておられるような
気がします。そして多くの素朴なクリスチャンが同じような極端な考え方
にはまり悪影響がてでいることを耳にします。
- 聖書が私たちに教えているスタンスというものは、ローザンヌ誓約
<誓
約・第十項 伝道と文化>に「…神のもとにあって、キリストに深く根ざ
しつつ、自己をとりまく文化とも密接なかかわり合いを持った教会が起
こされるようになる。ところで、文化は、常に聖書によって精査され、
かつ判定されなければならない。人間は神の被造者であるゆえに、
彼が織り成す文化のあるものは、美と徳性とを豊かに示している。
とともに、人間は罪に堕落しているゆえに、その文化のすべては罪
によって汚染されており、その中のあるものは悪魔的でさえある。」と
示されているような、バランスと知恵あるスタンスだと思います。もし
そうでないならば、長い目でみて、リバイバルを目指しつつ、かえって
宣教の大きな妨げとなっていくことが懸念されます。
- 「教理の世界では、新しい教え≠ニいうものは、まだ臨床試験を受け
ていない新薬のような意味をもっています。これは聖書的なのか、非聖
書的なのか、まだいろんな角度からの慎重な分析・吟味・評価が必要
とされている。」ということです。
- そのような教えにつきましては、「ワグナーやクラフト等の教え」に対して、
出されている「フラーの教授陣の神学的・牧会的評価」の書籍にあるように、
聖霊の働きに明るく、かつ神学知識において専門家レベルの先生方の
助言を求めつつ、用いることが大切と思います。ちょうど、薬の会社が
新薬を開発し、認可をうけた専門病院で一定期間の臨床試験を繰り返し、
そのデータを効果ありの程度と副作用等の結果を第三者を含めて詳細に
検討した上で、国の責任の下に認可していくように…。
- 現段階では、「臨床試験薬」としての扱いであるとの慎重さと謙遜が求
められる教えであると思います。キリスト教神学の世界において、どの
ように神学的に位置づけられ、どの程度の軽重で語られるべき主題で
あり、語る時にどのような注意点が求められるのか等々、多くの考慮
しなければならない要素があると思います。
- ただ、著者の日本のリバイバルに対する情熱には、多くの教えられる
ところがあると思います。
4/11b 『キリスト者の標準』をエリクソン神学のまな板において調理する!
- 新年度の一宮基督教研究所〔ICI〕での講義がまもなく始まろうとしています。
- 一年生は、エリクソン著『キリスト教神学』の第一巻「神学方法論・啓示論」
と「神論・神のみわざ論」を学びます。
- 二年・三年生は、合同クラスでエクソン著『キリスト教神学』の第三巻と
第四巻を隔年で学びます。今年は第四巻の「救済論」「教会論」「終末論」
を学びます。
- 前期の小論レポートの課題は、「KBIの福音理解をよく表現している書籍
としてのウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』を、その歴史的・資料的
背景を分析しつつ、エリクソン著『キリスト教神学』の救済論・教会論と照
らし合わし、考察しなさい。」です。
-
この課題の狙いは、KBIの関連教会ではよく読まれてきたウォッチマン・
ニー著『キリスト者の標準』をしっかりと読みこなすこと、そしてもうひとつ
の狙いは、このベストセラー書籍の歴史的・神学的背景を調べること、
そしてこの書籍の中に記述されている「聖化論」理解を、福音派の組織神
学のスタンダードと評されるエリクソン著『キリスト教神学』にある「聖化論」
の神学的手順・構成の仕方・議論において扱われている事柄等々と照らし
合わせながら、「聖化論」の在り方を模索しようとするところにあります。
-
関連資料がテキスト以外は、洋書であるということから、このホームページ
を通して、資料とその内容紹介をしていきたいと思います。
-
ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』の解説書としましては、ダナ・ロ
バーツ著「ウオッチマン・ニーを理解すること」があります。この書籍は、
まだ私が大阪の最南端の教会である「岬福音教会」の牧師でありました
ときに「大阪のライフセンター」で偶然見つけたものです。
-
そのときから、少しずつ読んできました。ロバーツ師は、若いころ牧師に
「霊的成長に有益な書籍として、ウォッチマン・ニー著作集」を紹介され、
彼の著作集に深く傾倒していきました。そして、ロバーツ師は後に修士
論文を書く機会に、ウオッチマン・ニー研究に取り組みました。
-
そして、彼の著作集のすべてを研究し、その神学的背景等を研究して
いく中で、彼の著作集の中に多くの問題点を発見するようになります。
-
それは、ロバーツ師自身の神学的教養が豊かにされていったこととも
関係があると思います。
-
ロバーツ師が分析・評価している多くの点において、わたしも共感する
ところが多々あります。わたしがそれらのことに気がつくようになりました
のは、共立基督教研究所に内地留学し、宇田進先生を中心に福音派
の中のすぐれた神学教師の先生方から、神学の四部門において豊かな
神学的研鑽を与えていただいてからのことでした。
- Dana
Robert,“Understanding Watchman Nee”の構成は以下の通りです。
・序文
・導入
1.ウォッチマン・ニーと小さき群の働き
・両親と誕生地
・誕生と初期の教育
・回心
・神学教育
・小さき群れの成長
・小さき群れと革命
・同労者の働き
2.ニーの著作への導入
・発表された書籍
・本のスタイル
3.御言葉と御言葉の奉仕
・御言葉の研究
・聖められた奉仕者
・御言葉の奉仕
・結論
4.人間論:霊の人と彼の生活
・人間の三一性
・人間の創造と堕落
・キリスト、すべての霊的総計
・霊
・魂
・からだ
・十字架の四重の働き
5.教会とその働き
・歴史的考察
・教会の普遍性
・教会の地域性
・終末における教会
6.要約と結論
・福音主義的評価
- ダナ・ロバーツ師の分析・評価の視点は、エリクソン師の視点と重なる
部分があります。それは、ダナ・ロバーツ師が、ウオッチマン・ニー師の
「プルーフ・テキスト的な聖書解釈法」や「ディスペンセーション主義の
聖書解釈法」の問題点を指摘しているところです。この指摘は、エリク
ソン師が、『キリスト教神学』第一巻の「神学方法論」において指摘して
いるところであり、フラー神学校の取り組んだ基本的テーマ“Reforming
Fundamentalism〔根本主義を修正すること〕”に符号するところでも
あります。
- わたしは、KBIで学んでいる神学生が様々な聖書知識やいろいろな
神学を学ぶこと以上に、まず神学に取り組む基本的スタンスとして
“Reforming Fundamentalism〔根本主義を修正すること〕”の意味する
ところとは一体何なのか、をしっかりと把握することこそが、神学の学び
のスタート・ポイントだと考えています。
4/11a
- 今年度の目標としまして、「ICI日誌」の定期的な書き込みがあります。
昨年度は、DVD講義録や講演録の申し込みがかなりあり、XPパソコン
の能力として、DVD編集・コピー作業中はホームページ編集等、他の
作業ができませんでした。
- 年末からXPパソコンの液晶画面が壊れて映らなくなりました。なんとか
修理はできましたが、この際思い切って Vista パソコンを購入しました。
そのおかげで、今年は「ICI日誌」への書き込みを中心に取り組んで
いきたいと思っています。
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2007.04.08 Yamasaki Chapel Short Message
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-
070408_y_ag_ss_jh20_1-18.wma
- 新改訳 ヨハ 20:1-21
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
4/2 両陣営からの冷静かつ有益な知恵を吸収しつつ、中道の道を進む!
- 先月は、所属教派の日本福音教会〔Japan Evangelical Churches〕の
拡大教職者セミナー〔正教師・補教師合同〕『Homo-Patience〔病める
人間〕』をテーマにして、JECにおけるさまざまなレベルにおける「全人
的癒しへのアプローチ」の取り組みを全般的に振り返るひとときとなり
ました。
- 作成しました資料においては、過去十数年間の「全人的癒しへの取り
組み」がJECの諸教会で多様なかたちで取り組まれた苦闘の歴史を
垣間見ることができるように思います。S福音教会のI執事の闘病と癒
しの戦いの描写は、JECにおける真剣な癒しへの取り組みの象徴的
な出来事のように思います。
- 「癒しへの取り組み」は、教会にとってきわめて大切な部分であること
は決して変わらないと思いますが、「癒しへの取り組み」は決してナイ
ーブ〔単純、無邪気〕な信仰のみで進むことのできない深さをもつ取り
組みでもあることを教えられます。
- その取り組みは、JECにおいてはM福音教会のF先生のCPMの働き
の中で、JECの福音理解の中に絶妙なかたちで位置づけられ、良い
働きの展開があったと思います。
- 特に、F先生は一宮基督教研究所〔Kansai Bible Institute:略称 ICI 〕で
「基礎教理」を教えておられることもあり、「全人的な癒しへの取り組み」
を神論・人間論[神のかたち論・罪論等]・キリスト論[贖罪論等]・救
済論[義認論・聖化論・聖霊の満たし論等]・教会論[聖霊の実・聖霊
の賜物論]・終末論という「神学の秩序」の中、また救済論という「救い
の秩序」の中で扱われているところにJECらしさ≠ェよく表わされて
いるように思います。
-
ルイス・B・スミード編集“Ministry and the
Miraculous -A Case Study
at Fuller Theological Seminary-”のp.46「信憑性と奇跡」の章
に「たとえ奇跡的であったとしも、個々人の病気の癒しは、神の民
と神の世界のより深い必要に比ぶればクリスチャンのミニストリーに
おいてはまさにより小さなテーマである。」と記述されている通りで
す。
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癒しのミニストリーには、きわめて「主観性」をもって受けとめられる
経験が多いので、真に客観的な癒しを識別することはかなり困難
です。しかし、フラーの教授陣は「癒しのミニストリーにおける事実
と解釈」において、クリスチャンの奉仕者はその客観的信憑性
において誠実であるべきである、とたしなめています。
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わたしも、この点においてずさんな<~ニストリーをする奉仕者は
主の名を汚す可能性があると危惧しているひとりです。
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JECは、保守的な教派とペンテコステ的な教派の架け橋%I
位置にある、とよく先輩の先生方から教えられました。もし、その
位置付けを大切にするのであるならば、私たちJECの教職者は
フラーの教授陣がまとめあげたルイス・B・スミード編集“Ministry and
the
Miraculous -A Case Study at Fuller Theological Seminary-”
を丁寧に学んでいく必要があると思います。私たちは、ともすれば
いつの間にか、ひとつの極端≠ヨと舵をきってしまうことがあるか
らです。
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JECがKBIという神学教育機関を持っていることの意味は、
KBIを所有するJECという群れは、フラー教授陣のような、
「全人的癒しへの種々のアプローチ」をバランスのとれた福音主義
神学的視点から分析・評価し、癒しの全面的否定とか癒しのミニス
トリーの無批判な受容といった両極端≠ノ走ることをさけ、両陣営
からの冷静かつ有益な知恵を吸収しつつ中庸の道≠進みうる
群であり、神学教育機関であることを証ししていくことが求められてい
ると思います。
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今日のように混沌とした時代においては、そのような群れこそ尊敬
を集めることができ、そのような神学校こそ学ぶべき神学教育内容
があると評価されて生徒を確保できるのではないかと思います。