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ICI Daily & Diary Lectures
2010年03月 ICI日誌
2017/03/20
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[Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール
2010/03/01-03/31
One More Paragraph! −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline
主の御名を崇めます。
できました。メインは『福音主義教会論:再考』という視点です。メッセージも
そのラインで取り組んでみました。メッセージで、新年より視聴が困難になられ
た方がありました。サーバーソフトをバージョンアップしていますので、視聴用
ソフトである「ウインドウズ・メディア」のバージョンアップが必要なのかも知れま
せん。無料ダウンロード・サイトをリンクしていますので、必要な方はそこから
ダウンロードしてください。よろしくお願い致します。
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2010.03.28 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズH
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『受難のキリスト、苦難の教会』
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地上の寄留者としての教会(vv.1-5)
信仰の試練を通して精錬される(vv.6-9)
苦難と栄光を証しする内にいますキリストの御霊(vv.10-13)
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「受難週礼拝説教」準備ノート
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<犠牲なるがゆえに勝利者>によって、キリスト論が立ちも、倒れもする。キリスト論は救済論でもある。神の共在の意味は、私たちと代わることである。この驚くべき交換。パウロの概念、カタラゲー(和解、Uコリント「5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」、ローマ「5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」は、その原義が「交換による取り換え」を意味し、その動詞形のカタラセインも本来、「交換する」ことを意味した。[E.プシュヴァラ]
キリストは、私たちの〈罪〉のゆえにあるべきあの〈犠牲〉となる、それに代わって私たちが〈勝利者〉なのである。神は、私たちの受くべき〈罰〉を自らに引き受ける、その代わりに私たちに〈平和〉を与える(イザヤ「53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」)
彼は〈貧しく〉なる、その代わりに私たちに〈富〉を与える(Uコリント「8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」,「6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」)
彼は私たちを〈強く〉するために、〈弱く〉なられる(Tコリント「1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」、Uコリント「12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」)
彼は〈死ぬ〉、その代わりに私たちに彼の〈いのち〉を与える。
彼は彼自身の〈栄光〉と私たちの〈悲惨〉を取り換える。
彼自身の〈喜び〉と私たちの〈苦悩〉とを、ご自身の〈勇気〉と私たちの〈不安〉とを、ご自身の〈すべて〉と私たちの〈虚無〉とを(ローマ「4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」、ピリピ「2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」)取り換えられる。
したがって、私たちは「何も持たない(虚無をもつ)」にも関わらず、「すべてをもつ」(Uコリント6:10)のである。
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ICI 近況ニュース
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今朝、いのちのことば社から電話があり、「お待ちいただいている『新・聖書神学事典』は今年の五月か六月頃に刊行される予定」と聞いた。わたしも「真理・罪・啓示・恥・苦難のしもべ」の五つの項目を執筆させてもらった。最初は、“組織神学的”な内容の原稿を書いていたが、“聖書神学的”な内容の原稿に全面的に書き直させていただいた。原稿依頼を受けてから一年半あまり、大変良い経験をさせていただいた。出版されたらぜひお買い求めいただきたい。大変素晴らしい内容に仕上がっている。
また、在庫切れとなっていたエリクソン著『キリスト教神学』第二巻は、「第一巻+第二巻」の合本版となって再版される。「印刷所から届いた」との連絡があった。神学校の四月からの講義に間に合う。感謝!
それと、少し前になるが、宮村武夫先生から電話があり、「『宮村武夫著作集』について、コメントをよせてほしい」との連絡を受けた。第一巻は贈呈していただいた。わたしの所属教派の関連もあり、「聖霊論」についての記述には深い関心をもって読ませていただいた。宮村先生の初期からのことを少し知っている者として、先生の広範囲の交友、配慮の深さ等をその文面から読み取ることができるような気がした。先生の著作でその他に期待していることは、先生から『新約神学』を学んだひとりとして、ジョージ・ラッドの神学への言及をどのように記述されるかに関心を寄せている。私自身、ラッドの著作集を集めて読み続けている者として、フラー神学校における『リフォーミング・ファンダメンタリズム』の旗手のひとりとして、また「古典的・修正的ディスペンセーション主義」の聖書解釈の誤りの克服に果敢に挑んだ神学者として、多くのことを教えられてきた。わたしのラッド研究への扉を開いてくださったのが、宮村武夫先生なのである。わたしの興味・関心と宮村先生との興味・関心とは重なり合う部分があると感じている。ただ、その範囲がどの程度のものなのか、先生の著作集を学ばせていただく中で明らかになっていくことと思い、楽しみにしている。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート I
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「福音主義」とは何か、「福音主義神学」とは何かについては、昨秋の日本福音主義神学会西部部会神学研究会議で、基調講演させていただいた。その中で、「福音主義神学」には、三つの要素があり、@神学的・教理的要素、A歴史的要素、B社会的・文化的要素がある、と言及した。「福音主義とは何か」という問題が、教会史において本格的な意味で最初に問題となったのは、16世紀の宗教改革においてである。
そこで、16世紀宗教改革における「教会観」をみていく。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート H
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H.G.ペールマンは、「教会論」における現代の議論の「前提」をコンパクトにまとめている。旧約への言及は避けられている。旧約と新約における「神の民」の連続性と非連続性に関する記述は、「聖書論」における「旧約聖書の権威」の項目にゆずっているように思われる。叙述は新約から始められ、新約→古代→中世→宗教改革→古プロテスタント正統主義→敬虔主義→ロマン主義・新ルター主義、リヒアルト・ローテ、最近のカトリシズム…と展開されている。最後の部分のリヒアルト・ローテの言葉は、宇田進氏の教会論の「教会の“一般文化史への解消”?」と符合するものであり、このあたりに深い問題意識をもって「教会論」と取り組むことが重要と考えている。
少しポイントを拾って整理してみる。
ペンテコステの霊的教会は、終末が近いという期待が消えていくと共にやがて制度的教会となったと多くの解釈者は考えている。新約における教会像において、霊と秩序とは、退けあうのではなく、互いに包含しあう。
新約の教会は、神の教会である。したがって垂直的なもので、水平的なものではない。自ら集まるのではなく、神によって集められる。
新約時代、霊的教会が同時に制度的教会であるとはいえ、、そこには、まだ職務の階層性は存在していない。
古代においては、教会は使徒信条とニカイア信条の中に表現されている。前者は「聖徒の交わり」、また後者は「一つなる、聖なる、公同の、使徒的教会」という四つの本質規定をあげている。
新約において、ペテロおよび使徒の職務は、歴史的に一回限りのものであるゆえに、移譲することは不可能である。キリストをじかに見、聞いた証人として、歴史、一回的繰り返し不可能な教会の「基礎」なのである。
しかし後になって、ペテロの職をローマの監督(教皇)に、使徒職を諸監督に移行させることによって、教会の基礎・建設が変えられるようになった。中世においては、教皇制はその力の頂点に達した。教皇は、最高の法的権能をもち、信仰と道徳の問題で司教座から発言される時、それは「無謬性」をもつ(第一ヴァチカン公会議、1870)とされた。
宗教改革は、教会論において転換をもたらした。@教会と国家は、区別されるべきである。A真の教会の二つの目印、本質的指標は「福音の純粋な宣教」と「サクラメントの正しい執行」であり、「伝統・聖職階層性・使徒伝承等」ではない。B教会は、ひとつの霊的交わりであり、そのものとしては見えない、ただ信仰によってのみ見えるものであり、制度的教会に内在している。C教皇と公会議とは、誤ることもありうる。彼らではなく、ただ神のみことばのみが規範である。D聖職階層性は人間的なものであって、神的法ではない。霊的職務は決して支配ではなく、奉仕である。聖職奉仕においては、すべての者は奉仕し、ただひとりキリストのみが支配する。教会は、キリスト支配的に設定されるべきであって、教皇制でも監督制でも、民主制でもない。
敬虔主義においては、真実の教会は、教会の中の小教会であって、秘密集会的な、分派的様相を帯びる。
敬虔派の教会批判の線は、啓蒙主義によって強められ、他律的教会に代わって、自律的個人の良心が権威として出てくる。その結果は脱教会である。
シュライエルマッハーによれば、キリスト教会は「個々の再生した者たちの協力により、秩序づけられた上下関係作用と相互関係作用へと」「形成されたものである」。したがって教会は、水平的なもので、人間の社会的衝動から発生した、一種の同じ志をもった者の結合である。
リヒアルト・ローテによれば、キリスト教の歴史は「カトリック的ないしは教会時代」と「プロテスタント的ないしは、国家的・現世的・倫理的・政治的時代」の二つの時期に分かれている。宗教改革は、二つのの時代の限界線・転換点である。「キリスト教会の歴史は、先に行けば行くほど、いよいよキリスト教的人間が文化史に解消し、最後には教会自身が一般的・宗教・倫理的国家共同体に注入していくように、一般文化史の中に入っていく」。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート G
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エリクソン著『キリスト教神学』第四巻の「第50章 教会の本質」の「第一節 教会の定義」の「@教会に関する混乱」と「A教会の経験的−動態的定義」の箇所のポイントを整理した。最も重要なポイントは、20世紀の「文化」において形而上学や存在論を嫌悪する傾向が広まり、「教会の本質」がどうあるべきなのかという理論的本質から、経験的存在へ重点の移行が起こったことであり、「教会の動態的な定義」へと方向転換がなされたということである。これは、"Changing Church in the Changing World"といえる考え方であり、"Eternal Church in the Changing World"という視点が試されているといえる。このあたりは、H.G.ペールマンがよくまとめているので、これも紹介したい。
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ICI 3Weeks Short-Bible Course "Sit, Walk, Stand
!"
「福音主義神学入門」準備スケッチ A
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あとふたつの選択肢が念頭にある。“福音主義”に焦点を当てる方向と“神学入門”に焦点をあてる方向とである。「“福音主義”神学入門」とするとき、「福音主義」とは何かが焦点となり、それについての入門的な学びとなる。しかし「福音主義“神学入門”」となるなら、「神学」教育全般についてのオリエンテーション的な学びとなる。60分×三回の講義として、@“Sit, Walk, Stand !”で、『キリスト者の行程』の著述背景、そのメッセージの輪郭と本質、義認・聖化・聖霊の満たし、等についてH.ベルコフやJ.D.G.ダンの捉え方などを包摂して学ぶことは興味深いかもしれない。A“福音主義神学”については、宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』と『総説福音主義神学』の輪郭とエッセンスをよくまとめてある『新キリスト教辞典』の宇田論稿「福音主義」はコンパクトにまとめられたすぐれた資料である。この資料をもとにして、福音派教会が共有している歴史的ルーツと霊的遺産におけるアイデンティティについて学ぶことは、戦後50年間の狭窄的な視野でしたか神学的思索ができない狭さを克服していく上で大変意味ある学びであると思う。私自身もこの学びを通して、二千年の視野で所属教派のルーツとアイデンティティを考える(JEC50周年記念誌論文、JECニュース連載論稿集)ことができるようになった。B“神学入門”の講義も捨てがたい。この講義は、神学校での学びの最初になされるべき講義であり、「神学研究」という密林を鳥瞰図の視点から望み見る学びである。まず全体図を鳥瞰し、三年間の時間を使って有意義な学び、効果的な学びをする心づもりをすることが大切である。また、学ぶ数多くの科目間の相互関係をしることも重要である。ただ、熱心に学ぶだけでは、整理のつかない倉庫に膨大な荷物を無造作に詰め込むだけであり、必要な時に、必要なものを取り出すことはできないのである。倉庫の構成をきちんとし、学んだものを計画的に倉庫の棚に整理していく技術が求められるのである。神学入門の学びは、そのために大変有益な学びである。三つのうちのひとつ(3時間)、ないし二つ(90分×2講義)、あるいは三つ(60分×3講義)とするべきなのか、準備しながら考えていきたい。
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2010.03.21 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズG
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『神の教会(エクレシアン・トゥ・テウー)』
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単なる会衆ではなく、“神”の会衆(v.28)
神とその恵みのみことば:悔い改めと信仰(v.32,21)
それぞれに備えられた、走るべき行程を走り抜ける(v.24)
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ICI 3Weeks Short-Bible Course "Sit, Walk, Stand
!"
「福音主義神学入門」準備スケッチ @
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一宮基督教研究所の三週間コース・一年生神学生合同クラスで、「福音主義神学入門」を依頼された。「準備ノート」に入る前に、対象となる学生の名簿をみながら、いくつかの構想を軽いスケッチ風に描いてみる。的をしぼることができたら、準備ノート作成に入りたいと思う。
三週間バイブル・コースに申し込まれた信徒の方、一年聖書コースに入学された神学生、三年フルタイム・コースで学ばれる神学生の混成のクラスである。どのような内容構成にしていくべきか、少々悩むところである。三週間コースのテーマが“Sit, Walk, Stand !”であるので、そこに焦点をあてると、あの有名なウォッチマン・ニー著『キリスト者の行程』の著者、著述背景、内容構成を、Dana. Robert"Understanding Watchman Nee"や"Five Views on Sanctification"の中のJ.Robeetson McQuilkin"Keswick View"やSteven Barabas"So Great Salvation"やJ.I.Packer"Keep in Step with the Spirit"等を資料源にして、宗教改革の遺産を体系化した正統主義神学の、正統的実践としての敬虔主義運動のひとつの枝、“実践的聖化”を中心テーマとするケズィック運動、ケズィック聖会の幅と多様性のあるメッセージの輪郭と本質を整理する取り組み、これも選択肢のひとつである。
あとふたつの選択肢が念頭にある。“福音主義”に焦点を当てる方向と“神学入門”に焦点をあてる方向とである。今回の導きがどの方向なのか、祈りの内に導かれたい。
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JECニュース連載論稿
「日本福音教会の源流と歴史的遺産」(閲覧可)のご案内
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「日本福音教会の源流と歴史的遺産」(閲覧可)ー一宮基督教研究所での「福音主義神学」の講義の課題は、「所属教派の歴史的ルーツとアイデンティティをまとめよ」であった。私自身も同様の課題をもち、所属教派であるJECのルーツとアイデンティティの探求に取り組んだ。戦後五十年の狭い視野で考えるのではなく、教会史二千年の中で“所属教派のルーツとアイデンティティ”を考えるのではなければ、私たちはバランスのとれた健全な自己理解をもつことはできない。(ブックレット:30ページ、白黒、簡易製本、送料込、500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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JECニュース(2007-2008-2009)連載論稿
『十戒・主の祈り・使徒信条解説集(閲覧可)』のご案内
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十戒・主の祈り・使徒信条解説集(閲覧可)ー宗教改革を受けて、十七世紀プロテスタント教会は、十戒・主の祈り・使徒信条を枢要部にして信条・信仰告白を形成していった。これを意識しつつ、今日の歴史的状況の中で私たちは何を信じ、どう生きるべきなのか、の指針として再考したシリーズ(ブックレット:30ページ、白黒、簡易製本、送料込、500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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2009年度リバイバル・ジャパン誌連載−神学的エッセイ集
『宗教・カリスマ的経験の座標軸』のご案内
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『宗教的・カリスマ的経験の座標軸』−J.D.G.ダン著『イエスと御霊−新約聖書において反映されているイエスと初代のクリスチャンの宗教的・カリスマ的経験に関する研究−』等、二十世紀の最良の神学資料を駆使してペンテコステ的経験と福音主義神学の調和を探求した“神学的エッセイ”集。リバイバル・ジャパン誌における一年間の連載を終了し、ブックレットとして販売しています。概要は、リンク先にて紹介しています。(ブックレット:28ページ白黒、簡易製本、送料込500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)
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1985年岬福音教会25周年記念誌〜1991年共立基督教研究所論文までの10の論稿集
『ICI
ミニストリー25年間を振り返って』のご案内
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『ICI ミニストリー25年間を振り返って』ーペンテコステ的経験と福音主義神学の調和的理解を探求してきた25年間に、必要に迫られるかたちで作成し続けた論稿資料集の総集編、ルカ記述による使徒行伝的経験を、パウロ書簡の光の下、クリスチャン生活全体の中で再解釈している10の論稿集(ブックレット:190ページ白黒、簡易製本、送料込2500円、下記メール・アドレスにてお申込みください)。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート F
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1952年、ルンドにおいて開かれた、信仰と職制に関する第三回世界教会会議は、…「教会論がキリスト論と聖霊論との密接な関連において取り扱われることが」決定的に重要であると述べている。宇田氏の『総説福音主義神学』の「第八章 教会の理解と誤解」が、「第一節 教会の一般文化史への解消?」、と「第二節 教会と聖霊」の構成になっており、第一節が“キリスト論”的基礎への言及が中心であり、第二節が“聖霊論”的関連で記述されているのと符合している。教会論とキリスト論、教会論と聖霊論の教理的有機的関係が深く探求される必要がある。
また、ロアジの「イエスは神の国を予告した。そして到来したのは教会であった」というこの言葉の中に、イエスと教会との関係についての重要な史学的問題が提起されている。C.K.バレットは『イエスと福音書伝承』において「イエスと教会との間には、どのような種類の継続性が存在するのであろうか」という問題を提起している。R.N.フルーは『イエスとその教会』において、イエスは神の国の到来を告知されただけたではなく、この統治の下に生きる新しい契約共同体の設立を期待されていたと考え、その根拠として、彼の教説と行動の中にあらわれる新しいイスラエルの概念や、この新しいイスラエルの核としての彼の弟子たちにたいして、新しい共同体と、この新しい要求を満たす力を前提とするイエスの倫理的教説を教えられたという事実をあげている(齋藤正彦著『イエス・キリストと教会』)。私自身としては、「神の国と教会」に関しては、これらの問題提起に焦点をあわせるかたちで、G.E.ラッドの著作集を読み返す必要を感じている。
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2010.03.14 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズF
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『神の教会の三位一体性』
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神の建物「神の民」としての公同性(v.9,16)
建物の土台としての「キリスト論」(vv.10-11)
「聖霊により」煉られ、清められ、純化された金・銀・宝石で建てられる(vv.12-15)
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「福音主義教会論:再考」準備ノート E
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『福音主義教会論:再考』ということで、数多くの資料に目を通している段階である。基本的なことは、「教会論」全般に対する“鳥瞰図”が必要であるということである。そして、その鳥瞰図の中で、何が問題とされているのかを特定し、その問題を分析・評価し、私たちの『福音主義教会論:再考』にどのように生かすのかが課題である。その意味で、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』は、大変有益な書物である。また、「教会の本質」論においては、主要な文献においては、宇田氏が指摘されているように、“神の民”、“キリストのからだ”、“聖霊の宮”という「三位一体論的」構成で扱っているものが多い。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート D
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エリクソン著『キリスト教神学』の「第50章 教会の本質」の中の「特別な問題」−@教会と御国、A教会とイスラエル、B見える教会と見えない教会、C教会の始まりの時期、に関する議論は、昨年扱った“古典的ディスペンセーション主義聖書解釈の誤り→教会論の誤り→終末論の誤り”の教会論の部分を扱っている。その資料源は、フラー神学校で「新約聖書神学」を講じ、“古典的ディスペンセーション主義問題”と戦ったG.E.ラッドの著作集である。このあたりも掘り下げていきたいところである。また、C.B.バス著『ディスペンセーション主義の背景』(PW:jec)も“古典的ディスペンセーション主義聖書解釈の誤り→教会論の誤り→終末論の誤り”の文脈の中で「教会論の誤り」を扱っているので、このあたりも丁寧にみていきたい。要するに、秋期の神学研究会の基調講演で扱ったように、宇田氏の教会論は二千年の教会史が射程であり、リベラル神学の問題が焦点であるのに対して、エリクソンの教会論はリベラル神学への反動としてのファンダメンタリズムの克服が射程にあり、その中のディスペンセーショナリズム問題が焦点になっているということを教えられる。ある人々にとっては、ディスペンセーショナリズムの問題は“過去形”の問題であるが、C.B.Bass著“Backgrounds to Dispensationalism”の再版の序文で、ホイートン大学の教授 Stephen R. Spencerが「漸進的ディスペンセーション主義は、ディスペンセーション主義の教師や学生の間に用意のできた読者を見出しているけれども、それは膨大なディスペンセーション主義の人々の中で少数派を代表するのみである。ディスペンセーション主義者の大多数は、より初期の発展の形態を信奉し続けている。」ライリーのスタディ・バイブルに加えて、(1995に改訂された)ライリーの著作と改訂されたスコフィールド・バイブルは、そのニュアンスはレフト・ビハインド・シリーズのような大衆文学とは異なっているけれども、最も主要な神学的言明を残存させている」と書いている。その意味で、ディスペンセーションの問題は、今日の問題であるのであり、『福音主義教会論:再考』というテーマを扱う時に、落としてはならないテーマであると思うのである。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート C
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昨秋の『福音主義神学:再考』がそうであったように、今回の『福音主義教会論:再考』も、“宇田−エリクソン”神学路線で、神学的に思索していっている。今日の神学の世界において、ひとつの主題に取り組もうとするとき、“ジャングル”の中に放置されている自分自身を見出すのである。私たちは、この密林の中に、林道を切り開き、道案内をしてくれる信頼できる案内人を必要としている。わたしは、宇田氏の『総説福音主義神学』とエリクソンの『キリスト教神学』の中にそのような要素を見出すのである。宇田氏の『総説福音主義神学』の中の第二部、第八章の「教会の理解と誤解」は、わたしにとって“教会論”を、“福音主義的視点”から、“再考”していく道筋を照らす「私の足のともしび、私の道の光」(詩篇199:105)である。その第一節「教会の“一般文化史への解消”」は、今世紀の“教会論”の議論の鳥瞰図を教えられる。
第一節「教会の“一般文化史への解消”」…今世紀の“教会論”の議論の鳥瞰図
「教会は月のよう(」アンブロシウス)か?
「福音主義教会観の破滅」?
“世俗的宣教”を担う“政治的教会”?
“潜在的教会”と“教会の外の教会”(D.ゼレ)
無教会主義と「ひとり一教会」?
「自己の根源について徹底的に」
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「福音主義教会論:再考」準備ノート B
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高石聖書教会の清水昭三先生から、5/31の関西聖書塾での午前・午後の講演を依頼され、テーマは「聖書と教会」であった。「内容は、安黒先生の自由にしてください。ただ、方法論的な内容ではなく…」ということであった。清水先生とは、長年、教会の英会話クラスの講師の件で大変お世話になってきていたこともあり、快く引き受けさせていただいた。このテーマを聞いたとき、ひとつの書名が頭に浮かんだ。A.A.フーケマ著『聖書と未来』であった。内容は、「聖書的終末論とは何か」というものであった。それで、「聖書」と「教会」という二つの要素をどのように関係づけて、講演内容を構成するのかの悩みが吹っ切れた。依頼の内容からすると、「聖書と教会」というテーマは、「聖書的教会論とは何か」ということであろうと受けとめた。
このときに、昨秋の福音主義神学会西部部会での基調講演『福音主義神学:再考−文化・伝統・聖書の中で−』を思い出した。これは、キリスト教二千年、そして宗教改革、啓蒙思潮、リベラリズム、ファンダメンタリズム、エヴァンジェリカリズムという文脈を振り返りつつ、ポスト・モダニズムという新たな背景の中で福音主義の神学はどうあるべきなのかを再考していこうとするものであった。宇田進氏の「福音主義神学」とエリクソン氏の「キリスト教神学」を、この主題解析の“メス”として用いさせていただき、所属する教派の“構築”された福音理解(伝統)を、新しい歴史的文脈(文化)の中で、一度丁寧に“分解”し、部品を点検し、消耗したものを新しいものと交換し、新たな環境に適応すべくバージョン・アップし、“再構築”するというロードマップを提示させていただいたのである。この奉仕に取り組んでいるときに、次の課題が明らかとなっていた。それは、『福音主義神学:再考』においては、歴史的背景(文化)の中で、私たちの保有する福音理解(伝統)を、神の啓示(聖書)に基づいて、分解し再構築する原則を提示したわけであるから、その提案は次の段階として「福音主義聖書解釈論:再考」「福音主義聖書論:再考」「福音主義神論:再考」「福音主義人間論:再考」「福音主義キリスト論:再考」「福音主義聖霊論:再考」「福音主義救済論:再考」「福音主義教会論:再考」「福音主義終末論:再考」への取り組みをもたらすはずだということである。
それで、今回の「聖書と教会」の講演を依頼され、しばらく思案して返事をさせていただいた。つまり、このような私自身の神学的課題への取り組みという文脈の中で、『福音主義教会論:再考−宇田・エリクソン神学路線から−』と題して講演準備させていただくことにしたのである。今回扱う『福音主義教会論:再考−宇田・エリクソン神学路線から−』は、かなり射程を絞り込んでいるが、それでもそれらの中で紹介されている重要参考文献に目を通すだけでも大変な作業となっている。これは、今回の奉仕のためだけではない。もっと長い先を見通した奉仕の準備であると自分を励ましている。将来にどんな奉仕が待ち受けているのかと知らない。しかし、このように追い込まれるのには“神さまの側に訳がある”はずである。そのように信じて、この奉仕に取り組まさせていただいている。講演では、その一部を分かち合うのみである。それではもったいないので、「福音主義教会論:再考」準備ノート・シリーズというかたちで、取り組みのポイントを“雑録”として記述させていただく。このような神学的思索が、だれかに“ひらめき”を与えることになれば幸いである。
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2010.03.07 山崎チャペル・一宮基督教研究所
教会論シリーズE
Ichinomiya Christian Institute Chapel Short Message
『教会の根源について徹底的に』
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あなたがたは、わたしをだれだと言いますか(vv.13-15)
あなたは、生ける神の御子キリストです(vv.16-17)
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(vv.18-19)
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「福音主義教会論:再考」準備ノート@
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重要な参考文献紹介とその内容をも紹介していきたい。
C.W.ウィリアムズ著『教会』新教出版、pp.7-27
「アムステルダムにおける1948年の世界教会協議会で、…教会に関する教理(教会論)は神学以前の局面を通過したとは言い難い…」との主張がさなれた。「第一期(1948年のアムステルダム会議から1954年のエバンストン会議まで)には、、共通の教会論を探求することにより私たちの分裂の背後にある“連続性”を精密に研究した。」「第二期(1954年のエバンストン会議から1961年のニューデリー会議まで)には、…教会論追及の内部志向的性格が自己挫折を起こし、…“宣教”は教会の基本的しるしとして付加されなければならない」という強調点の変化があった。「第三期(1961年のニューデーリー会議から1968年のウプサラ会議まで)には、…教会論が中心点になるや否や、それが誤りであることを示される。…教会はそれ自体を目的とすることを意図せず、この世に対する神の使命のしもべとなることを意図している」とさらに根本的な転換を示してきている。
J.C.ホーケンダイク著『明日の社会と明日の教会』新教出版、pp.1-7
「わたしたちは、事物を神−世界−教会(神−教会−世界ではなく)の背景においてみます。」「わたしたちは、多元的な世界に住んでいます。」「現代人の種々な状況に現在することを願う他者のための教会は、多元的な構造をとる」「要するに、ある特定の状況のもとで、教会の構造がどのようなものになるかについては、わたしたちはあらかじめ知ることはできません。」
「教会論」の良書ですが、Paul Minear, "Images of the Church in the New Testament"があげられます。そのpp.66-104の「神の民」においても、「新約は旧約と連続して,この概念を一貫して旧約から継承し,発展させたものと見ることができる.つまり,この「神の民」という概念は,イスラエルの歴史と新約の教会を貫く神の救済の歴史の文脈から教会をとらえていることを示している(参照ローマ11章).すなわち受肉以前のイスラエルの歴史を貫く救済の歴史の中で,あらかじめ準備されていた神の民としての教会が,救い主の到来において歴史の中にその究極的な形態を見出したのであり,それゆえに教会は使徒たちの土台の上にだけではなく,預言者たちの基礎の上に建てられたと言われるのである(エペソ2:19,20).従って,教会は受肉から再臨までのいわば″挿入″(parenthesis)であるとする解釈は不適切である.」と、ディスペンセーション主義聖書解釈の前提である“イスラエルと教会”の峻別が否定されています。宇田師『新・キリスト教辞典』の「教会、教会論」の論稿は、今日の福音派のスタンダードな「教会論」理解と思います。「ミラード・エリックソンとともに三一的視点から聖書の教会の本質の理解に向かうのが妥当と思う(Christian Theology, 1986,第4章).具体的には,神の民としての教会,キリストのからだとしての教会,聖霊の御住まい・交わりとしての教会という3点から考察することとなる.」とありますように、宇田師はエリクソン神学を、福音派のスタンダード、また座標軸、共通項となる神学と位置づけておられます。「キリスト教界には多様な教会論の提唱が見受けられる.そもそも近年において,教会論が改めて真剣に問われるようになったのは,それぞれ独自の特色ある教会・教派理解を持った海外宣教師たちが一緒に宣教活動に当らなければならなかったミッション・フィールドにおいてであり,それを受け止める形で,教会合同運動を推進してきた世界教会協議会(WCC)を中心とするエキュメニカル運動によって教会論は神学的注目を浴びるようになった.ちなみにPaul Minear, Images of the Church in the New Testament, 1960は,WCCの設立を宣言したアムステルダム会議(1948年)からエバンストン会議(1954年)までの成果の一つと言われている.
宇田進著『総説福音主義神学』の教会論の箇所で紹介されているJ.Robert Nelson “The Realm of Redemption :Studies in the Doctrine of the Nature of the Church in Contemporary Protestant Theology” Kessinger Publishing’s Rare Reprintsは、大変素晴らしい教会論の研究書です。私は、5/31の関西聖書塾における『聖書と教会―福音主義教会論:再考―』を、宇田師の福音主義神学(歴史神学軸)とエリクソン師のキリスト教神学(組織神学軸)の鳥瞰図の中に、ロバート・ネルソンの議論を入れて、“教会の本質”とは何かについて講演しようと下準備中です。この書物は、手元に集めた百冊ほどの教会論の中でも、最上位に位置する内容の神学書です。特に、今読んでいます「教会の起源」では、“イスラエルにおける教会のルーツ”という項目があり、ディスペンセーション主義の“イスラエルと教会を峻別する解釈”の非聖書性を再認識させられます。
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「福音主義教会論:再考」準備ノート : 序
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5/31の関西聖書塾における「聖書と教会−福音主義的教会論:再考−」の準備をしています。時間があまりないので、早朝の三時間が貴重な時間となっています。この学びをも少しずつ紹介していきたいと思います。
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2010.03.02 一宮基督教研究所
『中央聖書神学校』訪問報告
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3/2のアッセンブリー神学校での先生方との交わりの中でも、ひとつの夢が与えられました。それは、神学校同士の交流を盛んにして、独立性を尊重しあうとともに、お互いの良いところを学びあい、また助け合う相互依存性を高めていく時代に突入してきているということです。最近、いろんな神学校の先生方との交流が盛んとなり、講義・講演・等々の奉仕の場が無限に広がっている感じがしています。そこで感じることは、神学校はお互いの良きものをもって助け合う時代に入っている、神学校はお互いが必要とするもので広く助けを求めることができる、そのような時代に入っているということです。そのような協力の輪が広く、深く、長く、高く、形成されていくよう、お祈りください。
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2010.03.01 一宮基督教研究所
『福音主義神学』誌の編集委員会報告
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3/1は、東京、お茶の水CCで、『福音主義神学』誌の編集委員会に出席していました。3/1の『福音主義神学』誌編集委員会で、いろんな話し合いをしていて、ひとつの夢が