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日本福音教会 あれこれF(安黒試論)

JECスプリング・キャンプ メモリー

わたしの福音理解U

16/07/08


  KBIの二学期の終業式のメッセージを頼まれたのを機会に、わたしの福音理解と題して、JECとKBIの流れの中でわたしが養われた福音をわたしがどのように理解しているのかを整理し分かち合う機会とさせていただきたい。集会でのメッセージはそのごく一部分であるが、ここではその準備ノートからお分かちしたい。

義認・聖化・聖霊のバプテスマ(もしくは満たし)・キリストのからだ・宣教」という五つの要素は、JECのスプリング・キャンプ(我喜屋師・高橋師・スンベリ師等のメッセージによって形作られてきた)のメッセージである。わたしは、それをJECスプリング・キャンプ神学(JEC Spring Camp Theologyと呼んでいる。この毎年春に開催される高校生キャンプは、JECの諸教会がそれぞれの地域の教会学校で導かれ、養われてきた魂がはじめて一同に会する集会であった。ちょうど山地の谷間から発するそれぞれの支流がはじめて合流する地点にあたる場所であった(最近は中学生キャンプも開催されるようになった)。

このキャンプの特徴は、高校生の時期に三泊四日でKBI(一宮基督教研究所)でもたれるところにあった。高校生といえば、人生において最も多感な時期である。生きるとは何かを考え、人生について愛について友情について思い悩むときである。このような時期に、それらのことを聖書にしたがって掘り下げられる修養会のような充実した内容をもつキャンプであった。

三泊四日という日数もきわめて重要な要素であった。一泊二日であれば、その内容はひとつのテーマにしぼられる。しかし三泊四日ならJECの中に流れるメッセージのフルコースが可能であった。初日には寸劇の後に「神・罪・救い」の伝道メッセージが語られるのが常であった。新しい魂は耕され、信仰の決心へと導かれていった。

二日目の朝はバイブル・リーディングのときがあり、ローマ書の解き明かしがよくなされた。十字架の解き明かしがあり、義認と聖化、特にクリスチャン生活における霊と肉の問題(ローマ6,7,8章)はよく扱われた。午後には分科会があり、分科会A:信仰入門クラス、救いの確信クラス、洗礼準備クラス、聖霊のバプテスマのクラス、教会における奉仕のクラス、献身のクラス、分科会B:友情・恋愛のクラス、進路のクラス、などがあった。もちろん、二つに分かれてディスカッションの集会、三高集会(高校生の、高校生による、高校生のための集会−司会、説教、あかし、賛美、会衆すべてが高校生)、甲山ハイキングなど楽しいプログラムも満載であった。

わたしは19才のクリスマス、大学生のときに救われた。そしてその翌年の高校生キャンプから毎年サブ・リーダーのひとりとして参加するようになった。JECスプリング・キャンプのもうひとつの特徴は高校生とスタッフ以外に、それぞれの教会で高校生クラスを担当している多くの大学生や社会人がサブリーダーとして参加するところである。サブリーダーは高校生のスモール・グループのひとつをまかされ、兄貴分、姉貴分として高校生とスタッフの間の架け橋となり、交わりと祈りを通してよきカウンセラーともなっていた。高校生はサブリーダーに自分の将来像を描き、サブーリーダーは高校生の中に自分の青春時代を回想していた。

高校生キャンプは、高校生、サブリーダー、スタッフとひとつの成長の流れがあり、その流れの中で毎年のように救われ、チャレンジをうけ、一段ずつステップを踏みながら自然なかたちで成長していく多くの高校生と青年たちの姿をみてきた。

二日目の夜から三日目は、十字架による「罪の赦し」と「古い自我からの解放」の恵みに根ざしてのクリスチャン生活における整理やチャレンジのメッセージが続いた。夜の集会は、メッセージに続いて聖霊のバプテスマ(もしくは満たし)の祈りのひとときが続いた。三日目の夜は、献身とか宣教へのチャレンジが多かったように思う。四日目の朝は、最後の集会であり堅実な教会生活と地道な証しのチャレンジがあった。キャンプで舞い上がった状態から現実の生活にもどるわけであるから、「蛇のようにさとく、鳩のように素直に」と語られたわけである。

JECのスプリング・キャンプは、スンベリ師や道本師等の相談から始められ、福野師やその他の多くのスタッフに受け継がれ、やがて吉田師やわたしもスタッフとして運営に加わるようになった。スタッフには堺ECや他のJECの教会の高校生クラス担当教師も加えられていた。高校生委員会は、春の高校生キャンプが主たる行事であったので、年末から数回の委員会が開かれ、諸教会の高校生クラスの様子の報告と分析からはじまった。そして今年のキャンプの必要は何かが話し合われ、祈りもとめられた。

このように、高校生たちの必要というコンテキスト、いわば受領者主導(Recepter-Centered)のメッセージが準備されていくわけであるが、それを満たすものは、わたしたち、すなわちJECという流れの中で養われ、その中で育まれているスタッフを通して流れて行く福音であった。三泊四日の集会におけるメッセージの流れを構成しようとすると、必ずやその構成に論理性と体系性が求められることとなる。JECにおいては、JECのアイデンティティについて探求の努力がなされてこなかった(我喜屋師は例外であるが…)。

しかし、JECスプリング・キャンプは、CSから養われてきた高校生たちがはじめて、JECの基本的な福音理解の全体に接する場であり、KBIという独特の雰囲気も”神聖な修道院”な雰囲気で、JECの牧師たちが献身してきた場であり、何かその流れに触れるかのような感覚がそこにあった。そしてある高校生やサブ・リーダーたちは将来自分も神さまによって召し出され、フルタイムの奉仕に導かれるかもしれないという期待・夢・ビジョンを描かされる、あたかもシナイ山で燃える柴からの語りかけを聞くモーセにも似た畏怖の念もそこにあった。

そこで、JECの諸教会や諸集会において、すでに断片的に語られてきたメッセージというものを、高校生スプリング・キャンプという特殊な場が、JECにおける福音理解を集大成するかのように機能してきた。主としてJEC内部の先生方とスタッフがキャンプ全体の流れと必要にそって語るのであるが、その作業のプロセスが、石膏の中に埋もれた作品を彫刻家が掘り出し芸術品を生み出していくように、JECにおける福音理解の全体像を浮き彫りにしていったように思う。

JECにおける福音理解とはどのようなものなのであろうか。我喜屋師は「十字架と聖霊」と簡潔に多くの集会で語ってくださった。あるときは「十字架によって整理し、聖霊によって管理される」と語られた。まるで芸術家のように「福音」という作品を語られるので、聞くものはみな恵まれ、取り扱いを受ける。しかし、あまりに巧みに語られるのでこれは真似ができないという印象ももった。わたしたちのような中堅や若手の教職者は我喜屋師のメッセージをオウムのように繰り返しても同じ霊的結果をえることはできない。ことばの表面を継承するだけでは、実質を継承することにはつながらない。一体どのようにすれば、JECの流れを実質的に継承していくことができるのだろうか。そこには多くの側面があると思われるが、まずはJECの流れとは何であるのかというルーツとアイデンティティを平面的にのみではなく立体的に描き出していく作業に取り組むことである。

わたしが常に課題としてきたことはここにある。JECの流れの中で救われ、養われ、育てられてきた。そして今わたしたちがJECの流れを継承し、深化し発展させるべき時期にきている。わたしの問いはいつも、JECのアイデンティティとは何なのであろうか、ということであった。これを掘り下げることなしには、深化・発展どころか継承さえもおぼつかない。この重荷が芽生えててきた頃、わたしは一冊の書物に出会った。宇田進師の「福音主義キリスト教と福音派」というルーツとアイデンティティを探求する書物であった。この本は、普通の書籍ではなかった。普通の書籍は自己主張、教派的主張が多かったり、反対に客観性と中立性を重んじるあまりに自己との関わりを見出せなかったりする場合が大半である。宇田師の書籍の特徴は、わたしたちがJECのルーツとアイデンティを探求する作業をするときのアドバイザーのような働きをする書籍である。()わたしはこの書籍を用いてKBIで講義を担当している中で、JECの@神学的・教理的、A歴史的、B社会的・文化的なルーツとアイデンティティについての明確な理解をえた。この事柄については、KBI講義ファイル「福音主義キリスト教研究」の中で詳細な記述に取り組んでいる途中であるので、関心のある方はそれらを継続的に読んでもらいたい。また分からないところや質問などがあればメールをいただければ24時間以内に返信させていただけると思う。ただ、このページにおいては、歴史神学の視点からのJECのアイデンティティについての包括的理解は扱わないで、JECスプリング・キャンプにおける神学の輪郭のみに限定して記述をすすめたい。

JECにおける神学的アイデンティティをスプリング・キャンプにおいて語られてきたメッセージとその構成の流れの中に読み取ろうと試みているわけであるが、これがJEC神学の決定版とは思わない。KBIニュースの一面にも書かせていただいたが、JECとKBIの流れは、神学における論理性・体系性・中庸性を特徴とする穏健カルヴァン主義この事柄については「弁証学研究」において記述する予定)の上にホーリネス的強調とペンテコステ・カリスマ的強調を加えたものである。この流れには包容性と柔軟性があるので、伝統的神学を継承しつつ、新たなムーブメントから多くことを学び、吸収しつつ、その神学を深化・発展させていく特徴をもつからである。

つまり、現在JECの流れがこのようであるからということで、その地点でどんよりとしたたまり水のようにはならないのである。大きな河川は大海に注ぎ込むまでは、いろんな地点において多彩な地域から流れ出た支流を吸収しつつ流れを形成していくからである。JECの流れは、今後さらに多くの流れを吸収していくであろう。ただひとつ確かなことは、カトリックとプロテスタントの間を揺れ動き、最終的にその”中道の道(ヴィア・メディア)”を歩むようになった英国の聖公会がそうであるように、オレブロ・ミッションから継承してきたバプテストの体質この事柄については「信条学研究」において記述する予定)に根ざすJECは、神学的にはカルヴァン主義とアルミニウス主義の中道を、ホーリネス的強調においては漸進主義と危機主義の中道を、ペンテコステ的強調においてはペンテコステ派と第三の波の中道をという具合に、両極端の考え方を柔軟に包摂しつつ常に”中道の道(ヴィア・メディア)”を歩み続けるのではないかと思っている。

ただ、JECのような神学的体質をもつ群れは、画一的な教理体系をもたないわけであるから、個々の教職者の神学的主体性が確立されることが肝要である。もしそうでなければ大海に浮かぶ木片のように、次々と生起しては消えるムーブメントに翻弄される危険がそこにある。よい例話ではないが、JECのような群れは米軍のもつ、空飛ぶレーダー基地といわれるAWACS(早期警戒機)のような機能が求められる。群れの中には世界の種々の神学的動向の分析・評価する機能、種々の聖霊運動−ヴィンヤード、トロント、ペンサコーラなど、教会成長運動−セルグループ、小牧者運動等、さまざまな状況についての情報や動きに常にレーダーの網をはっておいて的確な情報を提供していく仕組み、体制が求められる、肯定的には学びの材料の提供であり、否定的には危険を察知し逸脱を防ぐためである。またひとりひとりの教職者には、地形を記憶しておいてピンポイントで目標を攻撃しうるトマホークのように、状況というコンテキストに新たなる情報を生かして柔軟で適切な奉仕のできる機能が求められる。

我喜屋師は、パワーエヴァンジェリズムを評して「刀を振り回して後、十字架という鞘におさめる」ことが大切であると語られた。種々のムーブメントから学び、伝道と教会形成の契機とすることにJECの中堅の先生方は意欲的である。しかし多くの活動的な奉仕の後に立ち返るところはいつもJECの福音理解の中心である「十字架」である。なるほどと教えられるのであるが、JECにおける十字架理解というものを立体的に掘り下げる作業はまだ十分ではないと感じている。

JECにおける福音理解は、高校生スプリング・キャンプにおいて表現されていると記述してきた。ではこの福音理解をどのようなプロセスを通して立体的に掘り下げればよいのであろうか。ひとつの方法は、個別から普遍へと向かう方法アリストテレス的方法)である。もうひとつの方法は、普遍から個別へと向かう方法プラトン的方法)である。

つまり、JECの身近な材料、資料から歴史的にさかのぼっていく方法である。それによれば、第一に我喜屋師の福音理解の資料源は何かを特定する必要がある。我喜屋師は、一番影響を受けたものとしてウォッチマン・ニー著作集をあげておられた。そこで第二に、ウォッチマン・ニーとその著作集の背景を特定し、それを分析することが必要である。

ウォッチマン・ニーとその著作をトータルに分析している良書に、ダナ・ロバーツの”Understanding Watchman Neeがある。彼の誕生の背景、教育、神学教育、影響を受けた著作、奉仕と出版された著作とその分析・評価などが記述されていて重宝な内容となっている。その中で、「キリスト者の標準」の背景が記されている。"A devoted reader, Nee took advantage of Miss Barber's library. There he availed himself of much of the holiness literature influential in Great Britain as a result of the Keswick Movement and the Welsh Revival." "His theology is totally that of the Keswick teaching, with a gracious and illustrative style equal to that Andrew Murray and F.B.Meyer."彼の著書「キリスト者の標準」は、ケズィック聖会におけるローマ書の講解であると。わたしは、この記述から「ケズィック運動」に興味をもち、その関係の書籍を収集することとなった。

ケズィック運動については、J.Robertson McQuilkinが"Five Views on Sanctification"という書籍の中で「ケズィックにおける聖化理解」を簡潔に紹介しているので参考にしてほしい。ケズィック運動は歴史神学の視野から位置付けると、宗教改革とその神学的遺産を集大成した正統主義神学の時代に続く敬虔主義運動にルーツをもつ。

敬虔主義運動は、ヨーロッパ大陸のルター派、改革派内における霊的刷新運動(シューペナー、フランケ、アルント、ヴォエティウス、ツィンゼンドルフ、ベンゲル、ホールデン、ゴデー、ハレスビー、ブルムハルト父子)、英国における宗教改革運動であるピューリタニズム(バックスター、オーエン、ベイリー、バニヤン、コットン、ルサフォード、シッブス、パーキンス、エイムズ、プレストン)、近代の福音的信仰覚醒運動(ウェスレー兄弟、ホイットフィールド、テネント、フレリンホイゼン、エドワード、ウィルバーフォース、ケアリ、スポルジョン、ライル、ムーディ、ダービー、ミューラー)、19世紀以降の聖霊派運動(フィニー、マーレー、ブース、チェンバーズ、シンプソン、トーザー、トーレー、マイヤー、ウォッチマニ・ニー)などがある。これらの敬虔主義運動の霊的遺産のいくつかは、邦訳されキリスト教書店にて手に入るので、JECにおいてもかなり読まれているものと思う。

JECにおける十字架理解、特にホーリネス的強調についての研究のためには、敬虔主義運動の研究を欠かすことはできない。今日のすぐれた神学者のうち敬虔主義運動の研究家としては、J.I.パッカーとD.ブローシュをあげることができるだろう。このふたりのホーリネス的強調に関する著作の研究はわたしのもうひとつのライフワークを構成している。このふたりの著作についての継続研究のファイル集も徐々に形成していく予定である。