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ICI Daily & Diary Lectures
2015年度 ICI日誌
2023/11/06
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★2014年度のICI日誌は転記させていただきました。(6/1より、より多くの機器で視聴できるよう、音声ファイル形式を“wma”から“mp3”に変更しています。wmaでの視聴は「礼拝メッセージ」にて。)
【ICI落穂抄−20151231】「義認と審判」に関する一考察: Video-08「神の法廷の規準は神の法」と落穂07
https://youtu.be/pgTCFd9fa5Q
講演レジメのVideo-08「神の法廷の規準は神の法」の最後に、John Hesselinkの”Calvin’s Concept
of the Law”を、律法についての包括的な解説書として紹介している。
わたしが、なぜこのような紹介をしたのかというと、「律法」に関しても、NPPの立場からの説明と伝統的な立場からの説明との間に乖離があると思うからである。ウォーターズが言うように、NPPの立場からの説明に一目置いて、その説明に「学問的祭司制」のような尊重する意識をもって臨むと、「伝統的な立場の”律法”理解や説明に欠陥がある」かのように受けとめられてしまう。しかし、「律法」理解に関し、NPPと伝統的立場に対するそのような見方は果たして客観的なものなのかどうか検証する必要があると思ったのである。そのためには、「律法についての包括的な解説書」に目配りする必要がでてくる。そのような時に助けとなる一冊である。John
Hesselinkは、どのような構成をもって”Calvin’s Concept of the
Law”を解説しているのか、それの概略とポイントをフェイスブックの中に、少し紹介しておきたい。
〇一章 プロゴメナ:@律法の位置、A究極的規範−神の意志
〇二章 創造と律法:@自然法とモーセの律法、A律法の原初の性質、B自然法、C自然神学?、D相続者あるいは刷新者
〇三章 契約と十戒注釈:@契約−律法のゆりかご、Aモーセの十戒の注釈、B律法の要約
〇四章 律法と福音:@導入、A実体の統一性、B様式における相違、C文字と霊の反定立
〇五章 律法の活用と目標:@断罪的活用、A行政的活用、B再生的活用
〇六章 結び:律法に対するカルヴァンのダイナミックな理解:@導入、A律法の模範としてのキリスト、B御霊の助言と導き、Cクリスチャン生活の究極的目標−神の像の回復、D要約
要約の第一パラグラフをみると、「カルヴァンにとって、最も豊かな意味において律法は、神の言葉と同義であり、また御霊ともにある恵みと同じ意味合いをもつものである。その客観的統一性はキリストにおいて見いだされる。そして信仰においてその主観的統一性は私たちの’心の真実’において明らかにされる」とある。
このように包括的な視点から見ていくと、サンダースやダン等のように「律法」を第二神殿時代のユダヤ教の視点から狭く解釈するのには問題が多いように思われるのである。第二神殿時代のユダヤ教の視点から、「宗教改革期のパウロ理解、また律法理解」を再解釈したものをそのまま「鵜呑み」にするのではなく、「N
PPのパウロ理解、また律法理解」をJohn Hesselinkの”Calvin’s Concept of the
Law”の視点、つまり聖書全体から理解される”包括的な律法理解”の視点から再解釈する必要を教えられるのである。前回、「旧約聖書における義の概念」について見たように…。「蟹の背中」を見るときに、「東海」の広大な海域を忘れてはならないのである。
【ICI落穂抄−20151224】「義認と審判」に関する一考察:
Video-07「旧約における義の概念」と落穂06
https://youtu.be/C8ILPNGvQjM
前回の最後に、エリクソンの”New Perspectives on
Paul”のある部分についての分析・評価として「法廷的義認を批評する人たちはしばしば、彼らの前提の多くが最近の知的環境から派生してきたものであることを理解し損ねている。そして、彼らは聖書の材料の中にそれらを読み込んでいる。私たちは、このことをきわめて明確にユダヤ人/西欧人の相違のうちにみている。しかしそれは少なくとも50年前かあるいはそれ以上以前にジェームズ・バーや他の人たちの働き以来きわめて不明瞭なものであったものである。それゆえ、この異議は不適切なものであると判断せざるを得ない」と言及した。これらの記述の詳細については、メイン・テキストにおける詳述とあわせて推察する以外に、わたしには手段がないわけであるが、以下のウォーターズのNPP分析・評価もあわせて上記に指摘についてみていくことは、NPPの課題について考える上でひとつの道筋を照らしてくれるように思うのである。ICIフェイスブックにおいて「項目に記しるしている番号」は、ウォーターズの解説しているポイントの数である。要約する時間がないので、ポイント数のみ記す。詳細は下記文献を直接みていただきたい。
★Guy Prentiss Waters " Justification and the New Perspectives
on Paul - Chapter 8. A Critique of the New Perspective "の構成です。
A Critique of the New Perspective 紹介(JETS東部部会研究発表準備資料)
*
1. 聖書解釈学の問題
・ユダヤ教についての欠陥ある構成
・E.P.サンダース:@、A、B、C、D
・N.T.ライト:@、A、B
・学術的再構成への誤った依存:@、A、B、:@、A、B
・学者たちの祭司制?:@、A
・旧約聖書対第二神殿文献?:
2. 聖書釈義の問題
・「律法の行い」:ユダヤ教救済論と人間の不能性
・ローマ11:5-6:@、A、B
・ローマ3:20:
・ローマ4:4-5:@、A、B
・ローマ9:30-32a:@、A、B、C、D
・ローマ10:5:(1)@、A、B、(2)、(3)
・ピリピ3:2-11:
・論争のある書簡:@、A
・ガラテヤ5:3-4、3:10-13:@、A、B、C、要約
・義認と信仰
・(1)、(2)@、A、B、C、D
・(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)
・キリストの死(Uコリ5:21、ローマ3:24-26)
・(1)、(2)
・(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)
・@、A、B
・普遍的罪責(ローマ5:12-21)とパウロの良心
・人類の普遍的罪責:1,2,3,4,5
・パウロの良心:(1)、(2)、(3)
3. 神学的問題
・恵みと律法主義と功績を混同すること:@、A、B
・転嫁を無視すること:@、A
・法廷的恵みと変容させる恵みのバランスをひっくりかえすこと
・義認を再定義すること
【ICI落穂抄−20151216】「義認と審判」に関する一考察:
Video-06「義認とは神の法廷で下される審判」と落穂05
https://youtu.be/GvymyA61zYM
すでにお知らせしていますように、M.J.Erickson, “Introducing Christian
Doctrine”の翻訳推敲の最中にあります。今日は、このテーマに関心のある方にはかなり参考になると思いますので、エリクソンが第三版ではじめて言及している「New
Perspectives on Paul」に関する言及を、要約版テキストのpp.366-368より、その下訳の一部を少し長くなりますが紹介させていただきます。NPP問題をどのように考え、どのように捉えていったら良いのかの「基本的視点」の幾つかを教えられます。
1. New Perspectives on Paulにおける法廷義認の思想の位置づけ
「ある人たちは、法廷的義認の思想はこの著述におけるパウロの目的に対する誤った理解を基盤にしていると主張している。ある人たちは、法廷的義認の思想はこの著述におけるパウロの目的に対する誤った理解を基盤にしていると主張している。20世紀の後半に、『パウロに関する新しい視点』という考え方が起こってきた。そして、それは救いのために功徳を積むという律法主義的なアプローチをするユダヤ教に反対している人物としての伝統的なパウロ解釈か間違っていると示唆するものであった。そうではなく、パウロは異邦人の回心者が割礼を受けなければならないと主張するユダヤ主義者と戦っていたのである。ユダヤ教は行いによって救いを得る宗教ではなく、むしろ善行は神の恵みにより確立されたイスラエルとの契約に対する応答と教えられていた。これは、E.P.サンダースが『契約遵法主義』と呼んでいるものである。したがって、パウロの義認の教理はなんら中心的なものではなく、当時のユダヤ主義者との論争という特別な事情を扱う中で創り出された教理であったのである。」
2.パウロにおける信仰義認の位置づけ
「しかしながら、我々は転嫁された義の概念はパウロの著作に先行するものであったのであり、彼が創始したものではなく、むしろ彼はそれを見事に仕上げたのであるということに簡潔に言及することができる。さらに言えることは、パウロは、彼がユダヤ主義者と直面するずっと以前から彼の回心を行いとは別の信仰による義認と同一視しているということである。最後に、パウロはユダヤ主義者との論争が収まった後もこの教理を強調し続けているということである。これらの考察の視点からみると、それが単にこの特別な状況を扱うために創出された教理として理解することはほとんどあり得ないことである。」
3.キリストの義の転嫁なのか、私たちの信仰なのか
「しかし、この教理に対するもうひとつの反対は、パウロは私たちの罪がキリストに転嫁されている(Uコリ5:19-21,
ローマ4:8)と教えつつ、その逆は教えられていないというものである。神が義とみなすのは私たちに転嫁されたキリストの義ではなく、むしろ私たちの信仰(キリストにあって、ではあるが)である。義に関連して転嫁について語っているテキストは、ガラテヤ3:6、ローマ4:3,9,11,22-24である。しかしながら、ある人々は、それらのテキストは私たちが義とみなされるキリストの義についてではなく、義とみなされるのは私たちの信仰であると語っているのであると主張している。」
4.信仰は、義を構成するものなのか、義を手に入れる手段なのか
「しかしながら、その議論が引き起こされている広い文脈の重要性に留意すべきである。ロバート・ガンドリーは、パウロが義認を議論している思想の枠組みは『勘定帳の枠組み』よりも「契約的枠組み」であると主張している。彼は、勘定帳は私たちの罪のキリストへの転嫁を理解する上で適切な概念であり、信仰者に義をクレジットすることを理解することには適切ではない、ことを認めている。しかし、パウロは契約的枠組みよりもより勘定帳に関連する借金や行い、等々について語っている。それらの箇所のより自然な理解は、信仰が私たちに転嫁された義を構成するというよりもむしろ、キリストの義を手に入れる手段であると言い表しているようにみえる。」
5.回心時の義認と最後の審判時の義認の内容は相違するのか
「転嫁された義と分与された義の問題は、通常プロテスタントとカトリックの間の古典的な論争よりも、より微妙な差異をもつかたちで新しい文脈において起こり続けている。ときどき、義認は外なる義を移す事柄ではなく、キリストの義の事実上の分与であると主張される。その結果、罪が贖われるだけでなく、罪の力に対しても死ぬのであると。
ときどき、ひとつの相違は回心時に起こる義認と最後の審判時に起こる義認の間で起こっている。この相違において、審判は人のなした行いを考慮にいれる。それは、単に報酬の基盤ということだけではない。それはまた神の御前に人の最終的な立場の決定基盤なのである。
N.T.ライトは、パウロの書いた幾つかの著述を吟味し、未来の審判におけるこの要素が多くの神学者によって見過ごしにされてきたと主張している。それらは、全聖書的な教えとしての義認についての宗教改革的な視点をもって取り扱う傾向をもつ人々によってである。これは、より保守的な新視点の学者のひとりと彼の批評家たちの間に存在する重要な要素であるように思われる。」
6.神との契約に対する信仰者の誠実さを伴った遵守
「ライトは、最後の審判は、第二の義認あるいは最終的な義認と考えられるべきであると主張している。最初の義認は、救いの信仰の時点において起こり、それはただ信仰者に神が転嫁されるキリストの義のみを基盤としている。しかしながら、最終的な義認は、少なくとも部分的に信仰者と神との間に交わされた契約に対する信仰者の誠実さを伴った遵守を基盤としている。
つまり、マタイ25:31-46に記されているような、なされた正しい行いのことである。古典的ブロテスタントの見方を批判的に捉えた法廷的義認に対するこれらの微妙な差異を示す陳述のうちにある共通の要素は、後者はあまりにも鋭い形で義認と聖化と呼ばれるものを分離させすぎたということである。」
7.パウロの捉え方をどう読むのか―ユダヤ的とギリシャ的
「ある意味において、これはユダヤ的な円環的な思考方法を基盤とし、ギリシャ的な直線的なカテゴリーにも通じたパウロの捉え方をどう読むのかということに起因している。この観察は、神の救いの働きが人間を変貌させること、そして聖い生活を課題としていることを思い起こす助けとなる。そのことにより、それらの間のより強固な結びつきを主張することによってその分離を修正することを求めている。パウロは真に義認と聖化の概念を区別していたのは確かである。しかし、これは一方が他方なしに存在できるとか、それは反律法主義の基盤を与えているとかを意味しているわけではないのである。」
8.法廷的義認を批判する人たちが内包する前提の識別
「さらに、法廷的義認を批判する人たちはしばしば、彼らの前提の多くが最近の知的環境から派生してきたものであることを見落としている。そして、彼らは聖書の材料の中にそれらを誤ったかたちで読み込んでいる。私たちは、この問題点のありかをユダヤ人/西欧人の相違の過度な強調のうちにみている。すなわちユダヤ人/西欧人の相違という捉え方は、少なくとも50年前かあるいはそれ以上前の、ジェームズ・バーや他の人たちの貢献以来、きわめて不明瞭なものとされてきたものである。
それゆえ、この異議は不適切なものであると判断せざるを得ない。」
【ICI落穂抄−20151213】旧約聖書
雅歌8:5bc(MP3)(WMA)「リンゴの木の下、そこは産みの苦しみをした所―「豊穣の金の子牛」の周りで踊り狂ってはならない」
今週はアドベント第3週である。恋人を待ち焦がれる乙女のように、主の御降誕を待ち望みたいと思う。
今日の箇所も、恋歌の断片の一つ、籠の中に入れられた落穂の一本のような箇所である。
乙女が、「たわわに実を付けたりんごの木の下で、若者を眠りから覚めさせた」、いわゆる、白雪姫の逆バージョンである。
しかし、次に続くのは、若者の母もここで彼を産んだ。ということば、これでは、ストーリーが続かない。なぜ、彼の母はりんごの木の下で彼を産んだのか?そしてまた、なぜ、同じ木の下で彼を起こすのか?私たちはこの短い物語を解く鍵を持っていない。
短い文章で解らない箇所は、雅歌の他の箇所を見れば、ヒントが隠されている。
3:4
「彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました」、ここに「母の家」また、「私をみごもった人」という言葉がある。
6:9
「汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた」、ここにも「その母のひとり子、彼女を産んだ者」という言葉がある。
このように、乙女の若者に対する愛は、母であることや出産と関連づけられている。
どんな時代、どんな場所においても、抒情詩人は意識の下にあるイメージと連想のプールから、思想をひきだしてくる。直感的に浮かぶ物、連想される物を心のプールから汲み出すのである。抒情詩人と言えば日本人では、高村光太郎、北原白秋、石川啄木等が挙げられる。ちなみに、私は石川啄木が好きである。
雅歌の作者は異性への愛情が、出産や母性と結びつけられており、乙女が若者を起こすことと、初めて産声を上げてこの世の中に出てくる出産を結びつけている。そしてまた、意識的であれ無意識であれ、出産とりんごの木との間には、「豊穣」という点で繋がりを持っている。
私たちクリスチャンは、神の前に心からの真実な愛をもって、心の中の熱い思い、男女の愛、性について考える。その延長が妊娠であり、愛の実としての子供たちという「豊穣」に感謝する。新しい命がこの世に現れるということは、私たちにとって創造の業に近づく行為である。しかし、神を知らない人々にとっては、驚きであり不可解な現象である。
性という領域が神秘的で不可解なものであるので、太陽神と母なる大地との原始的な性交の物語として語られることが多い。例えば、豊穣神の信仰では、女性神アシュタルテの息子が男性神バアルであり、雨と恵みを司っている。また、日本でいわれる、イザナギ
イザナミの神も豊穣の神であるとともに、日本国の島々を産んだ神として祀られている。
創世記15章に書かれているアブラハムの信仰は、死んだような身体が葬られて復活する、イサクは蘇りの復活信仰を表している。りんごの実は無数の星であり、浜辺の砂である。その本質はキリストの贖罪と蘇りの命である。
雅歌を神学的に用いるためには、豊穣を願う異教ときちんとした境界を敷かなければならない。そうでなければ、富と健康、繁栄の神学に陥ってしまう。キリスト教の用語は用いるが、キリスト教の衣を着た「異教的な豊穣信仰」に他ならないからである。
ニューエイジ運動とは、既存に対する批判、解放をうたっている。禅やヨガの要素も多く含み、第三世界のリバイバルによく見られる。異教的な宗教性を持ちながら、キリスト教の衣を着た、似ていて非なるものである。
19,20世紀にいつも問われてきた、1, キリスト教以外に道はないのか?(排他主義) 2,
ガンジーのように非暴力で世界平和を願う人も「隠された匿名のクリスチャン」という考えも良いのではないか?(包摂主義) 3,
あらゆる宗教に救いがあるのではないのか?「分け登るふもとの道は多けれど、皆同じ頂きの月を見るかな」(多元主義)という考え方がある。しかし、聖書の中のイエス
キリストによる以外救いはないのである(使徒4:12)。
また、創造論と共に探究されているのが、聖霊論である。
つまり、聖霊は他の宗教においても働かれているのだろうか?という考えである。
アジア系アメリカ人のアモス・ヨングは宗教における聖霊の働きは、宗教的他者性にに現れていると言い、聖霊の普遍的臨在をもって始められると信じている。
神様は「私の霊を全ての人に注ぐ」(使徒2:17)と言われており、それは一方で聖霊の遍在性を表している。創世記のバベルの塔では言語の分化・分裂の審判があったのに対し、ペンテコステでは、あらゆる言語で福音が聞かれ、言語が、そしてその表現としての文化が、そしてその本質としての宗教が克服され、贖われていると理解している。
しかし、エリクソンは「そこには、大きなギャップがあり、解釈の飛躍があり、注意が必要である」と言っている。聖霊論をいつの間にか糸の切れた凧のようにしてしまっているのではないか?と言うのである。
実際、韓国でのリバイバルの中にも、韓国土着の宗教にキリスト教の用語の衣を着せただけの信徒も多いといわれる。そして、今のレストレーション運動、預言運動、これらも純粋な真水である信仰に、塩水が混濁する運動の経緯、また教えがあると分析・評価されている。三位一体否定の教えや、富と健康の神学、繁栄の神学等はその最たるものである。かたちを変え、品を変え再生産が続けられている。わたしたちは、その表面的な現象に目を奪われるのみならず、なぜそのような「再生産」が続くのか、その病巣の根源を見極めることが大切である。
新約の使徒たちは、「地上の欲望からの豊穣」ではなく、「天上から与えられる豊穣」を求めるよう勧めている。預言とはもっと聖書に基づき、本質的な内容を含んでいるものである。そして、木がどのような木であるかは、結ばれる実によってわかるのである。
りんごの木と豊な実のように、若者と乙女が愛し合いその実としての子供たちが生まれる。旧約聖書には、その啓示の漸進性、有機性、多様性から、この世の「異教的豊穣信仰」と見まごうばかりの記述も散乱している。しかし、この豊穣を「異教的宗教性」の中で考えてはならない。つまり、パウロがなしたように「アブラハムの信仰、パウロの解釈、十字架のキリスト、聖霊の内住」から”再解釈”されなければならないのである。
私たちはカルバリの十字架の木の下で、命を与えられた存在である。そこでキリストは私たちの罪のため生みの苦しみをして下さった。そして、今も天上で私たちのためにとりなしの祈りをして下さっている。私たちが御霊によって御子に似たものとなるために、今なお、生みの苦しみをして下さっているのである。私たちは「金の子牛」の周りで踊り狂ってはならない(出エジプト32章)、そのことを教えられるのである。(仁美記)
【ICI落穂抄−20151212】M.J.Erickson, ”Introducing Christian
Doctrine”「30章 聖霊に関する近年の諸問題」
M.J.Erickson, ”Introducing
Christian
Doctrine”の翻訳を再開している。これは、メイン・テキスト『キリスト教神学』が福音派神学校における基準的「組織神学書」として採用されている状況をさらに推し進めるためである。神学校においては詳細版の「メイン・テキスト」を学んでいただき、教会の聖書研究会等においては聖書のみを片手に学べる「要約版」を活用していただくためである。すでに、要約版を用いての解説講義ビデオ8年分を少しずつアップロードしていっている。この要約版が刊行されたら、福音派諸教会において穏健で中庸な、バランスのとれた「福音理解」がより確かなものとされる一助として用いられると確信している。
エリクソン神学の特徴は、いわゆる「鵜呑み」の福音理解ではない。クリスチャンひとりひとりが「神の言葉である聖書」を読む力、解釈する力、現実に適用する力を増し加えてくれる神学である。主のみ旨を探り求め、祈りつつ生きるクリスチャン生活とは、”theologizing(神学しつつ)”生きる生活である。その意味で、すべてのクリスチャンは「小さな神学者」であると思うのである。
今日は、昨日推敲していた「30章
聖霊に関する近年の諸問題」の「聖霊と今日における預言」から落穂を拾いたい。たくさんの価値ある落穂があるのであるが、そのすべてを紹介することはできない。その中の一本を紹介したい。
穏健な立場「照明論」を代表するW.グルーデムも、「預言論」を代表するJ.デーアも、ともに「今日語られる預言」の危険性を知っていると書かれている。そしてその危険を防止するための「ガイドライン」の作成を試みているとある。今日における預言には賛否両論いろいろあると思うが、この問題が照らし出す肯定面と否定面をバランスよく扱うことが肝心である。読んでいてそう教えられる。
朝、目覚めて祈りのうちにひとつのことを思い出した。それは、米国の教会成長学者のE.L.Towns著『10 of Today’s
Most Innovative
Churches(今日、最も革新的な10教会)』という本である。その最後に紹介されているのが、ヴィンヤード運動で形成された群れについての言及である。鍵となるポイントは「17章
新しい教派:
神学から方法論へ」(pp.247-256)という題名に示されている。どういうことかといえば、キリスト教会の歴史においては「神学」つまり、聖書に書かれている内容をどのように理解するのかという「福音理解」の共通性を基盤として「群れ」つまり「教派」が形成されてきた、ということである。今日も大半の教派が同じようなルーツとアイデンティティを共有し合っている。それゆえに「教理的な問題」は比較的起こりにくい。
しかし、今日みられる新しい動きとして注目されてきた「J.ウィンバーの率いたヴィンヤード運動」においては、「神学」がどのようであるのかは二義的な事柄とされ、「ワーシップ・スタイル」つまり「方法論」において「共通項」を見出そうとした運動として分析されているのである。米国では大変注目を集め、急成長したわけであるが、同時に「群れ」の中において、「カンサス・シティ・プロフェッツ」問題や「トロント・ブレッシング」問題で、J.ウィンバーは振り回されることとなる。そして、それらの部分はヴィンヤード運動の群れから切り離されることとなった、というのである。そのようなことを教訓として、英国のヴィンヤード系の教会では「アルファ・コース」という堅実な聖書教理の学びのコースが生まれ、いまや「しるしと不思議」や「預言や癒し」よりもそちらの方が世界的、かつ超教派的に高い評価を得て、さまざまな教派・教会に建徳なかたちで貢献している、といわれる。
わたしは、このことは大きな教訓を私たちに与えているように思うのである。アズサ通りのペンテコステ派のリバイバルの後、低調な時期に入り、「あの熱狂の回復(レストレーション)」を求めて、単立系ペンテコステの教会を中心に運動が始まる。その時代と経緯を眺望するにつけ、”New
Denomination : From Theology to Methodology(新しい教派:
神学から方法論へ)”という構造を感じさせられるのである。
つまり、どういうことかといえば、「神学(福音理解)」軽視の構造である。「教会の歴史とは、聖書解釈の歴史であり、聖書をどのように解釈し、どのように適用してきたのか」を示す”実験室”であるといわれる。その中には、数多くの謝った解釈と適用の歴史があり、それらの運動は”異端”として断罪されてきた。
どんな建物でも、地盤が堅固でなければ、地震の時に”液状化現象”を起こし、大金を注いで建てた建物は傾き、ときには建て直しを余儀なくされる。
預言運動系の群れの危険性のひとつがそこにある。「聖書と聖霊のみで十分」といって、私たちの福音理解の「ルーツとアイデンティティ」の確立のために「謝った教え」と戦かってきた信仰の先祖の歴史に目を閉ざしている。直観的な聖書解釈の歴史には誤った解釈もまた満ちているということを覚えるべきであろうと思う。
健全な群れには、共通の特徴みられる。それは、”Both Theology and
Methodology(神学も方法論も両方とも)”である。そして、教会の交わり、神学校共同経営、教派の合同等において、大切な要素は何だろう。”From
Theology to
Methodology(神学から方法論へ)”へシフトすることは危険であり、やはり「福音理解」という共通項の親密度が第一義的な要素になるべきであると思うのである。Methodology(方法論)というのは、いうなれば「その人が着ている洋服」のようなものである。私たちはまさか「洋服」と結婚するわけではないだろう。その洋服を身に着けている「その人」と付き合い、交際し、結婚に至るのである。最も大切なものは「その人」の人となり、つまりここでは「福音理解(神学)」であろうと思うのである。
【ICI落穂抄−20151209】「義認と審判」に関する一考察: Video-05「聖霊の時代の構造的特質」と落穂04
https://youtu.be/IrDFLCxfZFc
このセクションは「聖霊の時代における聖霊の働きの構造的特質」を扱っている。その内容はきわめて深く豊かなものであるので、資料源(牧田吉和論文『改革派教義学と聖霊論―改革派神学の新しい可能性を求めて』、「改革派神学」19号、1988、pp.27-73)を記しておいた。レジメは、その要点抜粋である。
(www.aguro.jp/d/ici/20151116_jets-e_the_justification_and_the_Judgement_outline.pdf)
これと、最近、エリクソンの『キリスト教神学』の要約版(第三版)翻訳の関連で記述している、「聖霊論を巡る近年の諸問題」の章の中の「預言運動」に関連して優れた論文を紹介しておきたい。それは、牧田吉和論文『H.バーフィンクの聖書論―その基本的性格をめぐって』、「改革派神学」17号、1984、pp.21-68)である。その構成は以下の通りである。
*
・序として
・第一章 啓示と聖書
‥@啓示の中心としての受肉の意義
‥A受肉から聖書への移行
‥B啓示と聖書の関係における二つの克服すべき立場
*
・第二章 聖書の霊感
‥@有機的霊感の主張
‥A聖書の僕形態の概念
‥B聖書の権威の性格
‥C中心と周辺
*
・第三章 聖霊の時代における聖書
‥@「霊感」と「内的照明」
‥A「内的証明」と「内的照明」
‥B聖書と教会と聖霊
‥C聖霊の終末論的位置
*
・終章 バーフィンクの聖書論の意義
*
多くの重要な教えに満ちている論文であるが、その中で、最近刊行された藤本満著『聖書信仰―その歴史と可能性』いのちのことば社、との内容との関連で参考になるのは、「聖書の僕形態の概念」である。この箇所で、パーフィンクの有機的霊感の概念による「聖書の人間性」の正当な位置づけに言及されている。聖書の人間性に関連して、キリストの受肉との類比において聖書が扱われる場合、バーフィンクは「聖書の僕形態」について語る。「聖書論における有機的霊感は、啓示の中心的事実である受肉から出てくるものでありその適用である。ロゴス(ことば)はサルクス(肉)となったのであり、(啓示の)ことばは聖書となったのである。
この二つの事実は、単に並行しているだけではなく同時に密接不可分に緊密に結び付けられている。キリストは、肉になったのであり、威厳も見栄えもない僕となったのであり人間の間で侮られた者となったのである。彼は、この世の最も低いところまでヘリ下り十字架の死に至るまで従順であられた。
それと同じ様に、神の啓示であるみ言葉も、被造物の中へ、人間と民族の生活と歴史の中へ、夢と幻、また探求と思索のあらゆる人間的形態の中へそして人間的弱さと侮りと卑しさの中にまでさえも入り来ったのである。
バーフィンクは、受肉におけるキリストの「僕形態」・「謙卑」との類比によって聖書の「僕形態」・「謙卑」について強調したのである。」
このような記述を軸にして、今日の聖書論に関する議論を「この座標軸」の中に整理し位置づける試みがなされている。考えさせられ、教えられるところが多々ある、大変優れた類比であるように思う。
もうひとつのポイントは、レストレーション運動等にみられる「現在における預言運動」に関連して目の留まった箇所である。それは、「聖霊の時代における聖書」という捉え方である。わたしは、基本的に、エリクソンやグルーデムのように「今日における主の語りかけ、助言、さとし等」といったものは、神学的には”照明論”のカテゴリーで扱うのが安全であると考えているが、その内容はバーフィンクやファン・ルーラーが示唆しているポイントに留意しつつ、もっと掘り下げられ、さらに広く展開されていく必要を強く感じている。
そのすべてを記すことはできないので、一点だけ紹介する。それは「霊感」と「内的照明」のセクションに記されている。「聖書と聖霊の関係理解を健全な神学的軌道の上に据え直す。‥『聖書は霊感されただけではなく、今も霊感されているのである。聖霊は、霊感の行為の後に撤退してしまったのではない…、聖霊は聖書を支え聖書に生命を与え続けているのである。‥聖書の文書化における霊感行為は、あくまで聖霊の有機的働きの”一つ”なのであって、聖霊のより包括的な働きの枠の中でこの霊感行為の働きも理解され位置づけられねばならないのである。』…聖書は霊感されてゴールに達したのではなく、そこから先へ先へと前進するのである。…聖霊の時代における聖書という命題は、聖霊の多様で包括的な働きの中で聖書を見つめる視点を設定する」と記されている。
アッセンブリー教団のある先生からいただいた「今日のレストレーション運動」問題に関する分析資料からは、教理面と実践面の「基本的に注意すべきポイント」が分析・評価されていて参考になり教えられる。
これに加えて、わたしが思うことは、より根源的な部分に光を当てていく必要があるのではないだろうかと思うのである。その光の当て方を、わたしはバーフィンクの聖書論とファン・ルーラーの聖霊論から教えられるのである。
これは神学会の東部講演でも語ったことであるが、そのひとつのポイントを以下に紹介する。
「フィリオクエ(そして、子より)の告白の不明瞭さは、重大な意味をもつ。フィリオクエが厳密に告白されないところでは、聖霊論はキリスト論との結合をゆるめ、聖霊論は相対的自立ではなく、文字通り、自立してひとり歩きを始めるに至るからである。その時、聖霊論は、”人間の霊”と化し、…。聖霊論は、常に危険の伴う領域である。…人間主義化への危険と隣り合わせである。そこに、聖霊論の困難さがある。聖霊論が、”人間の霊”の論と化さず、人間主義化しないための一つの重要なポイントは、…聖霊論とキリスト論との結合をゆるめないことである。フィリオクエの告白とその真理に固執することである。即ち、聖霊論をキリスト論的規定の下に厳格に置くことである。…更に進んで、キリスト論的規定の堅固さは、聖書の神的権威性の問題と不可分に結びついている。聖書の神的権威性を破棄すれば、イエス・キリストにおいて頂点に達した特別啓示の客観的真理を確保する道は失われるからである。我々にとって、”聖書を霊感された神の言葉と信じること”と”イエスをキリスト信じる”ことは一つのことであ。それ故に、キリスト論的規定の下に聖霊論を置くとは、霊感された神の言葉としての聖書の規定の下に聖霊論を置くことと密接不可分に結合している。」
わたしは、レストレーション運動の人たちを頭ごなしに「断罪」するつもりはないし、無原則な「融和主義」にも一線を画す立場である。やはり、「三位一体の否定」等を含む歴史が証しする数々の誤りは正しく分析・評価され記憶に留められる必要があるし、それらの誤りを生み出してきた”根源的な課題”の部分に神学的な光を正しく当てて、きちんと”治療”しておく必要があると思うのである。
わたしは、これまでに、エリクソンから学んだ神学的手法を用いて、「セカンド・チャンス論」、「霊の戦い」、「ディスペンセーション主義」、「キリスト教シオニズム」、「New
Perspectives on
Paul」、「レストレシーション運動」等、私の関連団体・諸教会が関係のある喫緊の諸課題を、健全な「福音主義神学の座標軸」の中に位置づけ、分析・評価し、争点・課題を明らかにし、建設的なガイドラインの示唆を試みてきた。
今後とも、聖霊の時代における聖霊の働きの構造的特有性に注目し、問題点を洞察し、聖書の神的権威性の保持とキリスト論的規定を厳格に貫きつつ、しかもなお「批判対象」の神学的思惟、また宣教面また実践面での優れた点にもある”真理契機”にも留意し学ぶ姿勢を保持しつつ、自らの信じる「福音主神学」の展開を試みていきたい。
【ICI落穂抄−20151206】旧約聖書 雅歌8:5a
(MP3)(WMA)「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれ―”今日の預言運動”検証のリトマス紙」
今日はアドベント第二週である。このような時に、恋人を待ちわびる乙女の心情を学ぶことが、ふさわしいのかどうか、迷うところでもあるが、クリスマスという処女降誕の日を待ち焦がれる我々にとって、雅歌を学ぶことは決して間違ったことではないと思われるのである。
そして、かえって新鮮な視点を我々に与えてくれると感じている。
先週も語った様に、雅歌は一章から七章で愛し合う二人の交わりの頂点を迎え、ある意味終わっている。八章は音楽で言えば後奏にあたり、田畑で言えば落穂拾いの段階である。ロバート・W.ジェンソンは有名な神学者であり、注解者であるが、「雅歌の作者は一章から七章を書き終えて、その後、浮かんだ諸々の断片が捨てがたく、八章の中に落穂の様に詩の断片を拾い集めたのであろう。」と言っている。
解釈者の多くが、詩の断片を無理やり繋げる人が多いところ、ロバート・W.ジェンソンはバラバラのまま一節一節を丁寧に解釈して、そのエッセンスを文脈の中で解釈していくという方法を用いているのが素晴らしい。そして、聖書をいかに解釈し、メッセージを取り出し、生活に適用するのかを教えてくれている。
8:5
この節は前後の四節、また六節と関係なく置かれている。そして、五節も前半と後半に分かれている。この事は、雅歌の豊かさの表れであるが、こんな調子では今年中に学び終える事は出来そうにもない。
この節と同じ様な表現は3:6 「煙の柱のように荒野から上って来る人はだれ。」と6:10
「旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」に見られ、ここで3回目となる。
「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」突然舞台に登場したこの乙女は誰なのか?しかも、この乙女は恋人の腕に寄りかかっている。字義通りに考えれば、なぜ荒野にいるのか?なぜ寄りかかっているのか?どこに行こうとしているのか?気になるところであるが、神学的な意味を聖書全体から探り、3:6-11,6:10の神秘的な雰囲気から考えると、乙女=イスラエルという事になる。
では荒野とは何なのか?エジプトを出てからカナンの地に入るまで、40年間放浪し続けた荒野の地である。この事がこの節のポイントでありエッセンスである。
イスラエルが荒野に現れた時、その方に寄りかかり、生き延びて、約束の地に入った。彼らが荒野で生き延びられたのは、「ただ主とつながって主なる神に頼っていた」からである。
マルチン ・ ルターは「何であれ、あなたの心をそこに掛けるものが、あなたの神である」と言っている。
私たちが自分の心を掛ける枝、その枝は信頼に耐えうるのか?重みに耐えられるのか?折れてしまわないのか?
イスラエルの歴史において、主なる神は本当にイスラエルに何をしてくださったのか?その事を考えると、主なる神の腕に頼ることで、確かに荒野の旅を乗り切ったという事実を見るのである。
私は先週、九州行きの新幹線に乗って、窓の外に流れる美しい景色を見た。しかし、時間が長いので、エリクソンの「キリスト教神学の要約本」を取り出し、翻訳作業に没頭した。その中に、「今日における預言運動」があった。
一つは、今日における神の語りかけを、「聖書においてすでに語られたことをTPOに即して照らし出し、御心を明らかに示す」照明の働き、すなわちイリュミネーションの働きである。そして、もう一つは、ペンテコステ以来神様が注ぎ・内住しておられる御霊によって「直接語りかけてくださる」預言、すなわちプロフェシィの働きである。
預言運動において、私たちのよりかかる枝とは何なのか?ヨハネ14-16章には、キリストご自身と御業を証しするものであること。また、ローマ6-8章にある様に、キリストの十字架の基盤に基づいていること。である。
教会でなされる預言は、キリストの人格と品性に基づき、第一テサロニケ五章にある様に、すべてのことを見分けて、本当に良いものを識別し品質管理すべきである。また、そこには今日における預言の終末論的不完全性の指摘がなされている。
事実、本物なのか偽物なのかを、きちんと管理出来ている教派とそうでない教派が存在する。霊と肉の混ざり合った、歪んだ物を預言だと言っている場合もある。
私たちは「この愛する人に寄りかかって、荒野を旅し、御国に生還を果さん」とする民であり、乙女である。(仁美記)
【ICI落穂抄−20151203b】「義認と審判」に関する一考察: Video-04「キリスト論と聖霊論の構造的差異」と落穂03
https://youtu.be/KbFwFeNTBFQ
Video-04とVideo-05とでは、「牧田資料」に言及している。今回の発表に関し準備を進めていく中で、「義認と審判」のテーマの根源的な部分に光を当てていこうとするときに、ファン・ルーラーの「キリスト論と聖霊論の構造的差異」の視点が助けとなった。この視点については、1989年〜1992年頃まで共立基督教研究所と東京基督神学校で宣教学と福音主義神学全般を広く学ばせていただいていたとき、『J.D.G.ダンの”イエスと御霊”に関する一考察』(Amazon,
Kindle)という論文を書かせていただいた。そのときに、和文、英文の優れた聖霊論の論文を広く収集させていただいた。そのリストの中に、A.A.VanRulerの論文もあった。なかなか集めることが難しかった時に、改革派神学校校長の牧田先生に手紙を書いたところ、すぐにA.A.VanRulerの論文の英語版を送ってくださった。わたしは大変親切な先生だと思い、心より感謝したことを覚えている。
そして、共立基督教研究所での「宇田神学」の学びを中心にした三年間の神学の研鑽を終え、郷里にもどって小さな開拓をしつつ、母校の関西聖書学院で再び教えることとなった。そのときに、郷里から関西聖書学院に行く途中に神戸改革派神学校があった。A.A.VanRuler研究の牧田論文に深く教えられるところがあったので、ときどき牧田先生の講演やセミナーに参加させていただくようになった。わたしは自身の取り組んでいる課題の解決に、牧田先生からは多くのことを教えられた。その後もずっと牧田先生の書籍・論文・資料・講義ノート、テープ・DVD等あらゆる教材をお分かちいただいてきた。これらの資料の”宝の山”のすべてをわたしは「牧田資料」と呼んでいる。
神さまはわたしに、二人の敬愛してやまない神学者を与えてくださったと思っている。「関東に宇田進先生あり、関西に牧田吉和先生あり」である。お二人から受けた”神学的な恩恵”は測り知れないものがある。そう思って感謝しつつ、今もなお”その資料の膝下”で学ばせていただいている。今回のビデオでもその一端しか紹介できないのが残念である。
【ICI落穂抄−20151129】 旧約聖書
雅歌8:1-4 (MP3)(WMA)「私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても―神への公然たる愛の制限される日は再び来るのだろうか?」
11月16日の、日本福音主義神学会
東部部会での講演に向けて、雅歌の説教を中断していたが、残りの8章をこのアドベントの時期に4回に分けて学びたいと思う。
7章で頂点に達した雅歌は、この8章で終演部を迎える。ロバート・ W
.ジェンソンによれば、8章の難しさは統一的に見る事が出来ず、「ばらばらの断片」が集められているかの様に見える所にあると言っている。
私は多くの教会でなされている霊的解釈の前に、この雅歌の学びをまず「字義的に、中東の恋愛詩として見る」事の大切さを感じ行ってきた。そこには、何故神様が「雅歌」という書物を聖書の中に入れられたのかを知りたかったからである。そして、その後に私たちが今の生活に適応するため、「霊的解釈」を学びたいと思う。
8:1 この聖句は今日の箇所の鍵となる聖句である。
乙女と若者の親しい交わりが、公に認められない。二人の間柄を秘密にしなければいけない。乙女は公然と付き合いたいのだ、若者を母の家に連れてきて深い交わりをしたいのだ。
8:2 庭やざくろは「花嫁自身」を表し、ぶどう酒は「愛の交わり」を意味する。
8:3
メソポタミアの恋愛詩では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり」の後の「右の手が私を抱いてくださるとよいのに」の箇所に、「右の手が花嫁の秘められた場所を愛撫する」言葉が続いている。しかし、聖書はそこまでは書かず、控えめに伏せられた表現にとどまっている。
8:4
二人が親しい交わりをした後「抱擁をそうしなければならない時が来るまで終わらせたくない」、そのままにし無理に解き放つ様なことはしないで欲しい。愛し合う二人をそっとしておいて欲しいと願っている。
8:1
さて、今日の箇所をイスラエルと神様、教会またはクリスチャンとキリストとの関係に置き換えて考えてみると、中東ならびに東欧・ギリシャ世界において、ある時代には、公にその愛を宣言出来ない時代があった。中東では多神教が信じられ、公然と唯一神の信仰を表明すると、残虐な扱いを受けた。例えば、カナンに侵入したイスラエルがそうであったようにである。イスラエルの王たちはたびたび妥協しようとしたが、その度、預言者が立ち上がり「神に立ち返る」よう促した。
現在でも、 イラク北部に住むヤジディ教徒や、北アフリカのクリスチャンたちが似たような苦しみの中にある。
世俗との妥協は土着宗教との混ざり合いを生み、これをシンクレティズムという。しかし、我々クリスチャンは公然と純粋な、神様への愛、情熱を持っている。
妥協すれば大きな虐殺は起こらなかったのかも知れない。どうして大きな犠牲をはらってまで、信仰の純粋さを保たなければならないのか?また、男女の愛も、だらしなく放埓にしていても良いではないか?どうして貞節を守らなければならないのか?
それは、信仰における妥協は永遠の破滅、男女の関係における放埓は共同体の破滅に繋がるからである。
アラム語による注解書「タルグム」では8:2を「信仰を隠す必要のない世界が来ますように!」と注解している。「その時には、天地が造られた時から取って置いた、ワインやざくろのジュースでお祝いしましよう」と書いている。いつの時代においても信仰者の切実な願いはそこにある。男女の愛の本質もまたそこにある。
現在では男女の「寝室での深い関係」は、「プライベートな領域」であって、他人が関与するものではなく、隠そうと思えば隠せるものである。しかし、雅歌では「隠す必然性」が、乙女と若者には「重荷であり障害」となっている。「人が愛し合う」こと、「人がどなたかを信じる」こと、これは「単に私的なこと」という意味をはるかに超えている。
「性の解放」は自由の象徴だと言われるかも知れないが、「社会の混乱と崩壊」をもたらすこともある。また、反対に社会勢力が国民を「圧力や暴力によって従わせよう」とすれば、「自由、民主的な信仰、賛美、祈り」を妨げることとなる。
日本の歴史を見ても、戦国時代から江戸時代にかけての「キリシタン迫害」、また、明治以降の「国家神道の台頭」が、その事を物語っている。
いつの時代においても困難な状況の到来は、難題の解決と克服のために、時の権力が暴力的になることが容認され歓迎される傾向をもつ。今、寒気団の到来に頬を突き刺す冷気に、そのような風向きを感じている。
我々クリスチャンは、8:1にあるように、いつでもどこでも心の底から、公に「主は我らの神である」と宣言したいと願っている。「自由な国家、自由な教会」への心の臓のはち切れんばかりの願望である。
「私は外であなたに出会い、あなたに口づけしたい!」―憲法改悪をもって、神への公然たる愛の制限される日が再び我が国に来るのだろうか?(仁美記)
【ICI落穂抄−20151127】「情報の提供、主要な争点の指摘、福音主義的ガイドライン」
*
東部部会での奉仕を終えて、少しずつ「落穂拾い」をしている毎日である。ただ、集め切れないほどの「落穂」が田畑に散らばっているだけでなく、「刈り取り」すらできていない「立ち穂」が一面に広がっているのを眺めて呆然としているところがある。取り合えずビデオセクションごとに「一本ずつ」でも拾い集めることができたらと自らの力不足を慰めている。
*
それとともに、並行して取り組んできた、家内との共著の『雅歌』書講解シリーズのキンドル版出版の準備を進めている。「古代中東の男女の恋愛詩」としての視点からの「雅歌」書講解は、これからの福音派諸教会の雅歌書解釈において「ひとつの指針」となればと願っている。
*
そして、東部からの奉仕依頼の直前まで取り組んでいたM.J.エリクソン著”Introducing Christian
Doctrine”3rd Edition
の翻訳の再開がある。今日、ようやくその下準備を始めたところである。東部の奉仕との関連では、pp.366-368 にNew
Perspectives on Paul
に関する言及がある。また、昨年の「福音主義神学」誌の論文『福音主義イスラエル論』と今年の初めのG.E.ラッド著『終末論』において取り組んだ「ディスペンセーション主義、キリスト教シオニズム、レストレーション運動等」の諸問題、また『霊の戦いに関するナイロビ声明』問題等、ここ十年ほど前からの取り組みが、YouTubeでの視聴回数の急増からみて、広く関心を呼んでいることに気づかされ、私のすでに取り組んできたこと、また今取り組んでいることが間違っていないと知り、大きな励ましを受けている。
*
エリクソンの翻訳を再開して、エリクソンの、問題意識、取り組み、分析、評価等から、わたしと似ていることを再び教えられた。「ディスペンセーション主義」聖書解釈法問題への取り組みは、エリクソンの”
Contemporary Options in Eschatology = A Basic Guide to
Eschatology”を丁寧に読んだことから始まり、それは「キリスト教シオニズム」問題の取り組みへと発展していった。
NPP問題に関しても、大まかではあるが「優れたガイドライン」の示唆、取るべきスタンスのあり方をエリクソンから受けた。
*
今回、”Introducing Christian
Doctrine”3rd Edition の「第30章
聖霊に関する近年の諸問題」pp.317-327からは、「聖霊と今日の預言、聖霊と世界の他の諸宗教、聖霊と他の諸霊」への言及箇所がある。これらは、わたしが、数年前「レストレーション運動」問題を扱ったときに取り組もうと関連書籍をかなり収集したときに抱いた問題意識に触れた内容であった。その意味で、わたしの取り組みはエリクソンの取り組みと重なりあう部分が多々あるように感じている今日この頃である。
*
そうそう、エリクソンは、「聖霊と諸霊」のテーマの扱いにおいて、わたしが翻訳し、正木牧人氏が補論を執筆してくださった『霊の戦いに関するナイロビ声明』をきわめてバランスのとれた文書として評価していることを知って、大変嬉しく思った。わたしの取り組んでいることが、確かな神学者の人たちから評価を受けていることに対し、思わず「主よ、感謝します」と主に感謝をささげた。
*
そして、残された奉仕生涯の十年、ないし十数年を、今日混迷状況にあるさまざまなテーマに関し、「情報の提供、主要な争点の指摘、福音主義的ガイドライン」、つまり「よどんだ淀川の水を、識別・ろ過して飲める水」とする浄水場のような役割・機能を果たすべく小さな努力を重ねていきたい。そう思うのである。
【ICI落穂抄−20151125】「義認と審判」に関する一考察: Video-03「救済論のパースペクティブから」と落穂02
https://youtu.be/UQBIT5xQNEE
東部での講演を終えて、早一週間を経た。四ヶ月の準備に比して、一時間の講演というのは、実った田畑の「初穂」のみを刈り取って、その大半はまだ手付かずのような気がして、ビデオのセクションごとに幾本かの「落穂」を拾い集めようとしたが、結構な労力がかかり、Video-01-02に対しては「落穂01」のみとなってしまった。
今日は、Video03において「落穂02」を拾い集めたい。このビデオでは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』の「第十章
恵みについて」pp.364-403 と、H.ベルコフ著『聖霊の教理』の「第四章 聖霊と個人」pp.103-148
とに言及している。Video02で語った時間はわずか二分半であるが、目配りした領域は広範囲にわたっている。講演一時間、「第一部
状況―救済論のパースペクティブから」20分の中の時間配分で「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」に時間をさくために圧縮して話すこととした。ただ、今テーマの扱い方―「絶えず”鳥瞰図的視点”を見失わない」を確認した意味は大きいと思う。
*
ここで心に留まっていることを少し話しておきたい。ペールマンは、
A.
前提…この箇所で、新約聖書における「救済論」概念の多様性に言及し、また古代、中世、宗教改革、トリエント公会議、ルター派正統主義、敬虔派、19-20世紀の状況に言及している。
*
B.
現代の論争…今日における「救済論的問題提起」として、@二元的か、一元的の恵みの理解、➁宇宙的か、あるいは個人的な恵みか、➂恵みと予定、C恵みと自由、D報いと恵み、E信仰と行為、F義認―法的かそれとも成果的か、G聖霊の機能
*
C.
要約…H.G.ペールマンは、義認の使信について、「神の救いの行為である聖書の中心に突き当たっているはいるが、聖書の中心そのものではない。新約聖書には義認以外にも、この救いの行為を書き換えたような“救済論概念”がある。義認は、新約聖書の唯一の、おそらくまた最も重要な“救済論概念”でもないけれども、それがはっきりと語られる個々人に、救いの“実存的鋭さ”をこれほどはっきり表現しているものは、ほかにはほとんどない。綜合的判断を表現する義認は、法的・転嫁的であり、また成果的と理解されねばならない。それは、宣義であると同時に、義化である。このようにして一回的行為と漸進的過程が一つになっている。<義人にして同時に罪人>は、先天的基本命題ではなく、ただ後天的経験命題であろうとしている。キリストは、ただ単に救いの根拠であるばかりではなく、救いの財産である。聖霊は、現臨のキリストである。聖霊によって、私は、今ここで、神がキリストにおいて現臨することを感じ、かつ経験する」(『現代教義学総説』p.403)と記している。これを読むとき、“義認の使信”の解釈における、ひとつの“包括的な視点”を教えられる。
*
わたしが、「義認」について議論するときに、絶えず”鳥瞰図的視点”を念頭に置く必要があるというのは、よく「自分の立場や理解」を絶対視してなされる”水掛け論”的な議論を目にするからである。これはあまり実りの多いやり方とは言えない。対話や議論をするときには、「相手の立場や理解」を知ることが必要である。そのためには過去二千年と今日なされている議論の”鳥瞰図”を得、それらの議論を「神学的議論の座標軸」に正しく位置付けることからは始める必要があると思うのである。そして自らのルーツとアイデンティティを大切に守りつつ、しかし同時に「ある意味で相対化」し、両者にとってより本質的な要素とは何なのかを探り続ける努力が必要であると思うのである。
*
また、ベルコフは、
A. 歴史的変遷
B.
支配的概念-再生
C. 義認と聖化の道
D. キリストと共に死にまたよみがえる道
E. 再生と経験
F.
再生の第三の要素は?
に言及している。この箇所については、すでに「ヘンドリクス・ベルコフの”義認・聖化・召命”論」のビデオ講義・講演等で繰り返し話しているので、そちらを参考にしていただきたい。
*
二分半のビデオ講演であるが、これを機会にペールマンとベルコフの上記の箇所に目を通していただくと益するところが多々あると思う。
※全部まとめて視聴したい方は、『義認と審判』に関する一考察: ローマ2:13の解釈を軸として
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【ICI落穂抄−20151121】「義認と審判」に関する一考察 Q&A
まずは、遠方の群馬県より講演に駆けつけてくださった丸毛さんの質問を扱いたい。これは、20に分割したビデオ講演の最後に話したものであるが、最初にお答えしたい。
*
Q: 終末論的パースペクティブについて、再度お聞きしたいです。
A: 集会の質疑でもお答えさせていただいた内容と重なると思う。そしてそれをベースに関連文献を紹介したい。
「終末論的パースペクティブ」とは、「終末論的眺望」という意味です。「未来の事柄」を「今の現実」のものとして、「時間の枠から自由」とされ、「神の視点から遠くを展望」することのできる大いなる場所にたつこと、つまり信仰は私たちを神の約束と希望という「展望台」に立たせ、神の光のもとで人生と歴史を見るように導くということです。以下のものは、宇田進「終末論」論稿、『新聖書辞典』いのちのことば社よりの抜粋です。「終末論的パースペクティブ」のエッセンスがよくまとめられていると思います。
「聖書は,終りの事柄はすでに開始されたという視点を示している.特に次の3点に注目しなければならない.
(1)終末論と歴史.
・世界は神によって造られたという創造の信仰に立つがゆえに,歴史は重視され,歴史は神との関係において扱われる.
・それのみでなく,歴史は神の目的と計画の展開過程と見られている.神はまさにこの歴史において御自身の御旨を啓示すると共に,それを実現する(詩78篇).
・イエス・キリストは歴史の決定的中心である.
・イエスは旧約預言のメシヤ的待望の成就である.
・時の充満としてのキリストの出来事において(ガラ4:4),天地万物はその中心を見出し(コロ1:16‐17,20),前述の通り,最後の勝利の日(Vデー)に通じる決定的な戦闘の日(Dデー)は戦われたのである.
・たとえば,すべての死者の復活の「初穂」としてのイエスの復活(Tコリ15:20)は,終末時あるいは究極的なもの(エスカトン)の歴史的現れである.
・また,永遠の時間化としてのキリストの到来は,歴史の真の意味を開示する出来事である.
このように,キリストは終りの新時代の幕明けを告げられたが,それの完成はなお未来であると信じられた.
(2)神の国.
・「神の国」あるいは同義の「天の御国」は,イエスと使徒たちの使信において中心的な位置を占めている(マタ3:2,マコ1:15,ルカ11:20,使8:12,28:31).その基本的な意味は神の支配ということであり(詩96:10‐13,ルカ1:32‐33,22:29,23:42),
・神の国は,すでに実現されつつある現在面と未成就の未来面の2面を持っている.
・これらのことから明らかなのは,「最後のもの」「後にやがて来る世の力」(ヘブ6:5)が歴史の中に突入したということであり,神の隠された支配が現され,来るべき時代が到来したということである(使2:16,Uコリ5:17.参照コロ1:13).
・だが,同時に,神の国は未来のこととも言われている.
・このような人間,歴史,全宇宙をその視界の中におさめている神の国の完全な出現とその完成は,未来つまり「次に来る世」に属すると考えられている.
(3)終末論と聖霊.
・聖霊は,聖書の終末論において重要な位置を占めている.
・パウロにおいても,聖霊は終末と密接に結びついている.信者が受けている聖霊とそのすべての賜物(回心,罪の赦し,神との交わり,信仰の喜びなど)は,来るべき祝福の「初穂」(ロマ8:23),つまり「来るべき栄化の第一部,御国の前味」(H・ベルコフ)と見られている.
・また,聖霊は「御国を受け継ぐことの保証」(Uコリ1:22,エペ1:13‐14)であるとも言われている.
・これらのことから明らかなことは,聖霊はキリストと共に終末の初めの実であり,同時にすでに始まった終末の完成を準備しつつ,それに達しつつある,ということである.
以上のように,聖書の歴史観,神の国観,聖霊観は,終末がすでに開始されたことを明らかに示している.」このような「眺望」のできる展望台に立って、聖書は解釈していく必要があるということです。
上記のことを、さらに詳しく学ばれたい場合は、Anthony A. Hoekema, “The Bible and the
Future”
の第一部「開始された終末論」1.旧約聖書の終末論的眺望、2.新約聖書の終末論の性質、3.歴史の意味、4.神の国、5.聖霊と終末論、6.「すでに、まだ…ない」の緊張、をpp.1-75が最良の資料と思います。
【ICI落穂抄−20151121】「義認と審判」に関する一考察: Video-01と落穂01
https://youtu.be/3_mfbTcrkRg
今回の「義認と審判」というテーマにおける「終末論的パースペクティブ」において念頭にあるのは、私たちが「現在」の時点でイエス・キリストを信じ「義と認められる」(3:26,
4:5)ということと、「最後の審判」の時点で「義と認められる」(2:16, 14:10,12)
ということの関係、そしてその審判のときに「キリストのみわざ」のみが「義認」審理の材料となるのか、「御霊にあるわたしたちクリスチャンの善行」も「義認」審理の対象となりうるのか、という課題です。
ここで、「義認」審理というのは、「永遠の滅び」か「永遠の救い」か、を分ける「有罪」「無罪」の、聖なる神の峻厳に満ちた義なる判決を指している。私たちが確認すべきは、パウロはこの重大な「義認」審理に関して不明瞭なメッセージを書き残したのか、を問うています。わたしの講演において示した「2:13と8:4」の聖書解釈は、パウロは「義認」審理において「キリストのみわざ」以外の根拠を示していない、ということです。
そして、「キリストのみわざ」を根拠として「すでに義と認められた」(5:1)わたしたちは、「義認」を基盤として「御霊の実」を結実していくよう召されているのです。この「御霊の実」は「栄光と誉と平和」(2:10)、「報い」(1コリ3:14)、「清算」(マタイ2514-46)の対象であると考えます。
わたしは、N.T.ライトの著書の愛読者ですが、ライトが使用している「義認」を含む多くの用語は、わたしたちが身に着けてきた「用語の定義や意味」と異なる部分があることを知って読まないと、福音理解の根幹の部分で「不幸な誤解」が生じるのではないかと懸念しています。その意味で、N.T.ライトの著作はおいしい「ふぐ料理」の食べ方と類比できるかもしれません。
【ICI落穂抄−20151121】「義認と審判」に関する一考察 Q&A
わたしは、結婚以来、35年間、J.D.G.ダンの著作集の愛読者である。というのは米国への神学研修を兼ねての新婚旅行中に、ダンの名著”Jesus
and the Spirit ”
に出会ったからである。その本に魅了されたわたしはダンの数多くの著作を収集しつつ、共立基督教研究所の宇田進師の下で「James.D.G.Dunn
の ”Jesus and The Spirit” に関する一考察」 [Kindle版 99円]
を書き上げることとなった。ダンの著作集はわたしにとって非常に読みやすく新鮮な刺激に満ちたものであった。New
Perspectives on Paul
の課題については後日知ることになった。この課題をわたしの神学的営みの中でどう扱えば良いのかについてはまだ試行錯誤中である。昨今、それに関連して
N.T.ライトが注目されるようになってきた。わたしもすでに数多くのライト著作集を集めている中、『クリスチャンであること』が邦訳刊行された。同僚の教職者からN.T.ライトについて意見を求められることが多くなった。それで、N.T.ライトの著作に関する批評に目配りするようになった。日本福音主義神学誌編集委員会でもこのテーマを、バランスを取りながら扱ってきている。わたしも遅ればせながら、今回の講演を関連文献を数多く収集し、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」考え抜く機会とさせていただいた。少し、全体のパースペクティブとエッセンスが見えてきたような気がしている。しかし、まだ目配りが行き届いていない分野が多々残されたままである。そこで、思いついたことは、講演ビデオを部分的に紹介しつつ、その扱った範囲の中から残された課題の幾つかを扱ってみたいということである。つまり、四ヶ月前に種まきし、水を注ぎ、成長させて刈り取ったのだが、それは「輪郭とエッセンス」だけであったので、講演の各パラグラフにおいて「借り残した」落穂を拾い集めてみようと考えたのである。週の半ばにビデオを部分掲載し、残りの日に「落穂拾い」をしようと思う。まとめて視聴したいと思われた方は、DVDがあるのでご購入願いたい。(注文先:aguro@mth.biglobe.ne.jp)
【ICIインフォメーション・メール
20151119号 『義認と審判』に関する一考察 DVD講演録【高画質二枚セット】20ページの詳しいレジメ付き、送料込みで2000円のご案内】
『義認と審判』に関する一考察: ローマ2:13の解釈を軸として講演60分、質疑20分
のDVD講演録【高画質二枚セット】、20ページの詳しいレジメ付き、送料込みで2000円のご案内、NPPに賛否両論ある中で、両方の立場の方が参加されていましたが、両方の立場を深い次元で取り扱う講演はおおむね双方の方に好意的に受けとめられたようでした。
今般、注目されているN.T.ライトについても各所で言及しています。N.T.ライトを愛読される方、警戒されている方、双方にとって、ひとつのガイドラインとして活用していただける内容となっていると思います。
講演「アウトライン」【印刷不可、閲覧のみ】
希望される方は、下記の安黒までメール等にてご注文ください。
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20151116 | JETS東部神学会 | 安黒務 | 『義認と審判』に関する一考察: ローマ2:13の解釈を軸として |
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YouTubeサイト、FaceBookサイトでシリーズとして公開 | DVD講演録・質疑応答[90分]=2000円(レジメ・送料込) |
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【ICI落穂抄−20151115】 新約聖書
ローマ8:4 (MP3)(WMA)「義認と審判―講演前味➁『御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる』ことの意味」(説教バージョン)
明日はいよいよ、11/16である。準備期間の四ヶ月は、あっという間であった。明日の福音主義神学会
東部部会主催の神学講演会に向けて、今日は「義認と審判―講演前味➁『御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる』ことの意味」(説教バージョン)と題してメッセージをさせていただきたいと思う。講演準備の恵みを分かち合うとともに、明日の講演を祈りのうちに覚えていただくためである。
4ヶ月前にご依頼頂いた、日本福音主義神学会 東部部会の秋季研究会での発表が、明日になった。
私の発表議題は「義認と審判」である。
私たちの神様は聖く正しいお方である。そして、私たちは死後、全ての人が神の法廷の裁きの座に着かなければならない。
律法の中に、神様の聖い御心が表されている。しかし、この律法によっては、誰も義と認められない。さらに、キリストはこの神様の律法である「十戒」を、解りやすく教えられた。すると、「殺してはならない。」という事は、「人を憎しみの目で見てもならない。憎しみは殺人の種である。」と教えられた。また、「姦淫してはならない」という事は、「情欲をもって人を見ることは姦淫と同じである。」と教えられた。
神様の聖さはとてつもなく聖い。この基準では誰も義と認められることは出来ない。しかし、そんな私たちのために、キリストは十字架に架かって身代わりの刑罰を受けて下さった。このキリストを信じるなら、その信じる信仰を義と認め、救ってくださるのである。
では、私たちはどこまでも罪を犯して良いのだろうか?「絶対にそんなことはありません。」とパウロは言っている。キリストを信じて生きるということは、律法を成就しようとする生き方に変わるのだという事である。どこまでも赦される無限の赦しと共に、キリストを信じる者には、死と葬りの力が働くというのである。
8:4
「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」私たちの努力によって、律法の要求を全うすることは、誰にも出来ない。(ロマ7)
しかし、汚れた心の只中に、イエス・キリストの御霊が生きて下さっている。
ガラテヤ5:14に「律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」とある。愛が律法を全うする、他の人を愛することが律法を全うするというのである。
クリスチャンは律法を全う出来るのか?ローマ7章に言われている様に、罪の性質をまとっており、生きている限り成就し得ないのではないか?神様の期待に応えきれないのではないか?では、神の期待とは何か?ある人は、聖書はそんなに高い要求をしていないのではないか?と言う。パウロは「むさぼってはならない。」と言われると、ますますむさぼりを引き起こす自分を発見している。
しかし、神の御心は律法を100%成就することを求めておられる。また、神の御心は高いところにある。
ローマ8~13章には、クリスチャンの不完全性にも言及している。ただ、隣人愛に生きよう!争いと妬みの生活を避けよう!と、神の御心に従う程度によって、律法を全う出来るのである。私たちはキリストと共に、死に、葬られ、復活させられた。愛すること、従うことは人によって程度はさまざまである。現在は中途半端な従順かも知れないが、それらすべてが「終末論の光の中で、復活の時点で完成される」方向において希望をいだいている。
クリスチャンが最後の審判を受ける時、生きている間の行為が重要だと考える人がいる。しかし、私たちクリスチャンは十字架の御わざという土台の上に立ち、与えられた御霊によって御霊の実を結ぶ。Iコリ3:12-13にある様に、キリストの贖罪の基盤があってこその焼き尽くせない物、これは、御霊の実である。(仁美記)
#20151116
『義認と審判』に関する⼀考察:
ローマ2:13の解釈を軸として
*
参加への「呼び水」となればと思い、「第二講演」のアウトラインのみ案内させていただきます。(安黒)
*****
日本福音主義神学会・東部部会・秋期研究会
11月16日(月)14:00-17:00
御茶ノ水クリスチャンセンター8Fチャペル
主題: 「肉」、義認、そして裁き
・第一講演:
モーセ五書における「肉」の象徴的意味(平塚治樹氏)
・第二講演: 『義認と審判』に関する⼀考察:
ローマ2:13の解釈を軸として(安黒務)
***** 第二講演 アウトライン *****
1.
状況ー救済論のパースペクティブから(20分)
_• 「東海の、⼩島の磯の⽩砂に、われ泣きぬれて、蟹とたはむる」(⽯川啄⽊)
1. 招きと要請(テーマ)に対する感謝
_a. 基本的な願い
_b. 最初に手掛けたもの、ギヤチェンジ
2.
より広いパースペクティブから、より狭いエッセンシャルなポイントへ
_a.東海の: H.G.ペールマン
_b. 小島の:
H.ベルコフ
_c. 磯の白砂に: 牧⽥吉和
___1. 「救済論」講義ノート
___2.
A.A.ファン・ルーラー「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」
___3.
牧⽥論⽂「改⾰派教義学と聖霊論ー改⾰派神学の新しい可能性を求めて
_____1. 聖霊の時代における聖霊の働きの構造的特質
_____2. ファン・ルーラーの聖霊論の課題
_d. 蟹とたわむる:
N.T.ライトの主張ー「信仰者に対してのキリストの御業が”聖霊によってもたらされた信仰者の業”と⼀緒になって罪⼈を義とする”justify”」の扱いを念頭に置きつつ
※ちなみに、M.J.Erickson のNPP問題に対するスタンスは、”Christian Theology” 3rd
Edition,pp.887-890
*****
2.
「軸(山ほととぎす)」としてのローマ2:13の解釈ーキリスト論のカテゴリー(20分)
_•
ロマ2:13「神の前に…律法を⾏う者が正しいと認められる」
1. 義認と審判︓不敬虔な者の義認ー代替アプローチ
_a.
最後の審判の脈絡における義認(2:13)
_b. 義認とは、神の法廷で下される審判に関わることである(2:5,16)
_c. 神の法廷における規準は、律法つまり神の法である。
_d. まとめ
2.
ローマ⼆章における三つの解釈を検討するー3:20を念頭に
_a. 三つの解釈ー「⽭盾」説、「仮説」説、「異邦⼈クリスチャン」説
_b. 修正「異邦⼈クリスチャン」解釈に向けてー8:4を念頭に
_c. まとめ
*****
3.
「展開(こだま)」としてのローマ8:4の解釈ー聖霊論のカテゴリー(20分)
_•
ロマ8:4-「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる」
_1.
パウロにおける「まっとうする」という⾔葉ー⾁の只中への内住アプローチ
___a. クリスチャンの愛に関する三つの箇所
___b. 異論ークリスチャンは完全にまっとうできるのか
2. 「クリスチャンの従順」についての解釈ー神律的相互性の機能
___a. 律法の要求の⽔準
___b. クリスチャンの「無罪」の基盤?
3. まとめ
*****
4. まとめ
_• 「谺(こだま)して⼭ほととぎすほしいま」(杉⽥久⼥)
1.
キリスト論的規定に根差した聖霊論ー終末論的パースペクティブへ
2.
状況と争点を押さえ、自らの”信念体系”を確認し、⼀層掘り下げる
_1. 広範なパースペクティブの視点から考え抜く
___a. 聖書と教会史のパースペクティブから
___b. 救済論的パースペクティブから
___c.
キリスト論的視点と聖霊論的視点から
_____※「フィリオクエ」告⽩: 厳格に、キリスト論的規定に置いた聖霊論の重要性
___d. 終末論的パースペクティブから
2. また、⽴場の異なる人々の問題提起にも
___a. 真理契機を認識し、
___b. ⾃らの神学の中にそれらを正しく位置づけ、
___c. 真の神学的解決を示すことにより、
___d.
⾃らの神学の成熟に役立てる
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20030713 | 西宮福音教会 | 安黒 | JECに与えられた「恵みの特徴―土台と建物」: キリスト教神学の視点から | サマーセミナーPP | YouTube | サマーセミナー |
#20151108
ICI落穂抄−20151108】 新約聖書
ローマ2:13 (MP3)(WMA)「義認と審判―講演前味@『神の前に、律法を行う者が正しいと認められる』ことの意味」(説教バージョン)
最近ずっと、雅歌のメッセージを続けてきたが、来週16日の福音主義神学会
東部部会主催の神学講演会に向けて、今週、来週と「義認と審判―講演前味@『神の前に、律法を行う者が正しいと認められる』ことの意味」(説教バージョン)と題してメッセージをさせていただきたいと思う。講演準備の恵みを分かち合うとともに、当日の講演を祈りのうちに覚えていただくためであ。
4ヶ月前、7月の中旬に、東部部会理事長の大坂先生から講演の依頼をいただき、11月16日東京のお茶の水クリスチャンセンターにおいて、講演させていただく運びとなった。
テーマを絞るのに1ヶ月、サブテーマを絞るのにもう1ヶ月、そして、準備をしているうちに、アッと言う間に後一週間となった。
テーマは「義認と審判」 このテーマがもつメッセージを聖書のみ言葉から立証する、これが今回の私の目標である。
2:13
「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」
このみ言葉を軸として、話したいと思う。
2:5
聖書には、「神の正しいさばきの現れる日」が来ると言う。また、2:16に「神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とある。
ヘブル人への手紙に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とある様に、私たちは、死後に審判されるのである。神は正しい裁判官であられ、神の法のもとに、目に見えることも心の中の目には見えないことも、さばきを受けるのである。
では、すべての人をさばく基準とは何か?それは、神の律法である。そこには、えこひいきは無く、すべての人は平等に裁かれる。
神は聖い方であり、宇宙全部と神の像に人間を造られた。しかし、最初の人間によって罪が入り、人間は罪を犯す者となった。
そこで、神はイスラエルに「十戒」を与え、「唯一の神を愛せよ!」そして、「隣人を、自分と同じ様に愛せよ!」と言う律法をお与えになった。この他、十戒に加えて民法、刑法、儀式法などが整えられていく。
神の律法を、神のみ心をどの様に実践していったら良いのか、その深みについて、キリストは「山上の垂訓」において、十戒をわかりやすく解説しておられる。私たちはキリストを通して、旧約の律法の深さを知り、自分の罪深さを知る。「すべての人は罪人であり、正しい者は一人もいない」3:9,10という事を知る。
だが、3:21にあるように、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」とある様に、イエス・キリストを信じる信仰による義が示されている。
有罪性が認められる以上、正しい法の執行が行なわれるべきである。そして、正しい裁判官であられる神は、本来なら、人間に対して「有罪」と宣告せざるを得ない。しかし、3:24
「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに(律法とは別に)義と認められるのです。」とある。
つまり、私たちが死後に神の大法廷に立っても、弁護士として弁護して下さるイエス・キリストがおられるのである。
そして、私たちがこの事を信じる、この「信心(行為)」が素晴らしいのではない、それは私たちが依り頼む手段にすぎない。大切なことは、「赦しの根拠がキリストにある」ので有効とみなされるのである。
では、3:31
「私たちは信仰によって律法を無効にする事になるのでしょうか。」という問いに対して、パウロは「絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と答えている。
私たちが信じているのは、「キリストの贖いの犠牲」を信じているのであって、その結果、聖霊が私たちの内におられ、「神の法的な聖い支配によって生かされている」という事である。これが、ローマ1-3章のストーリーである。4-8章は次週、「律法確立の根拠」について分かち合いたい。また、奉仕の最後の準備ために祈っていただきたい。(仁美記)
【ICI落穂抄−20151104】『キリスト教神学』講義録 「第十部 救い:第34章
救いの継続と完成➂:ヘンドリクス・ベルコフの「義認・聖化・召命」論の中に、ホーリネス的強調とペンテコステ的強調を位置付ける―関連の特別講義『健全な神学に立つ―私自身の足跡から』(PDFアウトライン) 一般視聴者用(有料視聴)時間/価格 ICIサポーター用
https://youtu.be/WzGrLvMrx_s
2006年4月20日に、母校である関西聖書学院の三週間コースの期間中にした特別講義である。新入生と三週間コースの信徒の方に分かりやすく語るために、「私自身の足跡から」お話しすることにした。ただ内容は「義認・聖化・召命」の福音理解を含め、神学全般にわたって言及している。
わたしの捉え方は、「教会成長やリバイバル」は大切であると考えるが、第一義的に重要なことは、「@聖書的・教理的要素、➁歴史的要素、➂社会・文化的要素」という順序になる。どんなに教会が成長していても、どれほど大きなリバイバルであるとしても、その運動と教えが「聖書的・教理的」に逸脱した傾向や要素を内包した運動であることを「歴史的」に明らかにしている場合、私たちは「その数や規模」に圧倒されてはいけないと思うのである。
教会の歴史は、外からの迫害と内部での誤った教えとの闘いの歴史であることを覚え、私たちの運動や教えを、聖書神学的・歴史神学的・組織神学的に「健全な文脈」の中に位置づけ、そのかじ取りを「微調整」し続ける努力を怠ってはならない。エリクソンは「飛行機の飛ぶ角度のわずかな誤差は、何千キロメートルの飛行の後に、どんでもない所に着陸することになる」危険を記している。これらの内容に関心のある方の学びに役立てていただければ幸いである。
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2006/04/20
関西聖書学院
安黒務
「健全な神学に立つ」特別講義
YouTube
特別講義
この世では、男女の「性的な愛」は汚らわしい物、恥ずかしいものと捉えられている面がある。そして、教会でさえも、口にしてはならない物、伏せておかねばならない領域と受けとめられることもある。はたして、そうなのであろうか?
雅歌を見ると、創世記において神様は男と女を造られ、「産めよ。増えよ。地を満たせ。」と男女の性的交わりは聖いもの、祝福された賜物であると書かれている。エデンの園において、神の栄光、聖霊の光の中で、性の交わりは開けっぴろげに描写されている。
7:10,11
ここは、6:3の繰り返しの様に見えるが、2行目が違っている。また、2:10-14で、花婿から花嫁に「さあ、立って、出ておいで。」と言っていたのとは反対に、今度は花嫁から花婿への呼びかけの言葉となっている。「さあ、野原の他の人の目の無い所で、二人で楽しみましょう」と・・・。
花婿の熱烈に恋慕う思いに、花嫁は応えたいと思っているのである。
7:12
「朝早くから」というのは、待ち切れない思いがそこにみえる。ぶどうの木やざくろの花は「性的な、女性の身体的な魅力」をする時に用いられる。花嫁の愛は園でささげられる。
7:13
「恋なすび」とは、マンドレークのことである。ナス科に属するもので、その科の中にジャガイモも属している。その果実はリンゴの様な形をした小果実であり、酔い心地になる物質を含んでいる。そして、この実の匂いはとりわけ神秘的な、愛促進的な刺激力がある。
「古いのも」、「新しいのも」と、
花嫁には前から知られている魅力だけではなく、まだ、知られていない魅力があり、それは、花婿のためにだけ取っておいた物である。彼女は貞節を守っていたのであり、そのすべてを差し出し、二人は最も深い体験の中に導かれていく。
雅歌の解釈をする専門家の中には、雅歌は「ふたりの交わり」の頂点として、この7章で終わっても良いのではないか、という考え方もある。しかし、頂点の後、8章が綴られ「文学的な終止和音」が響いている。
神様とイスラエル、神様とクリスチャン及び教会の関係は、男女の性が結婚という形によって、清く美しく保たれる様に、お互いがお互いを「独占的に所有」しようとするものである。その事を詩の形式を用いて表現する雅歌では、率直な思いや自然な歓喜の歌、男性だけではなく、女性の側からも積極的にアプローチするなど、神様が「私たちの独占」を望むだけでなく、私たちも「神様を独占」したい、そういう「神との合一」を熱望するものである。
あくまでも主導権は神様にあるのだが、イスラエルまたは教会及びクリスチャンは、神様の思いに応えようと準備し交わっていく。それは”神律的”、つまり神様のイニシアチブに導かれるのであるが、”両性の合意”というかたちを通してなのである。
現在の”不完全性”と未来の”パーフェクション”の間で、主との素晴らしい交わりが「エデンの園」の様に育てられ完成されていく。神様が私たちに求める「終末論的な関係」は、雅歌に描かれたごとく「愛の香り」が漂うものである。現在の「男女の不完全な愛」は、キリストの十字架に示された愛によって、お互いが拘束力を持つ中においてのみ保持され育つ愛である。拘束力のない「自由な愛」は持ちこたえることができない。どんな共同体も「性の無秩序」を生き延びることはできない。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ
19:6)
一般視聴者用(有料視聴)時間/価格 ICIサポーター用
https://youtu.be/K_xWzvmZo6Q
ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』は、KGKの交わりの中で救われ、養われていたわたしにとって、所属団体の「ふたつの聖霊経験」の強調点を「福音主義神学」の脈絡の中でどのように理解し、位置づけ、受け入れていったら良いのかを教えてくれた貴重な書籍である。わたしは、この「義認・聖化・召命」のメッセージを神学校講義のみならず、諸教会の礼拝やセミナーで分かち合ってきた。関連してそれらをも紹介したい。これはわたし自身の「福音理解」の骨格を示すものである。
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20070508
安黒
第34章
救いの継続と完成➂:ヘンドリクス・ベルコフの「義認・聖化・召命」論の中に、ホーリネス的強調とペンテコステ的強調を位置付ける
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ヘンドリクス・ベルコフの「義認・聖化・召命」論
7:6 花婿は、過ごしたばかりの初夜を思い出しながら、花嫁を褒めている。 ヘブル語の「慰め」(バッタアヌーギーム、タアヌーグ)には、「繊細で、豪華で、エロチックな楽しみ」という意味がある。
花婿は、愛の営みの楽しさと喜びを思い出し、快い、上品な表現を用いている。
7:7 花嫁はなつめやしに例えられ、気品があり、すっとして、恵みと優雅さを兼ね備え、生命力に満ち若々しい。
乳房には張りがあり美しい。
7:8 なつめやしを収穫するには、木に登らなければならないが、その実は甘く香り高く、非常に美味しい。そのためにはどんな高い木にも、人間は登るのである。
この花婿がつかみたい枝とは、花嫁の髪の毛であり、花婿は花嫁を抱きしめる時に彼女の髪を手にし、そこに顔を埋めたいのである。
花嫁の乳房はぶどうの房の様に、はちきれそうである。
Marvin
H.Pope は、雅歌の注解書の中で、息とはウガリット語でアプと言い、乳首または、城門の開口部を指し、乳首あるいは、女性の秘められた場所を表すと考えている。 りんごの香りは、花嫁の使う香料を指すと思われる。
7:9 あなたのことばは、口づけまたはささやきを意味し、深くしっとりして甘く、良いぶどう酒の様である。
二人はお互い、愛のぶどう酒に酔い、後味を楽しみながら、もうろうとなって眠り込んでしまう。
さて、今日の箇所を霊的類比として考えてみると、この7章は最もあからさまに、性的交わりを表現した章である。
創世記において、男と女が創造され、一心一体となる様、神様は望まれた。ここには神の奥義がある。
古代、地中海地域では、宗教や哲学というものは、地上から隔絶された、冷たく、さめた、理想の物という認識であった。しかし、聖書の神様は、男女の関係が神様と教会、神様とクリスチャンとの関係だと言ってはばからないお方である。
我々が信じる神は"パッション"すなわち、"情熱の神"なのである。信頼しうる神、信仰者の情熱を求めてやまない神。
人間の男が女への愛を求め、感じつつ、なつめやしに登る様に、自らカルバリの十字架に上り、ご自分を犠牲にしてまで、人類を罪と滅びの中から救い出そうとされる、熱い神なのである。
Tヨハネ4:10に"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。"とある。
神様の側から、個人的に、思いがけず、我々に傾倒して下さり、黙示録にある様に、"熱いか冷たいかであって欲しい!"と迫って来られる方である。
神様が三位一体である様に、男の自己決定と女(他者)の自己決定が一つになる様な人間関係は、疑いもなく善いものである。
愛する者と愛される者が、お互い自立しながら取り込まれていく、また、包み込まれていく。私たちは如何なる者か?を絶えず問いながら、混ざり合っていく。この愛のやり取りを繰り返すことによって、我々は御子の形に似た者とされていくのである。(仁美記)
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20070508 | 安黒 | 救いの継続と完成 ➁ | YouTube | ウォッチマン・ニーとケズィックの教え |
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20130618 | 安黒 | 救いの継続と完成 | PP | 49,51,53 | 49, 50, 51. 52, 53, 54 |
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20130604 | 安黒 | 救いの始まり:客観的側面 | PP | YouTube | 39, 40, 41 |
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20130604 | 安黒 | 救いの始まり:主観的側面 | PP | 35 | 35, 36, 37, 38 |
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20130528 | 安黒 | 救いの先行性:予定 | PP | 22 | 22,23,24,25 |
【ICI落穂抄−20150920】 旧約聖書
雅歌5:9-16 (MP3)(WMA)「あの方のすべてがいとしい、これが私の連れ合いです−戦後日本の憲法と国民のアイデンティティ」
前回、「愛する人」を見失った花嫁は、エルサレムの娘たちに「探してほしい」と願う。娘たちは「あなたの愛する方はどんなお方なの?」と問う。
花嫁は、動物、花、香料、水と流れと池、建築物、金細工、宝石等の色と形に類比し、その「美しさと強さ」を表現する。この描写は、「主なる神とイスラエル」、「キリストと教会・クリスチャン」との類比をもたらし、その信仰の「新たな地平」をみせてくれる。
わたしたちの「メシヤ像、キリスト意識」とはいかなるものであろうか。旧約でのメシヤ描写のひとつは「苦難のしもべ」において「彼にはみとれるような姿もなく、輝きもなく、わたしたちが慕うようなみばえもない」(イザヤ53:2-4)、新約の黙示録でのキリスト描写は「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は…、その声は…、右手に…、口からは…、顔は…」と審判者キリストと法廷に立つ罪人、そして代償的刑罰を受けられた犠牲としてのキリスト像がわたしたちが慣れ親しんでいる「愛する方」の像である。
それは、わたしたちの福音理解の本質としての“法廷論的”な「キリスト像」である。しかし雅歌書は、それとともに、男女の友情、恋愛、結婚という“人間論的”な「キリスト像」を明らかにしている。ここに、わたしは“救済論概念”の深さ、高さ、広さ、長さが教えられているように思う。
ある女性は、ミケランジェロ作のダビデ像をみて「わたしの愛する方は、この像に似ている」と語ったという。花嫁は「愛する人」を神像のように表現している。神的なまでの姿に、あらゆる面で清らかな姿に。わたしたちは、「愛する人」をそのように愛して良い。わたしたちは、また神を、キリストを「愛する人」を愛するように慕って良い、ということである。旧約の詩篇にはそのような表現が満ちている。わたしたちは、そのような意識を抱いて、神を、キリストを、慕い求めてよいということである。祈りとは、片時も離れたくない、一緒にいて時を過ごしたい、そのようなものであるべきである。わたしたちは、いつも罪人として牢獄に、判決と審判を受ける法廷に立つことのみを意識して、神の御前に生きる(これは基本であるのだが)−他方、それは片手落ちになる傾向を帯びるのではないか、人間の全人性の軽視につながるのではないかと思うのである。「ハネムーンの時のような意識」をもって信仰生活を生きる、この視点を見つめ直し、探求していきたい。(務記)
【ICI落穂抄−20150918】「福音主義神学会・東部部会神学研究会」−研究発表のご案内
日本福音主義神学会東部部会、2015年度 秋期公開講演会の案内です。
日時:11月16日(月)
午後2時〜5時、会場:お茶の水クリスチャンセンター(OCC)8Fチャペル、テーマ:『肉』、義認、そして裁き、講演T平塚治樹氏「モーセ五書における“肉”の象徴的意味」、講演U安黒務「“義認と審判”に関する一考察:ローマ2:13の解釈を軸として」。
今秋は、福音主義神学会・東部部会神学研究会にお招きいただき、発表の機会を与えていただき感謝しています。まだ、手さぐりの段階ではありますが、60分の発表と質疑と時間が限られておりますので、その限定された時間を有意義な時とさせていただくため、方向と射程は「義認と審判−ローマ2章13節を軸にして」に絞るかたちで導かれています。
この文脈を少し説明させていただきます。長年、終末論に取り組んできました。また今年はラッド著『終末論』を刊行させていただきました。大坂先生から与えられました課題、東部部会での最近の動向と、わたしの関心事と重なり合う部分をサーチしておりました。「義認、罪、肉、行い、敬虔、審判」等の主題に目配りし、ラッドの「神の国の現在性」と「神の国の未来性」の捉え方を援用して、「神の審判の現在性と未来性」、「義認の現在性と未来性」等、いろいろと思索を深めております。「義認の現在性と未来性(審判)」にまつわる「@解釈学的問題、A聖書釈義の問題、B神学的問題」をつきつめて考えるときとさせていただき、それを紹介させていただければと思っているところです。
N.T.ライトの著作も刊行されている時期ですし、N.T.ライトに対する批評をも含めて取り扱わせていただくことにするべく関連書籍に幅広く目配りさせていただいています。この扱い方は、ライト文献に対する賛成派・反対派双方にとって「意味ある問題提起」になるのではないかと思います。あと、二ヶ月あまりの準備のために祈りのうちに覚えていただければ幸いです。また、関東近辺在住で、今テーマに関心のある方には出席し、質疑応答等に参加していただけたら感謝です。
【ICI落穂抄−20150918】20130528_k23_エリクソン著『キリスト教神学』講義録 「第十部 救い:第30章
救いの概念」18-21【紹介版】
https://youtu.be/lW5rNUehtsE
東部部会での奉仕を前に、「救済論」講義全般を振返ってみることとする。「救いとは何か」に関するいろいろな考えは長い年月にわたって発展し、さまざまな側面を強調してきた。救いについての諸概念がこんなに多くの細かい点で異なるのはなぜか。
when | where | who | what | 講義・講演資料(アウトライン・パワーポイント等) | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】) |
一般視聴者用(有料視聴)時間/価格 |
ICIサポーター用 |
20130528 | 安黒 | 救いの諸概念 | PP | 18 | 18,19,20,21 |
【ICI落穂抄−20150913】旧約聖書
雅歌5:2-8 (MP3)(WMA)「私が愛に病んでいる、と言ってください−世論と米国の期待値とのはざ間で」
先週までの箇所で、若者と乙女は結婚した。今週からは、その二人の関係を、成熟した物へと作り上げる段階に入っていく。
花婿と花嫁、二人の関係は山あり谷ありである。ある時は願望を抱き、ある時は失望する。また、ある時は探求し、ある時は発見する。
未熟で自己中心的な愛が、二人の努力によって、成熟し克服されていくのである。
5:2 仕事で遅くなった花婿を待ちながら、うつらうつらと花嫁は眠っていると、戸を叩く花婿の声が聞こえる。現実なのか夢なのか?花婿は開けて貰おうと、執拗に戸を叩く。
パレスチナの地域は霧がよく発生し、花婿の身体は夜露でびっしょりになっている。
5:3 同じ屋敷の中に花婿の両親はいるのだろうか?寝間着姿で出るのは、はばかられるが、また服を着るのは面倒くさい。足も綺麗に洗ったのに、戸を開けに行くと、また汚れてしまう。
5:4 いよいよ、花婿は苛立ち、外から強引に戸を開けようとし始めた。
5:5 決心して、花嫁は戸を開けに行くと、戸のかんぬきに、身体に塗っていた香料が滴り落ちた。
5:6 やっと、花嫁が戸を開けると、じらされた花婿は腹を立てて、背を向けて去ってしまった。愛し合って結婚した二人なのに、行き違いが生じてしまう。苛立った花婿がきつい言葉を投げかけたのだろうか?花嫁の心は傷付き、死にそうになった。
夜の町に去ってしまった花婿を探すため、花嫁は急いでベールだけを羽織り町へと駆け出した。
5:7 城壁で囲まれた町には、警備の夜回りが行き巡っていた。夜に薄着でいるので、売春婦と間違われ、ひどい仕打ちを受けてしまう。
5:8 まっとうな女性が、暗闇の町をうろうろするなんて、とんでもないことだ。そんな事は花嫁にもわかっている。しかし、こんなにも花婿を愛しているのに、自分は何という愚かなことをしてしまったんだろう。後悔と切なさと恋しさで、彼女は病気になりそうであった。
この箇所を、神様とイスラエルの関係に置き換えて考えてみると、神様がいくらドアをノックしても、イスラエルは目覚めずモタモタ、ダラダラしているので、神様は直接介入しようとされることがある。(戸の穴から手を差し入れました。)
ようやく、イスラエルが目覚めると、神様はもうそこにおられない様だ。
そうなってから、イスラエルはやみくもに神様を探し回るが見つからない。
信仰はまるで恋愛の様である。信仰者はつい、目に見える物を追い求めてしまうが、本当に大切な物は、目には見えず永遠に価値のある物である。
さて、今日も今の日本の状況に当てはめてみたい。
第二次世界大戦後、日本に与えられた憲法は、もう、二度と戦争が出来ない"平和憲法"であった。この憲法のため、他の国は絶えず戦争に関わってきたのに、日本は"平和ボケ"の状態であった。
そして、アメリカは世界の警察として頑張ってきたが、経済力、軍事力共に弱くなってきたので、ヨーロッパ諸国やアジア諸国に協力を求めだした。
日本は世界中の国と貿易をし、経済的に豊かになったのだから、公平さに欠けるではないかと、アメリカは激しく戸を叩いている。
アーミテージ・ナイ レポートには、"中国の脅威が迫って来ているではないか?尖閣諸島は共に守ってくれと言いながら、世界に対する貢献はどうするんだ?"と言われ、慌てふためいてアメリカの機嫌を損ねない様に、"安全保障法案"を急いで成立させ、自衛隊を海外に派遣しようとしている。
また、戦前の様に、国際連合において安全保障の理事国入りを目指したい安倍総理は、禁断の扉を開けようとしている。
しかし、多くの犠牲を払い、平和国家として歩んできた日本が、どうして、また血で手を汚せるだろうか?
今、日米関係は大きな転換期を迎え、そのことに気づいた国民はデモを行い、"国民はまだそんな事は認めていないぞ!"と叫んでいる。
アメリカの呼びかけに、簡単に応えてしまった政府は、アメリカの期待値を上げすぎてしまったが故のバッシングに怯えている。
今までの政府が掲げてきた"憲法のしばり"を自ら壊した政府は、軍事的な派遣や負担を迫られることになる。
しかし、もう一度踏みとどまって、日米関係の正しい恋愛関係はどうあるべきなのか?ガイドラインを転換しようとしているが、内容はどうするべきなのか?
せっかく、今まで、平和的な手段での貢献をしてきたのに、この国民的アイデンティティは崩してしまうのか?よくよく考える必要がある。(仁美記)
【ICI落穂抄−20150906】旧約聖書
雅歌4:8-5:1 (MP3)(WMA)「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。−シールズ旋風で最上の実を」
8節は雅歌の中でも、難解な場所と言われている。シリアやパレスチナの最も高い山々や、ライオンや豹の住む所から出てくるとは、いったいこの乙女とは何をしている女性なのか?と考えさせられる。
しかし、この箇所は若者が抱く乙女への深い愛情を表し、人里離れた所からはるばるやって来ると思える程、待ち遠しい二人の恋心を表している。
9節、妹とは本当の妹ではなく、親密な兄妹の様な、変わることのない関係を表している。乙女の美しいまなざしとくびかざりは、彼女の内面の美しさ、また、存在そのものに若者が捉えられていることを表している。
10節、彼女との愛は、精神的にも肉体的にも、かぐわしい極上のぶどう酒や香料よりも素晴らしい物である。
11節、花嫁との交わり、口づけは蜂蜜よりも甘く、愛の交わり、ささやき、また、彼女の着物からも良い香りが漂ってくる。
12節、三重にも閉じられ隠された場所は、彼女の清純さ、処女性を示している。箴言5:15-19にもある様に、庭、源、泉は、女性の秘められた部分を表す象徴的な言葉である。
13、14節、二人の味わう喜びと祝福はこの世の最上の何物にも代え難い物である。
15節、湧き水の様に透き通った水は乙女の純粋さを表す。
16節、この庭は静寂を象徴し、香りは動的な物を表す。北風はひんやりとしたすがすがしさを表し、南風は灼熱の荒々しさを表す。二人はお互いの全てを与え、お互いが楽しみ喜ぶことを自分の喜びとする。これこそが神様の願われる"一心同体となる"ということである。
5:1節、若者は乙女の秘められた部分を熱烈に愛し、酒に酔うかのごとく、お互いに、恍惚の極みを味わい尽くす。
この雅歌に書かれた男女の愛の完成形は、未来の楽園である天国の雛型である。
さて、今日も雅歌の箇所を現在の課題に当てはめてみると、
4:8節、日本に対する甘い呼びかけの声が聞こえてくる。こんな国際状況の中で、もっと責任を果たしてはどうか?孤立的な状況から下りて来なさいとの誘惑がある。平和憲法の下、経済的な貢献はしてきたが、もっと、軍事的な貢献をした方が良いのではないか?
9節、民主党の失政の下、自公が三分の二を取ってしまった。その選挙が終わった三日後、日本の防衛省の幹部とアメリカの代表とが、直ちに、アメリカと軍事協力をする、との話し合いがなされた。与党はかつてなかった、ワンチャンスをいかしたのであり、選挙の恐ろしさを露呈する出来事である。
10節、アメリカは"パックス アメリカーナ"という、軍事的支配を目指し、それに刃向かう国は決して許さない。イラクのフセインを倒し、シリアを無政府状態にし、リビアからはカダフィーを追い出し、倒したが、これらの国は親米になったわけではない。
連日伝えられている様に、シリア、アフガン、北アフリカから、難民がヨーロッパに押しかけている。米欧はパンドラの箱を、開けてしまった。
11節、アメリカのアーミテージ氏は日本の憲法9条が、アメリカとの軍事協力の妨げになっている、と言っている。しかし、今の安倍政権のやり方は、入試で言うところの、"裏口入学"であって、閉じられた条文を解釈によって変えてしまうやり方である。
憲法よりもアメリカとの協力の方が大事であり、経済力も軍事力も復権したいという、安倍さんの強い願いが見え隠れする。
我々、国民は、選挙である特定の党に数を与えると、あっという間に憲法までも変える力を与えてしまうことを、肝に銘じなければならない。
そんな中、"シールズ"という、若者のグループが、風を起こし、新しい流れを生み出した。その運動に婦人、老人、学者、海外にいる邦人までもが法案反対運動をやり始めている。
13節、これからの日本が、世界に対して何を生み出していくのかは、国民の決意にかかっている。
反戦、平和の実なのか?軍事的貢献の実なのか?(仁美記)
※主要参考文献
・G.ロイド・カー著『雅歌』ティンダル聖書注解
・M.J.ミュルデル著『雅歌』TCTコンパクト聖書注解
・ロバート・W・ジェンソン著『雅歌』現代聖書注解
・Micael D. Goulder, "The Song of
Fourteen Songs"
・Michael V. Fox, "The Song of Songs and the
Ancient Egyptian Love Songs"
他、多数。
【ICI
Streaming-Audio World :一宮チャペルメッセージ集 : ローマ書 】『ローマ書講解説教シリーズ with
ウルリッヒ・ヴィルケンス』
この秋の、日本福音主義神学会東部部会からの研究発表の依頼に応えて、黙示録やガラテヤ書やローマ書等の「審判」や「義認」という主題に目配りしています。今週はその関連で、「ローマ書
礼拝メッセージ集 2010-2011年版」を「限定サイト」に掲載しました。ICIサポーターの方は「パスワード」を活用し、ご視聴ください。ICIサポーター以外の方は、下記サイトより「一部視聴」できます。ポイント紹介は「2010年度 ICI日誌 10/03(mi_2010-12.htm)」にあります。
http://aguro.jp.net/d/file/c/chapel10.html
・1:1-16…
義人は信仰によって生きる(29分)
・1:17-32…神の怒りが天から啓示されている(27分)
・2:1-16…神は行いに従って報いをお与えになります(25分)
・2:17-29…神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている(21分)
・3:1-8…ユダヤ人の優れている点は何か(22分)
・3:9-20…全世界が神の前で裁きに服する(20分)
・3:21-26…恵みのみ、キリストのみ、贖いのみ(20分)
・4:1-8 不敬虔な者の義認(20分)
・4:9-12 信仰による義認のしるしとしての割礼(17分)
・4:13-16 律法の義ではなく、信仰の義と結合しているアブラハムへの約束(20分)
・4:17-25 約束の成就への信頼としてのアブラハムの信仰(18分)
・5:1-11 義とされた罪びとの誇り(20分)
・5:12-21 罪の支配を超える恵みの支配(24分)
・6:1-14 キリスト教的生における洗礼の現実(22分)
・6:15-23 義への奉仕におけるキリスト教的生(23分)
・7:1-6 支配の転換(20分)
・7:7-12 わたしに対する律法の支配(18分)
・7:13-25 わたしの内における律法の支配の現実(23分)
・8:1-17 いのちの御霊の内にあるわたしたち(23分)
・8:18-30 希望の中での苦しみ(21分)
・8:31-39 キリスト者の凱歌(20分)
・9:1-5 選びの矛盾に直面して行うイスラエルのための執り成し(16分)
*主要参考文献紹介:EKK新約聖書註解『ローマ人への手紙』著者ウルリッヒ・ヴィルケンス。1928年ハンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学神学部においてG.ボルンカムに師事。1953-1955年牧会の従事。1958-1960年マールブルク大学神学部の講師、1960-1968年ベルリン神学大学の新約学教授、1981年10月より北エルベ福音主義教会教区のホルスタイン・リューベックの監督に就任。
【ICI落穂抄−20150830】旧約聖書
雅歌4:1-7 (MP3)(WMA)「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ−美しい国日本、美しい日本人とは?」
今日の箇所は、愛し合う若者が乙女に対し、最上のほめ言葉でもって歌っている箇所である。そして、それを通して、我々は信仰の素晴らしさを教えられる。
男性と女性が愛し合う時、神様の創造された美しい物を見ることが出来る。我々の身体の各部分も、素晴らしい創造主の作品なのである。
"目は心を映す鏡である"と言われる。昔、女性が顔のおおいを着けるのは、売春婦のしるしであった。しかし、この雅歌の場合は、女性の婚約式、結婚式の場合に着ける顔おおいを意味している。
彼女の目は素直で澄んでいて汚れが無い。鳩の様というのは、そういう意味である。
また、彼女の髪の毛は、イスラエルのギルアデの山から、黒やぎが群をなして下りて来る時の様に、黒々と波打っており、美しい。
歯についてのほめ言葉は、不思議に思う人もあるだろう。医療事情の悪い時代、生え揃った美しい歯を保つことは、容易ではなかった。虫歯になれば、抜くしか無い時代である。
そんな時代に、上下二本ずつの歯が、綺麗に双子の様に揃っているということは、身体が健康であり食生活も良いという証拠でもある。
愛らしい口元は、紅色に染められ、健康的な頬はザクロの片割れの様に赤く、彼女が純朴であることを表している。
彼女の首は、王宮の中に立てられた櫓の様に、すっとしていて美しい。
また、彼女の乳房は、まだ幼さを残しているが、左右対象で可愛らしい。
没薬と乳香は海外からの、貴重な輸入品であって、この場合「没薬の山と乳香の丘」は、女性の身体の秘められた部分を意味している。
夜が過ぎ、朝靄が消え去る頃まで、若い二人は、お互いをいたわり合い、愛し合う。
若者にとって、愛する乙女は、身体的にも道徳的にも、汚れ無く美しく、神様からの最高の贈り物である。
神様がこの地上、また人間を造られた時、全ての物がはなはだ良かった。しかし、人間は、またイスラエルは罪を犯し、神様を裏切ってしまった。
それでも、神様はご自分の御子をこの世に遣わし、全ての人間の罪を御子に背負わせ、十字架に掛けさせた。この犠牲の故に、キリストを信じる者はその罪を贖われ、赦されるのである。
そして、また、イスラエルに対しても、神様は美しい!と語り続けていて下さる。私のもとへ帰れと。
来るべき終末には、我々クリスチャンたちは、完全に贖われて美しい者となる。今は、造られた物全てが、肉の中にあり呻いているが、その時が来ると、真実の美しい姿を見せ、完成されるのである。
現在は、性や男女の愛が醜い物、汚れた物の様に扱われるが、それは、創造主に対する冒涜であり罪である。
雅歌の若者と乙女の様に、性や愛を神様からの美しい贈り物として再認識したいものである。
さて、今日も、この雅歌の箇所を、今の日本の状況に当てはめてみたい。
私は、日本の国土、日本人は神様に愛されている、美しい国だと思う。最近読んだ"武士の娘"という本は、日米が戦争に突入する頃に書かれた本で、本当の日本人とは何か?を教えくれる本である。
アメリカのルーズベルト大統領は、新渡戸稲造著『武士道』を読んで日露戦争の講和で日本側にたち尽力してくれた。米国の識者は『武士の娘』を“人生の書”と高く評価し、後に七ヶ国語に翻訳された。このことは、われわれが本当の日本人の姿、心を発信すべきことを教えてくれる。
今の政府が目指している"積極的平和主義"ではなく、本当の平和を愛し、人種、宗教は違っても仲良く出来る、素晴らしい国民であることを発信し続けていかなければならない。
日本人は控えめであるが、平和を愛し、自衛隊という最新鋭で専守防衛に徹する部隊を持っている。自衛隊は困っている人たちを助け、優しく、むやみに攻撃することはしない。
日本は自国の経済力と防衛力のバランスを考え、あくまでも平和志向である。
歪んだナショナリズムに踊らされる事なく、相手の国民に向けて、日本国民は純朴な平和を愛する国民であることを発信し続ける。
世界中の国々と、バランスのとれた、調和のとれた、関係を目指し、一部の好戦的な国に引きずられる事なく、巻き込まれない様、距離感を持って付き合う様に心がける。
日本国憲法を掲げ、平和を愛する国として、IS、中東、アフリカなどの無政府状態の国々や、ウクライナや南シナ海などのきな臭い問題が、解決するために武力ではない方法を考える。
今、政府が提出している"安全保障法案"に対して、全ての層から反対意見が噴出している。過激な政治家に翻弄されず、最終的に法案成立を阻止する方法はあると思う。
憲法改悪に対する国民の怒りを、投票行動で示すのである。
あの戦争は、アジア諸国民に多大な迷惑をかけた。また、日本国民も深く傷ついた。贖い出された国民として、日本人は歩んで行くべきである。
今日、国会前に集まろうとしている有志達のために、我々クリスチャンも祈ろうではないか?日本の針路に神様の栄光が現れます様に!(仁美記)
【ICI落穂抄−20150827b】「ローマ人への手紙におけるわざによる救いの審判-パウロの最も重要な手紙における神の審判の意味と機能」ケビン・W・マクファーデン著【小項目版】
*
・前文
・序文
1. 導入
・研究の歴史
・プロテスタント神学の文脈
・緊張への提示された解決
・ユダヤ教神学の断片
・報酬のための審判
・義認についての改訂された見方
・コンセンサスに向けて
・研究のための方法
2.
「神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18-32)
・審判のテキストとしてのローマ1:18-32
・ローマ1:18-32における審判の意味
・審判の行為の主体者
・審判の行為
・審判の基盤
・審判の対象
・ローマ1:18-32における審判の機能
・結論
・追記:もうひとつの福音としてのローマ1:18-32
3.
「神は彼らの行いにしたがってそれぞれの人に報いる」(ローマ2:1-29)
・ローマ2:1-29における審判の意味
・審判の行為の主体者
・審判の行為
・審判の基盤
・審判の対象
・ローマ2:1-29における審判の機能
・対話相手
・結論
4. 「怒りを加える神は不義なのか?」(ローマ3:1-8)
・ローマ書における神の義
・ローマ3:1-8における審判の意味
・審判の行為主体者
・審判の行為
・審判の対象
・審判の基盤
・ローマ3:18における審判の機能
・救い、審判そして神の義
・神の義の弁護
・審判としての神の義
・結論
5. 「人間は神の前に義とされない」(ローマ3:9-20)
・ローマ3:9-20における審判の意味
・審判の行為の主体者
・審判の行為
・審判の基盤
・審判の対象
・ローマ3:9-20における審判の機能
・結論
6.
「わたしたちは各自わたしたちの収支計算書を神に差し出す」(ローマ14:1-23)
・ローマ14:1-23における審判の意味
・審判の対象
・審判の行為主体者
・審判の行為
・審判の基盤
・ローマ14:1-23における審判の機能
・結論
7. ローマ人への手紙における審判と義認
・最後の審判の文脈における義認
・最後の審判からの救いとしての義認
・義認へ二者択一的アプローチ
・現在の義認の基盤
・未来の義認の基盤
・結論
8.
ローマ二章を理解する
・三つの解釈
・修正された異邦人クリスチャン解釈に向けて
・御霊による律法の成就
・ローマ二章の異邦人のアイデンティティ
・結論
9. 結論
・ローマ書における審判の意味
・ローマ書における審判の機能
・緊張を定義する
・提案された解決を評価する
・緊張を説明する
【ICI落穂抄−20150827】「ローマ人への手紙におけるわざによる救いの審判-パウロの最も重要な手紙における神の審判の意味と機能」ケビン・W・マクファーデン著
*
・前文
・序文
1. 導入
2.
「神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18-32)
3.
「神は彼らの行いにしたがってそれぞれの人に報いる」(ローマ2:1-29)
4.
「怒りを加える神は不義なのか?」(ローマ3:1-8)
5. 「人間は神の前に義とされない」(ローマ3:9-20)
6.
「わたしたちは各自わたしたちの収支計算書を神に差し出す」(ローマ14:1-23)
7. ローマ人への手紙における審判と義認
8. ローマ二章を理解する
9. 結論
※
一読して、大変優れた「審判と義認」に関する書籍であると思った。教えられることは、使徒パウロの『義認』理解の背後には、「義なる神による審判」という“解釈上のパラダイム(認識の枠組み)”があるということである。NPP主唱者また支持者において「第二神殿時代のユダヤ教の諸概念」からの「義認−審判」理解の“解釈上のパラダイム”への影響はどのようになっているのだろうか。そこを調べていきたい。
【ICI Streaming-Audio World
:一宮チャペルメッセージ集 : ガラテヤ書 】
この秋の、日本福音主義神学会東部部会からの研究発表の依頼に応えて、黙示録やガラテヤ書やローマ書等の「審判」や「義認」という主題に目配りしています。
わたしの重荷のひとつは、「使徒的福音理解」のあくなき探求です。使徒パウロは、ガラテヤ書で、「民族的なユダヤ人」を軸とした誤った旧約聖書解釈を否定し、「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸とした福音理解を提示しています。ゆえに、ファンダメンタルな領域における問題として、今日の教会と神学教育における大きな課題への取り組みのために、わたしたちは「ガラテヤ書」を書き記したパウロを通して「神の声」を聴き取る必要があると思います。
また、学術的な領域における問題として、「第二神殿時代のユダヤ教理解」の進展に伴う、「律法理解」や「義認理解」についての議論が盛んになっています。この取り組みのための「広範なパースペクティブ」と「健全な取り扱いのためのガイドライン」が必要な時期であるように思います。先日は、G.P.ウォーターズの著述を紹介しました。昨夜はニコラス・ペリンの「ウォーターズの著作に対する書評」に目配りしました。教えられることは、一面的になることなく、聖書全体が明らかにしている包括的なパースペクティブから、NPP問題を扱うことの大切さです。その意味で、Vos、Ridderbos、Ladd等の、「広範な視野をもつ聖書神学」の必要を教えられています。
この準備の流れに沿うかたちで、「ガラテヤ書
礼拝メッセージ集 2010年版」を「限定サイト」に掲載しました。ICIサポーターの方は「パスワード」を活用し、ご視聴ください。ICIサポーター以外の方は、下記サイトより「一部視聴」できます。ポイント・参考文献紹介は「2010年度 ICI日誌 8/1-9/26(mi_201008.htm)」にあります。
http://aguro.jp.net/d/file/c/chapel10.html
【ICI落穂抄−20150825】A Critique
of the New Perspective 紹介
1. 聖書解釈学の問題
・ユダヤ教についての欠陥ある構成
・E.P.サンダース:@、A、B、C、D
・N.T.ライト:@、A、B
・学術的再構成への誤った依存:@、A、B、:@、A、B
・学者たちの祭司制?:@、A
・旧約聖書対第二神殿文献?:
2. 聖書釈義の問題
・「律法の行い」:ユダヤ教救済論と人間の不能性
・ローマ11:5-6:@、A、B
・ローマ3:20:
・ローマ4:4-5:@、A、B
・ローマ9:300-32a:@、A、B、C、D
・ローマ10:5:(1)@、A、B、(2)、(3)
・ピリピ3:2-11:
・論争のある書簡:@、A
・ガラテヤ5:3-4、3:10-13:@、A、B、C、要約
・義認と信仰
・(1)、(2)@、A、B、C、D
・(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)
・キリストの死(Uコリ5:21、ローマ3:24-26)
・(1)、(2)
・(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)
・@、A、B
・普遍的罪責(ローマ5:12-21)とパウロの良心
・人類の普遍的罪責:1,2,3,4,5
・パウロの良心:(1)、(2)、(3)
3. 神学的問題
・恵みと律法主義と功績を混同すること:@、A、B
・転嫁を無視すること:@、A
・法廷的恵みと変容させる恵みのバランスをひっくりかえすこと
・義認を再定義すること
※ Guy Prentiss Waters " Justification and the New Perspectives
on Paul - Chapter 8. A Critique of the New Perspective
"の構成です。大変優れた内容で教えられるところ多々あります。
【ICI落穂抄−20150823】旧約聖書
雅歌3:6-11 (MP3)(WMA)「煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれー培われた平和主義の精神を生かすパートナーシップの構築を探求する」
今日の箇所は、結婚の行列の描写である。豪華な輿に乗せられて、花嫁である乙女が上ってくる様子を表している。
花嫁行列における、没薬や乳香など、香料の煙のくゆる様子は、旧約聖書の出エジプト記にある、イスラエルの民がエジプトを脱出して、シナイの荒野を40年間さまよい、カナンの地に入っていった時、雲の柱、火の柱に導かれて行ったことを彷彿とさせる。
また、荒野でさまようイスラエルの民を、雲の柱、火の柱で導かれた神様は、幕屋で焚かれる煙の中にも臨在されていた。
ソロモン、つまり、ここでは若者のしつらえた御輿には、乙女が乗り、彼女の周りには多くの人が寄り添っている。
同様に、荒野で歩むイスラエルの民の中心には、契約の箱があり、各部族の兵たちが寄り添っていた。
エジプトを脱出して荒野をさまよった40年間、イスラエルの民はいろいろな敵からの戦いに備えて兵力を整えてきた。そして、遂には、約束の地を受け継ぎ、ダビデの子ソロモンはその地に神殿を建てた。
若者が準備した輿には、豪華な長椅子(ベッド)が取り付けられ、まるで、王宮の様な美しさを放ち、最上の装飾がなされていた。
そして、キリストを信じる我々は、キリストの花嫁として、十字架による贖いによる罪からの解放を経験し、洗礼を受け、聖餐に預かる特権を頂いた。花嫁であるクリスチャンは、新郎である神に愛される喜びと、罪や全てのしがらみからの自由を満喫することになる。
新郎新婦はお母さんから貰った、冠をかぶらされ、二人はその結婚により、一心同体となる。(一つの肉となる。)
結婚というものは、神の創造の業に関与するということである。つまり、二人が一つとなる事によって、新しい命が与えられるという、創造のドラマに参与することになるからである。
さて、今日の雅歌の箇所を、現在に当てはめてみる。
日本の歴史を振り返ると、数多くの戦争と敗戦を経験し、国民は国の支配から解放された。日本国憲法が与えられ、平和国家としての煙の柱を立てなら、70年歩んできた。
そんな中、強い国家を目指す人たちは、カナンの地に入り、その地域の人たちと戦って、その地域を奪い取りたいとの思いを抱き、安全保障関連法案を持ち出した。安倍首相がその先頭に立っている。
しかし、今、アフリカからの難民やテロとの戦いなどによって、人々は戦いの無い、安全な地を探している。今年、ドイツには、80万人の移民が押し寄せようとしている。
日本は憲法によって与えられた、"平和主義"、"国民主権"、"基本的人権"が、この70年の歩みの中で、国民のアイデンティティとなった。
明治の"富国強兵"の時代とは違い、戦後に作られた自衛隊の少数、精鋭の戦力と、アメリカに助けられて戦後の日本は歩んできた。
戦後、最初の日米安全保障条約は、占領者と被占領者の立場がはっきりしており、一方的な物であったが、改定版、日米安全保障条約は、その不平等な条約を改め、日本が攻撃された時、米軍は日本を守るようにすると変更され、親子の関係のような立場になった。
しかし、アメリカが世界の警察として世界中に軍隊を送ってきたために、経済が低下してきて、日本にも軍事的貢献を求めてきたが、憲法を盾に断り、経済的貢献にとどめてきた。
中国の台頭もあり、アーミテージ ナイレポートに書かれている様な、親子ではなく今度は対等な立場、フルパートナーシップを要請している。
ただ、アメリカの大小の戦争に日本は組み込まれて行くのではなくて、アメリカが鞭をふるうなら、日本は飴でもって、世界の貧困や飢饉や災害に対して手を差し伸べる方法を取っていくべきである。
なぜならば、アメリカはイラクのフセイン、リビアのカダフィの様な独裁者が倒れた時、裏で介入していた。独裁者が倒れて良かったと思われたが、かえって無政府状態となり、国は乱れてしまっている。
結局、武力によって平和は訪れないのである。日本は日本のやり方で平和的貢献をすれば良い。今、シールズを始めとして、若者から老人までデモやFAX、Facebookなどを使って、国民が声を上げている。目には見えないが、アメリカは日本のこの行動をジッと観察している。だから、この行動の一つ一つが日本の、また、日米の在り方や歴史をうごかす原動力になりうるのである。(仁美記)
【ICI Streaming-Audio World
:一宮チャペルメッセージ集】
この秋の、東部での研究発表に向けて、黙示録やガラテヤ書やローマ書等の「審判」や「義認」という主題に目配りしています。この準備の流れに沿うかたちで、「ヨハネの黙示録
礼拝メッセージ集 2009年版」を「限定サイト」に掲載しました。ICIサポーターの方は「パスワード」を活用し、ご視聴ください。ICIサポーター以外の方は、下記サイトより「一部視聴」できます。解説は「2009年度 ICI日誌 6/21-10/25」にあります。
http://aguro.jp.net/d/file/c/chapel09.htm
【ICI落穂抄−20150816】旧約聖書
雅歌3:1-5 (MP3)(WMA)「わたしが探しても、あの方は見あたりませんでした-冷戦後の日米基軸の動揺を背景に」
今日の箇所は、何とも理解し難い乙女の姿を歌っている。
乙女は夜、目覚め、ベットを探したけれども、共に眠っているはずの男性がいなかった。愛する人が居ないので、乙女は夜の町を行き巡り、恋人を探そうとする。
若い女性が夜の町に出るのは大変危険である。それにもかかわらず、彼女は通りや広場を、手当たり次第に彼を探そうとする。
そして、夜警に遭遇し、そこでも彼のことを知らないか?と尋ねようとする。
乙女のこの衝動的な行為には、ほとほと呆れ驚いてしまう。
しかし、彼女は遂に愛しい恋人を見つけ、未婚の女性の家を表すところの"私の母の家"に彼を連れて行くことが出来た。
この雅歌に出てくる乙女の、情熱的で衝動的な行為は、乙女が夢を見たということではないのか?という考え方や、心理的描写なのではないか?という捉え方もあるが、私たちはこの乙女の行動をそのまま受け止めて、男女のいてもたってもいられない状況を、神様と神の民に類比して考えてみたい。
旧約のアラム語の翻訳注解書"タルグーム"には、イスラエルの人々が神の臨在が自分たちのところから去ってしまったことに気づき、幕屋や通りを探し回ったことを意味するのではないか?と書かれている。
また、中世キリスト教の頃、クレルブォーの修道院にいた、ベルナルドスという人は、この乙女の語る冒険談はイスラエルと神様の関係を表していると書いている。
主なる神が共におられると思っていたのに、おられない。彼らの探し方は賢明ではないが、結局、神は彼らと共におられることを発見する。聖書の中で、イスラエルの民は何度も罪を犯しながらも、神様は常にイスラエルと共にいて下さると思い、神の臨在を探すが見当たらず右往左往してしまう様子を表していると考えられる。
我々クリスチャンは、主イエス キリストこそが、神の臨在される場所であり、神の御霊が宿るところである。
今日の箇所を、今の日本の状況に当てはめると、尖閣諸島の領有権のことで、中国との間がややこしくなり、中国の船が領海に入ってきたり、ウロウロしたりして、日本政府は対応に苦慮した。
こんな時、アメリカが助けてくれたら良いのに、まるで(あの方は見あたりませんでした。)のごとく、立場をはっきりとしてくれず、ヤキモキしてしまっていた。
中国と何か問題が起こっても、ひょっとしたらアメリカは助けてくれないのではないだろうか?との疑念が湧いてくる。
以前、世界を覆っていた冷戦が終わり、日本はアメリカに見捨てられるのではないか?との疑念はアーミテージ・ナイレポートによってガイドラインが示され、今の国会で話し合われている"安全保障法案"は正にその答えである。
今までは、東シナ海、南シナ海など海の安全確保が、日本の防衛の中心であった。しかし、今や、アメリカはインド洋、中東、アフリカ、ウクライナ等、世界中に軍を派遣している。
アメリカも助けて欲しい。アメリカの穴を埋めて欲しい。全世界に兵を送って欲しいと願っているのである。日本は敗戦後、朝鮮戦争に参加を要請されたが、9条を盾に断った。そのおかげで、ベトナム、アフガニスタン、イラクの戦争に巻き込まれずに来た。
日本は70年前に味わった敗戦の苦しみによって、冷戦時代もアメリカに守られて来た。もし、占領国がソビエト連邦であったなら、こんな平和は続かなかったであろう。
今朝、ある記事で、元特攻の方がこんなことをおっしゃっておられた。"特攻で散って行った仲間たちも、本当は自分の人生を生き抜きたかったに違いない。今、シールズの若者たちが、自分たちの言いたかったことを言ってくれている。"
日本は戦争をしない国、別の形で世界の為に貢献する国を目指すべきではないか?貧困、飢餓、経済問題に取り組む国をモットーに掲げ、これからも前に進む国であってほしい。
日本人の愛が目覚めつつある。良心が目覚めて来た。小さな叫びが日本中から集められ、これからの子供や孫の為に声を上げ始めている。
【ICI落穂抄−20150809】旧約聖書
雅歌2:8-17 (MP3)(WMA)「ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています−国際的に注目される“20世紀を振り返り、21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会報告書”」
雅歌が「若い男女の恋歌」の形を取っているのは、「私たちと神様の愛の関係」の類比である。
若い娘の前に若者が鹿の様に現れるというのは、神様は私たちを「訪れる方」である、という意味である。ラッドの著書の中にも"訪れる神"という言葉があるが、私たちの神様は、私たちを伺い、知っておられる方である。
アラム語で書かれた旧約翻訳・注釈書にタルグームという書物がある。その中には、「イスラエルの民が、160年間エジプトにおいて奴隷の身分であったが、そんな時でも、神様は常にイスラエルの民を伺い、時が来ると若い鹿の様に、勢い良く飛び出し、エジプトから連れ出して下さった」と書かれている。
そして、私たちの神様は呼びかけて下さる方である。私たちと交わりたい、話したい、教えたい、導きたいと願われる方である、天の高い所から地の果てまでそして、永遠の未来にまでおられる方である。身近に、そして、私たちの生きる瞬間、瞬間にまで・・・
パレスチナの冬は雨の季節である。10月からは前の雨が降り、人々は種を蒔く。そして、4月中旬に後の雨が降り、草花は花を咲かせ、実を実らせる。
5,6月は地には花が咲き乱れ、美しい季節となり、春のただ中で生き物の恋の季節がやって来る。
鳩は岩の裂け目に巣を作る。キツネや子ギツネは愛する二人を邪魔する者のことであり、純粋に愛し合おうとする者たちを横恋慕する者たちのことである。
16節はこの詩の中心の箇所である。"私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。"この言葉は、"私はあなたの神となり、あなたは私の民となる"また、"これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉"と同じような意味合いで使われている。神様が造られたエデンの園において、性的交わりはその場その場の汚れた快楽のためではなく、聖く喜ばしい物であった。
中世のフランス人、クレルヴォー修道院のベルナルドゥスはこの雅歌の聖句を"聖なる魂とキリストが一体となる。という秘密がかくされている。"と述べている。
神様とキリスト者は影が消え去る頃、つまり、明け方まで一晩中若い男女が愛し合う様に、愛し合う存在なのだと教えている。
さて、今日の箇所を現在に当てはめてみると、愛する方とは「国際社会」であり、若い娘は「日本」ということになる。
先日、"20世紀、21世紀の日本を考える有識者懇談会"が、一つの報告書を作製し、安倍総理に手渡した。
国際社会は、これから、日本がどうするのかをじっと見ている。19世紀は中国がイギリスによって植民地化された。白人と有色の人種差別の時代であった。日露戦争では、有色人種の日本がロシアを倒した。第一次世界大戦では数千万の犠牲を出した。
その後、大恐慌が起こり、ブロック経済となり、後発の大日本帝国は、軍国主義、ファシズムに突き進んでいく。その結果が、第二次世界大戦の敗北であり、アメリカによる押し付け憲法と言われる、"日本国憲法"である。
しかし、日本国憲法にある考え方は、自由民権運動に見られた、元々日本にあった考え方であり、一時的に軍国主義に乗っ取られ、取り戻した考え方なのであって、決してアメリカの押し付けなどではない。
二つの大戦は終わっても、いまだ、中東問題や人権問題は無くならず、今日の箇所にあった"キツネや子ギツネ"のようなテロリズムはあちらこちらで見られる。
そんな世界の中で、日本が歩むべき道は、平和憲法で歩む"平和国家"を目指す道である。"いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ"とある様に、先進諸国は栄えているが、多くの国々には貧困があり、まだまだである。だから、日本は平和主義、人権尊重を貫き、テロや紛争が不必要になる世界を目指し、過去の反省を忘れず、国際ルールにのっとって、世界に貢献出来る国を目指すべきである。大きな闇を吹き払う様に・・・(仁美記)
【ICI落穂抄−20150806】「安保法制」は、「憲法改悪」への旅程の一里塚である。今回のビデオ講演は、政治とメディアの右傾化が問題視された2007年7月3日に、JEC牧師会より依頼され、『憲法改訂の中心点−憲法九条』と『聖書と戦争と聖書的平和主義』の二点に絞って講演したものである。日本が、進むべき道の岐路に立たせられている今、参考にしていただければ幸いである。(参考資料: 村田充八著『戦争と聖書的平和―現代社会とキリスト教倫理』)
1.
キリスト教の歴史と戦争
@新約初期の時代の戦争観
Aアウグスティヌスと「正義の戦い」
B正しい戦争の概念
2.
聖書と戦争
@神の問題
A啓示の問題
B倫理の問題
Cまとめ
when | where | who | what | 講義・講演資料(アウトライン・パワーポイント等) | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】) |
一般視聴者用(有料視聴) |
ICIサポーター用 |
2007/07/03 | JEC牧師会研修 | 安黒務 | 憲法問題とJEC |
pdf-01 pdf-02 |
YouTube | DVD[1枚]+資料=2500円 | 20150806掲載 |
【ICI落穂抄−20150802】旧約聖書
雅歌2:1-7 (MP3)(WMA)「わたしは谷のゆりの花。わが愛する者はいばらの中のゆりの花−岐路に立つ日米同盟」
この雅歌という書物は、中東の恋歌の形を取っているが、その中には、男女の愛、性の素晴らしさが描かれている。神の形に造られた男と女が、三位一体の神のごとく一つにされる麗しい書物である。ある人はこの書物を、旧約聖書の至聖所と呼び、今の誤った男女の性の在り方に示唆を与え、隣人との関係、隣国との関係、また、日米同盟における関係にまで、示唆を与えてくれる書物である。
1節は乙女の自己紹介が書かれている。自分をサフランやゆりの花に例え、一見、自己賛美と捉えられるかも知れない。しかし、雅歌の中にその様な物は存在しない。これはむしろ、謙遜の表現である。私は谷間に群生する小さな花にすぎない。ここには、密やかな隠された美しさがある。
2節では若者が応答歌として、あなたは私にとって、いばらの中に咲くゆりの花の様に、隠されてはいるが、かけがえのない特別の存在であると言っている。
3節では、多くの整った外見や知性の素晴らしさを見せられても、乙女は他の男性には目が行かない。若者は乙女にとって、特別な存在であって、乙女の大好きな資質を備えているので、彼女はずっと側にいたいし、相思相愛の関係である。
4節では、酒宴の席とはブドウ園を指すと言われている。若者は乙女に心を捉えられ、彼の眼差しは愛に満ちている。
5節では、二人は片時も離れてはおられず、少しでも離れると、苦しく愛に病んでしまう。
6節では、乙女は若者に抱かれる事によって、心の空白が埋められることを告白している。
7節では、私たちが眠りについた時、明け方、空がゆっくり明るくなり、自然に目が覚める様に、二人の愛がゆっくりと自然に熟していくのを見守ってほしいと願っている。
さて、この雅歌の箇所を現在に当てはめてみると、私たちの国の憲法は、平和憲法であり、世界でもユニークな存在である。力ではなく、謙遜による平和を追求して来た。
アメリカと同じ、自由主義国家であるが、いばらの中のゆりの様な存在である。
日米安全保障条約によって、自衛隊という自衛の武力は保持しているが、アメリカの傘の下に置かれ、時には、命の犠牲を惜しみ、ただ乗りだと叩かれたりもするが、戦争のことを反省し、あえて、自衛隊を戦わせない国なのである。
その代わり、別の形として、ODAなどによって外国の経済援助や復興に力を注いできた。中東やアフリカでは未だに紛争が絶えず、軍事力では平和が訪れ無いことは明白である。
これから、どのようにして日本は愛を示していったら良いのだろうか?ジャーナリズムや今の政府は、ことさらに中国の脅威を煽りたてるが、最近の若者たちのデモやFacebookやFAX、そして、学者たちの反対運動が、私たちを励まし元気付けてくれる。
アメリカは一方では日本の軍事貢献を求めているが、他方では、日本の右寄りの人々が憲法の正当性を認めず、過去を反省しない態度には問題を感じている。だから、日本は日本人によって、アジアへの贖罪の意識を忘れず、お互いの愛が目覚め熟していく様な、皆が喜ぶ法案を作り上げるべきである。そのためにも、国家の良心としてのクリスチャンの位置付けは重要である。(仁美記)
when | where | who | what : G.E.ラッド著『終末論』刊行記念特別講義 | 講義・講演資料(アウトライン・パワーポイント等) | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】) |
一般視聴者用(有料視聴) |
ICIサポーター用 |
20150520 | IBC | Aguro | 質疑と応答 | pp |
BD-R 6時間講義 通常6000円 →刊行記念特価3000円 |
7/30 |
【ICI落穂抄−20150726】旧約聖書雅歌1:9-17
(MP3/WMA):「パロの戦車の雌馬-アーミテージ・ナイ・レポートにみる自衛隊(JSDF)賛辞」
聖書の中では珍しい、男女の恋愛の歌の形を取り、神様とイスラエル、また、キリスト教会とキリストの関係を表した書物である。
9節は若者の愛する乙女への呼びかけである。パロとはエジプトの王であり、その馬屋にいる馬は選り抜きの馬であり、これは、女性が最上級の女性であるとのほめ言葉である。
10節は女性の頬、首には美しい宝石で飾られ、もともとの美しさがさらに栄えわたっている。11節ではさらに女性のために、金銀で作られた飾り輪を使ってあげようと言っている。飾りをつけた美しさは、女性の生まれつきの美しさにあるのだと言っている。
12節からは、今度は女性の側から、愛する男性へのアプローチが香りとして書かれている。宴の座とは、慣れ親しんだ場所であるとか、寝所といわれたりする。
一つ目の香りはナルドの香油。インドヒマラヤ原産で、高価で貴重な香りである。二つ目は没薬。南アラビアの木から採られた樹脂である。三つ目はヘンナ樹の花房である。エン・ゲティとは、死海の西岸にある果樹園で、旅人の憩いの場になっている所で、亜熱帯の植物が咲き誇っていた。ヘンナ樹の花房は明るい色の染料になり、髪や爪を染める為に用いられた。
これらの、物質は乙女の若者へのいとしい思いを表現している。
15節の鳩の目は、乙女の従順で素直で人柄の良さを表している。16,17節は美しく飾られた寝台が緑豊かな木々の間に置かれており、愛をかわす男女の姿に、神のかたちに造られた私たちの、キリストとの霊的人格的交わりの素晴らしさを表現している。
以上の雅歌に込められた若者と乙女の関係の意味から教えられるところを、私は「アメリカのアーミテージ氏(共和党)とナイ氏(民主党)のレポート」の提言に類比し学びたい。
戦後、日本は「パックス アメリカーナ」によって、「アメリカの軍事力」に守られてきた。それによって、「エネルギー資源も経済」も順調にきた。
しかし、「世界の警察としてアメリカ」は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争等、数々の大小の戦争を戦い、アメリカの力は弱まり、「防衛予算の削減」に直面している。その中で「世界の治安の質的レベル」を維持する上で「同盟国への期待値」は上昇しているのである。
日本はと言えば、朝鮮戦争以来自衛隊を持っており、その規模は世界九位(2013年度)の軍備費であり、その能力は世界のベストテンを維持している。経済における協力やODAだけではなく、オーストラリアやフィリピンやベトナムと協力して「南シナ海のシーレーンの安全確保」に、アメリカはラブコールを送っている。
中国という不透明な国も、いつかは自由で民主主義の国になってほしい、そのためにも、日本には米国と一緒に「アジアでリーダーシップを発揮してほしい」とアメリカは望んでいる。それなのに、アメリカが与えた日本国憲法がそれを妨げている。
また、「アジア以外にも範囲を広げて集団的自衛権を発揮し、油や武器の補給に力を貸してほしい。補欠としてではなくて、レギュラーとして活躍してほしい」とラブコールを送っている。米国との関係において“フル・パートナーシップ”を求めているのである。
しかし、こんな「香油」に騙されることなく、また、アメリカに「ただ従順で素直な」だけではなく、日本は「アジアに対する贖罪の意識に根ざした平和憲法」に従い、「永遠の平和を希求」しつつ、「パートナーシップの限界線」を明確に自覚し、自分で「平和国家日本の未来図」を描いていかなければいけない。
どんなに、アメリカに「おだてられ様とエールを送られ」ようと、憲法に違反する形で、物事を決めてはならない。そのような決め方では、「米国の無理難題も断ることができなくなる」危険が生じる。アメリカだって、自国であれば、「憲法をないがしろには出来ない」はずである。安倍総理は「アジア等での存立危機事態」の可能性を前面に打ち出すが、実は「違憲立法審査機能を破壊して、安全保障法案を通す」ことが“存立危機事態”を引き起こしていることに気づかない。このことの方がもっと危険である。
when | where | who | what | 講義・講演資料(アウトライン・パワーポイント等) | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】) |
一般視聴者用(有料視聴) |
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20150520 | IBC | Aguro | 9. 神の国 | pp | YouTube |
BD-R 6時間講義 通常6000円 →刊行記念特価3000円 |
7/23 |
【ICI落穂抄−20150719】旧約聖書
雅歌1:5-8
(MP3):「黒いけれども、美しい」と告白する「美しい思想をもつ日本人」
わたしも長年、神学校で『組織神学』を教えてきた。その奉仕に一区切りつけた今、深い関心を抱いて目配りしてきた、幾つかの聖書各巻について、“組織神学的視点”からシリーズ説教することは「理にかなうこと」だと思うのである。
わたしの言う“組織神学的視点”とは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』に記されている四つの視点−@教会的・実存的視点、A再生産的・要約的視点、B生産的・新理解的視点、C合理的・学問的視点を指している。
わたしは、旧約聖書の「雅歌」を、@A神とイスラエル、キリストと教会また信仰者の魂との類比として霊的に解釈して、信仰者の実存的視点で読んできた。そしてC神学教師としては、古代中東にみられる恋愛詩のひとつとして、客観的かつ学問的に研究し、B今日、それらの垂直関係と水平関係の両面における霊的本質的メッセージを、日本の過去・現在・未来の政治動向の文脈に対する洞察に類比的に適用し、過去に示された指針のエッセンスを「現在こうである」との御声を聴き取るべく耳を澄ませて、雅歌を読みたいと思うのである。もちろん、「雅歌ほど多様な注解書が多くある書巻はない」といわれるのだから、ひとりひとり聴き取るメッセージ、解釈、適用には多様性があるものと思う。しかし、少なくとも「主はわたしにこのように語りかけておられる。わたしは組織神学や宗教の神学の素養を最大限生かし、このように解釈し、その霊的・本質を歴史的状況にこのように適用したい」と証しすることは「わたしの義務」でもあると思うのである。
以下、一節ずつ順を追って適用面のみ拾っていきたい。1:5に「黒いけれども、美しい」、それは「日に焼けて黒い」とある。中東の真昼の過酷な暑さは肌を焦がす。この美しい娘を「日本国」に類比すると、太平洋戦争は日本国に大きな「汚名」を着せるものとなった。戦後の、アジア集団安保構想では、アジア諸国からはいつも「のけ者」扱いであった。しかし、朝鮮戦争とそれに続く冷戦構造は、日本に復興と飛躍的発展の機会を与えてくれた(1:6)。
バブル崩壊を経て、中国の発展を見、今日本国は、「どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか」と“国家の針路”を探しあぐねている。そして、目の前に提示されているのは、二つの道、二つの国家のあり方である。ひとつは「大日本帝国憲法と教育勅語」に示されている“富国強兵”路線であり、他方は「日本国憲法と前教育基本法」に示されている“戦争を放棄し、個人の基本的人権を最大権尊重する”路線である。
前者を目標とする「日本会議」等は、アジア諸国また世界の国々の中において「敗戦国」「戦犯国家」として「顔おおいをつけた女」(1:7)に見られることを“自虐的史観”として断固拒否する。集団的交戦権を取り上げられ、「制限行為能力者」のように扱われることを許容できない。しかし、世界でも珍しい「戦争放棄」条項のある日本国憲法は戦後七十年間、日本が戦争に巻き込まれることから守り続けてくれた条文である。これに比して、韓国やオーストラリアは数多くのアメリカの戦争に参戦させられてきた。
イアン・ビッカートン著『勝者なき戦争』p.286には、数多くの無謀な戦争を考察し、「戦争を開始する『巨悪』は、自らが決して戦争で命を落とすことはない国家の指導者である。こうした人々によって開始された戦争行為が奪っていくのは、これらの指導者の命ではない。攻撃によって命を落とす人々を『付随的損失』と呼ぶ傾向を激しく批判する著者は、依然として道徳的に受け入れる行動指針が存在しているときに、政治的問題の解決を図るために、武力行使が何よりも必要であると決定することこそが問題なのだ」と主張している。
日本国民は、参戦の誘惑に駆られる政治家たちを縛る「平和憲法」によって、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争等に参戦することから守られてきた。今、「違憲的憲法解釈」によってこの“鎖”から権力のもつ“野獣性”が解き放たれようとしている。
No
matter where you are, no matter how far
Just
call my name, I'll be there in a hurry
On
that you can depend and never worry
で始まるダイアナ・ロスの歌う名曲、“Ain't No Mountain High Enough”に触れた。下記はその要約である。
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7/16 |
【ICI翻訳-落穂抄−20150712】旧約聖書 雅歌1:1-4 (MP3)「創世記1-2章の注解書としての雅歌」
先週まで、ヘブル人への手紙、ガラテヤ人への手紙を通して、今のディスペンセーション主義聖書解釈の誤りやレストレーション運動、また、キリスト教シオニズムの誤りについて学んできた。
今週からは、最近の日韓関係において課題に挙げられ続けられている、慰安婦問題の中に、根本的な性の問題があるのではないかとの観点から、聖書の光を当てて考えてみたいと思う。
創世記1:27に人は神の形に創造され、男と女に創造された。とある。男女の関係はすなわち人間関係であり、男と女は互いに助け合い、愛し合い、信頼し合うべきであると教えられる。
神様が全ての物を造り、最後に人間を創られた時、それらのものははなはだ良い物であったと書かれている。
創2:24には、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。とある。ここに夫婦の一体性またお互いの関係は水平の関係である事が書かれている。
創世記の男女の性についての注解書は雅歌であるとよく言われる。エデンの園でのアダムとエバは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとある。
雅歌の様式は中東における恋歌の形式をとっており、それらの中には、男性神、女性神を描いたり乱れた不道徳な物もあるが、雅歌は健全な物であり、不道徳な物、蔑まれるべき物ではない。
若い男女への神様の祝福としてのセクシャリティは、神の御言葉、聖典の中に雅歌として納められているのだ。
男女の水平の関係の素晴らしさが、王の王、主の主である神様との垂直の交わりを美しく描いている。ここにある、若者と乙女の関係は、時に、主なる神とイスラエルの関係を表し、時に、キリストと信仰者(教会であり、クリスチャン)を表している。
雅歌は注解書の最も多い書物と言われ、素晴らしい霊的なメッセージに溢れている。
翻って、日韓の戦争中の慰安婦の問題を考えると、日本人が彼女たちに行った行為は、魂の殺人であって、地獄の拷問のような悲惨な行為である。聖書に見る性愛や賜物としての行為ではなくて、日本ではいまだに軽く扱われがちであるが、アメリカなどでは殺人につぐ犯罪だと言われる行為である。
雅歌はソロモンが書いたかどうかははっきりしない。ソロモンに捧げられた歌だとも言われる。ソロモンの名前はシャロームから取られた名前であり、平和の建設者、愛を行う者との意味を持つ。
日本はソロモンの如く、アジアにおいて平和な関係を結ぶ国であって欲しい。
2節にあるのは、若い乙女の大胆な願いであり、積極的、熱情的で男尊女卑の考えはない、女性の側からのアプローチである。これは、神様と信仰者の関係が、熱情的に恋い焦がれる関係であるということを表している。私たちの神様は"妬む神"であり、そこには激しい愛が存在している。
香油自体には香りは無いが、香料を加えることによってかぐわしい香りが生まれ、お互いの魂の中に浸透していく。これは、イメージであり、絵画やポエムのようだ。
私を十字架の愛で引き寄せて下さい。と続き、奥の間つまり寝室において魂だけではなく、身体全てを持って男女が喜び楽しむ様に、私たちとイエス キリストとの深い交わりを喜び、至福の臨在を味わうことを勧めている。
信仰とは頭で考えたり、お題目を唱えたりするものではない。信仰とは、全存在的なものである。
ギリシャ哲学において、精神は善だが肉体は悪であるという考えがあった。しかし、聖書では、創世記はキリストと教会の関係を、黙示録では信仰者と子羊の関係を婚姻関係として表している。
そして、この雅歌に至福の領域を耕す鍵が隠されている。神様の祝福の領域を私たちが狭くしているのではないか?放縦は良くないが、禁欲も神様に対して罪であることを、雅歌を通して学んでいきたいと思う。(仁美)
20150519-20_ラッド著『終末論』特別講義 「第七章 復活と携挙」一部紹介 一般視聴者用(有料視聴) ICIサポーター用
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7. 復活と携挙
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旧約聖書において見出すのは、神が死の支配者であり、それゆえ死は、神の民が肉体において生きている間に神と楽しんでいた交わりを、中断するものではない、という確信である。
しかしながら、そこではそれ以上のものが言及されている。旧約聖書においては、明らかに復活の確信すら現れている。肉体を伴った存在であることは、人間にとって不可欠のものであるゆえ、肉体を伴った復活への望みについて幾つかの言及を見出す。
イエスの復活の終末的な特徴は、イエスの復活が「眠った者の初穂」(Tコリント一五・二〇)であるという、パウロの言明の中に最も明白なかたちでみられる。この「初穂」という表現は、現下の収穫の始まりであり、それは神にささげられる新しい収穫、供え物であった。それは希望でも、約束でもなかった。それは現下の収穫の開始であった。そしてそれには時を移さず全面的な収穫が続いた。
【ICI翻訳-落穂抄−20150705】新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:1-18:肉欲のために蒔く者は「国家の滅亡」を刈り取り、御霊のために蒔く者は「国家間の平和」を刈り取る
昨年、『福音主義イスラエル論』という論文を書き、「ディスペンセーション主義聖書解釈」や「キリスト教シオニズム」の誤りについて書かせて頂いた。また、3月には『終末論』の翻訳本も出版させて頂いた。しかし、まだ、私の考えるところとは逆の方向に向かっている方々がここかしこにみられる(6:1)。
翻って、日本の現在はというと危機的な状況である。「アジアで2000万人、日本で300万人という膨大な犠牲」を忘れたかの様に、「安全保障関連法案」が来週にも決議され様としている。日本の自衛隊が「戦争」に巻き込まれてしまいかねない岐路に立っている。
「マスコミ」は政府の圧力に屈し口をとざし、「公共放送のNHK」までもが、総理大臣と親しい会長の影響を受け、「内閣法制局」の長官も変えられてしまった。しかし、「憲法審査会で三人の憲法学者」が、自民党推薦の人も含めて安全保障法案は"違憲"であると証言し、学生たちが"SEALDs"という法案成立反対のためのグループを立ち上げた。毎週、金曜日には国会前でデモを行い、この運動に勇気を得て、京都でも、北海道でも若者たちが"戦争反対!"の声を挙げだした。
戦後の日米安全保障条約締結や条約延長の際は、安倍総理のおじいさん岸信介さんが、法案を強行裁決したがため、後に辞職に追いやられた。今の若者たちが立ち上がれば、この前の衆議院議員選挙が投票率30%で、自民党、公明党が三分の二の議席を取ってしまっているこの状況を、ひっくり返してしまうかもしれない。
パウロは、旧新訳聖書は、神が御子イエスをこの世に遣わし、全ての人を救い、クリスチャンが神の御霊に導かれ、完全に主の御心を成就するため、与えられた物であると語っている。キリスト者とされた者は、「再び、古い戒律の奴隷となってはならない」と繰り返し教えている。「誤った聖書解釈とその実践」は正されなければならない(6:1)。
しかし、パウロの時代も、現在でも、「誤った聖書解釈」をし、「誤った実践」をしている人々がいる。それは、ディスペンセーション主義聖書解釈であり、キリスト教シオニズムであり、レストレーション運動等の中にみられる。パレスチナ問題などは、まさしく「アパルトヘイト」ではないのかと指摘されている。
今の政治家の安全保障法案が「憲法解釈の誤り」であるなら、主権者である国民がそれを正さなければならない。「報道は自粛」され、「内閣法制局長官」や「NHK会長」を自分好みに入れ替え、「誤った実践」を目指しているとすれば、黙っていてはいけない。「憲法の誤った解釈とその実践」を正すのは、キリスト者の責務であると私は考える。
人はキリストの贖罪の故に罪を赦され自由になった。しかしその自由を、肉の欲を満たすために使ってはいけない。この本質を抽出し、日本の歴史に類比・適用する。
明治からの歩みに"富国強兵"というスローガンがある。今、世界遺産と認めて貰おうとしている産業施設を通しての経済的発展を目指し、欧米各国に追いつきたい軍事力も手に入れようとしていた。しかし、"肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り"とある様に、中国や朝鮮半島で行ってきた残虐な行為は、日本に滅びの結果をもたらした(6:7-8)。
戦後、アメリカに占領され、日本国民を悲惨な運命に陥れた軍国主義、ファシズムを克服し、民主主義国家とするため、「日本国憲法」が与えられた。この憲法の中には「専守防衛」の考えが徹底され、日本は「平和主義」で争いをしないとし、世界中から尊敬される国になる事が出来た。しかし、この平和憲法を与えたアメリカが長引く戦争によって力を弱め、日本に軍事協力を求めてきた。本来なら、憲法を改正しなければならないところ、難しいので「解釈による改憲」をしようとしている。ただ、日本が「解釈改憲」をし、「軍備を増強」すれば、それによって刺激される中国は「ますます軍事力の増強」をはかり、「軍拡競争」になることは過去の経験が教えている。
キリスト者の原点は「十字架」であり、キリストの「贖罪」が原点である。アジア諸国に対して、日本は十字架に付けられたのであるから、「贖罪の意識」を忘れてはいけない。強大な軍事力ではなく、最小限の自衛能力のもとで「平和主義による外交努力」で国を守って行くべきである。平和こそが「資源なき貿易立国」の日本が生きていく一本道である。
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6. 反キリストと大患難
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【ICI翻訳-落穂抄−20150628】新約聖書
ガラテヤ人への手紙5:16-26:国家の獣のような「肉の欲望」を縛る鎖、つまり「御霊の実」としての日本国憲法
今、日本の国会では"安全保障法案"が議論されている。戦後70年の歩みとは異なる歩みを始めようとしている。
そもそも、先の大戦での日本人300万人、アジアの諸国民2000万人という、莫大な犠牲の下に与えられた、日本国憲法は"平和憲法"である。
アジアの人たちに対する悔い改めの意味を持つこの憲法によって、日本は70年間平和が続き、ベトナム戦争でも湾岸戦争でも、一人も殺さず一人も死ぬことがなかった。
そもそも、憲法とはどういう位置付けにあるのかというと、国家における最高の法律であると言える。その下に様々な法律が出来ているのであって、憲法の中身を法律が否定するなどということは有り得ないことである。
さて、クリスチャンである私たちはどうすれば良いのであろうか?ユダヤ教の下で育ったパウロがイエス キリストに出会い、十字架の赦しと内におられる御霊によって自由が与えられ、神を愛し隣人を愛することが、人間にとってどれだけ素晴らしいかを説いている。
私はパウロの説く真理が、この日本国憲法の中に現れていると考える。御霊によって歩むとは、隣国といがみ合ったりせず、肉の欲望である他国を侵略したり殺戮を行わず、国民の幸せだけでなく、世界中の幸せを願うことではないか?
かつて、日本は明治憲法を作り、大正デモクラシーにおいて、政党政治を確立し、自由な国家として歩み始めた。しかし、第一次世界大戦後のヨーロッパの衰退により、手薄になったアジアに力を伸ばそうと進出していった。ここには、大国に追いつきたいという国家の欲望があり、結果として軍事国家、ファシズムという物を目指し始めた。
第二次世界大戦においても、最初だけは良かったが、すぐに戦況は暗転した。そもそも、資源の乏しい日本の国力は長期の戦争には耐えられないというのが、世界情勢を知る人々の中での常識であったにもかかわらず、一部の軍人や指導者とそれを煽るジャーナリズムによって、国民は酔いしれ肉の欲望を満たそうと一丸となって突き進んでしまった。
神様は御霊によって歩みなさい、と教えておられる。御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制です。とある。また、このようなものを禁ずる律法はありません。と言っている。この御言葉を読むと、日本国憲法が神の御心であり、人類にとって理想の憲法であることがわかる。
しかし、政治家の意図を察してジャーナリズムは煽り立てる。隣国のことを敵意を持ってけなし、蔑む。
憲法学者の佐藤先生という方がおられるが、佐藤先生のお兄さんは戦争の特殊な雰囲気に飲み込まれ、必死に説得しようとする親をも捨てて、特攻に志願し戦死してしまわれた。そういう状況を作り出した人たちの責任は非常に重いと私は考える。
憲法学者のほとんどが違憲であるか、または反対であると言っているのにもかかわらず、数の力で無理やり通そうとしている。
今、また、復活しつつある歪んだナショナリズム、これは欲望であり肉の力である。
深い反省の上に誕生した日本国憲法は平和で自由な国家を保証し、私たちキリスト教会の信教の自由も保証してくれている。国民主権、男女平等、そして、何よりも二度と戦争をしないと誓う崇高な考えを世界に示している。
そんな素晴らしい憲法を塵芥の様に投げ捨て、また、再び、若者を戦地に送り出そうとしているのではないか?私たち国民はジャーナリズムに乗せられることの無い様にしっかりと国会議員を見張り、監視していかなければならない。(仁美記)
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20150519 | IBC | Aguro | 5. 再臨についてのことば | pp | YouTube |
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6/25 |
【ICI翻訳-落穂抄−20150621】新約聖書
ガラテヤ人への手紙5:1-15:「ユダヤ教キリスト派」と「日本教キリスト派?」の類比−その割礼と戒律
旧約聖書においては、エジプトの支配の下、イスラエルの民は奴隷生活を余儀なくされていたが、「小羊の血」によってその苦役から解放された。出エジプトの出来事である。新約聖書においては、罪の奴隷であった人々が「キリストの血」によって、その支配から解放された。キリストの贖罪の出来事である。
そのような中、「ユダヤ教キリスト派」を自称する人々が到来し、「キリストの贖罪」のみでは不十分である。「割礼」を受けユダヤ教徒となり、「ユダヤ教の戒律を遵守」する必要があると説いた。
このことに対して、使徒パウロは、有名な「キリスト者の奴隷解放宣言」の聖句を書き記した。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。あなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(5:1)。
使徒パウロは、「キリストの贖罪と御霊の内住」で十分であり、ほかに必要なものはないと宣言した。「贖罪の恵みに根ざして働く御霊」が律法の本質をまっとうするからである。
この事実と解釈を「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」等の課題に適用してきた。今朝は、この事実と解釈を、いわゆる「日本教キリスト派」(山本七平氏の用語)等の課題に適用することとする。それは、国会が「安保法案」を審議しており、戦後日本の歴史の転換点にさしかかっているからである。わたしは、「安保法案」だけを見ていると、「鹿を追う者、森を見ず」ということになると思う。
この問題は、「憲法改悪(よりよいものにすることを“改正”と呼びたい。我々は今、現在のものよりの劣化、退化、そしてその平和憲法精神の根本的改悪をみている)」への取り組みの一里塚に過ぎないからである。わたしはこの問題を、『宗教の神学(比較宗教学)』の講義で長年取り扱ってきた。二十年前には多くの人は予想していなかったことが今起こっている。わたしは、二十年前のこの講義の中で必ずこのような時期が到来することを予想し、危機感を抱いてきた。今まさにそのことが起ころうとしている。しかし、これはまさに始まりにすぎない。
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2008/07/01 | JEC牧師会研修 | 安黒務 | 霊の戦いに関するーその聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明2000』解説講演と 講演のまとめ |
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20160619 掲載 |
20150519-20_ラッド著『終末論』特別講義 「第四章 キリストの再臨」一部紹介
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4. キリストの再臨
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新約聖書に書かれている「キリストの再臨」の意義を把握するためには、「聖書神学の基本的な特質の全体像」を知る必要がある。聖書は至るところで、見える「自然界の実在」と同様に、「見えない霊的世界−神の住まい−の存在」を当然のこととしている。
旧約聖書に預言されている「終末的な神顕現−神の栄光ある現れ−」は、神の普遍的な支配を確立する。しかし、新約聖書は、その預言をキリストの再臨という観点から再解釈している。キリストは、「天的な人の子」として来て、御国を聖徒たちにもたらし、「メシヤたる王」として王国を支配される。
【ICI翻訳-落穂抄−20150614】新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:21-31:奴隷的戒律遵守のユダヤ的聖書解釈の道か、贖罪と御霊による自由のキリスト的聖書解釈の道の岐路を照らす影と光のコントラスト
昨日、フェイスブックにアッセンブリー教団に属し、アドバンスト オブ セオロジー スクールのセミナーに、何年か前、私を講師として招いて下さったK先生が、私と同じ様な事を書かれていた。
レストレーション、ディスペンセーションについては誤りであること。また、聖書解釈は真ん中を走るべきであって、端を走ると危ないということである。
私はK先生をはじめ、O先生たちは終末についての講演をなさるなど、私と志を一つにする同志というか、共鳴者が少しずつ増え広まりつつある事に感謝した。また、それぞれが各教団で重要な先生方であり、そんな方々が私と同じ方向を向いて下さっているようであり、感謝した。
さて、今日の箇所だが、アブラハムには二人の子供があって、一人は奴隷の女の子供であり、もう一人は自由の女の子供だという。
私がここで感心するのは、パウロのコントラストを効かせた明確なメッセージである。そこには、いかに、パウロが旧約聖書を良く理解しているかが現れている。
一人目の、奴隷の女の子供というのは、律法の下にいたいという人々を現している。旧約聖書で聖い神様がシナイ山で十戒を与えられた。そして、その他に儀式についての法律や具体的な戒律が、事細かに作られていった。
エジプトを出た多くの民をまとめるため、荒野の時代には的確な法律であった。ここには、その時代性、地域性があり、戒めをどんどん増やしていくと、日常的に縛られた物になってしまう。
つまり、ユダヤ教的な信仰では、宗教的奴隷になってしまう。これが、一人目の子供の意味である。
次に、二人目の子供とは、イエス キリストが奴隷の様な状態から解放して下さった、自由にして下さったと信じるクリスチャンたちである。
キリストは律法の本質を成就して下さった方なのである。神の聖い光に心の中を照らされると、いかに、自分が罪深いかがわかり、こんな自分のためにキリストが死んで下さったのかということが解ると、神に赦されるとはどれだけ心軽く、自由であるかを経験出来る。
一人目の奴隷の女の子供とは、イシュマエルのことである。彼は人間の浅はかな知恵によって、肉的な人間の努力によって生まれた子供であった。しかし、二人目の自由の女の子供とは、イサクである。ここには、浅はかな人間の知恵や努力では到底有り得ない、神の奇跡の業である。
アブラハムとサラの力ではなくて、死んだ様な身体からイサクが生まれた。神の力によって・・・
ガラテヤ書の書かれた時代、エルサレムには字義的に解釈された旧約聖書、十戒、戒律の奴隷となったユダヤ教の総本山があった。しかし、天にあるエルサレムの神様の臨在の中には自由があるとパウロは言っている。
キリストを信じるだけで、神の民となる。イサクがアブラハムから生まれただけで、相続人となった様に。
だが、正しい嫡子イサクを霊的な意味を知らないイシュマエルは馬鹿にしてからかった。ユダヤ教キリスト派が異邦人キリスト者に割礼や戒律を守らないで、救われたと言えるのか?と馬鹿にした様に・・・
パウロはこんな誤った教えがキリスト教会に広まる事を許せなかった。旧約の衣を脱ぎ捨てて、キリストの御霊によって生まれ変わった者は後ろを振り返ってはならないのだと、その場の軋轢を恐れずはっきりと示した。このパウロの姿勢が後々のキリスト教会の歩みを決定ずけたと私は思う。
しかし、今なお、旧約聖書の外側だけを見て、聖書はユダヤ人を中心として考えるべきだ。カナンの地はパレスチナ人の物ではなくて、イスラエル人の物だ。と言っている人々がいる。
日本の教会にもディスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムに一生懸命になっている人々がいる。彼らのほとんどは間違った教えを信じているが真面目なクリスチャンたちである。
どうにかして、彼らが奴隷の女の子供ではなくて、自由の女の子供になって欲しいと、このガラテヤ書のパウロと同じように私も祈っている。新しい天地を共に目指すために!(仁美記)
20150519-20_ラッド著『終末論』特別講義 「第三章 中間状態」一部紹介
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3. 中間状態
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わたしたちが死ぬとき、「天国へ行く」と言う。大衆に普及しているこの考え方は、天国とは、信仰者が死に、死の川を渡り、門を通り、入っていく至福の状態―すなわち永遠に麗しい世界―のことである。そこで、肉体を脱いで幸せな状態に至った彼は「不死なるものとされて住む」。…一般に普及しているそのような考え方は、聖書的な神学というよりもギリシャ的な思想の表現である。…「救い」は死に際して魂が肉体から解放され、本体的な世界への飛翔するものとされた。
しかし世界と人間についての聖書の概念はまったく異なっている。旧約聖書思想の根本は、神は創造者であり、世界は神の世界である、そしてそれゆえに本来は良いものであるという信念である。…福音書とパウロによって教えられているひとつの事実は、義なる死者―つまり信仰者たちは復活を待ち望みつつ、神の臨在の中にあって、キリストとともにいる。これは祝福の状態ではあるが、聖書が全体として証言している事実は、最終的な贖いには肉体の復活と変貌を欠かすことはできない、ということである。
【ICI翻訳-落穂抄−20150607】新約聖書ガラテヤ人への手紙4:8-20:天動説が地動説に変わってしまったと同じぐらいの聖書理解の大転換
フェイスブックのブログでも書いたのだが、先週2つの嬉しいことがあった。
1つはN.T.ライトの"クリスチャンであるとは"という本を読んだことであり、2つ目は、エリクソン著"キリスト教教理入門"第三版の英語版がキンドル版で、今月中に送られて来るということである。
N.T.ライトとラッドは共に新約神学者であり、語っている表現は違うが、ラッド著“終末論”等の著作集と、そのエッセンスは重なり合うところがあると思った。
今日の箇所で、パウロは私のようになってください。と言っている。
熱心なユダヤ教徒であったパウロが、ダマスコ途上でキリストに出会い、人生の価値観が180度大転換した。あんなにも戒律を守ることに命をかけていたパウロが、その戒律の本質はキリストの内にあると気づいた。天動説が地動説に変わってしまったと同じぐらいの聖書理解の大転換であった。
それなのに、彼が導いたクリスチャンたちが戒律遵守の生活(律法)に戻ろうとしている。キリストの救いの恵みと御霊の豊かさを捨てようとしている。パウロには耐えられない光景であった。だから、"どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。"と痛烈に批判している。
N.T.ライトは「神証明の議論」(p.82)についてこう述べている。"太陽が昇っているのに、ローソクを探しているかの様だ"と・・・
旧約からの霊的遺産はイスラエルからもたらされたのであるからイスラエルに対して「敬意を払う」のは良い。しかし、キリストを知っていながら「プラスα」はいらない。キリストのみ、御霊のみで十分なのだ。
ユダヤ人クリスチャンを再び「戒律を守る生活」に戻そうとする人たちは間違っている。知識に欠けた人たちなのだ。
現代の私たちの周りにも、そうした人たちがいる。強烈な賛美や祈り、ダンス、預言、イスラエルの祭。これらの人たちは教会に「熱気」をもたらしてくれる。いつもの静かな礼拝とは違う「高揚感」を与えてくれる。
しかし、どんなに熱心で刺激的であったとしても、健全な聖書解釈に根ざした、健全な福音理解に根ざしていなければ虚しい"宗教的熱狂"に過ぎない。その熱気によって、一時的に人々が集められたとしても、それは所詮いずれ消えてしまう物である。
キリストの教会では、正しい聖書解釈、正しい福音が語られるべきである。神学校も然りである。
旧約聖書を正しく学べば、旧約聖書の実体である新約聖書のキリストがわかり、これからの私たちの生活、人生をどのように歩むべきか、未来がわかるのである。
20150519-20_ラッド著『終末論』特別講義 「第二章 イスラエルについてはどうか」一部紹介
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20150519 | IBC | Aguro | 2. イスラエルについてはどうか | pp | YouTube |
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【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150601】G.E.ラッド著『終末論』特別講義
「第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか」
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20150519 | IBC | Aguro | 1. 聖書の預言をどのように解釈すべきか | pp | YouTube |
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【ICI翻訳-落穂抄−20150531】新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:1-11:「“全財産の相続人”−“アバ、父”と呼ぶ御子の御霊の保持者のみ」
ガラテヤ人への手紙の四章は三章の終わりの相続人という言葉から始まっている。アブラハムの祝福がキリストを通して私たちに及んでいるというのである。
罪と滅びの中にあった私たちに救い、永遠の命という相続財産が与えられるのはキリストを通してなのだというのである。もし、この相続が条件付きであったなら、誰が相続出来るであろうか?世紀のラビ・ユダヤ教の様に613の戒律を守らないと相続出来ないとなると、相続する人がいるのか?ということになる。
しかし、ここに相続人の資格についての唯一の条件が提示されている。"子であること" 子であるならば無条件で親の財産を受け取れるのである。
親が資産家であれば、成人になるまでは後見人や管理者の下にあるので、直接財産を受け取ることは出来ないが、成人すれば受け取ることが出来る。
旧約時代、アブラハムは神を信じ、それが義と認められ、神の祝福の約束を受け取った。そして、新約の時代、神が人となられ律法の下に生まれられた。聖い神の御心がこの地上で実践され、祝福の実体であるキリストがこの世に現れたのである。
キリストがこの地上に人として生まれて下さった唯一の目的は、死ぬためである。全ての人類の罪をその身に負い、自分の命を生け贄として捧げ、贖罪の業を成し遂げることであった。
このキリストを信じることで、私たちは子という身分を与えられるのだということである。
神の子という身分は、何を意味するのか?子というだけで、神の全財産を相続出来る立場になったということである。
そこには、私はまだまだ罪深いので、あれもしないとこれもしないと・・・ではない。出来が良くても悪くても、子であるので全財産の相続人なのである。
しかし、パウロがいた時代にもそれだけでは足りない、やはり、ユダヤ教の時の様な割礼や戒律を守らないと救われないのではないだろうか?と考える人たちがいた。キリストを信じるだけで子とされるのに、他の条件がいるとなると律法の下の奴隷の身分に逆戻りする事になってしまう。
私の労を無にしてしまうつもりか?と嘆いている。
ルターの宗教改革から、500年の節目を迎え様としている今、私たちキリスト教会の状況はどうだろうか?旧約聖書に預言され、この地上に現れて下さったキリスト。この世の中を成人の時代へと導いて下さったキリストは私たちが心を開き「アバ、父。」と呼ぶだけで、子と呼び素晴らしい宝物を下さるというのに、古びて使い物にならなくなったガラクタを手放そうとしない人たちがいる。
あなたの心に神様を愛する心があるなら、子とされている喜びを父に申し上げようではないか?「私の愛するお父さん!」と・・・(仁美記)
【ICI翻訳-落穂抄−20150528】書籍紹介:ヤコヴ・M・ラブキン著『トーラーの名において―シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史―』とその要約・増補版『イスラエルとは何か』
「シオニズムがユダヤ教の延長であると考えている人びとには、本書を読むことを薦めたい。だが、イスラエルが真にユダヤ教の国であるなどと信じ込んでいる人びとには、本書を読むことを必須としたい!」と紹介にある。わたしは、「ディスペンセーション主義聖書解釈の適用としてのキリスト教シオニズムの諸集会」によく出席される教職者ならびにクリスチャンの兄姉の必読書としてお奨めしたい。
まずは、『トーラーの名において』の要約版である『イスラエルとは何か』を読まれることをおすすめしたい。“ディアスポラ(イスラエル・パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団)”の歴史学者の著作であるので、真実性があり、説得力のある内容となっている。そして、今日、ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム系の諸集会で提供されている「イスラエル」関係のもろもろの聖書解釈と情報がかなり偏ったものであることを教えられる貴重な書籍である。
“ディアスポラ”の歴史学者が『イスラエルとは何か』どのような章構成でしるしているのか。それは以下のとおりである。
●『イスラエルとは何か』
・第一章 今日のイスラエル
・第二章 ヨーロッパのユダヤ教徒とユダヤ人
・第三章 シオニズムのキリスト教起源
・第四章 シオニズムの企図
・第五章 シオニスト国家の形成と維持
・第六章 ユダヤ教の伝統にとって<イスラエルの地>が意味するもの
・第七章 ナチスによるジェノサイド、その記憶と教訓
・第八章 シオニズムに対するユダヤ教世界内部からの抵抗
・第九章 変貌するイスラエル社会とユダヤ共同体
・第十章 国際的視点から
・訳者あとがき
また、その主著『トーラーの名において』の章構成は以下の通りである。
●『トーラーの名において』
・プロローグ
・第一章 いくつかの指標
・第二章 新しいアイデンティティ
・第三章 <イスラエルの地>、流たくと帰還のはざまで
・第四章 武力行使
・第五章 強調路線の限界
・第六章 シオニズム、ショアー、イスラエル国
・第七章 破壊の予言と存続のための戦略
・エピローグ
■非常に感動した記述が、エピローグに記してあったので、以下に少し紹介したい。
「私が本書のフランス語原著を書き終えようとしていた、まさにその日、挙式を翌日に控えた一人の花嫁とその父親―二人ともユダヤ教の実践者である―が、とあるカフェの店内で談笑していた。そこへ、突如、爆音が轟き、二人の夢は粉々に打ち砕かれた。一人のパレスチナ人によるこの自爆テロは、一瞬にして十五人の命を奪い去った。
翌日、結婚式に参列することになっていた人びとは、一転して父親とその娘の亡骸を墓地に運ぶ役を担うこととなった。弔意を表しに集まってきた群集の前で、預言者アモスの言葉が鳴り響く。
『主、言いたもう、“その日には、我、太陽をして真昼に没せしめ、大地をして白昼に暗くならしめ、汝らの祝いを悲しみに変わらせ、汝らの歌をことごとく嘆きに変わらせ…”』(アモス8:9-10)。
しかし、それまでも私が何度か立ち会ったことのあったテロの犠牲者たちの弔いとは異なり、この時は、人びとの間からアラブ人に対する憎しみや怒りの表現はほんの一言も聞かれなかった。むしろ、この弔いを包み込んでいたのは、ユダヤ暦の新年に先立つ数日間に独特の、沈思黙考の空気であった。
今、<聖地>に猛り狂っている暴力の波のなか、ハレーディ(超正統派ユダヤ人)をはじめ、敬虔なユダヤ教徒たちも、ほかの人びととまったく変わりなくテロの犠牲となり、命を奪われている。先頃は、『嘆きの壁』からハレーディたちを満載して戻ってくる途中の一台のバスが爆破され、二十人ほどの犠牲者が出た。その時、多くのイスラエル人の感動を誘ったのは、その惨劇を身に受けるハレーディたちの威厳、そして慎み深さであった。憎しみと報復の感情を抱く代わりに、ハレーディたちは、自分たちが、いつ、どこで罪を犯したのか、自問し続けていたのである。
一連のテロ事件の後、メア・シェアリーム地区(ユダヤ教の掟をもっとも厳格に守る人々は「超正統派」と呼ばれ、エルサレムではメア・シェアリーム地区に多く住んでいます。ここの雰囲気は非常に独特。黒装束に身を包み、もみあげを伸ばした男性や、長いスカートをはき帽子をかぶった女性が行きかうのが見られます)の家々の壁には、<聖地>を“出口のない血みどろの罠”に作り変えてしまったシオニストたちに対し、<聖地>掌握の僭越さを今すぐ破棄するよう求めるビラのたぐいが掲げられた。
ユダヤ教からシオニズムに突きづけられた抵抗は、見事なまでの粘り強さを見せてきた。イスラエルが国家として飛躍し、その軍事的勝利と経済成長を目に見せつけるなか、ユダヤ教徒のシオニズム批判者たちの姿勢はまったくひるむ様子も見せず、むしろ、ますます徹底したものとなったように感じられる。…
唯一、トーラーとその価値への回帰だけがユダヤ人(教徒)の未来を約束してくれる。…あるユダヤ史の著者(ポール・ジョンソン)が、ユダヤ教内部の反シオニズムについて述べている言葉だ。まさに、この少数派と多数派の逆転劇があるからこそ、ユダヤ教・反シオニズムの起源と真意を理解することがとりわけ有益なのである。
たとえば、今日でこそユダヤで多数派を占める“非宗教のユダヤ人”も、ユダヤ史三千年の連続性に照らし合わせるならば、単なる周縁的な存在にすぎなくなる。
この視点に立つならば、逆に、シオニズムに抗するユダヤ教徒たちこそ、今日、世界中のユダヤ人居住地に残るおき火として、ユダヤの連続性の旗手に見えてこないだろうか。…
“家造りの捨てたる石は、隅のかしら石となれり”(詩篇118:22)という聖句にあるとおり、ユダヤ史にあっては、常に少数派が決定的な役割を果たしてきたからである。…
シオニズムを批判するラビたちが好んで引用することわざは、まさに“小さな光が大きな闇を払う”というものである。…
ユダヤ国家という発想と、とりわけその実現と維持のために不可欠とされる人的、道徳的代償が、ユダヤ教の教え、なかんずく同情、慎み、善行という中心的な価値をことごとく否定するものであると考えているユダヤ人も見出されるのだ。こうした人びとにとって、ユダヤの統一性とは、イスラエルの国旗ではなく、あくまでもトーラーの周囲に織りなされるべきものである。そして、彼らの恐れは、“イスラエル国の挙動”が“ユダヤ教の普遍的な音信を傷つけてしまいかねない”という一点に存する。」(pp.351-356)
少し長い引用となったが、“ディアスポラ”のユダヤ教の歴史学者、ヤコブ・M・ラブキンが著作を通して語っているメッセージの本質を教えられる。
1945年、旧ソ連・レニングラード(現サンクト=ペテルブルグ)生まれ。レニングラード大学で化学を専攻、モスクワ科学アカデミーで科学史を学ぶ。73年以来、カナダ・ケベック州モンレアル(モントリオール)大学で歴史学を講じる(現在、同大学教授)。科学史(とりわけSTS「社会における科学と技術」の観点から)、ロシア史、ユダヤ史を専門とする
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150525】 福音主義神学 45号 掲載論文 :
『 福音主義イスラエル論 −神学的・社会学的視点からの一考察−』Kindle版(安黒執筆論文)のエッセンスの解説と質疑応答 一般視聴者用(有料視聴) ICIサポーター用
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2017/04/20
JETS神学会
安黒務
『福音主義イスラエル論』エッセンスの解説と質疑応答
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DVD講演録[60X1枚]=1000円
5/25 掲載
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【ICI翻訳-落穂抄−20150524】新約聖書
ガラテヤ人への手紙3:15-29:「“自力本願”としての律法による相続、“他力本願”としてのキリストによる相続」
本日は、都合により説教者本人がまとめさせていただく。ペンテコステ礼拝の日に、ガラテヤ書講解とは、いかがなものかと思ったりもするのであるが、3:8,14から見ると、ペテコステの日の、神学的解説としては最良のテキストともいえると思うのである。
旧約の心臓部分である「アブラハムの祝福」が、キリスト・イエスの贖罪のみわざに根ざし、復活・昇天・着座・聖霊の注ぎという一連のみわざにより、ペンテコステの日に「約束の御霊」が注がれたわけである。
ペンテコステ直前においても弟子たちは「イスラエルのために国を再興してくださるのはいつですか」(使徒1:6)とねぼけた質問をしている。しかし、ペンテコステの日に聖霊の注ぎを受け、ペテロの聖書解釈は“大転換”させられた。ダビデの王座は、今天上の右の座にある(使徒2:29-33)ことに目が開かれたのである。
また、パリサイ派の聖書学者でもあったパウロの聖書解釈も“大転換”を経験させられた。ガラテヤ書はそのことを明らかにしている。ユダヤ教は“律法中心”に聖書を解釈し“戒律遵守”を重んじていた。これに対し、パウロは「アブラハムへの祝福の約束」を「その方はキリストです」と“キリスト中心”に解釈する原則を見出した。「律法による」のは“自力本願”の宗教になり下がるのであるから、「キリストによる」“他力本願”の原理を説き明かしている。
では「律法」の意味・役割とは何なのか、必然的にこの問いが生起する。パウロは「アブラハムへの祝福の約束」を“遺言”の位置に置き、キリストの死において“相続”は完成するものであり、書き換えは不可能であると宣言する。このことを“中心軸”に設定し、“律法の意義・役割”を説き明かす。「違反を示し」「罪の下に閉じ込め」「キリストへと導く」“養育係”であると。もちろん、律法にさまざまな意味・役割があったことをパウロが知らないはずがない。しかし、パウロはすべての事柄を“キリスト中心”に見つめ直しているのである。この“徹底性”から私たちは学ばなければならない。
そして、「律法」のその役割は「子孫が来られるときまで」であり、「信仰が現れた以上」その役割は終焉すると断言している。“律法中心”思考のユダヤ教徒は天地がさかさまになったような感覚を抱いたであろうと思う。
わたしたちは、「キリストの中にあることによって」、「アブラハムの子孫」であり、「約束による相続人」である。そこには「キリストとそのみわざ」があるだけであり、もはや「ユダヤ人もギリシア人もない」。
わたしは、これらの文脈に流れるメッセージに、ラッド著『終末論』にみる、「キリスト論」「終末論」における、同じ“再解釈”の原則を見るのである。わたしは、パウロがいのちがけで戦い取ったものが何であるのかを、明確に識別できなければ、“誤った方向”へ飛行機は飛び続けることになるのではないかと大きな懸念を抱いている。であるから、わたしもパウロのように「ああ、愚かな○○人よ!」と叫び続けるのである。
参考資料紹介:
ティンダル聖書注解シリーズ「ガラテヤ人への手紙」pp.46-48において、アラン・コールは、今の「時代のエキュメニカルで融和的な精神」に言及し、カトリックとルター派と聖公会の話し合いの文脈に注目している。「信仰義認」の教理の中心性について“相対化”する試みをクリティカルに評価・分析している。ガイ・ウォーターは『義認とNPP』p.212
において、「ルターやカルヴァンが間違っており、トレントの正しさ」が強調されるという、隠された傾向を見抜いている。(安黒務記)
【ICI翻訳-落穂抄−20150522】G.E.ラッド著『終末論』−「BD-R
特別講義録」案内
2015年3月に、G.E.ラッド著『終末論』を8年かけて翻訳刊行した。本書は、十数冊あるラッドの著作の中で、最後の著作、つまり絶筆となった著作である。それだけに、ラッドがライフ・ワークとして取り組み、多くの著作で扱ってきた内容−ディスペンセーション主義問題、イスラエル論問題、グノーシス問題、復活問題、神の国問題等に関する議論の輪郭とエッセンスが凝縮され、ディベート(討論)のスタイルで分かりやすく扱われている。
今回、翻訳・刊行を記念して「BD-R
特別講義録」を作成した。各章30分講義で、「把握すべきポイントと聴き取るべきメッセージとは何か」を簡潔明瞭に解き明かした。その「第一講義」のみを公開する。このBD-R講義録に関心のある方は、“aguro@mth.biglobe.ne.jp”に問合せ・注文いただきたい。【30分×12講義=通常定価6000円→刊行記念特価3000円(送料込)】なお、ICIビデオ・ストリーミング・ワールドに漸次掲載していく予定であることも書き添えておきたい。
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150518】−ディスペンセーション問題三部作B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答 :主要資料−クラレンス・B・バス著『ディスペンセーション主義の背景』
2009年度10月6日、所属団体での「ディスペンセーション問題」研修の第三弾は、岡山英雄師の、@「患難期と教会」、A『小羊の王国』に続き、Bクラレンス・B・バス著『ディスペンセーション主義の背景』を資料源として学んだ。ディスペンセーション主義聖書解釈の結実として「イスラエルと教会を、神の二つの民、二つの計画」と理解する“誤った教会論”と、教会は患難期の前に携挙され黙示録4〜19章は民族的イスラエルの描写と理解する“誤った終末論”に特徴がある。その原因をたどると、そのすべては“誤った聖書解釈法”にいきつく。つまり、「最初のボタンを留め間違うと、ひとつずつずれて最後のボタンは留められない」ということであり、「曲がった包丁でカマボコを切ると、どこを切っても曲がって切れる」ということなのである。 一般視聴者用(有料視聴) ICIサポーター用
この点を、その“原点”であるJ.N.ダービーにまでさかのぼって丁寧に分析評価した名著が、クラレンス・バスである。後々に、古典的→改訂→漸進的と大きく変容してきているディスペンセーション主義であるが、それらが“内包する課題の本質”を理解するための最良の視点は、J.N.ダービーの「誤った聖書解釈法→誤った教会論→誤った終末論」の基本構造を見るところにある。カメレオンのように変容を繰り返すディスペンセーション主義は、その途中段階や、聖書解釈の細部においては“良否”の判断はきわめて困難である。しかし「J.N.ダービーのディスペンセーション主義」に焦点をあてて、その“反映度”がどうであるのか、を見るときに“それらが内包している問題点”は「J.N.ダービーの遺伝子」のようなかたちで浮き彫りにされてくる。ディスペンセーション主義問題の解決とは、“小手先”の聖書解釈問題ではなく、根源的な次元における“遺伝子治療”のような作業なのである。
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2009/10/06
JEC牧師会研修
安黒務
ディスペンセーション問題三部作
B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答
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DVD[90分×1枚]=1500円
5/18 掲載
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■講演全体を視聴希望の方は、安黒までお問い合わせください。
【ICI翻訳-落穂抄−20150517】新約聖書
ガラテヤ人への手紙3:1-14:「アブラハムの“わざ”としての信仰のユダヤ教解釈の−パウロによる再解釈」
このガラテヤ人への手紙は、一世紀の50年頃に書かれた、パウロが今のトルコにあるガラテヤの人々に送った手紙である。
パウロが開拓した教会であるが、しばらくパウロが離れているうちに乱れが生じてしまい、そのことを憂いた彼が手紙をしたためている。
ユダヤ教からキリスト教に移行する過渡期に、今までずっと律法を守って生きて来た人々に、キリストを救い主として信じるだけでは何か足りないのではないか?という疑問が生じてしまうのは自然なことだったかもしれない。
特に、パリサイ派と呼ばれてきた人々はイエス キリストを信じた上に、ユダヤ教の儀式である、割礼を受け、戒律を守って行くことで信仰は完成されていくのだ、という間違った信仰の捉え方が生まれてしまった。
しかし、パウロは言った。「ああ愚かなガラテヤ人」十字架に付けられたキリストを信じるだけで、罪は赦され、天国へ行けると言うことが、どうして解らないのか?だれがあなたがたを迷わせたのか?と・・・
この迷わせたという言葉は魔術にかけられるという意味合いがある。
このガラテヤ人への手紙の箇所で私たちが見るのは、当時のユダヤ人にとってのアブラハムの解釈とパウロのアブラハムの解釈が異なっているということである。
ユダヤ人は律法を中心にアブラハムの信仰を吟味しているので、信仰の模範者であり、神の戒めを守り続けた偉大な祖先であったと考えていた。
しかし、パウロはアブラハムが神に祝福されたのは、アブラハムの業ではなくて神を信じたこと、この一点に尽きるという考えなのである。この卓越した解釈は人が救われるということに、人間の業は全く意味を持たないということであり、信仰としての信仰、恵みとしての信仰これは全く受け身のものであるというパウロの考えである。
このパウロの考え方は後のマルティン ルターの詮議としての信仰とも通じるものである。イエス キリストの十字架の犠牲によって救われる、これは人の業ではなくてただ恵みによるものである。そして救われた人間は御霊の取り扱いによってその人にふさわしい実を結んでいく。
我々が救われるのは、信仰のみ、恵みのみ、御霊のみ、贖いのみであり、これこそ、福音と呼ばれる由縁であろう。
そもそも、徹底しての戒律を守れる人間はいるのか?これらを守る義務があるならば律法はまさに呪いではないか?一生懸命守ろうとすればするほど足りないところが目につき、落とし穴にはまってしまう。
"義人は信仰によって生きる。"というハバククの御言葉を完全に再解釈し、キリスト者はキリストの死と葬りと復活によって生きるものと考えたパウロ。また、旧約聖書の本質を読み取り、形としての殻ではなく、中身を的確に示したパウロという人は、本当に素晴らしいキリスト者であったと思う。(仁美記)
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150511】−ディスペンセーション問題三部作
A「黙示録特別講義:イスラエルと教会」特別講義:主要資料−岡山英雄著『小羊の王国』 一般視聴者用(有料視聴) ICIサポーター用
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2009/09/15,25
一宮基督教研究所
安黒務
ディスペンセーション問題三部作 A:「黙示録特別講義:イスラエルと教会」
同左
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DVD講義録[90X2枚]=3000円
5/11 :掲載
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2009/09/25の講義の紹介です。もう六年も前ということになりますが、今日ますます、“使徒的な聖書解釈と実践”から逸脱した“誤った聖書解釈と実践”が広まっているように思います。K.N氏の「黙示的ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教え」、A.F氏の「メシヤニック・ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教え」、E.S氏の「政治的ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム(ブリッジ・フォー・ピース、ハイナイト)の教え」に“まったくの無防備”な状況に危機感を覚え、“ディスペンセーション主義聖書解釈法とその結果としての教会論と終末論”の誤りを分析・評価した講義・講演の三部作シリーズの第二作の講演ビデオ@Aを掲載しました。
■ 下記の紹介ビデオは、無料視聴【期間限定】できます。
http://aguro.jp.net/d/stream/kbi/090925b_k01_the_Kingdom_of_Lamb/090925b_k01_the_Kingdom_of_Lamb_intro.wmv
■講演全体を視聴希望の方は、安黒までお問い合わせください。
※「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教え」が、“使徒的な聖書解釈と実践”から逸脱した“誤った聖書解釈と実践”であることは、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論』で、客観的かつ神学的に丁寧に説明していますので、そちらを参考にしてください。
2009
年は、わたしが「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」と格闘した年であった。2003年にエリクソン著『キリスト教神学』が刊行され、日本各地の優れた神学校で「組織神学」の教科書あるいは主要なサブ・テキストとして採用されていくのを見て、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」の克服は“時間の問題”のように思えた。そのように「苗代の稲」が育つのを見守っていた。しかし、“その時”は到来した。収穫間近に見えた「たわわに実った黄金の稲穂の田畑」に異変が生じた。K.N氏やA.F氏やE.S氏の集会、セミナー、講義、講演、祈り会等がわたしの周辺で、あたかも「東日本大地震の時の津波」のように押し寄せてきたのである。その時、関係者が巻き込まれる姿を見て、わたしは「たわわに実った黄金の稲穂の田畑」に“火が放たれた”−そのような印象を抱かされたことを忘れることができない。信じられない思いであった。「健全な聖書解釈法」が次第に定着してきたと思っていたのに、「そんなにも急に見捨てて、 “ほかの聖書解釈法”移っていくのに驚いています」(類比箇所−ガラテヤ1:6)と大変な危機感を抱いた。それで、関係者に「警鐘メール」を数多く送らせていただいた。しかし、理解してもらえず、団体の理事会からは「中傷メールをやめるようにとの警告」を受け取ることになった。 それでも、わたしたちの団体の良いところは、牧師会で「安黒先生の釈明また説明の場を設けて、質疑応答をしよう」ということで、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」に関して牧師会研修会が開催されたのである。その意味で、わたしは所属団体の「ふところの広さ、深さ」に感謝している。このことの証しが、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」克服において苦慮しておられる数多くの諸団体への励ましとなればと願っている。
それで、まず最初に紹介したのが、先週の講義ビデオ資料「患難期と教会」(岡山英雄論文)であった。そして、そのような患難期理解にたった場合の「ヨハネの黙示録の解釈はどうなるのか」が次の課題として浮上した。それで、そのための資料として『小羊の王国』(岡山英雄著)が必要となった。この書籍を調べてみるとすでに絶版になっていたので、面識はなかったのであるが思い切って岡山英雄先生にメールで事情を説明し問い合わせた。するとすぐに「再販を検討させていただきます」との返信メールを送ってくださった。そして二ヶ月足らずで再販され、わたしの団体の牧師たちはこの本から学ぶ機会を得た。わたしは、この本をテキストにして神学校でも講義をさせていただいた。わたしは、岡山英雄先生の論文と書籍に対して、わたしたちの団体と神学校にとって“いのちの恩人”のような意識を抱いている。この二つの資料によって、わたしに対する“風向き”は大きく変わった。“四面楚歌”のような状態から、“ニュートラル”の立場の人たちが増え、やがてわたしや岡山先生と“同じ理解”に立つ人たちが増えていったからである。ただ、その理解はまだ十分とはいえず“風見鶏”のような人も多いのが現実であり、“振り子”のように「右に揺れ、左に揺れる」様子を見せられるにつけ、わたしはこの戦いがまだまだ続いていることを実感している。これらのビデオ講義・講演資料は、わたしにとって、「ヘブル人への手紙」、またパウロの「ガラテヤ人への手紙」に類比される資料なのである。
・【ICI翻訳-落穂抄−20150510】新約聖書
ガラテヤ人への手紙2:1-21:「パウロと異なる聖書解釈法とその実践を強いられる状況下で取るべき態度」
しかし、最近のキリスト教会は「ディスペンセーション主義聖書解釈」に目を眩まされ、「キリスト教シオニズム」に翻弄され、今まででは考えられなかった「レストレーション運動」に組み込まれていこうとしている。
ペテロにとっては「割礼派の人々」への“配慮”としての行動であったかもしれない。しかし、パウロにとっては“福音理解の本質”に関わる事柄であった。ここに、新約聖書27巻中、13巻をしめる“旧約聖書解釈者パウロ”の特筆すべき洞察力がある。「福音理解のセンターライン」がある。
「ユダヤ教の戒律に従って、異邦人と食事を共にしない」ことは、“当面の配慮”ですまない“危険”を内包している。その“危険”とは、割礼派の福音理解を容認する危険である。つまり、「@異邦人は、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならない。Aユダヤ教徒になった異邦人は、ユダヤ教の戒律を守らなければならない。食物規定に関する戒律を守らなければならない。Bそして、イエス・キリストを信じて救われるのである」と、つまり割礼派の理解では、クリスチャンとは「ユダヤ教キリスト派」としての理解、位置づけなのである。
「異邦人と共に食事をしない」(12節)ということは、パウロにとっては、即座に“エボラ出血熱発生”のように思えた。“鋭い洞察力”である。それは「ほかのユダヤ人たちも、バルナバまでも」“転移”していった恐ろしい“感染力”をもっていた(13節)。しかし、パウロの福音理解の“診察眼”はその危険を見逃さなかった。即座に対応した。徹底的に処理した。いのちがけで取り組んだ。「使徒団のリーダー格のペテロ」に対して、面と向かって抗議した(10,14節)。「あなたのしていることは何なのか?」と・・・キリストを信じる者にユダヤ人も異邦人も関係ない。私たちが救われたのは、行ないによらず信仰に寄ったものである。キリストを信じるだけでは足りないかの様なことを言ってはならないと・・・
この二章から教えられるメッセージの本質を、今日の状況にあてはめれば、「民族的イスラエルを外形的に選民扱いし、その視点からの聖書解釈」を“強いる”傾向へのメッセージを聴き取ることができる。「割礼派の人々」は「ディスペンセーション主義聖書解釈派」とその実践である「キリスト教シオニズム派」に類比しうるものをもっている。「パウロの宣べ伝えている福音」は、「福音主義的聖書解釈派」とその実践である「契約主義的アプローチの人々」に類比しうる。そして、それは、わたしたちが「パウロと異なる聖書解釈法とその実践を強いる今日の状況下で、取るべき態度がいかにあるべきか」に向けて力強く語りかけている、パウロを通しての「神の言葉」として響くのである。
あなたは人を恐れるのか?それとも、主を怖れるのか?ペテロのように過ちをおかすのか、パウロのように毅然と立つのか、それが問われている章である。(仁美記)
【ICI翻訳-落穂抄−20150509】「真理によって彼らを聖め別ってください」
■エリクソン著『キリスト教神学』「教会の一致」より
エリクソン著『キリスト教神学』「第55章教会の一致」pp.335-337、要約版の『基督教教理入門』「第35章教会の本質(性質)」「第一節
教会の一致」で、エリクソンは、教会論の中で、教会の一致と協力の課題を扱っている。わたしは、この箇所から「教会の宣教協力や交わりのあり方」について、さまざまなレベルがあることを教えられた。このことが必要な状況があるので、それを分かち合いたい。
■一致と協力におけるさまざまなレベル
エリクソンは、「教会の宣教協力や交わりのあり方」に関し、@「霊的一致」→A「認知と交わりにおける一致」→B「会議を通しての一致」→C「組織における一致」と、一致と協力におけるレベルが存在することを指摘して教えられる(要約版の下訳とその解説は、下記の「限定サイト」に掲載、IDとPW保有されている方対象)。
http://aguro.jp.net/限定サイト/eml_all/icd35emlall.pdf
■状況主義ではなく、つねに“真理における一致”
宇田進師も、その著書『福音主義キリスト教と福音派』「第六章 プロテスタント教会の信条と十七世紀の正統主義」p.103において、「第四に、信条は教会の一致と協力をはかる上での基盤である。教会が一致協力のための努力をなす際に、いわゆる状況主義ではだめで、つねに“真理における一致”(ヨハネ17章)が基本とならなければならない」と記しておられる。(「真理によって彼らを聖め別ってください。…
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネ
17:17-22より抜粋)
■“真理に根ざした”、教会の可視的一致が神のみ旨
ローザンヌ誓約 第7項 伝道における協力には、「私たちは、“真理に根ざした”、教会の可視的一致が神のみ旨であることを確認する。伝道はまた、私たちの一致を強く求めている。なぜかといえば、私たちの間の不一致が和解の福音を台無しにしてしまうように、私たちの一致は私たちのあかしを強化するからである。だが、私たちは、組織・機構上の一致は多くの形態をとり得るものであり、それは必ずしも伝道を推進するものとはかぎらないということも知っている。とはいえ、同じ聖書的信仰に立つ私たちは、交わりと、働きと、あかしとにおいて、一致を密にすべきである。私たちは、私たちのあかしが、時として、利己的な個人主義や、むだな重複によって、損なわれてきたことを告白する。私たちは、真理と、礼拝と、聖潔と、宣教とにおける、より深い一致を求めて行くことを約束する。そして、私たちは、教会の宣教活動の前進のために、相互の志気を鼓舞するために、資力と経験とを互いに分ち合うために、地域的な協力と、機能上の協力をより一層発展させて行くことを推奨するものである」とある。
■一致の基盤−「教理“Doctrine”」か「方法論“Methodology”」か
以前、エルマー・タウンズ著“10 of Today’s
Most Innovative Churches (今日の最も革新的な10の教会)”と言う本を読んだことがある。その十番目に、あの有名な「ヴィンヤード運動」についての記述があり、それまでの教会・教派のあり方は、「教理」の類似性、つまり福音理解のあり様という“真理に根ざした”かたちでの一致・協力・合同が基本であったが、「ヴィンヤード運動」では「教理“Doctrine”」によるのではなく、「礼拝スタイル(賛美・預言・癒し等の実践)」という「方法論“Methodology”」による類似性による一致・協力・合同であったという分析がなされていて考えさせられた。この運動は米国で大きな注目を集める運動となったのであるが、後日、カンサス・シティ・プロフェットのルーツをもつトロントの教会での“トロント・ブレッシング”等の問題で、ジョン・ウィンバー師が奔走することになったこと、トロントの教会はヴィヤードのグループからはずれることになったこと、さまざまな問題が起こった後に、英国のヴィンヤード系教会等から「アルファ・コース」という「健全な教理」に焦点を当てた取り組みが開始されたことが、アラン・アンダーソン著“Introduction
to Pentecostalism”に記されている。
■最近の集会を見て思うこと
ロバート・ウェーバー著“The
Younger Evangelicals”の中に、二十世紀の「伝統的福音主義」から「実用主義的福音主義」へのシフトが記されている。わたしは、最近の合同集会のあり様をみて、「福音理解」の共通性は軽視、あるいは度外視されて、「礼拝スタイル」という「方法論“Methodology”」の“圧倒”という現象が起きているのではないかと危惧している。集会形式は、昔、クリスタル・カテドラルといわれた、ロバート・シューラー師の「空の見える、ガラスの教会」での、洗練された“劇場”のような集会も増えているようである。普通の教会は、まるでシナゴクの集会のようであり、ひるがえってそれらの大集会はさまざまなスペクタクル等、魅惑するものに満ちており、あの装飾に溢れた旧約のソロモンの神殿礼拝にも類比される荘厳ささえ存在する。“素朴”な集会に対して、“圧倒”される大集会、いわば千利休の“わび、さび”の世界に対して、豊臣秀吉の“金の茶室”のようである。ただ、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられている」(ピリピ1:18)のであれば、それはそれとして評価すべきだと思う。ただ、「福音理解」の共通性を軽視し、あるいは度外視されて、「礼拝スタイル」という「方法論“Methodology”」の“圧倒”という現象に翻弄されると、後日大きな問題が生じるのではないかとの懸念を抱いている。
■近年の「福音理解」の傾向−主観主義の深まりと人間中心主義
今日のさまざまな集会から@「方法論“Methodology”」を学びあうことは大切である。また、A「日本のリバイバルや世界のリバイバルの“ビジョン”」という大義を共有することは大切である。しかし、そのようなフレーム・ワークの“皿”に盛りつけられる「福音理解」はいったいどのようなものなのか。それが最も大切である。福音理解に関し、近年の「福音理解」の傾向は、宇田師もその著書『現代福音主義神学総説』「神学的動向の分析と予測、それへの対応に関する方法論上の要綱」で指摘されているように、「1.メガトレンド=|主観主義の深まり」と「2.人間中心主義(Anthropocentrism)」である。エリクソン著『キリスト教神学』「第43章救いの諸概念:必要の本質と領域」p55から少し言及すれば、「伝統的福音主義」では、「人間の根本的な欠陥を“垂直”のもの、つまり“神からの分離”であると考える。神の意思に対する違反として、罪は神への敵対を生じる。必要なのは、神と被造物との壊れた関係を回復することである。以上が救いについての福音主義的見解である。回心、赦し、和解、子とされること、といった用語が特徴である。」
これに対して、最近の“主観主義”と“人間中心主義”の傾向から「人間の第一の問題は“水平”的なものであるとされる。これは、個人が他者と調和できないこと、または全体としての社会の内部での調和の根本的欠如と言える。救いとは人類の中の“不調和”を取り除くこと、個人的関係と社会的関係を“癒す”こととなる。『関係の神学』は個人の不適応と小グループの問題というレベルでこの過程に関わっている。…
最後に、人間の第一の問題は“内面的”なものであるとする考え方もある。個人は“罪悪感、劣等感、不安感”という思いに悩まされており、それらは取り払われるべきであるという。“適応”、“自己理解”、“自己受容”、“自尊心の育成”がここでのスローガンとなる、とある。
わたしは、“水平”的なものの必要性に触れることは、今日の福音宣教においてきわめて重要であると考える。しかし、それが、“垂直”のもの、つまり“神からの分離”の問題と“対立的”に捉えられたり、“軽視”されたりすることの危険性を感じている。ある先生は堂々と「伝統的福音主義はもう古い」とかという言い方で、今日的な“流行”の追っかけに熱心である。しかし、垂直の視点を喪失ないし、軽視した「救いについての福音主義的見解」、それは、もはやイエス・キリストの土台の上に建てられた「金、銀・宝石」の福音理解ではなく、「木、草、わら」の福音理解に“変質”が進んでいるのではないだろうか(Tコリント3:10-15)。
■両方を調べる−水面上の“氷山の一角”と水面下の巨塊
わたしが、いわんとすることはこうである。「教会の宣教協力や交わりのあり方」について、ローザンヌ誓約にあるように、「私たちは、“真理に根ざした”、教会の可視的一致」を目指すべきということである。「状況主義」ではだめで、つねに“真理における一致”(ヨハネ17章)を重視すべきである、ということである。「方法論“Methodology”」が似ていても、「福音理解」において相違が大きければ、交流を深めることによって「福音理解」の“変質”をこうむるからである。カナンに進入したイスラエルの民がこうむった影響に似ている。わたしたちは、「伝統的福音主義の良き遺産」を変質させることなく、現代へのコンテクスチュアリゼーションへの成功を探求しなければならない、と思うのである。
その意味において、“水面上の氷山の一角”、つまり“当面の集会”の上っ面のみを見て判断するのではなく、“水面下の氷山の巨塊”つまり「宣教協力や交わり」をする相手の教会・教派の「福音理解」の歴史的ルーツとアイデンティティの経緯の歴史をよく調べることは大切である。また、“講師の当面のメッセージ”のみで判断するのではなく、“講師のミニストリーの人的ネットワーク”構成から、現在何をなしているのかを調べることができる。そして、この二つの調査によって、それらのグループとの交流が“将来どのような影響と結果”をもたらすのかを予測することができる。どのようなグループとどの程度の交わりのレベルと距離感を保つかは、今日の教職者にゆだねられている大きな責任の部分である。未来にどのような収穫がもたらされるかは、現在“どのような種類の種”を蒔く、あるいは“蒔かれてしまう”かにかかっている。今、D主義の蒔かれた種の処理に振り回されている。信仰の幼い頃に蒔かれた種が大きく育ち、もはや手に負えないくらいの草木に育ってしまって困っている。また、新たに「新種の変質した種」が蒔かれようとしているのではないかと危惧している。「蒔かれた」らおしまいである。学ぶ機会のある教職者ですら、D主義克服にこれほど難儀しているのである。学ぶ機会の少ない信徒の方は、もっと大変である。
■マタイによる福音書にこうあるとおりである。
「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30)
【ICI翻訳-落穂抄−20150506】「エリクソンの著作活動全体における“ラッド著『終末論』”の位置づけ」
■ラッド著、安黒訳『終末論』の刊行記念・特別講義
今月の19-20日に、生駒聖書学院で、ラッド著、安黒訳『終末論』の刊行記念の講義を行わせていただく。講義課目は、エリクソンの『キリスト教神学』なのであるが、わたしの翻訳・執筆活動にあわせて、関連講義を挿入させていただいている。
今回の、ラッドの『終末論』の講義は、エリクソン著『キリスト教神学』と深い関係があるので、今日はそのことを紹介させていただくことにする。
エリクソンの著作活動全体については、2009年11月16日の「日本福音主義神学会西部部会秋期神学研究会議『福音主義神学:再考−文化・伝統・聖書の中で−』ー宇田進・エリクソン神学にみる福音主義神学再考の神学的思索の枠組み(構築→分解→再構築)の基調講演」の資料と講演で詳しく取り扱っているので参考にしていただきたい。
■エリクソンの著作活動全体における「ラッドの終末論」の位置づけ
エリクソンの著作活動全体における「ラッドの終末論=つまりディスペンセーション聖書解釈法の克服→教会論→終末論」の扱いはどうなっているのかをみていきたい。この全体をみることによって、エリクソンが『キリスト教神学』で意図していることを正しく描き出すことができるからである。
ある人は「たとえば、終末論は教理上主要な分野である。この分野においては、再臨は主要な信条である。教会が世界から取り去られるのが、“大患難”の前か後かという問題は、それよりは重大ではない(聖書において、必ずしもはっきりと教えられているわけでもない)。重要性を基礎としてこれらの主題を順位づけることで二次的な(あるいは三次的な)重要性の範囲内にある事柄への時間と労力の浪費を防ぐことができるはずである」(エリクソン著『キリスト教神学』第一巻p.85)とあることに目を留めて、この部分を“自分の主張の文脈”にカット・アント・ペーストし、「エリクソンは、ディスペンセーション主義終末論を特に問題視していない」と誤って即断するかもしれない。
しかし、エリクソンの著作活動全体と、この著書『キリスト教神学』全体から眺めるとき、「ラッドの終末論=つまりディスペンセーション聖書解釈法の克服→教会論→終末論」が、エリクソン神学の“基底”に置かれていることを見るのである。
■『キリスト教神学』「第11部 教会論」
まず、『キリスト教神学』全体から眺めると、「第11部
教会論」の本質を扱っているpp.231-232、235において、「ディスペンセーション主義聖書解釈法の結実としての教会論」が明確に否定されており、「ラッドが述べているように、ここでも真理は、多くの場合そうであるように、二つの極端の間にある」と“ラッドの主張”を基底に論じている。
■『キリスト教神学』「第12部 終末論」「序論」
次に「第12部 終末論」の序論のpp.364-366に「ディスペンセーション主義:体系図式化された終末論」として、その輪郭とエッセンスが手際よく紹介されている。
■『キリスト教神学』「第12部
終末論」「千年期と患難時代についての諸見解」
第三に、「第12部
終末論」の「千年期と患難時代についての諸見解」の章のpp.429-437で「ディスペンセーション主義聖書解釈法の結実としての教会論→さらにその結実としての終末論」が問題視されている。結論は、p.437の「問題を解決する」にまとめられており、「@患難期前再臨説の否定、再臨の二段階の否定、イスラエル民族と教会を神の二つの民、二つの計画との理解の否定、A患難期後再臨説への支持、患難時代に選民が存在し、患難の只中で守られる、選民とはクリスチャンのことである、B聖書の教えの全般的な趣意は患難時代後再臨説の見解に一致する、神の民は逆境から取り去られるのではなく、それに打ち勝つ力が約束されている」という流れであり、エリクソンはきわめて抑制のきいた文脈で記述しているが、その主張と内容は“ラッド著『終末論』の論旨”に合致している。それは、第四巻の「注」の59章の箇所に目配りすれば、注12,14,31,32,36,38と、エリクソンの主張の主要な資料源は、「ディスペンセーション主義聖書解釈法→教会論→終末論」の克服に生涯をかけた“ラッドの著作集”であることが一目瞭然である。
■最初の著作“The New Evangelical Theology”
次に、エリクソンの著作活動全体からみると、ラッドの著作集はエリクソンの著作活動の念頭に置かれていたことが分かる。エリクソンの最初の著作、“The
New Evangelical Theology”(1968)は、エリクソンの「20世紀中期の、@神学的状況と動向に関する分析と情報の提供、A注目すべき問題点と主要な争点の指摘、Bそして、福音主義を標榜する諸教会の核≠成すその信念体系≠フ確認と、それに関する一層の掘り下げへの一つの呼びかけと、そのための一つの材料の提供」であり、エリクソンが生涯かけて取り組もうとしていた神学活動の“青写真”でもあった書籍である。その本の「終末論における課題への取り組み」の8ページにわたる記述の中で、その半分の4ページを“ラッド神学”について言及している。健全な「福音主義終末論」構築のために、ラッド神学で指摘されている“神の国の概念、そしてその現在性と未来性”への取り組みと、教会論と終末論において、「パルーシア(来臨)、アポカリプシス(啓示)、エピファネイア(顕現)を二段階の再臨に分けること」の否定、「携挙について、主に会い、ただちに一緒に地上に降りてくる」単一の再臨への支持、そして「教会は患難期から取り除かれるのではなく、患難期の只中で守られる」ことを、課題として扱うことを明確にしている。つまり、エリクソン著『キリスト教神学』の終末論は、ラッド著『終末論』とコインの両面の関係にあるといって良いのである。
■第三番目の著作“Contemporary Options in
Eschatology”
エリクソンの第三番目の著作として“Contemporary
Options in Eschatology [A Basic Guide to Eschatology(再販版)]”(1977)が執筆されている。この早期の出版からも、エリクソンにおける「ディスペンセーション主義聖書解釈法→教会論→終末論」の克服への意気込みをみる。この書の構成は以下のようになっている。わたしが熟読し、部分的に翻訳した限りに置いて、エリクソンは公平・中立な神学的なスタンスに立ちつつ、いわゆる“科学的”ともいわれる客観的で透明性の高い“神学的手順”をもって、千年王国と患難期に関する諸説を扱い、その後に“ラッド著『終末論』の立場”が最も聖書的な解釈であると結論づけている。
■“Contemporary Options in
Eschatology”の結論
「我々は、これらの諸説の精査の終着点に辿り着いた。我々はそれらの信奉者によって提示された立場と提起された議論に留意してきた。わたしは、出来る限り公平に偏ることなくそれらの多様な選択肢を、それぞれの肯定的側面と否定的側面の双方において扱うことに尽力してきた。それにも関わらず、わたしはこれらの問題に関して明確な確信(definite
convictions)を保持している。全体として、わたしには“患難期後再臨説が最も適切な立場”である。千年期前再臨説の解釈に関する議論については、特に黙示録20章を基盤とする解釈はわたしに対して説得力がある。同時に、聖書の証言は、教会は患難期に地上にあり、神の恵み深い守りと保護によって支えられるという解釈が明らかに優れている。
主の再臨の教理の真の意味と目的を思い起こすことは重要である。ときどき解釈や確信の相違が交わりを裂く原因となる。それらの相違から、ときには痛烈となる論争がもたらされる。教理のささいなポイントが正統性や交わりの要件とみなされる。
しかし、使徒パウロは再臨の教理がそのような結果をもたらすことを意図していない。Tテサロニケ4:13-18において、パウロは、主の再臨が信仰者にとって望みの基盤であること、そしてこの望みをもってお互いに慰め合うように勧めている。論争ではなく、慰めがこのメッセージの目的であった。我々はお互いを、交わりを持つことのできる、つまり最初に述べたように、主の再臨に関して基本的な真理を受け入れている真の信者として認め合おう。相違点を理解することの重要性とともに、我々はそのことによって我々が皆一致している偉大な基本的真理、つまり“主は再び来られる”という光を見失ってはいけない。我々は、これを中心としなければならない。我々は、しばしば繰り返されるペンネームがルパートゥス・メルディニウスの言葉に留意するのが良い。
“本質において一致、疑わしい事柄おいて自由、すべてのことにおいて愛”」
http://aguro.jp.net/d/file/m/me03_contemporary_options_in_eschatol.htm
■エリクソンとラッドの “立場の同一性”と“対応の相違”
ここまで、見てきて、エリクソンとラッドの
“立場の同一性”とディスペンセーションの立場の人たちへの“対応の相違”を教えられる。このことは、エリクソンもラッドも、「千年王国前・大患難後再臨説」が最も聖書的であると確信し、その立場に立脚しているのだが、置かれている状況に相違があるということである。ラッドは、ダラス神学校のウォルブードとの“戦いの最前線”にあったのであり、エリクソンはある意味で後方にあって最前線の戦いを支える組織神学者として“戦線を支える武器と食糧の兵站”を担っていたといえるように思う。いわば、ラッドは“北風”路線であり、エリクソンは“太陽”路線である。しかし、両者とも、クラレンス・バスが名著『ディスペンセーション主義の背景』の結びで述べているように、以下のように考えていることは明白であると思うのである。
■ラッド、エリクソン、バスが共有している確信
「この本の命題は『ディスペンセーション主義は教会の歴史的信仰の一部分ではない。ディスペンセーション主義が定式化される以前に18
世紀間に渡って歴史的千年王国前再臨説の聖書解釈が存在してきたのだから、ディスペンセーション主義は唯一の千年王国前再臨説の見解ではない。そして、ディスペンセーション主義は聖書解釈において誤った解釈学の原理を基盤としている』というものである。
わたしはこれらの命題を立証しえたかどうか、読者の判断に委ねたい。しかしながら、整理が必要とされるもう別の局面が存在する。ディスペンセーション主義聖書解釈法に内在する幾つもの極端な要素にもかかわらず、ディスペンセーション主義の聖書解釈は、『イエスが再臨日には人格的に、文字通り、目に見えるかたちで地上に戻って来られる』という真理をきわめて明確に系統立てて説いている。歴史的千年王国前再臨説も同じく、無千年王国説もまた同様である。それらの諸説は教会の祝福された望みを取り巻いている出来事の時間的な順序で意見を異にしている。
しかし、これら三つの諸説はみな、新約聖書著者たちもまた共有している「キリストが再臨される」という最も重要な強調点を共有している。この真理の中枢を共有しつつ、これら三つの諸説の信奉者のすべては、愛と忍耐の交わりを保つことができる。終末論の解釈に関して意見を異にするかもしれない、そして真の聖書解釈の原理を見出すために賢明に議論すべきである。しかし交わりの試金石としてはならない。
わたしは、それらの解釈においてわたしのディスペンセーション主義の兄弟たちとかなり意見を異にしている。しかし彼らがディスペンセーション主義の捉え方を信奉する権利を擁護したい。わたしはディスペンセーション主義が誤った聖書解釈であると受けとめている。しかしわたしと意見が一致しないからといってだれとも関係を断つつもりはない。わたしは同じ忍耐をこれらの問題に関して意見が一致しない人々にも与えられることを願っている。
愛において交わりを保ちつつ、わたしはディスペンセーション主義が歴史的信仰からの逸脱であり、聖書解釈における誤った方法に基づいていると強く確信している。それゆえ、わたしはきわめて大胆にも、もしわたしがわたしの命題を立証しえたなら、わたしもまたそうしなければならなかったのと同様、多くのディスペンセーション主義者が徹底して考え抜き彼らの終末論の思想体系に対して新しい評価を下すに至るであろうことを期待しているのである。」
わたしは、これがラッド、エリクソン、バスが共有している確信であると受け留めている。わたしは、第一巻・二巻の翻訳者として、エリクソン著『キリスト教神学』を学ぶすべての人に、これらの“基本的スタンス”を大切にして学んでいただきたいと願っている。
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150504】−ディスペンセーション問題三部作 @:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義
when | where | who | what | 講義・講演資料(アウトライン・パワーポイント等) | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】) |
一般視聴者用(有料視聴) |
ICIサポーター用 |
2009/06/24 | 一宮基督教研究所 | 安黒務 | ディスペンセーション問題三部作 @:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義 主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』 |
intro | DVD講義録[90X2枚]=3000円 | 5/4 掲載 低画質:@ A B 高画質:a, b, c |
2015年5月3日:新約聖書
ガラテヤ人への手紙1:1-24 説教: 安黒務 牧師師:旧約聖書の“影”からの再解釈は、キリスト中心の福音を、民族的イスラエル中心理解に“変質”させる危険」
「ガラテヤ人への手紙」は、過去にも何度か開いたことがあると思う。先週までの「ヘブル人への手紙」は、私が書いた論文や翻訳したラッドの本に沿った聖書の箇所ということで学んできた。
年末に発表した論文や、この春出版されたラッドの終末論の本は、お陰様で好評である。終末論の本はアマゾンでも在庫切れ状態で、中古本が元の価格の倍程の値段が付けられている。この様な状況であれば、再版もそう遠くないかも知れない。
しかし、その一方で、「キリスト教シオニズムの集会」も頻繁に行われており、その中の一つが"ハイナイト"という祈祷会である。そのプログラムをみると、第一のポイントでは、イスラエルの情報が満載、第二のポイントで日本のリバイバル、そして最後に“問題点”が隠されている。その問題点とは「聖書を、“民族としてのイスラエル”を軸として解釈する」ように導く教えである。第一と第二のステップで自然に心を開くように“あしらわれた”人は、第三のステップを吟味し拒否することはきわめて困難であると思う。
こうした集会に参加していると、知らず知らずのうちに、「使徒的な聖書解釈」とは違った方向に導かれてしまう。この様な、困った状況が見うけられる今日だが、この「ピンチはチャンス」なのではないかと考えさせられている。
つまり、“光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった”(ヨハネ 1:5)−「こんな状況だからこそ、私の取り組んできたこと、また取り組んでいることが生きる」とも言えるのである。だから、先週までの「ヘブル人への手紙の光」も感じながら、次のテキスト、「ガラテヤ人への手紙」を学んで行きたいと思う。
私たちの学ぶべき、「使徒的解釈」を確立したパウロは、ユダヤ教徒の中でも特に熱心な信者であった。幼い頃から旧約聖書を学び、熟知していた彼が、「実ははき違えていた。」と告白しているのである。
「イスラエル民族を中心に書かれている」と思っていた旧約聖書が、実は、「キリストについて預言し証詞された書物」であるとわかったというのである。
このことを彼がわかったのは、誰かに聞いたのではなく、「直接キリストからの啓示」として教えられたとパウロは証言している。
彼が熟知していた旧約聖書は、“始原的”に「キリストの恵み、キリストの福音」で満ちており、聖書は、「キリストのことを証詞する書物」であると確信したので、今までの全ての物を"塵あくた"だとまで思うと告白しているのである。
この章が書かれているメッセージの本質を今日の文脈の中で聞き取ると、「旧約聖書の影」からキリストの福音を再解釈しようとすると、「全く別の解釈」になってしまう。つまり、「ユダヤ教的解釈」になると、キリストの福音が、「イスラエルを中心とした福音」に“変質”してしまう、との警告として聞こえるのである。
教会の牧師や神学校の教師は羊である信徒や牧師となっていく生徒を「正しい方向」に導く責任があるのではないか。招こうとしている講師が「どういう背景」の人か、その人が「最近どんな教え」をしているのか?、「どんな集会」を開いているのか?、「間違った教え」や「間違った聖書解釈」をしていないのか?ちゃんと“吟味”した上で招く必要がある。
その人の話す内容は「イエス様中心」なのか?もしそうでなければ、パウロは"アナテマ!"、つまりその様な者は"のろわれよ!"とまで言っている、危険であると語っているのである。
パウロは「人間から」ではなく、「キリストの啓示」の受け、人には相談せずに異邦人への伝道を開始した。「福音理解」において、“右往左往”したり、“八方美人”にはならない、良い意味、正しい意味で“堅固に、自立した働き人”であった。
「キリストだけ」を信じよ!、我々の祖先であり、「ユダヤ民族であるアブラハム」ではなく、「キリストの復活信仰と同じ信仰によって御霊に導かれたアブラハム」から学びなさい。また、「姦淫の罪にまみれたが、悔い改め、罪を赦されたダビデ」の様に、「キリストの十字架の赦し」のみを握りしめて歩みなさい。
キリスト教会を激しく迫害してきたパウロの回心を、弟子達はすんなりとは認めなかったに違いない。
だから、一部の弟子達としか会うことが出来なかったとある。しかし、「パウロが語る福音」が、「弟子達の語る福音」と“同じものである”ことを確かめることが出来たと書いている。
【ICI翻訳-落穂抄−20150501】『未来の臨在』“The
Presence of the Future”紹介
『未来の臨在』“The Presence of the Future”は、ラッドの著作の中で「神の国の神学」について、旧新約全体から包括的に取り扱ったものである。ラッド著『終末論』の第九章に「神の国」についての記述があり、『新約聖書神学』と『神の国の福音』において、かなり詳しい記述がなされている。それらの書籍の背後にあり、また前提としてある書籍として『未来の臨在』“The
Presence of the Future”がある。エゼキエル書の後半の解釈において、ディスペンセーション主義の解釈との著しい相違がみられる。そこにおいて考えさせられることは、旧新約聖書全体を一貫して流れる川のように語られている「神の国の神学」の理解のあり方、いかなるものであるのか、という問いである。間違った解釈を個々に取り扱うことには“うんざり”している。やはり正しい、福音主義的な預言書解釈のあり方、ひいてはエゼキエル書解釈のあり方をきちんと提示していくこの方が大事と思うのである。“偽札”を研究するよりは、“真札”に四六時中触れることにより、“真札”の特徴をあらゆる角度から吸収することが大切である。そうすれば、“偽札”に触れたとき、その“差異”を感知できるはずである。ピアノの“絶対音階”を身に着けた人は、少しでも音の狂いがあると“気分が悪く”なるそうである。わたしたちは、聖書解釈における“真贋”を見分ける力、預言書解釈における“音の狂い”を聞き分ける力を養うことが大切であると思うのである。
今日は、エリクソンの翻訳を休んで、『未来の臨在』“The
Presence of the Future”の中で、エゼキエル書解釈にページをさいている箇所の翻訳を試みた。ごく一部であるがそれを紹介しておきたい。二章と三章の構成と、その中の「倫理的希望」の箇所のエゼキエル書解釈の原則への言及の下訳である。
2.
旧約聖書における約束
a.
ダイナミックな希望
b.
終末論的な希望
c.
地上的な希望
d.
歴史と終末論
e.
倫理的希望
3.
約束の黙示的解釈
a.
啓示的特徴
b.
人為的性質
c.
ペンネームの使用
d.
擬似預言
e.
象徴
f.
二元論
g.
歴史と終末論
h.
悲観主義
i.
決定論
j.
倫理的受動性
という構成となっている。
ここで、とりいそぎ、これらの構成の中で、エゼキエル書解釈について言及されている下記の箇所のみ紹介する。この箇所には、イザヤ書や他の小預言書への言及もたくさんなされていることも付け加えておく。どちらにせよ。わたしは、以下の箇所からも、ディスペンセーション主義解釈とは異なる、福音主義“エゼキエル書”解釈の基本線のようなものを感じさせられるし、また教えられるのである。本来は、書物全体を翻訳して後、包括的な文脈の中で言及すべき話なのであるが、そのことをなすためには“時間が足りない”、そういうことなのである。“タップリと時間がほしい”、それがわたしの今の願いである。下記の下訳から、わたしが感じ取った同じものを感じ取っていただけたら感謝である。主が許されたら、この本も翻訳したいと願っている。もしそれができないとしても、この本を熟読し、ビデオ講義のかたちで「健全な預言書解釈のあり方」をあまねく提供していきたい。そう願っている。
e.
倫理的希望
「預言の約束の最終的な特徴は、その倫理的強調にある。イスラエルは常に現在と未来の間の倫理的緊張の中に置かれていた。その未来とは、神に忠実な人たちのみを対象とする希望の日であり、約束の日であった。それゆえ、イスラエルの上には、罪からの回心と神へ献身という不断の倫理的要求が存在していた。過去の歴史の朗誦や未来の出来事の予測における預言の主な目的は、イスラエルの上になされた倫理的・宗教的要求である。それは現在における神との正しい関係を意図したものであった。実際に、預言書の長文の箇所において語られている内容は、歴史的な出来事の朗誦や予測を欠いており、神の現在における御旨に従うようイスラエルに求めておられるものである。審判か贖いであるのかは別にして未来のことが描かれているのは、神の民を悔い改めに導き、恐ろしい審判を避けさせ、正しい行いに対する神の祝福の約束を受けるよう励ますためであった。
このような預言の倫理的特徴は、旧約聖書の最も“黙示的”部分のきわめて深い倫理的・宗教的関心によって例証されている。エゼキエルはしばしば狭いナショナリズム(民族主義)や幻想的とも思える黙示的信仰のゆえ、批判されている。しかし、エゼキエルはあらゆる時代の最も偉大な霊的な人物として認められるひとりであり、ウォーターマン(LeRoy
Waterman, The Religion of Jesus)においては最も偉大な倫理的預言者のうちに数えられている。
No matter where you are, no
matter how far
Just call my name, I'll be
there in a hurry
On that you can depend and
never worry
で始まるダイアナ・ロスの歌う名曲、“Ain't
No Mountain High Enough”の要旨。
『エイント・ノーマウンテン・ハイ・イナフ』は、『人生に在る山谷なんて怖くない』と言う意味の歌。混沌とした60年代のアメリカの国民全体に勇気を与えた、素晴らしい歌。
【ICI翻訳-落穂抄−20150429c】「“物語神学”を考える」
共立基督教研究所で学び、宇田進師より神学の薫陶を受けた。その宇田進著『総説現代福音主義神学』は、ICIで神学の研鑽、つまり神学の大海の荒波をかき分けつつ航海を続けるわたしにとって“欠かすことのできない羅針盤”である。ここで、コメントにもあった「物語神学」についての資料を「効用、結実、課題」の三点に整理し提供しておくことにする。ここで扱われている課題は、最近扱っている“象徴的解釈”と“字義的解釈”、また“倫理的解釈”と“聖書記述の歴史性”の問題にも通じるものでもあると思う。
@物語神学の効用
物語神学の立場を簡潔に表現するならば、聖書の歴史的文献的成立過程を遡行的かつ通時的に探究してきた近代の歴史的・批評的研究は、教会に聖書の正典“際限なき断片化”、いや“解体”という危機的現実を突きつける結果となった。そのため今日では聖書を正典として読む読み方が崩れてしまい、聖書が教会から奪われてしまったのである。…このような事態は、リベラリズムによる「近代性」あるいは「現代性」への還元の方法の結果とその限界とを示す。
物語神学は、こうした重大な“行き詰まり”の状況を深刻に受けとめ、その超克の道を探るのである。具体的には、聖書を字義的にとったり、命題的な真理を強調する伝統主義への復帰ではなく、新しい道を求める。それは、「物語」という“新しい文学的ジャンル”に着目し、それによって見失われてきた聖書の“総体”、あるいはある種の“統一性”というものと、聖書のインパクト、あるいは“メッセージ性”とを取り戻そうとする、一つのポスト・モダン的な試みである。
近代は、“科学的な知”のあり方を万能として、“物語的な知”のあり方を前近代的なものとみなし排除してきた。しかし、ポスト・モダンの立場から“物語的な知”の復権が叫ばれてきた。
A物語神学の結実
旧約聖書は、神とイスラエルの物語であり、福音書もイエスの人物史ではなく、イエスとの出会いによってもろもろの影響を受けた聖書記者たちをはじめ接した人々によって語り継がれた物語である。…また人間の経験は、基本的には物語の形をとって語り継がれる。我々は、まさに物語に囲まれ、物語の中で生活している。
本来、キリスト教信仰は、神の存在や神の世界に対する計画などに関する特定の形而上学的教説や世のもろもろの世界観に対抗する一つの世界観でもなければ、また命題的真理や教理の知解とその受容といったものではなく、個人の生や共同体のあり方を啓発させるところの「生きた信念」とでも言うべきものである。
物語の真理性は史実的歴史の提供にあるのではない。むしろ、それを読む我々を実存的に照明し、我々を新しい意味、ある枠組みあるいはビジョンに目覚めしめ、我々のうちにそのためのコミットメントと共同体とを生み出し、かつそこへ導くところの作用・効果・影響力にある。
また、福音理解と伝達においても、物語は人間の審美的感性と想像力をかりたて、あわせて「絵画的迫力」をもった言語活動の様式であり、論理実証主義や合理主義による“理性のパラノイア(編集症)”がきびしく反省されつつある今日のポスト・モダンの知的状況にもよりマッチする。
物語神学は、確かに歴史的・批評的研究の限界と問題性とを再確認しつつ、物語という文学的・審美的ジャンルに注目することによって、フォーカスを今一度聖書に集めた。…また、科学的な言語のみを真とする論理実証主義の立場に対し、…宗教的言語の意義と権利を立証することになった。
B物語神学の課題
しかし、次のような問題性も見落とすことはできない。
まず、聖書は神の存在に関する情報や世界と人類に対する神の意志・計画を伝えるものではないと考えている点などから、信仰が内蔵する形而上学的側面の意味・解明が不十分ではないかと思われる。
次に、聖書を主として宗教的想像力の啓発と鼓舞という機能面からのみ扱い、聖書が人類に対する神的真理に関する預言者的告知の書であるという側面や、聖書の普遍的規範性の立証が欠落しているという問題も認められる。
そして、神学の概念の問題であるが、物語神学において、神学は神と世界に関する神の“経綸”の解明と立証という働きから離れ、特定の信仰伝統に関する一種の“記述的”な営為、またその伝統へのより深い関与を呼びかける“喚起的”な学にとどまっているという問題も認められる。
象徴的解釈と字義的解釈、倫理的解釈と歴史性の扱いの問題等を丁寧に扱う必要性が増しているように思うのである。ラッドが“Ladd:
Rudolf Bultmann”や“Ladd: Jesus Christ and
History”を扱っている中に、その課題への言及があるものと見ている。そのあたりもきちんとみていきたい。
※参考資料:宇田進著『総説現代福音主義神学』「第二部・第四章
ポストモダニズムの挑戦とキリスト教神学の‘脱構築’−物語神学」pp.285-288等
※参考資料:「クラウス・ヴェスターマンの創造の物語」解釈:
Introduction to Introduction −広義の福音主義“創造論”再考の手がかりとして−(日本福音主義神学会春期神学研究会議研究発表−)レジメpp.39-42
【ICI翻訳-落穂抄−20150429b】「神の国の現在性」と「神の国の未来性」の両面で捉える視点について
わたしは、J.B.テイラー著『エゼキエル書』注解や、R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』において検討が必要な課題のひとつに、ラッドが言う「神の国の現在性」と「神の国の未来性」の両面で捉える視点が、どう取り扱われているのか、検証することが大切と思っています。ラッドと同様の見方の本として、Herman
Ridderbosの“Coming of the Kingdom”、“Galatians”、“Paul:
An Outline of His Theology”という本ももってます。時間がなくてまだ読んでませんが…。ラッドと同じく、ヴォスの聖書神学と同様のラインを大切にしているようですね。”Ridderbos
is in line with Geerhardus Vos' biblical theology without being
dependent on the great Princeton theologian.” いのちのことば社の『新聖書注解』の「ガラテヤ書」を注解されている村瀬俊夫先生が、大変鋭い洞察を感じさせるガラテヤ書注解をされており、その村瀬先生がHerman
Ridderbos の著書を参考にされていることを知って集めました。
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2012/10/01-022 | ASTセミナーー | 安黒務 | 『福音主義終末論:再考』講演録C「21世紀の終末論の諸課題U」:教会内で特に議論されることの多いテーマである千年期と患難時代にまつわる諸説を並べ、英語文献の新しい知見を交えながら理解を深める。 | 講義レジュメ | N | 20150429視聴可 N O P Q |
【ICI翻訳-落穂抄−20150428】「特別啓示:命題的か人格的か」より
今日は、少し集中して、M.J.Erickson,
“Introducing Christian Doctrine”の「第五章
特別啓示」の翻訳・推敲を完了した。明日から、第六章に取り組む。
翻訳・推敲していて教えられることが多々ある。今日の以下の箇所から教えられたことを書き記す。
【ICI翻訳-落穂抄−20150426b】
2015年4月26日:新約聖書 ヘブル人への手紙13:1-25 説教: 安黒務 牧師師
今年になってから、ずっとヘブル人への手紙を読んできたが、改めて素晴らしい書だと思った。AD.60年頃のユダヤ人クリスチャンたちが、エルサレムが陥落し神殿が破壊される直前に、ユダヤ教徒たちから迫害されていた時に、イエス様だけを信じて歩むようにとの励ましを受けた手紙であった。
今、ペンテコステ カリスマ系の教会はデスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムやレストレーションの教えや集会に翻弄され、押し流されてしまわないようにと、この、ヘブル人への手紙は教えてくれる。
ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、旧約聖書の教えをしっかり守ろうと考えている。今、盛んに叫ばれるキリスト教シオニズムとは異質のものである。
彼らの最も大切にする教えは"神を愛することと隣人を愛すること"である。そのためにも、攻撃的であってはならないと教えられている。
ナチスドイツの下、ユダヤ人たちは羊の様に従った。この事は、彼らが争いを好まない人々であった証拠でもある。
善行を惜しんではならない。人をもてなし、世話をしなさい。また、人を思いやりなさい。これこそがユダヤ人たちの目指す神の御心である。
旧約聖書から613の戒律を定め、聖書の教えを字義的に守ろうとする。その中には食べて良い動物と食べてはいけない動物とが存在する。その時代の衛生上の問題もあったかも知れない。
ユダヤ教はキリスト教と外側は似た部分があるが、あまりにも戒律を守ろうとするところが、相違点であろう。
キリスト教は戒律ではなく、キリストという実体、そして御霊にある本質を大切にする。神への感謝や賛美はキリスト者にとって、心の捧げ物である。また、善を行うこと、持ち物を分け与えることは神へのいけにえである。
結婚生活が聖くある様に努力することは、エデンの園で男と女に造られた神への感謝の捧げ物である。
金銭を愛するあまり、その物が偶像になり、お金を増やすことが目的になってはいけない。神の御心にそって金銭を管理する。勤勉に働き収入を得、それを使って社会を潤す。このことがキリスト者としての神からの祝福である。
異なった教えに染まったり、過度の金銭欲、性欲、貪欲は放縦となり、反対に極端な禁欲は家庭や社会を破壊する。
バランスのとれた教え、バランスのとれた生活は、人々をまた教会を祝福で満ち溢れさせる。
キリスト教会の2000年の歴史は、いかに健全な教えを保つべきかのバランスを考えた闘いの結果である。この素晴らしい遺産を正しく継承していく使命が、今日のキリスト者には要求されている。
【ICI翻訳-落穂抄−#20150424】「ユダヤ人とは、誰か?」
先日の、神学会で数多くの質問をいただいた。「講演」も、講演者が自身のうちでなす“質疑と応答”から構成されているわけであるが、講演後にもたれる「質疑応答」は興味津々のひとときである。「講演タイム」は“フライト・プラン”があり、どこをどのように飛行するのか、ある程度予測可能である。しかし、「質疑応答」の時間には、どんな矢や弾が飛んでくるのか、その時になってみないと分からない。それで、講演準備の際には、ありとあらゆる“疑問点”を精査し、ひとつひとつをつぶしておく。必要な資料はコピーして手元に持っておく。そのようにかなりの準備をしても、時間の関係もあり、詳細に答えることは難しい。質問者の問いも、そのまま答えて良いというわけでもない。その「問いの背後にあるもの」、つまり「なぜ、そのような問いを発しているのか」をわきまえ知って、その“ツボ”を押さえるようにして応答する必要がある。“筋肉痛”があるとしても、本当の患部は痛みのあるところにはなく、“背骨”にある、ということもあるからである。
質疑の時間は、楽しいひとときである。予期していなかった質問が出た場合、“新鮮な刺激”が与えられたように感じ、わたしの“神学的思索の筋肉”の柔軟性が試されるからである。収録したビデオを振り返りつつ、再度「質疑」に応答し、足りなかった部分を埋め合わせていきたい。
研究発表の後、最初にいただいた質問は、「ユダヤ人とは、誰か?」という質問であった。この質問を受けた瞬間、わたしの心に浮かんだのは、一冊の本だった。石田友雄(筑波大学教授、Ph.D[エルサレム・ヘブル大学.])著『ユダヤ教史〔世界宗教史叢書4〕』(山川出版)の「終章:現代ユダヤ教の諸問題」pp.326〜334に、この問いに対するひとつの答えがかなり詳しく書いてあったことを思い出したのである。そのp.333に記されている結論は「このように、現在、世界各地のユダヤ人は、各自が居住する場所の状況に応じて、“ユダヤ人とは誰か”、“ユダヤ教徒とは何か”ということを問題としてきたが、まだ誰もその最終的解答を得ていない。この意味で、ユダヤ人は、おそらく世界で最も自分のアイデンティティ、すなわち“自分は誰なのか”ということを意識的に問題としている人々であろう。もちろん、この問いかけが、彼ら独自の歴史的経験と現在の生活環境から生じていることは明らかである」と記されている。
「このように」という前段を、ヤコヴ・ラブキン著『イスラエルとは何か』平凡社新書、pp.168-172ともに、掻い摘んで紹介すると、こうである。
@歴史家は、もうひとつの事実を忘れてはならない。それは、ユダヤ教が、全体として、ユダヤ教徒をすべて合わせたよりも偉大な存在であり続けたことだ。ユダヤ人を創り上げたのは、ユダヤ教である。ユダヤ人がユダヤ教を創ったのではない。…まず、ユダヤ教ありきである(ポール・ジョンソン著、石田友雄監修『ユダヤ人の歴史』徳間書店、下巻、p.456)。
A19世紀以前には、「ユダヤの者」を指し示すにあたって「ユダヤ教に由来する幾つかの原則に日々の行いを準拠させている者」という規範的な“公分母=ユダヤ教”に依拠することができた。
B19〜20世紀のユダヤの民をめぐるあらゆる議論に通低する複雑さを理解するためには、“非宗教化”という現象を正しく認識おかなければならない。これにより、以後、「ユダヤ人であること」と「ユダヤ教徒であること」の間に“決定的な亀裂”が生じることになった。
C19世紀末にシオニズムが誕生して以来、シオニストの主流は社会主義者であり、意識的な反伝統主義者であった。彼らは民族の精神的基盤として、聖書の思想を尊重したが、“戒律を実践する宗教としてのユダヤ教”に対して批判的であった。
Dまた、正統派の宗教的信念に従えば、そもそも“メシアを期待せず”に、“人間の努力によってユダヤ国家の再建を目指す”シオニストの世俗的行動が許容できなかった。まして、シオニストがかかげた、“政教分離の原則に基づく近代国家としてのユダヤ国家建設計画”は、正統派が絶対に承服できない話であった。
Eイスラエル政府は、シオニズムに基づくイスラエル国家建国の主要な目的を実現するため、建国間もない1950年に、移民として来るすべてのユダヤ人に、自動的にイスラエル市民権を与えるという“帰還法”を制定した。しかしこの法律を実施するために、“ユダヤ人とは何か”という問題が生じた。労働党を主体とするイスラエル政府は、“宗教的信仰”ではなく、“民族的感情”を同一にする者を“ユダヤ人”と認める方針であった。
Fしかし、正統派は、タルムード以来の法規(ハラハー)の定義に従い、“ユダヤ人の女から生まれた者”か、“ユダヤ教に改宗した者のみ”をユダヤ人とみなすべきであると主張した。法規(ハラハー)によると、ユダヤ人の父親と非ユダヤ人の母親をもつ子どもは、改宗しない限りユダヤ人とは認められないが、ユダヤ人の母親から生まれていれば、たとえ大部分シオニストの労働党員のように、ユダヤ教の戒律を遵守していなくても、法規的にはユダヤ人ということになる…。
G一応、クネセット(イスラエル国会)は、ユダヤ人の定義に関しては法規(ハラハー)を受け入れる一方、帰還法を改正して、ユダヤ人移民の配偶者と家族は、たとえユダヤ人でなくても自動的に“イスラエル市民権”を獲得できることにして問題を解決した。
Hつまり、今日の状況は、こうである。“伝統的なユダヤ教徒”がみずから行うこと、行わねばならぬことによって他から区別されるのに対して、“新しきユダヤ人”は特定の待機や希求から完全に切り離され、もっぱらその者が「そうであるところのもの」をもってユダヤの名を名乗ろうとするのである。
Iユダヤ教の教典において、「イスラエル」とは、“神が…トーラーを授けた聖なる信徒集団”を意味する。しかし、今日「イスラエル」という言葉は、まずもって“政治国家イスラエル”を意味する。
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:2015:5月掲載予定表】−その他の集会・セミナーでの講義・講演リスト
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2009/06/24 | 一宮基督教研究所 | 安黒務 | ディスペンセーション問題三部作 @:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義 主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』 |
intro | DVD講義録[90X2枚]=3000円 | 5/4 掲載予定 @ A B |
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2009/09/15,25 | 一宮基督教研究所 | 安黒務 | ディスペンセーション問題三部作 A:「黙示録特別講義:イスラエルと教会」(主要資料:岡山英雄著『小羊と王国』) | 同左 | intro | DVD講義録[90X2枚]=3000円 | 5/11 :掲載予定 @ A |
2009/10/06 | JEC牧師会研修 | 安黒務 | ディスペンセーション問題三部作
B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答(主要資料:C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』) |
pdf-a pdf-b |
intro | DVD[90分×1枚]=1500円 | 5/18 掲載予定 all |
2017/04/20 | JETS神学会 | 安黒務 | 『福音主義イスラエル論』エッセンスの解説と質疑応答 (主要資料:安黒務著『福音主義イスラエル論』) |
intro | DVD講演録[60X1枚]=1000円 | 5/25 掲載予定 @ A |
【ICI翻訳-落穂抄−#20150423】「“ディスペンセーション主義”に基づくエゼキエル書40-48章解釈の吟味・検証ためのひとつの材料の提供」
Q:「神殿と終末に関しては、エゼキエルの後半やUテサロニケ2章の解釈が一つのポイントになるかもしれないと、この記事を読んで思いました。」
A:このコメントも、質問ではないのだが、このテーマに関して思索を深めるために、「“ディスペンセーション主義”に基づくエゼキエル書40-48章解釈の吟味・検証ためのひとつの材料の提供」を念頭に少し思うところを書き留めてみたい。
エゼキエル書に関しては、いのちのことば社の簡単なものでは、ハーレイ著『聖書ハンドブック』があり、詳細なものでは『新聖書註解』や『ティンデル聖書註解:エゼキエル書』がある。内容は、@エルサレムへの神の審判としてのエルサレムの崩壊、Aエルサレムの回復−捕囚の帰還とエルサレムの再建という形での希望、で構成されている。33-39章は「エルサレムの終末」であり、40-48章は「エルサレムの希望」がテーマである。聖書の解釈は、「全体の構成」を見きわめてから、「細部の解釈」に入るのが良いと思う。
エゼキエル33:21に、「私たちが捕囚となって十二年目の第十の月の五日、エルサレムからのがれた者が、私のもとに来て、『町は占領された』と言った」とある。エゼキエル書のメッセージは、構成上のバランスに適合した内的一貫性を持つ。中心ポイントは、「エルサレム陥落と神殿の崩壊」である。ここでは、ティンデル注解シリーズの「エゼキエル書」より、引用抜粋編集しつつ学ぶことにする。
しかし、すでに新しい時代が明けつつあり、新しいメッセージがエゼキエルの口にある。新たな任務と、一種の国家的復活によって、神の導きの下、神の民が彼ら自身の土地へとまさにつれ戻されようとしているとの約束とともに(33-37章)、エゼキエルは、北からの侵略者の大軍に対する神の民の最終的勝利を“黙示的用語”で描くに至る(38-39章)。忠実な神の民と巨大な終末的な戦いという思想は、特に目新しいものではない。エゼキエルは、自分が初期の代弁者らの預言した出来事の成就を語っていること、またエレミヤの言い方をこだましていること、ヨエル、アモス、ゼパニヤのような預言者のため未来を支配していた「主の日」の表象のことばで、終末を表現したのである。それは「黙示的言語」である。それは大部分が象徴であり、時には故意にぼんやりとしており、神秘的でさえある。しかし、詳細は漠然としてはいても、主要点は明らかであり、それは大胆に表現されている。
40-48章は、回復された土地と再生した民であるイスラエルのための、新しくされた指導者という図式を我々に与え、この新しい共同体の神殿礼拝の設計図と組織という「結論的幻」へと導く。神が永遠に神の民の只中に住まわれる神殿の庭と至聖所を持った、新しいエルサレムの幻である(40-48章)。40-48章では、解釈が主要な問題となる。四つの見解が提出されてきた。
その第一は、「字義的預言的」解釈−捕囚民が帰還したときに、実際に建てられるべき神殿の設計図とする。「この意見は、ここで我々が建築家ではなく預言者−その領域が手ではなく心である人−を扱っていることを忘れている」と批判される。この平面図は建築家になる見込みの人々の想像力に、多くの詳細をゆだねている。
第二は、「象徴的キリスト教的」解釈であり、この幻がキリスト教会において象徴的に成就したと考えた。今、この見解には真実があり、それは黙示録におけるエゼキエル的な用語使用によって、刺激を与えられる。黙示録では、「新しいエルサレム」の叙述が、主としてエゼキエル書の様式に基づいているからである。しかしエゼキエルの幻を「直接的に」キリスト教的「成就」に当てはめるのは言い過ぎである。それは、エゼキエル自身の時代の読者にとって実際の文脈があること、この元々の文脈こそ旧約聖書釈義家の主要な関心事でなければならない。
第三に、上記の解釈の「変形」として「ディスペンセーション主義者」の見解がある。これは、スコフィールド引照聖書によって最も広く一般に知られているものである。そこでは、エゼキエル40-48章を「(千年)王国時代の期間中の、約束の地におけるイスラエル」と名づけている。このアブローチは「字義主義かつ未来派的」である。それは、この箇所を「終わりの時代」に適用するが、その時とは、「イスラエルの輝かしい未来に関するすべての預言」が、新しいディスペンセーション(聖約期)において「文字通り」成就すると考えられている時のことである。
もし、新約聖書の「キリスト啓示」と「その完了しているみわざ」の後に、旧約聖書の祭り、血の犠牲、祭司制、神殿礼拝が再び導入されるべきであると、この箇所から結果としてなるなら、それはこの見解が「どれほど徹底的にキリスト教の救いの重要性を誤って解釈しているか」、また「いかにそれが神の人類に対するふるまいの継続性に疑いを投げかけるか」を示している。
しかし、もしこの箇所を過去においてではなく未来における事柄とするのであれば、その誤りは、基本的にはエゼキエル40-48章を「預言」とみなし、「その字義的成就」を主張するところにある。
第四の見解とは、これらの章を「預言」としてではなく、「黙示」とみなすもので、ヘブル語文献の黙示的文体の基準に従って解釈する。その特徴は「象徴主義、数字の対称性、未来主義」である。それは明白な用語で表現されているが、これらは「単に神の行為の一般原理がそこに秘められている形態」にすぎなかった。神殿の幻は事実上、神が表象したすべてのこと、神が要求したすべてのもの、神がまさに明けようとしていた時代に神の民のために行うことのできるすべてのことの、「一種の受肉」であった。
その解釈がみな、我々が扱っている素材の文学的特質の、最も現実的な見解を取るように見えるこの「黙示的見解」に基づくなら、40-48章におけるエゼキエルのメッセージは、以下のようにまとめられる。
@回復された神の民に対する「神のご計画の完全さ」←それは“象徴的な形”で、「神殿の建物の欠けなき対称性」に表されている。
A新しい時代における「礼拝の中心性」←その重要性は、「礼拝儀式の遵守における詳細な細目への周到な配慮」に表されている。
B神の民の只中に「主がとこしえに臨在される」こと。
C神の臨在する場所から、「地上の不毛の場所へ流れる祝福」←いのちの川。
Dすべての神の民に対する「義務と特権の、整然とした割り当て」。←それは、「神殿の務めと、土地の分配」の両方において明らかにされている。
わたしは、現段階で「@字義的預言的解釈、A象徴的キリスト教的解釈、C黙示的解釈」の三つは、“相互補完的側面”があり、バランスよく調和させることによって、健全なエゼキエル書解釈ができるのでないかと受け留めている。つまり、「極端に字義的に走る傾向」と「極端に象徴的に走る傾向」の間に“落とし所”があるのではないか、と思うのである。テーラーは少し“象徴主義”の傾向が強いような気がする。R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』も“芸術品”のように素晴らしい本なのだが、同様の課題をもっているように感じている。これは、近年の福音主義神学におけるひとつの傾向なのかもしれない。これは今後検討していくことが必要だと受け留めている。
ただ、Bの「ディスペンセーション主義解釈」は、“論外”の解釈であり、指摘されている“欠陥”のある“誤った解釈”であることを見きわめることが大切と思っている。巷では、この解釈にそった講演やセミナーでにぎわっているようである。「押し流されないように」気をつけたいものである。
以上は、あくまで、「エゼキエル書40-48章」解釈の吟味・検証ためのひとつの材料提供にすぎないが、参考にしていただけたら幸いである(上記の資料源は、ティンデル聖書注解シリーズ「エゼキエル書」からの抜粋引用し編集したものである。詳細は、その書籍をみていただきたい)。
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2012/10/01-022 | ASTセミナーー | 安黒務 | 『福音主義終末論:再考』』講演録B「21世紀の終末論の諸課題T」」:旧新約の黙示文学と呼ばれるジャンルの聖書解釈の原則を学び、再臨、空中携挙、最後の審判を巡る諸説を比較検討する。。 | 講義レジュメ | K |
20150422視聴可可 K L M |
【ICI翻訳-落穂抄−#20150422】、「キリスト教会は、“平和への架け橋”となるべきであって“戦争への架け橋”となるべきではない!」
Q:「第三神殿の建設が始まろうとしているけど、本当??」
A:質疑というよりは、“質疑を先に進める溶剤”のようなコメントを感謝します。このことに関心のある方もあると思いますので、わたしもそれに“乗りたい”と思います。
「第三神殿」について、よく知っておられる方とそうでない方もおられると思いますので、少し説明を加えます。
「『第一神殿』は、ソロモン神殿とも呼ばれ、古代イスラエルの王ソロモンが、紀元前10世紀に建造したものです。この神殿はきわめて壮麗なものでしたが、紀元前586年にバビロン帝国の侵略を受けて完全に破壊されました。次に『第二神殿』は、捕囚先のバビロンから帰還したユダヤ人たちが、ゼルバベルの指導のもとに、紀元前520〜516年の四年間をかけて建造したものです。第二神殿である『ゼルバベル神殿』は第一神殿に比べると、多少見劣りのするものでした。ゼルバベル神殿は、紀元前二世紀になって異邦人アンティオコス四世・エピファネスによって踏みにじられ、その後しばらく荒廃状態が続きました。しかし紀元前19年頃になって、ヘロデ大王がこの神殿の修理・増築を始めました。この工事は、キリストの公生涯の時代にもまだ続けられていました。この『ヘロデ神殿』は、ゼルバベル神殿の修理・増築であるため、一般には同一の神殿とも見なされ、両者を合わせて『第二神殿』と呼ばれています。第二神殿は、ゼルバベル神殿とヘロデ神殿の双方をさすのです。第二神殿は、紀元70年になって、ローマ軍によって完全に破壊されました。エルサレムの有名な『嘆きの壁』は、このときに破壊を免れた唯一の残存物です。それは、第二神殿の外壁の一部だったのです。『第三神殿』は、一体どこに建てられるのでしょうか。それは、エルサレム以外には考えられません。ユダヤ人は、過去に二つの神殿を建設しましたが、それら『第一神殿』『第二神殿』は、いずれもエルサレムに建っていました。その場所はエルサレムのモリヤの丘であり、全く同じ場所だったのです。そこは、かつてアブラハムがひとり子イサクを神にささげようとした場所であり、最も聖なる地です。」
「エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、旧約聖書創世記12章以下に記述されている『アブラハム』にルーツをもつ宗教全ての聖地であることが最大の問題です。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしています。イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされます。コーランは、メディナに居住していた時代のムハンマドが、神の意志により『聖なるモスク』すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに『遠隔の礼拝堂』すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っています(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだといいます。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期にはすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれました。そういうわけで、イスラム教徒の聖なる『岩のドーム』が地震や戦争など何らかの原因で破壊されない限り、そこにユダヤ教の『第三神殿』は建てられないのです。」
わたしの論文の資料源のS.サイザー著の二冊の本に記されている「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の問題点のひとつとして、サイザーは「@約束の地の回復(“大イスラエル主義”では、ヨルダン川西岸のみならず、創世記15:18「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』」)、A首都エルサレムの回復、B第三神殿の回復」をみております。@とAに関して、着々と手が打たれております。それには戦争や暴動が伴いました。
さらに、たとえば『岩のドーム』の破壊による『第三神殿』の回復が試みられた場合、ユダヤ教徒にとっては「祝福」となるのかもしれませんが、イスラム教徒にとっては、その信仰の本質とルーツに関わる「呪い」となり、イスラム諸国すべてを敵に回しての大きな戦争が勃発するのではないでしょうか。わたしは、論文にも書きましたが、キリスト教会は、「使徒的聖書解釈と使徒的実践」をもってイスラエルとパレスチナ双方に対して“平和への架け橋”となるべきであって、「間違った聖書解釈と間違った実践」をもって“戦争への架け橋”となるべきではないと思います。
わたしは、ナチス時代のドイツ人クリスチャンが「アウシュヴィッツ」のことを知らずに“ユダヤ人虐殺の共犯者”となったように、今日のクリスチャンが「パレスチナ」でなされていることに“沈黙”し、中東の平和交渉の公正かつ持続的な成果の可能性を「妨害」し、ラビ的ユダヤ教への「無批判な寛容」を示し、イスラエルの政治的権利を「無制限に是認」し、パレスチナ人の悲劇と地域に根差しているキリスト教の共同体の苦境に対する「許し難い同情心の欠如」をさらし、福音の名前においてユダヤ人による「抑圧を正当化」する(安黒執筆論文『福音主義イスラエル論』より抜粋)、そのような傾向を内包する“集会やセミナー”に参加し、「ハレルヤ!」を連呼する様は、ピーター・バーガーや古屋安雄が記すように、それは神さまの目から見て「聖会の騒音」にすぎないのではないかと思わせられるのです。
サイザーは言う、「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる。」(Sizer,
Christian Zionism, p.263.)
【ICI翻訳-落穂抄−20150421b】
20150420::
日本福音主義神学会西部部会2015年度春期研究会議「「社会に生きるキリスト者〜職業倫理」」2015年4月20日日(月)
神戸ルーテル神学校にて開催され、、80数名が参集し、大変盛況で、熱心な質疑が交わされました。。
さて、参加された方だけでなく、近隣また遠方の方に会議の祝福を分かち合おうと、講演会と分科会発表の『『20150420
JETSS西部部会会
春期神学研究会議 DVD講演録録(←レジメ全集)』((DVDD五枚セット)が、西部部会よりの援助のもとに作成されました。1000円(送料100円)で本日より販売されています。内容はレジメ全集でご確認ください。。
関心のある方は、、ICII安黒黒まで、「送り先」を記入し、メールにてご注文ください。郵便振替用紙を同封して送らせていただきます。品物到着後、一週間以内にお振込ください。。レジメメは各自ダウンロードし印刷してください。。
もし何か分からないことがありましたら、遠慮なく、西部理事会から委託されています安黒までお問い合わせください。。
JETSホームページ&西部部会DVD講演録担当:安黒務務
【ICII翻訳訳-落穂抄−#20150421】「『イスラエルは終末の日時計』なのか?、それによって『黙示録の進み具合がわかる』のか、『第三神殿の建設』についてはどう考えるべきなのか?」」
アリマタヤのヨセフさんから、下記のようなメールが届いた。すべてのことが分かっているわけではないが、わたしを信頼して質問メールをいただいたのであるから、わたしの立場からできる範囲で、お答えしようと思う。。
Q: 「突然のメールをを.失礼致します。本日の福音主義神学会にて質問させていただきたかったのですが、時間が無く終わってしまいました。…お尋ねしたかったのは、ある先生が『イスラエルは終末の日時計で、クリスチャンは注視する必要がある』と言っていたことです。つまり、イスラエルに成就することを見ていれば、黙示録の進み具合がわかるといったことでしょうか。他にも第三神殿の建設などいろいろな単語が出ていました。先生はこれの正当性をどのように分析なさるでしょうか。この発言の神学的根拠はどのようなものでしょうか。フェイスブック等でお答えくだされば幸いです。」(アリマタヤのヨセフ))
A: 直接の答えにはならないと思うが、参考になるセンテンスを紹介させていただく。それを参考にまた考えていただければと思う。ひとつは、わたしの翻訳したラッド著『終末論』の「第二章イスラエルについてどうか」は参考になると思う。そののp.399に「…それゆえ、イスラエルは『預言の時計』であるという、よく知られたディスペンセーションの見解は間違っている」とある。。
「それゆえ」とあるのだから、『預言の時計』という考え方の誤りは、その前の文章で説明されている。さらにいえば「第一章聖書の預言箇所はどのように解釈すべきか」と「第二章
イスラエルについてはどうか」において、「すでに“立証”されている」ということである。ラッドの本の一章と二章を熟読して、上記の問いの解答を探る前提として、この問題を考える上での“マクロな視点”つまり鳥瞰図の““Birdd’s
Vieww”を身に着けることを大切にされたら良いと思う。その上で、細部の問い、つまり獲物である“鹿を追う”のである。。
さて「第三神殿」についての正当性について、新約聖書にあるのかといえば、それは「ない」ということである。。P.344に「それでは、神殿についての旧約聖書の約束についてはどうなるのか」と問い、ヘブル人への手紙は、律法には「後に来るものの影はあっても、その実物はない」((10:11)と語り、この問いにはっきりと答えている。そして、、pp.35-388において、「神殿といけにえの制度は規定する律法は、キリストにおいて私たちにもたらされる祝福−実物−の影にすぎない」、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」((10:13-144)、ヘブル書の箇所は「赦しのあるところでは、罪のためのささげ物は無用であると語っている。キリストによって成し遂げられた赦しは、モーセの制度を無用、かつ廃止されたものとした」、「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます」((8:133)、「贖罪の実体がもたらされたのだから、古いモーセの秩序は消滅したのだと断言している。。
ここで、再び、旧約聖書預言書の根本的な再解釈を手にする。この解釈によれば、モーセの契約は、そこに記された「神殿といけにえの制度」を含めて“一時的なもの”である。ヘブル人の手紙の議論は、それらがキリストにおいてもたらされた霊的実体を指し示している予型であり、影であるということである。予型や影はそれらの目的を達成するやいなや、神の贖罪のご計画から無用のものとして捨てられるというのである。」」
このような理解は、フラー神学校の新約神学教授であったラッドのみならず、トリニティ神学校で組織神学教授であったグルーデムも同じ主張をしている。その他、今日の優れた神学者は皆、同様の聖書解釈をしていることは、和書・洋書のすぐれた神学書また注解書を幾つか目を通せば一目瞭然である。。
このような視点で、『イスラエルは終末の日時計で、クリスチャンは注視する必要がある』とか、『黙示録の進み具合がわかる』とか、『第三神殿の建設』とかは、ラッドが指摘しているように、基本的に「ディスペンセーション主義聖書解釈法」という“誤った”聖書解釈法に基づくものである。これらは健全な神学者からは“まゆつばの話”であり、健全な神学の素養や見識を兼ね備えていない“大衆レベル”((p.1844)の伝道者やセミナー講師によるものであるので、“一喜一憂”して翻弄されないように注意しなければならないと思う。。
「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」(ヘブルル2:11)
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504119】】新約聖書書
ヘブル人への手紙12:14-29 説教: 安黒務 牧師師
明日はいよいよ、準備して来た神学会の研究発表の日である。発表の時間は約約20分と短い物だが、その後に質疑応答の時間もあり、この十年二十年の総決算の時であると思っている。。
2006年にも発表させていただき、そのことがラッドの終末論を訳すきっかけとなり、去年末の論文やこの春の終末論の本の出版につながったと思っている。。
今までのご指導に感謝して、宇田先生に終末論の本を送らせて頂いたところ、丁寧なお葉書を下さった。。
その中には、まだ私が4歳の頃にアメリカの神学校に留学され、そこで、ラッドの本に触れられた事や、私たち家族と千葉の共立神学研究所でお会いしたことを思い出されたことが書かれていた。。
そして、何よりも、福音主義神学の発展のため、頑張って下さいと大きな励ましの言葉を頂いた。。
神様の働きはキリスト教会全体を見ておられ、それはまるで、鳥瞰図の様である。いろいろな働きや教えがあるが、その中から真水の様な教えを汲み出し、塩水や泥水、工場排水の様な水は汲み出さない様に導いて下さる。。
14節に、すべての人との平和を追い求め、とある。主にある兄弟姉妹として、すべての人とお互いに尊敬の心を持って接しなさいと教えている。しかし、また、聖められることを追い求めなさい、と続く。。
これは、聖書の正しい解釈を求めていくべきであると、教えている。。
ラッドの終末論の本は、終末の本であると共に、聖書の正しい解釈の仕方を教えてくれる本である。。
だから、私は今翻訳に取り組んでいるエリクソンのキリスト教理入門の本が終われば、また、ラッドの別の本に取りかかりたいと考えている。。
15節には、せっかく救われた人々が神の恵みから落ちる事がない様にと説いている。福音を信じる者の畑に美しい福音の花を咲かせる様に。経済的な繁栄を求めたり、右翼思想に迎合したり、キリスト教シオニズムに巻き込まれたりしてはいけない。。
本当に大切にしなければいけないことをないがしろにして、神の恵みから外れてしまったエサウの様ではなく、正しい選択をしたアベルの様に歩むべきである。。
神様の審判は厳格で厳しいものである。あなたの信仰が、木、草、藁の様であれば、その部分は焼き尽くされてしまう。金、銀、宝石の様な信仰者の部分のみが報いの対象である。。
神様の準備される世界は、揺るがされない御国である。今の地上には貧富の差があり、テロリズムが横行し、憲法改正に右往左往している。しかし、神の御国は平和で、安全で、健康的な世界である。。
永遠のパラダイスの視点から、被造物世界全体が揺り動かされる。イエス キリストが復活された様に、私たちも栄光の身体を着せられ蘇らされた天地に憩うことが出来る。。
まさに、今この時、神様はキリスト教会とその信者を揺り動かしておられる。。
私たちの神は焼き尽くす火である。。
書評者の相談を受けたとき、以下のような返事をさせていただいた。「ディスペンセーションの陣営からは、池田市の福音聖書神学校の前の校長の眞鍋孝先生は、ダラス神学校で学ばれた漸進的ディスペンセーション主義の立場で、古典的と改訂ディスペンセーション主義の立場を批判し距離を置きつつ、なおディスペンセーション主義にたっておられる先生です。ラッドの立場も十分に理解しておられる先生です。バランスをとるという意味では、この先生からの書評もあると良いかもしれません(真鍋先生とも親しいので、わたしの推薦といっていただければ書いていただけると思います)。」」
眞鍋先生とは、西部部会で理事として親しく一緒に奉仕させていただいた間柄である。実際に、「「20066年4月277日の神学会研究会議『『千年王国諸説とユダヤ人伝道の位置づけけ』」ではそれぞれの立場から発表させていただき、質疑を交わさせていただいた仲である。そのときの発表の時に「「G.E.Ladd
,,”The Last Thingss”は翻訳されるべきだ」と“心の示し”を受け、“翻訳の重荷”を与えられた。。
また、わたしが、教えていた神学校においててK..N氏ややA.FF氏等の影響で難渋することがあったときに、ご相談し助言をいただいたこともあった。眞鍋先生は、「情報鎖国状態の日本」にあって、「ディスペンセーション主義の変遷の歴史:ダービーのディスペンセーション主義→古典的ディスペンセーション主義→修正ディスペンセーション主義→漸進的ディスペンセーション主義→…」の内情に詳しい“生き証人”である。。
ラッド著『終末論』に関しては、今後諸種の「書評」がなされていくものと思う。それは訳者として受けとめていかなければならない部分である。ただ、ひとこと言っておきたいとことは、「書評者もまた、“書評”において、自分がいかなる者であるのか、の“人物評”を受ける」ということである。わたしは、岡山英雄氏、また眞鍋孝氏という、信憑性のある“生き証人”にこの訳書の意義を位置づけていただき、高い評価をいただき感謝に堪えない。。
それは「現在では、ダラス神学校は、グレイス神学校やタルボット神学校と共に、修正ディスペンセーション主義から漸進主義ディスペンセーション主義へと変化し、ラッドの立場に近づいています。真摯で建設的な討論によって、神学校のレベルでは一致点が見出されつつあります」という方向性であり、その方向性におけるラッド著『終末論』の位置づけ、また意義・評価ということである。。
わたしは、今日、さまざまな古いタイプのディスペンセーション主義解釈に翻弄されるクリスチャン、教会、神学校等が、“間違って神聖視されている教えや実践を盲目的に墨守する”ことから解放されることを願っている。そのために、ラッド著『終末論』や『福音主義イスラエル論』論文と、わたしの作成し続けている一連の資料((PDFF、DVDD、ビデオ等)が、“神学的パースペクティブ・歴史的判断力・宗教社会学的分析能力を養う、ひとつの対話の土俵”として活用されることを願っている。そしてその“真摯で建設的な討論”の結果として“一致点”が見出されていくことを心より願っている。。
「それは、…キリストのからだを建て上げるためであり、…ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、…教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、…」(エペソソ4:12-144抜粋))
個人名をあげて批判することが目的ではありませんので、イニシャルの説明はカットさせていただきました。このサイトをご覧になられる方は、イニシャルにて十分理解できる方が多いと思いますので…。このサイトの目標につきましては、『福音主義イスラエル論』の最後にも書かせていただきました以下のことです。。
わたしとしましては、バスやラッドやエリクソンが取り組んだことにならって、今日のキリスト教会が直面している課題を取り上げて、ある程度専門的に神学に取り組んできたひとりとして、危険視される教えや実践を内包する運動や集会について「神学的かつ社会学的診断」を施すことです。それは、単にそれらの運動に関わっておられる方を裁くことが目標ではありません。「診察するのは、治療する」ためです。「治癒に向けての処方箋を示す」ためです。。
実際に、わたしの団体でも、イニシャルにあった先生方の影響が強まったとき、わたしは「ディスペンセーション主義聖書解釈法」にかなり強い調子で「警鐘活動」に取り組みました。最初は、理事会・牧師会あげて「ふたりの先生を誹謗中傷する警鐘活動をやめる」よう警告を受けました。。
しかし、その後に牧師会で忍耐強く学び会((ICII資料集リストの中の、ディスペンセーション問題三部作
@:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義義
主要資料:岡山英雄著『患難期と教会』、
A:「黙示録特別講義:イスラエルと教会」、B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答、ヨハネの黙示録講解説教シリーズ− エリクソン・ラッド・岡山英雄の立場:大患難期後携挙・歴史的千年王国前再臨説に立脚した −黙示録CDメッセージ全集、『福音主義終末論:再考』@「近代における終末論、A「ディスペンセーショナリズムの終末論、B「21世紀の終末論の諸課題、C「21世紀の終末論の諸課題、D信徒セミナー「世の終わりと教会の霊性」等)を続けた結果、かなり大きな変化が起きてきたと受けとめています。ある先生は「皆さん黙っておられますけれども、安黒先生と同じ考えに変わられた先生方は多くおられますよ。わたしも、教会で、黙示録の講解説教を始めました。患難期を通って栄光を受けることのできる教会づくりです」と励ましてくださいました。。
そのメールを受け取ったわたしは、「あの時に、沈黙を守らないで良かった。この団体はこれで守られた」と思いました。今、危機の時代にあって、エステルのような気迫をもって生きる人材を神さまは求めておられることを教えられました。。
わたしは、、36年間教えてきた神学校でも、同様の変化を期待して取り組んできました。ただ、共同経営なのでこちらの取り組みは困難をきわめました。それで、ここ数年間、この「膠着状態」を打開するため、過去の誤った伝統を克服するための対話の土俵をつくる必要を強く意識しており、第一義的にそのために、ラッド著『終末論』を翻訳を急ぎ、全国会議準備の最中で膨大な量の「イスラエル論」書籍に目配りし『福音主義イスラエル論』を執筆させていただきました。。
こちらの方は「刀折れ、矢尽きて」というかたちとなりました。「共同経営なのだから、“二本立て”で行き、“警鐘活動は自粛”という線で妥協してはどうか」というアドバイスも受けましたが、「それは、ラッドの“遺言”たる『終末論』の執行者として取るべき道ではない」と思いました。。
現在、神学会での『福音主義イスラエル論』の研究発表に向けて、数多くの文献に目を通しています。その中に、エーバーハルト・ブッシュ著『カール・バルトと反ナチ闘争:ユダヤ人問題を中心に』があります。その下巻ののp.331の記述から励まされました。。
「この時代とは、ヴァイマール期に、ナチス突撃隊という私兵を擁してテロをふるい、巧みなプロバガンダを用いてドイツ政権を掌握し、独裁政治を行い、ユダヤ人を迫害し、虐殺し、広くヨーロッパを侵略したナチスの時代である。。
この極めて厳しい時代に、バルトがナチズムに対抗して、どのように抵抗したのかが、この研究書の主題なのである。しかも神学教師として、片方で神学のいとなみを行いながら、それと並行して他方ではというのではない。そのいとなみのゆえに、またそのいとなみからである。神学的営為から押し出されるかのごとく、と言ってよい。まさにバルトの場合、政治的抵抗と神学的営為は、ひとつのものであったのである。。
彼の神学的抽象性は、政治的具体性から分離されることは決してあり得なかったということが、この書物により明らかにされている。まさにバルトのナチズムに対する、神学的・政治的抵抗を見事に分析したものと言ってよい。」」
わたしは、バルト神学には一線を画す立場ですが、バルトその人の“いきざま”には深く教えられるところがあります。ある人は「神学校でで366年間築き上げた地歩を捨てるなどという“愚かな選択”をした」と言われるかもしれない。しかし、「わたしは損得勘定ではない生き方に徹したい。それでないとわたしはキリストを信じた意味がない。ラッドのように生き、また死にたい。そして、わたしのこのような生き方が“見世物”にされ“さらしもの”とされて、“風見鶏”のように生きる人たちの中から、“愚かな生き方”にならう人が、ひとりでも二人でも起こされてほしい」そのように願った(ただ、、366年間奉仕の場所を与えてくださった神学校に対しては心よりの感謝を申し上げたい。。また共に奉仕させていただいた理事や教師の皆さんに大いなる敬意を抱いていることも記しておきたいいまた共に奉仕させていただいた理事や教師の皆さんに大いなる敬意を抱いていることも記しておきたいい)。。
「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル記記4:144)
【福音主義イスラエル論】(結語より抜粋))
以上の神学的かつ社会学的診断に基づき、筆者は「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響下にある兄弟姉妹に呼びかけたい。筆者は彼らが福音主義の教理の大半をわたしたちと共有している主にある熱心な兄弟姉妹であることを認める。その上で「福音主義イスラエル論」という領域において「「Dゾーン」(使徒的聖書解釈に不適合・使徒的実践に不適合)にある要素の有無について精査をお願いしたい。もしそのような要素を見出されたとしたら、この「神学的・社会学的観点から考察」をひとつの手立てとし、「使徒的正統性の回復」に精力的に取り組んでいただきたい。。
「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない。」(シカゴ・コール))
【ICI翻訳-落穂抄−20150415b】「PCでアマゾンのKindle本を読む」」
「PCでアマゾンのKindle本を読む」は、一般サイトのものを使用するよりは、アマゾン書店のものを使用するのが良いと思います。アマゾン書店のアプリのダウンロードの仕方・登録は以下の順序です。。
@アマゾン書店を開く。。
A右上の、「アカウント・サービス」をクリックする。。
B右側の「Kindle ヘルプホーム
」をクリックする。。
C一番の「Kindle無料アプリ」の中からら
・PCの場合は、「Kindle for
PC」をクリックし、あとは画面の指示に従って手続きと登録する。。
・アンドロイド携帯の場合は、「Kindle for
Android (電話)」」
・ダブレットの場合は、「Kindle for Android (タブレット)」」
※わたしは、Kindleとともに、PCでも携帯でも、「Kindle本」を共有し、いつでも読めるようにしています。エリクソンやラッドの著作もたくさん入れています。重たい本を持ち運ばなくて良いので重宝しています。用語の検索も一瞬でできますので、翻訳作業でも欠かせない武器ですね。。
「全国神学研究会議に期待すること」全国研究会議準備委員会、準備委員長 安黒 務務
「宇田進著『総説現代福音主義神学』の序文に、キリスト教の教理や信仰告白のシンボル化≠ニ、それらの非神話化論的な解釈≠フ広がり、教理的立場の問題におけるボーダーレス現象=i神学上の歴史的・伝統的な線引き≠棚上げする傾向)という今日的現象が指摘され、@今日の神学的状況と動向に関する分析と情報の提供、A注目すべき問題点と主要な争点の指摘、Bそして、福音主義を標榜する諸教会の核≠成すその信念体系≠フ確認と、それに関する一層の掘り下げへの一つの呼びかけと、そのための一つの材料になればと、書き記されている。このことは準備委員長として、今神学研究会議に期待するものと軌を一にしている。。
まず準備委員長として奉仕者に期待することは、講演者・応答者、争点発題講演者・パネルディスカッション、総括とガイドラインの提示の一連の討議において、福音主義神学の「釈義」「教理」「歴史と実践」の@今日置かれている状況と動向の分析と情報の提示、A問題点と主要な争点の指摘、そしてB我々福音主義を標榜する諸教会におけるガイドラインの提示を試みていただくことである。。
次に、準備委員長として参加者に期待することは、今会議は学会の歴史と経緯を熟知しておられる学会内部の講師に我々の課題を明確にしていただくとともに、参加者には質疑とディスカッションの多くの時間を提供している。これは、参加者が、単に観客として参加されるだけでなく、発言するにしろ心の内で問答するにしろ質疑やディスカッションの只中に身を置き、競技者として参加していただくことを願ってのことである。。
そして最後に準備委員長として全会員に期待することは、「我々の福音主義神学の行くべき方向」として、我々は今の時代に福音主義者としてのガイドラインに立脚しつつ、課題を直視し神学の研鑽に専心従事する。しかし同時に、立場の異なる人々の問題提起にもその真理契機を認識し、自らの神学構造の中にそれらを正しく位置づけ、真の神学的解決を示すことにより、自らの神学を成熟させる、このことをも視野に置いて方向性を模索していただくことである。」」
この「全国神学研究会議に期待すること」は、現在のこの「神学カフェに期待すること」と同一です。その意味で、このサイトは本当に小さな交わりの場ですが“ポスト・全国会議のひとつとしての神学カフェ”の位置づけで、「立場の異なる人々の問題提起にもその真理契機を認識し、自らの神学構造の中にそれらを正しく位置づけ、真の神学的解決を示すことにより、自らの神学を成熟させる、このことをも視野に置いて方向性を模索」する場としていただけたら感謝です。。
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150415】−−その他の集会・セミナーでの講義・講演リストト
whenn | wheree | whoo | whatt | 講義・講演資料料 | ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】)) |
ICIサポーター用用 (無料視聴【期間限定】)) |
2012/10/01-022 | ASTセミナーー | 安黒務務 | 『福音主義終末論:再考』』講演録D信徒セミナーー「世の終わりと教会の霊性」」 | 講義レジュメメ | G | 20150415視聴可可 G H I J |
【ICII翻訳訳-落穂抄−−#20150414b】「ウォルブードとラッドの論争等の結果として、優れた神学校のレベルにおいては、戦局はすでに決しており、敗残兵の掃討作戦の段階に入っている」」
「資料紹介」感謝します。ざっと目を通してましての感想は、「まぁ、こんな感じだろうな…」というところです。わたしが意味するところは、「大変分かりにくい」ということです。。
わたしは、「契約神学者」ではありません。また所属している団体も「契約神学」を背景としている団体でもありません。ラッドやエリクソンのように、バプテストの流れに属する者です。エリクソンやラッドがいうように、「聖書の最も自然な解釈」にたとうとするとき「聖書的な主題を強調する神学はバプテスト的な主題を強調する神学を生み出すだろう」という立場です。穏健な中庸な立場であると思います。ただ、エリクソンやラッドは、“穏健カルヴァン主義”的であると思います。。
その意味で、昨日もある方への返信に書いたのですが「ラッドは、、G.Vossの影響を受けていると宮村先生の『新約神学』で学びました。ラッドの意味するところは、契約神学ばりばりの背景に育ったからではなく、聖書そのものを帰納的に学んでいったときに、契約神学と同様の結論、つまり旧新約の連続性、漸進性、多様性、有機的一体性の理解にたどりつくといった意味と思います。ちなみに、ラッドの『歴史的プレミレ』は、よく『契約的プレミレ』と表現されています。わたしの理解では、契約神学とかなり重なり合う部分が多いのではないかと思っています。」」
わたしは、、K.NN氏ややA.FF氏のさまざまな情報や資料や書籍に目を通すとき、感じることは「これだけでは、評価・分析することは難しい」ということです。いきなり細部の聖書解釈に入ると「ローマのカタコンベに入り、迷子になってしまう」危険があります。それで、わたしは、、K.NN氏ややA.FF氏の評価・分析をするには、“氷山理論”が有益と考えています。つまり、水面上に見えている“氷山の一角”だけで評価・分析しようとするのではなく、“水面下の氷山”つまりディスペンセーション主義聖書解釈の歴史全体を“鳥瞰図”的にみて、まず「その全体図の中に位置づけ」た上で、「細部の聖書解釈の議論」に入るという順序です。。
それで、「ディスペンセーション主義問題」を扱うときには、その「ルーツとアイデンティティ」をしっかりと把握することが大切と思います。細部から入ると、いろんな罠が仕掛けられていて「ミイラとりが、ミイラになってしまう」危険があります。。
基本的には、クラレンス・B・バス著『ディスペンセーション主義の背景』をしっかりと学ぶ必要があると思います。ここで、ディスペンセーション主義が生起した歴史的事情、その運動の中での闘争、最終的にダービーが勝利をおさめ、ディスペセーション主義聖書解釈法を確立していったこと、そしてその解釈法の下で「ディスペンセーション主義教会論」や「ディスペンセーション主義終末論」が生まれてきたこと等です。。
ディスペンセーション主義は、個々の先生方によってかなり異なります。。F氏はライリーに推薦文を書いてもらっている本がありますが、ライリーは自分の立場との相違に言及していたのが印象的でした。ダラス神学校からは実に「多様なディスペンセーション主義が生まれ、それらの先生方からさらに多様な教えを説くディスペンセーション系教師が生成されている」ように思います。それで、わたしの取り組み方は、「バスによって特定されている““J.N..ダービーの教えの遺伝子”の反映度」という視点が効果的なように思います。今日のディスペンセーション主義の教えは、いわば“真水”(福音主義)と“塩水”(ディスペンセーション主義)が混在しており、変化に変化を重ね続けているので、よけいに分かりにくいものになっていると思います。見分けるための「リトマス紙」は、「バスによって特定されている““J.N..ダービーの教えの遺伝子”の反映度」です。そのあたりを押さえてみていくと、いわば万華鏡のように、カメレオンのように七変化を繰り返すディスペンセーション主義も「識別評価」しやすくなると思います。その意味で、わたしは、本格的な研究した上で“マクロな視点”を提供してくれる書籍を愛好するところがあります。。
さて、そのような視点を与えてくれているバスの結論はというと、彼は「結びの言葉」において、以下のようにまとめています。。
「この本の命題は『ディスペンセーション主義は教会の歴史的信仰の一部分ではない。ディスペンセーション主義が定式化される以前にに188
世紀間に渡って歴史的千年王国前再臨説の聖書解釈が存在してきたのだから、ディスペンセーション主義は唯一の千年王国前再臨説の見解ではない。そして、ディスペンセーション主義は聖書解釈において誤った解釈学の原理を基盤としている』というものである。。
わたしはこれらの命題を立証しえたかどうか、読者の判断に委ねたい。しかしながら、整理が必要とされるもう別の局面が存在する。ディスペンセーション主義聖書解釈法に内在する幾つもの極端な要素にもかかわらず、ディスペンセーション主義の聖書解釈は、『イエスが再臨日には人格的に、文字通り、目に見えるかたちで地上に戻って来られる』という真理をきわめて明確に系統立てて説いている。歴史的千年王国前再臨説も同じく、無千年王国説もまた同様である。それらの諸説は教会の祝福された望みを取り巻いている出来事の時間的な順序で意見を異にしている。。
しかし、これら三つの諸説はみな、新約聖書著者たちもまた共有している「キリストが再臨される」という最も重要な強調点を共有している。この真理の中枢を共有しつつ、これら三つの諸説の信奉者のすべては、愛と忍耐の交わりを保つことができる。終末論の解釈に関して意見を異にするかもしれない、そして真の聖書解釈の原理を見出すために賢明に議論すべきである。しかし交わりの試金石としてはならない。。
わたしは、それらの解釈においてわたしのディスペンセーション主義の兄弟たちとかなり意見を異にしている。しかし彼らがディスペンセーション主義の捉え方を信奉する権利を擁護したい。わたしはディスペンセーション主義が誤った聖書解釈であると受けとめている。しかしわたしと意見が一致しないからといってだれとも関係を断つつもりはない。わたしは同じ忍耐をこれらの問題に関して意見が一致しない人々にも与えられることを願っている。。
愛において交わりを保ちつつ、わたしはディスペンセーション主義が歴史的信仰からの逸脱であり、聖書解釈における誤った方法に基づいていると強く確信している。それゆえ、わたしはきわめて大胆にも、もしわたしがわたしの命題を立証しえたなら、わたしもまたそうしなければならなかったのと同様、多くのディスペンセーション主義者が徹底して考え抜き彼らの終末論の思想体系に対して新しい評価を下すに至るであろうことを期待しているのである。」((Clarence
B. Bass, “Background to Dispensationalism : Its Historical Genesis
and Ecclesiastical Implications”WIPF and STOCK, p.1555)と。。
その主要な教理の共通項のゆえに、異端視するようなことはいけなし、交わりから除外すへきでもない。しかし、「聖書解釈法の誤り」とその結果もたらされている「誤った教会観」と「誤った終末論」の克服に躊躇するようなことがあってならないということである。真理においては「和をもって尊しとなす」は“背信行為”である。神学教育にとって“自殺行為”である、と思うのである。。
また、上記のバスの書籍「「20055 年版への序」」by
S.R. Spencerrも「変遷の経緯と現況理解」に役立つので以下に記す。。。
「幾つかの他の今日の諸研究とともに、『ディスペンセーション主義の背景』』(1960))の最初の出版は、ディスペンセーション主義に関する学識の新しい時代の到来をしるしづけた。ディスペンセーション主義ははじめて第一義的に論争的でない批評的な分析を受け取った。気が遠くなるほど膨大な第一義的資料に対するバスの広範な研究と神学的諸発展についての注意深い分析は、この目立った神学的伝統への歓迎すべき洞察を提供している。。
『ディスペンセーション主義の背景』は、この伝統について研究する者にとって最も重要な案内書であり続けている。バスは、助けになるようにと「牧師レベルのディスペンセーション主義者」とより精巧かつ緻密で微細な差異を区別する「学究的レベルのディスペンセーション主義者」を区別している。そのような区別はほとんどの神学的諸伝統にもあてはまるかもしれないけれど、ディスペンセーション主義の扱い方としてきわめて適切なことといえる。「牧師レベルのディスペンセーション主義者」は、おおむね福音主義とアメリカ文化双方の内部において「学究的レベルのディスペンセーション主義者」に数においてにはるかにまさっており、ディスペンセーション主義の知れ渡っている外観を特色づけている。C.I.スコフィールドやアルノ・ギャブレインから、ハル・リンゼイやティム・ラヘイまで、そして大勢の聖書教師や牧師たちの「牧師レベルのディスペンセーション主義者」は外部の人と内部の人双方に一様に彼らの最も強力な概念を供給している。。
『ディスペンセーション主義の背景』は、、1800 年代初期から中期の英国におけるジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下にあったディスペンセーション主義の出現を洞察に満ちたことばで説明している。その脈絡はこの伝統を解明するとともに、ディスペンセーション主義のうちに存在したブレザレン運動とブレザレン運動に属さなかった多様なグループとの間の幾つかの重要な相違点をも明らかにしている。。
19 世紀とと20
世紀前半にわたっての米国におけるディスペンセーション主義の多様性と種々の発展は、ディスペンセーション主義が長く引きずっているジョン・ネルソン・ダービーの神学の影を過小評価することのできないことをわたしたちに思い起こさせる。けれども、多くのディスペンセーション主義者は急激にダービーの系統から距離を置くようになっている。後代のディスペンセーション主義者はダービーにとって最も特徴的であった捉え方の幾つかを改変したけれども、ダービーの貢献は初期のディスペンセーション主義にとって決定的なものであったことを正確に立証している。わたしたちは、ダービー基本的な役割を過度に強調することをも避けつつ、それを過小評価することもしてはならない。。
バスの著作は、ダービーの神学に関する重要な資料源と後代のディスペンセーション主義において持続力となったものを明らかにしている。バスは、その主題に関して「公平かつ客観的に扱う」ことを試み、「論争的でない手法」において書かれた著作と評されている、論争的でない研究を提供することを探求した。「その目的はディスペンセーション主義に反対する論拠を構築することではなく、公平無私かつ客観的にこの思想体系の歴史的な誕生がどのようなものであったのかを確定しようとすることである。それゆえ、その本は学究的レベルのディスペンセーション主義者を論駁することを目的としているものではなく、それは牧師レベルのディスペンセーション主義者がその体系を理解できるように助けることのみを意図したものである。」」
公平無私な客観性という主張は、特にディスペンセーション主義に対するバスの以前の傾倒からして、、19600
年代に彼らが取り組んだとき以上に、まことしやかに思われないかもしれない。しかし、バスの批評はディスペンセーション主義を最良のかたちで取り扱っている。バスの著作が最初に出現し、さらにに19777
年に再販されて以来ディスペンセーション主義神学に多くのことが起こってきた。。
チャールズ・C・ライリー著『今日のディスペンセーション主義』』(ムーディ出版、、1965))、と『新スコーフィールド・リファレンス・バイブル』』(オックスフォード大学出版、、1967))は、ディスペンセーション主義における重大な展開をしるしづけた。もろもろの批評には責任をもって応答をなし、数多くの誤りは正しつつ、ライリーはディスペンセーション主義の多様性と古典的ディスペンセーション主義と改訂ディスペンセーション主義とを区別した。著名なディスペンセーション主義の教師たちからなる高名な編集委員会により改訂されたスコフィールド聖書は、スコフィールド聖書の最も問題のある注釈箇所を取り除き、他の注釈もまた修正した。。
展開の第二段階は、「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実することとなったた19800
年代とと19900 年代に出現した。。(神学者たちではなく、その神学に名づけられたた)この名称は、贖罪史における種々の管理責任の間にある統一性と連続性に大きな強調の光が当てて際ただせられている。それはまたディスペンセーション主義との、他の福音主義の諸伝統、プロテスタント、そして普遍的で伝統的なキリスト教会の伝統との関係を強調するものである。ほとんどの漸進的ディスペンセーション主義者は、キリストの未来における千年王国支配を主張しつつ、開始されたメシヤ的王国という見方、そして社会的・文化的脈絡の中における、そしてその中への教会のミニストリーにとっての神の国の意義を教える。。
漸進的ディスペンセーション主義は、幾らかのディスペンセーション主義の教授陣や神学生の間に心備えのできた支持者を得てきたけれども、それはディスペンセーション主義のより巨大な集まりのうちの単なる小規模の少数者派を代弁しているにすぎない。ディスペンセーション主義者たちの大多数はより初期の諸展開の幾つかの形態に傾倒し続けている。ライリー・スタディ・バイブルに則したライリーの本本(19955
年に改訂されたた)と、改訂されたスコフィールド・バイブルは、レフト・ビハインド・シリーズのように、そのニュアンスはしばしば大衆文学からかけ離れたものではあるのだが、相変わらず最も基本的な神学的言明を保持し続けている。ほとんどの今日の唱道者はその歴史的諸展開や彼らの神学における多様性について無知であるが、それらの改訂版の多くは、バスが強い光を当てている諸特徴を語りかけている。『ディスペンセーション主義の背景』は、それらの諸展開の非常に重要な初期の諸段階をよりよく理解するために貢献している。わたしはこの再販を喜び歓迎している。」((Bass,,
“Background to Dispensationalism :
Its Historical Genesis and Ecclesiastical Implicationss”p..@-B))
わたしは、「ラッドの聖書神学、バスの歴史神学、グルーデムの組織神学、サイザーの実践神学」等の大局の中に、ディスペンセーション主義のさまざまな教師を位置づけた上で、「細部の聖書解釈」を検討することが大切だと思っている。(そうでないと、「戦争の大局を考えずに、満州事変等の地域戦勝利を梃子に戦争を次々と拡大していった陸軍の“愚”に似たことにもなる」。米国と日本の経済力の規模の差から考えて、あの戦争にははじめから「勝ち目」はなかったのである。それなのに、日本人人3000万人、アジア地域でで20000万人の犠牲者を生み出す“愚かな戦争”に突入していった“愚”である。冷戦がなければ、日本は朝鮮半島のように分割統治されていたのではないか、またひょっとしたら「シベリア捕囚」もあったかもしれない、と思う。ちなみにわたしの父は、満州で捕らえられ二年半、バイカル湖のイルクーツクで捕虜として抑留され、極寒の地で、明日をもしれない命の中、重労働を強いられていた))
わたしは、神学的にマクロの視野からみて、「「Dデー、、Vデー」ではないが、「ウォルブードとラッドの論争等の結果」として、優れた神学校のレベルにおいては、戦局はすでに決しており、「敗残兵の掃討作戦」の段階に入っていると認識している。ただ、その昔に、大衆的なディスペンセーション主義に染まった、大衆レベルのセミナー講師等が、今日本で活躍されているのだと受け留めている。そのような教えや実践に巻き込まれて、また「ディスペンセーション主義の教えの荒野に何十年もさまよう、あのカデシュ・バルネアの判断のような“愚”」を重ねてはいけない。いまこそ、神学の世界における大局の客観的情報を広く伝えて、「ディスペンセーション主義の教えの荒野」から解放すべきである、と思うのである。そのような取り組みのひとつの拠点として、、ICIIの働きが用いられたら幸いである。。
【ICII翻訳訳-落穂抄−−20150414】】「組織神学とは、まさしく“礼拝”であり、“賛美”なのですね!」
エリクソン著『キリスト教神学』の学び方、というものがあると思います。あの本は、米国では「大学院レベルの神学校」で使用されている教科書です。内容は、基本的な教理教育とともに、「現代思想、現代哲学、現代神学との対話」がかなり含まれています。それが難解とされる原因と思います。大学院レベルの神学校に入ってくる学生は「前提としてすでに身に着けている教養」であり、それらの只中で神学をするとはどういうことかをディスカッションしている本であるからです。。
しかし、この本の素晴らしさは、指摘されているように、「古代の書物」から「現代社会」へと、神のメッセージの「本質」を抽出し、今日の生活に「受肉」させる原理・原則を明確に示しているところにあります。そこで、そのような前提となる教養を持ちえていないクリスチャンのための「要約版」が期待されてきました。それで、エリクソンは教え子のファスタッドの協力を得て、メイン・テキストである『キリスト教神学』のの70%%をカットして、聖書だけを片手にして「エリクソン神学の輪郭と本質」が学べる『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』を編集しました。この要約版は、メイン・テキストと「同じ本質と構成をもつ本」ですので、初心者がこれを学んだ後、「メイン・テキストへと学びを進める」上での“架け橋”となるものです。。
実は、わたしが神学校で使っている本は、エリクソン著『キリスト教神学』ですか、教えている部分はその中のの30%%、つまり『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』の部分です。神学生には、難解と思われる本の学び方を「幼い子の魚料理の食べ方と同じです。大人なら、頭から骨、しっぽまで丸かじりできる魚もありますが、幼い子はお母さんに“白身”の部分を取り皿にとってもらって食べるでしょう」と教えます。“白身”の部分、それが『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』なのです。。
十年余り前に、いのちのことば社から「翻訳依頼」の電話がかかってきましたとき、わたしはすでに訳していた『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』ことだと勘違いして引き受けました。しばらくしてメイン・テキスト『キリスト教神学““Christian
Theologyy”』の方だと知りました。わたしは、日本の教会とクリスチャンの状況を考えると要約版の『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』を翻訳した方が良いのではないかと再提案しましたが、「大は小を兼ねる」ということでしょうか。翻訳はメイン・テキストとなりました。。
それで、わたしの神学校での講義は、神学生の「現在の状態」に配慮し、“二重帳簿”ならぬ、“二重構造の講義”となりました。つまりテキストは『キリスト教神学』を使いつつ、内容では『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』を教えてきました。しかし、日本の教会に「福音派の福音理解のセンターラインを照らす」教会で信徒も学べる本の翻訳の必要はずっと心の中に「わたしが取り組むべき重荷」としてずっしりとありました。それで、この春、、366年間神学教師として奉仕させていただいた神学校奉仕を終えさせていただいた「特権」、つまり「神さまから与えられた時間」を、まずこの本の翻訳・推敲に集中させようと頑張っているところです。ただ、今週は次週の神学会研究発表の準備があり“一時休戦”です。現在、わたしの“戦場”は、「桶狭間」や「本能寺」にはあらず、机の上にあり『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』にあり、といったところでしょうか。。
エリクソンの本は、深さ、高さ、長さ、広さがあり、難解とおもわれがちですが、わたしの講義を学んだ一年生のある神学生は、講義が終わり祈りをもって閉じられたクラスルームで、ぽつりと「組織神学とはもっと難しいものだと思っていました。しかし、エリクソンの講義を聴いていると、それはまさしく“礼拝”であり、“賛美”なのですねね!」と感想を語ってくれました。それを聞いたとき、わたしは「エリクソン神学というものは、“モーツァルトの音楽”のようなのだ」と確信し、励まされました。「エリクソンのテキストは、モーツァルト音楽の“楽譜”のように読みとるのが難解ですが、その“演奏”を聴くと、楽譜の読める人も読めない人も、もれることなく感動させる力がある」ということを…。わたしは、エリクソンの本を「電話帳のように教えてはいけない、魂の叫びのこもった黒人霊歌を心を震わせながら歌わせるように」教えること、“エリクソン神学の魂”を歌わせることが大切と思います。そのためには、教える側に「楽譜に対する“読みの深さ”が求められる」と思います。楽団の指揮者と同じことです。。
ちなみに、『基督教教理入門““Introducing Christian
Doctrinee”』を使用して、約約200年間教えてきました『組織神学』等の講義は、すべてビデオ収録してきましたので、「「ICIIストリーミングメヒデオ・ワールド」にて漸次掲載していく予定です。わたしが今望み見ている“ひとつの夢”は、翻訳された『基督教教理入門““Introducing
Christian Doctrinee”』を片手に、「「ICIIストリーミングメヒデオ・ワールド」を視聴しつつ学んでおられる「日本中のクリスチャンの姿」です。毎朝、毎夕「神さま、ただ、ただ、この夢を実現させてくださいい!、この幻を実現させてくださいい!、この望みを実現させてくださいい!」と祈っています。。
ヘブルル11:11 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」」
【ICI翻訳-落穂抄−20150412b】「『福音主義イスラエル論−神学的・社会学的視点からの一考察−』の分科会研究発表をさせていただきますので、関心のある方はぜひご出席ください!(参加無料、集会献金あり、詳細はサイト参照)」」
http://www.evangelical-theology.jp/…/150420_jets-w_program.……
日時:2015.04.20:
場所:神戸ルーテル神学校にて、主催:日本福音主義神学会西部部会会
春期研究会議分科会研究発表表
一宮基督教研究所: 安黒務務
『福音主義イスラエル論−神学的・社会学的視点からの一考察−』』
序
1. 神学生の質問問
2. 「世俗国家としてのイスラエル」理解解
3. 福音主義陣営における二つの解答答
4. 神学的・社会学的視点からの考察察
T.
神学軸−聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何何
A)使徒的聖書解釈法とは何かか
@ 共通の聖書観観
A
二つの物語語
B
二つの聖書解釈法法
B)使徒的イスラエル論とは何かか
@
マクロの視点−イスラエル論に関する議論のベクトルル
A
ミクロの視点−ディスペンセーション主義イスラエル論のベクトルル
B
使徒的イスラエル論とは何かか
C)神学軸における評価価
U.
社会学軸:実践における使徒的正統性の反映の如何何
A)考察の焦点としてのキリスト教シオニズムム
@
キリスト教シオニズムとは何かか
A
キリスト教シオニズムの諸形態態
B)使徒的実践への不適合と適合の要素素
@
使徒的実践に適合しない要素とは何かか
A
使徒的実践に適合する要素とは何かか
C)社会学軸における評価価
結語:
福音主義イスラエル論における使徒的正統性回復への呼びかけけ
「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(シカゴ・コールより抜粋))
【ICI翻訳-落穂抄−#20150413】「終末論を語る上で欠くことのできない書」」
今朝、さきほど、岡山英雄先生から丁寧、かつ心温まるメールをいただいた。メールには私的な要素もあるので、そのまま紹介というわけにはいかないが、このサイトの使命とも関わりあることなので掻い摘んで紹介させていただきたい。。
まずラッド著『終末論』の評価である。詳しくは『月刊いのちのことば』(p.14)の「書評」欄の「終末論を語る上で欠くことのできない書」(岡山英雄)という題で、高い評価をもって、簡にして要を得た紹介をしてくださっているので、またキリスト教書店で冊子を手にとって読んでいただきたい。。
ポンイトのみを「先読み」させていただくと、「数多くのラッドの著作の中でも最も総括的な書」という位置づけ、この書は「一九五〇年代の論争の中から生まれました」という歴史的経緯、当時のアメリカの福音派の「古典的ディスペンセーション主義の終末論が支配的」であっという状況、ダラス神学校の校長ワルブートとフラー神学校の新約神学教授ラッドの論争の結果、大きな変化が生まれ、その結果「ラッドの立場に近づいています。真摯で建設的な討論によって、神学校のレベルでは一致点が見いだされつつあります」と、簡潔明瞭に紹介されている。。
岡山先生は、「ラッドの本の出版に感謝します。とても読みやすく正確な翻訳ですね。解説も適切でよく分かります。数十年、孤独な戦いをしてきましたが、今、主が安黒先生という素晴らしい奉仕者をお立て下さったことに感謝しています」と、、366年間奉仕させていただいた神学校教師を引退し、残された人生の十年ないし二十年間を、この戦いの“最前線”に立つためにささげる決意を固めたわたしを、あたかも“幕末の同志”のように扱い励ましてくださった。。
巷の大衆的な伝道者やセミナー講師は、はでにポロロッカ(大逆流)のようなミニストリーを繰り返しておられるのを見かけるが、しかし教会の足元では、福音主義神学会をはじめ、岡山先生の論文『患難期と教会』と著作『小羊の王国』、『ヨハネの黙示録注解』、拙著『福音主義イスラエル論』、ラッド著・安黒訳『終末論』、仲井隆典論文『ディスペンセーション主義終末論の克服』等が用いられて、静かにしかし着実に、米国でみられたような変化が進行しているようである。。
全国的に見て、特に、福音主義神学会に所属し、知的に優れた教師陣がそろっている神学校では、「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の克服は顕著であるようである。。
また詳しく紹介はできないが、「小羊の王国をもとにした講演から、ある団体は公式に患難期後携挙説に立つことを表明された」、また「再臨待望同志会の先生が、小羊の王国を読んで関心を持たれ、9月の教理セミナーで講演」されたり、「ブレザレンの流れをくむある集いの方が小羊の王国を読まれ、役員全員が賛同し、9月の修養会で話される予定で、全国のキリスト教集会への公開講座」とされたとのことである。。
このように見ていくと、表面的には「ディスペンセーション主義聖書解釈に根ざすさまざまな集会がはでに展開されている」かに見えるが、そのような諸集会を憂え、“健全な教え”を慕うクリスチャンは存在しておられる。いつの日にか、“小さな石”が“虚像”を打ち砕きさる日が到来するのではないかと期待し、そのことを夢見つつ、今目の前にある任務についている。。
「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」(使徒徒18:9-111)
「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」(使徒18:9-11))
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504122】「一宮基督教研究所クラスルームとして用いられていくことを願っている」」
昨日の、、ICI-FaceBookk内での、ディスカッションはまるで「神学校の講義の途中に交わされる質疑応答にも似た雰囲気」をもつものであり、一宮基督教研究所クラスルームとして用いられていることを主と、参加してくださっている皆さんに感謝したい。直接の質疑に参加されている方だけでなく、その他に「このパネル・ディスカションのような質疑の輪」を取り囲むように、数多くの方々が耳をそばだてるように聴き入ってくださり、「イイネネ!」を連発してくださっていることにも感謝したい(書き込みには、難解な神学用語もあると思う。それは神学生にもよく話すことであるが、『聖書辞典』や『キリスト教辞典』や、近年ではネットでもかなり情報が得られるので、自助努力をしていただきたい)。。
さて、昨日の質疑で、ブログレッシィブ・ディスペンセーション主義への言及があったので、参考までに以下の情報(ラッド著、安黒訳『終末論』訳者あとがきより)を追記させていただきたい。。
W・A・グルーデムは、ディスペンセーション主義者の理解について、知的に優れたディスペンセーション主義の神学者の間で、「古典的ディスペンセーション主義→修正ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」と大きな変化を遂げていることを説明している((Wayne.A.Grudem,
S y s t e m a t i c T h e o l o g y ,1994, Inter-Varsity Press,
pp.859-863, 1109-11144)。。
また、グルーデム(ハーバード大学を卒業、トリニティ神学校で長年「組織神学」を教えた)は漸進主義ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間に残された相違に関し「ディスペンセーション主義者は、教会が“イスラエルに関する旧約聖書預言”の多くの適用の受領者であるとする。しかし“それらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされる”という点を許容する。」しかし、“教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就である”ことを否定するいかなる強固な理由も存在しないと記している。((Grudem,
Systematic Theology, p.8633
)
漸進主義ディスペンセーション主義がなお内包する課題として、“イスラエルに関する旧約聖書預言”が、“教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就である”のか、“それらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされる”の選択の間に残されていることを指摘していることに留意すべきと思う。プログレッシブの立場の著作も代表的なものを集めて読んだが、わたしにはかなり「読みづらく、分かりにくい内容」の印象であった。その点、グルーデムは、伝統的な福音主義の理解と漸進主義ディスペンセーションの理解の間に、「残されている宿題」を明確にしてくれているので大変助けられた。このような課題を扱うときには、「鹿を追う者、森を見ず」となり“迷子”になりやすいので、“鳥瞰図”的視点から、マクロの認識と本当に問題なのは何なのか、つまり根源的問題の“エッセンス”を把握することが大切だと思う。。
それで、大きな変化を遂げている漸進主義ディスペンセーション主義の、将来の「行くべき方向」について、どのように考えたら良いのであろうか。これが、わたしの次の課題であった。三つのディスペンセーション関係の書籍、ラッド、エリクソン、グルーデム等の中間派的書籍、改革派系統の書籍、オランダ神学関係の書籍、バルト等の書籍等々、数えられないくらいの本に目を通してきた。そのような中で見つけた、本書との関係で考えられる、興味深い、ひとつの可能性を示してくれている書籍を紹介しておきたい。以下のものは、V・S・ポイスレス(ケンブリッジとハーバード等で学んだ、ウエスミンスター神学校新約聖書解釈学教授)の予測である。。
「わたしは、漸進主義ディスペンセーション主義者が、古典的ディスペンセーション主義の主要な教えを乗り越え取り組んでいる研究に、深い共感と評価を表わしたい。わたしは、彼らが、以前よりもさらに誠実に聖書的真理を解明しようとしている動きをみて嬉しく思う。また、わたしは彼らの神学的営為が協調的な気風に溢れていることに敬意を表明する。しかしながら、彼らの立場は生来、不安定なままである。わたしには、彼らが、いわば長く厳しい航海の後に、古典的ディスペンセーション主義と契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説説:訳者注)との間に、安らぐことのできる港を創り出し、そこに辿り着くという、可能性は低いとみている。そのような中間地点に辿り着くのではなく、“彼ら自身の観察に基づく言説が動かしている諸々の力”は、やがてジョージ・E・ラッドが手本として示したものを後追いさせ、ついには契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説説:訳者注)に至らせる可能性が最も高いと判断している」((Vern.S.Poythress,
U n d e r s t a n d i n g D i s p e n s a t i o n a l i s t s ,
1987, Presbyterian and Reformed Publishing, p.1377)。。
わたしは、漸進主義ディスペンセーション主義者の、“彼ら自身の観察に基づく言説が動かしている諸々の力”とは、どういう内容をもつものなのかを熟慮することが大切と考えている。わたしは、ディスペンセーション主義の背景また影響下にある兄弟姉妹たちに呼びかけたい、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」というシカゴ・コールを主からの呼びかけとして受け留めるよう…。。
わたしは、「ジョージ・E・ラッドが手本として示したものを後追いさせ、ついには契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説説:訳者注)に至らせる」ことになるというポイスレスの予測の理由として、聖書神学が基本構造としてもつ「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」があげられるのであり、その構造がもたらす必然的結果であると考えている。後千年王国説、無千年王国説、歴史的(契約主義)前千年王国説は、現在面と未来面の強調点等の些末な相違はあるものの、この「神の国の神学」の基本構造の認識を共有している。。G.E..ラッド『神の国の福音』(聖書図書刊行会、、19655年)は、このテーマに関する良き入門書である。。
なお、日本の状況であるが、、MBBに問い合わせたところ、、RDDとPDDの先生が一人ずつおられるが、方向性としては脱ディスペンセーション主義の傾向が増大しており、近年は本来のルーツとアイデンティティを「アナ・バプテスト」を求める方向に進んでいること、そして「いずれディスペンセーションは日本本MBBから消えてしまうかもしれません」とのことであった。。
日本では、クリスチャン新聞にも紹介されていたように、、K.NN氏ややA.FF氏や、さらににE.SS氏や、これらの教えと実践を含むさまざまな諸集会・諸運動が活発に行われている。多くの人が集まっている。しかし、冷静になって考えてみることが大切である。それは、「真水」なのか「塩水」なのか、「稲」なのか「ひえやアワ」なのか、「金、銀、宝石」なのか「木、草、ワラ」なのか、と。。
ラッド著『終末論』の原書の裏表紙には、こう書いている。「近年、終末の時代に関する聖書の預言は、膨大な数の本の主題となっている。しかしながら、それらの本の多くは、“深く熟考された学識がほとんど見受けられない大衆的な記述”に満ちたものである。」」
わたしは、“深く熟考された学識がほとんど見受けられない大衆的な””
間違った教えの集会が盛んになされていること、そのような集会に数多くの人が群がっていることに危機感を覚えている。。
ディスペンセーション主義の教えの牙城であったダラス神学校、グレイス神学校、タルボット神学校等の指導的教授陣は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに今日では漸進主義ディスペンセーション主義へと大きく変容していっている。ダニエル・フラーはディスペンセーション主義に関して「二〇〇〇年になってついに、ダラス神学校は、一九五五年の段階でジョージ・ラッドがいた地点に辿り着いた」とコメントした(『テーブルにおけるひとつの場所』二〇〇八、J・A・デリア、一七六頁、一八一頁)。ただ、このような変化は知的レベルの高い神学教師や神学生の間にとどまっており、ディスペンセーション主義者の大半は今尚、より初期の教えを信奉し続けている(『ディスペンセーション主義の背景』一九六〇、C・B・バス、再販版の「序文」S・R・スペンサー、三頁)。。
日本でも、これまで「ディスペンセーション系」とみられていた神学校でも、その誤りが克服されつつある最中で、“より初期の”間違った教えに、いわば“逆送”する人たちもおられる。“ポロロッカ(大逆流)”のような運動、集会に全力を傾ける人たちもおられる。嘆かわしいことである。また、そのような間違った教えや実践を唱導する“先生方”の責任は重大なものがあると思わせられる。。
ICI
Face-Book Class-Roomm
において、特にディスペンセーション主義問題等の克服に向けて、@何が議論されているのかの論点が明確にされ、Aその論点の持っている問題点や疑問点が明らかにされ、Bその論点が検証され、Cその論理の矛盾が明らかにされて、米国でそうであったように、“小さなからし種”のような本サイトが用いられ、ささやかながらでも日本の福音派の諸神学校や諸教派、諸教会が内包する諸課題の克服に役立つことを期待している。。
2015年4月12日:新約聖書書 ヘブル人への手紙12:1-13 説教: 安黒務 牧師師
この、ヘブル人への手紙に書かれた状況が、今の世界のクリスチャンたちが置かれた状況に似ているので、毎週、このテキストから学んでいる。。
初期のユダヤ人クリスチャンたちが、いろいろな闘いによって、元の所に戻ろうとする人々が出てきていた。そんな人々に、今の信仰に留まりなさい、押し流されてはいけないと教えている。。
そのために、旧約、新約を通しての信仰者の闘いの歴史が書かれている。私たちの信仰の先輩たちは、信仰のないユダヤ人から迫害を受けてきたのだと。。
私たちの信仰とは、イエス キリストの十字架による罪の許しを受け取る信仰。また、キリストが蘇られたように、積極的で闘う信仰。。
いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、以前の宗教に戻ろうなんてことはやめなさい。と教えている。。
現在のキリスト教会において考えれば、旧約的思考、民族的思考、ディスペンセーション主義的聖書解釈、キリスト教シオニズム。。
賛美や使徒的集会でこれらのことを入れ込んでいく、そんな集会には参加してはいけない。ということである。。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。キリストは苦難の生涯をはずかしめをものともせずに、十字架を背負って歩まれた。そのように、苦難を訓練と思って堪え忍びなさい。とと
また、キリストが「はずかしめをものともせず、十字架を忍び」歩まれた姿を模範としなさい。そうすれば、私たちの出くわす程度の困難で、元気を失ったりすることはないだろう。。
考え方によれば、間違った教えに今迷っている人たちは、神様からの訓練に預かっていると考えることも出来るのではないだろうか?正しい福音を取り戻すために闘っているのだと・・・・
正しい福音理解、終末、イスラエルについて、今はまだ闘いの中にあるが、彼らがそのことに勝利出来れば、後になって、平安の義の実を結ぶことも否定出来ない。。
【【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504100】望みに対抗する望みみ
友人とは、いろんな話をした。今、それらのすべてを思い出すことはできない。ただ、ひとつのことが今心に浮かぶ。それは、ひとつのイメージとして…。。
そのイメージとは、、399巻の書物からなる旧約聖書の「ローマ人への手紙的構造」ということである。聖書というものは、「平板に神の言葉というものではない」ということを『福音主義イスラエル論』(拙論)に記した。神の言葉には約約16000年の歴史とと400数人の記者によって著されたことからくる「漸進性、連続性、多様性」があり、それは壮大なシンフォニーのようであり、人間の体のように“有機体”的なものとなっている。。
わたしは、レストレーション諸運動(諸運動と複数形で呼ぶのは、この運動は十把一絡絡[じっぱひとからげげ]にして取り扱うことは難しいからである)にみられる特徴として、平板で素朴な“聖書観”というものがあるように感じている。。
そのひとつが、レストレーション運動にみられる“富と健康の神学、つまり繁栄の神学”の強調である。聖書は確かに、そのような強調点をもっている。「聖書は、病気、貧困、空腹、抑圧、失業、孤独、悪霊、魔術等のごとき“この世の”必要に応えるものを持っていると信じられている」((Allan
Anderson, “An Introduction to Pentecostalism ” Cambridge
University Press, p2277)。福音主義神学においては、「聖書的・正統的公同的」な福音理解から生活の個別への適用がなされる。それは、ある意味で演繹的的(一般的な前提から個別的な結論を得る方法法)なアプローチである。それに対してペンテコステ主義全般においては、個々の生活の必要から「福音理解」が形成されていく。それは、ある意味で、帰納法的的(個別的な事柄から一般的な規則を見出そうとする方法法)なアプローチである。。
わたしは、上記の二つのアプローチは、相互補完的であるべきだと考える。一方で個々の生活への適用の視野が失われた神学は「死せる正統主義」となりうるし、他方で神学的規範にルーズになれば「異教的内容」をもつキリスト教へと変質してしまう。。
さて、わたしが、読みたいと思いつつ、時間がなくてまだ目を通せていない本がある。リチャード・ボウカムの『望みに対抗する望み““Hope
against Hope: Christian Eschatology in Contemporary Contextt”』という著書である。ボウカムの『ヨハネの黙示録の神学』((pp.173-1744)からも多く事柄を教えられた“二つの望み”を簡潔に対照してみるとこうである。。
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504099】「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」」
昨日は、関学生時代の、聖書研究会ポプラで一緒だった友人が訪ねてきてくれた。「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」である。日本基督教団の牧師をしていて、神学談義に花が咲いた。。
近く開催される集会にも話が及んだ。「著名な講師は招かず、事前のプログラムを作らず、聖会ではなく、イベントではなく、セミナーでもなく、主の御前に謙虚に出ること、心と心の絆を結ぶことを最大の目的としている」集会のようである。しかし、いったいどのような集会なのだろうと、いろいろ調べてみると、下記のサイトで「類似の集会」の解説がされていた。。
http://maranatha.exblog.jp/22181687?_ga=1.155780347.1161486830.14285355355
近年は、主宰者の背景や集会目的、集会内容、講師等までが伏せられたままの集会が増えてきているのかな、と少し心配になってきた。そんな話もした。「預言運動」、「使徒運動」というものがあるようである。。
しかし、わたしたちの「福音理解」は、旧約聖書を背景にして成し遂げられたイエス・キリストの人格とみわざにおいて「永遠に、一度だけ」完成されたものを、新約の使徒と預言者によって解説された新約聖書において、「完結したかたち」で提示されているのではないのだろうか。これがわたしたちの「福音理解」の“基盤”であり、“出発点”ではないのだろうか。。
最近、ヘブル人への手紙を一章ずつ講解説教してきた。ユダヤ人クリスチャンが、以前のユダヤ教に郷愁を覚え、そのような方向に「押し流される」(ヘブルル2:11)懸念に対して著された手紙である。わたしたちは今、日本において「ディスペンセーション主義聖書解釈→キリスト教シオニズム諸運動→レストレーション諸運動」に押し流される教会の「危険な状況」を目の前に見ている。それゆえ、この手紙を今日の「懸念される文脈」の中で解き明かすように導かれた(そのメッセージは、、ICIIホームページの「「ICII日誌」から聴くことができる)。。
その手紙のの9章15-177節に「遺言」に類比されて、「新約の恵み」が語られている。ヘブル書全体の文脈とこの類比から教えられるひとつのことは、イエス・キリストのみわざの「一度きり」の「永遠性」と「絶対性」である。そして、その恵みの解き明かしに選ばれたのが、初代教会の使徒と預言者たちである。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソソ2:200)と書いてある通りである。。
これを、ヘブル書の「遺言」の類比と重ね合わせると、より理解が深まるのではないか。つまり、聖書という書物は、「公正証書遺言」のようなものではないか、ということである。。
公正証書遺言は、「
(1)証人2名以上の立会いがあること、(2)遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授すること、(3)遺言者が口授した内容を公証人が筆記して公正証書を作成し、これを遺言者及び証人に読み聞かせ、又は閲覧させること、(4)遺言者及び証人が公証人の筆記の正確なことを承認した後、
各自署名、 押印すること、(5)公証人が適式な手続に従って公正証書を作成したことを付記して、これに署名、
押印することによって作成される」遺言である。。
「すでに約束されている永遠の財産」(ヘブルル9:155)があり、イエス・キリストの十字架における死を通し、“完結された遺言内容”を使徒と預言者たちが公証人の立場で、“公正証書遺言”のように完成させたものが『新約聖書』ではないのか」ということである。。
「遺言」の偽造、変造の事実が発覚すれば、遺産相続の権利は失われ、偽造、変造の程度によっては、私文書偽造の罪に問われる。聖書の場合も、同様である。「すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」(Uペテロロ2:200)。また「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」(黙示録録22:18-199)とある(これは、黙示録についての言及であるが、聖書全体にも応用しうる原理とメッセージを内包している)。。
ペンテコステ運動の中でも、アッセンブリー教団等が、健全な福音主義神学を大切にし、福音主義神学会内で神学的信用を勝ち得ていったのに反して、レストレーション運動は、その方向性から逸脱し「「200世紀初頭のアズサ通りのリバイバルの熱狂の回復“レストレーション”」に向かっていった運動であるといわれる。わたしは、この「原点回帰の原理・原則」−そのものの中に“吟味・検討すべきもの”が内包されていると感じている。。
経験は大切な要素であるが、「使徒的福音理解」のコントロールから逸脱した極端な「霊的経験」追及主義、またダビデの幕屋運動等にみられる極端な「賛美・祈り・預言」追及等の集会への参加を深めていくと、「使徒的福音理解」の“粉砕”、“変質”、“変形”、“逸脱”を許容し、そのエア・ポケットのような心理状態の中に、アフリカのリバイバルの中に見られる“異教的要素”の受け入れ、米国発の教会成長にみられる“富と健康と繁栄の神学”との差し替え、“ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム的神学”への変質を、知らず知らずのうちに進行させてしまうのではないか、そのように懸念している。。
ハーヴィ・コックス(ハーバード大学教授)は、ペンテコステ運動における諸種の霊的経験とその証しを評価しつつ、「経験への強調というものが、認識論的パッケージ(つまり、福音理解)を粉砕」((Harvey
Cox,, “Fire from Heaven : The Rise of
Pentecostal Spirituality and the Reshaping of Religion in the
Twenty-first Centuryy”London : Casell ,
pp.58, 68-711)する危険があると指摘している。。
「使徒的福音理解」を堅持しつつなされる健全なコンテクスチュアリゼーションは必要だが、「使徒的福音理解」を変質させる不健全なシンクレティズムは危険である。そして、それはやがて「キリスト教用語」や「キリスト教儀式」という器に盛られた“異教信仰”ないし“世俗哲学信仰”、あおりたてられ歪んでしまった“ユダヤ的ナショナリズム”ということになりはしないのだろうか、と懸念している。。
Simon
Colemannは, “The
Globalization of Charismatic Christianity: Spreading the Gospel of
Prosperityy”, Cambridge, p.366において、米国に起源をもつ(ペンテコステ主義にみられる)諸思想には、(世界の諸文化の中にあるものを)文化的に借用ないし取り入れ、盗用し、魅力的なものに再包装し、文化を超えていくかたちで溶け合わせられるという“不断の変形・変質”の受けやすさがあると指摘している。。
「使徒運動」と「預言運動」は、イエス・キリストとキリストに立てられた使徒パウロや預言者ヨハネのような人たちによって、書き記された、いわば「公正証書遺言」の上に立って、新しい私的解釈や新しい追記また削除を行う“危険”が存在している。わたしたちは、この部分をはっきりと見きわめないと危ないと思う。。
ローザンヌ誓約〈第二項 聖書の権威と力〉にあるように、神がイエス・キリストにおいて「啓示((Revelationn)」してくださったものを、使徒と預言者たちが「霊感((Inspirationn)」に支えられ書き記した聖書を通し、内住の御霊による「照明((Illuminationn)によって」わたしたちは導かれるのである。。
ローザンヌ誓約〈第二項 聖書の権威と力〉
われわれは、旧・新両約聖書全体が、神の“霊感”
((Inspirationn)による、真実で、権威ある唯一の書かれた神のことばであり、それが主張するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを表明する。また、神のことばはご自身の救いの御旨を成就する上において、力あるものであることを表明する。聖書の使信は人類全体に向けて語られているものである。キリストと聖書による神の“啓示”
((Revelationn)は変ることがない。それをとおして聖霊は今なお語っておられる。聖霊は、ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を“照明”
((Illuminationn)し、神の多様多彩な知恵を全教会に明らかにするのである。。
IIIテモテテ3・166、IIIペテロロ1・211、ヨハネネ100・355、イザヤヤ555・111、Iコリントト1・211、ローママ1・166、マタイイ5・177、188、ユダダ3、エペソソ1・177、188、3・100、188
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504077】イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネネ13:77)
この言葉は、岬福音教会で牧師をしていたときに、スンベリ師が来られ、くださったことばである。大変助けになった。わたしが今取り組んでいる「警鐘」活動については、賛否両論、いろいろとあるだろうと思う。ただ、この問題がどれほど大きな問題であるのか、今は分からない人たちにも「あとでわかる」ようになると思う。。
「ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤り」への“警鐘”活動は、フラー神学校の新約神学教授授G.E..ラッドの「いのちがけ」の取り組みであったわけである。そして、今、日本では、その誤った教えを基盤として、さらに増幅されたかたちで「キリスト教シオニズム諸運動」が展開中である。また、それらの教えを含むかたちで広く浸透しつつある「レストレーション諸運動」への“警鐘”活動も必要な時代であると受け留めている。。
ただ、わたしは「下手な鉄砲でも数を打ちゃ当たる」という取り組みでは、「良い麦」と「毒麦」を区別なく批判することになるので、それは正しくないと思う。しかし同時に「良い麦」と「毒麦」を識別することなく会衆の田畑に撒き散らしてきたグループや現在もそのような活動をしている人たちと、“無原則な交流”をすることには“警鐘”を鳴らす必要があると考えている。そうでないと、「良い麦」と「毒麦」の識別力がまだ身についていない会衆が、そのような合同集会に参加させられると、“ひとたまりもなく汚染されてしまう”ことになるからである。。
わたしは、この十年間、いや静かに取り組んできた期間をいれると二十年間、ラッドと同様に「ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤り」への“警鐘”活動に取り組んできたが、牧師また神学教師をしておられ方々の間にでも、「この基本的なことが理解できない方がおられる」ことに驚かされる。わたしは、宗教的な事柄には“そういうことが結構ある”ように教えられる。“三つ子の魂、百まで”というが、信仰生活の初期に“毒麦”を蒔かれると、“ひえやあわ”の教えが繁殖して、取り扱うことが本当に難しくなるということを教えられる。。
わたしが言わんとすることはこうである。わたしたちが異教の集会や、異端の集会を危険視して参加しないように、“グレイゾーン”に属するといわれる集会にはできるだけ参加しないようにした方が良いということである。“間違った教え”でも、一度心の田畑に蒔かれた種は必ず芽をふくということであり、“ひえやあわ”のような毒麦の方が、繁殖力が旺盛なのである。蒔かれるのは一回きりであっても、繁殖した後には、年中その除去に多大な“時間と労力”が必要になってしまう。それでも除去されれば良いが、現実には「ひさし貸して母屋取られる」というかたちで、「毒麦の混入を許容する種苗センター」のようになってしまう方もおられる。事柄の内容は本当に深刻なのである。しかし、そのことがなかなか理解してもらえない。理解してもらえないどころか、さらに悪化する方向に舵をきる先生方もおられる。それで、わたしたちはこの問題を深刻に受け留めている方々とともに、「パウロのように心を痛めている」のである(ローママ9:1-22)。。
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201504077】アマゾン川で起こる“大逆流(ポロロッカ)”といった現象が起こっているる
歴史的文脈の中で語られた“神の言葉”であるから、それらは“歴史性”をもっており、ある意味でそれは“過去”に属する神の言葉である。しかし、その神の言葉は歴史を超えた“普遍的なメッセージ”をもっている。それゆえにわたしたちは、今日においても、“神からのメッセージ”を抽出するようにして「聴き取る」ことができるのである。。
ラッドの著作は、聖書そのものではないが、「ディスペンセーション主義聖書解釈法による誤った教会論・終末論」に席巻されていた米国において、ある意味「福音主義神学の生き残り」のために戦い続けた“神の兵士”の壮絶な戦いの記録であり、メッセージである。彼は、その「誤りの克服」のために戦い、そして召されていった。そのような彼の生涯における「最後の著作」、“絶筆”となった著作がこの『終末論((The
Last Thingss)』である。米国では、このようなラッドの貢献もあり、大きな“健全な”変化が起こってきた。その経緯を完結に「訳者あとがき」にしるした((pp.181-1844)。。
「さて、本書が刊行されたのは三六年前であるが、『ディスペンセーション主義聖書解釈法とイスラエル論の問題』は、日本の福音派の中で今尚議論されている重要な課題のひとつである。この課題の解決に向けてラッドは、その奉仕生涯の最後の時期((The
Last Stagee)に渾身の力をふるって本書((The
Last Thingss)をしるし、他の著作とあいまって大きなインパクトを与えた。それらの結果として、ディスペンセーション主義の指導者たちは種々の主要な教理と終末論においてラッドの立場に接近し続け、ディスペンセーション主義の教えの牙城であったダラス神学校、グレイス神学校、タルボット神学校等の指導的教授陣は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに今日では漸進主義ディスペンセーション主義へと大きく変容していっている。ダニエル・フラーはディスペンセーション主義に関して『二〇〇〇年になってついに、ダラス神学校は、一九五五年の段階でジョージ・ラッドがいた地点に辿り着いた」とコメントした(『テーブルにおけるひとつの場所』二〇〇八、J・A・デリア、一七六頁、一八一頁)。ただ、このような変化は知的レベルの高い神学教師や神学生の間にとどまっており、ディスペンセーション主義者の大半は今尚、より初期の教えを信奉し続けている(『ディスペンセーション主義の背景』一九六〇、C・B・バス、再販版の『序文』S・R・スペンサー、三頁)。」((pp.187-1888)
繰り返しになるが、日本においては、“今尚、議論されている重要な課題”である。いや、それ以上に、近年の日本では「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の誤りが、その聖書解釈を基盤とした「キリスト教シオニズム諸運動」を増幅させ、「レストレーション諸運動」等も絡み合い、穏健な諸教派・諸神学校までも巻き込むかたちで、いわばアマゾン川で起こる“大逆流(ポロロッカ)”といった現象が起こっているように感じている。。
その意味で、ラッドの著作集は、“大逆流(ポロロッカ)”を起こそうとしている人たちには「不都合な本」かもしれない。しかし、この大逆流で被害をうける諸教会・諸神学校にとっては、あの東関東大地震で起こった“大津波”を予測し、その被害を受ける前に、「安全な高台」に避難を勧める“過去の津波経験を知らせる貴重な伝承”なのである。。
わたしは、今こそ、日本の諸教会、諸神学校等は、ラッドが“心血を注いで執筆した”著作集から学ぶべき時期であると確信している。わたしは、この著作集の翻訳のため、この著作集から聞こえてくる“警鐘”を知らせるため、この春、生涯をかけて奉仕してきた神学校での教師の奉仕を辞した。神はご存知である。。
※ポロロッカ((Pororocaa)は、潮の干満によって起こるアマゾン川を逆流する潮流。ポロロッカの名称は、トゥピ語で「大騒音」を意味するオノマトペののpororó-kááからきている。満月と新月の時は干満の差が大きく(大潮)、およそそ5メートルほどの高さの波としてアマゾン川の河口に押し寄せてくる。この大波は川の流れを飲み込んで、時速速655キロメートルの速度で逆流し、沿岸よりり8000
【ICII翻訳訳-落穂抄−−20150406cc】米国ではは300年前に取り組まれた「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の誤りが、今日の日本で再び勃興してきている現実が目の前にあるる
それと、わたしがお世話になった出版社に対して、大変失礼な書き込みもあった。。
「こんな昔の本を出版する余力があるのでしたら、、NICNTT、ICOTT、Pillarr等の優れた注解書シリーズを、ぜひ出版してほしいものです」これは、この方の立場もあろうかと思うので、それはそれでひとつのご意見として尊重されてしかるべきではあると思う。。
しかし、これも、一方の立場だけでは、バランスが良くないので、もう一方の立場からの出版の評価を紹介したい。それは、今日の福音主義神学会において、終末論と黙示録の分野で第一人者と目されている岡山英雄先生の評価である。わたしは、翻訳・出版に際し、岡山先生に「翻訳とその内容」についてチェックをお願いした。その評価は「原稿を読ませていただきました。正確な訳文で、特に直すところはありません。…私は30年ぶりに再読しましたが、とても良い本で、“釈義が堅実で今も価値ある本”だと思います。特に今まで日本では類書が出版されていませんので。…出版に導かれ、日本の教会のために大きな益となりますよう祈っています。」との返事をいただいた。。
岡山先生には、世界の福音主義神学会において基準的注解書と評価の高い「ティンダル聖書注解」シリーズの「ローマ書」と「黙示録」の訳書、そして『小羊の王国』と『ヨハネの黙示録注解』という著書、また論文に「患難期と教会」がある。。
岡山先生が著作シリーズで取り組んでおられることと、わたしの取り組んでいることには同じ目標があるように感じている。それは、米国ではは300年前に取り組まれた「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の誤りが、今日の日本で再び勃興してきているという現実である。わたしは、“ラッドの著作集の翻訳”は、今の日本の教会にとって“最も必要なことのひとつ”であると確信している。。
米国では、「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」と大きな変化が起こり、それはやがて「ラッドが『終末論』において手本を示しているものに辿り着く」であろうとも予測されているにも関わらず、この自然な流れに逆らうかのような集会やセミナーが日本各地で開催されているのである。。
わたしは、「水は引力の法則に従って、上から下へ流れていくものである」と思う。しかし、それを“逆流”させようとする人たちがおられるのに、驚かされるのである。((pp.186-1900)。。
追記A::
上記のこのお二人(K.N氏とA.F氏)の本も集めて、クリティカルな視点をもって目を通しました。細部の聖書解釈の議論に入る前に、マクロの視点からどこに問題があるのかを見きわめることが大切と思います。その点を、ラッド著『終末論』は良く取り扱っていると思います。。
あと、「キリスト教シオニズム」問題では、Stephen Sizer, "Christian Zionism" IVPP
http://www.amazon.co.jp/Chris・・・/dp/0830853685/ref=sr_1_3・・・・
が最良の書のひとつと思います。この本の表紙には、J.R.W.ストットの推薦文が記されています。信頼のできる、非常に重要な本です。このような本が自由に読めない“言語における鎖国状態”が、怪しげな運動とその教え・実践をはびこらせる一因と思います。その意味で、このような本の内容を“いち早く”、“タイムリー”に知らせる務めというものを、今日のキリスト教教職者は担っていると思います。。
A.F氏についても、「メシヤニック・ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」と分類され、その教えと実践の特徴が記されています。。
A.F氏の立場では、「ユダヤ人伝道」もしますが、それとともに「二契約論」的特徴をもち、その結果として「神殿における実践」や「ユダヤ教的礼拝の復活」がなされているようです。。
詳細は、S.Sizer
の二冊の本と、その中で紹介されている信頼しうる関連著作を集めて、目を通されると良いでしょう。わたしは、昨年、全国会議の準備をしつつ、それらのかなりの著作に目を通し、『福音主義イスラエル論』を執筆させていただきました。。
この問題に大きな危機感を抱いておりましたので、「先延ばし」ができなかったのです。。
追記B::
岡山英雄先生の『福音主義神学』31号の論文「患難期と教会」p.38、項目(2)に、「黙示録の記述のほとんどは、患難期にかかわるものである。患難の時代における神の民のあり方、警告と励まし、戦いと勝利などが、この書の主題である。(患難期前携挙説をとる者は、黙四・一で教会は天に携挙され、四章以下は地上に残されたイスラエルのためのものであるとするが(ワルブード)、現代の主要な注解者で、このような解釈を支持する者はいない。)」と記述されている。。
わたしは、このような捉え方は、信用できるし説得力があると思う。。「NICNT、ICOT、Pillar等の優れた注解書シリーズ」が、ディスペンセーション主義の主張を保証するような注解を、ローマ書全体にわたってしているのかは、疑問に思っている。NICNTの注解は幾つかもっており、ローマ書はダグラス・ムーによって注解されているのをもっている。洋書はやはり必要な箇所のみ参考にするくらいで、細部まで読む時間はない(「患難期前携挙説が釈義的に成り立ち得ないことに関しては、すでにラッドとワルブードの一九五〇年代の論争があり(G.E.Ladd,
The Blessed Hope. (Eerdmans, 1956))、またその後、R. H. GundryのThe Church
and the Tribulation: A Biblicall
Examination of Posttribulaitonism. (Zondervan, 1973)や、The Rapture:
Pre,-Mid,-or Post-Tribulational?. (Zondervan, 1984))
という優れた論文集も出版されているので詳細は省略するが(特にその中の、D.J.Mooの論文P.169-211を見よ。」とあるように、NICNTのローマ書注解を書いているダグラス・ムー自身も、ディスペンセーション主義聖書解釈に否定的である)。。
このようにみていくとき、わたしが懸念することは、注解者の意図に反し、書かれている文脈を無視し、自分の主張に“共鳴する特定の部分”を“カット・アンド・ペースト”して不正利用し、あたかも権威ある著者がそのことを主張しているかのように見せかけているというようなことはないのかどうか、そのあたりも検証が必要と思っている。。
ラッド著『終末論』第五章「再臨についてのことば」について、「パルーシア」「アポカリュプシス」「エピファネイア」の三つの用語に関する聖書解釈と前後の文脈等の丁寧な検討が行われている。そこでは、ディスペンセーション主義の「二段階の再臨」説は、ギリシャ語の教授でもあったラッドによって論破されている。その他、ディスペセーション主義解釈の「具体的な誤りの数々のポイント」の指摘は、ラッドの他の著作でなされている。。
ディスペンセーション主義聖書解釈法は、“曲がった包丁”のようであり、聖書箇所のどこを切っても曲がって切れる傾向がある。直さなければならないのは、聖書の個々の箇所の解釈以前に、“聖書解釈法”そのものであるというところをおさえることが大切と思う。。
わたしは、「特にイスラエルに関する記述では、民族的意味の強い『イスラエル』と、宗教的意味合いの強い、つまり改宗者も含む『ユダヤ人』あるいは『アブラハムのすえ(子孫)』との違いを著者が理解していない」という主張は、ローマ書の解釈でも、ガラテヤ書の解釈でも、ある神学生の論文で読んだような気がする。。
わたしは、それらの箇所の解釈について、数多くの注解書に目を通したが、わたしはラッドの主張を論破するような注解を見つけることはなかった。細部の解釈においては、さらに検証が必要と思ってはいるが、大局つまり大筋において「現代の主要な注解者」はラッドの堅実な聖書解釈に根ざす主張を良しとしているように受け留めている。。
細部まで、精査しているわけではないが、「再臨のことば」において長らくなされた“水かけ論”のようなものが、ローマ書とガラテヤ書に関連して「ユダヤ人」、「イスラエル人」、「神のイスラエル」等の解釈と、文脈理解に関する議論があるように感じて、そこに深く立ち入ることは「時間の浪費」のように思っている。このテーマでまた有意義な包括的な議論がなされている書籍があればよんでみたいと思う。。
【ICIストリーミング・ビデオ・ワールド掲載情報:20150408】−−その他の集会・セミナーでの講義・講演リストト
whenn
wheree
whoo
whatt
講義・講演資料料
ストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】))
ICIサポーター用用
(無料視聴【期間限定】))
2012/10/01-022
アドバンスト・スクール・オブ・セオロジーー
安黒務務
『福音主義終末論:再考』』講演録A「ディスペンセーショナリズムの終末論」」:いわゆるディスペンセーショナリズムの発生を歴史的に位置づけ、その歴史観と独自に体系化された終末論的見解およびその影響を検討する。。
講義レジュメメ
C
20150408視聴可可
C D E F
2015年4月05日日:新約聖書書
ヘブル人への手紙11:17-400 説教: 安黒務 牧師師
アブラハムの信仰は旧約聖書の中心である。。
アブラハムには女奴隷との間に出来たイシュマエルと正妻サラとの間に出来たイサクの二人の子があった。なかなか子供の出来ない二人にとって、イシュマエルは人間の浅はかな知恵によって生まれた子供であった。。
しかし、アブラハムとサラには神様への信仰が生きていた。年を取りもはや死んだも同然の、身体から子供が生まれる。これは蘇りの信仰である。そして、ようやく生まれた一粒種であるイサクをさらに捧げよという、神様の命令にもアブラハムは従った。。
神様が、イサクを捧げる前に止めて下さるに違いない。そう思ってアブラハムは従ったのではない。。
例え、全焼のいけにえとしてイサクを捧げ、イサクが死んでしまっても、アブラハムの信じる神様は必ずイサクを生き返らせて下さると信じていたからである。。
アブラハムの信仰は復活信仰であった。。
イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。この言葉は、アブラハムの肉的子孫が神の国を相続するという意味ではない。イエス キリストを信じる全ての霊的子孫が神の国を受け継ぐのである。。
神の国を受け継ぐ信仰とは、アフリカなどで見られる様な、使われているのはキリスト教用語ではあるが、中身は他の宗教だったり、アメリカなどで見られる様な、ある聖句を取り上げて、神様を信じるイコール金持ちになる事だ。という様な、まやかしの信仰ではない。。
クリスチャンの信仰とは、私たちの神様は死者を蘇らせる力を持っておられるお方であるというものである。私たちがこの世の旅を終えたらそれで、終わりではない。キリストが蘇られた様に、私たちも新しい身体を与えられて蘇る。。
そして、私たちだけではない。この天地も贖われて、新しくされ、私たちはそこに、神様と共に永遠に生きることが出来るのである。。
私たちの信仰の先輩たちは、その時は見えなくても、遥か先にそれを望み見て、自分たちの信仰を貫き通した人々であった。。
私たちもその信仰の継承者として、目さきのことにとらわれず、真っ直ぐに信仰の道を歩みたいものである。。
【ICI翻訳-落穂抄−20150404】子馬のポニーをもらった子どもも
ラッド著『終末論』には、ラッドが取り組んできた主題「グノーシス主義」の問題が扱われていると「訳者あとがき」(p.187)に書いた。「グノーシス主義」とは、簡単にいえば「物質を悪、精神を善」と考える傾向をもつギリシヤ哲学の一派のことである。。
なぜわたしが、頭をひねり倒しても分かりにくい「グノーシス主義」のことを書くのかというと、これもまた私たちクリスチャンが真剣に考えなければならない事柄のひとつと思うからである。。
わたしたちクリスチャンが「死んだ後、天国に行く」という素朴な考え方を“もう少し深く思索しなければならない”要素がそこにはある。。
ラッドはギリシヤ哲学においては「肉体は魂の墓場」であるという考え方があり、聖書の救いはその影響を受けて「死に際して魂が肉体から解放され、本体的な世界への飛翔するもの」と考えられるようになった、という。(※余談であるが、わたしは、今日見られる“極端な”賛美集会・祈りの集会等々に、キリスト教の歴史の中にさまざまのかたちで出現して消えていった“グノーシス主義”の残滓を感じている。これは“杞憂”に終われば良いのだが…。))
しかし世界と人間についての「聖書の概念」は全く異なっている。旧約聖書思想の根本は、神は創造者であり、世界は神の世界である。それゆえに「世界は本来良いもの」であるという信念である(p.41)。。
ギリシヤ人の思想では、人間は世界から「逃れ」、神のもとに「逃避」する。ヘブル人の思想では、神が人間のもとに下ってくる。さらに、神は「歴史の只中」にご自身を現し、「歴史の中にいる人間」を訪れることによって知られる(pp.59-60)。創造のわざも、出エジプトも、受肉も、再臨も同様である。。
さて、ヨハネは、千年王国の後、来るべき時代が開始されるとき、「新しい天と新しい地」を見る。その新しい地に、「聖なる都、新しいエルサレム」が下ってくる。ここに重要な事実が記されている。それは神の国の「究極的な舞台は地上である」ということである。確かにこれはすっかり「変貌した地」ではあるが、「同じ地の延長線上」にある。。
聖書はいたるところでこのことを教えている。パウロも「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:21)と語っている。。
この新しい創造に呼応するのが「肉体の復活」である。「新しく贖われた地球の描写」はきわめて象徴的である(p.169)。。
わたしは、長らく「季節の変わり目に、渡り鳥が群れをなして南の国へ飛び立っていくさまをみて、人間の死と死後の霊魂のさまを重ね合わせて考えていた」ように振り返る。しかし、ラッドの著作集に目配りするうちに、「死後に霊魂は神のもとに飛翔する」というイメージで終わる捉え方には「欠けているもの」があると教えられた。。
確かに、そこには一面の真理はある。十字架上の強盗の記事で明らかなように「霊魂は死後ただちに神のもとに受け入れられ」(ウエストミンスター信仰告白32章)る。しかし、「それで終わり」ということではない。。
神の真の意図は、「贖われた被造物世界」にある。それは完成された“楽園”としての都で礼拝者として生きる「贖われた民」にある。その“究極的な舞台は、贖われた地上である”という考え方は、私たちの“現在の”、“地上における”生き方を考えさせるものをもっている。。
このことをわたしは、英国の学者C.S.ルイスのひとつの例話から教えられた。それを最後に紹介したい。。
私たちは、聖書から、死後ただちに神のふところに迎え入れられ、再臨を経て、「贖われた被造物世界」で、「贖われた肉体」をもって生かされる。そのことの意味を、C.S.ルイスはその著書『奇跡』の中で、私たちの地上での“生”の意味、また“労働”の意義を解き明かしている。。
C.S.ルイスは、このことの意味を「子供が子馬のポニーをもらって乗りこなそうと努力しているようなものであり、新天新地の厩(うまや)には、鼻息の荒い競走馬がこれを乗りこなす騎手を待ち構えている」と解き明かしている。。
つまり、私たちのこの“地上の生とそのわざ”には、意味がある。古い創造と新しい創造、アダムにある堕落の下にある世界とキリストにある贖われた世界には、区別性とともに、連続性がある、ということである。聖書の真理を子どもにも分かるように説明しうる「知恵の賜物」には驚かされる。。
私たちの地上における“生”は、永遠の視点からみて、大きな意味と意義をもっている。このことを知るとき、わたしたちの地上における「現在の生」は、“厭世的(世の中をいやなもの、人生を価値のないものと思うこと)”な生き方、最初に記した、ある意味“ギリシャ的”な厭世的な死生観(死を通した生の見方)から解放されるのではないか。少なくともわたしはそうであった。。
その意味で、「肉体を伴ったキリストの復活」→「再臨の時に、贖われた・栄光の・復活のからだを着せられる私たち」→「その贖われたからだをもって、贖われた被造物世界(地球?)に生きる私たち」という、「同一性・連続性・非連続性」(p.116)を念頭に、「私たちの地上の生の意味が、新天新地でいかなる意味をもつものとなるのだろうか」と思いをはせるイースター礼拝の朝とさせていただきたいと思う。。
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2012/10/01-022 | アドバンスト・スクール・オブ・セオロジーー | 安黒務務 | 『福音主義終末論:再考』』講演録録@「近代における終末論」」:自由主義神学発生以後、伝統的終末論がどのように変化していくのか。近代の諸見解と代表的人物と立場を紹介し、課題点をあげて考察する。。 | 講義レジュメメ | @ | 20150401視聴可可 @ A B |
2015年3月29日日:新約聖書書 ヘブル人への手紙11:1-166 説教: 安黒務 牧師師
コリント13章が愛の章と呼ばれているのと同様に、ヘブル11章は信仰の章といわれている。 パウロがローマ書で述べた信仰とは、「キリストの十字架による贖罪の恵みを、行いによらずただで、恵みとして受け取る」こと。これが信仰であると説いていた。しかし、ヘブル書ではもっと受け身ではなく、前進していく物、つまり、アグレッシブにこの地上で神様の御心を生きて行くこととしてとらえている。。
一方ヘブル11:1では、信仰とは、「望んでいる事柄や目に見えない物を確信して生きる」ことだと言っている。私たちが信じる神様は全知全能の神様であり、使徒信条にもある様に、この天地を造られた方である。その神様が、生きておられ、私たちの人生に介入され、報いて下さるのである。その現実感は、エジプトから脱出したイスラエルの民と全く同じだということである。。
山上の垂訓にある様に、たたきなさい、求めなさい、そうすれば与えられるのである。神様が願っておられることは何なのか?それは、力強く前進することである。かつてソロモンは神様から、「あなたに何を与えようか?願え!」と言われ、「善悪を判断し、人々を治めるために、知恵を与えて下さい!」と申し上げた。それは神様の御心にかない、彼は素晴らしい知恵を与えられた。私には神様から、今、ささやかなが翻訳の力が与えられていると信じ、エリクソンとラッドの著作集の翻訳に日々取り組んでいる。神学校教師を引退したことにより、はじめて見えてきた風景である。。
この章は何度も"信仰によって"という言葉から始まっている。これは文学的表現の一つ、行頭反復(アナフォラ)という。この信仰によって幻を見たノアは山の上に箱舟を作った。周りの人々には愚かな行為に見えたが、ノアが見た幻の通りになった。アブラハムも信仰によって与えられた幻に真っ正面から反応した。神様からの示しに、赤ちゃんが母親の愛情を食べて育つように素直に従った。今の世の中が全てでは無い。地上の生活は仮住まいであると考え、主の御心に生き、新しい天地であるエルサレム(都)を目指した。そして、妻サラにはイサクが与えられ、多くの血族的子孫に留まらず天の星、海の砂のようにぼうだいな霊的父・母となったのである。。
この様に、信仰とは目に見えない物を望み見る、希望のある生き方をすることである。ノアに洪水の幻を見せ、アブラハムに都を見せられた神は、私たちにも「望み」を与え、「見えていないものを見せられる」神である。私たちは、神が見せたいと願っておられる「望み」を抱くように導かれ、「まだ見ていない事柄」にあずかり、「行き先を知らず」に召しだされる。しかし、わたしたちは「はるかにそれを見て喜び迎え」、「さらにすぐてれたものにあこがれる」、神がそのようにアグッレッシブに生きるように、聖霊においてわたしたちを導かれるからである。今も生きておられ、私たちの、御霊にある前向きな歩みに報いて下さる神様を信じている。。
二千年前、この受難週、イエス様はご自分の架かるべき十字架を仰ぎ見ながら、ドロローサの坂道をのぼっていかれた。私たちも自分の歩むべき道を御霊のさとしを受けつつ自分の十字架を背負って、前に進むべきではないか?(仁美記))
【ICI翻訳-落穂抄−20150329】】
Q:「安黒先生 お時間のある時で結構ですので、古典的な
Dispensationalismが説く <携挙後7年間の 大艱難> の論拠をご教示いただけると助かります。」(K.E))
A:
時間はあまりありませんが、大切なことですので、短くお答えします。。
詳しくは、Clarence B. Bass “Background to
Dispensationalism” pp.41-43にて扱われています。「古典的な Dispensationalism
」で教えられる特徴ある教えとして、以下の項目があげられています。「The Nature and Purpose Of a
Dispensation, The Literal Interpretation of Scripture, The
Dichotomy Between Israel and the Church, A Jewish Concept of
the Kingdom, The Postponed Kingdom, The Distinction Bee....tween
Law and Grace, The Compartmentalization of Scripture, The
Purpose of the Great Tribulation, The Nature of the Millennial
Reign of Christ, The Eternal State, The Apostate Nature of
Christendom」」
ひとつひとつ詳しく説明する時間はありません。ただ、これらの「ディスペンセーション問題克服」のため、JEC牧師会講演で扱ったDVD講演録「ディスペンセーション問題三部作」があります。ディスペンセーション問題三部作
@:「終末論:千年王国と大患難諸説」特別講義、A:「黙示録特別講義:イスラエルと教会」、B:「ディスペンセーション主義聖書解釈」の問題:基調講演と質疑応答、です。。
http://aguro.jp.net/d/file/b/booklist04.htmm
ディスペンセーション聖書解釈法から生成される「教会論」と「終末論」には、数々の誤った教えがあります。それらの「誤り」を分析・評価した良書としては、ジョージ・ラッド著作集があります。今回のわたしの訳書『終末論』はその中の一冊であるとともに、ラッドの「ディスペンセーション聖書解釈問題克服のための総決算的な内容」をもつ、ラッドの、いわば“遺書”のような意味をもつ最後の著作です。彼はこの問題の克服のために人生をささげ、ある意味“いのち”をささげたと思います。。
わたしはこの問題の重要性を真剣に受け留めていますので、神学校の一年生の最初の講義「組織神学:神学方法論・聖書解釈方法論」で、以下のように簡潔明瞭に説明します。神学校の講義で最も大切なことを、三年間の講義の「最初の講義」で教えるべきと考え、実践してきました。。
つまり、こうです。「最初のボタンを掛け違えると、最後のボタンは留められない」。。
旧約聖書の言葉を“誤ったかたちで”絶対視すると「旧約聖書において、終末的救いはいつも、イスラエル民族の民族的、神政政治の運命の視点において描かれている。旧約聖書の中にはキリスト教会についての明確な預言は存在しない。異邦人は、実際にイスラエルの未来においてひとつの場所をもっている。しかし異邦人の位置づけについて、旧約聖書には統一的な概念は存在しない。ときどき、異邦人はイスラエルに仕えるように力をもって無理やり強制され服従させられる。(アモス9:12、ミカ5:9-13;
7:16-17、イザヤ45:14-16,49:23,60:12,14)。他の事例においては、異邦人はイスラエルの信仰に回心し、イスラエルの神に仕えるものとしてみられている。(ゼパニヤ3:9,20、イザヤ2:2-4,
42:6-7, 60:1-14、ゼカリヤ8:2-23,
14:16-19)。イスラエルは神の民のままである。そして未来の救いはまず第一にイスラエルの救いがある」と“歴史的権威”と“規範的権威”が混同され、「民族的・外形的イスラエル」の視点と「本質的・信仰的イスラエル」の視点が、新約の贖罪と聖霊の到来の次元のもとに仕分けされることなく、誤って理解されます。。
そのような誤った視点で、「使徒たちの聖書観・聖書解釈の原則・聖書解釈」に反して、新約聖書を“再解釈”すると「新約聖書解釈は“変質”」し、「キリスト教会は、民族としてのイスラエルを軸とした救済史の“一時的な挿入”扱いとなり、再臨・千年王国・新天新地という神のドラマの本番が始まる入り口としての“患難期”が始まる前に、“露払い”としてのキリスト教会は舞台から退いてもらう必要がある」ということになります(患難前携挙の教えは、教会にとって「祝福された望み」といわれますが、真実は「本命たる民族としてのイスラエル登場の“邪魔者”という位置づけです」)。。
新約聖書が語っていないことを、「新約聖書を脅迫して語らせる聖書解釈」が、“古典的ディスペンセーション主義解釈法”なのです。この基本を認識した上で、個々の聖書解釈の問題を扱うことが大切です。「古典的な
Dispensationalismが説く <携挙後7年間の 大艱難>
の論拠」は、存在しないことをバスやラッドは丁寧な聖書解釈を通して証明しております。。
すべては「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」(Bass,
Background to Dispensationalism,
p.21.)という誤った聖書解釈原則に起因するものです。ことは最初のボタン(聖書解釈法)の掛け違いに発するのに、他のボタン(個々の聖書解釈)だけをみていては、「重箱の隅をつつきあうような議論」となり、この問題の本質を見失うことになります。。
【ICII翻訳訳-落穂抄−−201503288】
昔、神戸の町に「モーツァルト」という喫茶店があった。大学に通じる坂道の途中にある小さな店だった。一度、教会の青年たちとともにお邪魔したことがある。教会ののF姉がそこでお姉さんとともにシャレた店をしておられたからである。名前の通り、その店には「モーツァルト」の曲が流れていた。店には、高価な個性的なカップがたくさんあったことを覚えている。おいしいコーヒーをいれてもらって、「わや、ワヤ、…」と交わった。青春の季節の楽しいひとこまである。。
今、「「ICII翻訳訳-落穂抄」をモーツァルトの曲を聴きながら書いている。彼の曲は、整然としていてわたしの神学的思索や翻訳作業の妨げにはならない。それは、かえってあのヒマラヤの山脈を越えようとする渡り鳥を頂の上に押し上げる“上昇気流”と化するのである。そこで、わたしは“神経のすり減り”から守られることになる。いい意味での“潤滑油”のような感じである。きれいなオイルがあれば、エンジンのピストンは軽やかに上下運動を繰り返す。軽快にである。。
そうそう、今朝の翻訳の箇所に「もし聖書の概念が今日の形式に正確に翻訳されるべきであるのなら、それらが正しく理解されることが重要である。もしそれらが正しく理解されなかったとしたら、曖昧さが紛れ込み、今日化のプロセスの後の時点でさらに増幅された不正確が生じることになる。一般に言われていることだが、もし語り手の心に明らかでないとしたら、聞き手の心に明らかになることはない」とある。。
わたしのイメージでは、歴史書、詩書、預言書からなる旧約聖書、福音書、使徒行伝、手紙、黙示録からなる新約聖書は、「高級なコーヒー豆」のようである。ただ、そのままではおいしく飲めない。それは、コーヒーミルで挽き粉にし、ドリッパーにペーパーをしいていれ、熱湯を注ぐ、最初は少しだけお湯を入れて蒸らす、そしてお湯をゆっくりと注いでいく。すると、下方のコーヒーカップの中に香り豊かなおいしいコーヒーが一滴一滴と落ちていく。これが二千年間の教理史である。キリスト教会の天才的な知性の持ち主たちを用いて主がなされた巧みの業である。それは、いわば芸術作品に仕上がっている。。
先日、ある教会の修養会に招かれた。面白く愉快な、また奇抜な話もしようと思えばできたであろうと思う。そのような話は巷に満ちているから…。しかしわたしは「ウエストミンスター信仰告白白322章
人間の死後の状態について、また死人の復活について」から、分かりやすくお話しするよう導かれた。これは大切な事柄なのだが、聖書にはこのようなかたちで「簡潔明瞭」には書かれていないので、聖書という畑から、「大根やジャガイモやネギやキャベツ等々を引き抜いてきて、コツコツと料理しないといけない」のである。。
そこには、聖書の多様な記述が以下のように、芸術的にまとめられている。わたしはこの記述が大好きで、安黒家の墓標に刻んだ。我が家の信仰告白であるとともに、墓地公園を散歩する方々に、墓標伝道するためである。。
「人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る。」また「終りの日に生存している者は、死を味わわないで変えられる。死人はみな異なった性質をもってではあるが別のものではない全く同じからだをもってよみがえらせられ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される。」」
わたしは、このような「使徒的信仰を割引も水増しもせず」に、「古代教会の正統的公同的な信条の、あらゆるところで・常に・すべてによって信じられてきた」内容、「宗教改革の三大原理としての聖書のみ、信仰義認、聖徒の交わりとしての教会のあり方を継承する宗教改革の子孫」としての意識、「宗教改革の果実の組織化・体系化としての17世紀正統主義神学」との(エリクソン神学のような)連続性等の「福音の語り方」を大切にしていきたいのである。酒に酔ったように、集会の勢いに乗じて、「ペテロ書の難解な箇所から、“非聖書的”セカンド・チャンス論などをぶちあげたら…」、もうおしまいである。だが、見聞きしているとそんな集会が増えてきているように思うのである。。
つまり、「すばらしい建物」と「すばらしい音楽」と「快適な集会」と「キリスト教用語」と「キリスト教の儀式」はそこにあるのだが、いつのまにかその器に盛られた料理は、上記のものとは異なり“異質な”ものとなってきている場合もあるのである。これは第三世界のリバイバルの中によくみられるものである。キリスト教という「器」はあるのだが、その器に盛られているものは「異教的なもの」に変質させられている。この傾向が今グローバルに蔓延しつつある、といったら言いすぎであろうか。注意・警戒したいものである。。
【ICI翻訳-落穂抄−20150326】】
最近は、「預言集会」的な集会や祈り会がはやっているようである。翻訳の仕事で時間がないので、「落穂拾い」のようにであるが、心に留まることを書き綴っておきたい。。
ひとつ心に留めておかねばならないことは、「預言」にもいろいろと「ランク」があることである。「法律」にもいろいろと「ランク」がある。国家であれば、「憲法」があり、その「基本法」の下に「民法」や「刑法」等、多種多様なジャンルの法律が形成されている。「基本法」である「憲法」に違反する下部の法律は「無効」とされる。。
それと同様に、わたしたちが手にしている「旧新約聖書」は、クリスチャンにとって「私たちは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書き記された神のことばであり、それが確証するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを確認する」(ローザンヌ誓約約
第二項項
聖書の権威と力)とあるとおりである。。
わたしたちが、神の霊感の下に書き記された「聖書」から逸脱した解釈に陥ると「糸の切れたタコ」のように風にあおられ、とんでもないところに吹き飛ばされてしまう。しかし、この「聖書的適格性」にかなう聖書解釈というものが保持されることは簡単なようで、必ずしもそんなに簡単なものではない。それは、キリスト教教理史をみると一目瞭然である。。
なぜ、それほど数え切れないほどの「逸脱した教え」が生まれては消え、消えてはまた生まれるのか、そのようなことを心に抱きつつ、エリクソンの著作を翻訳していて、ひとつの示唆を与えられた。。
「教理とは、パウロやルカまたヨハネが何を語ったのかについての表現以上のものである。そしてだから私たちはそれらの証言をある種の一貫した全体にまとめて描かねばならない」とある。「論語読みの、論語知らず」という言葉がある。「聖書読みの、聖書知らず」もあるのではないか。。
聖書の「ある一節」から「直感的に教えられて、新説の預言を語る人がある」、三位一体を否定してワンネスを語ったり、等々である。直感的な預言というのは、「未承認の新しい薬」のようなものである。効き目があるかもしれないが、死ぬほどの副作用があるかもしれない。「臨床試験前の、未承認の新薬」である。。
キリスト教の教理というものは、「二千年間の臨床試験を受けて形成されてきた、正統的公同的教会で承認された薬」のようなものである。。
裁判所においても、「過去の法律解釈と判例の集積」というリトマス紙を通過させた上で「量刑」の判断をする。ひとり裁判官が「直感的にどんでもない判決」を乱発するようでは、裁判所の信頼は地に落ちてしまう。。
先日より、翻訳の合間に、拾い読みしている良書がある。ハーバード大卒でトリニティ神学校で長く「組織神学」を教えたたWayne
Grudem, "The Gift of Prophecy in the Newtestament and Today ""
である。あの著名ななJ.I..パッカーが「慎重かつ徹底的、賢明な著作で、わたしの知性が納得させられた著作である」と推奨している。グルーデムは、エリクソンと並ぶ、大変すぐれた組織神学者であり膨大な著作がある(わたしの執筆した論文『福音主義イスラエル論』でも、彼の引用がある)。その中の一冊である。。
この著作で、一番目に留まったセンテンスは「旧約と新約の預言者の言葉を““Speaking
God's Very Wordss”(まさしく神の言葉そのものを話す)」と記し、コリントの教会や今日の教会における預言を““Speaking
Merely Human Words to Report Something God Brings to Mindd”(神は私たちに何かを思い起こさせ、単に人間の言葉を語るる[主として、心に蓄えられた、折にかなった聖書の御言葉を照らし、その文脈において意味を明らかに示すことにおいてて])と、「権威のレベル」を明確に区別しているところである。。
わたしは、このような権威に関する「意識的な区別」はきわめて重要だと教えられている。「レストレーション運動」等で“異端的な教え”が乱発されてきたのは、この部分での明確な区別がなされてこなかったからではないのか、そしてそのような過去からの課題が克服されないまま、「水面下の氷山」のように内包されたまま、礼拝や祈り会や大きな集会の「洗練された提示方法」だけが先行して、「同じ危険が内包されたまま」、「直感的な臨床試験前の、未承認の新薬のような預言集会」が再提示されてきているのではないか、そのことを深く懸念している。。
2015年3月22日日
単発の書籍購入やDVD購入希望は結構、頻繁にあるのだが、今日は、朝からDVD講義録の作成に追われていた。。
エリクソン著『キリスト教神学』講義録三年分、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』と『福音主義神学総説』の講義録二年分、アッセンブリー教団のアドバンスト・スクール・オブ・セオロジーでの一泊二日の『福音主義神学の基礎・批評学的研究・バルト神学・ポストモダン神学
』講演録の注文が入ったからである。。
年によって差はあるが、年にひとり二人、時には数人の先生や神学生、そして熱心な信徒の方等、いろんな方が「自宅」にいて「神学校」等でなされた「分かりやすい」しかし「深みのある」講義・講演を聴きたい方々からの「継続神学教育」、「生涯キリスト教信仰教育」の大量購入の希望があり、それに応えるかたちで今日まできている。。
ひとりでも、二人でも、そのような方があり、わたしの講義、講演の集積が役に立っていることは感謝なことである。そのような方々を親切、丁寧にフォローしつつ、この学びの広場を構築していきたい。ICIが目指す「福音理解」は、目先の成功や繁栄を求めるののではなく、使徒的聖書解釈であり、使徒的福音理解である。。
「右にも、左にもそれることなく、福音理解のセンターラインを深く掘り下げ、その豊かさに養われて生きる道を疾走していきたい」そう願うのである。「箴箴4:277
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ」とあるとおりである。。
ICII資料は下記のサイトに紹介されているので、希望される方は遠慮なく注文していただきたい。わたしは、そのような希望をされる方々の気持ちに惜しみなく応えていきたいと願っている。。
http://aguro.jp.net/d/file/b/booklist04.htmm
2015年3月22日日:新約聖書書
ヘブル人への手紙10:1-399 説教: 安黒務 牧師師
昨日は、山崎町の生谷温泉において、上郡の教会の壮年会の皆さんとの交わりの場があった。。400分程お話をさせて頂いて、後一時間程質疑応答の時間を持たせていただいた。その後も豊村先生との交わりがあり、帰宅したのはは111時半頃だったと思う。身体は確かに疲れたが、非常に充実した一時であり、励まされた。。
ICIIで366年間奉仕させて頂いてきたが、新しい領域での働きをさせて頂ける喜びと共に、これからはエリクソンのの"キリスト教神学 要約版版"の翻訳に全力投球出来ることを感謝している。また、ラッドの終末論についても、、Facebookkに書き込んで下さる方もあり、励まされている。。
今日のヘブル人への手紙では、人間が潔い神様に近づくためには犠牲が必要であるという事が書かれている。。
旧約聖書では、幕屋があった。神に近づくごとに動物の犠牲が必要であった。罪が赦されるためには、命が捧げられ、血が流される必要があった。それ程に人間の罪は深刻な問題であった。。
聖い神様は、また同時に愛の神様であった。それ故に、神様ご自身であり、神の御子であられるイエス キリストを地上に送られた。。
旧約時代、幕屋には外庭、聖所、至聖所と別れており、分厚い幕が至聖所を隔てていた。罪を犯す度に捧げられてきた生け贄が、キリストのただ一度の十字架上の犠牲により、繰り返す必要が無くなった。。
隔てていた幕が上から下まで真っ二つに裂けたのはそういう意味であった。もう、ユダヤ人は犠牲を捧げる儀式を繰り返さなくても良い。永遠に廃止されたのである。暗闇の中ではローソクの炎は必要である。しかし、太陽が昇ればローソクの働きは終わる。。
キリストの犠牲によって、我々は毎日、罪を犯す度に犠牲を捧げる必要は無くなった。しかし、我々は以前キリストを知る前より、信じた今の方が罪深くなった様な気がしないだろうか??
それとは異なり、ヘブル人への手紙の時代、ユダヤ人たちがイエスの犠牲を侮って、聖霊の働きを悪霊の働きだと言ったりすることが赦されなかった。同様に、今の時代でも、キリスト教の用語を一杯使いながら繁栄の神学を述べたり、異なった内容の福音を、つまり旧約聖書の影の下に新約聖書を理解しようとする教えは赦される物ではない。。
2015年3月21日日:「JEC信仰告白」ICI解説シリーズ−「終末論
Part.U: 個人終末論」 講演: 安黒務 牧師師
公開講演ミニ資料料、公開関連資料−「JEC信仰告白解説」Kindle版版、限定サイト−講演ビデオオ
G.E.ラッド著『終末論』を刊行して、最初の終末論講演であった。いつもお世話になっている上郡福音教会の豊村善典牧師より、「壮年会の教会でのペンキ塗り奉仕の夜、慰労をかねて山崎町生谷温泉で会食と修養のときをもつので、40分の講演をしてほしい」との依頼があった。何を語ろうかと思案していたとき、ラッド著、安黒訳『終末論』を読んでくださり、「内容が非常に良かったので、初心者向けの内容で、終末論について話していただきたい」とのことでであった。。
「終末論」といっても、かなり広範囲になるので、一体何を話せばよいだろうかと思案の日々を過ごしていた。ラッドの本も数回読みこなした。しかし、全部話すには時間が足りない。入門的な部分だけであれば、新聖書辞典の宇田進論稿や新キリスト教辞典の柴田論稿はよくまとまっており、アドバンスト・スクール・オブ・セオロジーで話したことがある。エリクソン著『終末論』は容量が大きすぎる。。
そうこうしているうちに、ふと以前、JECニュースに執筆した「JEC信仰告白」解説シリーズのことを思い出した。JECの信仰告白の文脈の中で、ラッド終末論を紹介すると、「ほう、JECの終末論はこのような内容をもつものだったのか」と、自分たちの群れの「福音理解」として興味をもって聴いてもらえるのではないかと考えたのである。その方向で「JEC信仰告白 終末論解説
Part.U」ということで数ページの資料を作成し、何度も「JECのの終末末論(安黒試案)」を細かく、丁寧におさらいし、分かりやすい説明をと、イラストや図表を作成し、さらに例話や小話を追加していった。。
一通り準備が終わった時点で、これらの話の流れを何度も「シミュレーション」しているうちに、はじめての方が「終末論」のことを「自分」との深い関わりの中で、「自分の切実な問題」としてうけとめてもらえる領域として、「それは、個人終末論ではないか」と示された。。
それで、奉仕に出発する直前に「個人終末論」を詳しく反芻し、時間は限られていたが、「ウエストミンスター信仰告白32章」は今日集まる方にとって貴重な「おみやげになるのではないか」と思い、それを急遽印刷し追加添付することにした。。
そして、“見えない”膨大な量の終末論研究の宝庫を背中にしょいながら、「あとは、出たとこ勝負」と開き直った。「全部話すわけにはいかないので、出席された方々の顔と反応を見ながら、川の水が地形にあわせて流れていくように、会衆の必要の文脈を感知しつつ、流れるままに語ろう」と決めた。。
それが、今回のストリーミング・ビデオ講演である。当初準備したものとは異なるものとなったが、編集時に再び聴きなおしてみたが、なかなか良いできばえの講演となっていると思った。出席された方々も、ペンキ塗りの奉仕の疲れと、温泉にたっぷりつかり、腹いっぱいの夕食後であったので、居眠りされる方もあろうかと、「眠たくなったら、自由に寝てもらって結構です」とアナウンスしていたが、皆さん講演の40分とその後の質疑の一時間あまり、めをパッチリあけて、興味津々、耳を傾け熱心に質疑してくださったので、わたしも大いに励まされることとなった。。
内容は、個人の人生における時間的死、肉体の朽ち果て、霊魂の不死、死の直後の信仰者の霊魂はどうるのか、主の臨在の只中へ、霊魂は裸である中間状態の後、再臨時に第一の復活、復活のからだを着せられ、御霊にある生に対する報酬の授与、地上に降りて千年王国の開始、最後の審判の後の新天新地、地上の生との連続性と連続性の両面における贖われたからだにおける、贖われた被造物世界(贖われた地球)における、主にある管理者としての永遠の生、等々である。わたしの「個人終末論」講義の集大成のような内容となった。このあたりの話になると、36年間語り続けてきた内容なので、「こんこんと腹の底から溢れてくる泉」のように話す内容が溢れてくる。聴く人たちも教えられ、恵まれるが、語るわたしも祝福される。感謝!!
「一宮基督教研究所(KBI)教師は引退したが、このようなかたちでの奉仕のかたちもまた、開かれていくのではないだろうか」と、ヨルダン渡河後の「約束の新しい領域における奉仕」の可能性を垣間見せていただける素晴らしい機会となった。JECでは、賛美や祈りやメッセージの集会は多いけれども、このように「地に足をつけて、JECの福音理解を丁寧に学ぶ集会」というものは、多種多様な「得たいの知れないムーブメント」に翻弄され、「方向舵を失ってダッチロール」を繰り返す今日に必要な集会形態ではないのかと教えられた集会であった。諸教会における集会のあり方のひつの参考にしていただけたら幸いである。。
3/23の今日、「JEC信仰告白:終末論解説 PartU
個人終末論」を再度ビデオを視聴し、内容を再チェックしてみて思うことは、わたしたち「JECの信仰告白」には、「終末論」に関する告白が存在しない。それは、「福音理解」という家に「屋根」がないのど同じである。わたしは、今回、エリクソン神学とラッド神学という「福音派において存在する共通理解」をベースに、「個人終末論」全体について、一貫性のあるまとまった講演をさせていただいた。これが可能とされたのは、エリクソン神学とラッド神学の下で、神学的研鑽を積んできたことのひとつの成果があらわれたものと思う。これが、もし「誤ったディペンセーション主義聖書解釈法」を払拭できないままであったとしたら、今回の講演は非常に「複雑怪奇な内容」の講演となったものと思わせられてぞっとする。やはり、神学教育においては、「健全な聖書観」と「健全な聖書解釈法」を徹底して教え込むのでなければ、教会員にとって真に大切な「個人終末論」の輪郭とエッセンスを、必要に応じて細部にわたって語ることなど「夢のまた、夢」となってしまう。その意味でも、わたしは、ラッドやエリクソンと同様、、「誤ったディペンセーション主義聖書解釈法」の払拭活動、警鐘活動において妥協できないのである。神学校学生が減ろうが、協力教会が減ろうが、中途半端に決着することはできない、玉虫色の決着をはかることはできないのである。それで、わたしは「籠」から自由な身としていただいたのである。わたしは、「籠」から解き放たれた小鳥となって、「ラッド神学、エリクソン神学」を広い空でさえずり続けたい、そう思うのである。散歩にでると、ウグイスの「ホー、ホケキョー」が聞こえる、今日この頃である。。
2015年3月19日日:「読後感想メール」をお寄せください。匿名のかたちで紹介し、より多くの方に読んでいただく「呼び水」にさせていただきたいと思います。。
今日も、嬉しいメールを受け取った。少しまとめて紹介させていただきたい。さしさわりのない一般的なお礼メール紹介であるが、個人宛のメールなので、個人が特定されないよう、イニシャルでの紹介とさせていただく。。
・私はは
200XX年年3月卒です。学院でのの3年間お世話になりました。私はこの教会の世界が、どんどんと、混ぜ物で汚染されているのを、卒業後益々感じるようになりました。先生のホームページを見て、学院時代に、ぼやっとしていた福音主義というものがはっきりとわかって来ました。福音主義を正しく知るということは、正しい御言葉どおりの信仰を持つのに必要なことだと思いました。今回先生が訳された「終末論」は今の日本には無い本のような気がしています。楽しみにしています。。
・頌主主
・ラッドの終末論の翻訳もお疲れさまでした。非常によかったです。本当に良書ですね。続けてラッド先生の著作の翻訳をされると聞きまして、期待しています。。
・
2015年3月15日日:新約聖書書
ヘブル人への手紙9:1-288 説教: 安黒務 牧師師
ヘブル9章は、「初めの契約」(1節)と「新しい秩序」(10節)の関係とその内容を記している。このことは、今日の聖書解釈問題と符号する問題でもある。その聖書解釈法の問題は、わたしが「警鐘」を鳴らし続けている「ディスペンセーション主義聖書解釈法」問題、その解釈法に基盤をおく実践である「キリスト教シオニズム」問題、さらにそれらの教えと実践を深く取りこんでいる「レストレーション運動」問題の克服に適用できるメッセージを含んでいる。。
この9章からのメッセージの幾つかを拾ってみる。5節の「これら(幕屋の構成と儀式)については、今いちいち述べることができません」は、旧約聖書記述の細部にこだわり、新約聖書を再解釈し、新約聖書における「使徒的聖書解釈」を歪める傾向をもつ「ディスペンセーション主義聖書解釈法」への警告として受けとめることができる。「前の幕屋が存続している限り」(8節)、「当時(今の)ための比喩です」(9節)とあるように、新約聖書を書き記すように導かれた「聖霊」は「旧約聖書の解釈法」を提示しておられ、幕屋は「罪びとが聖なる神に近づくためには何が必要か」を示す視覚教材であり、それらは「新しい秩序の立てられるまで」(10節)の一時的な役割をもつものであることを明らかにしておられる。。
わたしたちが焦点を合わすべき中心的な事柄は、旧約の外形的要素ではなく、旧約の本質において明らかにされているものである。その本質はすべて「キリストとそのみわざ」に焦点が当てられている、ということを認識することが大切である。キリストは、「贖罪の日」(レビ16章)、「苦難のしもべ」(イザヤ53章)において示されている予型、また預言の成就である。キリストは「大祭司」(11節)であり、「ご自分の血」によって、「まことの聖所」に入り、「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられた方である。そして、その効果は、「傷のないご自身」、「その血」、「わたしたちの良心をきよめ」、「生ける神に仕えるものとする」(14節)。。
わたしたちは、今の時代にこのメッセージをどう聞き取るのか。わたしは、、このように聞き取っている。わたしが「警鐘」を鳴らし続けている「ディスペンセーション主義聖書解釈法」問題、その解釈法に基盤をおく実践である「キリスト教シオニズム」問題、さらにそれらの教えと実践を深く取りこんでいる「レストレーション運動」問題に巻き込まれないようにしなさい、というメッセージとしてである。。
わたしたちは、「本物の模型」(24節)である「旧約聖書の極端な字義的解釈」によって、模型に振り回されてはいけない。翻弄されてはいけない。わたしたちは、「ただ一度」、「ご自身をいけにえ」として「罪を取り除く」ためにささげられたキリストに焦点を合わせるべきである。わたしたちは、使徒たちが指し示している福音理解のセンターラインに目を留めて、そのラインにそって疾走すべきである。「わき道」にそれて、崖から転落したり、沼地に突っ込む愚かな「聖書解釈における暴走」を慎むべきてある。わたしは、ヘブル書からそのような御声を、今日的文脈の只中で聞き取るのである。わたしたちは、昔も今もある「原野商法」のように口上手な人たちの語りに気をつける者でありたい。(安黒記))
2015年3月12日日
本日、いのちのことば社に追加発注した75冊が届きました。ラッド著、安黒訳『終末論』をご希望の方がありましたら、ご注文ください。即日、もしくは翌日には発送させていただきます。税込定価1944円ですが、購入者への感謝のしるしとして「解説DVDとレジメ資料、ICIストリーミング・ビデオ・ワールド視聴用ID・パスワード二ヶ月分」をおつけしています。送料は無料です。。
2015年3月8日日:新約聖書書
ヘブル人への手紙8:1-133 説教: 安黒務 牧師師
初期のユダヤ人クリスチャン達は再び現れてきたユダヤ教民族主義に翻弄され、長年親しんできたユダヤ教の儀式に戻ろうとした。今の世界、日本においても、ディスペンセーション主義聖書解釈による、旧約聖書中心、民族的イスラエル中心のキリスト教シオニズムの考え方により、、"カナンの地はイスラエルの物だ!!"という考え方が流行の様に語られている。。
この考え方に立つ運動にはレストレーション運動という物があり、一般のキリスト教会ではグレーゾーン、レッドゾーンに分類され、ある教派では異端と見られている。。
このヘブル人への手紙の著者は、ユダヤ人クリスチャン達に対して、危機を感じてこの手紙を送っている。イエス様は今、どこにおられるのか?天上にある幕屋の大祭司として父なる神の右の座についておられる。。
つまり、旧約時代の儀式はその本質が完成されたので、必要ないのである。ユダヤ教徒が行ってきたことは型であり影であった。また、モーセを通して与えられた契約は不十分な物であった。だから、ユダヤ人クリスチャン達に旧約時代に戻らずに、イエス様の契約に留まる様に勧めている。。
イエス キリストの十字架の御業によって、旧約時代の儀式は完成された。本質が完成されたのだから、旧来の物は必要としないのである。今は、全ての儀式を完成してくださったキリストが天の右の座に着いて下さっているので、聖霊が送られ贖罪の御業として、私達の内に内住の御霊となって下さっているのである。。
この御霊は私達に神の御心を教えて下さる。この御霊がおられるので私達は御ことばを通して、神様のことが解るし、聖書を正しく理解することが出来るのである。それにしても、救いの喜びを味わったクリスチャン達が、どうしてこうも簡単に正しい福音から離れてしまうのだろうか??
私が思うに、使徒達の教えという物は真水の福音と言って良いだろう。これに対して、間違いを含んだ教えは海水に例えられる。あの有名な死海は塩分濃度が約約300%だと言われている。ここまで来るとさすがにほとんどの生き物は住めず、ここまで真水とかけ離れると異端に分類される。。(エホバの証人、モルモン教、統一原理理etc.))
しかし、普通の海の塩分濃度は約約3.55%だそうだ。元々は真水の福音を信じていた団体でも、色んな集会やムーブメントに接することによって、少しずつ少しずつ塩分が入って来る。しかも、こういう運動は表面上は全く違和感を抱かないアプローチをして来る。。
そして、遂には真水とは全く違う塩水になってしまうのである。そこまで来ると元の真水には戻れない。飛行機を操縦していて、地図上で一度右に舵をきったと想像してみて頂きたい。その地点付近での誤差は僅かであるが、何千キロ飛んだ後は全く違う到着点となるだろう。。
だから、私は声を大にして警告する。正しい福音を守り続けるべきであると。正しい教理、正しい神学を繰り返し学ぶべきであると・・・・
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201503088号 *:..☆.
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安黒務執筆論文『福音主義イスラエル論―神学的・社会学的的
視点からの一考察―』、本日、アマゾン書店より刊行されました!!
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死海の塩分濃度は、約約300%だそうである。通常の海水の場合はは3.55%である。真水には塩分は含まれていない。異端は、死海の水のようである。魚は生息できない。淡水魚は、真水の中に生きている。しかし、海との境目では、海水と混ざり合う地点がある。少量の塩水なら、どおってことはない。しかし、海にまで流され、海水に飲み込まれてしまうと、淡水魚の命は失われてしまう。。
わたしは、今日の「真水」たる“エバンジェリカル”が、「塩水」たる“ディスペンセーション主義聖書解釈法”、“キリスト教シオニズム”を底流にした“レストレーション運動”等との混合の危険にさらされているように思わせられている。。
それで、今年、ひとつの論文『福音主義イスラエル論』とひとつの翻訳『終末論』を刊行させていただいた。論文の方は発行部数が少なく、わたしのへの割り当てはは400部が限界であった。そしてすぐにすべてが完売してしまった。二月の神学誌編集委員会で、事情を説明したところ、「執筆者に著作権があるのだから、出典を記載し、刊行してください」とのことであった。。
それで、本日、一年ぶりに、、Kindlee出版のマニュアルを開き、二時間でアマゾン書店にアップロードしたところ、夕方には「お客様の本『福音主義イスラエル論』ががKindlee
ストアで販売開始されました。」との連絡が入った。。
“ディスペンセーション主義聖書解釈法”、“キリスト教シオニズム”を底流にした“レストレーション運動”等との混合の危険にさらされている方々の一助にしていただければ感謝である。。
価格はは1ドル、以前はは999円換算であったが、円高の関係でで1200円である。最低価格に設定させていただているので、缶コーヒーを買う感覚で購入していただきたい。。
【Kindlee版購入者への特典】】
※このほんの購入者は、下記の安黒まで、購入を確認できるる「Amazon.co.jpp ご注文の確認」メールを送ってくださいますと、、「ICIIストリーミング・ビデオ・ワールド」が無料視聴【期間限定】できる期限つきき「IDDとPWW」を一ヶ月分贈らせていただきます。すでに、登録されている方は、期間を一ヶ月延長手続きをさせていただきます。。
福音主義イスラエル論論:
− 神学的・社会学的一考察 −−2015/3/77
安黒 務務Kindlee版
内容紹介介
20144年の夏、イスラエルの空にはミサイルが飛び交い、パレスチナの街には爆弾が雨あられのように降り注いでいた。そのような朝、ひとりの神学生からひとつの質問が発せられたた―「イスラエルのために祈れ。そうすれば教会に祝福と繁栄がもたらされる。イスラエルを支援することは教会の責任である。」−「先生、わたしたちはこのような教えをどう理解すれば良いのでしょうか」と。確かに、旧約聖書にはそのような聖句が存在する。しかし「それらの聖句を、今日の世俗国家としてのイスラエルに当てはめて、そのように解釈し実践を促すことは、新約時代に生きるクリスチャンとして適切なことなのだろうか」」―本論文は、そのような素朴な疑問に対するひとりの神学教師のささやかな応答である。。
【目次を見る】】
「福音主義イスラエル論」−神学的・社会学視点からの一考察察―
序
第一部: 神学軸軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何何
A))「使徒的聖書解釈法とは何か」」
A-1))共通の聖書観観
A-2))二つの物語語
A-3))二つの聖書解釈法法
B))「使徒的イスラエル論」とは何かか
B-1))マクロの背景景―「イスラエル論に関する議論」のベクトルル
B-2))ミクロの背景景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトルル
B-3))使徒的イスラエル論とは何かか
C))神学軸における「評価」」
第二部: 社会学軸:実践における「使徒的正統性」の反映の如何何
A))考察の焦点としての「キリスト教シオニズム」」
A-1))「キリスト教シオニズム」とは何かか
A-2))キリスト教シオニズムの諸形態態
B))使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素素
B-1))使徒的実践に「適合しない要素」とは何かか
B-2))使徒的実践に「適合する要素」とは何かか
C))社会学軸における「評価」」
結語:「福音主義イスラエル論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけけ
■
著者プロフィールル
2015年3月1日日:新約聖書書 ヘブル人への手紙7:1-288 説教: 安黒務 牧師師
ここ十年あまり、旧約聖書の光の下に新約聖書を解釈するセミナーや集会が増えてきて、イスラエルを支援しよう、イスラエルのために祈ろう!というムーブメントが広がりつつある。。
聖書の御ことばの表面をとらえた「民族としてのイスラエル」を中心とした考え方はどう考えれば良いのだろう。。
旧約聖書の時代、イスラエルの民はエジプトを出てシナイ半島に入った。そこで、十戒を与えられ、幕屋を建て、儀式を行った。そこでの儀式は部族を選び、祭司の仕事はレビ人が律法に従い行った。。
しかし、新約聖書の時代、ヘブル人への手紙にはどう書かれているのだろう。
メルキゼデクはサレムの王で祭司であった。このことを持ち出して説明している。族長であるアブラハムでさえも、彼のために戦利品の十分の一を分けた。つまり、メルキゼデクはアブラハム以上であることを示している。また、彼ははっきりとした出生の記録もないし、どこに属していたのかも不明であるが、レビ人の祭司よりも上位の者として描かれている。。
これは、どういうことなのか?メルキゼデクの名前を訳すと"義の王"また、サレムの王とはつまり、"平和の王"ということになる。彼、メルキゼデクはイエス キリストの予型なのである。。
旧約聖書時代は律法や儀式が大切であった。人々は自らの罪を許していただくために、毎回、動物の命と引き換えなければならなかった。しかし、イエス キリストがこの地上にこられ、十字架上で全ての人類の罪を精算され、天上に戻られた後はイエス キリストを救い主として受け入れるだけで全ての罪は許され、永遠の命が与えられるのである。。
以前のレビ人の祭司による許しは不完全な物であったが、もう一ランク上のメルキゼデクの支配に変わるこのことを"メタセシス"つまり"廃止"だと言っている。旧約聖書の時代の言葉がいつまでも神の言葉ではなく、「外形的」には廃止されなければならない。。
旧約聖書の「表面的」な言葉にとらわれて、素朴な神学に弱い牧師たちは騙されてしまうが、「土地の約束やエルサレム、神殿」の約束は廃棄されなければならない。メルキゼデクの様にその当時の支配者よりもまた、霊的指導者よりも上位のお方、イエス キリストのたった一度の許しの御業によって、完全に「古い物」の時代は終わったのである。。
だから、今さらながらディスペンセーション主義聖書解釈法にとらわれている先生方、団体を見るとまるで、高速道路を「逆送」している痴呆老人を見ているかの様に思えてしまう。教える力のある若手の教職者が育ち、正しいコースを正しい方向に走る様祈っている。(仁美記))
2015年2月25日日
終末論論
http://www.gospelshop.jp/catalog/images/s96206.jpgg
終末論論
ジョージ・エルドン・ラッド/安黒務務
内容紹介介
キリストの再臨と携挙はいつ起こるのか、中間状態、反キリスト、最後の審判、神の国とは何か、イスラエルは救われるのかなど、今を生きるクリスチャンが知っておきたい終末論の基礎知識をこの一冊に。。
発売日:2015年03月20日日
発行: いのちのことば社社
定価:1944 円(税込))
ISBN:978-4-264-033411
商品番号:010500
まもなく、キリスト教書店の店頭に並びます。アマゾン書店では予約注文できます。ICI「一宮基督教研究所」で購入しますと、この書物を紹介した「日本福音主義神学会西部部会講演−G.E.ラッドの歴史的千年王国前再臨説」の分かりやすい講演DVDと今年度予定の、ラッド著『終末論』特別講義の案内等を差し上げます。遠方の方も、送料サービスにて送らせていただきます。遠慮なく、何冊でもご注文ください。問い合わせ・注文先:安黒務(aguro@mth.biglobe.ne.jp)。郵便振替用紙を同封して送らせていただきますので、書籍到着後一週間以内にお振込ください。。
2015年02月24日日
すでに掲載していますすエリクソン著作集集、宇田進著作・資料集集、ラッド著作集集に加えて、「ICIサポーター第一号のI先生」からの希望に応えるかたちで、「「その他他」のサイトの中に、2012/10/01-02に奉仕させていただきました、アッセンブリー教団関西地区のアドバンスト・スクール・オブ・セオロジーの一泊二日のセミナー『福音主義終末論』ののDVD講義録録「@「近代における終末論」」:自由主義神学発生以後、伝統的終末論がどのように変化していくのか。近代の諸見解と代表的人物と立場を紹介し、課題点をあげて考察する。[90分:1500円]、、A「ディスペンセーショナリズムの終末論」」:いわゆるディスペンセーショナリズムの発生を歴史的に位置づけ、その歴史観と独自に体系化された終末論的見解およびその影響を検討する。[90分:1500円]、、B「21世紀の終末論の諸課題T」」:旧新約の黙示文学と呼ばれるジャンルの聖書解釈の原則を学び、再臨、空中携挙、最後の審判を巡る諸説を比較検討する。[90分:1500円]、、C「21世紀の終末論の諸課題U」」:教会内で特に議論されることの多いテーマである千年期と患難時代にまつわる諸説を並べ、英語文献の新しい知見を交えながら理解を深める。[90分:1500円]、、D信徒セミナーー「世の終わりと教会の霊性」」という概要でした。[90分:1500円]、、講義レジュメメ ←←DVDの内容を確認のため閲覧できます。」ののストリーミング・ビデオ紹介(無料視聴【期間限定】)を掲載させていただきました。大変分かりやすい内容に仕上がっていると思います。四月に順次、サポーターが無料視聴【期間限定】できるように一週間にひとつの集会というペースで掲載させていただきます。ご期待ください。。
2015年02月22日日
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201502222号 *:..☆.
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すでに案内しておりました「「ICIIストリーミング・ビデオ・ワールド」」
Genesissが始まりました。今後、七日間といわず、十年間創造のの
わざが続きます。ぜひ、一度、ご視聴ください。。
共通通IDD:icistvww、パスワードド:201503311提供しております。。
「G.E.Ladddの聖書神学・宇田進の福音主義神学・・M.J..エリクソンの組織織
神学」等の世界、つまり今日注目されている「福音主義神学のセンターー
ラインのひとつの座標軸」を継続的に講義・講演紹介していく安黒務のの
Ichinomiya Christian Institute Serverr【一宮基督教研究所サーバー】】
分かりやすい継続神学教育サイト「世界一」を目指しますす!!
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いつももICIIを覚えていただきありがとうございます。。
さて、、20144年度は、わたしにとって大きな節目となる年でで
ありました。多くの皆様のご協力の下、日本福音主義神学学
会全国研究会議準備委員長として、大きな祝福のうちに全全
国研究会議を終えることができました。また、『福音主義義
神学』』455号に「福音主義イスラエル論」を執筆させていたた
だき、現在起こりつつある事柄を理解する上で必要とされれ
る“座標軸”を提唱させていただくことができました。。
そして、この三月には、その論文の神学的資料源であるる
G.E..ラッド著『終末論』を翻訳・出版できる手はずとなっっ
ております。。
わたしの取り組んでまいりましたひとつのことは、宇田田
進、、M.J..エリクソン、、G.E..ラッド等が取り組んでまいりまま
した「ファンダメンタリズムム(根本主義義)が内包する諸課題題
の克服」でありました。その取り組みにおいて、昨年度はは
荒野の時代からカナン征服の時代へ移行するための“ヨルル
ダン渡河”の年であったように思います。。
わたし個人としましても、約三十数年間奉仕してまいりり
ました一宮基督教研究所での『組織神学』教師の立場を後進のの
先生に譲り、新しい奉仕のステージに入るべき時期に来たた
ことを実感しているところです。。
どんなに長くてもあと二十年というところだと思います。。
この残された時間をわたしが本来成したかった務めのためめ
に用い尽くしたいと願っています。。
その後、その学びを基盤に立てあげてきました神学教育育
の取り組みのほぼすべてをビデオ収録してまいりましたた
ので、これらの膨大な、二十年間にわたる「神学教育ビビ
デオ」のすべてを「「ICIIストリーミング・ビデオ・ワールル
ド」として、ネット上に公開開(有料・無料料)していく予定定
です。。
ーミング版は有料です。ただ、「ICIサポーター」とと
なってくださり、一年に一回回(一口一万円)支援献金してて
くださる方には、「感謝のしるし」として、「一年間、、
無料視聴【期間限定】パスポート」のようなかたちで「「IDDとパスワード」」
を提供させていただきます。。
を視聴していただくサイトです。このサイトのビデオ資料料
の価値を認めてくださる方にとっては、個別に購入されるる
場合に比べて大変「安価」になっていると思います。。
勇猛果敢に取り組んでまいりますので、興味深い「「ICII講義義
ビデオ」をたくさん視聴していっていたたくことができるる
と思います。。
登録者が揃ってきた時点で、「「ICIIを通しての学びをを
分かち合う場、座談会のような自由な雰囲気の中で質疑疑
と応答を重ねていく場」として“フェイス・ブック”のの
グループ機能をも活用していく予定にしております。。
を知っていただくために、「共通通IDDとパスワード」を設定定
しております。サイトは、下記にすでに作成しておりますす
ので、一度お試しください。日々、刻々と更新を続けてて
まいる予定です。更新状況は、「「ICII日誌」をご覧ください。。
新企画画!! ICIIストリーミング・ビデオ・ワールドド
:エリクソン著作集集、宇田進著作・資料集集、ラッド著作集集、その他他(科目目
別・時系列分類類) // ICIIサポーター登録案内内((無料視聴【期間限定】資格貸与与)//
ICIIサポーター対象象FaceBook((座談会スタイルの質疑応答サイトト)
何か、分からないことがありましたら、遠慮なくお問い合わせください。。
2015年02月22日::新約聖書
ヘブル人への手紙6:1-200 説教: 安黒務 牧師師
一節の初歩の教えとは何か?きよめの洗い、手を置く儀式などユダヤ教の諸儀式のことである。ユダヤ教からクリスチャンになった人たちがまた、ユダヤ教に戻っていくという逆方向の歩みが見られた。。
このことは日本人に置き換えれば仏教や神道からクリスチャンになったのに、親戚や地域とのつきあいで仏壇を拝んだり、神社に参拝したり法事で死者の霊のために拝んだりするのと似ている。そんなことをするクリスチャンは滅んでしまい、地獄に行ってしまう。。
クリスチャンにとって基礎的な教えとは、イエス キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたことしかし、三日目に蘇り、天上に昇られ聖霊を送られたことである。このことによって、ユダヤ教の儀式は全て必要なくなった。キリストは神殿の幕屋にあった至聖所の幕を真っ二つに裂かれたお方なのである。。
それなのに、ユダヤ教の儀式が恋しいなどと言う者は、キリストを再び十字架に付けるのと同じ愚かな行為をしている人たちなのである。。
私は神学校の一年生に、いつも真っ直ぐな包丁と曲がった包丁の話をする。真っ直ぐな包丁で食材を切れば真っ直ぐに切れるが、曲がった包丁で食材を切れば真っ直ぐに切ることは出来ない。このことは、聖書を正しく学ぶためには、正しい聖書解釈の仕方を身に付けることが大切であると・・・・
しかし、いくら教えても曲がった包丁を手放そうとしない学生がいる。また、団体がある。聖書解釈法というのは、どれでも良いという物ではない。間違った聖書解釈法で聖書を読むと、神論も人間論も罪論も全てが違って来る。聖書は平和の福音をとく書物であるはずなのに、戦争や争いを引き起こす書物になってしまう。。
ディスペンセーション主義聖書解釈法の恐ろしいところは間違ったイスラエル理解によって、偏ったイスラエルへの援助につながり、武器まで与える口実となることである。そのために、私は論文を書き、翻訳に心血を注いできたが、私のこの警鐘に耳を傾けない人たちがいる。。
イエス キリストは旧約聖書の全ての預言、予型を完成された。神様の約束はイエス キリストにおいて実現するのである。民族のイスラエルが必ずしも霊的イスラエルではない。イエス キリストを主と崇める者こそアブラハムの子孫なのである。。
"わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。。"私は神様を信じた時から、その事を信じ歩んできた。ご自分をさして誓われた神様は今までと同様に、これからも私を祝福して下さると信じている。。
神様は真実な方であるからら
2015年02月15日::新約聖書
ヘブル人への手紙5:1-144 説教: 安黒務 牧師師
AD.600年後半、ユダヤ教に戻ろうとしているクリスチャン達に対して、キリストから目を離すなと訴えている。使徒的なセンターラインから逸れて行こうとしている人たちに対して、必要な神様からの語りかけと言える。。
イエス様は人類の罪のために、十字架に架かられ、死んで葬られ、しかし、よみがえりの力によって復活され天上に昇天された。。
キリストは神の右の座に着かれたと言うことは、神の王権を握られた。また、至聖所に入られたとも言える。。
大祭司は自分を含め、人々の罪を許していただくために、捧げ物を捧げ祈りを捧げた。キリスト御自身は罪は犯されなかったが人間の弱さを知っておられるので、思いやることがお出来になるお方である。。
ユダヤ教的、旧約の影から新約を読み取るブームがおこり、人々が素晴らしいと誉めそやす。しかし、そのことを頭ごなしに批判するのではなく、その人たちを思いやる必要がある。聖書解釈的弱さからの過ちなのだから・・旧約は影であって脱ぎ捨てるべき衣である。。
キリストは父なる神から大祭司となる栄誉を与えられた。祭司の職はレビ人に与えられる物であったが、キリストはレビ人ではない祭司である。ダビデの様な王的なメシアであるだけでなく、レビ人のアロンの様であるだけでもなく、それはまるで王権と祭司の“祭政一致”のメルキゼデクの様であった。。
キリストの三年間の公生涯は、叫び声と涙とをもって祈りと願いを捧げてこられた。ダビデの様な王を期待した人々には失望を与えたが、苦しみを通ることによって、メルキゼデクの様な大祭司となられたのである。。
キリストが真理を語り、ムチ打たれ、いばらの冠をかぶされた様に、私たちも損得や御利益や自分の欲望を叶えるためでなく、神の道は狭き道、嘲りの道である。。
教派や教会の利益のために行動するのではなく、耳が鈍くなり間違った聖書感や聖書解釈をしていると気づいたならば、勇気を出して正すべきである。。
人間の弱さを理解した上での勇気ある行動であれば、多くの人々の良心が呼び起こされ、ついには受け入れられるであろう。。
2015年02月08日::新約聖書
ヘブル人への手紙4:1-166 説教: 安黒務 牧師師
今朝は、ヘブル4章を開きたい。AD60年代後半、ヘブル人クリスチャンたちは変動する時代状況の中で揺さぶられていた。AD70年にローマ軍によってエルサレムが崩壊させられ、全世界に散らされる前夜である。勃興するユダヤ民族ナショナリズムに翻弄される姿が目に見えるようである。一部のユダヤ人クリスチャンたちは、過去の民族宗教の儀式や習慣に郷愁を感じ、それに押し流されようとしていた。ヘブル人への手紙の記者は、そのような状況に深刻な危機感を抱いて、この手紙をしたためた。。
わたしは、これと類似する文脈が今日にもあるとみている。それが今日勃興している「ディスペンセーション主義聖書解釈法」と、それに根ざす「キリスト教シオニズム」の諸集会、セミナー等の洪水である。多くの教会がその流れに押し流されようとしている。わたしは、ヘブル書記者と同じ危機感を抱き、ヘブル書のみことばに重ね合わせ、メッセージしている。。
「神の安息」とは、「キリストにある救い」と同義語である。神の安息を与える「キリストの福音」が説き聞かされているのに、キリストを信じないユダヤ人が多くいた。この姿を、「荒野の旅」から「約束の地カナン」への導きを拒否したイスラエルの民と重ね合わせている。「今日、御声を聞くならば」と、詩篇95篇のみことばが引用される。カデシュ・バルネアでの「約束の地、安息の地、カナン」への入国は、不信仰のゆえに失敗した。モーセの世代の者たちは、マサ(主を試みる)とメリバ(主と論争する)の事件により、「約束の地」への入国を拒否された。。
「不信仰、心をかたくなにする、自分のわざ、不従順」とはいったい何を指すのか。それは、ユダヤ人の多くが、メシヤであるキリストを拒否していることを指す。そして、ヘブル書著者は、「ユダヤ教の外形的な影に郷愁を抱くクリスチャン」に警告を発している。。
「説き聞かされている福音」とはいったい何をさすのか。それは、使徒的福音であり、使徒的聖書解釈である。ヘブル書全体を通して、記者は「叫び声」をあげている。ムンクの、あの名画『叫び』のようである。。
わたしは、この叫びを、今日的状況の只中で耳にする。「キリスト信仰がなくても、選民視する“誤ったイスラル理解、カナン土地の占有、首都エルサレム、そして神殿”」の誤ったメッセージの只中に。。
「神のことば生きていて」、そう福音のみことば、使徒的福音、使徒的聖書解釈は、影と実体を判別し、予型と本体を区別する力がある。わたしたちのある者たちは、過去の宣教師の誤った教えとか、諸集会・セミナー、そしてハル・リンゼイとかティム・ラヘイのように誤った聖書解釈の影響を受けているかもしれない。それは過去の経緯から致し方ないことである。。
しかし、今、神はその誤りから解放されることを願っておられる。わたしたちの大祭司は、そのような「弱さ」、つまり誤った聖書解釈に同情できない方ではない。わたしたちは、誤った聖書解釈を悔い改め、あわれみと赦しを受けて、「正しい聖書解釈、使徒的聖書解釈、使徒的福音」に立ち返るために「折かなった助け」を受けるべきである。わたしは、そのような助けを提供する「恵みの御座」を提供する「ICIストリーミング・ビデオ講義サイト」を、この十年間構築し続けたい。そのように思うのである。(務記))
2015年02月04日日:「我輩は、老魚である。」」
今日は、『Introducing Christian
Doctrine(基督教教理入門)』の教会の役割と政治から、翻訳・推敲作業を進めている。その中に「福音は教会の働きのまさに中心であり、教会のすべての機能に内在するものである。福音に修正が加えられると、教会はバランスを失う」とある。「孤独な戦い」を強いられているわたしにとっては大きな励ましの言葉である。近年、ちまたで流行しつつある「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」は、まさしくこの「福音の修正」にあたる問題である。。
そのような重大な問題であるからこそ、ラッドがライフワークとして「その克服」に取り組んだのであり、エリクソンはラッドを資料源にして『キリスト教神学』の「終末論」を書き記した。そのことは、エリクソンの著書“Basic
Eschatology”において明らかである。そして、ストットがそれらの教えと実践を“アナテマ”と呼ぶ理由である。。
現在、数え切れないくらいの人々が、その流れに押し流されつつあるのがみえている。たった一匹くらい、その「激流に逆らって泳ぐ魚」がいても良いと思うのである。我輩は、老魚である。しかし、激流に逆らって泳ぐ老魚である。。
2015年02月01日::新約聖書
ヘブル人への手紙3:1-199 説教: 安黒務 牧師師
この、ヘブル人への手紙ははAD.600年代後半、エルサレムがローマに滅ぼされる直前に書かれた手紙であろうと言われている。パレスチナの地にはユダヤ王国再建の気運が高まり、ナショナリズムの高揚が見られる。信仰のみではなく、ユダヤ教の儀式に懐かしさを覚えている。。
エルサレム崩壊の予感の中、ムードやナショナリズムに押し流されてはいけない。今、必要なのは神殿や幕屋ではなく、キリストが示された誤り無き道を歩むことである。とと
今の世界はヘブル人への手紙が書かれた時代に似ている。日本でもイスラエルでも、アメリカでもナショナリズムの影響が見られる。キリスト教シオニズムの運動が盛んになって来ているのである。。
一節にある様に、、"聞いたことをますますしっかり心に留めてて"というのは、キリストを信じる事によって天国に入れられるという、弟子たちの教えをしっかり信じていなさい。という意味である。旧約の影である幕屋や神殿、儀式を懐かしく思うのは間違っている。。
モーセとキリストを対比して教えているが、モーセはシナイ山のふもとで幕屋を建てた管理人であり、神の家令、僕なのである。それに対して、キリストは家の持ち主、家の管理者なのである。だから、ユダヤ教のもろもろの事が大事なのではなく、キリストの罪の許しの御業が大切なのである。天国の希望を失ってはいけない。。
エジプトを出て、荒野でで400年さまよったイスラエルの民は神様をないがしろにした。だから、神様はカナンに直ぐに入らせなかったのである。と著者は叱責し、ヘブル人に助言している。。
今の時代も、ほとんどのプロテスタントの教会は聖書の真実に従って教えている。キリストでで1000パーセント必要な物は満たされている。。
しかし、もっと刺激的で華やかな物は無いかという欲望がキリスト者をディスペンセーション主義、また、キリスト教シオニズムへと導く。。
聖書に書かれている。だから、カナンの地はイスラエルのものだ。イスラエルの為に祈ろう!イスラエルに皆で行こう!ペンテコステ カリスマ派の教会がその波に翻弄されている。。
不道徳な行いをするわけではないが、、"イエス様で十分だ。。"という心を失うとその行為がそのムーブメント自体が偶像になってしまう。熱心さを追求するあまり、不信仰となり結局は罪を犯してしまうのである。そうなると、大きな音にかき消されキリストの声は聞こえなくなる。。
全てのキリストによって贖われたクリスチャンが、罪を罪と判らなくなったり、不信仰が不信仰と判らなくならない様、いろいろなムーブメントに惑わされてキリストの声が聞こえなくならない様、私は叫び続けなければならない。(仁美記))
2015年01月25日::新約聖書
ヘブル人への手紙2:1-188 説教: 安黒務 牧師師
AD.600年後半、キリスト教が次第にユダヤ教から別れていっていた。。AD.700年にはエルサレムがローマ人によって滅ぼされ、ユダヤ人は全世界に散らされていった。。
ユダヤ教を卒業し、旧約聖書で語られていた神はイエス キリストのことであり、その神が地上に来られ人々を罪から救うため十字架に付けられ死なれ、三日目に蘇られたことを知ったはずなのに、ユダヤ教の伝統、儀式が懐かしくなり、元の宗教に逆戻りしようとする動きが起こって来る。。
今の私たちの周りに起こっていることも同じ事である。。
間違った教えに対処するために、いろいろな書物を調べていく中で、私たちの団体や聖書学校に最もふさわしい本は何かと考えた時、たどり着いたのがエリクソンのキリスト教神学であり、ラッドの終末論の本であった。。
その内容を事あるごとに紹介してきたが、いっこうに訂正されていく兆しがない。むしろ、さらに加速度的に逸れていこうとしている。。
一つの方向に行こうとする人々にブレーキを掛けるのは並大抵のことではない。。
私が警告を発し始めたころ、誰もが反発を示され、私は非常に孤独な戦いを強いられた。。
一生懸命になっている方々の気持ちも解らない訳ではない。初代の教会も何度も古い教えに押し流されそうになってきた。その戦いの跡がヘブル人への手紙なのである。。
そして、その戦いには多くの苦しみが伴うことが書かれている。死の谷間を歩む様な辛い経験をすると。。
しかし、その先には栄光と誉の冠が待っていること書かれている。。
実際、私の周りには教える力のある人たちが与えられ始め、私の後に共鳴して続こうとする人たちが起こされてきつつある。。
今朝も知り合いの方からメールをいただいた。。"先生のお働きに感謝します。この問題に悩んでいる人たちに素晴らしい解決を与えるでしょう。。"と。私の夢を後押しして下さる先生方、また、出版社の方々に心から感謝する。キリストがご自分の命を捧げた働きには使徒が命を懸けて続いた様に、私もそうありたいと願う。。
アフリカでエボラ出血熱が猛威を振るっていたが、あそこまで広がった背景に病に対する知識の無さと共に、誤った宗教儀式が絡んでいたと言われている。亡くなった人を家に連れて帰り、何日も置いておいた結果、家族親族知人全てが感染してしまった。。
誤った聖書解釈も同じ事である。誤っていると気づいた者が出来るだけ早くそのことを忠告し、正しい位置へと戻すべきである。わかっていながら、もし、私が警告をしなければ、私は神様に対して顔向けが出来ない。自分の使命、生かされている目的はそこにあると思っている。。(仁美記))
2015年01月22日::
2015年01月18日::新約聖書 ヘブル人への手紙1:1-144 説教: 安黒務 牧師師
新年に入ってから、今年歩むべき方向性を模索している。。
昨年末の福音主義神学誌のイスラエル論、また、今年3月のラッドの終末論の翻訳本の出版。神様の御心に沿った働きには、周りが自然と動いてくれることを教えられた。。
今年ははICIIの授業も約半分となり、空いた時間を他のことにまわせると感謝している。。
マッカーサーはは"老兵は死なず、ただ、去り行くのみみ"と言ったというがこれからの若い人たちに、自分が担ったところを譲っていきたい。。
そして、自分は今までやってきた領域をもう少し突っ込んで講義、講演していきたい。。
キリストがこの地を去っていかれた時、、"私が去って行くことは益です。そうでなければ助け主は来られないからです。。"と言われた。事実、キリストが天上に帰られた後は聖霊が地上に来られて、私たちと共にいて導いて下さっている。キリストの働きがイスラエルから全世界に広がったのである。。
私ののICIIに限定された働きが本を通して、インターネットを通してキリスト教会全域また、何時でも、何処でも誰でも学べる様に、なるのである。ステージを広げられた働き、次の働きにステップアップしていきたいと願っている。。
今日の箇所、ヘブル人への手紙は今のキリスト教会の状況に似ている。。AD.600年後半、信仰がマンネリ化し、古い宗教に戻ろうとする動きについて、パウロは警鐘を鳴らしている。あれこれ気を取られるヘブル人に対して、、"キリストから目を離さないでいなさい。。"と進言している。。
ダビデの幕屋やレストレーション、エンパワードの背後に垣間見られる「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の諸々の運動が内包する諸問題に対し多くの懸念をもって見つめている。。
1節からら3節にある様に、キリストは預言者より優れた方である。モーセ、エリヤ、ダビデ、イザヤを通して語られた神である。。20000年前に全ての罪を背負って十字架に掛かり罪を贖って下さったお方はキリスト、神の御子なのである。。
8節からら122節では、キリストは真理を真っ直ぐ教えられる。だから、キリストから目を離してはいけないのである。天地万物を作られたのも全ての土台を据えられたのもキリスト。。
どんな運動、流行にも惑わされることなく、神の恵みに留まり続ける、最も大切なことをこんにちに向けて教えてくれるのがヘブル人への手紙なのである。(仁美記))
※ヘブル人への手紙は、AD60年代後半に執筆された手紙である。あるキリスト者は信仰の年月は経ていたが、信仰はあまり成長していなかった。ユダヤ人からの迫害もあり、最初は耐えていたが、信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいた。ある者には、ユダヤ教の祭儀が魅力あるものに映ったりした。このような状況でヘブル人への手紙は書かれた。ユダヤ教と比較して、キリスト教の方がはるかに優れたものであることは、「さらに優れた」という言葉が溢れていることから教えられる。各所で「キリスト論」「贖罪論」が取り上げられ、旧約の「影」に支配されるのではなく、「実体」であるイエス・キリスト、信仰の「創始者」であり「完成者」であるキリストから目を離さないよう励ましている。。
このようなヘブル人への手紙の記者が置かれた文脈は、ここ二十年間、取り組んできた「ディスペンセーション聖書解釈」と近年その動きが急に強まってきたかに見える「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響に無防備な諸教会の状況に重なってみえる。その意味で、そのような状況に置かれている私たちは「ユダヤ教回帰」に流される群れへの警鐘としてのヘブル人への手紙は、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」に流される群れへの警鐘として静かに傾聴することには意味があるのではないかと思わせられている。しばらく、ヘブル人への手紙を開いていきたい。。
2015年01月12日:「一年の計は元旦にあり」と、大晦日はいつも通り早く寝て、元旦もいつも通り朝五時すぎに起きて、元旦の朝から今年の目標である“Introducing
Christian Doctrine”M.J.Erckson
の翻訳に取り組んでいる。ただ、すでにメイン・テスキト訳があるので、その要約・抜粋・編集版である「要約版」は、同様の取り組みとなっている。現在の『キリスト教神学』は、元々第一版〔1983版〕の翻訳がかなり進んでいた段階で出版の話があり、進めようとしたときに、「第二版」〔1998版〕の刊行があり、それにあわせて翻訳し刊行されたものである。今回は、第三版〔2013版〕の英語版刊行があり、今年、その第三版の要約版の刊行が予定されている。(15年ごとに改訂されている『組織神学』書である。)出版を早めるために、まず第二版の要約版の翻訳を完成させておいて、第三版刊行とともに第三版要約版との翻訳調整を試みるつもりである。大変な任務であり、その労力と時間を確保すること、モチベーションを高く保持することが必要と感じている。このような日誌を書くのも、モチベーション維持のためであり、自分自身をこの任務に追い込み、逃げ道をふさぐためである。また、ICI日誌やフェイス・ブックに公開するのは、とりなしのネットワークを意識しているからである。翻訳は、たったひとりの孤独な作業である。しかし、わたしはいつもとりなしのネットワークで囲まれていることを意識している。天においても、地においても…。
その助けのひとつとして、「ルカ1:1‐4を見ると,ルカが復活後に形成された諸種の教会伝承を丹念に調べ上げていることがわかる.そこには諸資料の収集と選別,諸伝承の価値判断,そして自ら最終的な決定を下すなどの主体的活動が読み取れる.と同時に,彼はその過程において「聖霊に動かされた」(Uペテ1:21)のである.パウロもコリントの人々に「私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい」(Tコリ14:37,参照2:13)と書いている.パウロによる主体的な執筆活動も明らかである.ローマ人への手紙1つをとっても,「いなずま」のように天空から現れたものではなく,「パウロに与えられた長い神との生きた交わりの経験」(J・ベイリ)の中から,また「生まれたときから私を選び分け,恵みをもって召してくださった方」(ガラ1:15)と記されているように,」(実用聖書註解、いのちのことば社も『啓示と聖書』宇田進論稿)がある。
なによりも必要な助けは、聖書著者を霊感により、準備期間を含め、その執筆活動のすべてのプロセスを導かれた聖霊の働きであり、執筆者の聖霊とともなる「神律的協働活動」(ファン・ルーラー)である。わたしも、日々、聖霊の導きと助けを仰ぎつつ、この任務のデッドラインである年末までの達成に尽力させていただている。ただ、昨日も今日も、自治会活動があり、時間の確保に悩む毎日である。ただ、今朝は早朝に時間をとれた。感謝!
2015年01月11日:新約聖書
使徒2:14-21 説教: 安黒務 牧師
先週1月9日は私の61才の誕生日であった。フェイスブックをしていると、沢山の方々からお祝いのメッセージをいただいた。一人一人にお礼を言うのは大変なので、お礼の代わりに今日の聖書の箇所を書かせていただいた。
桶狭間の戦いを前にして、織田信長が舞いながら歌った歌が大好きで "人間50年・・・"この歌を思うとその当時の平均寿命が50才であるならば、今はその倍程生きるので、自分の年を半分にして考えることにしている。
しかし、私の父また家内の父が亡くなり、去年の暮れには二人目の孫が生まれ、世代交代の時期に入ったことを感じている。
私が奉仕の人生を始めたのはスンベリ先生の下であった。助手として時には厳しく時には優しくいろんなことを教えて下さった。
その私が神学教師となって30数年が経ち、元気で奉仕出来るのは後10年くらいかと思われる今、次に続く人材を育て、受け渡していく必要がある。
ICIとJECのルーツとアイデンティティを理解し、福音派のど真ん中を歩む人材であって欲しい。そのために膨大な数の授業のビデオから、抜粋し一本のビデオを作り、ストリーミング形式で提供したいと考えている。
私は今年、夢見る老人宣言をした。すると、フェイスブックの仲間から、夢と幻はどう違うのですか?と質問を受けた。英語の辞書で調べると、ドリームとビジョンは同義語であり、文学における並行法というものである。つまり、一つのことを強調するために、しばしば用いられるものである。
私の取り組んでいる翻訳とすいこうは山登りによくにている。ただ、一歩一歩前に進むだけである。
途方もない夢を追いかけ、幻をみながら、前に向かって進んで行く一年でありたいと願っている。
2015年01月09日:
皆様、誕生祝いの言葉ありがとうございます!
高校の同窓会誌に、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」(人間世界の50年間は、天界の時間に比すれば一瞬のまぼろしに過ぎない、ということ。幸若舞「敦盛」の一節)と書かせていただきました。
昔、人間の一生が五十年だと、今は九十年、百年なので、自分の年齢を半分に割って、60歳のとき、「ようやく、30歳になったわい!」とうそぶいたものでしたが、父親が召され、娘に孫が生まれてくると「世代交代」の波を感ぜずにはいられません。
神学校卒業時から三十数年、一宮基督教研究所で種々の科目を教えさせていただいてきました。ずっと「永遠の神学生」のように学びつつ、教えさせていただきました。しかし、いよいよ、この飛行機も目的地に近づいてきたようで、「着陸態勢」に入る準備の十年に入りました。...
とりあえず、現在「全学年」を対象として教えていますところを、「一年生」の『組織神学』の講義を後継の先生にゆだねる方向となりました(二年・三年生はまだしばらく教えさせていただくことになっています)。
イエスさまが、「わたしが去っていくことはあなたがたにとって益なのです。わたしが去っていかなければ、助けぬしはこないからです」(ヨハネ16:7)といわれた通りです。わたしが現役でいる間に、後継の『組織神学』の教師の準備をしていただけることは感謝なことです。
今年は、この二月・三月頃に、ラッド著、安黒訳『終末論(仮題)』の出版直前の校正作業を依頼されており、また今年度末までに、エリクソン著、ファスタッド編集の『キリスト教神学』の要約版“Introducing
Christian
Doctrine”の翻訳・校正・出版に24時間365日集中する予定です。 これに合わせて、一宮基督教研究所での教師の「世代交代」の波が来たことは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道3:11)
わたしとしましては、JECを主力とするICIは、スウェーデン・バプテストにルーツとアイデンティティをもつわけですから、後継の先生にも、エリクソン著『キリスト教神学』と今後刊行される予定の要約版“Introducing
Christian
Doctrine”の邦訳を活用し、末永く、「福音派のセンターラインを示す」このテキストでもって、それにふさわしい「福音理解」を保持し続けていただきたいと願っています。
わたし自身は、まだ元気ですので、ICI(一宮基督教研究所)を通して、なすべき務め、これまで忙しくてなすことができなかった務めが「山積み」されていますので、残された時間と対話しながら、「なすべき任務、また使命」を絞り切って、集中して、それらの課題に取り組んでいきたいと思っています。
二十年ほど前、共立基督教研究所にいました時、ソロモンのように祈りました。「No Position ! , No
Salary で良いですから、わたしの人生に“時間”をください!
神学の継続的研鑽をする時間とそれを分かち合う空間をください」と祈りました。
神様はその祈りに答えてくださり、その後の人生を、心置きなく、そのように生きることをゆるされてきました。そして、今またさらに時間を増し加えようとしてくださっていることを感謝しています。
この増し加えられた時間を、ICIサーバーを活用し、インターネットという「空間」を極限まで活用して、これまでと今後の「神学の研鑽」を分かち合う「ICI
ストリーミング・ビデオ・ワールド」を構築していきたいと願っています。
そして、その世界の中で、わたしの、神様から与えられた畑である「ラッド著作集」「宇田進著作集・資料集」「エリクソン著作集」「牧田吉和著作集・資料集」等を耕し、そこから得られる神学的実りの収穫を分かち合っていきたいと願っています。
I have a Dream
! 、青年は幻を見、老人は夢を見る(使徒2:17)にある通りです。「夢みる老人」宣言ですかね…。家内に「あなたは夢ばかり追いかけて人生終えることなるね」とひやかされています。お祈りください。
2015年01月04日:旧約聖書
エズラ記 1:1-11 説教: 安黒務 牧師
"一年の計は元旦にあり"と言われている様に、この一年の方向性を考えてみた。
この一月、福音主義神学誌が発刊され、私の論文及び巻頭言が掲載された。
三月には、昨年まで取り組んだラッドの終末論の翻訳本が、いのちのことば社より出版される。
今年はさらに、キリスト教神学の要約版をなんとか翻訳し、献身者の教科書としての四巻とは別に、信徒の学びの為に用いて頂きたいと願っている。
今日の箇所はイスラエルの南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、捕囚として連れていかれたが、七十年後に帰還する事が出来るというエレミヤの預言等が成就するという箇所である。
エジプトからの脱出が「出エジプト」であれば、この箇所は「出バビロン」と言えるだろう。
日本が先の大戦に敗れ、その結果としてアメリカに占領されたが、もし、ソ連邦による占領であったなら、スターリンが沿海州の民にしたように、民族性を根こそぎするために日本人はソ連の各地にバラバラに移住させられていたかもしれない。
それと同じように、バビロン帝国はイスラエル人を移住させたが、ペルシャ王国はイスラエル人を元に戻し、そこで繁栄させる政策を取った。「主は他国の王の霊を奮い立たせご自分の民が自国に帰還出来るようにもされる方」なのである。
エズラ記、ネヘミヤ記には、主によって霊を奮い立たせられ神殿の再建、城壁の再建に取り組む姿が描写されている。そして、次々と妨害も襲い掛かってくるのを見せられる。今の世界はナショナリズムが強くなって来ている。超教派的なエリクソンを翻訳しようとすると、反対する人たちが起こって来る。「会衆派ピューリタン、そしてその系譜に続くスウェーデン・バプテスト諸教会をルーツとする私たちの群は、1900年の間エリクソンが唱える福音主義のまさに中心を歩んで来た群なのだ」と言うと、「それは先生だけの考え方なんじゃあないですか?」と言われる事がある。ここ五十年間の歩みだけで物事を理解しようとする人たちである。
あまりにもそういうことが続くと、心が萎えてしまう時がある。しかし、そんな時、「主が霊を奮い立たせて下さる」と、自分の召命を再確認し、モチベーションを保つことが出来る。
ある生徒が"神学は礼拝の様な物ですね"と言われたことがある。神学は礼拝の様に神の臨在に触れていく学びなのである。神学をすることによって、福音のセンターラインを示すことが出来る。誤った教えや実践に翻弄されたり、グレイゾーン・レッドゾーンの危険地帯に足を踏み入れることから守られる。
ペルシャ王国のクロスはイスラエル人を自国に返すだけでなく、援助する様に勧める。ネブカデネザルがエルサレムから持って来た財宝で、神殿は博物館の様になっていた。祈りと支援のネットワーク、環境をもお膳立てされた。
私はこれからもICIまたJECのルーツとアイデンティティを明確にしたいと願っている。先輩の先生方、特にスンベリ師、我喜屋光雄師、高橋昭市師は、JECまたICIの礎を据えられた。それらは、1900年間継承してきた福音派のど真ん中に流れる川のようである。その流れに、20世紀に入り、「十字架と聖霊」の穏健なケズッィク的強調と穏健なカリスマ的強調が流れ込んだ。しかし、その主要な福音理解は微動だにしてこなかった。かえって強化されてきた。わたしたち、JECまたICIの霊的・神学的遺産を継承するもは、それらを正確に理解し、怪しげな教えに翻弄されることなく、その本質と輪郭を継承し、深化し、発展させていかなければならないと思うのである。
その為にも、フェイスブックなどを用いて、自分の夢を分かち合い、周りの人々の祈りと支援をいただきたいと願っている。JECとICIの霊的・神学的遺産の継承・深化・発展は共同作業である。私は一人ではないのだ、私を支援して下さる方々とチィームでやっていると考える。
私たちは今年、それぞれの場所で課題に取り組み、神様の油注ぎをいただいて、神の栄光を現す者となりたいと思う。
2015年01月01日:2014年12月27日に『福音主義神学』(日本福音主義神学会)45号「福音主義神学、その行くべき方向
@」が刊行されました。その中に「福音主義イスラエル論−神学的・社会学的視点からの一考察−」(安黒論文)を執筆しています。税込1620円(送料サービス)
です。希望者はメール(aguro@mth.biglobe.ne.jp)に問い合わせ・注文ください。
「福音主義イスラエル論−神学的・社会学的視点からの一考察−」
・序:
2014年の夏、イスラエルの空にはミサイルが飛び交い、パレスチナの街には爆弾が雨あられのように降り注いでいた。そのような朝、ひとりの神学生からひとつの質問が発せられた―「イスラエルのために祈れ。そうすれば教会に祝福と繁栄がもたらされる。イスラエルを支援することは教会の責任である。」−「先生、わたしたちはこのような教えをどう理解すれば良いのでしょうか」と。確かに、旧約聖書にはそのような聖句が存在する。しかし「それらの聖句を、今日の世俗国家としてのイスラエルに当てはめて、そのように解釈し実践を促すことは、新約時代に生きるクリスチャンとして適切なことなのだろうか」―本論文は、そのような素朴な疑問に対するひとりの神学教師のささやかな応答である。
・第一部:神学軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何
A)「使徒的聖書解釈法」とは何か
a-1)共通の聖書観
a-2)二つの物語
a-3)二つの聖書解釈法
B)「使徒的イスラエル論」とは何か
b-1)マクロの背景―「イスラエル論に関する議論」のベクトル
b-2)ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル
b-3)使徒的イスラエル論とは何か
C)神学軸における「評価」
・第二部:社会学軸―実践における「使徒的正統性」の反映の如何
A)考察の焦点としての「キリスト教シオニズム」
a-1)「キリスト教シオニズム」とは何か
a-2)キリスト教シオニズムの諸形態
B)使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素
b-1)使徒的実践への「適合しない要素」とき何か
b-2)使徒的実践に「適合する要素」とは何か
C)社会学軸における「評価」
・結語:「福音主義イスラエ論」における「使徒的正統性回復」の呼びかけ:
以上の神学的かつ社会学的診断に基づき、筆者は「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響下にある兄弟姉妹[1]
に呼びかけたい。筆者は彼らが福音主義の教理の大半をわたしたちと共有している主にある熱心な兄弟姉妹であることを認める。その上で「福音主義イスラエル論」という領域において「Dゾーン」にある要素の有無について精査をお願いしたい。もしそのような要素を見出されたとしたら、この「神学的・社会学的観点から考察」をひとつの手立てとし、「使徒的正統性の回復」に精力的に取り組んでいただきたい。 以上が、「論文冒頭に記した神学生の質問」に対する筆者の現段階における答えである。同様の素朴な疑問を抱いておられる兄弟姉妹に参考にしていただけたら幸いである。「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない。」[2](シカゴ・コール)
[1]
福音主義の立場といっても、それは教会の歴史において幾重もの発展や発達過程を経て生成を見るに至った生きた実体であり、その中には聖書的・神学的要素、歴史的要素、社会的・文化的要素からなる多様性が存在する。「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの影響下にある兄弟姉妹」を十把一絡げで扱うことには多くの問題があるし、不公平な評価のように思われる。ただ、筆者の執筆の動機は「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの不適合な要素克服への取り組み」の必要性である。この拙い論文をひとつの手掛かりにして、ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの影響下にある兄弟姉妹の中から、それが内包する課題を克服するための手立て―神学的パースペクティブ、歴史的判断力、宗教社会学的分析能力―を駆使し、この課題克服に取り組んでくださる方の起こされることを願っている。
[2] 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』(いのちのことば社、1993年)244, 250頁