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ICI Daily & Diary Lectures

2015年度 ICI日誌

2023/11/06

「ICIストリーミング・ビデオ・ワールド」Genesisが始まりました。今後、七日間といわず、十年間創造のわざが続きます。ぜひ、一度、ご視聴ください。分かりやすい継続神学教育サイトを目指します ! また、ICIサポーター登録案内をしています。ご一読ください。

ICIサーバー内のいくつかの資料(ビデオ・オーディオ・文書ファイル)を、「ICIサポーター」登録者のみが閲覧できる「限定サイト」に移させていただきました。それらの資料の閲覧を希望される方は、「ICIサポーター」登録をしてください。サポーター登録への感謝のしるしとして、「期間限定のIDとパスワード」を贈らせていただきます。よろしくお願い致します。


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★2014年度のICI日誌は転記させていただきました。(6/1より、より多くの機器で視聴できるよう、音声ファイル形式を“wma”から“mp3”に変更しています。wmaでの視聴は礼拝メッセージ」にて。

 ■ 下記の紹介ビデオは、無料視聴【期間限定】できます。

http://aguro.jp.net/d/stream/kbi/090925b_k01_the_Kingdom_of_Lamb/090925b_k01_the_Kingdom_of_Lamb_intro.wmv

 ICIサポーターの方は、「ICI日誌」等より、お手持ちの「IDPW」で講演全体を無料視聴【期間限定】できます。

 ■講演全体を視聴希望の方は、安黒までお問い合わせください。 

※「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教え」が、“使徒的な聖書解釈と実践”から逸脱した“誤った聖書解釈と実践”であることは、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論』で、客観的かつ神学的に丁寧に説明していますので、そちらを参考にしてください。 

 2009年は、わたしが「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」と格闘した年であった。2003年にエリクソン著『キリスト教神学』が刊行され、日本各地の優れた神学校で「組織神学」の教科書あるいは主要なサブ・テキストとして採用されていくのを見て、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」の克服は“時間の問題”のように思えた。そのように「苗代の稲」が育つのを見守っていた。しかし、“その時”は到来した。収穫間近に見えた「たわわに実った黄金の稲穂の田畑」に異変が生じた。K.N氏やA.F氏やE.S氏の集会、セミナー、講義、講演、祈り会等がわたしの周辺で、あたかも「東日本大地震の時の津波」のように押し寄せてきたのである。その時、関係者が巻き込まれる姿を見て、わたしは「たわわに実った黄金の稲穂の田畑」に“火が放たれた”−そのような印象を抱かされたことを忘れることができない。信じられない思いであった。「健全な聖書解釈法」が次第に定着してきたと思っていたのに、「そんなにも急に見捨てて、 “ほかの聖書解釈法”移っていくのに驚いています」(類比箇所−ガラテヤ1:6)と大変な危機感を抱いた。それで、関係者に「警鐘メール」を数多く送らせていただいた。しかし、理解してもらえず、団体の理事会からは「中傷メールをやめるようにとの警告」を受け取ることになった。

 それでも、わたしたちの団体の良いところは、牧師会で「安黒先生の釈明また説明の場を設けて、質疑応答をしよう」ということで、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」に関して牧師会研修会が開催されたのである。その意味で、わたしは所属団体の「ふところの広さ、深さ」に感謝している。このことの証しが、「ディスペンセーション主義聖書解釈法問題」克服において苦慮しておられる数多くの諸団体への励ましとなればと願っている。

 それで、まず最初に紹介したのが、先週の講義ビデオ資料「患難期と教会」(岡山英雄論文)であった。そして、そのような患難期理解にたった場合の「ヨハネの黙示録の解釈はどうなるのか」が次の課題として浮上した。それで、そのための資料として『小羊の王国』(岡山英雄著)が必要となった。この書籍を調べてみるとすでに絶版になっていたので、面識はなかったのであるが思い切って岡山英雄先生にメールで事情を説明し問い合わせた。するとすぐに「再販を検討させていただきます」との返信メールを送ってくださった。そして二ヶ月足らずで再販され、わたしの団体の牧師たちはこの本から学ぶ機会を得た。わたしは、この本をテキストにして神学校でも講義をさせていただいた。わたしは、岡山英雄先生の論文と書籍に対して、わたしたちの団体と神学校にとって“いのちの恩人”のような意識を抱いている。この二つの資料によって、わたしに対する“風向き”は大きく変わった。“四面楚歌”のような状態から、“ニュートラル”の立場の人たちが増え、やがてわたしや岡山先生と“同じ理解”に立つ人たちが増えていったからである。ただ、その理解はまだ十分とはいえず“風見鶏”のような人も多いのが現実であり、“振り子”のように「右に揺れ、左に揺れる」様子を見せられるにつけ、わたしはこの戦いがまだまだ続いていることを実感している。これらのビデオ講義・講演資料は、わたしにとって、「ヘブル人への手紙」、またパウロの「ガラテヤ人への手紙」に類比される資料なのである。

・【ICI翻訳-落穂抄−20150510新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:1-21:「パウロと異なる聖書解釈法とその実践を強いられる状況下で取るべき態度」

  今日は母の日である。アメリカの教会で、あるクリスチャンの婦人の功績を讃えるため始まった日であるが、母の愛を知ることは神様の愛を知ることにも繋がる。母への感謝を抱くと共に、神様への感謝を新たにされたいと願う。

  ガラテヤ人への手紙はAD.50年頃に書かれたものだと言われている。キリストが十字架に架かられたのがAD.30年頃、ガラテヤ人への手紙の一章にはその三年後のことが書かれ、二章にはそれから14年経って(1節)とある。

  パウロはキリストの十字架の出来事があった後、ユダヤ教徒としてキリスト者を捕まえる急先鋒であった。ステパノが殉教し、パウロがダマスコに行こうとしていた時に、キリストと衝撃的な出会いをする。「私はあなたが迫害している、キリストである。」と、強烈な光の中でパウロは直接キリストとお出会いした。パウロはその時、目が見えなくなったが、その後癒やされ、彼の「宗教観」は一変する。 「ユダヤ教徒パウロ」ではなく、新しく生まれ変わった「キリスト者パウロ」の誕生であった。

  しかし、周りの人々は驚き惑い、キリスト者からは怖れられ、ユダヤ教徒からは命を狙われる存在になった。そうして、エルサレムから遠ざかっていたパウロだったが、十数年の時を経て、エルサレムに戻って来た。それは、彼の信じる「福音理解」を皆に分かち合いたい、今までの歩みを無駄にしたくない一心であった(2節)。福音理解が歪曲される危険があった(3-5節)。

  この、パウロの姿を見ると、今の自分の姿と重なるところがある。宇田先生に出会い、直接学び、エリクソン、ラッドの神学書に出会い、福音主義信仰のセンターラインを教えて来た。KBIで教え始めて36年、エリクソンのキリスト教神学を教え始めて約20年。私が学んで、生徒たちに教えてきた事が無駄にならない様に、また、違った方向に歪められない様に私は切に祈りつつ歩んで来た。

 しかし、最近のキリスト教会は「ディスペンセーション主義聖書解釈」に目を眩まされ、「キリスト教シオニズム」に翻弄され、今まででは考えられなかった「レストレーション運動」に組み込まれていこうとしている。この傾向を深く懸念している。

  さて、その後「ケパ(ペテロ)がアンテオケに来た」(14節)ときに、「非難すべきこと」があった。それは、初代教会の福音理解が“危機にさらされる”出来事であった。それは、元々のユダヤ人は割礼を受けていない異邦人との食事は考えられなかったことに事は発する。「食物規定」等のユダヤ教徒の戒律に背くことになるからである。しかし、キリストを受け入れたユダヤ人たちは「同じキリスト者として、同じ主にある兄弟姉妹として、分け隔てはしない、してはならない」はずであった。
 ペテロにとっては「割礼派の人々」への“配慮”としての行動であったかもしれない。しかし、パウロにとっては“福音理解の本質”に関わる事柄であった。ここに、新約聖書27巻中、13巻をしめる“旧約聖書解釈者パウロ”の特筆すべき洞察力がある。「福音理解のセンターライン」がある。
 「ユダヤ教の戒律に従って、異邦人と食事を共にしない」ことは、“当面の配慮”ですまない“危険”を内包している。その“危険”とは、割礼派の福音理解を容認する危険である。つまり、「@異邦人は、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならない。Aユダヤ教徒になった異邦人は、ユダヤ教の戒律を守らなければならない。食物規定に関する戒律を守らなければならない。Bそして、イエス・キリストを信じて救われるのである」と、つまり割礼派の理解では、クリスチャンとは「ユダヤ教キリスト派」としての理解、位置づけなのである。

 「異邦人と共に食事をしない」(12節)ということは、パウロにとっては、即座に“エボラ出血熱発生”のように思えた。“鋭い洞察力”である。それは「ほかのユダヤ人たちも、バルナバまでも」“転移”していった恐ろしい“感染力”をもっていた(13節)。しかし、パウロの福音理解の“診察眼”はその危険を見逃さなかった。即座に対応した。徹底的に処理した。いのちがけで取り組んだ。「使徒団のリーダー格のペテロ」に対して、面と向かって抗議した(10,14節)。「あなたのしていることは何なのか?」と・・・キリストを信じる者にユダヤ人も異邦人も関係ない。私たちが救われたのは、行ないによらず信仰に寄ったものである。キリストを信じるだけでは足りないかの様なことを言ってはならないと・・・

  私たちの今があるのは、キリストと共に十字架につけられ、共に復活させられたからこそである。そして、キリストが私たちのうちに生きておられるからこそ生かされているのである。 使徒としては後輩にあたるパウロは、先輩のペテロに対して、遠慮する事はしなかった。その場を何事もなく通り過ぎる事も出来たであろうが、彼にはそれが出来なかった。自分の信じる信仰を、ここで曲げることはキリストに対する不忠だと思ったからである。

 この二章から教えられるメッセージの本質を、今日の状況にあてはめれば、「民族的イスラエルを外形的に選民扱いし、その視点からの聖書解釈」を“強いる”傾向へのメッセージを聴き取ることができる。「割礼派の人々」は「ディスペンセーション主義聖書解釈派」とその実践である「キリスト教シオニズム派」に類比しうるものをもっている。「パウロの宣べ伝えている福音」は、「福音主義的聖書解釈派」とその実践である「契約主義的アプローチの人々」に類比しうる。そして、それは、わたしたちが「パウロと異なる聖書解釈法とその実践を強いる今日の状況下で、取るべき態度がいかにあるべきか」に向けて力強く語りかけている、パウロを通しての「神の言葉」として響くのである。

 あなたは人を恐れるのか?それとも、主を怖れるのか?ペテロのように過ちをおかすのか、パウロのように毅然と立つのか、それが問われている章である。(仁美記)

 

 


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