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2023/03/19
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2023年3月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇97篇「光は正しい者のために蒔かれている」-神の啓示に根差した対抗イメージによる戦い-
https://youtu.be/91BKjQ-Xdn8
本詩97篇は、一連の王の即位式の詩篇のひとつです。本詩を繰り返し味わっておりまして、ひとつのことを思い起こしました。それは、拙訳のラッド著『終末論』の第四章「キリストの再臨」の一節です。97篇は、[97:1
【主】は王である]ーすなわち「主は王となられた」を意味する即位の宣言をもって始まります。そして、その登場はシナイ山の情景に似ています。
[出19:15 モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」19:16
三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17
モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18
シナイ山は全山が煙っていた。【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:19
角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた]とあるように、驚嘆すべき神の訪れでありました。それは、神学者がテオファニー、すなわち神の顕現と呼ぶもので、神の訪れの栄光と威厳の前に、被造物は揺さぶられるのです。このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
イザヤ24章には[24:23
万軍の【主】がシオンの山、エルサレムで王となり]という言葉があります。神の支配の確立、つまり神の国は預言者たちの期待の中枢にあるものです。それは、[97:2
雲と暗黒が主を囲み、義とさばきが御座の基である。97:3 火は御前に先立ち、主の敵を囲んで焼き尽くす。97:4
主の稲妻は世界を照らし、地はそれを見ておののく。97:5
山々は【主】の御前にろうのように溶ける。全地の主の御前に]と、三つの事柄ー堕落した被造物世界が震え裁かれること、[97:6
天は主の義を告げ、諸国の民はその栄光を見る。97:7
すべて偶像に仕える者、偽りの神々を誇る者は恥を見る]と、悪しき者にくだされる刑罰、[97:10
【主】を愛する者たちよ。悪を憎め。主は主にある敬虔な者たちのたましいを守り、悪者どもの手から彼らを救い出される]と、更新された地上における神の民の救いーを意味します。
周辺の大国でなされていた即位祭の儀式が、イスラエルにおいて換骨奪胎され、全知全能の唯一の神信仰を中心に再編集されています。他の神々とその信仰者たちは、[97:7
すべて偶像に仕える者、偽りの神々を誇る者は恥を見る]と断罪されています。目に見えるところでは、それらの国々が興隆をきわめ、神の民は、王を、国家を失い、捕囚にあい、帰還の後の独立も夢のまた夢の状態でした。そのような時期に、ダビデ時代の栄華を思い起こし、あの時代の独立と安全と自由の回想も込められていたでしょう。そして、本詩は、主が最終的に、終末的な神顕現をあらわされ、大地と人類をさばき、神の民を贖うために神が訪れてくださるという信仰告白でもあるのです。
この来臨の神学は、新約聖書において、旧約では予見されたことのなかった受肉という形態をとりました。わたしたちは、この受肉された苦難のメシヤをこのように告白致します。[ロマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです]とありますように、このイエスを”キュリオス”ーすなわちローマ皇帝崇拝がまかり通る偶像崇拝世界のただ中で、[97:9
【主】よ、あなたこそ全地の上におられるいと高き方]ー「主の主、王の王」と勇気をもって、大胆に告白致します。それは、御父が御子を[ロマ1:4
死者の中からの復活させられたことにより、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリスト]とされたからです。それは[ピリ2:10
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。]
わたしたちの主イエスは、最大、最強で、最後の敵である死をも打ち破り、その死からよみがえられたお方、王の王、主の主であられるお方なのです。本詩は、そのようなお方を終末的に示唆しつつ、第一段落で[97:1
多くの島々は喜べ]、第二段落で[97:6 諸国の民はその栄光を見る]と全世界から狭め、[97:8
シオンは聞いて喜び、ユダの娘たちも小躍りし]と絞り込み、第三段落で[97:10
【主】を愛する者たちよ。主にある敬虔な者たちのたましい]に焦点を結んでいます。それは、「わたしたち」に当てはめることができるものです。本詩は、バビロン捕囚後の第二神殿時代に、過去の資料を生かして編纂された詩篇といわれています。
過去におけるシナイの神顕現、ダビデ王朝における即位式等の回想イメージを、苦しく苦々しい現実のただ中で、鬱積した心持ちで生きざるを得ない中で、そのような暗闇の中で、[97:11
光は正しい者のために蒔かれている。喜びは心の直ぐな人のために]とあるように、光を、喜びをもたらす終末的希望となったことでしょう。今の現実は、惨憺たるものであるが、神さまは必ずそのような未来をもたらしてくださるという信仰です。神の啓示に根差した対抗イメージによる戦いです。本詩をそのような視点で傾聴しますとき、少子高齢化時代で地方の教会等の衰退が著しくとも、またわたしたちがどのような困難におかれようとも、そのただ中で励ましを受け続けることができるのではないでしょうか。[97:10
【主】を愛する者たちよ。97:12 正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ]ー祈りましょう。
(参考文献: G.E.ラッド著『終末論』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年3月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇96篇「その真実をもって諸国の民をさばかれる」-航空機の針路設定の微調整をはかるかのようにして-
https://youtu.be/hvRz7Nyo748
本詩は、全地に向かって、主とそのみわざへの賛美を呼びかけ、諸国民に神の御前にひざまずくことを要請し、天地万象に歓呼を促すもので、賛歌の中でも最も堂々とした作品のひとつです。本詩の最大の特色は、神による世界統治を普遍主義的な立場から展望している点です。普遍主義とは、この場合、イスラエル民族に固執することなく、視界が諸民族、ひいては被造物世界全体にまで及んでいることです。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
[96:1
全地よ、【主】に歌え]との呼びかけをもって始まる本詩は、いかなる詩篇なのでしょうか。それを紐解く鍵のひとつが[96:8
ささげ物を携えて主の大庭に入れ]にあります。本詩8節は、諸民族に[96:8
ささげ物を携えて主の大庭に入れ]と呼びかけます。こうした呼びかけは、諸国民がまことの神に帰依し、贈り物を携えてエルサレムに集う、という一種の終末論的観念を踏まえています。
この種の終末論は、イザヤ書の[2:2
終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。2:3
多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。2:4
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。2:5
ヤコブの家よ、さあ、私たちも【主】の光のうちを歩もう]を典型例とし、エレミヤ書やゼカリヤ書等の預言書に類似の思想が表明されています。
それらの聖句に共通するメッセージは、①地上のあらゆる民族がまことの神に帰依すること、②彼らがエルサレムに赴くことです。いうまでもなく、諸民族がまことの神に帰依し、エルサレムに詣でるとは、あくまでも宗教観念上のイメージです。現実には、逆に、イスラエルの民が貢物を携えて大国詣でを繰り返したのでした。当時、小国の支配者たちが保護を求めて大国に朝貢するのはごく普通の光景でした。貢物を拒む小国は大国による軍事攻撃の対象になりかねませんでした。
今日のロシアとウクライナ等の関係にも、属国扱いをしたいロシアと真の独立を守り抜きたいウクライナの戦いとみることができます。古代のイスラエルもそうした小国のひとつでありました。実際、預言者ホセアやイザヤは、北イスラエルヤユダ王国が大国に保護を求めて朝貢する様子を書き留めています。南北イスラエルのそうした姿勢をエゼキエルはその24章で「立派な外国の男」にすり寄る「淫行の女」のそれになぞらえています。こうした事情は、バビロン捕囚後の第二神殿時代も変わることがありませんでした。
本詩を含め、地上の諸国民がエルサレムに集うと述べる聖句に、こうした背景が認められるとしますと、そのような宗教観念上のイメージに託された主張の一端が見えてくるのではないでしょうか。つまり、
[96:6 力と輝き]は、諸国民を支配するかにみえる地上の王にはないのです 。[96:6
威厳と威光]を帰すべきお方は、[96:5 天をお造りになった]お方のみにあるのです。このお方こそ、まことの[96:10
王であり]。民族の大小強弱に関わりなく、世界のあらゆる[96:3 国々の間で、…あらゆる民の間で]あがめられるべきお方です。
このお方は、[96:13
義をもって、世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる]お方です。公平をもって治められます。このように、地上の大小強弱、選民と異邦人を相対化する視座が立ち上げられているのです。見えるところの現実世界と信仰によってのみ見ることのできる信仰によるイメージ世界の対決が繰り広げられているのです。このような視点から、旧約聖書を、またイスラエル史全体をみてまいりますとき、民族主義的な色調の濃い旧約啓示においても、普遍主義の視点を示す本詩は、イスラエル民族の父祖、アブラハムへの祝福の約束の意味・目的を明らかにしているといえるのではないでしょうか。
創世記1-11章の「創造→堕落→審判」に定められていた人類という脈絡のもと、ひとりの人が選び出され、[創12:1
【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される]と、この約束は、本詩の[96:3
主の栄光を、国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざを、あらゆる民の間で]、「 96:2
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ」と共鳴するものです。
[ガラ3:8
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。…3:14
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした]と、聖書は、イスラエル民族を神聖視したり、目的化するのではなく、全人類の救いと祝福と、その完成のための機能また手段として用いられたのだと教えられます。聖書の本質的視点から申しますと、今日みられるような「土地、首都、神殿」の回復が目標なのではなく、イスラエル民族全体を含む、全人類のイエス・キリストの人格とみわざへの回復こそが主眼なのです。
今日、旧約にみられる「①土地、②エルサレム、③神殿」の回復を悲願としているユダヤ教シオニズムを支援しているキリスト教シオニズムの傾向が日本の教会でも散見されるようになってきました。しかし、イエス・キリストの人格とみわざにおいて基盤が据えられ、その上に聖霊に導かれて建てられている家においては、ユダヤ人も異邦人も差別がありません。男性も女性も、人種差別も、性的差別も克服されたひとつの神の家族です(ガラテヤ3:26-29、エペソ2:11-22)。今日のあらゆる事象、直面している課題に対し、「聖書を通して神が語られる」ということがどういうことなのかを今一度、深く考えさせられていきたいと思います。難しい問題ほど、より本質的に、より根源的に再検証・再検討が繰り返され、その真贋が、その作用・副作用の臨床試験で検証されていかなければ、脇道にはずれていき、ときには落とし穴にさえ落ち込むことになる危険があります。
歴史性、文化性を抱えつつ、受肉した「神のみ言葉」を、栗のイガを剥き、皮を剥いて、美味しい柔らかな実を取り出し、味わうように、聖書の啓示の歴史性、文化性、漸進性等を分析・評価しつつ、み言葉を通しての、今日における神の語りかけに耳を澄ませ、その語りかけの方向性を聞きたがえることなく、いわば航空機の針路設定の微調整をはかるかのようにして、[96:13
義をもって世界を、その真実をもって諸国の民をさばかれる][96:10 王である]主の御前を、[96:9
聖なる装いをし、ひれ伏し、…主の御前におののき]つつ歩んでまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年3月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇95篇「今日、もし御声を聞くなら」-詩篇研究の変遷、宇宙観のコペルニクス的転回、人間観・男女観のグラデーション理解の進展-
https://youtu.be/my20E89jO0c
先週は、本詩95篇傾聴のために、H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』に目配りしておりました。といいますのは、本詩は「王の即位式」詩篇に分類されており、そのような理解が生まれてきた歴史的経緯や意味を確認しておくためでありました。そのことを少し紹介しておきたいと思います。詩篇に関する学問的研究は19世紀に大きな変化をとげました。そして20世紀後半の50年の間に陽の目を見るに至った古代オリエントからの膨大な資料により、多くの事柄を以前にもまして理解できるようになりました。
詩篇についての最近の新しい理解に対して第一に貢献があったのは、ヘルマン・グンケルとシグムンド・モーヴィンケルという二人の学者です。グンケルの研究は、詩篇の現代的研究の開始を示しています。彼の時代以前には、詩篇は「ダビデの作品であって、その生涯の一定のエピソードを反映している」と考えられました。そうでなければーダビデ著作説が破棄された場合ー詩篇は「全体としてのイスラエルの歴史における、あるいは個々人の生涯における、諸事件を反映している」と考えられました。この研究方法は、詩篇研究の任務は、いろいろな詩篇が「そこで書かれた具体的諸状況を確定しよう」とすることにありました。
グンケルの観察では、詩篇はいくつかの範疇、もしくは類型に分類できるのであって、そのおのおのの文体と内容において独自の特徴をもっていました。グンケルの考えでは、詩篇の各類型は元来独特の機能を持ち、この機能は神殿祭儀の一定の儀式と関係のあるものでなければなりませんでした。詩篇は元来ー個々人の告白としてー私用のために書かれたものではなく、神殿での正規の祭儀の中で用いられるものでありました。
モーヴィンケルは、グンケルの業績にその研究の基礎を置きました。しかし「詩篇の機能」を尋ねることにおいて、モーヴィンケルはただ「犠牲祭儀」のみに限定しませんでした。彼は、バビロニアや他の古代オリエント諸文化の研究を通じて、古代イスラエルには「犠牲以外の祭儀儀礼」が存在したと想定するようになりました。そして、彼は「詩篇における間接的言及」を基礎にこれらの儀礼を復元するに至りました。いわゆる「即位祭」という彼の説は彼の最も重要な貢献でありました。
神を「王」と言及している一群の詩篇(詩篇47,93,95~100篇)が「主は統べ治められる」とか「王である(ヤーウェ マーラーク)」という表現を含んでいるから気づいて、モーヴィンケルは、地上の王の即位の際、「同様の表現」が用いられていたのだから(列王記下9:13「エヒウは王である」)、「主は王である」という語句は、むしろ「主は王となられた」と訳されるべき、と主張しました。モーヴィンケルは、バビロニアの新年祭の祝典に示唆された手がかりに従って、「即位式詩篇」は同種の祭儀的背景を考慮することによってのみ理解できると力説しました。
このような研究を経て、彼が得た結論は、「宇宙の王としての神の即位式」が古代イスラエルにおいて年毎に行われ、問題の詩篇はこの祝祭の間に詠唱された、ということです。モーヴィンケルの説によれば、「即位祭」は大祝祭日であり、その祈りには、毎年、神が世界創造における原始の混とんに対する彼の根源的勝利を反復して、万事を一新される。すべてこれは儀式劇で表現され、そこで神はまた原始の混とんの同盟者とみなされている地の諸王や諸国民に対して勝利される。祝祭の一部に行列が含まれていて、その中で神の臨在の象徴としての箱が意気揚々と聖所に運ばれ、そこで神は宇宙の王としてあらためて歓呼のうちに宣言されました。このような「即位祭」は、すなわち「神が王として即位される主の日」は、のちの預言文学において、その熱望は未来へと投入され、神がついに「宇宙の王である」と自らを立証される日とされていきました。前置きが少し長くなりましたが、このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は「即位祭における即位式詩篇である」との捉え方に対し、神はすでに「宇宙の王」であるのに、毎年その即位を祝うというのは荒唐無稽な理解だと批判する向きもあります。しかし、それは「祭儀的祝祭の本質」についての誤解です。ユダヤ人は、エジプトからの脱出をひとつの歴史的事実と承知しています。彼らは過越祭のたびごとに、エジプトから解放されたものとしての自分たちを考えることを求められます。私たちクリスチャンも、聖餐式のたびに「イエスの贖いの犠牲の意味」を考え、クリスマスやイースターの祝祭のたびに、メシヤの受肉や復活の出来事を心に刻み、励まされます。
ひとつの歴史的事実の祭儀的・象徴的祝祭は、その事実を矮小化しません。それは信仰にとって「基本的意義をもっている出来事をよみがえらすひとつの方法」であるのです。本詩95篇の前半は、「神殿における賛美の歌」です。[95:1
さあ【主】に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう。95:2
感謝をもって御前に進み、賛美をもって主に喜び叫ぼう]と喜び、感謝の叫びで溢れています。宗教的危機の中で、神殿と神殿礼拝が敬虔なイスラエル人に何を意味したかは、詩篇73篇に記されています。その詩人は「悪人の繁栄と義人の苦悩」の問題で苦闘しており、その解決を神に見出しています。その詩篇の転換点は、この詩篇詩人が、神殿に詣でる時にやってきます。そこで、彼は「神の敵は最後に滅ぼされる」との確信に至ります。祭儀の意義が「礼拝者の信仰の強化」にあるという素晴らしい一例です。
3-7節は、 [95:3 まことに【主】は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である。95:4
地の深みは御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った]
と、すべての神々のうちで最大最強、全世界の創造者にして主なる神が、イスラエルの民をその固有の民とするために選ばれたと告白します。主はイスラエルの神です。この基礎の上に、イスラエルにおけるすべての宗教生活が依拠しています。
[95:6
来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。私たちを造られた方、【主】の御前にひざまずこう]ーその選びは、イスラエルの数の大きさや、その資質の優秀さのためでなく、もっぱら主の愛によることをイスラエルが忘れず(申命記7:7-8)、へりくだった感謝こそふさわしい態度でした。[95:7
まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民、その御手の羊]ー個人としても、民族としても、イスラエルの信仰者はその存在を主に負っており、神の民の成員として彼らは常に「その配慮と保護」に囲まれていると感じています。
礼拝についてのこのような表現がもともと国民全体に、あるいは少なくとも祭儀共同体にかかわるものであることは当然です。しかしそれはまた個人にとっても大いに意味のある事です。実際、個人が神と交わるのは、「選民の一員」としてです。個人が「あなたがたはわたしの民、わたしはあなたがたの神」という選びと契約の約束にあずかるのは、神の固有の民としての交わりを通してです。主がその中で絶えずその恵みと真実とを明らかにされてきた「同じ歴史にあずかる」ことによって、神へのイスラエル人の信頼は強められます。
創造ー[95:4 地の深み、山々の頂も。95:5 海。陸地も御手が形造った]も、出エジプトー[95:1
私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう]も、民族創出ー[95:6 私たちを造られた方、95:7
まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民、その御手の羊]も、忠実な信仰者によって秘蔵され、折に触れて思い出され、記念される「大きくて貴重な記念」であるだけにとどまりませんでした。
それらは神殿で「大きな祝祭典」が挙行される時には、「いつでも現実」となり、「追体験された出来事」でありました。仮庵の祭り、すなわち新年祭は、その主題として「創造と神の敵に対する審判」を。過越しの祭りは「出エジプト」を年毎に「生ける現実」としました。さてこのように、賛美で始まる本詩は、後半を警告的「訓戒」で閉じられます。全世界の創造者であり、支配者である王であられる神に対してなすべきことは、「その御声に聞き従う」ことです。主を賛美することは、必然的に「聴従の問題」に導かれます。
それは「今日」です。[今日、もし御声を聞くなら]とあるように、主の御声を「今」に聞く機会なのです。それを今日的に適用してまいりましょう。最近、LGBTQ問題がホットな話題となり、わたしも、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』等、関連諸文献に目配りさせていただいています。「否定的に捉える」伝統的な解釈があり、「肯定的に捉え直す」今日的な解釈があります。わたしたちは、[今日、もし御声を聞くなら、95:8
あなたがたの心を頑なにしてはならない]という語りかけの前に立たされているように思いますが、いかがでしょう。
同性愛関連で取り上げられるレビ記やローマ書の聖句をどのように解釈するのかが、喫緊の課題とされているように受け止めています。今日の「歴史的状況」からみますと、同性愛者の基本的人権を「否定的に捉える」ことは、教会には「差別主義の体質がある」とみられる懸念が存在します。わたしたちの時代においては「人間観」「心身を統合的・全体として見つめる男女観」「性的嗜好における多様なグラデーション」が、心理学的・医学的に認識される時代となっています。それは、その昔、世界観・宇宙観において「天動説」が教会の見解であった時代に登場した「地動説」にも似ています。
今の時代は、世界観・宇宙観変遷における「コペルニクス的転換」の時期に似ているかもしれません。あの時の教会の反応は、反動的であり、[95:8
メリバでのように、荒野のマサでの日のよう]であったのではないでしょうか。一般啓示から明らかにされてきた客観的情報に耳も、目も、口も閉ざし、[心を頑なに]していたのではないでしょうか。[95:10
四十年の間、わたしはその世代を退け、そして言った。]と言われているように、長期わたって、歴史や文化、社会の発展から取り残されていったのではないでしょうか。
「彼らは心の迷った民だ。彼らはわたしの道を知らない」といわれるのは、自らの無知を棚に上げて、誤った伝統を墨守しているからではなかったでしょうか。[95:11
そのためわたしは怒りをもって誓った。「彼らは決してわたしの安息に入れない。」]と言われているのは、聖書を通して語られている真理ーすなわち神の御心の深淵にあるものは、グンケルからモーヴィンケルへの詩篇研究の歴史的変遷にもみられるように、表層的な聖書解釈にとどまらず、ルネ・パディリアにみられる「歴史的状況、世界観・人生観、聖書解釈、神学」の四要素の解釈学的螺旋をもって、数百メートル、数千メートルの地下資源を掘削するボーリング作業のように、キリストの人格とみわざに根差し、聖霊によって開かれていく神の御心の深淵に掘り下げていく世界を示唆しているのではないかーそのように教えられるのです。
一週間、本詩95篇に傾聴しながら、最近の課題に目配りしていて、いろいろと考えさせられました。結論めいたことは、わたしたちはそれぞれ異なるのかもしれません。しかし、
[今日、もし御声を聞くなら、95:8
あなたがたの心を頑なにしてはならない]という語りかけの前に立たされていると自覚しつつ、政府をあげて、LGBTQ問題がホットな話題となっている時代ですので、わたしも遅ればせながらではありますが、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』等、諸文献に目配りしてまいりたいと思わせられています。祈りましょう。
(参考文献:H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』)
2023年2月26日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇94篇「なんと幸いなことでしょう。主よ」-「足の裏に刺さったトゲ」をそのように扱う道筋を探し求めたい-
https://youtu.be/hfgf9tM3Bp0
「皮膚にと下が刺さって痛いと思えば、とげが刺さったままにしておくはずはないわけで、必ずとげを抜こうとします」ー『神の痛みの神学』で有名な北森嘉造(かぞう)の言葉です。先週、Zoomで広瀬由佳さんの講演があり、視聴させていただきました。福音主義信仰の立場に立ちつつ、LGBTQ問題という難問に新鮮なアプローチが紹介されているように思いました。講演は『聖なるものの受肉』という論文の内容紹介で、キリストが受肉されたこの意味を「痛みの中に置かれている人々」に焦点を当てて、深く掘り下げる内容でありました。みことばに、キリストは、「ヘブル4:15
私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と勧められています。私たちの社会の中の「とげの刺さった痛み」の中におられるLGBTQの人々の痛みをともに痛み、主にあって倫理的行動に、またその倫理を支える神学的営為の再検証に取り組むことが必要な時代となっているのではないでしょうか。そのような視点を抱いて本詩に傾聴してまいりましょう。
詩篇は、わたしたちの中にあるものを、余すところなく、修辞的に表現したものです。ジャン・カルヴァンは、詩篇を「魂のあらゆる部分の解剖図」と表現しています。詩篇はわたしたちについて「あらゆること」を語っています。そこでは「あらゆる言語表現」が許されていて、どんなものも検閲によって削除されることはありません。しかし、どんなに「過激な言葉」であろうても、それは「実際の行為」ではない、という点に目を留めることが大切です。それは、「言葉」であり、想像の世界を「熱情」が飛翔しているのです。
今朝は、本詩全体をみるのではなく、最初の部分[94:1 復讐の神、【主】よ。復讐の神よ、光を放ってください。94:2
地をさばく方よ、立ち上がってください。高ぶる者に報復してください]に目を留めてまいりましょう。わたしたちは、足の裏にトゲが刺さっただけでも、歩くたびに「痛い!」と悲鳴を上げるかもしれません。その痛みは「トゲを抜くまで」続くと思います。しかし、そのトゲが、ウクライナにおけるブチャでの悲劇ようであったり、シリア地震で倒壊した建物の下敷きになった家族であったり、性自認や身体的性別の違和に苦しんでいる人々の場合、その痛み・苦しみ・叫びは「トゲのレベル」ではないでしょう。
[94:1 復讐の神、【主】よ。復讐の神よ、光を放ってください。94:2
地をさばく方よ、立ち上がってください。高ぶる者に報復してください]という叫びの祈りには、一体どれほどの苦難・災難・悲劇が存在していたことでしょう。詩篇の中には、「復讐の詩篇」が存在します。わたしたちは、愛の神、平和の福音を伝える教会、またクリスチャンには「ふさわしくない詩篇表現である」と受けとめるかもしれません。しかし、現実の問題、本当の問題は「復讐」が詩篇の中にあることではないのです。題は「復讐の心」がわたしたちのただ中にあることなのです。
ここで詩篇は、「わたしたちの中で起こっていること」に、どれほど精通しているのかを知らしめます。詩篇は「鏡に映るわたしたちの姿」そのものなのです。ですから、「詩篇に書かれていること」と、「わたしたちの間で行われていること」との間には「深い一致」があると認識すると詩篇はわたしたちに語りかけて来ます。「復讐の思いを言葉にすること」は、わたしたちをわたしたち自身についての新しい気づきへと導きます。つまり、「人間性」というものを真剣に理解しようとするなら、必ず「復讐の願い」もその中に含まれるのです。「憎むことができる」という能力は人間性の神秘に属するものです。
「復讐」という想像世界の中で、わたしたちは「敵意を鮮明に表す」ために、力を尽くすことができます。それは、ほとんど過剰防衛、ときには過剰攻撃といっても良いほどのものにもなります。強国の谷間のイスラエルの歴史、また世界の歴史をざっと眺望するだけでも、いかほどの怨念・苦しみ・悲しみの杯が溢れていることでしよう。想像世界での言葉には、いくつかの機能があります。それには疑いもなく「浄化作用」があります。鳴り響くサイレン、砲弾・ミサイルの着弾にさらされた地下壕の子供たちの精神的ケアのために、「絵を描かせる」ことに似ています。このような詩篇には、「癒しという有用性」があるのです。
[94:5 【主】よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのゆずりの民を苦しめています。94:6
彼らはやもめや寄留者を殺し、みなしごたちを死なせています]戦乱でしょうか。捕囚でしょうか。多くの人が苦しみ、亡くなっていっています。なすすべもなく、踏みにじられています。親が亡くなったせいでしょうか。幼い子供たちは路頭に迷い、その多くが餓死しています。あちこちに検閲の目が光っているロシアや中国のような独裁国家で、詩篇は「何でも言うことのできる残された場所」のひとつなのです。
しかし、それには、「浄化作用以上のもの」があります。単にわたしたちが「感じ、知っているすべてのことに表現を与える以上のこと」があります。真の激しい怒りにおいては、言葉は単に感情の後を追うだけではありません。「言葉が感情を導く」のです。傷や痛みがどれほど大きく、深く、激しいものであるかに私たちか気づくのは、「それを言葉にした時」です。詩篇は「甘い優しさの見せかけを突き破る」自己発見の行為なのです。
詩篇は、「激しい怒りの持つこれらの最も強烈な要素」を正当なものとし、肯定する、いわば「ピカソのゲルニカの絵」のようです。そのような語りの中で、わたしたちは、自分たちの言葉と感情が敵を滅ぼすものではないことを知ります。つまり、それらの言葉は、わたしたちが考えていたほど、「危険な存在ではない」ということです。そのような「語り」また「祈り」は、激しい怒りを苦しみを嗚咽を「別の視点から見る」ようにさせます。
それが「言葉にならない」とき、それらは亡霊のように、ぼんやりと、実際以上に大きく見えて、わたしたちにやましい思いを抱かせます。「言葉にされる」と、わたしたちの強烈な考えも、感情も、「その時の状況に位置づけられ、違った受け止め方をする可能性」が開けます。1-11節の「激しい怒りの独白(どくはく)」が続いた後で、12節以降[94:12
なんと幸いなことでしょう。【主】よ、あなたに戒められ、あなたのみおしえを教えられる人は。94:13
わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。…94:14
まことに【主】はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。94:15
こうしてさばきは再び義に戻り、心の直ぐな人はみなこれに従います]とその激しさが失われるのです。
詩人は、「復讐心」を神のみ前に注ぎだした後、正気を取り戻したのです。これらの、想像力に満ちた「復讐の詩篇」は、言葉によるものです。彼らは心の底に刺さったトゲから来る痛みを言葉によって吐き出しているのです。これらの言葉は、直接敵に向けられるのではなく、「神に向かって語られている」ということです。「憎しみ、怒り、悲しみ、復讐」の思いの神への注ぎだしの後には、
[94:12 なんと幸いなことでしょう]と、憎しみから賛美への方向転換が起こります。
[94:17 【主】が私の助け][ 94:18 あなたの恵み][94:19 あなたの慰め][94:22
私の砦][私の避け所の岩]と、復讐が神に委ねられた時、語り手は「復讐の力」から自由となります。[94:23
主は彼らの不義をその身に返し、彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が、彼らを滅ぼされます]と、「憎しみ」を別の角度から見る視点が与えられます。このように、復讐の詩篇には、ふたつの部分があります。最初の部分では、復讐は完全に現在のものと認識され、完全に「このわたしの」激しい怒りであると認められ、可能な限りの力強さと激しさをもって十全に表現されなければなりません。
すべてが、神のみ前にさらけだされ、すべてが見えるように十分に表現されなければなりません。それは、嘆きや痛みの詩篇も同様です。嘆きや痛みに対処する最もよい方法は、それを全て「言葉にする」ことです。そして、それは「怒り」にも言えることなのです。しかし、本詩の後半では、「激しい怒りと敵意のすべて」は、神の知恵と神の配慮に明け渡されます。それは、[94:12
なんと幸いなことでしょう。【主】よ]と言う時に起こります。教えられる大切なことは、まず自分自身の中にある「怒りと敵意」が十全に表現され、それらが手放されなければ、この明け渡しも十全で解放されたものにはなり得ません。
この明け渡しは、[94:22 しかし【主】は私の砦となり、私の神は私の避け所の岩となられました。94:23
主は彼らの不義をその身に返し、彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が、彼らを滅ぼされます]とあるように、信仰と確信をもってなされる行為なのです。詩人は、神が正しき審判の必要性を軽くみることなく、真剣に受け止めて、それに従って行動してくださるだろうということを疑いません。現在、復讐を求める叫びに即座の解決は与えられません。激しい怒りもそのままです。しかし、それはそれを認め、そして明け渡すという二つの段階を経ることで劇的に変化しているのです。わたしたちの、またわたしたちの隣人の「足の裏に刺さったトゲ」をそのように扱う道筋を探し求めたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、広瀬由佳論文「聖なるものの受肉ー交わりの回復を目指すキリスト教倫理」福音主義神学誌52号)
2023年2月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇93篇「あなたの証しは、まことに確かです」-聖なることが、あなたの家にはふさわしいのです-
https://youtu.be/qmGagUu0xcU
詩篇第四巻の第二幕は、「主が統治される。主こそ王である」という特徴をもつ詩篇群です。ざっとみていきますと、[93:1
【主】こそ王です][95:3 まことに【主】は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である][96:10
国々の間で言え。「【主】は王である。まことに世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる][97:1
【主】は王である。地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ][99:1
【主】は王である。国々の民は恐れおののけ。ケルビムの上に座しておられる方に。地よ震えよ]と続きます。これらの詩篇は、シオンの中心性を前提としています。神は、人々の賛美によって栄光を受けます。
しかし、神の支配は、明らかにシオンだけに限定されません。全世界、いや創造世界全体が、まさに王である神の栄光に満ちているからです。これらの詩篇では、神の民イスラエルが受けた特殊な歴史的体験は、無視されていると言えないまでも、わずかの淡い暗示を除いて、際立って中立化されています。イスラエルの神はシオンにおいて、宇宙の王・諸国民の王として崇められています。このような視点をもって本詩を傾聴してまいりましょう。
詩篇第四巻の第二幕「王の詩篇、王の即位式の詩篇」群の特徴のひとつは、「混とんの上に君臨される王」のイメージです。[93:3
【主】よ、川はとどろかせています。轟音を、川はとどろかせています。激しい響きを、川はとどろかせています。93:4
大水のとどろきにまさり、力強い海の波]と、洪水や海などで象徴的に表現されている混とんの力に対して、創造主が勝利を収めたという物語は、どのような力ー歴史上の敵、悪、死、あるいは創造世界にある他の何かーであれ、神の支配を破壊することができないというイスラエルの信仰を詩的に表すのに用いられています。
そのような意味で、この詩人は、必ずしも古代イスラエルに限定されない、人間一般の体験を表現しているのです。この世界には、無秩序があり、人間の目から見ればそれは神の権能に挑戦しているように映ります。脅威的な混とんの体験は、ロシアのウクライナへの侵入のように、北から迫り来るアッシリア帝国やバビロン帝国の侵略によって誘発されたのかもしれません。トルコ・シリア地震のような巨大な自然災害、またコロナのようなウイルスや疫病の蔓延があったのかもしれません。
最近の日本では、LGBTQに対する差別発言で失脚した官僚もありました。社会また教会におけるLGBTQに関する熱い議論もあります。そのような状況を[93:3
轟音、激しい響き]のような[川のとどろき、93:4
大水のとどろき、力強い海の波]に当てはめることができるのではないでしょうか。一宮基督教研究所として取り組ませていただいてきたジャンルにエリクソン神学の保守中道路線があります。それはバランスのとれた福音派の福音理解の共通項を探求する神学的営為でありました。ただ、エリクソンの著作にも、キリスト教倫理を扱った著作があり、また聖霊によるキリストのみわざとしての今日における受肉キリスト論への展開で、教会内におけるさまざまな運動を紹介し、位置づけているところに興味をひかれます。
さらに、受肉キリスト論における解放の神学における差別克服への取り組みの神学的営為としての、黒人神学や女性軽視・男性優位主義克服のフェニミズム神学、そして今日におけるLGBTQ差別克服に向けてのLGBTQ神学へのひとつの道筋として、フラー神学校組織神学教授であったポール・ジュエットの著作『男性と女性として創造された人間』や『我々は一体何者なのかー人としての私たちの尊厳』等も興味をもって読ませていただいています。社会と教会におけるLGBTQの論争ひとつをとっても、著作物、講演ビデオ、論文等々ー「洪水の轟音」のような印象を抱きます。
しかし、詩篇の作者の信仰によれば、[93:1
【主】こそ、王です。威光をまとっておられます。【主】は、まとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ、揺るぎません。93:2
あなたの御座はいにしえから堅く立ち、あなたはとこしえからおられます]と、人間の歴史を意味のない無秩序と混とんに陥れようとする脅威的な諸力の上に、神はいつも勝利者として君臨されている、というのです。創造主として、神は人間の歴史を越え、宇宙を越えて立っておられます。したがって、シオンで祝われる神の王権は、人間存在を脅かす混とんの力に対する、神のゆるぎない支配を指し示すものなのです。
この意味で、[93:4
大水のとどろき][力強い海の波]ー秩序だった創造世界を脅かしかねない荒れ狂う混とんの力ーに向かって、[【主】は力に満ちておられます。いと高き所で]とすべてを超越して君臨されている王として描写しています。この王の[93:5
証しは、まことに確かです]と言われます。聖書を通して啓示されている王的支配、王的統治の御思いは[確か]なものであると言明されているのです。それゆえ、聖書がいかなる書物であるのかを明らかにする「聖書観」、その聖書をどのように解釈し、その時代状況に適用するのかを示す「聖書解釈法」は非常に重要な位置を占めます。
そして、多様化を増し加える歴史的状況下で、関連聖句から生まれてくる「人間観」「男女観」「性的倫理」「罪論」の形成プロセスの、冷静な再検証が求められているように思います。レビ記やローマ書の記述に関しては、①直観的解釈や②歴史的文法的解釈を越えて、③文化脈的解釈を参考にすべきであり、聖書全体から、キリスト論的視点で本質を抽出し、聖霊論的視点でその本質を、今日の歴史的状況下で、倫理的にどのように適用していくべきなのかー解釈学的螺旋を不断に試みていかねばならないと思います。
ヘルムート・ティーリケは「同性愛のカップルも、異性愛のカップルと同じように、互いが愛によって結ばれ倫理的に責任ある関係」を築くことを願っています。つまり、独身でいることには特殊な賜物が求められ、その賜物を受けていない同性愛者に独身を強いることは酷であり、かえって混乱の原因となります。そこで、彼は、同性愛のカップルにも、異性愛のカップルと同じ基準で、相互に愛することが認められ、互いに倫理的な責任を全うすべきと主張しています。神学的に言えば、同性愛者が結ばれることは、男女の結婚という「創造の秩序」には反しています。しかし、同性愛カップルに異性愛者と同じような愛の欲求・幸せを認めることは、堕罪後の世界における倫理的な秩序の中にあるということです。
もし二者の性愛を人格的な交わりの視点から見るなら、異性間の性愛も同性間の性愛も、同じように神学的人間論の中で意味があるものではないでしょうか。LGBTQ問題ーそれは、社会の中でも、教会の中でも、「洪水の轟音」のようなテーマのひとつです。それで、詩篇の詩人のように祈ります。この問題で苦悩と葛藤の生涯を余儀なくされている兄姉たちのために、[93:4
力に満ちておられ]る主が、今日の時代状況の中で、より本質的な人間観・男女観の[93:5確かな証し]を明らかにしてくださり、その「我と汝」の本質に根差した人間観・男女観のグラデーションが、ひとつの単色の光がプリズムを通して七色の多様性を明らかにするように、さらに深められた聖書観と聖書解釈法が、苦悩と葛藤の中に生きている人たちに、異性愛も同性愛も同じ倫理的基準の枠内において、[聖なることが、あなたの家にはふさわしいのです]という福音の調べを届けることができますように。
神学者たち、聖職者たちが、あらゆる次元で「ソロモンの知恵、カイザルのコイン」で示された神の知恵を用い、苦悩と葛藤の中に生きている人たちのための「良きサマリヤ人の神学」のフロンティアを切り開いていくことができますように。祈りましょう。
(参考文献:B.W.アンダーソン『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、藤本満講演「①神学的人間論ー今日的諸課題、②神の像に創造され、キリストの像に贖われーLGBTと同性婚」、Helmut
Thielicke “Ethics of Sex”)
2023年2月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇92篇「年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります」-「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に-
https://youtu.be/BxwzfJO-2xU
先々週より、詩篇の第四巻(90~106篇)の傾聴に入っています。90篇から92篇は、詩篇第四巻冒頭でひとつのかたまりを形成しています。第四巻冒頭にあるこれら三つの詩篇は、「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」という、神とイスラエルの約束の焦点であったものの喪失が背景にあり、バビロン捕囚によって引き起こされ、特に第三巻(73~89篇)で明らかにされた「神学的危機への対応」を形成しています。約束の根拠であったもの、希望の象徴であったものをすべて喪失し、「神に見捨てられてしまったのではないか」と思われる局面でうたわれたこれらの詩篇の深さに心打たれます。イスラエルの「信仰における生命力」の豊かさに感動させられます。
その意味で、第四巻冒頭の三詩篇は、わたしたちの人生を「真に豊かにするものは何か」の教訓に満ちています。90篇は「一息」のようにはかなく思われる人生における「永遠の神」について、91篇は「狩人の罠、破壊をもたらす疫病」に囲まれる人生における「隠れ場としての神」について、そして93篇は「悪しき者の一時的繁栄」に目を奪われず「主を礼拝し感謝して生きる者の結末」を教えられます。これらの神学的教訓は、一般化されて描写されていますが、その背景に「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」の喪失を置いてみますときに、その意味・含蓄の深さを思い知らされます。それは、わたしたちがわたしたちの人生における、さまざまなかたちの“喪失”の経験の場、“挫折”の体験の場に立ち返って唱和するために提供されているのです。そのような視点から、本詩を味わってまいりましょう。
本詩は、「安息日のための歌」という題名をもつ唯一の詩篇です。A.J.ヘッシェル著『シャバットー安息日の現代的意味』の中の「時間の世界に立つ宮殿」という章に本詩への言及があります。[古くから伝わる寓話は主張する。「アダムが安息日の威光を、その偉大さと栄光を、そして万物に安息日を与えた喜びをまのあたりにしたとき、彼は安息日のために讃歌を詠唱した。あたかも安息日に感謝するかのように。それを見て神は言われた。『あなたは安息日に対して讃歌をうたっている。安息日の神であるわたしに対してはなにもうたっていないのはどうしてか』。すると、安息日は立ち上がって神の前にひれ伏して言った。『主に感謝をささげることは善いことです』と。全被造物がこれを聞いて付け加えた。『いと高きあなたの御名に対して讃歌をうたうことは善いことです』と。」
もうひとつ「永遠は一日を発語する」という章の箇所には[シオンは廃墟と化し、エルサレムは灰燼と化している。週日のすべては救済の望みしか残されていない。しかし、安息日が世界に登場するや、人は現実の救済が魂に触れるのを感じる。あたかも、メシヤの霊が一瞬間大地の上を飛翔しているかのように感じる]と。このように見ていきますと、おぼろげながら一筋の光が差してくるように思います。バビロン捕囚という未曽有の苦難を経験し、祝福の約束の根拠も象徴も、すべてを失ってしまったかに見えたイスラエルの詩人は、それらの仲介・手段・外形はく奪のただ中に、その深淵に、永遠をみつめる目を得たのではないでしょうか。
当時の列強に翻弄される神の民の「難攻不落の隠れ場」のありかを見出したのではないでしょうか。空間の世界における「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」を失ったが、時間の世界にたつ「宮殿、至聖所、メシヤの玉座」の本質的イメージが抽出されていったのではないかと。本詩のメッセージは、詩篇1篇にも、ローマ人への手紙1章にも通じるものを感じます。今日的に言えば、トルコとシリアに起こった巨大地震、建物の崩壊にまみえた人々、戦火の下で苦しんでいるウクライナの人々の苦しみのような、バビロン捕囚による苦しみ、ローマ帝国による四散、アウシュヴィッツ等による絶滅収容所経験等のただ中でうたわれ続けた詩篇といえるのではないでしょうか。
1-6節をみましょう。すべては失われてしまったかもしれませんが、み言葉である聖書と[92:1
【主】に感謝すること、いと高き方の御名をほめ歌うこと]は、どこでも可能です。それは失われていません。それは空間にも縛られていません。安息日は週に一日ですが、神の民の主への感謝と賛美は、時間にもしばられてはいません。私たちは[92:2
朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げる]ことがゆるされているのです。私たちは、「朝に夕にそのように優雅で神聖な行為」をなし続けることが赦されているのです。讃美と感謝は、[92:3
十弦の琴に合わせ、竪琴の妙なる調べにのせて]と、リュート、ハープ、竪琴等、それぞれの時代、民族で発達したあらゆる楽器を用いることが可能です。
わたしたちは、時間を超え、空間を超えた永遠の神に思いをはせます。そして、そのお方が空間と時間をもつ世界を創造され、その中にあるすべての生き物を創造してくださったこと、それらの生き物を摂理の下に導いてくださっていることを知ります。[92:4
【主】よ、あなたはあなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを、私は喜び歌います]、[92:5
【主】よ、あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです]と。私たちは、創造の世界の神秘と摂理の歴史の奥義について思いを巡らします。
7-11節をみましょう。わたしたちがこの世界を見ます時に、[92:7
悪い者が青草のように萌え出で、不法を行う者がみな花を咲かせ]る姿をみせられます。強国が小国を蹂躙するのをみます。ブラック企業が、犯罪者が、弱者から搾取するのをみます。多数者が少数者を迫害するのをみます。彼らは[92:8
永遠にいと高き所におられ]る神を崇めず、感謝をすることを知りません。おのれを神として生きているのです。そのような[92:6
無思慮な者、愚か者]は、創造の神による空間の秩序と時間の秩序が、神の摂理の御手によってもたらされる結末を知りません。彼らは簡単に生えでて増え広がる雑草、[青草]のようです。一時的に花を咲かせ、繁栄を謳歌しますが、神の摂理の御手により支配されている歴史、その道徳的秩序は必ずその結果をもたらします。[92:9
不法を行う者はみな散らされ]、[あなたの敵が滅]んでしまうのです。このような信仰がイスラエルの民を支えました。苦難のただ中、絶望的な状況の下、窒息させられそうな状況下で、「希望という酸素」となり、「サバイバルの力」を注入していたのです。
12-15節をみましょう。本詩の結びの節は、礼拝共同体に戻り、悪の結末とは対照的な結末を描写しています。萌え出る青草のような悪しき者の繁栄、人間世界のどんぐりの背比べのような「相対評価」とは対照的に、主の忠実さと愛に支えられた信仰者の生涯、主の目に焦点を当てた「絶対評価」に生きる信仰者は神さまがあなたを、[92:10
野牛の角のように]あなたの角を高く上げてくださる生涯であり、あなたに朝毎に夕ごとに、[みずみずしい油を注]いていくださる毎日なのです。なので、[92:11
待ち構えている者ども、向かい立つ悪人ども]をおそれる必要はありません。ノアが洪水の四十日四十夜を「天窓」だけを開き、その窓を通し、主を仰ぎ続けたように過ごせば良いのです。
そのように生きていく信仰者は[92:12
なつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます]。それは大地に根を張り、幹を太らせ、枝を張り巡らし、葉をつけます。彼らの個性や賜物は、いわば球根のように、[92:13
彼らは【主】の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせ]るのです。彼らは「何の喜びもない」という年月(伝道12:1)の時期に、[92:14
彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります]と言われます。わたしたちも、本詩の詩人のような信仰に生きたいものです。このような告白をもって余生を過ごしたいものです。神様がその保証人です。[92:15
【主】は正しい方。わが岩。主には偽りがありません]。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、A.J.ヘッシェル『シャバットー安息日の現代的意味』)
2023年2月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇91篇「いと高き方の隠れ場に住む者」-苦しみのときに彼とともにいて、とこしえのいのちで満ち足らせ-
https://youtu.be/UCaJFfT1tVI
先週より、詩篇の第四巻(90~106篇)の傾聴に入っています。詩篇第四巻冒頭にあります90篇から92篇は、第三巻の結末である89篇で描かれた「ダビデ王国崩壊の危機に対応する神の避難所」のテーマに焦点を当てています。国家・民族が崩壊するかもしれないという未曽有の危機の際に、古代イスラエルの共同体は神殿に集いました。共同体は、神の介入を求め、差し迫った危機からの救いを嘆願しました。それが詩篇90篇の嘆願の前景にあります。前景としての詩篇の第三巻(73~89篇)を傾聴していますと、「シオン、すなわちエルサレムの崩壊を嘆く祈り」が顕著であり、その巻末89篇が「ダビデ契約に対する神の拒絶に直面した未解決の請願」で終わっていることを教えられます。
したがって、第四巻(90~106篇)冒頭の「モーセの祈り」の配置は、注目に値します。それは、詩篇90篇の表題が、読者を「ダビデ王国の前の時代、エルサレム神殿建設以前の時代」すなわち「神の人モーセの時代」に連れ戻すからです。その時代には「君主制も、神殿もありません」でした。人々は「まだ約束の地に来ていません」でした。それでも、「イスラエルの民は、神との関係を築き、その関係をかたちに」していました。詩篇第四巻冒頭で、「神と共同体の関係」がイスラエルの生活を形成しましたが、「神殿や王によって仲介されなかった時代」にさかのぼることによって、「バビロン帝国によって、エルサレムが陥落し、神殿が崩壊し、ダビデ王国が消滅」してしまった問題に答えようとしているのです。
そのような「嘆きの詩篇」が置かれている危機の中で、「教訓的かつ一般化」する傾向を帯びていることは詩篇においては珍しいことではありません。このような意味で、詩篇90篇は「危機におけるイスラエルの唯一の、真の希望の源」が神であることを示唆しています。神は、「エルサレム建設、神殿奉献、ダビデ王国の栄光」以前、幾世代にもわたって「わたしたちの住まい」であられたことに焦点を合わせようとしているのです。これは、少子高齢化時代の日本の教会の状況にも似ています。教会は高齢化し、地方では無牧の教会が増え、都市部を除き、教会が消失していく時代です。わたしたちは、かの時代の神の民のように、「より本質的なもの」に焦点を合わせることを迫られているのかもしれません。
最初にも申しましたが、詩篇第四巻冒頭にあります90篇から92篇は、第三巻の結末である89篇で描かれた「ダビデ王国崩壊の危機に対応する神の避難所」のテーマに焦点を当てています。と同時に、そのメッセージの本質を捉え「神は困難の最中における避難所」であると教えています。このメッセージは、あらゆる困難に直面しつつ生きるわたしたちへの「宝石」のような励ましです。詩的表現の背景には、「何らかのトラブル」が発生していますが、特定することなく、あいまいなまま放任し、「あらゆるトラブル」への応用・適用が可能な状態に置かれています。
問題は、[91:3 狩人の罠][91:5 夜襲の恐怖、昼に飛び来る矢][91:6 真昼に荒らす滅び][91:10
わざわい]と、ウクライナに対するロシアの攻撃のようなものから避難を求めているのかもしれません。また問題は[91:3
破滅をもたらす疫病][91:6 暗闇に忍び寄る疫病][91:10
疫病]と、コロナ・ウイルスのような病気であり、その人たちは感染からの保護祈願を求めたのかもしれません。本詩は、古代イスラエルの民の礼拝環境に深く関係しており、「神への会衆の信頼」を生むことを目指しています。
そのような意図をもつ本詩は、[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]と、神の臨在を避難所とし、そのシェルターを楽しむ信仰者に向けられた並行表現で開始されます。2節では、その至高の神、全能の神は[91:2
私の避け所、私の砦]と、そのシェルターは「難攻不落の要塞」であると告白されています。幾度となく、危難・艱難に直面し、いまやその保護の根拠とされてきた「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」の消失に陥ったいまでも、なお「形あるものはすべて消失した今、そのさえぎる空の雲がなくなったかのように、仲介して教えるすべての影が消えうせた今、希望の灯火が見えなくなった今、真っ暗な暗闇の中で、夜空の無数の星々がきらめくように」ー[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]と告白・賛美しているのです。
この賛美・告白は、[91:4 主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける][91:9
それはわが避け所【主】を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたから]と、展開し、[91:7
千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない][91:11
主があなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道であなたを守られる。91:12
彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする]と、「われらを試みにあわせず、悪より救い出される」神への信仰と祈願が表明されています。
このように見ていきますと、世にある宗教一般のように、「家内安全、無病息災、商売繁盛、安産祈願、合格祈願、等々」にみられる「いわゆるご利益宗教」めいた要素があると教えられます。今日にみられるような医療の水準や、小国に対する国際的な安全保障等々がない古代の世界において、戦争とか疫病に対する脅威・恐怖は、いかほどのものであったでしょうか。それらの恐怖を猟師と獲物のイメージ、日中にどうどうと歩き回る疫病、それらをライオンやヘビに言及し[91:13
あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじ]ってくださるお方として、神に期待します。
わたしたちが、[91:1
いと高き方、全能者]なしに、人生を、人間の実存を直視するとき、そこには「絶望」というひとことしか残らないのですが、わたしたちが、
[91:1 いと高き方、全能者]を[91:14 愛、その名を知って、91:15
呼び求めれば]、わたしたちは、「かたちあるもののすべてが霧散しようとも」主は親鳥がヒナを身を挺して守るように[91:4
ご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける]ことができ、[91:11
主が、あなたのすべての道であなたを守られる]のです。
教えられることの核心は、[91:14
彼がわたしを愛しているから、彼がわたしの名を知っているから]とあるように、神とわたしたちの人格的関係の深さであり、「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の深い関係の大切さです。本詩の末尾に示されている託宣の肝心な要素こそが、書き出しの[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]の意味するところと思います。[エルサレム、神殿、ダビデ王朝]消失という事態のただ中で、モーセの祈りの時代にさかのぼり、永遠の過去をみわたし、さらにはダビデの子孫たる真のメシヤ、イエス・キリストの人格とみわざと永遠の未来、新天新地を望みみる希望の信仰への方向が垣間見られる詩篇です。古代の神の民がさまざまな苦難に遭遇してきたように、現代のわたしたちもウイルス感染、戦争による経済困難、急速な少子高齢化による教勢低下等、数々の困難に直面しています。
そこで、わたしたちは、古代の神の民がそうしたように、この詩篇第四巻の祈りに唱和してまいりましょう。[91:15
彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える]と励ましておられる神に向かって。そのときに、至高者であり、全能者である神さまは[91:16
わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せ]てくださることでしょう。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary)
2023年1月29日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇90篇「私たちの手のわざを確かなものにしてください」-自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている-
https://youtu.be/zZ469SlqySA
先週、アマゾン書店から説教備忘録『詩篇第三巻(73-89篇)傾聴』を刊行させていただきました。その序に、カルヴァンの数々の名句中でも最も良く知られた一節「魂の解剖図としての詩篇」ー「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。あたかも鏡に写すように…人間の情念を描写する。あらゆる苦悩・悲哀・恐れ・望み・慰め・惑い、…人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出す。…内的心情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼びかける
」をもってはじめさせていただきました。これは、詩篇がどれほど深く、相互作用的なものであるか、つまりまぎれもなく神と人間であるわたしたち二者間の対話の営みであることを、詩篇のもつ「相互作用的な感覚」を教えています。すなわち、詩篇を読み、その中に響くことば、メッセージに傾聴するということは、ブーメランのように戻ってきて「わたしたちの生活」の中で起こっていること、「わたしたちの人生」で起こってきたことの中に、詩篇の言葉の響きを傾聴することなのです。そのような視点から、『詩篇第四巻(90-106篇)』を傾聴してまいりましょう。
本詩を読む時、走馬灯のように、19歳の頃に引き戻されます。本詩をみずからの証しを踏まえるかたちでたどっていきたいと思います。激しい受験勉強を終えて、希望に燃えて大学に入学したのちに、よくあることのようですが、大きな目標を達成した直後に「目標」がなくなったことに気がついたのです。それで、生きる意味や目的を探し求めて、絵画部弦月会に入り、油絵に没頭したり、学部を越えて「哲学」の多数の講義を受講したりしていました。つまり、幼・小・中・高という学業のひとつのゴールに到達して始めて、「人生」というものに集中して考えるようになったのでした。そのころは、家は仏教の檀家であり、地域は神道の氏子でありました。しかし、それは習慣としてのものであり、わたしの内実はと申しますと「無神論者」に近いものでした。
よく芸術家の画集や彼らの伝記的な紹介を読み、「天高く、きらめく夜空の星のような素晴らしい人生があるのだ」と感動したものでした。しかし、彼ら、天才的な芸術家の生涯に比して、自分の人生、存在の意味・価値の卑小さに、打ちのめされていました。「自分が生きるということにどのような意味があり、価値があり、意義があるのだろう」ということを日夜探し求め、もがいておりました。[90:17
私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください]は、その頃のわたしの心からの祈り・叫びと重なります。
大学一年の時の「哲学」は津田教授で、ニーチェが専門とのことでした。それで、わたしもニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』をバラバラにして、ポケットに入れて繰り返し熟読しておりました。この本の人生観は、無神論的進化論をベースにしたもので、これまでわたしが受けてきた教育内容と相性があっていました。要するに、「人類というものは、アメーバのような原生動物類から無限の時間ほ経て進化したもので、類人猿から進化した人間はやがて超人へと進化する過渡期にある存在である」というものでした。なるほどと教えられました。しかし、このような思想の深みへとさらに踏み込んでいったとき、「無意味・無目的な存在」として生れ出たわたしたちは、「死をもって永遠に無に帰する」のだ、そのような現実を直視し、そのような冷酷な現実を乗り越えて生きていく強い意志をもつことが「超人へと変貌する兆し」なのだ、と教えられました。
本詩においては、[90:3 人をちりに][90:4 千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほど][90:5
朝には草のように消え][90:6
朝花を咲かせても移ろい、夕べにはしおれて枯れ]と描写されている通りです。学生時代は文学にも親しみました。夏目漱石や太宰治はよく読みました。そのころのわたしの心情に即したものでありました。きわめてニヒルで、虚無的でありました。生きることに意味や目的・意義を見出すことができない苦しさがありました。そのようなときに、電信柱に貼られた一枚のポスターに導かれ、はじめて教会の門をくぐりました。
そして、ニーチェの「無神論的進化論」とは180度正反対の「有神論的創造論」の人生観を知り始めました。[90:2
山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまであなたは神です]とあるように、わたしたちは無意味・無目的に生まれてきたのではなく、創造主なる全知全能の神がおられ、その方が青写真をもってこの宇宙、この地球、その中のすべての生き物を愛情をもって造られたというのです。そして、わたしたち人間も、意味・目的をもつ存在として生を与えられ、意義・価値ある人生を生きるように召されているというのです。
人生にも長い短いはあります。[90:10
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年]、今日の長寿の時代では「私たちの平均寿命は約八十年。健やかであれば百歳も」と言い換えることができるでしょう。しかし、神様の永遠の視点から申しますと、人間の一生というのは[90:4
まことにあなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時][90:6
朝花を咲かせても移ろい、夕べにはしおれて枯れ]る草花のようです。なにも誇るべきものはありません。
そこで、被造物たるわたしたちに必要なことがあります。創造主から、永遠の中で一過性の生である[90:12
自分の日を数えること]、人生いかに生きるべきなのかの[知恵の心を得させて]ことです。旧約聖書で考慮しなければならない要素が存在します。それは、旧約聖書の詩篇がただ現世における生命という枠組みの中で、人間存在の問題と格闘していることです。詩人は、新約聖書に現れる終末的な地平を持たないので、より激しい情熱的な強さで現在の生の問題に没頭するのです。詩人は、人生の正邪や賞罰の不釣り合いが、歴史的な経験世界を超えた新天新地で是正されるという考えに満足しません。
彼らは、神と人間との関りと救いが、他ならぬこの地上でなされると信じるからです。多くの現代人にとってと同様、彼らにとって死は一切の終極です。したがって、人間の生に関わる緊急の問題の答えは、今ここに見いだされねばならないのです。流れの水を慕いあえぐ鹿のように、彼らは全存在を賭けて「神を慕いあえぎ」、彼らが生き、動き、存在しているこの歴史的な舞台で、その渇きが満たされることを探し求めるのです。そして新約聖書に至って、人間の閉塞状況は根源的に変えられるのです。そこでは、イエス・キリストにおいて神は死の力に打ち勝ち、被造物たる人間に未来への扉を開け放たれたのです。
新約の光、新約の恵みに生かされるわたしたちは、現世を大切にしつつ、しかしそれに縛られず、極度に執着せず、「未来からの恵み、新天新地からの喜び・愉しみの前味」を味わいつつ、現世を生きる知恵、自分の日を数え、人生を分析・評価し、神の永遠の視点の座標軸に位置づけることを教えられます。これが、「福音理解」の意味であり、意義です。キリスト教の教理は、勉強のための勉強ではありません。被造物たるわたしたちの、[90:9
一息のように][90:10 瞬く間に時は過ぎ]さる人生を、[90:1 代々にわたって][90:2
とこしえからとこしえまで]の視点から位置づけ・評価する座標軸であり、その視点にたって現世をどう生きるべきかを照らす羅針盤であるのです。
それは、[90:14
朝ごとに、あなたの恵みで私たちを満ち足らせて]くれる恵みの座標軸です。[私たちのすべての日に、喜び歌い楽しむことができるように]してくれる識別力を付与してくれる力です。[90:17
私たちの神、主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください]と切実な祈りをささげています。わたしたちが一過性の短い生涯でなす「手のわざ」にはどんな意味があり、どんな意義・価値があるのでしょう。それも、新約の光の中で明らかにされています。
イエス・キリストは、わたしたちが地上でなした種々の、「神への愛、隣人への愛」のひとつひとつは、無意識でなした「一杯の水」でさえ覚えられている、と言われました。ですから、わたしたちは右手のしたことを左手が知らないといわれるようなキリストにある善行を御霊に導かれてなしてまいりましょう。[Ⅰコリ15:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから]祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2023年1月22日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇89篇「主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか」-夏目漱石的な絶望の死生観につかっている社会の中で、三浦綾子的な希望の死生観を分かち合っていきたい-
https://youtu.be/h5Z1cFfT-mo
先週、共立基督教研究所時代にお世話になりました藤原導夫先生のブログに『三浦綾子文学の本質と諸相』という本の紹介が記されていました。その第九章に「夏目漱石『こころ』と『氷点』『続氷点』ー夏目文学と三浦文学との重なり・ずれをめぐってー」があり、さっそく取り寄せて読ませていただきました。というのは、この二冊はわたしにとって大変思い出深い本であったからでした。『氷点』は受験勉強の合間にテレビで視聴し大変感動させられました。それで本も購入し何度も繰り返し読ませていただいた愛読書の一冊でした。多感な思春期に、人生とは何であるか、生きるとは、幸せとは、価値観等々ー小説を通してたくさんのことを考えさせられました。ある意味で、数年間の大学入学のための受験勉強をしつつ、より長い人生という学校への受験勉強を導かれていたように振り返ります。
振り返ってみて、「『氷点』というドラマが、また小説がわたしがクリスチャンとなるに至る道を作ってくれた。それを歩むように導いてくれた」ように思います。それまで、人生の本質、生きる意味、生きる目的等を、そのように深く考えたことはありませんでした。わたしが教えられたことのひとつは、「①すべての人間は幸福な人生を送りたい」と望んで、人生という旅程を辿るのであるが、それを手に入れることのできる人は限られている。②多くの人は、幸福な人生というものは経済的な豊かさや名誉や地位、容姿や才能等々に条件づけられていると思いがちであるが、ただそれらのすべてを手にしている人でも不幸な人は数限りない。また逆に、それらの「いわゆる幸福な人生の条件」に欠けている人たちの中にも、豊かで幸せな人生をまっとうしている人たちもまた数多くある。③それでは、何が幸福な人生にとって決定的な要素なのだろうか。『氷点』を通して、「罪」の問題がそれであること。「罪」は人生において最も破壊的な力を有するものであり、その問題の解決なしに「幸福な人生」はありえない、ということでありました。
わたしが導かれた大学は、関西学院大学経済学部でありました。将来、社会科の教師になることを夢見ていたからでした。ミッション・スクールであり、一時限と二時限の間、毎朝チャペル・タイムがありました。讃美歌を歌い、聖書から短いメッセージを聴く30分の時がありました。大学に隣接している西宮福音教会に導かれたのは二年の春であったように振り返ります。「ここに愛がある」という映画のポスターにひかれて、入ったところが「KANSAI
FUKUIN
CENTER」という建物の中にある教会でありました。その時の集会で「聖書をさらに読んでみたい」と決心し、それを契機にその教会に通うようになりました。昼間は大学で授業を受け、クラブ活動をなし、夜は友人たちとマージャンをし、ウイスキーを飲んで寝るという、普通の学生生活を送っていました。
無意味、無目的でだらしない生活を繰り返していたわたしに、異変が起きました。日曜になると、下宿から歩いて三分の教会の礼拝に出席するようになったのです。その教会では聖歌やコーラスを歌っていました。なにか、世の中でちりやほこりにまみれて生活している人間が、日曜ごとに「清らかな水」のシャワーを浴びて、こころ洗われる日曜、さわやかな思いに満たされる日曜でありました。数ヶ月通い、「自分もクリスチャンのようになりたい」と思うようになりました。しかし、クリスチャンとされるためには「自分が罪びとである」ということが分からないと駄目であるということが分かりました。それがわたしにとっては「つまずきの石」のひとつでありました。
わたしにとって「罪」とは警察のやっかいになることでありました。「心の中の罪」は問題と思いませんでした。ましてや「あなたの罪は、地獄で滅ぼされるほどの罪であり、その身代わりとしてイエス・キリストは死んでくださった」というような教えは、なかなか理解できるものではありませんでした。それで「神さま、あなたが本当に生きていらっしゃるのであれば、イエス・キリストに身代わりとして死んでもらわないほど罪深い人間であるのかを教えてください」と祈りました。そしてそのころ導かれるようにして熟読したのが、夏目漱石著『こころ』でありました。罪の問題を自分自身のことと理解できるになり、そのためにイエス・キリストの十字架と復活があると分かりました。「ピリピ1:21
生きることは、キリスト。死ぬこともまた益なり」と、キリストを人生の基軸とし、絶対的な価値基準として生きていく決心をなし、19歳のクリスマスに洗礼を受けました。翌1月に二十歳となり、クリスチャンとしての人生のスタートを切りました。ニーチェ著『ツァラトゥストラ、かく語りき』を愛読書とし、「絶望・無意味・無価値」という絶望・暗闇の中に死んだように生きていたわたしが、赦しと復活のいのちと希望によみがえらされた転換点でありました。氷のように冷え切っていたわたしの凍てついた「こころ」が、キリストの温かいこころに触れて氷解していきはじめたのでした。このような視点をもって、少し長いですが、詩篇第三巻を締めくくる89篇をみてまいりましょう。
この少し長めの詩篇89篇は、第一段落と第二段落とでダビデとの契約にとこしえに真実であられる主への「賛美」で始まり、第三段落で油注がれた者に主がもたらされた苦難と屈辱に苦しみもだえる「嘆き」をもって閉じられます。第一段落・第二段落の「選ばれた者」が第三段落で「拒まれた者」となるのです。この逆転劇が、本詩の筋であり、本詩が「格闘している問題」でもあるのです。このような「筋書」、また「問題」を扱う詩篇は、信仰者が「祝福の約束とその成就」を夢見て、人生を旅する中で「必ずしも、そのように成就しない問題」を考える上で有益な詩篇であると思います。必ずしも、「祈った通りにならない。願ったとおりにはならないことがある」という問題です。この問題と格闘することは、「より深く、より本質的な祝福の次元」にわたしたちを導きます。本詩は、全体を統括する[89:49
主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです]にあります。
詩の大部分が、かつての主の真実の御手のわざの数々を想起することに当てられています。導入部は、二つの関連あるテーマ、天の王に帰属する「89:1
真実」とダビデとの間に結ばれた「89:3
契約」の誓いについて告げます。最初のテーマは、全世界に君臨される主、その「真実」において世界の基を据えられ、民の王を通して彼らに力を与えられるお方への賛美です。次のテーマは、神が油注がれた王としてダビデを選ばれたことの「89:19
告知」、ならびに神が彼とその子孫に対するとこしえの真実を誓われた[89:29
わたしは彼の子孫をいつまでも彼の王座を天の日数のように続かせる]サムエル記の託宣を引用しながら展開されます。
その後に、ダビデとの契約に対する主の真実とははなはだしく矛盾した現状が描き出されます。油注がれた者は敵に打ち負かされ、辱められます。「慈しみ」と「まこと」が、「怒り」と「拒絶」に取って代わり、「契約」は破棄されています。本詩は、「死すべき者」そして「祈っている者の辱め」に応えてくださるようにとの訴えで閉じられています。本詩の筋は、旧約聖書の大きな筋と一致します。第一に、「祝福の約束」があり、土地と子孫ー神の支配される国の青写真があります。第二に、「申命記の戒め」があり、それに従って取り扱われ、裁かれ、土地、エルサレム、神殿、そしてダビデ王朝は終焉を迎えます。
第三に、「捕囚からの帰還と再建」の歴代志的歴史の時代が望み見られています。わたしは、これらの構造は、信仰者の生涯にもあてはめらる“筋”でもあるように思います。わたしたちの人生は、完全無欠ではありえません。程度差こそはあるにしても、すべての人の人生のここかしこに欠けがあり、ほつれがあり、穴がありうるのです。それでは「イエス・キリストにある人生の祝福の約束」はどうなったのでしょうか。第一段落の[89:11
天はあなたのもの地もあなたのもの。世界とそこに満ちているものはあなたが基を据えられました]といわれる、創造の神、秩序の神、摂理の神の支配はどうなったのでしょうか。
わたしたちは、第二段落のダビデの選びと油注ぎと永遠の王座の保証のように、罪と死と滅びから救い出され、個性と賜物が聖霊の愛に満たされ、奉仕のための成熟ー“Mastery
for
Service”に生きるよう育まれてきました。しかし、P.トゥルニエがいうように、人生には祝福ばかりでなく、苦悩もあります。成功だけでなく、失敗もあります。解決できない難問、難題もあります。百戦百勝とはいかないのが人生です。そこで本詩から教えられることがあります。第三段落です。すべての人の人生に、人生の第三段落があると思います。わたしは、この「人生の第三段落」の受けとめ方が大切と思います。
わたしたちは、地上の視点のみ、現世の視点のみで「祝福の約束の成就」を狭く捉えるとき、神さまのみ旨が分からなくなりやすいと思います。ファン・ルーラーという神学者は、三位一体論的聖定論的終末論的神の国神学という視点を指摘しています。聖書が内包する神学的骨格のあり様です。神さまは、御父・御子・御霊の三位一体の神は、青写真を作成し、宇宙を創造し、シナリオを作成し歴史を摂理をもって導かれています。罪と死と滅びの運命に定められている被造物世界の冠たる人間を、キリストの贖罪のみわざによって救い出し、その基盤に立ってキリストの御霊はわたしたちの存在をうめきつつ贖い出し、新天新地における「奉仕のための熟練」に備えておられるというものです。
詩篇第三巻の締めくくりの詩篇89篇には「①祝福の約束ー土地と子孫と神の国、②ダビデ王朝におけるその成就」と、歴史の現実としての「③バビロン捕囚によるそれらの終焉」という暗転に見舞われたイスラエルの民の嘆きがあります。しかし、その絶望の淵で、その苦難の深みからうめき叫ぶ声を発しています。これが聖書が示す信仰です。死の向こう側に復活・新天新地を望み見る希望です。わたしは、最初に記しました夏目漱石の『こころ』にみる絶望で終わる死と、三浦綾子の『氷点』にみる希望の光が差し込む世界の差異を、「本詩の祈り叫び」を包摂する聖書全体がもつ「筋」、小さなイスラエルの物語を包摂する、イエス・キリストにある「大きな物語」の希望を教えられるのです。夏目的な死生観にどっぷりとつかっている日本社会の中で、三浦的な希望の死生観を分かち合っていきたい。そのように教えられます。祈りましょう。
(参考文献:J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、竹林一志著『三浦文学の本質と諸相』)
2023年1月15日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇88篇「私は暗闇を親しい友としています」-詩22:1
わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか-
https://youtu.be/48awBoYHJms
人生には、「三つのステージがある」と言われます。「順境、逆境、新しい境地」の三つです。順境とは「平穏な状態にある時」、人生のすべての事柄が順風満帆に運んでいる時です。高度成長期の日本社会はそのような時期であったことでしょう。この平穏な時期に、順境にある者の姿勢を最もよく反映しているのが「箴言の中にある教え」です。そこでは、人生は公平で、因果応報の原理が支配しており、主にあっては何をしても祝福が見いだされる雰囲気があります。そこには、あらゆることが神に委ねられており、「確信に満ちた幸せな生活」が保証されています。
これに反して、詩篇の大部分は平穏な生活の中からではなく、「逆境」に陥ったり、そこを通して「新しい境地」に至るという経験ーそこは、力で圧倒されるような経験、ほとんど自分が破壊されるような経験ーその道筋のただ中で命を与えられ、「祈りまた歌う力」が与えられたという体験であるということです。詩篇は、人生において「絶望の淵」に立たせられた人々が、言葉を尽くし、情熱を注ぎ込んで歌った歌と祈った祈りを、幾世代にもわたって集めたものです。嘆きと逆境の詩篇として、最もよく知られているのは十字架上のイエスの苦しみと重なるー「詩22:1
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」です。そして最も怒りが深く、最も希望がない逆境の詩篇は、88篇と言われています。本詩88篇の苦しみは、ヨブ記と酷似しており「詩篇の中のヨブ記」とも言われ、「その終わりは全く救いのない暗闇」で結ばれています。わたしたちは、この苦しみの深淵に「キリストの陰府下り」の苦しみを見ないでしょうか。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は、災いに襲われ、死の予感におののく信仰者が、神に向かって発する悲痛な嘆きの詩篇です。「災い」の内容は特定されていません。それは、わたしたちのためです。わたしたちが「詩篇に傾聴する」というとき、それは、わたしたちが「詩篇の中で“人間性”が発する声のただ中に入り込んで、その声の傍らに立つ」という決断を意味しているのです。歴史の中に存在してきたものであり、詩篇の中に凝縮されている詩篇の言葉とわたしたちの「痛切な思いで味わう生活上の経験」との間に、わたしたちの声と考えと思いを行き来させて、それらの間にいつもすばやい「相互交流」を起こるようにするためです。それは、「聖書の言葉」に対して、「わたしたちの経験」が活力と直接性を与えてくれるからです。
本詩は三部に区分され、各部とも祈りの導入文とそれに続く嘆きもしくは訴えからなっています。第一部(1-9節a)は、[88:1
【主】よ、私の救いの神よ、昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで]と、昼夜の「叫び」を祈りとして聞き届けてほしいとの導入文に続き、祈り手は自分の置かれた窮状を嘆き訴えていきます。[88:3
私のたましいは苦しみに満ち、私のいのちはよみに触れています]、[88:5
私は死人たちの間に放り出され、墓に横たわる刺し殺された者たちのようです]と、わたしは数々の災いに打ちのめされ、いまや陰府に下る死人のようになったと告白しています。
神の全能とその摂理的支配を信じる詩人は、[88:7
あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を苦しめておられます]と、神がそのように取り計らわれたのだ、と告発し責め立てています。そして、[88:8
私を彼らの忌み嫌う者とされました]と、ヨブのように病のせいでしょうか、あるいは他の何らかの不幸でしょうか。それらがわたしを「忌まわしいもの」として知人・友人から遠ざけてしまった、と嘆いています。[88:6
あなたは私を最も深い穴に…暗い所に、深い淵に]、[88:8
閉じ込められて出て行くことができません]と、孤立と孤独の中に打ち捨てられていると嘆いています。ただ、苦難のただ中における叫びは、苦しみのただ中における神への賛美とも言われます。信仰の不思議がそこにはあります。
第二部(9b-12節)では、祈りの導入文[88:9b【主】よ、私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって両手を差し伸ばしています]に続き、修辞の疑問文を四重に重ね、神を責め立てています。死者の世界は、[88:11
滅びの淵]、[88:12 闇の中]、[忘却の地]であり、そこではもはや[88:10
奇しいみわざを行われるでしょうか]、[あなたをほめたたえるでしょうか]、[88:11
あなたの恵みが宣べられるでしょうか]、[88:12
あなたの奇しいみわざが知られるでしょうか]と、問いかけています。これが詩篇です。嘆きの詩篇のほとんどは、「俺たちは猛烈に頭に来ている。もうこれ以上我慢するつもりはない」と叫んでいる映画のセリフのようです。漏れたガスで充満した部屋でマッチを擦ることに似ています。それは、限界点を超え、「爆発を引き起こす」のです。これが詩篇です。信仰者の生活が、生きた信仰であるとき、このような叫びが存在するはずなのです。それは、詩篇の叫びと接点を見出します。このような発見の人生を生きてまいりましょう。
丁寧で礼儀正しく控えめなことが「信仰的」だとするなら、彼らは「信仰的」ではありません。彼らが信仰的であるのは、人生の途上で直面した「その混とん状態」を聖なる方に向かって、真正面から「はっきりと言葉で語ろう」としている、ということなのです。これが詩篇です。また、ヨブ記です。このように嘆きの詩は、身近なところにある「困難な事柄」に心を奪われながらも、「必ず神をその名で呼び」神からの答えを期待しているのです。
第三部(13-18節)は、[88:13
しかし私は、【主】よ、あなたに叫び求めます。朝明けに私の祈りは御前にあります]と、神に叫び求め、祈りを聞き届けてほしいと願い、彼自身に対する「神の仕打ち」を嘆き訴えています。[88:15
私は苦しんでいます。若いころから死に瀕してきました]とありますので、なにか「先天性の不治の病」であったのかもしれません。障害であったのかもしれません。それは、病という苦しみとともに[88:14
【主】よ、なぜあなたは私に御顔を隠されるのですか]という神の沈黙という苦しみであり、それはまた、[88:15
あなたの恐ろしさ]、[88:16
あなたの燃える怒り]、[あなたからの恐怖]としても受けとめられました。罪についてはなにも言及されていませんが、旧約の世界においては、ヨブ記の友人のヨブ告発のように、「誤った因果応報」の捉え方がありました。詩人は、苦難とともに神の沈黙という二重の苦しみを[88:17
それらは日夜大水のように私を囲み、瞬く間に私を取り巻いて]いると告白し、[88:18
あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。私は暗闇を親しい友としています]と現状を締めくくっています。
わたしたちは、本詩を詩篇22篇ととともに、嘆きの詩篇の頂点として本詩をみてまいりました。本詩は、「最も怒りが深く、最も希望のない詩篇」「その終わりは全く救いのない暗闇」と評される詩篇です。しかし、新約の光、わたしたちのイエス・キリストの人格とみわざの光の下で読み返す時、詩篇22篇に「麗しい主イエスの叫び声」を耳にするように、本詩88篇においても「わたしたちの主イエスの“陰府下り”の苦悩の深み」を目にしないでしょうか。「キリストの代償的絶望のきわみ」の中に、わたしたちの希望を見出さないでしょうか。わたしたちは、詩篇の詩人とともに、現世における「あらゆる逆境」の中に、キリストにある「終末論的希望の光」を見出して生かされうる者たちなのです。祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年1月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇87篇「見よ、ペリシテーこの者はこの都で生まれた」-偏狭で民族主義的な解釈と民族を超えた普遍主義的な解釈-
https://youtu.be/ETxElOzhghw
本詩は、神の都シオンを詠う六つの詩篇(46, 48, 76, 84, 87,
122)のひとつです。本詩の特色は、「異邦の民をシオンで生まれた者と宣言する」点にあります。総じて、「シオンの歌」は神を全地の王と讃えますが、諸国民がシオンで「生まれた」と詠う事例は本詩の他にはありません。この点につきまして、二通りの解釈があります。ひとつは、BC.6世紀以降、エルサレム以外の地域に形成されたディアスポラ、すなわち世界各地に散在するようになった「ユダヤ人共同体と異邦人改宗者」を念頭においた解釈です。もうひとつは、「一種の終末論的解釈」であり、異邦の諸民族がまことの神に帰依し、神の都シオンに受け入れられる時代の到来を展望する解釈です。
捕囚とか、離散という「未曽有の苦難」には、負の側面だけではなく、異邦人改宗者を耕し、キリストの福音を受け入れる備えをもなしたという神の摂理的働きがあることを教えられます。それは、わたしたちの人生における苦難、不幸な経験にも当てはめられるのではないでしょうか。ここではどちらか一方の解釈を選択するより、両者を重ね絵のように重ね合わせ、すなわち「ユダヤ人共同体と異邦人改宗者」を念頭に、イエス・キリストにおける「神の都シオンに受け入れられる時代の到来を展望」する視野をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
これは、神が[ラハブとバビロン]ーつまり大国であったエジプトとバビロンを「わたしを知る者として」みなし、[ペリシテとツロ、クシュ]を[この者はこの都で生まれた]者とみなしてくださるというのです。それは、これらの異教の国々がシオンを故郷とするまことの神の民となる、という宣言です。第三段落でも、第二段落と同じ内容が繰り返され、神は4節で名指しされた五つの国だけでなく、[この者もあの者も]、もろもろの[国々の民]を[この都で生まれた]と登録してくださる、というのです。第四段落では、神によってシオンで生まれたと宣言される「国々の民」が喜び踊りながらシオンを讃えあう情景が描き出されています。
先日、NHK特集で日本の知識人のひとり、立花隆氏の死生観についてドキュメンタリーをみました。無神論進化論で唯物的な「死をもってすべては無に帰する」という虚無的な死生観でした。わたしには、「絶望」というメッセージ響いているように思いました。ニーチェの哲学にも似ていると思いました。これとは対照的に、キリスト教信仰には「希望、復活、新天新地、喜び」という酸素が溢れているように思いました。本詩にもそのような酸素が溢れていると思います。
さて、彼らが発する讃美は、[私の泉はみなあなたにあります]は、エルサレム神殿から生ける水が流れ出すという表現に通じ、シオンに住まわれる神を「いのちの源」と信じる信仰表現とみられます。聖なる都シオンに住まわれるまことの神は、諸民族を治める全地の支配者です。このような神信仰は「シオン神学」と呼ばれ、「シオンの歌」をはじめ、神を「王」と讃える詩篇の主題となりました。本詩もまた、同様の神信仰を前提にしています。ただ、それらの詩篇が神による諸民族の制圧を詠いあげるのに対して、本詩は異邦の国々をシオンで「生まれた」民として宣言しています。この「生まれた」とは、イスラエルの民がまことの神の子、神の民と呼ばれるように、諸国民もまた、まことの神の子、神の民と呼ばれるようになる、という意味です。
聖書の神は、元来「イスラエルの民族神」とみられていました。その神が、「全世界を支配する普遍的な唯一の神」と信じられるようになりますと、必然的に、「地上のあらゆる民族をまことの神の民」とみなす思想が生まれてきました。そのときに、従来のイスラエルの信仰は、二つの問いの前に立たされることになりました。ひとつは、「全地の支配者」であるまことの神が「なおもイスラエルの神」でありうるのか、さらにはイスラエルが「なおもまことの神の民」でありうるのか、という問いでした。もうひとつの問いは、依然として、まことの神とは無縁な異邦の国々が存在し続ける現実をどのように受けとめうるのか、という問いでした。
これらの最初の問いに対し、「過去の歴史」を振り返ることにより、「出エジプトの出来事」をまことの神によるこの民の「選び」と理解しました。第二の問いに対し、「将来を展望」し、地上のあらゆる民族が自らまことの神に帰依し、神の都シオンに巡礼する時代を将来に展望する「終末思想」として語りだされました。このような展開は、旧約時代には、地上の「シオンを世界の中心に据える」という点において、「ユダヤ民族中心主義」の限界を超えることはありませんでしたが、イスラエルのみをまことの神の民とみる偏狭な民族主義を相対化する視点を内包するという意味では、「多民族平和主義」へと通じる道を準備していったのでした。
新約の神の民、イスラエルを視野に置く本詩は、まことに福音的な内容の示唆に満ちている詩篇であるといえると思います。イエス・キリストの人格とみわざの光の下で、民族を超えた「普遍性」を重んじる私たちの時代にあって、地上のシオンにこだわる「キリスト教シオニズム」のような運動や教えは古い皮袋のようなものです。ヘブル人への手紙8-10章からも、地上のシオンの歴史は「超越的な意味のシンボル」を担うものであり、影は実体である「イエス・キリストの人格とみわざ」の完成において消え去るものとして扱われています。その意味で、「シオンの詩篇」は、歴史に根差した特殊なものから芽生える、「普遍的なもの」を表現しているのです。
シオンは「歴史の意味」を解き明かす中心であり、神はその意味をイスラエルに「教示」し、イスラエルを「通して」全世界にあらわされたのです。イスラエルの歴史の中で啓示された意味は、イスラエルに限定されたものはありません。「豊かな普遍性」をもつキリスト教信仰は、シオン中心の狭い考え方に偏向しません。神の民に対する神の関わりの全ドラマは、エルサレムにおけるメシヤ、イエス・キリストの人格とみわざに集約されており、この中心的な出来事こそ、「シオン」そのものです。ガラテヤ書4:21-31にあるように、「上にあるエルサレム」、すなわち天的なシオンとは、イエス・キリストの人格とみわざにおいて、神の民が集められる歴史的な中心のことなのです。
今日、「地上の土地、地上のエルサレム、地上の神殿」に奴隷のように縛られ、手かせ、足かせを付けられた信仰が見受けられます。わたしたちは、そのような偏狭で民族主義的な、月明かりのようなキリスト教信仰にあり方に警戒しつつ、本詩にみられるような「民族を超えた、普遍主義的な」、まばゆいばかりに新約の光に照らされたキリスト教信仰の道を歩んでまいりましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2023年1月1日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇86篇「主よ、あなたの道を私に教えてください」-神の小さな奇跡に気づいて、一日一日を大切に-
https://youtu.be/LtIUjeG5nYs
明けましておめでとうございます。今朝は、元旦礼拝であり、今年最初の新年礼拝であります。「一年の計は元旦にあり」と申します。巷では初詣等が行われます。教会では元旦礼拝・新年礼拝等が開催されます。それらは、ひとつの祭りのようであり、年中行事のひとつでもあります。一年のはじめを、だらだらと始めるよりも、昨年を回顧し、新しい一年に思いをはせる機会は「ひとつの大きな恵み」です。それは、一年間だけでなく、年ごとに、「歩んできた人生全体」を振り返り、前半生を顧み、後半生を展望する良い機会です。そのような視点から、今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
さて、今朝の詩篇86篇は、四つの段落からなっております。この詩では、第一段落で、詩人が自らを[86:1
私は苦しみ貧しい]と表明するものの、その一方で、祈り手が陥った苦難の実情は明らかにはされていません。第二段落でも[86:6
私の祈りに…私の願いの声を…86:7
苦難の日に]と、祈り手が苦しみの中にあることを示しますが、自らの苦しみを語ることがありません。第三段落では[86:13
あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるから]、[86:11
私はあなたの真理のうちを歩みます]と告白します。第四段落では[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]と、傲慢で横暴な者たちによる攻撃を神に嘆き訴えます。
それで全体を見渡しますとき、本詩の特徴は、そのすべての告白、祈り、叫び、訴えの最後に、主への感謝、賛美、ほめたたえが置かれているところにあります。第一段落のダビデの「バテシェバ事件」をも連想させる[86:1
【主】よ、耳を傾けて私に答えてください。私は苦しみ貧しいのです]という告白と祈りは、[86:5
主よ、まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者すべてに恵み豊かであられます]という賛美で結ばれます。第二段落のモーセの「出エジプト」を連想させる[86:7
苦難の日に私はあなたを呼び求めます]という叫びは、[86:10
まことにあなたは大いなる方、奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です]という感謝で結ばれます。
第三段落のヨハネの「この人はどうなるのですか」という混迷のような、[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください]という嘆願は、[86:13
あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです]という、いかなる危険・危機からも救い出してくださる確信へと導かれます。第四段落のイエスの「荒野の誘惑」のような[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]という戦いの最中にあっては、[86:15
あなたはあわれみ深く情け深い神。…恵みとまことに富んでおられます]という告白に導かれます。これらの四種の祈りと賛美の編集は何を意味しているのでしょう。
イスラエルの民の賛美は、「神の業」によって呼び覚まされました。神は、虐げられた奴隷の群れを顧み、奇しくも彼らに「新しい生」の可能性を開かれました。したがって、彼らの賛美は超越的な神の権能に対する畏敬の念に基づくのではなく、むしろ聖なる神は「歴史の真ただ中に姿を現し、虐げられている人々を救った」という福音に基づいているのです。イスラエルの民は、「語り告げるべき独自の物語」をもっているのです。それは、私たちにも言えることです。
わたしたちは、「新約の光で解き明かされた旧約解釈」をわたしたちの人生の中心に包摂して生きる「新約の神の民、神のイスラエル」です。このような恵みの摂取の度合いが、私たちの人生のドラマに深みと味を増し加えてくれます。わたしたちが「キリストにあって」なすの年ごとの回顧は、「神と共なる自らの歴史を映し出す鏡」として、聖書の中を旅する神の民の姿の中に「自らの姿」を発見することにあります。第二段落から連想させられる「小羊の血によるエジプトからの脱出劇」は、主イエス・キリストの代償的刑罰による[86:13
あなたの恵みは私の上に大きく、あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださる]ー罪と死と滅びの実存からの、新天新地への永遠の救いと結びつけられます。これは、わたしたちの「人生の原点」であり、「人生という旅の目標、また終着点」の、希望また告白です。
わたしたちは、その人生の旅路において、第一段落から連想させられる[ダビデの「バテシェバ事件」のような罠や穴]に落ち込むことがあるでしょう。しかし、それで「わたしたちの人生のドラマが汚されてしまった、台無しになってしまった」というわけではありません。キリストにある人生というのは、「七たびを七十倍」するほどに赦され、やり直しのきく人生です。消しゴムがあって、何度でも描き直すことのできる「不思議なノート、キャンバス」のような人生です。失敗しても、挫折しても、何度でも「真っ白なキャンバス」からやり直すがきく人生です。ダビデがその模範です。[ロマ4:7
「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」][イザ1:18
「さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。]何度でもやり直せる。何度でもリセットできる、というのは、なんという幸いな人生でしょう。
わたしたちは、人生において、ペテロがヨハネを見て「この人はどうなのですか」と、奉仕生涯のあり方を比べようとしたとき、イエスは「あなたに何の関りがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。わたしたちは、それぞれに個性と賜物が与えられており、それぞれに人生というドラマが準備されています。あなたは、あなたに用意されている「大河ドラマ」を生きなさい、ということなのです。他人が出演するドラマと自分の出演するドラマを比較しても仕方がありません。神さまはそれぞれの個性と賜物にふさわしいドラマを、それぞれに用意してくださっているのです。ですから、わたしたちは、第三段落にあるように、謙遜になって[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます]と告白して、自分に用意されたドラマを精一杯演じ切ることに致しましょう。
最後に、第四段落[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]とありますように、人生は、ある意味でロシアとウクライナにあるように戦場でもあります。イエスさまも、バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、聖霊に満たされた後、荒野でサタンの誘惑に直面されました。信仰者がこの世で、敬虔に生きていこうとするときには、いつも戦いがあります。ある先生が言われました。「なあなあ、まあまあで生きている間は、戦いも葛藤も起こりません。しかし、聖霊に満たされた瞬間、庭先が眠りこけていたサタンが目を覚ます」と。神の臨在に「ガス警報器」のように敏感になるのです。この世の人もそうです。「何か、異なった気配」を察知するのです。しかし、それは証しのチャンスであり、神の栄光のあらわされる機会でもあるのです。
ただ、むやみやたらと、ケンカをする必要はないのです。「鳩のように素直で、蛇のようにさとく」ー言葉や行動、ふるまいに気を配り、主のみ旨にそって調整していくことが大切です。そのように御霊に導かれ、御霊の知恵をもって生きていくときに、神様は不思議な知恵を与え、[86:16
しもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救い]くださることを経験するでしょう。神様は、不思議な奇跡をみせ、[86:17
いつくしみのしるしを行ってください]ます。そのことにより、[私を憎む者どもは見て恥を受け]、神の栄光があらわされます。この新しい一年、あなたはこの詩篇にあるような光景をここかしこで目にすることでしょう。違いがあるとすれば、普遍的な神の介入、奇跡があるかないかの問題ではなく、それに気が付いているか、いないか、だけの違いなのです。
今朝は「一年の計は元旦にあり」の日ですー[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください]という謙遜な思いをもって、この一年を導かれてまいりましょう。神の小さな奇跡に気づいて一日、一日を大切に歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
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