ICI ホームページ表紙 ICI日誌 ICIの意義・目的 ICI資料リスト 神学入門 春名純人著作集 G.E.ラッド著作集 宇田進著作集 エリクソン著作集 ローザンヌの歴史的系譜 一宮基督教研究所講義録 自己紹介&チャペル フォトギャラリー 礼拝メッセージ 福音主義神学会公式サイト ICI-スマホ・サイト ICI-Booklets for Kindle ICI-for-JEC ICI_Information_Mail 新「ナルドの香油」サイト
ICI Daily & Diary Lectures
ICIホームページ /ICI日誌 / ICIツイッター / ICI-Face Book / ICI-YouTube
2025/04/20
ICI ホームページ表紙 年度別 ICI日誌 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023 2024
2025年4月20日
ヨハネ7:19~24「安息日に人の全身を健やかにした」-環境、生活、家庭、生涯を健康でバランスのとれたものとする-
https://youtu.be/xBiRZycv8wM
ヨハネ福音書(概略)
A.律法遵守を建前に、無実の御子を殺そうとする(7:19)
B.悪霊に憑かれているのか、真の神の御子イエス・キリストなのか? (7:20-21)
C.割礼規定と安息日規定の齟齬調整は如何に? (7:22)
D.安息日の本質的目的・意義の判別―人の全身を健やかに(7:23-24)
今朝は、教会の暦で、イースター、御子なる神イエス・キリストが死んで葬られ、三日目によみがえられた日です。御子なる神イエス・キリストの十字架における贖罪死とそこからの復活は、キリスト教信仰の「心臓」にあたります。キリストの贖罪と復活は、一体何を目標としているのでしょう。今朝の箇所で申しますと、「
7:23
安息日に人の全身を健やかにした」ということばに集約されるでしょう。三位一体の御父・御子・御霊なる神の目標は、わたしたちの全身、すなわち全存在を健全なものとすることです。議論の対象とされている「安息日」の問題の焦点は、「わたしたちの存在を健やかに保つこと、真の安息をもたらす」ことでありました。
御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨は、「三位一体の御父・御子・御霊なる神がいかなるお方であるのかを示し、このお方のみ旨とみわざを明らかにする」(ヨハ1:18)ためでありました。御子なる神イエス・キリストの伝道と証しの生涯は、きわめて効率的なものでありました。三年半という公生涯できわめて有効な働きをされました。今朝の箇所で[7:21
わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています]と言及されています。「一つのわざ」とはなんでしょうか。それは[4:5
38年も病気にかかっていた人]が癒されたみわざです。それは、人々がモーセやエリヤの世界で聞いていた驚くべき奇蹟でありました。
しかし、その奇蹟が[5:9
ところが、その日は安息日]であったことが大問題となったのです。御子なる神イエス・キリストに、それが激烈な論争となることが理解できないわけがありません。すなわち、それはいわば「ガスで充満した部屋に火を投じる」ような行為でありました。[4:5
38年も病気にかかっていた人]が癒されたみわざですので、御子なる神イエス・キリストは、だれの目にも「特別な存在である」ことを明らかにされました。しかし、この特別なお方がどのようなお方なのかが分かりません。それで、群衆は「ラビすなわち教師、預言者」とか、「メシヤ、すなわちキリスト」であるとか、いろいろと意見をかわすようになります。
御子なる神イエス・キリストが、当時のユダヤ教社会でだれにも受け入れられる範囲にとどまっておられたら、十字架にかけられることもなかったでしょう。キリストが、またわたしたちが十字架にかけられるように至るのは、人々の許容範囲を突き破って、神のみ旨の範囲に導き入れられる時です。有名なシカゴ・コールに[いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない
]とある通りです。伝統や慣習への忠実と神への誠実が衝突する時があるのです。
御子なる神イエス・キリストは、「モーセの律法への忠実」を振りかざして、御子なる神イエス・キリストを告発し、死に至らしめようとしているユダヤ教当局と対決し、御子なる神イエス・キリストの正当性を立証しようとされています。御子なる神イエス・キリストは、ユダヤ教当局が、御子なる神イエス・キリストがモーセの律法に違反していると主張しているひとつのテーマに論争を挑んでおられます。それが「安息日論争」です。ユダヤ教当局は、御子なる神イエス・キリストがわざわざ安息日に[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒され、[5:11
床を取り上げて歩け]と命じられました。ユダヤ教社会の「安息日行動規範を公然と破る」このような言動を、ユダヤ教当局は見過ごしにできませんでした。
このような追求に対して、御子なる神イエス・キリストは[7:19
あなたがたはだれも律法を守っていません]と不意をつく告発をされました。ユダヤ教当局者は、安息日の行動規範を詳細に規定し、その徹底的な遵守に務めていたにも関わらず、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストから、このような断罪を受けました。
なぜ、このようなことが起こったのでしょう。それは、[7:24
うわべで人を]裁き、[正しいさばき]を下せなくなっていたのです。伝統や慣習の中で盲目となり、さらには盲目の人が盲目の人々を導くと穴に陥る(マタイ15:14)とある通りです。
三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、受肉・来臨され、ご自身がいかなる者であるのかを証しされていきました。その中で「安息日」問題も格好の手段・材料となりました。御子なる神イエス・キリストは、ご自身が「安息日」を設定された三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを示すために、あえて「論争の種」となる安息日を選んで、[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒され、[5:11
床を取り上げて歩け]と命じられたのです。ユダヤ教当局からすれば、「飛んで火にいる夏の虫」と思ったことでしょう。
御子なる神イエス・キリストは、「墓穴を掘っている」とみられたことでしょう。自ら批判材料を提供し、自らを「御父」と同等の存在者としておられた(5:18)からです。今朝の箇所でも、[7:19
モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか]と問われています。神の律法を徹底的に遵守することを教え、その違反者を告発し、締め上げ、時には死に至らしめているユダヤ教当局は、実は、神の目から見ますと[7:19
律法を守っていません]と断罪されているのです。このような視野の狭窄は宗教者に起こりやすい現象です。
[7:19
モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか]の一節は、三位一体の御父・御子・御霊なる神が当たられた律法の意義・目的に対する問いかけです。神さまは、十戒で[出20:13
殺してはならない]と命じられました。しかし、今、ユダヤ教当局者は、無実の「ナザレ出身のイエス」を殺そうと画策しています。しかし、さらに罪深いことは、このナザレ出身のイエスが、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であるゆえに、底なしに罪深い行為となるのです。
そうであるにも関わらず、[7:20
あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか]と真逆の反応を示します。彼らに、ナザレ出身のイエスが[4:5
38年も病気にかかっていた人]を癒したという事実を否定することはできません。多くの人がその奇蹟を見ていたからです。この奇蹟を否定できないが、奇蹟を起こした人物の「人格」を攻撃することはできます。今日における裁判でも、犯罪者を告発する「告発者の人格を貶める」ことを戦術とする事例が多くみられます。ナザレ出身のイエスは、ご自身を三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを明らかにされていきますが、これに反論するかたちで[7:20
あなたは悪霊につかれている]と、「ナザレ出身のイエスは神なのであるのではなく、悪霊につかれており、彼の奇蹟的みわざは悪霊によるものである」と批判しているのです。そして、ユダヤ教当局の「ナザレ出身のイエス」殺害の計略を隠すため、「被害妄想の思いにも取りつかれている」と反論しているのです。
御子なる神イエス・キリストは、そのような「闇」の中にいる彼らに、[7:22
モーセはあなたがたに割礼を与えました]と割礼の由来から説明されていきます。御子なる神イエス・キリストは、ディベートの達人です。論理的体系的に物事を、納得・理解が得られるよう説明し、納得に至るよう語りかけられます。有名な神学者であるアンセルムスは、「わたしが信じるのは、理解せんがためである」と申しました。キリスト教信仰は、世にある多くの宗教のような「迷信」ではありません。わたしたちが、人格的に愛し合って生涯を共にする伴侶のように、キリスト教信仰は、人格的な愛に始まり、その人格的な愛の深まりによって導かれていく信仰です。
今朝の箇所には、御子なる神イエス・キリストが、わざわざ、論争の種になる安息日に癒しのみわざを行われた意味が明らかにされています。それは、安息日が定められた意味・目的が[7:23
安息日に人の全身を健やかに]することを明らかにすることでした。これは、ご自身が、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストであることを明らかにするためでありました。ご自身が定められた「安息日の祝福」を、ご自身が再び明らかにされたのです。
[7:22
モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています]とあります。割礼は、父祖であり、族長であったアブラハムの時から、アブラハム契約のしるしとして与えられた、生まれてから8日目に、包皮を切り取る手術(創世記17:9-14)でありました。それゆえ、安息日に生まれた子供は、次の安息日に割礼、すなわち包皮を切り取る手術を受けました。モーセの十戒では、「出20:10
安息日には、いかなる仕事もしてはならない」と定められています。それゆえ、割礼の定めか、安息日規定のどちらかを遵守とどちらかに違反する選択をすることになるのです。
ユダヤ教の伝統と慣習では、アブラハム契約のしるしとしての割礼の手術を優先し、安息日を常習的に破るかたちとなってきていました。御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父・御子・御霊なる神のみ旨が示されている律法の、幹と枝、本質と殻、緊急性と必要性における優先順位等の柔軟性を、策定者本人として明らかにされているのです。そして、安息日の本来の目的、ご自身の本質的意図が[7:23
わたしが安息日に人の全身を健やかに]することであることを明らかにされているのです。わたしたち、今日のキリスト教会においても、教会活動や諸行事の遂行が目的化しやすい中で、クリスチャンひとりひとりの[7:23
人の全身を健やかに]するため、イースターに御子なる神イエス・キリストを死者の中からよみがえらせられた御霊なる神聖霊は働いておられます。信仰者の環境、生活、家庭、生涯を健康でバランスのとれたものとすることを、三位一体の御父・御子・御霊なる神が、意図され、そのようなただ中で聖霊が働いておられることを意識し、そのようなお方のみ旨を探り求めつつ、生きてまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel according to John”)
2025年4月13日
ヨハネ7:14~18「その人には、分かります」-羊たちはその声を聞き分けます。彼の声を知っているからです-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SOC3Yyvl4rU
ヨハネ福音書(概略)
A.七日間の仮庵の祭りの半ばに(7:14)
B.ラビとなる特別な訓練もなく(7:15)
C.三位一体の御父・御子・御霊なる神の一体性・透明性の下で(7:16)
D.羊は、羊のためにはいのちをも捨てる羊飼いの声を知っている(7:17-18)
教会の暦において、今週は受難週、来週はイースターにあたります。ただ、福音書の展開をみていますと、御子なる神イエス・キリストの生涯は、受難の生涯といえます。ベツレヘムでの誕生の際にも、ユダヤの王に任じられていたヘロデ大王に殺されそうになりました。エジプトでの逃避生活、そしてナザレでの大工ヨセフの下での密やかな生活の後、約三年半の公の働きに入られました。三年半と申しますと、中学校や高等学校の三年間のように大変短い期間であり、あっと言う間に過ぎ去る期間です。なんという濃厚な三年半であったことでしょう。この七章は、公生涯の三年間を経過し、十字架につけられる半年前にあたります。
この三年半を表することばに、[ヨハ1:5
光は闇の中に輝いている]ということばがあります。御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨は、まさしく闇の中に投じられた光でありました。闇は、光を吹き消そうとやっきになりました。しかし、闇が深くなればなるほど、その光はこうこうと照り輝きました。第七章では、御子なる神イエス・キリストが、彼の兄弟の指示によってではなく、そのあとでエルサレムに上っているのを見ます。これは、三度目の旅行であり、御子なる神イエス・キリストは殺意の危険に溢れているユダヤに留まろうとしておられます。受難のミニストリーの最終コーナーに差し掛かかっています。
[7:14
祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた]という言葉で始まります。これは、仮庵の祭り、すなわち「収穫祭」(出23:16,34:22)とも呼ばれている祭りで、ユダヤ人の3大祭の一つで,ユダヤ暦の第7月の15日から22日までの7日間開かれていました。これは、刈入れが終ったその年の終りに持たれ,すべての男性はこの祭の時に主の前に出るように定められていました(出23:14‐17,34:23,申16:16)。それは喜びの時であり(申16:14)、仮庵の祭という名称は,イスラエル人すべてがその祭の7日間は木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むよう命じられているところからきています(レビ23:42)。この祭はイスラエルの民のエジプトからの脱出に関連し,荒野における放浪と仮小屋での居住を記念する意味合いを持っていました(レビ23:43)。
御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨の目的は、ご自身を通して、「三位一体の御父・御子・御霊なる神」がいかなるお方なのか、そしてご自身を通して如何なるみわざをなそうとしておられるのかを示すためでありました。しかし、ユダヤ教の信仰の特質上、「人間イエス」を神として認めることは、きわめて困難なことでありました。また、そのようにご自身を示唆し、表明される「大工ヨセフの息子イエス」は、伝統的なユダヤ教においては、神を冒瀆するもののように思われ、死刑に処せられるべきだと受けとめられていました。ここに、神の啓示の不思議を教えられます。旧約において、特にモーセの十戒とそれに関連する教え、また神の民イスラエルの歴史において、偶像礼拝の禁止、また人間を神とすることの禁止を教え込みつつ、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストが「人間イエス」に受肉し、来臨されるという方法をとられたという不思議です。もっと躓かない来臨方法となかったのかとも思いますが、神の知恵と人間の知恵の天と地ほどの開きを教えられます。そこには人間の浅はかな知恵では測り知れない神の知恵が隠されているのでしょう。
それは、まさに旧約において啓示された三位一体の御父・御子・御霊なる神の教えの根幹、モーセの十戒の第一戒から四戒までを吹き飛ばすような、御子なる神イエス・キリストの「人間イエス」受肉・来臨のかたち(ピリピ2:6-11)です。それは、まさにユダヤ教信仰の単一神信仰のど真ん中に投じられた「巨大な爆弾」のように受け取られたことでしょう。実に、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨による自己証言は、伝統的ユダヤ教の神理解においては、「神に対する冒瀆」の罪に値すると判断され、「ナザレ出身の、大工ヨセフの息子イエス」は執拗にいのちを付け狙われることとなりました。神さまは、時に、人間の知識・知恵を超えた、一見矛盾するかのような導きをなさいます。約束の象徴である「イサク犠牲」を求められたアブラハムの経験のような類です。わたしたちの生涯の中にも、そのような「矛盾に満ちた」ものを発見します。しかし、よくよく振り返ると「万事を益とするそのような導きがわたしには最善であった」と感得させられるのです。藤井聡太さんの将棋のような「詰みを読み切った」一手一手であったと…。
わたしたちがヨハネ福音書にみる、ユダヤ教伝統内における「御子なる神イエス・キリストの受肉・来臨」に対する反応は、三年半の公生涯の時を経るに従って、またご自身を明らかにされるに従って激烈なものになっていく様子です。ユダヤ当局は、すでに「ナザレ出身のイエス」を死刑に処することを決定しています(ヨハ7:19)。これらの当局者は、パリサイ派と呼ばれ、それと大祭司は結託(7:45)しています。七章であきらかにされている和解しがたい敵意は、第八章以降も継続していきます。
御子なる神イエス・キリストとユダヤ教の当局たちの出会いや、彼らの不成功に終わったイエス逮捕の試み(7:32,45-49)は、受難物語で何が起ころうとしているのかを示唆しています。この段階では、明らかにエルサレムの市民にはイエスを潜在的に支持する者たちがいます。確かに、すべての者がイエスに反抗しようと決めていたのではないし、多くは肯定的な印象(7:12,15,25-26,31,40,43,46)をもっています。。その光と闇のせめぎ合いが、そのエルサレムで、仮庵の祭りの最中に繰り広げられているのです。わたしたちの毎日の生活もそのようであるのかもしれません。
御子なる神イエス・キリストは、七日間の祭りの半ば、密かに、その中心地である神殿の境内に登場されました。そこは、逮捕・裁判・処刑につながる危険な場所でありましたが、大勢の集まる場所であり、逮捕を躊躇せざるをえない、逆に安全なところでもありました。そこは、他のラビたちも教えていたところであり、御子なる神イエス・キリストが、ご自身が如何なる者であるのか、またどのようなみわざをなそうとされているのかを知らしめるのにふさわしい場所でありました。御子なる神イエス・キリストは、やみくもに危険に飛び込むのでもなく、殺されることを恐れて地方に引きこもるお方でもありませんでした。神の時、カイロスをわきまえ、御父の導きに従い、綱渡りのような、狭く細い道をたどるかたちで、なすべきミニストリーを遂行されていました。わたしたちも、そのようでありたいと思います。
ガリラヤの会衆は、「マタ7:28
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。7:29
イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」とありますが、ユダヤのエルサレムの会衆も、[7:15
この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか]と驚きました。ユダヤ当局の人たちが[7:15
この人は学んだこともないのに]というのは、当時のユダヤ人社会では、教師すなわちラビとして登場するためには、権威ある学派に属し、そこで学的訓練を受けている必要があったからです。権威ある先輩教師すなわちラビたちの教えに基づいていないと、権威ある教えとして認知されなかったのです。
そのような背景のあるユダヤ教社会で、「ナザレ出身の大工ヨセフの息子イエス」は、突如三十歳にして公の場で聖書を解き明かし、教えるミニストリーを開始されたのです。それは、モーセやエリヤのように旧約を代表する預言者のようなしるしと不思議を伴うミニストリーであり、その聖書の解き明かしは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストの権威に溢れたものでありました。律法学者が、権威ある情報源の長いリストを引用して学者のように教えるに対して、御子なる神イエス・キリストは有名な教師、すなわちラビから学んだこともないのに、聖書を使いこなし、その解説において優れた熟達度を示されたのです。
7:15
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」という問いに対し、イエスは彼らに答えられ、[7:16
わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです]と言われました。要するに、学者は「三位一体の御父・御子・御霊なる神が語られたことを記録した預言者たちの教えを解説した諸説のひとつを自分の見解」として示すのでありますが、御子なる神イエス・キリストが言わんとされていることは、「聖書を通して語ろうとし、語られた三位一体の御父・御子・御霊なる神の本心を明らかにし、取り次いでいる」のだと言っておられるのです。つまり、「ナザレ出身のイエス」であるわたしは、「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であり、「わたしの教えは、わたしを受肉・来臨のかたちでこの地上に派遣された御父との一体性から、御父の教えそのものである」ということなのです。
御子なる神イエス・キリストの立場から申しますとその教えの内容・実質から判断しなさい。本当に、まことの神を愛し、その方を信じ、受け入れ、その方の真のみこころ、真のみ旨を行いたいと願っている者には、[7:17
この教えが神から出たものなのか」、そうでない内容と実質をもつものなのか判別できます、と言われました。これは、何を言わんとされているのでしょう。それは、御子なる神イエス・キリストの教えを聴く側の「品質」「人間の状態」が問われているのです。キリスト教信仰とは一体何なのでしょう。それは、単純に「イエス・キリストをどのように理解し、どのように受け入れ、どのように生きていくのか」というだと思います。わたしたちには、人生の中で、イエス・キリストに出会う「神の時、カイロス」が提供されています。それは、どのような瞬間なのでしょう。わたしは、ある意味で信仰とは「初恋」に似ている、「一目ぼれ」に似ていると思います。
わたしたちが、だれかに好意を抱けば、その人のことを知りたくなります。その人のそばにいたくなり、その人の声を聞きたくなります。その人と親しく交わりたくなります。わたしたちは、人生のある瞬間に「イエス・キリストとの初恋、あるいは一目惚れする瞬間」に招かれているのです。わたしたちは、羊が羊飼いの声を知っているように、イエス・キリストの声を知るようになります(10:4)。イエス・キリストとの人格的な深い交わりを通して、このお方を深く知るようになります。またこのお方がどのようなみわざを成してくださったのかを理解するようになります。わたしたちは、このお方に全幅の信頼を置き、愛し、仕え、夢中になり、一生涯伴に歩んでいくのです。
[7:17 自分から語っている]とか、[7:18
自分から語る]というのは、学者として語り、自説を通し、自身の栄誉を追求している教師のことでしょう。御子なる神イエス・キリストは、ある意味「透明化」され、御父が御子を通し、御霊によって明らかにされる点において、諸説のひとつであり、個々の学者の栄誉に結びつくものでありません。そこで明らかにされるのは、三位一体の御父・御子・御霊なる神の一体性であり、三位の中で「透明化」されたただひとつのみ旨のみです。この教えは、「羊のためには、いのちを捨てます」という良き羊飼い(ヨハ10:11)の内容と実質を持っているので、羊は、「ヨハ10:3
その声を聞き分ける」ことができるのです。
三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストは、「ヨハ10:3
良き羊飼いの声」を発しておられました。その声を聞き、「初恋」「一目惚れ」のように、三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリストを受け入れようとする人々と、その声を聞き、「神に対する冒瀆だ」と断じ、殺そうとする人々がいました。それは、ヨハネ福音書でヨハネが描く「光と闇の世界」です。この受難週、紀元30前後、一世紀末の教会、そして今日の世界においても、この「光と闇の世界」があることを覚え、ひとりでも多くの人を光である御子なる神イエス・キリストに向き合えるよう、私たち自身が「光の子」となって、暗闇の中に小さな灯を掲げてまいりましょう。暗闇が深くなれば、人々が暗闇の中の小さな灯に気がつくことを期待して、祈ってまいりましょう。
(参考文献: D.A.Carson,“The
Gospel according to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【3】』)
2025年4月6日
ヨハネ7:10~13「イエスについて公然と語る者はだれもいなかった」-御子なる神イエス・キリストを信じ、告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかれる者とされるよう祈ってまいりましょう-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/SByp5iEIBrw
ヨハネ福音書(概略)
A.表立ってではなく、内密に―御子の「孫氏の兵法」(7:10)
B.ユダヤ当局は、御子の捕縛・抹殺を模索していた(7:11)
C.群衆の反応は分かれていた(7:12)
D.ユダヤ当局への恐れは、沈黙・躊躇を強いていた(7:13)
本シリーズは、『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズと題しています。それは、J・ルイス・マーティンが彼の『ヨハネ福音書における歴史と神学』で論じているように、「ヨハネ福音書の物語は、二つの舞台で演じられている」と推測されるからです。つまり、紀元30年前後のイエス在世中の舞台と、ヨハネ福音書が執筆された1世紀末の教会の舞台との重なりです。「ヨハネ福音書の神学」を傾聴するとは、マーティンが指摘している「1世紀末の教会、という第二の舞台でヨハネのキリスト教共同体の必要から、また必要に関連して、その神学的強調が如何に引き起こされたのか」を解き明かすことです。そして、その強調点を日本の宣教の歴史に、また21世紀の伝道と教会形成、そして信仰生活に生かしていくことです。
今朝の箇所は、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]ということばをもって始まっています。これは、エルサレムでの[ヨハ7:2
仮庵の祭り]の時を生かして、五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったようなしるしと不思議を伴う大々的な宣教活動を勧めた兄弟たちの提案を背景とするものです。この素晴らしいとも思われる提案を、御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ7:6
わたしの時はまだ来ていません。…7:8
あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです]と退けられていました。
わたしは、ここに、「神の時(カイロス)」の重要性を教えられます。奉仕生涯の初期に、神学校で「宣教学」を依頼され、フラー神学校のグローバル・エデュケーション・プログラムのテキスト・資料を基に「①宣教の聖書的基盤、②゜宣教の歴史的・地理的展開、③宣教と文化の関係、④宣教の戦略的構築」という構成で講義していました。そこで教えられたことは、宣教は霊的・神学的準備だけでなく、宣教対象の研究やそこにどのように福音を到達させるのかの戦略が大切であることでした。現在のミャンマーであるビルマ宣教の父と言われたアドニラム・ジャドソン宣教師は、平地の仏教徒地域と山地のシャーマニズムの地域の両方で宣教し、同様の労力を注ぎましたが、仏教徒の地域ではあまり収穫がなく、シャーマニズムの地域で大きな成功をおさめました。
わたしは、伝道・教会形成・神学教育という宣教の三つの機能において、「孫氏の兵法」のような、自身の準備、対象の研究、戦略の構築の三つの必要を教えられました。今朝の箇所の、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]というのは、御子なる神イエス・キリストが、孫氏のような兵法家であったことを教えています。といいますのは、御子なる神イエス・キリストのしるしと不思議を伴う宣教活動は、ユダヤ当局を刺激し、[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たち(ユダヤ当局)は、ますますイエスを殺そう]とするようになっていたからです。
このユダヤ当局の、御子なる神イエス・キリストに対する態度・行為をどのように考えたら良いのでしょう。ルカによる福音書に次のようにあります。[ルカ20:9
また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。20:10
収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。20:11
そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。20:12
彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。20:13
ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』20:14
ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。20:15
そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。]
三位一体の御父・御子・御霊なる神は、ユダヤ民族を通して、全人類の救いをもたらそうと計画されました。彼らを通して、全世界に救いの祝福を提供しょうとされました。多くの預言者を送り、そして最後には御子なる神イエス・キリストを、神・人二性一人格のお方のかたちで、マリヤを通して送られました。しかし、[ヨハ1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]と、人間の知性や理性において、ナザレ出身の「人間イエス」を、「三位一体の、御子なる神イエス・キリスト」として受け入れることは困難でありました。
そして、なかなかそのことを受け入れがたいというだけでなく、[ヨハ5:18
神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]、そのためユダヤ人たち(ユダヤ当局)は、ますますイエスを殺そうとするようになっていたと言われているのです。それゆえに、[7:10
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた]のです。もし公然と、仮庵の祭りに行かれていたら、『飛んで火に入る夏の虫』のごとく、イエスの周辺、また群衆の中にも忍び込ませていた諜報網からの情報で、仮庵の祭りで宣教活動する以前に、逮捕され殺されていたでしょう。
タイガースのヒンチ監督は、「ドジャースの大谷選手が打席に立つを見たくない」といったそうですが、当時のユダヤ当局にとって「ナザレ出身のイエスが、メシヤとして振る舞う」ところを見たくなかったのです。ユダヤ・サマリヤ・ガリラヤのパレスチナ全土を席巻する「ナザレ出身のイエスの運動」を封じ込めるのにやっきになっていたのです。その様子が、[7:11
ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた]ということばに示されています。
[7:12
群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた]と、いろいろと評価が分かれていました。これは、イエス在世当時も、1世紀末のユダヤ教会堂においても、今日のわたしたちの世界でも同様です。「ナザレ出身の人間イエス」は、果たして「三位一体の御父・御子・御霊なる神の、御子なる神イエス・キリスト」であるのかどうか、という問いです。イエス在世当時も、1世紀末の教会やユダヤ教会堂の周辺でも、今日の世界でも、「ナザレ出身の人間イエス」は、「御子なる神イエス・キリスト」であるのかどうか、という問いが、わたしたちひとりひとりに突き付けられているのです。
[7:13
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった]とあります。これは、イエス在世当時の状況に重なり合う、1世紀末の教会とユダヤ教会堂の状況があった故だと推測されます。この叙述は、本シリーズの最初にお話ししました状況が背景にあると推測されます。それは、[2025年4月28日
ヨハネ9:22, 12:42,
16:2「導入―ヨハネ福音書の背景」-はじめに「ヤムニアの第十二祈願」ありき-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ]です。
https://youtu.be/TMIFO_8ldaE
そこでは、1世紀末の教会の周辺にあるユダヤ教会堂では、「御子なる神イエス・キリストを告白する者は、会堂から追放される」という通達があったことに符合します。
ですから、このヨハネ福音書は、イエス在世当時を記録するという使命とともに、それらの中から、1世紀末の状況への生きたメッセージを取り次ぐという使命も帯びていたのです。神のみことばを記録する務めは、ただオウム返しのように記録するだけでなく、新しい状況に移し並べ、翻訳し、新しく語らねばならないのです。新しい状況にふさわしい使信として妥当性を発揮しなければならないのです。ヨハネは、そのことに成功していると思います。[7:13
ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった]という、イエス在世当時の状況の中から、その特徴を抽出し、それを1世紀末のユダヤ教会堂の中の隠れキリシタン等に適用しているからです。
ユダヤ教当局は、イエス在世当時、「御子なる神イエス・キリスト」を亡き者にしようと画策し、1世紀末においては、「御子なる神イエス・キリストを告白する者」をユダヤ教会堂から追放しようとしていた(ヨハネ9:22)のです。このような「恐れ」は、今日においても存在します。日本においても「仏教檀家制」や「神道氏子制」の根の張った地方では、自治会活動や家族・親族の冠婚葬祭のつきあいのあり方において、いつも戦いがあります。そのような目に見えない圧力が、キリスト教に好意を抱いても、また御子なる神イエス・キリストを信じるところまで近づいても、最後の一歩を踏み出すこと、信仰告白をなし、洗礼を受け、聖餐共同体に結ばれて生きることを躊躇させる一因となっています。
ヨハネ福音書は、そのような「躊躇」を取り扱うことを意図して記された書物です。[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]と書かれている通りです。教会の近くまで、また御子なる神イエス・キリストのすぐ近くまで接近して立ち止まっている人たちのために祈りましょう。御子なる神イエス・キリストを信じ、告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかれる者とされるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、J.L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』、『松永希久夫著作集
第二巻 ヨハネの世界』)
2025年3月30日
ヨハネ7:1~9「わたしの時はまだ来ていません。満ちていません」-神さまの「カイロスの時」を、見誤ることなく、見失うことなく-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/9H5rOwhbVGc
ヨハネ福音書(概略)
A.中心地でのユダヤ伝道を避け、ガリラヤでの地方伝道を(7:1)
B.仮庵の祭りという晴れ舞台活用の提案(7:2-5)
C.神さまの「カイロスの時」を、見誤ることなく、見失うことなく(7:6-9)
第七章は、[7:1
その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった]という言葉をもって始まっています。これは、今日の世界でも、イスラムやヒンズーの過激なグループのいる地域で、キリスト教宣教師が直面する危険とも重なります。1世紀のパレスチナの地域では、一般のユダヤ人というよりは、ユダヤ教当局のパリサイ派のリーダーたち(ヨハネ5:18)や大祭司たち(ヨハネ18:14)が、パレスチナの地域の騒乱の元になりかねない「御子なる神イエス・キリストの宣教団」の活動を封じ込めようと躍起になっていた様子がうかがえます。それゆえに、宗教的中心地であり、神殿もあるエルサレムやユダヤ地方にある逮捕や殺害の危険を避けて、ガリラヤ地方での、ある意味「ゲリラ的伝道活動」に専念されていたのでしょう。
しかし、「五つのパンと二匹の魚で成人男子だけで五千人を養う」という、エジプトからの解放と四十年の荒野を導いたモーセに匹敵するような奇蹟を垣間見せられた御子なる神イエス・キリストの奇蹟の後、「わたしは天からの生けるパン」「わたしの血を飲み、肉を食べる」説教は、多くの追従者につまずきを与え、離れ去る原因となりました。「御子なる神イエス・キリストの宣教活動」は危機的状況に陥っていました。モーセのような預言者や、優れた宗教指導者たる教師(ラビ)としての自己紹介にとどまっておられたら、御子なる神イエス・キリストの宣教活動が崩壊の危機を迎えることはなかったでしょう。これは、み言葉のまっすぐな解き明かしに召されている牧師にも言えることです。人々を集めるために、[Ⅱテモテ4:3,4
心地よい話や好みに迎合し、真理から耳を背け、作り話にそれていく]状況は起こり得る誘惑のひとつです。わたしたちは、時が良くても悪くても、聖書のみことばをまっすぐに語り、伝えることに専念致しましょう。
御子なる神イエス・キリストの、肉の兄弟たちはそのような状況を憂えて、[7:2
仮庵の祭り]を挽回の機会にすべきだと助言します。[7:3
ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができ]、離れ去った弟子たちも戻って来るのではないでしょうか。中央から離れた、ガリラヤの田舎で単発的に伝道活動をしていてもあまり効果的ではないでしょう、と。[7:4
自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい]と、兄弟たちが「御子なる神イエス・キリストの宣教活動」に参加していた動機が垣間見えます。彼らの参加動機は、中央進出であり、多くの追従者の支援のもと、宗教界また政治の世界で「公の場に出る」ことであったことを示しています。肉親の兄弟たちが、「御子なる神イエス・キリスト」が如何なるお方であるのかをはっきりと理解するようになったのは、復活後であり、昇天と聖霊の注ぎの後でありました。「灯台下暗し」と申しますが、御子なる神イエス・キリストを肉親として暮らしていた兄弟がそこまで時間がかかったことに驚きを禁じ得ません。そして、「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」と認めることの困難さがいかばかりであったのかを教えられます。本当に、「人間イエス」を「三位一体の、御子なる神イエス・キリスト」として理解することは、聖霊による恵みであるのです。心を開いて、この恵みを受け入れる者とされましょう。
[7:4 公の場に出る][自分を世に示しなさい]という兄弟たちの直言に対し、[7:6
わたしの時(カイロス)]についての理解と、[7:7
世(コスモス)]についての理解を教えられます。御子なる神イエス・キリストの周囲に集まった弟子たち、兄弟たち、群衆等も、その「福音理解」に関しては漸進的でありました。御子なる神イエス・キリストのすべてのしるしと不思議、すべての教え、人格的な深い交わり等、すべてのことは、「人間イエス」が如何なるお方であり、如何なることを人類に対してなしてくださるのかを知らしめることが目的でありました。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハネ1:29
世の罪を取り除く神の小羊]と紹介されているように、[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]るためであり、[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため]でありました。
それゆえ、御子なる神イエス・キリストのすべての関心の焦点は[7:6 わたしの時(カイロス)]に向けられていました。[7:6
わたしの時(カイロス)]とは、如何なる時なのでしょう。それは、[ヨハ17:1
父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください]と言われた十字架のみわざを成し遂げる時のことでした。弟子たちも、肉親の兄弟たちも、群衆も、「人間イエス」は、多くの支援者獲得後に、モーセのような指導者に、ローマ帝国からの解放者、政治と宗教界の指導者たる王になられるお方だと期待していました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、その真逆の「犯罪者として十字架につけられて死ぬ」というかたちで、そして三日の後に復活し、四十日後に昇天され、天上の右の座に着座され、そこから三位一体の御霊なる神、聖霊をお注ぎになりました(使徒2:30-33)。そして、その後に初めて真の意味の回心による御霊の内住が経験されていきました。内住の御霊によってはじめて、分からなかった多くの事柄が理解できるようになりました。
御子なる神イエス・キリストは、いつも神の時、神の摂理のカイロスの中に生きておられました。三位一体の御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父なる神に、まったき従順の中に生きておられました。わたしたちは、[7:6
あなたがたの時はいつでも用意ができています]とあるように、御父なる神の御思いを悟ることなく、ある意味、きわめて鈍感に、自分の思い、自分の判断、自分の浅知恵で、生きてしまうところがあります。しかし、御子なる神イエス・キリストは、繊細かつ敏感に、御父なる神の御思いを察知され、「ヨハネ10:30
わたしと父とは一つです」といわれるほどに、一体性を示しておられました。わたしたちも、御子がそうされたように、御父の御思い、御霊の御思いとの一体性を、神律的相互性の中で求めてまいりましょう。
御子なる神イエス・キリストは、[7:6 わたしの時はまだ来ていません]、また[7:8
わたしの時はまだ満ちていない]と言われました。なぜ、このような言い方をされたのでしょう。御子なる神イエス・キリストは、エルサレムで十字架につけられることから始まる一連の神のみわざについてご存じでした。この後、四ヶ月にわたる後期ユダヤ伝道が開始されていきます。それは、陸上競技の1500mや800mの競争で言えば、最終コーナーにあたる一番苦しい場面です。最後の後期ユダヤ伝道は、殺意に満ちた人々の中に飛び込む宣教活動でありました。御子なる神イエス・キリストは、最後までみきわめ、その中で十二弟子が散らされることを知りつつ、彼らを中核とする「キリストのからだなる教会」の下拵えの仕上げをされていったのです。そして、それは、過越しの小羊の犠牲の日から数えて、50日後のペンテコステの日に実現してまいります。
今日の箇所で、 [7:7 世]について大切なことが語られています。[7:7
世はあなたがたを憎むことができない]とは、どういう意味なのでしょう。それは、イエスの肉親の兄弟たちが、世と同じレベルで物事を考え、御子なる神イエス・キリストを捉えていることです。[7:7
世は、わたしのことは憎んでいます]とは、どういう意味でしょう。それは、[ヨハ5:18
ユダヤ人(当局者)たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]です。人間イエスは、ご自身が三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストであると、事あるごとに示唆されてきました。それだけでなく、ユダヤ教徒が遵守していた安息日や神殿の周囲に開いていた店の宮清め等も、ご自身を神とするような権威をもって遂行されていました。御子なる神イエス・キリストとしては、当然なすべき行為であり、見過ごしにはできない状況の改変でありました。しかし、それらは、当時の宗教的権威に逆らうことであり、ご自身を神としてふるまう「人間イエス」の所業は、看過できないものとなっていたのです。
そのような御子なる神イエス・キリストの行動・行為は、「ヨハネ1:5
闇の中に輝く光」の働きであり、すべての人を照らす光がこの世に来たのに、人々はそのことを知らず、受け入れるべきであった民も、受け入れないだけでなく、送られてきた御子を殺そうとしていたのです。御子なる神イエス・キリストが、ご自身の本性を明らかにされるほどに、対立は先鋭化し、パリサイ人たちや大祭司たちの闇は深いものであることが明らかにされていきます。この光と闇のコントラストは、ヨハネ福音書の神学の重要なテーマのひとつです。[わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです]というのは、御子なる神イエス・キリストが、ご自身を明らかにされていくごとに、その「光」の光度は増し加わり、「闇」は反比例するごとくその殺意を先鋭化することにつながっているということです。わたしたちは、ヨハネ福音書の神学を通して、罪とは何であるのか、その深みを教えられます。
パリサイ派の人々や大祭司たちは、「熱心な宗教家」であろうとはしているのですが、まことの神である「三位一体の御父・御子・御霊なる神」がご自身を明らかにされていった時、彼らの「闇」をあばく、その「光」の明るさに耐え切れず、その光を消し去ろうとしていたのです。御子なる神イエス・キリストは、そのような状況を知り尽くしておられたので、ユダヤ地方、そして三大巡礼祭である「過越しの祭り(3-4月頃)、七週の祭り(過越しから50日後)、仮庵の祭り(9-10月)」のうち、最も人気のある収穫祭(仮庵の祭り)に大々的に参集するのではなく、[ヨハ7:10
兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれ]ました。御子なる神イエス・キリストは、無鉄砲なお方ではなく、今日異文化の宣教困難地域で奉仕する知恵ある宣教師のように、[マタ
10:16 蛇のように賢く、鳩のように素直]なお方であったことを教えられます。
旧約聖書の伝道者の書に、[伝3:1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。…3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい]とあります。わたしたちクリスチャンの人生においても、それぞれに[7:6,8
わたしの時]―神のカイロスの時があると思います。神さまの「時」を、見誤ることなく、見失うことなく、ジャストのタイミングで、それらの「時」を掴んでまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson, “The Gospel According to
John”、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年3月23日ヨハネ6:64~71「あなたがたも離れて行きたいのですか」-神の主権が完全に確保されつつ、同時に、人間の自由と主体性が全面的に活かされる-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/A9xET5ilcVk
ヨハネ福音書(概略)
A.信じる者、信じない者、裏切る者の背後にある御父の主権的選び(6:64-66)
B.シモン・ペテロとイスカリオテのユダの対照的応答の背後にある神律的相互性(6:67-71)
『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズは、その名の通り、ヨハネ福音書の中にある神学的なメロディーを聴き取ろうとする試みです。これは、D.M.スミス著『ヨハネ福音書の神学』に、その名を由来しますが、そこにとどまらず「組織神学を長年講じてきた者は、その生涯の終わりに注解書を書くべきだ」といわれることに励まされ、組織神学的な味わいを含む講解説教シリーズに導かれていると言えます。ある意味で、神学的含蓄の豊かな、1世紀末に書かれたヨハネ福音書から組織神学的意味合いを汲み取ろうとする試みであるとともに、組織神学という神学的視点からヨハネ福音書の著者の意味しようとした内容を抽出しようとする試みであります。
今朝の箇所は、[6:64
けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます]ということばから始まります。それは、まだ昇天され、聖霊が注がれていない段階ですので、どの程度までかは分かりませんが、御子なる神イエス・キリストへの信仰の萌芽がみられる人々の中に、そのようなご自身を次第に明らかにされていくに従って、ついていくことができなくなっている人々が起こってきたことが垣間見られます。御子なる神イエス・キリストは、人々の心の内を洞察できるお方でしたから、彼らの心の内にあるものをよく知っておられ、成人男子だけで五千人を養った奇蹟で驚嘆した群衆と彼らのリーダーたちは、「天からのパン」「血と肉を食べる」話をされる御子なる神イエス・キリストには、「このような人物にはついて行けない」とアレルギー反応を起こし、手から砂粒がこぼれていくように、浜辺から潮が引くように離れ去っていきました。
このようなことは、よくあるものです。Ⅱテモテ4:2-5に書かれていますように、みことばを真っすぐに解き明かすとき、そのような反応が起こることがあります。それで、心地良い話とか好みに寄り添う話が好まれる時代が来るとあります。真理から耳を背ける時代が来ます。信徒が離れていくようなケースも起こり得るでしょう。ですから、どんな場合でも、そのような苦難に屈することなく、御子なる神イエス・キリストのように、みことばを真っすぐ解き明かし、自分の務めを十分に果たすべきなのです。
教会では、教会学校やキャンプや、英会話クラス、また家庭集会、クリスマス・コンサート等、さまざまな集会を通じて、多くの人を教会に招きます。それは、五つのパンと二匹の魚で、群衆を養うようなものです。多くの人が、喜びと感謝に満たされます。そして、それらの中の一部の人々が、御子なる神イエス・キリストを信じる方向へと進み入り、大半の人々はこの世へと帰っていきます。わたしたちは、だれが信じるのか分かりません。それは、聖霊によるみわざです。ひとりひとりが主の前に立たされ、御子なる神イエス・キリストを信じる方向へと進み入るか、背を向けて立ち去るのかを迫られます。
わたしたちには、だれが、御子なる神イエス・キリストを信じたいと思うのか分かりません。なぜ、その人がそのような思いを抱くようになったのか、分かりません。それは、その人をそのような思いに導いた聖霊のみわざであります。そのようなみわざを、聖書は「御父が与えてくださったから、御子なる神イエス・キリストを信じたいという思いを抱くようになったのだ」と言います。本当に、「魂の救い」というものは、神による奇蹟です。ある日突然に「御子なる神イエス・キリストを信じたい」という思いがわたしたちの思いを包み込むようになるのです。
それは、「神さまのことが全部分かったから信じる」とか、「聖書のことが全部理解できたから信じる」というようなものではありません。それは、「一目ぼれ」のような出会いだったり、「fall
in
love」といった「愛に陥る」といったものに似ています。とにかく「御子なる神イエス・キリストに夢中になる」のです。そして「理解は、そのあとにいつまでも続く」のです。そのような出会いを「摂理」と申します。全知全能の神さまが、わたしたちと御子なる神イエス・キリストの出会いを計画、聖定し、地形を造られます。天から注がれた雨は、その地形に沿って河川となり流れていきます。御父は、そのようにして、わたしたちが御子なる神イエス・キリストとの出会いを設定し、聖霊によってそれを達成されるのです。
わたしたちは、すべての人が救いに導かれることを祈り、期待し、さまざまな活動に取り組みます。しかし、[ 6:65
父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない]ということもまた、事実なのです。わたしたちは、わたしたちの個性と賜物を用いて、ベストを尽くします。そして、主の御手に委ねることを学んでまいりましょう。
ローマ帝国の植民地支配からの解放を期待して集まっていた群衆とそのリーダーたちは、御子なる神イエス・キリストの「天からのパン」と「血を飲み、肉を食べる」発言で、「これはついていけない」とアレルギー反応を起こし、[6:66
弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなく]なりました。御子なる神イエス・キリストは、十字架の出来事まで一年となった時点で、「本性」をさらし、「本心」を明らかにされ始めたといえるでしょう。これまでのしるしと不思議、また奇蹟は、「御子なる神イエス・キリストのありのまま」を受け入れる心の準備の期間でありました。
冬の間に固くなっていた土を耕し起こし、草花の種を蒔くような二年余りを過ぎた時点で、「信仰の芽」をふき始めた時が到来したことを察知し、このような「自己証言」と「死・葬り・復活・昇天・着座・聖霊の注ぎ」を象徴する聖餐の儀式の準備メッセージをされたのでしょう。このふたつのメッセージは、イエス在世当時の語りかけを1世紀末の教会とユダヤ教会堂の境界線を示すものでもあります。ヨハネは、紀元30年代の記録を残す使命を果たすとともに、当時置かれていた1世紀末の教会とユダヤ教会会堂に残っている隠れキリシタンに、その信仰告白を明確にし、迫害し、背教の脅しをかけられている状況から脱し、キリストのからだなる教会に移籍し、大工の子ヨセフの子人間イエスが、「天から下ってきた生けるパン」すなわち三位一体の御子なる神が受肉したお方であること、そしてこのお方の「十字架の一連のみわざとその意味を信じ告白する」聖餐の儀式にあずかるように勧めているのです。御父の恵みによる「押し出し、プッシュ」に応答するよう励ましているのです。
[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた]とあります。これは、十二人の弟子たちに対する信仰の確認です。しかし、すでに隠されたかたちで進行していた「裏切り」についても言及されました。それは、他の十一人の弟子たちにもたらされるであろうショックを和らげる配慮でもあったことでしょう。御子なる神イエス・キリストは、行き当たりばったりのお方ではなく、藤井聡太棋士のように、先々まで読み切って、ことばを発し、行動に移られるお方です。
この[6:67
あなたがたも離れて行きたいのですか]ということばは、1世紀末に、ユダヤ教会堂に留まるべきか、キリスト教会堂に移籍すべきか迷っていたユダヤ人クリスチャンに、ヨハネが語りかけたことばであったでしょう。信徒の高齢化とコロナによる集会休止の出来事は、礼拝や集会出席に足が遠のく現象を生み出しています。そのようなわたしたちにも響くことばでもあります。ユーチューブやフェイスブック、さまざまな形態のSNSの活用はそのような時代状況で、空間と時間を超えたかたちでのキリストのからだとの新しいつながりを形成しています。
御子なる神イエス・キリストの働きが、危機的局面を迎えた時、[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]と問いかけられました。このような危機的局面においては、それぞれの人間の本性が明らかになります。それらは、常に二つの対照的なかたちであらわれます。[6:66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]と、御子なる神イエス・キリストの伝道団は、追従していた群衆のかなりを失い、その活動の今後には暗雲がたちこめることになりました。
御子なる神イエス・キリストは、伝道団の中核をしめていた[6:67
十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた]とありますが、その意味するところは、「天からのパン」発言、「血を飲み、肉を食べる」発言で、多くの群衆やリーダーたちを失った今、「あなたがたは、このようなわたしにまだついてきてくれるのですか]という問いかけであり、呼びかけでありました。教会の働きには、伝道・教会形成・神学教育という三つの要素があります。それぞれ「山あり谷あり」の奉仕生涯です。その始まりにも、途中にも、終わりにも「このようなわたしにまだついてきてくれるのですか」という問いかけは一生涯続きます。それは栄光に満ちた召命また働きですが、順風満帆な奉仕生涯ではないからです。伴侶には、相手の「栄華の同伴者」として献身するのではなく、「苦難の同伴者」「召命への同伴者」となる覚悟が必要です。
新約教会の礎となる十二人の弟子たちは、祈り、相談し、代表者のシモン・ペテロを通し、危機的状況下で、新たな決意表明を行います。[6:68
主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。6:69
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」と告白しました。海には無数の魚が周遊しています。しかし、人間をとる漁師御子なる神イエス・キリストに捉えられるのは、一部の魚です。彼らは、御子なる神イエス・キリストについてすべてのことを知っているわけではありません。彼のみわざのすべてを理解しているわけではありません。
しかし、弟子たちがそうであったように、わたしたちも、他に行くべきところを知らないし、他に全体的に頼れるお方を知りません。そしてわたしたちは、御子なる神イエス・キリストが[6:68
永遠のいのちのことばを持っておられ、6:69
神の聖者であると信じ]ているのです。長血をわずらった女性が、「このお方に衣に触れさえすれば癒される」と信じて触ったように、わたしたちもこのお方の上に身を投げます。沈みつつあるからだを、いのちを救うため、「水面に浮かぶ藁にしがみつく」ように、御子なる神イエス・キリストにすがります。このお方のすべてを知っているわけでも、すべてを理解しているわけでもありませんが、御霊の助けにより、本能的に、このお方こそ、三位一体の御子なる神イエス・キリストであると予感し、信じ受け入れ、一生涯ついて行こうと決意しているのです。
これに対し、中核部隊である十二弟子といわれた中のひとりは、御子なる神イエス・キリストが、ローマ帝国の植民地支配からの解放のビジョンをもたない人物であることを知った時、御子なる神イエス・キリストを見限ります。それは、[6:71
イスカリオテのシモンの子ユダ]のことです。イスカリオテのユダについては、あまり資料がありません。ただ、ヒントはあります。「イスカリオテ(シカリオート)」という言葉は、「シカリ党」と関係があり、このグループは、ローマ帝国側からはテロリストと見なされていたグループとユダは関わりがあったという見方があるのです。「シカリ」の「シカ(sica)」は、「人を刺す短剣」に通じ、テロリストの「一人一殺」を思わせるものです。
このように見ていきますと、ユダの「植民地からの解放者イエス」への期待の大きさと、その失望の大きさからきた反動としての「イエスを売り渡す」行為が見えてきます。ユダは、[弟子たちの財布を預かっていた]ので、会計管理をなす銀行マンのように有能な人であったのでしょう。しかし、その金を盗み,貪欲で,主のための犠牲さえ惜しみました(ヨハネ12:1‐6)。そして、ついに銀貨30枚で主をユダヤ当局に売る取引をし,機会をうかがっていました。御子なる神イエス・キリストは、人の心の中にあるものを洞察できるお方でしたので、そのようなことをすべて知っておられ、[6:70
わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です]と前もって、予防注射のように指摘されました。[6:71
イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われた…。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた]とある通りです。
旧約の箴言に[16:4
すべてのものを、【主】はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた]とあります。[6:66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]と言われた危機的状況下で、[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]と問いかけられました。ここにふたつの真逆の反応を見せられます。そのうちのひとりは、[6:68
すると、シモン・ペテロ]です。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。6:69
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えました。そして、もうひとりはイスカリオテのシモンの子ユダです。彼は、心の中で反応していました。[6:71
イエスを裏切ろう]と決意したのです。これに対して、御子なる神イエス・キリストは、それを嘆き悲しみ[6:70
わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です]と表現されました。
[6:68
シモン・ペテロ]も、[イスカリオテのシモンの子ユダ]も、神のかたちに造られた被造物として、徹底的に自由で、人格的に、主体的に、御子なる神イエス・キリストの[6:67
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」]との問いかけに、応答しました。しかし、それは、神の主権と人間の自由という視点からは、[神の主権が完全に確保されつつ、同時に、人間の自由と主体性が全面的に活かされる]という独特なしかたでこれがなされていることに謙遜のこうべを垂れる―このことの大切さを教えられるのです。わたしたちは、シモン・ペテロのようにあらせてくださいと、祈る者とされましょう。
(参考文献:土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想 4-6章』、牧田吉和『改革派教義学5 救済論』)
2025年3月16日ヨハネ6:60~63「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう」-人間の理性によっては、とても受け入れられない非合理的真理を受け入れる道筋-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4pItaLDRhDs
ヨハネ福音書(概略)
A.多くの弟子たちのつまずき―12弟子とは異なる、群衆のリーダーたち(6:60-61)
B.御子なる神イエス・キリストの反応―御霊の助けなしに理解不可の真理(6:62-63)
今朝の箇所は、驚くべきことばで始まっています。前出の[ヨハ6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです]という言葉と、[ヨハ6:53
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません]という言葉につまずいたのです。この箇所は、三年三ヶ月ともいわれる三位一体の、御子なる神イエス・キリストの公的宣教を二年半を経た時期で、十字架のみわざの一年前の過越しの祭りの時期(6:4)のもので、ガリラヤでの最後の公的な宣教活動です。御子なる神イエス・キリストの公的宣教は、大成功をおさめ、大群衆が押し寄せる事態となっていました。[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」]と言うようになっていたのです。そして、追従者のリーダーのある人々が、[6:15
やって来て、自分を王にするために連れて行こうとしている]ことを、イエスは察知し、身を隠されました。
それは、御子なる神イエス・キリストの使命が「民族的なイスラエルの栄光の回復、ローマ帝国の植民地支配からの独立の達成」でなかったからです。このタイミングで、御子なる神イエス・キリストは、「ご自身の由来がどこにあるのか、ご自身の使命は何なのか」を鮮明にされていかれます。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が、ユダヤ、サマリア、ガリラヤ全土で、[ヨハ6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」]というセンセーショナルな情報が舞い上がっていたのです。御子なる神イエス・キリストは、公的宣教の潮目が来たことを悟り、その運動と教えが誤った方向に進む危険を察知し、人々の誤解を解き、宣教を正しい方向に導くために、ご自身の由来と使命についてあからさまに語り始められまた。
わたしたちも、そのように導かれる瞬間というものがあります。福音派の優れたリーダーたちがまとめた「シカゴ・コール」という文書に、[いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない]とある通りです。その瞬間を捉え、「御霊の導き、示しに正しく反応し、流れに逆らって川をさかのぼるアユのように生きる人」と「いのちのない木のように流されるままに生きてしまう人」があるように思います。わたしたちは、いつも「健全な福音理解の下に生かされる者」となりましょう。
誤った理解に立つ群衆のあるリーダーたちは、「モーセのような預言者の再来」とまでしか受けとめきれていませんでした。それで、[6:15
王にするために連れて行こう]としていたのです。御子なる神イエス・キリストは、「預言者モーセ」レベルのお方でありませんでした。[ヨハ5:46
モーセが書いたのはわたしのことなのです]と、モーセが記し、旧約聖書全体が預言し、約束している「メシヤであり、キリスト」がわたしであると証ししていかれました。御子なる神イエス・キリストの自己紹介を聴いていると、それはまるで「もみ殻と籾の選別機」のようであり、「コーヒー豆からコーヒーを抽出する濾過機」、「ブドウの房からブドウジュースを取り出すブドウ絞り器」のようです。「ナザレ出身の大工のヨセフ息子イエス」を「王」に担ぎ上げようとする群衆とそのリーダーたちは、そのやり取りの中で、[ヨハ6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです]という言葉を聴いてつまずきます。そのことばは、自身を「神由来の存在であり、三位一体の御子なる神イエス・キリスト」を暗示するものであったからです。
当時のユダヤ教の神理解に、「神が受肉して人間となる」という理解は存在しませんでした。ある意味そのような教えは、[6:15
王にするために連れて行こう]としていた人々の反感を買い、分裂を起こす危険な考えであるとも受け止められました。しかし、御子なる神イエス・キリストが、そのようなお方である以上、他にどのように「自分が何者であるのか」について証言できるでしょう。この点を曖昧にすれば、[マタ4:8
悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、4:9
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」]とあるように、御子なる神イエス・キリストのしるしと不思議をもってすれば、ユダヤ・サマリア・ガリラヤ地方一帯で独立王国の王として君臨できたかもしれません。わたしたちにも、そのような誘惑がつきまといます。主のみ旨に沿わない妥協や取引を通じて、成功を手に入れようとする誘惑です。キリスト教の歴史の中には、そのような誘惑に引っかかった異端的な運動やグレイゾーン・レッドゾーンの教えや運動が溢れています。わたしたちは、
[ヨハ6:51 わたし(御子なる神イエス・キリスト)は、天から下って来た生けるパンです]。[マタ4:4
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(御子なる神イエス・キリスト)で生きる』と書いてある]と告白して生きてまいりましょう。
[ヨハ6:53 人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません]という言葉は、[6:60
これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか]という決定的な反応を起こし、[6:66
弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった]という結果をもたらしました。それは、異教によくみられた「血を飲む」(レビ7:26)ことは衛生上の危険もあり、旧約聖書では禁止されていたからです。しかし、これは今日の医学で安全が確立している「輸血」を禁止しているものではありません。ヨハネ福音書における洗礼(3:5)と聖餐(6:41-58)に関する予表的告知は、キリスト教共同体の核となる12弟子の選定を含め、三年三ヶ月の御子なる神イエス・キリストの準備教育の一環でもありました。ヨハネ4章のニコデモへの語りかけ、6章の五千人の給食、マタイ26章の最後の晩餐等は、御子なる神イエス・キリストを信じる洗礼共同体・聖餐共同体形成にとって、重要なテキストとして遺されました。そのような意味で、わたしも、奉仕生涯の最後の季節に、アマゾン書店小冊子やユーチューブ・ビデオのかたちで、ささやかながらでもお役に立てればと、「遺稿文書・遺稿ビデオ集作成」に取り組んでいるのです。
今日の聖書箇所では、―12弟子とは異なる、群衆のリーダーたちである「多くの弟子たちのつまずき」がみられます。これは、明治期の鹿鳴館時代に、そして第二次大戦後の戦後の教会に人が溢れるブームがあったことに似ています。しかし、それらは必ずしも大きなリバイバルに結びつくことはありませんでした。おそらくは、キリスト教教養を身に着けるところまでは行っても、大工の息子イエスを預言者・教師・宗教指導者まで受け入れることはできても、「三位一体の、御父・御子・御霊なる、御子なる神イエス・キリスト」として信じ、受け入れ、洗礼を受け、聖餐共同体に加わるところまでは行かなかったということでしょう。それにしても思うことは、[6:60
これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか]という次元の問題が、壁が、ある意味乗り越えることが不可能な淵があることが認識できているのかどうか、もまた問題であると教えられます。信じているわたしたちクリスチャンにとっては、自明の理―すなわち[根拠をあげて証明するまでもない、あたりまえの真理。説明の必要がなく、それ自体で、だれの目にも、明らかなこと]なのですが、未信者にとっては、それはなかなか理解しがたい真理であると理解できているでしょうか。これは、とてつもなく、説明不可能な真理なのです。そして、わたしたちがこの真理を信じ、受け入れられていること自体が「奇蹟」ともいうべき事柄なのです。「天地万物を永遠の昔に創造し、歴史を司っておられる全知全能の神が、二千年前に、千数百年間の旧約聖書歴史と預言の準備期間を経て、ナザレの大工の息子として「受肉」し、その三位一体の、御子なる神イエス・キリストとして、ご自身を明らかにされた」ことを信じられる、というのは三位一体の御霊なる神聖霊による奇蹟的みわざ(ヨハネ14,15,16章)なのです。
御子なる神イエス・キリストは、公の宣教活動のどこかで、これらのことを明らかにしていかねばなりませんでした。御子は、これらの話を理解することがとてつもなく難しいことであることはご存じでありました。それで、彼らのつまずきをあらかじめ予測はされていましたが、そのことを残念にも思い、[6:61
わたしの話があなたがたをつまずかせるのか]と嘆息されました。しかし、御子なる神イエス・キリストに関する話、証言は、この時点でとどまるものではありません。御子が「天から来訪され、聖霊により、マリヤを通して、受肉し、三位一体の神がいかなるお方であるのか」を明らかにされただけではありませんでした。御子なる神イエス・キリストを信じる信仰共同体は、洗礼を受け、聖餐式にあずかる共同体として形成されていきます。その聖餐のパンとブドウ酒を味わう共同体は、[6:62
人の子がかつていたところに上る]のを信仰の目で見て、それを味わう共同体(Ⅰコリント11:23-29)であります。
それは、御子なる神イエス・キリストが、全人類の罪の代償的刑罰を受けられる十字架の上に上げられるとともに、その贖罪を完成し、死に葬られ、三日目によみがえり、昇天し天上の右の座に上げられ、そこから助け主なる「三位一体の御霊なる神聖霊」を注がれ、信仰者の内に内住されることを、「Ⅰコリント12:13みなひとつの御霊を飲んだ」と書かれています。ブドウ酒を飲むことを通し「キリストの血を飲み」、裂かれたパンを食べることを通し「キリストの肉を食べる」ことを象徴する儀式は、ローマ書に表されているようなイエス・キリストにある贖罪信仰(ローマ3-5章)にあずかることであり、キリストの御霊を宿す内住の御霊信仰(ローマ6-8章)にあずかることです。
[6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです]は、イエスが話されたこの時点では、おそらくは十分に理解されなかったでしょう。[ヨハ7:39
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった]とあるからです。[ヨハ16:12
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます]とある通りです。キリストの贖罪の恵みに根ざし、もたらされる「内住の御霊ご自身」が永遠のいのちそのものであります。
御子なる神イエス・キリストは、そのような霊的現実と恵みを知らせようと試みられました。御子なる神イエス・キリストはにある聖霊の臨在の現実に触れ、そのような信仰の端緒に開かれていった弟子たちもいれば、「肉」すなわち「人間的な思い」の先入観やユダヤ教にある伝統的な神理解の限界に縛られ、御子なる神イエス・キリストの証しのことばをそのまま受け入れるのではなく、彼らの「理性の網」すなわち「肉の思い」で制限を設けた神観、恵み理解により、御子なる神イエス・キリストの「6:58天から下ってきたパン」とか、「6:62人の子がかつていたところに上る」といった自己証言は、聞いていられない「6:60ひどい話」として拒否されてしまいました。それは、人間の理性によっては、とても受け入れられないような「非合理的真理」であるからです。この三位一体の御父・御子・御霊なる神の真理、そしてこのお方がなしてくださっているみわざの真理は、御霊に心を開くことにおいてのみ、理解可能となるものなのです。そのような真理に心を柔らかくし、開き、歓迎し、受け入れる心としてくださるよう祈ってまいりましょう。
(参考文献:J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』、D.Moody Smith, “John” Abingdon New
Testament Commentaries 、D.A.Carson, “The Gospel According to
John”)
https://youtu.be/PARZbaG2DS4
ヨハネ福音書(概略)
A.荒野のマナと天からのパン(6:48-51)
B.ユダヤ人の議論と御子なる神イエス・キリストの応答(6:52-54)
C.御子なる神イエス・キリストの肉と血―聖餐を通しての信仰告白の意義(6:55-59)
御子なる神イエス・キリストは、ヨハネ福音書の最初から最後まで、終始一貫してご自身が如何なる者であるのかを明らかにしようとされています。ヨハネ福音書の最初には、[ヨハ3:16
御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ]こと、ヨハネ福音書の最後には[ヨハ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである]と記されています。御子なる神イエス・キリストが如何なるお方であるのかを知り、そのお方を信じることによって永遠のいのちを得ることが目的とされているのです。
御子なる神イエス・キリストは、TPOすなわち時と場所と機会において、ニコデモには「新しく生まれる」必要をサマリアの女性には「渇くことのない水」の提供について語られました。今朝の箇所では、六章の「五つのパンと二匹の魚をもって、男性だけで五千人もいる群衆の空腹を満たされた」流れで、人々は御子なる神イエス・キリストは、神がモーセに約束された預言者(申命記18:15)の再来であると確信しました。人々は、モーセがエジプトの奴隷生活から解放してくれた政治的リーダーであったように、御子なる神イエス・キリストに「ローマ帝国の植民地支配からの独立の指導者」のイメージを重ね、「6:15
新しい王として担ぎ上げよう」としたのです。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、そのビジョンに水をさし、その計画から身をかわすかのように、 [6:48
わたしはいのちのパンです]と語られました。これは何を意味しているのでしょう。前の節には[ヨハ6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と記されています。何を信じるのでしょう。御子なる神イエス・キリストが、[6:51
天から下って来た]お方、すなわち三位一体の御父・御子・御霊なる神であると信じ、受け入れることです。御子なる神イエス・キリストは、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]と言われました。御子なる神イエス・キリストの[肉を食べ、血を飲む]とは、どういうことでしょう。
これは、[ヨハ6:47 信じる者は永遠のいのちを持っています]と、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]の並行記述で分かります。御子なる神イエス・キリストの[肉を食べ、血を飲む]とは、御子なる神イエス・キリストが、三位一体の御父・御子・御霊なる神であると信じ、受け入れることです。御子なる神イエス・キリストは、人間の理性によって受け入れること、理解することが困難な霊的真理を、象徴的な言葉、イメージで絵画を見せるかのように説明されます。ユダヤ人のある人々は、それを渇いた砂が水を吸い込むように、幼子の素直さをもって信じ、受け入れていきます。
御子なる神イエス・キリストから、同じ証言を耳にしながら、あるユダヤ人たちはコンクリートが水をはじくように、その証言につまずきます。それは、おのおの独立した人格の反応でありますとともに、[箴
21:1
王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる]とある不思議な神のわざでもあります。先週[ヨハ6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか]とつまずいたユダヤ人たちは、今日は、[6:52
この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか]とつまずきます。象徴的な描写は、その描写を通して「本質」をのぞく望遠鏡また顕微鏡にもなりえますが、その描写の表面に捉われる人々には、「本質」を覆い隠す目のうろこにもなり、眼を覆い隠す眼帯にもなりえます。
御子なる神イエス・キリストの、旧約の「天からのマナ」の描写を用いての、自らが「三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリスト」である自己証言は、素直な心をもって、聖霊の働きに心を開き、そのまま受け入れる人々には、福音となりました。しかし、同じ言葉が、頑なな心をもって、聖霊の働きに心を閉ざす人々の間では、[6:52
激しい議論]となってしまいました。御子なる神イエス・キリストは、人間の側のいかなる反応にも関わらず、「正直に自己証言する」他に道はありません。旧約聖書千数百年の証言を活用しつつ、証明していく以外に選択肢はありません。わたしたち、教会の働きもそうです。時が良くても悪くても、聖書の福音をまっすぐに解き明かす以外に術はないのです。ナザレ出身の大工の息子イエスが、三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神キリストであると証言する以外にないのです。
わたしたちが紀元30年あたりに見る、御子なる神イエス・キリスト在世中の世界には、ふたつの反応がありました。三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストの証言に静かに傾聴し、受け入れ、信じていく人々と、このお方につまずき、拒否し、背を向けていく人々のふたつです。御子なる神イエス・キリストは、文脈に即して真理を解き明かして行かれるお方です。御子なる神イエス・キリストが、バプテスマのヨハネの弟子たちを引き継ぎ、三年半の共同生活と贖罪と昇天、聖霊の注ぎの後の「民族を超えた神の新しいイスラエル、キリストのからだなる教会」の中核を準備されていかれる中で、漸進的に多くの準備教育の種を蒔かれていることに気づかされます。
まだ、弟子たちとの初対面の時に、弟子たちには十分理解できないであろうことは見越した上で、バプテスマのヨハネを通して[ヨハ1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊]と宣言させ、宮きよめの際には、[ヨハ2:19
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる]と早々と、ご自身の十字架刑と復活に言及されています。それと同様のかたちで、[6:51
天から下って来た生けるパン]の議論の中で、受難週の最後の晩餐において制定されるキリスト教会における聖餐の儀式の意味・意義について前もって教育されます。文脈としましては、四十年の荒野の旅程におけるパンと水の供給が、瀕死の状態に置かれたイスラエルの民にとっていのち綱であったように、御子なる神イエス・キリストは、[ヘブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]限界状況の中で、永遠の新天新地へといのちをつなぐ「永遠のいのち」であることを明らかにされました。
この[ヨハ6:47 信じる者は永遠のいのちを持っています]と、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]の並行記事による説明の深まりは、共観福音書であるマタイによる福音書では、[マタ26:26
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、…「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27
また、杯を取り、…「みな、この杯から飲みなさい。26:28
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です]と、最後の晩餐(26:26-28)にはじめてでてくる記事です。
そして、この聖餐式の制定は、 [Ⅰコリ11:23
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、11:24
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:25
食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」]と初代教会に継承されていきました。洗礼は、心に信じていることをからだをもって公に告白する、いわば相思相愛のふたりが愛情を確信し、一生を添い遂げることの社会的告白として結婚式を挙げることに似ています。
これに対して聖餐は、結婚式をあげ、公に夫婦となったふたりが、定期的にその愛を確認する儀式です。心に信じ、その信仰を洗礼において公にした信仰者は、聖餐において、定期的にその信仰の意味・意義を一生涯確認し続けるように定められているのです。マタイ14章、マルコ6章、ルカ9章の並行記事にはない聖餐論の萌芽記事がヨハネ6章に掲載されている理由は何でしょうか。それは、ヨハネ福音書が執筆された1世紀末のキリスト教会とユダヤ教会堂の関係にあったと思われます。
ヨハネ9章には、[ヨハ9:22
ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた]とあります。そのような時代状況、そのようなユダヤ教会堂に所属しつつ、求道者であったり、隠れキリシタンのようであったりするユダヤ人クリスチャンへのメッセージとして、[ヨハ6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と「心の中での信仰」をいうだけでなく、[6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています]と、信仰生涯の出発点で授けられる洗礼とともに、洗礼を授けられた信仰者は、継続してパンとブドウ酒で象徴される、御子なる神イエス・キリストのみによる贖罪信仰に立脚し、その信仰内容・意味・意義を告白し続けるよう励ましているのです。
これは、キリスト教会誕生以後の、教会における継続的儀式への準備教育の一環でありました。ただ、御子なる神イエス・キリストの公生涯のはじめには、他の多くの真理同様、まだ十分にその意味・意義は理解されていなかったでしょう。まだ、ヨハネ7:39
御子なる神イエス・キリストは、昇天されておらず、三位一体の御霊なる神聖霊が降っておられなかったからです。聖霊によるみことばの照明の働きなしに霊的真理を理解することは困難であるのです。しかし、90年代のキリスト教会では、洗礼に続く聖餐にあずかるという「目に見えるかたちでの公の信仰告白」として重要な意味と意義をもつメッセージでありました。御子なる神イエス・キリストを信じて、三位一体の御父・御子・御霊なる神と交わりの中にあり、すでに永遠のいのちを持つ者は、その信仰内容の公の告白の一環として、[6:53
人の子の肉を食べ、その血を飲む]べきなのです。洗礼を受け、聖餐にあずかり続けるべきなのです。未受洗の人は、信仰告白を明確にし、公の洗礼を受けた上で、聖餐にあずかるべきなのです。
洗礼・聖餐を曖昧にすると、本物のクリスチャンであるか、単なる求道者にすぎないのか、曖昧なクリスチャン生活に陥る危険があります。洗礼を受け、聖餐にあずかっていると、「本物のクリスチャン、真剣なクリスチャンであるのに…」と世の人々が、クリスチャンを偶像礼拝や不道徳に陥ることから守ってくれます。洗礼・聖餐を受けていないと、「まだ本物のクリスチャンでないから…」と本人も周囲も、どこまでも中途半端を許容する状況が生まれます。そのような意味でも、洗礼は結婚式、聖餐は貞淑で誠実な夫婦生活と似ています。
日本には、数限りなくたくさんのミッション・スクールが建てられ、キリスト教精神に立脚し、福音も流し続けてこられました。三位一体の御父・御子・御霊なる神の、いと近くに引き寄せられてはきましたが、そのかすかに芽生えた信仰らしきものが、確信へと導かれ、洗礼と聖餐に結実してきませんでした。それは、[6:51
天から下って来た生けるパン]である御子なる神イエス・キリストに、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか]とつまずき、[6:51
わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です]と証言される御子なる神イエス・キリストに[6:52
どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか]との議論でとどまるユダヤ人と似ています。それは、御子なる神イエス・キリストが三位一体の神であることを理解できず、「人間イエス」であり、人類の偉人のひとりとして片づけられるからであり、聖書で言われる「信仰」の深い次元が分からないからであります。「天からくだってきた」お方であり、この神的人格の血を飲み、肉を食べるような「信仰」理解は、なかなか理解しがたいものです。しかし、そこにこそ、「人類の至福」の次元があるのです。
三位一体の御父・御子・御霊の、御子なる神イエス・キリストは、「わたしは天から降ってきた者である」、「わたしは天から下ってきた生けるパンである」、「このパンを食べる者は、永遠に生きます」、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れる者は「永遠のいのちをもっています」と宣言されるのです。永遠のいのちとは、キリストの贖罪により、将来ある死後の裁きを免れ、新天新地に永遠に生きうるいのちであり、現在わたしたちが、三位一体の御父・御子・御霊の、御霊なる神聖霊を内に宿し、聖霊を通し、すでにその交わりの中にある、ということです。祈りましょう。
(参考文献: D.A.Carson“The Gospel according to John ”
、松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』、D.M.スミス『ヨハネ福音書のの神学』、牧田吉和「改革教会の伝統の立場から」-芳賀力編『まことの聖餐を求めて』所収論稿)
2025年3月2日
ヨハネ6:41~47「父が引き寄せてくださらなければ」-もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/78s8Ix4BI4w
ヨハネ福音書(概略)
A.イエスの自己証言とユダヤ人の反発(6:41-43)
B.御父の召命なしに来ること能わず(6:44-45)
C.未来によみがえるだけでなく、現在に永遠のいのちに生きる(6:46-47)
今朝、わたしたちが注目すべき箇所は、[6:45
預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます]です。この箇所からは、神の霊感によって書き記された言葉である旧約聖書を深く学んだなら、ある意味、「熟した柿が落ちる」ように、すべての人は御子なる神イエス・キリストを、三位一体の神であると信じるようになる、と言われているかのようです。しかし、わたしたちがヨハネ福音書を読み進めていく中で見るものは、そのように霊の目が開かれていくユダヤ人と霊の目が閉ざされたままのユダヤ人の姿です。
今朝の最初の箇所、[6:41
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた]というのもその箇所のひとつです。五つのパンと二匹の魚で、成人男性だけで五千人を養われた御子なる神イエス・キリストを追っかける人たちがいました。モーセのような奇蹟を起こすラビ(教師)であり、不世出の預言者のようなお方が登場されたのです。百年に一度のスーパースター、大谷翔平のオープン戦に人々が群がるような感じでしょうか。
しかし、彼らの熱狂は、盲目的熱狂ではありませんでした。彼らの熱狂は、その希望は、繰り返していますように、ローマ帝国の植民地支配からの独立を指導する指導者でありました(ヨハ6:15)。彼らの熱狂は、舟に乗り、湖を越え、御子なる神イエス・キリストを追いかけて(ヨハ6:24)行きましたが、その話を聞いていると、大きなギャップがあることに気づいていきます。彼らの熱狂の中心には、「民族としてのイスラエルの独立と栄光の回復」こそが、神の期待されているわざであり、なそうとしておられるみわざであるとの考えがありました(6:28)。
しかし、御子なる神イエス・キリストが語られることばは、[ヨハ6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と、絶えず「御子なる神イエス・キリスト」に焦点を合わそうとされました。それこそが、すべての神の業の「第一ボタン」であり、すべての神理解の「マスター・キー」でありました。もちろん、旧約聖書には、「神の民イスラエルの栄光の回復と完成」の約束があります。しかし、その約束は、どのようにして成就されるのかの具体的道筋が新約で明らかにされています。ユダヤ人の期待する民族的イスラエルへの約束は、民族主義の「古い衣」を脱ぎ捨て、御子なる神イエス・キリストを信じることによって、永遠のいのちを宿すのです。民族を超えた「新しい衣」を身に着け、普遍的な神の民、まことのイスラエル、霊のイスラエルの民によって成就されるのです(ローマ9:6-8、ガラテヤ6:16)。御子なる神イエス・キリストの人格とみわざにより、御霊なる神聖霊において成就されていくのです。
ミルトン・スタインバーグというユダヤ教保守派のラビが書いた『ユダヤ教の基本』があります。その中で、ユダヤ教は[キリスト教の罪論、神が受肉したというキリスト論、そのキリストの代償的刑罰による救い、復活し昇天したキリストが再臨して神の国を建設する、このキリストを信じる者は救われ、信じない者は裁きに合うという命題とそれに付随するものを拒絶する]と記されています。これらの主張は、[歴史的キリスト教の縦糸と横糸をなすものであり、これらを否定することはキリスト教の織物全体を否定することになる]と記しています。そして、ユダヤ教とキリスト教が和解する日は来るのだろうかと問い。「もちろん」と答えています。伝統主義のユダヤ人は、[教会がユダヤ教に補足したもの、追加したことがらをキリスト教徒たちが取り除きさえすれば]と。伝統主義のキリスト教徒たちは、[ユダヤ人がキリストを彼らの救い主として受け入れさえすれば]と対照的な解答を紹介しています。このように見ていきますと、キリスト教とは、旧約聖書ユダヤ教の「神」のところに、「三位一体の、御父・御子・御霊なる神」を見出し、旧約聖書を御子なる神イエス・キリストの人格とみわざを軸に解釈したものであると教えられます。
イエスは、[6:41 わたしは天から下って来たパンです]と言われます。これに対し、ユダヤ人たちは、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている]と反発し、「彼は、人間にすぎないのに、なぜ自分を神と同等のものであると言うのか」と不平を言ったのです。これは、『ヨハネ福音書の神学』における神論、三位一体論、キリスト論の議論です。神とはどういうお方なのか、御父・御子・御霊の関係はどのような関係なのか、についての本質的な問題提起なのです。
御子なる神イエス・キリストは、故郷のナザレでも、同様の拒絶を受けておられます(ルカ4:14-30)。人々は、[6:42
あれは、ヨセフの子イエスではないか]と言ってつまずいたのです。これは、当時のユダヤ人だけの問題ではありません。1世紀末のユダヤ人の間でも、二千年間の宣教現場のあらゆるところで直面されてきた問題であります。ある人が申しました。「神と人間を比する時、蚤のような脳みそしかもたない人間が、全知全能の神、無限の宇宙を創造された神のすべてを理解することはできない」と。神さまは、ご自身についてすべてをご存じです。これを「原型的神知識」と申します。わたしたちが神の恵みにより、聖霊を通して知る神知識は「模写的神知識」と申します。
太陽と月に類比すれば、神さまについての啓示の知識の太陽のような光の一部をぼんやりと受け取り、その光を月のように反映しているのがわたしたちです。わたしたち有限の者には、無限の神のすべてを理解することはできません。しかし、この神は、そのようなわたしたちにご自身について、またそのみわざについて本質的なことを啓示してくださいました。見ることのできないまことの神を見ることができるように、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]と、三位一体の御子なる神イエス・キリストとして紹介してくださったのです。
旧約聖書千数百年をかけて準備し、時満ちて、御子なる神イエス・キリストを通して、三位一体の神はご自身を紹介されたのに、人々は、それに気づかず、文句を言い始めたのです。これは、当時のユダヤ人だけの問題ではありません。全世界の人々が直面している問題です。この「三位一体の御父なる神が、御子なる神イエス・キリストの受肉を通して、御霊なる神聖霊により、ご自身を明らかにされている。さて、あなたはどう応答しますか?」という問題です。
人々は、自分の意志と決断で、これに応答していると思っています。しかし、この場面には、もうひとつの側面があります。[6:44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません]と。三位一体の御父なる神が、御霊なる神聖霊によって、呼びかけておられ、御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れるよう招いておられる、というのです。人生におけるこの場面には、「このような雰囲気」があります。それを聖書では「聖霊の臨在」と申します。そのような時に、その瞬間を逃さず、[ヘブル4:7
今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない]と受けとめ、素直に「あなたを信じます」と応答していくことが大切でしょう。
そして、この決断こそは、進学とか、就職とか、結婚等のさまざまな大切な決断にまさって、人生最大、最重要の決断なのです。というのは、この決断が[6:44
わたしはその人を終わりの日によみがえらせます]という、死後の、永遠の在り様を決定するからです。聖書には、[ヘブル9:27
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている]とあるからです。そしてこの決断は、死後の未来の在り様に影響するだけでなく、現在の在り様にも大きく影響していきます。[6:47
信じる者は永遠のいのちを持っています]と現在形で、御子なる神イエス・キリストを信じる者は、御霊なる神聖霊を宿し、現在も未来も、御霊に導かれて生きる者とされるからです(ローマ8章)。神さまがまことに生きておられるお方なら、昨日も今日も、また明日もあなたに語りかけ続けておられるでしょう。それに耳を傾け、応答し、生きてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:
O.カイザー、E.ローゼ『死と生―シリーズ聖書からⅠ』、ミルトン・スタインバーグ『ユダヤ教の基本』、牧田吉和『改革派教義学
1.序論』)
2025年2月23日
ヨハネ6:36~40「自分の思いをではなく、遣わされた方のみこころを行う」-軸のブレを調整しつつ、奉仕生涯を“完泳”したい-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/QxTKcpQVDuw
ヨハネ福音書
A.わたしを見たのに信じません(6:36)
B.父がわたしに与えてくださる(6:37)
C.天から下って来た目的(6:38)
D.わたしを遣わされた方のみこころ(6:39)
E.子を見て信じる者がみな永遠のいのちを(6:40)
今朝の箇所は[6:36
あなたがたはわたしを見たのに信じません]と言う御言葉から始まります。御子なる神イエス・キリストが在世中であった紀元30年あたり、またヨハネ福音書が記された1世紀末、そして今日において「人類最大の問題、人類共通の問題」がここにあります。御子なる神イエス・キリストは、如何なるお方であったのか、という問題です。聖書によれば「ここで、どう反応するのか」によって永遠の運命が決定されるからです。三位一体の御父・御子・御霊なる神がおられ(ヨハネ1:1-2)、この方によって全被造物世界が創造されました(1:3)。しかし、善きものとして創造された世界(創世記1:30)は、罪の中に堕落し、滅びへと定められました(創世記3章、6:11-13、ヘブル9:27、ローマ3:9-19)。
そのような旧約に発するローマ書、ヘブル書等にある前提が、ヨハネ福音書にもみられます。「小さな聖書」とも言われる[ヨハ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである]の中にも、「滅びることなく」と、救いの前提として「滅び」に定められた人間の姿が描写されています。使徒パウロは、ローマ書1-2章で「人類の普遍的な罪」に言及し、「ユダヤ人も異邦人も、すべての人が神の裁きに直面している」と宣言し、詳述しています。ヨハネは、「闇、死、罪、奴隷、偽り」とこの世の肖像を描き、神の救いの対象として「この世の疎外と断罪」の状態を指摘しています。
その極致のひとつが[6:36
わたしを見たのに信じません]という言葉です。滅びと断罪の中にある人々を救おうと、三位一体の御父・御子・御霊なる神が、旧約千数百年の啓示と取り扱いを経て、人類に救いの福音をもたらす「受け皿」として準備されたユダヤ人のもとに、御子なる神イエス・キリストが受肉し、三位一体の神がいかなるお方なのか―[ヨハ1:18
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]ました。しかし、ことわざに「猫に小判、豚に真珠」―[貴重なものを価値のわからない者に与えても、何の役にも立たず無駄に終わるという意味の言葉]にあるように、驚くべきことに、[ヨハ1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった]というのです。
目の前に、ユダヤ民族が二千年間待ち受けたメシヤたる、三位一体の、御子なる神イエス・キリストが現れてくださっているのに、分からなかった。この方が[ヨハ1:14
人となって、私たちの間に住まわれ、…この方の栄光を見、…この方は恵みとまことに満ちておられた]のに、信じなかった、というのです。ヨハネは、この状態、このような反応を「1:5
闇」と表現し、そのような「闇」の中で、御子なる神イエス・キリストが[輝いている]と証ししています。それは、もう、火炎に包まれた家の中の人を救おうと飛び込んできた消防士の手を振り払い、救出を拒否している人のようです。「それは、あり得ない」と思うことが起こっているのです。それが、[6:36
あなたがたはわたしを見たのに信じません]が意味しているものです。
これに対し、[6:37
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます]とは、御子なる神イエス・キリストが特別なお方と感得し、少しずつ、あるいは即座に、三位一体の御子なる神イエス・キリストとして、信じ、受け入れるユダヤ人がいました。この反応、応答の違い、差異はどこから来るのか。それを明らかにしています。わたしたちクリスチャンは、ある時、ある場所、ある機会を通じて、「わたしが、三位一体の、御子なる神イエス・キリストを信じた」と考えます。しかし、物事には両面があります。聖書は、[Ⅰコリ12:3
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません]と申します。
わたしたちは、自分の力、知識、そして自分の決断で、ある時、ある場所、ある機会に、御子なる神イエス・キリストを信じたと確信しています。しかし、それは同時に、[ヨハ15:26
父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証し]てくださった結果であり、[ヨハ16:13
真理の御霊が来(て)、…すべての真理に導いて]くださったおかげであるのです。カーテンを閉め切った部屋からは、窓の外の景色を見ることはできません。しかし、そのカーテンを全開すると窓の向こうに広がる景色の全体を見渡すことができるのです。三位一体の御霊なる神聖霊が臨在され、わたしたちのうちに内住される時、高い山の山頂に立って、360度の全景を見渡すように、三位一体の御父・御子・御霊なる神とそのみわざの全景が見えるようになるのです。
三位一体の御子なる神イエス・キリストは、高い山の山頂にある展望台に備え付けられている望遠鏡のようなお方です。このお方を通して、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]、[ヨハ 14:9
わたしを見た人は、父を見た]と言われている通りです。[6:37b
わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません]というのは、主にある救いが堅く保持される教えでありますとともに、1世紀末のユダヤ教会堂での「隠れユダヤ人キリシタン」の会堂からの追放圧力という背景が読み取れることばです。同じ旧約聖書を読み、メシヤたるキリストを待ち望みつつ、ユダヤ教徒たちの望遠鏡はピントの壊れていたもののようです。御子なる神イエス・キリストは、[ヨハ16:9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです]と言われました。彼らは、聖書の神さまを信じていると思っていましたが、政治的メシヤ、植民地からの解放者にピントを合わせていたため、「十字架につけられた、全人類を永遠の滅びから救うメシヤたる、御子なる神イエス・キリスト」にピントを合わせることができませんでした。
[6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです]といわれた「自分の思いを行う」というのは、過去に立ち上がった数多くの「政治的メシヤ自称者」のことが念頭にあったことでしょう。このような「異教徒のローマ帝国の植民地支配からの解放者」には絶大な支援が起こり、数多くのユダヤ人たちが独立闘争に追従する運動として発展していったことでしょう。そのような群衆の期待に反するかのように、[6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため]と、ユダヤ人群衆の期待と「同床異夢」であることを示唆されます。
[6:38
わたしが天から下って来たのは]とは、「地の上から、政治的解放を求める群衆に担ぎ上げられた」独立運動には加担しないことを意味しています。そのような政治的メシヤ運動とは異なった[6:38
天からの、遣わされた(御父)のみこころを行う]ために受肉・来臨したと言われました。そして、[6:39
遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること]、[6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせること]であると宣言されます。政治的独立運動指導者、植民地からの解放者として担ぎ上げようとしていた群衆と御父から永遠の罪と死と滅びからの解放者として立てられ、送られてきた御子なる神イエス・キリストの軋轢は高まっていきます。その軋轢と失望・落胆が、罪のない御子なる神イエス・キリストの十字架刑に結びついていきます。
宗教改革のスローガンに「聖書の御言葉により、改革された教会は、聖書の御言葉により改革され続けなければならない」というのがあります。わたしも、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない
」という「シカゴ・コール」の言葉に励まされ、導かれて、より健全な聖書解釈に立った福音理解形成のために奉仕生涯を駆け抜けてきました。ある意味で、所属教派、所属神学校の「福音理解」、善き部分を継承・深化し、歪んだ部分の精査・再構築を試みるものでありました。これらの取り組みは、現在的には、痛みや軋轢をも伴いますが、将来的には病に伏したからだが、健康体を回復することにつながります。
それらの中で、キリスト教会に蔓延しやすい「群衆心理」というものに対する警戒が必要であると教えられてきました。宣教実践や教会形成で効果があったと報告されて、次から次へと新しい方策や教えが登場し、採用されていきます。そのような中で、邦訳したエリクソン著『キリスト教教理入門』は、いわゆる濾過機のような役割を果たしてきました。ICIユーチューブの1800を超えるビデオシリーズがその取り組みの数々を証ししています。ときどき、みんなが気持ちよく、それらの運動と教えの流れに流されて、伝道と教会形成でも結果を出しているというのに、なぜ流れに逆らって、「精査し、改良を加えようとするのか」と思うこともあります。
しかし、聖書を開いて、主を見上げると、そこには、ユダヤの群衆に囲まれ、あるひとつの方向に担ぎ上げられようとする御子なる神イエス・キリストの、[自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため]という強い意志をみます。[6:39
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること」、[6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせること]であるという、旧新約聖書を通じ、聖書の啓示のセンターラインを流れる[神の啓示に忠実]に生き、奉仕生涯をまっとうするようにとの主からの励ましです。
高血圧対策として、無料の温水プールで泳いでいます。そこで教えられることは、空気の800倍密度によるという水の抵抗は水の密度は空気の約800倍もあり、水中での動作は陸上動作の
12~15倍という抵抗を、体幹を曲げず、あらゆる点において最小化することです。水中では、空気中の重量の約10分の1になります。それで泳ぐときには、重力、浮力をよく理解し、重心移動を活用して泳ぐことが大切です。御子なる神イエス・キリストのように、わたしたちも、群衆心理に流されることなく、「わたしたちを遣わされた方、御父のみこころ」を朝毎に、夕毎に、受け取り、軸のブレを調整しつつ、奉仕生涯を“完泳”したいものです。祈りましょう。
(参考文献: D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』、U.ヴィルケンス『ローマ人への手紙』)
2025年2月16日
ヨハネ6:30~35「わたしがいのちのパンです」-最も深い必要や深淵な問いへ、壁を打ち破るブレークスルー-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/ASo1hz6MEw4
ヨハネ福音書(概略)
A.ユダヤ人の問い―モーセと同等レベルのしるしを(6:30-31)
B.御子なる神イエス・キリストの応答―モーセは仲介者にすぎない(6:32-33)
C.ユダヤ人の要望―物質的次元に限定(6:34)
D.御子なる神イエス・キリストの解答―エゴー・エイミ(6:35)
今朝の箇所の中心は、[6:35
わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません]という一節です。ここには、聖書が啓示する人間観があります。人間とは如何なる存在なのでしょう。人間とは「飢える者であり、渇く者」であるということです。このような人間観は、旧約聖書の各所に見出されます。人間が創造された時、[創2:7
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるもの(ヘブル語で「ネフェシュ」)となった]と言われました。
このヘブル語の「ネフェシュ」には、「のど」という意味があります。[人間は「のど(ネフェシュ)」のような存在であり、渇く者である]というのです。人間という存在は、[癒しがたい「のど」のような存在であり、そのカラカラに渇いたのどを神は潤わせ、満ち足らせ、飢えと渇きを癒してくださる]というのです。渇きと申しますと、有名な詩篇、[詩
42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます]があります。森林と谷川の水で溢れる情景に慣れ親しんでいる日本人なら、”鹿が美味しそうに清水を味わっている”
のを思い起こすのではないでしょうか。しかし、この詩が記された中東パレスチナの地域は、地中海と砂漠に囲まれ”、シロッコ”
という高温に熱せられた砂漠の空気がパレスチナを襲いますと、その熱風で大地が焼き尽くされたようになり、緑の草木は姿を消す世界です」。「42:
1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」の一節は、そのような中東の世界を表現しているのです。
わたしたちは、特に夏場には「のどが渇き」、日に三度の食事時には「空腹」を覚えます。それは、何を教えているのでしょう。「人間は飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるためです。肉体的に、「飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるのはなんのためでしょう。それは、霊的に「神に飢える者、また渇く者として創造された」ことを教えるためです。哲学者であり、神学者でもあったパスカルは、それを[人の心の中には、神が作った空洞がある。
その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない]と表現しました。
三位一体の、御子なる神イエス・キリストは、人間の実存の最も深みの必要、その霊的渇きと飢えを満たし、溢れさせるお方です。そのことを知らせ、人々を引き寄せ、信じる者を「三位一体の神との不断の交わり」の中に加えようとされたのです。信仰とは何でしょう。「まことのいのち」を受け取ることです。永遠のいのちとは何でしょう。「神との不断の交わりの中にある」ということです。ユダヤ人の群衆は、御子なる神イエス・キリストを、
[6:15 王にするため]、すなわち植民地支配からの解放者とするために祭り上げようとしていました。今日の箇所では、[6:30
私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか]と詰問しています。
イスラエルの民がエジプトでの奴隷労働から解放される際、モーセは神が解放者として立てられたリーダーであると示すために三つのしるしを明らかにしました。出エジプト記4章には、神がモーセをエジプトからの解放者として立てられたことを証明するためのしるしがあります。[第一は、杖が蛇となるしるしであり、第二は手がツァラアトにおかされるしるしであり、第三は地に注いだ水が血に変わるしるし]でありました。このことによって、頑なであったイスラエルの民も、モーセを神が送ってくださった指導者と認めたのです。
その他にも、神はモーセを通して、さまざまなしるしを見せられました。イスラエルの民が荒野で飢え、渇いた時、天からのマナ、岩からの水を提供し続けてくださいました。それらは、成人男子だけで六十万人、女性と子供を入れると約二百万人、四十年の旅程の間、ずっと与えられ続けたのです。神戸市、京都市がそれぞれ百五十万人くらいで、大阪市で二百八十万人くらいですから、出エジプトにおける「水とパン」の毎日の供給量、そして四十年間の供給量は、クロネコヤマトやコープのトラックで換算するとどれくらいの台数になるでしょう。想像もつかない量です。
先祖であるエジプトからの解放者モーセは、[6:31
食べ物として天からのパンを与えられ]という奇蹟を行ったというのです。そして、ローマ帝国の植民地からの解放者として、神が立てられたという保証、すなわち「しるし」を求めたのです。[6:30
私たちが見てあなたを信じられるように]
、[どんなしるし]、[何を]してくれるのか、と。ここで、御子なる神イエス・キリストは、彼らの思い違いを指摘されています。彼らは[ヨハ
9:28
おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ]と自称し、御子なる神イエス・キリストをモーセと対比しようとするのですが、御子なる神イエス・キリストは、モーセに勝った者であるだけでなく、彼をはるかに凌駕するお方、比較にならないほど高いお方、三位一体の御父なる神と同等の御子なる神イエス・キリストであることを証しされているのです。
ユダヤ人の群衆は、約二百万人の人々に四十年間、水と食料の兵站を支えたのは、[6:32
モーセがあなたがたに天からのパンを与えた]ように誤解していました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、
[わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださる]のだと彼らの盲点を指摘されています。ユダヤ人は、三位一体の神よりも、仲介者にすぎないモーセや律法を神聖視し、目的化していました。これに対し、御子なる神イエス・キリストが指摘されていることは、それらは、三位一体の、御父・御子・御霊なる神との交わりに入るための、準備教育であり、手段であり、機能であったと教えられます。
御子なる神イエス・キリストは、彼らの「モーセと同等のレベルで神からの使者であることを明らかにするしるし」を求める詰問に対し、[6:32
わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださる]と提供者は神ご自身である。そしてその[天からのまことのパン]の目的は、物質的な生命維持のための食料よりも、もっと深い深淵な次元の必要を満たすものであり、[6:33
神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える]ものだ、示されます。カナの結婚式では、ご自身を「まことのブドウ酒」、ニコデモには「新しく生まれる」、サマリアの女性には「生ける水」等、さまざまな象徴表現をもって暗示的に紹介されています。
「パン」というのは、「人間存在にとって、欠かすことのできない食料」の総称です。それは、「三位一体の神との交わり」が食料と同じように、すべての人にとって絶対的に必要なものであるということです。人間存在は、水や空気や食料なしでは存在していけません。それらが不足すると「谷川の水を慕い喘ぐ鹿」のように、「酸素吸入器がはずれ、酸欠状態にある患者」のように、それらの不足・欠乏を補おうと死に物狂いになります。[6:33
神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える]と言われます。ユダヤ人たちは、[6:34
主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください]と、依然として物質的な食糧供給、不断の供給を期待しています。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは、[6:35 わたしがいのちのパンです]
と宣言されます。この[わたしは…ある]、すなわち[エゴー・エイミ]表現は、出エジプト記に出てくるもので、[出3:14
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である]からきています。福音書には、「わたしは=ある」という表現で、[いのちを与える神のパン、世の光、羊の門、良き羊飼い、復活、道であり、真理であり、いのち]であると、御子なる神イエス・キリストがもたらされる救済を象徴しています。
それらは、その特殊な場、特別な時の出会いにおいて、「その人間の渇望と必要」を前提にして、その象徴が人間の必要と完全に反響しあっているのです。御子なる神イエス・キリストの象徴的な表現は、対象者の想像力を占拠し、彼らの最も深い必要や深淵な問いへの答えを提供する「壁を打ち破り貫通するブレークスルー(突破)」であるのです。御子なる神イエス・キリストがどなたであるのかに気づき始める時、[6:35わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません]といわれるパンくずを食べ始め、いのちの水をすすり始めていることになるのです。祈りましょう。
(参考文献:O.カイザー、E.ローゼ『死と生―シリーズ聖書からⅠ』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)
2025年2月9日
ヨハネ6:22~29「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」-神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/nJ8c3-zYpuQ
ヨハネ福音書
A.自分たちだけで立ち去った(6:22-23)
B.先生、いつここにおいでになったのですか(6:24-25)
C.しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから(6:26-27)
D.神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざ(6:28-29)
今朝の箇所は、先週の[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]の続きです。[自分を王にするために連れて行こうとしている]というのは、当時、異教徒であるローマ帝国の植民地支配下にあったユダヤ人の「独立を勝ち取りたい」という民族感情をよく表しています。特に、エジプト帝国の奴隷労働にあったユダヤ人たち解放し約束の地カナンに導いたモーセから数えて千数百年を経て、[申18:15
あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる]という約束が現実のものとなっていたわけです。カナの水をブドウ酒に変える奇蹟、エルサレムで三十八年間病気であった人の奇蹟、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人を養われた奇蹟等で、当地は、いわば「スーパーボール」のような熱狂の中にあったのではないでしょうか。しかし御子なる神イエス・キリストは[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた]というのです。ここに、旧約聖書で与えられた御父なる神の約束、すなわち[6:39
わたしを遣わされた方のみこころ][6:40
わたしの父のみこころ]のみ旨の汲み取り方の相違が対照されています。ユダヤ人たちの熱狂は、「植民地支配から独立を勝ち取るモーセのような圧倒的な指導者」への期待であったのです。
これに対し、御子なる神イエス・キリストは、それは「同床異夢」であることを明らかにされていきます。人知れず[6:22
立ち去った]弟子たちや御子なる神イエス・キリストをやっきになって探し出したユダヤ人たちは、御子なる神イエス・キリストに幾つもの質問を投げかけます。その対話の中で、彼らの間にある溝が明らかになっていきます。ユダヤ人たちは、ローマ帝国軍を圧倒する強いリーダーを期待し、御子なる神イエス・キリストを捉え、担ぎ上げようとしていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような「政治運動」に巻き込まれることを避けようとされたのです。
[6:22 立ち去ったことに気づいた][イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると]、[6:24
小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった]とあるように、群衆の「御子なる神イエス・キリスト」追っかけが始まったことが分かります。そして漸く(ようやく)のていで、[6:25
湖の反対側でイエスを見つけ、「先生、(わたしたちに何も告げず、夕闇に紛れて、逃げるかのように)ここにおいでになったのですか」]と詰問しました。このような詰問は、彼らの期待のなせるわざです。といいますのは、これはいわば、「今度、選挙がある。そのための最強の候補が見つかった。ポスター、看板、演説場所の手筈の相談に入っていたら、その候補者が夜逃げし、行方不明になった」という感じでしょうか。「ローマ帝国からの独立解放軍の司令官候補」の行方を追い、その使命に立ち上がるよう説得しようとしていたのです。
これに対して、御子なる神イエス・キリストは[6:26
あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです]と、彼らが目指す「ローマ帝国からの独立解放軍の司令官要請」を拒否されます。[パンを食べて満腹したからです]と言われているのは、単に食欲の充足の問題ではないのです。その意味するところ、その先には「ローマ帝国からの独立解放」という夢の実現が期待されているのです。これに対して[しるしを見る]とは、どういう意味でしょう。それは、御子なる神イエス・キリストの言動や奇蹟等の[しるし]を通し、その背後におられる[御子なる神イエス・キリスト]ご自身がいかなるお方であるのかを[見る]ということです。
[6:27
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい]とあります。[6:27
なくなってしまう食べ物]とは、単に「食欲」を満たす問題だけでなく、「地上における政治運動、すなわち植民地からの独立運動」の熱情の問題がありました。これに対して[6:27
いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい]とは、広くは「霊的な神の国」建設運動、また狭くは「伝道・教会形成・神学教育」に参与することです。パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられました。[ルカ17:20
神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 …神の国はあなたがたのただ中にある]と言われました。
そして[6:28 神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]と問われた時、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われました。これは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の目標が、「御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのか」を知らしめる「しるし」であったことを意味しています。「カナの結婚式で水をブドウ酒に変える奇蹟」から、「五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人養う奇蹟」までの目的は、「御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのか」を知るための、いわば“信仰ののぞき窓”、「そのための手段であり、しるし」であったのです。ユダヤ人たちは、それを「ローマ帝国の植民地支配からの解放者」の到来と誤解したのです。その誤解に巻き込まれてしまうことを避け、正しい方向づけのための対話を試みておられたのです。
わたしも、神学教師としての奉仕生涯を振り返りますと、二千年の教会史に違わず、今日における誤った運動や教えと直面することがたびたびありました。そのたびに、それらの運動や教えを分析・評価し、正しいと思われる方向への方向づけを提示してきました。それがわたしの召命であり、賜物であると自覚していたからです。しかし、そのような取り組みは、長年の神学教育の弊害の結果ということもありますし、教会や教派が抱える歴史やアイデンティティとの関わりもあり、「一朝一夕」で修正することが叶わないことも多々あったように思います。ただ、それらの努力の結果がどうであれ、それがわたしの召命であり、賜物でありましたので、
[ルカ 17:10
自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』]と主の前に出た時にこうべを垂れて告白するだけです。
わたしたちは、わたしたちの生涯、また奉仕生涯で、[6:28
神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]と問い続けながら、日々奉仕を続けていくでしょう。御子なる神イエス・キリストは、日々、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われます。人の目を気にして、周りの評判を気にして生きるのが、「人間関係社会」たる日本文化・社会の特徴です。しかし、わたしたちは男性だけで五千人、女性と子供たちも入れると二万人はいるかと思われる大群衆に囲まれ、「ローマ帝国の植民地から解放する指導者」として期待の中、[ヨハ6:15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り]、[ヨハ再びただ一人で山に退かれた]、[ヨハ6:22
弟子たちが自分たちだけで立ち去った]と言われている姿には教えられるものがあります。
「いのちのない大木」は、川の流れに沿って川下へと流されていきます。「いのちのあるアユ」は、流れに逆らって川上へと俎上していきます。[河川の水温が8-10℃を上回るようになると、海から遡上を始める]とのことです。御子なる神イエス・キリストと弟子たちが、当時のユダヤ教社会の運動や教えの圧力の中、そのような民族主義的政治運動に汚染されることなく、御子なる神イエス・キリストの教えと奇蹟の外側を見るだけでなく、それらを御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのかを知り、また見る“窓”、つまり「6:26
しるし」として、見ていった弟子たちとユダヤ人たちにならいましょう。
[6:28 神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか]という問いに、御子なる神イエス・キリストは、[6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです]と言われました。これは、 [6:29
神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざ(の始まり)です]と言い換えても良い一文と思います。御子なる神イエス・キリストが、如何なる方であるのかを知ること、それを信じて受け入れることは、すべての神の始まりです。[ロマ1:17
信仰に始まり信仰に進ませる]と書いてある通りです。ローマ書的に言えば、キリストの贖罪に根ざし、内住の御霊により、神律的相互性に生きると言えるでしょうか。要するに、御子なる神イエス・キリストを起点としてキリスト教信仰は始まり、そこを起点に空高く揚げられる凧のようなものであるということです。
[6:29 神が遣わした者、(御子なる神イエス・キリスト)を信じ]続けてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:
松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』 )
2025年2月2日
ヨハネ6:16~21「水の上を歩いてあなたのところに」-「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」と学び続ける-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/4IGXN8lo2qU
今朝は、三つの「イエスの湖上歩行」の箇所を読ませていただきます。
●マルコ福音書(概略)
A.弟子たちの湖上移動と向かい風(6:45-48a)
B.イエスの湖上歩行と弟子たちの驚き(6:48b-50a)
C.イエスの語りかけと弟子たちの安心(6: 50b-52)
●マタイ福音書(概略)
A.弟子たちの舟による移動(14:22-24)
B.イエスの湖上移動と弟子たちの驚き(14:25-26)
C.イエスの語りかけ(14:27)
D.ペテロのお願い(14:28)
E.ペテロの湖上歩行と失敗(14:29-31)
F. そして弟子たちの信仰告白(14:32-34)
●ヨハネ福音書(概略)
A.夕方、湖、暗闇、強風(6:16-18)
B.湖の中央、イエスの湖上歩行(6:19)
C.エゴー・エイミー(わたしだ!)(6:20)
D.無事到着(6:21)
わたしたちは、今朝、福音書における三つの「湖上歩行」を見てきました。わたしは、今朝、AD60年代半ばに書かれたマルコによる福音書、AD60年代後半に書かれたマタイによる福音書、AD90年代に書かれたヨハネによる福音書から、「イエスの湖上歩行」の記事が書かれた目的を考えたいと思います。舞台となっているガリラヤ湖は、地中海のレベルからしますと、海抜はマイナス200mのところにあり、パレスチナ独特の自然現象が起こります。そこは美しい湖でありますが、自然が荒れることしばしばの湖です。
[6:19
そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ]というのは、4~5km以上漕ぎ出したところです。ガリラヤ湖は南北20km、東西12kmです。ティベリアスからカペナウムまでの直線距離は約13kmありますので、舟は真夜中に半分くらいのところに来ていたことになります。マルコによれば、[6:47
夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。6:48
イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ]とあります。漁師をしていた彼らは、舟を操るプロでありましたが、[向かい風]のために、夜通し[漕ぎあぐねて]いたものと思われます。
もう40年も前になりますが、大阪府の最南端にある岬福音教会の牧師をしていたとき、釣りの得意な教会の長老さんに誘われて、小舟で釣りに出かけたことがありました。鯨の子供が、親鯨と間違えてわたしたちの舟の真下でうろうろしていたことを思い出します。ただ、昼間はなだらかであった海が、夕方になってくると天候が変わり、次第に波立ち、友が島の方から戻る海峡の最後の方にはエレベーターのように小舟が上下しました。地面の上とは異なり、海面というものの恐ろしさを実感しました。ガリラヤ湖は谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば強烈な風が湖に吹きつけ、嵐のようになることがあるのです。台風の時、波に翻弄される小舟を思い浮かべてください。
[6:47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。6:48
イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねている]をご覧になり、[夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた]とあります。距離は約13kmですから、おそらく、夕方、舟が出発したときには、2~3時間、すなわち完全な日没までには到着するつもりであったでしょう。ところが、[6:48
向かい風のために]舟は進まず、一晩中難儀していた、もしくは進めないだけでなく、風の具合如何で、沈没の恐怖にすら襲われていたのかもしれません。皆さんの中にも、その人生にも類する場面をお持ちではないでしょうか。
先日の、新年聖会でマタイ福音書のこの箇所から、伝道・教会形成の証し説教をお聴きしました。わたしたちは、現実の嵐だけでなく、少子高齢化社会における伝道・教会形成において、[ヨハネ6:18
強風が吹いて湖は荒れ始め]、 [マタイ14:24 向かい風だったので波に悩まされ]、 [マルコ6:48
弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐね]、沈没の恐怖にすら直面させられることを学びました。その昔、『寺院消滅』という本を読みましたが、キリスト教会もまた同じ危機に直面しているように思います。福音書の「イエスの湖上歩行」という出来事は、そのような危機のただ中で、御子なる神イエス・キリストが如何なるお方であるのかを教えています。
『シリーズ■聖書から―2.信仰』という本があります。その中で教えられましたことは、信仰は信仰を「ブレークスルーしていく」ということでした。「ブレイクスルー(breakthrough)」は、「破壊」「打破」「打開」を意味する「ブレイク(break)」と、「通り抜ける」「通過する」を意味する「スルー(through)」を組み合わせた言葉であり、「現状の課題や困難、障害を突破する」「突破口」という意味で使われ、[これまでにない考え方で目の前にある障壁を突破する]ことです。ヨハネ福音書を順に傾聴していまして思いますことは、[ヨハ1:1
初めにことば(御子なる神イエス・キリスト)があった。…ことば(御子なる神イエス・キリスト)は神であった]で始まり、洗礼者ヨハネから弟子たちを引き継ぐと、カナで水をブドウ酒に変える奇蹟、エルサレム伝道でニコデモとの対話、サマリヤ伝道でサマリアの女性の導き、ガリラヤ伝道で五千人の男性を五つのパンと二匹の魚で養う奇蹟をなし、その次に「湖上歩行」の奇蹟をなしておられるのです。
この一連の教えと奇蹟の意味は何なのでしょう。わたしには、これらの奇蹟と教えはただ一点を指し示しているように思えます。それは、「御子なる神イエス・キリストが一体どのようなお方なのか」を明らかにするため、弟子たちまた人々の霊の目を開かせるための「ブレイクスルー(breakthrough)」、岩山に穴をあけ、トンネルを貫通させる発破作業のように思えるのです。
それらは、生来の盲人の癒し、さらには一度死んでいたラザロのよみがえりで頂点に達し、人々に熱狂の巨大爆発(ビッグバン)を引き起こします。今朝の箇所で、弟子たちは一晩中、湖上の嵐に悩まされて、疲労困憊と、死の恐怖の中、幻覚でも起こったと思ったのか、死の使いがお迎えに来たと思ったのか―[マタイ14:26
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫]びました。[ヨハネ6:19
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた]のです。
弟子たちは、危機と恐怖のただ中で「御子なる神イエス・キリスト」との再会を果たしました。それは、救助の舟で駆け付けた「御子なる神イエス・キリスト」ではありませんでした。「湖上歩行」で舟に来られた「御子なる神イエス・キリスト」でありました。ウルリッヒ・ルツ著『EKK新約聖書註解―マタイによる福音書』には、[水の上を歩くということは、人間にはできない、神的能力である。神的人間だけがこの能力をもっている。海を渡ることも、水の上を歩くことも人間にはまったく不可能である。湖上歩行をするイエスを、超自然的な存在、また幽霊とみなしたこと、彼らの恐怖も理解できる。恐怖は人間がその理解力を超えるもの、神的なものが生活に入り込んでくるときに、人間が示す自然な反応である]と解説しています。
御子なる神イエス・キリストは、三年半の公生涯という神学教育プログラムで「ご自身が如何なる者であるのかを段階的に明らかに」されていきました。弟子たちは、最初「人間イエスが如何なるお方なのか」を理解していきました。モーセのような預言者であり、エリシャのような奇蹟遂行者であると教え、彼らはダビデのように異教徒を駆逐してくれる政治的メシヤとして期待値をあげていきました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような期待に背を向け、[6:45
それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。6:46
そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれ]ました。
さて御子なる神イエス・キリストは、何を祈るために[6:46
山に向かわれ]たのでしょう。わたしは、その祈りは[ダビデのように異教徒を駆逐してくれる政治的メシヤとして期待値を上げていく弟子たちと追従する群衆を、正しい路線に戻す]ことであったように思います。すなわち、御父が御子なる神イエス・キリストを通して表そうとしておられる「贖罪と内住の御霊」の栄光の道にです。G.E.ラッドは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、[イエスがわずかなパンと魚をもって五千人を養われた奇跡の後、無理やりイエスを連れて行き、彼を王にする民衆の動きが起こった(ヨハネ6:15)。実際に、ここで神の力を付与された人物と認められた。彼にわずかな刀と槍を提供しえたなら、彼はそれらを増やすことができるので、ひとつの軍隊をすら用意することができた。そのとき、ピラトの軍隊は彼の前に立ち向かうことはできないだろう]という期待を群衆に与えたと解説しています。
御子なる神イエス・キリストは、弟子たちや群衆に、「ダビデのような政治的メシヤ」待望が急拡大していくのを見て、現段階の神の栄光はそのようなかたちで現わされるのではないこと、そしてイザヤ53章に示されている「苦難のしもべ」「贖い代」としてのご自身の栄光の現し方へと人々導くため、「人間イエス」の次元に制限されている弟子たちの視野の壁を「ブレイクスルー(breakthrough)」し、彼らの心の目の岩山に穴をあけ、「御子なる神であるイエス」の次元にトンネルを貫通させる突破作業として、「湖上歩行」を敢行されたのです。弟子や群衆は、ローマ帝国の植民地支配からの解放者が登場したとして異常な盛り上がりと熱気に捉われ、[マルコ6:52
彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになって]いました。それで、そのような「人間イエス」が、人間にはなしえない、神的な存在者以外にしかなしえない「湖上歩行」を直に見、[6:51
彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ]という超自然的現象を直に体験させられ、[弟子たちは非常に驚いた]、驚嘆したのです。このお方は一体何者なのだろうと。
このような弟子たちの「信仰の成長」のステップのひとつひとつを見ていきますときに、「御子なる神イエス・キリスト」がどのようなお方なのか、このお方は何をなそうとしておられるのか、聖書はお方についてどのように語っているのか、弟子たちの「目のうろこ」が取り除かれていくプロセス、すなわち「栗のイガ→栗の皮→栗の実」へと一枚一枚、その覆いを取り除かれていく「信仰の成長のステップ」を見ることができます。わたしたちは、御子なる神イエス・キリストを信じることによって救われています。しかし同時に、避けることのできない日々の危機、また苦難を通して「御子なる神イエス・キリスト」の新たな一面を見せられ、そのことによって、日々信仰を「ブレイクスルー(breakthrough)」させられていきます。そのような信仰の挑戦を「カモン、カモン」と自らを鼓舞し、受けて立ち上がってまいりましょう。
危機に直面したとき、わたしたちもペテロのように[14:28
主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください]と申し上げましょう。[14:29
イエスは「来なさい」と言われ]るでしょう。弟子たちは、このようにして「人間イエス」を「御子なる神イエス・キリスト」として学んで行ったのです。わたしたちも学んで行くのです。わたしたちは、安全な[舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行]く時、ときどき、[14:30
強風を見て怖くなり、沈みかけ][主よ、助けてください]と叫ぶこともあるでしょう。でも大丈夫です。わたしたちの主[14:31
イエスはすぐに手を伸ばし、つかんで]、安全な舟の中に救い上げてくださいます。わたしたちも、実生活の中で、その生涯のただ中で、弟子たちのように「人間イエス」を「湖上歩行もされる御子なる神イエス・キリスト」であることを学び続けましょう。祈りましょう。
(参考文献:ウルリッヒ・ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』、G.E.ラッド『終末論』)
2025年1月26日
ヨハネ6:1~15「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」-現世では「苦難のしもべ」の生涯に生かされることを求め-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/IKf-i1to9fo
ヨハネ福音書
A.序(6:1-4)
B.大勢の群衆の空腹(6:5-7)
C.手持ちの材料―大麦のパン五つと、魚二匹(6:8-9)
D.男性のみで五千人、女性・子供合わせて約二万人の食事(6:10-13)
E.この方こそ、まことの預言者―イスラエルに沸騰した熱狂(6:14-15)
今朝の箇所は、[6:2
大勢の群衆がイエスについて行った]をもって始まります。御子なる神イエス・キリストは、受肉から三十歳まで、大工ヨセフの息子として、無名の年月を過ごし、公生涯に入られました。御子なる神イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが準備した弟子たちを引き継ぎ、カナの奇蹟、ニコデモとの対話、サマリヤの女との出会い、ベテスダの池での癒し、等をなし、それらのわざを通し、また聖書の解き明かしを通じて、自分がいかなる者であるのかを証しされてきました。[6:2
イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった]とありますから、[ヨハ5:5
三十八年も病気にかかっている人]のみならず、[5:3
病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち、死にかかっている人]等、たくさんの人たちを癒されるのを見聞きしていたからでしょう。
[6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て]とあります。その数は、[6:10
男たちは座った。その数はおよそ五千人であった]と言われており、これが成人男子の数だけだとしますと、女性と子供たちを加えると約二万人であったろうと言われています。[6:1
イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれ…6:3
イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた]とあります。おそらく、「山上の垂訓」のように、聖書からの解き明かしを豊かに語られたのでしょう。集会が終わりを告げる頃、御子なる神イエス・キリストは、[6:5
目を上げて、大勢の群衆]をご覧になり、人々が空腹になっていることに気づかれました。
それで、ピリポに [6:5
どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか]と、問いかけられました。成人男子だけで五千人、女性と子供たちを入れて、約二万人の食事の相談をされたのです。ピリポは、この頃、この宣教団の会計実務を担っていたのかもしれません。即座に[6:7
一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません]と悲鳴をもって答えました。一デナリは、当時の一日分の労賃に相当します。今日では約一万円になるでしょうか。「一食百円としても、二百万円必要です。一食百円では、満足のいく食事は準備できないでしょう」。
この会話に、[6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレが]入ってきます。そして、[6:9b
こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう] と否定的な受けとめ方ではありますが、とりあえず[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます]と紹介します。御子なる神イエス・キリストは、この提案を待っておられました。わたしたちが、今日直面している状況は否定的であり、手にしている材料・資源はごくわずかである場合が多いのですが、御子なる神イエス・キリストは
[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹]がありますと提示してくるのを待っておられるような気がします。わたしたちの手の内には何があるのでしょう。
わたしたちのような年齢になって来ると、そろそろと仕事ができなくなり、収入の道が断たれます。それで、生かされる年数と年金・貯金の取り崩しをどのようにしていくのか考えさせられます。それは、まさしく[6:9a
ここに、大麦のパン五つと、魚二匹]あります告白して、神さまに祈りつつ、生かされる余生であります。教職者・信徒の立場を超えて、余生の福利厚生を熟慮し、その準備の知恵を祈り求めていくことが大切です。「霞を食って生きる」とは、「仙人は霞を食って生きている」といわれるところから、浮世離れして、収入もなしに暮らすことを言います。クリスチャンはそうであってはいけません。それは、「信仰」ではなく、「無責任」な生き方です。老後に周囲の人たちに迷惑をかけないように、自立・自活して生活していけるよう準備すべきです。使徒パウロは、[Ⅱテサ
3:8
人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました]と記しています。
さて、御子なる神イエス・キリストは、[6:2病人たちになさっていたしるしを見た大勢の群衆]に囲まれ、みことばを語り終えられましたが、そこに約二万人の空腹状態に置かれている大群衆をみられました。それは、弟子たちにとっては、おそらくはひとり三百円の食事代で準備すれば300円×2万人=600万円とかかり、御子なる神イエス・キリスト伝道団は破産の危機を迎えたことでしょう。そして即座に提供できる「手持ちの材料・資源」としては[6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]だけでありました。今日の教会でも、個人でも、このような状況ということは多々あります。「このような状況で一体どうすれば良いのでしょうか?」という神への問いかけです。わたしたちの心に中における苦渋です。
そのような時に、わたしたちはどのようにしたら良いのでしょう。使徒パウロは[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい]と勧めています。御子なる神イエス・キリストは言われました。[6:10
「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った]とあります。神さまは、ふところが広く、深いお方です。わたしたちの「問題状況、足りないところ、必要」のすべてをご存じです。ですから、わたしたちの「願い事」のすべて、「状況・苦境」のすべてを神さまにさらけ出しましょう。神さまの御前には、場所がたくさんあり、草もたくさんあり、どんな問題も課題も、さらけ出し、座らせることができるのです。わたしたちの問題は五千もあるでしょうか。二万もあるでしょうか。
そうするとき、御子なる神イエス・キリストは天上にある大祭司の祈りをもって応えてくださり、[ヘブル4:16
わたしたちはあわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に]近づくことができるのです。御子なる神イエス・キリストは、[6:11
パンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられ、魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられ]ました。「ちょっとずつよ!
少ししかないから、ちょっとずつよ!」と声をかけながらではありませんでした。[6:11
彼らが望むだけ(どんどん)与えられ]たというのです。ここにも、神の国の不思議、御子なる神イエス・キリストの奇蹟をみます。
わたしたちの生涯も、そういう側面があるのではないでしょうか。見えるところは、 [6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]しか所有していない存在であり、人生なのですが、主に祈りつつ、主と共に歩んだ生涯を振り返ってみると[詩23:1
私は乏しいことがありません。…23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。…私の杯はあふれています]という一生ではなかったでしょうか。わたしが結婚した時、手持ち資金は25万円だけでした。小学校教師として勤めていた時の貯えを、教会の「牧羊館」建築に融資していたものが返金されたのでした。ほとんど一文無しで結婚生活を始めましたが、四人の子供を育て、今日まで導かれてきました。
後に、郷里で働きつつの種蒔き・開拓伝道でも、生活資金も、ポスターやチラシや看板等に、何もかも使い果たしてきた、ある意味「無謀な」生涯でありました。ただ、御子なる神イエス・キリストは、
、 [6:9
大麦のパン五つと、魚二匹]を祝福し、増殖させ、大勢の群衆を養われたように、わたしたちの家族も祝福し、養い、老後の備えも準備してくださいました。それらは、神さまの不思議なみわざです。
神さまは、わたしたちが、健康に必要なものを[6:12
十分食べ]、贅沢をさけ「一つも無駄にならないように]生活し、[余ったパン切れを集め]慎ましい生活をなしていくとき、[6:13
そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった]といわれる余生を保証してくださるのではないでしょうか。わたしが翻訳させていただいたエリクソン著『キリスト教教理入門』の「③神の忠実さ」の項目には「⑴神の真性さとは、神が真実であること。⑵神の正直さとは、神が真実を告げられること。⑶神の忠実さとは、神の真実性が証明されること」であると記されています。わたしたちは、その走り抜ける生涯を通して、わたしたちが信じている神が「真実なお方」であり、その真実な神がわたしたちに「語られた真実な約束」を、わたしたちは「それを真実性を確証し続ける生涯」を生かされているということなのです。
今日の箇所の最大のハイライトは、[6:14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った]という箇所です。人々は、なぜこのような告白、また熱狂にいたったのでしょう。群衆の告白の背景には、申命記18:15-19の「モーセのような預言者」が現れるという約束がありました。モーセは、異教徒エジプトの圧政の下に置かれていたイスラエルの民を、十の災害と紅海渡河の奇蹟をもって解放し、荒野の四十年間、岩からの水、うずらやマナの食料供給の奇蹟を仲介した指導者でした。
群衆の告白の背景には、モーセに加えて、旧約のヒーローのひとり、エリヤ・エリシャ伝承があると言われています。第二列王記4:42-44で、エリシャが召使いの絶望にもかかわらず、わずか数本の新鮮な穂と大麦のパン20個だけで、100人の人々に食事を与えています。御子なる神イエス・キリストの卓越した聖書の解き明かしと数々の奇蹟的みわざ、そしてモーセを通してのマナやうずら、エリシャを通してのわずかなパンで多くの人を養う記事の「再現」に直面した群衆が、[6:14
人々はイエスがなさった(モーセやエリシャに類似した、あるいはそれらをしのぐ)しるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と(口々に)叫び、[6:15
人々が…(御子なる神イエス・キリストを、異教徒ローマ帝国の植民地からの完全な独立のために戦う)王にするために連れて行こう]としたのも無理からぬことと思います。御子なる神イエス・キリストは、自身が如何なる者であるのかを証しされ続けていました。その成功と裏腹に、群衆は「政治的解放者」という間違った方向に反応していきました。
しかし、御子なる神イエス・キリストは、そのような「政治的行動」は、BC722「アッシリア捕囚」、BC606「バビロン捕囚」、AD70「エルサレムと神殿の崩壊」をもたらすものだと知っておられ、現段階においては、イザヤ11章にみる「ダビデ的王としてのメシヤの役割」の段階ではなく、イザヤ53章の「苦難のしもべ」の段階であることを自覚しておられ、[6:15
再びただ一人で山に退かれ]たのです。わたしたちも、御子なる神イエス・キリストにならって、現世では「苦難のしもべ」の生涯に生かされることを求め、新天新地において「主と共に、栄光の座」につかせられることを期待していきたいと思います。「賞賛のことば」に舞い上がらないよう気をつけましょう。御子の荒野の誘惑の「再現」であるのかもしれないからです。祈りましょう。
(参考文献:D.Moody Smith,“John” Abingdon New Testament Commentaries
、D.A.Carson, “The Gospel According to John”、G.E.ラッド『終末論』 )
2025年1月19日
ヨハネ5:41~47「モーセが書いたのはわたしのことなのです」-ユダヤ教徒とキリスト教徒を「分離させるもの」は、「結びつけるもの」と同じである-新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/q7yGqjWgrmI
ヨハネ福音書(概略)
A. あなたがたのうちに神への愛がない(5:41-44)
B. モーセが書いたのはわたしのことなのです(5:45-47)
今週のテキストでは、先週の[ヨハネ5:39 その聖書は、私について証ししている]に引き続き、[5:46
モーセが書いたのはわたしのことなのです]と驚くべき言葉が続きます。AD30年前後のユダヤ人たちと御子なる神イエス・キリストの「聖書観」、また「モーセ理解」のギャップが対照されて描かれています。そして、それはヨハネ福音書が書かれたAD90年代の、キリスト教会とユダヤ教会堂の「聖書観」、また「モーセ理解」のギャップの対照でもあります。AD70年にエルサレムと神殿を失ったユダヤ教は、パリサイ派を中心に「律法の遵守」を軸にして再建されていきました。
これに対して、キリスト教会は、聖書を、そしてモーセの証言を、「御子なる神イエス・キリスト」に焦点を当てて理解していました。ユダヤ教社会とユダヤ教会堂に属しつつ、「御子なる神イエス・キリスト」に心惹かれていたユダヤ人求道者またユダヤ人クリスチャンたちは、それらふたつの解釈の間で、ある意味「また裂き」の状態に置かれていました。日本で例えれば、家族・親族は、「伝統的に寺の檀家であり、地域では神社の氏子」でありつつ、キリスト教に心を開き、御子なる神イエス・キリストを信じているが、洗礼を受けることはできず、「二股」状態にあるクリスチャンまた求道者といえるでしょうか。
その意味で、ヨハネ福音書は、そのような「二股」状態にあるクリスチャン、また求道者を励まし、「聖書」に対する確信、そして「御子なる神イエス・キリスト」に対する信仰を強力に励ます文書なのです。ユダヤ教の人たちは、二千数百年にわたって現在もなお、旧約聖書のうち、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、すなわち律法(トーラー)を生活の中心としてきました。ユダヤ教のユダヤ人たちは、日常生活の様々な取り決めの実践にあたり、何が神のみ旨にかなうのかという視点で律法を解釈しました。それが、口頭で伝えられ、文書化され、「ミドラーシ」「ミシュナ」「タルムード」というかたちで編纂され、集大成されていきました。
ヨハネ福音書は、 [ヨハ5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。5:40
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません]と、AD30年前後、また1世紀末のユダヤ教徒たち、特にパリサイ人たちの「律法遵守」の熱心が、逆に聖書が焦点を当てている「御子なる神イエス・キリスト」に対する盲目を引き起こしていると指摘しています。今朝の箇所では、このような来臨された「御子なる神イエス・キリスト」に対する盲目と「聖書観」ギャップの新たな視点が示されています。
今朝の箇所は、[5:41
わたしは人からの栄誉は受けません]をもって始まっています。これは何を意味するのでしょう。これは、[5:43
ほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。5:44
互いの間では栄誉を受け]を反映しています。[5:43 ほかの人がその人自身の名で来れば]とは何でしょう。それは、[使5:36
先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。5:37
彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました]とあるように、イスラエルの歴史の中には、「我こそは、聖書に預言されているメシヤなり」と自称して人々を扇動する「偽メシヤ」が多数現れてきました。
特に、異教徒による植民地支配からの解放を唱える政治的指導者は[5:43
その人自身の名で来れば]受け入れられやすく、[5:44
互いの間で栄誉]や賞賛を勝ち取ることはそれほど難しいことではなかったでしょう。それらの人々は、すでに存在する熱狂的愛国主義とか、また既存する宗教的勢力との結託・協調という共通土壌が存在していたからです。御子なる神イエス・キリストが、[5:41
わたしは人からの栄誉は受けません]と言われた意味は何でしょう。当時のユダヤ教徒、また一世紀末のパリサイ人たちが、御子なる神イエス・キリストを[5:43
受け入れ]なかったのはなぜでしょう。
それは、[ヨハ5:18
神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたから]でありました。御子なる神イエス・キリストは、[5:43
わたしの父の名によって来た]と、御父なる神の名代として来臨されたと自己紹介されました。[5:43
わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません]というよりは、[わたしが、わたしの父の名によって来た“というから”、あなたがたはわたしを受け入れません]と書いた方が分かりやすいかもしれません。数多くの政治的リーダーは、“水平のレベル”の人間世界の「植民地解放者」としてリーダーシップを発揮しようとしたのです。
しかしながら、御子なる神イエス・キリストは、「上から、御父の元から」降って来られたお方でした。[ピリ2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ]たお方でした。「ヨハネ1:14 神が人となられ」、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされ]ているのが、御子なる神イエス・キリストであると紹介されているのに、[5:43
あなたがたはわたしを受け入れません]と言われているのです。
ユダヤ教徒のパリサイ派の人々は、御子なる神イエス・キリストの旧約聖書に沿った教えに対しては、受け入れます。つまり教師(ラビ)のひとりとしてなら、その教えを受け入れることができます。彼らにとって、「ヨハ1:14
ことば(御子なる神イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」と言うことは、神を汚す「瀆神罪」であり、「石で打ち殺されなければならない」罪でありました。その感覚が[ヨハ5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった]に示されています。
御子なる神イエス・キリストは、そのような状況、旧約的背景を十分にご存じでした。それにも関わらず、真正面から、妥協も、躊躇もすることなく、[ヨハ5:18
ご自分を神と等しくされ]続けておられるのです。このような姿勢に習いましょう。学びましょう。その反対のある状況を[5:42
あなたがたのうちに神への愛がない]と評価されています。パリサイ派の人々は、まことの神を愛するがゆえに、「御子なる神イエス・キリストは、石打にされなければならない」と考えていました。しかし、御子なる神イエス・キリストは、三位一体の御父・御子・御霊なる神なるお方ですので、御子なる神イエス・キリストへの殺意に満たされた彼らが、
[5:42 あなたがたのうちに神への愛がない]と言われても仕方がなかったのです。
パリサイ派の人々は、モーセ五書を学び、それを徹底的に遵守することに[5:45
望みを置いて]いました。モーセは、「ヨハ1:14 ことば(御子なる神イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」
というような教えをする者を石打にして殺すように教えていると確信していたのです。しかし、御子なる神イエス・キリストは、[5:45
あなたがたが望みを置いているモーセ]が、あなたがたの盲目・誤りを明らかにしていると指摘されます。[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。18:19
わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う]と、この預言で言われているのは、「御子なる神イエス・キリスト、わたしのことである」と。
御子なる神イエス・キリストは、パリサイ派の人々が誤解して聖書を読んでいる。誤って解釈していることを指摘されています。モーセの言葉は、パリサイ派の人々が解釈しているように読み、適用されるものではなく、[申18:18
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こし]は、御子なる神イエス・キリストの受肉・生涯・十字架による死・葬り・復活・昇天・聖霊の注ぎ、再臨・新天新地まで含む御子なる神イエス・キリストついての預言であると指摘されているのです。ですから、[5:46
もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです]というのは、モーセが書いたことを“正しく解釈”したら、御子なる神イエス・キリストが示されたような解釈となり、そのような解釈は、御子なる神イエス・キリストへの信仰へと結びついていくはずであるということです。
[『カール・バルト著作集7』(新教出版社、1975年)
283-284頁、このバルトの著作の中には教会とユダヤ人の関係を深く思索した好論文「ユダヤ人問題とそのキリスト教の応答」があり、彼は「反ユダヤ主義」を批判する自らの基本的な立場を明確にした後、ユダヤ人とキリスト者を「分離させるもの」について、「結びつけるもの」と同じであると言う。「それは、ゴルゴタの丘の十字架にかかり給うたユダヤ人である。私たちはそのお方をイスラエルの約束の成就として、それゆえに全世界の救い主として認める。ユダヤ人たちは、彼らが最初にそうすべきであるのに、この一人のユダヤ人であるお方を認めない。これが、ユダヤ人の存在をめぐる、現実であり、存続している、驚くべき謎なのである」同書、288頁、と記している。]今朝の箇所を読むにつけ、ユダヤ人として生まれられた御子なる神イエス・キリストを信じるわたしたちは、いまだ誤謬また誤った聖書解釈の中にあるユダヤ人またユダヤ教徒の救いのために祈る責任があると教えられます。祈りましょう。
(参考文献: 土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、D.A.Carson,“The Gospel according
to John”, 安黒務『福音主義イスラエル論Ⅰ』)
2025年1月12日ヨハネ5:30~40「その聖書は、私について証ししている」-イスラエルを手段化・機能視し、御子なる神イエス・キリストを目的化・神聖視する聖書観-
新約聖書『ヨハネ福音書の神学』傾聴シリーズ
https://youtu.be/x8-lesE7wtw
ヨハネ福音書(概略)
A.御子の証言(5:30-31)
B.御父の証言(5:32)
⑴洗礼者ヨハネを通しての御父の証言(5:33-35)
⑵御子の存在・生涯・みわざを通しての御父の証言(5:36-38)
⑶聖書を通しての御父の証言(5:39-40)
今朝の第一節、[5:30
わたしのさばきは正しい]は、「人の生死をつかさどり、永遠の沙汰を判断・評価される」御子なる神イエス・キリストの自己証言です。ただ、わたしたちの世界の裁判でも、たとえば殺人犯の疑いで訴えられている人が、「わたしはやってません!」と自己証言しても、それだけでは無罪の証明とは認められません。その主張を立証するため、自己証言を証明する他の証人や証拠が求められます。旧約聖書は、十戒を中心にまことの神以外のものを神とすることを禁じています。ですから、当時のユダヤ人にとって、[ヨハ5:18
イエスが…ご自分を神と等しくされた]ことに我慢がならなかったのです。これに対し、新約聖書は[ヨハ1:1
ことば(すなわち、御子なる神イエス・キリスト)は神であった]、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた]、[ヨハ1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた]と証言するのです。
すでに申し上げていますように、ヨハネ福音書における「紀元30年頃、御子なる神イエス・キリスト在世当時のユダヤ人たちとの確執」の描写は、「70年のエルサレムと神殿の崩壊と離散、シナゴークと律法遵守中心のユダヤ教のあり方の中で、御子なる神イエス・キリストを信じる隠れユダヤ人キリシタン排斥の圧力の時期」に執筆されたものです。ここで問題となっているのは、ユダヤ教を背景にキリスト教は成立していったわけですが、そのユダヤ教の「唯一神教を捨てることなく、しかも御子なる神イエス・キリストを信じ、受け入れるに値する証拠・証人を示す」必要があったのです。その意味で、ヨハネ福音書は「ユダヤ教会堂に属するキリスト教求道者層に向けての伝道メッセージ」でもありました。
当時のユダヤ人にとって、「人となられたイエスを三位一体なる、御子なる神イエス・キリストとして受け入れる」ことは、大変な決断であったでしょう。[5:31
もしわたし自身(御子なる神イエス・キリスト)について証しをするのがわたし(イエスご自身)だけなら]、自らを三位一体の神とする自己証言の信ぴょう性は疑わしいものとなります。誇大妄想者のように扱われます。それで、御子なる神イエス・キリストは、[5:32
わたしについては、ほかにも証しをする方]がおられると証言されています。そのお方とは、三位一体なる神の、御父です。御父による三つの証しが紹介されています。
その第一は、洗礼者ヨハネを通しての御父の証言です。[5:35
ヨハネは燃えて輝くともしび]と表現されています。旧約の[詩132:17
そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える]とあります。この灯火の輝きが喜びをもたらすと預言されているのです。洗礼者ヨハネは、メシヤたる御子なる神イエス・キリストを指し示す旧約時代最後の偉大な預言者として登場しました。彼は、御父の導きと示しによって、「ガリラヤのナザレ出身の大工の息子イエス」を見て、[ヨハ1:29
見よ、世の罪を取り除く神の子羊]、[ヨハ1:33
聖霊によってバプテスマを授ける者]と証言しました。この証言は、洗礼者ヨハネの主観による判断ではありませんでした。それは、ヨハネ自身が[ヨハ1:33
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方(すなわち、三位一体の御父なる神)が、私に言われました]と、御父が主導権もって、洗礼者ヨハネを召し、「御子なる神イエス・キリスト」が如何なるお方であるのかの証言も提供しておられるのです。これは、つまり洗礼者ヨハネを通しての御父の証言なのです。
旧約の唯一神信仰を捨てることなく、三位一体の御父・御子・御霊なる神信仰を受容する第二の証言は、御子なる神イエス・キリストの存在・生涯・みわざを通しての御父の証言です。[5:36
わたしが行っているわざそのもの]が、御子なる神イエス・キリストが如何なるお方なのかを[証しして]います。御子なる神イエス・キリストのみわざとは、一体どのようなみわざなのでしょう。それは、受肉から、公生涯、みことばの解き明かし、癒し等の奇蹟、十字架、復活、昇天、聖霊の注ぎ、キリストのからだなる教会の形成、将来の再臨、新天新地に至るすべてのみわざを包摂しています。それらのひとつひとつ、そしてそれらのすべてが、三位一体の御父・御子・御霊のみわざであることを証ししています。
[5:37
あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません]という御子なる神イエス・キリストの言葉を聞いた時、ユダヤ人は何を思ったでしょう。それは、[出19:9
【主】はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを【主】に告げた]という歴史です。モーセが神から十戒を授与されたとき、ふもとに民衆を残してシナイ山に登って、雲の中から神の声を聞いたことを思い起こしました。十戒と幕屋礼拝は、イスラエルの民をひとつの国民に形成していきました。[5:36
わたしが行っているわざそのもの]すなわち、三位一体の御子なる神イエス・キリストの一連のみわざは、神の[5:37
御声…御姿]となって、新しい神の民、キリストのからだなる教会、聖霊の宮を形成して行ったのです。カルバリ山の出来事をシナイ山の出来事と重ね合わせると、三位一体の神のみわざへの理解を深めることができるでしょう。
旧約聖書にある唯一神信仰を捨てることなく、新約聖書にみる三位一体の御父・御子・御霊なる神への信仰を保持する第三の証言とは何でしょう。それは、聖書を通しての御父の証言です。旧約聖書を通し、御父は如何なる証言をしておられるのでしょう。わたしは、奉仕生涯を通じて、数々の旧約聖書の神学書に目を通してきました。そして、今でもその研鑽の道中にあります。ただ振り返って思いますことは、その信仰の初期に、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を熟読したことは、大きな助けとなりました。
旧約聖書の読み方を教えるページに、「旧約聖書の三つの基本的思想」と「旧約聖書における三大思想発展の段階」がありました。[「旧約聖書の三つの基本的思想」には、1.アブラハムへの神の約束、2.ヘブル民族との神の契約、3.ダビデへの神の約束とあり、「旧約聖書における三大思想発展の段階」には、1.メシヤの国民、すなわちヘブル民族は、この民族を通して全世界が祝福されたものである。2.メシヤの家族、すなわちヘブル民族が世界を祝福する方法は、ダビデの家の者によってである。3.メシヤ、すなわちダビデの家の者が世界を祝福する道は、その家系に生まれるひとりの偉大な王によってであるとあり、このように、神がヘブル民族を創始された「究極の目的」は、キリストを世界に来たらせることであった。神が「当面の目的」とされたのは、偶像礼拝の世界のただ中に、来たるべきキリストの背景として、唯一の生ける神がいますとの理念を立てることであった]とありました。
わたしは、19歳のクリスマスに洗礼を受け、20歳の秋に、H.H.ハーレイ著『聖書ハンドブック』を片手に、丁寧に聖書を熟読したとき、
[5:39
その聖書は、わたしについて証ししている]のです、という意味をはっきりと理解しました。それまでは、旧約聖書を読んだ時、「イスラエル民族の祝福・衰亡・再興」の物語が、わたしたちクリスチャンにとって何の意味があるのだろうか?と分からなかったのですが、「イスラエル民族の祝福・衰亡・再興」は、目的ではなく、手段なのであり、それらは神聖視されるべきものではなく、機能視されるべきものであると明確に理解できたのです。今日のキリスト教会の一部において、「旧約におけるイスラエル民族の祝福・衰亡・再興」を目的化・神聖視する傾向が見られますが、ICIユーチューブにみられますように、それらを克服し手段化・機能視する方向にリフォームしていくことも、またICIの重荷のひとつとなっています。[5:39
聖書は、わたし(すなわち、御子なる神イエス・キリスト)について証ししているものです]―これが、ICIの旧約聖書観であり、キリスト教会の福音理解のセンターラインであると確信しているのです。このセンターラインに沿って、今年も走り続けましょう。祈りましょう。
(参考文献: 松永希久夫『ひとり子なる神イエス』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想【2】』、Bernhard W.
Anderson“The Contours of Old Testament Theology”)