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2023年12月3日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇134篇「聖所に向かってあなたがたの手を上げ」-ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが-
https://youtu.be/rq3MojlvbP8
今朝は、教会の暦では「アドベント」すなわち主のご降誕を祝うクリスマスに向けて心を備える期間「待降節」に入ります。それは、主の初臨を祝う時であるとともに、心静めて主のご再臨を待ち望む期間であります。この時期、教会では、福音書のキリストのご降誕の記事から語る習慣がありますが、現在は三年計画の『詩篇傾聴』シリーズの最中でありますので、アドベントを意識しつつ、詩篇に傾聴していきたいと思います。これらの巡礼歌集は、多種多様な素材を含んでいました。それは、巡礼者の背景をなすさまざまな苦しみがあり、戦いがあるからです。それらの苦しみが巡礼者たちを祈り、賛美、嘆きへと駆り立てていたのです。
今、中東では、ハマスとイスラエルが戦いの中にあります。イスラエルも多くの家族が残虐に殺されました。それに対する報復としてイスラエルはパレスチナの人々の背後に隠れているハマスを殲滅しようとして戦いは続いています。このような戦いの中で、ハマスに距離を置く人々も巻き込まれていのちを落としています。ひとつの聖句が心に響きます。マタ2:18
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」巻き添えになった多くの家族があり、傷つき失われた子供たちがいます。降誕記事の中に響く、このような記事に留意しつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 134 ] 都上りの歌。
A.巡礼者の挨拶(v.1-2)
B.祭司の応答(v.3)
本詩134篇は、巡礼歌集、すなわち「都上りの歌」と題する詩篇の最後のものです。巡礼者たちが神殿の祭司やレビ人に別れのあいさつを送り(1,2節)、祭司がそれに応える(3節)という構成になっています。1節[134:1
さあ【主】をほめたたえよ。【主】のすべてのしもべたち、夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ]は、神殿で働く人々への呼びかけです。[134:1【主】の家で仕える人]とは、祭司やレビ人のことで、昼も夜もその務めを果たしていました(Ⅰ歴代志9:33)。2節の[134:2
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、【主】をほめたたえよ]の[134:2
手を上げ]は、祈りの姿勢(詩28:2、141:2、Ⅰテモテ2:8)です。
3節[134:3 天地を造られた【主】が、シオンからあなたを祝福されるように]は、祭司による祝福の応答(参照
詩115:15、128:5、民数記6:24-26)です。すなわち、本詩は巡礼者と祭司による「応答歌」なのです。祭司のあいさつは、巡礼者たちに詩篇121:8の[【主】はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる]の約束を確信させたことでしょう。さて、旧約の文脈において、「神の臨在」の焦点でありましたエルサレム、[134:3
シオン] 、そしてそこに建立されていた[134:2
聖所]に巡礼していたイスラエルの民の巡礼歌は、新約においては、[シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム](ヘブル12:22)、影ではなく実体、臨在そのものであられる神、天にある聖所で仕えておられる大祭司キリスト(ヘブル8-9章)に焦点が合わせられます。
そうです。わたしたちは地上の生涯を天のエルサレムに向かって旅する「巡礼者」であるとともに、キリストにあってわたしたちは[祭司](Ⅰペテロ2:9)であるのです。それゆえ、[134:1
さあ【主】をほめたたえよ。【主】のすべてのしもべたち、夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ]との呼びかけは、被造物世界という「主の家」で、あらゆる仕事、職務、勉学、余生、善行等を通して「神の栄光」をあらわす[【主】のすべてのしもべたち]であるわたしたち自身への呼びかけともなせるのです。そのときに、天を仰ぎ、そこに[ヘブル8:1
私たちにはこのような大祭司がおられ…この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、8:2
人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられ]ることを信じて、[134:2
聖所に向かってあなたがたの手を上げ]て祈ることができるのです。
本詩では、[134:1 さあ【主】をほめたたえよ。…【134:2
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、【主】をほめたたえよ]と、「ほめたたえ」すなわち賛美がメインなのですが、詩篇には、「ほめたたえ」と「嘆き」の詩篇があるように、わたしたちの生活、わたしたちの生涯、わたしたちの世界には「ほめたたえ」と「嘆き」が共在します。わたしたちは、今日からアドベントの期間に入り、主のご降誕と再臨を待ち望み、また祝おうとしています。それは素晴らしいことです。しかし、同時にわたしたちの目に入り、耳に入る世界の情報には悲惨なものがあります。
マタ2:18
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」それは、今日、イスラエルの地で、またガザの地で聞こえる声です。これは、預言者エレミヤの預言です。ヤコブ、すなわちイスラエルの妻ラケルは、捕囚となり連れていかれるイスラエルの子らを思って泣いています(エレミヤ31:15)。その嘆きが、キリストの降誕の時期に再現しました。イスラエルの王となるであろうメシヤの行方が分からなくなったので、ヘロデ王は「隠されているであろう赤子」をその地域の幼児一切を殲滅することによって根絶やしにしようとしたのです。恐ろしいことです。
ハマスは、「元々住んでいた民としてパレスチナ全土からイスラエルの民を地中海に追い落とそう」とします。イスラエルは、「主として欧州での迫害と絶滅収容所の経験から、旧約からの故国パレスチナに安住の地を確保しよう」と必死です。極右の人々は「パレスチナ人をその地から追い出すか、殲滅するか、二級市民として支配しよう」としています。「二国家共存の国連案」はそれほど難しいことなのでしょうか。
このような事態の中で、本詩134篇をどのように唱和し、どのように歌えるのでしょうか。わたしは、以下のように「ほめたたえ」の言葉を取り除き、「嘆き」の言葉に入れ替えて祈りたいと思います。
[134:1 さあ【主】を( )。【主】のすべてのしもべたち、夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ。134:2
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、【主】を( )。134:3
天地を造られた【主】が、シオンから( )ように]と、わたしは、天上の右の座におられる、まことの聖所の大祭司の御前で「折にかなった助け」(ヘブル4:16)を受けるために、「ほめたたえ」の詩篇の用語をTPO、すなわち時と場と機会に応じて入れ替え、取り換え、変換することをお勧めしたいのです。
そうすれば、詩篇134篇は、時にはヨブのように「抗議の祈りへの呼びかけと大祭司からの応答」となるでしょうし、また別の時には哀歌のように「絶望からの叫びと大祭司からの応答」となるでしょう。マタ2:18
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」巻き添えになった多くの家族があり、傷つき失われた子供たちがいます。
[134:1 さあ【主】(の前に、泣け)。【主】のすべてのしもべたち、夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ。134:2
聖所に向かってあなたがたの手を上げ、(あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ)哀歌2:19。134:3
天地を造られた【主】が、シオンから(応えてくださるでしょう)]。[ヘブル4:13
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。…4:14
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのです…4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…4:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか]。
今朝は、詩篇134篇をわたしたちの世界に起こっているただ中に持ち込み、変換させていただきました。詩篇とは、ある意味で四千年間にわたり、祈り続けられ、そのさまざまなTPOの中で生き生きと、変換・唱和され続けてきた神の民の祈りです。この詩篇を、今日の世界の中で、わたしたちの御国への巡礼の旅路において、[131:1【主】のすべてのしもべたち、…【主】の家で仕える者たち]と共に共有し、「ほめたたえ」と「嘆き」において、信仰の質が豊かにされるよう、そしてその結果として味わい深く祈り続ける生涯を生きる者とされたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:実用聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年11月26日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇133篇「兄弟たちが一つになって、ともに生きる」-ヤコブとエサウ、イサクの子供たちの子孫の祝福の共有を祈る-
https://youtu.be/KCrB7a_UgDI
本詩は、[133:1 兄弟たちが一つになって、ともに生きる]ことの幸いを[133:1
なんという幸せ、なんという楽しさ]と歌っています。この「兄弟たち(アヒーム)」は、狭義には「兄と弟」、広義には「イスラエルの同胞」を意味しますが、ほかにも「家族から部族に至る大小の親族や職業上の同僚」「南北イスラエル関係」「ユダヤ居住民とディアスポラの関係」等が「兄弟」として表されます。わたしは、これらに加え、新約の光の下で詩篇に傾聴し、詩篇の言葉を「今日の祈り」として活用する恵みに置かれている者として、「ヤコブとエサウ、イサクの子供たちの子孫の祝福の共有」を祈りたいと思います。そのような視点で本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 133 ] 都上りの歌。ダビデによる。
① 共存共栄の幸せ―とこしえのいのちの祝福(v.1、3b)
② それは、頭に注がれた貴い油のよう(v.2)
③ それは、山々に降りる露のよう(v.3a)
本詩は、[133:1
兄弟たちが一つになって、ともに生きる]幸いを歌う詩篇です。「兄弟」を最も狭義に解して「兄弟同士が一つ屋根の下に暮らす」ことの幸いが歌われていると解しても良いでしょう。古代においてイスラエルの民は、結婚後もなお兄弟が同一家屋に居住する、大家族制(申命記25:5)が想定されます。今日は、昔ながらの「三世代同居の家族」のあり方から「夫婦と未婚の子供たちの核家族」のあり方へ大きく変遷してきたと言われます。そのような時代においても、インターネット社会の発展でラインやフェイス・ブック等で「疑似大家族」の交わりが可能になっているかのようにも見えます。
エデンの園の物語によれば、人間を創造された神は[創2:18
また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない」]と言われ、「人間が、その漢字のごとく、他者に支えられて生きる存在」であることを表明されています。聖書は、多くの場合、「神の前に立つ単独者」として自分を受けとめ、自分の言動に責任を負わねばならない人間を描いています。同時に、人間は孤独に生きる者ではなく、「互いに互いを支え合う」社会を形成してきました。エデンの園は、その人間社会の最も基本的単位を明らかにしています。
ところが、そこからはじまる人間社会は「争いの温床」ともなり、闘争や戦争が引き起こされていきます。助け合い、支え合うべきはずの人間が、奪い合い、殺し合い、相手を抹殺せずにはおかない思いに支配されていっています。旧約聖書は、そうした人間関係を、まずは「カインとアベル」の物語において、「兄弟間の殺害」(創世記4:1-16)として描き出しています。旧約聖書は、その後も「ヤコブとエサウの確執」から「ダビデの息子たちの王位継承争い」まで兄弟間の争いを様々に描いています。
[133:1
兄弟たち]であるはずのイスラエル諸部族の抗争や分裂の歴史、さらには国家間、民族間の闘争が綴られています。このような旧約聖書の歴史記述は、バビロン捕囚から帰還した民がエルサレム神殿を再建し、新しい社会を形成していく模様を伝えるエズラ記・ネヘミヤ記をもって閉じられるのですが、そこには、貧富の差が拡大する中で、貧しい[133:1
兄弟たち]を搾取することを禁じるネヘミヤの改革(ネヘミヤ5:1-13)も伝えられています。旧約聖書全体にわたるこのような背景に本詩を置きますと、
[133:1 兄弟たち] を一義的に限定して読むべきではなく、「応用領域」が広がっているといえるでしょう。
本詩を伝えた人々は、時に巡礼に集う[133:1
兄弟たち]が和合している姿の中に、神の祝福を感じ取り、「神に創造された人間本来の姿」を見て取ったのではないでしょうか。もとより、エルサレムにおける巡礼祭は、見知らぬ同胞たちが和合し、一つの会衆として連帯感を味わいながら、神を讃える時でもありました。それゆえ、新約聖書には[133:1
兄弟たち]の間に憎しみや争いがあるときには、「神殿に詣でる前に、まずは和解せよ」と教えているのです(マタイ5:22-24)。そのイエスをメシヤと信じるクリスチャンの間では、「
133:1 兄弟たちが一つになって、ともに生きる」「 133:1
幸せ、楽しさ」の兄弟和合の精神は、「兄弟愛」(ローマ12:10、Ⅰコリント1:10、Ⅰテサロニケ4:9)として継承されているのです。
わたしたちは、本詩の文脈にそって、旧約の神の民の中の「兄弟和合の精神」を見てまいりました。また民族を超えた普遍主義に立つ新約の神の民の「兄弟愛の精神」に広げてきました。さらにわたしは、本詩の[133:1
見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きる]祈り、賛美を、イスラエルの人々とパレスチナの人々の土地争いにも広げることを試みたいと思うのです。土地の問題、領土の争いの問題は本当に難しい問題です。時代により国境線が動いていたり、国土の大半が他国に奪われていたりする場合は特に深刻です。それは、ヨーロッパの歴史をみるとふたつの世界大戦を含め、美しい国土が、都市が廃墟と化しました。
今日、ウクライナとロシアも、パレスチナとイスラエルも戦争の最中にあります。イスラエルは、二千年間の流浪と迫害、そして絶滅収容所の悲劇を経て、オスマン・トルコ帝国解体の後のパレスチナで独立を勝ち取りました。ただ、その日以後に起こった数回の中東戦争の結果、難民化したパレスチナ人はガザとヨルダン川西岸に押し込められ、今日に至っています。イスラエル人は「絶滅収容所」の経験から発想し、アラブ世界に囲まれた国家・民族の安全を最大限追求するでしょう。またパレスチナ人は「難民化したナクバ(大惨事)」の経験から発想し、パレスチナ全土の回復を求めています。お互いの国土、生存権を尊重しあう「二国家共存」で妥協しあわなければ、永遠に戦争を続けるしかない状況です。
その点で、イスラエルに影響力をもつ米国の責任は重大と思います。「二国家共存」のためには、「占領の終結と入植地の撤去」が必要だからです。米国政府がその力を発揮するためには、選挙で時の政治を左右する選挙民の意識の変革が必要です。特に、「土地、首都、神殿」の問題で、妥協の妨げとなっている「キリスト教会の中にある誤った聖書解釈」の変革が必要です。わたしは、この問題と解決の道筋を拙著『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱに記しました。日本の教会への「キリスト教シオニズム」の運動と教えの悪影響への対策、また米国やイスラエル、そして全世界でこの課題に取り組んでいる人々への応援歌として。
この問題で、わたしが参考にしたスティーブン・サイザーの二つの本―“Christian Zionism”、“Zion’s
Christian
Soldiers?”があります。その本の中に「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる」。そしてヨハネの黙示録22:2に記されているように「イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒し―これが神の目的であり、私たちの使命である。神の計画は回復されたパラダイス以下のものではない」と記されています。
本詩では、[133:2
それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴る。133:3
それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ]と歌われています。それは、大祭司は、王と同様、任職式において頭に油を注がれたのです(出エジプト40:15)。ヘルモンは、アンティレバノン山脈南端の高い山で、標高2814メートルです。冬に積もった雪はヨルダン川の水源となりました。すなわち、「上から注がれる祝福の油」はひげに流れ、衣の末端まで、「天から降りそそぐいのちの雨露」は、乾いたバレスチナ全土を隅から隅まで、いのちの水で潤すように、[133:3
とこしえのいのちの祝福を命じられた]のです。
わたしは祈ります。イスラエルとパレスチナの人々がこれまでの行きがかりを克服し、神さまがパレスチナの地に備えられた[祝福の共有を開始する]ように、そしてキリスト教会も含め、全世界が、争いの火に油を注ぐのではなく、[ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける]ことができるように。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、安黒務著『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱ)
2023年11月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇132篇「ダビデのすべての苦しみを思い出してください」-ダビデに誓われ、シオンを選び-
https://youtu.be/zYpoPSYtIwo
詩篇は、トーラー(律法)の黙想を勧め促す詩篇1篇と、メシア「油注がれた者」に言及する詩篇2篇を鍵としています。これら二つのテーマ―すなわち、律法に示される神の意志の啓示と、神の王国を開始するメシアの訪れに対する待望―は、詩篇の書が最終的な形で集大成された当時の、ユダヤ人たちの二つの主要な信仰を形づくっていました。本詩132篇は、後者に属する詩篇です。パレスチナの飢饉のために下ったヤコブとその家族は、エジプトのゴシェンの地で増え広がり何百万人にもなっていました。寄留の民イスラエルは、エジプト脱出を導かれ、シナイ山の麓で十戒を付与され、神の民となりました。
四十年間の流浪の旅の後、約束の地カナンに入りましたが、彼らは十二の部族の勇士による連合軍でありました。最初の王サウルは、カリスマ的なリーダーシップでその連合軍を率いました。周囲の国々が弱いときには勝利をおさめましたが、強国になってくると勝てなくなりました。そのような時期に、ダビデは統一国家のビジョンを賦与され、それにまい進しました。サウル王の死後、南北に分かれていたイスラエルを統一するためには、「神によって油注がれた王」と「統一王国のための首都」が必要とされていました。第二サムエル記5,6,7章にその経緯が記されています。本詩には、主に導かれてなされたダビデの粉骨砕身の努力が記されています。このような視点で本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 132 ] 都上りの歌。
A.ウザの出来事を背景に(v.1-5)
B.契約の箱をエルサレムに運び上る(v.6-10)
C.ダビデへの油注ぎと約束(v.11-12)
D.シオンの選びと祝福(v.13-16)
E.未来の油注がれたメシアの示唆(v.17-18)
本詩は、[132:1
【主】よ、ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください]という言葉をもって始まります。ダビデの苦しみとは、一体何でしょう。ダビデの苦しみは、サムエルが密かに、イスラエルの王としてダビデに油を注いだ時(Ⅰサムエル16章)に始まりました。音楽に秀でていた若いダビデは、王の傍で演奏する者となりました。これはダビデが王政や政治を学ぶ機会ともなったことでしょう。また、羊飼いとして獅子や熊と戦っていたダビデは、天性の戦略家としてのセンスを身に着け、ペリシテの巨漢の戦士ゴリアテと戦い、五つの滑らかな石と石投げで勝利しました(Ⅰサムエル17章)。その後、戦士として実戦を戦い、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(Ⅰサムエル18章)とイスラエルの人々の心を掴みました。
しかし、ダビデに対する主の計画は、サウルに疑心暗鬼を生み、ダビデは、主に従えば従うほど、サウルにいのちを狙われるはめに陥ったのです。わたしたち、クリスチャン生活にもこういったことがあるのではないでしょうか。そのような時には、「それが間違っていると分かっていても、人におもねる。周囲に迎合することが得策」のように思う誘惑に誘われます。ダビデが、サウルにおもねり、サウルを喜ばすことに心を砕いていたら、主のみ旨は台無しとなり、ダビデは主の御心を損ない、「ダビデ王朝」の将来は消え去っていたでしょう。「み旨にかなう苦しみ」を恐れない者となりましょう。
[132:1
【主】よ、ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください]とあります。イスラエルの黄金期を担ったダビデ・ソロモン時代ではありますが、ダビデの前半生は、ペリシテとの戦い、サウル王の追跡の苦しみがあり、また後半生ではバテシェバ事件に始まる不品行やそこに発する家族内のトラブルが頻発しています。これもまた、クリスチャン生活です。ダビデほど、熱心に主を追い求めた信仰者は多くないでしょう。彼は、信仰者の模範です。しかし、私たちと同じく彼もまた完全な人間ではありませんでした。ダビデの生涯には、数多くの誤りや失敗が散見されます。しかし、ダビデはいつも主の寵愛を勝ち取りました。主の贖罪愛を受けました。ロマ4:7
「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人」と。[詩51:10
神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください]と。
さて、それらの数多くの苦しみの中で、本詩[132:1
【主】よ、ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください]で意図されている苦しみとは、何を指すのでしょう。1-10節までの文脈から、統一王国の王として公式に油注がれたダビデ(Ⅰサムエル5章)が、その統一王国の首都としてふさわしく南北王国の中間地点にあった、四方を山と谷に囲まれた、難攻不落の要害エルサレムを攻め取り、統一王国の象徴として、[132:8
御力の箱]である「契約の箱」を、全イスラエルをあげての仰々しい儀式と行列をもって首都エルサレムに運び上げようとしたのです。そのときに、不慮の事故が起きようとしました。運んでいた牛がよろめき、「契約の箱」が落ちそうになったのです。とっさに、ウザという人がそれを押しとどめようと「神の箱に手を伸ばし、それをつかんだ」のです。すると、主の聖に直接触れたウザは、即座に主に打たれ、死んでしまいました。
ダビデは、この出来事にショックを受けました。いや、ダビデだけではないでしょう。イスラエルの全国民がショックを受けたでしょう。「青天の霹靂」と申しますか、最高の喜びの日に、最悪の悲劇が起こったのです。人によっては、これはダビデの王位につけられた「神の疑問符」と映ったかもしれません。ダビデにとっては生涯最大の危機のひとつであったかもしれません。ありうるかもしれない、あらゆる危機管理を備える者となりましょう。イスラエル民族にとっての「象徴」であり、「本質」「約束」を示す神の臨在のありかを示す、出エジプトとシナイ山の出来事において賦与された「神の箱」に「死」をもたらす危険があるのなら、それは統一王国の首都に「危険」ということにもなります。これは、大問題となり、三ヶ月「オベデ・エドムの家」にとどめ置かれ、[Ⅱサム6:11
【主】の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。【主】はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された]と、それは危険なのではなく、大いなる祝福の源であることが明らかになった結果、統一王国の首都エルサレムへと運び上られました。
それゆえ、本詩における「 132:1 ダビデの苦しみ」とは、[Ⅱサム6:7
すると、【主】の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。6:8
ダビデの心は激した。【主】がウザに対して怒りを発せられたからである]の「ダビデの心は激した」にあるでしょう。ダビデは、単に出来事がどうこうというだけでなく、それのことが「ダビデの主による油注ぎとダビデ王朝の安泰とその末裔に対する約束」と「シオン、すなわちエルサレムの選びとそこを中心とする神の支配・神の祝福」の行方にも苦悩・葛藤したことでしょう。その葛藤が、[132:3
「私は決して私の家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。132:4
私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみさえ]に表現されています。
ダビデは、「主の聖なる臨在」は危険なものではなく、「祝福」であることを三ヶ月の間に確信し、あらためて契約の箱をエルサレムに運び上げました。[Ⅱサム6:12
「【ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。6:13
【主】の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。6:14
ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた]とあります。[132:9
あなたの祭司たちが義をまとい、あなたにある敬虔な者たちが喜び歌いますように]とある通りです。
ウザの死の際に、ダビデをおそった不安は吹き消され、裸になってエポデをまとい、踊り狂ったダビデには、南北の統一王国、首都エルサレム、ダビデ王朝の保証の確信が心の底から溢れていたことでしょう。それは、Ⅱサムエル記7章の預言者ナタンの言葉で確約となります。ダビデは、主のために神殿を建てようとするのですが、その代わりに[Ⅱサム7:11
【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る]と、主がダビデのためにダビデ家の王朝をたてられると約束されました。[7:12
あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる]と。
これは、[132:11
【主】はダビデに誓われた。それは主が取り消すことのない真実。「あなたの身から出る子をあなたの位に就かせる」]とある通りです。そして、さらにバビロン捕囚により、ダビデ王朝が滅亡した後をも見据え、[Ⅱサム7:13
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる]と、永遠が視野に置かれます。これは、[132:17
そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える]において示唆されていることであり、イスラエルの歴史、また民族主義的なダビデ王朝を下敷きに、象徴的な理想像が描き出され、ダビデの子孫の末裔として、民族を超越した普遍的な神の国のメシアたるイエス・キリストの[132:18
王冠が光り輝く]日を予表するものです。
そのような意味で、本詩はメシアの来臨を期待する「クリスマス詩篇」とも呼ばれます。教会は、まもなくアドベントの季節を迎えようとしています。ダビデの末裔であるメシア、イエス・キリストの「王冠が光輝き」、神の平和を象徴する首都エルサレムから、天のエルサレムから、パレスチナとイスラエルの地に、平和がもたらされますように。
(参考文献:
デレク・キドナー『詩篇73-150篇』ティンデル聖書注解、B.W.アンダーソン『旧約聖書―物語られた歴史』、『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年11月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇131篇「私のたましいを和らげ静めました」-「流血の地」を「乳と蜜の流れる地」へと変えてください-
https://youtu.be/fTVxsGzbOig
「もうたくさんだ」。エルダール氏は取材中、そう繰り返しました。パレスチナ自治区ガザを30年以上取材してきたイスラエル人ジャーナリストのシュロミ・エルダール氏です。エルダール氏はガザを実効支配するハマスに精通し、後に最高指導者となるハニヤ氏の単独インタビューも行ったことがあります。監督を務めたドキュメンタリー映画「いのちの子ども」(2010年公開)では、難病を抱えたガザの赤ん坊を救うためにイスラエル人とパレスチナ人が協力する姿を描きました。今回の襲撃で、ガザの重病人をイスラエルの病院に送り届けていたイスラエル人ボランティアもハマスに殺害されました。エルダール氏は「いつか和平が訪れると信じていた人たちだ」と怒りをにじませています。
わたしたちは、今「二枚のゲルニカの絵」を見ているかのようです。「ハマスによる1200人の殺戮と200人余りの人たちの拉致・誘拐」と「ハマスの根絶と誘拐された人たちの解放のためにガザ攻撃を続けているイスラエルの戦争」を連日見ています。ニュースを見るたび、聴くたびに、わたしたちの心はかき乱され、荒海のさかめく波のようです。イスラエルとパレスチナ双方の言い分は、それぞれにあります。しかし、「民間人を盾として戦うハマス」と「その盾を取り除かないとハマス殲滅と捕らわれた人たちの救出ができないイスラエル」の間の戦いは熾烈をきわめています。今朝の詩篇は、「霊的な歌」とよばれる短い詩篇です。[131:2
私のたましいを和らげ静めました]とある通りです。見かけは穏やかな詩篇です。しかし、その背景として[131:1
【主】よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れません]とかき乱されるような心の状態が示唆されています。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 131 ] 都上りの歌。ダビデによる。
A.荒海の波のように、かき乱される魂(v.1)
B.かき乱される魂を和らげ静める(v.2)
C.その秘訣(v.3)
わたしたちは、すでに130の詩篇に傾聴し、その多くが「嘆きの歌」と呼ばれる詩篇、それは「苦悩の中からの叫び」であることをみてきました。アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸の架け橋の位置にあり、諸民族、諸国家がその支配をめぐってせめぎ合ってきたパレスチナという地域は、「人間の世界の鏡」です。そこは、「約束の地」「乳と蜜の流れる地」といわれるだけでなく、エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ローマの帝国により、蹂躙され、略奪されてきた「流血の地」でもあるのです。これは、ある意味で「この世」で生きる神の民であるわたしたちにとっても「鏡」です。
わたしは本詩[131:1
【主】よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れません]を読みます時、「おごり、高ぶり、大きなことを言い、奇しいことに手を出し、足を踏み入れようとしやすい」自分を発見します。「少年よ、大志を抱け」とは、クラーク博士の言葉です。しかし、人生においては、「高すぎる目標を掲げて自滅する」という場合もあるように思います。
その昔、恩師のひとり、フレッド・スンベリ師が語られたことを思い出します。「ある人が、自分の奉仕に不満を持ち、神さまに申し上げたそうです。神さま、わたしに与えられている現在の奉仕は、わたしには小さすぎます。ビリー・グラハムのような、もっと大きな奉仕を任せてください」と。神さまは、「では、お前にピッタリな奉仕を見つけるが良い」と言われ、担うべき十字架の倉庫に導かれたそうです。「さあ、この倉庫にはいろんなサイズの十字架が置いてある。あなたにピッタリの十字架を見つけなさい」と。それで、この人は自分の担いできた十字架を倉庫に立てかけて、いろんなサイズの十字架を担いでみました。すごく大きな十字架を見つけ、担ごうとしましたが、それは重すぎて持ち上げることができませんでした。それで、軽いのを探し、担ぎましたがあまりにも軽くて張り合いがありませんでした。たくさんの十字架を試して、ついに自分の力にピッタリの十字架を見つけました。そして神さまに申し上げました。「神さま、この十字架こそが、わたしにピッタリな奉仕であり、十字架です」と。神さまは、「その十字架は、あなたがこの倉庫まで担いできた元々の十字架です」と言われたとのことです。謙遜でありたいものです。
ポール・トゥルニエ著『人生の四季』に、幼少期は春のようで「夢とポエジー」の季節、青年・成人期は夏のように「ビジョン実現に向けてエネルギッシュにまい進」する季節、年老いた老年期は秋のようで「生きてきた人生を収穫する回想」の季節というようなことを記しています。その中で、最も素晴らしいもののひとつは、「若い頃には、失敗とか挫折と受けとめていたものの中に、宝石のように価値がある、意味があることを発見する」という洞察です。わたしは、それは、聖書の人生哲学、また人生訓の中にも見いだされることだと思うのです。わたしたちは、幼い頃、若い頃に描いた夢のすべてを実現しなくて良いのです。成功の中にだけでなく、失敗・挫折の中にも、主にあって輝く宝石があるのです。
それは、本詩においても[131:1
【主】よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れません]と示唆される「荒海の波のように、かき乱される魂」を背景に、苦悩の中で叫ぶことから一転して、[131:2
まことに私は、私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります]と[かき乱される魂を和らげ静める]言及があるからです。このような構成は、信仰者の生活、また人生ドラマの構成にみられる不思議です。信仰者の生活、人生は「万事、順風満帆」であったりはしません。その航海には嵐の日もあり、風の日もあるのです。これを恐れないようにしましょう。
信仰者の生涯にあるものといいますと、「嘆き」「苦悩」「叫び」のただ中で、「しかし」「だが」「にもかかわらず」という反意の接続詞が挿入されるところです。つまり、「苦悩」に打ちひしがれている「にもかかわらず」、詩篇ではそのただ中で「神への信頼」が宣言されているのです。これが信仰生活です。詩篇の中には、「信頼」という主題の詩篇も数多くあります。しかし、「信頼の詩歌」の起源は、「嘆きの歌の中の、著しい特徴である信頼の告白」という部分が、独自に発展したものと見られます。すなわち、「嘆きの詩篇の一構成要素」としての信頼の告白が、「嘆き」という背景から切り離され、独自の道を歩み、「霊的な詩歌」と祈りとなっていく道筋がそこにあるのです。
ですから、[131:2 まことに私は、私のたましいを和らげ静めました]を理解するためには、[131:1
おごり…高ぶり及びもつかない大きなことや、奇しいことに、…足を踏み入れ]、国土・国家喪失、首都や神殿の崩壊、民族の世界の果てへの離散を経験してきた民の経験を踏まえる必要があるのです。ある意味で、イスラエル民族は、大国のはざまで蹂躙されてきた国家・民族のサンプルです。また、パレスチナの人々もまた、ウクライナの人々も同様です。ミャンマー、アフガニスタン、シリア等でも難民は溢れています。
多くの苦しんでいる人々の代表格として「イスラエルの意味と価値」があるように思います。そして、「苦難のしもべの歌」イザヤ53章の預言されてきた苦難のメシヤであるイエス・キリストに、それらの苦難の最も深い深淵が示され、「詩篇23:4
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも」と、死の陰の谷を歩む折に、「主が共におられ、…敵の前で、宴を設け」てくださる。それゆえに「23:1
わたしは乏しいことがない。…23:3 魂は生き返らされ」、「23:5 こうべに油を注がれ…杯は溢れ、…23:6
いつくしみと恵みが」猟犬のように追いかけてくる、と告白しているのです。
わたしは、昭和29年に姫路で生まれ、乳離れした4-5歳の頃に郷里の一宮に帰ってきました。知らない土地、家で、ひとりぼっちになると寂しくなり、母親を探したものです。古代世界では、授乳期間が長く、乳離れは三歳であったそうです。子供が乳離れすると祝宴が設けられました。当時は幼い子が乳離れする頃まで生き延びることが難しい時代でありました。ただ、乳離れしたといっても、自分で食物を調達することも、調理することもできません。それゆえ、乳幼児とは別の意味で、母親に依存せねば生きていけませんでした。母親とともにいることは生存と保護のために必要なことであり、それは乳離れした子どもに「無限の安心感」を与えるものでありました。
主は、[131:2
まことに私は、私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります]とあります。それは、「乳離れした子が、安心感に包まれて、母親とともにいる」様子を、[A.荒海の波のように、かき乱される魂]をもつわたしが、[B.かき乱される魂を和らげ静め]、[131:2
乳離れした子が母親とともにいるよう]な平安を、わたしが[私のたましい]の中に見出させるように、[131:3
【主】を待ち望め]と呼びかけているのです。
今、イスラエルは難しい選択の中にあるといって良いでしょう。ハマスは、1200人あまりの人を虐殺し、200名あまりの人を誘拐しています。イスラエルの人々は怒りに燃え、復讐を果たそうとし、拉致された人々を救出しようとしています。しかし、そのために盾となっているパレスチナの民間人を犠牲にせざるを得ません。手をこまねいて、ハマスをそのままにしてしまうと、このような事件は次々と起こりうるでしょう。そのジレンマの中にあります。歴史的にみれば、オスマン・トルコ帝国一部であったパレスチナの土地に、ユダヤ人とパレスチナ人に独立国家を約束したイギリスの二枚舌外交に遠因があります。
一方が、ひとつの民族がパレスチナのすべてを手に入れようとすれば、過度のビジョンに燃え上がれば、[131:1
及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れ]続ければ、この戦いに終わりはないでしょう。復讐と憎悪の連鎖は、永遠に続くでしょう。その意味で、極論にあおられ、翻弄されることを避け、[B.かき乱される魂を和らげ静め]、[131:2
乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります]と燃え盛る復讐心を静め、[131:3
イスラエルよ、今よりとこしえまで、【主】を待ち望め]と、イスラエルの歴史にこだまする詩人の呼びかけに応答していくことが、長い目で「流血の地」を「乳と蜜の流れる地」へと変えていく秘訣ではないでしょうか。かの地のために、二つの民族を主が省みてくださるよう祈りましょう。二つの国家として、共存していけるよう祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、B.W.アンダーソン著『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年10月29日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇129篇「シオンを憎む者は、みな恥を受けて退け」-平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれる-
https://youtu.be/f1JKAPdaey0
本詩129篇に関し、小畑進師の『詩篇講録』では、[詩篇125篇は、山々に象徴された恵みに取り囲まれる都の安泰、126篇は、解放の布令に接して、満面笑みの歓喜。そして127篇と128篇は家庭賛歌。…しかし、このような現在の平穏無事の世は、一朝にしてなったのではなく、民族の長い苦難、それこそ民族の若き日々からの恐怖体験をへてのことであった]と書き始められています。1節,2節の[彼らは、私が若いころから、ひどく私を苦しめた]を、エジプトでの苦難、また約束の地での周辺の小国との紛争、そしてアッシリヤ帝国、バビロン帝国による捕囚と滅亡を包摂して歌っているのです。このような詩篇の歌い方は、わたしたちに大切なことを教えています。
ブルッゲマンという旧約聖書学者は、ポール・リクールの研究を紹介しつつ、[詩篇の言語に対して、それが本来意図したであろうような、想像的で自由な働きをわたしたちが認めたならば、詩篇がどれほど自由になるか、そしてわたしたちがどれほど感動的かつ信仰的に詩篇を用いることができるようになるか]とわたしたちを励ましています。詩篇を読むとき、わたしたちはその詩篇が生まれた背景や歌われ、含蓄されている意味に傾聴し、それを深く味わおうとします。129:1
「彼らは、私が若いころから、ひどく私を苦しめた」と唱和するとき、わたしたちはイスラエルの苦難の歴史を思い返します。しかし、そのことはわたしたちにとって、どのような意味をもつのでしょう。そしていかなる機能を果たすのでしょう。そのような関心と視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 129 ] 都上りの歌。
A.歴史の最初からの苦難―背に鋤、長いあぜ
B.神の義なる審判―断ち切られた綱、枯れる屋根の草
C.収穫と祝福の欠落した運命
先に述べましたように、ブルッゲマンは詩篇研究の中で、「ポール・リクールの研究こそ最も有用で刺激的だ」と記しています。それは、古代の時代に歌われた詩篇が、現代において機能する道を開くものです。詩篇に記されている「あらゆる種類の、あらゆる状況にある人々」のための祈りと賛美、嘆きとほめたたえの歌は、どのようにして、わたしたちの生活、また生涯の中で働くのでしょうか。そのような働き・機能を展開する道は、第一に「わたしたち自身の生活の中で起こっていることを注意深く見る」ことです。さらに「テレビ、新聞等のニュースに触れる」ことです。
新聞記事というのは、わたしたちの間で起こっていることの要約であり、その年代記であります。その中には、ウクライナやパレスチナの地での戦争もあります。冤罪の裁判があり、痛ましい交通事故、性的な犯罪、詐欺的な会社事例等、が溢れています。[129:3
耕す者たちは、私の背に鋤をあて、長いあぜを作った]とあります。イスラエルに苦難が訪れたように、今の世界、各地の人々の上にさまざまなかたちで苦難が訪れています。イスラエルの詩人は、「イスラエルを鞭うたれた人物として示し、背中のみみず腫れを耕された畑のあぜとして示しています。
わたしたちは、今世界各地で、[129:3
耕す者たち]が、人々の[背に鋤をあて、長いあぜを]作るのを見ています。それらを見るにつけ、心が痛みます。強者が弱者を残虐に扱い、平和に暮らしていた人たちを、未来ある子供たちを、大地の中に、ビルディングの瓦礫の下に鋤き込んでいます。そこには、両者の極端な政治的イデオロギーや極端な宗教的なイデオロギーが混ざり、火に油を注ぎ込んでいるように思います。民族や国家を巻き込んで、二つの世界大戦があり、世界中が平和を祈念して、戦後の秩序が作られてきましたが、今それらが崩壊の危機を迎えているかのようです。
わたしたちは、[マタ5:9
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれる]と言われる者のはずです。キリスト教会、またクリスチャンは「戦争の火に油を注ぐ者」であってはならず、中東問題においては神学的に社会学的にバランスのとれた「国連案の二国家共存」実現のために祈っていくべきでしょう。[129:5
シオンを憎む者]とあります。シオンとは、首都エルサレムの場所であり、そこには「神の臨在」の象徴としての神殿が置かれていました。エルサレムは、「エル」は神の呼び名であり、「サレム」は平和を意味します。
旧約の時代においては[129:5
シオンを憎む者]は、神の民イスラエルと敵対する異教の周辺諸国・諸民族を指し示していたでしょう。しかし、イエス・キリストの人格とみわざが出現した以上、
[129:5
シオンを憎む者]の意味は、イスラエル民族主義を克服・昇華し、民族を超えた普遍主義に立ち、「神の臨在、平和を愛され、求められるイエス・キリストのみ旨」に敵対する者と解釈されるのではないでしょうか。平和を愛される主は、耕作に際し牛やロバをくびきにつなぐ綱のイメージで、周辺諸民族による略奪・支配・虐げの支配から、[129:4
主は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切]り、独立と自由と解放を提供してくださる方、提供してくださった方と歓喜・回想しているのです。
真に、そのような[129:5
シオンを]、すなわち今日における天のエルサレム、臨在の実体であられる神ご自身、御座の右に着座され、また大祭司としてとりなしておられる御子イエス・キリストを愛する以外の理想・目標・ビジョンには良き結実はないと告白しています。建材の乏しいパレスチナでは、一般家庭の屋根は、細い木材をわたして、粘土で固められていました。雨季になればそこに草が芽生えることもありましたが、雨が一滴も降らない乾季の到来とともに、屋根の草は成長できずにいち早く枯れ果ててしまうのでした。[129:5
シオンを憎む者は、みな恥を受けて退け。129:6 彼らは、伸びないうちに枯れる屋根の草]のようになると。
わたしたちは、今朝詩篇129篇に傾聴しています。そして、わたしたちは詩篇129篇を通して「古代イスラエルの苦難の歩み」を回想し、その歴史の中で発せられた「人間性の声のただ中に入り込んで」その傍らに立っています。また、同時に、わたしたちは新約の福音の光の下に生かされている神の民の一員として、地上のシオンから目を離し、天上のシオンの視点から、イエス・キリストにある神のシャローム(神の平和、平安)の視点から、今日現在の中東を見下ろしています。わたしたちは、20世紀半ばに建国された世俗的国家イスラエルの苦難と19世紀間住み着いてきたパレスチナの人々の間の土地争いを見ています。
わたしは、二つの民族の人たちの中の極端な人々が力を失い、穏健な人々の間で妥協がはかられ、双方にとってバランスのとれた平和共存が達成されることを祈っていきたいと思っています。イスラエル人も、パレスチナ人も、双方とも「129:3
耕す者たちは、私の背に鋤をあて、長いあぜを作った」といわれる歴史を歩んできました。今回の大きな犠牲を最後にして、[129:4
【主】は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切られ…129:5
シオンを憎む者は、みな恥を受け]させ、退けてくださいますように。かの地に、神の正義と平和がもたらされますように。祈りましょう。
(参考文献:
W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』『詩篇と信仰の命―言語機能の類型論』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、J.L.メイ編ズ『ハーパー聖書注解』)
2023年10月22日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇128篇「いのちの日の限り、エルサレムへのいつくしみを見よ」-幸せが猟犬のように追いかけてくる-
https://youtu.be/KVwVe4Cv9n0
詩篇の中で、家庭に目を向ける作品は127篇と128篇に限られています。前詩127篇が「結婚して間もない夫妻に向けた祝婚歌」であったとすれば、それに続く本詩は「祭司が神による家庭の祝福を告げる詩篇」といえるでしょう。聖書解釈者たちは、本詩を知恵また教訓詩と位置づけ、理解するためのさまざまな提案をしてきました。そのひとつには、仕事、家庭、エルサレム神殿という分け方があります。また別の可能性としては、仕事と家庭をテーマとし、最後に祝福で締めくくるものがあります。本詩を解く重要な手掛かりとしては1節と4節で繰り返されている「主を畏れる者」があります。
また「祝福」といいますと、創世記のアブラハムへの祝福の約束―[12:2
あなたを祝福し、…あなたは祝福となりなさい。12:3
…地のすべての部族は、あなたによって祝福される]を思い起こします。新約では、この祝福の約束が[ガラ3:14
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした]と、キリストの贖罪と内住の御霊の恵みにおいて完成されていると記されています。そして、この恵みにあずかっているわたしたちクリスチャンのことを[ガラ6:16
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように]と結んでいます。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 128 ] 都上りの歌。
A.神を畏れる者への祝福(v.1)
B.労働とその果実を通しての祝福(v.2)
C.家族への祝福(v.3)
A’.神を畏れる者への祝福(v.4)
B’.祝福の源泉、シオン=エルサレム(v.5)
C’.神の民、イスラエルへのシャローム(平和、繁栄)(v.6)
本詩128篇は、[128:1 幸いなことよ、【主】を恐れ、主の道を歩むすべての人は]と、[128:4
見よ、【主】を恐れる人は、確かにこのように祝福を受ける]を軸として構成されています。「主への畏怖の念をもって生きる人の幸い」を教える知恵・教訓の詩篇です。この[
128:1 幸い]、[128:4 祝福]は、今日的には「外的状況からもたらされる一般的な楽しさ、満足、喜び」
と受けとめられますが、ヘブル語本来の意味は「主にある生活、生涯に関する観察」と結びつけられる言葉です。「いつも主への畏怖をもって生き、絶えず主のみ旨を探し求め、それに沿って人生を歩もうと心掛けている人は、その生涯に主のみ旨にかなった全体性・健全性を見つけるでしょう」それが幸い、それが至福であるという意味なのです。神の臨在を意識し、主への崇敬、畏怖の念を抱いて生きている人は、「そのライフ・スタイルに決定的な違いを生みます」、神を畏れて生きるとは、このお方に生命と希望のすべてをゆだね、このお方の導きに従って生きていくということです。それは世的な幸福や喜びとは異質な「人生に深い喜びと充足」をもたらすことを意味します。
この[ 128:1 幸い]、[128:4
祝福]を深く思索する助けとして、ユダヤ教学者A.J.ヘッシェルの生涯と思想を描いた、森泉弘次氏の『幸せが猟犬のように追いかけてくる』という本があります。ヘッシェルは、第二次世界大戦中、ナチスによるホロコーストによって肉親四人を失い、彼自身もミュンヘンのアパートをゲシュタポに襲われて逮捕され、厳寒の国境に放置されてかろうじて脱出するなど、絶望してニヒリズムに陥ってもおかしくないような過酷な試練に幾度もさられました。しかし、…生ける神と対話し、霊的源泉に汲むことによって…希望を持ち続け、…同胞に神の教えの光を示して希望と慰めを与えました。このようなヘッシェルの生涯に『幸せが猟犬のように追いかけてくる』というタイトルをつけることに違和感をもつ人もあるでしょう。
ヘッシェルについてのこの著作が、十九世紀英国の宗教詩人フランシス・トムソンの「天の猟犬」を下敷きにしていることは明らかです。神のみ旨に背いて神の追跡を招いたヨナにも似て、執拗な神の追跡に苦しめられた世紀末的人間の苦悩を歌うトムソンとは違って、ヘッシェルの詩は、むしろ詩篇23篇の調べと通底します。それは、迫害される民と運命を共にしてその救助に心を砕く憂慮の神、慰めと洞察の源泉としての神の追跡に驚きを感じる若きラビの歌と言えるのではないでしょうか。
[128:5
あなたはいのちの日の限り、エルサレムへのいつくしみを見よ]を詩篇23篇の調べと通底するヘッシェルの視点からみますと、[詩23:6
まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう]は、信仰者の生活、また生涯が羊が緑豊かな牧場でいつも草をはみ、静かな流れで絶えず喉を潤せるのではなく、[詩23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても]とあるように、時として野獣やほかの危険が待ち構える暗くて狭い谷間を、おぼつかない足どりで歩みゆかねばならないように、詩篇作者もまた試練にあったり、死に瀕したりする体験を通して神は導いてくださった、そのただ中で「神の慈しみと恵みが猟犬のように追いかけてくる」と断言しているのです。
後半に、[128:5
【主】がシオンから、あなたを祝福されるように。あなたはいのちの日の限り、エルサレムへのいつくしみを見よ]と、この慈しみと恵みの源泉が歌われています。神の都、シオンの歌(詩篇46,48,76,84,121,122篇)では、神はシオン=エルサレムを神の臨在の場所として選ばれたというダビデ契約を前提としています。これは、天的なエルサレム=シオンの実体である神ご自身の臨在を「歴史に根差した特殊なもの」を影として、象徴的にあらわしたものです。
ゆえに、「都上りの歌」すなわち聖地エルサレム巡礼は、新約において明らかにされた「キリストにあって、一つに集められ」(エペソ1:10)、「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰する」(ピリピ2:11)ことを象徴するものです。そして、ヘブル8章にあるように、「天にある実体」があらわれた以上、目的ではなく手段、神聖視すべきものではなく一時的なものとして機能視すべき「土地、首都、神殿」への約束は、「古びたものとして消えていく」のです。
旧約において、神の近さと救いの力を神殿の祭儀で体験していました。しかし、救済史における神の摂理の中で、バビロン捕囚やキリストの初臨において、またローマ帝国によるエルサレムと神殿の崩壊等により、神殿での祭儀が意味を持たなくなった時代において、「神殿における神の近さの具体的な体験」は拡大され、深化され、「古い言葉」は象徴的に解釈されるようになりました。詩篇の言葉がエルサレムの神殿祭儀から分離されたのは、シナゴーグ(会堂)が人々の生活に重要な位置を占め始めた捕囚以後の時代であり、このような発展は、神礼拝はどのような地理的な限定にも縛られない(ヨハネ4:23-24)と宣言されたイエスの時代を準備しました。
旧約の詩篇を使徒行伝の現実から見ましょう。今日、わたしたちは、いつでも、どこでも主を畏れ、主の道を歩んでいます。[使2:25
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません]。そして、わたしたちにとってのエルサレムは「天にあるエルサレム」であり、「天にあるシオン」から、神さまはわたしたちの存在を、労働を家庭を、子供たちを祝福してくださっているのです。新約の神の民、新約のイスラエルとして、わたしたちのシャローム、すなわち繁栄と祝福を与えようとされているのです。
日夜ニュースで流れているように、今日、わたしたちの目の前には、世俗的国家イスラエルがあります。建国時、膨大なアラブ民族のただ中にある「孤島」のようで、その存立は歴史の中で風前の灯火かのように思われていましたが、戦いの年月を経た今日、中東で最も強力な国家のひとつとなりました。二千年来の住民であったパレスチナの住民は、ガザとヨルダン川西岸に難民化し、アラブの諸国家からも見捨てられようとしています。国連の「二国家共存案」も、入植地の拡大により有名無実化しようとしています。平和共存の道への大きな妨げのひとつに、キリスト教会の中の「キリスト教シオニズム運動」があります。
パレスチナ側にも、「イスラエル国家撲滅の考え方」があります。両者の極端な考え方を拒絶することが大切と思います。クリスチャンの側としては、「キリスト教会内にあるキリスト教シオニズムの不適合な要素」を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができるのではないでしょうか。
イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒し―これが神の目的であり、私たちの使命です。神の計画は回復されたパラダイス(黙示録21-22章)以下のものではない、ことを確認いたしましょう。そして、そのような意味内容を心に抱いて[128:6
あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に、(ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人)の上に平和があるように]と祈り続ける者とされましょう。
(参考文献:
森泉弘次『幸せが猟犬のように追いかけてくる―A.J.ヘッシェルの生涯と思想』、W.Bruggeman,“Psalms”、B.W.アンダーソン『深き淵より』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』、安黒務『福音主義イスラエル論』Ⅰ・Ⅱ)
2023年10月15日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇127篇「主は、愛する者に眠りを与えてくださる」-国家・民族は、平穏な家庭形成を願う無数の人々から成っている-
https://youtu.be/ZntX_2laDD4
本詩127篇は、元来新しい家庭を営み始めた若い夫婦のために歌われた一種の祝婚歌であったろうと想定される詩篇です。国家、民族は、[127:2早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べ]て一生懸命生きている人々から成り、平穏な[眠りを与え]られる家庭形成を願う無数の人々からなっています。さて先週は、ロシアとウクライナの戦争に続き、イスラエルとパレスチナとの間で新たな紛争が勃発しました。コンサートのフェスティバルと近隣のキブツにて、「ハマスによる集団虐殺―イスラエルにおける9.11」が起こったのです。なんと悲しいことでしょう。心の痛む出来事でしょう。占領と隔離の状態にあるパレスチナで、新たな入植地計画が推進されている最中、イスラエルと「アラブの盟主のサウジアラビア」の平和条約交渉の進展を阻止しようとする意図があったのではないか、と言われています。以前、二国家共存を目指して交わされた「オスロ合意」に反対するイスラエルとパレスチナ双方の極端な勢力がこのような悲劇を導いてきたように思います。
時間軸をどのように見るかにおいて大きく異なる、「民族の領土争い」の解決は本当に難しいと思わせられます。二千年以上さかのぼり、旧約時代からみますと「カナンの土地」はイスラエルの祖国とみなされます。ローマ帝国によるエルサレム崩壊で全世界に四散した後、代わって定住するようになったアラブのパレスチナの人々にとっては、「パレスチナは彼らの祖国」となってきました。世界に四散したユダヤ人は数えきれない迫害を経験し、ついにはナチス時代に「絶滅収容所」を経験しました。欧米で起こった反省と同情は、英国の委任統治領であったパレスチナの土地への帰還・入植を推進する力となりました。
ただ、急速なかたちでのユダヤ人流入と入植は、パレスチナの人々との争いを引き起こしたため、国連により「二国家共存」案が提示され、イスラエル人は受け入れて独立し、パレスチナ人は拒否して戦争となりました。数回の戦争においてイスラエルは勝ち続け、現在に至っています。双方の中に、穏健な勢力と極端な勢力があり、双方の穏健な勢力により対話と妥協により合意が結ばれ、進展がみられそうになると、双方の極端な勢力によってそれが破綻させられることを繰り返してきたように思います。双方の極端な勢力が抑制され、双方の穏健な勢力に国内的かつ国際的な支援が集められることによって、戦争の後に平和がもたらされることを祈ってやみません。このような祈りをもって本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 127 ] 都上りの歌。ソロモンによる。
A.神に支えられた家庭生活の安定(v.1-2)
B.神によって授かった家庭の祝福(v.3-5)
1節の[127:1
【主】が家を建てる]という表現を家屋の建築としてではなく、「家庭の建設」という意味に解するなら、本詩の前半は「神に支えられた家庭生活の安定」と理解され、後半は「神によって授かった家庭の祝福」と解釈されるでしょう。「神が家を建てる」という文例は、ほかにも散見されます。[申25:9
兄弟の家を建てない男はこのようにされる]とか、[Ⅱサム7:27
『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました]等でみられるように、いずれも家庭や家系が念頭に置かれています。[127:1
【主】が町を守る]という表現も、都市の軍事的防御というよりも、町の治安ひいては家族の平安を念頭においているとみられます。そのような人間の営みや努力は、神の支えと祝福があって、はじめて実を結ぶと言われているのです。
2節では、[127:2
あなたがたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても]とあるように、わたしたちが早朝から深夜まで働き勤しんだとしても、それが「糧食を得る」ためだけの労苦であれば、それもまた「むなしい」と告白しています。なぜなら、生活における真の安らぎ、すなわち[127:2
眠り]は、人間の労苦によって得られるものではなく、 [127:2 実に主]から、[愛する者に…与え]られるものだからです。
本詩後半(3-5節)は、[127:3
見よ、子どもたちは]と、聞き手の注意を喚起し、関心を「子供たち」に向かわせます。「子供たち」は[127:3
【主】の賜物、胎の実は報酬]です。特に、若いときに授かる子供は[127:4
実に勇士の手にある矢]のようなものです。それゆえ[127:5 幸いなことよ]と祝福を宣言しています。そして[127:5
幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。…恥を見ることがない]と本詩を締めくくります。[127:5
門で敵と論じるとき]とは、[アモ5:10
彼らは門でさばきをする]とあるように、裁判等を行う公の場所でディベートするときに、「屈強なからだつきの息子たちを背後に従えて立ち、相手に圧倒されることはない」ことを意味しています。
本詩は、人間の営みの背後に神のはたらきを見て取る信仰者たちの「まなざし」を証しするものです。このような「まなざし」はどのようにして培われたのでしょう。それは、こういうことではないでしょうか。それは「人間の営みは思い通りにゆくとは限らない」という現実に発します。思い通りにゆかない理由は、自分の能力不足、努力不足だけではありません。というのは、それを妨げる力は周囲から、さまざまなかたちで働くからです。自分の手には及ばない不測の事態が自分の営み・努力を頓挫させ、破棄させることもあるのです。
また反対に、自分の営み・努力が首尾よく果たされる場合にも、それは自らの能力・努力だけではないことを経験するでしょう。自らの能力や努力に加えて、さまざまな要因が有機的・協力的・相互的に働くのでなかったら、首尾よく事は運ばなかったでしょう。一般社会では、前者の場合を「不運だった」と言い、後者の場合を「幸運だった」と呼びならわしますが、イスラエルの信仰者たちは、そこに「神の働きを感知・看取」したのです。人の営みが円滑に進めば、そこに神の祝福を確信し、円滑に進まなければ、神の別の意図を汲み取ろうとする信仰です。
さて、今日、ロシアもウクライナも、パレスチナもイスラエルも、民族また国家の対立、争い、虐殺、報復等が繰り返されています。その背後には、「縺れた糸」のように解きほぐすのが難しい問題があります。ただ本詩に関連してひとつ言えることは、これらの国家・民族もまた、ひとつひとつの小さな家庭の集まりから成っているということです。それゆえ、わたしたちは本詩127篇の祈りをこの文脈に沿ってささげることができます。とりなすことができます。それぞれの民族の中にある小さな家庭のひとつひとつが、主によって建てられますように。主によって守られますように。早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べているひとつひとつの家族に、平穏な生活と希望溢れる未来と安らかな眠りを与えてくださいますように。それぞれの民族の、それぞれの家庭の子供たちの健康、教育、環境が守られ、支えられ、[127:5
恥を見ることがない]人生を送ることができますよう、全世界が協力していけますように。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅵ』)
2023年10月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇126篇「ネゲブの流れのように」-その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る-
https://youtu.be/ADleZ-u7do8
本詩126篇は、[126:4
【主】よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください]を軸にみていくのが適切であろうと思われます。ネゲブは、ヘブル語で「南部」を意味し、パレスチナの南部にあるベエル・シェバ以南の乾燥地帯のことで、年間降雨量は200mm以下と言われる地域です。この地には、乾季には水のない川底をさらし、雨季には高地に降った雨水を集め、ときには激流となる涸れ谷(ワディ)が幾つも走っています。[126:4
ネゲブの流れのように]とは、乾ききった川底が雨季に水の豊富な流れに変わるワディのように、という意味です。
新約で、イエスは[ヨハ7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります]と語っておられます。サマリヤの女の人のように悲しみと痛みの多い人生にも、雨季の激流のように「神の慈しみ」が溢れ、圧倒するのです。旧約の神の民の心と新約の神の民であるわたしたちの心を重ね合わせつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 126 ]都上りの歌。
A.シオンの復興―バビロン捕囚からの帰還―カルバリにおける救い(v.1-3)
B.ネゲブの涸れ谷の激流―神殿の再建・共同体の再興―召命・賜物における聖霊の満たし(v.4)
C.苦境からの大転換・大収穫の確信(v.5-6)
紀元前606年、バビロン帝国によって全く打ちのめされていた南ユダ王国が、前途に対する希望を失おうとしていた時、ひとりの預言者が立って、エルサレムの市民を励ましました。[イザ40:1
慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──40:2
エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と]。
預言者のことばは空しく終わらず、ペルシャ王クロスによって、70年後のBC536年に捕囚民のある者はエルサレムへの帰還が許されました。あこがれのシオン、彼らは今そのふるさとへと帰るのでした。それは単なる希望ではありませんでした。現実でした。彼らは[126:1
夢を見ている者のよう]であり、欣喜雀々、足を踏むとこもない有様でした。まことにその[126:2
口は笑いで満たされ、…舌は喜びの叫びで満たされ]ました。
2節後半は、詩篇22篇にあるごとく[詩22:6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。22:7
私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。22:8
「【主】に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」]と、諸国民の間で嘲笑の的となっていたことを反映しています。しかし、今や状況は変わりました。[126:2
そのとき諸国の人々は言った。「【主】は彼らのために大いなることをなさった。」と、恥と嘲笑の的となっていた亡国の民、流浪の民に母国と民族再建の道が開かれたのです。
イザヤ書においては、このような大転換[126:1 【主】がシオンを復興]、[126:3
【主】が私たちのために大いなることをなさった]を預言されていたのですが、人々は信じませんでした。預言者は人々の激しい抵抗を受けたのでした。このような経緯は、わたしたちを励ますものです。わたしたちも、主にあって、主に導かれて、いろんな取り組みをします。しかし、それらすべてが人々に気に入られ、歓迎されるとは限りません。人々は、自分たちの利益にかなうことは歓迎し、利益に反することには激しく抵抗するからです。しかし、わたしたちの強みは、状況にあるのではありません。鼻で息をする人間の数によるのではありません。それは水平方向にあるのではなく、垂直方向すなわち神のみ旨にかなっているかどうかにあるのです。
神は、全知全能の力をもってこの被造物世界全体を創造され、この世界の歴史を摂理をもって導いておられます。この世界における勝ち負けは、この圧倒的な力とみ旨をもっておられるお方、そのお方が何をなそうとしておられるのかを見極め、それに沿って立ち振る舞う者が勝利を収めるのです。さて、本詩の[126:1
シオンの復興]をわしたちはどう解釈し、どう適用すれば良いのでしょう。新約の神の民であるわたしたちは、イエス・キリストを信じ、罪と死と滅びから救われた時、[126:1
【主】がシオンを復興してくださったとき(のように)、私たちは夢を見ている者のようであった]ことでしょう。[126:2
そのとき私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた]ことでしょう。
また、信仰生活の出発点だけでなく、わたしたちが、以前病を癒された時も、さまざまな困難や苦難から救い出された時も、誤りや失敗から回復された時も、献身や賜物が用いられた時も、人生におけるその節目節目において、[126:1
【主】がシオンを復興してくださったとき]のような、大転換・小転換を繰り返しているのではないでしょうか。わたしたちは、70年間といわずとも、7年間、7ヶ月、7日間、7時間等、さまざまなかたちの「バビロン捕囚」を経験しているでしょう。
しかし、クリスチャン生活の素晴らしさは、七転び八起きにあります。[イザ59:9
それゆえ、公正は私たちから遠く離れ、義は私たちに届かない。私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。59:10
私たちは見えない人のように壁を手さぐりし、目が無いかのように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、強健な者の中にいる死人のようだ。59:11
私たちはみな、熊のようにうなり、鳩のようにぶつぶつうめく。公正を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、私たちから遠く離れている]といわれる絶望の中にあるのではありません。クリスチャン生活の醍醐味は、人生のさまざまな局面における「大小の絶望、直面する困難」のただ中での[126:4
【主】よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください]という祈りの中にあります。
パレスチナでは、荒涼とした夏が過ぎ、秋が到来すると雨季が始まります。11月くらいからです。雨季といっても、毎日降るわけではありません。でも、降るときは非常に激しく降り、それがワディ(涸れ谷、水無川)に流れ込んで奔流に変わり、荒れ地の低地では危険な洪水を引き起こします。半年以上カラカラだった谷底が一変して大河のようになります。夏季には一滴の水すらない枯渇した川床となりますが、冬の雨を迎えることによって、一時に増水し、満々たる水をたたえて、勢いよく流れます。神の力がひとたび自然に働くとき、荒れ果てた地も沃土に変わります。神が荒野に流れる川を一変させられるように、シオン、すなわちカルバリの丘での御子イエス・キリストの人格とみわざは、わたしたちの人生を一変させました。
と同時に、この主のみわざには継続的な側面があります。4節以降ではそのことを教えられます。バビロンから帰還した民の神殿再建と神殿を中心とした共同体の再興の戦いが記されています。捕囚帰還から第二神殿の完成までには、25年と言う歳月が流れました(ネヘミヤ5-6章)。また、神殿の再建後も、内外からもたらされた厳しい状況が続きました。こうした葛藤の中で、発せられた祈りでありました。それは、またカルバリにおける救いを得ているわたしたちの内住の御霊による結実への祈りでもあります。
詩人は、かかる祈りを種蒔きと刈り入れのたとえをもって歌っています。パレスチナにおいては、秋の終わりに近い頃、農夫は畑に出て種を蒔きます。自然はまだ夏の余熱を保ち、焼けた砂地のようです。農夫はまさに涙と汗とをもって種を蒔きます。まもなくパレスチナの雨季にあたる冬の雨が盛んに降り始めます。彼らは期を逸することなく、畑を耕して種子の上を土で覆います。乾いた土壌に種をおろしてから雨が来るまでに種が枯死しては、すべてが無駄になるからです。
冬が過ぎて春が来ます。土の中の種は発芽し、生長し、花が咲き、実を結びます。初夏を迎え、収穫の時が来ます。農夫は歓喜の声をあげで黄金のような小麦を刈り入れます。[126:5
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。126:6
種入れを抱え泣きながら出て行く者は、束を抱え喜び叫びながら帰って来る]とある通りです。
新約の神の民であるわたしたちは、主イエス・キリストの救いを得ている立場において、[126:1
シオンの復興]を体験している者です。[126:1 夢を見ている者…126:2
口は笑いで満たされ、…舌は喜びの叫びで満たされ…126:3
【主】が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜ん]でいる者です。それゆえにこそ、わたしたちは、[126:4
【主】よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください]と祈り、祈り続ける者とされましょう。新約で、イエスは[ヨハ7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります]と語っておられるのですから。
そして、涸れ谷に水が溢れ、荒れ地が沃土に変えられ、耕し蒔いた種子が芽を吹き、花を咲かせ、実を結んでいくように、わたしたちの召命と賜物において、突き進んでいる方向において、その領域において、任され委ねられている畑において、[126:5
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。126:6
種入れを抱え泣きながら出て行く者は、束を抱え喜び叫びながら帰って来る]と約束されているのですから。祈りましょう。
(参考文献:『現代聖書講座』第一巻
聖書の風土・歴史・社会、C.ヴェスターマン著『詩篇選釈』、浅野順一著『詩篇研究』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅵ』)
2023年10月1日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇125篇「主は今よりとこしえまでも囲まれる」-最後の望みが消え失せそうになる瞬間においても-
https://youtu.be/bECzDYWHdp4
大学生のとき、キリスト者学生会(KGK、国際的にはIVCF)に属していました。その交わりでは、毎週聖書研究会が開催されており、わたしのいた頃は「伝道的聖書研究マルコ伝」が行われていました。そのときに大切にされていたことは「①事実、②解釈、③適用」という原則でした。まず、「第一に聖書に何が書いてあるのか」を客観的に知る試みでした。「いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように」という、いわゆる“5W1H―When,
Where, Who, What, Why,
How”の質問の記された小冊子をもとに、ディスカッションをなし、「第二にその意味するもの」を考え、「最後にその解釈された意味をわたしたちの生活に適用する」ということを教えられました。
学生のときに書きました「産業革命前後の英国経済を背景にした、キリスト教会における“天職意識”の変遷」に関する論文では、J.R.W.ストット著『聖書理解のためのガイドブック』を参考にしました。その本でも、「①事実、②解釈、③適用」の原則が記されていたように振り返ります。それとともに、所属するよう導かれた教会・教派では、聖書の直観的な解釈、また実存的な理解が大切にされていたように思います。H.G.ペールマンは、神学のひとつの側面を定義して、それは「実存的にのみ関わりうる学問である。なぜなら神は、あらかじめ神によって捉えられることなしには、理解しえないからである。…前もって神と語った時のみ、神について語るのである」と記しています。
「詩篇傾聴」に取り組んでいますときに、以上のような「客観的な聖書理解」と「主観的、すなわち実存的な聖書の適用」と課題、両面の健全なバランスに直面し続けます。ブルッゲマンは、その著書『詩篇を祈る』において、「詩篇の言語に対して、それが本来意図したであろう想像的で自由な働きをわたしたちが認めたならば、詩篇がどれほど自由になるか、そしてわたしたちがどれほど感動的かつ信仰的に詩篇を用いることができるようになるか」という可能性に言及しています。私たちが、「都上りの歌」を新約の光の下で解釈し、わたしたち自身を「天のエルサレムへの巡礼者」とみつめ、わたしたちの歌として賛美しようとするのは、そのためです。このような視点で本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 125 ] 都上りの歌。
A.シオンの山、エルサレム(v.1-2)
B.悪の杖、不正(v.3)
C.主のいつくしみ、シャローム(v.4-5)
本詩は、 [125:1 【主】に信頼する人々]を堅固な[シオンの山]になぞらえて、彼らが神の民[125:5
イスラエル]として、[揺るぐことなく、とこしえに]守られることを宣言するものです。わたしたちクリスチャンは、新約の神の民、[ガラ6:16
神のイスラエル] です。そこには、民族主義的区別・差別はありません。[ガラ3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。3:27
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。3:28
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。3:29
あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです]と記されている通りです。
わたしたちは、本詩の[125:1 【主】に信頼する人々]、[125:2 御民]、[125:3 正しい人]、[125:4
善良な人々や心の直ぐな人々][125:5
イスラエル]の箇所に、わたしたちを入れ込んで良いのです。本詩をわたしたち自身の祈りとし、歌として良いのです。
本詩は、巡礼歌(120-134篇)のひとつであるとともに、神がシオンを地上における神の支配の中心として選ばれたという「シオンの歌(46,48,76,84,121,122篇)」のひとつでもあります。シオンの歌とは、ダビデ契約を前提にしています。つまり、神はシオンを神の臨在の場として選ばれた(詩132:13-18)ことを歌っている詩篇のことです。
その歴史的・地理的な「シオン」の中心性は、救済史全体からみますとき、「歴史に根ざした特殊なものから芽生える、普遍なるもの」を表現しています。シオンは、救済史の意味を解き明かす中心であり、神はその意味をイスラエルに教示し、イスラエルを手段として全世界にあらわしてくださったのです。イスラエルの歴史の中で啓示された意味は、イスラエルに限定されたものではありませんでした。豊かな普遍性を開花させたイエス・キリストの人格とみわざは、「地理的・民族主義的なシオンの狭い考え方」を脱色しました。全人類に対する神の救済史のドラマは、エルサレムにおけるメシヤの出現、死去、勝利に集約されていたのです。
次節には、[125:2
エルサレムを、山々が取り囲んでいるように、【主】は御民を、今よりとこしえまでも囲まれる]とあります。エルサレムは、自然の要害でありました。町の東端と西端を深い谷(キドロンの谷とヒンノムの谷)がはしり、町の南端で合流しています。さらに東にはオリーブ山、北にはスコポスの山がそびえ、西にも丘が広がっています。しかし、歴史にみますとき、エルサレムは決してゆるがないという都ではありませんでした。
「攻略はできまい」とエブス人から侮られたダビデは、地下水道に精鋭兵士をもぐらせてこれを攻略しました(Ⅱサムエル5:6-8)。ネブカデネザル率いるバビロン帝国軍はエルサレムを包囲し、一年二ヶ月でこれを陥落させました(Ⅱ列王25:1-3)。哀歌は、こうして陥落し、略奪されたシオンを神に見捨てられた都として嘆く悲しみの歌です。ウジヤ王の時代に起こった大地震を想起しつつ、この都の陥落を描く預言も収められています(ゼカリヤ14:1-6)。すなわち、エルサレムは、歴史上、陥落を繰り返し、大地震にも見舞われた都でありました。
にもかかわらず、本詩において、シオンは揺るがされることのない、永遠の都であるかのように歌われています。ここには、詩篇46篇や48篇にみられるような、第二神殿時代の人々が抱いた、宗教理念として「理想化されたエルサレム観」が踏まえられているのでしょう。新約の光の下で、ここから教えられることは、地理的また民族主義的「シオン」や「エルサレム」を神聖視することではなく、そのような表象、シンボルにおいて、そのような「旧約の影」において指し示されている実体(ヘブル8:5,13、9:24、10:1)である、イエス・キリストの人格とみわざにこそ焦点をあわせるべきことです。
わたしたちの[125:1 シオンの山]、[125:2
エルサレム]の実体は、全人類の罪を贖ってくださったキリストであり、神の御霊によりよみがえり、昇天され、神の右の座に着座された]、いまや天の都であるエルサレムに君臨されている王であり、祭司であり、預言者である神の御子なるお方です。ペンテコステ以来、そこからの聖霊の注ぎにおいて、内住の御霊において、イエス・キリストの人格とみわざに[125:1
信頼する人々は、シオンの山のよう]に[揺るぐことなく、とこしえに]堅持されているのです。[125:2
エルサレムを、山々が取り囲んでいるように]、御座におられる[【主】は御民(であるわたしたち)を、今よりとこしえまでも(神の臨在で)囲]んでくださっているのです。
それは、ちょうどヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ帝国のセンナケリブ王が来襲し、エルサレムを包囲したときのようです。それは、またロシアがウクライナのキーウを北から、東から南から、海から、空から攻め込んだときにも似ています。戦争に限らず、わたしたちの日々の生活においても、人生の旅路の途中においても、「今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です」(Ⅱ列王19:3)という日があるでしょう。「衣を引き裂き、荒布を身にまとって主の宮に入る」(Ⅱ列王19:1)日があるでしょう。そのような日にも、主を見上げましょう。御座に着座されている王であり、大祭司であり、預言者であるお方を信頼しましょう。
そのときに、[Ⅱ歴代32:20 ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。32:21
【主】は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた]とあるように、[125:3
悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまる]ことがないように、[125:5
曲がった道にそれる者どもを、不法を行う者どもとともに]追い出してくださるのです。
わたしたちは、このように、いわば「相手がこう打てば、それに対応してこのように打つ」というかたちで、藤井君と永瀬君の王座戦のように戦い、最後の一分将棋の、最後の望みが消え失せそうになる瞬間においても「一縷の望み」を捨てることなく、天を仰ぎ、[125:4
【主】よ、善良な人々や心の直ぐな人々(主イエスを信じるわたしたち)に、いつくしみを施してください。(新約の神の民)。イスラエルの上に平和(シャローム、祝福と繁栄)があるように]と祈るのです。祈りましょう。
(参考文献:C.ヴェスターマン『詩篇選釈』、W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、B.W.アンダーソン『深き淵より』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』)
2023年9月24日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇124篇「もしも主が、私たちの味方でなかったなら」-ユリでは白になり、バラでは赤になります-
https://youtu.be/m66ox687n28
わたしたちは、「都上りの歌(120~134篇)」、すなわち旧約におけるエルサレム神殿への巡礼の旅を、新約における天のエルサレム(ヘブル12:22)、更新された被造物世界たる新天新地(黙示録21:1-2)に至る旅の途中に口ずさむ歌として傾聴しております。本詩124篇は、[124:1
「もしも【主】が、私たちの味方でなかったなら」]で始まり、その後にその主の助けなしには生き延びることがあり得なかった自分たちの過去についての巡礼者たちの回顧があります。今日、大国ロシアに国土を蹂躙されているウクライナにおいてみられるように、大国のはざまに存在していたイスラエルがその国家、民族が翻弄され続けた歴史が脳裏によぎります。国家、民族の盛衰という大きな視点のみならず、わたしたち個々人の生涯という小さな視点でも傾聴しうるイメージに溢れていると思います。そのような視点で本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 124 ]都上りの歌。ダビデによる
A.救いの回顧
B.救いへの賛美
C.信仰の表白
本詩は、滅亡を逃れた、イスラエルの民が、その救いを神に帰し、感謝をもって神を讃えている歌です。前半部は、「仮定条件」と「帰結文」をもって、現実とは真逆の過去を歌っています。すなわち[もしも【主】が、私たちの味方でなかったなら](1-2節)という非現実的条件節が反復され、その結果[彼らは私たちを生きたまま丸のみにしていた][大水は私たちを押し流し、濁流は私たちを越えて行った][荒れ狂う水は、私たちを越えて行った]であろう、という帰結文が三回繰り返されています。詩人が言わんとするところは、「
124:1
「【主】が、私たちの味方」であったゆえに、わたしたちは「滅亡を逃れることができた」という強い思いが、感謝を込めて表明されているのです。
本詩と重なり合う新約の箇所として、[ロマ8:31
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう]があげられます。使徒パウロは、ユダヤ人も異邦人も例外なく、全人類が「罪と死と滅び」の中に置かれている現実を述べ、「キリストの贖罪と内住の御霊による贖い」以外に救いの道はないと説いています。それは、個々人の救いから被造物世界全体を包摂するかたちで、創造者なる神が働いておられる福音です。そのような意味で、わたしたちは目まぐるしく変化し続ける世界の「目先の出来事」に目を留めるだけでなく、「キリストにある人格とみわざに根差し、御霊がなし続けておられる現実」に留意してことの大切さを教えられます。
わたしは、そのような意味で、本詩にまつわるイメージをわたしたちの人生に当てはめることができるように思います。本詩での[124:2
「人々が敵対してきたとき]は、イスラエルの民を圧倒した敵対勢力を大水や逆巻く水の流れになぞらえることによって、イスラエルの民がとうの昔に滅亡していた可能性を強烈に印象づけています。大水や激流は、この場合「雨季に起こる鉄砲水」を念頭に置いた表現です。「気候の温暖化、さらには地球の沸騰化」といわれる現在では、「空中に形成された無尽蔵のダム」の決壊により、世界各地でいつでも、どこでも起こりうる現象となりました。
中東では、雨季に降った雨は幾筋もの谷を下って合流し、土砂を含む激流となって家屋や建物を押し流し、そこに住む人々をのみ込んでいきます。そのイメージは、イスラエルが瀕する危機を表す格好の比喩となりました。そして、それらは、信仰者の生涯を生きるわたしたちが直面するあらゆる大小の危機に応用できるものです。あなたには、人生の岐路に立ったとき、
124:1
「もしも【主】が、私たちの味方でなかったなら」と振り返られる場面はないでしょうか。わたしは、本詩を繰り返し味わいつつ、自分の人生にあった「岐路」の場面を振り返ります。
小学校の教師として「正式採用通知」が届いたとき、フルタイムの献身の道との岐路に立ちました。牧師として祝福された奉仕にあったとき、「辞して内地留学」への岐路に、研修を終えたとき、「伝道と教会形成」の働きと「神学教師専念」の道、教派性と公同性の福音理解と表現の問題等、数々の岐路に立ってきました。それぞれの岐路において、大きな戦いがありました。周囲の人間に対する以上に、それぞれの道に進んでいった場合に「過ごす人生の内容、奉仕の内容」が異なってしまうことが問題でした。わたしは、奉仕者また献身者として「こうあるべきだ」という、ある意味「画一的なイメージ」をもっていました。しかし、奉仕生涯を歩んでいく中で、それが「個性と賜物によって多様であり、多彩なイメージの可能性」に開かれてきました。特に、ハイデガー、ブルトマン、ベルコフ等から教えられたことは、「神が創造において意図されていた本来的な自分自身以外のものへと流されて生きることが罪であり、神が創造において意図されていた本来的な自分自身となることが救いである」ということでした。わたしが、神を信じ、キリストにある福音をこのように理解していなかったら、今あるようには人生を生きていなかったであろうと振り返ります。
ここで、わたしが最も愛好している例証のひとつを紹介しておきます。[神からの恵みの賜物はなんと豊かなものでしょう。そして、私たちの一節に列挙されている賜物は、キリストにある神の富の小さな芸術にすぎないことを忘れてはなりません。そして同じ御霊が、お望みどおりに一人一人に分け与えてくださるのです」(1コリント12:11
) 。ヨハネ 7:38f
を参照すると、「わたしを信じる者は、聖書が言っているように、『その人の心から生ける水の川が流れる』のです。」
エルサレムのキリル(紀元315-386
年)は次のように書いています。「なぜキリストは御霊の恵みを水と名付けたのでしょうか。すべてのものに水分が含まれています。植物や動物は生きていくために水が必要です。水は雨の形で天からやって来ます。それはその
1つの形式で表現されますが、その後はさまざまな方法で機能します。まったく同じ春が庭を潤し、同じ雨が全世界に降り注ぎます。
でもその後、ユリでは白になり、バラでは赤になります。水仙とヒヤシンスの濃い黄色。あらゆる色で、それは非常にさまざまな種類のものに現れます。ヤシの木ではある形をとり、ブドウの木ではまったく別の形をとります。それは本質においては常に同じですが、それぞれが異なります。雨そのものは決して変化せず、今もまた別の形で降り注ぎますが、それでも受けたものの本質を目指し、それに相応しいものへと変化していきます。
「聖霊も同様であり、聖霊は唯一無二の存在でありながら、御心のままにそれぞれに御自身を与えてくださいます。乾燥した木々が水を吸収するとすぐに小枝が出てくるように、したがって、罪の中に生きてきた魂は、悔い改めによって聖霊を受けるとすぐに、義の実を結びます。聖霊は同一であるにもかかわらず、神の御心に従ってあらゆる多様性を機能させます。…ある者では彼はこのように働き、別の者では他のかたちで働きますが、ご自身は変わりません]
。
わたしが言いたいことは、こうです。人生においては、さまざまなかたちで、[124:2 人々が敵対してきたとき]、[124:3
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき]という難しい局面と直面し続けるということです。そのときに、主から勇気を与えられて、道を切り開いていかなければ、別の道に[124:3
そのとき…生きたまま丸のみに]、[124:4 そのとき大水は私たちを押し流し、濁流は私たちを越え]、[124:5
そのとき荒れ狂う水は、私たちを越え]ていくことになる、ということです。
逆に、[124:2
人々が敵対してきたとき]、[彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき]に、主が[124:2【主】が、私たちの味方]であると信じて、毅然として立ち上がり、立ち続けるとき、[124:3
そのとき彼らは私たちを生きたまま丸のみに]できず、[124:4 そのとき大水は私たちを押し流]せず、[濁流は][124:5
荒れ狂う水は、私たちを越えて]行くことはできなかった。[124:1 【主】が、私たちの味方]であったから、[124:6
[彼らの歯の餌食にされなかった]、[124:7
仕掛けられた罠から助け出された]、[罠は破られ私たちは助け出された]と告白し賛美しているのです。
わたしたちは、[新約における天のエルサレム(ヘブル12:22)、更新された被造物世界たる新天新地(黙示録21:1-2)に至る旅の途中に]あります。わたしたちは多くの岐路に差し掛かり、また数々の危険・病い、事故等に直面します。そのような時に、本詩を唱和しましょう。苦境の現実を詩篇のイメージに重ね合わせ、[124:3
生きたまま丸のみ][124:4 大水は…濁流は…][124:5
荒れ狂う水]は、と叫びましょう。そして[124:1【主】が、私たちの味方]であったから、[124:6
彼らの歯の餌食にされなかった]、[124:7
仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ…助け出された]と告白してまいりましょう。そして、天を見上げ、手を差し上げ、[124:8
私たちの助けは、天地を造られた【主】の御名にある]と告白し歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、アーノルド・ビットリンガー『Gifts and
Graces(賜物と恵み)―Ⅰコリント12-14章に関する注解』、ヘンドリクス・ベルコフ『聖霊の教理』)
2023年9月17日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇123篇「わたしの魂は、蔑みでいっぱいです」-人の心を川の流れのように変えてくださる巡礼の旅-
https://youtu.be/2gnSrsr01rk
本詩123篇は、異教の異国の地に散らされたイスラエルの民が、[123:3 私たちは蔑みでいっぱいです。123:4
私たちのたましいは、安逸を貪る者たちの嘲りと高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです]と歌いつつ、神の都エルサレム、そこにある神の臨在の象徴的場所としての神殿を慕い焦がれつつ、聖地に向かって巡礼の旅の途中に口ずさまれた歌であったことでしょう。新約の光において、「都上りの歌」(120-134篇)は、天にあるエルサレム(ヘブル12:22)、更新された被造物世界たる新天新地(黙示録21:1-2)に至る旅の途中にあるわたしたちが口ずさむために作られた歌でもあります。では、[私たちは蔑みでいっぱいです]という歌をわたしたちはわたしたちの信仰生活のうちにどのように生かしていけば良いのでしょう。そのようなことを考えながら、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 123 ]都上りの歌。
A.信頼の表白(v.1-2)
B.苦難の描写(v.3-4)
本詩123篇の[私たちは蔑みでいっぱいです。123:4
私たちのたましいは、安逸を貪る者たちの嘲りと高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです]には、「イスラエルの民の歴史観」を垣間見ることができます。それは、「神の約束と取り扱い・審判と回復の歴史」という捉え方です。それを「祝福の約束、申命記的歴史、歴代志的歴史」と申します。「祝福の約束」は、イスラエル民族の歴史は、父祖アブラハムから始まりました。アブラハムは、「全人類の堕落による罪と死と永遠の滅び」という背景の下で、「祝福の約束」すなわち「救いの福音の約束」を受け取りました。
それは、イスラエル民族が「イエス・キリストの人格とみわざによる救い」を受け取る準備として、手段として用いられたということです。神は、歴史的出来事や知恵文学、また預言者等を通してその準備に取り組まれました。神は、イスラエルに数多くの準備教育を施されました。それらは皆、[Ⅰコリント10:11
世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため]でありました。祝福の約束を与えられたアブラハムとその子孫イスラエルは、星の数のように、浜の砂のように数えきれない子孫を与えられ、それは約束の地で国として成立していきました。
申命記的歴史とは、その国は「申命記」にありますように、神のみ旨によって統治されなければ、地の果てにまで散らされる運命にありました(申命記28章)。ダビデ・ソロモン王の時に頂点をきわめたイスラエルは、二つに分裂し、北イスラエル王国はアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされ、捕囚民となってしまいました。歴代志的歴史とは、70年間の捕囚の後、ペルシャ帝国支配のときに、帰還がゆるされ、エズラやネヘミヤの指導の下に、神殿やエルサレムの再建へと導かれた時期のことです。世界各所に散らされたイスラエルの民は、このような歴史を抱えており、それは自身の内でも[123:3
私たちは蔑みでいっぱい]。また、周囲の国々の民からも、[123:4
安逸を貪る者たちの嘲りと高ぶる者たちの蔑みでいっぱい]であり、民族としての誇りとか栄光はズタズタに引き裂かれていたことでしょう。
ですから、[123:2
私たちの目は私たちの神【主】に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで]というのは、イスラエルの民にとって、民族・国家の植民地支配からの独立であり、ダビデ・ソロモン王朝のときのような栄光と栄華の回復であったことでしょう。イスラエル民族は、小国分立の時期に、ダビデ・ソロモン王国の栄光と栄華をきわめましたが、アッシリヤ帝国、バビロン帝国、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王のギリシャ帝国、ローマ帝国と続く大国支配の時代には、植民地支配に甘んじざるをえませんでした。そこでは、限定的な自由はありましたが、真の自由はなく[123:4
私たちのたましいは、…嘲りと…蔑みでいっぱい]であったでしょう。
[123:2
まことにしもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように。私たちの目は私たちの神【主】に向けられています]とは、大国支配の下にあって、非力な少数民族にあっては「圧倒的な神の主権的みわざ」にすがる他ないという状態をあらわしています。それは[主が私たちをあわれんでくださるまで]、すなわち「神の主権的恵み」があらわされるのを待ち望んでいるという告白です。このように、イスラエルの民は[123:1
天の御座に着いておられる方]に、[目を上げ]るほか、なしうることはなかったのです。
では、新約の光に生かされているわたしたちは本詩をどのような意味合いをもって口ずさめば良いのでしょうか。わたしは、3-4節の[123:3
私たちは蔑みでいっぱいです。123:4
私たちのたましいは、…蔑みでいっぱいです]をわたしたちの人生で起こりうる、いろんなかたちの否定的状況に当てはめることが可能ではないかと考えます。わたしたちは、何かで失敗するとき、人間関係がうまくいかないとき、こけるとき、つまずくとき、等―人生のあらゆる局面で「セルフ・イメージ(自己像)」を落とします。自信がなくなり、自己を過剰に貶める傾向があります。そのようなとき本詩の3-4節の[123:3
私たちは蔑みでいっぱいです。123:4 私たちのたましいは、…蔑みでいっぱいです]と主に口ずさみましょう。
そして、ハンナ(Ⅰサムエル1:15-16)のように「募る憂いと苛立ち」を注ぎ出し終えたら、[天の御座に着いておられる方]に向かい、[123:1
目を上げ]ましょう。そして、 [123:2
しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように]、わたしたちの目を[私たちの神【主】に向け]ましょう。難しい祈りの文面を長々と考える必要はありません。口数を多く増やす必要はありません。ただ、詩篇に習い、[主が私たちをあわれんでくださるまで]、神の民の朗誦にならって
[123:3 あわれんでください、【主】よあわれんでください]と口ずさみましょう。
わたしたちの主は、生きておられる神さまですから、きっと出エジプトの時の紅海の岸辺でのように、エリコの城壁のように、私たちの置かれている状況を事態を変えてくださるでしょう。
箴
21:1には[王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる]とあります。わたしたちの神は、「これは絶対無理」と思われる縺れた人間関係においても、「人の心を川の流れのように変えてくださる」神のみわざを見せてくださるでしょう。天のエルサレムへのわたしたちの巡礼の旅は雲の柱、火の柱に導かれた、天からのマナ、空からのうずら、岩からの水のドラマであることでしょう。祈りましょう。
(参考文献:J.L.メイズ『詩篇』現代聖書注解、月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅴ』)
2023年9月10日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇122篇「エルサレムの平和のために祈れ」-神のシャロームの福音が人類の隅々にまで滲透してまいりますように-
https://youtu.be/qI0njicb5Pw
本詩122篇は、一連の「都上りの歌」(120-134篇)の第三番目のものです。本詩には、「エルサレム」をめぐる喜びで溢れています。この喜びを想いますとき、わたしは19歳のときに「イエス・キリストの人格とみわざ」を信じた時に心に溢れた喜びを思い出します。それは、巡礼者たちが道中に幾多の苦しい経験を経た後、ついに「
122:2
エルサレムよ、私たちの足はあなたの門の内に立っている」と歓喜に溢れた経験に類比されるからです。新約の光で「旧約の詩篇」を傾聴するとき、「都上りの歌」は、わたしたちにとって「
ヘブル 12:22
シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」への旅路を照らす歌であるのです。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 122 ] 都上りの歌。ダビデによる。
A.序―エルサレムに足を踏み入れた巡礼者の臨場感(v.1-2)
B.キリストの王座のある天のエルサレムに、地上のすべての国民が上って来る(v.3-5)
C.神のシャロームが全人類の隅々に滲透していきますように(v.6-9)
121篇が「エルサレム巡礼へと送り出す歌」であるとすれば、本詩122篇は「 122:2
エルサレムよ、私たちの足はあなたの門の内に立っている」とあるように、巡礼者たちがエルサレムに足を踏み入れた臨場感溢れる詩篇といえるでしょう。多くの詩篇研究者は、本詩を「エルサレムに到着したばかりの巡礼者によって歌い継がれた詩篇」であるとみています。詩人は、第一段落冒頭[122:1
「さあ【主】の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき、私は喜んだ]と歌います。
「【主】の家に行こう」とは、神の臨在の象徴的場所であるシオンの山、エルサレム神殿への巡礼が計画されたことを聞いて、嬉しく思ったことへの回想です。そして、わたしたちはその念願叶い、ついに[122:2
エルサレムの門]の中に足を踏み入れたとの感動を披露しているのです。
わたしたちにとっては、「人生のある時点で、イエス・キリストを信じようとした決心」がそれに当たるでしょう。そして、御国の門に足を踏み入れるのは、まだ先でありますが、キリストにあり、御霊によってその「前味」(ヘブル6:4)にあずかっています。キリスト教信仰は、英語で「Already-Not
Yet-Tension」にあると言われます。これは、[すでにわたしたちは、キリストにあって(In
Christ)そのような祝福の中の立場に置かれている。そして、それは未来において完全なかたちで体験するものである。しかし、御霊において(In
the Spirit)において、現在それを味わうことが可能とされている]というものです。その意味で[122:1
「さあ【主】の家に行こう(イエスさまを信じよう) 。」]と決心したとき、わたしたちは[122:2
エルサレムよ、私たちの足はあなたの門の内に立っている]―すなわち、わたしたちはすでに[エペソ2:6
キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせ]てくださっていると信じて良いのです。
第二段落の3-5節を見てまいりましょう。[122:3
エルサレム、それは一つによくまとまった都として建てられている]と、その都は難攻不落の城塞都市として建てられた「安全この上ない避け所」であると賛美しています。わたしが、ニヒリズムの暗闇から救われたとき、そのような印象を強く抱きました。その都は、単に堅固で偉大であるばかりでなく、神の倫理・道徳の拠点でもあります。それは、そこに「
122:5
さばきの座、ダビデの家の王座」があるからです。これは、新約の光からみますと、昇天され、天上の右の座におられ、注がれた内住の御霊によって支配されている「玉座におられるキリストの支配」を意味します。[122:4
そこには多くの部族、【主】の部族が上って来る。イスラエルである証しとして、【主】の御名に感謝するために]であります。旧約の影においては「民族としてのイスラエル」に焦点が当たっているように伺えますが、新約の光においては「イエス・キリストにある民族を超えた福音」にあずかった新約の神のイスラエルと解することができます。
歴史を振り返りますと、使徒行伝において、最初はその大半がユダヤ教徒でありつつ、イエス・キリストを受け入れた「ユダヤ教キリスト派」的なクリスチャンでありましたが、ユダヤから、サマリヤの人々、異邦人改宗者のコルネリオ等へと「ユダヤ教徒とか、ユダヤ民族の文化・慣習等」を超えて福音が広がり続けました。1世紀の終わりに書かれたヨハネの福音書には、いわばニコデモや癒された生来の盲人のように「隠れキリシタン的なユダヤ人」に対するユダヤ教会堂からの迫害や追放の記述が多くみられます。また、ヨハネの黙示録には[黙
14:6
彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた]と、旧約における[122:4
そこには多くの部族、【主】の部族が上って来る。イスラエルである証しとして、【主】の御名に感謝するために]という描写等を、「民族を超えた普遍主義的福音の光」の下で“霊的・本質的に再解釈する原理の傾向”を見ます。
第三段落、6-9節には、「平和の町、シャロームの町」を意味する[122:6
エルサレムの平和のために祈れ]との呼びかけあります。この箇所についても、旧約の影(ヘブル8:5)から読む人は、過激なキリスト教シオニズムの運動や教えを支持しています。しかし、イエスは、ユダヤ人から差別されていたサマリヤの女性に対し、[ヨハ4:21
イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます]と、イエス・キリストの人格とみわざのゆえに、その十字架における代償的死・葬り・復活・昇天・着座の結果として、地理的・民族的制限の壁は廃棄され、[ヨハ4:24
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝]するべき時が到来していると教えられています。
その意味で、ユダヤ教徒やイスラム教徒がそれぞれの宗教的信念、またイスラエル人やアラブ人、パレスチナ人がそれぞれの民族主義的願望から、あの土地、あの首都、あの神殿の丘の回復に固執するのは理解できます。しかし、新約の光の中に生かされているクリスチャンが、ひとつのイデオロギー、思想や信念に巻き込まれるのは、「クリスチャンらしからぬ傾向」です。クリスチャンは、その「キリストにある、民族主義を超えた普遍的な福音」にふさわしく生き、また活動すべきです。「新約の光の注ぎの中に生きる」クリスチャンは、「旧約の影で目がふさがれた」クリスチャンのために祈るべきです。聖書解釈を誤り、歪んだ福音理解に基づき「地上の土地・首都・神殿の回復」に目が奪われ、平和よりも争いをあおる教えや運動に警戒いたしましょう。
[122:6
エルサレムの平和のために祈れ]とは、今日の「キリスト教シオニズムの運動や教え」にみられるような「地上の土地・首都・神殿の回復」を祈願するためのものではなく、民族を超えた「普遍的な神の国」の中心としての、天上にある神の臨在の象徴的表現と読むべきなのです。「神のシャローム(平和、平安)の中心」は、天上に、超越して存在される「神ご自身の臨在」です。[黙21:22
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである]とある通りです。この神の臨在は、ペンテコステの聖霊の注ぎ以来、「キリストのからだなる教会」の中にもあります。また、わたしたちひとりひとりが[Ⅰコリ3:16
神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられる]と指摘されています。ですから、わたしたちは、旧約の影の下にある詩篇を、新約の福音の光の注ぎの中で傾聴するとき、キリストにある客観的立場と内住の御霊による主観的経験に適合するように「用語とイメージの変換作業」が促されていると思います。
[122:6
エルサレムの平和のために祈れ]とは、旧約において受領された啓示の恵み、イスラエル民族が用いられて人類が受領した「エルサレムの平和」とは、結果的にイエス・キリストの人格とみわざを通して人類に与えられた「普遍的神の国のシャローム」の福音であり、わたしたち新約のクリスチャンは、それがユダヤ人であれ、パレスチナ人であれ、イスラエル人であれ、アラブ人であれ、民族を超えて[あなた(主イエス・キリスト)を愛する人々が安らかであるように]、神の平和を追い求め、神の平安に満たされるように祈ることです。また民族間の争いを超えて[122:7
あなた(キリストのからだなる教会)の城壁の内に、平和があるように。あなた(キリストのからだなる教会)の宮殿の内が、平穏であるように]と祈ることです。そして[122:8
私の兄弟友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように]―過激なキリスト教シオニズムの運動や教えの中に見られる、「聖書解釈の誤り、福音理解の逸脱」の悪影響から守られ、[ピリピ4:7
すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守って]くださいますように。この神のシャローム、平安が人類の隅々にまで広がり、滲透してまいりますように。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰
Ⅴ』、J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、B.W.アンダーソン著『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年9月3日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇121篇「私は山に向かって目を上げる」-体調ひとつで「気分を害する“肉”の弱さ」-
https://youtu.be/NbSYiE-Xu74
本詩121篇を読むとき、JEC奈良福音教会の長老であられた清水氾先生(奈良女子大教授、キリスト教文学者)のことを思い出します。泉南福音教会で開催された講演会で、本詩を「交唱歌」として紹介されました。[1-2節は、「一人称」の文体「私」で記され、3-8節は「単数形の二人称代名詞」の「あなた」で記されている。この文体の移行は、この詩がふたりの人物、すなわち出発する巡礼者と隣人、あるいは帰ってきた礼拝者と祭司との間で交わされる交唱歌として作られたことが示唆されている]とのことでした。大阪府最南端に位置する岬福音教会牧師をしていた、約40年前に耳にした講演ですが、あの日「ああ、そうなんだ!」と新しい発見にあずかった喜びを今でも覚えています。このような視点から本詩を傾聴することにいたしましょう。
(概略)
詩[ 121 ] 都上りの歌。
A.交唱歌―巡礼者の問い(v.1-2)
B.交唱歌―本人、もしくは隣人、祭司の応答(v.3-8)
本詩には、[都上りの歌]の表題が掲げられています。「都上りの歌」とは、巡礼者たちをシオンの山に導き上るキャラバンを指しています。
その当時、徒歩での旅は危険でありましたが、巡礼者は神の守りと配慮に身をゆだねました。本詩は、[121:1
私は山に向かって目を上げる]という美しい問いかけをもって始められています。巡礼者が目的地のエルサレムまでの旅程の間には、乗り越えて行かねばならない数々の山々が、難関があることを自覚していたことでしょう。それは、御国へと人生を旅する私たちにとっても同様です。主に守られ支えられて歩む道中の幾多の苦しい体験を経た後に、ついに天の御国の、エルサレムの門の中に到着できた時の感謝はどれほどのものとなることでしょう。
わたしは、この夏の猛暑の中、「寝冷え」で少し体調を崩しました。そのときに「気分が悪く」、心の中は「不平不満」の空気で満ちてしまいました。そのとき、ふと「ヨナの記事」を思い起こしました。
[ヨナ4:6
神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。4:7
しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。4:8
太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」4:9
すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」]と、わたしは、体調ひとつで「気分を害する“肉”の弱さ」を教えられたのです。
わたしたち人間は、本当に弱い、小さな存在であり、気分屋で身勝手な存在です。朝夕の寒暖の差や体調の加減ひとつで、毎日起こる出来事のひとつひとつで、大きく、また時には小さく左右されやすい存在です。パスカルという哲学者であり、信仰者は「人間は考える葦である」と評しました。葦というのは水辺に育つ、弱く細い草のような植物のことです。まさしく、詩篇90にあるように、詩人は[90:4
まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです。90:5
あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。90:6
朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。…90:10
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。…90:12
どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください]とあります。パスカルは著書の中で「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。しかし、人間は頭を使って考えることができる。考える事こそ人間に与えられた偉大な力である」ということを述べています。
わたしは、このような弱さをもつ人間を本詩から再定義してみたいと思います。人生という旅程において、「乗り越えて行かねばならない数々の山々、難関」と直面し続けるわたしたち、「
121:1
私は山に向かって目を上げる]私たち人間は、弱い葦のような存在でありますが、[私の助けはどこから来るのか」という祈りを発しうる存在であると。そして[121:2
私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から]という信仰を告白し続けることのできる存在であると。わたしたちは、人生の[121:8
行くにも帰るにも]、往路においても、復路においても、その旅程において、問題の数々、不安の数々の[121:1
山に向かって目を上げ]続けます。
しかし、わたしたちは、山積する問題の山々、征服しえないかに見える課題の[121:1
山に向かって目を上げ]続けますが、わたしたちが[121:1
私の助けはどこから来るのか]という問いを発するとき、わたしたちの心の中には、[121:2
私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から]という言葉が響きます。響き渡ります。[天地を造られたお方]というのは、征服しえないかに見える問題の数々の山々を超えた遥か高みにおられるお方に視点を移すことです。存在するものすべてを造られたお方、何ものによっても制限されない無限の助けと祝福の力をもっておられるお方、すなわち「全能」を言い表すにふさわしい信仰告白の言葉です。
このお方は、[121:3
主はあなたの足をよろけさせず]とあるように、杖をつき、よろけるように道路をわたる老人を安全に誘導するように守り支えてくださる方です。年老いた人をあずかる施設のケアマネージャーのように、[…守る方はまどろむこともない。121:4
見よ、…守る方は、まどろむこともなく眠ることもない。121:5
【主】はあなたを守る方]、【主】はあなたの右脇におられて、親鳥がヒナを守るように、覆うように守ってくださっているお方なのです。
[121:6
昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない]とあるように、地球温暖化時代から地球沸騰化の時代に移行してきた現在、真昼の高温による「熱中症」で打たれることなく、また砂漠気候のように真夜中の気温低下で「低温症」で打たれて亡くなることもないように守る知恵を、24時間365日見守りシステムのセコムのような協力者を備えてくださるお方です。[121:7
【主】はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる]とあるように、年老いてかみ砕く力がなくなってきたら、硬い食べ物をミキサーにかけて食べやすく配慮してくださるお方です。今日の福祉社会、欧州の「高福祉、高負担」社会、米国の「低福祉、低負担」の社会に比して、日本は「中福祉、中負担」社会といわれています。
その意味でわたしたちは、自分でできるところは、自助努力が必要です。健康管理の面から申しますと、「聖霊の宮」「神の神殿」としてからだの管理もあげられるでしょう。先日「年一度の、地域一斉の健康診断」がありました。年相応と申しますか、血圧は少しずつ上がってきているのですが、それ以外はあまり問題はありませんでした。気になるところといえば、運動不足による毛細血管のゴースト化、手足の筋肉の“なまり”があげられるでしょうか。それで、ちょうどコンクリートが固まらないように回し続けている“ミキサー車”のように、できるだけ軽い体操や軽い水泳等で動かし続けるように努力しています。
人生は、「神さまから与えられた一度きりの旅」のようなものです。わたしたちは、年齢により、その「人生の四季」を暮らしています。季節により、暮らし向きも変わります。それぞれの年齢と季節、御国への巡礼の旅のそれぞれのコース途中において、「
121:1
山に向かって目を上げ]、その時点における必要を申し上げましょう。必要な助けを乞い求めましょう。不安を吐露・告白しましょう。あなたの助け、わたしの助けは[121:2
【主】から…天地を造られたお方から」来るのですから。祈りましょう。
(参考文献:
B.W.アンダーソン著『深き淵より―現代に語りかける詩篇』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解)
2023年8月27日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇120篇「私が平和(シャローム)を、と語りかければ」-天のエルサレムへの新約の巡礼者として「神のシャローム」を追い求め-
https://youtu.be/1duVtTKeWBw
詩篇120篇から134篇までの15の詩篇集は、「都上りの歌」という表題を掲げています。表題についての最も適当で、広く受け入れられている説は、「都上り」というのは毎年エルサレムで行われる三大祝祭への巡礼の旅を指しているという説です。三大祝祭とは、申命記にある[16:16
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、【主】が選ばれる場所で御前に出なければならない]のことです。それらはみな[申16:3
あなたがエジプトの地から出て来た日を、一生の間覚えているためである]と言われているものです。新約の神の民であるわたしたちにとっては、神の御子イエス・キリストによる贖いの出来事と聖霊による現実を[一生の間覚えている]ことを指します。
さて、異教の異国で苦難の中に生きるユダヤ人にとって、また地方に住む民の巡礼は、神が現臨される場所エルサレムが目的地であり、ゴールでありました(詩篇132)。主の諸部族は、契約に定められた通りに主に感謝をささげるためにそこに上っていきました(詩篇122)。彼らは二つの基本的な関心を抱いていました。それは「主の守り」と「主からの祝福」でした。彼らの巡礼は「過去と未来の救いと支え」がただ主によるものであることを告白するものでありました。エルサレムは、イスラエルを守っておられる方の「象徴」であり、「住まい」でありました(詩篇122:3、125:1-2)。
エルサレムは、主が「祝福」を布告され、約束される場所でした(詩篇132:15-16、113:3)。巡礼者たちは、「過去における見守り」を主に感謝し、「現在と未来における主の助け」を祈り求め、またそのことに依拠しているのです(詩篇124、126、129篇と、121、123、125、130、131篇)。彼らは、[シャレムは「平和」を意味し,エルサレムは「平和の町」を意味する]といわれるように、エルサレムが体現する平和(シャローム)を求めて(126:6-9)、信仰者を苦しめる世界からやってきます(120、123篇)。シオンにおいて彼らは希望への招きを聞き(詩篇130、131篇)、神の家族が一つに集められていることの喜びを味わいます(133篇)。その場所を彼らは祝福し、またそこで彼らは祝福されるのです(134篇)。このような視点から巡礼歌集をひとつひとつ傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 120 ]都上りの歌
A.過去における主の見守り―巡礼者を祈りへと駆り立てた苦しみ(v.1)
B.現在における主の救いへの祈り―敵対勢力の武器と報い(v.2-4)
C.平和(シャローム)に賭ける巡礼者の哀歌(v.5-7)
本詩120篇は、「都上りの歌」、巡礼歌集の最初のものです。一読しただけでは、本詩は「歌集の序」としてはあまりふさわしくないもののように見受けられます。一風変わった、難しい小詩篇です。しかし、その宣言である「120:7
私が平和を」は、後に続く歌集で繰り返されている基本テーマを掲げているものです。この関連こそ、巡礼詩集の役割と意味を解き明かす手掛かりなのです。本詩120篇は、非常に短い詩でありますが、きわめて多種多様な素材を含んでいます。1節[120:1
苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった]は、「感謝の歌」に典型的な、祈りが答えられたことの「報告」です。5節[120:5
ああ嘆かわしいこの身よ]は、苦しみを表現する際の伝統的な言い回しです(イザヤ6:5、エレミヤ10:19、哀歌5:16)。
この多様性を結び合わせるかたちで繰り返し出てくるモチーフが「 120:2
偽りの唇、欺きの舌」です。このモチーフは、2節と3節に登場し、隣人の叙述[120:6 平和を憎む者。120:7
戦いを求める]にも暗示されています。
言葉をもって平和に背き、平和に逆らう者たちとしての敵の存在が、背景描写が、「平和(シャローム)を求めて生きる巡礼者」を色だたせます。「巡礼者たちの歌」とされる本詩の文脈を提供します。本詩は、巡礼者たちが後にした世界で「彼らが味わってきた苦しみ」の表現であり、告白なのです。それは、今や目前にしている「シオンにおいて望み、求める平和(シャローム)」と対照されています。
巡礼の背景をなす苦しみが本詩の三つの部分に現れています。最初の部分で[120:1
苦しみのうちに私が主を呼び求めると]と、巡礼者を祈りへと駆り立てた苦しみを思い起こしています。そのような苦しみは、「ただ主に頼る」ことによってのみ、耐えることができ、乗り越えることのできるものです。「祈り」への移行は、実に「巡礼の第一歩」なのです。シオンへの旅が「空間」においてなされるものであれば、主への言葉は「祈りの空間の中で」主に向かい行くのです。
偽り、欺きの言葉は、詩篇においてしばしば、敵対勢力の武器として引き合いに出されています(詩篇5:9、10:7等)。偽りの言葉は、「生」を破壊し、欺きはそれを蝕みます。魂は不安にさらされ、傷つけられるのです。そして、苦しみに起因する「痛みの深さ」は、[120:3
欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるだろうか]と、あのような敵意には一体どのような報いが相当するだろうか、という問いに発展しています。[120:7
私が平和(シャローム)を]求めているときに、[彼らは戦いを求める]のです。そのように戦いを好んでやまない者たちには、
[120:4
勇士の鋭い矢、そしてえにしだの炭火]―すなわち街を攻撃して滅ぼしてしまう矢と火による痛みを経験するしか道はないのではないか、というのです。
ロシアとウクライナの争いに重ね合わせられるような光景です。独立した平和国家を希求するウクライナ国民と領土略奪を求めてやまない独裁者との戦いです。戦争を欲する者には、それにふさわしい報いと懲罰をと祈ります。そこには、平和(シャローム)を憎み、戦争を、略奪を求めてやまない獣のような国家、そしてその独裁者の下に「寄留する者としての苦しみ」があります。ある意味で、ロシア国民もまた犠牲者であるでしょう。本詩における[120:7
戦い][120:5
メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せる]とは、メタファー(隠喩)です。それらは、戦争好きな人々と結びつけられ、遠い異邦の地名が隠喩的に用いられています。それらは、「社会的な争い、迫害に苦しむ住民」であることを言い表しているものです。
[120:7
私が平和を──と語りかければ]という詩節で、巡礼者は「自分が一体何者であるのか」を告白しています。そして「なぜ、自分が平和(シャローム)を願うとの宣言を携える巡礼者なのか」を述べます。「
120:7
平和」、ヘブル語でシャロームは、本詩の中心的な問題です。詩篇の語彙の中での「シャローム」とは、「生活が神と他者との関係の枠組みの中に結び付けられた時の、生の望みに満ちた健全な状態」のことです。それは、「恵みをもたらす調和」のことです。
巡礼者の苦しみは、「シャローム」のない生活を余儀なくされたことに由来しています。その「欠落の痛み」は、[120:3
欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるだろうか。120:4
勇士の鋭い矢、そしてえにしだの炭火だ]という、意地悪な隣人たちに対して「争いの落とし前がつけられることを求める」あまりにも人間的な祈りの全容にあらわれています。しかし、巡礼者たちは、「シャローム」に賭けていることのゆえに巡礼者なのです。巡礼者は、「シャローム」を求める者としてエルサレムに来るのです。
そのような意味で、本詩の持つ「巡礼歌集、15篇の序」としての役割は、「この欠乏と渇き」と後続の詩篇において「シャロームが取る様々な形」との間の結びつきにおいて明らかにされていきます。後続の巡礼詩集における「シャロームの場所、その構成要素、その基としての祝福」に注目していきましょう。また、巡礼歌集に重ね合わせ、わたしたちも、天のエルサレムへの、新約の巡礼者として、「神のシャローム」を追い求めてまいりましょう。[ピリ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]。祈りましょう。
(参考文献:J.L.メイズ『詩篇』現代聖書注解)
2023年8月20日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇119篇「みことばの戸が開くと光が差し」-長年住み続け老朽化した家のような、わたしたちの人生にも-
https://youtu.be/U0vkFRs0QY0
本詩119篇は、最も長い詩篇です。学者によれば、展開がなく、反復的で退屈と言われることも多い詩篇です。しかし、カルヴァンは、この詩篇について「展開がなく、反復的で、退屈なこの詩篇は、その構造と明らかな教育的意図に照らして再評価する必要がある」、「ここには、あれやこれやの教理について、多くの章句が含まれているので、ある特定の論議についてひと続きを扱っているわけではない。それゆえに、それぞれの場所で各論点について語る方が良い」と見ています。カルヴァンの注解はアクロスティック、すなわちヘブル語のアルファベット順ごとになされ、119篇だけで101ページも費やすものとなっています。
本詩は、八節単位でなる段落ごとに、全節の冒頭の文字をアルファベット順で構成されています。ヘブル語のアルファベットは22文字ありますので、全体で8節×22文字=176節を数えるものとなったのです。それを紹介しておきますと八節単位で、アレフ(1-8)、ベト(9-16)、ギメル(17-24)、ダレト(25-32)、ヘー(33-40)、ワウ(41-48)、ザイン(49-56)、ヘート(57-64)、テート(65-72)、ヨード(73-80)、カフ(81-88)、ラメド(89-96)、メーム(97-104)、ヌン(105-112)、サメク(113-120)、アイン(121-128)、ペー(129-136)、ツァデー(137-144)、コフ(145-152)、レーシュ(153-160)、シン(161-168)、タウ(169-176)の22文字での構成です。
ちなみに、アウグスティヌスの詩篇説教集をみますと、本詩を32回に分けて説教で語り、それは208ページに渡る膨大なものとなっています。ティンデル聖書注解のデレク・キドナーは、アルファベット順に扱うことを避け、17ページを割いて、内容すなわち主題別にまとめています。わたしたちは、三年計画で詩篇を一篇ずつ傾聴していくことを目標としています。それゆえ、それが価値あることとはいえ、ひとつの詩篇に二十数回、つまり半年をこれに配分することはできません。それで、詩篇中最長の本詩を、キドナーの以下の助言を活用したいと思います。詩篇119篇は「詩篇1篇に記述されている主の教えの喜びが最大限に開花している状態を示し、詩篇19:7以下でほめたたえられている聖書の多面的な特質を個人的に証言している」という視点から、詩節を選択的に拾い上げ、傾聴することに致しましょう。
(概略と聖句)
詩[ 119 ]
A.幸いな人生の秘訣
119:1 幸いなことよ、全き道を行く人々、【主】のみおしえに歩む人々。119:2
幸いなことよ、主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。119:3 まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。
B.主のみおしえ、み言葉の価値・機能・役割
詩119:72 あなたの御口のみおしえは、私にとって幾千もの金銀にまさります。詩119:103
あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。詩119:105
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。詩119:130
みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。
わたしは、本詩を選択的に取り上げる際、はじめに最初の数節に注目します。この書き出しは、詩篇1篇と重なります。
[詩1:1 幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。1:2
【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。1:3
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。
1:4 悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。1:5
それゆえ悪しき者はさばきに、罪人は正しい者の集いに立ち得ない。1:6
まことに正しい者の道は【主】が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。]
詩篇1篇は、全詩篇の冒頭を飾る詩篇であり、そこでは、賢者とは、み言葉を読み、それを昼も夜も黙想する人であり、…み言葉を熟考する賢者は、時が来ると実を結ぶ「流れのほとりに植えられた木」にたとえられ、風に吹き飛ばされるはかないもみがらのような愚かな者と対比されています。これと同様に、本詩119篇の冒頭の数節は、[119:1
幸いなことよ、全き道を行く人々、【主】のみおしえに歩む人々。119:2
幸いなことよ、主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。119:3
まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます]。すなわち、メシア的な栄光に至る正しい道、それはみ言葉を学び、神の言葉に従順であることへと読者を招いているのです。
イスラエルの民にとって、詩篇は、霊的生活の糧であるとともに、教育の場でありました。それゆえ、知恵の詩篇集には、神のみ言葉を学ぶ喜びの表現、人生の諸問題に関する「知恵」の黙想などが含まれているのです。そのような詩篇の特質をみていきますとき、本詩は簡潔明瞭にまとめられた、すなわち「扇の要」詩篇1篇の、「人生のさまざまな局面への扇の展開」であると言えるのです。
詩篇1篇を「要」とし、その「展開」としての119篇を、表面的に読みますと、人によっては「人間のわざ」の詩篇とみなす人もいるやもしれません。つまり、主のみ言葉によって生活する賢い人は成功し、他方でそれを嘲る人は失敗すると。しかし、それはあまりにも素朴な、表面的な聖書の読み方といわざるを得ません。ここで、詩篇作者は二つの姿勢、現代風の言葉で言うなら二つのライフ・スタイルを対比させています。一方に、神に依存していること謙遜に認め、主のみ言葉を学んで神の意志を知ろうと努める人がいます。彼らは昼も夜も絶え間なく神のことばを求め、熱心に耳を傾け、こうして神との個人的交わりに生きる人々です。彼らはこの世の尺度から見ると、偉大な人物ではないかもしれません。しかし、神から与えられた人生の意味を心安らかに受け入れる祝福された人々です。
しかし、他方に信仰に何の関心も払わず、自らの力と望みのままに生きようと決意し、神に敬虔を尽くす生活をあざ笑う人々がいます。このような人々は、内心深く「神はいない」(詩篇10:4、14:1)とうそぶく愚かな者たちです。彼らは実践的な無神論者であり、神を真剣に受けとめることもなく、自分の勝手気ままに生きることができると考えています。これらの人々について詩篇作者は、彼らが生の深い根拠を欠いているがゆえに、小麦の脱穀で風に吹き飛ばされるもみがらのようであると語っているのです。
詩篇1篇が非常に簡潔で明確に展開している「神の意志を知り求める」という主題は、詩篇の中でもっとも長大な詩篇119篇において、いささか食傷気味に繰り返し展開されています。この詩篇によれば、神の意志を知って行うことは他ならぬ一つの戦いであるということです。それは、自らの生存、生活、生涯をさまざまなかたちで脅かす大小の体験を前に、絶えず繰り広げられる戦いです。
詩篇1篇の[詩1:1 幸いなことよ]と共に、[119:1 幸いなことよ、119:2 幸いなことよ]で始まる本詩119篇は、
[【主】のみおしえに歩む人々。
主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々]が[全き道を行く]ことができる全き生涯の道筋をアルファベット順に証ししています。それらの、み言葉の宝石箱から、幾つかの宝石を拾い上げたいと思います。[詩119:72
あなたの御口のみおしえは、私にとって幾千もの金銀にまさります。詩119:103
あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。詩119:105
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。詩119:130
みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。]という素晴らしい詩句があります。
[119:1【主】のみおしえ、…119:2 主のさとし]は、その[詩119:130
みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与え]てくれます。聖書のみ言葉は、ときに“無味乾燥”のようにも感じられますが、それぞれのTPO―時、場所、機会において、聖霊が「そのみ言葉に含まれている深い意味を、わたしたちの個人の、特定の状況・必要にコンテクスチュアライズ」してくださるのです。まさに、“今、その時の必要のために”、主が直接、あなた自身に語りかけられるように。その神の語りかけは、[詩119:72
幾千もの金銀にまさり]、[詩119:103 蜜よりも私の口に甘く]、[詩119:105
私の足のともしび、私の道の光]として、わたしの生活を、人生を導いてくれるものです。
このことをわたしの体験から証ししますと、それは[[詩119:130
みことばの戸が開くと光が差し]こむ経験です。朝、起きて遮光カーテンを開くと、暗闇であった部屋に“光”が注ぎ込んできます。
救いの時もそうでした。献身のときもそうでした。内地留学のときも、ICIの働きのときも、人生の大小のあらゆる局面や危機において、[みことばの戸が開き、光が差しこみ、悟りが与え]られてきました。それは、さまざまなかたちにおいてでありましたが、本質的に「主がみ言葉を通して洞察を与えられる」という具合でありました。そのことによって、混沌とした状態に“光”が差し込むかのように、み旨の本質が明らかにされ、迷いや損得勘定が吹き飛び、「信仰により、水の上に足を一歩踏み出してきた」のです。元来、臆病であったわたしのような者に、そのような冒険を冒しうる“信仰”を賦与し続けてくださった主に感謝しています。
それゆえ、詩篇1篇で本質的に奨められ、119篇で具体的に展開しているチャレンジに励まされ、[心を尽くして主を求め]つつ、毎日を、毎週を、毎年を歩んでまいりましょう。長いように思っていた人生も、70歳手前となりました。「光陰矢の如し」です。わたしちたちそれぞれ「主が測り与えてくださっている生涯」を[心を尽くして主のみ旨を求め]つつ、毎日を、毎週を、毎年を歩んでまいりましょう。
それこそが山あり谷あり、夕があり朝があり、失敗があり成功があり、長年住み続けた家のように老朽化し、雨漏りがあり、水漏れがあり、ここかしこに修理が必要な家のようなわたしたちの人生にあって、[119:1
幸いな。…119:2 幸いな]主にある生涯の秘訣です。日々に[119:130
みことばの戸が開くと光が差し]込みます。祈りましょう。
(参考文献:カルヴァン『旧約聖書註解 詩篇Ⅳ』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、アウグスティヌス著作集20/1
詩篇注解⑸、ティンデル聖書注解 詩篇73-150篇、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年8月13日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ詩篇118篇「人には捨てられた石、それが要の石となった」-あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられなさい-
https://youtu.be/iZ4pfiuZ0b8
「118:22 家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」を中心とする本詩は、[Ⅰペテ2:4
主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。2:5
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。2:6
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない」]と、引用されている有名な詩篇です。この詩句に焦点を当てつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 118 ]
A.定式的命令調賛歌―主の慈しみ(ヘセド)への感謝(三段階の招き)(v.1-4)
B.苦しみのただ中からの叫び、主からの応答と救い
(苦しみの中からの叫び)(v.5-9)
(主の御名による勝利)(v.1013)
(主の右の手による救い)(v.14-18)
C.神殿における感謝の祭儀―入場の許可、感謝、宣言等(声の交唱)
(入場)(v.19-20)
(感謝)(v.21-25)
(宣言)(v.26-27)
D.定式的命令調賛歌―主の慈しみ(ヘセド)への感謝(結び)(v.28-29)
わたしたちは、本詩を「118:22
家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」を中心に見ていきます。さて「要の石」とは一体何なのでしょう。「要の石」とは、建物の壁の基礎を石で組む場合、四隅にあたる部分に据える硬くて大きな土台となる石を指します。イザヤ書を見ますと[28:16
それゆえ、【神】である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない]等、いずれの場合もエルサレム神殿の基礎の要石が念頭に置かれています。本詩では、人の目には「役に立たない」と判断され、家造りに見捨てられた石が、「要石」として用いられたと語っています。
わたしは、これは、「救済史における神の物語の原則」のように思うのです。これは神のなさる不思議を示しています。
神聖視された選民としてではなく、全人類の救いのために、「神の啓示の受領者」「救いの福音の伝達者」、すなわち手段として一時的に用いられたイスラエルも、[申7:7【主】があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった]と言われています。旧約の肉のイスラエルに内在する「霊のイスラエル」と有機的一体性を保持する「新約の神の民」クリスチャンもまた、[Ⅰコリ1:26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば…1:27
しかし神は、…この世の愚かな者を選び、…この世の弱い者を選ばれました。1:28
…この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです]と記されています。
さてペテロ書の[Ⅰペテ2:4 主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。2:5
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ]なさい、という言葉は、わたしたちに対する召命の言葉でなくて何でしょう。キリストは、預言者として、また癒し主として「人気絶頂」の時期に、[マタ16:21
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた]とあります。キリストは、民衆からは「ローマ帝国の植民地支配からの解放者」として期待されており、宗教指導者たちからは「植民地の安定と平和を脅かす扇動者」として、見捨てられ、誤解され、当時の極悪人のための「十字架刑」で処刑されることになるとあらかじめ示されたのです。外形はそれぞれ異なるとも、わたしたちクリスチャンも同質の道をたどることが示唆されています。キリストと共に生きる人生は、栄光の生涯ではありますが、安逸な道筋ではないかもしれません。
その後すぐに、[マタ16:24
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい]とチャレンジされました。
イエスに従って行くということは、「自分の十字架を負って」たどる人生であるということです。人間社会には、いろいろな尺度があります。人は、それらに測り、測られて、自己評価を手に入れていきます。わたしたちは、人から、また自身のうちで、ほめられ称賛されることは喜びです。しかし、少しでも否定的な評価を受けることは苦痛と感じるものです。
しかし、使徒パウロは、イエスの示された十字架の道筋を[Ⅱコリ4:8
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。4:9
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです]と証ししています。わたしたちは、人の評価、また自身による評価からは「捨てられ」るという評価の道筋を示しているように思います。かえって、わたしたちは、主からの評価のみによって生きる[神には選ばれた、尊い生ける石]であり続けることの大切さを教えているように思います。
本詩118篇は、小さな、名も知れない民が、神に目的と使命をもって選ばれた物語を証ししています。[詩篇118:1
まことにいつくしみ深い]が、その[Ⅰコリント1:27
…この世の愚かな者(民)を選び、…この世の弱い者(民)を選ばれました。1:28
…この世の取るに足りない者(民)や見下されている者(民)、すなわち無に等しい者(民)を神は選ばれ]、人類の救いのための神の啓示、キリストの福音の準備のために用いられました。その歴史は、[118:5
苦しみのうちから、私は【主】を呼び求め]る歴史でありました。[出3:7
【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた]と言われるものでありました。
[118:5 【主】は(その叫びに)答え]、[出3:8
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、…彼らを導き上るためである]と約束された通り、[私(イスラエルの民)を広やかな地へ導かれ]ました。しかし、イスラエルの民は、約束の地で偶像礼拝と不道徳に陥った結果、[118:10
すべての国々が、私を取り囲んだ。… 118:12 蜂のように彼らは私を取り囲んだ]
とあるように、アッシリア帝国とバビロン帝国に滅ぼされ、捕囚民となってしまいました。[118:18
【主】は私を厳しく懲らしめられた]と捕囚による取り扱いの期間を経て、[しかし私を死に渡されはしなかった]とあるように、絶滅は避けられました。
このようにイスラエルの民は、出エジプトに続き、第二の出エジプトとしての[118:14
【主】…の力…主…の救い]であるバビロン捕囚からの帰還を経験します。そして、再び約束の地での神殿再建に導かれます。エズラ記には、[エズ3:10
建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、…3:11
そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。…3:13
そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた]とあるように。
本詩の[118:22 家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。118:23
これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。118:24
これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう]は、エズラ記にあるように、バビロン捕囚からの帰還後に、[【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ]という情景が背後にあるでしょう。今日、日本各地で「信徒の献金により、新会堂が建立される」時にも、同様の喜びがあふれるのを見ます。このエズラ記にみる、捕囚後の神殿再建に関わる記述が、救済史における核心的出来事、神の決定的みわざである「イエス・キリストの人格とみわざ」が「要石」となって、「キリストのからだなる教会」が建て上げられていく預言にも繋がっていっているのです。
[Ⅰペテ2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。2:5
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ]なさい、とあります。ここからひとつのことを教えられます。わたしたちが人生を生きていくとき、主のように「
Ⅰペテ2:4 人に捨てられ」る、という経験をすることがあるでしょう。[118:5
苦しみのうちから、私は【主】を呼び求め]る時があるでしょう。118:12
蜂のように取り囲]まれる、という時もあるでしょう。しかし、わたしたちには、[118:5
【主】を呼び求め]ることができます。[118:10
【主】の御名によって、(その囲み)を断ち切る]ことができると励まされているのです。
[118:16
【主】の右の手は高く上げられ、【主】の右の手は力ある働きをする]とあります。主は力ある方です。わたしたちをあらゆる困難な状況から救い出し、広い所に導きだしてくださる方です。ですから、主に信頼し、それぞれの賜物と召しにしたがい
[Ⅰペテ2:5
生ける石として霊の家に築き上げられ]てまいりましょう。キリストのからだなる教会が建て上げられていく際には、大小のいろんな石が必要とされています。不要な石はただのひとつもありません。すべての石が高価な宝石のように有用かつ貴重な石として用いられます。祈りましょう。
(参考文献:J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅴ』)
2023年8月6日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇117篇「主の恵みは大きい、主のまことはとこしえまで」-「普遍的で、壮大な終末論的なビジョン」の中に生かされる-
https://youtu.be/3JU0v5AATrU
本詩117篇は、詩篇150篇のうちで最も短い詩篇です。それは、まるで祝祷や頌栄のような詩篇です。しかし、新約における祝祷が「三位一体」の真理の告白・宣言でもありますように、短い本詩もまた「わたしたちの福音理解」を照らす光を放っているように思います。本詩は、1節で神への賛美が促されています。そして、2節で神賛美の理由が述べられています。同様の表現が詩篇103篇の「イスラエルの民の罪・とがを不問にした神の慈愛とあわれみが」にもみられるところから、本詩の背景には「イスラエルの民がその罪・とがのゆえにとらわれの身となったバビロン捕囚からの解放」が念頭に置かれていると思われます。そのような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩篇117篇
1.神賛美への促し(1節)
2.神賛美を促す理由―恵み(ヘセド)とまこと(エメス)(2節)
冒頭に申しましたように、本詩117篇はまことに短い作品であります。このように短い詩に傾聴し、想像の翼を広げ、はばたかせるためにわたしたちは何をなしうるのでしょうか。わたしたちは、その手始めに、本詩から想像しうる関連聖句を見てまいりましょう。[117:2
主の恵みは、私たちに大きい]という詩句は、[詩103:8
【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。103:9
主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。103:10
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。103:11
天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい]に登場しています。
詩篇103篇では、「イスラエルの民がその罪・とがのゆえにとらわれの身となったバビロン捕囚からの解放」が念頭に置かれています。本詩117篇で[117:2
主の恵みは、私たちに大きい]とうたわれるとき、空虚な真空の空間でその言葉が発せられたというのではなく、バビロン捕囚の経験が念頭にあったと見てよいでしょう。さらにこの詩句のルーツを探り求めますと、[出34:4
そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。34:5
【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す]という、出エジプト記のシナイ山ふもとでの十戒の二枚の板の出来事にさかのぼることができます。
聖書神学辞典の拙稿「罪」で、このように記しています。[聖書において、罪は最大の関心事のひとつです。人類史冒頭に現われている罪は、神の民イスラエルの歴史の中にも深い跡をとどめています。イスラエルは、民族としての誕生以来、その悲劇を幾度となく繰り返します。選民としての特典にあずかりながら、他の民にまさるとも劣らない罪の中にありました(ヨシュア24:2,14、エゼキエル20:7-8,18)。神がモーセに「証しの板」(出エジプト31:18)を渡された、ちょうどそのときにさえ偶像礼拝に陥りました]と。しかし、わたしたちの神はまことに[117:2
主の恵みは、私たちに大きい]と賛美され、感謝されるべきお方です。
[荒野の旅路においても、神からの食べ物よりも、自分の好みにあった食べ物をむさぼり続けました。聖書の歴史はイスラエルの支配者や民衆の不従順を強調しています。]しかし、本詩117篇から教えられることは、大小の罪に溢れるわたしたちの生涯を、歩みを、存在を忍耐し、赦し、受け入れ、導いてくださり、わたしたちに[117:2
主の恵みは、私たちに大きい]、すなわち[117:2
主の恵みは、私たちを圧倒した]と言わしめるお方だと言うことです。さて、わたしたちは、 [117:2
主の恵みは、私たちに大きい(圧倒した!)]と告白し、賛美し、毎日の生活を送っているでしょうか。[哀3:22
【主】の恵み…3:23
それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です]という告白をもって一日を始めているでしょうか。この告白をもって一日を始めることにいたしましょう。天からの、また内住の御霊の力をいただくことができます。
神賛美の第二の理由は、[117:2 【主】のまことは、とこしえまで]と告白されています。さて、[117:2
【主】のまこと]とは、一体何なのでしょう。哀歌では、[哀3:22
【主】の恵み…実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。3:23
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です」と告白されています。旧約における「まこと」は、第一義的に「契約に対する神の誠実」を指し、新約においては「イエス・キリストを中心とした完全な啓示」を意味するようになったと言われます。旧約の「神の人格・品性、神の道徳的・倫理的な面における性質、神の民に対する取り扱い、神の民が他の人々を取り扱うべきあり方」から、啓示はさらに進展し、新約では「イエス・キリストの福音のうちの受肉であり、神の民の生活の中における変革する御霊の力」に焦点を当てているように思われます。
新約の冒頭にあります福音書のひとつ、ヨハネによる福音書には、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた]とあります。[ヨハ1:17
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである]とあります。十戒を中心として、またわたしたちの心の内の良心を通して明らかにされている神のみ旨があり、それらによって照らし出された罪びととしてのわたしたちの存在があります。
キリストは、神であられたのにも関わらず「受肉」して、「神がいかなるお方であるのか」を明らかにしてくださいました。わたしたちの、いや[117:1
すべての国々…すべての国民]にとっての唯一の、まことの神がいかなるお方であるのかを明らかにしてくださいました。この世界には、無数の宗教があり、無数の信仰が溢れています。宗教間の対立や紛争も収まる気配はありません。しかし、「神々が無数にあるのではない」と聖書に啓示されています。この世界、この宇宙には「唯一の、まことの神」のみがおられるのです。民族によって宗教があるのではありません。文化によって神々が形成されるのではありません。「唯一の、まことの神」のみがおられるのです。
新約時代、イエス・キリストの使徒たちは、[使4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」と告白・宣言しました。聖書は、イエス・キリストにおいて明らかにされた[ヨハ1:14
恵みとまことに満ちておられ]る神こそが、民族を超えた普遍的な、唯一の神であると宣言しています。それゆえ、本来は宗教的な紛争は避けられなければならないのです。わたしたち、[117:1
すべての国々、…すべての国民]は、イエス・キリストにおいて明らかにされた[ヨハ1:14
恵みとまことに満ちておられ]る神、民族を超えた普遍的な、唯一の神のみを[ほめたたえ…ほめ歌]うことが可能とされているのです。
イスラエルの民は、常に大国の脅威にさらされ、周囲からの攻撃に翻弄される歴史の中で、神に叫び続けました。それは、「弱小の神の民」の叫びでありました。イスラエルの民が選ばれたのは、この民が他の民よりも優れていたからではなく、逆にどの民よりも貧弱であったから(申命記7:7)でありました。それは、そのようなイスラエルの民の救いが「他の民の救いのひな型」となるためでありました。イスラエルの父祖アブラハムに対する土地と子孫の増加、すなわち神の国の約束は、「地上のあらゆる民族の祝福のひな型」(創世記12:1-3、ガラテヤ3:14)となるためでありました。地上のすべての民族に、祝福の約束、贖いの約束、新天新地の約束が語りかけられているのです。
イスラエルの民は、弱小でなんのとりえもない民でありましたが、神に「全世界の救いのための祝福の手段・機能」を果たすために用いられました。わたしたちも同様です。それは、アダムの堕落以来、罪と死と滅びに定められていた全人類に[117:2
主の恵み…【主】のまこと]の福音をもたらすためでありました。イスラエルは、①土地と子孫の「アブラハムの祝福の約束」を受け、②約束の地で「申命記的な御旨に生きる」よう導かれました。しかし、③偶像礼拝と不道徳で申命記で示されていた通りの取り扱いを受け「ダビデ王朝も、神殿も失い、全世界に散らされました」。④神の取り扱いの後、エズラ記・ネヘミヤ記等の歴代志的諸文献に記されている通りの回復の取り組みの中で、本詩のような詩篇集がうたわれ続けました。
これらのことを私たちに重ね合わせますと、パウロの言葉を思い起こします。[Ⅰコリ1:26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。1:27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。1:28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです]イスラエルも大国の谷間の小さな民でありました。わたしたちも、日本という国で少数派のクリスチャンです。
しかし、わたしたちは、苦難の歴史とその辛酸をなめつくしたイスラエルの民に学ぶことができます。大国のはざまで翻弄され続けたイスラエルの民が、捕囚からの帰還後に、まだそのような状態の中で、このように「普遍的で、壮大な終末論的なビジョン」の中に幻・イメージの中に生かされ続けていたと知ることは、わたしたちもまた、イエス・キリストの福音の光の注ぎを全身に浴びて[117:1
すべての国々よ、【主】をほめたたえよ。すべての国民よ、主をほめ歌え。117:2
主の恵みは、私たちに大きい。【主】のまことは、とこしえまで。ハレルヤ]と、「キリストの贖罪の恵み」に根差し、[内住の御霊のまこと」を、この世界のただ中で受肉させていくように召されていることを確信させてくれるもののように思います。祈りましょう。
(月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、安黒務論稿「罪」「真理」『聖書神学辞典』いのちのことば社所収、ウルリッヒ・ヴィルケンス『ローマ人への手紙註解』)
2023年7月30日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇116篇「そのとき、私は主の御名を呼び求めた」-「情け深く、あわれみ深い」神の視点で、過去・現在・未来をロンダリング(洗浄)しつつ生きる-
https://youtu.be/W_fI2hopfFE
昨日は、高速道路上でバッテリーにトラブルがあり、大きな事故に巻き込まれる危険がありました。そのような危機を周囲の人たちの知恵、協力によってまぬかれることができ、大変感謝な一日でした。今一度、人生を生きていくということのひとつに、「遭遇するであろう危機をどのようにしてくぐり抜けていくのか」という危機管理の問題があることを教えられました。聖書からは、
[出 23:20
見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く]とありますように、神さまが多くの人の助けを提供し、まるで天使を遣わしてくださったかのように、救出のわざを見せてくださる生涯であることも教えられます。昨日は、危機的状況のただ中で、対応に苦慮しているとき、数多くの天使が飛来して守ってくれたかのように感じたのです。そのような視点から、本詩116篇に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 116 ]
A.導入―賛美とその理由
B.回想―死の力が支配する苦難の時、救いを求め、答えを得る
C.結論―賛美の誓い、慈しみ深いわざに感謝し、救いの杯をささげる
まず最初に、本詩の焦点を[116:3
死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった]という箇所にみたいと思います。わたしは時々、ヨセフのように、またダニエルのように夢を見ます。寝ている時に見る夢は、あまり良い夢ではありません。「何か、追い詰められているような、危機の中にいる」イメージの夢をみることが多いのです。一番よく見る夢は「電車とか、車に乗り遅れて、取り残される」タイプの夢です。これは、大学の時に、一時限目の大切なテストを「午後1時からのテスト」と誤解して、空っぽの教室に入り、「留年の危機に直面」し、愕然とした経験からのものや、ヨーロッパに旅行に行ったときに、迷子になって「日本に帰れないのではと不安にまみれて、泊まっていたホテルを探し回った」経験等からのものではないかと思っています。衝撃的で印象的な経験の記憶は、別のイメージのかたちで何度も「夢」で見ます。
わたしたちは、自分の人生を振り返ってみるとき、「そのような大小の危機の経験」を思い出すのではないでしょうか。ブルッゲマンという聖書学者は、「詩篇116篇は、いのちを脅かす苦難からの解放に対する賛美と感謝を表す詩篇です。そのような詩篇の詩的な言葉は、さまざまな場面で自由に使用できるのが特徴です。詩篇は、さまざまな文脈で生活や仕事に適用できるということです」と述べています。それで、わたしは詩篇116篇に繰り返し傾聴し、黙想しつつ、自分の人生における[116:3
死の綱…、よみの恐怖…、苦しみと悲しみ]を思い起こすことにしました。聖書の空白部分に、それらの想い出、記憶を拾い集め、書き込んでいきますと余白は一杯になっていきました。弟の死、野球部の試合でのエラー、留年の危機、献身の決意、奉仕の道筋の選択、等―数え上げればきりのない大小の危機的局面や岐路に遭遇してきたように思います。
本詩で詩人は、 [116:3
死の綱…、よみの恐怖…、苦しみと悲しみ]と、人間のいのちの短さや、あやうさをまともに直視しています。わたしたちも、そのように「自身の人生の諸局面を、主にあって直視する」ことによって、人生の陰と陽に、光と影に、不思議な豊かさ、主の慈しみと憐みを増し加えていくことができます。わたしたちの人生というのは、いわば繰り返し塗り重ねていく「一枚の油絵」のようです。わたしは、クリスチャンは歩んできた人生を繰り返し振り返り、「キリストの福音」の色彩を重ね塗りすることが可能なかたちで生かされているようにも思うのです。すなわち、キリストの贖いは、「わたしたちの過去をも、記憶をも贖い得る」のではないかと思うのです。詩篇が、イスラエルの過去を、記憶を「
116:5
情け深く正しい、あわれみ深い」神の視点で、繰り返し朗誦し、いわば記憶のロンダリング(洗浄)を行っていることの意味・意義を考えさせられているのです。
私たちが本詩で教えられるのは、「死の力が既に今、私たちの人生経験の中に猛威をふるっている」という詩人の見方です。イスラエル人の見方によれば、死は「個人の生の活力を減少」させるものです。死の力は、「生の真っ只中に、例えば、病気、困難、投獄、敵の攻撃、あるいは老齢化といった、個人が自らの生命力の減退を体験する度合い」に応じて感じられます。わたしたちは、どうでしょうか。皆さんも、詩人のように「個人の生の活力を減少」「自らの生命力の減退」を感じていらっしゃるのではないでしょうか。
個々の人々の幸福(すなわち、ヘブル語のシャローム―平和、安寧)が脅かされるとき、[116:4
そのとき、【主】の御名を呼び求めた]というのです。「【主】よ、どうか私のいのちを助け出してください」と。いのちの危険とまでいかなくても、生活の平穏を脅かされることは多々あるのではないでしょうか。わたしたちの個々の幸福(シャローム)を脅かすものと直面するとき、
[116:4 そのとき、(上を見上げて
)【主】の御名を呼び求め]ていきたいと思います。また、現在と未来に対してだけでなく、わたしたちの記憶を、また夢の世界をさいなむ過去の記憶がわたしたちを苦しめるときがあります。そのように過去に脅かされるとき、
そのときも、[116:4
【主】の御名を呼び求め]ると良いと思います。恐い夢を見たとき、その夢に翻弄され、脅かされ続けるのではなく、夢の中で[116:4
【主】の御名を呼び求め]ると良いと思います。そのような習慣を身に着けることによって、悪夢のただ中で守られると思います。
それは、なぜでしょうか。それは主が[私の声、私の願いを聞いてくださる]からです。それは、[116:2
主が私に耳を傾けてくださる]からです。主は生きておられ、起きているときも寝ているときも、現実においても、夢の中においても、未来においても、過去の記憶の中においても、こう書いてあります。[詩篇139:3
歩くのも伏すのも見守り…、よみに床を設けてもそこにあなたはおられ]る方であるからです。
そのとき、わたしたちは、以前にも増して[116:5
【主】は情け深く正しい]方であること、[まことに私たちの神はあわれみ深い]方であることを再確認します。主は、真実な神です。主は真実なことばを語られます。わたしたちは、その真実性を確証しつつ人生の旅程を旅します。主は、[116:6
【主】は浅はかな者をも守]ってくださいます。[おとしめられたとき、私を救ってくださ]います。主は、[116:8
私のたましいを死から]解放し、[私の目を涙]を拭い、[私の足をつまずきから救い出してください]ます。主は、わたしのたましいに、[116:7
全きいこい]を与え、[ピリ4:7
すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます]。
主は、危機に直面した時に、そのただ中で叫ぶわたしたちの[116:1 声、…願いを聞いてくださる]、[116:2
耳を傾けてくださる]のですから、私たちは[116:2
生きているかぎり、主を呼び求め]ましょう。順境であれ、逆境であれ、[ピリ4:6
あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただき]ましょう。水平の人間関係、水平の現実環境を見まわすだけでは、フラストレーションが増し加わることが多いでしょう。称賛と非難が交錯し、ジェットコースターのような、気持ちの浮き沈みの中で過ごすことになるでしょう。ですから、時々垂直方向に目を転じましょう。
そこには、ヘブル書で言われているように、[ヘブル4:14
もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのです、…4:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ]かせていただきましょう。もちろんのこと、展開していく人生に向けて、わたしたちは遭遇しうるあらゆる危機に対して万全の準備をしていかねばなりません。主に導かれて、できうる限り、前もってあらゆる下ごしらえをしていくものとされましょう。専門家によれば、危機管理とは「常に最悪の事態の到来を想定して準備をしておくこと」とのことです。わたしたちは[116:3
死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中に]置かれる備えができているでしょうか。
わたしたちに最善の備えができたとしても、さらにそれ以上の苦難、「百年に一度、千年に一度」といった苦難が訪れる不安は残ります。それゆえ、わたしたちにとって、最善の準備以上のものがあります。それは、天を仰いで[116:5
情け深く正しい。あわれみ深い]神を仰いで、[116:2
生きているかぎり、主を呼び求める]習慣です。そのような毎日を生かされているなら、突然訪れた大小の危機にも「さあ、やってきましたね!」と、いわば“予定行動”のようにワンクッション入れて、冷静沈着に、主にあって衝撃を受けとめられるのです。イエスも言われています。[ヨハネ16:33
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました]と。クリスチャンの信仰は、「患難苦難のない、いわゆるご利益だけの信仰」ではありません。「現実を直視し、患難苦難のただ中で主に守られ、証ししていく信仰」なのです。
大小の[116:3 死の綱、よみの恐怖、苦しみと悲しみ]の中に置かれるときにも、[116:6
おとしめられたとき]にも、[116:8
死から、涙から、つまずきから救い出してくださ]る、守り支えてくださる救いのわざを経験すると励ましているのです。わたしたちは、そのような[116:5
情け深く正しい。あわれみ深い]神を信じているのですから、 [116:2
生きているかぎり、主を呼び求め]ましょう。事故や病、人間関係やビジネス等の危機に直面した時、[116:4
そのとき、【主】の御名を呼び求め]ましょう。
「【主】よ、どうか私を(この苦境から、この問題から)助け出してください」と。主に叫ぶと、心の中で心の底から叫ぶと、「生きておられる」お方ですから、必ず答えがあります。直接助けてくださったのか、どうであったのか分からないような「隠されたかたちで」神は密かに、不思議なかたちで働いてくださいます。人の心を「川の流れのように変えて」くださいます。環境を、道を信じられない「海の中に」開いていってくださいます。
もし、助け出していただいたと自覚したら、何もなかったかのように去って行った人たちのようにではなく(ルカ17:11-19)、
[【主】の御名を呼び求め]、[116:13 救いの杯を掲げ]るものとなりましょう。[【主】の御名を呼び求め]、[116:17
感謝のいけにえを献げ]るものとなりましょう。[116:19 【主】の家の大庭で。…あなたのただ中で]。では、祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、J.L.メイズ『詩篇』現代聖書注解、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』)
2023年7月23日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇115篇「ただあなたの御名に栄光を帰してください」-「神の栄光」の現し方には千差万別、様々な要素がある-
https://youtu.be/KVQNk0Gqajw
本詩115篇は,バビロン帰還後の早い時期のものと思われます。捕囚中のバビロンの偶像礼拝のむなしさが強く意識されていた期間、また帰還後、
周囲の国々からの、115:2
「彼らの神はいったいどこにいるのか」といった敵意やあざけりのただ中にあって、イスラエルの民は自らの弱さを自覚し,「主に信頼し,主の栄光を求める歌」をもって礼拝したのです。本詩の背景には、エズラ記、ネヘミヤ記の神殿やエルサレムの再建の様子が垣間見えます。
捕囚帰還が終了し、民族による自治権を尊重するペルシャ帝国が独裁国家バビロン帝国を滅ぼした時、[エズ1:1
ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。1:2
「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。1:3
あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である]とあります。
そして、エルサレムの神殿の再建のため、いしずえが据えられました時、[エズ3:11
そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。3:13
そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた]とあります。なんと感動的な情景でしょう。
しかしエズラ記をみますと、そこには多くの戦いもありました。[エズ4:3
ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。ペルシアの王キュロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、【主】のために宮を建てるつもりです。」4:4
すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした]と、反対勢力との戦いが起こったことが記されています。
ネヘミヤ記のエルサレム城壁の再建では、[ネヘ4:11
私たちの敵は言った。「彼らが気づかないうちに、見つけないうちに、彼らの真ん中に入り込み、彼らを殺して、その工事をやめさせよう。」…4:13
そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い場所の空地に、剣や槍や弓を持たせて配置した。4:14
私は彼らの様子を見て立ち上がり、有力者たちや代表者たち、およびその他の人たちに言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」まるで、今のウクライナのようです。4:16
その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った]このような背景を意識しつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 115 ]
A.神賛美―すべては神の栄光のために、真の神の全能性(v.1-3)
B.偶像批判―偶像の無力性・無能性(v.4-8)
C.神への信頼の要請―イスラエル、祭司、異邦人改宗者(v.9-11)
D.神による祝福―信頼要請に対する応答(v.12-18)
本詩115篇の真中には、[115:4
彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない]と[B.偶像批判―偶像の無力性・無能性]が指摘されています。これは、[115:4
彼らの偶像は銀や金]とあるように、バビロン帝国でみた金や銀、高価な宝石がちりばめられた巨大な神の像がありました。その荘厳な神の像は、見えない神的実体であると同時に、地上の富と権力を映し出す鏡でもありました。それは、地上の絶対的権力を合法化するシステムともいえました。日本の八百万の神々という神々の系統譜、ギリシャの神々の系統譜もまた、地方・部族の権力闘争の歴史を跡づけるものでもあります。最強の権力者、最強の国家がまつる神への絶対服従を強制するシステムです。
そのような時代の後に、不思議なことに、ある程度の民族自決権、あるいは自治権を許容するペルシャ帝国が出現しました。そして、捕囚民は帰国をゆるされ、荒れ果てた故国と諸都市の再建をすすめられたのです。イスラエルの民は、これらのことはわたしたちから出たことではなく、[115:3
私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる]と、主から出た「摂理的みわざ」と受けとめました。
私たちの人生に起こるさまざまな出来事に対し、このような意識を抱くこと、展開する事態を「摂理」の信仰の視点から受けとめることは大切なことです。そして、イスラエルの民は、故国再建のため、まずエズラ記で神殿を再建し、後にネヘミヤ記で首都エルサレムの城壁の再建に取り組みました。
そして、この取り組みは[115:1
私たちにではなく、【主】よ。私たちにではなく、ただあなたの御名に栄光を帰してください]と、主の栄光のためであり、「肉の望むところでも、人の意志」によるものでもないと告白しておりました。これもまた大切なことです。このことは、ウエスミンスター小教理問答―「問1 人のおもな目的は何であるか」であり、「答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」に通じるものです。わたしたちは、自分の栄光を輝かせることを目標にしていたら、いつかつまづくことになると思います。人間世界は、ある意味「どんぐりの背比べ」です。自分より高いと思われる人を見れば気分を害し、自分より低いと思われる人を見れば心地よくなるのが常です。「隣に立派な家が建つと、胃が痛くなる」と言われる人間性のゆえんです。
わたしたちが、人間世界で、水平方向で、「どんぐりの背比べ」をしていると、その自己評価は「ジェットコースター」のように上がったり下がったりの循環から抜けられません。しかし、わたしたちの自己評価を垂直方向に設定し、[115:1
私たちにではなく、【主】よ。私たちにではなく、ただあなたの御名に栄光を帰してください]と、自分のおもな目的は、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」に焦点を合わせるとき、水平方向の「どんぐりの背比べ」の泥沼から抜けられます。人間の視点による「相対評価」から抜け出し、神の視点からの「絶対評価」が可能となるのです。ただただ、神の栄光のみを追い求めましょう。垂直方向からの、神による絶対評価に集中しましょう。神の視点からは、あなたの存在、あなたの人生、あなたの貢献で無駄なことは何ひとつなく、あなたは「高価で貴い」存在であることに気づくことになります。
この世界は、[115:4
銀や金]を追い求める世界です。もちろん、手ずから働いて自立した生活を送り、社会に迷惑をかけるのではなく、社会に貢献する社会人として生きることはとても大切なことです。しかし、[115:4
銀や金]が[偶像]となってしまうことは、危険なことです。それはなぜ危険なのでしょうか。それは[115:8
これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ]と、各自、おのれが神とするもの、第一とするものと「似たもの」となってしまうからです。
偶像の特徴のひとつに、その「非人格性」があります。[115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。115:6
耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。115:7
手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない]とあります。それは[115:17
死人]のようであり、[沈黙]の世界です。これに対して、まことの神は[115:9 主こそ助け、115:10
主こそ助け、115:11 主こそ助け]と、生きておられる神であり、耳を傾け、目配りし、[115:12
私たちをみこころに留め]てくださる人格的な神さまです。弟子たちが[Ⅰヨハ1:1
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて]と生きて交われる存在のお方であり、[ヘブル4:16
折にかなった助けを受ける]ことのできるお方です。神さまは生きておられるお方で、わたしたちが自覚しないかたちで、実に多くの「折にかなった助け」を提供してくださっているのです。
マルティン・ブーバーという哲学者は『我と汝』という本を書きました。人間は知らず知らずうちに人間関係を「我とそれ」という対物的な、人格の交流のない関係に貶めてしまう、と記しています。わたしは、[115:5
語れず、…見えない。115:6 …聞こえず、…嗅げない。115:7
…さわれず、…歩けない。…声をたてることができない]偶像との交わりを続けていると、人格の深い部分が「対物化」し、「我とそれ」という関係の中で、パウロが記すように[ロマ1:21
神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗く]なってしまう、すなわちその心は「氷点」に達し、冷凍庫の氷のようになってしまうのではないでしょうか。イエスさまを信じる前の私は、ニーチェの無神論的ニヒリズムにより、自分の心が「氷」のように冷え切ってしまっているのを強く意識していたことを思い起こします。
しかし、わたしたちが主に目を転じ、[115:3
天におられ]る主を仰ぐとき、御霊により、そのお方の生きた人格に触れることになります。このお方は、冷え切った氷のような心を溶かすのに十分な暖かい人格の光をもたらしてくださいました。このお方は、[出34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み]と言われるお方です。このお方は、[ヨハ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた]と言われるお方です。
イスラエルの民は、バビロン捕囚を経験し、申命記的な教え―すなわち、「約束の地で偶像礼拝や不道徳に走るとき、地の果てに散らされる」という取り扱いを経験しました。しかし、取り扱いと悔い改めの後、イスラエルの民は、その犯した罪にもかかわらず、再び祝福の路線に回復されました。[115:12
【主】は私たちをみこころに留め、祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、115:13
【主】を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。115:14
【主】があなたがたを増やしてくださるように。あなたがたとあなたがたの子孫とを。115:15
あなたがたが祝福されるように。天と地を造られた方【主】によって。115:16
天は【主】の天。地は主が人の子らに与えられた]と。神さまは、祝福の神です。その祝福は、時間的に一時的にだけでなく、[115:18
今よりとこしえに至るまで]です。その祝福は空間的に、地上的にだけでなく、天上的においてもです。見えるところだけでなく、見えないところにおいてもです。
本詩の、わたしたちクリスチャンに対する教訓は、肉の思いによって、また金銀宝石等、神以外のものを第一とする傾向は、偶像めいた力を帯びやすいということです。教会の大きさや教勢のデータも、「偶像化」しやすいのかもしれません。それらは、牧師の肩にとてつもない重石となる傾向があるからです。本詩は、偶像となりやすいものを避け、「自分の栄光」を人間の世界の尺度のみで測る誘惑に打ち勝ち、ただただ「神の栄光」の視点から見つめることのみに執着するようにと勧めているのです。そのときに、わたしたちは「神の栄光」の現し方には千差万別があり、それぞれの個性と賜物、それぞれの時間と空間、環境、人間関係等、さまざまな要素があると教えられます。
わたしの好きな言葉に、「金槌は、木を切るためにあるのではない。釘を打つためにある」―があります。わたしは、「たくさんの木を伐採することができなかった」と悩むことをやめました。そして「幾本かの釘を真っすぐに打ち込むことができた」と感謝することを学んだのです。わたしは、金槌であることに感謝し、[115:18
【主】をほめたたえる。今よりとこしえに至るまで。ハレルヤ]。祈りましょう。
(『実用聖書注解』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、アウグスティヌス『20/1
詩篇注解⑸』、土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想⑴』)
2023年7月16日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇114篇「神の聖所となり、水の潤う沢に変えられた」-贖罪と内住の御霊の福音に生かされる-
https://youtu.be/5tOPrmegEyU
本詩114篇は、出エジプトに関わるハレルヤ詩篇の第二番目のものです。本詩は、出エジプトで始まり、約束の地に至る際の奇跡的な出来事を賛美する内容となっています。そのメッセージの中心は、世界の中で最も小さき民が選ばれ、その中に「神が臨在」されることにより、数多くの奇跡を体験し、約束の地は「神の聖所」が置かれる場所となり、岩のように頑なであった「神の民」は水の潤う沢のように、「神の臨在」の中に生かされる民に変えられたところにあります。これは、わたしたち新約の神の民クリスチャンにとって何を意味するのでしょうか。クリスチャンの詩篇の読み方については、「旧約の神の民の詩篇にキリストに属する洗礼を施した」と言われます。礼拝のために詩篇を大いに使った初代のクリスチャンたちは、御霊に導かれ、詩篇が「キリストとそのみわざ」を証言しているものとして読み、また歌い続けたのです。わたしは、本詩のメッセージが出エジプトの「小羊の血」による十の災害からの過越しの出来事に象徴される「神の御子キリストの贖罪のみわざ」とその結果としての「神の御霊の内住」によって、わたしたちの存在を「聖霊の宮」「神の神殿」として「神が臨在」してくださることの恵みと重なって語られているように思います。このような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 114 ]
A.イスラエルにおける出来事―その贖いと臨在(v.1-2)
B.天変地異のような被造物世界の驚嘆(v.3-6)
C.湧泉のような主の臨在とその御前における畏怖(v.7-8)
本詩で、詩人は、「出エジプトで始まり、約束の地に至る際の奇跡的な出来事」を賛美しています。そして、エジプトから解放されたイスラエルの民は、“烏合の衆”といわれるような状態でありましたが、シナイ山の麓に導かれ、いわば彼らの「憲法」としての十戒を与えられ、その精神の適用として民法・刑法・儀式法等も賦与されました。それによって、烏合の衆であった民は「宝の民、祭司の王国、聖なる国民」と神に聖別されたひとつの国民となりました(出19:5-6)。しかし、前途は多難でありました。40年間も水も食料も乏しい荒野を約三百万人もが旅することとなったからです。約束された土地には、すでに異教徒が住んでおり、そこを戦い取るためにはまだ準備不足であったのです。
現在でいいますと、ロシアに奪われた土地を取り戻すために、ウクライナはNATOの力を得て、一般人を“戦士”とするための訓練を施しているといわれます。準備なしで戦うと国は滅びてしまうからです。イスラエルの民は、ひと世代40年間の準備期間を経て、名目的なレベルから実質的なレベルに「宝の民、祭司の王国、聖なる国民」として整えられ、約束の地へと導かれていきます。その40年間も、たくさんの困難がありました。特に「水や食料」という、いわゆる“兵站”には重大な問題がありました。三百万人の人々が、水道もマーケットもない“荒野”に放り出されたとしたらどうでしょう。
成人男子だけで40万人ですので、女性と子供たちを入れるとほぼ三百万人であったでしょう。三百万人というのは、どういう数字でしょう。横浜市は3,77万人、大阪市は2,75万人、名古屋市2,32万人、福岡市1,63万人、神戸市1,51万人です。一体どれだけの浄水場とスーパーマーケットが必要なのか、想像できるでしょうか。モーセやアロンが直面していた問題がどれほど大きなものであったのか、考えさせられるのです。ですから、イスラエルの民が「荒野の旅を恐れ、エジプトに帰りたい」と思ったことも理解できるのです。多くのつぶやきがあり、モーセやアロンのリーダーシップに対する不満も時々爆発しました。
新約聖書は、イスラエルの民の荒野での経験は、[Ⅰコリ10:11
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです]と述べています。イエス・キリストを信じることで、必ずしも人生のすべての事柄が順風満帆に運ばれるということはないと思います。もちろん、罪や誘惑からもたらされる数多くの困難は避けることができるかもしれません。ただ、モーセ五書や箴言等にみられる「従順であれば、祝福。不従順であれば呪い」という“申命記”に記されている一般原則は必ずしも徹底されません。「祝福の約束」の成就という“順風満帆”思考は、ダビデ・ソロモン時代までであり、その後は「従順であれば、祝福。不従順であれば呪い」という“申命記”に記されている原則で、イスラエルは取り扱われます。
しかし、70年間の捕囚を経験したイスラエルの民は、帰還後の神殿やエルサレム再建期、すなわち「歴代志的歴史」といわれる時期には、患難や苦難に関するさらに深い思索が重ねられていきます。ある先生が言われました。クリスチャンの一年生は「わたしのためのキリスト」、二年生は「キリストとわたしが並んで歩き」、三年生になると「キリストの栄光のためのわたし」というステージに到達するのですと。イスラエルの歴史にもそのようなメッセージの発展がみられます。それらの中では「義人が苦難にまみえる」という問題が取り上げられているのです。旧約前半期の信仰は、「祝福の約束」が軸であり、「義人は祝福され、罪びとは呪われる」という“勧善懲悪”の強い傾向があります。
しかし、旧約後半期の信仰は、そのような“方程式”では、人生の奥義を解き明かすことはできないとの苦悩の色がみてとれます。旧約前半期は、小国を相手に連戦連勝を重ね、統一王国という黄金期、ダビデ・ソロモン王国における「祝福の約束の成就」をみます。しかし、旧約の後半期には、イスラエルの周囲には、アッシリア帝国、バビロン帝国、アレキサンダー王のギリシャ帝国、ローマ帝国等が出現し、その独立闘争は敗戦敗北の連続であり、迫害・弾圧・離散等、悲惨な運命をたどります。それで、イスラエルの預言者やヨブたちからは、「悪人が栄え、義人が苦難に合う」ことで“神に対する詰問”が行われます。そのような問いに対する神からの答えが「ハバクク2:4
正しい人はその信仰によって生きる」という言葉でした。その言葉の引用である、あの有名な「ローマ1:17
義人は信仰によって生きる」が、パウロの福音理解として、ローマ書で解き明かされます。
平時の信仰は、キリスト教を含め、あらゆる宗教が「家内安全、無病息災、商売繁盛、合格祈願、等」であるでしょう。信仰する対象が異なるとはいえ、わたしたちもまた「日用の糧、罪の赦し、試み・悪からの救い」を祈ります。しかし、クリスチャンであっても、家族が災害や事件に巻き込まれたり、事故や病気に苛まれたり、経済的苦境に陥ったり、受験や就職や結婚に失敗したり、長い人生においてはさまざまな災難・苦難に出くわします。そのような、大小の、いわゆる「患難期の信仰」は大切な要素です。日本は、高度成長期の右肩上がりの時代から、少子高齢化の時代は「ダウン・サイジング」の右肩下がりの、社会のあらゆるものが縮小していく時代に入ってきています。
イスラエルの歴史に重ね合わせれば、「祝福の約束があり、それが成就していく」希望に溢れた時代から、約束の地において「取り扱われ、ついには国土も王朝も、神殿も、すべてを失っていった」絶望の時代への移行とかさなります。本詩は、そのような時代に歌われた華やかな、朗らかなトーンの詩篇です。本詩には現実の「縮小・絶望ムード」とはほど遠い、信仰による「祝勝・希望ムード」が漂っています。これは「信仰による」ものです。それは、「小さな一本のローソクが、覆いつくした暗闇をふき払う」といわれるものです。信仰とは「絶望のただ中における一本のローソクのともしび、神の臨在のシェキナ」なのです。
最後の行に[114:8 神は、岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を水のあふれる泉に]とあります。これは、[114:2
ユダは神の聖所となり、イスラエルは神の領地となった]を受けています。イスラエルの民は、シナイ山の麓で、「神の幕屋」をつくるように命じられました。その至聖所に「金の香壇、全面を金でおおわれた契約の箱、箱の中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板」(ヘブル9:4)がありました。神は、この至聖所に、そのご臨在、シェキナを現されました。
この移動式の幕屋は、やがてダビデ・ソロモン時代に立派な神殿として建立されました。旧約における神のひとつの民としてのユダとイスラエルの中心エルサレムは[114:2
神の聖所]が置かれる場所となり、その国土は[神の領地]とされたのです。イスラエルの民は、40年間、ひと世代の期間、砂と岩でおおわれた荒野を旅してきました。その間のイスラエルの民の状態はどうであったでしょう。『キリスト教神学辞典』の一項目、「罪」で書かせていただいた資料を以下に紹介しましょう。
[聖書において、罪は最大の関心事のひとつである。人類史冒頭に現われている罪は、神の民イスラエルの歴史の中にも深い跡をとどめている。イスラエルは、民族としての誕生以来、その悲劇を幾たびとなく繰り返す。選民としての特典にあずかりながら、他の民にまさるとも劣らない罪の中にあった(ヨシュア24:2,14、エゼキエル20:7-8,18)。神がモーセに「証しの板」(出エジプト31:18)を渡された、ちょうどそのときにさえ偶像礼拝に陥った。荒野の旅路においても、神からの食べ物よりも、自分の好みにあった食べ物をむさぼった。聖書の歴史はイスラエルの支配者や民衆の不従順を強調している。それらの中には、罪の告発(Ⅰサムエル3:11,
13:13-14、Ⅱサムエル12:1-15、エレミヤ22:13)や続いて起こる災いの告知があり、預言文学
(申命27:15-26、エゼキエル18:5-9, 33:25-26)や、知恵文学(詩篇15、箴言6:16-19,
30:11-14)
にみられる。罪の指摘は、具体的かつ明細で、ヤーウェを捨てることがいかなる結果を生じるかを人々は悟る。それは、暴力・略奪・不正な裁き・虚言・姦淫・偽誓・殺人・暴利・権利の侵害などであり、要するにあらゆる種類の社会的不秩序である。これら旧約に列挙されている罪は新約聖書においても基本的に同様、性的紊乱と偶像礼拝と社会的不正が同列に並べられ(ローマ1:21-22、Ⅰコリント5:10-11、6:9-10、ガラテヤ5:19-21、エペソ5:3、コロサイ3:5-8)、そして黙示録には驚愕すべき終局が書き記されている。]
イスラエルの頑なさは、 荒野の[114:8
岩…硬い岩]のように固いものでありました。それは、ある意味でわたしたちの「自我」をも指し示しています。わたしたちは、イスラエルの民を「愚かだ」と冷笑することはできません。旧約の神の民の姿は「新約の神の民、クリスチャンの状態を映す鏡」なのです。わたしたちの頑なさもまた、
荒野の[114:8
岩…硬い岩]のように固いものであると知りましょう。神の御霊によって照らし出されましょう。ローマ7章にあるように、[ロマ7:24
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか]と叫びましょう。
わたしたちが、パウロにならって、そのように日々叫ぶ時、[ロマ8:10
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。8:11
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます]という、もうひとつの現実を経験することになります。
そうなのです。[114:3 海は見て逃げ去り、ヨルダン川は引き返した。114:4
山々は雄羊のように、丘は子羊のように跳ね回った。114:5
どうしたことか。海よ、おまえが逃げ去るとは。ヨルダン川よ、おまえが引き返すとは。114:6
山々よ、なぜおまえは雄羊のように跳ねるのか。丘よ、なぜ子羊のように跳ねるのか。114:7
地よ、主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に]という現実―紅海は両側が壁となって立ち、ヨルダン川もまた、せき止められ、道なきところに道を開きました。[出14:21
モーセが手を海に向けて伸ばすと、【主】は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。14:22
イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った]のです。
[ヨシ3:15
箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、3:16
川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。3:17
【主】の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた]とある通りです。詩人は、[114:3
海は見て逃げ去り、ヨルダン川は引き返した。114:4
山々は雄羊のように、丘は子羊のように跳ね回った]と海と川を擬人化し、山々と丘を家畜に例え、楽しい演劇のようにリズミカルに演出します。
W.B.アンダーソンは、エジプト帝国の歴史の中で「出エジプト」事件は、かき消される程度の出来事であったかもしれないが、神の民イスラエルにおいては「その民の起源」にまつわる大事件として繰り返し朗誦されてきたのであると記しています。イスラエルの民は、第二の出エジプトとも評される「バビロン帝国による捕囚生活」からの解放の経験の後に、本詩のような詩篇を朗誦し続けたのです。それは、荒野の[114:8
岩…硬い岩]のように固いイスラエルの民の、約束のど真ん中に[114:8
神は、水の潤う沢…水のあふれる泉]である、「神の臨在」の場所が開かれたことを回想しているのです。
このことは、「祝福の約束の成就」を「申命記的取り扱い」によって喪失し、「歴代志的歴史」の中で、黄金時代の栄光の回復を願うイスラエルの民にとって大きな励ましとなったことでしょう。「キリストの人格とみわざ」の洗礼を受けた詩篇として朗誦するわたしたちにとって、本詩114篇は[Ⅰコリ3:16
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられる]とあります。ローマ書では[ロマ3:24
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる]とあり、その小羊の血によって罪赦され、贖われたわたしたちの肉の内側に、[ロマ8:9
神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる]と言明し、この内住の御霊が、[114:8
岩…硬い岩]のように固いわたしたちの肉のこころを砕いて、[ロマ8:11
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださ]ると言っているのです。
これが、[114:8
神は、岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を水のあふれる泉に]の新約的な光の中での意味なのです。贖罪と内住の御霊の福音です。わたしたちの「肉」は、旧約のイスラエルの民で例証されるように、頑なな存在です。しかし、イスラエルの民がそうであったように、[114:1
エジプトから…出て来たとき]、わたしたちは[114:2
神の聖所]とされました。わたしたちの内には、天地万物を創造された主が、御霊によって臨在されているのです。それは、3-7節で描写されているように、いわば「天変地異」が起こりうるような状況なのです。海が逃げ去り、川が引き返すような、洪水や大津波や線状降水帯が止まるような出来事なのです。
山々や丘が跳ねる、いわば「地の基」が大地震で振り動かされるように、喜び飛び跳ねるほどの経験なのです。この詩人の描写を読みますと、わたしたちは、神がわたしたちの存在の深みに[114:8
水の潤う沢…水のあふれる泉]である「神の臨在」の場所が開かれたことへの“驚嘆の欠如”、日々瞬々[114:7
主の御前]に、「臨在(シェキナ)」のただ中にあるにも関わらず、そのことの重大性への“畏怖”―モーセのように履き物を脱ぐ(出3:5)こともなく、イザヤのように唇の汚れを意識(イザヤ6:5)こともなく、過ごしているのではないでしょうか。水や食料の不安のただ中にある荒野でも、40年間のイスラエルの民の荒野の旅程のど真ん中に「幕屋があり、主の臨在」がありました。
日本における教会は小さく、少子高齢化の時代の「荒野」を旅しています。コロナの影響もあり、礼拝出席も献金も低下傾向である教会も多いことでしょう。そのような時に、イスラエルの民のような不安があふれ、つぶやきも起こりやすいものです。しかし、そのような時にこそ、イスラエルの詩人の信仰にならい、[114:7
地よ、主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。114:8
神は、岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を水のあふれる泉に]と告白し、自然界に天変地異が起こった時のような“驚嘆”を、“畏怖”の意識を大切にして歩んでまいりましょう。このような詩篇がバビロン捕囚後、第二神殿時代に編集され、「暗闇のただ中におけるローソク」として朗誦され続けたことに留意してまいりましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』、U.ヴィルケンス『EKK新約聖書註解
Ⅳ/1,2 ローマ人への手紙』)
2023年7月9日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇113篇「主は高い御位に座し、身を低くし」-地下室に降りていく「謙卑の教理」の価値観に生きる-
https://youtu.be/dytaOOoZL8A
詩篇111篇から118篇は、「ハレルヤ歌集」と呼ばれる箇所です。「ハレルヤ」という言葉は、「ハレルー・ヤハ」の意味で、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」、すなわち「主をほめたたえよ」を意味しています。この歌集の113篇から118篇までは、114篇が「出エジプト」を主題とするものであり、「エジプトのハレルヤ歌集」と呼ばれるものです。ユダヤ教では、113篇と114篇を過越しの食事の前に、115篇以下を食後に歌う慣習が生まれました。イスラエルの民にとって、出エジプトは「奴隷生活」からの解放の経験でした。わたしたちの出エジプトは「イエス・キリストの十字架のみわざによる、罪と死と滅びの奴隷の生活」からの解放であります。「奴隷状態の生活」から解放されたイスラエルの民は、v.1-4で心より神をほめたたえるよう招かれています。そしてv.5-6で神がどのようなお方であり、v.8-9でその神はどのようなことをわたしたちになしてくださるのかを説明しています。今朝、「罪と死と滅びの奴隷の生活」からの解放されたわたしたちもまた、「主をほめたたえる」よう招かれています。そして、わたしたちが「ほめたたえる神はどのようなお方」なのか、そして「その神はわたしたちに何をなそうとしておられるのか」を知ってほしいと願っておられます。そのような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 113 ]
A. 「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」への招き
B.天上に座しつつ、自らを低くする神
C.弱い者、貧しい者を引き上げ、座につかせられる
この年齢になりますと、親や先輩たちが同様の年齢であった時のことを「あの頃、こういうふうなことを語っておられたなぁ」と思い出します。所属団体JECの理事長を長くつとめられた、故我喜屋光雄師は「クリスチャン生活には、“キリストを信じる”
という側面と“キリストを生きる”という側面がある」とよく語られました。組織神学者、牧田吉和師からは「キリスト教教理を信じるという側面とそれを生活化する」という両面をよく教えられました。本詩に繰り返し傾聴しておりますと、信仰の先輩方のそのような言葉を思い出すのです。
1-3節では、[113:1 【主】の御名を、113:2 【主】の御名が、113:3
【主】の御名が]と、節ごとに繰り返され、このお方を讃えることが促されています。促しを受けるのは、[113:1
【主】のしもべたち]です。この種の表現は、通常、主を礼拝するためにエルサレム神殿に集う会衆が念頭に置かれます。しかし、[土地の相続と子孫の祝福、神の支配される国]というアブラハムへの祝福の約束とダビデ王朝の存続の夢は、神の申命記的取り扱いの下で、王朝は滅亡し、土地は失われ、民は世界に散らされてしまいました。しかし、[113:1
【主】のしもべたち]は、散らされたそれぞれの場所で少人数で集まるシナゴークという会堂と聖書に傾聴することをもって存続し続けました。
王朝が滅亡し、国土を喪失し、全世界に散らされ、シナゴークという会堂が発展させられた時代に、このような歌が歌われたことに感動を覚えます。苦難の中で、絶望に打ちのめられた[113:1
【主】のしもべたち]にとって、力強い励ましであったに違いありません。「見える現実、置かれた状況」は、絶望的かもしれません。しかし、上を仰ぎ見るとき、そこに「主」がおられます。「見える現実、置かれた状況」は変わらないかもしれません。あるいはさらに悪化していく場合もあるでしょう。しかし、上を仰ぎ見るとき、そこに「主」がおられます。わたしたちには、どんな状況・境遇にあっても「ほめたたえうるお方」がおられるのです。もしかしたら、わたしたちのある方は、否定的状況のただ中にあるかもしれません。しかし、その否定的状況のただ中で「賛美に、感謝に、喜びに」溢れることが可能とされているとは、なんと素晴らしいことでしょう。そこがエジプトであれ、バビロンであれ、アウシュビッツであれ、ウクライナであれ、わたしたちには、「仰ぎ、ほめたたえるべきお方」がいてくださるというのです。
その「ほめたたえ」は、時間的には[113:2
今よりとこしえまで]であり、わたしたちは今より無制限に、永遠に主を仰いでほめたたえ続けてよいのです。賛美に溢れ続けることがゆるされているのです。それは、わたしたちの人生の最初からであり、召されるその日、そして新天新地に至るまでです。苦しい時、悲しい時、孤独な時、主を仰いで「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」と主をほめたたえましょう。主にある「元気、活力」が湧いてきます。暗闇に「光」が灯ります。どよんだ血流に、なまった心身に、「そよ風」が吹き抜け、谷川の渓流のような「清流」が流れ始めます。そこでまた、
「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」と内住の御霊のエコーがこだまするのを耳にすることでしょう。
その「ほめたたえ」は、空間的には[113:3
日の昇るところから沈むところまで]と広げられています。旧約初期には、約束の地は「カナンの土地」に限定されていましたが、主の申命記的取り扱いにより「
113:1 【主】のしもべたち」を[113:3
日の昇るところから沈むところまで]散らされてしまいました。それは、主の摂理的漸進的啓示の機会であり、民族主義な約束と受けとめられていた「アブラハムへの祝福の約束」は、「地のすべてのやから」を対象にした民族を超えた「普遍主義的な福音」であるとの萌芽を見ることができます。また同時に、ここに主の摂理的な慈しみとあわれみが溢れています。それは、エジプトのヨセフの生涯において、[創50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らい]という罪や誤り、失敗さえも、[ロマ8:28
すべてのことがともに働いて益]と、“肥やし”と活用してくださる主の働きです。ですから、わたしたちは、自らの愚かさがあったとしても、それをいつまでも悔やむ必要はありません。そのように不安な思いがあなたの心のドアをノックしてくる時には、「わたしにはわたしの「罪、誤り、失敗」を最良のかたちで“肥やし”として活用してくださる主がついておられる。神はそれを、良いことのための計らいとしてくださる」と返答して、その”押し売り”、”訴え”を追い払うことができるのです。
約束の地での偶像礼拝や不道徳によって、[113:3 日の昇るところから沈むところまで]散らされた[113:1
【主】のしもべたち]は、[113:4
【すべての国々の上に]高くおられる主を証しするために用いられました。長期間、ひとつの民の中で醸造された、いわば「薫り高い葡萄酒の樽」が、アッシリア捕囚や、またバビロン捕囚によって破られ、
[113:3 日の昇るところから沈むところまで]届けられ、[113:4
すべての国々の上に]高くおられる主が証しされることとなったのです。これらのことは、時満ちて、福音が伝えられるときの大いなる準備となりました。
さて、[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]と賛美してやまない[113:5
私たちの神【主】]は、どのようなお方なのでしょうか。わたしたちが天を仰ぐと、そこには主が[113:5高い御位に座し]ておられるのを見ます。わたしたちは、[使2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださった]ことを知ります。この[113:5高い御位に座し]ておられる主は、どのようなお方なのでしょうか。[113:6
身を低くして、天と地をご覧になる]とあります。
さて、6節の[[113:6
身を低くして]とはどういう意味なのでしょう。わたしは、ここに『キリスト教教理入門』という「謙卑の教理」をみます。この世の高位にある人たちのようではなく、わたしたちの主は、
[113:5高い御位に座し]そこにふんぞりかえっておられるような方ではありません。わたしたちが[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]と賛美してやまないお方は、そのような高慢ちきなお方ではありません。
わたしたちの主は、 [113:6
身を低くして]わたしたちと関わってくださるお方なのです。この箇所は、「なぜ神が人となられたのか」をも指し示しています。[ピリ2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました]という箇所です。そうなのです。わたしたちの主は、[マタ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます]と、語りかけてくださる謙遜なお方です。この教えのことを「謙卑の教理」と申します。聖書の中心的教えである「キリスト論」の最も大切な教えのひとつです。はっきり言えることは、内住の御霊は、この「謙卑の教理」を生活化、人生化、わたしたちの人生、奉仕生涯の原理・原則として確立することを目標としておられる、ということです。
また、わたしたちが[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]とほめたたえてやまないお方は、[113:7
主は弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ]てくださる方です。わたしたちの世界、またわたしたち自身も、また教会の間ですら、「どんぐりの背比べ」のように、他者と比べて評価しあってやまない競争社会に生きています。そして、他者と比べて、他の教会と比べて「教勢の優劣」を争うのです。そして、ときに「勝った」と思って優越感に浸り、ときに「負けた」と受けとめて打ちひしがれたりするのです。わたしたちが「主にあって生きる」「キリストを生きる」「教理を生活化する」というとき、御霊はみことばを通し、このような優越感や劣等感に打ち勝つべきと教えてくれます。
ある時期に、[人生は「勝ち組」と「負け組」で分けられる]という考え方が流行したとき、ある牧師がおもしろいことを言いました。わたしたちの世界は、「勝ち組」と「負け組」のふたつに分けられるのではない。真の価値に生きたかどうかの尺度で測る「価値組」というものがあると。そうなのです。わたしたちは、目に見えるところだけをみて、
「勝った」と思って優越感に浸ったり、「負けた」と受けとめて打ちひしがれる「永遠のジェットコースター」のようであってはいけません。わたしたちは、なによりもまず、キリストにある「価値」の生き方を学ぶ者でありつづけたいものです。本詩から教えられる「キリストにある価値」の生き方とは何でしょうか。
わたしがまだ「青二才の神学生」であった頃の話を申し上げましょう。その頃、教会成長運動やリバイバル運動の熱気にあおられやすいわたしたち神学生に対して、恩師のひとりスンベリ院長は「クリスチャンの成長とは、階段を上へ上へと昇っていく華々しい成長ではない。クリスチャンの成長とは、地下室へと降りていく慎ましやかな成長である」と諭されたことを忘れることができません。そのとき、わたしは「奉仕生涯を評価し、測るキリストの尺度の本質」を教えられたような気がしたのです。もちろん、見えるところの「成功、祝福」は、確かに大切かもしれません。しかし同時に「失敗とか挫折」の中にもキリストにあって、内住の御霊により形成され続けた「奉仕生涯の価値」があるように思うのです。
私たちの主、[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]とほめたたえてやまないお方は、[113:6
身を低くして、天と地をご覧に]なっておられるお方です。主は、[弱い者、貧しい者を引き上げ、座につかせられる]お方です。主は、この世において、また教会においても、失敗者・挫折者と思われる者、[113:7
弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ]ようとされる素晴らしいお方です。コリント書に [Ⅰコリ1:26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。1:27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。1:28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです]という言葉があります。神さまは、救われたわたしたちも、また献身して奉仕者として立てられた者にも、このように「この謙卑と高挙の教理を実践」しておられます。[113:7
弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ]る原理をわたしたちの人生において実践しておられます。
本詩の最後には、[113:9
主は子のいない女を、子を持って喜ぶ母とし、家に住まわせてくださる]とあります。これは、古代イスラエルにおける社会的弱者、貧困にあえぐ人たちの代表として、「子供を産めないために離縁を言い渡され、家を出て行かねばならなかった女性たち」の絶望が取り上げられているのです。わたしたちは、わたしたちの周囲を取り囲む大小の絶望をここに入れ込むことができます。また、今日的にはこの箇所から、ロシアに子供たちを奪われ、二度と再会できないかもしれない不安・恐怖にさいなまれたウクライナの母親たちが、長い旅をして子供たちを見つけ出し、再会し、走り寄って力強く抱き合い、ほおずりし、キスしてやまなかった「親子の喜びの爆発」を思い浮かべます。わたしたちは、私たちの主、[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]とほめたたえてやまないお方は、そのようなお方であることに心を留めましょう。この詩篇においても、「申命記的尺度・価値観」の深みにある「ヨブ記的尺度・価値観」を垣間見ることができるのではないでしょうか。わたしたちは、
賛美するとき、心の片隅で、常に[113:5
だれが私たちの神【主】のようであろうか]と自問し、[主は高い御位に座し、113:6
身を低くして、天と地をご覧になる]と自答しつつ、[「ハレルー・ヤハ」、「ヤハ(ウェ)を賛美せよ」]とほめたたえることにいたしましょう。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、エリクソン『キリスト教教理入門』、牧田吉和『改革派教義学』)
2023年7月2日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇112篇「光は闇の中に輝き昇る」-主よ、お話しください。しもべは聞いております-
https://youtu.be/n378d4xu10A
詩篇111篇から113篇は、いずれも「ハレルヤ」で始まり、特に111篇と112篇には密接なつながりがあります。この二篇はアクロスティック、すなわちアルファベット詩であり、二十二行の最初の文字がヘブル語のアルファベットの順番になっています。二つの内容を比較してみますと、前者が「イスラエルの救いの歴史と約束を想起して、神のみわざを讃える」のに比して、後者すなわち本詩は「神を畏れる人の幸い」をうたう教訓色の強い「知恵の詩篇」となっています。特に、本詩のその牧歌的な描写は幾分「ヨブ記」の描写にも似ています。そのような視点から本詩に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 112 ]
A.第一詩節:申命記祝福の公式―ヨブ記にみる牧歌的祝福
B.第二詩節:申命記祝福の深層にあるもの―ヨブ記にみる暗転する生涯
C.第三詩節:神のヘセドに満たされて生きる―ヨブが直に見たもの
D.結び
本詩は、第一詩節の[112:1 【主】を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人]をもって始まり、[112:2
その子孫は…、直ぐな人たちの世代は祝福され]、[112:3
繁栄と富はその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ]という申命記28章でみられる「祝福と呪い」の公式が展開しています。このような情景は、ヨブ記冒頭にも見られます。[ヨブ1:1
ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた]。そして[ヨブ1:3
彼は羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった]というのです。
このような「祝福と呪い」のライフスタイルの捉え方は、「人生を観察し、まったき生活を奨励する」箴言にもみられるものです。そこには、「平時」の信仰、「右肩上がりの経済」の世界における要素もまたみられます。確かに、イスラエルの民の歴史も、わたしたちの人生も、「順風満帆」の年月はあるでしょう。教会にも、魂は救われ、教会は成長し、経済は潤う季節があるでしょう。しかし、オイルショック、バブル崩壊、震災や津波や原発被害、さらには近年のコロナ感染やロシアのウクライナへの侵攻等―その時代その時代の社会経済的状況に、教会もわたしたちの人生も影響される「危機の時期」もまたあります。先日の牧師会でお聞きした報告には、ここ数年で教会員の高齢化の進展等で教会の活動力にもかげりがみられてきた、ということでした。これは、日本社会全体の傾向であり、少子高齢化の影響は地方ほど深刻な問題となってきています。それが加速度的に進行していっているのです。
第二詩節に入ると、[112:4 光は闇の中に輝き昇る]と情景が変わります。ヨブ記に、[ヨブ1:11
しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません]とあるように、不可抗力の中で、敬虔で繁栄と富に満ちた幸せ一杯の牧歌的な風景が、突如として暗転するのです。敬虔な信仰者であるヨブは、富も家族も、そしてやがては健康も、友人たちも失っていきます。そうなのです。わたしたちの地上の人生というものには、[[112:4
闇の中に]という側面が伴うのです。いろんな闇があるでしょう。ポール・トゥルニエの『人生の四季』という本には、人生には春・夏・秋・冬の四季のような変化があるので、その変化を受け入れ、適応していくことが大切である、と教えています。特に、夏の活動期に華々しく用いられていた人は、秋・冬の到来で「活動の場」が閉ざされていく時に、精神的な負担を感じることがあるのです。
トゥルニェは、人生の季節の変化により「力の衰え」を感じ、「無用の存在」となってしまったのだ、「輝きを失っていく」意識にさいなまれる時期の秘策を提言しています。人生の夏の尺度が「活動第一主義」「功績第一主義」であったとしたら、人生の秋には「別の尺度」が必要なのではないか、というのです。教会にも、「礼拝出席」や「献金総額」という、いわゆる「教勢第一主義」的な評価基準があるように思います。それも大切な要素であるのでしょうが、それだけが聖書において、奉仕生涯が評価される基準ではないと思います。
第二詩節は、[112:4
光は闇の中に輝き昇る]をもって始まります。人生の活動期の夏には、活動の「外面」で、「量」で物事は評価され、判断されます。しかし、人生の輝きに徐々にかげりが見え、その輝きを失っていく季節においては、人生のもっと深い側面、すなわち、生の「内面」また「質」「意味」において、評価を探求するようになる、というのです。若い頃は、活動的で[112:2
勇士]のようであり、多くの人が導かれ、教会も[祝福され]たことでしょう。経済的にも潤い、[112:3
繁栄と富はその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ]と希望に燃えられたことでしょう。しかし、すべての教会が、すべての教職者がそのような牧歌的な[112:3
繁栄と富]の中で奉仕生涯を終えられるわけでありません。特に、少子高齢化の波をもろにかぶっている地方の教会は存亡の危機の中にあるといって良いでしょう。
では、わたしたちはどのようなかたちで奉仕生涯の秋また冬の季節を迎え、また終えることができるのでしょう。それは、この季節には、[112:1
【主】を恐れ]仰ぐとき、[情け深く、あわれみ深]いお方との出会いと交わりが豊かにあるのです。この季節に、わたしたちはもはや[112:2
勇士]ではなく、[祝福]、[112:3 繁栄と富]とは、縁遠い存在となっているかもしれません。しかし、この季節に[112:1
【主】を恐れ]仰ぎ、 [情け深く、あわれみ深]いお方と深く交わっていくとき、わたしたちは、主に感化され、[112:5
情け深い]ものとされ、[情け深く]人と接していく者とされていくのです。もはやそこには成功者の姿はなく、失敗や挫折に打ちのめされ、「謙遜」を学ぶ主のしもべの姿のみがみられるようになるのです。そこには、誇るべき奉仕もなく、教勢もなく、ほこれるものといえば「主」以外にはなくなった者がいるだけです。
ジョン・V・テイラーは『聖霊とキリスト教宣教―仲介者なる神』で「宣教の奉仕者は、活動主義(アクティビズム)の病に陥っている。最も大切なことは慈悲の心に浸されることであり、その慈悲の心を伝染させることである」と語っています。わたしたちは、季節の変わり目においては、衣類や布団等を入れ替えます。同様に、人生の変化の節目において、人生を評価する「尺度」を入れ替えていく必要があるのです。この点に留意していけば、自己評価において[112:6
揺るがされない]者となることができるでしょう。活動期ほどには人には評価されなくなった。注目されなくなったとしても主にあって[とこしえに覚えられ]ていると自覚できるからです。人の目を気にしてはいけません。鼻から息をする者の評価を心にとめては罠に陥ります。
第三詩節では、夏の扱いと秋・冬の扱いとの変化から受けとめられる[112:7
悪い知らせを恐れず、…心は揺るがない。112:8
その心は堅固で恐れることなく、自分の敵を平然と見るまでになる]とあります。人生の夏には、最前線での戦いにあけくれるのですが、人生の秋にはどこか“達観した”視線が与えられます。人生の夏には、戦いの最中にあるのですが、人生の秋に将棋におけるは「感想戦」のように落ち着いた風情があります。[112:1
【主】を恐れ、その仰せを大いに喜び]、[112:2 祝福][112:3
繁栄と富]があった―牧歌的幸福感に満ちた風景ではじまったヨブ記では、 [112:7 悪い知らせ]が届き、[112:4
闇の中に]放り込まれた描写があります。これは、わたしたち信仰者にとって、「救いの書」です。というのは、わたしたち信仰者は、大なり小なり「人生のドラマの暗転」を経験するからです。そのような時に、申命記的な「因果応報」の表面的な信仰理解では、ヨブの友人のように、「罪をおかした」ことが原因ではないかと、受けとめてしまう危険があるのです。
聖書の初期には、人生に申命記的な「従順には祝福、従順には呪い」とい公式があると記されています。しかし、この公式では解きえない難問もあるのです。つまり、「従順な者が苦難にまみえる」ことがあるのです。1-3節で提起された「従順→祝福」公式は、4-6節で受けとめられ、7-9節「苦難→祝福」と苦難や不幸のただ中で「祝福」とされる不思議な世界が明らかにされます。1-3節で「敬虔な人→祝福・繁栄・富」と提起された公式は、4節以降で「闇の中」に放り込まれ、「悪い知らせ」や「敵」と直面させられます。
しかし、そのような苦難のただ中で、[主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人]の本領は発揮されます。「繁栄とか富」、「名誉とか地位・評判」という羽は剝ぎ取られ、その人の「本質的人格」が表出します。その人の「敬虔さ」は、ヨブ記でサタンが
[1:9 サタンは【主】に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。1:10
あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。1:11
しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません]と指摘したようなものではありませんでした。
神と自分を隔てるすべてを剥ぎ取られたヨブが[ヨブ42:5
私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました]と、ヘセドの主、すなわち[112:4
情け深く、あわれみ深]い主と“直々に”、[Ⅰコリ13:12 顔と顔を合わせて見]たときに、[112:1
【主】を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人]の深層を照らされました。それは、その義人の根拠が[112:4
情け深く、あわれみ]いお方によるのだと。そのお方から流れ出る[112:5
情け深]さ、“慈悲の心”に浸されて、それを溢れさせ、隣人に、社会に伝染させていくことなのだと。
本詩は、困窮者を支援しうる比較的裕福な社会層を念頭において編まれた「教訓的な詩篇」とも言われています。古代においては、今日のような社会福祉や生活者保護のシステムはありませんでした。それで、社会的に弱い立場におかれた人々を保護する社会法を踏まえた詩篇も編まれたのです。わたしたちの時代に、わたしたちの人生の季節に、どのようなことがなしえるでしょうか。[112:1
【主】を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人]の深層を照らされ、 [112:4 情け深く、あわれみ]いお方から流れ出る[112:5
情け深]さ、“慈悲の心”に浸されて、それを溢れさせて、何を[112:9 惜しみなく分け与え]ることができるでしょうか。
それは、ひとりひとりにおいて違いがあると思います。無限の多様性があると思います。キリストによって贖われたわたしたちの存在に、ちょうどプリズムに光が注ぎ込まれると「七つの色」に分色されて新たな光が放たれるように、わたしたちの存在に、神の
[112:4 情け深さ、あわれみ]
の光が注ぎ込まれるとき、わたしたちの個性と賜物、またその生涯の歩みの中で収穫してきたさまざまの結実があるでしょう。わたしの場合は、神学教師としての神学の研鑽とその結実である翻訳・講義ビデオ・小冊子等がそれにあたるのかもしれません。
わたしは今、活動期の夏を終え、収穫期の秋を迎えています。ほとんどフル回転、全力疾走できた40数年でありました。年齢により、奉仕の場がなくなった時、一抹の寂しさ、孤独感のようなものがありました。しかし、そのような闇の中で、主を仰いだ時、[112:4
光は闇の中に輝き昇る]ことを教えられました。そうなのです。奉仕生涯の夏だけでなく、秋にはその季節にふさわしい奉仕の可能性が、冬にもまたその季節にふさわしい奉仕の可能性が無限に開かれているのだと。ただ、わたしに必要なことは、慈悲の神と深く交わることにより、慈悲の心に満たされて、主が示されるものを「必要とされる人々」に[112:9
惜しみなく分け与え]ていくことだと。わたしたちは、それぞれ、ひとりひとりに年齢、季節、それぞれの個性と賜物等において、それが与えられています。あなたにとって、それは何であるのでしょうか。そうです。わたしたちは、そのような意図をもって、サムエルのように申し上げましょう。お聞きしまょう。尋ねましょう―[Ⅰサム3:9
『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』]と。祈りましょう。
(ポール・トゥルニエ『人生の四季』、J.V.テイラー『仲介者なる神』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』)
2023年6月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇111篇「私は心を尽くして、主に感謝をささげよう」-信仰生活の「手ヒレ・足ヒレ」また「補助輪」-
https://youtu.be/nt8Mh_qa7G0
齢70近くとなり、健康のためプールに通っています。最初は、平泳ぎしかできなかったのですが、今はクロールや背泳ぎができるようになりました。クロールを泳げるようになるために、手ヒレ・足ヒレを購入し、からだが水面近くを滑るように泳げるようになる感覚を養いました。ちょうど、幼い子供が最初に自転車に乗るときに「補助輪」をつけて練習するようにです。クリスチャン生活における「詩篇」の関係は、主とともに生きる「祈りの生涯」における「手ヒレ・足ヒレ」また「自転車の補助輪」のような役割を果たしてくれるように思います。そのような視点を抱いて本詩111篇に傾聴してまいりましょう。
(概略)
詩[ 111 ]
A.感謝と賛美の決意(1)
B.神の偉大さ・出エジプト(2-4a)
C.荒野の旅程・約束の地(4b-6)
D.神の慈しみ深い善良さ(7-8)
E.エジプトの奴隷生活からの贖い、申命記的歴史から得る洞察(9-10)
本詩111篇と112篇は、一対の詩篇と言われています。これらは、一組の詩篇であり、二枚折りの板に書かれたようなものです。両方の詩篇が、「アクロスティック」といい、各行の冒頭がヘブル語のアルファベットの文字で始まっています。いうなれば、ヘブル語による「いろは歌」なのです。両方の詩篇が「ハレルヤ」で始まります。前者は「神の偉大なみわざ」を強調し、後者は「共同体の反応とその結果」を強調しています。わたしたちは、これらの詩篇をどのように傾聴すれば良いのでしょうか。どのように理解し、受けとめたら、わたしたちの信仰生活の「手ヒレ・足ヒレ」また「補助輪」とすることができるのでしょうか。
本詩のような「いろは歌」―アルファベットの「A~Z」、すなわちヘブル語の「アレフ~タブ」までの22文字すべてを頭文字とした詩篇は、詩でなんらかの「完全性」「全体像」を示そうとしています。本詩111篇の構成は、[A.感謝と賛美の決意である、111:1
私は心を尽くして、【主】に感謝をささげよう]で開始され、[E.エジプトの奴隷生活からの贖い、申命記的歴史から得る洞察、111:10
知恵の初め、それは【主】を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る]で終わります。これは、何を意味するのでしょう。
[箴1:7
【主】を恐れることは知識の初め]は、「箴言理解の鍵の言葉」であり、祝福される人生を生きる「最も基本的な原理」であるといわれるものです。この「主を恐れる」とはいかなる意味をもつ言葉なのでしょう。人生において、もっとも大切なこと、まず最初に、第一とすべきことは何なのでしょう。それは、「主」を意識することです。聖書の最初は「創世記1:1
はじめに神が…」という言葉で始まります。出エジプトの十戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」で始まります。その意図されているところは、「罪は、神を神たらしめることに失敗することである。それは神のものである最高の座に、ほかの何かを置くこと」なのです。
使徒パウロは、新約のローマ書で「罪の神学」の本質を[ロマ1:21
彼らは…、神を神としてあがめず、感謝もせず]と鋭く指摘しています。このような聖書全体の文脈、また福音理解全体の脈絡でみていきますときに、本詩のメッセージが聴こえてくるように思います。結びでの[111:10
知恵の初め、それは【主】を恐れること]と、書き出しの[111:1
私は心を尽くして、【主】に感謝をささげよう]は、本詩のメッセージの「背骨」として真っすぐにつながっているのです。北海道と本州の青森は海で隔てられているように見えますが、海の底深くにある「青函トンネル」でつながっているように、「
111:1 心を尽くして、【主】に感謝」と「 111:10 知恵の初め、それは【主】を恐れること
」は、本詩を貫通しているのです。
2-4a節では、[111:2 【主】のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。111:3
そのみわざは威厳と威光、 111:4
主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた]と、神の民イスラエルにとって、忘れることのできない神の偉大なみわざとしての、「出エジプト」の出来事が振り返られています。神論でいえば「神の偉大さ」の教理にあたります。新約のイスラエル、神の民であるわたしたちにとっては、出エジプトを下地とする「カルバリにおける、十字架の出来事」にあたります。イスラエルの民が、繰り返しエジプトでの奴隷労働から贖い出された「出エジプトの出来事」を振り返り、「
111:1
心を尽くして、【主】に感謝をささげ」たように、わたしたちも罪と死と滅びの奴隷状態から救い出された「カルバリの出来事」を振り返り、
「 111:1
心を尽くして、【主】に感謝をささげ」る者とされましょう。ただただ、「感謝」慣れしてしまう者でなく、御霊に助けられて、いつも、絶えず、すべてのことにおいて、そこを基点として「
111:1 心を尽くして、【主】に感謝をささげ」る者へと育まれてまいりましょう。
4b-6節は、40年間の[C.荒野の旅程と約束の地]の相続が記されています。神論でいえば、「神の慈しみ深い善性」の教理にあたります。[111:4b情け深くあわれみ深い]神は、[111:5
主を恐れる者に(マナやうずらの)食べ物を与え]に与えられました。イスラエルの40年間の旅程には、他の民族にまさるともおとらぬ罪の数々が溢れました。しかし、そのことを神は忘れてくださったかのように触れられず、ただ父祖アブラハムやダビデ王家とその子孫への[ご自分の契約をとこしえに覚えて]くださっている誠実な神が描かれています。40年間の荒野の旅程は、わたしたちクリスチャンの生涯の「下絵」です。わたしたちの人生は、「山あり谷あり」「光あり、闇あり」「朝があり、夕があり」「祝福があり、苦難があり」「平和があり、戦いがあり」「安らぎがあり、葛藤があり」―そこには潮の満ち引きがあり、それはジェットコースターのようであり、それゆえにわたしたち信仰者の人生には、その下絵となり、下地となりうる「詩篇」が必要なのです。「詩篇のほめたたえ、詩篇の嘆き」それは、数千年にわたる神の民のほめたたえと嘆きを、わたしたちの人生のただ中に「給油・注入」して生きる人生です。昔、油絵を描いていて、教えられたことがあります。「色をひとつ加えるだけで、その絵の印象が一変」するのです。
6節は、[111:6
国々のゆずりの地をご自分の民に与え]てくださるとあります。旧約のイスラエルの民においては、それは「カナンの土地」でありました。これは、新約においてはキリストにある普遍主義おいて「特定の民族主義」の視野は消失しています。それゆえ、今日のイスラエル国家によるヨルダン川西岸地域への入植地拡大に聖書的・キリスト教的根拠はありません。そのような教えを吹聴する運動は間違っています。「申命記的歴史」といわれる神の取り扱いの中で、見えるところの国土もダビデ王朝も滅んでしまいました。これもまた、新約においては、キリストにおいて昇華されています。しかし、神の「本質的意図」としての[111:6
ゆずりの地]は、カルバリの十字架のみわざの結実として、「新天新地」というかたちで普遍的・発展的に継承されています。わたしたちは、その意味における[111:6
ゆずりの地]を目指して、地上の旅を続けています。ここに、新約の福音の意義があります。
わたしたちが導かれ、目指しているゴールは、「カルバリの出来事」により、「聖霊のみわざ」によって「贖われる被造物世界」の相続です。わたしたちの地上における旅の意味するところは、「新天新地」において相続する御霊の恵みを、今日の世界に「投影」するように、「その前味」を幾分かでも反映させることです。ここに、クリスチャン生活の意義があります。今日の世界には、ロシア対ウクライナの間にみられる戦争もあります。地球の各地には難民が溢れています。環境問題、男女の問題、LGBTQの問題等々において、キリスト教会はいかなる光を放つべきなのかが問われています。ときどき、議論が分かれるところで、きわめて浅薄な聖書観・神観・人間観に基づいた主張がなされているのは悲しむべきことです。心が痛みます。わたしは、難しい問題・課題については、あまり「短絡的な解答」に終始するのではなく、それらの議論の前提・聖書解釈ついてのさらなる深みのある継続的な研究、そして今日的適用に慎重に取り組むべきだと思います。
“The Eternal Word in The Changing
World”―『変化する世界における永遠の言葉』という題名の本があったように思います。わたしたちは、イスラエルの民が[111:9
主は御民のために贖いを送り]と「エジプトの奴隷生活」から贖い出されたように、罪と死と滅びの立場から救い出された者です。それは、イスラエルの民が約束の地カナンで、[御名は聖]であり、[111:7そのすべての戒め]が[真実と公正]をもって導き、統治される神の下での生活のように、「カルバリの十字架の原理」に従って働かれる「内住の御霊」に導かれ、神のみ旨の歴史的・文化的表現である十戒とその展開である諸律法・みことばから、普遍的本質を抽出し、新たな時代・状況・文化のただ中で、その神のみ旨の本質をコンテクスチュアライズ、すなわちキリストが「まったき人」となられたように、「受肉」させていく不変の努力が必要と思います。神の本質的なみ旨―それは、事とテーマによっては、簡単なことではありません。そこでは、聖書観・聖書解釈・福音理解の形成・今日的適用において、再構成・再適用の多様性は一層増し加わってくるやもしれません。そのような領域においては、単細胞的な福音理解は、ときに偏狭な「パリサイ人や律法学者」のように「杓子定規」にしか物事を考えられない、捉えられない人たちもあらわれてきます。しかし、どのような困難が待ち受けているとしても、わたしたちは[D.神の慈しみ深い善良さ]を信じ、告白します。[111:7
御手のわざは真実と公正、そのすべての戒めは確かである]と。[111:8
それらは世々限りなく保たれ、真実と正しさをもって行われる]と。わたしたちには、幾分の謙遜さが求められているように思います。
わたしたちは、あるテーマや課題については「Ⅰコリント13:12
鏡にぼんやりと映る」ようにしか扱いえないかもしれません。意見が分かれ、厳しく対立する事例も出てくることでしょう。しかし、基本的・原理的な姿勢においては一致していると思います。それは、最後の詩節にあるものです。[E.エジプトの奴隷生活(すなわち罪と死と滅びの奴隷生活)から贖]われた(
111:9 贖い)私たちは、[申命記的歴史から得る洞察(
111:9ご自分の契約)]に基づき取り扱い、偶像崇拝と不道徳にまみれた国を滅ぼし、その王朝を絶たれ、[111:9
主の御名は聖であ]ることを明らかにされました。そのような神の摂理的取り扱いを通して、イスラエルの民は、[111:10
【主】を恐れること]を学びました。わたしたちも、このような詩篇を傾聴することにおいて、朝毎に、夕ごとに、日々、主への畏れの意識の下に、「111:1心を尽くして主に感謝」をもって生活してまいりましょう。では、祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』、“Psalms”、B.W.アンダーソン『深き淵より』、月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』)
2023年6月18日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇110篇「あなたの若さは朝露のようだ」-神秘にふれ、聖なる威光をまとわせられ、「若さ」がよみがえる-
https://youtu.be/ChCz809B_kM
ながらく運動不足でありましたが、「70歳前後の運動生活が、80-90歳台の健康維持に大きな影響を及ぼす」という言葉に励まされて、毎日無料の温水プールに30分通っています。なまっていた全身の節々も、健全さを取り戻してきたようで助かっています。とくに、泳いだ後は、「からだの中を風が通り過ぎていく」ような爽やかさがあります。「よどんでいた血流が、谷川の渓流のように流れていく」―そんな感じを受けます。本詩の詩句のすべてが素晴らしいものなのですが、年齢のせいなのか―[110:3
あなたの若さは朝露のようだ]は、特に響きます。そのような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
(詩篇110篇 概略)
・ダビデの家系に属し、典型としてのダビデをはるかに凌駕する真の王
A.王の戴冠式 110:1
B.王は最高の名誉ある地位に引き上げられた 110:2-7
⑴王の権能はシオンからあまねく行きわたる 110:2-3
⑵神の誓い―王は祭・政の両権をもつメルキゼデク系の祭司・王として正当化 110:4
⑶神が王の右側に常にあり、王を助けて敵対勢力を打倒する 110:5-7
本詩110篇と詩篇冒頭の2篇は、「王の戴冠式」の詩篇に数えられる詩篇です。ふたつの詩篇を重ねつつ傾聴しますと、その深みを味わうことができます。詩篇2篇を少し説明しておきたいと思います。
(詩篇2篇 概略)
2:1-3 古代中東において、偉大な王の死と、それに続く新しい王の即位は、しばしば属国の王たちの反乱を引き起こした。彼らはお互い謀議を巡らして、ダビデ系の王の支配から逃れようとする。
2:4-6 しかし、神は嘲りをもって彼らの空しい試みに応え、神ご自身が新しい王をエルサレムに立てたことを宣言する。
2:7-9 神の「子」であるダビデ系の王もまた、このようにして認められた神との関係に基づいて世界の支配権を宣言する。
2:10-12最後に詩人は地上の王たちに対して、神とその王に服従するよう呼びかける。反逆は神の怒りと裁きを呼び起こすが、服従は祝福をもたらす。
本詩110篇を傾聴する際に、三つの時制がみられるように思います。ひとつは詩がうたわれた古代、詩を唱和するわたしたち新約時代、そして完成する未来です。古代において、ダビデをはじめとする王たちは、「王の戴冠」時に、詩篇2篇のように不穏な状況がありました。本詩は、そのような状況下での「戴冠式」の詩篇のひとつであり、本詩では[110:4
メルキゼデクの例に倣い]と、「メルキゼデクに関する古代の伝承」を使用しています。メルキゼデクは、カナンの原住民であり、イスラエルが到来する以前のエルサレムの町で「祭司であり、王」でありました。創世記14章によれば、古代カナンの都市国家の「祭司・王」は、いと高き神の名によってアブラハムを祝福しました。この神は、「天地の造り主」と呼ばれています(創世記14:17-20)。
この伝承を基にして、本詩110篇は、[110:1
あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで]という、ひとつの託宣で始まります。おそらく、この言葉は「儀式を行う祭司」が「王」に向かって「わが主よ」と尊称で呼びかけるものであったことでしょう。神のこの託宣によれば、「神」は自らの玉座―神の右手の座に着座するように「王」を招いています。「王」が「神」の傍らに座し、いわば「神の玉座に与る」という驚くべきイメージです。
本詩は、バビロン捕囚以後には、ユダヤに王は存在しなくなったので、「ダビデが来るべきメシヤに『私の主』と呼びかけている」という解釈がなされるようになりました。そのような経緯を背景に、[110:1
【主】は、私の主に言われた]という一節は、新約では[マル12:35
イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。12:36
ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』12:37
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」]と新約聖書において「メシヤ的に解釈」されるようになりました。
本詩の残りの部分は、古代においては、王が「最高に名誉ある地位に引き上げられた」ことを描写しています。「祭司」は神の名によって語り、「王」の権能はシオンから国々にあまねく行き渡ると、知らせます。[110:1
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで]―それは、古代においてはダビデ系の王と周辺国家の関係でありましたが、神はそこに「霊的意味を含蓄」され、新約時代においては、「時間と空間を超えて、被造物世界全体」(Ⅰコリ15:25、エペ1:22)を包摂するまで拡大されています。
古代では、イスラエル民族とダビデ王家が軸と受けとめられていましたが、新約時代においては、「アブラハムへの約束、またダビデへの約束」は、イエス・キリストの人格とみわざを「本質的な座標軸」とするものであることが明らかにされていきました。それゆえ、本詩は、「ダビデを権力と善徳をあわせもった真正な王の典型」とするイメージを背景として活用しつつ、キリストの人格とみわざの意味を解き明かすために用いられました。イスラエルの民が十字架につけたイエスは、全人類の罪を背負って、十字架上で刑罰を受けられ、三日目によみがえり、4o日後に昇天され、天の王宮で「戴冠式」の油注ぎを受け、御父の玉座の右に着座され、またメルキゼデクにならい、とこしえの王、また祭司となられました。それは、ヘブル書5:5-6、使徒行伝2:32-36、Ⅰコリント書15:23-25等で言われている通りです。
このように古代のイメージを背景に、新約時代を見ていきますと、そこには、オスカー・クールマンが言っているように、第二次世界大戦における「DデイとVデイ」の構造が見えてきます。すなわち、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、「ノルマンディー海岸の上陸作戦」(Dデイ)で連合軍側の勝利が確定しました。しかし、「ベルリン陥落」という最終的な勝利(Vデイ)に至るまでには、まだ長い掃討作戦が継続されたのです。新約時代に生きるわたしたちも同様です。
わたしたちは、イエス・キリストを信じることにより、その「贖罪」により罪赦され、「御霊の内住」により、キリストに合わせられ、[エペ2:6
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました]。つまり、わたしたちはキリストに合わせられて、キリストとともに「天上の右の座に着座」させられているのです。わたしたちは、今地上にいますが、同時に「御霊において」天上の右の座に根差しつつ、生きているのです。キリストが生きて、目に見えるかたちで人格的に再臨される日まで、わたしたちは「世と罪の力の働く」この世界のただ中で、すなわち[110:2
「あなたの敵のただ中で治めよ」]という命令に従うのです。
それは、キリストが天上の右の座から[【力の杖をシオンから伸ば]してくださるからです。わたしたちは、朝毎に夕ごとに、主を仰ぎ、天からの油注ぎを受け、[110:3
聖なる威光をまとって夜明け前から]、すでに与えられている力と臨在を確認・覚醒します。主は、それを[あなたの若さは朝露のようだ]とみられます。わたしたちは、国家消滅を幾度も経験したウクライナの国民のように、主にある道徳的倫理的戦いにおいて―[戦いの日に喜んで仕える]者とされます。見える世界が、目の前の状況が、いかに困難であろうとも、わたしたちはキリストに合わせられて
[110:4 メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司]であり、王であります。
天において、わたしたちの[110:5
右におられる主は、御怒りの日に]、わたしたちの周辺にあり、わたしたちを貶めようとする諸々の敵を打ち砕いてくださいます。それは、エルサレムを包囲し、神の民を絶滅しようとしたアッシリア帝国のセンナケリブが経験した記事―[Ⅱ列王19:35
その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた]ように、[110:6
国々をさばき、屍で満たし、広い地を治める首領を打ち砕]いてくださいます。ウクライナに侵攻し、残虐な行為をしている人たちも同じ運命をたどるのではないでしょうか。[110:7
主は道の傍らで流れから水を飲まれる。こうしてその頭を高く上げられる]は、戦いを終え、一息ついて川の水を飲み、自信に満ちた顔をあげる凱旋将軍の姿なのでしょう。
とにもかくにも、わたしたちは、礼拝ごとに「使徒信条」―「我は我らの主イエス・キリストを信ず。…全能の父なる神の右に座し給えり」と告白しているように、「我らの主イエスは、どこにおられるのか」という問いに、「天上の右の座に」と答えます。使徒信条において告白される一節は、新約聖書において繰り返される詩篇110:1の数多くの引用箇所(マタイ22:44、マルコ14:62、16:19、ルカ22:69、使徒2:34-35、7:55、ローマ8:34、エペソ1:20、コロサイ3:1、ヘブル1:3、13、8:1、10:12、Ⅰペテロ3:22)によるものです。旧約時代の詩人の詩を通して、いわば永遠から永遠を見通す「天体望遠鏡」のように、キリスト論的に、メシヤを指し示す聖句として意図されたことの神秘にふれる「新約で最も多く用いられている詩篇」です。本詩に傾聴するとき、そのような神秘にふれ、わたしたちの霊魂からだに「朝露」が降り、聖なる威光をまとわせられ、「若さ」がよみがえるのです。祈りましょう。
(参考文献:山崎ランサム和彦論稿「使徒の働き4章23~31節における詩篇2篇1~2節の引用」[福音主義神学38号]、B.W.アンダーソン『深き淵より―現代に語りかける詩篇』、J.L.メイズ『詩篇』[現代聖書注解])
2023年6月4日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇109篇「死を宣告する者たちから彼を救ってください」-「復讐の詩篇」のクリスチャン生活における意味、また意義-
https://youtu.be/VMbxvxmBV1Y
本詩、109篇は詩篇の中でも難しい主題のひとつと言われているものです。それは、本詩が「徹底した復讐を求める祈り」の詩篇として見られているからです。聖書を神の言葉と信じ、主の御前に敬虔な生涯を送りたいと願う信仰者に、このような「激烈な祈り」はふさわしいものなのでしょうか。それが、本詩を通して問いかけられている事柄なのです。新約では、「復讐は神のなさることである」から主に委ねて善行を行いなさいと勧められています。では本詩のクリスチャン生活における意味、また意義とは何なのでしょうか。このような視点を抱いて本詩に傾聴してまいりましょう。
(概要)
詩[ 109 ]敵に対する「神による復讐へ」のむき出しの要請
A.「復讐」要請の原因―偽りの告発による不当な裁判
B1.激しい怒り、復讐への熱望、過剰殺戮の積み上げ―「立場逆転へ」の祈り
B2.「復讐」の動機と告発者への報い―理不尽な世界における神への叫び
C1.「追いつめられる現実」のただ中における神への信頼
C2.「死の宣告」を受け、神による「起死回生の介入」を求める祈り
本詩109篇は、ある意味で大変魅力に満ちた詩篇のひとつであると思います。それは、ジャン・カルヴァンが「魂のあらゆる部分の解剖図」と表現しているものを示すものであるからです。「詩篇」―それは、わたしたちの中にあるものを、余すところなく修辞的に表現するものです。詩篇は「わたしたちについて」あらゆることを語っています。そこでは「あらゆる言語表現」が許されていて、「どんなものも」検閲によって削除されることはありません。本詩109篇について申しますと、「神の御前に正直に、誠実に生きる」ことを拒否している社会的に権力また財力、地位のある強者が、「神の御前に正直に、誠実に生きている」社会的な弱者を偽りの告発、偽りの裁判を通して死に追いやる理不尽に対する、いわゆる社会的不公正への「聖なる怒り」が込められています。
本詩は、[109:1
私の賛美である神よ]と、素晴らしい呼びかけをもって始まります。しかし、そこを中心にすると本詩の詩人の意図が見えなくなります。本詩は、最後の節―主よ[109:31
貧しい人の右に立ち、死を宣告する者たちから彼を救]ってください―という祈りと叫びを中心としてみなければなりません。そのことによって[109:1
沈黙しないでください]の意味が分かります。最初に申しましたように、詩人は、[109:1
私の賛美である神よ]と神をほめたたえつつ、神のみ前に実直に、誠実に人生を生き、[109:4 私の愛]。[109:5 善]
と隣人愛と善行に満ちた人生を送ってきたことが読み取れます。
ですから、敬虔な信仰者として、隣人愛と善行に溢れた詩人は、「ヨブ記のヨブ」のように信仰者の間では評判の高い人物であったでしょう。しかし、詩人は社会的には権力も、地位も財産ももたない[109:16
貧しい者]であったようです。詩人は、神を[109:1 賛美]し、敬虔に[109:4 愛]と[109:5
善]行に溢れて生きる中、大変な不幸に直面します。同じ神の民の中で、社会的に力ある者が[109:2
邪悪な口と欺きの口]、[偽りの舌]、[109:3 憎しみのことば] 、[109:5
善に代えて悪][愛に代えて憎しみ]をもって、裁判で[109:4 告発]し、[109:31
死を宣告]するところまで追い込んだというのです。まるで、ロシアのプーチン大統領がウクライナを追い込んでいるようにです。
このような状況に至って、わたしたちは安穏としていられるでしょうか。ダムが決壊し、川で海で溺れて死にそうになったとき、わたしたちはその「溺死」を避けるため、必死にもがかないでしょうか。つかめるものは「わら」にだってすがるのではないでしょうか。これは、人間に与えられている「生存本能」です。どんな紳士淑女であったとしても、「溺死」を目の前にしてその手足を、全身をばたつかせない人はいないでしょう。ですから、詩人は[109:1
沈黙しないでください]と叫びます。6-20節の「復讐の祈り」とされる部分では、「置かれている立場・状況が逆転する」ようにと祈ります。
この箇所は[激しい怒り、復讐への熱望、過剰殺戮の積み上げ―立場逆転への祈り]と言われる箇所です。敬虔なクリスチャンにはふさわしくないとも解釈される箇所です。[109:6
どうか彼に対して悪しき者を遣わし、告発する者が彼の右に立つようにしてください]と、被疑者と告発者の立場が入れ替わることを祈り求めています。そして、偽りの告発者が[109:7
有罪が宣告され、彼の祈りが罪と見なされますように]有罪とされるだけでは納得がいきません。偽りの告発者には、詩人に与えた苦痛にふさわしい“懲罰的判決”をと願います。詩人が被った健康・寿命・仕事に対する損害にふさわしく、偽りの告発者の人生について[109:8
彼の日数はわずかとなり]と懲罰を求めます。
詩人の家族が被った損害にふさわしく、偽りの告発者の家族に[109:9
子どもたちはみなしごとなり、妻はやもめとなりますように]と懲罰を求めます。偽りの裁判を通して詩人は、つつましい財産を失い、家族は路頭に迷うこととなりました。その損害に応じ、偽りの告発者の[109:10
彼の子らはさまよいながら物乞いをし、荒れ果てた家を離れ施しを求め続けますように]と懲罰を求めます。財力のある偽りの告発者が再び、そのような悪事に走らないよう[109:11
彼のすべての財産を没収]される懲罰を求めます。このような悪事を謀ろうとする者が再び現れないように、 [109:13
その後の子孫は断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去られますように]と、このような悪事を犯す者に、その一族に対する懲罰を求めます。そして、私のたましいにわざわいを告げる者たちへの[109:20
このようなことが、私を告発する者たちへの【主】からの報いでありますように]と、 “一罰百戒”となるよう求めます。
そのような「偽りの告発者への懲罰を求めてやまない祈り」は、 [109:21
しかし【神】よ、私の主よ、あなたは御名のために私にみわざを行ってください。御恵みのすばらしさのゆえに私を救い出してください]とこの祈りに続く告白で、詩人はおそらく[109:31
死を宣告]され、それが執行される日を前にして、[109:22 苦しみ、傷つ]き、[109:23
伸びていく夕日の影のように去り行]こうとしており、[いなごのように振り]捨てられようとしていたのでしょう。死刑囚へのわずかな食事は健康を損なわせ、[109:24
膝は断食のためによろけ、肉は削げ落ち、痩せ衰え]ていたようです。その信仰の敬虔と知恵、その愛と善行で、貧しくとも評判を得ていた詩人は、いまや[109:25
そしりの的]となってしまいました。この箇所は“苦難のしもべのイザヤ53章”と重なります。
ですから、この「復讐の祈り」といわれる箇所は、偽りの告発で陥れられた、敬虔で愛と善行に満ちた貧しい信仰者の、死刑執行直前の牢獄における叫びであり、祈りなのです。ブルッゲマンは、この「復讐の詩篇」における過剰とも思われる懲罰へ願いは、そのような状況に置かれた詩人の「想像世界における飛翔」であると説明しています。そして、自らの心に正直になって、その思い、願いを「言葉を通して、神の御前に注ぎだす」ことは、詩人にとって「心の浄化作用」の役割を果たしたと評価しています。つまり、「詩篇はなんでも言うことのできる残された場所のひとつ」であるということです。わたしたちの地上の人生には、耐えられないような苦難や事件等に遭遇することがあります。
淡路・阪神大震災や東日本大震災等もそうです。ロシアによるウクライナへの侵攻等もそうでしょう。そのような苦しみにあった幼い子供の心の傷をいやすために「絵」を描かせることがあります。詩篇も同様です。「真の激しい痛み、心の傷、怒り」においては、そのようなものをイメージを通し、「絵や詩」において、感情を導くことが大切です。言葉は、感情を解き放つ「爆発」のようなものであるだけではありません。その体験から湧き出てくる傷や痛みがどれほど大きく、深く、激しいものであるのかに「真に気づく」のは、わたしたちが「それを言葉にした時」です。
詩篇の役割・機能のひとつは、甘い、優しい見せかけを「突き破る、自己発見の行為」なのです。詩篇は、「激しい怒り」のもつこれらの最も強烈な要素を正当なものとし、肯定します。つまり、これらの言葉は「敵を滅ぼすものではない」ことを知ります。それらは、「神の御前に注ぎだされた言葉」であり、わたしたちが考えるほど危険なものではないのです。かえって、「激しい感情」が「神に注ぎだされる言葉」にされると、それらの感情は、「神の御前に正しく位置づけられて、神の視点において受けとめる」ことができるようになります。
詩篇109篇においても、1-5節の背景説明と6-20節の「懲罰を求める祈り」は、21節以降で大きく変化しています。そこを境にして、「激しい感情のほとばしる祈り・叫び」が勢いを失っているのです。6-20節の想像力と誇張に満ちた言葉による「詩人を死刑判決に追い詰めた偽りの告発者」に対する懲罰の祈りは、“イメージ上のもの”なのです。ある意味で、詩篇は「実際上の復讐」ではなく、「祈りと叫びによる世界」を奨励しているのです。悪に対して、悪をもって報いるのではなく、「神に向かってその懲罰を求め、余すところなく、またときには過剰なまで誇張して、イメージ上で神による懲罰を求め、叫ぶ」とき、わたしたちは、憎しみから自省への転換が起こるのです。
わたしたちは、怒りと復讐に満ちた感情の奴隷的支配から脱し、正気を取り戻すことができるのです。復讐か神に委ねられたとき、それに比例して、「復讐の力」から自由になることができるのです。本詩が教えてくれることのひとつは、そのためには、まず「可能な限りの力強さと激しさをもって、わたしたちの心の底にある激しい怒りが十全に表現されなければならない」ということです。嘆きの詩篇でも同様です。「嘆きに対する最も良い方法」は、「それを全て言葉にすること」です。言葉にならない時には、ハンナのように憂いとつのる思いをうめくように注ぎだすことです。
激しい怒りについても同様であると詩人は知っているのです。このようにして「持っていくところのない激しい怒りのすべては、神の知恵と配慮に明け渡されます」。それは、その注ぎだした後に、「しかしあなたは」という時に起こります。自分自身の中にある怒りと敵意がまず十分に注ぎ出され、それらが手放されるとき、この明け渡しも十全なものとなります。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献: W.ブルッゲマン『詩篇を祈る』)
2023年6月4日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇108篇「私は暁を呼び覚まそう」-厳しい環境における覚悟、苦境の中を生き抜く決意-
https://youtu.be/vg-cxk5at0I
先日、藤井聡太さんが将棋で名人のタイトルをとられました。その藤井さんについての記事で目のとまるものがありました。藤井さんの強さの秘訣についての記事です。藤井さんは「詰め将棋」が得意で、一瞬で何十手もの詰み筋を見抜く直観力があるとのことです。しかし、時としてその直観には「誤り」もありうるので、大事な場面では、ものすごい時間をかけ、「その直観に誤りがないか検証される」とのことです。クリスチャンも、聖書を霊的糧とし、「直観的に読む」恵みにあずかっています。しかし、同時にⅠコリ
14:29
預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい]とも書いてあります。今日は、誤った運動や教えが跋扈する時代でありますので、「直観的に聖書を読む洞察力」と「その洞察したメッセージを吟味・検証する力」の両方が求められる時代であると思います。その両面で成長させられていきたいと思います。このような複眼的な視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概要)
詩[ 108 ] 歌。ダビデの賛歌。
A.厳しい環境にありつつ、神を信頼してゆるぐまいとする覚悟(1-5節)
B.苦境にありつつ、最終的にはすべてを神に委ねて生き抜く決意(6-13節)
さて、本詩108篇は、詩篇57:8-12と詩篇60:7-14を合成して仕上げられた作品です。詩篇57篇は、もともと個人の祈りの詩篇でありました。自らの力では抗いがたい敵の攻撃にさらされた詩人は、神によばわり、敵による脅威を嘆き訴えるなかで、「神による救い」を確信するに至ります。その57篇の後半(7-11節)が、本詩108篇の前半に据えられました。それによって、苦しむ詩人が祈るなかで得た「個人的な救いの確信」の表明(108:1-5)から、6節以下でうたわれる「わたしたち」の救いを願う祈りを導入する讃歌に、「わたし」は「苦しむ個人」から、「わたしたちの救い」を願う指導者へと変貌したのです。
他方、詩篇60篇は「わたしたち」に憤られたかにみえる神にそのことを訴え、あらためて神による勝利を期す「わたしたちの祈り」となっています。このように、本詩108篇は、既存のふたつの詩篇から二箇所を切り取って、「自らの祈りの詩篇」としたのです。これは、わたしたちへの助言でもあります。詩篇にある「祈りの言葉」というものは、わたしたちの人生の中に、生活の中へと「切り貼りし、自らの祈りの言葉としてよい」というサインでもあるのです。約四千年間、祈り、告白、嘆き、賛美にささげられ続けてきた「詩篇の言葉の一文、一句」はあなたの信仰者としての人生の畑に、信仰者としての生活の土壌に蒔かれ、美しい花を咲かせうる多種多様の草花の種苗であるのです。詩篇の祈りの言葉の中に養われることを学びましょう。イエスや使徒たちのように、それらの言葉が「血となり、肉となる」まで人生の節目において繰り返し味わいましょう。日々の出来事の中でかみしめてまいりましょう。
本詩108篇の詩人は、既存の詩篇から二箇所を切り取って、「自らの祈りの詩篇」としました。したがって、本詩には詩人独自の思想や信仰が表明されているわけではありません。しかし、詩人がこれらの二箇所を選んで本詩を編集した意図は問われて良いと思います。詩人は、どういう意図をもって、これらの箇所を切り取り、ひとつの詩篇として編集したのでしょう。1-5節の前半部は、[108:1
神よ、私の心は揺るぎません]という印象的な告白ではじまります。それは、厳しい環境にありながら、神を信頼して揺るぐまい、とする「覚悟の表明」です。
[108:2
琴よ、竪琴よ、目を覚ませ]、また[暁を呼び覚まそう]という表現も独特のものです。響き渡る楽器の音色が「目覚める」、暁を「目覚めさせる」といった表現は、「夜のとばり」で象徴される厳しい環境・状況を「開け放ち」、暗闇を破るように「暁」を目覚めさせてくださることへの信頼・信仰・確信です。目で見えるところは、真冬の枯れ果てた大地です。捕囚からの約束の地への帰還・神殿の再建・首都の復興といっても、まだ緒についたばかりです。しかし、それは暗闇から暁の時間帯にあるしるしです。それゆえに、「目を覚ませ」「呼び覚まそう」と鼓舞しているのです。
わたしたちが「暗闇」の世界から、「光」の世界に移されたのは、天の上にまで及ぶ[108:4
あなたの恵み]、雲にまで及ぶ[あなたのまこと]、[108:5
あなたの栄光]で溢れているからです。それゆえに、わたしたちは[108:3
諸国の民の間で]感謝し、[もろもろの国民の間で]ほめ歌うのです。礼拝・ワーシップ・賛美集会の意義はそこにあります。わたしたちを楽器として、[108:1
心の底]からほめうたうように、目を覚ましていましょう。創世記1章には[1:5,8,13,19,23
夕があり、朝があった]とあります。わたしたちの人生にも暗闇の時間帯があり、光の時間帯があります。主に[108:1
歌い、ほめ歌]うことによって、わたし自身という楽器を目覚めさせ、目に見える、また取り囲む―夜のとばりを打ち開き、日々[108:2
暁を呼び覚ま]し続けたいものです。
6-13節の後半部は、[108:6
あなたの愛する者たちが助け出されるよう、あなたの右の手で救い、私に答えてください]とイスラエルの民の救いを願う懇願文をもって始まります。これに神が周辺諸国を制圧してくださるとの神託(7-9)が続きます。第一は、ヨルダン川東岸のギルアデとかつてのマナセ部族の再占領です。シェケムはマナセの地の重要都市、スコテの谷とは、ギルアデの低地を指します。第二は、エフライム、すなわち北イスラエルはわが冠、ユダはわが王しゃくと示される北イスラエルと南ユダの統一、第三は、イスラエルの宿敵であった近隣諸民族―モアブ、エドム、ペリシテの制圧でした。
しかし、10-11節をみますと、軍勢を率いてエドムに攻め入ったものの、反撃を受けて退却を余儀なくされてしまいました。11節では、神が[108:11
私たちを拒まれるのですか。…私たちとともに出陣なさらないのですか]と、敗退の理由を神に突き放されたとみています。そこにおいて、詩人はあきらめることなく、執拗に神に食い下がります。[108:12
どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいのです。108:13
神にあって、私たちは力ある働きをします。神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます]
この[人による救いはむなしいのです]には、エジプトに頼った北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた経験、エジプトに援軍を要請しバビロン帝国に反旗を翻しユダ王国も滅亡した経験が踏まえられています。イスラエルの民は、こうした王国の滅亡、流浪の民となってしまった経験を、「人間による救い」の挫折を経験し、「人間による救い」の可能性が完全に断たれた時代を生きていました。それゆえ、後半は苦境にありながら、最終的にはすべてを神に委ねて生きていくという決意の表明なのです。
ポール・トゥルニェは『人生の四季』という著書の中で、人生の四季の移り変わりを受け入れること、そしてその中にある敗北や挫折、失敗等の中に成功にまさる意味・意義を発見するよう励ましています。
イスラエルの民に習って暗闇の中に[暁を呼び覚ま]す人生を、イスラエルの詩人に習って[神にあって、私たちは力ある働きを]なす生活を歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: 月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅲ・Ⅴ』、ホール・トゥルニェ『人生の四季』)
2023年5月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇107篇「この苦しみのときに主に向かって叫ぶと」-詩篇107篇の四枚の油絵の中のわたしたち-
https://youtu.be/rjp8kJL0tuc
キリスト教会の暦において、今朝はペンテコステの日です。ペンテコステとは、ギリシャ語の50の意味です。使徒の働きの2章にある聖霊降臨は、ちょうどその五旬節にあたり、キリストが復活されてから50日目でありました。当時の使徒たちや弟子たちが120人、エルサレムの二階座敷で心を一つにしてひたすら祈り続けた時、聖霊の大傾注があったのです。この時の聖霊降臨が新約の教会の起源となりました。イエス・キリストは、約二千年前に十字架のみわざを完成し、復活し昇天され、今天上の右の座から聖霊を注いでおられます。イエスさまを信じた時から、聖霊はわたしたちの内に内住し、わたしたちを満たし、大小の救いのみわざを起こそうとしておられます。そのような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
(概要)
詩[ 107 ] 第五巻
A.(序)バビロン捕囚後の時代にうたわれた詩篇の暗示
B.(第一詩節)捕囚の生活は、”荒野でさまよう生存の危機”
C.(第二詩節)捕囚の生活は、”闇と死の影、鉄の枷に縛られた状態”
D.(第三詩節)捕囚の生活は、”申命記にある背きの道、咎のため”
E.(第四詩節)捕囚の生活は、”暴風雨の波に翻弄される船”
F.(回顧と展望)捕囚の経験と解放、共同体の再建の経験
G.(結び)捕囚の歴史から知恵・教訓を得よとの呼びかけ
本詩107篇から第五巻が始まります。本詩の序節は、[107:1
「【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」107:2
【主】に贖われた者は、そう言え。主は彼らを敵の手から贖い107:3
国々から彼らを集められた。東からも西からも北からも南からも]とうたわれています。それは、アブラハムへの祝福の約束をもって、約束の地で「空の星、地のちり」のごとく増やされた「神のみ旨に従って統治されるはずであった国」が、申命記28章で示されていた通り、「主の御声に聞き従わず、主のみ旨を守り行わなかった」(申命記28:15)結果、「地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散ら」(28:64)されたことを背景とするものです。
モーセとヨシュアに導かれ、荒野を旅し、やがて約束の地カナンに定住したイスラエルの民は、カナンの多神教で多重信仰の風習に何度も染まり、取り扱われ、ついには滅んでしまったのです。しかし、神さまはダニエル書にあるように「火の炉」で練り清め、「ライオンの穴」で取り扱われ、70年間の捕囚経験の後に、
[107:2 敵の手から贖い]、再び約束の地に[107:3
国々から彼らを集められた]ことを賛美しているのです。エジプトでの奴隷生活から贖い出され、ファラオの軍隊による包囲下、絶体絶命のピンチに、海に真中に道を開き導かれ、また敵軍を海の藻屑とし壊滅させられた主のみわざをうたったミリアムの歌(出エジプト15章)のようにです。
「第二の出エジプト」とも呼ばれる「70年間にわたるバビロン帝国による捕囚からの解放」は、どれほどの感動と感謝をイスラエルの民に巻き起こしたことでしょう。その経験を、続く四つの詩節でうたっています。4-9節の(第一詩節)では捕囚の生活は、”荒野でさまよう生存の危機”であったとうたい、10-16節の(第二詩節)では捕囚の生活は、”闇と死の影、鉄のかせに縛られた状態”と描かれ、
17-22節の(第三詩節)では捕囚の生活は、”申命記にある背きの道、咎のため”と反省し、23-32節の(第四詩節)では捕囚の生活は、”暴風雨の波に翻弄される船”とー「国土、都、神殿」が滅び去り、主だった民が捕囚民として捕え移され「亡国の民」となった時の神の民の嘆きの心情が四枚の油絵に描かれているようです。日本がモンゴルやソ連に占領され、中央アジアやシベリアに強制移住させられたことを想像することができるでしょうか。
しかし、本詩は、[107:33 主は豊かな川を荒野に、水の湧き上がる所を潤いのない地に、107:34
肥沃な地を不毛の土地に変えられる。そこに住む者たちの悪のゆえに]と申命記的取り扱いを受けた神の民が、帰還と再建の時代、すなわち「歴代志的歴史」に位置する詩篇です。わたしの父は、シベリアの捕虜収容所からの帰還者でありました。わたしは時々、父の腰にあってシベリアの捕虜収容所にいたイメージを描きます。よく生きて帰ってきたものだと。
世界に四散した神の民は、解放され、[107:35 主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水の湧き上がる所に変え、107:36
そこに飢えた者を住まわせる。彼らは人が住む町を堅く立て、107:37
畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。107:38
主が祝福されると彼らは大いに増え、主はその家畜を減らされない。107:39
虐げとわざわいと悲しみにより、彼らは減ってうなだれる。107:40
主は君主たちを低くし、道なき荒れ地をさまよわせる。107:41
しかし貧しい者を困窮から高く上げ、その一族を羊の群れのようにそこに置かれる]と、(回顧と展望)捕囚の経験と解放、共同体の再建の経験が語られているのです。
そして、
[(結び)捕囚の歴史から知恵・教訓を得よとの呼びかけ]では、これらの、真実なる神の、真実な約束と、その摂理的成就を見届けるよう勧めているのです。[107:42
直ぐな人はそれを見て喜び、不正な者はみな口をつぐむ。107:43
知恵のある者はだれか。これらのことに心を留めよ。【主】の数々の恵みを見極めよ]と]。皆さんは、本詩の”心臓“をどこに読み取られるでしょうか。わたしは、[107:19
この苦しみのときに彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた]という言葉にそれを見たいと思います。
それは、四つの苦難の油絵の状況の転換点にv.6,13,19,28[この苦しみのときに彼らが【主】に向かって叫ぶと]という言葉が置かれているからです。V.4-5荒野でさまよい飢えと渇きで死に瀕している時に、v.10-11鉄のかせに縛られ闇と死の陰の牢獄に座している時に、v.17-18もはや食物は受けつけないほど健康を害し、死の門の入口に至った時に、v.26-27暴風雨の中ジェットコースターのように波間を上下する船の重度の船酔いの船員のようになっている時に、
[この苦しみのときに彼らが【主】に向かって叫ぶと]V.7まっすぐな道が現れ、v.14かせは打ち砕かれ、v.20滅びの穴から助け出され、v.29波は穏やかに、なったというのです。
わたしたちも、この教訓から学びましょう。
[この苦しみのときに彼らが【主】に向かって叫ぶと]という教訓です。というのは、わたしたち信仰者の人生というものは、大小の出エジプト、またバビロン捕囚の経験に満ちているからです。わたしも昨夜、小さな出エジプト、またバビロン捕囚からの解放の経験をしました。僻地の教会が、信仰者が直面する問題です。年齢順ということで、老人会の役員に選出されました。ただ、老人会の行事の大半が神社行事、お寺行事に絡むものであると知って、役員辞退を申し出ましたが、隣保には代わりとなる人がありません。
それで、カイザルのコイン、ソロモンの知恵ではありませんが、主から知恵をいただいて、憲法の人権規定を学ばせていただきました。日本国憲法第20条の第二項に「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」とあります。いろいろと自治会と宗教行事の関係事例をインターネットで調べていますと、歴史的に自治会組織と氏子組織、檀家組織が“慣習的に一体視”されているところに大きな問題があると教えられました。そのような理解の下では、キリスト教信仰をもって、純粋で潔癖な信仰姿勢で生きることはとても大変なことです。
イスラエルの民が取り扱われた“申命記的歴史”の基盤には、十戒があり、そこにはこう書かれています。[出20:1
それから神は次のすべてのことばを告げられた。20:2
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。20:3
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。20:4
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、20:6
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。]
宗教的儀式、風習、奉仕活動等への参与・関与は、小さなことから始まり、やがては数世代後の子孫においてその地の宗教的慣習に飲み込まれてしまう危険が示唆されています。その地、その国の文化や風習にどのようなスタンスをとり、どのようなコンテクスチュアリゼーション(文化脈化)が可能なのか、についてはその対応に幅と多様性があるかと思います。イエス・キリストの人格とみわざという共通の基盤に立って、洋風・和風・中華風等ー文化の多様性の中で多様な建物を建てていくようなものです。しかし、時にはブー・フー・ウーのお話にありますように、その家の強度が、木や草を材料にしたものから、レンガとセメントを材料にしたものまで、主の審判に燃え尽きてしまうようなものもある(Ⅰコリント3:10-15)と示唆されています。
ですから、わたしたちは、愚かであってはならないと思うのです。事と判断において軽率であってはならないと思うのです。今日は、セクシャル・ハラスメントに非常に敏感な時代となってきました。いまや芸能界でも、そのことにきちんと対応しなければ有力な芸能人であれ、無敵の会社であれ、その地位も立場も一夜にして崩壊してしまう時代となってきました。わたしは、同様に「宗教的ハラスメント」の時代もまた到来してきているのではないかと思うのです。これまでは、諸宗教、諸々の神々や仏に対する多重信仰は「宗教的寛容」という捉え方が主な受け止め方であったように思います。
しかし、十戒に根差すキリスト教信仰のような、ある意味「一夫一妻制」的な信仰のあり方の“純粋な人格的愛に基づく潔癖なあり方”を極みまで大切にする信仰のあり方においては、多重信仰、重層信仰なあり方は、ある意味「宗教的不品行、宗教的姦淫」を強いられるという“宗教的ハラスメント”の印象を受ける部分があると思います。セクシャル・ハラスメントが、男性にとってはそれほどでもない言葉や行為が、女性にとっては“ある意味、神経をえぐるような、心やからだを切り裂くような言葉”と響くこともあるのです。不同意によって、またグルーミングによってなされる性的行為が、深い心の傷となって、フラッシュバックを繰り返す一生涯消えない深い記憶の傷となる場合もあるのです。
問われれば、多くの疑問に答えられるように準備して、会合に臨みました。ただ、「宗教的ハラスメント」問題という、特にクリスチャンにしか理解できないような、このような事柄、このような事例を理解していただくために、細心の注意を払い、「カイザルのコイン」のような知恵、「ソロモンの知恵」のように分かりやすい例話をもった説明をさせていただきました。このとき、わたしは「氏子会、檀家会と一体視されている自治会、また老人会」という状況と、神の民がエジプトで奴隷状態にあること、またバビロンで捕囚状態にあることと、情景が重なって見えました。
それで、わたしは
[この苦しみのときに【主】に向かって叫ぶ]ことにしたのです。主が、詩篇107篇の四枚の油絵の中のような状態に置かれているわたしたちを「救い出し」てくださるようにと。そして、人格的に深く愛し合う二人が、その愛を純粋かつ、潔癖なものとして守り抜くことができるように、細心の注意を払い続けることができるようにと。詩篇第五巻は、107篇の、そのような叫びと救いへの感謝・教訓をもって開始され、150篇の[150:6
息あるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ]で終わっています。純粋かつ、潔癖な信仰を守り支えてくださる神に対する心の底からの賛美ーハレルヤで終わっているのです。わたしたちの生涯の終わりもまた、かくありたいものです。あなたも、わたしも、信仰者はみな、その生涯において、大小の第三、第四の出エジプト、バビロン捕囚を経験します。わたしたちは、苦難・患難の到来を恐れません。
[この苦しみのときに【主】に向かって叫ぶ]ことができるからです。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ(101~125篇まで)』、日本国憲法)
2023年5月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇106篇「それでも、ご自分の契約を思い起こし」-イスラエルの民が犯し続けた「罪の歴史」のわたしたちへの投影-
https://youtu.be/7osRmc35hts
詩篇第四巻(90~106篇)を締めくくる詩篇である105篇と106篇は、「双子の詩篇」と呼ばれています。詩篇105篇が「父祖の時代と出エジプトの出来事を中心にイスラエルの民の歴史を想起している」のに対し、本詩106篇は「出エジプトから士師時代に至る歴史」を振り返っています。長さ(105篇は45節、106篇は48節)においても、「イスラエルの民を救いに導く神を讃える」という点においてもふたつの詩篇は共通しています。もっとも、105篇が「父祖たちの歴史」を契約に基づく神のみわざとしてうたい上げ、民の背きに一切言及しないのに対し、本詩106篇は「民が犯し続けた罪の歴史」に触れながら、そのような罪にもかかわらず、民を見捨てることのなかった神の慈愛とあわれみを讃える内容となっています。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
[概要]
詩[ 106 ]
A. 実質的には「罪の告白」であるー神の全能のみわざへの讃美の備え 1-5節
B. 紅海で起こった出来事 6-12節
C. 荒野で起きた出来事 13-33節
D. 約束の地におけるイスラエルの生活34-46節
E. 諸国に対する服従からの解放の祈り47-48節
詩篇第四巻を締めくくる106篇の本体部は、イスラエル民族のいしずえが据えられた歴史からとられたさまざまな事件を列挙しています。これは、わたしたちに「信仰者として、人生の捉え方、見方」を教えます。105篇が「救われ、祝福されたクリスチャン生涯」という肯定的で、内住の御霊に導かれたローマ8章でみる側面を照らすものと読めば、106篇は「罪赦されたにも関わらず、肉の性質と傾向に苦闘し続ける」という否定的で、霊肉の葛藤の中に生きるローマ7章でみせられる側面を象徴する内容と投影できるのではないでしょうか。
本詩の6~46節は、出エジプトで始まり、カナンにおけるイスラエルの生活で閉じられています。そして、先祖たちの犯した罪の実例が綴られています。イスラエルの民は、ありとあらゆる場面で「罪」を犯し続けたことが告白され、悔い改められています。詩篇106篇に照らし合わせて、わたしたちの人生を振り返りますとき、「わたしたちの人生というものは、大小の罪を積み重ねる人生であったのではないか」と、あの取税人のように胸を打ちたたいて、主に悔いくずおれるのではないでしょうか。大きな犯罪を犯すことからは守られたかもしれませんが、「小さなほこりのような罪は数知れず犯してきた」と告白せざる得ないのではないでしょうか。出エジプトに象徴される「キリストの贖い」という基盤において救われ、荒野の旅程に象徴される「肉のただ中に御霊を宿す葛藤の人生」を生かされてきたのではないでしょうか。しかし、人生の真実から目を背けず、そこを直視するとき、これは、「信仰者の人生の真実、また本質を言い当てている」のではないでしょうか。
出エジプト記、民数記、士師記の伝承は、わたしたちにそのような霊的教訓を提供してくれているように思います。7-12節は紅海で起こった出来事、13-33節は荒野で起きた出来事、そして34-46節は約束の地におけるイスラエルの生活について語っています。歴史を振り返るにしても、105篇は「晴天のもと、燦燦と降りそそぐ祝福の陽光」の中での回想であり、106篇「うす暗い曇天の下、降り注ぐ悔い改めの涙」の中での追憶と言えるのかもしれません。わたしたちも、このふたつの詩篇を味わいつつ、「異なるふたつの視点」から自分の人生を省みることが、節目節目において必要なのではないか、と教えられるのです。自らの生涯に関する「ほめたたえの詩篇」と「嘆きと罪の告白の詩篇」の二種類の詩篇の両方を祈りの生活の中に綴り続け、繰り返し「奥まった部屋で沈黙のうちに、またハンナのように声を注ぎだす祈りのうちに、あなたの、そしてわたしの詩篇を朗誦して生きる」ことの価値を見出すのです。
本体部である6-46節のイスラエルの歴史全般を見渡した「罪の告白」は、「異なる機能に結び付けた複雑な導入と結び」の中に置かれています。それは、「主への讃美に属するハレルヤ形式」で始まり、終わります。1節[106:1
ハレルヤ。【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで]は、イスラエルの救いにおいて「主への感謝の際に用いられる基本的な定式」にのっとった「ほめたたえの賛歌」です。2節は、[106:2
だれが【主】の大能のわざを告げ、主の誉れのすべてを語り聞かせることができよう]と、1節で求められた賛美をささげる資格を、一体だれがもっているのか、との問いが提起されます。
3節は、[106:3
幸いなことよ、さばきを守る人々、いかなるときにも正義を行う人は]と、祝福は、どのような時にも公正を保ち、正義を行う人にその資格がある、と答えます。このようにして構成され、本体部を展開させる、第四巻を締めくくる本詩106篇は、「実質的に罪の告白の詩篇」なのです。そして、そのことによってのみ、「神の全能のみわざへの讃美の備え」が可能とされると教えているのです。「罪の告白」がなおざりにされ、「肉の思い、肉の傾向」に引きずり回されていては、賛美は中途半端なものとなってしまいます。心の底からの賛美にあずかるためには、「井戸の泥さらい」をしておかねばなりません。さもなければ、「濁った水」を注ぎだすことに終始しかねません。
結びは、今、その国、その民がなめている「辛苦」、そして必ずや到来する「救い」を自分のこととして祈るこの祈りは、本詩の末尾にあるの47節[106:47
私たちの神【主】よ、私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください]と、「諸国からの解放」を求めるものとなっています。振り返りますと、前景としての詩篇の第三巻(73~89篇)は、バビロン帝国による「シオン、すなわちエルサレムの崩壊を嘆く祈り」が顕著であり、その巻末89篇が「ダビデ契約に対する神の拒絶に直面した未解決の請願」で終わっていました。そして、第四巻(90~106篇)冒頭の詩篇90篇の表題が、読者を「ダビデ王国の前の時代、エルサレム神殿建設以前の時代」すなわち「神の人モーセの時代」に連れ戻しました。その時代には「君主制も、神殿もありません」でした。人々は「まだ約束の地に来ていません」でした。それでも、「イスラエルの民は、神との関係を築き、その関係をかたちに」していました。詩篇第四巻冒頭で、「神と共同体の関係」がイスラエルの生活を形成しましたが、「神殿や王によって仲介されなかった時代」にさかのぼることによって、「バビロン帝国によって、エルサレムが陥落し、神殿が崩壊し、ダビデ王国が消滅」してしまった問題に答えようとしているのを見てきました。
詩篇第四巻冒頭にあります90篇から92篇は、第三巻の結末である89篇で描かれた「ダビデ王国崩壊の危機に対応する神の避難所」のテーマに焦点を当てていました。アブラハムに対する「祝福の約束」があり、その成就としての多くの国民からなる「約束の地」における神の国の実現があり、その地での「申命記的歴史」といわれる取り扱いがあり、地の果てに散らされました。そして、47節[106:47
私たちの神【主】よ、私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください]という祈りで締めくくられているのです。わたしたちの神は、[106:45
主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みにしたがって彼らをあわれまれ]るお方です。わたしたちの弱さ、愚かさ、罪深さにも関わらず、[106:1
主はまことにいつくしみ深い]お方であるのです。
イスラエルの歴史は、わたしたちの人生の象徴であり、霊的教訓を与えるものです。イスラエルの歴史にわたしたちの人生を重ね合わせ、詩人の「罪の告白とほめたたえ」に、わたしたちの「罪の告白とほめたたえ」を重ね合わせて歩んでまいりましょう。キリストの贖罪のみわざの上に安らぎ、霊と肉の葛藤のリングで内住の御霊に導かれ、「七転び八起き」で勝ち進んでまいりましょう。ほむべきかな、わたしたちの神【主】。とこしえからとこしえまで。「アーメン」。ハレルヤ。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男『詩篇の思想と信仰Ⅴ』、J.L.メイズ『詩篇』現代聖書注解)
2023年5月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇105篇「主のすべての奇しいみわざを思い起こせ」-私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方-
https://youtu.be/IsHsqStrw-k
おはようございます。母の日おめでとうございます。今朝は、全世界的で「母の日」が祝われていることと思います。母の日の起源は、直接聖書からではありませんが、1908年、アメリカのヴァージニア州ウェブスターのメソジスト教会で、ひとりの篤い信仰をもつ婦人の功績を記念した会合が催されたことに始まります。その良い催しが1914年にアメリカ上院で決議され、ウィルソン大統領の布告によって、五月の第二日曜日を「母の日」として記念するようになりました。そのことが次第に、教会や一般社会の習慣として受け入れられてきたのです。教会では、この日に、母を感謝するとともに、深い神の恩寵を味わう日となりました。今朝は、詩篇105篇をそのような視点をも入れて、味わっていくことにいたしましょう。
【概要とその本質の適用】
詩[ 105 ]
A. 1-6 賛美への招きー生と実存の深みへ
B. 7-11アブラハムへの土地の約束ー贖われた世界の相続人へ
C. 12-14父祖の、その地における彷徨ー世における神の国の寄留者として
D. 16-22エジプトにおけるヨセフーキリストの十字架、復活・昇天・着座へ
E. 23-25イエラエルのエジプト滞在ー世における苦難・患難
F. 26-36エジプトに対するしるしと奇跡ー患難のただ中で守られる
G. 37-41出エジプトと荒野での養いー信仰の旅程での養い・支え
H. 42-45喜びの出立と土地の恵みの総括ーアブラハムへの祝福の約束の本質的な意味の成就
本詩は、[105:1 そのみわざを、諸国の民の間に知らせよ。105:2 そのすべての奇しいみわざを語れ。105:5
主が行われた奇しいみわざを、思い起こせ]という賛美への招きで始まっています。本詩で、イスラエルの民は、その父祖アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返された「土地と子孫ーすなわち神の国」についての約束というアイデンティティに深く根差していると記されています。しかし、ヘブル書、ガラテヤ書、ローマ書、黙示録によれば、これらの「イスラエル民族に限定された民族主義的な約束」は、その輪郭と本質が影としての役割を終え(ヘブル8:5、13)、イエス・キリストの十字架と御霊によって、民族を超えた「普遍的な神の国、新天新地」として成就・完成していくと記されています。
そのような視点から、本詩をみてまいりますとき[105:5
主が行われた奇しいみわざを、思い起こせ]の視野と地平線は、イスラエル民族を超えてさらに広く深いものとされていきます。「広く」とは普遍主義的な方向であり、「深い」とは私たちの生の実存への関わりです。本詩では、[105:5
主が行われた奇しいみわざを、思い起こせ]との呼びかけは、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの生涯で繰り返された「土地と子孫に関する祝福の約束」です。彼らは「地上をさまよう寄留者」でありました。よそ者として並々ならぬ苦労があったことでしょう。
「祝福の約束」が与えられていましたが、約束の地で飢饉におそわれ、エジプトに逃れることとなります。クリスチャンの人生も、かならずしも順風満帆ではなく、同様の事柄を数多く経験してまいります。しかし、神はそれらすべてのことを神の計画の中に置き、摂理の御手の中で管理され、ヨセフを前もって送られました。カナンでヤコブとその子供たち12人の家族からなっていた民も、エジプトで多産であったイスラエルの民は約300万人ー「国の中の国」と思われるほど多くの人口となり、クーデターの疑心をもたれ、迫害されるようになりました。日本のキリシタン迫害も似たところがあります。秀吉や家康は、キリシタンを利用しての外国勢力による植民地化を恐れたのです。そして、十の災害の後に、エジプトを追い出され、約束の土地に戻るよう導かれます。このような不思議な摂理の御手がなければ、イスラエルはエジプトの中に歴史を有したことでしょう。その40年間の旅程も、雲の柱によって熱気から守られ、火の柱によって夜の寒気から守られ、ウズラやパンや水が奇跡的に供給され、「約束の土地」まで運ばれました。
これらの教訓を、パウロは[Ⅰコリント10:11
わたしたちへの教訓]とするためであったと記しています。イスラエルの民の詩篇、イスラエルの歴史の回顧ーこれ、わたしたちはどのようにわたしたちの信仰生活の中に霊的教訓としていけばよいのでしょうか。聖書全体の光と新約のイエス・キリストの恩寵の光をもって、本詩に傾聴することにいたしましょう。本詩の第一詩節の[105:5
主が行われた奇しいみわざを、思い起こせ]を、民族主義のサングラスをはずし、イスラエルの歴史のはるか以前、天地創造にまで視野を広げましょう。そのとき、わたしたちは[創1:1
はじめに神が天と地を創造された][詩19:1
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる]という賛美の叫びに招かれるでしょう。
天地創造だけではありません。全宇宙から、わたしたち個人の生というものに目を転じますとき、[139:13
あなたこそ私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です]と、わたしたちひとりひとり生命の誕生に目を留めるでしょう。全知全能の神が、計画を立て、無限の宇宙を創造されたように、わたしたちひとりひとりの計画を立て、わたしたちの存在を創造し、人生を始めさせてくださったことを。そして、このお方は、イエス・キリストのみわざに示されている義と慈愛をもって、星の数のようなはまごの砂のように数えきれない神の民を起こし、十戒にその本質が示されているような神が御心をもって統治される世界、贖われた地球、すなわち新天新地という「約束の地、普遍的神の民、神の国」をもたらすことを意図されているのです。
ですから、本詩の第一詩節の[105:5
主が行われた奇しいみわざを、思い起こせ]の呼びかけを、わたしたちの人生に呼び込むために、わたしたちの生の誕生から召されるその日までのすべての事柄、出来事を[主が行われたすべての奇しいみわざ]の中に入れ込んで、主が行われたみわざのひとつひとつとして、折り込み、換算してまいりましょう。唱和・反芻しましょう。わたしたちの父母、また祖先を通して、「いのち」を、「生」を、「人生」を与えてくださった主を崇め、感謝しましょう。わたしたちの主イエスは、「髪の毛一本」も御父のゆるしなしに落ちることはない、と言われました。わたしたちの人生における「どんな小さなことも、どんな大きな失敗も、また罪もけがれも、いかなることも」ー主の御手の外にはなかったのだと、イスラエルが詩篇を唱和し、繰り返し、繰り返し、彼らの民の歴史を反芻して生きたように、わたしたちも、自分の個性的な人生の「ひとこま、ひとこま」を詩篇に重ね合わせ、唱和し続けましょう。
アブラハムは、人生のある時点で、まことの神と出会い、「v.9
祝福の約束」を得て、そのお方に人生を賭け、未知の土地に向けて旅に出ました。わたしたちも同様です。わたしたちも人生のある時点で、イエス・キリストと出会い、このお方に人生を賭け、未知の土地に向けて旅に出たのです。わたしたちは、「主が置かれた場所」で「v.12
寄留者」のように生活する側面があります。また、祝福の約束が与えられているにも関わらず「v.16
飢饉」に遭遇したりもします。しかし、わたしたちが「人生の神秘を解きあかす聖書」をひもときますときに、飢饉も、迫害も、災害も、旅程の困難もーそのすべてに意味があり、目的があることを教えられます。
アブラハムたちは「寄留者」のように他国で過ごしましたが、神はそのただ中で守り支えられた、と知ります。ヤコブとその家族は、飢饉に遭遇しましたが、「死んでしまっていたと受けとめられていた末っ子ヨセフ」が、その危機から救うために、前もって避難地エジプトに送られ、準備され、その国を治める総理大臣に引き上げられていました。この「ヨセフ」は、キリストの予型であり、ヨセフの苦しみは十字架を、その引き上げは復活と昇天、御座の右への着座とそこからの統治(使徒2:30-33)を象徴しています。イスラエルの民の十の災害とその後の旅程は、主イエスが「ヨハネ16:32
世においては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」を示唆しています。
第二次世界大戦は、フランスのノルマンディー上陸作戦をもって連合軍の勝利が確定しました(Dデー)。しかし、最終的な勝利までにはベルリン陥落までの掃討作戦が継続しました(Vデー)。同様に、イエス・キリストの十字架のみわざ、昇天・着座において、「アブラハムとその子孫に約束された祝福の約束」は成就しました。しかし、わたしたちの人生においては、なおも、十の災害のような戦いが日々に続いています。世界各地に戦争があり、貿易が寸断され、貧しい国は危機に陥り、不安定になり、移民・難民が溢れています。先進国でも、寒暖の差が激しい砂漠性気候が健康を脅かしており、食料品や水道料金等、生活必需品の価格は高騰しています。民主主義国家も不安定さを増しています。
このような世界、このような時代のただ中にあって、わたしたちは、御座におられる主を見上げ、仰いで生活しています。この被造物世界が、最終的に贖われ、主のみこころでもって統治される新天新地が到来することを(ローマ8:18-25)望み見て。わたしたちは、使徒たちにならって、そのような視点をもって、[105:42
アブラハムへの聖なることば]を捉えます。アブラハムは、[ロマ4:11 割礼を受けないままで信じるすべての人の父]、[4:13
世界の相続人となるという約束] [4:16 アブラハムは、私たちすべての者の父です]と記されている通りです。
[105:44
主は彼らに国々の地を与えられた。国々の民の労苦の実を彼らが受け継ぐために]は、イエス・キリストの人格とみわざにおいて、昇華されています。その民族主義的・排他的な「旧約の影」の部分は、栗のイガのように脱ぎ捨てられ、その「贖われた被造物世界」という本質的真理の中で成就・完成させられていくのです。その世界―新天新地では[105:45
主のおきてを守り、そのみおしえを保つ]御霊による、神の統治が完遂される神の国が完成させられます。
モルトマンという神学者は、現在の世界におけるクリスチャンの役割に関し、「ヨハネの黙示録」をはじめ、聖書66巻にある終末論は、「希望の倫理」を励ます終末論であると語りかけています。その精神をコンパクトに表明した、ウプサラで開催された第四回世界教会協議会(1968)の声明を紹介します。「神の力の刷新を信頼しつつ、私たちはあなたがたに呼びかける。神の国の先取りへと参与せよ。そして、キリストが彼の日に完成する新たな創造を、今日少しでも目に見えるようにせよ」ー新天新地、すなわち御霊によって贖われる地球に住む、という未来を待ち望むクリスチャンは、その内住の御霊によって、贖いのみわざに参与していくことができるのです。神が今できるさまざまのかたちでわたしたちを用いてくださるよう、祈ってまいりましょう。ではいのりましょう。
(参考文献:J.L.メイズ『現代聖書注解 詩篇』、ユンゲン・モルトマン『希望の倫理』)
2023年5月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇104篇「わがたましいよ、【主】をほめたたえよ」-「創造の物語」の解説書としての詩篇104篇-
https://youtu.be/gBy5OqV7qdc
本詩、詩篇104篇には、創造に関するイスラエル信仰の見事な表現が見られます。本詩の構成内容は、創世記1章の創造物語と多くの点で類似しています。讃美歌の形式をとっている本詩は、[104:1
わがたましいよ、【主】をほめたたえよ]と、詩人の「たましい」に呼びかけることから始まっています。心とからだの一致のもとに、存在のあらゆる力が神を賛美することに加わるよう招かれています。神を賛美するようにとの呼びかけは、「賛美の動機」を説明する主要部(2-30節)へと導かれます。それは、創造物語の順序に従って、七つの詩節に連ねて展開されます。いそのような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
*
【概要】
詩[ 104 ]
(冒頭の呼びかけ)
(第一詩節 詩篇104:2-4と創世記1:6-8の類似)…詩人は絵画的な言葉を使って、神が天を「幕のように張り」、蒼穹の上に在る宇宙の大洋に、天の王宮を据えたと語ります。
(第二詩節 詩篇104:5-9と創世記1:9-10の類似)…神は背き逆らう混沌の大水と戦い、大地を固く立てます。また、大水のために境を設け、混沌が再び大地に侵入しないように定めます。
(第三詩節 詩篇104:10-13と創世記1:6-10の類似)…混沌の水は飼いならされ、有益な用途に振り向けられます。今や、水は地下の泉から湧き出たり、雨となって空から降り注がれたりします。
(第四詩節 詩篇104:14-18と創世記1:11-12の類似)…その結果、植物が生い茂り、鳥や獣や人間がいきることが可能となります。
(第五詩節 詩篇19-23と創世記1:14-18の類似)…神は季節と昼夜を交代させるために、太陽と月を造ります。こうして、獣は夜闇に獲物を探し回り、人間は昼間にその仕事を果たします。
(第六詩節 詩篇104:24-26と創世記1:20-22の類似)…詩人は、混沌の大水の名残りである海について考察します。海には大小の生物が満ちています。レビヤタンはもはや混沌の恐ろしい怪物ではなく、神の「玩具(おもちゃ)」(ヨブ41:5)となります。
(第七詩節 詩篇104:27-30と創世記1:24-30の類似)…人間と動物は生涯にわたって、彼らの創造主である神に依存しています。
(結び)
*
さて詩篇から、創造の物語を再考することは、創造の物語の「頌栄的」な要素を確認させてくれます。本詩は、[104:1
わがたましいよ、【主】をほめたたえよ]と、神をほめたたえるよう、自らを召喚することで始まります。讃美歌のモードで、生命を与える創造の力に反応し、創造の驚異を創造主の忠実な力に引き戻します。召喚後、[わが神【主】よ]と、熱狂的に呼びかけられています。本詩は、続いて2-23節で、創造主たる神の功績による創造のすべての長い、喜ばしい目録を提供しています。
創造の基本構造は、創造主の驚くべき力によるものとする一連の「あなた」の言明へと展開します。これをやりとげたのは「あなたです」と。天は上にあり、水は下にあり、地は山と谷が正しく配分され整然としています。地球が混沌の脅威から保護された安全な場所となるように水域を設定されたのは神です。全世界のマクロな構造を詳しく説明した後、詩人は泉や小川からの豊富な水の供給から生じる豊富な創造物について熟考します。豊富な水はまさに素晴らしい贈り物です。豊かに水を注がれた大地は、すべての生物にとって歓迎すべき生息地です。
生命を維持する食べ物の産出は、水によって可能となった大地の基本的な生産物である油、ワイン、パンを祝うことで特徴づけられます。この長い目録は、「時」の正しい整理で終わります。その「時のすべて」は、太陽と月、昼と夜に反映されます。その結果、獲物となる動物と人間が互いに邪魔をすることはありません。人間の共同体が眠っている間に、動物は夜勤で働いています。この長い目録は、豊かな被造物(10-18)、整然とした時(19-23)が、創造主(24)によるものであることにつながります。[104:24
【主】よ、あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。地はあなたのもので満ちています]は、創造の完全性についての回想です。
この最初の目録が頌栄で最高潮に達したとき、詩篇は、次に具体的で説得力のある三つのイメージを提供します(25-30)。第一に(第六詩節)25-26節、海は生き物、船、海の怪物レビヤタンで一杯の場所です。混沌と無秩序の世界としての海、しかしここでは無秩序の邪悪な怪物が飼いならされ、神の玩具(おもちゃ)にされています。多くの水に対するこの遊び心は、もはや創造の秩序が脅威にさらされていないことの保証です。
第二に(第七詩節A)27-28節は、創造の継続性を証ししています。すべての創造物を養うのは神です。生命を維持するのに必要なすべての食物を贈り物として与えてくださるのは神です。創造の最高の神学は、「食卓の祈り」の中に表明されているといわれるゆえんです。
第三に(第七詩節B)29-30節は、世界は神の息吹によって生きていると断言しています。29節の「息」という用語と30節の「御霊」という用語は、ともにヘブル語の「ルアハ」という用語であり、この二つの用語の並置は、世界が生命を与える存在としての神に依存していることを示しています。被造物はそれ自身で生命力をもってはいないからです。神は、被造物にとって、「偉大で、信頼できる息であり肺」であるのです。
本詩は、地球を見て、山に触れる神への喜びの頌栄で締めくくられ、彼らは神の被造物として応答します。いき創造の賜物として、神が提供してくださっている食べ物の代表格としての[104:15
ぶどう酒…、パン]は、聖餐式の恵みを示唆します。
また[104:35
罪人らが地から絶え果て、悪しき者どもがもはやいなくなりますように]は、今日の環境保護の視点からみますとき、詩人が空気、土壌、水、植物、人間を含む動植物の複雑な相互関連性と相互依存性に言及していることを思えば、「創造物に対する搾取的使用に対する警告」とも受け取れます。
詩篇を通して解説されている「創世記の創造物語」の解説は、わたしたちに多く霊的教訓を示唆しています。わたしたちは、それらに静かに傾聴し、「わがたましいよ、【主】をほめたたえよ」とほめたたえつつ、生かされてまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、B.W.アンダーソン『深き淵より』、『新しい創造の神学』)
2023年4月30日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇103篇「罪にしたがって私たちを扱うことをせず」-すべての咎を赦し、一生を良いもので満ち足らせてくださるお方-
https://youtu.be/dBr1-kQEAzo
本詩103篇は、クリスチャンの間で大変愛好される詩篇のひとつです。特に、[103:2
わがたましいよ、【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな]は、年末感謝礼拝等で語り続けられる一句です。本詩をどのように傾聴するかについては、読者それぞれに任せられています。今朝わたしたちは、本詩103:7-8[103:7
主はご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。103:8
【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである]に注目したいと思います。それは、この箇所が、出エジプト記34:6-7[34:6
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である]を背景にしているからです。
その昔、『聖書神学辞典』の五つの項目について執筆を依頼され、その中のひとつとして「罪」という主題がありました。本詩傾聴の材料として、その「序」を紹介しておきたいと思います。[聖書において、罪は最大の関心事のひとつである。人類史冒頭に現われている罪は、神の民イスラエルの歴史の中にも深い跡をとどめている。イスラエルは、民族としての誕生以来、その悲劇を幾たびとなく繰り返す。選民としての特典にあずかりながら、他の民にまさるとも劣らない罪の中にあった(ヨシュア24:2,14、エゼキエル20:7-8,18)。神がモーセに「証しの板」(出エジプト31:18)を渡された、ちょうどそのときにさえ偶像礼拝に陥った。荒野の旅路においても、神からの食べ物よりも、自分の好みにあった食べ物をむさぼった。聖書の歴史はイスラエルの支配者や民衆の不従順を強調している]。詩篇103篇の言葉は、出エジプト記でモーセが十戒を受け取った時に、ふもとで「金の子牛礼拝」という罪に陥っていたイスラエルの民を滅ぼそうとされた神の問題をも扱っているものなのです。
闇の中にいる人間には、自分の顔の汚れは分かりません。光の中に照らし出され、鏡を見ると「自分の顔の汚れ」をはっきりと見ることができます。それは、クリスチャンにも言えることです。未信者の時には、自分の罪はあまりわかりません。「悪くとったとしても、ほぼ、それなりの善人」と受けとめている人は多いと思います。しかし、神の聖なる光に照らされると、「自分の罪」が分かるようになります。クリスチャンとしての霊的な成長に従い、ますます「自分の人間性の中に宿る罪の性質、パウロの言う肉の傾向」に敏感になっていきます。そのときに、詩篇103:9-10[103:9
主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。103:10
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない]という信仰の反応はとても大切な要素だと思うのです。
パウロも、自分のことを「聖人」とは表現せず、「罪びとのかしら」と表現しました。彼は、自分の内面を証しして、[ロマ7:13
罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました]と、神の聖さに根差すその戒めは、パウロの内にある「肉の性質、罪の傾向」を”限りなく罪深いものである”との認識に導きました。このような存在を聖なる神はどのように扱われるのでしょうか。それが、選民イスラエルが直面した問題であり、ローマ書でパウロの直面した問題でありました。パウロは、[ロマ8:1
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません]と結論しました。それは、限りなく罪深い「肉」のただ中に、御霊が内住してくださっているからです。このようなポイントに注目しつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
最初にも申しましたように、本詩はクリスチャンの間で最も愛好される詩篇のひとつです。讃美は、古典的な形式に従い、賛美への呼びかけの後に、賛美の理由が続きます。讃美の呼びかけは、1-5節の個人から6-18節の民族に、民族から19-22節の被造物世界全体へと拡大していっています。詩篇第四巻(90-106)は、詩篇第三巻(73-89)の最後89篇の「バビロン捕囚」という危機に対応して編纂されています。第四巻は、読者に、モーセの民族草創の時代、ダビデ王国という完成の時代の後、「従順な時には栄え、不従順な時には裁かれるという申命記的歴史」の結末としてのバビロン捕囚ー敗北と追放、君主制の崩壊、首都エルサレムと神殿が灰燼に帰し、国土の喪失という絶望の危機のただ中で「前進する唯一の方法」として、アブラハムへの約束、ダビデへの約束の前に「神のゆるぎない愛と誠実」を告白し賛美するものです。
順を追ってみてまいりましょう。本詩は、[103:1 わがたましいよ【主】をほめたたえよ]で始められ、[103:22
わがたましいよ、【主】をほめたたえよ]で終わる賛美の詩篇、ほめたたえの詩篇です。そのど真ん中に、[103:3
主はあなたのすべての咎を赦し]という罪の問題が置かれています。聖なる神と罪深い人間の関係において、罪の問題は、最大の問題であります。キリストにおいて罪の問題が解決するときに、聖であり義なる神が、わたしたちの前に赦しの神、愛の神として感じることができるようになります。そのときに、この一年間で起こってきたこと、歩んできた生涯において経験してきたことに、[103:2
主が良くしてくださったこと]に満ちていること、主が[すべての病を癒やし、103:4
あなたのいのちを穴から]、いろんな災いや危険から守ってくださり、[103:5
一生を良いもので満ち足らせ]てくださっているのだと気づかされます。
6-8節は、出エジプト記の経験、イスラエルの歴史的記憶、モーセへの啓示に移ります。強調されているのは、[103:8
【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである]お方であるということです。イスラエルの民は、約束の地で偶像礼拝と不道徳に走りました。その結果として、申命記に示されていた通りの取り扱いを経験しました。外敵に苦しめられ、ついには「土地、首都、神殿」を失い、捕囚の民となり、世界中に散らされることになってしまったのです。この経験は、イスラエルの民の心の奥底に深く刻み込まれました。本詩の詩節とは裏腹に、[103:9
主はいつまでも争ってはおられ(るのではないか)。とこしえに怒ってはおられ(るのではないか)。103:10
私たちの罪にしたがって私たちを扱(われるのではないか)、私たちの咎にしたがって私たちに報いをされる(のではないか)]と、疑心暗鬼な信仰にも陥ったことでしょう。
このような心理状況は、ローマ7章のパウロの心理とも重なるものです。クリスチャンであるならば、必ずローマ7章にあるような「自己理解」に苦しみます。J.D.G.ダンの言葉で言うならば、[ロマ7:24
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか]は、肉の中に御霊を宿すクリスチャンにとって「一生涯続く叫び」であるとのことです。そして、この叫びこそは「健全なクリスチャン生活のしるし」であるとのことです。わたしたちは、存在の内にある「肉の性質、罪の傾向」を感じるときに、捕囚後のイスラエルの民のうちにあった「疑心暗鬼な思い」に翻弄される危険があります。
しかし、そのような時に、捕囚帰還民が歌うように備えられた本詩を心から賛美することは、大きな助けになります。この一年、またわたしたちの一生涯において[103:2
主が良くしてくださったこと]を思い起こしましょう。主が[103:3
あなたのすべての咎を赦し]、罪と死と滅びの穴から救ってくださったことを思い起こしましょう。そして生活のただ中で、主がなしてくださったひとつひとつのことを思い起こしましょう。それらのひとつひとつの上に、[103:4
主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ]てくださっていることを発見してまいりましょう。
主は[103:15 草のよう。野の花のように。103:16
風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない]はかない存在のわたしたち、[103:14
土のちりにすぎない]わたしたちを心を留めてくださっています。主は[103:8
あわれみ深く情け深い。恵み豊か]なお方です。[103:11
天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい]、[103:17
【主】の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上に]あると、人間のはかなさと対比される神の永遠性がほめたたえられています。
人間存在には、その弱さそのもろさのゆえに、繰り返し打ち寄せる波のように、とりとめもなく鬱屈した思いや不安が襲い掛かります。しかし、目を上に転じて、垂直に向けて、[103:11
天が地上はるかに高い御恵み]に、[103:17 とこしえからとこしえまで]と永遠のみ恵みに目を留め、[103:19
天にご自分の王座を堅く立て、統べ治め]ておられる主を仰いで目を留めていくとき、わたしたちの心には、魂はおのずから[わがたましいよ、【主】をほめたたえよ]と反応する思いが溢れてきます。これを大切にしましょう。詩篇の記者に励まされ、このような思い・反応を育ててまいりましょう。そして、そのような賛美の溢れるところで[103:20
みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たち]が育まれていくのではないでしょうか。ほめたたえに溢れる勇士とされましょう。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary)
2023年4月23日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇102篇「シオンを建て直し、その栄光のうちに現れ」-生ける石として霊の家に築き上げられ-
https://youtu.be/eISOx3z1tmU
本詩は、三つの詩が組み合わされた作品と見られます。すなわち、①苦しむ個人の嘆きと祈りの詩篇。②シオンの再興をめぐる詩篇、③創造神への讃美が差し込まれています。本詩102:25-27は、ヘブル1:10-12で引用され、御子については、こう言われましたと、御子の神性について[主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。1:11
これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。1:12
あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません]と言及されています。
詩篇は、新約におけるイエス・キリストの人格とみわざの関係で数多く引用されています。それは、旧約の幕屋や神殿が、ヘブル8:5[天にあるものの写しと影]であったように、イスラエルの民の苦しみである、[詩22:1
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか]の叫びが、十字架上のキリストの叫びとなり、シオンの回復のイメージが、[マタイ27:40
神殿を壊して三日で建てる人]と、キリストの復活の出来事に関連して語られたりしています。そのような視点で読みますとき、本詩は①キリストの苦難と②キリストの復活、そして③新天新地の未来の予表としても意味あるものとしても聞こえてきます。詩篇のもつ機能と役割の豊かさ、それらに目配りしつつ、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩の古代における背景設定の試みにはかなりの多様性があります。最初のセクションの言葉は、深刻な病気の状況からきている可能性もありますが、そのイメージは「さまざまな生命の危機」に適用することができます。これを読みつつ、ウクライナやスーダンの状況に思いを馳せることもできます。第二のセクションは、その背景が紀元前6世紀のエルサレムの崩壊と関係があり、「捕囚にあった人々の帰還と共同体の回復」が祈りの基礎であったことでしょう。第三のセクションは、人間存在のはかなさと神の永続性がうたわれ、それは詩篇第四巻における「神の王権」の主張の文脈にあります。人の目の前にある苦難と回復への希望は、「とこしえに変わらない神によるさばきと希望」にかかっていると教えられます。
では、順を追ってみてまいりましょう。最初のセクション、1-11節は [102:1
【主】よ、私の祈りを聞いてください][102:2
私に耳を傾けてください][私に答えてください]と助けを求める祈りです。その祈りとは、この危機の時に、神に立ち会ってくださるよう、立ち上がってくださるよう「助けを求めて祈る」祈りです。私たちも危機に、また難しい状況に置かれていると思う時、本詩の詩人のように叫ぶ者とされましょう。祈る者とされましょう。[102:3
私の日は][102:11
私の日は]という、時間のモチーフが全体を貫いています。みなさんはいかがでしょうか。長いように受けとめていたわたしの一生も、はや70年経ってしまいました。「光陰矢の如し」「難波のことは夢のまた夢」と、それはまばたきの一瞬のように過ぎていく感じです。
[102:4 青菜のように打たれてしおれ][102:11
青菜のようにしおれて]と、詩人の人生は枯草にたとえられています。そのイメージは、人間存在の脆弱性を明確にしています。骨も心も皮も、[102:3
煙の中に尽き果て、…炉のように燃え][102:5
溶けて]しまったと告白しています。同窓会の時に、恩師の先生がその体験から「60歳を過ぎると、人間のからだは大きく変わるから気をつけなさいよ」とアドバイスしてくださいました。地域の集団検診のデータを振り返り、60歳台に血圧が徐々に高くなっていっていることを気づかされました。年齢的な要素もあるでしょうが、医者から「塩分の取りすぎ、運動不足」も大きな要因であると教えられました。
ある本によれば、70歳前後に「適度の運動」のある生活を身に着ける人とそうでない人とでは、「老化現象の速度に大きな差が生まれる」とありました。それで、医者のすすめもあり、すぐ近くの無料の温水プールに短時間でも毎日通うよう努力しています。健康な老後を過ごすのか、臥せって病の中で過ごすのかー大きな問題です。詩人は、自分は[102:6
荒野のみみずく、廃墟のふくろう][102:7 屋根の上のはぐれた鳥]のようだとたとえその孤独を表現し、その毎日は[102:9
灰をパンのように食べ、…飲み物に涙を混ぜ合わせ]たと告白し、[102:10 私を投げ捨てられた]と神の不在を意識しています。
第二のセクションは、[102:12
しかし【主】よ、あなたはとこしえに御座に着いておられます]との告白で始まります。はかなく、大地に目をやり、地上にあるもろい人間存在を歌いあげ告白した詩人は、次の瞬間その目を天に向けたかのようです。学生時代の恩師のひとり、山中良知教授は「クリスチャンは、マルキストよりも現実主義者でなければならない」と語られました。キリスト教信仰は「アヘンのようであってはならない。天にのみ希望を置いて、地上のことに盲目であってはならない」ということでした。クリスチャンは、現実を直視し、生じてくる問題解決に果敢に挑戦し続けます。それは、本詩第三節にみられるー贖いの御霊により未来において完成する新天新地の到来の力を今の時代にもたらそうと主の働きです。
新約の光から、キリストはその人格とみわざにおいて、十字架のみわざを成し遂げ、罪と死の中にある人々のー[102:17
窮した者の祈りを顧み、…ないがしろに]されず、審判と滅びに定められていた[102:20
捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たち]解き放ってくださいました。そして、三日の後に復活し、昇天・着座し[102:19
【主】はその聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれ]、わたしたちのため祭司のようにとりなしてくださっています。エペソ書2:21によれば、わたしたちは[主にある聖なる宮]であり、ペテロ書によれば[あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げ]られるとあります。すなわち、紀元前6世紀のバビロン捕囚後のシオンの再建、首都エルサレムや神殿の再建ー[102:13
シオンをあわれんでくださいます][102:14
シオンの石を喜び、シオンのちりをいとおしみます]という、旧約の「民族主義的で単色の」言葉の光は、新約の「イエス・キリストの人格とみわざ」という、いわばプリズムを通し「カラフルで美しい、普遍主義的であらゆる差別主義を克服」しています。すなわち、[102:15
こうして国々は【主】の御名を、地のすべての王はあなたの栄光を恐れ]るようになり、福音は民族を越え、差別等あらゆる垣根を越えて広がっていくといわれているのです。
第三セクションは、[102:23 主は私の力を道の半ばで弱らせ、私の日数を短くされました。102:24
私は申し上げます。「私の神よ、私の日の半ばで私を取り去らないでください。あなたの年は代々に至ります]という祈りの言葉で始まります。これは、健康な長寿を祈る祈りであるばかりでなく、「神の民の共同体から取り除かないでください」という祈りでもあります。それは、わたしたちが永遠に神の民の一員として、生ける石として組み込まれていることは、救いの保証であり、[102:6
荒野のみみずく、廃墟のふくろう][102:7 屋根の上のはぐれた鳥]の孤独から守られるためです。
エペソ1:10に[キリストにあって一つに集められ]とあるように、[102:21
人々が【主】の御名を(天の)シオンで、主の誉れを(天の)エルサレムで語り告げ][2:22
諸国の民や王国が一つに集められて、【主】に仕える]よう定められているのです。地上の光だけでみますと、人間存在は、はかなく短くあやうい存在でしかありません。しかし、[102:12
とこしえに御座に着いておられ]る主の視点から、天上的視点からみますとき、バビロン捕囚で崩壊した首都エルサレムと神殿が[102:16
建て直され、その栄光のうちに現れ]るかのように見えてくるのです。一見、はかなく見えるわたしたちの存在、寄留者としてのわたしの生涯ではありますが、アブラハムのように「地上では、約束のものを手に入れることはなくとも」、主にあってとこしえの[102:28
住まいを定め]られているのであり、[御前に堅く立てられ]るのです。それゆえ、わたしたちひとりひとり、それぞれの個性・賜物・召命に従い、見える地方教会、見えない普遍的教会の[Ⅰペテ2:5
生ける石として霊の家に築き上げられ]、たどたどしくとも一歩一歩歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary)
2023年4月16日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇101篇「恵みとさばきを、私は歌います」-国王のように君臨し、心の生活や日々の小さな行いにおいて善良な統治者となる-
https://youtu.be/gFr6huDiGf0
今朝、まだ朝早く庭に出てみました。黒い土の中から小さな「カラシナ」の芽が一斉に顔を出していました。その瞬間、み言葉が心に示されました。[マル4:26
またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、4:27
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。4:28
地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。4:29
実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」]と。
兵庫の山深い山間部で、一宮基督教研究所(ICI)というかたちを通してみ言葉の種を、また継続神学教育の種を蒔かせていただいています。主に、インターネット等を通しての働きなので、礼拝出席とか献金額等という「見える教会の教勢」では見る影もありません。ただ、ICIを通し様々なかたちで蒔かれ続けている種が祝福され、「見えない教勢」として「カラシナの芽」のように一斉に吹き出していのだと励まされました。そのようなイメージを眼前に描きつつ、今朝も詩篇に傾聴してまいりましょう。
本詩は、聖書通読とか、朝夕の静思の時に黙想的に、また直観的に読むこともでき、そこからも霊的祝福や建徳的な霊的益を得、信仰生活の養いとすることができます。さらに、豊かな読み方において成長していこうとしますとき、本詩の背景に関する昨今の研究を参考にすることができます。本詩が「神の王権」に関する一連の詩篇の流れの中に置かれていることや、ブルッゲマンの資料によりますと、本詩は、一般に、「王の詩篇」とみなされているものです。本詩の語り手は、エレサレムの王であると考えられます。といいますのは、本詩が[101:2
私は家の中を][101:6 この国の][101:7 私の家の中に][101:8
国の中の][【主】の都から]とあるからです。本詩の舞台は、王のファミリーであり、王の政府であり、王とそのファミリー、それに仕える官僚たちと彼らが統治する国家・国民であるのです。
すなわち、本詩は、神に対してエルサレムの王が、「善良で忠実な王になるという誓約」で構成されているのです。まず、最初に[101:1
恵みとさばきを、私は歌います]とあります。王の願望であり、願いである「善良で忠実な王になるという誓約」は、善良かつ忠実な神、そのお方を源とし、基盤とし、そのお方との深く親しい人格的な交流に根差しているとの告白です。このお方との交わりの中から湧き出ずるものによって、「善良で忠実な王になるという誓約」が果たされるという信仰の告白であるのです。わたしたちは、国王ではありませんし、政治家や官僚でもないかもしれません。しかし、わたしたちは、ある意味で「わたしたち一人一人の人生というドラマにおいては、主人公」であります。また、わたし自身の存在と時間において、ある意味で「国王のように君臨し、心の生活や日々の小さな行いにおいて統治者」のようであるのではないでしょうか。
であるとしましたら、本詩は「エルサレムの王」の誓約であるだけでなく、「王としてのわたしたち」の誓約ともなりうるものです。本詩の内容は、主にある[101:2
全き道に]留意し、またその思いは[全き心]で行き来することを願うものです。これは、王自身のあり方に関するものです。[101:3
目の前に卑しいことを置きません][曲がったわざが私にまといつくことはありません][101:4
曲がった心は私から遠ざかります。悪を知ろうともしません]とは、王の心のうちに生起しうる「肉の思い」との葛藤でもあるでしょう。誘惑でもあるでしょう。わたしたちクリスチャンにおいても、「御霊の思い」と「肉の思い」の葛藤が、誘惑があり、それに打ち負けてしまわないだろうかとの恐れが起こることがあります。そのような時に、本詩を朗誦することは有益です。
時に、「肉の思い」に負け、敗北を経験することもあるでしょう。しかし、わたしたちの内には「御霊にある思い」があります。それゆえ、敗北で打ちのめされ、地の上に倒れ、うち伏しているときにさえ、本詩を歌うことができるのです。エルサレムの王室、政府、国民はいつも清廉潔白であったわけではありません。逆に、王は[101:3
私は目の前に卑しいこと]に捉われたことでしょう。[私は曲がったわざ]を愛し、[それが私にまとい]ついたことでしょう。それが、「人間存在」であり、「肉にあるものーすなわち人間性」であるのです。
王の周囲には、さまざまな人間がいたことでしょう。[101:5
陰で自分の隣人をそしる者]、[高ぶる目とおごる心]があったことでしょう。王は、自らの内側にある弱さを知っているだけでなく、王の周辺に存在する「肉の思い」をも理解していたことでしょう。[101:7
欺きを行う者]が王家の中にいたことでしょう。私の家の中に住むことはなく、[偽りを語る者]、こびへつらう者が、王の目の前に堅く立つこともあったことでしょう。そのような私利私欲を、名誉地位のみを求める悪弊を取り扱い、[101:8
悪しき者をことごとく滅ぼし]、[不法を行う者をことごとく断ち切り]、善政をしきたかったことでしょう。
王は、矛盾し、混迷する現実を直視しつつ、あきらめません。王は、その現実の前で葛藤し、時に打ちのめされますが、あきらめません。それは、まるで新約のコリント書でパウロなしている告白にも似ています。[Ⅱコリ4:6
「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。4:7
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。4:8
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。4:9
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです]と。
旧約時代、主にある賢明な王は、本詩のような歌を歌い続けたことでしょう。それは、順風満帆な時に歌ったというよりも、困難な混迷状況を直視しつつ、主を仰いで[101:1
恵みとさばきを、私は歌います。【主】よ、あなたにほめ歌を歌います。101:2
私は全き道に、心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で、行き来します]と歌ったことでしょう。そして、王には、以下のような期待があったことでしょう。[101:6
私の目はこの国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者その人は私に仕えます]と、王と同じく、私利私欲を求める輩ではなく、主の「恵みとさばき」を慕い求め、それを政治に反映させようと願う人たちが起こされることを。
このようなメッセージを傾聴した後、それをわたしたちの伝道・教会形成・神学教育に適用してまいりましょう。ジョン・ストットという福音主義における世界的指導者のひとりは、[現代は、方法とか、成果とか、実存ということが強調され優先する時代である。しかし、ストットは、ローザンヌ会議の講演の中で第一世紀の使徒たちの宣教にふれ、その中でもっとも中心的なことは、実は方法でも成果でもなく、使信そのものであったと語って注目された]と言われています。[101:3,4
曲がった]教えが氾濫しやすい時代のただ中で、主の[101:1 恵みとさばき]を歌いつつ、御霊の助けを受け[101:2
全き道、全き心]をもって[101:6 忠実な人たち]とともに、歩んでいきたいと思います。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、宇田進『福音主義キリスト教と福音派』)
2023年4月9日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇100篇「主こそ神。主が私たちを造られた」-イエスは「マリア」。彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」-
https://youtu.be/Yj0OyT7ak88
おはようございます!今朝は、キリスト教会ではイースター、約二千年前にイエス・キリストが復活された記念すべき日です。今朝、開きます詩篇100篇は[100:1
全地よ、【主】に向かって喜びの声をあげよ]という言葉で始まっています。旧約の歴史性をもつ本詩ではありますが、神の民の歴史において、その共同体の礼拝において、さまざまな機会に用いられてきたその賛美の機能を覚えますと、イエス・キリストの復活を祝う、イースターの朝に本詩を開き、新約の光の中で「その復活の意義・意味」を味わえること、その喜びを爆発させることができることは、幸いなことと思います。今朝は、本詩をそのような視点から傾聴し、わたしたちの生活に適用してまいりましょう。
本詩は、すでに申し上げてきましたように、詩篇第四巻冒頭の「神の、宇宙の王権、また諸国民の王としての即位式」詩篇と呼ばれる一連のコレクションのひとつです。本詩は、[100:1
全地よ]と、宇宙の王権、また諸国民の王としての神への賛美を呼びかける命令で始まります。
礼拝のために[100:2 御前に来たれ]、エルサレムの[100:4
主の門に]、神殿の[大庭に入れ]と呼びかけられています。[100:1 【主】に向かって]とは崇拝の命令であり、[100:2
【主】に仕えよ]とは服従の命令であります。これらの用語は、地に住むすべての共同体が神聖な王権を有しておられる唯一の神を礼拝するよう聖なる場所に集まるように呼びかけ、召しだしているものです。
3節では、[100:3
知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊]は、王権を有しておられる神を崇拝すべき理由がのべられています。イスラエルは、彼らの創造者であり、エジプトから救い出された贖い主である神に属しています。4節では、[100:4
感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ]と、感謝と賛美をもって聖なる場所に来るよう呼びかけています。[100:1
【主】に向か]う、[100:2 【主】に仕え]る、[御前に来た]る、[100:3
【主】こそ神]であることを知る][私たちを造られ]たこと、[主のもの、主の民、その牧場の羊]であることを知り、[100:4
感謝]と[賛美]に溢れるよう命じられています。
そして、5節では、 [100:5
いつくしみ深く][恵み]は深く、[真実]な神の共同体に対する忠実で誠実な愛の継続を告白しています。詩篇100篇は、喜びに満ちた熱心な礼拝への呼びかけとして知られている詩篇です。冒頭の命令は「神の臨在の神聖な場所としての神殿での神との出会い」を見越して、喜びの叫びを求めています。神は創造者であり、解放者です。生きる意味を与え、いのちを与えられるお方です。ゆえに、詩篇は礼拝の場と日常生活の両方において、賛美と感謝の応答を求めているのです。
さて、わたしたちはここで、本詩を新約の光の下におき、イースターの出来事に焦点を合わせることにしましょう。ヨハネによる福音書20章をみますと、[ヨハ20:1
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た]とあります。[ヨハ20:7
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めて]ありました。キリストの遺体がどこかに持ち去られたのかと思われました。それで、[ヨハ20:11
マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込]みました。
[ヨハ20:12
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。20:13
彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」]と途方に暮れていました。[ヨハ20:14
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。]おそらく、涙目でちゃんと直視できていなかったのでしょう。20:15
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」]
[ヨハ20:16
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った]とあります。分かるでしょうか。愛する主イエスが、人類のすべての罪を背負い、身代わりとなって十字架の刑罰を受けられ、亡くなられ、その三日目に墓地に行くと、遺体がなくなっており、絶望と悲嘆に打ちのめされていたマリヤが、復活された主に再会した瞬間です。わたしは、ここ、[ヨハ20:16
「マリア。」…「ラボニ」]の箇所に、[100:1
全地よ、【主】に向かって喜びの声をあげよ]の一節を重ねて読みたいと思います。
暗雲垂れこめていたマリヤの心が、一瞬にして晴れ渡った瞬間です。キリストの復活、それは、贖罪に続く最大の出来事です。それは、わたしたちの罪が赦されるだけでなく、キリストの復活を初穂として、いわば全面的な収穫としての、「主の民、その牧場の羊」としてのわたしたちの復活も続く保証です。この出来事によって、わたしたちに何がもたらされたのでしょうか。本詩には[100:3
知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた]とあります。詩篇では、エジプトでの奴隷の縄目から解放され、神の民として創造されたことへの言及です。新約の光で、わたしたちは「罪と死と滅び」という絶望的な運命の縄目から解放され、わたしたちは[主のもの、主の民、その牧場の羊]として、[Ⅱコリ5:17
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しく]創造されたものとなりました。
エペソ人への手紙でも、[エペ2:10 実に、私たちは神の作品であって、…キリスト・イエスにあって造られた][エペ2:19
聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族]ーすなわち、[100:3
主のもの、主の民、その牧場の羊]なのです。そして、福音書では、このイエスは[ヨハ4:21
イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます]とも言われています。旧約では、ダビデ王朝の時代、バビロン捕囚までは「土地、エルサレム、神殿」に焦点が当たっていましたが、新約のヘブル書によれば、それらは[ヘブル8:5
天にあるものの写しと影]であったと説明されています。
贖罪のみわざを完遂し、復活・昇天されたキリストは、[ヘブル8:1 天におられる大いなる方の御座の右に座し、8:2
人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます]と記されています。そうなのです。今日、キリスト教会で垣間見る「イスラエルの土地、首都エルサレム、神殿の再建」に資する運動は、旧約の“影”に縛られた、誤った教えなのです。それらは、ウクライナ問題、台湾問題等にもみられるような「戦争と紛争の火に油を注ぐ」危険すらあるように思います。
わたしたちは、特定の民族のためにではなく、[100:1
全地]の全民族のために、死んで葬られ、三日目によみがえり、昇天され、天のエルサレム、天の聖所からの臨在をもって統べ治められている主を礼拝し、仕えるために救われたのです。イエス・キリストは、差別やえこひいきのない、全民族、全世界の人々のための王であり、統治者なのです。そのような意味で、このイースター、わたしたちは、わたしたちのすべての罪を赦し、新しく造りかえられ、御霊によって日々造り変え続けてくださっている主に[100:1
喜びの声]を爆発させましょう。感謝と賛美の叫びをもって、御霊により、天の[100:4 主の門に、大庭に]入りましょう。
さて、わたしたちは、時として「主の聖なる民としてふさわしくない者ではないか」という意識にさいなまれる時があるかもしれません。そのような時には、「復活の主が最初に姿を現されたのは誰であったのか」と問いましょう。主イエスは、聖人君子のような人に最初に復活の姿を現されませんでした。主イエスは、最初にマグダラのマリヤに姿を現わされました。[彼女は7つの悪霊を持っていた女性ですがイエスによっていやされ(マコ16:9,ルカ8:2),それ以来,イエスの献身的な弟子の一人となりました.なお一般に,彼女は遊女であったという説がありますが,ルカ7:37の「罪深い女」と混同すべきでなく,また7つの悪霊の「7つ」とは数を示すのではなく量あるいは質を示すものであり(参照マタ12:45,ルカ11:26),マリヤはおそらく悪質の病をいやされた女性であった]と思われます。
わたしたちの主イエスは、この世の価値観・差別感情をもって人を見るお方ではありません。いつも、さげすまれていた取税人や差別され見下されていたマグダラのマリアや、姦淫の現場で石を投げつけられている女性等に心を懸けておられました。わたしたちもそのような思いをもつ者とされたいと思います。わたしは、そのようなイエスの心を5節の中にみます。[100:5
【主】はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る]お方です。昔、「トルストイは山上の垂訓のような道徳的生活を追い求めた作家であり、ドストエフスキーは地下の牢獄でうめき苦しんだ作家である」と聞いたことがあります。ローマ書の人間観としては、両面が見えてきます。それは、救われ贖われた人間は「肉のうちに御霊を宿す存在である」というものです。
パウロは、ローマ1-2章で「人類の普遍的罪深さとそれに対する義なる神の審判」を記し、3-5章で「キリストの贖罪死」によってのみ赦されると宣言しました。それに続き、救われ赦された信仰者が「なお、肉としての存在」を抱えて生き続ける問題と取り組んでいます。そして、この肉的存在としての人間のただ中に、御霊が内住されている恵みについて記しています。パウロは、肉的存在のただ中に御霊の内住という恵みに生かされているクリスチャン生活を、次のように「キリストの復活、イースター」と重ね合わせて描いています。
[ロマ8:9
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。8:10
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。8:11
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます]と描いています。
これは、大きな恵みではないでしょうか。キリストは、「罪と死と滅び」という最大・最強の問題を打ち破られました。わたしたちには、御霊によって贖われ、完成する「新しい天と新しい地」が待っています。それだけではなく、今日、現在のわたしたちの生活と存在のただ中に、肉のただ中に、御霊が内住しておられ、イースターの復活の恵みを、よみがえりの力を、いのちを日々、経験させてくださるというのです。わたしたちは、時折[ロマ7:18
私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。7:19
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。7:20
私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。7:21
そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。7:22
私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、7:23
私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。7:24
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか]という意識にさいなまれることでしょう。
これは、ある意味、クリスチャンとして健全な意識なのです。この意識が芽生える時には、内住の御霊、私たちの主イエスをよみがえらせた御霊の働きへの信仰が働きます。それは、自身の存在を、キリストの死のからだと重ね合わせ、「ロマ7:24だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫びの声を上げうる瞬間だからです。肉の中にある、存在の中にある「罪の傾向」におびえるとき、いつもこの叫びを、キリストが葬られた洞窟から、閉ざされた扉の中から上げることにいたしましょう。
そのとき、わたしたちの存在、生活は[ロマ8:10
罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなって]いることを知ります。このようにして、わたしたちは、肉の努力によってではなく、[ロマ8:11
御霊によって、死ぬべきからだも生かして]くださる恵みを体験してまいりましょう。イースター、キリストの復活の朝、マクダラのマリヤの心も、それにふさわしい“雲ひとつない青空”のようなものとなりました。あなたも、わたしも、みんな、日々、イースターの朝を経験する者とされ、歩んでまいりましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、G.E.ラッド著『終末論』)
2023年4月2日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇99篇「主は、王である」-主がお入り用なのです-
https://youtu.be/23Ttm9b3E9w
今週は、教会の暦で受難週に当たります。約二千年前、イエス・キリストは、受難週のはじめの日、子ロバに乗られて、神の都エルサレムに入城されました。マタイによる福音書の21章に[21:1
さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。21:2
「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。21:3
もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」21:4
このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためでありました。
21:5
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」21:6
そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7
ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。21:8
すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。21:9
群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」]
イエス・キリストは、子ロバに乗って、柔和で謙遜、へりくだったユダヤ人の王、また全人類、全民族の王として、エルサレムに入城されました。当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国による植民地支配からの独立を達成してくれる政治的メシヤを期待していました。そして、宗教指導者たちは、急進的な改革者とも思われたイエス・キリストは、動乱・騒乱の種となり、ローマ帝国から与えられている自治権や宗教的寛容を失いかねない危機感を抱いておりました。それゆえ、なんらかの証拠、あるいは口実をつくりだして、投獄・処刑しようとしていました。イスカリオテのユダを取り込み、逮捕にこぎつけ、宗教裁判にこぎつけました。
[マタ26:59 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。26:60
多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、26:61
こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」26:62
そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」26:63
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」26:64
イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」26:65
すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒とくした。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒とくすることばを聞いたのだ。26:66
どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。]
[マタ27:11
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」][マタ27:27
それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。27:28
そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。27:29
それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。][マタ27:37
彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。]以上、受難週の出来事のひとこまです。このようなことを念頭に、本詩99篇に傾聴してまいりましょう。
本詩は[99:1
【主】は、王である]との宣言から始まっています。今週は受難週ですので、ユダヤ人の王、全人類の王として来臨され、受肉された主イエス・キリストのメシヤ預言に焦点をあて、重ね合わせて本詩に傾聴することにしましょう。旧約には、三つの主要なメシヤ預言があるといわれます。第一に、ダニエル書7章に「人の子のような方が天の雲に乗って来られ…、この方に、主権と光栄と国が与えられ、…その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13-14)とあるものです。
メシヤたる人の子は、天的な、先存在の、超自然的な人物であると考えました。その人の子は神の定めた時に来て、死者をよみがえらせ、悪しき者をさばき、神の民を贖い、彼らを永遠の王国に集めるのです。メシヤたる王は、[99:1
ケルビムの上に座しておられる]方であり、天的な[99:2
シオンにおられる大いなる方]、超自然的なお方です。キリストは、宗教裁判の被告席に立たされ、詰問されました。
[26:63
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」26:64
イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」]と、キリストは、天のエルサレムにおられ、力ある方の右の座に座しておられるメシヤであり、「超越の神」そのもののお方であるのです。
このお方は、[主は聖なる方。99:4
王は力をもってさばきを愛する。あなたは公正を堅く立て、さばきと正義をヤコブの中で行われ]たお方です。わたしは、ここにイザヤ11章にみられるダビデ的な王としての第二のメシヤ像をみます。本詩が記されたであろう第二神殿時代には、ダビデの血統の王室は存在していませんでした。救済史的希望は挫折させられたかに見えていた時代でした。しかし、その倒された木の切り株から、新しい芽、新しい枝、新しい王室の子孫が生まれ出るとの約束がなされていました。[その上に、霊がとどま]り、知恵と悟りと知識を授ける。それによって、彼は、真の正義、義、公正をもって統治できるようになるというのです。そのお方とは、キリストのことです。
旧約における第三のメシヤ像は、イザヤ書53章にみられる苦難のメシヤ像です。本詩では、直接的ではありませんが、第三詩節にその萌芽が感じられます。[99:6
モーセとアロンは主の祭司たちの中に、サムエルは御名を呼ぶ者たちの中にいた。彼らは【主】を呼び、主は彼らに答えられた。99:7
主は雲の柱から彼らに語られた。]モーセやアロン、サムエル等のとりなしの働きが神の自己啓示とさばきと赦しをもたらしたと,イスラエルの歴史を回顧しています。捕囚から帰還した人々に対し,同じように主は信仰深い者のとりなしに耳を傾けて下さるとの確信の表明です。聖なる神は罪を罰されますが,また恵みにおいても豊かな神なのです。
わたしたちの身代わりとして、苦難を受けられた第三のメシヤ像は、ヘブル4章にも記されています。[ヘブル4:14
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。4:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。]
わたしたちには、呼ぶことのできる[99:6
御名]があり、[答え]てくださる主がおられます。歩むべき[おきて]があり、[主のさとし]があります。このお方は、[柔和でへりくだって]おられる方で、だれでもこのお方から[学ぶ]ことができ、[心に安らぎ]を得ることのできる「内在の神」なるお方です。今週は、受難週。子ロバの背中に乗って、エルサレムに、ユダヤ人の王、また全人類の王として入城された週です。つながれている子ロバに対して「主がお入り用なのです」と声をかけられたように、わたしたちにも声がかけられています。受胎告知の折のマリヤのように、[ルカ1:38
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と応答し、身をささげてまいりましょう。では、お祈りいたしましょう。
(参考文献:G.E.ラッド著『終末論』、実用聖書注解)
2023年3月26日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇98篇「主は奇しいみわざを行われた」-グローブを放り投げ、帽子を放り投げ、両手を差し上げて-
https://youtu.be/TaNOQPHcSkM
詩篇を学び始めてから、ほぼ二年が経過しました。今朝の詩篇は98篇ですので、少なくとも98週を経過してきたと言えます。本詩は、[98:1
新しい歌を【主】に歌え]という言葉から始まっています。わたしたちは何をもって、主を賛美するのでしょうか。詩篇から教えられることは、イスラエルの賛美は、第一義的に「広大な創造のわざや宗教心」によって呼び覚まされたものではないと教えられます。むしろ、神の民の賛美は、その生活のただ中で「神の救いの力と目的を体験」したことに基づくのです。わたしたちにとっても同様です。イスラエルの民は、当時の最も強大なエジプト帝国で「くびきにつながれた奴隷」でありました。わたしたちは、「罪と死と滅びの運命」からの救いでありました。
イスラエルの民は、ピラミッドの造営などに動員されていた犠牲者でありました。そのような「悲惨な状況」に介入してくださった神は、無からひとつの民を創造し、「出口のない袋小路」から未来への新しい道を開いてくださったのです。イスラエルの最も初期の詩歌は、このような「救いの力」を現してくださった神に対して「喜ばしい賛美の叫び」を響かせるものでありました。さて、皆さんはWBCの野球大会を見られたでしょうか。その最後のシーン、大谷投手が最強の打者といわれるトラウト選手を三振にとった瞬間、マウンドの上でグローブを放り投げ、帽子を放り投げ、勝利の雄たけびをあげた姿を。
わたしたちも、同様ではないでしょうか。わたしたちが[98:1
新しい歌を【主】に歌]い始めたのは、主を賛美し始めたのは、わたしたちの人生のただ中において、主が[98:1
奇しいみわざを行]ってくださったからではないでしょうか。イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放されたように、わたしたちも「罪と死と滅びの運命」に定められ、なんの希望もなく生きていた状態から、「死と葬りと復活の永遠のいのちの運命」に救い出してくださったからではないでしょうか。
わたしたちが、「主イエスにある救い」を経験すると、人生観、宇宙観が変わってしまいます。わたしたちの人生を導かれているのは「摂理の主である神の愛」であると知ります。人生の大きな導きにおいて、また毎日のささいな事柄において「神様の計画と導き」を感知するようになります。冬が去り、春の陽光が降り注ぎ始めると神の祝福を意識するようになります。大地に降り注ぐ雨もまたそのように意識するようになります。わたしたちを取り巻いているこの自然界、この宇宙のすべては「創造主である神の傑作」であることを知り、さらに豊かに「
98:1 新しい」賛美が溢れてきます。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は[98:1
新しい歌を【主】に歌え]という招きをもって始まります。それは、なぜでしょう。讃美歌は、イスラエルのみに固有のものではありませんでした。考古学的な研究のおかげで、イスラエルの近隣諸国の讃美歌という、大いなる宝物を自由に参照することができるようになりました。イスラエル周辺の中東諸国の諸宗教にも「さまざまな神々」を賛美・礼拝する讃美歌がありました。そのような状況下で、「イスラエルの讃美歌」に独特なものがありました。それは「イスラエルの神を称賛する」という内容をもつものでありました。それらは、「神に対する新しい語りかけ」「
98:1 新しい歌」として表現されていったのです。
もちろん、新しい語りかけの中に、古い慣用句も継承されることもありました。たとえば、「すべての神々にまさる大いなる王」(詩篇95:3)、という表現は伝統的なものでした。それは、「聖なる神々の集い」(詩篇89:5-6)という天上の集会を主宰する王という「古代の帝王観」に基づいています。しかし、ここで重要なことは、「讃美歌の古代の形式に新しい内容を盛り込んだ」ということです。こうして、イスラエルの讃美歌は、文字通り[98:1
新しい歌]と呼ぶのにふさわしいものとなったのです。まことの神をほめたたえる讃美歌集である詩篇が形成されていったのです。
わたしたちは、毎週の礼拝毎に、[98:1
新しい歌を【主】に歌]います。それは、主がわたしたちの人生のただ中で[奇しいみわざを行われた]ゆえです。イスラエルの民にとっては、「出エジプト」が「原体験」といえるものです。「バビロン捕囚からの解放は第二の出エジプト」といえるものです。わたしたちにとっては、二千年前のカルバリの丘で十字架にかかり、「罪と死と滅びの運命」から、わたしたちを救い出すために「身代わりの刑罰」を受けてくださったキリストとの体験は、わたしたちにとって「原体験」です。わたしたちは、人生のある時期に、ある瞬間に、イエス・キリストを心に信じ、口で告白し、救われて、その証しとして洗礼を受け、公にクリスチャンとなり、クリスチャン生活を始めました。
ある人がこう証ししました。「クリスチャンは、死を恐れません。クリスチャンにとって、死ぬ日は、わたしたちが信じている主イエスとまみえる日であるからです」と。聖書において、わたしたちが人生を終え、主とまみえる日は、「キリストの花嫁となる結婚式」にもたとえられています。結婚式、それはわたしたちの人生において「最良の一日」ではなかったでしょうか。本詩を読んでいますと、新約聖書のピリピ人への手紙を思い起こします。
それは、本詩の4-9節に「喜び」が溢れているからです。[98:4
全地よ、【主】に喜び叫べ。…喜び歌い、ほめ歌を歌え。98:5 竪琴に合わせ、98:6
ラッパに合わせ、角笛の調べにのせて、王である【主】の御前で喜び叫べ。]と、喜びが大爆発しているからです。ピリピ人への手紙でも[ピリ3:1
最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。4:1 ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。4:4
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい]と、喜びが溢れています。まさに、喜びの本詩は、旧約のピリピ人への手紙のようであり、喜びの手紙であるピリピ人への手紙は新約の詩篇98篇のようではないでしょうか。
使徒パウロは、新約聖書ピリピ人への手紙で[ピリ1:23
私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです]とまで言いました。しかし、今生きているのは、働きの実を結び続けることができるからだ、[ピリ1:21
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です]と言いました。
ピリピ人への手紙は迫害下の小さな教会への励ましの手紙でした。戦火の下にあるウクライナの人々への励ましのように。詩篇98篇は、バビロン捕囚後の苦難の下にある神の民への励ましの詩篇でありました。パウロがピリピという町で伝道を始めたとき、牢獄に放り込まれてしまいました。しかし、パウロたちは悲嘆にくれるのではなく、[使16:25
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた]とあります。賛美は力なのです。あらゆる楽器を動員するだけにとどまらず、[98:7
海とそこに満ちているもの、世界とその中に住むものよ、鳴りとどろけ。98:8
もろもろの川よ、手を打ち鳴らせ。山々もこぞって喜び歌え]ー被造物世界に存在しているすべて、鳥も魚も、川の氾濫も、山々の木々も森林も、すべての音、風、暴風雨も雷雨の轟音もーすべてが、神とそのみわざをほめたたえるオーケストラの一員とみなされています。
わたしたちの主イエスは、カルバリで[98:1 奇しいみわざを行われ…、勝利をもたらし、…98:2
御救いを知らしめ、ご自分の義を国々の前に現されました]。そして、この福音は、全世界にのべ伝えられ、いまや[98:3
地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見て]います。そして、わたしたちの主イエスは、再び[98:9
地をさばくために来られます。主は義をもって世界をさばき、公正をもって諸国の民をさばかれ]ます。それは、未来の再臨において、新しい天と新しい地が、神の義と公正の支配する世界がもたらされる、完成するという約束を望み見るものです。このようなキリストの人格とみわざの光は、そこを起点として、原体験として、わたしたちの人生のすべてに、生活のひとこまひとこまに光を注ぎかけています。
わたしたちの日々の生活において、 [98:1 奇しいみわざを行われ…、勝利をもたらし、…98:2
御救いを知らしめ、ご自分の義を国々の前に現され]るお方です。わたしたちの人生のすべてのことにおいて[98:9
地をさばき…義をもって世界をさばき、公正をもってさばかれる]ーこの「さばく」という意味は、悪の混とんに対して、秩序を与えるという意味があります。すなわち、わたしたちの人生に秩序を与え、ひとつひとつのステップを知恵深く導いてくださる方であるという意味を含んでいるのです。信仰の目で、信仰の光で人生を、生活をみつめていくとき、そのような神の御手を発見するでしょう。
わたしたちは、このお方を仰ぎ、このお方に信頼し、一日一日を大切に導かれつつ歩んでまいりましょう。「大谷選手のようなガッツ」ある信仰をもって、歩んでまいりましょう。「わたしたちの生活というマウンドの上」で、グローブを放り投げ、帽子を放り投げ、両手を差し上げて、[98:4
喜びの叫び。98:5 王である【主】の御前で]喜びの叫びをあげつつ、歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2023年3月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇97篇「光は正しい者のために蒔かれている」-神の啓示に根差した対抗イメージによる戦い-
https://youtu.be/91BKjQ-Xdn8
本詩97篇は、一連の王の即位式の詩篇のひとつです。本詩を繰り返し味わっておりまして、ひとつのことを思い起こしました。それは、拙訳のラッド著『終末論』の第四章「キリストの再臨」の一節です。97篇は、[97:1
【主】は王である]ーすなわち「主は王となられた」を意味する即位の宣言をもって始まります。そして、その登場はシナイ山の情景に似ています。
[出19:15 モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」19:16
三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17
モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18
シナイ山は全山が煙っていた。【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:19
角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた]とあるように、驚嘆すべき神の訪れでありました。それは、神学者がテオファニー、すなわち神の顕現と呼ぶもので、神の訪れの栄光と威厳の前に、被造物は揺さぶられるのです。このような視点をもって本詩に傾聴してまいりましょう。
イザヤ24章には[24:23
万軍の【主】がシオンの山、エルサレムで王となり]という言葉があります。神の支配の確立、つまり神の国は預言者たちの期待の中枢にあるものです。それは、[97:2
雲と暗黒が主を囲み、義とさばきが御座の基である。97:3 火は御前に先立ち、主の敵を囲んで焼き尽くす。97:4
主の稲妻は世界を照らし、地はそれを見ておののく。97:5
山々は【主】の御前にろうのように溶ける。全地の主の御前に]と、三つの事柄ー堕落した被造物世界が震え裁かれること、[97:6
天は主の義を告げ、諸国の民はその栄光を見る。97:7
すべて偶像に仕える者、偽りの神々を誇る者は恥を見る]と、悪しき者にくだされる刑罰、[97:10
【主】を愛する者たちよ。悪を憎め。主は主にある敬虔な者たちのたましいを守り、悪者どもの手から彼らを救い出される]と、更新された地上における神の民の救いーを意味します。
周辺の大国でなされていた即位祭の儀式が、イスラエルにおいて換骨奪胎され、全知全能の唯一の神信仰を中心に再編集されています。他の神々とその信仰者たちは、[97:7
すべて偶像に仕える者、偽りの神々を誇る者は恥を見る]と断罪されています。目に見えるところでは、それらの国々が興隆をきわめ、神の民は、王を、国家を失い、捕囚にあい、帰還の後の独立も夢のまた夢の状態でした。そのような時期に、ダビデ時代の栄華を思い起こし、あの時代の独立と安全と自由の回想も込められていたでしょう。そして、本詩は、主が最終的に、終末的な神顕現をあらわされ、大地と人類をさばき、神の民を贖うために神が訪れてくださるという信仰告白でもあるのです。
この来臨の神学は、新約聖書において、旧約では予見されたことのなかった受肉という形態をとりました。わたしたちは、この受肉された苦難のメシヤをこのように告白致します。[ロマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです]とありますように、このイエスを”キュリオス”ーすなわちローマ皇帝崇拝がまかり通る偶像崇拝世界のただ中で、[97:9
【主】よ、あなたこそ全地の上におられるいと高き方]ー「主の主、王の王」と勇気をもって、大胆に告白致します。それは、御父が御子を[ロマ1:4
死者の中からの復活させられたことにより、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリスト]とされたからです。それは[ピリ2:10
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。]
わたしたちの主イエスは、最大、最強で、最後の敵である死をも打ち破り、その死からよみがえられたお方、王の王、主の主であられるお方なのです。本詩は、そのようなお方を終末的に示唆しつつ、第一段落で[97:1
多くの島々は喜べ]、第二段落で[97:6 諸国の民はその栄光を見る]と全世界から狭め、[97:8
シオンは聞いて喜び、ユダの娘たちも小躍りし]と絞り込み、第三段落で[97:10
【主】を愛する者たちよ。主にある敬虔な者たちのたましい]に焦点を結んでいます。それは、「わたしたち」に当てはめることができるものです。本詩は、バビロン捕囚後の第二神殿時代に、過去の資料を生かして編纂された詩篇といわれています。
過去におけるシナイの神顕現、ダビデ王朝における即位式等の回想イメージを、苦しく苦々しい現実のただ中で、鬱積した心持ちで生きざるを得ない中で、そのような暗闇の中で、[97:11
光は正しい者のために蒔かれている。喜びは心の直ぐな人のために]とあるように、光を、喜びをもたらす終末的希望となったことでしょう。今の現実は、惨憺たるものであるが、神さまは必ずそのような未来をもたらしてくださるという信仰です。神の啓示に根差した対抗イメージによる戦いです。本詩をそのような視点で傾聴しますとき、少子高齢化時代で地方の教会等の衰退が著しくとも、またわたしたちがどのような困難におかれようとも、そのただ中で励ましを受け続けることができるのではないでしょうか。[97:10
【主】を愛する者たちよ。97:12 正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ]ー祈りましょう。
(参考文献: G.E.ラッド著『終末論』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年3月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇96篇「その真実をもって諸国の民をさばかれる」-航空機の針路設定の微調整をはかるかのようにして-
https://youtu.be/hvRz7Nyo748
本詩は、全地に向かって、主とそのみわざへの賛美を呼びかけ、諸国民に神の御前にひざまずくことを要請し、天地万象に歓呼を促すもので、賛歌の中でも最も堂々とした作品のひとつです。本詩の最大の特色は、神による世界統治を普遍主義的な立場から展望している点です。普遍主義とは、この場合、イスラエル民族に固執することなく、視界が諸民族、ひいては被造物世界全体にまで及んでいることです。このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
[96:1
全地よ、【主】に歌え]との呼びかけをもって始まる本詩は、いかなる詩篇なのでしょうか。それを紐解く鍵のひとつが[96:8
ささげ物を携えて主の大庭に入れ]にあります。本詩8節は、諸民族に[96:8
ささげ物を携えて主の大庭に入れ]と呼びかけます。こうした呼びかけは、諸国民がまことの神に帰依し、贈り物を携えてエルサレムに集う、という一種の終末論的観念を踏まえています。
この種の終末論は、イザヤ書の[2:2
終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。2:3
多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。2:4
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。2:5
ヤコブの家よ、さあ、私たちも【主】の光のうちを歩もう]を典型例とし、エレミヤ書やゼカリヤ書等の預言書に類似の思想が表明されています。
それらの聖句に共通するメッセージは、①地上のあらゆる民族がまことの神に帰依すること、②彼らがエルサレムに赴くことです。いうまでもなく、諸民族がまことの神に帰依し、エルサレムに詣でるとは、あくまでも宗教観念上のイメージです。現実には、逆に、イスラエルの民が貢物を携えて大国詣でを繰り返したのでした。当時、小国の支配者たちが保護を求めて大国に朝貢するのはごく普通の光景でした。貢物を拒む小国は大国による軍事攻撃の対象になりかねませんでした。
今日のロシアとウクライナ等の関係にも、属国扱いをしたいロシアと真の独立を守り抜きたいウクライナの戦いとみることができます。古代のイスラエルもそうした小国のひとつでありました。実際、預言者ホセアやイザヤは、北イスラエルヤユダ王国が大国に保護を求めて朝貢する様子を書き留めています。南北イスラエルのそうした姿勢をエゼキエルはその24章で「立派な外国の男」にすり寄る「淫行の女」のそれになぞらえています。こうした事情は、バビロン捕囚後の第二神殿時代も変わることがありませんでした。
本詩を含め、地上の諸国民がエルサレムに集うと述べる聖句に、こうした背景が認められるとしますと、そのような宗教観念上のイメージに託された主張の一端が見えてくるのではないでしょうか。つまり、
[96:6 力と輝き]は、諸国民を支配するかにみえる地上の王にはないのです 。[96:6
威厳と威光]を帰すべきお方は、[96:5 天をお造りになった]お方のみにあるのです。このお方こそ、まことの[96:10
王であり]。民族の大小強弱に関わりなく、世界のあらゆる[96:3 国々の間で、…あらゆる民の間で]あがめられるべきお方です。
このお方は、[96:13
義をもって、世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる]お方です。公平をもって治められます。このように、地上の大小強弱、選民と異邦人を相対化する視座が立ち上げられているのです。見えるところの現実世界と信仰によってのみ見ることのできる信仰によるイメージ世界の対決が繰り広げられているのです。このような視点から、旧約聖書を、またイスラエル史全体をみてまいりますとき、民族主義的な色調の濃い旧約啓示においても、普遍主義の視点を示す本詩は、イスラエル民族の父祖、アブラハムへの祝福の約束の意味・目的を明らかにしているといえるのではないでしょうか。
創世記1-11章の「創造→堕落→審判」に定められていた人類という脈絡のもと、ひとりの人が選び出され、[創12:1
【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される]と、この約束は、本詩の[96:3
主の栄光を、国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざを、あらゆる民の間で]、「 96:2
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ」と共鳴するものです。
[ガラ3:8
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。…3:14
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした]と、聖書は、イスラエル民族を神聖視したり、目的化するのではなく、全人類の救いと祝福と、その完成のための機能また手段として用いられたのだと教えられます。聖書の本質的視点から申しますと、今日みられるような「土地、首都、神殿」の回復が目標なのではなく、イスラエル民族全体を含む、全人類のイエス・キリストの人格とみわざへの回復こそが主眼なのです。
今日、旧約にみられる「①土地、②エルサレム、③神殿」の回復を悲願としているユダヤ教シオニズムを支援しているキリスト教シオニズムの傾向が日本の教会でも散見されるようになってきました。しかし、イエス・キリストの人格とみわざにおいて基盤が据えられ、その上に聖霊に導かれて建てられている家においては、ユダヤ人も異邦人も差別がありません。男性も女性も、人種差別も、性的差別も克服されたひとつの神の家族です(ガラテヤ3:26-29、エペソ2:11-22)。今日のあらゆる事象、直面している課題に対し、「聖書を通して神が語られる」ということがどういうことなのかを今一度、深く考えさせられていきたいと思います。難しい問題ほど、より本質的に、より根源的に再検証・再検討が繰り返され、その真贋が、その作用・副作用の臨床試験で検証されていかなければ、脇道にはずれていき、ときには落とし穴にさえ落ち込むことになる危険があります。
歴史性、文化性を抱えつつ、受肉した「神のみ言葉」を、栗のイガを剥き、皮を剥いて、美味しい柔らかな実を取り出し、味わうように、聖書の啓示の歴史性、文化性、漸進性等を分析・評価しつつ、み言葉を通しての、今日における神の語りかけに耳を澄ませ、その語りかけの方向性を聞きたがえることなく、いわば航空機の針路設定の微調整をはかるかのようにして、[96:13
義をもって世界を、その真実をもって諸国の民をさばかれる][96:10 王である]主の御前を、[96:9
聖なる装いをし、ひれ伏し、…主の御前におののき]つつ歩んでまいりたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年3月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇95篇「今日、もし御声を聞くなら」-詩篇研究の変遷、宇宙観のコペルニクス的転回、人間観・男女観のグラデーション理解の進展-
https://youtu.be/my20E89jO0c
先週は、本詩95篇傾聴のために、H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』に目配りしておりました。といいますのは、本詩は「王の即位式」詩篇に分類されており、そのような理解が生まれてきた歴史的経緯や意味を確認しておくためでありました。そのことを少し紹介しておきたいと思います。詩篇に関する学問的研究は19世紀に大きな変化をとげました。そして20世紀後半の50年の間に陽の目を見るに至った古代オリエントからの膨大な資料により、多くの事柄を以前にもまして理解できるようになりました。
詩篇についての最近の新しい理解に対して第一に貢献があったのは、ヘルマン・グンケルとシグムンド・モーヴィンケルという二人の学者です。グンケルの研究は、詩篇の現代的研究の開始を示しています。彼の時代以前には、詩篇は「ダビデの作品であって、その生涯の一定のエピソードを反映している」と考えられました。そうでなければーダビデ著作説が破棄された場合ー詩篇は「全体としてのイスラエルの歴史における、あるいは個々人の生涯における、諸事件を反映している」と考えられました。この研究方法は、詩篇研究の任務は、いろいろな詩篇が「そこで書かれた具体的諸状況を確定しよう」とすることにありました。
グンケルの観察では、詩篇はいくつかの範疇、もしくは類型に分類できるのであって、そのおのおのの文体と内容において独自の特徴をもっていました。グンケルの考えでは、詩篇の各類型は元来独特の機能を持ち、この機能は神殿祭儀の一定の儀式と関係のあるものでなければなりませんでした。詩篇は元来ー個々人の告白としてー私用のために書かれたものではなく、神殿での正規の祭儀の中で用いられるものでありました。
モーヴィンケルは、グンケルの業績にその研究の基礎を置きました。しかし「詩篇の機能」を尋ねることにおいて、モーヴィンケルはただ「犠牲祭儀」のみに限定しませんでした。彼は、バビロニアや他の古代オリエント諸文化の研究を通じて、古代イスラエルには「犠牲以外の祭儀儀礼」が存在したと想定するようになりました。そして、彼は「詩篇における間接的言及」を基礎にこれらの儀礼を復元するに至りました。いわゆる「即位祭」という彼の説は彼の最も重要な貢献でありました。
神を「王」と言及している一群の詩篇(詩篇47,93,95~100篇)が「主は統べ治められる」とか「王である(ヤーウェ マーラーク)」という表現を含んでいるから気づいて、モーヴィンケルは、地上の王の即位の際、「同様の表現」が用いられていたのだから(列王記下9:13「エヒウは王である」)、「主は王である」という語句は、むしろ「主は王となられた」と訳されるべき、と主張しました。モーヴィンケルは、バビロニアの新年祭の祝典に示唆された手がかりに従って、「即位式詩篇」は同種の祭儀的背景を考慮することによってのみ理解できると力説しました。
このような研究を経て、彼が得た結論は、「宇宙の王としての神の即位式」が古代イスラエルにおいて年毎に行われ、問題の詩篇はこの祝祭の間に詠唱された、ということです。モーヴィンケルの説によれば、「即位祭」は大祝祭日であり、その祈りには、毎年、神が世界創造における原始の混とんに対する彼の根源的勝利を反復して、万事を一新される。すべてこれは儀式劇で表現され、そこで神はまた原始の混とんの同盟者とみなされている地の諸王や諸国民に対して勝利される。祝祭の一部に行列が含まれていて、その中で神の臨在の象徴としての箱が意気揚々と聖所に運ばれ、そこで神は宇宙の王としてあらためて歓呼のうちに宣言されました。このような「即位祭」は、すなわち「神が王として即位される主の日」は、のちの預言文学において、その熱望は未来へと投入され、神がついに「宇宙の王である」と自らを立証される日とされていきました。前置きが少し長くなりましたが、このような視点をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は「即位祭における即位式詩篇である」との捉え方に対し、神はすでに「宇宙の王」であるのに、毎年その即位を祝うというのは荒唐無稽な理解だと批判する向きもあります。しかし、それは「祭儀的祝祭の本質」についての誤解です。ユダヤ人は、エジプトからの脱出をひとつの歴史的事実と承知しています。彼らは過越祭のたびごとに、エジプトから解放されたものとしての自分たちを考えることを求められます。私たちクリスチャンも、聖餐式のたびに「イエスの贖いの犠牲の意味」を考え、クリスマスやイースターの祝祭のたびに、メシヤの受肉や復活の出来事を心に刻み、励まされます。
ひとつの歴史的事実の祭儀的・象徴的祝祭は、その事実を矮小化しません。それは信仰にとって「基本的意義をもっている出来事をよみがえらすひとつの方法」であるのです。本詩95篇の前半は、「神殿における賛美の歌」です。[95:1
さあ【主】に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう。95:2
感謝をもって御前に進み、賛美をもって主に喜び叫ぼう]と喜び、感謝の叫びで溢れています。宗教的危機の中で、神殿と神殿礼拝が敬虔なイスラエル人に何を意味したかは、詩篇73篇に記されています。その詩人は「悪人の繁栄と義人の苦悩」の問題で苦闘しており、その解決を神に見出しています。その詩篇の転換点は、この詩篇詩人が、神殿に詣でる時にやってきます。そこで、彼は「神の敵は最後に滅ぼされる」との確信に至ります。祭儀の意義が「礼拝者の信仰の強化」にあるという素晴らしい一例です。
3-7節は、 [95:3 まことに【主】は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である。95:4
地の深みは御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った]
と、すべての神々のうちで最大最強、全世界の創造者にして主なる神が、イスラエルの民をその固有の民とするために選ばれたと告白します。主はイスラエルの神です。この基礎の上に、イスラエルにおけるすべての宗教生活が依拠しています。
[95:6
来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。私たちを造られた方、【主】の御前にひざまずこう]ーその選びは、イスラエルの数の大きさや、その資質の優秀さのためでなく、もっぱら主の愛によることをイスラエルが忘れず(申命記7:7-8)、へりくだった感謝こそふさわしい態度でした。[95:7
まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民、その御手の羊]ー個人としても、民族としても、イスラエルの信仰者はその存在を主に負っており、神の民の成員として彼らは常に「その配慮と保護」に囲まれていると感じています。
礼拝についてのこのような表現がもともと国民全体に、あるいは少なくとも祭儀共同体にかかわるものであることは当然です。しかしそれはまた個人にとっても大いに意味のある事です。実際、個人が神と交わるのは、「選民の一員」としてです。個人が「あなたがたはわたしの民、わたしはあなたがたの神」という選びと契約の約束にあずかるのは、神の固有の民としての交わりを通してです。主がその中で絶えずその恵みと真実とを明らかにされてきた「同じ歴史にあずかる」ことによって、神へのイスラエル人の信頼は強められます。
創造ー[95:4 地の深み、山々の頂も。95:5 海。陸地も御手が形造った]も、出エジプトー[95:1
私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう]も、民族創出ー[95:6 私たちを造られた方、95:7
まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民、その御手の羊]も、忠実な信仰者によって秘蔵され、折に触れて思い出され、記念される「大きくて貴重な記念」であるだけにとどまりませんでした。
それらは神殿で「大きな祝祭典」が挙行される時には、「いつでも現実」となり、「追体験された出来事」でありました。仮庵の祭り、すなわち新年祭は、その主題として「創造と神の敵に対する審判」を。過越しの祭りは「出エジプト」を年毎に「生ける現実」としました。さてこのように、賛美で始まる本詩は、後半を警告的「訓戒」で閉じられます。全世界の創造者であり、支配者である王であられる神に対してなすべきことは、「その御声に聞き従う」ことです。主を賛美することは、必然的に「聴従の問題」に導かれます。
それは「今日」です。[今日、もし御声を聞くなら]とあるように、主の御声を「今」に聞く機会なのです。それを今日的に適用してまいりましょう。最近、LGBTQ問題がホットな話題となり、わたしも、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』等、関連諸文献に目配りさせていただいています。「否定的に捉える」伝統的な解釈があり、「肯定的に捉え直す」今日的な解釈があります。わたしたちは、[今日、もし御声を聞くなら、95:8
あなたがたの心を頑なにしてはならない]という語りかけの前に立たされているように思いますが、いかがでしょう。
同性愛関連で取り上げられるレビ記やローマ書の聖句をどのように解釈するのかが、喫緊の課題とされているように受け止めています。今日の「歴史的状況」からみますと、同性愛者の基本的人権を「否定的に捉える」ことは、教会には「差別主義の体質がある」とみられる懸念が存在します。わたしたちの時代においては「人間観」「心身を統合的・全体として見つめる男女観」「性的嗜好における多様なグラデーション」が、心理学的・医学的に認識される時代となっています。それは、その昔、世界観・宇宙観において「天動説」が教会の見解であった時代に登場した「地動説」にも似ています。
今の時代は、世界観・宇宙観変遷における「コペルニクス的転換」の時期に似ているかもしれません。あの時の教会の反応は、反動的であり、[95:8
メリバでのように、荒野のマサでの日のよう]であったのではないでしょうか。一般啓示から明らかにされてきた客観的情報に耳も、目も、口も閉ざし、[心を頑なに]していたのではないでしょうか。[95:10
四十年の間、わたしはその世代を退け、そして言った。]と言われているように、長期わたって、歴史や文化、社会の発展から取り残されていったのではないでしょうか。
「彼らは心の迷った民だ。彼らはわたしの道を知らない」といわれるのは、自らの無知を棚に上げて、誤った伝統を墨守しているからではなかったでしょうか。[95:11
そのためわたしは怒りをもって誓った。「彼らは決してわたしの安息に入れない。」]と言われているのは、聖書を通して語られている真理ーすなわち神の御心の深淵にあるものは、グンケルからモーヴィンケルへの詩篇研究の歴史的変遷にもみられるように、表層的な聖書解釈にとどまらず、ルネ・パディリアにみられる「歴史的状況、世界観・人生観、聖書解釈、神学」の四要素の解釈学的螺旋をもって、数百メートル、数千メートルの地下資源を掘削するボーリング作業のように、キリストの人格とみわざに根差し、聖霊によって開かれていく神の御心の深淵に掘り下げていく世界を示唆しているのではないかーそのように教えられるのです。
一週間、本詩95篇に傾聴しながら、最近の課題に目配りしていて、いろいろと考えさせられました。結論めいたことは、わたしたちはそれぞれ異なるのかもしれません。しかし、
[今日、もし御声を聞くなら、95:8
あなたがたの心を頑なにしてはならない]という語りかけの前に立たされていると自覚しつつ、政府をあげて、LGBTQ問題がホットな話題となっている時代ですので、わたしも遅ればせながらではありますが、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』等、諸文献に目配りしてまいりたいと思わせられています。祈りましょう。
(参考文献:H.リングレン著『詩篇詩人の信仰』、ジェフリー・サイカー編『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』)
2023年2月26日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇94篇「なんと幸いなことでしょう。主よ」-「足の裏に刺さったトゲ」をそのように扱う道筋を探し求めたい-
https://youtu.be/hfgf9tM3Bp0
「皮膚にと下が刺さって痛いと思えば、とげが刺さったままにしておくはずはないわけで、必ずとげを抜こうとします」ー『神の痛みの神学』で有名な北森嘉造(かぞう)の言葉です。先週、Zoomで広瀬由佳さんの講演があり、視聴させていただきました。福音主義信仰の立場に立ちつつ、LGBTQ問題という難問に新鮮なアプローチが紹介されているように思いました。講演は『聖なるものの受肉』という論文の内容紹介で、キリストが受肉されたこの意味を「痛みの中に置かれている人々」に焦点を当てて、深く掘り下げる内容でありました。みことばに、キリストは、「ヘブル4:15
私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。:16
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と勧められています。私たちの社会の中の「とげの刺さった痛み」の中におられるLGBTQの人々の痛みをともに痛み、主にあって倫理的行動に、またその倫理を支える神学的営為の再検証に取り組むことが必要な時代となっているのではないでしょうか。そのような視点を抱いて本詩に傾聴してまいりましょう。
詩篇は、わたしたちの中にあるものを、余すところなく、修辞的に表現したものです。ジャン・カルヴァンは、詩篇を「魂のあらゆる部分の解剖図」と表現しています。詩篇はわたしたちについて「あらゆること」を語っています。そこでは「あらゆる言語表現」が許されていて、どんなものも検閲によって削除されることはありません。しかし、どんなに「過激な言葉」であろうても、それは「実際の行為」ではない、という点に目を留めることが大切です。それは、「言葉」であり、想像の世界を「熱情」が飛翔しているのです。
今朝は、本詩全体をみるのではなく、最初の部分[94:1 復讐の神、【主】よ。復讐の神よ、光を放ってください。94:2
地をさばく方よ、立ち上がってください。高ぶる者に報復してください]に目を留めてまいりましょう。わたしたちは、足の裏にトゲが刺さっただけでも、歩くたびに「痛い!」と悲鳴を上げるかもしれません。その痛みは「トゲを抜くまで」続くと思います。しかし、そのトゲが、ウクライナにおけるブチャでの悲劇ようであったり、シリア地震で倒壊した建物の下敷きになった家族であったり、性自認や身体的性別の違和に苦しんでいる人々の場合、その痛み・苦しみ・叫びは「トゲのレベル」ではないでしょう。
[94:1 復讐の神、【主】よ。復讐の神よ、光を放ってください。94:2
地をさばく方よ、立ち上がってください。高ぶる者に報復してください]という叫びの祈りには、一体どれほどの苦難・災難・悲劇が存在していたことでしょう。詩篇の中には、「復讐の詩篇」が存在します。わたしたちは、愛の神、平和の福音を伝える教会、またクリスチャンには「ふさわしくない詩篇表現である」と受けとめるかもしれません。しかし、現実の問題、本当の問題は「復讐」が詩篇の中にあることではないのです。題は「復讐の心」がわたしたちのただ中にあることなのです。
ここで詩篇は、「わたしたちの中で起こっていること」に、どれほど精通しているのかを知らしめます。詩篇は「鏡に映るわたしたちの姿」そのものなのです。ですから、「詩篇に書かれていること」と、「わたしたちの間で行われていること」との間には「深い一致」があると認識すると詩篇はわたしたちに語りかけて来ます。「復讐の思いを言葉にすること」は、わたしたちをわたしたち自身についての新しい気づきへと導きます。つまり、「人間性」というものを真剣に理解しようとするなら、必ず「復讐の願い」もその中に含まれるのです。「憎むことができる」という能力は人間性の神秘に属するものです。
「復讐」という想像世界の中で、わたしたちは「敵意を鮮明に表す」ために、力を尽くすことができます。それは、ほとんど過剰防衛、ときには過剰攻撃といっても良いほどのものにもなります。強国の谷間のイスラエルの歴史、また世界の歴史をざっと眺望するだけでも、いかほどの怨念・苦しみ・悲しみの杯が溢れていることでしよう。想像世界での言葉には、いくつかの機能があります。それには疑いもなく「浄化作用」があります。鳴り響くサイレン、砲弾・ミサイルの着弾にさらされた地下壕の子供たちの精神的ケアのために、「絵を描かせる」ことに似ています。このような詩篇には、「癒しという有用性」があるのです。
[94:5 【主】よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのゆずりの民を苦しめています。94:6
彼らはやもめや寄留者を殺し、みなしごたちを死なせています]戦乱でしょうか。捕囚でしょうか。多くの人が苦しみ、亡くなっていっています。なすすべもなく、踏みにじられています。親が亡くなったせいでしょうか。幼い子供たちは路頭に迷い、その多くが餓死しています。あちこちに検閲の目が光っているロシアや中国のような独裁国家で、詩篇は「何でも言うことのできる残された場所」のひとつなのです。
しかし、それには、「浄化作用以上のもの」があります。単にわたしたちが「感じ、知っているすべてのことに表現を与える以上のこと」があります。真の激しい怒りにおいては、言葉は単に感情の後を追うだけではありません。「言葉が感情を導く」のです。傷や痛みがどれほど大きく、深く、激しいものであるかに私たちか気づくのは、「それを言葉にした時」です。詩篇は「甘い優しさの見せかけを突き破る」自己発見の行為なのです。
詩篇は、「激しい怒りの持つこれらの最も強烈な要素」を正当なものとし、肯定する、いわば「ピカソのゲルニカの絵」のようです。そのような語りの中で、わたしたちは、自分たちの言葉と感情が敵を滅ぼすものではないことを知ります。つまり、それらの言葉は、わたしたちが考えていたほど、「危険な存在ではない」ということです。そのような「語り」また「祈り」は、激しい怒りを苦しみを嗚咽を「別の視点から見る」ようにさせます。
それが「言葉にならない」とき、それらは亡霊のように、ぼんやりと、実際以上に大きく見えて、わたしたちにやましい思いを抱かせます。「言葉にされる」と、わたしたちの強烈な考えも、感情も、「その時の状況に位置づけられ、違った受け止め方をする可能性」が開けます。1-11節の「激しい怒りの独白(どくはく)」が続いた後で、12節以降[94:12
なんと幸いなことでしょう。【主】よ、あなたに戒められ、あなたのみおしえを教えられる人は。94:13
わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。…94:14
まことに【主】はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。94:15
こうしてさばきは再び義に戻り、心の直ぐな人はみなこれに従います]とその激しさが失われるのです。
詩人は、「復讐心」を神のみ前に注ぎだした後、正気を取り戻したのです。これらの、想像力に満ちた「復讐の詩篇」は、言葉によるものです。彼らは心の底に刺さったトゲから来る痛みを言葉によって吐き出しているのです。これらの言葉は、直接敵に向けられるのではなく、「神に向かって語られている」ということです。「憎しみ、怒り、悲しみ、復讐」の思いの神への注ぎだしの後には、
[94:12 なんと幸いなことでしょう]と、憎しみから賛美への方向転換が起こります。
[94:17 【主】が私の助け][ 94:18 あなたの恵み][94:19 あなたの慰め][94:22
私の砦][私の避け所の岩]と、復讐が神に委ねられた時、語り手は「復讐の力」から自由となります。[94:23
主は彼らの不義をその身に返し、彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が、彼らを滅ぼされます]と、「憎しみ」を別の角度から見る視点が与えられます。このように、復讐の詩篇には、ふたつの部分があります。最初の部分では、復讐は完全に現在のものと認識され、完全に「このわたしの」激しい怒りであると認められ、可能な限りの力強さと激しさをもって十全に表現されなければなりません。
すべてが、神のみ前にさらけだされ、すべてが見えるように十分に表現されなければなりません。それは、嘆きや痛みの詩篇も同様です。嘆きや痛みに対処する最もよい方法は、それを全て「言葉にする」ことです。そして、それは「怒り」にも言えることなのです。しかし、本詩の後半では、「激しい怒りと敵意のすべて」は、神の知恵と神の配慮に明け渡されます。それは、[94:12
なんと幸いなことでしょう。【主】よ]と言う時に起こります。教えられる大切なことは、まず自分自身の中にある「怒りと敵意」が十全に表現され、それらが手放されなければ、この明け渡しも十全で解放されたものにはなり得ません。
この明け渡しは、[94:22 しかし【主】は私の砦となり、私の神は私の避け所の岩となられました。94:23
主は彼らの不義をその身に返し、彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神【主】が、彼らを滅ぼされます]とあるように、信仰と確信をもってなされる行為なのです。詩人は、神が正しき審判の必要性を軽くみることなく、真剣に受け止めて、それに従って行動してくださるだろうということを疑いません。現在、復讐を求める叫びに即座の解決は与えられません。激しい怒りもそのままです。しかし、それはそれを認め、そして明け渡すという二つの段階を経ることで劇的に変化しているのです。わたしたちの、またわたしたちの隣人の「足の裏に刺さったトゲ」をそのように扱う道筋を探し求めたいと思います。祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、広瀬由佳論文「聖なるものの受肉ー交わりの回復を目指すキリスト教倫理」福音主義神学誌52号)
2023年2月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇93篇「あなたの証しは、まことに確かです」-聖なることが、あなたの家にはふさわしいのです-
https://youtu.be/qmGagUu0xcU
詩篇第四巻の第二幕は、「主が統治される。主こそ王である」という特徴をもつ詩篇群です。ざっとみていきますと、[93:1
【主】こそ王です][95:3 まことに【主】は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である][96:10
国々の間で言え。「【主】は王である。まことに世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる][97:1
【主】は王である。地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ][99:1
【主】は王である。国々の民は恐れおののけ。ケルビムの上に座しておられる方に。地よ震えよ]と続きます。これらの詩篇は、シオンの中心性を前提としています。神は、人々の賛美によって栄光を受けます。
しかし、神の支配は、明らかにシオンだけに限定されません。全世界、いや創造世界全体が、まさに王である神の栄光に満ちているからです。これらの詩篇では、神の民イスラエルが受けた特殊な歴史的体験は、無視されていると言えないまでも、わずかの淡い暗示を除いて、際立って中立化されています。イスラエルの神はシオンにおいて、宇宙の王・諸国民の王として崇められています。このような視点をもって本詩を傾聴してまいりましょう。
詩篇第四巻の第二幕「王の詩篇、王の即位式の詩篇」群の特徴のひとつは、「混とんの上に君臨される王」のイメージです。[93:3
【主】よ、川はとどろかせています。轟音を、川はとどろかせています。激しい響きを、川はとどろかせています。93:4
大水のとどろきにまさり、力強い海の波]と、洪水や海などで象徴的に表現されている混とんの力に対して、創造主が勝利を収めたという物語は、どのような力ー歴史上の敵、悪、死、あるいは創造世界にある他の何かーであれ、神の支配を破壊することができないというイスラエルの信仰を詩的に表すのに用いられています。
そのような意味で、この詩人は、必ずしも古代イスラエルに限定されない、人間一般の体験を表現しているのです。この世界には、無秩序があり、人間の目から見ればそれは神の権能に挑戦しているように映ります。脅威的な混とんの体験は、ロシアのウクライナへの侵入のように、北から迫り来るアッシリア帝国やバビロン帝国の侵略によって誘発されたのかもしれません。トルコ・シリア地震のような巨大な自然災害、またコロナのようなウイルスや疫病の蔓延があったのかもしれません。
最近の日本では、LGBTQに対する差別発言で失脚した官僚もありました。社会また教会におけるLGBTQに関する熱い議論もあります。そのような状況を[93:3
轟音、激しい響き]のような[川のとどろき、93:4
大水のとどろき、力強い海の波]に当てはめることができるのではないでしょうか。一宮基督教研究所として取り組ませていただいてきたジャンルにエリクソン神学の保守中道路線があります。それはバランスのとれた福音派の福音理解の共通項を探求する神学的営為でありました。ただ、エリクソンの著作にも、キリスト教倫理を扱った著作があり、また聖霊によるキリストのみわざとしての今日における受肉キリスト論への展開で、教会内におけるさまざまな運動を紹介し、位置づけているところに興味をひかれます。
さらに、受肉キリスト論における解放の神学における差別克服への取り組みの神学的営為としての、黒人神学や女性軽視・男性優位主義克服のフェニミズム神学、そして今日におけるLGBTQ差別克服に向けてのLGBTQ神学へのひとつの道筋として、フラー神学校組織神学教授であったポール・ジュエットの著作『男性と女性として創造された人間』や『我々は一体何者なのかー人としての私たちの尊厳』等も興味をもって読ませていただいています。社会と教会におけるLGBTQの論争ひとつをとっても、著作物、講演ビデオ、論文等々ー「洪水の轟音」のような印象を抱きます。
しかし、詩篇の作者の信仰によれば、[93:1
【主】こそ、王です。威光をまとっておられます。【主】は、まとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ、揺るぎません。93:2
あなたの御座はいにしえから堅く立ち、あなたはとこしえからおられます]と、人間の歴史を意味のない無秩序と混とんに陥れようとする脅威的な諸力の上に、神はいつも勝利者として君臨されている、というのです。創造主として、神は人間の歴史を越え、宇宙を越えて立っておられます。したがって、シオンで祝われる神の王権は、人間存在を脅かす混とんの力に対する、神のゆるぎない支配を指し示すものなのです。
この意味で、[93:4
大水のとどろき][力強い海の波]ー秩序だった創造世界を脅かしかねない荒れ狂う混とんの力ーに向かって、[【主】は力に満ちておられます。いと高き所で]とすべてを超越して君臨されている王として描写しています。この王の[93:5
証しは、まことに確かです]と言われます。聖書を通して啓示されている王的支配、王的統治の御思いは[確か]なものであると言明されているのです。それゆえ、聖書がいかなる書物であるのかを明らかにする「聖書観」、その聖書をどのように解釈し、その時代状況に適用するのかを示す「聖書解釈法」は非常に重要な位置を占めます。
そして、多様化を増し加える歴史的状況下で、関連聖句から生まれてくる「人間観」「男女観」「性的倫理」「罪論」の形成プロセスの、冷静な再検証が求められているように思います。レビ記やローマ書の記述に関しては、①直観的解釈や②歴史的文法的解釈を越えて、③文化脈的解釈を参考にすべきであり、聖書全体から、キリスト論的視点で本質を抽出し、聖霊論的視点でその本質を、今日の歴史的状況下で、倫理的にどのように適用していくべきなのかー解釈学的螺旋を不断に試みていかねばならないと思います。
ヘルムート・ティーリケは「同性愛のカップルも、異性愛のカップルと同じように、互いが愛によって結ばれ倫理的に責任ある関係」を築くことを願っています。つまり、独身でいることには特殊な賜物が求められ、その賜物を受けていない同性愛者に独身を強いることは酷であり、かえって混乱の原因となります。そこで、彼は、同性愛のカップルにも、異性愛のカップルと同じ基準で、相互に愛することが認められ、互いに倫理的な責任を全うすべきと主張しています。神学的に言えば、同性愛者が結ばれることは、男女の結婚という「創造の秩序」には反しています。しかし、同性愛カップルに異性愛者と同じような愛の欲求・幸せを認めることは、堕罪後の世界における倫理的な秩序の中にあるということです。
もし二者の性愛を人格的な交わりの視点から見るなら、異性間の性愛も同性間の性愛も、同じように神学的人間論の中で意味があるものではないでしょうか。LGBTQ問題ーそれは、社会の中でも、教会の中でも、「洪水の轟音」のようなテーマのひとつです。それで、詩篇の詩人のように祈ります。この問題で苦悩と葛藤の生涯を余儀なくされている兄姉たちのために、[93:4
力に満ちておられ]る主が、今日の時代状況の中で、より本質的な人間観・男女観の[93:5確かな証し]を明らかにしてくださり、その「我と汝」の本質に根差した人間観・男女観のグラデーションが、ひとつの単色の光がプリズムを通して七色の多様性を明らかにするように、さらに深められた聖書観と聖書解釈法が、苦悩と葛藤の中に生きている人たちに、異性愛も同性愛も同じ倫理的基準の枠内において、[聖なることが、あなたの家にはふさわしいのです]という福音の調べを届けることができますように。
神学者たち、聖職者たちが、あらゆる次元で「ソロモンの知恵、カイザルのコイン」で示された神の知恵を用い、苦悩と葛藤の中に生きている人たちのための「良きサマリヤ人の神学」のフロンティアを切り開いていくことができますように。祈りましょう。
(参考文献:B.W.アンダーソン『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』、藤本満講演「①神学的人間論ー今日的諸課題、②神の像に創造され、キリストの像に贖われーLGBTと同性婚」、Helmut
Thielicke “Ethics of Sex”)
2023年2月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇92篇「年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります」-「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に-
https://youtu.be/BxwzfJO-2xU
先々週より、詩篇の第四巻(90~106篇)の傾聴に入っています。90篇から92篇は、詩篇第四巻冒頭でひとつのかたまりを形成しています。第四巻冒頭にあるこれら三つの詩篇は、「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」という、神とイスラエルの約束の焦点であったものの喪失が背景にあり、バビロン捕囚によって引き起こされ、特に第三巻(73~89篇)で明らかにされた「神学的危機への対応」を形成しています。約束の根拠であったもの、希望の象徴であったものをすべて喪失し、「神に見捨てられてしまったのではないか」と思われる局面でうたわれたこれらの詩篇の深さに心打たれます。イスラエルの「信仰における生命力」の豊かさに感動させられます。
その意味で、第四巻冒頭の三詩篇は、わたしたちの人生を「真に豊かにするものは何か」の教訓に満ちています。90篇は「一息」のようにはかなく思われる人生における「永遠の神」について、91篇は「狩人の罠、破壊をもたらす疫病」に囲まれる人生における「隠れ場としての神」について、そして93篇は「悪しき者の一時的繁栄」に目を奪われず「主を礼拝し感謝して生きる者の結末」を教えられます。これらの神学的教訓は、一般化されて描写されていますが、その背景に「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」の喪失を置いてみますときに、その意味・含蓄の深さを思い知らされます。それは、わたしたちがわたしたちの人生における、さまざまなかたちの“喪失”の経験の場、“挫折”の体験の場に立ち返って唱和するために提供されているのです。そのような視点から、本詩を味わってまいりましょう。
本詩は、「安息日のための歌」という題名をもつ唯一の詩篇です。A.J.ヘッシェル著『シャバットー安息日の現代的意味』の中の「時間の世界に立つ宮殿」という章に本詩への言及があります。[古くから伝わる寓話は主張する。「アダムが安息日の威光を、その偉大さと栄光を、そして万物に安息日を与えた喜びをまのあたりにしたとき、彼は安息日のために讃歌を詠唱した。あたかも安息日に感謝するかのように。それを見て神は言われた。『あなたは安息日に対して讃歌をうたっている。安息日の神であるわたしに対してはなにもうたっていないのはどうしてか』。すると、安息日は立ち上がって神の前にひれ伏して言った。『主に感謝をささげることは善いことです』と。全被造物がこれを聞いて付け加えた。『いと高きあなたの御名に対して讃歌をうたうことは善いことです』と。」
もうひとつ「永遠は一日を発語する」という章の箇所には[シオンは廃墟と化し、エルサレムは灰燼と化している。週日のすべては救済の望みしか残されていない。しかし、安息日が世界に登場するや、人は現実の救済が魂に触れるのを感じる。あたかも、メシヤの霊が一瞬間大地の上を飛翔しているかのように感じる]と。このように見ていきますと、おぼろげながら一筋の光が差してくるように思います。バビロン捕囚という未曽有の苦難を経験し、祝福の約束の根拠も象徴も、すべてを失ってしまったかに見えたイスラエルの詩人は、それらの仲介・手段・外形はく奪のただ中に、その深淵に、永遠をみつめる目を得たのではないでしょうか。
当時の列強に翻弄される神の民の「難攻不落の隠れ場」のありかを見出したのではないでしょうか。空間の世界における「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」を失ったが、時間の世界にたつ「宮殿、至聖所、メシヤの玉座」の本質的イメージが抽出されていったのではないかと。本詩のメッセージは、詩篇1篇にも、ローマ人への手紙1章にも通じるものを感じます。今日的に言えば、トルコとシリアに起こった巨大地震、建物の崩壊にまみえた人々、戦火の下で苦しんでいるウクライナの人々の苦しみのような、バビロン捕囚による苦しみ、ローマ帝国による四散、アウシュヴィッツ等による絶滅収容所経験等のただ中でうたわれ続けた詩篇といえるのではないでしょうか。
1-6節をみましょう。すべては失われてしまったかもしれませんが、み言葉である聖書と[92:1
【主】に感謝すること、いと高き方の御名をほめ歌うこと]は、どこでも可能です。それは失われていません。それは空間にも縛られていません。安息日は週に一日ですが、神の民の主への感謝と賛美は、時間にもしばられてはいません。私たちは[92:2
朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げる]ことがゆるされているのです。私たちは、「朝に夕にそのように優雅で神聖な行為」をなし続けることが赦されているのです。讃美と感謝は、[92:3
十弦の琴に合わせ、竪琴の妙なる調べにのせて]と、リュート、ハープ、竪琴等、それぞれの時代、民族で発達したあらゆる楽器を用いることが可能です。
わたしたちは、時間を超え、空間を超えた永遠の神に思いをはせます。そして、そのお方が空間と時間をもつ世界を創造され、その中にあるすべての生き物を創造してくださったこと、それらの生き物を摂理の下に導いてくださっていることを知ります。[92:4
【主】よ、あなたはあなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを、私は喜び歌います]、[92:5
【主】よ、あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです]と。私たちは、創造の世界の神秘と摂理の歴史の奥義について思いを巡らします。
7-11節をみましょう。わたしたちがこの世界を見ます時に、[92:7
悪い者が青草のように萌え出で、不法を行う者がみな花を咲かせ]る姿をみせられます。強国が小国を蹂躙するのをみます。ブラック企業が、犯罪者が、弱者から搾取するのをみます。多数者が少数者を迫害するのをみます。彼らは[92:8
永遠にいと高き所におられ]る神を崇めず、感謝をすることを知りません。おのれを神として生きているのです。そのような[92:6
無思慮な者、愚か者]は、創造の神による空間の秩序と時間の秩序が、神の摂理の御手によってもたらされる結末を知りません。彼らは簡単に生えでて増え広がる雑草、[青草]のようです。一時的に花を咲かせ、繁栄を謳歌しますが、神の摂理の御手により支配されている歴史、その道徳的秩序は必ずその結果をもたらします。[92:9
不法を行う者はみな散らされ]、[あなたの敵が滅]んでしまうのです。このような信仰がイスラエルの民を支えました。苦難のただ中、絶望的な状況の下、窒息させられそうな状況下で、「希望という酸素」となり、「サバイバルの力」を注入していたのです。
12-15節をみましょう。本詩の結びの節は、礼拝共同体に戻り、悪の結末とは対照的な結末を描写しています。萌え出る青草のような悪しき者の繁栄、人間世界のどんぐりの背比べのような「相対評価」とは対照的に、主の忠実さと愛に支えられた信仰者の生涯、主の目に焦点を当てた「絶対評価」に生きる信仰者は神さまがあなたを、[92:10
野牛の角のように]あなたの角を高く上げてくださる生涯であり、あなたに朝毎に夕ごとに、[みずみずしい油を注]いていくださる毎日なのです。なので、[92:11
待ち構えている者ども、向かい立つ悪人ども]をおそれる必要はありません。ノアが洪水の四十日四十夜を「天窓」だけを開き、その窓を通し、主を仰ぎ続けたように過ごせば良いのです。
そのように生きていく信仰者は[92:12
なつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます]。それは大地に根を張り、幹を太らせ、枝を張り巡らし、葉をつけます。彼らの個性や賜物は、いわば球根のように、[92:13
彼らは【主】の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせ]るのです。彼らは「何の喜びもない」という年月(伝道12:1)の時期に、[92:14
彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります]と言われます。わたしたちも、本詩の詩人のような信仰に生きたいものです。このような告白をもって余生を過ごしたいものです。神様がその保証人です。[92:15
【主】は正しい方。わが岩。主には偽りがありません]。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary、A.J.ヘッシェル『シャバットー安息日の現代的意味』)
2023年2月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇91篇「いと高き方の隠れ場に住む者」-苦しみのときに彼とともにいて、とこしえのいのちで満ち足らせ-
https://youtu.be/UCaJFfT1tVI
先週より、詩篇の第四巻(90~106篇)の傾聴に入っています。詩篇第四巻冒頭にあります90篇から92篇は、第三巻の結末である89篇で描かれた「ダビデ王国崩壊の危機に対応する神の避難所」のテーマに焦点を当てています。国家・民族が崩壊するかもしれないという未曽有の危機の際に、古代イスラエルの共同体は神殿に集いました。共同体は、神の介入を求め、差し迫った危機からの救いを嘆願しました。それが詩篇90篇の嘆願の前景にあります。前景としての詩篇の第三巻(73~89篇)を傾聴していますと、「シオン、すなわちエルサレムの崩壊を嘆く祈り」が顕著であり、その巻末89篇が「ダビデ契約に対する神の拒絶に直面した未解決の請願」で終わっていることを教えられます。
したがって、第四巻(90~106篇)冒頭の「モーセの祈り」の配置は、注目に値します。それは、詩篇90篇の表題が、読者を「ダビデ王国の前の時代、エルサレム神殿建設以前の時代」すなわち「神の人モーセの時代」に連れ戻すからです。その時代には「君主制も、神殿もありません」でした。人々は「まだ約束の地に来ていません」でした。それでも、「イスラエルの民は、神との関係を築き、その関係をかたちに」していました。詩篇第四巻冒頭で、「神と共同体の関係」がイスラエルの生活を形成しましたが、「神殿や王によって仲介されなかった時代」にさかのぼることによって、「バビロン帝国によって、エルサレムが陥落し、神殿が崩壊し、ダビデ王国が消滅」してしまった問題に答えようとしているのです。
そのような「嘆きの詩篇」が置かれている危機の中で、「教訓的かつ一般化」する傾向を帯びていることは詩篇においては珍しいことではありません。このような意味で、詩篇90篇は「危機におけるイスラエルの唯一の、真の希望の源」が神であることを示唆しています。神は、「エルサレム建設、神殿奉献、ダビデ王国の栄光」以前、幾世代にもわたって「わたしたちの住まい」であられたことに焦点を合わせようとしているのです。これは、少子高齢化時代の日本の教会の状況にも似ています。教会は高齢化し、地方では無牧の教会が増え、都市部を除き、教会が消失していく時代です。わたしたちは、かの時代の神の民のように、「より本質的なもの」に焦点を合わせることを迫られているのかもしれません。
最初にも申しましたが、詩篇第四巻冒頭にあります90篇から92篇は、第三巻の結末である89篇で描かれた「ダビデ王国崩壊の危機に対応する神の避難所」のテーマに焦点を当てています。と同時に、そのメッセージの本質を捉え「神は困難の最中における避難所」であると教えています。このメッセージは、あらゆる困難に直面しつつ生きるわたしたちへの「宝石」のような励ましです。詩的表現の背景には、「何らかのトラブル」が発生していますが、特定することなく、あいまいなまま放任し、「あらゆるトラブル」への応用・適用が可能な状態に置かれています。
問題は、[91:3 狩人の罠][91:5 夜襲の恐怖、昼に飛び来る矢][91:6 真昼に荒らす滅び][91:10
わざわい]と、ウクライナに対するロシアの攻撃のようなものから避難を求めているのかもしれません。また問題は[91:3
破滅をもたらす疫病][91:6 暗闇に忍び寄る疫病][91:10
疫病]と、コロナ・ウイルスのような病気であり、その人たちは感染からの保護祈願を求めたのかもしれません。本詩は、古代イスラエルの民の礼拝環境に深く関係しており、「神への会衆の信頼」を生むことを目指しています。
そのような意図をもつ本詩は、[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]と、神の臨在を避難所とし、そのシェルターを楽しむ信仰者に向けられた並行表現で開始されます。2節では、その至高の神、全能の神は[91:2
私の避け所、私の砦]と、そのシェルターは「難攻不落の要塞」であると告白されています。幾度となく、危難・艱難に直面し、いまやその保護の根拠とされてきた「エルサレム、神殿、ダビデ王朝」の消失に陥ったいまでも、なお「形あるものはすべて消失した今、そのさえぎる空の雲がなくなったかのように、仲介して教えるすべての影が消えうせた今、希望の灯火が見えなくなった今、真っ暗な暗闇の中で、夜空の無数の星々がきらめくように」ー[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]と告白・賛美しているのです。
この賛美・告白は、[91:4 主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける][91:9
それはわが避け所【主】を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたから]と、展開し、[91:7
千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない][91:11
主があなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道であなたを守られる。91:12
彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする]と、「われらを試みにあわせず、悪より救い出される」神への信仰と祈願が表明されています。
このように見ていきますと、世にある宗教一般のように、「家内安全、無病息災、商売繁盛、安産祈願、合格祈願、等々」にみられる「いわゆるご利益宗教」めいた要素があると教えられます。今日にみられるような医療の水準や、小国に対する国際的な安全保障等々がない古代の世界において、戦争とか疫病に対する脅威・恐怖は、いかほどのものであったでしょうか。それらの恐怖を猟師と獲物のイメージ、日中にどうどうと歩き回る疫病、それらをライオンやヘビに言及し[91:13
あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじ]ってくださるお方として、神に期待します。
わたしたちが、[91:1
いと高き方、全能者]なしに、人生を、人間の実存を直視するとき、そこには「絶望」というひとことしか残らないのですが、わたしたちが、
[91:1 いと高き方、全能者]を[91:14 愛、その名を知って、91:15
呼び求めれば]、わたしたちは、「かたちあるもののすべてが霧散しようとも」主は親鳥がヒナを身を挺して守るように[91:4
ご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける]ことができ、[91:11
主が、あなたのすべての道であなたを守られる]のです。
教えられることの核心は、[91:14
彼がわたしを愛しているから、彼がわたしの名を知っているから]とあるように、神とわたしたちの人格的関係の深さであり、「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の深い関係の大切さです。本詩の末尾に示されている託宣の肝心な要素こそが、書き出しの[91:1
いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る]の意味するところと思います。[エルサレム、神殿、ダビデ王朝]消失という事態のただ中で、モーセの祈りの時代にさかのぼり、永遠の過去をみわたし、さらにはダビデの子孫たる真のメシヤ、イエス・キリストの人格とみわざと永遠の未来、新天新地を望みみる希望の信仰への方向が垣間見られる詩篇です。古代の神の民がさまざまな苦難に遭遇してきたように、現代のわたしたちもウイルス感染、戦争による経済困難、急速な少子高齢化による教勢低下等、数々の困難に直面しています。
そこで、わたしたちは、古代の神の民がそうしたように、この詩篇第四巻の祈りに唱和してまいりましょう。[91:15
彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える]と励ましておられる神に向かって。そのときに、至高者であり、全能者である神さまは[91:16
わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せ]てくださることでしょう。祈りましょう。
(参考文献: Walter Brueggemann, “Psalms ” New Cambridge Bible
Commentary)
2023年1月29日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇90篇「私たちの手のわざを確かなものにしてください」-自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている-
https://youtu.be/zZ469SlqySA
先週、アマゾン書店から説教備忘録『詩篇第三巻(73-89篇)傾聴』を刊行させていただきました。その序に、カルヴァンの数々の名句中でも最も良く知られた一節「魂の解剖図としての詩篇」ー「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。あたかも鏡に写すように…人間の情念を描写する。あらゆる苦悩・悲哀・恐れ・望み・慰め・惑い、…人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出す。…内的心情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼びかける
」をもってはじめさせていただきました。これは、詩篇がどれほど深く、相互作用的なものであるか、つまりまぎれもなく神と人間であるわたしたち二者間の対話の営みであることを、詩篇のもつ「相互作用的な感覚」を教えています。すなわち、詩篇を読み、その中に響くことば、メッセージに傾聴するということは、ブーメランのように戻ってきて「わたしたちの生活」の中で起こっていること、「わたしたちの人生」で起こってきたことの中に、詩篇の言葉の響きを傾聴することなのです。そのような視点から、『詩篇第四巻(90-106篇)』を傾聴してまいりましょう。
本詩を読む時、走馬灯のように、19歳の頃に引き戻されます。本詩をみずからの証しを踏まえるかたちでたどっていきたいと思います。激しい受験勉強を終えて、希望に燃えて大学に入学したのちに、よくあることのようですが、大きな目標を達成した直後に「目標」がなくなったことに気がついたのです。それで、生きる意味や目的を探し求めて、絵画部弦月会に入り、油絵に没頭したり、学部を越えて「哲学」の多数の講義を受講したりしていました。つまり、幼・小・中・高という学業のひとつのゴールに到達して始めて、「人生」というものに集中して考えるようになったのでした。そのころは、家は仏教の檀家であり、地域は神道の氏子でありました。しかし、それは習慣としてのものであり、わたしの内実はと申しますと「無神論者」に近いものでした。
よく芸術家の画集や彼らの伝記的な紹介を読み、「天高く、きらめく夜空の星のような素晴らしい人生があるのだ」と感動したものでした。しかし、彼ら、天才的な芸術家の生涯に比して、自分の人生、存在の意味・価値の卑小さに、打ちのめされていました。「自分が生きるということにどのような意味があり、価値があり、意義があるのだろう」ということを日夜探し求め、もがいておりました。[90:17
私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください]は、その頃のわたしの心からの祈り・叫びと重なります。
大学一年の時の「哲学」は津田教授で、ニーチェが専門とのことでした。それで、わたしもニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』をバラバラにして、ポケットに入れて繰り返し熟読しておりました。この本の人生観は、無神論的進化論をベースにしたもので、これまでわたしが受けてきた教育内容と相性があっていました。要するに、「人類というものは、アメーバのような原生動物類から無限の時間ほ経て進化したもので、類人猿から進化した人間はやがて超人へと進化する過渡期にある存在である」というものでした。なるほどと教えられました。しかし、このような思想の深みへとさらに踏み込んでいったとき、「無意味・無目的な存在」として生れ出たわたしたちは、「死をもって永遠に無に帰する」のだ、そのような現実を直視し、そのような冷酷な現実を乗り越えて生きていく強い意志をもつことが「超人へと変貌する兆し」なのだ、と教えられました。
本詩においては、[90:3 人をちりに][90:4 千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほど][90:5
朝には草のように消え][90:6
朝花を咲かせても移ろい、夕べにはしおれて枯れ]と描写されている通りです。学生時代は文学にも親しみました。夏目漱石や太宰治はよく読みました。そのころのわたしの心情に即したものでありました。きわめてニヒルで、虚無的でありました。生きることに意味や目的・意義を見出すことができない苦しさがありました。そのようなときに、電信柱に貼られた一枚のポスターに導かれ、はじめて教会の門をくぐりました。
そして、ニーチェの「無神論的進化論」とは180度正反対の「有神論的創造論」の人生観を知り始めました。[90:2
山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまであなたは神です]とあるように、わたしたちは無意味・無目的に生まれてきたのではなく、創造主なる全知全能の神がおられ、その方が青写真をもってこの宇宙、この地球、その中のすべての生き物を愛情をもって造られたというのです。そして、わたしたち人間も、意味・目的をもつ存在として生を与えられ、意義・価値ある人生を生きるように召されているというのです。
人生にも長い短いはあります。[90:10
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年]、今日の長寿の時代では「私たちの平均寿命は約八十年。健やかであれば百歳も」と言い換えることができるでしょう。しかし、神様の永遠の視点から申しますと、人間の一生というのは[90:4
まことにあなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時][90:6
朝花を咲かせても移ろい、夕べにはしおれて枯れ]る草花のようです。なにも誇るべきものはありません。
そこで、被造物たるわたしたちに必要なことがあります。創造主から、永遠の中で一過性の生である[90:12
自分の日を数えること]、人生いかに生きるべきなのかの[知恵の心を得させて]ことです。旧約聖書で考慮しなければならない要素が存在します。それは、旧約聖書の詩篇がただ現世における生命という枠組みの中で、人間存在の問題と格闘していることです。詩人は、新約聖書に現れる終末的な地平を持たないので、より激しい情熱的な強さで現在の生の問題に没頭するのです。詩人は、人生の正邪や賞罰の不釣り合いが、歴史的な経験世界を超えた新天新地で是正されるという考えに満足しません。
彼らは、神と人間との関りと救いが、他ならぬこの地上でなされると信じるからです。多くの現代人にとってと同様、彼らにとって死は一切の終極です。したがって、人間の生に関わる緊急の問題の答えは、今ここに見いだされねばならないのです。流れの水を慕いあえぐ鹿のように、彼らは全存在を賭けて「神を慕いあえぎ」、彼らが生き、動き、存在しているこの歴史的な舞台で、その渇きが満たされることを探し求めるのです。そして新約聖書に至って、人間の閉塞状況は根源的に変えられるのです。そこでは、イエス・キリストにおいて神は死の力に打ち勝ち、被造物たる人間に未来への扉を開け放たれたのです。
新約の光、新約の恵みに生かされるわたしたちは、現世を大切にしつつ、しかしそれに縛られず、極度に執着せず、「未来からの恵み、新天新地からの喜び・愉しみの前味」を味わいつつ、現世を生きる知恵、自分の日を数え、人生を分析・評価し、神の永遠の視点の座標軸に位置づけることを教えられます。これが、「福音理解」の意味であり、意義です。キリスト教の教理は、勉強のための勉強ではありません。被造物たるわたしたちの、[90:9
一息のように][90:10 瞬く間に時は過ぎ]さる人生を、[90:1 代々にわたって][90:2
とこしえからとこしえまで]の視点から位置づけ・評価する座標軸であり、その視点にたって現世をどう生きるべきかを照らす羅針盤であるのです。
それは、[90:14
朝ごとに、あなたの恵みで私たちを満ち足らせて]くれる恵みの座標軸です。[私たちのすべての日に、喜び歌い楽しむことができるように]してくれる識別力を付与してくれる力です。[90:17
私たちの神、主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください]と切実な祈りをささげています。わたしたちが一過性の短い生涯でなす「手のわざ」にはどんな意味があり、どんな意義・価値があるのでしょう。それも、新約の光の中で明らかにされています。
イエス・キリストは、わたしたちが地上でなした種々の、「神への愛、隣人への愛」のひとつひとつは、無意識でなした「一杯の水」でさえ覚えられている、と言われました。ですから、わたしたちは右手のしたことを左手が知らないといわれるようなキリストにある善行を御霊に導かれてなしてまいりましょう。[Ⅰコリ15:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから]祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2023年1月22日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇89篇「主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか」-夏目漱石的な絶望の死生観につかっている社会の中で、三浦綾子的な希望の死生観を分かち合っていきたい-
https://youtu.be/h5Z1cFfT-mo
先週、共立基督教研究所時代にお世話になりました藤原導夫先生のブログに『三浦綾子文学の本質と諸相』という本の紹介が記されていました。その第九章に「夏目漱石『こころ』と『氷点』『続氷点』ー夏目文学と三浦文学との重なり・ずれをめぐってー」があり、さっそく取り寄せて読ませていただきました。というのは、この二冊はわたしにとって大変思い出深い本であったからでした。『氷点』は受験勉強の合間にテレビで視聴し大変感動させられました。それで本も購入し何度も繰り返し読ませていただいた愛読書の一冊でした。多感な思春期に、人生とは何であるか、生きるとは、幸せとは、価値観等々ー小説を通してたくさんのことを考えさせられました。ある意味で、数年間の大学入学のための受験勉強をしつつ、より長い人生という学校への受験勉強を導かれていたように振り返ります。
振り返ってみて、「『氷点』というドラマが、また小説がわたしがクリスチャンとなるに至る道を作ってくれた。それを歩むように導いてくれた」ように思います。それまで、人生の本質、生きる意味、生きる目的等を、そのように深く考えたことはありませんでした。わたしが教えられたことのひとつは、「①すべての人間は幸福な人生を送りたい」と望んで、人生という旅程を辿るのであるが、それを手に入れることのできる人は限られている。②多くの人は、幸福な人生というものは経済的な豊かさや名誉や地位、容姿や才能等々に条件づけられていると思いがちであるが、ただそれらのすべてを手にしている人でも不幸な人は数限りない。また逆に、それらの「いわゆる幸福な人生の条件」に欠けている人たちの中にも、豊かで幸せな人生をまっとうしている人たちもまた数多くある。③それでは、何が幸福な人生にとって決定的な要素なのだろうか。『氷点』を通して、「罪」の問題がそれであること。「罪」は人生において最も破壊的な力を有するものであり、その問題の解決なしに「幸福な人生」はありえない、ということでありました。
わたしが導かれた大学は、関西学院大学経済学部でありました。将来、社会科の教師になることを夢見ていたからでした。ミッション・スクールであり、一時限と二時限の間、毎朝チャペル・タイムがありました。讃美歌を歌い、聖書から短いメッセージを聴く30分の時がありました。大学に隣接している西宮福音教会に導かれたのは二年の春であったように振り返ります。「ここに愛がある」という映画のポスターにひかれて、入ったところが「KANSAI
FUKUIN
CENTER」という建物の中にある教会でありました。その時の集会で「聖書をさらに読んでみたい」と決心し、それを契機にその教会に通うようになりました。昼間は大学で授業を受け、クラブ活動をなし、夜は友人たちとマージャンをし、ウイスキーを飲んで寝るという、普通の学生生活を送っていました。
無意味、無目的でだらしない生活を繰り返していたわたしに、異変が起きました。日曜になると、下宿から歩いて三分の教会の礼拝に出席するようになったのです。その教会では聖歌やコーラスを歌っていました。なにか、世の中でちりやほこりにまみれて生活している人間が、日曜ごとに「清らかな水」のシャワーを浴びて、こころ洗われる日曜、さわやかな思いに満たされる日曜でありました。数ヶ月通い、「自分もクリスチャンのようになりたい」と思うようになりました。しかし、クリスチャンとされるためには「自分が罪びとである」ということが分からないと駄目であるということが分かりました。それがわたしにとっては「つまずきの石」のひとつでありました。
わたしにとって「罪」とは警察のやっかいになることでありました。「心の中の罪」は問題と思いませんでした。ましてや「あなたの罪は、地獄で滅ぼされるほどの罪であり、その身代わりとしてイエス・キリストは死んでくださった」というような教えは、なかなか理解できるものではありませんでした。それで「神さま、あなたが本当に生きていらっしゃるのであれば、イエス・キリストに身代わりとして死んでもらわないほど罪深い人間であるのかを教えてください」と祈りました。そしてそのころ導かれるようにして熟読したのが、夏目漱石著『こころ』でありました。罪の問題を自分自身のことと理解できるになり、そのためにイエス・キリストの十字架と復活があると分かりました。「ピリピ1:21
生きることは、キリスト。死ぬこともまた益なり」と、キリストを人生の基軸とし、絶対的な価値基準として生きていく決心をなし、19歳のクリスマスに洗礼を受けました。翌1月に二十歳となり、クリスチャンとしての人生のスタートを切りました。ニーチェ著『ツァラトゥストラ、かく語りき』を愛読書とし、「絶望・無意味・無価値」という絶望・暗闇の中に死んだように生きていたわたしが、赦しと復活のいのちと希望によみがえらされた転換点でありました。氷のように冷え切っていたわたしの凍てついた「こころ」が、キリストの温かいこころに触れて氷解していきはじめたのでした。このような視点をもって、少し長いですが、詩篇第三巻を締めくくる89篇をみてまいりましょう。
この少し長めの詩篇89篇は、第一段落と第二段落とでダビデとの契約にとこしえに真実であられる主への「賛美」で始まり、第三段落で油注がれた者に主がもたらされた苦難と屈辱に苦しみもだえる「嘆き」をもって閉じられます。第一段落・第二段落の「選ばれた者」が第三段落で「拒まれた者」となるのです。この逆転劇が、本詩の筋であり、本詩が「格闘している問題」でもあるのです。このような「筋書」、また「問題」を扱う詩篇は、信仰者が「祝福の約束とその成就」を夢見て、人生を旅する中で「必ずしも、そのように成就しない問題」を考える上で有益な詩篇であると思います。必ずしも、「祈った通りにならない。願ったとおりにはならないことがある」という問題です。この問題と格闘することは、「より深く、より本質的な祝福の次元」にわたしたちを導きます。本詩は、全体を統括する[89:49
主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです]にあります。
詩の大部分が、かつての主の真実の御手のわざの数々を想起することに当てられています。導入部は、二つの関連あるテーマ、天の王に帰属する「89:1
真実」とダビデとの間に結ばれた「89:3
契約」の誓いについて告げます。最初のテーマは、全世界に君臨される主、その「真実」において世界の基を据えられ、民の王を通して彼らに力を与えられるお方への賛美です。次のテーマは、神が油注がれた王としてダビデを選ばれたことの「89:19
告知」、ならびに神が彼とその子孫に対するとこしえの真実を誓われた[89:29
わたしは彼の子孫をいつまでも彼の王座を天の日数のように続かせる]サムエル記の託宣を引用しながら展開されます。
その後に、ダビデとの契約に対する主の真実とははなはだしく矛盾した現状が描き出されます。油注がれた者は敵に打ち負かされ、辱められます。「慈しみ」と「まこと」が、「怒り」と「拒絶」に取って代わり、「契約」は破棄されています。本詩は、「死すべき者」そして「祈っている者の辱め」に応えてくださるようにとの訴えで閉じられています。本詩の筋は、旧約聖書の大きな筋と一致します。第一に、「祝福の約束」があり、土地と子孫ー神の支配される国の青写真があります。第二に、「申命記の戒め」があり、それに従って取り扱われ、裁かれ、土地、エルサレム、神殿、そしてダビデ王朝は終焉を迎えます。
第三に、「捕囚からの帰還と再建」の歴代志的歴史の時代が望み見られています。わたしは、これらの構造は、信仰者の生涯にもあてはめらる“筋”でもあるように思います。わたしたちの人生は、完全無欠ではありえません。程度差こそはあるにしても、すべての人の人生のここかしこに欠けがあり、ほつれがあり、穴がありうるのです。それでは「イエス・キリストにある人生の祝福の約束」はどうなったのでしょうか。第一段落の[89:11
天はあなたのもの地もあなたのもの。世界とそこに満ちているものはあなたが基を据えられました]といわれる、創造の神、秩序の神、摂理の神の支配はどうなったのでしょうか。
わたしたちは、第二段落のダビデの選びと油注ぎと永遠の王座の保証のように、罪と死と滅びから救い出され、個性と賜物が聖霊の愛に満たされ、奉仕のための成熟ー“Mastery
for
Service”に生きるよう育まれてきました。しかし、P.トゥルニエがいうように、人生には祝福ばかりでなく、苦悩もあります。成功だけでなく、失敗もあります。解決できない難問、難題もあります。百戦百勝とはいかないのが人生です。そこで本詩から教えられることがあります。第三段落です。すべての人の人生に、人生の第三段落があると思います。わたしは、この「人生の第三段落」の受けとめ方が大切と思います。
わたしたちは、地上の視点のみ、現世の視点のみで「祝福の約束の成就」を狭く捉えるとき、神さまのみ旨が分からなくなりやすいと思います。ファン・ルーラーという神学者は、三位一体論的聖定論的終末論的神の国神学という視点を指摘しています。聖書が内包する神学的骨格のあり様です。神さまは、御父・御子・御霊の三位一体の神は、青写真を作成し、宇宙を創造し、シナリオを作成し歴史を摂理をもって導かれています。罪と死と滅びの運命に定められている被造物世界の冠たる人間を、キリストの贖罪のみわざによって救い出し、その基盤に立ってキリストの御霊はわたしたちの存在をうめきつつ贖い出し、新天新地における「奉仕のための熟練」に備えておられるというものです。
詩篇第三巻の締めくくりの詩篇89篇には「①祝福の約束ー土地と子孫と神の国、②ダビデ王朝におけるその成就」と、歴史の現実としての「③バビロン捕囚によるそれらの終焉」という暗転に見舞われたイスラエルの民の嘆きがあります。しかし、その絶望の淵で、その苦難の深みからうめき叫ぶ声を発しています。これが聖書が示す信仰です。死の向こう側に復活・新天新地を望み見る希望です。わたしは、最初に記しました夏目漱石の『こころ』にみる絶望で終わる死と、三浦綾子の『氷点』にみる希望の光が差し込む世界の差異を、「本詩の祈り叫び」を包摂する聖書全体がもつ「筋」、小さなイスラエルの物語を包摂する、イエス・キリストにある「大きな物語」の希望を教えられるのです。夏目的な死生観にどっぷりとつかっている日本社会の中で、三浦的な希望の死生観を分かち合っていきたい。そのように教えられます。祈りましょう。
(参考文献:J.L.メイズ著『詩篇』現代聖書注解、竹林一志著『三浦文学の本質と諸相』)
2023年1月15日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇88篇「私は暗闇を親しい友としています」-詩22:1
わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか-
https://youtu.be/48awBoYHJms
人生には、「三つのステージがある」と言われます。「順境、逆境、新しい境地」の三つです。順境とは「平穏な状態にある時」、人生のすべての事柄が順風満帆に運んでいる時です。高度成長期の日本社会はそのような時期であったことでしょう。この平穏な時期に、順境にある者の姿勢を最もよく反映しているのが「箴言の中にある教え」です。そこでは、人生は公平で、因果応報の原理が支配しており、主にあっては何をしても祝福が見いだされる雰囲気があります。そこには、あらゆることが神に委ねられており、「確信に満ちた幸せな生活」が保証されています。
これに反して、詩篇の大部分は平穏な生活の中からではなく、「逆境」に陥ったり、そこを通して「新しい境地」に至るという経験ーそこは、力で圧倒されるような経験、ほとんど自分が破壊されるような経験ーその道筋のただ中で命を与えられ、「祈りまた歌う力」が与えられたという体験であるということです。詩篇は、人生において「絶望の淵」に立たせられた人々が、言葉を尽くし、情熱を注ぎ込んで歌った歌と祈った祈りを、幾世代にもわたって集めたものです。嘆きと逆境の詩篇として、最もよく知られているのは十字架上のイエスの苦しみと重なるー「詩22:1
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」です。そして最も怒りが深く、最も希望がない逆境の詩篇は、88篇と言われています。本詩88篇の苦しみは、ヨブ記と酷似しており「詩篇の中のヨブ記」とも言われ、「その終わりは全く救いのない暗闇」で結ばれています。わたしたちは、この苦しみの深淵に「キリストの陰府下り」の苦しみを見ないでしょうか。このような視点から、本詩に傾聴してまいりましょう。
本詩は、災いに襲われ、死の予感におののく信仰者が、神に向かって発する悲痛な嘆きの詩篇です。「災い」の内容は特定されていません。それは、わたしたちのためです。わたしたちが「詩篇に傾聴する」というとき、それは、わたしたちが「詩篇の中で“人間性”が発する声のただ中に入り込んで、その声の傍らに立つ」という決断を意味しているのです。歴史の中に存在してきたものであり、詩篇の中に凝縮されている詩篇の言葉とわたしたちの「痛切な思いで味わう生活上の経験」との間に、わたしたちの声と考えと思いを行き来させて、それらの間にいつもすばやい「相互交流」を起こるようにするためです。それは、「聖書の言葉」に対して、「わたしたちの経験」が活力と直接性を与えてくれるからです。
本詩は三部に区分され、各部とも祈りの導入文とそれに続く嘆きもしくは訴えからなっています。第一部(1-9節a)は、[88:1
【主】よ、私の救いの神よ、昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで]と、昼夜の「叫び」を祈りとして聞き届けてほしいとの導入文に続き、祈り手は自分の置かれた窮状を嘆き訴えていきます。[88:3
私のたましいは苦しみに満ち、私のいのちはよみに触れています]、[88:5
私は死人たちの間に放り出され、墓に横たわる刺し殺された者たちのようです]と、わたしは数々の災いに打ちのめされ、いまや陰府に下る死人のようになったと告白しています。
神の全能とその摂理的支配を信じる詩人は、[88:7
あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を苦しめておられます]と、神がそのように取り計らわれたのだ、と告発し責め立てています。そして、[88:8
私を彼らの忌み嫌う者とされました]と、ヨブのように病のせいでしょうか、あるいは他の何らかの不幸でしょうか。それらがわたしを「忌まわしいもの」として知人・友人から遠ざけてしまった、と嘆いています。[88:6
あなたは私を最も深い穴に…暗い所に、深い淵に]、[88:8
閉じ込められて出て行くことができません]と、孤立と孤独の中に打ち捨てられていると嘆いています。ただ、苦難のただ中における叫びは、苦しみのただ中における神への賛美とも言われます。信仰の不思議がそこにはあります。
第二部(9b-12節)では、祈りの導入文[88:9b【主】よ、私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって両手を差し伸ばしています]に続き、修辞の疑問文を四重に重ね、神を責め立てています。死者の世界は、[88:11
滅びの淵]、[88:12 闇の中]、[忘却の地]であり、そこではもはや[88:10
奇しいみわざを行われるでしょうか]、[あなたをほめたたえるでしょうか]、[88:11
あなたの恵みが宣べられるでしょうか]、[88:12
あなたの奇しいみわざが知られるでしょうか]と、問いかけています。これが詩篇です。嘆きの詩篇のほとんどは、「俺たちは猛烈に頭に来ている。もうこれ以上我慢するつもりはない」と叫んでいる映画のセリフのようです。漏れたガスで充満した部屋でマッチを擦ることに似ています。それは、限界点を超え、「爆発を引き起こす」のです。これが詩篇です。信仰者の生活が、生きた信仰であるとき、このような叫びが存在するはずなのです。それは、詩篇の叫びと接点を見出します。このような発見の人生を生きてまいりましょう。
丁寧で礼儀正しく控えめなことが「信仰的」だとするなら、彼らは「信仰的」ではありません。彼らが信仰的であるのは、人生の途上で直面した「その混とん状態」を聖なる方に向かって、真正面から「はっきりと言葉で語ろう」としている、ということなのです。これが詩篇です。また、ヨブ記です。このように嘆きの詩は、身近なところにある「困難な事柄」に心を奪われながらも、「必ず神をその名で呼び」神からの答えを期待しているのです。
第三部(13-18節)は、[88:13
しかし私は、【主】よ、あなたに叫び求めます。朝明けに私の祈りは御前にあります]と、神に叫び求め、祈りを聞き届けてほしいと願い、彼自身に対する「神の仕打ち」を嘆き訴えています。[88:15
私は苦しんでいます。若いころから死に瀕してきました]とありますので、なにか「先天性の不治の病」であったのかもしれません。障害であったのかもしれません。それは、病という苦しみとともに[88:14
【主】よ、なぜあなたは私に御顔を隠されるのですか]という神の沈黙という苦しみであり、それはまた、[88:15
あなたの恐ろしさ]、[88:16
あなたの燃える怒り]、[あなたからの恐怖]としても受けとめられました。罪についてはなにも言及されていませんが、旧約の世界においては、ヨブ記の友人のヨブ告発のように、「誤った因果応報」の捉え方がありました。詩人は、苦難とともに神の沈黙という二重の苦しみを[88:17
それらは日夜大水のように私を囲み、瞬く間に私を取り巻いて]いると告白し、[88:18
あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。私は暗闇を親しい友としています]と現状を締めくくっています。
わたしたちは、本詩を詩篇22篇ととともに、嘆きの詩篇の頂点として本詩をみてまいりました。本詩は、「最も怒りが深く、最も希望のない詩篇」「その終わりは全く救いのない暗闇」と評される詩篇です。しかし、新約の光、わたしたちのイエス・キリストの人格とみわざの光の下で読み返す時、詩篇22篇に「麗しい主イエスの叫び声」を耳にするように、本詩88篇においても「わたしたちの主イエスの“陰府下り”の苦悩の深み」を目にしないでしょうか。「キリストの代償的絶望のきわみ」の中に、わたしたちの希望を見出さないでしょうか。わたしたちは、詩篇の詩人とともに、現世における「あらゆる逆境」の中に、キリストにある「終末論的希望の光」を見出して生かされうる者たちなのです。祈りましょう。
(参考文献:W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』、月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』)
2023年1月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇87篇「見よ、ペリシテーこの者はこの都で生まれた」-偏狭で民族主義的な解釈と民族を超えた普遍主義的な解釈-
https://youtu.be/ETxElOzhghw
本詩は、神の都シオンを詠う六つの詩篇(46, 48, 76, 84, 87,
122)のひとつです。本詩の特色は、「異邦の民をシオンで生まれた者と宣言する」点にあります。総じて、「シオンの歌」は神を全地の王と讃えますが、諸国民がシオンで「生まれた」と詠う事例は本詩の他にはありません。この点につきまして、二通りの解釈があります。ひとつは、BC.6世紀以降、エルサレム以外の地域に形成されたディアスポラ、すなわち世界各地に散在するようになった「ユダヤ人共同体と異邦人改宗者」を念頭においた解釈です。もうひとつは、「一種の終末論的解釈」であり、異邦の諸民族がまことの神に帰依し、神の都シオンに受け入れられる時代の到来を展望する解釈です。
捕囚とか、離散という「未曽有の苦難」には、負の側面だけではなく、異邦人改宗者を耕し、キリストの福音を受け入れる備えをもなしたという神の摂理的働きがあることを教えられます。それは、わたしたちの人生における苦難、不幸な経験にも当てはめられるのではないでしょうか。ここではどちらか一方の解釈を選択するより、両者を重ね絵のように重ね合わせ、すなわち「ユダヤ人共同体と異邦人改宗者」を念頭に、イエス・キリストにおける「神の都シオンに受け入れられる時代の到来を展望」する視野をもって、本詩に傾聴してまいりましょう。
これは、神が[ラハブとバビロン]ーつまり大国であったエジプトとバビロンを「わたしを知る者として」みなし、[ペリシテとツロ、クシュ]を[この者はこの都で生まれた]者とみなしてくださるというのです。それは、これらの異教の国々がシオンを故郷とするまことの神の民となる、という宣言です。第三段落でも、第二段落と同じ内容が繰り返され、神は4節で名指しされた五つの国だけでなく、[この者もあの者も]、もろもろの[国々の民]を[この都で生まれた]と登録してくださる、というのです。第四段落では、神によってシオンで生まれたと宣言される「国々の民」が喜び踊りながらシオンを讃えあう情景が描き出されています。
先日、NHK特集で日本の知識人のひとり、立花隆氏の死生観についてドキュメンタリーをみました。無神論進化論で唯物的な「死をもってすべては無に帰する」という虚無的な死生観でした。わたしには、「絶望」というメッセージ響いているように思いました。ニーチェの哲学にも似ていると思いました。これとは対照的に、キリスト教信仰には「希望、復活、新天新地、喜び」という酸素が溢れているように思いました。本詩にもそのような酸素が溢れていると思います。
さて、彼らが発する讃美は、[私の泉はみなあなたにあります]は、エルサレム神殿から生ける水が流れ出すという表現に通じ、シオンに住まわれる神を「いのちの源」と信じる信仰表現とみられます。聖なる都シオンに住まわれるまことの神は、諸民族を治める全地の支配者です。このような神信仰は「シオン神学」と呼ばれ、「シオンの歌」をはじめ、神を「王」と讃える詩篇の主題となりました。本詩もまた、同様の神信仰を前提にしています。ただ、それらの詩篇が神による諸民族の制圧を詠いあげるのに対して、本詩は異邦の国々をシオンで「生まれた」民として宣言しています。この「生まれた」とは、イスラエルの民がまことの神の子、神の民と呼ばれるように、諸国民もまた、まことの神の子、神の民と呼ばれるようになる、という意味です。
聖書の神は、元来「イスラエルの民族神」とみられていました。その神が、「全世界を支配する普遍的な唯一の神」と信じられるようになりますと、必然的に、「地上のあらゆる民族をまことの神の民」とみなす思想が生まれてきました。そのときに、従来のイスラエルの信仰は、二つの問いの前に立たされることになりました。ひとつは、「全地の支配者」であるまことの神が「なおもイスラエルの神」でありうるのか、さらにはイスラエルが「なおもまことの神の民」でありうるのか、という問いでした。もうひとつの問いは、依然として、まことの神とは無縁な異邦の国々が存在し続ける現実をどのように受けとめうるのか、という問いでした。
これらの最初の問いに対し、「過去の歴史」を振り返ることにより、「出エジプトの出来事」をまことの神によるこの民の「選び」と理解しました。第二の問いに対し、「将来を展望」し、地上のあらゆる民族が自らまことの神に帰依し、神の都シオンに巡礼する時代を将来に展望する「終末思想」として語りだされました。このような展開は、旧約時代には、地上の「シオンを世界の中心に据える」という点において、「ユダヤ民族中心主義」の限界を超えることはありませんでしたが、イスラエルのみをまことの神の民とみる偏狭な民族主義を相対化する視点を内包するという意味では、「多民族平和主義」へと通じる道を準備していったのでした。
新約の神の民、イスラエルを視野に置く本詩は、まことに福音的な内容の示唆に満ちている詩篇であるといえると思います。イエス・キリストの人格とみわざの光の下で、民族を超えた「普遍性」を重んじる私たちの時代にあって、地上のシオンにこだわる「キリスト教シオニズム」のような運動や教えは古い皮袋のようなものです。ヘブル人への手紙8-10章からも、地上のシオンの歴史は「超越的な意味のシンボル」を担うものであり、影は実体である「イエス・キリストの人格とみわざ」の完成において消え去るものとして扱われています。その意味で、「シオンの詩篇」は、歴史に根差した特殊なものから芽生える、「普遍的なもの」を表現しているのです。
シオンは「歴史の意味」を解き明かす中心であり、神はその意味をイスラエルに「教示」し、イスラエルを「通して」全世界にあらわされたのです。イスラエルの歴史の中で啓示された意味は、イスラエルに限定されたものはありません。「豊かな普遍性」をもつキリスト教信仰は、シオン中心の狭い考え方に偏向しません。神の民に対する神の関わりの全ドラマは、エルサレムにおけるメシヤ、イエス・キリストの人格とみわざに集約されており、この中心的な出来事こそ、「シオン」そのものです。ガラテヤ書4:21-31にあるように、「上にあるエルサレム」、すなわち天的なシオンとは、イエス・キリストの人格とみわざにおいて、神の民が集められる歴史的な中心のことなのです。
今日、「地上の土地、地上のエルサレム、地上の神殿」に奴隷のように縛られ、手かせ、足かせを付けられた信仰が見受けられます。わたしたちは、そのような偏狭で民族主義的な、月明かりのようなキリスト教信仰にあり方に警戒しつつ、本詩にみられるような「民族を超えた、普遍主義的な」、まばゆいばかりに新約の光に照らされたキリスト教信仰の道を歩んでまいりましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2023年1月1日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇86篇「主よ、あなたの道を私に教えてください」-神の小さな奇跡に気づいて、一日一日を大切に-
https://youtu.be/LtIUjeG5nYs
明けましておめでとうございます。今朝は、元旦礼拝であり、今年最初の新年礼拝であります。「一年の計は元旦にあり」と申します。巷では初詣等が行われます。教会では元旦礼拝・新年礼拝等が開催されます。それらは、ひとつの祭りのようであり、年中行事のひとつでもあります。一年のはじめを、だらだらと始めるよりも、昨年を回顧し、新しい一年に思いをはせる機会は「ひとつの大きな恵み」です。それは、一年間だけでなく、年ごとに、「歩んできた人生全体」を振り返り、前半生を顧み、後半生を展望する良い機会です。そのような視点から、今朝の詩篇に傾聴してまいりましょう。
さて、今朝の詩篇86篇は、四つの段落からなっております。この詩では、第一段落で、詩人が自らを[86:1
私は苦しみ貧しい]と表明するものの、その一方で、祈り手が陥った苦難の実情は明らかにはされていません。第二段落でも[86:6
私の祈りに…私の願いの声を…86:7
苦難の日に]と、祈り手が苦しみの中にあることを示しますが、自らの苦しみを語ることがありません。第三段落では[86:13
あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるから]、[86:11
私はあなたの真理のうちを歩みます]と告白します。第四段落では[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]と、傲慢で横暴な者たちによる攻撃を神に嘆き訴えます。
それで全体を見渡しますとき、本詩の特徴は、そのすべての告白、祈り、叫び、訴えの最後に、主への感謝、賛美、ほめたたえが置かれているところにあります。第一段落のダビデの「バテシェバ事件」をも連想させる[86:1
【主】よ、耳を傾けて私に答えてください。私は苦しみ貧しいのです]という告白と祈りは、[86:5
主よ、まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者すべてに恵み豊かであられます]という賛美で結ばれます。第二段落のモーセの「出エジプト」を連想させる[86:7
苦難の日に私はあなたを呼び求めます]という叫びは、[86:10
まことにあなたは大いなる方、奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です]という感謝で結ばれます。
第三段落のヨハネの「この人はどうなるのですか」という混迷のような、[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください]という嘆願は、[86:13
あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです]という、いかなる危険・危機からも救い出してくださる確信へと導かれます。第四段落のイエスの「荒野の誘惑」のような[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]という戦いの最中にあっては、[86:15
あなたはあわれみ深く情け深い神。…恵みとまことに富んでおられます]という告白に導かれます。これらの四種の祈りと賛美の編集は何を意味しているのでしょう。
イスラエルの民の賛美は、「神の業」によって呼び覚まされました。神は、虐げられた奴隷の群れを顧み、奇しくも彼らに「新しい生」の可能性を開かれました。したがって、彼らの賛美は超越的な神の権能に対する畏敬の念に基づくのではなく、むしろ聖なる神は「歴史の真ただ中に姿を現し、虐げられている人々を救った」という福音に基づいているのです。イスラエルの民は、「語り告げるべき独自の物語」をもっているのです。それは、私たちにも言えることです。
わたしたちは、「新約の光で解き明かされた旧約解釈」をわたしたちの人生の中心に包摂して生きる「新約の神の民、神のイスラエル」です。このような恵みの摂取の度合いが、私たちの人生のドラマに深みと味を増し加えてくれます。わたしたちが「キリストにあって」なすの年ごとの回顧は、「神と共なる自らの歴史を映し出す鏡」として、聖書の中を旅する神の民の姿の中に「自らの姿」を発見することにあります。第二段落から連想させられる「小羊の血によるエジプトからの脱出劇」は、主イエス・キリストの代償的刑罰による[86:13
あなたの恵みは私の上に大きく、あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださる]ー罪と死と滅びの実存からの、新天新地への永遠の救いと結びつけられます。これは、わたしたちの「人生の原点」であり、「人生という旅の目標、また終着点」の、希望また告白です。
わたしたちは、その人生の旅路において、第一段落から連想させられる[ダビデの「バテシェバ事件」のような罠や穴]に落ち込むことがあるでしょう。しかし、それで「わたしたちの人生のドラマが汚されてしまった、台無しになってしまった」というわけではありません。キリストにある人生というのは、「七たびを七十倍」するほどに赦され、やり直しのきく人生です。消しゴムがあって、何度でも描き直すことのできる「不思議なノート、キャンバス」のような人生です。失敗しても、挫折しても、何度でも「真っ白なキャンバス」からやり直すがきく人生です。ダビデがその模範です。[ロマ4:7
「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」][イザ1:18
「さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。]何度でもやり直せる。何度でもリセットできる、というのは、なんという幸いな人生でしょう。
わたしたちは、人生において、ペテロがヨハネを見て「この人はどうなのですか」と、奉仕生涯のあり方を比べようとしたとき、イエスは「あなたに何の関りがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。わたしたちは、それぞれに個性と賜物が与えられており、それぞれに人生というドラマが準備されています。あなたは、あなたに用意されている「大河ドラマ」を生きなさい、ということなのです。他人が出演するドラマと自分の出演するドラマを比較しても仕方がありません。神さまはそれぞれの個性と賜物にふさわしいドラマを、それぞれに用意してくださっているのです。ですから、わたしたちは、第三段落にあるように、謙遜になって[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます]と告白して、自分に用意されたドラマを精一杯演じ切ることに致しましょう。
最後に、第四段落[86:14
神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私のいのちを求めます]とありますように、人生は、ある意味でロシアとウクライナにあるように戦場でもあります。イエスさまも、バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、聖霊に満たされた後、荒野でサタンの誘惑に直面されました。信仰者がこの世で、敬虔に生きていこうとするときには、いつも戦いがあります。ある先生が言われました。「なあなあ、まあまあで生きている間は、戦いも葛藤も起こりません。しかし、聖霊に満たされた瞬間、庭先が眠りこけていたサタンが目を覚ます」と。神の臨在に「ガス警報器」のように敏感になるのです。この世の人もそうです。「何か、異なった気配」を察知するのです。しかし、それは証しのチャンスであり、神の栄光のあらわされる機会でもあるのです。
ただ、むやみやたらと、ケンカをする必要はないのです。「鳩のように素直で、蛇のようにさとく」ー言葉や行動、ふるまいに気を配り、主のみ旨にそって調整していくことが大切です。そのように御霊に導かれ、御霊の知恵をもって生きていくときに、神様は不思議な知恵を与え、[86:16
しもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救い]くださることを経験するでしょう。神様は、不思議な奇跡をみせ、[86:17
いつくしみのしるしを行ってください]ます。そのことにより、[私を憎む者どもは見て恥を受け]、神の栄光があらわされます。この新しい一年、あなたはこの詩篇にあるような光景をここかしこで目にすることでしょう。違いがあるとすれば、普遍的な神の介入、奇跡があるかないかの問題ではなく、それに気が付いているか、いないか、だけの違いなのです。
今朝は「一年の計は元旦にあり」の日ですー[86:11
【主】よ、あなたの道を私に教えてください]という謙遜な思いをもって、この一年を導かれてまいりましょう。神の小さな奇跡に気づいて一日、一日を大切に歩んでまいりましょう。祈りましょう。
(参考文献:月本昭男著『詩篇の思想と信仰Ⅳ』、B.W.アンダーソン著『深き淵よりー現代に語りかける詩篇』)
2022年度のICI Diary は、「 2022」にリンクしています。