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2022/08/25
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2021年12月26日 年末感謝礼拝 旧約聖書
詩篇39篇「心は私のうちで熱くなり、うめきとともに、火が燃え上がった」―主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか―
https://youtu.be/U-_cV6o5XYM
(讃美)
歌う旅人
https://www.youtube.com/watch?v=kITOiFs5-9E
夕べ雲やくる 聖歌622番
https://www.youtube.com/watch?v=afqBABLB0VQ
(序)
今朝は、2021年度最後の礼拝です。私たちの教会では、「年末感謝礼拝」ということで、導かれ歩んできた一年を振り返り、その一つひとつの恵みに感謝するひと時を持ちます。社会一般では、「コロナ・ウイルスの変異」に振り回されてきた感があります。一般的にウイルスは「増殖や感染を繰り返す中で少しずつ変異していくものであり、新型コロナウイルスも約2週間で一箇所程度の速度で変異している」とのことです。
さて、私たちは昨年の年末感謝礼拝において、詩篇1篇の傾聴を開始し、約三年間の計画で『詩篇』傾聴シリーズに取り組むことを決断しました。すでに、『ヨブ記』傾聴と『雅歌』傾聴は終了しておりましたので、旧約文学書研究シリーズとして、次に『詩篇』研究に取り組みたかったのです。これらのシリーズ研究におきましては、新しい先生方との出会いがあります。素晴らしい研究書との出会いがあります。「人生は出会いで決まる」と申しますが、本当に「畑の中の宝」「大きな真珠」を発見したかのような喜びがそこにあります。この一年間は、数々の信仰の先輩方の「花園」から「美しい花々」を摘み集める喜びの一年でありました。詩篇41篇で『詩篇
第一巻』が終了します。デジタル版は150篇で一巻ものとして扱う予定ですが、文書版では厚すぎるので五巻に分けて刊行する予定です。では、今朝は、詩篇39篇に傾聴してまいりましょう。
詩[ 39 ] 指揮者エドトンのために。ダビデの賛歌。
(人生を振り返り、一年を振り返る私たち一人ひとりの嘆願の祈りとして)
A. 沈黙の時と心の火が燃え上がる時
39:1
私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。
39:2 私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。
39:3 心は私のうちで熱くなり、うめきとともに、火が燃え上がった。そこで私は自分の舌で言った。
B. 幻のように空しく立ち騒ぐだけの人生と意味と価値のある人生
39:4 【主】よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。
39:5
ご覧ください。あなたは私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では私の一生はないも同然です。人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。セラ
39:6 まことに人は幻のように歩き回り、まことに空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるが、だれのものになるのか知りません。
C.シミ(衣蛾)に食い尽くされる人生と主から発する望みに生きる人生
39:7 主よ、今私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。
39:8 私のすべての背きから、私を助け出してください。私を愚か者のそしりの的としないでください。
39:9 私は黙し、口を開きません。あなたがそうなさったからです。
39:10 どうかあなたのむちを取り去ってください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。
39:11
あなたは不義を責めて、人を懲らしめ、シミ(衣蛾)が食うように人の欲するものをなくされます。実に人はみな空しいものです。セラ
D.去っていなくなる前に、朗らかになれるように
39:12
【主】よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに、耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように、寄留の者なのです。
39:13 私を見つめないでください。私が朗らかになれるようにしてください。私が去っていなくなる前に。
(傾聴)
最初にも申し上げましたが、この一年というものは、素晴らしい出会いのあった一年でありました。私のように「神学研究者」として生涯をささげている者は、絶えず「良き師」との出会い、そして「良き著作」との出会いを探し求めているものなのです。その感動の出会いの最右翼は、W.ブルッゲマンとの出会いであり、彼の著作シリーズであり、特に『詩篇を祈る』は、私にとって宝石のように価値ある著作でありました。この本を通して、さらに『詩篇』研究の深みへと導かれていきました。そこにはブルッゲマン先生の神学校に、どこか「新入生の神学生」のように期待に心震わせて学び続ける私の姿がありました。67歳となった今もまた、そのようなスピリットをもって学び続けることのできる幸いを主に感謝した次第です。
このように、ブルッゲマンを紹介しますのは、今朝の詩篇39篇傾聴と深い関係があるからです。ブルッゲマンは、その著書で「詩篇の言語と機能」について注目しており、また、「ユダヤ人の詩篇の普遍的本質」に注目しています。この注目点は、私がライフワークとして取り組んでいる「聖書とは何なのか」また「聖書のユダヤ性とは何なのか」探求と重なるものでもあります。ブルッゲマンが言うように、「より情熱的に詩篇を読む」「詩篇の詩歌が持つ圧倒的な力に触れる」「詩篇の言語が本来意図したであろうような、想像的で自由な働きを認めたならば、詩篇がどれほど自由になるか、そしてわたしたちがどれほど感動的かつ信仰的に詩篇を用いることができるようになるか」ということに視点を置いて、この詩篇39篇を傾聴してまいりましょう。
ブルッゲマンの勧めにしたがって、私は「私のもつ人生の文脈、またライフワークの文脈」においてこの詩篇を傾聴したいと思います。V.1-3では、「気をつけよう」「黙っていた。良いことにさえ沈黙した」とあります。私は、今から30年前に宇田進所長のおられた共立基督教研究所に内地留学させていただきました。そして、そこで惜しみなく神学の薫陶を受けました。そのひとつとして、最近諸教会で問題となっている「聖書塾」「聖書フォーラム」において教えられているディスペンセーション主義の聖書解釈法の問題を教えられました。福音派の重鎮である宇田師は「ディスペンセーション主義とは、特異な聖書解釈法のことである。そしてこの聖書解釈法は福音派の健全な聖書解釈法の内側にはない」と教えられました。それ以来、この問題は、私の「ライフワーク」のひとつとなりました。それは、私の所属団体、所属聖書学校も同じ問題を内包していたからです。
ある親切な先生は、「この問題はあまりにも深く関係教会、関係団体に巣くっているので、扱わない方が身の安全のために良いのではないか」というようなアドバイスをしてくださいました。私も、そのような情況をよく理解していましたが、「では、一体だれが、いつ、どのように、この根深い問題、誤りの克服に取り組むのですか?」と問いかけました。そして、「おそらく、私以外のだれも、“根深い問題、深刻な誤り”の克服に取り組む人はいないし、今後も出てこないでしょう」「その場合、私たちの団体、私たちの聖書学校は未来永劫、“この誤った教えや運動”から救われないことになるのではないでしょうか」と逆に問いかけさせていただきました。「私は、もしかしたら、“大きな火傷”を負うことになるかもしれませんが、これは所属団体と所属聖書学校を“誤り”から救い出し、健全な福音理解へと導くため、主から私に与えられた使命なのです」とお答えしました。そして、問題の複雑さ、根深さのゆえ、静かに、慎重に、この問題の時間をかけての克服に取り組んでいきました。しかし、2010年に、東京と大阪と沖縄で、あるテレビ伝道者の方が「大々的に、ディスペンセーション主義とキリスト教シオニズムの教えと運動」の集会を開催され始めた時、「v.2
沈黙」していた私の心の「v.2-3 痛みは激しくなり、熱くなり」火が燃え上りました。
第二パートのv.4-6は、私たちに与えられた「時間」の問題です。「39:4
【主】よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。」は、私には共立基督教研究所への内地留学を決意させた「バイク事故」を思い起こさせます。将来の留学の準備をしつつ、「先送り」を繰り返していた私は、ミニバイクに乗っていた時に、大型バイクに側面からぶつかられ、道路に跳ね飛ばされ、ヘルメットもメガネもひび割れ、右足打撲で救急車で運ばれました。そのときに、「私はいつ召されるかもしれない。先送りせずに、神学研修の内地留学に進むべきなのだ」と自覚させられたのです。手もとに十分なお金があったわけではありません。ただ、信仰によって、「先送りせずに、今進むべきなのだ」と決意し、役員会でその旨をお伝えしました。
30歳半ばで、新進気鋭の教職者でありました私は、「39:7
主よ、今私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」と主のみを頼りに、新しい一歩を踏み出しました。そして、一年の計画が、不思議に守られ、導かれて三年間もほぼ希望のすべてが満たされるかたちで神学の研鑽の時を終えました。そして、これもまた不思議な導きで、郷里へと帰り、働きながらの「神学教師」として「一宮基督教研究所」でささやかな働きを展開させていただいています。今、この働きには、多くの視聴者が与えられ、訳書・著書・ビデオ・FB・YT等を通して傾聴してくださっています。しかし、同時に多くの霊的・神学的戦いをも抱えています。多くの誤った教えや運動に、諸教会・諸団体が巻き込まれているからです。
私は、そのようなただ中に、主にあって生かされています。神さまの創造された世界において、私が「私の生」においてなすべき奉仕があると確信しています。ただ、それらはすべてが受け入れられ、歓迎され、誤った教えや運動から人々が解放されるとは限らないことをも教えられてきました。私たちが健全化の取り組みをしようとするときに「古い皮袋に新しいブドウ酒を注ぎ込む」時のように発酵現象が起こり、V.8-11「そしりの的」「むち」「手」で懲らしめられ、「シミ(衣蛾)が食う」ように扱われたりもします。
それゆえ、私は祈ります。「39:12
【主】よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに、耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。」と。私たちは、主とともに旅する「旅人」であり、「寄留の者」です。私たちは、この地上で何かを得ようとか、何かを蓄えようとは思いません。詩篇90篇にありますように、主が私たちになすべきことを教え、導き、私たちのわざを「主の御心に」かなった確かなものとしてくださいますように、主にあって戦いと試みの中にあっても、「私が朗らかになれるようにしてください」と祈るだけです。では、お祈りしましょう。
2021年12月19日 詩篇38篇「主よ、あなたの激しい怒りで、私を責めないでください」
ー マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのですー
https://youtu.be/d6yiGm5UMYM
(讃美)
飼いばおけにすやすやとー讃美歌21:269
https://www.youtube.com/watch?v=aJ61wiR9U8k
きよしこの夜ー讃美歌21:264
https://www.youtube.com/watch?v=UYUvo-uXs7c
(序)
今週はクリスマスの週であり、今朝はひと足早い「クリスマス礼拝」の日です。私たちは『詩篇』傾聴シリーズということで、詩篇38篇をクリスマスと関係づけ、クリスマスを祝おうとしています。私たちは、どのようにしてクリスマスの出来事と詩篇38篇を結びつけることができるでしょうか。そのヒントを数多くの「詩篇研究書」の洞窟の中を一週間探し続け、羊飼いたちのように(ルカ2:8-16)、博士たちのように(マタイ2:7-11)、ついに発見しました。
左近淑著『詩篇研究』の詩篇38篇の「むすび」に、以下の言葉がありました。詩篇38篇は、詩篇の中の「七つの悔い改めの詩篇」のひとつです。この詩は22の節で構成されており、ヘブル文字のアルファベットと同数です。このスタイルは、「悲しみを特徴づける文学的技巧」のひとつと言われ、「エレミヤ哀歌」の場合、それは明らかです。「哀歌」と呼んでいる.ギリシヤ語訳旧約聖書(70人訳)の序文には,「イスラエルが捕囚となり,エルサレムが荒廃して後,エレミヤは座して泣き,エルサレムのために哀歌を歌って言った」とあります。そこから古代訳では「エレミヤの哀歌」または「預言者エレミヤの哀歌」という書名が付けられるようになりました。
哀歌の詩文体は挽歌の韻律を持ち,更にヘブル語アルファベットとの絡みで特別な技巧が凝らされています。すなわち,哀歌1,2章は,3行で1つの連が構成され、これが1つの節になっています。各連の最初の行の初めの文字がヘブル語アルファベット22文字の順になっています。哀歌3章は更に技巧が凝らされ,各連が3行から成り,3行とも同じヘブル語アルファベット文字で始まります.4章は,1連が3行ではなく2行となっており,その1行目の頭文字がアルファベット順に並べられています。5章には,このような技巧は見られませんが,全部で22節から成り,アルファベットの数22が意識されています。
この詩篇38篇は、22節からなる「哀しみの詩篇」です。この詩篇38篇の「しもべ」は、神の怒りの下に立ち(v.2-3
)、まことに悲惨な病と痛みをなめつくし(v.4-11 )、痛みつけられる生のきびしさを味わいつくし(v.12-13
)、しかもなお、彼は黙々と忍耐し、徹底的に神にゆだねて、これにすべてをかけようとします(v.14-17, 22-23
)。私は、最近、クロード・ランズマン著『ショアー』という本を読んでいます。「ユダヤ人絶滅収容所」を生き延びた人々等の証言を集めた本です。わたしは、この証言集の中に生きてきた人たちの心情は、この詩篇38篇によくあらわされているように思いました。
そして、この詩篇は、イザヤ53章の「苦難のしもべ」の歌とも重なりますし、ひいては私たち全人類の罪の総計を引き受け「罪そのもの」となり、カルバリの十字架上で「身代わりの刑罰」を受けてくださった御子イエス・キリストの姿とも重なります。それゆえに、この「哀しみの詩篇」を私たちが私たち自身の「哀しみ」とともに味わうとき、主イエスが私たちの「あらゆる哀しみ」を引き受けてくださっているのだということを確信しうるのです。今朝は、「マリアは男の子を産みます。その名をイエス(主は救い、という意味)とつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」という降誕の意味を、そのような視点から学ぶことにいたしましょう。
(聖書)
詩[ 38 ]ー(悲しみの詩篇)
<38> 記念のためのダビデの賛歌。
A. 神の怒りの下に立ち
38:1 【主】よ、あなたの激しい怒りで、私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで、私を懲らしめないでください。
38:2 あなたの矢が私に突き刺さり、御手が私に激しく下りました。
B. 悲惨な病と痛みをなめつくし
38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ、私の骨には健全なところがありません。
38:4 私の咎が、頭を越えるほどになり、重荷となって担いきれません。
38:5 私の傷は、悪臭を放って腐り果てました。それは、私の愚かさのためです。
38:6 私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中嘆いて歩き回ります。
38:7 私の腰は火傷でおおい尽くされ、私の肉にはどこにも完全なところがありません。
38:8 私は衰え果て、砕き尽くされ、心もだえてほえ叫んでいます。
38:9 主よ、私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたに隠れてはいません。
38:10 私の胸は激しく鼓動し、私の力は私を見捨て、目の光さえも私から失せてしまいました。
C. 人に捨てられる孤独とつらさ、生のきびしさを味わい尽くし
38:11 愛する者や私の友も私の病を避けて立ち、近親の者でさえ遠く離れて立っています。
38:12 私のいのちを求める者は罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は私の破滅を告げ、絶えず欺くことを語っています。
D. 黙々と忍耐し、徹底的に神にゆだね、すべてをかける
38:13 しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。
38:14 まるで私は耳が聞こえず口で争わない人のようです。
38:15 まことに【主】よ、あなたを私は待ち望んでいます。わが神主よ、あなたが私に答えてくださいます。
38:16 私は思いました。彼らが私のことで喜ぶのではないか。私の足がよろけるとき、私に対して高ぶるのではないかと。
38:17 私はつまずき倒れそうで、痛みが絶えずともにあります。
38:18 私は自分の咎を言い表します。自分の罪で不安なのです。
38:19 私の敵は活気に満ちて強く、私を憎む偽り者が多くいます。
38:20 悪をもって善に報いる者どもは、私が善を追い求めると私をなじります。
38:21 【主】よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠く離れないでください。
38:22 急いで私を助けてください。主よ私の救いよ。
(傾聴)
私たちは、この詩篇38篇を「哀しみの詩篇」として傾聴しています。私たちが見ますのは、「真の神を信じ、誠実に生きて来たはずなのに、大小の未曽有の苦しみ、悲惨にまみえている」信仰者の姿です。そのようなとき、私たち信仰者の叫びは、「38:1
【主】よ、あなたの激しい怒りで、私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで、私を懲らしめないでください」というものであったり、「38:2
あなたの矢が私に突き刺さり、御手が私に激しく下りました」であったりもします。そして、その神の「 38:3
憤り」が、わたしを「B. 悲惨な病と痛みでなめつくし」「38:3
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ、私の骨には健全なところがありません」と、その原因は「私の罪」のゆえではないかと不安にさせたりもするのです。
これは、因果応報の信仰というよりも、全知全能で、すべての事を知り尽くし、摂理の御手をもって統治・支配される神への信仰にゆえに起こりうる経験なのです。「すべての事柄をご存じの神が、全ての事を支配されている中で病、障害、事故、災難等が起こっている。そのことを神が許容しておられる。それはなぜなのか。」というヨブ記で信仰者ヨブが発している問いと重なるものです。そのような中で、信仰者に起きる疑問とは、「もしかしたら、このような罰にふさわしい罪を私は知らないところで犯してしまったのか?」なのです。「38:4
私の咎が、頭を越えるほどになり、重荷となって担いきれません。38:5
私の傷は、悪臭を放って腐り果てました。それは、私の愚かさのためです。38:6
私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中嘆いて歩き回ります。38:7
私の腰は火傷でおおい尽くされ、私の肉にはどこにも完全なところがありません。38:8
私は衰え果て、砕き尽くされ、心もだえてほえ叫んでいます」と。「咎、傷、愚かさ、火傷」と「重荷、悪臭、腐れ、うなだれ、嘆き、衰え、もだえ」が「原因」と「結果」の関係の中で、“比例関係”にあるのではないかとの暗中模索の中に置かれてしまうのです。病や障害、事故や災害が先行し、因果応報的に考え、信仰心はみずからの「罪」の故ではないかと責め、身体はますますボロ着のように痛み、弱り朽ち果てていく“悪循環”の中に陥る危険があるのです。
しかし、この信仰者は「38:10
私の胸は激しく鼓動し、私の力は私を見捨て、目の光さえも私から失せてしまいました」と絶望的状態のそのままを正直に申し上げます。「38:9
主よ、私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたに隠れてはいません」と叫びます。主に向かって嘆き、叫ぶことが彼に可能な唯一のことであるからです。私たちも、何らかの理由で、苦しい時、哀しい時、悩みの中にある時、同様にそのまま、絶望的嘆き、叫びをあげることができるのです。先日も、ある病院で、可燃性の液体がまかれ、20数人の人がまきぞえでなくなりました。なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。全知全能で摂理の神がおられるというのに。私たち信仰者は、日々瞬々、全世界からニュースを受け取るごとに、そのような信仰問答を心の内で繰り返しています。「神さま、なぜ?」「神さま、なぜ?」と。しかし、神様は、まるでヨブ記のヨブに対するように、沈黙され、即答されることはまずありません。ただ、私たちにできることは、声を上げることです。嘆きの声、うめきのさけびを。そして、信仰問答のように、問い続けることです。答えは、いつの日か与えられることでしょう。ヨブが主に直接まみえた時に、「ヘセド“恵み”の神」に出会った時に、疑問が氷解したように、「ヘセド“恵み”の神」の臨在は、私たちにとって重要な手がかりです。
後半では、「C.
人に捨てられる孤独とつらさ、生のきびしさを味わい尽くす」信仰者の姿があります。「弱り目に祟り目」と申します。「弱り目」とは”弱っている状態”や”困っている状態”を、「祟り目」とは”祟りにあうこと・災難にあうこと”をそれぞれ意味しています。よくないことが起こっている状態に、別のよくないことまで重なって起こることから「不幸なことが重なる」の意味として使います。人は、見える祝福や繁栄のある人の所に集まってきます。人生の成功者の下には、蜂が蜜に集まるかのように「友人」や「親戚」が’わんさか’集まります。しかし、不幸が起こり、その人に周囲の人の助けが一番必要な時に、あたかも「引き潮」のように赤の他人となってしまうのが世の常です。「38:11
愛する者や私の友も私の病を避けて立ち、近親の者でさえ遠く離れて立っています」とある通りです。
さらに、悪質な人々は、弱っている人を助けようとか、困っている人に援助に手を伸べようとするのではなく、「38:12
私のいのちを求める者は罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は私の破滅を告げ、絶えず欺くことを語っています」と、さらに「足をひっぱってやろう」と悪だくみをはかることに余念がありません。卒業式にもらった『ことわざ小辞典』には、「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない」という言葉があります。私は、「涙の数だけ、悲しみの数だけ」我らの主イエスの涙と哀しみ、そして慈愛の深さに触れることができるのではないか、と教えられます。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:4)とある通りです。この詩篇の記者は、
「C.
人に捨てられる孤独とつらさ、生のきびしさを味わい尽くした」信仰者でありました。そして、私たちがそのような人生を生きる時に、“助け”となるようにこの詩篇を編んだのです。ですから、この詩篇は、あなた、わたしが「人生の涙」とともに詠うときに、その力を発揮するのです。
第四パートは、「D. 黙々と忍耐し、徹底的に神にゆだね、すべてをかける」信仰者の姿です。「38:13
しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。38:14
まるで私は耳が聞こえず口で争わない人のようです。」とある言葉は、どこか聞き覚えのある言葉ではないでしょうか。そうです。これはイザヤ53章の「苦難のしもべ」の歌にある言葉です。新約の記者たちは、このイザヤ53章の「苦難のしもべ」の扱いにおいて、「キリストの苦難」、特に十字架上のキリストの苦難に焦点を当てています。そして同時に、クリスチャンの苦難にも深い関心を寄せています。この十字架上の苦しみの深さは今をもってしても、また永遠に解明されることはないでしょう。イエスは、①「罪のないお方」(Ⅰペテロ2:22)でありましたが、裁判の席でも「黙っておられ」(マタイ26:63)、「自分からいのちを捨て」(ヨハネ10:18)、②「顔につばきをかけ」られ、「平手で」打たれた(マタイ26:67)。③しかしこのことは御父の「みこころ」(マタイ26:39)であり、④この十字架は、「わたしたちの代わりに罪とされた」身代わりの犠牲でありました。
Ⅱコリ5:21には、
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」私たち、人類すべての罪の身代わりとなられ、私たちが罪を赦される代わりに、御子イエス・キリストは、父なる神の目からは「罪そのものと見られ、扱われ、十字架上で断罪された」ということです。私は、御子イエス・キリストの全存在、心身ともに、「全人類の罪の総計」と見られ、断罪された時の、「御子の置かれた心情、心身の状態」というものを表現しているひとつが、この詩篇32篇ではないかと思うのです。私たちの罪の総計の身代わりとして、断罪された時の、「御子イエス・キリスト」の心情、心身の状態をより深く理解する上で詩篇38篇は有益と思います。
また、私たち自身の悩み、苦しみ、罪意識、苦難等のただ中で祈り、叫ぶ“管”としても有益です。キリストの苦難が、いわば「大海のすべての海水を飲み干された」ほどの苦しみとしますと、私たちの苦難は「小さなスプーン一杯、あるいは大さじ一杯のスプーン」の苦しみといえるのかもしれません。ただ、質的には、同じく「苦く、辛い」ものであるでしょうが‥。クリスマス、それは、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とお告げから始まりました。クリスマスーそれは、「詩篇38篇に記されているような苦しみ」を自ら背負うために、天上から、すべてのものを捨てて来てくださった御子イエス・キリストの降誕の日です。その意味で、クリスマス礼拝の日に、「まぶねの中にお生まれになった御子イエス・キリスト」の「悲しみの詩篇38篇」に思いをひそめ、「私たちが直面し、経験するすべての哀しみ」と重ね合わせ、味わい深く唱和することには意味があると思います。お祈りしましょう。
2021年12月18日 【良書紹介】仲井隆典著『輝かしき希望―ディスペンセーション主義終末論の克服―』1500円(アマゾン書店ペーパーバック版)
*
メリークリスマス!
ルカ1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
このクリスマスに、「おめでとう」「今日」という二つの言葉をもって「良き知らせ」をお届けします。それは、アマゾン書店のキンドル本電子版のロングセラーとして人気を博してきました、仲井隆典著『ディスペンセーション主義』に、仲井先生の関連説教を増補した文書版(ペーパーバック)が刊行されました。本日注文されますと、明日には届くとのことです。
https://www.amazon.co.jp/dp/B09NR9NTBR/ref=sr_1_1?qid=1639803415&s=books&sr=1-1&text=%E4%BB%B2%E4%BA%95%E9%9A%86%E5%85%B8
仲井隆典先生の論文に説教を増補した改訂版著作は、『輝かしき希望―ディスペンセーション主義終末論の克服―』1500円です。電子版に比べ、若干高めですが、これは、
アマゾン書店の経費が1400円ほどかかっているためです。この本は、アマゾン書店が一冊ずつ「注文生産・販売・送付」し、全世界で販売してくれるものです。
大変分かりやすい内容となっています。最近話題となっている「聖書フォーラム」を通して「既存の教会からの信徒流出」問題に対しても、“有効な治療薬”として期待できるものです。
そのような心配、悩み、不安の中にある方々に、ぜひこの良書をクリスマスプレゼントしてあげてください。
この良書を心よりお勧めします。
一宮基督教研究所: 安黒務
2021年12月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇37篇「その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ」ー悪しき者とその結末、正しい人とその結末ー
https://youtu.be/p2LBGc01LeY
(讃美)
ほめうた歌えー讃美歌21:182
https://www.youtube.com/watch?v=62ZI3tMCEYw
おさなご 主イエスよー讃美歌21:249
https://www.youtube.com/watch?v=UywGC_TV26Q
(序)
今週は、アドベント第三週です。詩篇は、信仰者に対する教育や霊的生活の糧として使用されることにも留意されています。詩篇が礼拝だけでなく、教育にも用いられるよう最終的に編纂されたのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚から帰還後の時代でありました。この詩篇が編集されたであろう時期には、神殿のないバビロン捕囚期の礼拝状況により、イスラエルの共同体の中で、新しい集会の形式が必要とされるようになり、それはやがてシナゴーグ(会堂)として知られる集会へと発展していこうとしていました。
このような祈りと教えの場は、エルサレムに神殿が再建された後でさえ、ますます人々の生活の中心となっていきました。多くの詩篇は、神殿の祭儀という本来の場から切り離され、単に「霊的な詩歌」として読まれるようになり、それらの詩篇は、神に対する信頼の表明、トーラーを学ぶ喜びの表現、人生の諸問題に関する「知恵」の黙想などです。この会堂における礼拝という新しい形態は、初期キリスト教の共同体に深い影響を及ぼしました。彼らもまた「メシヤ的な栄光に至る正しい道」に注目していたからです。このような歴史的背景また文脈を覚えるとき、「メシヤ的な栄光に至る正しい道を照らす知恵の詩篇」を「栄光のメシヤ来訪を待ち望むアドベント」に開くことには意味があると思います。
今朝傾聴する詩篇37篇は、それらの中のひとつの「知恵の詩篇」と呼ばれている詩篇で、各段落の最初のヘブル文字が、アルファベット順で記されているアルファベット詩篇、イロハ歌です。この教訓詩「知恵の詩篇」は義人と悪人の対比が繰り返されるかたちで訓戒が述べられています。この訓戒を理解しやすくするために、義人と悪人の対比をそれぞれをまとめて読んでいくことにいたしましょう。
(詩篇37篇の分類編集版)
では、詩篇37篇の分類編集版をご一緒に唱和してまいりましょう。
(中略)
A. 悪しき者
B.悪しき者の結末
C. 正しい人
D. 正しい人の結末
(メッセージ)
この詩篇は「悪しき者の繁栄」と「正しい人の苦しみ」いう問題を扱っています。これはヨブ記においてみられるテーマです。ここに、聖書の信仰が、単なるご利益宗教や安易な成功哲学ではなく、リアルな現実に即した信仰である、バランスのとれた信仰であることを教えられます。全知全能で、万物を創造された神は、聖いお方であり、義なるお方です。この神は、この宇宙の創造主であられるだけでなく、そのみ旨に沿ってこの宇宙を統治し、歴史を導かれる方です。正しき人を祝福し、悪しき者を裁かれるお方です。このような神観の下に綴られる「知恵の詩篇」や「箴言の知恵」は、時に“深刻な葛藤”を信仰者の内面に引き起こします。
それは、主を畏れ、み旨に沿って生きる者に“祝福された人生”を約束しているにも関わらず、神を畏れる者に「痛ましい不幸」がたびたび訪れ、神に心を留めぬ「不信のやからが富栄え」るという現実を突きつけるからです。この詩篇は、このような現実に正しく反応する道筋を照らす詩篇なのです。「37:25
若かったころも、年老いた今も、私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを」は、「余りにも単純・素朴な信仰である」として議論となりうる聖句です。ある学者は、「この詩篇の作者は、特別な温室のような環境、人生を生きていたのだろうか」と。「現実世界が見えていない“架空の世界”の詩」のようだと批判しています。周辺の大国のはざまで、常に国家存亡の危機の中に生きていたイスラエルの民の言葉とは思えない、ある意味“幻想”めいた言葉です。20世紀でも、ナチスのガス室で600万人が殺戮されたり、多くの人がスラム街で生きることを余儀なくされている世界、世界各地には難民で溢れかえっています。この世界で、私たちは「詩篇37篇」から何を傾聴しうるのかーこれが問われているのです。私たちも、サイズは異なりますが、「祝福を約束された人生」の中で「数々の小さな悲惨」と直面してはいないでしょうか。もし幾つかでもそのような経験がありましたら、この詩篇は、あなたにとって意味あるものとなります。
最近私たちの身近でも、ある有名大学の悪徳理事長が逮捕されるという事件がありました。権力を手に入れた理事長は、マフィアのボスのように、自分に司直の手が及ばないようにして、不正な富を蓄え、これまで逮捕の手を逃れてきていましたが、ついに逮捕されました。程度差はあれ、このような事例に溢れているのが現実世界です。正しい人と悪しき者の対比は、このテキストの中心であり、この詩篇は「悪人が人生でうまくいっている」ように見える世界に生きる信仰者の瞑想的な取り組みです。この詩篇は信仰者の前に「あなたは悪しき人の生き方が繁栄の近道である時、その道を選びますか?
あるいは失望・挫折・困難な道筋を伴うかもしれない主のみ旨にかなう回り道を選び、主なる神の摂理を忍耐をもって待ち望みますか?
」という質問をしています。私たちは、この問いに慎重に取り組む必要があります。詩篇は、現実の普遍的な構造・秩序・法則を明らかにし、安易な「成功的人生」の理論を提示しようとしているわけではないからです。そうではなく、悪しき者が繁栄しているように見えるーこの世界の現実を直視し、困難や諸問題のただ中で主の摂理を信じ、忍耐して待ち望みつつどう生きていくのかという、ある意味非常に地道な、しかし真にパワフルな「実用的な訓戒」なのです。
この詩篇は長いので今日は詳細に取り扱うことはできません。1-11節では、神の摂理の信仰にたって、「悪しき者」の繁栄・成功に「腹を立てるな」「ねたみを起こすな」と繰り返します。この詩は、読者に神の摂理を信頼し、忠実に生きることを繰り返し呼びかけ、その中で霊的に健康に人生を生きるよう励まします。悪人が繁栄しているという感覚は、信仰者である私たちを脅かすものではありません。悪の敵の成功は信仰者である私たちに不安や敵意をもたらすものではありません。なぜなら、詩篇は「悪しき者の繁栄」は、「草のようにしおれ、青草のように枯れる」一過性であるということを知っているからです。それらの偽りの繁栄・みせかけの成功は干ばつに見舞われた草のように消えていくことを確信しているからです。36:9
いのちの泉に導かれ、主の光のうちに光を見て、「5節 主のみ旨にそって生き、その結末を摂理の御手に委ねる」私たちは、「6節
私たちの義が、私たちの正しさが、光のように、真昼のように輝かされる」ことを知っているからです。それゆえ、邪悪な相手の明らかな成功への執着は非生産的であり、私たちを弱らせる危険があります。それゆえ、詩篇記者は、「怒りを控えよ」、「怒りを捨てよ」と繰り返しているのです。
詩12-20では、詩篇は人生についての観察に移動します。12-15節は,義人に対して計画を立てる邪悪な人々の愚かな試みに対し、「v.13
神は笑っておられる」と描写しています。さらには、「v.15
邪悪な人の悪はブーメラン効果の一種で自分の頭の上に振り掛かる」と申します。18節と19節も20節と対照的です。おそらくこれらの節は、悪人が権力を握り、義人がその現実と闘う詩篇の背後にある社会的文脈を示唆しています。「14節
剣を抜き、弓を引いた」のハンターとして、そして「12節
歯をむき出す」の獣として邪悪な人を描いた詩的なイメージは豊かです。悪人の滅亡は,「15節,17節 へし折られる」,「20節
滅びる、消え失せる」という言葉で述べられています。
21-29節は義人と悪人の生活とその結果を特徴づけています。義人は神の恵みによって始められた関係から生き、それによって恵み深く、物惜しみせず地域社会に貢献しています。彼らは奪い取る者ではなく施す者です。主は、正しい人生の道を楽しませ、そのような人々と手を組んで歩んでくださいます。しかし、万事がうまく運ぶということではありません。「義人でもつまずく」ということに気づくことが重要です。詩篇の注意深く置かれた視点は23-24節「その人は転んでも倒れ伏すことはない。【主】がその人の腕を支えておられるからだ」で明らかになります。主とともに歩む人生において、義にかなったつまずきが存在するということを知っておくことは大切です。そして、「私たちはつまずいても、主が手で私たちを握ってくださる」ということ、「ころんでも頭からまっさかさまで落ちることはない」ということを知っておくことは大切です。
一部の人々は、詩篇37を世間知らずまたは誤解を招く人生を描写していると否定的な評価をくだすかもしれません。しかし、丁寧な解釈を施しますときに、この詩の内容はより微妙で深い内容を保有していることを示唆しています。詩篇は、人が人生を観察し、邪悪な成功を目の当たりにすることを認めます。この人生に対する正直な見解は厄介で複雑な問いを信仰者にもたらすこと、そして聖書がすべての問いに答えを提供しているわけではないことを認めることも大切です。同時に、この詩篇37篇は、人生経験に基づいて、神が信頼できるとの信仰を表明しています。神の創造された世界で、神のみ旨にかなった生き方をすることの大切さー「37:6
主はあなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる」、そして「37:28a
まことに【主】は義を愛し、主にある敬虔な人をお見捨てにならない」という神の忠実さへの信仰は、この瞑想の中心です。詩篇は「物事がすべて順調に進行する。
追い風を帆いっぱいに受けて、船が軽快に進む」順風満帆の勝利の調子で終えていませんが、長い視野での神への信頼を粘り強く保持することの大切さを強調し、私たちを励ましています。このような粘り強い励ましに今週も生かされてまいりましょう。祈りましょう。
2021年12月5日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇36篇「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに私たちは光を見る」ー死の陰の世界で、光輝く人生の希求ー
https://youtu.be/0jubmaTWaqI
(讃美)
エッサイの根よりー讃美歌21:248
https://www.youtube.com/watch?v=m8E58VBWGW4
ヨセフのいいなずけー讃美歌21:190
https://www.youtube.com/watch?v=pXKgOQEehQE
(序)
先週は、アドベント第一週でした。アドベントとは主の来臨を待ち望む備えの期間のことであり、詩篇もまた「主の待ち望み」のスピリットで満ちていることを学びました。今週は、アドベント第二週です。イザヤ9:1-2によれば、「9:1
しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。…9:2
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」とあります。アドベントとは、太陽が昇る前の「暗闇」の時間帯といえるでしょう。キリストの初臨すなわち降誕は「日の出」、キリストの再臨は「中天、真昼の太陽」といえるかもしれません。今朝傾聴する「詩篇36篇」は、前半に「闇の時間帯」、後半に「光の降り注ぎ」、そして結びに「それを待ち望む祈り」があります。
では、「闇と光」の詩篇36篇をご一緒に唱和してまいりましょう。
詩[ 36 ] 指揮者のために。【主】のしもべ、ダビデによる。
A. 闇の中を歩む者ー神への畏れのない人生の悲惨
36:1 私の心の奥にまで、悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には、神に対する恐れがない。
36:2 彼は自分の判断で自分を偽り、自分の咎を見つけてそれを憎む。
36:3 彼の口のことばは、不法と欺き。思慮深くあろうともせず、善を行おうともしない。
36:4 彼は寝床で不法を謀り、良くない道に堅く立ち、悪を捨てようとしない。
B.大きな光の発見ー神への畏れある人生の至福
36:5 【主】よ、あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。
36:6 あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。【主】よ、あなたは人や獣を救ってくださいます。
36:7 神よ、あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。
36:8 彼らはあなたの家の豊かさに満たされ、あなたは楽しみの流れで潤してくださいます。
36:9 いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに私たちは光を見るからです。
C. 死の陰の世界で、光が輝く人生への希求ー重複する二つの世界のはざまでの嘆願の祈り
36:10 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。
36:11 高ぶりの足が私に追いつかず、悪しき者の手が私を追いやることのないように。
36:12 そこでは不法を行う者は倒れ、突き倒されて立ち上がれません。
(メッセージ)
詩篇の作者は、冒頭の節で悪しき者の「背きのことば」が「心の奥にまで」響くと嘆いています。私たちは、この世界がそのような傾向で満ちていると感じているのではないでしょうか。毎日のニュースには、「悪しき出来事」が溢れています。私たちは、
朝ごと、夕ごと、ひねもす「私の心の奥にまで」痛みが走っていないでしょうか。その悪の根源はどこにあるのでしょう。「彼の目の前には、神に対する恐れがない」とあります。聖書は、悪の根源を「神に対する恐れがない」生き方にあると指摘します。
「神への畏れ」がないとき、人は神のみこころを眼中に置くことなく、「自分の判断」で「自分の価値観」で、都合よく善悪を判断するようになります。その結果、「v.3
口のことば」は自己中心で「不法と欺き」に満ちたものとなっていきます。起きている時だけでなく、「v.4
寝ている間も」四六時中、「自己中心」に「不法」をはかり、「良くない道」を選び取り、「悪」に傾き、それにしがみつく人生を送ることになります。これは、「独裁者」に見られる傾向です。国家の指導者にも、大学の責任者にも、チームの監督、会社の上司、地域の責任者、家庭にもみられる傾向です。そして、何よりも私たち自身の存在、人生において「神への畏れ」が希薄となり、「自身」が神をさしおいて、自らの存在と人生において「独裁者」の座に座する危険があります。聖書には、そのような「神への畏れ」なしの人生の悲惨とそれと対照的な「神への畏れ」ある人生の至福が記されています。
神への畏れなしの人生は「闇」です。神への畏れある人生は「光」です。1-4節には「闇」の人生が記されています。5節では急転直下、「主よ!」という叫びから始まります。ダマスコ途上で「天からの光」照らされ、「主よ!」と叫んだサウロのようです。「闇の中を歩んでいた」「死の陰の地に住んでいた」ーまだ救われていなかった私たちが、はじめて「主」にお出会いした「その日」「その瞬間」のようです。わたしたちの上に、はじめて「光」が輝いた日のようにです。[36:5
【主】よ、あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。36:6a
あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。]と、私たちの主がいかなるお方であるのかが明らかにされています。この世界は、不公平や不条理に満ちていますが、このお方は、恵み深いお方であり、真実なるお方です。正しい義なるお方であり、正しい裁きを行ってくださる方です。そしてこのお方は、「6c
人や獣を救ってくださいます」と、創造の神であるだけでなく、救いの神、贖いの神であられます。
7-9節をみますと、「御翼の陰」と「あなたの家」と記されています。これは、エルサレムにありました神殿を指しています。エルサレム神殿の荘厳さは、
「36:8
彼らはあなたの家の豊かさに満たされ」とあるように明らかなものです。それは神の民に共有されてきた経験でありました。「8b
楽しみの流れで潤し」は、エデンの園の「2:10
一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた」と関連があり、神の創造された世界にある喜び、楽しみ、至福を物語るものです。創造世界の絵画的イメージは、9節の「光」と「噴泉」でさらに強調されています。
それらのイメージは、エルサレム神殿において創造主が与えられるいのちと関係しています。そのいのちは、1-4節の死を結実させる悪と深いところで対照されています。このことは、「ヨハネ1:5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とあるのと同様、5-9節の「主の光」は、1-4節「この世界の闇」を贖い、拭い去ると確信させるのに十分なものです。この「主の慈しみ深い善性」に対する深い信頼は、10-12節の嘆願の祈りの基礎をなしています。あなたの「恵み(ヘブル語で、ヘセド)」は、「36:5
【主】よ、あなたの恵みは天にあり」,「36:7 神よ、あなたの恵みはなんと尊いことでしょう」,「36:10
注いでください。あなたの恵みを」と三回も繰り返されています。この「恵み(ヘブル語で、ヘセド)」の神に対する確信は、ヨブ記の中心メッセージでもあるものです。
私たちは、
「闇の中を歩んでいた」「死の陰の地に住んでいた」者でした。まことの神を知らず、罪と死と滅びの中にあった者でした。しかし、「恵みの主、ヘセドの主」は、私たちを「光」の世界に招き入れてくださいました。今、私たちは「エデンの園の噴水のシャワーの中に降り注ぐ、あのキラキラした宝石の輝きの世界」に生かされている者です。神さまの臨在の光に照らされる道は、“On
the Sunnyside
Street”ーすなわち日陰ではなく陽の当たる道といえるでしょう。そこでは、神様の祝福の光で「砂粒でさえ金のように」輝いています。
最後に、10-13節を見ましょう。しかし、私たちは同時に「闇の世界」「死の陰の地」に、「背きの言葉」「不法と欺き」の世界に片足を置いて生かされている途上の者です。ですから、私たちは、ふたつの重なり合う世界に生かされている者として、[36:10
注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。36:11
高ぶりの足が私に追いつかず、悪しき者の手が私を追いやることのないように。36:12
そこでは不法を行う者は倒れ、突き倒されて立ち上がれません。]という祈りを欠かすことはできません。
創造世界を贖い、私たちの存在を贖ってくださる内住の御霊(ローマ8:18-23)において、エデンの園の、キラキラ輝く「噴泉」を見つめ(創世記2:10-14)、神の家の豊かさに満たされ、楽しみの流れで潤されつつ(エゼキエル47章)、今週も歩んでまいりましょう。「36:9
いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに私たちは光を見るからです」と。では、お祈りしましょう。
※ 参考文献: Walter Brueggemann, William H. Bellinger, Jr “Psalm”
※
天地創造と神殿の関係に関しては、ジョン・H・ウォルトン著『創世記1章の発見』(原雅幸訳、関野祐二・中村佐知監修)に興味深い言及がある。
2021年11月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇35篇「主よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」
ー主を待ち望むアドベント、主を待ち望む詩篇ー
https://youtu.be/HhmQLa1DTlA
詩[ 35 ]<ダビデによる。>
第一部 A. 序ーわが救いのための出陣
35:1 【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。
35:2 盾と大盾を手に取って、私を助けに来てください。
35:3 槍を抜き、私に追い迫る者たちを封じてください。私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。
第一部 B. 懇願ー攻撃する迫害者らの破滅
35:4
私のいのちを求める者たちが恥を見、卑しめられますように。私に対してわざわいを謀る者たちが退き、辱めを受けますように。
35:5 彼らを風の前の籾殻のようにし、【主】の使いが追い散らすようにしてください。
35:6 彼らの道を暗闇とし滑りやすくし、【主】の使いが彼らを追うようにしてください。
35:7 ゆえもなく彼らは隠しました。網を張った穴を私のために。ゆえもなくそれを掘りました。私のたましいのために。
35:8 思わぬときに滅びが彼を襲いますように。隠した網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように。
第一部 C. 約束ー主による救いへの讃美
35:9 私のたましいは【主】にあって喜び、御救いの中にあって楽しみます。
35:10
私のすべての骨は言います。「【主】よ、だれがあなたのようでしょう。苦しむ者をより強い者から救い、苦しむ者貧しい者を略奪者から救う方。」
第二部 A. 嘆きーわが躓きと同胞らの迫害
35:11 悪意のある証人どもが立ち、私が知らないことを私に問います。
35:12 彼らは悪をもって善に報い、私のたましいは見捨てられています。
35:13
しかし私は彼らが病のとき、粗布をまといました。私は断食してたましいを苦しめ、私の祈りは胸の中を行き来していました。
35:14 私の友や兄弟であるかのように私は足を運び、母の喪に服するようにうなだれて泣き悲しみました。
35:15 それなのに私がつまずくと彼らは喜んで集まり、私の知らない攻撃者が私に向かって集まり、休みなく私を中傷しました。
35:16 嘲りののしる者たちは私の周りで、私に向かって歯をむき出しました。
第二部 B. 懇願ー破滅からの救出と回復
35:17
わが主よ、いつまで眺めておられるのですか。私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。
第二部 C. 約束ー公の場での主への讃美
35:18 私は大いなる会衆の中であなたに感謝し、力強い民の間であなたを賛美します。
第三部 A. 嘆きー敵による陰謀と嘲笑
35:19
偽り者の私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が、目くばせし合わないようにしてください。
35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に欺きを企むからです。
35:21 彼らは私に向かって大きく口を開け、「あははこの目で見たぞ」と言います。
第三部 B. 懇願ーわが審きと敵の挫折
35:22 【主】よ、あなたはご覧になりました。黙っていないでください。わが主よ、私から遠く離れないでください。
35:23 奮い立ってください。目を覚ましてください。私のさばきのために。わが神わが主よ、私の訴えのために。
35:24
あなたの義にしたがって、私のためにさばきを行ってください。【主】よ、わが神よ、彼らを私のことで喜ばせないでください。
35:25
彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは、われわれの望みどおりだ」と。どうか言わせないでください。「われわれは彼を呑み込んだ」と。
35:26
私のわざわいを楽しむ者たちがみな、恥を見、辱めを受けますように。私に向かって高ぶる者が、恥と恥辱を身にまといますように。
第三部 C. 約束ー主への歓呼と讃美
35:27
私の義を喜びとする者たちが、喜びの声をあげ楽しむようにしてください。彼らがいつもこう言うようにしてください。「【主】は、大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は」と。
35:28 私の舌は告げ知らせます。あなたの義を。日夜あなたの誉れを。
(傾聴)
今朝は、教会暦によれば、アドベント第一週です。「アドベント」と申します期間は、主の来臨を待ち望む心備えをする期間です。旧約の神の民は、メシヤ、つまり救い主が来臨される「主の日」を待ち望んでおりました。その日には、神による「義しい審判」がなされ、真の神の民が「最終的に救われる日」でありました。今朝の詩篇35篇にも同じ信仰が表明されています。本詩は、「
35:1 【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。 」という呼びかけ、嘆願で始まり、「 35:24
あなたの義にしたがって、私のためにさばきを行ってください。 」「35:28
私の舌は告げ知らせます。あなたの義を。日夜あなたの誉れを。」と言う言葉で終わっています。つまり、アドベントの期間、福音書の降誕の箇所のみでなく、『詩篇』傾聴シリーズを通し、「主の審判と救い」を嘆願し、祈り、主を待ち望むことを教え導いてくれる「詩篇」を味わうことはふさわしいことであると思います。
本詩は、敵の攻撃に苦しむ個人の祈りとして編まれています。本詩は、全体を三つの部分に分けることができるでしょう。第一部は、[35:1
【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。35:2 盾と大盾を手に取って、私を助けに来てください。35:3
槍を抜き、私に追い迫る者たちを封じてください。私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」]と敵の攻撃に対する①主の「出陣要請」にはじまり、[35:4
私のいのちを求める者たちが恥を見、卑しめられますように。私に対してわざわいを謀る者たちが退き、辱めを受けますように。35:5
彼らを風の前の籾殻のようにし、【主】の使いが追い散らすようにしてください。35:6
彼らの道を暗闇とし滑りやすくし、【主】の使いが彼らを追うようにしてください。35:7
ゆえもなく彼らは隠しました。網を張った穴を私のために。ゆえもなくそれを掘りました。私のたましいのために。35:8
思わぬときに滅びが彼を襲いますように。隠した網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように。]と、②敵の「滅亡祈願」が、これに続き、[35:9
私のたましいは【主】にあって喜び、御救いの中にあって楽しみます。35:10
私のすべての骨は言います。「【主】よ、だれがあなたのようでしょう。苦しむ者をより強い者から救い、苦しむ者、貧しい者を略奪者から救う方。」]と、③苦しむ者を救う主へ「讃美の約束」で締めくくられます。
第二部は、[35:11 悪意のある証人どもが立ち、私が知らないことを私に問います。35:12
彼らは悪をもって善に報い、私のたましいは見捨てられています。35:13
しかし私は彼らが病のとき、粗布をまといました。私は断食してたましいを苦しめ、私の祈りは胸の中を行き来していました。35:14
私の友や兄弟であるかのように私は足を運び、母の喪に服するようにうなだれて泣き悲しみました。35:15
それなのに私がつまずくと彼らは喜んで集まり、私の知らない攻撃者が私に向かって集まり、休みなく私を中傷しました。35:16
嘲りののしる者たちは私の周りで、私に向かって歯をむき出しました。]と、「善に悪をもって報いる」人々の攻撃や嘲笑に対する訴えが中心です。
第三部は、[35:22
【主】よ、あなたはご覧になりました。黙っていないでください。わが主よ、私から遠く離れないでください。35:23
奮い立ってください。目を覚ましてください。私のさばきのために。わが神わが主よ、私の訴えのために。35:24
あなたの義にしたがって、私のためにさばきを行ってください。【主】よわが神よ、彼らを私のことで喜ばせないでください。]と、主の「義に基づく裁き」の懇願が焦点です。この懇願を囲むように、[35:19
偽り者の私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が、目くばせし合わないようにしてください。35:20
彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に欺きを企むからです。35:21
彼らは私に向かって大きく口を開け、「あははこの目で見たぞ」と言います。]と。また[35:25
彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは、われわれの望みどおりだ」と。どうか言わせないでください。「われわれは彼を呑み込んだ」と。35:26
私のわざわいを楽しむ者たちがみな、恥を見、辱めを受けますように。私に向かって高ぶる者が、恥と恥辱を身にまといますように。]と、その前後に、「敵が虚偽によって勝ち誇ることのないように」との願いが表明されています。
最後に、[35:27
私の義を喜びとする者たちが、喜びの声をあげ楽しむようにしてください。彼らがいつもこう言うようにしてください。「【主】は、大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は」と。35:28
私の舌は告げ知らせます。あなたの義を。日夜あなたの誉れを。]と、「讃美の約束」が記されますが、その焦点は「主の義」です。本詩を構成するこれらの三つの部分は、「敵の不当な攻撃」や「嘲笑を受けた詠い手」が救いを懇願し、神の義しい裁きによる「敵の滅び」を願い、最後に「主への讃美」を約束する点でおおまかに共通しています。その一方で、それぞれの背後に想定される敵の攻撃は一様ではなく、詠い手の苦難も特定することができません。そのような意味において、本詩は、不当な苦しみからの救いを求めて神殿に参詣する信仰者のために、敵の迫害、孤独な病苦、不当な訴えなどの苦境をあらかじめ想定して準備された「一種の祈りの教本」であったではないかと推測されます。(参考文献ー月本昭男著『詩篇の思想と信仰』)
これらの事から、私たちは一体何を学ぶのでしょうか。アンダーソンは、申します。「神を敬わない敵に言及することなしに、詩篇を唱えることは不可能である」と。詩篇の嘆きの歌が、人間の「苦悩の底」から、残酷さや憎悪の感情がえてして湧き上がる「深淵」から生じてきたことは容易に理解できます。そこには、「人間生活のあらゆる情念や激情」がそのまま表現されています。詩篇は、真善美の理想的で、超歴史的な、ユートピアを示しているのではありません。むしろ、詩篇は、「変化と闘争と苦難に満ちた、歴史的状況」、そして私たちの人生の「真っ只中」にあるものと関わるものなのです。詩篇の祈りが遠く感じられるのは、私たちが、私たちの人生の「ど真ん中」にあるものを主の御前に置くことに失敗しているからなのかもしれません。
J.L.メイズは、その注解書で「祈りの詩篇に出てくる個人は、一体誰なのでしょう?」と問うています。そして、「詩篇の“中に”いる個人は、その祈りを祈っている個人と同じではない」と指摘します。「詩篇の“中に”いる個人」は、実は“ある典型”を表したものなのです。詩の“中に”いるその人のアイデンティティは、“その祈りを、今実際に祈っている者”に賦与され、担われるものなのです。祈りの“言葉使い”は、自由に開かれおり、それぞれの人がその困難、苦難の“存在の深み”から、主に呼ばわるときに、そ祈り手その人を“照らし出す”のです。
詩篇は、時代を貫いて、自分たちの感覚、取り巻く環境をこれらの祈りの“中に”見出させてきたのです。さらに踏み込んで申しますと、これらの祈りを“通して”主の御前にある私たち“自身”を見出すのです。私たちが“真に”何者であり、“真に”何を必要としているのかを神と人の垂直軸において、人と隣人との水平軸において知るようになり、そのすべてを神に“述べる”ことのできる言葉を見出すようになるのです。
ああ、それゆえ私たちは、私たちの信仰生活のただ中で「35:1
【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」という祈りの言葉を見出しましょう。この祈りの言葉を用いましょう。活用しましょう。私たちが、今置かれている環境下、状況下の“ただ中で”、具体的な材料、問題、戦いの中で「35:1
【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」と祈りましょう。主は、これまで、私たちの生涯の“ただ中で”、主は私たちが直面したさまざまな問題において、一緒に戦ってきてくださった視点から振り返りましょう。
主は、これから、私たちの生涯の“ただ中で”、主は私たちが直面しうるさまざまな問題において、一緒に戦ってくださるという視点からのぞみ見ましょう。そして、今日私たちが、今置かれている環境下、状況下の“ただ中で”、「35:1
【主】よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」と祈ってまいりましょう。
私たちにとっては、毎日が「主の臨在を、主のご介入を待ち望むアドベント」なのですから。では、お祈りいたしましょう。
2021年11月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇34篇「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる」
― 詩篇34篇の詩とスピリットが符合する讃美 ―
Day by Day -新聖歌349、移りゆく時の間も
https://www.youtube.com/watch?v=LLdpcP7S1Rs
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https://youtu.be/pLxf6WnR4TU
詩[ 34 ] ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。
A.前半:①主へのほめたたえの促し
34:1 私はあらゆるときに【主】をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。
34:2 私のたましいは【主】を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
34:3 私とともに【主】をほめよ。一つになって御名をあがめよう。
A.前半:②救いの体験と感謝
34:4 私が【主】を求めると主は答え、すべての恐怖から私を救い出してくださった。
34:5 主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。
34:6 この苦しむ者が呼ぶと、【主】は聞かれすべての苦難から救ってくださった。
34:7 【主】の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。
A.前半:③主の慈しみ深さ
34:8 味わい見つめよ。【主】がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。
34:9 【主】を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。
34:10 若い獅子も乏しくなり飢える。しかし【主】を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。
B.後半:①幸いな人生の秘訣
34:11 来なさい。子たちよ私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう。
34:12 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人は。
34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れて善を行い、平和を求めそれを追い続けよ。
B.後半:②主に救われる者
34:15 【主】の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。
34:16 【主】の御顔は悪をなす者どもに敵対し、主は彼らの記憶を地から消し去られる。
34:17 苦しむ者が叫ぶと【主】は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。
34:18 【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
B.後半:③義人と悪人の人生
34:19 正しい人には苦しみが多い。しかし【主】はそのすべてから救い出してくださる。
34:20 主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ折られることはない。
34:21 悪は悪しき者を殺し、正しい人を憎む者は責めを負う。
34:22 【主】はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人はだれも責めを負わない。
(傾聴)
私たちは、W.ブルッゲマン著『詩篇を祈る』に励まされつつ、『詩篇』傾聴シリーズに取り組んでいます。それは、ICI(一宮基督教研究所)を通して、詩篇に関する「より深い知識を身に着けつつ、より情熱的に詩篇に傾聴する」助けを提供することです。近年、「学問と教会の結びつきを発展させるための重要な貢献」をする著作が生まれてきました。それで、伝統的な解釈とともに、近年の研究成果にも目配りをし、「より深い知識を身に着けつつ、より情熱的に詩篇に傾聴する」助けとなる一つのシリーズに取り組ませていただいています。今朝は、そのような視点から、月本昭男著『詩篇の思想と信仰』を参考にしつつ、学び傾聴してまいりましょう。
詩篇34篇は、「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに」という表題が掲げられています。これは、この詩篇を、Ⅰサムエル記21:13-16の、ガトの王アキシュの前での出来事と関連づけたものです。ダビデのアキシュ王との出来事と関連づけることは可能ではありますが、内容のすべてをその文脈で描き、理解することには困難があります。それゆえ、今回は「アキシュ王との出来事」の文脈で掘り下げて無理な解釈を施すのではなく、詩篇編纂者による「詩篇分類上」の表題ということにとどめ、より一般的なかたちでの救いへの感謝(前半)とそれに根差した教訓詩(後半)として傾聴していきたいと思います。
本詩のヘブル語原文は、一部を除き「アルファベット詩(いわゆる、イロハ歌)」の形式をとり、各節の頭文字が22あるヘブル語のアルファベット順に記されています。技巧を凝らした「アルファベット詩」には、教訓的内容をもつ作品が多く、詩篇37、111、112、119の各篇等があります。「34:11
来なさい。子たちよ、私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう。」と、子たちに、幸いのありかを教えようとする本詩もそれに入ります。ただ、本詩の場合、教訓に先立ち、「祈りを聞き届けられた詠い手の讃美と感謝」が表明されており、ここに本詩の特徴があり、その経験を根拠にした教訓詩といえます。
はじめに詠い手は、自らを模範として示しつつ、「 34:3 私とともに【主】をほめよ。
」と聞き手に「主へのほめたたえ」を促します。それは、「34:4
私が【主】を求めると主は答え、すべての恐怖から私を救い出してくださった」と、彼が主に祈りを聞き届けられ、あらゆる恐怖と苦難から救い出されたというのです。そして、出エジプトの救いの出来事を思い起こし、十の災害の時にそのただ中で保護されたと、「34:7
【主】の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」、「 34:8 【主】がいつくしみ深い方であることを
」味わい見つめよ、と「 34:9
主の聖徒たち」に勧め、苦難のただ中にあっても、信仰と勇気をもって生きるよう励まします。そして「さらに、34:10
【主】を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない」と、主を求める者が欠乏の中に放置されることはないことを、自らの体験をもって確認し続けるよう励します。
「 34:11 子たちよ、私に聞きなさい
」ではじまる後半は、その全体が若者への教えとして構成されています。教職者であれば、若手の伝道者。親であれば子供への参考となります。詠い手はまず、「34:12
いのちを喜びとする人。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人」と幸いな生涯を送る秘訣として、「34:14
悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追い続けよ」と悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めるよう、彼らを諭します。
続いて義人と悪人に向けられる主の「姿勢」に関し、「 34:15 【主】の目は正しい人たちの上にあり、34:16
【主】の御顔は悪をなす者どもに敵対し」と述べます。そして、主が苦難にあえぐ民の叫びを聞き届けられた「 34:17
苦しむ者が叫ぶと【主】は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる」という出エジプトの出来事を想起させ、「 34:18
【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と説きます。ここまでは、勧善懲悪の倫理をすすめる、世間一般の倫理道徳と大きな隔たりはありません。
しかし、この詩篇の素晴らしさは、「 34:19
正しい人には苦しみが多い」にあります。世に溢れる、一般のご利益宗教は、勧善懲悪の倫理の神観、勧善懲悪の倫理に生きる信仰者への勧めをなし、そうすれば、「無病息災、家内安全、商売繁盛」等のすべての祝福が保証され、幸せ溢れる人生が、生涯を全能の神は保証してくださるというところで止まっていません。聖書の神の倫理は、この世の倫理道徳をはるかに超えるところにあります。つまり、どういうことかと申しますと、「義人として生きていくことを勧めつつ、その義人が多くの災いを被る現実がある」という人生の現実、私たちが「実際に生きていく時に直面するリアリズム」を指摘しているのです。私は、恩師のひとり、山中良知先生の「クリスチャンは、マルキストよりも、リアリストでなければならない」という言葉を忘れることができません。「宗教は苦難から逃避するためのアヘン」であるといわしめてはなりません。クリスチャンは、現実主義者でなければなりません。人生の現実を直視し、そのただ中で「生き生きとした信仰」を機能させる者でなければならないと思います。この詩篇の作者は、最後に「34:19しかし【主】はそのすべてから救い出してくださる」と、私たちの人生に、生涯の中に、どんなに災いが多くとも、主にある義人は最終的に主によって守られると断言するのです。素晴らしい確信ではないでしょうか。「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない」といわれる私たちの人生の中で、それはどのように手に入れることができるのでしょうか。
本詩の「34:20
主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ折られることはない」は、「ヨハネ19:36これらのことが起こったのは『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するためであり」に引用されている聖句です。このことは、何を意味しているでしょうか。私たちは、「罪赦され、御霊に導かれている者として、聖書の勧善懲悪の勧めに従って、きよく正しく生きていこう」と日々、刻苦勉励しています。しかし、私たちの主イエスがそうでありましたように、それは時には「十字架の道であり、恥と裸と汚名の十字架につけられるドロローサの坂道」であったりもするのです。私たちは、そのような坂道で、負わされた十字架の重みに耐えかねて、ひざまずき倒れることさえあります。
しかし、主の御声と、主の導きの光が「その方向」から差している限り、私たちには他の道を選び取る選択肢はありません。私たちは、そのような坂道を「負うべき十字架」を背負って、滑らないように、一歩ずつ、一歩ずつ、踏みしめながら登っていくのです。その先にあるのは、この世で憧れられる「栄光の玉座」のようなものではありません。恥とあざけり、ののしりの「十字架の上にかけられる」という場所です。そこは「陰府」のように孤独な場所かもしれません。知人、友人にさえ見捨てられる場所です。しかし、そのような「十字架に見る苦難」という入り口を通って入っていける世界があります。
それが、使徒ペテロが語った意味です。「使徒2:31
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』」と語ったのです。私たちは、それぞれに相応しい十字架を負わされ、主が案分してくださった生涯に生かされています。「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられました(Ⅰペテロ2:21,24)。パウロは、「私たちはキリストの栄光をともに受けるために、苦難をもともにしている」(ローマ8:17、コロサイ1:24、Ⅱテモテ3:12)と書き記しました。苦難は私たちにとって避けるべきものではなく、教会の地上における本質的なあり方なのです(ヨハネ16:33)。
私たちは「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主と会います。イザヤ書の預言の通りに、イエスが十字架の苦難を経て、復活の栄光を受け、天に着座されたように、私たち個人としても、キリストの教会も同様、地上の苦難を通って、栄光に輝く天のエルサレムの門をくぐります。神の民が地上で受ける「今のときの軽い患難」は、やがて天の「測り知れない重い永遠の栄光」(Ⅱコリント4:17)へと変えられていくのです。
それゆえ、私たちは、苦しむ時に、「31:8 慈しみ深い方」である主に「31:4,6,17 叫ぶ
」のです。主は、出エジプトで「31:4,6,17,19
苦難から救い出してくださった」方だからです。そして、主は、カルバリの丘で私たちを、「罪と死と滅びから救い出してくださった」方であるからです。それゆえに、私たちは「
34:1 あらゆるときに【主】をほめたたえる」のです。主が最終的に「34:17
苦しむ者が叫ぶとき、そのすべての苦難から救い出してくださる」方だからです。祈りましょう。
2021年11月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇33篇「賛美は直ぐな人たちにふさわしい」ー海の歌、ミリアムの歌ー
https://youtu.be/BAH0GBH2G4o
詩[ 33 ]
動機と呼びかけ:「正しい者、直ぐな人」の意味ー詩篇32篇とその末尾を背景として
33:1 正しい者たち、【主】を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい。
33:2 竪琴に合わせて【主】に感謝せよ。十弦の琴に合わせてほめ歌を歌え。
33:3 新しい歌を主に歌え。喜びの叫びとともに巧みに弦をかき鳴らせ。
B. 賛美の主題ー①主の言葉、主の人格
33:4 まことに【主】のことばは真っ直ぐで、そのみわざはことごとく真実である。
33:5 主は正義と公正を愛される。【主】の恵みで地は満ちている。
B. 賛美の主題:②創造の主ー我らに生を与えられた
33:6 【主】のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって。
33:7 主は海の水をせき止めて集め湧き出る水を倉に納められる。
33:8 全地よ【主】を恐れよ。すべて世界に住む者よ主の御前におののけ。
B. 賛美の主題:③摂理の主ー我らの人生を導かれる
33:9 主が仰せられるとそのようになり主が命じられるとそれは立つ。
33:10 【主】は国々のはかりごとを破りもろもろの民の計画をくじかれる。
33:11 【主】のはかられることはとこしえに立ち、みこころの計画は代々に続く。
B. 賛美の主題:主の民ー④すべてを知り、目を留められている
33:12 幸いなことよ、【主】を自らの神とする国は。神がご自分のゆずりとして選ばれた民は。
33:13 【主】は天から目を注ぎ、人の子らをすべてご覧になる。
33:14 御座が据えられた所から、地に住むすべての者に目を留められる。
33:15 主は一人ひとりの心を形造り、わざのすべてを読み取る方。
B. 賛美の主題:⑤軍馬・軍勢によらずー成功・失敗の尺度
33:16 王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。
33:17 軍馬も勝利の頼みにはならず、軍勢の大きさも救いにはならない。
33:18 見よ【主】の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。
33:19 彼らのたましいを死から救い出し飢饉のときにも彼らを生かし続けるために。
C. 結びー私たちの姿勢
33:20 私たちのたましいは【主】を待ち望む。主は私たちの助け、私たちの盾。
33:21 まことに私たちの心は主を喜び、私たちは聖なる御名に拠り頼む。
33:22 【主】よ、あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。
(傾聴)
先週は、かの有名な詩篇32篇に傾聴しました。今朝は、詩篇33篇に傾聴してまいります。わたしは、この一週間、詩篇33篇に傾聴してきました。その第一印象は、「バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤの殺害を背景にした詩篇32篇の劇的な内容に比べて、なんと平凡な内容の詩篇なのだろう」というため息でありました。このような一般的な内容の詩篇から、どのようにすれば「生き生きと私自身が、そして皆さんが傾聴することができるのだろうか」ととまどいました。そのような思いを心に抱きながら、数多くの注解書や説教・講義・黙想等に目配りをしていった一週間でした。
そして、その中でたくさんのことを教えられました。そのひとつは、ブルッゲマンの詩篇註解からの「詩篇33篇は、”詩篇32篇で招き入れられた主への讃美”」を提示しています、という言葉でした。わたしは、「ハッ」と気づかされました。それは、「33:1
正しい者たち【主】を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい。33:2
竪琴に合わせて【主】に感謝せよ。十弦の琴に合わせてほめ歌を歌え。33:3
新しい歌を主に歌え。喜びの叫びとともに巧みに弦をかき鳴らせ。」の「33:1
正しい者たち」「直ぐな人たち」とは一体どのような人たちなのか、という問題です。「讃美にふさわしい人」とは一体どのような人たちなのでしょうか。32:11は、同じ言葉で締めくくられています。「正しい者たち、【主】を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ、喜びの声をあげよ。」です。先週、私たちは32:11のこの「正しい者たち」「心の直ぐな人たち」を、品行方正で倫理的に落ち度のない人たちという意味ではなく、ダビデのように「情欲を抱き」「殺意を抱く」罪の性質を持つ者であり、その彼がゲヘナで滅ぼされる審判の恐怖を知り、砕かれ悔いくずおれた魂をもつ者とされた、ことを学びました。
イエスも言われました。「殺すな」「姦淫を犯すな」と書かれているが、殺意や情欲を抱く者もゲヘナにふさわしいと。そうだとすれば、ダビデだけでなく、私たちも皆”ゲヘナの深淵をのぞいた者”であり、そこに滑落しないよう、”キリストの贖いにより救いだされた者”なのです。パウロが、ローマ人への手紙の[4:6
同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。4:7
「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。4:8
幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」]と詩篇32篇を引用したのは、このためでありました。私たち皆が、このような「原点」を持つ者であることを自覚していれば、この詩篇33篇は素晴らしい讃美の詩篇たりうるのではないでしょうか。イスラエル民族の讃美の原点は、エジプトでの過酷な奴隷労働から、「小羊の血」によって贖われ、解放された「出エジプトの出来事」でありました。すなわち、私たちの讃美の生活の原点は、「十字架の出来事」であるということなのです。私たちが、この「十字架の原点」を離れ、忘れると、いわば「糸の切れたタコ」のようになるのです。「感動的な讃美の源泉」を失うことになるのです。
B.W.アンダーソンは、その著書『深き淵より』の中で、「イスラエルの讃美は、広大な創造のわざや人間の歴史全般にあらわされた神の知恵と力に対する一般的な宗教心によって、呼び覚まされたものではない」と記しています。むしろ、「彼らの讃美は、この民の生活状況の中で、主の救いの力と目的とを体験したことに基づく」のだと。当時の最も強大なエジプト帝国に従属し、くびきにつながれた奴隷という悲惨な歴史的状況に介入された主は、何もないところから一つの民を創造し、出口のない袋小路から未来への新しい道を開く、という素晴らしいみわざを行われました。その結果として、イスラエルの最も初期の詩歌のねらいとは、このような救いの力をあらわしてくださった神に応えて、「喜ばしい讃美の叫び」を響かせることでありました。
その最初期の讃美は、出エジプト記15章にあります。少し長めではありますが、15:1-18の「海の歌」を味わいましょう。出15:1
そのとき、モーセとイスラエルの子らは、【主】に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「【主】に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。15:2
【主】は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。15:3
【主】はいくさびと。その御名は【主】。15:4
主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。15:5
深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。15:6
【主】よ、あなたの右の手は力に輝き、【主】よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。15:7
あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。15:8
あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。15:9
敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』15:10
あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。15:11
【主】よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。15:12
あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみ込んだ。15:13
あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。15:14
もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。15:15
そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。15:16
恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。【主】よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。15:17
あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。【主】よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。15:18
【主】はとこしえまでも統べ治められる。」
そして、アロンの姉、「ミリアムの歌」が続きます。15:19
ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、【主】は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。15:20
そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。15:21
ミリアムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」と。紅海の岸に追い詰められ、絶望的な情況に置かれていたイスラエルの民は、「起死回生の救い」を体験したのです。とすれば、私たちは彼らの「讃美の爆発」を理解できるでしょう。①絶対絶命の苦境があり、②その苦境の只中での嘆願の叫びがあり、③救い・解放の経験があり、④ほめたたえの讃美の爆発が続くのです。これは、私たちの”人生のサイクル”でもあるのです。
そして、そのような原点の確認の後に、「一般的な言葉」で主をほめたたえる讃美へと発展し、流れていきます。つまり、「v.4
主のことば」「v.5 主は正義と公正を」「v.6 天は造られた」「v.11 みこころの計画は」「v.12
選ばれた民は」「v.15
すべてを読み取る方」と。つまり、それらは神がどのようなお方であり、神が宇宙の創造主であり、歴史の支配者であると紹介し、神の偉大さと誠実さをほめたたえているのです。そして、これらの神理解は、詩篇の150篇また、聖書全巻の視点から見ますと、主と私たちとの「我と汝」の人格的関係、「アバ父と呼びうる」父と子の関係、「私の座るのも立つのも知っておられ」私の思いを読み取られる方、「私の内臓を造り、母の胎の中で」組み立てられた方へと有機的・生命的に展開していきます。創造主信仰は「私たちの誕生」と、歴史における摂理の神信仰は「私たちのドラマとしての生涯」へと浸透していきます。
ブルッゲマンは申します。「より情熱的に読むために助けとなる」のは、詩篇の言語に対して、それが「本来意図されていたであろうような想像的で自由な働き」を私たちが認めたならば、詩篇が「どれほど自由になるか」、そして私たちが「どれほど感動的かつ信仰的に詩篇を用いることができるようになるか」ということにチャレンジしています。どのようにして、詩篇から感動的に傾聴し、それを私たちの現在の生活のただ中での「嘆きの叫び」「ほめたたえの讃美」として再現していくのかに挑戦し続けたい。そのような日が訪れることを希求・待望しつつ、『詩篇』傾聴に取り組んでいきたいと思います。祈りましょう。
2021年10月31日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇32篇「私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました」ー身体はトラウマを記録するー
https://youtu.be/NVPSwJR7myI
詩[ 32 ] ダビデによる。マスキール(教訓)
①ダビデが受けた教訓
A. ダビデの感謝
32:1 幸いなことよ、その背きを赦され罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ、【主】が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。
B. ダビデの危機
32:3 私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。
32:4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ
C. 危機からの救出
32:5
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ
D. 告白の祈りの意義
32:6
それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても、彼のところに届きません。
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。セラ
②学んだ教訓の分かち合い、あるいは主からの示し
A. 教え、諭し、助言の提供
32:8 私はあなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め、助言を与えよう。
B. 傾聴する者と耳を閉ざす者の差異
32:9
あなたがたは、分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱そうした馬具で強いるのでなければ、それらはあなたの近くには来ない。
32:10 悪しき者は心の痛みが多い。しかし【主】に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。
32:11 正しい者たち、【主】を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ、喜びの声をあげよ。
―導入―
さて、今朝は、有名な詩篇32篇を開きます。この詩は、「ダビデが人妻バテシェバと姦淫の罪を犯し、それを隠蔽するためにその夫ウリヤを殺した」ことに発します。モーセの律法の下にあったイスラエル社会においては、王とはいえ「死罪」に値するような重罪であったものと思われます。(※イスラエルの宗教社会、宗教裁判において、ダビデの大罪が免責された詳しい経過についての研究・資料・著作をご存じの方がありましたら、ご連絡ください)しかし、今日の権力者にも見られるように、部下を利用し見事にこれらの罪の隠ぺいに成功します。夫ウリヤを戦場で合法的に殺害した上で、人妻バテシェバを自分の妻として手に入れたのでした。「Ⅱサムエル11:27
しかし、ダビデの行ったことは主のみこころを(著しく)損なった」ものでありました。
この詩篇は、そのときダビデの心の中に起こった出来事を描写しています。姦淫と殺人という重大な罪の隠ぺいに成功した王ダビデでしたが、聖なる神の御前に生きてきたダビデの心身には異変が生じていました。ダビデは、人の目はごまかせても、すべてのことをお見通しの神の目はごまかせないことを知っていたのです。ダビデは、自分の心身の状態を「32:3
私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。32:4
昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。」と振り返っています。神の御前に誠実の限りを尽くして生きて来たダビデにとって、「隠蔽せざる得ない罪」を犯したことは、心身に深刻な変調をきたしたものと思われます。
これらのことは、罪と直接関わりなくても、今日を生きる私たちには、心身に大きな影響を与えるPTSD(心的外傷後ストレス障害)という問題との関連を教えられます。イスラエル王国を統一し、栄華をきわめつつあったダビデでしたが、内面においては、「陰府の深淵をのぞかせる絶壁の淵に」立ち、今にも転落しそうになっており、聖会や集会の真中においては「神に顔向けできない最悪の状態」にあったことを意識していました。私たちも時にそういった情況に置かれることはあるのではないでしょうか。必ずしも、罪と関わりがなくても、大小のPTSD(心的外傷後ストレス障害)的な経験をせずに生きている人は皆無といっても良いのではないでしょうか。それゆえ、この詩篇32篇
ダビデのマスキール、すなわちダビデの経験からの「教訓」は、今日の私たちにとって、助けとなる要素がたくさんあるように思われます。
さて、わたしは、今回この個所を読み返しました時に、米国の「トラウマ研究と治療の傑出した先駆者」ベッセル・ヴァン・デア・コークの名著『身体はトラウマを記録する』を思い起こしました。それはダビデのマスキール(教訓)、すなわち詩篇32篇は、そのような意味で、私たちの人生に応用できる「優れた機能」を有しているのではないか、という問題提起なのです。 この本の中には、ヴェトナムやアフガン帰還兵たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)や米国内での家庭や社会等での性的虐待からのPTSDの記録と回復の取り組みについて書いてあります。 そして、「PTSDに心身を支配され苦しんでいる膨大な数の人たち」が健康な人生に回復されていくプロセスにおいて、「告白」という経験が、その呪縛から解放されるひとつの契機になっていると報告されていました。
それらの中には、カウンセリングだけでなく、日記や、自分への手紙というような形をとることもあります。 人の手によるカウンセリング等のPTSDのこのような治療に一定の効果があるとしたら、「すべての点て私たち同じように試みにあわれた」私たちの大祭司であり、大カウンセラーである御子イエス・キリストから、贖罪を基盤とし、御霊の助けを受けることには大きな益があるのではないでしょうか。私たちの「詩篇32篇」の本質に即した告白の祈りには、絶大な効果・治療が期待できるのではないでしょうか。私たちの祈りの生活において、未開発の領域があるのではないでしょうか。
わたしには、「詩篇32篇の祈り」に合わせ、聖なる神の御前で、古代の信仰者であるダビデの「嘆きとほめたたえの詩篇32篇」に、自由に、そして想像力を豊かに生かし、21世紀に生きる私たち自身の魂と生活経験を重ね合わせ、奥深く、意義深く、唱和・告白していく生涯においては、わたしたちと、御子イエス・キリストとの対話の領域において「未発見で未開発の大きな潜在力」が備えられているように思われるのです。ダビデの「魂の危機と救出・治療・回復の経験」のただ中で生まれ、詠われ続けた詩篇32篇には、聖なる神との対話の生活を、「苦しみの深さと至福の高み」をもって開発されうる、いわば「地下に埋蔵されているとてつもない祈りの資源」が溢れているのではないでしょうか。32:1-5を、ダビデの物語と私たち自身の物語を重ね合わせつつ、その意味を深く味わいつつ、毎朝夕、繰り返し唱和し続けるだけでも、私たちの心身は、いわば緑一色の山々が「美しい紅葉の山々」に彩られるような経験に導いていくのではないでしょうか。
ダビデは、預言者ナタンの指摘により、「罪の告白」に導かれました。ナタンのひと言は、ダビデの告白に「噴出口を与えた穿孔針(せんこうしん)」でした。罪の示しは、貴重な「治療のメス」です。
32:8にあるように「私はあなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め、助言を与えよう」とされる方だからです。サウル王は、32:9にあるように
「あなたがたは、分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱そうした馬具で強いるのでなければ、それらはあなたの近くには来ない」ような者でありました。そうであってはなりません。聖書は、「32:10
悪しき者は心の痛みが多い。しかし【主】に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。」と申します。
主は、32:6-7
私たちにPTSDをもたらしかねない「濁流」のような環境、情況に置かれるとき、私たちの魂を「隠れ場」に保護し、「救いの歓声」で取り囲まれます。
「悪しき者」とは、ナタンに見られる「神の御霊による罪の示し、悔い改めへの導き、教え、諭し、助言」に心を閉ざし、心をかたくなにする人たちのことです。「正しい者」とは、罪を犯さない「品行方正な人」を指す言葉ではありません。「神の御霊による罪の示し」に砕かれ悔いくずおれて「悔い改め、教え、諭し、助言」に信頼し従順に生かされる人のことです。「32:11
正しい者たち、【主】を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ、喜びの声をあげよ。」とありますが、その「喜びの根源」は、5節の「告白」の祈りであり、「罪のとがめの赦し」です。「喜びの声」、「喜びの叫び」とは、何でしょう。それは、この詩篇の冒頭にあげられている喜びの声、喜びの叫び以外のなにものでもありません。「32:1
幸いなことよ、その背きを赦され罪をおおわれた人は。32:2
幸いなことよ、【主】が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。」のことでしょう。
この喜びの声、喜びの叫びをあげつつ今週も歩んでまいりましょう。祈りましょう。
2021年10月31日 旧約聖書
詩篇31篇「私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって私を助け出してください。」ー小室圭・眞子ご夫妻のためにも祈る者とされましょうー
https://youtu.be/RCNUXOUZhw0
ここ数年間、注目され続けたニュースのひとつに「小室圭さんと眞子さんとの婚約・結婚」がありました。マスコミやSNSを通しての「真偽不明の容赦のない情報・書き込みの氾濫」もあり、破談の危機の中、お二人の勇気と支え合いによって結婚にこぎつけられたことは素晴らしいことでした。米国ニューヨーク弁護士試験は不合格であったようですが、二月の次回試験に向けて「二人三脚」で頑張っていかれると思います。応援しています。
今朝は、そのような文脈で、v.1「私が決して恥を見ないようにしてください。」、v.17「【主】よ、私が恥を見ないようにしてください。」の“恥”という言葉に注目したいと思います。
旧約聖書の七十人訳においてのアイスキーネ等、「恥」を意味するギリシャ語用語群は「恥をかかせる、面目を失わせる、侮辱する」ことを意味しています。多くの場合、主体としての神ご自身が、恥をかかせられています。アイスキーネの主要な意味は、「恥ずかしい」という感情より、「不名誉・不面目・恥辱」の経験というところにあります。
18節と20節ー「31:18
偽りの唇を封じてください。それは正しい者に横柄に語っています。高ぶりと蔑みをもって。」「31:20
あなたは彼らを人のそしりから、御顔の前にひそかにかくまい、舌の争いから隠れ場に隠されます。」から、嘆願者が悪意のあるゴシップの危機に直面していると教えられます。
これは、かなりの力を持ち、恥をかかせる誤った言葉の存在を示唆しています。今日でいう、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と関連があります。PTSDとは、トラウマになる圧倒的な出来事(外傷的出来事)を経験した後に始まる、日常生活に支障をきたす強く不快な反応です。
1〜2節から始まる祈りは、救出の嘆願であり、それは恥からの救出であると示唆しています。現代の読者は恥を恥ずかしさと悲しみと関連付けるでしょうが、古代近東では、恥はより強力な力であり、不名誉の生活でありました。9-13節における詩的なイメージは深刻な危機を描いています。
詩篇の最初の部分「助け出し」「救い出し」「力の岩」「強い砦となってください」は、神を信頼できる、強力な保護者として描写しています。
3節の最後の行「あなたの御名のゆえに、私を導き私を伴ってください」は、神が現在の窮状から嘆願者を救出してくださることを期待させ、詩篇23篇の言葉を思い起こさせます。4節は、狩猟のイメージを使用し、ハンターの罠からの脱出を懇願しています。7節、神は、嘆願者の痛みを見て、聞いて、受け入れて、そこから彼を救いに来てくださる神です。以前の詩篇でおなじみの言葉で言えば、救出は、迫害のない広く開かれた場所に嘆願者を連れて行き解放してくださいます。
9-20節は、「嘆願者の恥からくる危機的状態」がどのようなものなのかを描写しています。9-10節では、身体のイメージを使用して、「目、体、体力、骨など、すべての生命が関わる危機」として描写しています。「悲しみ」は人生のすべてを破壊する力として作用します。
11〜13節は、「敵と友人の両方からの孤立」という観点から置かれている危機を描写しています。嘆願者は「恥」を意識しており、敵と友人から、「死の力に捕らえられている」、「壊れた人生として敬遠」されていると受けとめています。
12節の終わりのイメージはさらに力強い描写です。嘆願者は、「地に打ちつけられ二度と元に戻されることのない粉々になった土鍋」です。13節の敵の悪意のある言葉は、「彼はおしまいだ。神にのろわれ、捨てられた、死の危機に瀕している者」として、この嘆願者を追い込んでいます。
13節の言葉は、「預言者エレミヤとエレミヤが預言の使者として遭遇した迫害」を思い起こさせます。
彼は、エルサレム崩壊を預言しましたが、偽預言者たちに扇動された人々によって迫害されました。エレミヤは「涙の預言者、恥を受けた”真の”預言者」のひとりでありました。 14節では、信頼の表現への祈りの変化があります。
現状では、敵が嘆願者を取り囲んでいるように見えますが、そのただ中で神は信頼に値するお方です。「私は『あなたは私の神です』と言います。」という、「我ー汝」の関係のその単純で深遠な表現は、嘆願者の今後が、敵の力ではなく、神の力、神の手の中にあることを明らかにしています。
祈りは嘆願を明確に表現し続けます。神の臨在への信頼と、救出と人生の運命の変化の希望の文脈の中での嘆願と変えられています。神が希望の揺るぎない愛を示し、新たな命をもたらすお方であるとの「ほめたたえ」が表明されています。そのような運命の逆転は、「一体、何者なんだ、こやつは…」と、偽ってデマを語る相手に沈黙、恥、そしてトラブルをもたらすことになるでしょう。嘆願者と悪意のある敵との対比は、15〜18節に示され、「偽りの唇」、横柄、高ぶり、蔑みの観点から敵の特徴が示されています。
詩篇31篇のこの2回目の嘆願は、19-20節で完了し、嘆願者を救出し、守り、保護してくださる神への「感謝とほめたたえ」が表明されています。神は私たちをも「悪意のあるゴシップとそれがもたらす恥」から守ってくださる「力の岩、強い砦」、そこは「広い場所」であり、嵐の日の「隠れ場、堅固な城壁」です。小室圭・眞子ご夫妻を”我が事”として祈る者とされましょう。祈りましょう。
2021年10月24日
「アフリカとインドにおけるキリスト教シオニズムに関する、福音主義的座標軸からの短いコメントと日本の情況への適用」
https://youtu.be/ZzwnnADn-Jw
2021年9月12日
23:24に、「キリスト教シオニズムに関する国際会議について」と題したメールを受け取りました。大学の非常勤講師などをしながらパレスチナ問題等について研究しておられる役重善洋先生からのメールでありました。
[10月23日~25日にオンラインでキリスト教シオニズムについての国際会議を計画しており、もしよろしければ、参加していただき、コメントなどいただけないかと思っています。安黒様の『福音主義イスラエル論』の2巻を読ませていただき、私自身はクリスチャンではないのですが、ナイム・アティーク司祭の議論など丁寧に紹介されていることに感銘を受け、ぜひ参加いただければと思い、僭越ながら声をかけさせていただきました。]
そして[全部で4セッション(各100分)あるのですが、特に、第二セッション(10月23日の晩10時半頃開始)の"Theological
critique of Christian Zionism in the non-Western
world"で、発表者に対するコメントというようなかたちで、5分~10分程度の短いコメントを用意していただけないだろうか、というのが具体的なお願いです。報告者は、以下のお二人です。
- Cynthia Holder Rich (Tumaini University Makumira)
※アフリカにおけるキリスト教シオニズムについて、- Philip Peacock (World Communion of
Reformed Churches) ※インドにおけるキリスト教シオニズムについて]。
ズームを通しての三日間の有意義な国際会議でありました。無事終了しましたので、ここに報告をさせていただきます。
日本と世界における「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の脅威に対する学際的かつ実際的な取り組みにささやかな貢献ができればと、約一ケ月半の短い準備期間ではありましたが、五冊のファイルを形成しつつ、10分間のコメントと「日本におけるディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の情況について報告させていただき、それらの傾向への神学教師のひとりとしての分析・評価を提示させていただきました。
この準備期間には、他の一切の奉仕を停止し、礼拝説教準備の中にもこれを取り入れ、「キリスト教シオニズムの世界的変革に関する国際会議」準備シリーズとして四週にわたり、拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ―神学的社会学的視点からの一考察』と『福音主義イスラエル論Ⅱ―ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析・評価』の内容を紹介させていただきました。
本日のメッセージは、この四週の準備のまとめであり、国際会議での私のコメントを礼拝用に編集したものです。日本の教会は小さいですが、中東のイスラエル人とパレスチナ人の問題に対し、「地の塩」「世の光」そして「良きサマリヤ人」の役割を果たしていく上での「良き資料のひとつ」として用いられていけばと願っています。
次週礼拝より、通常モードー『詩篇』傾聴シリーズに戻ります。
小生、下記の集会にて、コメントの奉仕をさせていただきます。
関心のある方は、プログラムに目を通し、登録し、ご視聴ください。
【ご案内】「キリスト教シオニズムに関するグローバルな変革に関する国際オンライン会議」(10月23日~25日)
① ポスター/プログラム:https://cutt.ly/LRq3vsR
② ズームに参加するために登録:https://cutt.ly/6EZkBfA
※パネリスト以外の観客は、500人まで収容できます!
※「SNS等を通じて以下の情報を広めてください」との案内を受けています! 知人・友人等、関心のある方々にご案内ください。
2021年10月17日「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ:③安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅱ』紹介
「イエス・キリストの人格とみわざを軸とした“健全な”福音理解」から「イスラエルを軸とした“誤った”福音理解」への“変質過程”とその治療の処方箋
https://youtu.be/-5r1gZTk2wQ
10月23-24日にズームにて開催される「キリスト教シオニズムの地球規模での変貌に関する国際会議」に向けて準備しています。この会議は、四つのセッションからなっており、私は、第二セッションの「非西欧世界(インドとアフリカ)におけるキリスト教シオニズムの神学的批評」講演に対するコメントを依頼されています。今回この準備をも兼ねて「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ ーを挿入させていただいています。
先週と同様、今週も下記の聖書箇所を読みましょう。旧約聖書アモス書5:21
「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。5:22
たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。5:23
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。5:24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。
「キリスト教シオニズムの地球規模での変貌に関する国際会議」に向けてのコメント準備の中で、私の心に去来している聖句と思いは、先週も紹介しました、米国の宗教社会学者ピーター・バーガー著『聖会の騒音』の中にあるメッセージです。「いわゆるリバイバルが、いかに社会正義を無視した単なるお祭り騒ぎ」となっているのではないかという問いかけです。そして、この十年間、わたしの身近で見聞きしてきた「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の様々な運動や教えの、日本のキリスト教会や諸種の聖書学校、宣教団体等に浸透してきたものの中に、“社会正義に対する盲目”が内包されており、その盲目の背後に“誤った福音理解”への傾倒があるのではないかと懸念しているのです。わたしは「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病と題しました。それは、わたしの知人・友人・同労者たちの中に、この運動や教えに共鳴している人もあるからです。ある人たちは、この運動や教えを、“異端的”と断罪し、いわば「不治の病」として扱います。しかし、私は、これらの誤った運動や教えの影響下にある知人・友人・同労者たちの健全な福音理解に向けての治療と健全化に望みを置いているのです。
それで、彼らのうちの「幾人か、なりとも」を治療し、「誤った福音理解」への傾向から解放し、「社会正義に対する盲目」を癒したいのです。
わたしの言う「誤った福音理解」とは、旧新約聖書をイスラエル民族を軸に解釈する「ディスペンセーション主義の誤った聖書解釈」であり、「社会正義に対する盲目」とは誤った聖書解釈にあおられてイスラエルのアパルトヘイト的政策や占領地への入植地政策を支持する「キリスト教シオニズムの運動の誤った倫理的実践」です。わたしは、この問題を二年前に、福音主義神学会の中部部会講演で扱わせていただいています。以下、礼拝における「講義、また講演」のスタイルとはなりますが、拙著『福音主義イスラエル論Ⅱーディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』(アマゾン書店キンドル本)の論稿を、紹介させていただきます。
(中略)
東西ヨーロッパとロシア等における熾烈極まる迫害、特にナチス・ドイツ下の苦難の結果、「出ヨーロッパ」が起こりユダヤ人難民はパレスチナに殺到することとなりました。この出来事はこのように語られます。[ある人が道を歩いていました。ところが、急に建物で火災が起こり、「火事だ!」と叫びつつ、窓から飛び降り、道を歩いているその人の上に落ち、大けがをさせました。その人が「何ということをするんだ!」と抗議すると、「焼け死にそうになっていたんだ。文句あるか!」とさらに暴力を加えました。その人が「何をするんだ!やめろ!」とさらに抗議すると、さらにさらに暴力を加え続け、何の罪もない通行人は瀕死の状態にされてしまった。]というのです。
「ヨーロッパにおける犯罪的出来事」とは無関係なパレスチナ人たちは、二千年間住みなれて来た国土の約半分を奪われたのみならず、国連により割り当てられた残りの半分も「占領と入植によって食い尽くされ」そうになっているのです。そのような時に、パレスチナ人の自決権を認めず、占領下での入植という犯罪を犯し続けているイスラエルを支援する「聖会」「ささげもの」「歌の騒ぎ」「琴の音」で盛り上がっている教会の諸集会を、神はどのように見ておられるでしょうか。
わたしは、身近に十年くらいこのような「日本におけるキリスト教シオニズム」の動向に心を痛めてまいりました。これらのことは、今回の世界会議を通して、イスラエル政府やキリスト教シオニズム諸団体のグローバルな取り組みの一端であることを知りました。私たちは、キリスト教の名を冠した諸運動・諸活動の背後にある事柄に無知であってはならないと教えられました。
このような影響下で、わたしは、日本のある諸教会・諸聖書学校・宣教団体等は、「イエス・キリストの人格とみわざを軸とした“健全な”福音理解」から「イスラエルを軸とした“誤った”福音理解」への“変質過程”の中に置かれているのではないかと懸念しています。わたしは、この「福音理解の変質」こそが問題の根源であり、中心であること。そして日本の、ひいては世界のキリスト教会は、この「福音理解の変質」に警戒を怠ってはならないこと。“健全な聖書解釈への処方箋”を提示し、治療に取り組まなければならないこと。これが大切であると思います。キリスト教会は、中東パレスチナの平和共存の“破壊者・妨害者”であってはならないのです。私たちは、「今日、私たちの教会が立っている立ち位置」をグローバルな視点から見つめ直しつつ進む時であると思います。
クリスチャンは「ディスペンセーション主義の誤った教えとキリスト教シオニズムの誤った実践の要素を否認することによって、ヤコブとエソウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とパレスチナ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける」というかたちで、イスラエルとパレスチナの地に「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせ」る方向性をもって、「聖会」「ささげもの」「歌の騒ぎ」「琴の音」をささげるべきなのではないでしょうか。
「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」このアモスの言葉が、日本の、そして世界のキリスト教会の中に、聖書学校の中に、宣教団体の中に、メッセージの中に、講義の中に、祈り会の中に、鳴り響くよう祈ってまいりましょう。
2021年10月10日「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ:②安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』紹介 B.
ピーター・バーガー著『聖会の騒音』紹介―「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ」
https://youtu.be/WqGYij-chQc
先週末には、「キリスト教シオニズムの地球規模での変貌に関する国際会議」に向けて準備会がもたれました。アフリカとインドと日本ですので、時差がありスケジュール調整がなされました。この会議は、四つのセッションからなっておりましてー「①国境を越えた連帯に向けた解放の神学、②非西欧世界におけるキリスト教シオニズムの神学的批評、③宗教的ナショナリズムと宗教の政治利用への挑戦、④シオニズムの解体、連帯の再構築」の四つで、各セッション約五名で合計20名ほどの会議で構成されています。
この分野の世界各地の研究機関・大学・宣教地に散在されている研究者がズームを通して会議に集われ、有意義な学際的貢献に取り組まれることになっています。わたしもささやかな貢献をするよう、第二セッションの「非西欧世界(インドとアフリカ)におけるキリスト教シオニズムの神学的批評」講演に対するコメントを依頼されています。時宜にかなった奉仕ができるよう、お祈りください。今回この準備をも兼ねて、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ ーを挿入させていただいています。
(尚、私の担当は、日本におけるキリスト教シオニズムの動向に触れることも含まれています。学際的研究の一資料としての役割もあり、私の身近で実際に見聞きした「キリスト教シオニズム」の諸形態とその唱道者に実名で言及しています。)
それでは、今朝の関連聖書箇所を読みましょう。旧約聖書アモス書5:21
「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。5:22
たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。5:23
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。5:24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」
今朝の聖句は、米国の宗教社会学者ピーター・バーガー著『聖会の騒音』で引用されている一節です。これは、1950年代の米国における宗教復興、いわゆるリバイバルがいかに社会正義を無視した単なるお祭り騒ぎであるかを宗教社会学的に分析した書物です。しかしその主旨がただの記述にあるのではなく、「厳しい批判」にあることは、その書名が預言者アモスの言葉からとられていることにも示されています。つまり、バーガーは、「福音理解」の視点と「その倫理的実践」の視点の両方から米国の宗教状況を分析し、発言しているのです。今回のシリーズにおける私の狙いもそこにあります。
事実、バーガーのこの書物は、米国の教会に役立つ書物となりました。米国における「公民権運動」、すなわち「人種差別撤廃運動」への白人の参加と支持を促進する役割を果たしたからです。たとえば、毎日曜日、「神の愛と隣人愛」を説教していても、「その礼拝の時間」が、白人と黒人が100%混じり合うことのない、最も「人種差別の徹底した、人種の分離が徹底した時間帯」であることを、客観的な社会学的データで見せつけられたとき、多くの”良心的な”白人クリスチャンは悔い改めに導かれ、そして運動に参加するために立ち上がったのでした。
今日、米国の学校、役所、会社などが「人種差別」のみならず、「性差別」もしないで入学や就職をさせることを
Affirmative Action
と呼んでいますが、バーガーの書物は「人種差別」に対する批判および抵抗として役立っただけではなく、「より積極的な平等共存の確立と形成」に役立ったのです。私の願いは、今回の「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ
や「キリスト教シオニズムの地球規模での変貌に関する国際会議」における私のコメントが、イスラエルとパレスチナの二国家の平和共存を促す、いわば”ひとつのベクトル”として同様の役割を果たすことです。
(中略)
さて、最後に、南アフリカ共和国と「イスラエル・パレスチナ問題」を対比してみましょう。周知のように、南アフリカ共和国は、オランダの植民地でありました。元々の住民であった多数派の黒人は少数の白人によって支配され、人種は分離して生活させられる「アパルトヘイト」の国となっていました。国際的圧力の中で、アパルトヘイト政策、人種差別政策は廃止され、多数派の黒人大統領の国と変貌してきました。
同様に、現在「イスラエル国家とパレスチナ」の地には、二千年間アラブ人、パレスチナ人が多数派として住んでおりました。そこに、二千年の迫害と悲劇を経て、元々の住民としてユダヤ人がヨーロッパやロシアから避難してまいりました。パレスチナ人の西岸とガザを合わせての土地は6000平方キロメートル(四国の四分の一程度)、
イスラエル国家の土地面積.
2.2万平方キロメートル(日本の四国程度)1946年の英国の委任統治時代には、これらのすべての土地の94%がパレスチナ人のものでした。ユダヤ人の大量の帰還に伴う争いの結果、1947年の国連決議により、パレスチナ人の土地は、すべての土地の43%に減らされました。これに反発した戦争の結果、1948-67年にはすべての土地の25%となりました。2012年までの、イスラエルの植民地状態下での「入植活動」により、パレスチナ人の土地は実質的には「すべての土地の8%」にまで減少しているとのことです。
https://ccp-ngo.jp/palestine/
今回の会議の原稿から教えられたことのひとつは、アフリカのタンザニアのジュリアス・ニエレレ大統領の言葉です。彼は、2019年にバラウィで、アフリカの指導者たちに向けてこう語りましたー「私たちの世代は、自国の独立のためのナショナリズムの世代でした。しかし、パレスチナ人の窮状は非常に異なり、はるかに悪い状態です。彼らは自分の国を奪われてきました。彼らは自分の土地すらない国となりつつあります。したがって、彼らは全世界からのサポートに値します」。
今朝、私は、米国の宗教社会学者ピーター・バーガーにならって、現在の、世界の、そして日本における「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の動向とこの運動と教えに対する日本の諸教会、諸団体、諸聖書学校、諸キリスト教放送、等に向けて旧約聖書アモス書の言葉を開きました。「5:24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」この言葉が、主からの御声として、日本と世界のキリスト教会に響き渡りますよう、お祈りください。祈りましょう。
2021年10月3日「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ:「イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒しー神の計画は回復されたパラダイス以下のものではない」②安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』紹介
A. アブラハムに対する「祝福の約束」の解釈
https://youtu.be/rz80U8K7UEg
さて「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病と申しますと、そのような働き、運動、教えに関わっておられる方々には、少し“ショッキング”な呼び方と受けとめられるかもしれません。
今回、このような「シリーズ名」とさせていただきましたのは、この運動と教えが内包しているものは、一般に受けとめられているよりも、深刻な問題であると思うからです。
一般的には、長年迫害され、アウシュヴィッツやアンネの日記等にもあるような経験、そして避難所としての「パレスチナでのイスラエル国家の建設、その繁栄と祝福」を祈り、支援していくことは、
私たちが「クリスチャンとして、この時代を神の御前に真実かつ誠実に生きていきたい」という願いに叶うものであると受けとめられています。確かに、そのような側面はあります。
しかし、物事はそのように単純ではないのです。AD.70年のローマ帝国による「エルサレム崩壊とユダヤ人の離散」以来、パレスチナの地に移り住んできていた人々が「パレスチナの地」から追い出されはじめたのです。2000年間の離散と迫害の歴史を経て、世界各地から帰還してきた多数のユダヤ人たちとすでに住んでいたアラブ人たちの間で争いが頻発しました。
その解決のために、国連は「パレスチナの地」を分割し、二つの国家を認めることにしました。しかし、それがユダヤ人側に有利な内容であったために、アラブ人側はそれを不服として数度の戦争を仕掛けることになりました。ただ、米国からの多大な軍事的・経済的支援を得ていたイスラエルは、大きな勝利をおさめ続け、「国連が、パレスチナ人の独立国家のために確保していた土地ーガザと西岸」までも収奪し、植民地として「入植活動」を続けています。
元々、住んでいた土地を奪われた上、独立の可能性を有するわずかな土地さえも、浸食され続けているパレスチナの人々にとって、絶望的な情況が続いています。その絶望がさまざまな抗議活動を起こしているのです。このような違法な情況を放置している国際社会、そして大きな影響力のある米国政府と議会、その背後で“誤った”圧力団体となっているキリスト教会、特にその中に存在する「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えの中には、新約のキリスト教の「使徒的な福音理解」また「使徒的な倫理的実践」からの大きな逸脱が見られます。わたしは、このことを拙著『福音主義イスラエル論』ⅠとⅡ(キンドル本)で詳述しています。
そして、特にここ十年、米国のみならず、世界各地に「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えの輸出と既存のキリスト教会への普及・浸透が図られてきています。わたしは、このようなグローバルな動きに対する無知は、長い先に「キリスト教会における“福音理解の変質”」をもたらしかねない要素のひとつと認識しています。そして、この“病”の治療と処方箋の提示というかたちで、大変懸念をもって取り組んでいます。このような歴史的状況の中において、「新約の光の下に生きるクリスチャンはどうあるべきなのか」という課題が突きつけられているのです。
過去の歴史的経緯から、「ユダヤ人にとって安全な国づくり」の確立ということは理解できますが、それとともに「国土を半分奪われ、あてがわれた残りの半分も、植民地状態に置かれているパレスチナ人の民族自決権」の尊重というものに、国際社会、また特に「新約の光の下に生かされているクリスチャン」は真剣かつ丁寧に取り組んでいくべきなのではないでしょうか。
(中略)
わたしは、多くの素朴で、純粋な信仰を抱いている日本のクリスチャン、キリスト教会、諸団体、諸聖書学校等が、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」が内包している問題点や課題について、
どんな情報をも知ることなく、迫害の歴史をもつユダヤ人たちに対する同情心から、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」が内包する誤った聖書解釈と誤った倫理的実践に染め上げられていくことに大きな懸念を抱いている一人です。
迫害の歴史をもつユダヤ人が「安全な国づくりする権利」は尊重しなければなりません。しかし、同時に「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸に、“新約の光の下に”旧約聖書を解釈し、倫理的実践に生きるように召された私たちは、アラブ人また、パレスチナ人の“民族自決権”をユダヤ人と同レベルで尊重しなければ、「片手落ち」の正義となってしまいます。
新約の光に生きる「クリスチャンは、民族差別主義的でアパルトヘイト的な”キリスト教シオニズムの不適合な要素”を否認することによって、
ヤコブとエソウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける」方向で祈り、ささげ、貢献すべきなのではないでしょうか。
また、新約の光に生きるクリスチャンは、旧約の“誤った民族主義の影”の支配から脱し、新約の光が差し込んでいる“未来の普遍的な神の国”ー
黙示録22:2に示されているように、「イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒し」ーこれが神の目的であり、私たちの使命であるのではないでしょうか。
私たちは、誤った熱狂や盲信に翻弄されることなく、“福音理解の変質過程”に身を委ねることなく、新約のみことばの約束通りに「神の計画は回復されたパラダイス以下のものではない」という確信を胸に抱いて、未来から送られてくる“雲の柱、火の柱”に導かれて旅を続けましょう。祈りましょう。
2021年9月26日「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー その治療のための処方箋シリーズ ー①
ステファン・サイザー著『キリスト教シオニズム』概要紹介
https://youtu.be/iAYPnGCMPes
いつもは、『詩篇』傾聴シリーズに取り組んでいるのですが、今日からしばらくは「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー
その治療のための処方箋シリーズ ーを挿入し、取り組んでいきたいと思います。
最初に関連聖句を唱和しましょう。
マタイ13:24
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25
ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。13:26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
マタイ5:9 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」
しばしの「方向転換」の経緯を説明させていただきます。
先日、拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』を読んでくださった先生から一通のメールが届きました。「キリスト教シオニズムの地球規模での変貌に関する国際会議に参加してくださり、講演に対するコメントをしていただけないでしょうか」と。
時に「迷惑メール」のケースもありますので、いろいろ調べさせていただき、「信頼できる内容」と確認できました。会議まで一ケ月あり、「講演者の原稿」も事前にいただけるということでしたので、「参加し、英語で10分程度のコメント」をさせていただくことにしました。
主催者の意向もお聞きし、主として拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』の視点と日本における、キリスト教シオニズムの運動・教えの最近の動向等に触れつつ、講演にコメントさせていただく方向で準備しているところです。
わたしがコメントすべき対象は、「アフリカにおけるキリスト教シオニズム」と「インドにおけるキリスト教シオニズム」の講演に対してです。まだ講演原稿を受け取っていなかったのですが、早めの準備をと考え、二人の講演者に関する情報を収集し、著書や論文等に目配りしていきました。すると「アフリカにおけるキリスト教シオニズム」の講演者には、この名前を冠した編著書“Christian
Zionism in Africa”があり、それをキンドル本で読ませていただきました。
アフリカにおけるキリスト教会において、「大きな変化が起こってきている」ことが記されていました。アフリカにおけるキリスト教会に「キリスト教シオニズムの運動や教えが浸透しつつある」ということでした。
(中略)
この本は、その歴史的起源、その神学的基盤、この運動の政治的諸結果を明らかにすることが意図されています。
この本が、(キリスト教シオニズムの)推進者と批判者の間で、より重要な対話がなされるにとどまらず、肉体的にも霊的にも、アブラハムの子供たちの間の平和がより広範囲に探究されることに貢献できることを期待されています。
イエス・キリストは、マタイ5:9 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と言われました。
今日は礼拝説教とは言えない、「キリスト教シオニズム」に関するショート・レクチャーという感じのお話でした。研究所のチャペルだからゆるされると思います。また、「寝ている間に、蒔かれ続けている毒麦」についての、今日、本当に必要とされている情報と思います。
一宮基督教研究所チャペルの皆さん、またインターネットを通して視聴してくださっているシンパ層の皆様にとって、このシリーズが「良きワクチン接種」の機会となり、皆さんを通して、このテーマで「迷える羊」となっておられる方々に「治療の手」が伸べられていくよう祈っています。祈りましょう。
2021年9月19日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇30篇「まことに御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちに。夕暮れには涙、朝明けには喜びの叫び」
ー今や、全ての者が体験するように、全ての者がそれを証しして生きるように、それを全世界に向け、全歴史を通じ唱和し続けるようにー
https://youtu.be/IR9OlsFWTqQ
詩[ 30 ] 賛歌。家をささげる歌。ダビデによる。
序. 主をほめたたえる「決意表明」
30:1 【主】よ、私はあなたをあがめます。あなたは私を引き上げ、私の敵が喜ばないようにされたからです。
A.前半:救いの感謝ー主は私を癒された
30:2 わが神【主】よ、私が叫び求めると、あなたは私を癒やしてくださいました。
30:3 【主】よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。
30:4 主にある敬虔な者たちよ、【主】をほめ歌え。主の聖なる御名に感謝せよ。
A.前半:賛美の促しー「いのちと喜び」の源なる主
30:5 まことに御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
30:6 私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。
B.後半:過去の想起ー「おじ惑う者となった」私
30:7
【主】よ、あなたはご恩寵のうちに、私を私の山に堅く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑いました。
30:8 【主】よ、あなたを私は呼び求めます。私の主にあわれみを乞います。
B.後半:救いの感謝ー私を「死」に渡されぬように
30:9
私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりがあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。
30:10 聞いてください、【主】よ。私をあわれんでください【主】よ。私の助けとなってください。
C.ほめたたえの「誓い」
30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き、喜びをまとわせてくださいました。
30:12 私のたましいがあなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神【主】よ、私はとこしえまでもあなたに感謝します。
【メッセージ】
本詩は、「個人の報告的ほめたたえの詩篇」でありますととものに、長き歴史の中で「神の民」の礼拝の中で歌われてきた歌でもあります。後代に付記された「家をささげる歌」と題された本詩の標題がそのことを物語っています。
この付記の歴史的事情は、シリアのアンティオコス・エピファネス(BC.175-163在位)の暴政によって、エルサレム神殿は汚され、律法の遵守すら禁止されるという悲境に陥ったユダヤ教徒たちが、ハスモン家の一族を中心として奮起し、シリヤの軍隊を撃破して、BC.164年の12月に、ついに神殿の粛清を成し遂げることができたことにあります。後、毎年この日を記念して「宮きよめの祭り」を行うことが、彼らにとって、大きな意味を持つ国民行事となったのです。
そして、本詩冒頭の「家をささげる歌」という標題は、この祝いの席でこれが歌われたことを示しています。この事情からうかがわれますように、宮の「奉献」という言葉は、単なる宗教行事におわるものではなく、異民族の支配にあえいできた人々にとって、その桎梏からの解放を祝う「民族独立」の言葉でもあったのです。
とはいえ、元々はこの詩人が「陰府」から救い出された感謝を、ユダヤ教徒たちは、自分たちの置かれた悲痛な境遇からの救出を仰ぎ望む告白として、共に唱和してきたのです。「30:5
まことに御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」このさりげない告白の唱和の歴史の中に、実に数百年にのぼる、長い待ち望みの期間が含蓄されてきたのです。
(中略)
最後に、この経験は、詩篇詩人の「個人」の体験ではありますが、「30:9
私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりがあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。」「30:12
私のたましいがあなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神【主】よ、私はとこしえまでもあなたに感謝します。」と、今や、全ての者が体験するように、全ての者がそれを証しして生きるように、それを全世界に向け、全歴史を通じて唱和し続けるように、と奨励しているのです。
詩篇詩人の奨励に励まされ、私たちもまた神の民の数百年、数千年の「詩篇30篇唱和」に加えられていきますように、そして新約の神の民として、パウロのように、「死の力」は「十字架の死の力、そしてよみがえりの力」と重なり合うのだと信じ、[Ⅱコリ4:12
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いている…、4:17
私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらす…、4:18
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くから…]と告白し、
今週もまた「御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちに。夕暮れには涙、朝明けには喜びの叫び」と唱和し続けてまいりましょう。祈りましょう。
2021年9月12日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ
詩篇29篇「栄光の神は、雷鳴をとどろかせる」ー「日本を守り抜く」と主張される政治・宗教環境の直中で、「クリスチャン、如何に生きるべきか」ー
https://youtu.be/z-6Zi5LProw
*
詩篇[ 29 ] ダビデの賛歌
A. 「力ある者の子ら」への呼びかけー天上
29:1 力ある者の子らよ。【主】に帰せよ。栄光と力を【主】に帰せよ。
29:2 御名の栄光を【主】に帰せよ。聖なる装いをして【主】にひれ伏せ。
B. 「水」を制圧する神(ヤーウェ)ー天上と地上
29:3 【主】の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴をとどろかせる。【主】は大水の上におられる。
C. 神(ヤーウェ)の顕現、北方の山々ー地上
29:4 【主】の声は力強く、【主】の声は威厳がある。
29:5 【主】の声は杉の木を引き裂き、【主】はレバノンの杉を打ち砕く。
29:6 それらの木々を子牛のように、レバノンとシルヨンを若い野牛のように跳ねさせる。
C’. 神(ヤーウェ)の顕現、南方の荒野ー地上
29:7 【主】の声は炎の穂先をひらめかせる。
29:8 【主】の声は荒野を揺さぶり、【主】はカデシュの荒野を揺さぶる。
29:9a 【主】の声は雌鹿をもだえさせ、大森林を裸にする。
A’. 天にある主の宮における神(ヤーウェ)讃美ー天上
29:9b 主の宮ではすべてのものが「栄光」と言う。
B’. 「洪水」の上に座す神(ヤーウェ)ー天上と地上
29:10 【主】は大洪水の前から御座に着いておられる。【主】はとこしえに王座に着いておられる。
D. 民への力の付与と祝福の祈願
29:11 【主】はご自分の民に力をお与えになる。【主】はご自分の民を平安をもって祝福される。
【メッセージ】
本詩は、これまでの「ダビデの物語、ダビデの苦難の経験」と重ねて読む詩篇とは少し変わった詩篇です。この詩篇は、「主の威厳がそびえ立っている、いわばヒマラヤ山脈のような詩篇」です。
パウロが、ロマ1:20で
「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる」と記しているように、ダビデが自然界という「神のみわざ、神の作品、神の活動の舞台」の中に見た、神の威厳です。
1-2節の「超自然的な存在」が、主に敬意を表する情景に始まり、3-9節「激しい雷雨」が海からカナンの全域、さらに砂漠まで通っていきます。雷雨が鳴りやんで穏やかな頂点に達し、10-11節「主は世界の審判者」として座に着かれる一方で、その民に祝福を与えられます。
(中略)
以上を導入部として、3-9節で、「自然界における主の顕現」が描かれます。ここに、七度も繰り返して出てくる「主の御声」とは、具体的には「雷鳴」を指しています。
ダビデは、「主の臨在」をその御声によって表現すべく試みています。神は「その言葉」によって天と地を創造された「創世記1章」を想起させられます。
カナンの宗教の背景にみられる「ウガリットのテキスト」においては、雷は「バアルの声」とされていました。つまり、この「神話的表象」を援用しつつ、ダビデは、バアルにではなく、主なる神にこそ、栄光と力が帰されるべきだと述べているのです。
3節「主は大水の上におられる」という言葉も、同様に理解できます。「カナンの神話」においては、バアルが水と戦ってこれを征服したとされていますが、バアルではなく、「主なる神」が大水の上に君臨する方として、描かれているのです。
続く4節で、「主の声」には威厳がある。と歌っていることは、主の全能と尊厳を讃える趣旨です。これが5節以下で、「自然界に現れる雷鳴の威力」として描写されています。杉は、レバノンの樹々の中でも、特に珍重されていたもので、その「威容を語る言葉」は聖書の中にきわめて多くあります。
しかし、そびえ立つこれらの樹々も、ひとたび「主の声
」が臨めば、たちまちのうちにへし折られしまうというのです。それだけではなく、「そのとどろき」に驚愕して、レバノンも仔牛のように飛び上がり、これに並び立つ「(シルヨンとは、ヘルモンのフェニキア名)ヘルモン山」も、野牛の仔のように飛び上がる、と描写しています。
7節「炎の穂先をひらめかせる」は、稲妻が何本かにも分かれて走る情景です。それらは、9節「雌鹿をもだえさせ、大森林を裸にする」と、恐るべき雷鳴によって雌鹿が流産し、森が裸になるというところにまできて、9節の最後の行では場面が一変します。そこでは、「雷鳴」で震われ、揺すぶられる「地上」から、その視点が「天上」に移されています。この「視点」の移動というのは、私たちの「信仰のもつ内的構造」から大切な要素です。
「ヨハネの黙示録」においても、この「天上の視点・地上の視点」の交互の移動が頻繁にみられます。ローマ帝国の威容と迫害という「地上における苦難」の直中で、この事情・事態を「天上の視点で見つめ直す」という「信仰が本来、内包する機能」を生きる力としていく秘訣です。
29:10
「【主】は大洪水の前から御座に着いておられる。【主】はとこしえに王座に着いておられる。」この個所からは、カナンやバビロンの「宗教環境という洪水」の直中で、「迎合して生きる安易な道」ではなく、「襟を正して、主なる神を純真に愛する道」を選び取って生きんとするイスラエルの民、タビデの生き方を教えられます。
そして、29:11
「【主】はご自分の民に力をお与えになる。【主】はご自分の民を平安をもって祝福される。」からは、この詩篇29篇が、天上の視点から言えば、“主のみ旨からはずれた意味で”
「日本を守り抜く」と主張される政治・宗教環境の直中で、「クリスチャン、如何に生きるべきか」を問いかけ、励まし、チャレンジしている詩篇と言えるのではないでしょうか。祈りましょう。
2021年9月5日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇28篇「主は、私の願いの声を聞かれた。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」ー「神の沈黙」は、神への新たな信頼とそれに基づく希望へと開かれる「新しい扉への敷石」ー
https://youtu.be/9UEuRbQimJQ
*
詩[ 28 ] ダビデによる。
(嘆願ー神への呼びかけ)
28:1
【主】よ、私はあなたを呼び求めます。わが岩よ、どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が穴に下る者どもと同じにされないように。
28:2 私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。
+
(嘆願ー救いの懇願と報復の祈り)
28:3
どうか悪者や不法を行う者どもと一緒に、私を引いて行かないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。
28:4
彼らの行いとその悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のわざにしたがって、彼らに報いその仕打ちに報復してください。
+
(邪悪な者たちの結末)
28:5 彼らは【主】のなさることも御手のわざをも悟らないので、主は彼らを打ち壊し建て直すことはされません。
+
(信頼ー救いの神に対する讃美)
28:6 ほむべきかな【主】。主は私の願いの声を聞かれた。
28:7 【主】は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。私の心は喜び躍り、私は歌をもって主に感謝しよう。
+
(付加ー民の守り手なる神)
28:8 【主】は彼らの力。主は主に油注がれた者の救いの砦。
+
(付加ー民の救いと祝福の祈り)
28:9
どうか御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも彼らを携え導いてください。
*
(メッセージ)
本詩28篇は、「神の沈黙」という重いテーマを扱っています。1節前半でダビデは、神に向かって「わが岩」と呼びかけています。確固不動なるいのちの支えとして、この神に寄り頼み、この盤石の基盤の上においてのみ、ダビデは生きることができたのです。
しかるに、ダビデは、「その神の御声が聞こえなくなった」と言っているのです。それは、「生ける神との交流が何かの事情で途絶えた」というようなことではなく、「実は、神ご自身の意志的拒絶」を意味するのではないかーこのような不安におののきつつ、ダビデは「どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください」と祈っているのです。私たちの人生も、順風満帆の航海が、突然嵐に巻き込まれることかあるのです。
(中略)
28:6で、「
ほむべきかな【主】。主は私の願いの声を聞かれた」と、自分の祈りを聞き入れてくださった神への讃美が、堰を切った奔流のようにほとばしり出ています。28:7
「【主】は、私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。私の心は喜び躍り、私は歌をもって主に感謝しよう」という、溢れるこの感謝は、神との内的交流が絶たれたところに、ダビデの本来の危急があり、ダビデが「信仰の耳」によって再び「神の恵みの声」をしかと聞き取った、言えるでしょう。私たちも、不当にも「ひとつの道」が閉ざされるかに見える時、神さまは「もうひとつの道への扉への道」を用意してくださっています。
ダビデは、ただ単に「クーデター勢力を駆逐し、聖なる都、また臨在の場所である神殿への帰還、政治的に王位回復」が成し遂げられたことへの感謝にとどまっておりません。「生ける神ご自身」を救いの力、また身を守る盾として再確信、再体験できたことを、ダビデは全存在を挙げて感謝し、讃美を歌っていると見るべきでしょう。私たちも、そのような折には、神が備えられた「新しい扉」を開き、その新しい道に進もうではありませんか。その意味で「神の沈黙」は、神への新たな信頼とそれに基づく希望へと開かれる「新しい扉への敷石」なのです。祈りましょう。
2021年8月29日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇27篇「もしも私が生ける者の地で【主】のいつくしみを見る、と信じていなかったなら」ー人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのですー
https://youtu.be/8fSdwwmYJSE
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詩[ 27 ] ダビデによる。
A.(信頼の詩)ー“already”:神の庇護にあずかる信仰・希望
27:1 【主】は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は、私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
27:2 私の肉を食らおうと、悪を行う者が私に襲いかかったとき、崩れ落ちたのは私に逆らう者、私の敵であった。
27:3 たとえ私に対して陣営が張られても、私の心は恐れない。たとえ私に対して戦いが起こっても、それにも私は動じない。
27:4
一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。
27:5 それは主が苦しみの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
27:6
今私の頭は、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ、【主】に歌い、ほめ歌を歌おう。
*
B.(嘆願の詩:五つの肯定嘆願と五つの否定嘆願)ー“not yet”:信仰の検証の場への引き出し
27:7 聞いてください【主】よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
27:8 あなたに代わって私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。【主】よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。
27:9
どうか御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。
27:10 私の父、私の母が私を見捨てるときは、【主】が私を取り上げてくださいます。
27:11 【主】よ、あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがいますから、私を平らな道に導いてください。
27:12 私を敵の意のままにさせないでください。偽りの証人どもが私に向かい立ち、暴言を吐いているのです。
27:13 もしも私が生ける者の地で【主】のいつくしみを見る、と信じていなかったなら──。
27:14 待ち望め【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め【主】を。
*
(メッセージ)
本詩は、前篇の26篇、後編の28篇と同じく、「ダビデによる」とあります。表題に沿って、「ダビデの生涯」と重ね合わせますと、やはり「アブシャロムによるクーデター事件」が背景としてあてはまると思われます(デリッチ)。
前半(1-6節)と後半(7-14節)で詩の調べが一変します。前半は「信仰と希望の詩」であり、後半は「嘆願の詩」となっています。ある研究者は、これは二つの別個の詩を組み合わせたものだと見ます。また、別の研究者は、「ひとつの詩」として読まれるべきだと申します。
私たちは、この詩を「ひとつの統一された詩」として読みたいと思います。では、前半の「信仰と希望の詩」と、後半の「嘆願の詩」をどのような「関係」とみて理解すれば良いのでしょうか。私は、この前半と後半の「関係」を“already,
not yet - tension” の関係で見ていきたいと思います。
“already, not yet - tension”
の関係と申しますのは、「信仰」というものが内包する「本質的構造」と思います。信仰者は、危機に直面しますときに、1節「恐れ、恐怖」に襲われます。しかし、そのような危機的状況の直中で「主に対する信仰と希望」が湧き上がる不思議な経験ーすなわち「主がおられるから大丈夫だ!」といった思いが去来する、3節「恐れない、動じない」経験をします。
そして、まだ「危機の直中」にあるにも関わらず、4節「いのちの日の限り、主の家に住む」「主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らす」自分の姿のイメージが映し出され、それが“already-すでに”現実であるかのように受けとめさせられ、大きな励ましを受けます。5節「苦しみの日」の直中で、主を仰ぐ時、主は私たちを「隠れ場に隠し」「幕屋のひそかな所にかくまい」「岩の上に」「取り囲む敵(諸問題)の上に」高くあげてくださいます。
前半の、ダビデの“already-すでに勝利を得たとの信仰と希望の詩”を見てきました。では、後半の“not yet –
tensionーまだ、手に入れていない勝利への嘆願”の祈りをどう見ればよいのでしょう。それは、私たちの「信仰と希望」は、苦境の中で「その信仰が検証」されていくということではないでしょうか。ダビデは、クーデターが起こった時に、即座に都を退去し、情勢が好転するのを待ちました。
おそらく、アブシャロムのクーデターは、主君ダビデを殺害することのみによって、展望が開ける戦いであったことでしょう。国全体には、まだダビデの息がかかった要人、官僚、祭司等がたくさんいたからです。ダビデとその側近からなる「王政の中枢部」が生き残れば復帰は可能と踏んでいたことでしょう。
ただ情勢は、まだ混とんとしていました。それで、ダビデは「危機存亡」の直中で、すでに「信仰と希望の詩」で勝利と王宮と神殿への帰還を確信しておりましたが、同時に「嘆願の祈り、戦いの祈り」の中にもあったのでした。私たちも、危機に出くわした時、「主を仰ぎ」ー信仰により与えられた希望によって、“alreadyすでに”勝利を確信することでしょう。しかし、その時は“not-yet”まだ勝利は完成していないので、「嘆願の祈り、戦いの祈り」を破棄することはできないことを知っているのです。
後半の「嘆願の祈り」は、五つの肯定嘆願と五つの否定嘆願から成っています。ダビデは、危機的状況を10節「私の父、私の母が私を見捨てるとき」と表現し、絶望的な情況を描写しています。このクーデターには、ダビデが信頼していた家臣も加わっており、ダビデは「その裏切り」に衝撃をうけたことでしょう。
私たちの人生においても、苦境のなかで「なお希望を抱き続ける信仰」に生きつつ、にもかかわらず「絶望的な情況は変わらない」ということがあります。神を信頼し、誰をも恐れないはずの「信仰」が、苦難の中で「試練に立たされる」ということはあるのです。
神への「信頼」が、必ずしも破れのない自己完結的な人生を約束するとは限らないのです。すなわち、神に「全幅の信頼」を寄せて歩む者でさえ、「神に見捨てられるような情況に置かれる」ことがあるのだ、ということなのです。ですから、「外なる情況だけを見て、判断する」というのは愚か者の陥りやすい過ちなのです。
もっとも、本詩全体の比重は、あくまで前半部におかれ、神を「わが光」「わが救い」「わがいのちの避け所」と信じ抜く信仰の勇気こそが、どのような敵の脅威にあっても、すへでを「耐え抜く力」となるのだと励ましているのです。そこから、「神の庇護にあずかる希望」が紡がれていくのです。嘆願を連ねる後半部は、詠い手をそうした「信仰の検証の場」に引き出すかのように謡われています。
神が沈黙されるかに見えるときにこそ、14節そうした勇気「雄々しくあれ、心を強くせよ」、と希望「待ち望め、主を」を保持し続けよと勧告しているのです。「神の沈黙」と言えば、長崎市外海歴史民俗資料館の一角で、海をみおろす場所に文学碑「沈黙の碑」を思い起こします。この沈黙の碑に、遠藤周作がこの碑のために特別に著した文章を残していますー「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです」。昨今であれば、コロナ禍の苦難、アフガンの苦難等があります。信仰と希望の詩とともに、嘆願の祈りもまた欠かすことはできません。祈りましょう。
2021年8月22日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇26篇「【主】よ、私を弁護して(審いて)ください」ー 外なる人は“フランケンシュタイン“なりとても、見よ
内には御子の姿 ー
https://youtu.be/kqzilhGgp90
*
詩[ 26 ] ダビデによる。
裁きの懇願と潔白の言明
26:1 【主】よ、私を弁護してください。
私は誠実に歩み、よろめくことなく【主】に信頼しています。
26:2 【主】よ、私を調べ試みてください。私の心の深みまで精錬してください。
無実潔白の言明
26:3 あなたの恵みは私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。
26:4 私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。
26:5 悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。
無実の証明と感謝の誓い
26:6 手を洗い、自らの潔白を示します。【主】よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
26:7 感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。
26:8 【主】よ、私は愛します。あなたの住まいのある所、あなたの栄光のとどまる所を。
救いの懇願と潔白の言明
26:9 どうか私のたましいを罪人どもとともに、私のいのちを人の血を流す者どもとともに、取り去らないでください。
26:10 彼らの手には悪事があり、その右の手は賄賂で満ちているのです。
26:11 しかし私は誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。
平安と讃美の誓い
26:12 私の足は平らな所に立っています。数々の集いで私は【主】をほめたたえます。
*
1節から見てまいります。本詩の歌い手、ダビデは「26:1
【主】よ、私を弁護してください。」と詠い出します。この聖句の「弁護してください」は、文字通りには「私をさばいてください」(新聖書注解)です。
新改訳2017、新改訳第三版「主よ、わたしを弁護してください」、口語訳「主よ、わたしをさばいてください」、共同訳「主よ、あなたの裁きを望みます」、NKJV,
“Vindicate me, O Lord” -
Vindicate[わたしに対する非難[汚名,嫌疑,疑惑]を晴らしてください]、Today’s English
Version, “Declare me innocent, O Lord”-
[わたしが潔白であることを明らかにしてください]
つまり、ダビデは、何らかの理由で非難されているのです。その理由は具体的に記されていません。しかし、ダビデは、自己の内面を徹底的に検討することを神に求め(2節)、自己の歩みの誠実さを主張しています。これは、自己義認ではなく、神の恵みと真理とを拠り所にしての訴えの祈りです。
(中略)
この祈りをささげた時、「26:11
しかし私は誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。」とダビデは、まだ、アブシャロムに与する反乱軍の追撃を受け、危機の中にあります。しかし、ダビデは、この「訴えの祈り」がすでに受け入れられたと確信しています。「26:12
私の足は平らな所に立っています。数々の集いで私は【主】をほめたたえます。」と平安を与えられ、讃美に溢れているからです。わたしたちは、生涯のうちに「数限りなく、大小のさまざまな事件、苦難、苦境」に巻き込まれ続けます。
先日、気分転換にと、ある映画を視聴しました。それは、あの有名な「フランケンシュタイン」という小説を書いた18歳の女性メアリーの物語でした。彼女は、ある詩人と幸せな人生を夢見て、駆け落ちするのですが、彼女かそこで直面したのは、貧困と子供の死、深い孤独と絶望でした。そのような彼女自身の化身として描かれたのが「フランケンシュタイン」という小説でした。映画の中で「この怪物は、私自身です」と証言しています。
夫のパーシーは、「人生に苦悩は付きものだ。だが、君の絶望と後悔の深さを、僕は分かっていなかった。」と謝罪します。そして、妻のメアリーが「私は身一つであなたの元へ…。何かを生み出せると思ったから。美しい何かを。でも、現実は過酷だった。」そして「御覧の通り、[私は]怪物に。」「だけど、絶望との戦いの中で、私の声を見つけた。私の選択が[怪物の]私を、そして[作品を]創った。後悔してないわ。」と応える場面があります。
わたしは、この映画に、詩篇26篇に類する場面を見せられます。ダビデは、私たちに「人生に苦悩は付きもの」であることを教えてくれます。私たちは、ある意味、甘い夢を見て、人生を始めます。しかし、人生は私たちが思っていた以上、予想していたことをはるかに超えて、波乱万丈で、時に過酷です。しかし、ある意味、その人生の過酷さが、苦難、苦境が、「屍をつなぎ合わせて、蘇生させた“フランケンシュタイン”のような」私たちの人生を、存在を、人格を、神さまは“真に本質的な意味”において「御子のかたちと同じ姿」となるよう「すべてのことをともに働かせて益としてくださる」(ローマ8:28-29)と確信して良いのです。
メアリーは「見よ。私の内に、怪物」と告白しました。私たちは外なるかたちにおいては「フランケンシュタイン」のようであっても、「見よ。私の内に、御子の姿」と告白して生きてまいりましょう。「26:12
私の足は平らな所に立っています。数々の集いで私は【主】をほめたたえます。」とそのことを意味していると思います。祈りましょう。
2021年8月15日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇25篇「私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください」ー「苦難のしもべ」において明らかにされた“逆説的な克服の光”に照らされて歩むー
https://youtu.be/FRwoRajInpY
*
詩[ 25 ]ダビデによる
A:わがたましい、恥を見ないように、敵、待ち望む
25:1 【主】よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。
25:2 わが神、あなたに私は信頼いたします。どうか私が恥を見ないように、敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
25:3 まことにあなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。
B:私の若いころの罪や背きを
25:4 【主】よあなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。
25:5 あなたの真理に私を導き教えてください。あなたこそ私の救いの神、私はあなたを一日中待ち望みます。
25:6 【主】よ、思い起こしてください。あなたのあわれみと恵みを。それらはとこしえからのものです。
25:7
私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって私を覚えていてください。【主】よ、あなたのいつくしみのゆえに。
C:道を示す、契約
25:8 【主】はいつくしみ深く正しくあられます。それゆえ罪人に道をお教えになります。
25:9 主は貧しい者を正義に歩ませ貧しい者にご自分の道をお教えになります。
25:10 【主】の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。
D:私の咎の赦し
25:11 【主】よあなたの御名のゆえに私の咎をお赦しください。それは大きいのです。
C’:道を示す、契約
25:12 【主】を恐れる人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
25:13 その人のたましいは幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ。
25:14 【主】はご自分を恐れる者と親しく交わり、その契約を彼らにお知らせになる。
B’:私のすべての罪を
25:15 私の目はいつも【主】に向かう。主が私の足を罠から引き出してくださるから。
25:16 私に御顔を向け私をあわれんでください。私はひとり苦しんでいます。
25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。
25:18 私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。
A’:敵、わがたましい、恥を見ないように、敵、待ち望む
25:19 ご覧ください。私の敵がどんなに多いかを。彼らは不当な憎しみで私を憎んでいます。
25:20 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けます。
25:21 誠実で直ぐな心で私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから。
X:イスラエルを贖う
25:22 神よ、イスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください。
*
【メッセージ】
まず、最初にこの詩篇の特徴を説明させていただきます。
この詩篇は、各節の冒頭の文字がヘブライ語のアルファベット順で変化する「アルファベット詩」と呼ばれるもので、美しい文学類型のひとつです。
全体は、神に対するダビデの「信頼」と「懇願」とで織りなされる祈りです。ダビデがこの詩をしたためた時を特定するとすれば、息子アブサロムが「王権奪取」のクーデターが起こしたの時であったことでしょう。そこに注目しつつ見てまいりましょう。
[25:7 私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。][25:11
【主】よあなたの御名のゆえに私の咎をお赦しください。それは大きいのです。]とあるように、神に油注がれ、イスラエルの王として召され、即位した若きダビデは、不意をつかれたように「屋上で体を洗うバテシェバの裸」を見て、恐ろしい姦淫の罪を犯してしまいます。そしてその罪を隠蔽するためにその夫ウリヤを戦場で殺害するというさらに恐ろしい罪を重ねてしまいます。
そして、その結果としてダビデ家の中にさまざまな災いが起こり、息子アブサロムが「王権奪取」のクーデターという窮地に追い込まれたことを思い起こし、[25:18
私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。]と懇願しているのです。
ダビデは、預言者ナタンに[Ⅱサムエル12:9
どうして、あなたは【主】のことばを蔑(さげす)み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。12:10
今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』12:11
【主】はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。2:12
あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」]という宣告を受け、それが今や現実のものとなってしまったのでした。
(中略)
このような基盤の上に生かされ、このような導きの中に生かされている私たちは「人生に起こりくる様々な否定的状況」を恐れる必要はありません。
「これは、“因果応報”的な、わたしの若いころの罪の刈り取りではないのか」と旧約的な価値観の影におびえる必要はありません。
私たちは、エジプトのヨセフのように「創世記50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」とあるように、
キリストにおいて、“因果応報”の鎖は断ち切られ、「私たちの若い時の、あるいは年老いた時の、あるいはあらゆる時期の、失敗や挫折や、病や障害や、あらゆる否定的材料」は、神の摂理の働きにより、御霊の導きにより「ローマ8:28
すべてのことがともに働いて益」としてくださるのです。
ですから、私たちはダビデにみる信仰と価値観を超えて、「私たちの若いころからの罪や背きがすでに完全に赦されていることを感謝します。」「私たちの大きな咎がすでに完全に赦されていることを感謝します。」「私たちのすべての罪がすでに完全に赦されていることを感謝します。」とこの詩篇を歌い直しつつ唱和することができるのです。
そして、私たちは、私たちが人生の否定的状況の中に歩ませられることがあるとしても、私たちの存在と生涯を「苦難のしもべ」の生涯と本質に重ね合わせ、「私たちは、キリストにあって、“否定的状況”を恐れません。恥としません」と歌うことができるのです。
私たちは、 [イザヤ53:3
蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみ、病の中にあり、人が顔を背けるほど蔑(さげす)まれ、尊ばれることがない]としても、わたしたちは「25:4
あなたの道、真理」の道に歩み、「25:9 正義の道、主の道」を進みゆくよう、「25:21
誠実で直ぐな心」で保たれるようにと祈ります。祈りましょう。
2021年8月8日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇24篇「門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。
」ー亜麻布のエポデをまとって、主の前で力の限り跳ね回ったダビデのようにー
https://youtu.be/lIIjXkYC9Ug
*
詩[ 24 ]ダビデによる。賛歌。
24:1 地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは【主】のもの。
24:2 主が海に地の基を据え、川の上にそれを堅く立てられたからだ。
24:3 だれが【主】の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
24:4 手がきよく心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。
24:5 その人は【主】から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。
24:6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち、あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ
24:7 門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く力ある【主】。戦いに力ある【主】。
24:9 門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:10 栄光の王、それはだれか。万軍の【主】、この方こそ栄光の王。セラ
*
【メッセージ】
最初に、この詩篇の背景と概略を説明させていただきます。この詩篇は、王としての栄光の神が聖所に入られることを歌った詩篇です。一般的に、神の臨在の象徴である契約の箱が、聖所にかつぎ入れられるのがその具体的状況であったと推定されます。さて、1節から順に見ていきましょう。本詩は三つの段落から構成されています。
第一の段落は主をほめたたえる歌です。世界とそこに存在するすべては神に属すると讃美歌風に宣言されています。世界は神による創造物、神の作品だからです。
「24:2
主が海に地の基を据え、川の上にそれを堅く立てられたからだ。」は、「海」も「川」も創造以前の混とんの水を指しています。「混とん、茫漠」を制圧し、秩序ある美しい世界を造り上げられた神を讃美しているのです。そのような意味で、1-2節は神の支配と創造の力をたたえた歌で、地の支配者として迎えられる神への信仰告白です。
*
第二段落、3-6節は、神のみすまい、臨在のある場所に参拝に訪れる参拝者と神殿の祭司の応答歌です。それは、1-2節を受けて、「創
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2:2
神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3
神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。」とあるように創造世界の完成は、安息に至り、礼拝、感謝に至ります。
3-6節は、創造の世界の中心としてのシオンにある神の聖所に関し、「その聖所に入る者はだれか」と問い、祭司が「それに対して答えて」います。この礼拝者には、十戒に見られるように「そのたましいをむなしいものに向けず」と偶像礼拝を避け、「偽りの誓いをしない人」と隣人とのその生活の倫理性が問われています。聖なる神が優れて倫理的な方であられるからです。
そのような神殿に至る門の入り口で「24:3
だれが【主】の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。」と神殿入場の資格を問う参拝者に対し、神殿の祭司が「24:4
手がきよく心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。24:5
その人は【主】から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。24:6
これこそヤコブの一族。神を求める者たち、あなたの御顔を慕い求める人々である。」と応答し、参拝者の神殿入場資格が確認され、入場が許可されます。
*
さて、第三段落をみてまいりましょう。7-10節は、ダビデの時代のエルサレムにおける契約の箱を迎える時の歌に発し、記念碑的に残され、徐々に形式を整えられてきた歌、要するに「神を迎える」という信仰に立って歌われた詩です。
7-10節は、神殿の門で、おそらく契約の箱を先頭にした行列が止まり、合唱隊が門に向かって呼びかけるように「上がれ」と命令します。おそらく、閉ざされていた門が開かれ、覆われていた幕が引き上げられることを意味していたでしょう。
そこで、門の内側より「栄光の王とはだれか」と問い、再び門の外より力強い声で「強く、戦いに力ある主」と応じています。こうして門は開かれ、行列が入場したのでしょう。ここには、「主の臨在」に対する強い信仰が見られます。
*
私は、この詩篇24篇を繰り返し唱和し、瞑想し、味わっていまして、創造の神、ー罪人なる我が身を贖う神、ー御霊において内住してくださる神であると教えられ、この詩篇から以下のチャレンジを受けました。
すなわち、ダビデの時代のエルサレムにおける契約の箱を迎える時の歌に発し、記念碑的に残され、徐々に形式を整えられてきた詩篇24篇「神の臨在の象徴である契約の箱が、聖所にかつぎ入れられる」際に、歓迎の合唱隊の讃美とともに門が開かれ、閉ざされていた幕が引き上げられるこの歌を新約のクリスチャンである私たちの生活に適用するときー創造の神を誉め歌い(1-2節)、贖罪の神に感謝に溢れ(3-6節)、「
24:7 門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。 」「 24:9 門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。
」と御霊によって内住してくださっている神を、日々喜んで受けとめ直す(7-10節)チャレンジとして受けました。
万物の創造者であり、支配者が、御子の犠牲によって贖われたわたしたちの内に、御霊によって内住してくださるーこのような光栄を亜麻布のエポデをまとって、主の前で力の限り跳ね回ったダビデ(Ⅱサムエル6:13-14)のようなスピリットをもって、日々新鮮に受けとめ直したいと思います。
2021年8月1日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇23篇「【主】は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」ー生涯をエッセンシャルに振りかえって感謝に溢れるー
https://youtu.be/RqawiarWJ44
*
詩[ 23 ]ダビデの賛歌
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。
*
【メッセージ】
詩篇23篇を朗誦するとき、私はひとつのことを思い出します。それは、今から35年ほど前、大阪府岬町の岬福音教会の牧師をさせていただいた時のことです。郭みよ姉からの尊いささげものがあり、教会の墓地をつくろうということになりました。それで、メモリアルパークに教会墓地を購入するために下見に行きました。
そのときに、そのメモリアルパークの一角に「十字架の印のついた墓碑」を見つけました。その墓碑には、今朝の聖句の「【主】は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と彫られていました。そして、墓碑の裏側には、二人の召された方の年齢が記されていました。ひとりは30歳台であり、もうひとりは5-6歳であったように記憶しています。
わたしは、この聖句は「クリスチャンの若夫婦で、不慮の事故に遭われ、ご主人とお子さんを亡くされた未亡人」の方の“信仰告白”のように感じ、限界状況の中で主の前に生きておられる「ひとりの凛とした信仰者」の姿を見せられたような気がし、わたしは主の前に立たされ、その方に「最敬礼」している自分を発見したのです。
教会では、教会成長とかリバイバル、礼拝出席と献金額が「評価の物差し」のように見られがちですが、詩篇23篇をこのようなかたちで唱和・告白する兄弟姉妹が見出される時、「畑の中の宝、大きな真珠」のような信仰を発見したかのような大きな喜びが天にあると思います。
(中略)
そのような視点で、今朝の詩篇を見てまいりましょう。この詩篇は、おそらくダビデが平和裏に王国を所有するに至り、幸福かつ望みを抱いて生きることができるようになった晩年の歌であったことでしょう。さまざまな苦難から解放され、自由を得て、神の摂理によって最後まで、そして永遠に主とともに生かされ、幸せであろうとの確信に溢れているからです。さて、1節から見てまいりますと、1節の「【主】は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」との信仰告白から始まり、2-3節「緑の牧場、義の道」とその内容が説明され、4-5節で「死の陰の谷、食卓を整え」と展開し、6節で「いのちの日の限り、いつまでも」と生涯の終りまで、そしてそれを超えて永遠にという視野が開かれています。
(中略)
このように「主を羊飼いとする人生」とは、6節に告白されているように、山あり谷ありの人生において、エッセンシャルな視点から振り返るとき、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来る」人生であると教えられるのです。それは「主の臨在」の生涯であり、「私たちの依拠する心」の生涯です。
最後に、ダビデは、苦難の生涯の直中で、神がこれまで彼のためになされた、もろもろの良きことを数え上げたのち、「私はいつまでも【主】の家に住まいます」と、今や生涯の終りまでだけでなく、永遠まで、すなわち新天新地に至るまで拡張しています。
ダビデのように、私たちも、詩篇23篇に私たちの人生を重ね合わせ、「【主】は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と唱和し、告白し、熱烈な感謝に溢れて歩んでまいりましょう。
2021年7月25日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇22篇「エリ、エリ、レマ、サバクタニ :
わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ー「死中に活を見出す」生き方の中に生かされているー
https://youtu.be/YaX8yPEgkNs
*
詩[ 22 ] 指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて。ダビデの賛歌。
22:1
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。
22:4 あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。
22:5 あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。
22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
22:8 「【主】に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
22:11 どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。
22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
22:17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
22:18 彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。
22:19 【主】よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。
22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。
22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
22:23 【主】を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。
22:24 主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。
22:25 大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
22:26
どうか貧しい人々が食べて満ち足り主を求める人々が【主】を賛美しますように。──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
22:27
地の果てのすべての者が思い起こし【主】に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。
22:28 王権は【主】のもの。主は国々を統べ治めておられます。
22:29
地の裕福な者はみな食べてひれ伏しちりに下る者もみな主の御前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も。
22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。
*
【メッセージ】
まず、今朝の詩篇の概略について申しあげます。
ダビデは、この詩篇の1-2節の「うめきの祈り」において、彼が絶望した人間と見えるほどの窮境に陥っていることを嘆いています。しかし、ダビデは6-8節の「自らの置かれている状況」、12-21節の「彼に押し迫るもろもろの禍」について語った後、3-5節の先祖への約束と経験に根差し、9-11節の「母の胎内にいた時から主のもの」であるとの告白に立ち、絶望のるつぼの中で不信仰に陥る誘惑の深淵を立ち出でます。そして、22-31節で、民を救い出される神の約束と経験に基づき勇気を取り戻して、確固たる望みを抱くに至ります。
*
ダビデの一身において、わたしたちに提示されているのは、キリストの姿です。これは、わたしたちの一身において神が栄光を現わそうとされているのが「キリストの姿」、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れる」(Ⅱコリント4:11)ことです。ダビデは預言の霊によって、このキリストが父によって高く挙げられる前に、考えられるかぎりでのあらゆる種類の虐待をこうむり、卑しめられなければならないことを知っていました。これは、わたしたちの一身において神が現わそうとされている栄光とは、「この世の栄華、勝利、栄光」のような類のものではなく、謙卑の生涯ーすなわち「謙遜な姿、卑しい生涯」という「主と同じ姿」(Ⅱコリント3:18)に変えられていくというものです。
神学生時代と神学校助手時代、キリスト教会では「成功哲学、可能性思考」が流行しておりました。そのような時期に、わたしを教え、指導してくださったフレッド・スンベリ師は「クリスチャンの成長とは、階段を登っていくような“浅薄な”成長コースではない。クリスチャンの真の霊的成長は地下室に降っていく、“より深く、重い、永遠の栄光”への成長の道筋である」(Ⅱコリント4:17)と教えてくださいました。
この詩篇は、そのようなスピリットー「彼は苦悩とさばきとから取り去られた。その代の人々のうち、だれが語ったであろう」というイザヤの預言を説明しているのです。ダビデは、その一身を通して、「キリストの栄光」を説明しました。わたしたちが詩篇に傾聴するとき、キリストのそのような「謙卑の栄光」をわたしたちの生涯、わたしたちのいきざま、わたしたちの一身において現わす方向性を照らされる、そのような生き方を探り求めていきたいと思います。
(中略)
わたしたちは、わたしたちの生涯のうちに、「ユダヤ人たちが経験したような未曽有の苦難」を経験することはないかもしれません。わたしたちは、また「キリストの十字架上での激しい苦しみ」のような「神に見捨てられる」という絶望の中でうめくようなことはないかもしれません。しかし、わたしたちは、いついかなる時も、そのような状況に置かれることがあるかもしれないと予期し、その備えを怠ってはならないと思います。それは、わたしたちの存在の奥底にある“不安感”を治療しつつ、健やかで平穏な精神を維持しつつ生きる秘訣なのです。
今日の詩篇にあるように[22:6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的(まと)、民の蔑み(さげすみ)の的です。22:7
私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。22:8
「【主】に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」]とうわさされ、あしらわれ、吹き飛ばされるような小さな存在です。すなわち、わたしたちは「地位、財産、いのち」を失う不安、「健康を失い、病や苦痛」にさいなまれる不安、「神に見捨てられ、ほったらかしにされる」かもしれない不安ーさまざまな不安を抱えつつ生きている者です。
しかし、私たちは「どんな絶望的な状況」が訪れたとしても「エリ、エリ、レマ、サバクタニーわが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という“信仰”の祈り、“信仰”の叫び、“信仰”のうめきというー「死中に活を見出す」生き方の中に生かされている者であるということなのです。祈りましょう。
2021年7月18日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇21篇「いのちを彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく
ー ダビデとキリスト:旧約聖書の遠近法 ー」
https://youtu.be/aqp9dajIkMM
*
詩[ 21 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
21:1 【主】よ、あなたの御力を王は喜びます。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
21:2 あなたは彼の心の望みをかなえ、唇の願いを退けられません。セラ
21:3 あなたは幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます。
21:4 いのちを彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく。
21:5 御救いによって彼の栄光は大いなるものとなり、威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。
21:6 あなたはとこしえに彼に祝福を与え、御前で喜び楽しませてくださいます。
21:7 王は【主】に信頼しているので、いと高き方の恵みにあって揺るぎません。
21:8 あなたの御手はすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手はあなたを憎む者を見つけ出します。
21:9
あなたの現れのときあなたは彼らを燃える炉のようにされます。【主】は御怒りによって彼らを呑(の)み尽くし、火は彼らを食い尽くします。
21:10 地の上から彼らの裔(すえ)を人の子らの中から、彼らの子孫をあなたは滅ぼしてしまわれます。
21:11 彼らがあなたに対して悪を企て、計略をめぐらしても成し遂げられません。
21:12 あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦(ゆずる)を引き彼らの顔を狙われます。
21:13 【主】よあなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。
*
【メッセージ】
まず、今朝の詩篇の概略について申しあげます。この詩篇は、前回の詩篇20篇と同じく「王の幸せな状態と繁栄」に対する感謝の表明の詩篇です。
1-7節をみますと、ある「共通の祈りの型」があり、すべての民は「王の救い」に心をかけています。ここにおいてまた、「公同の喜び」が「王の繁栄」のうちにあることが示されています。
8-13節をみますと、神がこのような秩序・方法の中で「民全体の安寧」を保とうとされていることが教えられます。この詩篇は「王のための祈り」詩篇です。それは、直接的にはダビデ王を指しますが、同時に主に立てられた王たちをも含みます。
とともに、預言者ダビデを通し、聖霊は「この王国の目標であり、完成であるキリスト」に向けるよう、私たち新約の光に生きる信仰者をいざなわれます。
それは、「神ご自身がわたしたちのために定められたかしら」キリストの下にあるのでなければ、守られず、支えられず、救われない、ことを教えるためです。
新約の、キリストと聖霊の光の下に傾聴する「旧約詩篇」のこのような読み方をなんと例えられでしょう。梅雨があけはじめると、大地を覆っていた霧が上がり始めます。
その時に、これまではひとつの山の塊のように見えていた景色に変化が起こります。重なり合って「ひとつの山」と見えていた風景が、実は「沢山の山々の重なり」であったことが明らかとなるのです。
朝日の光の差し込みとともに、空気中の霧は次第に消えていきます。そして、山々の谷間の霧が最後まで残り、山と山の間に深い谷間があることを見せてくれます。
そして、しばしの間にその谷間の霧はあたかも走り登っていくかのようにして晴れ上がります。その光景はまさに壮観です。
(中略)
このような旧約聖書に対する解釈法を、「旧約聖書の遠近法」と申します。
旧約時代には「遠くに見える山」はひとつの山と見えていました。しかし、新約時代の到来とともに、旧約時代を覆っていた深い霧は次第に晴れていき、谷間に登る霧と新約の太陽の光に照らされて、神のご計画の奥義たる「キリストの人格とみわざ」が如何なるものであるのかが明らかにされていきました。
使徒行伝2:30-31には、「彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです」と。
このような光の下にこの詩篇21篇を読みますとき、1節の「王」はキリストに、2節の「望み」と3節の「純金の冠」は、使徒2:24-33にあるように、死と滅びからの復活であり、昇天・着座・聖霊の油注ぎと解釈できます。
2021年7月11日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇20篇「あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。」
https://youtu.be/CUeGb2mUiiE
*
詩[ 20 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
20:1 苦難の日に、【主】があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。
20:2 主が聖所からあなたに助けを送り、シオンからあなたを支えられますように。
20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のささげ物を受け入れてくださいますように。セラ
20:4 あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。
20:5
私たちはあなたの勝利を喜び歌い、私たちの神の御名により旗を高く掲げます。あなたの願いのすべてを【主】が遂げさせてくださいますように。
20:6
今私は知る。【主】が主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。
20:7 ある者は戦車を、ある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神【主】の御名を呼び求める。
20:8 彼らは膝をつき倒れた。しかし私たちはまっすぐに立ち上がった。
20:9 【主】よ王をお救いください。私たちが呼ぶときに答えてください。
*
【メッセージ】
1. まず、今朝の詩篇の概略について申しあげます。
2. この詩篇には、神がイスラエルの王に助けを与え、危機から救い出してくださるように、
3.
また神がその王国を保持し、イスラエルの王を栄えさせてくださるようにという、王のための祈りが含まれています。イスラエルの王のうちに全体の救いが含まれています。
4. さらに、神が造り出されたその王国を支配し、その永遠の保全を欲せられるという約束が付け加えられています。
5.
このような旧約的文意に新約の光を当てますと、イスラエルの王は、そのダビデの子孫たるキリストに、それゆえその王国は、民族的王国をはるかに超え、諸民族を包摂する普遍的な神の国に、
6. そして、そのキリストの贖罪的支配のもとに生かされる私たちの、現在、また永遠の保護を欲しておられることに適用できます。
7. さて、ダビデが王であるにも関わらず、「王のための祈り」をしたためるとするのはどうなのか、という見方もあります。
8.
しかし、ダビデには預言者の務めも賦与されていましたので、「信仰者に対して、ひとつの祈りの定型」を規定するのは、預言者ダビデに委託された「教師の職責」のひとつと見ることができます。
9. (中略)
10.
すなわち、3-9節の中心的メッセージ「あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。」の背後には、
11. 「20:6 主に油注がれた者」に対する絶大な「信頼」と「理解」が存在しているということです。
12.
ダビデがここで描いている王は、「邪悪で不適当な願望」を聞き入れられるように求めることは愚かなことだと知っている王です。
13. 「野心」に耽溺せず、「貪欲」の火に焦がされず、「幻想」のうちで心に浮かぶことを望むことなく、
14. 彼に「委ねられた責務」に心を配り、「民全体の福祉」の獲得に傾倒し、
15.
「聖霊が彼に迫って」命じ、「神の口が規定する」のでないかぎり、「何事をも求めない」ーそのような王について述べていることを理解しなければなりません。
16. 私たちも、ダビデがここで描いているような王のごとくに成長させられたいものです。
17. そのために、庭園のバラの手入れのように、常に「誤った運動や教え」の病気や害虫の防除・防虫に目配りを怠らず、
18.
見栄えの悪い「狂い咲き」に踊らされず、神の全体の計画、御思いに沿って「剪定」と「誘引」を丁寧に取り組み続けるしもべとされたい思います。祈りましょう。
2021年7月4日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇19篇「私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。【主】よ、わが岩、わが贖い主よ」
https://youtu.be/rAPIb3VDjuM
*
詩[ 19 ] 指揮者のために。ダビデの賛歌。
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。19:3 話しもせず語りもせずその声も聞こえない。
19:4 しかしその光芒は全地に、そのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。
19:5 花婿のように太陽は部屋から出て、勇士のように走路を喜び走る。
19:6 天の果てからそれは昇り、天の果てまでそれは巡る。その熱から隠れ得るものは何もない。
19:7 【主】のおしえは完全でたましいを生き返らせ、【主】の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
19:8 【主】の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ、【主】の仰せは清らかで人の目を明るくする。
19:9 【主】からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:11 あなたのしもべもそれらにより戒めを受け、それを守れば大きな報いがあります。
19:12 だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
19:13
あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。
19:14 私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。【主】よわが岩わが贖い主よ。
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【メッセージ】
まず、今朝の詩篇の概略について申しあげます。
1-6節で、ダビデは信仰者に対して、神の栄光へ思いを向けることを勧めようと願って、まず天体の動きのうちに、また目にしうるかぎり精微かつ精巧なその秩序のうちに見られる、その反映を提示します。
ついで7-11節で、神がその選民に対し、いっそう身近なものとして識られんがために与えられた律法を、私たちに想起せしめます。
さらにまた12-13節で、この機会を捉えて、ダビデはこの特別な恵みを詳説し、律法の用途を私たちに推挙し、ほめたたえます。
最後に14節で、ダビデはこの詩篇を祈りを持って閉じています。
(中略)
パウロは、「律法」の本来の意味、目的を正しく解釈し、メシヤとしてのキリストを軸に、正しく位置付けました。
「律法」は聖なるもので、良いものである。しかし、それは、私たちがその性質と行いの両面で「滅ぶべき罪びと」として断罪する物差しとしても機能しています。
しかし、私たちには、「キリストの贖罪の恵み」が用意されています。贖罪の基盤に根差して、「滅ぶべき罪びと」の私たちは無条件で受け容れられている。
受け容れられているだけでなく、与えられている内住の御霊により、「神のみ旨としての本質的における律法」に沿いつつ、御霊による贖いのプロセスの中に生かされる恵みの中に置かれています。
私たちが「肉」の弱さで罪に陥ることがあっても、「ロマ8:11
あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」と記しています。
その意味において、私たちは「旧約聖書」をそのような贖罪と御霊の光の下に、再解釈できるのであり、ダビデたち、旧約の「真の信仰者」たちが、未来の贖いの恵みを包摂的に意識しつつ、この7-10節をうたい上げたように、私たちもこの歌に唱和できるのです。
今週も、この詩篇を唱和しつつ歩んでまいりましょう。「私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。【主】よ、わが岩、わが贖い主よ」。祈りましょう。
2021年6月27日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇18篇「【主】がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを【主】に歌った」
https://youtu.be/U-WeEgLBctQ
*
詩[ 18 ]
指揮者のために。【主】のしもべダビデによる。【主】がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを【主】に歌った。
18:1 彼は言った。わが力なる【主】よ。私はあなたを慕います。
18:2 【主】はわが巌わが砦わが救い主、身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら。
18:3 ほめたたえられる方。この【主】を呼び求めると私は敵から救われる。
18:4 死の綱は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。
18:5 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。
18:6 私は苦しみの中で【主】を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた。
18:23 私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。
18:24 【主】は私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前のこの手のきよさにしたがって。
18:25 あなたは恵み深い者には恵み深く全き者には全き方。
18:26 清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。
18:27 まことにあなたは苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされます。
18:28 まことにあなたは私のともしびをともされます。私の神【主】は私の闇を照らされます。
18:29 あなたによって私は防塞を突き破り、私の神によって城壁を跳び越えます。
18:30 神その道は完全。【主】のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。
18:46 【主】は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神。
18:47 この神は私のために復讐する方。諸国の民を私のもとに従わせてくださる。
18:48 神は敵から私を助け出される方。実にあなたは向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。
18:49 それゆえ【主】よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。
18:50 主はご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔(すえ)にとこしえに恵みを施されます。
*
まず、詩篇18篇の概略と背景について申します。
私たちは、ダビデがどのような困難を通じ、またどれほど大きな妨げにもかかわらず、王位につくに至ったかを知っています。サウルの死まで、ダビデは逃亡の身、いわば追放された者であり、多くの脅威と死の危険の間で、おびえつつ、かろうじてそのいのちを保ちました。また、神がその御手によってダビデを王の位にのぼらせた後も、ダビデは直ちにその家臣らの騒乱と謀反によって苦しめられました。
そして、ダビデに敵する者たちの力がはるかに強かったので、ダビデはしばしば破滅の淵に陥りました。さらに、国外の敵に関していえば、彼らはダビデの晩年に至るまで常にダビデに多くの苦しみを与え続けました。もし、神の力によって助けられなかったとしたら、ダビデは禍のすべてに打ち勝つことはできませんでした。何回かの輝かしい勝利を収めた後でも、他の多くの人たちのように“自分自身”に讃美の歌を歌うことをせず、かえって神を真正な主導者として崇め、ほめたたえます。
この詩篇は、神がダビデに対して示された、王国を手にし、さらにこれを保つという驚くべき恵みを、ダビデが大いにほめたたえる詩篇の最初のものです。また、ダビデは、その支配のうちに、キリストの支配の予型があることを示しています。それは、この世のすべてのあり様にもかかわらず、またどのような抵抗があろうとも、キリストがはかり知るべからざる父の大能によって常に勝利者であることを、信仰者が理解し、確信を持つようになるためです。
2021年6月20日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇17篇「私は義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき御姿に満ち足りるでしょう」
https://youtu.be/1AnvuxgVu6M
*
詩篇[ 17 ]ダビデの祈り
17:1
【主】よ聞いてください正しい訴えを。耳に留めてください私の叫びを。耳に入れてください私の祈りを。これらは欺きの唇から出たものではありません。
17:2 あなたの御前で私のためのさばきが行われ、御目が正しいことに注がれますように。
17:3
あなたは私の心を調べ、夜私を問いただされました。私を炉で試されましたが何も見つかりません。私は口の過ちを犯さないように心がけました。
17:4 人としての行いは、あなたの唇のことばに従い、無法者が行く道を避けました。
17:5 私の歩みはあなたの道を堅く守り、私の足は揺るぎませんでした。
17:6 神よ私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。私に耳を傾けて私のことばを聞いてください。
17:7 あなたの右の手で奇しい恵みをお示しください。向かい立つ者どもから身を避ける者を救う方。
17:9 私を襲う悪しき者から私を取り巻く貪欲な敵から。
17:10 彼らは鈍い心を固く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。
17:11 彼らは私たちの跡をつけ、今取り囲み、目を据えて地に投げ倒そうとしています。
17:12 それはまるでかみ裂くことに飢えた獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。
17:13
【主】よ立ち上がり、彼の前に進み行き、打ちのめしてください。あなたの剣で悪しき者から私のたましいを助け出してください。
17:14
【主】よ御手をもって人々から、相続分が地上のいのちであるこの世の人々から、私のたましいを助け出してください。あなたの蓄えで彼らの腹は満たされ、子たちは満ち足り、その余りをさらにその幼子らに残します。
17:15 しかし私は義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき御姿に満ち足りるでしょう。
*
【メッセージ】
まず、詩篇17篇の概略と背景について申します。この詩篇は、ダビデの敵の無慈悲な思い上がりに対する嘆きの訴えを含んでいます。ダビデは、その敵に対し、このような残虐行為を加える根拠を少しも与えませんでした。ダビデは、かくも非人道的な扱い、苦しみを受けるような理由はないと証ししています。同時に、ダビデは、神をその保証人として呼び求めています。それは、神の御手によって、苦境から救われるためです。この詩篇の標題は、特定の時期を明らかにしていません。しかし、ダビデが、ここで、サウルとその手下たちの行状について嘆いていることは確実と思われます。私たちにとって、「苦境、少なくなし」という人生に大きな励ましになると思います。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第二項 誠実さ:
序「真実であること、真実を告げること、真実を立証すること」101頁、左段23行
https://youtu.be/lFd7hZvmtHU
*
【テキスト朗読】
1. 我々がここで誠実さ(integrity)に分類している一群の属性は、真理(truth)の問題と関わるものである。
2. 真実(truthfulness)に は、
(ア) 真性さ(genuineness)―― 真実であること、
(イ) 正直さ(veracity)―― 真実を告げるこ と、
(ウ) 忠実さ(faithfulness)―― 真実を 立証すること、の三つの次元がある。
3. 我々は 真実を、真実を告げることと主に考えるが、
(ア) 真性さこそが真実の最も基本的な次元である。
(イ) 他の二つはそこから派生する。
*
【ワン・ポイント解説】
・大野晋著『日本語練習帳』
わたしが、この個所を教えるときに神学生に紹介する一冊の本が、大野晋著『日本語練習帳』です。この本は、言葉の「微妙な違い」ニュアンスを考えることを教えてくれます。
「神の本質」を表現する際に、英語と日本語の辞書をめくりますと、たくさんの類似する言葉を発見します。私は、エリクソンの「言葉」に対する“繊細な感性”というものを教えられました。
そして私は、日本人で「日本語にある程度通じている」と受けとめていましたが、英語だけではなく、日本語にも疎い者であると知らさられました。言葉のニュアンスやグラデーションや重なり具合に関して、実に大雑把な取り扱いをしてきたものだ、と深く反省させられました。
この「誠実さ(integrity)」という言葉に関しても、どのような訳語をあて、そしてその訳語は、他の訳語とどのような関係にあるのか、を考慮する必要に迫られました。
2021年6月13日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇16篇「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません」
https://youtu.be/YoGne4xGDeo
*
詩[ 16 ]ダビデのミクタム。
16:1 神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。
16:2 私は【主】に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。
16:4 ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。
16:5 【主】は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。
16:6 割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。
16:7 私はほめたたえます。助言を下さる【主】を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。
16:8 私はいつも【主】を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。
16:9 それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
16:10 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
16:11
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。
*
【メッセージ】
この詩篇の1-2節でダビデは、「神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません」と、神に寄り頼み、その保護に身を委ねる「幸い」を告白しています。ダビデは、その戦いの全生涯を通じて、神以外には守護者はありえませんと告白しています。私たちが「あなたのほかに」「身を避ける」場所はありませんという信仰に固くとどまり続けるとき、嵐や暴風雨の直中でも、神のうちに憩うことが可能となります。
*
【関連資料紹介】
・牧田吉和著『改革派信仰とは何か―改革派神学入門 (聖恵・神学シリーズ)』の中の「コーラム・デオ」と「喜びの神学」
G.E.ラッド著, 安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、23.
メシヤの諸側面の一つ、旧約聖書の第三の人物、すなわち苦難のしもべ、17頁、3行
https://youtu.be/fOxltEp0e9c
*
【テキスト分解】
1. さらに、それ以外の人物像もある。メシヤの諸側面のひとつを伝えている旧約聖書の第三の人物、すなわち苦難のしもべである。
2.
苦難のしもべについては、イザヤ五三章に描かれている。彼は謙遜、かつ受け身の人物である。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。彼は痛めつけられ、苦難によりひどく傷つけられた。
3.
「彼には、わたしたちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、わたしたちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」。彼は若くして死ぬ。「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを」。しかしながら、彼の苦難は不当なものであり、身代わりであった。彼は彼の民の罪のゆえに苦しんだ。
4.
「しかし、彼は、わたしたちのそむきの罪のために刺し通され、わたしたちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがわたしたちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、わたしたちはいやされた」、「主は、わたしたちのすべての咎を彼に負わせた」、「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」、「彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」、「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。
*
【ポイント解説】
・今日の個所のポイントは、「メシヤの諸側面の一つ、旧約聖書の第三の人物、すなわち苦難のしもべ」という言葉です。この「苦難のしもべ」につきましては、いのちのことば社の『聖書神学事典』に執筆させていただきました論稿がありますので、それを紹介させていただきます。
■苦難のしもべ
1. 「主のしもべ」と呼ばれる人物は聖書には数多く存在し、旧約聖書の中でエベド(しもべ)は八百七回用いられている。
2. 第四の歌において、この「しもべ」の使命は罪を担うことであり、この「しもべ」の苦難は代償的なものである。
3.
新約の記者たちは、「苦難のしもべ」の扱いにおいて、「キリストの苦難」、特に十字架上のキリストの苦難に焦点を当てている。そして同時に、クリスチャンの苦難にも深い関心を寄せている。
4. 「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられた(Ⅰペテロ2:21,24)。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
③正義 第四段落、「神の律法と教えは、我々の基準。他の人々を公平かつ公正に扱うべき」 101頁、左段15行
https://youtu.be/cp1ja__McBU
*
【テキスト朗読】
1. 聖さに関する場合と同様、神はご自身に従う者たちに神の義と正義に倣うことを期待している。
2. 我々は、神の律法と教えを我々の基準として採用すべきである。
3. 他の人々を公平かつ公正に扱うべきである(アモス5:15、24、ヤコブ2:9)。
4. それこそ、神ご自身がしていることだからである。
*
【ワン・ポイント解説】
・古屋安雄著『宗教の神学』
Ⅲ. 宗教批判と宗教形成
宗教の神学が志向していることを二つの方向にまとめて要約することができます。第一は宗教批判としての宗教の神学、第二は宗教形成としての宗教の神学です。
・ジミー・カーター著『カーター、パレスチナを語る―アパルトヘイトではなく、平和を―』
・森まり子『シオニズムとアラブ―ジャボティンスキーとイスラエル右派―』
G.E.ラッド著, 安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、22.
イエスと人の子のどちらかでも、ダビデ的な王と共通することはあるのか、16頁13行
https://youtu.be/E_B77LSZKrs
*
【テキスト分解】
1. 弟子たちにとって、この言葉は意味を成すものだった。
2. 力と大いなる栄光とを伴って雲に乗って来られる天的な人物、この方が神の国に神の民を集める。
3. これは、弟子たちも理解できた。
4. しかし、そのような天的な人物像が、イエスとどのように関連しているというのか。
5. 人の子は、神の臨在の中の先存在の人物である。
6. イエスは、ナザレ出身の大工の息子である。
7. イエスが、人の子と共通しているものは何か。
8. そしてイエスと人の子のどちらかでも、ダビデ的な王と共通することはあるのか
*
【ポイント解説】
・参考文献: G.E.ラッド著、島田福安訳『神の国の福音』、p.78-79
1. 今日の個所のポイントは、「イエスと人の子のどちらかでも、ダビデ的な王と共通することはあるのか。」という言葉でした。
2.
ヘンドクス・ベルコフ著『聖霊の教理』の序にある言葉を援用しますと、ーキリスト論、すなわちメシヤ預言に関して聖書神学の分野で得られた多くの新しい洞察は、まだ組織神学への道を見出してはいなかったが、十字架のみわざと注がれた聖霊、内住の御霊により、「キリスト論、すなわちメシヤ論の組織神学形成」の道に導かれていくことになったということだと思います。
3.
旧約に啓示された多様な、漸進的な洞察を、新約各書は見事に“教理的に集約”していっています。キリストの人格とみわざの聖霊による解き明かしの結実だと思います。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
③正義 第三段落、 101頁、左段2行
https://youtu.be/a6ldIAVouiw
*
【テキスト朗読】
1. 神の正義は、神が偏愛やえこひいきを示すことなく、神の法を公平に施行することを意 味する。
2. 結果あるいは報酬割り当ての際に考慮されるのは、その人が人生において獲得した地位ではなく、その人がなした行為のみである。
3.
それで神は、神の代理人となる務めを受けていながら賄賂を受け取って判決を曲げた、聖書時代の裁判官(たとえばⅠサムエル8:3、アモス5:12)を非難した。
4. 彼らが非難されたのは、正しい方である神ご自身が、ご自身の律法を執行するべき人々に、同類の振舞いを期待したゆえである。
*
【ワン・ポイント解説】
・古屋安雄著『宗教の神学』一部紹介
…諸宗教を評価する座標軸を提供してくれるものがある。それは、今日の神学の動向において注目を集めている「宗教の神学」である。以下、宗教の神学の要点について、その輪郭を描いてみる。
Ⅰ.宗教の神学とは
Ⅱ.神学的視点と社会学的視点
2021年6月6日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇15篇「だれがあなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むのでしょうかーLGBT問題の直中に、詩篇15篇のメロディを聴く」
https://youtu.be/THMZ_HJkrMs
*
詩[ 15 ]ダビデの賛歌。
15:1 【主】よ、だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。
15:2 全き者として歩み、義を行い心の中の真実を語る人。
15:3 舌をもって中傷せず、友人に悪を行わず、隣人へのそしりを口にしない人。
15:4 その目は主に捨てられた者を蔑(さげす)み、【主】を恐れる者を彼は尊ぶ。損になっても誓ったことは変えない。
15:5 利息をつけて金を貸すことはせず、潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は決して揺るがされない。
*
【関連資料紹介】
・「日本福音主義神学会・東部部会講演会 2021年春期公開研究会ー神の像に造られ、キリストのかたちに贖われ」パンフレット
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets-east/20210531_jets-e_zoom_imago_Dei.pdf
…関心の高さからか、参加者はかつてない規模となりました。すでに、終了した講演会でありますが、大変有意義な講演でしたので、記録としてパンフレットを紹介させていただきます。詳細は、東部部会また講演者にお問い合わせください。公開されている関連資料としては、ブログ「鏡を通して」“https://1co1312.wordpress.com/”の中の、「神学的人間論というテーマのシリーズ
1-5」の第五に、「神学的人間論と同性愛・同性婚」があります。シリーズ全体を読まれることをお勧めします。
【断想】“LGBT”問題における解釈学的螺旋の実際―について教えられる
今週は、月曜日に「日本福音主義神学会・東部部会講演会」があり、特に、米国のキリスト教会において二分するような意見の対立もあるといわれる“LGBT”問題についての貴重な講演があった。講演を傾聴していて、講演者の人格・品格というようなものに感銘を受けた。保守的な教会、つまり福音派系の教会においては、下手をすると“レッテル”を貼られかねない危険のあるテーマに、いわば“四つ相撲”で取り組まれた印象をもった。
このテーマを扱われる扱い方に感心させられた。状況分析に関する見識にも恐れ入った。そして、丁寧な事の運び方から多くのことを教えられた。その詳細を簡潔に書き記すことは難しい。しかし、福音派諸教会の一員として、考えさせられる要素の多い講演であった。そのひとつひとつにおして、参考文献や資料の源泉についても紹介があった。
それで、これを機会に私も“LGBT”問題に取り組みたいと思わせられ、今週はその関連文献の収集と、届いた書籍への目配りに時間を取らせていただいた。
これらの中で、私の心にあったのは、ルネ・パディリアの論文であった。彼は、“解釈学的螺旋”という考え方を提起している。聖書解釈と適用の歴史には、①解釈者の置かれている歴史的状況があり、②その解釈者が彼の世界観・人生観をもって、③聖書を解釈し、④神学が形成されていく、というのである。
私は、今回の東部部会における“LGBT”講演の中に、スコップで浅く掘る土木作業のような聖書解釈ではなく、地下深く温泉や油田を掘り当てる、いわばボーリング作業のような“解釈学的螺旋”の作業過程を見せられたのである。そして、そのプロセスを私自身も追体験したいと願い、紹介文献の収集とその丁寧な目配りに奔走させられたのである。この取り組みは少し時間がかかるだろうが、丁寧に取り組み、その成果を少しずつシェアさせられたい。
*
※解釈学的螺旋について
【断想】「聖職者もまた、この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ」―ヒトラーVSピカソ:奪われた名画のゆくえ(アマゾン・プライムビデオを視聴して)
*
芸術はカギになり、トロイの木馬にもなる。 絵筆は肖像画も描くし、独裁を消しもする。 芸術の力は大きいが矛盾もある。
芸術は手段にも、終焉にもなる。 救済し、糾弾する。破壊も調和も促す。 自由を表現し、全体主義の顔も持つ。
ナチスに略奪されたヨーロッパでは、 多くのユダヤ人が自分たちの収集品を売った。 出国ビザを入手するためだ。
それ以外の数百万人は強制収容所で殺された。
ある日、ゲシュタポの将校が、
ピカソのアトリエを訪れた。1945年3月24日、ピカソは、このことを記者に話している。テーブルには、「ゲルニカ」のポストカード、将校は尋ねた。あなたの仕事で?「いや」とピカソは答えた。「これは君たちの仕事だ」と。
このインタビューの中でピカソは言った。芸術家とは何だと思う?目で見るだけの画家や、耳で聞くだけの音楽家がいるとしたら愚かだ。芸術家は、この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ。無関心は許されない。絵は家の飾りではなく、敵を攻撃し、防御するための手段なのだから。
大坂なおみ選手の昨今の言動や、最近開催された「日本福音主義神学会・東部部会講演会」の講演者にも同じ“スピリット”を感じた。「スポーツ選手も、聖職者もまた、この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ」と。
G.E.ラッド著, 安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、21.
イエスは、ダニエル書の預言的内容を持つ数多くのことばを語られた、16頁7行
https://youtu.be/GCXBtOOiyWY
*
【テキスト分解】
1. 後になると、
(ア) イエスはますます、
(イ) 以下のようなダニエル書の預言的内容をもつ
(ウ) 数多くの言葉を語られた。
2. 「このような姦淫と罪の時代にあって、
(ア) わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、
(イ) 人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、
(ウ) そのような人のことを恥じます」(マルコ 8:38)。
3. 「そのとき、
(ア) 人々は、
(イ) 人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る
(ウ) のを見るのです。
4. そのとき、
(ア) 人の子は、
(イ) 御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、
(ウ) 四方からその選びの民を集めます」(マルコ 13:26-27)。
*
【ポイント解説】
・参考文献: G.E.ラッド著、島田福安訳『神の国の福音』、p.76-77
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
③正義 第二段落、 101頁、左段2行
https://youtu.be/NnycD3Rpw6c
*
【テキスト朗読】
1. 聖書は、罪には遅かれ早かれ結局起こる明確な結果があることを明らかにしている。
2. 創世2:17に、アダムとエバに対する神の警告がかかれている。
3. 「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あ なたは必ず死ぬ」。
4. 同様の警告は、聖書の至るところに繰り返されている。
5. 「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)というパウロの言葉 もその一つである。
6. 罪は本質的に罰せられるに値する。
7. それゆえ、神はいつかは罪を罰する。
*
【ワン・ポイント解説】
『聖書神学事典』「罪」安黒務 論稿一部紹介
G.E.ラッド著,安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、20.
そのような言葉は、弟子たちを本当に困惑させるものだった、16頁3行
https://youtu.be/xjpbgqwKjPE
*
【テキスト分解】
1. そのような言葉は、弟子たちを本当に困惑させるものだった。
2. どのようにしてイエスは人の子でありうるのか。
3. 人の子は、栄光の王国を治める先存在の、天的な存在のはずである。
4. 人々は、イエスがナザレ出身の大工の息子であると知っていた。
5. イエスが人の子と共通しているものは一体何であるというのか。
*
【ポイント解説】
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
③正義 第一段落、 100頁、右段20行
https://youtu.be/LZCDrfDa86U
*
【テキスト朗読】
1. 神は
a. ご自身の法に一致して行動するだけでなく、
b. それに従ってご自身の国を治める。
2. つまり、
a. 他の者たちに
b. 律法に従うことを要求する。
3. 前項で述べた義は、
a. 神ご自身の個人的な正しさである。
4. 神の正義とは、
a. 神の公的な正しさであり、
b. 他の道徳的主体にも同様に
c. その基準の遵守を求める。
5. 言い換えれば、神は、
a. 一個人としては
i. 社会の法律を遵守し、
b. また公の立場では
i. その同じ法律を執行し
ii. 他の人にそれを適用する、
iii. 裁判官のような存在である。
*
【ワン・ポイント解説】
1. この段落で注目すべきポイントは「他の道徳的主体にも同様にその基準の遵守を求める」という言葉です。
2. 神様は、聖いお方です。罪にアレルギーなお方です。
3.
神様の「律法」には、神の聖いみ旨が記されています。神様は、そのみ旨を「天おいて御心がなされるように、地においてもなされる」ことを願っておられます。
4. そして、神様は、正しい裁判官のようにこの世界を分析・評価・審判されます。
5.
神の聖い御心は、神学また教理、福音理解というかたちでも表現されます。そして、その「福音理解」は、この世界に反映されていかねばなりません。
6.
この世界には、アダムにある罪により、さまざまのかたちにおける差別が横行しています。そして、時には既得権益とでもいうのでしょうか。キリストの教会が「差別の温床」であったりもしてきました。
7.
この問題を宗教社会学者ピーター・バーガーは、神学と社会学、つまり福音理解と倫理的実践という二つの座標軸で客観的に分析・評価できるようにしました。
G.E.ラッド著,安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、19.
弟子たちなぜ困惑したのか、15頁、9行
https://youtu.be/jwRB5ws0kv0
*
【テキスト分解】
1. このような背景を理解してはじめて、
a. イエスがご自身の使命や奉仕がいかなるものであるのかを示そうと、
b. 「人の子」という用語を使い始められた時、
c. 弟子たちはなぜ困惑したのか、を理解することができる。
2. イエスが中風の男の罪を赦されたと宣告されたとき、
a. ユダヤ人たちは、「神おひとりのほか、
b. だれが罪を赦すことができよう」(マルコ 2:7)と、
c. イエスが神を冒涜する罪を犯されたと思った。
3. イエスは答えて言われた。
a. 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、
b. あなたがたに知らせるために。」
4. こう言ってから、中風の人に、
a. 「あなたに言う。起きなさい。
b. 寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた(マルコ 2:10-11)。
5. さらに、彼と彼の弟子たちが
a. 安息日に麦の刈り入れをしたと
b. 非難されたとき、彼は言われた。
6. 「安息日は人間のために設けられたのです。
a. 人間が安息日のために造られたのではありません。
b. 人の子は安息日にも主です」(マルコ 2:27-28)。
*
【ポイント解説】
1. 1. 今日の個所のポイントは、「弟子たちはなぜ困惑したのか」という言葉です。
2. 段落の文頭に「このような背景を理解してはじめて」とあります。
3.
そうなのです。ユダヤ人たちが、期待していたのは、ダビデ王的メシヤ、すなわち「植民地支配からの自由と独立を導いてくれるリーダー」でありました。
4. 弟子たちや民衆がイエスに期待していたものは、そのようなメシヤでありました。
5. しかし、「イエスの使命や奉仕」は、そのような“民族主義”的な救いと解放ではありませんでした。
6.
ここにも、旧約聖書解釈の原則が示されています。今日の問題に適用しますと、ユダヤ教シオニズムの「土地・首都エルサレム・神殿」の回復の期待とキリスト教シオニズムの支援との類比を見ます。
7. 新約の光の下での「旧約聖書解釈」においては、“民族主義”を払しょくしなければなりません。
8.
上記に見られるユダヤ人たちの誤りに対し、イエスは、「メシヤ像」についての“齟齬”をなんとか修正しようと努力されていたことを教えられます。
9. イエスは、「受肉され、人々の間から」出現された人間イエスでありましたが、同時に「ピリピ 2:6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」お方でありました。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』、第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
②義 第三段落、 100頁、左段35行
https://youtu.be/dzPlcvTICPg
*
【テキスト朗読】
1. キリスト教思想史を通じて議論の的となってきた問題は、何がある行為を正しいとし、他の行為を悪とするのか、である。
2. 中世に一 学派であった実在論者たちは、神が正しいことを選択するのはそれが正しいことであるからだと主張した 。
3. 神が善と呼ぶものが別の名で呼ばれていたはずはない。
4. というのは、親切さには善が内在し、残酷さには悪が本来備わっているからである。
5. また、別の学派である唯名論者たちは、ある行為を正しいとするのは神の選択であると主張した。
6. 神には別の選択もできた。
7. もし神がそうしていたなら、善は今とはずいぶん異なったものとなっていた 。
8. とはいえ、より正確な聖書の立場は実在論と唯名論の中間に位置する。
9. 正しさとは恣意的なものではない。
10. ただ、もし神が宣言していたなら、残酷さや殺人も善となっていた。
11. しかし決定を下す場合、神は善悪の客観的な 基準に従う。
12. そしてその基準は、実在の構造そのものの一部である。
13. されど、神が固く守るその基準は、神の外側のものではない。
14. それはご自身の性質なのである
*
【ワン・ポイント解説】
1. この段落で注目すべきポイントは「何がある行為を正しいとし、他の行為を悪とするのか」という言葉です。
2. キリスト教の思想史を通して、問題とされてきた課題であり、今もなお問題とされ続けている課題と思います。
3.
古くは、プラトンの「普遍」とアリストテレスの「個別」のアプローチがあり、中世でも「実在論」と「唯名論」の両極のアプローチが見られます。
4.
今扱っている課題に焦点を合わせますと、要するに「善」というものは「普遍的な実在」として存在するものなのか、あるいは善とか悪とかという「客観的で普遍的な実在」は存在せず、「ただ個々の個別のものだけが存在し、それらの個別のものに、恣意的に“善”ないし“悪”と名付けている」という問題である、ということです。
5.
すなわち、唯名論的な考え方が行きますと、客観的な善や悪というものは存在せず、「もし神が宣言していたなら、残酷さや殺人も善となっていた」ということになるのです。
6. 私は、この「普遍論争」といわれる議論の構成は、今日問題となっている諸課題に応用できる要素があるように感じています。
2021年5月23日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇13篇「主よ、あなたは、いつまで御顔を私からお隠しになるのですかー『サビールの祈り』として」
https://youtu.be/WU-HSqjdGGQ
*
詩篇13篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。"
13:1 【主】よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
13:2
いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。
13:3 私に目を注ぎ私に答えてください。私の神【主】よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。
13:4 「彼に勝った」と私の敵が言わないように。私がぐらつくことを逆らう者が喜ばないように。
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。
13:6 私は【主】に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。
*
※ナイム・アティーク著『サビールの祈り』…パレスチナ生まれ、パレスチナ育ちの、中東聖公会司祭による著書。「サビール」とは、アラビア語で「道」また「生きた水の泉」という意味。武力ではなく、愛と祈りによる
紛争解決をもとめ、パレスチナに生まれ難民となった
アラブ人司祭が発信する。パレスチナ人もイスラエル人も含めすべての人を抑圧と差別から解放し
正義に基づく平和を実現させる道を指し示す。イスラエル・パレスチナ問題を考えるすべてのクリスチャンにとっての必読書。
G.E.ラッド著, 安黒務訳、信徒のための『終末論』1章 聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、18.
この二つの人物像は全く異なっている、15頁1行
https://youtu.be/lBHnAK3JVCo
*
1. ダニエル書の人の子の概念―ダビデ的メシヤの概念とは大変異なった概念
2. そのメシヤはダビデの子、人の子は超自然的存在
3. そのメシヤは、人々の間のひとりの人として、人の子は天から
4. そのメシヤは平和と義の地上の王国を統治、人の子は、死者をよみがえらせ、変貌した地球上の栄光の王国を統治
5. それらの二つの人物像-まったく異なっている
*
【ポイント解説】
1. 今日の個所のポイントー「この二つの人物像は全く異なっている」という言葉
2.
これと類似した類例―「さて、わたしたちは二つの物語:つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。この明らかなジレンマをどう扱うべきなのか」
3. すでに「旧約の考え方と新約の考え方のジレンマに直面
4. ディスペンセーション主義の教えー字義通りに捉えるという解釈法―「神の二つの民、終末における神の二つの計画」という結論
5.
このディスペンセーション主義の原則―「神の二人のメシヤ、すなわち地上において人々の間から出るダビデ的政治的メシヤと、それとはまったく別存在の天から来臨される超自然的メシヤ」ということにはならないのか
6. 使徒たちー二つのメシヤ像のジレンマーどのように解決
7. メシヤ解釈、神の民解釈、終末解釈等―「使徒的解釈」の原則
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質、第一項 道徳的純粋さ:
②義 第二段落、 100頁、左段21行
https://youtu.be/Ilv8-jVK1vw
【テキスト朗読】
1. 神の義―神の行為がご自身の制定した律法に一致
2. 神―他者に要求するものをその行為によって表現
3. アブラハムーヤーウェに「全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか」(創世18:25)
4. 神―ご自身の法の基準に達する義なる方
5. 神―正直な取引
*
【ワン・ポイント解説】
1. 英国のクリスチャンシンガーソングライターであり、英国国教会の司祭であるガース・ヒューイットは、”
Ten Measures of Beauty “「“美しさ”を測る十の目盛」という曲を作りました。
2. パレスチナ問題が解決しない“根源的な問題”はどこにあるのか考えてみましょう!―Garth Hewitt -
Where Is
The Land Of Palestine「パレスチナ(人)の土地はどうなってしまったのか?」―歴史を追って概観してみましょう。
G.E.ラッド著,安黒務訳、信徒のための『終末論』1章
聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、17.人の子は、神の臨在の中に保持され、天的な、先存在の、超自然的な人物である、14頁11行
https://youtu.be/ir6Ro6SI5bM
*
1. 「人の子のような」人物―ひとりの個人なのか、あるいは神の民を表している象徴なのか
2. あるユダヤ主義のサークルーこの人物を特定の個人として解釈
3. 人の子―神の臨在の中に保持され、天的な、先存在の、超自然的な人物
4. 神の定められた時―彼は死者をよみがえらせ、悪しき者を裁き、神の民を贖い、彼らを栄光の永遠の王国に集めるためー来臨。
*
【ポイント解説】
2021年5月16日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇12篇「主のことばは混じり気のないことば。土の炉で七度試され純化された銀」
https://youtu.be/fj1R90yPVzg
*
詩篇 12篇
指揮者のために。第八の調べにのせて。ダビデの賛歌。
12:1 主よ、お救いください。敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
12:2 人は互いにむなしいことを話し、へつらいの唇と二心で話します。
12:3 主がへつらいの唇と傲慢の舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように。
12:4 彼らはこう言っています。「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれがわれらの主人なのか。」
12:5
主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから今わたしは立ち上がる。わたしは彼をその求める救いに入れよう。」
12:6 主のことばは混じり気のないことば。土の炉で七度試され純化された銀。
12:7 主よ、あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも彼らを保たれます。
12:8 人の子の間で卑しいことがあがめられているときには、悪しき者がいたるところで横行します。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』 第十章 神の慈しみ深い善性: 第一節 道徳的特質 第一項 道徳的純粋さ:
②義 第一段落 99頁、右段40行
https://youtu.be/PDBKLLmn7Tk
*
【テキスト朗読】
1. 神の道徳的純粋さの第二の次元は義
(ア) 他者との関係に適用された 神の聖さ
(イ) 神の義とは
① まず第一に、神 の本性の真の表現である神の律法
② 神と同様に完全であることを意味
2. 詩篇19:7-9
(ア) 「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
(イ) 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで人の目を明るくする。
(ウ) 主からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
(エ) 主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」
3. 神が命じるのは正しいことのみ
(ア) 従う信仰者に建設的な影響
*
【ワン・ポイント解説】
1. この段落で注目すべきポイントは「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ」という言葉です。
2. 私は、この聖句を読みます時、いつもひとつのコーラスを思い起こします。
3.
私が青年であった頃、『心の中でメロディーを』という歌集があり、この聖句をそのままメロディーにのせて口ずさんだものでした。
G.E.ラッド著,安黒務訳、信徒のための『終末論』1章
聖書の預言箇所をどのように解釈すべきか、16.ダニエル書七章において、きわめて異なったメシヤ像が描かれている、14頁、4行
https://youtu.be/ItWalqZn6Qc
*
1. 大変異なったメシヤ像―ダニエル書七章のキリスト論
2. ひとつの幻―海からのぼってくる四つの獣―四つの世界帝国
3. 座しておられる神とともにある天の御座―世界帝国の破壊
4. 人の子のような方
(ア) 天の雲に乗って来られ
(イ) この方に、主権と光栄と国が与えられ、
(ウ) 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕える
(エ) その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない
(オ) ダニエル7:13-14
*
【ポイント解説―黙示文学の起源と背景の説明と短いコメント】
参考文献―J.J.スコット著、井上誠訳『中間時代のユダヤ世界ー新約の背景を探る』p.182-187
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』 第10章 神の慈しみ深い善性: 第1節 道徳的特質、第1項 道徳的純粋さ:
①聖さ、 99頁、左段25行
https://youtu.be/y1aPupEZGxI
*
【テキスト朗読】
1. 神の聖さには二つの基本的な側面がある。
2. 第一は神の独比性(uniqueness)である。
1. 神はすべての被造物からすっかり隔てられている。
2. これはルイス・ベルコフが神の「威厳ある聖さ」と呼んでいるものである 。
3. 「聖い」を表すヘブル語(カードーシュ)は、
1. 「区別された」
2. また「一般の、通常の使用から取り除けられた」ことを意味する。
4. 神は、ご自身が道徳的不正や悪から自由であるだけではなく、
1. その存在を許容することができない。
2. いわば、神は罪と悪に対してアレルギーを起こす。
5. 自分の聖さを、
1. 自分の基準や他の人間の基準と比べるのではなく、神と比べると き、
2. 道徳的そして霊的な状態の完全な変化の必要が明らかとなる。
*
【ワン・ポイント解説】
1. ニーチェの「無神論的進化論」への傾倒
2. 心の中にあった「すべての疑問点」を注ぎだし、「心の器」を空に
3. あるクリスチャンの「心の中に潜む」罪の告白
4. クリスチャンとは、神の御前に「心の底の底まで」照らされて生きる存在
5. わたしも、「そのような生き方」をする者とされたい
6. 何という、神の「威厳ある聖さ」
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑮しかしその時点における彼の使命は、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する―政治的なものではなく、罪の重荷から人々を解放する―霊的なものであった、12頁、15行
https://youtu.be/WSeYBS9Yw2g
*
【テキスト分解】
1.
バプテスマのヨハネは「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、わたしたちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:2-3)と尋ねた。
(ア) この困惑の理由
① メシヤの行為―それは何であったのか。
(イ) しかし、これはメシヤがすべきものとは考えられていなかった。
① イエスはローマ帝国に挑戦すべきであった。悪しき者を殺害すべきであった。
② その統治者、ポンテオ・ピラトがユダヤにおいて体現していたローマ帝国の支配に挑戦されなかった。
(ウ) そのとき、イエスはどのようにしてメシヤたりうるのか。
① イエスは多くの良いわざをなされていた。
② しかしダビデ的なメシヤに期待されていた行為はなにもされなかった。
2. ヨハネは落胆せず、神の召命を疑うことなく、来るべき方を宣言していた。
(ア) ヨハネ自身は「殻を消えない火で焼き尽くされます」(マタイ3:12)と告知していた。
(イ) それで、イエスはどのようにしてメシヤたりうるのか。これを尋ねた。
(ウ) イエスの行為が期待されていた王たる行為ではなかったからである。
3. 事実、イエスは、神の目的にかなった新しい啓示の体現者であった。
(ア) 彼は本当に、ダビデ王たるメシヤであった。
(イ)
しかしその時点における彼の使命は、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する―政治的なものではなく、罪の重荷から人々を解放する―霊的なものであった。
*
【ポイント解説―歴史的背景説明と短いコメント】
・参考文献―市川裕編著『図説 ユダヤ教の歴史』p.9-13
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』 第10章 神の慈しみ深い善性: 第1節 道徳的特質、第1項 道徳的純粋さ:
序、 99頁、左段18行
https://youtu.be/KW4ZndaVLLI
【テキスト朗読】
1. 道徳的純粋さという言葉で述べようとしているのは、
2. 神はよこしまなものや邪悪なものから全く自由であるということである。
3. 神の道徳的純粋さには、
4. 聖さ(holiness)、義(righteousness)、正義(justice)という次元が含まれる。
【ワン・ポイント解説】
ナイム・アティーク著、岩城聴訳『サビールの祈り―パレスチナ解放の神学』(教文館、2019)の視点
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第10章 神の慈しみ深い善性: 導入
https://youtu.be/7RAmmFOfOiE
*
1. シカゴ・コールの視点
2. ①新旧約の聖書神学、②二千年間の歴史神学、③それらの集大成としての組織神学に関するマクロな視点からの鳥観図
3. 神学研究の四部門の紹介
2021年5月9日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇11篇「鳥のように自分の山に飛んで行け」
https://youtu.be/iwTyMIHZrqo
*
1. 鳥のように自分の山に飛んで行け。
2. 拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろうか。」
3. 【主】はその聖なる宮におられる。【主】はその王座が天にある。
4. その目は見通しそのまぶたは人の子らを調べ、正しい者と悪者を調べる。
5. そのみこころは暴虐を好む者を憎む。網を下す。火と硫黄燃える風が杯。
6. 【主】は正しく正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑬⑭メシヤに期待されたものは、イスラエルを異教徒の憎むべきくびきから解放することであった、11頁、10行
https://youtu.be/XqEK6NCVxO4
*
【テキスト分解】
1. ある無名の作者の言葉
2. あなたの僕イスラエルに君臨するダビデの子を王にたててください
3. エルサレムを踏みにじり破壊するもろもろの民からそれをきよめる
4. 罪びとらを相続の地から撃退する
5. 万人が聖者であり、彼らの王は主により「油を注がれたもの」
6. ソロモンの詩篇 17篇21-25、32節
7. この詩は、油注がれた主、新約聖書時代における主なるキリストが打ち勝つ期待を表現
8. 彼の主な役割は、神の民イスラエルを異教徒の憎むべきくびきから解放すること
【ポイント解説】
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第10章 神の慈しみ深い善性、第1節
道徳的特質 序、99頁、左段3行
https://youtu.be/8RdWbNFGb8c
*
1.
昨日より、「レフト・ビハンインド問題」講演の再収録とビデオの公開にこぎつけましたので、その続編的な意味合いをもつ、ラッド著『終末論』の講義を再開させていただいています。
2.
そして、本日より、「終末論」だけでなく、キリスト教の教理全体を扱っている、エリクソン著『キリスト教教理入門』の講義も再開させていただきます。
3.
次の手書きのイラストにありますように、レフト・ビハンインド問題は、ディスペンセーション主義の教えの誤りを基盤としています。
4.
ただ、問題はディスペンセーション主義の教えだけの問題ではなく、キリスト教教理の各論において、さまざまな課題を抱えているということです。それらの諸問題・諸課題を、エリクソンが丁寧に、分かりやすく解説していますので、それを学んでまいりましょう。
5.
ラッドは、聖書神学を、宇田進は歴史神学を、エリクソンは組織神学において、逸脱問題を扱い、私たちを「福音理解」のセンターラインに引き戻す手助けをしてくれているように思います。
6. この図は、わたしが母校「関西聖書学院等」で約40年間教えていた時に、いつも板書していた図です。
7. 歴史神学の流れは、『福音主義キリスト教と福音派』の講義シリーズ、
https://www.youtube.com/watch?v=mQ24yky6-8w&list=PLClE1DIlx0onq7IzsL4xx5Al7129huUGY
8. 現代神学との葛藤は、『現代福音主義神学総説』の講義シリーズの中にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=phofIIHdkyM&list=PLClE1DIlx0on1O7GY_b9Hs30v9S--VHeV
9.
エリクン著『キリスト教神学』と『キリスト教教理入門』の講義も、ほぼ二十年分あり、漸次それらも掲載していっている途中です。
https://www.youtube.com/c/AguroTsutomu/playlists?view=50&sort=dd&shelf_id=1
10.
今回のシリーズは、特に信徒の方を対象として意識しつつ、できるだけ分かりやすく、シヨート・レクチャーのかたちで取り組んでいます。
https://www.youtube.com/watch?v=ZJmZoavUmc8&list=PLClE1DIlx0ombgBuN8aKn1NT7rTxu3hZW
以上なようなことを念頭に置きつつ、エリクソン著『キリスト教教理入門』のテキストを一段落ずつ、ゆっくり丁寧に学んでいます。
【テキスト朗読】
【ワン・ポイント・レクチャー】
*
※"段落単位の新ショート・レクチャー・シリーズ"です。連続して視聴されたい方は、【ユーチューブ】内の「エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読&解説」から、このシリーズの全編をご視聴していただけます。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑫ユダヤ人はシリヤの支配者(セレウコス朝)からの独立を達成した、11頁、4行
https://youtu.be/EUMeunngS8Q
*
【テキスト分解】
1. イエス在世当時のユダヤ人がメシヤ預言をどのように理解していたのか
2. 紀元前163-64年の時代―ユダヤ人は独立を達成
3. 統治する王とともに強力な民族となった
4. しかし紀元前六三年に、ローマ帝国はパレスチナまでその鉄の腕を
5. そしてエルサレム攻略し、ユダヤ人を殺害、戦争の捕虜としてローマに
【ポイント解説】
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ユーチューブ・サイトの「ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ」より、全編を学んでいただけます。
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テキストは、お近くのキリスト教書店、アマゾン書店、もしくは一宮基督教研究所にて購入できます。
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【ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ】
https://www.youtube.com/watch?v=Ita9hrLvKi8&list=PLClE1DIlx0omiukHRgQIhbdQOOL4BiFwI
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【誤記訂正】
スライド写真7の「ヘブイズム的」は、正しくは「ヘブライズム的」です。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー再収録ビデオ講演シリーズ完成のご案内
https://www.youtube.com/watch?v=nSeEMGd-A5k&list=PLClE1DIlx0omAtun3BWUtXDQk5hyoKCLS
*
主の御名を崇めます
ときは五月、庭に花が咲き乱れる季節となってきました。
さて、 2021年4/15(木)
13:30-15:30に、「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書のメッセージと合っているのでしょうか?」ー:大頭眞一先生主催の凸凹神学会の講演会が、ズーム形式で開催されました。沢山の先生また兄弟姉妹が参加してくださり、感謝でした。講演原稿を約五ヶ月かけて書き上げましたが、ズーム形式の神学会講演ということで、パワーポイントを活用した講演形式に挑戦することにしました。実際の講演では、参加者の自己紹介や質疑と応答もあり、記録されたビデオにはそれらの部分も含まれています。それで、主催者の大頭眞一先生の了解を得て、今回の講演を広く提供していくために、「ビデオ解説付きPPスライド再収録版」を作成することにさせていただきました。少し編集の手を入れつつ「21枚のスライド」を一枚ずつ、丁寧にショート・レクチャーしています。
『百万人の福音』の拙稿では、レフト・ビハインドとは、「後に残される」という意味であること、そしてこの小説の背後には、伝統的なディスペンセーション主義終末論に特徴的な教えがあること、そしてその教えは「突然の空中再臨(救いである携挙とレフト・ビハインド)→患難期(イスラエル民族の回心)→地上再臨(審判)→イスラエル民族中心の千年王国」という神の計画を教えていると書きました。
わたしは、この「イスラエル民族の栄光の回復を軸とする聖書解釈」と「空中と地上の二つに分けられた再臨」と「空中再臨によって患難期の前に携挙される」という教えは、「使徒たちの教えではない」と考えます。使徒たちが教えているのは、「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする聖書解釈」であり、「空中・地上一体の単一の再臨」であり、「患難期の後の、救いと審判の再臨」であると確信しています。ラッドやエリクソン等の優れた福音主義神学者たちの資料を紹介しつつ、二つの終末に関する教えを比較対照し、どちらが聖書の教えに合致しているのかを丁寧に検証していっています。
私の所属団体や母校を含み、現在の福音派の諸教会や諸聖書学校は、良きにつけ悪しきにつけ「伝統的なディスペンセーション主義」からなんらかの影響を受けていると思います。ただ、私たちが留意しなければならないことのひとつに、エリクソンは、先輩の先達から、盲目的に継承している教職者は、一見立派な弟子のように見えるが、「最も悪い弟子」であるという言葉があります。私たち教職者の「伝統の継承活動」とは、有名なシカゴ・コールにあるように、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」ということではないでしょうか。伝統の中の良きものを継承・深化・発展させることであり、伝統の中の悪しきもの、誤っているもの、間違っているものを取り除いたり、修正していくことではないでしょうか。「古い皮袋」に「新しいブドウ酒」を注ぎ込むときには、“発酵現象”が起こり、古い皮袋は破れそうになったりもしますが、それは「新しい皮袋」形成のための“主の時”でもあると思います。多くの方が深い関心をもって視聴し続けてくださっていることは、“主の時”の到来を知らせているように感じさせられている今日この頃です。わたしの拙い講演が、皆様の奉仕生涯の一助となれば幸いです。
*
※ 一宮基督教研究所の下記「ユーチューブ・サイト」にありますー「ディスペンセーション問題研究シリーズ」や「礼拝のメッセージ集」の中の、『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ』からも傾聴することができます。また、この問題に関するさまざまなシリーズも掲載していますので、参考にしてください。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー18c「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、“イスラエル民族主役説”の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味:③エピファネイア」
https://youtu.be/CedUvK9wdXI
*
【ノート】
1. 次に、
2. イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、
「イスラエル民族主役説」の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味の、第三の言葉「エピファネイア」を学んでまいりましょう。
3. そして、「シカゴ・コール」復誦
4. 「講演要約図」紹介
5. 感謝のことばとご案内
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2021年4/15(木)
13:30-15:30に、「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書のメッセージと合っているのでしょうか?」ー:大頭眞一先生主催の凸凹神学会の講演会の「ビデオ解説付きPPスライド再収録版」シリーズ。
*
※ ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ」から漸次傾聴していくことができます。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー18b「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、“イスラエル民族主役説”の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味:②アポカリュプシス」
https://youtu.be/qtCK3-8IcDA
*
【ノート】
1.
イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、「イスラエル民族主役説」の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味を学んでまいりましょう。
2.
ラッドは、「神の国」の神学者ともいわれ、その十数冊の著作集において、一貫して、聖書のメッセージの中心は、「普遍的神の民の準備 → 普遍的神の民の出現 → 普遍的神の国の完成」であると主張しています。
3.
このことからしても、ラッドが「イスラエル民族を軸とした聖書解釈法」とか、「イスラエル民族の未来の栄光の回復を軸にした聖書解釈法」をいかに使徒たちの聖書解釈法からはずれた解釈法とみていたのかを教えていると思います。
4.
わたしは、声高に、「再臨待望会」や「聖書塾」「聖書フォーラム」運動、ダラス出身の伝統的ディスペンセーション主義の教えのユダヤ人教師、元旅行ガイドのセミナー講師や祈り会において、教え続けられているこのような教えは、「使徒的聖書解釈法」「使徒的神の民理解」「使徒的終末論」等からの明らかな逸脱とみています。
5.
その解釈法は「最初のボタンを留め違えたなら、すべてのボタンはずれてとめられ、最後のボタンとめとられない」といわれるかたちで「神観から終末論」の全体を“イスラエル民族色”に染め上げるという誤った解釈を結実させています。
6.
そして、そのことがかえって「民族平等主義」の価値観を棄損する傾向を増長させていると危険きわまりない「非聖書的、非使徒的教え」と思います。
7.
「民族平等主義」の価値観を有する「普遍的神の民の準備」のために用いられたのが、イスラエル民族であり、そのイスラエル民族の中の「残りの民」を軸にしてユダヤ人と異邦人の霊のイスラエルの共同体が出現させられ、終末における完成を望み見ているのが、使徒たちの健全な終末論であるのです。
8.
伝統的ディスペンセーション主義の教えの「二段階の終末論」の誤りを払しょくし、ラッド著『終末論』では、主のパルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアの間には、どのような区別もない。
9. それらは、ひとつの、同一の出来事であることを明らかにしています。
10.
その主の再臨について使用されている第二のことば、「顕現」を意味するアポカリュプシスがどのような意味で、どのような文脈で、どのようなストーリー構成の中で使用されていのかみてまいりましょう。
2021年5月2日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇10篇「主よ、なぜあなたは苦しみのときに身を隠されるのですか」
https://youtu.be/3d2gXpjS_PE
*
1. 【主】よなぜあなたは遠く離れて立ち苦しみのときに身を隠されるのですか。
2. 【主】よ立ち上がってください。神よ御手を上げてください。どうか貧しい者を忘れないでください。
3.
あなたは見ておられました。労苦と苦痛をじっと見つめておられました。それを御手の中に収めるために。不幸な人はあなたに身をゆだねます。みなしごはあなたがお助けになります。
4.
【主】よあなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー18a「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、“イスラエル民族主役説”の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味」
https://youtu.be/8G8m4O4h0pc
*
【ノート】
1. 次に、
2. イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造から、
「イスラエル民族主役説」の解釈圧力を払拭した、再臨に関する三つの用語の自然な意味を見てまいりましょう。
3. ラッド著『終末論』では、「第五章 再臨に関することば」において
4. パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアが取り扱われています
5. ハーバード卒の、ギリシャ語の教授でもあったラッドの専門家としてのレベルを示す解説です。
6.
ラッドの結論は、「主のパルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアの間には、どのような区別もない。それらは、ひとつの、同一の出来事である。」
7.
その結果として、ディスペンセーション主義にみられる「イスラエル民族主役説→教会の臨時の挿入と退去→患難期におけるイスラエル民族の再登場→」イスラエル民族の栄光の回復」というストーリー構成ではなく、
8.
「普遍的神の民の準備 → 普遍的神の民の出現 → 普遍的神の国の完成」というストーリー構成こそが聖書のメッセージとしっくり合致することを立証しています。
9. これらの関連成句をひとつずつ検証してまいりましょう
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー17「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性を軸とした聖書解釈の構造からー「イスラエル民族主役説」の解釈圧力の誤りを払拭した、患難期と再臨の順序」
https://youtu.be/nf000zt_mxE
*
【ノート】
1. 「空中再臨によって患難期の前に携挙される」vs「患難期の後の、救いと審判の再臨」の対照
i. The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent
and the Rapture "の読み方、目の付け所
ii. この本を翻訳して教えられるポイントを少し紹介したいと思います。
iii. 第四章「患難期、携挙、復活」において、その関連聖書箇所が丁寧に検証されています。
iv.
その結論は、「あいまいなものではなく、明白なもの」です。なぜ、このように明白な教えに対して、誤った教えが流行するのか、不思議に思います。
v. 代表的な関連聖書箇所を検証してまいりましょう。
b. マタイ24章―オリーブ山での患難期についてのイエスの講話です。
i. この時代の流れ(マタイ24:4-14)、
ii. 反キリストの出現を含む大患難の出来事(v.15-25)、
iii. 大きなラッパの響きとともに、栄光の再臨(v.31)
c. イエスの講話と類似の、パウロ書簡の箇所は、Ⅰテサロニケ4:16です。
i. キリストの再臨、
ii. トランペットの鳴り響き、
iii. 携挙
d. もうひとつの箇所は、Ⅱテサロニケ2:2-8です。
i. 再臨がすでに起こったとか、再臨前に召された信者はどうなるのかーという疑問に対して、パウロは、
ii. 反キリストの出現(つまり大患難の到来)、
iii. 主の日の到来の来臨の輝きによる反キリストの滅亡
e. 最後の箇所は、ヨハネの黙示録3:10
i. 「黙3:10 あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、
ii. 地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、
iii. わたしもあなたを守る。」
f. まとめ
i. 旧約の出エジプトの十の災害の時のように、
ii. イスラエルの民がエジプトを脱出した後に、十の災害が起こったのではなく、
iii. 十の災害の只中で、イスラエルの民は保持され、守られ、支えられたのでした。
iv. 聖書全体が、また新約聖書が、黙示録が保持するメッセージとは、
v. 「患難期から取り去られる」メッセージではなく
vi. 患難期の只中で保持されるので、殉教をも恐れず証しし続けることを励ますメッセージ
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー16「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性から発する旧約再解釈のマグマが
“イスラエル民族主役説” の殻を破ったー使徒たちの“革新的な”解釈」
https://youtu.be/Cce1y5viizE
*
【ノート】
1. 旧約のメッセージが「イスラエル民族主役説とイスラエル民族の栄光の回復」であるとすれば、
a. 新約のメッセージとは何なのか
b. 新約のメッセージとは「イエス・キリストの人格とみわざの卓越性から発する旧約再解釈のマグマが
c. 「イスラエル民族主役説」の殻を破ったー使徒たちの“革新的な”解釈」のことである。
*
2. パウロは、ダマスコ途上で「この新約の光に打たれた」
a.
パウロは、「キリストの人格とみわざ」の卓越性の光に打たれ、他のすべてのものを「ちりあくた」ピリピ3:8、のように相対化できるものとされた。
b. パウロたち、使徒たちは、「イエス・キリストの人格とみわざ」の新約の光の下に、「旧約」を読み返し、
c. すべての要素を「キリスト中心」に再解釈していくことができた。
*
3.
「旧約の、イスラエル民族主役説の神の民理解」の殻を破り、その殻の中に、「普遍的神の国の現在性と未来性」、「キリストにある普遍的な神の民」理解という
a. 革新的な「旧約再解釈」の作業を行っていった。
b. その作業の記録が「新約聖書」である。
*
4. それによれば、「神の民」は
a. 受肉以前の民族的イスラエルの歴史の中であらかじめ準備されていた普遍的神の民(復活信仰・贖罪信仰)の萌芽が、
b. 救い主の到来において歴史の中に、普遍的神の民の究極の形態(キリストのからだなる教会・聖霊の宮)を見出し、
c. それが、普遍的神の国の未来性(千年王国・新天新地)において完成されていく
*
5. 旧約イスラエル民族の真の信仰者と新約キリスト教会の真の信仰者は、
a. イエス・キリストの人格とみわざに根差す贖罪と復活の信仰において、
b. 同質の単一の神の民(霊的・本質的連続性、統一性)
*
6.
類比的に語れば、それは、「竹に木をつぐ非連続性」理解ではなく、「卵、ヒヨコ、ニワトリの有機的・生命的連続性」理解なのである。
***
※付記
さらに、詳しく説明するとしますと、わたしが、『福音主義イスラエル論
Ⅰ』(アマゾン書店・キンドル版)で書いていますように、健全な福音主義的聖書解釈においては、「聖書は文字通りに解釈されなければならない」の意味を、以下のように記しているものがありますので、参考にしていただければと思います。
*
A) 「使徒的聖書解釈法とは何か」
A-1) 共通の聖書観
福音主義に立つものは「共通の聖書観」を共有していると一般に理解されている。しかし、それは物事を余りに単純化しているのではないか。ここで言う「福音主義」とは、「聖書を全面的に人間の宗教書」とみなすバーなどによって代表される自由主義の伝統や「聖書は神の啓示に対する証言」であるとするバルトによって代表される新正統主義の伝統等に対して、聖書は神の霊感によって与えられた「神のことばである」とする歴史的キリスト教の「直接的同一性の立場」を大枠で括ったものである。さらに、福音主義の立場といっても、神学的要素・歴史的要素・社会文化的要素等において多様性がある。そして聖書観、つまり霊感・無誤性・権威の理解においても、絶対的・全的・部分的といった多様性がみられる。しかし、そのような多様性を認めつつ、その中で聖書は神の霊感によって与えられた「神のことばである」という点において一定の幅で「共通の聖書観」がみられる。
*
A-2) 二つの物語
そのように一定の「共通の聖書観」に立ちながら、何故、二つの解釈法―ディスペンセーション主義聖書解釈法と契約主義聖書解釈法は生まれてくるのか。聖書という同じデータソースからはひとつの聖書解釈法が生まれてくるはずではないのか。それは、「旧新約のふたつの聖書の主題が大変異なっている」ところに原因がある。この現実は、聖書は神の霊感によって与えられた「神のことばである」と認める福音派の人々の間でも、十分認識されていないのではないか。一般的に聖書は全体として、平板に「神の言葉」として受容されてしまい、「聖書にはこう書いてある」と扱う光景をよくみかける。しかし現実はそう単純ではない。旧約はイスラエル民族、選民イスラエルに関心を示し、君主制・神殿・祭司制をもつ民族として、その盛衰の歴史を描写している。その歴史は「民族的・神政政治の運命の視点」が中心である。旧約聖書の中では、イスラエルは神の民のままで、イスラエルの救いこそが未来の焦点となっている。しかし、新約聖書では大変異なった状況がみられる。イスラエルの救い主としてのイエスは、拒否され十字架につけられ、イスラエルの残りの者のみが応答した。イスラエルと教会は根本的に異なったものである。イスラエルは「民族」であり、教会は「信仰者の開かれた交わり」である。新約は、「教会の運命という主題」を扱っている。旧約聖書と新約聖書は二つの物語―イスラエルの物語と教会の物語―によって構成されている。この「ジレンマ」をどう扱うべきなのか、これが根本的な問題である。この問題意識なしに、「福音主義イスラエル論」を語ることはできない。そして、ここに二つの根本的に異なった解答が存在し、私たちは二者択一を迫られている。
*
A-3) 二つの聖書解釈法
私たちの前に置かれている聖書解釈の第一の方法は、イスラエルは約束された土地を相続するよう運命づけられた神政政治の民族、今も将来も、旧約の預言が文字通り成就するとき、イエスは文字通りダビデのような王となられると捉える「ディスペンセーション主義聖書解釈法」である。ディスペンセーション主義には数多くの特色ある教えがあるが、最も主要な教義は「神の二つの計画と神の二つの民が存在する」というものである。これが、旧約と新約の二つ物語を「二つの神の民、二つの神の計画」と別個に捉えるディスペンセーション主義の極端な字義主義解釈法の真骨頂がある。もし旧約聖書の言葉が「徹底して字義通り」に捉えなければならない、という意味で「神のことば」であるとしたら、彼らは正しいことになる。しかし、そうではない。聖書解釈には第二の方法がある。それは、旧新約の「啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を認め、「旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する」方法である。旧約聖書には象徴、予型、預言等がある。そこに時満ちて神の御子が受肉され、贖罪のみわざを完成し、復活・昇天・神の右に着座され、聖霊を注がれた。この「事態」を受けて旧約聖書を「イエス・キリストを証しするもの」として解釈した文書が新約聖書であるということである。
最も大切なことは、私たちの目の前にある「二つの聖書解釈法」の良し悪しの審判をどこに仰ぐのか、ということである。「聖書解釈法」の選択権は読者の側にあるというのか。いやそうではない。新約聖書は、パウロをはじめとする使徒たちに「旧約聖書」解釈の権威が与えられていることを明確にしている。使徒たちの「旧約聖書」解釈は、キリストのみわざの現実に直面したことにおいて、大きな変化を遂げた。これがキリスト教会の旧約聖書解釈の基点である。二つの聖書解釈法の良し悪しを判定する法廷は、「新約聖書」にあり、使徒たちが明らかにした聖書解釈法とは如何なるものであったのかを基準に判決が下されるべきである。それゆえ、私はあえて「聖書解釈法とは何か」と問わない。その問いは道を誤らせる危険を内包する問いである。これが「使徒的聖書解釈法とは何か」を問う所以である。
さて、私たちが留意すべき基本的な聖書解釈法とは何か。それは、旧約聖書の預言は「イエスの人格と使命において成就されたものは何であったのか」という視点から解釈されなければならない、ということである。この命題を立証するため、旧約における三つのメシヤ預言の解釈を取り上げる。異教徒の憎むべきくびきから解放する「ダビデ王たるメシヤ像」(イザヤ書11章)、天的な超自然的な「ダニエル書の天からの人の子像」(ダニエル書7章13-14節)、無力でなされるまま死に至らされる「イザヤ書の苦難のメシヤ像」(イザヤ書53章)がある。それらは、旧約において並列しておかれ、互いの関係が不明な、大変異なった概念である。しかし新約はイエス・キリストの使命を旧約預言解釈の「マスター・キー」として、この三つのメシヤ思想を統合し解釈している。キリストの謙卑と高挙と再臨の段階、神の国の現在性と未来性の区別を念頭に「イエスと彼の後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命の視点から解釈した。人の子は、彼が栄光に入る前に、地上に現れなければならない。そして、彼の地上における使命は、苦難のしもべの役割を成就することである。…キリスト論であるか終末論であるかは別にして、最終的に権威のある言葉は、新約聖書の中に見出されなければならない」のである。これこそが使徒たちのなした「聖書解釈」の原則であり、「使徒的正統性」の反映の度合いを判別する尺度である。
『レフト・ビハインド』が内包してい
る問題点の解明とその克服の処方箋」ー15「脇役退去と主役復帰のストーリー構成への聖書解釈圧力の結果:
②再臨の用語にみられる“こじつけ”解釈」
https://youtu.be/rOwX7hDLPuE
*
【ノート】
1. 「イスラエル民族主役説とイスラエル民族の栄光の回復」という旧約メッセージのストーリーの
2. 一部分としての、教会時代と再臨と患難期の位置づけ・順序を“再アレンジ”し、
3. 旧約メッセージのストーリーに合致するよう
4. ここでは「キリストの再臨」に関するーパルーシア、アポカリプシス、エピファネイアの三つのを、
5. 前後の文脈・意味を無視し、“再解釈”しています。
6.
前後の文脈と意味からは、これらの三つの用語の意味は、「同一の出来事、単一の救いと審判のためのキリスト再臨」を指しているのに反し、
7. 「主役たるイスラエル民族の再登場」の舞台としての、「患難期」を設定するために、
8. 文脈にも意味にも合わない「患難期前再臨説」を導入し、
9. 患難期の前後に、「携挙を含む、秘密の、救いのための空中再臨」と「審判のための地上再臨」の二段階再臨説を設定しています。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー14「脇役退去と主役復帰のストーリー構成への聖書解釈圧力の結果 :
①クリスチャンの携挙と患難期中のイスラエル民の回心」
https://youtu.be/SBoCG0vTnt8
*
【ノート】
1.
「旧約のイスラエル民族主役説、未来におけるイスラエル民族の栄光回復説」というストーリー構成のフレームワークを堅固に固め、
2.
使徒たちが「神のひとつの民、ひとつの計画」として構成している新約のストーリーを「イスラエル民族とキリスト教会のクリスチャンは、別個の存在」の視点から再解釈し、歪曲していきます。
3. 次に、そのストーリー構成に調和するように、「新約のメッセージとストーリー」を再解釈し、再構成しています
4. 後に見るように、使徒たちは新約で「患難期後再臨説」を教えていますのに反し、
5.
「イスラエル民族の主役復帰」のストーリーを「患難期の中に残されている神の民はイスラエル民族」であるとこじつけ解釈を施します。
6.
そのために、救済史における「脇役、臨時の挿入としての教会」は、“露払い役”のように退場させられます。それが、“患難期前の、秘密の空中再臨における携挙”というかたちでなされます。
7. 退去させなければ、「イスラエル民族主役説」のストーリーは完成しません。
8.
これらの理由により、マタイ24:31「神が選んだ者」=信仰者、つまりクリチャンの意味を、「選民イスラエル」は解釈の改悪を施します。
9.
これらの理由により、黙示録1-3章に「教会」という言葉あり、その後に「教会」という言葉が出てこないことを理由にあげ、ヨハネの天上と地上交錯する霊的な経験である「ここにのぼれ」4:1を
10.
携挙と理解し、4章から19章のキリストの再臨までの患難期に地上にいるのは、イスラエル民族であると、解釈の改悪を施します。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー13「三層構造のサンドイッチのはざまで、この神のドラマに即した解釈学的圧力」
https://youtu.be/P7A87fL55e4
*
【ノート】
1. 簡単に、もう上げますと、
2. 図にありますように、三層構造となっています。
a. 旧約では「イスラエル民族主役説」が教えられ
b. その未来においては「ユダヤ民族中心の千年王国説」が示されています。
c. まず第一に、その二つを、「神の言葉」として“絶対化”し
3. 次に、その解釈学的に生じた圧力の下に、新約の記述を“再解釈”していく構造があると思います。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー12「“逆流”の運動や教えの特徴 :
伝統的ディスぺンセーション主義の前提」
https://youtu.be/JeyopP08ZV8
*
【ノート】
1. 次に、“逆流”の運動や教えの特徴を見てまいりましょう。
2. 拙訳の、エリクソン著『キリスト教教理入門』p.439-440,444には、
3. 伝統的ディスぺンセーション主義の前提が簡潔に記されています。
4. そのポイントは、以下の通りです。
a. ディスベンセーション主義とは、聖書解釈方法論である
b. その解釈方法の前提ー「聖書は文字通りに解釈されなければならない」
c. 具体的には、「イスラエル」は教会ではなく、国家ないし民族としてのイスラエルを指すと解釈
d. よって、「イスラエル」と「教会」の区別に大きな強調
e. 現在、神は「イスラエルを主役とする神の取り扱いのドラマ」を中断
f. 「教会」は神のドラマ全体の中における「幕間の挿入」
g. 神が「イスラエルを主役とするドラマ」を再開されるとき、「教会」は取り去られる
h. 患難期は、イスラエルを主役とするドラマ再開の「移行期間」
i. 千年王国は、神のドラマの主役であるイスラエル中心。著しくユダヤ的性格を帯びたものとなる。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー11「“逆流”の教えを内包する運動・教え等と健全化のための書籍紹介(資料リンク版)」
https://youtu.be/GTt4Ht0U8pk
*
【ノート】
1. 昨日は、録画処理で、前半録画を後半録画が上書きしたために、後半のみとなっておりましたので、
今日改めて、リンク資料紹介も加えて紹介させていただきたいと思います。
*
2. ここで、「“逆流”の教えを内包する運動・教え等」と「健全化のための書籍紹介」をさせていただきます。
繰り返し申し上げますが、これは「批判を目的とした批判」ではなく、「誤った教えのさらなる広がり」に警鐘をならすとともに、
「福音理解の健全化への処方箋」を提示することを目的とするものです。
3. 母校・所属団体に、今も流入し続けている運動・教えには、
a. 黙示的ディスベンセーション主義(テレビ伝道者の方)→聖書フォーラムへの信徒流出
b. メシヤニック・ディスペンセーション主義(ダラス神学校卒のディスペンセーション主義の教えに立たれるユダヤ人教師)
c. 政治的ディスベンセーション主義(イスラエルで日本人の旅行ガイドの仕事をされていた方)→祈り会の浸透
4. これらの運動や教えの分析・評価、克服の処方箋を提示している優れた資料として、
5. ディスペンセーション主義の教えに関する良書とそれをテキストとして分かち合いました講義としましては
a. クラレンス・バス著『ディスペンセーション主義の背景』
i. 20091006 ディスペンセーション主義問題 三部作シリーズ:③ JEC牧師会講演
「ディスペンセーション主義聖書解釈法の問題」
https://youtu.be/dkdmRBcm7So
b. 岡山英雄著
i. 「患難期と教会」
1) 20090623_k23 ディスペンセーション問題三部作
①-A:「終末論:千年王国と大患難諸説」2・3年生特別講義
https://youtu.be/hK3VQwZa4S8
2) 20090624 k D01 ディスペンセーション問題三部作
①-B:「終末論:千年王国と大患難諸説」1年生特別講義
https://youtu.be/5EkHyaQXYhc
ii. 『小羊の王国』
1) 20090915 k D02 ディスペンセーション問題三部作②-A:「終末論:イスラエルと教会」特別講義
https://youtu.be/urT6hlrugQA
2) 0090925b k01 ディスペンセーション問題三部作②-B : 「黙示録研究―鳥瞰図・字義主義・聖書解釈」
―主要資料:岡山英雄著『小羊の王国』、他 多数
https://youtu.be/h_va8M6iDLo
iii. 『ヨハネの黙示録注解』
c. R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』
i. 新約聖書-ヨハネの黙示録講解説教シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=4xz3cZZuXPM&list=PLClE1DIlx0onbRL9X9-cQiiwCkRdqvwbq
d. 仲井隆典著『ディスペンセーション終末論の克服』
6. キリスト教シオニズムに関しては
a. Stephen Sizer, “Christian Zionism”, “Zion’s Christian
Soldiers ?”IVPは
b. ストットも推奨する優れた分析・評価の本である。その内容の輪郭とエッセンスを抽出した論文が下記の二つの資料です。
c. 安黒務著『福音主義イスラエル論』Ⅰ
i.
20150420_日本福音主義神学会・西部部会・春季神学研究会議・分科会発表―安黒務『福音主義イスラエル論』論文紹介
https://youtu.be/97Ft8tRLQO4
d. 安黒務著『福音主義イスラエル論』Ⅱ
i.
2019/05/21日本福音主義神学会中部部会・東海神学塾ーディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの教えと運動の分析・評価
https://www.youtube.com/watch?v=SdPc0aVSqn0
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー10「この軋轢は、ラッドが示すように、「新約と旧約の物語」が相違すること、そして“このジレンマ”をどのように解決するのかという根源的課題から発している課題である」
https://youtu.be/0_ulpxYm3nQ
*
【ノート】
1. 少し私の証しをさせていただきます。
2. この証しは、私と似た取り組みをされる方は、同様の経験をされると思うからです。
3. その時の備えとなればと願います。
4. 私は、スウェーデン・バプテスト系のオレブロ・ミッション宣教師によって形成された
5. JEC日本福音教会が主力となって経営している母校を卒業しました。
6. 穏健なディスペンセーション主義の影響を受けている団体であり、母校でありました。
7. 母校の神学教育を担う神学教師のひとりとして、団体の支援も受けつつ、
8. より専門的な福音主義神学を学ぶために、宇田進所長の共立基督教研究所に三年間内地留学させていただきました。
9. そして、そこで身につけた福音主義神学を生かし、団体と母校の「福音理解」の健全化のため、
10. 同じスウェーデン・バプテスト系のルーツをもつ、ミラード・エリクソン著『キリスト教神学』『キリスト教教理入門』や
11. 同じバプテスト系であるジョージ・ラッド著『終末論』等を翻訳しつつ、約40年間尽力してまいりました。
12. 共立を卒業して、二十年間は平穏に、健全化の取り組みができていました。
13.
しかし、2010年頃に、あるテレビ伝道者の方が、東京・大阪・沖縄でディスペンセーション主義の教えの普及のセミナーを開始されました。
14. 私の所属団体と母校の先生方と神学生、諸教会の兄弟姉妹の多くが、大挙してそれらのセミナーに参加を勧められていました。
15. そのテレビ伝道者の方は、母校のレギュラーの聖書教師のひとりとして迎え入れられ、
16. その同労者のユダヤ人講師も講義・講演を行われるようになりました。
17.
さらに、政治的ディスベンセーション主義の流れの運動も、どんどん流入し、多くの教会で関連の学び会・祈り会が開催されるようになっていきました。
18.
わたしは、米国のみならず、日本でも、「しっかりした福音理解」を保持している団体では、そのような教えや運動の流入が阻止抑制されているのに、
19. 所属団体と母校では、それらの運動や教えに迎合し、それで伝道・教会形成・神学校繁栄等にまい進している姿をみて、
20. これらの運動や教えが「内包している問題点指摘し、それらの誤りを克服する処方箋」を示してきました。
21. ただ、ファンダメンタルでディスベンセーション主義の傾向を内包する「古い皮袋」の中に、
22.
健全とは言え「新しいブドウ酒」として、ラッドやエリクソンの「普遍的神の国」と「患難期後再臨説」のメッセージを導入することで、
23. “あつれき”を避けることはできませんでした。
24.
この軋轢は、ラッドが示すように、「新約と旧約の物語」が相違すること、“このジレンマ”をどのように解決するのかという根源的課題から発している課題であると思います。
25.
ただ、軋轢を恐れて、沈黙を守ることは、神のみ旨に沿っているとは思えません。少なくとも、「池の中に石を投げ込む勇気」だけは持ちたいものです。
26.
その先、どのようになっていくかー神さまが長い先にどのように、「そのさざ波」を用いていってくださるかーこれを見届けていきたいと思います。
27. 今回、凸凹神学会の池に“小さな石ころ”を投げ込ませていただけ、私の小さな使命の一端を果たせたことを感謝しています。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋ー09「旧約の中では、イスラエルは神の民のまま、イスラエル民族の栄光の回復が未来の焦点となっている=これが、新約再解釈の前提、座標軸また構造を構成」
https://youtu.be/PHToFD7ls3A
*
【ノート】
1. では、なぜ「神の国の未来性」の強調という聖書的な貢献をなしつつ、
2. ダービーたちは「聖書には教えられていない“携挙を伴う患難期前再臨説”」に捉えられ、
3. 続く人たちも、この誤りの中に留まり続けたのでしょう?
4. この原因探求が、今回講演の“心臓部”にあたります。
5. わたしは、ラッド著『終末論』1章「聖書の預言箇所はとのように解釈すべきか」、2章「イスラエルについてはどうか」から、
6. 伝統的ディスペンセーション主義の聖書解釈法には、
7. 新約解釈の“前提”として働く“構造からの圧力”が、新約解釈の歪曲を生むようになったのではないか、と考えています。
8. その構造とは、「旧約の中では、イスラエルは神の民のまま、イスラエル民族の栄光の回復が未来の焦点となっている」
9. =これが、新約再解釈の前提、座標軸また構造を構成している」ということです。
10. この解釈学的構造が「強固な解釈上のフレームワーク」として機能するときに、
11. 「神の国の未来性」に属する「千年王国・新天新地」は、「イスラエル民族の栄光回復」のイメージに染め直されます。
12. そして、それを実現するために、「キリスト教会」は、“臨時の挿入”の立場に、その地位を貶められてしまいます。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー05-06「キリストの秘密の再臨時の秘密の携挙のアイデアは、エドワード・アーヴィングの教会での“発話(預言)”に起源があり、これが御霊の声として受けとめられたー聖書から立証された教えではない」
https://youtu.be/SzuioAmP8Cg
*
【ノート】
1. 次に「行き過ぎた字義主義へのシフト」を見てまいりましょう。
2.
英国のブレザレン運動も初期は健全な「神の国の未来性」を強調し、健全な「患難期後再臨説」を教える指導者もいたことが記録されています。
3.
しかし、ダービーがブレザレン運動の指導権の戦いで勝利をおさめると、誤った「患難期後再臨説」が主流の教えとなっていきます。
4. その経緯を次のスライドで見ましょう。
*
1. G.E.Ladd, “The Blessed Hope”,『祝福に満ちた望み』の p.40-41には、
2. スライドにある記述があります。
3. お読みしますー「The Rise of Pretribulationism 患難期前再臨説の台頭」
a.
ダービーと新しい運動の他の指導者は、パワーズコートでの集会に参加し、ここで預言解釈の分野でダービーの指導力が誰の目にも明白なものとなった。
b. 教会の患難期前再臨時の携挙の教えは、パワーズコートにて創り上げられた
c.
この初期のブレザレンのメンバーであったトレゲレスは、キリストの秘密の再臨時の秘密の携挙のアイデアは、エドワード・アーヴィングの教会での「発話」に起源があり、これが御霊の声として受けとめられた、のだと私たちに告げている。
d. トレゲレスは「今日見られる教義とそれを考慮した用語表現が生まれたのは、想像上の啓示からである、と語っている。
e. それは聖書からではなく、偽って神の御霊を装った啓示から与えられた。
f.
この教義は、伝統的な未来性強調の見解についての他の重要な変更と共にダービーによって積極的に推進され、ウィリアム・ケリーの著作により普及していった。
4.
「エドワード・アーヴィングの教会」というのは、カトリック使徒教会のことで、今日みられるペンテコステ教会のはしりのような教会のようです。
5. そのような教会での「発話」つまり「預言」に起源があるいうのです。
6. 要するに、「患難期前再臨説と携挙の教え」は、“聖書から立証された教えではない”というポイントに注目すべきと思います。
7. この描写には、まだ精査すべき要素があるようにも感じます。
8. ただ、初期のブレザレンの指導者たちの中のひとりが、
9. このような批評をしていることに注目すべき要素があると思います。
10 どんな起源からであれ、「聖書からは立証されえない教え」が発生し、なぜそれが広く世界に広まっていったのか
11. これが私たちが繰り返し問い続けなければならない問いです。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー04「英国における優れた宗教改革運動とも見られたダービーたちの教えや運動が誤った方向に逸脱していく背景」
https://youtu.be/uZW-2tyNXN4
*
【ノート】
1.
では、次に、英国における優れた宗教改革運動とも見られたダービーたちの教えや運動が誤った方向に逸脱していく背景をみていきたいと思います。
2. クラレンス・バス著『ディスベンセーション主義の背景の, p.21. に
3. 「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。
4.
その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記されています。
5. これも、当時からの歴史的背景、神学的背景に属することです。
6. 18世紀の啓蒙思潮を背景に、19世紀にはリベラリズムーつまり神学的自由主義が台頭します。
7. これは、聖書観において、大きな変化が起こったということです。
8. 聖書を「神の言葉」として絶対化することをやめ、「人間の手によるひとつの宗教書・倫理道徳の本」として読む傾向です。
9.
天地創造とか受肉とか、復活とか再臨とかは、「理性という網」に掛からない水となり、愛とか義とかは「キリスト教ヒューマニズムの倫理・道徳」として、いわば“魚”として網の中に残るということです。
10. このような傾向に対して、聖書の言葉を「誤りのない神の言葉」として、“極端に字義通り”捉える反動が起こってきました。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー03「失われていた「神の国の未来性」の再強調を内容とする“千年王国前再臨”の強調は、ダービーたちの貢献部分」
https://youtu.be/9OmZ9wKqZsE
*
【ノート】
最初に、マクロな視点から見てまいりましょう。
1. G.E.Ladd, はその著書 “The Blessed Hope”『祝福に満ちた望み』でこのテーマを扱っています。
2. 彼が、最初に扱っているのは、「千年王国」説、つまり「神の国」についての理解です。
3. 古代教会のさまざまな資料から、古代教会では「神の国」は未来に属するものと教えられていたと言います。
4.
ただ、ローマ帝国がキリスト教化されていく中で、「神の国」は教会を通して、現在の中に実現されていくものとの理解が広まります。
5. 宗教改革は、まだその線上にあり続け、
6. 19世紀という「世紀末」への接近とともに、再び「神の国の未来性」が強調されるようになりました。
7. 「神の国の現在性」と「神の国の未来性」の両面が大切なわけですが、
8. 失われていた「神の国の未来性」の再強調を内容とする「千年王国前再臨説」の強調は、ダービーたちの貢献部分だと思います。
*
PS.
後半の質疑と応答の時間に、「神の国の概念」「神の国の現在性」「神の国の未来性」に関する質疑がありました。このあたりに関しましては、G.E.ラッド著、島田福安訳『神の国の福音』が最も分かりやすく解説した本として推奨できると思います。ラッド著作集には、洋書でこの関連著作は多くあることも指摘しておきたいと思います。それと、ラッド著『祝福に溢れた望み』においては、「千年王国前再臨説」への言及が主なる内容なのですが、わたしはそのポイントをあえて“神の国”の現在性と未来性という用語に置き換えて解説させていただきました。それは、わたしの理解では、「千年王国後再臨説」と「無千年王国説」においては「神の国の現在性」の強調点があり、「千年王国前再臨説」においては「神の国の未来性」の強調点があり、それは両方とも聖書的な強調点であるからです。これらの説は、“聖書的な共通概念”を共有しているとわたしは理解しています。ただ、伝統的ディスベンセーション主義においては、「イスラエル民族の栄光の回復としての千年王国(神の国)理解」があり、それは「使徒たちが理解していた“普遍的な神の国”理解」とは異質なものであるとわたしは理解しています。そのあたりの理解の助けのために、この書籍を推奨させていただきます。絶版の場合は、古書店等で探されると良いと思います。わたしが、神学生たちに「福音主義の立場における“神の国”に関する書籍の中の最良の一冊」として紹介してきた本です。
2021年4月18日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇9篇「義の審判者としての神のみわざをほめ歌いますー“火を投げ込む”技術」
https://youtu.be/AgQ9d3Js8EU
*
ひょんなことから、幾つかの奉仕が転がり込んできた。不思議な五ヶ月間であった。母校の教え子のひとりから、「終末論」の資料の注文が入ったのが、昨年の11月中旬であったと思う。それを契機に、大頭眞一先生との接点が開かれ、「凸凹神学会」での講演奉仕、「百万人の福音」の原稿執筆となった。そして、それぞれに大きな反響をいただき、感謝している。福音派諸教会、聖書学校等の「終末論」理解の健全化に資することを期待している。
今回いただいたテーマと五ヶ月間取り組んでいて、教えられたことがある。それは、「ルカ 12:49
わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」の言葉である。H.G.ペールマンの著書にあるW.ホーホケッペルの言葉では、み言葉の奉仕のひとつの側面には「伝承されたテキストに火を投げ込む技術」が必要とされるとある。今回の奉仕に対する反響の大きさを見て、わたしは「火は投げ込まれた」との印象を受けている。この“投げ込まれた火”が、共有している福音理解の中の「誤った教えの部分の、いわゆる“悪性の腫瘍”を焼き尽くし、健全な聖書的な終末論が再構築される」一助として用いられることを願っている。
今朝の、詩篇第9篇は、①ダビデが以前に勝ち取った勝利について語った後、②事態のこのような好転をもたらした神の恵み力とを大いにほめたたえている詩篇である。③そして、さらに、新たな敵と新たな危険が迫り来るのを見て、ダビデをかつて救い出したと同じ助けが与えられるようにと神に乞い求めている詩篇である。④そして最後に、ダビデを憎む者たちの傲慢が打ち砕かれるようにと祈願している。
9:1「心を尽くして私は【主】に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。」で始まるこの詩篇は、「心を尽くして私は、あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。」という告白から幕を開ける。
この告白の動機となったものは、何だろう。それは、「9:4a
あなたが私の正しい訴えを聞かれるから」である。「神が、私の“訴え”を不断に傾聴し、それに対してバックアップを与えてくださる」というのである。なんと心強いことだろう。
で、神はどのようなスタンスで、私たちの“訴え”に傾聴し、行動してくださるのであろうか。それは、9:4b
「義の審判者として王座に着いておられる」からである。神は、法廷における裁判官のように傾聴してくださる。事の良し悪し、私たちの取り組みに還元すれば、「間違った運動や教え」を“健全化”する取り組みを全面的にバックアップしてくださるお方だと言うのである。
「9:7 しかし【主】はとこしえに御座に着き、さばきのために王座を堅く立てられた。」「9:8
主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれる。」「9:16
【主】はご自身を知らしめさばきを行われた。」と、神は、御座に着いておられ、義なる神、公正なる神として、全世界を裁かれる。
「9:5 あなたは国々を叱り悪しき者を滅ぼし、彼らの名をとこしえに消し去られました。」「9:6
敵は絶え果てました。──永遠の廃墟あなたが根こそぎにされた町々──彼らの記憶さえ消え失せました。」とあるように、またご自身の民の中の「誤った教えや運動の“腫瘍”部分を、レーザーの手術のごとく焼き尽くされる」。
二千年の教会の歴史をみるときに、それは多種多様な「誤った教えや運動」との戦いの歴史でもあったと教えられる。私たちは、私たちの時代において、先輩の宣教師や日本人教職者たちから継承してきた「福音理解」に対して責任を負うものである。
エリクソンは、先輩の先達から、盲目的に継承している教職者は、一見立派な弟子のように見えるが、「最も悪い弟子」であるというようなことを記している。私たち教職者の「伝統の継承活動」とは、有名なシカゴ・コールに、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」とあるように、伝統の中の良きものを継承・深化・発展させることであり、伝統の中の悪しきもの、誤っているもの、間違っているものを取り除いたり、修正していくことである。これが、冒頭に紹介したペールマンの言葉「火を投げ込む技術」である。
無思慮に、むやみに「火を投げ込む」のは、放火魔であり、それは犯罪に属する。しかし、“レーザーの火”を「悪性腫瘍を焼き尽くす技術生かして活用する」ことは建徳的であり、主のみ旨にかなうことではないのか。尊敬すべき先輩たちも、私たちが「誤った敬意」を盾にして「誤りと気づいている教えや運動に頑固に固守すべき」とは言われないだろう。反対に、「後輩よ、なぜおまえは、人の目を恐れて”1タラントを土の中に埋めてしまった悪しきしもべ”のように、誤った教えや運動の修正、治療、克服に尽力しなかったのか。怠惰な後輩よ。私たちはあなたがたをそのように指導したのではなかったのに…。」と叱責されるのではないか。
私たちが、所属団体や母校等で、「古い皮袋」の中に「新しいブドウ酒」を注ぎ込むとき、“発酵現象”が起こり、膨張し、弾力性のない「古い福音理解」のある部分が破れそうになるかもしれない。しかし、それは慎重かつ丁寧になされれば、「新しい皮袋として、福音理解のある部分の健全化」の契機にもなりうる。
今朝の詩篇の、「9:9 【主】は虐げられた者の砦、苦しみのときの砦。
9:10 御名を知る者はあなたに拠り頼みます。【主】よあなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。
9:11 【主】にほめ歌を歌えシオンに住まうその方に。主のみわざを告げ知らせよ国々の民に。
9:12 血に報いる方は彼らを心に留め貧しい者の叫びをお忘れにならない。
9:13 【主】よ私をあわれんでください。私を憎む者から来る私の苦しみをご覧ください。死の門から私を引き上げてくださる方よ。
9:14 私はあなたのすべての誉れを語り告げるため、娘シオンの城門で、あなたの救いに歓声をあげます。」
は、多数が「古い皮袋」の群れや団体の中で、少数派の「新しいブドウ酒」の取り組む人たちの経験とも重なる。
彼らは、群れの「福音理解の健全化」のために、いのちを張って取り組む勇気ある少数派である。彼らは、「ダビデのために、ベツレヘムの門にある井戸の水を汲んできた三勇士」(Ⅱサムエル23:15-17)たちである。真の意味で、群れの将来の「福音理解の健全性」は彼らの取り組みの成功如何にかかっている。それなのに、彼らは群れの中で苦境のまま放置される。彼らは「主に実情を申し上げ、訴える」。神の裁判所に訴え出る。しかし、すぐに神は行動に移されない。忍耐をもって状況を見守っておられる。誤った運動や教えの「力による強制排除」よりも、ローザンヌ誓約で示されているように「<共在>(presence)、<告知>(ploclamation)、<説得>(persuation)、<対話>(dialogue)」の諸段階を丁寧に踏み重ねていくことである。わたしの“研究講演”もその端緒となり、福音派諸団体、またもろもろの聖書学校・神学校においてもそのような対話が開始され、時間をかけて、「①聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査、②伝統の謙虚かつ批判的精査、③間違って神聖視されている教えや実践の克服」という取り組みが、喫緊の課題とされているテーマから順に解決されていくことを願っている。
「9:3 私の敵は退くとき、御前でつまずきついえます。
9:5 あなたは国々を叱り悪しき者を滅ぼし、彼らの名をとこしえに消し去られました。
9:6 敵は絶え果てました。──永遠の廃墟あなたが根こそぎにされた町々──
彼らの記憶さえ消え失せました。
9:15 国々は自分で作った穴に陥り、自分で隠した網に足を取られる。
9:16 【主】はご自身を知らしめさばきを行われた。悪しき者は自分の手で作った罠にかかった。
9:17 悪しき者はよみに帰って行く。神を忘れるあらゆる国々も。
9:19 【主】よ立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。国々が御前でさばかれるようにしてください。
9:20 【主】よ彼らに恐れを起こさせ、国々に思い知らせてください。」
ここには、「誤った運動や教え」の行き先が示されている。彼らの運命が暗示されている。
私たちは、コリント書にあるように、救われるが、その奉仕が「木、草、わら」のように焼き尽くされる彼らの奉仕の運命を詳しく論じることが主眼ではない。私たちは、ある意味、ある真理において、「古い皮袋」の多数派の只中にいる、「新しいブドウ酒」の少数派かもしれない。しかし、私たちは、巨人ゴリアテの前に立ち、ゴリアテの脅しに屈してはならないのである。それは、冒頭で語ったように、「9:4a
あなたが私の正しい訴えを聞かれるから」である。それは、9:4b
「義の審判者として王座に着いておられる」からである。「9:7【主】はとこしえに御座に着き、さばきのために王座を堅く立てられ」「9:8
主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれ」「9:16
【主】はご自身を知らしめさばきを行われ」るからである。
わたしは、今回、「百万人の福音」の記事執筆と、凸凹神学会での講演奉仕の機会を与えてくださった主をほめたたえたい。これは、「義の審判者としての神」の恵みとあわれみのみわざに違いない。神が「Ⅰペテ
2:7 家を建てる者たちが捨てた」“石ころ”を拾って、まるで“要の石”であるかのように活用してくださったのだから…。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」ー02【小説『レフト・ビハインド』とは?】
https://youtu.be/y-1ZBxfmpw4
*
【ノート】
『百万人の福音』では、レフト・ビハインドとは、「後に残される」という意味であること、
そしてこの小説の背後には、古典的と改訂のディスペンセーション主義終末論に特徴的な教えがあること、
そしてその教えは「突然の空中再臨(救いである携挙とレフト・ビハインド)→患難期(イスラエル民族の回心)→地上再臨(審判)→イスラエル民族中心の千年王国」という神の計画を教えていると書きました。
わたしは、この「イスラエル民族の栄光の回復を軸とする聖書解釈」と「空中と地上の二つに分けられた再臨」と「空中再臨によって患難期の前に携挙される」という教えは、「使徒たちの教えではない」と考えます。
使徒たちが教えているのは、「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする聖書解釈」であり、「空中・地上一体の単一の再臨」であり、「患難期の後の、救いと審判の再臨」であると確信しています。
では、ここから、二つの終末に関する教えを比較対照しつつ、どちらが聖書の教えに合致しているのか検証していきたいと思います。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第五節
不変性、④ギリシャ思想の影響と聖書の見方の差異、96頁、右段26行
https://youtu.be/JXUxiRbKUzU
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4. 不変と表現されている神の不変性の教理の解釈
a. 不動性や不毛性―ギリシア思想に強く依拠してきたもの
i. これでは神が活動していないことになってしまう
b. 聖書の見方―神が静的ではなく、ゆるぎないお方
i. 神は活動的で動的
ii. 安定、本性と相反しない形において
c. 神の信頼性―神は、明日も今日と同じ方
i. 約束したように行動
ii. ご自身の約束を果たされる
iii. 信仰者はそれに依拠しうる(哀歌3:22-23、Ⅰヨハネ1:9)
「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書のメッセージと合っているのでしょうか?」ー:大頭眞一先生主催の凸凹神学会(ズーム)『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」4/15(木)
13:30-15:30の再収録版スライド01 の紹介
https://youtu.be/ilkhOGOpfEI
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【ノート】一行15秒、2分8行以内。
JEC日本福音教会一宮チャペル牧師で、「一宮基督教研究所」を主宰している安黒務です。
今日は、大頭眞一先生の依頼を受け、「レフト・ビハインド」について講演させていただきます。
さて、大頭眞一先生からの依頼の趣旨は、『百万人の福音』の記事にもありましたように「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書のメッセージと合っているのでしょうか?」という問いでありました。
この問いに対し、私は「この教えは、聖書の教えではない、と私は考えます」とお答えしました。
今日は、その理由を45分間の講演で説明させていただき、その後に皆さんからの45分間の質疑を受けたいと思います。
時間に限りがありますので、講演に関する事柄をパワーポンイトのスライド22枚でお分かちさせていただきます。
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今日、上記の講演会が、ズーム形式で開催されました。沢山の先生また兄弟姉妹が参加してくださり、感謝でした。講演原稿を約五ヶ月かけて書き上げましたが、ズーム形式の神学会講演ということで、パワーポイントを活用した講演形式に挑戦することにしました。実際の講演では、参加者の自己紹介や質疑と応答もあり、記録されたビデオにはそれらの部分も含まれています。それで、主催者の大頭眞一先生の了解を得て、今回の講演を広く提供していくために、「再収録版」を作成することにさせていただきました。少し編集の手を入れつつ「22枚のスライド」を一枚ずつ、丁寧に紹介していきたいと思いますので、宜しくお願い致します。
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※ ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ」から漸次傾聴していくことができます。
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート
(まとめ)
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いよいよ、明日となりました。それでこれまでの「下準備ノート」を整理してみました。参加してくださる方々にとって有益な時間なるよう大切な要点をまとめてみました。少し長文ですが、目を通しておいていただけたら講演の理解の一助になると思います。講演は45分の予定で、残りの45分は質疑と応答にとってあります。参加される方の立場や考え方等には多様性があると思いますので、この「事前情報」は有益な質疑のためにも役立つかと思います。講演自体は、パワーポンイトで図示しつつ、これらの内容の「輪郭と本質」を再度確認し、最も重要な一点を掘り下げるかたちにしています。このテーマに関する「問題点の解明とその克服の処方箋」のひとつとしていただければ感謝です。
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※ ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ」から漸次傾聴していくことができます。
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※大頭眞一先生主催の凸凹神学会(ズーム)『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」4/15(木)
13:30-15:30 に関心のある方は、大頭先生
“mailto:gospel.ozu2@gmail.com”に直接お問い合わせください。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第五節
不変性、③神人同形論、神の計画の新段階、96頁、左段41行
https://youtu.be/iwzy8Lzmro0
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3. 神が思いを変えたり、後悔したりしているように思われる箇所の解釈
a. 神人同形論や神人同感論として理解
i. 人間の用語で、人間の観点から、神の行為や 感情を描写
ii. 痛みや悔悟を経験するものとして神を表現
b. 思いを変えたように思われるかもしれない箇所
i. 神の計画遂行上での新しい段階
ii. 一例―異邦人への救いの提供
iii. 神の元々の計画の一部分
iv. それまでとは一線を画す
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第五節
不変性、②神には量的な変化も、質的な変化もない、96頁、左段18行
https://youtu.be/cSQR21bLOo4
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2. 神の不変性―いくつかの側面
a. 第一に、量的な変化はない
i. 神は、すでに完全である
1) 何かにおいて増加することはありえない
2) 減少することもありえない
3) もし減少するとしたら、神ではなくなる
b. また質的な変化もない
i. 神の本性―変更を経験することはない
c. それゆえ、神は思い、計画、行動を変えない。
i. たとえ何が起ころうと
ii. 不変である神の本性に基盤
d. 民数23:19
i. 神は人間ではないから
ii. その行為は変更できない
e. 神の意思が不変
i. 神の計画・神の意図―いつも一貫
ii. 一つ例証―神は、アブラハムとの契約にいつも忠実
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート (12)
ラッド著、安黒務訳『終末論』「第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか」、「二章
イスラエルについてどうか」、エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』「第41章 千年期と患難時代の見方」、Wayne
Grudem,“Systematic Theology”, ’Church and Israel’から、ポイントを学ぶ
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※ ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ」から漸次傾聴していくことができます。
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※大頭眞一先生主催の凸凹神学会(ズーム)『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」4/15(木)
13:30-15:30
に関心のある方は、大頭先生“mailto:gospel.ozu2@gmail.com”に直接お問い合わせください。
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2021年4月11日 『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ、⑸
「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられるーラッド、エリクソン、グルーデムのちょさくから学ぶ」
https://youtu.be/wvtXZY_Nlos
*
序―
1. 先週は、イースターでした。「イースター礼拝メッセージ:
キリストのイースター(復活の日)、私たちのイースター(復活のからだを着せられる日)」と題して、キリストの再臨の日が、私たちが復活のからだを着せられる日であるとお話しました。
さて、いよいよ、今週、凸凹神学会での講演奉仕です。その内容は、キリストの再臨の日、私たちが復活のからだを着せられる日に関する内容です。依頼されているテーマは、その再臨の出来事の一部―「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書のメッセージと合っているのでしょうか?」という問いです。
a.
現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』には、どのようなことが書かれているのでしょうか。その内容は聖書のメッセージとどのような関係にあるのでしょうか。小説『レフト・ビハインド』では、伝統的なディスペンセーション主義の終末論に沿った「終末論」理解が反映されています。
b.
伝統的なディスペンセーション主義の終末論に沿った「終末論」理解とは、どのような内容なのでしょうか。そして、聖書的な終末論理解とどのように違いがあるのでしょうか。それを図示してみましたので、これらを見比べつつ、今朝も聖書を学んでまいりましょう。
c.
この課題に取り組む私たちのスタンスを明らかにしておきたいと思います。それは、1977年に教派的背景を異にする福音派の指導者たちと、大学、神学校関係者たちとによる研究会議が開かれ、その際40名の署名をもって公表されたアピール「シカゴ・コール」の冒頭の言葉です。
d.
「シカゴ・コール」には、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』(いのちのことば社、1993)244頁、と記されています。
e.
私たちは、むやみに立場の異なる人の聖書解釈や教えを批判してまわることは差し控えなければなりません。しかし、明白に誤りであると立証されている教えや運動が広まろうとしている際には、「神の奥義の管理人」のひとりとして、沈黙することは罪です。私たちは、立場やサラリーやポストを守ろうとして沈黙すべきではありません。その時代その時代において、聖霊に導かれ、それらの運動や教えが「聖書による啓示に忠実であるかどうか」の精査に取り組まねばなりません。私たちの所属団体や母校の伝統や交わりの中にある「間違って神聖視されている教えや実践」を謙虚にかつ批判的に精査し、健全化に尽力し続けなればなりません。
f.
伝統的なディスペンセーション主義の終末論に沿った「終末論」理解とは、どのような内容なのでしょうか。そして、聖書的な終末論理解とどのように違いがあるのでしょうか。
*
2. 共通項と相違点
a. 両者は、同じような「旧新の両聖書を霊感された神の言葉」とする聖書観に立脚しています。
b. 両者は、大半の教理を共有しています。
c. 相違点は、聖書解釈法と教会論と終末論の中にあります。
d.
聖書解釈法においては、伝統的なディスペンセーション主義では、「イスラエル民族を軸として旧新約聖書を解釈しよう」とします。これに対して、イエスと使徒たちは「イエス・キリストの人格とみわざを軸として旧新約聖書を解釈しよう」とします。
e.
教会論では、伝統的なディスペンセーション主義では、「神の民を、イスラエル民族とキリスト教会の二つに分けて理解しよう」とします。これに対してイエスと使徒たちは「神の民を、ひとつの民として理解しよう」とします。
f.
終末論では、伝統的なディスペンセーション主義では、「イスラエル民族の栄光の回復を中心に解釈しよう」とします。これに対して、イエスと使徒たちは「普遍的な神の国の完成を中心に解釈しよう」とします。
***
では、以下、「本論」で、ラッド、エリクソン、グルーデムの著書から、ポイントを拾いつつ学びたいと思います。
※本論と聖書朗読箇所は、下記のPDFファイルを参照してください。
「メッセージ本文原稿PDF」
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第五節
不変性、①神は変わらない、96頁、左段6行
https://youtu.be/UXr5HtMUSNs
*
1. 神は変わらない
a. 詩篇102:26-27
i. 詩篇の記者―神の本性を天地と対照
1) これらのものは滅びます…それらはすっかり変えられます
2) しかし、あなたは変わることがなく あなたの年は尽きることがありません
b. マラキ3:6
i. 神の民
1) 神のおきてから逸脱
ii. しかし神
1) 「主であるわたしは変わることがない」
c. ヤコブ1:17
i. 神
1) 移り変わり、天体の運行によって生じる影―ありません
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第四項
力、③この神の全能性の特質にはある種の制限がある、95頁、右段13行
https://youtu.be/5co5GqwjBCU
*
3. この神の全能の特質―ある種の制限
a. 神
i. 我々に考えつくどんなことでも勝手に実行できるわけではない
ii. 神の力を受けるにふさわしいことだけができる
b. 論理的に不合理なことや、矛盾することはできない
i. 正方形の丸とか、四つの角をもつ三角形をつくることはできない
ii. 過去に起こったものは、その結果や記憶までも拭い去るかもしれないが、取り消すことはできない
c. その本性に反することはできない
i. つまり残酷であったり、無関心であったりすることはできない
ii. ご自分が約束したことを果たし損ねることはできない
d. ヘブル人への手紙の記者(ヘブル6:18)
i. 神が約束をし、誓いをもってそれを裏づけたことに言及
ii. 「それは……私たちが……変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです
iii. その二つについて、神が偽ることはあり得ません」
e. しかしながら、これらの「できないこと」は
i. すべて、弱さではなく強さ
ii. 悪や嘘や失敗ができないこと
1) 弱点というよりも
2) 積極的な力のしるし
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第四項
力、②神の力はまた、歴史の進路を導く、95頁、左段40行
https://youtu.be/z3mxxrd80FQ
*
2. 神の力―いくつかの異なった方法
a. 自然の上にある神の力
i. 特に詩篇に
ii. 神が全宇宙を創造したという記述
b. 歴史の針路を導く(使徒17:26)
i. パウロは神が、すべての民族のために
ii. 「それぞれに決められた時代と、 住まいの境をお定めになりました」
c. 最も驚くべきものー人間の生活と人格に働く神の力
i. 神の力の真の尺度
ii. 創造したり大きな岩を持ち上げたりする神の能力ではない
iii. 人間の人格を変え、罪人を救いへ方向転換させるーはるかに困難なこと
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第四項
力、①神の全能性、95頁、左段11行
https://youtu.be/xknT6_hTDa0
*
1. 神の無限性―神の全能性(omnipotence)
a. 正しい意味で神の力の対象―すべてのことをなし得る
i. 神の無限の力の証拠―エル・シャダイという神の名前
1) 神が契約を再確認
2) 「わたしは全能の神である」(創世17:1)
b. 乗り越えることのできない問題―神が打ち勝つ
i. ユダ で再び土地が売買されるというエレミヤ 32:15の約束
ii. エルサレムー今にもバビロン人の手に落ちようとしている
1) しかしながら、エレミヤの信仰
2) 「ああ、神、主よ。…あなたにとって不可能なことは一つもありません」(17節)
c. イエスー
i. 金持ちー神の国に入ることがどれほど難しいか
ii. それでは誰が救われることができるのかー質問する弟子たち
iii. 「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第三項
知識、②すべてを知っている神は、何が善であるかを知っている、94頁、左段26行
https://youtu.be/E58V8d6HcWA
*
2. 知識―さらなる要素は神の知恵
a. 神の知恵―神が事実と正しい価値のすべてを考慮に入れて行動
b. すべてを知っている神―何が善であるかを知っている
c. ローマ11:33―神の知識と知恵
i. ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
ii. 神のさばきはなんと知り 尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
*
3. 詩篇の記者―神のわざを、すべて知恵をもってつくられた
a. 詩篇104:24
i. 【主】よあなたのみわざはなんと多いことでしょう。
ii. あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。
iii.地はあなたのもので満ちています。
b. 神―すべての情報を入手
i. 賢明な判断
ii. 追加の情報―判断を訂正する必要なし
c. 神―すべてのことを適切な視点で見る
i. 高すぎる評価も、低すぎる評価もない
ii. 善でない何かを与えることはない
iii.我々―確信をもって祈りうる
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第三項
知識、①弟子たちの頭の毛さえすべて数えられている、94頁、左段25行
https://youtu.be/oR-BdFg7pE0
*
1.神の無限性―知識の対象との関連
a.神の理解力を測ることはできない
i. 詩 147:5
1) われらの主は偉大であり
2) 力強く
3) その英知は測り知れない。
b.イエスー1羽の雀も御父の意思なしには地に落ちることはできず
i. マタ10:29-30
1) 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。
2) そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
3) あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
c.我々―神の前で完全に見透かされている
i. ヘブル4:13
1) 神の御前にあらわでない被造物はありません。
2) 神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。
3) この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
d.真の可能性―数において無限であるが、すべて知っている
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート ⑾イースター礼拝メッセージ:
ラッド著、安黒務訳『終末論』第五章 再臨についてのことば、とその細部の展開であるG.E.Ladd, " The
Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and the
Rapture : 導入、第三章「祝福に満ちた望みについての語彙」"から、ポイントを学ぶ(後半)
**************************************
2021年4月4日 『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ、⑷ 「イースター礼拝メッセージ:
キリストのイースター(復活の日)、私たちのイースター(復活のからだを着せられる日)」
https://youtu.be/lSDO-QW1sCc
*
A. 導入
今朝は、イースター礼拝の朝である。キリストが復活された朝を記念する礼拝である。さて、キリストの復活は「再臨」と深い関係あることを今朝は指摘しておきたい。キリストの復活は「初穂」と表現されている。「初穂」とは何か。それは、その初穂に続いて、大収穫が始まるということである。
キリストの復活は、キリストの再臨のときに信徒たちが「キリストの復活のからだ」を着せられ、贖いのからだ、栄光のからだに変貌させられるための“初穂”なのである。であるから、わたしたちは「キリストの復活の朝」をはるか過去に振り返り感謝するだけでなく、イースターの朝目覚めた時、即座に思い起こすべきことは、キリストの復活の出来事は、「わたしたち皆が、キリストと同じように、朽ちることのない復活のからだを着せられる」ことのためにあったのだという確信を新たにすべきなのである。イースターの朝には、再臨の日、私たちが「復活のからだを着せられる日」を目をさやかにして望み見るべきなのである。
キリストの再臨に関しては、「患難期→空中・地上一体の再臨→普遍的な神の国・また新天新地の到来」という使徒たちの捉え方と、19世紀に突如出現した英国のJ.N.ダービーたちの「突然の空中再臨と信徒の携挙→患難期とイスラエルの民の回心→地上再臨→イスラエルの栄光の回復としての千年王国・新天新地」という捉え方がある。
なぜ、このような新奇な聖書解釈が生起してきたのだろうといぶかしく思う。クラレンス・バスという研究者は、19世紀におけるリベラル神学との戦いの最中で、リベラル神学が現世的な社会改革と倫理的・象徴的な聖書解釈と適用に傾いた反動として、ダービーたち、英国のブレザレン運動は、未来主義的な神の国待望と極端な字義主義解釈に傾いていったことを指摘している。ラッドは、「神の国の未来性」回復の強調は健全な聖書解釈の“朗報”であったが、「患難期前再臨説」の導入は不健全な聖書解釈の“悲報”であったことが今日では明らかとなっている。なぜ、このように誤った聖書解釈が出現したのであろうか。そして、なぜ今だにこのような誤った解釈を唱導する「盲目な道案内人」が跋扈し、素朴で純粋な信仰者たちの信仰を荒波のうたかたのように翻弄し続けるのであろう。
それは、旧約聖書の中の、「イスラエルの栄光の回復」を絶対化し、それを金科玉条とし、それを新約聖書再解釈の推進力として行使するときに生まれてくる「聖書解釈の逸脱」である。新約聖書のどこを読むにおいても、「二つの神の民、二つの神の計画という前提で読み、解釈すべし」という聖書解釈上の“圧力”が生じている。「聖書を誤りのない神の言葉と信じるクリスチャンは、このような聖書解釈方法論を徹頭徹尾貫徹しなければならない」という圧力に支配されているのである。
しかし、「聖書を神の言葉と信じる」ということは、そのようなことを意味しているのだろうか。「聖書を神の言葉と信じていた」使徒たちは、そのような解釈を施したのであろうか。事実は、実は“その真っ逆さま”なのである。使徒たちは、「イスラエル民族の栄光の回復」を軸として旧約聖書を解釈してはいない。使徒たちは「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸として旧約聖書を再解釈している。リベラリズムとの健全な戦いが、「その誤り」との戦いの渦中で、「もうひとつの誤り」へと極端に振り子が振れてしまったのである。それが誤った聖書の読み方であり、「イスラエル民族の栄光の回復」を軸とした旧約聖書の解釈方法である。そして、その「イスラエル民族の栄光の回復」を軸とした聖書観をもって、新約聖書を“誤って再解釈”しているのである。
米国からの影響であろう。十年ほど前から、大津波のように「イスラエル民族を軸とした聖書解釈」がセミナーや教会集会、神学校講義、ユーチューブ・サイト等で語られ始めた。わたしの所属団体や母校もまた例外ではなかった。わたしは、そのような集会やセミナーに、主にある同労者や兄弟姉妹たちが、雪崩を打つように参加し始めたときから、バプテスマのヨハネのように「荒野に叫ぶ声」として尽力してきた。主にある戦いは、すでにカルバリの丘で決着した。いわゆる「Dデー」である。しかし、最終的な勝利の日「Vデー」まで、まだ各地域における“掃討戦”が継続する。この戦いに参戦して、十年あまりを経過した。まだ、戦いは続いている。米国でもそうであるように、知的なレベルの高い教職者や信徒の方々の間では、ダラス、タルボット、グレイスといった過去にディスペンセーション主義の牙城といわれていた神学校でも、その指導的教授陣においては、「患難期後再臨説、空中・地上一体の単一の再臨」と理解する漸進主義ディスペンセーション主義がシフトしていったと聞く。ただ、過去に古いタイプのディスペンセーション主義の教えに養われた“ダービー主義の遺伝子”を宿した大衆的な教職者や信徒の兄弟姉妹たちの間では今なお、「患難期前再臨説―すなわち突如の空中再臨・信者の携挙(不信者のレフト・ビハインド)→患難期→地上再臨」という誤った理解が蔓延している。
日本のキリスト教会、聖書学校では、このテーマでは50年遅れている印象を持っている。優れた指導的教職者と神学校に学んだ先生方や彼らに指導される教会の兄弟姉妹たちは、すでに50年前に米国で、この誤った教えの克服の取り組みがはじまった時点で、治療・回復の取り組みがなされたと聞く。しかし、あまり知的レベルの高くない教職者を多く抱える団体や聖書学校、そしてその卒業生によって養われている諸教会では、この誤った教えの「治療・回復」がなされないばかりでなく、さらにその症状が悪化する方向向かって「さまざまなセミナー、集会、聖書フォーラム、ユーチューブ、冊子刊行」等がはでに展開され、それにますますくみしていっている姿は心が痛む。
どうして、このような誤りが大手を振って、キリスト教会の大通りで宣伝カーを大挙繰り出しているのだろうか。これに、街頭に群れを成す素朴で何の疑いもはさまない兄弟姉妹たちがシュプレヒコールを繰り返しているのだろうか。これは、今日のキリスト教会における「七不思議」のひとつでもある。
今朝はイースター。私たちが「復活のからだ」を着せられる基盤、原点が出現した記念の日である。そして、わたしたちは、レフト・ビハインドの小説のように「患難期の前に、信仰者は逃避的に携挙され、患難期から救い出され、患難期においては、イスラエルの民が患難期の最中で回心し、患難期の後に地上再臨があり、イスラエル民族中心の千年王国が到来する」といった誤った聖書解釈ではなく、使徒たちが記した通り「患難期の只中で守られ、支えられつつ、殉教をも恐れず証しし、リバイバルを結実し、患難期の後、空中・地上一体の単一の再臨にまみえる。その時に、私たちは携挙され、復活のからだを着せられ、ただちに披露宴会場としての地上に主と共に降りてくる。そして、」
、ラッドがその著書、“The Blessed Hope”の「第三章 祝福に満ちた望みの語彙」と『終末論』の「第五章
再臨についてのことば」から、その誤りの一端をみていこう。
ラッド著『終末論』の第一章で論じられているように、古いタイプのディスペンセーション主義の教えでは、キリストの再臨は二つ存在する、もっと正確にいえば、キリストの再臨は二段階で起こる、と教える。古いタイプのディスペンセーション主義の教えでは、神の二つの民-つまりイスラエルと教会―が存在し、そして神は二つの異なった計画-つまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画―を持っておられると教えている。イスラエルに対する計画は「地上の神権政治の計画」であり、教会の計画は「霊的天的な計画」である。この主張に符合するかたちで、新約聖書の再臨の教えとスケジュールに、キリストの再臨に“二つの段階”を生み出す聖書解釈の“誤った圧力”がかけられる。
古いタイプのディスペンセーション主義の教えでは、旧約聖書に預言されている「イスラエル民族の栄光の回復としての千年王国」が聖書解釈の絶対的規範として存在している。まず、そのような「イスラエル民族中心の千年王国」の到来を、新約聖書解釈の基本的枠組みとして設定し、次に「キリストをメシヤとして認めることに頑なに心を閉ざしてきたイスラエルの民が、キリストをメシヤとして認める機会」を新約聖書の中に探す努力が開始される。そして、新約聖書の基本的文脈を無視するかたちで、マタイ24章の「v.31選んだ者たち」をイスラエル民族と解釈したり、ヨハネの黙示録の4:1「ここにのぼれ」を空中再臨時の教会の携挙と解釈したりする聖書解釈上の暴挙・逸脱等が行われる。
そのような「仮説に基づく推論としての解釈」が次々と行われている。そのひとつが、「再臨について使用されているーパルーシア、アポカリュブシス、エピファネイアという三つのギリシャ語」の誤った解釈である。ラッド等、優れた神学教師たちはそれらが「患難期の後に生起する、空中・地上一体のキリストの再臨」に同じ意味で使用されていると解釈する。これに対して、古いタイプのディスペンセーション主義の教えでは、「パルーシア」を患難期前の空中再臨の用語、「アポカリュブシス、エピファネイア」を患難期後の地上再臨の用語として説明し、患難期をはさんで空中再臨と地上再臨の二つに分ける聖書的根拠として使用する。しかし、これもまた、「仮説の上に乗っかった推論」のひとつにすぎないことが明らかである。
わたしは、長年この問題に取り組んできて思う。なぜ、このような幾つかの関連聖句のパズルを正しく解くことができないのだろうと。なぜ、やすやすと誤った教えや運動に翻弄され続けるのだろうと。藤井聡太くんの詰将棋のように、丁寧にミスなく最短距離、最短時間で詰めることができないのかと。私たちは、ラッド著、安黒務訳『終末論』から学びつつ、彼が提示している丁寧かつ正確な関連聖句・関連用語解釈を通じ、この問題の解決にあたりたい。
*
【メッセージ本文原稿PDF】
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第二項
時間、③神は時間におけるそれぞれの時点で、起こりつつあること、起こったこと、これから起こることを知っている。94頁、左段18行
https://youtu.be/nyCC0nb5hxU
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3. 神
a. 時間におけるそれぞれの時点
i. 起こりつつあるもの
ii. 起こったもの
iii.これから起こるもの
1)知っている。
b. 時間の中のどの特定の時点でも
i. 今起こっているもの
ii. 起こったもの
iii.これから起こるもの
1)相違―気づいている
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第二項
時間、②神は常に存在している。昔いて、今いて、将来もいる。93頁、右段10行
https://youtu.be/vDl2e33UaU8
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5. 神は常に存在している
a. 昔も、今も、将来も
b. 詩篇90:1-2
i. 主よ代々にわたって あなたは私たちの住まいです
ii. 山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前から
iii. とこしえからとこしえまであなたは神です
c. ユダ25節
i. 私たちの救い主である唯一の神に、
ii. 私たちの主イエス・キリストを通して、
iii. 栄光、威厳、支配、権威が、
iv. 永遠の昔も今も、世々限りなくありますように
d. エペソ3:21
i. 教会において
ii. またキリスト・イエスにあって
iii. 栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように
e. イザヤ44:6、黙示録1:8、21:6、22:13
i. 初めであり、終わりである
ii. アルファであり、オメガである
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第二項
時間、①「神は何歳か」という問いは全く不適切である。93頁、左段38行
https://youtu.be/s-VstWJdyv0
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4. 神―時間に関して無限
a. 時間が始まる前―存在し、終わりなし
b. 「神は 何歳か」という問いー全く不適切
c. 神は今、1年前より年を取っているのではない
d. 無限に1を加えてもー無限に変わりはない
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第一項
空間、②神が見出されない場所はない。93頁、左段11行
https://youtu.be/1gGQXdClYGU
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2. 神が見いだされない場所はない
a. 神の緊張
i. 内在性(あらゆるところにいる)
ii. 超越性(どこにもいない)
b. 論点
i. 被造世界の中にー神に近づくことのできない場所はない
ii. エレミヤは、「わたしは近くにいれば、神なのか。……遠くにいれば、神ではないのか」 (エレミヤ23:23)
1) 神が近くにいること
2) 遠く離れてもいることの妨げとはならない
3) 神―天地全体に満ちている(24節)。
4) 我々には見られることのない「秘密の所」に隠れることはできない。
iii. 詩篇の記者―神の臨在から身を避けることはできない
1) 彼がどこへ行ってもー神はそこにいると(詩篇139:7-12)
iv. イエスーこの概念をさらに一歩推進
1) 大宣教命令
2) イエスー弟子たちに
3)
地の果てまでもあらゆるところに証人として出かけて行くように命じ、そして世の終わりまで彼らとともにいると語った(マタイ28:19-20、使徒1:8)。
4) イエスご自身―実質的に空間や時間のどちらにも制限されない
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、第一項 空間、①
神は空間の制限に縛られない。92頁、右段30行
https://youtu.be/rmW3UvOzRlE
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1.神の無限性―いくつかの点から考える
a. 空間という観点―伝統的に広大さと遍在性と呼ばれてきた
i. 神は空間の制限に縛られない
ii. 特定の場所にいるという制限
iii. ひとつの所にあるものは別の場所に存在できない以上の意味
b. 神が空間の中に存在すると考えるー不適切
i. 有限なものーすべて位置・所在
ii. それらはどこかにあるー他の場所にあることは不可
iii.神―場所や所在の問題を適用するできない
c. 神―
i. 空間(および時間)を存在させた
ii. 空間が存在する以前に存在
iii.神―特定の地点にとどまっていることはありえない
d. 神―パウロの陳述(使徒17:24-25)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第四節 無限性、序.
神は無限である。制限することができない。92頁、右段14行
https://youtu.be/fh86BOx8HF8
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序ー神は無限である
a. 神には限界がないー制限することができない
b. 神―我々が経験するどのようなこととも違う
i. 常識として、無限あるいは限りがないと言われていたもの
1) 今では限界がある
2) エネルギーは無尽蔵だと
ii. 近年、通常のエネルギー源―かなり厳しい限界
c. しかしながら、神の無限性―限りのない存在
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート
⑼受難週メッセージーラッド著『終末論』とその細部の展開であるラッド著、安黒務訳『終末論』第五章
再臨についてのことば、G.E.Ladd, " The Blessed Hope – A Biblical Study of
the Second Advent and the Rapture :
導入、第三章「祝福に満ちた望みについての語彙」"から、ポイントを学ぶ
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2021年3月28日 『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ、⑶
「贖罪と復活―聖書における贖いの真理の中心には、人格的で、栄光に満ちたキリストの再臨という祝福に満ちた望みがある」
https://youtu.be/dfazq8e8Ccg
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今週は、受難週であり、次週はイースターである。贖罪と復活がセットで提供されているのが、聖書に啓示されて「福音」である。現在シリーズで扱っている「キリストの再臨」において私たちの身に起こることもまた、「罪の贖い」であり、「復活のからだに変貌させられる」ことである。G.E.Ladd,
" The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and
the
Rapture”の導入は、「聖書における贖いの真理の中心には、人格的で、栄光に満ちたキリストの再臨という祝福に満ちた望みがある」という言葉をもって始められている。「救いは、個人としての人間の贖いと社会としての贖いの両面でなされなければならない。個々の信仰者の救いには“からだの贖い”(ローマ8:23)が含まれる。私たちは罪責から救われるのみならず、罪の力から救われなければならない。贖いは、私たちの死すべきからだにおける罪の影響から解放されるまでは完了しない。聖書における復活の教理は、贖いの真理である。それはからだの贖いを意味している。この救いは、キリストの再臨によってのみ実現される。」
「レフト・ビハインド」というと、患難期に「取り残され」、未曽有の患難を経験するという“闇”のイメージで圧倒されるが、聖書が語っている「キリストの再臨」の出来事は、テトス2:13にあるように「祝福に満ちた望み」の“光”の出来事でもある。その日は、イザヤ11:9「主を知ることが、海をおおう水のように、地に満ちる」―祝福に満ちた日である。罪と死と滅びのからだが贖われて、復活と栄光のからだに変貌させられ、贖われ更新された被造物世界の管理者として、新たな召命に生かされる日が到来するのである。
「レフト・ビハインド」という小説には、古いタイプのディスペンセーション主義の教えを基盤にして、興味深い「終末の世界」のストーリーが描かれている。米国のポップ・カルチャー、大衆文化として、シリーズ全体で6500万部売れたという。それらの購入者は、熱心な福音派のクリスチャンたちであり、特に婦人層に人気があったという。そのあたりの様子は、関西学院大学の栗林輝夫教授の『キリスト教帝国アメリカ』「第四章
宗教から読むイスラエルとイラク戦争―『終わりの日の神学』がある、ポップカルチャーが描く黙示録の世界、大ヒット『レフト・ビハインドの謎』、ウエスト・バンク・ガザ入植は預言の成就、等」に手際よくまとめられている。
今朝は、『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ⑶
として、「キリストの再臨は、空中・地上一体の一回なのか」、あるいは「患難期をはさんで、空中と地上別々の二回なのか」に焦点を当て、その前半を学びたい。聖書は果たしてどちらを教えているのだろうか。
この問題を相撲の行司のように判定をくだす必要がある。その判定は何によって下すのか。それは、聖書の啓示によって判定を下すのである。では、聖書にはどのように書いてあるのか。それを丁寧に見ていきたい。フラー神学校の新約聖書神学教授であったG.E.ラッド教授はこれらの問題をライフ・ワークとして取り組み、丁寧かつ誠実な聖書の研究成果を著作集として残していった。彼の“The
Blessed
Hope”には、多くの優れた聖職者たちが、この問題の良し悪しについて明確な問題意識を抱きつつも、払う犠牲の大きさを考慮してであろうか、これをテーマにして本を書いてこなかったと記している。
わたしは、これらの記述に、「人気のある誤った教え」の病巣を指摘し、その治療・回復の処方箋を提示することをためらう“勇気の欠如”という「この問題の大きさを感じざるを得ない」。それは、「神の国の現在性」への注目の時代から「神の国の未来性」へと焦点がシフトした19世紀という時代に、その健全な教えに伴い蒔かれた「誤った教え」つまり、再臨が「空中再臨」と「地上再臨」に分割され、その間に「患難期」をはさみこむというJ.N.ダービーの教え「患難期前再臨説」のことである。以下、これを「ダービー主義」と呼ぶ。
英国における宗教改革運動のひとつとしてのブレザレン運動の初期においては、聖書的な「患難期後再臨説」の聖職者たちもいたが、リベラリズムに対抗する中で「旧約聖書の極端な字義的解釈の傾向」が強化されていき、やがてダービーの「患難期前再臨説」が勝利をおさめる。これは、「イスラエル民族の盛衰史とその栄光の回復」を主題とする旧約聖書の字句を“絶対視”したときにもたらされる当然の帰結である。この原則を絶対視して、「新約聖書の字句」を旧約聖書の“影”の支配にゆだね、新奇な解釈作業を大胆に行っていく。 そのポイントのひとつが、「新約聖書で使用されている“再臨”に関する三つの用語」の解釈である。新約聖書においては、“キリストの再臨”に関し、三つのギリシャ語が使用されている。パルーシア(到来、出現、臨在)、アポカリュプシス(顕現)、エピファネイア(輝き)である。 ダービー主義(患難期前再臨説)では、患難期の前に、秘密の空中再臨があり、信徒は空中に携挙され、報いを受け、復活のからだに変貌させられる。そして、患難期が始まり、イスラエル民族の回心が起こる。患難期の終わりに地上再臨がなされ、イスラエル民族を中心とした千年王国が開始される。このようにして、旧約聖書に約束された「イスラエル民族の栄光の回復―土地、首都、神殿の回復を含む」が成就する、と教える。
このダービー主義の教えの基盤とされている“再臨”の三つの言葉の解釈がある。パルーシア(到来、出現、臨在)は、患難期前の「空中再臨」を指し、アポカリュプシス(顕現)、エピファネイア(輝き)は患難期後の「地上再臨」を指す、と教える。しかし、これは新約の使徒たちが教えた「関連聖書箇所の意味」なのかーこれが問われている。「神の国の未来性」の強調に賛同し、ダービー主義を取り入れた人たちも、後日その多くが“患難期前再臨説”の誤りに気がついたとラッドは記している。ただ、その多くの人たちがその“気がついたこと”を文書化しなかったというのである。わたしは、ここにキリスト教世界の「悪貨が良貨を駆逐する」という現象をみる。健全な教えの中に巧妙に紛れ込んだ毒麦が蒔かれたことに気づいたのにもかかわらず、それを公然と指摘するのには、あまりにも人気があり普及してしまった「ダービー主義」批判のためには“犠牲”を伴う危険な状況が生じていたのである。
ただ、ラッドは勇気ある神学教師のひとりであった。彼は払う犠牲の大きさを計算することなく、あるいはそれを計算しつつも、勇気を振り絞り、ゴリアテに対するダビデのように戦いを挑んだ。「神の国の未来性」を強調することと、「患難期前再臨説」を主張することは一体ではない。「神の国の未来性」を強調しつつ、「患難期後再臨説」を保持することは可能である。使徒たち、教父時代を含め、教会の歴史を通じ、「患難期後再臨説」は、聖書の啓示に基づく終末論のセンターラインである。み言葉がそのように語っているからである。ラッドは、神のみ言葉の確かさに賭けたのである。それをその著書で明快に立証している。
今日は、導入・背景説明に少し時間をかけたので、聖書の啓示が「再臨に関する三つの言葉」で語っているものが、「患難期前再臨説」なのか、「患難期後再臨説」なのか、これを来週丁寧にみていきたい。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、⑥神ご自身が目的であって、目的のための手段ではない、92頁、左段36行
https://youtu.be/pQ2TF516uDk
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6. 神―ご自身が目的であって、目的のための手段ではない。
a. 我々
i. 神に価値
ii. 神ご自身のあり方のゆえ
iii. 単に “して”くれることのゆえではない
b. 第一戒
i. 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト20:3)の理論的根拠
ii. 先行する節「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」の中で
c. もしこの箇所
i. イスラエル人
1) 神がしてくださったことのゆえに
2) 神を第一とするべきである
ii. 感謝の念から
1) 神を自分たちの唯一の神とするべき
2) ――という意味に解釈
iii. この聖句―読み違え
d. 神
i. 行ってきたこと
ii. 神がどのような者であるかの証拠
e. 神
i. 最高に、そして排他的に愛され、仕えられるべき
ii. 神がこのような存在であるゆえ
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、⑤単なる一方通行ではない、92頁、左段25行
https://youtu.be/6me67kC64c4
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5. 我々と神との関係―単なる一方通行ではない
a. 我々
i. 神に近づくことができる
ii. 神に話しかけることができる
1) 続いて神が語る
b. 神
i. 我々がささげるものを受けたり受け取ったりするだけではない
ii. 生きている、応答する存在
iii. 我々が耳にするだけの相手ではなく
1) 我々が 出会い、知る相手。
c. だから神は
i. 使用されたり操られたりする物体や力としてではなく
1) 存在として扱われるべき
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、④思いやりと共感の次元がある、92頁、左段19行
https://youtu.be/15WnKoC8jB8
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4. いくつかの意味合い
a. 神は人格的存在
i. 我々と神との関係―思いやりと共感の次元
b. 神は
i. 人々に必要なものー自動的に供給する機械、コンピューターではない
c. 人を
i. 知り、愛すー良き父
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、③個々の人間を知り、交わりをもっている、92頁、左段6行
https://youtu.be/GI-mGrl8BJw
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3. 神の人格的性質―その活動
a. 聖書で神はー個々の人間を知り、交わりをもっている姿
i. 神と人間との関係の最初の描写(創世記3章)
1) 神がアダムとエバのところに 来て話しかけー日常的な習慣
2) このような表現―神人同形論
3) 神が人格として人間と関係をもつ人格的存在
4) 人格に関連する能力のすべて――知り、感じ、意図し、 行為
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、②神ご自身に割り当てた名前があり、それによってご自身を啓示する_b、91頁、右段18行
https://youtu.be/faR-M6AhEbY
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2. 聖書―神が人格的存在である何通りかの方法
a. 一つは、神ご自身に割り当てた名前があり、それによって自身を啓示する
i. 聖書時代―名前は単なるラベルではなかった
ii. 現代の非人格的な社会
1) 意味を考えて名前を付けることはほとんどない
2) むしろ親ー気に入った、 最近人気という理由で名前を
b. ヘブル人は決してそのような名付け方をしなかった
i. 名前はきわめて注意深く、意味に注意して選ばれ
ii. モーセー彼を遣わした神の名前を聞かれたらどう答えるべきかと思案
iii. 神は「わたしはある」または「わたしはなる」(ヤーウェ、エホバ、主――出エジプト3:14)と名乗った
iv. これによって、ご自身―抽象的な未知の存在でも、名のついていない力でもないことを明らかに
c. この名前―神に言及、神を表現のためにだけでなく、神に話しかけるためにも使用
i. 創世4:26―人間が主の名を呼ぶことを始めた
ii. 詩篇20篇―主の名前を誇り、主を呼ぶ(9節)
iii. 出エジプト20:7―その名前は敬意をもって語られ扱われるべき
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第三節
人格的存在、①神は人格的存在である、91頁、右段11行
https://youtu.be/hk3MwYm6Oso
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1. 霊であり、生きていることに加えー神は 人格的存在
a. 個としての存在
i. 自己意識
1) 意思
2) 感じ
3) 選択
b. 他の人格的・社会的存在と
i. 相互関係
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート
⑼ラッド著『終末論』とその細部の展開であるG.E.Ladd, " The Blessed Hope – A Biblical
Study of the Second Advent and the Rapture :
第四章「患難期、携挙、復活」"から、ポイントを学ぶ
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2021年3月21日 『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ、⑵
「そうした苦難の後、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る―聖書は“患難期後再臨説”を誰の目にも明白に教えている」
https://youtu.be/PAVouaXqBJE
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導入
先週から、『レフト・ビハインド』問題を取り扱わせいただいています。先週は、①『レフト・ビハインド』問題とはいったい何なのか?→『レフト・ビハインド』問題とはいったい何なのか?、②『レフト・ビハインド』問題の一体何が、聖書的に問題なのか?→キリストの再臨の時に、「空中に引き上げられる者」と「そのときに地上に残される者」がいることは聖書にしるされていますので、聖書的に問題はありません。問題は、その事態にではなく、その「文脈描写」にあります。古いディスペンセーション主義の終末理解にそって描かれています。聖書では、患難期の終わりに、「空中再臨・信徒の携挙(不信者のレフト・ビハインド)→地上再臨」という単一のキリストの再臨が教えられています。古いディスペンセーション主義の終末理解では、「秘密の空中再臨→信者の携挙(不信者のレフト・ビハインド)→大患難→地上再臨」と教えられています。③患難期“前”再臨説と患難期“後”再臨説のどちらが聖書的に正しいのか?-という問題です。
G.E.ラッドは、このテーマをライワークとして取り組み、丁寧な聖書研究を残しました。それらのひとつが『終末論』であり、その細部の展開であるG.E.Ladd,
" The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and
the Rapture
"なのです。今日は、その読み方、目の付け所について少しお話しつつ、関連聖句の解説をしたいと思います。礼拝では、前者を簡略に、後者を詳細に話します。
*
1. G.E.ラッド 『終末論』の読み方、目の付け所
a.
この『終末論』という本は、ラッドの絶筆でありまして、ラッドの十数冊の著作の扇の要となる本です。ラッドの著作集のエッセンスが「簡にして要を得て」、分かりやすくまとめられています。
b. そのポンイトを少し紹介します。
i.
一章は、聖書観と聖書解釈法について記されています。聖書は、キリストの人格とみわざについて記された書物であり、キリストの人格とみわざを軸にして解釈されなければならない、ということです。古いディスペンセーション主義のように、「イスラエル民族の栄光の回復」を軸にして読み、解釈すると誤りに陥ります。
ii.
二章は、イスラエル民族の位置づけについて記されています。イスラエル民族の盛衰史としての旧約聖書は、イエス・キリストの人格とみわざの意義を準備教育とそれを全人類にもたらすための視聴覚教材としての使命を帯びたものでした。新約と同質の、アブラハムの復活信仰、ダビデの贖罪信仰というイエス・キリストの人格とみわざに密接に結びついた「福音理解」の本質を宿す「旧約と新約」の中にある「ユダヤ人と異邦人がひとつとされた真の神の民」の形成こそが、神の真の意図であるということです。古いディスペンセーション主義では、「神の民を二つに分ける」誤りに陥っています。
iii.
三章は、世界観について記されています。ここでは、ギリシャ的に二元論的な世界観、つまり物質的な被造物世界から、精神的な世界へと“飛翔”する考え方の問題が扱われています。私たちは、死後、「魂が霊的な天国に飛翔して終わり」という考え方に陥りやすいものです。確かに、死後、ただちに主の元に、臨在の中に、わたしたちは置かれます。ただ、そこで止まると、聖書的な視野を見失います。神さまの計画は、この創造された世界の完成とその中の管理人としての完成にあるのです。それがキリストの再臨と関係してきます。古いディスペンセーション主義の患難期前再臨説の「患難期を避けての携挙」の考え方の一部には、被造物世界からの「飛翔」また「逃避」的な考え方の影響もあるのではないかと思います。
iv.
四章と五章は、再臨について記されています。キリストの再臨は、「飛翔」また「逃避」的な考え方の真逆で、「神自らが創造された世界の完成に向けての“来訪”」であることを教えられます。賢い娘たちと愚かな娘たちのようにわたしたちは、来訪される神を「迎えに出で」、共に披露宴会場に降りていくのです。
v.
六章は、反キリストと大患難について記されています。ふ古いのディスペンセーション主義では、ユダヤ教シオニズムの「土地、エルサレム、神殿の回復」が、キリストの再臨の前提と理解し、その推進を主張する政治的ディスペンセーション主義がありますが、これは誤った解釈であり、その誤りに基づいた実践であることを教えられます。
vi.
七章は、復活と携挙について記されています。 ラッドは、不思議なことに、この章の大半を「復活」描写に使用し、「携挙」についてはほんの少しだけ記すのみです。それは、キリストの再臨の主眼が、「キリストの復活の事実に根差す、わたしたちの“復活のからだ、栄光のからだ”への変貌」にこそあるのだ、というラッドの深い確信に基づくものであると教えられます。「携挙」に関する丁寧な聖書箇所の研究は“The
Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and the
Rapture "に委ねているようです。
vii. 八章は審判について記されています。
viii. 九章は、神の国について記されています。
ラッド著『終末論』を熟読玩味の感想は、私たちが「終末論」を思索する際の、“マクロの視点と本質的な目の付け所”を教えられるというところにあると思います。
*
2. The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent
and the Rapture "の読み方、目の付け所
a. この本を翻訳して教えられるポイントを少し紹介したいと思います。
b. 第四章「患難期、携挙、復活」において、その関連聖書箇所が丁寧に検証されています。
c.
その結論は、「あいまいなものではなく、明白なもの」です。なぜ、このように明白な教えに対して、誤った教えが流行するのか、不思議に思います。
d. 代表的な関連聖書箇所を検証してまいりましょう。
i. マタイ24章―オリーブ山での患難期についてのイエスの講話です。
1) この時代の流れ(マタイ24:4-14)、
2) 反キリストの出現を含む大患難の出来事(v.15-25)、
3) 大きなラッパの響きとともに、栄光の再臨(v.31)
ii. イエスの講話と類似の、パウロ書簡の箇所は、Ⅰテサロニケ4:16です。
1) キリストの再臨、
2) トランペットの鳴り響き、
3) 携挙
iii. もうひとつの箇所は、Ⅱテサロニケ2:2-8です。
1) 再臨がすでに起こったとか、再臨前に召された信者はどうなるのかーという疑問に対して、パウロは、
2) 反キリストの出現(つまり大患難の到来)、
3) 主の日の到来の来臨の輝きによる反キリストの滅亡
iv. 最後の箇所は、ヨハネの黙示録3:10
1) 「黙3:10 あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、
2) 地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、
3) わたしもあなたを守る。」
3. まとめ
a. 旧約の出エジプトの十の災害の時のように、
i. イスラエルの民がエジプトを脱出した後に、十の災害が起こったのではなく、
ii. 十の災害の只中で、イスラエルの民は保持され、守られ、支えられたのでした。
b. 聖書全体が、また新約聖書が、黙示録が保持するメッセージとは、
i. 「患難期から取り去られる」メッセージではなく
ii. 患難期の只中で保持されるので、殉教をも恐れず証しし続けることを励ますメッセージ
c. ヨハ 16:33
i. これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。
ii. 世にあっては苦難があります。
iii. しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
d. 大患難期だけではなく、私
i. 私たちの毎日でも大小の苦難に直面してまいります。
ii. 第一の問題が片付けくと、第二、第三の問題が浮上してきます。
1) そのいみで、私たちは、「患難から逃避する生き方、また思考」ではなく、
2) 「患難の只中で、神さまに守られ、支えられ、その只中で殉教をも恐れず証ししていく」という
3) 黄金・宝石のようなメッセージに生かされていきたいと思います。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、⑥神は目的を達成するために我々を用いることを選んだ、91頁、左段42行
https://youtu.be/CuzMllfc664
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6. 神の本性のこの側面の適切な理解―「神は我々を必要としている」という考えからの解放
a. 神―目的を達成のためー「我々を用いる」こと選択
b. その意味においてー「神は今、我々を必要としている」
c. 「神は我々を無視する」という選択肢もありえた
d. 神の容認―「我々が神を知り、仕える」ー我々の益
e. もし「その機会を受け容れない」-我々の損失
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、⑤神は、利他的なアガペーの愛から行動し、行動し続けている、91頁、左段33行
https://youtu.be/pO3RjaNXzgw
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5. 神の独立性―その存在のためにほかのものを必要としない
a. 神
i. 超然
ii. 冷淡
iii. 無関心ではない
b. 神
i. 我々と関わりをもつ
1) それはご自身の選択によって
2) 何らかの必要からの強制のゆえではない
ii. 必要に迫られてというより
1) 利他的な
2) アガペーの愛
3) 行動し続けている
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、④神は、神の外にある何かに依存していない、91頁、左段24行
https://youtu.be/p1bDY-P1Z2Y
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4. 神の存在が継続することー神の外にある何かに依存していない
a. 他のすべての存在は生きているかぎり
i. その生命を維持
ii. 栄養、暖かさ、保護―必要
b. 神にはそのような必要はない
i. パウロー使徒17:25
1) 神が何かを必要としたり
2) 人間の手によって仕えられたりすることー否定
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、③神のいのちは、他のすべての生き物とは異なっている、91頁、左段3行
https://youtu.be/po_QKCTsRQA
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3. 神のいのちー他のすべての生き物のいのちとは異なっている
a. 他の存在はすべて神にあっていのちをもっている
i. 神はいかなる外部の源からもいのちを得ていない
ii. 神が存在するようになったとは、決して描かれていない。
b. ヨハネ5:26
i. 神はご自身のうちにいのちをもっている
ii. 「永遠の」という形容語句
ⅲ. 神が存在しなかったときは決してなかった
c. 「はじめに」―神がすでに存在していた(創世1:1)
i. 神が何か他のものから自身の存在を得たということはありえない
ii. 神は自己原因というより無原因の存在である
iii. 神のまさに本性―存在すること
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、②生けるまことの神、90頁、右段34行
https://youtu.be/6ynKa43KKnc
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2. 生ける神
a. 金属や石など生命のない物体である他の神々と対照
b. エレミヤ10:10-11の言及
i. 自然を支配するまことの神、 生ける神
ii. 「天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる」
c. Ⅰテサロニケ1:9の対比
i. テサロニケ人が離れた偶像
ii. 「生けるまことの神」
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第二節
いのち、①「わたしはある」出エジプト3:14、90頁、右段17行
https://youtu.be/zccRjdkSo4E
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1. 神―「いのち」という特徴
a. 聖書―いくつかの異なったかたちで確言
i. 神が“存在している”という主張
ii. 神にまさの名前―
1) 「わたしはある」(出エジプト3:14)
2) 神が生きている神―指し示し
b. 聖書は神の存在を論証しようとしない。
i. あっさり肯定、あるいは単に当然のこと
ii.
ヘブル11:6「神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない」
c. 存在―神の本性の最も根本的な側面
『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋―凸凹神学会講演準備ノート⑻
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3/14-4/25の週の間、凸凹神学会の奉仕準備のため、G.E.Ladd, " The Blessed Hope – A
Biblical Study of the Second Advent and the Rapture
"の翻訳と資料作成に集中させていただきます。礼拝もその準備と重ね合わせますので、『詩篇』傾聴シリーズは、5/2より再開させていただきますので、宜しくお願い致します。
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2021年3月14日 『レフト・ビハインド』問題―解明と克服シリーズ、⑴ 『レフト・ビハインド』の一体何が問題なのか
https://youtu.be/nSeEMGd-A5k
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4月15日に、今はやりのズーム形式で開催される凸凹神学会での講演を依頼されています。テーマは「『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」です。昨年末に依頼を受け、日本の福音派諸教会の先生方、兄弟姉妹方に対し、「健全な福音理解のあり方」のひとつをお証しできればと思い、快諾させていただきました。それで、「何処で開催されるのですか」とお聞きしましたら、「ズーム形式ですので、各自それぞれの場所からの参加となります」とのことでした。わたしにとっても、興味深い体験をさせていただけることになるので楽しみにしています。
講演会まで、ちょうどあと一ヶ月となりました。あれこれとテーマに関係する書籍やこれまでに作成してきました資料に目配りしてきましたが、いよいよそれらをまとめあげる段階となりました。そのまとめあげていく上で一番参考になる資料が、ラッド著『終末論』であり、その細部の展開であるG.E.Ladd,
" The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and
the Rapture
"です。ラッドは、1956年、つまりわたしが二歳の時に、この本を執筆・刊行しています。65年前の本ということになります。少し古い本なのですが、『レフト・ビハインド』問題が今なお横行している日本の福音派諸教会にとって意味ある「書籍紹介」になると確信しています。
詩篇研究の最中なのですが、この一ヶ月はこの講演会準備に集中させていただくことにしました。それで、礼拝も同じテーマで五回のシリーズを組ませていただきたいと思います。メッセージ形式は、トピカル説教(つまり、扱うテーマを先に決定し、その関連聖句を拾い集め、ブリント配布し、それを解説していく形式の題目的説教)とさせていだたきます。
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1. 『レフト・ビハインド』問題とはいったい何なのか?
a. 『レフト・ビハインド』とは、「後に残される」という意味です。
b. 聖書では、マタイ24章
i. 24:40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
ii. 24:41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
c. Ⅰテサロニケ4章
i. 4:16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
ii. 4:17
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
d. テトス2章
i. 2:11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
ii. 2:12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
iii. 2:13
祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
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2. 『レフト・ビハインド』問題の一体何が、聖書的に問題なのか?
a.
キリストの再臨の時に、「空中に引き上げられる者」と「そのときに地上に残される者」かいることは聖書にしるされていますので、聖書的に問題はありません。
b. 問題は、その事態にではなく、その「文脈描写」にあるのです。
c. 小説『レフト・ビハインド』は、古典的ディスペンセーション主義の終末理解にそって描かれています。
d. このディスペンセーション主義の終末理解が、聖書的に問題があるのです。
e.
聖書では、患難期の終わりに、「空中再臨・信徒の携挙(不信者のレフト・ビハインド)→地上再臨」という単一のキリストの再臨が教えられています。
f.
これに対して、ディスペンセーション主義の終末理解では、「秘密の空中再臨→信者の携挙(不信者のレフト・ビハインド)→大患難→地上再臨」と教えられています。
*
3. キリストの再臨の時期、単一か二回か、患難期等はなぜ問題なのか?
a.
聖書、特にヨハネの黙示録は「ユダヤ人と異邦人を含む真のクリスチャン」としての神のひとつの民が患難期を、殉教をも恐れず証しつつ通過すると教えています。
b.
患難期の前に、「携挙」されるという教えは、実際に患難期が到来したときに、心備えができず、逃避的な態度・行動を誘発する危険があります。
c.
「キリストの空中再臨」の後の患難期に、ユダヤ民族が「みな救われる」という望みを抱き、現在は直接伝道を控え、経済援助・軍事援助に偏る傾向のある「政治的キリスト教シオニズムの一形態」のあり方は、ユダヤ人に対する伝道の機会を失わせる危険があります。
d.
ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、「恵みの時」「救いの日」は“今”なのです。キリストの空中・地上一体の再臨の瞬間―それは、その機会が終了する時、「ゲーム・オーバー」の瞬間なのです。
e. Ⅱコリ 6:2
神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
*
※ ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「『レフト・ビハインド』問題の解明と克服シリーズ」から漸次傾聴していくことができます。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第一節 霊である、③
神の顕現を神人同形論と解釈する、90頁、左段31行
https://youtu.be/8VTk6GWOCeE
*
3. 神が手や足のような身体的特質をもっていることを示唆する多くの聖書箇所
a. 神についての真理
i. 人間の類比を通して表現しようとする神人同形論
b. 旧約聖書において
i. 神の顕現、あるいは一時的な自己顕示として
ii. 神が肉体を取って現れる場合もある
c. 神が霊であること、 神が目に見えないことについて
i. 明快な陳述を額面通りに受け取り
ii. それに照らして神人同形論と神の顕現を解釈
iii. イエス自身が霊には肉や骨はないと明確に述べている(ルカ24:39)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第一節 霊である、②
神には肉体に伴う制限はない、90頁、左段16行
https://youtu.be/OPbEvY_MdYc
*
2. 神が霊であることから導き出される一つの結論
a. 神には肉体に伴う制限はない
b. 神は特定の地理的または空間的な位置に限定されない。
i. 「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4:21)
c. 使徒17:24のパウロの陳述
i. 「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた
宮にお住みにはなりません。」
d. 物質的性質をもつものとは異なり、神を破壊することはできない。
【書籍紹介】『Bible & Life - 百万人の福音 四月号』
*
『Bible & Life -
百万人の福音 四月号』「焚火相談室」26-28ページに、大頭眞一先生の質問に応答するかたちで、安黒務の応答記事が掲載されています。関心のある方は読んでください。
*
応答内容はお楽しみに置いておくとして、大頭先生の軽妙な質問のみを紹介させていただきます。大枠の質問として、「Q:
聖書が示す終末の世界―いまいちわからないのですが‥」の看板があり、「終末の世界を描いたと言われる黙示録っておどろおどろしい怪獣が出てきて、いまいちわからないのです」と始まります。
問1―「黙示録の終末や、その先の世界がいまいちわからないという話は、確かによく聞きます。」
問2―「聖書の示す『終末』って、どんな状態なんですか。おどろおどろしい怪獣が暴れるような描写が黙示録にありますが‥。」
問3―「現代社会に終末が訪れたことを仮想した小説『レフト・ビハインド』は、聖書ノメッセージにあっているのでしょうか。」
問4―「黙示録の記述は目まぐるしくて、混乱しがちですね。」
問5―「聖書が示す終末期についてはさまざまな見解があり、終わりのない議論もありますが、心の中にどう位置づけたらいいのでしょうか。」
*
焚火を囲みながらの、砕けた会話のひとこまのように見えますが、実に難解な問いであり、そして本質をついた問いの連鎖で構成されています。四十日四十夜、頭を抱え、応答原稿を書いてみました。神学校で約40年間奉仕してきた人間なので、「少し難しい言い回しに終始した」きらいはあります。皆さんなら、これらの問いにどのような解答を提供されるでしょうか。そのようなことを考えながら、質問で意図されていることを深く掘り下げ、皆さんひとりひとり「わたしなら、この質問にこのように答える」と心の中で代案をこしらえつつ、わたしの応答をクリティカルに読んでいただけたら感謝です。
*
なお、この「応答」小論の、詳細版の展開が下記の「凸凹神学会」での講演です。関心ある方は、参加あるいは後日に視聴してください。現在、講演の関連で、G.E.Laddのこのテーマに関する著書“
The Blessed Hope – A Biblical Study of the Second Advent and
the Rapture
”を漸次、私訳しています。「日本の福音派諸教会、諸神学校の神学教育にいろんな影響を及ぼすであろう」講演準備のためお祈りください。
*
※大頭眞一先生主催の凸凹神学会(ズーム)『レフト・ビハインド』が内包している問題点の解明とその克服の処方箋」4/15(木)
13:30-15:30
に関心のある方は、大頭先生“mailto:gospel.ozu2@gmail.com”に直接お問い合わせください。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』 第九章 神の偉大さ、第一節 霊である、①
最も基本的な事柄の中に、神は霊であるという事実がある、90頁、左段3行
https://youtu.be/MUO9PDTHEsQ
*
1. 偉大さについての神の属性
a. 最も基本的な事柄
b. 神は霊であるという事実
i. 神は物質から構成されているわけではなく
ii. 物理的性質も所有していない
c. イエスがヨハネ4:24
i. 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」
ii. きわめて明確に
iii. 神が目に見えない
d. さまざまな箇所に暗示―(ヨハネ1:18、Ⅰテモテ1:17、6:15-16)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、⑦行き過ぎた強調をしないよう警戒しなければならない、87頁、左段2行
https://youtu.be/T2J19n9WnAM
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7. 内在性・超越性-「極端な強調」の危険への警戒
a. Not only「宗教的・瞑想的」に神を探求する, but also「世俗的」な人生観において神を探求
b. 「独占的」なかたちで奇跡を探求しない、「両方」を無視せず
i. 「聖さ、永遠性、全能性」のような神の属性のいくつか-神の「超越的な特徴」
ii. 「遍在性」のような他の特徴-「神の内在性」
c. 聖書
i. それらに「割り当てている強調・注目」の程度において
ii. 十分に仕上げられた「神についての理解」が結実
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、⑥神の導きや特別な介入を求める祈りをおろそかにはしない、86頁、右段37行
https://youtu.be/E7zQG_I5stc
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6. 神の超越的助言・介入の祈り
a. 純粋に神による「超越的な働き」を求める
b. 自然的手段によってのみ達成されうる出来事
i. 現代の学識からすべての有益なテクニックを使用
c. 神の働きに依存することをやめない
i. 神の助言・特別な介入を求める祈り
2021年3月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇8篇「心に留め、顧みーこれに栄光と誉れの冠をかぶらせ」
https://youtu.be/Tvt8F-p5JiA
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今朝の箇所、詩篇8篇は、預言者的な役割をも担ったダビデが、人類に対する父親のような神の寛大さと個々の恩恵のみわざに満足するだけでなく、それ以上に“讃美の念”に我を忘れた「ダビデの賛歌」である。
8:1「
【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています」で始まるこの詩篇は、世界の創造と統治のうちに示された神の驚くべき大能と栄光を讃美することから幕を開ける。しかし、その内容の焦点はそこから“私たち人間自身”に対して注がれている無限の慈愛にシフトしていく。自然界や宇宙天体は神の栄光の舞台である。そして、その被造物世界の中には“塵から造られた”存在であるにもかかわらず、特別な恵みを賦与された存在―“人間”がある。この世界にあるそのような神秘に触れ、それらは人間の言葉によって言い表すことは不可能である。ただ、“驚嘆”するのみであるとダビデは告白している。
そしてこれは、8:2
「幼子たち乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため復讐する敵を鎮めるために」への“布石”である。神の存在と摂理を全く消し去ろうという人たち、神を蔑視してやまない人たちもいる。そのような人々に対し、ダビデは「神の存在と栄光」は、「乳飲み子の口」にさえ輝き渡っていると宣言する。そのような表現をもって、それら人の反論・反抗を蹴散らす。彼らに対する弁証に、「雄弁な説教や整った文章・言語」は必ずしも必要ではない。言語を話せない“乳飲み子たちの口”でさえ、彼らを圧倒するのに十分な証拠であると言い放つ。
だれが、「母親の血を乳に変える」奇跡を行うのか。だれが「乳飲み子の舌を乳を飲めるように形作った」のか。だれが「乳飲み子に乳を吸うことを教えた」のか。このような最も小さな事象の中に、最も基本的な事柄の中に、人生で最初の行為の中に、不信者を打ちのめす証拠がすでに明らかにされている。そのような意味で、「乳飲み子の口」は、神に抗する敵に対する“不敗の戦士”の一兵卒なのである。
8:3-4
「あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに。人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。確かに、天体の動きの中に、神の尊厳は測りがたい輝きを見せ、栄光を現し、我々はうっとりさせられる。しかし、さらに素晴らしいことは、神の栄光は、“人間”に与えられている神の恵みと慈愛の上に一層明らかにされている。ダビデは、天体と人間を対照比較させ、そのコンラストの中で「讃美の念」を吐露する。
「人」は、ヘブル語で「エノーシュ」が使用されている。これは、「人間とは、弱くあやうい存在」であることを意味している。パスカルは「人間は考える葦である」と語った。“葦”は自然界で最も弱い植物を象徴する。しかし、その最も弱い存在者は“考える”賜物を賦与された高貴な存在者であると言う。塵から造られた人間は、物質的には、リンや鉄分や、カルシウム、水分等で材料費は1000円程度であるとも言われる。パスカルはその著書『パンセ』で「神なき人間の悲惨、神とともにある人間の至福」を綴った。我々あわれな人間は、悲惨と貧しさの中、地を這い、下等なさまざまな動物の間をうごめきながら人生を送る。見下げられて当然の存在である。しかし、慈愛に満ちた神はそのような我々に測り知れない“尊厳”を賦与される。
8:5-8
「あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。羊も牛もすべてまた野の獣も、空の鳥海の魚海路を通うものも」。神は、ちりや泥にすぎない人間を他のあらゆる被造物から選別し、“万物の霊長”として立てられた。私たち人間の傍らに立ち、心を留め、顧み、「栄光と誉れ」を賦与してくださる。
旧約の預言者のそのようなメッセージに加え、新約の使徒たちはヘブル人への手紙2:5-9で、「『人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。2:7
あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、2:8
万物を彼の足の下に置かれました。』神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。2:9
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」と記している。詩篇8篇の意味を「イエスのことに見て」―キリストの人格とみわざに適用している。
ここからさらにひとつのことを教えられる。キリストが「栄光と誉れの冠」を受けるために、神のしもべ形態をとられ、十字架のみわざを通られたように、我々も、そのようなキリストの足跡にならい、神のしもべ形態をとり、与えられた時間と空間という生涯の中で、その存在、人間関係、社会、世界において、十字架という恥辱をものともせずに走り抜け、パウロが語ったように「義の栄冠」(Ⅱテモて4:8)を授けていただく望みに生かされている。主の御名は、“私たちの全生涯”にわたり、そのような生涯に活かす力に満ちている。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、⑤ある礼拝はその地点を越え、極端な馴れ馴れしさへ、86頁、右段21行
https://youtu.be/VTwgEf1JEXI
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5. 行き過ぎた馴れ馴れしさの危険
a. 「尊敬」-私たちと神との関係において「適切」
b. 礼拝-ある場合には、「行き過ぎた馴れ馴れしさ」
c. しかし、「神の超越性」の事実を把握したなら、起こらない
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、④我々は新たにされた人間、決して神にはならない。86頁、右段14行
https://youtu.be/Otr-61OODNA
*
4. 神と人間との間―いつも違いが存在
a. この隔たり
i. 堕落に起因―道徳的・霊的な格差
ii. 創造に由来―存在の根本原理
b. 贖われ、栄化
i. 我々は新たにされた人間
ii. 決して神にはならない
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、③神との交わりは、厳密には神から我々への賜物、86頁、右段3行
https://youtu.be/ku9Vl7ce-7E
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3. 我々の救いー我々の功績ではない。
a. 我々に対する神の基準を満たす
i. 神の水準
ii. 自らを引き上げることはできない。
b. たとえできたとしても
i. それは
ii. 我々の業績ではない。
c. 神が我々に何を期待しているか
i. 我々が知っているという事実自体
ii. 神の自己啓示
iii. 我々の発見ではない。
d. 罪というさらなる問題を別にして
i. 神との交わり
ii. 厳密には神から我々への賜物
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、②神を人間の概念によって完全に捉えることは決してできない、86頁、左段39行
https://youtu.be/2s_hegFb6V0
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2. 神―人間の概念で完全にとらえるー決してできない。
a. 我々の教理的な考えのすべて
i. 有用で基本的に正しいかもしれない
ii. それによって神の性質を述べ尽くすことはできない
b. 神
i. 神についての我々の理解によって制限を受けない
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、①上から価値を与える何かがある、86頁、左段30行
https://youtu.be/3lxZ1LtpS58
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1. 超越性の教理―他の信条と実践に影響を与える意味合い
a. 人間よりー高度なもの
b. 善と真理と価値―この世の移り変わりゆく流れや人間の意見によって決定されるものではない
c. 上から我々に価値を与えるー何か
【新刊紹介】旧約聖書『詩篇』傾聴: 安黒務説教備忘録 (YouTubeリンク付き礼拝説教集) Kindle版117円
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序―「魂の解剖図としての詩篇」
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「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。あたかも鏡に写すように…人間の情念を描写する。あらゆる苦悩・悲哀・恐れ・望み・慰め・惑い、…人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出す。…内的心情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼びかける」―カルヴァンの数々の名句中でも最も良く知られた一節である。(出村彰著、『宗教改革論集⒈
カルヴァンー霊も魂も体も』より)
この『詩篇』傾聴シリーズは、旧約聖書『詩篇』に傾聴し、その解き明かしを宗教改革者ジャン・カルヴァン著『旧約聖書註解』詩篇Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳに学びつつ、三年間をかけて、一宮基督教研究所チャペルで分かち合っているシリーズである。通常は、シリーズを終えた後に編集・刊行するのであるが、三年間で150篇に傾聴するとは、新約書簡では30冊ほどの刊行分量に相当する。それで、この『詩篇』傾聴シリーズは、“漸次増補版”として刊行することにした。購入された方は、下記の要領で「購入されたキンドル本を適宜アップデート」し、三年後には150篇すべてを傾聴していただきたい。
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【目次】
序
詩篇1篇「流れのほとりに植えられた木、風が吹き飛ばす籾殻」
詩篇2篇「主に油注がれた者に対してー我を“マクヘンリー砦”に遣わしたまえ !」
詩篇3篇「多くの者が言っています『彼には神の救いがない』とーしかし主よ」
詩篇4篇「追いつめられたときー私が呼ぶとき答えてください! 私の義なる神」
詩篇5篇「あなたは悪を喜ぶ神ではなくー私のことば、うめき、叫ぶ声を !」
詩篇6篇「主が私の泣く声を聞かれたー切なる願い、祈りを」
詩篇7篇「ベニヤミン人クシュのことについてー神は正しい審判者」
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<2021~2023の間ー漸次、150篇まで増補してまいります>
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【Kindle本のバージョンをアップデートする】
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2021年2月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇7篇「ベニヤミン人クシュのことについてー神は正しい審判者」
https://youtu.be/mWKKsOuvfac
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今朝の詩篇、第7篇を読み解く鍵は、表題の中の「ベニヤミン人クシュのことについて」にある。ベニヤミン人クシュとは誰のことなのか。諸説あるが、7篇の文脈から、Ⅱサムエル16:5以降のシムイ、20:1以降のシェバにみられる類の「ベニヤミン族に属するサウル王の縁者」であったと思われる。
「ベニヤミン人クシュ」は何をしたのか。それは、v.1-2「どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き助け出す者もなくさらって行かないように」とあるように、サウル王に生じた「ダビデに対する疑心暗鬼」の火に油を注ぐ、側近クシュの中傷である。彼は「羊飼いから将軍に、また娘婿に取り立てられたダビデはその恩を忘れ、王位を狙う不忠のやからです」と密告する“中傷の創作者”であったのである。主の働きの中にも、このような動きをみせる方はいらっしゃる。ましてや、私たちが「古い皮袋に新しいブドウ酒を注ぐとともに、新しい皮袋の必要を唱える取り組みをする」場合には、「ベニヤミン人クシュ」のような相手がいろんなかたちで登場する。これを肝に銘じ、警戒を怠ってはならない。隙を与えてはいけない。そして、それらの方が暗躍を始められるとき、私たちには詩篇7篇のような「祈りによる戦い」が必要とされる。気をくじかれないためである。
私たちの周囲を見回そう。そこには「事を丸く収めようとする人たち」に満ちている。彼らは「和を以て貴しとなす」の一見素晴らしい精神の持ち主である。同時に、彼らはすべての事柄においてそれを実践しようとする「事なかれ主義者」でもある。しかし、主の働きはそのようであってはならない。 「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(シカゴ・コール)からである。「誤った教えや運動を盲目的に墨守する働き人は、最も悪い資質を有する働き人である」とエリクソンは記している。
さて、「ベニヤミン人クシュ」の中傷により、ダビデは“力による王位奪取”を企てる者に仕立てられてしまった。そのことにより、サウル王は際限なく無慈悲となり、ダビデの命を狙って追撃の手をゆるめなかった。「追い迫る」「獅子のように引き裂く」打ち寄せる波のような恐怖の中でダビデはいのちからがらの逃避行を続けた。これが、健全な福音主義に立つ「福音理解」確立のための私たちの霊的戦いにも参考となる。そのような中、ダビデは神を「堅固な砦」として信頼し、「私の神【主】よ私はあなたに身を避けます」と祈った。恐怖は私たちに悪い夢を見させる。不安にさせる。しかし、私たちはその悪夢の只中で、「神という砦」の中で守られていることを知る。
ダビデには、野心はなかった。では、武装解除して、羊飼いに戻れば良かったのか。否! ダビデは「サウルの代わる王として油注がれた次期王」でもあった。ここに神のなさる不思議がある。神は、油注いですぐに王位に着かせられなかった。逆に、ダビデを荒野に追いやられた。それはねヨルダン川で洗礼を受けられ、聖霊に満たされたメシヤが、荒野でサタンの誘惑に直面されたように、ペンテコステで聖霊の注ぎを受けた弟子たちが迫害に直面したのと同様であった。私たちも、使命を賦与され、聖霊に満たされた後、「古い皮袋に注がれた新しいブドウ酒が発酵する」がごとく、特異なコンフロンテーションに見舞われ、私たちは「ベニヤミン人クシュ」との戦いに直面させられる。
しかし、この戦いは私たちの「自己主張の戦い」ではない。この戦いは「相手を貶める戦い」でもない。それゆえ、ダビデはもしわたしが「7:4悪い仕打ち」「ゆえなく奪った」のなら、「7:5
敵が追い迫り追いつき」「いのちを地に踏みにじる」「私の栄光をちりの中に埋もれさせてください」と、“神の正義”がダビデの側にあると主張する。なんと力強い祈りだろう。妥協の余地のない祈りだろう。私たちの祈りは、少し“紳士淑女”的な祈りになりすぎてはいないだろうか。このような戦いの戦士のような祈りを鍛えるべきではないだろうか。この激しさを神は喜ばれるのではないか。
ダビデは、そこで止まらない。さらに神の「祈りの銃剣」をかざして「非難」「中傷」の弾丸が降り注ぐただ中を突進する。「7:6
【主】よ、目を覚ましてください」「7:7高いみくらにお帰りください」と。ダビデは、神に「7:11
正しい審判者」の座に復帰を促す。ダビデは、「7:8
【主】は諸国の民にさばきを」「私の義と私にある誠実にしたがって【主】よ私をさばいてください」と祈る。疑心暗鬼のサウル王と側近の「ベニヤミン人クシュ」たちの情報操作により、ダビデは悪人とされ、国家をあげて追撃されるお訊ね者とされていたからである。ダビデは、自分のいのちを狙うサウルが、主によってダビデの手に渡された時、二度に渡って家来の剣を止め、すそを切り、やりと壺をのみ持ち去り、サウルのいのちを救った。ダビデは、真に油注がれた次期王であったにも関わらず、自らの力によって、愚かではあったが油注がれていた王に手をかけることはなかった。ダビデは、どういうかたちであるのか知らなかったが、主が油注がれた以上、主は主の時にそのことを、主の手によって成就されることを確信していた。それで、自らの力で「王位奪取」に向かわなかった。それが、後に「ダビデ家に対する永遠の王位」契約に結びついていく。
私たちもそうである。自らの手と力でポストやサラリーを取りに行く必要はない。それは、神が恵みにより、召命と賜物に従って賦与されるものであるからだ。主によって「隠されたかたちで油注がれた」のであれば、形式やポストはとどうであれ、「油注がれた召命」にふさわしい道を切り開かれ、「油注がれた賜物」にふさわしい奉仕が次々と賦与されるはずであるからである。神は、ダビデがそうであったように、放逐された荒野で「エペソ3:20
私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超え」たものを備えてくださる。「神は正しい審判者」であるのだから、そのことにまちがいはない。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、⑤福音が信仰のない者と接触しうる地点がある、86頁、左段20行
https://youtu.be/EP5x9ZIHPEg
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5. 神の内在性―福音が信仰のない者と接触しうる地点の存在を意味
a. 神がある範囲まで被造世界全体のうちに内在し活動
i. 自らの生涯を神にささげていない人間のうちにも関与し活動
ii. 福音のメッセージの真理に敏感になる地点
iii. 神の働きに対する接触点がある。
b. 伝道
i. そのような地点を見つけ
ii. 福音のメッセージをそこへ方向づけること目指す
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、④被造世界の中には明確な論理のパターンが、86頁、右段4行
https://youtu.be/MMvABWvMZC4
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4. 被造物から神について学ぶ
a. 存在するすべてのものは
i. 神によって存在するようになった
ii. そこに神が活動しながら内住
b. 創造された宇宙の動きを観察
i. 神がどのような方かについて手がかり
ii. 被造世界の中には明確な論理のパターンが当てはまる
iii. 秩序の正しさ、規則の正しさ
c. 神はもともと
i. 散発的あるいは勝手、気まぐれ
ii. その行為は逆説的、矛盾をもって特徴づけ
1) と信じている者たちは、
2) 世界の動きをしっかり観察したことがない
3) 神はいかなる意味でも世界の中で働いていない
【新刊紹介】新約聖書『テサロニケ人への第一の手紙』傾聴:
安黒務説教備忘録 (YouTubeリンク付き礼拝説教集) Kindle版¥116
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この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『健全な終末論、健全な再臨理解』と題し、語ったシリーズのひとつ「『テサロニケ人への第一の手紙
』傾聴」である。約十年前に、わたしの周辺に大きな動きがあり、ちょうど武漢で「コロナ・ウイルス感染」が広まった時に、ある医師が警鐘を鳴らし始めたように、わたしも「ある教えと運動」の全国的な展開と所属団体と母校への悪影響を憂え、電子メールで「警戒情報」を流し続けていた。そして、「なぜ、わたしが”ディスペンセーション主義の教え”と“キリスト教シオニズム”の運動に不健全な要素があると思うのか」―牧師会での講演と質疑応答をもって説明させていただいた。
そして、いつかわたしも団体の教職者また母校の教師の奉仕を終えるときがくるだろうと思った。そして、わたしが奉仕を終えた後、この団体と母校の“針路”は一体どのようになるのだろうと心配した。それで、不健全な教えや運動に流されてしまわないために、“これらの船に錨を下しておくべきだ”と示された。それで、錨として、またワクチンとして、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』を翻訳・執筆した。
あの危機感から十年を経て、昨年のコロナ・ウイルス騒動の中、ユーチューブ・サイト等を通して「不健全な終末論、不健全な再臨理解」の汚染は以前にも増して広がっているとの情報を耳にした。その時、「神学的なウイルス感染の動向の端緒において気が付いていた私の対応はどうであったのだろう。団体や母校でディスペンセーション主義の教えやキリスト教シオニズムの運動に携わっている同労者への配慮で矛先は鈍くなってはいなかったか。感染阻止、ワクチン開発、治療の処方箋提供をあの時期にもっと徹底的に取り組んでいるべきではなかったのか」という反省である。
最近思うことは、ファンダメンタルで、ディスペンセーショナルなバイブル・スクールで育てられた戦後の教職者ですら、これらの誤りから、なかなか“治療・治癒”されないのだから、信徒の兄姉にそれを求めることは大変なことであると感じている。「一体どのようにすれば、この神学的なウイルス感染の拡大を抑え、感染者に対して効果的な治療を進めることができるのだろうか」-そのような課題を心に突き付けられている。
テキストは、紀元1世紀の半ば、アジアからヨーロッパへと初めてキリスト教が伝わった時期、生まれたばかりのテサロニケの教会に宛てた手紙である。そこには外からは迫害、内からは誤った教えと戦かった教会の勇敢な記録がある、傾聴すべき声が響き渡っている。
【目次】
『テサロニケ人への第一の手紙 』
■序
1:1-10「多くの苦難の中で喜びをもってみことばを受け入れー信仰・愛・希望」
2:1-20「御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはーあなたがたではありませんか」
3:1-13「今、私たちの心は生き返るーあなたがたが主にあって堅く立っているなら」
4:1-18「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかー健全な福音理解に根差し、健全な倫理的生活に生きる」
5:1-11「神は御怒りではなく、救いに定めークロノスとカイロスの時間」
5:12-28「完全に聖なるもの、責められるところのないものへー創造論的射程と地平線を伴い」
■プロフィール
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、③神の内在性の教理は、環境保護に適用される、85頁、右段33行
https://youtu.be/gX6ASTvoeVg
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3. 環境的な適用
a. 私たち-神が「創造されたすべてのもの」に感謝を抱いている-「世界」は神のもの、その中に臨在し活動
i. それらは-人類に合法的な必要にかなうべく使用するように提供-それゆえ、自身の満足と欲望のために「搾取」すべきでない
ii. 神の内在性の教理-「環境的に適用」をもっている
b. 他の人々への「私たちの態度」への適用-神はすべての人のうちに臨在しておられる(クリスチャンへの内住の意味ではなく)
i. それゆえ、だれも「軽蔑」されたり、「失礼な扱い」を受けるべきではない
【新刊紹介】新約聖書『テモテへの第二の手紙』傾聴:
安黒務 説教備忘録 (礼拝説教集) Kindle版 ¥116
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この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『パウロからテモテたちへ』と題し、教え子や後輩たちを意識して語ったシリーズである。テキストは、紀元1世紀の半ば、エペソ地域の牧会を任されていた次世代の指導者のひとりテモテにパウロから送られた手紙である。恩師のひとり、フレッド・スンベリ師夫妻が若かりし頃の私たち夫婦に語りかけ励まし続けてくださったことなどを思い起こしつつ、私たちもそのような年代になったことをも意識し、パウロが次世代の指導者たちに語りかけた「メッセージの本質」を抽出し、次世代の教職者、兄弟姉妹たちに語りかけている。
*
【目次】
『 テモテへの第二の手紙 』
*
■序
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1:1-8「私はあなたの涙を覚えているー福音のために私と苦しみをともにしてください」
1:9-18「オネシポロは私が鎖につながれていることを恥と思わずーベツレヘムの井戸の水のごとく」
2:1-7「わたしから聞いたことを教える力のある信頼できる人たちに委ねなさいーそして喜びのあまり」
2:8-13「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となるーからだは罪のゆえに死んでいても」
2:14-26「きよめるなら、あらゆる良い働きに備えられたものとなるー真正な福音主義神学の四つの特質」
3:1-9「終わりの日には困難な時代が来ることを承知していなさいー識別する耳・鼻・舌」
3:10-17「しかしあなたは、私の教えに、よくついて来てくれましたーさあ、天を見上げなさい」
4:1-5「神の御前で、またキリスト・イエスの御前で私は厳かに命じますーみことばを宣べ伝えなさい」
4:6-8「私が世を去る時が来ましたー“義の栄冠”の教理のインセンティブ」
4:9-22「だれも私を支持してくれずーしかし、主は私とともに立ち」
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■プロフィール
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、②神は、明らかにキリスト教とは無縁の人や組織を用いる、85頁、右段23行
https://youtu.be/nn5hfen0QkE
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2. クリスチャンだけでなく、未信者さえ
a. 神-クリスチャンでない人・組織をも用いられる
b. 聖書時代-ご自身の働き-イスラエルの民を通して-教会を通して-に制限されていない
i. 神-イスラエルを懲らしめるため-異教の民であるアッシリスヤさえ用いられた
c. 神-世俗的な「名前だけのキリスト教組織」を用いることも可能
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、①医学は神の一般啓示の一部分、医師の働きは神の活動の通路、85頁、右段9行
https://youtu.be/FDBAUd2dGyk
*
1. 医学は神の活動のひとつのチャンネル
a. 聖書で教えられている限られた程度の「神の内在性」-いくつかの意味を伝達
b. 神-目的達成のために「直接に働かれる」ことに制限されない
i. 神の民の祈り-奇跡的な癒し
ii. 医学の知識・熟練の適用-外科医が患者に健康をもたらすことも-神の働き
1) 医学-神の一般啓示の一部分
2) 医者の働き-神の活動のひとつのチャンネル
2021年2月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇6篇「主が私の泣く声を聞かれたー切なる願い、私の祈りを」
https://youtu.be/-OvEzGL2u7I
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詩篇の中には、七つの悔い改めの詩篇(6, 32, 38, 51, 102, 130,
143)があり、これはその中のひとつである。
「ダビデの」とある。それゆえ、「6:1
【主】よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください」の御怒りと憤りは、「バテシェバとの姦淫とその隠蔽のウリヤ殺害」(Ⅱサムエル11章)に注がれたものであるだろう。ダビデは王であった。それゆえ、すべての法の上に立ち、絶対君主のように振る舞うこともできた。しかし、ダビデは「神の法」の下にたてられた、神に油注がれた王であった。
それゆえ、ダビデがこのような大罪を犯したとき、神の御前にいかなる状態に置かれたのかは想像ができる。罪が露見しないようにすべての手は打っていた。しかし、神の目をごまかすことはできない。「ヘブル4:13
神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されて」いる。そのことが、バテシェバにダビデの子が生まれた直後に明らかとなる。神は預言者ナタンをダビデのところに遣われた。王の罪を指摘するなど、殺される危険をも帯びた使命であった。ナタンは「二人の人」の話をするよう神に遣われた。貧しい人の一匹の羊を取り上げて調理した金持ちの人の話である。ダビデは正義感に燃え、「その男は死に値する」と断言した。王の名で、絶対的な裁可がくだされた。すると、ただちにナタンは「あなたがその男です」と公然と指弾した。
通常の専制君主なら、ただちに王を冒涜した罪で、預言者ナタンを死罪を言い渡したことだろう。しかし、ダビデは、これは「神の声だ」と即座に理解し、顔面蒼白となり、預言者ナタンの前に膝を屈し、「私は主の前に罪ある者です」と、人目をはばからず溢れる涙とともに神の御前に告白した。と同時にナタンは神から「主も、あなたの罪を取り去ってくださった」と罪の赦しを宣言した。この素早く、目まぐるしい展開をどう理解すればよいのか。
その解き明かしの材料は詩篇32篇や51篇にある。「詩32:1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。32:2
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。32:3
私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4
昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ32:5
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを【主】に告白しよう』と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました」では、敬虔な信仰者ダビデは、肉欲の誘惑に陥り、二つの大罪を犯したときに、ダビデの霊的状態がどのようになったかを証ししている。若かりし頃よりあれほど溢れていた神の臨在は失われ、「神の御手」が昼も夜も重くのしかかったと。そうである。真に神の御前に生きている信仰者が罪を犯した場合、このような状態に置かれるのである。
それは、聖であり、義なる神の御前で罪とはいかなるものであるか、罪を犯し隠蔽したままではどうなるか。このことをすすがれ清められた良心は知っている。ダビデは、罪を隠蔽し、何事もなかったかのように振る舞い、バデシェバの子の誕生を喜んでいたその瞬間に、神の深い谷底に突き落とされる。それはダビデを救いに導く神の唯一の道であった。そこにしか、大罪を犯したダビデを救い出す道は存在しなかった。ダビデは悔いくずおれて、谷底で“粉々”になってしまった。
ダビデの「信仰の良心」は、自分の大罪が「6:5
死においてはあなたを覚えることはありません。よみにおいてはだれがあなたをほめたたえるでしょう」とあるように、“死罪”に値するものであり、やがては“永遠の刑罰”に服させる犯罪であることを深く自覚していた。だれがこのような大罪を忘れることができようか。ダビデは、何気ない生活の只中で「一日中うめき」「骨の髄さえ乾ききっ」ていた。それは、ダビデが真に敬虔な信仰者である証拠なのである。ダビデの中に見る“ローマ七章の経験”である。
ナタンを通しての「神の断罪」は救いの一手でもあった。その差し伸べられ「神の手」をダビデはしっかりと握った。なぜなら、ダビデは、溶岩で煮えたぎる火口のふちに、「いまや、落下せんか」とずっとたたずんでいた存在であったからである。神はダビデの手を握り返し、火口へまくれ落ちるダビデを救い出された。
「私は主の前に罪ある者です」の告白には、重い意味があったことだろう。誰も気がつかなかったダビデの大罪、しかし隠蔽に成功したはずのダビデ自身が、死とよみの底の見えない谷間のがけっぷちに立ち、v.2-3「衰え」「骨はおののき」「恐れおののいて」いたのである。V.6-7「嘆き」「涙」「苦悶」で霊的に疲れ果て、夜ごとに衰えていっていたのである。多くの真の信仰者がこのことを経験する。パウロ、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレーもまたそうであったろう。
ダビデの心の底には深い霊的な叫び声が響いていた。V.4「【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください。私を救ってください」と。主に羊飼いの生活の中から、選び出され、イスラエルの王となるべく油注がれたダビデであり、サウル王の追撃からも救われて、名実ともに王位に着座したダビデであったが、心の隙をつかれたその瞬間に、バテシェバの姿を見、ウリヤの殺害にまで至ってしまった。その瞬間に、ダビデから「主の臨在」は失われた。主の油注ぎは失われた。「裸の王様」となってしまった。ダビデ自身のみがそのことに気がついていた。それゆえ、ダビデは詩篇32,51篇のような霊的苦悩の只中にあった。それが、「6:1
【主】よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください」は、ダビデの心の底からの祈りであり、叫びであった。
ダビデは、自身の罪を深く認識していた。ダビデは、神のこのような審判の正しさを認識していた。取返しのつかない大罪を犯してしまった。悔恨の念が溢れていた。ダビデは、ひねもす「6:2
【主】よ私をあわれんでください。」「【主】よ私を癒やしてください。」「6:4
【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください」―「あなたの恵みのゆえに」と恵みの神、あわれみの神にすがる他なかった。ダビデにとって、真の神は、義なる神、審判の神であるだけではなかった。真の神は、恵みの神、あわれみの神でもあった。苦悩の一日は千日でもあるかのように、v.3「【主】よあなたはいつまで」わたしを臨在の外にほっておかれるのですかと、ダビデを苦しめた。一瞬一時の猶予もなく、ただちに「6:4
【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください」と叫んでいた。真に敬虔な信仰者はこのような苦しみの中に生活する。主の臨在なしには「息をする」ことすらできないのだ。「丘に挙げられた魚」のような苦しみがそこにあった。
ダビデは、ナタンの指弾に救われた。心の奥底にたまりにたまった「膿」の袋に神の針が刺し通され、その膿は噴出の出口を見出した。その瞬間、ダビデは「【主】が私の泣く声を聞かれた」、「6:9
【主】は私の切なる願いを聞」かれた、「【主】は私の祈りを受け入れられ」たと知った。ダビデの上に「重くのしかかっていた」主の裁き、審判の御手が取り払われ、「嘆き」と「涙」と「苦悶」のダムが決壊した。
ただ、この大罪が公のものとされたことにより、家族の中に、国家の中に、周辺国の間で、ダビデを油注ぎ王とれた「主の名」もまた汚され、嘲られることとなった。それゆえ、ダビデはv.8,10「不法を行う者」「敵」が、いつまでものさばることに怒りを抱き、主が赦しの栄光を与えられたこの瞬間から瞬く間に「敵が恥を見」「恐れおののき」「退き」「恥を見ます」主の汚名がすすがれることを祈った。
確かに、ダビデは、大罪を犯し、神の刑罰を受けることとなった。しかし、ダビデの神の御前における応答は、信仰者の模範ともなった。ダビデの神観、人間観、罪観、贖罪観等は、まだ見ぬメシヤを軸とした「新約の福音理解」の典型を言い表す“預言者のひとり”と機能している。アブラハムの「復活信仰」の本質が、パウロの「復活理解」の本質と輪郭のパースペクティブを明確にしたように、ダビデの「贖罪信仰」の本質と輪郭のハースペクティブをこの上なく明確なものにしている。ある意味で、パウロは、ダマスコで打たれた新約の光の下で、“復誦”しているにすぎない。
わたしたちは、救いの時に「罪人であること悔い改め、福音への信仰」(マルコ1:15)を明らかにする。と同時に、詩篇に悔い改めの詩篇が含まれていることの意味は、わたしたちは救いの時だけでなく、日々の生活の中で、肉の思いによる働きを意識し、「微に入り細にいる」かたちで、悔い改めの詩篇の助けを受け、ダビデのように「主と共にある至福の人生」を垂直に深く掘る大切さを教えられる。その意味で、悔い改めの詩篇は「わたしたちの心の膿の袋を刺し貫き、切り裂き、掻き出すメス」である。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、⑥もし内在性、もしくは超越性を強調しすぎるなら、85頁、左段18行
https://youtu.be/rpAELo5LgvQ
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8. 両面の強調を維持することの重要性
a. 内在性は、
i. 神が自然の手段を通してたくさんの働きをしていることを意味している。
ii. 神の働きは奇跡に限定されない。
iii. キュロスのような普通の、神を信じない人間をも用いる。
iv. キュロスは神の「牧者」、 神によって「油注がれた者」(イザヤ44:28、45:1)として描かれている。
v. 神はテクノロジー、人間の熟練、学問をも用いる。
b. 同時に、神は超越的な存在
i. 神はいかなる自然の出来事も
ii. 人間的出来事も無限に超えている。
c. しかし反対に、もし内在性を強調しすぎるなら、
i. 起こることすべてを神の意志や働きと同一視
ii. 1930年代にアドルフ・ヒトラーの政策―世界における神の働きと考えたドイツのキリスト者たち
iii. トランプ前大統領の支持者たちにも似た傾向を看取
iv. 神の聖さと世界で起こっている多くのこととの間―区別がある
d. しかし、もし超越性を強調しすぎるなら、
i. 神のほうでは我々の努力を通して働くことを意図
ii. 我々はあらゆるときに神が奇跡を起こすことを期待
iii. 神自身がそこに臨在し活動していることを忘れー被造物を酷使
iv. 神がキリスト者でない者のうちに働き、彼らに接触していることを忘れ
1) キリスト者でない者が行うことの価値
2) 福音のメッセージに対してある程度の感受性を保有―低く見てしまう
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、⑤幾つかの実在が同じ空間に共存、84頁、右段37行
https://youtu.be/PzzMeepZWzA
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7. 実在におけるさまざまなレベル、領域という概念
a. いくつかの実在が同じ空間の中に共存し、
b. 互いにアクセスできない状態で独立
i. 物理学者たちー同じ空間に複数の宇宙が占有している可能性
ii. 音という現象―聞こえないが存在(内在)しているさまざまな音
1) そのような音は非常に周波数の高い搬送波によって運ばれる
2) 人間の耳は助けなしでは 探知できない
(a) 無線周波数搬送波から可聴周波数波を「分離」できるラジオ受信機
(b) これらの音を聴くことができる
iii. 同様に、存在してはいても
(a) テレビ受信機がない限り
(b) 見えない視覚イメージ
c. 神
i. 被造世界の内部に存在し、活動
ii. まったく異なったタイプの存在―被造世界を超越
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、④この二つの教理の両方を保持することが重要、84頁、右段20行
https://youtu.be/X9QDNrV7j-U
*
6. この二つの教理の両方を保持することが重要
i. 必ずしも簡単な ことではない
ii. どのような視点から考察するのかに問題
b. 神の超越性について考える場合
i. 伝統的なやり方―本来、 空間的なもの
ii. 神は天にいまし、世界の高みにおられる
c. これは聖書の中に見つかる描写である
i. 宇宙の内部の特定の場所に位置づけられることのない霊的存在
ii. 「上」 とか「下」ということが実際には当てはまらない
iii. 現代では自明の事柄
d. 地球は球体であるという我々の理解
i. 「上」と「下」は意味をなす用語ではない。
ii. では、神の超越性と内在性という真理を正確に伝達するために使うことのできるイメージ
iii. 他にあるのか。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、③内在性の意味、超越性の意味、84頁、左段41行
https://youtu.be/wXE_IKkVo8I
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4. 内在性の意味は、
a. 神は被造世界のうちに、
b. そして人類のうちに、
c. 神の存在を信じないあるいは神に従わない人々のうちにさえ、
i. 臨在し活動していることである。
1) 神の影響力はあらゆるところにある。
2) 神は自然のプロセスのうちに、またそれを通して働いている。
*
5. 一方、 超越性の意味は、
a. 神が単に自然の、また人間性の特質ではないことである。
i. 神は単に最高レベルの人間ということではない。
b. 神は我々の理解力に制限されるお方ではない。
i. 神の聖さと慈しみ深い善性は、
1) 我々の聖さと善性を
2) はるかに超え、無限に超越している。
3) そして このことは神の知識や力においても真実である。
ii. 神の聖さと慈しみ深い善性は、
1) 我々聖さと善性を
2) はるかに超え、無限に超越している。
3) そしてこのことは神の知識や力においても真実である。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、②イザヤ書55:8-9、6:1-5、84頁、左段20行
https://youtu.be/9OL1zOG6RGE
*
2. イザヤ55:8-9―神の思いが我々の思いを超越
a. 「わたしの思いは、あなたがたの思いと 異なり、
b. あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
c. 天が地よりも高いように、
d. わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
e. わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
*
3. 6:1-5―主が「高くあげられた御座に着いて」いる
a. セラフィムは神の超越性を示し
b. 「聖なる、聖なる、 聖なる、万軍の主」と叫び、
c. それから「その栄光は全地に満ちる」と内在性に関する言及 を付け加える。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、①エレミヤ書23:24、83頁、右段27行
https://youtu.be/on6mhWLPGpk
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1. 重要な一対の概念
a. 神は 被造世界に内在しているという教理
b. 神は 被造世界を超越しているという教理
i. 聖書には両方の真理―エレミヤ23:24
1) 宇宙全体に神が臨在
(a) 「人が隠れ場に身を隠したら、 わたしはその人を見ることができないのか。
(b) 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
2) しかし、まさにこのテキストにおいて内在 性と超越性の両方が現れている。
(a) 「わたしは近くにいれば、神なのか。
(b) 遠くにいれば、神ではないのか。」(23 節)
ii. 使徒17:27-28
1) パウロは、アテネのアレオパゴスで哲学者たちに
(a) 「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
(b) 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。
(c) あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と 言ったとおりです」と。
2021年2月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇5篇「あなたは悪を喜ぶ神ではなくー私のことば、うめき、叫ぶ声を
!」
https://youtu.be/O8VhCWC9Pqg
*
五里霧中の中、詩篇の150篇を旅している。そこで、教えられること、気がつくことがある。ここには、ダビデの“戦いの詩”が多くあると。黙示録3:15-18では、ラオディキアの教会に「あなた方は、熱くもなく、冷たくもない。生ぬるい」と叱責されている。そして「火で精錬された金、裸の恥をあらわにしない白い衣、目が見えるようになる目薬」を買いなさい、とある。わたしは、“ダビデの詩篇に傾聴する”とはそういうことではないか、と教えられている。
詩篇5篇は、サウル王の死後、ダビデが平和のうちに王国の継承者となったときに、それまでの“苦境、包囲、絶体絶命の危機”を逃れてきた出来事を回想しつつささげた祈りである。わたしたちは、クリスチャン生活、信仰者の生涯をなんと心得ているだろう。水平の「人間関係社会」と垂直の「信仰生活」を“二元的な”ものとして割り切っていないだろうか。「世の中とはみなそんなものさ」―「寄らば大樹のかげ」「長い物には巻かれろ」「郷に入れば郷に従え」「出る釘は打たれる」「能ある鷹は爪を隠す」「和を以て貴しとなす」「赤信号皆で渡れば恐くない」等。“水平”の人生と神との“垂直”の人生の分離した人生と割り切り、悟って生きていないだろうか。
しかし、わたしたちが詩篇に傾聴するとき、“水平世界”と“垂直世界”がひとつとなった世界を見せられる。ダビデは、この世と信仰の世界を“分離分割”していない。彼は、この世界の只中に、義なる神の支配と審判を求めて、「v.1-2祈り、うめき、叫んで」いる。「v.3朝明けに」見張りやぐらに立ち、敵の軍勢に包囲された砦からの救出を待望してやまない兵士のように「これ以上、救いが差し控えられて、救出が手遅れとならないよう」、早く、直ちに聞き入れられるよう祈り、今か今かと待ち望んでいる。
わたしたちの“福音主義”の福音理解における戦いもまた、同じではないのか。「誤った運動や教えが大挙して押し迫る時代」である。精錬されていない不純物が混ざっている教え、倫理的な恥も外聞もない運動、良い麦と毒麦の教えを見分けることのできない視力の指導者が巷にあふれる時代である。彼らは「ローマ10:2
熱心ではあるが、知識がない」。
時にわたしたちは、「多勢に無勢」と、白旗をあげてしまっている、いわば風見鶏のような人たちを見かける。しかし、わたしたちは「5:4
あなたは悪を喜ぶ神ではなく」という神観の確信をもって、狂信的な軍団に包囲されることがあっても、屈することはない。わたしたちの戦いは、“わたしたちの主義主張の戦い”なのではなく、「Ⅰサムエル17:47これは主の戦い」―福音主義のセンターラインを死守する戦いであるのだから。
主は、「v.5-6
不法、偽り、欺き」をいつまでも放置されるお方ではない。私たちの神は「v.4悪を喜ぶ神ではなく」、義なる神である。わたしたちの神は「v.8-9
義によって導かれる神」、わたしたちの福音理解の「道をまっすぐして」くださる神である。古い皮袋の教えや運動色の強い教会・教派の中で、このような取り組みをすれば、どのような摩擦が起こりうることだろう。どのような戦いの渦中に置かれることだろう。ダビデのような生涯を送ることになる。そのことに疑いの余地はない。さあ、そこでわたしたちはどうすべきか。それが問題である。
さて、一時的には敗色濃厚かもしれない。それは「山に動いて、海に入れ」というようなものなのかもしれない。でも、これを“神の時”-すなわち“カイロス”の時間のスパンでみてみよう。そのように、神の啓示によって誤りを修正し、良い麦の中に混入している毒麦を除去し、より健全な教えと運動へと、その教会・教派を導く取り組みは、最終的に「神の祝福」を勝ち取ることになるのではないか。なぜなら、わたしたちの神は“生きておられる”神であり、「悪を喜ぶ、すなわち“間違った福音理解”を喜ぶ」神ではないのだから。この神観が大切である。このような神理解が事の核心である。
長い先に、誤った運動や教えを支持した人々は、わたしたちが信頼してやまない「義なる神」によって、「v.10
責めを負わせられ、追い散らされ」ることになるだろう。将来、否定的な評価を受けることになるだろう。それというのも、彼らは自分たちの主義主張の誤りに気づかず、「神の福音理解」に逆らっているからである。
健全な福音理解を愛し、そこに「v.11身を避ける」人たちが喜びで満たされるように。まだまだ続く戦いの最中にある彼らを、主が「かばってくださる」ように。「清流の流れのような純粋な福音」を彼らが誇りとしますように。神さまが“難攻不落の砦”となって、「v.12
大楯」で彼らを守ってくだいますように。
「私たちは、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない。神の助けによって、私たちも、代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。私たちは、迫害は必ず起こると警告されたイエスのことばを忘れない。」(ジョン・ストット/宇田進訳『ローザンヌ誓約―解説と注釈』「誓約・第十三項
自由と迫害」)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序④解剖学の教科書でなされる研究方法、83頁、右段10行
https://youtu.be/HubjDpcEL70
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4. 解剖学より、親密な人格関係への手段
a. 神-事実上、「解剖」に-過度に「分析的」に-「解剖学」の教科書におけるアプローチと同様のやり方で規定され分類される
b. 神についての研究-過度に「思索的」に-神との親密な交わりより、「思索的な結論」そのものが目標
c. 神の性質についての研究-神についての「より正確な理解」とそれに基づいた「神とのより親密な人格的関係」への手段
【Jets インフォメーション】 学会誌46号、48号のバックナンバー公開のお知らせ
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『福音主義神学』誌編集委員会のルールに基づき、下記の学会誌のバックナンバーの公開をしました。皆様の
神学研鑽の一助にしていただければ幸いです。
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■『日本福音主義神学会』学会誌 Since 1970
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_papers.htm
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■46号(2015年発行) 福音主義神学、その行くべき方向Ⅱ-聖書信仰と福音主義神学の未来-
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers46.html
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■48号(2017年発行) 福音の理解-信仰をめぐって-
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers48.html
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過去五カ年の学会誌は未掲載です。論文タイトルのみ掲載しています。但し、試験的に、関心を喚起し、購入を促すためプレビュー版は刊行直後に掲載、会員勧誘のための特典として会員サイトは三年後に活用可としています(会員以外の印刷・流用はご遠慮ください)。学会誌は、各地のキリスト教書店、または事務局のある神戸ルーテル神学校(Tel.078-221-6956)にて注文・購入していただけます。
*
PS
「日本福音主義神学会」公式ホームページは、神学会全国理事会より委託を受け、学会誌「福音主義神学」編集委員会の監督下で、2010年7月より一宮基督教研究所(安黒務)が編集しています。会費を完納されている会員対象の「印刷可」設定ファイルの各パスワードは、一宮基督教研究所(安黒務)にメールにてお問い合わせください。
感想、意見、質問、登録等の窓口 Mail-Address : aguro@mth.biglobe.ne.jp
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序③より知的なレベルでの問題、83頁、左段33行
https://youtu.be/qUUZK8Oofbs
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3. より知的なレベルの問題
a. 知的レベルでの多くの問題-神についての正しい見方の必要性を示唆
b. 初代教会における「三位一体」の教理-特別な緊張と論争
c. 「神論」における教理的議論の最近
i. 「創造」に対する神の関係
1) 神-創造物からはるかに分離され、隔てられている(超越性)
(a) 神は創造物を通して働かれない、それを通して神について何もしりえないのか?
2) 神-人間社会や自然のプロセス(内在性)の中で見出されうるのか?
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序②「あなたの神は小さすぎる」J.B.フィリップス、83頁、左段9行
https://youtu.be/EOmWF7xGOeg
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2. 「あなたの神は小さすぎる」J.B.フィリップス
a. ある人々-神=罪を犯し、踏み誤る人々に襲い掛かる機会を探している「天からの警察官」
i. 保険会社-いつも破局的な出来事を「神の行為」であるかのように-力強い、意地悪い存在を意図
ii. 神=祖父-決して人間の人生の喜びを減じることを望まれない、寛大な、優しい老人
b. 「イスラエル民族を軸とした誤った聖書解釈法」
i. 普遍的な人類全体を分け隔てなく愛されるイエス・キリストにおいて明らかにされた神を、
ii. 過度に民族的に偏愛される神として描く
iii. 民族主義的解釈法・民族主義的聖書観→神論から終末論までの「福音理解」全体を歪めている
c. 霊的生活の真の意味と深さ-神についての多くの「偽りの概念」の矯正が必要
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序①神学の中心的位置を占める、83頁、左段1行
https://youtu.be/sRcxThuy9_s
*
1. 「神についての教理」-神学の中心的位置にある
a. 神についての見方-
i. 「神学」を構築、
ii. 人生のフレームワークの提供、
iii. 奉仕のスタイル、
iv. 人生哲学に彩り
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第五節
歴史的権威と規範的権威、80頁、左段35行
https://youtu.be/KpApzcRBPNQ
*
1. 当時の人々を拘束するものと私たちを拘束するもの
a. 聖書-「聖書時代」において-個人やグループに対する「神の意思」が何であったのかを告げていることにおいて「権威」がある
b. 何が「当時の人々」を拘束しており-また何が「私たち」を拘束しているのか
2. 一時的な形式と普遍的な本質
a. 二つのタイプの「権威」-「歴史的なもの」と「規範的なもの」-区別する必要
i. 神が「聖書時代の人々」に要求されていたものは何か
1)
聖書-聖書時代に何が起こったのか-人々に要求されたものは何であったのか-教えている点において「歴史的な権威」がある
ii. 神が「私たち」に期待しておられるものは何か
1) それらに「規範的権威」があるのか-当時の人々に期待されたのと「同じ行為」を遂行するよう「私たち」を縛るのか
2) 「当時の人々に対する神の意思」と「私たちに対する神の意思」-同一視しない注意深さ必要
iii. 何がメッセージの「普遍的本質」であり-何がその表現の「一時的形式」なのか-決定することが必要
1) 規範的権威をもたずに-歴史的権威をもつ箇所も存在する
2021年2月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇4篇「追いつめられたときー私が呼ぶとき答えてください!
私の義なる神」
https://youtu.be/SUdCvbGcaDw
*
「人生は出会いで決まる」と言われる。わたしは、聖書解釈や説教もまた、“出会い”で決まると教えられる。最近では、エペソ書解釈と説教でストットの“Bible
Speaks
Today”、ヨブ記解釈と説教で浅野順一先生の註解との出会いがあった。今回の『詩篇』解釈と説教では、カルヴァンの『詩篇』註解と出村彰先生の解説との出会いによって助けられている。
まず詩篇の読み方、詩篇の傾聴の仕方を教えられている。詩篇という書物は、「魂の解剖図」だというのである。詩篇は、鏡に写すように、人間の情念を描写している。人間のあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、望み、慰め、惑いー人間の魂を揺り動かす、気持ちの乱れを生き生きと描き出している。
内的感情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼び掛ける。それは、詩篇の記者たちが、まず自己をダビデと同時代化し、カルヴァンがダビデと自己同一化を計り、さらには現代にあってはカルヴァンの詩篇註解を読む私たちがカルヴァンとの同化を試みようとするのである。
というのは、ジュネーブにおけるカルヴァンの“福音主義”のための闘いは、ダビデの“王権”のための戦いと重なるからである。そして、それらの闘いは、今日の私たちの“健全な福音理解確立”のための戦いと重なるからである。
カルヴァンの詩篇註解の特徴は、ダビデの詩篇の“キリスト論的転換、また展開”である。ダビデをもって、またダビデを通して語りかけてくるのは、実は“キリストにおける神”なのである。ダビデを「羊を追う者から選び分けられ、油注がれ、立てられ、“王位の尊貴”にまで引きあげられた」のは、徹底的に“神の側の主導”によるものであった。“神の主権的行為による召命であり、使命”であった。ダビデには、選択の余地はなかった。
カルヴァンもまた、卑しく、みるべきとこのない身から引き上げられ、ついには福音に仕え、これを宣べ伝えるという、「光栄に満ちた責務」へと召された。私たちもまた、平凡な生涯で終えても仕方のなかった卑しい者であったにもかかわらず、神の不思議な摂理の御手により、救われ、献身し、学びの機会を与えられ、今ICIというかたちで、「福音理解の健全化」のために貢献するように召され、油注がれ、その使命を果たすよう、日々励まされている。
背景、文脈、適用を大切にするーそのような観点から、この詩篇を味わうよう導かれている。
*
さて、今朝は、詩篇4篇である。今朝の箇所は如何なる背景をもつのか。「アブサロムの変」か、「サウルによる追撃期間」のものか。解釈者により見解は分かれる。カルヴァンは、「4:2いつまで」から、短期間で解決した「アブサロムの変」ではなく、長期間の「サウル王による追撃期間」のものと解釈している。私たちも、後者とみて解釈・適用していこう。まず、背景をみていこう。
*
【詩篇4篇の背景】
「王としてのサウル」は、準備なく油注がれた王であったようである。サウル王は、Ⅰサムエル13章「祭司のみに許されている犠牲を自分でささげ」、14章「軍隊の食を控えさせる失態、ヨナタンへの死の宣告」等、愚かな指示を連発し、15章預言者サムエルを通し、主から「あなたは主のことばを退けたのでは、主もまたあなたをイスラエルの王位から退けられた」と宣告されてしまった。
その後、16章羊飼いの「ダビデがひそかに、イスラエルの王として油注がれる」。事は公に行われなかった。サウル王がそれを知れば、ダビデを殺すかも知れなかったからである。密かに油注がれたダビデは、神の摂理の御手にあって、次の王として準備されていく。
サウル王は、王位退位の宣告以来、悪い思いに襲われるようになり、それを和らげるため、「音楽の才に溢れるダビデ」を身近に置くようになる。ダビデは、サウルの道具持ちとして仕えつつ、王の側近のひとりとして列に加えられ、「政治」を学んでいく。
17章で「ダビデは、巨人ゴリアテとの戦い」に直面する。その際にも、ダビデには十分な準備があった。すでに獅子や熊の戦いを積んでいたのである。ダビデは、一瞬にして状況判断のできる戦士であった。それで17:34
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、17:35
しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。17:36
しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから」と。17:40
そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。17:49
ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。ダビデは、その後、戦士たちの長とされ、サウルが遣わすところ、どこにおいても勝利を収めた。人々は、18:7
女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」18:8
サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」18:9
その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。
やがてダビデは、サウル王にいのちを狙われるようになり、ユダ南部のアドラムの洞穴、モアブ、南ユダ、ケイラ、ジフ、マオン等を転々と逃亡生活を送る。そのような中、ダビデを慕う600人の人々が従者として加わっていった。ただ、エンゲディでは、サウルの命が目の前に置かれたが、ダビデは流血によって「王位を奪取」することを願わず、サウルの命に危害を加えなかった。ジフでも「サウルの命」を助けた。
*
【詩篇4篇】
ダビデに私心、野心はなかった。ただ、主の主権的選びと主の主導権に基づく油注ぎのみがあった。それゆえ、v.1「私の義なる神」と訴え出ることができた。ダビデにとってv.2「私の栄光」とはすなわち「神の栄光」以外のなにものでもなかった。「ご自分の聖徒」に対する特別扱いは、主の選び、主の油注ぎにより、主が与えられた召命、使命を責務として背負う者に対する主ご自身による取り計らいに過ぎなかった。
サウル王のダビデ追撃は、的外れであるばかりか、「主のご計画」に対する反抗であった。サウル王に扇動され、v.2「空しいもの」「偽り」、v.4「罪」を愛する、流される、翻弄されるのではなく、v.4「心中で語り」「床の上で静まり」自省するよう促す、そして悔い改めのv.5「義のいけにえ」をささげ、「主のみ旨」に依拠せよと語る。
多くの人々は、「良い目を見させてくれる」ことを追い求める。外的なこと、現象的なこと、対物的な成功・祝福である。現世ご利益の追求の願望はやむことはない。それをサウルがくれるのか、あるいはダビデがくれるのかと。しかし、ダビデは、v.6「主よ、どうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください」と祈る。神さまの真実な臨在と祝福こそが「喜び」の源であると。ダビデは、追い迫るサウルの追撃隊の最中で、神の膨大な軍勢に囲まれ、守られているかのように、v.8「平安のうちに」身を横たえすぐ眠りにつく。王位にあり軍勢に守られつつ「主の霊はサウルを離れ去り」(Ⅰサムエル16:15)といわれ、おびえの中に生きたサウル王とは対照的である。
*
ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「旧約聖書『詩篇』傾聴シリーズ」から全編(2021年度~2023年度)を漸次傾聴していくことができます。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第三節
権威の客観的構成要素と主観的構成要素、78頁、右段32行
https://youtu.be/KyEZGsGQuvk
*
1. バーナード・ラムの「権威のパターン」
a. 客観的な言葉=「書かれ、霊感された聖書」
b. 聖霊の内的照明と確信を伴って
c. クリスチャンにとって「権威」を構成している
*
2. 「一日一章、悪魔遠ざける」
a. 17世紀のスコラ的正統主義-権威=「聖書のみ」と主張
b. 20世紀の米国の「ファンダメンタルの立場」
i. 自動的に「神との接触」に導く「客観的な特質」-聖書の中にみる
ii. 「毎日、聖書を読む」-それ自身から価値を受けられる
iii. 「一日一個のリンゴで医者いらず」-「一日一章読むことは悪魔を遠ざける」
iv. 聖書がほとんど「崇拝の対象」になる
*
3. 権威ある聖書と聖霊の特別な働き
a. 「聖霊」-クリスチャンの主要な権威とみなす「幾つかのグループ」
b. あるカリスマ的なグループ-今日でも「特別な預言」-神からの新しいメッセージ
c. ほとんどの場合-それらのメッセージは「ある聖書の箇所の真の意味を明らかにする」こと
d. その主張-聖書には権威がある-しかし、その意味は「聖霊の特別な働き」なしに見出されない
*
4. 客観的基盤と主観的経験
a. 権威を構成するもの-それら二つの要素の結合
i. 「正しく翻訳された、書かれた言葉」=客観的な基盤
ii. 「聖霊の内的な照明・説得する働き」=主観的な側面
b. 両者がともに-冷たい心と熱い頭×-冷たい頭と暖かい心○
i. ある牧師
1) 御霊なしで聖書をもつ-枯れはてる
2) 聖書なしで御霊をもつ-吹きあおられる
3) 聖書と御霊を両方もつなら-成長する
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、③御霊の助け、77頁、右段12行
https://youtu.be/Vg3Wip_jn8w
*
5. Ⅰコリント2:14―御霊の助けなしには
6. エペソ1:18―心の目がはっきり見えるようにされる
7. 御霊の一度きりのわざ「再生」と継続的な働きーヨハネ14-16章
a. 教え、思い起こさせる(14:26)
b. イエスについて証言する(15:26-27)
c. 罪と義と裁きについて宣告する(16:8)
d. すべての真理に導く(16:13)
8. 「真理の御霊」という呼称
9. ヨハネ14-16章―聖霊の役割のまとめ
a. 新しい真理の追加というより
b. すでに賦与されている啓示の照明・適用
【断想】“ミクロの世界とマクロの世界”のギャップが存在するのではないか?―Stephen Sizer, “Christian
Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers ?”を共通の土俵としての「臨床試験」データの必要
*
以前、戦術と戦略について記述した。局所的な戦いと戦争全体についての見識の問題である。植民地獲得競争の時代の出遅れグループのドイツ、イタリアと組んで、日本は朝鮮半島、満州、中国大陸、東南アジア諸国、南アジア、太平洋諸国の資源と市場獲得を求めて進出していった。そして、真珠湾を奇襲攻撃し、戦術的な成功を収めたかに見えた。しかし、戦争全体の将来を大局的に見渡せば、最初から勝ち目のない戦争であった。米国と日本の国力の差は歴然としていたからである。
わたしは、ここ十年余り、「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」について膨大な重要な書籍に目配りしてきた。そのときに感じされることがこのことに似ている。「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に取り組んでおられる同労の教職者、また兄弟姉妹は、熱心なクリスチャンであり、素朴な信仰を持っておられる方が多いように思う。なので、わたしが『福音主義イスラエル論Ⅰ:神学的・社会学的視点からの一考察』、『福音主義イスラエル論Ⅱ:ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』に執筆したような内容の紹介を読んで、驚かれる同労者、兄姉の方もおられる。
実は、そのような驚きは十年余り前からわたし自身が感じてきた“驚き”なのである。わたしは、直接にこの「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に関わっておられる素晴らしい同労者、兄姉たちから、この“ギャップ”について教えを乞いたいと願っている。
わたしは、今、「“ミクロの世界とマクロの世界”のギャップが存在するのではないか?」と考えている。「キリスト教シオニズム」とは、基本的に「ユダヤ人のパレスチナへの帰還」を積極的かつ公的に支援する運動のことであり、世界各地に離散し苦しんでいるユダヤ人を助けることは良いことである。では、何が問題なのだろう。キリスト教会がそれらの教えや運動に関わる場合に、それらの運動の前面に立って、取り組んでおられる熱心なクリスチャンや兄姉の素朴な信仰のみに頼るのではなく、“マクロな視点”から、これらの「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」について基本的な理解と本質的課題を知っておく責任があるのではないか。
そのようなことで、神学生からもよく質問を受ける神学教師の立場、また所属団体の支援も受けて専門的な神学的素養を身につけてきた教職者として、一定程度の責任を果たす必要があるだろうと考え、上記の二つの論文を執筆した。
その「A-2)
キリスト教シオニズムの諸形態」に以下の記述がある。「さて、私たちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き
を目にし、また耳にする。しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか。よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの『神学と実践』の『輪郭と本質』を知っておきたい」。
この「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」を“マクロな視点”から理解する最良の二冊が、Stephen
Sizer, “Christian Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers
?”である。この本には、キリスト教世界を代表する神学者や神学雑誌の編集長等々15名の推薦文が冒頭に掲載されている。その中のひとつを紹介したい。福音派を代表する英国聖公会のJ.R.W.ストットは「ステファン・サイザーのクリスチャン・シオニズムに対する画期的な批評を喜んで推薦します。
そのルーツ、その神学的根拠、およびその政治的影響に関する彼の包括的な概要は非常にタイムリーです」と記している。
“Christian Zionism”の結論の構成は、「1. キリスト教シオニズムの発展に関する観察、2.
キリスト教シオニズムの多様な形態、3. キリスト教シオニズムの建設的および破壊的側面、4.
キリスト教シオニズムに対する批判的評価、5. 聖書的シオニズム:契約神学的理解に立つ代替案」となっている。
わたしたちの団体、また母校の周辺で「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」が津波のように押し寄せるようになってきたのは、ここ十年あまりのことのように受けとめている。米国における勃興の余波かもしれない。それが、日本のキリスト教会の健全な福音理解の深まりと健全な倫理的証しにとって有意義であれば積極的に導入していけば良いと思う。ただ、ミクロの視点からの検証だけでなく、マクロな視点から“そのルーツ、その神学的根拠、およびその政治的影響に関する彼の包括的な”検証が必要とされているのではないか。
昨今は、コロナ・ウイルスの関係で世界のワクチン開発企業が先を争って、開発を推し進めている。ただ、薬とかワクチンには、副作用等もあり、広範な“臨床試験”データの蓄積が必要とされる。「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に関しては、Stephen
Sizer, “Christian Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers
?”を、ひとつの共通の土俵として、キリスト教シオニズムに関係されている諸団体、諸教会、諸兄姉を交えて、広範な対話、検証が必要とされているように思う。
*
https://www.amazon.co.jp/s?k=stephen+Sizer&i=english-books&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、②存在論的な違い、罪深さから生じる制限、76頁、右段27行
https://youtu.be/PkFng06tWv0
*
2. 存在論的差異:創造者と被造物の関係
a. 聖書の意味の理解、その真理の確信-「聖霊の照明と証し」が必要
i. 神と人間の間-「存在論的差異」-神は「超越的なお方」-人間の理解の範疇を超えておられる
ii. 神-人間の「有限な概念」「人間の語彙」によって把握できないお方
iii. 神-理解されうるが、「包括的なかたち」で理解できない
iv. それらの限界性-「人間存在」のうちに生来のもの-罪と堕落の結果以上のもの-創造者と被造物の関係に由来
*
3. 神の事柄・人の永遠の運命-確かさ
a. 「神の事柄」に関する「確かさ」を必要
b. 「霊的・永遠的ないのちと死」という主題-「単なる可能性」×
c. 確実さについての私たちの必要-「人間理性」が提供できない「確かさ」を必要
i. どの車を買うべきか?-家にどのペンキを塗るべきか?-選択肢の利点をリスト・アップ
ii. 「人間の永遠の運命」-だれを信じるべきか?-何を信じるべきなのか?-「確かさ」の必要性は高いものに
*
4. 人類の罪深さに由来する制限
a. マタイ13:13-15、マルコ8:18-「聞くだけで理解しない。見ないし悟らない」人々について
i. マタイ13:15-心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっている
ii.
ローマ1:21-彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった
iii. ローマ11:8-その状態を「彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた」神に帰している
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑩ダビデ的な王としてのメシヤー健全な聖書解釈法と誤った聖書解釈法を見分けるポイントはどこか?、8頁、14行
https://youtu.be/gRJNYycZ0_E
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【分解】
1. 旧約聖書にはー並列して置かれている三つの救い主の人物像
a. 最初のものは、ダビデ的な王としての救い主
b. 新約時代においては「救い主」「キリスト」「油注がれた者」
*
2. ダビデの王座に連なる王室の子孫―イザヤ書11章
a. ダビデの父、エッサイの王室の血統の家系が倒された日
b. ダビデの子孫の救済史的希望は挫折
*
3. 倒された木の切り株から、新しい芽、新しい枝、新しい王室の子孫
a. 「その上に、主の霊がとどまる」。
b. 知恵と悟り、そして知識
c. 真の正義、義、公正をもってその民を統治
d. 彼の第一義的な使命―公正な王としての統治
*
4. 正しく統治するだけでなく、「口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す」
a. 神に敵対する者や神の民をも打つ
b. それは平和と幸福の支配する世界をもたらす
c.
また、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく」
d. 呪いは自然界から取り除かれ、獰猛な獣は残忍さを消される
*
5. しかしながら、これらは彼の王国のひとつの側面にすぎない
a. さらに「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」
b. 「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」
c. これらは異邦人の救いを意味
*
【ポイント解説】→健全な聖書解釈法と誤った聖書解釈法を見分けるポイントはどこか?
ラッドは、同じような聖書観をもつ者の間で、二つの聖書解釈法があると指摘しました。一方は、ディスペンセーション主義聖書解釈法で「イスラエル民族の盛衰とその栄光の回復」を軸として旧新約聖書を解釈しようとします。他方は、福音主義の聖書解釈法で「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸にして旧新約聖書を解釈します。
ディスペンセーション主義者は、福音主義の聖書解釈法を「契約神学」と呼んで、聖書的でないと批判します。しかし、G.Vosをはじめとする契約神学の捉え方は、旧新約聖書における啓示の、①歴史性、②連続性、③漸進性を捉え、旧新約聖書全体を「有機的一体性」すなわち「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」をもって解釈しようとするものであり、それらのはきわめて聖書的な解釈法であることは、聖書神学の世界では立証済みの事柄です。
これに反して、ディスペンセーション主義の立場の本では、「契約神学」的な「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」という捉え方を“非聖書的”として否定し、「神の二つの民、神の二つのプログラム」という前提で旧新約を、いわば“真っ二つ”に切り裂いて歪んだ解釈を施していきます。つまり、ディスペンセーション主義聖書解釈とは、旧新約の有機的一体性を破壊する誤った解釈法なのです。
今日のポイントー健全な聖書解釈法とは、旧新約聖書を有機的一体性をもって解釈しようとします。それは、「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」という前提を持つ解釈法です。ラッドは、新約の使徒たちが、この解釈法を一貫して使用していることを、「メシヤ預言」の解釈において立証しようとしているのです。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、①啓示、霊感、照明、76頁、右段3行
https://youtu.be/dXssLbOh5mw
*
1. 啓示と霊感と照明
a. 啓示-神が「神の真理」を人類に知らせる行為-垂直的
b. 霊感-聖書が語っているものは、「もし神が直接に語られるとしたら、まさしく神が語られるであろうものである。」ことを保証
c.
照明-聴衆の理解とか聖書の読者を照明し、その意味の理解をもたらし、その真理と神的起源の確かさを創造する「聖霊の内的働き」
i. 聖書-私たちへの「神の語りかけ」であるかのように-聖書の「意味の理解、神的起源、著作性の確信」が大切
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第一節 宗教的権威、76頁、左段1行
https://youtu.be/CzPOpW_no0c
*
1. 権威-「信条・行為」を要求すべき権威を意味
a. 今日の社会-かなりの「論争」を起こしている主題
b. 最終的な「その人自身」の判断の受け入れ-「外からの権威」は認知・従順をしばしば拒否
i. 「個人の判断」が主張される宗教の領域-強い反体制派の存在
ii. 例えば-多くのローマ・カトリックの人たちは「無謬なものとしての法王の権威」の伝統的な見方に疑問
*
2. 信条・行為を規定する権威-Where?
a. 信条・行為を規定する権利を所有する-「人物」「組織」「文書」はあるのか?
i. もし、「至高の存在者」が存在-「何を信じ、どう生きるべきか」を決定する権利を所有
ii. 神-宗教的な事柄において「究極的権威」-信条・実践の基準を確立する権利
b. 神-直接のかたちで権威を行使されない-「聖書」という書物を創造することにおいて「権威」を委任
i. 聖書-神のメッセージを伝達-神が直接話された場合と同様-「神ご自身が命令」と同じ重み
2021年1月31日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇3篇「多くの者が言っています『彼には神の救いがない』とーしかし主よ」
https://youtu.be/RnwLA_jM8Lg
*
今年から三年計画で、『詩篇』傾聴シリーズに取り組んでいる。長丁場なので、マンネリ化しないか心配でもある。しかし、歴史的過去に歌われた詩篇を、私たち自身の現在に“実存化”する実験室と捉えると楽しみな三年間でもある。
H.G.ペールマンは、神学に関し、それは「中立的な学問足りえず、むしろただ“実存的にのみ”関わりうる学問である」という。なぜなら、神はあらかじめ「神に捉えられることなしには理解しがたい」からである。したがって、前もって「神と語った時にのみ」神について語りうるのである、という。
C.ヴェスターマンは、その著書『詩篇選釈』で、詩篇は要するに「嘆きの詩篇とほめたたえの詩篇」に整理できるという。それは、水平の人間間の出来事ではなく、“垂直の”神と人間の出来事であるという。それゆえ、私たちが詩篇を味わうという場合、私たちの過去・現在・未来の種々の出来事の中に、“重ね絵”のようなかたちで“再現”されるべき「嘆きとほめたたえ」が生起する。
『詩篇』傾聴とは、いかなる事態なのだろう。それは、いわば、詩篇に存在する神と人の間に生起した“嘆きとほめたたえ”の構造のエッセンスを私たちの水平の出来事の只中に、“垂直”に掘削するエネルギーを迎え入れることではないのか。私たち自身、その存在、生きざまの只中に、いわば詩篇にある“嘆きとほめたたえ”の150のアプリをインストールすることではないのか。
携帯はアプリなしでは、ただの電話機器でしかない。しかし、豊富なアプリを取り込めば、それはドラえもんの“四次元ポケット”に変貌する。私たちは、三年かけて、この150のアブリを信仰生活の只中にインストールしていこうではないか。
*
前書きに「ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」とある。そう、この詩篇は、Ⅱサムエル記15-17章に記されている実子アブサロムによる、いわば「本能寺の変」の危機の只中で歌われたものである。私たちの人生には、「味方に背後から撃たれる、背中から刺される」というような危機的経験は少ないかもしれない。しかし、大小はあれ、多種多様な危機に直面するのが人生である。そのような危急存亡時に、この「アブサロムの変」のアプリは役立つ。過去に、現在に、未来にあるそのような出来事に“重ね合わせて”魂の奥底からの叫びとして、3:1「【主】よなんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう」と嘆けば良い。大声で叫べば良いのである。絞り出すようなうめき声で嘆けば良いのである。
そこでは、3:2
「多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼には神の救いがない』と」噂し、吹聴している人々がいる。人の心は“風見鶏”のようである。先日まで、ダビデ王万歳とほめたたえていた人々の口から、「ダビデは、羊飼いから、将軍となり、油注がれて王となったが、バテシェバ・ウリヤ事件(Ⅱサムエル11-12章)を起こし、神の信頼を失い、実子からのクーデターをくらうこととなった。もうおしまいだ。神はダビデを見捨てられたのだ」と。呪いと嘲りのことばが発せられる。神は、人の心を“川の流れ”のように変えられる。
しかし、ダビデは、詩篇32篇や51篇にみられるように、深く悔い改め、神の赦しの中にあった。ただ、悪しき影響は、国民、家臣のみならず、子どもたちの間にも浸透し、男女の関係は乱れ、「アブサロムの変」へと発展してしまった。“魚は頭から腐っていく”いわれる。ダビデは、打ちのめされ、「オリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭を覆い、泣きながら登った」(Ⅱサムエル15:30)。その絶望や悲嘆、いかなるものであったろう。
恐怖、嘲り、攻撃、差し迫った死の渦中、ダビデは信用できる家臣たちだけと、エルサレムの宮殿を急遽離れ、荒野へと逃避した。そこは、かつて義父サウル王にいのちをつけねられわれた時期に慣れ親しんだ“ダビデの庭”隠れ家であった。そして、祈った。3:3
「しかし【主】よあなたこそ、私の周りを囲む盾。私の栄光、私の頭を上げる方。3:4
私は声をあげて【主】を呼び求める」と。ダビデには失敗もあったが、ダビデの王権は、神がたてられたものであった。それは逃れようのない”召命であり、使命”であった(Ⅱサムエル7:12-13)。それは、ダビデのものではなかった。神のものであった。ここが肝要である。
それは、私たちの愛してやまない「福音主義的福音理解」もまた同様である。私たちがこれらからの逸脱に対し、戦い、また回復のために尽力するのは私たちの個人的な私利私欲からではない。イエス・キリストの人格とみわざにより、神が立てられた「福音理解」のためなのである。それゆえ、ダビデの王位に対する攻撃は、神に対する攻撃を意味した。「彼には神の救いがない」としたことは、ダビデへの侮辱にとどまらず、「神に対する冒涜」でもあった。この点が、今日誤った運動や教えを扇動する人たちに見えていない本質的要素と思う。
「すると主はその聖なる山から私に答えてくださる」-真実な神は、真実な約束を語り、そしてそれを必ず完遂される。私たちは、それに積極的に参与し、その達成を見届けるのみである。ゆえに、祈り終えたダビデは、追撃隊に襲われる恐怖の只中で、その危険の外部にあるかのように平静かつ神の平安に守られ、包まれ、3:5
「私は身を横たえて眠りまた目を覚ます」。どれだけの軍勢が追ってくるのかは知れない。しかしダビデはすでに信仰によって先立って勝利した。「【主】が私を支えてくださるから。3:6
私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも」恐れることはない。ピリピ書に「4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とある通りである。
この四年間、米国での、ディスペンセーショナルな、キリスト教・シオニズムの興隆、イスラエルでの大使館、ゴラン高原・入植地の併合等、トランプ氏はやりたい放題であった。良心的なキリスト教諸団体は批判的声明を発している。このような行為は、ユダヤ教ヒューマニズムにも、キリスト教ヒューマニズムにも反している。何よりも神の御心に反している。
それゆえ、わたしたちは、ストットやサイザーをはじめ良心的なキリスト教指導者たちの声に合わせて祈る。「3:7
【主】よ立ち上がってください。私の神よ、お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます。」と。誤った運動や教えの頬を打ち、彼らの運動の歯を砕いてください、と。彼らは、天使の装いをもって諸教会を訪れるが、現実的に、世界でなしてきたことには大きな問題をはらんでいる。私たちは、未熟な教職者によって扇動される運動や教えに翻弄されることなく、社会的・歴史的、倫理道徳的に、神の御心にかなった歩みの中にあるのかどうか、たえず検証が必要である。
多くの教会が誤った運動と教えに巻き込まれているが、3:8
「救いは【主】にあります」と告白し、誤りの影響下にある兄弟姉妹たちが、健全な福音理解を宿す教会へ回復されることを祈っていきたい。そのためにICIとしても、尽力していきたい。「あなたの民にあなたの(福音主義的「福音理解」の)祝福がありますように」と祈りつつ。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第四節
無誤性の定義、70頁、左段26行
https://youtu.be/pvsaoaP45hs
*
• 無誤性とは‥
1.
文化とコミュニケーションの手段が、それが「書かれた時代に発展したレベルの光」において、それが「与えられた目的という視点」において正しく翻訳されるとき、聖書はそれが主張しているすべてにおいて完全に真実である。
2. この定義-絶対無誤説と限定無誤説の間に存在する「全的無誤説」の立場を反映
問題のすべてを取り扱う×-より明確に「無誤性」を定義する-問題の幾つかを取り除く助けとなる「原則と例証」に留意
*
1. 引用の資料源の正典性の保障ではない
a. 無誤性-記録されているもの×-断言され、主張されているもの○
i. 不敬虔な人々の「偽りの陳述」を記録-「正しく記録されている」ことを保証しているのみ
b.
聖霊による霊感の下に話さなかった人々の陳述-使徒行伝7章のステパノのスピーチ-聖霊に満たされていたが、霊感されていなかった-年代の陳述は必ずしも「誤り」から自由ではない-パウロやペテロでさえ
i.
どのような資料から、いかなるものでも-聖書記者により取り上げられ「主張」「メッセージ」として組み込まれるとき-単なる記録×、真実なものと判断○
c. 引用の資料源の「正典性」の保証ではない
i.
正典ではない二つの書物への「ユダの言及」-エノク書とモーセの被昇天の書-旧約聖書に含まれるべき神に霊感された書物とは言えない
*
2. 直説法以外の叙法へのどんな適用が可能なのか
a. 聖書-主張とともに、問い、願い、命令
b. それらは、通常-「真実であるか、偽りであるか」判断されることはない-無誤性は適用できるのか?
*
3. 引用における正確さの水準が1世紀に存在していただろうか?
a. 表現されていた「文化的状況」において-その陳述が「意味されていた範囲内」で「聖書の真実さ」を判断
i. それ自身の「文化の様式・基準」の範囲内で-聖書を判断すべき
b. 古代において「数」-象徴的に使用
i. 親が選ぶ名前も-「特別な意味」をもっていた
*
4. 正確さは、著述の目的に依存している
a. 聖書の主張-「書かれた目的」に一致して判断されるとき「十分に真実」
b.
「9476人が集まった戦い」という仮説-10000は正確なのか?9000,9500,9480,9475はどうか?9476だけが正しいのか?
c. 回答-「著述の目的」に依存している
i. 将校の上司への報告のケース-公式の軍隊の文書、脱走兵の数の確認のため-正確でなければならない。
ii. 説明の意図が「戦いの規模」についての理解-「およそ10000くらい」が適切
d. 第二歴代志4:2の「鋳物の海」
i. 正確な複写を構成する計画-正確さが必要
ii. 単に対象物についての考えを伝達すること-「概数」は充分であり、充分に正しい
*
5. 年収はいくらか:友人の問いと税務署の問い
a. 概数-私たちの文化でありふれた「慣例」
b.
昨年の事実上の年収総額「50118.82ドル」と仮定-「昨年の総収入はどうであったか?」との問い-「5000ドル」との答え
c. 友人との生活費についての日常的会話-正しい
d. しかし、税務署の署員による質問-真実を話していない
*
6. 数字だけではなく、歴史物語においても
a. 何が真実であるか-「著述の目的」が考慮される必要
b. 「数字」のみでなく、「福音書において修正されている歴史物語」でも
i. ルカ-「栄光は、いと高きところに」-異邦人の読者により適切な意味をもつ表現
ii. マタイとマルコ-「ホサナ、いと高きところに」
c.
テキストに対して「不誠実」との責めを受けることなしに-今日説教者によって使用されている「拡張・縮小」すら-聖書記者によってなされている
*
7. 科学的なサークルでさえ、「日の出」と言う
a. 歴史的な出来事・科学的な事柄の記録-「科学的な言語」よりも「現象的な言語」でなされている
b. それは-「物事がどのように見えたか」を聖書記者が記した
c. 夕方のニュース「日の出」の時間-「明朝、太陽は朝6:37に昇ります。」
d. 厳密な科学的な立場-天気予報官は「あやまち」を犯したことになる
e. というのは-太陽は「動かない」で、地球が「動いている」のだから
f.
「科学者のサークル」においてさえ-「日の出」というのは慣用句-その用語を日常的に使用-しかし文字通りには受け取っていない
g. 聖書の記録-同様-「科学的に正確である」ようには努めていない
h.
実例-エリコの壁の崩壊、ヨルダン川のせき止め、斧の頭を浮かせたこと-事実上、起こった出来事を「理論化」しようとしていない
*
8. すべてのデータを手にしたら解決されるから、残りのデータを待つのがよい
a. 聖書テキストを説明することの「難しさ」-「誤り」を示唆していると「速断」すべきではない
i. あまりにも急いで-その「問題の明確な解決」を得ようと試みるべきではない
b. もし私たちが「全てのデータ」を入手したら-その問題は「解決」されうるとの確信をもって-「データの残り」を待つのが良い
i. あるケースについては-そのデータはもたらされないかもしれない
c. しかし、傾向としては-データがもたらされることにより「困難の解決」に向かっている
i. イザヤ20:1
「サルゴン」という未知の人物-一世紀前の「難しい問題」のいくつか-「満足のいく説明」がなされるように
*
9. ユダの自殺の描写:「プレネース」の解釈
a. 「ユダの死」に対する困惑-マタイ27:5 「ユダは首をつって自殺した。」
b. しかし、使徒1:18 「まっさかさまに落ち、からだは真っ二つの裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」と陳述
c. 使徒行伝の特別なギリシャ語「プレネース」-長い間「まっさかさまに落ちる」ことのみを意味していると理解
d. しかし20世紀における「古代の写本」の研究-コイネー・ギリシャ語で「膨張する」の意味もあるとの発見
e.
ユダの生涯の最後についての仮説-首をつった後、ユダはしばらく発見されなかった。内臓の器官は膨張を引き起こし、変質しはじめる、その結果
*
【付随的問題】
1. 「無誤性」という用語は適切か?
a. 「正しさ」「誠実さ」「当てになる」「信頼性」-「特性」の意味合いであって、より詳細な「正確さ」暗示されず
i. 「無誤性」の使用は賢明である
b. 新保守主義の人々-「聖書は無誤である。しかし、これは誤りがないということを意味しているのではない。」
i. その言葉を使用するとき-その言葉の「意味するもの」が何であるか-注意深い説明が必要
*
2. 「誤り」ということにおいて何を意味しているのか?
a. 言葉の「無限の伸縮性」があるなら-もう少し、もう少しと-事実上何もなくなってしまう
b. 「誤り」と考えられるものは何か-明らかに事実に矛盾しているもの=誤り
i.
もし、イエスが十字架で死なれなかったのなら、もし彼が湖の嵐を鎮められなかったのなら、もしエリコの壁が壊されなかったのなら、もしエジプトの重荷から解放されず、荒野に出発しなかったのなら-そのとき「聖書」は誤りである
*
3. 無誤性は「原典」のみに、派生的な意味で翻訳にも
a. 厳密な意味で「原典」のみに-「写本」「翻訳」に対しては「原典を反映している程度」において適用される
b. カール・ヘンリー-「だれも無誤の原典を見たことがない」
c. パウロも-当時の70人訳はひとつの翻訳であったが-聖書はすべて霊感されていると書き送ることができた
4. 正しく解釈されるとき、教えているすべてを信頼しうる
a. 多くの誤った概念・意見があふれている世界-聖書=確実なガイダンスの源
b. 正しく解釈されるとき-それは「教えているすべて」において信頼できる
c. それは-確実で、信頼でき、当てにしてもよい「権威」である
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第三節
無誤性と現象面、②多くの種類の問題ある箇所、69頁、右段24行
https://youtu.be/OHBqkhfODwM
*
2. 問題のある箇所の存在:年代、数、他
a. 多くの「問題のある箇所」
b. 世俗の歴史への言及、科学の主張-明らかな矛盾を含んでいる
c. 並行箇所の矛盾-旧約のサムエル記、列王記、歴代志、新約の福音書
d. 年代、数、他の細目の事柄、倫理的な矛盾
*
3. ウォーフィールドとビーグルのアプローチ
a. ウォーフィールド-聖書の無誤性の教理的教え-「事象」は事実上、無視可能
b. ビーグル-問題のある「事象」-聖書の無誤性への信仰を「破棄」するよう要求
c. ゴーセン-説明の幾つかにより、「不自然」であると思われる「相違」を調和させること可能
*
4. もしすべてのデータを手にしたとしたら
a. それらのアプローチ-満足のゆくものなし-穏健な「調和」の道に従うことが賢明
b. 「利用可能な情報」-もっともらしい説明に道をゆずる場所において「問題」は解決
i. 問題の幾つか-完全に理解するには「十分な情報」に欠落
c. しかし、もし私たちが「すべてのデータ」をもったとき-その「問題」は消えうせる
i. それゆえ、聖書自身の主張を基盤に「無誤性」を主張し続ける
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第三節
無誤性と現象面、①聖書記者たちの教え、69頁、右段12行
https://youtu.be/Ttq13vagqYQ
*
1. 聖書の実際の事象をみる
a. 聖書の「無誤性」における私たちの信仰-聖書の「すべての性質」の吟味×-霊感に関する「聖書の教え」を基盤○
b. 聖書の「性質」何であるのか?-聖書がどんな「方法」で誤りなく教えるのか-正確に告げていない
c. 聖書における「実際の事象」をみる必要
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第二項
歴史的重要性、69頁、右段24行
https://youtu.be/_4zNRMk-Dj8
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5. 認識論的重要性
a. どのように「知る」のかという問題
i. 私たちの「基盤」=聖書がそれを教えている-聖書の主張のすべてにおいて「真実さ」
ii. 聖書が教えている提示-「真実でない」と結論-神学的提示への意味合い-広範囲に
b. 聖書により教えられ・断言されているすべての事柄の「真実性」-放棄される程度において「教理のための他の基盤」必要
i. 宗教哲学、宗教心理学、科学の神学、関係論的オリエンテーション
c. 「代替案」を基盤とする形式-教義のリストの縮小をもたらす
i. 「哲学的議論、対人関係のダイナミクス」を基盤に-三位一体、キリストの処女降誕を「確立」すること不可
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第二項
歴史的重要性、68頁、右段29行
https://youtu.be/cOCH0zQCjEw
*
4. 歴史的重要性
a. 教会-「歴史的に」聖書の無誤性を主張-教会史を通じて「聖書への完全な信頼」という一般的な信仰が存在
i. 無誤性についての「一般的な理解」-最近発展したものではない
b. 無誤性の破棄-教理の「他の領域における意味合い」に影響
i. 通常-教会が重要と考えてきた諸教理-破棄したり、変えたり
c. 歴史-神学がその思想を検査する「実験室」
i. 聖書への信仰からの「逸脱」-ひとつの教理のみならず、他の諸教理にて生起する問題として「重大なステップ」
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑨この原則の有効性の立証ー⑴メシヤ預言→⑵終末論、8頁、12行
https://youtu.be/NIxTnLRq0ls
2021年1月24日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇2篇「主に油注がれた者に対してー我を“マクヘンリー砦”に遣わしてください」
https://youtu.be/uuCosoo0Qkc
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1月21日、米国で大統領就任式が無事行われた。“And the rockets' red glare, the bombs
bursting in air, Gave proof through the night that our flag
was still there, Oh, say does that star-spangled banner yet
wave ?” 「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中 我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?」ー二週間前、前大統領によって扇動された暴徒によって占拠された国会を見上げ、翻る星条旗を指さしてレディー・ガガさんが熱唱された。感動的なシーンであった。
それは、その歌詞の由来と今回の事件と重なって見えたからである。その由来を説明しておきたい。
星条旗(英語 : The Star-Spangled
Banner)は、アメリカ合衆国の国歌。歌詞は、1814年9月に当時35歳の詩人・弁護士のフランシス・スコット・キーによって書かれた。1812年に始まった米英戦争のさなかの1814年9月、ボルティモア(メリーランド州)のマクヘンリー砦での事である。フランシス・スコット・キーは、友人である医師を含む捕虜の交換交渉のために英国の軍艦に乗り込んだ。英国側の司令官は、最終的にはキーもその友人も解放することに同意した。しかし機密保持のため、英国艦隊が砦を砲撃する間、2人は軍艦内で抑留される事となった。激しい夜間砲撃の後、9月14日の夜明けを迎えたキーらは曙光の中で、砦の上に星条旗(その当時は星15個、縞15本)が翻るのを目にする。激しい砲撃にも砦が死守された事に感銘を受けたキーは、直ぐさま「マクヘンリー砦の防衛」という詩の着想を得、持参していた手紙の裏に書き留めた。
ガガさんの感動的な歌唱を聴きわたしは思わず「一宮基督教研究所(ICI)よ、マクヘンリー砦ようであれかし !」と願った。
*
今朝の詩篇は、ダビデ王の就任式の即位の詩篇と言われている。しかし、それは時代を越えてキリストのみわざ(贖罪・復活・昇天・着座・支配)を予表する箇所(ローマ1:4、使徒2:30-33、13:33-35、ヘブル1:1-14)として使徒たちによって解釈されている。「イスラエル民族を軸とした誤った解釈」とは異なる、このような「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする解釈」は、デレク・キドナーやジャン・カルヴァンの詩篇註解に見られる。
ICIでは、詩篇の150篇を三年がかりでこのような視点から“傾聴”し、わたしたちの今日の“状況”に適用していくよう導かれている。それは、説教の『生産的ないし新理解的機能』のゆえである。伝統的関連以上に重要なのは、説教の状況的関連である。それは聖書的・教会的教えをただおうむ返しに語るのみでなく、むしろ新しく語られねばならない。伝統をただ単に要約するにとどまらず、新しく理解しなければならない。それは“かつてそうだった”と語るのでなく、むしろ“現在こうである”と語るのである。いわゆるコンテクスチュアルな説教の必要性である。
「説教は適用から始まる」といわれる。至言である。聖書から“イガグリ”の外皮をそぎ落とし、メッセージの本質を抽出し、その本質を今日の状況に“共鳴”させるのである。聖書の使信の不可変性は、死せる、無表情の、無味乾燥な画一性のことではない。聖霊はみことばの記者たちの個性と文化とを用い、その一人ひとりを通して事柄を新鮮かつ適切に伝達されたように、今日においても「ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明する」(『ローザンヌ誓約―解説と注釈』「誓約・第二項
聖書の権威と力」注釈)。
*
私たちは、詩篇第1篇を「福音主義」の清流の流れのほとり植えられた木とされることの祝福として傾聴した。2篇はその続きである。
v.1-3
「主に油注がれた者に対して」とある。ダビデは王に任職された。しかし、彼の周囲には彼を貶めようとする国々、王たちが溢れていた。キリストも、当時の宗教指導者、律法学者、パリサイ人等から攻撃を受けていた。使徒たちもユダヤ教徒からの迫害に直面した。私たちも、ファンダメンタルで、ディスペンセーション主義的な「福音理解」の中に救われた者が、健全な「福音主義」の福音理解に改革しようとしていくとき、類する経験にあずかる。
v.4-9
しかし、「天の御座に着いておられる方」は、その者どもを嘲ってられる。激しく怒っておられる。ダビデは主によって立てられた王であった。しかし、「わたしがわたしの王を立てた」と言われたところで、「主は私の主に言われた『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。』」(110:1)を引用し使徒2:34-36では、キリストの予表であると解釈されている。主の定めとして、「あなたはわたしの子、わたしが今日あなたを生んだ」(使徒13:33)と引用・解釈される。ダビデ王の任職・油注ぎは、キリストの贖罪・復活・昇天・着座・支配に直結して理解される。「国々」は「地の果て果てまで」と、アブラハムへの創世記15:8の約束は、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで」(使徒1:8)と拡大される。これは、今日の「旧約次元の土地、首都エルサレム、第三神殿」に固執する誤った運動や教えに適用すると、それらの古い皮袋は「陶器師が器を砕くように粉々に」される。
v.10-12
それゆえ、今日誤りの中にあり、虚構と虚像の中で中東を不安定にさせる運動や教えに熱心な主唱者たちに「悟れ、慎め、仕えよ」そして、「おののきつつ震え、子に口づけせよ」と勧められる。わたしは、「福音主義的な福音理解」への恭順の勧めと解釈・適用する。マルティン・ブーバーというユダヤ教シオニズムの人の本を読んで教えられた。彼は、「国家的ナショナリズムに走っていくシオニズム運動から離れ、ユダヤ教ヒューマニズムを大切にする」よう勧めている。「土地、首都、神殿」のユダヤ教シオニズムが、キリスト教シオニズムの支援の下、その極限にまで進んでいくと、アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚、ローマ帝国によるエルサレム崩壊、等々に続く国家的災難に行き着くのではないかとの懸念すら示している。
虚像や虚構に扇動された運動や教えは、悲惨な結果を刈り取る。昨今の、アメリカ国会議事堂占拠事件は、前大統領の「偽情報と偽のシナリオ」に踊らされた愚かな暴徒になされた。もしかしたら、前大統領は「エリツィン大統領による国家奪取の戒厳令」に望みを賭けていたのだろうか。しかし、それは空しい企てで終了した。今、前大統領と暴徒は「蒔いた種を刈り取ろう」としている。弾劾裁判と次期大統領選への道の阻止である。わたしは、アメリカ人の良識が最後の一線で守られたと感じている。もしそのような企てが成功していたらと背筋が寒くなる。
さて、国家の歌詞の由来は以下の通りである。
1814年9月13日、米英戦争中、チェサピーク湾に侵入してきたイギリス海軍の艦隊が、ボルティモア港を攻撃してきた。マクヘンリー砦は、重要な港を守るために湾の入り口に造られていた。その日の夜明けに始まったイギリス艦隊の艦砲射撃は激しい雨の中、25時間続いた。イギリスの艦隊は海中に張られた鎖、砦の大砲によって、砦の横を通り過ぎることができず、港の中に入れなかった。しかし、砦に近づいてロケット弾や迫撃砲弾を撃ち込むことはできた。イギリス軍は9月14日まで攻撃をやめなかったが、砦の兵士たちの奮闘により、イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた。
捕虜解放交渉に来ていた弁護士スコット・キーは、9月14日の朝、無傷で翻る国旗を見た時、大変心を動かされ、手紙の裏にこの詩を描きとめた。
「おお、見えるだろうか、夜明けの薄明かりの中。我々は誇り高く声高に叫ぶ。危難の中、城壁の上に、雄々しく翻(ひるがえ)る太き縞に輝く星々を我々は目にした。砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中、我等の旗は夜通し翻っていた。ああ、星条旗はまだたなびいているか?自由の地 勇者の故郷の上に!」
神は、現在、マクヘンリー砦にこもって戦った兵士のような信仰者を求めておられるのではないか。この歌の意味を知った時、混乱の四年間から米国と世界を救うために、戦った勇者たちがいたことを知った。また、私たちも、「だれをわたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」(イザヤ6:8)の声を耳にしている。「ここにわたしがおります。わたしを“神学的な意味での”マクヘンリー砦に遣わしてください」と再献身させられたい。そのような思いにかられた就任式であった。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第一項
神学的重要性、68頁、右段3行
https://youtu.be/eEGT6VEV5vo
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3. 神学的重要性
a. イエス、パウロ、主要な新約の人物-「権威あるもの」とみなし、「聖書の詳細」を利用
i. テキスト内の「細部の選択」においてさえ-完全に神によって「霊感されたもの」
b. 神が「全知」であるなら-彼はすべてのことを「知っておられる」
i. 神が「全能」であるなら-彼は聖書記者の著述に「影響を与える」
ii. ゆえに、最終的な著作-「誤り」が入りうる余地なし
c. 真実かつ誠実な存在者-人間が誤って導かないような方法において「能力を発揮」することを望まれる
i. 霊感についての私たちの見方-論理的にも「聖書の無誤性」を必然的に
ii. 無誤性=「十全霊感」の教理の結実
【再開】ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=Ita9hrLvKi8&list=PLClE1DIlx0omiukHRgQIhbdQOOL4BiFwI
*
20201127の「ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑧
啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する、9頁、4行」のショート・レクチャーをもって、約二ヶ月お休みしていた。アドベントークリスマスと新年の二つの奉仕「百万人の福音」の終末論に関するQA原稿依頼と生駒聖書学院での最終講義(ブルーレイ6時間)収録のための時間確保のためであった。
その奉仕も、昨日ようやく終わった。原稿とBD-Rを送付できたのである。それで、「ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ」も少しずつ再開していきたいと願っている。この間、直接また間接に幾つかの質問も受けてきた。それらの質問にも丁寧に応答するかたちで、このシリーズに取り組んでいきたい。
再開に際して、これまでの「信徒のための『終末論』シリーズ」ショート・レクチャー全編を順序よく学べるサイトを紹介しておく。全編を繰り返し傾聴し、このテーマで思索すべきことが何なのかの“ツボ”をよく抑えて学んでいただければ、幸いである。「ディスペンセーション主義」問題で、わたしが一番関心のある課題は「鹿を追う者、森を見ず」というポイントである。
この議論を「マクロな、鳥観図的視点から考える」ということを常に考えている。細部に目を留めすぎると全体を見失うのである。原理・原則的なこと、前提を構成している問題をしっかり考える。徹底的に思索する。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その”根源的な問い”を考え抜く、ということを学んでいただけたら幸いである。
そうそう、今年から、詩篇研究に取り組みたいと考えている。以前から取り組みたいと考えていたが、そのきっかけがなかった。昨年は、『旧約聖書
『ヨブ記』 傾聴: 安黒務 説教備忘録
(礼拝説教集)』(アマゾン書店キンドル版)が思いの外、売れた。ヨブ記の苦悩を、人間の苦悩、実存的苦悩を理解することを学んだシリーズである。扱いながら、苦しみを背負って生きている多くの兄姉のことが心にあった。彼らと共に苦しみ、共に泣きながら語り続けた42章の長丁場であった。
兵庫の山奥の小さなチャペルで語った、このようなヨブ記傾聴を多くの方が読み、また傾聴してくださることは大きな喜びである。それで、42.195kmのマラソンのようなヨブ記に続き、箱根駅伝のような五巻150章の詩篇にも挑戦したくなった。タスキをつなぎながらの走りとなるだろう。途中でリタイアするかもしれない。だが「千里の道も一歩より」である。「案ずるよりも生むがやすし」である。とりあえず走り始めることにした。
信徒のための『キリスト教教理入門』、信徒のための『終末論』、信徒のための『詩篇』傾聴の三つのシリーズを、ひとつのテーマをもって重ね合わせつつ、追いかけたい。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節
無誤性の重要性、序、68頁、左段7行
https://youtu.be/BhzZGV-xUfI
*
1. 無誤説は聖書的な概念か?
a. 教会-なぜ「無誤性」に関心をもつべきなのか?
b. ある人たち-「不適切」「偽り」「逸脱」させる事柄
i. それは「否定的な用語」-聖書描写の「積極的な用語」とかけ離れている
ii. それは、「聖書的な概念」ではない-「間違った方向」に導き-「小さな矛盾」解決にエネルギー消耗
*
2. もし聖書がそれを語っているとしたら
a. その問題を「無視」し「仲良く」やっていく-いいことではないのか
b. 田舎の教会の会衆の関心-『もし聖書がそれを語っているのなら、私はそれを信じることはできませんか?』
c. 聖書の信頼性-神学的・歴史的・認識論的に重要な事柄
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、③限定的無誤性、67頁、右段24行
https://youtu.be/Nm0VjBVELIM
*
③限定的無誤説-「救いの教理の箇所」のみ=聖書は誤りなく・無謬
a. 鮮明な相違の描写-「啓示された事柄-非経験的なもの」と「自然な言及-経験的なもの」
b. 聖書における科学的・歴史的言及-聖書が書き記されたその時代に流行した理解を反映-聖書著者-その時代の制限に従属
c. 啓示と霊感-通常の知識を超えて「著者たち」を高めなかった-科学と歴史は啓示されず-結果として「誤り」を含むものに
d. 聖書-科学・歴史を教えること意図せず-聖書が与えられた目的において十分に正しく・誤りがない
2021年1月17日 新約聖書 Ⅱテサロニケ書3:1-18「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」
https://youtu.be/dXF2HQYq82Q
*
「健全な終末論、健全な再臨理解」と題して、Ⅰ・Ⅱテサロニケを学んできた。1世紀のテサロニケ教会の置かれていた状況とパウロの語りかけに目配りしつつ、21世紀の日本の教会の直面している事柄への洞察を傾聴しようとしてきた。折しも、「聖書フォーラム」への信徒流出問題が飛び込んできた。十年前にこの問題が萌芽の状態の時に、問題には気がついていた。そして声を上げた。所属団体と母校を「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスから守るためであった。しかし、理事会から「有名な先生に対する誹謗中傷をやめなさい」と厳しい警告を受けることとなった。しかし、わたしたちの団体は寛容であり、警告とともに同時に「釈明の牧師会講演と質疑」の時を与えられた。
あのとき、若手の教職者には積極的に「神のひとつの民、神のひとつの計画」という”
神学的ワクチン”を接種してもらえたように振り返る。大げさに思えるかも知れないが、「九死に一生を得た」のである。わたしは、これで所属団体と母校が、「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスから守られた。少なくとも免疫をもった教職者層をつくることができたと確信した。それが、この十年間の取り組みの出発点であった。しかし、他の団体、他の教派・教会・神学校には、ラッド著、安黒務訳『終末論』や安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』の提供という間接的なソフト・アプローチしかできなかった。その結末が、この一ヶ月で知った”聖書フォーラムへの信徒の大挙流出”
という深刻な問題状況である。いつの間にか「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスは、全国に、あらゆる教派に広がってしまっていたのだ。
今の反省は、十年前からずっと取り組んでいたことをもっと早期に、この誤った教えに対する”神学的ワクチン”として大々的に提供してこなかったのか、被害は最小化できなかったのか、と悔やまれる。しかし、誤りを正すのに、遅すぎることない。「二つの神の民、二つの神の計画」をテーゼとするこの誤った教えが「聖書フォーラムへの信徒流出」問題を引き起こしている今こそ、「神のひとつの民、神のひとつの計画」という”
神学的ワクチン”を接種していただく時である。アマゾン書店やICIの最近の購読・購入データは、「いかに諸教会が、この神学的ワクチンを求めているか」を示している。ICIにおけるこの十年間の労が報われるときが来たのだ。そのような感を強くしている。
*
1章で、テサロニケの教会は苦難の只中で信仰と愛において成長していた。2章で、誤った教えを避け、健全な福音理解における成長を励ましている。そして今朝の3章で、健全な倫理的生活を励ましている。
v.1-3で、悪い者から守られ、主のことばが速やかに広まるよう祈っている。悪い者とは、ユダヤ人や異邦人からの迫害である。ユダヤ教の習慣から離れたり、偶像礼拝の習慣から離れる時、そこに軋轢が生じる。また、教会に働きの中には、誤った教えを「他のどこにもない新しい教え」のように吹聴する未熟な大衆的教職者もいる。笑わせたり、泣かせたり、面白い話の中に、そのような教えの種を混入させ、感染させていく。パウロはそのような教えや運動に気をつけなさい。識別しなさいと繰り返し語りかけている。
v.6-11で、パウロたちは「夜昼、労し苦しみながら」働いたと述べている。怠惰をさけるよう助言している。パウロは「働き人とその働きから報酬を受けるべきである」とされる権利(Ⅰコリント9:18)を行使しなかった。そこには深い意味が教えられている。
パウロは十二使徒筆頭のペテロにも毅然と立つ、その「神のひとつの民、神のひとつの計画の福音理解」の”純度”を守った最強の奉仕者である。このようにいうのは、今日ポストやサラリーの保持のために、信念を曲げ、「風見鶏」のように周囲のご機嫌を伺いながら奉仕生涯を送る教職者が多いからである。彼らは、教会成長や経営のことしか眼中にない。健全な福音理解に立つことをそれほど重視しない。先輩の教えや協力関係にある教派・教会の意向を絶妙にくみ取って、「福音理解」を曲げたり、くねらせたりすることが得意である。「木、草、わら」の奉仕である。パウロがいなかったら、「旧約聖書の影をもって、新約聖書は再解釈」されていただろう。「イエス・キリストの人格とみわざではなく、イスラエル民族を軸に聖書は解釈」されていただろう。しかし、パウロはそのようなあらゆる傾向に毅然と立ち向かった奉仕者であった。彼の力の源泉のひとつは、「ノーポスト、ノーサラリー」であった。サポーターからの介入を断ち切ることの意味を知っていた。お金のある所に支配力が働くことを知っていた。それを拒否する決意の表明である。彼は、御父、御子、御霊の三一の神以外に指示を受けいれる必要のない立場に自らを置き続けた。それこそがパウロ書簡の“純正さ”を保証している。今日、神学教師はある意味でそのような立場に身を置かないと使命を果たしえないのではないか。雇われ教師、お抱え教師が目に付く、軟弱さが目に余る時代である。
v.12-18で、パウロは「たゆます良い働きをしないさい」「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」と励ます。今日、わたしたちは置かれた状況、つまりある者は救われ、奉仕する環境がファンダメンタルで、ディスペンセーション主義であるかもしれない。宇田進、ラッド、エリクソン、牧田吉和、ストット等から学び続けていることのひとつは、そのような伝統の中の「古い皮袋」の中に新しいブドウ酒を注ぎ込むことで起こりうる葛藤である。それは発酵し、古い皮袋は張り裂けそうになる。そこで、新しい皮袋が必要となるのである。ときには、圧力がかかり、警告が発せられたりもする。しかし、主にあって、我々は「たゆまずに良い働き」を成し続ける義務がある。「神の言葉によって改革された教会は、神の言葉によって改革され続ける」使命がある。
それゆえ我々は、主のために、主の群れの将来のため、大小の犠牲を払うことを厭わない。我々は、先輩の先生に意見することもある。それは敵対しているのか、批判しているのかと誤解されることもある。しかし、我々は主にあって「兄弟として諭し」続ける。七を七十倍するまで諭し続ける。そのとき、我々は苦難を背負われた主の経験(イザヤ53章)に重なる経験にあずかりもする。それは我々の身に置いて、我々の奉仕生涯において明らかにされる“神の栄光”である。嘲りやののしり、むち打ちといばらの冠は“神の勲章”である。
私は、30年前に恩師宇田進師より聞いた“雷鳴の響き”―「この聖書解釈法(神の二つの民、神の二つの計画)は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」
を忘れない。そして今一度、晴れわたった空に突如として現れる稲妻のような鮮烈な雷鳴を、わたしの愛する兄弟姉妹たちに聞かしめようと決意している。それを聞いたことで、ある教職者は所属教派で苦境に陥るかもしれない。
しかし、「私たちは、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない。神の助けによって、わたしたちも、代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。私たちは、迫害は必ず起ると警告されたイエスのことばを忘れない」。(ローザンヌ誓約・第十三項
自由と迫害)
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:⑤「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」の初期の誤りの克服の歴史と今後の展開については、どうなのでしょう
?
*
「“古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義”へと初期の誤りが克服されていった歴史の流れと今後の展開について」質問がありました。それで、それに関する関連書籍を紹介しておきたいと思います。わたしの訳したラッド著『終末論』の「訳者あとがき」p.181-184に簡潔に記していますポイスレス著『ディスペンセーション主義者を理解する』の翻訳が、下記サイトに公開されていますので、参考にしてください。
*
【ポイスレス著『ディスペンセーション主義者を理解する』Vern Sheridan Poythress,
Understanding Dispensationalists, Westminster Theological
Seminary, PA, 1986(インターネットにて公開)】の概要
• 著者紹介
• はじめに
• 用語定義・聖書の歴史的形態・ジョン・N・ダービーについて
• スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴
• ディスペンセーション主義のヴァリエーション
• 契約主義神学の中でのいくつかの進展
• 代表的かしら性(REPRESENTATIVE HEADSHIP)
• 千年王国と万物の成就を巡っての意見の一致と相違について
• 単純な反論ではほぼ不可能
• いろいろな社会的要因
• ディスペンセーション主義の朋友との対話のために
• 患難期前携挙説にとっての問題聖句 1コリント15:51-53
• 「字義的“LITERAL”」解釈とは何でしょうか?
• 旧約聖書のイスラエルにおける解釈学的見地
• 予型(よけい)について
• ヘブル人への手紙12:22-24
• キリストにあるイスラエルの成就
• 追記―1993年
• 文献目録(BIBLIOGRAPHY)
*
※「上記の著書の追記―1993年」箇所を以下に抜粋紹介します。
*
【ディスペンセーション主義神学における新しい状況】
1987年の初版以来、私たちは、本書3章でみてきたような、修正ディスペンセーション主義そして「神のひとつの民」型ディスペンセーション主義の、さらなる進展を目の当たりにしています。特に、最新の発展具合を、Craig
A. Blaising and Darrell L. Bock, eds., Dispensationalism,
Israel and the Church (Grand Rapids, MI: Zondervan,
1992)の著書の中にみることができます。
*
【ディスペンセーション主義神学が最終的に行き着く港】
私は、彼らのこういった前進を嬉しく思っております。と言いますのも、これまで以上に聖書の真理を忠実に表現しておられるように見受けられるからです。また彼らの著書の中に表されている平和的・融和的な語調にも感謝しています。しかしながら、彼らのおかれている立場は、本質的に不安定なものです。長期的に見ますと、これらの方々は、今後、神学的に「古典的ディスペンセーション主義」と「契約主義プレミレニアリズム(歴史的前千年王国説)」との狭間に安らぎの港を見い出すことに困難を覚え、その不可能性を感じることだろうと思います。そして現在、これらの方々自身の見解の上に働いている力は、おそらく今後、ジョージ・E・ラッドの型に倣った契約主義プレミレニアリズムへと彼らを導いていくだろうと予測されます。
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【分析と評価】by Aguro
ディスペンセーション主義を分析・評価する際に大切なことは、J.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーショ主義」を対象とし、クラレンス・バスの研究書をあたることが重要である。なぜなら、ディスペンセーション主義は、改訂につぐ改訂を繰り返し、内容の「福音主義化」が顕著であるからである。それなら、大丈夫なのではないかと思われる方もあるだろう。そう、ディスペンセーション主義の立場といわれる書物でも、健全度の高い本は山とある。
では、どこが問題なのだろうか。それは、J.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーショ主義」の前提“神の二つの民、神の二つの計画”にある。福音主義の前提は“神のひとつの民、神のひとつの計画”である。漸進主義ディスペンセーション主義では、その神学的前提において大きな変化が起こっている。そのことが、ウエストミンスター神学校のV.S.ポイスレスやトリニティ神学校のW.A.グルーデムの著作に記されている。
ポイスレスは、『ディスペンセーション主義者を理解する』の追記の最後に、「現在、これらの方々自身の見解の上に働いている力は、おそらく今後、ジョージ・E・ラッドの型に倣った契約主義プレミレニアリズムへと彼らを導いていくだろう」と予測している。この文章を、G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』のp.181-184「訳者あとがき」に記させていただいた。
戦争においても、神学においても、「マクロの戦略」が最も大切である。第二次世界大戦で、日本は「満州事変と真珠湾奇襲攻撃」でミクロの局地戦で勝利をおさめて、日本国内は勝利に沸き立った。しかし、日米の経済力の差を見失った戦争は悲惨な結果に終わることは最初から見えている。霊的生活と奉仕生涯において勝利をおさめるためには、「マクロの包括的戦略」で成功しなければならない。「ひとつの神の民、ひとつの神の計画」の教えと「二つの神の民、二つの神の計画」の教えの岐路に立った時、わたしたちは健全な教えの道を選択すべきなのである。ポイスレスが「ディスペンセーション主義者を理解する」で、下した結論はそこにあると思う。その意味で、ラッド著、安黒務訳『終末論』は、ディスペンセーション主義者の兄姉が、嵐の中で”誤り”に気がついた後に、港を探し求め、ついにたどり着く安全な港になると思う。わたしの周囲には、ディスペンセーション主義に影響された教職者、兄姉が溢れていたし、今もなおその中に置かれている方も多い。わたしは、彼らが「安全な港」にたどり着けることを願って、この本を翻訳したのである。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、②全的無誤性、67頁、右段5行
https://youtu.be/DI53zB9D5js
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4. ②全的無誤説-聖書し完全に正しい
a.
しかし、聖書の第一義的目的-歴史的データを与えることではないが、「それがなされている方法」において-科学的・歴史的に正しい
b. 宗教的・神学的・霊的メッセージの見方-用語についての「本質的相違」は存在しない
c.
しかしながら、「科学的・歴史的」な箇所の理解-まったく異なっている-「現象的」なもの-人間の目に映っているかたちで記録
d. 必ずしも「正確でない」-一般的な言及、概算値を含む通常の表現-それらは、「教えている方法」において正しい
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※6時間集中講義の"段落単位の紹介シリーズ"です。連続して視聴されたい方は、【ユーチューブ】内の「エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読&解説」からこのシリーズの全編をご視聴していただけます。
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:④「フルクテンバウム氏はどうなのか ?」
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「フルクテンバウム氏はどうなのか ?」―この質問は、20091006 ディスペンセーション主義問題 三部作シリーズ:③
JEC牧師会講演
「ディスペンセーション主義聖書解釈法の問題」をユーチューブ・サイトに公開したときに、受けた質問である。わたしは、「拙著『福音主義イスラエル論』(アマゾン書店キンドル版)の中の「A-2.
キリスト教シオニズムの諸形態」の四つの形態の中の“メシヤニック・ディスペンセーション主義”に分類されるようです。その詳しい分析と評価は、Stephen
Sizer, "Christian Zionism", "Zion's Chistian Soldiers
?"に記されています。参考にしてください。」と簡潔に応答させていただいた。
追加の質問は来なかったので、それで質疑応答は終了した。ただ、昨年末に「聖書フォーラム」への信徒流出問題が起こっていることをお聞きし、もう少し詳しい情報を提供するのが良いと考えた次第である。十年前のことになるが上記の講演の準備の際に、フルクテンバウム氏についても調べさせていただいた。分厚い著作も数冊購入し、目を通した。ネットを通して、経歴も調査させていただいた。そのときの研究資料が手元に残っている。詳細は下記のサイトにあるので参考にしていただきたい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Fruchtenbaum
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わたしが注目したのは、「彼の学歴であり、彼の福音理解のルーツとアイデンティティ如何なるか」であった。彼の福音理解のルーツとアイデンティティを見つけたー「フルクテンバウムは米国に戻り、ヘブライ語と旧約聖書での研究を続けるためにダラス神学校に入学しました」とある。フルクテンバウム氏の神学的ルーツとアイデンティティは、基本的に”ディスペンセーション主義神学の牙城と言われたダラス神学校”にある。
そして「彼は1989年にニューヨーク大学で博士論文Israelology:The Missing Link in
Systematic
Theologyを完成させました。Fruchtenbaumは多くの本を出版し、多くの聖書研究を記録しています」とある。それで、彼のミニストリーの神学的基盤、福音理解の表明としての『イスラエル学』を読んだ。そして、面食らった。その著作の構成を見た第一印象は、「これは逆さま世界だ
!」「神学的退行現象の世界だ !」であった。
わたしが何故そのような印象を受けたのか。それは、雨は山々に降り、谷の渓谷を通り、田園を潤す。さらにそれらの小さな河川は合流を重ね、やがては大海に注がれる。そのように、優れた神学者たちのこのテーマの著作は、「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」へと初期の誤りが克服されていった歴史の流れを記録している。フルクテンバウム氏の著書は「海から川へ、川から山深い渓谷へ」と流れている神学なのである。健全な神学、福音理解として、神学の世界では知れ渡っている、健全な「契約神学」の種々のタイプをいとも簡単に否定し、すでに誤った教えとして広く知れ渡っている「ディスペンセーション主義神学」を健全な教えとして主張しておられるのである。少しでも神学に造詣のある者なら、一目瞭然である。それなのに、この誤った教えを中核に据える聖書解説、聖書塾、聖書フォーラムに傾倒する兄姉が続出し、教会から流出するのは、バイブル・スクール・レベルの基礎神学教育と地方教会の聖書教育・教理教育の脆弱さに原因があるのではないかと思わせられている。このような運動や教えに信徒が関わり始めたら、即座に”健全な神学的ワクチン”を注射すべきなのである。それが地方教会の羊を、オオカミの教えから守る牧師の役割なのである。今回の危機を、健全な福音理解とは一体何なのか、を牧師も信徒も再学習する機会とすべきと思う。
フルクテンバウム氏が学ばれたダラス神学校を含め、ディスペンセーション主義神学で有名であったグレイス神学校、タルボット神学校も、その指導的教授陣は、漸進主義ディスペンセーション主義へと移行されていると聞く。福音主義神学界の”自然な河川の流れ”に沿った展開である。しかし、大衆的なレベルの伝道者、牧師、神学教師とそれらの方に唱導される兄姉たちは、いまだにJ.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーション主義」とそれを色濃く反映している「改訂ディスペンセーション主義」に染まったままである。ディスペンセーション主義神学で有名であった神学校も知的レベルが高くなるに従って、それらの誤りの克服の取り組みを続けている最中で、誤った教えを非常な勢いと流布されている先生方もおられる。彼らが、健全な教えに目が開かれることを祈っている。健全化のために有益な神学的情報を漸次提供していきたい。
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(この問題で悩んでおられる方がありましたら、シェアないしコピーして紹介してあげてください !)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、①絶対的無誤性、67頁、左段15行
https://youtu.be/bqEisAHbrQI
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2. 「無誤性」という用語-異なった立場の人々の間-「相違する内容」
a. 事実として-「名前」で適切に呼ばれるに価するところを超えてなされる主張
b. 無誤性-「最近の主要な立場」の幾つかを要約
3. ①絶対無誤説-「科学的・歴史的」の双方の事柄-かなり詳細な扱いを含む聖書-「完全に正しい」
a. 聖書記者たち-膨大かつ正確な-科学的・歴史的データ-与えるように意図-「明らかな矛盾」説明可能
b. 例:Ⅱ歴代志4:2「鋳物の海」-円周30キュビト、直径10キュビト-円周率3.14159倍なので正確でない
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:③宇田進『現代における終末論諸説』講義ノートより
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ディスペンセーション主義の内包する問題について、はじめて目が開かれた講義です。それまで、ディスペンセーション主義をあまり深く意識していませんでしたし、問題意識は皆無という状態でした。宇田先生の「ディスペンセーション主義聖書解釈法」についての分析・評価は的確なものでした。それ以後、関心をもって多くのすぐれた神学書に目を通してきましたが、宇田先生の指摘の真実性を立証するものばかりでした。
それに比して、ディスペンセーション関係の書籍には、そのような議論のあることすら言及がないのが現実です。まるで、限られた情報の中で“マイント・コントロール”状態に置かれているかのようです。それは、きちんとした議論の俎上にあげられると、「ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤り」が明確になるだけということからくるのかもしれません。以下に、その特徴を列挙します。
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1. ディスペンセーション主義とは、ひとつの「聖書解釈法」のことである。
2. 19世紀、英国の信仰復興運動の「J.N.ダービー牧師による教え」である。
3. 旧約預言の解釈において、「極端な字義主義」解釈をとる。
4. 聖書預言の未成就・成就をうるさく言い、預言を「予告」と混同し、今日の出来事と聖書預言を「短絡的に同定」します。
5.
イスラエルと教会を明確に区別することを土台として、「一体である再臨」を、空中携挙(聖徒のための秘密の再臨)と地上再臨(聖徒と共なる公けの再臨)の二重再臨に分けます。
6. 「一体である再臨の前に起こるはずの患難期」を、空中携挙と地上再臨の間に置きます。
7.
「患難期に地上にいるはずの神の民クリスチャン」を、携挙により天上にあるとし、地上にはイスラエルの民が患難期を通るとします。
8.
「旧新約を通じてひとつであるはずの神の民」を、イスラエル民族とキリスト教会の二つの民があるとし、旧約と千年王国の主役はイスラエル民族とし、キリスト教会は“臨時の挿入”とします。
9.
古典的ディスペンセーション主義では、聖書を七つのディスペンセーションの区別・分割し、それぞれの時代における神の取り扱いの原則が相違すると教えます。
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宇田先生の指摘は、上記の「ディスペンセーション主義の背景」を公平・中立のスタンスで、客観的に研究し、書物をしたためたC.B.バスの記述と同様の内容であり、すぐれた神学教師のレベルを明らかにするものである。このような客観的情報の基盤として、日本の福音派神学校の神学教育はなされるべきであると思う。
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【分析と評価】
上記の講義は、約30年前に、宇田進師より傾聴した素晴らしい講義である。この講義からのメッセージを昨今、生起している問題に適用してみよう。
「キリスト教伝道のゴールを『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した“信徒訓練の場である聖書塾”の運営と、“塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動”のサポートへと方向転換」され、ここ十年間メシヤニック・ディスペンセーション主義に立つユダヤ人神学教師フルクテンバウム氏を看板に、大々的にキャンペーンを打ってこられた。わたしの所属団体や母校もそうであったが、果たしてこの「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の新機軸の中身を正しく認識できていたのだろうか。それが問われている。
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漸次、健全な福音主義の教えと不健全な「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の教えを対比し、信徒の兄姉を念頭に簡潔に解説していきたい。
※詳細な解説講義は、下記の一宮基督教研究所ユーチューブ・サイト参照
“http://www.youtube.com/c/AguroTsutomu”
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、序
聖書はその教えのすべてにおいて十分に信頼できる、67頁、左段1行
https://youtu.be/N_EYcFX0So4
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1. 論争の的となっている主題のひとつ
2. 古典的な見方?-Robert Webber ” The Younger Evangelicals ”
3. 注意深い研究の必要性
4. 聖書についての教理の完成を目指すもの
5. 聖書-啓示についての信頼できる資料であるとの保証
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑦派生的な意味で霊感されている、65頁、左段23行
https://youtu.be/eo5XnxRZX_k
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9. 書物-派生的に霊感
a. 霊感-「著者」と「書物」の両方に適用される
i. 第一義的に-霊感の「対象」は「聖書記者」である
1) しかしながら,聖書記者が-聖書をペンで書くとき-霊感されたものの特性-書物にも伝達
ii. 私たちは-霊感は-神の長期にわたる「著者の上への神の働きかけ」を前提にしている
1) このことは-「著者の準備」だけでなく-著者の「使用する材料」の準備も意味する
2) 厳密な意味において-霊感は「材料の保存・伝達」に適用されない
3) しかし、このプロセスをガイドする「摂理の働き」も見落とされてはならない
iii. 聖書-霊感されているゆえ-私たちは「神の教え」を手にしていると確信
1) 啓示的出来事と教え-与えられたとき-私たちは生きていなかった
2) 私たちには-「信頼できる道しるべ」がある
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する②この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません
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「神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する。」教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする。このことは、教会の教師として「教える能力」(Ⅰテモテ3:2)のみでなく、「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかり守り」、その結果「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることのできる」(テトス1:9)ことを求められている牧師についても言える。(『ローザンヌ誓約
解説と注釈』ジョン・ストット、宇田進訳)p.98
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前回、この問題の二重の側面を指摘した。既存の教会と超教派の運動「聖書フォーラム」の倫理的問題は、地方教会の牧師会の連携において解決が模索されているようである。一宮基督教研究所においては、神学的側面からこの問題の解決に尽力させていただきたい。
すでに問題は大きくなっており、名前を伏せる必要はなくなっている。「聖書フォーラム」への信徒流出問題とは、超教派でTV伝道「ハーベスト・タイム」を主宰しておられた中川健一氏が、支援を受けてきた諸教会の中に形成されたシンパ層を「ハーベスト聖書塾」で教育し、さらには「聖書フォーラム」として、“準教会的”な集まりとして全国的な形成を取り組まれており、そのことが諸教会から“ハーベスト・シンパ層”の、全国的なレベルでの流出をもたらしている現象のことである。すでに、被害を受けている教会や団体では深刻な問題となってきている。わたしの所属団体でも同様の現象が起こっている。「牧師の教えと中川健一氏の教えの相違が明らかとなり、教会に亀裂が走り、“ハーベスト・シンパ層”が流出している」とのことである。
“ハーベスト・シンパ層”の兄姉には、既存の教会の牧師の教えが間違っており、中川健一氏の新奇な教えが正しいと映っているようである。しかし、その判断は正しいのだろうか。公正・中立な立場から、丁寧かつ冷静な分析と神学的に説得力のある評価が必要とされている。
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「ハーベスト・タイム」については、ウィキペディアの下記のサイトに簡単な説明が記されている。名称はヨハネ4:35「収穫の時」からきている。再臨運動を行っている。2010年に1.日本のリバイバル、2.ユダヤ人の救い、3.メシアの再臨をテーマとして、第一回ハーベスト再臨待望聖会が開催された。4月10日東京、14日沖縄、16日大阪。アーノルド・フルクテンバウム氏等を主軸に、イエス・キリストを信じるユダヤ人講師を活用している。ハーベスト・タイム・ミニストリーズの主筆として、ヘブル的聖書解釈による信徒訓練を目指して日々のディボーション・テキスト、『clay(クレイ)』を刊行している。2010年3月6日の放送にて、中川から「2010年3月末の放送をもって、テレビ番組の放送を終了する」との発表があった。基幹局である千葉テレビ放送では、2010年3月27日が最終回となった。公式HP上では、24年間続いた番組を終了した理由として、2011年の地デジ完全移行に伴う放送機材調達における費用対効果を問題として挙げるとともに、キリスト教伝道のゴールを「理論的な解釈学に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること」であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した信徒訓練の場である聖書塾の運営と、塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動のサポートへと方向転換する意欲を表している。
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【分析・評価】
「キリスト教伝道のゴールを『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した“信徒訓練の場である聖書塾”の運営と、“塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動”のサポートへと方向転換」とある。
この経緯を観察・説明すると、分かりやすく軽妙な調子のキリスト教メッセージで全国各地に“ハーベスト・シンパ層”の形成期間(1986年1月
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2010年まで)、2011年の地デジ完全移行に伴う放送機材調達における費用対効果の問題、このことを契機に上記の方向に転換されたと分かる。
この方向転換における“基本方針”に大きな誤りがある。『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』とあるが、その内容は「古いタイプのディスペンセーション主義聖書解釈法」である。
わたしが、「古いタイプのディスペンセーション主義聖書解釈法」の問題に気がついたのは、共立基督教研究所に内地留学していた時であった。それは『現代における終末論諸説』という講義の時であった。日本の福音派の代表的神学者のひとり、宇田進師は開口一番「ディスペンセーション主義とは、聖書解釈法のことです。この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」と語られ、その理由を丁寧に解説していかれた。多少なりとも、ディスペンセーション主義の影響を受けていた素朴な福音信仰の団体に所属していたわたしにとって「青天の霹靂」であった。
わたしは、素朴な福音信仰に立って、伝道と教会形成を重んじる「スウェーデン・バプテスト系諸教会にルーツをもつオレブロ・ミッション宣教師」によって形成された団体に所属し、その団体が主力となって運営する母校で学んだ。ファンダメンタルでディスペンセーション主義の影響を受けていたように振り返る。わたしは、信仰の初期を「キリスト者学生会(KGK)」の交わりの中で養われてもいたので、ジョン・ストット等にみられる福音派の主流の「福音主義」的な特質をも身につけていった。それが後の歩みに功を奏したように思う。
奉仕生涯の初期の、基礎神学教育課程の時期、母校では、時々「終末論のスペシャリスト」「黙示録の専門家」の触れ込みで、関係諸団体関連の宣教師が一週間の特別講義を行われたりもしていた。その内容は、ハル・リンゼイ著『地球最後の日』、ティムラヘイ共著『レフト・ビハインド』の黙示的ディスペンセーション主義の教えであった。教師タイプのわたしは、ルネ・パーシュ著『キリストの再臨』等も目配りしたりもしていた。ただ、その内容の複雑さには面食らった。まるで“迷宮”に迷い込んだようであり、「黙示録」や「終末論」はわたしにとっては長らく閉ざされた領域であり、書物であった。ただ、「我々の立場は、穏健なディスペンセーション主義の立場である」というようなぼんやりとした意識が植え付けられたいったように思う。
内地留学のとき、その“眠気”を覚ますような雷鳴が響いた。「ディスペンセーション主義とは、聖書解釈法のことです。この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」と。その時から、わたしの「ディスペンセーション主義聖書解釈法→ディスペンセーション主義教会論→ディスペンセーション主義終末論の克服」の旅は始まった。ベレア人のように「はたしてそのとおりがどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)。その旅の道筋で、ファンダメンタルで、ディスペンセーション主義の誤りの修正・克服に取り組んだエリクソン著『キリスト教神学』、『キリスト教教理入門』、ラッド著『終末論』等を訳すという、“主からの”任務を引き受けることとなった。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑥遂行すべき任務を果たせるように、64頁、左段43行
https://youtu.be/jWiSVshE7Kc
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6. 霊的生活を通しての備え
a. 一般の異議
i. 「言葉の選択」にまで広げられた霊感-必然的に「口述」になるのか?
1) 非難に答える-「霊感のプロセス」を理論化の必要
(a) 聖書著者たち-信仰において「初心者」ではなかった
(b) 彼らは-神を知っており、神から学び-「一定期間」霊的生活を実践していた
(c) それゆえ、神は-家庭、社会、教育そして宗教的経験を通して「遂行すべき任務」に備えておられた
(d) パウロ-彼の「誕生以前に」さえ-選ばれていたことを示唆:ガラテヤ1:15
(e) 漁師ペテロ-経験を通して-聖書の著述に生かされる「ある種の人格・世界観」を創造されていた
(f) ルカのボキャブラリー-彼の「教育」とすべての「広い経験からの視野」から結実
2) これらすべてにおいて-神は「神の任務」に向けて-彼を備えて働きにつかせられた
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7. 「神の思い」を思う
a. それゆえ、新しい指図の「示唆」を与えられただけで
i. 長期間知っていた聖書記者にとって-「神の考え」を考えることは可能だった
b. 個人的な実例-エリクソンの秘書
i. 最初-口述で筆記
ii. 一年あまり後-エリクソンの考えの「概要」を話すと-エリクソンの表現形式を使って-エリクソンの手紙を書けた
iii.
三年目の終わり-私たちは教会に関係のある「多くの課題」にいて話し合っていたので-エリクソンが受け取った手紙に返事を書くように頼めた
c. 口述せずに-ひとり人が話そうとしていることを「正しく知る」ことは可能
i. しかしながら、このことは「関係の親密さ」と「長期における交際」を仮定している
ii. 私たちが述べてきた環境を与えられた「聖書記者」-口述されないで
1) 神がそれを記録してほしいと「望まれた神のメッセージ」を-正確に書き留めることができた
2021年1月10日 礼拝 新約聖書
Ⅱテサロニケ書2:1-17「…のように言われるのを聞いても、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないで」
https://youtu.be/rFIMA-N0rhA
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先週は、テサロニケの教会が迫害と苦難の只中で「信仰が大いに成長し、愛が増し加わっている」ことから学んだ。クリスチャンの信仰は、苦難から逃避する信仰ではないことをし終えられる。「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられた(Ⅰペテロ2:21,24)。パウロは、「私たちはキリストの栄光をともに受けるために、苦難をもともにしている」(ローマ8:17、コロサイ1:24、Ⅱテモテ3:12)と書き記した。苦難は教会にとって避けるべきものではなく、教会の地上における本質的なあり方である(ヨハネ16:33)。神の民は「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主と会う。イザヤ書の預言の通りに、イエスが十字架の苦難を経て、復活の栄光を受け、天に着座されたように、キリストの教会も同様、地上の苦難を通って、栄光に輝く天のエルサレムの門をくぐる。神の民が地上で受ける「今のときの軽い患難」は、やがて天の「測り知れない重い永遠の栄光」(Ⅱコリント4:17)へと変えられていくのである。
*
今朝の2章は、誤った教えや運動に遭遇したときの教会の、またクリスチャンの対処について教えている。終末においても、「不法の者」v.3,4,6,7,8,9
が現れると述べられている。そして「引き止めている者」v.6,7
が存在するも記されている。たくさんの優れた注解書を目配りすると、前者に関しては歴史上、シリアのエピファネス、ローマの皇帝、さらにはヒトラーやスターリン等多くの解釈例が記されている。後者に関してはて、ローマ帝国の市民法等の法律による悪の抑制効果等が指摘されている。ここでは、特定の解釈に傾斜せずに、この2章の文脈のエッセンスに目をとめ、その本質を今日のコンテキスト(文脈)に適用することにしよう。
この文脈では、「不法の者」は「v.4
すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高くあげ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座る」とある。要するに、神的なものとそれに対して反抗するものとの対比である。わたしは、ここで最近生起している「イスラエルを軸とした民族主義的聖書解釈法」という不健全な教えと、「イエス・キリストを軸とした普遍主義的聖書解釈法」という健全な聖書解釈の対比に適用していきたい。
パウロは、1章で生まれたばかりのテサロニケの教会の兄姉たちが、迫害の只中で成長していることに励ましを受けた。続けて2章で、テサロニケの教会で起こっている「v.2
主の日がすでに来た」かのように教える人のフェイク(偽)・ニュースに翻弄されないように勧めた。ひょっとしたら、このような教えや運動で、別のグループがでたきり、そのグループへの「v.11-12信徒の流出」も起こっていたかもしれない。
しかし、テサロニケの兄姉たちは、v.13「御霊による聖別」つまり母教会への献身と忠節、「真理に対する信仰」つまり「v.1
主イエス・キリストの来臨と…主のみもとに集められる」ことについてのパウロたちの教え、「v.14 私たちの福音」「v.15
私たちから学んだ教え」に、嵐の中で流されないよう錨をおろしていた。
わたしは、最近つとに耳にする「健全な教会」から「不健全な聖書フォーラム」への信徒流出問題に心を痛めている。そして、コロナ・ウイルス感染が広まるかのように、間違った教えや運動が拡散していく只中で、一宮基督教研究所の私たちを含め、多くの先生方、兄姉たちが日夜取り組み、製造してきた“神学的ワクチン”が今こそ用いられるべきだと示されている。昨夏からのラッド著『終末論』、拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』、仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』等の注文の急増もそのことを示していたのではないかと振り返る。
教会が弱いから、魅力がないから、信徒が流出するのではない。健全な教えと不健全な教えとの戦いは、初代教会から、テサロニケの教会にもみられる。このような状況は、平穏な時期に「健全な教えと不健全な教え」に対する識別教育をしてこなかった教会にも原因があると思う。このような危機を、それらを識別する力を養う好機として生かすべきではないか。神が信徒の流出に心を痛めている諸教会の教職者・兄姉たちの「v.17
心を慰め、強めて、あらゆる良いわざ(母教会に根差した健全な倫理的生活)とことば(健全な福音理解、終末論、再臨理解)に進ませ」、より良き成長の機会としてくださいますよう祈っていきたい。
少なくとも、わたしがこのようにぶれることなくイエスと使徒たちの教えを紹介することによって、ディスペンセーション主義の影響が強く残る団体においても、教え子たち、若い働き人、兄姉たちは「安黒先生は、このように教えてくださった」と、いわばわたしを“弁慶の仁王立ち”として自らを守る盾として使っていただけると思う。そのような用いられ方であっても、諸教会の福音理解の健全化のお役に立てるなら嬉しい。
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「神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する。」教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする。このことは、教会の教師として「教える能力」(Ⅰテモテ3:2)のみでなく、「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかり守り」、その結果「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることのできる」(テトス1:9)ことを求められている牧師についても言える。(『ローザンヌ誓約
解説と注釈』ジョン・ストット、宇田進訳)p.98
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑤言葉の選択に至るまで、64頁、左段30行
https://youtu.be/iIybiQbcHxY
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6. 霊感は言葉の選択に至るまで
a. ここで「意図しているもの」は-霊感とは-「聖書記者の思想」を神が導かれることを意味
i. その結果-「神が望まれた思想」であった-それらが「正確に表現」された
1) ときどき、それらの思想-大変「特殊なもの」であったり「一般的」であったり
ii. 意図しているもの-霊感は「言葉の選択」にまで広げられて-言語にも働いた
1) しかしながら、単に「言語」に対してだけでなく-言葉以上に「思想」はより正確
b. 黙示録のパトモス-ヨハネの幻の事例
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する
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今、わたしが耳にする深刻な問題は、コロナ問題ではなく、元テレビ伝道者が主催されている「聖書フォーラム」への信徒流出問題である。その情報は、日ごとに増し加わっている。昨夜も、ある兄弟から電話があり、わたしたちの団体の中でもそのような現象が起こっていることを知った。
わたしは、この問題は、教会から「教会もどき」のフォーラムへの信徒の移動の問題ではないと認識している。それだけなら、教会観の問題、教会と超教派運動の”倫理の低下の問題”て済ませられる。ただ、この問題がはるかに深刻なのは、この「信徒の流出」が健全な福音理解から、”不健全な福音理解への流出”問題の側面を抱えているからである。
すでに十年前に洋書で大雑把に目を通していた本『イスラエル学』の部分訳の本を、この危機感から買って読んだ。この本は「聖書フォーラム」運動が、看板のひとつとして掲げている、ユダヤ人神学教師の『イスラエル学』である。邦訳は、「最後のディスペンセーション主義の聖書解釈の部分だけであるので、続いて英文の原書を読んだ。その構成をさらっと目を通しただけでも、この『イスラエル学』なるものは、イエスと使徒たちの「イスラエル理解」とは全く異質な内容であることが明らかである。わたしは、このような基本的なことに対する“神学的盲目”が今回の「信徒流出」の原因であると受けとめている。
ここ十年ほど前から、「イスラエルを軸とした聖書解釈」という新奇な聖書解釈法の流行が起こってきた。ある程度、神学の素養のある者なら、この教えと運動は、神学の世界ではすでに過去の遺物と化している「ディスペンセーション主義の聖書解釈法」に属するものであることが分かる。そして、この教えと運動は、それらの牙城といわれてきたダラス、グレイス、タルボット等の神学校の知的指導者層では、誤った教えとして、「古典的→改訂→漸進主義ディスペンセーション主義」へと移行してきた歴史がある。漸進主義への移行により、その内容は、新旧約の基本的メッセージは、「神のひとつの民、神のひとつの計画」と理解されるようになった。古いディスペンセーション主義の誤りを克服しよう取り組んできた健全化への歴史である。
ただ、「古い皮袋」の教えを学んだ大衆的レベルの伝道者・牧師・神学教師は、いまなお誤りの中で熱心にその教えと運動に取り組んでいる。わたしは、その典型を、今問題化している「聖書フォーラム」運動に見ている。健全なイスラエル論に導くのではなく、誤った「イスラエル学」の、いわば“荒野の放浪”に導き入れる指導者の問題である。
新約のクリスチャンにおいて「イスラエル論」は、旧約聖書の「イスラエル民族盛衰史とその再興」を軸にして理解してはならないのである。それは、素人には“聖書的”とみえるが、イエスと使徒たちの「イスラエル論」とは全く異質な内容を持っている。イエスが福音書で提示しておられる「神の国」は、「ユダヤ人中心の神の国」ではない。すべての民族が包摂される「普遍的な神の国」である。使徒たちが提示している「地のすべてのやからが祝福を受ける」福音は、「ユダヤ人を特別視してない、神殿礼拝の復活や犠牲のささげものの実践は勧められていない」、ユダヤ人もなく、ギリシャ人もない。民族的差別・相違を克服した天的霊的共同体の出現を宣言しているのである。
アブラハムをはじめ、旧約における真のイスラエル信仰をもつ“神の民”は、「玉子の殻の中の黄身」のように旧約の中に準備され、イエス・キリストの人格とみわざを通して、「卵の殻を破り、誕生したひよこ」のように、ペンテコステにおいて出現した。そして、その真の神の民は、全世界の地の果ての民族の救いという神の計画に参与する召命を忠実に遂行してきたのである。そのような意味で、神の民は、古いディスペンセーション主義で教えられるように「二つの神の民、二つの神の計画」ではない。ましてや、メシヤニック・ディスペンセーション主義に位置づけられるある指導者たちは、「二契約説」に立ち、「ユダヤ人はユダヤ人の契約で救われ、クリスチャンはキリストとの契約によって救われる」という新約の福音からの“明白な逸脱”傾向を示している。それらは、健全なユダヤ人伝道団体からも大きな批判と懸念を抱かれているものである。ユダヤ人も、異邦人も、その救いはイエス・キリストの人格とみわざにかかっている。「使
4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」のである。旧新約を一貫して存在してきた“真の、霊的な本質を宿す神の民”は、「ひとつの神の民、ひとつの計画」の中に置かれているとするのが、イエスと使徒たちの「福音理解」である。
そのような意味で、フルクテムバウム著『イスラエル学』は、神学的に大きな誤りを含んでいると判断せざる得ない。上記のように、わたしは、「聖書フォーラムへの信徒流出問題」は、教会観、教会と超教派運動との倫理的問題にとどまらず、健全な「福音主義イスラエル論」から不健全な「イスラエル学」への流出の問題なのである。このような分析と評価を神学的側面から少しずつ書き綴っていきたい。
本来は、『福音主義イスラエル論 Part Ⅲ
―ハーベスト・ミニストリーズの中川健一氏とフルクテンバウム著「イスラエル学」を福音主義視点から分析・評価する』というかたちで、丁寧な論稿をまとめたいのであるが、それには少し時間が必要である。今、少し多忙なので、緊急対応的に「メール」「チャット」「ズーム」「断想」等のかたちで対応していくことにする。
わたしは、約十年前にこれらの問題が萌芽の時期に、上記の問題に気がついていた。それで所属団体の牧師会や母校で講演・講義を重ねてきた。そして、将来にわたって、“健全化”の流れを確固たるものにするために、ラッド著『終末論』、と日本福音主義神学会学会誌『福音主義神学45号(2014年発行)』に「福音主義イスラエル論」として執筆した。そして、現在はアマゾン書店キンドル版で刊行されている。キンドルの機器のない人でも、パソコンや携帯に「キンドルのアプリ」をダウンロードすれば読むことができる。文書版を所望される方は、アマゾン書店を通して、一宮基督教研究所販売のラッド著『終末論』を注文されると、二つの論文を同梱している。先日キンドル版刊行した仲井隆典先生の『ディスペンセーション主義終末論の克服』も、たくさんの方に購入していただき、読んでもらっていることに感謝している。
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【誤った『イスラエル学』に対する神学的ワクチン紹介】
・仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』キンドル版、文書版は安黒にメールにて注文可
・岡山英雄著『小羊の王国』『ヨハネの黙示録注解』「患難期と教会」論文
・リチャード・ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』
・ジョージ・ラッド著、安黒務訳『終末論』
・安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』『福音主義イスラエル論Ⅱ』
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最後に、わたしは、元テレビ伝道者やユダヤ人神学教師をむやみに批判したいわけではない。わたしが確信し、多くの優れた福音主義神学者たちが確信している「健全な福音主義イスラエル論」から、そんなにも簡単に「不健全で誤ったイスラエル学」に移っていく、神学的素養の希薄な、しかし敬愛する兄姉のことを心配しているのである。この誤った「聖書フォーラム」運動で日本キリスト教会が受ける大きな傷を懸念しているのである。コロナ・ウイルス対応のように、早期に効果的な「神学的ワクチン」の準備と、教派を超えてそのワクチンを接種していく協力体制の構築が求められているように思う。健全な教えの教会から不健全な「聖書フォーラム」への信徒の流出が止み、不健全な「聖書フォーラム」から健全な母教会への信徒の回帰が起こることを願いつつ、さらなる「断想」を書き綴っていきたい。
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【新改訳2017】
ガラ1:6
私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。1:7
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。
ロマ9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、9:2
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
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キンドル版は、キンドルの機器がなくても、下記のサイトから、パソコン用キンドル・アプリ、携帯用キンドル・アプリをダウンロードして読むことができます。
https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp/?_encoding=UTF8&ref_=sv_nav_ebook_8
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、④ケネス・パイクの倍率の次元、63頁、右段15行
https://youtu.be/uGZq9-SC-G4
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4. ケネス・パイクの倍率の次元
a. 神-聖書記者が「その考え」を表現するために-「正確に」特別な言葉を使うように-導く
i. 「考え自身」-「一般的」であったり、かなり「特別なもの」であったり
1) 言語学者ケネス・バイク「倍率の次元」
(a) 聖書-いつも「最大」の倍率で-きわめて「詳細に」示す-ことを期待できない
(b) 「神が意図される」-詳しさ、特性の程度、倍率のレベルにおいて-神が「意図される概念」を適切に表現
2) 聖書-私たちが「期待したり」、「望んだり」するほどには-詳しくない
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5. 特性-詳細・拡大の様々なレベル
a. 私たちは-「何を心に持っているか」-説明するのに役立つ
i. 図-「特性」または「詳細」か「拡大」の様々なレベルを描写
1) 特性の次元-図の上で「垂直の動き」を伴う
2) 考慮のうちにある概念「赤色」と仮定
(a) この思想-「多い」「少ない」という-特性の程度もっていない
(b) それはもはや-特別なもの(例えば、緋色)とか-特別な(色)のどちらでもない
(c) それは「一般性」-「特性」軸に関して-垂直に (d)
特性の与えられたレベルに関して-水平(例えば、赤対黄色、緑)の両方-図の上で「特別な位置づけ」
3) もうひとつの例:絵における「詳細の程度」
(a) パイクの用語における拡大の高い・低いの程度-焦点の鋭さ・曖昧さ
(b) 正確でない焦点の場合-詳細はぼやけたり、消え去ったりする
4) しかしながら、「ふたつの次元」-詳細と焦点-混同されるべきではない
ii. もし「その考え」が十分に正確なら-与えられた言語-もしくは、与えられた著者の語彙に
1) ただひとつの言葉が-その意味を適切にコミュニケートしたり、表現したり
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、③聖書記者の思想を導く、63頁、右段4行
https://youtu.be/IJFBXY7qnHM
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3. 聖書著者の思想を導く
a. 御霊がなされるもの-「聖書記者の“思想”」を導くこと
i. しかし御霊によって影響された導き-まったく「的確」
ii. 聖書記者の語彙の内に-神が伝達しておられる思想を-最も巧みにコミュニケートする「ひとつの言葉」が選択される
iii. 「思想」を創造し、聖書記者の「理解」を刺激することにより-御霊は「特別な言葉を使う」ように影響力を行使する
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、②教訓的な素材を第一にする、63頁、左段32行
https://youtu.be/KEJShF3UN_s
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2. 教訓的な素材を第一にする
a. もし私たちが-「両方の方法」を保持すべきなら-それらを「統合」する道を見つける必要
i. 私たちは-第一義的な考慮を「教えの資料」におく
ii. 霊感は-「言葉の選択」にさえ広げられている-ことを意味している「霊感は“言語”に働いた」
1) しかし、私たちは「言葉の選択」が意味しているものを-その「現象を吟味する」ことにより-定義するつもりである
2021年1月3日
新年礼拝 新約聖書 Ⅱテサロニケ書「信仰が大いに成長し、愛が増し加わっている」
https://youtu.be/VpsDTgzhhR8
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今朝は、新年礼拝である。昨年からの継続として、テサロニケ人への手紙第二に傾聴していこう。昨年は、内外の世代交代の流れに沿うかたちで、新約時代の世代交代期の牧会書簡に傾聴し、その後教えと運動に歪みのある傾向を憂え「健全な終末論、健全な再臨理解」と題し、Ⅰテサロニケ書に傾聴してきた。これはその継続である。約十年前に、わたしの周辺に大きな動きがあり、ちょうど武漢で「コロナ・ウイルス感染」が広まった時に、ある医師が警鐘を鳴らし始めたように、わたしも「ある教えと運動」の全国的な展開と所属団体と母校への悪影響を憂え、電子メールで「警戒情報」を流し続けていた。そして、「なぜ、わたしが”ディスペンセーション主義の教え”と“キリスト教シオニズム”の運動に不健全な要素があると思うのか」―牧師会での講演と質疑応答をもって説明させていただいた。
そして、いつかわたしも団体の教職者また母校の教師の奉仕を終えるときがくるだろうと思った。そして、わたしが奉仕を終えた後、この団体と母校の“針路”は一体どのようになるのだろうと心配した。それで、不健全な教えや運動に流されてしまわないために、“これらの船に錨を下しておくべきだ”と示された。それで、錨として、またワクチンとして、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』を翻訳・執筆した。
あの危機感から十年を経て、昨年のコロナ・ウイルス騒動の中、ユーチューブ・サイト等を通して「不健全な終末論、不健全な再臨理解」の汚染は以前にも増して広がっているとの情報を耳にした。その時、「神学的なウイルス感染の動向の端緒において気が付いていた私の対応はどうであったのだろう。
団体や母校でディスペンセーション主義の教えやキリスト教シオニズムの運動に携わっている道路医者への配慮で矛先は鈍くなってはいなかっただろうか。感染阻止、ワクチン開発、治療の処方箋提供をあの時期にもっと徹底的に取り組んでいるべきではなかったのか」という反省である。
最近思うことは、ファンダメンタルで、ティスペンセーショナルなバイブル・スクールで育てられた戦後の教職者ですら、これらの誤りから、なかなか“治療・治癒”されないのだから、信徒の兄姉にそれを求めることは大変なことであると感じている。「一体どのようにすれば、この神学的なウイルス感染の拡大を抑え、感染者に対して効果的な治療を進めることができるのだろうか」-そのような課題を心に突き付けられている。
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Ⅰテサロニケ書は、ユダヤ教徒の迫害の最中の残してきた「生まれたばかりの教会の行く末を案じていたパウロの心」が溢れている。Ⅱテサロニケ書は、そのような「迫害の只中でも、主からの励まし、慰め、支えをもって耐え忍び、健全な福音理解において“目に見えて成長”し続けているテサロニケの教会への感謝」に溢れている。
わたしは、新約聖書書簡には、「旧約聖書観」に対する取り組みが各所に示唆されているように感じている。ガラテヤ書では「ユダヤ教キリスト派」的な捉え方をするユダヤ人クリスチャンの誤りとパウロは格闘している。このテサロニケ書では「v.5
神の国」問題が垣間見える。ユダヤ教徒にとって、「神の国」とはユダヤ人中心の民族主義的神の国の再建・再興であった。しかし、新約のイエスと使徒たちにおいては、「地のすべてのやから」が対象であり、アブラハムに対する祝福の約束は、全人類の普遍的な神の国の完成が目的とされている。
しかし、ディスペンセーション主義の牙城といわれたダラス神学校で学ばれた経歴をもたれるユダヤ人神学教師の『イスラエル学』においても見られるように、今日流行している新奇な教えと運動においては、「ユダヤ人中心の患難期とユダヤ人中心の千年王国」がうたわれている。わたしは、ここに聖書解釈法における「旧約の影」の誤った支配構造をみる。それが「新約の光」を遮っているのをみる。新約の光の中では、患難期の只中で守られ、殉教をも恐れずに証しするのは教会である。千年王国・新天新地で中心となるのは、多民族・多文化の総体であり、全人類が対象とされている(黙示録21:24-25,
22:2)。
「v.6
苦しめる者」と「苦しめられている者」との最終的な運命の対比がなされている。それとともに、わたしはⅠコリントを思い起こす。イエスを信じる教職者の運命の差異である。パウロやテモテやテサロニケの人々のように「健全な教え」で養われ、成長し、おいしい葡萄の実を結実させた者には、報いが約束されている。栄光が約束されている。しかし、「不健全な教え」で諸教会を翻弄させた教えや運動を導く者たちは、救われるのは確かなのであるが彼らは“火事場を焼け出される”ようにして御国に入るというのである。彼らのミニストリーは、一見華やかに見えても、神の目からは、新約のイエスと使徒たちの目からは“木、草、わら”なのである。それらは確実に焼き尽くされる運命にある(Ⅰコリント3:10-15)。
パウロは祈る。「v.11
召しにふさわしい者」誤った民族主義的熱狂に翻弄されることなく、健全な福音理解に養われ、全人類・全民族平等の平和共存・民族自決・共存共栄をはかる者とされるように。「善を慕い」旧約の誤った理解と解釈によって残忍な植民地主義・アバルトヘイト的政策を是認しないように。ユダヤ人の間だけでなく、パレススチナ人、アラブ人、ペルシャ人の間でも「v.主イエスの御名があがめられ」るように。そして、わたしたちが、いわば“毬栗(いがぐり)”のような旧約聖書から、「イエス・キリストの人格とみわざ」という皮むき器を通して、剥きだされるおいしい栗の実を食べ、健全な福音理解と健全な全人類的キリスト教倫理の中に「目に見えて成長し、愛が増し加えられ」といきますように。パウロは、このように今年の針路を指し示している。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、①二つの基本的方法、63頁、左段14行
https://youtu.be/OERkA2wBBlE
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1. 二つの基本的方法
a. 霊感についての「理論」を組織立てていくとき-使用されている「二つの基本的方法」を認識する必要
i. 第一の方法-「聖書記者の見方」と「聖書記者の聖書活用方法」-についての啓示に第一義的強調「教訓的アプローチ」
1) ベンジャミン・B・ウォーフィールドと「プリンストン」神学校の著述
ii.
第二の方法-聖書記者が記録している「多様な方法」を分析-「並行記事」を比較したり-「聖書がどのようなものであるか」を見る
1) 第一義的に「聖書の事象」を基盤して-霊感の理論を発展させた-デューイ・ビーグルの方法
2020年度のICI Diary は、「 2020」にリンクしています。