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2021/12/22
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※多忙な時期ですので、ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズは、クリスマスと一月の生駒聖書学院講義奉仕以後、二月頃から再開させていただきます。
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第五節 霊感の強度、B…と書いてある、62頁、右段41行
https://youtu.be/RdxZ-Y-oa0g
*
4. イエスの言及「…と書いてある」
a. イエス−しばしば「…と書いてある」という決まり文句をもって−「旧約聖書の引用」を挿入された
b.
聖書が語っているもの−何でも=「神ご自身のことばの力」をもっているもの−とみなしておられた−それは「権威」あるものだった
c. 聖霊の働き−「言葉の選択」にまで拡大されたのかどうか−への言及ではない
d.
しかし、それは「旧約聖書の陳述」=「神の言葉」とする−“一貫した認識”を示唆
e.
聖書の霊感−非常に強いもの−「特別な言葉の選択にまで」広げられたものと「推測」しうる
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第五節 霊感の強度、A出来事の注釈も、62頁、右段22行
https://youtu.be/5uK13kO-Wzk
*
3. 出来事の注釈も
a.
「霊感の強度」のもうひとつの議論
b.
新約聖書記者−「本来のかたちにおいて、明らかに神に属していない」旧約聖書の陳述−神に帰している
i.
注目に値する箇所−マタイ19:4-5「創造者ははじめから人を男と女に造って…と言われた」のです。
ii.
そのとき−創世記2:24からの引用ではじめられた
iii. しかし−本来、その陳述は「神に帰される」ものではない
iv. それはただ−男から女が創造された出来事−に関する「説明」にすぎない
v.
しかし、創世記の言葉−「神が語られたもの」として引用されている
vi.
イエス−それらの言葉を「直接の引用」のかたちで提示
c.
明らかにイエスの心のうちにおいて−「旧約聖書が語っているもの」=「神が語られたもの」
2020年12月27日 年末感謝礼拝 旧約聖書
詩篇1篇「流れのほとりに植えられた木、風が吹き飛ばす籾殻」
https://youtu.be/daT_qWtUStU
*
さて、今朝は、一年で最後の礼拝である。「年末感謝礼拝」の日である。昨年はエリクソン著『キリスト教教理入門』を刊行した年であった。米国の福音派の主流を代表する組織神学者の手による、信徒の「教理入門」のための良きテキストである。それで、その普及促進のためにユーチューブでビデオ講義録シリーズ作成に着手した。
その関連で、今年の礼拝では、次世代への健全な「福音理解」継承を扱った『牧会書簡』等のシリーズを、J.R.W.ストット著“Bible
speaks
today”を参考に取り組むよう導かれた。またそれらをキンドル本としても刊行していくことができた。あと、Uテサロニケ書が残されている。その後、来年は長年念願である『詩篇』選釈シリーズに取り組みたい。そのようなこともあり、今朝はその伏線として、詩篇1篇を開く。
C.ヴェスターマンは言う。「詩篇とは何か。詩篇とは、詩であり、文芸作品であり、…今なお生きている言葉である。この詩篇の生命力の源は、…神に向けられた言葉、神への呼びかけ、祈りなのである。
詩篇には神への呼びかけという基本を土台にして、大きな視野が広がっている。聖書の最初の原初史と同じで…あらゆる変化にもかかわらず、人間存在の基本はいつも同じである。…詩篇の神への呼びかけは、ほめたたえと嘆きの二つで決まる。これらの祈りは、ある民の歴史の中に刻み込まれている。それは、イスラエルという民の歴史である。…イスラエルの民の…歴史的状況から切り離し、そのまま現代に適用することはできない。」これは、聖書的使信あるいは聖書の教えを要約して捕らえることであるー『再生産的ないし要約的機能』『学問的機能』である。
しかし、説教は“かつてそうだった”と語るだけでなく、むしろ“現在こうである” “Bible speaks
today”と語るのである。いわゆるコンテクスチュアルな神学の必要性である。そのためには、あらかじめ神によって捕らえられることなしには、語りえない。神賛美また嘆きでない、つまり神への叫びでないような説教はもはや説教とは言えない。それゆえ、説教者は第一義的に“Bible
speaks to me today”を問うのである。そして次に“Bible speaks to us
today”を問うのである。わたしは今朝、一体どのような視点にたって、詩篇1篇を唱和し歌えばよいのであろうか。それは、イスラエルの民がそのようにしたであろうように、わたしが、そしてわたしたち一人一人がこの一年、十年、そして六十有余年どのように生きてきたのかと重ね合わせて唱和する以外にないのである。
*
この詩篇には、「悪しき者」と「正しい者」が対比され歌われている。歴史的状況を離れ、時空を超えて、わたしの“生活の座”に瞬間移動して歌う。「正しい者」を健全な福音理解に生きようとする人、「悪しき者」を不健全な福音理解に生きようとする人と再定義することにしよう。
「v.1幸いなことよ“Blessed is the
man”」―聖書は、一体どのような人が幸いであるというのか。それは、「間近った教えや運動」の道連れとなり、それらと共にその道に立ち止まり、ついにはそれらの間違った教えや運動に取り込まれ、腰を下ろしてしまうことのない人たちである、というのである。
わたしは、長年、極端な字義主義解釈と聖書観の誤りに陥っているディスペンセーション主義運動や根本主義運動の修正・克服に取り組んできた。その視点から、この箇所を唱和すると胸に響くものがある。この幸いは、何ものにも代えがたい。
「v.2主の教え」とある。それは何を指すのであろうか。パウロの牧会書簡に目配りするとき、健全な教えと不健全な教えとの戦いが記されている。主の教えとは、健全な「福音理解」と解釈・適用することが可能である。内包する課題の克服に取り組んだエリクソン、ラッド、宇田進、牧田吉和、ストット等の著作集に目配りし、その記述を「深く思い、沈思熟考する」とき、その教えの聖書性、公同性、今日性、学問性の健全さに「喜び」が溢れ、「昼も夜もその教えを口ずさみ」たくなる。それを血となし、肉となし、多くのともがらにシェアしたくなる。
「v.3その人は流れのほとりに植えられた木」とある。そう、パレスチナの地は涸れ果てた荒野が広がっている。しかしそこには川が流れており、そのほとりに植わっている木は夏冬も枯れることなく、いつも青々と茂っている。そして「時が来ると実を結びその葉は枯れない」。エジプトのヨセフの生涯のこどく、穴に落とされ、身を売られ、牢獄に放り込まれても、そこで「創世記39:23主が彼とともにおられ」、苦難の只中にあっても「そのなすことはすべて栄え」た。健全な福音理解に生かされる、今日のわたしたちも同様である。健全なキリスト教教理に守られ、その豊かな養い、尽きることのない泉(ヨハネ4:14)が開かれるからである。
「v.4悪しき者はそうではない」―極端な聖書観、聖書解釈法に縛られる「不健全な福音理解」の影響下にある人は、その結果・反映として「不健全な倫理的生活」を結実させやすい。御霊による、キリストのような霊的人格の実質的形成よりは、歪んだ宗教的熱狂や情熱に翻弄されやすい。それは「まさしく風が吹き飛ばす籾殻」のように、中身のない、軽薄な、根のない生活をもたらしやすい。
「v.5それゆえ悪しき者はさばきに、罪人は正しい者の集いに立ちえない」―ラッドの伝記に、John A. D'elia“A
Place at the Table−George Eldon Ladd and The Rehabilitation of
Evangelical Scholarship in
America−”という本がある。ラッドは、ハーバードで学んだ福音主義陣営の優れた神学者として、「ディスペンセーション主義や根本主義の聖書観、聖書解釈法、福音理解等」が、学問的世界に座席を確保できないほどに欠陥があると見抜いていた。それで、学際的な世界においても座席を確保し、健全な福音主義の立場からの発言権を確保しうるよう、根本主義の修繕“Reforming
Fundamentalism”に取り組んだのである。19世紀からのリベラル神学の興隆に対抗し、福音主義の危機を意識した根本主義者たちは良き戦いを戦った。しかし、その中で「もうひとつの極端に振り子が振れてしまった」のである。その極端に振れた振り子を、いわば「あるべきセンターラインに戻す」ことを使命として取り組んだのが、ラッドやエリクソンたちの「福音主義運動」であった。わたしの訳書はそのような位置づけの中にある。
「v.6まことに正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る」―主の教えは、健全な福音理解の中にある。健全な福音理解は「新約の使徒たちの聖書観、聖書解釈法、福音理解」の中にある。誤りを含む、極端なディスペンセーション主義や根本主義の教えや運動は、一時的な興隆が見受けられても、やがて「健全な教え」に淘汰されていく運命にある。今、日本は大衆的な伝道者やセミナー講師により、「不健全な教えや運動」に一時的に翻弄されているかにみえる。しかし、すでに元々そのような教えや運動の牙城とされてきたダラス・タルボット・グレイスといった神学校も、知的レベルの高い教職者の増加に伴い、変貌を繰り返し、その指導的教授陣の大半がラッドやエリクソンの背中に追いつてきたと言われている。これは、詩篇1篇で歌われている通りではないか。わたしたちは、歴史の推移、福音理解の推移を大局から見失わないようにしようではないか。この歌を唱和するごとにそのことに重ね合わせて歌おうではないか。この一年、十年、六十有余年を「雲の柱、火の柱」をもって導いてきてくださった主に感謝しつつ!
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第五節 霊感の強度、@言葉の選択にまで、62頁、左段28行
https://youtu.be/6AJKjtJfznw
*
1. 言葉の選択まで?
a.
次に「霊感の強度」−尋ねなければなりません。−「単なる一般的な影響」だけであったのか
b.
「言葉の選択」においてさえ−「神の意図を反映」するほど徹底していたのか?
2. 言葉、音節、句読点のしるし
a. 新約聖書記者の「旧約聖書の使用」
i.
彼らは−すべての「言葉、音節、句読点」のしるし−重要なものとみなしていた
1)
マタイ22:32:イエスの出エジプト記3:6の引用「わたしは、あなたの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神”である”」
(a)
この箇所のポイント−「神は死んだ者の神ではありません。“生きている者”の神です。」は−“動詞の時制”に依存している。
2) 44節において−議論のポイント−“所有格の接尾辞”「主は私の主に言われた」に依存している。
(a)
この事例において−ダビデがそれらの言葉を語ったとき−「御霊によって」であったと−イエスは明白に語っておられる
3) 詳細なポイントにおいてさえ−ダビデは彼がなした「特別な形式」を使用するように−御霊によって導かれていた
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第四節 霊感の範囲、B 新約の諸文書も−ペテロ、ヨハネ、パウロ 、61頁、右段36行
https://youtu.be/F_3hHm5zFSw
*
3. 新約聖書も−ペテロ、ヨハネ、パウロ
a. 「霊感」についての理解−新約聖書の書簡にも「同様に」及んでいるのか?
i. この問題−簡単に解決されない
ii.
しかし、新約聖書記者たちがなしてきたもの=旧約聖書記者たちがなしてきたもの−「同様の性質」をもっているとの「信仰」についての幾つかの示唆
1) Uペテロ3:16:ペテロはパウロの著作に言及−パウロの手紙を曲解する人々の存在
(a)
ペテロ−聖書としてみなされていた他の著作とともに−パウロの著作を「分類」
2)
ヨハネ−彼が書きとめたものを「神の言葉と同一視」:Tヨハネ4:6「私たちの言うことに耳を傾け…、私たちの言うことに耳を貸しません。」
(a) 彼は−彼自身のことばを「判断の基準」としている
3)
パウロ−テサロニケ人が受け取った福音−「聖霊によってもたらされた」Tテサロニケ1:5、「事実、神のことばとして彼らに受けとめられた」2:13
iii.
それらの新約聖書記者−「預言者の時期」から「彼ら自身の時代」にまで広げられるべきであると−「聖書」をみなしていた
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第四節 霊感の範囲、A2. 第二ペテロ 1:19-21,
ヨハネ10:34-35「律法と預言」、61頁、右段16行
https://youtu.be/Jqi7bML1hkI
*
2. 第二ペテロ 1:19-21,
ヨハネ10:34-35「律法と預言」
a.
この問題について−「追加的助け」−前者−「預言」に関係−後者−「律法」に関係
b.
「モーセとすべての預言者」=全聖書:ルカ24:25-27
c.
「モーセの律法と預言者と詩篇」=聖書:ルカ24:44-45
d.
ヨハネ10:34−イエスが「律法」に言及されたとき−「詩篇82:6」を引用された
e.
ペテロ−当時通常、受け入れられていた「書物の集まりの全体」が視野にある−「預言のことば」Uペテロ1:19、「聖書の預言」Uペテロ1:20
f. 「律法」と「預言」=ヘブル人の聖書全体を描くために使用されていた
2020年12月20日 クリスマス礼拝 新約聖書 使徒行伝
2:1-36「旧約における三つのメシヤ像―統合する唯一のマスター・キー、イエス・キリストの人格と使命」
https://youtu.be/p4ZedwHSVKA
*
アドベントの期間、わたしたちは旧約における三つのメシヤ像を見てきた。それらのメシヤ像はお互いに矛盾するようにみえる。ユダヤ人の間では、「苦難のメシヤ像」は脳裏にすら浮かんではいなかった。イエスが苦難の只中に置かれた時、捕縛の恐怖から弟子たちですら見捨てた。使徒1:6の段階においてさえ、使徒たちは「ローマ帝国の植民地支配からの解放」を期待していた。「栄光と玉座」のポストを追求する、いわゆる“ご利益”キリスト教は、大きな盲点を抱えている。キリスト教の福音の外形は、ダビデの玉座、栄光の雲とともに来臨される人の子のイメージを抱えているが、その霊的本質は
“苦難のしもべ”
にあるのではないか。わたしたちクリスチャンの「霊的身丈」を測る物差しは、世的な「玉座と栄光」にあるのではなく、天的な「苦難のしもべ」性の尺度によって測られるのではないか。
今朝の箇所はクリスマスには不似合いなペンテコステの記事である。しかし、三つのバラバラで矛盾とも思える三つのメシヤ像が、受肉と贖罪のみわざを中心として
“有機的一体性”
をもって統合される最初の記事である。わたしは、使徒1章と使徒2章のペテロを首班とする使徒たちのグループの「旧約聖書理解」に関する
“コペルニクス的転回” に驚かされる。1章と2章を平坦に歴史的記録として読み流してしまいやすい箇所である。
しかし、ガリレオ・ガリレイの宗教裁判※にみられるような重大な「旧約聖書観」の、いわば天動説から地動説への転回、つまり「ユダヤ民族の盛衰と未来における回復(異民族支配からの解放)」から「普遍的な地のすべての民族の救い,地上的な土地・エルサレム・神殿の回復ではなく、被造物世界全体の贖い・天的エルサレム・神殿そのものとしての神ご自身の臨在」への転回が起こっている。この“転回”の推移と展開が、使徒行伝と新約書簡に詳述されている。伝統的ユダヤ教的「旧約観」に育まれていた使徒たちが、キリストの人格とみわざの卓越性を軸にして、「旧約聖書」を再解釈する際の「思想的葛藤・文化的葛藤」が扱われた研究書が記されてもよいのではないか。
簡単にシフトしたかのように描かれているが、聖霊が「キリストの人格とみわざ、その霊的・神学的意味」をペテロを首班とする使徒たちに啓示され、そのリアリティに心を開き、いわば民族主義的な「旧約聖書の卵の殻」の中に含まれ、養われてきた「黄身」の真の意味を理解し、預言書・文学書を再解釈し、メッセージとして取り次いだ使徒たちの
“謙遜・受容” に感謝したい。
この箇所の真理を、ラッドが分かりやすく解き明かしているので以下に紹介しておきたい。関心のある方は、ぜひ購入し、熟読していただきたい。
*
「三つの旧約のメシヤ思想を統合しうるものが唯一存在する。イエスの使命がそれである。」―G.E.ラッドは厳かに宣言する。
「イエス在世当時のユダヤ人が、イザヤ53章をメシヤ預言として解釈していたという証拠は存在しない。実に、その二つの概念は、お互いを排除し合っているように思われる。天的・超自然的な人の子は、神の栄光の王国において支配するよう運命づけられたお方である。その彼がどのようにして、同時に、謙遜かつ従順であられ、敵に嘲られ拷問を受けられ、ついには死に至らされうるのか。それは不可能なことのように思われる。
しかし、ここにまさに、わたしたちの基本的な解釈法が存在する。イエスと彼の後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命の視点から再解釈した。人の子は、彼が栄光に入る前に、地上に現れなければならない。そして、彼の地上における使命は、苦難のしもべの役割を成就することである。
この再解釈は、イエスの教えに限られているわけではない。それは使徒たちにおいても、思いがけない形で、繰り返し、同様の再解釈がなされている。ペンテコステの日に、ペテロは驚くべき説教を語った。彼は詩篇16:8―11と13:11からの聖書箇所を再解釈した。その箇所は、旧約聖書のコンテキストにおいては、死は存在の終わりではない、というダビデの望みについて語っている。
*
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について…語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。わたしたちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主はわたしの主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:30-36)
*
ここに、旧約聖書の預言の驚くべき再解釈がみられる。詩篇110:1-2における約束、「主は、わたしの主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」は、次の節が証明しているように、「主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。あなたの敵の真中で治めよ」(詩篇110:2)とエルサレムにおける王位に言及している。霊感の下で、ペテロはダビデの王位をエルサレムにおけるその地上的位置から、天上的位置に移動させている。この節は、天上の神の右の座へのイエスの勝利の着座を主張する、ヘブル人への手紙の著者に使用されたお気に入りの節となった(ヘブル1:13、10:12-13)。「神が、今や主ともキリストともされた」(使徒2:36)というペテロが要約した言明は、同じ真理を主張している。「主」は絶対的な統治を、そして「キリスト」はメシヤあるいはダビデ的王を、意味している。彼の復活と昇天によって、イエスは彼のメシヤ的支配に入られた。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです」(Tコリント15:25)。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3:21)。主と王が基本的に交換可能な用語であるということは、「なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです」と征服される小羊について語られている黙示録17:14、から明らかである。復活と昇天において、イエスはメシヤとしての新しい次元に入られた。地上において、彼は柔和で謙遜な苦難のしもべであった。その苦しみが過去のものとなった今、メシヤ的支配の次元に入られた。そしてすべての敵が足の下に置かれるまでその支配を続けられる(Tコリント15:25)。このメシヤ的支配の特徴は、旧約聖書には予見されていなかった。メシヤの支配は、エルサレムからであり、エルサレム一帯に対して「主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。『あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう』(詩篇132:11)ということであった。新約聖書においては、メシヤの支配は天からであり、全世界が視野の中に置かれている。
見てきたように、キリスト論における概観的学びは、わたしたちが取り組んできた趣旨を立証している。すなわち、旧約聖書の預言は、イエスの人格と使命において成就されたものは何であったのか、という視点から解釈されなければならない。つまり、旧約聖書の預言の成就は、その時点で期待されているものとは異なっている。それゆえに、再解釈を必要とする、ということである。
さらに換言すると、キリスト論であるか終末論であるかは別にして、教理において最終的に権威のある言葉は、新約聖書の中に見いだされなければならない、ということである。」
(G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』pp.20-23いのちのことば社)
*
最後に、今朝のクリスマス・メッセージをまとめておく。第一に、わたしたちはすでに、キリストにあって共に天にあり、キリストのからだの一部、キリストの民の一部として、ダビデの玉座に着座し、その戴冠の油注ぎの祝福の中にある(使徒2:30-33)。第二に、わたしたちは将来、天の雲とともに来られる栄光のキリストに引き上げられる、もしくは共に来る。そのとき、わたしたちは復活のからだ、栄光のからだを着せられ、千年王国・新天新地の贖われた世界に管理者として永遠に生かされる(2:33-35)。第三に、わたしたちは今、この地上の生涯の間、さまざまな苦難の只中にあり、キリストの足跡、キリストの模範にならい、イザヤ53章にある「苦難のしもべ」のような生涯にみずから進んで生かされる。しかし、わたしたちは落胆しない。キリストの苦難にあずかればあずかるほど、より一層喜びに溢れる。そしてキリストの栄光が現れるとき、歓喜に溢れて喜ぶ(使徒2:36、Tペテロ2:21,4:15)。このクリスマス、このような全体図の中に自らの生涯に中ある“苦難”を位置付けて祝おうではないか。メリークリスマス!
*
※ガリレオ・ガリレイ 宗教裁判
ここで問題になるのは「天と地と大地は、神が創造した」という旧約聖書の内容です。キリスト教の影響が絶大だったこの時代、ガリレオが「天動説」を否定して「地動説」を唱えることは、聖書の内容を否定することにつながってしまったのです。このためガリレオは宗教裁判にかけられます。裁判の結果、「地動説」は異端であるとされ、地動説を広めることを禁止されました。
それでも学者として研究を続けたガリレオは、2度目の宗教裁判にかけられます。判決で「地動説はまちがい」と誓わなければ死刑、と宣告され、ガリレオはついに無理矢理誓わされてしまいました。この裁判の最後に、「それでも地球は回っている」と、つぶやいた逸話は有名ですよね。とはいえ、カトリック側も1983年に、宗教裁判が誤りだったことを表明。1992年には、正式にガリレオの名誉を回復しました。(「檀れい
今日の1ページ」より)
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第三節 霊感についての諸説、D口述筆記説、61頁、左段8行
https://youtu.be/vvAJnb185DU
*
5. 口述筆記説
a.
事実上−神が記者たちに、聖書を「口述」されたという教え
b.
御霊が−記者たちに「書くべきもの」−正確に告げておられる箇所−全聖書にあてはめられる
1.
聖書記者たちに−帰せられる「独特な様式」−存在しない
2.
この立場ではないのに−この「名称」を受け入れる人々が存在する
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第三節 霊感についての諸説、C言語説、60頁、右段36行
https://youtu.be/eEuHNhsfgV0
*
4. 言語説
a.
聖霊の影響−「思想」を導くことを越えて−使用された「言葉の選択」にまで広げられたと主張
b.
それぞれの言葉−「そのメッセージ」を表現するほどに−神がその時点で「望まれた正確なことば」であるほどに−聖霊の働きは強烈
c. これは「口述ではない」ことに−大きな注意が払われる
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第三節 霊感についての諸説、B動態説、60頁、右段27行
https://youtu.be/KN8DdayDXj0
*
3. 動態説
a.
霊感と聖書の記述のプロセス−神と人間の要素の「協働」の強調
b.
御霊の働き−「持つべき思想・概念」へと著者を導き−記者自身の「個性」が言葉・表現にきらめくことを許容
c.
その人の記述−彼の「独特の個性」こめられたかたちで−神に導かれた思想としての表現を
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第三節 霊感についての諸説、A照明説、60頁、右段14行
https://youtu.be/37AmXoeepsc
*
2. 照明説
a.
聖書記者たちの上に−「聖霊の影響」
b.
それは「霊的な事柄」に関する−増大させられた感受性・知覚力−通常の諸能力の「高揚」
c.
意識を強めたり−精神が所有するもの−「増幅」
d. 霊感の結果−真理を発見する能力が「増加」
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第三節 霊感についての諸説、@直感説、60頁、左段34行
https://youtu.be/T8gQID8hHRA
*
序
a.
聖書記者の変わらない証言−聖書は「神を起源」とするもの
b. それは−人間への「神のメッージ」−聖書の霊感の事実
c. そのことが−意味しているもの「何であるのか」−ここに「見方」の相違
1. 直感説
a.
霊感=高度な「洞察力」
b. ほとんど「芸術家」の才能−生来の能力・特別な賜物が機能すること
c.
宗教的な天才−プラトン、仏陀、他の人たち−偉大な宗教的・哲学的な人たちのものと同様のもの
d.
聖書−ヘブル人の霊的経験を映し出した「偉大な宗教文学」
2020年12月13日 アドベント第三週 旧約聖書
イザヤ書52:13-53:12「旧約における三つのメシヤ像―B苦難のしもべとしてのメシヤ」
https://youtu.be/YqLD2uXuuo8
*
先週は、不思議な一週間であった。まず、母校の教え子から「仲井論文『ディスペンセーション主義の終末論の克服』」を所望された。次に、大学生時代の旧友から、神学会の友人から、同じ資料の注文が入った。そして、昨夜さらに他の旧友からも。さらにある雑誌への協力の話、大学の博士課程で研究されている方からも相談が入った。多忙な一週間であった。
*
さて、今朝はアドベント第三週である。旧約聖書
イザヤ書52:13-53:12「苦難のしもべとしてのメシヤ」像をみていこう。
この箇所は、@未来の栄光・顕揚(52:13-15)、A予期されないかったメシヤ像(53:1-3)、B代償的死(53:4-6)、C恥辱の死(53:7-9)、D復活と報酬(53:10-12)で構成されている。
アドベントは、主の来臨を待ち望む期間である。1世紀当時のユダヤ人たちは、ダビデ王的メシヤ、つまりローマ帝国の植民地支配から解放してくれる卓越した政治的指導者、軍事的解放者の出現を待望していた。しかし、主の来臨は二段階―初臨と再臨で構成されていることは知らなかった。「52:13高められて上げられ」る前に、「53章
苦難のしもべ」としての段階があった。高挙の前に謙卑の段階があった。メシヤ来臨の「二段階性」は奥義であり、だれにも理解されていなかった。それゆえイザヤ53章は「メシヤ預言」としては受けとめられていなかった。「苦難のしもべとしてのメシヤ」は期待されていなかった。
*
このことは、わたしたちクリスチャンにもいえるのではないか。イエスを信じ、救われ、祝福され、上昇思考の中で生かされ、「失敗や挫折、病気や事故」等の否定的材料には蓋がされる傾向があるのではないか。わたしは、この箇所を繰り返し読んでいた時、P.トゥルニエ著『人生の四季』に、人生の秋が訪れると、「成功よりも実り豊かな敗北というものがありうる」(p.120)と成功だけではなく、失敗の中にこそ、意味があり、意義があるのではないかと問われていることを思い出した。
聖書神学辞典(いのちのことば社)p.305-307に記させていただいた「苦難のしもべ」の論稿でも明らかにしたように、新約からの光で振り返れば、イザヤ53章の「苦難のしもべの理想像は、“重ね絵”のようにして、イエスとその教会において最もすぐれた表現を得、最も完全に成就されている」ことを知る。
そして、この「苦難のしもべ」像は、キリストにあるわたしたちを「苦難の共同相続人」(Tペテロ2:21,24、ローマ8:17)に同一化させる力を有している。イエスがイザヤ53章のメシヤ預言に自らの使命をアイデンティファイされたように、わたしたちクリスチャンも、私たちの人生の負の部分を、イザヤ53章に重ね合わせることには意味があるのではないか。人生の影の要素に意義を発見できるのではないか。
*
@
「見るべき姿も輝きもなく」「慕うような見栄えもない」、「53:3蔑まれ、のけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」、「人が顔を背けるほど蔑まれ」、「尊ばなかった」という”蔑まれた人生の部分”を、A「53:4
それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだ」という”誤解された人生の部分”を、B「53:5
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」、「53:6しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」という”代償的な人生の部分”を、C「53:8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれた」という”だれにも理解されない孤独な人生の部分”を、D「53:9
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが」と”良き取り組みをしても、まったく逆の否定的評価を受けた人生の部分”を、E「53:10
しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる」という”パラドックスに満ちた神の不思議なみわざの人生の部分”を、F結果として「53:11
『彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う』」という“犠牲的・代償的なミニストリーを通して誤りから多くの兄姉・同僚を救い出せた人生の部分”を、Gそのような奉仕の最終的な報酬は永遠の新天新地に属するのではあるが、前味として「53:12
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る」と“ポツリポツリと、その兆しとしての初穂を、提供した神学的ワクチンの成果として、証し人を見せてくださるという人生の部分”を、神さまはみせてくださる。
*
そのような意味で、イザヤ53章は、わたしたちクリスチャン人生の“負の部分”の覆いを取り除く力がある。この章のひと言葉、ひと言葉は、いわば「ゴミだめ」のように受けとめていた人生のそのような部分が“キリストにあり、御霊にあって、実は霊的・本質的には宝物蔵”であると見せてくれる。天からの視点、代償的犠牲となることの価値、実は最悪の事柄の只中にこそ逆転があるのだという視点を開いてくれる。それゆえわたしたちは、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられ」ることを恐れない。自らそこに身を投じる勇気を賦与される。人間世界での相対評価を絶対視しない。わたしたちは進んで「53:12多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」。そこには墓碑にも刻んだ我が家の家訓「ピリピ1:21
生きることはキリスト、死もまた益なり」の隠された道筋のひとつを垣間見る。
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第二節 霊感の事実、B. 聖書の神的起源、B主ご自身の旧約聖書に対する見方、60頁、左段2行
https://youtu.be/4dHVvLuW0zs
*
6. 主ご自身の見方
a.
主ご自身の「旧約聖書」の著述に関して−「維持しておられる立場」に留意
b.
その当時の「ほとんどのユダヤ人」−によって「支持されていた見方」
c.
彼らの「聖書の性質」に対して−イエスは「挑戦したり」「正したり」されなかった
d.
イエス−彼らが「聖書に関してなした解釈」「聖書の内容に加えた伝承」−に関して一致されず
e.
議論・論争−繰り返し「聖書を引用」
f. サタンの誘惑に対して−「聖書を引用」
g.
聖書の「権威・永遠性」に語られた−ヨハネ10:35、5:18
h.
イスラエルの聖なるもの−神殿と聖書−前者の「一過性」と後者の「永遠性」
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第二節 霊感の事実、B. 聖書の神的起源、A旧約預言者たちの見方、59頁、右段31行
https://youtu.be/2FxHJOyRWgU
*
5. 「主は…と語られた」
a.
預言者自身が与えている証しと「符号」
i. 何度も彼らは−「主はこのように語られた」と宣言
ii.
エレミヤ30:4、アモス3:1、Uサムエル23:2「主の霊はわたしを通して語り…」、Uペテロ1:21「聖霊によって動かされ…」
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章
啓示の保存ー霊感、第二節 霊感の事実、B. 聖書の神的起源、@新約聖書記者の見方、59頁、左段19行
https://youtu.be/aZixxjao_bs
*
3. 神によって吹き出された
a.
第二の箇所−Uテモテ3:16−パウロの陳述
i. 神に霊感されている−「神によって吹き出された」
ii.
人間に「いのちの息」を吹き込まれたように−神的に「生み出された」
iii.
信仰者を−「成熟した者」に建てあげていく価値を運ぶ(Uテモテ3:17)
*
4. 初期の教会の説教
a.
初期の教会の説教−旧約聖書に対する「同様の理解」
i.
使徒1:16−聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことば…
ii.
ユダの破滅に関して−詩篇69:25、109:8からの引用
iii.
事実上、ダビデの口を使って−「神が話された」のだと断言
iv.
ダビデは神の「マウスピース(代弁者)」という思想:使徒3:18,21, 4:25
v.
聖書に書かれている=神がそれを語られた−「同一視」
エリクソン著、安黒務訳、『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第二節 霊感の事実、A. 循環論法なのか ?
、58頁、右段14行
https://youtu.be/E-DfqFfQVRs
*
1. 循環論法なのか
a. 聖書全体から−その「神的起源」の前提・主張・主の現実の語りかけ−同意義のものの存在に留意
i. 「循環論法」的な基盤の排除−神学がその「基盤となる権威」を取り扱うとき−直面するジレンマ
ii.
聖書の証し−その事柄を設定するときに−取り上げられるときにのみ−循環論法の「誤り」のうちにある
iii.
聖書記者自身の主張−聖書の性質について−私たちの「仮説」を形成する「プロセスの一部分」としてのみ
b. 法廷の審理
i. 被告人−彼ら自身のための証言において「証言」が許されている
ii.
しかし、この証言−その事柄を「設定」するときには取り上げられず
iii.
「無罪」との被告人の弁論−聞いた後すぐ、裁判官は「無罪」−と判断せず
iv.
付加的な証言−「信憑性」を判定するために求められ、評価
v. 被告人の「証言」−認められる
*
2. 循環論法との非難に答える
a. 聖書記者の見方を評価するため−必ずしも「霊感」を前提とする必要なし
i. その記者が−「神の霊感された言葉」−だと考えた「歴史的文書」
ii.
この場合−「聖書の権威」−それ自身の「出発点」としてみていない
b. 聖書の霊感の「前提」ではじめる−
i. そして聖書が霊感されているとの主張についての「保証」として−
ii.
その「前提」を使用するときにのみ「循環論法」
c. 聖書記者の主張
i.
「決定的根拠」として−提示されていない場合−循環論法の過ちはない
1)
聖書を−ひとつの「歴史的文書」として使用したり
2)
そのようなケースを「弁護する」ためにそれを使用することは−許される
ii.
聖書−その「神的起源」の証し−与えている幾つかのやり方がある
1)
旧約聖書に対する新約聖書記者の見方−Uペテロ1:20-21
2)
旧約聖書の預言−「人間の意志・決定」×−神の御霊によるもの○
【断想】「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」
*
先月は、久しぶりに40年ほど前に同じ教会で育ったが、今は全国各地の教会に散在している兄姉たちと交わる機会が与えられた。コロナ禍であったので、ギリギリのタイミングであった。延期する選択肢もあったが、延期すると次の機会はないかもしれなかった。チャンスはその時にとらえないと永遠に失う危険もまたあったのである。それで、マスク、フェイス・シールド、窓を開けての換気、消毒液、距離、小声のための二本のマイク、等ありとあらゆる防疫体制を整えての、どこか戦時下を思わせる”同窓会”であった。
そのことに続いて、救われ、洗礼を受けた遠方の兄弟からメールを受け取った。この年齢になると、旧友からの知らせはいつ受け取っても嬉しいものである。そのメールは、わたしが論文指導した仲井神学生の論文『ディスペンセーション主義終末論の克服』を所望するものであった。
この論文は非常に優れた内容であったので、ICIを通して広く提供させていただき、その収益は彼の開拓伝道費として受け取ってもらっている。多くの神学校や諸教会、教職者、信徒の方々に所望されて提供し続けている。この機会に、再度紹介しておきたい。なお、この資料に関心のある方は、ICI安黒aguro@mth.biglobe.ne.jpへ問合せ・注文ください(価格500円+送料200円、郵便振替用紙同封、後払い)。
*
仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』
<目次>
Tはじめに 1頁
U終末論の争点 3頁
(1)
携挙について 3頁
(@)ディスペンセーション主義の主張 3頁
(A)ディスペンセーション主義への反論 4頁
(ア)エリクソンの見解 4頁
(イ)岡山氏の見解 5頁
(2)再臨のあり方 6頁
(@)ディスペンセーション主義の主張 6頁
(A)ディスペンセーション主義への反論 7頁
(ア)エリクソンの見解 7頁
(3)イスラエルと教会 9頁
(@)ディスペンセーション主義の主張 9頁
(A)ディスペンセーション主義への反論 11頁
(ア)ジョージ・ラッドの見解 11頁
(イ)グルーデムの見解 13頁
(ウ)ジョン・マーレーの見解 14頁
(4)患難について 16頁
(@)ディスペンセーション主義の主張 16頁
(A)高木説の見解 16頁
(B)ディスペンセーション主義及び高木説への反論 17頁
(ア)エリクソンの見解 17頁
(イ)岡山氏の見解 17頁
(ウ)患難の中に現わされる神の愛 19頁
(5)千年期について 20頁
(@)ディスペンセーション主義の主張 20頁
(A)ディスペンセーション主義への反論 20頁
(ア)ジョージ・ラッドの見解 20頁
(イ)岡山氏の見解 21頁
V終末論のとらえ方 23頁
(1)「二つの神の民 二つの神のプログラム」 23頁
(2)「一つの神の民 一つの神のプログラム」 23頁
(3)ディスペンセーション主義の聖書解釈が受け入れられてきた理由25頁
(4)終末のあり方 28頁
Wま と め 29頁
<参考文献>
*
<論文講評>
仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』は、非常にすぐれた論文である。このテーマに関連し、岡山英雄著『小羊の王国』に以下の記述がある、「『レフトビハインド』がいのちのことば社より邦訳出版され、話題となっているが、果してこのフィクションの根拠となっている聖書解釈、終末論は、妥当なものなのだろうか。数多くの終末論に関する書物が出版されてきた。しかしそのほとんどは、特別な神学的枠組みの中で語られてきたように思える。しかし聖書の語る終末論とは何か。みことばに深く根ざした終末論とは何か」と。
さて、“特別な神学的枠組み”とは何か、それは、古典的ディスペンセーション主義(そしてそのDNAを宿している修正版等)のことである。神学的にしっかりしている神学校をもつ教派ではすでに何十年も前に克服された課題である。しかしバイブル・スクール・レベルの聖書学校では“問題意識”を抱くことがないばかりか、この明らかに間違いとして分類されている“ディスペンセーション主義聖書解釈法”を普及させるような聖書教育をはかったりしている。まさしく“盲人が盲人を導く”世界である。
日本のキリスト教会における大きな問題のひとつがそこにある。私自身、約二十年間この課題の克服につとめてきた。そして、特に昨年は集中的に取り組ませていただいた。これらの取り組みを正面から受けとめ、自分の問題として咀嚼し、今回それらの学びの総決算として『ディスペンセーション主義終末論の克服』という論文をまとめられた仲井神学生に敬意を表したい。このような素晴らしい論文にまみえるのは、“教師冥利につきる”といえる。この論文は、小冊子として出版されるのがふさわしい。いやぜひ出版していただきたい論文である。というのは、『ディスペンセーション主義終末論の克服』ができずに“迷路”の中をさまよっている数多くのクリスチャンが日本には溢れており、そのような人々を誤りの中に導き入れることに熱心な、神学的に未熟な教師も多く存在するからである。すでに、第一弾として、このテーマを組織神学的視点から扱ったエリクソン著『キリスト教神学』が出版されている。第二弾として、聖書神学的視点から扱った岡山英雄論文『患難と教会』、著書『小羊の王国』が出版されている。それに続く第三弾として位置づけられるくらいのすぐれた内容に仕上がっている。大変分かりやすいので、この論文が出版されたあかつきには、日本のキリスト教会から誤った聖書解釈である古典的ディスペンセーション主義聖書解釈の払しょくと、『ディスペンセーション主義終末論の克服』が進展するための強力な武器となると確信している。
この論文のすぐれた点のいくつかをみていこう。この論文の第一のすぐれた点は、その「問題意識の明確さ」である。テーマにおいて『ディスペンセーション主義終末論』が誤ったものであることが明確にされている。神学的素養の薄い人々は、「ディスペンセーション主義聖書解釈」を、単に聖書解釈法の多様性のひとつのように考えている向きもあるが、それは“神学的にしろうと”の考え方である。「ディスペンセーション主義聖書解釈」は、確かに聖書解釈法における多様性のひとつである。この「多様性」はかっこ付きであり、、ひとつの意味が隠されている。それは、「この聖書解釈法は、聖書の啓示が許容している範囲の内側にはない」という意味である。「聖書の啓示が許容している範囲の外に位置付けられる、根本的に“誤った聖書解釈”として位置付けられている」多様性なのである。これは、神学の世界における常識であり、バーナード・ラム著『聖書解釈学概論』等の福音派の基準的神学書でも同様の評価である。しかし、日本のキリスト教界の歴史的鳥瞰的視点の欠如した教派においては、福音主義諸教会における「常識」が「非常識」となり、「非常識」が「常識」となっている現実が今なおあるのである。まさしく、そこはよくいわれる「石が浮き、木が沈む」世界なのである。この論文は、この現実に果敢に挑戦している価値ある論文である。
この論文の目的は、『ディスペンセーション主義終末論』の誤りを明確に描写し、それをいかに『克服』するのかの道筋を明らかにすることである。ボクシングに例えると、その対戦相手が明確なのである。であるから、この対戦において勝利するためには、対戦相手の弱点を明確にし、その部分を徹底的に攻撃することにより相手をノックアウトできるのである。仲井神学生は、この試合のラウンドを五つのラウンドに設定し、@「携挙について」、A「再臨のあり方」、B「イスラエルと教会」、C「患難について」、D「千年期について」の部分を攻撃しておられる。これらの主題は、ディスペンセーション主義の誤った聖書解釈の“急所”である。まず各ラウンドの最初において、「ディスペンセーション主義の主張」を中立公平・簡潔明瞭に説明されている。これはエリクソン著『キリスト教神学』で学ばれた聖書解釈の原則の忠実な実行である。相手の特異なパンチを打たせておいて、そこに潜むディスペンセーション主義
“聖書解釈の誤り”をこれまた中立公平・簡潔明瞭に指摘されていく。神学界でほとんど評価されていない三流のいかがわしい神学者の単なる思い込みやこじつけによる批判ではない。また、聖書各書の統一性という聖書観を共有していない、聖書記者の意図とは異なる“解釈者による創造的解釈”による特異な解釈にたつのでもない。福音派における第一級の神学者たち(エリクソン、岡山、ラッド、グルーデム、マーレー、等)の、このテーマに関する、歴史的な吟味を受け、ゆるぎない高い評価を確実なものとされている資料源からの引用に基づく健全で説得力のある批判である。それがこの論文の価値を第一級のレベルのものにしている。
仲井神学生のパンチは、顔面に、ボディーに、あごに、的確にヒットしている。各ラウンドの各主題で、「ディスペンセーション主義終末論」は耐えがたいダメージを受けている。読者は、「ディスペンセーション主義聖書解釈」の誤りを、健全な「福音主義聖書解釈」との対比と見せられる。そして、この試合の最後に「終末論のとらえ方」に関する整理がなされ、論文は完結する。聖書は「神のひとつの民、ひとつの神のプログラム」を啓示しているのであって、ディスペンセーション主義聖書解釈でいわれているように「神の二つの民、二つのプログラム」ではないのである。この論文は、このディスペンセーション主義聖書解釈の“誤った解釈学的前提”とその“誤った終末論解釈”をあますところなく打ち砕いている。勝ち負けが灰色の判定による勝ち負けではない。完全にノックアウトによる圧倒的で完全な勝利なのである。「ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤りとその結実としての終末論」に対する「福音主義聖書解釈法とその結実として健全な終末論」の勝利である。そのことが明らかにされている。
この論文を読んで、このテーマに関する福音派の第一人者である岡山英雄氏の意見・感想を聞きたくなった。メールに添付して送ると数日後返信メールが届いた。「メールをありがとうございます。仲井さんの論文を読ませていただきました。とてもよく書けておられると思います。私の本も内容をよく理解して頂き、感謝しています。仲井さんによろしくお伝えください。よき学びを指導しておられる先生のご奉仕に、主の恵みが満ちあふれますように」とのことであった。私は仲井神学生に私と岡山先生の評価を伝え、ぜひこの論文を、このテーマに関する、キリスト教会における第三弾として出版されるよう励ました。
カルヴァンが、プロテステント・キリスト教の金字塔といわれる『キリスト教綱要』を出版したのは、二十代であった。それには比べることはできないが、「この仲井神学生論文が、キリスト教会における『ディスペンセーション主義終末論の克服』に歴史的貢献を果たすことは間違いのないことである」と確信するのである。
2010年2月26日
論文指導教官:安黒務
2020年12月6日 アドベント第二週 旧約聖書
ダニエル書7:1-18「旧約における三つのメシヤ像―A天の雲とともに来られる人の子」
https://youtu.be/A5vylbC6YNQ
*
アドベント第二週である。今朝は、旧約聖書
ダニエル書7:13-14「天の雲とともに来られる人の子」としてのメシヤ像をみていこう。
*
⑴ 黙示文学としてのダニエル書の背景
「黙示文学」とは何か。ユダヤ人の歴史に、希望と期待の本質を変えてしまう何かが起きていた。旧約の前半、義に対する報いは地上の約束の地での長寿を意味していた。しかし、旧約の後半、分裂王国時代の末期、敬虔な生き方をするユダヤ人は、若くして非業の死を遂げる可能性が大きくなっていった。
バビロン帝国に対する敗北、捕囚地での生活、敵対する諸民族、諸国家に囲まれての生活、アンティオコス・エピファネスのような暴君等と対抗する中、生死を賭けた闘争を余儀なくされていた。
当時の世相を反映した黙示文学者たちは、地上で解放され救われる希望を捨て、人の運命を真に決定する出来事は、この世を超えたところにあり、最終的な正しさの証明と裁き、真の救い、すなわち究極的な救いは別の世界、贖われた被造物世界である新天新地で実現すると信じた。ダニエル書はそのような時代背景と文学的状況の中で執筆された。
*
⑵ ダニエル書の「人の子と神の国」
v.13「人の子のような方」とある。福音書でイエスが「人の子」と自称されている。それは、ダニエル書7:13からの言葉である。それは、「人間イエス」という意味ではなく、海から上がってくる四つの獣と対照的に、「人間の姿」をとり「雲に乗って来臨される神的な存在としてのメシヤ」であると自称されているのである。弟子たちを含め当時の人々は、その意味を理解していたため、「大工の息子のイエスが、なぜ雲に乗って来臨されるメシヤであるのか」といぶかしく思った。
この言葉の背景は、ダニエル2:24-45にある「ネブカデネザル王が見た一つの巨大な像」であり、7:1-28にある「ベルシャツァル王の治世時にダニエルが見た海から上がってくる四つの獣」に関する黙示文学的描写である。これは、ダニエルを通しての神の解き明かしによれば、バビロン帝国、メディア・ペルシャ帝国、アレキサンダーのギリシャ帝国、ローマ帝国の興亡の歴史の只中に起こされる「ひとつの小さな石」としての神の国、そしてその神の国を永遠に支配されるメシヤたる人の子についての預言を象徴的手法を使って描写したものである。
*
⑶ 新約における「キリストの再臨と贖われた世界の到来」
新約に目を移すと、マタイ26:63-64にイエスに対する宗教裁判の決定的場面でこの言葉が引用される。
「マタイ26:63
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」26:64
イエスは彼に言われた。『あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。』26:65
すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒とくした。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒とくすることばを聞いたのだ。」イエスとは如何なるお方であるのか、についての自己証言である。
「そして、イエスは、使徒1:9
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。…1:11
『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。』」と昇天と再臨に関する記述がある。
さらに、「Tテサロニケ4:16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、4:17
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」と再臨待望を励ます言葉がある。
*
結語
このアトベント、わたしたちは旧約における「主の日」、つまりメシヤの「初臨」の実現、受肉であるクリスマスを祝う。しかし、それは来臨されるメシヤのみわざの半分、前半のみである。わたしたちは来臨されるメシヤの後半、「再臨」を待ち望むというアドベントにも生かされている。
戦後のベビーブーム、経済の高度成長期にあった教会学校ブームと教会の高度成長期の時代から、少子高齢化と教会の低成長の時代、黙示文学的にいえば、ダニエル書のような時代とも類比されうる。敬虔な働き人は、教会成長によってもたらされる恩恵どころか、“驚くべき貧困”に追い込まれる恐れすらある今日である。しかし、わたしたちは、主のために、主と共に労苦してやまない。であるから、ダニエル書、テサロニケ書、ヨハネの黙示録等のことばをもって互いに励まし合いたい。再臨の主がわたしたちのすべての労に報いてくださる時が来ると。
ダニエル書「12:3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。」
“ I have
a dream ! − 人生の第四クォーターにおける夢 ! ”
「神戸ルーテル神学校 教授会シンポジウム
セミナー」で”ネット社会における神学教育の可能性”(2000年 2月)という講演
http://aguro.jp.net/d/file/p/pc04.htm
*
「人生の第四クォーター」ということで、ひとつのことを思い出した。20年前のことである。「神戸ルーテル神学校
教授会シンポジウム
セミナー」で”ネット社会における神学教育の可能性”(2000年 2月)という講演をさせていただいた。それが、今現実になっている。来年一月には67歳となり、最後の奉仕先「生駒聖書学院」での奉仕も終えることになる。それから、わたしの人生は、いわば「第四クォーター」に入る。
ある意味で、奉仕の円熟期、神学校での40年余りの神学研鑽と教育の収穫期である。それらの収穫を「神学校」ではなく、「すべての神の民」に向けて供給する補給基地とならんとしている。ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和の著作集・論文・資料集から学んだものを分かりやすく、広く信徒の皆さんに分かち合っていこうとしている。その手始めが、『キリスト教教理入門』と『終末論』ユーチューブ・ビデオのシリーズである。携帯でも十分視聴・学習できる。このスタイルで、主に導かれるかたちで「いろんなシリーズ」を収録し、分かち合っていきたいと願っている。
*
【講演の抜粋紹介】
「わたしの夢は、特別な人が対象なのではなく、すべての年代、すべての階層のクリスチャンに提供される、いわば"太陽の熱(詩篇19:6)"のような恵みとしてのインターネットを通しての継続神学教育です。あらゆる人に提供されているこの機能を生かして、電車・車・バス停・喫茶店・道端のどこにいても、一生涯無料で"世界的スタンダードな神学の学び"を受講してもらうこと、またCS教師、各会のリーダー、聖職者の方々が、地球のどこにおられても携帯電話片手にメッセージの準備の助けを受けられる"教理的説教の材料の宝庫"を提供することです。また近い将来には、光ファイバー網の敷設や衛星通信網の展開によって、大容量・高速通信のブーロードバンド時代が到来します。そのときには、神学校での私の講義をデジタル・カメラで実況中継し、全世界の家庭のデジタル・テレビで学べるようにしたいと考えています。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第5章 啓示の保存―霊感 第1節 霊感の定義
B啓示は垂直的な行為、霊感は水平的な事柄、58頁、左段29行
https://youtu.be/Unrcqai0xFg
*
3. 垂直的行為と水平的行為
a. 啓示−「神から人間へ」のコミュニケーション−「垂直的」行為
b.
「霊感」−啓示の「最初の受領者」から「次の、また後の他者」へと真理を「中継」に関係−「水平的」行為
i.
「啓示なし」の霊感−聖霊は「異教徒のことば」を記録するように導かれた
ii.
「霊感なし」の啓示−聖霊が書き留めるように導かれなかったゆえに、記録されなかった啓示
iii.
霊感されたものにおいて−かなり「選択的」であった
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第5章 啓示の保存―霊感 第1節 霊感の定義
A口頭での再話以上の何か、58頁、左段10行
https://youtu.be/L0C5qNcC094
*
2. 口伝以上の何か
a. なぜ「霊感」は必要なのか?
i.
神−それぞれの人に「啓示」を繰り返されない−「保存」すべき方法が必要
ii.
「啓示の出来事」−「口伝」、明らかな「伝統」−「文書化」をつなぐ時代において機能
iii.
長い時の経過−口伝が「腐食」「変更」されるという問題
b.
談話室での「伝言ゲーム」−簡単に「口伝」が崩されていく姿をみせる
c. 「口伝」以上の何かが必要
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第5章
啓示の保存―霊感 第1節 霊感の定義 @聖書記者たちに対する聖霊の超自然的な影響、58頁、左段3行
https://youtu.be/HaMfQNs9ugY
*
1. 聖霊の超自然的影響
聖書の霊感−「彼らの著述を啓示の正確な記録とし、また彼らが書いたものを事実上、神の言葉であるように結実させた、聖書記者の上に働いた聖霊の超自然的な影響」を意味
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第6節 啓示としての聖書、55頁、右段12行
https://youtu.be/aHRFDoNzf-M
*
1. 命題→保存→文書化
a. 啓示=「命題的真理」含むなら−「保存されうる性質」
i.
それは「書き留められ」−「文書化」されうる
b. 原初の啓示の「正確な再現」の程度に応じて
i.
「書かれた」この記録−「派生的啓示」=啓示と呼ばれる資格
*
2. 経過・出来事−結果・生産物も
a. 啓示の定義−ひとつの要素
i.
啓示=「経過」とか啓示されつつある「実際的な出来事」なら−聖書啓示はなくなる
ii.
啓示=「ずっと以前に生起した何事か」である
1) 結果、啓示された生産物なら−聖書=啓示と呼ばれる
*
3. 啓示の性質の問題=霊感
a.
より大きな問題−「啓示の性質」
i. 啓示=命題的−保存されうる
ii.
そのとき−聖書=派生的な意味で啓示であるのか?−という問題
b. それが「霊感」されているかどうか
i.
それが−真に「啓示されたもの」を保存しているのかどうか?−という問題
*
4. 漸進的の意味
a. 啓示=漸進的
i.
「漸進的」という用語−「漸進的進化論」の思想に使用−リベラルな学者のもとで栄えたアプローチ
1)
旧約聖書のある部分−事実上、「時代遅れ」「偽り」とみなしている
2) 真理についての−不完全な「近似値」
ii. ここでの意味−「後代の啓示」−「先代の啓示」の上に築かれている
1)
それへの「補足・追加」○−「矛盾」×
2) イエス−律法の教えを「拡張・発展・内面化」
*
5. 人格的臨在と情報としての真理
a. 一般啓示よりも−さらに「完全な方法」において
i.
私たちに知らせるために−「主導権」
1) 私たちの「理解」にかなうかたちで
2)
失われ、罪深い人間−神を知るようになりうる
ii.
神−神の子たちに−何を「期待」し、何を「約束」されているのかについての「理解」−成長し続けることを意味
1)
啓示−「人格的臨在」と「情報としての真理」−両者を含むもの
2)
私たち−神を「特定」し、神についての真理を「理解」し−他の人々を神に向けさせることができるようになる
2020年11月29日 アドベント第一週 新約聖書
ルカによる福音書1:26-35「旧約における三つのメシヤ像―@ダビデ王的メシヤの待望」
https://youtu.be/kYC-hurO4sw
*
今年もまた、アドベント(待降節)の季節がやってきた。クリスマスに向けて心備えをする季節である。今年は、巷ではコロナ騒ぎでかしましい。そのような中、心静めて主のご降誕お祝いの心備えをする静かな時間と空間が与えられ嬉しい。
この季節には、いつも福音書等から降誕の箇所を開かせていただく。今年は、それに加えて、ラッド著『終末論』で教えられている旧約における三つのメシヤ像に目配りしてみたい。
ラッドによると、聖書における神は、「来訪される神」である。神はこの被造物世界を創造され、それを愛し、気にかけておられる。神は、いろんなかたちで来訪されてきた。これは、物質世界を忌み嫌い、それから飛翔と逃走するグノーシス的な二元論理解とはきわめて異なる。旧約では「主の日」と記され単一であるが、新約ではその日は「初臨」と「再臨」の二段階に分けられる。ゆえに、わたしたちは、「初臨」であるクリスマスを振り返り祝い、同時に「再臨」である未来の到来を待ち望む。
主の来訪は、ときにそれは「きわどい」アプローチとなる。マリヤは処女で聖霊により妊娠する。それは、当時のユダヤ社会ではきわめて危険な状況を生み出した。発覚すれば石打で殺される危険すらあった。しかし、綱渡りのような危険に道筋にも備えがあった。ザカリヤとエリサベツの年より子の奇蹟的誕生である。神様の見事な布石である。わたしたちの身の回りにも、このような不思議な布石をここかしこに見出すのではないか。信仰の目が開かれるときには。
マリヤは、旧約聖書の中心的な「ダビデ王のようなメシヤ」を身ごもって産むとの告知を受けた。これは、ローマ帝国の植民地支配からの独立運動のリーダーの誕生を予期させるものである。
この約束は、Uサムエル記7:12-16「7:12
あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。7:13
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」において、ダビデに与えられたものである。当時は、下克上が溢れていた時代である。そのような不安定な政権交代の時代に、世襲の安定的な王国が維持されるという保証は、いかばかりか素晴らしいものであったろう。
また、この約束は、王国分裂後も南ユダ王国で保持されていく。しかし、北方にアッシリア帝国が興隆すると、近隣の諸国はその圧力にさらされるようになる。シリアと北イスラエルは同盟を組み、南ユダも仲間に入れ、対抗しようとする。南ユダは、それを拒み、アッシリアと手を組み、シリアと北イスラエルを滅ぼしてもらう。しかし、セナケリブ王の時に、南ユダも侵略され、大軍に取り囲まれる。しかし、預言者イザヤの励ましのもと、アッシリヤの大軍は一夜のうちに死体の山を築く。おそらくなんらかの疫病の結果であろう。「U列王19:35
その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
19:36 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。」
そのような時期に、記されたのがイザヤ書7-11章である。
「7:14
それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
「9:6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。9:7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
「11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。11:2
その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」
何という不安定な時期に、預言者イザヤは活躍したのだろう。そう、不安定な時期、困難な状況の中にこそ、闇夜のローソクの光のように主の語りかけは心に響く。わたしたちも、危機の時期、暗闇の只中にある時こそ、主の語りかけ、励ましをいただき、勇気を奮い立たせられる。
「名をイエス」、その子は「ダビデの王位」に着かせられる。我らの御子イエスは、受肉され、十字架のみわざを成し終えて、復活・昇天され、御座に着座された。
「使2:30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。…2:32
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」
「エペ1:19
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。1:20
この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、1:21
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」とある通りである。
旧約においては、ユダヤ民族的王国の中に、それらの預言の成就がみられる。そして新約においては、キリストの人格とみわざの中に、ユダヤ人もなく、ギリシャ人もなく、パレスチナ人も、アラブ人も、ペルシャ人もなく、人類、諸民族の中に普遍的にみられる、キリストを信じる神の民の中に、「神の国の現在性」としてこれらの預言の成就がみられ、また将来にあるキリストの再臨、千年王国、新天新地という贖われた被造物世界における統治・支配の中に完全に成就される。新約のクリスチャンであるわたしたちにとっては、クリスマスだけではなく、これら歴史全体、救済史全体を意識し眺望しつつ守る待降節(アドベント)でもある。このような意識をもって、アドベントを過ごしていきたい。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか、G
啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する、9頁、4行
https://youtu.be/S8v4Me2Eo44
*
前段落において、ディスペンセーション主義の聖書解釈法の”誤り”の病巣がどこにあるのかを指摘した。その病巣は、「旧約聖書の諸々の預言が文字通り成就する」とする聖書観(ある意味で、エリクソンも批判する「絶対的霊感説、絶対的無誤説」に立つ根本主義に符合)であり、その結果として生まれてきた「神の二つの民、神の二つの計画」の”誤った”前提について学んだ。
本段落では、聖書的かつ伝統的で、健全な聖書解釈法について学ぶ。この聖書解釈法は、聖書自身が提示しているものとして、イエスと使徒たちが明らかにしているものでもある。それは「啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する」、「旧約聖書はイエス・キリストによって与えられた人格と使命に基づく新しい啓示によって解釈(あるいは、しばしば再解釈)されなければならない」という聖書解釈の原則である。
わたしは、共立基督教研究所と東京基督神学校にて、宮村武夫師より『新約神学』を学んだ時、G.Vosの“Biblical
Theology”を通し、健全な聖書神学の定義、構造、内容について学ぶ機会を得た。それは、「二つの異なった主題を扱っている旧約と新約の聖書をどのように見るべきか、そしてどのように解釈すべきなのか」という原則についての貴重な学びであった。米国プリンストン神学校の聖書神学教授であったヴォスは、旧新約両聖書の啓示の、@連続性、A多様性、B漸進性を認識し、それらを“有機的一体性”の視点で解釈していくことが、イエスと使徒たちの聖書解釈法の原則であることを明らかにしている。
もし、この主張が真に“使徒的聖書解釈法”であるのなら、「二つの神の民、二つの神の計画」の解釈学的前提をもつディスペンセーション主義聖書解釈法は、使徒たちに敵対する立場に立っていることになるのではないのか。ここで扱われている聖書解釈法の問題は、健全な聖書解釈法の範囲内の“許容可能な多様性”の問題という軽い問題ではない。イエスと使徒たちの聖書解釈法の立場に立つのか、それとも、イエスと使徒たちに敵対する聖書解釈の立場に立つのか、という重大な問題である。ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤りの中に、また影響下にある兄姉たちにはここを真剣に考えていただきたい。
*
わたしは、拙論『福音主義イスラエル論
T』の「第一部: 神学軸―聖書解釈における「使徒的正統性」の反映の如何」の「A) 使徒的聖書解釈法とは何か」の「A-3)
二つの聖書解釈法」で、以下のように論じた。参考にしていただきたい。
私たちの前に置かれている聖書解釈の第一の方法は、イスラエルは約束された土地を相続するよう運命づけられた神政政治の民族、今も将来も、旧約の預言が文字通り成就するとき、イエスは文字通りダビデのような王となられると捉える「ディスペンセーション主義聖書解釈法」である。ディスペンセーション主義には数多くの特色ある教えがあるが、最も主要な教義は「神の二つの計画と神の二つの民が存在する」というものである。これが、旧約と新約の二つ物語を「二つの神の民、二つの神の計画」と別個に捉えるディスペンセーション主義の極端な字義主義解釈法の真骨頂がある。もし旧約聖書の言葉が「徹底して字義通り」に捉えなければならない、という意味で「神のことば」であるとしたら、彼らは正しいことになる。しかし、そうではない。聖書解釈には第二の方法がある。それは、旧新約の「啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を認め、「旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する」方法である。旧約聖書には象徴、予型、預言等がある。そこに時満ちて神の御子が受肉され、贖罪のみわざを完成し、復活・昇天・神の右に着座され、聖霊を注がれた。この「事態」を受けて旧約聖書を「イエス・キリストを証しするもの」として解釈した文書が新約聖書であるということである。
最も大切なことは、私たちの目の前にある「二つの聖書解釈法」の良し悪しの審判をどこに仰ぐのか、ということである。「聖書解釈法」の選択権は読者の側にあるというのか。いやそうではない。新約聖書は、パウロをはじめとする使徒たちに「旧約聖書」解釈の権威が与えられていることを明確にしている。使徒たちの「旧約聖書」解釈は、キリストのみわざの現実に直面したことにおいて、大きな変化を遂げた。これがキリスト教会の旧約聖書解釈の基点である。二つの聖書解釈法の良し悪しを判定する法廷は、「新約聖書」にあり、使徒たちが明らかにした聖書解釈法とは如何なるものであったのかを基準に判決が下されるべきである。それゆえ、私はあえて「聖書解釈法とは何か」と問わない。その問いは道を誤らせる危険を内包する問いである。これが「使徒的聖書解釈法とは何か」を問う所以である。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第5節 命題か、物語か、55頁、左段7行
https://youtu.be/lwOfx44c_Oo
*
1. 啓示とは、
a. 物語主義者
i. 命題的というより、物語的
ii.
さまざまのジャンルを、認知的命題的形式に変換
b. 命題主義者
i. 物語の強調―ポストモダン認識論の結果
ii. 聖書の多くー物語形式
1) イエスーたとえ話
2) 預言者―例証・比喩
iii. しかし、イエスや弟子たちーたとえ話に命題的解釈賦与
*
2. 多くの本
a. 物語の神学の使用を支持
i. 物語・話による解説によって補われた
ii.
物語についての命題的・非物語的な議論
b. 命題的啓示と神学に関する反論
i. 間違った場所に置かれている
ii. 命題と物語―not 互いに排他的 but 命題的を第一、補足的関係
*
【関連参考資料】教職者向け
宇田進著『総説 現代福音主義神学』
第四章 ポスト・モダニズムの挑戦とキリスト教神学の脱構築
第7節「物語神学」
*
1.
過去の福音主義神学に見られる啓蒙主義的な一種の合理主義の影響を清算して、キリスト者の生活と思惟における聖書の役割をより具体的に明確化する上で、物語の強調は有益
*
2. 物語神学の立場
a. 聖書の歴史的文献的成立過程を遡行的かつ通時的に探求してきた歴史的・批評的研究
i. 聖書正典の際限なき断片化≠「や解体≠ニいう危機的現実
ii. 聖書のバビロニヤ捕囚
iii. リベラリズムの「近代性」・「現代性」への還元の方法の結果とその限界
b.
重大な行き詰まり≠フ状況の深刻な受けとめとその超克の道の探求
i.
聖書を字義的・命題的な真理を強調する伝統主義への復帰 ×
ii. 「物語」という新しい文学的ジャンル≠ノ着目
iii. 見失われてきた聖書の総体∞統一性≠ニ聖書のインパクト、メッセージ性≠取り戻す
c.
「ポスト・リベラル」と「ポスト・コンサヴァティブ」の両面性をもった「第三の立場」
*
3.
ティレンス・ティリー『物語神学』1985
a. 旧約聖書=神とイスラエルの物語
b. 福音書=not
イエスの人物史 but イエスとの出会いによって影響を受けた人々により語り継がれた物語
c. キリスト教信仰
i. 神の存在・神の世界に対する計画−特定の形而上学的教説 ×
ii. 世の世界観に対抗するひとつの世界観 ×
iii. not 命題的真理・教理の知解とその受容 but
個人の生や共同体のあり方を啓発させる「生きた信念」(living convictions)
iv.
物語の真理性=not 史実的歴史の提供 but 読む者を実存的に照明
d. 福音の理解・伝達
i.
物語−人間の審美的感性・想像力をかりたて、絵画的迫力をもった言語活動の様式
ii.
論理実証主義・合理主義による理性のパラノイア(偏執症)=|きびしく反省
e. 物語神学の意義
i.
歴史的・批評的研究の限界・問題性−再確認
ii. 文学的・審美的ジャンルに注目−フォーカスを聖書そのものに
iii. 科学的言語のみを真とする−論理立証主義の立場に対し
iv.
分析哲学の一潮流に助けられながら−宗教的言語の意義と権利を立証
f. 物語神学の問題性
i.
聖書−神の存在に関する情報・世界と人類に対する神の意思・計画を伝えるものではない
1)
→信仰が内臓する形而上学的側面の意味・解明−不十分
ii. 聖書−宗教的想像力の啓発と鼓舞という機能面からのみ扱う
1) →人類に対する神的真理に関する預言的告知の書・普遍的規範性の立証−欠落)
iii.
神学の概念の問題−特定の信仰伝統に関する一種の記述的≠ネ営為・喚起的≠ネ学に
1)
→神学は神と世界に関する神の経綸≠フ解明・立証−から離れている
2020年11月22日 新約聖書
テサロニケ人への第一の手紙5:12-28「完全に聖なるもの、責められるところのないものへー創造論的射程と地平線を伴い」
https://youtu.be/XJXultYD4Dg
*
礼拝後、ただちに生駒のアイアイランドに出かけなければならなかった。それで、この原稿は深夜、アイアイランドでしたためている。ただ、ネットのつながりが良くない山中にある。配信は帰宅後になりそうである。
*
さて今朝は、Tテサロニケの最後の箇所である。パウロは、小アジア(現在のトルコ地方)の宣教の途中に、マケドニヤ(現在のギリシャ北部)からの幻に導かれ、最初ピリピで、次にテサロニケで宣教を展開した。種は蒔かれ、芽は育ち、短期間に教会は生まれたが、迫害も大きく、パウロの宣教チームは騒乱が大きくなる危険を察知し、ベレヤ、アテネ、コリントへと転進していった。 ただ、迫害下に生まれたばかり教会を残してきたので、兄姉の状況が心配になり、テモテを派遣した。ここに交わりの意義がある。
その意味で、今回の古き兄姉たちとの交わりの意義・意味・模範も「テサロニケ」にあるといえるかもしれない。幹事の準備されたテーマは、”
Who am I ?”, “ What should I do
?”であったようである。わたし流に解釈すれば、それは救いのみに焦点を当てる「救済論的方法」とともに、生の原点としての「誕生と名前」の由来、救いを中心点としつつ、聖化・召命という救われた者の生きる意味・価値に視野を広げる「有神論的・創造論的方法」ともいえる。
幹事の司会とリードを眺めていて、この人は一体どこで、このようなアプローチを身に着けたのだろうと感心していた。そして、ふと、青春期の光景が走馬灯のように心に浮かんだ。それは、関西学院大・聖書研究会ポプラの甲山での一週間の修養会、浜名湖で開催された二週間のKGK(国際的には、IVCF)全国リーダー研修会を指導してくださったハンス・ビュルキ博士(スイスのIVCF主事)の、教育者ペスタロッチにちなんだ人格陶治のアプローチに似ていると思った。
「伝道」は大切なものであるが、「伝道主義」に偏重してしまうと、創造の神が贖われた被造物世界の良き管理者を生み、育て、準備しておられるという「今日における生」の意味・意義の射程・地平線が狭窄状態に陥る。わたしたちが、神に創造された目的は一体何なのか、わたしたちがその目的に沿って生かされるということは、今日のわたしたちの生に対してどのような意味・意義をもつものなのか、そのあたりを深く掘り下げることは、ひとりひとりの生きる意味・価値を“宝石”のように大切に扱うことなのである。わたしは、日本での伝道の行き詰まりの原因のひとつがここにあると思う。救われた人が、「伝道・教会形成・宣教」にしか、生きる意味と価値を見出せないとしたら、その周辺に生きる家族・隣人に良き証人となることができるだろうか。そのような生き方には巻き込まれたくないと腰が引けてしまわないだろうか。クリスチャンであろうとなかろうと、同じ唯一の神の被造物たる人間であり、神の価値ある・意味ある作品であり、伝道や教会形成に深く関わり合っていなくても、この被造物世界で、意味ある生き方、価値ある人生の可能性・潜在性を一緒に探求していく協力者としての視点が大切なのではなかろうか。
古き素晴らしい思い出を共有してきた兄姉たちは、それぞれ離散した場所で「主と共にあり」テサロニケの兄姉のように素晴らしい証しをされていることを耳にし、励まされた。しかし、同時にわたしたちは世にあってさまざまの戦いをかいくぐってきた主の戦士でもある。そこには、銃弾の痕があり、心身のここかしこには傷がうずいている。獣の親子が傷口をなめ合って癒しを経験するかのように、主にあり分け隔てのない、正直な告白と分かち合いには“癒す力”があるようだ。
さて、テサロニケの教会は迫害下でも素晴らしい証しをなし成長していた。ただ、内包する課題もあった。それは、「健全な終末論理解、健全な再臨理解」であり、健全な福音理解に根差した「健全な倫理的生活」の形成であった。
パウロは、この手紙の最後で、@健全な倫理的生活の関係(v.12-15)、A健全な倫理的生活の形成(v.16-22)、B健全な倫理的生活の完成(.23-28)を励ましている。
*
@ 健全な倫理的生活の関係(v.12-15)
生まれたばかりの教会における課題のひとつは、「v.12指導し、訓戒している人たち」と信徒の会衆の関係であった。しっかりした教会観・教会論がまだ整っていない「家の教会」におけるリーダーシップとフォロアーシップの垂直の秩序・関係である。そこには、「尊敬」という要素と「平和」という要素が大切であった。
今日でも、「宗教法人」の考え方が浸透・確立していない教会等では、その成長過程において教会の会計・運営、そして土地・建物等の財産権で「どんぶり勘定」の時期から、社会的に証しとなる秩序への漸進的移行が求められるであろう。家の教会サイズの時期には問題にはならないだろうが、一定の規模に成長してくると、経済規模・財産規模もおおきくなるので、火種を持つ前に「宗教法人法」の趣旨にそった会計管理が必要とされる。
「v.14
兄弟たち」の水平の交わり・関係である。教会の中には、「怠惰な者、小心な者、弱い者」もいた。パウロは、寛容でありつつ、諭し、励まし、世話を勧めている。個々の必要・状況に適切に対処せよとの、バランスのとれた助言である。教会は、兄姉の相互扶助の共同体である。甘すぎず、からすぎず、ひとりひとりが健全に建て上げられていく助けをすべきである。
*
A 健全な倫理的生活の形成(v.16-22)
健全な倫理的生活形成の秘訣が記されている。「v.16-18 喜び、祈り、感謝」である。「v.19-22
御霊、預言、吟味」である。
喜びと感謝が溢れる生活の真ん中は「祈りの生活」がサンドイッチされている。わたしは、「祈りの生活」をスンベリ夫妻から教えられた。否、見せられたという方が正確だ。部屋に籠って祈るスタイルもあるだろう。しかし、歩きながら祈るスタイルである。夫妻は、いつも闇夜の関学のグランドを手を繋いで歩きながら祈っておられた。いわば「行動的祈り」である。わたしも、そのスタイルが合っている。朝起きた瞬間に、「こぶしを握り締め“主よ、今日も一日、よろしくお願いいたします”」と祈る。そして、立ち上がり一日を始める。「ワン・ワード、ブレイヤー」である。それは、ジェット機が滑走路を発信する際に、管制塔に「発進します」と一言伝えて飛び立つことに似ている。操縦士はあれこれと無駄な会話はしない。イエスもまた「言葉数の多い少ないを気にせず、本質を大切に」と言われているように受けとめている。その代わりに、一日のはしばし、一挙手一投足何かをするごとに「こぶしを握り締め“主よ”」と一言、瞬間の祈りを怠ることはない。私たちには、エジプトのヨセフのように「主がともにおられる」ので、そこが穴の底か、牢獄なのか。バビロンのダニエルのように「主がともにいてくださる」ので、そこが火の炉の中なのか、ライオンの檻の中なのかは関係ない。主は患難の只中で守り支え、引き揚げてくださる。
祈りに溢れる生活における導きは、御霊の臨在であり、その只中における預言的示唆・洞察・知恵である。詩篇にあるように、内住の御霊は、母親と赤子の関係のように、「言葉はなくても、“示唆”を感知」させてくださる。なので、あれやこれやと語る言葉の心配は無用である。“風”がどの方向に吹くのか分からないように、主の思いも、臨機応変で必要にかなうかたちでもたらされる。主の思いは“水”のようで、その器が丸ければ丸くなり、その桶が四角であれば四角となる。しかし、その本質は変わることはない。わたしたちは、みことばを通して教えられる主の御思いを外形的・画一的に捉えることなく、吟味しつつ本質的に、状況と必要に合わせ適用的に受けとめていくことが大切と思う。
*
B 健全な倫理的生活の完成(.23-28)
神さまは、以上のようなかたち、また道筋において、わたしたちを霊的に育み、個性と多様性を尊重しつつ、v.23「完全に聖なるもの」「責められるところのないもの」に、贖われた被造物世界の管理者として備えていってくださる。野に慎ましく咲いている一輪の花も、神さまの御前に栄光を現し、それを永遠に喜んでいるように、被造物の一員としてのわたしたちひとりひとりの“生”にはそれ自体に意味があり、価値があり、神の栄光を現している。それを不断に喜ぶものとされたい。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、F二つの根本的に異なった解答が提示される、8頁、4行
https://youtu.be/4g8pzQQKc_4
*
この段落は、「わたしたちは二つの物語、つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。この明らかなジレンマをどう扱うべきなのか」という聖書神学上、また聖書解釈上、最も重要な問いに対する解答をもって始まる。この重要な問いに対しては、「二つの根本的に異なった解答」が提示されているというのである。
第一のものは、「神は二つの異なったプログラム、すなわちイスラエルために一つ、そして教会のために一つを持っておられる」「イスラエルは、パレスチナの約束された土地を相続するよう運命づけられた神政政治の民族であった。今もそうであるし、これからもそうであるべきである」「イエスは、旧約聖書の諸々の預言が文字通り成就するとき、文字通りダビデのような王となられる」「ディスペンセーション主義の二つの主要な教義は、そこにあるのではない、むしろ二つの異なったプログラムと運命、つまりイスラエルの神政政治的・地上的プログラムと運命、そして教会の霊的・天上的プログラムと運命をもつ神の二つの民が存在すると主張するところにある」。
これがディスペンセーション主義聖書解釈法である。要約すれば、神には「イスラエル民族とキリスト教会という二つの民、イスラエル民族に対する計画とキリスト教会に対する計画の二つのプログラム」があるという、聖書神学上、また聖書解釈上の“前提”の下に旧新約聖書を解釈する立場である。
わたしは、この“誤った前提”が、Clarence B.Bass, Background to
Dispensationalism, 2005, p.21.
に「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記されている、19世紀の歴史的な“ある時点”で、誤って組み込まれたと見ている。
「旧約聖書の諸々の預言が文字通り成就するとき」という表現は、ひとつの鍵である。確かに、ディスペンセーション主義者が指摘している諸々の預言がある。しかし、問題は、イエスと新約の使徒たちは「旧約聖書の諸々の預言が文字通り成就するという視点から旧約聖書を解釈しているのか」という点の厳密かつ丁寧な、聖書神学上、また聖書解釈上の思索と精査のプロセスが欠落していることである。わたしは、聖書神学上、また聖書解釈方法論上において、“イエス・キリストの人格とみわざの卓越性”と“使徒たちの旧約聖書解釈権の権威性”があまりにも軽んじられているのではないかと懸念している。
ラッドは、十数冊の彼の著作集の中で、いろんな角度からこの課題に光を当てている。これまでに記述した「神の国」の概念がそうであるし、この章の後半で議論される「キリスト論」に関する多様なメシヤ預言の“聖書解釈法の原則”の解説は「お見事!」の一語に尽きる。福音書における、イエスの「神の国」の教説は、当時のユダヤ人の間に蔓延する「神の国」理解の盲点を照らすものではなかったのか。使徒書簡において一貫する「ユダヤ人もなく、ギリシャ人もない」神の民理解は、新しい「アイオーン(時代)」における旧約聖書解釈の前提を照らし出しているのではないのか。
コンピューターに例えるなら、ディスペンセーション主義にみられる誤りは、聖書神学上、また聖書解釈方法論上の“バグ※”といえるのではないか。それは、旧新約の聖書解釈とそれに基づいて形成される福音理解に悪しき影響を与え続けている。日本のキリスト教会、また神学校において、「聖書神学上の前提」、また「聖書解釈上の前提」の課題が、ラッド著作集から学ぶことにより、健全化されることを期待している。
*
※バグ (英: bug)
とは、英語で「虫」の意であり、転じてコンピュータプログラムの誤りや欠陥を表す。ソフトウェア・ハードウェア開発における契約文書など、法的な文書ではバグのことを「瑕疵」(かし)と記述する。原因や責任の所在などが不明なものを特定性の低い表現の「不具合」と呼ぶことがある。また、セキュリティ面に関わる脆弱性や欠陥は「セキュリティホール」などと呼ばれることもあり、バグはこれらの原因のひとつになりうる。多くのバグが含まれ、機能的に正常な役割を果たさないものを、バギー・プログラムと呼ぶことがある。なお、発生したバグを探して取り除く作業はデバッグと呼ばれる。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第4節 特別啓示−命題的か人格的か、53頁、右段40行
https://youtu.be/PWtHNMZLO6Q
*
1. 新正統主義によれば
_a. 新正統主義の「啓示観」=情報の伝達×、神ご自身についての提示○
_b.
神はご自身について何も告げられない−神との「出会い」を通して−神を知る
_c. 啓示=命題的なもの×−人格的なもの○
_d. 信仰観−「啓示観」を反映
__i. 啓示=「命題的な真理」の伝達−信仰=「同意」の反応
__ii.
啓示=「人格の提示」−信仰=人格的信頼・委任の行為
___1)
後者−神学=啓示されてきた「一連の教理」×−啓示において見出されて来たものを表現しようとする「教会の試み」○
*
2. 信仰が依拠しうる基盤
_a.
新正統主義−二つの問題を提示
__i. 第一に−信仰が「依拠しうる基盤」確立の問題
___1)
啓示−「人格的」or「命題的」−基盤の必要を認識
__ii.
啓示の「非命題的見方」−信仰に対して「十分な基盤」−提供しているのか?
___1)
彼らが「出会う」神−アブラハム・イサク・ヤコブの神であると=どのようにして「確信」するのか?
___2)
誰かを信頼するためには−その人について「ある程度の理解」−持つこと必須
*
3. 信頼に値する対象
_a. 信頼されうる以前に−「信任」が必須
__i.
現金を銀行に供託金−自分でできない場合−他の人に「代理」
__ii. 誰に「頼む」ことができるだろう?
__iii. 「正直で、信頼に足る人」に委ねる
__iv.
「信じる」=彼について「何か」を信じることに依存−そのようにして「誠実さをもつ友人」を選択
__v.
私たち−彼が「どなた」であり、「どのようなお方」であるのか−知ることなく
__vi.
私たち−「出会っているお方」−「キリスト教の神」であると信頼できるのか?
*
4. 神学それ自身のうちにある問題
_a. もうひとつの問題−「神学」それ自身−の中にある問題
_b.
啓示=人格的−と主張する人々−信仰が「教理的命題」のうちにあると信じていないと主張
_c.
信仰を正しく「定義」すること−正しい教理的理解を「陳述」すること−に関心
_d.
カール・バルト、エミール・ブルンナー−処女降誕・空の墓と同様に−人間における神の像の性質・状態に関して議論−正しい教理確立への努力
_e. 問題の焦点−「教理的命題」と「非命題的啓示」−どのように関係・どこから引き出されてくるのか?
*
5. 結びつきが正しく説明されず
_a. 「非命題的啓示」と「真理の命題」−結びつきがありえない×
__i.
この「結びつき」−新正統主義において「正しく」説明されてこなかった
__ii.
「命題的啓示」と「人格的啓示」−分裂を作り出した
_b. 啓示=「人格的」or「命題的」×−その「両方」○
__i. 神ご自身が−ほんの少し「告げる」×−「ご自身」を啓示
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、Eこの明らかなジレンマをどう扱うべきなのか、8頁、2行
https://youtu.be/Nm0oTFYM46w
*
今日の箇所は、本書冒頭での問いの本質を再確認している。冒頭の一文とは「聖書は終末について何を教えているのか。これを学び始める時、すぐさまその入り口において方法論の問題に直面する。終末論をどのように構築していけば良いのか。福音主義者は、聖書が聖霊によって霊感されており、信仰と実践における唯一の誤りのない規範であるという立場に立つ。しかし、さまざまな教理的主題、特に終末論、に関し聖書が教えているものを探究するとき、このことはどのような意味をもつことになるのか」である。
すなわち、旧約と新約における主題の裂け目の深さを認識し、この問いを発している。聡明な聖書神学者ラッドによる冒頭における問いとは「その入り口において方法論の問題に直面」という聖書神学上の状況認識であり、終末論という教理の形成過程において「信仰と実践における唯一の誤りのない規範」である聖書はどのように機能するのか、という聖書解釈作業過程に関する真剣な問いである。服を着るときに、第一のボタンを掛け間違わないための問いである。ここで間違えると以後のすべての努力が水泡に帰する危険がある。
わたし自身の神学教育と奉仕生涯を振り返ってみる時、最も基本的な聖書観や聖書解釈法に関して、突き詰めた思索の訓練をないがしろにしてきたように思う。それは、わたしの所属団体や母校が、きわめて素朴な信仰を特徴とし、伝道と教会成長と世界宣教に注力し、神学の研鑽にはあまり関心がなかったことにも起因している。平時はそれで良いのかもしれない。伝道は進展し、教会は成長し、世界に向けて宣教師も送り出せる。
しかし、繰り返し打ち寄せる津波のように「誤った運動や教え」が群れや神学校を襲うとき、「鳩のような素朴さ」だけでは危険きわまりない。誤った運動や教えの感染・蔓延から群れや学校を守る「蛇のような警戒心・機敏に神学的に対処する賢さ」をも身に着けておく必要な時代である。もし、これらのことに無頓着であれば、伝道は成功し、教会は成長し、世界宣教は進展したとしても、長い先に「逸脱した福音理解の群れ、また学校」として烙印を押される日が訪れることにもなりかねない。このような危険な芽には、感染が拡大する初期に対処することが大切である。
*
今朝、スマート・ニュースでビル・ゲイツ氏の興味深い記事をみた。
「パンデミックの初期、なぜマスクは重要だと考えられていなかったのか。この第1話で、ジョーンズはゲイツに、公衆衛生の専門家たちがなぜ新型コロナ・ウイルスの感染拡大の防止にマスクが効果的だと初めから考えていなかったのかを尋ねた。」
*
ゲイツは、パンデミックの初期、専門家たちは一般的な風邪やインフルエンザといった他の呼吸器系ウイルスについて分かっていることに基づいてアドバイスをしていたと説明。こうしたケースでは、咳をした時に感染が広がる恐れはあるものの、単に会話をしただけでも感染が広がりかねないCOVID-19に比べるとウイルスの広がりやすさが全く違うと語った。
*
「新型コロナ・ウイルスに見られる信じられないほどのウイルス量が、その他の呼吸器系ウイルスの大半では生じない」とゲイツは言う。
例えば、風邪をひいた人がマスクなしで1時間、他の人たちと同じ部屋で過ごしても、大半の人は健康なままだ。だが、新型コロナ・ウイルスに感染した人がマスクなしで1時間、他の人たちと同じ部屋で過ごすと、「かなりの割合の人」が感染してしまう。「はしかのようだ」とゲイツは言う。
「インフルエンザの咳のモデルは、間違いだったと分かった」
*
また、無症状の人からも広がるCOVID-19の感染力は、まれだとも指摘した。風邪やインフルエンザにかかった人は、周りに感染を広げる可能性がある時期はシンプルに体調が良くないため、家にとどまる傾向があるのに対し、新型コロナ・ウイルスに感染した人は不調を感じないまま歩き回り、知らないうちに周りの人々を感染させる可能性がある。
*
さらに、今回のパンデミックで専門家たちは、お手製の布マスク(3枚重ねが理想)でもCOVID-19の感染拡大の防止に役立つと知った。パンデミックの初期には、N95マスクや医療用マスクでないと機能しないと考え、限られた物資を医療関係者のために取っておいてもらいたいとしていた。
だが、今では「(マスク着用の)メリットがとてつもなく大きいことは明らかだ」とゲイツは言う。
*
米国でディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの普及に尽力しているジョン・ハジーという牧師は、「25年近く26年近く、私はテレビで福音派のコミュニティに教え込んできました。
聖書は非常に親イスラエルの本です。 クリスチャンが『私は聖書を信じます』と認めるなら、。
私は彼を親イスラエル支持者にすることができます。そうならない場合は、彼らの信仰を非難しなければなりません」(Stephen
Sizer, Zion’s Christian Soldiers? ,
p.11.)と述べているのを読んで大変驚かされた。わたしは、この主張を目にした時、まるで「詐欺師が素朴な人々をフェイク(誤った)聖書解釈で罠に陥れることは簡単だ」と言っているように思った。
そして、今、旧約と新約の間に深い裂け目があり、「さて、わたしたちは二つの物語、つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。この明らかなジレンマをどう扱うべきなのか」という問いに対する、ひとつの安直な解答としてのディスペンセーション主義聖書解釈法とその「誤った教会論と終末論」の教えの実践であるキリスト教シオニズム諸説の危険性は、いわばコロナ・ウイルス感染のように、「単に会話をしただけでも感染が広がりかねない」、「新型コロナ・ウイルスに感染した人がマスクなしで1時間、他の人たちと同じ部屋で過ごすと、かなりの割合の人が感染してしまう。はしかのようだ」、「感染した人は不調を感じないまま歩き回り、知らないうちに周りの人々を感染させる」―そのような類の教えと運動ではないのかと懸念している。
なので、わたしは一宮基督教研究所に課せられた使命のひとつとして、コロナ・ウイルス感染と戦っている医者・看護師・ワクチン開発機関の人たちと同じように、神学的な「感染防止用マスクと治療用のワクチン」の提供に日夜奮闘しているのである。このウイルスに感染した教職者でも治療・回復はきわめて困難であることからしてみれば、健全な神学や聖書解釈を学ぶ機会の少ない信徒の方々の治療・回復の難しさは想像できるのではないだろうか。まずは、この運動や教えに感染している兄姉との交わりにおける「感染防止用マスクの着用」、この類の運動や教えの唱道者に対する「ディスタンス(距離)の保持」、汚染の可能性のある場合の「手洗い・消毒の励行」が大切である。そして次の段階として、私たち自身の感染予防、また感染している兄姉の治療のため神学的な「ワクチンの接種」の普及が求められるであろう。
この意味で、今回のシリーズは期せずして「アグロ先生、感謝します。終末論の本やエリクソンの著書や先生のことを知りました。(中略)今回(エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録)のように、10分以内の動画(あるいは15分以内の動画)シリーズで、『いかにディスペンセーションが間違いか』ということをシリーズわけして、詳細に渡って動画をUPして頂けないでしょうか?私の周辺でその終末論に固執して抜けきれない方々が結構いるので、よろしくお願いします。」と書き込んでくださった方へのひとつのレスポンスとして始めたシリーズであるが、大衆的なレベルの伝道者等によるユーチューブやセミナー、書籍により、誤った教えと運動が広まり蔓延しつつある現状を垣間見るにつけ、ICIが果たすべき使命にふさわしいタイムリーなシリーズであるように受けとめている。コロナ感染問題と合わせ、日本のキリスト教会に蔓延するこの問題の感染防止・治療回復のためお祈りいただきたい。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第3節 特別啓示の様態、⑶ 受肉、53頁、左段15行
https://youtu.be/yKcWYjcxRM0
*
1. 直接に現臨された
a. 啓示の「最も完全な方法」−受肉
b. イエスの生涯と語りかけ=神の特別啓示
c. 神が直接に「仲介の形式」において現臨−方法ではないのか?
d.
神−「人間のかたち」をもっておられない−「キリストの人性」=神の啓示の「仲介」を意味
e.
啓示の初期の形式より−「受肉」がまさっている
*
2.
神の行為の頂点
a. 出来事としての啓示−「最も十分なかたち」で起こっている
i.
神の行為の頂点−「イエスの生涯」において
ii. イエスの奇跡・死・復活−「最も凝縮された形式」における贖いの歴史
b. イエスの「メッセージ」−預言者・使徒たちの「メッセージ」を凌いでいた
i.
聖書にかない−成就するものとして−イエスの「メッセージ」を位置づけられた(マタイ5:17)
ii.
預言者のメッセージ=神からの、神についてのメッセージ
iii. イエスのメッセージ=神ご自身が話された
*
3. 神の肖像がそこに
a.
イエスの性格の「真の完全性」=神の肖像
i. 人間の間に生き−神の属性を示し
b.
イエスの行動・態度・情緒−御父を映し出し×−神が事実上、地上に生きておられた○
i.
マタイ27:54−この方はまことに神の子であった。
ii.
ルカ5:8−主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。
1)
イエスのうちに−御父の啓示を見出した人々
*
4.
「行為」としての啓示と「言葉」としての啓示−ひとつ
a. イエス−「御父のことば」を話される−「御父の属性」を実証
b. イエス−「神」であったゆえに−神についての「全く完全な啓示」
i.
Tヨハネ1:1−初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて
ii. ヨハネ14:9−わたしを見た者は、父を見たのです。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、D新約聖書における終末論の大部分は、教会の運命を扱っている、7頁、7行
https://youtu.be/z1ixwm1_dI4
*
今日の段落は、「新約聖書に向かうとき、わたしたちは大変異なった状況にまみえる」という言葉で始まる。わたしは、多くのクリスチャンは、このように旧約と新約のキャップを明確に意識して聖書を読んでいないのではないかと懸念している。そこが、ディスペンセーション主義者やキリスト教シオニストの教えや運動につけ入る隙を与えているように思う。
ラッドのように、旧約と新約の相違を明確に認識し、その上で何故使徒たちは「イエス・キリストの人格とみわざ」を中心として旧約聖書を再解釈するようになったのかを突き止めるべきなのである。この「相違点」に対する認識の甘さと「使徒的聖書解釈法」に対する盲目が、誤った運動や教えをはびこらせる原因なのである。
「イスラエルの救い主としてご自身をあらわされたが、拒否され最後には十字架につけられ」たが、「イスラエルの民の残りの者」つまり外的・形式的・民族的イスラエルの中の内的・本質的・霊的イスラエルは、イエス・キリストを受け入れ、旧約のイスラエルの歴史の中に隠されていた“真の神の民”は、ペンテコステにおいて御座に挙げられた主イエスから注がれた聖霊により、“キリストのからだ”なる教会として出現した。
わたしは、この経緯を「卵と白身と黄身」で神学生に教える。旧約はイスラエル民族という卵の中に、“真のイスラエル信仰”が宿り、ローマ四章にみられるようにアブラハムの復活信仰、ダビデの贖罪信仰のいのちが漸進的に成長してきた。それらのいのちある真の信仰は、旧新約の連続性を保持し、やがて時満ちて、御子の初臨と十字架のみわざ、そして昇天と聖霊の注ぎを通して、旧約の卵の殻は破られて、「ヒヨコ」として“キリストのからだなる教会”を出現させた。この教会は、ユダヤ人をはじめの会衆としたが、「地のすべてのやからを祝福する」神の計画と摂理において、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまでのすべての民族を対象として形成されていった。この「ヒヨコ」は、再臨・千年王国・新天新地に至る中で、地のすべての民族を包摂する「ニワトリ」として完成されるはずである。
フラー神学校の新約聖書神学者のラッドは、『若き教会』(1964)において、
*
・第一章 「使徒行伝」の目的―その歴史的方法、パウロの運動、ルカの歴史的精緻、目的をもった歴史、ユダヤ的希望の変貌
・第二章
「使徒行伝」の計画―教会の始まり、エルサレムにおける教会、離散によるパレスチナの教会の伸張、アジアとヨーロッパにおける教会の伸展、ローマへの教会の延伸
・第三章
「使徒行伝」の意味―歴史と「終末」、全人類のための神の国、宣べ伝えられた復活、すべての人がよみがえらされる、メシヤであり主であるイエス、開始された新時代、このイエスこそが「主」である
・第四章 教会の本質―新しいイスラエル、本質的にひとつである教会、克服された民族的な偏見、交わりの様態
・第五章
教会の生活―簡素な交わり、「祝福」の分かち合い、「パン裂き」
・第六章
教会とイスラエルーイスラエルの置換、代替えされたユダヤ人の礼拝、「神の民」としての異邦人、パウロのミニストリー、ルカの方法、教会におけるセクト
・第七章 教会とローマーパウロと統治者、ユダヤ教の変形、ローマにおける不利ではない審判
・第八章
その本の力―新約聖書のパターン、現代的再生ではなく、「ひとつ」の教会、神の宣教、「使徒たちの教理」、二つの世界の人々、証のための宣教、「来るべき世」の教会
*
という構成で、「使徒行伝」を“読む視点”を解説している。ラッドの著作は、一冊一冊が大変分かりすくしたためられているのだが、関連記述が記されている著作を合わせ読みすると、この主題に関するラッドの洞察力の深さ、豊かさを改めて教えられる。旧約と新約の主題がいかに異なっているのかを認識することの大切さ、そしてその上で使徒たちは旧約聖書を「イエス・キリストの人格とみわざを軸にして再解釈していく取り組み」をその経過をも含め、どのように提示しているのかを教えられる。ラッドの著作を読むたびに、わたしたちは、肝心なところを見落として聖書を読んでいるのではないかと反省させられる。この書も翻訳の途中にある。祈っていただきたい。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第3節 特別啓示の様態、⑵ 神の語りかけーB.
出来事の解釈、52頁、右段29行
https://youtu.be/ZCPnXPQ5wlU
*
1. 神の語られた言葉=出来事の「解釈」
_1. 通常−過去・現在のもの−ときには「予表的な預言」として出来事に先行
_2. 神の啓示=出来事+「その解釈」
__1. 解釈−聖書記者の単なる「洞察・意見」の産物×
__2.
「啓示された解釈」なしで−出来事自身は「暗黒・沈黙」−「多様な解釈」−誤りのある人間の「推測」
___1.
たとえば、「イエスの死」−謎、敗北、殉教の死、道徳的勝利、罪滅ぼしの犠牲
___2.
「出来事の解釈」−歴史における「神の行為」としての出来事同様−啓示のひとつの方法
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、C旧約聖書において、終末的救いはいつも、イスラエル民族の民族的、神政政治の運命の視点において描かれている、6頁、8行
https://youtu.be/3APuoBxOtGA
*
今日の箇所は、聖書神学者ラッドらしく、『旧約聖書概観』の輪郭、また『旧約聖書神学』のエッセンスを簡潔に描き出している。特に注目すべきポイントは「旧約聖書において、終末的救いはいつも、イスラエル民族の民族的、神政政治の運命の視点において描かれている」であり、「イスラエルは神の民のままである。そしてそこでは、イスラエルの救いこそが未来における救いの焦点とされている」である。
なるほど、旧約聖書における啓示をそのまま字義的に解釈し、その原則を新約聖書に適用するなら、「ディスペンセーション主義教会論とディスペンセーション主義終末論」が結実するであろう。確かに、これは聖書解釈におけるひとつの選択肢ではある。しかし、それは正しい選択なのか。それは「新約聖書のメッセージがもつ輪郭を歪め、本質を変質させる」ことにならないのか。
『新約聖書概観』の輪郭、『新約聖書神学』のエッセンスは、いかなる内容、いかなるメッセージを保持しているのか。そして、この新約と旧約のメッセージはどのような関係にあるのか。わたしたちはこのことをどのように理解すべきなのか。わたしたちは、「イエス・キリストの人格とみわざ」を旧約聖書における中心的メッセージとして理解し、民族主義的解釈から普遍主義的解釈に転換させられた“使徒たちの旧約聖書解釈の原則”に立脚すべきなのではないのか。健全な福音主義の聖書解釈とは、この立場に他ならない。
恩師宇田進師は、『現代における終末論諸説』という科目の最初に、「ディスペンセーション主義終末論」に言及された。「ディスペンセーション主義とは、聖書解釈法のことである。この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはない」と。30年前に耳にしたこの言葉こそが、“ディスペンセーション主義”問題をわたしのライフ・ワークのひとつとした出発点であった。わたしの所属団体と母校が、少なからず“ディスペンセーション主義”の影響下にあったからである。
ただ、取り扱う問題が、慎重を期する微妙な課題であることも認識していたので、これらの課題克服に取り組む道筋を示していたエリクソンの著作集やラッド著作集の一語一語を丁寧に翻訳し、事の真偽を確かめつつ、あたかも深海の潜航艇のように“微速前進”していった。そして、それらを静かな環境の中で“危険物”を取り扱うかのように丁寧に取り扱い、研鑽の成果を分かち合っていった。混乱や険悪な議論は避けたかった。所属団体と母校の方向性は、健全な聖書観と聖書解釈法の“良き種”が蒔かれ、苗となり、それらを収穫することになる将来の世代に委ねるつもりであった。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第3節 特別啓示の様態、⑵ 神の語りかけ、52頁、左段1行
https://youtu.be/t31feZRXILs
*
1. 第二の主要な啓示の方法−「神の語りかけ」
_1. 旧約の表現−「主からのことばがわたしにあった。」
__1. メッセージ−彼ら自身のものではなく、「神からのもの」であるとの意識
_2.
ヨハネの黙示録−ヨハネは神に与えられたメッセージを…
_3.
ヘブル人への手紙−神が過去の時代において、今は神の御子を通して語られた
__1.
神−みわざを通して−ご自身・計画・御旨について「告げる」ことによって
2. 神の語りかけ−ひとつの「方法」
_1. 神は「霊的」なお方−肉体的な諸部分所有せず−必然的に、「ひとつの方法」
__1.
語りかけ−ある程度の「肉体的諸部分」の必要−神からの語りかけ=仲介あるコミュニケーション
_2.
ヘブル語、アラム語、ギリシャ語−預言者、使徒のことば=「人間の言語」において−神は「話される言語」所有せず
__1.
言語の使用−「直接の啓示」よりも「仲介」されている
3. 神の語りかけ
_1. 幾つかのかたち
__1.
「聞き取れる」語りかけ
__2. 読者の従事する「黙読」−メッセージの「内的視聴」つまり「沈黙」も
__3.
聞き取れない語りかけ−「夢・幻」
_2.
預言者−主からの語りかけを「聞いた」−同席していた他のだれも何も「聞かなかった」
__1.
聖書の著者の「著述」−神は「コミュニケートしたい思想」−彼らの「思いのうちに」書かれた
___1.
これは−「すでに啓示されてきたメッセージ」−聖霊が思い起こさたり×−「親しんでいる思想」に−著者を導く×
___2.
神−著述している著者たちの「思い」の中に−思想を「創造」された
___3.
著者−起こっている出来事を「意識」していたり−「無意識」であったり
___4.
彼らは−「その考え」が「その心の上に現れた」だけ−と感じたかも
__2.
パウロ−御霊をもっていると「考えている」−主からのメッセージを「受け取った」とより明確なとき
___1.
疑いなく「神はそのようにしておられる」のだが−パウロの著作を「神が導いておられる」と意識していないピレモンの手紙も
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか、A、5頁、12行
https://youtu.be/1P9-yHz6Q8k
*
「聖書全巻は、神の霊感の下にある聖書記者により記されたものだから、それは当然同じ神学的な価値を有する、ひとつの結論をもたらすに違いない。聖書のうちにある多くの預言はジグソーパズルの断片の集まりのようであり、それらは現在と未来の両方に対する神の贖罪を目的とする巨大なモザイク画を提供しているのだから、わたしたちがなすべきことはそれらをぴったり組み合わせることだけである」と、福音主義に立つ多くの人たちは思っている。
孫たちが持ってくる絵本で「間違い探し」の本がある。わたしなどは何度見ても発見できない「間違い」を孫たちは天才的な速さで「ここにもある」「あそこにもある」と見つけていく。
今日の箇所を読んで、「福音主義に立つ多くの人」、その中には牧師や神学教師、テレビ伝道者やセミナー講師等も含まれる。バスの名著『ディスペンセーション主義の背景』を読むと、18世紀の啓蒙思潮に影響されて勃興した19世紀のリベラル神学に対する反動として、J.N.ダービーをはじめとし英国のディスペンセーション主義者たちは、極端な字義主義聖書解釈に走ってしまった。ここに誤りの原点のひとつがある。
その誤りの内容は「聖書全巻は、神の霊感の下にある聖書記者により記されたものだから、それは当然同じ神学的な価値を有する、ひとつの結論をもたらすに違いない。」という誤解であり、「聖書のうちにある多くの預言はジグソーパズルの断片の集まりのようであり、それらは現在と未来の両方に対する神の贖罪を目的とする巨大なモザイク画を提供しているのだから、わたしたちがなすべきことはそれらをぴったり組み合わせることだけである」という”平板な聖書観”の誤りである。
今日、「イスラエル民族を軸として聖書を解釈する」という運動や教えがある。ある人々はそれに飛びつくが、これは「極端な字義主義聖書解釈法」のひとつであり、誤った聖書解釈法である。旧約聖書を”平板に”神の言葉として読んでいくとそのような誤りに陥りやすい。旧約聖書が内包する「イスラエル民族の盛衰と未来における栄光の回復」という視点で、新約の使徒たちの普遍的福音理解を誤って再解釈してしまう誤りである。使徒たちの旧約聖書解釈は、「民族主義的な古い皮袋」を裂き、ユダヤ人も、パレスチナ人も、アラブ人も、ペルシャ人もない「普遍的な新しい皮袋」としての福音理解を旧約聖書から形成しているのである。それは、どのような聖書解釈法なのであろうか。後述していくことになるが、使徒たちの旧約聖書解釈は「イスラエル民族を軸とした解釈」ではなく、「イエス・キリストの人格とみわざを軸とした解釈」であることを肝に銘じておくことが何よりも大切である。そうするとき、誤った運動や教えに翻弄されることはなくなる。識別する鑑識眼が養われるからである。
多くの教職者や信徒の兄姉が、この最も基本的な部分で「目にうろこ」がついたままである。健全な福音理解で養われた兄姉の澄んだ目に「うろこ」をつけるセミナーやユーチューブ・ビデオも氾濫している。最も基本的な聖書観と聖書解釈法において、「最初のボタンを掛け違っている」誤りである。当然のごとく、「教会論や終末論」のボタンもずれたままとなる。奉仕生涯の最初の三年間になされる基礎神学教育課程において、最も大切な学びがここにある。しかし、多くの神学校でおろそかにされている学びでもある。ICIの継続神学教育課程、また生涯教育課程において、この部分の改善に取り組み、日本の福音派諸神学校、諸教会における「福音理解の健全化」にささやかな貢献をしていきたい。
【参考文献】
・Clarence B.Bass,
Background to Dispensationalism, 2005, p.21.
に「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記されている。
・牧田吉和著『改革派教義学』一麦出版社、2013、258-260頁「聖書全体が、聖霊によって霊感された聖霊の作品であり、神的権威を有しているのである。しかし、この場合注意すべきことは、この聖書の神的権威性を機械的に平板化して理解してはならないということである。すなわち、聖書全体が神的権威を有するのであるが、聖書を機械的に把握し、原子論的にバラバラに分解断片化して、どの断片も同等の神的権威を有するかのように理解してはならないということである。
バーフィンクは、聖書の権威にかんして、このような機械的概念に対して有機的概念を提唱するのである。聖書全体の有機的霊感の主張である。…ここでの有機的霊感の概念は、…文書化された聖書の内容あるいは内部構造の問題である。霊感された聖書の全体は、人間の『からだ』のように一つの生命的有機体を成しているのである。
第一の点は、聖書のどの部分も有機的生命体の一部分として霊感されており、神的権威性を帯びているということである。第二の点は、有機的生命体であめがゆえに聖書の各部分を機械的に断片化し、均一的権威性を主張してはならないということである。各部分は、それぞれの場所と機能を有し、欠かすことのできない一部を成しているのであるが、中心的なものと周辺的なものとの区別は存在するということである。…
有機的霊感の概念による『中心的なもの』と『周辺的なもの』との区別は、当然『中心的なもの』とは何かという問いを引き起こすことになる。…バーフィンクは聖書の内容であり目的は、イエス・キリストであることを絶えず強調した。このイエス・キリストこそ聖書の最も中心的なものなのである。このイエス・キリストにおいて頂点に達する特別啓示の歴史こそ、聖書全体を貫く中心線であり動脈であり、すべてはそれに結びあって一つの有機的生命体をなすのである。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第2節 特別啓示の様式、⑶
特別啓示の類比的性質、50頁、右段13行
https://youtu.be/C3YSCGF_zxk
*
1. 神の「類比的言語」の使用
_1. ひとつの用語−二つの節において「類比的」に使用−「単一の意味」をもつ要素
_2. 例:ジェフが100ヤードの短距離走を「走る」−通勤電車がシカゴとエルムハーストを「走る」−相違もある
2.
神の啓示−「神の領域」と「私たちの領域」において−意味が「明確な要素」を選択
_1.
ランドン・ギルキィ−「神が行為」される−人が「行為する」−心のうちに「同じ意味」を所有している
__1.
神が「ヨルダン川の水を止められた」−「軍の工兵隊が川の流れをせきとめる」−同じ思い
_2.
イエスの死−ヤコブ、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、他の人−同様に観察しうるひとつの出来事
_3.
神が愛される−人間が他の人の幸福に対する不変で利己的でない関心をもって愛する−同じ種類の資質を意味
3.
類比的−「質的に同じ」
_1. 相違は「種類」よりも−「程度」の差異
__1.
人間が「力強い」−神はさらにまさって「力強い」
__2. 人間が「知っている」−神は「すべての事柄を知っておられる」
__3. 神が所有されている「特質」−私たち「無限の概念」を把握する不可能性
4. 類比的知識を「可能」にしているもの
_1. 神が「使用されている構成要素」−選択されたのは「神」である
_2.
人間存在のようではなく−神は「類比の両側」についての知識がある方
_3.
人間の探求−二つの未知数を含む方程式−「ある種の謎」
_4.
神存在(性質、本質)と人間存在の間の関係−知ることなしに−「意味ある類比」を構成すること不可
_5.
神−すべてのことを知っておられる−「人間の知識・経験の要素」−構成を意味ある類比となる「神の真理」に十分に類似
2020年11月15日 新約聖書
テサロニケ人への第一の手紙5:1-11「神は御怒りではなく、救いに定めークロノスとカイロスの時間」
https://youtu.be/OUTO_Y1I3mY
*
今月は、父、安黒行雄が召天10周年記念の月である。あの日も、父は田畑の草刈りを朝からしていた。約二十年間、礼拝にも出席し、御言葉の種は蒔かれ、信仰心はそれなりに芽生えていたが頑固者であった。その日の夕刻、風呂で脳梗塞にて倒れ、救急車で運ばれた。「まもなくです」と医者に告げられ、病床洗礼を施し、主の元に見送った。87歳であった。
父の思い出はいろいろある。不器用な父であったが、根は優しかった。父は神姫バスの運転手であった。日曜には運転席のそばの席に座らしてもらい、あちこちのコースを見せてもらい。染河内の本谷の終点で弁当を食べた。揖保川の夜川に連れて行ってもらった。灯火用カーバイトのライトで川底を照らしながら、ヤスで眠っている川魚を突くのである。下宿で受験勉強中の日曜に、「つとむ、山へ下刈りに行こう」と誘われた時、断ったら怒られた。学歴はなかった。受験の大変さは分かろうはずもなかった。
筋肉質のしっかりしたからだをしていた。腕相撲をしたが一度も勝てなかった。戦時中、父の属していた軍隊は南方に派遣されて全滅した。父はちょうどそのときに、足の傷が膿み、軍靴がはけず病院で治療中であった。回復して戻るとその軍隊は派遣された後であった。それで、父は新たに満州の戦車隊の一員として派遣された。終戦となったとき捕虜となり、ソ連軍に列車に載せられ、日本海へと向かった。兵隊たちはまもなく日本に帰国できると思って歓声を上げた。しかし、列車は止まることなく北上し、到着したところは、バイカル湖のそばのイルクーツクであった。そして、二年半、その地で過酷な労働を伴う捕虜生活を送ることとなった。多くの戦友が倒れ、亡くなっていった。そのような経過を経て、帰国してきたときは骨と皮だけの姿であった。
帰国後はしばらくは茫然と過ごしていた。ただ、ソ連からの帰国者として警察からは警戒されていたようである。父はまじめに働き、母と結婚し、最初はトラック、そして後にはバスの運転手として働き、わたしたちを育ててくれた。
道路端に広い土地をもっていたので、「ガソリン・スタンドをしないか」という話があり、後半生はガソリン・スタンド経営者となった。わたしたち兄弟三人は大学進学の学資を得た。そして、後には不思議な摂理で導かれ、郷里に帰り「一宮基督教研究所」という働きに取り組む上での経済的基盤を得た。父母のおかげで、慎ましい暮らしではあるが、後半生を「神学研鑽と神学教育に心置きなく尽くす」環境を得ることができ、心より感謝している。
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今朝の箇所は、「5:2
主の日は、盗人が夜やって来るように来る。」「5:3妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。」という言葉をもって始まる。
旧約聖書アモス書には、「5:18
ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。5:19
人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家の中に入っても、手で壁に寄りかかると、蛇が彼にかみつくようなものだ。5:20
主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。」と、「主の日」が”審判の日”であることが示唆されている。
また、「9:11
その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。9:12
これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。9:13
見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。9:14
わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。9:15
わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主は言われる。」と「主の日」が”恵みと救い、報いと栄光の日”であることが示唆されている。
テサロニケ書は、「主の日」の二つの側面をコントラスト豊かに描写している。一方は「闇の者、眠る者、酔う者」、他方は「光の子、昼の子」である。聖書は歴史を二つの時代また「アイオーン」に分けている。現在の世と来るべき世である。それは夜と昼をもって描かれ、メシヤの到来をもって太陽は昇り、闇は消え去り、世界には光が溢れる。イエス・キリストはその待望されたメシヤであり、彼の到来をもって新しい時代は始まった。神の国は現在の世に侵入してきている。ヨハネは「1:5
光は闇の中に輝いている。…1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。…1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と記した。当面の間、このふたつの世は重複する。しかし、イエス・キリストに属する人々は、すでに新しい世、光の中に移されている。わたしたちは、キリストにあって「次の世の力を味わっている」者たちである。
それゆえ、わたしたちにとって、「主の日」は「v.9a
御怒りを受ける」審判のではない。わたしたちには、すでに代償的刑罰を受けてくださったキリストがある。それゆえ、「v.9b
主イエス・キリストによる救いを得る」恵みの日、救いの日、報いと栄光の日である。
ここで、「主の日」を主にまみえる日として、わたしたちの現実に適用してみよう。「主の日」は旧約ではひとつの日、審判と回復の日である。新約に移ると「神のしもべ形態での初臨(受肉・クリスマス)」と「玉座に座される王としての再臨」の二段階に分けられる。
さらに、これをわたしたちに適用すると、わたしたちが「召される日」、それは我らの「主イエスと直にまみえる日」である。それは、「主の日」の意味合いに合致する。ウエストミンスター信仰告白32章にあるように「人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全き贖いを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る」のである。それを「中間状態」という。そして、再臨で「復活のからだ、贖いのからだ、栄光のからだ」を着せられるまでの待機期間がある。この待機期間についてはなにも言及されていない。そこで、このように考えることはできないだろうか。
ギリシャ語では、時間について二つの用語がある。クロノスとカイロスである。前者は「水平的な通常に刻まれる時の流れ」である。後者は、「本や映画やドラマ等を時間を忘れて一瞬であるかのように没入してしまう時の流れ」であり、それは垂直的な時間ともいわれる。つまり、わたしの言わんとすることは、召天後、再臨までの待機期間は、主の直接の臨在と再会できた兄姉たちとの交わりの中で、それは”あたかも一瞬”であるかのように過ぎ去るカイロス的な時間ではないだろうかと考えるのである。
これは、単にわたしの神学的な思索のひとつにすぎないのだが、このように考えると「召天」と「再臨」と「贖われた被造物世界」で、「v.10
主とともに生きるようになる」ことが真珠の首飾りのように一直線につながっていくように思う。このように神学的思索の羽根を押し広げ、励まし合い、徳を高め合う交わりを大切にしていきたいと願う。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか、@、5頁、1行
https://youtu.be/dc-Axw925bo
*
ラッドの著作は非常に分かりやすい。本書においては、特にディスペンセーション主義聖書解釈に関し、@何を論争するのか論点が明確にされており、Aその論点の持っている問題点や疑問点が明らかにされており、Bその論点が検証され、Cその論理の矛盾が明らかにされている。米国でそうであったように、本書が用いられ日本の福音派の諸神学校や諸教派、諸教会において、ディスペンセーション聖書解釈法が内包する諸課題が克服されていくことを期待している。
まず「聖書は終末について何を教えているのか」が問われている。これを学び始める時、「すぐさまその入り口において方法論の問題に直面する」と、聖書解釈方法論を吟味検討することなしに何も始められない。「終末論をどのように構築していけば良いのか」と聖書は旧約と新約のその全体を通して教えている「終末」の主題を構成・構築していく手順・道筋のノウハウが問われている。
「福音主義者は、聖書が聖霊によって霊感されており、信仰と実践における唯一の誤りのない規範であるという立場に立つ」と終末論構築の資料源である聖書の“聖書観”が明らかにされている。
しかし、「さまざまな教理的主題、特に終末論、に関し聖書が教えているものを探究するとき、このことはどのような意味をもつことになるのか」が問われている。すなわち、聖書を“終末論構築のプロセスにおいて、唯一の誤りのない規範”として機能させるためには、どのようにすれば良いのかが問われているのである。
結論を先取りすれば、聖書を“終末論構築のプロセスにおいて、唯一の誤りのない規範”として機能させる“手本”は、新約の使徒たちの聖書解釈方法論である。このことが、本書(英文原書)の裏表紙に以下のように記されている。これからの学びの念頭に置いていただいておくと、学びの有益な指針になると思う。
*
本書(英文原書)の裏表紙には、以下の書籍紹介がある。
近年、終末の時代に関する聖書の預言は、膨大な数の本の主題となっている。しかしながら、それらの本の多くは、深く熟考された学識がほとんど見受けられない大衆的な記述に満ちたものである。しかし、有益なまじめな諸研究は、あまりにも難解で、しばしば普通の読者には理解できないものとなっている。ジョージ・エルドン・ラッドは、この状況を打開するために尽力し、真剣な議論を内に含む信徒対象の終末論の本を書いた。
本書では、旧新両約聖書の預言の関係に関する根本的に異なる二つの解釈が提示されている。一方の解釈はイスラエルとキリスト教会を別個のものと扱う。しかし他方の解釈は啓示の漸進性と旧新両約聖書の一体性を認める。
ラッドは、後者の立場を保持する。「旧約の預言の意味を決定する最終的に権威ある言葉は、新約における再解釈の中に見いだされるべきである」―この確信こそが、ラッドの終末に関する教理の礎石である。諸々の預言は、キリストを通しての神の啓示の光の下に置かれてはじめて、終末に関し意味されているものを、明らかに知ることができるのである。(本書、p.184-185)
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第2節 特別啓示の様式、⑵
特別啓示の人間的性質、49頁、右段42行
https://youtu.be/rpavafIWxMI
*
1. 啓示されている神−「超越的」なお方−私たちの「経験の外」におられる
_1.
神−知識・力において「無限」−空間と時間に縛られていない
_2. 結果として−啓示=神の側からの「謙遜」を意味
__1. 人間の側からの「研究」−届かない、理解できない
__2.
神−「人間的なかたちにおける啓示」−においてご自身を啓示
_3.
神人同形論的×−人間の「言語・思考・行為」のうちで−「人間の範疇」においてもたらされた啓示
*
2. 人間的性格−その時代における「普通の人間の言語の使用」
_1.
コイネー・ギリシャ語−古典的ギリシャ語との相違−「特別に、神によって創造された言語?」
_2.
今日−単純に、当時の言語−当時の熟語が聖書の中に−時間・距離を測ること−自然を描写する通常のやり方に役立っている
*
3. 毎日の「人間の経験・普通の部分」の意味で−人間的
_1. 夢−神がご自身を啓示されるために使用された手段
_2. 特別なタイプの経験×−ユニークな内容、ユニークな活用○
__1. 受肉−神が地上に−「普通の人間の様態」を使用
__2.
芸術家たち−「光輪、何か独特のしるし」をもつイエスを描写×
__3.
ほとんどの人間−イエス=天使、神×−普通の、平均的な人間、大工のヨセフの息子として○
*
4. 典型的な経験を−明らかに「逸脱している啓示」
_1. 天から語られた「御父の声」(ヨハネ12:28)
_2. 奇跡−民への著しい効果
_3. しかし、大部分の啓示−自然な出来事の形式のうちに
【終末論
(日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2015/3/3、ジョージ・エルドン・ラッド (著), 安黒務 (翻訳)】
…キリストの再臨と携挙はいつ起こるのか、中間状態、反キリスト、最後の審判、神の国とは何か、イスラエルは救われるのかなど、今を生きるクリスチャンが知っておきたい終末論の基礎知識をこの一冊に。
【アマゾン書店で購入できます(出荷元: 一宮基督教研究所)】
…コンディション:
新品未読品です。クリックポストで発送予定でございます。発送後、追跡番号をお知らせいたします。尚、学習の助けとして、翻訳者安黒務の執筆論文「福音主義イスラエル論T」と「福音主義イスラエル論U」を同梱させていただきます。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:
「訳者あとがき」より、Gカデェシュ・バルネアからの突入か、40年間の放浪か、187頁、4行
https://youtu.be/Vi2DKnfSxjk
*
わたしは、所属団体と母校の「福音理解」の将来を懸念し、これ以上誤った運動や教えに翻弄されないように、そして時間がかかっても健全化への理解が深まるように“錨”をおろしておきたいと考えた。その年は、日本福音主義神学会全国研究会議が母校で開催され、その準備委員長として“猫の手も借りたい”ほど多忙な年であった。しかし、ラッドの絶筆を遺言のように受けとめていたわたしは、寝る間も惜しむかのようにして、ラッド著“The
Last
Things”の翻訳にいそしんだ。そして、『福音主義神学誌』に論文「福音主義イスラエル論」を執筆した。このふたつは、このテーマで誤った方向に進むことのないように願ったわたしの祈りと願いの結晶であった。ダラス神学校のウォルブードは、フラー神学校のラッドとのディベートで“健全な聖書解釈法、教会論、終末論”への転換の機会を得ることなく、その神学校を40年の荒野に導いた。わたしは、日本の福音派の諸団体、諸神学校、諸教会の指導者たちが同じ過ちを繰り返さないよう願っている。福音派諸教会が内包するこの課題の行く末の大局は以下のとおりである。参考にしていただきたい。
*
さて、本書が刊行されたのは三六年前であるが、「ディスペンセーション主義聖書解釈法とイスラエル論の問題」は、日本の福音派の中で今尚議論されている重要な課題のひとつである。この課題の解決に向けてラッドは、その奉仕生涯の最後の時期(The
Last Stage)に渾身の力をふるって本書(The Last
Things)をしるし、他の著作とあいまって大きなインパクトを与えた。それらの結果として、ディスペンセーション主義の指導者たちは種々の主要な教理と終末論においてラッドの立場に接近し続け、ディスペンセーション主義の教えの牙城であったダラス神学校、グレイス神学校、タルボット神学校等の指導的教授陣は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに今日では漸進主義ディスペンセーション主義へと大きく変容していっている。ダニエル・フラーはディスペンセーション主義に関して「二〇〇〇年になってついに、ダラス神学校は、一九五五年の段階でジョージ・ラッドがいた地点に辿り着いた」とコメントした(『テーブルにおけるひとつの場所』二〇〇八、J・A・デリア、一七六頁、一八一頁)。ただ、このような変化は知的レベルの高い神学教師や神学生の間にとどまっており、ディスペンセーション主義者の大半は今尚、より初期の教えを信奉し続けている(『ディスペンセーション主義の背景』一九六〇、C・B・バス、再販版の「序文」S・R・スペンサー、三頁)。(本書、p.187-188)
*
グルーデムは諸説のうち、ディスペンセーション主義者の理解については、知的に優れたディスペンセーション主義の神学者の間で、「古典的ディスペンセーション主義→修正ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」と大きな変化を遂げていることを説明している(Wayne.A.Grudem,
Systematic Theology,1994, Inter-Varsity Press, pp.859-863,
1109-1114)。
それで、大きな変化を遂げている漸進主義ディスペンセーション主義の、将来の「行くべき方向」について、どのように考えたら良いのであろうか。本書との関係で考えられる、興味深い、ひとつの可能性を紹介しておきたい。以下のものは、ウエスミンスター神学校のV・S・ポイスレスの予測である。「わたしは、漸進主義ディスペンセーション主義者が、古典的ディスペンセーション主義の主要な教えを乗り越え取り組んでいる研究に、深い共感と評価を表わしたい。わたしは、彼らが、以前よりもさらに誠実に聖書的真理を解明しようとしている動きをみて嬉しく思う。また、わたしは彼らの神学的営為が協調的な気風に溢れていることに敬意を表明する。しかしながら、彼らの立場は生来、不安定なままである。わたしには、彼らが、いわば長く厳しい航海の後に、古典的ディスペンセーション主義と契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)との間に、安らぐことのできる港を創り出し、そこに辿り着くという、可能性は低いとみている。そのような中間地点に辿り着くのではなく、彼ら自身の観察に基づく言説が動かしている諸々の力は、やがてジョージ・E・ラッドが手本として示したものを後追いさせ、ついには契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)に至らせる可能性が最も高いと判断している」(Vern.S.Poythress, Understanding
Dispensationalists, 1987, Presbyterian and Reformed
Publishing, p.137)。(本書、p.181-184)
*
民数記13:30
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第2節 特別啓示の様式、⑴
特別啓示の人格的性質、49頁、左段33行
https://youtu.be/6wLc-yFQPzs
*
1. 特別啓示−様式・性質・種類について
_1.
「人格的」なもの−「人格」をもたれる神−ご自身を人間に提示−多くの方法において
__1.
ご自身の「名前」をつげることにおいて(出エジプト3:14)
__2. ノア、アブラハム、イスラエルの民−「人格的契約」
__3. 詩篇−多くの人格的経験の描写
__4. パウロ−(ピリピ3:10)−神との人格的親密さ
*
2. 全聖書−性質において「人格的」
_1.
幾何学における「ユークリッドの公理」−一揃いの普遍的真理×
_2. 具体的な出来事・事実−一連の特殊な、特別な陳述○
__1. 聖書−神学の「教科書」−系統だった神学的提示×、体系化された信条的宣言×
__2.
信条的主張は存在−しかし徹底的に「知性化」されてはいない
*
3. 神の贖いのみわざ・人類との関係−直接な結びつきのない事柄でないものはほとんどない
_1.
単なる歴史的関心の事柄−脱線していない−過去の知識におけるギャップを満たさない−伝記的な詳細に専心していない
_2.
神の啓示−「人格としての神ご自身」−特に「信仰にとつて重要性」のある神ご自身の次元
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:「訳者あとがき」より、F『終末論』の各章の内容、186頁、15行
https://youtu.be/D7GWaXwCQls
*
「本書は、ラッドの最後の著作」である。それだけに「ラッドがライフワークとして取り組み、多くの著作で詳しく扱ってきた内容」に関する議論の輪郭とエッセンスが凝縮され、ディベートのスタイルでわかりやすく扱われている。
いわば、“扇の要”のような最後の著作、絶筆、そして遺言のような著作である。この書は、わたしにひとつの召命かあることを教えてくれた。わたしの所属団体や母校、そしてそれらを超えて日本の福音派の諸教会、諸神学校が内包する「誤った聖書解釈法、誤った教会論、誤った終末論」という病を、日本語の訳書、論文、講義・講演ビデオを通して“治療”していくようにと。
このようにしている間にも、コロナ・ウイルスの感染のように、「誤った聖書解釈法、誤った教会論、誤った終末論」という病は、大衆的な説教者を通して広がり、伝染していっている。多くの教職者は問題を認識していても、どのように治療対策を立案し、それを実践していったら良いのか分からず、手をこまねいている。だれかが、この感染が日本の福音派教会のすみずみに広がってしまわないうちに阻止する必要がある。手遅れになる前に。
ラッドは、若かかりし頃に、フラー神学校の新約聖書神学教授として、この難題に果敢に取り組み、巨人ゴリアテを倒したダビデのように活躍した。わたしもまた、今、ラッドやエリクソン等の助けを得て、五つの石のつぶてを手にしている。ひとり、またひとりと、日本の諸教会、諸神学校に“ダビデ”のような戦士が起こされていくことを夢見つつ、取り組んでいる。
日本各地で起こされつつある“小さなダビデ”の諸君に励ましの言葉を送りたい。
「使徒18:9
ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。18:10
わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」18:11
そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、E.
特別啓示と一般啓示の調和・相補性49頁、左段16行
https://youtu.be/qQScaVDydjs
*
6. 主題の扱い・範囲の明瞭さ
_1. 一般啓示−特別啓示に比べて劣っている−その不十分さ−特別啓示を必要
__1. 特別啓示−一般啓示を必要−一般啓示なしに「特別啓示の神」「理解しうる神に関する概念」を所有しえない
__2.
特別啓示−「一般啓示」を基盤として構築
_2. インマヌエル・カントの「認識」と「感覚」の概念のカテゴリーの関係に類似
__1. 「内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である」
__2.
両者−調和している−「調和的・補完的な理解」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、D.
堕落後の特別啓示49頁、左段1行
https://youtu.be/Hw9CWYtoGFk
*
5. 罪が人類に入った−特別啓示の必要−「緊急性」あるものと
_1.
神の「直接の臨在」=特別啓示の最も直接で完全なかたち−失われた
_2. 「罪・罪責・堕落」の問題−解決の必要
_3. 「償い・贖い・和解」の方法−供給の必要
_4. 罪−一般啓示への「人間の理解力」−減じている
_5.
特別啓示−人間の「神知識」・神との「関係」において−治療的なもの
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:
「訳者あとがき」より、E二千年の議論全体の中で思索する、186頁、10行
https://youtu.be/klMkZN01jz4
*
共立基督教研究所での内地留学中に教えられたことのひとつは、「神学の歴史的議論の経緯を知らない人とは議論できない」ということである。聖書学ではこの二百年間の議論を知らない人とはほとんどかみ合う議論はできない。組織神学においては、二千年間の神学的議論に目配りが効かない人とは議論できないと言われる。
それは何故か。神学的議論とは、それらの歴史の経過の只中でなされてきた神学的議論の席に着き、議論の内容、経緯を踏まえ、それらの中で自らの見解を述べ、ディベートする機会である。それゆえ、状況も対象も、テーマも課題も知らずになされる発言は「空を打つ拳闘」となってしまうからである。
ディスペンセーション主義の聖書解釈法、教会論、終末論も、「二千年間の神学の議論の脈絡」を踏まえてなされるべきなのである。そうでなければ、愚かな水掛け論に終始してしまうのである。
二千年間の神学的議論のマクロな眺望、その輪郭の把握のためには、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』が最良の書のひとつである。わたしは、この良書をテキストとして、「福音主義神学(歴史神学)」の科目をも担当してきた。それらのビデオ講義録もあるので、テキストともども参考にしていただきたい。教職者・信徒リーダー・神学生にきわめて有益な良書である。
神学教師はこの「二千年間の神学的議論のマクロな眺望、その輪郭の把握」なしには教える資格がないといえる書物である。このような視点なしに教える神学教師は「盲人が盲人を導き、穴に落ちる」危険すらある。海図なき航海であり、レーダーなき航空機の類である。危険極まりないだけでなく、間違った方向に導き、誤った地点に到着してしまう恐れがそこにはある。
米国の福音派神学の主流を代表する神学者のひとり、エリクソンは、その立ち位置を“穏健カルヴァン主義”に置く。ラッドも同様である。エリクソンの二十数冊の著作集に目配りしている時に、エリクソンの終末論の主要な資料源がラッドの著作集であることに気がついた。それで、ラッドの十数冊の著作集をも収集し熟読していった。ラッドの著作は、聖書の記述的描写を主とする解説とディベートなので大変読みやすく、かつ説得力があった。
エリクソンの終末論は、ラッドの終末論と“表裏一体の関係”にある。コインの両面のように合わせて熟読されると益が大きい。
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序 「訳者あとがき」より、D根本主義の内包する課題克服への取り組み、186頁、8行
https://youtu.be/dZoDi7qy5J8
*
「ラッドは、根本主義が内包する多くの課題の克服に取り組んだ」と記した。この取り組みにおいて大切なことは、「戦略と戦術」の識別である。それは、どういうことを意味するのか。
「戦略も戦術も、軍事⽤語として使われていたものが、政治やビジネスなどでも使われるようになった⾔葉である。軍事⽤語としては、戦略が、戦いに勝つために兵⼒を総合的・効果的に運⽤する⽅法で、⼤局的・⻑期的な視点で策定する計画⼿段。戦術は、戦いに勝つための戦地で兵⼠の動かし⽅など、実⾏上の⽅策のことをいう。現代では上記の意味から、戦略が、組織などが運営していくための将来を⾒通した⽅策や、⽬標
を達成するためのシナリオ。戦術は、⽬標を達成するための具体的な⼿段、実践的な計画といった意味で使われる。つまり、⽬標を達成するための総合的・⻑期的な計画⼿段が戦略で、その戦略を⾏うための具体的・実践的な計画⼿段が戦術である。」
ディスペンセーション主義聖書解釈法、教会論、終末論が内包する課題克服を思索する上で最も大切なことのひとつは、「⼤局的・⻑期的な視点」である。わたしは、この視点を見落とし、”水掛け論”に終始する議論を数多く見てきた。第二次世界大戦における日本陸軍と海軍の議論のようであった。そこには、歴史的な神学的議論の大局を見失った、短期的な教会成長や神学生募集における実用主義的価値の有無からのみなされる“戦術的議論”しか見られなかった。
宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』やM.J.Erickson,” The New Evangelical
Theology”等にみられるような「⼤局的・⻑期的な視点」なしになされる“戦術的議論”は、一時的・局地的勝利はもたらされても、太平洋戦争の結果のような“戦略的”失敗が待ち受けていることは明らかである。わたしたちは、絶えず「神学的“戦略”において誤りがないか」の目配りが必要とされてといる。
2020年11月8日 新約聖書
テサロニケ人への第一の手紙4:1-18「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかー健全な福音理解に根差し、健全な倫理的生活に生きる」
https://youtu.be/6AYeundMOaw
*
1-3章において、パウロはピリピ、テサロニケにおける苦難・迫害・批判に抗弁してきた。そして4章から、テサロニケの教会が直面している実際的な問題を取り扱っている。ション・ストットは「教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする」と記した。パウロはまさしくそれを地で行く働き人であった。
パウロは本章の前半で、キリスト者が歩むべき「健全な倫理的生活」に言及する。V.3-8は「性的倫理」、v.9-10は「兄弟愛」、v.11-12は「職業倫理」である。1世紀のローマ帝国社会は性的倫理が緩慢な社会であり、また征服・没落によりおびただしい奴隷がいる社会であった。乱交や売春が横行する世界であり、テサロニケやコリントのように不道徳で名をはせた都市も存在していた。食欲、性欲、睡眠欲は、創造者たる神から、被造物たる人間に賦与された祝福の恵みであった。それは、良き創造の一部であり、神のみ心に沿うならば、神の祝福の源、神の栄光を現す場となる領域である。しかるに、神の御心から離れ、逸脱した罪深い活用は「ブタが糞尿にまみれて戯れる」に似た不潔・汚れ・淫らな呪いとなってしまう。パウロは、罪に満ちた世界の只中に出現した美しい倫理のある共同体を描き出す。
*
V.11-12で、パウロは「自分の手で働き」「自分の仕事に励み」「落ち着いた生活」をするよう勧める。それは、テサロニケのある信者に、誤った福音理解、誤った終末論、誤った再臨理解があったからである。彼らは、間近な再臨を待望し、日常生活や仕事を軽視していた。そして、教会の献金による生活扶助に依存する傾向があり、働けない老人や苦境にあるやもめたちを助ける働きに支障をもたらすことさえあった。それゆえ、パウロは、その病状診断、病巣の指摘、治療のための“健全な終末論・健全な再臨理解”という処方箋を提示している。
今日も、極端で逸脱した終末論・再臨理解を標ぼうする運動や教えが存在している。多くの人を集め、誤った方向に人々を誘導している。ディスペンセーション主義聖書解釈の教えとキリスト教シオニズムの諸運動である。
v.13-17は、Tテサロニケの手紙の白眉の聖書箇所である。健全な教えと誤った教えを識別するポイントを教えられる。参考文献と箇所を下記に記すので参考にしていただきたい。
@v.13-15からは、「中間状態」の教理を教えられる。中間状態とは、人間の肉体の死から、再臨時に復活のからだを着せられるまでの、「魂の裸」の状態の期間のことである。V.13「眠っている人々」とは先に死別した信者のことである。この間の出来事をこの教理をコンパクトに整理した信条である「ウエストミンスター信仰32章」と合わせて解釈・整理すると、⑴人間は死後、肉体と魂の分離を経験し、⑵死後ただちに主の元に迎え入れられ、⑶パラダイスの中にある。⑷しかし、魂は裸のままであり、⑸完全な救いの祝福として復活のからだを着せられるには再臨を待たなければならない。⑹再臨時に、まず中間状態にある先に死別した信者が復活のからだを着せられ、⑺その後に、その時にまだ生きている信者は生きたまま引き上げられ、復活のからだを着せられる。(参考資料:ラッド著『終末論』第三章
中間状態、p.40-57、エリクソン著『終末論』第39章 導入的事柄と個人終末論、p.411-422)
*
v.16からは、キリストの再臨が、秘密の再臨などではなく、全世界の人々に明らかな公の再臨であることを教えられる。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます」。わたしは、毎朝、四時半の小さな目覚ましの音で即座に目を覚ます。「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響き」は、全世の人々を呼び覚まし、四方の隅より一人残らず神の民を集めるのに十分な音量である。静まり返っていたノルマンディーの海岸に無数の艦艇、航空機、上陸用舟艇、兵士が上陸してくるときに鳴り響いたラッパのようではないか。否、それ以上であろう。(参考資料:
ラッド著『終末論』第四章 再臨、p.58-72、エリクソン著『終末論』第40章 再臨とその結果、p.424-428)
*
v.17からは、患難期の前に空中再臨とクリスチャンたちの携挙があり、ユダヤ人対象の患難期があり悔い改めと回心があり、その後に地上再臨があるというディスペンセーション主義終末論理解ではなく、まず患難期があり、患難期の只中でクリスチャンたちは守られ、殉教をも恐れず証しし、悔い改めと回心を呼び起こし、その後にキリストは先に召されたクリスチャンを引き連れて空中再臨され、生きているクリスチャンは空中に引き上げられ、復活のからだに変貌させられ、ただちにキリストとともに地上に降りてくる「空中・地上一体の単一の再臨」であることを教えられる。
「空中で主と会う」の箇所で使用されているギリシャ語は「アパンテス」であり、それは「式場にいる花嫁が、花婿の来訪を知り、途中まで迎えに行き、合流し、ただちに式場へと戻る」という意味の言葉である。それは、健全な再臨理解の文脈を正確に表現している。
まとめると、パウロは、1-3章でテサロニケの人々の状況を非常に懸念していたが、その懸念は杞憂に終わり、生き返らされるような感謝と喜びに溢れた。そして、テサロニケの人々の様子を聞き、必要な「教理的ワクチン」を提供し、「健全な倫理的生活」を送ることにより、闇の深い世界の只中で、地の塩、世の光となるよう励ましたのである。(参考資料:
ラッド著『終末論』第五章 再臨についてのことば、p.73-86、エリクソン著『終末論』第40章
再臨とその結果、p.426-428)
【参考資料】
下記の、ウェストミンスター信仰基準、日本キリスト改革派教会訳、ウェストミンスター信仰告白は、穏健カルヴァン主義に立つといわれるエリクソンやラッドの福音理解のさらなる細部の掘り下げ・継続的な研鑽においてきわめて有益な資料のひとつである。いつも手元に置いて学び続けられることをお勧めする。
*
第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について
*
1 人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる(1)。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る(2)。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(3)。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける(4)。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない。
1 創世3:19、行伝13:36
2 ルカ23:43、コヘレト12:7
3 ヘブライ12:23、Uコリント5:1,6,8、ピリピ1:23、行伝3:21、エペソ4:10(*)、*ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較
4 ルカ16:23,24、行伝1:25、ユダ6:7(*)、Tペテロ3:19
*ユダ6,7が正しい。
*
2 終りの日に生存している者は、死を味わわないで変えられる(1)。死人はみな異なった性質をもってではあるが別のものではない全く同じからだをもってよみがえらせられ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される(2)。
1 Tテサロニケ4:17、Tコリント15:51,52
2 ヨブ19:26,27、Tコリント15:42-44
*
3 正しくない者のからだは、キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。正しい者のからだは、キリストのみたまによって栄誉によみがえらせられ、キリストご自身のからだに似るものとされる(1)。
1 行伝24:15、ヨハネ5:28,29、Tコリント15:43、ピリピ3:21
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序: 「訳者あとがき」より、Cラッドの著作集、185頁、12行
https://youtu.be/mqO264KdB1c
*
ラッドの著作集は、十数冊あります。ラッドの著作は、非常に読みやすいのでそれらを収集し、繰り返し熟読してきました。ラッドは、「神の国」の神学者であるといわれます。ラッドが聖書神学者として“神の国”の概念を中心に取り組んできたのは、それが旧新約聖書における中心的な概念であるからです。旧約と新約を繋ぐ共通概念であり、イスラエル民族とキリスト教会の関係を紐解く鍵がここにあります。旧約聖書では「ユダヤ民族の栄光と滅亡、そして回復と希望」が記されています。新約聖書では、その霊的本質を継承しつつ、イエス・キリストの人格とみわざを軸にさらに展開されています。相違点のひとつは、歴史的一時的要素としてのユダヤ民族の召命と賜物であり、それはキリストにおいては、普遍的、全民族的、全人類的な福音へと昇華されています。
ここで、ディスペンセーション主義的聖書解釈の誤りを明確に認識されています。イエス・キリストの人格とみわざを軸とした、新約における“神の国”の概念は、ユダヤ民族的な要素を払拭した、“普遍的な神の国”の概念であるという点です。このポイントは、奉仕生涯の最初の三年間に身に着けるべき、基礎神学教育の“最初のボタン”の学びと思います。この聖書観と聖書解釈法の基本で、ボタンを掛け間違うと、その神学生の奉仕生涯とその内容は、ボタンがひとつずつずれたかたちで推移してしまう危険があります。洋書を読めない方は、ラッド著、島田福安訳『神の国の福音』と本書を、そのような視点から繰り返し熟読されることをお勧めします。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、C.
特別啓示と一般啓示の関係48頁、右段16行
https://youtu.be/y_6XnWONwxI
*
4. 人間の罪深さ−堕落後の現象−「治癒的」なものとして
_1. 堕落以前−神についての曇りない知識
_2.
アダムとイブを探される神−「一連の探される行為」(創世記3:8)
_3.
創造者から創造物への特別なコミュニケーション(創世記1:28)を示唆
_4. 特別啓示−「堕落以前」にさかのぼるのか?
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:「訳者あとがき」より、A『キリスト教教理入門』刊行記念講義に倣って、185頁、3行
https://youtu.be/unfo4zP8-Mw
*
さて、信徒のための『終末論』シリーズに取り組むことにさせていただいたのであるが、でどのように取り組んでいったら良いのか。それが問題である。いろいろと模索させていただいた。それらの思案の結果、『キリスト教教理入門』刊行記念講義に倣って「訳者あとがき」から始めること。そして、ショート・レクチャーもまた、『キリスト教教理入門』の最近のシリーズのように取り組むこと。すなわち、翻訳した『終末論』テキストを一段落ごとに丁寧に学んでいくのが一番良いのではないか、というところに落ち着いた。長丁場になる。いつまで続けられるか分からない。試行錯誤しながらなので、スタイルも形式にも変化もありうる。ただ、「千里の道も一歩から」である。先のことはあまり心配せず、「ヘブル11:8
行くところ知らずして」出ていったアブラハムのように取り掛かりたい。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、C.
特別啓示と一般啓示の関係48頁、右段16行
https://youtu.be/y_6XnWONwxI
*
4. 人間の罪深さ−堕落後の現象−「治癒的」なものとして
_1. 堕落以前−神についての曇りない知識
_2.
アダムとイブを探される神−「一連の探される行為」(創世記3:8)
_3.
創造者から創造物への特別なコミュニケーション(創世記1:28)を示唆
_4. 特別啓示−「堕落以前」にさかのぼるのか?
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、B.
特別啓示の必要性48頁、左段18行
https://youtu.be/qV5VkXskoig
*
2. なぜ必要?−堕落以前の「愛顧の関係」を失った−交わりの状態の「回復」のため
_1.
一般啓示を越えたもの−人間の有限性の「生来の制限」+人間の罪深さという「道徳的制限」
_2.
堕落の後−人間は神に背を向け、反逆した−「霊的な事柄」についての理解力−不明瞭、複雑なものに
3.
「関係的」なもの−知識の一般的な範囲の拡張×−情報−「選択的」なもの○−伝記的に△−単なる好奇心×
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:
「一宮基督教研究所ユーチューブへのコメント」より、@大きな悲しみ、心の痛み、184頁、3行
https://youtu.be/Ita9hrLvKi8
*
今回の「信徒のための『終末論』シリーズ」は、「アグロ先生、感謝します。終末論の本やエリクソンの著書や先生のことを知りました。(中略)今回(エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録)のように、10分以内の動画(あるいは15分以内の動画)シリーズで、いかにディスペンセーションが間違いかということをシリーズわけして、詳細に渡って動画をUPして頂けないでしょうか?私の周辺でその終末論に固執して抜けきれない方々が結構いるので、よろしくお願いします。」と書き込んでくださった方へのひとつのレスポンスである。
実は、わたしの周辺にも同様の同労者、兄弟姉妹がたくさんおられる。わたしは、所属団体と母校の将来を憂えて、本書『終末論』を翻訳し、論文「福音主義イスラエル論」を執筆させていただいた。わたしの心にあったものは、「ローマ9:1
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、9:2
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と記し、同胞イスラエルの民の救いを願ったパウロと同じものであった。しかし、この二つの取り組みは誤解され、不適切なものと判定された方々から「正当な理由なき誹謗中傷」と受け取られ、母校における36年間の神学教師としての地歩を失うことになった。それはわたしの不徳のいたすところである。ただ、わたしの神学の研鑽と教育への貢献を評価してくださる文面もあり、心あるわたしの理解者もまた少なからずおられることを知り、励まされた。
わたしがこのようなことを書き記すのは、わたしと同様の取り組みをされる方は同様の苦難の道筋を辿る可能性に対し、あらかじめ心備えをしておいていただきたいからである。根本主義、またディスペンセーション主義、キリスト教シオニズムの運動や教えの影響下にある教会や教派の中で、このような勇気のある取り組みをしていかれる方々に次の聖句を贈らせていただきたい。
「Tペテロ 4:12
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。4:13
むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第4章 神の特別啓示 第1節 特別啓示の定義と必要性、A.
特別啓示の定義48頁、左段3行
https://youtu.be/LU7SQql3yyg
*
1. 特別啓示−神との贖罪的関係に入れうる、限られた時間・場所における、特別な人々への神の顕現
_1.
「啓示する」=(ヘ)ガーラー、(ギ)アポカリプトー、ファネロー…「隠されていたものの覆いを取り除ける」を意味
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、序:
「一宮基督教研究所ユーチューブへのコメント」より、@大きな悲しみ、心の痛み、184頁、3行
https://youtu.be/Ita9hrLvKi8
*
今回の「信徒のための『終末論』シリーズ」は、「アグロ先生、感謝します。終末論の本やエリクソンの著書や先生のことを知りました。(中略)今回(エリクソン著『キリスト教教理入門』講義録)のように、10分以内の動画(あるいは15分以内の動画)シリーズで、いかにディスペンセーションが間違いかということをシリーズわけして、詳細に渡って動画をUPして頂けないでしょうか?私の周辺でその終末論に固執して抜けきれない方々が結構いるので、よろしくお願いします。」と書き込んでくださった方へのひとつのレスポンスである。
実は、わたしの周辺にも同様の同労者、兄弟姉妹がたくさんおられる。わたしは、所属団体と母校の将来を憂えて、本書『終末論』を翻訳し、論文「福音主義イスラエル論」を執筆させていただいた。わたしの心にあったものは、「ローマ9:1
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、9:2
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と記し、同胞イスラエルの民の救いを願ったパウロと同じものであった。しかし、この二つの取り組みは誤解され、不適切なものと判定された方々から「正当な理由なき誹謗中傷」と受け取られ、母校における36年間の神学教師としての地歩を失うことになった。それはわたしの不徳のいたすところである。ただ、わたしの神学の研鑽と教育への貢献を評価してくださる文面もあり、心あるわたしの理解者もまた少なからずおられることを知り、励まされた。
わたしがこのようなことを書き記すのは、わたしと同様の取り組みをされる方は同様の苦難の道筋を辿る可能性に対し、あらかじめ心備えをしておいていただきたいからである。根本主義、またディスペンセーション主義、キリスト教シオニズムの運動や教えの影響下にある教会や教派の中で、このような勇気のある取り組みをしていかれる方々に次の聖句を贈らせていただきたい。
「Tペテロ 4:12
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。4:13
むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第3章 神の普遍的啓示 第5節 一般啓示と人間の責任、43頁、右段35行
https://youtu.be/iQq6mWkHM2k
*
1. パウロ−ローマ1−2章:人間についての「有罪宣告」について
_1. もし「人間を非難する」ことが正しいのなら
__1. もし彼らが「特別啓示なしで有罪となる」=「特別啓示なし」で人間は有罪宣告を避ける事が可能?
__2.
ローマ2:14 −彼らが「律法の要求」を満たしうることを示唆?
__3.
しかし、それは−律法をもっている人にさえ−不可能(ローマ3章、ガラテヤ3:10-11)
___1.
パウロ−ガラテヤ2:23-24−律法=私たちを義とする手段ではない
___2.
私たちの「罪」を知らせ−私たちを「キリスト」に導くガイド役
*
2. 未信者−「内にある律法」−ユダヤ人のもっている律法と同じ働き
_1.
自然における啓示(ローマ1章)−ひとは、「力ある永遠の神」が存在されると確信
_2.
内にある啓示(ローマ2章)−ひとは、その「基準に合致して」生きていないと理解
__1.
主張されている「道徳的内容」−相違する文化状況で多様
__2.
しかし、すべての人が「固守すべき」事柄が存在する−「内的強制」を内包
___1.
彼らは−その「水準」に達していないという結論−到達すべき
___2.
それが抑えつけられているとしても−人間が保有している「神知識」
___3.
彼らと「神」との関係−「罪責」あるものとの結論もたらすべき
*
3. もし私たち−「憐れみの提供された基盤」知らず−神の憐れみの上に、私たち自身を「投与」したら
_1.
旧約聖書の信者の事例−「キリストの贖い」−十分には知らされていなかった−
__1.
罪の赦しの提供、いかなるわざの価値も受け入れられない−知っていた−「十分な内容」の福音の形式もっていた
__2.
そして彼らは「救われた」
_2. 自然における「神」−アブラハム・イサク・ヤコブと「同じ神」(パウロ:使徒17:23)
__1. 唯一の力ある神への信仰に来る人
__2 この聖なる神を喜ばせるいかなる義のわざにも絶望している人
__3. この善良な憐れみの神に−自身を投与する人
_3. その受け入れの基盤=イエス・キリストの御わざ
*
4. ローマ2:1-16から−どのような推論が可能なのか?
_1. 特別啓示をもたずに−人間が救われる−想像できるか?
_2.
パウロ−この「理論上の可能性」にオープン−しかし、それは「理論上の可能性」にすぎない
_3.
だれかが−「特別啓示」をもつことなく救われる−はなはだ疑問
_4.
パウロ−ローマ3章−「だれも救われることができない」ことを示唆
_5.
ローマ10章−信じる−「福音宣教」の必要性を力説
_6.
彼ら−事実上、「神を知っている」ゆえに−「十分に応答する」ことが可能とされている
_7.
故意に、「その真理」を抑圧してきた−一般啓示に応答することの失敗
_8.
結果として−一般啓示−「律法が果たしている役割」−義とするためにではなく、「罪責ある者」にするために働く
2020年11月1日 新約聖書
テサロニケ人への第一の手紙3:1-13「今、私たちの心は生き返るーあなたがたが主にあって堅く立っているなら」
https://youtu.be/Fs1lLB9IMjY
*
今日の箇所は、v.1「そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり」という言葉をもって始まる。パウロがこのような言葉を発することを意外に思う。全知全能の神は万事を益とされるから心配など不要ではないのか。大使徒パウロが発する言葉ではないような気がするのである。しかし、地中海世界、ローマ帝国各地にあるユダヤ教のシナゴークやその周辺に生活する改宗者や耕された求道者を主たる対象にして伝道活動をしていたパウロは、当然のごとくユダヤ教徒からの両極の反応に直面していた。心を開いてイエス・キリストの人格とみわざを受け入れる者とパウロを仇のように敵対視する者の両者である。
例に漏れることなく、ピリピでも、テサロニケでも同様の二つの反応があり、種は蒔かれ、苗は育ち、生まれたばかりの教会を残してパウロたちは、ベレア、アテネ、コリントとギリシャ南部へと移動していった。ただ、パウロたちはv.7「苦悩と苦難」の只中に残していった兄弟姉妹たちのことを心配していた。V.5「誘惑する者が誘惑して」パウロたちの労苦を食い尽くそうとしていたからである。
ユダヤ教徒たちは、あらゆる手段を尽くしてクリスチャンたちを脅迫し、迫害し、ユダヤ教に立ち返るよう誘惑していた。パウロは自分がかつてそのようなことに与していたので、彼らの策略をしっていた。それで、v.3「私たちはこのような苦難にあうように定められている」と、ユダヤ教的伝統を脱し、使徒的福音と使徒的倫理的生活に生きようとする者は、必ず苦難に直面すると教えていた。それは、パウロ自身も生涯にわたって経験し続けたことであった。「ロマ8:17
私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」とある通りである。
ユダヤ教との関わりは、1世紀においても、21世紀においても、キリスト教会においては、微妙な問題である。私たちは、反ユダヤ主義には断固反対しなければならない。しかし、同時に「土地、首都、神殿の回復を目指すユダヤ教シオニズム」の盲目的支援者となることもまたひとつの極端であると留意する必要はあると思う。ユダヤ教の旧約聖書の遺産への感謝と敬意を忘れてはならない。しかし、同時に旧約の影に引きずられ、「ユダヤ教シオニズムキリスト派」的な傾向を帯びることは、新約の普遍主義的・諸民族・全人類のための福音のベクトル(運動の方向性)を歪めることである。今日、米国をはじめ、多くの日本のキリスト教会の一部がそのような運動や教えの影響を受けていることを懸念している。
このような懸念の心、警鐘の声をあげるとき、一部の教派・神学校ににおいては、テサロニケの兄弟姉妹と同じような苦難に巻き込まれる危険が存在している。そのようなとき、この手紙はv.2「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするため」の強力な励ましである。
わたしは、その誤りに気がつき、長年の神学教育において、エリクソンやラッドにならい取り組んできた。すなわち、19世紀のリベラリズムに対する極端な反動としての根本主義があり、その中に内包される誤りの是正としての福音主義運動に参画してきた。そのような歩みには苦難もあったが、それらの取り組みは無駄にはならず、v.6「あなたがたの信仰と愛について良い知らせ」をその節目節目に受けとってきた。わたしたちの団体や母校でも、このようなマクロの視野に目が開かれ、福音理解の是正に取り組む人たち、特に若手の先生方が育ってきた。それらの次世代教職者たちが、今日エリクソン著『キリスト教教理入門』やラッド著『終末論』等を片手に、注ぎ込まれる「新しいブドウ酒」のための「新しい皮袋」を整えていくことを期待している。
ときどき、彼らの取り組みを耳にし、目にし、v.8「信仰による慰め」を受ける。私自身は、さまざまなV.7「苦悩と苦難」を経験しつつ、v.5私の「労苦が無駄に」はなっていないことを知るからである。そればかりか、わたしからタスキを受け継ぎ、主がわたしに見せてくださった幻を継承し、その実現に取り組んでくれているのを見るからである。そのような後輩たちの、教え子たちのV.8「主にあって堅く立っている」姿を垣間見るとき、私の「心は生き返る」を経験するのである。そして、神がv.9「どれほどの感謝」を、そして愛をv.12「豊かにし、あふれさせ」てくださるのを経験するのである。
四季折々に、庭の手入れをしている。種を蒔き、苗を植え、水をまき、肥料をやり、消毒をし、枝の剪定・誘引、追肥・追土を施す。福音理解においても同様である。使徒的福音理解とその倫理的実践において、健全なベクトルを保持するためには、細心の目配りが必要とされる。庭が春の嵐、夏の日照り等から保護が必要なように、教会もさまざまな極端な教えや運動から守られる必要がある。そして、かの日、主にまみえる日、v.13「私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者」として整えられ、「よきしもべよ。あなたは小さなことに忠実であった。人々の前で神の栄光を現した」と喜んでいただけるよう、今日も庭の手入れをする。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第3章 神の普遍的啓示 第4節 一般啓示価値についての相違する評価、C.
ジャン・カルヴァン、42頁、右段30行
https://youtu.be/vXWTpHRLS6c
*
1. ジャン・カルヴァンによって提示された立場
_1. 最も合理的
_2.
神ご自身−自然、歴史、人間の人格−客観的・正統的・合理的な啓示−与えておられる
_3.
観察しようとする−どんな人に対してもそこに存在するもの
_4. 一般啓示−自然の中に「読み込まれる」なにかではない
_5. すでに、神による創造・継続している摂理−において明らか
*
2. しかし、パウロ−「一般啓示」においては−神を明瞭に認識不可
_1.
罪−人間の堕落、継続する悪しき行ない−「一般啓示の有効性」−二重の影響
__1.
一方−罪−「一般啓示の証言」−傷つけている(創世記1:17-19)
__2.
パウロ−創造物−無益なものに従属(ローマ8:18-25)−それは「解放」を待望(19,21,23)
__3.
結果として−その証し−どこか「屈折」させられている
__4. それはまだ−「神の創造」−しかし「台無しにされた創造」
*
3. 罪と堕落のより重大な影響−人間自身の上に
_1. 聖書−人間の「理解力」の盲目・暗闇(ローマ書)
_2. サタンに起因する「盲目」(Uコリ4:4)
*
4.
一般啓示−不信者を「神」のもとに連れ来ること不可
_1.
罪深い人間−のべ伝える人がなくて、どうして信じることができるでしょうか?
_2.
宣教の緊急性の視点から−「自然神学」を構築する可能性−パウロは疑問視
*
5. 必要とされているもの−カルヴァン「信仰の眼鏡」と呼んでいるもの
_1.
「罪びとの状態」と「視力に問題のある人」との類比
_2. 眼鏡なし−ピンぼけ、眼鏡装着−はっきりと見える
_3. 罪びと−創造の中に神を認識不可、信仰の眼鏡−神の手のわざの中に「神」を見出しうる
_4.
福音による救い−特別啓示にさらされる−私たちの「知性」−再生の結果として明晰に
_5.
そこに存在するもの−何であるか−明確に認識可能
_6. 特別啓示においてよりはっきり見える−「自然」の中に認めうる
*
6.
一般啓示の内にある証拠−神存在についての公式の議論を構成すると示唆している聖書箇所−どこにもない
_1.
神−「神の御手のわざ」の中に存在するとの主張
_2. これは−神存在についての「外形的証拠」
__1.
パウロ−アテネでアピールした−ある者は受け入れず、他の者は興味を示した(使徒17:32-34)
___1.
客観的な一般啓示−存在
___2. 自然神学を構成するものとしては使用不可
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第3章 神の普遍的啓示 第4節 一般啓示価値についての相違する評価、B.
トマス・アクィナス、38頁、右段40行
https://youtu.be/ZyrtuEk38Xk
*
1. 教会史における自然神学−卓越した実例
_1. トマス・アクイナスの膨大な労作
__1.
すべての真理−二つの領域
___1. 下方の領域−「自然」の領域−「理性」によって知られ
___2.
上方の領域−「恵み」の領域−「権威」によって受け入れられる
2. トマス
_1.
ある信条−神の存在、人間の魂の不死、カトリック教会の超自然的起源−純粋な「理性」によって証明可能−「理性」の真理
_2. 三位一体−「より特別な教理的要素」−権威の下で−「啓示」の真理
※参考文献―春名純人著『哲学と神学』
【吾輩は、欲深い人間なり】
ガラテヤ書に以下の聖句がある。「ガラ5:13
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。5:14
律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。5:15
気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。5:17
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。5:18
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」
家内には「あなたは欲の深い人間やね
!」と言われてしまう。というのは、一宮基督教研究所の企画として「あれもしたい。これもしたい」と思って、身動きがとれなくなることしばしばなのである。翻訳したい本は山ほどあるし、取り組みたいビデオ講義シリーズもあまたある。記しておきたい論稿もまた然り。肉の欲望で自らの健康を壊すことなく、御霊に導かれ、隣人愛の発露として、この新しいシリーズに取り組めたら幸いである。
さて、この新しいシリーズをどのように取り組めば良いのだろう。これもまた、大変な問題である。
「今回のように、10分以内の動画(あるいは15分以内の動画)シリーズで、いかにディスペンセーションが間違いかということをシリーズわけして、詳細に渡って動画をUPして頂けないでしょうか?私の周辺でその終末論に固執して抜けきれない方々が結構いるので、よろしくお願いします」という願いと必要にかみ合うがどうか分からないが、エリクソン著『キリスト教教理入門』の刊行記念講義のときに、「訳者あとがき」から導入講義的なレクチャーをして好評であったので、ラッド著『終末論』の「訳者あとがき」あたりから、課題の背景や歴史的状況やラッドや著作集等について分かち合うことは有益かもしれないと考えている。
このシリーズは、ラッド著『終末論』をテキストとして語るので、もっておられない方は購入していただきたい。最近、増刷されたので近くのキリスト教書店でも購入できるし、ラッド著、安黒訳『終末論』とともに付録の『福音主義イスラエル論T・U』も欲しい方は、下記にメールにて一宮基督教研究所(aguro@mth.biglobe.ne.jp)に直接注文していただくか、掲載料分高くなるがアマゾン書店を通し一宮基督教研究所取り扱い本を購入していただきたい。
【
その夜、パウロは幻を見た。】(使徒16:9)
「アグロ先生、感謝します。終末論の本やエリクソンの著書や先生のことを知りました。また、反ディスペンセーション主義の立場ということも安心しております。
今回のように、10分以内の動画(あるいは15分以内の動画)シリーズで、いかにディスペンセーションが間違いかということをシリーズわけして、詳細に渡って動画をUPして頂けないでしょうか?私の周辺でその終末論に固執して抜けきれない方々が結構いるので、よろしくお願いします。(中略)
今回のように、ホワイトボードが近くにあって、音声も大きくクリアなものだと大変助かります。(よくを言えば、もう少しライトアップして明るくした方がより良くなるかと思います。)よろしくお願い致します。尊いお働きに感謝します。」
* * *
本日、わたしのユーチューブ・サイトに、上記のようなコメントを寄せてくださった方がおられ、大きな励ましを受けた。わたしの場合、知人・友人、同労者、兄弟姉妹の中にも、ディスペンセーション主義聖書解釈法、ディスペンセーション主義教会論、ディスペンセーション主義終末論の影響をさまざまなかたちで受けている方が結構おられる。私自身がそのような誤りや影響から時間をかけて解放され健全化されてきたので、わたしの周囲の方々、また日本のキリスト教会の兄姉がそのような誤りや影響から健全化されていかれる一助を提供し続けたいと願っている。
わたしの立場が「反ディスペンセーション主義の立場」かどうかというのは、少し誤解を与えることになるかもしれないので、釈明しておきたい。わたしは、特定の運動や教えに反対したり、攻撃したりするつもりはいささかもない。ただ、より健全な聖書観、より健全な聖書解釈、より健全な福音理解を追い求めて、ラッド著作集、宇田進著作集、エリクソン著作集、牧田吉和著作集、ストット説教集等々に傾聴しつつ学び続け、そこから教えられたことを分かち合っているだけなのである。
健全な聖書観、健全な聖書解釈法、健全な福音理解、その福音の現在の状況への健全な適用等を学んでいく途上で、誤った運動や教えのさまざまな傾向に対し、その人たちの行く末を懸念し警鐘を鳴らす責任を感じ、そこで生じてくる責務を果たそうとしているだけである。彼ら自身を非難する意図は毛頭ない。
ただ、彼らのうちのある運動や教えの中に潜む「@病状を診断し、A病巣を突き止め、B治療のための処方箋を提示する」ことを意図しているのである。わたは、彼らに対して、ローマ9章に記されているパウロの同胞への悲しみ、叫びを抱きつつ、このことに取り組んでいる。
今、心に浮かんでいることは、ラッド著『終末論』を、エリクソン著『キリスト教教理入門』のように、一言一語を丁寧に味わいながら、解説・講義していくのはどうだろうかということを思案している。お祈りいただきたい。
エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』第三章 神の普遍的啓示、第一節 啓示の性質A、35頁 左段18行
https://youtu.be/KTRwNliQUY0
*
講義はテキストに沿い、板書とイラストを駆使し、分かりやすく話しているので、ここではわたしの証しを「回想録」風に書き綴っていきたい。
わたしの小さい頃の夢は、中学か高校の社会、特に歴史の教師になることだった。小学五年・六年の時に伊藤三郎先生に社会を教えてもらった。魅力的な授業で魅入られるように傾聴していた。中学の時は、土井博徳先生が歴史を教えてくださった。山崎高校のときに、国公立の教育学部を受験する予定であったが、友人が「ぼくたちは私立の関西学院大学を受けるから、君もどうかな」と勧められ、「社会科の教師の資格も取得できる」という項目がある経済学部を試しに受けることにした。たまたま知っていた問題ばかりが出て、すんなり通ってしまった。キャンパスの美しさも気に入った。それで、関学に入ることにした。
ただ、大学での講義は興味をもてない科目が多かった。それで、クラブ活動にのめり込んだ。絵画部弦月会である。そこから、芸術や文学や哲学に深く入っていった。芸術家の人生観にはいたく感動し、教えられることが多かった。特に印象派の画家の人生と油絵からは多くのことを教えられた。それが今の「庭造り」にも生きている。
一般教養で「哲学」があり、津田教授の専門は「ニーチェ」であった。それもあり、ニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』をバラバラにし、Gパンの後ろポケットに入れ、ボロボロになるくらい貪り読んだ。いつしか強烈な「進化論的無神論者」となっていた。しかし、この振り子の反対方向への徹底的な振り切りが、すべての「偽りの宗教性」を払拭し、「まことの神、まことの人であるイエス・キリスト」とまみえる土壌づくりとなった。
「虚無」の恐怖を真に知り、真に価値あるもの、永遠に価値あるもの、真実なものに対して、激しい霊的渇きの中にあった。そのような時に、本田弘慈師の『ここに愛がある』という自伝映画のポスターを電柱に見た。「ロマンチックな映画かな」と思い、「Kansai
Fukuin
Center」という建物に入った。いつも見ていた関学そばの建物で、「関西服飾専門学校」と思っていた。入ってみたら、そこにはキリスト教会があった。映画も、「旅館の息子である本田青年が罪を悔い改めて、神さまの愛に立ち返る」というような映画であった。
この集会を契機にして、JEC西宮福音教会の礼拝や集会に通うようになった。その年のキリスト者学生会(KGK、国際的にはIVCF)のサマー・キャンプのキャンプ・ファイヤーで、あるクリスチャンの女性が「わたしは、神さまの前に罪を犯しています」と涙ながらに心の中にある罪について告白し、悔い改める姿を見た。その時に、聖霊はわたしの心をも深く照らされた。「わたしは、今まで、外側の罪ばかり気にしてきた。そして自分は善人だと思ってきた。しかし、クリスチャンとは、心の奥底まで神さまの聖い光に照らされ、神さまの前に誠実に生きよう」としている人たちなのだと分かった。
その夜、「わたしもそのような人生を生きたい」と心の底から願った。そして「わたしも、一生涯、聖書を読んで生きていこう」と決心したのである。
普通の学校の教師として生きる人生もあったが、献身し「神学教師」として人生の大半を過ごすことができたことは幸せなことであった。母校関西聖書学院で36年間(隔週で一泊二日、6時間〜9時間集中講義)、また生駒聖書学院で17年間(学期ごとに、一泊二日6時間集中講義)、そして残された年月を時間と空間を超え「一宮基督教研究所」というかたちで継続神学教育、生涯教育にささげることができるのはわたしにとって、この上ない幸せである。
2020年10月18日 新約聖書
テサロニケ人への第一の手紙1:1-10「多くの苦難の中で喜びをもってみことばを受け入れー信仰・愛・希望」
https://youtu.be/a6PYyljpRnA
*
今週は、生駒聖書学院での六時間の集中講義がある。コロナ感染予防のため、今年度はブルーレイ・ビデオを作成して講義させていただくこととした。それで、この一ヶ月間、下準備にかかり切り、通常のユーチューブ・ビデオのアップロードは滞っていた。前学期の生駒講義は、パワーポイントを活用した講義ビデオであったが、今回は小さなホワイトボード・キャンバスに板書とイラストを描きつつ味わい深く語る講義スタイルとした。わたしにとっては、こちらの方が、自由で流れのある講義ができるゆえであった。生駒講義終了後に、このようなスタイルで、ICIビデオ講義を作成していきたい。
さて、次世代の働き人、信徒リーダーたちへのメッセージとして、牧会書簡を学んできた。次に何を取り扱うべきか模索してきた。そして、テサロニケ人への手紙を導かれている。
この手紙は、新約聖書の掲載順序では、真ん中であるが、実は最初の頃に書かれた手紙である。テサロニケは、マケドニア王カサンドロスの妻テサロニケの名にちなんで命名された地名である。ローマ帝国の属州となった後には、マケドニヤ州の州都となった、その地域の中心的な商業と貿易の港町であった。
聖書では、使徒行伝の16章に小アジア(今のトルコ地方)の宣教に携わっていたパウロたちは、御霊によって行く道を閉ざされたとき、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(使徒16:9)との幻が示された。わたしたちも、”閉ざされた状況”に置かれるときがあるのではないか、そして後に、単に道が閉ざされているのではないことを知ることになる。それは”神さまが新しいみわざのステージ”に引き出される転換点であったことを。
パウロは、素晴らしい決断者である。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに渡ることにした」(使徒16:10)。“ただちに”である。この反応の早さに驚嘆させられる。この結果が、ピリピ宣教であり、テサロニケ宣教である。
前者では、ルデヤや獄吏の家族が劇的な回心を遂げた。後者では、ヤソンや神を敬う大勢のギリシア人が信じた。しかし、これらの生まれたばかりの教会は継続的な迫害の中にあった。あるユダヤ人たちは「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています」(使徒17:7)と、今でいう“フェイク(偽)ニュース”を流布させた。神の言葉を熱心に調べ、キリスト教信仰に入るユダヤ人も多くいたが、群衆を扇動してパウロたちを脅迫し、クリススチャンたちを危険に陥れるユダヤ人も多くいた。
パウロは、ピリピからテサロニケ、そしてアテネと移動しつつ宣教活動を展開していた。ただ、迫害の只中に残してきた「生まれたばかりの教会」のことを心配し、「迫害の只中で信仰が守られる」よう、いつも祈っていた。
そして、状況を見てくるようテモテを派遣し、やがて帰ってきた。そのときもたらされた報告が素晴らしいものであったので、パウロは思わず、ひれ伏し、手を挙げ、v.2感謝の涙に溢れ、神に祈りをささげたことであろう。自分への手紙のように読むと、読み過ごしてしまうような一節ではあるが、1世紀のテサロニケの教会が置かれていた危険な状況、困難な環境を思い巡すなら、私たちの心にも、このような教会の生き生きとした信仰と神の守りは、溢れる感謝と新鮮な喜びを噴出させる。
v.3 第一コリント13章のように、テサロニケの教会にある「信仰」と「愛」と「希望」が記されている。
@テサロニケの教会の“信仰”の特徴
さて、「テサロニケの教会の信仰」には、どのような特徴があるのだろうか。それは、エリクソン著『キリスト教教理入門』p.78にもみられるものである。V.5「ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信」を伴う信仰である。またそれは順風満帆な環境と現世ご利益を保証するような信仰ではなく、V.6「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れる」信仰である。
このような勇敢な信仰の生きざまは、現在のギリシャ北部のマケドニヤ地方と南部のアカイヤ地方に響き渡った。“信仰者の生きざま”とは伝染力・感染力を有するものである。キリストも「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」られた。パウロも、ペテロも、ヨハネも、テサロニケのクリスチャンたちもまた苦しみを通っている。クリスチャンの信仰とは「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」続ける信仰なのである。それは、暗闇の只中に輝く、小さなローソクの灯である。しかし、小さな灯は次から次へローソクに点火され、やがて深い暗闇は吹き払われることになる。ローソクの芯の手入れをし、暗闇の只中に輝き続けよう。
Aテサロニケの教会の愛の特徴
「テサロニケの教会の愛」にはどんな特徴がみられるだろうか。それは、v.9「私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか」にみられる。コリントの教会では、パウロは一時期、ある人たちの分派的活動の下、ひどい評価を受けることがあった。ガラテヤの教会ではパウロはユダヤ主義者によって、使徒的権威に疑念を投げかけられもした。しかし、ピリピやテサロニケの教会は、パウロたち一行を神から派遣された使徒的権威をもつものとして、パウロたちの「健全な福音理解」をそのまま神の言葉として、喜びにあふれて受け入れていった。パウロの喜びが、テサロニケのクリスチャンたちのパウロたちへの人格的信頼とその「福音理解」への反応から、手紙のはしばしに滲み出ている。
今日も同様である。私たちがラッドやエリクソン著作集に基づき、「より健全な福音理解」を提示していくときに、概して二つの反応がある。コリント・タイプの反応とテサロニケ・タイプの反応である。パウロの喜びと苦闘が心に沁みる。
Bテサロニケの教会の希望の特徴
「テサロニケの教会の希望」とは、何であったのだろう。彼らはv.9「偶像から生けるまことの神に立ち返った」。そして今v.10「御子が天から来られる」再臨を待ち望んでいる。この御子は、私たちを罪と死と永遠の滅びから、贖い出されたお方である。
この方は、贖罪のみわざを成し遂げ、墓に葬られ、三日目によみがえらされ、昇天され、御座の右に着座し、時満ちて再びこの地上に来訪し、信仰者のからだを贖い、地上に降り、「ユダヤ人中心の神の国」ではなく“普遍的な神の国”をもたらしてくださる方である。新しい天と地をもたらしてくださる方である。テサロニケの教会のクリスチャンとともに、私たちの待望している希望もそこにある。
2020年10月11日 新約聖書 テモテへの第二の手紙4:9-22「だれも私を支持してくれずーしかし、主は私とともに立ち」
https://youtu.be/QFMMlQm3F3Y
*
今日は、テモテへの第二の手紙の最後の箇所である。ここで、わたしたちは、パウロの元を「去る人、来る人」を見る。
デマスは、脱落していった働き人なのだろうか。V.10a「今の世を愛し、私を見捨てて…行ってしまいました」とある。V.10bクレスケンスとテトスは奉仕の必要のために他の地域に出ていかざるを得なかった。V.11ルカだけがパウロの元にいる。ルカは医者であり、資産家であったが、常にパウロと同行し、助けていた。第一回投獄の記述で終わる使徒行伝を記し、今またパウロの殉教時に共にいる。彼こそは、パウロにとって”真の同労者”のひとりである。危機の時、それは“真の友が誰なのか”判別されるときである。
そのパウロは、愛する霊の子、次世代の指導者、地中海世界最大のエペソ教会の主任牧師テモテの来訪を強く望んでいる。まもなく殉教の時が訪れると覚悟したバウロは、次世代の教職者に書き残しておきたいこと、伝授したいことがたくさんあったに相違ない。それで、v.13「書物、特に羊皮紙の物を持って来てください」とリクエストしている。パウロは、召されるその日まで、執筆活動をやめなかった。彼は、旧約のモーセ五書を遺したモーセのようである。パウロは新約の約半分13通の手紙を書き残した。働き人には、エリヤやエリシャのような“実践的預言者”とイザヤやエレミヤ、エゼキエル、ダニエルのような“記述預言者”がいるといわれる。パウロはv.11「わたしの務め」を理解し、自覚していた。彼の最大の功労、なすべき使命はv.13「羊皮紙」に記された“健全な福音理解”にあると。ICIにあるわたしたちも、ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和、ストット等から教えられる“健全な福音理解”を傾聴、理解、消化し分かち合うことを使命としている。それらが無駄にならないよう、ユーチューブ・ビデオやキンドル本化して、遺していこうとしている。
ただ、その使命を果たしていく道筋は順風満帆な海路ではないことが明らかにされている。v.14「銅細工人アレクサンドロ」のような人々の存在である。彼は、金属業者で教会に加わったが、悪人であり、教会を除名された人であるらしい。それを恨みに思い、パウロに激しく逆らった。文脈からみれば、パウロの裁判で偽証し、それでパウロは窮地に陥れられたのかもしれない。多くの人は、パウロの冤罪に関係することを恐れ、パウロから距離を置き、離れていった。よくあることである。最も必要とされる時に、v.16「支持してくれず、見捨て」る人々である。イエスの裁判また十字架刑のときも同様であった。しかし、ルカのような“真の友”をもわたしたちのそばに置いてくださっている。主はICIにも数知れないほど多くのシンパ層を備えてきてくださった。
しかし、v.17「主は私とともに立」ってくださる方である。パウロが最も危険な時、主はともに立ってくださった。パウロの地中海宣教の中心は、ローマ帝国の中心部での証しであった。それが第一回投獄時と同様、奉仕生涯の最後の場面で再び可能とされた。ローマ帝国の最高裁であろうか。ローマ帝国の中心にいて、国家を支えている人たちの前で、v.17a「私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ」た。それは、ローマ帝国の中心部が回心させられ、そこから帝国の、そして帝国を越えて世界の隅々まで、v.17b「すべての国の人々がみことばを聞くにようになる」ためであった。
事実、ローマ帝国の中心部に蒔かれ、パウロの一粒の種は殉教をもって終わる。しかし、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」と軍人皇帝時代をへて、皇帝コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認され、さらにグラティアヌス帝とテオドシウス帝によってキリスト教は国教となっていった。まさしく「一粒の種、死なずば」である。
それゆえ、パウロは、v.17c「こうして私は獅子の口から救い出された」と記した。彼は、偽証し生きて解放されることを望まなかった。それが殉教に至るとしても、真実を語り、「健全な福音理解」を証しする道を選択した。パウロにとって救いの道は、「地上の牢獄また殉教死」からの解放ではなかった。苦難、苦境の只中で「証し」することを守り支えられ、その使命を達成し、勝利の凱旋将軍のようにv.18「天の御国」の門をくぐることが最終的な救いであった。
わたしたちが、さまざまな運動や教えの健全化に取り組むとき、「@診察、A病状の指摘、B治療の処方箋の提示」をなすことになる。ラッドやエリクソン等がなしていることである。しかし、ある人々は激しく逆らい、わたしたちは苦境に陥れられたりもする。親しかった人々や教え子からも距離を置かれ、疎遠になったりもする。V.17「しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えて」くださる。それは「私を通してみことば“健全な福音理解”が余すところなく宣べ伝えられ」るためである。それゆえ、わたしたちは苦境・苦難、獅子の口を恐れる必要はない。主は私たちを、「どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださる」。パウロの最後の手紙はそのような励ましを私たちに与えてくれている。
2020年10月4日 新約聖書
テモテへの第二の手紙4:6-8「私が世を去る時が来ましたー“義の栄冠”の教理のインセンティブ」
https://youtu.be/npegTR6d4cQ
*
v.6「私が世を去る時が来ました」と類似の聖句がピリピ1:21-23にある。第一回投獄の時である。このとき、パウロはあの有名な「生きることはキリスト、死ぬことは益です」を書き残している。
わたしが大学生のとき、“生きる意味”を喪失していたときにこの聖句に出会った。「生きることの意味は、“キリストの本質を生きる”ことにある」とはっきり教えられた。それは、環境や状況、条件に支配・影響されない生き方である。立場とかポストとかサラリーというものは、“鶏の羽”のようなものである。それらすべてをむしり取ったところに“生の実質・実体”がある。それ以外は、ある意味で“みせかけ、枝葉末節”である。なぜなら、“キリストの本質”に関わる部分だけがv.8「正しい裁き主」の評価の基準であり、尺度であるのだから。
パウロは、エルサレム、アンテオケ、エペソで中心的指導者となりうる素質を有していた大使徒であった。にもかかわらず、彼は天幕づくりにいそしみつつ、宣教と福音理解の形成の最前線で、v.7「勇敢に戦い抜く」生涯を送った。彼はサラリーマン牧師ではなかった。「虎穴に飛び込み虎児を得る」、また「火中の栗を拾う」勇気溢れる一兵士であった。彼は、自身のv.7「走るべき行程」をよく知っていた。それゆえ、彼らには“安逸な生活保障”を求める選択肢はなかった。マラソンの先頭集団を牽引してやまない存在であった。
彼の13通の手紙なしに、健全な「福音理解」は保持されなかったであろう。モーセがヨシュアに、エリヤがエリシャにミニストリーを引き継いだように、パウロはテモテたちに「健全な福音理解」の継承を託した。パウロは実に優秀な戦略家であり、優れた司令官のようであった。ICIにあるわたしたちも、ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和、ストット等という「福音理解」のセンターラインを照らす使命を帯びている。そして、それらを次世代に託す働きが励まされている。
v.8「あとは、義の栄冠が」の聖句は、新約聖書における“輝く宝石”のひとつのように思う。ヘルマン・バーフィンクは『改革派教義学』四巻シリーズの最後のページで、“義の栄冠の教理”といってよい主題を扱っている。カトリックの功績による救いへの警戒から、プロテスタントは、義の栄冠の教理を弱体化する傾向があるように教えられる。バーフィンクは「救いは、恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみで、すべての人に同一である。しかし、その栄光はそれぞれの人に千差万別である」と区別している。この区別が大切と思う。
この区別は、クリスチャンの生に“強烈なインセンティブ”を賦与する。庭の手入れをしていて教えられる。草花には、春夏秋冬の季節にそれぞれ個性的な種が存在する。あの厳しい冬に強い花もある。パンジーがあり、ビオラがある。除草に役立つホワイト・クローバーのような種類もある。草花の世界は千差万別の個性の世界であり、それぞれがその個性と賜物を機能させることによって、“神の栄光”をあらわしうる。
贖われた人間もまた同様である。それぞれにタラントが与えられている。人の存在と一生は、「旅に出た主人に預けられた財産」(マタイ25章)のようである。その賜物に根差す召命に応答し、神の主権の下、内住のキリストの御霊に導かれ、霊肉の葛藤を通し、神の栄光を現すもの、“神律的共同性”にあずかるものとされたい。
小さなことに忠実に生き、一杯の冷たい水、一輪の花を必要とされる人に提供し、慰め励ます者とされたい。わたしもあなたも、ともにそれぞれふさわしい「義の栄冠」を授けられる者とされたい。
「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル12:3)
「太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。」(Tコリント15:41)
マタイ5:12、ルカ6:23、Tテモテ6:19、ヘブル10:34-37、マタイ6:4、テトス1:7、Tペテロ4:13、マタイ25:14、ルカ19:13、6:6,18、10:40-42、24:44-47、Tコリント3:8、マタイ16:27、ルカ6:38、ローマ2:6、Uコリント4:17、10:9、ガラテヤ6:8-9、黙示録1-3章
2020年9月27日 新約聖書
テモテへの第二の手紙4:1-5「神の御前で、またキリスト・イエスの御前で私は厳かに命じますーみことばを宣べ伝えなさい」
https://youtu.be/NiNfnhss_cI
*
皇帝ネロの犯罪の隠蔽のため、”
ローマ大火の黒幕という冤罪”を着せられたパウロ、おそらく斬首刑数日前に書き送った手紙であったろうと言われている。それゆえ、v.1は「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。」と厳粛さに満ちた書き出しで始まっている。パウロは、まもなく天の王宮に凱旋し、神の御前に立つ、キリスト・イエスの前に立つことを意識している。
この箇所を読むとき、十字架のみわざを完成し、「マタイ28:19
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」また「マルコ16:15全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と言われ天に凱旋された我らの主イエスの情景と重なる。
パウロもまたv.2「みことばを宣べ伝えなさい。」とテモテたちに最後の言葉を遺していった。この”みことば”とは何だろう。主イエスを信じ、永遠の救いを受けるみ言葉である。しかし、そのみ言葉は聖書の全啓示という射程の広大さをももつものである。被造物世界全体に対する管理者としての責任を負っている。聖書の福音はそのような射程を保持し、その今日的適用をもつみ言葉として新鮮に語りかけられねばならない。
v.2「時が良くても悪くても」とは、v.3-4「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるから」である。「教会の歴史とは、聖書を解釈し、それを適用していく歴史である」と言われる。そして、その歴史の中には、健全な教理に、教理の建徳的実践に公然と反対する人たちもまた存在してきた。真理の道筋から逸脱し、真理の模造品の中で迷子となる輩である。
そのような時代状況の只中で、パウロはv.2b「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と諭す。説教、説得、議論、証明、叱責、矯正する困難な務めを忍耐の限りを尽くし、取り組むように励ます。今日は、”弛緩、寛容”を特徴とする時代であるといわれる。聖書的にv.3a「健全な教え」なのかどうかはあまり問われない、深く吟味されることのない時代になってきている。聴衆に「心地よい話」、「好み」に合う説教、空想に近い「作り話」にそれる内容、また逸脱する内容であっても、教勢や献金が伸びるか否かが”最も重要な尺度”として機能しているかのようである。
パウロは、このような兆候を現在と未来の中に洞察していた。それは、抜いても抜いても、刈っても刈っても、二週間もすれば生えてくる雑草、一ヶ月もすれば草むらになってしまう田畑や庭のようである。わたしが尊敬してやまない英国福音派キリスト教指導者J.R.W.ストットもこう言われている。「現代は、方法とか、成果とか、実存ということが強調され優先される時代である。しかしストットはローザンヌ会議の講演の中で第一世紀の使徒たちの宣教にふれ、その中でもっとも中心的なことは、実に方法でも成果でもなく、使信(メッセージ)そのものであったと語って注目された」と。美しい庭を保持するため、草刈りの仕事に終わりはない。
v.4「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代」の兆しを読み取り、v.5「けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」と油断することなく、目覚め用心し、冷静沈着に、健全な福音理解に立脚し、コンフロンテーションを恐れることなく、人間関係や伝統に流されることなく、毅然として逸脱傾向に対処し、健全化への処方箋を示し続けるという伝道者の働きをなすよう、そしてこの面における責任から逃避することなく自分の務めを完遂するよう励ましているのである。遺言に当たる位置にあるこの手紙でこのことに言及されていることに鑑み、その意味・意義を今日のさまざまな運動や教え、歪みや課題を内包するルーツとアイデンティティに対する理解にも当てはめる勇気、取り組み続けるエネルギーをいただこうではないか。パウロはテモテに書いただけでなく、わたしにも、あなたにも宛てて書いているのではなかったか。
2020年9月13日 新約聖書
テモテへの第二の手紙3:10-17「しかしあなたは、私の教えに、よくついて来てくれましたーさあ、天を見上げなさい」
https://youtu.be/RZ0JFfoPNWk
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今週は二冊の良書を読んだ。デービッド・アトキンソン著『観光立国論』、アシュリー・バンス著『イーロン・マスク:未来を創る男』である。前者は少子高齢化の日本の未来へのアドバイス、後者は電気自動車、火星へのロケット、ソーラーの世界への夢に生きる男の伝記である。二冊から教えられたことは、「夢は生の原動力」ということである。イスラエルの父祖アブラハムもまた、見知らぬ土地で「主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。」(創世記15:2)とつぶやき、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」(15:5)との約束を受け取った。
「パウロからテモテたちへ」で、パウロは何を夢見たのであろうか。地中海の隅々にまで福音を伝えることも夢であったろう。しかし、パウロの賜物と召命からして、その夢の中心は、リストの筆頭に出てくるv.10「私の教え」であったろう。
パウロはガラテヤ書にも出てくるように、その「キリストから直接に受けた福音理解」のゆえに、“ユダヤ教キリスト派”からなる偽教師たちから受ける迫害や苦難に直面していた。旧約の影を受け入れ、割礼を受け、ユダヤ教に改宗し、祝祭日を守り、もろもろの戒律を遵守していれば、クリスチャンであろうとなかろうと、ユダヤ教徒から迫害を受けることはなかった。
しかし、パウロの教え、その福音理解はその実体である「キリスト」の到来とともに、「旧約の影」の一切を塵あくたのように、脱ぎ捨てさせるものであった。それゆえ、パウロは迫害と苦難を背負う身となった。もしパウロが、「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹のかげ」と真理のためのコンフロンテーションを避ける人間であったら、新約の「福音理解」はあやふやなものとなっていたであろう。
しかしパウロはv.12真に「敬虔に生きようと願う者」であった。福音理解の真理を保持するために十字架を背負うことになんのためらいも抱かなかった。そして、テモテやテトスたちもまた、そのようなパウロのv.10「生き方、計画、信仰」に献身していた。わたしは、ICIの訳書、論文、ビデオ等から長年学び続けてくださっているシンパ層の人たちに同様の思いを抱いている。
v.15「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」とある。さて聖書とは如何なる書物なのだろう。聖書の啓示の中心はキリストである。御子なる神は受肉され、みことばは聖書として文書化されていった。歴史に根差すみ言葉の客観性は、今日聖霊を通して主観的なものとされる。ただ聖書を表面的に読み、それを神格化してはならない。聖書には原理的本質が記されているのであるから、それを抽出し、今日の状況的関連にコンテクスチュアライズしなければならない。聖書には、全生活の原理が記されているのだから、その中心性・周辺性を識別し贖罪的・再創造的本質を、生命的有機体として生活の中に展開しなければならない。
御子キリストは、神であられたのに、僕の形態を取られ受肉された。類比的に、聖書は神の言葉の「しもべ形態」であり、聖霊はわたしたたちのうちに内住というかたちで「しもべ形態」を保っておられる。ここにおける“神律的共同性”においてv.16「矯正」というリフォーミング活動が生起しうる。V.17日々「整えられた者」とされていく過程である。
ここにおいて大切なことは、v.14「だれから学」ぶのかということである。偽教師に傾倒してはいけない。それはカデシュバルネアからの突入を回避し、“誤った教え”の荒野を40年間放浪する選択肢である。わたしの場合、共立基督教研究所における宇田進師からの薫陶がそれにあたる。そして、宇田師からエリクソンを学び、エリクソンからラッドを、さらに牧田吉和やストットと、“福音主義のセンターライン”を真摯に学び続けた。ICIの資料はその結実である。テモテやテトスはパウロに傾倒し、その「健全な福音理解」を広く普及させた。わたしたちも、ICIを通してパウロにある純粋な福音を継承・深化・発展に取り組んでいる。わたしたちの「夢」は、増え広がり続けるICIシンパ層の人たちの中にある。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」(創世記15:5)
2010.08.29 『ガラテヤ人への手紙』傾聴
4:1-11「それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした」
https://youtu.be/aDnrEf3wCSg
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パウロが労し、開拓・教会形成したガラテヤ地方の諸教会にひとつの危機が訪れていた。それは、
“ユダヤ教キリスト派”的な教えを吹聴する偽教師が、ガラテヤ諸教会の“イエス・キリストに対する純真な信仰”を変質させ、福音理解のセンターラインが逸脱させようとしていたからである。
パウロは、彼らの教えをキリスト教の中の“多様性”というかたちで許容しなかった。パウロは彼らの教えを「そのような者はのろわれるべきです」(1:8)、ケファ(ペテロ)にそのような教えへの妥協傾向を見た時、「面前でケファに」(2:14)抗議した。
パウロは、その神学的理由を3―4章で説明している。旧約聖書の二本の大黒柱、「アブラハムへの祝福の約束」と「律法」の関係である。聖書を通しての神の啓示によれば、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(3:6)。この時点(創世記15:6)でアブラハムはまだ割礼を受けていなかった。その時、彼はまだ「異邦人」の一員であったのである(ローマ4:10)。割礼を受け、イスラエル民族の父祖とされ、もろもろの戒律を遵守するようになったのは後日(創世記17章以降)である。
創世記12章の「祝福の約束」の本質は、創世記15:6の聖句を軸に解釈されるべきであると、キリストから直接啓示を受けた「新約の福音理解の解説者」パウロは宣言している。ユダヤ民族とその文化・宗教の中にどっぷりとつかってきた“ユダヤ教キリスト派”的な教えを吹聴する偽教師たちは、パウロの「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ、キリストの御霊のみ」の福音理解に真っ向から攻撃を仕掛けていた。
パウロは、「和を以て貴しとなす」というスタンスは、v.11「労したことが無駄に」なってしまうと危機感を抱いた。それは、「キリストの福音を変えてしまう」(1:7)ものである“ウイルス”のような教えであることを看破していた。人間的な実利主義で見れば、“ユダヤ教キリスト派”的な教えを吹聴する偽教師と手を組み、妥協していれば、エルサレム教会内のそのようなグループ、そして地中海世界のユダヤ教会堂との軋轢をも幾分和らげられ、ユダヤ教とユダヤ教キリスト派の“コラボレーション(共同作業)”が可能となり、宣教における相乗効果も可能になったかもしれない。しかし、その行き着く先はどこになっただろう。人類の普遍的神の国の未来を説く「パウロの福音」ではなく、ユダヤ民族中心の神の国の栄光回復の「偽教師の福音」が世界を席巻することになったであろう。
パウロは、このような懸念に対して、コロナ・ウイルス汚染に必死で対処する医者のように、いわば神学的・教理的解説を“ワクチン”として投与しているのである。三章では「祝福の約束」と「律法」の関係を解き明かした。四章はその続きである。
創世記12:1-3の「祝福の約束」と旧約聖書の関係を“時間軸”で説明する。ここでパウロは、ローマ帝国時代の相続に関する法律的慣習を例証として使用する。相続人は、「全財産の持ち主」なのに、「子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります」とある。ローマ時代、子どもは相続人であり、相続権があるが、15歳までは後見人が付き、25歳までは管理人か付き、子どもの自由にはならなかった。
ちょうどそのように、割礼を受け、イスラエルの民となり、戒律を遵守し、祝祭日を守る生活を送っていたユダヤ教徒生活の時期は、「後見人、管理人」下にある過渡的時期、自由に財産権を行使できない、いわば「奴隷」状態の特殊な時期と描写している。V.2「父が定めた日までは」、v.1「奴隷と何も変わらず」、v.3「子どもであったときには」「奴隷となっていました」、v.4「しかし時満ちて、御子を律法の下にある者として」、v.5「それは、律法の下にある者を贖い出す」ため、「子としての身分を受ける」ためであった。
「割礼を受け、ユダヤ教徒として戒律を遵守し、祝祭日を守る」、つまり“律法の下にある者”を、その“奴隷状態”から贖い出すために、キリストは受肉され、律法の下に身を置き、その上で「律法」に対して、つまり「割礼を受け、ユダヤ教徒として戒律を遵守し、祝祭日を守る」生活スタイルを葬りさり、キリストとともにわたしたちをよみがえりのいのちの領域、恵みの領域に生きることを可能としてくださったのである。
その証拠が、「ユダヤ人もギリシア人もなく」(3:28)、ユダヤ人も、アラブ人もなく、イスラエル人もパレスチナ人もなく、白人も黒人もなく、「あなたがたが“キリストのものであれば”、アブラハムの子孫であり、約束による相続人」(3:29)なのである。そして「子である」証拠として「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊が内住させられている。子であるのだから、「神による相続人」なのであると、聖書から立証しているのである。
であるから、 “ユダヤ教キリスト派”的な教えを吹聴する偽教師の教えは、聖書を通しての神の主旨に反することであり、「もう一度改めて奴隷になりたいと願う」ことなのである。パウロはこのようなことを懸念し「あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています」と記したのである。
わたしたちは、今日、キリストの啓示に基づくパウロの福音理解から逸脱する傾向を内包する種々の運動や教えと直面し続けている。そのような時に、「和を以て貴しとなす」の道なのか、「パウロの福音理解」の道なのか、選び取っていかねばならないことを教えられる。米国福音派教会(一部なのか、大半なのか?)の影響もあり中東情勢に変化がみられる時期に際し、英国福音派教会の優れた指導者J.R.W.ストットの言葉の意味について考えることはわたしには重要に思える。
すなわち、Donald E, Wagner, Anxious for Armageddon (Herald Press,
1995)P.80に、福音派の指導者、J.R.W.ストットは”I have recently come to the
conclusion that political Zionism and Christian Zionism are
biblically anathema to Christian faith.”と語ったと記されている。
*
参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.471-474
ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.185-196
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.229-250
R. Alan Cole, "The
Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament
Commentaries,Eerdmans, pp.157-166
F.F.Bruce, "The Epistle
to the Galatians" The New International Greek Testament
Commentary, Eerdmans, pp.191-207
Ronald Y. K. Fung,"The
Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the
New Testament, pp.179-194
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the
Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.209-230
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.122-124
20200916_G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』まもなく重刷されます!
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2014年3月に拙訳で刊行され、重刷を繰り返すごとに売り切れておりました、ラッド著『終末論』の重刷が決まったとの連絡を受けました。今回は、200冊限定です。また早めに売り切れる可能性が高いと思います。神学校や教会等で『終末論』の学びのテキストとして利用されたい方は、早めにキリスト教書店ないし、一宮基督教研究所に予約注文し、部数を確保されるのが良いかと思います。
一宮基督教研究所では、講義テキストとして確保している分があり、アマゾン書店を通し販売しています。残部二十数冊しかありませんが、希望者はアマゾン書店を通してご注文ください。アマゾン掲載料等がかかりますので、定価より高くなりますが、本書の補助学習教材として『福音主義イスラエル論 Part
T: 神学的・社会学的一考察』と『福音主義イスラエル論 Part U:
ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』を同梱させていただいています。
関心のある方は、ぜひご利用ください。
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【訳者あとがき・抜粋紹介】
■訳者あとがき:
@患難期・千年王国図表
終末論に関する議論の幾つかは、はじめての読者にとって分かりにくいと思われるので、W・A・グルーデム著『組織神学』の図表を参考に作成した以下の図を参照し学んでいただきたい。グルーデムは諸説のうち、ディスペンセーション主義者の理解については、知的に優れたディスペンセーション主義の神学者の間で、「古典的ディスペンセーション主義→修正ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」と大きな変化を遂げていることを説明している(Wayne.A.Grudem,
Systematic Theology,1994, Inter-Varsity Press, pp.859-863,
1109-1114)。
それで、大きな変化を遂げている漸進主義ディスペンセーション主義の、将来の「行くべき方向」について、どのように考えたら良いのであろうか。本書との関係で考えられる、興味深い、ひとつの可能性を紹介しておきたい。以下のものは、ウエスミンスター神学校のV・S・ポイスレスの予測である。「わたしは、漸進主義ディスペンセーション主義者が、古典的ディスペンセーション主義の主要な教えを乗り越え取り組んでいる研究に、深い共感と評価を表わしたい。わたしは、彼らが、以前よりもさらに誠実に聖書的真理を解明しようとしている動きをみて嬉しく思う。また、わたしは彼らの神学的営為が協調的な気風に溢れていることに敬意を表明する。しかしながら、彼らの立場は生来、不安定なままである。わたしには、彼らが、いわば長く厳しい航海の後に、古典的ディスペンセーション主義と契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)との間に、安らぐことのできる港を創り出し、そこに辿り着くという、可能性は低いとみている。そのような中間地点に辿り着くのではなく、彼ら自身の観察に基づく言説が動かしている諸々の力は、やがてジョージ・E・ラッドが手本として示したものを後追いさせ、ついには契約的千年王国前再臨説(歴史的千年王国前再臨説:
訳者注)に至らせる可能性が最も高いと判断している」(Vern.S.Poythress, Understanding
Dispensationalists, 1987, Presbyterian and Reformed
Publishing, p.137)。
*
■
訳者あとがき:A著者紹介
一 本書と著者ラッド教授について
本書(英文原書)の裏表紙には、以下の書籍紹介がある。
近年、終末の時代に関する聖書の預言は、膨大な数の本の主題となっている。しかしながら、それらの本の多くは、深く熟考された学識がほとんど見受けられない大衆的な記述に満ちたものである。しかし、有益なまじめな諸研究は、あまりにも難解で、しばしば普通の読者には理解できないものとなっている。ジョージ・エルドン・ラッドは、この状況を打開するために尽力し、真剣な議論を内に含む信徒対象の終末論の本を書いた。
本書では、旧新両約聖書の預言の関係に関する根本的に異なる二つの解釈が提示されている。一方の解釈はイスラエルとキリスト教会を別個のものと扱う。しかし他方の解釈は啓示の漸進性と旧新両約聖書の一体性を認める。
ラッドは、後者の立場を保持する。「旧約の預言の意味を決定する最終的に権威ある言葉は、新約における再解釈の中に見いだされるべきである」―この確信こそが、ラッドの終末に関する教理の礎石である。諸々の預言は、キリストを通しての神の啓示の光の下に置かれてはじめて、終末に関し意味されているものを、明らかに知ることができるのである。
本書の著者ジョージ・エルドン・ラッドについては、『キリスト教人名辞典』(日本基督教団出版局)、『新約聖書と批評学』(聖恵授産所出版部)等に紹介文がある。
一九一一年七月三一日生―一九八二年一〇月五日召天。アメリカのバプテスト派の新約学者。ゴードン・カレッジ、ゴードン神学校、ハーヴァード大学に学び、ハイデルベルク、バーゼルに留学。アメリカ・バプテスト同盟の教会で牧会に従事(一九三三―四五)、またゴードン・カレッジのギリシャ語教授(四二―四五)、ゴードン神学校新約学教授(四六―五〇)を歴任、一九五〇年以後フラー神学校新約学教授。特に現代の聖書学研究を踏まえながら福音的立場の聖書解釈の可能性を示した研究家のひとりとして注目されてきた。
*
二 ラッド教授の著作について
ラッドには、『神の国に関する重要問題』(一九五二)、『祝福された望み』(一九五六)、『神の国の福音』(一九五九、島田福安訳、一九五九)、『若き教会』(一九六四)、『イエスと神の国』(一九六六)、『新約聖書と批評学』(一九六七、榊原康夫・吉田隆共訳、一九九一)、『新約聖書の真理の型』(一九六八)、『ヨハネの黙示録注解』(一九七二)、『未来の臨在』(一九七四)、『新約聖書神学』(一九七四)、『わたしはイエスの復活を信じる』(一九七四)、『千年期の意味:四つの見方』「歴史的千年王国説」(一九七七、R・G・クラウス編集)、『終末論』(一九七八)等の著作がある。
ラッドについての詳しい伝記的文献的研究書としては『テーブルにおけるひとつの場所』(二〇〇八、J・A・デリア)、ラッドのフラー神学校での取り組みについては『根本主義の改革―フラー神学校と新福音主義―』(一九八七、G・M・マーズデン)、その功績を称えた記念論文集としては『新約聖書神学の統一性と多様性』(一九七八、R・A・グェリッヒ編集)、がある。
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三 ラッド教授の神学的特色と日本の教会および神学
ラッドは、根本主義が内包する多くの課題の克服に取り組んだ、福音主義に立つ神学校であるフラー神学校の指導的教授陣のひとりであった。その基本的神学的視点は、近年福音派の神学校で基準的「組織神学書」として重用されているエリクソン著『キリスト教神学』と同じく、宗教改革以来の穏健なカルヴァン主義のそれである。このことは、エリクソン著『キリスト教神学』の「終末論」を構成している内容の主要な資料源が、ラッドの著作集からのものであることが物語っている。
本書、ジョージ・エルドン・ラッド著『終末論』は、数多くのラッドの著作の中で、最後の著作、つまり絶筆となった著作である。それだけに、ラッドがライフ・ワークとして取り組み、彼の多くの著作で詳しく扱ってきた内容―ディスペンセーション主義問題、イスラエル論問題、グノーシス問題、復活問題、神の国問題等に関する議論の輪郭とエッセンスが凝縮され、ディベート(討論)のスタイルで分かりやすく扱われている。
さて、本書が刊行されたのは三六年前であるが、「ディスペンセーション主義聖書解釈法とイスラエル論の問題」は、日本の福音派の中で今尚議論されている重要な課題のひとつである。この課題の解決に向けてラッドは、その奉仕生涯の最後の時期(The
Last Stage)に渾身の力をふるって本書(The Last
Things)をしるし、他の著作とあいまって大きなインパクトを与えた。それらの結果として、ディスペンセーション主義の指導者たちは種々の主要な教理と終末論においてラッドの立場に接近し続け、ディスペンセーション主義の教えの牙城であったダラス神学校、グレイス神学校、タルボット神学校等の指導的教授陣は、古典的ディスペンセーション主義から、修正ディスペンセーション主義、さらに今日では漸進主義ディスペンセーション主義へと大きく変容していっている。ダニエル・フラーはディスペンセーション主義に関して「二〇〇〇年になってついに、ダラス神学校は、一九五五年の段階でジョージ・ラッドがいた地点に辿り着いた」とコメントした(『テーブルにおけるひとつの場所』二〇〇八、J・A・デリア、一七六頁、一八一頁)。ただ、このような変化は知的レベルの高い神学教師や神学生の間にとどまっており、ディスペンセーション主義者の大半は今尚、より初期の教えを信奉し続けている(『ディスペンセーション主義の背景』一九六〇、C・B・バス、再販版の「序文」S・R・スペンサー、三頁)。
本書においては、特にディスペンセーション主義聖書解釈に関し、@何を論争するのか論点が明確にされており、Aその論点の持っている問題点や疑問点が明らかにされており、Bその論点が検証され、Cその論理の矛盾が明らかにされている。米国でそうであったように、本書が用いられ日本の福音派の諸神学校や諸教派、諸教会において、ディスペンセーション聖書解釈法が内包する諸課題が克服されていくことを期待している。
なお、本書の翻訳を開始したのは、日本福音主義神学会・西部部会二〇〇六年度・春期研究会議における『歴史的前千年王国説におけるユダヤ人伝道の神学的位置づけ』の研究発表の時であった。その時に、福音派キリスト教会の中における本書の翻訳出版の必要性を強く意識し、短期間で訳了する予定であったが諸々の奉仕と重なり八年もかかってしまった。翻訳途中にくじけそうになった時に、所属教派である日本福音教会の先生方、また教派を超えて福音主義神学会の先生方から「翻訳はまだですか」「神学校で教科書として使用させていただきたく、お待ちしています」等、多くの励ましをいただいた。そして、訳了後には、福音派における終末論の専門家のひとりである岡山英雄先生に訳文に目を通していただき適切な助言をいただけたことは幸いなことであった。岡山先生は丁寧に目を通してくださった後、「『五章
再臨についての言葉』等の議論は一般の読者には複雑なので、『翻訳者注釈・図表等』をいれるのが良いと思います」と適切な助言をくださり、そのようにさせていただいた。なお、文中の聖書箇所の引用は、新改訳聖書改訂第三版を使用させていただき、「ソロモンの詩篇」に関しては、『聖書外典偽典5』(日本聖書学研究所編、教文館、一九九三)のものを翻訳として採用させていただいた。出版に関しては、いのちのことば社の田崎学氏にいろいろとお世話になった。最後に、ラッド著『新約聖書神学』の神学的位置づけとエッセンスを詳しく教えてくださった宮村武夫先生への感謝も書き添えておきたい。宇田進所長時代の共立基督教研究所に三年間の内地留学させていただき、その間、東京基督神学校のほとんどの科目を受講させていただいた。その時、宮村先生の『新約神学』も受講した。あの時のラッド神学の丁寧な学びなしにはこの翻訳もなかった。本年は、日本福音主義神学会全国研究会議と神学誌『福音主義神学』の双方で、「福音主義神学、その行くべき方向(Evangelical
Theology, Where Should We Be Going
?)」の同じテーマを掲げて取り組まれる。主の御旨にかなうなら、本書を皮切りに「福音主義神学の行くべき方向」を示す著作集のひとつとして、ラッド著作集の翻訳を続けていきたいと願っている。お祈りいただきたい。翻訳・推敲には最善の努力を払ったが、問題や不備な点について、ご教示いただければ幸いである。
二〇一四年三月
安黒務
2010.08.22 『ガラテヤ人への手紙』傾聴 3:15-29「約束は、アブラハムとその子孫にー多数ではなく、キリスト」
https://youtu.be/ZxWQpmXOT7U
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ガラテヤ書、ローマ書は、聖書にある「福音理解」にとって最も重要な書簡であり、その心臓部に位置づけられる。そのガラテヤ書における教理的議論の中心は三章・四章である。この箇所でパウロは「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。」と記す。
ヨハネも、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)と聖書におけるキリストの中心性、卓越性を証しする。
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T. 神による救済史の諸段階
これは、旧約聖書と新約聖書の関係、イスラエル民族とキリスト教会の関係を如実に示している。では旧約聖書とは何か。それは、天地創造、アダムにあっての全人類の堕落、審判と永遠の滅びの始原的・前提的脈絡の中で、神による救済史が展開していく第一段階である。まず、「神の啓示の受領者」としてのイスラエル民族の盛衰史、「キリストの福音の伝達者」としての霊のイスラエルであるキリストの教会、そして再臨・千年王国・新天新地と続く。
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U.
アブラハムへの祝福の約束の意味・位置づけの“コペルニクス的転換”
ここで、パウロはイスラエル民族の発端における「アブラハムへの祝福の約束」を取り上げ、その意味・意義を明確にする。パウロは、ダマスコ途上における「イエス・キリストの啓示、私のうちに啓示された御子とその福音」(1:12,16)を転換点として、旧約聖書解釈における“コペルニクス的転換”を経験する。そのことがこの箇所でも明らかである。
⑴「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。」と救済史におけるアブラハムへの祝福の約束の中心的位置づけが明確にされている。⑵次に、その祝福の約束の焦点がどこにあるのか、だれにあるのかが明らかにされている。回心前のパウロ(サウロ)には、その対象・焦点は「民族としてのイスラエル」であった。しかし、救済史におけるキリストの卓越性・中心性に開眼したパウロは、「民族としてのイスラエルは、全人類への祝福のための、一時的な神の手段」として用いられたのであって、その祝福の約束の焦点は「子孫たちに」と言って多数(民族としてのイスラエル)を指すことなく、一人(キリスト)を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。」と、旧約聖書に啓示されている救済史の焦点の“コペルニクス的転換”を証ししている。
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V. 旧約聖書・イスラエル民族盛衰史の救済史的意義の一時性
そして、v.17-29において、回心前のパウロが「アブラハムへの祝福の約束」を「律法」を同列視し、「約束」の深い意味に盲目であり、「律法」遵守とコインの両面、表裏一体的に捉えていたことを示す。そしてこの律法は、割礼を通してイスラエル民族に編入され、イスラエル民族の一員として祝祭日やもろもろの戒律の遵守が包摂された意味をもっている。
回心後のパウロは、イスラエル民族の位置づけ、役割の“救済史的一時性”に開眼し、律法の真の意味・意義を、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(ヘブル4:12)にあるように、混濁していた「祝福の約束」と「律法」さらには「イスラエル民族盛衰史」の意義・意味を絶妙に識別し、切り分け、さばいていく。
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W. 「律法」の三用法とその意義・役割
それは、律法の三つの用法といわれるものである。V.19-22では@「違反を示し」罪の自覚に導く「律法の断罪的用法」、v.23-25ではAキリストの贖罪信仰に備え、導く「養育係」としての「律法の教育的用法」、v.26-29ではB恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ、そしてキリストの御霊の助けにより、キリストを着た生活、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女」という民族的・階級的・性的差別のない共同体としての教会として、神の本質の表現としての律法の本質の、キリストの贖罪を基盤として、キリストの御霊による実現としての「律法の規範的用法」が示唆されているように思われる。その意味で、キリストを信じ、キリストの御霊を宿す者こそがv.29「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」なのである。
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参考文献
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.466-471、『新聖書注解』いのちのことば社
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.194-218
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul
to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans,
pp.144-154
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The
New International Greek Testament Commentary, Eerdmans,
pp.168-182
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.115-121
J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament
Commentaries, pp.180-202
2020年9月13日 新約聖書
テモテへの第二の手紙3:1-9「終わりの日には困難な時代が来ることを承知していなさいー識別する耳・鼻・舌」
https://youtu.be/nFTZ9ehlKxM
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まもなく殉教死にあずかろうとしているパウロは、預言者的視点をもって時代状況を洞察し、次世代の同労者が直面することを示し、それに備えるよう諭す。
遺言、絶筆としての手紙で、パウロは心底、次世代の動向に心を配っている。わたしは福音のための投獄の苦しみを恥じていない(1章)、わたしの伝える福音は真実である(2章)、そして困難な時代の到来に備えよ(3章)と呼びかけている。
「終わりの日、困難な時代」とは何か。日本の福音派の終末論、また黙示録の権威のひとり、岡山英雄師は、「患難期と教会」、『小羊の王国』、『黙示録注解』で、聖書における「患難期」の三重性を教えておられる。過去性、現在性、未来性である。1世紀のローマ帝国時代、すでに教会は迫害の中にあった(過去性)。キリストの再臨の前に、歴史上未曽有の患難期が到来する(未来性)。そして、キリスト教の歴史全体が大小、程度の別はあるとしても、患難また迫害の歴史である。パウロは、その困難な時代の特徴をここで述べている。
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T. 困難な時代の特徴―@その根と実
困難な時代では、v.2歪んだ自己愛を中心として、v.2-4同心円的にねじ曲がった隣人愛が、身近な者から社会へと拡散していく。そこでは、v.5見かけ上、キリスト教用語や儀式が満ちていても、それを倫理的生活実践に展開させるv.1源泉、根っこである神ご自身が冒涜され、v.5「敬虔の力」である聖霊が否定される。
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U. 困難な時代の特徴―A学びが生活化されない
そこでは、誤った聖書観、誤った聖書解釈法に基づき、「真理」とは異なる教えによってv.6aたぶらかされ、「真理」から逸脱したv.6bさまざまな欲望に引き回される生活がもたらされる。「論語読みの、論語知らず」という言葉があるが、まさに「聖書読みの、聖書知らず」の人々であり、彼らはv.7「いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができ」ない。熱心であるが“ハマルティア(的外れ)”の学びなのであり、“ハマルティア(的外れ)”な生活実践なのである。この外れ方は、私がピーター・バーガーから学んだ“福音主義神学の座標軸※”に照らし合わせれば一目瞭然である。
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V. 困難な時代の特徴―誤った唱道者の存在
モーセがエジプトの十の災害のときに現した神の奇蹟に対して、「そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。」(出エジプト記7:11)このエジプトの呪法師たちがヤンネとヤンブレといわれ、その名の由来は「逆らう」者を意味するという。類似品、イミテーションを提供し、人々を惑わす者である。
使徒時代にも、今日にも、「真理」、すなわちキリスト教の正統教理、キリストにおける神の啓示全体のさまざまな領域で、微妙な逸脱や曲解を示す「運動や教え」が存在し、勢力をもち、健全な教派・教会・神学校を波間に浮かぶ泡沫、木片のように翻弄している姿をみる。そのジャンルや領域は全面的、あるいは限定的のどちらであれ、それらの運動や教えのv.9「愚かさ」を「はっきり」識別し、彼らと彼らに巻き込まれている人々を健全な福音理解のセンターラインに回復しなければならない。
ICIでは、ラッドの健全な聖書神学、宇田進の健全な歴史神学(福音主義神学)、エリクソンや牧田吉和の健全な組織神学、ストット等の健全な実践神学の継続的な研究とその分かち合いに取り組んでいる。この、すべての同労者、神学生、兄姉に対する「継続神学教育」においては、いわばピアニストにとっての“絶対音階の耳”、ソムリエにとっての“敏感な鼻・舌”のような識別力を養う上での、ひとつの役割と機能を果たすことを求められている。
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※“福音主義神学の座標軸”は、拙著『福音主義イスラエル論T』と『福音主義イスラエルU』のキンドル本の中で解説されている。
2010.08.15 『ガラテヤ人への手紙』傾聴
3:1-14「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」
https://youtu.be/SAMKkV3Mjvo
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三章は、v.1「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」という書き出しで始まる。これは、パウロのタマスコ途上の経験を彷彿させる。パウロは、「ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。』彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒行伝9:3-5)
キリスト教信仰というものは、“十字架につけられたイエス・キリスト”との出会いであり、キリストの人格とみわざに対する信仰なのだ。ガラテヤ人は、パウロからその真正な福音を傾聴して、真正な信仰に立っていた。しかし、「ユダヤ教キリスト派」としてのあり方こそが正しいと吹聴していた偽教師たちが、「十字架につけられたイエス・キリスト」への信仰だけでは足りない。「キリストの御霊を受けた」だけでは足りない。v.1-5割礼を受け、ユダヤ教徒となり、ユダヤ教の祝祭日を守り、種々の律法・戒めを遵守することによって、信仰は完成されるのだと教えた。これが正しい旧約聖書解釈に沿った信仰なのだと教えた。
これに対して、パウロは
1:12,16「キリストの啓示」「御子を私のうちに啓示」されることによって、明らかにされた福音とは何かを解き明かす。創造・堕落・贖罪の摂理的脈絡の人類の歴史の中に、ひとつの民が選ばれて「神の啓示の受領者」とされた。アブラハムとその子孫である。それは、「地のすべてのやから」(創世記12:3、ガラテヤ3:8)に救いの福音が宣べ伝えられるためであった。旧約の歴史の二本の柱は、この「アブラハムに対する祝福の約束」と「律法」である。この二つの主要な要素の関係をどのように読み取り、解釈するのかが、初代教会における最大の問題のひとつであった。
それは、ユダヤ教とキリスト教の関係、旧約聖書と新約聖書の関係を読み解く“マスターキー”である。
アブラハムとその信仰をどのように理解するのか。「義人は信仰によって生きる」をどのように解釈するのか。「律法と信仰」はどのような関係にあるのか。「約束」とは何で、「律法」とは何なのか。「信仰」と「キリスト」の関係はどうなのか、等がこの三章で議論されている。
パウロは、その福音理解の真正性を、1章でパウロの“使徒性”と“福音啓示のキリスト起源”に求め、立証した。2章では、その福音の真正性確保のために、大使徒のケファ(ペテロ)に対してさえ、毅然と対処したと証しした。福音の真正性を保持する戦いは、パウロの生涯を貫くものであったことは、最後の手紙、第二テモテ書で明らかである。今日、伝統と歴史のある教会・教派で、内包する教理的課題や逸脱性のある運動や教えから防御する時に必要なスピリットである。
初代の教会を見ていると、創世記のようである。「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」
時満ちて、新約時代、はじめに、神は教会を創造された。しかし、ユダヤ教を母胎として生まれてきたキリスト教会は、卵の殻から首をのぞかせたヒヨコの雛のようで、ユダヤ教の割礼、祝祭日、種々の戒律等から未分離の状態であった。
そのような時期に、神はひとりの神学教師をダマスコ途上ですなどられ、その召しと賜物を通して、キリストの人格とみわざによる真正な福音理解の「光」をもってパウロ(サウロ)を打たれた。
パウロは、実に明晰な頭脳を与えられていた。旧約聖書やユダヤ教や律法等のすみずみに通じていた。彼を「真正な福音」の光で打てば、もはや旧約聖書は解き明かせない、閉じられた書物ではなくなることを神はご存じであった。パウロは旧約聖書を解き明かす“マスターキー”をダマスコ途上で与えられた。その解き明かしが、ガラテヤ三章、四章でなされている。
振り返れば、わたしがガラテヤ書に取り組んだのは、母校関西聖書学院の卒論においてであった。恩師スンベリ院長はエーリッヒ・ザウアー著『世界の救いの黎明』を切れ味鋭い預言者的洞察・スピリットをもって教えてくださった。神学教師の大川正巳師はH.スウィーガム著『旧新約聖書研究ベテル』を教えてくださった。前者は新約のキリストの人格とみわざを軸に、旧約神学を解説する響きのある聖書神学的講義であった。後者は、歴史の流れに沿い、イスラエル民族の“Sitz
im Leben(生活の座)”の只中に入り込んで聖書を読む講義であった。
それらの講義の中核は、旧約聖書の二本の柱「祝福の約束と律法」であった。ただ、視点が異なるので奉仕生涯の出発点において、学んだことを整理しておく必要があった。その意味で「祝福の約束と律法−海面下のガラテヤ3,4章−」−新旧約聖書理解の基本的視点についての初歩的考察−(1979)は、ガラテヤ書を開く時には、いつも思い出す懐かしいひとこまである。
この書のテーマを再び、熱い思いをもって取り組んだのが、「日本福音主義神学会・東部部会・秋期研究会『義認と審判』に関する一考察:
ローマ2:13の解釈を軸として」(2015.11.16)から始まり、『パウロ研究の新しい視点』再考」(2018.10.1)刊行に至る時期である。その頃、日本福音主義神学会の内外では
“パウロ研究の新しい視点”問題が議論となっていた。このテーマに関するわたしの理解と評価は、『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察:
伝統的福音主義の視点から』 Kindle版に詳述しているので参考にしていただきたい。
今、ひとつの聖句がわたしの心に去来している。それを記しておきたい。
「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:1.10-11)
ささやかながら、福音主義神学の「釈義」「教理」「歴史と実践」の@今日置かれている状況と動向の分析と情報の提示、A問題点と主要な争点の指摘、そしてB我々福音主義を標榜する諸教会におけるガイドラインの提示という取り組みに、「必要を知り、それを満たす」働きに参与させていただけたこと、またICI奉仕というかたちで召されるその日までその中に置いていただけることに感謝している。
*
参考文献・資料
村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.463-471、『新聖書注解』いのちのことば社
山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.165-228
R. Alan Cole, "The Epstle of Paul
to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans,
pp.126-157
F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The
New International Greek Testament Commentary, Eerdmans,
pp.147-191
J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.84-121
安黒務講演「日本福音主義神学会・東部部会・秋期研究会『義認と審判』に関する一考察:
ローマ2:13の解釈を軸として」(2015.11.16)
C.P.ベネマ著『パウロ研究の新しい視点』再考」(2018.10.1)
安黒務著『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察: 伝統的福音主義の視点から』Kindle版
2010.08.08 『ガラテヤ人への手紙』傾聴
2:1-21「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないようにー異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」
https://youtu.be/7vqjbFD2G1U
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十年ぶりに、自分の語ったメッセージを傾聴している。不思議な感じである。あの頃は、隣の町の山崎町のアパートの四畳半の部屋で礼拝を守っていた。その情景が目の前に浮かび、ガラテヤ書のメッセージが響く。メッセージから当時の状況も思い起こされる。
関西学院大学を卒業し、母校関西聖書学院で学び、1979年に卒業した。助手を三年間し、岬福音教会で七年間奉仕した。そして共立基督教研究所への内地留学。1992年卒業後、郷里に帰り、アパートの一室からの開拓伝道であった。ただ、神学校講義や翻訳の奉仕が重なり、徐々に奉仕の焦点はそちらにシフトしていった。特に、エリクソン著『キリスト教神学』の翻訳作業は、“生野の銀山の狸掘り”のようなかたちで何年もかかった。これには、わたしの置かれた状況が摂理の中にあったと振り返る。
わたしは、共立研修後、”no post, no
salarie”であった。自営業の安黒石油店を手伝いながらであったので、「時間だけは無限に」提供されていた。これこそが、共立研修修了時にわたしがソロモンのように祈ったものだった。先が見えない時期に主は「あなたに何を与えようか。願え」(T列王記
3:5)と言われているような気がした。わたしは「ポストもサラリーも要りません。ただ、神学の継続的研鑽のため、”無限の時間”を与えてください。所属団体と母校の流れの中で”共立基督教研究所”のような機能を果たすために」と祈った。主は実質的に、この祈りに応えてくださった。郷里への道と、ポストやサラリーを気にせず、心置きなく共立基督教研究所と東京基督神学校で学んだ学びと関連神学資料の継続的研鑽を、所属団体と母校での講義・講演等と取り組みつつ、継続することができたのである。
その取り組みの中核に、エリクソン著『キリスト教教理入門』の翻訳プロジェクトがあった。所属団体と母校のルーツとアイデンティティを最も正確に表現した内容がそこにあると確信した。エリクソンがスウェーデン・バプテスト系の神学者であることを知ったのは後日であった。私の所属団体と母校のルーツも遡ればまた、スウェーデン・バプテスト系諸教会にあった。
エリクソンは、自らの神学を”Mild
Calvinism(穏健カルヴァン主義)”と表現している。わたしは、所属団体や母校のセンターラインをそのあたりに位置づけるのが未来に向けての「福音理解」形成のために有益であると考えている。わたしがいつも言っていることは、「宣教師を通して“空気”のように伝えられた福音理解に、“かたち”を与える」とエリクソン著『キリスト教教理入門』のように表現される、と。
所属団体は、大衆的で素朴で家庭的な信仰をもつ団体である。今もなお、大半の人々は簡易信条の下、“空気”のように「見えない信条」を保持し、生活している。ただ、今日は、グローバルなキリスト教の時代である。有益無害、また有害危険なさまざまな運動や教えとの交流・流入の只中にある。少なくとも、教職者や信徒リーダー層の人々の間では、“空気”のように受け継いでいる福音理解の内容をエリクソン著『キリスト教教理入門』等を通して“受肉”していくことが必要な時代であると受けとめている。生起してくるさまざまな問題の“⑴状況認識力、⑵争点識別力、⑶問題解決の処方箋作成力”のために絶対に必要な要素である。
*
さて、前置きが長くなった。二章に目配りしていこう。V.1「それから14年たって」とある。パウロは、ダマスコ途上での、「ただイエス・キリストの啓示によって」回心し、v.16「御子を私のうちに啓示」されることによって、“ユダヤ民族中心”にではなく、“キリスト中心”に旧約聖書を理解できるようになった。いわば、天動説から地動説へのコペルニクス的転回(物事の見方が180度変わってしまう事の比喩)の経験である。
パウロは、中心的なエルサレム教会から14年間離れていた。長い期間である。しかし、それはユダヤ教文化との混合の問題にさらされず、純粋なかたちで「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみによる真正な福音理解」が干渉されることなく伝えられるために必要であっただろう。今日、神学に重荷をもつ者もまた、「伝統の盲目的墨守」から守られるため、そのような環境・距離感は必要だろうと思う。一体化しすぎると物事の真偽に盲目となりやすいのである。
ただ、危機的状況が生じたときには、v.2パウロは何をも差し置いてエルサレム教会に上った。それは「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄に」なる危険が生じていたからである。それで、エルサレム教会に誤解が生じ、教会の福音理解に分裂が生じないように、v.2「私が伝えている福音を人々に示し」た。
それは、v.4「忍び込んでいた偽兄弟たち」がいて、パウロの使徒性、権威、教えに疑問を吹聴し、クリスチャンとなるためには、まずユダヤ教に改宗し、割礼を受け、祝祭行事を守り、戒律を遵守する者とされ、そして洗礼を受け、いわば“ユダヤ教キリスト派”となることが必要であると説いていた。
この教えは、パウロにとって「アナテマ(のろわれよ)」に値する誤った福音理解であった。それゆえ、相手がエルサレム教会の主任牧師のヤコフであれ、ケファ(ペテロ)であれ、ヨハネであれ、問題ではなかった。もちろん、信仰の先輩としての敬意は払った。しかし、「キリストから直接啓示を受けた福音理解」(1:12,
16)は取引材料でも、人間的な先輩・後輩関係でも揺るがすことのできない、いわば「契約の箱」(Uサムエル6:6-7)のようであった。パウロのこのような姿勢が、キリスト教二千年の歴史の中に「福音があなたがたの間で保たれ」ることを品質保証した。
さてわたしたちもまた、所属団体や母校の中で、福音理解がそのように保持されるための継続的な取り組みに参与するべきではないか。V.2「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」。私が、所属団体と母校に提示した私の福音理解は、エリクソン著『キリスト教教理入門』に記されている。これは、福音派の主流派のセンターラインに位置する輝かしい福音理解であり、教派を超え福音派全体で共有することの可能な福音理解の“共通項”でもある。
それは、私が今教え続けている福音理解であり、約40年間教え続けてきた福音理解である。このような福音理解を私たちが“見えない空気”のように継承しているのであれば、それらを折に適って受肉させ“かたち”にし、教派・教会の「より良き福音理解」形成に役立てていただきたい。
2010.08.01 『ガラテヤ人への手紙』傾聴
1:1-24「ただイエス・キリストの啓示によって受けたーわたしのうちに啓示された御子の福音」
https://youtu.be/1FNOE4G3vH0
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2019年、エリクソン著『キリスト教教理入門』を翻訳・刊行し、販売促進キャンペーンへの協力も一区切りのついた2020年には、これまで記録・保存してきた講解説教オーディオと要約を“備忘録”として遺していこうと決めた。すでに、ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和等の研究資料・講義・講演ビデオは漸次ユーチューブにアップロード中である。これに説教を加えるのには、理由がある。
それは、神学の研鑽と教会の講壇とに橋を架ける試みである。ストットのシリーズに“Bible Speaks
Today”というのがある。聖書の⑴聖書的研究、⑷学問的研究、⑵公同的研究のみならず、⑶今日的適用性を常に考え、実践していくプロジェクトである。わたしは、約40年間神学校で神学教師として研鑽と教育にあずかったひとりとして、それらの学びを「説教」の中に流し込んでいきたい。そのような願いをもち、過去の説教オーディオを書き起こし、編集の手を加え、キンドル本とし、それに説教オーディオをリンクさせるプロジェクトを推進している。説教には、そのときのTPO(時と場所と機会)があり、必ずしも視聴者にフィットしない部分もあるだろうけれど、参考にしていただければ幸いである。
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ガラテヤ書のシリーズに取り組んだのには、理由がある。恩師のひとり高橋昭市先生が『ダビデの石投げ』という、ローマ書の要約的著作を刊行されたのだ。よくまとまっていて興味深い筆致で執筆されている。高橋先生の文学的センスを感じさせる良書と思った。そのときに、その本に刺激され、わたしも一度ローマ書をきちんと扱ってみたいと思わせられたのである。
ICIの図書室に多数ある「ローマ書」の注解書に目配りしている中に、J.D.G.ダン著の『ローマ人への手紙』の注解書もあった。その中に、ローマ書を研究する者は、その前にガラテヤ書を研究しなければならない。なぜなら、ガラテヤ書はローマ書の原型であり、その中心概念「信仰義認」を取り扱っているからである、といった記述を見出した。それで、直ぐにもローマ書を扱いたい願いを抑え込み、ローマ書を扱う準備としてガラテヤ書に取り組むことにしたのである。
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ガラテヤ書1章は、パウロの救いの経緯(v.13-17)、パウロの福音理解がキリストからの直接の啓示によるものであること(v.11-12)、ダマスコ途上で復活の主に直接出会い、回心に導かれ、異邦人伝道への召命を受けた使徒であること(v.18-24)、その使徒パウロによる福音宣教により開拓・教会形成されたガラテヤ地方の諸教会(v.1-5)に緊急事態が生じていた。「ガラ1:6
私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行く」という事態である。
「ほかの福音」とは、何か。神の啓示された福音の中にあり、許容される“多様性”のことはではない。許容されない、逸脱した、限界線の外ある“異なる福音理解”“異質な福音理解”“変質した福音理解”のことである。ここには、誤った旧約聖書理解というものが存在する。
ユダヤ教を母胎として生起したキリスト教は、大きな危機を迎えていた。旧約聖書の約束に根差し、その成就であるイエス・キリストの人格とみわざを中心とするキリスト教は、誤解されて「ユダヤ教キリスト派」として、ユダヤ教内のひとつの宗派とされてしまう危険が存在していた。いわば、旧約という「卵」から、「その中に存在していた黄身と白身からなるいのち」が時満ちて形を成し「雛」として孵ろうとしていた。「雛」は準備期間は有用であった「殻」を脱ぎ捨てなければならない。「殻」の中にとどまっていては健全な成長はない。
初代教会の誕生期はちょうどそのような期間であった。福音書時代という過渡期を経て、ペンテコステの日に聖霊の満たしを受け、洗礼を受けたクリスチャンはぼほ全員割礼を受け、律法を遵守していたユダヤ人やユダヤ教に改宗していたユダヤ教徒であった。そこでは、ユダヤ教とキリスト教の裂け目はまだ発見されていなかった。
しかしステパノの説教と殉教事件にはその兆しが見受けられる。それゆえユダヤ教からの反発もまた激烈なかたちで生起した。パウロのダマスコ途上の、クリスチャン追撃行動もその延長線上にある。しかし、そのピークにおいて劇的な回心を遂げた。この時の「キリスト啓示」がいかに重要な出来事であったのかは、その後の展開から教えられる。旧約啓示の「殻」の中に養われた「いのち」は、「雛」となって生まれ、「殻」は、つまり割礼や外的儀式、種々の戒律は捨てられることとなった。
教会を迫害し、それを滅ぼそうとするほどに過激なユダヤ教徒であったパウロは、異邦人伝道に召された。彼はユダヤ教の中心部にいた熱心なユダヤ教徒であったので、それらの「殻」を脱ぎ捨てることなしに「キリスト信仰」はあり得ないことを理解できたのであろう。その告白がピリピ書に記されている。
「ピリ3:4
ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。3:5
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、3:6
その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。
3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
それは、私がキリストを得て、3:9
キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、3:11
何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
3:12
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
3:13
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、3:14
キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」と。
ダマスコ途上の回心にて「ただイエス・キリストの啓示によって受けた」パウロの福音理解は、殉教の書簡である、テモテへの第二の手紙の至るまで、まっすぐな高速道路のように一貫した内容、体系的な論理構造を有している。それらは「ユダヤ教」という殻を「ちりあくた」のような投げ捨てたものであり、そのことによってはじめて旧約啓示をキリスト中心に再編成・再構成し「有機的接合性」をもった福音理解として完成されたのである。
それゆえに、ユダヤ教キリスト派的に福音を理解させようとする人たちに対して、パウロは「ただキリストから受けた福音理解」を「動揺させ」「変えてしまおう」「福音に反すること」として、そのような者は「のろわれよ」(アナテマ)と断罪している。
このようなキリスト教の亜種、亜流は時代を変え、所を変えて、出現している。その中には、明らかな異端と識別しうる、いわば“レッドゾーン”の運動や教えもある。また異端までは言えないが「ただキリストから受けた福音理解」を変質させ、逸脱傾向を宿す、いわば“グレイゾーン”に位置づけられる運動や教えもある。
*
参考文献 J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G
ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.1-44
村瀬俊夫論稿「パウロの生涯と思想」pp.38-53、「ガラテヤ人への手紙」pp.439-455、『新聖書注解』いのちのことば社
J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書
ガラテヤ人への手紙の神学』を読み終えた。その中に、「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は理解しえない」と書かれている。このことを踏まえて、8月より、ローマ書講解説教シリーズに先んじて、ガラテヤ書講解説教シリーズにチャレンジすることにした。ダンにおいて示されている「パウロに関する新しい視点“New
Perspectives on
Paul”」を福音主義視点からどのように評価すべきなのか、ウォーターの分析・評価をも念頭に置き、ラッド、リダボス、ブルースの解釈あたりを落とし所として、「福音主義”信仰義認の教理”:再考」を取り扱いたい。
2020年9月6日
新約聖書
テモテへの第二の手紙2:8-14-26「きよめるなら、あらゆる良い働きに備えられたものとなるー真正な福音主義神学の四つの特質」
https://youtu.be/8eQP0vDOjjs
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庭の手入れ、バラの剪定、誘引をするように、ICIの神学の庭園の管理にも余念がない。訳書、キンドル本、ビデオ等の普及は好調に推移している。それは何故かと考えてみた。その理由のひとつは、ICIの資料には「福音主義の未来」が語られているからだと思う。
宇田進論稿に「日本の福音主義神学に未来はあるか」がある。その中の一文(抜粋)に「まず、基本的なこととして、今日、福音主義神学はただ過去の伝統と遺産を忠実に継承・反復するだけでなく、過去・現在・未来を展望しつつ“Authentic”(真正な)福音主義神学の展開を求められている。期待されているこの“Authentic”
(真正な)福音主義神学は次の四つの特質によってと特色づけられていなければならないであろう。@真に聖書的、福音的であること。『聖書的適格性』の問題。A分派的自己流であてはならず、公教会的であること。あらゆるところで、常に、すべてによって信じられてきたところの『正統信仰の公同性』を反映するものでなければならない。B『現代的適応性』と四つに取り組むものでなければならない。福音主義神学は、“イエスを現代化すること”の危険と“私たち自身を古代化すること”の危険、あるいは“文脈を無視した”神学と“synthesis”(綜合)神学の危険を避けつつ、“Contextualization”(文脈化)を自らの方法論となし、聖書の使信の高さ・深さ・広さを特定の文化言語と思惟方式において積極的に立証することを不可避の機能として担うものである。C『自己革新性』を不可欠の属性として具有するものである。“改革された教会は常に改革し続けなければならない”ということがプロテスタンティズムの根本精神である上に、福音主義神学は正しい意味での革新性をその特色として示さねばならない。また、合わせて批判的学問性―このことが古くから使い古されたものや、真理から魔術的に墨守する遺産を作り上げる、いわゆる非批判的伝統主義に感情的に撞着することから神学を守るーに特色づけられたものである。もちろん、その場合キリスト教有神論というパラダイムに立った批判的学問性でなければならない。」
ICIにおける、クリスチャンの一生涯に貢献する生涯教育、継続神学教育には、共立での神学の研鑽から受け継いだDNAまた遺伝子として、上記の@『聖書的適格性』、A『正統信仰の公同性』、B『現代的適応性』、C『自己革新性』が内臓されているように思う。
そのようなコンテキストを意識しつつ、パウロが次世代のテモテたちにあてた手紙を読んでいきたい。V.14「これらのこと」とは、前節での「わたしが伝える福音」つまりキリストから直接受けた「パウロの福音理解」のことである。それは、ユダヤ民族中心の旧約描写がある中で、その目的はキリストの人格とみわざ中心の旧約理解の福音である。その対象は、全民族の救いであり、全人類が含まれる神の国の到来である。ユダヤ民族は、神による全人類救済の“手段”であったのであり、それは恵み、祝福であり、ユダヤ民族に対する感謝と敬意は忘れてはならない。しかし、ユダヤ民族自身の盛衰と栄光の回復が“目的”あったのではない。これを誤って目的化するとき、全人類の救いという神の最終目標にとって大いなる妨げとなるであろう。
この旧約聖書解釈法は、キリスト教神学、つまり福音理解形成の「最初のボタン」である。ここの留め方を間違えると、すべてのボタンはずれたまま留められることになる。パウロは、v.14b「ことばについての論争」、v.16「俗悪な無駄話」、v.18「悪性の腫れもの」、v.18「外れ、くつがえし」、v.19「不義」、v.22「情欲」、v.23「愚かで、無知な議論」、v.26「悪魔にとらえられ」、「その罠」とさまざまな逸脱傾向を記す。
そこで、v.19「神の堅固な土台」とは、健全な福音理解のことである。キリスト以外に土台なし(Tコリント3:11)、キリスト以外に救いなし(使徒4:12)。キリストから直接受けたパウロの、キリスト中心の福音理解というセンターラインがあり、それからの左右に逸脱するさまざまな運動や教えに対する警鐘である。
v.20-21には、二種類の器のたとえがある。神学的な視点から言えば、近視眼的な視点からの成長を目指し、伝統に誤って墨守するのは勧められない。それらを尊重しつつ、しかし同時に、二千年の教会史、教理史の鳥観図から、ルーツとアイデンティティとストラトジィは構築されなければならない。最初に記した「過去・現在・未来を展望しつつ“Authentic”(真正な)福音主義神学の展開」であり、それらは「四つの特質によってと特色づけられていなければならない」という自覚である。このような見識と姿勢があれば、神学的にv.21「聖なるもの」「尊いことに用いられる器」「良い働きに備えられたもの」とされていくであろう。基本的な構図をどう構成するのかが最も大切である。
v.22-26
この文脈でいえば「情欲」は性的な領域に限定されるべきではない。それは、誤りと逸脱傾向の人たちにみられる誤った情熱、勢い、熱狂ともとりうる。それらの運動や教えの只中に陥っている教職者や信徒をv.26「悪魔」「罠」から真理に目覚めさせ、悔い改めの心を与え、ソドムのロトやポティファルの妻から逃れたヨセフのように救い出す可能性の探求である。
そこでは、v.24「主のしもべが争ってはいけません」とある。「和をもって尊しとなす」は日本文化の美徳といわれる。非建徳的・破壊的な論争は避けるべきである。しかし、パウロは「争うな」の前半だけで終わるような中途半端なしもべではない。真の主のしもべには後半がある。V.24-25「むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。」と実に建徳的なコンフロンテーション(議論)を推奨している。そして、それは議論が目的なのではない。V.25b「神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせ」と、聖書のキリスト中心的解釈に基づいた論理的説得なのである。
ICIにおける神からの使命はここにあると受けとめている。誤解を恐れずにこの道を邁進してまいりたい。
2020年8月30日 新約聖書
テモテへの第二の手紙2:8-13「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となるーからだは罪のゆえに死んでいても」
https://youtu.be/dsNPtozEmwg
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先週は、地域の「健康診断」の時があった。年齢と共に、健康が気になるようになってきた。今のところ健康ではあるが、不健康な「小さな芽」を摘み取っていくことが必要な時期と感じ、医者に勧められ「血圧測定器」を買うことにした。
パウロもまた、健康に気をつけている。4:13「外套をもってきてください」と、冬場の健康に注意をはらっている。健康といえば、Tテモテ、テトス、Uテモテでは、「次世代への継承における福音理解の健全さ」である。
わたしをも含め、どこの団体でも、どこの神学校でも、どこの教会でも、戦後宣教50周年を経て、次世代への「伝統の継承」に取り組んでいる。最近、ある先生からメールをいただいた。個人的なメールなので、”匿名性”を高め編集し、そのエッセンスを紹介したい。
「先生もお書きになられておりましたように、私が先生の講義に注目しましたのは、先生が”教派的伝統”の視点からのみでなく、キリスト教会2000年の歴史軸の中で、客観的に講義して下さった点でした。通常ですと外部講師の先生は「招待教派」をヨイショしがちですが、しっかりとした立ち位置で、お語り下さった事に感銘を受けました。数年前から”所属教派”について自分なりに調べ、現在も調べております。昨年は、数名の牧師たちとヨーロッパに行き、その足跡をたどりました。これはこれで新しい発見があり、良い経験となりましたが、現在は、先生が”教会”の信徒セミナーで繰り返し語られた初代教会から流れる福音主義の中に自分たちを位置付ける事の重要性を覚えております(歴史を遡る事も歴史を下る事も大切だとは思いますが)。先生のようなお働きには足元にも及びませんが、主が私を”所属教派”を通して救いに導き、今は教役者として下さっている事を深く自覚しながら、微力ながら健全化の取り組みに与りたいと願っています。先生と出会えたことは誠に心強い限りです。どうぞ宜しくお願い致します」と。
さて、わたしたちにとって、「健全な福音理解」とは何なのだろう。それはv.8a「イエス・キリスト」である。ヨハネ5:39「聖書はわたしについて証ししているものです」とある通りである。V.8b「わたしが伝える福音」とある。パウロの福音理解、それは、ガラテヤ1:11-12「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」。イエス・キリストはv.8c「ダビデの子孫として生まれ」、「死者の中からよみがえった方」です。旧約はイスラエル民族の盛衰とその栄光の回復が記されている。ダビデ家の子孫はその約束の焦点である。新約は、キリストの死・葬り・復活・そして昇天、天上の右の座への着座、新天新地における完成を記している。
ジョージ・ラッドは、”The Presence of the
Future”の序文冒頭に「『二つの聖書を結びつける絆は、神の支配のダイナミックな概念です』。ジョン・ブライトは、主に旧約聖書の希望を扱った神の王国の研究でこう書いています」と記している。わたしは、ジョン・ブライトやラッドとともに、「旧約聖書をどのように理解するのか」の原則の再確認は、教派的な福音理解のあり方を、教派的伝統の視点からのみでなく、キリスト教会2000年の歴史軸の中で、客観的な視点で再検証し、福音主義的な健全化に取り組む上での”最初のボタン”であると確信している。
パウロは「ただイエス・キリストの啓示によって受けた」福音理解のために、逮捕・投獄・処刑という苦しみに遭遇していた。わたしたちも、健全な福音理解に立って、伝統の健全化に取り組もうとするとき、教派の伝統的福音理解を大切にしている人たちから、伝統をゆえなく誹謗中傷していると非難され、教派の伝統に対する「犯罪者ように」扱われることもあるだろう。しかし、使徒的福音理解は、鎖に「つながれていません」とある。大きな励ましである。
パウロは、v.10救われた人たちが健全な福音理解の中に生かされるように、襲いかかった苦難を耐え忍んだ。そこで、「救い」は平等であるが、「栄光」は空の星のごとく千差万別である(ヘルマン・バーフィンク)。その保証としてv.11「次のことば」が提示される。特にv.12「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる」は、特筆すべき言葉であり、約束である。V.13aわたしたちの奉仕や生活や人生には、浮き沈みがあり、自らの真実の一貫性、徹底性には自信が持てない場合もあるだろう。しかしそれはわたしたちが肉にあるものであり、内住の御霊がうめきをもって、わたしたちを、恐れや葛藤、議論や摩擦の只中で、「福音理解の健全性」保持のための闘いを支え、導いてくださる”神律的相互性”の道(ファン・ルーラー)である(ローマ8:9-11)。
わたしたちはv.13a「常に真実でなくても」、わたしたちの福音理解が完全かつ完璧でないとしても、現段階で福音主義視点に立ち「福音理解のセンターライン」と確信しうるところに立って、福音理解の健全化にまい進し続ける。キリストは、このような生き方を、そして奉仕を求めておられるのではないか。わたしたちがそのように生き続ける時、真実なキリストは、真実が何かを示し続け、その真実性をわたしたちの生涯の只中に実証してくださるであろう。わたしはそれを見届けたい。
【ICI庭園研究シリーズ】コモ湖とマッジョーレ湖の庭園群「BBC イタリア庭園 :イタリア北部の湖水地方 4of 4」紹介
https://www.youtube.com/watch?v=CWpPTL13BYc
Gardens Ity
4 Wealthy North Lake District
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最終回のイタリア北部の湖水地方でのおすすめは、ロンバルディア州のコモ湖(58分のビデオの32分から43分)とビエモンテ州マッジョーレ湖の庭園群(58分のビデオの後半46分から終わりまで)です。美しい庭園つきの邸宅は見事の一言です。これほどの庭園はつくれないとしても、私たちの身の周りにある「小さな庭」をこぎれいに保つことは、「エデンの園」の管理者として立てられているわたしたちの責任の一端ではないでしょうか。わたしたちの最も身近な領域に「神の創造世界の美」を追求するひとりとされたいと思います。
【ICI庭園研究シリーズ】崖の上の秘密の庭園(58分52秒のビデオの中の30分45秒〜37分まで)「BBC イタリア庭園 :
カンパニア州ナポリ 3of 4」紹介
https://www.youtube.com/watch?v=7Hcg30QgJ6o&t=1047s
BBC
Italian Gardens 3of4 The South
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今回の画像の質は、少し低くなっています。イタリア中部の第一回のローマ、第二回のフィレンツェは、ルネサンスの幾何学的図形の構成が庭園に生かされています。今回のイタリア南部のナポリ等の庭園は、花木の種類も南方のものが特色で、構成もより自由になっています。地域により、気候により個性と特色のある庭園が構成されています。人間もまた、被造物の一部なのですから、それぞれの時代、地域、民族、文化の中で「個性的な花」を咲かせることを通して、神の栄光を現すのでしょう。
58分52秒のビデオの中の30分45秒〜37分までにEdmund
Beckettという銀行家の造った風光明媚な崖の上の、南洋風の庭園はまたひとつ魅力溢れる庭園と思います。
【ICI庭園研究シリーズ】四つのプールの構成美(59分5秒のビデオの、29分54秒から35分まで)「BBC イタリア庭園 :
トスカーナ州 フィレンツェ 2of 4」紹介
https://www.youtube.com/watch?v=ip3e4ETnnfU&t=2051s
Gardens Ity 2 Florence Naples - VideoStudio
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わたしの最もお気に入りの庭園、Princess Kike
の庭です。四つのプールがと緑の庭木と散策の道、小さな噴水等が美しく配置されています。59分5秒のビデオの、29分54秒から35分までに紹介されています。美しい庭を見ていると心が癒されていくような気がします。
【ICI庭園研究シリーズ】噴水の音響美(59分のビデオの中の24分25秒〜33分)「BBC イタリア庭園 : ラツィオ州
ローマ 1of 4」紹介
https://www.youtube.com/watch?v=OY413RwBzB0
BBC Italian
Gardens Rome Part 1of 4
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いつも神学のことばかり紹介しているので、このあたりで少し「息抜き」を挿入したい。
家内や息子に「お父さんは、これまで、庭や花に興味も関心も寄せてこなかったのに…」と不思議がられている。
40年余り、神学校奉仕や翻訳等でそれ以外のことに時間をとれなかった。エリクソン著『キリスト教教理入門』が訳了し、刊行され、ようやくひと仕事終えた気分となり、気分転換にNetFlixを視聴した。そのときに、モンティ・ドン先生のルネサンス庭園シリーズが紹介されていた。それで「庭園の美」に目覚めた。
近所の人に「草茫々の田畑ではいけない」とお叱りを受け、出来るだけ手間のかからないかたちで田畑を管理できる方法を研究することから始まった。
そうこうしているうちに、「庭造り」の面白さが分かってきた。イエスの種まきのたとえからも多くのことを教えられた。そしてパウロやヨハネからも、「福音理解の形成」とは、ある意味「芸術」であり、「美」の追求であると。ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和、ストットの著作集はまさにそれである。
わたしは、気分転換に「庭園の美」を追求に取り組むとともに、「福音理解の美」をも重ね合わせるように追求していきたいと思った。そこには、「喜びの神学」がある。
「主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴言8:26-31)
まずは、YouTubeでも公開されている「わたしの庭園の師、モンティ・ドン先生」のイタリア・ルネサンス庭園の四つの講義(?)を紹介していきたい。庭がこれほど美しいものなら、「神の福音理解」はさらに美しいはずではないのか。これが後半生の、わたしのテーマのひとつである。
特に、おすすめの箇所は、59分のビデオの中の24分25秒〜33分までの、チボリの枢機卿 d'Este
の造った「噴水の芸術」とでも表現できる美しい庭園である。規模といい、水量といい、美しい音楽のような世界の庭園が広がっている。
【ICI庭園シリーズ】
「はじめに神は庭を造りたまえり」は、桑木野幸司著『ルネサンス庭園の精神史:権力と知と美のメディア空間』(白水社)の一節である。
「全能の神は世のはじめに、庭をお造りになった。まさしく庭こそは、人間に許されたもっとも純粋な愉悦である。 ─
フランシス・ベイコン『庭園について』
神はあめつちを分け、動植物の創造を終えたのち、その仕上げとして麗しい庭園を造った。豊かな自然の
恵みにあふれ、人と動物がむつまじく調和して暮らし、常春の安楽に包まれてすべてが自己完結した至福の 理想郷 ─ すなわち
旧約聖書『創世記』の冒頭に燦然と輝くエデン神苑だ。
人類誕生の地となったこの
場所はまた、アダムとエヴァが犯した罪のゆえに未来永劫閉ざされてしまう『失寵』の舞台でもあった。楽園を追放されて以降、人類は呪われた大地を耕し、老病死苦に日々襲われながら生きねばならなくなったと
いう。壮大な天地開闢神話のクライマックスに失楽園という、残酷で、けれどもどこか甘美な余韻を残す物語を
有するユダヤ=キリスト教文化圏の人々にとって、庭園とは常に焦がれてやまない渇望の対象であった。
冒頭の引用は、十七世紀初頭のイングランドきっての知識人フランシス・ベイコン卿(1561 ─
1626年)の随筆中、造園の技を論じた愛らしい一篇の書き出しの部分だ。帰納法を推進し、経験知識に基づく学問全般の大改革を唱道した哲学者として知られるベイコンはまた、稀代の庭狂い(furor
hortensis)の 一面も有していた。その彼の庭園観があざやかに表明されているのが、これに続く文章だ。
庭こそは人の精神にとっての最高の癒しであり、これが欠けた建物や邸館など、粗雑な手仕事以上のものではない。実際我々が常に目にするところでは、時代を経て文明が進展し、洗練の度を加えた段階になって、人々は
まず
豪壮な建築に着手し、そのあとで典雅な庭園の造営に手を染めるのだ。あたかも造園こそは、より高度な完成の証とでもいわんばかりに。」
*
貧しい庭造りではありますが、ICIにおける「福音理解」形成と重ね合わせつつ、我が家の庭造りをも、少しずつ紹介していきたいと思います。
2020年8月23日 新約聖書
テモテへの第二の手紙2:1-7「わたしから聞いたことを教える力のある信頼できる人たちに委ねなさいーそして喜びのあまり」
https://youtu.be/7Ti_7dG0uUY
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今朝の箇所を読むたびに思い出す。母校関西聖書学院を卒業と同時に恩師フレッド・スンベリ初代院長に「助手」として抜擢された。未熟で分不相応な若者が、いわば危険な「断崖の絶壁」に立たされたような思いであった。そのような時期に恩師は「君にこの聖句をあげよう」と言われた。第二テモテ2:2
「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」であった。
そのときから、ある意味でわたしの人生は恩師の熱い期待に応えようと思った人生であったかもしれない。恩師は引退された後も、来日されるたびに私を呼び「あなたはいつ立ち上がるのですか」とチャレンジされ、励まし続けてくださった。そのような時、わたしは第一サムエル記24:1-22を示され、手紙をもって返事させていただいた。「主のみ旨ならば恩師の願いは叶い、み旨でなければそれは実現しないでしょう」と。
今、振り返ってみるのに、恩師の熱い期待は、外形的には実現しなかったのだが、内実的には実現し続けてきたように思う。ひとつの大きな岐路は、三年間の共立基督教研究所内地留学後にあった。卒業時のわたしは、ルカ14:28-30「あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう」という意識を抱いていた。
共立基督教研究所と東京基督神学校での膨大な量の神学研鑽で、神学教師の卵としての「土台」は出来上がった。ただ、その土台の上に「福音理解の家」は建て上げられていなかった。それで、神学研鑽全体を目配りし、消化し、「美しい福音理解の家」を建て上げる取り組みが可能であるかどうかを探りつつ、幾つかの教会の招聘を考慮させていただいた。しかし、最終的にはどこの教会からも直接的また間接的に神学の継続的研鑽をささげて伝道・牧会に120%集中することを求められた。
わたしとしては、神学教師として120%の研鑽を継続しつつ「v.3-4苦しみをものともしない兵士のような献身」、「v.5健全な福音理解とその反映としての健全な倫理的生活を追求してやまないアスリート(競技する人)としての規範意識」、「v.6本質的な意味で、そのようなシンパ層獲得を求め惜しみなく忍耐と労苦する農夫」ように両立を目指して、伝道・教会形成にたずさわることにやぶさかではなかった。
しかし、いずれの教会も最後の瞬間にその点を確認され、「迷惑をかけることになる」のではないかと思ったのである。いずれの教会も魅力的な将来性があった。内に、いわばマグマのように燃え盛る継続的研鑽の思いを隠し、二つ返事で「はい!
喜んでその招聘を受けます!」と応答したかったのだが、「使徒16:7イエスの御霊がそれを許されなかった」。その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロは、エーゲ海を渡り、未伝のヨーロッパへと足を踏み入れた。
わたしは当時「邯鄲の夢」のごとく後半生に思いをはせ、奉仕内容や人事に翻弄されることのない後半生を願い求めた。そのような時、示された道は「紅海の中」にあった。それまでつゆだに思いつかなかった道であった。つまり、放蕩息子のように「一度はささげた郷里に帰る」道であった。そしてそこで「Tコリント7:35品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できる」環境を手に入れることであった。郷里にはそのような環境が残されていた。一生涯衣食住の心配なく、120%神学の研鑽に専心できる環境がそこに見えた。
パウロは、テモテに奉仕を通して生活の糧を得ていたレビ人のように、またシナゴークの長老のように、日常の生活費を奉仕から得るのがスタンダードであることを示した。わたしもそれには異存はない。しかし、例外もある。パウロである。彼は「天幕づくり」の仕事で生活費・活動費を得て、セルフ・サポートで宣教師、教会形成者、神学教師の奉仕をこなしていた。ゆえに、仕事をもちつつ伝道すること、副業をこなしつつ教会形成をすることは違反行為なのではない。それは、困難な宣教地域ではありうることであり、そのような働き人の行為はパウロのように立派な行為である。兵站を自らまかなう軍隊のようである。
わたしも、家業のガソリンスタンドを手伝いつつ、プロフェッショナルな神学教師たらんとしてひたむきに奉仕にあずかってきた。共立研修時に「多くの証人たちの前で(宇田師や丸山師や数多くの福音主義神学界の優れた教師陣)から聞いたこと」を継承・深化・発展させることに寝食をわすれるかのようにして尽力してきた。わたしの召命と賜物と使命はそのようなところにあると確信していたので、わたしは一般的な牧師タイプの道ではなく、特別な神学教師タイプの教職者の道を突き進ませていただいた。
共立基督教研究所研修後、宇田進著作集研究の結実として『福音主義神学』講義録、エリクソン著作集研究の結実として『キリスト教教理入門』講義録、ラッド著作集研究の結実として『終末論(聖書神学)』講義録等のビデオが千数百ある。もしわたしが「マケドニアからの叫び」を聴かず、「邯鄲の夢」も見なかったとしたら、一般的な牧師タイプの道を歩んでいたことだろう。そこにも大きな祝福はあったと思うが、エリクソン著『キリスト教神学』『キリスト教教理入門』、ラッド著『終末論』等の訳書も刊行されることはなかったと思う。所属団体や母校の益を越えた「福音派全体の益」を考えた時、わたしがある意味で「井戸の中」から「大海」へと放り出されたことは主のみ旨であったのではないかと受けとめている。
共立基督教研究所研修後、土台の上に「福音理解の家」を建てるべく、行くところ知れずして「新しいフロンティアの原野」に導かれた。それは、恩師を通して与えられた2:2
「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」との約束のみ言葉の実現のためであったと、今振り返っている。
わたしにとっての「v.6収穫の分け前」は、一宮基督教研究所の資料に触れ、マタイ13:44「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」といわんばかりに、大喜びし日夜学んでくださる方からのメールであり手紙である。そのような時、わたしの額の汗は拭いさられる。
2015年04月26日:新約聖書 ヘブル人への手紙13:1-25 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/lQ-6kAHYHYk
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今年は、二月からこれまで傾聴してきた礼拝メッセージのバックナンバー・ビデオを紹介している。そして、その備忘録をキンドル本に整理・編集し刊行している。今日で、2015年に語った「ヘブル人への手紙」傾聴シリーズも終わりである。このささやかなシリーズをもまたキンドル本として刊行し、ICIの小さな記念碑のひとつとして残していきたい。
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今年になってから、ずっとヘブル人への手紙を読んできたが、改めて素晴らしい書だと思った。AD.60年頃のユダヤ人クリスチャンたちが、エルサレムが陥落し神殿が破壊される直前に、ユダヤ教徒たちから迫害されていた時に、イエス様だけを信じて歩むようにとの励ましを受けた手紙であった。
今、ペンテコステ カリスマ系の教会等、多くはデスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムやレストレーションの教えや集会に翻弄され、押し流されてしまわないようにと、この、ヘブル人への手紙は教えてくれる。
わたしは彼らがヘブル人への手紙から、今日への神の御声を傾聴してくれることを祈っている。
ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、旧約聖書の教えをしっかり守ろうと考えている。今、盛んに叫ばれるキリスト教シオニズムとは異質のものである。
彼らの最も大切にする教えは"神を愛することと隣人を愛すること"である。そのためにも、攻撃的であってはならないと教えられている。
ナチスドイツの下、ユダヤ人たちは羊の様に従った。この事は、彼らが争いを好まない人々であった証拠でもある。
善行を惜しんではならない。人をもてなし、世話をしなさい。また、人を思いやりなさい。これこそがユダヤ人たちの目指す神の御心である。
旧約聖書から613の戒律を定め、聖書の教えを字義的に守ろうとする。その中には食べて良い動物と食べてはいけない動物とが存在する。その時代の衛生上の問題もあったかも知れない。
ユダヤ教はキリスト教と外側は似た部分があるが、あまりにも戒律を守ろうとするところが、相違点であろう。
キリスト教は戒律ではなく、キリストという実体、そして御霊にある本質を大切にする。神への感謝や賛美はキリスト者にとって、心のささげ物である。また、善を行うこと、持ち物を分け与えることは神へのいけにえである。
結婚生活が聖くある様に努力することは、エデンの園で男と女に造られた神への感謝のささげ物である。
金銭を愛するあまり、その物が偶像になり、お金を増やすことが目的になってはいけない。神の御心にそって金銭を管理する。勤勉に働き収入を得、それを使って社会を潤す。このことがキリスト者としての神からの祝福である。
異なった教えに染まったり、過度の金銭欲、性欲、貪欲は放縦となり、反対に極端な禁欲は家庭や社会を破壊する。
バランスのとれた教え、バランスのとれた生活は、人々をまた教会を祝福で満ち溢れさせる。
キリスト教会の2000年の歴史は、いかに健全な教えを保つべきかのバランスを考えた闘いの結果である。この素晴らしい遺産を正しく継承していく使命が、今日のキリスト者には要求されている。(仁美記)
2015年04月19日:新約聖書ヘブル人への手紙12:14-29 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/Nfb1I9I_eqQ
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明日はいよいよ、準備して来た神学会の研究発表の日(2015年4月20日「福音主義イスラエル論に関する一考察」YouTubeにて公開)である。発表の時間は約20分と短い物だが、その後に質疑応答の時間もあり、この十年二十年の総決算の時であると思っている。
2006年にも発表させていただき、そのことがラッドの終末論を訳すきっかけとなり、去年末の論文やこの春の終末論の本の出版につながったと思っている。
今までのご指導に感謝して、宇田先生に終末論の本を送らせて頂いたところ、丁寧なお葉書を下さった。
その中には、まだ私が4歳の頃にアメリカの神学校に留学され、そこで、ラッドの本に触れられた事や、私たち家族と千葉の共立神学研究所でお会いしたことを思い出されたことが書かれていた。
そして、何よりも、福音主義神学の発展のため、頑張って下さいと大きな励ましの言葉を頂いた。
神様の働きはキリスト教会全体を見ておられ、それはまるで、鳥瞰図の様である。いろいろな働きや教えがあるが、その中から真水の様な教えを汲み出し、塩水や泥水、工場排水の様な水は汲み出さない様に導いて下さる。
14節に、すべての人との平和を追い求め、とある。主にある兄弟姉妹として、すべての人とお互いに尊敬の心を持って接しなさいと教えている。しかし、また、聖められることを追い求めなさい、と続く。
これは、聖書の正しい解釈を求めていくべきであると、教えている。
ラッドの終末論の本は、終末の本であると共に、聖書の正しい解釈の仕方を教えてくれる本である。
だから、私は今翻訳に取り組んでいるエリクソンのキリスト教理入門の本が終われば、また、ラッドの別の本に取りかかりたいと考えている。
15節には、せっかく救われた人々が神の恵みから落ちる事がない様にと説いている。福音を信じる者の畑に美しい福音の花を咲かせる様に。経済的な繁栄を求めたり、右翼思想に迎合したり、キリスト教シオニズムに巻き込まれたりしてはいけない。
本当に大切にしなければいけないことをないがしろにして、神の恵みから外れてしまったエサウの様ではなく、正しい選択をしたアベルの様に歩むべきである。
神様の審判は厳格で厳しいものである。あなたの信仰が、木、草、藁の様であれば、その部分は焼き尽くされてしまう。金、銀、宝石の様な信仰者の部分のみが報いの対象である。
神様の準備される世界は、揺るがされない御国である。今の地上には貧富の差があり、テロリズムが横行し、憲法改正に右往左往している。しかし、神の御国は平和で、安全で、健康的な世界である。
永遠のパラダイスの視点から、被造物世界全体が揺り動かされる。イエス キリストが復活された様に、私たちも栄光の身体を着せられ蘇らされた天地に憩うことが出来る。
まさに、今この時、神様はキリスト教会とその信者を揺り動かしておられる。
私たちの神は焼き尽くす火である。(仁美)
2020年8月16日 新約聖書
テモテへの第二の手紙1:9-18「オネシポロは私が鎖につながれていることを恥と思わずーベツレヘムの井戸の水のごとく」
https://youtu.be/rE6u2l7sxFE
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今朝の箇所で注目すべきは、オネシポロとその家族である。「ローマの大火事件」という皇帝ネロが自ら犯した犯罪を隠蔽するため、パウロはスケープゴートとされた。罪のないパウロであったが汚名を着せられ小アジアの一角にあるエペソで逮捕され、帝都ローマに護送された。
このような暗闇の日、v.15「アジアにいる人たちはみな、私から離れていきました」とある。あの時と同じ情景である。我らの主が、ユダの手引きによりゲッセマネで逮捕され、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘に向けて歩まされた日、ペテロは,マタイ26:69-74「そんな人は知らない」と三度言い、そして鶏が鳴いた。日本基督教史のキリシタン迫害や国家神道期の苦難の時にも、数多くの鶏が鳴いたことであろう。
慈しみ深い愛に満ちた全能の神が創造し、摂理をもって万事を益とすべく全力で働いておられる世界で、「いのちと不滅」の福音の全体系を解き明かすために立てられた大使徒パウロは、なぜ二度、三度、四度と召される日まで、つまり地中海世界全域で使命を達成し終える日まで、ハッピーエンドで終わる“映画のヒーロー”のように解放され続けなかったのであろうか。
それは、創造、堕落、贖い、新天新地の展開の歴史において、決定的な勝利(D-day)は到来したが、完全な征服(V-day)はまだ途上にあるからである。勝利は決定づけられたが、悪の勢力の最後のあがきとその残存兵の掃討作戦は一進一退で継続しているからである。
であるから、パウロはこの逮捕・投獄を「恥」と受けとめていない。しかし、この出来事をパウロ攻撃のチャンスとみた輩がいた。フィゲロとヘルモゲネである。彼らは「パウロとは無関係」を表明することでパウロの罪に“連座”する危険を避けようとした。それはまた、パウロから聞いた「健全なことば」、福音理解からの逸脱の危険を伴うものであった。
いつの時代でも、風見鶏タイプの信仰者や同労者は溢れている。その運動や教えが危険であること、間違っていることに気がついても、ある人たちは「寄らば大樹のかげ」、「長い物には巻かれろ」「赤信号みなんで渡ればこわくない」の誘惑に勝てない。
しかし、そのような時にも、真価を発揮する信仰者、同労者もいて励まされる。「オネシポロ」である。そして「その家族」である。これは推測であるが、この家族は、パウロが偽りの罪で逮捕されようとしていた時、「犯罪者隠匿罪」の危険をも顧みず、v.18「エペソ」でかくまったのではないだろうか。それはその家族をも危険にさらす行為であった。ちょうど、ナチス・ドイツの支配下の中、オランダの町のアンネ・フランク※の家族をかくまったクリスチャンたちのように。
オネシポロは、パウロを取り巻く多くの同労者が距離をとり、離れていくエペソでの危機のただ中、パウロのため出来うる限りの「多くの(危険な)奉仕」をなしたのみか、逮捕・ローマ護送後、行方知らずとなっていたパウロを追いかけ、牢の中に探し当てた。冤罪とはいえ、ローマ皇帝ネロの犯罪、「ローマ大火事件の重罪犯人」に仕立てられた人間を獄中深くに探し出す行為である。共犯グループの一員と疑われかねない行為である。にも拘わらず、オネシポロはパウロと面会し、必要な物資を提供し続けた。
この、v.17「ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました」を読んだ時、わたしに去来した聖書箇所は「ベツレヘムの井戸の水」であった。Uサム23:15
ダビデは切に望んで、「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。23:16
三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを【主】の前に注いで、23:17
こう言った。「【主】よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。
右に左に逸脱傾向を示す運動や教えが跋扈するこの時代、「この福音」のために建てられた一宮基督教研究所を通してシェアされるv13「健全なことば」を手本としてくれる人たち、傾聴し受け取りv.14「委ねられたよいもの」を聖霊によって守ろうとしてくれる人たちが少なからず存在する。私は彼らをテモテ、テトス、そしてv.16-18「オネシポロ」たちと呼びたい。彼らは、一宮基督教研究所のシンパ層の人たちであり、わたしとその「福音理解」を兵庫の山中深く探し、見つけ出してくれる人々である。わたしは彼らのために、パウロがそうであったように、召されるその日までこの奉仕をなし続けたい。
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(アンネ・フランク※第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。)
2020年8月9日
新約聖書 コリント人への第一の手紙3:6-9「あなたがたは神の畑ですーはじめに神は庭を造りたまえり」
https://youtu.be/RB6dCsltu0E
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T 挨拶ー安黒仁美(五分)
U 短いお奨め―安黒仁美(五分)
V 岬福音教会設立60周年記念礼拝メッセージー安黒務(33分)
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序―60年の歴史の回顧、教会とその歴史を見る視点、同労者の位置づけ、宣教師が植え、日本人教職者が水を注いだ
3:6
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
1. 教会は、v.3:9
「神の畑」つまり、「神の庭園」(創世記2:8、雅歌4:16、黙示録22:1-2)である。
2.
庭園は耕され、種が蒔かれ(マタイ13章)、奇跡が起こる
3.
その奇跡は、神のことばが生きていて力がある(ヘブル4:12、Tペテロ1:22)からである
4.
信じて救われる経験は神秘(マルコ4:26-29、ヨハネ4:7-8、ローマ8:26)であるが、確実である
5.
神の庭園に植えられた花は多種多様で、一人ひとりの個性の成熟した花の美しさが神の目標である(ローマ5:3-4、8:28-30)
6. 美しい庭園には、鳥や虫や人々が集まり、その香りは世界へ(使徒1:8)
2015年04月12日:新約聖書ヘブル人への手紙12:1-13 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/DaeTGYYEDUs
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この、ヘブル人への手紙に書かれた状況が、今の世界のクリスチャンたちが置かれた状況に似ているので、毎週、このテキストから学んでいる。
初期のユダヤ人クリスチャンたちが、いろいろな闘いによって、元の所に戻ろうとする人々が出てきていた。そんな人々に、今の信仰に留まりなさい、押し流されてはいけないと教えている。
そのために、旧約、新約を通しての信仰者の闘いの歴史が書かれている。私たちの信仰の先輩たちは、信仰のないユダヤ人から迫害を受けてきたのだと。
私たちの信仰とは、イエス キリストの十字架による罪の許しを受け取る信仰。また、キリストがよみがえられたように、積極的で闘う信仰。
いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、以前の宗教に戻ろうなんてことはやめなさい、と教えている。
現在のキリスト教会において考えれば、旧約的思考、民族的思考、ディスペンセーション主義的聖書解釈、キリスト教シオニズム。
賛美や使徒的集会でこれらのことを入れ込んでいく、そんな集会には参加してはいけない、ということである。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。キリストは苦難の生涯をはずかしめをものともせずに、十字架を背負って歩まれた。そのように、苦難を訓練と思って堪え忍びなさいと。
また、キリストが「はずかしめをものともせず、十字架を忍び」歩まれた姿を模範としなさい。そうすれば、私たちの出くわす程度の困難で、元気を失ったりすることはないだろう。
考え方によれば、間違った教えに今迷っている人たちは、神様からの訓練にあずかっていると考えることも出来るのではないだろうか?正しい福音を取り戻すために闘っているのだと・・・
正しい福音理解、終末、イスラエルについて、今はまだ闘いの中にあるが、彼らがそのことに勝利出来れば、後になって、平安の義の実を結ぶことも否定出来ない。(仁美記)
2015年04月05日:新約聖書ヘブル人への手紙11:17-40 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/KTCxowjZqq0
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アブラハムの信仰は旧約聖書の中心である。
アブラハムには女奴隷との間に出来たイシュマエルと正妻サラとの間に出来たイサクの二人の子があった。なかなか子供の出来ない二人にとって、イシュマエルは人間の浅はかな知恵によって生まれた子供であった。
しかし、アブラハムとサラには神様への信仰が生きていた。年を取りもはや死んだも同然の、身体から子供が生まれる。これはよみがえりの信仰である。そして、ようやく生まれた一粒種であるイサクをさらにささげよという、神様の命令にもアブラハムは従った。
神様が、イサクをささげる前に止めて下さるに違いない。そう思ってアブラハムは従ったのではない。
例え、全焼のいけにえとしてイサクを捧げ、イサクが死んでしまっても、アブラハムの信じる神様は必ずイサクを生き返らせて下さると信じていたからである。
アブラハムの信仰は復活信仰であった。
イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。この言葉は、アブラハムの肉的子孫が神の国を相続するという意味ではない。イエス・キリストを信じる全ての霊的子孫が神の国を受け継ぐのである。
神の国を受け継ぐ信仰とは、アフリカなどで見られる様な、使われているのはキリスト教用語ではあるが、中身は他の宗教だったり、アメリカなどで見られる様な、ある聖句を取り上げて、神様を信じるイコール金持ちになる事だ。という様な、まやかしの信仰ではない。
クリスチャンの信仰とは、私たちの神様は死者を蘇らせる力を持っておられるお方であるというものである。私たちがこの世の旅を終えたらそれで、終わりではない。キリストが蘇られた様に、私たちも新しい身体を与えられて蘇る。
そして、私たちだけではない。この天地も贖われて、新しくされ、私たちはそこに、神様と共に永遠に生きることが出来るのである。
私たちの信仰の先輩たちは、その時は見えなくても、遥か先にそれを望み見て、自分たちの信仰を貫き通した人々であった。
私たちもその信仰の継承者として、目さきのことにとらわれず、真っ直ぐに信仰の道を歩みたいものである。
2015年03月29日:新約聖書ヘブル人への手紙11:1-16 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/bVys48jVBoc
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コリント13章が愛の章と呼ばれているのと同様に、ヘブル11章は信仰の章といわれている。
パウロがローマ書で述べた信仰とは、キリストの十字架による贖罪の恵みを、行いによらずただで、恵みとして受け取ること。これが信仰であると説いていた。しかし、ヘブル書ではもっと受け身ではなく、前進していく物、つまり、アグレッシブにこの地上で神様の御心を生きて行くこととしてとらえている。
一節では、信仰とは、望んでいる事柄や目に見えない物を確信して生きることだと言っている。私たちが信じる神様は全知全能の神様であり、使徒信条にもある様に、この天地を造られた方である。その神様が、生きておられ、私たちの人生に介入され、報いて下さるのである。その現実感は、エジプトから脱出したイスラエルの民と全く同じだということである。
山上の垂訓にある様に、たたきなさい、求めなさい、そうすれば与えられるのである。神様が願っておられることは何なのか?それは、力強く前進することである。かつてソロモンは神様から、「あなたに何を与えようか?願え!」と言われ、「善悪を判断し、人々を治めるために、知恵を与えて下さい!」と申し上げた。それは神様の御心にかない、彼は素晴らしい知恵を与えられた。私には神様から、今、ささやかなが翻訳の力が与えられていると信じ、エリクソンとラッドの著作集の翻訳に日々取り組んでいる。神学校教師を引退したことにより、はじめて見えてきた風景である。
この章は何度も"信仰によって"という言葉から始まっている。これは文学的表現の一つ、行頭反復(アナフォラ)という。この信仰によって幻を見たノアは山の上に箱舟を作った。周りの人々には愚かな行為に見えたが、ノアが見た幻の通りになった。アブラハムも信仰によって与えられた幻に真っ正面から反応した。神様からの示しに、赤ちゃんが母親の愛情を食べて育つように素直に従った。今の世の中が全てでは無い。地上の生活は仮住まいであると考え、主の御心に生き、新しい天地であるエルサレム(都)を目指した。そして、妻サラにはイサクが与えられ、多くの血族的子孫に留まらず天の星、海の砂のようにぼうだいな霊的父・母となったのである。
この様に、信仰とは目に見えない物を望み見る、希望のある生き方をすることである。ノアに洪水の幻を見せ、アブラハムに都を見せられた神は、私たちにも「望み」を与え、「見えていないものを見せられる」神である。私たちは、神が見せたいと願っておられる「望み」を抱くように導かれ、「まだ見ていない事柄」にあずかり、「行き先を知らず」に召しだされる。しかし、わたしたちは「はるかにそれを見て喜び迎え」、「さらにすぐてれたものにあこがれる」、神がそのようにアグッレッシブに生きるように、聖霊においてわたしたちを導かれるからである。今も生きておられ、私たちの、御霊にある前向きな歩みに報いて下さる神様を信じている。
二千年前、この受難週、イエス様はご自分の架かるべき十字架を仰ぎ見ながら、ドロローサの坂道をのぼっていかれた。私たちも自分の歩むべき道を御霊のさとしを受けつつ自分の十字架を背負って、前に進むべきではないか?(仁美記)
2020年8月2日
新約聖書 テモテへの第二の手紙1:1-8「私はあなたの涙を覚えているー福音のために私と苦しみをともにしてください」
https://youtu.be/ES2cImWIv_k
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今日から、テモテへの第二の手紙に傾聴する。「パウロからテモテ、テトスたちへ」の第三シリーズである。この手紙は如何なる手紙なのだろう。「私はあなたの涙を覚えている」は、それを最も表現している一節である。パウロが見たテモテの涙とは如何なる涙であったのだろう。その説明聖句はv.15「あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れていきました。その中にはフィゲロとヘルモゲネがいます」である。
テモテ第一の手紙、テトスへの手紙にあったように、v.1「神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」であった。つまり健全な福音理解の提示者、解釈者としてのパウロの位置があり、v.2「愛する子テモテ」―その使徒的福音を割引も水増しもせず忠実に継承する後継者としてのテモテやテトスたちがいた。
最初の裁判において無罪放免を勝ち取ったパウロは、ギリシャや小アジア(現在のトルコ)地方で奉仕していた(AD63)。時世は、皇帝ネロの時代にあり、新しい、壮麗な帝都ローマの建設を目指し、古いローマに火を放った(AD64)。いわゆる、ローマの大火事件である。人々は、皇帝ネロを疑った。このような時、政治的リーダーは嫌疑をそらすために身代わりをつくり出す。皇帝ネロは、その標的に当時の新興宗教として広まっていたキリスト教を選んだ。ちょうど、キリスト教の教義の中には、再臨の教えがあり「Uペテ3:12
そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます」が、ネロの策略に利用された。
この運動は健全な教えとその社会的倫理において評判が良く、広く地中海世界各地に浸透しつつあった。しかし、既存の諸宗教で利益を得ていた人たちには不満があったであろう。皇帝ネロは彼らの不満を利用し、キリスト教の指導者層を捕らえ、処刑することで「ローマの大火」の責任を負わせることにした。当時のキリスト教世界のトップ・リーダーのひとりパウロは、裁判のためローマに滞在したこともあり、罪をなすりつけるのに最適の標的であった。
今回の裁判は、皇帝ネロの犯罪隠ぺいが目的の冤罪であったが、「ローマ大火」という犯罪の首謀者として処刑を逃れる術はなかった。指導者の腐敗はいつの時代でも、どこにおいてもとんでもない災難をもたらすことになる。
そのような時、当時の教会にはふたつの反応があった。エペソ教会群の主任牧師テモテたちの「偽りのない信仰」であり、彼らは敢然とパウロ擁護に回った。しかし、皇帝ネロを恐れ「臆病」風に吹かれ、「パウロとは関わりありません」と距離を置き、パウロ逮捕の時に、逃げ隠れする者もいたようであるv.15。また、パウロの逮捕を契機にして、偽教師は勢力を得ようと画策したりもしていた。このような状況に、中心的教会のエペソ教会群の主任牧師テモテは涙していたのであろう。パウロはそのことをよく知っていた。
パウロは、使徒的福音を宣べ伝えていただけであった。そして、使徒的福音をまっすぐに語った結果、再び「囚人」とされてしまった。ある人たちは、帝国の迫害を恐れ、健全な福音理解からの逸脱傾向を示し、ある人たちはその健全な倫理的実践から逸脱傾向を示すようになっていた。
パウロは、今再び帝都ローマの牢獄の中にあった。パウロは牢獄の中の祈りの中で「テモテ」のことを思い起こしていた。自分は、無実の罪でまもなく処刑されようとしている。神のみこころによって開始された福音理解の提示は今後どうなるのだろうかと心配した。そのような時にはいつもテモテの顔が浮かんだ。「愛する子テモテがいるではないか」と。
後継者のテモテたちが「偽りのない」福音理解を継承・深化・発展させてくれる。パウロの按手によって、テモテたちに与えられた福音理解の全体を解き明かす「神の賜物」を再び燃え立たせるよう励ました。
いつの時代でも、さまざまな理由で健全な福音理解から逸脱しようとする運動や教えが勃興する。宣教や教会成長において効果や結果が優先されるとき、福音理解の変質が起こりやすい。そのようなとき、「臆病」と妥協がはびこる。これに対してパウロはコンフロンテーション(抵抗、闘争、忍耐)のスピリットを求める。V.7「力と愛と慎みの霊」によって、v.8「神の力によって苦し」むことを恐れないように。
私たちが今日、使徒的福音理解を継承・深化・発展させるうる道筋に立っているのは、のような生き方を示したパウロやテモテたちがいたからである。
ラッドやエリクソンたちが、リベラリズム(自由主義)とファンダメンタリズム(根本主義)の左右への逸脱傾向に対して、エヴァンジェリカリズム(福音主義)のセンターラインを歩む青写真とその実践を提示してくれている。一宮基督教研究所使命は、このセンターラインを照らし続けることである。殉教を覚悟したパウロがテモテたちを思い起こし励まされたように、一宮基督教研究所のわたしたちも、フェイスブック、ユーチューブ、ツィッター、ホームページ、翻訳書、キンドル本等の視聴者の増加は、一宮基督教研究所の取り組みを励ましてくれる「テモテ、テトスたち」である。主がこのシンパ層の人たちをも用いて、日本と世界の福音派諸教会、諸神学校を福音理解のセンターラインに沿って導いてくださいますように。
2015年03月22日:新約聖書ヘブル人への手紙10:1-39 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/g6mA8CiVHnM
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昨日は、山崎町の生谷温泉において、上郡の教会の壮年会の皆さんとの交わりの場があった。40分程お話をさせて頂いて、後一時間程質疑応答の時間を持たせていただいた。その後も豊村先生との交わりがあり、帰宅したのは11時半頃だったと思う。身体は確かに疲れたが、非常に充実した一時であり、励まされた。
KBIで36年間奉仕させて頂いてきたが、新しい領域での働きをさせて頂ける喜びと共に、これからはエリクソンの"キリスト教神学 要約版"の翻訳に全力投球出来ることを感謝している。また、ラッドの終末論についても、Facebookに書き込んで下さる方もあり、励まされている。
今日のヘブル人への手紙では、人間が聖い神様に近づくためには犠牲が必要であるという事が書かれている。旧約聖書では、幕屋があった。神に近づくごとに動物の犠牲が必要であった。罪が赦されるためには、命がささげられ、血が流される必要があった。それ程に人間の罪は深刻な問題であった。
聖い神様は、また同時に愛の神様であった。それ故に、神様ご自身であり、神の御子であられるイエス キリストを地上に送られた。旧約時代、幕屋には外庭、聖所、至聖所と別れており、分厚い幕が至聖所を隔てていた。罪を犯す度にささげられてきた犠牲が、キリストのただ一度の十字架上の犠牲により、繰り返す必要が無くなった。
隔てていた幕が上から下まで真っ二つに裂けたのはそういう意味であった。もう、ユダヤ人は犠牲をささげる儀式を繰り返さなくても良い。永遠に廃止されたのである。暗闇の中ではローソクの炎は必要である。しかし、太陽が昇ればローソクの働きは終わる。
キリストの犠牲によって、我々は毎日、罪を犯す度に犠牲をささげる必要は無くなった。しかし、我々は以前キリストを知る前より、信じた今の方が罪深くなった様な気がしないだろうか?ローマ七章にあるように、それは肉の性質と内住の御霊の関係である。それは、クリスチャンとしてあなたが霊的に健全な証拠である。あなたは前よりももっと罪がわかる様になってきたからだ。
それとは異なり、ヘブル人への手紙の時代、ユダヤ人たちがイエスの犠牲を侮って、聖霊の働きを悪霊の働きだと言ったりすることがゆるされなかった。同様に、今の時代でも、キリスト教の用語を一杯使いながら繁栄の神学を述べたり、異なった内容の福音を、つまり旧約聖書の影の下に新約聖書を理解しようとする教えは赦される物ではない。ヘブル書読者がさらされていたように、「間違った教えに流されない」よう注意し合おう。日々の歩みを主と共に、福音理解のセンターラインたる「キリストの贖罪と内住の御霊の導き」に従っていきいきと歩んで行こうではないか?(仁美記)
2015年03月15日:新約聖書ヘブル人への手紙9:1-28 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/u5_a5zzjaYA
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ヘブル9章は、「初めの契約」(1節)と「新しい秩序」(10節)の関係とその内容を記している。このことは、今日の聖書解釈問題と符号する問題でもある。その聖書解釈法の問題は、わたしが「警鐘」を鳴らし続けている「ディスペンセーション主義聖書解釈法」問題、その解釈法に基盤をおく実践である「キリスト教シオニズム」問題、さらにそれらの教えと実践を深く取りこんでいる「レストレーション運動」問題の克服に適用できるメッセージを含んでいる。
この9章からのメッセージの幾つかを拾ってみる。5節の「これら(幕屋の構成と儀式)については、今いちいち述べることができません」は、旧約聖書記述の細部にこだわり、新約聖書を再解釈し、新約聖書における「使徒的聖書解釈」を歪める傾向をもつ「ディスペンセーション主義聖書解釈法」への警告として受けとめることができる。「前の幕屋が存続している限り」(8節)、「当時(今の)ための比喩です」(9節)とあるように、新約聖書を書き記すように導かれた「聖霊」は「旧約聖書の解釈法」を提示しておられ、幕屋は「罪びとが聖なる神に近づくためには何が必要か」を示す視覚教材であり、それらは「新しい秩序の立てられるまで」(10節)の一時的な役割をもつものであることを明らかにしておられる。
わたしたちが焦点を合わすべき中心的な事柄は、旧約の外形的要素ではなく、旧約の本質において明らかにされているものである。その本質はすべて「キリストとそのみわざ」に焦点が当てられている、ということを認識することが大切である。キリストは、「贖罪の日」(レビ16章)、「苦難のしもべ」(イザヤ53章)において示されている予型、また預言の成就である。キリストは「大祭司」(11節)であり、「ご自分の血」によって、「まことの聖所」に入り、「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられた方である。そして、その効果は、「傷のないご自身」、「その血」、「わたしたちの良心をきよめ」、「生ける神に仕えるものとする」(14節)。
わたしたちは、今の時代にこのメッセージをどう聞き取るのか。わたしは、このように聞き取っている。わたしが「警鐘」を鳴らし続けている「ディスペンセーション主義聖書解釈法」問題、その解釈法に基盤をおく実践である「キリスト教シオニズム」問題、さらにそれらの教えと実践を深く取りこんでいる「レストレーション運動」問題に巻き込まれないようにしなさい、というメッセージとしてである。
わたしたちは、「本物の模型」(24節)である「旧約聖書の極端な字義的解釈」によって、模型に振り回されてはいけない。翻弄されてはいけない。わたしたちは、「ただ一度」、「ご自身をいけにえ」として「罪を取り除く」ためにささげられたキリストに焦点を合わせるべきである。わたしたちは、使徒たちが指し示している福音理解のセンターラインに目を留めて、そのラインにそって疾走すべきである。「わき道」にそれて、崖から転落したり、沼地に突っ込む愚かな「聖書解釈における暴走」を慎むべきてある。わたしは、ヘブル書からそのような御声を、今日的文脈の只中で聞き取るのである。わたしたちは、昔も今もある「原野商法」のように口上手な人たちの語りに気をつける者でありたい。(安黒記)
2015年03月08日:新約聖書ヘブル人への手紙8:1-13 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/sIzdxHEsO4E
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初期のユダヤ人クリスチャン達は再び現れてきたユダヤ教民族主義に翻弄され、長年親しんできたユダヤ教の儀式に戻ろうとした。今の世界、日本においても、ディスペンセーション主義聖書解釈による、旧約聖書中心、民族的イスラエル中心のキリスト教シオニズムの考え方により、"カナンの地はイスラエルのものだ!"という考え方が流行の様に語られている。
この考え方に立つ運動の中にはレストレーション運動というものがあり、一般のキリスト教会ではグレーゾーン、レッドゾーンに分類されている(ペンテコステ派の著名な神学者、アラン・アンダーソンは名著“An
Introduction to Pentecostalism: Global Charismatic
Christianity
”の中で、レストレーション運動にみられる神学的逸脱傾向を「その熱狂はいとも簡単に福音理解のパッケージを粉砕する」と分析している。傾向に対するその評価は的を射ているように思われる)。
このヘブル人への手紙の著者は、ユダヤ人クリスチャン達に対して、危機を感じてこの手紙を送っている。イエス様は今、どこにおられるのか?天上にある幕屋の大祭司として父なる神の右の座についておられる。
つまり、旧約時代の儀式はその本質が完成されたので、いまや必要なくなった。ユダヤ教徒が行ってきたことは型であり影であった。また、モーセを通して与えられた古い契約は不十分なものであった。だから、ユダヤ人クリスチャン達に旧約時代に戻らずに、イエス・キリストの新しい契約に留まる様に勧めている。
イエス・キリストの十字架の御業によって、旧約時代の儀式は完成された。本質が完成された。だから、旧来のものは必要としない。今は、全ての儀式を完成してくださったキリストが天の右の座に着いて下さっている。聖霊が送られ贖罪の御業として、私達の内に内住の御霊となって下さっている。
この御霊は私達に神の御心を教えて下さる。この御霊がおられるので私達は御ことばを通して、神様のことが解るし、聖書を正しく理解することが出来る。それにしても、救いの喜びを味わったクリスチャン達が、どうしてこうも簡単に正しい福音から離れてしまうのだろうか?
私が思うに、使徒達の教えという物はいわば「真水」の福音と言って良いだろう。これに対して、間違いを含んだ教えは「濁った海水」に例えられる。あの有名な死海は塩分濃度が約30%だと言われている。ここまで来るとさすがにほとんどの生き物は住めず、ここまで真水とかけ離れると異端に分類される。(エホバの証人、モルモン教、統一原理etc.)
しかし、普通の海の塩分濃度は約3.5%だそうだ。元々は「真水」の使徒的福音を信じていた団体でも、色んな集会やムーブメントに接することによって、少しずつ少しずつ「塩分」が混じり込んで来る。しかも、こういう運動は表面上は全く違和感を抱かないアプローチをして来る。
そして、遂には「真水」とは全く違う「塩水」に変質してしまうのである。そこまで来ると元の真水には戻れない。飛行機を操縦していて、地図上で一度右に舵をきったと想像してみて頂きたい。その地点付近での誤差は僅かであるが、何千キロ飛んだ後は全く違う到着点となるだろう。
だから、私は声を大にして警告する。正しい福音を守り続けるべきであると。正しい教理、正しい神学を繰り返し学ぶべきであると・・・(仁美記)
2015年03月01日:新約聖書ヘブル人への手紙7:1-28 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/PuKWGIe2wkM
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ここ十年あまり、旧約聖書の光の下に新約聖書を解釈するセミナーや集会が増えてきて、イスラエルを支援しよう、イスラエルのために祈ろう!というムーブメントが広がりつつある。
聖書の御ことばの表面をとらえた「民族としてのイスラエル」を中心とした考え方はどう考えれば良いのだろう。
旧約聖書の時代、イスラエルの民はエジプトを出てシナイ半島に入った。そこで、十戒を与えられ、幕屋を建て、儀式を行った。そこでの儀式は部族を選び、祭司の仕事はレビ人が律法に従い行った。
しかし、新約聖書の時代、ヘブル人への手紙にはどう書かれているのだろう。
メルキゼデクはサレムの王で祭司であった。このことを持ち出して説明している。族長であるアブラハムでさえも、彼のために戦利品の十分の一を分けた。つまり、メルキゼデクはアブラハム以上であることを示している。また、彼ははっきりとした出生の記録もないし、どこに属していたのかも不明であるが、レビ人の祭司よりも上位の者として描かれている。
これは、どういうことなのか?メルキゼデクの名前を訳すと"義の王"また、サレムの王とはつまり、"平和の王"ということになる。彼、メルキゼデクはイエス キリストの予型なのである。
旧約聖書時代は律法や儀式が大切であった。人々は自らの罪を赦していただくために、毎回、動物の命と引き換えなければならなかった。しかし、イエス・キリストがこの地上にこられ、十字架上で全ての人類の罪を精算され、天上に戻られた後はイエス・キリストを救い主として受け入れるだけで全ての罪は許され、永遠の命が与えられるのである。
以前のレビ人の祭司による許しは不完全なものであったが、もう一ランク上のメルキゼデクの支配に変わるこのことをもって
"廃止"されたと言っている。旧約聖書の時代の言葉がいつまでも神の言葉ではなく、「外形的」には廃止されなければならない。
旧約聖書の「表面的」な言葉にとらわれて、素朴な神学に弱い牧師たちは騙されてしまうが、「土地の約束やエルサレム、神殿」の約束は廃棄されなければならない。メルキゼデクの様にその当時の支配者よりもまた、霊的指導者よりも上位のお方、イエス・キリストのたった一度の赦しのみわざによって、完全に「古いもの」の時代は終わったのである。
だから、今さらながらディスペンセーション主義聖書解釈法にとらわれている先生方、団体を見るとまるで、高速道路を「逆送」している人を見ているかの様に思えてしまう。教える力のある若手の教職者が育ち、正しいコースを正しい方向に走ることを祈っている。(仁美記)
2015年02月22日:新約聖書ヘブル人への手紙6:1-20 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/fVw-t3TSbp8
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一節の初歩の教えとは何か?きよめの洗い、手を置く儀式などユダヤ教の諸儀式のことである。ユダヤ教からクリスチャンになった人たちがまた、ユダヤ教に戻っていくという逆方向の歩みが見られた。
このことは日本人に置き換えれば仏教や神道からクリスチャンになったのに、親戚や地域とのつきあいで仏壇を拝んだり、神社に参拝したり法事で死者の霊のために拝んだりするのと似ている。そんなことをするクリスチャンは滅んでしまい、地獄に行ってしまう。
クリスチャンにとって基礎的な教えとは、イエス キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたことしかし、三日目に蘇り、天上に昇られ聖霊を送られたことである。このことによって、ユダヤ教の儀式は全て必要なくなった。キリストは神殿の幕屋にあった至聖所の幕を真っ二つに裂かれたお方なのである。
それなのに、ユダヤ教の儀式が恋しいなどと言う者は、キリストを再び十字架に付けるのと同じ愚かな行為をしている人たちなのである。
私は神学校の一年生に、いつも真っ直ぐな包丁と曲がった包丁の話をする。真っ直ぐな包丁で食材を切れば真っ直ぐに切れるが、曲がった包丁で食材を切れば真っ直ぐに切ることは出来ない。このことは、聖書を正しく学ぶためには、正しい聖書解釈の仕方を身に付けることが大切であると・・・
しかし、いくら教えても曲がった包丁を手放そうとしない学生がいる。また、団体がある。聖書解釈法というのは、どれでも良いという物ではない。間違った聖書解釈法で聖書を読むと、神論も人間論も罪論も全てが違って来る。
聖書は平和の福音をとく書物であるはずなのに、戦争や争いを引き起こす書物になってしまう。
ディスペンセーション主義聖書解釈法の恐ろしいところは間違ったイスラエル理解によって、偏ったイスラエルへの援助につながり、武器まで与える口実となることである。
そのために、私は論文を書き、翻訳に心血を注いできたが、私のこの警鐘に耳を傾けない人たちがいる。
イエス キリストは旧約聖書の全ての預言、予型を完成された。神様の約束はイエス キリストにおいて実現するのである。民族のイスラエルが必ずしも霊的イスラエルではない。イエス キリストを主と崇める者こそアブラハムの子孫なのである。
"わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。"私は神様を信じた時から、その事を信じ歩んできた。ご自分をさして誓われた神様は今までと同様に、これからも私を祝福して下さると信じている。
神様は真実な方であるから(仁美記)
2020年7月28日【メールを通しての神さまの励ましに感謝して】
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今日は、大変うれしいメールをいただいた。約40年間、神学教師として奉職してきた母校での奉仕をしりぞき、兵庫の山深い小さな町で細々と、翻訳や講義ビデオ紹介、メッセージ等の執筆活動をしている身なのではあるが、時々励ましのメールやFBの書き込み等をいただき励まされている。個人的なメールなので匿名のかたちで一部を紹介させていただきたい。というのは、このような視聴者を期待しつつ、千数百あるビデオ講義録の紹介に取り組んでいるからである。わたしの祈り、願いに対する神さまの励ましであり、答えであるように受けとめさせていただいた。そして、これを紹介するのは、このような方がひとり、またひとりと増やされていくことを願っているからである。現在、毎月千二百くらいのアクセスが記録されている。サイレントな視聴者にも感謝
!
*****
「随分以前からICIからのメール配信を頂き、最近は先生がYouTubeにアップされている動画を視聴しながら、毎日エリクソンのキリスト教教理入門を学んでおります。貴重な動画をオープンにして下さることに心から感謝しております。
― 中略 −
私は(ある神学校)の卒業生で、御言葉(聖書・言語)と向き合う事を徹底的に教えられ、それ自体は大変有益でしたが、自らの勉強不足、未熟さのゆえに「神学的構造」、「教理的枠組み」に疎く、弱さを覚えておりました。そのような時に先生のYouTubeでの講義集に出会い、「目からうろこ」の経験を致しました。それ以来、早朝のひと時「自らの研鑽」のために、先生の講義を拝聴しながら学び直しをしております。本当に感謝をしております。
市内の牧師会でも、紹介をさせて頂きました。コロナ禍にあっても、先生のお働きを通して、繰り返し、繰り返し学び直す事が出来幸いです。今後とも宜しくお願いいたします。」
新約聖書
『テトスへの手紙』 傾聴: 安黒務 説教備忘録 (礼拝説教集) Kindle版
安黒 務 (著) 形式:
Kindle版(Kindle Unlimited 会員は、このタイトルを追加料金なし(¥0)で読み放題、¥117
Kindle 価格)
*
この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『パウロからテトスたちへ』と題し、教え子や後輩たちを意識して語ったシリーズである。テキストは、紀元1世紀の半ば、ギリシャ本土から約160km南に離れた地中海東部に位置し、エーゲ海の南縁をなすクレタ島に派遣されていた次世代の指導者のひとりテトスにパウロから送られた手紙である。しかし同時に、戦後宣教師によって開拓・教会形成された多くの日本の諸教派・諸団体に語りかけてもいる。パウロが次世代の指導者たちに語りかけた「メッセージの本質」を抽出し、「今日の情況に適用」すべく傾聴した。
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【目次】
『 テトスへの手紙 』
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1:1-4「同じ信仰による、真のわが子テトスへ―幻の"涙の手紙"を託された最も信任の厚い次世代指導者」
1:5-9「健全な教えをもって励まし、反対する人たちを戒め―聖職者に求められる二つの声」
1:10-16「厳しく戒めて、その信仰を健全にし―実は、多くいます。特に、多くいます」
2:1-10「健全な教えにふさわしく―神の宝石箱の装飾としての我々の生活」
2:11-15「祝福に満ちた望み"The
Blessed Hope"ーこれらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい」
3:1-7「永遠のいのちの望みを抱く相続人―新天新地における庭の庭師の実習生」
3:8-15「このことばは真実ですーこれらのことを確信をもって語るように」
2015年02月15日:新約聖書ヘブル人への手紙5:1-14 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/dljp6Po7wwI
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AD.60年後半、ユダヤ教に戻ろうとしているクリスチャン達に対して、キリストから目を離すなと訴えている。使徒的なセンターラインから逸れて行こうとしている人たちに対して、必要な神様からの語りかけと言える。
イエス様は人類の罪のために、十字架に架かられ、死んで葬られ、しかし、よみがえりの力によって復活され天上に昇天された。キリストは神の右の座に着かれたと言うことは、神の王権を握られた。また、至聖所に入られたとも言える。
大祭司は自分を含め、人々の罪を許していただくために、捧げ物を捧げ祈りを捧げた。キリスト御自身は罪は犯されなかったが人間の弱さを知っておられるので、思いやることがお出来になるお方である。
ユダヤ教的、旧約の影から新約を読み取るブームがおこり、人々が素晴らしいと誉めそやす。しかし、そのことを頭ごなしに批判するのではなく、その人たちを思いやる必要がある。聖書解釈的弱さからの過ちなのだから・・旧約は影であって脱ぎ捨てるべき衣である。
キリストは父なる神から大祭司となる栄誉を与えられた。祭司の職はレビ人に与えられる物であったが、キリストはレビ人ではない祭司である。ダビデの様な王的なメシアであるだけでなく、レビ人のアロンの様であるだけでもなく、それはまるで王権と祭司の“祭政一致”のメルキゼデクの様であった。
キリストの三年間の公生涯は、叫び声と涙とをもって祈りと願いを捧げてこられた。ダビデの様な王を期待した人々には失望を与えたが、苦しみを通ることによって、メルキゼデクの様な大祭司となられたのである。
キリストが真理を語り、ムチ打たれ、いばらの冠をかぶされた様に、私たちも損得や御利益や自分の欲望を叶えるためでなく、神の道は狭き道、嘲りの道である。教派や教会の利益のために行動するのではなく、耳が鈍くなり間違った聖書感や聖書解釈をしていると気づいたならば、勇気を出して正すべきである。
人間の弱さを理解した上での勇気ある行動であれば、多くの人々の良心が呼び起こされ、ついには受け入れられるであろう。(仁美記)
2020年7月26日 新約聖書 テトスへの手紙3:9-15「このことばは真実ですーこれらのことを確信をもって語るように」
https://youtu.be/W9b86EgYahs
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今日は、テトスへの手紙の最後の箇所である。パウロからテトスたちに送られた手紙からはわたし自身大きな励ましを受けた。テトスは、クレタ島という広島県と同じくらいの面積の細い島にある家の教会群に残って「誤った福音理解と誤った倫理的実践」の解決に取り組むべく残された(1章)。わたしは、この手紙のメッセージの本質を「18世紀啓蒙思潮の影響で生じた19世紀リベラル神学、その反動としての20世紀前半の根本主義運動、その信頼失墜からの回復、修正の取り組みとしての20世紀後半の福音主義運動」に当てはめてきた。G.E.ラッド、宇田進、M.J.エリクソン、牧田吉和等の先生方が取り組んでこられた取り組みでもある。
わたしも、所属団体JECとその神学校KBIにおいて、“Reforming
Fundamentalism(根本主義が内包する課題の克服・修正の試み)”に取り組んできた。振り返ってみるのに、それは「クレタ島に派遣されたテトス」に似ているように教えられた。
このような試みは「全体の構図」がみえていない人たちには、単なる議論好き、また分派活動のようにも受け止められかねない危険が潜んでいる。であるから、無垢で素朴な人たちに「まず全体の構図」のついての情報を提供し、どのような課題があり、“Reforming
Fundamentalism(根本主義が内包する課題の克服・修正の試み)”が必要なのかについての理解の深まりを根気よく求めなければその働きは、ときに誤解され失敗してしまいかねない。
その意味で、講義、講演、メッセージで終わることなく、『キリスト教教理入門』や『終末論』等の翻訳、また『福音主義イスラエル論T・U』論文(またキンドル版)等を刊行できたことの意味は大きい。理解力の乏しい人たちも、誤解し反対している人たちも、ベレヤのクリスチャンのように、丁寧に「全体の構図」の理解が深まれば、誤解は解けるはずである。
根本主義的な福音理解の課題は、ラッドとエリクソンの訳書の各章に書き記されている。彼らの著作は、傷んだ建物の補修箇所の青写真であり、年老いて体調不良の原因となっている病巣箇所の治療の処方箋である。「耳のある人」「目のある人」にはそのことを理解していただけるものと期待している。
パウロは、ニコポリスで冬を過ごすと語っている。健康管理、環境の大切さを教えられる。経済的な不足がないように、必要に備えて良いわざに励むよう勧めている。私たち日本のキリスト教教職者は豊かな者は多くない。その多くは、経済的に貧しい中で伝道、教会形成、神学教育にいそしんでいる。それゆえ、健康管理は大切である。病や治療にはお金がかかる。働けなくなる「人生の冬」に備えて、蓄えも必要である。霞を食って生きていくわけにはいかない。
そのためにも、わたしたちは、健全な福音理解に根差し、バランスのとれた健全な倫理的生活を送らねばならない。極端で誤った福音理解とその実践は人生の破船を結実させる危険が高い。キリギリスのようではなく、蟻のように、コツコツと蓄え冬の備えもしておきたいものである。
そのような備えがあれば、健康で、経済の心配もなく、人生の終わりまで心置きなく主に仕え走り抜けることができる。「このことばは真実ですーこれらのことを確信をもって語るように」とのパウロの言葉に、本当に大きな励ましをいただいた。JECの後輩たちやKBIの教え子たち、またその垣根を大きく越えて福音派諸教会のすべての同労者たちに、ラッド、宇田進、エリクソン、牧田吉和、ストット等から傾聴し続けている「ことば」つまり「健全な福音理解」を召されるその日の朝まで分かち合い続けたい。
2015年02月08日:新約聖書ヘブル人への手紙4:1-16 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/sm9gn-A3hL0
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今朝は、ヘブル4章を開きたい。AD60年代後半、ヘブル人クリスチャンたちは変動する時代状況の中で揺さぶられていた。AD70年にローマ軍によってエルサレムが崩壊させられ、全世界に散らされる前夜である。勃興するユダヤ民族ナショナリズムに翻弄される姿が目に見えるようである。一部のユダヤ人クリスチャンたちは、過去の民族宗教の儀式や習慣に郷愁を感じ、それに押し流されようとしていた。ヘブル人への手紙の記者は、そのような状況に深刻な危機感を抱いて、この手紙をしたためた。
わたしは、これと類似する文脈が今日にもあるとみている。それが今日勃興している「ディスペンセーション主義聖書解釈法」と、それに根ざす「キリスト教シオニズム」の諸集会、セミナー等の洪水である。多くの教会がその流れに押し流されようとしている。わたしは、ヘブル書記者と同じ危機感を抱き、ヘブル書のみことばに重ね合わせ、メッセージしている。
「神の安息」とは、「キリストにある救い」と同義語である。神の安息を与える「キリストの福音」が説き聞かされているのに、キリストを信じないユダヤ人が多くいた。この姿を、「荒野の旅」から「約束の地カナン」への導きを拒否したイスラエルの民と重ね合わせている。「今日、御声を聞くならば」と、詩篇95篇のみことばが引用される。カデシュ・バルネアでの「約束の地、安息の地、カナン」への入国は、不信仰のゆえに失敗した。モーセの世代の者たちは、マサ(主を試みる)とメリバ(主と論争する)の事件により、「約束の地」への入国を拒否された。
「不信仰、心をかたくなにする、自分のわざ、不従順」とはいったい何を指すのか。それは、ユダヤ人の多くが、メシヤであるキリストを拒否していることを指す。そして、ヘブル書著者は、「ユダヤ教の外形的な影に郷愁を抱くクリスチャン」に警告を発している。
「説き聞かされている福音」とはいったい何をさすのか。それは、使徒的福音であり、使徒的聖書解釈である。ヘブル書全体を通して、記者は「叫び声」をあげている。ムンクの、あの名画『叫び』のようである。
わたしは、この叫びを、今日的状況の只中で耳にする。「キリスト信仰がなくても、選民視する誤ったイスラエル理解、カナン土地の占有、首都エルサレム、そして神殿」の誤ったメッセージの只中に。
「神のことば生きていて」、そう福音のみことば、使徒的福音、使徒的聖書解釈は、影と実体を判別し、予型と本体を区別する力がある。わたしたちのある者たちは、過去の宣教師の誤った教えとか、諸集会・セミナー、そしてハル・リンゼイとかティム・ラヘイのように誤った聖書解釈の影響を受けているかもしれない。それは過去の経緯からいたしかたないことである。
しかし、今、神はその誤りから解放されることを願っておられる。わたしたちの大祭司は、そのような「弱さ」、つまり誤った聖書解釈に同情できない方ではない。わたしたちは、誤った聖書解釈を悔い改め、あわれみと赦しを受けて、「正しい聖書解釈、使徒的聖書解釈、使徒的福音」に立ち返るために「折かなった助け」を受けるべきである。わたしは、そのような助けを提供する「恵みの御座」を提供する「ICIビデオ講義サイト(YouTube)」を、構築し続けたい。そのように思うのである。(務記)
2015年02月01日:新約聖書ヘブル人への手紙3:1-19 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/z_lJiARN6Ek
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この、ヘブル人への手紙はAD.60年代後半、エルサレムがローマに滅ぼされる直前に書かれた手紙であろうと言われている。パレスチナの地にはユダヤ王国再建の気運が高まり、ナショナリズムの高揚が見られる。信仰のみではなく、ユダヤ教の儀式に懐かしさを覚えている。
エルサレム崩壊の予感の中、ムードやナショナリズムに押し流されてはいけない。今、必要なのは神殿や幕屋ではなく、キリストが示された誤り無き道を歩むことである。と
今の世界はヘブル人への手紙が書かれた時代に似ている。日本でもイスラエルでも、アメリカでもナショナリズムの影響が見られる。キリスト教シオニズムの運動が盛んになって来ているのである。
一節にある様に、"聞いたことをますますしっかり心に留めて"というのは、キリストを信じる事によって天国に入れられるという、弟子たちの教えをしっかり信じていなさい。という意味である。旧約の影である幕屋や神殿、儀式を懐かしく思うのは間違っている。
モーセとキリストを対比して教えているが、モーセはシナイ山のふもとで幕屋を建てた管理人であり、神の家令、僕なのである。それに対して、キリストは家の持ち主、家の管理者なのである。だから、ユダヤ教のもろもろの事が大事なのではなく、キリストの罪の許しの御業が大切なのである。天国の希望を失ってはいけない。
エジプトを出て、荒野で40年さまよったイスラエルの民は神様をないがしろにした。だから、神様はカナンに直ぐに入らせなかったのである。と著者は叱責し、ヘブル人に助言している。
今の時代も、ほとんどのプロテスタントの教会は聖書の真実に従って教えている。キリストで100パーセント必要な物は満たされている。しかし、もっと刺激的で華やかな物は無いかという欲望がキリスト者をディスペンセーション主義、また、キリスト教シオニズムへと導く。
聖書に書かれている。だから、カナンの地はイスラエルのものだ。イスラエルの為に祈ろう!イスラエルに皆で行こう!ペンテコステ カリスマ派の教会がその波に翻弄されている。
不道徳な行いをするわけではないが、"イエス様で十分だ。"という心を失うとその行為がそのムーブメント自体が偶像になってしまう。熱心さを追求するあまり、不信仰となり結局は罪を犯してしまうのである。そうなると、大きな音にかき消されキリストの声は聞こえなくなる。
全てのキリストによって贖われたクリスチャンが、罪を罪と判らなくなったり、不信仰が不信仰と判らなくならない様、いろいろなムーブメントに惑わされてキリストの声が聞こえなくならない様、私は叫び続けなければならない。(仁美記)
2015年01月25日:新約聖書ヘブル人への手紙2:1-18 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/BuowgvuHejw
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(本メッセージは、五年前に取り組んだ『新約聖書ヘブル人への手紙』傾聴シリーズであることに留意し、賢く視聴していただきたい。神学は医学と似ている。「@診察、A病状判断、B治療の処方箋の提示」である。それを採用するかどうかは患者の判断に委ねられる。G.E.ラッドが人生を賭けて取り組んだ「処方箋」を紹介していくこと―それがICIの使命のひとつである。)
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先週も述べた様に、今年はヘブル人への手紙を導かれている。
AD.60年後半、キリスト教が次第にユダヤ教からわかれていっていた。AD.70年にはエルサレムがローマ人によって滅ぼされ、ユダヤ人は全世界に散らされていった。
ユダヤ教を卒業し、旧約聖書で語られていた神はイエス キリストのことであり、その神が地上に来られ人々を罪から救うため十字架に付けられ死なれ、三日目によみがえられたことを知ったはずなのに、ユダヤ教の伝統、儀式が懐かしくなり、元の宗教に逆戻りしようとする動きが起こって来る。
今の私たちの周りに起こっていることも同じ事である。間違った教えに対処するために、いろいろな書物を調べていく中で、私たちの団体や聖書学校に最もふさわしい本は何かと考えた時、たどり着いたのがエリクソンのキリスト教神学であり、ラッドの終末論の本であった。
その内容を事あるごとに紹介してきたが、いっこうに訂正されていく兆しがない。むしろ、さらに加速度的に逸れていこうとしている。一つの方向に行こうとする人々にブレーキを掛けるのは並大抵のことではない。
私が警告を発し始めたころ、誰もが反発を示され、私は非常に孤独な戦いを強いられた。一生懸命になっている方々の気持ちも解らない訳ではない。初代の教会も何度も古い教えに押し流されそうになってきた。その戦いの跡がヘブル人への手紙なのである。
そして、その戦いには多くの苦しみが伴うことが書かれている。死の谷間を歩む様な辛い経験をすると。しかし、その先には栄光と誉の冠が待っていること書かれている。実際、私の周りには教える力のある人たちが与えられ始め、私の後に共鳴して続こうとする人たちが起こされてきつつある。
今朝も知り合いの方からメールをいただいた。"先生のお働きに感謝します。この問題に悩んでいる人たちに素晴らしい解決を与えるでしょう。"と。私の夢を後押しして下さる先生方、また、出版社の方々に心から感謝する。キリストがご自分の命を捧げた働きには使徒が命を懸けて続いた様に、私もそうありたいと願う。
アフリカでエボラ出血熱が猛威を振るっていたが、あそこまで広がった背景に病に対する知識の無さと共に、誤った宗教儀式が絡んでいたと言われている。亡くなった人を家に連れて帰り、何日も置いておいた結果、家族親族知人全てが感染してしまった。
誤った聖書解釈も同じ事である。誤っていると気づいた者が出来るだけ早くそのことを忠告し、正しい位置へと戻すべきである。わかっていながら、もし、私が警告をしなければ、私は神様に対して顔向けが出来ない。自分の使命、生かされている目的はそこにあると思っている。
(仁美)
2015年01月18日:新約聖書 ヘブル人への手紙 1:1-14 説教: 安黒務 牧師
https://youtu.be/3PUW2bzyZ3g
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本メッセージは、五年前に取り組んだ『新約聖書ヘブル人への手紙』傾聴シリーズである。その年、わたしは人生の岐路に立たされていた。そのような時期に、傾聴するよう導かれた書簡がヘブル人への手紙であった。このシリーズを次に紹介していきたい。
わたしは、T列王 19:11
主は言われた。「外に出て、山の上で【主】の前に立て。」するとそのとき、【主】が通り過ぎた。【主】の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に【主】はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも【主】はおられなかった。19:12
地震の後に火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった」とある。わたしは、説教とは「かすかな細い声」を傾聴し、それを「教会が直面する諸問題」に具体的に適用していくことであると考えている。
ストットは「教会が直面する諸考えてい問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする」とローザンヌ誓約を解説している。
歴史を鳥瞰する視点をもつ次世代教職者を育てることを目標とする継続神学教育に専念し続けるひとりでありたいと願いが励まされ、支えられた書簡であり、解説であった。次の世代を担う若手の先生方にも、このような@聖書の事実、A聖書の解釈(メッセージの本質の傾聴)、B聖書のメッセージ本質の今日的状況への具体的適用のあり方を学び続けていただきたいと願っている。
*
新年に入ってから、今年歩むべき方向性を模索している。 昨年末の福音主義神学誌のイスラエル論、また、今年3月のラッドの終末論の翻訳本の出版。神様の御心に沿った働きには、周りが自然と動いてくれることを教えられた。
今年はKBIの授業も約半分となり、空いた時間を他のことにまわせると感謝している。 マッカーサーは"老兵は死なず、ただ、去り行くのみ"と言ったというがこれからの若い人たちに、自分が担ったところを譲っていきたい。 そして、自分は今までやってきた領域をもう少し突っ込んで講義、講演していきたい。
キリストがこの地を去っていかれた時、"私が去って行くことは益です。そうでなければ助け主は来られないからです。"と言われた。事実、キリストが天上に帰られた後は聖霊が地上に来られて、私たちと共にいて導いて下さっている。キリストの働きがイスラエルから全世界に広がったのである。
私のKBIに限定された働きが本を通して、インターネットを通してキリスト教会全域また、何時でも、何処でも誰でも学べる様に、なるのである。ステージを広げられた働き、次の働きにステップアップしていきたいと願っている。
今日の箇所、ヘブル人への手紙は今のキリスト教会の状況に似ている。AD.60年後半、信仰がマンネリ化し、古い宗教に戻ろうとする動きについて、警鐘を鳴らしている。あれこれ気を取られるヘブル人に対して、"キリストから目を離さないでいなさい。"と進言している。
ダビデの幕屋やレストレーション、エンパワードの背後に垣間見られる「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の諸々の運動が内包する諸問題に対し多くの懸念をもって見つめている。
1節から3節にある様に、キリストは預言者より優れた方である。モーセ、エリヤ、ダビデ、イザヤを通して語られた神である。2000年前に全ての罪を背負って十字架に掛かり罪を贖って下さったお方はキリスト、神の御子なのである。 8節から12節では、キリストは真理を真っ直ぐ教えられる。だから、キリストから目を離してはいけないのである。天地万物を作られたのも全ての土台を据えられたのもキリスト。 どんな運動、流行にも惑わされることなく、神の恵みに留まり続ける、最も大切なことをこんにちに向けて教えてくれるのがヘブル人への手紙なのである。(仁美記)
※ヘブル人への手紙は、AD60年代後半に執筆された手紙である。あるキリスト者は信仰の年月は経ていたが、信仰はあまり成長していなかった。ユダヤ人からの迫害もあり、最初は耐えていたが、信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいた。ある者には、ユダヤ教の祭儀が魅力あるものに映ったりした。このような状況でヘブル人への手紙は書かれた。ユダヤ教と比較して、キリスト教の方がはるかに優れたものであることは、「さらに優れた」という言葉が溢れていることから教えられる。各所で「キリスト論」「贖罪論」が取り上げられ、旧約の「影」に支配されるのではなく、「実体」であるイエス・キリスト、信仰の「創始者」であり「完成者」であるキリストから目を離さないよう励ましている。
このようなヘブル人への手紙の記者が置かれた文脈は、ここ二十年間、取り組んできた「ディスペンセーション聖書解釈」と近年その動きが急に強まってきたかに見える「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響に無防備な諸教会の状況に重なってみえる。その意味で、そのような状況に置かれている私たちは「ユダヤ教回帰」に流される群れへの警鐘としてのヘブル人への手紙は、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」に流される群れへの警鐘として静かに傾聴することには意味があるのではないかと思わせられている。しばらく、ヘブル人への手紙を開いていきたい。
20110531
k23 第37章 教会の役割と政治ー1. 教会の機能ー⑷教会の社会的責任ー補講
https://youtu.be/J9SXKEAEnuE
*
以下のものは、20060620 関西学院大学神学部「現代における福音派の神学」特別講義での、書き出しである。
*
「福音派」−より具体的な定義
1.
福音主義同盟の信仰告白(1846)(参:宇田進著『総説現代福音主義神学』p.435-)
*
1.
1846年にロンドンで結成を見た福音主義同盟の信仰規準(@聖書の神的霊感および神的権威・聖書の充分性、A聖書解釈における個人的判断の権利および義務、B三位一体の神、Cアダムの堕落の結果としての人間の全的堕落性、D神のひとり子の受肉・人類の罪のための彼の贖いのわざ・彼の仲保的とりなしと支配、E信仰のみによる罪人の義認、F罪人の回心および聖化における聖霊の働き、G霊魂の不滅・肉体の復活・信仰者の永遠の祝福と非信仰者の永遠の刑罰を伴う主イエス・キリストによる世界の審判、Hキリスト教伝道者職の神的制定・洗礼と聖餐の二礼典の義務とその永続性)
*
2.
ローザンヌ誓約(1974)(参:ジョン・R・W・ストット著『ローザンヌ誓約−翻訳と解説−』)
1.
1974年にスイスのローザンヌで開かれた世界伝道会議が公にした「ローザンヌ誓約」の中に表明されている福音的信仰と宣教観とライフ・スタイルを信奉するところの改革派から聖霊派までのキリスト者の群れ、あるいは連合体を意味している。
2.
誓約の内容は、@神の御旨、A聖書の権威と力、Bキリストの独自性と世界性、C伝道の本質、Dキリスト者の社会的責任、E教会と伝道、F伝道における協力、G諸教会の伝道協力、H伝道的責務の緊急性、I伝道と文化、J教育とリーダーシップ、K霊的闘争、L自由と迫害、M聖霊の力、Nキリストの再臨の十五項からなる長文のもの。
*
最近は、世代交代期における聖書のメッセージとして「パウロからテモテ、テトスたちへ」シリーズに取り組んでいる。このメッセージのひとつの焦点は、健全な福音理解の継承と健全な福音理解に根差した倫理的実践である。わたしにとって、M.J.エリクソン著『キリスト教教理入門』とJ.R.W.ストット著『ローザンヌ誓約ー翻訳と解説』は、この今日的適用の有力な手段となっている。
本講義は、「第37章 教会の役割と政治ー1.
教会の機能ー⑷教会の社会的責任ー補講」であり、『教育基本法』改訂の歴史的経緯を神学的に読み解く試みのひとつである。「教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする」の実践である。歴史を鳥瞰する視点をもつ次世代教職者を育てることを目標とする神学教育に専念し続けるひとりでありたい。
*
T 「キリスト教神学」の要約版
『キリスト教教理⼊⾨」』
*
U 「キリスト教神学」=『キリスト教教理⼊⾨』
1 神を研究すること
2. 神を知ること
3.
神はどのような⽅か
4. 神は何をなされるか
5. ⼈間
6. 罪.
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
V 第⼗⼀部 教会論
1 「キリスト教神学」
• 50章 教会の本質
• 51章 教会の役割
•
52章 教会の政治
• 53章 教会の⼊会の儀式︓洗礼式
• 54章 教会の継続的儀式︓聖餐式
• 55章
教会の⼀致
*
2 『キリスト教教理⼊⾨』
•
第35章 教会の本質
• 第36章 教会の役割と政治
• 第37章 教会の儀式︓洗礼と聖餐
*
W 第⼗⼀部 教会論
第36章 教会の役割と統治
⑴ 教会の機能
1. 伝道
2. 建徳
3. 礼拝
4. 社会的関⼼
*
⑵ 教会の中⼼と奉仕︓福⾳
3. 教会の統治の形式
1. 監督制
2. ⻑⽼制
3. 会衆制
4. 制度の否定
5. 今⽇のための教会統治の体系
*
X 教会の機能
1. 伝道
2. 建徳
3. 礼拝
4. 社会的関⼼
*
Y 教会の機能
⑴ 教会の機能ー1.伝道
1. 最後の時点における命令
2.
命令であり、選択肢のひとつではない
3. 彼ら⾃⾝の⼒のみの派遣ではなかった
4. ⼤宣教命令の範囲−全包括的
5. 主への忠実=宣教への忠実
*
⑵ 1.教会の機能ー2.建徳
1. 信者の建徳は論理的に優先する
2. 御霊の賜物を建徳と結び付けている
3. 異⾔は個⼈の徳を、預⾔は教会の徳を
4. 交わりを通して
5. 教えを通して
6.
相互建徳を⽬標として
*
⑶ 教会の機能ー3.礼拝
1. 焦点は主御⾃⾝に
2. 教会の種々の機能
1. 礼拝︓主御⾃⾝
2. 交わり︓兄弟姉妹
3.
伝道︓未信者
*
⑷ 教会の機能ー4.社会的関⼼
1. 信者と未信者の両⽅に愛と同情を
@ 福⾳書
A 使徒⾏伝
2. 社会的関⼼は書簡にも
・ ヤコブ書
3. 教会は必要、傷つき、悪を⾒るときはいちでも関⼼を⽰し、⾏動を起こすべき
4.
福⾳派と社会的関⼼
*
X 教会の中⼼と奉仕︓福⾳
1. すべての機能の中⼼にある要素︓福⾳
2. イエスの教えと説教を特徴づけた福⾳を委ねられた
3.
「エバンゲリオン」
4. その内容は何か︖
5. イエス・キリストとキリストのみわざ
6.
パウロ︓福⾳は最重要事項
7. 福⾳は救いへの唯⼀のルートである
8. 福⾳︓防御的側⾯と攻撃的側⾯
9.
⺠族、社会、経済、教育のすべての壁のみでなく、世紀を越えて
*
Y 教会の統治の形式
⑴ 教会の統治の形式ー1.監督制
1. ⾼度に組織化された監督制
2.
権威は監督にある
3. 監督制の本来のものは、異なったレベルの奉仕あるいは相違するレベルの叙階の思想である
*
⑵ 教会の統治の形式ー2.⻑⽼制
1.
鍵となるのは⻑⽼である。
2. 教会を治める資格のある⻑⽼を選出した
3.
この権威は⼀連の会議において⾏使される。
4. 監督性に⽐して、⻑⽼制の聖職者の階層レベルはひとつである。
*
⑶ 教会の統治の形式ー3.会衆制
1.
権威の座は地⽅教会の会衆にある︓⺠主主義
2. 牧師の招聘と予算の決定権は地⽅教会にある︓独⽴⾃治
3.
もちろん、ある種の代議制が機能している
・ 教会観のスペルトル
*
⑷ 教会の統治の形式ー4.制度の否定
・クェーカー、プリマス・ブレザレンは、統治形態を否定している
*
4.今⽇のための教会統治の体系
1.
教えの聖書箇所の⽋如
2. 教えられる原則
@ 秩序の価値
A 万⼈祭司制
B それぞれがすべてにとって⼤切
C 会衆制が、それらの原則を達成するのに最も適切と判断される。
20110531
k23 第34章 救いの始まり:客観的側面・第35章 救いの継続と完成
https://youtu.be/70jNDUjFVlQ
*
T キリスト教教理⼊⾨(第二版)
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4.
神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
U 第⼗部 救済論
30章 救いの概念
31章 救いに先⽴つもの︓予定
32章
救いの始まり︓主観的視点
33章 救いの始まり︓客観的視点
34章 救いの継続と完成
*
V 第33章 救いの始まり︓客観的視点
⑴ キリストとの結合
1. 聖書的教え
2. 不適切なモデル
3. 結合の性格
4.
キリストの結合の意味合い
*
⑵ 義認
1.
義認と法的義
2. 法的義認の教理への反対
3. 信仰とわざ
4. 罪のひきずる結果
*
⑶ ⼦とされること
1. ⼦とされることの性質
2.
⼦とされることの利益
*
W 第⼀節 キリストとの結合
・序
救いの始まり(主観的視点)ー⼈の実際的な霊的状態
救いの始まり(客観的視点)ー神との関係における個々⼈の地位・⽴場の変化
⑴ 第⼀節 キリストとの結合ー第⼀項
聖書的教え
1. 救いの全体に関する包括的⽤語ーIn Christ
2.
キリストが信仰者の内に内住されるーChrist in you
*
⑵ 第⼀節 キリストとの結合ー第⼆項 不適切なモデル
1.
その⾔語はあまり明瞭ではないー完全に⽐喩︖あるいは字義的関連があるのか︖
2. その結合は、形⽽上学なものなのか︖
3. その結合は、神秘的なものなのか︖
4. その結合は、友⼈もしくは教師と⽣徒関係︖
5.
その結合は、礼典的なものなのか︖
*
⑶ 第⼀節
キリストとの結合ー第三項 結合の特徴
1. これは偉⼤なる奥義である
2. その結合は、性質において法的である
3. その結合は、霊的なものであるー御霊は⼀体性の絆
4. その結合は、霊の⼀体化である
@ (三位⼀体のように)ひとつの本質における⼈格の結合ではない
A (⼆性⼀⼈格のように)ひとつの⼈格における⼆性の結合でもない
B ふたつの霊の結合である
5.
その結合は、⽣命的であるーぶどうの⽊と枝の関係は、⽂字通りの真理
6.
その他、多様な類⽐が存在するー⼈⼯呼吸、⼼理学、夫と妻などー多くの類⽐が「キリストとの結合」の理解を助ける
*
⑷ 第⼀節 キリストとの結合ー第四項
キリストとの結合の意味合い
1. 私たちは義とみなされている
@ 結合は法的
A 律法の前に、神の⽬において正しい⽴場
B 神ご⾃⾝の御⼦、イエス・キリストと同じ正しさ
2.
私たちはキリストの⼒において⽣きている
3. 私たちは苦しむ
・ パウロの⽬標のひとつーキリストの苦しみを分かち合う
4. 私たちはキリストと共に治める
・ 栄光ある未来が眼前にある
*
X 第⼆節 義認序
1. ⼈間には⼆重の問題
2. ⼈間の性質の基本的な腐敗という問題
3.
神の期待を満たすことに失敗ー罪責・刑罰の責任という問題
4. どのように私たちは神と正しくありうるのか︖
5.
罪⼈たる私は、きよく正しい裁きにおいて受け⼊れられるのか︖
⑴ 第⼆節 義認ー第⼀項 義認と法的義
1.
聖書的な義の概念の理解の必要性
2. 旧約ー法的・司法的脈絡において
3.
新約ー神の宣⾔的⾏為ーキリストの贖いの脈絡
4. 義認は法的・宣⾔的性質をもつ
@ 契約・律法の前の公的に⽴つ事柄
A 義とする・⾮難するー並置・宣⾔的⾏為
B Dikaiooー無罪を⽴証する
5. 義認ー被告⼈を無罪と宣⾔する裁判官のような、法的・宣⾔的⾏為
*
⑵ 第⼆節 義認ー第⼆項 法的義認の教理への異議
1. 義認の法的性質への異議
2. 義認の本質的視点
3. 価値は⼀⼈から他者に転嫁されない
4.
三⼈の当事者の存在
5. 義認ー神からの賜物
*
⑶ 第⼆節 義認ー第三項 信仰と⾏い
1. 義認に導く信仰は、新しい創造にふさわしい⾏いを⽣み出す
2.
パウロとヤコブの関係ー義認を⽣み出す信仰の純粋性はそれから発する結果によって明らかにされる
3.
よいわざが存在しなければ、本当の信仰も義認も存在しない。
*
⑷ 第⼆節 義認ー第四項 罪のひきずる結果
1. 罪がゆるされ、義とされた後も罪の結果をひきずる
2.
罪の⼀時的結果と永遠的結果の区別の必要ー罪の永遠の結果はキャンセルされた、しかしゆるさ
れたけれどもまだ重たい結果を引き受けなければならない
*
Y 第三節 ⼦とされること
1. 刑罰の責任から解放される
2. 疎外・敵意の⽴場から受け⼊れと好意の⽴場へ
*
⑴ 第三節 ⼦とされることー第⼀項 ⼦とされることの性質
1. 回⼼、再⽣、義認、キリストとの結合、⼦とされること
@ 同時的である
A 論理的に区別されるが分離できない
2. ⽴場と状態の変化
@ 宣⾔的事柄ー法的⽴場の変化
A 実際的経験ー神の愛顧、⼦性の霊
3. 神との関係の回復ーかつて持っていた、しかし失った
@ いわば神の家族の⼀員として
A 原初に意図されていたものの回復
4.
世は信者が体験している神との関係を知らない
*
⑵ 第三節 ⼦とされることー第⼆項 ⼦とされることの益
1. ⼦とされるー継続的赦しー隣⼈を赦せ
2.
和解ーもはや敵意を抱かないー隣⼈へ
3. 神の⼦としての⾃由性ー重荷・強制で従う奴隷ではない
4.
⾃由は許可証ではないー誤⽤の戒め
5. 神の⽗親的な世話の受領者
6.
神を寛⼤で放任のお⽅ではないー訓練は⼦とされたことのひとつのかたち
7. 御⽗の善良な意思をあらわす
******
第10部 救済論
第34章 救いの継続と完成
⑴ 聖化
1. 聖化の意味
2.
聖化の性格
3. 聖化︓完全か不完全か
⑵ 堅忍
1. カルビニストの⾒⽅
2. アルミニアンの⾒⽅
3. 問題の解決
⑶ 栄化
1. 「栄光」の意味
2. 信仰者の栄化
*
T 聖 化
⑴ 聖化の意味
1. 神の継続的な働き
2. 聖化ー⼆つの基本的な意味
3.
新約聖書における聖化
4. 聖化の第⼆の意味
5. 義認との対⽐
*
⑵ 聖 化ー 2.聖化の性格
1. 聖化の特徴
2. 漸進的事柄
3. キリストご⾃⾝に似た者へ
4. 聖霊の働き
5. 完全に受⾝の事柄
*
⑶
聖 化ー 3.聖化︓完全か不完全か
1. 地上の⽣涯のうちに完結されるのか
2.
⽣涯のうちには得ることのできない理想
3. ローマ七章のパウロの経験
4. 難解で重要な主題の結論への道筋
5. 「完全」の性質とは何か
6. 罪からの完全な⾃由
7. スタンスの仮定
8.
Tヨハネ3:4-6の教えの存在
9. 経験されないが、⽬標である
*
U 堅 忍
⑴ カルビニストの⾒⽅
1. 信仰者の救いー完全に保持されるのか
2.
救いは永遠であるに違いない
3. 論理的⼀貫性だけではない
4. 堅忍の教理の裏付け
5.
主の保持の直接の約束
6. 他の教理からの推論
*
⑵ 堅 忍ー 2.アルミニアンの⾒⽅
1. まったく異なったスタンス
2. 信仰にとどまれとの勧め
3.
信仰を捨てるとの記述
4. 観念的な段階のままではない
5. カルヴィン主義に実際的反対
*
⑶ 堅 忍ー 3.問題の解決
1. ふたつの対照的な⾒⽅
2. 保証についての⼒強い宣⾔
3.
ヘブル⼈への⼿紙の事例
4. 第⼆の説明は困難
5. ギリシャ語のあいまいさ
6.
ヨハネ10章とヘブル6章の相互関連
7. 警告・命令の⽬的は何か
8. 背教の実例について
9. 想像上
10. 保証の中の安全に安らぐ
*
V 栄化
序
1. 救いのプロセスの最後の段階
2.
栄化ー多次元的
*
⑴ 栄 化ー 1.「栄光」の意味
1. 「Glory」の意味
2. ギリシャ語「doxa」の意味
*
⑵ 栄 化 ー 2.信仰者の栄化
1. 信仰者も栄化される
2. 道徳的・霊的に完全に
3.
まったき知識へ
4. ⾁体の栄化
5. 信仰者の栄化と被造物世界の刷新の関係
6.
地上の⽣涯ー不完全さのゆえにうめく
*
W 補論@︓聖化論理解の⼀形態として︓ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』とその背景
1.
“Understanding Watchman Nee”…ケズィック運動の教え
2. “Four
Understanding about Sanctification”…ケズィック聖会の教えの構成
3. “Keep
in Steps with the Holy Spirit”…ケズィックの教えの位置づけ
4.
宗教改⾰→正統主義神学→正統的実践→敬虔主義運動→ケズィック運動
*
X 補論A︓聖霊の満たし論理解の⼀形態として︓ヘンドリクス・ベルコフ著『聖霊の教理』義認・ 聖化・召命
1. 義認
2. 聖化
3. 召命
*
Y 補論B︓J.D.G.ダンのローマ七章解釈『イエスと御霊』
Life-long cry (ローマ
7:24)について
*
Z 補論C︓A.A.ファンルーラーのキリスト論と聖霊論の構造的差異
A.A.ファンルーラー著作集
牧⽥吉和論⽂
2020年7月19日 新約聖書 テトスへの手紙3:1-8「永遠のいのちの望みを抱く相続人―新天新地における庭の庭師の実習生」
https://youtu.be/SBYgGE5G_t0
*
最近、一冊の本を読んだ。そのはじめに『ルネサンス庭園の精神史―権力と愛と美のメディア空間』である。そこには、「神は世のはじめに庭をお造りになった」「まさしく、庭こそは、人間に許された最も純粋な愉悦である」「神はあめつちを分け、動植物の創造を終えたのち、その仕上げとして麗しい庭園を造った」とあった。
何とも魅力的な書き出しだと思った。齢66を重ね、人生の四季は「初秋」の風が吹きわたっている。数多くの奉仕から引退し、余生の愉しみのひとつとして「庭いじり」など取り組んでいる。朝毎の庭散策は「素晴らしい!」の一言である。田畑は、土色一色の冬のカンバスを、春先に緑の絨毯に化す。そこから、カラフルな庭園の美を演出してくれる。
あるとき、ふと「人が生きるとは、庭師のような人生だ」と教えられた。我が家の田畑も、雑草で荒れ果てていた時があった。しかし、年を経て、時間を得て、庭の手入れができるようになった。庭は面白い。二ヶ月毎にいちじるしく表情を変える。トラクターですき込んで、除草剤を蒔き、種をまくと、一週間もすれば一斉に芽を吹き、一ヶ月あまりで花を咲かせ、二ヶ月もすれば一面満開となる。草花と季節のサイクルを学べば、庭は私たちに至福をもたらしてくれる。「それは非常に良かった」創世記1:31、とある通りである。
庭の美しさ、草花のこの上ない可愛らしさは、私たちに「生のインセンティブ(生きることの喜び、動機付け、刺激)」を与えてくれる。生かされていることに喜び、感謝が溢れる。「福音」とは、そのようなものである。「人が生きる」とは「神さまから賦与された存在と時間を、美しい庭造りに精を出す庭師」のように生きることである。人生という「庭」には、雅歌のような「至福の庭」もあり、ヨブ記のような「苦難の極みの庭」もある。V.5「聖霊による再生と刷新の洗い」があり、v.7「キリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人」であるとき、両者ともに「美しい庭」であり続けるのではないだろうか。
それで私たちの「今の生」は、「新天新地の生」とどのような関わりがあるのだろうか。わたしたちの今の生は、新天新地の生の「教育実習」であり、「インターン」の期間である。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」Uコリント4:17。
私たちは、「聖霊による再生と刷新の洗い、永遠のいのちの望みを抱く相続人」、すなわち「新天新地における庭の庭師の実習生」であるといえるのではないか。もしそうなら、そのスキルの習得にますます精進しようではないか。
20110428
k23 第31章 救いの諸概念・第32章 救いに先立つもの―予定
https://youtu.be/C7A5397_gyo
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
U 第⼗部 救済論
30章 救いの概念
31章 救いに先⽴つもの︓予定
32章
救いの始まり︓主観的側⾯
33章 救いの始まり︓客観的側⾯
34章 救いの継続と完成
*
V 第30章 救いの概念
⑴ 救いの概念が相違する項⽬
1. 時間の次元
2. 必要の性質と所在
3. 救いの⼿段
4.
救いの運動の⽅向
5. 救いの範囲
*
⑵ 最近の救いについての概念
1. 解放の神学
2. 実存主義神学
3. 世俗神学
4.
今⽇のカトリックの神学
5. 福⾳主義神学
*
序
1. 救い=キリストのみわざの適⽤
2.
私たちの緊急の必要
3. 救いが必要としている概念
4. 幾つかの⾒⽅の分析
*
⑴ 救いの概念が相違する項⽬
@時間の次元
1. 救いは時間に関係している
@ 端緒
A プロセス
B 未来
2. 時間的枠組みの種類の決定
*
A必要の性質と所在
1. 伝統的⾒⽅…性質において垂直的
福⾳主義の⾒⽅
2.
⽔平的⾒⽅…個⼈・社会における関係の調和・癒し
@ 関係の神学…個々⼈の不適応・⼩さなグループの問題
A 解放の神学…⺠族間の闘争・経済の格差の闘争
B 内⾯的問題…個々⼈は根絶すべき感情に責められている
罪責・劣等感・不安…適応・⾃⼰理解・⾃⼰受容・⾃⼰評価における成⻑
*
B救いの⼿段
1. 物質的プロセス
@ 礼典主義者…聖餐のパンにあずかる
A 伝統的ローマカトリック
B 陪餐者の内的態度
2. 道徳的⾏為
@ 事柄の状態を変える
A 社会的福⾳運動
B 解放の神学
3. 信仰
@ キリストにより達成されたみわざの適⽤
A 受領者は受⾝
*
C救いの運動の⽅向
1. 救いの運動の⽅向性
@ 個々⼈の救い → 社会変 ⾰
A 社会変 ⾰ → 個⼈変
⾰
2. 19世紀後半・20世紀初期の社会的福⾳運動
@ 堕落した⼈間の性質にではなく
A 悪しき社会的環境
3. 回⼼を強調するキリスト教
@ ⼈間の性質は根本的に腐敗している
A 個々⼈の変⾰こそが社会変⾰の真の希望
*
D救いの範囲
1. 社会へではなく、個々⼈への救いの適⽤を考慮する⼈々の問題
2.
だれが、どれくらいの⼈々が救われるのか︖
3. 特定救済論者
@ 個々⼈の神の恵みへの応答を基盤にしている
A ある者は救われ、他の者は失われる
4. 普遍救済論者
@ すべての⼈々が救われ
A 誰も失われる者はない
5. 楽観的な特定救済論者
@ 救いのために信仰が必要
A すべての⼈はそのようにするだろう
6. ありふれた普遍救済論者
・神はある基盤の上に簡単にすべての⼈々を受け⼊れる
*
⑵ 最近の救いについての概念
@解放の神学
1. 解放の神学
@ ⿊⼈神学
A ⼥性神学
B 第三世界神学
*
2. 社会の基本的問題
@ 抑圧・搾取
A 救い−解放
3. ⼈間の苦境についての分析
@ 社会の発展は問題を解決せず
A 神は抑圧されている⼈々の味⽅
*
4.
救いの性質について
@ 救いを死後の⽣として考えず
A 現在における神の国の達成として
*
A実存主義神学
1. 20世紀神学−実存主義的
@ ルドルフ・ブルトマン
A マルティン・ハイデッガー
*
2.
ブルトマンはハイデッガーから真正・⾮真正の概念を
@ ⾃⼰中⼼的な⽅向付け
A ⾃⾝の努⼒によって真の保証を
3. ⼈間は神と福⾳によって召され
@ 御⾔葉は、神に召して
A 御⾔葉は、真正な⾃⾝に召して
*
B世俗神学
1. ⽂化の環境の変化
2. キリスト教と世俗主義
@ 競争相⼿として
A キリスト教信仰の成熟した表現として
・
ディートリッヒ・ボンヘッファー
・ ジョン・A・T・ロビンソン
・ 神の死の神学者たち
3.
伝統的な救いの理解の拒否
@ 世界から移され、超⾃然的恵みの受容ではなく
A ⾃⼰の能⼒の実現・役⽴てる・神からの⾃⽴・世界の必要に
*
C今⽇のカトリック神学
1. 今⽇のカトリック神学についての研究
@ 公的な教理的基準はそのまま
A 第⼆バチカン公会議と個々の学者
2. 公式のカトリックの⽴場
@ カトリック教会が神の恵みの唯⼀の管
A 神の恵みの排他的販売権
*
3. 伝統的⽴場は和らげられている
メンバーシップの程度差を認める︓Y.コンガー
@ カトリック教会に組み込まれている⼈々︓カトリックのクリスチャン
A カトリック教会に結びつけられている⼈々︓カトリック外のクリスチャン
B カトリック教会に関係づけられている⼈々︓未信者「匿名のキリスト者」K.ラーナー
*
4. カール・バルトの神学についてのH.キュンクの研究
@ 救いの性質についての議論
A 義認と聖化(プロテスタント)−義化(カトリック)
B バルトとトレントの間には、軋轢はない
*
D福⾳主義神学
1. 伝統的正統主義(福⾳主義)
@ ⼈間の苦境についての正統的理解
A 神と⼈間の関係こそ第⼀のもの
2. ⼈間の罪の問題−⼆つの主要な側⾯
@ 罪は神との破綻した関係
A ⼈間の真の性質は律法からの逸脱の結果として損なわれた
3. 救いの教理
@ 神に関する⼈間の⽴場の問題
A 個⼈の法的⽴場−有罪から無罪へ
B 義認→⼦とされること
4. ⼈間の⼼の状態を変えること
再⽣→聖化→栄化→堅忍
5. 救いの⼿段
神の⾔葉→信仰→結果としての⾏為
6. 救いの範囲
普遍救済主義と特定救済主義の問題
7. 福⾳主義の⽴場の採⽤とその展開
*****************
第31章 救いに先⽴つもの︓予定
⑴ 予定についての相違する⾒⽅
1. カルヴァン主義
2. アルミニウス主義
⑵ 解決の⽰唆
3. 予定のもつ意味合い
*
序
1.
予定の教理は、最も困惑させ、最も理解しがたい教理である
2.
「予定」という⽤語において意味されているものを正確に定義すること
*
⑴ 予定についての相違する⾒⽅
@カルヴァン主義
1. カルヴァンとアルミニウスの対照的な体系化
2.
全的堕落
3. 神の主権
4. 選び
5. 無条件
6. 主権的意思の表現
7.
選びと⾃由意志は⽭盾しない
8. 遺棄の概念では多様性
*
Aアルミニウス主義
1. 多くの下位層を抱えている
2. 神はすべての⼈が救われることを望んでおられる
3. 全⼈類の救いへの願い
4. すべての⼈は信じることが可能である
5. 先⾏的恵みの付与
6.
予知の役割
7. カルヴァン主義の無条件・完全への反対
8. カルヴァン主義は宣教への情熱を否定する
9.
カルヴァン主義は⼈間の⾃由意志に⽭盾する
*
⑵ 解決の⽰唆
1. 救いに関する神の聖定
2. 聖書のデータの研究
3.
⽣まれつきの⼈間の救いの不可能性
4. 神の助けなしに福⾳に応答不可
5. 反応−神の前もっての決定
6.
予知の議論には説得⼒がない
7. 救いの普遍的提供・⼀般的招待は︖
8. そのような状況に真の⾃由はあるのか
*
⑶ 予定のもつ意味合い
1.
神が決定されたものは実現されると確信をもちうる。
2.
ある⼈々がキリストを拒絶するとき、私たちは私たち⾃⾝を責める必要はない。
3. 予定は、伝道と宣教を無効とはしない。
4. 恵みは完全に必要なものである。
20110601
k01 右傾化問題とローザンヌ誓約ー「日の丸起立斉唱条例」問題を神学的に考える
https://youtu.be/y_ylypPM1NY
*
日本福音教会(JEC)が50周年記念誌に採択しています『ローザンヌ誓約』の解説と注釈には、「教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする。」とあります。福音派全体の共通項を掘り下げつつ、宣教と教会形成の最前線において毎年のように直面するさまざまな諸課題を“場当たり”的にではなく、課題の本質を識別し、深く神学的な側面から取り扱い、JECという文脈において福音の本質をすべての状況に適用するとは、どういうことなのか」を共に学び続ける一助としていただけたら幸いです。
本講義は、以下の項目を内容としております。クリスチャンの間では政治的立場には多様な立場があろうかと思います。それは尊重しつつ、日本における「右傾化問題」を神学的に思索していく上での一助としていただければ幸いです。右傾化問題のみでなく、日本と世界で生起するさまざまな問題に「キリスト教的原理をすべての状況に適用」しうる真理と愛の識別力を身に着けていく者とされたいと思います。
*
T 「日の丸起立斉唱条例」問題を神学的に考える
一宮基督教研究所安黒務
*
U エリクソン著『キリスト教神学』における位置づけ
1. 「第十一部 教会論」の中の
2. 「第五十章
教会の役割」の中の
*
V 「第一節 教会の機能」の中の
1. 伝道
2. 建徳
3. 礼拝
4. 社会的関心
*
W 「第四項 社会的関心」
1. ただ深い掘り下げは十分でない
2. 「日の丸・君が代」問題を思索する道筋は
3 「日の丸・君が代」問題を思索する道筋を示す文献・資料
@ 「右傾化する時代における主の祈り」安黒務
A 「ローザンヌ誓約・解説と注釈」ストット
******
T 第十項 伝道と文化
1. 文化の評価
2. 文化の影響
*
U 第十三項 自由と迫害
•
迫害
*
V 「改革派信仰とは何か」牧田吉和
–
第十項 教会の自律性の保持のために徹底的に戦い抜く信仰
1. 教会と国家の区別性の問題
2.
教会の自律性の戦いと抵抗権の問題
3. 教会と国家との区別性をめぐる誤解
4.
教会の自律性と教会の国家に対する使命
*
W 氷山の一角としての
「日の丸・君が代」問題@戦前まで
1. 大和朝廷-天皇と皇室神道
2. 貴族社会
3. 武家社会
@ ザビエル等の布教
A 秀吉・家康による禁教と弾圧、キリシタンの殉教
4.
明治政府-明治憲法と教育勅語
@ 天皇制の枠組みの下での信教の自由
A 内村鑑三の不敬事件
⒌ 戦争の激化-国家神道下で
–
神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝は拒否できない
*
X 氷山の一角としての
「日の丸・君が代」問題A戦後
1. 日本国憲法と教育基本法の制定
@ 日本歴史上はじめて、真の思想・信条の自由
A その自由を環境として、真の信仰の自由な時代
2.
朝鮮戦争を転機として、右傾化がはじまる
@ 右傾化=戦前の価値観への回帰
A 靖国、元号、建国記念日、教育基本法改悪、日の丸・君が代強制、憲法改悪手続き法 案、二度にわたる憲法改悪が予想される
B 制限下の「思想・信条の自由」つまり、一定の制限下の「信教の自由」の時代の到来が予 想される
3.
「日の丸・君が代」問題
@ 単独のうるわしい事柄ではなく
A 日本史全体、また戦後の右傾化の運動の一里塚
*
Y 氷山の一角としての
「日の丸・君が代」問題B今日
1. 教育基本法→新教育基本法
@ 個人の尊厳(思想・信条の自由、信教の自由)→国を愛し、郷土を愛する(美辞麗句)
A 美辞麗句の中に隠されているもの:改悪推進勢力の目指してきたもの=『家族国家観』
B 国においては天皇、郷土においては氏神、家族においては祖先を祀る
2. 「国旗・国家」法案の強行採決
3.
教育現場での強制が始まる
@ 東京都石原知事
A 大阪府橋下知事
4. 最高裁判決
@ 多数意見…「(思想・良心の自由の)間接的制約となる面があることは否定しがたい」としな
がら、職務の公共性などから制約が許される必要性や合理性がある、と判断(名誉職的に
最高裁裁判官になった外交官等は、多数派の政治動向に迎合する傾向が見受けられる)
A 少数意見…斉唱まで命じられた一部原告については、田原睦夫裁判官(弁護士出身)が
「内心の核心部分を侵害する可能性がある」との反対意見(他の判決も、少数派のために
戦ってきた弁護士出身裁判官は、少数派の価値観を守る視点がある)
*
5. 津地鎮祭訴訟の事例
@ 多数意見…目的効果基準 :
国や自治体に許されない宗教活動を「社会的・文化的条件に照らして相当限度を超えるもの」に限定し、「どの程度のかかわり合いならば憲法上許さ
れるのか」を判断する基準。最高裁大法廷が1977年、津地鎮祭訴訟判決で示した。その目的が宗教的意義を持ち、効果が宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉などにな
るような行為が憲法で禁止される宗教的活動に当たるとした。「あいまいすぎる」との批判も多いが、憲法の「政教分離の原則」をめぐる訴訟で判断基準として定着している。
A 少数意見…要するに、そういう事柄から国家や地方公共団体は、手をひくべきものなのであ
る。たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても、かれらの宗教や良心の
自由に対する侵犯は多数決をもつてしても許されないのである。そこには、民主主義を維持
する上に不可欠というべき最終的、最少限度守られなければならない精神的自由の人権が
存在するからである(藤林益三最高裁長官:無教会派クリスチャン「私は、この裁判の判決の
少数意見を書くために裁判官に召されたのかもしれない」と述懐。)
*
Z 氷山の一角としての
「日の丸・君が代」問題CHow?
1.
日本の国体(国のアイデンティティ、日本人に求められるアイデンティティ)の中で、
2.
少数者であるクリスチャンの宗教的潔癖感はどのようにして守られていくべきなのか
3.
「日の丸・君が代」起立斉唱・敬礼は必ずしも偶像礼拝ではない
4.
しかし、象徴天皇への敬愛を美辞麗句に、日の丸・君が代とともに、天皇の写真が飾られ、その
所作(拝礼の義務化)についての条例と処罰が備わったとき、クリスチャンはどのように対応するの か
*
[ 氷山の一角としての
「日の丸・君が代」問題D将来
1.
教育現場、公務員組織の「思想・信条の自由」に一定の枠≠ェはめられていく
2.
一定の枠≠ノはまらない思想・信条の人々の排除が始まる
3.
「教師」の枠へのはめ込みは、「生徒」の枠へのはめ込み、そして「父兄」へと
4.
議員は、このような「条例」が選挙における票≠ノなると知ると、全国都道府県・市町村で
「条例化」が推進される
5. 学校現場→公務員組織→地方組織の市町村のさまざまな活動への波及が懸念される
*
\ 氷山の一角としての「日の丸・君が代」問題E具体的対応(A)
1.
「日の丸・君が代」問題は、背景に天皇*竭閧内包していることを自覚する
2.
クニ・レベルの天皇*竭閧ヘ、イエ・レベルの祖先*竭閧ニの類比で捉えうる
@ 十戒の「偶像礼拝禁止」と「父母を敬え」
A 祖先への敬愛、しかし「祖先崇拝」は厳禁
B 天皇への敬愛、しかし「天皇崇拝」は厳禁
3.
「日の丸・君が代」問題は、天皇への敬愛と崇拝の不明瞭な境界線を内包し、いつのまにかそ
の境界線を越えて誘い込まれる危険性があるので警戒心を解いてはならない
@ 起立・斉唱しなくて良い場合は、しない方が良い
A 起立せざる得ない状況の場合は、「君が代」は斉唱しない方が良い
B 起立しても、「日の丸」に敬礼・拝礼?はさけた方が良い
4.
起立して、「日の丸」敬礼・「君が代」斉唱がさけられない場合は、健全なコンテクスチュアリ
ゼーションに尽力し、「天皇崇拝」への準備(洗脳)教育の危険を回避する
@ 「日の丸」の原意・歴史・キリスト教的意味
A 「君が代」の原意・歴史・キリスト教的意味
5.
武田清子は、戦前のクリスチャンが違和感なく「天皇崇拝・神社参拝」を愛国心≠フ表 明として受け入れた大きな理由として
@ 学校教育の力…明治政府成立以降の「教育勅語」
A ジャーナリズムの力…戦争鼓舞により、大々的に販売数を伸ばす
*
] 氷山の一角としての「日の丸・君が代」問題E具体的対応(B)
1.
広いグレーゾーンがあり、大きなブラック・ホールが存在することに無警戒であってはならない
2.
私たちの唯一の土台は、私たちの主、イエス・キリストのみである
3.
このキリストに深く根ざしつつ、取り巻く文化と健全かつ深い関係を構築すべきである
4.
文化は、神の似姿につくられた人間によるものであり崇高な側面(万世一系の天皇家の歴史と
伝統)をもつ、とともにアダムにおいて堕落したものであるゆえに罪深さ(天皇崇拝)、ときには悪魔 的(国家神道期)でさえある。
5. アンビバレンス、愛憎半ばするものが、「日の丸」「君が代」「象徴天皇制」の中にはある。
6.
クリスマスが異教の太陽神を祀る行事が、キリスト教的に聖化されたものであるように、「日の丸」「君が代」も、原意・歴史を踏まえてキリスト教的意味が加えられ、聖化されていく必要があるの
ではないか。
@ 木・草・わらのクリスチャン生活: 不健全なコンテクスチュアリゼーション…「日の丸」「君が代」
「天皇制」の盲目的容認→危機の時に、天皇崇拝強制に対決不可能
A 金・銀・宝石のクリスチャン生活:
健全なコンテクスチュアリゼーション…「日の丸」「君が代」
「天皇制」の条件付き容認→危機の時、天皇崇拝強制の気配を敏感に感じ取り、そのとき にはいのちをかけて抵抗する備えをしておく
7. 伝道・教会形成を第一義的に重要視するJECであり、政治的立場は多様性を内包するJEC
であるが、「日の丸」「君が代」の起立・斉唱の次に予想される。「天皇敬愛→崇敬→崇拝」の
強制の時代には、足をかがめることのない′Qれであってほしい。
8.
「信教の自由」に制限をもたらすそのような時代の到来を一日でも遅らせるために、今日の「思想・信条の自由」において、直接的また間接的に多様な形でできる範囲で戦い続けていきたい。
20110601
k01 第2章 キリスト教のメッセージの今日化
https://youtu.be/f1JZ_qUklDM
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
U 第⼀部
神学をすること
⑴ 基督教教理⼊⾨
@ 1章 神についての研究
1. 神学の性質
2. 神学の⽅法
A 2章 キリスト教のメッセージを今⽇化すること
B 3章 ポストモダンと神学
*
V キリスト教神学
1章 神学の性質
3章 神学の⽅法
5章 キリスト教のメッセージを今⽇化すること
7章 ポストモダンと神学
*
W 第2章
キリスト教のメッセージを今⽇化すること
⑴ 神学の今⽇的脈絡
⑵ キリスト教のメッセージの今⽇化へのアプローチ
⑶ キリスト教における不変の要素
⑷ 今⽇化の性質
⑸ 教理における永遠性の基準
⑹ まとめ
*
⑴ 神学の今⽇的脈絡
1. 神学の⽅法
2.
神学の短命化
3. 偉⼤なる学派の衰微
4. 神学的巨星の消滅
5. 福⾳主義神学−衰微を避ける
6. ⽂化との関係
7. 折衷主義
8. 独⽴性を維持する
*
⑵ キリスト教のメッセージの今⽇化へのアプローチ
1. 聖書時代の世界と現在の世界の⽐較
2.
天国と地獄は上下の関係なのか︖
3. 聖書の真理を今⽇意味あるイメージで
4. 聖書の概念を聖書の⽤語において
5. メッセージの変⾰者
6. メッセージの翻訳者
*
⑶ キリスト教における不変の要素
1. 制度︓カトリックの⽴場
2. 経験︓フォスディックの⽴場
3.
⾏動・⽣き⽅︓ラウシェンバッハの⽴場
4. 教理︓メイチェンの⽴場
@教理的教えと道徳的⾏為の分離の問題
A教理的教えと経験の分離の問題
*
⑷ 今⽇化の性質
1. 不変︓教理の本質的意味−今⽇的状況に適⽤
2. 1世紀の教理の本質−21世紀への等価訳
3.
永続的本質と⼀時的形式の区別
*
⑸ 教理における永遠性の基準
普遍的要素を特定するための基準
1. ⽂化を超えた不変性
2.
普遍的背景
3. 基盤として認識された普遍的要素
4. 本質的経験との確固とした結びつき
5.
漸進的啓⽰のうちでの最終的位置
*
⑹ まとめ
1. 穀物の殻と実を⾒分ける−そのすべてから意味を
2. 系図・公衆衛⽣のルール−特別な陳述にも意味が
3.
カトリックの神学者−教理の歴史を辿る
4. 最⼩の共通分⺟ではなく、聖書の陳述そのものから
20110518
k01 第1章 神学とは何か: 1. 神学の本質、2. 神学の方法
https://youtu.be/2mk2M8B5hYk
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
U 『キリスト教神学』第⼀部 神学をすること
1章 神学の本質
3章 神学の⽅法
5章
キリスト教のメッセージを今⽇化すること
7章 ポストモダンと神学
*
⑴ 神学の本質
@ 教理の学びとしての神学
最も基本的な信仰-単純な陳述
注意深い、組織的な研究と分析
1. 聖書的
2. 組織的
3. ⼈間の⽂化の脈絡において
4.
今⽇的
5. 実際的
*
A 教理の学びの必要性
イエスへの愛だけで⼗分?
1. 信仰者と神との関係で必須のもの
2. 真理と経験の結びつき
3.
競合している世俗と宗教の思想の体系
4. 合衆国財務省の偽札のチェック⽅法
*
B 科学としての神学
1. 客観的・科学的研究の対象の⼀つ
2. 科学的知識についての伝統的な基準
3.
同じ論理のルール、伝達可能性
4. 特別な⽴場をもつ科学
*
C キリスト教教理研究の出発点
1. 知識が引き出される資料源は?
2. 憲法に⽭盾するいかなる法律も無効
3. 聖書は⼈間の⼿によって改訂されえない
4. オウム返しではなく、再表現・再適⽤
*************
⑵ 神学の⽅法
@ 聖書の材料の収集
1. 関連聖句の箇所の確認
2. 注解書の著書の⽴場
3. 聖書の著者が聴衆に語っているもの
4. 種々の聖書資料の研究
*
A 聖書の材料の整理
1.
相違した状況−ひとつの主題
2. 相違した5%を⼀致のある95%で
*
B 聖書の教えの意味の分析
1. 今⽇的な意味を読み込まない
2. この箇所の本当の意味は何か
*
C 歴史的取り扱いの吟味
1.
ひとつの教理−歴史の中での⾒⽅
2. 他の神学者がどう扱ったか
*
D 他⽂化のもつ視点の検討
1. グローバリゼーションという現象と他⽂化の視点を参照する利点
2.
⽇本のバプテスト派の牧師の意⾒
*
E 教理の本質のみきわめ
1. 聖書の教えは特別な状況下で記述
*
F 聖書以外の資料からの光
1. 第⼀義的資料だが、唯⼀の資料ではない
2. 神の像が何を意味しているのか
3. ⾮聖書的学問も神学知識に貢献
4. 時期尚早な結論をださない
*
G 教理の今⽇的表現
1. ティリッヒの「呼応の⽅法」
2. ⽣の個⼈的な次元に対する必要
3.
聖書時代から現在へのメッセージの再表現
*
H 解釈における中⼼的な主題の深化
1. 神学に特性を与えることの意味
*
I 主題における層形成
1. 主要な論争点、副次的なポイント
2. 神学的主題の相対的重要性
*
J 神学的⾔明の権威の度合い
1.
聖書の直接的な⾔明
2. 聖書からの直接の含意
3. 聖書がおそらく含意していると思われるもの
4.
聖書から帰納的に引き出される結論
5. ⼀般啓⽰から推論
6. 全くの憶測
20110427
k01 3w 神学入門
https://youtu.be/CKf99yvOPeM
*
2011年度の、一年生と三週間バイブルコースの神学生対象の「神学入門」の学びである。講義の最初に、わたしが関西学院大学経済学部在籍中に執筆した『天職意識の喪失過程ー英国の産業革命前後の経済状況の変化と牧師の説教の変化』への言及もある。このときは、マックス・ウェーバーの宗教社会学研究者として有名な東大の大塚久雄ゼミで学ばれた天川潤二郎教授の経済ゼミに序属し、“Trademan's
Calling(商人の天職)”という英語原書のコピー本を翻訳しつつ、天川教授の膨大な論文集に目配りしていた。
*
このことは、『福音主義神学』49号所収論文『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察:
伝統的福音主義の視点から』の欄外注に「わたしがこの手法を活用するのは三度目である。最初は「天職意識の喪失過程―英国産業革命前後とその後の、天職神授説から天職選択説と天職意識喪失への移行についての研究」(関西学院大学経済学部卒業論文)、第二に「福音主義イスラエル論―神学的・社会学的視点からの一考察」(『福音主義神学』45号所収論文)、そして今回である。関西学院大学時代に、天川潤次郎教授より「宗教社会学的思考」の基本と実践を教えられた。天川教授は、東京大学経済学部大塚久雄ゼミ出身でマックス・ウェーバーの流れの研究者の一人である。」と記した通りである。
*
あの頃、淡路島での夏季のゼミ合宿があり、“Trademan's Calling(商人の天職)”を読んでいて、“ But
his wife looked back behind him, and she became a pillar of
salt.”「しかし、彼の妻は振り返ったので、塩の柱になってしまった」という箇所があった。天川先生は、解説講義しつつ、「この箇所の意味が分からない」と告白された。「どなたか分かる方ありますか?」と聞かれ、「安黒さんは、どうですか?」と言われた。わたしが大学二年のクリスマスに洗礼を受けていたことがゼミに知れ渡っていたからである。
*
わたしは、すぐにそれが創世記19章26節のロトの妻の描写てあると分かったので、それを指摘し、アブラハムとロトの物語を説明した。洗礼を受けて半年あまり、すでに聖書を通読していたからである。そのときから、ゼミの皆に一目置かれることとなった。
*
天川教授は、定年退職後も関西学院大学中央図書館に通い、研究を続けておられたと聞いた。「根っからの研究者なのだ
!」と思った。わたしも「かくありたし
!」と願う。先生は後日、三田に住まわれ、最初に奥さんが、続いて先生も洗礼を受けられ、小平牧生先生の教会に所属された。小平先生からそのことをお聞きして、懐かしい思い出がよみがえった。先生はわたしの「宗教社会学思考」形成の恩人である。今も、先生の数十の論文をときどき読み返し、感謝に溢れる。
2020年7月12日 新約聖書
テトスへの手紙2:11-15「祝福に満ちた望みーこれらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい」
https://youtu.be/ki-IElnX19o
*
毎朝、広い庭を散策し、庭の草花から神学的なさとしを得ている。雨の量が生半可ではない日々か続き、花壇の土壌が緩んできている。太い茎をもって、高く伸びていたコスモスがこの雨風で多く倒れた。コスモスは見かけによらず根が浅いのだ、と教えられた。
*
信仰生活に類比すると、テトス1章2章前半までは、倫理的生活に強調点があった。しかし、その倫理的生活は、健全な教理、健全な福音理解によって支えられるのでなければ、嵐の日に弱点をさらけ出すということである。軟弱な土手、軟弱な山は崩壊しやすい。
*
パウロは、二つの「現れ(エピファニー)」を重要教理の柱として提示している。V.11「すべての人に救いをもたらす神の恵みの現れ」つまり初臨(受肉、贖罪、復活)とv.13「祝福に満ちた望み、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れ」つまり再臨(再臨、千年王国、新天新地)である。パウロはこの二つを述べただけではない。受肉と再臨を軸とする「福音理解」の全体を指している。パウロはこまごまと一から十まで説明しない。その語り方は「一を聞いて十を知れ」という感じがする。
*
v.15「あなたはこれらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい」という。今日は、「ドングリの背比べ」のような時代である。健全な教えも、逸脱傾向のある教えも平等に扱われる時代である。そこに落とし穴がある。使徒的な「福音理解」が何であるのかの識別力が弱体化している時代である。福音主義神学では、空中・地上一体の単一の再臨が使徒たちの教えであると立証されているのにも関わらず、それから逸脱した教えや運動が跋扈している。彼らは再臨に関する言葉「パルーシア、アポカリュプス、エピファニー」が同じ意味で使用されていることが分からない。
*
ICIの働きとして、健全な聖書神学、健全な聖書解釈、健全な福音理解の基盤を提示している、G.E.ラッド著作集の翻訳・刊行がある。しかし、そのすべてを翻訳刊行するというのは非現実的であろう。では、どうするのか。洋書の下訳シリーズを作成し、それらをテキストとした「ビデオ講義録シリーズ」作成というかたちで「それらの内容」を日本語で次世代の神学生、教職者、信徒リーダー層に届けることはできるだろう。
*
今の時代は混迷の深い時代である。そのような運動や教えの悪影響を懸念し、感染防止のワクチンを開発し、必死に取り組む医師や看護師のような働きをすると、「そのような運動や教えに対する誹謗中傷はやめなさい」と警告されたりする。まさに、「木が沈み、石が浮く」世界かのようである。
*
パウロは1世紀という時代に、クレテ島の問題に対処する上で、倫理的強調の基盤に、その土台に、「健全な福音理解」の全体を大切にするように呼びかけている。センターラインから外れ紆余曲折する教えや運動に、暴風雨に翻弄される波間の泡沫のようにならないよう、毅然とした態度でv.15「だれにも軽んじられない」よう、つまり屈することなく使徒的福音理解を死守するように求めている。
20110518
k02 eth 関西聖書学院(KBI)の福音理解の特徴ーそのルーツとアイデンティティから
https://youtu.be/zprWIonhCpk
*
本講義は、共立基督教研究所での三年間の内地留学を終え、KBIの講壇に復帰した最初の時期に年間を通して担当した『福音主義神学(歴史神学)』の講義のエッセンスを、分かち合ったものである。その内容は、宇田進著『福音主義神学と福音派』やそのエッセンスを所属団体「日本福音教会(JEC)」や「関西聖書学院(KBI)」の歴史的ルーツと神学的アイデンティティを探求した『キリスト教会の源流と歴史的遺産−シカゴ・コールへのひとつのレスポンス−
What JEC ? シリーズ Kindle版』にある。以下は、その内容紹介である。
*
●内容紹介
私は「福音(エバンジェリカル)」という意味には「イエス・キリストの死・葬り・復活の福音を単純に信じる」という素朴な意味と、「福音主義神学に立つ」という神学的な意味があると思います。私はKBI(関西聖書学院)で「福音主義神学」という科目を担当してきました。それは「福音主義キリスト教と福音派」(宇田進著)を基本テキストとして「神学生一人一人の所属教派の信仰の源流と歴史的遺産を探求する」ことを課題にしています。そこで教えられてきたことは、キリスト教会とは二千年の教会史において幾重もの発展や発達過程を経て生成を見るに至った生きた実体であるということです。それでは、二千年の教会史における「キリスト教会の源流と歴史的遺産」を以下の三つの要素に注目しつつ見てまいりましょう。まず第一に、最も根本的な要素として神学的・教理的要素があります。つまり、何を信じているのかの問題です。キリスト教会は「聖書信仰」に立っていると主張されますように、穏健で中庸な、バランスのとれた一定の神学的立場に立っています。第二に、歴史的要素があります。キリスト教会の背後には、多くの特定の歴史的運動が存在しています。よく「現在の根は過去に深く根ざしている」とか、「教会の歴史は現在を解明する」といわれるところです。第三に、社会的、文化的要素があります。キリスト教会という現象は歴史における一つの社会的・文化的現象という一面を持っています。区別できる独自の行動様式を分析することによって、キリスト教会の立体的な把握を得ることができます。
*
●目次
まえがき
■シカゴ・コール前文
@ 三つの要素とJEC
■JEC理解の鍵
■JECの全体像
■エバンジェリカルの意味
■三つの重要な要素
A 使徒的キリスト教とJEC
■使徒時代から古代教会へ
■
使信(メッセージ)そのもの
■ 主イエスこそ福音そのもの
■ 福音の五つの基本的要素
■
割引も水増しもせず
B 古代教会の正統信仰とJEC
■使徒時代から古代教会へ
■信仰心か、信仰の対象か
■神秘主義的信仰ではなく、信仰告白的信仰
■教会内に組織神学的活動始まる
■公同信条の内容
■あらゆるところで、常に、すべてによって
C 宗教改革の三大原理とJEC
■古代教会から宗教改革へ
■聖書のみ
■信仰義認
■聖徒の交わりとしての教会
■宗教改革の子孫としてのJEC
D 宗教改革における四つの流れとJEC
■宗教改革から近世へ
■宗教改革における四つの流れ
■会衆派ピューリタン:会衆派としてのJECのルーツ
■バプテスト教会の礎:バプテストとしてのJECのルーツ
■スウェーデン・バプテスト教会の始まり
■スウェーデン・バプテスト教会の幅広い体質はJECの中にも
E 16,17世紀の信条とJEC
■16,17世紀における信条の出現とJEC
■プロテスタント教会の信条:プロテスタントとしてのJECの自覚
■信条の意味・意義:プロテスタントとしてのJECの信仰の根源
■バプテスト派の特質を宿す群れとしてのJEC
F 17世紀の正統主義神学とJEC
■17世紀の正統主義神学とJEC
■宗教改革の果実の組織化・体系化
■JECの神学体系の基本的根幹のルーツはここに
■17世紀正統主義神学とJEC神学との連続性
■ホッジなかりせば、全く異なった形をとったかも‥
■JECの、そして福音派全体にとって基準的な組織神学書
■JECの必読書、最良の組織神学書、通読を推奨される書籍
G 敬虔主義の遺産とJEC
■敬虔主義の遺産とJEC
■敬虔主義運動の特色的な遺産
■ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」
■
ウォッチマン・ニーとその著作の評価
■ 「敬虔主義運動の遺産」を継承・深化・発展させる群れとしてのJEC
H 自由教会とJEC
■自由教会型キリスト教とJEC
■自由教会(フリーチャーチ)型キリスト教とは
■自由教会型キリスト教の特徴と課題
■ 自由教会型キリスト教のもつ課題とその克服
■
「自由教会型キリスト教としてのJEC」のもつ課題の整理
■ 「自由教会型キリスト教としてのJEC」の課題克服の手かがり
I 近代のリベラリズムとJEC
■近代のリベラリズムとJEC
■ 18世紀の啓蒙思潮とは
■
啓蒙思潮を背景にした19世紀の自由主義(リベラリズム)(27) とは
■20世紀におけるプリンストン神学校のリベラル化事件
■ 福音主義同盟の結成の歴史的背景
■
JECと福音同盟加盟問題の経緯
■ 「福音派」についての誤解と真の定義
■
歴史的必然としてのローザンヌ誓約への応答
J ミラード・J・エリクソン博士とJEC
■エリクソン博士とJEC
■ エバンジェリカルとしてのJECの神学の特色
■
JECの特質、それを組織神学のかたちで表現したとしたら
■JEC拡大教職者会:それは、JECの空気≠ノかたちを与える時
■関西講演会(一般公開):あなたも神の創られる歴史の目撃者の一人に!
K 結び
■JECの神学的特徴:歴史神学の視野から、そして組織神学の視野から
■JECとエリクソンの神学:良き伝統を継承・深化・発展させる軌道の敷設
■“継続神学教育機関”としての一宮基督教研究所の新たな挑戦は続く
★ 補記
付録 @:日本福音教会(JEC)の神学的輪郭とその座標軸を模索する
■ 序
■ 1.
過去:JECのルーツについて
■ 2.現在:JECのアイデンティティについて
■ 3.未来:JEC神学の継承・深化・発展への輪郭
■ 結び
付録 A
関西聖書学院(KBI)の神学の特徴−神学教師の視点から
■ 序
■ 1. 過去:
KBIの神学的ルーツにおける十一の特徴
■ 2. 現在:KBIの神学的アイデンティティの三つの特徴
■ 3.
未来:KBIの神学的特徴の継承・深化・発展への四つの原則
■ 結び
■参考文献
■著者プロフィール
20110413
k23 J.D.G.ダン著『イエスと御霊』に関する一考察_@
https://youtu.be/yiNxwD8kuL4
*
20110413 k23
J.D.G.ダン著『イエスと御霊』に関する一考察_A
https://youtu.be/8z3tvF-W3hc
*
20110413 k23
J.D.G.ダン著『イエスと御霊』に関する一考察_B
https://youtu.be/TwlImlz2A7Y
*
本講義「J.D.G.ダン著『イエスと御霊』に関する一考察」@ABは、日本福音主義神学会西部部会春季神学研究会議研究発表(要約版)の準備を兼ねて、関西聖書学院(KBI)で取り組んだ一連の講義である。
2020年7月5日
新約聖書 テトスへの手紙2:1-10「健全な教えにふさわしく―神の宝石箱の装飾としての我々の生活」
https://youtu.be/UvajV374dm8
*
ウィリアムズ
C.スポーン著『聖書とキリスト教倫理』はなかなか興味深い書物である。そのまえがきには、「聖書の用い方を考察するうえで中心となっている解釈学の問題に焦点を合わせ、さらに本書全体を形づくる分析の枠組みを提示している。どの素材を聖書から選び取るか、なぜその素材はそのように解釈されるのか、そして今日の状況にどのように適用できるのかが問われることになる」と記されている。
*
「パウロからテトスたちへ」と世代継承へのメッセージに傾聴しているのであるが、その内容の一般性に驚かされる。我々は、霊感された聖書を、それを道徳的備忘録として用い、歴史的・空間的に二千年また四千年離れた状況の中で語られた文書に傾聴している。我々は、@“What”―それらの中から記された道徳の規範のどの箇所を選び取るのか、A“Why”―その箇所をどのように解釈し、メッセージの本質的意味を解析し、B“How”―それを今日の状況の中にどのように適用するのか、それが問われているというのである。
*
1章では、偽教師とクレタ島の信仰者の問題に取り組んだ。2:1になると、「しかし」とパウロは情景を反転させる。「闇の中に光あれ」という感じである。「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい」と。
*
パウロはテトスに「健全な福音理解」にふさわしく、すなわちローマ書の福音理解に照らし合わせれば「罪と死と滅びの中にあった者がキリストの贖いの無限の犠牲的価値によって贖われた」(ローマ1-5章)こと、そして「罪と肉の性質の只中に内住の御霊を宿し、神律的共同性にあって倫理的生活を形成」(ローマ6-16章)しつつ生きるよう運命づけられていることを思い起こさせる。その贖いと内住の御霊は、我々の倫理的生活にとってかけがいのない「インセンティブ(動機付け)」の部分を構成している。福音理解と倫理的生活とは表裏一体、コインの両面である。いわば「健康」は心身の両面からなり、心は福音理解を、身体的表象は倫理的生活に類比される。「サウンド・ドクトリン(健全な教理)」は「サウンド・ボディ(健全な身体)」を通して表現されるのである。
*
その具体的展開が、v.2
「年配の男の人」v.3「年配の女の人」 v.4「若い女の人」 v.6「若い人」
v.9「奴隷」と当時の社会の各階層に勧めとして語られる。クリスチャン生活の「良いわざ」は単なる倫理や義務ではない。「キリストの贖い」に根差す倫理である。表と裏のある偽教師のようでなく、またクレタの文明の風俗習慣の汚染からも聖められた、尊厳、成熟、貞潔、礼儀等のある倫理的生活。それは、v.5「神のことばが悪くいわれることがないように」、v.8「非難される余地がない」証しの生活の勧めである。
*
美しい輝きをもつ福音の「覆い、また影」となるような不道徳な世的な生活を送るべきではない。V.1「しかし、あなたは」と、神の宝石箱に溢れる小さな宝石の数々のように、「福音理解の素晴らしい輝きにふさわしい装飾」となる生活を送りなさいと勧めている。そのため我々はいつもその「インセンティブ(動機付け)」が置かれている場所、すなわち
"贖罪と内住の御霊" に心の目を据えることが大切である。それが「健全な福音理解にふさわしい」生活を送る秘訣である。
異端・カルト110番…インターネットの世界で、「問題のある情報やサイトを識別する助け」となる優れた情報サイト、一宮基督教研究所の安黒務も、アドバイザーのひとりとして参与させていただいています。「紛らわしい運動や教え」から守られるとともに、その中に迷い出ている羊を救出する助けとなる優れた情報サイトとして推奨させていただきます。フェイスブック等では、中国系の新しい異端「全能神」が盛んに活動しています。韓国系の新しい異端とともに、これらについての最新情報をも入手できます。教職者、信徒リーダーには必見のサイトのひとつです。ICIが紹介し続けているラッドの聖書神学、宇田進の福音主義神学、エリクソンの組織神学等を福音派の「福音理解」のセンターラインと位置付けると、課題を内包するが克服不可能ではないグレイゾーンの教えや運動がその周辺にあります。そして、さらに外側には「もはやキリスト教信仰とは分類できない」限界線を逸脱したレッドゾーンの運動や教えがあります。レッドゾーンの教えや運動は「異端、またカルト」に分類されます。
20110421
J.D.G.ダン著『イエスと御霊』に関する一考察: 日本福音主義神学会西部部会春季神学研究会議研究発表(要約版)
https://youtu.be/t8Zx-LQME08
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ICIビデオ講義録集の2010年度版の紹介が終わったので、2011年度版の紹介に移りたい。本講演は、日本福音主義神学会西部部会春季神学研究会議研究発表(要約版)であり共立基督教研究所に内地留学(1989-1991年度)した際に書き上げた論文の紹介である。同時期の関西聖書学院の講義ビデオ(詳細版)@ABもあるのでそれも漸次紹介していきたい。著作は、アマゾン書店キンドル本で刊行されているので、関心のある方は読んでいただきたい。
ICI(一宮基督教研究所)安黒の使命は、福音派における「福音理解」において議論のある課題に果敢に取り組み、その軋轢の解決に向けての処方箋を示すところにある。本講演は以下の課題に焦点を当て、J.D.G.ダンの名著『イエスと御霊』に関する著作を基盤とし、議論の軋轢の超教派的な克服へのひとつの道筋「アバ意識の中心性とその派生」理解を提案している。エリクソン著『キリスト教教理入門』では、「第29章
聖霊の働き―4.
今日の奇蹟的賜物」(p.299-305)で取り扱っている課題である。このテーマに関心のある方に参考にしていただきたい。
*
『James.D.G.Dunn の ”Jesus and The Spirit”
に関する一考察』(Amazon, Kindle)119円
*
私がこの論文をしたためたのは、私が深く共感するJ.D.G.ダンの「イエスと御霊」に示されている福音主義神学とカリスマ的経験の調和ある理解について、より包括的な神学の視野から確信したいと願ったからである。以下に、この論文の概要を紹介しておきたい。
はじめに私たちは、第1章において「福音派の聖霊論の課題におけるダンの『イエスと御霊』」を位置付けた。福音派の聖霊論の課題とは、「教派性の止揚による公同性」の課題であり、「建設的な対話と共通概念の形成」の課題である。そして、私たちは、その共通概念のひとつの典型をJ.D.G.ダンの「イエスと御霊」にみようとした。
次に私たちは、第2章において「ダンの研究方法」を、ルネ・パディリアの解釈学的螺旋の視点から考察した。それは今日の世界宣教運動におけるペンテコステ・カリスマ・第三の波の現象という「歴史的状況」と欧米の科学的世界観の盲点を照らし出す「宗教史アプローチのより広い現象学」の指摘であった。
さらに私たちは、第3章において「ダンの結論」を、レヴィ=ストロースの構造主義人類学人類学の洞察の一側面を類比的に援用して考察した。それはダンの研究が単に、新約聖書における宗教的・カリスマ的経験の解釈に終るものではなく、イエスの宗教的経験と初代のクリスチャンの宗教的経験の間にアーチをかけ、「関係の構造」を探求するものであり、それは構造主義人類学の洞察である「ラング」と「パロール」の関係によって、より鮮明なかたちで描きだされることを指摘した。
最後に私たちは、第4章において「ダンの異言理解」を、解釈学的螺旋の視点と構造主義人類学の洞察から考察した。そこで私たちは、ダンの解釈学的螺旋の視点がミドル・ゾーンというブラインド・スポットを照らし出している解釈をみた。また、ダンの構造主義人類学の洞察が「アバ意識」の派生としての異言理解と「弱さの中の力、死からいのち」の終末的経験としての異言理解を示唆していることを指摘した。
ダンの研究は、クリスチャンの個人レベルの宗教的・カリスマ的経験に言及しているだけではなく、共同体レベルの宗教的・カリスマ的経験に言及している。ダンは、この宗教的経験の新約聖書における「四つの相違する宗教的経験へのパラダイムをもつ共同体」について述べ、キリスト教会が、クロノロジカルな理解−ルカの「カリスマ的、恍惚的経験のバイタリティ」をもつ共同体から、パウロの「カリスマ的共同体のビジョン」をもつ共同体へ、そして牧会書簡の「伝統が御霊の囚人服となっている」共同体へ、さらにヨハネの「組織化と儀式化の増大を懸念する」共同体へ漸次移行していくもの、それらの過渡的一段階としての理解、というかたちで受けとめられることをよしとせず、宗教史アプローチのより広い現象学の視点と構造主義人類学の洞察の視野からみた「霊感された発語−賛美、祈り、異言」の経験を含む「パウロのカリスマ的共同体のビジョン」を"一つのラング"として認識し、二十世紀のキリスト教会がその"一つのパロール"となることを強く期待し、チャレンジしている。
私たちは「福音派の聖霊論の課題」という脈絡の中で、J.D.G.ダンの「イエスと御霊」の研究方法、結論、異言理解をみてきた。ダンは「キリストの出来事(過去の決定的な啓示)」とのダイナミックな相互作用における「現在の新鮮な宗教的経験」が、新約神学の生ける母胎であったのである、と結論づけているが、単に学者としてひとつの研究成果を提示しているだけではない。ダンは、第2章「研究方法の考察」の「研究の目標」において、その(研究の結果から)聞えてくる結論が、現代の主張や運動の評価の基礎を、個々人と共同体的表現において、キリスト教の本質と形式についてさらなる思索の刺激を提供しうるものとなることを期待している。
私は、キリスト教の世界宣教において、ペンテコステ運動、カリスマ運動、そして第三の波運動が展開していっている時代状況の中で、現代の主張や運動の評価の基礎を、個々人と共同体的表現において、キリスト教の本質と形式についてさらなる思索の刺激するもの、つまり、今日の「福音派の聖霊論への一指針」としてダンの研究をとりあげることは肝要なことであると思うのである。
*
【目次を見る】
*
■ 推薦のことば
■ 謝 辞
*
T.序論
■ 私の霊的系譜と論文の動機
■ 共立基督教研究所への導き
■ 論文の目的、範囲・研究方法、そして手順
■ 注
*
U.本論
第一章 福音派の聖霊論の課題におけるダンの「イエスと御霊」
■ 序
第1節 福音派における聖霊論の動向−教派性と公同性の課題
(a) 聖霊の働きをめぐる微妙な論争
(b) 聖霊の働きの健全な理解という課題
(c) モザイクとしての福音派
(d) 教派の”賜物のミックス(7)”の尊重
第2節 福音派の聖霊論をめぐる建設的対話と共通概念の形成
(a) 三種類の本
(b) 共通概念の形成
(c) よそ者扱いの理由
(d) J.D.G.ダンの「イエスと御霊」
第3節 J.D.G.ダンの「イエスと御霊」の背景と強調点
(a) ダンの著作の背景
(b) ペンテコステ派の強調の重要性
第4節 ダンの「イエスと御霊」の構成と考察の範囲
(a) ダンのカリスマ的経験理解のフレーム・ワーク
(b) 書評と考察の範囲
*
第2章 ダンの「イエスと御霊」
の研究方法についての考察
A.序
第1節 研究材料−研究の出発点、範囲、焦点
(a)研究の出発点
(b)研究の範囲
(c)研究の焦点
第2節 研究方法−研究の困難性と可能性、三つの注意事項
(a)研究の困難性と可能性
(b)研究における三つの注意事項
第3節 研究目標−文献の問題、規範の探求、結果
(a)時代遅れの文献の問題
(b)経験的規範の探求
(c)研究のもたらすものについての希望
第4節 ルネ・パディリアの解釈学的螺旋の視点からの考察
(a)
解釈者の歴史的状況−ペンテコステ運動等を認知するダンの歴史的状況」
(b)解釈者の世界観−宗教史アプローチのより大きな現象学を活用するダンの「世界観」
(c)聖書−新約聖書に反映されている宗教的・カリスマ的経験
(d)神学−今日の運動のための評価の基礎
*
第3章 ダンの「イエスと御霊」 の結論についての考察
A.序
第1節 イエスと初代のクリスチャンの宗教的経験
(a)イエスの宗教的経験
(b)初代のクリスチャンの宗教的経験
第2節 クリスチャンの宗教的経験の本質と性格
(a)クリスチャンの宗教的経験の明瞭な本質
(b)クリスチャンの経験の明瞭な性格
第3節 宗教的経験の共同体的側面−四つのモデルとパウロ注解
(a)四つの相違するモデル
(b)パウロの注解の魅力と今日へのチャレンジ
第4節キリスト教神学と宗教的経験の関係
(a)神学と経験の関係
(b)キリストの出来事と宗教的経験の関係と新約神学
第5節 レヴィ=ストロースの構造主義人類学の洞察からの考察
(a)歴史主義人類学の洞察から−歴史的なものと永遠なものの分離
(b)機能主義人類学の洞察から−隔たりの強調と記述的研究の課題
(c)構造主義人類学の洞察から−意識されない構造の究明
*
第4章 ダンの「イエスと御霊」 の異言理解についての考察
A.序
第1節 霊感された賛美の釈義−カリスマ的賛美、御霊の衝動、賛美の例文
(a)カリスマ的賛美
(b)御霊の衝動からの湧出
(c)異言による賛美の例文
第2節 霊感された祈りの釈義−御霊による祈り、「アバ」の祈り、うめきの発露
(a)湧出としての御霊による祈り
(b)うめきの発露としての祈り
第3節 異言−コリントの異言、評価された形式、評価の理由、普遍性
(a)コリントにおける異言
(b)パウロの評価した異言の形式
(c)パウロの異言評価の理由−カリスマ、祈り
(d)普遍的経験としての異言
第4節 総括的考察−ダンの異言理解の解釈学的螺旋の視点と構造主義人類学の洞察
(a)ダンの解釈にみる解釈学的螺旋の視点 −ア)霊感された祈り、イ)賛美、ウ)異言
(b)ダンの解釈にみる構造主義人類学の洞察− ア) 子性 " Sonship "と イ) 無比なる出来事の刻印
*
V.結論
福音派の聖霊論への一指針として のダンの「イエスと御霊」
第1節 要約
第2節 カリスマ的共同体のビジョンと二十世紀の教会
第3節 世界宣教への台頭に伴う健全な評価と位置付け
第4節 福音派聖霊論への一指針としてのダンの「イエスと御霊」
■ 注
*
付記 T
■ 序
第1節 世界の福音派の会議の動向
第2節 米国福音派神学校の動向
(a)米国福音派系神学校における8つの傾向
(b)米国福音派系神学校における10の話題
(c)フラー神学校等で取り上げられた8つの課題
第3節 日本の福音派の神学研究会の動向
(a) 日本福音主義神学会東部部会春期研究会「福音主義とカリスマ運動」(1990.5.7)
(b) 日本福音主義神学会東部部会秋期研究会(1990.11.26)
*
付記 U
■ 序
第1節 ダンの学問研究のスタイル
第2節 解釈学の新しい道におけるダン
■ 著者プロフィール
20101027c k23
キリストのみわざ論: 3. 贖罪の中心的主題
https://youtu.be/9V0tHM4lDRA
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
•
U 第⼋部 キリストのみわざ論
•
26章 キリストのみわざ論への導⼊
• 27章 贖罪の中⼼的主題
*
V
第27章 贖罪の中⼼的主題
1. 背景としての諸要素
2. 新約聖書の教え
3. 贖いの基本的意味
4. 刑罰代償説への異論
5. 代償的贖いの意味合い
*
⑴ 背景としての諸要素
1. 神の本性
2. 律法の位置
3. ⼈間の状態
4. キリスト
5. 旧約聖書の犠牲の制度
*
⑵ 新約聖書の教え
1. 福⾳書
2. パウロ書簡
*
⑶ 贖いの基本的意味
1. 犠牲
2.
なだめ
3. ⾝代わり
4. 和解
*
⑷ 刑罰代償説への異論
1. 贖いの必要の概念への異論
2. ⾝代わりの概念への異論
3. なだめの概念への異論
4.
キリストの義の転嫁の概念への異論
*
⑸ 代償的贖罪の意味合い
代償的贖いの理論−複雑さをもつが、豊かで意味深い真理
1. 全的堕落の⼈間観−尊い御⼦の死
2.
神の性質−義(罪の犠牲)と愛(ご⾃⾝犠牲)
3. 無限の価値−あらゆる時代のすべての⼈の罪をおおう
4.
キリストの死(完全・無限)−救いの基盤は不変
5. ⾃由の恵み、しかし⾼価な恵み−私たち習うべき
*
⑹ 詩
彼は、彼が負うべきではなかった負債を負ってくださった。
私は、私が払い得ない負債を負っていた。
私は、私の罪をだれかに洗い流してもらうことを必要としてい た。
そして、今私はまったく新しい歌を、ひねもす驚くべき恵みを賛美している。
それは、私が決して払うことができなかった負債をイエスが払ってくださったからである。
20101027a k23
キリストのわざへの導入:
1. キリストのわざの諸段階
https://youtu.be/2HPpzREm-I0
*
2. 贖罪に関する多様な説
https://youtu.be/IYaaG2-GyDU
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
•
U 第⼋部 キリストのみわざ論
•
26章 キリストのみわざ論への導⼊
• 27章 贖罪の中⼼的主題
*
V 第26章 キリストのみわざ論への導⼊
1. キリストのみわざの諸段階
2. キリストの役割
3.
贖罪についての主要な諸理論
*
⑴ キリストのみわざの諸段階
@. 謙卑
1. 受⾁
2. 死
A ⾼挙
1. 復活
2. 昇天と御⽗の右への着座
3. 再臨
*
⑵ キリストのみわざの諸段階
序
1. キリストの⼈格は、キリストのみわざの基盤
2. キリストの⼈格理解なしに、キリストのみわざは理解できない
*
⑶ キリストのみわざの諸段階
@ 謙卑−
1.受⾁―イエスの受⾁の事実、イエスがあきらめたもの、律法の下に⽣まれた、神の属性についてはどうか︖
2.死―イエスの究極の下⽅へのステップ、イエスへの辱め、ハデス降下について
※
使徒信条―シェオル=「死の状態」を意味、最も困難な個所−Tペテロ3:18-19、4:6、 死後宣教の暗⽰ではない
*
A ⾼挙−
1.復活―⾼挙の第⼀歩、復活の⼆つの証拠、復活のからだの性質、復活後のからだと昇天後のからだ
2.⾼挙−昇天と御⽗の右の座、地上の状態を離れ、御⽗とともにある場所の回復、単なる地理的な事柄ではない、地上における痛みはもはやない、地上を離れる⼆つの理由、右の座は栄誉と⼒の場所
3.再臨―再臨のとき、勝利は完全なものに
*
⑷ キリストの役割
1.
キリストの啓⽰的役割
2. キリストの⽀配
3. キリストの和解の働き︓とりなしと贖い
*
@ キリストの啓⽰的役割
1. 預⾔者としてのキリスト
2.
キリストと預⾔者たちとの相違
3. 奉仕の内容においての類似
4. キリストの啓⽰的働きの範囲
5.
究極的な啓⽰は未来にある
*
A キリストの⽀配
1.
王としてのキリスト
2. 今⽇におけるキリストの⽀配
3. キリストの⽀配は未来において完全に
*
B キリストの和解の働き︓とりなしと贖い
1.
和解者としてのキリストの働き
2. 御座にあるキリストがなさること
3. とりなしの焦点は何か
*
⑸ 贖罪についての主要な諸理論
1. 贖いはキリスト教信仰の重⼤な点である
2. 神論・キリスト論は贖いの理解に影響する
*
@ ソッツィーニ説︓模範としての贖い
1. ⾝代わりの満⾜を拒否
2. 贖いは、単なる暗喩なのか︖ 3.
*
A 道徳感化説︓神の愛の証明としての贖い
1.
神の本質は愛であり、正義・聖・義を矮⼩化。
2. 困難さは神のうちにはなく、私たちのうちにある。
*
B 統治説︓神の義の証明としての贖い
1. 神の律法は重⼤な事柄である
2. 罪は本質的に刑罰に値する
3. ⽀配者は、ルールの違反を⾒逃すことはできない
4. 神の正義を⽴証すること
5. 聖書的基盤の⽋如
*
C 賠償説︓罪と悪の⼒に対する勝利としての贖い
1. 教会の初期において基準的な⾒⽅
2. ⼤いなる宇宙的ドラマの描写
3. サタンに賠償⾦が払われたのではない
*
D 満⾜説︓御⽗への償いとしての贖い
1. 神の真の性質の原則を満たす
2. 私たちが神から奪い取ったものを回復すること
3. どのようにして満⾜は達成されるのか
4.
神・⼈であるキリストは、無限の価値5.
*
E 贖罪についての主要な諸理論まとめ
• 理論のそれぞれは、キリストのみわざの重要な視点を把握している
1.
神が期待しておられる献⾝の模範
2. 神の愛の⼤いなる広さを開⽰
3. 罪の重⼤さと神の義の峻厳を強調
4. 罪と死の諸⼒に対する⼤勝利
5. 御⽗の満⾜を返す
• 諸説の中で何が最も基本的なのか︖
2020年6月28日 新約聖書
テトスへの手紙1:10-16「厳しく戒めて、その信仰を健全にし―実は、多くいます。特に、多くいます」
https://youtu.be/6Wb0nF8C2Ps
*
v.10a「実は、…多くいます」「特に、…多くいます」という言葉をもって、パウロは手紙を綴り続ける。1世紀の、旧約聖書ユダヤ教を母胎として誕生して間のないキリスト教においては、その誤りにおけるグラデーション(濃淡の差異)はあったにせよ、“多くの”教えの混乱があった。ユダヤ教徒からの迫害はもとより、キリスト教に回心したv.10b「割礼を受けている人々」の中には、パウロたちの使徒的権威に対し「反抗的な者」、社会的倫理的に「無益な者」、歪んだ福音理解をもって「惑わす者」が多くいた。それゆえ、パウロは、クレテ島に生まれたばかりの家の教会群を誤った運動や教えのウイルス汚染から守るため、テトスを送り込んだ。彼は、この「教えと倫理」における難病を治療する優れた医者であり、看護師のように活躍した。
ガラテヤ書では、割礼問題が主であった。牧会書簡では、v.14「ユダヤ人の作り話、真理に背を向けている人の戒め」とある。これは、黙示文学的ユダヤ教の中にグノーシス主義の傾向があり、ユダヤ教的キリスト教の中にグノーシス主義的傾向が及んだものと、フランシス・マーガレット・ヤング(『牧会書簡の神学』叢書
新約聖書神学 11、
p.14-15)は記している。2世紀以降に、ギリシャ的グノーシス主義の影響が出てくるのであるが、1世紀においてみられるグノーシス主義的傾向は黙示文学的ユダヤ教からのものであろう。そのように理解するとテトスの手紙の文脈が理解できるようになる。
このように見てくると、ベネマ著『パウロ研究の新しい視点―再考』のあとがきに記した「ユダヤ教の多様性」が心にとまる。それを参考として少し引用しておきたい。
*
●参考資料
(3)ベネマの小著の背景―NPP問題の状況、争点、福音主義信念体系の扱い
この文脈でベネマの小著の背景理解のため、上記の遠藤氏の了解を得てその論文から少し引用説明しておきたい。
@「NPPに関し
”問題とされている状況”」とは、聖書テクストの解釈に有意味な歴史的情報を何処に求めるのかである。20世紀以降の新約聖書学においては、ギリシア・ローマ世界の文献のみならず第二神殿期のユダヤ教文書が、聖書テクストの歴史的背景を知る手がかりとされてきた。初期の頃はミシュナーやタルムード、続いてミドラシとタルグムが注目されたが、近年では「偽典(Pseudepigrapha)」と一括りにされるユダヤ教文書や死海文書からの引用が目立つ。NPPの議論も、それらのユダヤ教文書から得た歴史的情報に基づいている。
A「NPPに関し ”主要な争点”」とは、
@)まずそれらの歴史資料とパウロのユダヤ教理解との関係理解である。聖書テクストと歴史的情報とをつなぐものとは何かを問うことなしに、後者の前者の背景とする議論は反論者を十分に納得させるに至らない。そこで重要になるのは、聖書外資料からの歴史情報と、聖書テクスト(をスクリーンとして)映し出される歴史情報とを比較し、その関連性を丁寧に示すことである。
A)次に第二神殿期のユダヤ教の多様性をどのようにどのように受けとめるのかである。参照される文書は、年代が紀元前3世紀から紀元後2世紀にわたる文書群であり、地域ではパレスチナから地中海沿岸に広がる範囲である。確かに時代と地域を越えた何らかの普遍的理解もあるに違いない(E.P.サンダースは、カヴェナンタル・ノミズム”covenantal
nomism”こそ普遍的理解と主張)が、その多様性と個別性にも注意を払う必要がある。たとえばイエスが活動した地域(紀元後1世紀前半)と、パウロが活躍した地域(紀元後1世紀中期の小アジア、ギリシャ、ローマ)、及びヨハネが活躍した地域(紀元後1世紀後半の小アジア)におけるユダヤ教の形態や神学は決して一様であるはずがない。
B)往々にして、様々な学説(研究仮説)を追って行くうちに、聖書テクストそのものの読解が疎かになるということがある。また、聖書外資料に重点を置き過ぎると、肝心な聖書テクストの文脈を読み誤る場合もある。
B「NPPに関し
”福音主義の信念体系の扱い”」については、NPPの視点からすると16世紀以降の宗教改革者らはパウロをだいぶ誤解したように見えるようである。しかし、果たして宗教改革者たちの義認論は全くの誤解だったのだろうか。もしかすると宗教改革者たちは、彼らの置かれた社会的・宗教的文脈にふさわしい読み方を展開しただけではなく、パウロ書簡にある文脈上に置かれた用語や概念を越えて、正典内を行き来しつつ、その時代にふさわしい神学の構築を目指したという面もあるのではないか。
NPPの議論に胸を借りて、従来の福音理解を見つめ直すということには意義がある。しかし、NPPの視点のみにて構築された神学が宣教論へと展開される過程で、宗教改革者たちが掘り下げた部分を捨象し、福音理解の奥行きをかえって狭めてしまうことにならないことを期待したい。(『福音主義神学』48号所収論文「ヨハネによる福音書<信仰理解>―NPPに関する議論を念頭に」遠藤勝信
より)
*
さて、1世紀の地中海世界におけるユダヤ教の多様性に目配りした。これでv.15も理解できるようになる。
v.15
「清い人たちには、すべてのものがきよいのです」は、創世記1章からの「良き創造の教説」である。食物も性も結婚も、神の御前(コーラム・デオ)に聖なるものとされている。これが使徒的信仰であり、使徒的福音理解である。しかし、ある食物を、男女の性を、そして結婚を不浄なものと考える「汚れた信仰」理解をその前提としてもつ黙示文学的ユダヤ教グノーシスの影響下にいる信仰者には「何一つきよいものはない」、その信仰の原点、基盤、前提としての「知性も良心も汚れて」しまっているからである。極端なケースにおいては、いわゆる“マインド・コントロール”状態がみられる。
v.16
「神を知っている」と言いながらその信仰の前提に誤りがあり、グノーシス主義特有の「精神は善、物質は悪」という捉え方が影響している。その歪んだ前提をもつ信仰は、倫理的実践にも影響し、極端な禁欲主義や逆に極端な放縦主義に走ったりする。極端な福音理解は、極端な倫理的生活を結実させる傾向がある。
クレタ島は地中海の島であり、クレタ文明の栄えた歴史ももつ、貿易の中継地点であった。それは、栄えた大都市コリントにも似ている。コリントにも放縦や不道徳の問題があったように、クレタ島にも都市文明特有の問題があったようである。地中海各地の都市に散在していたユダヤ人のコミュニティもあり、その周辺は宣教対象として優れた領域であるとともに、引きずる問題もあった。
パウロは、ワン・チームの一員としてテトスに手紙を送り、危機的状況に直面する各地の教会に派遣し、教えと倫理における”ウイルス感染”を治療し、福音理解とそれに根差した倫理的生活を回復させ、拠点となる都市に、使徒的福音理解を継承・深化・発展させうる後継者としての長老たちを任命していくことを宣教戦略の重要な柱としていた。
任命にあたっては、当然健全な教理教育期間をもったであろう。今でいう、神学校であり、教会の教理教育クラスである。おそらく、エリソクン著『キリスト教教理入門』にあるような内容のエッセンスを伝授したであろう。ストットは、誤りの中にある教師があまりにも多くいるので、その混乱を正し、教会を健全な教えの中に形成し続けるために、多くの同労者、つまり健全な福音理解を解き明かす力があり、それにふさわしい倫理的実践に生きる長老たちを養成する使命をテトスに託した。
エリクソン著『キリスト教教理入門』では、教理の各論において、今日説かれている諸説を中立・公平に紹介し、その根拠とされる聖書箇所を丁寧に分析・吟味している。そして、福音理解全体との接合性において、どの説が最も優れているのかを評価・解説している。わたしは、エリクソンのこのような取り組みの中に、“テトスのスピリット”をみている。今のグローバルな世界宣教時代は、ある意味「クレタ島」のような時代状況を呈しているといえないだろうか。
パウロは「クレタ人は…」と、その文化や民族の特性の問題点を指摘している。わたしは「和を以て貴しとなす」の誤った適用をもって、「逸脱した運動や教え」に対する誤った寛容の問題を指摘しておきたい。さまざまなグラデーションはあるにせよ、@誤った聖書解釈と教えの問題状況に対する認識、Aその危機意識に基づいた、病巣の明確化、B具体的な処方箋に基づいた治療と健全化の戦略とその達成、の使命感をもつ“テトスたち”を今日の教会は必要としている。
ストットは、この手紙に神学校の萌芽をみている。教会が誤った教えや運動に翻弄されないためには、教会のリーダーの健全化が求められる。教会のリーダーの健全化はそれらの人を養成する神学教育の健全化が求められる。奉仕生涯の最初の三年間に施される神学教育において、「ひえ」のような教えが蒔かれると、その治療・回復はきわめて困難である。イネの苗とひえの苗の区別は難しい。それらの神学生は教職者となり、教会でまた教派で「ひえ」のような教えを蒔き続けることになる。その影響は甚大である。それゆえ、「だれでも教師になってはいけない」のである。テトスのような、またエリソクンのような「ひえ」と「イネ」の苗の区別ができる教師、長老の養成の急務をパウロはこの箇所でしたためている。その心情が伝わってくる。それは、あたかもコロナ・ウイルス対策の最前線にいる医者また看護師が抱く危機感に溢れている。ICI(一宮基督教研究所)の使命もまたそこにある。
20100608 k23 罪の本質と根源
https://youtu.be/8ibc5jmyp80
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
U 第六部 罪論
1
基督教教理⼊⾨
2 導⼊︓聖書神学事典「罪」
20章 罪の本質と根源
21章 罪の結果
22章 罪の重⼤さ
3 キリスト教神学
27・28章 罪の本質と根源
29章 罪の結果
30章 罪の重⼤さ
*
V 導⼊︓聖書神学事典「罪」
序
1.
聖書における⽤語
2. 罪の定義とその本質的要素
3. 罪⼈
4. 聖書はこの「罪」をどのように扱うか
*
W 第20章 罪の本質と根源
1. 罪を議論することの難しさ
2.
罪の性質に関する聖書の⾒⽅
3. 罪の源
*
X 第1節
罪を議論することの難しさ
1. 罪という主題は余り喜ばしいものではない
2. 罪という概念は⾒知らぬ概念である
3. 罪とは外的で具体的なものと考えられている
*
Y 第2節
罪の性質に関する聖書の⾒⽅
1. 罪は内的な傾向である
2. 罪は反逆・不従順である
3.
罪は霊的不能を伴う
4. 罪は神の基準の不完全な成就である
5. 罪は神を置き換えることである
*
Z 第3節 罪の源
第1項 多様な概念
罪の源は何か︖−治療に必要
1. F・テナント…動物的性質である
2.
R.ニーバー…⼈間の有限性に起因する⼼配である
3. P.ティリッヒ…存在の基盤からの離間に関係している
4.
解放の神学…経済的闘争にある
5. H.S.エリオット…個⼈主義的競争
*
[ 第3節 罪の源
第2項 聖書の教え
1. 罪は神によって引き起こされない
2.
欲求の適切さの問題がある
3. ⼈間の能⼒、選択肢
4. ⾃然な欲求と誘惑となる領域
⑴
物事を楽しみたい願い
⑵ 物事を⼿に⼊れたい願い
⑶ 物事をなしたい願い
5.
満⾜する適切な⽅法と神の課せられた制限
6. サタンによる合法的な誘惑
7. 外部からの誘導が含まれる
8. ⾁と呼ばれるものの存在
9. 罪の源は治癒について語りかけている
20100511 k23 人間論への序論
https://youtu.be/ZAu3RzxSGqw
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10.救い
11.教会
12.終末
*
U 第五部 ⼈間論
• 17章
⼈間の教理への導⼊
• 18章 ⼈間における神の像
• 19章 ⼈間の性質の構成
*
V 17章 ⼈間の教理への導⼊
⑴⼈間についてのイメージ
1. 機械としての⼈間
2. 動物としての⼈間
3. 宇宙の⼈質としての⼈間
⑵ ⼈間についてのキリスト教的⾒⽅
⑶ ⼈間の創造についての聖書的説明
1.
聖書における直接の⼈間の創造
2. 直接の⼈間の創造と科学
⑷ ⼈間の創造についての神学的意味
*
W ⼈間についてのイメージ
*
⑴人間についてのイメージ
@ 機械としての⼈間
1. 雇われ⼈は雇い主に賃貸している
2.
仕事こそが第⼀の⽬標・関⼼である
3. 彼らは有益である限りにおいて価値がある
A 動物としての⼈間
1.
⼈間と他の動物との間には質的な相違は存在しない
2. ⼈間の動機は⽣物学の観点から理解される
3.
パブロフの⽝のように、⼈間もある⽅法に反応するように条件づけられている
B 宇宙の⼈質としての⼈間
1.
基本的に悲観的な⾒⽅
2. シジフォスの神話
*
⑵ ⼈間についてのキリスト教的⾒⽅
1. 進化の偶然のプロセスを通してでなく、神による意識的・⽬的をもった⾏為
2. 時間における有限の始まり、しかし永遠の未来をもっている
3. 彼らはより⾼い存在のお⽅に仕え、愛するときにのみ
4. すべての⼈は価値があり、神に知られている
*
⑶ ⼈間の創造についての聖書の説明
@ どのように⼈間はもたらされたのかだけでなく、彼らの存在にはどんな⽬的があるのか
A 創世記1︓26−27
1. 神ご⾃⾝の像、似たものにつくる決定
2. 決定を履⾏する
3.
創世記2︓7 – 神が創造された⽅法に強調
*
⑷ ⼈間の創造についての聖書の説明
*
・聖書における直接の⼈間の創造
@ 創造論と進化論の論争
1. 有神論的進化論
2. 命令創造論
3. 漸進的創造論
A 創世記の最初の章の解釈のアプローチ
1. 「善悪の知識の⽊」
2. 「ちり」という⽤語
3.
「⽣きたもの」という表現
B ⼈間の創造についての聖書の説明
*
・直接の⼈間の創造と科学
1. 漸進的創造論
2. アダムの化⽯
3. 道具つくり
C ⼈間の創造についての神学的意味
*
• 神学的な意味の決定
1.
神は所有者、⼈は管理者
2. ⼈間と他の創造物との調和
3. 動物は「種類によって」、⼈は「神の像に」
4. 他者への関⼼、感情移⼊
5. ⼈間の有限性
6. 有限性は悪ではない
7.
神の像につくられた唯⼀のもの
20101026b k01
『霊の戦い―その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明』
https://youtu.be/VFaCJr_Nfsg
*
※小冊子『霊の戦い―その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明』定価500円→特価100円+180円(送料)=280円(メールaguro@mth.biglobe.ne.jpに部数・送り先記載し注文、郵便振替用紙同封送付、後払い)
*
2010年度は、所属団体・神学校(日本福音教会と関西聖書学院)内で議論となった年であった。団体内で議論となる事柄が生起すると、決まってわたしがJEC牧師会やKBIシンポジウムで基調講演等を依頼されるようになっていた。世界宣教・日本宣教において、"霊の戦い"は深刻な軋轢を生んでいた。さまざまな書籍、資料等を広範に収集し、この軋轢の克服の一助となる、「@状況分析、A主要な争点、B福音主義的な解決の処方箋」を探求した。そのときに、発見したのが"https://www.lausanne.org/gatherings/issue-gathering/deliver-us-from-evil-consultation-2"であった。翻訳刊行する必要と意義を強く感じたので、ルーテル神学校の先生方に著作権等の交渉をしていただいた。また、正木牧人先生には、このテーマでの小論をも寄稿していただいた。
2019年度に翻訳刊行した、エリクソン著『キリスト教教理入門』「第30章 聖霊に関する近年の諸問題」の
315頁には、エリクソンがこの文書”Deliver Us From Evil Consultation、16 Aug
2000 · 22 Aug 2000、Nairobi, Kenya”が紹介されている。
*
T 神のみわざ論︓悪と神の世界・天使論−補講
*
ローザンヌ宣教シリーズ
NO.61 霊の戦い
−その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明−
⼀宮基督教研究所安⿊務
*
U 翻訳出版に際して
1. 本書の出所
2.
ナイロビ2000の資料は⼊⼿可能
3. ローザンヌ宣教運動とワーキンググループ
4.
ローザンヌ世界宣教運動の貢献
5. ローザンヌ運動のニュースレターから
6. ローザンヌ運動のこれまでの取り組み
7. 霊の戦い
8. KMRCの歩みと本書の出版
*
V 背景
1. ⽬的
2. 内容
3. 参加者
4. ローザンヌ誓約から
5. さらなる背景
*
W 協議会の声明―『我らを悪より救い出したまえ』
1. 導⼊
2.
発端
3. 共通の基盤
⑴ 神学的⾔明
⑵ 実践における霊の戦い
4. 注意事項
5.
意⾒に相違のある諸領域
6. 継続的研究を必要とする未研究領域
*
X 協議会に提出された論⽂と会議の概略
論⽂
追加論⽂
関連サイト
20101026a k01 悪と神の世界:
特別な問題
https://youtu.be/2JhRxDhCEz0
*
T キリスト教教理⼊⾨
1.
神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10.救い
11.教会
12.終末
*
U 第四部 神のみわざ
12章 神の計画
13章
神の原初的みわざ︓創造
14章 神の継続的働き︓摂理
15章 悪と神の世界︓特殊な問題
16章
神の特別な代理⼈︓天使
*
V 第15章 悪と神の世界︓⼀つの特別な問題
1. 問題の性質
2. 諸種の解決策
3. 悪の問題を扱うための諸主題
*
W 問題の性質
1. 悪の問題
2. ⼆種類の悪
⑴ ⾃然界の悪
⑵ 道徳的悪
3.
取り扱い注意
⑴ 牧会的必要
⑵ 知的な⾯での侮辱
*
X 諸種の解決策
1. 有限主義−全能性の拒否
2. 神の慈しみ深い善性という概念の修正
3. 悪の否定
*
Y 悪の問題を扱うための諸主題
⑴ ⼈類の創造の付随するものとしての悪
1. 付随するある特徴をもつ⼈間を創造
2. ⾃由意思がなければ、真の⼈間にあらず
3.
不従順により、刑罰を受ける可能性
4. 悪の可能性なしに創造すること不可
*
⑵ 善と悪を構成するものについての再評価
1. 神の次元
2. 時間という次元
3. 悪の範囲に関する問い
*
⑶ ⼀般的な悪の結果としての⼀般的な悪
1.
⼈類という種全体の普遍的罪深さ
2. 道徳的な悪に対する堕落の影響
3. 罪を犯したのは、⼈間である
*
⑷ 特定の罪の結果としての特定の悪
1. 警察官の死は、犯罪者の罪深い⾏為
2. ⽬の不⾃由さは、特定の罪の結果なのか
3. 個々の罪びとに不幸な結果をもたらす実例
4.
⼈は種を蒔けば、その刈り取りもする
*
⑸ 悪の犠牲としての神
1.
悪の問題解決のキリスト教の貢献
神の痛み・悲しみ
受⾁の事実
悪の結果を引き受け、悪から解放
*
⑹ 死後のいのち
1. 不公平・罪なき者の苦しみ
2.
地上の⼈⽣のみで解決不可能
3. 死後のいのち・死後の裁きの視点で解決
2020年6月21日 新約聖書
テトスへの手紙1:5-9「健全な教えをもって励まし、反対する人たちを戒め―聖職者に求められる二つの声」
https://youtu.be/zkXNVmNszy8
*
恩師のひとり、フレッド・スンベリ師(関西聖書学院初代院長)は、数多くの”箴言”を語り残された。その中のひとつ「イエス・キリストは、子羊のようなお方であったが柔和(マタイ11:29)一辺倒のお方ではなかった。獅子(ライオン)のようなお方(黙示録5:5)でもあった」と聖職者がもつべき健全なバランスを教えられた。今朝の箇所テトス1:9は、この両面を教えている。
もうひとりの恩師、宇田進師(共立基督教研究所初代所長)は、神学校を「奉仕生涯の最初の三年間で学ぶ基礎神学教育」と共立基督教研究所を「生涯教育・継続神学教育」の場として整理し指導してくださった。わたしの取り組んでいるICI(一宮基督教研究所)は後者に位置づけられる。
J.R.W.ストットは「聖職者には、二つの声が必要である」と説く。「ひとつは羊を集める優しい声、もう一つはオオカミや泥棒を追い払う厳しい声」であると。わたしは、日本文化、日本社会においては、一方に偏重する危険を感じている。誤った運動や教えに対する識別能力の低さ、それを克服し健全化しようとする勇気の欠如、治療・回復への処方箋に対する盲目が横行しているように感じている。
先週もみたように、パウロにとってテトスは”懐刀”のような次世代聖職者であった。「奉仕生涯の最初の三年間で学ぶ基礎神学教育」で身に着けるべき最も大切なことのひとつは、“テトスのスピリット”である。
v.1「私があなたをクレタに残したのは…」と、コリント教会問題、エルサレム教会問題に続き、難題であった「クレタ島の教会」問題の解決を彼に委ねた。このように難題解決を委ねられる聖職者となりたいものである。
v.6-8は、長老(ユダヤ的職名)、監督(ギリシャ的職名)への聖職者任命における人格的倫理的基準を提示している。V.6「妻、子ども」は家庭を治める力量は、神の家族を治める力量を測る大切なポイントである。V.7「神の家の管理者」は市政における者にも求められる「不正の利」を求めない公正さと「わがまま、短気、酒飲み、乱暴」でない人格的特質が求められる。
そして、パウロがこの箇所で最も言いたかったこと、パウロたちの提示してきた“イエス・キリストの人格とみわざを基盤とした福音理解”「すでに据えられている土台以外の物を据えることはできない」(Tコリ3:11)福音理解の、v.9「教えにかなった信頼すべきみことば」をもって神の家族を養う力量である。
この力量のある者を見分けてv.5b「町ごとに長老たちを任命する」ように命じた。この前提には、テトス自身にそのような力量が求められる。その上で、その理解力、識別力に沿って、後継者を任命していくことが求められている。
そのような新たな指導者が選ばれるなら、クレタ島の諸教会には二つの声が響くことになる。「健全な教えをもって励まし、反対する人たちを戒めたり―聖職者に求められる二つの声」が。この二つの声が恐れなく、響き渡る教会、教派、団体、神学校は健全なベクトルを持つ群れとして評価を受けることができる。ソロモンの知恵、カイザルのコインの知恵を与えられ、狭く細い道を進むひとりでありたい。
20100609 k01 神の普遍的啓示
02(後半)
https://youtu.be/ybr_SX4cS_k
*
※2010年度講義では、邦訳『キリスト教神学』第二版と原書”Introducing Christian
Doctrine”第二版を併用しています。講義では、予習三分の一、講義三分の一、復習三分の一という単位制の考え方をとって指導しています。講義では、テキストの輪郭を教え、その中のエッセンスを分かりやすく解説しています。
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8.
キリストのみわざ
9. 聖霊
10.救い
11.教会
12.終末
*
U 第⼆部
神を知ること
⑴ 「キリスト教神学」
8 章 神の普遍的啓⽰
9 章 神の特別啓⽰
10章 啓⽰の保存︓霊感
11章 神の⾔葉の信頼性︓無誤性
12章 神の⾔葉の⼒︓権威
*
⑵ 『キリスト教教理⼊⾨』
3章 神の普遍的啓⽰
4章 神の特別啓⽰
5章 啓⽰の保存︓霊感
6章 神のことばの信頼性︓無誤性
7章
神のことばの⼒︓権威
*
V 第⼆部 啓⽰論
3章 神の普遍的啓⽰
4章 神の特別啓⽰
5章 啓⽰の保存︓霊感
6章 神のことばの信頼性︓無誤性
7章
神のことばの⼒︓権威
*
W 序︓聖書神学事典「啓⽰」
序
1. 旧約聖書
2. 新約聖書
*
X 3章 神の普遍的啓⽰★
1. 啓⽰の性質
2. ⼀般啓⽰の様式
3. ⼀般啓⽰の現実と有効性
4. ⼀般啓⽰と⼈間の責任
5. ⼀般啓⽰の意味合い
*
Y 第⼀節 啓⽰の性質
1.
啓⽰には⼆つの分類
2. ⼀般啓⽰に関して
*
Z 第⼆節
⼀般啓⽰の様式
1. ⾃然‥詩篇19:1、ローマ1:20
2. 歴史‥イスラエルの歴史
3. ⼈間
⑴ 道徳的、霊的資質
⑵ 宗教的性質
*
[ 第三節
⼀般啓⽰の現実と効⼒1.⾃然神学−a
1. ⼀般啓⽰の性質、範囲、有効性
2. ⾃然神学の前提
⑴
創造の完全さ
⑵ ⼈間の完全さ
⑶ ⼈間の知性と創造の⼀致
⑷ 理性のみで純粋な神知識
3.
トマス・アクイナス
⑴ ⾃然と理性
⑵ 下⽅の真理と上⽅の真理
*
\ 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒1.⾃然神学−b.神存在証明★
1. 宇宙論的証明
2. ⽬的論的証明
3. ⾄⾼のデザイナーの存在
4. ⼈間論的・存在論的証明
5. 道徳的衝動と範疇的命令
6. 経験的論証
7. カントの論争
*
] 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒2.⾃然神学批判
1. 論証の使⽤⾃体−不利益
2. 原因の直接的連鎖−唯⼀の⽅法ではない
3. 経験を越えるものへ−論証の拡⼤
4.
100パウンド(50kg)持ち上げる⼈−それ以上
5. ⽣物の領域−複雑さと美しさ
6.
否定的データ−悪魔の存在の論証へじ
*
Ⅺ 第三節
⼀般啓⽰の現実と効⼒3.関連聖句の吟味
1. 鍵となる聖句−吟味
2. 多くの⾃然詩篇−詩篇19篇
3. ローマ⼈への⼿紙
⑴ 1章︓⾃然のうちの神の啓⽰
⑵ 2章︓⼈間の⼈格のうちの神の啓⽰
4.
純粋で正確な知識−所有を⽰唆
5. 不従順−等しく皆⾮難されている
6. 使徒14:15−17
7.
使徒17:22−31
*
Ⅻ 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒
●⼀般啓⽰、しかし⾃然神学なしの
1. ジャン・カルヴァンの⽴場
2. ⼀般啓⽰の有効性
3.
⼈間の理解⼒の盲⽬と暗闇
4. ⾃然神学の可能性−疑問視
5. 信仰の眼鏡
6.
神存在についての外形的証拠
*
]V 第四節 ⼀般啓⽰と⼈間の責任
1.
⼈間に対する有罪宣告︓ローマ1−2章
2. 未信者の内的律法−ユダヤ⼈の律法と同じ働き
3.
憐れみの基盤を知らず−その上への⾃⼰投与
4. 理論上の可能性にオープン−それに過ぎず
*
]W 第五節 ⼀般啓⽰の意味合い
1. 信者と未信者−共通の⼟台の存在
2.
特別啓⽰の外−神知識についての可能性
3. 福⾳を⽿にしなかった⼈々
4. 宗教と諸宗教の世界⼤の現象を説明
5. 創造と福⾳−⼀貫性のある神の啓⽰
6. 神が構成された全宇宙の真理の開⽰
20100609 k01 神の普遍的啓示
01(前半)
https://youtu.be/iEoLzu1_iDg
*
※2010年度講義では、邦訳『キリスト教神学』第二版と原書”Introducing Christian
Doctrine”第二版を併用しています。講義では、予習三分の一、講義三分の一、復習三分の一という単位制の考え方をとって指導しています。講義では、テキストの輪郭を教え、その中のエッセンスを分かりやすく解説しています。
*
T キリスト教教理⼊⾨
1. 神学をすること
2. 神の啓⽰
3. 神の性質
4. 神のみわざ
5. ⼈間
6. 罪
7. キリストの⼈格
8.
キリストのみわざ
9. 聖霊
10.救い
11.教会
12.終末
*
U 第⼆部
神を知ること
⑴ 「キリスト教神学」
8 章 神の普遍的啓⽰
9 章 神の特別啓⽰
10章 啓⽰の保存︓霊感
11章 神の⾔葉の信頼性︓無誤性
12章 神の⾔葉の⼒︓権威
*
⑵ 『キリスト教教理⼊⾨』
3章 神の普遍的啓⽰
4章 神の特別啓⽰
5章 啓⽰の保存︓霊感
6章 神のことばの信頼性︓無誤性
7章
神のことばの⼒︓権威
*
V 第⼆部 啓⽰論
3章 神の普遍的啓⽰
4章 神の特別啓⽰
5章 啓⽰の保存︓霊感
6章 神のことばの信頼性︓無誤性
7章
神のことばの⼒︓権威
*
W 序︓聖書神学事典「啓⽰」
序
1. 旧約聖書
2. 新約聖書
*
X 3章 神の普遍的啓⽰★
1. 啓⽰の性質
2. ⼀般啓⽰の様式
3. ⼀般啓⽰の現実と有効性
4. ⼀般啓⽰と⼈間の責任
5. ⼀般啓⽰の意味合い
*
Y 第⼀節 啓⽰の性質
1.
啓⽰には⼆つの分類
2. ⼀般啓⽰に関して
*
Z 第⼆節
⼀般啓⽰の様式
1. ⾃然‥詩篇19:1、ローマ1:20
2. 歴史‥イスラエルの歴史
3. ⼈間
⑴ 道徳的、霊的資質
⑵ 宗教的性質
*
[ 第三節
⼀般啓⽰の現実と効⼒1.⾃然神学−a
1. ⼀般啓⽰の性質、範囲、有効性
2. ⾃然神学の前提
⑴
創造の完全さ
⑵ ⼈間の完全さ
⑶ ⼈間の知性と創造の⼀致
⑷ 理性のみで純粋な神知識
3.
トマス・アクイナス
⑴ ⾃然と理性
⑵ 下⽅の真理と上⽅の真理
*
\ 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒1.⾃然神学−b.神存在証明★
1. 宇宙論的証明
2. ⽬的論的証明
3. ⾄⾼のデザイナーの存在
4. ⼈間論的・存在論的証明
5. 道徳的衝動と範疇的命令
6. 経験的論証
7. カントの論争
*
] 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒2.⾃然神学批判
1. 論証の使⽤⾃体−不利益
2. 原因の直接的連鎖−唯⼀の⽅法ではない
3. 経験を越えるものへ−論証の拡⼤
4.
100パウンド(50kg)持ち上げる⼈−それ以上
5. ⽣物の領域−複雑さと美しさ
6.
否定的データ−悪魔の存在の論証へじ
*
Ⅺ 第三節
⼀般啓⽰の現実と効⼒3.関連聖句の吟味
1. 鍵となる聖句−吟味
2. 多くの⾃然詩篇−詩篇19篇
3. ローマ⼈への⼿紙
⑴ 1章︓⾃然のうちの神の啓⽰
⑵ 2章︓⼈間の⼈格のうちの神の啓⽰
4.
純粋で正確な知識−所有を⽰唆
5. 不従順−等しく皆⾮難されている
6. 使徒14:15−17
7.
使徒17:22−31
*
Ⅻ 第三節 ⼀般啓⽰の現実と効⼒
●⼀般啓⽰、しかし⾃然神学なしの
1. ジャン・カルヴァンの⽴場
2. ⼀般啓⽰の有効性
3.
⼈間の理解⼒の盲⽬と暗闇
4. ⾃然神学の可能性−疑問視
5. 信仰の眼鏡
6.
神存在についての外形的証拠
*
]V 第四節 ⼀般啓⽰と⼈間の責任
1.
⼈間に対する有罪宣告︓ローマ1−2章
2. 未信者の内的律法−ユダヤ⼈の律法と同じ働き
3.
憐れみの基盤を知らず−その上への⾃⼰投与
4. 理論上の可能性にオープン−それに過ぎず
*
]W 第五節 ⼀般啓⽰の意味合い
1. 信者と未信者−共通の⼟台の存在
2.
特別啓⽰の外−神知識についての可能性
3. 福⾳を⽿にしなかった⼈々
4. 宗教と諸宗教の世界⼤の現象を説明
5. 創造と福⾳−⼀貫性のある神の啓⽰
6. 神が構成された全宇宙の真理の開⽰
20100609 k01
『キリスト教神学』第七章 ポストモダンと神学
https://youtu.be/MoYIUT-_z_k
*
※テキスト概略(講義では、輪郭とエッセンスのみ扱い、詳細は予習・復習で補います)
*
T キリスト教神学
第7章 ポストモダンと神学
改訂版『基督教教理⼊⾨』第三章
⼀宮基督教研究所安⿊務
*
U 「キリスト教神学」概略
1 神を研究すること
2. 神を知ること
3. 神はどのような⽅か
4. 神は何をなされるか
5. ⼈間
6. 罪.
7. キリストの⼈格
8. キリストのみわざ
9. 聖霊
10. 救い
11. 教会
12. 終末
*
V 第1部 神を研究すること
1. 神学とは何か
2. 神学と哲学
3. 神学の⽅法
4. 神学と聖書の批評的研究
5. キリスト教のメッセージの今⽇化
6. 神学とその⾔語
7. ポストモダンと神学
*
W 第7章 ポストモダンと神学概略
1.
ポストモダニズムを定義する
⑴ プレモダニズム
⑵ モダニズム
⑶ モダニズムに対する不満
⑷
急進的ポストモダニズム
*
2. ポストモダン時代に神学すること
⑴
急進的ポストモダニズムに対する批判
⑵ 建設的なポストモダン神学の諸原理
*
X 序
1. 本章の⽬的
2. 本章の概要
3. 研究課題
*
Y 第1節 ポストモダニズムを定義する序−1
神学において
どの程度ポストモダン的︖
モダン、コンテンポラリーの意味
*
Z 第1節
ポストモダニズムを定義する序−2
1. 近年−「モダン」という⾔葉の意味−変化
2. トーマス・オーデンの定義
*
[ 第1節 ポストモダニズムを定義する
@プレモダニズム
1.
宇宙は合理的なものである
2. ⽬的論的
3. 歴史も秩序⽴ったパターンに
4.
形⽽上学的概念・認識的概念が関係していた
*
\ 第1節
ポストモダニズムを定義する
Aモダニズム-a
1. アプローチの⼀致点と相違点
2.
近代思想−合理性・確実性の強調
3. インマヌエル・カント
4. ベーコンの思想・ニュートンの思想
5.
ランドル『近代知性の形成過程』
6. あらゆる事柄を覆い尽くす説明を探求
*
] 第1節 ポストモダニズムを定義する
Aモダニズム-b
ジョン・ハーマン・ランドル『近代知性の形成過程』︓モダニティの特徴
1. ヒューマニズム
2. ⾃然主義
3. 科学的⽅法
4. ⽣物進化論
*
Ⅺ 第1節
ポストモダニズムを定義する
Bモダニズムに対する不満
アレン︓モダン全体の崩壊の四領域
1.
「⾃⼰充⾜的な宇宙」の問題
2. 道徳と社会の基盤を⾒出すことに失敗
3. 進歩への楽観主義の喪失
4.
知識は中⽴的なもの
*
Ⅻ 第1節 ポストモダニズムを定義する
C急進的ポストモダニズム
合理性の基本事項のいくつかを拒否しつつ、さらに急進的に
1. 「脱構築」
2. ネオ・プラグマティズム
3. 新しい歴史主義
4. モダニティの極端な拡張
*
]V 第2節 ポストモダン時代に神学すること序
1. ポストモダン時代への移⾏の事実
2.
真剣にポスチモダンの⾒⽅に備える
3. ポストモダンの精神構造
*
]W 第2節 ポストモダン時代に神学すること
@急進的ポストモダニズムに対する批判
1.
極端なポストモダニズムの信念には抵抗
2. 中⼼的問題のひとつ−⼀貫性をもって主張を維持することの難しさ
3.
脱構築を唱導しつつ、脱構築主義者であることは難しい
4.デリダのサールへのレスポンス
5.合理主義が制限したので、ポストモダンは合理主義を拒否
6.ポストモダン神学のための洞察
*
A建設的なポストモダン神学の諸原理
1. 五⼈の⽬の⾒えない⼈たちと象
2. 相対主義、多元主義、主観主義
3. 外⾒上の主観性を扱う⼀つの試み
4. ある程度の謙遜が神学を保持する
5.福⾳の⽂化脈化にかかわる
6.共同体の訴え−客観性を保証しない
7.神学が未信者に提⽰される
【ICIユーチューブ・ビデオ講義掲載の経緯と2010年度シリーズの漸次掲載開始のご案内】
http://www.youtube.com/c/AguroTsutomu
*
2020年度一学期の神学校講義は、コロナ・ウイルス災禍の影響で、ユーチューブ・ライブ講義(or
BD-R)となりました。その紹介が終わりました。それで、今日より、これまでに収録してきたビデオ講義の紹介を再開したいと思います。
1992年三月に共立基督教研究所での三年間の内地留学を終え、母校関西聖書学院(KBI)の教壇に復帰しました。わたしの夢のひとつは、所属団体日本福音教会(JEC)と母校関西聖書学院(KBI)の交わりの中に、共立基督教研究所のような“聖書的・公同的・今日的・学問的”な福音主義の継続神学教育また生涯教育の拠点をつくることでした。家業を手伝いながら経済的に自立した「神学教師」の道を歩み始めました。今この歩み方は主のみ旨にかなったものと振り返ります。
というのは、わたしの召命は「神学教師」でありますが、その使命は“Reforming
Fundamentalism(根本主義が内包する課題克服)”であったからです。組織の中に組み込まれ、サラリーとポストで縛られると、治療のメスの切っ先は丸くなり、その取り組みは中途半端なものにとどまったことでしょう。ここに、「紅海の中に、ヨルダン川の中に道を開かれる」神さまの導きの不思議を見ます。
わたしが教師奉仕再開に際し、最初に依頼された科目は『歴史神学(教理史)』、次に『宗教の神学(比較宗教学)』、最後に『組織神学(キリスト教神学)』でありました。歴史神学においては、単に教理史を学ぶだけでなく、宣教50年の視野に狭められやすいわたしたちの福音理解のルーツとアイデンティティを、二千年間の教会史・教理史の中から学ぼうと、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』をテキストに学び、近視眼的な歪曲を健全化することに努めました。
宗教の神学においては、単に日本の諸宗教の知識の切り売りをするだけでなく、キリスト教信仰の“まな板”の上で諸宗教を調理することにしました。テキストは稲垣久和著『大嘗祭とキリスト者』でした。これは、共立基督教研究所時代に、H.ドーイヴェルト著『西洋文化のルーツ』を翻訳しつつ学んだ経験からきました。この本は、ドイツのナチズムの“血と土地”のイデオロギーを歴史的・神学的・哲学的に掘り下げ、分析・評価した著作でありました。
稲垣著『大嘗祭とキリスト者』は、その日本版といえるものです。わたしは、この本を用いて、神学的に弱い教派で起こりやすい“教会の誤った右傾化”の芽に治療を施したかったのです。
そして、組織神学においては、エリクソン著『キリスト教神学、またキリスト教教理入門』をテキストに選びました。これは、わたしの所属団体また母校が、その福音理解において、根本主義が内包する課題克服に有益と思いました。ある人は、数多くの「組織神学書」の中の一冊として読まれると思います。それも良いと思います。ただ、さらに有益な読み方があります。それは、エリクソンがその処女作『新福音主義神学』に示しているように、エリクソンは“左右への歪曲と逸脱を避け、その福音理解をセンターラインに引き戻そう”と生涯をかけて取り組んでいるのだ、ということです。そのような基本的視点を明らかにしつつ、またわたしたちが内包している課題に目を閉ざすことなく、リフォームに取り組み続けた教師生活でした。
このICI(一宮基督教研究所)のミニストリーは、テープ、次にMD、CD、DVD、BD、ICI-Serverと進展し、現在はユーチューブを通して紹介しています。ユーチューブでの紹介は2003年度のビデオ講義からです。最初の頃は画質レベルが低く視聴しづらいですが、記録として意味があると考え掲載しています。2009年度くらいから画質レベルが上がっています。現在は4Kビデオで収録しアップロードしています。
これまで、漸次2009年度までアップロードしてきていますので、今日より2010年度のシリーズを公開してまいります。関心のある方は視聴していただけたら感謝です。
2020 05 20 i
02キリスト教のメッセージの今日化 A(前半)
https://youtu.be/uqT1kkBRE9U
*
2020 05 20 i
02キリスト教のメッセージの今日化 B(後半)
https://youtu.be/1BVHDKctCF0
*
T キリスト教教理入門
*
●三年サイクルのカリキュラム
1.導⼊:1-1
2.啓⽰:1-2
3.神:1-3
4.⼈間:2-1
5.キリスト:2-2
6.聖霊:2-3
7.救い:3-1
8.教会:3-2
9.終末:3-3
*
U 第⼀部 導⼊
⑴ 1章
神学とは何か
1.神学の本質
2.神学の⽅法
⑵ 2章 キリスト教のメッセージの今⽇化
1.神学の今⽇的⽂脈
2.キリスト教のメッセージを今⽇化する取り組み
3.キリスト教における永続的要素
4.今⽇化の性質
5.教理における永続性の基準
*
V 第2章
キリスト教のメッセージを今⽇化すること
1. 神学の今⽇的脈絡
2.
キリスト教のメッセージの今⽇化へのアプローチ
3. キリスト教における不変の要素
4. 今⽇化の性質
5.
教理における永遠性の基準
6. まとめ
*
⑴ 神学の今⽇的脈絡
1. 神学の⽅法 p.23-l_l.5
2. 神学の短命化 p.23-l_l.15
3. 偉⼤なる学派の衰微
p.23-l_l.31
4. 神学的巨星の消滅 p.23-r_l.2
5. 福⾳主義神学−衰微を避ける
p.23-r_l.12
6. ⽂化との関係 p.23-r_l.29
7. 折衷主義 p.24-l_l.4
8. 独⽴性を維持する p.24-l_l.14*
*
⑵ キリスト教のメッセージの今⽇化へのアプローチ-a
1. 聖書時代の世界と現在の世界の⽐較 p.24-l_l.34
2. 天国と地獄は上下の関係なのか︖ p.24-r_l.13
3. 聖書の真理を今⽇意味あるイメージで
p.24-r_l.23* 4.
*
⑵ キリスト教のメッセージの今⽇化へのアプローチ-b
1. 聖書の概念を聖書の⽤語において p.24-r_l.39
2. メッセージの変⾰者 p.25-l_l.10
3. メッセージの翻訳者 p.25-l_l.30 4.
*
⑶ キリスト教における不変の要素
1. 制度︓カトリックの⽴場
p.25-r_l.12
2. 経験︓フォスディックの⽴場 p.25-r_l.31
3.
⾏動・⽣き⽅︓ラウシェンバッハの⽴場 p.26-l_l.14
4. 教理︓メイチェンの⽴場 p.26-l_l.34
@教理的教えと道徳的⾏為の分離の問題 p.26-l_l.36
A教理的教えと経験の分離の問題
p.26-r_l.11
*
⑷ 今⽇化の性質
1.
不変︓教理の本質的意味−今⽇的状況に適⽤ p.27-l_l.5
2. 1世紀の教理の本質−21世紀への等価訳
p.27-r_l.26
3. 永続的本質と⼀時的形式の区別 p.27-r_l.5
*
⑸ 教理における永遠性の基準
普遍的要素を特定するための基準 p.27-r_l.21
1.
⽂化を超えた不変性 p.28-l_l.3
2. 普遍的背景 p.28-l_l.38
3.
基盤として認識された普遍的要素 p.29-l_l.12
4. 本質的経験との確固とした結びつき p.29-l_l.39
5. 漸進的啓⽰のうちでの最終的位置 p.29-r_l.13*
*
⑹ まとめ
1. 穀物の殻と実を⾒分ける−そのすべてから意味を p.30-l_l.16
2.
系図・公衆衛⽣のルール−特別な陳述にも意味が p.30-l_l.36
3. カトリックの神学者−教理の歴史を辿る
p.30-r_l.29
4. 最⼩の共通分⺟ではなく、聖書の陳述そのものから p.30-r_l.36*
*
⑺ 補講シリーズ
講義時間内で扱えなかった講義内容、参考⽂献等の紹介を下記のサイトで紹介しています。参考 にしてください。
ICIホームページ
http://aguro.jp.net/
ICIフェイスブック
https://www.facebook.com/tsutomu.aguro
ICIユーチューブ
http://www.youtube.com/c /AguroTsutomu
2020年6月14日 新約聖書
テトスへの手紙1:1-4「同じ信仰による、真のわが子テトスへ―幻の“涙の手紙”を託された最も信任の厚い次世代指導者」
https://youtu.be/auXIara7Y3I
先週の礼拝で「テモテへの第一の手紙」が終了した。「パウロからテモテたちへ」と次世代を担う神学生、後輩、また兄弟姉妹たちに語り掛ける手紙の次は何だろう。第一回投獄から解放されたパウロは第二回投獄までのAD64-67頃の間にしたためた。それらの手紙を扱うべきだろう。
新約聖書においては、Tテモテ、Uテモテ、テトスという順番であるが、記されたのは、Tテモテ、テスト、Uテモテの順番である。それゆえ、今日から「テトスへの手紙」から傾聴したい。
傾聴の姿勢として、わたしの置かれている「一宮基督教研究所」という場と使命を取り込んでいくべきと教えられている。つまり、一般の教会の礼拝説教というだけでなく、「神学校でのチャペル」的な位置づけである。その方が視聴者にとって特色が出て有益と思う。
さて、テトスとは一体どのような人物であったのだろう。ある学者は「新約聖書で最も謎めいた人物」と評する。それはパウロから最も信任の厚い同労者であるのに、あまり紹介や説明がないからである。
パウロの信任の厚さは、Uコリント書に九回名前が記され、Tコリント書とUコリント書の間書かれた“涙の手紙”(Uコリ2:4,12-13、7:5-16,
使徒16:1-10)をコリントの教会に届けたことや、彼がエルサレム教会への献金の仕事を任されていたこと(Uコリ8:1-24)、問題のあったクレタ島の教会の指導をゆだねられたこと(テトス1:12)から教えられる。
ウィリアム・ラムゼイは、テトスの働きの重要性に比し、この「無名性・匿名性」を推論し、テトスの「既知性」の観点から説明している。テトスはギリシャ人の父母をもっていたこと(ガラ2:1-5)もあり、使徒行伝を記したルカの親戚であったか、兄弟であったのではないかと。もしそうであれば、テトスについては説明を記す必要はなくなり、全体を最も分かりやすく説明できるとしている。
v.1aは、パウロの自己紹介である。「神のしもべパウロ」は謙遜の称号、「イエス・キリストの使徒パウロ」は権威の称号である。旧新約の関係は使徒的解釈の原理の心臓部分である。
v.1bは、「信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るため」と、パウロの召命・使命を明らかにしている。信仰の内容は、縦軸の「福音理解」とその横軸としての「倫理的実践」に反映されなければならない。この両面でバランスよくエネルギーの束としてのベクトルが健全な方向性をもたなければならない。
v.2は、「偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくもの」と基盤・源泉が記されている。わたしは、ここに、ガラテヤ人への手紙、ローマ人への手紙で議論されている「ユダヤ人問題の克服」を見て取る。福音は、ある人々が吹聴するように「ユダヤ民族の栄光とその回復」を軸とするものではなく、永遠の昔から、変わることのない神が、全人類・全民族の救い、すなわち永遠のいのち(神の国、義認と内住の御霊)を与えるために備えられたものであるとの言明である。
v.3は、「神は定められた時に」、摂理をもって、そのような「旧約解釈、すなわち福音理解」を、イエス・キリストの人格とみわざに根差すペンテコステの聖霊の注ぎ以来の宣教によって明らかにされた。
v.4は、「同じ信仰による、真のわが子テトス」とある。ここを読むと、Tテモテに記されていた偽教師問題を思い起こす。いつの時代でも、種々の運動や教えが盛衰を繰り返す。時には、アリウス対アタナシウス論争のように誤った教えが優勢を示すこともある。アタナシウスは三回も流刑にあったが、最後に勝利を収め、今日の正統的な三位一体の教えを守った。福音理解の逸脱と変質から教会の福音理解を守り、センターラインに引き戻した。
パウロは、テトスにそのような役割を期待した。テトスは、誤りに対して「和を以て貴しとなす」とする軟弱な働き人ではなかった。彼は、コリント、エルサレム、クレタという、問題内容は異なるがいわば“虎の穴”に飛び込んで“虎児”を手に入れる勇者であった。ワインを識別しうるソムリエであり、宝石の真偽を見分けうる鑑定士であった。パウロは、自らが最も大切にしていた“働き人の資質”をテトスに見出し、真の親子のような“本質的な類似性”を高く評価し、テトスの将来の役割を期待した。このような類似性をもつ次世代の働き人を育てていきたい。ICIの召命と使命もまたそにある。
2020 05 20 01神学とは何か
02神学の方法
https://youtu.be/vLF70ipEJWI
*
⑴ キリスト教教理⼊⾨
IBC三年サイクルのカリキュラム
1.導⼊:1-1
2.啓⽰:1-2
3.神:1-3
4.⼈間:2-1
5.キリスト:2-2
6.聖霊:2-3
7.救い:3-1
8.教会:3-2
9.終末:3-3
*
⑵ 第⼀部 導⼊
1章 神学とは何か
1.神学の本質
2.神学の⽅法
*
⑶神学の⽅法
@ 聖書の材料の収集
1. 関連聖句の箇所の確認 p.16-r_l.23
2. 注解書の著書の⽴場
p.16-r_l.33
3. 聖書の著者が聴衆に語っているもの p.17-l_l.2
4. 種々の聖書資料の研究
p.17-l_l.14*
*
A 聖書の材料の整理
1.
相違した状況−ひとつの主題 p.17-l_l.37
2. 相違した5%を⼀致のある95%で p.17-r_l.17*
3.
*
B 聖書の教えの意味の分析
1. 今⽇的な意味を読み込まない
p.17-r_l.25
2. この箇所の本当の意味は何か p.17-r_l.32*
*
C 歴史的取り扱いの吟味
1. ひとつの教理−歴史の中での⾒⽅ p.18-l_l.9
2.
他の神学者がどう扱ったか p.18-l_l.22*
*
D 他⽂化のもつ視点の検討
1. グローバリゼーションという現象と他⽂化の視点を参照する利点 p.18-l_l.33
2. ⽇本のバプテスト派の牧師の意⾒ p.18-l_l.36*
*
E 教理の本質のみきわめ
1. 聖書の教えは特別な状況下で記述 p.18-r_l.8*
*
F 聖書以外の資料からの光
1. 第⼀義的資料だが、唯⼀の資料ではない p.19-r_l.9
2.
神の像が何を意味しているのか p.19-r_l.21
3. ⾮聖書的学問も神学知識に貢献 p.19-l_l.27
4. 時期尚早な結論をださない p.19-l_l.42*
*
G 教理の今⽇的表現
1. ティリッヒの「相関の⽅法」 p.19-r_l.15
2.
⽣の個⼈的な次元に対する必要 p.19-r_l.36
3. ⻑さ―聖書時代から現在へのメッセージの再表現
p.20-l_l.1
4. 広さ―さまざまな⽂化、さまざな表現 p.20-l_l.15
5.
⾼さ―複雑さと精巧さ p.20-l_l.32* 6.
*
H 解釈における中⼼的な主題の深化
1. 神学に特徴を与えることの意味 p.20-r_l.15*
*
I 主題における層形成
1. 主要な論争点、副次的なポイント
p.20-r_l.23
2. 神学的主題の相対的重要性 p.21-l_l.6*
*
J 神学的⾔明の権威の度合いct01_p.86
※『キリスト教神学』第一巻 86ページ
1. 聖書の直接的な⾔明
2. 聖書からの直接の含意
3. 聖書がおそらく含意していると思われるもの
4.
聖書から帰納的に引き出される結論
5. ⼀般啓⽰から推論
6. 全くの憶測*
2020 04 29 01神学とは何か
01神学の本質
https://youtu.be/RDy0ez3SSw4
*
⑴ キリスト教教理⼊⾨
三年サイクルのカリキュラム
1.導⼊:1-1
2.啓⽰:1-2
3.神:1-3
4.⼈間:2-1
5.キリスト:2-2
6.聖霊:2-3
7.救い:3-1
8.教会:3-2
9.終末:3-3
*
※テキストに目配りしつつ学ぶため、箇所を併記、p.9-l_l.3
は9ページ左段三行目、p.13-r_l.2 は13ページ右段二行目。
*
⑵
序
1. 教理―有機的接合性 p.9-l_l.3
2. 状況―不変のものと変化する状況 p.9-l_l.6
3. ⽅法―様式と視点 p.9-l_l.31
*
⑶ 第⼀部 導⼊
序
1章 神学とは何か
1.神学の本質
*
@教理の研究としての神学
最も基本的な信仰-単純な陳述 p.13-l_l.17
注意深い、組織的な研究と分析 p.13-l_l.35 1. 聖書的 p.13-r_l.2
2. 組織的
p.13-r_l.9
3. ⼈間の⽂化の脈絡において p.13-r_l.14 4. 今⽇的 p.13-r_l.19
5. 実際的 p.13-r_l.23
*
A教理の研究の必要性
イエスへの愛だけで⼗分? p.13-r_l.41
1. 信仰者と神との関係で必須のもの p.14-l_l.5
2. 真理と経験の結びつき p14.-l_l.36
3. 競合している世俗と宗教の思想の体系 p14.-r_l.12
4. 問題点への反論と積極的アプローチ p14.-r_l.29
合衆国財務省の偽札のチェック⽅法
ct01_p.25-l.20 1.
*
B.学としての神学
1.
客観的・学的研究の対象の⼀つ p.15-l_l.5
2. 科学的知識についての伝統的な基準 p.15-l_l.16
3. 同じ論理のルール、伝達可能性 p.15-l_l.32
4. 特別な⽴場をもつ学 p.15-r_l.5 5.
*
Cキリスト教教理研究の出発点
1. 知識が引き出される資料源は?
p.15-r_l.19
2. 憲法に⽭盾するいかなる法律も無効 p.16-l_l.9
3.
聖書は⼈間の⼿によって改訂されえない p.16-l_l.34
4. オウム返しではなく、再表現・再適⽤
p.16-r_l.8
20200519_i_神学入門_04_実践神学部門
https://youtu.be/tJ4LNjbPHS8
*
4.実践神学部門.この部門は,教会の任務を遂行し,信徒の訓練を全うして,教会を文字通り神の民,キリストのからだ,聖霊による交わりとして形成するために仕える研究部門である.特に,前述した聖書学,歴史神学,組織神学の実績を総合しつつ,教会の指導,管理という実践的課題を担当し,かつキリスト教メッセージと人間の状況との間の橋渡しをしようとする部門である.このことから,″神学の冠″と呼ばれてもよいだろう.
*
そもそも神学というものは,本来,最も深い意味において″実践的″な性格を持つものである.神学が目指す真理は,生きた信仰的生の真理にほかならない.この信仰的生とは,生の一部ではなく根源的,徹底的な生であり,絶えず生成しつつその真理を現実としてあかしする歴史的な生である.このような人間における根源的,徹底的な生としての信仰的生は,うちに学への要求を宿し,学を媒介として自らを展開し,深めまた豊かにする.神学とは,まさにこのような信仰的生とかかわる学であり,信仰的生の真理を明らかにすることを本来の任務とする学なのである.
*
以上が、宇田進論稿『神学入門』を参考にした神学研究の世界の概説であるが,大事なことは,原子論(アトミズム)に終らずに,全体を有機的統一体としてつかみ,そのようなものとして研究を推し進めていくことである.つまり,不調和かつ無関係な各主題の集積として終らせるのではなく,それぞれの部門,それぞれの学科の間には相互に明確な関係があり,また相互に貢献し合っていることをますます認識しつつ,全体を生命の通った相互交流と総合へと持っていくことである.
私たちは,以上のような神学的見取図を念頭において,実際に神学研究に向かうわけであるが,特に次の点を銘記して取り組むことが大切である.
*
まず第1に,神学は現在の生ける信仰と関係しており,神学することは一つの信仰の行為であることを忘れてはならない.
第2に,神学の研鑽はキリスト者生活における一つの弟子の道(ディサイプルシップ),一つの管理職の実践(スチュワードシップ),一つの献身(コミットメント)であると言える.
第3に,神学の場はキリストの教会であり,神学はその教会に仕える学である.そもそも神学は現実の教会の中で起ったものである.その意味で神学は教会の働きの不可欠な一部であると言える.私たち一人一人も,教会の一員として神学的活動に従事するのである.正しい神学は,会衆から始めて会衆に向かい,会衆の名をもって考えていく.むしろ自らが会衆の一部として考えるものであると言わなければならない.
第4に,神学は,ただ神との対話という雰囲気の中においてのみ息づくことができるということを銘記すべきである.
*
文献について.各部門,各学科,各主題に関する全世界の文献を網羅した総合リストは存在していないし,まずは不可能である.一宮基督教研究所の「神学入門」のページを参考にしていただきたい。
20200519_i_神学入門_03_組織神学部門
https://youtu.be/fV9gz9bHznk
*
神学校での講義ビデオ、教会での礼拝説教、神学会での論文、アマゾン書店でのキンドル本刊行等々、ほぼ毎日のように紹介していっている。ビデオの蓄積等だけでも千数百あるので、視聴していただく方々も大変と思う。ただ、このペースで紹介していかないと、新たな収録紹介や刊行紹介にも支障がある。膨大な情報量にとまどわれる方もあると思うが、それぞれの必要に応じ、それぞれのペースに合わせ、適宜視聴、試読していっていただきたい。
*
3.組織神学部門.神学研究の枢要部を成す理論部門が,この組織神学部門である.普通,「教義学」「キリスト教倫理学」「弁証学」がその内容を構成している.
*
まず,「教義学」は,聖書神学から基本的材料を受け取る一方,歴史神学の収穫と洞察を受け止めつつ,キリスト教信仰の真理内容を系統的,組織的に提示する任務を負う学科である.特に次の点を重視する.第1に,福音の真理を,断片的,部分的にではなく,全体像を明らかにしようと努める.第2に,個々の教理をばらばらにではなく,他の諸教理との有機的な相互関連性の中で陳述しようと努める.第3に,キリスト教真理の有意義性と妥当性を現代という状況を踏まえながら立証しようと努める.
エリソクン著『キリスト教教理入門』はこのジャンルに入る。
*
第2に,「キリスト教倫理学」がある.教義学は,神はどういうお方か,また,神は人間のために創造者,救済者,完成をもたらす者として何をなさるのかを明らかにするのに対して,キリスト教倫理学は,人間の側が神の恵みへの感謝と神への愛から,その全存在をもって何をなすべきかを明示する.
一宮基督教研究所のチャペルでの礼拝説教はこのジャンルに入る。
*
第3に,「弁証学」であるが,大別すると次の3つの領域がある.教会内における非正統説や異端に対する弁証活動,偽りの諸宗教に対する弁証活動,そしてこの世の哲学の主張に対してキリスト教世界観ならびに人生観を弁証擁護する活動がそれである.
『霊の戦いに関するナイロビ声明』、ラッド著『終末論』、ベネマ著『パウロ研究に関する新視点:再考』、拙著『福音主義イスラエル論
T・U』、『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察』等の取り組みはこのジャンルに入る。
*
以上、参考にしていただきたい。
*
※参考資料『新聖書辞典』いちのちのことば社、宇田進「神学入門」より
【ICI新刊紹介】新約聖書『
テモテへの第一の手紙 』傾聴 : 安黒務説教備忘録 … 本日、刊行されました !
*
この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『パウロからテモテたちへ』と題し、教え子や後輩たちほ意識して語ったシリーズである。紀元1世紀の半ば、エペソ地域の牧会を任されていた次世代の指導者のひとりテモテにパウロから送られた手紙である。しかし同時に、戦後宣教師によって開拓・教会形成された多くの日本の諸教派・諸団体に語りかけてもいる。パウロが次世代の指導者たちに語りかけた「メッセージの本質」を抽出し、「今日の情況に適用」すべく傾聴した。
*
【目次】
『 テモテへの第一の手紙 』
*
■ 序
*
1:1-2
キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による真の我が子テモテへ
1:3-7
ある人たちが違った教えを説いたり―一度限りのかたちで賦与された真正な信仰
1:8-11
教師でありたいと望みながら―自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません
1:12-17 私は以前には―この上ない寛容を示し、先例にするためでした」
1:18-20
信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜く―以前あなたについてなされた預言にしたがって
2:1-7
すべての人の贖いの代価、すべての人の救い、すべての人のための祈り―敬虔で落ち着いた生活
2:8-15
アダムが初めに造られ、それからエバが造られた―ヘッドシップとフォロワーシップの再解釈
3:1-7
もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである―小さな事を忠実に
3:8-13
きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人―審査・良い地歩
3:14-16
この敬虔の奥義は偉大です―福音の良き伝染力の回復
4:1-5
ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります―健全な福音理解というワクチンの事前接種の大切さ
4:6-10 良い教えのことばで養われ―神学的に考え、適用できる奉仕者に
4:11-16
あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけない―球根は芽を吹き、花を咲かせ、神の栄光を現し得る
5:1-16
そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます―品位ある生活を送って、召されるその日の朝までひたすら主に奉仕していたい
5:17-25 よく指導している、特にみことばと教えのために労苦している長老―尊敬、報酬、訴え、罪、按手、健康管理等
6:1-10 奴隷としてくびきの下にある人―満ち足りる心を伴う敬虔
6:11-21
避けなさい、そして追い求めなさい―日々、岐路に立って
*
■ プロフィール
20200519_i_神学入門_02_歴史神学部門
https://youtu.be/ApzOuipKR3A
*
2.歴史神学部門.これは,歴史的教会の啓示信仰を歴史学的方法によって考究する部門である.特に次の3点を吟味するならば,歴史神学の研究の必然性と可能性とを理解することができる.第1に,キリスト教の根本的中心的な事柄は啓示の出来事としての歴史的事実であり,したがって,それは歴史的研究を必要とする.第2に,私たちの信仰の生それ自体が歴史と不可分であり,歴史的性質を持っている.第3に,キリスト教神学そのものが歴史的教会のなすべきことであるゆえに,神学の歴史的展開が重要な問題となる.
*
第1に,「現在の根は過去のうちに深く根ざしている」,また「教会史は現在を解明する」ということである.現在の形で私たちに手渡された「キリスト教教理」は,実は長い戦いと試行錯誤の歴史の賜物なのである.私たちはその歴史的発展の跡を知ることによって,一つ一つの教理を正しく,かついきいきと理解することができるようになる.
*
第2に,私たちは当時の歴史を知る時に,文字通り神は歴史の主であること,神がキリストの救いの福音を広めるにあたって示された摂理のわざがいかにくすしいものであるかを理解することができる.
*
第3に,歴史神学の学びは,イエス・キリストの世界性,普遍性の本当の意味を教えてくれる.
第4に,パウロは,Tコリ10:6,11で,過去の事件は私たちに誤りや悪習を避けさせてくれると言っている.
*
※『新聖書辞典』いのちのことば社、宇田進「神学入門」より
2020年6月7日 新約聖書
テモテへの第一の手紙6:11-21「避けなさい、そして追い求めなさい―日々、岐路に立って」
https://youtu.be/yOKjleOK1K0
*
今日は、「テモテへの第一の手紙」の最後の箇所である。それで、「パウロはテモテたちに何を語りたかったのか」を振り返ってみた。それは、要するに「避けなさい、そして追い求めなさい―日々、岐路に立って」ということではなかったか。
v.11で、「避け、…追い求めなさい」とパウロは書き始める。人生というのは、要するに、「岐路に立ち、幾つかの選択肢の中からひとつの道を選び続ける」連続である。ひとつの道を選ぼうとするとするとき、他の道を犠牲にせざる得ない。この犠牲を払う覚悟が問われ続ける。
文脈では、v.10「金銭を愛する生活」を避ける勧めである。しかし、「避け、…追い求める」本質には、それ以上の普遍的適用が可能である。わたしたちには、一般的な選択の道が多々ある。しかし、時には「紅海の中に」また「ヨルダン川の中に」道があったりする。
v.12a「信仰の戦い」の道は、スポーツに多くの種目があり、芸術に多数のジャンルがあるように、主に仕える道は多種多様である。ハイデッガーは「金槌は木を切るためにあるのではない。釘を打つためにある」と語った。ブルトマンは「神が意図された、その人自身になることが救いである」と記した。
では、v.12b「永遠のいのちを獲得」とは何を意味するのか。確かに、狭い意味では、永遠の御国に魂を救い入れる、いわゆる伝道や教会形成を指す。しかし、G.E.ラッドが『新約聖書のパターン』で記したように、「共観福音書の“神の国”」、「パウロ書簡の“義認と内住の御霊”」、「ヨハネ文書の“永遠のいのち”」を共通概念の視点で観察するとき、その過去性、現在進行性、未来性の次元で、また狭義と広義の“救いの意味”、その同心円性の視点から見ていく必要、そしてその“救いの本質”を普遍的に適用範囲を広げていく必要があるのではないか。
テモテは、v.12c「すばらしい告白」をしていた。初代の時期にはまだ整えられた『キリスト教教理入門』書は刊行されていなかった。しかし、テモテはパウロから聞き学んだv.13-16「主イエス・キリストの人格とみわざ」を軸とした「健全な福音理解」を習得していた。パウロはこのような次世代の働き人に期待していた。
健全な福音理解とともに、v.17-21「健全な倫理的生活実践」に期待していた。V.17富むことは罪ではない。V.10過度な金銭愛が罪なのである。神からの財の管理人として、み旨にそって活用することは善である。
v.19「来るべき世において立派な土台」「蓄え」「まことのいのち」は、救いと報いの教理を教えられる。バーフィンクは言う。「キリストの贖いは救われるすべての人に平等である。しかし、その栄光の輝きは空の星のように多彩である」ダニエル12:3。C.S.ルイスも「わたしたちの現在の生の意義と新天新地の生との関係について、我々は仔馬をもらい乗りこなす練習をしている子供のようなものである。それは、新天新地の厩には鼻息の荒い競走馬がそれを乗りこなす騎手を待っているから…」。アーモンド・アイは八冠なるだろうか?
その映像をみながら、わたしもまた新天新地の厩に思いをはせる。わたしにも、あなたにも、乗りこなす競走馬が待ち受けている。
20200605 : 信徒のための神学入門 コース A. 安黒務 足跡編
20200519_i_神学入門_01_聖書学部門b_二つの逸脱傾向への戒め
https://youtu.be/6PRoh372TUA
*
マルティン・ルーサー・キング牧師の公民権運動以来の規模で、米国全体で黒人差別撤廃を希求する運動が再燃しているようです。コロナ・ウイルス感染による死者の片寄り、不景気による特定の層へのしわ寄せという社会構造的問題が背景にあり、差別主義的な警官の行為がそれらの不満に火をつけ、見識のない大統領がまた火に油を注ぐという悪循環に陥っているようです。
この人種差別問題を神学的に考える際に、エリクソン著『キリスト教神学』第三巻の「第五部 26章 人類の普遍性、第一節
全人種」と Erickson, ”The Word Became Flesh – A Contemporary
Incarnational Christology”(第二部 受肉キリスト論の問題、7章 社会学的問題
⑵黒人キリスト論)は参考になると思います。新聞やテレビでは、「白人の福音派教会は、黒人に対して差別主義的な体質をもち、そのような現大統領を支持している」との論調がみかけられますが、米国福音派主流を代表する組織神学者のひとつりであるエリクソンの著書に目配りしますと、彼が黒人差別問題を含む数多くの差別問題に、神学の視点から取り組んでいることを教えられます。根本主義者を含めてみられがちな福音派においては、このような問題におても多彩なグラテーションがみられ、“社会意識に目覚めた、良心的なクリスチャン、牧師、神学者等”も多々見られるということです。
元々は、19世紀のリベラル神学の興隆への対抗として極端に振れた根本主義神学の問題点克服版として展開してきた「福音主義神学」でした。リベラル神学からも学びつつ、根本主義の課題の克服に取り組む、いわば両極に振れた振り子の中間的位置にある「福音主義神学」がジャーナリズムの対照法で、根本主義と福音主義が”十把一絡げ”に不当に扱われているように感じています。
秩序ある抗議運動に対して、警備にあたる警官たちがひざまづぃて、差別の犠牲者に一緒に哀悼の姿勢を示すことは”美しい一枚の絵”のように受けとめました。
そのような意味で、エリクソンは、米国の宗教社会学者のピーター・バーガーの示す、神学軸と社会学軸の複眼的視点から、社会に有用な神学の形成に取り組んでいる神学者であると思います。
今日のビデオ講義―【神学入門_01_聖書学部門b_二つの逸脱傾向への戒め】は、聖書学部門の聖書解釈法で代表的な二つを扱っています。ひとつは、リベラル神学からトレルチの歴史的方法、もうひとつは根本主義神学からディスペンセーション主義聖書解釈法です。そして、中間的な「福音主義の聖書解釈法」としてG.E.ラッドのバランスのとれた聖書解釈法を提示しています。
以下、ビデオを参照してください。
20200603
【書籍紹介】ヘルマン・ヘッセ著『庭仕事の愉しみ』V.ミヒェルス編、岡田朝雄訳
*
今日は、友人より本が届いた。彼も人生の秋なのか、家の中を、また家屋、建物、倉庫を片付けているようだ。先日、電話があり、「本があるんだけど、いらないかな…」。わたしは、第一図書室(母屋の玄関の間と座敷)に13棟の本棚に続き、農業倉庫を片付けて15棟の本棚の第二図書室を作ったばかりであったので、「喜んでもらいます」と返事した。
その中に、ヘルマン・ヘッセの本が入っていた。彼の庭仕事との関わりについての記述があり、共感するところが多かった。わたしの召命(Calling)は神学教師なのであるが、神学の仕事と庭仕事は似ているので、教えられるところ多々ある。数年前の庭は「茫漠として何もなかった」。しかし、今はカラフルな絵の具のバレットのようになった。
ヘッセは「庭にて」のはじめに「庭をもつ人にとって、今はいろいろと春の仕事のことを考えなくてはならない時期である。そこで私はからっぽの花壇のあいだの細道を思案にふけりながら歩いて行く」と書き始める。わたしも、そうであると思った。毎朝、五時に起き出だし、庭を散歩する。朝日が昇ろうとするその時間帯に、カメラの中に数十枚の草・花・木々のスケッチを収める。それをPCの画面のスライドショーで一日楽しむ。楽しみつつ、日々微妙に変化する草花の様子を心に目に描きとめる。本当に、芽を吹き始めてからの二週間の動きは早い、成長の速度は新幹線なみである。冬場を楽しませてくれたビオラはこのところの熱気にやられてしぼんでしまった。黄カナシナはほぼ満開、赤い高嶺ルビーも盛り、アジサイはうすみどりの蕾の先が青色に染まりつつある。季節の変わり目である。
そして、園の管理人の目にはすでに立ち枯れた園が目に入っている。次の下拵えの時間がそこまで来ている。神学の園もまた同様である。次の下拵えの季節である。大きな箱にひと箱、貴重な本を送ってくれた友に感謝している。
20200519_i_01a_神学入門_01_聖書学部門
https://youtu.be/_cOWzrVcJ18
*
今回のビデオ講義は、コロナ・ウイルス感染防止のため、Xsplit のCamera、Broadcaster, Express
Video Editor を活用し、【YouTube
ライブ配信講義】(予備に、BD-R)をPCプロシェクターとスクリーンで映写し、講義を試みたものです。第二波、第三波が起きた時にも活用したいと思っています。
では、ICIのアップロード・プロジェクトの一環のひとつとして、それらの講義を如何に紹介していきたいと思います。分かりやすい講義ですので、信徒の皆さんにも参考にしていただけたら感謝です。
*******************
【20200519_i_01a_神学入門_01_聖書学部門】
*
神学生の皆様にとりましては、三年サイクルで学ぶ、エリクソン著『キリスト教教理入門』の最初の講義にあたります。わたしの自己紹介につきましては、本書の最後、491ページにありますので割愛します。
三年間のスケジュールの最初としまして、「鹿を追う者、森を見ず」ということにならないように、エリクソン著『キリスト教教理入門』のテキストに入る前に、神学研究全体を眺望し、その中に本書の学びを位置付けることにしましょう。
*
一口にキリスト教神学の研究と言っても,その領域はかなり広範囲に及んでいます.ことに近年,学問研究の発達は専門の分化をますます促してきており,キリスト教神学もその例に漏れず,その課題を掘り下げ,その任務を誠実に果すために,いろいろな部門に分れ,学科目も驚くほど多岐にわたっています.
*
このようなキリスト教神学の領域全体の見取図を示し,研究の道案内を提供するものが,「神学入門」と呼ばれているものです.今日より、⑴聖書学部門、⑵歴史神学部門、⑶組織神学部門、⑷実践神学部門の四回に分けて学んでまいりましょう。
以下、ビデオを参照してください。
*
【日毎の、「一宮基督教研究所」の講義・講演・説教録】 (Daily - 1 Lecture, Weekly - 7
Lectures)
https://www.youtube.com/watch?v=_cOWzrVcJ18&list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
2020年5月31日 新約聖書
テモテへの第一の手紙6:1-10「奴隷としてくびきの下にある人―満ち足りる心を伴う敬虔」
https://youtu.be/OGnxTJCrSEQ
今朝は、ペンテコステ、五旬節の礼拝の日である。五旬節(ペンテコステ)とは、50日目の祭日といあう意味であり、大麦の立ち穂に鎌が入れられ、初穂がささげられた日から50日目、大麦の収穫の終わりを意味し、穀物収穫の恵みに対する感謝を表現した。使徒行伝の2:1では、キリストの復活と昇天の後、五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており、天からのしるしを受けた。聖霊が下り、新しいいのち、力、そして恵みがもたらされた。それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる。
ペンテコステの聖霊の注ぎといえば、エリクソン著『キリスト教教理入門』では、「第30章 聖霊に関する近年の諸問題」の「第二節
聖霊と他の世界宗教」p.310-313
のエイモス・ヨングの研究を思い起こす。要点をかいつまんで言えば、使徒2:17「すべての人に」聖霊を注ぐとの言及を基盤として、「御霊の注ぎ出し」は、バベルの塔からの言語の混乱を贖う。言語の贖いは文化の贖い、文化の贖いは諸宗教の贖いへと適用されていく、という主張である。これらの主張には賞賛すべき点が多くみられるのであるが、その「解釈と論理の両面において」多くの飛躍がみられる。その背景として、エリクソンはポストモダン的な文化の影響、つまり「名詞よりも動詞を好む」傾向をあげている。そして「この前提の正当性を立証する必要」を指摘している。
わたしは、ここに今日における聖霊運動の教えと実践が内包する課題をみている。そしてそれらの課題となる兆候に対し、適切な「神学的ワクチン」の小冊子の必要性を感じ取っている。すでに、数々の兆候に対して神学的ワクチン開発に取り組んできたICIにはこのような新たな責務においても貢献を意識している。このペンテコステの日にそのことを思い起こさせられている(黙示録1:10)。
*
「パウロからテモテたちへ」の今朝の聖書箇所は、Tテモテ6:1-10である。パウロは、1-4章までで、健全な福音理解と健全な倫理的生活の大切さを説いた。5章から初代教会において重要かつ具体的な課題を取り上げ、その実践的原理・原則を伝授している。第一問題は「年老いたやもめ(未亡人)への経済的扶助」、ダ第二の問題は「長老(聖職者)への報酬」であった。そして、今日は第三の問題「奴隷のあり方」であった。
ローマ帝国においては、その拡大に合わせて奴隷の数は増大し、帝国人口の三分の一は奴隷であったという統計もあるほどである。戦争や貧困、経済的没落、災害等で身を落とす者も多くあった。奴隷には、農業奴隷や建設奴隷もいたが、高度な専門的知識や技能をもつ医師、家庭教師、秘書、家事清掃等の家庭内奴隷もいた。行政官職はローマの貴族が担っていたが、彼らを支える高度な行政事務に携わる下級官吏もいた。彼らの中からは、解放奴隷となり皇帝のファミリーの一員となったり、学者や作家として優れた業績を残した者もいた。
v.2に「主人が兄弟」とある。創造の視点、福音の視点からみれば、キリストにあっても「主人も奴隷もない」、ともに同じ主に仕える兄弟姉妹である。しかし、1cの現実社会では、身分の構造があり、そのような「時代性、文化性、民族性」の存在する社会で、「福音」を如何に生きるべきなのかが問われている。
エリクソン著『受肉キリスト論』の中に、米国の奴隷解放問題に視点を置いた「黒人神学」の歴史的展開への言及がある。また、『キリスト教神学』第三巻の「26章
人類の普遍性」に「人種問題」、「白人優位主義者」に迎合した聖書解釈と歪んだ神学形成の歴史が記されている。今日でも、オバマ大統領の人種問題に対する見識とトランプ大統領の人種問題に対する見識とでは、180度の対照がみられ、キリスト教会の白人の福音派系クリスチャンの多くが、このようなトランプ大統領を支持しているといわれる。おそらくパウロは天国から見下ろして、赤面していることだろう。
ローマ帝国における宣教と教会形成において、パウロは福音の本質を「キリストにあって、自由人も奴隷もない」と繰り返している。しかし同時に、パウロは「時代性・文化性」をわきまえた指導に余念がない。おそらく教職者の中には「v3
違った教え」を唱導する者もいたであろう。奴隷制度の撤廃に言及する過激な者もいたかもしれない。しかし、パウロは純粋な福音を一歩もゆずることなく、しかも具体的な対応においては現実主義者であった。
パウロ自身も、ユダヤ主義者から「帝国に騒乱を起こす」者として訴えられていた。パウロは、福音の純粋性が確保されることで、マルティン・ルーサー・キング牧師のように「奴隷解放」の夢を、将来に望み見ていたのであろう。
後半のv5-10は、宗教を「利得の手段」と考える輩の問題を取り上げている。旧約的にいえば、「バアル・アシュタロテ」の豊穣の信仰であり、今日的にいえば、「健康と富の神学・繁栄の神学」に類似を見せられる。それらのあるものは、「羊の皮を被ったオオカミ」つまり「キリスト教用語と儀式を被ったシャーマニズム信仰」の類である。教会の教勢と献金だけを尺度として評価していく場合、この傾向を模倣することが一番手っ取り早い。それは、第三世界のリバイバルでみられるひとつの傾向でもある。先進国にも、楽しませるエンターテインメントと「金(金銭愛)の子牛」の周りで踊り賛美する傾向の礼拝は増えてきているように思われる。
v.7
我々は、裸でこの世に生まれ出た。そして裸で去っていく。人生とは、その短い生の巡礼である。旅においては、荷物は少ない方が良い。身軽な方がフッワークが軽くて良い。富んでいても貧しい者のように生きることが大切である。シンプル・ライフ・イズ・ベストである。
v.9-10
「金銭を愛する」ことは、誘惑と罠となりやすい。金銭には価値がある。それは労働の汗水に対する対価である。潤いのある生活の糧である。シャロームな老後の保障である。他者や社会に迷惑をかけず自立した生活、さらには困っている隣人を助ける手段である。しかし、「金銭そのものへの愛」は、危険である。「金銭愛は、海水を飲むことに例えられる。それは、飲めば飲むほどに喉に激しい渇きを引き起こす」のである。金銭「愛」は、薬物中毒症状を引き起こす危険がある。初代教会には、富める信者も貧しい信者もいたであろう。イエスが富める青年に「あなたは金銭愛の奴隷となっている。それが神とあなたの間の妨げとなっている」と指摘されたように、富める者は神から一時的に預かっている富を神のみ旨に従って管理するように教えられている。豊かさは罪ではない。富める者にとっても、貧しいものにとっても「麻薬中毒症状を示すような金銭愛」は、苦痛で自分を刺し通す結果をもたらすとのパウロの忠告を心に刻んでおきたい。
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【日毎の、「一宮基督教研究所」の講義・講演・説教録】 (Daily - 1 Lecture, Weekly - 7
Lectures)
https://www.youtube.com/watch?v=_cOWzrVcJ18&list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
2020年5月18日『日本福音主義神学会中部部会報第20号』が発行されました!
但し、コロナ・ウイルスの影響で春季公開講演会は七月に延期となりましたので、文書版の配布はその時となります。文書版に先立ち、JETSサイトへの掲載依頼が届きましたので掲載させていただきました。日本福音主義神学会中部部会と東海神学塾との共催の講演会(2019年5月21日)の記録であるわたしの論稿は、広く提供したいとの願いが聞き入れられ「kindle版」での同時刊行となりました。Kindleの規約の関係で、pdfでの公開掲載はできませんので、JETSサイトでは梗概のみの紹介、論稿はkindle版へのリンクというかたちで掲載させていだきました。関心のある方はアマゾン書店で閲覧、また購入してください。
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<目次>
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_sections_central.htm
●巻頭言…檀原久由
●ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価(中部部会と東海神学塾との共催の講演会)…安黒 務
●超高齢化社会と教会(中部部会・秋季公開講演会)…片岡由明
●教会の本質をなすディアコニアによる教会形成…相馬伸郎
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『ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』
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この小冊子は、「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価」と題して開催された日本福音主義神学会中部部会と東海神学塾との共催の講演会(2019年5月21日)の記録である。そして、その講演はその直後からユーチューブ・サイトに公開掲載され多くの視聴者を得てきた。講演後「日本福音主義神学会中部部会報第20号(2020年5月18日発行)に掲載したいので文書にまとめてほしい」との依頼を受け論稿としてまとめた。ただ文書版は発行部数がきわめて限られているので、了解を得て広く世界各地の読者に提供するため
Kindle本(電子版)としても刊行させていただくことにした。
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【目次】
●表紙
●前文
『ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』
― 福音主義イスラエル論 Part U ―
●序
●1.
ディスペンセーション主義の教え[5]―"聖書解釈法・教会論・終末論"の分析
(1) 土台 :
ディスペンセーション主義者と使徒たちの"聖書解釈法" の対照
(2) 建物 :
ディスペンセーション主義者と使徒たちの"教会論"の対照
(3) 屋根 :
ディスペンセーション主義者と使徒たちの"終末論"の対照
●2.
キリスト教シオニズムの実践―"土地・エルサレム・神殿"回復の分析
(1) 外円 :
キリスト教シオニストと使徒たちの"土地"回復の教えの対照
(2) 内円 :
キリスト教シオニストと使徒たちの"エルサレム"回復の教えの対照
(3) 中心 :
キリスト教シオニズムと使徒的"神殿"回復の教えの対照
●3.
ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムの誤った解釈例と誤った倫理的実践例
(1)
ダニエル書9章27節「忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる」の誤った解釈
(2)
誤った「聖書解釈と倫理的実践」に関する、ナイム・アティーク[16]による指摘
@ 旧約聖書解釈と倫理的実践
A 新約聖書―キリストこそが鍵
B
新約聖書―使徒たち(また新約著者たち)による「キリストの人格とみわざ」を軸にした旧約再解釈の原理・原則
※(既述部分と重複するので、詳述は割愛)
●4.
評価―ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの倫理的実践を「福音主義神学の座標軸」に位置付ける
●結語
●あとがき
●関連する講演・講義ビデオのリンク集
●プロフィール
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PS
この文書は、エリクソンやラッド、宇田進、ジョン・ストット等の福音派代表的リーダーと意見を同じくする内容で、長い年月を経てまとめたものです。それは、二千年の教会史・教理史にみられる通り、多くの運動と教えに右に左に翻弄される状況を憂い、エリクソンが教えているように、福音派の「福音理解」センターラインに沿って歩み続ける一助を提供することを祈念してまとめたものです。
ただ、諸教会の中では、「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に熱心な方もありますので、その方々をむやみに傷つけることのないよう、神さまの知恵をいただきつつ慎重に活用してくださるようお願いします。
2020年5月25日
【ICI新刊紹介】『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察: 伝統的福音主義の視点から』安黒 務
(著)を、アマゾン書店Kindle版にて刊行しました!
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結婚40周年記念プロジェクトということではないのですが、これまでの取り組み・収穫を整理し提供しようとしています。その一環として、2020年5月25日
に、本書をアマゾン書店Kindle版にて刊行しました!
文書版の購入が難しい方は電子版でご一読いただければ感謝です。文書版『福音主義神学』49号をご希望の方は、aguro@mth.biglobe.ne.jp
にご注文ください。残部少々、税込実費価格1650円、送料サービス、郵便振替用紙同封、後払い、でお送りします。
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本書は、「NPPを基盤とした"N・T・ライトの義認論"に関する一考察 ―
伝統的福音主義の視点から」と題して執筆した、日本福音主義神学会の『福音主義神学』49号所収論文(2018.12刊行の部数約800部限定の文書版)を、編集委員会の了解を得てアマゾン書店キンドル本(世界各地へ提供可能な電子版)として刊行したものである。
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【目次】
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●まえがき
『NPPを基盤とした“N・T・ライトの義認論”に関する一考察 ― 伝統的福音主義の視点から ―』
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●序
@『使徒パウロは何を語ったのか[1]』とは如何なる本なのか
Aライトが否定している"宗教改革の義認論の前提[3]"とは何か
B「前提が間違っていると、…結論は間違ったものとなる」
Cテクストの意味の理解のために、社会学的視点と神学的視点の両者が必要となる
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●第一部:「宗教改革の義認論」―神学軸方向に強化されたベクトル
A.ライトは「宗教改革の義認論」を手厳しく批判するところから始めている
B.ライトの義認論が批判している「宗教改革の義認論」の鍵となる特徴とは何か
C.福音主義義認論の座標軸において、「宗教改革の義認論」の評価は二つに分かれている
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●第二部:「NPPを基盤としたライトの義認論」―社会学軸方向へ強化されたベクトル
A. 「NPPを基盤としたライトの義認論」の背景とは何か
@ライトの義認論は、過去二百年のパウロ研究の中で生まれてきた"二つの問い"を背景としている
Aライトの義認論には、NPP諸文献で繰り返されている"三つの主張"が含まれている
B.「NPPを基盤としたライトの義認論」とは何か
@ライトの義認論には"二つの前提"がある
Aライトは、福音とは『誰が主なのか』という問いに答えるものであると言う
Bライトは、用語・概念の五つの再定義に基づき「義認の教理」を再解釈している
C.福音主義義認論の座標軸において、「NPPを基盤としたライトの義認論」の評価は二つに分かれている
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●第三部:福音主義義認論の座標軸における、「二つの義認論」の神学軸・社会学軸のベクトル分析
A.伝統的な福音主義義認論を基盤とする者として「NPPを基盤としたN・T・ライトの義認論」から学ぶべき三つのベクトルとは何か
@パウロの著作について、歴史的な文脈の中で新鮮な観察をなしている
Aパウロの福音宣教に関し、旧約聖書の背景に注意を払っている
Bパウロの義認の教えに関し、歴史的・契約的文脈に注意を払っている
B.伝統的な福音主義義認論を基盤とする者として「NPPを基盤としたN・T・ライトの義認論」を批判して読むべき六つのベクトルとは何か
@E・P・サンダースの「カヴェナンタル・ノミズム」研究にかなり依存している
A「律法」についてのパウロの視点は出来上がったと主張している
B「義認」について救済論ではなく教会論が主題であると主張している
C「神の義」という用語について不満足な説明に終始している
D「信仰」を義認の益を受け取る手段としてみていない
E義認と「行いによる最後の審判」の扱いに問題がある
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●第四部:福音主義義認論の座標軸における「二つの義認論」に対する総括的評価
A.問題の本質は、サンダースの『カヴェナンタル・ノミズム』理解にある
@E・P・サンダースの基本的な主張は本当に確立されているのか
Aペラギウス主義問題は検討されているが、半ペラギウス問題は検討されていないのではないか
Bサンダース、ダン、ライトの三層構造の「NPPを基盤としたライトの義認論」の主張は脆弱なのではないか
B.サンダースの脆弱な命題からの構造的影響は甚大である
@サンダースの脆弱な命題には"not A but
B"構造が宿っている
Aサンダースに宿る構造的問題の、ダンの「律法」「律法の行い」理解への構造的影響
Bサンダースとダンに宿る構造的問題の、ライトの義認の用語の再解釈・再定義への構造的影響
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●結語
●あとがき
●プロフィール
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エリクソン著『キリスト教教理入門』においては、「第七部 救い」の「第34章 救いの始まり:客観的側面」の「第二節
義認」の「⑵法廷的義認の教理への反論」のp.354-355に、ベネマの著書『パウロ研究に関する新しい視点:再考』やわたしの上記の論文と同様の分析・評価が記されている。関心のある方には参考にしていただきたい。
2020年5月27日
「要するに、あなたは“マグロ”なのよ! 止まったら死んでしまうのよ!」
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「結婚40周年を記念してどこかに旅行でもできたらいいね」と言っていたのだが、どうやらコロナ・ウイルス騒ぎで吹き飛んでしまったようだ。「40年間走りに走り続けてきた(ピリピ3:12-14)のだから、今年は安息の年、ヨベルの年にしたいね」と言っていたのだが、『キリスト教教理入門』刊行後、手持ち無沙汰となり、三月にはこれまでの説教備忘録のキンドル本化、四月にはXsplitによるビデオ配信研究とその実践、五月にはVideo
Studio
2020による蓄積してきた千数百のビデオ講義の編集アップロード、六月以降は十数冊のラッド著作集と二十数冊のエリクソン著作集の目配り研究とその紹介の取り組みが待ち構えている。
家内からは、「ヨベル(安息)の年にしたいと言っていたよね」と言われて説明の言葉に窮した。それでよくよく考えてみて分かった。「これはわたしの習性なのだ」と。働きバチは休んでいるだろうか。働きアリは遊んでいるだろうか。彼らに「休みなさい」「遊んでいなさい」と命令すれば、彼らには苦痛となるだろう。
わたしの古い聖歌には、汚いカタカナの字で「アグロ」と名前を書いていた。教会学校の子供たちにはその字は「マグロ」と読めた。それで「マグロ先生、マグロ先生」と呼ばれていたことを思い出す。家内に言わせれば「要するに、あなたは“マグロ”なのよ!
止まったら死んでしまうのよ!」
その昔、山中良知先生から「創造における労働、堕落における労働、贖いによる安息における労働」というような小冊子をもらった。新天新地において、労働がないのではなく、「安息における労働」があるのだと。そのような特質を持つ労働が今の世界に侵入してきているのだと。
それで教えられた。今年は、ヨベルの年、つまり「安息における労働」の年となるのだと。そういえば、2003年の『キリスト教神学』翻訳・刊行の時の「生野銀山の狸掘り」のように「顔に汗を流して」(創世記3:19)奉仕していない。今年は「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた」(箴言8:30)とあるように奉仕している。
今年からは、奉仕の特質をヨベルの年月として、奉仕生涯の秋の収穫を「パウロからテモテたちへ」の文脈の中であらゆるものを分かち合っていきたいと考えている。親が見守る中、幼児が砂遊びに興じるように、児童が川魚捕りに夢中になるように。
2020年5月25日
結婚40周年記念日です!
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恥ずかしながら、今日はわたしと家内の結婚記念日である。1980年(昭和55年)5月25日(ペンテコステ)に結婚した。覚えやすい日付なので忘れたことがない。
あれからもう40年経過したことになる。イスラエルの民の荒野の旅程の期間と同じ長さである。ただあまり、実感がない。40時間前にあの関西学院大学正門右にあるランバス記念礼拝堂で結婚したかのように、あの情景が瞼の中にある。あそこから、今ここにタイムスリップしてきたかのように感じるのが不思議だ。
振り返れば、あの時期、神学校を卒業し、母校の助手として教えはじめて二年目であった。手持ちの全財産は短期間小学校教師を務めた時の貯金25万円だけだった。家内は大学を卒業して二ヶ月弱であった。周囲は恐らく経済的なことを心配して、皆「早すぎるのではないか」と反対だった。ただ、院長のスンベリ夫妻だけが賛成してくださった。「茶碗二つと箸二膳あれば大丈夫。住まいは神学生の部屋二つの間の壁をぶち抜いてあげるから…」と長年私たちを導き、養い育ててくださった霊の父母のように、青二才のわたしたちの将来を期待し後見人のようになってくださった。
一文無しのわたしたちのため、わたしたち双方の両親を説得し、沖縄への新婚旅行をキャンセルさせ、米国での研修へと道を開いてくださった。スンベリ夫妻は、いつも手を繋いで関学のグランドを周りながら、私たちの将来のために祈ってくださった。小学校教師を辞する際も、母校の神学教師としての抜擢の際も、米国研修の際も、いつも傍らに立って祈り支えてくださった。
そのような祈り手が私たちの傍らにいてくださったおかげで、私たちの今日があるのだと、思い出すごとに感謝に溢れる。
今年は、その結婚40周年記念の年となった。いつもは結婚式のビデオを二人で視聴して祝うのであるが、今年はアルバムをスライドショーにして眺めた。教会や神学校、同窓生等の多くの方の助けで無事結婚式をあげられた。そのことをも皆様方に感謝したい。
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関心のある方に、下記のビデオとアルバムを視聴いただければ幸いである。
【結婚式ビデオ】8ミリ収録版をDVD版にしてもらいました。
https://youtu.be/Wb5erypGbNs
【結婚式・披露宴スナップ集】
https://1drv.ms/u/s!ArfZDnyXz4lPius7bEQCOYLhb_HR0A?e=dzNErP
2020年5月24日 新約聖書
テモテへの第一の手紙5:17-25「よく指導している、特にみことばと教えのために労苦している長老―尊敬、報酬、訴え、罪、按手、健康管理等」
https://youtu.be/cvnEuv38nfI
*
今朝は、ペンテコステ、五旬節の礼拝の日である。五旬節(ペンテコステ)とは、50日目の祭日といあう意味であり、大麦の立ち穂に鎌が入れられ、初穂がささげられた日から50日目、大麦の収穫の終わりを意味し、穀物収穫の恵みに対する感謝を表現した。使徒行伝の2:1では、キリストの復活と昇天の後、五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており、天からのしるしを受けた。聖霊が下り、新しいいのち、力、そして恵みがもたらされた。それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる。
ペンテコステの聖霊の注ぎといえば、エリクソン著『キリスト教教理入門』では、「第30章 聖霊に関する近年の諸問題」の「第二節
聖霊と他の世界宗教」p.310-313
のエイモス・ヨングの研究を思い起こす。要点をかいつまんで言えば、使徒2:17「すべての人に」聖霊を注ぐとの言及を基盤として、「御霊の注ぎ出し」は、バベルの塔からの言語の混乱を贖う。言語の贖いは文化の贖い、文化の贖いは諸宗教の贖いへと適用されていく、という主張である。これらの主張には賞賛すべき点が多くみられるのであるが、その「解釈と論理の両面において」多くの飛躍がみられる。その背景として、エリクソンはポストモダン的な文化の影響、つまり「名詞よりも動詞を好む」傾向をあげている。そして「この前提の正当性を立証する必要」を指摘している。
わたしは、ここに今日における聖霊運動の教えと実践が内包する課題をみている。そしてそれらの課題となる兆候に対し、適切な「神学的ワクチン」の小冊子の必要性を感じ取っている。すでに、数々の兆候に対して神学的ワクチン開発に取り組んできたICIにはこのような新たな責務においても貢献を意識している。このペンテコステの日にそのことを思い起こさせられている(黙示録1:10)。
Tテモ5:17には、「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい」とある。先週は、教会内における「年老いたやもめ(未亡人)」の世話に関する原則と実践が初代教会において大切な仕事であったことを学び、その原則の今日的適用について考察した。今朝は、家の教会の集合体であった初代教会の教職者また指導者の関する原則と実践である。
パウロは、ユダヤ教のシナゴークの長老が聖書の研究に専念できるよう配慮されていたのに習って、「みことばと教えのために労している長老」の重責とそれに専念できるように報酬を考える原則を提示している。パウロ自身はあえてこの権利を行使しなかったのであるが、他の教職者に対しては十分な配慮をすることを求めた。それは神の民の霊的・神学的水準を健全に維持していく上で欠かすことができないことを確信していたゆえである。
パウロは、教職者に対する待遇と生活保証への配慮を述べた後、「問題のある長老の扱い」についてのルールを定めている。5:19で、「長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。5:20
罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。5:21
私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。」
パウロは、教職者が罪で告発された場合の対応を定めている。その訴えがフェイク・ニュースによるものなのか、客観的な犯罪―神学的逸脱、また道徳的逸脱―を構成するものなのか、公平・公正に吟味することを求めている。今日でも、「先入観」「えこひいき」による告発、裁判、失脚は後を絶たない。身内や仲間意識の中では「甘く」、意見や主張の異なる人に対しては「厳しすぎる」判断・判決がくだされることが多い。パウロは、そのような行き過ぎをいさめている。
よく起こりえた問題として、5:22
「だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい」があげられている。いつの時代でも若手発掘と育成とは喫緊の課題である。ただ、適材適所であるべき人事は棚に上げられ、身内・仲間優遇人事が横行するのは世の習いである。その教職者の人格・識見・造詣の深さとは無関係に人脈優先で人事は決定されることもある。しかしパウロは、いわば「氷山の原理」を勧める。見えている水面上の十分の一、見かけや経歴やパフォーマンス、世渡りのうまさで判断してはならない。「5:24
ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。5:25
同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません」とあるように、水面下の十分の九の身体検査・内実審査を求めている。医者が医学を学ぶことなしになれないように、「神学への造詣の深さもまた一日にして成らず」である。長い奉仕生涯で教職者の評価は、「内実の準備」がどれくらいできているのかで決定される。パウロは、次世代を担うテモテたちに、健全な福音理解と健全な倫理的実践の原理を「やもめ問題」「長老問題」という具体的事例の中で伝授している。我々一人ひとりは「発展途上」のもの、「永遠の神学生」たることを忘れてはならない。
2020年5月17日 新約聖書
テモテへの第一の手紙5:1-16「そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます―品位ある生活を送って、召されるその日の朝までひたすら主に奉仕していたい」
【ビデオ収録版】音声が小さいので、オーディオ版を下記にリンクさせていただきました。合わせてご視聴ください。
https://youtu.be/1xvVI7UW0Zo
*
戦後、宣教師の来日を契機に、伝道と教会形成は活発化した。その時期に宣教師とともに労し、伝道と教会形成に明け暮れた教職者の多くが老年期に差し掛かっている。また、その後の第二期、第三期の教職者も「パウロからテモテたちへ」と駅伝のタスキを繋ぐ時期を迎えている。わたしの同期や後輩の教職者も、退職金や慰労金を受け取る年齢となってきた。
今朝の箇所で、パウロは財政に限界をもつ教会が生活扶助を行うべき「本当のやもめ(未亡人)」の基準・原則を提示している。これは、アガペーの愛で無秩序・無原則となりやすい教会の傾向と自助努力の押し付けと自業自得の原則の傾向という両極端を避け、社会的状況の客観的な分析と評価のもとで、主にある知恵を尽くし、教会の財的資源を有効活用にすべきとする、教会におけるあらゆる社会的倫理的活動へのパウロの普遍的原則の提示でもある。
個人的な証しをすれば、わたしは自身の召命と賜物とは何かを探し求め続け、最終的に郷里の両親のもとに戻り、召されるその日まで「心置きなく神学教師としての召しと賜物」を追求する道に導かれた。
我々一人ひとりにとって、一番大切なことは、「品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できる」(Tコリント7:35)環境に生きることである。同じ神、同じ主、同じ御霊が我々にみこころのままに一人ひとりそれぞれに賜物を分け与え、キリストのからだ全体のために機能を果たさせてくださるのである(Tコリント12:11-12)。内地留学前の10年間の神学教師奉仕に加え、共立基督教研究所の内地留学後、家業を手伝いながらではあったが、フルタイムの神学教師の召命感を心の中心部に据え、神学教師として、合わせて40年間全力疾走できたことは大きな恵みであった。そして、さらに願うことは「召されるその日の朝まで」この召しと賜物に応答して走り続けたい。坂本龍馬が言ったように「倒れる時は、布団の上で上向きではなく、ドブ川であっても前のめりに倒れたい」。
今朝の箇所、v.3, 5, 16 で、「本当のやもめ」とある。V.9
には「名簿に載せるやもめ」の原則・基準が述べられている。パウロの社会的観察力、分析評価の能力の高さ、バランスのとれた倫理能力に教えられる。というのは、宗教者はとかく極端に走る傾向があるからである。「神学入門」論稿で宇田進師が言われているように「キリスト教は単なるヒューマニズムではない。キリストの贖いに基づいた倫理である」。V.8
には「信仰」と「世話」の表裏一体性が説かれている。イエスも、ナインの未亡人の息子への配慮。二レプタささげた未亡人の信仰の称賛。使徒行伝のはじめには、エルサレムでの未亡人への配給問題での七人の執事の任命。ヤコブ書でもみなしごと未亡人への配慮が記されている。
関西学院大学時代、「社会保障論」の講義で「歴史的に教会は困窮する人々の救済活動の主人公であった。戦争や大災害等を経て、教会の能力を超えた困窮に対応するために、国家がそれに対応すべく、国家レベルでの社会保障論が発展してきた」と学んだ。
今日の、核家族化、少子高齢社会の時代状況の中で、我々は如何に生きるべきなのか。今日は、社会保険税等の徴収もあり、さまざまなレベルで医療と老齢者介護のシステムが整備されてきた。パウロは、まず家族に、次に身内である親族、そして最後に教会が世話するように指導している。我々は、今日の状況に合わせ、家庭と病院と、その間にある社会的ケア機能をも活用し、老後の世話を最良のかたちで提供していくべきではないか。
わたしもまず自助努力の原則は、聖書の教えるところだと思う。伝道と教会形成に携わりつつ、老後の備えもしていくことは大変なことである。多くの同労者たちは、生活も老後の備えをもつぎ込んで、その召命に応えようととりくんでいるからである。ただ、だからといって甘えはゆるされない。困難の中で、バランス感覚をもって、できるだけ教会に負担をかけないかたちで、老後をすごせるように知恵を尽くして備えをしておくべきである。「そうすれば」v.16、「教会に負担をかけない」v.15
かたちで、晩年にも、「品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できる」のではないか。できうれば、召されるその日の朝まで、「最後の一行」の翻訳、「最後の一文」のKindle本執筆、「最後の一言」の講演・説教ビデオ収録等に携わっていたい。「パウロからテモテたちへ」とタスキを繋ぐために。
*
※BGMの音量とメッセージの音量調整にまだ課題があります。PCの録音レベル設定が低かったようです。少しずつ勉強しつつ録画・編集能力も上げていけると思います。補足として、【オーディオ版】をリンク公開させていただきます。
https://youtu.be/GNhZh9GMU4M
2020年5月10日 新約聖書
テモテへの第一の手紙4:11-16「あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけない―球根は芽を吹き、花を咲かせ、神の栄光を現し得る」
https://youtu.be/XMu9SRo1uao
*
今日は、世界各地の教会では「母の日」にちなんだ礼拝がもたれている。英国に『ザ・イングリッシュ・ゲーム』という歴史ドラマがある。サッカーの発祥の歴史を描いたドラマである。その最初、英国貴族の女性が流産して子供を亡くし、生きる意味・目的を見失う。子を失った母としての苦しみを乗り越えられず苦悩しているとき、友人の家を訪ねる。友人は、彼女の助けになればと育てる親のない赤子を引き取り、育てる乳児園に連れていくシーンがある。ドラマの展開は知らないが、この女性が生きる意味・目的を探し当てる光を感じさせる伏線のように思った。テモテへの第二の手紙1:3-6では、「祖母ルイスと母ユニケのうちに宿った信仰」が記され、そのような背景・環境で育てられたテモテの信仰への言及がある。そして、信仰のみでなく、テモテのうちに宿った「個性と賜物」にも重ねての言及がある。
v.14
「あなたのうちにある賜物」とある。わたしは、人間とは、ひとりひとり個性と賜物を宿した“球根”のような存在であると思う。これは、わたしの福音理解の中枢部分を構成している。
v.16
「救うことになる」とある。聖書にある「救い」とは一体何なのだろう。過去に目をやると、二千年前のはるか昔のカルバリの丘に、我々の救いの根拠を眺めることができる。未来に目をやると、永遠のかなた、贖われた被造物世界である新天新地に住む我々の姿を望み見ることができる。では、この救いは現在にどのように機能するのだろうか。
このキリストの贖いである救いは、現在に最も強力に働くものではないのか。V.12
「年が若く」ても、「ことば、態度、愛、信仰、純潔」という倫理的実践において模範となることにおいて、年配の
v.14「長老」に比して、旧約聖書理解とその使徒的解釈において秀でた洞察力・解釈力の賜物の萌芽を垣間見せるテモテたちは、v.13「(旧約)聖書の朗読と(使徒たちの手紙に沿った)勧めと教え」に「専念」していた。成長し続ける初代教会の会衆には、そのような次世代の若き、また中堅の教職者層が育ちつつあった。
それらのv.14「按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物」とは、テモテの幼少と家庭背景、教育と素養を熟知していたパウロたち、先輩の指導者たちと長老たちの按手により、神と人の前に、モーセに続くヨシュアのように、次世代の指導者たちと承認されたテモテたちの「使徒的福音理解」路線継承者としての立場を示すものであろう。
しかし、与えられた立場に安住してしまってはいけない。それらの「うちにある賜物」は、宝石の原石のようなものである。それは切り出され、カットされ、研磨され、美しく細工を施され、整えられて行かねばならない。軽んじてはいけない。人間の世界の下手な謙遜は、神から与えられた賜物を軽蔑することである。それは、美しい花の「球根」のようなものであり、耕された土に植えられ、水が注がれ、光を受け、やがてその世話の甲斐があり美しい花を咲かせ、神の栄光を表し、人々を喜ばせる。
それゆえ、「うちにある賜物」は死蔵された一タラントとされるのではなく、神の主導権のもと、内住の御霊とともなる相互性により、v.15「心を砕き、ひたすら励む」ことによって、周囲の人々の間でv.15「あなたの進歩」は明らかになる。それらの取り組みは、テモテたち自身と聞く人たちとをv.16「救う」ことにつながる。
このように、「救い」には、過去性と現在性と未来性があるのであり、今日最も大切な局面は、「救いの現在性」である。「救い」が我々の、さまざまな生のかたちにおいて、どのように機能・展開し、「神の栄光の舞台」で役割を演じているのか。そこを掘り下げていく一人とされたい。
2020年5月3日 新約聖書
テモテへの第一の手紙4:6-10「良い教えのことばで養われ――神学的に考え、適用できる奉仕者に」
https://youtu.be/IhnOnE5Xqb4
【序】
三月は、家内が筆記・編集していてくれた「説教備忘録」をキンドル本化する月であった。四月は諸教会の礼拝のインターネット配信の様子を目にし、耳にし、また神学校からの要請もあり、ビデオ講義のユーチューブによるライブ配信講義を模索することとなった。コロナ・ウイルス危機をICIの働きの新しい段階への契機とするように導かれていると感じた。
この連休の間に、講義の収録をする予定である。ライブ配信には通信トラブルもあるゆえ、DVDでも収録し、神学校へ送るつもりである。この実験のため、XsplitやVcamのソフトや機材等を一ヶ月かけて準備してきた。英文のマニュアルを翻訳しつつ、いろいろと試行錯誤を重ね、ようやくパワーポイントや音楽BGM(Pixta)等も併用するひとつのパターンを作り上げた。ただ、まだまだ不備もあり、実験の途中段階であることをご了解願いたい。
今朝は、ふと、このパターンを礼拝にも応用できないかと考え、さっそく実験してみることにした。完成度は理想にはほど遠いものではあるが、少しずつ優れたビデオ収録ができるようになることを願っている。
今朝の箇所は、テモテ第一の手紙4:6-10である。一週間朝に夕に、繰り返しこの箇所を読み返し、ティンダルの注解書やジョン・ストットの注解等に目配りしてきた。一週間読んで、ようやく幾つかの大切なポイントが見えてきた。それらのポイントをわたしがICIにおいて取り組んでいることと重ね合わせ、わたし自身への励まし、またわたしを通して多くのことを学んでくださっている「テモテたち」への助言とさせていただきたい。
序において、「備えあれば、憂いなし」と題した。韓国はPCR検査等、検査を徹底し、ウイルス感染の封じ込めに成功している。日本は備えが甘く、いまだに検査数は開発途上国レベルにとどまっている。これに、わたしは、この四章のメッセージに、今日への類比を学びたい。
*
【聖書箇所】
4:1で、パウロは、後の時代のウイルス感染のような運動や教えの兆しを現在にみている。これこそが預言者的洞察である。わたしは、今日「預言、また預言者」を自称する人たちの間に、「預言者的盲目」を見ている。パウロは、その現象を予見するだけでなく、その教えの背後にあるキリスト教の基本教理に対する逸脱を見抜いている。現象は、「結婚の禁止と特定の食物のタブー視」である。しかし、熟練した奉仕者は、現象の本質を洞察しなければならない。
パウロは、健全な福音理解の、神論の中の、神のみわざ論の中の、創造論の中の、「良き創造」の教説からの逸脱であることを見抜いている。パウロは、福音理解の座標軸というものを持っていたのであり、その座標軸のマイナス圏に、それらの運動や教えを位置付けているのである。
v.6 で、そのような逸脱を見抜き、「良い教えのことばで養われる」ことの大切さを助言している。
v.7で、亜流や逸脱の教えや運動を「避けなさい」と厳命している。初代教会においても、人間関係や私利私欲、ポスト維持や経営のために、「良心を麻痺」させ、グレイゾーンへとシフトする奉仕者がいたことが明らかにされている。先週にも語ったように、初代教会の時代には、旧約と新約の関係を誤って捉える四つの亜流や逸脱があった。今日にも類似の運動や教えが存在していることを洞察していかなければならない。逸脱や亜流の度合いに応じて、感染をとどめるための"距離間"を保持しなければならない。盲目的な「和を以て貴しとなす」は、盲人が盲人を導き、穴に陥る類である。
v.7b-10には、メダル獲得のために肉体を鍛錬してやまないアスリートのように、我々は、「敬虔のための鍛錬」に一生涯をささげるようにとアドバイスしている。そのために「労苦し、苦闘している」。その動機の源泉は「救い主、生ける神」キリストにこそあると断言する。
わたしは、この箇所を読み終えた今朝、礼拝直前に第二図書室に走った。そこに、パウロと同じメッセージを記した本があったからである。それを以下に紹介しておきたい。神学教師としてのわたしの奉仕生涯の座右の言葉のひとつである。
「教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。
それゆえ、教会は神学的に考えることを身に着けることによって、
キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者を必要とする」
(ジョン・ストット著、宇田進訳『ローザンヌ誓約―解説と注釈』いのちのことば社、98頁)
2020年4月26日 新約聖書
テモテへの第一の手紙4:1-5「ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります―健全な福音理解というワクチンの事前接種の大切さ」
https://youtu.be/itjs4FNgze8
*
ヨハネの黙示録8,9,10章の挿入を経て、今日からテモテへの第一の手紙の「パウロからテモテたちへ」のシリーズに戻る。世界は、コロナ・ウイルスとの戦いの最中にある。医療関係者はさまざまな機材・マスク・衣服等の不足のまま、最前線にあって戦い続けている。『キリスト教とローマ帝国』には、初代のキリスト教徒たちも疫病とそのような戦いを続けたと証しされている。そのような中、世界中の医薬研究者たちにより、ワクチンの開発が急がれている。
今朝の、テモテへの第一の手紙では、v.1「惑わす霊と悪霊の教え」と疫病のような誤った教理が、健全な福音理解を脅かす時代が間近に迫っていると、パウロは警鐘をならしている。それは、遠い将来ではなく、まもなくであり、テモテたち、次世代が直面する危険だと指摘している。
これが、教会における預言者的洞察であり、神学校における預言者的教育である。シカゴ・コールには、「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」とある。
今朝の箇所でパウロが語りたいのはこのことである。さて、この時代と後の時代に実際に起こったことをみてよう。主として、四つの逸脱が起こった。@エピオン主義―ユダヤ教の枠内で「福音理解」を捉えようとした逸脱。今日的には、「イスラエルを軸とした聖書理解」の運動と教えに類比をみることができる。Aグノーシス主義―物質は悪、霊魂は善とする二元論の前提で「福音理解」を捉えようとする逸脱。パウロがここで指摘している結婚の否定、すなわち健全な性欲の否定、またある食物のタブー視、すなわち健全な食欲の否定は、この兆候を洞察したものである。Bマルキオン主義―旧約の否定。健全な旧約の遺産に根差した新約の使徒たちによる「健全な福音理解」からの反対方向への逸脱。今日の反ユダヤ主義への類比をみることもできる。Cモンタノス主義―極端な聖霊運動、新しい預言による逸脱。今日の歴史をみれば、賛美運動に優れたものを認めつつも、アズサ通りの熱狂の回復(レストレーション)をかざす運動の中には、三位一体の否定や聖書の啓示から離れた新しい預言の強調、すなわちある神学者が分析・評価しているように「彼らの熱狂はいとも簡単に、健全な使徒的教理を粉砕してしまう」という逸脱の足跡を観察できる。エリクソン著『キリスト教教理入門』に提示されているような使徒たちの福音理解のセンターラインを照らす教理入門教育、このようなワクチンの事前接種が必要な時代である。
パウロは、1:5「健全な良心と偽りのない信仰」、2:7「信仰と真理」、3:8「きよい良心をもって信仰の奥義を」と語り、3:14-16で当時の讃美歌形式で表現された「敬虔の奥義」、すなわち「イエス・キリストの人格とみわざを軸として、健全に解釈された旧約聖書に立脚し、形成され、新約諸文書に結集、表明された福音理解」をうたい上げた。
そして、エジプトのヨセフが王の前で夢解きをしたように、「後の時代」、否「すでにその兆しがある」と示しつつ、「使徒的な健全な福音理解」に対する疫病のような教えの到来をテモテたちに知らせ、備えるよう警告している。
そして、パウロは@到来する状況を知らせるだけでなく、A争点を指摘し、Bウイルスのように誤った教えが伝染したときの治療の処方箋を提示している。彼こそは、まことに「教師の中の教師」である。パウロが示しているワクチンとは、「良き創造の教説」(牧田吉和著『改革派教義学2』「良き創造」の教説、p.266-274)と言われるものである。その教説は創世記1:31「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」に根拠を置く教理である。それはv.4「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受け取るとき、捨てるべきものは何もない」。それは、人間の堕落により虚無に服した被造物世界であるが、キリストの人格とみわざによる贖罪と復活により、新天新地の創造の更新の光を帯びるものとされている。
我々は、使徒たちの健全な福音理解(神のことば)とその健全な適用(祈り)によって、神により聖別されたもの、新天新地からの前味、その光の反映として、受け取ることができる。我々は、神の栄光の舞台に生かされている俳優の一人一人なのである。偽りを含む兆候のある運動や教えには欺かれないよう目を覚ましていたい。洞察力、識別力を発揮し生きていきたい。いつも短く祈る感謝と祈りをもって一日をはじめ、一日を閉じる者でありたい。
2020年4月19日 新約聖書
ヨハネの黙示録 10:1-11「私は小さな巻物を取って食べた―口には蜜のように甘かったが、腹は苦くなった」
https://youtu.be/Skx66JyGbRE
*
今朝の10章で、11年前に分かち合った「ヨハネの黙示録」傾聴の説教備忘録の空白は埋められる。11年前には、8,9,10章に記された「神の警告的審判」が何を意味し、どのように解釈し、今日にどのように適用すれば良いのか分からなかった。それで棚上げし、先送りしていた。
数年来の、エリクソン著『キリスト教教理入門』の翻訳・刊行、販売・普及に一定の目途がついた三月に、これまで先送りしてきた課題のひとつ、「説教備忘録」のキンドル本化に取り組んだ。数冊をキンドル本化した後、『ヨハネの黙示録』の順番となった。そのときに、「空白部分」があったことを思い出し、この機会に礼拝で扱うことにした。
時は、「コロナ・ウイルス騒動」の最中であった。全世界を巻き込む疫病の苦難としては、その規模と影響は歴史始まって以来ともいうべきものとなっていた。このような時期に、「ヨハネの黙示録」に記されている「神の警告的審判」を軽々に扱うことは適切なのかどうか、迷いがあった。
しかし、岡山英雄著『ヨハネの黙示録注解』、リチャード・ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』『The Climax of
Prophecy』、ユンゲン・モルトマン著『終わりの中に、始まりが』『希望の倫理』、牧田吉和著『改革派教義学7
終末論』「終末論と事物性―A.ファン・ルーラーの終末論の一つの神学的意図」等に目配りするうち、これは神さまが「コロナ・ウイルス危機」に語るように取っておいてくださった箇所ではないか、と思うようになった。それで危機の最中にホットなテーマとして語ることにした。ただ、きわめて微妙なテーマであるので、扱い方には慎重を期した。
そのひとつは、極端な字義的解釈を避けることであった。それは、ヨハネの記述は、その「主語」が「神が」であり、神が「苦難」をもたらしておられると狭く解釈される危険があった。
苦慮しているとき、岡山師が「黙示録を読み解くための七つの鍵」を記しておられ「@小羊キリストの啓示、A預言の書、B書簡としての統一性、C恵みの書、D天と地の対比(小羊の王国と獣の王国)、E来臨前と来臨後の対比(三年半と千年)、三つの視点(過去・現在・未来)」との指摘・解説は助けとなった。
わたしは、これらの指摘を援用し、天的な視点からの「神の警告的審判」という側面とともに、地上的な視点からの「人間の環境汚染や疫病領域への侵犯」という側面を視野に、いわば複眼的な解釈を試みた。一方に責任を転嫁するのではなく、すべては神の主権のもとにあると認めつつ、「神律的相互性」という多元的なベクトルの中で苦難・災害・疫病を見つめ、人間の自由意志と責任問題、そして今日的状況における神のみこころを洞察し、それをヨハネが語ったメッセージの本質の抽出したものに適用させていく「実験室」としたのである。黙示録は、ヨハネが生きた1世紀というローマ時代とともに、永遠の未来を視野に再臨・千年王国・新天新地が視野に置かれている。また同時に、我々は黙示録で語られているメッセージの本質を「現在の状況」に適用して、神のみ言葉を生きる者とされなければならない。それが、「福音」の「倫理的生活化」である。
そのような視点で傾聴する黙示録は、生き生きとして心に響くメッセージをわたしに傾聴させてくれた。9章は、岡山師の著作に、10章はボウカムの著作に、11章はモルトマンの著作に傾聴を助けられた。
v.1-4
は、聖書全体の救済史から見つめた。「虹」はノアの出来事を、「火の柱」は出エジプトを、「海の上」「地の上」は、創世記1:1-10「神は天と地を」「大空よ、下にある水、上にある水、一つ所に集まれ、乾いた所を地と、水の集まった所を海と」あり、この箇所は、神の被造物世界全体とそこで展開される贖いの歴史の文学的描写であり、ユダヤ民族の盛衰史の中に「封じられ」てきた福音理解の啓示である「小さな巻物」への言及であると解釈しうる。
v.5-7
は、創世記1:11-25を彷彿させる。神は被造物世界を良きものとして創造し、「天」と「地」とその中にあるすべての生き物―「植物」「鳥」「家畜」「這うもの」「地の獣」等を神の作品として造られた方である。しかし、良き創造はその管理者である人間の罪と堕落によって、危機に瀕することとなった。
モルトマンは、福音を信じる者はこのような危機的状況に倫理的に取り組む使命を帯びていると語る。彼は、その著作『希望の倫理』において「@終末論と倫理、A生命の倫理、B地球の倫理、C正義に基づく平和の倫理、D神への喜び―美的な対位法」という構成で取り組んでいる。
「第七のみ使いのラッパが響く日」は、旧約では「主の日」、新約では「キリストの再臨」と記されている出来事である。その日には、神が創造の時に、意図されていたことが完全に実現する日である。そのことを旧約の預言たちを通し、おほろげながら伝えられてきた。それらの預言の頂点としてこの黙示録はあり、旧約預言の結晶体である。その成就・完成への時は、「残されていない」と告げる。
v.8-11
は、子羊の人格とみわざを通し、第七の最後の封印は解かれ開かれた「小さな巻物」への言及である。それは、ユダヤ民族盛衰史の中で啓示されてきたものはあるが、「海の上」「地の上」に立つみ使いの手にある「開かれた巻物」、すなわち後日、結集されていくことになる「27通の新約書簡集」には、子羊の人格とみわざが記され、旧約の民族主義的色彩の濃い預言は、その外装を払拭され、全人類、全世界の贖いの福音が記されている。
ヨハネは、「それを取って食べてしまいなさい」と命じられる。新約の光によって再解釈された旧約の福音は、熟読され、味読され、反芻され、消化され、信仰者の血となり肉となっていくとき、その福音理解は「蜜のような甘さ」があるものである。しかし、同時にその福音理解を生かされている歴史の中に、世界の中に、環境の中に、苦難の中に、倫理的に反映させていこうとするとき、「苦き」苦しみともなるものである。我々は栄光とともに苦難をもともにしているのである(ローマ8:17)。
今日、世界をみていくときに、「口にも甘く、腹にも甘い」、国家的、民族的、あるいは教会的、教派的、また集団的、個人的エゴイズムが溢れんとする時代である。福音を信じていない人だけではなく、「蜜のように甘い」福音を信じていながら、「その福音にふさわしい倫理」から逸脱した教えや運動に、意識して、あるいは無意識のうちに参与している人は数知れない。
そのような時代にあって、「ヨハネの黙示録」は神の警告的励ましの書物である。そして「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならないと」語りかける。その預言の内容が問題である。「福音」を縦軸に、「倫理」を横軸にした福音主義神学の座標軸の位置づけで、マイナス領域に位置づけられる運動や教えが多いからである。「口には蜜のように甘く、腹には苦い」道を選択して歩むものとされようではないか。
モルトマンは、「ヨハネの黙示録」をはじめ、聖書66巻にある終末論は、「希望の倫理」を励ます終末論であると語りかける。最後に、その精神をコンパクトに表明した、ウプサラで開催された第四回世界教会協議会(1968)の声明を記しておく。
「神の力の刷新を信頼しつつ、私たちはあなたがたに呼びかける。神の国の先取りへと参与せよ。そして、キリストが彼の日に完成する新たな創造を、今日少しでも目に見えるようにせよ。」
【書籍紹介】『百万人の福音―聖書に学ぶ生き方マガジン』の五月号に、「やさしい教理入門」特集が組まれています。
*
コロナ・ウイルスで、三密(密接・密集・密閉)を避け、出来るだけ自宅から出ないようすすめられています。わたしたちも協力し、そのように心掛けたいと思います。そのような中、ネット礼拝の普及、ライブ配信の試みがあちこちの教会で始まっています。とても素晴らしいことだと思います。
さて、家に、部屋に籠らざるを得ない日々が続きますが、バッハやモーツァルトのクラッシック音楽をBGMに、読書にふけるというのも良いのではないでしょうか。
『百万人の福音』の「もやもや相談室」では、「教理って何?」が、吉川直美先生によって、QAのかたちで楽しく、「ライン」の画面のように面白く扱われています。そして、最後に、拙訳のエリクソン著『キリスト教教理入門』のさわり―「神と悪の関係」「聖霊が働くとは」「祈りの役割」が紹介されています。『月刊
いのちのことば 』(掲載号:2019年11月号)
「教理とは何か?教理を学ぶ意味と喜び」、『週刊クリスチャン新聞』に続き三度目です。関心のある方は、拙訳書ともども、ご一読ください。
2020年4月12日 新約聖書
ヨハネの黙示録 9:1-21「煙の中からいなごが地上に出てきた―破局の只中に、新しい始まりが芽吹いている
https://youtu.be/rNl-6JGBJlE
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今朝はイースター礼拝、キリストの復活を記念する朝である。世界は今、コロナ・ウイルスとの戦いの最中にある。その世界的影響から、「これは大恐慌以来の出来事」、「二つの世界大戦に続く、ウイルスを相手にした第三次世界大戦」のようであるとの分析もある。ヨハネの黙示録は、1世紀に生きた「苦難の只中に、死をも恐れず、復活のいのちに生きんとする教会」への励ましの書であった。
『希望の神学』で有名なユルゲン・モルトマンという神学者は、「破局の中に新しい始まりがある」と語った。モルトマンは、英国空軍が「ソドムとゴモラ作戦」と呼んだ、1943年7月、毎夜一千発の爆弾や焼夷弾で破壊、消失した都市ハンブルグからの生き残りである。1945-1948年の戦時捕虜収容所で「なぜ私は生きているのか、他の人と同じように私は死ななかったのか」という問いに苛まれ、その時に手にした聖書を通し、キリスト教信仰に出会い、あのハンブルグに戻り、神学をライフワークにすることを決意した。
イスラエル王国の破局がユダヤ教の始まりとなり、ゴルゴタにおける破局が、イースターの復活を通し、キリスト教の始まりとなったように、「破局の只中に、新しい始まり」が芽吹いている。
黙示録とは、如何なる本なのか。それは、「破局の只中における希望」の書物である。1世紀末のローマ帝国において、ヨハネは地中海のパトモス島の牢獄に幽閉されていた。そこは彼の召命の地であった。ヨハネは、そこで「新約聖書中最も洗練された文学作品のひとつであるばかりか、初期キリスト教最大の神学的業績の一つ」を書き残した。彼の旧約聖書知識の豊かさは、旧約聖書の象徴的暗示を全面的に活用する「意味の貯蔵庫」となった。我々は、この宝物蔵から、ヨハネを通し象徴的に書き綴られたメッセージの本質を抽出し、今日の未曽有の災難に新しく語り掛けなければならない。要約するだけでなく、移し並べなければならない。かつてそうだったというだけでなく、現在こうであると、困難の只中にある人々の心のひだに触れるメッセージに傾聴しなければならない。
v.1-11は、本章の前半である。「底知れぬ所に通じる穴」が開かれ、「煙とともに、いなごが地上に出て来た」。それらは、「サソリのような苦痛」を与える力を持っていた。これは、出エジプトの時の、第八番目の災害からの象徴である。いなごは、環境破壊や気候変動により大量発生し、作物の収穫を食い尽くす。今日の状況に適用すれば、グローバルな時代の経済活況に浮かれていた我々は、その経済的収益を「疫病の襲来」によって、グローバルに食い尽くされつつあるように見える。膨大な規模の経済的投資で急場をしのごうとしている。本来は、このような危機に備え、エジプトのヨセフのように「七年の豊作期の蓄えによる、七年の飢饉への備え」が必要であったのだが、好景気時にさらなる減税や過剰な投資によって財政に余裕はなくなり、将来の世代の借金でまかなうかたちになっている。
v.12-21は、後半である。ここでは「大河ユーフラテスのほとりつながれている四人のみ使いが解き放たれる」。ローマ帝国の歴史をみると、BC53年とAD62年にパルティア軍と戦い、敗北を喫している。それゆえ、ユーフラテス川の東は脅威の温床であった。「騎兵の数」と「三つ災害」が「火と煙と硫黄」で恐るべきものであるとイメージで伝えられている。ヨブ記41:19-21では、レビヤタン(ワニ)の凶暴さの表現に同じイメージが使われている。
前半の意味を今日の危機的状況に適用すれば、「底知れぬ所に通じる穴から出て来たサソリの毒をもつイナゴ」は、高熱、咳、息切れ、呼吸困難、低酸素血症、肺炎等の症状を伴うサーズ、マーズに続くコロナ・ウイルス(重症呼吸器症候群)と呼ばれるものに適用しうる。
それは、先週も語ったように、環境破壊、環境汚染、自然の循環体系の破壊、土地や食物、動物への禁断の領域への侵入から、大地の奥底、密林の奥深く、動植物の一部に格納されてきた疫病やウイルス感染の扉をこじ開けて来た人間の側の責任も視野に入れるべきことを教えている。
後半の意味を今日的状況に適用すれば、グローバルに人やモノが高速で移動流通する時代においては、このような疫病に伝染の機会を提供していることを認識しなければならない。そして、それは、無敵のローマ帝国が敗北を喫し、また絶えず東からの侵略者を恐れたように、「第三次世界大戦」の対象は、もはや国家・民族の類ではなく、「疫病・ウイルス」等の新しい分野に移っているのかもしれないということである。
もはや、国家・民族間での「金銀銅」の争奪や「殺人、盗み」を含む熱戦・冷戦といった戦争の類ではなく、未知の分野の未知の敵との戦いに人類が協力体制を築くべき時代が到来したというべきなのかもしれない。
昨今は、世界各国で選挙のために貿易戦争モードを煽り立て、国家・民族のエゴイズムを主張するリーダーが勝ち抜く悪しき実例が増えてきていた。第二次大戦という世界的破局の後に、数多くの国際協調の枠組みが生まれてきたように、コロナ・ウイルス汚染克服の戦いを通して、「国家的・民族的エゴイズム」の振り子が、さまざまなかたちの「悔い改め」を通して再調整されていくこと、そしてグローバルな「疫病防疫体制」づくりが進み、いかなるウイルス出現にも早期に対応できる世界となるよう、祈っていきたい。黙示録は神の主権的警告の書であるとともに、そのようなお方から「エデンの園」のようであった被造物世界の管理者としての使命、責任、貢献を呼びかける書物でもある。
2020年4月5日 新約聖書
ヨハネの黙示録 8:1-13「香の煙は聖徒の祈りとともに立ち上った―環境汚染との戦いの指針としての福音」
https://youtu.be/XfJ0K8xxgdU
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今週は受難週である。世界は今、コロナ・ウイルスの苦難の最中にある。ヨハネの黙示録は「苦難の只中に生きる教会」への励ましの書である。
そのような視点から、11年前に分かち合った「ヨハネの黙示録」傾聴の説教備忘録を読み返し、励まされた。そして、残されていた8,9,10章に傾聴するよう導かれた。6:9には「剣と飢饉と死病」とある。ローマ帝国にも疫病の蔓延した時代があったのだ。それで、ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』を読み返した。AD165年、ローマ帝国のマルクス・アウレリウス帝のとき、ひどい疫病がローマ帝国に蔓延し、15年間それが続いた。その結果、帝国の人口の四分の一から三分の一くらいが失われた。皇帝自身もAD180年に病死した。その一世紀後、二度目の疫病に襲われ、大都市であったエジプトのアレキサンドリアでは都市人口の三分の二が失われた。1348-1420年の間には、ヨーロッパがペストに襲われ、英国やイタリアでは、人口の80%が失われ消滅した町や村もあった。当時の世界人口4億5千万人中の22%、1億人が命を失った。1707年、アイスランドでは天然痘が流行し、人口の三分の二が失われた。
疫病との戦いは、人類の使命のひとつである。8章を見ると、疫病の蔓延の前段階として環境破壊、環境汚染が先行している。人口増と食物の不足は、禁断の領域の動食物を食する風習を生み出す。コロナ・ウイルスはコウモリのもつウイルスと関係があるようだ。一地域の風土病がグローバル化された世界では瞬時に地球の隅々に伝染していく。黙示録では、そのような世界の苦難が「黙示文学」の形式を用いて書き綴られている。
我々は、オペラのような芸術作品といわれる「ヨハネの黙示録」から、今日の必要、教訓、励まし、使信の本質を傾聴していきたい。その際に、リチャード・ボウカム著『聖書と環境学―創造の共同体の再発見』、『他の被造物たちとの共生―生態学的解釈と神学』の視点を活用したい。福音主義神学の座標軸からいえば、垂直軸の「福音理解」は、水平軸の「生態学的倫理」に反映されなければならない。
V3-4に、「すべての聖徒たちの祈り」とある。人類には、神が美しいエデンの園のように創造されたこの地球を健全に管理していく責任が委ねられている。しかし、我々の世界のあり様は、黙示録で分析・評価されていることに近い。そこに、苦難があり、災害があり、うめき、悲しみが溢れている。
v.5以降を見ると、「それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた」と神が警告的審判を開始されたかのように読める。ただ、黙示録を含め、人類の歴史は、「天的視点」と「地上的視点」、「神の主権の視点」と「人間の自由意志、また自然現象」の視点の複眼で読み取ることが正しい。
v.7では、「地」「木々」「青草」と出てくる。今日の生態学的視点からみると、それは気候変動による極度の乾燥からくる、カリフォルニアやシベリアやアマゾン等にみられる「森林火災」に適用できる。
v.8-9では、「海」「海の中にいる被造物」「船」とある。同様に、それは「海洋汚染」とそれによる「魚介類の死滅」、そして「漁業関係者の減少」に適用できる。
v.10-11では、「天からの、たいまつのように燃えている大きな星」「苦よもぎ」「水源」「水」とある。同様に、これは原水爆実験や原発事故等によるチェルノブイリや福島等の「水質汚染」に適用できる。
v.12は、「太陽」「月」「星」の日蝕や月蝕をイメージしうる。それは北京やムンバイ等の大都市周辺の石炭火力や自動車の排気ガス等による「大気汚染」に適用できる。
v.13の中天を飛び交う「一羽の鷲」は、今日はインターネット、SNS、フェイス・ブックとユーチューブ等による「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る」という不安をあおる情報の爆発に適用できる。
西暦元年1億人から、千年2億人、千五百年5億人、千九百年15億人、現在70億人という人口爆発は、さまざまな環境汚染を起こし、さらにはウイルスが格納されてきた禁断の領域に限界線を越えて侵入しつつある。人類が総力をあげて取り組まないと危ない時代である。
このような時代に、我々は健全な「福音理解」に根ざしていかなる「倫理的実践」に生きるべきなのか、が問われている。
苦難の只中で、ヨハネは「天の御座に着いておられる小羊」4:1-2を見た。神のご計画を記す巻物は、「勝利された小羊」5:5が七つの封印を解いて明らかにされると知った。6-7章、封印は一つずつ解かれていった。その内容は、「キリストの人格とみわざ」を記している。黙示録のみならず、旧約において隠されたかたちで啓示され、新約文書で明らかに解き明かされているものと軌を一にしている。それを「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない」10:11とある。
コロナ・ウイルス汚染との戦いの今、キリスト教会は前例なき対応をとっている。ウイルス汚染避けるために十戒で「安息日を覚えて聖なる日とせよ」出エジプト記20:8を再解釈し、今日のインフラストラクチャーに適合し、教会の礼拝を休むことを奨励し、ネットを通し礼拝の恵みにあずかるように推奨している。これまでになかった現象である。
わたしたちの団体でもそのような実例が多くみられるようになった。そう、危機を契機としたイーターネット礼拝時代の幕開けである。わたしは、これに新しい教会のあり方、礼拝の守り方の「号砲ラッパ」となる可能性を見ている。「第一の御使いがラッパを吹いた。すると、…」である。
ロドニー・スタークは、「二度の破滅的疫病がもたらした災害の危機」の只中で、健全な「福音理解」とそれを基盤にした「倫理的実践」において真価を発揮したクリスチャンのいきざまこそが、ローマ帝国で受け入れられていったと記している。ICIも、これからも次々と起こりうるであろう危機において、真価を発揮する「聖書にある福音の本質・解釈・倫理的実践」を示すべく、取り組んでいきたい。
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【ヨハネの黙示録傾聴シリーズ】一覧
https://www.youtube.com/watch?v=4xz3cZZuXPM&list=PLClE1DIlx0onbRL9X9-cQiiwCkRdqvwbq
【書籍紹介】ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』の「第四章 疫病・ネットーク・改宗」
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⑴疫病
⑵危機と信仰
⑶生存率と黄金律
⑷キリスト教徒の対応と異教徒の対応
⑸死亡率の差異
⑹倫理・逃避・愛着
⑺結論
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コロナ・ウイルスで大変な時、いろいろな工夫をされて礼拝を守っておられるようです。感染防止の徹底がウイルスとの戦いの成否を決定づけるようです。いろんなかたちでその方向で協力していきたいと思っています。
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まもなく刊行を準備していますキンドル本に『ヨハネの黙示録』があります。福音派の福音理解のセンターラインを照らすことを使命としているICIでは、岡山英雄師の著作集やリチャード・ボウカム師の著作集に注目し、本と説教をリンクさせた「説教備忘録」シリーズを刊行し続けています。
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コロナ・ウイルスのことを心にとめながら、2009年度に傾聴し、礼拝で分かち合ったメッセージを2016年に家内が録音から書き起こし、編集してくれた『ヨハネの黙示録』を刊行する予定です。ただ、その8,9,10章が解釈と適用の困難な箇所と感じたので、それらの章を飛ばし後日の課題としていました。
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それを明日から三週間にわたって、傾聴する予定です。それを準備していまして、受難週にふさわしく、初代の教会の苦難の8章を扱います。そして、黙示録の苦難の中には、疫病も含まれています。苦難に対する勝利の意味で、イースターに取り組みます。苦難の只中で栄光を見るために、ペンテコステを望みみて取り組みます。
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さて、そのときに初代教会への手紙として、「ヨハネの黙示録は、疫病も扱っているのか」と強く印象づけられました。それで、「ローマ帝国での疫病の蔓延時に、クリスチャンたちはどのように生き、証しし続けたのか」気になり、たくさんある蔵書の中から、『キリスト教とローマ帝国』を取り出し、“疫病”についての記述がないか探しましたところ、見つかりました。
わたしには、黙示録理解に新しい光を得たようで、大きな助けとなりました。皆様の中にも助けになる方があるかもしれないと思い、情報をお分かちします。すでにお持ちの、エリクソン著『キリスト教教理入門』の「15章
悪と神の世界」ともども、参考にしていただければ幸いです。苦難の只中においても、神学的な意味や意義を「キリストの苦難と栄光」の視点から見みせていただきたいとおもいます。
【ヨハネの黙示録 8,9,10章
傾聴】
ICIの三月は、キンドル本の刊行月間であった。『ピリピ人への手紙』『エペソ人への手紙』『ヨブ記』『雅歌』傾聴の次には、2009年度に傾聴し、礼拝で分かち合ったメッセージを2016年に家内が録音から書き起こし、編集してくれた『ヨハネの黙示録』を刊行する予定である。ただ、その8,9,10章が解釈と適用の困難な箇所と感じたので、それらの章を飛ばし後日の課題としていた。現在、「パウロからテモテたちへ」シリーズ、また「信徒のためのFBクラス」、さらには受難週・イースターの最中であるが、コロナ・ウイルスの苦難の只中にある世界にとりなしの祈りをささげつつ、ローマ帝国時代の苦難の最中にあった神の民の戦いに思いをはせたいと考えている。
この続く三週間、11年前に取り組み、5年前に編集した「ヨハネの黙示録で残された三つの章」に傾聴したい。次回の礼拝は8章である。テキストを繰り返し読み、教えられた聖句をチェックし、その洞察を聖書の余白に書き記す。次に、リチャード・ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』(要約版)の「第二章
今おられ、かつておられ、やがて来られる方」の「第六節 審判における神の聖性
」等の関連箇所に繰り返し目を通し、熟読する。そして今回は、Richard Bauckhum, “The Climax of
the Prophecy”(主著)の関連箇所に目配りしている。
先週、下訳を取り丁寧に目を通した、J.R.W.Stott,“Revelation : The Triumph of
Christ”の導入では、
{
黙示録に対する読者の反応は著しく多様です。一部のキリスト教徒はそれに取りつかれています。彼らは、旧約聖書のダニエル書の黙示録的な章と共に、世界の秘密の歴史、特に現代の出来事や人々が含まれ、それを解読する鍵を持っていると仮定します。
他のキリスト教徒は、黙示録に夢中になるどころか、無視の反対の極端に行きます。彼らは、本に多くの奇妙なイメージが含まれていることを知っています。読者は当然のことながら神秘的であり、これらの不慣れな現象に脅かされています。だから、彼らは本から敬遠するか、彼らが始める場合、彼らはすぐに絶望しあきらめます。
第三の肯定的な反応は、黙示録の学者であるリチャード・ボウカムによって提示されています。「ヨハネの黙示録は、膨大な学習、驚くほど細心の注意を払った文学芸術、驚くべき創造的想像力、過激な政治的批判、深遠な神学の作品です」というタイトルをもって彼の研究を始めます。この専門家の評価は、黙示録1:3で約束された特別な祝福が、公けの集会でこの書を読みあげる講師と、それを傾聴する人々の両方に、困難・障害に屈せず、頑張り通すよう私たちを励ますはずです.}とある。
わたしの「ヨハネの黙示録」理解は、リチャード・ボウカムや、ボウカムの下で学ばれた岡山英雄氏の著書「患難期と教会」『小羊の王国』『ヨハネの黙示録注解』から教えられたものが多い。わたしは、福音派の「ヨハネの黙示録」のセンターラインの理解のひとつがここに示されているように思っている。ストットも推奨しているボウカムの文献から教えられたこと等を少しずつお分かちしていきたい。
わたしの掲載記事は、「あちこちの花に飛び移る蝶」ようだか、基本は一貫している「福音理解のセンターライン」をあらゆる角度から照らし続けることである。聖火の火のように、わたしの「小さなローソクの火」をあなたのローソクに点火し、さらに他のローソクに移していっていただければ幸いである。
2020年3月29日 新約聖書
テモテへの第一の手紙 2:14-16「この敬虔の奥義は偉大です―福音の良き伝染力の回復」
https://youtu.be/hNZz6NWVmX0
*
世界は、歴史始まって以来のウイルス感染で都市、国家等の扉のすべてが閉ざされつつあるようだ。このウイルスは伝染力が強いようであり、今の時代のグローバル化がその伝染の背景にある。良いことでも、悪いことでも、一夜のうちに、あるいは数日のうちに、数ヶ月のうちに地球の一点から、世界の隅々に広がってしまう時代である。
さて、良いこと、この新約の福音も、当時の地中海世界のグローバル化を背景に「伝染病」のように感染力のあるウイルスに例えられた。では、このグローバルな時代とオペレーション・システムに即した「福音の良き伝染力の回復」はいかなるかたちで可能なのかだろうか。それは、この世の価値観への順応ではないだろう。繁栄の神学、健康と富の神学、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」のような特定の民族主義をあおるような価値観等ではないだろう。
パウロは、v14で、これまでの箇所で「神の家でどのように行動すべきか」の指導をしてきたことにふれている。そして、そのような指導の基盤・場所としての「教会の本質」について語る。教会、つまり「神の家とは、真理の柱と土台である」。当時エペソ等の地域では、異教アルテミスの神殿がそびえたっていた。その神殿は、18m以上の柱100本以上で支えられていたという。そのような壮大さ、荘厳さは多くの人々を圧倒していた。しかし、パウロはそれは偽りの神、「死せる偶像の宮」であり、何の価値も力もない、いかなる価値ある倫理を生活化することもないという。真の神、「生ける神」が臨在され、信徒ひとりひとりのうちに、あたかも旧約にみる「神の幕屋」「神の神殿」のように内在されるところが「教会」であり、「神の家」であるという。
そのようなお方が内住される神の民の「霊の共同体」こそが、神の家であり、そこには「真理の土台の上に、無数の真理の柱」が天井を突き抜け、そびえたっている。それらの「福音理解」の諸々の柱は、「キリストの真実な人格と歴史的事実とその意味合い」に土台を置くものである。
「真理の土台」は敬虔の奥義といわれるものであり、それは、当時の王の戴冠式に類比し、「美しい讃美歌」の形式にまとめられ、礼拝でうたわれていた。キリストは「肉」において現れた「真の神が受肉された」御子である。彼は「霊」において神にそして人々に認証されていった。ヘテロの告白は聖霊によって示された「イエスにある真実」の告知であった。ラザロの復活や福音書にある諸事実の記録はその実証の記録である。そして、最終・最後の場面に「イエスの十字架刑とその後の劇的な復活」が存在する。
それらの「御子の人格とみわざ」のなせるわざは、それを待望していた「み使いたちにみられ」、その福音理解は特定の民族が対象ではなく「諸国の民の間」に宣べ伝えられた。あの二階座敷の120人で始まった教会は、二千年を経て今や世界人口75億人のうちの三分の一、25億人となったといわれる。しかし、この数値はレースは半ばを示すにすぎない。
リチャード・ボウカムがその著書の黙示録解釈で示すように、 {黙7:9
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。7:10
彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」}と。
「世界の回心」が神のみこころのゴールである。それこそが「キリストの戴冠式」にふさわしい大合唱である。いかなる民族もその中から漏れることはない。コロナ・ウイルスに「悪しき感染力」を見るにつけ、神の福音の「良き感染力」の回復の再発見を目のあたりしたいと願っている。そして、わたしたちICIの働きもまたその一部にあずかりたいと願っている。
2020年3月22日 新約聖書
テモテへの第一の手紙 3:8-13「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人―審査・良い地歩」
https://youtu.be/1Ez0uB0-A2s
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世界ではコロナ・ウイルス、近くでは不慮の出来事等があり、多難な毎日である。嬉しいことは、七年間奉仕させていただいた大阪府最南端の岬公園の近くにある「岬福音教会」が教会設立60周年を迎える年にあたり、ゆかりのある先生方をお迎えして「感謝イヤー」のシリーズを企画され、取り組んでおられるとのこと。三月には、わたしの先輩にあたる前任牧師の吉田晋悟先生を招かれた。それに続いてわたしたち夫婦も5/24の礼拝に招かれることになった。
さて、今日の主題は、「執事」である。わたしたち夫婦にとって、印象深くに残っているのは「郭みよ」執事である。いつも、教会の昼食である「うどん」の世話をしてくださっていたことを昨日のことのように思い返す。この方は、お医者さんの奥さんであった。ただ、その昔、息子さんが幼い頃、子供たちのバットが息子さんの頭を直撃し、心身に重い障害を負われることとなった。そのことがあり、加害者の親に責任の話し合いをもたれたが、今とは違い、加害者側の誠意はなく、親子は深い苦しみと悲しみを背負って生きられることとなった。そのつらい思いは加害者の誠意のなさで増幅され、ときどきは無意識のうちに手に包丁を握りしめておられたこともあったと聞いた。
そのように悲しみと憎しみに溢れる心をもって生活されていた時期に、「岬福音教会」の集会があり、神さまの愛に触れ、加害者を赦すことができ、心の深みから湧き上がってきてやまなかった憎しみも癒されたとのことであった。
熱心な姉妹で、礼拝、聖書研究祈祷会、早天祈祷会等、教会の集会を休まれることはほとんどなかった。泉南メモリアルパークの一画にある、教会の美しい公園墓地は「郭みよ」姉妹がささげられた多額の献金が原資となったものである。
わたしたち夫婦が、「執事」と言葉を口にするとき、この姉妹の思い出が溢れてくるのである。
*
さて、新約聖書において「執事」とは、いかなる職務であったのであろう。執事には「ディアコノス」という言葉が使用され、この言葉は「テーブルにおけるウェイター、ウェイトレス」を意味していた。それは、社会的な奉仕をあずかることを意味していた。
使徒行伝6章に、この職務を説明する物語が記されている。
使徒6:1
そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。6:2
そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。6:3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、6:4
私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」
ピリピ1章には、「ピリ1:1
キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」とある。監督は長老と同義語と捉えて良いことは先週説明した。使徒行伝6章では、教会への義援金の「やもめ」に対する分配の問題の取り扱いであったら、倫理的道徳的に信用・信頼のおける人に担当してもらう必要があった。ただ、ステパノは実務の賜物のみならず、みことばの奉仕においても秀でていたことは、使徒6-7章において明らかであった。
逆に、1世紀中期の時期には、誤った教えを吹聴する「偽教師」といわれる人たちも存在していた。それで、パウロはこの手紙において「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人」という基準を繰り返し掲げている。汚れた良心をもった人は、知識に優れていてもそれを逸脱や歪曲の方向にもっていこうとする。反対に一見信仰に熱心と見える人でも、家庭はひっくり返っている場合もある。言葉は「立て板に水」であるが、私生活は道徳的倫理的に破綻しているケースもある。
パウロは、垂直軸における「健全な福音理解」と水平軸における「健全な倫理的生活」の両面でのバランスある成長を期待している。良き監督(あるいは長老)と良き執事を選べるかどうかで教会の未来は決定される。パウロは、教会の未来を、次世代の教会をのぞみ見て、健全な「審査」基準を明確にしている。
教会はあらゆる分野で、このような座標軸をもたなければならない。そして、ひとりひとりを正しく「審査」して、適材適所に位置付けられ、正しい秩序のもとに建て上げられていかなければならない。教会には、形式的な「見える」秩序と実質的な「見えない」秩序もあると思う。見える形式的な部分で恵まれなくても、それにとらわれず、少なくとも「見えない」秩序において、実質的に評価される「地歩」を探求していく者とされたい。
2020年3月15日 新約聖書
テモテへの第一の手紙 3章 1-7
節「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである―小さな事を忠実に」
https://youtu.be/AYUsxYcM758
*
先週は、長年課題としてきたことに取り組ませていただいた。それは、長年の間、主として家内が筆記・編集し続けてくれた「安黒務
説教備忘録」をアマゾン書店のキンドル本として刊行することであった。
わたしのように小さな者でも、神学校や神学会の奉仕や翻訳や論文執筆の依頼が次々とあり、数多くの夢や幻の先送りを繰り返さざるを得なかった。最近、幾つかの奉仕を整理し片付けることにより、「道端に転がる石」のように打ち捨てられていた「貧しい説教集」をキンドル本として整理する時間が与えられている。先々週は「ピリピ人への手紙」を刊行できた。先週は、「エペソ人への手紙」に取り組んだ。こちらは、分量が多く四苦八苦したが、ほぼ出来上がったので、近く刊行できる手はずである。ユーチューブの音声メッセージとリンクしている。
わたしは「口の重たい」タイプの人間であり、ただただコツコツと学び、努力し、訥々とした語り口で分かち合ってきただけの説教集である。記録・編集し続けてくれた家内への感謝を込めて、関心を抱き視聴してくだる皆さんにお分かちしていきたい。
ユーチューブの講演・講義は千数百あり、漸次アップロードしていっている。メッセージはほぼ毎週休みなく語り続けたので、どれくらいの量になるのか予想もつかない。ただ、願うことは、各書単位で整理しているので、キンドル本を読みつつ、音声ユーチューブ化された説教からも学んでいただけたらと願う。
わたしの奉仕と生活を「福音主義神学の座標軸」で表現すれば、垂直軸は「わたしの福音理解(神学)」シリーズを、水平軸は「わたしの生活実践(説教)」シリーズを表現していることになる。両者のバランスの中で召される日まで、“神律的共同性”のベクトルが機能し続ける日々であらんことを願っている。
*
今朝の箇所「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである」―これは実に大胆な表明である。クリスチャンであるなら、多くの人がキリストに自分の人生を捧げたいと願う。しかし、トップを目指す、あるいは狙うというのはいささか大胆不敵と言わざるを得ない。
この箇所の意味は何だろう。そしてそれは我々にどのような意味をもっているのだろう。新約聖書時代の教会には、「監督と執事」と記された手紙と「長老と執事」と記された手紙の二つのタイプが残されている。これはなぜだろう。
H.G.ペールマンは『現代教義学総説』p.436-437で、霊的教会と制度的教会について言及し、「霊と秩序とは退け合うのではなく、互いに包含しあう」と述べ、「新約聖書の時代に、霊的教会が同時に制度的教会であるとはいえ、そこには、まだ職務の階層制は存在していない。新約聖書では、プレスビテロス(=長老)とエピスコポス(=監督)の概念は同義語である(テトス1:5,7、使徒行伝20:17,28)」と記している。
J.R.W.ストットは” The Message of 1 Timothy & Titus: God's Good
News for the World (The Bible Speaks
Today)”で、新約聖書の時代では、監督(エピスコポス“overseer, bishop”
と長老(プレスビテロス“presbyter,
elder”)は同じ職務における二つのタイトルであったことは確実である。…なぜ、同じ人物が二つのタイトルで呼ばれたのか。それには少なくとも二つの理由がある。@「長老」という言葉は、ユダヤ文化を起源とするものである。つまりすべての会堂(シナゴーグ)には年配の長老が存在していた。A「監督」という言葉はギリシャ文化を起源としている。これは、市や都市の監督者に使用されていた用語であった。要するに、「監督」はその職務の機能を表す表現であり、「長老」は幾分その年長の指導者に対する尊敬を表す表現であった。パウロ等、新約書簡には二つの文化の合流がみられる。後のキリスト教社会の大規模化に即し、教会は組織化され「監督、長老、執事」といった三階層の制度やカトリックにみられるような、さらなる位階制度の発展がみられるのであるが、初代教会においてはそのよう制度は未発達であった。
そのような初代教会の牧会的指導から我々は何を学ぶのか。我々がキリストの贖いに感謝し、その応答として我が身を、人生を捧げたいと願う心の大切さ、その尊重をパウロの言葉の中に見る。ただ、我々が負うことのできる責任にはステップが存在する。「ローマは一日にして成らず」である。大きな奉仕を任される前に、小さな奉仕で養われ、訓練を受けることは大切である。小さな教会学校の奉仕から、一歩ずつである。テモテの生活にみられるように、日々のみ言葉の学びと養いも不可欠である。
さてパウロは、テモテに教会の責任を担っていく人選における常識的なチェックポイントを示している。まず第一に「自分」である。本人である。その品性と人格が慎重にチェックされなければならない。社会的に成功しているかどうかは第一の要素足りえない。女性問題、マナーの欠如、教える能力の欠如、酒飲み、金銭欲にまみれた者は対象外である。
第二に「家庭」生活の証しが立っているかは、「神の家族である教会」をバランス感覚をもって、皆に愛されつつ治める能力があるかどうか識別するポイントである。家庭を治める能力は、教会を治める能力の物差しで並行関係にある。家庭生活の証しが立っていない人はどんなに才能豊かであっても教会の世話をすることは無理である。家庭騒動は鏡である。そしてそれは、同様に教会に反映される可能性は高い。そして騒動の規模は大きい。
第三に「社会」生活の証しが立っているかどうかが審査基準である。時々、教会にはきわめて熱心ではあるが、社会人として証しが立っていない場合がある。社会人として外部の人たちにも評判の良い人でなければ、神の教会の指導者また役員等の働きを担うことには無理がある。欠点や弱点が明らかで、教会生活も短い場合は、「高慢」の罪や「嘲り」という攻撃の機会を与える危険があるとパウロは指摘している。もっともな指摘である。
このように見ていくと、パウロは「福音主義神学の座標軸」における神学(福音理解)と倫理(生活実践)の両面でバランスのとれた、み言葉の養いと教会生活また奉仕で一定の訓練をうけ、ある程度成熟した人物を「指導者また役員」として立てることを勧めているのである。われわれは、パウロのこのような勧めに従い、励まされ、「千里の道も一歩」からと、任された「小さな事に忠実に」取り組み、養われ、訓練を受け、「今、少し大きな事」を任される者となっていこうではないか。準備ができ次第、神さまは間髪を入れず、次の奉仕を任せてくださる方である。
2020年3月1日 新約聖書
テモテへの第一の手紙2章8-15節「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた―ヘッドシップとフォロワーシップの再解釈」
https://youtu.be/POJbBB6woHs
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「パウロからテモテたちへ」という視点から、1世紀の手紙を21世紀の我々への手紙として読んでいる。今朝の箇所は、牧会書簡の中で最も物議を醸す箇所(特に11-15節)である。教会における女性の地位と立場のあり方について、1世紀という歴史的状況、ローマ帝国という文化的状況、つまり古代の男性優位の価値観がある社会において、「信仰と健全な良心」は如何ようにコンテクスチャライズしているのか、そしてこの手紙の歴史的衣、文化的衣を「古着」のように脱ぎ捨て、21世紀の男女平等の価値観、女性の尊厳と価値の尊重が求められる時代と文化状況において、着せられるべき「新しい衣」としての倫理表現形式は如何なるものであるべきなのか、が問われている。
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もし、聖書解釈と適用において、この作業が適切になされないなら、つまり、一方では「リテラリズム(文字拘泥主義)」の危険がある。それは、時代性、文化性の「衣」と福音の「本質」を識別できず、それらを一体化して絶対視するという問題であり、他方では、時代性と文化性の「衣」と「本質」を一緒に古代に属するものとして「古着」のように捨て去る「リベラリズム(自由主義)」の問題である。我々は、左右の極端を排して、時代に即した細く狭き道を探し当てなければならない。
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パウロは、「信仰(福音理解)と健全な良心(倫理的実践)」の座標軸において、右肩あがりに成長していくベルトルを描き、「古い創造」から、キリストの贖罪を基盤とした、キリストの贖罪の御霊による「新しい創造」における文脈で、1世紀という制限のある状況下でテモテと1世紀の教会に対し適切なガイドラインを提示している。我々がこの議論ある箇所に関し、パウロからテモテへの手紙に傾聴し、その「1世紀の古着」と「本質」を識別し、「本質」を抽出し、その「本質」に「21世紀の新しい衣」を着せることが大切である。
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その解釈の原則は、聖書全体としての調和の原則であり、歴史性・文化性を背景にした倫理的実践のコンテクスチャライズの原則である。議論すべきことは多々あるが、二つ三つに絞りたい。
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第一のポンイト:11-12節の男性のヘッドシップと女性のフォロワーシップの原則に関し、当時は女性に教育は十分与えられない時代であった。それゆえ、今日、男尊女卑的な価値観を「本質」として扱うのは、誤りと思われる。実際に、パウロ書簡では、「ロマ16:1
私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。16:2
どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。16:3
キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。16:4
二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。16:5
また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。16:6
あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。」と女性の活躍と貢献を垣間見ることができる。
*
また、「Tテモ3:11
この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」と教会の役職に女性が就くことにも言及している。
*
今日、女性は十分な教育を受けうる時代である。男性と女性は能力と才能の開花において遜色のない存在となっている。そのような視点でこの箇所を再解釈する力が求められている。使徒行伝のごとくに、民族的障壁を破壊するダイナマイトとなられた聖霊が、男性に勝る才能に恵まれている女性に道を閉ざす「男女差別」のあらゆる障壁を崩すべく働いておられることを洞察すべき時代である。
*
第二のポンイト:13-14節では、聖書全体からこの課題を扱うべく、創世記冒頭の記事が引用され、1世紀の文脈において解釈されている。「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた」、「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とある。1世紀の文脈からすれば、このことは何を意味するのか。ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』という、「小さなメシア運動であったキリスト教が帝国に広がった社会学的研究」を読むと、男性優位社会であり、男尊女卑の背景のひとつとしてのユダヤ文化、またローマ帝国内の多様な異教文化の中で、キリスト教の価値観は「女性にとって並外れて魅力的なものであった」p.126
とある。女性に関し「なぜキリスト教では、古代世界にはまれな高い地位が与えられていたのか」が当時の資料を通し、社会学的に分析・評価されていて興味深い内容となっている。
*
しかし、今日の21世紀の男女平等社会では、今朝の箇所は「キリスト教は時代錯誤の価値観を強制する宗教」と誤解されかねない内容をもっている。そこでわたしは、パウロの解釈と適用を1世紀の背景と文脈でなされたものと理解し、「パウロの1世紀限定解釈」を分解し、「古い衣と本質」を分離し、21世紀の背景と文脈において「その本質を受肉させる」ことを提案したい。
*
「パウロの1世紀限定解釈」では、「アダム」はイコール「男性」として解釈・適用されているのだが、「21世紀版解釈」では、「アダム」を「人」として解釈し、両性に適用できるかたちにし、ヘッドシップとフォロワーシップを「男女両用」で活用できるように解釈するのが適切なのではないかと教えられる。1世紀では、自然に受け入れられるパウロの解釈・適用であるが、21世紀では困難である。しかも、あの困難な1世紀の価値観の世界で、教会内での女性の地位、価値、尊厳、個性、賜物は評価されて余りあるものであった。そのように、時代状況・文化状況の流れに逆らい、急流を遡るアユのように格闘することを求めるスピリットが溢れているのが、パウロ書簡である。ならば、我々に求められていることは、21世紀の時代状況・文化状況において「キリストの贖いを基盤とする神の愛が、聖霊によって力強いベクトルを、時代を先取りし、新天新地に望み見る完成された理想的な倫理を目指す解釈を先導しておられる」と理解すべきなのではないか。人間の愚かさはそれをするであろうが、まさか聖霊が我々を、ローマ帝国の時代の価値観に「古代化」されたりはしないであろう。
*
第三のポイント:15節の「子を産むことによって救われます」もまた難解な箇所である。解釈のひとつの可能性として、受胎と出産は「女性にのみ与えられた特権・役割・機能であり、才能であり、個性」である。メシアたるキリストすら、マリアという女性なしにはこの被造物世界に来たりたまわなかった。
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女性は、男性に劣る存在ではない。その機能、役割において特別な存在なのである。敬愛されるべき存在であり、侮蔑される存在ではない。人権、尊厳において神の前に平等な存在である。女性蔑視は、女性をそのように創造された神に対する「大きな侮辱であり、罪」である。
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パウロの言いたいことは、男性と女性は、お互いに「相互補完関係」にあることではないか。お互いにそれぞれ機能や役割がある。ただ、1世紀においては、女性に対して開かれていなかった分野に、21世紀では大きく開かれて行っている。学問、文学、ビジネス、政治等、開かれていない領域は存在しないというべきである。
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教会は、聖書の「時代錯誤的解釈」によって、その障害となるべきではない。パウロがあの閉ざされた時代において、女性に大きく門を開いていったように、わたしたちも「今日のパウロ」として、まだ閉ざされている門戸の解放の先駆者となっていこうではないか。
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「子を産むことによって救われます」の解釈の、もう一つの可能性として、ローマ時代においては、男尊女卑が激しく、女の子は間引きされることが多かったと記録されている。なので、男女の人口比は男性の方が約1.5倍であったとのことである。女の子が二人以上という家庭はほぼなかった。そのような社会で、キリスト教会では堕胎が禁じられていた。また男女の性的紊乱にあふれた社会にあって、一夫一妻の貞潔が守られた。堕胎は女性にとって非常に危険な行為で胎児とともに母親もいのちを落とすことは多かった。
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そのような社会で、女性のいのちと尊厳と価値を認めるキリスト教は女性にとって魅力的な信仰であり、倫理であった。教会には女性が溢れてた。この箇所のパウロのことばとは裏腹に、教会内外で活躍する有能な女性はローマ帝国において、もっとも優れた宣教の力の一部分を構成していた。ひょっとしたら、パウロは教会における女性の存在感の大きさから、謙遜と慎みを求めたのかもしれない。そうであるとしたら、日本の教会はその意味でも古代教会と似ている。
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当時、貴族や上流階級においても、まず夫人が回心し、「第二回心者」として未信者の夫の回心が続いた。このような健全な「福音理解」と健全な「女性に対する倫理観」が小さなメシヤ運動が帝国に広がった理由のひとつを構成している、との主張が、ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』の「第五章
信者の増加と女性の役割」に記されている。
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古代の教会がそうであったように、我々も両極端に走る傾向を避け、「健全な福音理解」と「健全な倫理的実践」の飽くなき探求者とされたい。
【エリクソン著『キリスト教教理入門』「第九部 最後の事柄」補講(IBC)―G.E.ラッド著『終末論』紹介 】
https://youtu.be/1AA3jZmNbbA
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生駒聖書学院での講義は、講義時間数が限られている。それゆえのメリットもある。そのメリットとは、輪郭とエッセンスを短くまとめた講義となることである。関西聖書学院での36年間にわたる講義は、総講義時間数が毎年の行事の関係で大きく変動した。時間数を大きく割り当てられた年は、詳細に講義した。少ないときはコンパクトに教えた。
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生駒聖書学院での講義は、三年サイクルで『キリスト教教理入門』を教えている。本書は九部構成なので、三部ずつ教えることになる。時に、拙著また拙訳の刊行記念講義等を含みつつなので、時として変更となるが、概ねそのようなカリキュラムで推移してきた。そして、各部の講義の補講として、関連文献の紹介講義等を挿入する。本日の、ラッド著『終末論』をテキストとした講義もそのひとつである。
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エリクソンは、その奉仕生涯の最初の神学研鑽の総決算として、彼が取り組むべき課題の青写真を博士論文としてまとめ、それを彼の処女作
” New Evangelical
Theology”『新福音主義神学』として刊行した。聖書における、使徒的「福音理解」に対する左右への逸脱に警鐘を鳴らし、「福音理解」のセンターラインに沿って走ることへの励ましである。その「終末論」で取り組むべき課題で、最も参考になる資料源としてラッド著作集を指し示している。
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エリクソン著『キリスト教神学』を翻訳しつつ、エリクソン著作集二十数冊に目配りしていたわたしは、エリクソンが”
Contemporary Options in Eschatology”『終末論における今日的選択肢』(現在、再販版は”
Basic
Eschatology”『終末論における基本』)をしたためていることに気づき、エリクソンの終末論の、一段落ずつの「電子メール講義録」をネット配信講義している中の解説文で、この本の内容を紹介していった。翻訳紹介しているうちに、エリクソンが資料源としているラッド著作集十数冊にも目配りするようになり、それらもこの講義シリーズの中で紹介し続けた。
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このような長年にわたる地道な翻訳解説の取り組みが、ラッド著『終末論』の翻訳刊行として結実した。翻訳したい素晴らしい内容の本は山ほどあり、その概要把握のための部分訳紹介も山ほどある。それゆえ、パウロがアジア地域での宣教を差し止められて、マケドニアからの幻に導かれたように、翻訳解説、翻訳刊行、論稿執筆等にも、神さまの導きが大切なのである。「一度限りのかたちで賦与された」真正な福音理解を解説紹介していく上での時間との戦いである。
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恩師のひとり、関西学院社会学部教授であった山中良知先生は、毎日昼休みに教授室で行われていた聖書研究会ポプラの短いお奨めと証しと祈りの会で「安黒君、人生の時間には限りがある。それゆえ、読む本も選択が必要だよ」と諭してくださった。忘れえぬ言葉のひとつである。
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【終末論講演・講義紹介】
●信徒のための『キリスト教教理入門』講義録集…生駒とKBIでの講義録集、分かりやすい内容なので、信徒のための学習ビデオとして広く公開することにした。
https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ/playlists?view=50&sort=dd&shelf_id=20
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●「大阪聖書学院『終末論』特別講義Ver.02」
https://www.youtube.com/watch?v=rv9gsp8yqqA&t=65s
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●アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー『福音主義終末論:再考』シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=NBLOROqZzZ4&list=PLClE1DIlx0omRrzlg7kjRIk-Ms_7exLmK
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●その他、漸次、「終末論」を含む千数百の講演・講義ビデオを下記の「一宮基督教研究所ユーチュブ・サイト」にアップロード中です。
https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ
2020年2月26日 新約聖書
テモテへの第一の手紙2章1-7節「すべての人の贖いの代価、すべての人の救い、すべての人のための祈り―敬虔で落ち着いた生活」
https://youtu.be/ugAa_ueolu4
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「パウロからテモテたちへ」という視点から、1世紀の手紙を21世紀の我々への手紙として読んでいる。今日の箇所を読んで気が付くことは、ガラテヤ書やローマ書のような初期のパウロ書簡が「ユダヤ人もギリシャ人もなく」という旧約と新約、ユダヤ教とキリスト教の繋がりと関係についての対比的言及が影を潜めていることである。
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今朝の箇所の特徴は「すべての人のために」(v.1)、「すべての人が」(v.4)、「すべての人の」(v.6)と、キリスト教がユダヤ教からの脱皮を果たし、ひよこが卵の殻から抜け出した状況を垣間見ることができる。それは、もはや特定の民族の栄光と衰退、そして再興のための民族宗教的要素を払拭し、全人類の救いのための「普遍的宗教」となっている。
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伝統的なユダヤ教にどっぷりとつかっており、キリスト教の登場と伝播を赦すことができなかったパウロ(サウロ)は、この意味でも「脱皮の見本」である。ユダヤ教の伝統と慣習、割礼と律法と祭儀等が血となり肉となっていた回心前のパウロにとっては、回心の出来事は「頭皮を剥ぎ、骨と肉を切り分ける」ような大手術であったことだろう。彼は、ユダヤ教徒として、ユダヤ人として、ダビデ王が君臨支配した祖国の回復と栄光にいのちを捧げる覚悟ある愛国者、民族主義者であった。
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しかし、このテモテとテトスへ手紙をしたためたパウロには、そのような片鱗はつゆだに感じさせない。ローマの獄中で書いたピリピ書では、「3:4
ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。3:5
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、3:6
その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。3:7
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、3:9
キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」と記されている。
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民族主義的愛国者パウロ(サウロ)という危険人物は、いわばキリストの人格とみわざというドリッパーでろ過され、全人類に対し分け隔てのない唯一の神、唯一の仲介者キリストの受肉と贖罪の死、葬り、復活、昇天、聖霊の注ぎを通して、コーヒー豆は砕かれ聖霊による熱湯でほぐされ、おいしいアガペーの愛で満たされ出来上がったおいしいコーヒーのようである。
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それは、パレスチナ人にもユダヤ人にも、イスラム教徒にもキリスト教徒にも、人類すべての人に対して、恵み深い三位一体なる、唯一の神が唯一の仲介者キリストを通してなされた贖いを通して提供されているものである。
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であるから、我々は、特定の民族のために祈るだけでは足らず、地のすべての人々のため、すべての民族、すべての宗教者、あらゆる階級、あらゆる性別の人々を祈りの射程に含むべきなのである。
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パウロは、このような信仰と真理を教え伝える教師として任命されたのである。特定の民族、特定の宗教の支援に傾斜する傾向のある運動や教えに出くわした時、それらの風に吹きまわされたり、波間の木片のように翻弄されたりしないため、パウロがテモテをどのように諭したのか傾聴することが大切である。
【エリクソン著『キリスト教教理入門』「第九部 最後の事柄」講義(IBC) 】
https://youtu.be/Zf4ckvAI0ho
生駒聖書学院での講義は、拙訳『キリスト教神学』第一巻が刊行された年に遡る。2003年の春からである。栄院長からお話があり、「翻訳者直々に教えもらえたら幸いです」という話であった。わたしは、エリクソン神学、エリクソンが提示している「福音派の底流に流れている福音理解の共通項」のようなものを、日本のあらゆる神学校に普及浸透させたかったので、一も二もなく快諾させていただいた。あれから17年が経過した。いつも二十数名の神学生が学んでくださっていたように思う。学期に一度、一泊二日で六時間、年三回の集中講義であった。
*
わたしは、三年サイクルで『キリスト教神学』の概要とエッセンスを教えることに尽力した。「組織神学」の細部を丁寧に教える先生もおられると思うが、わたしは概論的に鳥観図を示しつつ、各部、各章のエッセンスを教えることに心がけた。それは、奉仕生涯の最初の三年間の基礎神学教育において、「聖書に啓示された福音理解」の基本的枠組みと本質を身に着けてもらうためである。「土台と建物と屋根」という基本構造が、歪みなく建て上げられたら、あとは一生涯かけ、奉仕現場の必要に答える取り組みの中で、「その福音理解」という家の内装を各自の所属教会、教派の伝統と個性を尊重しつつ、楽しみつつ取り組んでいけばよいからである。ひと昔前に問題となった「姉歯設計の建築※」のように、基本的な建築基準に違反した構造をもつことだけは避けなければならないのである。
*
「終末論」は福音理解という家の構造においては、「屋根」のようなものである。しっかりした構造の屋根をもたなければ、嵐の日には吹き飛ばされてブルーシートで雨漏りを防がねばならなくなる。わたしは、わたしの所属団体や母校においても、ある意味で「口酸っぱく」この構造上の課題に取り組むように励ましてきた。わたしは、招かれるところどこでも、誤りを見出した時には、おもねることなく、ごまかすことなく、「福音理解」をまっすぐに語ることに心がけてきた。
*
「第九部
最後の事柄―@導入、A再臨、B千年王国・患難期、C最終の状態」で扱うべきことは多い。しかし、残された時間は約二時間と限られている。それで、終末の出来事を図示し、その構造を明らかにし、その中のエッセンスを扱うこととした。「39章
導入的事柄と個人終末論」では、序論、死、中間状態が扱われている。序論に関しては、終末論全体の概要把握に有益な資料として、新聖書辞典の宇田進論稿「終末論」と新キリスト教辞典の柴田敏彦論稿「終末論」のプリントを提供した。このふたつの資料は、非常にコンパクトにまとまっていて分かりやすい「終末論概要」である。(わたしは、この資料を、アッセンブリー教団のアドバンスト・スクール・オブ・セオロジー主催の、二泊三日の「福音主義終末論―再考」セミナーでも紹介した。 https://www.youtube.com/watch?v=NBLOROqZzZ4&list=PLClE1DIlx0omRrzlg7kjRIk-Ms_7exLmK
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その他、39章の個人的・時間的死と中間状態に関しては、ウエストミンスター信仰告白32章「第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について」を紹介した。
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1 人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる(1)。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る(2)。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(3)。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける(4)。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない。
1 創世3:19、行伝13:36
2 ルカ23:43、コヘレト12:7
3 ヘブライ12:23、Uコリント5:1,6,8、ピリピ1:23、行伝3:21、エペソ4:10(*)
*ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較
4 ルカ16:23,24、行伝1:25、ユダ6:7(*)、Tペテロ3:19
*ユダ6,7が正しい。」
http://www.rcj-net.org/resources/WCF/text/
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「第40章
再臨とその結果」―再臨では我々がこの被造物世界から「渡り鳥」のように去って飛翔するのではなく、神は旧新約を通じ、ご自身の作品としての被造物世界と被造物たる人間を「来訪される神」であること、復活ではキリストの復活が「初穂」であり、それには全面的な収穫のように我々の復活が続くのであり、被造物世界の贖いが続くのであること、最後の審判においてはH.バーフィンクが記しているように、救いの恵みは同一、均等であるが、貢献に対する報いは天空の星々のきらめきが千差万別であるように、多様であること、等がポイントとしてあげられる。
*
「第41章
千年期と患難時代についての見方」の千年期理解では、「神の国の概念」における共通性と相違性に注目することが大切である。後千年王国説と無千年王国説は「神の国の現在性」を、歴史的前千年王国説は「神の国の未来性」を強調し、強調点にいて相違はあるが、普遍的神の国の概念においては共通構造を有していて健全な終末論理解の範疇に収まる。しかし、ディスペンセーション主義前千年王国説は旧約の影に縛られた民族主義的千年王国説であり、誤った神の国の概念の構造を有しているポンイトを抑えることが大切である。奉仕生涯の最初の教育で、「福音理解」における構造問題で失敗すると取り返しが困難な事態に陥る。
*
参考資料としては、岡山英雄論稿「患難期と教会」、『小羊の王国』、R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』、安黒務著『福音主義イスラエル論』、安黒務論稿「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践の分析と評価」(2020年中期に公開予定の日本福音主義神学会中部部会論文集に所収)を紹介させていただいた。
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繰り返しになるが、「パウロからテモテたちへ」の助言として、本書の学び・教育はいわば「按摩」のごとくでなければならないのである。たくさんの情報の提供はあまり有益ではない。終末論に関し、「@今日置かれている状況と動向の分析と情報の提示、A問題点と主要な争点の指摘、そしてB我々福音主義を標榜する諸教会におけるガイドラインの提示」というかたちで、「ツボ」を押さえた講義に取り組まねばならないのである。
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【参考情報・参考資料】
※「姉歯」構造計算書偽造問題(こうぞうけいさんしょぎぞうもんだい)は、2005年11月17日に国土交通省が、千葉県にあった建築設計事務所のA元一級建築士が、地震などに対する安全性の計算を記した構造計算書を偽造していたことを公表したことに始まる一連の事件である。
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●岡山英雄論稿「患難期と教会」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/031-2_in_printable.pdf
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●安黒務著『福音主義イスラエル論』
2020年2月16日 新約聖書
テモテへの第一の手紙1章18-20節「信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜く―以前あなたについてなされた預言にしたがって」
https://youtu.be/rVjcdOsUlyw
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先週末に、ようやく昨年春の日本福音主義神学会中部部会・東海神学塾共催の講演会の「あとがき原稿」をまとめて送らせていただいた。「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価」という題目である。このテーマに関し、日本のキリスト教会で、「若きテモテたち」の間で、繰り返し読み返される「ひとつの歴史的指標」となればと願って語り、また書き記した。
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わたしは、この講演と論稿を「福音主義神学の座標軸」のかたちで分析・評価する手法を提示し実践した。それは、米国の人種差別克服、南アフリカのアパルトヘイト政策克服に役立ったピーター・バーガーの「宗教社会学的分析の手法」のことである。つまり、「教会の教理をもつだけでは十分ではない。経験的に存在している諸教会の社会学をもたなければならない。神学的教理と社会学的診断の間の緊張から、状況に対するキリスト教的視点は出来上がってくる」というものである。分析・評価の能力、識別力の欠如は今日の教会、また指導者たちの間にある大きな課題である。
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今朝の箇所も同じことが教えられる。「信仰(健全な福音理解)」と「良心(健全な倫理実践)」である。1章前半では「違った教え」や「律法の意義・役割への理解の欠如」の教師の問題が取り上げられ、1章の後半では「健全な良心を捨て」た働き人の問題が取り上げられている。
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エペソという大都市には、多数の家の教会があり、多数の教師や牧師や長老たちが存在していた。そのような中で、比較的年の若いテモテはパウロや長老たちに按手され、主任牧師に任職されていた。当時の教会の「教えにおける未熟と逸脱傾向、生活における腐敗と不道徳傾向」はテモテを悩ませてようである。問題のある教職者、長老には彼より年長の者も多かったであろう。
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そのような中でパウロは、かつてパウロが13通の書簡に記している「健全な福音理解」と「健全な倫理的生活」確立のために奮闘したように、次世代の若き指導者テモテにも「立派に戦い抜いて」ほしいと願った。
*
パウロは、テモテをよく観察していたようである。それは「以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです」と記しているからである。4:14には「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません」と記している。
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テモテは、パウロによって救いに導かれ、「Uテモ1:5
私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています」と養われ、「1:6
そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と按手され、職務についた。
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テモテは比較的年若かかったが、パウロたちから、「教会を治める賜物、教職者を健全に指導する賜物、倫理的に証しのたつ生活等のバランスのとれた資質」を有する教職者であったようである。パウロは、これらの賜物がテモテの中に育まれていることを観察し、大きな群れであり、常に諸問題を抱え込み、混乱と崩壊の危険のある群れを、「治め、指導し、証しもたち、尊敬も勝ち取りうる将来性」をテモテのうちに見て、それらの主から受けた洞察を「預言」というかたちで、任職の按手の際に公に宣言したようである。
*
その情景は、テモテ自身、エペソの長老たち、信徒の群れ全体に、テモテが「パウロに続く若き指導者群のひとり」―ちょうど「モーセに続く、若き指導者ヨシュア」のように映ったことであろう。このことは、後継リーダー問題で、地中海の中心教会のひとつが混乱に陥ることから救ったであろう。テモテは、「我が子テモテ」と称されるように、パウロの福音理解を「割引も水増しもせず忠実に継承」してくれる器であり、パウロのように「金銭欲や名誉欲」からも無縁の若き指導者であったからである。パウロは次世代を見据えてテモテへの手紙を、そして「今日のテモテたち」にも書き残したのである。
ICI ツイッターを再開しました。関心のある方はご覧ください。
【2020.1.28_ibc『キリスト教教理入門』第38章 教会の儀式:洗礼と主の晩餐】
https://youtu.be/W7KVPyiSlzI
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今週は、神学校での講義を紹介している。今日は、「『キリスト教教理入門』第38章 教会の儀式:洗礼と主の晩餐」である。
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この章で教えるポイントは、明白である。バプテスマが「教会の入会儀式」であること、そしてバプテスマに関する基本的な諸見解―@救いに至る恵みの手段としてのバプテ
スマ、A恵みの契約のしるしおよび証印として のバプテスマ、B救いのしるしとしてのバプテスマ―を紹介することである。
*
もうひとつは、主の晩餐、すなわち聖餐式が受洗者に対する「教会の継続的儀式」であること、そしてその主要な見解―@伝統的なローマ・カトリックの見解、Aルター派の見解、B改革派の見解、Cツウィングリ派の見解―を紹介することである。
*
ここまでは、概要とエッセンスを教える部分である。そして、これに続きどのポイントを掘り下げ、今日の私たちの必要の文脈にコンテクスチュアライズするのかが問われる。
*
わたしの文脈を紹介したい。この箇所を開くと思い出すことがある。それは、牧師会での「洗礼」に関する議論である。そのときは「病床洗礼」の様式について議論があった。わたしの所属団体は、スウェーデン・バプテスト系諸教会をルーツにしているので、基本的に「浸礼」を踏襲している。ここで、議論になったのは、健康の回復が見込めない病床の回心者に対する配慮のことである。団体の基本的原則からすれば、「浸礼」を施すべきである。しかし、もろもろの事情を勘案し、「例外」として病床で、浸礼の簡略版として「滴礼」を施すのである。
*
この議論の中で「それでは、なぜわたしたちの団体は、浸礼の様式を基本としているのか?」ということが議論となりかけた。しかし、伝道・牧会の現場での実際的な議論に終始するのを見て、わたしは「洗礼に関する聖書解釈を検討し、神学的なガイドラインの資料を作成してはどうか」と提案した。しかし、反応は弱く、この課題は先送りとされた。
*
わたしが、「所属団体JEC日本福音教会における、洗礼様式に関する神学的・牧会的ガイドライン」提案で心にあったものは、エリクソン著『キリスト教教理入門』の洗礼に関する記述であった。わたしのイメージでは、「@バプテスマに関する基本的な諸見解、AJECはなぜ浸礼の様式をとるのか」という構成であり、そこには
「☆バプテスマの様式
*
言語的データだけをもとにしてバプテスマ
のふさわしい様式という問題を解決することは不可能である。しかし、ギリシア語バプティゾー(baptizō)の有力な意味が「浸す、または水の下に突っ込む
」であることには注目すべ き で あ る。 マ ル テ ィン・ ル タ ー と ジ ャ
ン・カルヴァンでさえ、浸礼がこの言葉のも ともとの意味であり、初代教会で行っていたバプテスマの原型であることを認めていた 。
*
浸礼が聖書的なやり方であったことを示す、
考慮すべき事柄がいくつかある。ヨハネがア イノンでバプテスマを授けたのは「そこには
水が豊かにあったからである」(ヨハネ3:23)。
ヨハネからバプテスマを受けたイエスは、「水の中から上が」った(マルコ1:10)。良い
知らせを聞いてすぐエチオピヤの宦官はピリポに「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでし
ょうか」(使徒8:36)と言った。それから二人とも水の中に降りていった。ピリポは宦官
にバプテスマを授け、二人は水から上がった(38-39節)。
疑いなく、新約聖書の時代に守られていたやり方は浸礼であった。しかしそれは、今日
も浸礼を実行しなければならないという意味なのか。それとも他の可能性があるのか。様 式は重要ではないと考える人たちは、バプテ
スマの意味とそれを行う方法との間に本質的 なつながりはないと主張する。しかし、バプテスマの意味を議論したとき述べたように、
もしバプテスマが単なる任意のしるしではなく、真に象徴であるなら、様式を自由に変えることはできない。
*
ローマ6:3-5でパウロは、バプテスマを施す 方法(人を水の中に入れてそれから引き上げ
る)とそれが象徴するもの(罪に対する死とキリストにある新しいいのち ―― さらには、
バプテスマは信仰者の罪に対する死と新しい いのちとの基盤を象徴する。つまりキリスト
の死、埋葬、復活である)の間に重要なつながりがあると主張しようとしているように見
える。以上の考察から、浸礼主義が、いくつかある中で一番適切な立場であると思われる。 唯一の有効性をもつバプテスマの様式とまで
は言えないが、バプテスマの意味を十分に保 持し、それを美しく描き出している形態である。
*
どの様式を採り入れるにしてもバプテスマ は軽く考えるべきものではない。それはキリ ストと信仰者との結合のしるしであり、その
結合の告白として、関係をより強固に固めるのに役立つさらなる信仰の行為でもあるので、それは非常に重要である。」が書き記されるべきだと考えていたのである。
*
「所属団体JEC日本福音教会における、洗礼様式に関する神学的・牧会的ガイドライン」は、作成されることなく時間は過ぎていったが、今回本書が刊行され、JEC諸教会の牧師のほとんどが購入してくださったことにより、本書はその役割を果たしてくれるものと期待している。
*
聖餐式に関しては、@聖餐に関する主要な見解、A「所属団体JEC日本福音教会における、聖餐式に関する神学的・牧会的ガイドライン」というものが頭にあった。というのは、所属団体の中に、未受洗者や求道者、未信者にすら配餐する「フリー聖餐」が流行しつつあったからである。日本基督教団では「教職資格はく奪」問題にまで発展していた。それで、わたしは、聖餐論関係のかなりの書籍を収集し、分析・評価する取り組みを続けた。その結果、それを聖書的・公同的な聖餐理解からの逸脱傾向と判断し、正しい聖餐式のあり方のガイドラインを示すべく「福音主義聖餐論:再考」という論稿を編集した。下記にその資料にリンクしている。また、このテーマでの講演的礼拝説教「2017年09月03日
岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門C―聖餐式の背景、本質、実践の原則(新約聖書
Tコリント11:23-26、10:16-17、11:27-28)」(YouTube)もあるので、関心のある方は、参考にしていただきたい。
*
このように、わたしは、米国福音派の主流を代表する神学者エリクソンの「福音理解」を学ぶだけではなく、それを「福音理解のセンターライン」と位置づけ、福音派の許容する道路幅の限界線を示す「ガードレール」を示し、ガードレールをぶち破って大事故を起こす危険から所属する群れや関係諸団体、また福音派諸教会を守りたいと願ったのである。
【福音主義聖餐論―再考】
http://aguro.jp.net/d/jec_kbi/福音主義聖餐論-再考_安黒務.pdf
【キリスト教信仰入門C―聖餐式の背景、本質、実践の原則(新約聖書
Tコリント11:23-26、10:16-17、11:27-28)】
https://www.youtube.com/watch?v=WgxwuEosrHE
2020年2月9日 新約聖書
テモテへの第一の手紙1章12-17節「私は以前には―この上ない寛容を示し、先例にするためでした」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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パウロは、「以前には」と、回心以前の生活を振り返る。彼にとって「福音」とは、「神学は、全く中立的な学問ではありえず、むしろただ実存的にのみ関わりうる学問である。なぜなら神は、あらかじめ神によって捕らえられることなしには、理解しえない。神賛美でない、とりわけ実践的な知識でない、新生した者の神学でないような神学は、もはや神学とは言えない。それは宗教学である」と言われるように、パウロの実存と深く関わるものであった。
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パウロの実存とは何か。それは、ステパノの殉教に関わり、猟師が獣を狩るごとく、家から家へ、町から町へ、ダマスコまで追撃する「クリスチャン狩り」に関わっていた。「冒涜、迫害、暴力」の頭目で、すなわち「罪びとの頭」であった。
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しかし、神さまは、このようなパウロを、黒い土にまみれてはいるが、「春になれば最も美しい花を咲かせる球根」のように見つめておられた。クリスチャン狩りで息せき切ってダマスコに向かう途上で、逆に神さまの恵みの御手によって狩られてしまった。パウロはそのときの経験を「おぞましい罪の中にあり、無価値な存在」であったと振り返る。
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しかし、そのような自分を見捨てることなく、福音の恵みはパウロの上にこの上もない寛容というかたちで降り注ぎ、満ち溢れた。この恵みは、パウロの福音によれぱ、彼を義とし、聖なる者へと整え、その賜物に即したかたちで召命を賦与するものとなった。
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神さまは、「以前には」クリスチャンから最も恐れられた人物を「福音」直面させ、「福音」を理解させ、その最も恐れられた人物を通して「福音理解という家」を地中海中のクリスチャンの心の中に、さらには二千年間にわたり世界の隅々に散らばるクリスチャンの心の中に建て上げるために、十三通の手紙を書かせられた。
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新約の恵みの福音の確立・普及・浸透という視点からみれば、五書を記したモーセをはるかに凌ぐ貢献ではなかったか。「以前には」そのような者であった者を、神さまは「忠実な者」と認め、「そのような栄えある務め」に任じられたのである。
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それは、如何なる者であっても、この恵みの福音と出会い、それに満たされ、満ち溢れるなら、「サウロ」が「パウロ」と変えられたようになる「先例」とするためであった。そうであるならば、わたしたちも、そのように「以前には」と「しかし、今、わたしは」と振り返ることができるのではないだろうか。
【2020.1.28_ibc『キリスト教教理入門』第36章
教会の本質】
https://youtu.be/SYfYZfVv2wE
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今週は、神学校での講義を紹介している。今日は、『キリスト教教理入門』第36章
教会の本質である。主著『キリスト教神学』の分量のほぼ三分の一に要約されていて読みやすい。さらに、並行して読まれると良い資料として、『新聖書辞典』(いのちのことば社)所収の宇田進論稿「教会、教会論」がある。宇田師の「教会論」講義概要であり、エリクソンと同じ構成内容なのでとても参考になる。わたしが神学生にいつも教えることは「本質と輪郭」である。あとは、枝葉のように知識は広く、応用は深く、高く、長く広がっていく。J.S.ブルーナーはその著書『教育の過程』の中で、基本的な事柄、本質的な事柄をしっかりと把握しておけば、他の知識は沈殿し、忘却してしまっても、必要なTPOの中で、基本的な事柄、本質的な事柄から芋ずる式に記憶を呼び覚まし、応用・適用が可能となる、というようなことを教えている。このことは、神学教育においても最も大切なポイントのひとつである。
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今日の箇所から教えられることのひとつは、教会・教派の一致した関係・活動等の“多層性”である。エリクソンは「一般的に、近年の親密で有機的な統一への
動き、特に後者は、かなり減少している。確 かに、信仰者は霊的一致が、そして可能な範 囲まで相互の認知と交わりが、もたらされる
ことを願い、探求すべきである。それぞれの 人と会衆は、より密接な関与と協力的活動が
彼らの聖書の信念の維持と主によって与えられた任務の達成と一致する程度を決定しなければならない。」と教会・教派の交流・協力関係の構築は「彼らの聖書の信念の維持と主によって与えられた任務の達成と一致する程度」と述べている。同感である。一致・協力は大切な要素であるが、無原則になされてはならない。その「福音理解」の近さ・遠さを勘案し、交流における“距離感”を慎重に考慮しなければ、「ひさし貸して母屋とられる」危険がある。そこまでいかなくても、「誤った福音理解」に悪影響を受け、「健全な福音理解」が蝕まれていく危険がそこにある。
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もうひとつのポイントは、「神の民」理解である。要約版では、建設的なポイントのみが記さているが、主著では「特別な問題」として、四つの特別な問題が取り上げられ、「教会と御国」と「教会とイスラエル」等が扱われている。要するに聖書は「二つの神の民」と「ひとつの神の民」のどちらを教えているのか、という聖書理解における最も根本的な問題―旧約聖書はどのように理解されるべきなのか、である。
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今年から、「パウロからテモテたちへ」というテーマに取り組んでいる。その意味で、解説もまたその色彩を帯びることになる。神学校における若手の教師陣への助言であり、教会における信徒対象の「キリスト教教理入門クラス」における教え方のへのアドバイスである。
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H.G.ペールマンは『現代教義学総説』の「教義学の四つの機能」中で、「第二は、組織神学の『再生産的ないし要約的機能』である。これは聖書的使信あるいは聖書の教えを要約して捉えることである。第三は、組織神学の『生産的ないし新理解的機能』である。伝統的関連以上に重要なのは、組織神学の状況的関連である。それは聖書的・教会的ケリュグマをただおうむ返しに語るのみでなく、むしろ新しく語られねばならない。伝統をただ単に要約するにとどまらず、新しく理解しなければならない。それは“かつてそうだった”と語るのでなく、むしろ“現在こうである”と語るのである。いわゆるコンテクスチュアルな神学の必要性である」と語っている。
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『キリスト教教理入門』教授法として、テキストを要約して教えるということはひとつのことである。ただ、そこで終わっては「知識の切り売り」にしかすぎない。優れた教師は、テキストに記されている“エッセンス”を分かりやすく教えるとともに、21世紀の私たちの状況に、その中の課題に向かって「新しく語らなければならない」。伝統を盲目的に墨守するだけの弟子であってはいけない。伝統が内包する課題に果敢に取り組み、それを克服し、より良き新しい伝統形成のためには命をも賭する教師を主は求めておられると思うのである。エリクソンやラッドの本には、そのようなエッセンスとスピリットに満ちていることを学び、それを教師ひとりひとりの生きざまとして身に着けてほしい。そう願う。
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2020年2月2日 新約聖書
テモテへの第一の手紙1章8-11節「教師でありたいと望みながら―自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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先週は、五年ぶりに母校関西聖書学院で講義の機会を得た。五年の間に、教え子である若手の教師陣が育ち、エリクソンの主著『キリスト教神学』を教えてくれていた。そして「安黒先生、要約版『キリスト教教理入門』はいつ刊行されるのですか?」と毎年のように尋ねられていた。わたしは「まもなく、まもなく、…」とある意味、「狼少年」のようになっていた。そして、昨年12月についに刊行された。嘘つきにならなくて良かったと思っている。
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さて、今日のテキストは、先週の箇所の続きである。「Tテモ1:7
律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。」と言われている。AD60年代半ば、第一回投獄から解放されたパウロは、当時地中海最大の教会であったエペソにある教会の主任牧師テモテに手紙を送った。当時の教会は教会堂はまだなく、家の教会の集合体であった。そして、さまざまな牧師、長老、執事、信徒リーダーたちがいて、教会形成に励んでいた。
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そのような中には、健全な教えのできる成熟した教職者もいれば、まだ未熟な教職者もいた。テモテにはそのような人たちを指導する責任を負っていた。彼らの内包する問題のひとつは、旧約聖書をどう理解するのかということであり、また律法をどう位置づけるのかということがあった。
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ユダヤ教を母体として生まれたキリスト教にとって、旧約理解、律法理解はきわめて重要な事柄であった。初期のガラテヤ書には、割礼を受け、律法を遵守し、ユダヤ教徒となり、キリストを信じ、「ユダヤ教キリスト派」的な理解をする人たちもいた。彼らにとっては、ユダヤ教徒のように旧約の数々の律法を事細かに守ることは大切なことであった。
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パウロは、エペソの教会の中に、「律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません」と指摘し、そのような危険がまだ内在していると指摘したのであろう。
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しかし、パウロは道徳律法としての普遍性を指摘するのみで、それ以上の言及はここではない。ただ、パウロが言外に語りたかったことは、彼の13通の手紙から予測はつく。それは、宗教改革においても指摘されていることであり、律法の三つの用法―⑴ルターの言う律法の断罪的用法、⑵メランヒトンの言う律法の教育的用法、カルヴァンの言う律法の規範的用法である。またある神学者は、律法に関する包括的研究において「律法の本質は、キリストである」と的を射た議論を展開している。
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教理史で最初に学ぶ事柄は、旧約と新約をどのように関係づけるかとであると教えられた。というのは、新約聖書にみられる最初の教理的逸脱は、旧約の影に引きずられる「ユタヤ教的キリスト教」であるからである。ユダヤ教の真っただ中で育ったパウロは、最初はキリスト教徒を迫害していたが、ダマスコ途上でキリストに出会ってから、彼は身にまとっていた「民族主義的ユダヤ教の衣」を脱ぎ捨て、「普遍主義的キリスト教の衣」をまとう者となった。わたしが、教え子である後輩の先生方に望む願いは、「教師でありたいと望みながら―自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません」という教師にはならず、テモテがパウロの「福音理解」の立派な継承者であったように、後輩の先生方にもそのようなあり方を期待し願っている。
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「Tテモ1:11
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。」パウロの福音は、ユダヤ人もギリシャ人もない、ユダヤ人もパレスチナ人もない、ユダヤ人もアラブ人もない、すべての民族に対する「祝福に満ちた神」、特定の民族、特定の人種に限定されない、全人類を対象にした「栄光の福音」であることを教えられる。わたしたちの「福音理解」のあり方、「その倫理的実践」のあり方、そしてその応用としてのパレスチナ問題もまたこのようなパウロの視点から取り組まれなければならないのではないだろうか。
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2020.1.28 午前【『キリスト教教理入門』刊行記念講義(生駒聖書学院)】
https://youtu.be/_5msnfxzLFI
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今週は、神学校での講義を紹介している。『キリスト教教理入門』刊行記念講義は、生駒聖書学院が1/28午前、母校関西聖書学院が1/29午後であった。紹介は、母校が先となった。それは、母校での講義を祈ってくださっていた方々がおられたからである。その方々のことを思い、そのことに対する感謝の気持ちを込め、一日でも早く伝えたかったのである。すでに若手の先生方が穴を埋め、活躍しておられるのだから、その方々の時間を奪うわけにもいかないし、世代交代がうまく進んでいることもあるので、講義再開とまではいかないだろう。ただ、関係回復の端緒にはなったので良かったと思っている。次回は、また次の翻訳刊行記念講義を期待し、祈っていただきたい。
さて、先日も書いたように、『キリスト教教理入門』は2019.12に刊行され、すでに神学生の手元にあった。ただ、この本を手にしての最初の講義は1/28-29に生駒聖書学院が最初だった。三年サイクルの学習スケジュールで「教会論」と「終末論」が残っていた。それで、一日ずつ講義にあてた。その際に、本書を手にしての最初の講義なので『キリスト教教理入門』刊行記念講義(生駒聖書学院)を最初にさせていただくことにした。最初の講義を「記念の石」として、のちの世代の後輩に残すためである。今日は、その講義を紹介したい。母校での講義とは、構成は同じだが、中に盛った内容と時間は異なるものとなった。生駒では他の講義が残っていたので60分講義、KBIでは少し余裕があり90分講義、残った神学生たちとの質疑応答は一時間半くらいだったかな。それらは、いつものKBIでの楽しい時間そのままだった。
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2020.1.29 午後【『キリスト教教理入門』刊行記念講義(関西聖書学院)】
https://youtu.be/9R_tfDLQdSo
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振り返れば、1979年に母校関西聖書学院を卒業して以来、共立基督教研究所への三年間の内地留学期間を除き、三十数年、伝道・牧会の傍ら、寝食を忘れるかのようにして神学の研鑽と教育に専心してきた。母校関西聖書学院で「日本福音主義神学会全国研究会議」で開催し、母校の名を全国に知らしめることはわたしの夢のひとつであった。それが2014年に実現した。全国研究会議準備委員長として、この会議成功に向けひたむきに準備する傍ら、内包する課題のひとつを克服・治療すべく、すなわち"
ワクチン
"として、ラッド著『終末論』を翻訳刊行し、また学会誌『福音主義神学』への「福音主義イスラエル論」論文執筆に全力を注いだ。2014年にこの三つの大きな使命を果たし終え、それをひとつの花道として、齢六十歳を超えたわたしは母校の奉仕を終えさせていただくこととなった。当時、神学誌編集委員長であった木内伸嘉先生に「一年の間に、同時にこれだけの奉仕をした人を見たことがない」とお褒めの言葉、励ましの言葉をいただき、ありがたく思った。
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その年から、五年が経過した。その間、わたしは、2003年の『キリスト教神学』(主著)の翻訳刊行後、長らく先送りにしていた『キリスト教教理入門』(要約版)の翻訳の仕上げ・刊行に取り組む時間を得た。いのちのことば社の新しい聖書の刊行プロジェクトと重なり二年間遅れたが、主著刊行後17年を経て、わたしのもうひとつの夢が実現した。そして、今わたしは次の夢に向かって進もうとしている。エリクソンが「主著→要約版」を信徒リーダー層から、諸教会の信徒のすみずみにこの「福音理解」を普及・浸透させる資料とした「夕拝・聖書研究資料テキスト」として作成した本、エリクソン自身が奉仕教会をいわば「実験室」として活用、その効果を確かめつつ作成した本、“
Does it matter what I believe ?”
である。今、出版社とこのブロジェクトを相談しているところである。ゆるされている時間を有効に活用し、できるだけ早期に翻訳・刊行に結びつけたい。
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『キリスト教教理入門』は2019.12に刊行され、すでに神学生の手元にあった。ただ、この本を手にしての最初の講義は1/28-29に生駒聖書学院が最初だった。三年サイクルの学習スケジュールで「教会論」と「終末論」が残っていた。それで、一日ずつ講義にあてた。その際に、本書を手にしての最初の講義なので『キリスト教教理入門』刊行記念講義(生駒聖書学院)を最初にさせていただくことにした。最初の講義を「記念の石」として、のちの世代の後輩に残すためである。
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と同時にひとつのことを思い出した。母校関西聖書学院で2020年4月より、新しい院長に就任される高橋めぐみ先生から「また、いろいろと助けてください」と受けていた挨拶である。社交辞令にすぎないかもしれないと思ったし、わたしは「年齢も高くなってきているし、母校奉仕にひとつの区切りをつけたわたしには何もできないだろう」と思っていた。しかし、ふとめぐみ先生のやさしい口調につられて「生駒聖書学院奉仕のついでに交通費も謝礼もいらないので、『キリスト教教理入門』刊行記念講義を紹介がてらさせていただけないでしょうかと申し出れば、単発的な講義だし、させていただける可能性があるのではないか」と思いが浮かんだ。それで、「もしかしたら…」の可能性を求めて、大田現院長と高橋めぐみ副院長(次期院長)に相談した。しばらく沈黙の時間が過ぎ、「だめだったか…」と思っていた。
あきらめかけていたとき「一月下旬のKBI教師会で意見を聞いた上で返事します。ただ、この件については、だれも反対する先生はおられないと思います」とのメールを受け取った。一週間前にようやくOKがでて、当日の打ち合わせをして、本日の講義となった。
“押しかけ講義”のかたちではあるが、ほぼ五年ぶりに「『キリスト教教理入門』刊行記念講義」として、母校で受け入れてもらえた。なにか「切れていた線がかすかに繋がった」という心証だ。
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今、ひとつのことを思い出した。アポロ11号は史上初めて人類を月に着陸させることに成功した宇宙船のことである。それが月面に着陸したとき、アームストロング船長は月面に第一歩をしるしこう述べた―「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。(That's
one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」
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これに比すると「母校での『キリスト教教理入門』刊行記念講義は、神学生にとってはひとつの講義にすぎないが、わたしにとっては“大きな一歩”であった」と感じている。これが最初で最後の講義となるかどうかはわからない。ただ、また“
Does it matter what I believe ?
”等、今後も翻訳刊行の際には、母校で刊行記念講義と販売の機会を与えられたら幸いと思う。ファンダメンタリズムが内包する課題の克服に取り組んだ”Reforming
Fundamentalism”フラー神学校がそうであったように、FundamentalismとEvangelicalism、根本主義と福音主義という路線問題で軋轢があったとはいえ、わたしにとって人生を捧げた母校なのだから…。
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わたしには長年懸念していたことがあった。「わたしが奉仕を終えた後、だれが『キリスト教教理入門』を教え続けてくれるのだろうか。また召された後、わたしの所属団体JECや母校KBIの”福音理解”はどうなっていくのだろうか」と。しかし、それは杞憂にすぎなかった。わたしが不在の五年の間に教え子である若手の先生方が育ち、分担して難解な『キリスト神学』を教えてくださっていた。そして、今、格段にわかりやすくなった要約版『キリスト教教理入門』を届けることができた。若手の教師陣には教えるための邦訳教材、学ぶ神学生には学びをたやすくしうる邦訳教科書を手にしていただくことができた。彼らは今、使いこなすのが困難なサウル王のよろいとは異なる、容易に使いこなせるダビデの五つのつぶてという武器を手に入れることができたのだ。
*
今わたしは、彼らがエリクソン神学の表層のみを教える初心者教師にとどまることなく、エリクソンやラッド(フラー神学校新約神学教授)たちが取り組んだ
”Reforming Fundamentalism”
の深層を理解し、「福音理解のセンターライン」から逸脱する傾向のあるすべての運動や教えを識別し、分析・評価し、治療する新たな処方箋やワクチンを作り続けられる真の魂の医者、熟練した外科医として成長し続けてくれることを期待している。そのような道筋には痛みが伴うが、人からではなく神からの栄誉を受ける道である。今、巷ではコロナ・ウイルスが出現している最中である。キリスト教会の二千年の歴史も似たようなウイルスのような教理との戦いの連続であった。これからもグローバルな規模でそのような戦いが続くことを肝に銘じておいてほしい。
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わたしが関西聖書学院I助手をしていた時に、当時の院長スンベリ師から「この言葉を君にあげよう」といわれたそのことばを、今若手の先生方に「箱根駅伝のタスキ」のように受け渡したい―「Uテモ2:2
多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」
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形式面でスンベリ師の期待に応えることはできなかったが、実質面では師の期待以上の働きをさせていただけた奉仕の生涯であったようで感謝している。そして、スンベリが言葉をくださったのと同じ年齢となったわたしは、その「福音理解」の実質をさらに継承・深化・発展させてくれる希望を、多くのテモテたちの中に見ることができ、今幸せな気持ちで満たされている。かの日に再会するとき、スンベリ師も「安黒兄弟、よくやってくれた!
ご苦労さん!」とねぎらってくださるように思う。
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“翻訳者”
安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第十節 結論 A』
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今日は、生駒聖書学院と関西聖書学院での講義のために、久しぶりに「阪奈ホテル」に宿泊させていただいています。午前の講義の後、午後に少し時間がありましたので、書き綴らせていただいています。
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さて下記のものは、17年前の1/17の配信記事です。そう、あの頃は、来日講演の準備にかかりきっていました。その頃のあわただしい息づかいが伝わってくるようです。解説する時間もないくらいの忙しさであったように思います。
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そこで、今日新たに解説しますと、「バプテストの遺産への忠実さ」は、教会論における会衆制、洗礼論における浸礼等にみられます。「福音主義の遺産への忠実さ」は、聖書論における無誤性支持にみられます。彼は今日的な表現に尽力し、また今日のホットな話題にバランスのとれた意見を述べています。そして、牧会者のハートをもつ神学者と評されるように、彼の神学はいつも教会に対する貢献に焦点があてられています。
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現在わたしが取り組もうとしている”Does it matter what I believe
?”も、神学教師に専念していたエリクソンが、「教会」とのつながりを大切にし、教会の夕拝や聖書研究会を、ある意味で「実験室」として作成していった資料を元にして刊行された本でした。彼は、一流の神学者でありましたが、彼の心はいつも「教会」の上にあったことを教えられます。わたしもエリクソンのような「牧会者のハートをもった神学教師」であり続けたいと願っています。
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【2003年度 解説】
こんにちは、関西聖書学院組織神学教師、一宮基督教研究所の安黒務です。新年から毎週休むことなく、講義の配信に集中しようと考えていましたが、来日されるエリクソン博士の講演会の準備や打ち合わせ、そして案内等に多忙をきわめています。そして、三月中旬の「JEC拡大教職者会」と「関西講演」において、前者に関連しましては「エリクソンの『キリスト教神学』にみるスウェーデン・バプテストの特質」の質疑応答問答集のようなものを作成しておきたいと考えています。また、後者に関連しましては「今、なぜエリクソンの『キリスト教神学』なのか?」へのレスポンス資料を作成したいと考えています。この一ヶ月あまりはそのことに集中し、集会を成功させ、その後「講演会」のレポート作成に集中する予定です。
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●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第二節 神学の方法
】…1/28-29の生駒聖書学院の「教会論・終末論」講義と、1/29の母校関西聖書学院での「本書刊行記念講義」のためお休みです。
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●翻訳者、安黒務の【さらに詳しく、繰り返し、年度ごとにいろんな視点から学びたい信徒の方のための―エリクソン著『キリスト教教理入門』ビデオ講義録集】20年分を漸次アップロード中!
https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ/playlists?view=50&sort=dd&shelf_id=20
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“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第十節 結論 @』
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【解説】
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今日から、六つの段落にわたってドッカリーの「キリスト教神学」評の結論の部分を学んでいきます。このパート自身が解説的な内容ですので、私は「解説」というよりも「感想」めいた内容にするのがよいと思います。
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先ほど、関西聖書学院の神学生から「聖書学院の教師のためにとりなしの祈りのときをもちますので、先生の祈りの課題をひとつ提供してくださいませんか。」という電話がありました。私は即座に「エリクソンの来日講演の祝福のために祈ってください。」とお願いしました。いのちのことば社の田崎さんから「エリクソンが2003年3月に来日されることが決定しました。関西講演でのご協力をお願いします。」と連絡を受けてから、どのように導かれてきたのか分からないくらい、いろんな可能性を模索し、数え切れないくらい多くの方と連絡をとり、根回しをし、多くの方の協力に恵まれて、すばらしい方向に話しがまとめられていきました。そして年末年始には、二つのすばらしい案内状が作成されました。今「肩の荷をひとつ下ろすことができた。」という感じです。ここまで、神さまの導きと大きな助けがあったように思います。あとは、来日講演の祝福のために祈るばかりです。
*
上記の段落には、「エリクソンの神学的取り組みの貢献は、バプテストと福音主義の思索における重要な里程標です。」とあります。里程標≠ニは、「道路や線路などのわきに立てて里程をしるす標識。一里塚
。」のことです。私にとって「エリクソンの神学」とは、神学という深い原生林に林道を切り開いてくれる里程標です。そして私の働きとは、靴屋のマルティン≠フように、朝夕祈りをささげ、あとはコツコツとエリクソンの神学書を一日に一段落ずつ、丁寧に解説していくことです。兵庫の宍粟の山中で、仕事をこなしながらコツコツと神学研究と神学教育にたずさわっている者に神さまは目を留めてくださって、大きな働きを任せてくださいました。ひとつはキリスト教神学≠フ翻訳であり、もうひとつはエリクソン関西講演≠フ受け皿づくりでした。私の一つの祈りは、「エリクソンが私に示してくれているバプテストと福音主義の思索における重要な里程標の働きを、所属教派と所属神学校とそれを越えた領域に広く、深く、長く、高く、惜しみなく届けているように」ということです。
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上記の「エリクソン:教会のための神学者」シリーズは、2003年3月の『キリスト教神学』翻訳・刊行を合わせて来日し、全国各地で刊行記念講演をしてくれたエリクソンを紹介するために、彼の教え子のひとりであるドッケリーの「エリクソンとその神学の紹介論文」を翻訳・解説し、お分かちしたものです。なので、記述内容が過去に属するものがあることをご了解ください。
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共立基督教研究所での三年間の内地留学を終えた時、神学教師としてまだ土台を構築しただけのように思いました。そして、わたしはその上に「福音理解」の家を構築していかねばならない、構築していくべく残りの生涯を生きるべきだという思いが“マグマ”のように燃え盛っていました。
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今だからこそ、少し語れることがあります。そのころある大きな教会の枝教会の奉仕の可能性があり、わたしもそれを受け入れるつもりでおりました。九分通り確定していた赴任の話の最終段階でひとつの電話があり、「枝教会の土台をしっかり築くまでやってくれたらそれで良いから。(その後の面倒は見るから…)それまでは、神学のことは棚に上げて、全力で教会形成に取り組んでほしい!」ということでした。
*
そのときに、わたしの心の内に潜む“マグマ”が激しく活動しはじめたようでした。心の内で大きな葛藤が起こりました。内地留学期間お世話になったのだから、その年数くらいは恩返しすべきだと言う思いと、「いつまでかわからないかたちで神学の継続的研鑽を休止し、それが定年退職の時期まで続くことには耐えられない」という思いが戦ったのでした。わたしは神学教師としての召しを軸としつつ、絶えずその研鑽の道を探求しつつ、伝道・教会形成と両立させる可能性がある、それを尊重してもらえるという甘い期待がありました。それを「一定期間あきらめ、ささげてください」と言われ、「同床異夢」のように受けとめてしまったのです。わたしは、共立基督教研究所での研修後、とりあえず一年でも二年でも、三年でも、継続神学の研修に集中できたらと思いました。その先は、またその時点で…、と思いました。
*
わたしは、「このような思いを抱いたまま赴任することは、その世話になった先生と教会を裏切ることになる」と考え、魅力的で可能性豊かな招聘をお断りし、うちに潜む「マグマ」の火山活動をそのまま受け入れうる環境として、郷里の田舎に帰り、働きながら開拓しつつ、24時間365日神学の研鑽と教育に費やし尽くす生涯を選び取りました。
*
振り返ってみて、このような選択をしなかったら、エリクソン著『キリスト教神学T・U』、『霊の戦いに関するナイロビ声明』、G.E.ラッド著『終末論』、C.ベネマ著『パウロ研究に関する新しい視点―再考』、エリクソン著『キリスト教教理入門』等の訳書や、千数百の講義・講演ビデオ集、多数のブックレットや論文・資料等も形成されることはなかったと思います。時に「愚かな選択だったかな?」と思わないこともなかったけれど、今はわたしの愚かさをも神さまは用いてくださり、良き計画の道筋を切り開き、わたしが夢にも思わなかった奉仕のジャンルを備えてくださいました。
*
【エリクソン来日講演会 2003年3月資料・記録】
http://aguro.jp.net/d/file/m/me_200303_erickson_meeting_papers.htm
*
【エリクソン来日講演写真】
http://aguro.jp.net/d/photogallery/photo11871/real.htm
【エリクソン関西講演会⑴―日本福音教会拡大教職者会と共催】
http://aguro.jp.net/d/file/p/pg_jec_with_erickson.htm
【エリクソン関西講演会⑵―日本福音主義神学会西部部会共催】
http://aguro.jp.net/d/file/p/pg_jets_kbi_with_erickson.htm
*
2020年1月26日 新約聖書
テモテへの第一の手紙1章3-7節「ある人たちが違った教えを説いたり―一度限りのかたちで賦与された真正な信仰」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
*
さて、先週より「パウロからテモテたちへ」のシリーズを開始している。パウロは、活動的な宣教活動期の後、自らローマの法廷に上訴し、ローマでの軟禁状態というかたちでの第一回投獄の後、釈放されたAD60年代半ばにこの手紙を書いた。
*
J.D.G.ダンは、初代教会を四つの時期―使徒行伝初期に見られるような「聖霊の注ぎと熱狂とリバイバル」の第一期、Tコリント書に見られるような「聖霊の賜物と秩序」の第二期、テモテ・テトス書に見られるような「健全な教えと組織化」の第三期、ヨハネの黙示録に見られるような「熱狂から醒め、初めの愛に立ち返り」が求められる儀式化の第四期に分類している。
*
この手紙は、第三期に属し、その執筆事情は手紙に明らかである。テモテが牧会していたエペソの教会は多数の家の教会から成っていた。そこにはさまざまなリーダーがいた。その中にはパウロが伝えた「真正な福音理解」とは異なる「違った教え」「作り話」「系図の寓喩的理解」「誤った律法理解」等々を語り教える教師やリーダーたちもいた。それでテモテは苦闘していた。
*
それは、わたしたちの時代もまたそうである。グローバルな、インターネットの時代、さまざまな運動や教えがさまざまな分野で溢れている。そのプレゼンテーションが優れているので、その運動と教えが「使徒たちの説いた“真正な福音理解”」なのかどうか、識別するのは困難である。
*
わたしは、「米国福音派の主流を代表する組織神学者」と評価の高いエリクソン神学を学び続けて三十年になる。そこで、教えられることのひとつは、「構成された(constructed)福音理解→分解された(de-constructed)福音理解→再構築された(re-constructed)福音理解」ということである。
*
わたしは、最近十年来使ってきたパソコンを新しいものに変えた。そのときに、いろんなトラブルに出くわした。そして、そのトラブル解消のために、さまざまなアプリケーション・ソフトをインストールし終えたパソコンを「初期化し、工場出荷状態に戻し、また最初から構築し直した。」そう、トラブルが起こり、さまざまな手を尽くしても解決が困難で、万事休すとなったときには、「初期化し、工場出荷状態に戻し、また最初から構築し直す」のである。
*
わたしは、エリクソン神学の真骨頂のひとつは「問題を内包する運動や教え」に直面したときに、それらの「運動や教え」を聖書観、聖書解釈法、福音理解の形成の全工程において、「構成→分解→再構成」を繰り返す力を養う点にあると受け止めている。
*
わたしの所属する団体日本福音教会JECの牧師会等において、「右傾化問題、セカンド・チャンス論問題、霊の戦い問題、ディスペンセーション主義問題、聖餐論問題、…」をタイムリーなかたちで取り扱ってきた。ただ、ある時から「牧師の間で意見の異なる問題は、牧師会では扱わない」という方向となってきた。今日の、波間の木片のようにさまざまな運動や教えに翻弄される危険のある時代において、そのような判断はどうであったのか、今でも疑問に思っている。わたしは、教え子たちにテモテのように学び、パウロのように勇敢に指導する器に育ってほしい。そして、問題のある運動や教えには、果敢に取り組み、群れをさまざまなかたち、天使のようにも装う誤りを内包する教えに妥協することなく、毅然とした態度で、「構築された教え→分解して病巣を除去→健全な要素をもって再構築する」というサイクルをいつでも、どこでも、だれに対しても対処しうる器に育ってほしい。
*
とにかく、パウロは、テモテに対して「神に委ねられた信仰、すなわち一度限りのかたちで賦与された真正な信仰」とそれに根差した「倫理的実践、すなわちきよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」をもって、教会を建て上げるように励ましている。わたしも、エリクソン神学の普及・浸透を通して「今日のテモテたち」を励まし続けたい。
*
“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第九節 教会と終末 D』
*
【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
*
★ for
Beginners(初級)
◇エリクソンの終末論を解説するにあたり、「第40章の千年王国と大患難の見方」の導入を引用させていただきます。千年王国における三つの見方を簡潔に紹介しています。
*
◇共立基督教研究所時代の私の恩師、宇田進師は長老派に所属しておられた関係でしょうか。「エリクソンの終末論の構成は、いきなり『前千年王国説』に入っていっている感じの部分が残念…」という評価でありました。宇田師はA.A.フーケマの著作をもとに終末論の論考をまとめておられます。
*
◇私の所属する群れは、エリクソンと同じ「前千年王国説」にたっています。そして自然なかたちで私もそうです。しかし、同時に私はどのような立場に立とうとも、宇田師のスタンスともいうべき「各論に入る以前の総論の掘り下げ」を重要に思う者です。そういうことを念頭に、エリクソンの各論紹介をさせていただきます。
*
□イエス・キリストの地上的支配、千年王国があるだろうか、そしてもしそうなら、再臨はその期間の前、あるいは後のどちらに起こるのだろうか。
*
□キリストの地上における支配はないという見方は無千年王国説と呼ばれています。
*
□キリストの再臨は千年王国を開始するだろうという教えは、前千年王国説と呼ばれています。
*
□然るに、再臨は千年王国を終結させるという信仰は、後千年王国説です ⑴。
*
★ for
Intermediate(中級)
◇「彼は決して普遍救済主義のいかなるかたちもほのめかしてはいません。」とあります。ここでは、「普遍救済主義」と「普遍的贖罪」の相違を認識しておくことが大切です。前者は非聖書的ですが、後者は聖書的であり、エリクソンの立場です。
*
□普遍救済主義の多様性について、七つの理論を紹介しています。@普遍的回心の理論(回心なしに死んだ人には未来に回心の機会がある)、A普遍的贖罪の理論(贖いの対象は全人類)、B普遍的機会の理論(特別啓示で救われる人と一般啓示で救われる人)、C明白に普遍的機会の理論(生存中のみでなく、死後にセカンド・チャンス)、D普遍的和解の理論(キリストの死による全人類との和解、受け入れるか否かではなく達成された事実に依拠)、E普遍的赦しの理論(人間の応答は無関係、愛の神が全ての人が信じていたかのように救われる)、F普遍的回復の理論(死後に煉獄で刑罰を通してきよめられて、神との交わりに回復)などが紹介されています⑵
。
*
◇上記の内容は、エリクソンの主著「キリスト教神学」では「第49章
救いの手段と範囲」からのものですが、要約版「キリスト教教理入門」では、その章は割愛されていましたので、現在の「電子メール講義録」の中には言及がありません。しかし、後日それらの主題についても取り組んでいきたいと考えています。
*
☆(□は文献からの引用、◇は安黒解説。)
*
⑴ Millard J.
Erickson,Introducing Christian Doctrine。aker, p.382
⑵
Millard J. EricksonChristian Theology。aker,1999、pp.1025-1028
*
“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第九節 教会と終末 C』
*
【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
*
★ for
Beginners(初級)
◇「地方教会を強調しつつ」という側面は、エリクソンがバプテストの流れの神学者であることと関係があるように思います。
*
◇ここで「バプテスト派の信条の特色
⑴」について述べたいと思います。@「はじめに信条ありき」で、信条を承認する信仰者のみを受け入れる信条主義の教会のあり方に対し、信仰者個人の主体性を重んじるバプテスト派では「集まった信仰者によって」信条や教会が形成されます。A聖書全体を詳細に網羅した信条によって表現しようとする「信条主義」に対して、バプテスト派は聖書自身で十全なので、主要なポイントだけをあげる「簡易信条主義」の立場をとっています。B信条は永続的なものではなく、自由に信条を「作成したり、変更したり」することができます。そしてかなり広い立場の枠を作り、その中での個人の自由が許されています。C信仰告白における「個人の主体性」が強調されています。「教会の信仰告白」よりも「個人の信仰告白」が、また「教派の信仰告白」よりも「個々の教会の信仰告白」が優先されます。「個人の自由、地方教会の独立自治を拘束する信条を認めません。」
*
★ for Intermediate(中級)
◇バプテストの一員として「地方教会」を強調しつつ、神の「普遍的教会」を強く主張し、さらに「王国の唯一の現われとして教会」とみていくところに、エリクソンのバランス感覚があるように思います。現在、ウィークリーの学びで「教会論」を学んでいますが、彼のバプテストとしての特徴とともに、それを越えていこうとしている傾向についても注目していきたいと思っています。
*
◇「教会の一致」を主張し、そして分裂へと導く傾向をもつ、ファンダメンタリズムの「分離に関する強調」を拒絶している点を以下のように補足できると思います。
*
◇宇田進師は、福音派を六つに類型化され、その中に「分離主義的ファンダメンタリズム」と「ポスト(脱)・ファンダメンタリスト的福音主義」が含まれています。
*
□「分離主義的ファンダメンタリズム」(Separatistic
Fundamentalism)…今世紀最初の四半世紀のアメリカを中心に巻き起こった「ファンダメンタリズム(根本主義)対モダニズム(近代主義)論争」の落し子。自由主義キリスト教と世俗主義化からの徹底的分離・闘争を主張。
*
□「ポスト(脱)・ファンダメンタリスト的福音主義」…第二次大戦後、前出のファンダメンタリズムの分離主義、反知性的傾向、他界主義的体質、ディスペンセーション主義などの諸問題を克服しながら登場した、より公同性、現代性を具備した福音主義の流れ。
*
◇エリクソンは、前者を拒否し、後者を支持しているものと思います。
*
★ for
Advanced(上級)
◇神の国と教会の関係については、ゲルハルダス・ヴォス「神の国と教会」聖恵授産所出版部、1982。
*
◇一致の基盤・原則についてはジョン・ストット「ローザンヌ誓約―講解と注釈―」いのちのことば社、1976。
*
◇分離主義ファンダメンタリズム−福音派の多様性、相違点の強調と共通性については、宇田進「福音主義キリスト教と福音派」いのちのことば社、1992。
*
◇「教会の分離」についてのエリクソンの論稿としては、Evangelical Dictionary of
Theology。aker、1987、p.1003。方向としては「分離的・闘争的」方向ではなく、「公同性・現代性」を探求していく方向を目指していると思います。
*
☆(□は文献からの引用、◇は安黒解説。)
*
⑴
丸山忠孝「信条学」講義ノート、pp.50-51
*
“翻訳者”
安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第九節 教会と終末 B』
*
【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
*
★ for
Beginners(初級)
◇聖餐式は、キリスト教会で通常、毎月第一日曜の礼拝の中で持たれていると思います。私自身は、スウェーデン・バプテスト系の西宮福音教会で導かれましたので、バプテスト的な聖餐式を経験してきました。教職課程の資格試験の関係で岐阜の方に行きましたときに、その試験会場の近くの改革派系の教会で聖餐式にあずかったことがあります。また、アメリカに行きましたときに、聖公会系の神学校でしたので、授業と授業の間に短い礼拝の時があり、聖公会の聖餐式も経験しました。形式は少しずつ異なっていましたが、すんなりと順応できました。ただ、聖餐式についても学んでいくにつけ、聖書のみことばに根ざした確信が必要と思うようになっています。『なぜ自分は、この形式の聖餐式を導くのか。』という確信、みことばに立った論理的確信がなければ、導き方が安易に変更されたり、聖餐式のときに語られる説明に一貫性を保つことが難しくなると思うのです。みことばに立った説得力のある確信と説明が伴う聖餐式は、つどわれる会衆にとっても祝福になると思います。
*
★ for Intermediate(中級)
◇エリクソンは、教会における「継続的な儀式」として聖餐式を解説しています。聖餐式についての主要な捉え方として、四つあげています。それは、@伝統的なローマ・カトリックの見方、Aルター派の見方、B改革派の見方、Cツウィングリの見方です。
*
◇カトリックの見方は、適切な司式者によってなされる聖餐式ではパンとぶどう酒が「実体変化」し、文字通り「キリストの血と肉」になると考えています。イエス・キリストの十字架の出来事が同じ意味で繰り返されていると捉えるのです。「化体説」と呼ばれています。
*
◇ルター派の見方は、「共在説」と呼ばれ、キリストの血とからだがパンとぶどう酒の内に、共に、下に≠らわれていると考えます。ルターはアイロンとそれに伴う熱≠ニの類比において説明しています。
*
◇改革派の見方は、キリストは聖餐式のうちに臨在されるという「臨在説」です。カルヴァンは「太陽は天高くにあるままであるが、その暖かさと光は地上にあらわされる。」とその霊的でダイナミックな影響力を表現しています。
*
◇ツウィングリの見方は、聖餐式は単なる記念の式典であるとみます。「説教」が本質的に福音の宣言であり、「洗礼」が救いの現実の表明であるように、「聖餐」はキリストの死を記念する儀式であると考えています。「象徴説」と呼ばれるものです
⑴。
*
★ for Advanced(上級)
◇エリクソンは、上記の四つの捉え方を、「@キリストの臨在」、「A儀式の有効性」、「B適切な奉仕者」、「C適切な陪餐者」、「D使用される要素」の五点を丁寧に扱うことによって判断しています
⑵。
*
◇「キリストの臨在」の解説において、「@カトリックの見方:パンとぶどう酒はキリストの肉体、血である。Aルター派の見方:パンとぶどう酒にはキリストの肉体と血が含まれている。B改革派の見方:パンとぶどう酒はキリストの肉体と血が霊的に含まれている。Cツウィングリの見方:パンとぶどう酒はキリストの肉体と血を表している。」とその主張のポイントを簡潔に説明しています。
*
◇基本的には、ツウィングリの立場にたち、「聖餐は、キリストの死、私たちの身代わりとしてのその犠牲的性格を思い起こすもの、主と私たちとの真の結びつきの象徴、そして彼が再臨されることの証しである。」と表現しています。
*
◇その扱いは、排他的・攻撃的なものではなく、それぞれの主張を公平に扱いつつ、聖書に記述され主張されているニュワンスを繊細に捉えていると思います。カルヴァンの「臨在説」を否定しているのではなく、キリストの臨在はペンテコステ以来、普遍的なものであり、聖餐式においてのポイントは「記念的・象徴的」なものであるということです。それは、「洗礼」の前提に明確な回心があるのと同様に、「聖餐」の前提にキリストの贖罪の歴史的事実があることに主張のポイントがあるということです。
*
⑴ Millard J. EricksonIntroducing Christian
Doctrine。aker, 1992, pp.352-354, Christian Theology。aker,
1999, pp.1123-1129
⑵ Ibid. Introducing Christian
Doctrine}p.354-357, Christian Theology}p.1129-1134
*
“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第九節 教会と終末 A』
*
【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
*
★ for
Beginners(初級)
◇プロテスンタト教会では、二つの儀式が行われています。ひとつは、バプテスマ式であり、もうひとつは聖餐式です。含まれている意味はいろいろありますが、簡単に申しますと前者は公的な信仰告白であり、教会への入会の一度きりの儀式です。後者はクリスチャンになったものがイエス・キリストの十字架の贖罪の恵みを覚える定期的に繰り返される儀式です。
*
★ for Intermediate(中級)
◇ただ、バプテスマには、大きく分けて三つの理解があります。
□@「救いの恵みの手段」としてのバプテスマの理解、A「契約の標識・印章」としてのバプテスマの理解、B「救いの象徴」としてのバプテスマです。これらの理解についての詳細な比較考察は、「第三十七章
教会の儀式:洗礼と聖餐」の学びのときに取り組む予定です 。
*
★ for Advanced(上級)
◇エリクソンの「バプテスマの様式」についての理解について、少し記述させていただきますと、上記の三つの理解を分かりやすく解説した後、「@洗礼の意味、A洗礼の対象、B洗礼の様式」を扱うことにより、問題の解決にあたっています。
□洗礼の意味について、洗礼は、それが実際に信仰者のキリストと共なる死と復活を描いているゆえに、単なる標識なのではなく、ひとつの象徴です
。洗礼の意味について、新約聖書は信仰を行使する以前に洗礼を受けた個人のケースをどこにも提供していないという事実において、私たちに信仰者の洗礼という立場を保持するように要求しています
。洗礼の様式について、浸礼は幾つかの立場のうちで最も適切なものであると思われます。それは洗礼の唯一の有効な形式でないかもしれないが、それは洗礼の意味を最も完全に保持し、達成している形式です
。
*
2020年1月19日 新約聖書
テモテへの第一の手紙1章1-2節「キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による真の我が子テモテへ」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
*
今日から、わたしたちはテモテへの第一の手紙を開く。『キリスト教教理入門』を翻訳・刊行した後、しばらくはピリピ人への手紙を開き、「原点」を見直す時をもった。
*
さて、しばしの猶予期間を経て、再びはばたく時がきた。この新しい時期の掛け声は「パウロからテモテへ」である。エリクソン神学を探求して約30年が経過した。最初は宇田進師から「エリクソン」講義を受けた共立時代、KBI関西聖書学院で「組織神学」を教えつつ開始した「電子メール講義録」時代、いのちのことば社の目に留まり翻訳出版へと結びついた「推敲・刊行」時代―この間に数冊の翻訳、論文、冊子等を出版してきた。そして、「糸の切れた凧」のようになる。凧は風を失い、地上に舞い落ちる。わたしは凧の手入れをし、糸を修復し、新しい風が吹くのを待ち望む。
*
先週末、クリスチャン新聞デジタル版を開いた。その新年号に、教え子のひとりである豊村泰先生による、『キリスト教教理入門』書評が掲載されていた。同じ所属団体JEC日本福音教会の上郡福音教会の牧師であり、所属団体JECが主力となって経営するKBI関西聖書学院の講師で、わたしが長年教えてきた『組織神学』の科目を幾人かの若手の教師で分担して教えておられる先生のひとりである。
*
昨年の11月、JECの牧師会があり、ながらく休んでいたわたしは、幾分重たい心を携えつつ『キリスト教教理入門』の紹介・販売のために出席した。何冊売れるだろうかと心配もしていた。そのような中、豊村泰先生は、頼んでもいないのに本の紹介をしてくださり、「全員の先生方にお勧めします」と弁舌をふるってくださった。その日の牧師会では、ほとんどの先生方が一冊、三冊、五冊、十冊と買ってくださった。また、母校KBIでの販売購入にも仲介役を担ってくださり、その甲斐もあり、わたしの手元からは220冊が飛ぶように売れていった。
*
刊行後のこの何ヶ月間に、所属団体の先生方、母校や生駒の関係者、教え子、ICI関係者、神学会関係者等々の方から、本書刊行に対する感謝の言葉をいただいた。この一連のメール、クリスマス・カード、年賀状等を繰り返し読んでいるうちに、「パウロからテモテへ」という風が吹いてきた。わたしの奉仕生涯も「秋」の季節にあり、それは準備の「春」、熱烈な活動期の「夏」に続き、それらの奉仕で蒔き、育てた奉仕の実を収穫する時期である。エリクソン神学の翻訳はそのひとつであり、この福音派の主流を代表する「福音理解」を広く、深く提供、浸透へと取り組む時期である。
*
主著『キリスト教神学』は、要約版『キリスト教教理入門』となった。そして、その普及・浸透のために、フェイス・ブックとユーチューブを通しての信徒対象の講義を24時間365日スタイルで取り組んでいる。そして、その取り組みの中で最近教えられたことがある。本書の普及は、教会においては「少し知的な、信徒リーダー層」にとどまっているのではないかというわたしの「状況分析」である。
*
そこで、この素晴らしい「福音理解」をさらに、キリストのからだのすみずみ、諸教会の末端にまで普及・浸透させることはできないのか、という問題意識である。そのようなとき、上記の書評を機に、「月間いのちのことば」の書評サイトで「エリクソン」と入力してみた。すると「どうして『神学』は必要なのか?
ミラード・J・エリクソン氏 来日インタビュー掲載号:2003年07月号」がリンクにあらわれた。
https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%97%e3%81%a6%e3%80%8c%e7%a5%9e%e5%ad%a6%e3%80%8d%e3%81%af%e5%bf%85%e8%a6%81%e3%81%aa%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f-%e3%83%9f%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%89%e3%83%bbj%e3%83%bb/
*
その最後の質疑に
{Q:「神学」に対して抵抗を感じている方々におすすめすること、また学ぶ上で注意する点などありますか。
A: はじめて神学に触れる人は、厚い本から学ぶのではなく、薄い本から学び初めて欲しい。『キリスト教神学第1巻』を読んで下さるのなら、第一部は哲学的なことが多いので、第二部から学び始めるのがよいと思っています。
また、私の著作で十二章からできた小さな本ですが、”Does It Matter What I
Believe?”(何を信じるかは重要な問題か)という成人向けの本があります。それが日本語になるといいと思っています。}
と記されていた。
*
これを読んだとき、『キリスト教神学』翻訳・刊行された2003年3月にエリクソンが来日したとき、その当時西宮にあったKBI関西聖書学院に隣接するJEC日本福音教会本部事務所で一緒に寝起きし、交わったときのことを思い出した。それは、芦屋か夙川のどちらか?
のレストランでの会話であった。わたしは、『キリスト教神学』の翻訳・刊行をした後、『キリスト教教理入門』の翻訳が頭にあった。「神学校向けには主著『キリスト教神学』が翻訳刊行されたので、次の課題として教会での信徒教理教育向けに要約版『キリスト教教理入門』を翻訳刊行したい」と話した。そのときにエリクソンはその話の流れの中で”Does
It Matter What I Believe?”(何を信じるかは重要な問題か)という本のことを話し始めた。
*
なぜ、このことを覚えているのかというと、わたしが熱心に要約版『キリスト教教理入門』のことを話している最中に、”Does
It Matter What I
Believe?”(何を信じるかは重要な問題か)という本について話し始めたので、わたしは少し憮然としたのである。というのは、”Does
It Matter What I
Believe?”(何を信じるかは重要な問題か)という本はもっていたが、まだ丁寧に目配りできていなかった。それで、それっきりこのことは忘れていた。
*
それを先日、書評サイトでみて「エリクソンに対するインタビューで、同じことを語っていたのか」と驚かされた。そして、今の状況分析―「『キリスト教教理入門』の教会での普及・浸透は、少し知的な信徒リーダー層にとどまっている」に対する対応策として、”Does
It Matter What I Believe?”(何を信じるかは重要な問題か)という本の翻訳を密かに決意した。
*
この本の序文には、教会での夕拝での教理的説教であり、信徒対象の教理研究会の資料として作成されたものを本にしたものであるらしい。そして、普通の信徒の方々や求道者層を意識した内容とのことである。これを読んで、わたしは手入れした凧を吹き上げる新しい風を見出したように思った。本として刊行されるかどうかは、出版社との相談もあるので未定である。しかし、少しずつ翻訳し、「フェイス・ブックとユーチューブ」講義録として、まず下訳を完成させていきたい。日本の教会のための、この資料またまだ見ぬ本のために祈っていただきたい。
*
今朝の箇所には「キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真実のわが子テモテへ」テモテ1:1-2とある。エリクソン神学に示されている「福音理解」を慕う―ICI視聴者、KBI・IBCの教え子、JECの同労者・信徒の皆様、神学会の友人、本書購入者等すべての人をわたしは「テモテたち」と呼ばせていただきたい。その人たちに、わたしが共立での研鑽以後教えられてきたすべての霊的エッセンスをこのようなかたちで分かち合い続けたい。
*
“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第九節 教会と終末 @』
*
【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
*
★ for
Beginners(初級)
◇キリスト教会における「教会の政治制度」には、監督制、長老制、会衆制の三つがあります。それは、「神が教会において、どのように、誰を通して権威を遂行し、行使されるのか。」という問いに対する解答です。
*
★ for Intermediate(中級)
◇教会の歴史において、教会統治のいくつかの基本的な形式が存在してきました。
*
◇監督制は、高度に組織化された聖職者の階層からなっており、そのトップには監督が位置します。カトリック・英国聖公会・メソジスト教会等は監督制を採用しています。
*
◇長老制は、ユダヤ人のシナゴク(会堂)が長老によって指導されていたことに起因しています。信徒の中から資格ありと評価された長老たちが選ばれ、代議制的なかたちで運営される形式で、聖職者のレベルは唯一のレベルのみとなっています。長老派(改革派系)が採用しています。
*
◇会衆制は、地方教会の会衆である個々のクリスチャンに権威の座があるとするものです。地方教会の独立自治と民主主義の考え方が流れています。バプテスト派・会衆派・ルター派などが採用しています。
★ for Advanced(上級)
◇エリクソンは、教会政治の形式を比較検討した後、「今日のための教会政治のシステム」を提案しています。
*
◇留意すべき点としては「新約聖書からの証拠は確定的なものではない」という認識です。多くの神学書では教条的≠ノ所属する教派の立場を擁護するものが多いのですが、エリクソンのスタンスは開かれたものです。
*
◇@教会政治に関する「教えの箇所」が不十分であること、Aそのことについての描写に濃淡の差があること、のゆえに権威あるパターンを発見できない、と指摘しています。
*
◇しかし、私たちは曖昧な描写の中に、教会政治を構築する原則を見出さなければなりません。そして@秩序の価値、Aすべての信仰者の祭司制、Bそれぞれの信仰者はキリストのからだ全体にとって重要である、という原則を見出します。
*
◇そして、エリクソンの判断としまして、教会政治における会衆制は、万人祭司制の原則、そしてすべての信仰者の霊的機能の原則をもっとも良いかたちで反映しうる秩序をつくるゆえに、会衆制を推奨しています。
*
◇エリクソンが盲目的に所属教派の弁護に終始するのではなく、明確な手順と公平な評価をもって「明確に会衆制に賛同」している姿は、私自身もそうありたいと願うところのものです。
*
**********************
●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節 神学の本質、第四項
キリスト教教理研究の出発点 G】(本書朗読、p.16)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「これは基本的な意味の改変を伴うものできなく、基本的意味の再表現と再適用に関するものである」“This
does not involve an alteration of the fundamental meaning, but
a re-expression and reapplication of it ”である。
*
今日のテキストを読むとき、わたしには二つの資料が思い起こされる。ひとつは、ローザンヌ継続委員会のひとつであるウィローバンク・レポートに掲載されたルネ・パディリアの論文「解釈学と文化―神学的視点」である。簡潔に言えば、三つの図がある。最初の図には、丸の中に三角が入っている。丸は、聖書時代の社会・文化である。そのような只中に福音の本質は語られ、適用され受肉している。このような聖書記述から社会的・文化的要素をはぎ取り、その時代状況の中で語られた、また記された「福音の本質」を識別し、抽出する。そして、その「抽出された福音の本質」を21世紀という新しい時代状況・文化状況の只中で、「その福音の本質を歪めることなく、変質させることなく」適切に適用し受肉させていくのである。図⑴は丸の中に三角がある。図⑵は抽出された三角のみがある。図⑶ではその抽出された三角が新しい時代状況の丸ないし四角の只中に置かれ、受肉させてられていく、というプロセスを踏む。これが、聖書時代に働かれた聖霊が、「福音の本質」に沿って今日働かれる際の手順であり、原則である⑴。
*
もうひとつの資料は、H.G.ペールマン著『現代キリスト教教義学』である。そこでは、「組織神学の四つの機能」が記されており、「第一は組織神学の『教会的ないし実存的機能』である。組織神学はただ教会の肢として、教会の委託、教会に対する奉仕の意識をもって行う学であり、ただ単に信仰についての思考にとどまらず、むしろ信じつつする思考である。神学は、全く中立的な学問ではありえず、むしろただ実存的にのみ関わりうる学問である。なぜなら神は、あらかじめ神によって捕らえられることなしには、理解しえない。神賛美でない、とりわけ実践的な知識でない、新生した者の神学でないような神学は、もはや神学とは言えない。それは宗教学である。
*
第二は、組織神学の『再生産的ないし要約的機能』である。これは聖書的使信あるいは聖書の教えを要約して捕らえることである。
第三は、組織神学の『生産的ないし新理解的機能』である。伝統的関連以上に重要なのは、組織神学の状況的関連である。それは聖書的・教会的ケリュグマをただおうむ返しに語るのみでなく、むしろ新しく語られねばならない。伝統をただ単に要約するにとどまらず、新しく理解しなければならない。それは“かつてそうだった”と語るのでなく、むしろ“現在こうである”と語るのである。いわゆるコンテクスチュアルな神学の必要性である。
と記されている⑵。
*
表現は、多少異なるが、同じメッセージが語られている。聖書を神の霊感によって記された書物として受けとめるわたしたちは、以上のような「聖書観」そして「聖書解釈」についての基本をいつも念頭に置いて、聖書を読み、解釈し、適用しなければならない。
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⑴ 「聖書解釈の三類型―直観的・科学的・文化脈的」
http://aguro.jp.net/d/file/c/coed02.htm
⑵
「今日の神学界の状況―組識神学の四つの機能」
http://aguro.jp.net/d/file/c/coed01.htm
●翻訳者、安黒務の【さらに詳しく、繰り返し、年度ごとにいろんな視点から学びたい信徒の方のための―エリクソン著『キリスト教教理入門』ビデオ講義録集】20年分を漸次アップロード中!
https://www.youtube.com/channel/UCBI0r-OtGczYSm83xbYhVKQ/playlists?view=50&sort=dd&shelf_id=20
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https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/csdb/actibook/2020010512/?cNo=30172¶m=MV8wXzc=&pNo=12
クリスチャン新聞の新年号に、JEC上郡福音教会牧師で、KBI関西聖書学院講師である豊村泰先生の手による、エリクソン著、安黒務訳『キリスト教教理入門』の紹介が掲載されていました。感謝
!
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“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】のみ
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第八節 キリスト、御霊、救い C』
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【解説】は下記文章にて、解説内容を三つのレベルで記述しました。
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★ for
Beginners(初級)
ドッケリーの論文は、エリクソンの主著である「キリスト教神学」の特徴の紹介ですので、エリクソンの組織神学を学んだことのない方には少し分かりにくいかもしれません。それで、「メッセージ調のワンボイント解説」を書き綴ってみたいと思います。今日は「オルド・サルティス(救いの秩序)」について説明させていただきます。簡単に申しますと、建築家が家を建てるときに“建物の青写真”を作成し、それに従って建築しますように、神さまも天地万物を創造されるときに“被造物世界の青写真”を作成されました、それを“聖定”と申します。その聖定の中の“人間の救い”に関する聖定を「オルド・サルティス(救いの秩序)」と言うのです。より厳密にいいますと、「救いの祝福の適用における秩序」ということになります。
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★for Intermediate(中級)
この段落は、「第8節 キリスト、御霊、救い」の解説の最後のものです。第8節に該当する章は、第七部
キリストの人格(32,33,34,35,36章)、第八部 キリストのみわざ(37,38,39,40章)、第九部
聖霊(41,42章)、第十部 救い(43,44,45,46,47,48,49章)
の広範囲にわたっています。これらの概要と特徴的なポイントを四つの段落のみで紹介するというのは少し無謀なところがあります。ただ、分類された主題間関連を分断されたままにすることなく、それらの有機的な関連を短い文章に表してみることには価値があります。その関連を記述してみますと以下のようになります。
*
「御霊によって…適用」というのは救済論であり、「キリストのみわざ」とはキリストのみわざ論であり、「神との正しい関係の回復」とは救いの始まりの客観的側面であり、「再生と回心」は救いの始まりの主観的側面であり、「力・照明・とりなし・聖め・賜物」は聖霊論であり、「続けます」は救いの継続と完成の聖化論と栄化論に関係するテーマです。
*
ドッケリーは「キリスト論」「聖霊論」「救済論」の全体を眺望しつつ、「オルド・サルティス(救いの秩序)」の一点に絞って、エリクソンの神学の特徴を示そうとしています。カルヴァン主義では、全的堕落の教理の視点から、神の主権的働きとしての「再生」なしに、人間の応答としての「回心」はあり得ないという理解です。エリクソンの捉え方は「回心と再生は同時的なものであり、同一の実体の二つの側面、回心は人間の側から見たものであり、再生は神の側から見たものである。」ということです。また、救いの始まりについての見方の論理的な順序としては、「特別召命―回心―再生」と説明しています。このことをエリクソンは、「一般的な召命にはだれも応答することはできないが、神の選ばれた人たちに対する特別召命を通して、選ばれている人々は悔い改めと信仰において応答します。この回心の結果として、神は彼らを再生させられるのです。」という、“同一の実体”における論理の順序を分かりやすく解説しています。
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★for Advanced(上級)…文献紹介等
下記の書の中で、フーケマは改革派系神学者の間における「オルド・サルティス(救いの秩序)」理解の幅に言及しています。「救いの秩序」については、三つのアプローチがあり、「明確な救いの秩序」を主張するのは、ジョン・マーレーです。そして「明確な救いの秩序について否定的」なのはG.C.ベルカウアーです。そして中間的立場に位置するのがルイス・ベルコフの「救いの秩序は時間的系列のものというよりも論理的なものとして」記述するものです⑴。エリクソンの立場は、ルイス・ベルコフの立場に近いものと思われます。
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⑴ Anthony A. Hoekema“Saved by Grace”,
Wm.B.Eerdmans,1989, pp.11-12
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●“翻訳者” 安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節
神学の本質、第四項 キリスト教教理研究の出発点 F】(本書朗読、p.15)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「キリスト教の場合、その憲法に位置するもの、すなわち聖書を扱っている」“In the case
of Christianity, we also are dealing with a constitution,
namely the Bible”である。
*
この類比の中に「エリクソンの聖書観」がみられる。憲法(けんぽう)とは、国の成立に係る統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。1215年にイギリスで制定されたマグナ・カルタが源流で、アメリカ独立戦争以降、国民が憲法で国家権力を制限するものと捉えられる。
*
国家は、その権力を憲法に記された「根本規範、基本的原理原則」に沿って国民に対して行使しなければならないのである。もし、それに違反する権力行使がある場合、それは「違反」となるのであり、「無効」と宣言されるのである。
同様に聖書には、神と人間の関係のあり方に関する「根本規範、基本的原理原則」が記されている。神は聖書において「信仰と実践の基準」、「守るべきガイドライン」、「何が正しい信仰」、「正しい実践」なのか、を明らかにされているのである。
*
今月は、生駒聖書学院で、またもしかしたら久しぶりに母校関西聖書学院で、本書刊行記念講義をさせていただく方向である。そこでは、以前エリクソンが来日したときに共に講演の機会を得た。当時は西宮にあった母校を会場にして、日本福音主義神学会西部部会春季神学研究会議にて「Why
? ―今、エリクソン著『キリスト教神学』が必要なのか」と題した研究発表をさせていただいた。
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本書刊行記念講義でいろいろと構想を下準備したが、やはり「Why ?
―今、エリクソン著『キリスト教教理入門』が必要なのか」と題して、本書刊行の意義、目的、活用方法等について簡潔に語り、質疑応答等を経て、神学生諸氏の神学校での、また一生涯続く神学研鑽の一助としていただきたく願っている。
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わたしは、エリクソン著の主著『キリスト教神学』と要約版である本書を、この30年間繰り返し読み、熟考し、翻訳し、講義してきた。それらの中で主から、また本書から教えられてきたことは山ほどある。そのエッセンスを、「パウロがテモテやテトスに」書き送った手紙のように、口幅ったい言い方ではあるが「エリクソン神学の“使徒”」として、神学校・教会・家庭等々で「本書を学んでくださる“テモテ、テトスたち”へ」心に溢れるものをもって伝えていきたい。
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“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
皆様のお祈り、感謝します。かなりよくなりました。それで、治癒の程度にあわせ、「雨にも負けず、“風邪”にも負けず」少しずつ取り組んでいかせていただきます。
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第八節 キリスト、御霊、救い
B』…喉が緊張すると咳き込みます。長文の朗読は負担がかかりますので「テキスト」のみの朗読とさせていただきます。解説は「文章」黙読を通し学んでください。
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【解説】
エリクソンの「慎重かつ仮説的な方法において」の問題提起は、私たちにいくつかのことを教えてくれています。宇田進師が「日本の福音主義神学に未来はあるか」という資料の中で、今日意味ある福音主義神学の特質として四つあげられています。「その第一は、真に聖書的、福音的であることです。“聖書的適格性”が絶えず自己吟味されていく必要があります。 第二に、分派的、自己流であってはいけません。常に公教会的であることが大切です。あらゆるところで、常に、すべてによって信じられてきた“正統信仰の公同性”を反映するものでなければなりません。第三に、“現代的適応性”と四つに取り組むものでなければなりません。聖書の使信の高さ・深さ・広さを特定の文化言語と思惟様式において積極的に立証することを不可避の機能として担うことが必要です。オウム返しに語るのみではなく、新しく語らねばなりません。単に要約するのみでなく、新しく理解されなければならないのです。第四に、“自己革新性”を不可欠の属性としてもつものでなければなりません。改革された教会は常に改革され続けなければなりません。さらに「非批判的伝統主義」に対して、キリスト教有神論というパラダイムに立った批判的学問性が必要とされています。宗教者一般によく見受けられる主観、熱狂、独善のみでなく、客観的、学問的脈絡が求められているのです。⑴
」
*
私は、エリクソンの神学が上記の四つの特質をもっていることのすばらしいさを思います。この箇所では、「イエスの復活」についての仮説でありますが、「三位一体論」の正統信条の傾向についても、「キリストの神人二性一人格論」におけるカルケドン信条の特徴についても、歴史的経緯を踏まえて分析と評価をしており、その中にいくつかの課題を指摘しています。神学的思索の貧しい段階においては、“鵜呑み”の信仰に置かれるものですが、聖書観の確立、聖書解釈の手順の明確化、教理形成のプロセスの理解等に詳しくなりますと、その中に語られている事柄の分析と評価ができるようになってきます。その神学的思索の豊かさが、「聖書的」「公同的」な基盤にたちつつ、「現代適用性」をもった仮説の提案となり、また過去の教理が内包する課題を取り扱う「自己革新性」を展開する力となるのです。そのような意味で、エリクソンの著作には、単に“オウム返し”に語る過去の福音主義神学を超えるチャレンジ精神が満ちています。私たちはその中に、神学的思索における自由を見て、福音主義神学の健全性の枠内で“解放感”を経験するのです。
*
⑴ 宇田進「日本の福音主義神学に未来はあるか」セミナー資料
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●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節 神学の本質、第四項
キリスト教教理研究の出発点 E】(本書朗読、p.15)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「本書では三番目のアプローチに従うことにする」“We will follow the third
approach.”である。
*
短い一言だが、これは重大な決断である。今日キリスト教徒は、全世界人口75億人のうちの三分の一、約25億人くらいであると言われる。このキリスト教徒の中には共通性とともに多様性が存在する。この多様性には、⑴神学的・教理的要素、⑵歴史的要素、⑶社会的・文化的要素が関係している。このうちの神学的・教理的要素に焦点を当てて考えていくとき、それらの神学や教理が一体どのような資料源から、どのような意味で吸い上げられているのか、が問題となる。
*
米国の福音派を代表する組織神学者といわれるエリクソンは、彼の「組織神学」を構築していく上で、明確な意識を抱いている。そのことが、以下の文章に記されている。
エリクソンは、「聖書」を、神学と教理の第一義的資料源と位置付ける。しかし、その位置付け方が中途半端なものではないことを教えられる。エリクソンは「憲章、憲法、定款」と「機関また組織」との関係に、「聖書」と「キリスト教信仰の信仰と実践の規準」の関係をみている。
*
私たち福音派の間にも、多様性がみられる。そのときに、「聖書」をどのような規範性のレベルで受けとめているのか、を分析・評価することは最も基本的な部分である。そのスタンスの取り方によって、「聖書」は
⑴どのような文書であり、ゆえに ⑵聖書はどのように解釈されるべきであり、そして
⑶それらの解釈の集積が、徹底した吟味、検討を経て命題的な教理また神学としてどの程度まで構築されていくべきなのか等に影響していくのである。
*
福音派の共通理解のひとつとして受けとめられている「ウエストミンスター信仰告白」第一章二項には、「聖書…、これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である」と記されている。エリクソン神学を学ぶ学徒は、「本書では三番目のアプローチに従うことにする」という神学的決断の意味・意義をかみしめつつ、研鑽に努めることが肝要である。
*
20200113 :
病み上がりですが、ベッドの傍らにパソコンを置き、たまっている奉仕のひとつを片付けました。
*
日本福音主義神学会神学誌編集委員会より、⑴『福音主義神学』50号「宣教」が届きましたので、⑵裁断機にかけます。⑶一枚一枚のページにバラされた学会誌は、⑷スキャナーにかけて、⑸約十年使った古びたパソコンに読み込みます。
⑹買ったときは最先端・最高級の機能のXR-PCでしたが、年老いたPCは近年「音声と画像」にトラブルが続き、だましだまし延命させていました。しかし、困難をきわめるようになったので、このために貯えていた貯金を取り崩し、⑺今月より新しいパソコンに移行しました。高画質4Kビデオ処理等が多いICI奉仕なので、Dellのオーダーメイドで最先端の機能をもつ「New
XPS 15
スプレマシー」を購入しました。また、我が子のように大切に養い育て、少なくとも十年間は使い続けたいと思っています。
⑻今回は、新しいPCで「学会誌バックナンバー」サイトを編集させていただきました。処理が高速なのでストレスがなくて助かります。ただ翻訳や講義奉仕の謝礼が、New
PC の支払いに消えてしまいました。
家内には「あなたは、先行投資が過ぎるのではないですか?
経済学部卒なのに、経済観念に欠けているのではないですか?」といつも笑われています。わたしは、「わたしの学んだ経済学は、天国に富を貯える経済学である。この先行投資は、必ずや多くの霊的実りを結実させる最新のテクノロジーの結晶に対するものである」と弁明し、開き直っています。
ああ、神様が、この大きな犠牲のささげもののPCを用い、JETSホームページ、翻訳、さまざまな執筆、講義、講演、説教等に用い尽くしてくださいますように
! この新しいPCを「全焼のいけにえ」としてささげます !
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@五年前の45号(2014年発行) 福音主義神学、その行くべき方向T−聖書信仰と福音主義神学の未来−を一般公開させていただきました。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers45.html
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A三年前の47号(2016年発行) 福音の理解−罪をめぐって−を神学会会員サイトにNewパスワードをつけてアップロードしました。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers47.html
*
B2019末に刊行されました『福音主義神学』50号「宣教」の
Previewを50号のサイトにアップロードしました。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers50.html
*
(なお、会員の方で会費を全納されている方には、Newパスワードをお知らせします。下記の安黒までメールにてお問合せください。)
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日本福音主義神学会公式ホームページ管理者:安黒務
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“翻訳者”
安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
皆様のお祈り、感謝します。三日三晩、腹の底から絞り上げるように咳き込み、一睡もできなかったのに、一般啓示の恵みとしての医療の助けにより、40年前は治癒に三ヶ月もかかっていた「気管支喘息」も、吸入アステロイドや咳中枢に効く薬等により、かなりよくなりました。それで、皆様の祈りに支えられつつ、治癒の程度にあわせ、少しずつ取り組んでいかせていただきます。
****************
●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】
『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第八節 キリスト、御霊、救い A』
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【解説】
「限定贖罪」と「普遍贖罪」の問題は、縮小版の「キリスト教教理入門」では扱われていません。ただ、この議論をメイン・テキストである「キリスト教神学」で丁寧に公平に扱い、知恵のある結論を導きだしていることは想像に難くありません。というのは、スウェーデン・バプテストの流れが、「穏健なカルヴァン主義に立つ者が多いのですが、アルミニウスの信仰の流れを汲む者も少なくありません。⑴」とあることとも関係があるかもしれません。
*
「キリスト教教理入門」を教えていまして、贖いの多様なモデルを包括的に扱っているところは、彼のスタンスが常に「排他的」ではなく、「包括的」であることからくるように思いました。私が教えますときには、いつもソッツィーニの説(模範としての贖い)、道徳感化説(神の愛のデモストレーションとしての贖い)、統治説(神の正義のデモンスチレーションとしての贖い)、賠償説(罪と悪の力に対する勝利としての贖い)、満足説(御父へのなだめとしての贖い)等の諸説を、同心円的に白板に板書して、その中心に刑罰代償説を位置付けて説明しています⑵。
*
⑴「信徒手帳」日本バプテスト教会連合
⑵ 本署 p.267-272
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●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節 神学の本質、第四項
キリスト教教理研究の出発点 D】(本書朗読、p.15)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「今日、キリスト者が経験する宗教的経験が、権威ある神の情報を供給するものとみなされる」“4.
Experience. The religious experience of a Christian today is
regarded as providing authoritative divine information“である。
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この箇所を読んである人々は、「ある種の聖霊経験」と受け取り、これこそ大切な教えと受け取るかもしれない。しかし、それは誤解であり、「我田引水」である。わたしは要約版をこのように間違って活用する人々について懸念している。
*
そのような人々に対して、本書『キリスト教教理入門』で分かりにくいところがある場合、主著『キリスト教神学』に尋ねてほしい。主著は、要約版でさらに詳しく知りたい、深く学びたいと願う人々のためにある。さらに申し上げれば、主著でも分からない場合、エリクソンの著作集の全体、また優れた参考文献としての宇田進著作集、牧田吉和著作集、ラッド著作集、Bavinck著作集、ペールマン著作等に目配りをお勧めしたい。わたし自身はこれらの書物から大きな助けを受けてきた。
*
主著によれば、エリクソンの記述の念頭には、{永続的経験こそキリスト教の本質、統一要素であるという別の解答がある。教理についての信条は変化するかもしれないが、あらゆる時代の人々が同じ経験を保有している。そのような経験の特筆すべき事例は、不死に対する普遍的な望みである。ハリー・E・フォスディックは肉体の復活という聖書的な思想を、当時の人々が不死への望みを表現したものと見なしている。…フォスディックは、肉体の復活の思想がかなり物質的な考え方であると感じている。彼の見方によると、この特別な教理を保持することは必ずしも必要でない。むしろ、この教理のもとであり、かつそれによって満足させられる永続的な経験を保持することが必要なのである。この経験は、未来の生についての期待であり、相異なる「精神的な枠組み」の中でも保持できる期待である。フォスディックは、教理や概念についての理解を変えていることに気づいている。しかし、それらは彼にとって永続的な確信や経験についての一時的な語法にすぎないので、取るに足りないことなのである。教理についての違う理解が肉体の復活の思想の代わりになる一方、不死の望みは保持される。彼が提示する新しい理解は、霊魂の不死である。}
*
このように、本書の著者であるエリクソンの記述の背後には、伝統的な「復活の教理」が、「不死の教理」に置き換えられ、変質するという問題が横たわっている。ここに、わたしの言う「エリクソン読みの、エリクソン知らず」という問題がある。『神学入門』というの「組織神学」導入講義でいつも言うように「神学が真に聖書的であるためには,聖書をありのままに受け取らなければならない.つまり,聖書自身の用語で聖書を受け入れ,聖書そのものの基盤に立ち,聖書自身の見地から研究し,その成果を提示すべきなのである.私たちは聖書を無理に異質の哲学思想の中に押し込めてはならない」といわれるように、私たちがエリクソンを読むとき「我田引水」的なつまみ食いの読み方、学び方を避け、著者であるエリクソンが、どのような状況で、どのような意図をもって分析・評価をなし、誰に対して、どのようなメッセージを語ろうとしているのか識別することが大切なのである。
*
2020年1月12日 新約聖書
ピリピ人への手紙4章15-23節「わたしはすべてのものを受けて満ち溢れています―福音理解の豊かさにしたがって」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今朝は、ピリピ人への手紙の最後の箇所の傾聴である。『キリスト教教理入門』刊行後にピリピ人への手紙を扱ったのには理由がある。それは、大きな奉仕の後に訪れる、いわば「糸の切れたような状態」への対処であった。これは、いつも訪れる経験であり、それに対する治療策である。
*
ちょうど、受験が終わった後の「五月病」のようなものである。その対策として、「人生の原点、奉仕の原点」を再確認した。1章では1:21より「生きる原点」、2章では2:5-8より「奉仕の原理」、3章では3:7-14より「生のベクトル」、4章では4:6-7より「感謝の生活」を確認してきた。五月病に陥ることなく、次の奉仕への過渡期を乗り切れた。
*
さて、わたしにとって次の奉仕とは何なのだろう。それは、「パウロからテモテへ」と示されている。わたしも、すでに66歳となった。人生百年とすると、三分の二を生きたことになる。トゥルニエ著『人生の四季』によれば、晩秋に入ることになる。パウロもその活動的な生涯の終わりに近づいたことを自覚し、次世代を担う中堅・若手の同労者に手紙を書き残した。わたしも、そのような時期に差し掛かっている。それで、そのような時期にパウロは何を考え、何をしようとしたのか。そのようなパウロから、21世紀のわたしへのアトバイスを受けたいと願っている。「パウロからテモテへ」は、「主の小さきしもべ安黒から、ICIの視聴者たちへ」と引き継いでいく福音理解にまつわる「さまざまな助言」を傾聴できるのではないかと期待している。両者にとって有益な知恵・教訓を掘り起こしたいのである。祈り、また期待していただきたい。
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今朝の箇所は、ピリピの教会とパウロへの献金について言及している。わたしたちが教えられることは、「パウロの経済的自立性」である。それは、パウロの13通の手紙に記された「福音の自立性」と深い関係があると教えられる。経済的関わりは、「福音理解の形成に影響を及ぼす危険」があったと思う。所属団体でも神学校でも、関係する教会・教会、また同労者や所属する有力信徒リーダーの福音理解に対する「配慮」が、時に「健全な福音理解」を蝕む危険が存在する。「ポストやサラリー」を受けるとき、それは良い影響もあるし、悪しき影響もある。配慮が、自粛へと変化し、やがては「福音理解」の変質と進行してしまう場合も少なくない。ラッドの伝記を読むとき、フラー神学校における路線の議論の経過はそれを示している。どこの神学校でも、放送伝道機関においても起こりうる危険であり、罠である。
*
悪しき影響を受ける可能性のある「お金」は受け取ってはならない。それは、「賄賂」となり、紐がついている。間違っているとわかっていても、意見できなくなり、正しくないと分かっていても弁護せざる得なくなる「恐るべきマモンの力」である。人間性のもつ弱さである。「福音理解」はできるだけ純粋に保持されなければならない。そのためには、金銭的に潔癖でなければならない。もちろん、パウロは御霊の実としての、紐付きでない、自発的献金の価値は認めている。問題は、協力や支援を「福音理解」の健全化阻止の「脅し、また脅迫」として使う人たちに対する潔癖さである。これを放任しておくと、長い先に「ひさし貸して、母屋とられる」という危険もまたあるのである。「…するならば、…という利益があるでしょう。」しかし「…しなければ、我々の協力関係は終わりです」と、なにかイエスの荒野の経験のようであり、ゴッドファーザーのマフィアの脅しのようでもある。
*
ユダヤ民族主義者であったパウロは、キリストに出会い、「民族主義的な理解」をちりあくたとして捨て、ユダヤ人をも含む全民族への「普遍的福音の提示者」となった。ユダヤ人たち、すなわち「家つくりの者たちが捨てた石が、隅のかしら石となった」とあるように、ユダヤ民族をではなく、キリストの人格とみわざをセンターラインに据える「パウロの福音理解」は、ユダヤ人・異邦人クリスチャンを含む、「唯一の真の神の民、唯一の神の計画」の隅のかしら石となった。わたしが、福音理解のセンターラインを照らす恩師として尊敬してやまない宇田進、エリクソン、ラッド、牧田、ストット等も同様である。その総決算の一冊として『キリスト教教理入門』がある。
*
パウロは、貧しかった。天幕づくりをしながら生活費を得、「福音理解」を伝える働き人であった。ピリピ以外のほとんど誰からも献金は受け取っていなかった。諸教会の献金を貧しいエルサレム教会に届けたことはあった。パウロは、そこに仲介者としての手数料を要求しなかった。なんという「自立した働き人」であるのか。それは、すべての悪しき影響、配慮等から「自立した、純粋な福音」の確立のために必要な要素でもあった。そして、金銭ではなく、その「福音理解」こそがパウロの心を満たしていた―「わたしはすべての物を受けて、満ち溢れています」と。
*
有名な働き人は、悪しき勢力から狙われていることを知らなければならない。伝聞によれば、「多額謝礼」を準備して集会に招き、そのことを大きく宣伝する。有名人による宣伝効果であり、ある意味でマネーロンダリングならぬ「ネーム・ロンダンリング」である。いつしか隠れ蓑を着せられ、逸脱した教えや運動は大通りを闊歩して歩むようになる。それは世間にはよく見られる現象であり、近年はキリスト教会でも見受けられるようになった。多額の謝礼には紐がついている。問題のある教会のホームページには、有名人「祝辞」等が掲載される。多くの人たちがそれで「信用ある教会」と受けとめ、集い、巻き込まれていくことになる。しかし、それらの有名人は、口を拭って、「関係ない」と批判をかわす。宣教師もまた同様である。必要があるからといって、「健全な福音理解のボーダーライン」を超えてデェピュテーションをなし、お金を無心してはならない。それは「腐れ縁」を形成してしまう。「お金には紐がついている」ことを忘れてはならない。「いかがわしい」ところから、さまざまなかたちでのメリットを受けてはならない。これは、「福音理解」を純粋に保ち続けるための、狭く細い道筋である。わたしたちは、パウロのような生活また環境に置かれることがあっても恐れることはない。御父と御子は、その「福音理解」の豊かさにしたがって、わたしたちの必要のすべてを満たしてくださる方なのだから。
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“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
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正月明けから、少し風邪をこじらせ、気管支喘息気味になっており、安静にさせてもらっているところです。元気になり次第、FBやYTを通しての講義を再開したいと思っています。お祈りください。
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一宮基督教研究所・安黒務
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“翻訳者”
安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
正月休みとその後に引き込んだ風邪で、FBクラス少し休んでおりました。まだ、完治したわけではありませんが年齢、体調、スケジュールに合わせ、あまり無理せず、休み休み取り組んでいきたいと思っています。お祈りください。
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第八節 キリスト、御霊、救い @』
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【解説】
「第七部 キリスト論」の「第23章 キリストの神性」は、約6ページで記述されていますが、そのうちの2ページにおいて「イエスの自己意識」が論じられ、解説されています。その中のいくつかのテーマをあげますと、「罪を赦す」という神の大権を保持しておられる方としてのイエス、「安息日」の意味・意義の再定義するお方としてのイエス、「アブラハムより前におられる方」としてのイエス、十字架刑直前に「大祭司に詰問」され「わたしはそれです。」と答えられるイエス、「わが主、わが神」と呼ばれそれを修正されないイエス、「十戒の真の意味を解説」され、自分のことばを神のことばと同等に置かれるイエス、等。イエスは「わたしは神である」という宣言こそありませんが、イエスがそのような意識をもって語り、行動されていた明白な事実を聖句から論証しています。この箇所のテーマはそれぞれ礼拝説教やCS説教等で用いるとインパクトのあるメッセージになると思います。
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●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節 神学の本質、第四項
キリスト教教理研究の出発点 C】(本書朗読、p.15)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「聖書はキリスト教信仰を定義する文書また憲法であると主張される」” The Bible is
held to be the defining document or the constitution of the
Christian faith”である。
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宇田進師は、『総説現代福音主義神学』「第二章
伝統・経験・理性・文化と聖書」の最後の「第五節 聖書のみの原理―拠点的資料」 p.129において、以下の解説をされている。
{われわれは、伝統、信仰経験、理性、文化を資料もしくは道具として用いる場合、あれを少々、これも少々といったいわゆる“レシピ式”や、前述した「多元的複合説」の方法では底なしの混迷と不確かさの霧の中へ突っ込み、”神学のカメレオン化”を結集するのは必至であろう。われわれは、各資料に関する以上で概観した問題点を十分吟味しながら、ここで確認した「聖書のみ」という宗教改革の根本原理を再確認すべきであると考える。熊野義孝氏は、「福音主義の神学は、おのずから啓示だけに依拠する神学、具体的に言えば、ひたすら聖書に従属する神学である」(『教義学』第一巻、p.24)と明言している。}
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“翻訳者” 安黒務による【信徒の方のための−エリクソン著『キリスト教教理入門』FBクラス】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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正月休みとその後に引き込んだ風邪で、FBクラスを少し休んでおりました。まだ、完治したわけではありませんが年齢、体調、スケジュールに合わせ、あまり無理せず、休み休み取り組んでいきたいと思っています。お祈りください。
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●【M.J.エリクソンの背景・神学の概要を知りたい信徒の方のために】
【朗読】『ミラード・J・エリクソン:教会のための神学者 第七節 人間と罪 B』
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【解説】
「幼児期に死んだ者」の救いにつきましては、いろいろと意見が分かれているのが現実です。エリクソンは「子供の無垢な時期を終える行為」をアダムにある堕落の性質と罪責を批准≠キるものであるという試論を提起しています。一定の説得力はありますが、まだ不十分な、議論が尽くされていない部分があるように思います。
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ウィリアム・ヘンドリクセンは、誤ったアプローチとして、ローマ・カトリックの「幼児リンボ界」を指摘しています。そして、合衆国長老教会の公的立場や改革派神学者たちの著書からの引用がなされ、最後に「聖書の教え
」として、箇条書きにしてまとめています。それを以下に記述します。この考え方は、改革派特有の契約≠フ考え方が底流にあるものですが、かなりの説得力があります。
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<聖書の教え>
a.幼児期に死ぬ者が救われるのであれば、彼らには罪がないという考えが根拠になるのではなく、彼らに適用されたキリストにある神の主権的恵みが根拠になります。
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b.神の心は信者の子供たちだけでなく、不信者の子供たちにも関心があります。しかしそれだけでなく、「右も左もわきまえない」人々にも関心を持っていることを、ヨナ書4:11
ではっきりと教えられています。
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c.「神のあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」し、「神は愛です。」詩篇145:9,
Tヨハネ4:8。そういうわけで、次のような美しい詩に同意することは許されます。「人が思い測ることよりも、神の愛は広く。永遠なる方の心はすべてにまさって慈愛に富む。」F.W.ファーバー
1854年
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d.大人は語られた福音を拒んだり、良心の声にたいして大いに罪を犯していますが、幼児はそのようなまでに罪を犯していません。
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e.不信者の子供たちが幼児期に死んだ場合、すべて救われるとは、聖書のどこにも明白に教えられてはいません。b.c.d.によって、こうした者がすべて救われるという立場を受け入れたい気持ちに強くさせられるが、これが真理であると聖書が積極的に、しかも多くの言葉でもって明言している、というようには決して言うことができません。
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f.神は信者とその子孫に、創世記17:7 と使徒の働き2:38,39
に見出される約束を与えました。Tコリント7:14
も参照しなさい。したがって、ドルト基準は次のように宣言します。「信者の子供たちは、生まれつきそうなのではなく、彼らが両親と共に包括されている恵みの契約によってきよいのであるということを証しする神の言葉から、われわれは神の御心を判断すべきである。したがって、敬虔な両親は、神が彼らの幼児期にこの世の生活から召されることをよしとされる、彼らの子供らの選びと救いを疑うべきではない」(第一の教理、第17条)。
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●“翻訳者”
安黒務による【エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読と解説―第一部 導入、第一章 神学とは何か、第一節 神学の本質、第四項
キリスト教教理研究の出発点 B】(本書朗読、p.15)
【解説】
今日の箇所のポイントは、「こうして、信じられてきたものが、何を信じるべきかの規範とされる」“Thus, what has
been believed is made normative for what should be
believed.”である。
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キリスト教教理研究の出発点としての「伝承」問題には、カトリックにおける「聖書と聖伝」―つまり啓示の二重源泉説がある。カトリックでは、神の真理と規律は書かれた聖書と「聖伝」の両方に含まれているとし、その聖伝を聖書と同じ位置に置いている。この見解は第二バチカン公会議においても受け継がれている(「神の啓示に関する教義憲章」九項参照)。
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{ローマ教会によると、すべての信徒が信ずべき教えであっても、そのうちのあるものは聖書の中にはただ不完全な形で啓示されているだけであり、他のあるものは聖書の中にはまったく含まれていないと考えられている。そこで聖書以外のもう一つの啓示的資料として聖伝が用いられるわけである。この聖伝は、キリストの伝承、使徒たちの伝承、教会の伝承(聖人たちの伝承、教皇の回勅、公会議の決定など)によって構成されている。
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そして、トレント公会議は、これらの聖伝を聖書に対するのと「同じ敬虔の情と尊敬の心をもって受け入れ、尊ぶべきものである」と定めている。1952年以降に発行されたフランス・ドミニコ会の
Initiation Theologique
は、聖伝を「聖書の本文そのもの、もしくは使信が教会で理解され、生活に適用される方向である」と表明している。実は、プロテスタントにとって日ごろなじみのないカトリックの教理、習慣、儀式の多くは、みなこの聖伝と外典から引き出されているのである。
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だが、以上のような考え方には二つの重大な問題がある。一つは聖書の完全性と充分性の否定を意味しているという問題である。もう一点は、聖伝の門はいまだ閉ざされていないので、神の啓示は簡潔を見ていないという重大な問題である。 また、この聖伝の問題と密着しているカトリック特有の問題として、信仰の無謬の解釈者としての教会という見方が存在している。キリストの神秘体としての教会は、聖伝を包容し、解釈する権限を委託されているので、その教会員全体に対して、最も包括的な宗教的真理の源泉であるとも位置付けられている(第二バチカン公会議「教会憲章」25項参照)}⑴
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⑴ 宇田進『総説 現代福音主義神学』「U 第二章
伝統・経験・理性・文化と聖書―神学形成上の資料問題、第二節 伝統・伝承および信仰の遺産、第一項
カトリックにおける『聖書と聖伝』―啓示の二重源泉説」(いのちのことば社、2002) p.103-104
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2020年1月5 新約聖書
ピリピ人への手紙4章10-14節「案じる心、あらゆる境遇に対処する秘訣、私を強くしてくださる方」
https://www.youtube.com/playlist?list=PLClE1DIlx0okOOQmBMSaVYE6tRwzSEVzN
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今朝は、2020年の新年礼拝である。まだ少しピリピ書が残っているので、そこから学びたい。
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ピリピ書は、わたしにとって「人生の原点」となる書であり、「奉仕の原点」ともなる書である。人生の意味、意義について迷っていた時に「生きることはキリスト、死ぬことは益」1:21を読んで悟った。わたしの人生には、紆余曲折があろう。ジェットコースターのように上がり下がりがあろう。しかし、それは問題ではない。「キリスト」こそが問題の焦点であると。キリストこそが、わたしの「人生の意味、価値を測る絶対的な基準」であり、「物差し」であると。
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このときから、わたしは自分の境遇や環境に思い悩むこと、人の策略や計略に左右されたり、翻弄されることもなくなった。エジプトのヨセフの生涯の原理にように、摂理の神は、穴に落とされたり、牢獄に放り込まれたりすることも、良きことのための肥やしとしてくださることを学んできた。ピリピ書には、またパウロ書簡、そして新約聖書には「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」摂理の原理に満ちている。
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今日の箇所でまたそのことを確信させられた。パウロは、天幕作りをし、働きつつ伝道していた。そのパウロは、今ローマの牢獄に軟禁状態にある。しかし、この状態はまた最良の時でもあった。そこにはパウロの福音理解における宝石のような獄中書簡をしたためる貴重な時間があったからである。
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わたしの好きな言葉のひとつに、ウォッチマン・ニー著『キリスト者標準』の最後の章のことばがある。「神様は、最も用いられる器を牢獄に放り込まれる」である。世の目からは、不遇、不幸に見られがちな出来事の中に、神の計画がある。そのような状況に置かれないとできない働きがある。
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1世紀の手紙を読んで、21世紀に響くメッセージを聴き取ることができる。なんという素晴らしい恵みだろう、祝福だろう。
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まず「案じる心」4:10とある。昨年『キリスト教教理入門』を刊行した後に、数多くの教え子たちからの注文を受けた。そのときの感謝のメールに、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論』の故に、約40年間奉仕した母校を去らざるえなかったわたしへの「案ずる心」がにじみ出たメールが数多くあった。母校との不幸な軋轢から途絶えていた関係が「よみがえ」る「機会」を主が与えてくださったのだと思った。
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エリクソン神学をどのようにとらえるのか。教え子たちには、「本書」を読み返すごとにこのことを考えていただきたい。ある人たちは、「つまみ食い」のようなかたちで本書を読まれるであろう。しかし、わたしが神学生たちとともに学んできたエリクソン神学は、『福音主義神学再考』(日本福音主義神学会西部部会基調講演資料)に示した通りである。
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私は教会・教派等で継承している「福音理解」を盲目的に継承するのではなく、よりよく継承・深化・発展させていくことを目指した。実は、このためのマニュアルとしてエリクソン神学は存在している。わたしは、長年エリクソン神学を教え、教えるごとに、このような「よりよき継承・深化・発展」のマニュアルとしての活用方法を具体的に教えてきた。そして、わたし自身も所属団体JEC日本福音教会の福音理解の分解と再構築の青写真を示してきた。その一里塚としての「青写真」が『福音主義神学再考』(日本福音主義神学会西部部会基調講演資料)の巻末にある。
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ただ、このような取り組みには、いろんなかたちで、いろんなレベルで軋轢が生じる危険がある。ある人は自分が、自分の福音理解が批判・否定・攻撃されていると受け取る。これは大変難しい作業なのである。しかし、1世紀のパウロがそうであったように、わたしたちは聖書の中心に流れている「健全で、バランスのとれた福音理解」とは一体如何なるものであるのかの探求の手を緩めてはならない。福音理解の変質を見逃してはならない。
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わたしたちが、「火の柱、雲の柱」に導かれていくとき、それは順風満帆な生涯ではないだろう。イザヤ53章のように苦難とあざけりも満ちるものでもあるだろう。しかし、わたしたちが「生きることはキリスト。死ぬことは益」という人生原理を確立するとき、わたしたちが最も困難な時にこそ、わたしたちは「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣」を身に着けることになる。わたしたちが最も弱いときにこそ、わたしたちを最も「強くしてくださる方」を知ることになる。そのような新しい一年でありたい。