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2022/05/15
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2022年5月15日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇59篇「ダビデを殺そうとサウルがその家の見張りをしたときに」ー今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます-
https://youtu.be/S14JCi46mMY
詩篇は、神の民数千年の歴史の中で唱えられてきた祈りです。この祈祷集は、英国国教会の祈祷書にありますように「あらゆる種類の、あらゆる状況にある人々」のために提供されている祈祷集です。私たちは、この祈祷集たる詩篇の中に、「共通の経験」を探り当てて生きていくように、そのようにして神の民の歴史に蓄積された祈りに「溶け合わせられ、重ね合わせられ」生きていくように招かれているのです。それは、「祈りの生活」を豊かなものとするためであり、私たちの山あり谷ありの人生を「神の中に」掘り下げていくためです。このために、私たちはまず「詩篇に書かれているものを注意深く見る」ことが大切です。そして次に「私たち自身の生活の中で起こってきたことを注意深く観察していく」ことが大切です。今朝は、そのような視点をもって、詩篇59篇をみてまいりましょう。
今朝の詩篇には[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに]という表題がつけられています。それは、詩篇編纂者が、この詩篇の内容の[59:1
私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。59:2
不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください]という懇願の祈りを、サムエル記第一の19章の記事と結び付けたことを意味しています。それは、[Ⅰサム19:11
サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」19:12
そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。]という記事です。
[Ⅰサム19:1
サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた]とあるように、サウル王はダビデを殺す決意を知らせ、一度は、ヨナタンのとりなしで翻意するも、[Ⅰサム19:9
わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。19:10
サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。]
さらに20章では、ダビデをかくまう息子ヨナタンに対してまでも、[Ⅰサム20:30
サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。20:31
エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」20:32
ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」20:33
すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った]とあります。
詩篇は、ある意味で「ジグソーパズルの断片集」です。詩篇59篇は、[A. 懇願: 敵の攻撃からの救い、B. 糾弾:
夕暮れの犬のように、C. 信頼: わが力なる慈愛の神、A’. 懇願: 呪い欺く敵の自滅、B’. 糾弾:
夕暮れの犬のように、C’. 歓呼:
わが力なる慈愛の神]の祈りの断片集なのです。それらのパズルには、欠けたパズルが多くあり、その空白部分は、「私たちの独自の経験」で埋めることができるように空けられているのです。数世紀にわたる祈りの集積から生成されてきた祈りは、特定できる部分は多くありません。それらは、祈りの輪郭だけであり、またエッセンスだけなのです。これは、ある意味で「薬」のようなものです。薬は、薬そのものでは意味をなしません。薬は、それに適合する「病」に対して効果を発揮するのです。
詩篇編纂者は、この詩篇59篇という「薬」の対象を示唆しています。
それは表題の[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに]という状況です。ダビデは、[59:3
今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。【主】よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。59:4
私には咎がないのに彼らは走り身構えています]と無実を主張しています。なぜなら[59:7
ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです][59:12
彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに]と、ペリシテとの戦いに成果をあげればあげるほど、サウル王には猜疑心が溢れ、サウル王の側近の「イエスマン」たちの雑言にもより、窮地に追いやられます。このようなことは、わたしたちの世界でも時折みられることです。
そうなのです。[ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをした]ーそのような窮地・問題・課題に追い込まれるときに、私たちはこの詩篇の一部もしくは全部を用いて祈るように招かれているのです。ダビデは、つい先ほど[Ⅰサム19:9
わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。19:10
サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた]ばかりでした。そして、あわてふためいて妻ミカルとの新居に逃げ帰り、ミカルに「おまえの父親に殺されるところだった!」と言ったでしょう。
ミカルは、最初は「まさか、愛する娘の夫に、父サウルがそんなことをするはずはないでしょう」と一笑にふしたことでしょう。ダビデは、武将としての感として、寸分寸暇を惜しんで逃亡の身支度をしておりました。ミカルは「そんなことをしなくても、大丈夫ですよ」と言いながら、窓の外をちらりとうかがいみると、多くの兵によって包囲されつつあることを見ます。その瞬間ミカルは、状況を理解するに至ります。愛する夫ダビデに[Ⅰサム「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」]と告げ、封鎖された玄関の門と裏門は無理と判断し、目立たない通りにある窓を見つけ、ここは今なら大丈夫でしょうと、[19:12
ミカルはダビデを窓から降ろし]、ダビデの逃亡を助けました。さらに、[19:13
ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。19:14
サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った]と、寝ているように使者たちに見せかけ、それでダビデが遠くまで逃亡できるよう時間をかせぎました。サウルは、仮病を疑い、[19:15
サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」]と命じます。使者たちが、玄関のドア、部屋のドアを打ち破り、強行突破して[19:16
使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった]ーこのようにして、ミカルのおかげで時間をかせぐことができたダビデは、なんとか無事に逃亡し、サムエルのところにまいります。サウルは神から退けられているのに、いまだに王座にいます。ダビデは隠されたかたちで次の王として油注がれていますが、命からがら逃亡の身です。これが、神の国のパラドックスです。いつの時代でも、人は「外」を見ますが、神は「内」を見られる方です。
[Ⅰサム20:3
私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」]と、告白します。わたしは、ダビデのこのような危機のただ中の叫びとして祈りがあるのです。これは、私たちに祈りの道を開く鍵です。「あなたは、あなたの人生において、このような危機的局面に出会ったことはありませんか」という問いかけです。
私たちは、流れる川の水のように、「今流れている川のせせらぎ」しか目の前にはありません。しかし、私たちの「人生という記憶の宝庫」には、実は詩篇集が蓄えられているのです。おそらく、あなたも「人生の危機的局面」において、「娘の婿として迎え入れられながら、槍で壁に突き刺そう」とされたり、「娘との新居を包囲されて袋の中のネズミ」とされ「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」という恐怖にさいなまれる、大小の一瞬を経験されたことがあるのではないでしょうか。それは、ダビデのような経験に「外形的一致」を探し求めているということではなく、「霊的・本質的一致」を探し求めているのです。私たちが、時々「悪夢」という記憶の一シーンを呼び起こすのは、そのような瞬間を記憶しているからです。
このように、霊的・本質的一致のある危機的経験の一シーンを探し求めていくとき、詩篇集は「私たちの人生の記憶の宝庫」となります。新約のヘブル書に[10:7
『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります]とあるようにです。私たちは、私たちの人生の危機的局面を、詩篇のジグソーパズルの欠けた「空白部分」に書き込みましょう。その字句の隙間、隙間に、「あなたの危機的局面」を書き添えるのです。詩篇集は、あなたの、あなたの人生の「記憶の宝石箱」と変換していくのです。これは、大きな恵みです。悪夢が、ダビデの生涯のように「主がともにいてくださった危機」に変換されていく恵み、ヨセフの生涯のように「祝福された記憶」へと変えられていく恵みとなるのです。
私たちを取り囲む問題・課題は、夕暮れ時に徘徊する犬に譬えられ[59:14
彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回り、59:15
食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明か]すと表現されています。夜半の街中を徘徊する野犬の群れは恐怖です。私たちの人生には「「娘の婿として迎え入れられながら、槍で壁に突き刺そう」とされたり、「娘との新居を包囲されて袋の中のネズミ」とされ、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」というような恐怖に包まれる瞬間が、形を変え品を変え、何度も訪れることでしょう。であるからこそ、私たちは繰り返し、繰り返し[59:1
私の神よ私を(問題・課題)から救い出してください。向かい立つ(問題・課題)よりも高く私を引き上げてください。59:2
不法を行う(問題・課題)から私を救い出してください。人の血を流す(問題・課題)から私を救ってください。59:3
今しも(問題・課題)私のたましいを待ち伏せし、力ある(問題・課題)は私に襲いかかろうとしています。]と祈り続けるのです。
過去であれ、現在であれ、未来であれ、人生の危機的局面ではいつでも、ダビデのように祈り、叫ぶものとされましょう。ダビデは、そのように祈り生きるよう、励ますために与えられたサンプルなのです。では、祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅲ』、W.ブルッゲマン著『サムエル記上』、『詩篇を祈る』)
2022年5月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇58篇「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる」ーウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて-
https://youtu.be/5796eDwC7Ww
今朝の詩篇58篇は、「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇のひとつです。58:10には
[正しい人は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗う]という過激な表現があります。また呪いの詩篇の最も顕著な例は、詩篇137の結びの句です。それは、紀元前587年にユダ王国を滅亡させたバビロニア人と、エルサレムの略奪に手を貸したエドム人(オバデヤ10-14節)に対して、復讐を求めて叫ぶ民の歌です。[詩137:7
【主】よ思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。137:8
娘バビロンよ、荒らされるべき者よ。幸いなことよ、おまえが私たちにしたことに仕返しする人は。137:9
幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ岩に打ちつける人は。]と。なんという激しい言葉でしょう。人権尊重の21世紀に、特にか弱い女性や幼い子供に対するこのような表現はゆるされない今日であります。このような「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇を、新約のキリスト者としてどのように受けとめたら良いのかということは、詩篇を傾聴するものにとって大きな課題です。
ただ、言えることは、このような詩篇の嘆きの歌が、人間の苦悩の底から、残酷さや憎悪の感情がえてして湧き上がる深淵から生じてきたことは容易に理解できます。旧約聖書が全体としてそうであるように、人間生活のあらゆる情念や激情がそのままここに表現されているのです。詩篇は、真善美の理想的で超歴史的な、極楽浄土を示しているのではありません。むしろ詩篇は、変化と闘争と苦難に満ちた、歴史的状況に関わるものなのです。先に示しました詩篇137篇は、弱小の民族が大帝国の軍隊に蹂躙され、今まで大切に保ってきた一切を、またたく間に奪い取られた苦難に満ちた歴史的状況に由来しています。このような「紀元前587年にユダ王国を滅亡させたバビロニア人」の情況に類するものを、私たちはこの21世紀のウクライナのブチャに、マリウポリに見ています。そのような視点をもって、今朝の詩篇をウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて見てまいりましょう。
新約の光に生きるクリスチャンは、「呪い」または「呪詛」と呼ばれてい詩篇を無反省に唱和することはできません。しかし、同時に、この詩篇58篇や詩篇137篇等が、現代社会においても数多くの並行例を持っていることを、ゆめ忘れてはなりません。チェチェンのグローズヌイ、シリアのアレッポでも残虐な殺戮がなされました。ジョージアの一部、モルドバの一部も占拠されています。クリミア・ルハンスク・ドンパスの地域も切り取られようとされています。そして、マリウポリ、キーウ、ウクライナ全土も標的にされました。このような状況下で、わたしたちにはどのような祈りが与えられているのでしょうか。
問題は、ロシアのように人類全体を絶滅させる核兵器をもつ強国の前で、わたしたちはどのような主張をもつことができるのか。わたしたちはどのような祈りをもつことができるのか、という問いなのです。私たちは、「核戦争」の恐怖・脅迫の前に膝を屈し、ウクライナを、そして東欧諸国を差し出し、「偽りの平和」を謳歌すべきなのでしょうか。それとも、常任理事国のひとつであり、核大国であるロシアに対して、その不当な領土要求に対し、[58:1
力ある者(ロシア)よ、おまえは本当に義を語り、人の子らを公正にさばくことができるのか。力ある者(ロシア)よ、58:2
実におまえは、心で不正を働き、地で手の暴虐をはびこらせている]だけではないのか、と自由と民主主義の最前線に立って戦うウクライナの人々とともに、神の義に立脚し、ロシアの不正と暴虐に立ち向かうべきなのではないでしょうか。ウクライナのために祈り、とりなすべきなのではないでしょうか。
御しがたい核大国ロシアの大統領プーチン氏には、彼の大統領選出の経緯においてすら大きな疑惑にまみれています。無名のプーチン氏が一躍有名になり、突如大統領に当選した背景には、その直前に頻発した集団住宅の連続爆破事件があり、そこから生じたチェチェン人に対するロシア人の憎悪がプーチン首相のチェチェン壊滅の力の源となり、第二次チェチェン戦争で勝利したプーチン氏は一躍国家的ヒーローとなり、大統領に当選したのでした。この戦争で味をしめたプーチン氏は、メディアを支配し、脚本を作成し、選挙と戦争を見事にからめて独裁者としての地位を固めていきました。ロシア国民をひとつにした「集団住宅の連続爆破」そのものが、元FSB(旧KGB)長官であったプーチン首相が仕組んだことだと疑われているのです。もし、これが真実だとしますと、[58:3
悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。]
とあるように、プーチンは「大統領選出」の出発点から、「踏み迷い」「さまよい」ロシア国民を欺いていることになるのです。
エリツィン大統領の混乱期を引き継いだプーチン氏は、その大統領としての「その出自」から、今日の「ウクライナ侵攻」に至るまで、
FSB(旧KGB)長官の[58:4
蛇の毒のような毒]と策略によってロシア国民を欺き、民主主義や言論の自由を抑圧し、他の意見には[耳の聞こえないコブラのように耳を閉ざし]、58:5
[聞こうとしない]
の思考の中で生きているのではないでしょうか。しかし、いまやプーチン氏の偽りの数々は、全世界に明らかとされるようになってきています。「人を一時的に騙すことはできても、永遠に騙し続けることはできない」と言われる通りです。隣国ウクライナに無理難題を強制する独裁的指導者に対し、欧米中心に、今や世界の大半の国々が、[58:6
神よ、彼ら(ロシア)の歯をその口の中で折ってください。【主】よ、若獅子たち(プーチン)の牙を打ち砕いてください。]と大量の武器や経済的協力を提供するようになっています。世界を敵に回して、ロシアに勝ち目はないでしょう。
ロシアの巨大な軍事力に対することにしり込みしていた欧米は、最初は「三日程度で首都キーウは陥落し、ゼレンスキー大統領は亡命するのではないか」と見ていたようです。しかし、ウクライナは不意に襲われ、奪われた2014年のクリミア制圧以後、さらなる侵攻があると予測し準備していました。分裂していた国論もひとつとなり、ロシアによる侵攻阻止のために国民は一丸となりました。ウクライナは、二ヶ月あまり持ちこたえているだけでなく、北部は押し返し、撤退に追い込みました。欧米の支援は、経済封鎖から、軍事支援にレベルをあげていき、今や五月下旬には失地回復の反抗ができうるまでに兵器が整うと見られています。今や、「ロシアの属国とされるかもしれない」という絶望は、「民主主義と言論の自由のある独立国家達成」の希望へと変わってきています。ウクライナは、欧米の軍事的・経済的支援を得て、[58:7
(侵攻しているロシアの軍隊)が流れ行く水のように消え去り、(欧米の経済封鎖の)矢を放たれるとき(ロシア経済が)干上がりますように。][58:8
(ロシアの軍事力)が溶けて消え行くなめくじのように、日の目を見ない死産の子のようになりますように]と祈る希望をもちうるまで励まされています。今回の侵攻で、ロシアは経済も、軍事力も二度と侵攻できないほどに弱体化していくことでしょう。ロシアの占領軍は、いずれの日にか[58:9
釜が茨の火を感じる前に、それが緑のままでも、燃えていても等しく(ウクライナの地から)吹き払われ]、撤退せざるをえなくなるでしょう。
そのとき、[58:10
(ウクライナの人々、また自由と民主主義を求める人々)は、復讐(すなわち、ロシア軍の撤退)を見て喜]ぶことになるでしょう。多大な被害を与えたロシアは、ウクライナに対する莫大な賠償金を支払うことなしに、国際社会に受け入れられることは困難となるでしょう。兵のみでなく、多くの市民、老若男女、子供たちの犠牲を強いられましたウクライナの人々の足は[悪しき者の血で洗う]と表現されているように、(不法侵入し、支配を強制しようとしたロシア兵もまた多大な死傷者)を出したことも記憶されるでしょう。それは、偉大なソビエト連邦復活の野望を抱いたただひとりの愚かな独裁的指導者によって、ウクライナとロシア双方にもたらされた、測り知れない人災なのです。そのようなプーチン氏には、いずれ審判が下されるでしょう。ウクライナの勇敢な人々とその子孫には報われるときが訪れるでしょう。「言論の自由と民主主義のあるヨーロッパをいのちがけで守った人たちがいた。それは、勇敢なウクライナ人たちだ」と人類の歴史に刻まれるでしょう。[58:11
こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」]と。
今朝の詩篇58篇は、「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇のひとつです。今朝の詩篇をウクライナを「滅ぼすな」の調べにあわせて見てまいりました。このように、
「呪い」または「呪詛」と呼ばれている詩篇も、わたしたちの今日の情況に適用できるのです。ウクライナの事象のだけでなく、私たちの日ごとの出来事においても、これらの詩篇を適用しうるものとされるようになってまいりましょう。では、祈りましょう。
(参考文献: B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年5月1日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇57篇「私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます」ーダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに-
https://youtu.be/uxoNRsPbgzU
コロナ禍が収束したわけでありませんが、時は「コロナとの共存」の時期へと入ったようで、私たちの所属団体の春期聖会も久しぶりに再開され、「同窓会」で出会うかのように、多くの先生方や兄弟姉妹と再会し、挨拶を交わすことができました。知己の顔を見ますと、「古いアルバム」が開かれ、「数々の過去の祝福の思い出」がよみがえってきます。それらは、私たちの「主にある人生の財産であり、宝石箱」のようなものです。さて、私たちが取り組んでおります「詩篇傾聴」もまた、神のみ言葉である聖書を「座右の書」として生きる「信仰者のアルバム」です。私たちが「詩篇に傾聴する」とは、その「アルバム」の中に、私たちの人生を、さまざまな経験を、涙と喜びを、痛みと感謝を、数々の辛い経験とその中でいただいた濃厚な臨在の祝福を「詩篇の中に持ち込み、自由闊達な想像力を展開」し、詩篇の言葉の助けを得、私たちの人生のここかしこに散りばめられている「主からいただいた宝石の原石」のような思い出を「研磨」し続けるということなのです。詩篇傾聴とは、自らの思い出の原石を「研磨機」にかける作業のことなのです。では、今朝の箇所を朗読させていただきます。
詩篇57篇は、[ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに]という表題が掲げられています。それは、この詩篇の内容から、その想像力の翼をはばたかせる上で、「サウル王のあくなき追撃を、きわどく、かろうじてかわし続けるダビデの姿」が重なるからです。この詩篇の祈り、叫びは、マリオポリの地下に封じ込められ、猛烈な爆撃を受けているウロライナの兵隊や市民の情景とも重なります。繰り返し傾聴しますとき、この詩篇は前半と後半で、音の旋律が変化していると気づかされます。前半は嘆きの歌であり、後半は感謝の歌で構成されています。これは、クリスチャン生活のもつ光と影の二面性をも示しています。クリスチャン生活には、光だけということも、影だけということもありません。一日に「夕があり、朝がある」ように、クリスチャン生活においても「影の局面があり、光の局面がある」のです。
詩人は、[57:1a
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]と、自らが置かれている状況のただ中から叫んでいます。それは、サウル王の精強な軍隊に追い詰められ、洞窟の中に逃げ込み、「袋の中のネズミ」となったダビデと少数の家来たちの姿でもありました。人生には、至る所にそのような洞窟があります。ダビデの物語をみますとき、ダビデは「私も、もはやこれまでか!」と思ったのではないかと思われる場面が幾度も出てきます。それは、いわば明智光秀の軍隊に包囲された「本能寺で果てる織田信長」のようにです。信長は「もはや、これまで!」といさぎよく切腹をし、首を敵の手に渡さないようにと屋敷に火をはなちました。ダビデは、[57:1b
私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。]とただただ主により頼みます。危機の極限、絶体絶命のピンチ、滅びるばかりに追い詰められている洞窟の奥に潜み、希望を捨てずに戦っているのです。キリスト教信仰とは、「希望という酸素」を呼吸しつつ生きる信仰であると言われます。
ダビデは、なぜこのように偉大な信仰をもつことができたのでしょう。敵に対する時だけではありません。味方にも殺されそうになりました。[Ⅰサム30:6
ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出した]ことがありました。皆さんは、家庭の中で、親族の中で、教会の中で、また団体の中で、神学校の中で、さまざまなレベルの摩擦・軋轢・意見の相違・対立に直面されることがあるでしょう。地上にあるものは、不完全で発展途上にあるものだからです。「私心なく善良な心でなしたことも、悪によって報いられる」と感じることもあるのです。[しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。30:7
ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。30:8
ダビデは【主】に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」]と。ただ、問題が発生することが問題なのではありません。第一の問題が片付けば、第二の問題が目に付くようになります。第二の課題が片付けば第三の課題が頭をもたげてきます。大切なことは、どのような状況下でも「主に伺いを立てつつ生きる」ことであり、コロナと共存していくように、さまざまな問題と共存し、主に依拠してそれらの問題をひとつひとつ乗り越えていくということです。ダビデから教えられることは、ダビデが主との、いわば「ホットライン」を駆使していることです。ちょうど、弱小のウクライナの軍隊が、世界的強国のロシアの攻撃から国土と市民を守る際に、イーロン・マスク氏から[57:3
天から助け]を受け「スターリンク」を活用し、大きな戦車に、小さな対戦車ミサイルで正確無比な攻撃をしかけたようにです。
私たちも、この世界、この人生のさまざまな問題・課題に囲まれ、「洞窟の奥に身を潜める」しかない場面で、神の「スターリンク」を活用することはできないのでしょうか。ダビデは、サウル王の正規軍の精鋭の囲まれ、[57:4
獅子たちの間で、貪り食う者の間で横たわ]り、[彼らの歯は槍と矢、彼らの舌は鋭い剣]のえじきになろうとしています。物音ひとつ立てても、いのちを失いかねない緊張感の張りつめる中、洞窟の奥に家来とともに身を潜めるダビデでありました。しかし、ダビデは「心の奥まった部屋でエポデを身に着け」で祈り、叫んでおりました。[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。][私のたましいはあなたに身を避けています][私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます][57:2
私はいと高き方、神を呼び求めます][57:3 神は天から助けを送って私を救い、私を踏みつける者どもを辱められます]と。
この詩篇から、ダビデの祈りと叫びの力を教えられます。私たちも、「滅び」に囲まれる時、ダビデのように「神の御翼の陰」に身を避け、祈り叫ぶ者とされたいと思います。さて、この詩篇は、わたしたちクリスチャン生活のように、「嘆き」の前半を持ちますとともに「感謝」の後半を有します。前半の、槍と矢、鋭い剣で貪り食らいつく獅子たちに囲まれた獲物の滅びという「短調の暗い旋律」から、後半の感謝と讃美の明るい長調へと移行しています。詩篇を通して教えられる祈りの特質は、嘆願者は、「神に必ず聞き入れられるという確信」をもって、「悲嘆や抑圧」のただ中から「神による解放」を待望し、[57:7
神よ、私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。]と、神の恵みのみわざを先取りし、讃美で終わるところにあります。私たちも、詩篇の助けを得て、信仰生活の中にこの二面性を耕し、開発していこうではありませんか。
ダビデは、いまだ洞窟の奥に潜んでおり、絶体絶命のピンチのただ中に置かれています。そのただ中から、ダビデは[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。]と祈り叫びます。新約ピリピ書で、パウロも申します。[ピリピ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。]と、[4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。]と。すなわち、祈りと叫びの中で、霊的な「ホットライン」が機能します。「ジリジリーン、ジリジリーン」と相手の受話器が鳴り、「通話」のサインが現れます。私たちは、[[57:1
私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]とSOSのサインを送ります。
私たちの世界でも、事故が起これば119、救急車、火災が発生すれば消防車、犯罪があれば110、パトカーが緊急に駆けつけてくれます。私たちは、この地上の機能以上に、「天のスターリンク」ならぬ、「神さまとのホットライン」の活用をダビデから学ぶべきではないでしょうか。ダビデは、いまだ[57:6
彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。]と、洞窟の奥で、うなだれています。しかし、祈り叫んだ後には[彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。]と「神さまが必ず絶体絶命のピンチから救い出し、立場を逆転させてくださる」という確信を表明しています。戦いにおいては、「勝利しうるとの確信」を抱く側に、「勝利の女神はほほえむ」と言われます。これが信仰生活です。これが祈りの機能です。三日で陥落すると見られていたウクライナの首都キーウは、持ちこたえただけでなく、押し返し、退却させ、その犠牲を惜しまぬ勇気に奮い立たせられた西側の国々は「ウクライナは勝つだけでなく、奪われていた地域も奪還して勝利するかもしれない」と希望を持つようになってきています。犠牲、信仰、希望の力を教えられます。
[57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。]の暗い短調の嘆願は、[57:7
神よ、私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。]との明るい長調の感謝・讃美へと移行させられるのです。神の救いを確信したダビデは、洞窟の奥に身を潜めつつ、心の中で、心の奥底から[57:8
私のたましいよ、目を覚ませ。琴よ、竪琴よ、目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。]と暗闇が明けはなたれる朝明けを間近に意識しています。預言者サムエルを通し真実な「油注ぎ」をダビデに与えられた神は、「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」も、この約束への確信を再確証し、[滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避け]させてくださったのです。
神が、人生の春の嵐の日に、わたしたちを洞窟の奥にかくまい、その暴風雨が過ぎ去るまで、護ってくださいますように。ウクライナがロシアの侵攻の嵐から護られ、御翼の陰に身を避けさせてくださいますように。知床岬の観光船で亡くなられた方々、また遺族の方々の上に主の慰めがありますように。お祈りしましょう。
(参考文献: ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年4月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇56篇「まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから」
ーダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた-
https://youtu.be/w4a9rPHu2GY
今朝の詩篇56篇は、「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに」という表題がつけられています。詩篇編纂者は、この詩篇の内容から、ダビデにとっての最大の危機、最大の岐路のひとつをこの詩篇の「祈り、状況・理由、信頼の告白、誓約・感謝」と結び付けたのです。ということは、私たちがこの詩篇を傾聴し、祈る際に、私たち自身の生涯における「危機・岐路」と結び付けて祈るよう、状況と理由を重ね合わせて祈るよう、信頼・感謝・誓約の告白へと展開させるように、励ます詩篇であるのです。そのような視点をもって、この詩篇に傾聴してまいりましょう。では、朗読いたします。
まず、表題「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに」をみてまいりましょう。ダビデの生涯を振り返ります。ダビデは8人兄弟の末っ子で羊の番をしていました。神は、預言者サムエルを遣わし、ダビデに油を注がれ、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しくくだった」(サムエル記第一16:12-13)とあります。その瞬間から、サウル王はおびえるようになり、やがてダビデ殺戮を追い求めるようになりました。それは、新約でイエスがヨルダン川でバプテスマを受け、御霊が鳩のように下った後、「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられ…。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた」(マルコ1:9-13)ようにです。ある先生が「クリスチャンが肉的に生きている時、サタンは庭先で昼寝をしているが、クリスチャンが聖霊に満たされるとただちに起き上がってくるので、戦いが始まる」と。
ダビデは、不思議な神の御手で、やがて仇敵となるサウル王のもとで竪琴をひく者とされました。小さなことに忠実なダビデは、王宮で、政治を学ぶ機会が与えられたことでしょう。(サムエル記第一16章)また、そのようなダビデを引き立てる舞台が用意されました。その背の高さは六キュビト半(2m86cm)もある「ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人」(サムエル記第一17:23)でした。この巨人の勇士ゴリアテを「五つの滑らかな石」と石投げを用いて、打倒したのでした。その後、戦士の長とされたダビデは、連戦連勝し、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と言われるようになりました。サウル王の、ダビデに対する殺意は頂点に達し、あらゆる機会を捉えて亡き者にしようと画策するようになりました。
ダビデは、サウル王の娘ミカルやヨナタンの助けも得て、いのちからがら逃げおおせていました。ダビデには、多くの理解者、支持者がいたことを教えられます。神さまは、「義にある者」に対し、数多くのシンパ層を備えてくださいます。そして、先日言及しましたノブの祭司、アヒメレクとの出会いの後、「ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た」のでした。ダビデはサウル王の敵意に追われて、イスラエルの中に身の置き所のない窮地に陥っていました。その結果として、本来イスラエルの宿敵でありましたペリシテ人の地に脱出したことは、ダビデの苦境がいかに追い詰められたものであったかという事情を示しています。いわば万策つきて、ダビデは敵の本拠に潜入したのでした。しかし、そこでイスラエルの勇将ダビデであることを見破られ、捕縛されてしまったのでした。
そのときに、捕縛したダビデを連れてきて[Ⅰサム21:11
「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」]とアキシュの家来たちはアキシュに告発します。ダビデは、この言葉の意味を一瞬にして悟ります。「このままでは、ペリシテの最大の脅威の人物として殺される」と。[21:12
ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた]とあるように、わたしたちは展開していく人生のさまざまの状況の中で、そのときそのときの「言葉の意味を瞬間的に洞察」するということは大切なことだと思います。それによって、私たちの人生というドラマの展開は大きく変わることになるからです。岐路に立ったときに、「主の本質的なみ旨」がどこにあるのかを洞察する力のことです。
このことに関連し、ひとつのことを申しあげておきましょう。わたしは、拙訳のエリクソン著『キリスト教教理入門』のある個所(p.321-322)から大きな助けを受けてきました。そこでは、ハイデガーという哲学者の「非本来的実存と本来的実存」という考え方が示されています。そしてブルトマンという神学者は、その概念を応用し、救いとは、神が本来的に意図されている「真実なる自己自身に呼び出す」ことであると定義しています。そしてカール・バルトという神学者は、福音を「義認・聖化・召命」という範疇で捉え、「義と認められ聖化されたキリスト者は、今やキリストのみわざに参与すべく、証人たるべく召されている」(H.ベルコフ著『聖霊の教理』p.143)と解説しています。ヘンドリクス・ベルコフという神学者は、「聖霊は義認においては、われわれの中心を占有するが、聖化においては、われわれの人間性の全領域を占有する。そして、われわれの中に満ちることによって個性を占有する」と整理し、「この個性というのは私だけが持つ特別なしるしであり、生全体のために私がなすべき特別な貢献である」(前掲書、p.142)と述べています。
わたしが、今朝この詩篇から傾聴したい「v.4,10
みことば」ーすなわち、神の御思い、神の約束、神の導きは、ここにあります。神により選び出されたダビデは、まずサウル王からの追撃を受け、さらに宿敵ペリシテの王に捕えられる身ともなりました。「もはやダビデの人生はこれまでか」と思われた絶体絶命のピンチで、ダビデは、[56:1
神よ、私をあわれんでください。]とA.
祈り、サウル王やアキシュ王が[私を踏みつけ、一日中戦って、私を虐げているからです。56:2
私の敵は、一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです]とB.
状況・理由を説明しています。これらは、ダビデの心の中の叫びでありました。私たち、大小の危機において、常に「ダビデのように、神に向かい、心の中で思い切り叫ぶ」ことを学びましょう。
また、[56:5 一日中彼らは、私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私に対する悪です。56:6
彼らは襲おうとして待ち伏せし、私の跡をつけています。このいのちを狙って。56:7
不法があるのに、彼らを見逃されるのですか。神よ、御怒りで国々の民を打ち倒してください。]と、 B’.
理由・状況を説明し、[56:8
あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。]と、苦汁・苦境の中で悶々とする思いを、A’.
祈り、開陳しています。
ダビデは、[Ⅰサム21:11
「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」]という言葉が、「将来、ペリシテにとって、最大の脅威となりうる勇士、将来のイスラエルの王ダビデの首は、今取っておかねばなりません」と聞こえたことでしょう。そのような絶体絶命の状況のただ中での祈り・叫びは、ひとつの洞察をダビデにもたらしました。ダビデは、アキシュの家来の言葉を聞いた瞬間に「神からの知恵」をいただき、恥も外聞も気にせず、[Ⅰサム21:13
ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした]のでした。なんという機転でしょう。なんと機敏な反応でしょう。このような洞察・機転・機敏な反応に学びたいものです。
これは、巨人ゴリアテを倒した羊飼いダビデ、ペリシテに連戦連勝した戦士の長ダビデ、油注がれた将来の王ダビデのいのちを救う唯一の「脱出の道」(Ⅰコリント10:13)でありました。そのよう逃れ道を一瞬のうちに見出すダビデに舌を巻きます。このようにして、ゴリアテの故郷ガテの王アキシュは、「ペリシテにとっての最大の脅威となるダビデ」を取り除く千載一遇のチャンスを失います。ダビデは、外国に逃避する計画をあきらめ、イスラエル国内の荒野やほら穴を転々とする、困難な逃亡生活を続け、サウル王の巨大な正規軍との戦いには、ウクライナ国民のようにゲリラ戦術での防戦にあたります。そのことにより、すぐにも吹き消される「ほのくらい灯芯」のようであったダビデのいのちは死から救い出され、ダビデの足はつまずきから解放されることとなりました。そして、ひそかにイスラエル国民に浸透し続けていた「ダビデの灯」はやがてイスラエル全土をおおう光として輝く日が訪れます。なので、「神の義」が私たちの側にあれば、恐れることはありません。あわてることも必要ありません。瞬間瞬時を大切にし、主の導きに丁寧に応答していくだけで良いのです。これは、「主の戦い」であり、「私の、私的な戦い」ではないのですから。
わたしたちの人生には、[56:3 心に恐れを覚える日]があります。悶々とする[56:8
私のさすらい、私の涙の日々は神の皮袋に蓄えられ、神の書に記され]ています。そのような日々に今朝の詩篇とダビデの物語は助けとなります。私たちが人生の岐路にさしかかる時、また私たちが絶体絶命の危機に陥る時、[ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたとき]を思い起こしましょう。私たちも、「人生の“ガテ”」で捕らえられる時があるでしょう。絶体絶命のピンチがあったでしょう。そのような時に私たちは、恐怖に包まれつつも、心の底から、ダビデのように祈りましょう。叫びましょう。[56:1
神よ、私をあわれんでください]と。
恐怖のただ中でダビデのように[56:3 心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します]と [56:9
私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを]告白しましょう。そして、神さまが人生の岐路において、あなたの召命と賜物を守り、その人生の針路を「神のみ旨」に沿う方向に導いてくださることに感謝をささげましょう。[56:13
まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに、神の御前に歩むために]神さまは、あなたの救いの神です。罪を赦し義と認め、心と生活を聖化し、さらにあなたの存在と人生を聖霊で満たし、個性と賜物を成熟させ、あなたに対する、あなたの人生に対する「神のみ旨」を実現してくださいます。
今、心に響きますのは、わたしの愛好する『ウエストミンスター小教理問答書』[問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか]であり、[答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである]です。私たち人間は、人間世界における「成功の尺度」で神の栄光を測ろうとする傾向があります。しかし、神さまの「栄光の尺度」は人間世界の尺度を粉砕します。神さまの「栄光の尺度」は、もっと多彩であり、もっと多様です。人類75億人としますと、75億通りの人生のドラマがあり、75億通りの「栄光のあらわし方」があるのです。
神さまは、あなたを救い、義とし、聖とし、召し栄光を現わすものとされています。あなたは、人生の岐路に立つとき、これを妨げるものと戦わなければなりません。召命が危機にさらされると察知するときには、ダビデのようにその危機を切り抜けねばなりません。神さまは、あなたが「その本来の召しと賜物に生きる」ように、あなたの召命のいのちを死の危機から。あなたの足を召命から逸脱するつまずきの危機から、救い出し、あなたが召命に応答し、個性と賜物を成熟させ、神の栄光の光のうちに、神の御前に歩む人生に導こうとされているのです。祈りましょう。
(参考文献:
ミラード・エリクソン著『キリスト教教理入門』、ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』、高橋三郎・月本昭男共著『エロヒム歌集』詩篇42-72篇講義、ウォルター・ブルッゲマン著『サムエル記上』現代聖書注解)
2022年4月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇55篇「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」ー彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない-
https://youtu.be/owlAjDWKn_0
おはようございます。今朝は、キリスト教の暦で、イースター、キリストが復活された朝を記念する礼拝の日です。今から、約二千年前、中東のエルサレムの地でキリストは全人類の罪を背負い、十字架上でその罪の身代わりの刑罰を受け、死に葬られ、三日目によみがえられました。私たちが毎週の礼拝で「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の中からよみがえり」と唱和し、信仰告白している通りです。さて、今朝は、そのイースター礼拝の意味と重ね合わせ、詩篇55篇を開いてまいりましょう。
詩[ 55 ]
は、ダビデのマスキール[教訓詩]と表題され分類されています。この詩篇の表題は、ダビデの生涯のどの時期を想定しているのでしょうか。註解書を多々、目配りしていきますと、諸説入り乱れていると教えられます。そのような中、カルヴァンは「サウル王とダビデ」の関係の中に、この詩篇を読み解いており、わたしもその視点が最もしっくりいくように思います。この視点から読み解き、私たちに適用してまいります。
ダビデの、[55:1 神よ、私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いに、耳を閉ざさないでください。55:2
私をみこころに留め、私に答えてください。私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。]という「A. 祈り、願い」は、[55:3
それは敵の叫びと悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを降りかからせ、怒って私を攻めたてています。55:4
私の心は内にもだえ、死の恐怖が私を襲っています。55:5 恐れと震えが私に起こり、戦慄が私を包みました。]という[B.
危機的情況]の中でささげられた祈りであると理解されます。ダビデは、「密かに油注がれた王」であり、サウル王から猜疑心の対象となり、「迫害、わざわい、攻めたて」を受け、「死の恐怖、恐れと震え、戦慄」に包まれる生活へと追いやられました。そのような輪郭と本質は、わたしたちの日常生活に中にも、教会の働きの中にも、神学教育の中にも、ひいては激動する世界のさまざまな動向の中にも、応用できる要素を内包しています。
おそらくダビデは、「油注がれた王」としての召命を打ち捨てて、「C.
逃れ場へ飛び去りたい」と思ったことでしょう。召命・使命には、そのような要素が伴います。それは、ダビデ自身の野心から派生したことではなく、主のみ旨から発生したことであり、それは「逃れることのできない、背負うべく定められた重き十字架」であるからです。私たちが神学教師として生きる時、「古き皮袋に新しいブドウ酒を注ぎ込む」よう、導かれる時があります。しかし、新しいブドウ酒は発酵現象を起こし、古い皮袋は裂けるような圧力を受けることになります。「聖書のみことばによって改革された教会は、聖書のみことばによって改革され続ける」と言われる通りにです。所属している群れにおける、たゆまない「福音理解の健全化」のプロセスにおいて、常に起こりうる現象です。その時の「叫び、迫害、わざわい、攻めたて」から生じる「もだえ、死の恐怖、恐れ、震え、戦慄」は、使命に生きる者が背負うべき重き十字架です。そのような時、ダビデのように[55:6
私は言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。55:7
ああどこか遠くへ逃れ去り、荒野の中に宿りたい。セラ55:8
嵐と疾風を避けて、私の逃れ場に急ぎたい。」という思いが去来することでしょう。ある人は、問題・課題を棚上げにし、先送りしようとします。しかし、果たしてそれは「主のみ旨」にかなうことなのでしょうか。そのような責任回避は、群れが宿す病状をさらに深刻にする危険はないのでしょうか。いつ、どのタイミングで、そのガンの病巣を切除する手術に取り組むのでしょうか。全身に転移した後では、「手遅れ」ということにならないでしょうか。
しかし、使命に忠実に生きんとする主のしもべは、ダビデがその「油注ぎ」から逃避することなく生き抜いたように、「D.
都にみる暴虐と欺瞞」を、問題・課題を直視し、生きていくのではないでしょうか。ダビデは、サウル王とその取り巻きの問題を見て[55:9
主よ彼らの舌を混乱させ、分裂させてください。私はこの都の中に暴虐と争いを見ています。55:10
昼も夜も彼らは城壁の上を歩き回り、不法と害悪が都のただ中にあります。55:11
破滅が都のただ中にあり、虐待と詐欺はその広場を離れません。]と神さまの視点から現実を直視し、とりなしています。私たちも、「自身の損得勘定」を物差しにするのではなく、主の御前における自分の置かれた場所を自覚し、その場所における召命・使命が何であるのかを探りつつ歩む者とされましょう。「主ご自身の損得」を物差しにして判断するなら、間違うことはありません。
ダビデは、サウル王とその取り巻きの中に、かつてダビデが活躍していた時の「私の同輩、私の友、私の親友」の姿をみて嘆いています。[55:12
まことに私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは、私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。55:13
それはおまえ。私の同輩、私の友、私の親友のおまえなのだ。55:14
私たちはともに親しく交わり、にぎわいの中、神の家に一緒に歩いて行ったのに。]と。問題の取り扱いが、課題の取り組みが、
異端とか異教とか、明白な逸脱である場合は軋轢は起こりにくいのですが、「私の同輩、私の友、私の親友」が熱心に取り組んでいる運動や教えに話が及ぶとき、摩擦・軋轢は避けることは困難です。それは、先輩を、同僚を、後輩を傷つけることにもつながるからです。しかし、これを避けることは、「誤った自己愛」に根差していると気づきません。真の友情があるなら、自らが損失を招くこと、自らが傷つくことをも乗り越えて、
「私の同輩、私の友、私の親友」の治療に、手術に取り組み、いのちを救おうとするはずです。神学教師の務めが「預言者的要素」を含むとしましたら、ごまかして「和を以て貴しとなす」ことは、己が使命を否むことになります。主のみ旨を踏みにじることにつながります。知恵は必要ですが、果たすべき使命を把握しつつ、それを土の中に埋めることはできないのです。そこには、私にしかできない使命、あなたにしか果たすことのできない使命というものがあると思います。人生の意味また価値とは、そういうものを発見し、そこで生ずる使命にどう応答いくのか、いかないのか。正面から受けとめるのか、逃げるのか、避けるのかが日々問われているものだと思います。
そのような葛藤の中で、問題・課題を真正面から受けとめ、ダビデは祈っています。[55:16
私が神を呼ぶと、【主】は私を救ってくださる。55:17
夕べに、朝に、また真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。55:18
主は私のたましいを、敵の挑戦から平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。]と。私たちの人生は、ある意味で「戦いの生涯」です。そこは「戦場」です。神学教師として約40年間奉仕してきまして、常に「福音理解のセンターライン」に沿って歩むことを心掛けてきました。教育することに専心してきました。その間、気がつかされてきたことは、いわば「もぐらたたき」のゲームのように、次から次へと「誤った運動や教え」の「挑戦」と取り組まされてきたように振り返ります。翻訳し、使用してきたエリクソンのテキスト『キリスト教教理入門』そのものが、いわば「戦場のテキスト」といえると思います。問題・課題と葛藤せずに、文字面をなぞって「知識の切り売り」として教えることもできます。しかし、それは著者の意図に反しています。主のみ旨も踏みにじるものです。「火中の栗を拾う」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という真正面から取り組む勇気を与えてくれる本です。つまり、神学教育というものは、いわば「格闘技」なのです。諸説をリングで打ちあわせ、畳の上で投げを打たせ、土俵の上で激しくぶつかり合わせるディベート(議論)なのです。自らの全身全霊をかけ、心、思い、知性、力を尽くしてなされる格闘技なのです。このような格闘技においてレベルアップした群れ、また教職者を育てる神学校は、嵐の海で翻弄される木片のようではなく、荒波を乗り切り、安全な港に操舵できる艦長を育てることができると思います。主の期待に応えうる健全な教えとバランスのとれた実践豊かな教職者を育てることができると思います。
それは、まさにパウロが新約の諸教会にみたものと似ています。[エペ4:14
人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりする]姿であり、[エペ5:27
しみや、しわや、傷]のある教会の姿です。ダビデは、[55:18 敵の挑戦、争う者が多い]ただ中で、[55:17
夕べに、朝に、また真昼に嘆きうめ]いておりました。パウロもまた、誤った運動や教えが「雨後の筍」のように生え出る新約諸教会の間で、「主イエスの十字架と復活のみわざに根差す民族を超えた普遍的な神の国の福音」を、[55:17
夕べに、朝に、また真昼に私は嘆きうめ]きつつ、のべつたええておりました。
ダビデの苦しみのひとつは、サウル王に与する[G.
友の裏切り]にありました。パウロの苦闘も、福音理解のセンターラインから逸脱した教えや運動にありました。それに巻き込まれる同僚にありました。今日でも、類する問題で、既存の教会に巧妙になされる戦略に見られます。[55:20
彼は親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を犯している。]と。教会と超教派のテレビ伝道の間の倫理が破られたりしています。非常に分かりやすい語り口で、誤った教えが語られ、巧妙な手口で教会から羊は奪われていきます。[55:21
その口はよどみなく語るが、心には戦いがある。そのことばは油よりも滑らかだが、それは抜き身の剣である。]とある通りです。しかし、多くの教会はこの問題の深刻さに「覆いが掛かった」ままのようです。煙幕がはられ、問題の本質が見えなくされているようです。
時には、誤った運動や教えの方が、風を受けて海上を疾走するヨットや帆船のようにみえ、その恩恵に乗っかろうとする愚かな輩も跋扈します。しかし、聖書の歴史から、またキリスト教の歴史から教えられることは、誤った運動や教えは「一時的に勢いを得、栄え繁栄する」ように見えますが、それらの運動や教えに与した人々や教会はやがて、神が定めておられる運命を刈り取ることになります。木は木として、わらはわらとして、草は草として、分析・評価され、審判され「キリスト教の亜流また逸脱」として打ち捨てられる運命をたどります。[55:23
しかし神よ、あなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは、日数の半ばも生きられないでしょう。]とある通りです。ですから、私たちは表面的な繁栄・成功を求めて、誤った運動や教えに翻弄されないように気を付けなければなりません。そして[55:22
あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。]とあるように、
[創3:6
その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好まし]く見えても、そのような運動や教えに誘惑されず、翻弄されず、健全な福音理解のセンターラインに沿って地道に、堅実に[私はあなたに拠り頼みます。]と告白しつつ、歩んでまいりましょう。
今朝は、イースター、主イエスが復活された日です。使徒行伝に、キリストは「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」
に[捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない]と記されています。キリスト教信仰は、リアルなよみがえりの力、復活の力であり、危機・苦境から救い出す力そのものです。ダビデも数々の危機から救い出されました。パウロも数々の誤った教えや運動から教会を救い出しました。私たちもさまざまなかたちの「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」から救いだされます。そのような力を経験しつつ生かされてまいりましょう。そしてウクライナの人々が「死の恐怖、よみ(シェオール)、滅びの穴」から救い出されるためにも祈ってまいりましょう。では、祈りましょう。
2022年4月10日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇54篇「ジフの人たちが来て、サウルに言ったときに」ーダビデの危機、キリストの受難、わたしたちの試練-
https://youtu.be/-MkGtdbQQYU
おはようございます。キリスト教の暦では、今週は「受難週」にあたります。私たちの詩篇の学びは、詩篇54篇ー[ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに]という表題が付されており、それは「危機のただ中」でささげられた祈りです。これの意味するところは、私たちが「試練」に直面するときに、ダビデの生涯にわたしたちの生涯を重ね合わせて生きるように、ダビデの祈りにわたしたちの祈りを重ね合わせて祈るように提供されている材料集といえます。では、詩篇54篇とその背景となっている第一サムエル記の幾つかの箇所を抜粋朗読させていただきます。
[ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに]というこの前書きは、第一サムエル記23:19の出来事を指しています。ダビデがサウル王の追跡を逃れて、イスラエル王国の最南部のユダ族のジフの地域に潜伏していたとき、ジフ人がサウル王にこれを密告したのです。ジフ人はその後、26:1でも[Ⅰサム26:1
ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」]と密告を繰り返しています。
これは、祭司アヒメレクがダビデのことを通報しなかった等の疑いをかけられ、「祭司の町ノブ」が絶滅させられた恐怖が効いていたのかもしれません。非協力的なウクライナ人を見せしめに殺戮したロシアの残虐な行為を彷彿させます。その通報に基づいてサウル王は三千の精鋭を率いてダビデ逮捕に向かいました。これらの密告は、ダビデたちの生死に関わる大きな危険をもたらしました。この危急の中からこの祈りがささげられたのでした。
第一サムエル記23:24-29に、その行動と報告が記されています。サウル王のダビデ追撃は成功し、サウル王の正規軍の精鋭三千人は、ダビデたちを追い詰めていきます。丘から丘へ、崖から崖へ、岩山から岩山、岩から岩へと導いていきます。サウル王は猟師であり、狩られる獲物ダビデはついに追い詰められます。サウル王と部下は周囲から迫って、袋のネズミとし、あと一歩で捕えんとします。ダビデたちは、絶体絶命の危機にありました。この追跡がもう一節、あるいはもうひと岩続くなら、サウル王の精鋭は、ダビデたちを捕らえていたでしょう。
しかし、その捕縛寸前で[23:27
一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」]との急信が伝達されました。何というタイミングでしょうか。サウル王とダビデは深刻に争っているとはいえ、外敵ペリシテとの戦いが国の存亡にかかわる事柄であることを知っていたのです。まさに、危機一髪でした。まさに「
髪の毛1本ほどのごくわずかな差」がダビデたちの生死を分けたのです。私たちの人生にも、このような瞬間があるのではないでしょうか。「
54:1 神よ、あなたの御名によって、私をお救いください」と叫び、そして「 54:7
神がすべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになった」瞬間のことです。
この背景には、第一サムエル記23:1-5でのケイラの出来事があります。[Ⅰサム23:1
「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。23:2
ダビデは【主】に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」23:3
ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」23:4
ダビデはもう一度、【主】に伺った。すると【主】は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」23:5
ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。]
ダビデは、逃亡中の身でありながら、イスラエルのケイラの人々をペリシテ人から救っていたのです。たいした人間です。サウル王が、常に「自身の損得勘定」で生き、行動しているのに対して、ダビデは「自身の損となることでも、主のみ旨にかなう」ことなら、犠牲を払い、冒険をする「主の真の勇者」であると教えられます。わたしたちも、こうありたいと思います。ダビデのこのようないきざま、行為、判断は、ダビデの即位、王朝の安定的継承に。万事「良き種まき」ともなっていきます。ペリシテは、ケイラの戦いで敗北していたがゆえに、それに対する反撃として、内紛状態にあるイスラエルのすきを狙い、イスラエルの背中から攻撃をしかけたのです。しかし、不思議なことに、それはダビデのいのちを救う「神の道具」とされたのです。敵ペリシテの攻撃すらも、ダビデのいのち救出の手段として用いられることになったのです。よく探してみると、私たちの人生には、このように不思議なことが多々あるのです。
さて、詩篇54篇は、そのような危機的状況においてささげられた祈りです。[A. 救いの懇願]は、[ 54:1
神よ、あなたの御名によって、私をお救いください]で始まります。「あなたの御名によって」という言葉は、ただ神の力の発動を願うだけではなく、「神ご自身が自分の側に立ってください」と祈っている言葉です。生死を賭けた対決において、ダビデは「唯一の避け所を神に求めた」のです。事実、このサウル王の飽くなき追撃は、ダビデに非があるわけではありませんでした。サウル王は誤りにより、王位から退けられていました。そして、反対に神の一方的な主権的選びにより、「隠れたかたちで、ダビデが王として油注がれていた」ことに起因しています。
ですから、サウル王とダビデの対決がどのように決着するのかは、単に「幸不幸の問題」を越えて、「神の御名に関わる公的問題、神の名誉に関わる義の問題」であるということなのです。わたしたちも、このようなポイントに焦点を合わせて生きることが大切です。教会も、この世と変わらず「目的のためには手段を選ばず」となってはいけません。健全な教え、健全な運動に沿って、成長を図るのでなければ主の御霊を悲しませることになります。わたしたちの身の回り、キリスト教会全体における誤った教えや運動の問題にも、大国と小国の問題にも、独裁と自由と民主と人権の問題にも、「神の御名に関わる公的問題、神の名誉に関わる義の問題」があるように思います。わたしたちが信じる神さまのこの世界に対するみ旨というものには、「魂の救い」ととともに「天おいて御心が行われるように、地においても御心が行われますように」という、祈りと戦いが、地の果てまで、世の終りまで続くように思います。この戦いにおいて、どのように生きるのかにおいて、私たち自身も、終わりの日に吟味され、審判され、弁護されることになります。
[B. 困難の叙述]ー[54:3
見知らぬ者たちが私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。]サウル王は、うすうす神のみ旨に気がついています。誤りのゆえに、すでに王位から退けられていることを。サウル王は、やがてサウル家にとって代わって、ダビデ家が王位に着くことを知っています。それで、必死になってそれを防ごうとしているのです。[
サウル王が私に立ち向かい、サウル王が私のいのちを求めています。]、サウル王は神の摂理を実感しつつ、それを妨げよう、阻止しようと全力を尽くします。ダビデが[使徒2:25
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。]と、“コーラム・デオ”ーいつも主の御前に生きておりましたが、サウル王は、[神を前にせずに、神のみ旨に背いて]ダビデを迫害し、そのいのちを絶たんとしていました。主のみ旨を察知しつつ、それにはむかって生きるとはなんと恐ろしいことでしょう。できるだけ早期に悔い改め、主に立ち返ること、主の御思いに針路を修正していくことが大切です。
サウル王のこのような姿は、過去のものではありません。わたしたちの身近かにも、キリスト教会の中にも、ロシアvsウクライナ紛争の中にも見受けられるものです。わたしには、今回の紛争の行方、ロシアのプーチン大統領とウクライナのゼレンスキー大統領は、サウル王とダビデとの関係、またその行方と重なってみえます。世界の多くの国々、多くの人々がウクライナのために祈り、さまざまなかたちで支援しています。
[C. 信仰の告白]ー[54:4
見よ、神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。]と、ダビデは「その御名ゆえに」助けられ、危機一髪で何度もいのちを救われました。[D.
ささげものの誓い]ー[54:6
私は心からのささげ物をもって、あなたにいけにえを献げます。【主】よ、あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。]と、神さまが「その御名」のゆえに、公的正義を実現するための介入を、救出のみわざをなしてくださったことに「内から湧き上がる感謝の自発的表現」として、ささげものの誓いをなします。
[54:7
神がすべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになったからです]といまだ押し迫り続ける敵に対し、「すでに勝っている」との信仰に立ち、攻め込んでいる「敵を平然と眺める」内的な余裕を示しています。苦境の中から神による救いを切に懇願したダビデの祈りは、確実に神に届き、恵みの応答をいただけるとの確信がダビデの心を包みます。ダビデの魂は、まだ続く危機の中にあっても「勝利の確信」へと飛躍していきました。この驚くべき「内的ダイナミズム」こそが、信仰生活の醍醐味です。このように深い神との「内的交流の息吹」をこの詩篇54篇は伝えているのです。
この詩篇から「人生はドラマ」と言われる言葉を思い起こします。神さまが与えてくださった一度きりのあなたの人生、その人生を、主とともに“脚本家”のように、あなたの人生をアレンジしていかせていただきましょう。セリフも、ストーリー展開も、一挙手一投足を、主とともにアレンジしていって良いのです。試練の場面もあるでしょう。そのときには、ダビデの危機的場面の物語、ダビデの詩篇の祈り・叫びと重ね合わせで、「脚本をアレンジ」させていただきましょう。うめき、叫びのただ中で、あなたは「神の国のアカデミーの脚本賞」をいただける取り組みをさせていただいているのです。
脚本の材料は、聖書中に満ちています。その霊的信仰的エッセンスを、私たちの人生のドラマの中にちりばめ、その本質を「扇のように展開」させていけば良いのです。詩篇の編集者は、編纂され続けた詩篇の中に、信仰者ダビデの本質を洞察しています。私たちは、信仰者としての私たちの生涯の中に、私たち自身の信仰の中に「ダビデ的本質」を見出して生きるように召されているのです。それが、サムエル記の意味であり、詩篇が記された意味なのです。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献: W.ブルッゲマン『サムエル記上』「現代聖書注解」、高橋三郎・月本昭男『エロヒム歌集』詩篇42-72篇講義)
2022年4月3日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇53篇「見よ、彼らは恐れのないところで大いに恐れた」ーああ、ウクライナの救いが世界中からもたらされますように!神がウクライナの民を元どおりにしてくださいますように!-
https://youtu.be/8H-ocNoEkJM
今朝の詩篇53篇の書き出し[53:1
愚か者は心の中で「神はいない」と言う]を読んで、「これは哲学的無神論者の愚かさについて書かれているのだろう」と受けとめる人もあるかもしれません。しかし、そうではありません。では、どういう意味なのでしょうか。そこで詩篇150篇全体、そして詩篇全体の文脈を知るために詩篇集全体の導入である詩篇1篇をみておくことにしましょう。
詩篇1篇をお読みします。[1:1
幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。1:2
【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。1:3
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。1:4
悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。1:5
それゆえ悪しき者はさばきに、罪人は正しい者の集いに立ち得ない。1:6
まことに正しい者の道は、【主】が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。]
詩篇全体の編集者は、ふたつの姿勢、ふたつのライフ・スタイルを対比させ、詩篇集を編んでいます。一方に、神に依存していることを謙遜に認め、トーラーを学んで神の意志を知ろうと努める人が記されています。彼らは、昼も夜も絶え間なく神の言葉を求め、熱心に耳を傾け、こうして神との個人的な交わりに生きる人々です。彼らは、この世の尺度から見ると、偉大な人物ではないかもしれませんが、神から与えられた人生の意味を心安らかに受け入れ、祝福の中に生きている人々です。しかし、他方に、宗教的な伝統に何の関心も払わず、自らの力と望みのままに生きようと決意し、神に敬虔を尽くす生活をあざ笑う人々が記されています。
このような人々は、内心深く「53:1神はいない」とうそぶく愚か者の範疇に入る人々です。彼らは、生活実践における無神論者であり、神を真剣に受けとめることもなく、自分勝手気ままに生きることができると考えている人々です。これらの人々について、詩篇作者は、彼らが「生の深い根拠」を欠いているがゆえに、小麦の脱穀で[1:4
まさしく風が吹き飛ばす籾殻]のようであると語っています。H.リングレンは、「神に依存しないで、自分独りで、自分の力に頼って生きる」というバビロニアの古い言葉に注目しています。すなわち、「神をして神たらしめる」生き方の拒絶こそ、罪の本質なのです。
では、この[53:1
心の中で「神はいない」]という生き方は何をもたらすのでしょう。神を真剣に受けとめることもなく、自分勝手気ままに生きることができると考えている人々、「生の深い根拠」を欠いている人々、「神に依存しないで、自分独りで、自分の力に頼って生きている」人々は、倫理的人格的な、義なる神、聖なる、慈愛に満ちた神との人格的交流なしに、いわば“水源”なしに生えている木々のようです。乾ききった地の木々はどうなるでしょうか。神との人格的交流なしの人間はどうなるでしょうか。[53:1
「神はいない」と言う]生き方は、「腐っている」生活、「忌まわしい不正」に満ちた人生、すなわち「善を行う者はいない」「だれ一人いない」という人生を結実させるというのです。もちろん、神なしの人間すべてが「100%悪に染まった生き方をする」ということではありません。本質において、そのような傾向を内包しているという指摘なのです。これらの詩篇箇所は、新約聖書ローマ人への手紙3:10-18で、[3:10
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。3:18
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」]とアダムにある人類全体の“普遍的罪深さ”の本質が描写されています。
この詩篇53篇の[53:1
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。53:2
神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。53:3
彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。]で教えられることは、創造された人間の「創造者に対する“責任応答性”」です。「神はいない」とは、創造された人間の「創造者に対する“責任応答性”」の否定を意味しています。腕時計は、人間によって造られました。腕時計は人間の腕にはめられ、「今は何時かな。今は何時かな」と造った人間に見つめられ、活用されることにおいて存在意義を見出します。
神によって造られ、人生を与えられた私たち人間は、[神に依存していることを謙遜に認め、聖書を学んで神の意志を知ろうと努める]べく生かされています。魚が水の中に生きるように、鳥が空気の中にはばたくように、神によって造られた人間は「神のみ旨」の中において、真に生きることができ、真にはばたくことができるのです。神にいのちを与えられた人間は、「昼も夜も絶え間なく神の言葉を求め、熱心に耳を傾け、こうして神との個人的な交わりに生きる」よう人生を与えられているのです。腕時計が「野に打ち捨てられる」とき、腕時計はその存在意義を失います。人間が「創造者なる神」を見失うとき、「53:5
見よ、彼らは恐れのないところで大いに恐れた」とあるように、ローマ8:20-21
神のシェキナーの栄光また臨在を喪失し、“虚無”が、“滅び”が彼らをおそいかかります。[神が、あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ]と記されている通りです。創造の冠たる人間なのに、ちりあくたやゴミのように無意味な存在となってしまうのです。
この詩篇53篇で注目すべきは、[53:3
彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない]という包括的言語と、[53:4
わたしの民。53:5 神が、あなたに。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。53:6
ああイスラエルの救いが。神が御民を]と不法を行う者と貧しい義人を区別されている区別的言語があることです。それは、詩人が暮らしている社会を特徴づけている振舞いがあり、強者が弱者を踏みつけにしています。預言者のそのような社会学的倫理的分析をなしています。そして、それらは、新約においては、御子のみわざの結果として、全的堕落の教理形成の材料として用いられています。
最後に、この詩篇の祈りの、ひとつの適用として、世界情勢に、ウクライナ情勢に目を向けましょう。そこでは、大国ロシアが小国ウクライナへの侵攻が続いています。チェチェンのグローズヌイやシリアのアレッポのような都市壊滅による市民虐殺が続いています。世界は嘆き、うめき祈っています。しかし、大国ロシアは短期決戦のもくろみがくずれ、政治的にも経済的にも、世界中から制裁を受け、危機的状況に追い込まれつつあります。なぜ、このように愚かな侵攻に踏み切ったのでしょうか。大きな疑問です。そこで、その参考となる記事を見つけました。
2009年5月のことです。ロシア政府はチェチェンでのテロ活動が沈静化したとして、「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言し、ここに第二次チェチェン紛争が終結しました。この言葉・表現はどこか「ウクライナにおける特別軍事作戦」と似ていますね。ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われています。要するに、「刃向かう者は皆殺し」にされたということのようです。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要でありました。第二次チェチェン戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされています」とアメリカ下院でエレーナ・ボンネル(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)は証言をしました。無名のプーチン氏は、FSB(旧KGB)の画策とも疑われている集合住宅連続爆破事件の結果、国中が恐怖に包まれる中、チェチェンのクローズヌイを崩壊させ、大量虐殺を正当化し、一夜にしてロシアの英雄に祭り上げられ、大統領に当選したと言われています。
エリツィン辞任後、ただちにプーチンは大統領代行に就任し、4カ月足らずで大統領に初当選、2004年に再選を果たしました。その後、憲法上、連続2期の大統領就任が制限されていたため、2008年から2012年までドミトリー・メドベージェフの下で再び首相を務め、2012年の大統領選挙では不正疑惑と抗議行動により大統領に復帰し、2018年に再選されました。2021年4月、国民投票を経て、あと2回再選に立候補できるようにすることを含む憲法改正案に署名し、大統領の任期を2036年まで延長する可能性があます。またこの権限強化により事実上終身大統領となる事が可能になるため、懸念されているとのことです。選挙の節目には、政治家は往々にして、目的達成のために「物語」を仕込む傾向があります。
今回のウクライナ侵攻の目的が「2024年の大統領選挙であり、事実上の終身大統領へ道の確立」のためであるとしましたら、ウクライナにとっては悲劇、またロシア国民にとっても「苦難の時代の到来」ということになると思われます。プーチン大統領の野望は、創作された物語は、大義名分は予想しなかったところー[53:5
見よ、彼らは恐れのないところ]ーNATO、EU、G7、国連総会等の結束、世界中からの援助によって粉砕されています。大国ロシアが小国ウクライナに対して[53:5
陣を張]りましたが、その軍隊の「骨を散らされ」、小国ウクライナは大国ロシアの戦車を辱め、彼らは戦車を、武器を捨てて、退散しています。私たちは祈ります。[53:6
ああ“ウクライナ”の救いが、“世界”から来るように。]停戦がなされ、復興がなされ[神が“ウクライナの人々”を元どおりにされるとき]が訪れますように。そのとき、ウクライナもロシアも共に楽しむ時となりますように。そして世界もまた、その喜びにあずかれますように。祈りましょう。
(参考文献:
J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』聖書の研究シリーズ、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、ウィキペディア「ウラジーミル・プーチン」)
2022年3月27日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇52篇「欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように」
ー「サウル王の疑心暗鬼と妄想」の夢から覚ましてください! 「ドエグの虐殺」を止めてください!-
https://youtu.be/1Z87OMc2Tgw
今朝の詩篇第52篇は、[エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときに。]という招詞が添えられています。その背景を理解するために、第一サムエル記21、22章をも読むことにしましょう。
権力欲に満ちたサウルは、ダビデを恐れ、殺害しようとしておりました。しかし、そのダビデを守り、逃亡を助けたのはサウルの息子ヨナタンでした。サウル王は、イスラエルの多くの人たちの心がダビデになびいているのを恐れ、疑心暗鬼になっていました。今日にも、憲法を変え、皇帝のように権力の座にしがみつき続ける専制主義国家が散見されます。一度、権力者の座に着くとその身略にとらわれ、手放したくなくなってしまうのです。権力にはそのような魔力があります。また、個人としてのわたしたちも、その長い人生の間には、ダビデのような境遇に置かれることが多々あります。そのような苦境に生きるとき、自分自身をダビデと重ねてこの物語を読み、また詩篇52篇を唱和することは大きな励ましとなります。人の目は、順風満帆の中に「神の祝福」を見ようしますが、聖書は「ダビデのような逆境」のただ中に「神の恵み」を再発見させるからです。事実として、「栄華の中のダビデ」には誘惑や危険がみえ、「逆境の中のダビデ」には輝く信仰を見せられるのです。
3000年前の詩篇を、21世紀に読むとき、「今朝の詩篇を、わたしたちはどのように読むことができるでしょうか?」という問いに直面いたします。今朝の詩篇を深く傾聴し、その中に響くメッセージの本質を抽出し、私たちの置かれているさまざまな状況に適用していくことを求められるのです。私たちが置かれている「とりなしの祈り」の状況のひとつに、ウクライナの状況があります。今朝も、その「とりなしの祈り」の流れの中に、第一サムエル記21,22章を背景とされている詩篇52篇を味わいたいと思います。
この詩篇の1-4節では、[A. 破滅的な人間]が描写され、告発されています。[52:1
なぜおまえは悪を誇りとするのか。52:2 欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。52:3
おまえは善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。52:4
欺きの舌よ、おまえはあらゆる滅びのことばを愛している。]と。破滅的な人間とはだれでしょう。それは、ダビデが祭司アヒメレクの会話を盗み聞きしていたエドム人ドエグのことです。ドエグは、決定的で不吉で下劣な役割を物語の中で演じています。
ドエグについては[21:7
その日、そこにはサウルのしもべの一人が【主】の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった]とあり、彼はサウル王がイスラエル各地に放っていた、KGBやFSB[
KGB ( 国家保安委員会 )であり、今日では主として 連邦保安庁 ( FSB )と 対外諜報庁 ( SVR
)と名づけられる二つの機関によって継承されている]の諜報員であったのでしょう。おそらく、サウル王には、いろんな報告があがってきていたことでしょう。しかし、ヨナタンを含め、多くの家臣たちはダビデに同情的で、報告をあげていなかったようです。そのような中で、ドエグは、彼の諜報報告を王にあげていました。それで、王はその事態の経緯は度外視して「アヒメレクとその一族もろとも」を「ダビデにシンパシーを抱き続けるとこうなるぞ」と、[52:2
欺く者よ、おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。]と、見せしめの虐殺を行ったのです。
諜報報告会で、[22:8
それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」というサウル王の不満の爆発という局面で、[22:9
サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。22:10
アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」]と、祭司アヒメレクが反逆者ダビデに対する協力者であるという「印象操作」をもたらす報告をしました。ドエグの報告は、「誤った文脈」における「正しい報告」でありました。結果としてドエグの報告は、神の御前において「悪」であり、「欺き」であり「偽り」、「滅びのことば」でありました。
[22:18
王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。22:19
彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。]と「鋭い刃物」でありました。
私は、この世界においても、キリスト教会の中においても、「誤った文脈」における「正しい報告」というものを時折、目にし、耳にします。それは悲しいことです。それは、間違った「印象」で受け取られていることを感知しつつ、なされる「言葉上の正しい報告・説明」です。わたしは、心の中で「あれ?
そういう意味ではないのに…」と思うやりとりの場面がどれほど多いか経験しています。私たちの世界においては、米国のCIAやソ連のKGB、そしてロシアのFSB等も、誤ったプロパガンダの下に「虚構のストーリー」を構成し、戦争や虐殺や政権転覆を正当化する傾向があるように思います。それもまた悲しいことのひとつです。少なくないメディアが客観的な報道に心がけるよりも、所属勢力のための「宣伝工作」に堕しているようにも思います。祭司アヒメレクは、ドエグの「誤った印象操作のある正しい報告」により、無実の罪を着せられたとき、雄弁な弁護を行い、自らと一族のいのちを救おうとしました。しかし、サウルはそれに耳を貸そうとはしません。サウルの目的は、アヒメレクやダビデの有罪・無罪が問題なのではなく、サウル一族の権力を脅かす一切の危険の芽を摘むこと、すなわち、ダビデとその一族、ダビデにシンパシーをもつすべての人の抹殺であり、恐怖による支配であったからです。このような傾向は、現在のウクライナ紛争の背後にも見られますし、キリスト教会における誤った運動や教えの問題の中にも垣間見ることができるように思います。
ダビデは、パンだけでなく、槍も必要としていました。戦士でもあるダビデに槍がないのは奇妙です。この点は、ダビデがいかに大急ぎで着の身着のまま、緊急避難的に王の下から逃亡したのかを示しています。わずかな側近を伴った、手ぶらの逃亡者であったのです。ダビデは立場を一挙に失い、王に対する反逆者の汚名を着せられた逃亡者となってしまいました。しかし、ダビデに落ち度があったわけではありません。預言者サムエルにより、すでに霊的に退けられていた、サウル王が「おびえた幻想に満ちた世界」に生きるようになっていたことに原因があります。専制国家の独裁者はいつの時代でも「この病」にかかるようです。権力を失うことが「身の破滅」に直結すると考えるようになるのです。彼は、死ぬまで権力を手放すことができません。あらゆる手段を駆使し、死に物狂いで権力を保持しようと試みます。しかし、民の信頼を基盤としない、そのような権力者は弱く、[B.
正しい者が恐れるかたちで、滅ぼされ]ることになることが多いのです。[52:5
だが神はおまえを打ち砕いて倒し、幕屋からおまえを引き抜かれる。生ける者の地からおまえは根絶やしにされる。]と。
しかし、神の恵みに根差す正しい人たちはそのようなかみのみわざを見て、[C.
神への信頼の告白・感謝]をささげます。[52:8
しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。52:9
私はとこしえに感謝します。あなたのみわざのゆえに。私はあなたにある敬虔な人たちの前で、すばらしいあなたの御名を待ち望みます。]と。ダビデは、疑心暗鬼のサウル王により、逃亡者の身に転落させられてしまいました。疑心暗鬼の大統領により、侵攻を受けたウクライナもまた同様です。しかし、この時期のダビデは、第一に、もはや無邪気な牧童でありませんでした。ダビデは、今や有名で、あてにできる同盟者たち、召集できる支持者たち、そしてダビデ自身の未来についての政治的機知を持っていました。第二に、他者の行動の消極的な受け手ではありませんでした。今や自信に満ち、必要で大胆なイニシアチブを取る準備がありました。
この落ちぶれたダビデは、いつものやり方通り、逃亡を繰り返します。しかし、国家による大規模な正規軍に対し、臨機応変に対応しうるゲリラ戦術で対抗します。そこは、岩山、砂漠、川、ほら穴、敵地等、あらゆるところで神出鬼没し攻撃をしかけます。そして、隣国の都市国家の王、アキシュ等には「サウルの最も危険な指揮官としてではなく、嗣業の地イスラエルの将来の王」と見られます。アキシュは、「イスラエルの民の中に溢れていたうわさ話」ー「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」を知っています。イスラエル国内においても、周辺の隣国においても「ダビデが王となることは必然である」との印象が溢れておりました。ダビデには、下剋上を起こす野心はありませんでしたが、主なる神は「実質的に、ダビデを王とすべく」すべてのことを働かせて準備されていきました。
ですから、私たちは、自分が何になろうとか、何者であらねばならないとか考えて、「下剋上」を起こす必要はありません。主を信頼し、たがえられることはありません。神さまは、ポストとかサラリーとか、名誉とか立場とかとは別のところで、「実質」において神の国の奉仕に配置してくださるからです。私たちは、天を仰ぎ、「天からの視点での秩序」のみに目を留めることにしましょう。ですから、私たちは、誤った文脈における印象操作としての「v.2
ドエグの、鋭い刃物のような言動」に気をつけ、いつもある「v.1 神の恵み」に寄り添い、「v.3
義を語り、善行を愛し」、「v.7
神を力」としてまいりましょう。このような生き方をするときに、私たちは一時的に苦境の中に置かれていても、ダビデのように「強力な磁石」となり、あらゆる種類の周辺の人々を引き寄せ(Ⅰサムエル22:1-2)、彼らの指導者にして、「集結点」となりました。孤立し疑心暗鬼の深みに沈むサウル王に比して、ダビデに対する支援の手立ては多く、さまざまありました。民衆による政治的支援だけでなく、宗教的権威を持つ預言者を通した神の助言もありました。
苦境の中のダビデは、絶えず「主に伺いをたて」つつ歩んでおりました。着の身着のまま、逃亡生活の中にあったダビデは、武器もなく、飢えておりました。それで、祭司アヒメレクからパンを分けてもらい、ゴリアテの剣を受け取りました。今、ウクライナは大国ロシアの侵攻を受け、南東部の港湾都市マリウポリは、砲撃により廃墟のようになり、建物から建物へ、階から別の階へと戦闘が続いています。NATOや世界の国々は、大国の小国蹂躙を許さず、軍事、食料、医療、そして経済的封鎖等さまざまの支援を行っています。まだ、戦争は続いています。悲惨な殺戮は続いています。主が、プーチン大統領を「サウル王の疑心暗鬼と妄想」の夢から覚ましてくださいますように。ウクライナのマリウポリ等の諸都市での「ドエグの虐殺」を止めてくださいますように。詩篇1篇にあるように、小国ウクライナを守り[52:8
神の家に生い茂るオリーブの木」のようにしてくださいますように。ロシアを隣国を蹂躙する国から「世々限りなく神の恵みに拠り頼む]平和な民としてくださいますように。祈りましょう。
(参考文献: 現代聖書注解『サムエル記 上』W.ブルッゲマン著、『詩篇』J.L.メイズ著)
2022年3月20日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇51篇「神よ、私をあわれんでください: ミゼレーレ・メイ、デウス」ーロシア人の良心を呼び覚ましてください!
ウクライナ人の勇気を支えてください!-
https://youtu.be/OFSaQNh9ArY
今朝の詩篇51篇は、第6,32,38,51,102,130,143篇の七つの痛悔の詩篇のひとつです。哀願者にのしかかる苦悩は、深い罪責感です。これらの詩篇は、人々を虐げ押しつぶす外的な力である「敵」ではなく、悪の問題を内面化しています。「敵」は単に、社会の中や外的に離れた所にいるばかりでなく、実に「自分自身の存在の深み」に現存しています。これらの詩篇において「聖なる神の現存」は、避けがたい裁きと恵み溢れる受容という両面で内心深く体験されます。
神殿で預言者イザヤが体験した召命物語(イザヤ6章)でみられるように、イザヤが受けた神の聖にして超越的な尊厳の幻があります。[イザヤ書6章
1,ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、2,セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、3,互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」4,その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。5,私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」]という悲痛な叫びをイザヤに引き起こしました。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という、よく親しまれた讃美歌に今なお響いているように、この物語によれば、預言者は神の聖性がただ人間の罪を暴き出す裁きに顕れるばかりでなく、罪の赦しにも示され、こうして人をきよめて任務のための力を与えることを納得するに至りました。キリスト教の音楽と典礼を通して響き続けているミゼレーレ(あわれみたまえ)の叫びは、詩篇の中でも珠玉の名作といわれる詩篇51篇の冒頭の嘆願ー「主よ(デオ)、我を(メイ)あわれみたまえ(ミゼレーレ)」からのものです。これらの詩篇の祈りは、あらゆる時代の、あらゆる状況の中で活用できるよう、主が備えられた祈りであり讃美です。わたしは、今朝、この詩篇をロシア人とウクライナ人の人々の叫びと祈りに重ね合わせて唱和したいと思います。この紀元前1000年前の詩篇は「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。」という招詞によって始まります。
わたしは、この導入・文脈説明を「ロシアがウクライナに侵攻した後、二つの民族を神が照らされたときに」と、紀元2000年代に、いわば時間と空間を超え3000年タイムスリップさせて読みたいと思います。なぜ、このような読み方を思い立ったのでしょうか。それは、ロシア国営放送第一チャンネルのマリナ・オフシャニコワさんが、女性キャスターがニュースを伝えているときに、突然音を立ててメッセージを掲げながら入ってきたのです。メッセージは英語で「No,
War(戦争反対)」と書かれ、さらにその下にはロシア語で「戦争を止めろ。プロパガンダを信じないで。彼らはあなたに嘘をついている」と綴られていました。なんという勇気ある行動でしょう。今のロシアでこのような行動をすると15年間の禁固刑を受ける危険があるにも関わらず、自らの犠牲を顧みずこのような行動をされたマリナさんに敬意を表したいと思いました。今のロシアには、このように良心を痛めている方が数多くおられるのだと信じたいと思います。今のロシアのような、専制主義国家、警察国家では、「本当のことを語る」ことには危険が伴います。マリナさんの行動は、どこか、エステルのような勇気ある行動ではないでしょうか。
さて、51:1-2は「A.
叫び」です。罪からの救いを求める叫びです。[1,神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。2,私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。]は、ダビデの姦淫と殺人の罪を思い浮かべる言葉です。しかし私は、マリナさんの心の叫びがこの中にも聞こえるように思いました。「[1,神よ、ロシアをあわれんでください。」と。嘘と偽りで満ちた情報の宣伝で何も知らない国民をマインドコントロールし、平和に暮らしていたウクライナに侵攻させているロシアの指導者の大きな罪とそれに協力させられている放送関係者たちの良心の呵責からの叫びです。[1,神よ、そのようなロシアをあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。あなたに対するロシアの背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。2,ロシアの侵攻の咎をすっかり洗い去り、殺戮の罪からロシアをきよめてください。]と。そのような叫び、うめきがあなたには聞こえてこないでしょうか。
51:3-6は、「B.
うめき」です。[3,まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。4,私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しく、さばくときあなたは清くあられます。5,ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。6,確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。]これは、神の御前に感じる逃れようのない深い罪過の意識です。「わたしは、あなたの前に罪を犯しました」と。わたしは、神の御前に生かされているすべての人間には、このような意識が大切と思います。それは、箴言に[1:7
【主】を恐れることは知識の初め。]とあるようにです。ソ連崩壊後、エリツィン大統領の混乱期を、プーチン大統領が収拾し、資源外交によりロシアに安定と成長の10年間をもたらした貢献があるとしても、虐げられてきたウクライナが独立を果たし、ひとつの民族として言語・文化を復興させている今、再びロシアに従属させることは不可能でしょう。ウクライナ国民は、いのちを賭けてロシアの侵攻と殺戮に抵抗し続けることでしょう。一刻も早く、この戦争と殺戮を止めねばなりません。
この詩篇は、ダビデの詩篇とありますが、おそらくその背景を意識しつつ、相当の発展段階を経てきたものでしょう。この詩の成立史の過程には、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルにみられる「新しい心」「新しい霊」等の主題と通じるものが含まれているからです。それゆえ、礼拝共同体とその成員である個々人によって、贖罪日(レビ記16:30参照)との関連で用いるために整えられた祈りと理解することができるでしょう。そして、これらの詩篇集は旧約の歴史と空間を超え、今の時代の必要に重ね合わせて祈る祈りとして活用されるよう提供されているのです。
[1,神よ、私をあわれんでください。]と始まり、[3,まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。4,私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。]と続きます。罪の告白は「神のあわれみ」に基があります。この嘆願は「神の変わらざる愛と尽きることのないあわれみ」に向けられています。ロシア人とウクライナ人の両親のもとに生まれたマリナさんには、両国に家族・親戚があることでしょう。ロシアとウクライナの二つの民族、ふたつの国家間の殺戮の応酬は、マリナさんにとって、身内同士で殺し合う、(祖父母・両親・おじ・おばなど、親等上
父母と同列以上にある血族(尊属)を殺害する)尊属殺人のような印象を抱いておられるのではないでしょうか。それは、普通の神経ではとても耐えられないことです。
愚かな指導者の命令により、ポストとサラリーを、身の安全を守るため「虚偽にみちたプロパガンダ」に協力させられることは、「戦争と殺戮」の犯罪協力者に堕してしまうことを意味し、それに耐えられなかったのだと思います。このような現象また行為は、社会のすみずみに、そしてキリスト教会の中にもみられることです。「もう、このような罪を犯し続けることはできない。どんな犠牲を払うことになったとしても、今自分にできることをしなければならない」ーその一念であったのだと思います。このような決心が大切です。主の導きへの応答が大切です。多くの人々の心の中に、主が働いてくださいますように。主の語りかけ、導き、諭しに敏感であれますように。
さて、罪は、本質的に「神学的なカテゴリー」です。人の行いの規範となる御旨と御心をお持ちの神が、ただ神のみが、人に罪を啓示されます。[4,私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。]と、罪を御目に悪とみられることと定義しています。罪について語ることを意義あるものとし、不可避なものとするのは、人のいのちを見通しておられる「神の眼差し」なのです。この神の眼差しに思いを向けずに罪について語ろうとすれば、罪という語彙は意味を失い、色褪せたものとなってしまいます。聖書は、またこの詩篇は、預言者たちの言葉と捕囚の経験を通して、イスラエルはより一層強く、深く、彼らが裁きの下にいるのだということを知るに至りました。彼らの良心を照らしてくださったのです。マリナさんをはじめ、多くの良心的なロシア人たちの心のように。それを知った者の声が響いています。[4b,
ですからあなたが宣告するときあなたは正しく、さばくときあなたは清くあられます。]と。わたしたちキリスト者は、この告白の真実を十字架を通して知っています。「罪からの救いの第一歩は、罪びとにくだされる神の裁きである」と。この戦争に関わるすべての人が、カルバリの十字架のふもとにひざまずくことができますように。
前半で、時間を取り過ぎましたので、後半を簡単にみてまいりましょう。前半は「叫びとうめき」でありました。後半は「嘆願と誓約」です。V.7-13の嘆願では、[7,
私は雪よりも白くなります。8,楽しみと喜びの声を聞かせてください。10,神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。12,あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。13,私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。]と、創造的な言葉、積極的・肯定的な言葉と誓約で溢れています。そうなのです。姦淫と殺人の罪の暗闇の中でうちひしがれていたダビデの上に、今注がれているこのまぶしいばかりの陽光は一体何なのでしょう。それは、滅ぶべき罪びとであるわたしたちの状態を根源から変えうる神の赦しの力、聖霊の新生の、再創造の恵みなのです。このような言葉は、イザヤ書40-66章で「すでにあるものが変えられて異なるものが生じる神の救いのみわざ」として、「創造する」「新しくする」ということばで象徴され、溢れています。
V.14-19の「誓約」では、[14b, 私の舌はあなたの義を高らかに歌います。15b,
私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。]と、救いの喜び、新しく創造された誉をシェアしていくと誓約しています。わたしは、これらの嘆願と誓約の中に、ウクライナの人々の民族防衛の忍耐と国家再建への決意をみたいと思います。民族独立を果たしたウクライナ国民は、二度と「大国に隷属する奴隷」に成り下がることを良しとしませんでした。どんな犠牲を払っても民族の未来のために、国家の独立と自由と人権を守る決意です。神もまた、それらを尊重される神です。それが私たちの信仰です。「自由な国家における、自由な教会」です。わたしたちは、「内心の自由」を管理しようとするいかなる専制をも拒否します。わたしたちは、そのような自由と独立を求めるウクライナの人々を支持し、彼らのために祈ります。
彼らのスピリットは[17,
砕かれた霊。打たれ砕かれた心。]です。[18,どうかご恩寵により、ウクライナにいつくしみを施し、キエフの城壁を築き直してください。]と祈ります。戦争と殺戮が停止し、義なる平和がもたらされる時、[19,そのとき、あなたは義のいけにえを焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき雄牛があなたの祭壇に献げられます。]とあるように、ウクライナの人々のスピリットが全世界の人々の自由と独立、人権尊重と内心の自由が保障された未来への「全焼のささげ物」として証しされ続けますように。どんな大国も、それを圧殺することはできなかったと。ああ、神よ。ロシア人の良心を呼び覚ましてください!
ウクライナ人の勇気を支えてください! 祈りましょう。
(参考文献: B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、J.L.メイズ著『現代聖書注解ー詩篇』)
2022年3月13日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇50篇「天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると」
ー神が全世界の人々を、全世界の指導者を、全世界のすべてのものを用いて、戦争を、殺戮を止めてくださいますように-
https://youtu.be/9RUIrDacbRU
今朝は、詩篇50篇です。詩篇150篇のうちの三分の一の終わりに辿り着いたということです。ひとつの節目です。ある神学者は、「片手に聖書、もうひとつの手に新聞を持て」と申しました。これは、極端な字義的解釈者が「聖書の中に、今日生起する事件の預言を読み込む」誤りをすすめる言葉ではありません。そうではなく、わたしたちの人生において神の座標軸をもって生きることをすすめている言葉です。そうなのです。わたしたちクリスチャンは、「神の言葉、聖書」という人生のガイドラインを携えて人生を旅しています。その航海における羅針盤、飛行経路を示すレーダーとしての役割を「神の言葉である聖書」が果たし、機能してくれるのです。
わたしたちクリスチャンは、安全な航海、飛行のための機器を備えた船のようであり、飛行機のようです。そして、わたしたちが旅を続ける「この人生」の海、空は、未来や過去、宇宙のかなたにあるではなく、この世界にあるのであり、今の時代にあります。そうなのです。「歴史」の只中にあるのです。そのような意味で、わたしたちは「詩篇150篇」に示されている、この地上の生を生きる「ガイドラインの本質」を学びつつ、それをわたしたちが「今生かされている歴史の只中に、そのガイドラインを投影・反映・適用する恵み」にあずかっているのです。これが「片手に聖書、もうひとつの手に新聞を持て」の真の意味なのです。この原則がわたしたちが「詩篇を傾聴」しつつ、「ウクライナの人々の未曽有の苦難、うめき、叫び」に呼応させるのです。新聞を読み、テレビやネットのニュースの情報が入るごとに、わたしたちは「心の奥の間にある祈りの部屋」に入るのです。詩篇のみ言葉のエッセンスに促され、天を仰ぎ、とりなしに追いやられるのです。
今朝の詩篇50篇は、[6,天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者である]と、神の審判について記された詩篇です。ふたつの問題が取り上げられています。ひとつは、[7,「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ、わたしはあなたを戒めよう]と、神と神の民の、いわば垂直の関係、礼拝生活の形骸化の問題です。神さまは、信仰者の礼拝的生活に問題を感じておられるのです。「形骸化している」と。神は何を言わんとしておられるのでしょうか。「ささげものが少ない」と言われているのでしょうか。そうではありません。[8,あなたのいけにえのことで、あなたを責めるのではない]とあります。ささげものの問題ではないのです。それでは一体何が問題なのでしょうか。
[8b,
あなたの全焼のささげ物は、いつもわたしの前にある。]と、「ささげものはもう十分にささげられている」と語っておられます。それだけではありません。ささげられているものだけでなく、ささけられていない[10,森のすべての獣]、[11,山の鳥も。野に群がるものたち]、[12,
世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。]と言われます。そうなのです。神さまはわたしたちに養われるお方であり、「たくさんのささげものをしないと、神さまは飢えられ、もしかしたら私たちを呪われ、たたられるかもしれない」ーそのような心配をしないといけないようなお方ではない、ということなのです。そのような考え方は「本末転倒な捉え方」なのです。そうではなく、神とは「この世界のすべてのものの創造者であられ、わたしたちを愛し、すべてのものを祝福また恵みとして提供してくださっている方」なのです。
わたしたちがなすべきこととは[14,感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いを、いと高き神に果た]すことです。わたしたちが神さまをお助けするのではなく、わたしたちが[15,苦難の日に、]助けられるために、神さまを[呼び求め]ることです。そのときに、神さまは[あなたを助け出し]てくださり、わたしたちは神さまを[あがめる]のです。それゆえ、私たちは、ウクライナのニュースを見るたびに、心の中の奥まった部屋で手を挙げて祈るのです。「ああ、主よ、彼らをお救いください」と。わたしたちもまた、あの爆撃音の響く町の地下室に共にいるかのような気持ちを抱いてとりなすのです。「主よ、この戦いを収めてください!
すべての人を死の恐怖からお救いください!」と。
V.7-15の第一の問題は「垂直の神と民の礼拝の問題」でありました。V.16-23の第二の問題は、「垂直の神信仰を、水平の生活の中に、歴史の中に倫理」として反映させる問題です。神さまは、[16,しかし、悪しき者に対して、神は仰せられる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にするとは。]と詰問されています。神さまの「おきて」は語られ、「契約」は口に溢れています。それは、[8,
あなたの全焼のささげ物は、いつもわたしの前にある]ように、「おきて」も「契約」の溢れているのに、彼らの「倫理的生活」、また「歴史的状況」は、と申しますと、[17,おまえは戒めを憎み、わたしのことばをうしろに投げ捨てた。18,おまえは盗人に会うとこれと組んで、姦通する者と親しくする。19,おまえの口は悪を放ち、舌は欺きを仕組む。20,おまえは座して、兄弟の悪口を言い、自分の母の子をそしる。]と、盗むな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え等ー十戒にしめされている倫理的本質違反のオンパレードである、というのです。
要するに、それは、真の神との礼拝生活に「本末転倒」の誤りがあるのであり、真の神との深い倫理的交流に根差した「生活の中、歴史の只中における倫理的展開」において深刻な問題が潜んでいるという指摘なのです。それゆえ[22,神を忘れる者どもよ、さあこのことをよくわきまえよ。そうでないと、わたしはおまえたちを引き裂き、救い出す者もいなくなる。]と心の底からの悔い改めをすすめておられるのです。礼拝生活の改善、倫理的生活の修復を励ましておられるのです。モルトマンという神学者は、その著書『希望の倫理』の中で、「正義に基づく平和の倫理」について以下の項目で詳述しています。⑴判断形成の基準、⑵神的な義と人間的な義、⑶キリスト教における竜殺しと平和づくり、⑷管理は良いが信頼はもっと良い、⑸神の義および人間と市民の権利、と。わたしは、力による属国的支配を拒否し、自由と市民の権利の尊重、そして独裁的管理による平和よりも、欠陥や犠牲を伴うとも信頼の上に形成されていく自由な社会を求めるウクライナの人々は、神から人類に恵みとして与えられている普遍的な権利のための戦いが含まれているように思います。それゆえ、彼らに共感し、彼らとともに戦い、彼らのために祈らされるのです。
順序が逆になりましたが、最後にv.1-6にふれたいと思います。わたしは、この箇所を繰り返し読んでおりまして、拙訳のG.E.ラッド著『終末論』の「第四章
キリストの再臨」を思い起こしました。もちろん、この詩篇は直接的にキリストの再臨に言及したものではありません。しかし、旧約聖書の中心的メッセージである「主の日」への言及をにじませるメッセージを感知させる要素がここかしこに見受けられます。ラッドは申します「ギリシア人の思想では、人間は世界から逃れ、神のもとに逃避する」しかし、「ヘブル人の思想では、神が人間のもとに下ってくる」と。今朝の詩篇にも[3,私たちの神は来られる。黙ってはおられない]とあります。
「神は歴史の只中にご自身を現し、歴史に中にいる人間を訪れることによって知られる」と。[3,私たちの神は来られる。黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その周りには激しい嵐がある。]は、シナイ山におけるモーセの出来事が念頭にあると思われます。雷鳴とそれに続く嵐には、全能者、審判者なる神の登場を連想させるイメージがあります。[1,神の神、主は語り、地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。]とありますが、キリスト再臨の折には、「マタイ24:38
人の子は大きなラッパの響きとともにみ使いたちを遣わします。するとみ使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」とあります。
[2,麗しさの極みシオンから、神は光を放たれる。]とあります。ラッドは、「神は歴史的出来事の中で神の民を審判する方である。審判者としての神の啓示は、…『主の日』として鮮やかに描写されている。」と申します。6節では、[6,天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者である]とあります。ラッドは「旧約聖書と最も際立った啓示的みわざは、エジプトにおける神の訪れである。そのとき神は、イスラエルの民を解放してご自身の民とした」と。ああ、今このネットの時代、全世界の国々の指導者たち、全世界の人々がリアルタイムで「大国による小国の蹂躙」を目の前にしています。もしかしたら、チェチェンのグロズヌイやシリアのアレッポのような都市崩壊とそれに伴う大量虐殺が起ころうとしているのかもしれません。そのような悲惨をわたしたちは他人事のように、横目で見ながら通り過ぎて良いのでしょうか。
それゆえ、わたしたちは、心の中で手を挙げて祈ります。「全能者なる神、義なる審判者なる神が、ウクライナの人々を救ってくださいますように。神が全世界の人々を、全世界の指導者を、全世界のすべてのものを用いて、戦争を、殺戮を止めてくださいますように」と。祈りましょう。
(参考文献: ユンゲン・モルトマン著『希望の倫理』、G.E.ラッド著『終末論』)
2022年3月6日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇49篇「たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない」ー『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』-
https://youtu.be/MqO3Wpfwf3Q
今朝の詩篇49篇は、「知恵の詩篇」と呼ばれる種類の詩篇です。この種の詩篇は、「知恵文学」と分類されるヨブ記、箴言、伝道者の書に特徴的な形式や主題を含むものとなっています。この詩篇を味読しますとき、「どこかで読んだことがある」と思い起こす箇所が多々あるのは、それが理由なのです。この詩篇の主題は、現世と来世の両方で「いのちを失う」ことと、「いのちを保つ」ことです。V.1-4は、[49:3
私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。49:4 …謎を解き明かそう。]と、知恵文学に特徴的な書き出しで始まります。
聴衆に向けてなされる冒頭の説教は、話がすべての人間を考慮に入れていることを明言しています。詩は、最大限に広い範囲に適用されることを求めています。それは、v.3[49:3
私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。]と、「魂が満たされて生きる道を、人々が生きることができるように、知恵と英知を与える」ことです。知恵は、[49:4
私はたとえ話に耳を傾け、竪琴に合わせて謎を解き明かそう。]と、人生を生きる知恵は生の謎を解くひとつの道としての聖書的な「格言」に耳を傾け、黙想することから与えられます。わたしも人生を振り返ってみますとき、その節目節目において、また岐路に立ったときに「みことば」「格言」等に耳を傾け、黙想し、そこから諭しを得て、「進むべき道」の選択を助けられてきたように思います。
5節には、[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。]と、この知恵の教師自身が味わった「人生で最も悲しい物語」のひとつに対して取った対処法について語っています。カルヴァンは、この個所の「かかと」を、[彼らが権勢において彼を凌駕し、言ってみればその足で彼のかかとを押しまくり、ビタッと背後に着き、彼を打ち負かす好機を求める限りにおいて、彼らの邪悪な迫撃が、彼の両のかかとにまで迫っているのである]と説明しています。この個所は、まるでロシア軍に包囲されて、空軍の爆撃と陸軍の集中砲火をあび、無差別攻撃で住宅や建物ごと粉砕され、殺戮されているウクライナの市民と重ならないでしょうか。これは、血も涙もない独裁者のなせるわざだと思います。厳しく断罪されなければなりません。21世紀にこのような殺戮がゆるされてよいのでしょうか。私たちは[出エジプト記
3:7
【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。]とあるように、ウクライナの人々のうめき、叫びに合わせ、祈る必要があります。
V.6に、[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]とあります。この知恵の詩篇は、富める者と貧しい者の問題を広く取り扱っています。箴言は、平時における倫理を語っています。「律法の本質において明らかにされている御心に導かれて生きるなら、神さまの祝福豊かな生涯を送れる」と。しかし、聖書は祝福の側面のみでなく、「伝道の書」においては人生のはかなさの側面を照らし、「ヨブ記」は主の御心に導かれて生きる人生にも、耐えがたい苦難がある、と危機における倫理の側面を照らし出すことをもって励ましています。この詩篇は、そのあたり全般を照らし出している「知恵の詩篇」です。
わたしは[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]この個所を読むときに、ヨブ記3章のヨブの叫びを思い起こします。ヨブは、信仰深い人間でありました。善行に溢れる生涯を送っていました。それなのに、立て続けに不幸にまみえることになりました。[ヨブ3:1
そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。3:2 ヨブは言った。3:3
私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。3:4
その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。…3:11
なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。3:12
なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。]「生まれた日を呪った」というのです。なんという悲惨、なんという不幸でしょうか。人は、耐えられないような不運、不幸にまみえるとき、このような心境に陥ります。ウクライナの人々の気持ちはどのようなものでしょうか。先日まで、幸せな家庭で暮らしていた人々が、気ちがいじみたひとりの独裁者の「古きソビエト連邦の栄光」の固執によって、数日のうちに、その生活を、その人生を破壊されてしまったのです。
その意味で、この詩篇は、主が創造され、み旨に従って、万民が平和に暮らすべきはずの世界における矛盾を照らし出し、その問題の中に生きる人々の苦悩を癒す、いわば「薬」です。この富める人の「v.6自分の財産、豊かな富」、「49:11
彼らの心の中では、その家は永遠で、住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。」[49:16
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。][49:16
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。][49:18
たとえ人が自分自身を生きている間に祝福できても、あなたには物事がうまく行っていると、人々があなたをほめたたえても。][49:20
人は栄華のうちにあっても]と、この世界における成功も失敗も、富も貧困も、幸せも不幸も、すべてが「死」をもって清算され、ご破算となる、ということです。
すなわち、[49:5
なぜ私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。]という苦境の只中に置かれています。そして、[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。]という豊かな者、富める者、力ある者のゆえなき圧迫・弾圧・攻撃を見せられ、「神さま、なぜこのようなのですか?」という信仰的な苦しみ・葛藤の中に生かされています。そのような苦しみのただ中で、ひとつの治療薬として「知恵のことば、また格言」が与えられます。それが、わたしたちの暗闇を照らすのです。攻撃している力ある者である[49:9
人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。]と。
「死」は、すべてを清算してしまうのです。[49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。][49:17
人は死ぬとき何一つ持って行くことはできず、その栄誉もその人を追って下ることはない。]
という、家族を殺し、同胞を殺し、国を破滅に追い込む独裁者をどう受けとめたら良いのかと苦しむ心を癒す洞察をいただくのです。独裁者は、いろんな手段によって、その権力を、富を得て、栄華をきわめるでしょう。その手にした軍事力によって反対者を容赦なく弾圧し、言論を、人権を、民主主義を抑え込むでしょう。時には、暗殺すら手掛けます。やりたい放題です。そのような時代に処世術にたけた人は、「寄らば大樹の影」「長物には巻かれろ」と、独裁者の太鼓持ちとなるでしょう。神のみ旨を探って判断するのではなく、「現世における損得勘定」を彼らの「善悪判断」の物差しとするのです。それらの人々は一時的には富と栄華のおこぼれにあずかるでしょう。しかし、彼らは「死体のまわりに群がるハゲタカ、またハイエナ」のような輩です。「v.12,20
滅び失せる獣」のようです。
しかし神さまは、天から「魂の値打ち」を計っておられるお方です。ダニエル書のこのような言葉があります。[ダニ5:24
そのため、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。5:25
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』5:26
そのことばの意味はこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。5:27
『テケル』とは、あなたが秤で量られて、目方の足りないことが分かったということです。5:28
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシアに与えられるということです。」]独裁者の支配は、永遠には続きません。早晩、終わりをづけます。そして、民主的なかたちで、それぞれの国、民族は自治権を得、また独立していくことでしょう。
大切なことは、「このような変動期に、神さまの御前においてどのように生きるのか」ということです。わたしたちは、この世の一時的な「栄華」のために、「滅び失せる獣」のような道を選択して生きるのか、あるいは、この世では「わざわいの日々」を送り、「かかとを狙う者の悪意」に取り囲まれて生き、最終的に[49:15
しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる]ー逆転サヨナラ満塁ホームランの試合を味わうのか、いつもその岐路に立たされているように思います。
最後に、【映画】「Winter on Fire: ウクライナ ー
自由への戦い」というドキュメンタリー映画のことを話しましょう。これは、2013年から2014年にかけてウクライナで起こった公民権運動を93日間にわたって記録したドキュメンタリー映画です。当初、ウクライナの明るい未来を求め、欧州統合を支持する平穏な学生デモとして始まりましたが、政治家の裏切りが続き、やがて大統領の辞任を要求する運動へと変貌していきました。ウクライナ全土から100万人近い市民が結集し、要求や表現の自由を抑圧しようとした当局に対して抗議運動を展開していった様子が描かれています。民主主義・基本的人権尊重・言論の自由への憧れとその未来を獲得するため、今もまた犠牲を払い続けるウクライナ国民のスピリットに心打たれます。このスピリットが今のウクライナ国民の底流にあるのだと教えられます。
ロシアの無差別爆撃、都市殲滅の攻撃を見て、「チェチェン等でも同じような殺戮を繰り返してきたのだろうな」、「このような獣のようなことをして、神を畏れないのか」と思いました。このような血も涙もない独裁者に[49:6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。49:7
兄弟さえも、人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。49:8
たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。]を示したいと思います。「神は、このような殺戮者をほおっておかれることはない。必ず、審判の席に着かせられる」と。
そして、瓦礫の中でいのちを落としていっているウクライナの老若男女の人たちに[49:15
しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる]のみことばを贈りたいと思います。ウクライナは、民主主義、言論の自由、基本的人権を獲得する戦いの最前線と思います。彼らは、ある意味で、私たちに代わって最前線で戦ってくれているのです。そのような意識をもって、祈り続けたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:
J.L.クレンショウ『知恵の招き』、聖書神学辞典、J.L.メイズ『詩篇』、カルヴァン『詩篇Ⅱ』、B.W.アンダーソン『深き淵より』)
2022年2月27日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇48篇「東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる」
ー時代の流れを読む目と、棹の差し方を教えてくださいますように-
https://youtu.be/yZtGramqkSI
詩[ 48 ] 歌。コラ人の賛歌。
今朝は、戦火で苦しみの中にあるウクライナの人々のことに思いを馳せつつ、詩篇48篇に傾聴しましょう。この詩篇の真中には、[48:4
見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。]と、神の都、シオンたるエルサレムを支配下に置こうとして攻め上る周辺国の王たちのことが記されています。そうなのです。アジア、アフリカ、ヨーロッパの架け橋のような位置にありました古代イスラエル民族また国家は、たえず他国からの侵略の脅威にさらされていました。特に、南方にはエジプト帝国、北方にはアッシリア帝国、東方にはやがてバビロン帝国が興隆し、この民族また国家を苦しめることになります。大国の隣国となるのは恐ろしいことです。今日のウクライナもまた、大国ロシアの隣りにあって苦しんています。
この大国の狭間に生きる小国イスラエル民族また国家における「安寧秩序の祈り」であり、「48:1
b主の聖なる山、私たちの神の都」、「48:2 高嶺の麗しさ。」「北の端なるシオンの山」「大王の都」、「48:3
その都の宮殿」であるとの信仰の表明です。このような詩篇は、「シオンの歌」として分類されるもので、それらは「ダビデ契約の神学による主要な教義」を前提としています。つまり、「神はシオンを神の臨在の場所として選ばれた」という信仰です。イスラエルは、小国ではありますが、神の特別な加護をいただいている民族であり、国家であり、その核心は「ダビデ契約」にあるということなのです。
[48:2
高嶺の麗しさ、北の端なるシオンの山は大王の都]とありますが、これは詩的な表現です。シオンの山はそれほど高い山ではなく、地理的にも「北の端」といわれるほど北部に位置しているわけではありません。これは、[イザヤ14:13
おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。]と記されているように、至高神の座が「北の最果て」にあるとイメージされていたことからくるものです。戦争戦火で混とんとする歴史に翻弄される小国にとって、このように勇ましい信仰はどれほど大きな励ましであったことでしょう。見える現実は厳しいものであります。経済力や軍事力は大国に比べると貧弱なものかもしれません。そのような状況において、[48:3
神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示され]、その小国を守り、その都を“難攻不落”なものとしてくださっていると歌っているのです。わたしは、この詩篇48篇を大国の不当な侵略に苦しむウクライナ市民に送りたいと思います。
[48:4
見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。]とあります。大国ロシアは、小国ウクライナに侵攻してまいりました。その高度な兵器と、比べ物にならない兵員をもってすれば、あっという間に首都キエフも陥落するだろう。腰抜けのゼレンスキー大統領は降伏するだろうと考えていたことでしょう。ウクライナの国民は、恐怖のあまり政権をすげかえるだろう、と考えていたことでしょう。しかし、ウクライナの国民は、独裁的な支配者による属国のような支配を拒み、祖国防衛に立ち上がっています。クリミア半島を奪われてから、ウクライナは国家として、軍隊として、国民としてしたたかに準備していたようです。ウクライナ国民は、大国に支配下で、ある意味で「精神的に奴隷のように屈辱的な扱いを受けて生きる道」ではなく、いのちを賭けて「民主的な国家、国民として生きる道」を選んでいるようです。「民族自決権、言論の自由、宗教の自由、内心の自由等が保証された世界に生きる、人間の基本的人権が尊重される世界に生きる」ということは、人間がおいしい空気のなかに生きる、魚がきれいな水の中に生息することと同様非常に大切なことです。わたしは、聖書の信仰の本質として、その本質の表明として、「十戒」の偶像崇拝からの自由というものの本質のひとつは、「内心の自由」であると受けとめています。今見ているウクライナ国民の戦いの本質もまた、「従属国家,従属民族として豊かに生きる」よりも、「貧しくても、困難があろうとも,内心の自由のある誇り高き民族,国家として生きていきたい」という切なる願望であるのではないでしょうか。
ロシア軍は、同じ民族的ルーツをもち、かつて友好国であったウクライナ国民のいのちを賭けた激しい抵抗を目の当たりにしたとき、[48:5
彼らは見ると驚き、おじ惑い、慌てた。48:6
その場で、震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが]とらえたことでしょう。ロシア人は平和を愛する国民と思います。ロシア兵もまた同じと思います。しかし、そのような国民に、そのような兵士たちに、祖国を愛し、家族を守るためにいのちを賭けて戦うウクライナの人々を殺戮していくことは、ロシア兵の良心の呵責を呼び起こすことでしょう。
アフガン戦争でも、ロシア国民の間に反戦運動が広がりました。同じ民族で元友好国のウクライナへの侵攻は、さらに広範な反戦運動をロシア国内に引き起こすことでしょう。
[48:7
東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる。]とあります。タルシシュの船とは、地中海交易用の強力な船団のことです。ロシアのプーチン政権は、独裁を強めた強力な国家とみられていますが、今回の「ウクライナ侵攻」は、強力な「東風」によって沈没させられた「タルシシュの船」となってしまう可能性があります。つまり、国内の反戦運動と、国際的な兵糧攻めによって、プーチン政権崩壊のはじまりとなる可能性があるのです。第二次大戦において、ナチス・ドイツはヨーロッパ全域を支配下に置こうとし、帝国日本は、アジア・太平洋地域一帯を支配下に置こうとしました。それを確実なものにしようと、「真珠湾奇襲攻撃」を敢行しました。英国首相チャーチルは、この知らせを聞き「これで戦争に勝った」と言ったとのことです。及び腰であった最強国アメリカの参戦を決定づけたからです。ウクライナへの全面侵攻は、全世界の世論をひとつにし、ロシアを人間の鎖で取り巻いています。ロシア国民の良心が呼び覚まされる時が到来したといえるのではないでしょうか。
わたしたちは、歴史の出来事の中に神のみわざをみたいと願っています。神さまの権能は全地に及んでいます。[48:9
神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを、48:10
神よ、あなたの誉れは、地の果てにまで、あなたの右の手は義に満ち、48:11
あなたのさばき]が、と。わたしたちは祈ります。民主的な小国を、独裁的な大国が蹂躙しないように、と。主がウクライナを属国的な支配から解放してくださいますように。「48:3
神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示された」とありますように、あなたが「大国の隣にある小国に民主主義と言論の自由を保障する砦」となってくださいますように。今、大きな犠牲を払って、子々孫々のためにそれを獲得せんとして、戦いの中に身をささげているウクライナ国民の上に、神さまの加護がありますように。
最後に、[48:12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。48:13
その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。48:14
この方こそ、まさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる]とあります。歴史的に特別啓示として示された「都シオンと永遠の神」をわたしたちは、どのように理解すれば良いのでしょう。ある人たちは、これらの記述を極端に字義的に、今日のイスラエルに対して適用しようとします。しかし、それは誤った解釈です。歴史的にみて、神殿を含むシオンの山、エルサレム一帯は、永遠の都ではありませんでした。「神の神殿、王宮、エルサレムのすべての家々」はバビロン帝国の軍隊に焼き払われてしまいました(列王記下5:9)。
ところが、神殿は炎上しても、それによって全地を支配する主なる神への信仰は消滅しませんでした。すでにイザヤ、ミカ、エレミヤ等の預言者たちは、主の審判によって堕落したエルサレムとその神殿が荒廃に帰すことを大胆に告知していました。エルサレムは、その神の御心を実践する都でなければなりませんでした。そうでない場合、主なる神はこれを棄てられるであろうと。エレミヤは、涙の預言者といわれ、同族に嫌われるメッセージを取り次ぎ続けました。いつの時代においても、預言者的な使命に生かされる人たちは皆、そのような生涯に生かされます。
では、わたしたちは、この個所[48:12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。48:13
その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。48:14
この方こそ、まさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる]をどのように読み、どのようなメッセージを聴き取り、どのように生かされるのでしょうか。それは、繰り返して申していますように、神さまは、歴史に根差した特殊的な「イスラエル民族主義的」ともみられる啓示の中に、普遍的なメッセージを語っておられるのです。豊かな普遍性を持つキリスト教信仰は、「歴史に根差した特別啓示」から与えられる詩的イメージの全ドラマを「エルサレムにおけるメシヤの出現、死、勝利」に集約しています。この中心的な出来事こそが、「神の都」「シオンの歌」で与えられている詩的イメージの実体なのです。
主が、「シオンの歌」として分類される、「主がシオンを地上における神の支配の中心として選ばれた」という思想は、イエス・キリストの人格とみわざを指し示す詩的イメージとして解釈すべきなのです。その手本を新約にみます。[使徒13:33
神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。]シオンでの祝祭、シオンへの燃えるような切望、神の王国の主権、即位式、混沌の上に君臨される王、ダビデに対する恵みの約束、油注がれた者、神の子、神の右に座する者、神の都、シオンの歌等のすべてが、新約においては、イエス・キリストの人格とみわざを指し示す詩的イメージとして、美しく解釈・適用されているのです。
今朝は、ロシアのウクライナ侵攻に思いを馳せつつ、詩篇48篇に傾聴しました。プーチン氏は、ソビエト連邦としての栄光からの没落をかみしめているのでしょう。それを押しとどめたいのでしょう。しかし、その歴史の流れをとどめることはできません。いさぎよくそれを受け入れるのみです。そして、その流れの中で、主のみ旨を悟って、上手に棹を指すことです。主が、世界の指導者に、そしてキリスト教会の指導者に、時代の流れを読む目と、棹の差し方を教えてくださいますように。多くの人々が苦しみに呑み込まれる前に。
私たちの主イエス・キリストの御思いを「巡り、その周りを歩き、その塔を数え、その城壁に心を留め、その宮殿をめぐり歩く」ことができますように。「後の時代」に恥じることのない選択また生き方ができますように。主が、価値ある生き方のためには死をも恐れず生かしてくださいますように。「死を越えて私たちを導いて」くださいますように。ズミイヌイ島で殉死した13人のウクライナの国境警備隊とその家族のために祈りましょう。キエフに進軍しつつあるロシアの戦車の前に立ちふさがるウクライナ市民とともに祈りましょう。赤の広場とロシア全土で戦争反対に立ち上がる勇敢なロシア市民とともに祈りましょう。ウクライナの旗を掲げ、全世界の隅々で祈る人々とともに祈りましょう。祈りましょう。
2022年2月20日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇47篇「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を」ーウクライナ危機の中で、詩篇47篇を唱和する-
(讃美)
栄光主に、力ある神(赤本157)
https://www.youtube.com/watch?v=9jwJQCCXQvA
なんという喜び(青本61)
https://www.youtube.com/watch?v=wMJwJV0UeFU
(詩篇47篇朗読と傾聴)
https://youtu.be/qTBsOODomL4
J.L.メイズ著『詩篇』で、47篇は「全地に君臨される王」となっています。この詩篇だけを読むとしますと、「全地に君臨される王」を讃美し、ほめたたえる歌であると教えられます。なんの変哲もない、「王たる主」をほめたたえる歌であると読み飛ばしやすいと感じます。しかし、それで良いのでしょうか。この詩篇は、そのように通り一遍の、うわべだけ、形だけの味わい方で終わって良いのでしょうか。この詩篇を一週間味わっていて、そのような問題意識を抱きました。
では、この詩篇47篇を美味しいブドウ酒のように味わうには、どうすれば良いのてしょう。詩篇の一篇一篇は、それぞれが年代物の最高級のブドウ酒であり、熟成された150本のワインの貯蔵室のようなものであるからです。その味わい方のひとつは、この詩篇のジャンル(分類・種類)を知ることです。ブドウ酒にもいろんな種類がありますように、詩篇にもいろんな類型があります。詩篇47篇は、同じジャンルである詩篇2篇と重ね合わせますと、その背景を深く理解できます。詩篇2篇を読んでまいりましょう。
(詩篇2篇朗読)
今、ロシアとNATO(北大西洋条約機構)は、ウクライナをはさんで戦争の瀬戸際にあります。詩篇2篇は、権力抗争に明け暮れる国々によって編まれてきた「歴史の問題」に直面した、信仰共同体の抱く問いに焦点を絞っています。この問いは、21世紀に生きる私たちにとっても、新鮮な問いであります。近くは、ミャンマーがあり、香港があり、南シナ海があり、北朝鮮があり、その大小の騒乱の種は尽きることがありません。ここで、信仰者に与えられた言葉は、「メシヤの告知」です。神はそのメシヤの支配のもとに諸国を置かれるのです。詩篇2篇は、主に油注がれた者、天の御座に着いておられる方、わたしの王を立てた、聖なる山シオンに、あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだーと、メシヤたる王の任職式、戴冠式を描写しています。この詩篇2篇の内容は、王を主題とする他の詩篇群(詩篇18,20,21,45,72,89,110,144,等)の先触れとなるものです。
詩篇2篇は、v.1-3で、「国々とその王たちが主のご支配と油を注がれた方に逆らう」ことへの驚きが表されています。V.4-6で、「天を王座とする主の嘲りと憤りの応答」を描いています。主は、王たちの反逆に対し、「主みずから、聖なる山でご自身の王をお立てに」なります。V.7-9で、「主が認めた王とは誰であるか」そして「その王の支配」について記されています。王は「主の父権により、特別な日に、主の子とされ、全地の支配とそり支配を成し遂げる力を約束」されます。V.10-12で、「地を治める者たちが、王の王権に服従」するように諭され、彼らは主のご支配に挑むすべてに対して下される「さばきの怒りを受けるか否か」の選択を迫られます。
前置きが長くなっていますが、今朝の詩篇47篇も、詩篇2篇と同じ線上で理解されます。最初の招詞[47:1
すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって、神に大声で叫べ。]は、[47:2
まことにいと高き方、【主】は恐るべき方。全地を治める大いなる王。47:3
国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。47:4
主は私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ47:5
神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。]と、主によるご支配確立へと至る道筋を記すことによって補われています。
第二の招詞[47:6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。]には、[47:7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。47:8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。47:9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。]と、主がそのことばの中心にある王座に着いておられることの記述が続きます。[セラ]は、5節[47:5
神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。]の直前に置かれ、区別されることにより、この詩全体の頂点であり、中心である出来事を描写しています。
この讃歌の「場」は、主は上られ、王座に着かれるという戴冠式です。この出来事は、神殿の典礼式においてならば「神の箱を担いで進む行列」によって表現されたことでしょう。古代近東の宮廷儀式ならば、王が壇上に登り、王座に着くーすなわち戴冠式において、宮殿を取り囲む者が王の支配に対し喝采した出来事でしょう。また、
[47:2 全地を治める大いなる王、47:3 もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる、47:4
私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを」は、イスラエルの土地取得に至る過程の記憶と解釈の伝承です。混沌は征服され、古代近東の宗主権条約にある用語の意味での、神とイスラエルの関係における「神の愛」が記されています。属国に示される好意は、「宗主国の王の胸先三寸」でありました。
主の王権は、地上のすべての国とすべての民に対する主張の基盤です。イスラエルに示された「特殊性」が、「普遍性の基盤」であり、「普遍性」が「特殊性の意味」を描き出すのです。神の王権についての詩篇の見方は「多面的」です。そこには、歴史、儀式、神話が含まれ、さらに過去の記憶、現在の経験、そして未来への希望が含まれます。「神が主導されたこととしての征服」を思い起こすことは、これらを考える時に重要です。主が「全地の王である」ことの啓示として、この点をみるなら、このことに「宇宙論的かつ終末論的意味」を与えることになります。それは、「歴史の混沌」と「背後と上で起こっていること」の顕示となります。「主が世界支配の座に着かれた」ことを、礼拝において喜び祝うことは、「その記憶とその意味を、今ここで味わう」ことです。
これらのことを考えますと、この詩篇47篇は「神の統治の正しい理解」の模範であり、またそれを「喜ぶことの範例」であります。神の統治は、人の世の出来事と離れたところでは決してありえず、しかし、どんな出来事の中にも決してとどまるものでもありません。また神の統治は、純粋に終末論的に限定されるものではありません。過去にも、現在にも適用されうるものです。しかし、終わりの日にの完成においてのみ、それは満ち満ちたものとなります。それは、今日のいかなる人の行いによっても、完全には表すことのできないものです。しかし、礼拝の讃美と祈りにおいて、わたしたちはそれを実際のこととして味わうことができるのです。
最後の[47:9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。]の「神の民」に含まれている意味に注目すべきでしょう。神の民は、漢民族やウイグル族、ロシア人やウクライナ人等ー「民族や国家的アイデンティティ」によってではなく、「主の支配を信じ、認めることによって結び合わされたもの」のことです。種々の形で「悪しき民族主義」「悪しき愛国主義」をあおり、政治的利益を得ようとするジヤーナリズムや政治家等を警戒しなければならないと思います。「悪しき民族主義」「悪しき愛国主義」を唱道する宗教家による運動や教えにも警戒が必要と思います。多様な歴史と文化をもつ民族の上に超越し、愛をもって統治しようとされている「全地を治める、大いなる王」に焦点を合わせるべきと思います。
この考え方は、シナイを越えて「アブラハムへの約束」に遡ります。その約束とは、「創世記12:1-4
アブラハムの子孫を通して、地上のすべての民が祝福を受ける」ということでした。この詩篇47篇における「神の全世界に及ぶ王権の神学」は、その成就を指し示しています。ユダヤ教の伝承によりますと、詩篇47篇は、新年の幕開けに「吹き鳴らされるトランペットの音の前に七回、神殿で歌われた」といいます。初代教会では、この詩を「主イエスの昇天」を讃美するために用いられました。この詩は、ウクライナ危機の最中、左の耳・左の眼で水平方向のニュースに翻弄される今日、右の耳・右の眼でこの詩篇47篇を通して「垂直方向からのイメージ」に立ち、そこを起点としてたくましく歩み続ける者とされたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: J.L.メイズ著『詩篇』、B.W.アンダーソン著『深き淵より』)
2022年2月13日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇46篇
「やめよ。知れ。わたしこそ神」ーその特殊的なものを通して「普遍的なもの」をイスラエルに教示し-
*
(傾聴)
[讃美]
「神はわがやぐら」讃美歌第267番、新聖歌280
https://www.youtube.com/watch?v=_G5yik1KpkY
川がある [楽譜番号 赤本:48]
https://www.youtube.com/watch?v=j23_F0_EU34
[詩篇46篇朗読と傾聴]
https://youtu.be/MqaV-FmxQNk
________________________________________
この二週間くらいは、既刊のキンドル本をペーパーバッグ版化、すなわち文書化することに尽力していました。いろいろと細かい作業も数多くあり、寝ても覚めてもの日が続き、深夜までの日もありました。
四六時中、交感神経を使い過ぎたようで、睡眠が浅くなり、疲れがとれず、からだのだるい日が多かったように思います。なので、これからは自宅で交感神経を使い過ぎないようにし、副交感神経とのバランスを大切にしていくことを学びたいと思っています。さて、今朝は、先週の「王家の結婚式」の詩篇45篇のお祝いのムードと希望に満ちたトーンが継続している詩篇46篇です。詩篇46、47、48篇では、「シオンからの神の統治・支配」に焦点が当てられています。
わたしたちは、詩篇第一巻(1-41篇)を振り返り、「避け所としての主」がこれらの詩篇の重要なテーマであることを思い起こします。この詩篇46篇は、ルターによる讃美歌第267番「神はわがやぐら」で有名になった詩篇で、この歌は関学時代、一時間目と二時間目の間、毎日30分間あるチャペル・タイムでよく歌いました。この詩篇は、[46:1
神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。]と、神がわたしたちにとって「避け所」であり、困り果て、苦しみの中にあるときの「助け」であるという肯定から始まっています。
V.1-3の第一詩節(スタンザ)においては、[46:2b たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。46:3
たとえその水が立ち騒ぎ泡立っても、その水かさが増し山々が揺れ動いても。]と、阪神大震災や東日本大震災、大津波、原発による災害等のような自然界の天変地異や事故があっても、[46:2a
われらは恐れない。]と、危機の最中に投げ込まれるとしても、絶望しない、勇気を失わないとの信仰の告白がなされています。その信仰・希望・勇気の源は、
[46:2 それゆえ]にあります。「それゆえ」とは一体何でしょうか。それは、[46:1
神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。]であるからなのです。
古代の中東では、「海の中心にある」山は、空を所定の位置に保持する大地の柱と考えられていました。[46:2たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。]と、その大黒柱が崩れ、折れ、破壊され、空が落ちて来ても、そして、そのことによって[46:3
たとえその水が立ち騒ぎ泡立っても、その水かさが増し山々が揺れ動いても。]と、地震による大津波による災害が起こってもと、温暖化による環境破壊との戦いに適用可能な言葉が続きます。この詩篇の第一詩節は、「クリスチャン、この温暖化による環境破壊の時代、いかに生きるべきなのか」、神を避け所として、神の力、神の助けをいただきつつ、いかに戦うべきなのかの挑戦状がたたきつけられているように思います。
第二詩節のv.4に入りますと、そのv.1-3の「天変地異のトーン」からの顕著な移行をみます。第一詩節では、混沌とし、破壊された海は、[46:4
川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。46:5
神はそのただ中におられ、その都は揺るがない。神は朝明けまでに、これを助けられる。]と、これは、ダビデ契約に基づき「神はシオンの都を神の臨在の場所として選ばれ」ている、という確信の表明であります。この詩的なイメージは、何を意味しているのでしょうか。これは、エゼキエル書47:1-12や黙示録22:1-2、ヨハネ7:38に示されているものです。それを少し読んでみましょう。
エゼキエル書を開きましょう。[47:1
彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。47:2
次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。47:3
その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。47:4
彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。47:5
彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。47:6
彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。47:7
私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。47:8
彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。47:9
この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。47:10
漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。47:11
しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。47:12
川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」]とあるように、エゼキエル書における未来に関する預言とも重なります。
黙示録を開きましょう。[22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2
都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。]とありますように、未来の新天新地における預言とも重なります。
そして、それらは、ヨハネによる福音書[7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。]のー現在の私たちへの祝福とも重なるものです。
詩的なイメージによりますと、神殿の下からいのちを与える泉が湧き出し、この町シオンから死海へと流れ下り、荒野を肥沃な土地に変え、死海を淡水湖に作り変えるというのです。「罪と死のからだ(ローマ7:24)」のようなわたしたちの存在における御霊の内住の経験とも重なります。そして、この被造物世界全体へのわたしたちの使命・貢献もそこにあります。
ここで注意すべきポイントを指摘しておきたいと思います。といいますのは、このようなポイントには、誤った解釈と誤った運動への落とし穴も見受けられるからです。旧約のダビデ契約、その神殿、エルサレム、それら一帯を含む意味でのシオンの中心性の意味を、新約の光の中に生かされるクリスチャンいかに理解すべきなのか、という問題です。新約の光に従って「民族を超えた普遍性」を重んじるわたしたちの信仰の本質において、「シオンの中心性」を強調することは、ある意味「民族主義的排他性、民族主義的国粋主義」の響きをもち、神学的に耳障りな要素です。
なぜ、シオンが他の場所に優って、神学的な優先権を持たねばならないのでしょうか。それに対する健全な答えは、聖書の真の意味は「民族主義的要素」の中にあるのではなく、シオンが「超越的な意味のシンボル」を担っているというポイントにあるのです。詩篇の中に数多くある「シオンに関する詩篇」は、歴史に根差した特殊的・民族主義なものから芽生える「普遍的なもの」を表現しているのです。詩篇作者にとって、シオンは「民族的・歴史的な意味を解き明かす中心」でありますが、そのことの意味・目標・意図は、「民族主義的な優先権の主張や保証」ではありません。神が意図された真の意味は、その特殊的なものを通して「普遍的なもの」をイスラエルに教示し、イスラエルはその「普遍性」を全世界に向けて顕わすために、選ばれ、用いられた、ということなのです。イスラエルの「選び」の真の意味を誤解すると、落とし穴に落ち込み、逸脱と亜流の運動と教えに巻き込まれます。
イスラエル民族の中に、イスラエル民族の歴史の中に「啓示された意味」は、イスラエルに限定されたものではありませんでした。その啓示は、第三詩節に
[46:9 主は地の果てまでも、戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。46:10
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」]と、ありますように、戦争、憎悪、誤解という歴史を担う「あらゆる人間存在に対する意味」を持っているのです。この「普遍的な意味」をイスラエルという特殊性の中に、見出す鍵はキリストの人格とみわざにあり、使徒たちは御霊による啓示により、健全でバランスのとれた旧約解釈を、詩篇解釈を提示しています。この理解に立たないと、中東に真の和平は訪れないでしょう。クリスチャンは、健全な福音理解に立ち、真の和平への仲介者となっていくべきなのではないでしょうか。
今日も、ロシアとNATOとの間で、ウクライナの領土紛争が起こっています。ここでは、形式的にはキリスト教国同士ではあります。なのに、クリミヤ半島は征服され、ウクライナの東部も危険な状況です。そこには、強国が弱い国を踏みにじる姿があります。戦いが始まれば、多くの犠牲が生まれることでしょう。弱い国も、周囲の助けを得て、死に物狂いで戦い続けるからです。
主は、[46:10
「やめよ。知れ。わたしこそ神。]と語られています。豊かな「普遍性」をもつキリスト教の信仰は、「シオン中心の狭い考え方」ーすなわち「排他的民族主義、排他的愛国主義」の狭い考え方に偏ったものではありません。それらは、キリスト教信仰の本質とは異質な「亜流であり、逸脱」といえます。
民族に対する神の関わりの全ドラマは、「シオンたるエルサレムに出現されたメシヤなるキリスト、その贖いの死と復活の勝利」に集約されているのです。この中心的な出来事こそ、このお方こそ、クリスチャンの礼拝において再現されているものであり、民族を超えた「普遍的な神の民」のシオンであり、歴史の中心なのです。そのようなお方を、そのようなみわざを、そしてそれを現実化する内住の御霊を「わたしたちの避け所」とし、「わたしたちの力」とし、「強き助け」とし、世界の平和のため、私たちの身近の真の平和のために、祈り続け、取り組み続けましょう。祈りましょう。
(参考資料:W.Brueggemann,”Psalms”、B.W.アンダーソン著『深き淵より』)
2022年2月6日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇45篇 「すばらしいことばで、私の心は沸き立っている」ーキリストと行進し続けるバージンロード-
https://youtu.be/OUMTJ2V2nI8
(傾聴)
わたしは最近、NHK-BSの「グレートトラバース:日本三百名山」という番組をよく見ています。日本の中にある三百の有名な山を踏破する風景ビデオのシリーズです。日本の山といえば、一般的なイメージがありますが、ひとつひとつ踏破していくときに、それぞれの山には「個性と特色」があることを教えられ感動させられます。今、わたしたちが傾聴しています『詩篇の150篇』もある意味で、「個性と特色」のある山々のようだと教えられます。詩篇第二巻の最初、42、43、44篇は、苦難のただ中での「嘆きの祈り」でありました。しかし、45篇の山に登ると風景は一変します。これは、王家の結婚式のお祝いの歌なのです。
そして、この王家の結婚式の歌は、ヘブル1:8-9で[1:8
御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。1:9
あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」]と、メシヤなる御子イエス・キリストを指すことばとして引用されています。また、創世記1-2章の解説書としての『雅歌』、そして福音書(マタイ9:15)・エペソ書(5:22-33)・黙示録(19:7-9、21:2、22:17)に記されていますように、王の婚礼は神と神の民、花婿なるキリストと花嫁たる教会また信仰者ひとりひとりの関係の類比として用いられています。聖書全体に眺望せられるそのような類比の風景全体を眺めつつ、王家の結婚式の祝いの歌をみてまいりましょう。
さて、絶対王政の支配する社会では、王家の婚礼はまことに重大な行事です。それは、単なる恋愛の問題以上に、国家間の同盟をも意味する事柄でありました。わたしたちとキリストとの関係にもそのように言える側面があります。新約のローマ書に[8:31
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。]と、わたしたちのキリストとの関係は、ある意味で“最強国家”との同盟関係でもあるからです。この祝宴には、同盟国や従属国の王族も出席しました。しばしば婚礼は「外交儀礼の場」でもありました。今日でも、オリンピックもそのような場です。なので、「外交的ボイコット」等が話題になったりしています。キリストとの婚姻関係の中にあるわたしたちの様子を、神さまの事を知らない多くの人たちが見つめています。わたしたちの人生、生活はマタイ伝に
[5:14
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。]とありますように、「隠れることのできない山の上の町」なのです。
詩篇45篇は、そのような結婚にまつわる儀式の進行によって構成され、その壮麗な雰囲気をかもしだしています。王は、[45:8
あなたの服はみな没薬アロエシナモンの香りを放ち]と、東方の高価な香料の香り立つ王衣をまとい、その花嫁は[45:13
王の娘は、その衣には黄金が織り合わされている。]と、金糸と色糸で織られた晴れ着を身に着けています。[45:14
おとめたちが彼女の後に付き従い]と花嫁は乙女らをしたがえ,[45:15
喜びと楽しみをもって、彼女たちは導かれ、王の宮殿に入って行く]と、高らかな音楽が象牙模様で装飾された宮殿の部屋に、あたかもラッパやパイプオルガンが鳴り響く中、宮殿に進み入っていくようにです。
花婿は、これ以上ないほどの賛辞(v.2-9)を受けます。それから、花嫁は、[45:10
娘よ、聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。45:11
そうすれば、王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそ、あなたの主。彼の前にひれ伏せ。]と、王を夫として、君主として、その人の妻として、その人に従うものとして受け入れることの勧めを受けます。花嫁は、[45:14
彼女は、王の前に導かれる。彼女はあなたのもとに連れて来られる。45:15
彼女たちは導かれ、王の宮殿に入って行く。]と王にまみえ、結婚が成立するために宮殿に導かれていきます。王は子孫を約束され、その子らを通して支配は全土に、そして来るべき代々に至ります。
この詩篇で、問題となりますのは、[45:6
神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。]です。王を「神(エロヒーム)」の呼称で呼んでいるところです。旧約聖書の中には、このような例はありません。聖書の唯一神信仰からして、これは大きな問題といえる箇所です。幾つかの聖書的説明が可能とされています。そのひとつとして、新約聖書の使徒行伝があげられます。[2:29
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。2:30
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。2:31
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。2:32
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて,今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。2:34
ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』]と、『主は、私の主に』と、御父が御子イエス・キリストに言われたと、預言者としての詩人のことばの中に、メシヤ預言を予表的に読みっています。
それと同様のかたちで、詩篇45篇の[45:6 神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。45:7
あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ神よ、あなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。]は、新約聖書ヘブル人への手紙1章で[1:8
御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。1:9
あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」]と、詩篇45:6の[45:6
神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。]の神(すなわちエロヒーム)が、“御子イエス・キリスト”の永遠の支配を預言的に、予表的に示されたものであることを明らかにしています。
この詩篇45篇は、[45:1
すばらしいことばで、私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。]と、熟達した宮廷の書記であり、詩人の手による「王の婚礼」のための美しいことばです。これは、最初から繰り返し申しておりますように、メシヤを指し示すテキスト、神と神の民のテキスト、花婿なるキリストと花嫁としてのわたしたちを描写するものです。かの「チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式の入場」は、大変美しい場面でありましたが、後には汚されてしまいました。しかし、「キリストとわたしたちの入場行進」は、今も毎日続いている名実ともに、美しく清らかな入場行進です。そのイメージを、すばらしいことばで、心を沸き立たたせつつ人生を歩んでまいりましょう。今週も、また召されるその日まで、そして再臨の主にまみえる日まで、主とともに、真っ白なバージンロードを歩んでまいりましょう。では、祈りましょう。
(参考資料:J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、J.L.Mays,“The Lord reigns: A
Theological Handbook to the Psalms”)
2022年1月30日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇44篇
「あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」ーこの「深き淵から」立ち上るイスラエルの呻吟は、試練のただ中で歌い続けられる讃美でもある-
https://youtu.be/ZfEGTNKPXeg
(傾聴)
今朝の詩篇、44篇の祈りは、まずv.1-3で救いの歴史の回顧から始められ、v.4-8で信仰の告白と信頼の表白、v.9-12で現在置かれている惨憺たる現実、v.13-16で向けられている敵意、v.17-22で災いの責任を問われることは誠実さの主張によって拒絶され、v.23-25の嘆願と主に対する訴えで閉じられています。この詩篇は、力強い嘆きの祈りとなっています。詩人は、まず「v.1
先祖たちが語ってくれました。あなたが、彼らの時代、昔になさったみわざを」と先祖たちの信仰を想起します。過去において、先祖たちが神による救いのみわざを経験してきたことを。V.2-3で、土地と子孫が与えられ、v.4で[44:4
神よ、あなたこそ私の王です]と、神が王であり、主である国家が創出されたことを誇り、ほめたたえています。
しかし、この詩篇の中心は、前半の「神の救いのみわざ」とコトラストされる、後半の「神の沈黙」にあります。それは、[44:9
それなのに、あなたは私たちを退け卑しめられました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。]であり、[44:22
あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています]とある通りです。神を礼拝する多くの人々にとって問題は、「もし神が過去においてそれほど活動的であったのなら、深い苦しみの中に人々が呻吟する現在、神は一見なすところもなく、手をこまねいておられのか」ということなのです。これは、ある意味で私たちの日常的な経験でもあります。ただ私たちの中には、亡国や捕囚、キリシタン弾圧やユダヤ人の絶滅収容所のような激烈な経験をもつ人は多くないでしょう。
しかし、私たちがこの世界に生き、毎日のニュース等で世界のどこかで大小の苦難・苦境の中に置かれている人々がおられることを知る時、苦しんでいる人々の苦しみに同一化(アイデンティファイ)して、「嘆きの詩篇」を唱えることの大切さを教えられるのです。この詩篇のv.9-22を読みます時、痛ましい経験の中に置かれる時、「神はその民を忘れてしまわれたのではないのか」とか、「神は人間のあげる苦悩の叫びを意に介されないのではないのか」という深刻な疑問がもたげてくることを教えられます。それと同時に、そのような世界に生かされているすべての人に向けて、「捕囚の最中で、追い立てられ、打ちひしがれた民が口にした嘆きの歌」は、現在の世界の中で不正と抑圧の残忍な重さに呻吟している多くの人々とともに、わたしたちがあげるべき「叫びの原型」であると教えられるのです。神に向かって、信仰の父祖たちになされた数々の神のみわざを掲げ、ほめたたえつつ、[44:9
それなのに、あなたは私たちを退け卑しめられました]と詰問します。
[44:17
これらすべてが私たちを襲いました]と問題・トラブルの数々を並べ立てます。これは、現実に生起している問題を直視する目の大切さであり、その問題を神とともに解決していこうとするエネルギーの源であります。神の全能と摂理を信ずる詩人は、[44:19
あなたはジャッカルの住みかで私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。]そして[44:22
あなたのために私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。]と、問題の背後に神の御手をみてとります。問題の最終的解決のカギは、神にあるのです。それゆえ、神を起点とし、神の視点で問題の解決を思索していかねばならないのです。それゆえ、問題の解決のカギを握っておられる方、主なる神に[44:23
起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。44:24
なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。]と嘆願します。
この祈りは、新約でイエスが教えられた祈りの姿勢を思い起こさせます。ルカ11:5
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。11:6
友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』11:7
すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』11:8
あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。私たちも、詩篇の記者のように、またイエスの教えに導かれて、問題や苦境に悩まされている人々のために、彼らに成り代わって、[44:23
起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。44:24
なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか]と嘆願の祈りをささげる者となりましょう。
このように見ていく時、私たちは「なぜイスラエルの詩篇に、嘆きの歌がこんなにも多いのか」について考えさせられます。実に、詩篇の三分の一以上は、圧迫と脅威の状況から生まれ、神に対する訴えや嘆きの部類に入るものです。表題の中で、ダビデの生涯における出来事に言及する詩篇が一つ残らず嘆きの詩篇である、という事実は実に驚くべきことです。イスラエルがエジプト人のしいたげに屈していたとき、敵対する力が余りに巨大で前途に何の希望も持てなかったとき、民が解放を求めて主に叫んだように、イスラエルの歴史を通じて続けられる巡礼の道々で、この民は繰り返し繰り返し患難のどん底から神に叫びをあげてきました。「深き淵から」立ち上るイスラエルの叫びを。ただ、この「深き淵から」立ち上るイスラエルの叫び・呻吟は、試練のただ中で歌い続けられる讃美でもあるのです。
(参考資料:B.W.アンダーソン著『深き淵より』pp.58-61)
最後に、ひとつの話をして終わりましょう。それは、マルティン・ブーバーと並ぶ20世紀最大のユダヤ教神学者、エイブラハム・ジョシュア・ヘッシェル博士とその著作についてです。アブラハム・ヨシュア・ヘシェルは、1907年にモシェ・モルデハイ・ヘシェルとライゼル・ペルロ・ヘシェルの6人の子供の末っ子としてワルシャワで生まれました。彼らの父モシェは、アブラハムが9歳の1916年に
インフルエンザで亡くなりました。1938年10月下旬、ヘシェルがフランクフルトのユダヤ人家族の家の貸し部屋に住んでいたとき、彼はゲシュタポに逮捕され、ポーランドに移送されました。ヘシェルの妹エスターはドイツの爆撃で殺されました。彼の母親はナチスによって殺害され、他の2人の姉妹、ギッテルとデボラはナチスの強制収容所で亡くなりました。1939年9月のナチによるポーランド侵攻直後にビザを得てワルシャワを脱出し、ロンドンを経て1940年3月にアメリカ合衆国に亡命。ヘブライ・ユニオン・カレッジで講師をした後、ユダヤ教神学院で教職の地位を得、研究活動を続けました。晩年の10年間には、黒人の公民権運動とベトナム反戦運動に献身しました。わたしは今、ヘシェルの人となり、いきざまに深く共感・感動しつつ、彼の著作を読ませていただいています。
彼の名著のひとつ、『イスラエル預言者』(上・下)の見開きの献呈の言葉に[1940年から1945年にかけて殉教の死を遂げた同胞たちに捧げる]とあり、[わたしたちはあなたのことを忘れたことはなく、あなたとの契約を裏切ったこともないのに、これらすべてがわたしたちの身にふりかかりました。わたしたちのこころはあなたに背いたことはなく、わたしたちの足はあなたの道からそれたことはありませんでした。…あなたゆえにわたしたちは殺される身となりました…なぜあなたはみ顔を隠されるのですか]と、今朝の詩篇44篇が、書き添えられています。
アブラハムから数えて四千年、キリストから数えて二千年の、神の民の苦難、人類の、また諸民族の苦難、そしてそれらのすべてをわたしたちの日常の大小の苦しみ・哀しみに重ね合わせ、この詩篇を唱和し、詩篇の苦味をも賞味しつつ生きてまいりましょう。祈りましょう。
(参考資料:B.W.Anderson,” Contours of Old Testament Theology”
pp.245-246、A.J.ヘッシェル著『イスラエル預言者』上・下)
2022年1月23日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇43篇「神よ、私のためにさばいてください」ー神は、その“荒れ球”を胸のど真ん中で受けとめてくださる-
https://youtu.be/jkVYDZ7jVvc
(讃美)
命ある限り(Holy Power 10)
注ぎたまえ 主よ(Holy Power 11)
(序)
先週は、パソコンの故障があり、古いパソコンで録画しています。お聞き苦しいところがあるやも知れませんがご了解お願い致します。では、今朝は、先週の42篇と今日の43篇を合わせてみてまいりましょう。といいますのは、このふたつに分けられている詩篇は、ひとつの詩篇ではないかと言われているからです。分けられた事情は分かりませんが、これらの詩篇がひとつの詩篇であろうという可能性は理解できます。それは、この詩篇が、42:5,
42:11, 43:5
の「わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」と詩人が自分自身に向かって話しかける「三度の繰り返し」をもった三つの詩節で構成されていると理解されるからです。
では、これらの詩篇の後半であろう詩篇43篇を朗読させていただきます。(詩[ 43 ]朗読)
この詩篇は、「嘆きの詩篇」のひとつです。嘆きの詩篇における最も困難な問題のひとつは、神への祈りにおいて、「敵」が中心的な場を占めているという事実です。「共同体の嘆き」の場合、この問いに答えるのは難しくありません。共同体が、敵の軍隊、飢饉、旱魃、イナゴのような災害に脅かされて、嘆き求めた祈りの事例と分かります。しかし「個人的な嘆き」の歌においては、それが病気なのか、事故・災害なのか、事件・裁判なのか、流浪・捕囚なのかー何が問題になっているのかがはっきりしないのです。なぜなら、詩篇作者は「苦しむ人間の状況」を描くのに「あいまいな表現」を使っているからです。
先週みました42篇の「乾季の涸れ谷にあえぎ、雨季の怒涛に溺れる」詩篇作者は、「正体不明の敵」による嘲りと攻撃にさらされ、42:1-4の第一の詩節で、実に痛ましく嘆きを訴え、神を渇き、神を求めています。そして42:6-10の第二の詩節で、さらに深いレベルの苦しみが見通され、彼の詩的な想像の中で、雨季のヨルダン川の怒涛の激流に引きずり込まれる「死の恐怖」におびえています。それらの二つの詩節は、詩人の自分自身への語りかけで区切られています。それはまるで「音楽の折り返しのコーラス部分」のようにです。そして、43篇で第三の詩節に入ります。「乾季の涸れ谷、雨季の怒涛」のような“詩人の精神的危機”は、正体不明の敵の存在によって、苦しみと悩みが倍加されていきます。敵たちは、この詩人の信仰を嘲り、疑ってやまないからです。
詩篇43篇の第三の詩節に入りまして、この詩篇作者の祈りはー[42:3
昼も夜も、私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と、人が絶えず私に言う間。42:9
私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」42:10
私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。]ー「嘲り虐げる敵」を前にして弱々しい「嘆きの祈り」から、[
43:1 神よ、私のためにさばいてください。]ーと力強い「報復の求め」に変わります。[43:2
あなたは私の力の神であられるからです。]と力強い神の介入を求める祈りです。ある意味で、それは、詩人の”信仰による問題解決能力”と言えるかもしれません。
この祈りを聴いて私たちは、どう思うでしょうか。私たちが「大小のトラブル」に巻き込まれた時、どう祈るでしょうか。振り返ってみますのに、私は「主のみ旨がなりますように」と祈ることが多かったように思います。これは、ある意味“美しい祈り”ではありますが、迫力に欠けるきらいがあります。また、「逃げ腰、無責任、丸投げ」の印象すら残ります。主とともに、主にあって「問題に直面し、克服・解決していく」気概に欠けているようにも反省させられます。神の主権と聖霊の働きに関して“神律的相互性”という言葉があります。つまり、神は全能者としてすべての事柄を、摂理をもってコントロールし、律しておられるのですが、同時に信仰者は内住の御霊において、神のみ旨に沿って”共同作業”の道が開かれているということです。
[43:1
神よ、私のためにさばいてください。]には、[私の訴えを取り上げ、不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。]と「不敬虔な民」や「欺きと不正の人」の「言い分」によっておとしめられることがあります。罠にはめられ、背中から刺され、背後から撃たれることがあります。そのような時に、「美しい言葉」はなんの役にも立ちません。「臭いものに蓋をする」だけです。一時的な知恵ある解決策のように見えますが、問題をそのままにして隠蔽し、先送りするだけです。それではいけません。問題は、隠されたかたちでくすぶり続け、将来の“大火”に結びつくことになりえます。そのような時、オブラートのように“苦い薬”を包んで飲むような言葉には“力がありません”。そのような時には、直截に、ストレートに、“苦い”ものは苦いまま飲み干すべきなのです。そのような祈りには、力が湧いてきます。それは、“リアル”な実質をもった“裸”のことばの祈りだからです。
私たちは、きらびやかな美しい衣を脱ぎ捨て、灰をかぶり荒布をまとい、生きた祈りを学び者とされましょう。詩篇の宝石のような祈りを手に入れるために、個人の祈りの生活においては「美辞麗句の衣」をまとって祈りことをやめましょう。詩篇にみる裸の祈りを学んでまいりましょう。[43:1
神よ、“この問題に関して”私のためにさばいてください。]と、“この弾薬のような、刀の鋭い切っ先のような”祈りの言葉を駆使することを学びましょう。私たちが直面している「大小の問題」のボールを、直球勝負で全力投球で神様にぶつけることを学びましょう。神様は、優れた野球選手がそうであるように、その“荒れ球”を胸のど真ん中で受けとめてくださると思います。神様はきっと、
[43:3 光とまことを送り私を導き]、[あなたの聖なる山、あなたの住まいへと私を連れ]行ってくれることを、そして[43:4
こうして私は、神の祭壇に、私の最も喜びとする神のみもとに行き、竪琴に合わせてあなたをほめたたえ]ることを学ぶでしょう。祈りましょう。
2022年1月16日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇42篇「乾季の涸れ谷にあえぎ、雨季の怒涛に溺れる」ー
いのちの水の一滴、救命の藁の一本 -
https://youtu.be/JdR4y2uGy4Q
(讃美)
輝く日を仰ぐ時(聖歌480,497)
荒野に水が [楽譜番号 赤本:27]
(序)
先週で、詩篇第一巻(1-41篇)傾聴を終了し、今週から詩篇第二巻(42-72篇)に入ります。この区分の根拠は詩篇それ自体にあり、それぞれの集まりの締めくくりに頌栄が置かれています。詩篇第二巻には、神殿音楽隊のコラの子たちのもの(42-49篇)、もうひとつの神殿グループであるアサフのもの(50篇)、ダビデのもの(51-65,
68-70篇)、ソロモンのもの(72篇)、そして匿名の詩篇(66,67,71篇)があります。詩篇の構造は、いわば何世紀もかけて建設され、様式が多様でありながらも調和している大聖堂に比せられます。
今朝の詩篇42篇には、「コラの子たち」と表題されています。詩篇では、十二の詩篇(42-49、84-85、87-88篇)が、このレビの家系で、この名をもつ反逆的指導者の子孫に帰せられています。レビの孫として、コラは、モーセとアロンと「いとこの関係」にあたります。民16:1
レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、16:2
モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。16:3
彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは【主】の集会の上に立つのか。」16:4
モーセはこれを聞いてひれ伏した。16:5
それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、【主】は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。
民数記26:10-11に「26:10
そのとき、地は口を開けて、コラとともに彼らを呑み込んだ。それは、その仲間たちが死んだときのこと、火が二百五十人の男を食い尽くしたときのことである。こうして彼らは警告のしるしとなった。26:11
ただし、コラの子たちは死ななかった。」とあります。反逆者コラたちは死にましたが、コラの子たちは命拾いし、この家系の一部は、神殿の門衛および監視者(Ⅰ歴代9:17-、詩篇84:10参照)、一部はダビデのもとでヘマンによって創設された神殿聖歌隊の歌い手および楽器演奏者となりました(Ⅰ歴代6:31,33,39,44)。反逆者コラの子孫としてみなされていたその子孫が再び神の栄光の神殿の奉仕、また特に讃美する聖歌隊の奉仕、詩篇のシンガー・ソング・ライターのような奉仕にあずかれるようになったのは、なんと幸いなことだったでしょう。
では、今朝の聖書箇所を開きましょう。朗読させていただきます。(聖書朗読)
(傾聴)
この詩篇42篇には、ひとつの思い出があります。大阪府の最南端にあるみさき公園の近くにありますJEC岬福音教会の牧師をさせていただいていました時、同じ交わりの中にある泉南福音教会で合同集会があり、キリスト教文学者であり、奈良福音教会の長老をされていました清水氾先生(当時、奈良女子大教授)が講演をしてくださいました。そのときに、この詩篇42篇が取り上げられました。「皆さん、この詩篇の一節を読まれて、どのような情景を思い浮かべられるでしょうか?」と。聖歌480番の歌詞に「森にて鳥の音を聴き、そびゆる山に登り、谷間の流れのこえにまことの御神を思う」とあるように、「森林と谷川の水で溢れる情景に慣れ親しんでいる日本人なら、”鹿が美味しそうに清水を味わっている”のを思い起こすのではないでしょうか」と。
しかし「この詩が記された中東パレスチナの地域は、地中海と砂漠に囲まれ、”シロッコ”という高温に熱せられた砂漠の空気がパレスチナを襲いますと、その熱風で大地が焼き尽くされたようになり、緑の草木は姿を消す世界です。」「42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」の一節は、そのような中東の世界を表現しています。
ヨエル1:20では、「野の獣も、あなたをあえぎ求めています。水の流れが涸れ、火が荒野の牧場を焼き尽くしたからです。」とある日照りによる苦悩(ヨエル1:2)なのです。
エレミヤ14:1では、「日照りのことについて、エレミヤにあった【主】のことば。14:2
『ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。14:3
高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。14:4
地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。14:5
野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。14:6
野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」とあるように、その乾季の日照りで土地は荒れ果て、動物はうつろな目をして死んでいく世界の情景なのです。
詩篇42篇の冒頭の「42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2
私のたましいは、神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば、私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」とは、そのような世界で激しい渇きに苦しむ野の鹿が、谷川に流れるいのちの水を慕い求める姿に重ね合わせ、詩人もまたいのちの神に対する渇きにあえぎ苦しんでいる、と告白しているのです。そして、42:3では[
昼も夜も、私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と、人が絶えず私に言う間。]と陰の詩句が展開し、42:4では[私は自分のうちで思い起こし、私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげて、あの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。]と、追憶の陽の詩句が対照されて、影と光の生涯を描写しています。
42:5では
[わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。]と“私”と“わがたましい”を別存在、別人格のように扱い、現実の苦悩の中にあるたましい、「涙を食べ物」とし、絶望の中で「うなだれ」「思い乱れ」ているみずからのたましいに向かって「神を待ち望め」と叱咤激励し、次の瞬間には、「悲惨な現実」の最中にあって、
“私”と“わがたましい”
を一体化し、「なおも神をほめたたえ」「御救い」の手が差し伸べられることを待つ、と宣言しているのです。信仰生活には、このような“スイッチの切り替え経験”のようなものがあります。それを評価し大切にしなければなりません。
わたしは、この詩句がそらんじられた世界は、アッシリア捕囚とかバビロン捕囚、起源70年のローマ帝国による離散、20世紀における「ショア(絶滅収容所)」とイメージするとき、この詩句の本質を浮き立たせうるのではないかと思います。そして、わたしたちも、わたしたちそれぞれの人生において経験してきた、「激しい渇きに苦しむ野の鹿」のような情況に置かれた時を思い出しつつ、それと重ね合わせてそらんじる時、この詩句の中に「谷川の流れ」を見出しうるのだと思います。
後半を短くみてまいりましょう。前半が「乾季に枯渇する河床」にたたずむ鹿としますと、後半は「雨季に降り落ちる激流」に呑み込まれ、浮き沈みする溺れんとする者を描いています。42:7では
「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。」とあります。
この詩句を理解する助けとして、ヨナ書2章の類縁詩句をみておきましょう。[ヨナ2:1
ヨナは魚の腹の中から、自分の神、【主】に祈った。2:2
「苦しみの中から、私は【主】に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。2:3
あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。2:4
私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』2:5
水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。]
パレスチナでは、荒涼とした夏が過ぎ、秋が到来すると雨季が始まります。11月くらいからです。雨季といっても、毎日降るわけではありません。でも、降るときは非常に激しく降り、それがワディ(涸れ谷、水無川)に流れ込んで奔流に変わり、荒れ地の低地では危険な洪水を引き起こします。半年以上カラカラだった谷底が一変して大河のようになります(『現代聖書講座』第一巻
聖書の風土・歴史・社会)。その雨季の怒涛の水量は、ノアの日のような審判、またバビロン捕囚のような経験を思い起こさせたことでしょう。
後半の全体を簡単に振り返ります。42:6では書き出しとして、
[私の神よ、私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地から、またミツアルの山からあなたを思い起こします。]と、ヨルダン川の有名な源流への言及があります。わたしたち日本人が富士山に言及するように。42:7の
[あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。]は、陰の詩句であり、後半の中心詩句です。42:8の[昼には【主】が恵みを下さり、夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。]は、陽の詩句であり、絶望のただ中に光が差し込んでいます。
42:9の[私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」]と42:10の
[私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。]は、マーチン・スコセッシ監督の映画『沈黙』の中の、干潮の海の中に建てられた十字架にはりつけにされた三人のキリシタン指導者たちに、満潮の海水の波が打ち寄せ、水没していく姿を彷彿させます。長崎の遠藤周作記念館の『沈黙の碑』に記された言葉「人間がこんなに哀しいのに、 主よ、海があまりに碧いのです」と思い起こさせます。
ああ、わたしたちは、この宝石のような詩篇42篇の詩句の断片を、いつどのようにくちずさむのでしょう。数千年間の歴史のただ中で、この歌をくちずさんできた神の民の記憶とともに、わたしたちも「わたしたちの人生の闇と光が交錯する」生涯のただ中で、この詩句を口ずさみつつ歩んでいきたいものです。この詩句は、涸れ谷をさまよう時のあなたにとって、「いのちの水の一滴」となり、淵に溺れ沈む時のあなたにとって「救命の一本の藁」となることでしょう。では、祈りましょう。
2022年1月9日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇41篇「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される」―ひとつの神の民の嘆願と讃美の祈りへの有機的一体化を学び続ける巡礼の旅―
https://youtu.be/-fykwWrmCxs
(讃美)
イエスはわれの幻(聖歌259)
山々が生まれる前から-詩篇90篇
(傾聴)
今朝は、記念すべき朝です。といいますのは、約一年かけて『詩篇』第一巻(1-41篇)の最後に辿り着いた朝だからです。それで、今朝は最初に詩篇はどのように集められ、編集されてきたのかについてお話したいと思います。この詩篇150篇の詩は、もともと幾つかに分かれて存在していた詩集を集めたものです。少しのダビデ以前の要素と、主としてダビデ時代から捕囚後の時代に至る数百年の間の歌がいろいろな状況のもとで集められたものです。多分最初の集成は、ダビデの時代か、そのすぐの後の紀元前十世紀には集められたものでしょう。それがいわゆるダビデ集として保存されているものでしょう。後の王たちの時代にも、神殿聖歌隊や祭儀のために、そうした集成が行われたものと思われます。
これらの詩集をあげれば、以下のようになります。
ダビデ集
第一集(3-41)33を除く。
第二集(51-72)66,67,71,72を除く。
その他(86,101,103,108-110,122,124,133,138-145)
アサフ集(50,73-83)
コラの子集(42-49,84,85,87,88)
都上りの歌(120-134)
ハレルヤ集(104-106,111-113,115,117,146-150)
このようにして小さな集成をみた歌集は、さらに神名を手掛かりとする二次的な編集を受けました。すなわち3-41篇のほとんどの神名は「ヤーウェ」であり、42-83篇のほとんどは「エローヒム」です。また、84-89篇や90-150篇でも「ヤーウェ」が多く、「エローヒム」はわずかです。
これらの点かみて
「ヤーウェ集」(1-41)
「エローヒム集」(42-89)
「ヤーウェ集」(90-150)
という三つの区分に編集された段階がありました。その後、詩篇の編集者たちが、現在の五つの区分をするのに何を基準としたのかは明らかではありません。ひとつの興味深い説明は、詩篇を「モーセ五書」に対する会衆の五部の応答として表現したのではないかと言われています。現在の詩篇に至るまでに少なくとも六世紀が費やされたのです。(参考文献:『新聖書注解』旧約3
ヨブ記~イザヤ書、いのちのことば社、pp.136-137)
では、今朝の聖書箇所を開きましょう。詩篇41篇を朗読させていただきます。
(聖書朗読)
さて、聖書に書いてありますように、この詩篇41篇は、詩篇五巻の中で第一巻の最後に置かれています。それは、この詩篇が詩篇第一巻のメッセージの本質をよく捉えていることからきていると思います。この詩篇は、A.
祝福の言葉ー弱者を思いやる者たちに対する主の是認と救い(v.1-4)、B. 救いを求める祈り(v.5-9)、C.
感謝に満ちた讃美(v.10-12)、D. 頌栄ー詩篇 第一巻を閉じる「しるし」(v.13)で、構成されています。この「v.1
弱者を思いやる心」は、主ご自身のものであり、弱者をあわれまれる主から信仰者の心に流れてくるものであり、信仰者の人格と生活を通して溢れることが期待されているものです。41:4
「【主】よ、あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。」とあります。41:10
「【主】よ。あなたは私をあわれみ、立ち上がらせてください。」とあります。“ホモ・パティエンス”ーすなわち「人は病める者」弱い存在なのです。主のあわれみなしに、v.2
生きていけない者、v.3 起き上がること、v.10 立ち上がることのできない者なのです。
申し上げましたように、41:1
「弱っている者に心を配る人」とは、主のあわれみを流し出す“通り良き管”となって生かされている人のことです。そのような人は、「
41:11
あなたが私を喜んでおられる」と、主に喜ばれる人です。しかし、この詩篇での要点は、世界で生きていく時に、そのような生き方をしている人であっても、「v.1
わざわいの日」に直面しうる、ということです。そのようなことが起こりうるのが、この世界なのです。主イエスは、「ヨハ 16:33
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。また、私たちはどれほど隣人愛に溢れて生きたとしても、「v.3
病の床」に伏せったりもします。年齢を重ねていくと、人間のからだは「万病のデパート」のようになっていきます。同窓生で集まると、「わたしはあそこが悪い。あいつはどこそこが悪い。」と病気の自慢会のようにもなると言います。
そのような人生に生きている私たちにとって、この詩篇はどういう意味を持つものとなりえるのでしょうか。わたしたちがこの詩篇を自分の生活の中に取り入れ、生かしていくためには、「v.1
わざわいの日」「v.3
病の床」を象徴的に解釈し、広く適用していくことが大切と思います。つまり、この詩篇の断片を唱和するときに、その「否定的状況を表す象徴的イメージの枠」の中に、私たち自身の「否定的材料のセメント」を流し込むのです。詩篇のイメージの中に、私たちの生活の中で生じるさまざまの否定的な出来事を流し込み、この詩篇、さらには1-41篇、そして150篇のすべてを「折にかなった適用をしていく」ということで、祈ること、叫ぶことを学び続けることがゆるされていることなのです。この詩篇の作者は、彼の人生の「v.1
わざわいの日」「v.3 病の床」で何が起こったのかを記しています。「V.2 敵の意のままに」「v.5
敵は私の悪口を言います」「見舞いに来ても、その人は嘘を言い、心のうちでは悪意を蓄え、外に出ては言いふらします」と人間関係社会でよくみられる現象について語ります。日本では、「腹芸」と言いますか、言葉としての社交辞令と心や行動で示されることの間にはギャップがあり、裏表があり、逆さまである場合もあることも経験します。純朴に生きることの難しい世界なのです。
さらに悪いことには、敵対関係にある者だけではなく、「v.9
信頼した友」や、また「私のパンを食べている」という世話をし、面倒をみてやっている者までもが「私に向かってかかとを上げます」と悲惨な状況に言及しています。なんという不条理でしょう。なんという義理も人情もすたれた社会であることでしょう。大切なポイントは、このような目に合っている人が、普段から「v.1
弱っている者に心を配っている人」であるということです。しかし、歴史を振り返りますと、社会全般がそのような状況に陥ることがあります。ナチス時代のドイツがその支配したヨーロッパ各地で、先日まで友人であった人たちがユダヤ人ということだけで、「かかとを上げ」られる経験をしたことが明らかになっています。仕事だけでなく、家も財産も、家族も、いのちまでもが奪われていったのです。「君子豹変する」といいますが、前日まで親切にしあっていた隣人が、そのようになってしまったのです。羊の皮を脱いで現れたのは、「オオカミ」だったのです。人間というものは、なんともろい存在なのでしょう。
日本でも、キリシタン迫害の時代や戦時中の国家神道の時代においては、類似の事件が起こりました。私たちの時代は、今そこまで緊迫していませんが、難しい人間関係や自身や家族の中に病気や障害を抱え、困難な闘いの中にある人は少なくないと思います。どこの家族の中にも、なんらかの弱さをもつ家族を抱えているように思います。健全と思われる人でもなんらかの人格的課題や弱さを内包していることは良く知られていることです。そのような中に置かれて生かされている私たちは、そのただ中において「v.10
しかし、主よ。あなたは、私をあわれみ、立ち上がらせてください」と叫ぶ特権が与えられています。「41:12
私の誠実さゆえに、私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。」と祈ることが赦されています。
さて、詩篇とは、一体どのような祈りの書なのでしょう。エジプト脱出の時、パロの軍隊の追撃を受けた民は、神に叫び、ぎりぎりのところで海の真中に道が開かれ、救われました。そして、敵軍は海の藻屑と消え去りました(出15:1-18)。その時の、ミリアムの讃美(出15:21)が最初に記録された讃美の歌と言われています。しかし、聖書の脱出の物語は、約束の地に向かう途上、「荒野」を通過することになりました。ある有名な歌で「巡礼の道は深淵に導かれた。かくも苦難に満ちた現実に出会うためであったのか」と詠われています。あわれみの神、恵みの神に救い出された私たち信仰者は、いかなる生涯を生きるように定められているのでしょう。ローマ11章の終りにあるように「ロマ11:33
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」とあるように、神の道ははかりがたいものです。そして、その道は時として「深淵」に、「苦難」に、荒野へと私たちを導くのです。
そうなのです。数百年かけて神の民の中で形成されてきた「嘆きの祈りと感謝の祈り」の詩篇集は、「人生の荒野をさまよう」その時点で、混乱と動揺にさいなまれ、私たちの生が混とんの極みにあるかのように思われる状況下でささげられた嘆願と讃美の記録なのです。私たちが参考にしています本のひとつに、後にハイデルベルク大学の教授となったひとりのドイツ人牧師クラウス・ヴェスターマンの本があります。ヴェスターマンは、第二次世界大戦中、捕虜収容所にいたとき、新約聖書と詩篇を携えており、収容所の中で詩篇の研究に取り組んだそうです。そうなのです。私たちも「私たち自身が人生の数々の苦難の中にある」と思う時、その時というのは「詩篇が意味するものは、何なのか」ということに取り組む機会なのです。ヴェスターマンは、これらの詩篇の歌が、多くの人々の試練に際して何を意味するか深く考えさせられ、思索させられました。今日、詩篇の歌は、「あなたに与えられた苦しみ、あなたが直面している試練において、この詩篇の断片にはどういう意味があるのか?」と問うているのです。あなたが、そのことに取り組み、従事していくとき、計り知れない恵みの宝庫をそこに見出すことになるのです。
ナチス・ドイツ下で殉教したボンヘッファーという牧師は、「家族や友人から強制的に引き離された場で、人々が聖歌や祈りの語りかけ、あるいは沈黙でもって、神を讃美するきとにはいつも個人としてではなく、共同体のメンバーとしての自分を意識した。」とのことです。一個人としてだけではなく、大きな神の民の一員として、その一部として自分の苦しみと讃美を見つめる恵みにあずかったということです。「飢えと寒さの中で、尋問のあいまに、あるいは死刑宣告を受けたときでさえ、神を讃美する特権があった。いつでもどこでも、全教会があずかる神への讃美によって支えられていることを実感した」と書き遺しています。私たちも、そうありたいと思います。「私たちは一人で苦しんでいるのではないのだ。星の数ほどの神の民、砂の数ほどの神の民の一員として苦しんでいるのだ」と。詩篇の嘆願と讃美の祈りの断片にあずかるとき、私たちは「神の民の有機的一体性」において、より広く、より高く、より深く、より長く、永遠の視野で成長させられていくのです。では、祈りましょう。
【四世代合同新年礼拝】
きゅうやくせいしょしへん40ぺん「ほろびのあなから、どろぬまから、しゅはわたしをひきあげてくださった。わたしのあしをいわおにたたせ、わたしのあゆみをたしかにされた」ーよんひきのこぶたのいのり-
https://youtu.be/S287E6ZNVGU
(讃美)
GOD BLESS YOU
https://www.youtube.com/watch?v=6WNu4f04uoI
父の涙
https://www.youtube.com/watch?v=6RcuABlF1NE
(挨拶)
あけましておめでとうございます。けさは、2022ねんのさいしょのれいはいです。
したは 2さいから、うえは、95さいまでの「4世代いっしょのれいはい」です。
けさひらきます「しへん40ぺん」を、わかりやすくするために、しゃしんをりようし、「3びきのこぶた」をもじって「4ひきのこぶたのいのり」として「こうはんからぜんはんへ」とみていきたいと思います。
A. いじめ・いじわる、びょうき・くるしみなどー「あな」におとされたときのいのり
・いのりへのいりぐち
40:11
しゅよ、あなたはわたしにあわれみをおしまないでください。あなたのめぐみとあなたのまことがたえずわたしをみまもるようにしてください。
① 「あな」におとされたときのいのり
40:12
かぞえきれないわざわいがわたしをとりかこんでいるのです。わたしのとががおそいかかり、わたしはなにもみることができません。それはわたしのかみのけよりもおおく、わたしのこころもわたしをみすててました。
40:13 しゅよ、みこころによってわたしをすくいだしてください。しゅよ、いそいでわたしをたすけてください。
② てきへのしゅのこらしめをもとめるいのり
40:14
わたしのいのちをもとめ、ほろぼそうとするものたちが、ことごとくはじをみ、はずかしめられますように。わたしのわざわいをよろこぶものたちが、しりぞき、いやしめられますように。
40:15 私わたし「あはは」とあざわらうものどもが、みずからのはじにあぜんとしますように。
③みかたにたいしてのしゅくふくのいのり
40:16
あなたをしたいもとめるひとたちが、みなあなたにあってたのしみよろこびますように。あなたのすくいをあいするひとたちが、「しゅはおおいなるかた」といつもいいますように。
・むすび
40:17
わたしはくるしむもの、まずしいものです。しゅがわたしをかえりみてくださいますように。あなたはわたしのたすけ、わたしを救い出すかた。わがかみよ、おくれないでください。
B. 「あな」からのきゅうしゅつされたときのさんび・かんしゃ・あかしのいのり
①ききとどけられたいのり
40:1 わたしはせつにしゅをまちのぞんだ。しゅはわたしにみみをかたむけ、たすけをもとめるさけびをきいてくださった。
40:2
ほろびのあなから、どろぬまから、しゅはわたしをひきあげてくださった。わたしのあしをいわおにたたせ、わたしのあゆみをたしかにされた。
② あふれるさんびのいのり
40:3
しゅは、このくちにさずけてくださった。あたらしいうたを、わたしたちのかみへのさんびを。おおくのものはみておそれ、しゅにしんらいするだろう。
40:4 さいわいなことよ、しゅにしんらいをおき、たかぶるものやいつわりにかたむくものたちのほうをむかないひと。
③かんしゃのいのり
40:5
わがかみ、しゅよ、なんとおおいことでしょう。あなたがなさったくすしいみわざとわたしたちへのはからいは。あなたにならぶものはありません。かたろうとしてもつげようとしてもそれはあまりにおお多くてかぞえきれません。
40:6
あなたは、いけにえやこくもつのささげものを、およろこびにはなりませんでした。あなたは、わたしのみみをひらいてくださいました。ぜんしょうのささげものやつみのきよめのささげものを、あなたはおもとめになりませんでした。
40:7
そのときわたしはもうしあげました。「いま、わたしはここにきております。まきもののしょに、わたしのことがかいてあります。
40:8
わがかみよ、わたしはあなたのみこころをおこなうことをよろこびとします。あなたのみおしえはわたしのこころのうちにあります。」
④あかしのいのり
40:9
わたしは、おおいなるかいしゅうのなかで、ぎをよろこびしらせます。ごらんください。わたしはくちびるをおさえません。しゅよあなたはごぞんじです。
40:10
わたしはあなたのぎをこころのなかにおおいかくさず、あなたのしんじつとあなたのすくいをいいあらわします。わたしはあなたのめぐみとあなたのまことをおおいなるかいしゅうにかくしません。
(メッセージ)
A. いじめ・いじわる、病気・障害・苦しみの「穴」に落とされた四匹の子ブタの祈り
この詩篇40篇の祈りをー「穴に落とされた四匹の子ブタの祈り」として見てまいりましょう。
・序
昔々、ある街に可愛らしい四匹の子ブタがいました。子ブタたちは、イエスさまを信じて、楽しく幸せに暮らしていました。
ところがある日、怖いオオカミの群れがやってきました。そして、言いました「おお、まるまる太っておいしそうな子ブタたちだ。いじめて穴に落として食べてしまおう」と。それに気がついた子ブタたちは、神様にお祈りをしました。「40:12
数えきれないわざわいが私を取り囲んでいるのです。40:13
【主】よ、みこころによって私を救い出してください。【主】よ、急いで私を助けてください。」と。幸せな暮らしの外の世界には、オオカミのように怖い動物もいたのです。
子ブタたちは、オオカミの群れに追いかけられ、深い「穴」の中に落とされてしまいました。オオカミたちは、いじわるをしましたが、子ブタたちは直接仕返しをしようとはしませんでした。オオカミを懲らしめることは、神様がしてくださることなので、子ブタたちは仕返しはしなかったまです。しかし、「繰り返しいじめられることがないよう、神様にお祈りをしました。オオカミたちを懲らしめてくださるように」と。それがこの祈りです。「40:14
私のいのちを求め滅ぼそうとするオオカミたちが、ことごとく恥を見、辱められますように。私のわざわいを喜ぶオオカミたちが、退き、卑しめられますように。40:15
私を「あはは」とあざ笑うオオカミどもが、自らの恥にあ然としますように」とお祈りしました。このように祈ることは、私たちが心の中に「苦い心」をため込まないために必要な祈りです。また、相手を傷つけない「安全な祈り」です。聖書に「復讐、こらしめは神様がしてくださいます」とあります。
そして、四匹の子ブタの兄弟たちや家族の「安全と祝福」のために祈りました。「40:16
あなたを慕い求める兄弟が、みなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する家族が、「【主】は大いなる方」といつも言いますように。40:17
私たち四匹の子ブタは苦しむ者、貧しい者です。主が私たち四匹の子ブタを顧みてくださいますように。あなたは私たち四匹子ブタの助け、救い出す方。わが神よ、遅れないでください。」と祈りました。
普通の詩篇は、最初に「救いの願いの祈り」があり、あとに「感謝の祈り」で終るのですが、この詩篇40篇は、「感謝の祈り」が先にあり、「救いの願いの祈り」があとから出てきます。これは、何を意味するのでしょうか。これは、救い→感謝→再び「別のオオカミ、別の穴」に落とされる。ーつまり「人生至る所に“落とし穴”あり」ということを教えていると思います。
そういうわけで、四匹の子ブタたちは、オオカミに襲われるたびに、「穴に落とされる」たびに神様に祈りました。祈りは、いつも祈りを聞き届けられました。その感謝の祈りがこれです。「40:1
私たち四匹の子ブタは切に【主】を待ち望んだ。主は私たち四匹の子ブタに耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。40:2
滅びの穴から泥沼から、主は私たち四匹の子ブタを引き上げてくださった。私たち四匹の子ブタの足を巌に立たせ、歩みを確かにされた。」と。
この「巌(いわお)」とは、要塞や城を意味することばです。神さまは、「落とし穴」の底から、「泥沼」に足をとられる所から、安全で堅固な「城」の中に救い出してくださるのです。どんな深い「落とし穴」に落とされても、「そこから助け出してくださる主に祈る」ことができるから大丈夫なのです。四匹の子ブタたちは、「落とし穴」に落とされることを恐れなくなりました。主に祈れば、必ず助け出されることを経験し続けてするからです。
四匹の子ブタたちは、「オオカミたちに穴に落とされるたびに救出されました」「穴に落とされ、救出される」ごとに、子ブタたちの心には、讃美が溢れました。それがこの告白です。「40:3
主は、この口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。」
また、その救出のたびごとに、四匹の子ブタたちの心には、「神様への感謝」が溢れました。それがこの感謝の祈りです。「40:5
わが神【主】よ、なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません」と。ああ、私たちはどれくらい「神さまの救いの奇跡」を経験していることでしょうか。私たちが「苦しいこと」を経験している数だけ、私たちは「さまざまなかたちの救いの奇跡」を経験しています。それは、「あまりにも多くて数えきれない」のです。「語ろうとしても語りきれない」のです。ー「神さまが私たちになしてくださった奇しいみわざと私たちへの計らいは」。
そして、そのようなさまざまな苦しみからの救い・解放の経験は、「証し」となって実を結びました。四匹の子ブタたちは、告白・宣言しています。「40:9
私たちは大いなる会衆の中で、義を喜び知らせます。唇を押さえません。40:10
私たちはあなたの義を心の中におおい隠さず、あなたの真実とあなたの救いを言い表します。あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません」と。このように四匹の子ブタたちは、神さまは、いつでも「苦しみの穴」から救い出してくださる方であることを学び続けているのです。私たちも、四匹の子ブタたちのように「穴の底から祈る」ことを学び続けたいと思います。
聖書のことば、そしして特に詩篇のことばは、そのように「穴の底から祈る」のために天から与えられたことばです。イエスさまも、「十字架の苦しみの最中で、詩篇の祈り言葉」を発せられました。それほどに、「詩篇の祈りの言葉」がイエスさまの心の中に沁みとおっていたということです。私たちも、詩篇の祈りの言葉を、
”降り積もる雪”
のように心にたくわえ、身と心のすみずみに、人生の苦しみ、穴のすみずみに沁みとおらせーそのような意味での「豊かな人生」を送らせていただく者とされましょう。祈りましょう。
2021年度のICI Diary は、「 2021」にリンクしています。