ICI ホームページ表紙 ICI日誌 ICIの意義・目的 ICI資料リスト 神学会関連サイト 神学入門 春名純人著作集 G.E.ラッド著作集 宇田進著作集 エリクソン著作集 ローザンヌの歴史的系譜 一宮基督教研究所講義録 ビデオ講義紹介 ストリーミング・レクチャー 登録申込・資料注文 ビデオ・オン・デマンド 自己紹介&チャペル フォトギャラリー 礼拝メッセージ 福音主義神学会公式サイト
ICI Daily & Diary Lectures
ICI日誌
2017/03/20
ICI ホームページ表紙 2011年度予定表 2010年度予定表 2009年度予定表 2008年度予定表 2007年度予定表 2006年度予定表 2005年度 2004年度 2003年度 2002年度
2011年度 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
───────────────────────────────────────────
[Monthly]
一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2011/07/01-07/31
One
More Chapter ! −聖書神学的視聴のひととき−
──────────
A Series of Re-Reading
”The Theology of Paul’s Letter”
主のみ名を崇めます
今月は、先月の牧師会より、大阪府の橋下徹知事の「日の丸条例」と「処罰条例」に関する取り組みをしており、関西そして特に大阪府にメンバーを多く抱えているわたしの所属団体として、これらの事態を正しく認識し、他の福音派諸団体とともに反対する声明を出すべきではないかと思い、いろいろと話し合いのときをもったが、牧師個人として一定の賛同は得られても、所属団体全体として声明を出すところまでは難しいとの意見が多くあり、ICIあぐろ個人が反対・抗議文書をまとめ、それに賛同者をつのるかたちとなった。それでもかなりの牧師たちが賛同の意志を表明し、署名・捺印をいただき、大阪維新の会に送付することができた。
それと、時を同じくして、リバイバル・ジャパン誌よりこのテーマで原稿依頼があり、わたしのこころにある懸念を『天皇崇敬条例制定前夜?』というテーマで発表することができ感謝だった。また、このテーマを扱う文脈の中で「ローマ人への手紙」の講解説教シリーズをなしたり、この秋からは所属団体の機関紙に六回シリーズでこのテーマと取り組むことができることは感謝なことである。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とは、ドイツのワイツゼッカー大統領のことばであり、「過去のナチスの犯罪は現在のドイツ人とは無関係」と考えるドイツ人に対する警告である。そして、わたしの論稿は「過去の天皇崇拝・神社参拝をした日本人クリスチャンは、現在のクリスチャンと無関係」とする今日のクリスチャンに対する懸念である。つい66年前に、あのような苦難と背教に類した経験をしておりながら、「のど元過ぎれた熱さ忘れる」日本人の気質だろうか、日の丸・君が代とともに天皇陛下の写真が並べられていた戦前のことを忘れてしまっているのではないかと心配している。
この夏、これらのテーマを扱っている中で、元最高裁長官の藤林益三氏の著作集に目を通していて気づかされたことがひとつあった。それは、戦後の日本国憲法制定の後も、国家と宗教の問題、信教の自由の問題があいまいなまま、ずるずるときていた中で、藤林氏の担当された津地鎮祭訴訟″ナ高裁判決の反対意見の中の、追加反対意見の中の、「宗教的少数者の権利」を書き記された藤林氏の意見が、それに続くこれらをテーマとする最高裁判決の中の少数意見の礎石≠ニしての役割を果たしているということである。日の丸・君が代裁判の最高裁判決に反対された宮川光治裁判官の少数意見もまた然りである。藤林氏は、多数意見が「政教分離の原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度かかわり合いをもたざるをえないことを前提として」判決を下したのに対して、「この判決で最高裁は宗教的少数者に対して、多数者に対して寛容であるように、と説いた。だが、私に言わせれば、多数者が自らの行為を容認するよう少数者に求めるのは、寛容ではなく、服従を強いることである。寛容とは本来、多数者が少数者に示すものである。判決の多数意見を読んで、日ごろから信仰の問題をきちんと考えている裁判官がいなかったのはさびしい限りだった。それに、津地鎮祭訴訟では五人の反対意見が出たが、自衛官合祀訴訟では伊藤正巳裁判官ただ一人になっていた。伊藤裁判官は津地鎮祭訴訟の私の追加反対意見を引用して『傾聴すべきものと思われる』と書いた。私の意見は、判決批評でも賛意を表してくれる学者が多い。将来あれが足がかりとなって、多くの人々が国家と宗教の問題を考えるようになり、判例が変更されればよい、と思っている」と書き記している。
宗教的少数者の人権に対して見識の欠如した裁判官が多い日本において、日本の将来の判例変更の、いわば錨≠フような追加反対意見を書き記された藤林氏に感謝したい。そして、多数者に膝を屈し、戦前の過ちを繰り返すことになるかもしれない傾向に迎合し、時流に乗ろうとする輩に翻弄されるのではなく、藤林氏のようなスタンスからこそ、日本のキリスト教会はもっと多く事を学ぶべきではないのかと思う次第である。
ICI あぐろ
**********************************************************
2011.07.31 ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「2. キリスト教的生における義認の現実:A肉における存在から、
霊における存在へ:b.過去−罪と死の律法の下にあったわたし:
β. わたしの内における律法の支配の現実」
一部紹介
**********************************************************
新約聖書 ローマ人への手紙7章13-25節
****************************************************
2011.07.24 ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「2. キリスト教的生における義認の現実:A肉における存在から、
霊における存在へ:b.過去−罪と死の律法の下にあったわたし:
α. わたしに対する律法の支配」
一部紹介
****************************************************
新約聖書 ローマ人への手紙7章7-12節
****************************************************
2011.07.17 ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「2. キリスト教的生における義認の現実:A肉における存在から、
霊における存在へ:a.支配の転換」
一部紹介
****************************************************
新約聖書 ローマ人への手紙7章1-6節
****************************************************
2011.07.10
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「2. キリスト教的生における義認の現実:@現実的な義
b.義への奉仕におけるキリスト教的生」
一部紹介
****************************************************
新約聖書 ローマ人への手紙6章15-23節
ユダヤ主義者は「律法の下に生きるのでなく、恵みの下に生きるという、パウロの教えは、放縦な生き方を奨励することになる」と責め立てる。この責め立て方は、「日本国のあり方、日本人のアイデンティティを画一的な所作の中に閉じ込めよう」とする石原知事や橋下知事の主張に酷似している。
日本国憲法の第十九条の「思想・信条の自由は、これを侵してはならない」は、思想・信条の自由を奪われていたその経験に即して、そういうことがあってはならない、それは人間の尊厳を侵すことになるのだという過去に対する強い批判を通してこの十九条は成立した。宮沢俊義著『註解日本国憲法』には「本条は外的権威に拘束されない内心の自由を保障することにより、民主主義の基盤をなす国民の精神的自由を確保することを目的とする。過去において危険思想、反国家思想の名をもって思想の弾圧が行われた経験にかんがみ、再びかかることをなからしめようとする意味をもつ」と書かれている。つまり、まさに戦前の反省を通してこの十九条が生まれた。戦前での反省とは、天皇制国家、大日本帝国憲法が精神の自由にとってどういう制約になっていたかということである。
戦前の精神的奴隷のような環境が、敗戦により、現憲法により大きく変革された。私たちは、天皇崇拝を強制される環境、偶像礼拝を強制される罪の環境から解放され、唯一の神のみを礼拝しうる自由な環境、神のみこころのみに純粋に従って生きることのできる生を保障されるものとされた。人間的な表現を用いて、パウロは奴隷は二人の主人に仕えることはできない≠アとを教える。私たちは、唯一の神のみを主の主、王の王として、そのみこころの絶対性の下で生きるものである。そして、その枠内で、貴族時代の藤原家、武家時代の徳川家のレベルにおいて、天皇家の歴史と伝統に対して敬意を払うべきである。その範囲を超えて、崇敬・崇拝に至ることは罪と死と永遠の滅びを報酬として受け取ることになるのである。敬意と崇敬は、人間的視野では紙一重のようであるが、神の視野には永遠のいのちと永遠の滅びの淵が広がっているのである。それが、ローマ帝国時代のクリスチャンが皇帝崇拝をしなかった理由であり、秀吉・家康時代のキリシタンが踏絵を踏まなかった理由である。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」
****************************************************
2011.07.07
リバイバル・ジャパン誌原稿
「天皇崇敬条例」制定前夜?
シリーズ 神学公歓
****************************************************
7/1に、リバイバル・ジャパン誌の谷口編集長より、「さて、大阪府知事の暴走などにより、国家権力、地方自治権力などとクリスチャンの関わりを考えさせられております。世の権力との関わり方を聖書からどのように定めるのか、そのあたりを『神学交歓』で7/7までに書いていただければと思っています。」とのメールをいただいた。「日数的にきわどいな」と思いつつ、しかしこのテーマについては、ペンテコステ・カリスマ系の一部に右傾化の動きに懸念を抱いていたので、「この申し出は受けるべきだ」と即断した。7/5に牧師会で「大阪府の橋下知事の日の丸条例・処罰条例への反対・抗議文書」を提示し、賛同者に署名していただくことになっていた。多くの先生方の署名をいただき、大阪維新の会にその文書を送付させていただいた。そして二日間でリバイバル・ジャパン誌の原稿を書かせていただいた。二日間といっても、一夜漬けの内容ではない。約二十年間、神学校で『比較宗教学(宗教の神学)』を教えてきた総決算として、またここ数年間福音主義神学会で右傾化時代におけるキリスト教会のあり方≠ノ取り組んできたし、所属団体の機関紙には「右傾化時代における主の祈り」を連載させていただいた。その間に読破してきた膨大な書籍群からの収穫という意味もあった。ある意味で、これらの長年の神学研究は「ペンテコステ・カリスマ系の一部に右傾化の動きに懸念」に応える原稿を書くため、そして聖書的に正しい方向性を神学的に思索し、それを実践していく道筋を示すためであったかもしれない。「天皇崇敬条例」制定前夜?というテーマは、かなり衝撃的なものかもしれないが、このような危機感をもっての備えが必要な時間帯に入ってきたのではないかと思うのである。以下に、概略のみを紹介する。関心のある方は、単発でもいいので「リバイバル・ジャパン誌」を購入して読んでいただきたい。注文先電話番号 042-514-8590
序
日の丸・君が代と天皇制の影
日の丸・君が代問題の歴史
日の丸・君が代問題:@戦前まで
日の丸・君が代問題:A戦後
逆コースと呼ばれる政治の反動
日の丸・君が代問題の裁判
日の丸・君が代訴訟判決への視点
大阪維新の会への抗議文
聖書と憲法の解釈と適用について
聖書の解釈と適用
憲法の解釈と適用
結び
****************************************************
2011.07.03
ローマ人への手紙講解説教シリーズ
「2. キリスト教的生における義認の現実:@現実的な義:
a.キリスト教的生における洗礼の現実」
一部紹介
****************************************************
新約聖書 ローマ人への手紙6章1-14節
割礼と律法等の所作を神の民のアイデンティティとするユダヤ主義者に対し、パウロは恵みのみによる神の民のアイデンティティを主張する。ユダヤ主義者は、そこを突いて、パウロの教えは「罪の中にとどまろえとする教え」であると攻撃する。しかし、パウロはそのような主張を断固として否定する。「罪に対して死んだ私たち」と新しい神の民の本質を解き明かす。バプテスマこそがその本質を明示している。日本人のアイデンティティも国粋主義者は、日の丸・君が代・天皇崇拝を要求する。しかし、そのような国体は第二次世界大戦によって葬られ、「いのちにあって新しい歩みをする」ため、日本国憲法が与えられたのではなかったか。思想・信条の自由、信教の自由を侵す所作の強要は憲法違反とされたのではなかったか。今、日本においては司法の場においてすら、少数派にしか理解されえない状態に陥っている。ポピュラリストたる政治家は、この重大な問題をあたかも子供のおもちゃか火遊びのようにもてあそんでいる。キリスト教会の中においても、そのような傾向にエールを送る輩が跋扈するようになってきた。わたしたちは、いのちにあって新しい歩みをするために、罪に対して死んだのではなかったのか。古い国粋主義的な日本の国体に死んで、新しい国際主義的な日本の国体を探究すべきではないのか。
****************************************************
2011.06.29
「君が代条例・処罰条例 反対に関するICI声明」
*プリントアウトして、抗議声明として自由にご利用ください。
****************************************************
「大阪維新の会」様
私たちは、「君が代起立命令」に関し、合憲判断を下した最高裁判決の中で、反対意見を述べた宮川光治裁判官に意見に留意しつつ、大阪維新の会による「君が代条例」と「処罰条例」に強く反対します。
憲法は少数者の思想・良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想・良心の核心に反する行為を強制することは許容していません。国旗に対する敬礼や国歌の斉唱は多くの人々にとっては自発的な行為であり、起立斉唱は儀式におけるマナーであるでしょう。しかし、そうではない人々が相当多数存在しています。少数であっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的・宗教的問いを社会に投げかけています。
「君が代条例」は、〔目的〕府民が伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する意識の高揚に資するとともに、府立学校、府内の市町村立学校における服務規律の厳格化を図る、〔国旗掲揚〕府の施設で執務時間に国旗を掲げる、〔国歌斉唱〕学校の行事で行われる国歌斉唱では、教職員は起立により斉唱を行う、という骨子で構成されています。
「君が代条例」は、直接には教職員らの歴史観、世界観、宗教観、教育上の信念をもつことを禁じたり、これに反対する思想を強制したりするものではないので、一見明白に憲法「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に違反するとは言えません。しかし、不起立不斉唱は思想・良心・信仰の核心の表出であるか、少なくとも密接に関連する可能性があるものです。
「君が代条例」は、起立斉唱行為を一般的、客観的な視点、いわば多数者の視点で評価しています。およそ精神的自由権、宗教的自由権に関する問題を多数者の観点からのみ考えることは相当ではありません。割り切って起立斉唱する方もあるでしょう。面従腹背される方もあるでしょう。起立はされるが、声を出して斉唱されない方もあるでしょう。深刻に悩んだ結果として、あるいは信念また信仰告白としてそのように行動することを潔しとしなかった場合、その信条や行動を一般的でないからとして過小評価するのは相当ではありません。
1999年の国旗・国歌法の施行後、都立高校において、一部の教職員に不起立不斉唱があっても式典は支障なく進行していました。こうした事態を、起立斉唱を義務づけた都教委の2003年の通達は一変させました。卒業式に都職員を派遣し、監視していることや処分状況をみると、通達は式典の円滑な進行を図る価値中立な意図ではなく、特定の歴史観・価値観・宗教観を持つ教職員を念頭におき、その歴史観に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観に反する行為を強制することにありました。
大阪府の場合、橋下知事は教職員が自分の思うように動かないことにいらだちを表明してきました。学力向上のため競争を持ち込もうと全国学力調査の結果を市町村別に公表しようとしたも、教員から「過度の競争につながる」と批判の声が上がったことを問題視してきました。今の教育委員会制度は戦後、教育の政治的中立性を保つためにつくられた仕組みで、首長の価値観で口出しできないようになっています。そのような只中、先の統一地方選挙で、知事の率いる「大阪維新の会」が過半数の議席を取ったことで、知事の思うとおりの条例をつくることができるようになりました。そのようにしてつくられた最初の条例でした。9月の府議会では、繰り返し違反した教員を免職にする仕組みを決める条例をつくりたいと明言しています。
日本の歴史を振り返りますと、秀吉・家康の時代にキリシタン弾圧があり踏絵によって「内心の宗教観」が強制的に表出させられ、残酷な刑罰が下されました。明治政府成立期には、教育勅語に拝礼しなかった人々は、内村鑑三をはじめとし数多くの教職員が職を奪われました。満州事変以降、戦争が激化した時期の国家神道下で、日の丸・君が代・天皇崇拝・神社参拝等が強制され、従わない者は処罰され迫害されました。このような歴史をもつ日本に、第二次世界大戦後、歴史上はじめて「真の思想・信条の自由」「真の信教の自由」が保証される憲法が与えられました。私たちは、この愛すべき国日本を「真の思想・信条の自由」「真の信教の自由」が保証される国として、子々孫々へと継承していきたく願っています。教職員においてすら、そのような自由が徹底して保証される国、どのような歴史観・価値観・宗教観の教職員も、それぞれの内心の自由が尊重されるとともに、その内心の自由を侵すいかなる所作も強制されることのない国として継承していきたく願っています。
2011年6月17日
代表 一宮基督教研究所 安黒務
私たちは、上記の主旨に賛同し、大阪維新の会の「君が代条例」と「処分条例」に反対します。
|
住所 | 氏名 | 捺印 |
****************************************************
大阪維新の会「君が代条例」「処罰条例」を考える資料
右傾化する時代における「主の祈り」
*ご自由にプリントアウトしてご利用ください。
****************************************************
『日の丸・君が代』起立斉唱-強制・処罰条例問題を
神学的に思索する道筋の検討 DVD
『日の丸・君が代』起立斉唱-強制・処罰条例問
題をエリクソン著『キリスト教神学』の「教会の
役割」の中の「教会の機能」の中の「社会的関心」
の領域で扱い、さらに具体的な掘り下げの方向性
を導いてくれる資料として、ストット著『ローザ
ンヌ誓約-注釈・解説』と牧田吉和著『改革派信仰
とは何か』の中の「第十項 教会の自律性のために
徹底的に戦い抜く信仰-@教会と国家の区別性の問
題、A教会の自律性の戦いと抵抗権の問題、B
教会と国家の区別性をめぐる誤解、C教会の自律性
と教会の国家に対する使命」を活用しています。
通常2000円→特別価格1000円〔レジュメ・送料込〕