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その意義と目的

Ichinomiya Christian Institute online

21/09/01


1. 全生涯に奉仕する補給基地

2.空間を越えたクラス・ルーム

3.半分しか形成されていない私の思考

4.すべては個人の情熱から始まる


5.「神学研究→教会形成→宣教」におけるパソコンの活用
1996年 一宮基督教研究所 「教職者セミナー」資料 1997年 日本メディア伝道協議会 「ニューメディア宣教セミナー」資料) 

6.電子メディア時代とJEC
1997年 JEC(日本福音教会)ニュース 連載記事

7.インターネットを用いての「神学研究」の実際
日本福音主義神学会 西部部会 秋期研究会議

8.ネット社会における神学教育の可能性
(神戸ルーテル神学校教授会シンポジウム)

9.「組織神学的瞑想」のススメ
「いのちのことば10月号」コンコルダンス特集

10.情報環境の変貌の中での−神学教育・伝道・教会形成−
21世紀のJECの宣教を考える


このファイルでは、「一宮基督教研究所」の働きをなぜ始めたのか、どのように導かれてきたのか、またどのような考え方で運営していこうとしているのか、誰のどのような言葉を励ましとしているのか…、など多くの示唆やアイデアを書き綴っていきたい。.
 

1. 全生涯に奉仕する補給基地

「一宮基督教研究所」は、KBI(一宮基督教研究所)を卒業し、七年間岬福音教会で牧師として奉仕させていただいた後、三年間千葉にある「共立基督教研究所」において内地留学の恵みにあずかった経験からきている。

恩師であった宇田進師は「いままで、神学校は伝道者の生涯の最初の三、四年だけにかかわりを持つ基礎訓練機関のようにみられたきましたが、最近では伝道者の全生涯に奉仕する補給基地と再定義されつつあります。また、いままで神学校は伝道者としての明確な召命を受けた者だけが行くところのいわば閉鎖的な修道院的な場所と考えられてきましたが、最近ではすべての教会に、そしてあらゆるキリストのしもべに開かれた学びの広場(フォーラム)と考えられるようになってきました。」と語られている。

わたしは、これに導きを感じ、三年間宇田師の膝元で神学の学びにあずかったのであるが、わたしはわたしの所属する教派である日本福音教会(JEC)と母校である一宮基督教研究所(KBI)の流れの中に、このような「継続神学教育」の機能をもつ場をつくることができないだろうか、ということを考えてきた。

おりしも、世は「電子メディアの時代」が到来しつつあった。わたしは現在の働きを考えていなかったが、一宮基督教研究所における講義の準備をいつしか「ホームページ作成ソフト」の中でするようになっていった。いつのまにか、この「ホームページ」はわたしの書斎となり、世界に向けてのわたしの教室となっていった。多くの見知らぬ人からのメールが届き始めた。多くの人がこのホームページを、いやわたしの意識の底にあるものに関心をよせてくださるのを感じはじめていた。わたしは微力であるけれども、わたしの研究に関心をよせてくださる方々のひとりひとりに精一杯こたえていきたいと考えるようになった。

以上のようなことが、単なる「安黒務のホームページ」から、「一宮基督教研究所」へと看板を付け替える動機を構成している。
 

2.空間を越えたクラス・ルーム

わたしの好きな書籍の中に「ダラム便り−あるイギリス留学記−」(山田耕太、すぐ書房)がある。その中の記述「神学−沈黙とディスカッションのあいだ」が”Class Room beyond Space「空間を越えたクラス・ルーム」”のアイデアのひとつになっているので、その引用と抜粋をもってわたしの考えを代弁させたい。

「神学とは何か。それは”神”と”人間”をめぐる果てしなきディスカッションのように思われる。・・・」

「新学期が始まり、最初に面会に行き、私のコース―論文のみで、試験などはいっさいない研究生―の性格、進め方などを質問すると、週一回ていど先生の部屋で『”ディスカッション”をする』ことを伝えられた。さらに、ヨーロッパでは…学問であればなんであれ『”ディスカッション”が基本である』ことを、親切に付け加えてくださった。」「…さらに、日本の大学と違う点は、授業がまったくなく、個人指導のみで論文のみを書く研究生が大学にいる点である。…単位や試験がなく、論文のみに集中できるので、ドクターは三年、マスターも一、二年でよい論文が書ける。」

「私は、あるときから、授業が”ディスカッション”であることに気がつき始めた。講義は、教授が教壇で一人でおこなう”ディスカッション”なのである。”ディスカッション”は疑問文から始まる。『問いの中に、暗に答えが前提となって、含まれている。』…正しく問うことが”ディスカッション”のはじまりである。続いて、重要な意見の紹介、批判的吟味、答えと導かれていく。…新約聖書学の場合、約二百年の”ディスカッション”の蓄積がある。―組織神学ならば二千年の蓄積となろう。…」「…教壇で先生が一人で、休む間もなく”ディスカッション”しているあいだ、学生はみな、終始、一言ももらさないかのようにノートを取り続ける。…教壇の”ディスカッション”は、すべて講義ノートにもとづいてされる。思いつきの”ディスカッション”ではなく、教壇の卓のうえに載られた細かい字でびっしりと埋められたを一枚一枚めくりながら”ディスカッション”が進められていく。

「私は、最近、”ディスカッション”の背後にある”沈黙”の重要さに気がつかされてきた。…この十七世紀の図書館は、重い沈黙が支配している。…天井から吊るされた二つのシャンデリアは、闇を追い払うことができず、一人ひとり卓のうえのライトが、読書している顔をうす暗い部屋のなかに浮かびあがらせる。…この大いなる沈黙は、十七世紀から変わることなく、続いていると感じられる。…この重い”沈黙”の中から”ディスカッション”が生まれる。」「…このような建物が、イギリス人をつくっていくのである。この”沈黙”が支配する部屋で、イギリス人になっていくのである。…ときおりページをめくる音が沈黙を破る。…この沈黙のなかから、”ディスカッション”が生まれるのである」「大いなる”静寂”に包まれた祈りと読書の生活の中から、”ディスカッション”は生まれてくるのである。」

「”沈黙”とは、日本文化―文学、音楽、絵画、芸能―のなかに現れる”間”と非常によく似ている。しかし、”間”が本質的に「空」であるのにたいし、”沈黙”は本質的に『対話』であるのが異なる。”沈黙”とは、大いなる過去とむかいあい、自然や自己とむかいあい、絶対者とむかいあう、無言の『対話』なのである。」「…沈黙のない”ディスカッション”は『おしゃべり』となり、それこそ『時間の無駄』となるのである。」「…神学とは、結局、過去の大いなる魂と対話し、自己自身とむかいあい、そして絶対者とむかいあうときの、沈黙のなかから生まれてくる”ディスカッション”なのであろう。」

以上、「ダラム便り」からの引用である。これを読んだとき、山田耕太先生の文才を感じたとともに、わたしもそのような”沈黙とディスカッション”の中に生活していきたいと思った。そして今インターネット上に「一宮基督教研究所」の働きをはじめていく中で多くの可能性のひとつとして、その働きの一貫として「空間を越えたかたちでの”ディスカッション”の雰囲気をかもしだすクラスルーム」をつくれるのではないかと考えたのである。
 

3.半分しか形成されていない私の思考

わたしの神学研究の道を最初に切り開いてくれたのは、J.D.G.ダンの「イエスと御霊」であった。穏健なカリスマの流れの中で救われ、聖霊の経験を体験したのであったが、その聖書的な意味がよくわからなかった。関西学院の大学生であった私は「聖書研究会ポプラ」に所属しており、いろんな教派の人たちがいた。KGK(キリスト者学生会)にも所属し、聖霊のバプテスマの理解の多様なのにとまどいをおぼえていた。後に新婚旅行兼研修旅行先であったアメリカの書店で、J.D.G.ダンの「イエスと御霊」を偶然発見した。それ以来、ダンの書物を通しての「イエスと初代のクリスチャンの生活において反映されている宗教的・カリスマ的経験の研究」はわたしのライフワークを形作っている。それ以来、ダンの書物を収集し読んできている。下記のものはその一節であり、ダンの学問研究における姿勢を学ぶことができる。以下のような考え方は特にインターネット時代においては重要なのではないかと思う。

「 ・・・ 新約学のような学問分野には、あらゆる可能な角度から徹底的に調べるまでは意見を文章化しない学者もいるし、十分な結論に達するまでは専門家との対話を好まない学者もいる。学問の水準の高さと完全さのゆえに、私はこのような学問的態度に深く敬意を抱いている。しかし、これらは私の学問研究のスタイルではない。聖書学では専門化と半専門化がすみやかに進行し、それは大規模な産業になり、このひとつの小さな頭脳では、私のテーマでさえ、知るべきことをすべて知りつくすことは、容易ではなくなっている。そこで、ある意味では自己弁護的になるが、しかし原理的には私なりの確信にもとづいて、私は学問研究が共同作業であり、対話であると考えることを好むのである。半分しか形成されていない私の思考が、誰かにひらめきを与えることができれば、という望みを絶えず抱いているので、思考が半分しか形成されていない状態でさえも、私はあえて語ろうとするのだ。不十分であるという批判を受けても私は憤慨しない。実際に私は建設的な批判を歓迎している。なぜならば、批判は冗長さをぬぐいさり、不十分さを補って、明確な洞察力を形成するからである。無知であることを認めることは学問に対する罪であるとも思わない。人の意見に疑問をはさみ、人の判断が本当でないと主張することが、学問の世界では慎まるべきことであるとも思わない。むしろ、訂正されることを恐れて、ただ『安全』な意見だけを述べる人々や、学生のまえではもったいぶって話したがるが、出版や学際的な対話という手段によって可能な、互いに対等な関係にある研究者どうしで吟味する場には、自分の考えをもちだそうとはしない人々によって、学問の発展の動機がずいぶん損なわれていると私は思う。 ・・・ 」

インターネットの特徴のひとつは、双方向であることである。わたしはこれまでのできあがったものによる時代から、書斎における思考、あるいは心の内奥に息づくアイデアのひらめきの段階からお互いに関与しあえる時代がきたのではないかと思う。わたしはそのような関わりや交わり、そしてディスカッションを空間を越えて求めていきたい。
 

4.すべては個人の情熱から始まる

 私は現在、働きながら郷里で開拓伝道をしています。郷里伝道での実といいますと小さなアパートで家庭集会のような礼拝を守る中で四人の子供たちが順番に救われ洗礼を受けてきたことくらいです。「世界で最も小さな教会があるとしたら、きっとこのような教会だろうな」と思います。

関西学院大学・一宮基督教研究所・同助手・岬福音教会牧師・共立基督教研究所への内地留学を終えて、ひとつの岐路に立ちました。それは、「伝道・牧会の最前線で人生の大半を過ごすのか」あるいは「残された半生を神学研究と神学教育に費やすのか」の選択でした。周囲の必要を意識しますと「1タラントを土の中に埋めて、最前線で労苦しなければならない」と思いました。しかし、天を仰ぐと「神学教師としての1タラントを2タラントにする」ことが御旨と確信しました。それがどのようにして可能なのかは知らず、導きの中に兵庫の山深き郷里へと帰りました。

すると、ちょうどその頃、インターネットの時代が訪れてきました。それは、教派とか、教会とか、神学校とか、宣教団体等―どのような団体に所属しているか、またその中でどのようなポストについているかとは関係なく、良質≠フ神学教育を提供できる者に活躍の場所を保障する「新たな空間」が創造されつつある時代でした。この時代は「はじめに組織ありき」から「はじめに個人ありき」の時代で、「新しい個人」には肩書きもポストも必要ありませんでした。現在、導きのままに、改革派からペンテコステ派までを含む福音派で基準的¢g織神学書と高く評価されているM.J.エリクソン著『キリスト教神学』を一段落ずつ丁寧に解説した「電子メール講義」を、教職者・信徒・一般の方をも含めて数百人に配信させてもらっています。また、その結実としての『キリスト教神学』の翻訳・出版を契機に、福音主義神学会の大半に方々にも配信させてもらえるようになりました。さらに、翻訳の印税収入による機材の充実により、ビデオ講義をネット上に掲載したり、CD−Rビデオで配布できるようにもなりました。

わたしの夢は、特別な人が対象なのではなく、すべての年代、すべての階層のクリスチャンに提供される、いわば"太陽の熱(詩篇19:6)"のような恵みとしての「インターネットを通しての継続神学教育」です。現在、地域を越え、空間を超え、アフリカ以外のすべての大陸の日系人クリスチャンの受講生が与えられています。感謝! 『インターネットを用いての継続神学教育』リバイバル新聞原稿

 ★参考図書:私の愛読している書籍のひとつに加藤敏春氏の『マイクロビジネス』があります。その書籍の副題には「すべては個人の情熱からはじまる」とあり、項目には「目的は達成感や働きがい」「モノづくりからサービス競争へ」「プラットホーム+モジュール」「次世代情報都市社会」「楽しみを追い求める『新しい個人』へ」「『夢』は人を動かし世界を変える」「組織は個人のための道具」「新しい個人に肩書きはいらない」等があります。この書籍は、私がH.ベルコフの『義認・聖化・召命』の召命論≠具体的に展開していく上で助けとなりました。


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銀行口座:ゆうちょ銀行、金融コード:9900、店番119、店名:イチイチキュウ店、預金種目:当座、口座番号:0015025、受取人カナ氏名:イチノミヤキリストキョウケンキュウショ 

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