ICIホームページ /ICI日誌(更新情報等) /ICIサポーター登録案内 (無料視聴【期間限定】資格貸与) /
新企画 ! ICIストリーミング・ビデオ・ワールド:エリクソン著作集 (2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014)、宇田進著作・資料集、ラッド著作集、その他(科目別・時系列分類)/アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー JEC牧師会・拡大教職者会 福音主義神学会 関西聖書塾 生駒聖書学院 諸教会 、電子メール講義録 、ヨハネの黙示録、ガラテヤ書、ローマ書、ヘブル書、雅歌
ICI ホームページ表紙 ICI日誌 ICIの意義・目的 ICI資料リスト 神学入門 春名純人著作集 G.E.ラッド著作集 宇田進著作集 エリクソン著作集 ローザンヌの歴史的系譜 一宮基督教研究所講義録 ビデオ講義紹介 ストリーミング・レクチャー 登録申込・資料注文 ビデオ・オン・デマンド 自己紹介&チャペル フォトギャラリー 礼拝メッセージ 福音主義神学会公式サイト ICI-スマホ・サイト ICI-Booklets for Kindle ICI-for-JEC
ICI Daily & Diary Lectures
2007年度 ICI日誌
2021/12/22
ICI ホームページ表紙 年度別 ICI日誌 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013(休み) 2014 2015
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/12/01-12/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
Merry Christmas & Happy New Year !
十二月は、一年の終わりの月ということで、この一年
間取り組んできました「教会と国家」というテーマの
総決算シリーズの準備に備えた一ケ月でした。
このシリーズは、所属団体の月刊誌に連載されますと
ともに、刊行にあわせてこのポームページ上でも紹介
させていただきたいと思っています。
来年の神学会のテーマは「伝道」ということですので、
このテーマにあわせての神学研究にも取り組んでいき
たいと考えています。御祈りください。
ショート・メッセージは、あまり参考にならないと思
いますが、このような「土の器」たるメッセージの中
に宝なるキリストがともにいてくださることに心を
とめていただければ幸いです。
ICI あぐろ
*************************************************
2007.12.30 Yamasaki Chapel Short Message
年末感謝礼拝:「とこしえのいのちの祝福」
*************************************************
新改訳 詩 133:1-3
133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
133:2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
133:3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
*************************************************
2007.12.27
日本福音主義神学会西部部会理事会 メモ
*************************************************
年末に、日本福音主義神学会西部部会理事会が
開催され、春季神学研究会会議と秋季全国神学
研究会議の相談がなされました。
「2008年度 春季神学研究会議」の基調講演は、
リベラルな神学の全体において「伝道の神学」が
どのように扱われてきたのかについて東京神学
大学の近藤勝彦氏が書籍をしたためておられる
ことを意識し、福音派神学の全体において「伝道
の神学」がどのように扱われてきているのかに
ついて、改革派神学校新校長の市川康則氏が
講演してくださることになりました。
春季神学研究会議での「福音主義における伝道
の神学」は、秋季にもたれる全国研究会議のイン
トロダクションの位置づけを意識してもたれるもの
で、全国会議で奉仕される先生方や参加される
方々の「良き心備え」、またディスカションやレス
ポンスのための「土俵づくり」にもなることを願っ
ています。
なお、詳細につきましては、担当されるコーディネ
ーターの先生方から後日案内があると思います。
また、「日本福音主義神学会西部部会DVD講演録」
は下記の資料があります。世界と日本の諸神学校
の図書資料として納品されつつあります。日本の
西部にある諸神学校・諸教会における神学的取り
組みを分かち合うことができることを感謝しています。
when |
where |
who |
what |
Price[送料別] |
2007/11/26 |
神戸改革派神学校 |
日本福音主義神学会西部部会秋期神学研究会議:諸神学校代表者 |
DVD[3枚]+資料=2500円 |
2006/11/27 |
福音聖書神学校 |
日本福音主義神学会西部部会秋期神学研究会議:諸神学校代表者 |
DVD[2枚]+資料=2500円 |
2006/04/27 |
一宮基督教研究所 |
日本福音主義神学会西部部会春期神学研究会議 |
DVD[2枚]+資料=2500円 |
*************************************************
2007.12.26
書籍紹介
稲垣久和著『国家・個人・宗教-近現代日本の精神-』
講談社現代新書
*************************************************
2007年度に、福音主義神学会等で取り組まれてきたテーマに
関連する書籍の紹介です。
序章 国家と個人、そして宗教
第1章 国家神道と自我の問題――「公」と「私」
第2章 戦前の新宗教の弾圧――正統と異端
第3章 知識人の苦悶――西田幾多郎と南原繁
第4章 戦後憲法の読み直し――市民的公共性
第5章 「個人」の擬似宗教の暴発――オウム事件
第6章 「国家」の擬似宗教の暴発――愛国心と靖国と
終章 「公共の福祉」のために――環境と共生
関連サイト紹介
http://www2u.biglobe.ne.jp/~TRC/mm_vol44_9.htm
http://garyusha.com/modules/xfsection/index.php?category=1511
*************************************************
2007.12.23 Yamasaki Chapel Short Message
クリスマス礼拝:「そのような心構えでいなさい」
*************************************************
新改訳 ピリ 2:3-11
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
*************************************************
2007.12.16 Yamasaki Chapel Short Message
「ほんとうに、私は主のはしためです」
*************************************************
新改訳 ルカ 1:26-38
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
*************************************************
2007.12.09 Yamasaki Chapel Short Message
「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ」
*************************************************
新改訳 ルカ 1:1-25
1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。
1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
1:22
やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。
1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
*************************************************
2007.12.02 Yamasaki Chapel Short Message
「ヘロデ王は恐れまどった。…私も行って拝むから」
*************************************************
新改訳 マタ 2:1-23
2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
2:13
彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。
2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。
2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。
2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。
2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。
*************************************************
紅葉の一宮町
*************************************************
年にいく度とない、雲ひとつない晴天でした。山崎
高校時代は、写真部にも所属していました。暗い
暗室でフィルムや印画紙を現像液に浸して現像
していました。じわじわと画像があらわれてくるのが
思い出されます。画像がきれいに現れたら、水道水
で洗って、暗室にほしておき、乾くと完成です。今は、
デシタル・カメラと印画紙とプリンターでよいのですから
簡単になりました。
フォット・ギャラリー「紅葉の一宮町 2007」
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/11/01-11/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
11月は、所属団体の日本福音教会牧師会での発題講
演・質疑応答の奉仕、一宮基督教研究所での集中講義、福
音主義神学会西部部会秋期神学研究会議での司会・進
行奉仕等できわめて多忙な一か月でした。
それぞれの奉仕において、神さまからの大きな祝福を
受けたと思います。ひとつ教えられましたことは、神
学の講演・講義や質疑応答は、ボクシングのようなス
ポーツだということでした。講演や講義は、講壇の上
で二千年間の聖書・歴史・組織・実践の四部門の質疑
応答に参加することであり、激しいパンチの応酬に的
確に応じることです。ディフェンスとオフェンスのバ
ランスがしっかりとしておく必要があります。
最も大切な事柄は、聖書観と神学方法論の基本をきっ
ちりマスターしておくことです。多くの議論における
欠陥はこの部分にあります。わたしがエリクソン神学
において教えられた最も大切な部分がここにあります。
ここを繰り返し、徹底的に学ぶことを通して、「蝶の
ように舞い、蜂のように刺す」テクニックを身につけ
ることができます。まだ、途上にある者ですが…。
*************************************************
日本福音主義神学会 西部部会
2007年度 秋期研究会議
DVD講演録・資料案内
*************************************************
日時 : 2007年 11月26日(月)10:00am−4:30pm
場所 : 神戸改革派神学校
DVD講演録(三枚組み、レジュメ・ブックレット、送料込み)3000円★
問い合わせ・申し込み先:aguro@mth.biglobe.ne.jp
*************************************************
2007.11.25 Yamasaki Chapel Short Message
「ここに聖徒の忍耐と信仰がある」
*************************************************
新改訳 ロマ 13:1
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
新改訳 Tテモ2:1
2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
新改訳 黙 13:1-10
13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
13:4
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
13:8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
13:9 耳のある者は聞きなさい。
13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。
*************************************************
2007.11.13-14
Kansai Bible Institute
集中講義 ビデオ紹介
いつでも、どこでも、だれでも 下記に紹介されている講義の全体を受講できます。
*************************************************
『キリスト教神学』−神論
『キリスト教神学』−神のみわざ論
*************************************************
2007.11.18 Yamasaki Chapel Short Message
「啓示されている原則に従って、神学は語りかける」
*************************************************
新改訳 ロマ 5:12-21
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
*************************************************
2007.11.13
JEC 牧師会 研修会
「久保有政著『セカンドチャンス論』を
キリスト教神学の視点から
クリティカルに分析・評価する」
*************************************************
「今年になって、全国のキリスト教会に久保有政著
『セカンドチャンス論』なる書籍が送りつけられる
という状況が生じているので、JEC牧師会としても
信徒の人たちに悪影響が及ぶ前に、神学的にきち
んと問題点を学んでおく必要があるので、このテー
マで発題講演をお願いしたい。」との相談を受けました。
五年前に、一宮基督教研究所の理事・教師の合同シン
ポジウムで同じテーマを扱いましたので、そのときの
資料をベースに、さらに一ヶ月間集中的に準備し、
特に今回は、@久保氏の著書とそれに対するウッド氏
の書物を対比しながら、その聖書解釈における「カット
&ペースト」の手品のようなテクニックの“偽りのしかけ”
を解説すること、A「セカントチャンス論」の前提としての
“陰府”理解の極端な字義的解釈の誤りは、「曲った
包丁で料理すると、すべての材料はそのように調理
される」といわれる通りであること、B新約聖書中、最も
曖昧で箇所といわれるペテロ書からの“憶測”としての
仮説を第一級の教理的確信に位置づけられる問題
点などを指摘しています。このテーマに関する大変
分りやすい解説資料です。
この問題の内包する問題の深刻さを感じている神学
教師のひとりとして、研修会の発題講演と質疑応答の
中で展開されている詳述を、この問題に直面しておら
れる方々にお分かちし、この問題を、その主張に潜む
罠に目が開かれること、そして、救いと終末について
の神学的確信を把握されることをお祈りします。
発題講演パワーポイント資料〔閲覧専用:部分資料〕
発題講演ビデオ紹介〔“陰府”理解−部分紹介〕
当初は、音声ファイル紹介を試みましたが、ビデオ
の方が板書や集会の雰囲気が正しく伝わるので、
途中からビデオ・ファイル紹介に変更させていただき
ました。
現在、「DVDビデオ〔120分〕と製本された資料」を
セットで3000円〔送料込み〕でお分かちしています。
申し込み受付中!現在なら注文されましたら、すぐに
発送させていただけます。希望者は下記メールアドレ
スに、郵便番号、住所、氏名、電話番号を書き添えて
お申し込みください。
aguro@mth.biglobe.ne.jp
代金は、品物到着後一週間以内に、下記に振り込ん
でください。
郵便振替口座番号:
01110-0-15025
加入者名: 一宮基督教研究所
*************************************************
2007.11.11 Yamasaki Chapel Short Message
「規定に従って競技をしなければ」
*************************************************
新改訳 Uテモ2:1-26
2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。
2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
2:16 俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、
2:17 彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。
2:18 彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。
2:19 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」
2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
*************************************************
2007.11.04 Yamasaki Chapel Short Message
第一ペテロ 3:18-20 の聖書解釈の検討
*************************************************
新改訳 Tペテ3:18-20
3:18
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
3:20
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/10/01-10/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
夏終り、秋過ごし、冬来たらん!短い秋の後に、急ぎ足で
寒気が到来した気配のする今日この頃です。環境問題も
あり、季節感がだんだんとなくなっているような気がします。
十月は、ふたつの神学校での集中講義があり、その準備
で忙しくしていました。また、来月の「セカンド・チャンス論
をエリクソン神学の視点から神学的に分析・評価する」
発題講演を牧師会にて依頼されていますので、このテーマ
を扱っているエリクソンの書籍数冊を繰り返し熟読し、部分
的に翻訳したりしていました。
「セカンド・チャンス論」そのものは、五年前に一宮基督教研究所
の教師会シンポジウムで講演と資料配布をしましたので、
今回はそれに加えて、なぜ繰り返しこのような議論が湧き起
こってくるのか、という背景と聖書における啓示が沈黙してる
領域に関して神学的思索をしていく上でのガイドラインについ
て幾つかの提案をしていけたらと考えています。
この問題を扱いますときに、私たちは神学的思索をしていく
上での基本的な留意事項を再確認させられることと思います。
それは、私たち御言葉の奉仕者にとっての基本事項だと思い
ます。
*************************************************
2007.10.28 Yamasaki Chapel Short Message
キリストへの自覚的信仰と宣教の必要性
*************************************************
新改訳 ロマ 10:1-16
10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10:8
では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
*************************************************
2007.10.23-24
Ikoma Bible College
集中講義 紹介
*************************************************
『キリスト教神学』−神のみわざ論
『福音主義神学研究』
近世における四つの流れ
071024_i_et05a_Four_Stream_intro.wmv
「教会と国家」の関係理解の三類型
071024_i_et05b_Four_Stream.wmv
『比較宗教学』
*講義の最初の十分間等をストリーミング形式で
無料で紹介しているものです。講義の全体を
学びたい方がありましたら、メールにてご連絡
ください。ストーリーミング形式とDVD形式の
二つの提供形式があります。
*************************************************
2007.10.21 Yamasaki Chapel Short Message
聖霊の内的働き:デコマイ(歓迎)のスピリット
*************************************************
新改訳 Tコリ2:1-16
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れ〔デケタイ:デコマイ=受け入れる〕ません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
*************************************************
2007.10.15-16
Kansai Bible Institute
『キリスト教神学:啓示論』集中講義 紹介
*************************************************
神の普遍的啓示
071016_k_icd03_ct08a_intro.wmv
071016_k_icd03_ct08b_intro.wmv
071016_k_icd03_ct08c_intro.wmv
啓示の保存:霊感
071016_k_icd05_ct10_intro.wmv
神の言葉の信頼性:無誤性
071017_k_icd06_ct11a_intro.wmv
神の言葉の力:権威
071017_k_icd07_ct12_intro.wmv
*講義の最初の十分間等をストリーミング形式で
無料で紹介しているものです。講義の全体を
学びたい方がありましたら、メールにてご連絡
ください。ストーリーミング形式とDVD形式の
二つの提供形式があります。
*************************************************
2007.10.14 Yamasaki Chapel Short Message
『聖書はすべて、神の霊感によるもので』
*************************************************
新改訳 Uテモ3:15-17
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
*************************************************
2007.10.07 Yamasaki Chapel Short Message
『死後の回心と救いのチャンスについて』
*************************************************
新改訳 ルカ 16:19-31
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
*************************************************
2007.11.13 の JEC牧師会 討議資料として
『死後の回心と救いのチャンスについて』
*************************************************
いわゆる「セカンド・チャンス」論の書籍が諸教
会に送りつけられているという事態を深刻に
受けとめ、JECでは牧師会でこのテーマに
ついて討議する方向になっています。
このテーマに関しましては、2002年9月17日
にKBI教師会シンポジウムで講演・討議し、声明
を発信したところです。
すでに二、三百部が資料として求められて発送
してまいりました。すでに下火になっていたと安心
していましたが、再び燃え上がっているようです。
そこで今回は、そのときの資料を無料で公開させ
ていただくこととしました。それは、ひとりでも多く
の方に誤った教えから、その信仰を守っていただ
けたらと願うからです。下記のサイトに資料を掲載
していますので、ご自由にプリントアウトして、学び
にご利用ください。意見・感想等いただけたら感謝
です。
一宮基督教研究所理事会・教師会合同シンポジウム資料
ICI_PME_020917.pdf
*************************************************
2007.10.02
秋季JEC拡大教職者会レポート
*************************************************
「神の最高傑作 男と女−性の諸問題:同性愛・
性同一性障害−」と題してセミナーが開催された。
この領域に関する今日的情報と分析、リベラルと
福音派におけるこのテーマに関する聖書箇所に
おける聖書解釈、性同一性障害に関する法律等、
分りやすく、実践的な内容であった。
また講師の方のこの領域に取り組まれている情
熱を強く感じさせられたセミナーであった。
インターアクトのアジア地区代表のスウェーデン
宣教師からは、スウェーデンの状況と教会の取り
組みが紹介され、多くの示唆をいただくことができ
た。
春季JEC拡大教職者会では、うつ病とかパニック
症候群についての取り組みであった。今回の内容
は、その続編的な意味においてもよいセミナーで
あった。教会を取り巻く状況の変化を教えられる。
神学教師として考えさせられた今後の課題として、
講師の資料の中にあった「同性愛擁護派のよくあ
る主張への反論」の箇所にある創世記19:4-5、
レビ記18:22, 20:13、ローマ1:24-27、Tコリント
6:9-10, Tテモテ1:9-11 の聖書解釈を伝統的視点
からだけではなく、医学や心理学の今日的進展と
の慎重な対話を伴った聖書解釈の再検討は必要
とされているのではないだろうか。
結論的に、伝統的な結論と同じものになったとし
ても、テーマを今日的な進展のコンテキストの中
で扱うというプロセスは欠かしてはならない部分
であると思う。
スウェーデン宣教師の語られたメッセージの第一
は「神学的に正しい立場に立つ!」であった。
あまり大きすぎる罪として取り扱うことも問題であ
り、しかし弱さとか個性というかたちで罪でないと
扱うことはできない。これらのものは諸々の罪の
中のひとつである。ゆえに、このテーマは広い面
から全体的な視野から扱うことが必要である。
このテーマをきちんと扱う神学を握ることが必要
である。
グループ・ディスカッションで、「ホモ・セクシャル
の問題を扱っている組織神学書はないのですか」
という質問を受けた。
リチャード・ケヴェドーは「ヤング・エヴァンジェリ
カル」という著書の中で、福音派における「ホモ・
セクシャル」を扱っている組織神学者のひとりとし
て、フラー神学校の組織神学者であるポール・ジ
ュウィットを紹介している。
“Who We Are : Our Dignity As Human” Paul K.
Jewett 『私たちは何者なのか:人間として尊厳』
という書物は、組織神学の書物であり、人間論
の領域をかなり掘り下げた書物である。概要を
以下に紹介する。
@導入、
A人間であること:キリスト教的視点、
B人間の尊厳と人種的偏見、
C像と性的両性:彼はかれらを男と女に創造した、
A. 導入
B. 男女の関係
C. 人間の性別の神秘
D. 性、愛、結婚
@導入
Aエロス的な情熱としての性
Bロマンティックな愛
C結婚の契約
D離婚:結婚の結びつきの破綻
Eホモセクシャルに関して:付録
a.導入
b.教会の教えにおけるホモセクシャルに反対する伝統的事例
c.教会生活においてホモセクシャルに対して示されてきた伝統的態度
d.ホモセクシャルに関する今日の事例
1)性的方向性と性的行動の相違
2)市民権と医学的意見に関して
e.教会とホモセクシャルに関する今日の事例
1)性的方向性と性的行動の再開
2)ホモセクシャルに関する聖書の証言
a)創世記19
b)レビ記18:22, 20:13
c)ローマ1:26-27
d)Tコリント6:9-10, Tテモテ1:10
e)ホモセクシャルに関して肯定的な聖書の言葉を見つけようとする試み
3)解決の試み
a)方向性の転換
b)委ねられたホモセクシャル関係
c)禁欲
4)いい加減な「結論」
D神の像と人間の支配
以上のような構成となっている。
エリクソン著『キリスト教神学』では、第五部
第26章 人類の普遍性 の中で「全人種、両性、
あらゆる経済的立場の人々、高齢者、胎児、
未婚者」という主題の中で、約五ページの範囲
で男と女の関係、特に女性差別が扱われてい
る。
エリクソンの著書で「ホモセクシャル」の問題を
扱っているのは、「今日におけるキリスト教倫理
における相対主義」の書籍である。その中では、
八ページにわたって記述がなされている。
この書籍では、婚前セックスと婚外セックスも扱
われている。スウェーデンのインターアクトの教
会では、ホモセクシャルの問題よりも、婚前セッ
クスの問題が深刻な問題であると報告された。
ジュウィットの著作では、神の像の問題、男女
の関係の問題、結婚・堕胎・離婚の問題、ホモ
セクシャルの問題、文化命令に関して環境問
題への対応等が記述されている。
主題への多層的な取り組みの豊かさからは
多くのことが教えられる。
組織神学の学びと伝道・教会形成現場との
ギャップが語られることの原因のひとつに、
組織神学の各領域における多層的な取り組
みの貧困という事柄があるのではないかと
思う。
神学校での講義においては、いずれの神学校
においても時間数の関係で、概論的に教える
にとどまっているのではないかと思わせられる。
そのような意味で、ICIの継続神学教育の取り
組みにおいて、果たすべき役割が明らかにな
ってくると思う。
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/0901-09/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
九月も残暑が続き、夏バテを覚えられた方も多かった
のではないでしょうか。月末になり少し秋風が吹き、
過ごしやすくなりました。
今月も、ICIのささやかな取り組みであります「マ
ンスリーICI」をお届けします。おもな取り組みと
しましては「『キリスト教神学』の学びを少しでも豊か
にしていただきたい」という願いをもって「キリスト
教神学」とその要約版である“Introducing Christian
Doctrine”の関係を扱い、福音派の組織神学のスタン
ダードと言われる「エリクソン神学」のより分かりや
すい学び方を模索しています。皆様の学びの一助とし
ていただければ幸いです。
ICI 安黒務
*************************************************
2007.09.30 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 ピリ 3:1-21
3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:13 ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第三節
諸見解の示唆すること:罪の治癒法
icd_20_030209b-ct_28_p.167-168
*************************************************
『基督教教理入門』と『キリスト教神学』
「第三節 諸見解の示唆すること:罪の治療法」の
メイン・テキストの記述は、「第一節 罪の根源につ
いて諸概念」のリベラルな神学における諸概念に
ついて、要約版においてはエッセンスのみに言及
されただけでしたので、メイン・テキストでは七つの
段落にわたって記述されているのですが、要約版
においては、この節は構成されずに、「聖書的教え」
の第九段落において「まとめ」のようなかたちで記
述されています。
七つの段落の概要をみていきましょう。@罪の原因
についのて見解が罪の治癒法についての見解を決
定する。Aテナント:罪の原因を「動物的先祖からの
本能と行動パターン」とし、治癒は「古い本能からの
解放」であり「進化論的過程が人類を正しい方向へ
連れて行きつつある」とする。Bニーバー:罪は「有
限性の不安」から生起したものであり、治癒は「有
限性と切望する自由の緊張を自分の努力で克服し
ようとする試み」であるとする。Cティリッヒ:罪は「人
間の実存的疎外」とし、治癒は「自分が存在の一部
であり、存在の根底に参与しているという事実の自
覚」とする。D解放の神学:罪は「社会構造」にある
とし、治癒は「抑圧と富と権力における不公平を除去」
することにあるとする。E福音主義の見地から、罪
は「人間が本質において罪深く、罪へと誘う強い力
のある世界に住んでいる」ことにあるとし、治癒は
「超自然的に人間の本性の変革が生み出される」
ことにあるとする。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第二節 聖書的教え
icd_20_030201-9a-ct_28_p.163-167
*************************************************
『基督教教理入門』と『キリスト教神学』
「第二節 聖書的教え」の記述は、メイン・テキストと
要約版はほとんど同じ内容のものです。内容は、メ
イン・テキスト本文を参考にしていただきたい。
ここでは、「概要」を学んでいきたい。第二節は、
リベラルな神学の「五つの異なる見解」には「深刻
な不足」があるとの分析・評価を経て、「罪の根源」
に関して「聖書が教えているもの何か」について
関連聖句の解き明かしを基盤に九つの段落にわた
って焦点をあてていく。
@聖書が実際に何を教えているか。A罪は神によ
って引き起こされるのではない〔ヤコブ1:13〕。B
人間は食欲・性的衝動等、幾つかの欲求をもって
いる。C人間の能力にも注目する。D自然の欲求
はそれ自体は良いものであるが、誘惑と罪の可
能性をもつ領域でもある。−(@)物事を楽しみた
いという欲求、(A)物を手に入れたいという欲求、
(B)物事をしたい、達成したいという欲求。〔Tヨ
ハネ2:16〕E欲求には満足させるふさわしい方
法があり、また神が課した限界がある。Fイエス
の誘惑において、サタンは正当な欲求に訴えた。
G最終的には罪はそれを犯す人間の選択であ
る。〔創世3:4-5〕究極的な責任は本人にある。
H堕落後の我々には「肉」と呼ばれるものがあ
り〔ローマ7:18〕、自己中心の生活、神の存在の
否定また拒絶を指す〔ガラテヤ5:16-24〕。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 個人主義と競争性:icd_20_030006-ct_28_p.160-163
*************************************************
【D 罪の根源は、個人主義と競争性にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
ハリソン・サケット・エリオットは個人主義的な競争
に罪の源があるとみました。罪は教育や社会状態
を通して学習されるものであるから、それは同じ方
法で排除されなければならない。その解毒剤は共
通のゴールに向かって競争的ではない努力を強調
する教育にある。
〔メイン・テキスト『キリスト教神学』概要〕
メイン・テキストにおいては、十の段落にわたって
詳述されています。それらは、@罪は個人主義と
競争に由来する。Aエリオットは「人間は全く罪深
い」ということを否定した。B罪とは、生来の才能と
社会的遺産の否定または誤用である。C「人間は
罪人である」という思想は論理的な分析のもとでは
もちこたえられない。D「人間は罪人である」と思想
は、心理学的に不健全で有害でありうる。E人間
の状態の心理学的分析は「人間は罪人である」と
いう結論には至らない。F罪は生来のものではな
く、習得されるものである。G個人主義的な競争
性は生来のものではなく、教育という手段によっ
て修正しうる。H教育は個人の活動・競争・成功
の代わりに共同的活動を強調すべきである。I
エリオットの進歩主義的教育の提案−人間の本
性を徹底的に修正するという希望は実現してい
ない。
〔解説〕
ハリソン・サケット・エリオットは、ニューヨークの
ユニオン神学校のキリスト教教育の教授で、
「人間の善性と完成可能性」を求めた。
彼は、哲学におけるジョン・デューイの道具主義
と教育への進歩主義的取り組みに強い影響を
受けている。
Harrison S. Elliott, Can Religious Education
Be Christian? (New York: Macmillan)pp.152-153
ジョン・デューイにつきましては、エリクソン著
『キリスト教神学』第一巻、第一部、「第二章
神学と哲学」の「第二節 20世紀の哲学」の
「第一項 プラグマティズム」pp.39-42 にその
思想の解説があります。
*************************************************
2007.09.23 Yamasaki Chapel Short Message
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 経済的闘争:icd_20_030005-ct_28_p.157-160 関連
*************************************************
新改訳 出 2:23-25
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第四項 経済的闘争:icd_20_030005-ct_28_p.157-160
*************************************************
【C 罪の根源は、経済的闘争にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
解放の神学によれば、罪の源は経済的闘争にある。
その解決は所有と権力における圧迫と不公平を排除
することである。個々人を伝道していくことより、私た
ちが主として従事すべき事柄は経済的・政治的活動
であり、社会の構造の変革を目標とすべきである。
〔メイン・テキスト『キリスト教神学』概要〕
メイン・テキストにおいては、九つの段落にわたって
詳述されています。それらは、@解放の神学におけ
る「罪の定義」を述べ、その罪の理解の鍵が「出エジ
プト記1−3章」におかれている、A罪の「内心化」を
拒否し、罪の「社会的、政治的、経済的局面」に関
心を示す、Bグティエレスは、「罪とは、利己的に自
分の中にひきこもり、隣人愛を拒む」ことであるという。
C解放の神学者たちは「イデオロギー的神学者」と
「バランスの神学者」とに分類される。Dイデオロギ
ー的神学者にとっての罪とは「抑圧された状況に黙
って従う」ことである。E解放の神学は「神には自己
卑下によって最善の形で仕えることができる」という
考え方を拒否する。F解放の神学とマルクス主義の
間に“並行関係”を認めることは難しくない。G解放
の神学の前提は「経済的闘争、特に権力と富の不
公平が人間の行動を決定する」というものである。
Hしかし現実には、この理論はうまくいっていない。
旧ソ連の例をみても、権力と富を分配し直しても
「罪」は排除されない。
福音派においては、『ローザンヌ誓約』における
「クリスチャンの社会的責任」の項目が参考になり
ます。
*************************************************
2007.09.16 Yamasaki Chapel Short Message
キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第三項 実存的疎外:icd_20_030004-ct_28_p.155-157 関連
*************************************************
新改訳 ピリ 4:4-19
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
4:8
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4:10
私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。
4:15
ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。
4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。
4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第三項 実存的疎外:icd_20_030004-ct_28_p.155-157
*************************************************
【B 罪の根源は、実存的疎外にある。】
〔要約版『基督教教理入門』〕
「パウル・ティリッヒは、罪を、事実上創造物の自然な
同伴であるように思われる他者そして自身、存在の
基盤〔ティリッヒによる神の定義〕からの疎外に関係
づけている。
ここでもまた、根本的な治療は、回心の事柄ではな
く、態度の変化の事柄である。
解決は、存在の一部であるという事実、また存在の
基盤に関係しているという事実をますます知るよう
になることを伴う。
結果は、存在の基盤、他者、そして自身からの疎外
の終焉である。」
ここ一週間は、書斎にあるティリッヒ関係の文献に
目を通していました。ティリッヒ自体を専門的に勉
強してきたわけではありません。
ただ、エリクソンのメイン・テキストに記述されてい
ることはきちんと理解できるようにしなければなら
ないと考えているのです。
メイン・テキストにおけるティリッヒの「罪の概念」は、
六つの段落に詳述されています。
ティリッヒは、@「罪観」を実存主義的な基礎の上
に構築し、創世記の三章の字義的理解を理解を
拒否しています。A「神論」において、神は「存在
の根底」であるとし、人間の状況は「存在の根底
から、他の存在から、そして自分自身からの疎外」
であるとします。B「堕落」は時間のある時点で起
きたものではなく、「創造と堕落は一致する」としま
す。Cティリッヒは「人間は先在において堕落した」
のであり、「創造と堕落の同一性」を受け入れます。
Dティリッヒは、「非時間的な構成」を提示しており、
「あらゆる瞬間にすべての人は自分自身の選択に
よって自らを疎外している」とします。Eこのような
ティリッヒの理解に対して、エリクソンは「ティリッヒ
は本当に問題を解決したのであろうか」と内包して
いる諸課題を指摘しています。
エリクソンは、『基督教教理入門』において、ティリ
ッヒの「罪の概念」のエッセンスが“疎外”である
ことを指摘しています。
また『キリスト教神学』において約三ページにわた
り、“疎外”の意味するところを解説しています。
“疎外”の問題を扱うことは、福音主義神学におい
ても極めて大切なことであると思います。
この意味で、リベラル派の神学であるティリッヒの
神学の「鋭い時代感覚」と「高度の学問性」には
深い洞察があることを教えられます。それらの点
を学びつつ、ティリッヒ神学にある課題も見分けて
いかなければなりません。
ティリッヒとその神学についての入門的な良書と
しまして、大島末男著『ティリッヒ』清水書院、が
あります。「このシリーズ『人と思想』は、世界の有
名な大思想家の生涯とその思想を、当時の社会
的背景にふれながら、立体的に解明した思想の
入門書です。第一編の生涯編で、思想家の生涯
を交友関係や、エピソードなどにもふれて、、興味
深く克明に記述、第二編では、その主要著書を選
択して、概説とその中心となる思想を、分りやすく
紹介してあります。」とあります。
第二編の「思想」についての記述は分りにくいとこ
ろが多々ありますが、第一編の「生涯」は伝記的
かつ歴史的記述ですので、神学や哲学の予備知
識がなくても分かりやすいと思います。
その一部を紹介します。
「ティリッヒは生粋のドイツ人であったにも拘わら
ず、社会主義者やユダヤ人を支持し救援したの
で、大学教授の職を追われて、アメリカへ亡命
しなければならなかった。ところが大義のために
小我を棄てたティリッヒは、人の思い〔人間的打
算〕に遙かに勝る神の恵みに与ったのである。
神の命令に従って見知らぬ国へ旅立ったアブラ
ハムのように、ティリッヒは…アメリカへ亡命した
からこそ、現代における最高の哲学的神学を構
築することができたのである。神の祝福は、人
間の計画がむなしくなるところに逆説的に啓示
される。」
このような記述にあふれ、神学的立場は異なる
とはいえ、読む者に感動を与えるいきざまを提示
してくれています。
今回の「実存的疎外」の概念に関連する記述と
しましては、pp.158-165 に「人間の疎外と罪の
概念」、「自己破壊と罪の教義」、「新存在の探
究とキリストの意味」があります。
【文献紹介:エリクソン著『キリスト教神学』】
エリクソン著『キリスト教神学』の場合、神学方
法論から終末論に至る各部分において、常に
「リベラルな神学」への言及があり、それらの
全体的関連を常に視野の中において神学の
研究に携わることが大切と思います。
「ティリッヒの神学」につきましての詳細な記述
は、第二巻第三部第15章「神の近さと隔たり:
内在性と超越性」pp.61-64 に「内在性の現代
版」に「パウル・ティリッヒ」の“内在論的”神論:
万有在神論の記述があります。
【文献紹介:W.E.ホーダーン著
『現代キリスト教神学入門』】
この書の第八章に「自由主義神学と新正統主
義神学の境界線−パウル・ティリッヒ−」として
紹介されています。
この章で教えられた箇所をひとつあげますと、
「ティリッヒは深い思想家であり、それだけに
その思想は複雑であった。したがってここでや
っているように、一章という制限された紙数で
もって百科事典がやりとげるように彼の思想を
要約することはできない。もしここで何かできた
とするならば、彼の思想の幅と厚み、それも彼
のユニークな点のみを指摘したということにすぎ
ないだろう。」という点です。
【文献紹介:A.E.マクグラス編
『現代キリスト教神学思想事典』】
この事典は、きわめてすぐれた内容をもつ事典
であると思います。
読んでおりまして「パウル・ティリッヒ」について
の論稿をまとめられた学者の能力と翻訳者の
能力のすばらしさを感じさせられました。
〔導入〕
導入部分には、通常の解説通り誕生、ナチスと
の対立、ユニオン神学校、ハーバード大学という
経歴、神学的領域と文化の領域の関係づける
取り組み、護教的神学として時代状況から生ま
れた問題に答えることを目的とし、彼の著作の
ダイナミックさ、自己変革性、新たな問題に新た
に言い換えられ、新たに組み合わされた解答の
提供、…。
そのような意味において、「ティリッヒの思想の
極めて重要な要素を理解しようとすれば、彼の
神学体系の基本的原理の概略を知るのみなら
ず、ある特定の文化的状況から生じた特定の
問題とそのような問題の挑戦に神学的に答え
ようとした彼の試みとの間に彼が作りだした相互
関連をたどってみなければならないだろう。」と
記述されています。
ティリッヒの神学を理解していく上で最も大切な
視点であろうと思います。
〔観念論の遺産:1886-1916〕
ここでは、ティリッヒの神学の基本的な概念、前
提となる事柄が記されています。
ティリッヒの思想に決定的影響を与えたものとして
シェリングの思想に対する取り組みがあります。
この事柄について、ティリッヒが1963年の春学期
にシカゴ大学で「19,20世紀のプロテスタント神学」
を講義し、そのときの講義をテープから起こし、そ
れに基づいて編集・出版されたティリッヒ著、佐藤
敏夫訳『近代プロテスタント思想史』p.192 の中に
「私は、ベルリン大学に行く途中、非常にまれにし
か出会わない初版本のシェリング著作集を、偶然
手に入れた時の忘れがたい思い出をもっている。
私は金をもつていなかった。しかし、とにかくそれ
を買った。このように私はもっていなと金を使った
のであるが、それは、のちに私がほかでもってい
ない金を使った場合にせよ、時にはもっていた金
を使ったにせよ、どの場合よりも恐らく重要な金
の使い方をしたことを意味していた。というのは、
私がシェリングから得たものは、私自身の哲学的
神学的発展にとって、決定的な要素となったから
である。」と告白しています。
ティリッヒは、シェリングから神学上もっとも中心概
念を取り入れました。それらは「無限存在と有限
存在としての神と世界の考え方、存在の根底と
無限の深淵としての神の見方、あるいは『神を越
える神』の観念、宗教的象徴と哲学的概念を超越
した真理の考え方」といったものです。
「導入部分」と「観念論の遺産〔1886-1916〕」に
続いて、「転換点:文化の神学と社会主義への
決断〔1916-1933〕」、「移住、実存主義、組織神
学〔1933-1965〕」、「ティリッヒの神学の未来」と
構成されていて大変わかりやすい解説となって
います。
【その他の参考文献】
『キリスト教組織神学事典』の「ティリッヒ」pp.270
-276 …コンパクトな解説
ハーヴィ・コーン著『現代世界神学』の「第十三章
存在の神学」pp.132-140…福音主義神学の視点
からの分析と評価、要点的で分かりやすい。
宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』pp.139
-141、『総説現代福音主義神学』の「存在論神
学における神の啓示−P.ティリッヒ−」pp.147-
151,「“上”でもなく“外”でもなく、“存在の深み”
に」pp.304-308 …ティリッヒの神学のエッセンス
を福音主義神学の視点から分かりやすく解説さ
れています。
*************************************************
エリクソン神学の学び方:キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第二項 有限性の不安:icd_20_030003-ct_28_p.152-155
*************************************************
【A 罪の根源は、有限性の不安にある。】
「ラインホルド・ニーバーの見方では、罪の根源は
私たちの有限性と切望との間の緊張を己が努力
を通して打ち勝とうとする試み、つまり人間の有
限性によって引き起こされる不安である。」
「治療は、私たちの有限性を受け入れ、私たちの
信頼を神に置くことである。」
「しかし、この治療は私たちの態度を変える事柄
であって、真の回心ではない。」
*************************************************
2007.09.09 Yamasaki Chapel Short Message
キリスト教神学 第三巻:第六部 罪
第28章 罪の根源 : 第一節 罪の根源についての諸概念
第二項 有限性の不安:icd_20_030003-ct_28_p.152-155関連
*************************************************
新改訳 創 2:9-25
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
新改訳 創 3:1-9
3:1
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_030002-ct_28_p.148-152】
*************************************************
【@ 罪の根源は、動物的性質にある。】
「フレデリック・テナントは、罪の根源は私たちの動
物的性質にあると主張している。」
「罪は単に、動物的祖先から人間が道徳意識を習
得した時代に至る通常の本能や行為のパターンへ
の執着にすぎない。」
「このケースにおいて、治療は初期の無垢の時代
への単純な反転であることはできない。」
「むしろ、それはそれらのより古い本能から私たちを
完全に自由にする事柄であり、またそれらを支配し
正しく導くことを学ぶことであるだろう。」
「罪の治療についてのこの概念は、進化のプロセス
が人類を正しい方向に導いているという楽観的な信
念を包み込んでいる。」
「文化一般」のコンテキストの中にある「罪の根源」
についての見方の第一に取り上げられていますの
は、「進化論」をベースにして「罪論」というものを
再構築する試みであるといえます。
第一段落では、「創造と堕落」についての聖書の
記述が“異なった光”のもとでみられるようになった、
と指摘されています。つまりは、「創造と堕落」に
ついての聖書記事の再解釈のことです。
その背景として、「五書の批評学的研究・文書資料
説」の受容と「生物学的進化論」の人気がありました。
「創造と堕落」の記事の歴史的信憑性が問題視され、
新しいコンテキストのもとで「罪の起源」についての
別の説明が求められるようになりました。
テナントは、「自然科学と他の学問分野〔文書批評と
歴史的釈義、比較宗教と人種心理学、地質学と人
類学〕」が、「人間は自由を用いて反逆し、原初の
義の状態から堕落した」という“堕落の教理”を信じ
ることを不可能にしていること、
またふたつの前提−@罪の普遍性とA罪意識の
問題を「すべての人はアダムにおいて罪を犯した」
という“アウグスティヌスの原罪の教理”の代わりに、
@人間の本質を構成するものとA進化の過程の中
での道徳意識の発展に見いだせると考えています。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_030001-ct_28_p.148 】
*************************************************
【罪の根源:種々の概念】
「私たちは罪に関する幾つかの聖書的見方に言及
してきた。」
「さて私たちは、罪の根源、罪に至る原因あるいは
誘因について問う必要がある。」
「それが非常に重要であるのは、罪の治癒がその
原因を特定し、それを取り除くことを必ず含んでいる
からである。」
エリクソンは神学を定義して「第一義に聖書を基盤
とし、文化一般の文脈の中で、今日的な表現を用
いて、生の諸問題に関連づけながら、キリスト教信
仰の諸教理についての首尾一貫した言明をするべ
く努める学である」と記述しています。
27章で、エリクソンは「罪について学ぶ方法」を「@
経験的・帰納的アプローチ、Aパラダイム方式、B
罪を表す用語のすべての注目する」のうちの、第三
の方法を選択し、罪を示す聖書的用語のすべてに
注目し、多種多様な概念を検証し、罪の本質的要素
を見出しました。
罪を表す用語は多様性に富んでおり、それは当惑す
るような多様性をもっており、それらの中から、さまざ
まな仕方を貫く共通した要素をつきつめていくことに
より、罪の本質とは何かを明らかにしていきました。
27章では聖書における「罪を示す聖書的用語」の
コンテキストをみることを学びました。28章では、
もうひとつのコンテキストである今日の文化一般、生
の諸問題との関連における思想・哲学・神学におい
て、「罪の根源」についての理解の多様性をみてい
くことになります。
それらの中でエリクソンは、以下のものを取り上げて
います。それは@動物的性質〔フレデリック・テナント〕、
A有限性の不安〔ラインホルド・ニーバー〕、B実存
的疎外〔パウル・ティリッヒ〕、C経済的闘争〔解放
の神学者〕、D個人主義・競争性〔ハリソン・エリオ
ット、ジョン・デューイの哲学の信奉者〕です。
*************************************************
2007.09.02 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 ロマ 5:20-21
5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
新改訳 ロマ 7:24-25
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
新改訳 ロマ 8:1-2
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_020006-ct_27_p.146 】
*************************************************
【D罪は神を排除することである。】
新改訳 出 20:3
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
新改訳 マコ 12:30
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
「罪は神を神たらしめることに失敗することであ
る。」
「それは神のものである最高の座にほかの何か
を、何でもほかのものを置くことである。」
「神の上に何か有限の対象を選択することは、た
とえ無私なことであったとしても、悪である。」
「この主張は、旧約と新約の聖書の主要なテキス
トによって支持されている。」
「十戒は、神に適切な場所を与える命令で始まっ
ている。」
「『あなたはわたしのほかに、ほかの神々があっ
てはならない。』〔出エジプト20:3〕は、律法にお
ける最初の禁止事項である。」
「同様に、イエスは最も大切な戒めは、『心を尽く
し、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あ
なたの神である主を愛せよ。』〔マルコ12:30〕で
あると断言された。」
「神をふさわしく認めることこそ第一である。」
「高慢ではなく、いかなるかたちであっても偶像
礼拝こそ罪の本質である。」
「神の排除」は、英文テキストでは、“Displacement
of God”です。
New College English-Japanese
Dictionaryによれば、
@転置、置換、A排除、立ち退き、B解任、解職と
記述されています。かなり強い意味のことばである
とのニュワンスが伝わってきます。
それと、「罪について学ぶ方法」で三つのアプローチ
の中から、第三のアプローチである「罪を表す聖書的
用語のすべてに注目する」方法を選択し、@多種多
様な概念を見出し〔当惑するような多様性〕、Aそれ
らの概念を検証し〔総合的定義〕、B罪の本質的要
素を特定〔基本的原則・潜在的要素〕していきました。
その結果が、三つの見解−@肉欲、A自己本位、
B神の排除、の中から、より望ましい見解として「神
の排除」の選択でありました。
この「罪論」構築のプロセスは、非常に分かりやすい
ものだと思います。
この背景には、第一巻のpp.30-32「学としての神学」
にあります通り、@知識の明確な対象、A明確な、
首尾一貫した道筋、B自身と他者への説明責任、
という基本原則に忠実な扱いとなっています。
さらに詳細には、第三章「神学の方法」に提示され
ています「神学研究の過程:@聖書の資料の収集、
A聖書の資料の統合、B聖書の教えの意味の分析」
の手順がきちんと守られています。
エリクソンは、「罪について学ぶ方法」の第三のアプ
ローチを選択しているわけですが、第一のアプローチ
である「経験的・帰納的アプローチ」、第二のアプロー
チである「パラダイム・アプローチ」を用いて研究した
場合の「罪論」構築のプロセスは、実際的にどのよう
なものなのか、そのようなアプローチをした神学には
どのような神学書があるのか、そしてその結論はど
のようなものになっているのか、そのあたりの比較
研究も興味深いものになると思います。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」
icd_20_020005-ct_27_p131-133,143 】
*************************************************
【C罪は神の基準の不完全な達成である。】
新改訳 Tサム15:23
15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
新改訳 マタ 6:2
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
新改訳 マタ 6:5
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
新改訳 マタ 6:16
6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
「罪は神の基準の不完全な達成である。」
「罪についての聖書の特徴のすべてを通じて
共通する要素は、罪人が神の律法を成就する
ことに失敗したという思想である。」
「私たちが神の義の基準を満たすことに失敗
するそのかたちは多種多様である。」
「与えられた限界を越える、つまり『違反する』
こともある。」
「基準に全く達しない、あるいは神が命じ期待
されることを何もできないこともある。」
「サウルは、アマレクと彼らが所有するすべて
を聖絶するようにとの神の命令に従い通すこと
に失敗した。」
「サエルは王アガグと最良の家畜類を惜しんだ
ゆえ、神はサウルをイスラエルの王から退けら
れた。」〔Tサムエル15:23〕
「私たちはときどき、悪い動機で、正しいことを
行うかもしれない。したがって、律法の精神を
達成することなく、律法の文字を達成する。」
「マタイ六章において、イエスは第一義的に神
を喜ばすことよりも、他の人々の賞賛を得よう
とした善行を非難された。」
「C罪は神の基準の不完全な達成である。」
は、メイン・テキストではpp.131-133の「的を
はずす〔Missing the Mark〕」の内容に符合し
ています。
「的をはずす」という用語は、「罪は、神の全
き愛と神への完全な服従という、神の立てた
目標、その基準に命中することに失敗するこ
とであるゆえに、つねに神に対する罪である。」
p.132
「第五節 罪の根本的な性質」CT,p.143 には、
「罪を表す用語」の異なった側面、当惑するよ
うな多様性の中から“総合的定義”の形成が
試みられており、「神の基準の不完全な達成」
は、「的をはずす」や「違反」の項目を中心に
「罪の特徴を強調する用語」において貫かれ
ている“共通の要素”をもっています。
今日、説教壇から「罪について」語ることの困
難さを、「否定的なことを語ってはならない」と
いう時代の風潮の下でエリクソンは指摘して
います。しかし、肯定的に考えることの効用は
ある程度評価するとしても、その切り口だけで
は聖書的なメッセージは失われてしまうことに
なると思います。
罪についてふれる説教をするとき、聖書学部
門の成果のみでは弱いと思います。それは、
「罪論」という福音の真理を 断片的・部分的に
はではなく、全体像を明確化し、「罪論」の教
理を バラバラにではなく、常に「罪論」の全体
性はいかなる内容をもつものなのかを説教準
備の“基本的視点”としてもっておく必要があ
ると思います。
「罪」についてふれるときは、「罪論全体」の教
理的内容との有機的相互関連性の中で陳述し、
キリスト教真理の有意義性・妥当性を現代とい
う状況を踏まえつつ立証していくことが求めら
れていると思います。
説教準備の基本的視点を身につけるために、
「第六部 第二十七章 罪の本質」においては、
「罪を表す用語」は、聖書学的な詳細な解説
であり、「当惑するような多様性」を感じる領域
であります。そのあたりは軽く見ていくことにし
て、繰り返し熟読するのによいと思われる箇所
は、「罪の教理と他の教理との相互関係」、
「罪を論じることの困難」、「罪について学ぶ方
法」、「罪の根本的な性質」です。
これらのイントロダクションとコンクルージョンを
繰り返し“反芻”するようにして学ぶことは、基
本的視点を身につける上で有益だと思います。
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/08/01-08/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます
夏季のさまざまな諸奉仕で多忙な日々を過ごされた
ことと思います。特に、今年は猛暑の夏であったと
いえるかもしれません。ここ数日は雨も降り、少し
過ごしやすくなってきたように思います。
この八月は、先月の継続として、堀尾輝久先生の
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介を中心
に、この問題を考えてみました。そして後半は、
日本国の社会的罪としてのアジア諸国への戦争犯罪、
そしてそこからエリクソン著「キリスト教神学」の
罪論を学んでいくことにしました。
皆様の学びの一助にしていただければ幸いです。
ICI 安黒務
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020004-ct_27_p127 】
*************************************************
【B罪は霊的不能性である。】
新改訳 ロマ 1:21
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
新改訳 ロマ 1:28
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
新改訳 ロマ 1:29-31
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
新改訳 ロマ 12:2
12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
「罪は霊的不能性である。」
「それは私たちの内的状態、私たちの性質を
変える。」
「罪を犯すとき、いわば、私たちはねじれたり、
曲った者となる。」
「私たちが創造された神の像は、乱れたものと
なる。」
ローマ一章において、パウロはこの経過を描写
している。」
「神を知ることを拒否するとき、罪人は彼らの思
いにおいて空しくなり、無知な心は暗くなった。
〔21節〕」
「神は彼らをよくない思い〔28節〕、事実上不適
切で、不適格な思いに引き渡されました。」
「それ自身で放っておかれるとき、人間の思い
は正しく知ったり、私たちの行為を方向づけたり
することができない。」
「この霊的不能性の結果が29-31節の一覧に
載せられている罪である。」
「神による心の一新を通してのみ、個々人は捻
じ曲げられていない、霊的に健康な状態〔ロー
マ12:2〕に回復されうる。」
「罪は霊的不能性である」の段落は、「罪を表す
用語」の「罪の原因を強調する用語」の「無知」
の段落で言及されているものと符合しています。
この段落においては、ローマ一章の解説が中心
ではなく、エペソ4:18 の解説がされており、その
内容が符号しています。
エリクソンは、罪が「霊的不能性」という結果を
もたらすことを指摘し、ローマ一章において罪が
霊的不能性をもたらすプロセスを解説しているこ
とを指摘しています。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020003-ct_27_p135-138 】
*************************************************
罪を表す用語をエリクソンは、「原因、特徴、結果」
の三つに分類しています。それらは、木に例えま
すと「根、幹、果実」に例えられるのではないでし
ょうか。
根:@罪の原因を強調する用語:無知・誤り・不注意
幹:A罪の特徴を強調する用語:的をはずす・無信仰・
違反・不正または誠実の欠如・反逆・裏切り・歪曲・
忌み嫌うべきこと
果実:B罪の結果を強調する用語:動揺または不
安・悪または良くないこと・罪責・災い
【A罪は反逆であり不従順である】
新改訳 ロマ 2:14-15
2:14 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
――
新改訳 創 2:16-17
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
「罪は反逆であり、不従順である。」
「聖書は、すべての人が神の真理に接触している
と仮定している。」
「パウロは、これは、神の特別啓示を所有していな
いけれども、心に書かれた神の律法を持っている
〔ローマ2:14-15〕異邦人をさえ含んでいると言及
している。」
「特に、公然とわざわざ提示されたときに、そのメッ
セージを信じ損ねるのは、神に対する不従順であり、
反逆である。」
「根本的な例は、アダムとエバの罪である。」
「彼らは、エデンの園でどんな実を食べることも許
されていたが、神は善悪の知識の木からは食べ
てはいけないと命令されていた。〔創世記2:16-17〕」
「アダムとエバは、何が善であり何が悪であるのか
について語る神の大権を拒絶した。」
「彼らは、神の権威に反逆し、そのようにして彼に
不従順であった。」
【第二節 罪の本質に関する聖書的見方】の
「A罪は反逆であり不従順である」もまた、ひとつ
の項目からの抜粋ではありません。
これは「第四節 罪を表す用語」の中の複数の項目
からのエッセンスの抜粋と再構成によってできた
ものだと思います。
pp.135-136 の「第四項 違反」の中のアダムとエバ
の禁断の実を食べたこと、pp.136-138 の「第五項
反逆」の箇所の幾つかの部分の抜粋・編集です。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020001-ct_27_p126 】
*************************************************
【第二節 罪の本質に関する聖書的見方】
「罪という主題に関して、今日の多くの人々は、
無知であったり、あまり心地よくないけれども、
私たちがこの教理を検討するのは絶対必要で
ある。」
「聖書は罪の本質についてたくさんの見方を
提示している。」
この文章は、メイン・テキストにはないのです
が、メイン・テキストを抜粋し構成していく中で
必要なつなぎの文章ということができます。
メイン・テキストには、「罪について学ぶ方法」、
「罪を表す用語」、「罪の根本的な性質」という
かたちで展開されていっています。
「罪」という主題にアプローチする方法として三
つが提示されています。第一に「経験的また
帰納的アプローチ」、第二に「パラダイム方式」、
第三に「罪を表す聖書的用語のすべてに注目」
です。
エリクソンは、第三のアプローチを選択していま
す。
このことは、「第一義的に聖書を基盤とし…」と
いうかたちで神学形成に取り組むエリクソン神
学にふさわしいことです。
「神学入門」で繰り返し学ぶことですが、神学が
「聖書的」であるためには、まず聖書をありのま
ま受け取らなければならない 、聖書「自身の用
語」で聖書を受け入れ 、聖書の「そのものの基
盤」に立ち 、聖書「自身の見地」から研究し 、
その「成果」を提示すべきである、つまり、聖書
を無理に異質の哲学思想の中に押し込めては
ならない、ということです。
そして、聖書学部門の成果を、組織神学部門
において、重視するポイントとして、福音の真理
を 断片的・部分的にはではなく、全体像を明確
化し、個々の教理を バラバラにではなく、他の
諸教理と有機的相互関連性の中で陳述し、キ
リスト教真理の有意義性・妥当性を現代という
状況を踏まえつつ立証していくことが求められて
いるのです。
エリクソンは、「罪を表す聖書的用語のすべてに
注目」していきます。そこには「多種多様な概念」
が登場します。
次にこれらの概念を検証して、罪の本質的要素
を発見します。
【罪を表す用語】は、「@罪の原因を強調する用
語:無知・誤り・不注意」と「A罪の特徴を強調す
る用語:的をはずす・無信仰・違反・不正または
誠実の欠如・反逆・裏切り・歪曲・忌み嫌うべき
こと」と「B罪の結果を強調する用語:動揺また
は不安・悪または良くないこと・罪責・災い」とリ
ストされ、それそ゜れの用語が解説されています。
そしてそれらの多種多様な概念が検証されて
「罪の本質的要素」が抽出され、【罪の根本的な
性質】として「@肉欲、A自己本位、B神の排除」
が提示され、それぞれ分析評価され、「罪は基
本的に肉欲や自己本位という見解より望ましい
代わりの見解は、罪の本質は単に神を神たらし
めることに失敗することである」というものである、
と定義されています。
「罪を表す聖書的用語のすべて」から「多種多様
な概念」を検証し、その中から基本的要素を抽出
し、最終的に「罪の本質」として“Displacement
of God〔神の排除〕”という結論に到達していくと
ころからはいろいろと教えられます。
聖書的であろうとすることが、扇の展開のように
拡散し、雲散霧消≠オてしまうことになってしま
うのではなく、組織神学者としてひとつの結論に
導き、しぼっていく過程、手順の運び方からは多
くのことを教えられます。
さて『基督教教理入門』では、五つのポンイトが
示されています。それらは「@罪は内的傾向で
ある。A罪は反逆であり不従順である。B罪は
霊的不能を伴う。C罪は神の基準の不完全な
達成である。D罪は神の排除である。」と。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_020002-ct_27_p126 】
*************************************************
【@罪は内的傾向である】
新改訳 マタ 5:21-22
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
新改訳 マタ 5:27-28
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
「罪は内的傾向である。」
「罪は単に悪しき行為であるだけではない、そ
れは罪深さでもでもある。」
「それは、私たちを悪しき行為へと向かわせる
生来の内的傾向である。」
「さて、動機は事実上、行為と同様に重要なも
のである。」
「だから、イエスは殺人と姦淫と同様に、怒りや
情欲を激しく非難された。〔マタイ5:21-22, 27-
28〕」
「私たちが罪を犯すゆえに、私たちは罪人であ
るということは単純ではない。私たちは罪人であ
るゆえに、罪を犯すのである。」
「それでは、この罪の定義を提供しよう。」
『罪とは、能動的ににであれ、受動的にであれ、
神の道徳律に一致しないことである。これは行
為、思い、内的傾向や状態に関する事柄である
かもしれない。』
「罪とは、神が期待しておられることに、行為や
思いや存在において達していないことなのであ
る。」
エリクソンは、要約版における「罪の性質に関
する聖書的見方」において、五つのポイントを
あげています。
メイン・テキストと比較しながら、その取り上げ
方に注目していきますと、メイン・テキストの構
成に従ってない、アットランダムなかたちで扱
われているような気がします。
メイン・テキストでは、p.127-146までの約20ペ
ージで扱われている内容を約1ページに圧縮
して記述するわけですから、それは仕方のない
ことだと思います。
しかし、それだけに要約版は、メイン・テキスト
の詳細な原語からの解説で散漫になりやすい
内容を、簡潔明瞭によくまとめられていると思
います。
要約版における「罪の本質に関する聖書的見方」
の第一項「罪は内的傾向である。」は、「罪を表す
用語」からの項目でも、「罪の根本的な性質」から
の項目でもありません。
対応する箇所を探していますと、「罪の根本的性質」
の三つの項目「肉欲」「自己本位」「神の排除」の
導入における説明、つまり“総花的”に扱ってきまし
た「罪を表す用語」と「罪の根本的性質」をつなぐ
“架け橋”的な位置の文章の中にあるエッセンスを
要約版における「罪の本質に関する聖書的見方」
の第一項「罪は内的傾向である。」と取り上げられ
ているのです。
エリクソンの著述の“妙〔まねることができないほど
すぐれていること〕”のひとつとして、“つなぎの、接
続文”があげられます。
部と部、章と章、節と節をつないでいく文章の神学
的味わい、これに注目して読まれることをおすすめ
します。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010003-ct_27_p126 】
*************************************************
「さらに、多くの人は“罪”(sin)という概念を、内に
ある力、生来の状態、自分を支配する力としてと
らえることができない。」
「今日では、sins すなわち個々の間違った行為と
いう点から考えるほうが多い。sins とは外的で具
体的なものであり、論理の上で個人から分離して
いる。」
「これに基づいて、悪いこと(一般に外的な行為を
考えている)をしない人は善良な人と見なされてい
る。」
その昔、コンパニオン・バイブルという英語の聖書
を購入しました。
聖書の各章、各節を分解して構造的に再構成され
ているところが新鮮でした。
文章の構造が明確にされて読みやすいと思いまし
た。
そのローマ書の構成で、Sin:
its self と sins:
its
results と分解表があり、ローマ書理解の助けとな
りました。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010002-ct_27_p126 】
*************************************************
「罪を論じることが難しいもうひとつの理由は、多く
の人にとってそれがなじみのない概念であるという
ことである。」
「社会の諸問題を人間の罪深さよりも不健全な環
境のせいにすることで、客観的な罪意識は、ある
人々の間では相対的にまれなものとなっている。」
「部分的にはフロイト主義の影響で、罪意識とは人
がもつべきでない非合理的な感情であると理解さ
れている。」
「超越的で有神論的な基準がなければ、自分や他
の人間以外に、人が応答や説明の責任を負う相手
はいない。」
「したがって、もし自分の行動がどの人にも害を与え
ないのなら、罪責を感じる理由はないことになる。」
「不健全な環境のせいにする」というポイントは解
放の神学=A「人がもつべきでない非合理的感情」
というポイントはフロイトの心理学=A「超越的で
有神論的基準がなければ…」というポイントは中
村元著『東洋人の思惟方法3:第四編 日本人の思
惟方法 第三節 人倫重視傾向』≠ヘ、参考になるの
ではなかろうか。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「罪の本質と根源」icd_20_010001-ct_27_pp125-126 】
*************************************************
「第六部 罪論」を全体的にみていくことにしましょう。
要約版『基督教教理入門』の二十章の第一節は、
以下の記述から始められています。
「罪の教理は重要であるが、いくつかの理由から、
今日たやすく論じられる主題ではない。」
「理由の一つは、罪は死と同じように心地よい主題
ではないということである。」
「我々は自分を悪しき人間と考えることを好まない。」
「ところが罪の教理は、これが我々の生来の姿であ
ることを教える。」
「我々の社会は、積極的な精神的態度をとることを
強調する。」
「積極的な考えと考慮、人間の可能性と業績のみを
目立たせることが強調されている。」
「人間を罪人として語ることは、非常にあらたまった
威厳のある上品な集まりでは、あるいは教会でさえ、
不敬な言葉やわいせつな言葉を絶叫するのと同じ
ようなことなのである。」
「それは禁じられている。」
「一般的にであるこのような態度はほとんど、新しい
タイプの律法主義となっている。」
「そのおもな禁止令は『あなたは否定的なことを語っ
てはならない』である。」
ここでの導入は、米国におけるキリスト教メッセージ
への可能性思考≠ニか成功哲学≠フ影響の大
きさへの言及です。
ロバート・シューラー師のメッセージを読みましたとき、
これは果たして「キリスト教のメッセージといえるのだ
ろうか?」と大きな疑問を感じました。
聖書の言葉は使用されていますが、その内容は「成
功哲学・可能性思考」のオンパレードのように思いまし
た。
昨年、先輩の牧師から米国で急成長しているある教
会の話を聞きました。そのメッセージとは「積極的思
考」だと言うのです。
教会成長学的には評価すべき幾つかの点があると
思いますが、福音主義神学の視点からは「問題多し!」
といわねばならないと思います。
丁寧な聖書解釈の延長線上に、聖書にある本質的メ
ッセージの今日的適用の一部として、そのようなメッ
セージが生まれてくることまでは否定できませんが、
徹頭徹尾、いわば金太郎飴≠フように聖書のどこを
解釈しても、そのようなメッセージが生まれてくるとす
るなれば、「これは問題多し!」といわざるを得ないと
思います。
*************************************************
2007.08.26 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
出エジプト 20:1-9
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 B 】
*************************************************
1989年ベルリンの壁崩壊の頃、東京キリスト教
学園の共立基督教研究所で学んでおりました。
そのときに、奉仕教会でありました堺福音教会
東京チャペルで、元JEC奈良福音教会長老で
ありました清水氾先生〔東京キリスト教学園教授〕
に三浦綾子文学について講演を依頼しました
ところ、『氷点』と『続氷点』についての講演をし
ていただきました。
『氷点』と『続氷点』は、大学受験時代からの愛
読書のひとつであり、わたしの「キリスト教信仰」
への道備えをしてくれた書物でありました。すで
に内容は熟知しているつもりでありましたが、そ
のときの講演において新しく、より深い洞察を
いただきました。
それは、『氷点』のテーマは個人の原罪≠ナ
あり、『続氷点』のテーマは社会的罪≠ナある、
ということでした。『氷点』は真っ白な雪に埋もれ
た河原で陽子は自殺をはかります。『続氷点』で
は夕焼けが流氷を真赤に染め上げます。そこに
は、イエス・キリストの十字架の贖いが強く暗示
されています。
エリクソン著『キリスト教神学』の罪論は、「罪の
本質・罪の根源・罪の結果・罪の重大性」と
個人の原罪≠ノ焦点をあてています。しかし、
そこで終わりません。「罪の社会的側面」におい
て社会的罪≠ノも光を注いでいます。この神
学の領域を学びますときに、私たちは今日と未
来に目を向けるだけでなく、「アジア諸国になし
た2000万人の犠牲、日本国民になした300万
人の犠牲」の内容について、背負っている過去
に対しての神学的な思索をなし続ける責任が
あると思います。
このテーマはエリクソン著『キリスト教神学』の
「第六部:罪論−31章:罪の社会的側面」を学
ぶときに必ず触れられねばならない領域であり、
日本における神学校の神学教育において欠け
てはならない領域だと思います。
この事柄に触れない神学教育は、輸入神学
教育≠ニいわれても仕方がないと思います。
日本における宣教と教会形成の歴史の「教会
と国家」の問題を直視し、その問題との神学的
格闘の上にこそ、日本における真の神学教育
のあり方がみえてくるのではないでしょうか。
古屋安雄・大木英夫著『日本の神学』や稲垣
久和著『大嘗祭とキリスト者』等は、このテーマ
に関するよい参考文献と思います。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 A 】
*************************************************
「第六部:罪論」は、メイン・テキストの『キリスト教
神学』においては、
27章:罪の本質
28章:罪の根源
29章:罪の結果
30章:罪の重大さ
31章:罪の社会的側面
の五つの章から構成されています。
サブ・テキストの『基督教教理入門』においては、
・罪の本質と根源
・罪の結果
・罪の重大さ
の三つの章から構成されています。
ここでは、すでに出来上がっていますメイン・テキ
ストの翻訳を参考に、そのエッセンスをコンパクト
に取捨選択・整理統合されているサブ・テキスト
の教えの解説というかたちで取り組んでいきたい
と思います。
メイン・テキストの「罪の社会的側面」からは、
“How JEC ?”シリーズで取り組んできました
「大日本帝国の戦争責任問題」を神学的に考え
る枠組みが提供されているように思います。
「教会と国家の問題」はあまりにも大きく、わたし
の小さな頭では整理しつくすことはできませんが、
神学的に考える手順・枠組みをもっておくことはと
ても大切と思います。時流に流され、戦前の教会
が犯した同じ過ちを繰り返さないために。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【 罪論 「31章:罪の社会的側面」 研究 @ 】
*************************************************
エリクソン著『キリスト教神学』は、翻訳・出版され
ましたが、神学校での講義は講義時間数の関係
と神学生の理解のレベルへの配慮もあり、講義
内容としましては要約版の『基督教教理入門』の
翻訳を使用してきました。
ただ、要約版の翻訳も約半分で終わっています
ので、メイン・テキストとの関係を解説しつつ、残り
の部分の解説講義に取り組んでいきたいと思いま
す。
現在までに「翻訳・解説メール講義」が終了してい
る箇所は、『要約版:基督教教理入門』の
第一部:神学方法論
第二部:啓示論
第三部:神論
第五部:人間論[の中の「人間論への序論」]
第十部:救済論
第十一部:教会論
第十二部:終末論
となっています。
残されている箇所は、
第四部:神のみわざ論
第五部:人間論の大半
第六部:罪論
第七部:キリストの人格論
第八部:キリストのみわざ論
第九部:聖霊論
です。
ここしばらくは、神学校における「卒論指導」の
関係もあり、「第六部:罪論」に取り組んでみた
いと思います。
*************************************************
“What
JEC ?”シリーズ【No.3】 エリクソン神学の学び方
【序】
*************************************************
“How JEC ?”シリーズの【No.1】は、JECニュース
に半年間連載させていただいたことが始まりでした。
そこでは、「モーセの十戒」の語りかけの本質を今
日のさまざまなコンテキストにあてはめることを試み
ました。
“How JEC ?”シリーズの【No.2】は、七月初旬の
JEC牧師研修会での発題と質疑応答でした。
与えられた課題としての「憲法九条」に関連して
歴史的な脈絡を振り返ることと、「戦争と平和」
に関して聖書とキリスト教会の歴史においては
どのように扱われているのかを考えてみました。
“How JEC ?”シリーズの【No.3】は、「日の丸・
君が代」へのクリスチャンの対応いかにあるべき
か、について堀尾先生のテキストから教えられる
ことを紹介させていただきました。
今年前半に取り組ませていただきましたテーマは、
「日本福音主義神学会西部部会の春期と秋期の
神学研究会議」のテーマとも重なることもあり、数
多くの関連諸文献の収集と研究に集中して時間
をさくことができました。
まだ、秋季神学研究会議に向けての諸準備の関
係で目配りしていかなければならないのですが、
いつまでもこのテーマだけに時間をさいているわけ
にもいきませんので、このあたりで本筋の「神学
研究」に戻させていただきたいと思います。
本筋の神学研究と申しますのは、組織神学では、
エリクソン著『キリスト教神学』の研究、歴史神学
では、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』・
『総説現代福音主義神学』、宗教の神学では、
稲垣久和著『大嘗祭とキリスト者』他です。
神学校で教えさせていただいている関係での、
講義の下準備という側面と、講義時間に制限さ
れることなく、丁寧に深く神学の研究を継続して
いき、それらをネットを通して分かち合うという部
分があります。
そして、日本の福音派の諸教会に、福音派のス
タンダードな神学のあり方を提示していくとともに、
わたしの所属しています「日本福音教会」の教職
者に福音派の中庸な流れの中に自らの福音理解
の位置を再確認していっていただければと願って
います。
『キリスト教神学』の翻訳が完成するまでは、要約
版の『基督教教理入門』の一段落単位の翻訳・
解説タイプのメールによる講義に取り組んでおり
ました。そして念願でありました翻訳・出版となり、
次の目標を模索してきました。まだまだ試行錯誤
のかたちではありますが、画一的なかたちにとら
われないで、わたしの神学研究の取り組みの足
跡を残すというようなかたちで、気負うことなく取り
組んでいきたいと考えています。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
*************************************************
堀尾輝久先生の『国旗・国歌を考える』では、
人間として、日本人として、教師として考える
べき多くのポイントがあると思います。そして
それらの中にはクリスチャンとして、この日本国
において生きる上で見落としてはならないポイン
トがあるように思います。
私たちは「聖日礼拝」において「主の祈り」を唱和
しますとき「天においてみこころがなりますように、
地においてもみこころがなされますように。」と
祈ります。
この「地においてもみこころが…」との祈りの内容
が、ぼんやりしているように思うのです。戦前を知
り、戦後を知る中で、私たちはクリスチャンとして
この戦前の日本と戦後の日本をどう生きるべき
なのか、神さまのみこころに対する鋭い洞察を
いただくことができるのではないでしょうか。
堀尾先生の記述では、「教育という仕事」、「教育
行政のあり方」、「転機の八九年の指導要領」、
「君とは何か」、「問題は画一的な押しつけに」と
いった項目があります。
わたしには見たくないものが幾つかあります。
それは、右傾化する日本の風潮に無防備な
教会の姿、そして一部のその風潮に迎合して
いくクリスチャンの姿です。
昨日、硬式野球の甲子園大会の決勝があり、
佐賀北高校と広陵高校が戦い、佐賀北高校が
劇的な逆転で勝利しました。その試合内容にも
感動しましたが、最近気にしていますのは「君
が代」に対する対応です。「君が代」演奏のとき
テレビ局、特にNHKは選手ひとりひとりをアップ
にして映し出します。まるで、歌っている生徒と
歌っていない生徒を明確にするためのように…。
サッカーの試合でも同様の扱いがなされます。
わたしは、この問題は「内心の自由」に関わる
問題ですので、「このひとは歌っている。この人
は歌っていない。」ことを明示するような映像の
出し方は、基本的人権の侵害にふれると考え
ています。
サッカーの選手も必ずしもすべての選手が歌っ
てはいません。また、広陵の選手はひとりも歌
っていませんでした。これには本当に感動しま
した。多くの人は佐賀北高校の副島選手の逆
転満塁ホームランに感動したかもしれませんが、
わたしは広島≠ニいう背景を背負い、甲子園
の決勝の表彰式という全国民が注視する場で、
彼らの内心にある決意≠見せられたような
気がしました。
私たちクリスチャンは、戦前における「君が代斉
唱、天皇崇拝、神社参拝強制」の背景を、
過去に何もなかったかのように≠ワた
これからは何も起こらないかのように
命じられるままに、「君が代」を唱和することは
許されるのでしょうか。
1889年、大日本帝国憲法の成立、翌年の教育
勅語の成立、その翌年に小学校祝日大祭日儀
式規程ができて広く「君が代」を歌うようになって
いきました。そして「神格化された天皇の御代
が千年も万年も続くように」との意味で「君が代」
が歌われるようになりました。
戦後は新憲法が生まれ、天皇の位置は大きく
変わり、象徴でしかなくなった。その「君が代」
が国歌として歌うことを強制されるようになって
きました。はたして、「こういった歴史をもった君
が代が現代の日本国を代表する国歌たりうる
のだろうか」という疑問を持ち続けることは、偶
像礼拝と戦争協力という大罪をおかした日本人
クリスチャンとしての義務ではないでしょうか。
ドイツのクリスチャンが「ナチス・ドイツ」の犯罪を
忘れることがないように、日本のクリスチャンも
「大日本帝国の犯罪を忘れることはすまい。」
との決意をどこかに保ち続ける必要があるので
はないでしょうか。
入学式や卒業式で、…式典の後ろ側に「日の
丸」が掲げてあり、演壇に昇る方はひとりひと
りまず頭を下げます。何に頭を下げているので
しょうか。…それをしないことは愛国心がない
からなのでしょうか。
堀尾先生は、「先生は、思想・信条の自由の
重要性を教えて国旗・国歌に対してる敬礼
しない自由=A歌わない自由≠ェ保障され
ていることをきちんと指導しなければならない」
と記述されています。
わたしも堀尾先生と声をあわせて「牧師は、
戦前の『教会と国家』の関係において陥った
過ちを踏まえ、思想・信条の自由の重要性を
教え、国旗・国歌に対して敬礼しない自由
、歌わない自由≠ェ保障されていることを
きちんと指導しなければならない」と思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■職務命令の根拠とは
*************************************************
日の丸・君が代が国旗・国歌たりうるか、このこと
で最も心を痛めているのは、教育現場にある教師
です。この問題を解決するために「職務命令」の根
拠を強化することが、法制化の狙いです。
しかし、大きく意見が分かれる問題を「職務命令」
のゆえに強制的に従わせる、従わない者は処分
する。「公務員の教師だから…」と言われます。
それでよいのでしょうか。
「この職務命令を強行する理論的な根拠として、
特別権力関係論≠ニいうのがあります。」
「これは行政法の理論で、戦前のいわば命令
を強行する根拠として、一般的な市民と国家
との関係ではなくて、たとえば公務員の世界
では特別に国家権力の命令に従わなければ
ならないという議論があります。」
「まさにいま文科省が使っている議論はそれ
です。しかし、この特別権力関係論なるものが、
たとえば行政法学会でどういうふうにとらえられ
ているか…。」
「行政法学会においても、特別権力関係論一般
に対して批判が強まり、こんにちでは、特別権
力関係論の不必要説をもあわせて、もはや特別
権力関係論は通説でないのみならず一般に積
極的な学説の支持が得られなくなっている…」
「職務命令、そしてその根拠は、公務員だから
と言っています。」
「しかし公務員の中でも教育公務員には、特別
の自由が保障されているはずです。」
「では私学はどうなのか。公教育という場合に、
私学を含んで公教育なのです。私学に保障され
ている自由は公立学校にも保障されてよいもの
なのです。」
「それでは公教育とは何か。それは教育という
ものが一人ひとりの権利であると同時にパブリ
ックなのであって、公といえば国家が介入する
という公観そのものが戦後否定されたわけです。」
「戦後改革によって教育は国家への臣民の義務
から国民の権利に変わり、子供の権利、親の
教育権、教師の教育の自由と責任を軸として、
教育の自律性と自由を励ますこと、そのための
条件整備をこそ教育行政の軸に据えなければ
ならない。」
「公教育だから、公務員だから従わなければい
けない、そんなことではない。むしろ、職務命令
の内容自体が憲法に違反するような場合どう考
えるかということが大きな問題であり、」
「日の丸・君が代の押し付けは、それが子供の
内面の自由、さらに教師の思想・信条の自由を
抑圧することにならないか。」
「それを強要する職務命令こそ憲法に違反する
のではないか。」
「日の丸・君が代」の問題は、戦前のひとつの価
値観の強制につながる可能性を強くもっています。
かつて「日本精神」論者が唱えたような「国体」観
念がそのいい例です。
ですがそれらは、よく調べてみると、ある時代以後
に初めて「支配的」になった、創られた伝統にすぎ
ないことも多いのです。
そしてまた、そうした伝統復活論は、「非支配的」
で「傍流」であった考え方を無視する「ドグマ」の上
に立って、「伝統」を語る。
それに対して丸山真男は、過去の思想の中から
何を「われわれの伝統」として定着させるべきかは、
「現在におけるチョイスの問題」だとします。
「支配的ででない、つまり時代の通年とはならな
かったが、まぎれもなく過去にあった考え方という
ものからわれわれが自由に糸を紡ぎ出してもいい
わけです。」
伝統は、「われわれが主体的に自分の人類の過
去の遺産から選択」し、血肉とすべきものである
以上、外来文化であるということは、それを伝統か
ら排除する理由にはならない。」
たとえば「幕末以来輸入したヨーロッパの文明や
思想」も、現代の日本人にとっては、十分に「伝統」
とよびうるのです。
〔苅部直著『丸山真男』pp.198-199〕
先月の参議院選挙においては、安倍総理は「戦後
レジームからの脱却」を主張し大敗北しました。
終戦記念日には、衆議院の河野洋平議長は「われ
われは、戦前のレジームを批判し、戦後レジーム
を選択して、今日ある」と語られました。
私たちは戦前レジームの反省の上に、戦後の新し
いレジームを日本の新しい伝統として継承・深化・
発展させていく義務があるのではないでしょうか。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
関連文献:読書週間レポート
*************************************************
ここ、一、二週間、あまり記述せずに、読書に時間
をとっておりました。それらは、堀尾輝久著『日本の
教育』『天皇制国家と教育』、丸山真男著『忠誠と
反逆』、苅部直著『丸山真男−リベラリストの肖像
−』、丸山真男・武田清子、他『日本文化の隠れた
形』、武田清子著『正統と異端の間』『土着と背教』
等の今回のテーマにおける関連個所を拾い読みし
ておりました。
関連文献は次第に広くなり、上記の著者の数多く
の著作とともに、高橋哲哉氏の著作も集めること
になりました。高橋哲哉著『国家と犠牲』からも新
たな洞察を教えられました。この書に関しましては、
稲垣久和著『靖国神社解放§_』と比較して
読みますと、無神論的なリベラリストと有神論的な
リベラリストの視点の相違が明らかにされます。
前者は、国家が戦争の悲惨さを隠ぺいするために
して靖国神社のような装置をつくることを、諸外国
の実例もあげつつ解説されています。後者は、そ
の焦点が遺族の上に向けられているところに特徴
があるように思います。前者は、宗教的要素の否
定的見方が特徴としてありますが、後者には宗教
的要素に肯定的な見方があり、靖国的な一元的
な扱いには否定的ですが、より開かれた多元的
見方が提唱されているように思います。
特に、印象に残りました他の関連書籍としまして、
藤原彰著『餓死した英霊たち』と城山三郎著『落
日燃ゆ』があります。学校の歴史の授業では、明
治・大正・昭和の歴史のおおまかな流れを学びま
した。
日本国憲法の国民主権・基本的人権・平和主義
の生まれてきた背景を学ぶためには、それらの歴
史の内容を学ぶことが大切と思います。歴史の表
面だけを見て歴史を美化≠キるだけでは片手落
ちになると思います。
*************************************************
2007.08.19 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 ロマ 5:1-11
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
*************************************************
2007.08.12 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 イザ 51:1-3
51:1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
51:3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■教育の本質と国家の関係
*************************************************
昨日、「日本福音主義神学会西部部会・秋季神学
研究会議」のコーディネーター会議に出席してまい
りました。
今回の担当は、会場校の「神戸改革派神学校」校
長の市川康則先生と関西聖書神学校校長の工藤
弘雄先生と一宮基督教研究所から私の三人がコーディ
ネーターとして、「秋季研究会議」の準備にあたらせ
ていただいています。
今回のテーマは、「教会と国家−右傾化する時代
における信仰と宣教−」となりました。“How JEC ?”
シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJECで扱って
きましたものと符合する内容になると思います。
■教育の本質と国家の関係
堀尾先生は「政府は思想・信条の自由に枠をはめ、
特定の解釈を固定化して押しつけていいか」という
問題を「教育の本質から考えるべきだ、そして教育
の本質と国家の関係を問うべきだ。」と語られてい
ます。
この設定の仕方は、歴史神学の領域で「教会と国
家」の関係を扱うときの設定の仕方と類似していま
す。私は、堀尾先生の「教育の本質と国家の関係
を問うべきだ」との語りかけを、「教会の本質と国家
の関係を問うべきだ、またキリスト教信仰の本質
と国家の関係を問うべきだ」と読み変えて学ぶべき
点か゜多いように思います。
堀尾先生は、コンドルセというフランス革命期に活
躍した思想家が、「近代の国家と教育の基本的関
係」について「政府はどこに真理が存し、どこに誤
謬があるかを決定する権利はもたない、政府によ
って与えられる偏見は、真の暴政であり、自然的
自由のうちの最も貴重な部分の一つに対する侵
犯である」と紹介されています。
コンドルセは「公教育の必要を説き、そしてその公
教育で何をなすべきか、それは人権としての教育
をすべての国民に対する保障する制度としての公
教育、そのためには国家はその内面に介入すべ
きではない、どこに真理がありどこに誤謬があるか
を決定する権利はもたない。」こと、つまり「教育の
独立性、自律性」を主張しました。
さらに、イエリネックというドイツの法哲学の大家は
「国家は内面に関わるものは何も生産しない」と
語っています。堀尾先生は、これが「内面の自由、
そして教育の本質と国家の関係についての学説
的に非常に大事なポイント」と指摘されています。
堀尾輝久著『人権としての教育』岩波書店、
pp.10-11 には「『国民の生涯を通じての学習権』
の思想は、なによりもまず、人間の本性に根ざし、
人間の創造性と文化の永続性、人間の未完成さ
と、より完成した姿へ向かっての不断の努力の
なかに、その根拠がある。この思想は、生涯にわ
たっての国民統制的発想からくる『生涯教育論』
とは、鋭く対立するものである。『自己学習の権利』
の思想を軸とする生涯教育論の源流は、これまた
コンドルセに求めることができよう。」と記述されて
います。
「日の丸・君が代」の問題は、ある意味で深刻な
問題をはらんでいると思います。
「日の丸・君が代」の問題は、「政府は思想・信条
の自由に枠をはめ、特定の解釈を固定化して押し
つけていいか」という問題であり、「政府はどこに
真理が存し、どこに誤謬があるかを決定する権利
はもたない、政府によって与えられる偏見は、真
の暴政であり、自然的自由のうちの最も貴重な
部分の一つに対する侵犯である」ということなの
です。それゆえ、人権としての教育をすべての国
民に対する保障する制度としての公教育、その
ためには国家はその内面に介入すべきではない、
どこに真理がありどこに誤謬があるかを決定する
権利はもたない。」こと、つまり「教育の独立性、
自律性」の問題なのです。
ある神学者は「文化の本質は宗教[信仰]であり、
宗教[信仰]の表現は文化である」と語っています。
ローザンヌ会議の、分野別の継続会議である
ウィローバンク会議のレポートの中に文化につい
ての定義があります。
「文化とは、〔神や本質的な存在や究極的意味
についての〕信仰や、〔何が真実であり、善であ
り、美しく規範的なものであるかについての〕価値
や、〔どう振舞い、他人と関わり、話し、祈り、着飾
り、働き、遊び、商売し、農作し、食べたらよいか
等々についての〕習慣や、またこれらの信仰や、
価値や、習慣を表現する機構〔政府、裁判所、寺
院や教会、家族、学校、病院、工場、商店、組合、
クラブ等〕など社会を一つに結びあわせ、一体感
や尊厳性や安心感や連帯意識を与える一つの統
合された体系であると言える。」
「日の丸・君が代」の問題は、小さな事柄のように
思われるかもしれませんが、小さな「外的行為」
の強制からはじめられ、やがて習慣→価値→信
仰へと国家の内面への介入をゆるす最初の一歩
になりはしないか懸念されるところです。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■戦前の反省から生まれた十九条
*************************************************
日本国憲法 第十九条
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
「これはまさに戦前の反省を通してこの十九条が生ま
れた。」戦前の反省ということですが、「これは天皇制
国家、大日本帝国憲法が精神の自由にとってどうい
う制約となっていたか」ということです。
「憲法」の解釈というものを考えていきますときに、そ
の歴史的コンテキストをよく考慮しなければ、本当の
意味はみえてこない、そのことを教えられます。それ
は「聖書」解釈の原則も同様です。新約聖書は、一
世紀のローマ帝国を背景にした文脈において語られ
ており、そこで語られているメッセージの本質を二十
一世紀の日本の文脈にその本質を文脈化していか
なければなりません。
ローマ帝国では「皇帝崇拝」を強制する時期があり、
迫害の下、数多くの殉教者を出しました。しかし、後
にローマ帝国はキリスト教化されることになります。
日本においては、織田・豊臣・徳川の時代にキリシ
タンの宣教があり、豊臣・徳川の時代には弾圧され、
多くの殉教者を出しました。
時代は流れ、鎖国の扉を開いた明治・大正・昭和の
近代化の時代には、「キリスト教禁令の高札」は撤去
されましたが、制限下の「信教の自由」しか与えられ
ていませんでした。
「この帝国憲法が1889年に成立し、そして翌年、教
育勅語がつくられます。」
「その勅語ができた直後に文部省は各学校に配布
し、その普及に務めるのですが、当時第一高等中
学校の教師であった内村鑑三は、勅語への礼拝を
しなかったことが問題となり、教師をやめさせられる
という事件、いわゆる内村鑑三不敬事件〔1891年〕
が起こるわけです。」
「内村鑑三事件というのは、そういう意味では帝国
憲法下の精神の自由というものがいかにいびつな
ものであったか、その自由が許されていなかったか
を端的に示す事例であります。」
「内村は、ご存じのようにキリスト教徒ですけれども、
同時に彼は愛国者でもありました。」
「自分にとって大事なものは二つのJだ、ジーザスと
ジャパンなんだということをいつも言っています。」
「同時に、君が代は天皇をたたえる歌であり国民の
歌ではない、国歌ではないんだということも彼は言っ
ていました。」
「そういう問題を含めて、この思想・信条の制約、さ
らに治安維持法体制のもとでの思想弾圧の歴史を
考えれば明白なことで、大学人も多く大学を追われ
たのですが、その反省に立って十九条が生まれた
ということを大事に考えなければいけない。」
「これはじつは教育の問題と深く関係しているわけ
で、そもそも教育というものは、精神の自由、内面
の自由を大事にしながら、感性を豊かにする、理
性を育てるのが教育の目的であるわけであります
けれども、その仕事に教師はどういう責任を持つか
という問題がそこに関わっているくるわけです。」
鎖国下の江戸時代の諸法度は、国際的な基準か
らして、大きく立ち遅れた内容をもつものであったの
ではないかと推察します。このあたりについても詳
細な研究が必要と思います。
薩長を中心とした明治政府は、西欧列強と対等に
列していくために、西欧なみに諸法令を整備してい
く必要がありました。
幕藩体制から明治の中央集権国家、富国強兵政
策の推進というグランドプランからは明治の政治家
の有能さを教えられます。しかし、歴史の進展、民
主主義の進展、基本的人権の拡充という視点から
みますと、足らざるところ多々あり、「天皇制国家、
大日本帝国憲法が精神の自由にとってどういう制
約となっていたか」を冷静に評価することが必要で
す。
インターネット上の「MSNニュース」に参院選『美し
い国』惨敗−本当の理由」と題して、作家・保阪正
康さんの興味深い記事が掲載されていました。
「首相不適格」と判断、居座りは国民に悲劇−
「自民党はなぜ、歴史的な敗北を喫したのか。確
かに今回は、年金問題をはじめ閣僚の失言や不
祥事疑惑が相次いだ。一般的にはこれらを敗因
と見るのだろうが、私は、より本質的な問題こそ
が敗因だったと考えたい。それは、安倍首相自身
の政治姿勢、そして歴史認識である。」
「安倍政治を象徴するのが「美しい国」だ。「美しい」
は形容詞だが、安倍首相はその内容について抽
象的な説明に終始し、国民に分かるように説明し
ない。このことは、権力が「美しい」という言葉の
意味を勝手に定義し、国民はそれに従えと言って
いるに等しい。まるで戦前の「すめらぎの国」のよ
うであり、森喜朗元首相の「神の国」発言に匹敵
する無神経さだ。」
「また、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と
言う。しかし、戦後レジームとは本来、戦前のファ
シズムの負の遺産を清算し、過去を克服するた
めに作られたものだ。脱却すると言うならばまず、
戦後レジームをきちんと評価した上で、今の時代
に合わせて変えていくという前向きな発言がある
べきだった。「戦後レジームからの脱却」と繰り返
すだけでは「戦前レジーム」への回帰を望んでい
るようにしか聞こえない。」
「安倍氏の首相就任後、日本社会は何かレベル
ダウンしてしまった感がある。「美しい国」「戦後
レジーム脱却」「憲法改正は3年後」などの言葉
だけが先行し、実体は何一つ見えない。今回ば
かりは国民も「おいおい、これはとんでもない首
相だぞ」と気付き、それが選挙結果につながった
のではないか。
「安倍首相は敗因を年金問題や閣僚の失言、野
党の攻撃と考えているかもしれない。しかし、そ
れだけが敗因なら自民党はここまで大敗しなか
っただろう。政策では修正しえない、安倍首相自
身の政治家としての資質や歴史認識が問われ
た選挙だったからこそ、ここまで負けたのだと、
安倍首相も自民党も自覚すべきだ。」
保坂さんは、「非常に大切な本質をついておられ
る」と感心しました。わたしは、自由民主党の結
党の理念と深い関係のある中曽根元首相の「戦
後政治の総決算路線」や安倍首相の「戦後レジ
ームからの脱却路線」には、歴史の進展の中に
ある「基本的人権」の視点からみて「根本的な欠
陥」があると思います。自民党はこの根本的欠陥
を修正しないがきり未来はないと思います。歴史
に背を向けているからです。
今朝の朝日新聞には、「参院改憲派三分の二割
る」と書かれていました。
広島の平和宣言の中に「平和憲法をあるがまま
に順守し、米国の時代遅れで誤った政策にはは
っきり『ノー』というべきです。」と政府に迫る内容
があり、大変感激しました。広島市は今秋から、
2008年11月の米大統領選を視野に首都ワシン
トンと全米50州の計101都市を網羅する「全米
原爆展」を展開する、とのことです。「21世紀は
市民の力で問題を解決できる時代」「都市が立
ち上がり、市民の声で国際政治を動かそうとし
ている。」と宣言されました。
*************************************************
2007.08.05 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 マタ 6:19-34
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。…
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。…
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。…
6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。…
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。…
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■内面の自由の問題
*************************************************
「天皇主権」から「国民主権」への大変化における
君が代の扱い、「侵略性」のシンボルとしての日の
丸の扱い、クリスチャンにおいては、天皇崇拝・神
社参拝強制の中で用いられた日の丸・君が代とい
う部分もあります。戦後におけるクリスチャンの戦争
責任告白においては侵略戦争に加担したことの悔
い改めとの関連において何をなすべきか、何をなす
べきでないか、を考慮することも大切と思います。
このような問題を内包する「日の丸・君が代」であり
ますから、「国旗・国歌」法案が審議されているとき、
世論は賛否が二つに割れており、世論調査におい
ては反対派・慎重派がますます増えるただ中で、
強行採決されてしまった、という経緯があります。
中曽根元総理に代表される「戦後政治の総決算」
とか、安倍総理の「戦後レジームからの脱却」という
方針は、戦後「国民主権」となった日本国民の間
では多様化が生まれてきており、「画一的な戦前を
思い起こす日本のあり方」を押し付けはきたる衆議
院選挙において必ず大きな反対を受けることにな
ると思います。一時的に人をだますことはできても、
長い間選挙民をだますことはできないと思います。
教育現場で起こっている混乱、日中戦争・太平洋
戦争において失われた日本人三百万人の犠牲、
アジア諸国二千万人の犠牲の上に勝ち取られた
「思想・信条の自由」の権利を、国旗国歌法、教育
基本法の改訂、憲法改訂において踏みにじり、
国民の「内心の自由」に国家が介入しようとする
ことは、その実体が見えてきたときに、全国民から
猛反対を受けることになると思います。
この「内心の自由」の問題は、年金の問題・国会
議員の会計処理の問題よりも、もっと大きな争点
だと思います。
■内面の自由の問題
「このような問題のある日の丸・君が代を、国旗・
国歌として学校現場におしつけることは、憲法の
保障する、そしてまた子供の権利条約が保障し
ている精神の自由、内面の自由の問題と深く関
わる問題です。」
「内心の自由は子供の内心の自由を奪うことに
ならないかというレベルの問題と、もうひとつ、教
師の内心の自由を奪うことにならないかという問
題があります。さらに、それがはね返って、たとえ
ば教職関係の教育をやっている大学の教師の学
問の自由を制約することにもなっていかないか、
そういう問題を含んでこの内心の自由の問題が
あるわけです。」
「内心の自由というのは基本的人権のなかでも、
本当に大事な精神の自由、これが基本的人権
の中核なわけです。」
「日本国憲法も、第十九条には『思想及び信条
の自由は、これをおかしてはならない。』という
大原則が書かれている。なぜこの原則が書か
れたのか。…少なくともこれは思想・信条の自
由を奪われていたその経験に即して、そういう
ことがあってはならない、それは人間の尊厳を
侵すことになるんだという強い過去の批判を通
してこの十九条が成立したわけであります。」
「『註解日本国憲法』を引いてみますと…
『本条は外的権威に拘束されない内心の自由
を保障することにより、民主主義の精神的基盤
をなす国民の精神的自由を確保することを目的
とする。過去において危険思想、反国家思想、
反戦思想等の名をもって思想の弾圧が行われ
た経験に鑑み、再びかかることなからしめよう
とする意味をもつ』こういうふうに書かれていま
す。」
「内心の自由」の問題は、左翼・右翼、宗教の
種類に関わらず、あらゆる立場の国民にとって
最も重要な関心事であると思います。
一度、国家による「内心の自由」への介入をゆ
るせば次々といろんな名分をかかげて手を打っ
てくると思います。それは権力を手にした人々
への誘惑です。政治的立場、宗教的立場を超
えて、「内心の自由」への国家の介入を阻止し
ていかなければなりません。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■侵略性のシンボル
*************************************************
堀尾先生は、「日の丸」と「君が代」を区別して
考えることを提案されています。「地球時代」に
ふさわしい、お互いの民族的な伝統を尊重し合
いナショナルなアイデンティティを尊重し合うよう
な国家であるべきで、、その象徴としての国旗・
国歌というものが必要である。
しかし、にわかに、日の丸・君が代が国旗・国歌
であるということではない。また、日の丸と君が代
は象徴の意味が違うのであるから別々のものとし
て扱うべきと考えておられます。以下に「日の丸」
についてみていきましょう。
■侵略性のシンボル
「日の丸に関しても、それが過去、侵略のシンボ
ルであったということをきちんと心に刻む必要が
ある…。」
「1932年、満州事変の翌年、満州国が成立した
その直後です。上海で白川司令官のもとで天張
節を祝う式典があったのです。日の丸が掲げられ、
君が代が歌われたその直後に爆弾が投げられて、
白川大将は亡くなり、重光葵氏は右足を失った、
こういう事件なのです。犯人は伊奉吉〔ユン・ボン
ギョ〕という青年です。」
「日の丸に関しても、君が代に関しても、その侵
略性というのは、戦争が始まって先頭に日の丸
を立ててと、そういうイメージだけではない…」
「その侵略性ということは、…韓国人の人たちから
見れば、これはもう心からぬぐい去れないもので、
しかも新しい記念館〔伊奉吉:ユン・ボンギョ〕を建
てて、そして若い人たちがそこに行っている。」
「だから、日本の若者と韓国の若者の言うなれば
相互の理解と感情の亀裂というのは非常に大き
いのです。」
「だから、日の丸に関しても、その侵略のシンボル
であったということをきちんと心に刻む必要がある、
このことを私は教える必要があると考えています。」
「その上でしかし私は侵略のシンボルだったから
いけないという議論をしていません。」
「少なくとも日の丸に関しては戦前、戦後を通して
日本の国のシンボルたり得るだろう。」
「戦前はたしかに侵略のシンボルであった。しかし、
戦後は違ったシンボル、平和主義のシンボルとし
ての新しい日本のシンボルたり得ないかどうか、
ぜひそうしたいというのが私の個人の意見です。」
「そのことは日の丸は法制化してよいということで
はありません。まして、学校におしつけることとは
全然別の問題なのです。」
「日の丸」についての堀尾先生の議論の焦点は、
「侵略性」の問題です。朝鮮半島、中国そして
東南アジア、南アジアの諸国の人々にとって、
「日の丸」はどのような過去をもっているのだろう
か、について思いを潜める必要があると思います。
戦時中の日本において、「最初キリスト者は、
神社礼拝には関与しないようにしていたが、政府
が、神社参拝は宗教的実践ではなく、単なる愛国
心の表明にすぎないことを言明すると、プロテスタ
ントやカトリックはいずれもこれに参加するようにな
った。」また、「すべての礼拝の前には、『国民的
儀式』として知られる五分間の儀式が行われなけ
ればならなかった。そして、これらの儀式とは、天
皇の写真ないしは宮城の方角に向かっての再敬
礼や『君が代』の斉唱などが含まれていた。」
わけ
で、クリスチャンにとって「日の丸・君が代」は戦前
の天皇崇拝・神社参拝・日の丸・君が代・教育勅
語・天皇の写真等−偶像礼拝三点セットのような
印象が残るところです。
もちろん、日の丸掲揚に整列すること、君が代を歌
うことそれ自身が直接的に「偶像礼拝」とイコール
ということでありませんが、それなら問題ないのか、
といいますと「問題は内包されている」と答えなけ
ればならないと思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■国民主権にふさわしい歌
*************************************************
「さて憲法体制が大きく変わり、天皇の意味も
大きく変わりました。」しかし問題は「君が代は
歌としては残っている。」ということです。
「天皇の意味」は憲法上では大きく変わりました。
「国事行為」の上では、大きく変わりました。しか
し、宗教上の「天皇の意味」は私事行為の中に
おいてはそのまま残されています。ここがクリス
チャンとしては、微妙な問題を残していると思い
ます。
■国民主権にふさわしい歌
堀尾先生の視点は、「天皇主権から国民主権
へと変わったのだから、その国民主権にふさわし
い歌が必要なのではないか。国民主権、人権の
尊重、平和主義、さらには二十一世紀にふさわ
しい国際的な感覚を持った歌、…そういう思いを
込めた新しい歌こそがつくられていいのではない
か」
「地球時代こそが拓かれていかなければならな
い…、その中での国のあり方というものを考え
なければいけいない…。そこでは平和憲法が国
際的にも誇りうる憲法ではないか…。」というこ
とで、わたしも同感です。
歴史を学びますと、ひとりのクリスチャンとして
「君が代」を歌うことには躊躇を覚えます。
1971年にカリフォルニア大学バークレー校に
提出されました、カルロ・カルダローラ氏の博
士論文『内村鑑三と無教会−宗教社会学的
研究−』pp.255-279 にはクリスチャンと「ナシ
ョナリズムとの衝突」について詳しく記述され
ています。以下に抜粋にて紹介します。
【内村鑑三と無教会−宗教社会学的研究−】
「軍事的拡張主義は、ナショナリスティックな
衝動の自然的な表出であって、政治的教化
と強力な中央集権的統制によって国民に教
え込まれた。」
「イデオロギー的観点から言えば、日本ナシ
ョナリズムの基本観念は、公式の『国体』観
念によって表明されたように、日本は神聖な
る国家であり、天皇はすべての臣民が無条
件で随従すべき現人神であるという仮説で
あった。」
「天皇は絶対的に神聖不可侵であるという
考えは、1890年の教育勅語に表明され、さ
らに、新教育制度を通じて熱心に促進された。」
「文部大臣は大衆の教化を奨励することに
よって、中央集権化の成長に主たる役割を
果たした。」
「天皇への崇敬、国家への忠誠、軍事的伝
統の賛美、排外主義、優勢民族の明白な権
利としての侵略の是認などが、文教政策を
通じてとられたプログラムの主要なテーマ
であった。」
■ナショナリズムと日本の教会
「キリスト教が、国家から疑惑の目をもって
みられた主たる原因は、その異教的な性格
とその信仰の排他性であった。」
「1889年、文部省は正規の授業時間以外
においても、私立学校教育や宗教的礼拝
を禁止する旨の訓令を発した。生徒は教会
に行くことを認められず、教会に心を向ける
ものは学校から追放されることになった。」
「強制的に勅語を暗唱させることは、キリス
ト教主義の学校にとっては大問題であった。」
「1891年までに文部大臣は、天皇宸署の
教育勅語の写しを天皇の写真と共に各学
校に配布し、別に建てられた奉安殿に安置
させた。これらの二つの帝国の象徴は、礼
拝の対象として取り扱われるよう要求された。」
「勅語は、各学校でもたれる特別の儀式に
おいて常に奉読されなければならなかった
が、それは、天皇への忠誠心を養成し、公民
を訓練する、という特別の目的をもっていた。」
「政府が繰り返し主張するように、これらの
儀式には政治的・愛国的な意味しか考えな
かったかもしれないが、しかしこれらを宗教
的なコンテキストから切り離すことは、実際
にはほとんど不可能であった。」
「これらの儀式は、教会と関係のある学校
においていくつかの問題を惹起した。」
「たとえば、仙台の東北学院では、国粋主
義者たちが、チャペルのステンド・グラスの
窓にあるキリスト像が勅語を読む教職者の
頭上にあるという理由で、騒動を起した。」
「神社参拝は、国民生活の中心となったも
うひとつの愛国的実践であった。」
「国民の聖日は、神話に従って祝われたり、
国民の英雄たちが彼らの偉業のゆえに尊
敬され、また、すべての家族は、家に神道
の祭壇を設けてまつることが望まれ、地方
の官営の神社でもたれる神道の儀式に加
わることが要望された。」
「こうした実践は、軍事に関する熱心さの表
白であるばかりでなく、真の日本臣民であ
ることの証しでもあった。」
「最初キリスト者は、神社礼拝には関与しな
いようにしていたが、政府が、神社参拝は
宗教的実践ではなく、単なる愛国心の表明
にすぎないことを言明すると、プロテスタント
やカトリックはいずれもこれに参加するように
なった。」
「宗教諸派に対する政府の統制は、漸次、
あらゆる宗教団体に及び、1940年4月1日
づけをもって効力を発揮し、1939年に通過
した宗教団体法によって、それは絶対的
なものとなった。」
「その法律によれば、文部大臣ならびに、
彼を通じて知事や地方官吏もまた、すべて
の宗教団体の組織、職員、行動、教説とい
ったすべての事柄において、監督上の責任
を行使する権限を与えられたのである。」
「その法律は全教派をひとつに統合し、国
家が容易に統制しうるところの一人の統理
者に責任を委託することを余儀なくさせた。」
「こうした圧力の下で、1941年6月、三十以
上のプロテスタントの教派が日本基督教団
として合同することを決めた。」
「神道的ナショナリズムの教義と矛盾する
ような実践あるいは表明を排除するために、
政府が指令を発した。」
「たとえば、使徒信条−これは新しい基督
教団の信仰の共通した告白であった−
では、『天と地の創造者』としての神とか、
『生ける者も死せる者も裁く』キリストという
伝統的な属性は削除された。」
「その訳は、そのいずれの表現も、天皇と
日本の神秘的な起源に、また天皇の『天
地とともに千代に八千代に』ゆるぎない玉
座という観念にもとるからである。」
「同様に、賛美歌は修正されなければな
らなかった。」
「キリストを表す『大君』という語は、同一の
語が天皇の威厳を表すために使用されて
いるという理由で、末梢され、『進めキリスト
の兵士』とか『神は我が砦』といつた賛美歌
も削除された。」
「説教の題は一年中、官憲によって指図さ
れていた。」
「すべての礼拝の前には、『国民的儀式』
として知られる五分間の儀式が行われな
ければならなかった。そして、これらの儀式
とは、天皇の写真ないしは宮城の方角に
向かっての再敬礼や『君が代』の斉唱など
が含まれていた。」
わずか、六十年あまり前に上記のような状
況がありました。
それを何もなかったかのように「君が代」を
国歌として歌うことができるでしょうか。
ドイツのクリスチャンたちが「ナチス問題」を
心に刻んで生きているように、私たち日本人
クリスチャンは、明治から昭和に至る歴史
を心に刻んで生きることが大切と思います。
天皇問題の本質とは何か。内村鑑三不敬
事件の意味するものは何か。戦前の政府
の考え方がどのようなかたちで現政府の中
に流れているのか。国旗・国歌法、教育基
本法改訂、憲法改訂においてどのような国
にされようとしているのか。教育現場で苦闘
する教師の姿は、明日のクリスチャンの姿
ではないのか。教育勅語を基本とする戦前
の教育がアジア諸国にとれほどの苦難を
もたらしたのか。
「自虐的歴史観」を書きなおす教科書検定、
客観的な事実を教える教育から国家形成
のための歪んだ教育、過去を隠蔽する教
育、それらの流れの中に「日の丸・君が代」
教育があることを見落としてはならないと
思います。
そのような試みは、「朝鮮の植民地化」、
「日中戦争」「太平洋戦争」という過去に対
する深い反省から出発し、経済的成功を
なしとげた日本に対するアジア諸国からの
尊敬をだいなしにし、西欧諸国の信用も
失う結果になっていることは今日明らかな
ことです。
森野善右衛門著『目標を目指して走り』
pp.175-177 には、日本とドイツという二つの
戦敗国の、歴史への責任のとり方について
の考え方を対照的に示す二つの演説が紹介
されています。
「そのひとつは、1985年5月8日に、連邦議会
でなされた西ドイツのヴァイツゼッカー大統領
の演説です。この演説の中でヴァイツゼッカー
大統領は、1933年1月30日〔ヒトラーが政権
についた日〕が1945年5月8日〔ドイツ敗戦の
日〕をもたらしたものであるとして、この両日
を切り離すことは許されないと注意を喚起し、
5月8日は何よりもドイツ人が過去に犯した
罪責を心に刻む日であるとして、まず第一に、
ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万
人のユダヤ人、また戦いに苦しんだすべての
民族、とりわけソ連・ポーランドの無数の死者
を心に思い浮かべるべきた゜と率直に述べて
います。」
「そして、『過去に目を閉ざす者は、結局のとこ
ろ現在も見えなくなる。非人間的な行為を心
に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥
りやすい』というくだりで、聴衆の共感の拍手
が湧き起こっています。」
「ここには、過去を克服することは、決して過去
を水に流して忘れることではなく、過去に犯さ
れた罪責の認識と告白を通して、同じ誤りを
繰り返すまいとする決意の上に、新しい未来
の歴史が築かれるとの自覚が強く息づいて
おり、罪責告白からの出発なしに、歴史を
担い、創造する業はありえないことを深く教え
られます。」
「こなた、わが日本の中曽根首相〔当時〕は、
同じ1985年7月27日に、自由民主党の軽井沢
セミナーで講演して、『戦後政治の総決算』の
使命を謳いあげ、『国のために倒れた人に対し
て国民が感謝をささげる場所があるのは当然
のことだ。そうでなくてはだれが国に命を捧げ
るか』と戦前の国家主義者も顔負けの調子を
一段と張り上げて語っています。」
「『世界史的普遍性』に立って『日本のアイデ
ンティティを確立する必要がある』とか、『汚辱
を捨て、栄光を求めて進むのが国家であり、
国民である』とか、内容空疎で非論理的な
言葉づかいをもって聞く人たちの情緒に訴え
かける中曽根演説の調子は、独裁者ヒトラー
の演説に共鳴する部分があることを感じてさ
せて、背筋が寒くなる思いです。」
「そしてその年の8月15日に、中曽根首相は、
大多数の閣僚を伴って、A級戦犯を合祀した
靖国神社に、戦後の歴代総理として初の『公
式参拝』を敢行したのです。」
「歴史に対する罪責を認識、告白して、歴史に
学ぼうとする者と、歴史を美化、忘却して、歴
史を歪める者。この同じ敗戦国でありながら、
政治的指導者に見られる歴史認識と罪責感
の落差の大きさには、嘆息を禁じえません。」
「戦争責任を敗戦責任に矮小化し、『一億総
懺悔』論によって責任の真の主体を忘却させ
たところに、日本人の戦後責任があると言わ
なければなりません。」
今回の参議院選挙の自民党敗北の中心的要
素のひとつに、安倍首相の教育改悪と憲法改
悪路線があると思います。それは、沖縄戦の
教科書記述の改悪に対する沖縄県民の怒り
にも表わされています。学校現場での日の丸・
君が代の強制も同様です。米国の下院でも
従軍慰安婦問題への謝罪要求が可決されまし
た。
しかし、安倍首相は選挙敗北の責任を年金問
題と閣僚の発言等に転嫁してごまかしています。
そして「国民のために果たすべき使命がまだ残
されている」と語る始末です。
中曽根元首相と同様の「新保守主義」の路線こ
そが、沖縄から、教育現場から、国民から、アジ
ア諸国から、欧米諸国から拒絶されたのだと次
の衆議院議員選挙で明らかにされてほしいと思
っています。
そして、新しい政権には、現憲法にある「国民
主権」「基本的人権」「平和主義」をさらに具体化
する政策に取り組んでいただきたいと思います。
英国のプラウン新首相は米国の世界戦略からは
少し距離をおき、世界の貧困問題に取り組むとの
ことです。日本の世界戦略も貧困問題への取り
組みを通してテロリズムの温床を取り除く方向に
向かっていってほしいものです。平和への取り組
み、人権への取り組みを通して国民と世界からの
尊敬を集める議員、官僚、政権であってほしいと
思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■大きく変わった天皇の意味
*************************************************
「日の丸・君が代」の問題につきましては、明治・
大正・昭和という歴史、特に戦前と戦後、1945年
の大日本帝国憲法から現在の日本国憲法への
変化という問題をどう考えるか、ということがあり
ます。
クリスチャンにおきましては、「内村鑑三不敬事件」
を含む「国家」と「キリスト教」の関係のあり方の全
体の中で、またアジア諸国侵略の過去を踏まえて、
この問題を考えていく責任があると思います。
■大きく変わった天皇の意味
「1945年の終戦、そして47年には大日本帝国憲法
が現在の憲法に変わった、そのことによってじつは
天皇の意味が大きく変わってくるわけであります。」
「1945年、あるいは新憲法の成立、そのことの意味
をどうとらえるかということが非常に問題なので、私
は、この憲法第一条なるものをどう解釈すべきか…。」
「この第一条をどう解釈するか。第一条は天皇です。
天皇をたたえる条項を第一条に置いたのか。そうで
はないんですね。」
「つまり、大日本帝国憲法、そこで天皇は統治権の
総攬者であり、陸海軍の総帥であり、そして教育
勅語を通して国民の精神的な権威の保持者であっ
たその天皇が、今度はそうではない、この国のあり
方が大きく変わるんだ、天皇主権から国民主権に
変わる、そのことによって天皇は象徴になったのだ、
象徴でしたかないのだということ…。」
『註解日本国憲法』昭和二十八年、1953年刊行の
日本国憲法の註解書として最も権威ある書物によ
りますと「本条は、日本国憲法の冒頭において、
この憲法の基本的組織原理を表明したものである。」
この基本的原理とは何か。「即ち、国民主権主義
の原理である。第一条の規定が含まれている第一
章は天皇と題されており、従って本条は、規定の
直接の目的からいうと天皇の憲法上の地位を宣明
したものであるようにみえるが、しかし規定自体の
趣旨は、むしろ新憲法における天皇の特殊な法的
地位を宣明することによって、結局その基礎である
国民主権主義の原理を確認するにあったといわな
ければならない。」と書いてあるのです。
明治憲法と教育勅語により確立していきました「天
皇主権」の考え方は、日本国に元からあった考え方
ではないことを認識することは大切なことと思います。
古代において、日本における一豪族でありましたも
のが大和朝廷というかたちで、国内の統一をはかり
統一国家が形成されていきます。しかし、貴族社会・
武家社会を通して、その権威は形式的・儀式的なも
のとなっておりました。その形骸化していた権威を
奪取した権力の正統化のために利用したというのが
現実に近いと思います。
徳川三百年の幕藩体制から、権力を奪取した薩摩・
長州連合軍がその権力を正当化するために「創作
したフィクション」が明治憲法と教育勅語にはありま
す。堀尾輝久著『日本の教育』p.62 には、明治時代
の「天皇制教育体制のもとでは、憲法で、教育に関
する事項は天皇大権のひとつされていました。…
この天皇大権は、現実には枢密院を中心にする元老
たち、もっと現実的には軍部と内務官僚の手に握ら
れていた」とあります。「天皇主権」といいながら、
現実に権力を握っていた人々は別に存在していた
ということです。
戦後の自民党政権の結党の精神、その後の右寄り
の方向性も、必ずしも「天皇」を尊敬するからという
素朴な敬愛の情から発するものではなく、「権力の
正統性」を保障するものとしての利用価値をみている
からと考えるのは考えすぎでしょうか。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介
【 国旗・国歌を考える 】
■日の丸・君が代は国旗・国歌たりうるか
*************************************************
堀尾輝久先生の「国旗・国歌を考える」から教え
られるポイントを拾いつつ、解説していきたいと
思います。
『国旗・国歌をどう考えるか』
「そもそも、国旗・国歌というものをどう考えるか」
二十一世紀の国際社会のあり方を地球時代
という考え方、つまり「地球上に存在するすべての
人間、すべての民族、すべての国家が一つの連
帯感を持って共生しなければならない時代に入っ
ている。」
二つの世界大戦を経て、中央集権国家、国家主義、
植民地争奪、帝国主義の時代は終わったのであり、
ヨーロッパがそうであるように、東アジアの経済とい
うものを考えてみましても、二十一世紀は「できるだ
け国境は低く、あまり日本、日本という必要のない、
存在するすべてのユニークな価値を認め合う」その
ような、「国家を単位としつつインターナショナルな関
係」というものがつくりだされなければならない。
その限りにおいて、その国を象徴する国旗・国歌と
いうものは必要であろう。」
■日の丸・君が代は国旗・国歌たりうるか
「日の丸・君が代が国旗・国歌たりうるか。…なぜ
日本の国民のあいだに日の丸・君が代を国旗・国
歌として法制化することに対して批判があるのか、
あるいは学校現場でそれを押し付けることに対して
批判があったのか。…それを強引に法制化して教
育界に押し付けることについて国民は多くの疑問
を持っている…」
「さらに、日の丸と君が代を同じレベルで考えてい
いのだろうか。」
「日の丸は日本国の象徴として、その日本国とい
うのは戦前の大日本帝国憲法下の日本、そして
現在の憲法をもつ日本国、あるいはさらに遠い歴
史を含んでの日本国の象徴としての意味を持つこ
とはできるだろう…。」
「しかし、君が代ははたして日本の国を象徴する
歌であり日本国民の歌でありうるのか。これには
歌詞があり曲がある、そして限定された意味があ
る。」
「そういう点でいうと、日の丸と君が代には、明ら
かにその象徴性に違いがある。それを同じオー
ダーで論ずるべきではない…。」
「日の丸」と「君が代」の問題につきまして、二つの
視点があると思います。それは、日本国民一般と
して、ひとりの人間としての「日の丸」と「君が代」
の問題であり、「基本的人権」の背景としての「自
然権」の尊重という視点です。これは国民全体とし
て共有できる部分、共同戦線をはっていくことの
で゛きる部分だと思います。
もうひとつはひとりのクリスチャンとしての視点です。
信仰に関わる部分であり、偶像礼拝の禁止にふれ
る問題です。
クリスチャンによっては、「日の丸」は単なる旗であ
り、「君が代」は単なる歌である、と考える向きもあ
るようですが、事はそれほど単純ではないというこ
とを丁寧にみていきたいと思います。
*************************************************
「滋賀でおきた完全な政権交代」を見て
*************************************************
今日、テレビの番組欄を見ていましてABCテレビの
「ムーブ!」という番組で「滋賀でおきた完全な政権
交代」をドキュメンタリー・タッチで扱っており興味深
く拝見しました。
嘉田知事が「もったいない!」をキャッチ・フレーズに
滋賀県知事に当選されましたが、議会は自民党の
過半数で政策を遂行できませんでした。そこで、今
年の統一選で「対話の会」でしたでしょうか、嘉田
知事のマニフェストの実現に共鳴される方々が多く
立候補され、当選されました。その中には元県会議
員の方や村会・市会議員の方も多くおられ、かなり
プロフェッショナルな方々であるそうです。
新しい議会では、自民党勢力は過半数を失い、議会
の議長選で、嘉田知事の勢力が優勢になったとのこ
とです。
これまでの、滋賀県の保守性は、靖国国家護持法
案法案では、県会・市会・村会の議会の支持決議の
多さや、「日の丸・君が代」の促進支持の決議の多さ
から、日本でも最も保守的な県のような印象を抱いて
おりました。
しかし、そのように超保守的であった滋賀県も有権
者の中から地殻変動を起しているのをみますと、日
本もまだ見捨てたものではない、と思いました。
滋賀県は、中部と京阪神のちょうど中間にあり、現
在多くの新しい企業の進出もあり、人口が急増して
いる地域だそうです。
いろいろな要素がからみあいながら、明治・大正・
昭和前半までの明治憲法と教育勅語に基づく教育
の世界を大切にしようとする傾向が弱められて、
戦後の日本国憲法と教育基本法の下で教えられた
「国民主権」「基本的人権」「平和憲法」の教育が
日本国民の中にますます浸透していってほしいもの
です。
今年の統一地方選と参議院選挙の傾向は、右寄り
の方向に突き進む力に一定の歯止めをかけた部分
があるのではないかと思います。
次回の衆議院選挙で、政権交代がなされ、特に
文部科学省の右寄りの政策を大きく転換していた
だきたいと思います。教科書問題でも、「自虐的史
観」からの脱却ということで、沖縄の記述、戦争慰
安婦、南京虐殺等、「客観的な学問」とは違う、
「民族のアイデンティティ形成」のための教育の再
編を目指している現在の文科省からは「右寄りの
官僚」を取り除いていただきたいと思います。
教育現場における基本的人権を尊重する文科省に
なっていただきたいと思います。教師と生徒の「思
想・信条の自由」を徹底して尊重する環境をつくって
いただきたいと思います。
「日の丸・君が代」についても、敬礼する自由・敬礼
しない自由、歌う自由・歌わない自由を尊重する教
育、多様な価値観を尊重する社会人を育成する教
育を目指していただきたいと思います。
もし可能なら、右寄りの傾向を内包する「改訂教育
基本法」は元に戻し、個人の尊重を大切にする「教
育基本法」を再度、教育の憲法として採用していた
だきたいと思います。
多様な価値観をもつ現在の日本人のすべてに愛さ
れる国、少数者の価値観を尊重する国となっていっ
てほしいと思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Kローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介B
【 国旗・国歌を考える 】
*************************************************
堀尾輝久氏の「国旗・国歌を考える」の導入は、
「日の丸・君が代を国旗・国歌とする法律が制定
された。政府は、その扱いについては従来通り
とする談話を発表したが、しかし現実は、懸念さ
れたごとく、体育祭など様々な恒例行事を足がか
りに、日の丸・君が代を押し付ける扱いが目立っ
ている。それを認めないのは非国民だといった発
言も散見される。…」という書き出しで始まってい
ます。
そして「卒業式や入学式に、どう取り組むのか。
現場では頭の痛い問題である。それだけにこの
問題に取り組むためにの、国旗・国歌、日の丸・
君が代についての基本的認識を確認しておくこ
とが必要である。」
そして「本稿はそのための参考として、1999年8月
3日、参議院の特別委員会で、参考人として意見
を述べた時の議事録をもとに再構成したものであ
る。」と記述されています。
今年に入りまして、日本福音主義神学会の春期
神学研究会議のテーマ、またJECニュースの
シリーズの内容、そして七月のJEC牧師研修会
の発題と質疑等が、ひとつの事柄に焦点をあて
られていたように思います。
わたし個人としましても、それらの事柄に関連する
文献をできるだけ収集してまいりました。そして
収集しました書籍の中で洞察力に満ち、私にとっ
て最も助けとなりましたのが、堀尾輝久氏の書籍
集でした。この先生の書籍集を熟読していく中で
今まで見えていなかった多くの事柄の本質が見
えるようになりました。そのことを皆様に丁寧に
紹介していきたいと思います。
「国旗・国歌法」が制定されたことにより、日本人
は、戦争における日本人300万人の犠牲、アジア
2000万人の犠牲の上に与えられた「基本的人
権」の中の大切なものを失ってしまったように思い
ます。
明治憲法・教育勅語の時代にあり、二度と目にし
たくないと思っていた事態、「内村鑑三不敬事件」
のような事態が、今日の教育現場で起こっている
のです。
私たちは「「基本的人権」の中の大切なもの」−
思想・信条の自由の権利、内心の自由の権利
を取り戻すための戦いを私たちに与えられている
あらゆる局面において継続していかなければなら
ないと思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Jローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介A
*************************************************
1999年8月9日、「国旗・国歌法」が、強行成立され
ました。そして、この書籍は2000年10月10日に初
版が出版されました。約七年前のものですが、その
内容は「原理的」なもので、今日の私たちクリスチャ
ンに対して語りかける内容をもっていると思います。
「日の丸・君が代」が法制化され、入学式や卒業式
において、文科省や教育委員会による「押しつけ強
化」が問題になっています。こうした押しつけに対す
る国民の批判が広がっていることは、国民の良識を
示すものですという語りかけではじまっています。
昨年でしたか、関西で開催されたキリスト教の大き
な集会で、外国からの著名な講師の導きで「皆さん、
君が代を歌いましょう。愛国心は大切なものです。」
といったかたちで、「君が代」が唱和されたことをある
新聞の記事にあり、非常に驚かされました。わたし
の反応は「キリスト教の集会でこのようなことがあっ
て良いのだろうか?否!決してあってはいけないこ
とではないのだろうか。」というものでした。
先月開催されましたJEC牧師研修会では、憲法九
条問題が焦点であったのですが、「日の丸・君が代」
の問題も基本的人権の問題の関連で質疑として
出てきました。
「この問題をクリスチャンは、どのように受けとめ、ど
のように対応していったらよいのだろうか。」という問
題を考える上で、わたしにとって大変参考になりまし
た書物のひとつが堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共
著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』でありました。
特に、東京大学教育学部で三十一年間教鞭をとら
れた堀尾輝久教授の記述はクリスチャンにとって大
変参考になる内容ではないかと思いますので、クリ
スチャンの視点から解説しながら紹介していきたい
と思います。その概略は以下の通りです。
【 堀尾輝久「国旗・国歌を考える」 】
国旗・国歌をどう考えるか
日の丸・君が代は国旗・国歌たり得るか
大きく変わった天皇の意味
国民主権にふさわしい歌
日の丸と君が代を区別して考える
侵略性のシンボル
内面の自由の問題
戦前の反省から生まれた十九条
教育の本質と国家の関係
教育現場に与える影響
職務命令の根拠とは
教育という仕事
教育行政のあり方
転機の八十九年の指導要領
「君が代」を教える
「君」とは何か
式典での扱い方
問題は画一的な押しつけに
「国旗及び国歌に関する法律案」の審議に関する見解と要望
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Jローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久・右埼正博・山田敬男共著
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』紹介@
*************************************************
六回にわたり、堀尾輝久著『日本の教育』から学ぶ
ときを持ちました。その中心は【内村鑑三不敬事件】
の日本思想史における位置付けであり、今日の教
育現場で混乱を引き起こしている「日の丸・君が代」
問題をクリスチャンがどのように考えるべきなのか、に
ついての知っておくべき基本的な情報を提供するこ
とにありました。
堀尾輝久著『日本の教育』は、東京大学教育学部で
三十一年間教鞭をとられた堀尾教授が、その最後
の学期に十三回にわたって行われた特別講義と最
終講義の記録です。
この書籍は、「現代日本の教育の思想と構造」を非
常に分りやすく解説されている点で教えられるところ
が多くありました。このような書籍を紹介します訳は、
政治家やジャーナリズムにみられる無責任な右傾
化した報道があることと、三流週刊誌なみの文庫本
で右翼思想をベースにした著作物が横行している
ことがあります。クリスチャンの中にも表層的な情報
をもとに右傾化に毒される傾向もみられます。また、
その反対側には歴史的背景に深い理解なしに左翼
思想の影響を受けるという部分もあるかと思います。
この書籍の「はしがき」には、その作業の輪郭が
「1945年を思考の座標軸とし、敗戦後の開国と改革
がいかなるものであったかを、@それが否定した戦
前日本の教育、A改革時の国際関係と改革が参照
した欧米の近・現代の教育、B戦後教育史の流れ
と戦後改革評価の推移、の三つの視点から、歴史
的・構造的に明らかにしようとした。」ものでありま
す、と記されています。
JECの牧師研修会で「日の丸・君が代」に対する
クリスチャンのスタンスのありかたについての質疑
があり、その応答とのかねあいで、表層的な質疑
応答では不十分であり、やはり堀尾先生が明らか
にされている『日本の教育』全体をその思想と構造
を歴史的にきちんと把握することが必要と思い、
堀尾先生の著作を収集し、堀尾輝久・右埼正博・
山田敬男共著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』
において、語りかけておられる主張の真意を汲み
取ることに努力してきたということです。
堀尾先生の著作にあるような視点をしっかり持ちま
すと、先日米国の下院で可決された「従軍慰安婦」
の問題も理解するとこができます。戦後十年ほどの
民主的な教育改革の後、朝鮮戦争と反共の防波
堤としての日本の役割への転換にあわせ、教育
行政は大きく「右旋回」「戦前の価値観への回帰」
へと舵がきられていきました。自由民主党の結党
の理念がそのような内容になっています。今回の
参議院選挙の大敗北を含め、今後の選挙の敗北
を通して、民主党の同様な思考をされる議員も、
「基本的人権、思想・信条の自由、内心の自由」
がどれだけ大切にされなければならないものなの
か、それらを大切にする国づくりが選挙の票になる、
そのような時代になっていってほしいと思います。
時代背景的な事柄と、日本思想史においてまた
クリスチャンとしてきわめて重要な意味をもつ「内
村鑑三不敬事件」を扱うことができましたので、
『日本の教育』全体を扱う全体的な視点から、
『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』の細部の
事柄に焦点をうつして、堀尾輝久・右埼正博・山田
敬男共著『「日の丸・君が代」と「内心の自由」』
を丁寧に扱う中で、クリスチャンの信仰のあり方
を考えていきたいと思います。
*************************************************
“How JEC
?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Iローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味
堀尾輝久著『日本の教育』【内村鑑三不敬事件】紹介
*************************************************
明治憲法下では「国体に反するような思想・信条」の
自由はない」ということでありました。天皇制国家は
擬似宗教国家でありました。
【内村鑑三不敬事件】
「内村鑑三不敬事件…、これは天皇制国家の精神
構造のありようをみせてくれる一つの事件でした。」
「内村鑑三は当時、第一高等中学校−その後第一
高等学校になる、いわゆるエリート校−の先生をし
ていました。1890年に教育勅語が出され、、文部
大臣はすべての直轄学校に勅語を配布して、『祝
日その他適当な時期をみてそれを奉載し、その精
神を生徒たちみんなに伝えるように』という指示を出
したのです。」
「第一高等中学校でもその翌年早々、一月の初め
に教育勅語の奉載式というものをやります。そのと
き校長は恭しく勅語を拝読し、参加者はそれに拝
礼しなくてはならないのだけれど、内村はそれに拝
礼しなかったのです。」
「それを見とがめられて、内村は不敬であるという
ので、結局学校を追われたのです。」
「内村は学校をやめざるをえなくなりましたが、そ
れに対してクリスチャンは当然、内村擁護の論陣
をはります。」
「押川方義や植村正久は『基督教新聞』に共同声
明を出しておりまして、そのなかで『皇上は神なり、
之に向かって宗教的礼拝を為すべしと言わば、こ
れ人の良心を束縛し、奉教の自由を奪わんとする
ものなり』と言っています。」
「つまり、天皇は神であり、それに対して宗教的な
礼拝をしろということは、人の良心を束縛すること
になり、信教の自由を奪うことになるではないか、
という論旨です。」
「このクリスチャンの内村擁護の論陣は、日本近
代思想の中で、国家と宗教、権力と内面的自由
の領域の緊張関係、そして世俗の権力が内面の
自由の領域に介入してはいけないということを
強力に主張した事実です。」
「明治啓蒙期には、ヨーロッパの思想・信条の自
由の原理はとりあえず導入されていたし、紹介も
されていたのです。…しかし、実際の政治的・社
会的な緊張関係のなかでその原理を主張した人
というと、まず内村とその周辺にいたクリスチャン
ということになります。」
「そういう意味で、内村鑑三不敬事件とそれをめ
ぐる論議は、日本思想史のなかでも重要なもの
…。」
「こういうクリスチャンの内村擁護の議論に対し
て、『勅語衍義〔えんぎ〕』を書いた井上哲次郎
は『教育と宗教の衝突』〔1891年〕という有名な
論文を書きます。」
「この論文で『宗教』というのはキリスト教、『教
育』というのは国体を軸にした教育です。」
「彼はそこで、キリスト教は国体に反するという
論陣を張るのです。…井上からみれば、キリス
ト教は国家の安寧秩序を妨げるもので、臣民
の義務に背くものだ、という議論になっている
のです。」
「体制イデオローグたちがそういう仕方でキャン
ペーンを張る中で、クリスチャンの論理はだんだ
んと防衛的になっていきます。」
「勅語は精神の自由を犯すものだという主張で
あったのが、だんだんと、キリスト教は国体に
反しないというふうに、防衛的にその論理を変
えていかざるえなくなり、そういう仕方で生き残
っていくことになります。」
「明治の末〔1912年〕に仏教、神道。キリスト教
の三者が会合し、『各々、その教義を発揮し、
皇運を扶翼』することを約した三教会合同はこの
変化を決定的なものにしたのです。」
「戦前の日本のキリスト教の歴史は、ある意味
ではそれ自体が受難の歴史でもあったわけで
すが、天皇制国家の中で信仰の自由を守る
ために、逆に、国体・天皇制なるものとの妥協
の歴史をたどることにもなります。」
「この事件が示しているように、天皇制国家にお
いては思想・良心の自由が大きな制約の下に
おかれることになった、と言わざるをえないので
す。」
「…天皇制国家のもとで神道と国家が癒着して
いる。それを批判したのはまずクリスチャンでし
た。その人たちはプロテスタントだったのです。
内村を軸に、ほとんどの人たちはプロテスタント
でした。…このへんは思想史的になかなかおも
しろい問題ではないかと思います。」
私たちクリスチャンは、特にキリスト教聖職者は、
「日本におけるクリスチャンのあり方」を考える
ときに、「内村鑑三不敬事件」のもつ思想史的
意味について深く考えることが大切だと思いま
す。
「内村鑑三不敬事件」からは、多くの事柄を教
えられると思います。それらの中の幾つかのポ
イントを拾っていきたいと思います。
それらの中のひとつは、クリスチャンは「内心の
自由」の問題に非常に敏感な人々であると思い
ます。
「天皇制」の問題について考えますと、キリスト
教的視点からみますと、この問題は徹頭徹尾
水平軸≠フ問題として扱わないといけない
問題、人間の次元の問題であるということです。
といいますのは、私たちクリスチャンにとりまし
ては、縦の関係、つまり垂直軸≠フ関係に
あります神は「天地創造の唯一の父なる神」以
外にはありえないからです。
「天皇」の問題は、「祖先」の問題との類比の
中で整理できるのではないかと思います。
聖書の信仰においては、偶像礼拝か禁じられ
ており、祖先崇拝は禁じられています。しかし、
「父母を敬え」とあり、水平軸の次元の視点
において、私たちの血縁的なルーツである「祖
先」に対する感謝と敬愛の念を抱くことが大切
な事柄であると教えられていると思います。
それと同様に、「天皇」を垂直の次元≠ナ
崇拝・崇敬の対象とすることは禁じられていま
すが、水平の次元≠ナ歴史的に、統一国家
をもたらされた人物として、その家系として、
感謝と敬愛の念を抱くことは大切なことではな
いかと思います。
ただ、私たちクリスチャンが警戒の念を解くこ
とができないのは、「天皇と天皇制」のもつ宗教
性の部分です。明治憲法下ではその宗教性の
ゆえに、日本とアジアのクリスチャンたちは弾圧
され、殉教したクリスチャンも少なくありません
でした。
日本国憲法下では、信教の自由、思想・信条
の自由が与えられていますが、日本人の国民
性は戦前と戦後で革命的変化を起したとは考
えられません。
国際情勢の変化、政治状況の変化によって、
「国事行為」「私事行為」と分けられている天皇
の働きが、いついかなるときにあいまいにされ
て、戦前へ回帰していくかもしれない潜在性
を常に秘めています。
「天皇・天皇制」の問題は、氷山に例えられます。
私たちがマスコミを通してみます「現在の天皇の
活動」は、憲法に定められている「国事行為」が
中心です。しかし、天皇の活動の大半は「私事
行為」であり、一年のほとんどを「皇室神道」の
儀式に費やしておられます。前者はいわばだれ
にでも明らかな「海面上」の天皇の働きであり、
後者は秘められ、隠された「海面下」の天皇の
働きといえると思います。
下記に「君が代」の解釈についての総理大臣の
答弁があります。その表面上はいかなる問題も
ないかのように見えます。
【矛盾と混迷の「君が代」解釈】
以下のものは、〔衆院本会議1999.6.29〕における
小渕恵三内閣総理大臣の答弁である。
「伊藤英成議員にお答え申し上げます。…君が代の
「君」に関するお尋ねであります。議員ご指摘のよう
に、君が代の歌詞は、平安時代の古今和歌集や和
漢朗詠集に起源を持ち、その後、明治時代に至るま
で祝い歌として長い間民衆の幅広い支持を受けてき
たもので、この場合、君が代の「君」とは、相手を指
すことが一般的で、必ずしも天皇を指しているとは
限らなかったものと考えられます。」
「ところで、古歌君が代が、明治時代に国歌として歌
われるようになってからは、大日本帝国憲法の精神
を踏まえ、君が代の『君』は、日本を統治する天皇の
意味で用いられてまいりました。」
「終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も戦
前とは変わったことから、日本国憲法下においては、
国歌君が代の『君』は、日本国民の統合の象徴であ
り、その地位が主権の存する日本国民の総意に基
づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民
の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合
の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、
そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したもの
と解することが適当であると考え、かつ、君が代につ
いてのこのような理解は、今日、広く各世代の理解
を得られるものと考えております。」
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/07/01-07/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
今月は、月はじめにJEC〔日本福音教会〕の牧師研修会が
あり、「憲法改訂問題」についての発題と質疑のセミナーが
開催され、その関連の書籍の研究にあけくれていました。
それらの数多くの書籍研究の中から、参考になる文献を紹
介しています。日本人の特徴のひとつとして「のどもと過ぎ
れば熱さ忘れる」というところがあるように思います。戦前
の強制・弾圧等の今日的意味をよく考えることが必要と思
います。安倍政権の方針は、小泉政権からの「新自由主義」
と安倍政権の新しい特徴としての「新保守主義」があるとの
ことですが、「新保守主義」の中身を、歴史的背景から踏ま
えて研究しておかないと、「学校現場」をはじめとして、大変
な事態が起こりつつあるように思います。「学校現場での
強制」は、やかでそう遠くない時に「社会のさまざまな局面
での強制」へと発展していく潜在性を秘めています。それら
のことは「明治・大正・昭和の時代」に起こったことです。
そして、事の本質からして、この問題の行き着くところは
「クリスチャンの信仰の内心の自由の侵害」に至る可能性
をもつ問題と思います。また、広くは国民全体に対する
「基本的人権」に甚大なる侵害をもたらす事柄と思います。
今回の参院選挙の大敗北で、若干のブレーキはかかった
と思いますが、「その政策は国民に支持されている。」と
いう始末です。ナショナリスティックで画一的で、天皇制に
関わる部分では皇室神道との問題を潜在的に内包してい
ます。戦前のクリスチャンは、妥協を強いられていった歴史
があります。戦後のクリスチャンは、それらの歴史的経験を
心に刻み、戦前の反省の上に「内心の自由」を尊重する国
のあり方を人生のさまざまな局面において戦い、守り抜い
ていかなければならないと思います。そのような生き方を
することこそ、「真の愛国心」につながる生き方と思います。
自民党のみならず、民主党の中にも新保守主義の改憲論
者がいますので、選挙においてもクリスチャンの視点から
どのような議員に投票すべきなのかよく考えて投票行動を
とることが求められている時代だと思います。
*************************************************
2007 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
四月より小集会のメッセージの録音を紹介しています。
音楽の部分の録音はよくないのでカットしました。
ショート・メッセージの部分のみの紹介です。
小さな「家の教会」の貧しい説教ですが、関心のある方
は、ご視聴ください。
*************************************************
2007.07.29 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 マタ 7:13-14
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Hローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔F〕
堀尾輝久著『日本の教育』【学問・教育の自由】紹介
*************************************************
「教育勅語がつくられ、天皇制教育体制が固まって
いく。…天皇制国家においては、精神の自由という
市民社会のもっとも根源的な自由が抑圧されている、
大きく制約されている、という構造になっているわけ
です。その当然の帰結として、学問や教育の自由は
存在しなかったと言っていいと思います。」
明治時代と今日の時代を比較してみていますと、
「元号、建国記念日、日の丸・君が代、改訂教育基
本法、…」の流れは、精神の自由という市民社会の
もっとも根源的な自由を抑圧する社会を再到来させ
ることはないのだろうかとの懸念を抱かせます。
【学問・教育の自由】
「一般的に思想・信条の自由が明治憲法下でどういう
扱われ方をしたかというと、その二十八条で、信教の
自由というのをいちおう認めているわけです。しかし、
それは『安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に
そむかざる限りにおいて』思想・信条の自由を認める
ということでした。」
要するに「国体に反するような思想・信条の自由はな
いということですが、この規定にはもう一つ意味が含ま
れていて、日本の国体の弁証〔正統性の論証〕にとっ
て不可欠な神道は『宗教にあらず』ということがあるの
です。」
「神道は宗教ではないから思想・信条の自由の対象
ではない、むしろ、国民すべてが神道の徒でなければ
ならないと説かれていたのですが、このことは天皇制
の国家イデオロギーの一つの重要なポイントです。」
「万世一系の天皇制と不可分に結びついている神道、
この神道は宗教ではなく、日本国民たるすべてが神
道の徒でなければならないということになり、神道の
大本は天照大神ですから、これに対してはキリスト教
徒といえどもすべての者が崇拝の念をもつことを求め
る、こういう構造になるわけです。」
「そのことを逆に言えば、神道は実質的には国家宗教
なのです。『国家宗教』という言葉が使われてもいます。
しかし『神道は宗教にあらず』というフィクションが同時
に用意されている。」
「思想・信条の自由、信教の自由ということをいちおう
憲法に書いているわけですから、もつ神道が宗教の
ひとつであるならば、それを信じるかどうかは自由とい
うことになるわけですが、そうではなくて、神道は国民
すべてがそれに服さなければならないものと考えるか
ぎりにおいて、それは宗教ではないと言わざるをえな
い。」
「そういうフィクションを含んで、ある意味で矛盾を含ん
で、天皇制国家は疑似宗教国家であると言えます。」
敗戦後、日本は「日本国憲法」により「象徴天皇制」の
国家になりました。「天皇主権」から「国民主権」に変わ
りました。「国家神道」は廃止され「国家」と「神道」は
分離されひとつの宗教となりました。人権の蹂躙され
ていた時代は終わり、「人権尊重」の時代となりました。
しかし、法律が変わると国民の意識が一夜にして変
わるということではありません。戦前の考え方が変え
られていくためには、「古い考え方」と「新しい考え方」
との現実の戦いの中で、日本社会の中に実体化され
ていく長い過程が必要とされています。それが幾つか
の裁判闘争の中に明らかにされています。
日本国憲法と教育基本法をもとに、日本の「古い土壌」
が変えられつつありましたのは、戦後十年間ほどでし
た。朝鮮戦争が起こり、反共の防波堤としての役割を
担わされた日本は、再び「古い日本」を大切にする人
々が復帰してきました。
そして、政府の教育政策はそのような方向性をもって
導かれてきました。
「日の丸・君が代」の強制の問題をクリスチャンとして
どう捉えたらよいのか。これが、今回のシリーズの中
心テーマです。この問題に関しては、多様な視点、
多角的なものの見方が必要にされているように思い
ます。つまり、あまり単純ではない、ということです。
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Gローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔E〕
堀尾輝久著『日本の教育』【教育勅語の背景】紹介
*************************************************
明治政府が「教育勅語」をつくる過程をみていますと、
現在の政権が「日の丸」「君が代」、それ以前からみ
ますと「元号」「建国記念日」、昨年には「教育基本法」
改訂、そして「憲法」改訂の前提としての「国民投票法」
の制定等の取り組みの本質が見えてくるような気がし
ます。
【教育勅語の背景】
「明治二十年前後は、自由民権運動のあと、キリスト
教が入ってきて、他方で儒教的な復古主義的な議論
も盛んに行われたのですから、この時代は世論が非
常に混乱したようなところがありました。」
「政府は、条約改正問題をにらみながら近代的な法体
系をつくらなければならないという課題を負っている。
ヨーロッパのお雇い学者をたくさん呼び、自分たちも外
国へ行って研究しながら憲法をつくり、民法をつくり、
刑法を整えて近代国家の装いをつくらなければならな
い。」
「さらに日本の風物あるいは慣習も、鹿鳴館という
ような形で、文明開化が進んでいるのだとということ
を大きく外に示さなければいけない。しかしそれは伝
統を壊すことになるわけで、これ自体、大変危険なこ
とです。」
「そこで、一方で外向きに前に進みながら、他方で古
い秩序をどう維持するかということが、当時の政治家
たちのいちばん大きな課題だったのです。」
「…当時は憲法を頂点に、刑法や民法など近代的な
法体系が整えられていくわけです。…日本でもフラン
ス民法の思想を軸に民法をつくろう、ということになっ
たのです。」
「ところがこの民法はまさに市民社会の法典です。
それが出てくると、忠孝という伝統的なタテ社会の秩
序を壊すことになる。穂積八束〔帝国大学の憲法学
の初代教授〕はそのことを憂慮して『民法出でて忠孝
滅ぶ』といった。」
「権利を軸にした法秩序は好ましくない、民法はでき
るだけ保守的な形で押しとどめなければいけないとい
うので、民法草案をめぐる議論が激しく行われて、民
法法典はなかなかまとまらなかったわけです。」
「…当時、各県の地方長官〔知事〕会議というものが
何回か行われ…。そこでも国民道徳の混乱について
…なんとか道徳の大本になるようなものがほしい、
という議論が出て、『かくなるうえは教育で始末をつ
ける』という有名な発言が…出てきています。」
「つまり、社会全体としては近代法的な体制をつくら
なければいけない、そこで伝統を維持するために教
育に期待する、ということです。」
「では、国民道徳の機軸になるものをどこに求める
か。それは日本の国体、そして忠孝一本の道徳
が望ましい、ということになるのです。」
「そして教育勅語的なるもの…の草案づくりが始ま
ります。…その草案は、中村正直という啓蒙期に活
躍した思想家と、井上毅という近代官僚の軸になる
人と、そして元田永ざね」という儒学者が関与し、そ
れらの人の合作でできたという経緯が克明にたどら
れています。」
「その教育勅語を、民衆は、天皇が国民のために
下したもうた尊いお言葉である、というふうに受けと
めていたのです。…国民は、天皇の示されたありが
たい道徳律としてそれを受けとめたわけです。」
「なぜ道徳の基準を天皇に求めたか。…修身の教
科書の編纂の責任者だった西村茂樹という儒学者
が…なぜ道徳の根源を天皇に求めることになったか
ということを、次のように回想しています。」
「…ヨーロッパは道徳の基準をキリスト教に求めてい
る。ところでロシヤ帝国は皇帝ツァーが同時に宗教
的な権威をもっている、その体制が非常に参考にな
る、世界無双の大国の中にも政治と宗教との体大権
を一身に集めたものが多い、我が国においては皇室
をもって道徳の源となす、というふうに西村は書いて
いるのです。」
「冒頭に、天皇制国家における天皇の位置を、世俗
の権力の保持者であると同時に精神的権威の体現
者だった、と言いましたが、いまの西村の話に重ね
て言えば、その精神的権威というのは、いうなれば
宗教になるわけです。これを大いに参照しながら天
皇制国家が構築されたということがわかると思いま
す。」
このように見ていきますと、「教育勅語」というものが
天皇陛下からのありがたい「道徳律」ではなく、明治
国家形成のプロセスにおいて、自由民権運動やキリ
スト教的な価値観に歯止めをかけるためにつくられた、
政治的意図をもった「人工的な創作物」であることが
分ります。
江戸時代の幕藩体制から、薩長による明治政府へ
の移行における「天皇」の政治利用がそこにみられ
るように思います。
「…その当時、勅語が出ても勅語がなんだ。大事
なのは法律だ≠ニいう議論が当然あるわけです。」
「それに対してそうではないのだ。勅語は聖者あ
るいは賢者の言葉というようなレヴェルの問題では
ない。天皇の国家大権の行使として出されている
のだ≠ニいうことです。」
「帝国憲法ができ、帝国議会ができて、立法府とし
ての議会が法律をつくるわけですが、その法律とい
うのは時の政治勢力の力関係を反映をしているもの
である、しかし教育や道徳に関するものはそういう
政治勢力によって左右されるものではない、だから
天皇が統括するのだ、という論理構造になっている
わけです。」
「…したがって勅令は法律ではないが、しかし単な
る聖人の言葉ではないのであって、法律的な効力
をもっているのだ、いうなれば勅語は法律を超えて
法的な効力をもっている、超法規的存在なのだ、と
言っているわけです。」
ここの段落は、「…この教育勅語の超法規的な性格
が、戦後改革でどういうふうにとらえられていくのか、
変化していくのか、という問題が残っています。」と
いう言葉で締めくくられています。
改訂教育基本法において、「郷土を愛し、国を愛す
る」心を育てるというソフトな言葉の中に含まれてい
るものは何か。
学校現場のさらなる混乱を無視してまで「日の丸」
「君が代」を強制する文科省が長期的に意図して
いるものは何か。
「日の丸」「君が代」は、文科省がなそうしている事
柄の氷山の一角であって、その水面下にはその本
体が隠されているのではないだろうか。
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Fローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔D〕
堀尾輝久著『日本の教育』【天皇制国家と教育】紹介
*************************************************
「日の丸・君が代」と「内心の自由」の問題を扱っている
わけですけど、この問題は単に「日の丸」の歴史、また
「君が代」の歴史という表層的な扱いをしますと、国家
神道時代のクリスチャン同様、大変な間違いを犯すこと
になると思います。この問題は、クリスチャンの信仰に
とって最も中心的な部分にふれる問題であると思いま
す。この問題は、「内心の自由」を侵害する問題です。
この問題は、ドイツのワイツゼッカー大統領が申しまし
たように「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」
類の事柄です。
前回は、「明治の前期と後期」から学びました。明治前
期の「自由民権運動」が「国家の権威的な抑圧により
鎮圧」されていく中で「帝国憲法」「教育勅語」がつくられ、
教育を通して「天皇制」が確立させられていくのです。
「天皇制」的なものを中心にして強圧的に国民同化の
プロセスがすすめられ、それらが民衆の信条体系と
されていくために「教育」が用いられた経過を以下にみ
ていくことにしましょう。
【天皇制国家と教育】
「天皇制教育体制の理念やその教育の目的は何だっ
たのでしょうか。また、教育というものはどのように考え
られていたのでしょうか。」
「まず、天皇制国家をどういう精神構造としてとらえる
かということで、…『天皇制国家は、大日本帝国憲法
〔1889年〕と教育勅語〔1890年〕および軍人勅諭
〔1882年〕をその精神的支柱とし、天皇は、統治権の
総攬者、統帥権の保持者として、政治的権力の王者
であると同時に、皇祖皇宗の遺訓に基づく道徳の大本
を指し示す精神的価値の体現者であった。』」
「帝国憲法、教育勅語、そして軍人勅諭。帝国憲法は
天皇の位置を、一つは統治権の総攬者としているの
です。天皇は統治権をもっている主権者である、と。
もう一つは天皇は軍隊の頂点に立ち、軍隊を統括する
力をもっている。これが統帥権です。これを帝国憲法
と軍人勅諭で規定しているわけです。そしてもう一つ、
教育勅語が精神的な領域における権威者としての天
皇を規定しているということです。」
「政治および軍事をとおしてのまさに世俗の権力の保
持者としての天皇が、同時に、国民の精神的な領域
における権威者でもあるということ。世俗の権力と精
神的な権威、この両方をもっているのが天皇制国家
における天皇の位置なのです。…」
「天皇を国民道徳と国民教育の中心に置くという発想
は、明治のステイツマン〔国家をつくった人たち〕の苦
心の策でもあったわけです。」
「明治政府は拡がり盛り上がった自由民権運動を危険
なものとして弾圧し、異端として排除したのですが、
このことは、民権を切り捨て、国権を中心に国民の
統合をはかる道を選んだということであり、その国権
の統合の中心に何をもってくるかというと、天皇を中心
とする国体への共順の念を国民道徳の軸に据えよう、
ということになったわけです。」
後にみていくことになりますが、今日の「教育基本法」
の改悪、「日本国憲法」の改悪を目指している人々の
深層にあるものは、明治国家を築いた人々をひとつの
模範としているように思います。
その方向は、「内心の自由」への侵害をなんとも軽く
みる方向であり、そのことのゆえに多くの犠牲者を
生み出していく道筋であると思います。クリスチャンの
立場からみますと、宗教的な意味での「不品行」「姦淫」
を強要される時代の再到来への危惧であります。
旧約時代においては、ダニエルたちがバビロン帝国で
戦い、新約時代においては、ペテロやヨハネがローマ
帝国の皇帝崇拝強要を予測し、警戒心をといてはな
らないと語りかけているところです。
「内心の自由」の問題は、クリスチャンにとって死活的
重要性をもつ問題であると思います。この問題は、空
気や水などの汚染の問題と似ていると思います。多く
の人にとって多少の汚染は気にもならない事柄です
が、ある生き物にとっては非常に敏感な問題である
場合があります。
すっかりと汚染されて、環境が戻らない状態になって
深刻な事態に気づく人々もあります。そのような意味
で、「内心の自由」の問題に最も敏感なクリスチャン
がこの問題に警鐘をならしていく責任があると思いま
す。
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Eローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔C〕
堀尾輝久著『日本の教育』【明治の前期と後期】紹介
*************************************************
ここ数週間、堀尾・右崎・山田著「『日の丸・君が代』と
『内心の自由』」新日本出版社、を読んでから、堀尾輝
久氏の記述に深く教えられるものがありましたので、
堀尾氏の著作集を数多く収集し、目を通してまいりまし
た。
それらの著作から教えられたところを、「ローザンヌ誓
約『第13項 自由と迫害』解説の意味」と関連させな
がら、分かち合いたいと思います。堀尾輝久著『日本
の教育』東京大学出版会、の概略は以下の通りです。
【 堀尾輝久著『日本の教育』 】
序:思想の座標軸−現代はどんな時代か
戦後改革をどうとらえるか−その断絶と連続の構造
戦後改革が否定したもの−天皇制教育体制
天皇制教育体制とは
天皇制国家と教育
教育勅語の背景
学問・教育の自由
義務教育の観念
教育行政の特徴
学校制度
改革の過程−憲法・教育基本法の成立
憲法・教育基本法の原理
断絶と連続の構造
改革の主体性と原理の普遍性
改革の参照対象としてのヨーロッパの近・現代
日本の中の自由・人権・平和の伝統
保守的なるものの連続
改革の断行
新学制の発足と新教育
私の戦後史
民間教育運動の展開
国家と教育
国家の復権と教育の再編
教育の正常化と教員統制
教育内容の統制
国民教育運動の展開
教育裁判が提起したもの
経済と教育
経済成長と能力主義
能力主義の問題性
低成長下の教育再編
教育の自由と公共性
教育の自由とは何か
教育の公共性とは何か
学校化社会と学校知をどう超えるか
この著作から教えられたことは、「『日の丸・君が代』と
『内心の自由』」のテーマの詳細です。それらの幾つか
を紹介していきたいと思います。
【明治の前期と後期】
pp.16-17 には、「明治の前期と後期」についての記述
があります。「1890年以降、天皇制国家が確立するわ
けですが、これを区切りとして、時代をその前後に分け
ていいと、わたし自身は考えているのですが、最近出
た丸山真男先生の『忠誠と反逆』〔筑摩書房、1992年〕
という本…の中につぎのような記述があります。」
「天皇制的な『正統性』が原則的に確立したのは、自
由民権運動を強力に…鎮圧した土壌の上に帝国憲法
の発布・市町村制の施行・教育勅語の渙発などが相
次いで行われた明治二十二、三年以降のことであり、
ほぼこの頃から社会的規模で開始された日本帝国的
信条体系への『臣民』の同化過程は、明治三十年代
の中頃までに一応のサイクルを完了する」。
「つまり丸山さんは、天皇制的な『正統性』が原理的
に確立する時期を明治二十二、三年にとっているわけ
です。その前提として、自由民権運動を権力的に抑圧
し、そのうえで帝国憲法をつくり、市町村制を整え、そ
して教育勅語を出した。帝国憲法が明治二十二年
〔1889年〕、その翌年が教育勅語です。」
「ほぼこのころから天皇制的なものを中心に国民の同
化のプロセスが進む。つまり、帝国憲法がつくられ、
教育勅語が出たからといって、それがすぐに民衆の信
条体系〔belief-system〕にはなりません。そのために
こそ教育が使われるのです。…」
私たちJEC〔日本福音教会〕が、「でき得る限り国民の
良心」となり、「為政者たちに神が制定された彼らの役
割を銘記させるつとめ」を果たしていく上で、天皇制、
日の丸、君が代と「内心の自由」の問題の歴史的な背
景に留意することは大切なことだと思います。この問題
は、表層的な取り扱いにとどまらず、深層にふれる取り
扱いを丁寧にすることが、特にクリスチャンにとって重要
なことだと思います。これらの事柄を丁寧に扱うことによ
り、私たちはクリチャンとして生きる、日本という異教文
化のコンテキストの中で、エヴァンジェリカルなクリスチ
ャンとして生きるということは、どういうことなのかを教え
られるように思います。
7/20
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Dローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔B〕
*************************************************
「ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説」の中に
以下の記述があります。
「だが、、教会は祈るだけで止まることはできない。それに
加えて教会は、でき得る限り国民の良心にならなけれ
ばならないし、為政者たちに神が制定された彼らの役割
を銘記させるつとめを持っている。
ゆえに、私たちは為政者たちのために神に祈り求める
だけでなく、私たちの為政者たち自身に『思想と良心の
自由を保障するように呼びかける』のである。」
私たちJEC〔日本福音教会〕は、どのようにして「国民の
良心」たりうるだろうか。私たちはどのように振舞うこと
により「私たちの為政者たち自身に『思想と良心の自由
を保障するように呼びかける』」ことができるだろうか。
殉教したキリシタンたち、そして国家神道時代に殉教し
たアジア諸国のクリスチャンたちが、私たちに問いかけ
ているメッセージとはそのようなものではないだろうか。
7/19
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Cローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説の意味〔A〕
*************************************************
【 ローザンヌ誓約 『第13項 自由と迫害』解説 】
「悪魔は、罪と誤謬とを教会の中に導入するだけでは
満足せず、さらに肉体上の迫害か、もしくは教会の働
きを阻止するための法的規制によって、教会を外側か
ら攻撃する。
ゆえに『自由と迫害』と題する第十三項は、教会と国
家の関係という大変むずかしい問題に勇気をもって取
り組んでいる。
教会と国家はそれぞれに対し果たすべきつとめを持
つことを確認し、特にTテモテ2:1-4 との関連でのその
つとめを解説する。」
新改訳 Tテモ2:1-4
2:1
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
「『神がすべての政府に託されたつとめは、平和と正
義と自由のための諸条件を確保することである。』なぜ
なら、そのようなときに私たちは『敬虔に、また、威厳
をもって、平安で静かな一生を過ごす』〔二節〕ことが
できるからである。
そのような状態において『教会は神に従い』(敬虔に)、
主キリストに従うことができ〔コロサイ3:24、『イエスを主』
と告白したキリスト者はだれも『カイザルは主である』と
宣言できない-マルコ12:17 参照〕、『干渉を受けること
なく…福音を宣べ伝えることができる』〔三、四節で暗
示されている。使徒4:19,5:29 参照〕」
新改訳 コロ 3:24
3:24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
新改訳 マコ 12:17
12:17 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
新改訳 使 4:19
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
新改訳 使 5:29
5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。
「他方、教会は国家に対し責任を持っている。特に『国家
の為政者たちのために祈る』責任を持っている〔一節〕。
だが、、教会は祈るだけで止まることはできない。それに
加えて、教会は、でき得る限り国民の良心にならなけれ
ばならないし、為政者たちに神が制定された彼らの役割
を銘記させるつとめを持っている。
ゆえに、私たちは為政者たちのために神に祈り求める
だけでなく、私たちの為政者たち自身に『思想と良心の
自由を保障するように呼びかける』のである。これらの自
由は、1948年12月に開かれた国連総会で、九票の棄権
を除き大多数の支持を得て可決された『世界人権宣言』
の中に示されてきた。」
「その第十八条は次の通りである。『何人も、思想、良心
および宗教の自由を享有する権利を有する。この権利は、
その宗教または信念を変更する自由、および、単独に
または他人と共同して、公的にあるいは私的に、教育、
行事、礼拝および儀式によってその宗教または信念を表
明する自由を含む』」〔岩波文庫『人権宣言集』p.405〕
「だが、より重要なことは、これらの自由の保障が『神の
み旨にかなって』いるということである。というのは、神は、
合法的な自由を奪い取ったり、無実なものを虐げるため
ではなく、犯罪者を罰し、善良な市民に報いるために
<統治者のための権威>を設けられたからである
〔ローマ13:1 以下〕。」
新改訳 ロマ 13:1-14
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
13:3
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
13:4
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
13:7
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
「教会と国家の相互のつとめを概述したあと、本項は、
抑圧の犠牲者たちに注意を向けている。『私たちは、
さらに、不当に投獄されているすべての人々のために
…深い心の痛みを覚える。』私たちは彼らを<良心の
投獄者たち>と呼ばない。なぜならある人たちの良心
は信頼できる手引きになるには、あまりにも堕落して
いるからである。
私たちはむしろ、何の害悪をはかることも、また実際に
行うこともしなかったのに、ただその主張のゆえに、あ
るいは前述した自由の枠の中で行ったある行動のゆ
えに、投獄されてきた圧政の犠牲者たちのことを考え
ている。
そのような犠牲者たちのうち、私たちは『特に主イエス
のあかしのために苦しめられている私たちの兄弟姉妹』
をあげたい〔黙示1:9〕。私たちは彼らを覚え、あまつさえ
『牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで
思いやる』〔ヘブル13:3〕ようにすすめられてきた。
だが、同情するのみでは十分とはいえない。『私たちは
ここに、彼らが自由にされるために、祈りかつ労すること
を約束する。』〔ルカ4:18 参照〕」
新改訳 黙 1:9
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
新改訳 ヘブ 13:3
13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
新改訳 ルカ 4:18
4:18
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
「もう一つのことが言われねばならない。それは『私たち
は、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない』
ということである。圧政者たちはいつも、自己の意志を
主張し、教会を倒すために暴力を使うことができると思
いこんでいる。
しかし、彼らは決してそうできなかったし、これからもそ
うすることはできないであろう。私たちは人間につきまと
う弱さを知っているが、『神の助けによって、私たちも、
代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち
向かい、福音に忠実に生き続ける』。
ところで、このことを主張したとしても、私たちほとんどの
者には今すぐ何の代価も要求されないかもしれない。
しかし、少なくとも圧政と迫害とは、現在自由である国々
にも広がる可能性があるということは認めなければなら
ない。なぜなら『迫害は必ず起ると警告されたイエスの
ことばを忘れない』からである〔例 マタイ5:10-12〕。
新改訳 マタ 5:10-12
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」
【ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』解説のもつ意味】
『自由と迫害』と題する第十三項の解説は、教会と
国家という大変むずかしい問題に勇気をもって取り
組んでいる、という言葉をもって始められています。
この項目において、取り扱われている事柄を私たちは
現在の日本の状況に当てはめていくことを求められて
います。
「教会と国家の関係」を考えていく上で、西欧のキリス
ト教会と国家との関係の歴史を学ぶことはひとつ大切
なことだと思います。共立基督教研究所で学ばせてい
ただいていましたとき、東京基督神学校でも学ばせて
いただき、そのとき歴史神学の多くの科目を担当され
ていましたのは丸山忠孝先生でした。
先生は、教会史の学び方として多くの学び方がある中
で、「教会」と「国家」という二つの概念の関係を軸に教
会史の学びを導かれました。そのときは、あまり深く考
えが及びませんでしたが、今日そのことの重要性を深く
かみしめているところです。
この件は、宗教改革者たちの「抵抗権」というテーマと
も深く関係するものです。西欧キリスト教世界における
「教会」と「国家」との関係から多くのことを学べると思
います。
それとともに、「日本国」と「キリスト教会」との関係の
歴史にも目を留める必要があります。
大和朝廷による国内統一、貴族社会、武家社会を経て
明治、大正、昭和の時代、敗戦により「日本国憲法」
をもとに、「基本的人権」の保障された新しい日本国
のあり方がスタートしました。
「キリスト教」との関係においては、織田・豊臣・徳川
時代のカトリックによる宣教とキリシタンへの弾圧、
そして殉教がありました。また、明治・大正・昭和の
時代においてはプロテスタントによる宣教も始まりま
したが、「大日本帝国憲法」「教育勅語」「国家神道」
等により、特に戦争が激しさを増した時期には、信教
の自由は一段と厳しく制限され、「愛国的行為」との
名目で「神社参拝」「天皇崇拝」を強要された時代で
ありました。敗戦後、キリスト教会は「日本国憲法」
のもとで新しい歩みを始めましたが、その思考は戦前
の延長の要素が強くあり、戦争協力への責任、愛国
心の名目での信仰面での妥協等についての「総括」
は長い間行われなかったようです。
今日、「国旗・国歌法案」や「改訂教育基本法」により、
学校現場において「日の丸」と「君が代」の強制がなさ
れています。
私たちは、キリスト教会として「日の丸」と「君が代」
の問題をきちんと総括するとともに、「21世紀の日本
国のあり方」を提唱していくことが大切と思います。
7/18
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
Bローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』採択の意味
*************************************************
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』には、以下の誓
約がなされており、JEC諸教会がこの誓約を採択した
意味を、日本の文化と歴史というコンテキストを踏まえ、
エヴァンジェリカルな生きざまを証しするということとは
どういうことかについて考えてみたいと思います。
ローザンヌ誓約『第13項 自由と迫害』
「神がすべての政府に託されたつとめは、教会が干渉
を受けることなく神に従い、主の仕え、福音を宣べ伝え
ることができるように、平和と正義と自由のための諸条
件を確保することである。
ゆえに、私たちは、国家の為政者たちのために祈ると
ともに、彼らが神のみ旨にかなった、そして国連の『世
界人権宣言』〔1948年〕に打ち出されているような思想
と良心の自由、宗教的諸活動の自由を保障するように
呼びかける。
さらに、、不当に投獄されているすべての人々のため
に、また、特に主イエスのあかしのために苦しめられて
いる私たちの兄弟姉妹のために、深い心の痛みを覚える。
私たちはここに、彼らが自由にされるために、祈りかつ
労することを約束する。とともに、私たちは彼らの苦境
をみて決しておじけづくものではない。
神の助けによって、私たちも、代価がどんなに大きくと
も、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に
生き続けるものである。
私たちは、迫害は必ず起ると警告されたイエスのこと
ばを忘れない。」
7/17
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
A『日の丸・君が代と内心の自由』の問題
*************************************************
7/3のJEC牧師研修会を終えて、ひとつの宿題が
与えられたように感じていました。それは、「日の丸」
と「君が代」の問題です。
憲法九条問題では、このテーマに参考となる書籍とし
て、ピーター・C・クレイグ著、村田充八訳『聖書と戦
争−旧約聖書における戦争の問題−』すぐ書房、と
村田充八著『戦争と聖書的平和−現代社会とキリス
ト教倫理−』聖恵・神学シリーズ34、があげられます
とし、その内容を紹介させていただきました。
ただ、「日の丸」と「君が代」の問題においては、かな
り多数の書籍を読みあさりましたが、教育現場におけ
る深刻な軋轢を扱った書籍は多数あるのですが、聖
書の啓示、クリスチャンの信仰と「日の丸」と「君が代」
問題をきちんと扱った書籍は見当たりませんでした。
もし、そのような書籍、この問題を神学的、かつ包
括的な視点から扱った書籍がありましたら、ぜひ紹介
していただきたいと思っています。
そのような中で、この課題に間接的に触れている良書
として紹介させていただける書籍として、堀尾輝久・右
埼正博・山田敬男著『日の丸・君が代と内心の自由』
新日本出版社、があります。
以下にその概略を紹介します。
*************************************************
「国旗・国歌を考える」堀尾輝久
*************************************************
国旗・国歌をどう考えるか
日の丸・君が代は国旗・国歌たり得るか
大きく変わった天皇の意味
国民主権にふさわしい歌
日の丸と君が代を区別して考える
侵略性のシンボル
内面の自由の問題
戦前の反省から生まれた十九条
教育の本質と国家の関係
教育現場に与える影響
職務命令の根拠とは
教育という仕事
教育行政のあり方
転機の八十九年の指導要領
「君が代」を教える
「君」とは何か
式典での扱い方
問題は画一的な押しつけに
「国旗及び国歌に関する法律案」の審議に
関する見解と要望
*************************************************
「日の丸・君が代と思想・良心の自由」右埼正博
*************************************************
はじめに
思想・良心の自由の憲法的保障が意味すること
思想・良心の自由の保障の意義
思想・良心の自由の保障の具体的内容
国旗と憲法−アメリカでの議論を参考に考える
国旗敬礼強制事件
国旗損傷処罰事件
「日の丸・君が代」と思想・良心の自由
結びに代えて
*************************************************
「日の丸・君が代問題と自民党政治」山田敬男
*************************************************
「日の丸・君が代」の法制化
「国民定着」論の破綻と法制化
「天皇在位十周年記念式典」の挙行
歴史の中の「日の丸・君が代」
戦前戦中の「日の丸・君が代」
「明治時代」の「日の丸・君が代」
十五年戦争と「日の丸・君が代」
戦後の「日の丸・君が代」
新憲法の制定と「日の丸・君が代」
「逆コース」と「日の丸・君が代」の復活
高度成長期の「日の丸・君が代」問題
軍事大国化への転換と「日の丸・君が代」問題
法制化のねらいとその背景
新ガイドライン体制と九十年代
九十年代の改憲策動
改憲を正当化する「国際貢献」論
軍事大国化とナショナリズム
危険な歴史見直し「運動」
終わりに
*************************************************
「資料:国旗・国歌法案に対する国会質問と政府答弁」
*************************************************
衆議院本会議での法案の趣旨説明
反対論を封じて教育現場の混乱を抑える
世論は法制化について理解していないことを認める
矛盾と混迷の「君が代」の解釈
「君が代」斉唱指導は内心に立ち入る−文部省初等中等教育局長異動前の答弁
「沈黙の自由」を認める
内心の自由を認めつつ教師への処分も容認する
東大では「日の丸・君が代」入学式・卒業式はやらなかった
「子供への強制」具体的には?
「心理的強制」も内心の自由侵害
「君が代」解釈 国民は自由だが教育では別
特別権力関係とはとらえない
法案賛成議員でも「君が代」伴奏拒否教師への処分には反対
法制化で教員の考えを変えるつもりはない
「日の丸・君が代」の過去には、反省すべきことがあった。
ゆがめられた事実も教える。
「日の丸・君が代」で何を教えるのか?
アジアの人々は「日の丸」をどう見ているか
7/16
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.3】 基本的人権問題とJEC
@『第四巻 基本的人権−人権はどこまで保障されるか−』紹介
*************************************************
1999年8月9日、「国旗・国歌法」が、強行成立されました。
また、昨年には学校教育の憲法といわれる「教育基本
法」が改悪されました。そして、今参議院選挙では、
「日本国憲法」の改悪がテーマのひとつにあげられて
います。
“How JEC ?”シリーズ【No.2】では、憲法九条の改悪に
焦点をあてたかたちで、「聖書と戦争と聖書的平和」に
ついて考えさせていただきました。
“How JEC ?”シリーズ【No.3】では、日本国憲法の第
三章「国民の権利及び義務」に焦点をあて、特に今般
学校教育の現場で深刻な軋轢を生み出している『日の
丸・君が代と内心の自由』の問題が、いかにクリスチャ
ンの信仰の自由の問題と密接な関係にあるのかを丁
寧にみていきたいと思っています。
この問題の経緯につきましては、すでに紹介させてい
ただきました「シリーズ 日本国憲法・検証:1945-
2000 資料と論点」の『第四巻 基本的人権−人権はど
こまで保障されるか−』の中で簡潔に取り扱われてい
ます。
その内容の一部は、以下の通りです。
第四章 政教分離原則はどうして必要か
「個人の宗教」と「公の宗教」とは何か
旧憲法下で「信教の自由」はどう保障されていたか
「信教の自由」と政教分離原則が保障されたのはなぜか
靖国神社国家護持法案はどうなるか
第五章 「日の丸」「君が代」はなぜ人権問題か
思想・良心の自由はなぜ必要か
沈黙の自由はなぜ認められなければならないか
「日の丸」「君が代」はどう扱われてきたか
「日の丸」「君が代」は戦後どう扱われたか
沖縄「日の丸」旗焼却事件は何を象徴するか
国旗・国歌法は何を目的としているか
*************************************************
2007.07.15 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 詩篇
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
*************************************************
2007.07.08 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 ガラ 5:1
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
7/4 JEC〔日本福音教会〕 拡大牧師会研修会
「憲法改訂」問題とJEC
「憲法改正」の概要等 吉野尚文先生
「憲法改訂」問題の神学的視点からの検証 安黒務
ストリーミング・ビデオ
〔後半はトラブルのため画像に乱れがあります。
資料とレジュメを参考にしながらご覧ください。〕
質疑応答は、約三時間半熱心な質疑がなされました。
こちらは、非公開です。悪しからず。
*************************************************
2007.07.01 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/06/01-06/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
六月も毎週のように、神学校等の奉仕があり多忙な
毎日を過ごしていました。後半は、七月の牧師会の研
修の奉仕の準備にあたってしました。その準備の様子
を「ICI日誌」の中に記述していますので、ぜひご
覧ください。その内容の概略は以下の通りです。まも
なく参院選で、「憲法改訂」もテーマのひとつとして
取り上げられるものと予想されます。JECの教職者
のみでなく、ICI Monthlyを配信させていただいてい
ます方々にも、今回取り組んでいるテーマを考えて
いただけたら幸いです。
6/25
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.2】 憲法改訂問題とJEC
D『聖書と戦争』『戦争と聖書的平和』の紹介
*************************************************
日本国憲法の改訂を目指している人々の中心点は、
憲法九条の改訂です。
この問題を考えていく上で、参考になる書籍は、『日
本国憲法・検証』の第五巻の「九条と安全保障−「平
和と安全」の再検討−」があります。
ただ、クリスチャンが反戦平和を希求していく上で、
聖書の記述との兼ね合いを検証していくことも大切
だと思います。これらのテーマに参考となる書籍とし
て、ピーター・C・クレイグ著、村田充八訳『聖書と戦
争−旧約聖書における戦争の問題−』すぐ書房、と
村田充八著『戦争と聖書的平和−現代社会とキリス
ト教倫理−』聖恵・神学シリーズ34、があげられます。
項目のみですが、以下に紹介させていただきます。
『聖書と戦争−旧約聖書における戦争の問題−』
戦争の現代的課題と旧約聖書
旧約聖書の遺産としての戦争
戦士としての神
「聖」戦の問題
殺人の禁止
戦争と国家
戦争における敗北の意味
旧約聖書と平和
おわりに
補遺:古代オリエントにおける戦争と宗教
『戦争と聖書的平和−現代社会とキリスト教倫理−』
構造的暴力と人間−問題の所在−
戦争
湾岸戦争
構造的暴力
飢餓状況
子供たちの状況
貧困と病気
難民問題
環境破壊
聖書と聖書的平和
戦争論の課題
人類の課題
平和の問題と戦争の問題
平和学者のキリスト教批判
キリスト教の平和貢献
ヨハン・ガルトゥングの宗教批判
ヨハン・ガルトゥングの平和
聖書的平和
聖書の平和
神と人間の健全な関係
戦争の前提的要素
「心」の状態と戦争
準拠枠と戦争
日本の超国家主義
「心」から生じる戦争
宗教的根本動因
キリスト者の立場
初期キリスト教の戦争観
新約キリスト教の戦争観
アウグスティヌスと「正義の戦い」
石原謙のアウグスティヌス研究
歴史を顧みて
抵抗権と戦争
自然社会と自己防衛をめぐる問題
自己防衛の問題
「閉じた社会」と「戦争本能」
国家の論理と抵抗権前史
国家の論理と民衆の論理
抵抗権前史
中世から宗教改革時代の抵抗権
自然権の自覚
宗教改革の時代
フルドリヒ・ツウィングリと抵抗の思想
マルティン・ルターの宗教改革と抵抗権
国王の弾圧と抵抗
宗教改革と抵抗
マルティン・ルターの社会教説と戦争観
万人祭司説と二世界統治説
ドイツ農民戦争と上に立つ権威
マルティン・ルターの抵抗権と戦争の正否
ジャン・カルヴァンの宗教改革と抵抗権
ジャン・カルヴァンの神観
権威の源泉
政治的統治と秩序
ジャン・カルヴァンの戦争観
抵抗権と責任
真理の侵犯と抵抗
殺すなかれ
ジョン・ロックの法秩序とイマヌエル・カントの永遠平和
放蕩息子とジョンロックの戦争論
戦争の幻想と幻滅と回心
ジョン・ロックの戦争状態と抵抗権
イマヌエル・カントの『永遠平和のために』覚え書き
イマヌエル・カントの平和
創設されるべき平和
以上「聖書において『戦争』という主題がどのように取
り扱われているのか」を適切に解説してくれている書籍
の概略を紹介させていただきました。
「平和憲法」と呼ばれている「日本国憲法」の聖書的性
格といいますか、キリスト教的特徴というものをみるとと
もに、キリスト教国の歴史の中にみられる「正義の戦争」
という見方と旧約的背景、またキリスト教の歴史にみら
れる「教会の自律性」確保のための抵抗権の問題等、
たくさんの考慮すべき事項かあることに気づかされます。
「正義の戦争」について、いろいろと調べている中で福
音派の一員として考えなければならない事柄を教えら
れました。それは、堀内一史著『分裂するアメリカ社会
−その宗教と国民的統合をめぐって−』麗澤大学出版
会の第七章「アメリカの宗教とイラク戦争」の中に記述
されている事柄です。〔p.232〕
そこでは「イラク開戦へとアメリカを駆り立てていったの
は何か、どのような要因が存在したのか、そこに宗教
が関与していたのかどうか」が問いかけられています。
そしてカーター元大統領は、『ニューヨークタイムズ』紙
に投稿した記事の中で、南部バプテスト協議会がイラク
攻撃に賛成した最大の原因は、終末論に基づく南部
バプテスト協議会のイスラエルとの宗教的な利害だと
断定した。〔p.253〕
その宗教的利害とは、「千年王国前・大患難前再臨説」
に基づく考え方であり、「1967年のイスラエル建国、そ
れに続くウエスト・バンク、ガザ地区の占領は、テキサ
スをはじめとする南部諸州の福音派キリスト教徒の間
で、黙示録的な熱狂のうねりを形づくった。」こうした神
学的解釈に基づいて、いくつかの福音派共同体では、
イラク攻撃を終末論と関連づけ、フセインは「反キリスト
者」または「悪魔の手先」と見られていた。ペルシャ湾
岸地域での武力衝突は「善」と「悪」または「神」と「悪
魔」の間で繰り広げられる戦いと見なされた。したがっ
て、同盟国であるアメリカがイラク戦争で勝利を収めれ
ば、イスラエルは地中海からユーフラテス川までの地
域を制圧することになり、そのことで、イスラエルが「す
べての土地」を征服するという聖書の預言が成就する、
とされたのである。〔pp.254-255〕
上記のような終末論理解・また黙示録解釈は、福音派
とは区別されるファンダメンタリズムの聖書解釈であり、
ディスペンセーション主義の影響を強く受けたものです。
冷戦後、唯一の超大国といわれる米国でありますが、
誤った聖書解釈に根差した「イスラエル偏重」の中東
政策が今日の大きな問題のひとつであると思います。
これらの聖書解釈の問題−極端な字義主義的解釈、
イスラエルと教会を明確に別個なものとする解釈、聖
書の記述と今日の状況を直接的に同一視する傾向、
等々の克服に尽力したフラー神学校のG.E.ラッドや
M.J.エリクソンの終末論理解・黙示録解釈に深く学ぶ
必要があると思います。そして日本という宣教地から、
米国の政治を左右しているキリスト教会に影響力を
発揮していくことが求められていると思います。
ファンダメンタリズムとデスペンセーション主義の聖書
解釈の課題に取り組み、その克服に尽力されている
黙示録としましては、岡山英雄著『子羊の王国−黙示
録は終末について何を語っているのか−』いのちのこ
とば社、が良書です。その概要を下記に紹介させて
いただきます。
岡山英雄著『子羊の王国−黙示録は終末について
何を語っているのか−』
麦と毒麦
キリストの証人
「麦」の成長
「毒麦」の成長
子羊の王国
子羊の勝利
ふたりの証人
千二百六十日
獣の国
竜・獣・にせ預言者
大バビロン・大淫婦
勝利を得る者
新しい天と地
白い馬に乗った方
千年王国とイスラエル
新しいエルサレム
この書籍は、日本人の書いた黙示録解説書としては、
最良のもののひとつと思います。立場としましては、
ラッドやエリクソンと同じ「千年王国前・大患難後再臨
説」です。
この書の11〜12ページには、以下の記述があり、ロ
ーマ帝国時代の皇帝崇拝との戦いを背景に、我が国
の国家神道時代の対応、そして今日の憲法改訂問題
に取り組む日本の教会のあり方への洞察と示唆に満
ち内容となっています。
「あの頃、多くの人々は、国家神道とキリスト教信仰、
天皇の神格化と教会の礼拝とが矛盾するものとは考
えなかった。むろん問題点に気づいて屈しなかった少
数の人々もいたが、、大多数の日本のキリスト者は、
両者の統合を良いことと考えて、積極的に協力した
のである。
しかし、あのとき、黙示録13章の幻の意味、『海から
上ってきた獣』を礼拝させる『地から上ってきた獣』の
幻の意味を理解していたなら、国家と宗教の一体化
の幻の意味を教会が悟っていたなら、日本の教会の
国家神道への対応は、異なっていたことだろう。
この幻は、一世紀の教会が直面していた、ローマ帝
国の支配権と皇帝礼拝の問題の本質を明らかにして
おり、それは時代を超えて、教会と国家の歪んだ関係
を照らし出す。宗教的権威によって絶対化した国家が、
どのように破滅的な結果をもたらすかを、私たちは体験
した。…
今私たちに求められているのは、かつての挫折を教訓
として生かし、目を覚まして、事柄の本質を洞察する
ことではないだろうか。そのとき、教会は、終末の時代
に、キリストの証人として堅く立つことができる。」
JEC〔日本福音教会〕が、参院選を前にして「憲法改訂
問題」について検討する場を設けられたことは、時宜に
かなったことだと思います。
6/25
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.2】 憲法改訂問題とJEC
C『日本国憲法・検証』の紹介
*************************************************
日本国憲法の改訂が、参議院選挙で争点のひとつに
取り上げられています。そして、多くの教派・団体がこ
の動きに懸念を抱き、反対の声明を出しています。
JEC〔日本福音教会〕理事会・牧師会でも、このテー
マをどう判断すべきか、勉強会をもつことになり、わた
しも発題者のひとりとして準備にたずさらわせていた
だいています。数十冊の関連文献を収集し、さまざま
の立場における「この問題」についての理解を勉強さ
せてもらっています。
ただ、多くの書籍を読んでいまして、ひとつ気が付き
ましたことは、それぞれの書籍には、射程といいます
か、守備範囲といいますか、一定の貢献、一定のメッ
セージがあり教えられます。しかし、それらの書籍の
もつ視野の限定性についても考慮して読まなければ
ならないこともまた教えられるところです。
神学教育においても、新入生にまず教えますことは、
「鹿を追う者、森を見ず!」という言葉です。視野を狭
くして鹿を追っていると、森の中に迷ってしまうことに
なる例えです。
憲法改訂問題に関して、数多くの書籍に目を通して
いまして、注意しなければならないことのひとつとして、
憲法改訂問題全体を見渡す文献から、この問題に
ついて、できるだけ客観的かつ中立的なパースペク
ティブを手に入れることこそ大切なことだと思います。
先週、KBIでの前期の講義が終わりましたので、本
格的にこのテーマに取り組み始めました。最初に
読むべき書籍としておすすめしたいのは、小学館の
『日本国憲法・検証−1945〜2000 資料と論点−』
です。
書籍の序文に「すでに、戦争や占領の体験をもたな
い世代が国民の過半数を占めるに至っている。占領
前後を知る世代が戦争をしらない世代とともに、日本
の進路を原点から考え直す絶好にしておそらく最後
の機会に遭遇しつつあるのではないだろうか。
今こそ、私たちは何を知るべきか。どう考えるべき
か。どんなことを話し合うべきか。議論を戦わせる前
に、まず共通の理解を持つべきであろう。本シリーズ
は、戦後半世紀の日本国憲法をめぐる諸相について、
議論の前提たる法的、歴史的な基礎知識の普及に
資することを目標としている。本シリーズが国民全体
の憲法論議の高まりに少しでも役立てば幸いである。」
とあります。
このシリーズは、下記の七巻から構成されています。
憲法制定史−憲法は押し付けられたか−
付録:ケーディス回顧録〔GHQ草案起草者〕
竹前栄治・岡部史信著
象徴天皇と皇室−あるべき天皇像とは−
付録:戦後天皇制詳細年表
高橋紘著
国会と政治改革−民主政治はどう守られてきたか−
前田英昭著
基本的人権−人権はどこまで保障されるか−
付録:国際人権条約集
古川純著
九条と安全保障−「平和と安全」の再検討−
付録:九条関係詳細年表
古関彰一著
地方自治・司法改革−あるべき姿を問う−
付録:地方制度改革勧告集
司法制度改革審議会中間報告
天川晃・小田中聰樹著
護憲・改憲史論−何を論じてきたか−
竹前栄治・岡部史信・藤田尚則著
詳細な構成は、下記リンク先のPDFファイルにあります。
『日本国憲法・検証−1945〜2000 資料と論点−』
特に、JEC教職者として大切な巻は、まず第一巻で、
憲法制定前後の脈絡を客観的に読み取ることが大切
と思います。「おしつけ憲法だから改訂しなければな
らない」という論法の問題点が浮かびあがってきます。
当時の内閣は、「天皇制」護持ばかりを考え、国民の方
は全くみていないという印象を受けます。GHQの指導の
下に民主憲法を選択していきますが、それは民主憲法
を選択しなければ、選挙で敗北することが目に見えてい
たからです。日本の当時の保守的政治家の内実をみせ
られます。
次に大切な巻は、第四巻の基本的人権です。
その第四章「政教分離はどうして必要か」からは、
論点15:「個人の宗教」と「公の宗教」とは何か、
論点16:旧憲法下で「信教の自由」はどう保障されていたか、
論点17:「信教の自由」と政教分離が保障されたのはなぜか、
論点18:靖国神社国家護持法案はどうなるか、
第五章「日の丸」「君が代」はなぜ人権問題か
論点19:思想・良心の自由はなぜ必要か
論点20:沈黙の自由はなぜ認められなければならないか
論点21:「日の丸」「君が代」はどう扱われてきたか
論点22:「日の丸」「君が代」は千五どう扱われてきたか
論点23:沖縄「日の丸」旗焼却事件は何を象徴するか
論点24:国旗・国歌法案は何を目的としているか
それと、今回の憲法改訂の焦点のひとつとしてあけられ
ています第五巻「九条と安全保障−『平和と安全』の再
検討−」が大切です。
戦争放棄条項の誕生の背景とは何か
九条はいかに作られたか
九条はどう受けとめられたか
日米安保体制はいかにして成立したか
自衛隊とは何か
日米安保条約とは何か
日米安保条約はどう変質してきたか
九条改正論議はどうなされてきたか
憲法九条と安全保障
戦争放棄条項の背景をよく知ることと、この条項の改訂
の動きの背景を知ることはとても大切です。戦争直後の
時期の世界の状況と、まもなく始まった朝鮮戦争そして
米ソの冷戦構造の中における日本の位置づけ、そして
ソ連崩壊による冷戦後の地域・民族紛争における日本
の新たな貢献の課題等。
これらの課題におけるアメリカの世界戦略の動向と日本
における憲法改訂の動きとの符合性を客観的にみること
はとても大切と思います。
米国の福音派のイラク戦争賛成の動きと日本の福音派
のイラク戦争反対の動きにもみられますように、安易な
かたちで米国の世界戦略の一端を担っていくべきなのか、
日本独自の召しと賜物があるのか、そのあたりを掘り下
げて行くことが大切と思います。
最後の第七巻は、護憲・改憲の取り組みの経緯を扱った
もので、全体を振り返って方向性を探ろうとしています。
このシリーズは、キリスト教教職者にはぜひ読んでいた
だきたいシリーズと思いました。といいますのは、キリス
ト教会の講演会等では、多くの場合時間の制約もあり、
取り扱う間口がきわめて狭くなる傾向があると思います。
憲法改訂論議のような大きなテーマにおきましては、こ
のシリーズで取り扱われているように、客観的資料に基
づき、普遍的な視点からの論点の整理が大切と思います。
そのような手続きを経て、「共通の歴史的事実について
の理解」に立ちつつ、それぞれの立場において発言して
いくことか必要と思います。
*************************************************
2007.06.24 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
6/23
*************************************************
ICI Streaming
Lectures Introduction
*************************************************
『キリスト教神学』
補講:日本福音主義神学会西部部会研究会議:
★安黒発題『G.E.ラッドの歴史的前千年王国説
とユダヤ人の神学的位置付け』
最後の状態 A.
*************************************************
2007.06.17 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 黙 20:1-15
20:4
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
*************************************************
2007.06.10 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 Tテサ4:9-18
4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
4:10
実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
4:13
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
6/8
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.2】 憲法改訂問題とJEC
B<誓約・第十項 伝道と文化>の採択の意味
*************************************************
「憲法改訂問題とJEC」の底流にあるものを識別して
いく手順のひとつとして、次に、<誓約・第十項 伝道
と文化>の採択の意味を考えてみましょう。
<誓約・第十項 伝道と文化>
「世界伝道に必要な諸方策の開発をみるために、今
求められているのは、想像力に富む開拓的な諸方法
である。それによって神のもとにあって、キリストに深く
根ざしつつ、自己をとりまく文化とも密接なかかわり合
いを持った教会が起こされるようになる。
ところで、文化は、常に聖書によって精査され、かつ
判定されなければならない。人間は神の被造者であ
るゆえに、彼が織り成す文化のあるものは、美と徳性
とを豊かに示している。
とともに、人間は罪に堕落しているゆえに、その文化
のすべては罪によって汚染されており、その中のある
ものは悪魔的でさえある。
福音は、文化相互間に優劣の順位があるとはみてい
ないが、すべての文化を福音独自の真理と正義の規
準に従って評価し、すべての文化の中で絶対的な道
徳的基準を主張する。
宣教団体は、今までしばしば福音と一緒に異国の文
化までも輸出してきた。そして教会は時として、聖書よ
りも文化の拘束のもとにおかれてきた。
キリストの伝道者たちは、他の人々に仕えるものと
なるために、人格的な信任をほかにして、その他のす
べての点において自己を無にすることを謙虚に追い求
めて行かなければならない。
そして教会は、ただキリストの栄光のために、文化
を変革し、それを実り多いものにするように、ひたすら
つとめて行かなければならない。」
わたしは、「彼が織り成す文化のあるものは、美と徳
性とを豊かに示している。とともに、人間は罪に堕落
しているゆえに、その文化のすべては罪によって汚
染されており、その中のあるものは悪魔的でさえあ
る。」という指摘を読むとき、日本“Japan”にある福音
“Evangelical”な教会として、『天皇制』の内包する
問題が念頭に置かれるべきと思います。この問題は、
日本に置かれているクリスチャンが警戒心を解いて
はいけない事柄と思います。
『天皇制』が内包する問題の背景につきましては、
生駒聖書学院〔IBC〕での『比較宗教学〔宗教の神
学〕』の講義ビデオを収録中です。また完成しました
ら案内させていただきたいと思います。その概略は、
下記のサイトにあります。
http://aguro.jp.net/file/k/ICI_reli00.htm
「憲法改訂」が参議院選挙の主要なテーマにのぼっ
ていますので、もう少し直接で具体的な取り扱いを
知る上で、これらのテーマに教派をあげて取り組ん
でこられた信仰の先輩たちの資料をひとつの参考
にすることは有益なことと思います。
このテーマに関連して、多くの資料や書籍を収集し
てきました。それらの中で最も注目すべき書籍を
紹介したいと思います。それは、以下の書籍です。
その概要もともに紹介させていただきます。
牧田吉和著『改革派信仰とは何か』聖恵授産所の
内容は、販売されています牧田先生自身の講義
ビデオにもありますように、改革派信仰のエッセン
スの紹介でありますとともに、超教派的に学ばれ
て良いと思われるポイントが多々含まれており、
神学的かつ実践的で、日本人キリスト教教職者に
とっての必読書のひとつと思います。その中に、今
回の「憲法改訂」問題に関係する記述があります。
それは、第十講の「改革派信仰とは教会の自律性
の保持ために徹底的に戦い抜く信仰である」pp203
-223という章です。その内容は、以下の通りです。
【第十講 改革派信仰とは教会の自律性の保持
ために徹底的に戦い抜く信仰である】
@教会と国家の区別性の問題
1.中世における教会と国家
2.宗教改革における教会と国家
A教会の自律性の戦いと抵抗権の問題
1.ルターと抵抗権
2.カルヴァンとその後の改革派信仰における抵抗権
B教会と国家との区別性をめぐる誤解
1.再洗礼派における教会と国家の分離
2.ルター派の「二王国」にひそむ再洗礼派的危険性
3.改革派における「領域主権論」に基づく政教分離理解
C教会の自律性と教会の国家に対する使命
1.問題の所在
2.「自由なる国家における自由なる教会」の理念
D結び
ここで、牧田先生が記述しておられる事柄は、「憲
法改訂」問題について、キリスト教教職者が取り組
んでいく場合の前提となる知識であると思いますので
「七月のJEC牧師会での発題・質疑応答・まとめ」
の準備として、ぜひ買い求めていただき、熟読して
おいていただきたい書籍のひとつです。そして、こ
の書籍は、今回のテーマに関してだけでなく、JEC
の福音理解に明確な輪郭を与え、エッセンシャルな
骨格を構築していく上で、JECの教職者にとっての
「座右の書」のひとつになるものと確信しています。
次に紹介させていただく書物は、下記の書物です。
Q&A形式で記述され、大変読みやすく、教会員から
質問を受けた時、教職者にとって参考になる「要を
得て、簡」という書物です。「問い」の部分のみ紹介
させていただきます。ぜひお買い求めください。
【日本キリスト改革派教会大会 世と教会に関する
委員会著『国家と宗教に関する問答集』】聖恵授産所
@教会と国家
1.教会と国家の関係について説明してください。
2.それでは、教会と国家の機能の違いは、どのような点にあるのでしょうか。
3.教会が政治に関与してもよいのでしょうか。
4.それでは、キリスト者の政治関与は、どう考えるべきでしょうか。
5.キリスト者の戦いの武具は何でしょうか。
6.他教派、他宗派、また、思想的に異なる人々と共闘できるでしょうか。
7.教会の公的な抗議声明や反対声明には、どんな意義があるのですか。
8.いわゆる「ヤスクニ問題」とは何ですか。
9.教会が「ヤスクニ問題」に関わると、伝道のさまたげになりませんか。
A信教の自由と政教分離
10.信教の自由とは何ですか。
11.では、信教の自由は、歴史的にどのように認められてきましたか。
12.信教の自由が法制度として認められれば、本当に信仰の自由は保障されるのでしょうか。
13.「政教分離の原則」は、歴史的にどのようにして確立してきましたか。
14.「政教分離の原則」とは、何ですか。
15.日本における政教分離の問題とは何ですか。
16.政教分離の原則が法制度として確立されれば、それで十分でしょうか。
17.象徴天皇制と政教分離原則は両立するのでしょうか。
18.政教分離原則は、聖書の教えにかないますか。
19.政教分離の原則を今後どう積極的に評価し、それを守るために、私たちはどのような戦いをしていけばよいでしょうか。
B宗教と習俗
20.今なぜ、「宗教と習俗」を問うのでしょうか。
21.ではまず、津地鎮祭違憲訴訟について説明してください。
22.では、最高裁がこのような判断を下しているのに、なぜ宗教と習俗の厳格な峻別を求め続けるのですか。
23.国家が宗教の規定をすることができるのでしょうか。
24.それでは、習俗とは具体的にどのようなものをいうのでしょうか。
25.ところで、今日、国家の側において宗教であるものを習俗と強弁する傾向が強まってきているのではありませんか。
26.葬送儀礼も習俗と密接な関係があるのではありませんか。
27.私たちの改革派教会において、宗教と習俗の問題で、実際に信仰的な戦いをした実例を教えてくたざい。
C天皇制
28.天皇とは、どのような存在ですか。
29.天皇制の歴史、ことに近代の天皇制とはなんだったのですか。
30.象徴天皇制と国民主権は、矛盾しませんか。
31.ロマ書13章の「上に立つ権威」とは、天皇に該当しますか。
32.なぜ、天皇は、国王のように国を代表して、国賓を接客するのですか。
33.日本人にとって、天皇を敬い、皇室を慕うことは、自然な感情といえるでしょうか。
34.皇室神道とは、特別な神道ですか。
35.新天皇が即位するとき、即位の儀式をおこなうことに問題があるのでしょうか。
36.新天皇が大嘗祭で神になるというのはほんとうですか。
37.天皇が国民のために五穀豊穣を祈ることを、キリスト者はどう受けとめるべきでしょうか。
38.天皇のために祈る必要があるでしょうか。
39.天皇と靖国神社は、どう関わるのですか。
40.天皇の戦争責任とは何ですか。
41.天皇の代替わりによって「昭和」天皇の戦争責任は問うことができなくなったと言われますが、本当なのでしょうか。
42.天皇制と差別の問題は、どう関係するのですか。
D靖国神社問題
43.靖国神社とはどんな神社ですか。
44.戦後は、靖国神社は国との特別な関係は、なくなったわけですね。
45.しかし、「靖国神社法案」が出た頃は、再び国との特別な関係を求めたのではありませんか。
46.ところが、靖国神社は、「靖国神社法案」を断念したのですね。
47.しかし、「お国のために死んだ人」を、国は無視してよいのでしょうか。
48.それでは、毎年8月15日に行われている「全国戦没者追悼式」は問題ないのでしょうか。
49.すると、国が8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めたことは、問題があるわけですね。
50.2月11日の「建国記念の日」はどうですか。
51.元号法の制定は、靖国神社とどんな関わりがあるのでしょうか。
52.靖国神社と軍事的国際「貢献」の関係は、どうでしょうか。
E戦争と平和
53.戦争は、なぜ、起こるのですか。
54.しかし、聖書の中には、戦争を肯定している箇所があるのではありませんか。
55.今日、戦争をどう考えたらよいでしょうか。
56.PKO、PKFとは、何ですか。
57.ウエストミンスター信仰告白第23条2節の「合法的戦争」を、どう考えたらよいでしょうか。
58.日本国憲法は、戦争と平和を、どのように規定しているでしょうか。
59.日本国憲法の平和の理想は、国際的に通用するのでしょうか。
60.戦争が起こると宗教利用が起こるのは、なぜですか。
61.平和を作りだす努力も必要ではないでしょうか。
F大会決議関係
G参考資料
1.日本基督改革派教会宣言
2.日本基督改革派教会創立30周年記念宣言
3.ウエストミンスター信仰告白
4.日本国憲法
Hあとがき
I年表
6/7
*************************************************
オンライン受講〔ストリーミング形式〕について
*************************************************
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.2】 憲法改訂問題とJEC
A<誓約・第五項 キリスト者の社会的責任>の採択の意味
*************************************************
このテーマに関して、いろいろと心に示される参考文献
があります。ただ、現段階は総合的にまとめていく時期
ではありませんので、導かれるまま、アット・ランダムに
関連文献を紹介しながら、本論に入っていきたいと思い
ます。発題講演の間近になりましたら、研究資料の中
から取捨選択し、包括的な資料として提示させていただ
きたいと思います。
まず、このテーマに関連して心に留まりました資料は、
JECが宣教50周年記念誌で取り上げ、JECの伝道・
教会形成・海外宣教の指針として採択しています『ロ
ーザンヌ誓約』です。「憲法改訂問題」に対するJECの
スタンスのあり方を検討するということは、ある意味で
『ローザンヌ誓約』の実践という側面があると思います。
『ローザンヌ誓約』の中で、今回のテーマに関連します
のは、<誓約・第五項 キリスト者の社会的責任>です。
それを紹介させていただきます。
<誓約・第五項 キリスト者の社会的責任>
「私たちは、神がすべての人の創造者であると
ともに、審判者でもあられることを確認する。
それゆえに、私たちは、人間社会全体における
正義と和解、また、あらゆる種類の抑圧からの
人間解放のための主の御旨に責任をもって関与
すべきである。人間は神の像に似せて造られて
いるので、一人一人は、人種、宗教、皮膚の色、
文化、階級、性別、年齢にかかわりなくそれぞれ
本有的尊厳性を有すものであり、それゆえに、人
は互いに利己的に利用し合うのでなく、尊敬し合
い、仕え合うべきである。私たちは、これらの点
をおなざりにしたり、時には伝道と社会的責任と
を互いに相容れないものとみなしてきたことに対
し、ざんげの意を表明する。たしかに人間同志の
和解即神との和解ではない。社会的行動即伝道
ではない。政治的解放即救いではない。しかし
ながら、私たちは、伝道と社会的政治的参与の
両方が、ともに私たちキリスト者のつとめであるこ
とを確認する。なぜなら、それらはともに、私たち
の神観、人間観、隣人愛の教理、イエス・キリスト
への従順から発する当然の表現にほかならない
からである。救いの使信は、同時に、あらゆる形
の疎外と抑圧と差別を断罪する審きの使信でも
ある。私たちは、悪と不義の存在するところでは、
いずこにおいても、勇断をもってそれらを告発しな
ければならない。人がキリストを受け入れる時、
その人は再生して神の国に入れられるのであり、
この不義の世界の真っ只中で、ただ単に正義の
何たるかを示すのみでなく、それを押し広めて
行かなければならない。私たちが主張する救い
は、私たちの個人的責任と社会的責任の全領域
において、私たち自身を変革して行くものである。
行いのない信仰は死んだものである。
JEC〔日本福音教会〕は、スウェーデン・バプテ
スト系の諸教会を背景としたオレブロ・ミッション
宣教師によって形成された諸教会であり、「伝道
と教会形成と神学教育」とをよく整合させてきま
した。ただ、「社会的責任」に対しては、あまり
意識が高くなかったように思います。宣教50周
年に「ローザンヌ誓約」を宣教指針として採択した
ことは、ある意味で大きな決断でもあったと思い
ます。それは、「伝道と教会形成」を主たる任務
としつつ、さらに「社会的責任」に対しても関心の
視野を広げていくという決断でもあったからです。
ただ、具体的に<誓約・第五項 キリスト者の社
会的責任>を検討し、その実践として取り組む
という手順は踏まれておりませんでしたので、
今回のテーマを契機に、このあたりの事柄を丁
寧に学び、<誓約・第五項 キリスト者の社会的
責任>のもつ福音派教会全体、またJEC全体
にもつ意味合いを検討しくことは有益なことと思
います。
約半年間、JECニュースに「“How JEC ?”十戒とJEC」
シリーズを掲載させていただき、日本“Japan”において、
福音主義信仰に立つ諸教会が、右傾化した今日の社会、
政治状況において、どう生きていけばよいのか、につい
てご一緒に考えさせていただきました。
今日の状況は、ある意味でエステル記において、ユダ
ヤ民族が危機に陥れられたときに、モルデカイがエステ
ルに語りかけた状況に似ている気が致します。
エステル記
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に
告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に
納めると約束した正確な金額をも告げた。
4:8 モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシ
ャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、
それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、
また、彼女が王のところに行って、自分の民族のため
に王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれ
と頼んだ。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステル
に伝えた。
4:10 するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこ
う伝えさせた。
4:11 「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女
でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のとこ
ろに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があ
ることを知っております。しかし、王がその者に金の笏
を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの
三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されてい
ません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。
「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいる
から助かるだろうと考えてはならない。
4:14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、
別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころ
う。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あ
なたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時
のためであるかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集
め、私のために断食をしてください。三日三晩、食
べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たち
も、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむ
いても私は王のところへまいります。私は、死なな
ければならないのでしたら、死にます。」
4:17 そこで、モルデカイは出て行って、エステルが
彼に命じたとおりにした。
私たち、21世紀の初頭に生きる日本人クリスチャン
は、教育基本法が改訂され、日の丸・君が代が強制
されている教育現場を知らなければならないと思い
ます。さらに、憲法改訂も政治日程にのぼってきて
います。「憲法改訂において、何がなされようとして
いるのか」クリスチャンである私たちは知る必要が
あると思います。そして、私たちがとるべき態度を
決める必要があると思います。
戦時中に、「伊勢神宮に参拝したり、神社参拝、天皇
崇拝を愛国心の発露として強要され、妥協したクリス
チャンたち」を批判する私たちが、教育基本法と同様
に、日本の国のあり方を大きく右傾化させようとする
流れの中で「自分は関係ない」と沈黙を守り、あるい
はこの流れにブレーキをかけようと闘っているクリス
チャンを背中から撃つようなことだけはしないように
しなければなら
ないと思います。
このような時代に、そのような態度をとって事態が
悪い方向に推移すれば後代のクリスチャンたちに
「21世紀初頭のクリスチャンたちは、事態を見抜け
なかった、眠りこけたクリスチャンたちだった」と批判
されても仕方がないかもしれません。
参考文献:J.R.W.ストット著、宇田進訳『ローザン
ヌ誓約・解説と注釈』pp.53-54
参考文献:日本福音教会 宣教50周年記念誌
『記念の石』「ローザンヌ誓約」pp.175-176
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.2】 憲法改訂問題とJEC
@そのパースペクティブとエッセンス:分析・評価・位置付け
*************************************************
JEC〔日本福音教会〕理事会より、「今日、憲法改訂が
政治日程に上りつつあり、今年の参議院選挙のテーマ
のひとつなっている。福音派の教派の中ではこのテーマ
について立場を明確に打ち出している教派もあるが、
JECとしてはどうあるべきか、話し合いたいので、その
話し合いの土台となる発題講演をお願いしたい。」との
ことでした。
発題はふたりで、吉野先生が法学部の学びをベースに
「日本国憲法」そのものを扱ってくださるとのことですの
で、わたしは歴史神学・組織神学・比較宗教学の視点
を取り入れつつ、包括的な視点から今日の「憲法改訂」
の動き全体のパースペクティブとそのエッセンスを分析・
評価し、その位置付けを確認したいと考えています。
この取り組みのために、関連する文献のいくつかを紹介
していきたいと思います。
6/6
#Ten_Commandments
*************************************************
“How JEC ?”シリーズ【No.1】 :
十戒とJapanにおけるEvangelical
Churches
*************************************************
− 十戒に語られているメッセージの本質を
今日の取り上げられているホットなテーマに
どのように適用していくかの試案的試み −
「今日におけるキリスト教倫理」というテーマで原稿依
頼を受け、個人倫理の問題を扱うべき書籍を収集し、
準備をしておりましたが、教育基本法の改訂等、緊急
に扱うべきテーマが浮上してきましたので、当初のニ
ュアンスに縛られないで、今日におけるもっと大きな
テーマを扱うかたちとなりました。
当初の個人の倫理の領域では扱いきれない、「群れの
倫理」といいますか、JECという群れ全体が、日本の
過去・現在・未来を見据えて、どのように生きていくべき
なのかを問いかける原稿となりました。
日本の歴史、日本宗教史、日本キリスト教史、国家神道、
天皇制、教育勅語、教育基本法、改訂教育基本法等。
また、癒しのミニストリーとの関係において、日本化され
たアニミズム仏教、アニミズム的世界観の無批判な受け
入れ、オルド・テオロギア、オルド・サルティス、キリスト
教的信憑性の問題等。
教理的空洞化の進展、罪論の問題、むさぼり、死の領域
とよみがえりの領域、義認・聖化のみでなく召命論の領
域等。
JECニュースに今年の一月から六月までの間に連載
させていただきました。“How JEC
?”シリーズを紹介
させていただきます。
6/5
*************************************************
ICI News Letter for JEC 070605
ICI神学座談会レポート
*************************************************
「ICI神学座談会」は、合計四名の出席で案内にありま
したさまざまな主題に関して、自由な討議を行いまし
た。時間的には、3:30頃に牧師会が終了し、片付け
の後、4時より6時までの2時間内容の濃い神学的対
話が重ねられました。
今回、討議で話し合われた事柄は、今後「ICI神学誌」
作成の有益なサジェスチョンとなりました。次回の「ICI
神学誌」は、「憲法改訂問題とJEC」という次回の牧師
会での発題奉仕にあわせて作成させていただく予定で
す。お祈りください。
6/4
JEC牧師会におけるICIインフォメーションです。
ICI活動紹介のひとつとして、掲載させていただきます。
*************************************************
ICI News Letter for JEC 070603
ICI神学誌紹介とICI神学座談会のご案内
*************************************************
主の御名を崇めます
明日は、JEC牧師会が西宮のJEC本部事務所で開
催されます。つきましては、以前から案内させていた
だいています通り、JEC牧師会終了後、おそらく3
:30ないし4:00前後には終了すると思います。
JEC牧師会終了後、同じ部屋をお借りしております
ので、茶話会のようなかたちで、「ICI神学座談会」
を開催させていただきます。参加希望者は自由にお残
りください。牧師以外でも、JEC拡大教職者会に参
加対象の方であればだれでも無料にて参加できます。
今回は、とくにテーマはしぼっておりませんが、下記
の幾つかのテーマが可能ではないかとと考えておりま
す。
1.三月に開催されました「JEC拡大教職者会」の
関連において、提起されている課題について
2.一月から六月まで、JECニュースにて連載させ
ていただきました「How JEC ?」で提起させ
ていただきました課題について
3.昨年の秋の拡大教職者会に提起させていただきま
した「JEC信仰告白解説」について
4.今回、KBIでさせていただきましたエリクソン
著『キリスト教神学』の「救済論」の補講としての
ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』における
聖化論、ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』に
おける聖霊の満たし論、についてのディスカッション。
特に、今回は第一回目のICI座談会にあわせて、「I
CIにおける神学的取り組み for JEC」という神学冊
子を作成させていただいています。内容は、以下の通
りです。費用は、JECからいただいていますICI
援助を基金として「ICIforJEC」会計より支
出し、教会単位にワンセットずつ無料で配布させてい
ただきます。年四回、季節ごとにJECに必要とされ
るさまざまなテーマを扱っていきたいと思います。御
祈りください。
●神学小冊子
【ICIにおける神学的取り組み for JEC】
・ICIにおける神学的取り組みの経緯
・敬虔主義の遺産とJEC
・ケズィック運動の考察
・ウォッチマン・ニー著作集の背景
・スプリング・キャンプ・メモリー
・ウォッチマン・ニーの神学の研究
・JECアイデンティティ研究会資料リスト
●参考資料
・「JECの源流と歴史的遺産」【全文】
・「JEC信仰告白解説」【No.1】
●添付DVD
・聖化論研究:ウォッチマン・ニー著『キリスト者の
標準』の歴史的・神学的背景についての講義録
・召命論研究:ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教
理』の聖霊の満たし論の神学的意義についての講義録
5.次回の牧師会で予定されています「憲法改訂の議
論とJEC」についての下準備的な話し合いなど
「ICI神学座談会」は、「とりあえず神学的な対話を
する場所を設けてみましょう。」ということでICI
の責任で開催させていただく神学座談会です。時間的
なことは話し合いのなりゆき次第とさせていただきま
す。自由参加型の出入り自由の座談会とさせていただ
きますので、時間のある方は、ぜひご参加ください。
ICI神学座談会責任者:安黒務
PS 参考文献紹介
ウォッチマン・ニー研究について
資料の中で紹介しています Dana Robert 著
“Understanding Watchman Nee”は、絶版ですが、同じ
内容の書籍がDana Robert著 “Secrets of Watchman Nee”
Bridge-Logos出版から再販されています。
ケズィック運動研究につきましては、 Steven Barabas著
“So Great Salvation” Wipt and Stock Publishersに、
ケズィック・コンベンションの歴史やメッセージが詳しく
描写・分析されています。
*************************************************
2007.06.03 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
新改訳 ロマ 13:1-7
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
13:3
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
13:4
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
13:7
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
*************************************************
ハードティスクの容量の限界の問題をクリヤー
*************************************************
6/2
昨夜、ここ数年「壁」となっていましたハードディスクの
問題を完全にクリヤーしました。といいますのは、1997
年ころからホームページに「文字」による講義録を掲載
しはじめまして、次第に「写真」、「音声」、「ビデオ」の
時代へと移り変わっていきました。
ホームページのデータ量の飛躍的な増大に環境がつい
ていけない時期が続きました。そのために貴重なデータ
を削減することによって対応せざるえませんでした。
しかし、今回のサーバとそのソフトは、ハードディスクの
増設に対応した構成であり、IDE機器〔147GB〕で四台
分、さらにSCSIハードディスク、USB対応の外付けハー
ドディスクの増設が可能ということです。
つまり、容量の限界は克服されたということです。これで
、データ量の心配をせずに「ICI講義紹介」を多様な
かたちでチャレンジしていける基盤が確立しました。
特に便利なのは「増設したハードディスクを、メイン・ドラ
イブのフォルダのひとつとして認識する機能〔マウントポ
イント〕」がありますので、増設したときにデータ構成の
改変や別々の場所にデータを振り分けるという複雑なア
ップロード作業等が不必要になりました。つまり、これま
で通りシンプルな作業でホームページ管理ができるとい
うことなのです。
昨夜から、「index」等以外のファイルを内蔵の新しい
ハードティスク「d」に簡単なかたちで移させていただき
ました。ファイルのアドレスに変化があるのはそのため
です。リンクには問題ありませんので、これまで通りアク
セスしていただけます。
これで、環境の問題をクリヤーできましたので、心おきな
く神学研究と神学教育に専念できます。感謝!
*************************************************
「日本国憲法」改訂についての議論について
*************************************************
6/1
昨夜、メールをいただきまして、「憲法改訂」に反対する
声明等がキリスト教の諸教派から出されている今般、
「JEC〔日本福音教会〕としてどのようなスタンスをとる
べきなのか」牧師会で話し合うときをもたれるとのことで、
このテーマに関する発題を依頼されました。
わたし自身は、「憲法改訂」に関する専門家ではありま
せんが、比較宗教学〔宗教の神学〕等を長年教えさせて
いただいている神学教師のひとりとして、今日ホットな
テーマとなっている「日本国憲法改訂」論議に対する
キリスト教会のスタンスのあり方について、議論のパー
スペクティブとエッセンスをまとめることは、時宜にかなっ
たことであろうと引き受けさせていただきました。
わたしの基本的スタンスとしましては、エリクソン著『キ
リスト教神学』、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』
『総説現代福音主義神学』、稲垣久和著『大嘗祭とキリ
スト者』等を通して、組織神学・歴史神学・宗教の神学等
の神学的座標軸≠フ中に、「憲法改訂」のテーマに
関する重要参考文献等を位置付け、神学的な分析と評
価を行おうとするものです。
まずは、これまでに集めました文献に目を通し、その後
にさらに必要な文献の収集に入りたいと考えています。
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/05/01-05/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
皆様の祈りと支援に支えられて、2007年度の五月も祝福
のうちに過すことができました。四月中旬から毎週のように
神学校での講義があり、その準備・講義・講義ビデオの処理
に追われていました。特に、この四月からはサーバーとパソ
コンが新しくなり、それとともにこれまでのソフトが使用で
きなくなりました。
Divx によるビデオ・ファイル圧縮処理ができなくなりました
ので、別の方法を模索しておりましたところ、ビデオ講義を
ウィンドウズ・メディア9エンコーダで処理し、新しいサー
バのストリーミング機能を活用し「ダウンロードの待ち時間
なし」で提供できる方法があることを知り、五月の中旬から
それらの可能性を模索してきました。月末になりようやく、
手探りしていた方法が明確なものとなり、収録・編集・配信
の一連の作業行程の手順を確立することができました。
それとともに、ハードディスクの容量が一杯となり、今朝は
その問題の解決にあたっていました。この問題は、今後のデ
ータ増を視野におきますとハードディスクの増設以外に選択
肢はないとの結論がでました。それで、思い切って147G
Bの内蔵ハードディスクを購入することにしました。今回の
サーバは増設が簡単ですので、今後ともデータ増加を気にす
ることなくICIの使命の達成に取り組んでいきたいと思っ
ています。御祈りください。
******************************************************
「福音主義神学」「比較宗教学」のストリーミング講義紹介
******************************************************
5/31
ストリーミング・レクチャーに「福音主義神学〔歴史神学〕」
と「比較宗教学〔宗教の神学〕」の科目を追加させていただき
ました。ただ、サーバーの容量の関係で、五月下旬のレクチ
ャー紹介はまだアップロードできていません。六月初旬から
中旬までに147GBの内臓ハードディスクを増設する予定
です。御祈りください。
*************************************************
2007.05.27 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
*************************************************
2007.05.20 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
*************************************************
2007.05.13 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
*************************************************
2007.05.06 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
******************************************************
Windows Server 2003 R : ストリーミング形式で掲載中!
******************************************************
5/3 Windows Server 2003 R:ストリーミング形式で掲載中!
KBI「組織神学」講義の最初の約10分間:
ICI Video Lecture Introduction
4/19 救済論@:
救いの諸概念、
救いに先立つもの:予定、
4/26 救済論A:
救いの始まり:序
救いの始まり:主観的側面
救いの始まり:客観的側面
******************************************************
KBI生駒校舎紹介ビデオ:ストリーミング形式
******************************************************
KBI生駒校舎紹介ビデオ
ストリーミング形式にしましたので、ダウンロードを待つ必
要がなくなりました。
******************************************************
姫路地区牧師会読書会ビデオのストリーミング形式
******************************************************
5/2 少し古いビデオ講演ですが、姫路地区牧師会読書会ビ
デオ:エリクソン著『キリスト教神学』紹介講演・質疑応答
のストリーミング形式での紹介です。
新しいサーバの能力により、神学校講義・諸教会講演・諸セ
ミナー奉仕ビデオのストリーム配信が可能になりました。
新しいビデオ、また古いビデオの中から少しずつ「ストリー
ム配信」していきたいと思います。新しいサーバの潜在能力
を必要に応じて少しずつ引き出していきたいと考えています。
画面が横長になっていたり、まだ試行錯誤しつつであります
が、忍耐をもって見守っていただけたら感謝です。
******************************************************
神学研究全体の見取り図−神学入門:ストリーミング形式
******************************************************
5/1 「神学研究全体の見取り図」−神学入門
今日は、来週からスタートしますKBI〔一宮基督教研究所〕の
一年生クラスの下準備をしておりました。
毎年、「組織神学」の最初の授業では、新聖書辞典の宇田進
著「神学入門」の論稿をベースにして、神学研究全体の見取
り図を紹介します。神学研究全体の見取り図を頭に入れ、神
学研究諸部門の任務・課題・目的を明確にし、各部門相互間
の関係、全体の組織だてを学び、その後に「組織神学」の学
びに入っていきます。
わたしは、KBI〔一宮基督教研究所〕とIBC〔生駒聖書学院〕
で、エリクソン著『キリスト教神学』を三年サイクルで教え
させていただいています。毎年総力をあげて準備し教えてい
ますが、いつも準備半ばで講義に入っているような感じがし
ます。
組織神学の各論を扱いますときに、多くある関連文献のすべ
てに目を通しておきたいと思うのですが、まだ一部にとどま
っています。エリクソン自身が著述した関連文献だけでも二
十数冊あるので、それらにも目を配っていかねばなりません。
「神学と哲学」「神学と言語学」「ポスモダンと神学」の章で
は、数多くの哲学者や思想家の名前と著書が紹介されていま
す。それらの文献のうちの重要な文献には一通り目を通すべ
く、この四月には中古ではありますが格安で何十冊かの文献
を購入し、「項目読み」というかたちで速読しています。項目
を読んでいくだけでも、多くの刺激や洞察を得ることができま
す。
約五十年も生きてきて、歴史上の重要な思想家や哲学者の主
要な文献にめを通すこともなく生きてきたことを、少し恥じ
ています。概略的には、多くのことを学んできましたが、そ
れらの学びは事柄の表面をなぞってきたにすぎないように思
います。
「自己の存在を賭けて、それらの思想や哲学と深く対話し、
新しい洞察に目を開かれ、事により対決する」そのような姿
勢でいます。哲学と神学はともに「人間存在の性質や目的」
について議論し、双方とも何らかの意味で「実在と統合的に
探究」し、「生について理解」を得ようとします。〔『キリスト
教神学』Vol.1, p.36〕私は私たちの福音理解の浅薄さは、
上記のような意味での探究と理解の浅薄さに一因があると思
っています。
「聖書の批評的研究」については、一昨年ペンテコステ神学
研究会での奉仕を依頼されたときに、約50数冊の「聖書の
批評学的研究」の書籍群を入手し、集中的に学ばせていただ
きました。そのときには、聖書研究のふところの深さ・その
研究方法の多彩さ・それらの諸研究からの収穫の豊かさを教
えられました。このあたりも、年ごとにさらに充実した研究
を継続させていただきたいと思っているところです。
*************************************************
〒671-4135
兵庫県宍粟市一宮町安黒332 : 安黒務
Tel&Fax. 0790-72-0235(昼), 63-0252(夜)
メールアドレス:aguro@mth.biglobe.ne.jp
メイン HP:http://aguro.jp.net/
携帯電話:090-5064-7313
携帯 HP:http://www2s.biglobe.ne.jp/~aguro/
郵便振替:「一宮基督教研究所」01110-0-15025
三井住友銀行 ドットコム支店 支店番号953 普通預金
口座番号1412949 受取人名:イーバンクギンコウ(カ
*************************************************
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/04/01-04/30
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
──────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline Digest
主の御名を崇めます。
皆様の祈りと支援に支えられて、2007年度の四月を祝福されたかたちで
はじめることができました。
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メールも、ICI日誌の記述
がかなりの量になってきましたので、“ICI Daily & Diary Lectures Headline
Digest”として、内容の主題文のみを紹介させていただこうと考えています。
そして、詳細をご覧になりたい方は「ICI日誌:ICI Daily & Diary Lectures」
の本文をご覧いただけたら幸いです。
また、今年度は、「ICI日誌:ICI Daily & Diary Lectures」をベースにして、
「ICI Theological Efforts for Japan Evangelical Churches」という神学誌
のようなものの作成に挑戦していきたいと考えています。基本的には、わ
たしの所属している「日本福音教会“Japan Evangelical Churches”」の教
職者〔正教師・補教師〕を念頭に取り組むものですが、わたしが取り組み、
目指している“ICI Theological Efforts”は、エリクソン神学が目指しいるも
のがそうであるように「聖書性・公同性・今日性・革新性」を特質として内
包し、わたしの対象としての“Japan Evangelical Churches”は、日本にあ
る福音派の諸教会のすべての教職者・信徒を対象にするものであること
を理解していただきたいと思います。
エリクソンは、「すべての聖書的≠ナあろうとする教会は、バプテスト的
な特質をもつものとなるであろう。」と語っています。わたしもそのような確
信の上にたって、“ICI Theological Efforts for Japan Evangelical
Churches”を紹介させていただきたいと思います。
────────────────────────────────────
*************************************************
2007.04.29 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
4/28b 千里の道を行き、万巻の書に親しみたい!
4/28a 「悔い改め」を学ぶときには「罪論」も復習されたし!
4/24a 神学生と卒論指導教師は、共同作業のように!
4/21a 個々の魂の主体性・自由・選択・高価な価値・ユニークな存在!
4/16a 神学的思索、またショート・レクチャーとしてのICI日誌!
4/14a 福音主義神学との対比において「霊の戦い」の教えを考えてみる!
★ 私のスタンスとしまして、説明させていただきますと…
「日本のリバイバルの働きに取り組んでおられる先生方を尊敬してきまし
たし、これからも変わりありません。ただ、神学教師のひとりとして、私た
ちの団体に影響のある教えの一部分に関しまして、福音主義神学の視
点からの神学的フィルターを通して濾過した上で受け入れることの大切さ
に留意していただきたい。」という一心で書き綴っているということなのです。
4/13a 現段階では「臨床試験薬」的な扱いとして!
4/11b 『キリスト者の標準』をエリクソン神学のまな板において調理する!
4/11a
*************************************************
2007.04.08 Yamasaki Chapel Short Message
*************************************************
4/2 両陣営からの冷静かつ有益な知恵を吸収しつつ、中道の道を進む!
────────────────────────────────────
[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2007/01/01-03/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI E-Mail Lectures Headline Digest
主の御名を崇めます。
昨年の十二月中旬から今年の二月末くらいまで、パソコンとサーバの故障で
困っておりましたが、今後五年間くらいのICIの働きを考慮して、思って切って
機器の更新をさせていただきました。三月下旬には、新しいパソコンとサーバ
も使いこなせるようになってきました。
三月は、私たちの団体の教職者セミナーがあり、そのアフターケアといいます
か、フォローといいますか、この半年間取り組んできましたさまざまな書籍や
資料の紹介もふくめてかなりたくさんの記述をさせていただいています。
中心的な内容としましては、JEC拡大教職者会のテーマでありました“Homo
Patience(病める人間)”へのさまざまなアブローチに関連しての「コーディネー
ター安黒の個人的見解としての総括」メモをいろんな視点から解説させていた
だいているものです。
個人的な総括とさせていただきましたのは、この半年間の準備期間、また過去
十数年間のJECにおける取り組み、そして今回のセミナーの全体を振り返って、
JEC教職者として留意すべき三つのポイントを今後の課題として総括的に提示
させていただきましたが、全体のコンセンサスとして採択されたわけではありま
せんので、個人的な総括として紹介させていただいています。
今月の“ICI Monthly”では、その三つのポイントのうちで最も大切なポイントであ
る「世界観」の問題の神学的な扱い方を再考すべきではないのか。そしてどこに
問題があり、どのような手順で再考していくべなのか、について文献紹介も含め
て、かなり詳細に記述させていただいています。
文献紹介や抜粋引用は、下記の先生のものがあります。
○M.J.エリクソン著『キリスト教神学』
○ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』
○宇田進著『総説現代福音主義神学』
○M.J.エリクソン著“The Evangelical Mind & Heart -Perspectives on Theological and Practical Issues-”
○アリスター・マグラス著『キリスト教の将来と福音主義』
○牧田吉和先生の発表論文『三位一体論的・終末論的・神の国的霊性の展開 -福音主義における霊性の統合的理解の試み-』
○牧田吉和著『改革派神学入門:改革派信仰とは何か』
○牧田吉和論文、改革派神学 第32号『ファンルーラーにおける三位一体論的・終末論的・神の国神学と聖霊論』
○ルイス・B・スミード編集“Ministry and the Miraculous -A Case Study at Fuller Theological Seminary-”
関心のある方は、下記サイトに掲載していますので、ご覧ください。また、感想や
意見等ありましたらメールにてレスポンスください。よろしくお願いします。
3/29 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説I
3/28 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説H
3/27c JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説G
3/27b JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説F
3/27a JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説E
3/26 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説D
3/25 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説C
3/24 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説B
3/22 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説A
3/21 JEC拡大教職者会「コーディネーター安黒の個人的見解としての総括」メモ 解説@
3/20 JEC春季拡大教職者会報告と「総括」部分についての注釈
@癒しのミニストリーに対する福音理解そのものの卓越性、
A機械的世界観への反動としての第三世界のアニミズム的世界観、
しかし聖書的世界観との差異の識別・精査という課題、
Bナイーブな信仰に対する一般啓示との関係の在り方等があります。
3/15 Windows Server 2003 R2 の基本的な設定が完了しました。
3/1 ICIホームページについて
3/1 ICIイントラネットとJEC&ICIイントラネットの機能停止のお知らせ
2/25 サーバーの夜間停止のお知らせ
2/22 ICIの働きは、「VistaパソコンとWindows Server 2003」の時代に入ります !
2/7 今月の予定
2/6 サーバーの復活と、ビデオ・ファイルの復活